語れ
だが断る
黄金茶室ならMOA美術館へGO
4 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 14:49:06
一時的とはいえ畿内を席巻した松永彈正大弼久秀の信貴山城も入れていいですか?
5 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 17:06:13
米倉が空を飛んだという信貴山城ですか
空に飛んだというのは茶器だろ
8 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 08:47:56
今安土城の目の前に来てるんだが、見所はどこ?
八角平、御茶屋平
とりあえず安土城天守復元想像図は立派すぎると思います
史書には秀吉の大坂城天守の方が格段に立派だと書かれているのに
これでは大きさはともかく
派手好みの秀吉の作った大坂城天守よりも立派に見えるぐらいw
安土城て籠城戦に向いてない気がするんだが
安土城の元の姿は琵琶湖に突き出た山城なんだな。
陸岸の平地側は濠で遮断してあり、残る一方は尾根。
即ち三方を水に囲まれた鉄壁の構え。
14 :
日本@名無史さん:2010/10/04(月) 21:27:11
2
15 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2010/10/06(水) 23:04:39
城めぐりにはまったく興味なしの私が去年旅行ついでにひょんなことから、安土城に立ち寄った。
素晴らしいお城でした。眺めも抜群。
ただ気になったのは間近にたたずむ観音寺城です。
世の中には安土城に来て、観音寺城が気になる人とならない人の二種類の人間しかいません(うそw)。
まあ周知ですが安土城は防御というより物流その他を意識した城で
観音寺城はそうではない?湖に近いのは水運のためだろうけど。
私は観音寺城についてまったく調べてねえや(笑)
ていうか暗くて面倒くさいから観音寺城は一生登らないだろうなw
安土城跡w
>>12 そりゃそうだろう。
天下人は籠城はせん!
安土城には実質「詰めの城」というべき存在の観音寺城がある
でも正直そもそもそれ以前に
籠城しなければならなくなってしまった地点でもう終わってますね
19 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 14:11:23
所詮は猿真似の秀吉
20 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 14:43:17
安土の天主て構造的に歌舞伎座みたいなもんなんじゃないの?
吹き抜け、舞台、最下層に燈籠とか城機能は本丸がメインで
内部予想図だと現在の名古屋城みたいな造りよね
>>20 吹き抜けとはただの階段室のこと、説はどうよ
22 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 13:58:22
安土城って放火なの、失火なの、どちら?
タイミング的には放火なのだろうけど。
23 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 00:42:16
観音寺城で謎なのは石垣
小谷城の石垣は長浜城へ、安土城の石垣は八幡山城へ、坂本城の石垣は大津城へ、大津城の石垣は膳所城へ、佐和山城の石垣は彦根城へ
と、築城部材は殆ど近隣の廃城のものをリサイクルするもんなんだが
観音寺城の石垣は何故か他城へ遷されずかなり保存されている
>>23 山の上過ぎて労力に引き合わなかったんじゃね?
>>23 人は城、人は石垣って言うし、人を使ったんじゃね。
27 :
日本@名無史さん:2010/12/07(火) 10:49:44
つまんね
大河は内藤だったな。
29 :
aaaa:2011/02/02(水) 17:27:37
aaaaaa
30 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 12:15:53
森本益宏 三四年十二付き二日前なう
31 :
日本@名無史さん:2011/02/28(月) 13:42:00.80
最近安土城に中国人ばっか
なんたら小学校を見に行った帰りのアニオタじゃねぃ
34 :
日本@名無史さん:2011/03/27(日) 02:57:16.54
>>25 駿府城もな。大御所時代に立てたという巨大で美しい天守を
見てみたい。
図面や絵らしきものがあればすぐに再現できるのに
35 :
日本@名無史さん:2011/04/05(火) 03:02:18.86
36 :
日本@名無史さん:2011/04/05(火) 11:30:36.08
外人さんが城跡を見て喜ぶのかな?
安土城の石垣なんかは見応えあるけど
石垣だけの平城は何だこりゃあだろ
37 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 10:58:44.26
やっぱり安土城以外は興味そそる城ないな
特に天主はこの城以外はつまらん
見た目だけ豪華でも内装は単なる物見櫓ばかりだからな
実際に御殿として機能してた安土が最強
山上に、高い建造物を建て、その中に住むなんて正気の沙汰ではないからね
馬鹿と煙は高いところに…と言う奴ですな
39 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 11:56:05.77
そういう問題ではなく
外観だけ豪華でも中は単なる櫓のその他の城には
魅力を感じないということ
姫路とか確かにきれいだけど内部は
倉みたいなもんだからだ
大阪なんて黒に金ぱく張り巡らした豪華な外挿に反して内部は櫓とか
つまらんだろ
安土天主はイメージとしては金閣の豪華版みたいなイメージ
廊下で天皇を迎える御所と同じ建物も有ったみたいだし、戦のものでは無いので当然だろうがね
>>39 天守というのはその威容を以て、権威付けをするものである
そうなれば、天守内部を案内するということもない限り外見だけで、
十分ということ
逆に客として天守内部を見せるという行為は、権威の確立ができて
いないということになる
41 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 13:38:26.40
>>40 権威を見せるための建物なら別に天守で有る必要はないしでしょ
本丸御殿の物凄いのをつくれば良い訳で
櫓としての機能だけならあんな巨大にする必要はないし、豪華にする意味もない
そもそも天主の原型は安土なわけで、その使い道は本来は戦のための櫓ではなく、御殿だったんじゃないか?
字も違うし
>>41 一般大衆も城下から見れるという点で天守の存在は重要
後、「天守」は「天主」「殿守」とも書かれ、特に意味はなく、その場のノリで使われている
43 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 14:39:25.29
>>42一般大衆も城下から見れるという点で天守の存在は重要
そうは言っても天守のない城が主流だった時代もあるし、
聚楽第や江戸城みたいに作ったけど消失後再建されないものもある
江戸は三回立てたけど三度とも焼けちまったんだっけ?
けっきょく太平の世には必要無いと言うことつまり機能としては櫓でしかなわけだよ
そんなもんの外見が重要だと思えないがね
そこを実際に住むなり越権の間、台國殿として使うなら別だが
信長な使い方は正にそれだったわけでしょ
だからあんな豪華な建築になった
>>43 その頃になると箱物に頼らなくても権威を確立できたから、建てられなくなった
むしろ見せないことが良いとされるようになっている
内部を飾る必要があった時代、外見のみで良かった時代、必要としない時代
それぞれによって必要とされる要素に違いがあったというだけのこと
45 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 15:26:20.52
>>43 ちなみに聚楽第では天守は居住部分として機能していた
もっとも城主織田信長が住んだ安土城とは異なり
聚楽第の天守には豊臣秀吉の側室摩阿姫(前田利家息女)が住んでいた
どういう理由で側室が住むことになったのかは知らんが
とにかく聚楽第の天守は居住空間として使われたらしい
>>43 江戸城天守は慶長度と元和度は解体、寛永度が明暦の大火が焼失
慶長度は本丸の拡張のため(資材は大坂城天守に転用)、元和度は白漆喰の壁面が
風雨で早期剥離するのでその是正工事とされる
47 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 13:58:51.34
俺も天主内部が御殿だった安土に一番惹かれる
単純にもしも現存していたとして、一番観光して見たいと言う理由だけどな
姫路城昔行った事あるけど、天守登っても中は倉みたいで、あまり楽しくなかった
二条城の方が楽しめた
襖絵や、豪天井の見事さとかそう言うの見る方が好きなんで、
姫路城とか、御殿の見学もさせてくれば良いのにと思う
48 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 17:10:06.72
>>47 もし熊本来ることあったら
御座船波奈之丸の船屋形部の一部は見てみてくれ
あと城のすぐそばの正妙寺の天井画と鶴と孔雀の襖絵
49 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 19:52:03.63
信長が天守に住んだんじゃあ
対面の時には一番下まで降りてくつろぐときには階段いくつも登って
瞑想するときには最上階へ夜寝るときには側室たちがいる別の建物へ
で面倒だったろうに
姫路城でも見たことがあるが当時天守や櫓の上り下りに使われたのって
相当傾斜が急な吊り階段ばっかりなんだよね
50 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 09:51:35.90
信長の住居スペースは主に4回に集中してる復元図多いから
あまり上り下りしなくても良いようにはなってたと思う
上の展望や、八角堂なんて滅多に上らなかっただろうし
51 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 09:59:58.18
しかし来客や遠征も多かった信長はやっぱり一日に何度も
登ったり降りたりする必要があっただろう
(4階から外には出られない)
信長が登ったり降りたりすれば小姓や女中たちも一緒に
いちいち登り降りする必要がある
側室たちは別の建物にいただろうしね
表御殿(政務の場所)は天守ではなく
本丸御殿か何かを使っていたのだろうし
52 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 17:38:23.43
高山城天守とか駿府城天守が人の住む天守としては正統派だろう。
各種安土城の復元案は疑問だ。
53 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 21:44:05.60
天主に住むって発想はやっぱルイスフロイスとかの影響もあったのかな?
西洋の城とかの話を聞いたとか
自分を拝めって言っちまう位だから、生き人神の自分が住む御殿は
天主みたいな高層建築である必要があったのかもしれんね
54 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 21:52:55.58
>>52 高山城天守や駿府城天守は一階部分に本丸御殿のような御殿があって
一部に楼閣が付き出て天守になってるんだよね
たしかに高層階に住むのは不便すぎると思う
55 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 21:55:35.93
>>51政務は本丸ではなく天主だったのかもしれんぞ
天主を権力の象徴としていたのなら尚更対面する建物としてふさわしいと思うし
天皇を迎えるための御所を見下ろす様な建て方してるから
誰が一番の実力者なのかを見せつけるのにもちょうど良いしね
側室何日にあいに行く時は下山したのかもね
57 :
日本@名無史さん:2011/04/13(水) 07:49:48.23
人が住むための天守といえば宇土城天守
58 :
日本@名無史さん:2011/04/13(水) 09:56:48.46
>>55 安土城の天守台の大きさは発掘調査によって確定している
他の諸大名で見られるような大掛かりな広間があったとは確認できない
しかも大勢の大名が天下取りを目指す信長に会いに来る、
公家や高齢の人々も多かったと思うが
いちいち梯子階段を大勢の付き人とともに何度も登らせるのかい?
天守が表御殿だったというのは非現実的。
安土日記の拝見記(部屋の広さ&襖の画題)を読むと、天主は明らかに信長と濃姫、側室と子供達の奥御殿だし、
本丸御殿は明らかに天皇の御成り御殿だから、普段人を入らせるわけがない。
よって(安土日記には記載がないが)諸大名や貴族たちとの謁見のための大広間(幅4間くらいの上段の間)を備えた表御殿は、
通説どおり、天主西隣の二の丸御殿だったと思われ。
60 :
日本@名無史さん:2011/04/17(日) 23:00:34.23
表御殿の屋根は武家殿舎の定石、杮葺きだった可能性が高い。
寺院建築(瓦葺き)公家建築(桧皮葺き)武家建築(杮葺き)と
さながら安土城は明治村のような屋外建築博物館みたいな趣だったろう。
>>59 拝見記には濃姫らしき人の記述はないわけだが。
織田信長には側室が多かったのに(最低でも10人以上)側室が皆天守に住むのは物理的に無理だし
側室に仕える侍女たちの局も確保できない。
天守は江戸城で言ういわゆる中奥(将軍の御休憩所)的な用途があっただけで
側室たちが住む奥御殿は別だろう。
64 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 06:41:12.56
>>62-63 八角平は搦手口(台所口)から主郭部へ入る際の入り口脇&主郭部直下に位置しているから、
信長生母/正室/側室たちの奥御殿があったとすればココ以外に考えられない。
とすると、やはり女中たちが遊びに出かけた二の丸というのは伝二の丸跡としてよいとも考えられるが、
さらに想像を逞しくするなら、主郭部・八角平から更に北尾根の眺めが良い場所を削って造成された(現在発掘されていない)北の丸とも言うべき、二の丸が眠っているという可能性も排除できない。
その場合は、本丸=主郭部全体、二の丸=尾根伝いの飛び地に造った北の丸、となり、貞享年間(江戸時代)の屋敷地比定の全面的な見直しが必要だろう。
66 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 12:48:06.28
>>59 >本丸御殿は明らかに天皇の御成り御殿だから、普段人を入らせるわけがない
これはどうなんだ?
天皇行幸を迎えた豊臣秀吉の聚楽第でも徳川家光の二条城でも、
臨時の行幸御殿が設けられただけで、わずか数日間の
天皇行幸のためだけに恒常的な本丸御殿が築かれたことは一度もない。
それでも安土城本丸御殿が天皇のためだけの御殿だったと言い切る人は
「信長は天皇を京都から追い出し、安土に住まわせるために本丸御殿を建てた」
というのだが、これは同時代史料で確認できず、あてずっぽうと言わざるを得ない。
安土城本丸御殿が天皇の行幸御殿だというのは
@正親町天皇が安土城へ行幸する噂があった(あくまでも噂)
A本丸御殿が清涼殿に似ている
というものらしい。
ところで、安土城本丸御殿は3棟からなっていた。
このうち、本丸御殿南殿が「清涼殿そっくり」の建物らしいのだが、
見晴らしが悪く、しかも廻廊で天守と結ばれていた憶測があり、
どうやらこれが信長の奥御殿の可能性が高いらしい。
本丸御殿が天皇のために建てられ、織田家のものは使用できなかったというのは
かなり強引な説といわざるをえない。
>>65 貞享絵図の郭配置、屋敷割は元々信憑性はないんじゃないの・・
71 :
日本@名無史さん:2011/04/20(水) 01:21:28.16
安土山って隣の観音寺山に比べたらめっちゃ小さいよね。
74 :
日本@名無史さん:2011/04/20(水) 08:25:59.96
>>74 デアゴの組み立て日記かと思ったら、土台から自作とは…
そのうち全山復元する勢いだぬ。
>>75 >安土山全体が巨大な回遊式の空中庭園
都市衛星ウルクみたいだなw 信長は大神官大総統か?(解る香具師には解る)w
78 :
日本@名無史さん:2011/04/20(水) 20:13:48.79
>>72>>73 俺が示した
>>70の場所も薬師平だ。
薬師平は二ノ丸と言うにはやはり遠いし、庭園を造るには狭いうえに峯の上なので地形的にも適さないと思う。
俺は、堀邸射場と呼ばれている主郭の東にある曲輪が庭園を作るには適した場所だし地形だと思う。
北側に地山をそのまま残していて適度な広さが確保されている。
庭園背景(奥側)に山を配置するのは庭園の定石。
信長の事だから来賓の接待に使用した御殿もそれなりの規模で建てていた事だろう。
その御殿から庭園を眺められるようなっていたとすれば堀邸射場くらいの広さが必要だと思う。
http://uploader.sakura.ne.jp/src/up36131.gif
改めて安土山ってあんなに小さな山なのに謎が謎を呼ぶな。
5000人〜6000人で山頂に引き上げたという「蛇石」も行方不明。信長の「盆山」も行方不明。
この辺の謎解きが、天主復元案とともに安土城の魔力なんだろう。
それはともかく、このスレ的には 公記の「二の丸」≠伝二の丸跡 で桶?
薬師平説
>>72と伝堀邸跡説
>>80が出てるが、他にない?
82 :
日本@名無史さん:2011/04/20(水) 21:18:13.91
安土城=城オタの知恵の輪 なんだよw
>>81 盆山は信長廟にあるやつがそうなんじゃないか。
状況的にいえばあれ以外には考えられない。
本物が失われていてその代わりの石の可能性もあるが。
>>64の2つめの動画「内部構造の謎を解く」の2:30くらいに天主1階の盆山の間が出てくるが、
動画では大津市の聖衆来迎寺としているが、金閣寺にある九山八海石のような仏教的な宇宙観を表す石だったと考えられる。
金閣寺・九山八海石(秀吉が聚楽第の庭石に運ぼうとしたが叶わなかった)
http://everkyoto.web.fc2.com/s1102ad07410.jpg 信長廟の上に置いてある石はあまりにも大味というか、美的センスに欠けるような希ガス。
秀吉は醍醐寺の庭を造る際も、信長が義昭のために二条城に運ばせた藤戸石を徴収しているから、
名石好きの秀吉が信長の盆山も密かに着服し、大坂城の庭石にでもしてしまったのではないか?
動画で言っている九山八海石は仏教世界を表現云々と言う事だが、要するに盆石。
姿かたちが山の風景の様に見える石を飾って想像を巡らせる様なものだ。
盆山は信長自身を映す存在だから、もっとシンプルな形であってもおかしくない。
そういう点では信長廟の石はそれほどおかしな形でもないし大きさも適当ではないかな。
ここだけの話、安土城に無料で登れる方法教えてやる。
南の正門から登ろうとすると門番のババアに金取られるから西の小さい脇道から登るんだ。
心配しなくていい。 すぐに正規ルートと合流する。
ただしその場合、総見寺で茶を飲んでくつろぐことはできない。
本丸、伝二の丸、伝三の丸を合わせた主郭部一帯で本丸と考えるのが自然だよな。
考えられるのは、山上だと元々の本丸虎口からつながる伝堀邸跡一帯、馬場平ぐらいしかない。
あるいは山麓という可能性もあるんじゃないのかな。
>>86 別に、全然ここだけの話じゃないけどな。
知ってるけど、やるかやらないかの差だけだろ。
やりすぎに、自称・秀信の子孫が出てたな
>>84 オレもあの石は盆山じゃないと思う。本当の盆山なら家臣の誰かが持っていってしまうよ。
フロイスによると、総見寺の2階の仏壇に置かれていたとあるから、あんな大きな石ではなく、せいぜい30〜40pくらいなの小さな石のはず。
91 :
77:2011/04/21(木) 08:18:28.86
>>78-79 「ニュートリノビーム防御膜放射!」「はぁ?」「放射だ」
池泉式庭園があるとしたら居染氏庭園のように、対岸の琵琶湖の絶景や比良山脈(近江富士)を借景にした山の西側に作るはず。
どこにでも転がってるような景色(観音寺山と田んぼ)しか見えない東側はないわ。
>>88 まるで俺がDQNみたいな言い方じゃねーか
>>93が
>>86と同一人物ならそうなるな。
こんなところで不法侵入について俺はやり方を知っているぞとばかりに自慢する奴はDQNでないとしたら何んなる?
96 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 17:06:20.33
大手道や百々橋道以外に、搦手道や七曲道と曲輪も整備してくれたらいいのにね。
入場料収入をハ見寺本堂の再建に使うよりずっと収入アップに繋がると思う。
>>95 安土山の所有者であるハ見寺が許している範囲以外に許している所以外から入るのは立派な不法侵入。
訴えられたら立派な犯罪者。
>>96 世の中のごく普通の人はただの通路より建物の方に興味が行く。
観光パンフに載せた時もアピールしやすい。
本堂再建が集客目的かどうかは知らんけど・・・
立ち入り禁止前の八角平辺りや台所、伝三の丸辺りはわりと整備されていたのに、
立ち入り禁止になってからは荒れ放題になっちまったな。
維持するのが面倒なのか、金がないからなのか・・・だから立ち入り禁止にしたのかな。
99 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 23:58:45.06
>>86みたいなモラルが低くマナーの悪い奴が多いからだよ
>>97 でも西門って立ち入り禁止みたいな立て札とか無いじゃん。
観光地として売り出しておきながらそういうところをきちんとしておかなけりゃ
他所から来た人は分からずに入っちゃうし、それは管理者の怠慢だよ。
だから俺はハ見寺にきちんと管理して欲しいという思いから、あえて無料攻略法を書いたのだ。
総見寺は山全部を県に寄付しろよ。
その方が城のため、文化財保護のためになるし、整備も進むだろ。
古来、聖職者ほど強欲なる者はいないという。
総見寺が手放すとは思えないが。
>>100 百々橋口の事を言っているのならとっくの昔に閉鎖されている。
安土山は松茸が取れるので立入禁止になってると昔何かの本で読んだ
107 :
日本@名無史さん:2011/04/23(土) 21:39:01.50
平城宮大極澱立てる金があるなら、
安土天主完全復原して欲しいよ
最上階とその下の回は作ってあるんだしさ
どれだけ利用しても
無料のサイト
出会いのチャンスが無限大
111 :
日本@名無史さん:2011/04/24(日) 10:52:19.79
>>109 平城宮、大極澱も完全に空想の粋だぞ
>>110あの信長の館にある復原をそのまま、上に乗せてくれれば良い
内藤案で復原すれば良いよ
112 :
日本@名無史さん:2011/04/24(日) 11:02:06.20
ついでに天皇を迎えるための本丸御殿も再現すれば良いよ
こっちの外装、内装ともより復原し易そうだし
そんで、ゆくゆくは信長村みたいなテーマパークけん撮影所にすれば良い
戦国物の映画、ドラマの安土はみなここで撮れば良いし
漏れは、城跡は石垣の修復と史跡公園としての整備だけで十分だ、と思ってゐる。
賛否両論ある復元案を、地元観光協会の思惑で強引に復興するよりは、遺構に直接触れることができるし、想像でいろいろ楽しめる。
114 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 19:33:24.52
>>111 平城宮大極殿は発掘調査に基づいて復元している
平城宮大極殿は紫賀楽宮に移築されたことが分かっており
紫賀楽宮跡に残る遺構から大きさなどが測定できるそうだ
復元案が入り乱れる安土天守とはまるで違う
>>113 安心しろ。
安土城で、天守やその他建物の復元は100%無いから。
>>114 よく言えば研究の成果、正直に評すると空想
図面は勿論、大極殿を描いた絵の類も無く、外観は唐招提寺講堂などの同
時代の寺院建築からの類推で、こんな感じだったんじゃないかという程度の。
117 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 20:42:21.97
>>116 建てられた場所、礎石と柱の位置関係が分かっている平城宮の大極殿と、
安土城天守をなぜ同列で語りたがるのかな?
安土城天守の礎石と柱の位置関係って分かってるの?
なんであんなにたくさんの復元案があるの?
必死すぎるw
>>117 >平城宮の大極殿と、 安土城天守をなぜ同列で語りたがるのかな?
自分は、その二つを”同列で語りたがった”ことは一度もない。
以上。
天主再建は、サイケデリック(幻惑的)な兵頭与一案をキボンヌ!
安土城天主閣はすでに「ある場所」に再建されてるよ。
>>120 壮大な渋谷案とけばけばしい櫻井案もなかなかいいぞ
123 :
日本@名無史さん:2011/04/26(火) 14:35:57.27
個人的には内藤案が一番良いと思うな
あの吹き抜け構造で、宝塔が中央にあって,空中能舞台とかけられた橋は
ガキの頃みてインパクトあったし
あれを再現してくたら、何度でも観光するな
建物の中に橋を架けた例って他にないの?
126 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 17:49:21.01
昔の城再現は皆概観だけで、コンクリートのビルだから、あまり面白くないけど、最近の復元は
ちゃんと木造で内部もさいげんしてくれるからこそ
是非安土復元して欲しいんだよね
熊本城本丸とか、平城宮大極殿とか
マジでうらやましい
まぁ安土で天主復元は100%無いけどな
信長「5500億円もあるのなら、原発廃止と再生可能エネルギーに使えホトトギス」
安土天守の想像図って何種類あるの?
もし親切な人がいたらそれらを見れるサイトのURLなど教えて頂けまいか。
130 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 20:23:56.48
>>129 Googleに「安土城 復元案」で画像検索。
>>129 岡田、奥村、土屋、古川、渋谷、櫻井、平井、内藤、宮上、兵頭、藤井、西ヶ谷、森、佐藤、成瀬
近江八幡市の復元プロジェクトは内藤案を採用したようです。
安土城を仮想現実で再現 近江八幡市、システム開発へ
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20110220000088 戦国時代末期、織田信長が築城した安土城をコンピューターグラフィックス(CG)で再現し、端末を身に着けた観光客が
城跡(滋賀県近江八幡市安土町)近くに立つと、天主や本丸があたかも実在するかのように見える仮想現実システムを、
近江八幡市が今年4月から3年かけて開発する。
同市の安土地域の観光振興が目的で、2011年度の当初予算案にCG試作費など59万円を計上した。
新システムでは天主閣、本丸御殿などを3次元CGで再現する。
城跡近くに立ち、ゴーグル型機器を着けたり、多機能携帯電話(スマートフォン)などの画面を城跡に向けてかざすと、
現実の風景とCGが合成された映像が見られるようにする。
安土城復元には現在の土木技術を用いても、最低で約1千億円必要との試算があり、莫大(ばくだい)な費用がかかる。
しかしCGを使った仮想現実なら、市の財政力でも実現可能なうえ、電子データであるため、城の外観や内部に関する
最新の研究成果も随時変更したり追加したりできる。
市政策推進課は「幻の城、安土城をどこまで再現できるかは今後の研究次第。信長気分を味わえるシステムを目指したい」
としている。
134 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 21:47:28.51
何日微妙なプロジェクトだな
そんなことせんで、とっとっと復元実際にしろ
平城京は復元させるくせに,安土だけ、スルーするな
何度言ったらわかるんだ?
民有地にそれは無い。
NGワード:平城京大極殿
137 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 10:47:49.51
何度言ったらわかるんだ?
民有地にそれは無い。
それはわかっているけど、つい思ってしまうのさ
あと、バーチャルリアルティーてのか?
どこまで違和感なくできるもんなんだろうね
WCの招致でも3D映で他会場からも観れるとか、宣伝してた事あったけど、
なんか口だけでしゃぼくなる気がすんだよね
大阪城の変な復興天守はぶっ潰して徳川時代天守を復原すべき
139 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 11:11:23.33
大阪と言ったら太閤様なんじゃないの?
徳川時代の言わば占領軍の建物作るなんて意味なくね?
今の大坂城は総て徳川家のものですから
竹に木を接ぐようなもの
142 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 10:23:20.15
京大阪図って朱塗りなんだね
大阪城のイメージって黒光りしていて,上層部にトラやサギの障壁画が黄金に浮き出ているイメージだったので意外
なんか,安土か,伏見に見える
144 :
143:2011/05/03(火) 11:04:24.84
補足:
(徳川への反発から)鶴亀&龍虎、玄武/青龍/白虎/朱雀の金箔障壁画(オリジナルは菊と桐のみ)も追加して、秀吉の偉業を大きく見せかけようとした。
145 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 16:23:58.64
伏見城図は、 大坂城図と冬の陣図のミックスって感じだね。
大坂城図をよく見ると、1層・3層は菊と桐、2層は唐草、4層は三つ巴、最上階は桐(高欄下は唐草)。
大坂城も伏見城も高台寺蒔絵の工芸品みたいだが、窓は壁ごと突き揚げ窓になってたのかな??
147 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 18:44:06.13
こうして見ると、大坂は、わりとたくさん絵が残っていて復元も割としやすいね
安土のまともな絵は無いのか
148 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 18:49:37.90
構造上、望楼型は高さに限界があっただろうけど、
美しさでははるかに上だね
>>140 曲輪や掘割の構成も変えたのかな?
つうか今の大阪城のそれも徳川時代から大きく変わってないか?
>>148 ゴシック的な望楼型よりモダン的な層塔型の方が私は好みです
>>149 本丸は明確に変更されている
二ノ丸は不明
石垣なんかはほぼ徳川時代のまま
151 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 21:55:54.08
大阪の屏風に描かれてる本丸御殿って藁葺きなんですね
瓦の建物が一般的になったのって江戸時代に入ってからですか?
寺院建築は昔から瓦葺きだったみたいだけどなんで武家屋敷は板張り、
貴族の寝殿は藁葺きにしてたんだろ
瓦の大量生産が難しかったからですか?
中国の建物はほぼすべて瓦葺きなのに
152 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 23:00:34.29
当時、貴族の屋敷は檜皮葺き。
武士は藁葺き、板葺き。
大坂城御殿は檜皮葺き。
理由は豊臣。
征夷大将軍じゃなく関白ってことか?
154 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 03:38:46.27
藤原の朝臣、豊臣秀吉。
築城当初は藁葺きでも、喜んで檜皮に葺き代えただろうね。
NGワード:藁葺き
156 :
日本@名無史さん:2011/05/05(木) 10:59:24.38
なんで瓦ぶきにしなかったんだろ
江戸時代以降は瓦葺きの建物が急に増えてるよね
商人のいえや長屋ですら瓦葺きだし
生産のコストが、仮にかかったとしても,秀吉が、そんなの気にするとは思えないし
伝統的に何か意味でもあったのかな?
平城宮,大國殿の復元では瓦だったけど、現在の御所,清紫殿は板葺き?だよね
平安京の朝廷の初期の建物も恐らく中国式だったと思わられから、瓦だろうし
それ以降の国風文化の影響なんだろうか
ちなみに、安土城,天主最上階の瓦は、瑠璃瓦だったのかな?
復元予想図で、そういうの結構あるよね
157 :
日本@名無史さん:2011/05/05(木) 12:22:25.17
江戸の町で町家にまで瓦葺が増えたのは防火対策上の理由で、
江戸中期以降じゃなかったか。
江戸城御殿も中期頃までは檜皮葺きだった。
瓦が普及した後は防火に優れた瓦葺きに。
平安より貴族は檜皮葺きってのがあったとのこと。
今江戸城中に残ってる同心番所も瓦葺やな
それはそうと安土城の上層階ってどの程度派手な造りだったんだろな
金閣程度なのか家光の霊廟くらいの彫刻と金箔絵画でデコレートされてたのか
160 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 17:18:00.20
161 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 07:09:29.56
>>159 デコっちゃってるよ、信長w
白漆喰、黒漆窓、金箔、赤漆、青瓦…日本版アールデコ(装飾美術)の走りジャマイカ?
日本橋の上に架かってる首都高を地下に埋めるのに5000億かかるそうな
ちょうど安土城復元と同じ予算額だな
安土城の方が費用対効果高いと思うけどね
>>162 5000億で大坂城本丸の三重櫓群&多聞櫓を
全部復元してほしい。
三名城としての矜持を取り戻したい
今のままで地下遺構が残る限り大坂城は三名城筆頭だろ。地下に埋ってるのがロマン。
そういや東京都がオリンピック開催の為の費用として4500億円用意してる
地方政府としてはかなり資金がだぶついてるようだが文化財復元に使われる事は無さそうだ
もし江戸城本丸の御殿群と天守閣を復元出来たら
中国における紫禁城の如く日本を代表する観光名所になるだろうがね
都知事は堀のライトアップでもやってればそれで十分と言っているが・・・
166 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 00:53:52.04
別冊宝島 江戸城天守CG完全再現なる本をかってみたら
江戸城の復元に動いている人いるんだな
個人的にはは、城の復元は賛成なんだが、それを江戸城でしなくても良いと思ってる
やるなら、豊臣大坂や、安土でやるべきだな
江戸城の天守は復元してもでかいだけで、外見はずんぐり頭でっかち
な上に、名古屋と見た目的にずいぶん被るし
なかも簡素で観光しても面白く無い
大奥や本丸御殿の復元なら面白そうだがな
豊臣大坂や、安土はその豪華さ、美しさだけでも客呼べるし、
語り種になれるとおもうので是非復元して欲しいね
うむ。
まずは現存する大阪城の遺構を全部撤去して、さらに地面を掘り返すことから始めようぜ
168 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 18:52:58.46
それは良い考えだ、今度の土日にオマエラ
スコップ持って大阪城に集合な。
169 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 19:05:19.93
太閣さんの埋蔵金。掘りましょう。掘りましょう
いま大坂城の話がNHKラジオ第一であってる
171 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 11:25:05.47
>>166 皇居周辺では皇居の中が見えないように周辺のビルにも高さ制限あるんだぞ
御苑に天守なんて復元できないだろ
もし復元できてもこれ以上は皇居が見えるから駄目!といって
天守に登れなくするだろ
もしくは天守の宮殿側の窓だけ閉じたままにしておくとかね
ただ現時点で丸の内側のビルの上層階から宮殿を眼下に見下ろせるよ
既に100〜200メートルのビルが林立してる中で
60メートルの天守を立てたところで問題無いと思うがね
173 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 03:13:36.55
六十メートルの木造建築か
不敬うんぬん以前に
訳の分からん連中がウロウロしてたら警備しにくいだろ
といっても現時点で江戸城本丸は一般開放されてるから
外国人含む不特定多数の客が本丸の中をうろついてる訳だ
その連中が高さ12メートルの天守台まで登るか
60メートルの木造天守の最上階まで登るかの違いだな
177 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 12:12:44.67
陛下に京都御所にお移りいただいてだな
>>176 近いといっても直線距離で本丸天守台から西の丸の宮殿まで約600m、
吹き上げ御所まで約700mある
警備上の懸念はさておき江戸城の馬鹿でかさがよくわかる数字だ
179 :
日本@名無史さん:2011/05/31(火) 11:08:51.72
180 :
日本@名無史さん:2011/05/31(火) 14:30:43.82
だから陛下には京都に移っていただいてと.....
もともと徳川のもんなんだし、その方が本来の形なんだよね
京都に現在技術を駆使した城郭御所を建設するのですね。
それはそれで見てみたい。
182 :
日本@名無史さん:2011/05/31(火) 22:45:03.91
皇室なんだから、神殿造だろ
でもあの造ってめちゃくちゃすみ難いそうだな
冬は寒くで、夏は暑いそうな
畳も座るところだけだし
京都は京都で警備大変そうだ
あの低い御所の塀を乗り越えられたらやばいっしょ
首都移転するなら奈良の平城京がよいな
大極殿も完成したことだし
国会議事堂も官庁も寝殿造にして
議員官僚の皆さんには衣冠束帯で勤務してもらおう
そして江戸城本丸と西の丸と紅葉山に御殿と天守・東照宮を再建する
184 :
日本@名無史さん:2011/06/02(木) 22:22:30.26
奈良は確かにせっかく大極殿作ったのに羅城門のなか、スカスカで逆に悲しいな
せめて、メインどおりの両脇くらい何か建物うめないと
185 :
日本@名無史さん:2011/06/05(日) 12:55:42.57
これから時間かけて平城京全て復興していくんだろ。
というか、敷地をつっきる電車はどうにかならんか。
第一次大極殿院は復興するみたいね。
南門、東楼、西楼、築地回廊あたり。
個人的にはそんなのに金と資材つかうなら、
元興寺五重塔復元してほしい。
詳細な資料があるんだからさ…
>>186 元興寺の塔跡はすぐ傍まで住宅が建っていて、再建したら妙な眺めになりそうだ
>>186 復元するなら七堂伽藍の跡地が住宅で埋まり住宅の間にばらばらに点在、
宿坊しか当時のものは残ってない元興寺よりも東大寺の七重塔のほうがいいけどな
東大寺は跡地がほぼ完全な形で今も東大寺境内として残っているし
塔跡の場所も十分確保できる
190 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 13:53:11.70
安土城天主の内部が御殿だった事はよく知られてるけど
大阪城天守の内部も障壁画で飾られていたの?
宝島の雑誌で、秀吉が天守内部に住む事はなかったが、
内部装飾も豪華だったみたいな事が書かれていたけど
191 :
日本@名無史さん:2011/06/15(水) 04:57:34.11
基本は、武器、宝物蔵で、華美な装飾はなかったんじゃないかな。
それらしきことも伝えられていないし。
>>190 二階(二層目)に茶の湯ができる座敷がアッタ
194 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 05:54:29.13
『ドキュメント信長の合戦』(歴史群像シリーズ特別編集)で藤井尚夫が、自身の安土城天主の復元案の詳細を発表しているが、何かハチャメチャな間取りだな。
195 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 21:14:04.77
196 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 10:30:48.05
明日香淳也さんの安土城復元案はまだですか?
内藤案の否定と大口叩きながら木割りは内藤案のまま、八角の段に散々貶していた宮上案を採用するという
ご都合主義と節操のなさ=淳也マジック=に常連たちが呆れて離れてしまったようだ
198 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 18:14:25.61
所詮外回りの営業マン。ゴミ屑。
199 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 02:07:25.17
200 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 06:36:31.99
あっ、安土城天主のね。
>>194 俺はどちらかというと天守指図肯定派なんだが、(内藤案は否定、あくまでも天守指図肯定)
>北之方 御土蔵有
安土日記のこの部分を読むと藤井氏の天主の間取りや筋違いはともかく、
藤井氏が言うように天主とは別個に土蔵建築が存在していたような気もしてくる・・・
202 :
日本@名無史さん:2011/07/15(金) 09:04:41.14
>>198 営業マン、映画アマデウスのモーツァルト気取りが最高に嘲えるw
サリエリにすらなれないゴミのくせにw
ていうか、淳也の復元案(?)って、内藤が1層〜3層北面の屋根形状を検討した際に捨てたゴミがベース
それに宮上の八角を切り貼りして、鼻くそみたいな屁理屈で塗り固めただけ
すべてが他人の復元案の盗作、ゴミ漁りの元ネタがなくなったので更新がなくなった
あのお絵描きを図面にしたら相当笑えるものになるはずw
ホームページの内容はすべて内藤著書からの剽窃だし、まったくナンセンス
俺のお気に入りは兵頭案
畳が6尺5寸なのと南北の小屋裏の段の破風が見当たらないのが苦しいが
205 :
日本@名無史さん:2011/07/16(土) 06:40:43.59
>>203 淳也って42歳だろ?最低なコピペ中年だな・・・
しかも、理系出身で会社員ってどういうことよ?w
明日香淳也っていうより、足軽淳也って感じだ
つ虚言癖
207 :
日本@名無史さん:2011/07/17(日) 21:16:16.91
あんたら、実に低俗な書き込みだね。人格の程が知れる。
件の御仁に関しては,剽窃・盗作を恥としない生育環境があるやに思われます...
209 :
日本@名無史さん:2011/07/18(月) 17:12:47.34
あくまで一般論だが、他人の著書からの無断盗用や剽窃で作ったホームページの著作権を主張するなど、
パクリ技術で造った新幹線で特許を申請する低俗な某国人そのもの
技術者にあるまじき態度
匿名だから許されるというものではない
パクリじゃなくて再検証してるだけだろ?
再検証してるうちに、結果としてたまたま似てしまった、とかジャマイカ?w
>>197 >八角の段に散々貶していた宮上案を採用するという
>ご都合主義と節操のなさ
二重高欄のことを言ってるなら見当違いだぞ
二重の高欄は宮上の他に、渋谷、佐藤、西ヶ谷も採用している
>>211 >再検証してるうちに、結果としてたまたま似てしまった、とかジャマイカ?w
意味が分らない、誰の案に似ていると言いたいのか?
内藤案と同じく池上右平の天守指図を使って、
天守指図を内藤案とは別解釈しているのに、似るもパクリもないと思うがね
>>197 >内藤案の否定と大口叩きながら木割りは内藤案のまま、
内藤案の細部の解釈の否定であって、天守指図の否定ではないだろうが
内藤案と同じ出所の指図を使っているいじょう木割りが同じなのは当たり前
214 :
日本@名無史さん:2011/07/19(火) 11:59:20.04
>>212-213 ♪└|∵|┐♪└|∵|┘♪┌|∵|┘♪
足軽アマデウス淳也氏が血相変えてご乱入!w
しかもご立腹のあまり、同じ相手に2回ご反論( ´艸`)
おまいら、釣り上手すぎだらw
>>213 お前がなぜ淳也氏の擁護を買って出るのかは知らないが、まぁ、もちつけw
>内藤案と同じ出所の指図を使っているいじょう木割りが同じなのは当たり前
いくら同じ出所の指図を使っていても、指図に描かれていないいじょう木割りが同じとは限らない
特に八角の段と四角の段の間の木割りは、他の天守に準用できる例がなく、柱や梁に八角屋根の野垂木や四方縁が複雑に立体交差する間隙を縫って階段を設け、なおかつ360℃あらゆる方向からの横風を想定して強度を確保しなければならない
復元者の技量経験がモロに出る箇所で、玄人と素人で偶然の一致はまずありえない
実際、偶然にもお前と同じく、内藤案とは別解釈で細部の解釈を否定している素人のアマデウス淳也氏は、なぜかこの箇所では「内藤案と同じ」木割りで構成できます、と白旗を揚げてしまっているではないかw
玄人でも神経を使うこの箇所の根回りに、あえて指図に描かれていない落ち縁を付すとすれば、当然細部の木割りも変わってくる
二重高欄なら、平面で考えても風圧を受ける場所が上下二階に渡り、立体では適切な補強が必要になるからな
劇的空間ビフォー&アフターに出てくる、吹けば飛ぶような物干し台を木工ボンドと釘でポン付けするのとは勝手が違うぞw
>>197 とりあえず、お前は「安土日記」読み直してこい。
>>210 再検討なら,誰が読んでもそうと解るようにことわり,引用箇所には「」か脚注を付けるべき.
それすらせずに,他人の著書から勝手に引用し,自分の見解として述べるのは剽窃に当たる.
元常連のTm.氏にしろ,森氏にしろ,森嶋氏にしろ,くだけた雑談ではあってもそこはキッチリけじめを付けていた.
論文の指導も受けずに大学を卒業しちゃったとか?
つ大学中退
219 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 11:45:27.89
>>215 >お前がなぜ淳也氏の擁護を買って出るのかは知らないが、
しかも、なぜか一人称www
>>1 次スレ
【他人案折衷】安土城復元案【アマデウス淳也】
でよろ!
江戸城は宮上茂隆の復元案で十分
三浦氏がしゃしゃり出る必要がそもそも無い
史料の全く無い金沢城天守、弘前城天守を復原して下さい
文系と理系の区別も付かないとなると高卒なのかも
ちなみに大学中退は高卒扱い
>>219 慧眼!
確かに淳也って他人の案を折衷してるだけだゎ。
お得意の大聖堂建築は内藤昌論文からの借用だし、八角の段は宮上茂隆論文からの借用。
もし
>>215みたいに二重高欄の立体補強がおかしい!なんて指摘する者が現れようもんなら、
「それは宮上氏の責任です」「二重高欄は他の人も採用している」
>>212とか言い逃れできるように。。。
淳也こそ、ご都合主義の権化じゃん!
225 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 13:10:49.84
>>224 あんた、気付くの遅杉だろ!www
アマデウス淳也先生のモットーは、
「すべての資料に矛盾のない折衷案!」だもの みつを
今週末、アマデウス淳也先生が「三人称で」自分を擁護に100ダカット!
↓↓↓
__
-‐ニ ┤
_ -‐ ´ / }
__ /´ `ヽ、 j
_ -‐二 ─ァ (:.r:.) ヽノ
く  ̄ / (:.r:.) ヽ\
\ / / 、_, } ヽ
ヽ/ { ー´ ノ ヽ
/ ハ イ ヽ
,′ | ゝ / l ヽ_┐
_ l ├─`ー ┬- l´ l ヽ //
\ヽミヽ/ ! l ! l /ヘ
/⌒ ヽ\〃ミヽ、 j ,' l\ ∧_ // ゚ \
/ ( `ノ \、 l \/レ-< 、 ゚、_ _ )
/ \ /o ノヽ\ ハ i ヾ、:..ヽ \゚`ヽ、 \
{ r‐` ̄ / o o / `ー┘ { { | `"ヽ `ヽ、_)`ー--'
、 ゝ-/ / / ! 丶 { ヽ
\ 'ー─/__ / / l ∨ / }
\ ´ _ -‐ ´ l { ∧ ノ
` ー─-- -─ ´ ((l, H ト、ゝ─ ´ /
〉 ハ / (r , '´
ゝノ/ ノ  ̄'
 ̄
227 :
日本@名無史さん:2011/07/30(土) 01:23:47.95
三浦研究室の肥前名護屋城、みんなの意見は?
__
, ‐' ´ ``‐、 / ̄:三}
. /,. -─‐- 、. ヽ / ,.=j
_,.:_'______ヽ、 .! ./ _,ノ
`‐、{ へ '゙⌒ `!~ヽ. ! /{. /
`! し゚ ( ゚j `v‐冫 , '::::::::ヽ、/
. {.l '⌒ ゙ 6',! / :::::::::::::::/ __ そんなことより野球しようぜ!
. 〈 < ´ ̄,フ .ノー'_ , ‐'´::::::::::::::;/ (_ノ)‐-、
. ヽ.、 ` ‐", ‐´‐:ラ ':::::::::::::::: ;∠. ヽ_} ゙ヽ
,.r` "´ /:::::::::::::::::::ィ´ `ゝ !、 /
/ / :::::::::::::::: ; '´ /´\ / r'\
. i ! ::::::::::::::/ 墨 | .!::::::::/ヽ、.._!ヽ. ヽ、
{ {:::::::::::;:イ / ‖i:::::::/:::::::::::::/ \
. ヽ ヽ,.ァ‐'´ /ヽ 二 ,/`ヽ、::::::::: /
>>227 三浦氏の復元作業は基本、屏風図の図面化・CG化に過ぎない希ガス
構造組成をどれほど具体的に検証しているのか不明
230 :
日本@名無史さん:2011/07/30(土) 07:50:55.95
肥前名護屋城図屏風の写実性はどれほどの物なの?
白亜塗込なんて有り得るのか?
秀吉天守を時系列的に整理してみた
【?】長浜城(1573)・・・浅井家滅亡→江北3郡(伊香・浅井・坂田)統治のため
【?】姫路城(1580)・・・備中攻め
【?】山崎城(1582)・・・
【黒】大坂城(1585)・・・将軍として幕府を開くため?(断念)
【白】聚楽第(1587)・・・関白に就任(京都政庁)
【?】石垣山城(1590)・・・小田原攻め
【白】肥前名護屋城(1591)・・・朝鮮出兵
【黒】伏見城(1592*96)・・・太閤→死去
居城には黒漆に蒔絵の高価な外壁、出城には即席の白漆喰を使う傾向があるのではニャアか?
>>231 >出城には即席の白漆喰
それは良い解釈かも
秀吉の原点・素股城!じゃなかった、墨俣城もプレハブの出城w
出城に、2度3度と手間隙掛かる黒漆蒔絵板は勿体ないし、地味な下見板張りじゃインパクトに欠ける
秀吉の趣味というより、短期間で壮麗感を出すには金箔瓦に白漆喰しかなかったんジャマイカ?
234 :
日本@名無史さん:2011/07/30(土) 11:23:22.98
>>229 城郭研究家には、オーソドックス系とビジュアル系がある
内藤昌・宮上茂隆はオーソドックス系、西ヶ谷恭弘・三浦正幸はビジュアル系
前者は外観が、後者は構造が、いまいち信用できない
そりゃ建築家と歴史家の違いという奴だろう
>>231-232 豊臣=黒、徳川=白
というステレオタイプも、案外、秀吉没後〜大阪の陣までの不穏な時勢的・実利的偶然に過ぎなかったのかも
豊臣政権という反面教師で栄枯盛衰の儚さを知った家康・秀忠親子は、
天下が安定するまでは居城も白漆喰で済ませ、安定した後に高価な銅板を使い出しただけとか
大名は戦に備えて火矢に強い白漆喰にするのが定着し、城=白というイメージが形成、
中小名は白漆喰さえ維持できず、下見板張りが定着したのではニャーか?
>>236 慶長度江戸城天守については白にこだわっている
御影石の白石垣に、漆喰の白壁、鉛の白瓦というこだわり
>>238 江戸城
T家康・慶長天守(中井家指図)→本丸拡張&大阪城へ移築
U秀忠・元和天守(津軽家指図)→大奥拡張&仙台城へ下賜(実現せず)
V家光・寛永天守(御天守之図)→振袖火事で焼失
で桶?
>>227 安土城≒岡山城(宇喜多秀家)
大坂城≒熊本城(加藤清正)/広島城(毛利輝元)
それぞれ模したと伝わる現存(復元)天守から具体的にイメージできるだろう.
しかし,三浦氏が屏風絵から外観復元している肥前名護屋城は,まるで五重塔.ヒョロ長で安定感に欠ける.
もっと広島城のように堂々とした天守だったと思う.
天守台の実測データは残っているのだろうか?
243 :
日本@名無史さん:2011/07/31(日) 08:34:02.42
>>243 白亜に黒漆の突き揚げ戸といえば、彦根城。
肥前名護屋城=(広島城+彦根城)÷2 金箔軒瓦で葺いた、シロガネーゼな天守韃靼ではにゃあか?
現在姿を見ることができる建物の内、広島城天守が最もカッコイイ
246 :
日本@名無史さん:2011/07/31(日) 10:36:50.93
>>242 >しかし,三浦氏が屏風絵から外観復元している肥前名護屋城は,まるで五重塔.ヒョロ長で安定感に欠ける.
三浦氏一党の復元案が総じてそうなんだよね。
聚楽城天守は、南北棟の二重櫓の上に、南北棟(三層目)と東西棟(最上階)の二重望楼が載る、2+2の前期望楼型と考えていいか?
252 :
日本@名無史さん:2011/07/31(日) 15:17:35.78
安土城の最上階には、大きな舟が載っていたりしてwww
254 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 02:29:07.51
聚楽第天守は、岡山の三重目の張り出しの一方を千鳥破風に、四重目の唐破風屋根を外縁に
置き換えたような姿を想像すれば良いんじゃないかな。
宇喜田秀家、豪夫妻の立場を考えれば、岡山=大阪+聚楽だと思う。
徳川の寛永度二条城天守も、東面と西面で破風構成が異なっていたとする説もあるし、
おそらく、南面に張り出し、北面は千鳥破風という構成だったと考えられる。
屏風の描写は、南〜東〜北の三方向の景色を表現したディフォルメだろうね。
肥前名護屋城=広島城(彦根城バージョン)
聚楽第=岡山城(彦根城バージョン)
で桶?
聚楽第天守が単立天守ではなく,二条城天守のように隅櫓を兼ねていた場合,
三層目西に突き出た棟は,石垣上,内堀に張り出した懸け造りの釣殿,
すなわち天下人秀吉が行幸した天皇と対岸の舞台を見物する御座敷の2階に,
望楼(茶室もしくは月見櫓)を載せ,天守閣と意匠統一の上,一体化させた二重凸部であった可能性を指摘したい.
秀吉は桜好きで知られるが、対岸の夜桜とともに内堀の水面に写る月を愛でるのはさぞかし風流であったろう.
また,安土城天主内,大坂城天守内に茶室があったことが拝見記にあり,
城郭機能より宮殿機能を優先させた聚楽第にあったとしても想像を絶するものではない.
松本城月見櫓
http://youkoso.city.matsumoto.nagano.jp/citizensweblog/?p=3483
257 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 14:09:43.45
↑妄想
>>256 これいじょうこのスレに情報出さないほうがいいよ
259 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 16:32:25.11
>>258 誰がパクるか見るのもまた楽しみw
まさに楽しみを聚(あつ)めるスレwww
261 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 22:51:41.06
↑まさに聚楽第天守だね。
262 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 06:12:59.11
魔王信長安土城にも関白秀吉聚楽第にも変身するトランスフォーマー
岡山城最強やぁ〜!w
264 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 09:18:34.62
>>261 明日香折衷守殿は楽しみも人間もくだらないのぉ〜
↑三浦研究室が動き出すんジャマイカ?w
>>246 ろくろ首のような聚楽第天守を期待sage!
267 :
日本@名無史さん:2011/08/03(水) 06:50:13.60
信長も御所の隣に聚楽第を築いておけば、あんな惨めな死に方せずに済んだものを・・・
安土行幸は完成から3年経っても実現せず、天主より入念かつ華美に造られた本丸御殿は無駄な投資に・・・
頭イイのか悪いのかよくわからん
270 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 07:02:32.36
天皇は信長よりしたたかで信長の言いなりにならなかった。だから信長は威圧を加え始めた。危険を察知した天皇は光秀を唆して信長を殺させた。本能寺の変以降天皇は光秀を優遇している。
>>270 俺は朝廷&秀吉共謀説
殺人事件の犯人探しでは、誰が一番得をしたか?を考えるのが基本
黒幕は朝廷と秀吉となる
役割分担だが、
近衛前久=信長政権に接近し、信長の動静を送るスパイ
秀吉=光秀の謀反を前提に、信長を本能寺に誘き寄せる役
光秀=実行犯
3人の誰が欠けても、本能寺の変は成立しないことに着眼されたい
@秀吉に信長を本能寺に誘き寄せさせる
A光秀に、将軍就任を餌に、皇位簒奪を計画する逆賊信長を討たせる
Bさらに秀吉に光秀を仇討ちさせ、口封じする
これが本能寺の変の真相ではないか
秀吉と光秀はかつて織田家の京都所司代をしていた
その時、朝廷は信長亡き後、どちらが後継者に相応しいかチェックしていたと思われ
272 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 12:15:23.53
スレ違いだろボケどもが。
>>265 乙!
あとは、側面の入母屋破風凸部を千鳥破風に代え、屏風絵通り着色すれば完璧
274 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 17:52:31.24
内藤案を否定する流れが類似と言う方向に逆流している。
内藤案は奇抜に過ぎる
吹き抜けにしろ八角堂にしろ、後世の他天守に一切見られないことから、
そんなものはなかった、と言うしかない
内藤案が群を抜いてカッコイイもので、そうであって欲しいと願いたい気分
>>275 釣りか?
それとも無知か?
吹き抜けはともかく、八角堂は信長公記で存在していたことが記述されている。
>>276 見栄えの良さで言えば、現在最も支持を得ている宮上案だろう
内藤案は屋根が複雑に入り組んで見苦しい
279 :
日本@名無史さん:2011/08/06(土) 13:17:32.86
多角形を否定していた宮上氏が死去すると多角形が復活。三浦一門の案には内藤案に近いのも出てきた。
280 :
日本@名無史さん:2011/08/06(土) 20:58:05.10
近いったって似て非なるものだと思う。
「天守指図」に対する立場は双方で全く異なるだろ。
二条城(義昭・徳川)について。みんなの意見は?
284 :
日本@名無史さん:2011/08/09(火) 16:48:38.06
だから、屏風絵なんて参考にしてはいけない
286 :
日本@名無史さん:2011/08/09(火) 19:45:49.73
>>284 二条城に移築された豊臣秀長の大和郡山城は、
>>141-143の秀吉U期・木幡山伏見城や大坂城との共通点が感じられるね。
すなわち、
二重櫓下層部+三重望楼(下層部の棟に直行させた後、棟を交互に重ねる)の前期望楼型の特性を示しており実に興味深い。
特に三重望楼部の付け根に、下層部屋根裏への雨漏り防止用の千鳥破風をまだ設けていない点は、後期望楼型との違いとして注目に値する。
>>238 鉛瓦に鉛壁かぁ
これから東日本全域で、放射線を通さない鉛建材の需要が急上昇しそうだぬ
建築基準法で義務付けられたら鉛特需の悪寒…
鉛関係のメーカーの株、買っとくか
>>284 寛永U期二条城は、家康再建V期伏見木幡城との共通性が強く感じられる
問題は、慶長T期二条城、豊臣大和郡山城(1585)と徳川淀城(1623)の共通性が希薄なこと
秀長天守が築38年を経て、側柱や屋根裏の傷みが激しさを増し、淀城移築の際に大改修したと思われ
外側柱を撤去し減築、最上階高欄を撤去、大破風を受ける唐破風の追加、第四層平側凸部の追加など
>>287 ちなみに、金沢城も鉛瓦
290 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 06:43:28.21
↑妄想ですか?
292 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 07:16:03.92
●東日本大震災は米国の地震兵器HAARPにより人工的に引き起こされた
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/tomokop/sakuryaku.html ★2011年3月11日
深夜、菅総理とオバマ大統領の電話会談で話されたこと。
地震兵器HAARPの使用について菅総理が聞いて、そのことについて、軍が別の命令系統(デイビット・ロックフェラー)に従ってやった、とオバマ大統領は謝罪した。
「もう米国債は買わない」と伝え、「わかった。緊急援助として米軍を派遣する」とオバマ大統領が答えた。
★2011年3月16日
菅総理とオバマ大統領の電話会談で話されたこととは、米国ドルを助けない、もう終わりだ、ということ。
293 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 07:16:20.13
徳川伏見城は大和郡山城の移築で完成。七重天守を五重に改築。家康二条城天守は新築だよ。
294 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 07:27:51.83
↑妄想ですか?
295 :
日本@名無史さん:2011/08/11(木) 18:58:02.75
猛暑で妄想
297 :
日本@名無史さん:2011/08/25(木) 06:44:51.22
法隆寺大工・中井家は東大寺大仏殿はもちろん、方広寺大仏殿も施工している
貫で柱を固定する大仏様は大型(高層)木造建築には必要不可欠の技術
信長から前代未聞の吹き抜けを造るよう言われた岡部又右衛門が、中井正吉をスカウトしてきた可能性は十分考えられる
安土城天主が出現するまでの高層建築と言えば、大仏殿くらいのもの
吹き抜けを作る作らないに関わらず、高層建築のばあい、柱を梁だけで固定するのは無理で、
自ずと貫を多用し柱同士を緊結し一体化する大仏様とならざるを得ない
300 :
ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2011/08/27(土) 21:50:07.67
天下人の天守といえば名古屋城
301 :
日本@名無史さん:2011/08/28(日) 07:53:31.50
安土城は吹き抜けの有無で騒がれるが、天主を大仏なしの大仏殿と見れば、何の不思議もない
周囲を座敷が取り囲んでいるから、吹き抜けに面した長さ8間の柱列が外側に転ぶ心配はないし、
貫・挿肘木・紅梁で8間柱列を繋ぎ、なおかつ小さな望楼部で重石をしているので、内側に倒れることもない
耐震性は想像以上にあるものと思われる
石倉も築いてるしな
石倉三郎
304 :
日本@名無史さん:2011/08/29(月) 07:59:47.93
慶長度江戸城天守は「愚子見記」に「古鎌倉に準する」とあるから、
大仏様の技術が使われているのは間違いない
中井家にある指図もそれを裏付けている
大仏様=奈良(法隆寺)大工
和様=大阪(四天王寺)大工
禅宗様=京都(建仁寺)大工
で桶?
309 :
日本@名無史さん:2011/08/31(水) 21:45:57.20
>>307 和様を得意とする四天王寺大工は平内家、それに対し唐様を得意とする建仁寺大工は甲良家が有名。
特に蒲生郡の北隣・犬上郡出身の甲良家は徳川家の伏見城・江戸城・日光東照宮などを施工するが、
その前提として「御殿唐様を学び」とされる安土城の造営にも携わった可能性は高い。
310 :
日本@名無史さん:2011/09/05(月) 16:04:13.79
安土城八角平の北の門から尾根続きに200メートルほど行ったところに薬師平と呼ばれる郭がある。
ここは安土城建設の中枢として、安土城に先行して作られたと考えられる。信長公記には安土山内に丹羽長秀の屋敷があった、と記されるがそれがここだろう。
城の建設には、数多くの図面、雛型、また労務管理のための書類などが必要で、それらは一括して管理されなければならない。
また、物品の購入等に大量の金銀も必要で、これらは厳重に管理されねばならない。そして、その管理の場所は工事現場から遠すぎる場所であっては困る。
薬師平は、建設現場から近く、治安の維持も容易で建設司令部を置くのにふさわしい場所と言える。
薬師平のすぐ南にはいくつかの屋敷跡が残るが、これらが大工岡部以言らの住居だろう。
この東側斜面に階段状の郭が残り、従来は蔵屋敷と考えられてきた。しかし、この部分かなり傾斜がきつく、品物を貯蔵するのに適しているとは思えない。
これが大工たちの居住区、つまり当時の飯場の跡だろう。
デジャヴュか、いや以前も同様の持論を展開していたよな。
大工の飯場云々はその時の書き込みにはなかったが・・・
312 :
日本@名無史さん:2011/09/07(水) 09:50:07.68
313 :
312:2011/09/07(水) 09:52:30.31
↑誤爆スマソ!!
314 :
日本@名無史さん:2011/09/08(木) 13:41:48.70
3Dテレビで経済が上昇する訳ないだろ。俺が指揮を取ればバブル経済が5年後に訪れる!
315 :
日本@名無史さん:2011/09/08(木) 15:58:14.36
>>310 薬師平の東側、斜面を下った地点にある菅蔵郭郡は、狩野永徳の工房跡と思われる。永徳は一門を率いて、天正五年ごろに安土に移住して、安土城内の障壁画のすべてを製作する。
製作には相当に広いスペースが必要となる。完成した作品は、建具職人のてによって襖に仕立て上げられた。彼らとの職場もすぐ付近になければならない。
また、完成した建物にそれらの建具を運び込むためには、あまり遠い場所では不都合である。これらを勘案すると、工房には菅蔵郭郡が最もふさわしく思われる。
この地は斜面の中腹を切り開いたもので、西側には障害物がなく、長い日照が期待できる。
10年以上前、まだ山内立ち入り禁止が厳しく言われなかった時期に、城内の殆どは踏破したが、この菅蔵郭郡には倒木に邪魔されて足を踏み入れることが出来なかったのが心残り。
もし、この場所が永徳の工房跡であるならば、発掘調査を行えばある程度の成果が期待できるのではないか。破損した硯、消耗した筆などは永徳一門の安土退去の際、ゴミとして捨てられた可能性が大きい。
それらが出土すれば工房であったことが証明可能である。
安土城に重層櫓はあったのかね
多門城の四階櫓が義昭の二条第天守として移された後に、安土に移されたが、
四階のままか改築されたかまでは不明
318 :
日本@名無史さん:2011/09/09(金) 04:50:02.84
↑そんな記録はありません。
↑
あなたにはソースなど教えません
321 :
320:2011/09/09(金) 10:31:23.59
322 :
日本@名無史さん:2011/09/09(金) 12:43:04.35
去年だかの正月長時間ドラマの「火天の城」(西田敏行他)は実際にキンキラキンの安土城のセットを「建設」しました。
場所は淡路島の野島(阪神淡路大震災の震源地近く)の山中。
何でも、ここからの景色が余りにも安土城周辺に酷似していた為ロケ地に決定した由。
んで、ラストの落城して天主が炎上するシーンは圧巻でしたが、
それもそのはず。CG合成ではなく本当に豪勢に安土城(セット)を燃やしてしましました。
周辺は消防車や消防ヘリコプターが待機しての大騒ぎ
323 :
日本@名無史さん:2011/09/09(金) 17:46:08.90
>>319 三文小説の題名なんて知りたくもありません。
324 :
日本@名無史さん:2011/09/09(金) 22:50:42.20
>>320 薬師平東側、は西の誤り。菅蔵郭郡は西側斜面の下にある。「小さな二つの谷を開いて築造した郭で、山麓の郭としては例のない高石垣を築いている」秋田裕毅・織田信長と安土城
図によるとかなり大型の郭が三つ、その下に小さな郭がいくつかある。大型のものはどれも南北に長い。大手道の伝秀吉邸と同じくらいの面積のようだ。
先に述べたように直接観察はできなかった。麓の側からは、その付近に何かの建物があって近づくことができない。郭はその施設の背後にあるようだ。
325 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 09:46:06.81
安土城の大手門およびその後に続く大階段は有名だが、この門が出来たのは安土城建設の最終段階。また、黒金門および本丸南東の御幸用の門にしか通じていないから、大名クラスと公家天皇のためのものであり、一般の家臣の使用はできなかったと思われる。
安土城の大手門は、西側の逢坂郭郡にあった門。つまり安土城は西が正面であった。百々橋が重要な意味を持つのは、ここを通過して安土山西麓伝いに大手門に到る経路が正式なものであったからだ。
逢坂郭には伝市橋下総守邸と伝福富平左衛門邸があるが、これらに建っていた御殿が安土城の行政機能の中枢であったのだろう。現在はこの場所から八角平へ登る通路がないが、これは土砂の崩壊によって廃絶したためで、当時はつづら折りの道があったと推測される。
信長公記、天正九年の正月、安土在の馬廻り衆を城に集めて「西の門より東の門へお通しなされ、御覧あるべきの旨云々」とあることからも、少なくとも一般の家臣にとっては西が正面の門であったことが分る。
このときは雨が降ったため信長への新年のあいさつは中止になっている。
>安土城の大手門は、西側の逢坂郭郡にあった門。
はて、いつからそうなった?
327 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 23:44:39.08
天正四年から安土城建設が始まるが、この年の2月にははやくも信長は安土に居を移す。岐阜は信忠に譲っているから、一時的な移動ではない。つまり、この時すでに安土山内には信長の御殿となるにふさわしい建築が存在していたことになる。
それはどこかと言えば八角平であったと考えられる。逢坂郭⇒二の丸、八角平⇒本丸、搦め手郭郡⇒支援施設からなる本格的な城郭が、天正4年の段階ですでに完成していたと考えられる。
これを仮に前期安土城と呼んでおく。この城の南に、後に安土城として知られる建築群を建設したのである。もちろん前期安土城は、後に拡張工事ですぐ南に巨大な城郭が出来ることを想定して作られていた。
>>326 いつから逢坂郭の門が大手門か。 答え。天正四年から。安土山の南に行幸のために門が作られた後も機能は変わらなかった。
>>327 いや、俺が聞きたいのはそういうことではなくて、県の教育委員会などの調査資料などで推定大手門は南面の現在の正面登城口まえひろばのあたりだと認定されているのが一般的なはずだが、
>安土城の大手門は、西側の逢坂郭郡にあった門。
と断じれるのは何の資料に依っていて、いつからそれが認知されているのかと聞いているのだが。
安土に限らず、正面にあたる大手口以外にいくつかの登城口があるのが一般的であって、それぞれどんな人が利用するかが概略決まっていたと思う。
中にはいわゆる大手口よりも利用頻度が高い虎口もあっただろう。
南側伝大手が来客向けだということは良いとして、西側が家臣等が利用する一番頻度の高い登城口だとしてもそちら側が大手で城の正面というわけでもないだろう。
三国無双の三国ってどこのことなの?
関係ないけど私の携帯さんごくぶそうを一発変換しやがった
330 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 09:16:52.90
現在、安土城といえばもちろん天主、本丸跡地やそれに至る大階段付近のことで、八角平周辺、とくに逢坂郭群、およびそれ以北は付けたり程度の認識しかされない。
だが、先行して建設されたのは八角平を中心とした部分であるし、信長の軍事、行政機関が置かれていたのもこの部分であると考えられる。
大手門云々に関しては、城としての機能の最も重要な門という意味で使ったまでで、それ以上の意味はない。
大手門は、平安宮の正門、応天門に由来する名称だから、南正面の門として使われるのが正しいとは思う。
331 :
↑:2011/09/15(木) 16:41:47.36
退屈な妄想
裏付けする事実、又はそれに相当する説明が無いのに自信満々で断言されてもな〜。
妄想と言われても仕方がない
それから大手は大手だよ。
城の正面以外には使わない。
日常的に利用が多いかどうかは別の話だ。
そういう時点で正しくない。
333 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 18:55:58.80
滋賀県教育委員会や安土城郭研究所は、なぜか「大手道は文献に一切登場しない」と史実を歪曲しているが、
風呂椅子が「馬もこの道を使っている」とハッキリ書いているではにゃあか!
大手は追手からだろうが
335 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 22:07:20.45
天正3年 11月28日 家督を信忠に譲り、茶の湯道具だけを持ち岐阜城を退去。
天正4年(1576) 2月23日 安土に御座を移す。
4月1日 普請開始。これまでの間に各地から人員を集めたらしい。
7月1日 安土普請、重ねて仰せつけられる。
この頃石垣の建設を終え、天主の作事にとりかかったらしい。
天正5年 安土御帰陣、御帰城などの記述がしばしば見られる。
天正6年 正月 安土在の主だった家臣を集めて御茶会。「御殿、御座所まで皆見せられ」
天主の完成は翌年の五月。ここでの御殿、御座所は天主ではない。
御殿は狩野永徳の絵で飾られた立派なもので、あきらかに建設途中ではない。
天正7年 2月8日 馬淵より切り石350余召し上げられる。
5月11日 吉日につき、信長、天主へ御移徒。
ここで集めた切り石は、黒金門に用いた石ではなかろうか。黒金門およびそこに至る南正面の門は、この頃整備されたと思われる。
天主が完成する以前から、安土城は城として立派に機能している。信長はこの時期多忙であったが、安土を拠点にして動いていたことは間違いない。
つまり、天正4年の段階で、信長の居城にふさわしい施設が既に存在していたとしか考えようがない。
>>333 それは、当時はまだ「大手」と言う名称そのものが無かったと言っているだけだな。
>>335 ?
今度は何についての説明?
尾根道は今ではきちんと整備されて黒金門に至る大手っぽい立派な道になっているけど、発掘ではほとんど石段は検出されて無いんだよな。
今では石段があったという事を前提に推定復元整備されてしまっているが、あれだけの規模で石段が出てないと言う事は往時も石段は無かった可能性もあるんじゃないか。
恐らく築城時に使われた可能性も考えられるが、その後は道としては廃止されたのではないだろうか。
>>335 黒金門が早い段階でできてしまっては、それより上の施設建築の搬入作業に邪魔になるだけだからある程度上の施設が出来上がってから造るのが合理的な順番だと思うが。
大阪城の三国無双の三国ってなんですか?
>>339 どうもです
それで世界中を意味するみたいですね
やっぱ大阪城すごいです
341 :
日本@名無史さん:2011/09/18(日) 12:48:11.28
>>337 軍事施設としての再利用を防止するための城割が行われている。また、彦根城建設に用いるため、安土城の石材はかなり持ち去られている。
正面右側にある通称江藤屋敷跡の区画も、現在は単なる土の山だが、石垣があってもおかしくはなかった、と思われる。
>>336 現在の安土城跡には、天下の城として築かれた有名なものだけでなく、それに先行して作られ、天正4年から天正7年までの信長御座所として用いられた前期安土城の跡が同居している。
つまり二つ(以上)の城の遺跡として考えるべき。以上というのは、さらにそれに先行する中川氏が籠ったと信長公記に記録される城も、この地であった可能性もあるから。
>>341 >>軍事施設としての再利用を防止するための城割が行われている
そこに石段が無い理由を求めると全く不自然。
理由が説明できない場合の都合がいいカードだな。
尾根道なんかよりもはるかに重要度が高い、手前の石段や曲輪、主格部の方が残っている度合いが高いのは城割では説明できない。
石段に用いられる程度の大きさの石が3個程度見つかったのと、現在見られる石垣の根石の一部と現在の尾根道の近著となっている道幅のあたりに小石が少々出ている程度だったはず。
城割で何故ここだけこれほどまでに徹底的石が取り除かれたのかの説明がつかなければ城割に理由を求めるのは無理があると思うが。
>>前期安土城
という事は、一度完成した城を更に造り変えると共に拡張されたということかな。
信長公記のどこかにかいてあったか?
安土城にあった大手道を上ったところ突き当たりの石垣が綺麗に撤去されたが、
昭和時代にはあれを信長時代の遺構と看倣していたの?
344 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 11:24:48.58
>>342 安土城造営が始まるのは公式には天正4年より。しかし、信長はこの年から安土に居を移し、そこを中心に活動している。
こことからすでに天正4年の時点において、信長御座所として相応しい規模の城があったとしか考えようがない。
天正4年の段階で、丹羽長秀に対して「普請御意にかない」恩賞を与えているから、この城を用意したのは丹羽であると分る。
安土城建設の総責任者は丹羽長秀だったから、一定の段階まで城の建設ができた段階で信長を迎え入れ、その後は信長自身の立ち会いのもとで大天主を含む主要部の建設を進めた。
信長を迎え入れた時点ですでに城郭として完全に機能する規模を備えていたと思われる。これを前期安土城と呼んだまで。
八角平には、岐阜城の麓にあった重層の建築に匹敵する建物が建っていたと推測している。
前期安土城は、近江支配者としての城、その後に建てられた今日、安土城としてイメージする城は天下支配の城と言うべきかもしれない。
>>343 安土城を代表する石垣と考えられていた。階段復元のため撤去されるまではハ見寺の境内だった。ハ見寺がそこの場所に移ったのは江戸時代末に火災にあってから。
ハ見寺が移る以前からあったものかは分らない。この石垣を作るために、手近にあった大階段の石材を利用した、ということは考えられると思う。石垣を築く作業のかなりの部分は石を集めることだから。
>>344 なんだ、自分設定n前期と後期か
分かりにくいしな。
そもそも築城途中で信長が入っただけで、城が変わったわけではないだろう。
>>343 本格的な発掘調査は平成のが初。
それ以前は表面的な調査と石垣の積みなおしだけ。
総見寺の敷地だった事もありみなすも何もないだろう。
当時の事は知らないが、まぁ、考えられるとしたら、後世の石垣は積み方が違っていたはずだから遺構だとは思っていなかったかもな。
>>343 いろんな本の紹介写真で安土城を代表する石垣として知られていた
日本初の石垣造りの城!織田信長の安土城の石垣!てな感じでな
現地で見て石材の小ささにビックリしたもんだ
348 :
日本@名無史さん:2011/09/23(金) 07:21:06.04
>>347 そうそう
大手道だって狭くて雑草が伸びていて獣道を歩くようなワクワク感があったわ
信長王(つのだかずし氏)の情熱は相変わらずすごいな…
ところで、森俊弘氏の改良案はどうなったのだろうか?
相変わらずっていうか更新止まってね?
つのだひろ氏のメリージェーン♪は最高に情熱的だがなw
>>350 世間は佐藤説一押しで、森氏は改良案を『城郭史研究』に
掲載したけど、反響もなくて鳴かず飛ばずだねえwww
どうしてんだろ。
355 :
日本@名無史さん:2011/09/25(日) 07:34:07.72
>>355 kwskも何もカキコの通り。
もはや佐藤説が内藤説をも押さえて世間の通説だろ。
357 :
日本@名無史さん:2011/09/25(日) 16:40:07.55
そこで渋谷説の出番です
358 :
日本@名無史さん:2011/09/25(日) 18:06:13.24
ニュートリノ・ビデオで430年前の映像をなんてならないかね。
359 :
日本@名無史さん:2011/09/25(日) 18:07:19.29
>>356 実際には痛説と呼ぶべきだね。
記録には無いものを書院作りの常識だからと付け加えて憚らず、
何より、狭い開口部(窓)に対しあのだだっ広い入り側では、
部屋はかなり薄暗かったハズで、とても実用的つまり実在したもの
とは考えられない。
もし、宮上が存命なら今日の三浦一門の跋扈はなかったろう。
360 :
356:2011/09/25(日) 19:26:02.98
三浦については津軽家指図を慶長度江戸城天守に比定するといった
史料完全無視という暴挙も許しがたい
362 :
日本@名無史さん:2011/09/26(月) 05:32:27.96
津軽家図のそれは、余りにゴテゴテしすぎで家康のイメージとは合わないね。
>>362 それ以前に寸法が愚子見記や当代記の記述と矛盾するので、論外
364 :
↑:2011/09/26(月) 21:43:43.92
自作自演くせー
365 :
日本@名無史さん:2011/09/26(月) 22:43:26.12
↑無知臭せー
366 :
↑:2011/09/27(火) 07:53:38.55
無能臭せ〜w
367 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 08:09:48.01
↑幼稚臭せ〜
368 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 11:50:19.08
粘着うざい
372 :
日本@名無史さん:2011/09/28(水) 07:16:19.03
>>369 一階の南西の一画をわざわざ石垣に合わせ斜めに張り出せている根拠が不明。
そのまま西側全部を石垣の形状に合わせてもよかったんじゃないかな。
ただそうなると、平面は不等辺五角形になり岡山城に似てくるが。
それと、佐藤案とは異なり最上階を実質的にも三間四方の規模に納めているのは良いが、
五階の対辺規模を五間としているのはどうかな?
>>369 内部の平面図がないと何とも言いようがないが、北の土蔵が独立して建てられているのがこの案のクォリティーを象徴してる希ガス
西ヶ谷案同様、清書した落書きの域を出ないのではないか?
>>369 藤井センセのはかなり趣味はいってるでしょ
>>369 安土日記,信長記における各部屋の記述の順番の意味,各階の柱の本数,
さらに構造組成をどれだけ解明しているか疑問.
工業デザイナーという職業にも疑問を感じざるを得ない.
墨俣コンクリート天守レベルの模擬天守という印象.
そうはいっても信長公記の記述を100%満足させられる復元案は現存している天主台上ではほとんど不可能。
唯一の間取りや寸法を伝える公記事態にに間違いの可能性があるわけだから、どの案も五十歩百歩。
377 :
日本@名無史さん:2011/09/29(木) 21:43:45.52
内藤案と宮上案をお手軽に折衷した、素人デウス淳也案以下ってこと??
378 :
日本@名無史さん:2011/09/29(木) 23:17:01.06
↑?
380 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 10:02:34.93
天主倒壊説が本当だとしたら天主は2バージョン存在した可能性がなくね?
最初に倒壊したのが天守指図バージョンの奴で、
本能寺の変で焼けたのが、ウインゲの木版画バージョンとか
>>380 慧眼!
工事中に倒壊したのが内藤案で、実際に完成したのが宮上案だとすれば、納得。
天主台東側からそれぞれ1つずつ出土した変形軒平瓦(76度)、変形軒丸瓦(66度)は工事中に倒壊した内藤案のものである可能性が高い。
すると、豊臣大阪城天守は秀頼時代に改築された説は如何に
383 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 17:38:08.81
大坂城天守は地震で倒れたから改築したという西ヶ谷説があったな
384 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 19:19:16.65
信長が天主に移渡した天正7年の5月11日を太田牛一は吉日と記しており、
従来はそれを信長の誕生日と考えていたが、最近では同28日が有力とされており、
倒壊説を発表した和田裕弘はその「一周忌」だとしているがどうだろう?
とりあえず、「忌」むべき日が何故「吉日」なのかが理解できないなあ
386 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 20:06:37.53
倒壊したのが(天正6年の)5月12日ということで、その前日の11日なら吉日ということなのだろうか?
387 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 20:46:35.10
倒壊して設計からやり直したならば、そんなに早く完成しないって。安土城は、天主着工から落成まで、ほぼ2年と10カ月ばかり。一つの建物ならば建造に必要な時間はそんなものだろうが。
安土城天主が公記の様な仕様ならば現在の様な工場でパーツを完成させておいて現地で組み立てると言う様なクレハブ工法や移築でない限り2年以上はかかりそうだな。
たしか、地震で倒壊した伏見城天守(指月)は驚異的な速さで再建(木幡山)されているハズ。
それは指月の部材を再利用したのでは?
安土と他の天守を比べるのは無理がある。
安土は内部が御殿相当以上の造り。
柱一本取っても漆を幾重にも塗った豪華な造り。
伝統工芸品が一つ作るのにひと月かかる様なもの。
天正7年の正月には内部の装飾を含めほぼ完成していたとみられるが、となると
倒壊したとされる時点から7ヵ月ほどでほぼ再建されていたことになり、その豪華さを
考えると速過ぎるのは否めない。
ただ、津田宗久が信長の案内で天主を見物したのがやはり11日であり、11日に何か意味があり、
誕生月のその日に正式に移り住んだということではないかな。
伏見城は地震後、指月山から木幡山へ本当に引っ越したのか?
今、歴史が語られた。
396 :
日本@名無史さん:2011/10/04(火) 19:19:45.01
397 :
日本@名無史さん:2011/10/05(水) 00:33:00.30
鉄の生産というと出雲地方が有名だが、近江も古代には鉄の生産が盛んだった。室町末期の鉄砲生産地のひとつ国友村が滋賀県の長浜の近くにあるのも、近江が鉄の生産地であったことと関わりがある。
398 :
日本@名無史さん:2011/10/13(木) 12:20:44.83
>>398 平井氏が監修して、宮上案がベースの天主に内藤案のパーツを壁に貼り付けただけ
追記
NHK大河用に作られた画像
401 :
日本@名無史さん:2011/10/13(木) 18:11:53.88
>>398 純也氏のニコイチ復元案と同レベル。
学術的な価値は無い。
402 :
日本@名無史さん:2011/10/16(日) 09:07:36.19
Tm.氏の17間×20間の長方形復元案よりマシwww
>>400 「利家とまつ」用に作られたCGジャマイカ?
405 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 09:58:08.62
中井家所蔵の豊臣大坂城本丸図って、大阪の冬の陣開始直前に、
徳川氏の御大工となっていた中井正清が作成したものだったんだぬ。
豊臣大坂城は黒田官兵衛が縄張りし、建てたのは父・中井正吉。
その大坂城を落とすための図面を描いていた正清の気持ちはどんなもんかの?
>>405 >中井家所蔵の豊臣大坂城本丸図って、大阪の冬の陣開始直前に、
>徳川氏の御大工となっていた中井正清が作成したものだったんだぬ。
だとしたら千畳敷再建御殿や山里丸の御殿類が描かれていないのは何故?
>>404 安土はめちゃくちゃ時間かかってるが
今回の大坂城天守のイラストの制作ペースは早かったな・・・
>>411 淳也は一瞬にして内藤案と全く同じ木割が頭に浮かんできたらしいがwww
>>411 あれだけ妄想を膨らませたら収拾が付かないんだろうね。
おそらくなんだかんだいって公開されないだろう。
415 :
日本@名無史さん:2011/10/27(木) 20:48:11.91
>>410 内藤晶案のカッコ良さは最強
宮上案なんか要らんかったんや
417 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 16:06:31.87
内藤案がカッコイイとかwww
421 :
日本@名無史さん:2011/11/09(水) 09:10:21.75
特に変わってないが・・・
淳也かな?
なんでも淳也って、かなりの粘着だね。
>>425 たまに出てくるけど、なんでも淳也って一体誰なの?
内藤案の吹き抜けって8.4m×12.6mもあるけど、中流階級の住宅がスッポリ入っちゃう大きさ
その上に2階望楼が載っていれば2〜3年で下階が潰れてきてしまうような希ガス
そんな空間が存在したとはとても思えない
>>426 安土城復元案 作者プロフィール で検索.
429 :
日本@名無史さん:2011/11/11(金) 12:20:18.43
ちがうだろ、何でもかんでも淳也につなげる そいつがだれなのかって事だろ
431 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 11:50:31.60
432 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 10:54:04.38
安土城って北半分くらいはまだ全然発掘作業されてないんでしたっけ?
湖から見た側にも気を遣っていただろうから、北側にもそれ相応の石垣や建築物があったんじゃないかと
思うのですが、いかがでしょうか?
遺構があるのは周知の事実だが発掘調査の予定は無し
434 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 15:42:46.67
安土城の天守閣を含む城山の全城郭を復元して欲しい。
ちなみに、佐和山城や坂本城、大津城も復元してだな
琵琶湖と古城を滋賀県の観光資源とするべきでは?
後は、屋形船で琵琶湖〜瀬田川・宇治川〜鴨川〜京の都へと至る
クルージングを実施すれば観光客大喜び。
435 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 00:17:18.37
豊臣天守に一切の指図発見無し。
436 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 18:09:20.94
屏風絵が数種類有るけど、どれも微妙に?。
復元案の流れは
夏の陣→冬の陣→大坂城図屏風
だね。
図屏風はアテにならない
>>440 おお、サンクス!
この木版画の天守と城門が真壁なのが、どうにも引っ掛かるな
内藤案や宮上案のような大壁ではなく、佐藤案のような真壁だったのか?
これから紅葉狩りに出掛けるのでレスできん、スマソ
444 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 09:04:40.18
>>441 ルイス・フロイスの証言
「(安土城天主は)木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには【見えず】、
むしろ頑丈で堅固な岩石(天主台)と石灰(白漆喰壁)で造られているかのようである」
もし兵頭案・西ヶ谷案・佐藤案のように真壁造りだとすると、一目で木材でできているように【見えた】だろう。
ここはやはり森俊弘氏が指摘しているように、少なくとも下層部の外壁は白漆喰の大壁仕上げであったと思われる。
>>434 法律でできないんだよ
安土城の図面が無いんだから
>>447 ああ、庇っていうのは下の方の斜めな板張り部分の話ね
ごめん、絵の中の柱みたいに見える部分の事を言ってるのかと思ったわ
>>448の庇は知ってるよ、彦根城の天守で見てきたから
大壁でも下部の板張り自体はあってもおかしくないよね
あと、今「日本史」を読み直してみたけど、フロイスは確かに
「(安土城天主は)木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには【見えず】、
むしろ頑丈で堅固な岩石(天主台)と石灰(白漆喰壁)で造られているかのようである」
こうは言ってるけど、前後をちゃんと読んだら日本の軸組み建築について
理解した上で「そうは見えない」って言ってるんだね
だから柱が見えないとも言ってないし、内部については
階層によって様々な色の柱や壁らしいもの(訳文に主語が無いから不明)
の事を書き残してる
この文章だけでは内外ともに真壁か大壁か自分は判断できないなあ
土台の庇は雨が石垣の隙間に入らないようにするためのもので、石垣技術が未熟だからかと
駿府城天守は望楼型はないな、小天守もない
根拠も書いてちょーだいな
>>457 同時期の慶長度江戸城天守は層塔型で、『駿州府中御城之図』に小天守はない
駿府城天守は三階分の平面が同じだけど、
1階=地階
2階・3階=福井城みたいな間に屋根のない形
かと
それにしても何故に研究家達は資料に無い腰屋根を
追加したがるのだろうか
>>455 まず内濠を掘り起こし、本丸の石垣を築くところから始めるわけか。
遠大な計画だな。
伏見城の松の丸にある出丸は徳川時代のものだな
>>463 あれは大天守台の四隅にある隅櫓、自分が言っているのは小天守台
>>465 隅櫓の両端から直角に多聞櫓か塀が大天守に繋がらずに伸びている
小天守なら天守に繋がるし、平行になるはず
>>466 なるほど。
もっともらしい説明ではある。
しかし、正確さに欠けるあの絵で壁面の位置という細かな部分を指摘されてもいま一つ説得力に欠けると思うが。
隅櫓だとしたら、天守曲輪だったと言う説が前提の上での話になるわけだが、それだったら一つだけではなく奥や天守の右にも描かれていてもおかしく無い。
大きさの比率だって隅櫓にしては大きすぎではないかな。
絵を大まかに捉えれば大天守と小天守とみてもおかしくないと思うが。
どうだ?
>>468 黒っぽい所が建物を表している?ってことか。
だったら↓も復元案で小天守が建っている辺りの石垣の上には塀らしき物が描かれている
まぁ、初代天守に小天守があったという文献があることから三代目にもと創造したくなるのかもしれないな。
>>469 これは焼失後の絵図ですね
小天守を入れたがるのは名古屋城を参考にしているからでしょうな
名古屋城の天守台は大天守台と小天守台が橋台で繋がる形であるのに対し、
江戸城、大坂城、駿府城は大天守台と小天守台が直接繋がる形
で、前二者は小天守は無いので、駿府城も小天守は無いと考えられる
>>472 その論法は説得力が無い。
駿府城は天守曲輪を構成しているため他とは全く異なる。
仮に、小天守が無かったとする。
しかし、あの微妙に食い違った石垣の上にどんな建物が建っていたかさえも合理的な解が無い。
>>474 慶長度江戸城天守と引用する画像に関連性が感じられない。
引用するのなら慶長度江戸城天守に駿府城の様な天守台に寄り添う石垣が描かれた絵図を引用してくれないと。
江戸城、大坂城、駿府城と例をあげているのだから淀城は関係ないだろう
>>476 これって多聞や西櫓など連なっている建物があるのでそれらで囲まれた部分の事を天守曲輪って言っている様なきがするが?
引用先では姫路城や和歌山城と同じようだということで天守曲輪と言っているけど同じでも天守曲輪でも駿府城とは事例が異なるのではないだろうか。
駿府城の場合はどちらかと言えば淀城が事例で取り上げられる事が多いが、淀城の場合天守台北側に広いスペースがあるものの入口の前には通路程度のスペースしかなく駿府城とは形式が異なる。
他の天守の事例から駿府城の小天守の有無を言うのよほどの関連性が無いと苦しいのでは?
479 :
日本@名無史さん:2011/11/28(月) 12:24:27.23
それ言い出したら 福岡城の小天守台なんて どんな細長い天守だったんだよ と言いたくなる
福岡城はあっても付櫓程度かと
駿府城は「東照社縁起絵巻」を見る限りは、大天守台のクランクは
普通に多聞櫓による桝形を形成していたようですな
483 :
日本@名無史さん:2011/12/03(土) 13:28:04.56
>>480 何で福岡城は小天守台、中天守台なんて名前が付いてんだろうね(笑)
484 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 07:00:47.88
みんな、淳也氏を他人案の折衷してるだけとか言うが、漏れは天守指図の価値を一般レベルに普及させた彼を評価したい。
駿府(静岡)は淳也氏の地元でもあるし、有名な安土城復元案サイトに続いて、駿府城復元案サイトも開いてほすぃ。
485 :
484:2011/12/16(金) 07:12:54.11
その心は、
実は駿府城再建プロジェクトは地下の博物館の建設計画の詳細までもう完全に出来上がっていて、
史跡に指定されていないため、資金さえ集まればいつでも再建できる状態になっていること。
このままだとあの不恰好極まりない内藤晶案に決まってしまう・・・ ○| ̄|_
淳也氏に風穴を開けてほすぃ。
純也叩いてんのは竹林なんとかの連中じゃね?
>>484 淳也って内藤晶研究室出身なの?
卒論とか読んでみたいキモス
>>484 ネット検索で掻き集めてきたパクリ折衷案を、有名建築例で正当化するだけだと思われ
ワイが聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な中国に戻るんだぜ(もともとの)
もう経済は破綻してて、取り戻すのは無理なんだそうだな (知ってるって)
その世界ではとても、有名な政府関係者筋から聞いた確かな情報だ(すごい)
まあお前ら頭の良い連中様には、今さらなくらいなネタだね、
君たちからすれば、もう常識的なくらいの知識だろうな
2ちゃんねるやってる奴だからもうすでに大儲けしてるんだろうな
490 :
日本@名無史さん:2011/12/29(木) 17:37:48.02
安土宗論の恐怖
日蓮の折伏の教えを奉じて命を落としたわけだから日蓮が凶事の元といえるな
安土宗論で斬首された三人の冥福を祈る
大脇伝介
建部紹智
普伝
493 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 15:33:42.29
>>494 童友社の1/360安土城、もっと細部を精密に再現してくんないかな・・・
あの金型じゃイマイチ買う気になれない
496 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 16:53:29.30
戦国板の安土城スレ落ち記念あげ!w
>>496 そんなに嬉しいか?w
あっちのスレ、総見寺の生臭坊主がヤー公から貰ったベンツ乗り回してるとか裏情報が盛り沢山だったのに、惜しいな…
むしろこっちのスレにも来てほすぃ
498 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 19:13:38.29
499 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 21:54:52.90
信長廟は蛇石を割って作ったんだよ。
現在の信長廟は切り込みハギだから、その築造年代は江戸時代以降に限定される。
本能寺の変後、秀吉が最初に作った供養塔が地震で崩れたり長年の風雨で磨耗したりして悲惨な状態になっていたため、
100回忌などを切っ掛けにして江戸時代に整備しなおしたという説には賛同できる。
信長廟の最上石は名石と呼べるような石ではないことからして、梵山ではないだろう。
四角四面の豆腐みたいな廟では趣に欠けるゆえ、単に形式的な鎮め石として、天主中心にあった礎石を引き抜いて置いただけではないか?
では、蛇石を加工して廟を作ったと言う説も有りえるな。
あれだけ有名な巨石が消えて無くなるはずが無い。
あの石が、天主台中央の礎石だったのかよっ!?
蛇石を加工して作った説には説得力がある
二の丸前にあるテーブル状の大きな石も蛇石の残骸という可能性も高い
どこに説得力があるのか?
二の丸前の石が蛇石の一部で有る可能性が高いのか?
可能性は否定できないかもしれないが、何に基づいているのか示されていないのに説得力があるとか可能性が高いとかなんて、とても不思議な話だ
何処に消えたか?
お祭騒ぎで引き上げたんだし、信長も愛着があったんじゃ?
だから秀吉は故人を弔う為に蛇石をつかった。
新たに石材調達するより手間が省ける。
てなのでよろしく。
はぁ・・・
て、感じ。
それが理由と言うなら可能性も高くないし、説得力も・・・・
そもそも、信長廟に使用されている石は中心部にある雛壇と周囲の囲い部分が有るけど蛇石がどんなに大きくても全体を賄えるほどの大きさとは思えない。
信長公記やフロイスの日本史に依れば蛇石自体の大きさは具体的には書かれておらず大石とわかる程度。
信長公記では石垣に使用された石材も大石と言っていることや、いとも簡単に天主台に引き上げたと言っている事から、どんなに大きくても想像を絶するほどの大きさではない。
したがって、余りが出るほどの大きさではありえない。
蛇石は伝二の丸前の大石か、天主台の地下にある、岩盤と考えられている岩の一部として埋まっているかのどちらかと考えるのが妥当だろう。
特定できないだけで、どこにも消えてないよ。
150名以上が下敷きとなり直ちに押し潰された、なんてどんな大石だったんだろうね?
508 :
日本@名無史さん:2012/01/26(木) 08:17:36.37
天主台下に巨石なんてねーし。w
特定出来ないのなら全否定しないでね。
509 :
日本@名無史さん:2012/01/26(木) 20:08:17.15
蛇石は引き上げ途中にルートから転落し、再度ルートに乗せることが不可能だったため砕かれて普通の石として石垣建設に使われたんだと思う。
斜面を引き上げるのも困難な巨石が谷底へでも落ちれば、現代の高性能クレーンを使わない限り持ち上がらない。
秀吉・一益・長秀が3人がかりで曳き上げ作業を指揮しながら、蛇石が摺り下がって150人以上が圧死した地点として考えられるのは、
伝徳川家康邸を過ぎ、大手道の突き当りを左に折れた伝武井夕庵邸前の大手道七曲だろう。あそこは軽装でもキツい。
512 :
日本@名無史さん:2012/01/27(金) 07:11:18.74
>>511さん的には、結局他人の復元案を折衷しただけだった明日香淳也さんも全否定なのでつか?
513 :
日本@名無史さん:2012/01/27(金) 13:05:32.68
>>510 安土城建設のため山上に物を移動させるルートは、旧ハ見寺の跡地の北側の谷から上がる道、七曲道だったと思う。
傾斜は頂上に近づくに従って急になるが、大手道よりは緩やか。この部分は麓まで当時内湖が広がっており、すぐ下まで船がついた。
大手道も麓まで内湖が続いていたことは同様だが、百々橋の部分で狭くなっているため大きな船は入れなかった。
この七曲道が、石垣用の石材を山に上げるために開かれ、その後建物の用材を上げるためにも利用されたと思われる。
>>512 も、って、信長廟を蛇石で造ったと言う説も全く可能性が無いとは言っていないと何度言わせるの!
蛇石が特定されていない以上、可能性は無くは無いと思うよ。
ただ、今までの書き込みの中で 「可能性が高い」と感じさせる様な事は書かれていないし 「説得力」がある様な事も書かれていないと言っているだけなんだけど・・・
>明日香淳也さん
って、だれ?
ググったら明日香淳也さんが特定できた。
ここの人ね→
http://www1.asitaka.com/index.htm >>512は他人の復元案を折衷といっているけど、内藤教授の復元案で天守指図と矛盾するところを指摘しているだけで、まだ独自の復元案を正式に公開していないのでは?
指図と違うのは実際の図を見れば明らかだし、指摘自体は様々な類例を引用している。
実際の安土城がどうだったかわからないので指摘どおりだったかは確かめ様がないので評論は難しいと思うけど。
>>513 搦め手道ルートも有るんじゃないか?
普請をするとしたら主格部から順に行っていくと思う。
途中に平坦地が有ればそこに石材等を貯めておくことも出来るので一気に上まであげる必要もなく引き上げるチームを幾つかに分けることができる。
それから一番傾斜が緩やかなのは搦め手側だよね。
八角平との接続部までは傾斜が比較的緩やかだし広さもある。
各曲輪が造成された後は各曲輪が資材置き場等にも活用できる。
むしろ種各部や八角平を担ったのは搦め手と言う事も・・・
517 :
日本@名無史さん:2012/01/28(土) 14:13:01.08
>>514 伝二の丸には、焼失以前には御殿があったと考えられる。黒金門から天主下まで行くと、右手の伝本丸にあったのは御幸御殿。ここは天皇行幸のための御殿だから普通の来客には使えない。
天主は信長自身の住居だから、特別な人しか上がれない。とすると、客を迎えるための御殿があったのは伝二の丸、現在信長廟がある場所ということになる。
ここに御殿が建っていたとするならば、蛇石が置かれていた可能性はない。焼失後に運び込まれたとしても、それまでどこにあったのか、ということになる。
>>516 >安土城独特の一直線の大手道は天皇行幸のために造られたと説明されるが、実は蛇石を引き上げるための道だったと思われ
そんなわけない。ルートとしては十分考えられるが蛇石をあげるために作ったと言うのは言いすぎだろう。
蛇石をそこから引き揚げたかはわからないが可能性は十分考えられるとおもう。
しかし、その突き当たりの本丸南側石垣下まではそのルートだとしても、そこから上は本丸を切り崩す等することは無く、単純にそこから東に向かって伝堀邸跡の前まで進み本丸南虎口へと進むルートが南側からのルートとしては一番簡単な道筋。
>「信長公御巧みを以って輙(たちまち)御天主へ上させられ」
この一節はそのまま読み取るのは間違いと思う。
そもそも「信長公記」は太田牛一の日記の中の信長に関したエピソードを拾い出して再編集し、大名とか多くの人に見てもらうために配布する目的で作られたもの。
そのため信長が偉大だった事を誇張している感もある。
実際に信長が引き上げを視察した事を伺わせるが、秀吉らが信長の訪問に合わせて引上げて見せたと言う、言わば「信長にいいところを見せた」と言うだけの事を信長の威光で成し遂げられたかの様に書いているだけだと俺は思っている。
>>517 御幸御殿がどこだったかはまだ特定されていない訳だが、本丸の礎石の上に立っていた御殿が天皇行幸の際に使われる予定だった事は良いとして、行幸専用と言うのはどうだろうか。
御殿の一部に熊本城の昭君の間の様な部屋が有ればいいわけで全部が専用である必要はないと思う。
或いは普段信長が家臣に謁見する間の上段に天皇を座らせても事足りるのでは?
一般的に天主が信長の住居と言う表現がされているけど、生活の場で有ったかは怪しいと思う。
天主が後の一般的な天守と同様に窓が小さな構造で有れば内部は光が届かない薄暗く、常に灯りが必要な部屋ばかりのはず。
天守は家臣などに見せるための装飾品であって、少人数の謁見や考え事をする等の時に使用されたと思うが昼のプライベートの時間は奥で家族と接していたはず。
で、奥がどこになるかと言えば、考えられるのは伝二の丸か伝三の丸しか主格部には無く、天主と隣り合わせの二の丸が有力なのではないかと思うがどうだろうか。
本能寺の変後、秀信(三法師)が住んでいた御殿の候補としてはどこがあるだろうか?
521 :
日本@名無史さん:2012/01/29(日) 00:10:41.64
>>519 岐阜城において、信長はあの高い山上にある建物を普段の生活に使っていた。このことはフロイスの記述などでも確認できる。信長に面会を希望した貴族が、山頂まで登って会いに行くか、降りてくるまで麓で待つか聞かれて待つ方を選んだ事実もある。
ちなみにフロイスによれば山頂には、100名以上の少年たちが詰めており、信長の息子たちや女性の家族もそこにいた。麓には別に四階建ての建物があり、ここを使うこともあったようだ。
安土城天主は、岐阜城の山上の建物(天主とよんでよいのか)に相当する建物で、その役割を引き継いだと思われるから、当然使っていたのではないか。
ナントカと煙は高いところに上ると言うが…
523 :
日本@名無史さん:2012/01/29(日) 09:43:37.47
稲葉山のふもとにあった四階建ての建物は、一階が政庁およびその関連施設、二階が信長の周囲の女性たちの住居、三階が茶室、四階が見晴らし台だったようだ。(以上フロイスの記述より)
それでは安土城にもこれに相当する建物があったか?あったとすればどこにあったか、と考えると、それにふさわしい場所は一か所ある。
それは八角平。ここは、スペース的には岐阜城の麓、現在のロープウエイ乗り場の横の四階建てがあった場所より少し広いから、同規模の建物を建てることはできる。
天正4年に信長は安土に居を移し、大天主を含む主郭部分の建設に立ち会うが、主郭完成までの仮の御座所がここであったと考えられる。
天正4年の時点で丹羽長秀に褒美を取らせている事実があるから、それまでに長秀の手によって建物が完成されていたと考えられる。
>>520 八角平は、天主部分が焼失した時にも類焼していない。ということで、秀信が移り住んだとすればここだろう。主郭完成までの仮の御座所だったくらいだから、十分城として役に立った。
>>523 位置的に高すぎる、というより本丸より面倒
525 :
日本@名無史さん:2012/01/29(日) 12:57:03.87
八角平の西側斜面下には御殿が建っており(伝市橋邸、伝福富邸からなる逢坂郭群)、八角平=本丸に対して二の丸としての役割を担っていたと考えられる。
逢坂郭群、八角平、搦手道郭群で東西に広がる一つの城となる。天正4年頃にこの形が完成し、大天主の主郭が完成するまではこれが安土城だった。
本能寺の変直後の火災で中心部が失われ、天正4年の規模に戻った、ということ。安土城が西を大手とし、東西に広がる城だったことは、信長公記の記述にもうかがわれる。
八角平は西というより北で、搦手口を守る曲輪でしょうな
527 :
日本@名無史さん:2012/01/29(日) 16:26:41.70
>>515 リンク見てきたけど、話題にするほどの内容はなかったyo!
まぁ、素人の会社員のページにしては多くの関連資料を集めていて、当初は安土城アーカイブを目指していたらしいが、
いざ復元案らしきページを見ると、情報処理能力がないのか、上位概念に達する思考能力がないのか、
一次情報の羅列と表層的かつ権威追認的な解釈に留まっているのが残念だった・・・○| ̄|_
文章のみの復元だが、天守指図の別解釈という意味で桜井案に近い印象。
彼自身のオリジナルは、天主台下の岩盤を蛇石と勘違いしていることくらいか・・・
ワロタw
>>527 天主台したの岩盤を蛇石と勘違いと言うけど実際に掘り起こしてみるまでは解らないのでは?
蛇石の用途として考えられるのは、鎮め石の様に霊的なゲン担ぎか見た目の威厳。
ただ大きな石がその辺にただ置いてあるだけならあちらこちらに有る山に普通に有る石と大して変わらなく、何の効果も生み出さない。
鎮め石だったら建物の下に埋められていてもおかしくないし、見た目の威厳であればいわゆる鏡石の様に石垣の一部として使用されれいた可能性も高い。
鏡石だったら二の丸前にある巨石が天主台の一部に使用されていたものだろうし、鎮め石だったら天主台下のどこかに埋められている可能性も無くは無いのではないだろうか。
岩盤とは別だけどね。
531 :
日本@名無史さん:2012/01/30(月) 19:18:00.96
あげ
黄金の城
533 :
日本@名無史さん:2012/01/30(月) 21:42:04.33
>>519 歴史認識に関する理解度がかなり低いな
自分が使っている御殿を 天皇行幸の際に天皇に使わせるなんてとんでもないだろ
まず専用御殿がないと天皇は間違いなく来ないし、専用御殿がないのに行幸を促すこと自体が
他の大名から笑われる=馬鹿にされる=信長の権威を落とす事になるだろ。
>>533 それで?
本丸の建物が行幸用ではなかったと?
>>527 俺も見たけど、他人様のアイデアパクリまくりでワラタw
偽ミッキーや偽ドナルドが出迎えてくれる中国版ディズニーランドって感じですた
536 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 09:38:18.98
信長公記からは、安土城内の御殿に御幸の間と呼ばれる天皇行幸のための施設があったことが分るが、それがどんなものであるかはわからなかった。
ところが本丸跡を調査したところそこに立っていた建物が、少し後に秀吉によって京に立てられた内裏の清涼殿にきわめて近いものであることが判明した。
これにより、本丸の建物そのものが天皇行幸のために作られた御幸御殿であった可能性が非常に高いことが分った、というのが現時点での認識だろう。
天皇専用に建てられた御殿を、他の目的で使用するとは考えにくい。
ちなみに御幸御殿への入り口は、黒金門からではなく、主郭の東南にある虎口。黒金門は上に櫓があったと考えられ、天皇を見下ろす場所に人が立つ可能性があるからNG。
537 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 11:23:44.02
>>534 アホ。ちゃんと読め。行幸用ではなかったなんて一言も言っていない。
本当に行幸用なら普段信長が使う予定は無かったって事。
もし、信長が後に使う様になったのなら、それは行幸はもうなくなった事を暗に示している。
538 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 11:53:09.61
天皇は呼ばないよ。自分が新皇として即位する予定で天皇の格式の御殿にしたんだよ。
539 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 14:13:55.01
信長が本気で安土城への天皇行幸を目指していたとは思えんな。
豊臣秀吉の時代の後陽成天皇聚楽第行幸、徳川秀忠・家光時代の後水尾天皇二条城行幸はあるが、
いずれも洛中への行幸で内裏とは目と鼻の先。
天皇を都から遠く離れた近江の安土城まで天皇を連れ出すなんて警備の大変さもさることながら
天皇や公家が了承したかも相当怪しく、信長が実際に交渉を持ちかけた記録も全くない。
安土城の建物が清涼殿に似ているとかいうことだけが根拠であって
可能性はかなり薄いと思うよ
気をつけろ
へたなことを書くと歴史認識が低いと指摘されるぞ
541 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 21:39:44.95
まあ、信長が本気で天皇を呼ぶなんて考えてたかどうかわわからんな。
しかし、安土城には天皇を呼ぶための部屋が用意されている、と聞けば当時の民衆は驚いただろうし
それだけで安土城にも箔が付いただろう。
>>536 本丸取付台や三の丸は本丸の御殿を見下ろす位置になる。
そもそも天主が・・・
見下ろすのがNGなら安土行幸は無理だ
行幸をおこなった二条城には天守が有ったし、聚楽第にも重層の櫓が林立している。
天皇を見下ろすのがNGかどうかは知らないが櫓門などの床下を歩くのはNGだったらしい。
二条城の場合は天皇の行幸の時に、櫓門を取り壊して高麗門に改造した。
そして、行幸が済むと再び櫓門を復元した
544 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 22:59:18.23
安土城天主なんだけど、
1、2層が家康の駿府城のような又は飛騨高山城のような
御殿造りだった可能性は無いかな?
聚楽亭もその様なの書かれてるし、ありそうだけど
御殿として造ったのだから、可能性はあると思う。
546 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 14:42:44.72
御殿だったとしたら、天守は天守台いっぱいには立てられず余地を残して
余地の部分に庭みたいなのがあったのかもな。
547 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 15:44:10.51
天正10年の正月に、安土にいた家臣団を城に呼んで、信長と一門衆が年賀のあいさつを受けた。
挨拶の後、高位の家臣は御殿の中へ招き入れられ、下位の家臣はお白洲(天主南下と本丸御殿の間の部分)で待機した。
家臣たちは正面の門から入り、右へ進んで本丸御殿方面へ進んだことがわかる。
信長と一門が家臣たちを謁見したのは、三の門を入ってすぐの場所、主郭の西寄りのどこからしいが、この部分の敷地はあまり広くはなく、信長たちが地面の上にまで降りて接したとは考えにくい。
天主台南に人が立つことが出来る縁側のようなものがあったとすれば、そこに信長および一門が立って家臣たちに謁見することが容易に出来たと思う。
天皇の参賀みたいに高い所に立っていれば、参列者が多くても対応できる。
548 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 16:47:35.82
中の人って、視野の狭い枝葉末節的な思い込みを病的に語るよね。
寺のお堂復元ブログも見てきたけど、考察が稚拙かつ自閉症的でイタすぐる・・・
>549
別の寺から徴発してきた建物なら信長とはあまり関係ないのにねw
551 :
日本@名無史さん:2012/02/03(金) 18:47:56.25
いや、総見寺は移築とはいえ何かしら信長の意志を反映しているだろ。
どんな寺でもOKと言ったとは思えない。
ワロタw
554 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 12:25:28.02
>>533はあのサイトの著者?
秀吉が名護屋に天皇を呼んだとしても天皇が来るはずもない事は秀吉本人が一番解っていただろう
洛中での行幸がせいぜいだろう
仮に名護屋に行幸御殿があったとしても 名ばかりで実際に行幸に使われるはずもない事は恐らく周知だっただろうし
その時点ですでに行幸御殿を造る事が一種の習わしになっていたのではないか?
秀吉の出兵の最終目標を忘れているのではないか?
いずれ大陸へご動座いただく際の宿泊地を用意していたんだよ
556 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 13:00:31.12
>>553 慧眼!
冷静に考えれば、天主閣という井桁に組んだ薪束の山=キャンプファイヤーとしか考えられないような、危険極まりない木造高層建築が生まれた背景としては、
8代将軍義政の後継争い=応仁の乱に端を発した戦国乱世の下克上を、名実ともに制したいわば成り上がりとしての天下人が、
大航海時代を経て天竺・唐より遥かに優れた南蛮文化を知った安土桃山の時代相において、単に前政権(鎌倉・室町)の後継者としてではなく、
新時代を統治しうる武家の新政権の誕生を内外ともに視覚化し、宣言する必要に迫られた信長の歴史的役割を理解する必要がある。
さらに天正(信長・正親町)→文禄(秀吉・御陽成)→慶長(家康・御水尾)→元和偃武(秀忠・御水尾)→寛永(家光・明正)と、
日本社会が建設的な発展を求めて展開する中で、大坂の陣という最後の下克上が終わり、江戸幕府という豊臣政権を凌駕する新政権の確立を以って、
前政権(先代)のそれを凌駕=下克上することを目的に巨大化していった新政権のシンボルとしての天守閣はその歴史的役割を終えたのである。
557 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 13:51:04.50
江戸時代の各藩の城でも、本丸は天守も御殿も殆どの場合使用しておらず、政庁や藩主居住のためには二の丸を使っていた。
本丸が城の中心部に位置し、外部からは位置的に遠かったということもあるが、城のもっとも重要な部分を明けておくと言うことに意味があった、とも考えられる。
本丸は、いざという時、中央(江戸時代には幕府だが)から派遣されてくる者のために用意された施設、として位置づけられていたのではないだろうか。
つまり本丸は、その城の城主のものではなく、はじめからもっと上位の者に献呈されており、それを自分のために使わないことを上位者への服従の証としたのではないか。
>>557 京都の格式の高い寺には必ずと言っていいほど、天皇からの勅旨門があるし、書院には上々段の間がある。
室町時代は、足利将軍の管領邸や守護大名邸への御成りによって政治が行われていた。
その伝統を受け、異端児・信長が創始した自らの「下克上正当化」のための天守閣+天皇行幸御殿の建設が、秀吉・家康へと受け継がれ、
時代が下り世情が安定化するに従って、武家本来の「臣従の証」に変化していったのは想像に難くない。
江戸時代、城は将軍からの預かり物。城の所有者はあくまで徳川将軍であり、藩主は幕府の官吏として統治を任されているに過ぎなかった。
姫路城も城主は二丸に住んでいたし、御三家尾張名古屋城の本丸は後に将軍専用の御成御殿として整備され、尾張藩主は二丸に住んでいた。
更に言うなら、江戸城に天皇からの勅旨が来ると、徳川将軍ですら普段座っている上々段を勅旨に譲り、自身はその下座に座らねばならなかった。
559 :
日本@名無史さん:2012/02/05(日) 05:49:04.62
560 :
日本@名無史さん:2012/02/05(日) 07:46:16.81
>>558 内藤教授が命名した天道思想(転倒しそう!)は、まさに天下人信長の下克上正当化セオリーだったんだな。
つまり安土城を復元する際は、天主閣・行幸御殿・大手行幸門の3つだけでも、必要にして十分ということだ。
おまいらの家の屋根に「信長の館」を載せて天主となし、庭先に天皇陛下御座所のためのログハウスキットを組み立てて行幸御殿となし、
玄関先にガーデニング用のアーチを据えて行幸門となせば、最高権力者である内閣総理大臣、日本経団連会長、日本銀行総裁を飛び越えた、下克上(天下人)気分が楽しめるかも知れん。
561 :
日本@名無史さん:2012/02/05(日) 08:03:06.03
>>560 バカなことを言うでない!
あんなものをウチの屋根に載せたら、ペシャンコに潰れてまうわ
って優香、信長の館の原寸大復元天主だけでもウチより大きいんですけど、それはどうしてくれるんでつか?
知らんがな!!
563 :
日本@名無史さん:2012/02/06(月) 08:20:36.71
安土城は移築城と言っても過言ではない。
移築城としては、義昭の二条城や彦根城が有名だが、安土城はまさにその先駆けである。
彦根城を見れば判るように、天守閣(大津城)/西ノ丸三重櫓(小谷城)/天秤櫓(長浜城)/佐和山口多聞櫓(佐和山城)/石垣石材(佐和山城・観音寺城・安土城・小谷城・長浜城)など近隣の廃城となった城から、構築物・石垣石材が情け容赦なく徴発・移築されている。
一般に、移築による築城は工期短縮のためと説明されるが、それと同時に、近隣にある廃城となった城をより徹底的に破壊して、敵方の軍事拠点となるのを防ぎ、潜在的脅威を取り除くことも重要な目的であったと思われ。
564 :
日本@名無史さん:2012/02/06(月) 10:41:40.28
なんか訳のわからないのがいっぱい(一人?)わいて来たなあ
565 :
日本@名無史さん:2012/02/06(月) 11:54:35.28
話題に付いていけない中の人が涙目でつ!www
566 :
日本@名無史さん:2012/02/06(月) 12:59:09.40
某学会が各地に建てる文化会館に、○○犬作先生の部屋が用意されているようなものか。
568 :
日本@名無史さん:2012/02/06(月) 20:37:40.98
>>559 お前のほうこそ、脇道に逃げてないで早く全体像の発表しろ、バカ淳也!
ワロタw
>>560 本能寺の変後、秀吉により紫野・大徳寺に信長の菩提寺・総見院が建立されて以来、戦国大名たちは信長の後を追うように大徳寺に自らの菩提寺(塔頭
)を建立し、こぞって檀家となっていったことは有名である。逝ってみるとすぐに分かるが、大徳寺はさながら戦国大名の菩提寺メッカと化している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BE%B3%E5%AF%BA#.E5.A1.94.E9.A0.AD.E5.AF.BA.E9.99.A2 これは、それまで足利一族にほぼ独占されていた守護大名に代わって実力で台頭した戦国大名が、官位昇進を果たし、朝廷・公家とも姻戚関係を結ぶエス
タブリッシュメント(権威階層)への仲間入りをする中で、自らの出自や乱世に乗じて犯した下克上を正当化することに腐心し、その先駆的な成功者であるカリ
スマ・信長にその思想的拠り所を求めたからだろう。
内藤昌博士が指摘した天道思想はまさにそれで、安土城天主として具体的な形を取った後、戦国大名たちは、自らの人生を力強く勇気付けてくれるパイオ
ニア信長へのオマージュとして、彼の天道思想への共感を示すシンボルとして、あるいは下克上(革命)達成と新時代の到来宣言として、自分が乗っ取った、か
つて上司であった守護大名の居城の中心部に、実戦においては何の役にも立たない天守閣を上げることが、全国的に流行したのではないか。
フランス革命が王侯(天皇)貴族を直接殺してしまったのに対し、日本の革命の特徴は天皇(王)や公家(藤原氏)は殺さず、
あくまで武家同士で上下の逆転を繰り返すところにあるも言えるだろう(平家vs源氏、源氏vs北条氏、足利vs織田、豊臣vs徳川)。
>563
浅井氏滅亡後、旧浅井領であった江北三郡12万石を拝領した秀吉が、小谷城の玄関港・今(川)浜を(信)長浜と改め長浜城を築城した際、
廃城とした小谷城の天守、櫓、城門、石垣を根こそぎ移築したと伝わる
同じく秀次が近江八幡城を築く際にも、廃城と決まった隣の安土城から櫓や城門、石垣を移築したと伝わる
戦国時代〜安土桃山時代に築かれた城は基本的に移築城であるとする見解、および、
その理由が新城の工期短縮と古城の無効化にあるとする見解には説得力がある
572 :
日本@名無史さん:2012/02/07(火) 12:23:40.41
戦国の城に関わらず、日本の建築物は古来から移築が当たり前だろ
平城京の門ですらも飛鳥からの移築じゃなかったか!?
バラした時に、材料を破損させた奴は、やっぱどやされたのかな
>>560 毛利輝元の外交僧・安国寺恵瓊曰く、
「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。」
575 :
日本@名無史さん:2012/02/07(火) 18:32:00.37
和訳してくれ。
576 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 07:31:48.95
最近では20年前の説を近年と言うのか?
>577
これが新説とはオドロキです!!www
579 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 08:42:23.19
>>577さん的には、最終的に20年以上前に発表された内藤検討放棄案と宮上案を折衷させただけだった最新の明日香淳也さん案はどう思われまつか?
>579
それが新説とはオドロキです!!wwww
ワロタw
582 :
日本@名無史さん:2012/02/10(金) 21:29:14.15
ちょっと聞きたいんだけど、宮上案かな、豊臣大坂城とか肥前名古屋城とかの天守を
天守台の天板からだけじゃなくて、一部、地面からそのまま立ち上げてたりするじゃない。
だから天守台天板の面積=一層目の面積とは限らない感じになってるんだけど、
実際に一部地面から立ち上がってた天守って他には存在するかな??誰か知ってたら教えて。
大洲城
駿府、淀、小松かな?
ああ、天端じゃなくて地山の話か・・・
586 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 05:06:46.85
高知城
587 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 11:15:26.72
丸亀城
弘前城
一部地面から、じゃなくて裏側は全面的に地面だったような
588 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 12:07:47.22
天守ではないが
岡山城の月見櫓とか
589 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 14:27:57.46
こんなの?
| |
| 天守 |
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| ■■■■■■■■■■
| ■■■■■■■■■■
| ■■天守台■■■■■
| ■■■■■■■■■■
地面 地面
591 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 21:17:49.72
ちょっとわかりにくかった
| |
| 天守 |
| |
| |
| ■■■■■■■■■■
| ■■■■■■■■■■
| ■■天守台■■■■■
| ■■■■■■■■■■
地面 地面
592 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 21:18:23.02
すまん全然改善できなかった、、、
593 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 21:26:57.98
594 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 22:53:58.99
山上に46m級の天主がそびえ立つって壮大なんだな
観音寺城からはどう見えたんだろう
キャンプファイヤー!
>>590 内藤昌博士による伝二の丸御殿CG復元考証の根拠は,残念ながら知らない.そうかもしれないし,そうでないかもしれない.
ただ,京都を代表する有名寺院の方丈(東寺,南禅寺,仁和寺など)には,内裏や御所からの御殿移築の例が数多くあるから,
日本建築に関して他者の追随を許さぬ膨大なデータを持つであろう内藤博士が何らかの知見に基づいて,安土城においても演繹的に適用し,
そう判断した可能性は否定できない.
因みに,義昭が仮御所にしていた六条本国寺の方丈は,元々,義昭の生母(慶寿院・近衛尚通の娘,12代義晴正室)が,
松永久秀と三好三人衆に襲撃殺害されるまで,兄・義輝と共に住んでいた豪華な住居の移築である(慶寿院は息子・義輝の後を追って殉死).
つまり信長は,本国寺がその後の混乱に乗じて横取りした豪華な空き家(極めて巧妙に作られ,黄金の障壁画で埋め尽くされていたとある)を,
元にあった場所に戻しただけである.
フロイスの記述に基づいて流れを追うと,
義輝二条御所内慶寿院住居→本国寺方丈(?)→義昭二条城本丸御殿→安土城二の丸表御殿(?)
このように,前将軍・義昭が二条城で将軍邸(室町殿)として使用していた由緒ある豪華な御殿を,自らが住む安土城天主の「足下」に移築し,
表御殿(謁見の間)として加飾再利用することで,自分が室町幕府の実質的な後継者であることのみならず,
名実共に足利将軍家を凌駕した新しい武家の棟梁であることを,誰の目にも一目瞭然にしたと推測できるわけである.
598 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 07:03:10.90
>>597補足
天正6年正月,安土城に出仕した信忠以下の重臣たちが,右勝手6畳の茶室で信長から茶の湯,そして年賀の盃を賜った後,
狩野英徳が三国(天竺・唐・日ノ本)の名所を描いた障壁画で囲まれた信長の御座所を拝見している.
その直後,津田宗及「茶湯日記」1月12日には,
「安土城へ御礼に行き,御殿を残らず見た.御家門様(信長)直々の仰せで,(工事中の)天主をはじめ方々拝見した.
その後,黄金を見せたいとの上意があったため,たつたつさんの絵の座敷で待ち,かうさくの絵の座敷でその黄金一万枚を見た」とある.
因みに天主は前年の天正5年11月3日に屋上葺き合わせを完了している.
これらの御座敷情報を格式順に総合すると,
A.狩野英徳による「三国名所図」障壁画の信長御座所,
B.信長が信忠や重臣たちに年賀の盃をふるまい,宗及に黄金一万枚を見せた「かうさくの絵御座敷」,
C.その一段格下の控え室(待合室)と思しき「たつたつさんの絵の御座敷」は,
いずれも安土日記や信長公記によれば天主内の各座敷にはない画題であり,A.〜C.の御座敷はおそらく中枢部における御殿,つまり
二条城から移築したであろう伝二ノ丸表御殿か,もしくは三ノ丸江雲寺御殿のこととほぼ断定でき,その内装の豪華絢爛さが伺えるわけである.
アイデア泥の彼がこのくだりをこっそりパクってたら笑うwww
604 :
日本@名無史さん:2012/02/18(土) 13:52:24.53
>>601 信長は法華経の信者 とはっきりフロイスが書いてある、仏教を弾圧した事もなく
政教分離を受け入れるのなら 浄土真宗ですらきちんと許している
国内を制圧したら国外を意識するのは世界の常識
>>603 そりゃ、彼は中国人だものw
ほとぼりが冷めたころに当然パクるっしょ!
東洋的な絵が後ろ向きで西洋が前向きと言うのは、意味がわからない。
>>607 たぶん築城図屏風だと思う
築城図屏風は内藤説だと駿府城とされてるが、
詳しくは知らないが、再近では金沢城とする説もある
609 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 05:01:17.32
あのぅ、復元設計したのがその内藤なんだが。
ひょっとすると、内藤晶による駿府城説が定説化した後で、築城図屏風の金沢城説が飛び出たことから、
(しまった!)と思った内藤研究室は、保険で、こっそり築城図屏風を元に金沢城天守の復元考証を行ったとも考えられるな
だとすると内藤晶したたか杉!
>>607 内藤昌博士が如何なる資料に基づいて考証されたかは知らない.
確かに件の復元天守は築城図屏風に描かれる天守と酷似していることから,内藤博士が密かに金沢城説に翻意された可能性も否めない.
しかし乍,たとえそうだとしても,その建築考証過程を推察することはできる.
天守閣がT前期望楼型(織豊系)→U後期望楼型(家康)→V前期望楼型(秀忠)→W後期望楼型(家光)に進化したことを念頭に,
A. 天下統一を果たした豊臣のナンバー2(相談役)にして,五大老(準天下人)であったこと.
(因みに嫡男・利長は秀吉からではなく、信長から偏諱を受けている.ご参考:毛利秀就,徳川秀忠,小早川秀秋,宇喜多秀高)
B.慶長7(1602)年,落雷で焼失した天守閣は,天正年間(織豊期)に建てられただろうこと.
C.加賀83万石(利家入城当時)の政庁ゆえ,潤沢な税収(天守閣建設資金)があっただろうこと.
これらA地位,B建設時期,C.財政的諸条件を考え合わせ,他の豊臣五大老の居城を見ずるに,徳川家康(256万石)の江戸城,
毛利輝元(120万石)の広島城,上杉景勝(120万石)の会津鶴ヶ島城(詳細不明)と,宇喜多秀家(57万石)の岡山城の間にランク
される利家(83万石)の金沢城は,最上階回縁付き外観5層内部6階の前期望楼型天守であっただろうことまでは,容易に推定できる.
次に重要と思われる望楼部のデザインであるが,
@豊臣系天守閣の定石(大坂,聚楽,名護屋,伏見,大和郡山),またA焼失後に天守代用として築かれた三階櫓を見ずるに,
2層の大入母屋に,棟を交互に重ねた3層の望楼を載せた,前期望楼型であろうことがまず考えられよう.
http://ameblo.jp/atorie-ad/entry-10548982593.html#main しかしこのデザインだと,上から2層目(外観4層目)が入母屋となるため,最上階(おそらく三間四方)の回縁がその屋根棟に挟まれ,
座した時にその棟方向の眺望が遮られてしまう欠点が生じる.
そこで,4層目の屋根を方宝(寄棟)とすれば、そうした問題は解消し,安土城や広島城のように着座しながらの四方眺望が得られ,
さらにその直下に軒唐破風を付せば,五重塔のような方宝(寄棟)特有の単調さを破り,五大老に相応しい華美なデザインともなる.
このような建築考証を経た上で,築城図屏風が駿府城であった場合はもとより,金沢城であった場合でも対応できるように,
内藤昌博士は敢えて築城図屏風を元に,金沢城天守を復元考証されたと推察できるわけである.
内藤氏の前期・後期層塔型論は間違っているけどね
ひゃっほ〜い!
みなさん、即レスありがとうございます!!とても解りやすかったです!
何か解らないことがあったらこちらに質問しますので、また教えてくださいね!
ところで義昭二条城の天主は安土城のどこに移築されたか、または解体して別の建物として使われたか、
私案がある方がいらしたら、よろしくですm(_ _)m
義昭二条城天主(御三階か?)は、名ばかりとはいえ一応「天下の君」の居城であり、フロイスがその美しさを絶賛していることから、
金箔瓦を用いた華美を極めた意匠であったと思われ、大津城の彦根移築のように減築されたりせず、そのまま主郭部に移築された希ガス
そこで主郭部の平面図を見てみると、天主台のすぐ左下に、やけに大きな櫓台がある
(黒金門跡との中間に位置する櫓台と、南東出入口の(多聞)櫓門台と比較のこと)
http://woodone9959.web.infoseek.co.jp/photo/shiga/siro_aduti_zu2.jpg おそらくここにはただの物見櫓ではなく、小天主のような特別な建築(移築されてきた二条城天主)が建っていたのではないか?
だとすると、耶蘇会士日本通信の天正5年書簡にある「最頂上に一の鐘あり」と、津田宗及茶の湯日記、同年正月12日に拝見した天主とは、
この小天主のこととも考えられる
黒金門をくぐった公家や諸大名は、そこにかつて公方邸であった義昭二条城の(小)天主と本丸御殿がそっくり移築され、
その背後に信長の大天主が聳える有様を目の当たりにして、織田時代の到来を嫌が応にも思い知らされたと思われ
その説は知ってるけど、櫓台東側に現存している南北面の礎石の広さの間隔が付近等なので、
はたして、そのままの移築だったかどうか・・・
ソース:特別史跡安土城跡修理工事報告書(T)
―●―-●―●―●―
↑こんな感じ
因みに多門城から移されたとされる、義昭二条城天主は
城郭研究家の井上宗和氏によると、多門城天守は10間四方だったらしい
根拠は不明
まあ、この10間四方説の信憑性は疑問だが
西ヶ谷恭弘氏の「安土城望楼部に再利用説」の可能性については是如何に?
618 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 16:51:28.01
妄想。
うっほ〜い!みなさん、早速レスありがとうございます!
たつたつさんの絵も、かうさくの絵も具体的に解って、このスレ本当に勉強になりますです、ハイ。
>>615 安土城に小天主というのは、斬新です!名古屋城のような連立式天守の元祖なのかもですね。
>>616 櫓台のサイズはパッと見、南北5間×東西4間くらいですかね。
礎石が不均等だとするとやはり移築の可能性は低いのでしょうか?
>>615 二条城天守が>616が言うように多聞城の天守移転だとしたら、規模的にいえば推定だが四重天守。
だとすればその位置には絶対配置しないと思うぞ。
位置的に言えば城下から見上げた場合天主と重なるため折角建てた巨大な天主を”見せる”ためには邪魔以外の何者でもない。
せいぜい二重の櫓程度じゃないか
10間四方じゃ、そのまま義昭の二条城に移築するわけにもいかなかったろうしな
秀吉の聚楽第や徳川の二条城ですらあのコンパクトさだ
最下層か、その側柱くらいは減築しただろう
624 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 14:32:04.78
全部部屋につかったらどこを歩くんだよ
>>623 ほへ〜っ!
岐阜城と多聞山城の比較とは斬新ですね!
岐阜にも多聞山にもさぞかし立派な天守が建っていたんでしょうねぇ~
松永久秀は信長さえ現れなけばそのまま天下人やったかもしれないほどの人やから、信長にいろいろな刺激を与えたかもですね。
>>625 確かに8畳が25部屋取れれば、5部屋余って40畳分の廊下のスペースとれますもんねw
間取りはどんな感じだったのかも含めて、どんどん発掘が進んでいってほしいものです!
これからもお城について楽しく勉強していきたいと思います(^^
みなさん、いろいろありがとうございますですm(_ _)m
ワロタw
628 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 21:48:04.05
>>615 >黒金門をくぐった公家や諸大名は、そこにかつて公方邸であった義昭二条城の(小)天主と本丸御殿がそっくり移築され、
>その背後に信長の大天主が聳える有様を目の当たりにして、織田時代の到来を嫌が応にも思い知らされたと思われ
それって露骨すぎない?
京の公家や名門大名に「尾張の代官風情が・・・エゲツな」って陰口叩かれそう
まあ、信長らしいといえば「らしい」が
>>615 まことに示唆に富む見解である.
内藤昌博士も「天守指図」二重目(石垣上1階)に「東ノ御いえ,ろうかのみち」とあるを,
「中井忠重氏蔵の『名護(古)屋御城御差図』(元和元年頃)には,本丸御殿奥より小天守台に「引はし」が記されているが,この安土城でも同様な施設があったわけである」と解釈されている.
天守閣の建築様式は,A.「梯立式天守」→B.「連立式天守」→C.「環立式天守」→D.「単立式天守」に発展したとされ,
安土城を「天守指図」で細かく見れば,天守(東西10間×南北12間)が,登閣御門櫓(東),土蔵櫓(北),眺望櫓(西)の付櫓3棟を伴った
「A.梯立式天守」(豊臣大坂城+土蔵櫓(北),岡山城+塩櫓(北),広島城+付櫓2棟(東,南),肥前名護屋城+付櫓(東))の起源とされているのは周知であろう.
仮に,天主台南西の櫓台を小天主台と見れば,「A.梯立式天守」の付櫓が「小天守」として独立分離した「B.連立式天守」(熊本城,名古屋
城)もまた,安土城に範を取ったものという解釈も成り立つわけで,名古屋城,熊本城同様,安土城大天主1階から小天主(最上階か)への渡り廊下の存在も想定できるわけである.
その後「B.連立式天守」で独立分離した「小天守」が複数となり,さらに大きく分散していわゆる「天守丸」を構成する「C.環立式天守」(姫路城,
松山城,和歌山城,淀城,駿府城)へ展開し,「D.単立式天守」(寛永期江戸城)で天守閣建築は終焉を迎えるわけで,A.~D.すべての起源が安土城にあることになる,まさに画期的な説であろう.
>>629 淀城と駿府城はC環立式とD単立式の中間だな
上空から見ると「回」の字をしている
あのう、、、質問があるんですけど、豊臣大坂城と柴田北ノ庄城の八重説、九重説って、天守台内の多重石倉のことなんですかね?
>>631 【参考資料】大坂城図屏風(北西から見た天守閣)
http://tategaki.jp/data_C/mtcms/img/osakazu_byobu.jpg 【豊臣大坂城の構造模式図】(西側断面)
←北(天満橋・山里曲輪) 南(本丸御殿・大手)→
. ├--.--┤
_|___|_
|∩『』∩| ← 6階(九重)【五層】
└╂- △-╂┘ ※「破風の間」
. _| ̄.┠-<. ̄┃ ̄|_←5階(八重)【四層】
┃/ ̄/ ̄ ̄\┃ ←4階(七重)【三層】
__/ ̄ ̄ ̄\ ̄ ̄ ̄ ̄\__←3階(六重)【大入母屋】
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|_ ←2階(五重)【二層】
※半地下 /| ̄ ̄ ̄/ ̄ ̄ ̄\. ̄ ̄ ̄| ←1階(四重)【一層】_______
.(三重)土蔵 /|_|―< ̄\ ̄ ̄ ̄. / ̄ ̄| ̄| ←地下1階(二重) 【天守台】
/ / | ̄ ̄ ̄\ ̄ ̄ | ̄ | ←地下2階(一重)
/ /  ̄ ̄ ̄ ̄\ | ̄ п\ ←登閣御門
━━━━┷━┷━━━━━━━┷┷━━┷┷┷━━━━━━━━━【本丸地表】━
豊臣大坂城,勝家北ノ庄城,蒲生氏郷の会津若松城など,九重(八重)伝承のある天守の基本構造は,
「石蔵2階+外観5層・内部6階」の計8階の「八重」と考えられるが,劇場の2階席や3階席を思い浮かべればお解かりの通り,
中2階構造を階数に数えるか否かで,±1階分(「九重」あるいは「七重」と)証言が食い違い,混乱を来たすのである.
(※半地下「土蔵」を階数に○入れる→「九重」,×入れない→「八重」. さらに※「破風の間」を入れない→「七重」)
【中2階】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%8C%E9%9A%8E
仮に,豊臣大坂城天守台中央部に,会津若松城同様の二段(地下2階)石蔵を造成していた場合,豊臣大坂城ではそれとは独立して
北端(きたはし)に※半地下の土蔵が石積み造成されたわけであるから,天守台石垣内部に地下2階(一重)地下1階(二重)半地下(三重)と,
都合3階(正確には2階半)分の地下室が造作できるわけである.
その上に「外観五層内部6階」の天守閣が築造されたのであるから,半地下や破風の間を厳密に数えた場合,地下3階+地上6階の計9階と
なるわけで,「九重(ここのえ)」と表現された理由も首肯できよう.
逆に毛利輝元日記にあるように「金之間、銀の間、銭の間、宝物の間、小袖の間、武具の間、以上七重也」と少なく書かれた理由であるが,
半地下の土蔵を拝見せず,しかも5階(八重)の屋根裏はいわゆる※「破風の間」で,最上階6階(九重)への階段踊り場とその採光窓が収まる
小屋裏と考えられるから,それも階数に入れなければ,「七重」と表現されるわけである.
ちなみに「石蔵1階+外観五層内部6階」の「七重」というべき安土城にも「八重」伝承があり,その理由を求め「天守指図」三重目を見ずるに,
西の「二段の広縁」はともかくとして,東の「門の上座敷」と北の「倉の上座敷」は天主本体からそれぞれ半階下(上)がる中2階構造(中2階,
中3階)であるから,どちらか一つを独立階として数えれば「八重」となり,両方数えた場合は「九重」とも証言されうるわけである.
このように多重石蔵や複数の中間階を持つ織豊政権の本城,もしくは強敵と対峙する最前線に配置され,在郷領主への大型天守による
示威行為が強く求められる重臣(柴田勝家→上杉景勝・直江兼続,蒲生氏郷→伊達政宗)の居城においては,数える者により,
階数が2階〜3階も異なるというミステリアスな混乱が生じることに留意されたい.
>>633-634 ありがとうごぜえます、、、同僚の歴女に教えてやりゃ〜す m(_ _)m
>>635 織豊期の「A.梯立式天守(「梯」は「寄り添う」の意)」では,一体化した付櫓が天守本体から半階下がる(楽譜における♯や♭に相当)を原則と
するため,このような階層不一致が宿命であったが,徳川期の階層一致の層塔型天守では全く見られなくなることは周知であろう.
遡って秀吉死後,徳川家康による豊臣超え(下克上)政策のため,最上階の平側が3間を超える重たい望楼部を安定化させるべく,
最上階の棟方向を下層部大入母屋の棟方向と一致させる必要が生じたのであるが,それと同時に間延びした最上階平側には軒唐破風
(姫路城,彦根城),下層大入母屋には比翼千鳥破風(姫路城,駿府城),出入母屋破風(松江城,萩城)などが付す工夫が施され,
いわゆる「全階四方正面」を強く志向した「U後期望楼型」が誕生する.
この「U後期望楼型」において,天守単体での左右対称性を実現すべく,「A.梯立式」で天守と一体化していた付櫓は「小天主」として
独立分離されて「B.連立式」に移行し,やがて「天守丸」を形成する「C.環立式」への発展を必然のものとしたわけである.
このように,
天守の建築様式:T前期望楼型(織豊)→U後期望楼型(家康)→V前期層塔型(秀忠)→W後期層塔型(家光)
天守の構成形態:A.梯立式天守(織豊)→B.連立式天守(家康)→C.環立式天守(秀忠)→D.単立式天守(家光)
動的な形態(左右非対称)から静的な形態(左右対称)へのそれぞれの進化は,若干の前後やズレを生じるが,
美観的・技術的には対応していることに気付かれよう.
その背景としては,台風の通り道にして,地震大国という,高層大型木造建築には過酷な自然環境に対応しながら,より美しく,
より耐久性の高い天守を志向して,絶え間ない技術改良を続けた宮大工棟梁(技術者)たちの創意工夫があったことに,
思いを馳せていただけたら幸いである.
>>636 層塔型は既に家康の段階で完成しているけどね
>>633-636 どっひゃ〜っ!
すご〜く解りやすい解説乙です!
いつか中井家の本丸図に合わせて全資料に合致する豊臣大坂城がCG再現されるかもですね。
またいろいろ教えてくださいね。よろしくです(ペコリ
>>637 毎回毎回重箱の隅つつき、みっともないよ、純也さんw
>>639 ぜんぜん違うよ
内藤昌氏の前期望楼型から後期層塔型への段階的発展説は特に層塔型において
まったく誤っているという考え
>>640 層塔型が相当お好きなんですねw
>まったく誤っているという考え
「考え」るのは自由だもの みつを
>>641 モダニズム建築が好みなので
内藤氏は慶長度江戸城や駿府城天守を高欄付望楼型にしており
史料に背を向けて持論に固執している
後、丸岡城天守は独立式だから、最終型が独立式というのも問題あるね
まあ、シムシティー好きが高じたモダニズム建築マニアに伝統建築を語られてもねぇ・・・
ワロタw
時代遅れの内藤氏の四段階論を根拠にされてもねぇ
>>639 そういえば、彼の重箱の隅つつきサイト、最近更新ないね・・・
17畳論争は結論出たのかね?
>>645 「立板」の独自研究に影響受けたんじゃね?w
>>647 淳也の吹き抜け=バルダッキーノ説のほうが時代遅れ、って優香トンデモだと思うぞ。
信長が洗礼を受けていたならともかく,宝塔前の祈祷所=懺悔室,蛇石=キリストの岩の上の教会説とかありえねーし
信長がフロイスに涙流しながら、大量殺戮の懺悔をしていたとでも言うのか?w
>バルダッキーノ説
一瞬、エルバッキーの話かと思った
>>639 人が登って展望の用を供するための高層建築においては,地震台風など横力への適応が最大の課題であることを念頭に,構造全体の一体
化,上部の軽量化・下部の頑丈化(身体を鍛え,頭を軽くして足を踏ん張る)を指向しつつ,最上階の「面積と高さの最大化」こそが天守閣
建築における核心であることを御理解いただきたい.
●望楼型天守=大入母屋に「望楼」を載せた上下分割構造
「T望楼型前期」(織豊期)=「井楼式」通柱工法・三重構造・最上階3間四方(回縁付き)
最初に高層天守を築くよう命じられた際,宮大工棟梁たちは,2階分もしくは3階分の通し柱を立て,その頭に梁を渡して井桁に組み,
これを1つの構造体=井楼(井桁に組んだ楼閣)として,上下に積み重ねていくだけの工法で対処した(「井楼式」通柱工法).
初期の安土城,岡山城,松本城は,すべて2階分(もしくは3階分)の井楼の三重構造とし,外観五層・内部6階(7階)を実現している.
ただしこの工法は【大中小】の3つの井楼を下から上に積み重ねただけであるから,上部の井楼の荷重を直下の井楼の柱に均等に分散させる
(荷重集中で特定の柱が破断するを防ぐ)ため,梁を必要以上に太くせざるをえず,それだけでは地震台風による横力にも弱かった.
そのため,さらなる工夫として下層の柱をできるだけ太く,上層の柱はできるだけ細くして,小さな望楼の最上階は回縁付き3間四方とされた.
しかし,それでも文禄大地震で実際に倒壊してしまったのが,太閤秀吉の隠居城として築かれた伏見指月城であった.
ところで,信長が安土城下において自邸以外の瓦葺きを禁止したことは周知であろう.
これは当時,瓦の固定に使う和釘を作るのに,一山がまるごと禿山になってしまうほどの薪束が必要となるからで,安土城周辺の景観を損ね
ることを懸念した信長の景観・環境保護政策として注目される.
「U後期望楼型」(家康期)=「互入式」通柱工法・四重構造・金属瓦・最上階4間×5間(回縁付き)
関ヶ原の合戦以後,徳川家康は豊臣超えをアピールするため,豊臣恩顧の西国外様大名の忠誠心を試すとして,その財力削減を目的に,
「(天下統一)お手伝い普請」と称して,幕府の主要城の天守閣には「さらに大きく,さらに高い回縁付き最上階」を強く希求した.
具体的には,
「さらに大きく」→前期望楼型では3間四方だった最上階が,後期望楼型においてはそれを超える4間×5間が主流に,
「さらに高く」→前期望楼型では井楼の三重構造が,後期望楼型においては四重構造が主流になる.
これらのせいで構造的に極めて不安定となった「U後期望楼型」において,「井楼式」の弱点克服すべく,井楼間相互に通し柱を入れる
「互入式」通柱工法が誕生し,以降の天守建築の主流となる.
これは【特大・大・中・小】4つの井楼を上下に積み重ねただけでなく,それら相互に2階分の通し柱を入れ,横力に強くする工法である.
なおこの「互入式」通柱工法は,秀吉の伏見指月城「T前期望楼型」が文禄大地震で倒壊した後,再建された伏見木幡城(棟梁・
中井正吉)において最初に試みられたことが内藤昌博士の研究によって明らかになっているが,関ヶ原前哨戦で焼失後の家康再建時,
その新機軸を御大工・中井正清(正吉嫡男)が完成させたものであり,家康伏見城において,旧新天下人,父から子へ,前期望楼型
から後期望楼型へと,実に3つの世代交代ドラマが同時展開したことに着眼されたい.
さらに軽量化の新機軸として,金属瓦の採用(慶長期江戸城,駿府城)があり,雪国・金沢城「T前期望楼型」の影響が考えられる.
例外として姫路城で試みられたのが,5間×7間の巨大な最上階を実現するべく,回縁を廃して,上下に重ねた四重の井楼を,地階
から最上階の床下まで貫く2本の大通柱で串刺しにする工法であるが,後に傾いたため普及しなかった.
■層塔型天守=下層部の大入母屋・最上階の回縁が消滅した上下一体構造
「V前期層塔型」(秀忠期)=「木の籠」で覆った「U後期望楼型」・【上層部のみ逓減率一定】・最上階6間×8間(回縁なし)
豊臣恩顧の大名の財力削減・景気対策のため「さらに大きく,さらに高い最上階を」という大御所・家康の要求に応えるべく,御大工・
中井正清は四重構造の井楼だけでなく,外壁にも通し柱を互いに入れた「木の籠」で「U後期望楼型」をすっぽり囲う工法を考案し,
尾張名古屋城において本格的に試みられた.
なお天守台築造は加藤清正が担当し,熊本城同様の見事な反りの戻り「寺勾配」が見られる.
入側(天守中心部)で,四重の井楼相互に通し柱を入れる手法は「U後期望楼型」と同じであるものの,外壁の側柱を,1-2階,
2-3階,3-4階,4-5階,5-6階とそれぞれ2階分の通し柱を相互に重ねた「籠」を作って囲うことで,横力に対する強度をさらに高め,
望楼型では不可能だった,家臣や随伴者の全員が展望を楽しめる6間×8間という巨大な最上(展望)階,そして120尺という高さを
実現したのである.
特徴として,外周に組まれたこの「木の籠」により下層の大入母屋が消滅.また駿府城「U後期望楼型」にて雨漏りが発生したため,
最上階の回縁が消滅し,全「層」が寄棟屋根となる五重「塔」のような外観を呈するようになったことが,「層塔型」と呼ばれるのである.
しかしながら,「U後期望楼型」の痕跡を強く残す下層部においては,初層と二層がほぼ同規模で,逓減率が一定するのは上層
(旧望楼)部のみというのがこの「V前期層塔型」の特徴である.
「W後期層塔型」(家光期)=全層一体の五重塔・【逓減率一定】・最上階6間×8間(回縁なし)
さらに将軍家光期になると,いきなり入側(天守中心部)において2階分から3階分の通し柱を相互に入り組ませて一体型の高層櫓を
作り(伸縮式ポールアンテナを思い浮かべていただきたい),地震・台風など横力への強度を最大化し,逆に外周の側柱を構造的に
自由にして,ついに全層逓減率一定の外観を整え,寛永期江戸城に見られるような,完全に五重塔状となる「W後期層塔型」を
完成させたのである.
このように「T前期望楼型(織豊)→U後期望楼型(家康)→V前期層塔型(秀忠)→W後期層塔型(家光)」の進化過程には,
徳川政権による示威行為,豊臣恩顧の外様大名の財力削減を目的に,また職人の景気対策,巷に溢れる浪人の失業対策として,
「前政権(先代)より大きく,より高い最上階」を希求した各段階の完熟期において,次段階への萌芽があることにも留意されたい.
あんた、すげえな・・・・
>>659 夏の陣図屏風は、秀吉オリジナル天守を江戸時代初期、狩野派の絵師が当世風に描いたものと思われます。
城最高や〜!
>>661 安土城を上下層で棟方向一致の後期望楼型風に、
秀吉大坂城を夏の陣図屏風を元に、考証/復元してしまった故・宮上茂隆氏って一体・・・・
>>654-657 しぇ~っ!!詳しい解説ありがとうございま〜す!m(_ _)m
>最上階の「面積と高さの最大化」こそが天守閣建築における核心
天守閣で何より大事なのはやっぱり広くて見晴らしのイイ最上階ですよね!
「物見の段」を空高く浮かべてみせることが棟梁たちの腕の見せ処やったんでしょうね。
>姫路城で試みられたのが,5間×7間の巨大な最上階を実現するべく,回縁を廃して,上下に重ねた四重の井楼を,地階
>から最上階の床下まで貫く2本の大通柱で串刺しにする工法であるが,後に傾いたため普及しなかった.
私も姫路城見てきましたが、駅から見る姫路城は堂々として圧巻でしたよ!でも傾いたのを見た棟梁は自害してしまったと聞きました…(泣)
でも傾いたお陰で頻繁に修理され続けて、今では世界遺産やし、「城といえば姫路城」ですから歴史の皮肉(奇跡!?)ですよね。
慶長の築城ブームは、国盗りエネルギーを築城エネルギーに変えて平和な世の中に戻すために、
大御所家康公が仕掛けた公共工事やって思うと、城って本当に奥が深いんですねぇ。
これからもお城についていろいろ教えてもらえると嬉しいです!よろしくおねがいしますねm(_ _)m
>>664 古川氏の時代には考証の資料が夏の陣図だけしかなかったのだから致し方がない。
しかも古川氏は大坂城天守は黒と認識していたが市長の要望で白くなっただけ。
したがって古川氏は何も悪くないし不可抗力。
森氏は「御殿唐様を学び」(信長公記)、「壁は(中略)悉く外部甚だ白く」(耶蘇会士日本通信1580年9月1日)の記述から、
「唐作り」(倉府見聞集)、故・鳥羽正雄氏に「南蛮造り」と形容された小倉城の外観を採用されたものと思われます。
復元案そのものには少し時代が下る要素が管見されるものの、壁の白黒の議論には一石を投じているかと。
何はともあれ、安土城屏風が見つかってくれるといいのですがね。
>>666 大坂図屏風はいつ頃に発見されたのでしょうか
>>667 いきなり後期層塔型で復元してしまった兵頭与一郎氏… ○| ̄|_
>>655 秀吉の木幡山伏見城において互入式通柱工法の開発があったからこそ、井楼の四重構造が可能になったともいえるな
井楼間には通し柱を通さない井楼式通柱工法では、いくら望楼を小さく大入母屋を大きく作っても三重構造が限界
織田が突き 羽柴がこねし天下餅 座りしままに喰らう徳川
伏見城って、秀吉が「利休が生きていたらこう建てたであろう拵(こしら)えにせよ」と命じた城だっけ?
そういえば、京大坂図屏風の大坂城天守は朱色だけど、
最初は黒だった大坂城天守を、途中から利休に対する敵対心で、派手な朱色に塗り直したんだったりして。
>>680 大変面白い指摘ですね。
ご指摘の通り、望楼部が高欄付きの御殿造りであったとすれば、天守2階にあったとされる茶室との関連も気になるところで、
秀吉大坂城が倉庫であったとする従来の俗説を見直す契機になるかもしれません。
個人的には、冬の陣図屏風天守二層目・妻側と、
近年発見された木幡山伏見城天守二層目・平側にある、唐破風を被せた出窓についても、御殿造りとの関連での研究解明が待たれます。
682 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 11:29:22.25
>>680 近年発見された木幡山伏見城天守
ごめん、良かったら詳しく教えてくれない?
指図かなんか見つかったの?
豊臣恩顧の外様大名から搾り取った財力兵力を、幕府直轄地の町方の景気対策にバラまいて人気取りかよ!
結構なご身分だな、脱糞タヌキが!!
よく「信長・秀吉・家康」の天下人に対応してる茶人(美術顧問=建築デザイン・作庭も担当)が「千利休・古田織部・小堀遠州」っていうけど、
家康天守は遠州がデザインした「遠州の作品」なわけで、信長天主・秀吉天守も同じく利休や織部の作品だったのかな?
信長天主(岐阜山麓・山頂、安土)…利休デザイン?、岡部又右衛門施工
秀吉天守(大坂、聚楽、石垣山)…利休デザイン、中井正吉施工 【1591.2利休切腹】
〃 (肥前名護屋、伏見)…織部デザイン?、中井正吉施工
家康天守(江、二条、坂、駿、名)…遠州デザイン、中井正清施工
先ず、小堀遠州が家康の天守をデザインというのが不明
>>684 信長は外(白)中(黒)、秀吉は外(黒)中(白)、家康は外も中も(白)、っていうイメージがある。
岐阜山麓の信長居館は、左右非対称で小さな望楼をチョコンと載せた、安土城にも通じる
飛雲閣(聚楽第からの移築なら利休デザインか)のようなイメージという感じはするね。
>>649 ここで一句!
素人の 浅知恵パクって 赤っ恥w
大坂城図屏風にも書かれている壁面の装飾は風雨によって劣化、
以後は黒漆塗りのみになったのかな?
冬の陣、夏の陣には書かれてないし。
>>690 持論通すための真田天才はやめてくださいw
692 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 09:29:16.65
大砲の標的になるから天守は焼くけど
宇土櫓は焼かないって訳分からないな
>>687 理系出身の会社員wwwにゃ天主復元なんてムリなんだよ!
ワロタw
>>691 振っといてレスしてくれた人を叩くなんて・・・あんた人間として下品(げぼん)だな
>>667 我が愛しの小倉城復興天守への大入母屋と千鳥破風の追加は本当に残念です。。。
天守建築の発達を研究する上で不可欠な、無破風の前期層塔型の大事な標本ですもんね。
でも一般の人にとってはやはり大入母屋や千鳥破風がないというのは、炭酸の抜けたコーラと同じで見応えがないんでしょうね。
オリジナルを尊重するか、見栄えを重視して「盛る」か、学術か観光かの決断って本当に難しいですよね。
>>690 音波レーダーの前に色は無関係なんですね。城は軍事拠点ですから、天守も戦争で焼け落ちるなら本望なのかもです。。。
でも後期望楼型の貴重な標本である美しい白亜の姫路城天守が焼け残ったのは、本当に不幸中の幸いでしたね。
>>693 ほへ〜っ!天主内に空中茶室、ってことは数寄屋造りの要素もあるのでしょうか?
最高級の木材が惜しみなく使われてたかと思うと、天守建築ってほんとうに幅が広いんですねぇ〜!
中井さん所蔵の指図など新たに発見されれば、詳しい構造が解って、お城好きとしては楽しみが増えそうですね。
このスレ本当に勉強になります。発展段階別で城めぐりの旅に出たくなりました。これからもいろいろ教えてくださいね!
みなさん、よろしくですm(_ _)m
698 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 00:17:09.83
新出の「伏見城図」だが、実際の処、豊臣期を再現するにあたり「大坂城図」や「冬の陣図」を
参照として描いたものであり、実在した物とは異なるというのが真相じゃないかな。
つまり絵師による想像復元図だと思うよ。
699 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 00:19:45.68
多分、大多数の城好きは残念だと思ってるよ。
700 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 02:12:46.76
>>665 文化人類学的に言えば、近世日本の天守閣は、古代エジプトのピラミッドや中世ヨーロッパの大聖堂同様、
奴隷労働ではなく公共工事であり、それぞれの建設が農村の農閑期対策、失業者対策も兼ねていたのは自明かと思われます。
形の上でも、天にまします「神」を指向した塔建築であり、古代・中世・近世の公共事業という観点からの研究も待たれます。
>>693 まさにその点が自分が言いたかったポイントであり、秀吉の茶室の可能性はもちろんのこと、
姫路城の南面第二層平側の軒唐破風にもデザイン上の影響を与えたのではないかと考えます。
三浦正幸氏の説明のように、単に窓の配列が等間隔にならないから格子出窓に軒唐破風を載せて隠した、
という理由だけではないやに思われます。
それに関連して、岡山城の第五層平側、松本城の第四層の唐破風が、
後に、それぞれ最上階平側、大入母屋の直上に付される唐破風に発展したのではないか、とも考えつつあります。
>文化人類学的に言えば、近世日本の天守閣は、古代エジプトのピラミッドや中世ヨーロッパの大聖堂同様、
>奴隷労働ではなく公共工事であり
文化人類学とは何の関係もない件
703 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 21:17:56.95
>>699 一番残念なのは、バルダッキーノ淳也先生の復元案だと思うぞ。
10年経ってやっと出来た!と思ったら、30年以上前の既存案の組み合わせっていう最悪のパターンが残念
まあ、自分では何もなさず、既存の権威の揚げ足取りと重箱の隅つつきに情熱を注いでしまう先生の自業自得なのかもな
ワロタw
下品な奴が約1名
>>704 時代遅れの頭脳の持ち主のようですね・・・
709 :
日本@名無史さん:2012/03/06(火) 12:42:38.31
淳也かな?
710 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 07:21:02.05
馬鹿のひとつ覚えのように「淳也」ってワロタw
淳也さん、大人気ですねw
712 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 11:46:56.92
淳也の名前出したらうけると思ってるやつがまだいたんだな、、、
全然面白くないし
713 :
日本@名無史さん:2012/03/13(火) 17:39:53.88
>>702 せっかく税金使って公共工事するんなら ニート共を連れ出して土木と石積みで
城を正確に復元してきれた方が 観光にも国益にも良い
ワロタw
>>655 >軽量化の新機軸として,金属瓦の採用(慶長期江戸城,駿府城)があり,雪国・金沢城「T前期望楼型」の影響が考えられる.
金沢城の鉛瓦って、いざ籠城戦と決まったとき、天守の瓦を溶かして鉄砲玉にするためと聞いたけど、
江戸幕府の下で豊臣秀頼が大々名として生き残っていた時期だし、家康は万一に備えて五大老・利家に素直に学んだんジャマイカ?
豊臣滅亡後、秀忠の元和度天守、家光の寛永度天守は共に全層銅瓦葺きになってゐる。
>>716 まあ、利家は賤ヶ岳の戦いで勝家を裏切り、信長の妹・市と共に北の庄城であっけなく自害して果てるのを見てたろうからな
サルから勝家の遺領を貰って治めることになった時、当然(自分はああはなりたくにゃあ!)と思ったろう
鉛瓦とはいってもムクじゃなくて、木の瓦(芯)を鉛板で巻いただけだったらしいから、
剥がして炉にくべれば簡単に溶ける希ガス
利家GJ!
鉛瓦は平時の軽量化以外にも,戦時の弾丸へ鋳直される意図を持っていたことは当然であろう.
さらに関ヶ原合戦以降,徳川家康によって仕掛けられた慶長の築城ブームにおいては,
「太平の兆し」を予感して豪華絢爛に耽溺していた天正(織豊)期とは一転,
文禄・慶長と続いた朝鮮出兵での苦い経験を踏まえて,来るべき豊臣vs徳川の最終決戦,ひいては「乱世の再来」に備え,
篭城戦を想定して様々な実戦的工夫が盛り込まれたことに留意されたい.
加藤清正は朝鮮出兵の際,篭城戦で水不足・食料不足に苛まれた教訓から,熊本城には小天守地階をはじめ,
実に120以上もの井戸を掘っているし,畳の芯を芋づるで作り,釜で湯掻いて食べられるようになっていた.
幕府の手伝普請により,名古屋城の大小天守台築造を仰せ付かった際も,清正は大天守地階に「黄金井戸」を始め,
城内各曲輪に数多くの井戸を掘り,家康に褒められたは周知であろう.
http://blogs.yahoo.co.jp/area19192003/45916854.html 熊本藩江戸下屋敷の跡地に建てられた明治神宮には,今も清正が掘った「清正井」が残り,パワースポットになっている.
http://www.meijijingu.or.jp/midokoro/3.html 事実,約400年後の「西南の役」において,実に官軍の4倍もの精鋭隊・最新兵器を駆使しながら,
官軍が籠もる熊本城を攻め落とせなかった西郷隆盛が「清正公に負けた…」と溢したは注目に値しよう.
>>718 芯の木瓦は斧で割って蒔にすれば、そのまま鉛板を溶かす炉の燃料にもなって一石二鳥
>>719 よく天正期の豪華絢爛な天守と、慶長以降のモノトーンで質素な天守を比較して、
信長や秀吉がそのまま天下を取っていたら、日本人の色彩感覚は安土桃山風のカラフルで原色溢れるものになったろう!!
という仮定の話を、高橋英樹や坂東三津五郎や黒鉄ヒロシが好んでするけど、、、
江戸・駿府・名古屋・二条城・大阪など幕府直轄地の御手伝普請に何度も駆り出された残りの予算で
自分の城も建てなきゃならない上、いつ難癖付けられて改易されたり国替えになるか解らない状況では、
幕府への遠慮、将来の建替えや修繕費用も考えたら、米蔵や櫓や城壁にも転用可能な、白漆喰に銀瓦の
モノトーンで質素な天守閣になるのは止むを得なかっただろう。
特に江戸から遠い外様大名は1年毎の参勤交代で莫大な費用が必要だったみたいだし、いっそのこと使わない天守閣なんか
落雷で焼失してくれたほうが維持費が楽だ、くらいに考えてたんじゃないかな?
あの手の豪華な天守は保守整備に多額の費用を要するという問題点もあるかと
漆喰でも漆よりは安いし
>>719 なるへそ〜
熊本城や姫路城に使われている高麗(滴水)瓦は、文禄・慶長の役後に連れて来た朝鮮の瓦職人が焼いたものと聞きましたが、
朝鮮出兵での籠城経験が慶長の築城ブームに大きな影響を与えていたなんて、歴史ってロマンですねぇ。
安土城の一直線の大手道が無防備に見えるのは、朝鮮出兵後の慶長期に建てられた、例えば姫路城のように、
天守に向かおうとすると、どんどん天守から離れていってしまう姫路城のように、篭城戦に万全を期したお城が
現代人の標準になってしまっているからなんでしょうね。
>>720 ほへ〜っ!
木を鉛でくるんだ鉛瓦は、戦時には中の木を燃やして外の鉛を鉄砲玉に鋳直すなんて、
さすが苦労人の利家と家康らしい質実剛健な発想の天守ですね!
MOTTAINAIまさにモノを無駄にしない日本人ならではの知恵。ますます城に興味が沸いてきました!
>>723 怖い怖い。
そう考えると現存4天守(姫路、彦根、松本、犬山)は奇跡というしかないですし、太平洋戦争末期の空襲での焼失は
「戦さ」での焼失ですから天守も本望でしょうし、絵図や指図、記録などの文献、明治新政府による破却・解体時の古写真が
残っているだけでもありがたいと思わなきゃですね。
九州新幹線も格安ピーチ航空も就航したことですし、これから全国的な城めぐり観光が盛んになると良いですね!
個人的には秀吉大坂城の縄張りをした天才軍師・黒田官兵衛の福岡城天守を再建してほしいと思います。
整形B48板野友ちんの「あひる口」が「唐破風唇」に見えたら、立派な安土桃山城ファンだぬ
徳川幕府の超巨大天下城に比べたら、小山を石垣の段々畑にしただけの安土城なんて、
素股一夜嬢ならぬ、墨俣一夜城!
728 :
日本@名無史さん:2012/03/22(木) 16:31:40.21
現大阪城天守の東の敷地地下に秀吉大坂城天守跡は掘れば出てくるのか?
@安土城(下克上正当化/天道思想=天主閣+行幸御殿+神格化寺院)
∽∽∽∽∽∽∽雲海∽∽∽∽∽∽∽
A秀吉大坂城(巨大化) 聚楽第行幸+豊国大明神(豊国神社・方広寺)
↓
B朝鮮出兵(防御力革命)
↓
C慶長の築城ブーム(極大化) 二条城行幸+東照大権現(日光東照宮・輪王寺)
↓
現代人
>>727の「お城」イメージ
「大津城→膳所城」、「佐和山城→彦根城」への移動は、一般に「秀吉が東の家康を警戒→江戸の家康が西の秀頼を警戒」
への変化と説明されるが、天正期の城の防御基準は、もはや慶長期の城の防御基準を満たしていなかったから、ともいえるな
岐阜城→加納城
もある
>>729-730 現代の感覚で言うと、
1981(昭和56)年6月1日建築認可分から、すべての建物(住宅・病院・原子力発電所…etc)耐震基準が劇的に厳しくなったみたいなもんかな?
1981年以前のマンションは怖くて買えない(織豊期の城は攻めに弱すぎて使えない)的な感覚が、外様大名を扱き使う江戸幕府にあったのかもね
733 :
日本@名無史さん:2012/03/22(木) 21:04:41.18
>>723 江戸に入ってからも日光東照宮など豪華で派手な建築物はあったが
はやらなかった事を考えると日本人は質素な方がもともと好みだったのでは?
>>727 漏れは本番一夜嬢がいいぞ!w
確かに山腹→山麓は石垣の段々畑に造成しただけに見えるかもしれんが、
黒鉄門から上の山頂中枢部(天主台・本丸・二丸・三丸)だけは、徳川並に高石垣で頑丈な作りになっていると思うぞ。
城下(黒鉄門下)から見上げたとき、山頂中枢部の高石垣がまるで「鉢巻石垣」のように突出してキラキラ光り輝き、やたら目立っていたからこそ、
それを強調したくて牛一は思わず「石くら乃高さ十二間余り」、宣教師は「象が100頭体当たりしても大丈V」などと書いてしまったんジャマイカ?
>>732 徳川大阪城の下に豊臣大坂城が埋まってることは有名だが、その下には石山本願寺が埋まっているわけだから、慎重に掘ってほしいな
大坂城跡発掘 掘削ミス 遺構壊す…豊臣期の大名屋敷跡
大阪市教委は21日、大坂城跡(大阪市中央区)の発掘調査の際、重機で掘る深さを誤り、豊臣期後半(17世紀初め)の遺構を調査しないまま破壊した、と発表した。
調査地からはこれまで、大名屋敷の一部とみられる建物跡などが出土していたが、これらも壊されたという。遺構の全貌が分からなくなる結果に、市教委は「あってはならないこと。申し訳ない」と謝罪した。
市教委によると、調査地は豊臣期の城の北西部分に当たる大阪・北浜の一角。ビル建設に伴い、昨年10月から約1200平方メートルを発掘。
市教委は1986〜92年、付近を3回調査し、15棟の建物跡や陶磁器などを見つけており、その時の結果を基に、今回は深さ1・9メートルまで掘るよう業者に指示した。ところがその際、地表面の傾斜を計算に入れていなかったため、40〜90センチ掘り過ぎたという。
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120322-OYO1T00225.htm?from=main3
元凶は、徳川秀忠の「一国一条令」、明治新政府(薩長同盟)の「廃城令」
http://www.city.kyoto.jp/bunshi/nijojo/chishiki.html 慶長20年の「一国一条令」により全国3000城近くあった城郭が、徳川の天下が確定し、幕府の覚えを目出度くするため
全大名が競って領内の城を破却し、一気に170城(6%)に激減(慶長の廃城ブームw)
さらに明治6年の「廃城令」でさらに2/3が破却・解体の憂き目に遭い、60城(2%)に減ったらすぃが、
この時は地元の写真館等で、記録写真が撮られたケースが多かったのが不幸中の幸い
739 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 11:23:00.26
740 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 20:19:58.73
誰か礼のお城ブログ見てる?
熊本城が独立式だったとのシュミレーションCGがあったけど意外に格好良かった
熊本城が独立式説はかなり昔からあり、西ヶ谷氏の古い著書でも紹介されている
742 :
日本@名無史さん:2012/03/29(木) 07:17:52.12
てゆぅかー、現在の天守復元時に小天守台の継ぎ足しが判明してるよね。
それより、安土城天主の全体像の公開が有耶無耶になってるのはどうなってるのかな。
公開されている望楼部ですらかなり異様で、全体はさらに奇異なものになりそうなんだが、
それについてはなんの言明もなく、このままスルーするつもりなのかな。
所詮、淳也や「立板の書き込み」同様、典型的な素人復元案、すなわち
権威諸説の重箱の隅突き+検証なしの「つまみ喰い」+「思い付き→思い込み」暴走+お絵描き
744 :
日本@名無史さん:2012/03/29(木) 16:17:20.77
別に独立式がものすごい発見とか言ってないいんだけど、、、
CGが格好良かったって言っただけなんだけど、、、
安土城の復元は早く発表して欲しいな
淳也の折衷案はパクリ元がシッカリしてるからまだマシなんだが、、、
横手恥の復元案は気持ち悪くてマジ吐きそうになる、、、
746 :
日本@名無史さん:2012/03/30(金) 20:52:59.47
ムカデが立ってこちらを見ているような豊臣大坂城は確かに気持ち悪いね、、、
その発想はなかった
秀吉が天守にムカデを意識したかどうかは知らないが、ムカデは縁起物らしいね
748 :
日本@名無史さん:2012/04/01(日) 10:29:15.78
武田軍は百足の旗物があるね。
金鉱山関係の縁起物だとか聞いたことがある。
近江八幡市と花園大がCG再現してる安土城って、吹き抜け有りのメタボ安土城だね。
火天の城みたいな吹き抜け無しの方がいいのに…
安土城以外の天下人の黄金大天守って、ほとんど中井家が手掛けていたんだぬ
752 :
日本@名無史さん:2012/04/03(火) 20:22:28.12
>>751 内部も再現するのかな?
石倉中央礎石跡に立ってiPadを上空にかざすと、吹き抜け大空間が現れるとか
>>754 首里城正殿が大仏殿に似ているという指摘があったが、偶然ではないのかもね
1階が政務・儀式などの表向きに、2階は琉球国王の生活空間として奥向きに使われていたところは、
安土城や岐阜山麓居館を髣髴させるw
757 :
日本@名無史さん:2012/04/05(木) 07:17:15.44
>>745 横手Pは「恥」じゃなくて「聡」
「公」が抜けてるyo!
>>747 豊臣大坂城の外観資料が「夏の陣図屏風」しかなかった頃の、古川案〜宮上案を真に受けた横手Pは、
あのムカデ天守は秀頼再建天守と苦しい言い逃れをしているyao!
ところでこのスレのみんなは、吹き抜け有り説と無し説のどっちを信じてんの?<<安土城
(オレは無し説に賛成)
>>756 (現在のものよりも前の)首里城の設計者なり施工主なりって、誰?
首里城って、複数回の再建があった城郭だそうだけど、
建造の都度わざわざ大和まで設計士や施工業者を指名してたとは考えにくいんだが・・・。
761 :
↑↑↑:2012/04/05(木) 17:43:44.61
お前はアホか?
ワロタw
>>278 自分でもまだ結論は出せていない
ただ、吹き抜けが有るにせよ、無いにせよ、天守指図を池上の創作物として片づけるのは難しいとは思ってる。
数奇屋風の楼閣には吹き抜けはたまに見かけるが、数奇屋と重厚な天主では構造が違うからね。
765 :
日本@名無史さん:2012/04/06(金) 21:17:48.34
吹き抜けあったんじゃね?
後にも先にも安土以外に吹き抜けがないから吹き抜けは無かった、なんて言ったら
そもそも天主指図自体の存在があり得ないものになってしまう
吹き抜けを知らない人に吹き抜けの指図なんて書けないんだから
吹き抜けの例なら大洲城がある
767 :
日本@名無史さん:2012/04/06(金) 22:13:49.40
ところでみんな、どのタイプが好み?()はオレちゃんのパーセンテージ予想
(50%)前期望楼型…望楼部のみ四方正面
(30%)後期望楼型…下層部も四方正面
(*5%)前期層塔型…大入母屋消滅→階層一致
(15%)後期層塔型…逓減率一定
*唐造り天守(岩国城、高松城)以外、超不人気とミタ
>>763 上の方で誰かが言ってたけど、利休の影響かはさておき、安土城や秀吉大坂城の場合、
天守内部に茶室があったりして数寄屋の要素を含むから、内部に吹き抜け空間があったとしても、さほど驚くには当たらない希ガス、、、
実際どうだったかは別の話だけど
仮に天守指図が池上右平の創作だとすると、彼は安土の廃城を踏査して
天守台の外形寸法を測量して来たのか?
宮上案は、なぜ精巧な模型を作って安土城郭資料館の内藤案の隣に並べないんだろう?
この不毛な吹き抜け論争こそが一番盛り上がって面白いのにwww
不等辺八角形なんて珍妙な天守台石垣を、石工共は何を考えて拵えたんだ
四角く作るよりよほど面倒じゃないのか
そんなことはない
>>774 地山を矩形に整形すると天主台が小さくなってしまうので、
限られた地山の面積を最大限に利用するためと、四方の監視(※)のため多角形にしたのかもしれん
※城戸博士の台形の犬山城天守の論考参照
※矩形より広範囲を見渡せる丸馬出し
>>772 松永久秀が完成した多聞山城に移徒したのが永禄4年、東大寺大仏殿(源頼朝の再建)を焼いちゃったのが永禄10年。
ということは少なくとも6年間は、日本を代表する建築である東大寺大仏殿と多聞山城天守閣が並び立ってたわけで、
当時twitterがあったら「頼朝の大仏殿と久秀の天守閣が両方見えるなう」とつぶやかれたにちまいない!
将来、東京タワーが老朽化して解体撤去された時、スカイツリーと東京タワーが同時に見れる時期に生きた漏れらは羨ましがられるかもよw
>>776 なるほど
世の中には賢い人が居るもんだ
779 :
日本@名無史さん:2012/04/08(日) 17:42:51.70
>>772 >多聞山城天守の義昭二条城天守への移築にも中井家の関与が考えられ,
時系列が滅茶苦茶なんだけど、そんな妄想を言ってるのは誰?
780 :
日本@名無史さん:2012/04/09(月) 16:45:03.59
淳也じゃね?
781 :
日本@名無史さん:2012/04/11(水) 15:34:10.60
また、馬鹿のひとつ覚えの「淳也」かよ。
また、「馬鹿のひとつ覚えの淳也」かよ。
ワロタw
784 :
日本@名無史さん:2012/04/12(木) 09:27:31.27
ワロタw ワロタw
>>784 淳也さん、がんばれ!
明日香案は北側立面図を見ればそれでオシマイだけど、横手案の下層部は相当奇怪なものになりそうなんだが、、、
それにしても、横手Pはなんであんな生き恥晒しみたいなブログ始めたんだろう、、、
あの珍妙な望楼部と大坂城ムカデ天守のせいで、何にも入ってこないよ、、、
786 :
日本@名無史さん:2012/04/12(木) 18:29:02.71
て言うかあそこまで奇怪な安土天主を載せるってかなり勇気がいるよな
出すにしても匿名であげた方が良かったのに、、、
もしかして、何かしらの指図的な何かを見つけて隠しているんじゃないかと
うたがってしまう、、、
787 :
日本@名無史さん:2012/04/12(木) 23:31:22.72
それはない。
>>776 城戸久「名古屋城と天守建築」
これに載ってるかな?
>>789 その本に載ってた
天守の角が不等辺のほうが射撃の角度を増やしやすいとか、そのくらいの話だけだったが
何か意味があるのではないかと考えるから、有りもしない理由が付けられてしまうと言うものだな
793 :
日本@名無史さん:2012/04/14(土) 22:14:08.53
まあ研究を深めるためにはしかたがないんじゃないかな
宮上案の大坂城天守も地階部分の構造が3回くらい変更されているし
大坂城天守の、この地階の構造は、姫路城天守や岡崎城天守にも受け継がれている感じがする
795 :
日本@名無史さん:2012/04/15(日) 05:34:17.16
そうだね。宮上案も後期は旧佐藤案の様に修正されていたみたいだしね。
ただ直接地表から立ち上がる構造だと防備上に不安があるじゃないかな。
宮上もその辺を考慮して改変したんじゃないかな。
京都の松尾大社の神山・松尾山の山頂には御祭神に降臨してもらうための磐座(いわくら)がある
信長は下克上正当化のために、「オレは建国の神々の末裔である朝廷=天皇家より上の存在だ!」
「史上最も豊かな新しい国を造るために、地上に降臨した神なんだ!」と宣言しようとしてた説があるけど、
「蛇石」とかいう、摺り下がっただけで一気に150人以上の轢死者を出すような巨石をわざわざ安土の山頂まで曳き上げさせたのは、
自分という神が降臨するための磐座(いわくら)ににするためだったんじゃないかな?
>>793-795 細部をどんなに弄くり回しても、佐藤案は結局トーテムポールにしか見えない、、、
横に奇妙な横手案、縦に奇妙な佐藤案は、奇説の双璧では、、、
798 :
日本@名無史さん:2012/04/15(日) 12:25:07.39
>>798 全くもってご苦労さんと言うか、無駄な事に労力を費やしていると言うか・・・
領地の地形を把握できていない様な時代に、見通しが通らない遥か彼方の場所にある物の位置をどうやって正確に測量出来たかを先ずは示してくれと言いたい。としか言いようが無い。
>>798 この人、ちょっと頭がおかしいんじゃないか?
自分の主張が受け入れられないと知るや、気が狂ったように学会口撃・・・
あまり関わらないほうが良さそうだよね。
801 :
日本@名無史さん:2012/04/16(月) 20:53:14.63
>>798 読んでも結局安土城天主台の話がどこにあるかわからなかったのですが、
八角形になった理由は結局なんだったって言っているの?
明日香淳也氏は「とくにかく八角形に作れ」と信長が命令したので、石工たちが地山に合わせて天主台を不等辺八角形に造ったとしていますが、
天守指図と遺跡の形状からそこまで推定するのは無謀であり、あえて八角にするからには正八角形でないと意味がないやに思われます。
>>797 ってゆうか、佐藤大規って文学部出身だろ?
香具師はいつ、どこで日本建築を勉強したんだ?
804 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 15:07:52.10
香具師の元締め、三浦正幸の下でだよ。
三浦もトーテムポール佐藤を抱え込んだせいで完全に信用をなくしたな
以前はまともな学者と見られていたようだが、今では胡散臭い業者に成り下がった
宮上氏が生きて居れば、今日の三浦一味の跋扈はなかったろう
806 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 12:25:04.59
安土城の吹き抜け説は強度的に建築可能でしょうか?
また年月が経過すれば支える柱や梁など劣化してそのうち倒壊しませんか?
大仏殿等の仏教寺院も巨大な空間がある巨大木造建築物であることをお忘れなく
808 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 21:24:26.54
俺も安土の吹き抜け説を支持しているが
>>807の言う大仏殿などは柱が極太な上に空間の上には屋根以外に何もないが
安土は吹き抜け空間の上に4層の居住空間がある事はきちんと把握していなくてはならないと思っている。
>>808 使う柱の太さを決める要因は、柱間の寸法の違いや見栄えもある事をお忘れなく。
>>806 天守指図によると、4間×6間もの吹き抜け大空間の上に大入母屋を掛け、小ぶりな二重望楼を載せる構造だけど、
橋を架ける技術があれば、建てること自体はそんなに難しい技術じゃない気がする
ただ現在の基準
>>731で見ると、耐震性や耐久性で不安ではある
現在の建築基準法から見れば、礎石の上に柱を載せただけという時点で、違法建築だがなw
ましてや木造で天守閣再建なんて狂気の沙汰だわ>掛川城・大洲城
根本的な違いとして中世ヨーロッパの吹き抜け建造物は天井を
アーチ構造にする事で荷重の負荷を散らして和らげてると聞きます
吹き抜け構造の木造建築物として一応、キジ島の顕栄聖堂(天井はアーチ構造)
なんてのもあるし先人達の造った世界に例を見ない偉大な住居型吹き抜け建造物として
また、個人的にも夢のある吹き抜け構造であって欲しいのですが
813 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 17:27:55.65
安土の柱のサイズって20p×20pだっけ?
815 :
日本@名無史さん:2012/04/22(日) 13:47:09.05
天守指図支持者ばかりか(苦笑)
安土城の場合、天主台だけでなく、伝本丸、伝二の丸、伝三の丸、八角平、伝羽柴秀吉邸、伝徳川家康邸など、
すべての曲輪が地山に合わせ、不等辺多角形に石垣が積まれ造成されているけど、
その上に建てられた御殿(例:本丸御殿)はあくまで矩形であって、敷地目一杯に建てられていなかったように、
天主閣も矩形だったと思われ。
http://www.youtube.com/watch?v=mM1VwGzNJ6A 天主閣と天主台との間のスペースはフロイスが書いたような庭園になっていたと思われ。
天主1階書院の縁側沿いに池泉式や枯山水の庭園が付いていれば、風流この上なしだし、信長も客も喜んだと思う。
>天主閣と天主台との間のスペースはフロイスが書いたような庭園になっていたと思われ。
フロイスはそんな報告していた?
不等辺八角形の天守台に矩形の初重だと、結構小さくなっちゃうね
>815
石蔵内も矩形じゃないのをどう説明する?
819 :
日本@名無史さん:2012/04/22(日) 19:15:52.87
「天主之次第」に記された各部屋の合計床面積としては極めて至当。
『指図』は余剰面積を吹き抜けで、佐藤案は非現実的な廊下で処理してるに過ぎない。
820 :
日本@名無史さん:2012/04/22(日) 19:17:59.56
>>815 宮上案は、不等辺八角形の天主台と矩形の天主を整合するためか、
上下二段石垣にしているけど、そういう天守台の実例って他にあるの?
福井城
豊臣大坂城宮上案
もっとも宮上氏と違う解釈の豊臣大坂城の佐藤案と櫻井案は下段を庇で覆って多角形っぽくなってるが。
まあ、たとえ狩野永徳の「安土山屏風」が発見されたとしても、吹き抜けの有無の論争は永遠に続くだろうねw
ところでおまいら、赤瓦の有無についてはどうなのよ? これは屏風の発見で片が付くぜぇ〜
825 :
日本@名無史さん:2012/04/23(月) 14:02:08.49
>>824 外見が内藤案と大きく異なれば吹き抜けも否定されるだろう。
屏風絵の写実性なんて信用できんぞ
827 :
日本@名無史さん:2012/04/23(月) 21:58:09.44
発注者が信長だから、その点は他のそれと一緒にはできないだろう。
かなり正確だったハズ。
矩形だか多角形だかくらいは判別出来るだろう
829 :
日本@名無史さん:2012/04/23(月) 23:43:09.91
宣教師の絵心がある奴がスケッチとか残してないかなぁ。
ひゃっほ〜い!
みなさん、熱い議論戦わせてますねえ!(笑)
何と言っても戦国の風雲児・織田信長の居城ですから、自分も吹き抜けがあってほしいと思います。
>>814 なるへそ。
瀬田の唐橋、東大寺大仏殿、熱田の曳山はすでにありましたし、
30間の大型船を縦に使えば、吹き抜け空間も作れたんですね!
室町時代に吹き抜けなんか無理という今までの常識がどんどん崩れていきますね!
>>824 赤瓦はどうなんでしょうかね?焼け跡から出土した赤瓦は、
火災の灼熱で変色したという説もありますし、量が多すぎるという話も聞きました。
一刻も早い屏風の発見が待たれます!!
みなさん、またいろいろ教えてくださいね。よろしくですm(_ _)m
831 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 18:45:48.75
吹き抜け空間の採光は提灯か?
>>830 安土城ってコロンブスの卵のようなお城だぬ
834 :
日本@名無史さん:2012/04/26(木) 05:17:31.08
佐藤氏は三浦研究室を放逐されたの?
大坂城は削除されたみたいだけど、安土城を残しているのは美味しいとこ盗りだね。
>>814 う〜ん、どうでしょう?
吹き抜けに山車や和船の軽量頑丈な一体構造を、その天井に架橋技術を応用したのではないか、
という着眼点を敢えて否定はしませんが、既存技術の応用で建設可能だったということと、
実際に内部がどんな造りであったかの考察とは、やはり区別されるべきと考えます。
では。
836 :
日本@名無史さん:2012/04/26(木) 14:45:46.55
中に船があったならまるでピラミッドですな。
837 :
↑↑↑:2012/04/26(木) 18:39:18.42
お前はアホか?
838 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 11:23:39.03
連休中に安土に行ったやつ誰かおらんのか?
>>838 ハ見寺本堂址に休息用の椅子が置いてあったyo!
いくら寺の私有地とはいえ、あそこは特別史跡(国宝に相当)だから、素人の稚拙な復元案で再建するなんてあり得んわ
841 :
忍法帖【Lv=9,xxxP】 :2012/05/09(水) 11:45:45.20
842 :
日本@名無史さん:2012/05/09(水) 13:34:23.77
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843 :
日本@名無史さん:2012/05/15(火) 16:53:03.63
安土城天主閣跡を見れば、大きな建物ではなく小ぶりなものだと実感するぞ
844 :
日本@名無史さん:2012/05/15(火) 17:54:18.10
確かに安土城はすべてが小さく狭い
天守跡も随分狭いし
清州会議の後三法師が住んでいたという二の丸も千畳敷と呼ばれた本丸も
当時の日本一の大城を空想していると実際に行ったときにそのちっぽけ感が半端ない
それほど高くない安土山に麓から家臣たちの屋敷がびっちり建ち並び
山全体が城郭化していた感じだ
小ぶりだとか、小さい、狭い等と言うが一体何を基準に言っているんだ?
846 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 11:48:35.71
浅井氏の山城小谷城のほうが広かったんでは?
という印象だな
となりの観音寺城の方が壮大
848 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 14:22:53.68
天主の他に、二重、三重櫓的なものはあったの?
例の妄想ブログ、ますますドイヒーになってきたよ、、、
大坂城に6つの天守あり?!
豊臣大坂城…秀吉、秀頼T(慶長伏見大地震1596で倒壊)、秀頼U(大坂夏の陣1615で焼失)
徳川大坂城…家康西の丸(大坂夏の陣で焼失)、元和期、寛永期
屏風絵に振り回されると↑こうなるという悪しき見本
>>844 >清州会議の後三法師が住んでいたという二の丸も千畳敷と呼ばれた本丸も
誰がこんなデタラメ言ってるの?
主郭部建物は天主と一緒に焼失しているからな
住んでいたとすると野宿だな
855 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 21:19:00.88
淳也じゃね?
856 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 21:37:56.33
二の丸なんて、うちの敷地より狭かったよ
858 :
857:2012/05/16(水) 21:52:33.29
(つづき)
動画ハッケソ!
http://www.youtube.com/watch?v=JRg_a3-qe_4 >大手道登り口にある伝羽柴秀吉邸跡は、大きく上下二段の郭に分かれます。
>下段郭には櫓門があり、そこを入ると間口7間の堂々たる厩が建っています。
>上段郭の入口には高麗門が建てられています。
>上段郭内は居住部分で、書院造りの平面を持つ御殿を中心に式台・遠侍・台所等を接続した建物群が建ち並んでいます。
>また、上下の郭は石垣裾を巻くようにつけられた幅約3m程の石段で結ばれています。
859 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 14:02:39.74
清洲会議のあと安土城は数年機能していたんだぞ
燃えたのは 天守と主要郭の一部だけだっtんじゃないのか?
860 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 14:13:04.95
>>857 伝羽柴秀吉邸跡って安土山の入り口、かなり下のほうにあるぞ?
二段になっているとはいえ安土主要部より狭い。
あんなところで防衛は大丈夫なのか?
861 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 14:19:41.67
>>857 付近の伝前田利家邸宅跡も伝徳川家康邸宅跡も2〜3段あり、
伝豊臣秀吉邸跡と遜色ない広さがある
伝秀吉邸跡だけが突出した君主の屋敷だったとは思えんが?
普通は岐阜城あたりに三法師を入れるはずだが、秀吉の必死さが分かる
山頂中枢部以外が無傷だったんなら、既存の建物に入ったことも考えられるが、
秀吉が丹羽長秀に三法師の居館普請工事を急ぐように催促していることから、
本能寺の変後、改めて新築したと思われ
>>862 >普通は岐阜城あたりに三法師を入れるはずだが
どうして? その根拠を教えてくれ
865 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 22:10:32.75
>>862 岐阜城は織田信忠の城。三法師が信長の跡目ということが重要だから、岐阜城では意味がない。
天主区画の北側には、大天主完成以前、天正4年から使われた八角平を本丸とする安土城があり、ここは焼けていない。
866 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 23:25:56.83
お前の根拠のない妄想はいいから
>>865 >天主区画の北側には、大天主完成以前、天正4年から使われた八角平を本丸とする安土城があり、
誰がそんなデタラメを言ってるの?
868 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 20:29:22.58
>>865 織田家の当主は信忠だろう。三法師が正式な跡目なら岐阜城で問題ないのでは??
869 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 02:42:21.22
>>868 三法師が信忠の跡を継ぐのは当然。他に男子がいなかったんだし(多分)。岐阜城では信忠の跡を継いだことにしかならない。
信忠亡きあと信長の跡を誰が継ぐかは微妙で、信孝、信雄の有力候補がいた。これらを排して三法師が信長の跡継ぎであることを天下に示すために、信長の城である安土城に入る必要があった。
三法師が岐阜城に入ったとしても、もし安土に信孝または信雄が入れば、安土の住人が信長の後継者と見なされただろう。
>>867 信長公記をよく読めばわかるが、安土城は工事が始まった天正4年から城としての機能を発揮している。大天主区画の完成まで仮の御座所にいたことになるが、それが粗末な施設であるはずがない。
天正4年の段階ですでに一定規模の城郭が存在していた、と考えるのが自然。どこにあったか、と考えると八角平を中心とする区画以外にあり得ない。
その「あり得ない」と断じるところが皆の気に障るところ
根拠が無いのに断じるなよ
あのう、、、清州会議つながりで質問したいんですけど、、
名古屋城・清州櫓って清州城天守の移築のようですが、移築前からあの形だったんでしょうか?
ちなみに彦根に移築される前の大津城は、彦根城と全然違う外観だったという説がありますね、、
どなたか私論のある方、よろしくおねがいします
872 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 14:43:15.57
清洲櫓は部材を再利用しただけ。
焼け落ちた縁起の悪い城に跡目を入れるのは、秀吉が三法師を東にやりたくなかったのもあると思います。
焼けたから縁起が悪いなんて考えたかね。
腐っても鯛と言う例えがある様に、信長に仕えていた家臣にとっては安土が信長の象徴であることに変わりは無い
とりあえず落城して、敵に踏みにじられた城だけどな
落城と言うよりほとんど開城だろう
>>875 織田家の後継をどうするかと言うより信長の跡を誰が引き継ぐかという事だから岐阜と言うより安土しかない。
秀吉にとってはそういう事だよ。
何故、総見寺の総の字が抜けてることが多いんですか?
879 :
日本@名無史さん:2012/05/21(月) 06:58:16.69
正しくはハ見寺で、ハの字を出すのに手間がかかるから。
880 :
日本@名無史さん:2012/05/21(月) 14:13:53.71
>>865 秀吉はとにかく幼少の三法師を織田家跡目とすることに必死だった。
だから、それ以外のところでは妥協もした。
美濃国と岐阜城を対立する織田信孝に与えたのもその一つ。
岐阜城を信孝に与えてしまったので三法師は入ることができない。
三法師に与えられたのは織田家家督と近江国坂田郡3万石だけで、
安土城へは暫定的に入城したものだろう(わずか2年で退去している)。
賤ヶ岳合戦後、安土から坂本城に移されるのもセレモニーの一つだったんだろうな
882 :
日本@名無史さん:2012/05/21(月) 20:34:40.90
安土城がもし焼けていなければ、三法師をそこから退去させる理由がない。焼けたことは秀吉にとって、まことに都合が良かったことになる。
883 :
日本@名無史さん:2012/05/22(火) 11:25:04.24
>>840 「自称理系」の彼の復原案はどうなるんだろうね
>>883 全くもってご苦労さんと言うか、無駄な事に労力を費やしていると言うか・・・
寺の本堂が移築な上に、それが二間堂を改造したとか、さらに二階を増築したとか言うことになると、
考証に基づく復元案じゃなくて、推論に基づく想像案としか言いようがない。
山里丸って、秀吉が最初に考えて造った曲輪なのかな?
886 :
日本@名無史さん:2012/05/24(木) 00:31:06.06
利休の影響力とかは?
>>883-884 外観にしろ内部にしろ常識的に考えられる案は、すでに学生コンペで出尽くしちゃってるから、
あとは礎石(柱)配置から、建物の由来を憶測するくらいしかないことにまだ気付いてないのかもねw
>>887 形而上の意味としてはすでに、フロイスがすでに、集めてきたすべての仏像の頭上に盆山を置いた、と核心を書いちゃってるし、
さらに鳥取環境大チームが、信長(盆山)を祀る本堂の位置が、大日如来(天皇家の開祖・天照大神)を祀る三重塔より上に建つ特異な伽藍構成だっていうことも解明してしまったしね。
http://www.kankyo-u.ac.jp/f/845/1089.pdf#search='ハ見寺 フロイス 盆山'
本堂の履歴や細部の仕様は、同規模・同時代の建物から類推するしかないわけだけど、それが正しいかどうかは指図でも見つからない限り検証しようがない。
だ・か・ら、屏風絵や絵図は真に受けてはいけない、と何度言えば解るんだ…
>>888 三(五・七・九・十三)重塔より本堂が高い位置にあるお寺の例って他にないの?
891 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 23:47:58.79
山寺ならありそうだけどな
ちょい調べてみるか
892 :
日本@名無史さん:2012/05/27(日) 05:41:27.63
>>890 京都の清水寺は三重塔より本堂のほうが位置が高い
893 :
日本@名無史さん:2012/05/27(日) 08:30:51.75
>>888 なるほど
世の中には賢い人が居るもんだ
天主が派手な唐様、ハ見寺は地味な和様、というコントラストも気になりますね、、、
899 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 08:37:24.15
>>887-888 たとえハ見寺建立の目的は明らかにされたとしても、新しい復元案は常に歓迎されるべきジャマイカ?
森俊弘氏の白漆喰壁同様、全体像よりパーツ単位で新たな視座が得られる可能性がある。
特に秀頼・淀殿による改造前の境内全体の復元には意味があるかと。
本堂の東から西に書院や庫裏が移される前、そこには毘沙門堂、能舞台、芝居、桟敷席があったようだ。
後に秀吉が建てることになる西本願寺の能舞台の手本となった可能性がある。
>>901 リンクみてきたyo!
http://www.the-noh.com/jp/sekai/stage.html >音響上の工夫も成されています。能舞台の床下や橋掛がりの下に、大きな甕(かめ)を据える場合があります。
>これは、適度な吸音効果をもたらし、足で踏む拍子の響きをよくするばかりではなく、笛や太鼓といった囃子の音、謡の声にも影響するといわれています。
もしかして、天主台中央の穴から出てきた甕の破片って、三重目に張り出した舞台の音響効果を高めるための甕だったりして・・・
そう言えば立板の書き込みをdisていた人、特に根拠ゼロだったな
アマデウス気取りのこと?
ひゃっほ〜い!
ハ見寺の話題で盛り上がってますねぇ(笑)。
自分を祀る寺に能舞台なんて、信長公クラスの天下人にしか許されない贅沢なことやったんですねぇ〜。
そう言えば映画「アマデウス」には、皇帝陛下が貴族や裕福な市民と共に歌劇を鑑賞するシーンがありましたけど、
http://www.youtube.com/watch?v=y_VmZ9GvKdc ハ見寺の能舞台はまさにその日本版!
賓客や家臣や茶人たちと信長公の娯楽・余興の場やったんでしょうねぇ。
安土城って知れば知るほど奥が深いお城で、すべてが秀吉や家康に影響を与えていて本当にびっくりです。
みなさん、またいろいろ教えてくださいね!
ワロタw
908 :
日本@名無史さん:2012/06/06(水) 14:47:24.19
なんに?
>>885-886 秀吉大坂城の本丸北端から下がった詰丸には,千利休が設計造営した山里曲輪(東)と芦田曲輪(西)があり,
大坂夏の陣後の徳川再建時に,両曲輪はまとめて一つの山里曲輪とされたことは周知であろう.
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/97/Osakacastle-5.jpg また肥前名護屋城には主郭部から下がったところに上下二段の山里曲輪が造営されており,
上山里には岡山城のそれに似た高欄付き月見櫓と数奇屋風茶室,下山里(画面左端)には能舞台が見られる.
http://www.pref.saga.lg.jp/web/var/rev0/0084/3869/hizennagoyabyoubu.jpg このように秀吉の城において千利休が造営した山里丸は,まさに天守閣(御三階)を借景とする江戸時代の大名庭園の起源と言えよう.
例:岡山城・後楽園,金沢城・兼六園,水戸城・偕楽園(以上日本三名園),彦根城・玄宮園
さらに秀吉大坂城の本丸南端表御殿(千畳敷)の空堀を挟んだ対岸には,能舞台が作られていたが,
おそらく空堀の音響効果をフルに生かす工夫と思われる.
他にも江戸城本丸直下の二の丸御殿には白鳥堀の水面に浮かぶようにして造られた能舞台があり,
これらのような特異な設計は稀であるにせよ,能舞台は近世城郭建築に不可欠となる.
このように,近世(安土桃山〜江戸期)における日本の城郭は城塞機能を伴った領国の政庁であるのみならず,
山里(庭園)丸に茶室(数奇屋),主郭部御殿に能舞台を配した芸術の発信地でもあったわけで,安土城にその萌芽がみられるにしても,
秀吉大坂城においてすべて出揃ったことはたしかで,近世城郭における秀吉大坂城研究の重要性を改めて指摘しておきたい.
910 :
日本@名無史さん:2012/06/06(水) 17:58:00.22
長浜城内の母なかの大根畑が始まり
911 :
日本@名無史さん:2012/06/06(水) 18:04:46.56
>>908 ツェルニーの30番で挫折したチビにだろ?
>>902>>906 内藤教授は仏舎利を納める甕としているけど、秋田裕毅氏は信長自身の骨壷を収める甕としている
城内に寺を建て、自らを釈迦(ブッダ)を超越した存在だと宣言していたわけだから、両方正解w
安土城のバイブルは秋田裕毅「織田信長と安土城」で決まりだな。
天主復元案についてはそれぞれが信じるものを選べば良い。
>>909 大阪は日本有数の大都会だから2つも癒しの山里丸が必要で、安土はド田舎だから山里丸など必要なかったとも言えるw
ところで、大坂城の山里亮太と芦田愛菜の違いって、名護屋城の上山里と下山里の違いと同じかな?
917 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 00:09:07.49
とっとと秀吉大坂城を発掘しろよ!
本丸や二の丸は簡単にできるだろ!
918 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 01:00:55.42
金にならない文化事業に投入できる資金はありません
by大阪維(ry
たしかに近世城郭の基点は、秀吉大坂城にあると言っても過言じゃないような…
なんか中世城郭の要素を色濃く残した安土城より、秀吉大坂城の研究のほうが重要な気がしてきたわ
>>917 こんなん見つけますた
http://konjyakukan.com/event.html#osakajyohoukoku 「大阪城を解剖する 地下・石垣・建物 ―新技術による復原の試み―」
開催趣旨
大阪城といえば、その研究は尽くされていると思われているかもしれない。
しかし城内は、特別史跡であるため発掘調査は容易ではなく、地下にどのような遺構が残っているのかよくわかっていない。
大阪市立大学では、地中レーダ探査、石垣のレーザー測量、過去のボーリングデータの再検討などを通じて、
豊臣期大坂城の城郭構造や徳川期大坂城の建物構造の解明を試みている。
本報告会では、そうした一連の探査・測量調査について中間報告とともに、本丸御殿復原の最新の成果も公開。
必ずしもいまだ十分な結果が得られているわけではないが、新技術によって今後どのような研究が進むのか、
その可能性を明らかにしたい。
>>917 せめて本丸北西にあったと思われる天守台だけでも発掘して欲しいものですね。
天守台石倉の構造解明
>>633-634はもちろんのこと、礎石が残っていた場合は将来復元的考察が可能になるやも知れません。
>>921 そんなことになったら、脱糞狸だ能無しだと家康・秀忠父子にケチつけてた城オタは掌を返したように、
「徳川様にゃ足を向けて寝らんねぇ!」なんて狂喜乱舞するんだろうなWWW
徳川が豊臣のイメージを一新するために外側に高石垣を追加した例としては、大阪城の他にも
家康の娘婿・池田輝政が大改修した姫路城があり、今の天守台は、秀吉時代の天守台の外側に高石垣を追加して築いたらしいyo!
その痕跡が天守台北側の「姥が石」という石臼で秀吉が姫路城を築城する際に石集めに苦労したから、老婆が石垣が孕まないようにと、
自分の大事な石臼を差し出したらすぃ。
豊臣時代の姫路城天守台はあの中にそのまま残ってるらしいけど、大坂城はどうなんだろう?
工期を急ぐあまり逆に石不足になって、秀吉天守台の石垣は崩され、転用されちゃったんじゃないかな?
>>923 話が支離滅裂じゃないのか
>秀吉時代の天守台の外側に高石垣を追加して築いたらしい
と言う事は、秀吉時代の天守台は内部にある。
>「姥が石」という石臼で秀吉が姫路城を築城する際に石集めに苦労したから、老婆が石垣が孕まないようにと、
自分の大事な石臼を差し出したらすぃ
と言う事は、姥が石がある部分は秀吉時代の天守台?という事になる。
話が矛盾してる
もし、本当なら秀吉時代の天守台は乾小天守程度の大きさだった事になるし。
天守としてはかなり小さいな。
姥が石は有名だが話としては信ぴょう性が低いのでは?
925 :
↑:2012/06/09(土) 07:32:54.70
お前はアホか?
ひゃっほ〜い!!
みなさん熱く盛り上がってますねぇ(笑)
現在の徳川大坂城の本丸地下には、比較的良好な状態で豊臣時代の石垣が残っているそうですよ!
http://sano567.la.coocan.jp/toyotomiosakajyo-/index.html もし秀吉大坂城の天守台がほぼ無傷で残っててくれたら、本当に大騒ぎになるでしょうねぇ!
私も格安ピーチ航空で大阪通いしちゃいますよ!(笑)
>>923 ほへ〜。徳川が豊臣の痕跡を払拭したのは大坂城だけやなかったんですねぇ、知らなかったです。
あの美しい姫路城も、徳川大坂城と同じ徳川政権の広告塔やったんですね。
他にも、徳川将軍が太閤イメージを抹消するために大改造したお城があるのでしょうか?
どなたか知ってる方、情報よろしくおねがいしますね!よろしくです。
>>926 織田色払拭
清洲城→名古屋城(清洲櫓)、岐阜城→加納城(御三階)
豊臣色払拭
佐和山城/長浜城/大津城→彦根城、大津城→膳所城
>>927 和歌山城(豊臣秀長→徳川頼宣)もアルヨ
関ヶ原合戦の戦訓だと思うが>新規築城・大改修
安土城→八幡山城だろ
今の大阪城は、城外の町並みとの高低差が何十メートルもあるのかな?
秀吉の大坂城は、盛り土することなく町と同じ高さだったということなのかな。
934 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 07:30:55.84
誰か、秀吉天守台発掘調査の署名活動しちくり!!
歴史に名前が残るチャンスだぜぇ〜、ワイルドだろ〜?
現在の徳川大坂城本丸は高石垣で一段に造成されているが、豊臣時代には本丸を三段に積んでいた。
http://homepage3.nifty.com/yogokun/oosaka.htm これは、おそらく地山を覆う形で、野面積みの限界高より少し余裕を持たせた高さの石垣を三段に積み重ね、
天守台および本丸地表をできるだけ高く造成するしかなかったからと思われ、その分最上段の本丸面積は狭くなったハズ。
その意味で豊臣大坂城は、地山の制約に縛られた段々畑状の安土城と同じく、中世城郭もしくは過渡期の城郭であって、
人工的な高石垣で一段に造成された広〜い本丸を持つ徳川大坂城こそ、近世城郭と位置づけるに相応しいと思われ。
広さがないから御殿を2つに分けたのかも。てか表御殿と奥御殿の間に渡り廊下がないのはおかしい。秀吉はカゴか徒歩で移動してたのか?
よく言われる豊臣大坂城vs徳川大坂城って、純粋に技術革新の違いに過ぎないのかも
黒vs白、自然石vs切石・巨石(蛸石)、三段石垣(打込みハギ)vs高石垣(切込みハギ)、郭防御vs枡形虎口
特に漆喰壁は、平屋の寺院の壁では簡単でも、高層天守の外壁全部を現場で塗り籠めるには、
墨俣一夜城を思わせるプレハブ式に黒漆板で鎧うより、遥かに時間も手間も掛かって贅沢だったんジャマイカ?
改修の際にも、下見板張りならペンキ同様、刷毛で板を塗り直したり、交換するだけでいいし、
古い漆喰を一旦崩して新たに土壁から作り直し、パレット?や鏝で漆喰を塗り籠める遥かに楽
>>937 なるほど
世の中には賢い人が居るもんだ
>>937 君の論理で言ったら近世か近世過渡期かは石垣技術の発達状況で決まってしまう。
そんなことは関係ないだろう。
お前はアホか?
天下人が恐れた大地震〜2012年6月18日放送〜テレビ朝日5ch
http://www.tv-asahi.co.jp/telementary/ 第一次朝鮮出兵の講和会議の舞台として、豊臣秀吉が建てた初代の伏見城「指月城」は、講和の相手である明の使節を迎える直前に、
地震であっけなく崩れ去る。「天守は大破し、門矢倉が崩れて門番が多く死んだ。秀吉は、城中の庭に避難。このとき『女の装束』を身に着けていた」
古文書や考古学の研究成果をもとにこの城をCG再現し、被害をアニメーション化。
また、最新の地震学の研究から、伏見城破壊のメカニズムを探り、現代に通じる教訓を拾い上げる。
945 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 20:43:52.59
↑さんきゅー
946 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 02:04:36.71
天守の上二層が乗せていただけなんてワロタ
947 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 20:58:07.51
↑無知にワロタ
例の妄想の大暴走の元プロデューサーもあんな番組作ってれば良かったのだよ
ところで、豊臣大坂城天守台で盛り上がってたみたいだが、変形瓦でも出土したら、
天守台直上階東面は、安土城西面同様、天守台天端に合わせた形状だった可能性が高くなるな
950 :
日本@名無史さん:2012/06/21(木) 14:30:58.27
↑馬鹿か?
951 :
日本@名無史さん:2012/06/21(木) 15:12:38.85
淳也じゃね?
横手P、匿名でブログやればよかったのにね、、、
実名トンデモブログで失った信用はもう二度と取り戻せない、、、
955 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 07:59:16.39
956 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 08:07:56.92
↑下品な香具師ワロタ
957 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 08:23:23.91
淳也じゃね?
958 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 10:23:27.98
這い這い
959 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 17:52:59.92
仁徳天皇などの皇居は難波京
妄想の大暴走ブログに対抗して、明日香淳也氏に「豊臣大坂城復元案」「伏見城復元案」「肥前名護屋城復元案」を立ち上げてほすぃ!
961 :
日本@名無史さん:2012/06/23(土) 05:30:36.02
徳川大坂城本丸は高石垣で一段に造成されているが、豊臣時代には本丸を三段に積んでいた。
城壁を二重三重にして段差を付けるのは、昔から有る方法だが、それを無くしている。
高い石垣ひとつの方法が三段式より上だと成るような軍事上の革命が有ったの?
それとも、ただ本丸の面積を増やしたかっただけ?
962 :
日本@名無史さん:2012/06/23(土) 05:58:05.18
後者です。
ぽぽぽ〜い!!
みなさん、変形瓦で熱く盛り上がってますねぇ〜(^-^)/
出てきちゃったら、それこそ天守台以上に熱い議論を呼びそうですねぇ(笑)。
他の豊臣系天守で金箔変形瓦は出土してるんでしょうかねぇ?
また、本丸図によれば秀吉大坂城の天守台は台形で、しかも普通の天守台のように閉じてなくて、本丸(南西)方向に開いている、、、
ということは、宮上案のように天守南西隅は、本丸地表から立ち上がっていたんでしょうか?
>>582-589 それとも実際は閉じていて、天端レベルが複数ある複雑な天守台やったんでしょうか?
>>633-634 それなら、11間×12間というのは天守台天端サイズではなく、石倉内部のことなのか、、、
どなたか詳しい方、情報よろしくおねがいしますね!('-^*)/
966 :
日本@名無史さん:2012/06/23(土) 14:03:32.09
>>963のブログにある豊臣大坂城みたいに
三重櫓が本丸に建っていたって資料はあったっけ?
970 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 10:13:53.20
屏風絵は往々にしてデフォルメされているから細部まで厳密には断定的には論じられんよ。
三つの絵から分かることは、形体的には「夏の陣図」が実情を反映していないということだろうね。
三層の入母屋を重ねる形式は伏見城天守と同様の形式なので実情に即しているか疑問
973 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 17:33:54.02
>>971 新出の「伏見城図」は、豊臣期を再現する意図から大坂城のそれを参考に描いたと考えられる。
単純に入母屋を重ねる形式は初期の天守として極めて妥当で、むしろ実際の伏見城天守には比翼破風が
据えられていたんじゃないかな。
、
そう言えば、西ヶ谷恭弘氏が、昔テレビで大阪城復興天守と名古屋城再建天守を例に挙げ、
「大阪城のように、入母屋破風が縦に三つに連なるのが豊臣天守の特徴、名古屋城のように、
千鳥破風が「三つ鱗」風に並べるのが徳川天守の特徴なんです」とハキハキと解説していたけど、
豊臣天守については間違いだったみたいだぬ… orz
西ヶ谷氏は、城の古写真をたくさん所蔵していて、他の城郭研究者、内藤教授も彼の提供を受けてるようだけど、
本人がコレクターなんだらうか、それとも親の遺産を相続しただけなんだらうか
信長は天主を住居にしていたみたいだけど、階段も畳張りか何かだったんですか? 信長自身が上り下りするんだから板敷きじゃないですよね?
979 :
日本@名無史さん:2012/06/25(月) 10:48:27.32
>>977 アホ臭。そんなこといったら廊下(入側)もだろ。
そも、秀吉は天守に住んだことはない
>>961 櫓の外壁で石垣上端と揃えていたり、虎口がなかったり、内堀から天守までが近かったりする豊臣大坂城の欠点を突いて落城させた
徳川家は、豊臣イメージを払拭するというより、むしろ大改造して最先端の防御水準に引き上げることが目的だったんジャマイカ?
幕末の五稜郭のように死角をなくす的な?実際本丸を広げて高石垣を追加し、総多聞櫓で囲み、内堀は外側に広げられてゐる
>>978 玄以への秀吉直筆書状の原文は「ふしミの ふしん なまつ大事にて候」だったやうな
「伏見の普請」と「不死身の布陣」が掛詞(オヤジギャク)で、さらに、明の国境まで迫る戦果を上げた上で、
万暦帝の勅使との停戦交渉に挑んで武者震いと、地震も掛かっているから、この手紙を読んだ玄以は茶室で噴いたと思うw
漏れのばあちゃん、じいちゃんが死んでからも、じいちゃんが建てた古い日本家屋のリフォームや建て替えを拒んで、
広いけど、ボロボロの寒くて不便な家で我慢していた。
3年前にばあちゃんが死んでからやっとその家を解体して、輸入住宅に建て替え、真冬でもTシャツ短パンの生活になった。
未亡人というものはとかく、亡き夫との思い出に囚われて、自宅のアップデートをしないもの。
50歳を過ぎた淀殿にもそれと同じ現象が起こったと思われる。
秀吉と栄光の日々を過ごした大坂城に執着しすぎて、淀の前では秀吉に阿諛追従していた家康の力を侮り、
百戦錬磨の真田幸村や後藤又兵衛が、こんな脆い防御じゃ、徳川がオランダから仕入れた最新鋭大砲に負けるから、
天守を解体したほうがいい、蒔絵黒漆の板を外して鉄板に換えたほうがいい、高石垣を追加したほうがいい、
城の入り口を虎口に改造したほうがいい、といろいろアドバイスしても、
見た目が豊臣の風雅に合わぬとか、姿形を変えては亡き太閤殿下にお叱りを受けるとかゴネて、聞かなかったんじゃないかな?
真田や後藤とてそんな知識はない
ひゃっほ〜い!!
>>968さん、リンクありがとうございますね!
このところ急に仕事が増えて、珍しく大忙しで遅レスすまそです。m(_ _)m
このブログの方は、朱書きに注目して、やはり天守台は閉じていて、11間×12間は石倉のサイズとされているようですね。
でも石倉の高さが5尺(150cm??)というのは、いくらなんでも低杉のような気がしますが、どうなんでしょうかね?
安土城の石倉の高さも復元案により違いがあるそうですが、内藤先生のは13.5尺やったかな?
石倉について詳しい方、いろいろ教えてくださいね!よろしくです。
>>983 幸村は知らないけど、基次は文禄慶長の役で朝鮮出兵に従軍しているよ
「そんな知識はない」と断定する根拠を教えて
>>985 射程や威力が明と西洋の大砲では全く異なる
両スレになってきたぬw
安土城と秀吉大坂城に関してはだいたいわかったから、いよいよ最後の天下人=家康の慶長度江戸城について
争点1…層塔型(大入母屋なし) or 望楼型(大入母屋あり)? (最上階回縁なし or あり?)
争点2…一段石垣の連立天守 or 二段石垣の単立天守 or 総多聞櫓で囲った単立天守(cf.駿府城、淀城)?
争点3…外壁は白漆喰塗込め or 黒漆下見板貼り?
熱いトークバトル、きぼんぬ!
988 :
987:2012/06/26(火) 08:57:43.77
「権現様お好み」仕上げとは具体的に…柱長押露出の真壁仕様 or 長押型出し白漆喰 ?
>>989 その絵は『武州州学十二景図巻』(狩野尚信画、1648年(正保5年)) で寛永度天守なのだが
だから屏風絵は当てにならんと何度言えば解るんだ
まして墨絵の信頼度なんぞ…
「立て板の書き込み」の江戸城天守考察は結局どうなったんだろう?
徳川大坂城は、三重櫓11基を総多聞櫓で繋ぐ総多聞構えだから、本丸を巨大な天守丸と見れば、
淀城や駿府城同様、総多聞櫓で囲った独立天守と言えなくもないw
江戸城天守については結論出ていたでしょう
994 :
989:2012/06/27(水) 09:49:21.60
>>990 訂正サンクスコ! 妄想の大暴走スマソ
>>991 どうもすみえません・・・orz
>>992 岡山城の城内最高所は、本丸と形容したくなるような巨大な「殿守丸」だね