日本史教科書には載ってないけど凄い偉人

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81日本@名無史さん
121:名無しのひみつ:2009/12/13(日) 06:44:03 ID:x3q1Hxd8
今主流の学説では、伽耶地区の金官国(532年新羅に降伏して滅亡)は実質的に倭国の属国ではあったけど、
百済・新羅は宋の冊封下にある独立国で、時に倭国大和朝廷と結ぶことはあっても、隙あらば裏切り、機を見てまた結ぶという関係だった。
新羅・百済は支那王朝の冊封を受けていて、倭が冊封を受けていた時代に叙された官爵より常に上だったことから、
倭を南海の蛮族で、騙して利用しやすい相手と見ていた節がある。下に見ていたのは間違いない。
百済にしろ新羅にしろ、軍事的には倭国の方が遥かに優位だったので、高句麗の圧迫を受ける度に軍事支援を要請した。
これが広開土王碑に言う百済・新羅を破り、以て臣民と為す云々の下りに相当すると考えられている。
大和朝廷は6世紀に半島政策に挫折するまでは一定の影響力を朝鮮半島に持ち、伽耶地域の小国家のうちの幾つかは
属国としていたが、それ以上のものではなかったと、今では考えられている。
そういうわけで、倭人が伽耶地域をはじめとして朝鮮半島南部に多く居住していたのは事実だけれども、朝鮮半島南部を支配していたというのは誤り。

125:名無しのひみつ:2009/12/13(日) 18:28:37 ID:9KlrnopV
>>121
使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王って何?
格下だった倭の五王が将軍になれるの?
82日本@名無史さん:2010/10/19(火) 21:03:20
130:名無しのひみつ:2009/12/13(日) 19:30:30 ID:xq3mEWke
>>125
都督というのは、民政権、将軍は軍事権。支那は身分階級が厳密に定められていて、将軍位であれば
四征(四=東西南北)将軍→四鎮将軍→四安将軍が第三品に位置づけられ、
倭の五王のうち最後の武以前は安東将軍を授けられていたのが、倭王武の上表文によってはじめて安東大将軍に叙された。
安東大将軍は第二品の階級で、車騎将軍→四征大将軍→四鎮大将軍→四安大将軍の順。
高句麗が征東大将軍または車騎将軍、百済が鎮東大将軍であるのに対し、大和朝廷倭王は安東将軍で格下だった。
朝鮮半島および高句麗の征討を企図していた倭王武にとっては、この点は問題だった。
ところでこの時期は、倭国内の政情不安はありつつも、大和朝廷が統一国家への道を歩み始め、日の出の勢いがあった。
しかしながら盤石の体制とは言えず、超大国・宋の機嫌を損ねる危険は冒せるはずもなかった。
そこで倭王武は、宋に入貢し、開府儀同三司(=高句麗と同等の地位)、朝鮮半島南部の各国の民政権・軍政権の
保持者である倭国王を自称し、その除正(正式な任命)を求めた。
しかるに、宋の外交政策上、その全てを認めるわけにはいかず、わずかに安東大将軍・倭国王のみが認められた。
もっとも倭王武としてはこれは想定の範囲内であり、元々冊封体制下から逃れる意図があったとも考えられる。
上表文が、これらが認められなければ倭国は独自の判断で行動するというニュアンスを含んでいるため。
何?と聞かれた部分に対する回答はこれで良いかな?
こういう官爵が欲しいんだけど認めてくれよ、という意味であって、倭王が既にその地位にあったわけではない。

131:名無しのひみつ:2009/12/13(日) 20:12:21 ID:hjY3lIKI
>>130
で、最終的に征東大将軍になるわけだ。

479年 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝)
502年 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。(『梁書』武帝紀)