1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 22:53:23
>>2 前も鯖が壊れた騒ぎがあった時もサルベージ失敗した記憶がある。
太政大臣→大相国
左大臣→左府
右大臣→右府
内大臣→内府
准大臣→儀同、儀同三司
大納言→相国、亜相
中納言→黄門
5 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 22:50:50
参議→宰相
従一位→開府儀同三司
なんで宰相がそんなに下っ端なんだ?
本来の宰相の上にポストを作った中国の影響じゃないの?
8 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 20:06:10
丞相が秦漢北宋、右僕射は唐南宋
9 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 00:48:36
右僕射を右僕を射ると難癖を付けられたのが
大阪冬の陣の開戦原因のひとつ
10 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 16:32:42
道長が摂政しか就いてないというのは事実なのだろうか。こっそり関白もやってたような気がする。
11 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 01:51:40
御堂関白
>>10 関白がいなくて内覧で台閣の首座だから最高権力者だよ。
関白にならなくてもいい。というか、陣定から離れたくなかったから
関白にならなかったのだろう。
13 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 01:13:51
亭主関白
14 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 23:02:51
関白宣言
15 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 10:26:45
>>12 「大鏡」によれば東三条院詮子は道長を関白にするように
一条天皇にせまったのに、外戚の力を排除したい一条天皇が
内覧しか許さなかったのが実態。
道長が一条天皇の関白になりたくなかったわけではない。
次の三条天皇になると、次代には道長の外孫が東宮として控えていたため、
三条天皇は道長にとってまさに「要らない天皇」。
早く退位させるために天皇に悉く協力せず、
三条天皇の関白依頼をはねつけたけどね。
>>15 大鏡は半分しかあっていないよ
そもそも内覧就任当時、道長は権大納言で関白に就く資格を満たしていなかった。
もし、道長にその気があれば大臣昇進後にいくらでも関白に転じる機会はあったんだよ。
17 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 12:39:02
摂関政治の全盛期の人物で、父も兄も息子も関白の経験者なのに、
本人は関白になってないというのは、よく考えると不自然で奇妙な話だな。
18 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 16:44:18
>>16 道長は2ヶ月後に右大臣に昇進。
一条天皇が道長を関白にしたがっていたのならば、
その場で大臣に任じて関白宣下することは可能だった。
彰子に男子を産ませるまでは道長は自身の地位を確実なものとするために
むしろ関白になりたがっていた。
ライバル伊周を牽制するためにもね。
道長が関白にこだわらなくなったのは彰子に2人の男子を産ませた後だろ。
次期天皇の外祖父の地位を確実にしてからは
もはや官位がどうだろうが政治は思うがままだからね。
は? むしろ、外祖父の地位を得てから関白の地位に就かないと拙過ぎるだろう。
外祖父でも伯父でもない関白なんて塵屑みたいなのは、藤原頼忠の例を見れば分かるだろう。
道長の子息たちが若くて、右大臣顕光が無能で、
関白道長の意向に添って廟議を仕切る人物が
いなかったの。顕光の無能は道長と実資の両者が
一致してるんだから間違いない。
21 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 13:59:38
摂政を2ヶ月しかやってないなんて。
22 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 12:11:18
息子の頼通は50年間、摂関をつとめてるのにな。
徳川家康が将軍を2〜3年しかやってないのと同じだ、たわけども。
24 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 18:59:15
北宋で丞相と呼んでいたものを南宋で僕射と言い換えたのは何でなんだぜ?
25 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 22:05:17
>>19 は?
馬鹿かw
道長は関白になどなったことはないのに。
(摂政を1年2カ月ね)
外祖父になったのに摂関にならないと稚拙だ?
そんなわけはない。
現に道長はその地位をすぐに息子に譲っており、
天皇の叔父にすぎない息子を摂関にするためにやむなく就いたみたいなものだ。
天皇の外戚は摂関になどならなくとも権力を手にできるから就く必要がないんだよ。
逆に道長が天皇の叔父にすぎなかった頃、あるいは天皇の外祖父になれず
天皇の叔父として政権に就かなければならなかった頼道・教通にこそ
摂関の地位が必要だった。
26 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 22:54:06
道長の摂政在任期間は1年もない。1ヶ月だけだアホ。
そもそも頼通・教通は外祖父じゃないが、他に外戚になり得る人材がいないだろうが。
道長の出家後、後一条・後朱雀・後冷泉に一番近い男系の親族は頼通兄弟しかおらんわ(系図を良く見直してみろ)。
道長の内覧時代とは全く状況が違うのも理解できないのかよ。
>>27 「男系の親族」は「母方の親族」の間違いだね。
29 :
日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:04:32
殺生関白
>>28 まぁ、一条には兄弟がいなかったし、
後一条・後朱雀兄弟の場合は異母兄弟の敦康は早世
後冷泉・後三条兄弟の場合は他に兄弟がいないから、
天皇の後ろ盾になり得る父系親族(男性皇族)は存在し得ないんだけどね。
揚げ足をとるようで気が引けるが、兄弟を「父系親族」とは言わないでしょう。
准大臣は、一橋民部卿治済の就任を最後に、休眠しました
33 :
日本@名無史さん:2010/09/29(水) 01:11:08
>>32 もともと処遇のための宣旨だから、休眠しても大丈夫
初代儀同三司から第二代まで何百年も休眠していた
関白と誠意大将軍を兼務した人いる?
はぁ?
37 :
記憶喪失した男:2010/10/02(土) 02:34:22 BE:886330144-2BP(791)
>>34 徳川家康。関白を二日で辞職だったと思う。そのあと、征夷大将軍になった。
39 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 07:27:55
42 :
日本@名無史さん:2010/10/04(月) 23:39:18
さだまさしは中国から〇〇大将軍の称号をもらえばいい。
さだまさしには「関白失脚」という歌もある
45 :
日本@名無史さん:2010/10/07(木) 23:14:24
それは小野宮流の歌かそれとも松殿家の歌か?
46 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 00:05:08
松殿家再興が成功していたら6摂家になったのかな?
47 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 00:15:29
6だと多すぎるから、
どこかが没落するか、または4+2とかで、2つくらいが準摂家に落ちそうな気がする
戦国時代に鷹司家は一時断絶しているから、四摂家になっている可能性は十分にあったな。
49 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 01:32:58
そんなこと言ったら、摂家って他の摂家から養子をもらってばかりだよな。
だれがどんなことを言ったんだ?
51 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 21:42:20
>>47 摂関になれる清華家と摂関になれない清華家か
52 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 02:46:00
「摂関になれる」けど、実際にはほとんどならない家柄とか
53 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 19:32:05
まず大臣になれない大臣家ならあったけどなw
清華でさえ摂関家の持ち回りの大臣位の隙間を縫って短期間就任するだけであるから
その下の大臣家なんか内大臣すら滅多になれない。
爵位も平公家と同じで伯爵だったしね。
公家官位と武家官位を分けた要領で
公家の間でも栄典だけの官位官職を増やすように
公家諸法度で取り計らっときゃあ
不平貴族の数をかなり抑えることもできたろうに
いや、そのための不満解消措置が准大臣連発だった訳で
56 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 22:43:51
>>53 それは、摂関家が格段に優遇された江戸時代(中期以降)の話
それでも、三例しかない(記憶モード)大臣家の右大臣任官のうち
2例は江戸時代前半
>>54 その頃(江戸時代)には、准大臣は平堂上家への名誉職で、
大臣家以上で任ぜられる人はいなかった
(准大臣については『中世史研究』第34号に
准大臣と家格制度との関係について論じた小論がある)
> (准大臣については『中世史研究』第34号に
> 准大臣と家格制度との関係について論じた小論がある)
thx こんど見てみます
テス
ト
60 :
日本@名無史さん:2010/10/16(土) 20:42:17
>>46 松殿は最終的に権大納言あたりを極官にして
絶家しているから羽林家くらいか。
九条兼実と道家が最強過ぎる。
62 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 23:29:56
なぜ?
63 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 14:40:06
松殿は江戸時代に1000石で再興されたのに養子も取らないでさっさと断絶したよね。
他のヒラ公家は養子で存続したのに何故断絶させたのだろう?
64 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 17:49:16
維新後に奈良華族として創設された松園、鶴殿の両男爵家は、
摂関家の分家だし、名前からして松殿家の復活になるんだろうか?
65 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 17:54:46
神仏分離令で興福寺の門跡を還俗させる。
→せっかくだから、由緒ある「松殿」の家名を再興させよう。
→でも摂関家出身の候補者が二人もいる。
→仕方ないから、「松殿」を二つに分けて「松園」と「鶴殿」にしよう。
真相はこんなとこか?
66 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 00:02:44
松殿の家格は清華あたりだったんじゃない?
新家?の平公家で1000石は無いだろw
67 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 00:33:19
再興した松殿道基(九条幸家三男)は、正二位・権大納言止まりだな。
68 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 16:00:46
百済王家はどこ消えた
あれこそ清雅にふさわしいのに
69 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 23:41:43
>>67 摂関家庶流であればそんなところか。
摂関家庶流で清華家になれたのは、花山院と大炊御門(と新家の醍醐)だけ
>>68 蘇我氏と同じく歴史に消えた
70 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 23:56:11
清華ってまじで不思議な家格だよね
藤原流は閑院で本家と血筋が遠いし何故摂家に次ぐ高い家格を誇れたのか疑問だ
71 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 00:11:06
松殿長続きしたら摂家は無理にしても石高と家格からして清華になったと思うよ
再興しても40歳位で死んでるから清華でも大臣は微妙でしょ?
72 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 08:01:57
百済王氏はどっかの神社の宮司として残ったんじゃないの
百済神社?
74 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 14:41:56
百済滅亡後、日本に残留した百済王族・善光(禅広)は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、その曾孫である百済王敬福は陸奥守に任ぜられ、749年陸奥国小田郡で黄金900両を発見して朝廷に献じた。功によって敬福は従三位宮内卿・河内守に任じられ、
百済王氏の居館を難波から河内に移した。
当地には氏寺として百済寺、氏神として百済王神社が造営された。その子の南典が死去した時、朝廷は百済王の祀廟を建立させた。
百済王神社は今も大阪府枚方市に残る。
百済王神社の神主家である三松氏は百済王氏の後裔を称した。
75 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 22:16:35
中級以上の貴族は藤原氏と源氏しかいないよね。
名家でようやく平氏、半家や地下家で橘氏とか菅原氏とか。
清華以下は清華も名家も大差ないだろ。
四姓って・・・橘氏はおこがましいな。上級貴族としては
平安初期で終わってんじゃん。堂上家でかろうじて残った薄家も断絶か。
藤源平菅清安卜+丹江だな。
78 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 00:15:52
一応 羽林>名家らしいけど、両者にはっきりとした序列はあったのか?
准大臣になった人は名家の方が全然多いのだが・・・
80 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 01:11:23
堂上家としては、羽林、名家、そして、半家もまとめて
「平堂上」といわれるので、これらの家の違いは、
公卿までの昇進ルートの違いというくらいしか実際上の意味はない
羽林家=近衛少将、中将→公卿
名家 =中弁、大弁→公卿
半家 =その他→公卿
で、具体的な上下は、個々の家による。
「家としての極位極官」、「嫡流か庶流か」など
周知のことだと思うが、大臣家以上は「家としての極位極官」による区別
81 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 01:46:12
>>76 清華家と名家は大違いだろ・・・
江戸時代の大臣っていうのは、今の大臣とは比べ物にならないくらい
恐れ多くて、余人には近づき難いものだったって
下橋敬長も書いている。
82 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 01:56:11
>>70 閑院家が清華家として残ったのは、
白河天皇以降、何人もの天皇の外戚となったから。
久我家が清華家として残ったのは、
かの源通親の時代に権力を握ったから。
どちらも、一時的に摂関家をもしのぐ権力をもったからこそ
清華家としての家格を得ることとなった。
83 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 19:01:46
警察官で言えば、摂家が国Tキャリアで清華家が国U準キャリアで大臣家が大卒対象、雨林家が短大卒、名家が高校卒対象かなあ。
84 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 19:04:26
序列は、
征夷大将軍、摂政、准摂政、関白、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、准大臣、大納言、左近衛大将、右近衛大将、中納言、参議だよね。
近衛大将は実質大納言より上だけど。
85 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 19:08:18
准大臣宣下された者の敬称は公なのだろうか卿なのだろうか。
将軍補任時に公卿にもなってない義澄なんかでも
公方様扱いで内裏では最上席だったのだろうか?
>>85 俺も知らないんだけど
准大臣の日記は○○卿記なので
卿だったんじゃないかなあ
>>84 いくらなんでも、釣り針がでか過ぎるだろう。
征夷大将軍はあくまで臨時の令外官なんだから、兼職している官職の1つに過ぎない。
(800年かけてとんでもない誤解が通説扱いされているが、本来の幕府の長の権限は東国の支配権及び全国の守護地頭の任命権者となった「鎌倉殿」の権限に由来していて、
征夷大将軍なんていうのは源氏嫡流の三代の「鎌倉殿」が全員任じられていたから、幕府の長は征夷大将軍に就かなければいけないという先例が出来た程度の意味しかなかった)
源頼朝だったら、前権大納言の方が征夷大将軍より優先されるし、
徳川家康だったら、右大臣の方が優先される。
>>87 そもそも、准大臣に任命されるような人はとっくに公卿(従三位以上)に叙されているから、「卿」だろう。
89 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 20:26:12
准大臣は公を名乗れないのかあ。
90 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 20:28:10
征夷大将軍、一座、摂政、准摂政、関白、内覧、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、左近衛大将、右近衛大将、准大臣、大納言、中納言、参議、准参議
大納言、権大納言、中納言、権中納言、蔵人頭、近衛中将(頭中将)、左大弁、右大弁、蔵人
本三位中納言、新中納言、三位中将
92 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 20:57:21
准大臣宣下されても敬称が公にならないのは悲しい。
参議の唐名が宰相なのはおかしい。
93 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 01:15:03
>>88 だから足利将軍で納言や内大臣はおろか馬頭辺りの若輩が宮中でどのあたりの序列に位置していたのかを
問題としているのだが?
足利将軍で三公辺りなら当然摂関と同列か上座だった訳で。
94 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 03:27:30
>>83 今の感覚で言うと、
中納言以上の公卿は全て国Iキャリア、
国II以下は地下。
95 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 06:55:57
摂家は摂政・関白になれるし、大臣も殆どが彼らがなり、序列も親王より上。
清華家は太政大臣までなれることになっているが実際には左大臣になるのも難しく短期間。
大臣家は実際には大臣になるのも難しく短期間。
雨林家、名家、半家は大納言止まり、極稀に大臣がいるが。
地下家は貴族ではない気がする。
96 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 06:59:27
八草の姓で皇族にのみ賜姓されたり、名前に入っているのが真人。
三位以上が貴とかただ人と呼ばれ、五位以上が通貴だから、それ以外は人間だと思っていないよね。
三国志とかで兵士が死んでも人間が死んだとは思わないように。
97 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 07:03:33
日本の戦国時代と中国の春秋時代と三国志の初期は似ていますよね。
中国でも尊王攘夷を名目にしていたし、覇者(伯、力臣)と征夷大将軍(公方、大君)は似ています。
98 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 07:09:32
征夷大将軍になると内大臣に任じられる。
征夷大将軍世子は権大納言兼右近衛大将に任じられる。
尾張と紀州は権大納言に任じられる。
水戸は権中納言に任じられる。
99 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 07:24:05
摂家は藤原氏
清華家は藤原氏と源氏
大臣家は藤原氏と源氏
羽林家は藤原氏と源氏
名家は藤原氏と平氏
半家は藤原氏と源氏と平氏と菅原氏と清原氏と大中臣氏と卜部氏と安倍氏と丹波氏と大江氏
地下家は藤原氏と源氏と菅原氏と丹波氏と橘氏と中原氏と賀茂氏と三善氏と小槻氏と豊臣氏と和気氏と紀氏と下毛野氏と秦氏と高階氏と春原氏
100 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 08:27:16
摂家の者は何故参議にはならないのだろうか。
警察官キャリアは何故巡査・巡査部長にはならないのだろうか。
102 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 17:19:36
〉100
参議補任者は摂関と対面するとき、
一度、立ち止まって一礼する慣例がある。
しかしながら、摂家はいずれ摂関になる家柄であるから
この所作をすることを避けるため、中将から参議を経ずして
中納言に転任するわけである。
103 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 00:29:44
ついでに
清華家の嫡流も参議を経ずに中納言直任
江戸時代の公家って何の権限もないのに、毎日朝廷で何してたの?
全員が社史編纂室勤務みたいなモンだろ。蹴鞠で遊んでいたのか。
105 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 01:55:19
足利将軍は末期まで宮中では官位に関わらず摂関以上の権威と権力を持っていたよ。
没落した10代以降でも諱を摂関に与えていた事実が全てを物語っている。
106 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 19:35:22
摂関家から清華に養子に行った場合は大臣になるまでは当番免除だけど実子に行った場合は
伝送などの当番をしなければいけなかった。
107 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 23:16:48
>>88 >>そもそも、准大臣に任命されるような人はとっくに公卿(従三位以上)に叙されているから
一般的に、准大臣は従一位前(権)大納言が任ぜられる。
従一位の唐名が「開府儀同三司」なので、従一位大納言と准大臣とが混同されたこともある
108 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 23:59:03
>>江戸時代の大臣っていうのは、
内閣制度発足までの大臣は総理大臣(級)に相当
今で言う大臣は大納言〜参議に相当
(維新政府〜内閣制度発足までの期間における参議)
大臣が総理級なら関白は?
そもそも京都は朝廷という箱庭で政治から遠ざかり
儀礼を行っていただけなので公家筆頭で宮内庁長官級じゃないの?
>>109 それはない。
その比喩だと、老中=今の閣僚、公家=宮内庁職員、ってことになるが
閣僚が一介の宮内庁職員に頭下げたりしないだろ。
当時の公家に相当する者は現代社会にはない。
なぜなら、日本国憲法第14条がそうしたものを認めないと規定したから。
112 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 10:40:11
時々将軍を総理大臣になぞらえる人がいるけど、老中首座が総理大臣だよな
>>112 老中首座が政治の実権を握った最高指導者だったわけではないからなあ
政治上のトップって意味では、征夷大将軍〜内閣総理大臣 だよやっぱり。
むかしは与党最大派閥オーナーが将軍で総理が老中首座っぽかったような気がする
老中首座は健忘長官だろ
116 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 14:29:40
将軍は世界的に見ても封建国家の君主。日本国王だ。
幕末以前の天皇なんて旧王家の子孫の、なんかよくわからんがエライ人にすぎない。
将軍=国王(皇帝でもいい)
大老、老中首座=首相
細かいこと言ったら、いまの民主国家と昔の封建国家では制度も考え方もちがうんだから、
単純な対比なんかできないが、あえてあてはめたら、幕末以前の将軍は日本の国王だよ。
幕末以後でも、外交権を握って対外的に日本を代表している元首は将軍だった。
117 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 15:37:43
徳川幕府というのは朝廷から独立した組織を持ち、実力で諸侯を従えた政権。
そのトップである将軍を「首相」というのはおかしい。
そもそも、現代日本で首相が最高権力者なのは、敗戦で天皇が単なる象徴になったから。
立憲君主国でも、現代の日本やスウェーデンみたいな変な国でない限り、
君主が名目上、国家のトップであり、名目上の最高権力者という建前になっている。
まして前近代の徳川国家においてなら、君主は徳川将軍で、首相は老中首座か大老だ。
君主権の強い国なら、カイザー(ヴィルヘルム2世)時代の帝政ドイツみたいに、
首相が最高権力者でないことは珍しくない。
118 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 16:36:22
征夷大将軍は皇族の出でなければなれない。
結局、皇室と皇別摂家の順繰り。
坂上氏って皇族だったっけ?
120 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 18:17:26
>>119 皇族といえば皇族の末裔ってことになってるけどwww
123 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 23:19:21
征夷大将軍は、天皇から節刀を受けて、軍内での権力は天皇から譲り受け、隊員の命は、将軍が握るという大役であるが、皇統に限るわけでは無い。→例は他の人があげている通り。
武家の幕府を作るにあたり、源頼朝が源氏であったことから、源氏(皇孫)であることが必要と勘違いしてしまったんだろうね。
124 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 23:24:12
>>123 将軍は源氏じゃなきゃダメみたいなことが言われるようになったのは時代が下って室町以降だろうね
>>124 そりゃそうでしょ。源氏じゃない将軍のほうが多かったんだから。
126 :
日本@名無史さん:2010/11/01(月) 00:18:50
>>123 それに、平清盛が内大臣→太政大臣となったことも微妙に影響しているかもしれない
127 :
酒乱童子:2010/11/01(月) 00:28:15
128 :
日本@名無史さん:2010/11/01(月) 21:43:28
>>124 勘違いと言うより先例にならっただけでしょう。
足利義満の例が以後の征夷大将軍の慣例になったんでしょうね。
源氏長者や淳和奨学院別当など、別に必要性がない官職まで
徳川将軍が就任したのは先例そのものでしょう。
そもそも摂政も別に摂家しかられないとあったわけではなかったのが、
いつの間にか摂家だけとなった物と同じような物だと思う。
129 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 01:41:33
摂関家の嫡男が非参議(三位中将)から中納言に任ぜられる先例は頼通あたりからか?
祖父の兼家、父の道長も参議を経ずに中納言に任じられてるが
両者とも嫡男とはいえない
130 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 03:44:47
源方子は何で生前正一位になれたの?
131 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 01:10:55
死後追贈ではなく?
132 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 07:07:22
征夷大将軍の前線基地が「幕府むなのか?
てことは鎌倉も江戸も
対蝦夷戦争の主戦場ってことになるな。
その土地の人間にとっては随分失礼な話だな。
133 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 09:59:10
日本には他民族との問題処理に独特の手段が
http://s1.shard.jp/deer/0202/6/151.html 日本には、太古の昔から「征夷大将軍」という制度が一貫している。
これは、他民族を末代にわたって滅ぼすことを意味する。
日本の海外移民は、「征夷大将軍」を含む、将軍たちだった。
徳川幕府は、これを「御庭番」と言い換えた。
出国に当たっては、「供述調書」に相当する誓約文が提出された。
それに対して、「勅書」が手渡された。
移民たちは、代々これを神棚に祭った。
裏切り者は、仲間たちの御庭番に殺された。
末代にわたって、この体制は完ぺきに維持・拡大された。
今日の現代社会でも、完ぺきな秘密のもとに多くの御庭番たちが、
日本の政治・警察・軍事・経済・教育・医療・報道・・・・を牛耳っている。
134 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 18:56:51
>>130 当時は鳥羽上皇による院政まっただ中で、
寵愛する藤原長子の腹に生まれた第八皇子の体仁親王を
第一皇子の崇徳天皇を廃して3 歳で即位させ、
「諸大夫の娘」と摂関家から馬鹿にされていた長子を
皇后→女院(美福門院)にしてしまったりやりたい放題だったからなあ。
源方子は美福門院の生母で、近衛天皇の外祖母。
普通、天皇の外祖母は従一位に叙せられるのが慣例なんだけど、
方子は正一位に叙せられた。
鳥羽上皇と美福門院の意向があったみたいだね。
135 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 23:47:49
>>132 独立政権として自前の組織を整えるには
征夷大将軍の方が都合が良かったのだろう
ラテン語で言う「インペラトール」
136 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 23:48:28
あげ
137 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 20:35:34
良スレにつけあげ
138 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 02:09:12
どなたかネタの提供お願い
139 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 14:54:22
藤原信頼
140 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 19:18:52
関白道隆の長男・藤原道頼は性格も良ければ顔も超良かったらしいな
141 :
日本@名無史さん:2010/11/20(土) 00:17:36
>>129 清華家(嫡流)の中納言直任はいつから?
堀川基具が准大臣宣下を受ける頃には
その慣習が確立されていたようだが?
五摂家が五摂家のまま存在し続けたことが疑問なんですが、なぜですか?
143 :
日本@名無史さん:2010/11/29(月) 00:55:41
>>142 松殿が没落し、近衛と九条が成立して鷹司、一条、二条が分立したからw
0点
そりゃ、成立時の事情であって、なんで続いたかの説明になっていないがな。
鷹司は当主不在から復活したもんな。
絶家にすれば、残りの四家が官職に就ける期間が延びるチャンスだった。
147 :
日本@名無史さん:2010/11/29(月) 12:08:47
嫡流の近衛が2家で庶流の九条が3家って少し理不尽な気がする
148 :
日本@名無史さん:2010/11/29(月) 20:33:35
単なる伝統だな。
一度成立してしまえば格式として持続する。
社会的に言えば大した権威を持っていなかったから五家持ち回りが持続したといえる。
摂関ってのが実権を持つものに魅力がなかったから無理に奪うものでもない。
逆に摂関に魅力を感じる実力者がいれば当然摂関家は増えるわけだ。
藤5家と豊1家体制みたいにもなる。
秀吉は摂関の地位を他家に譲る気はあったのか。摂関が豊臣の
独占になったら五摂家はどうなるんだろう。
>>149 単なる想像だが、
結局、権関白だか何だか知らんが新しいのを作って
それを持ちまわり、じゃないかな。
或は、関白の上に、豊臣専門に新しく作るかだね。
151 :
日本@名無史さん:2010/11/29(月) 23:25:46
豊臣氏は准后レベルのものを世襲しそうな気がする
摂関に限らず官位全般に
豊臣政権の官位体制では公家のほうが干上がってしまうから
遅かれ早かれ武家官位みたいなものを導入することになっただろうな
家康は武家官位とは異なる全く違う体系を創設しちゃえばよかった。
藩主たちが○○朝臣では天皇の方を向いてしまう。
御三家ですら大中納言では公家に比べて低すぎる。
154 :
日本@名無史さん:2010/11/30(火) 13:18:20
将軍家 摂家
御三家 清華
大藩大名 大臣家
中藩 羽林
小藩 半家
155 :
日本@名無史さん:2010/11/30(火) 13:23:46
武家官位なんか将軍以外は公卿にすらなれない体系でしょ?
将軍親族で大納言、大藩当主で4位下少将なら武家の官位としては破格だよ。
豊臣期が異常だっただけ。
156 :
日本@名無史さん:2010/12/01(水) 01:30:52
>>151 一度、「准后」とかを世襲してしまうと、
もはやその家は天皇家の「臣下」ではなくなるので
いずれ必ず、皇室を廃して自分が天皇になろうとする奴がまた現れる気がする。
足利将軍は義満以後、准三后を世襲してたはずだが
158 :
日本@名無史さん:2010/12/02(木) 00:09:07
関白に豊臣が二人入って、屈辱だったろうな摂家は、、
160 :
日本@名無史さん:2010/12/02(木) 00:33:37
>>143 で、徳川家が天皇や大臣を認定する方式にすればいいんじゃないか?
161 :
日本@名無史さん:2010/12/02(木) 09:12:11
秀吉の政権構想がよくわからない。ずっと関白を政権の長にして
やっていくつもりだったんだろうか?秀次解任後
自ら関白に再任するでもなく、一族腹心の誰かをカイライ関白に
据えるでもなく、豊臣政権は関白位なしで存続すると宣言して
しまったわけだ。深く考えずに場当たり的に行動したんだろうか?
162 :
日本@名無史さん:2010/12/02(木) 13:18:46
関白・秀吉と将軍・家康、
同席になった場合、当然上座は将軍・家康だよな
>>161 関白なしで存続するってよりも秀頼のために空白にしてたんでしょ。
秀頼の関白就任までは五大老による合議にすることで権力が誰かに集中することを防ぐ。
まあ上手く秀頼に継承しても幕藩体制のような安定性は出ないだろうけど。
> まあ上手く秀頼に継承しても幕藩体制のような安定性は出ないだろうけど。
連合政権という形からの脱皮はなかなか難しいだろうしね
うまく徳川を取り潰せればなんとかなるのかな?
徳川をうまくとり潰して、
天海・崇伝なみのブレーンを配下に置いて、
しかも子飼いの武将たちが三河武士団なみの忠誠を示せば安定できたかもね。
まあ、難しいねw
つーか、江戸時代の安定がいかに、特殊なものだったかってことだよ。
あんな安定した時代は日本史上、他にない
166 :
日本@名無史さん:2010/12/03(金) 00:26:13
167 :
日本@名無史さん:2010/12/03(金) 00:58:21
信長→秀吉→家康の流れは
始皇帝→項羽→劉邦の流れに似てるな。
168 :
日本@名無史さん:2010/12/03(金) 01:45:08
太政大臣、摂政・関白、征夷大将軍で殺された人って何人くらいいるだろう?
足利将軍(義教、義輝とか)
それ以外には?
太政大臣・大友皇子、藤原仲麻呂
征夷大将軍・源義仲、源頼家、源実朝、護良親王
内覧でよければ悪左府頼長、
切腹でよければ豊臣秀次
聖徳太子とか足利義満とかも殺されてても全然おかしくないが、
まあ確証は全然ないな
桓武平氏嫡流は高棟王系
清和源氏嫡流は摂津源氏系
だから、清盛も頼朝も傍流、、でいい?
戻っちゃうけど、
摂関不在時は、実質的に仕切るのは左大臣?
室町時代の摂関は名ばかり職で、朝儀にも出席してなんだよね。
摂関不在時は左大臣が一座で仕切る
内覧も兼任しているだろうから
というか実質的は摂関より左大臣が仕切っているんじゃなかった?
室町以降に朝廷で実務を仕切ってるのは伝奏、議奏やら。
太政官制は形骸化してる。
朝儀を統領するのはもともと摂関でない首位大臣の職掌。
摂関は太政官の外にいて万機を統べる。
175 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 01:56:42
しかしよく思うんだが、平安時代以降の皇室と藤原氏の関係って特殊だよな。
天皇と関白を比べたら勿論、主君と家臣の関係で天皇の方が上だし
関白の権威も天皇の外戚であることから生じてたりするんだが
「天皇の弟」「天皇の子」になると、
途端に関白より格下になる。
江戸時代に、いくら大老だからって
身分から言えば御三家・御三卿より明らかに下だし
将軍の弟の方が当然、大老より格上なわけで、それが普通だと思うんだが
皇室と藤原氏の関係は、ちがう。
平安以後江戸末期まで、ずっとそう。
摂政、関白が人臣でもなれるようになったのが平安時代以降
摂関とは何かを考えたら自然とそうなると思うが
平安時代は意外にも天皇の外戚以外が
摂関をやっていることは結構ある
宮将軍
179 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 10:21:55
>>148 左摂政 従一位前左大臣二条斉敬
右摂政 内大臣正二位徳川慶喜
を考えていたのが老中板倉勝静。
180 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 13:49:05
>>175 天皇>関白 だが
天皇の子(嫡子以外)<関白の子(嫡子・嫡子以外)
だもんね
>>176 むしろ平安時代以降は藤原北家流しかなれなかった
だからこそ足軽の息子の秀吉が藤原氏を名乗ったのだし
徳川は征夷大将軍じゃなくて関白を選んでいたら
藤原氏の先祖を名乗ったのだろうか…
183 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 23:12:14
>>182 既に藤原でなく豊臣が関白になったって先例があるから
別に藤原姓を詐称する必要は全くない。
つーかそもそも、関白になる必要性が全くない。
京都に常駐しなきゃならないので関白を選ばない
三河守に叙任されたときにすでに新田流源氏という設定になっている
>>183 秀吉が関白になるために藤原秀吉としたのに
豊臣は先例になるのか?
家康が関白を選ぶなどありえねぇっス。
つ【武家関白制のgdgd】【武家棟梁・源氏長者のピポット確保】【家康と秀頼と藤氏の官位関係】
>>185 後の先例になるために賜姓を受けたようなもの
なんで朝廷から独立した官位体系を組まなかったんだろ。
秀吉は権力基盤が弱いから仕方ないが、家康は天皇を任命する立場になっても不思議じゃない。
信長も藤原信長だっけ?
193 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 01:43:34
>>185 ん?
秀吉はその藤原をやめて、豊臣にしたんだが?
藤原以外でも関白になれるって先例としては、じゅうぶんすぎるだろ
藤原信長って、普通に平安後期の太政大臣(道長の孫)のことだろ
>>194 それはわかっているってw
織田信長も本性は藤原姓を名乗っていて
武家らしさを出すために平氏だかに改名したんだろ確か
×性
○姓
織田家の先祖については平氏説・藤原氏説・忌部説の三説があって
最初は藤原氏だと主張していた
>>189 将軍ではなく「御公方様」もしくは「江戸殿」という君主号。
199 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 07:26:21
豊臣家には整った系図がないだろ。異常だね。どれかの時期に
なぜ作ってしまわなかったんだろう。
>>199 秀吉が土百姓の出であることは、当時既に誰もが知っていたからでは?
いかにものフェイクは失笑のネタにしかならんわなw
202 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 01:02:01
コンプレックスの塊にしか、ね
203 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 01:16:19
>>199 豊臣家があと3〜4代続いたらその時の関白が作っていただろうね。
その時には、秀吉と同じ時代を生きた武将はほとんど死んでいるから。
秀吉が関白に就任した時点では、まだ信長の草履取りをしていた頃の
連中が周りにたくさんいたから、いくらなんでもバツが悪い。
犬千代時代から付き合いがある、前田利家に「お前、頭に
ウジわいたか?」と笑われるのがオチ。
自分で後奈良帝の落胤説を吹聴してたらしいけどな
日輪の子だろ
206 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 11:58:22
ソースがヰキでorz
秀吉父=木下弥右衛門
名字を持たない最下層の貧民、あるいは針売り
商人、漂流民の山窩 (広義的な傀儡子)の出身とするさまざまな説
…名字を持たない最下層の貧民…
藤原姓を名乗るのは100万年早いわ
207 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 12:47:54
フジワラなんてワラワラ湧いてただろ
208 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 14:02:35
ミナモトなんてのもモットモット湧いてたな
210 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 14:23:03
卑しい出だから出自自体よくわからないという
秀吉の母の碑みたいなのが昭和区にあるらしいんだが、誰か知ってる?
たとえ最近になって作られたものでも興味はあるもんで。
大空襲は避けられたかもしれないし。
212 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 22:51:19
>>205 この日輪の輝きを恐れぬのなら、かかってこい
基本で悪いが秀吉はあんな出自でなんで関白になれたんだろう。
武力統一をしたというのはそのくらいの異例で稀なるできごと、というのはわかるけどそれなら
武家系の役職につければいいわけで、関白というのが異常すぎるような。
家康が見事に直系の血統を二代で消滅させたんだけど、これは公家さんたちからみると「ラッキ」って
感じでいいのかな。公家さんたちの日記はいろいろ残ってるだろうけど、そのあたりを記したのはなにか
あるんでしょか。
武家系の役職の最高位、征夷大将軍は足利義昭が現職で、
秀吉の要請にも関わらず、職を辞さなかった。
源姓でもない秀吉は近衛家の猶子となることで藤原姓となり、
藤原秀吉として関白となった。
>>214 ありがと。
そういう手順は理解してるけど、だからといってなれるものでもない。
もちろん朝廷内も一枚岩ではなく、いろんな対立やトラブルをうまく利用した、
というのだろうけど、にしても異例で異常すぎる気がする。
武家官位の低さと比べても、秀吉だけが突出してるし今と違って身分制
みたいなのがもっと明確だった時代に、というのもすごいもんだ。
賜姓にしても、何百年ぶりぐらいなんでしょう、源平藤橘にさかのぼるぐらいで。
ほんでその後は現在まで出てないのかな、なんかあそこだけが異常でね。
大体、思いもつかない、というのが普通な感じ。
一番驚いてるのは信長だろかな。
216 :
日本@名無史さん:2010/12/07(火) 15:12:32
(^▽^)
>>215 異例というなら大嘗会を挙行できずに死んだ天皇も異例だし
天皇の葬式が出せずに死体が腐ったのも異例だろw
秀吉を猶子にした近衛前久あたりの言だと、この頃の公家や天皇は思ってるより現実的だよ。
秀吉は実質的には天下人で関白だろうと実力で奪い取ることもできるはず。
それを辞を低くして近衛家の猶子となられ、経済援助ももらえた。
近衛から関白が出ることで一応の面目も立つんだから結構な話しじゃないか。
そんな感じだったかな?
とにかく異例だとか前例にないとかにこだわってられないほど危機感があったんだろうな。
218 :
日本@名無史さん:2010/12/07(火) 18:55:58
明治時代のほうが、公家官位の最大規模の崩壊だよ。秀吉時代とは比較にならない。
秀吉時代でも、武家は公家官位の一角を一時的に占めたに過ぎない。
実質権力者なのに、なぜここまで控えめか不思議。
219 :
日本@名無史さん:2010/12/08(水) 07:03:42
>>217 幾ら無力だろうが、逆に高い権威を持っていようが、あまりにも電波ゆんゆんでは生き残れなかったろう。
朝廷が戦国を生き延びた理由はいろいろあるが、メンバーはそこそこ有能立てのでは。
秀吉が控え目なら家康はどうなるんだ?
king of 謙虚か?
>>217 ふむふむ。
とすると単純に考えて、経済的圧迫により秀吉に権威を売ることによってしのいだ、
秀吉もそれをまたうまいこと利用した、という感じか。
もう少し公家側に知恵があったら、権威を小売してどんどん秀吉から吸い上げることも
可能だったろうけど、そのあたりの駆け引きは役者が違うものね。
ただ、問題点として、小売できる権威ならともかく、関白職、なんてのはトップなわけだし
その、異例レベル、というのかな、その確認がしたくてね。
守るべき一線みたいなのもあったろうし、前久は少し前衛的だけど、お爺ちゃん公家あたりが
「許さん」みたいなのはなかったのかな、とか。
もちろん秀吉にバレると報復がこわいから記録には残らないだろうけど、信長の東大寺切り取りの
時でも「前例にない〜」って断り方はしてる。
猿が天皇の言葉の代弁者なんて、有り得ないことで、一応近衛家から、という砦はあるけど
みんな納得してたんだろか、とかね。
ここで、信長の三職推任も微妙にからんでくるんだよね。あそこで朝廷が関白を勧めた、というのは
確実なのかな、って。だとしたら秀吉よりも信長が先行することになるし。
今のホリエモンでも「つぶれかけた会社を立て直してみんなの生活を守ってやった、結構な話」
って言うけど、それは勝者の理論で、経営権取られた方はそういう損得では割り切れない物もあるはず。
そのあたりの確認をね、官位という面から知りたいとい思ってここのぞいてみたんだ。
222 :
日本@名無史さん:2010/12/08(水) 10:07:43
223 :
日本@名無史さん:2010/12/08(水) 10:55:21
末世とは別にはあらじ木の下の猿関白を見るにつけても
近衛が断っても他に4家あったから、
どこかが安く譲ったことだろう。
武力とカネを握った秀吉には逆らえない。
225 :
日本@名無史さん:2010/12/08(水) 14:15:29
金で買えるなら買いたいものだ
幾らで買えるの?
226 :
日本@名無史さん:2010/12/08(水) 14:29:47
秀吉はいくら藤氏長者の近衛家に払ったのかな?
公式には1000石だっけ。その前のバラまきいれたら相当だろな。
ま、元はすぐとりかえせそうだけど。
>>215 源氏の下賜ならないわけではないが…大体、官位を貰いに来る連中は
みんな何がしかの氏を名乗っていたから別にやらんでもよかったんで。
そーいえば、羽柴筑前時代には何を名乗っていたんだ?
>>221 結局秀吉を入れざるを得なかったんだけど、入れると自身らの昇進ルートがワケワカメでgdgdしてしまったんだよねぇ。
で、妥協的な「猶子」という餌に食いついたが、関白になった秀吉は豊臣を賜ってしかも皇子を猶子にして以下略。
「金と力だけではできないもの」ってのがわかるんだ罠。
>>228 そなんだよね。
金で買えた、なんてのは資本主義の発想で、思いついてもできないことなんてのはいっぱいある。
人タラシとしての天賦の才も多く作用したんだろなぁ。
にしても、猿が3年で関白に、ってのはすごいもんだ。
そのまんまが東京都知事になるのの何百倍すごいことか。
>>224 ちなみに鷹司家は当時断絶していたから、藤原姓だったら同家を再興する手段もあったんだけどね。
231 :
日本@名無史さん:2010/12/08(水) 23:28:23
>>230 松殿家ではどうか、実質2代で断絶して「忘れ去られた摂関家」だったわけだから、
秀吉ごときにくれてやるには適当のような気がするが。
232 :
日本@名無史さん:2010/12/08(水) 23:53:35
>>231 そんなもの貰って嬉しいか? 相手は天下人だぞ。怒らせると怖い。
233 :
日本@名無史さん:2010/12/08(水) 23:55:34
そのころの摂関というのは権威ある役職というより、
五摂家の家職だろ。魅力あるのかな。
関白より日本国王の方が権威あるのでは。
王号を下賜されるなんて栄誉な事だぞ。
235 :
日本@名無史さん:2010/12/09(木) 00:20:20
日本国王は征夷大将軍だろ
236 :
日本@名無史さん:2010/12/09(木) 00:21:14
13代家定がアメリカからそう呼ばれていた
>>233 魅力があったから秀吉は食いついたわけだし、
公的に実権も握った。
238 :
日本@名無史さん:2010/12/09(木) 09:41:11
唯一の摂家になるには新姓が必要。
>武家系の役職の最高位、征夷大将軍は足利義昭が現職で、
>秀吉の要請にも関わらず、職を辞さなかった。
天下統一を早期に実現するために権威は欲しいが
一応、名目上は三法師の後見(家臣)であるために
武家の棟梁たる征夷大将軍になるわけにいかず
発想の転換で関白に目を付けた
って、個人的には思ってるんだけど、どう?
>>239 それもあると思うよ。
いろんな理由が有るけど、出自の関係と小牧で家康に戦闘的には負けて
「将軍ってあんたのほうが弱いじゃん」というのもあったんじゃないかな。
家康から「まっぺんやろみゃ〜」と言われたら困る。
関白なら朝敵になって言われないからね。
241 :
日本@名無史さん:2010/12/09(木) 13:55:23
しかし信長と同盟関係にあった家柄も良い家康は
信長に飼われていた猿はそれまで見下す相手だったのに
よく我慢して仕えたな
ある意味すごい尊敬するわ
242 :
日本@名無史さん:2010/12/09(木) 13:59:42
実は家康も最初は藤原氏の末裔を名乗っていたが
征夷大将軍になるために源氏としたんだよな
>>242 いや、源氏をもらった?のはもっと古い。
徳川に改姓した時で、桶狭間よりも前。
この時のやりとりがまた面白いよね。
ごめん、ちょっと言い方がおかしいな、徳川改姓を理由に源氏を
名乗ることができたわけで、豊臣時代にも名乗っていた、という感じか。
>>241 そりゃ、子供の代までは勘弁して欲しいだろうな
最近は家康が仕えた相手に信長ってのがあるけど、同盟だから主従関係ではないよね。
家康はほんとよく辛抱したと思う。そのあたりの関係で、友好的だった、という人が
多いけど、どうみても「今に見ていろ」としか思えないけどな。
248 :
日本@名無史さん:2010/12/10(金) 01:17:48
>>247 最後の頃はもう、ほとんど主従関係になる寸前だったと思う。
まだなってなかったけど。
スレタイ読もうね
>>247 ちなみにそれ、「最近」じゃないよ。
1980年出版の信長公記現代訳にのってる表の1つの織田主要大名表(大名の家臣なので大名じゃないけどそこはそれ)に、に徳川が入っている。
信長の実弟の織田有楽斎は徳川に仕えたけど
家康の場合はまた違うような…
>>250 わしらは1980なんてついこないだなんだ。
ほんで、その本自体の信憑性が疑われないか、それ。
確かに。そして日本史板だしな。
1980年…モスクワ五輪、近藤真彦デビュー
最近だよな
黒船見た、なんて話旅先のお爺ちゃんから聞いたことあるもんな。
明治維新なんて歴史上の出来事というよりは、新聞ニュースに近く感じる。
少しスレチかもしれんが、中公の日本の近世2の朝廷の話はどうもおかしく感じる。
秀吉の天下統一は関白就任、つまり朝廷とかの権威をバックになされたものだと
思うんだが、秀吉ー家康の統一には朝廷は無縁であった、みたいになってる。
口出しはできなかったが、十分その権威は存在したし将軍宣下も朝廷からの命だろうし。
読み方がおかしいのかな。
257 :
日本@名無史さん:2010/12/12(日) 01:10:18
>>256 天下を取った家康を追認=将軍任命でしょ?
>>257 そなんだけど、やけに朝廷を軽んじてるというかね。
朝廷の権威は秀吉家康が一方的に利用しただけで、朝廷側の意思は介在しなかった
というのだろうけど、朝廷というのは普段から武家の争いには介入しないものだし
その追認みたいな形では十分に存在意義を示してる。
将軍宣下も最初は京までもらいにいって、途中から行かなくなるけど、
これを「京までもらいに行く必要のない職だから」と聞いたことがあって、
もちろんそれもあるだろうけど、やっぱりそのあたりからこそ徳川が朝廷の権威を
軽んじる、というのが明確になってきたとは思うのだよね。
将軍宣下の形式論について詳しい人がいたら、「京にまで宣下を
受けに行かなくなった」というあたり、教えてほしいのだけどな〜。
お金がかかるから
徳川将軍家に対する朝廷の権威は2代秀忠の頃には既に地に落ちていたような
後水尾天皇と和子との一連の事から鑑みても
そもそも鎌倉幕府で将軍宣下が行われていたと明言できるのは2件だけの筈。
朝廷が家康や秀忠を朝敵と認定したら、
大名達は家康や秀忠に反抗するのだろうか。
幕末は反抗しまくりだったなw
まぁ対抗勢力があってのことで朝敵認定が先に来る例は少ないんじゃないかな
>>260 そうなんだけど、今は一種のタブーになるのかそのあたりはぼかしてある
感じがする。徳川が強制したみたいな解釈だと、逆賊、みたいになるし
かといって朝廷が望んだというのもちょっとありえないし。
最初の家康の加減、生かさず殺さず、というのは庶民にたいしてのみならず
朝廷や寺社に対してもとてもいいバランスなんだろなあ。
この頃の朝廷の影の薄さを考えてもみよ
>>263 それはまず、徳川家の衰退あってのことだからね。
>>260 違うのよ
個々の案件を見るとそう見えるのだが、政策として一環的に朝廷を抑圧したという方針があったとする証拠が見いだせるのは寛永以後にしか見当たらないのよ
取りあえず、天皇家の外戚になりたいなといろいろ工作したら、結果いろんな騒動が起きちゃいました的の感じ?
徳川腹の天皇が欲しかったのは事実だが
もうそんなのは凌駕しちゃったでしょ
270 :
日本@名無史さん:2010/12/12(日) 20:21:13
だが、諸大名の統制が十分ではない当時、そこまで事を構える余裕もなかったのも事実。
271 :
日本@名無史さん:2010/12/12(日) 20:39:46
>>258 一般的に言われているのは、家綱がまだ幼少で上京に耐えられない
と言うのが理由。以降それが先例になっただけだよ。
但し、京に行かなくても朝廷から勅使を派遣してもらい表面上でも
「天皇から任命された」と言う形は継続している。
他にも家康の神号や東照宮の宮号宣下など、天皇の権威を蔑ろには
していない。
正月の祝いに朝廷に使いを出して、その返礼に勅使が下向し、幕府が
総力を挙げて接待するなど、天皇の臣下と言う形は明治維新まで
崩していない。
和子入内のころは天皇の権威を必要としていたけど、
その後、将軍の娘を入内させなくなったということは、
そんな必要がなくなったということでしょ。
実際のところ、娘のいた将軍がいないのもあるか。
綱吉の次は家斉かな。
273 :
日本@名無史さん:2010/12/12(日) 21:43:37
>>272 外戚の地位は必要がなくなったけど、権威自体は必要と言うと
言うか利用している。家康の墓所である東照宮と将軍家の
菩提寺である寛永寺を統括する輪王寺宮に皇族を招いたり、
答礼の勅使を迎える儀式を幕府の重要儀式とするなど、天皇の
権威を無視をしているわけではない。それに諸大名の序列も
官位官職で固定化するなど、将軍と言えども朝廷の一員と言う
構図は維持している。
本当に天皇の権威必要なかったら、幕府で新たな地位を作れば
良いだけだし、勅使を迎える必要性もない。
274 :
日本@名無史さん:2010/12/12(日) 22:55:45
朝廷を徳川王朝の本にある一権門とし、
徳川王が天皇を任命するというスタイルにすることもできただろうに。
275 :
日本@名無史さん:2010/12/13(月) 00:01:27
>>274 当時の日本人でいくら権勢を誇っていても、そんな発想を
持っているのは皆無だろう。
当時は日本=天皇=神だと言う認識。
日本の宗教や文化は天皇と深く結びついているので、公家以外
にもこれらの勢力とも対立する羽目になる可能性が大きい。
そこで日本国王ですよ
初期の水戸学では、
後醍醐または後亀山を王としての最後の天皇として扱ってるという話だが本当?
朱子学なんて馬鹿な教えを推奨するから、ルサンチマンに駆られた奴らが天皇を
崇拝し始めて幕府崩壊の遠因を築いた。
素直に、徳川宗家が至高と教えればよかったのに。
279 :
日本@名無史さん:2010/12/13(月) 07:23:37
徳川将軍が日本国王なら、秀吉も秀頼も日本国王に
なる。それでは徳川にとってまずかろう。
小学校の頃から歴史では
江戸時代は徳川将軍時代として
何代将軍時代の時の出来事が重要かであって
天皇なんて一度も出て来なかったもんな
出来事が重要かであって→出来事かが重要であって
後小松天皇で南北朝が統一されてから、
次は孝明天皇まで存在感ないもんな。
本当に天皇を崇めていた時代は
奈良時代までと江戸末期から現代までだから
>>271 ありがと。
少し先走るが、相手のところに行く、というのは臣従関係にある、ということでしょう。
徳川が京に行かない、というのはまるで「天皇の臣である」ということを認めていない
というか不遜な態度に思えるのだよね。
表面上や形式はもちろん臣下の形だし、その権威を尊重はしている。
回りにはそう思わせておいて、逆賊、的な存在にならないようにしてあるんだが
実はどうも両面作戦でもあるようにも感じるんだ。
公家法度でも、精査すると実は徳川は天皇家を規定、従えるようにはできていない、と
かなり細かい論をみたことがあるんだけど、それと朝廷がたえず日本の君主である
とか徳川が朝廷を尊重敬っていた、とはまた違う話のような気がして。
このあたりは解釈問題だから右より学者的に論じられると、徳川の意思、なんてのは
確定しようがないし、形式的には臣下としての振る舞いではあるんだが、逆に「あれだけの武力で
日本を統一した徳川がどうして天皇の権威を尊重したか」という王権論にも
なってしまうのだけどね。
285 :
藤原信頼:2010/12/13(月) 17:34:32
麿が関白じゃ
286 :
日本@名無史さん:2010/12/13(月) 17:41:43
後水尾天皇と同腹の二宮は
藤原(近衛)信尋となり藤氏長者となった
287 :
日本@名無史さん:2010/12/13(月) 18:41:23
正親町天皇や後水尾天皇は結構存在感あると思う。
まあ後水尾天皇はヤラレ役だけどwww
288 :
日本@名無史さん:2010/12/13(月) 23:06:12
「万世一系」が日ノ本の象徴だというのは庶民でさえ感覚的に知っていたろうから、源氏の征夷大将軍が無視できる訳がないわな。
289 :
日本@名無史さん:2010/12/13(月) 23:17:36
徳川家康や秀忠、家光は上洛して将軍宣下を受けているが、
禁裏に参内して直接天皇から征夷大将軍を任命されたのではなく、
家康の場合は伏見城、家光は二条城で勅使を迎えて、勅使を
介して将軍宣下され、後日宣下のお礼に参内して天皇に拝謁して
るんだけど、天皇が直接本人を目の前に任命・宣下しないと言う
のが慣例なのか?
>>289 将軍職とはそういう一種のケガレ職みたいなもの、というのを聞いたことがある。
足利の初期はどうだったんだろう。おしまいの方ははちゃめちゃになってるが。
江戸時代は徳川家が「最大の権威と権力をもつ王家」で
天皇家が「最高の伝統を持つ日本一の名家」ってとこか。
徳川は実力で奪い取ったから、覇王、なんだけど、
天皇は「神の子孫」だから「家」ってのも超えてるな。
ところで、将軍、というのも頼朝や足利とは徳川ははっきり違うようにも
思うんだが、このあたり制度上、規定上は差異はどうなってるんでしょ。
徳川の権威はあくまで、武家の権威、のはずなんだがどうも
それ以上の価値というか存在に感じる。
上手くいえないが。
皇帝と教皇
>>292 徳川は血統も胡散臭いしな
てか、頼朝・尊氏は純血過ぎて殆どファンタジー。戦国時代をくぐり抜けて通じるはずがないwwww
その二人は血統値が高いから担ぎ出されたようなもんだし
296 :
藤原信頼:2010/12/14(火) 04:17:16
本来なら我が家系が摂関家となるはずじゃ
297 :
日本@名無史さん:2010/12/14(火) 07:50:09
徳川将軍が日本史上いちばん君主らしい君主だと思う。
298 :
日本@名無史さん:2010/12/14(火) 09:32:02
天智天皇、天武天皇、桓武天皇がいちばん君主らしかった。
299 :
日本@名無史さん:2010/12/14(火) 09:55:29
藤原不比等は天智天皇の落胤
頼朝や尊氏は摂関家に仕えた清和源氏の子孫ということがハッキリしているから
その歴史が色濃く残る当時にあって摂家としては面白くなかっただろうな
面白くなくても実力がないのだから仕方ない。
生まれですべてが決まってしまう公家の方が不公平。
生まれてすべてが決まるのは武家も同じだが
実力社会ではあるから足元を掬われる危険もある罠
その点、15代も続いた徳川将軍家は称賛に値する
それというのも家康が抜かりが無い策士だったらだが
同意。
たまたま運がいいから、なんて本も出てるが、家康の関が原後は
徳川家存続のために策を考え、それが15代の元になってる。法度とか
職制とか、ほんと賞賛に値する出来だ。
304 :
日本@名無史さん:2010/12/14(火) 11:05:13
足利も15代250年近く続いているが・・・
足利幕府はなぁ…
つか室町幕府って15代も続いてたんだ
影薄っ
信長が義昭を殺さずに追放で済ませたのも、将軍の存在意義として
意味内容があるんだろか。
単に、当時の感覚として謀反人みたいになるのを避けた、んだろうけど。
308 :
日本@名無史さん:2010/12/14(火) 12:05:19
>>307 信雄同様、政治的に脅威になったらヤルだろう。
そこまで怖くないから生かしておいた。
そのうえで虚仮にする。
310 :
308:2010/12/14(火) 17:55:13
確か天海は最澄の再来らしい。
天海は明智光秀なのか?
ゴメン、ありえんなw
313 :
日本@名無史さん:2010/12/14(火) 18:34:32
>>272 御台所はいつも五摂家から迎えてたじゃん。
朝廷の権威が必要ないなら、それこそ正室なんて要らないだろう。
イスラム帝国のカリフ達のように、側室や女奴隷だけでいい。
日向守光秀、って、日光、って漢字が入ってるもんね。
うまいもんだ。
>>313 権威も必要だけど、人質、的な意味はなかったのかな。
徳川の婚制については素人で悪いが。
>>313 家格のつり合いってもんがあるだろ。
武家に将軍に釣り合う姫はいない。
摂家や世襲宮家が妥当。
正室がいらないって、日本人の発想じゃないな。
日本の君主の中でも桓武天皇と頼朝と家康は別格のような気がする。
桓武天皇ってのがよくわからない・・
>>317 日本の公家社会では中世から近世にかけて正室を持たないのが一種のブームだった時代があった。
だから、摂関を含めて伝記記事には「母:家女房」とされている人が結構いる。
>>319 日本の首都は400年周期で変わってる説。
322 :
日本@名無史さん:2010/12/14(火) 23:38:31
>>317 むしろ、皇族や摂家から正室を迎えることで家格を上げようと
したんだろ。
華麗なる一族みたいに財を成した者が後は血筋と名家から
嫁をもらうような者と一緒。
豊臣秀頼も千姫みたいに、将軍の嫁が別に前田とか伊達、毛利
あたりの出身でも本来なら問題ない。
323 :
日本@名無史さん:2010/12/14(火) 23:45:08
>>317 清華家の西園寺家は正妻を置かない伝統といわれている。
そのため、西園寺公望は正妻を置かなかったとも言われている。
324 :
日本@名無史さん:2010/12/15(水) 00:25:58
>>323 その話よく聞くが、実際に西園寺家の当主は結構正妻迎えてる人が多くない?
公望が結婚したくないための言い訳として言ってた話が流布したとか?
西園寺公望の実父って、西園寺じゃないだろ・・・
>>327 だから、実父と書いたわけだが。
そもそも、正室を持たないのは西園寺だけの話じゃなかったのに、西園寺にわざわざ話題を限定させなくてもいいだろう。
329 :
日本@名無史さん:2010/12/15(水) 09:23:33
>>328 「正妻を置かない伝統といわれている」のは、西園寺家に特殊な事情のはずだよ。
家業の琵琶の弁天様が嫉妬するから、とかそういう理屈があったはず。
チャングム見てても、右大臣、とか出てきて左右に並んでるもんなぁ。
あ〜いうのはやっぱり史実なんだろなあ。
日本でも関白秀吉の時の並び方とか書いたのみたことあるしな〜。
>>329 そんなの後付けの屁理屈に決まってるじゃん!
332 :
日本@名無史さん:2010/12/16(木) 23:16:33
333 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 02:04:52
>>317 外部から権威を獲得・補完する必要がないほど自己の権威が高ければ、
家格の釣り合いなんて関係ない。政略婚をする必要性そのものがない。
将軍の子であるなら、後継者は女奴隷の子でも構わない。
もう少し権威の程度が低ければ、中国皇帝や天皇のように皇族や、自分たちと
関係の深い貴族を正室とする。
でも徳川将軍家の権威はそこまでは高くなかった。だから摂家の姫を正室に。
内親王ではなかったとこにも限界が表れてる。
>>316 摂家の姫なんて人質になんないと思うよ。質になるなら三山管領宮じゃないの。
それにしたって、情勢が悪けりゃかえって幕府方の不利になるが。
宮将軍だって人質にはならなかったという鎌倉幕府の前例もあることだし。
334 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 02:14:23
江戸中期までの内親王なんて大したことないじゃん
まだ摂家の姫の方が使える
335 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 02:19:12
大政奉還後に将軍より天皇を崇めるよう
人々に浸透させるのにどんだけ苦労したことか
権力者からすれば天皇はいくらでも変えがきく存在だったからな
>>334 この頃は特に皇室の衰退が激しく
内親王宣下を受けず出家し尼門跡を継ぐ皇女が多数を占めていたからね
究極の第三者たる外国人が江戸期の天皇・将軍の存在をどう見ていたか。
まあ外国人の書くことだから、必ずしも実態を表しているかどうかは分からないが。
来日時期や出身国・職業などを超えた人々の記述が残されていて、これはこれで非常に興味深い。
@ヒロン(スペイン:貿易商/17世紀初頭・江戸初期) 後陽成/家康
正統君主(内裏)が人々から受ける敬意は極めて厚く、我々が教皇に対して捧げるのと同じ尊敬を日本人から捧げられている。
よって、天下を掌握した者がいざ政治を始める時には、まず内裏に拝謁して官位官職を受けるのであり、……
太閤様もこれを行ったし、今度の内府もまた同断であった。
Aカロン(フランス:オランダ商館長/17世紀前期・江戸前期) 後水尾院・明正/家光
日本の最上の支配者を皇帝といい、幾多の国王や領主が服従している。……
皇帝は内裏(日本の正当君主でかつて帝都であった京に住む)に敬意を表するため、五年目七年目に上京する。……
内裏は皇帝が正妻を娶らず男色に傾くのを憂慮し、近親の姫君を皇帝に下された。……
Bケンペル(ドイツ:医師・博物学者/17世紀末・江戸前期) 霊元院・東山/綱吉
日本には宗教的皇帝(神的君主)と世俗的皇帝(政治的君主)の二つの存在がある。
Cツンベルク(スウェーデン:植物学者/18世紀後期・江戸中期) 後桃園/家治
内裏は俗界のことは全然その勢力を失っているが、然し猶非常な尊敬は受けている。
Dティチング(オランダ:商館長/18世紀後期・江戸中期) 光格/家治
内裏は天照大神の子孫で日本帝国至上の首長として尊敬されているので、
内裏が明らかに不快の気持を表すと、大きな動揺を引き起こすような企ての口実を与えることにもなりかねない。……
多くの大名は自分たちが将軍に全く臣従している状態を屈辱に思っているので、
このような束縛を振り払おうと願って、強く内裏の助けを求めようとするからである。
Eドゥーフ(オランダ:商館長/19世紀初頭・江戸後期) 光格/家斉
旧来日本の独裁者たる内裏の権力は、今や権現によって甚だしく制限され、宮廷の費用も将軍より年々一定額を支給されている。
内裏は官職位階を授与する権利を有するが、……こうした叙任も皆将軍の申請を要し、然る上に内裏は押印するに過ぎない。……
内裏は将軍配下の一官吏によって厳重に監視され、……ゆえに内裏が異志ある諸侯と共に陰謀を企てるなど到底不可能である。
Fゴローニン(ロシア:軍艦ディアナ号艦長/19世紀初頭・江戸後期) 光格/家斉
日本には二人の支配者がおり、ヨーロッパ人はその一人を「信仰上の皇帝」と呼び、他を「世俗の皇帝」と称している。
日本の「信仰上の皇帝」に相当するがごとき名称は、他のいかなる国家にもない。この位は日本固有の、世界唯一のものである。
Gオールコック(イギリス:外交官/19世紀中期・江戸末期) 孝明/家茂
天皇はこの帝国の世襲君主であって、長年中断することなく続いてきた一つの王朝の君主たちの子孫に当たり、
上は大君から下は乞食にいたる全ての日本人が認める唯一正当な君主である。
大君はその代理者ないし総司令官として天皇から叙任され、その資格においてのみ行政府の長である。
>>333 清水家初代の重好は母親の身分が低くて
軽んじられたようですが。
借り物でもなんでもいいわけじゃないでしょ。
341 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 09:04:37
「昨日はとても寒かった」まで読んだ
紫衣事件をとってもそうだが天皇は
幕府から異議を唱えられれば抗議で譲位する事しかなかった
そういう存在
こないだの読本がそういう特集だったけど、外国では家康、特に駿府時代の
家康についていろんな論文が書かれて日本に未訳のも多いという。
欧州のお茶の習慣は日本に由来、とか日本で思われてるよりかは日本や
将軍のことは海外に広く知られており、これは335じゃないがある種の
バイアスがずっとあったのかもしれない。
ミウラアンジンがガリバーのモデルとは知らなかった・・
344 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 21:21:56
近衛家が現藤原氏嫡宗とされているのは道隆流の信頼公の娘の子孫だからだな
>>342 子孫が出来ない女帝に皇位を譲るという政治的意味が理解できない人乙
>>338-339 面白いね。天皇と将軍の関係を、教皇と比較しようとしてるあたり、
欧州人ならではの見方だね。
>>345 あの時点での譲位は実は幕府が一番避けたかったシナリオだった。
徳川の望みは和子が男子を生んでその子どもが皇位を継承するシナリオであって、幼少の女帝の在位が続けばその実現が最悪何十年も先になる。
もっとも、和子が男子を生まなかったのが一番の致命傷だったわけだが。
338、339、348
改行を有効にしてくれよ
350 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 21:42:38
近衛信頼
九条信頼
一条信頼
二条信頼
鷹司信頼
花山院信頼
大炊御門信頼
どした?
352 :
日本@名無史さん:2010/12/21(火) 22:25:56
>>346 やっぱり時代が下ったゴローニン、オールコックは理解してるが、「万世一系」に意味は見出すとこまでは無理だったのかな。
面白いのは、
>Aカロン(フランス:オランダ商館長/17世紀前期・江戸前期) 後水尾院・明正/家光
これだね。
将軍を皇帝(フランス語ではEmpereurか?)って言ってるのか。
諸侯の上に立つものだから、神聖ローマ皇帝みたいな感じなんだろう。
で、内裏はその皇帝の上に立つものなわけか。
実力での統一者に権威を与えるのが欧州では宗教になるわけだが、
日本では、朝廷、というのがそういう存在になる。
では、その朝廷は何を媒介にしてその権威を維持するのだろう、となった
時に、神、のような絶対存在がなくて、かなり合理的には理解しにくい形態
ではあったろうな。
単純に、島国の原始人、みたいに軽んじられていたかもしれない。
天照大神
356 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 08:39:47
現代の欧米人は、天皇と将軍の関係を「メロヴィング朝の国王と宮宰類似のもの」と理解するか、中東史に詳しい人は「ブワイフ朝時代のカリフ・スルタン類似」と理解するみたいだけどね。
357 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 09:16:08
天皇は神勅と血統によって日本の王たるべく神代に定められたのだ。
世界史に類例がない。
358 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 09:48:23
立派な学者も意外に気付いていないのが、男系血統を繋いだ一家がある事によって
民族成員に血縁を感じさせたことな。
「天皇の赤子」もまんざらじゃなかった訳だな。
>>358 気づいてるけど言えないという面も多い。
天皇陵発掘とかDNA検査みたいな方向から、皇室の祖先に大陸の血が
入ってることが証明されたら、それこそ日本がふっとんでしまう。
顔なんかそっくりなんだし、男系血統が微妙に変化してるのも
いいことなのか、悪いことなのか。
そんなこと言い出したら、誰もがアフリカ由来の大陸経由でやって来たんですわ。
それに「日本」という概念も天皇がヤマトの盟主となってからの概念でしょう。
例えば弥生時代に「日本」なんて枠組みは無い。
それに皇室の歴史性を低く見る連中に限って、
7世紀までの列島は混沌としていた、一元国家があったわけではない、
ようやく「日本」という一つの国になるのは、大宝律令以降の8世紀からだ、
とか言っている。
それじゃまさしく「日本」は天皇の国じゃねえかw
361 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 12:56:03
スレタイ読めよ
つまり皇室の血がもとで日本がふっとぶなら、
太政大臣、摂政・関白、征夷大将軍なんかはぶっとんじゃうってこと。
アフリカならいいんだって。
半島、ってとこにつながるのが問題なんだってば。
ちなみに、出アフリカの5万年も前に中国にいたって骨が
見つかって、これはこれで面白い。
曹操の墓もだけど、なんでもうちが一番、というのはいいが、
向こうは国家的に強制して都合のよいデータだけ出せるから、
そういうからみかたしてきたらおもろそう。
364 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 13:34:13
徳川幕府が出来て約100年に渡り内親王の嫁ぎ先は
天皇や徳川宗家への縁組は成されずに専ら五摂家だった
徳川宗家は別格扱いだから、格下の家との縁組しかされていなかった
七代・家継に至って摂家出身の皇女と婚約するが本人死亡で白紙
最も、」法皇と摂家当主の争いや
先代の摂家出身の正室と将軍生母争いなどが背景にあったわけだが
365 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 13:38:02
×徳川宗家は別格扱いだから、格下の家との縁組
↓
○徳川宗家は別格扱いだから、徳川宗家からみて格下の家との縁組
×七代・家継に至って摂家出身の皇女と婚約
↓
○七代・家継に至って皇女と婚約
366 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 13:47:29
徳川宗家は世襲親王家よりは上だが
五摂家とは同格だったかな
源姓の徳川宗家の家格は、公家の世界では五摂家より下の精華家相当だが
実際には関白よりも上座という、ある意味別格扱いで桶じゃね?
おっと、清華家でした
前期だけとはいえ、親王より上というのはちと不思議なところがある。
関白より上、というのも不思議なもので、それは天皇と同義みたいなもの
じゃないのかな。
秀吉を意識したものなのかな、やっぱり。
>>360 >「日本」という概念
天武持統夫婦以降じゃないか?
結論、「天皇陵」を掘れ。以上。
>>370 親王より上なのは前期までだけじゃないよ
天皇は別として江戸期までは親王に関してはそういう扱いじゃないから
>>371 「日本」という概念は天武持統夫婦以降なのだから、
ルーツがアフリカにあれ朝鮮にあれ、
「日本」がふっとぶわけではなかろう、ってことでしょ。
で、そこでふっとんでたら、
太政大臣とか摂政・関白とか征夷大将軍なんてお話にならない、ってことでしょ。
374 :
日本@名無史さん:2010/12/24(金) 23:04:01
江戸時代までは五摂家>親王家だったと思ふ
375 :
日本@名無史さん:2010/12/24(金) 23:58:28
手前味噌かもしれんが、摂関のシステムはすごいと思う。
どこの国でも、王位に継承権も身分も近い同姓王族、王に2〜4親等くらいの王族の存在というのは頼もしい反面、なにかとやっかいなはず。
そこの間に摂関という異姓人臣を挟むことによってバランスがよくなってる。
権限はでかいが、血筋的に皇位を継承できないから簒奪が厳しいし、よくこのシステムを発達させたわ。
わかっててやったかたまたまか。
フヒトさんあたりに聞いてきたいもんだな。
だから皇室が生き残られたのだしね
>>375 でも、奈良〜平安初期には「なにかとやっかい」な理由で乱がおきていたりしたので。
ああ、飛鳥時代からか。
皇族を痩せ細らせることに成功したゆえ、発達させられたのだろうね。
>>375 日本以外の国だったら、摂関の地位にある人が簡単に簒奪してたと思うが。
だから、皇室が続いたのは、やはり「摂関のシステム」によるものではなく、
もっと他の理由によるものだと思う。
理由というよりは、偶然っていうのも大きい。
380 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 20:29:20
日本の天皇制が長く続いたのは、ローマ法王が誰からも取って代わられなかった点と似ている。
もちろん、かたや世襲制、かたや選挙制で違いの方が遥かに多いのだが、
パワー・バランス的には相似のところがある。
向こうは聖と俗で分断し、日本は権威と権力で分断しているが、
ともに実権力は世俗側が持っているが、聖や権威を利用したいだけであって、
自分が取って代わりたいとは思わない。
このような分断は、人間の本質的な部分に起因するんだろうな。
どの国の歴史も最初は祭政一致から始まるが、時代が進むと分断されて行く。
力を持たなかったから革命が起きなかった
382 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 20:59:50
分断が固定化されてしまうと
とってかわることによるメリットがあまりなくなってしまうのだろう
いずれにせよ藤氏の存在は大きかった
>>382 だから普通は力を持たなかったら、即座に革命が起きて滅ぼされてしまうんだって。
「力を持たなかった」のと「革命が起きなかった」のは事実だが、
それを「から」で結ぶのは正しくない。
どういう例があるんだ?
あと、ヨーロッパでは一応同一血筋で継承されてないか?
>>385 中国の歴代王朝に例はいくらでもある。
西洋では、メロヴィング朝→カロリング朝がそれに該当するかな。
フランス王はユーグ・カペーの男系子孫だけ受け継がれてきた。
オーストリアはハプスブルクの男系子孫だけ。例外はマリア・テレジアで以降は
ハプスブルク=ロートリンゲン家の男系子孫だけ。
イギリス(イングランド王)はウィリアムI世の子孫だけ。こっちは女系でもOKだからハードルは低い。
388 :
日本@名無史さん:2010/12/26(日) 10:19:00
神勅と血統によって日本国王の座は天皇家に保証されているのだ。
スレタイ嫁
歴史的には臣オミ→蘓我の大臣オホオミ→藤原の内臣ウチツオミ→皇親の摂政→左大臣ヒダリノオホヒマウチキミ→右大臣→太政大臣オホキマツリゴトノオホヒマウチキミ→関白でよろし?序列も
日本で易姓革命が起きなかったのはいろいろ面白いけど、摂関家が
自らトップになろうとせず、初期の頃から寄生状態を選んだのは結果的に
成功ということか。
ゴダイゴさんを流刑にしたあたりで、信長っぽいのがいたらヤバかったりしたかも
しれないな。
信長は将軍レベルでも追放ですましちゃったんだけど。
392 :
日本@名無史さん:2010/12/26(日) 19:28:49
日本の王位は天壌無窮の神勅によってニニギノミコトの子孫に保証されたのだ。
アメノコヤネノミコトの子孫は日本国王にはなれない。
393 :
藤原信頼の:2010/12/26(日) 23:42:14
麿が藤原北家嫡流じゃ。高階信西ごときといっしょにするな。
麿が満州を倒したんじや
>380
現代の祭政一致に近い国、イランを見ていると、祭と政を分けるのは、人類の叡智のような気がする。
395 :
日本@名無史さん:2011/01/03(月) 15:06:59
>>394 民主主義の草分けのイギリスは未だに祭政一致の国ですが?
珍説というか何というか
397 :
日本@名無史さん:2011/01/03(月) 23:15:38
>>396 カンタベリー大主教とか聖職者が伝統的に内閣や議会に
入っているけどな。
398 :
日本@名無史さん:2011/01/03(月) 23:26:04
イランほどではないけど、イギリスは日本、アメリカ、フランスの
ような政教分離国家とは言えないな。
カンタベリー大主教は、貴族院議員だし、政治的権威もある。
英国教会は「国教」と言うのもあるし。
399 :
日本@名無史さん:2011/01/04(火) 03:58:08
イギリスのみならず、スペイン、イタリア、ギリシャなどキリスト教を今でも国教にしてる国はおおいな。
国教アリ=祭政一致じゃないけどね
401 :
日本@名無史さん:2011/01/04(火) 10:42:59
まあ、日本のように「政教分離」について
クレージーなほどにうるさい国の方が少ない、ってことだろう。
アメリカだって、大統領は国の公式行事で聖書を手にするが、
日本ではそれは、ありえない。
ってことで話をもとにもどすと、
太政大臣、摂政・関白、征夷大将軍のうち、
仏教徒でなかった人っているかな??
宗派別にみると、足利将軍は禅宗(臨済宗)、徳川氏は浄土宗だね。
そもそも神仏教の分離に五月蝿くなったのは…
403 :
日本@名無史さん:2011/01/04(火) 20:47:19
江戸時代以前の皇室は真言宗だっけか
>>403 皇室の宗教は神道だよ。無知だなあwwww
405 :
日本@名無史さん:2011/01/04(火) 23:20:08
皇室の宗教は密教だよ。無知だなあwwww
>>403 朝廷の主要な法要を司ったのは真言宗(後七日御修法)
と天台宗(宮中法華懺法)
407 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 01:22:38
そもそも日本では、仏教の「宗派」の別ってのは
実はそれほど厳格なものではなくて、
一つの「仏教」についての、教えのバリエーションってくらいの認識。
数学をA先生が教えてくれるか、B先生が教えてくれるか、くらいのもん。
徳川家の菩提寺である増上寺は浄土宗だし、家康自身念仏の徒だが、
寛永寺は天台宗だしね。
そんなおおざっぱな教義で異端審問とかどうしてたんだ。
>>403-405 最近はテレビでも皇族の結婚式やお葬式が放映されるから小学生でも知ってるよ。
皇室の宗教は神道!!小学生にも劣るやつが何で学問板に書き込むの?
410 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 09:03:54
>>408 異端審問なんてしてたっけ?
>>409 皇室から仏教で出家した人が歴史上、たくさんいたんだけど、知らない?
小学校の歴史の教科書勉強してみると、いいんじゃないかな。
たとえば「後白河法皇(ごしらかわほうおう)」ってひとが出てくるからね、その人が仏教徒だよ。
個人的に出家した人がいたとしても皇室の宗旨はあくまで神道。
皇室の伝統を庶民と同じに考えてはいけない。
皇室が神道だけだったら御所の中に仏舎利を安置しないでしょ?
>414
いつの話してる?現在の話?江戸以前の話?
スレタイよめ おまえら
>>415 皇室の伝統の核心部分は3千年来変わっていない。
即位灌頂をスルーかよwww
ぼくのかんがえた皇室は即位浣腸なんてしない!(キリッ
モンゴルに九州一円、中国四国の一部を100年くらい貸してもよかった。
学会員を皇太子妃に送り込んで皇室乗っ取り国体破壊を企む勢力が、
天皇家は仏教徒だとデマを放ってます。
422 :
日本@名無史さん:2011/01/06(木) 20:15:38
根本が神道なのは誰でも知ってるわボケ
しかし一時期仏教が皇室に入り込んでたのも事実
宮門跡とかあるわけだし天皇自身が譲位して出家することがある。
これで神道だって主張されても説得力が無いw
まあ法天皇だけはいなかったから、そういう意味では最後の一線は守ってたか。
よくよく考えてみると三職在任中に坊主だったり神職だったりしたのは道鏡だけか?
是非とも御願寺についての解釈とか、
聖武天皇が自らのことを「三宝の奴」と書いた詔の解説をお願いします。
他でやれ
スレタイ嫁ないのか?
同意する
>>423 確かにそうだね。
出家しながら太政大臣、摂政・関白、征夷大将軍になった人って
他に、思いつかない。
武田信玄が「もし」長生きして、「もし」上洛して信長を破って、
「もし」征夷大将軍に任ぜられてたらどうなっただろう、って気はするが。
429 :
日本@名無史さん:2011/01/08(土) 00:16:13
そりゃ、出家すれば、俗世と縁が切れるから
俗世の官職にはつけないのも道理
足利将軍なら還俗して将軍に就任した例はあったと思うが。
そうか、武田信玄は源氏だから征夷大将軍になれたんだな。
信玄なら、自分は出家のまま権力だけ握り、
息子を征夷大将軍だか何かにつけたんじゃないか、って気はするな。
まさか還俗して将軍就任、はないだろう。そうする位なら、最初から出家せんだろう。
まあ、何と言っても、あくまでも想像にすぎないがね。
432 :
日本@名無史さん:2011/01/08(土) 00:40:43
もし謙信が天下取ったら、世界を狂気戦乱の渦に巻き込む
恐怖の天台座主になりそうだww
433 :
日本@名無史さん:2011/01/08(土) 02:28:13
そういや、関東管領ってのは出家でもなれるんだな。<謙信
そしたら、将軍だってなればなれるんでないの?とも思う。
関東管領は令外官ですらないし。
435 :
日本@名無史さん:2011/01/08(土) 02:59:36
しかしまあ、法体のまま関東管領やってる人が、もし天下取ったら、
やはり法体のまま、征夷大将軍なり関白なりになるだろう。
しかし、執権・管領・鎌倉公方・関東管領だって、出家したまま任ぜられる人ってほとんどいないね。
北条時頼も細川頼之も、ちゃんと執権なり管領なりを辞してから、出家している。
謙信はかなり特殊な例だと思う。
微妙なところだけど、細川高国が出家後に家督と管領を譲った息子が死んだために管領として職務に復帰したという説があった筈。
信玄は長生きしなくても、あと半年、3ヶ月生きててくれたら
結構面白かったとは思うんだがな。
で、もし信長を破ってても将軍はピチピチしてるんだから
よくて副将軍ぐらいじゃないのかな、いきなり将軍ってのはないっしょ。
438 :
日本@名無史さん:2011/01/09(日) 17:45:30
>>433 征夷大将軍は国家の官職
関東管領は将軍の家政機関の役職。
例と言うと征夷大将軍→国家の職の内閣総理大臣
関東管領→民主党の役職の東京支部長みたいな物だ。
>>435 >>437 山名入道とかそんな感じになりそう。
でも武田が畿内にまともに地盤とかコネを持ってないから、
将軍に利用されるだけ利用されて、実力者信玄がいなくなったらポイだろうね
>>436 明確に出家の身で管領に就任した例として、斯波義将の最後の管領がある(1409年)。
これは孫の義淳を管領に擁立するための準備のためで在任期間自体は2か月弱だが、それでも管領になった事実には変わりがない。
441 :
日本@名無史さん:2011/01/10(月) 11:20:14
法親王とかワケが分からないんだけど。
出家したのに親王宣下とかおかしいな。
昔は親王を乱発していたのか。
皇族の範囲を越えた人も親王を名乗ることが出来た
世襲親王家とかいうのもあったし。
昔は親王とは名ばかりの名誉職的な扱いだったのか。
442 :
日本@名無史さん:2011/01/10(月) 20:15:14
443 :
日本@名無史さん:2011/01/10(月) 20:55:20
>>親王とは名ばかりの名誉職的な扱いだったのか
法親王はそういう意味合いがあったかもしれない
444 :
日本@名無史さん:2011/01/11(火) 00:16:29
>>441 親王は「役職」じゃなく「身分」だから、
親王が親王でありながら出家しても、別におかしくはないんじゃないかな。
法親王は意外に激務であることを知らぬか・・・。
446 :
日本@名無史さん:2011/01/11(火) 01:56:30
どういう激務?
447 :
日本@名無史さん:2011/01/11(火) 10:11:42
出家後に親王宣下受けた人いる?
そういう人がこのスレを見ているかという質問ならいないと思うYO
初歩で悪いけどさ、平安時代の降下って、源氏が多いでしょう。
「平」氏が「平安京から取った」みたいには聞くけど、ならもっと「平」への
降下が多くてもいいように思うけど、このあたり教えて。
日本最大の旦那。
それが天皇。
旦那が有縁の寺に子を入れて何が悪い。
親王のまま法体になって何が悪い。
もう、なんでもアリなんですよ。
>>447 原則として親王が剃髪したら入道親王。
入道親王は必ずしも入寺するわけではない(武家でいうと信玄みたいなもの)
僧籍にある皇族が親王宣下を受けたら法親王。
大概の宮門跡法親王は幼少時に入寺して僧籍となったあとで
親王宣下を受けるのが慣例。
平安遷都の興奮が冷めたから平氏賜姓はなくなったのではないか?
って、どこかで読んだ。
新書で「天皇家と源氏」とかそんな題名。
>>452 ほほ〜、さんきゅ。
平が公家っぽくて、源氏が武士っぽいイメージなのは単にその後の
子孫の運命によるものなのかね。
さがして読んでみますわ。
格落ちの姓を欲しがる人がいなかった。
源>平だからね。
在原とかもやっぱり格落ちかな?
橘とか和気は一氏限りか?
源は、発生当初、本来なら親王たるべき皇子に対する賜姓
平は、もう皇位にほとんど見込みのない傍系の皇孫や皇曾孫あたりへの賜姓。
最初から格が違う。
生母に犯罪だか過失があって、源姓剥奪された皇子も居たりする。
親王・皇族とは一線を画するとは言え、臣下の中では最初から別格。
平は、皇裔で有る以外は、ごく一般の臣下。
嵯峨源氏以前の皇子への賜姓は、かなり例外的。
そのそも公式の皇子と認められてないような場合が主。
橘は、末の末で、どのみちそろそろ皇族から外れるような家。
たまたま生母が賜姓されたから、生母の姓を継いだ。
為に当初は皇裔では例外的な宿禰姓(ほとんどは真人姓か朝臣姓)。
他はなにかがあって皇族から外された親王の子(皇孫)が、当初無姓、
後宿禰って言う例がある。奈良時代の例。
在原は皇孫だけど、ちょっと訳あり、これまた皇位には縁遠い。
和気は、完全な臣下。一応は皇裔ってことになるが、居たか居なかったかも、
判然としないような頃の天皇子孫ってことだから、実際はただの地方豪族っぽい。
なるほど。
というと、最初の源から10年ぐらいたって平をつけた時点で
すでに格が違ってたわけか。
とするとその後平氏が少ないのは、親王たるべき皇子が多かったから、
ということね。
後になって理由づけみたいなのが出きるのは理解できるのだけど
最初にすでに、格の差、をつけてた、というのは日本らしいというか
わかりやすいな。
勉強になった。
「天皇家と源氏」奥富敬之著:三一新書:1997年発行
嵯峨源氏賜姓以後で、かつ桓武天皇系皇裔氏族の場合、
源平以外の氏姓はあまりない。
ってことは、清原・文室・高階・橘等の有象無象皇裔氏族に比べれば、
平朝臣でも貴種性があったんだろうな。
本筋から外れるけど、平朝臣で皇籍復帰した例って有るの?
源朝臣は時々あるよね、即位した人までいるくらいだし。
即位しようとしたかもしれない人も若干一名居たし。
まあ平朝臣には新皇って言う大スターが居るけど。
橘もウゾームゾーなのか。
一応、源平藤橘、というから、仲間ぐらいには入れてもらってるかと思った。
461 :
日本@名無史さん:2011/01/11(火) 23:54:36
>>423 >>まあ法天皇だけはいなかったから
「天皇の歴史」と言う本を見れば、称徳天皇のことを
「尼の天皇」と評していたが、これが事実なら、
出家の身で天皇となった唯一の例?
スタートからして、源氏は一世(信ら)に対して賜ったのに対し、
平氏は二世(高棟ら)に与えられたからな。
これを引きずってか、源平両方いる仁明・文徳・光孝裔の例を見ると、
源氏がやはり一世や二世なのに対し、平氏は軒並み三世王が賜っている。
>>461 確かに称徳天皇の例があったか
吉例とはとても言い難いけど
スレタイ読めない馬鹿はいつも同じ奴なのか?
法親王や世襲親王家は名誉皇族扱いということか
名誉っつーか
普通に皇族でしょ?
そういえばスレタイがどうとか絡んでくる馬鹿はいつも同じ奴なのかな?
そう逆切れするのもどうかと思うが、
自分も、そこまで一々うるさくスレタイ嫁だの言わなくてもいいのでは、とは思う
469 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 10:22:45
>>469 スレタイ読めよ
スレタイ読めない馬鹿を探すスレじゃないだろ
471 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 23:46:38
>>465 親王家は徳川の御三家みたいなもんだから、
「名誉」でもなんでもなく皇族(=天皇の親戚)でしょ。
まあ、格や力から言って
臣下である摂関家の方が親王家よりもずっと上だっていう点が、
徳川とかとは違って、日本の公家社会の特殊なところだけれど。
(徳川の場合は御三家・御三卿>>井伊家、酒井家他)
江戸時代に至ると、将軍は実際上の国内統治権や対外的な代表権のみならず、
政治的な権威の面でも天皇を抑える様になった。
江戸幕府の確立以降、四代徳川家綱以降の将軍宣下に当たっては勅使が江戸城に赴き、
将軍が上座、勅使が下座に立つのが礼法であり、天皇への書面上も
『公方様より禁裏へ』と対等の文言を使い、さらに徳川秀忠・徳川家光は天皇との会見の際、
太上天皇と同様天皇と向かい通しで対面するなど、政治的権威の面でも天皇と同格となった。
しかし幕末には天皇の権威が尊王思想の影響により回復し始めると、
待遇が変更され、勅使が上座に立ち、将軍が下座に立つ、
また、将軍徳川家茂上洛の際も、朝廷の高官たちが家茂への礼遇を低くするという変化が見られた。
wikiの記載を読むと、幕末期前までは摂家(関白)より徳川宗家の方が上という感じだが
あってる?
少しズレてたら悪いが、四代から上洛しなくなったことについて、「戦場での
宣下みたいなもので来てもらう必要も無い、天皇家と徳川が対等、同格、なんて
勝手に無礼なことをしてるだけ」とウヨッキーからさんざん言われたことがある。
つまり、天皇は常時徳川の規定外にあり、ずっと上だった、というのだよね。
そういう視点もわかるが、宗家はずっと事実上、摂家どころか天皇をも
規定下においてたようには思うんだ。
474 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 00:40:48
>>472-473 「禁中」並公家諸法度なんてのを出してた時点で、
幕府が天皇を「規定下」に置いてたってのは事実。
でも一方では征夷大将軍は天皇によって任命されるものであったのも事実で、
天皇と将軍とどちらが「格上」か、って言われたら、言うまでもなく天皇の方が格上。
じゃあ将軍と摂関とどちらが格上か、って話だと
これは室町時代から既に、将軍の方が格上で
実際に摂家の当主が将軍から偏諱を受けていることからも、それは伺える。
天皇家を含む公家社会がなぜ江戸時代を通じて残ったのかっていうと、
それは天皇の方が天下人たる将軍よりも格上だったからで。
もし天皇が将軍より格下だったら、そもそも皇室というもののraison d'etreがないし、
わざわざ幕府が皇室を養う意味も全くなかっただろう。
サヨッキーさんは必ず「江戸時代、将軍は天皇と同格かそれ以上だった」って言いたがるけど
それはさすがに、間違い。
>太上天皇と同様天皇と向かい通しで対面
とは具体的にどういう状況?
現代人のやる水戸学には興味もてないなあ
>将軍と摂関とどちらが格上か、って話だと
>これは室町時代から既に、将軍の方が格上
織田信長は天下統一後、征夷大将軍になろうとしていたのかな
秀吉はなぜ将軍ではなくて関白になったのだろう・・・
479 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 10:33:24
>>478 >秀吉はなぜ将軍ではなくて関白になったのだろう・・・
「将軍の方が関白より格上」ってのは、実際の権勢を加味した上のことで
元々の職としてだけの格で比べると、関白>>征夷大将軍 だったからだろう。
源氏嫡流の足利義昭がいまだ将軍であったことと、家康を武圧できんかった
ことが影響していると思う。タイミング的に関白になったのが早かったんと
違う?右大将権大納言ぐらいで官はとどめておいて家康帰順、義昭落飾後で
北条攻めの前ぐらいだったら将軍になるのも形式的にはきれいだ。
481 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 12:21:18
いずれにせよ秀吉は、肩書きとして、関白の方が征夷大将軍より下とは思ってなかったはずだし
もしそう思ってたら、そもそも関白にはならなかっただろう。
むしろ、「関白って将軍より上なんでしょ? じゃあ関白になっちゃおっかなwww」
とか思ってた可能性が高いと思う。
関白で最初に将軍から偏諱を受けたのは、
二条満基かな?いずれにせよ、足利義満の時代だね。
義満はいろんな意味で、ただの(それまでの)征夷大将軍を超えていたから
当然、関白より格上だったことは間違いない。
江戸前期〜中期の徳川将軍家だって同じだよ
これは大河ドラマなんでアレなんだが、
「葵三代」で二条関白昭実が秀忠に詰問されて
「あきざねーーーっ!」と諱を呼び捨てにされた挙句
立ち上がった関白に対して側近ごときが「無礼者!」と刀に
手をかけたシーンは中学生時代の俺にはかなり衝撃的だった・・。
関白も将軍も令外官だし、どちらが上かは時代や人物ごとに代わるのでは。
秀吉が関白になった時、足利義昭はまだ将軍だったけど
天下は云わずもがな秀吉にあった。
江戸時代になると、関白ではなく征夷大将軍を選んだ家康が天下人となり
以後、徳川宗家は関白より上に在り所謂、別格扱いとなったのではないか。
二条家の当主は幕府より偏諱を受けるのが通例となっていたようだし
幕府が摂政・関白の任命権を掌握していたから。
486 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 00:41:50
>>484 それは、単にNHKのプロデューサーがDQNなだけだねwww
もう少し歴史を勉強してから番組作れよな
487 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 09:26:30
>関白も将軍も令外官
その辺のあいまいなところを、太政・左右・内大臣を兼職(プラス位階)して補ったということはないのですか?
488 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 09:33:32
足利将軍は義満以降、准三后の宣下も受けていたから
関白と同格以上の扱いを受けて当然。
別に「征夷大将軍」って職自体が「関白」よりも上だったわけでは、勿論ない。
>>487 摂関の場合は、寛和年間に諸大臣の上に立つという法解釈が成立していたから、兼官しなくても問題はない。
490 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 10:00:44
関白については
>>489の通りで、
足利将軍については
>>488の通りだとして、
じゃあ徳川家の将軍が摂関家より上だっていう法的根拠がないわけだよね。
でもまあ、日本の朝廷っていうのは戦国時代に、一度ほとんど滅亡しかけた政権で
それを信長、秀吉、家康が救ったわけだから、
天子はともかく、諸公家は将軍から俸給を与えられてるようなもん、って意識はみんなもってただろう。
491 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 10:05:14
戦国時代に、朝廷が本当に滅亡する可能性ってどれくらいあっただろう??
「既存の権威を全て否定した」(笑)と言われる信長だが、
もし信長が現れて朝廷を保護せず、
あと100年戦国時代が続いたら、本当に皇室はなくなっていたかもしれん、
とマジで思ってるんだが。
またウヨッキーに餌を与えるような変な方向に行こうとしている
493 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 12:36:45
>>474、475
ありがとう。
ウヨッキーによれば、法度を精査しても規定下にはおいてない、というのだよね。
事実上、というのも認めてなくて、とりあえず法度の文献解釈で「天皇は
自由だった」みたいに言ってて、これが一口ではいえない相当な細かい
理論なんだ。
わしは、事実上、の方を重視するからあまり意味のある理論とも思えないのだけどね。
朝廷を、政権、みたいに言うのはどうだろうなぁ。
滅亡しかけてた、というのも疑問で、血統が続く限りは
武力で政権担当するほうが替わるたびにそっちに取り入って
復活したり、いろいろだったとは思う。
その時点で易姓革命があったらべつだけど、それはまた別の話だろうし。
496 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 14:33:00
葵徳川三代といえば
関白の近衛信尋や九条幸家が、秀忠と家光親子の下座に座り
「(幕府の)弥栄を寿ぎ奉る」とか「御尊顔を拝謁し恐悦至極に存じ奉る」とか言っていた
まあ、九条幸家は秀忠の妻・江の前夫との娘が九条幸家に嫁ぎ御代所の婿となったお陰で
将軍家の後押しで関白になったくらいだからな
近衛信尋は皇弟だったね。
将軍が輪王寺門跡と対面する時はやはり門跡が下座なんだろうけど
門跡に対する言葉遣いとかあるいは尊称とかはどうだったのか
興味ある。タイムマシーンがあればなあ・・。
498 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 23:22:45
まーたウヨとか言ってるアホサヨが湧いてきたな
権威は天皇の方が上
権力は将軍の方が上
当たり前のことでごちゃごちゃ言うなよ
499 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 23:30:14
>>496 それって、何かの悪質な意図でもあってそうしてるの?NHKは。
将軍の方が格上とはいっても、「恐悦至極に存じ奉る」云々はさすがにないでしょう。
藤原氏の子孫の方々は怒らなかったのだろうか。
500 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 23:44:04
品の良い藤氏の子孫はそんなことでごちゃごちゃ言いません
501 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 00:08:48
>>497 日光東照宮の本殿にある、将軍着座の間と輪王寺宮着座の間は
広さも装飾もまったく同じだから、格としては同格だったのでは。
真実はわからないけど、元禄繚乱でショーケン演じる綱吉と
橋之助演じる輪王寺宮が対座するシーンでは綱吉は束帯姿で
輪王寺宮に対して敬語だった。
502 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 00:12:01
徳川宗家19代がベトナム人と結婚ってのは・・・
20代どうするのかな?
徳川慶喜家は現当主で断絶だし
503 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 00:21:48
そもそも大河なんて話を面白くするために史実と違う演出を平気でやるだろう
505 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 03:43:12
しかし、輪王寺宮の恩赦を使って、赤穂浪士の命を救おうと
切腹の決定を下した綱吉をしていたとしたら(徳川実記に
記しているから、真実の可能性が大)将軍の決定<輪王寺宮の
恩赦と言う形となって、決定権は将軍になったにせよ権威は
将軍より皇族の方が上となってしまうよな。
>>499 それでいうと「草燃える」での藤原定家の描かれ方はひどかった。
定家卿を神として崇める冷泉家の人たちはどう思ったのだろうか?
>>502 男子が生まれれば跡を取らせるのは可能だが…一族の反対を跳ね返すことはできんだろうな。
今後は代表理事っぽい選出で決まるのかもしれん。
>>505 それはちょっと違うかも。
当時は袈裟を懸けるという法の例外があって、死罪となったものでも
執行までに坊主が袈裟を懸ければ、その身は聖界の預かりとして刑は執行されなかった。
公儀の仕置に対する僧侶の救済という慣例に則った方策だと思う。
後西院天皇が花町宮時代に江戸で将軍家綱と対面しているけど
東宮ではない一宮家の親王だからやはり将軍より同格以下の対面
だったんだろうね。翌年急に即位するわけだけど。
誰それの下座に座ったことがある、ってことが
即位の妨げになったりはしなかったのかな
まあ家綱ほどの相手じゃ関係ないか
それはさておき
後西院天皇にちゃんと「院」をつけることのできる人間は
それだけで信頼がおけるように見えちゃうな
511 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 23:01:23
>>508 それだったら、別に輪王寺宮じゃなくても、母上のお抱え坊主に
頼めばいいだけでしょ?
つまり権威は坊主>将軍
>>511 坊主としての格が違う。
宮の権威ってよりも三山管領宮としての宗教権威。
>>502 宗家は養子を取るらしい
慶喜家はどうして養子を取らないのかな
>>514 やっぱりベトナム人との息子じゃダメなのかね
もっともまだ子どもが出来ていないようだが
それとも、子どもを作らない約束で周りが結婚を許したか
>.514
へ〜、摂関家からかな。
鎖国からやっと解放された、とは思ったんだが。
>>514 慶朝さんとこは男子がいるだろ
徳川籍じゃなくて長岡姓かもしれないけど
>>517 ヰキには
独身で養子を取らないことを明言しており、旧公爵徳川慶喜家は、慶朝の代で断絶するとみられている。
って書いてあるけど?
徳川慶喜家なんていらんだろ。
さらに徳川男爵家とか誰得なのかと。
徳川は将軍家と御三家さえあればじゅうぶんなのに。
>>515 皇室じゃあるまいし・・・。
かえって国際的な評価はあがるんじゃないのか?
それともヴィェト・ナム嫁の出自に問題でもあるのかな?
521 :
日本@名無史さん:2011/01/20(木) 09:55:59
「国際的な評価」って何のことだろう?
むしろ、徳川家なら良くて、皇室だとダメだっていうその違いが、わからんな。
別に人様の家のことなんぞどーでもええですやん。
現職の将軍家でもあるまいし・・・。
もはや征夷大将軍でもなんでもなく、将来の復位の見込みもほとんどない、
一私人に過ぎない徳川家に外国の血が入ろうが、当主になろうが、
日本史板的に問題になることでもないと思うけど。
それは天皇家でも同じ。
もっともこっちは政治的問題にはなるだろうから、現代史の対象ではあるか。
浩宮が独身でヒィヒィ言っている頃、外国から嫁を読んだらどうか、
という意見があった。
>>522-523 人さまの家のことだからこそ、
その親族が外国人嫁を許容したがらない(らしい)ことに対して、
国際的な評価がどうのとか、外野が何やら意見すべきことでもない、
とも言えるな。
ベトナム人と結婚したら、ベトナムの人からは好感をもたれるだろうけど、
全く関係のない外国人、例えば一般的なドイツ人がそれを見て
「古来の慣例を破って外国人と結婚したんだ!偉いね!!」と感じるとは、思えないな。
ベトナム皇室の末裔がラオス人と結婚したところで、
はあそうですか。それで? って感じだものな
528 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 18:53:43
最後のベトナム皇帝バオダイの娘婿はイタリアのアジスアベバ公爵(バドリオ元帥の孫)。
529 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 19:06:37
家広って人のブログ見たけど、経済の話ばっかりで全然、歴史とか将軍の話がないんだな。
尾張家の現当主のHPは子孫ネタもあるし、いきなり葵の御紋が出てくるのに。
もしかして家広って歴史に興味も関心もない?
別に過去の名門だからといって歴史に興味持たなくちゃいかんってこともないだろ。
死んじゃったけど山階さんとか黒田さんなんて鳥の話題しか出なかったと思うぞ。
531 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 19:57:02
でも、家広は現当主がやってるような東照宮の社参など将軍家当主としての行事は、
やらなさそうだな。
もうだいぶ前の話だが、現当主恒孝さんが某TV番組に出演して、
息子から「お父さん長生きしてね。僕東照宮とか毎年行きたくないから」
みたいなことを言われたと、苦笑いしながら話してた記憶がある。
でも家広さん、雑誌かなんかで薩長の若様たちと会談してたよな。
533 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 22:53:39
こりゃ、親戚の会津さんから養子とった方がよさそうだw
そういった名家の子供が歴史に興味持たないと
こわいところはあるんだよね。
さすがに時代が時代だから勝手に蔵あけて売ってもうた
ってのはないのだろうけど、研究家が閲覧希望した時とか
その状況には大きな影響があるでしょう。
それと価値がわからない知らないというのも危険。
ガキの頃徳川さんってのが学校にいて
やたら私的な理由で学校休んでた記憶がある。すげ〜と
思ってただけなんだけどね。
貴重なものは、みんな財団に行っちゃっただろ。
あと家広に姉か妹がいたはず。
536 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 18:15:09
まだ、イエヒロなんて架空の人物で妄想してるのか。
>>534 徳川家の催しだか定例会だか記念日だかには
学校も会社も休んで参加するんだよな
>>537 確かお茶会とか言ってた時があってガキだもんで
お茶会ってなんだろうとずっと思ってた。
どうでもいいが天理教とかもそうなんだよね。
539 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 18:56:51
寛永寺内の徳川将軍の墓は「個人蔵」になっているけど、
徳川宗家の私有地ってこと?
540 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 23:49:18
永代使用料でも払っているのではないか
墓って墓地のことだよね?
土地を個人「蔵」って、日本語間違ってる気がするな
542 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 09:56:46
墓石は所有できるのでは?
543 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 10:32:57
>>539 墓地は個人の所有だよ。
普通の家でも寺に使用料を払って墓地を所有している。
(使用料を払わなくなった時点で墓地は寺に戻る。
実際に、無縁仏になった墓はかなりあるらしい)
墓石は個人が石屋から買うのでもともと個人のものだね。
寛永寺の墓所も徳川家の末裔が所有しているので
発掘調査なども許可を得なければ勝手にできなかったはず。
天皇陵が個人の所有でない(宮内庁所有)のとは少し違う。
544 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 12:25:13
普通の日本語的感覚だと、墓地を「個人蔵」とは書かないと思うが
>>539のソースはなに?
墓石は子孫の所有で、土地は寺の所有だ。
546 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 18:19:07
>>534 興味がないなら好都合。
博物館にでも遺品を売ってもらったほうが
保管や展示にはあとあと良いのでは?
遺品なんて特定の人にとってはとんでもなく価値のあるものだが
大部分の人にとっては生命の維持に必要なわけでもなく
ましてや日本人全体が無宗教化している昨今に
この家に生まれたから面倒な行事を無償でやれと言われても
厭な人もいると思うよ
>>546 なるほどね。
ただ博物館ならいいけど、本当に興味ない人は二束三文で変なとこに売ったり
するのがこわい。お金になるとかそういう知識もないぐらいだと本当にこわいと思う。
悪徳骨董屋に、博物館は予算が無いから自分にまかせてください、なんてのは
意外とありそうな感じで。
特に書状なんて、汚い紙、ぐらいにしか思ってなさそだし。
ましてや、全部ニセモノか無価値、なんて言われたら「タダでもってって〜」
なんてね。
548 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 23:49:55
>>544 何かの本か忘れたが、国宝だか重文に宝塔が指定されていると
紹介され、個人所有と記されているのは見た事があるな。
>>544が言ってるのは、「個人所有」ならわかるが
土地を「所蔵」するって日本語ありえねーだろってことでしょ
信長が望んだ地位について語ってくれ
俺は太政大臣ではなく嫡男信忠に征夷大将軍を望んでいたと思う
あえて信忠にって説は見たことはないなあ。
信長から申し出て、内意は征夷大将軍にあったって説は見た。
信長は何も望んでなかったんじゃないか。
息子を何かにつけようとして自分は規定外にいようとするとか。
例えいったんは自分が就任しても息子に譲るとかね。
彼の場合は何を考えてたか自体が論議の対象だからね。
>>550 信長が死んだとき、まだ征夷大将軍は足利義昭なんだよね。
信長が嫡子に征夷大将軍を望んでいるたのならば、
都から追放するときにまず征夷大将軍を返上させないのはおかしいし、
義昭は征夷大将軍の地位を利用して毛利なんかに取りいってるわけだし。
信長が征夷大将軍を織田家の役職として望んでいたようには見えない。
ちなみに、義昭の征夷大将軍は、信長の死後
豊臣秀吉の説得によって朝廷に返上されている。
将軍が自らの意思によらずに役職を剥奪されることは室町時代を通じてよくあったことなので
返上が必須とも思えん。
それに幕府を放逐したときと、三職推任のときでは信長を取り巻く状況が違う。
その当時必要なかった役職でも、状況が変われば必要になることもある。
解官は本人の意思によらず行われるからね。
義昭が京都追放になった時点で信長は解官を奏上しても
良かったのだが、そのままずっと放置していたというのが、
なんでか?と思う。兵すら持たない将軍なんぞ、もはや
眼中になかったのだろうか?
毛利のところに行ってからは無視することが一番だからね。
もう1年長生きしたら毛利ごとなんとかしたかもしれないし
信長自体が別の地位についていたかもしれないし。
将軍には魅力は感じないだろうし
関白と言うのは天皇の下になることだから素直に受けたかどうか。
信長は地位自体にすでに魅力を感じないぐらいになってたんじゃないかな。
>>554 室町時代の将軍すげかえは別の足利一族を将軍に擁立して
朝廷にこちらが足利将軍として正統ですと訴えて初めて成立したもの。
そもそも足利将軍をなくしてしまおうというならば返上が必要だったはず。
鎌倉幕府将軍も江戸幕府将軍も皆、最後の将軍が朝廷に返上する形をとっている。
信長が義昭以外の足利家将軍を立てるつもりならばそれは義昭に返上させずとも
可能だったろうが(実際に足利尋尊を将軍につけようとしていたともいう)
足利将軍を廃して織田将軍を立てるつもりならば、返上なくして
勝手に朝廷に申請できないということ。
558 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 00:30:16
このスレが一番内容に近そうで、博識な人が多そうなので質問。
源・平・藤・橘という四大姓氏の中の橘についてなのですが、
平安中期以後の没落後、どうなったのでしょうか?
また、明治期には華族になりました?
>>558 スレち?
日本武尊…継体天皇→欽明天皇→敏達天皇→難波皇子→栗隈王(橘家初代)→美努王(妻は、贈正一位橘三千代、藤原家二代藤原不比等の後妻)→葛城王(橘諸兄と改名、初代橘長者、生前正一位左大臣)
→橘奈良麿(橘家出身の壇林皇后により贈太政大臣)→橘清友(仁明天皇外祖父、贈正一位太政大臣)→橘氏公(贈従一位右大臣)ウィキ参照
など左大臣1人、太政大臣2人、右大臣1人 … 華族の資格あり?
>>558 地下に数家残っただけ。
当然華族になってない。
ただし橘氏長者は絶やすわけにもいかないから藤氏長者が代行。
唯一、堂上家で残った橘氏を名乗る薄家も室町末期に絶家したしね。
世に源平藤橘をもって四大姓というが、平安初期で上流貴族としては
終わってるね。大名で橘氏っていたっけ?
>>561 井伊家は橘を名乗っていたはず。家紋も橘。
近世井伊家は藤原じゃなかったけ?
間違ってたらゴメン。
楠木正成の子孫が続いてれば、
橘氏の華族ってことになったんんじゃないの。
そうだね。
全国に楠木の末裔だと名乗る家があるけど
そのうち一家でも華族になりうる条件の家がなかったのかな?
家系正しき神職とかそれなりの身分の士分とか・・・
566 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 17:29:06.85
大身旗本の甲斐庄氏が万石以上にさえ、なっていれば、
橘姓の華族もありえたのにな。
>>560 是定ってやつね。正確には橘氏長者自体は少なくとも室町時代までは続いているが、
公卿ではないので名ばかりで実態なしってことらしい。
もっとも室町時代は結構公卿も出てるんだけど、その辺との兼ね合いは?
江戸時代の地下ばかりになった頃でも橘氏長者って居たんだろうか?
あと「是定」の語源って何?関白みたいに中国古典に出典があるの?
薄家は最後に継いだ山科言継の次男以継が、
内大臣秀吉の命令だと偽って諸国の牛に税をかけたのがばれただとかで、
1858年秀吉の命令で殺害され断絶。
経済的に困窮してたのかもしれないが、そんなバカなことをしなければ、
まあたぶん幕末までなんとか続いてたんじゃないの。
薄っていう家名からして斜陽な感じがするね・・・
570 :
日本@名無史さん:2011/02/23(水) 21:00:05.28
五摂家は同格扱いなのだろうか(´・ω・`)
同格扱いとはいえ五流あれば必ず序列が付くもんだよなw
まず近衛流嫡流の近衛家は鷹司より上に来る。
九条流は九条と一条が上に来て二条が下になる。
九条と一条は互いに争い、時代によって序列が違う。
何故か近衛と九条を並べるときは近衛が先になる。
江戸時代の家禄が大体の目安になるんじゃね?
近衛>九条≧一条>二条>鷹司の順。
>>568の訂正
1858年ではなく、1585年。
以継は最初の名で、没時は既に諸光に改名されていた。
摂家としてはあくまで同格で優劣はないってことらしいが、
江戸末期だと儀礼上近衛家だけいくつかの特別扱いを受けていたらしい。
今川、斯波、吉良はどういう順序だね?
元々は斯波>吉良>今川だけど管領になった斯波は名を捨て実を取って臣下に転落。
室町の序列は
吉良>今川>>越えられない壁>斯波>その他の管領家だろう
室町後期になると吉良が没落して今川>吉良になったきらいがあるけど家格で考えたら上記の順序。
近衛家は後陽成天皇の皇子が継いでから
天皇家の身内扱いだから。
一条も後ヨウゼイ天皇の子供貰っていなかった?
途中で絶えたけど
畠山を忘れてやるなよ
この辺の話ようわからんのよ。誰か足利一門のことまとめて。
581 :
日本@名無史さん:2011/02/26(土) 02:57:02.59
>>575 斯波は将軍家に家系図みせて「じつは俺のほうが嫡流なんだぜ」って自慢してごかんきを被ったんじゃないの?
582 :
日本@名無史さん:2011/02/26(土) 03:14:28.42
>>575 信長の時代に斯波と吉良が対面したとき、互いに席次を譲らず争ったって話があるから
少なくとも斯波側は、吉良>(壁)>斯波とは認識してなかったはず。
(自分の方が上だと思ってたはず)
「史学雑誌」か「日本歴史」の数年前(たぶん10年まで行かない)で、
儀礼に見る足利一門の序列について書いたものがあったような。
>>581 本当は斯波の祖先が嫡男だったが
母親の実家が鎌倉幕府の反主流派で家督が継げなかった
585 :
日本@名無史さん:2011/02/26(土) 09:46:37.22
細川なんて、いまでこそ偉そうにしているが、
室町幕府の体制では吉良や斯波よりずっと格下。
権力はあったが、それも最末期には三好に奪われてるし。
586 :
日本@名無史さん:2011/02/26(土) 12:56:06.06
細川は家臣扱い
最初は敵だし
587 :
日本@名無史さん:2011/02/26(土) 13:05:03.32
御一家の「吉良、渋川、石橋」ってのは、江戸時代の御三家みたいなもの?
それにしては渋川とか石橋はショボイ。
三管領と今川ってどっちが偉いの?
>>588 江戸時代に例えたら管領は大老で吉良は御三家の水戸あたりだと思う
592 :
日本@名無史さん:2011/02/27(日) 12:47:26.85
足利「将軍家」の分家って関東公方系以外は皆無だよね?
官位をもらっている兄弟は複数居るけど、
家として続かないんだよな。
基本的に門跡寺院に入れちゃってるから、
徳川期のように養子政策とりずらかったからじゃない?
徳川の各家も養子でつないでいるようなもんだし。
台所事情が苦しくて分家させられなかったんじゃないかな
そういえば、徳川将軍家は足利将軍家と違って門跡寺院への入寺は
ないな。准三宮宣下もない。秀吉も宣下ないから武家最後の准三宮は
義昭が最後か。
義満の弟は確か大納言くらいになってたよね?
出家させなかったのは父の遺言か何か?それとも義満の考え?
どちらにしてもその時点では分家創出の意志があったって考えで良いよね?
義嗣の場合は分家とは少し違うようだけど。
598 :
日本@名無史さん:2011/02/28(月) 07:22:08.37
>義満の弟
家康の弟とされる家元(架空説有力)くらい影の薄い満詮か。
>>596 徳川将軍家は将軍になれない男子を門跡に入れるのではなく
無理矢理他家の養子にしてたね。
江戸時代の大名家は養子だらけで血が繋がっていない家は多いとはいえ・・
養子押し付けは、子だくさんの家斉以降だけ。
尾張、紀伊、水戸、駿河、甲府、館林、は別家している。
御三卿も別家みたいなもの。
601 :
日本@名無史さん:2011/02/28(月) 10:45:08.50
保科も養子だけどな。
そう言えば江戸期の上級武家はあまり坊主にしないような。
飼い殺しの方が多い。
なぜ?
部屋住みで残っていたから藩主になれたりする。
水戸斉昭、井伊直弼
寺社に出さなかったのは寺社の権力が上がるのを
防いだ意味もあるのかな。
それといざと言う時の跡取り確保と言うか。
いったん出したのを戻すとその寺の権力が増す危険性もあるし。
>>602 江戸時代には乳幼児の死亡率が高く、後継の絶える大名家が続出してたんだよな。
だから、子だくさんの大名の家では子がどっかの大名の養子に入れる可能性があったから
出家させずに部屋住みで飼い殺しにしていた。
実際に、徳川将軍家も養子、養子で継いでおり、
(5代将軍綱吉、6代将軍家宣、8代将軍吉宗、
14代将軍家茂、15代将軍慶喜が分家から徳川宗家に養子に入った)
歴代の徳川将軍が種馬となることだけを最大の任務とし、
大奥に大勢の側室たちを抱えてもこの調子だったのだから、
江戸時代の諸国の大名の養子の多さと言ったらきりがない。
大名の任務は男子を作って、その子が17歳になるまで生き残ること。
それ以外は目立たず悪させずじっとしてれば十分。
絶えちゃう家も多いけど、時々超絶種馬さんがいたりしてどうにか繋いでる。
ってことは、幕末あたりだと、男系実系では系統が半分くらいに減ってる?
>>598 影が薄いと言われる満詮だが、上杉禅秀の乱の時に義持の尻を叩いて討伐軍を派遣させた。
609 :
日本@名無史さん:2011/02/28(月) 22:46:57.82
平安末期から室町までは武家は父子相続が多いけど、江戸時代の大名は
将軍家を含めて、直系断絶多いよな。
将軍家を含め、大名の嫡子の過保護化が弱体化の原因なんだろうな。
将軍家の世子は元服の時に鎧を着用する儀式があるんだけど、家光
以降は鎧を着て座っているのも苦痛な世子が多かったそうな。
611 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 00:23:59.52
>>592 室町幕府は江戸幕府ほどシステム化されてなかったことが原因では。
江戸幕府は将軍位継承のシステムが確立してるから、抗争のリスクを恐れず血統維持装置として分家を設立できた。
対して室町幕府は、将軍位継承がシステム化出来ていなかった(関東公方家からにして将軍位を狙ってた)。だから分家設立は躊躇われるし、設立されても抗争の中で潰れていく。
これが自分の仮説。
612 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 00:43:03.27
前から疑問に思ってたが江戸時代(特に後期)の天皇家や将軍家の嬰児死亡率は驚くほど高い
家斉でさえも男子で成人したのは家慶ほかごくわずか
育てに当たる女官(化粧術が発達し(有害物を含む)特に乳母の影響は大きい)の問題という説もあるが・・・
613 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 04:26:39.68
>>612 化粧の毒もそうだろうけど、
もっと直接の原因は脚気だろうね。
将軍家茂も、和宮親子内親王も、ともに死因は脚気。
614 :
613:2011/03/01(火) 04:29:25.17
ごめん、成人してからの早逝は脚気だが、
嬰児死亡率は、わからんな。
江戸時代は将軍家に限らず、嬰児の死亡率はかなり高かったはずだが。
615 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 14:29:26.47
室町足利一門の序列は
吉良>今川>>越えられない壁>斯波>渋川>畠山>その他
つかさ、今川って吉良家分家だけど
単なる分家?
それとも
吉良家別家ってあつかい?
616 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 14:32:16.37
代々、上総介を持ってるてtことはさ、
足利将軍家から見て、何かしら特別待遇の家なんだろうね。
単なる足利庶流ってんじゃなくって。
617 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 15:30:29.00
吉良今川って将軍職への野心はあったのかな?
>>617 ないでしょ
京都から遠いし
義元も桶狭間で討死するがこれを上洛を目指すって昔は言われてた
上洛するにしても足利将軍家をもり立てるって意思しかないと思う
619 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 18:48:10.77
もし過去にあったが権威の高い特別な地位があるとすれば正一位だよね。
生前になった者は少ない。
620 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 18:52:16.09
関係ないけど倭国王が最後に贈られた官位は征東将軍(その前が鎮東大将軍だから征東大将軍の誤記説あり)だから、
摂政・関白・太政大臣より上扱いにならないだろうか。
関係ないけど参議の唐名が宰相なのはどう考えてもおかしい。
せめて中常侍とか複数いるのにすれば良かったのに。
まあ大納言が亜相だからなw
622 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 19:57:09.98
>>615 今川優遇は了駿ら(遠州系だけど)の活躍の功
鎌倉公方監視役としての底上げ
が大きいんじゃね
623 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 21:42:28.07
摂政の代表格って誰ですか?
初代1万円札
625 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 23:19:13.71
昭和天皇かな
聖徳大志もな
627 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 11:39:48.32
628 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 12:00:12.06
マジレスするとこでないのかも知らんが、
「摂政の代表格って誰?」って質問は
「天皇の代表格って誰?」ってのと同じくらい
ナンセンスにみえる
いまの若い政治屋とか 妄想摂政なりたい→北 渡って副将軍めざしたが早かたな(T-T) おだのぶりん目指せば
それはまあ現代風に、総理大臣=宰相だと変に感じるかもしれないけど、
平安期に対応する、唐・五代・宋では、宰相は基本的に複数居るものだし。
唐では制度的に左右の尚書僕射各1名・中書令2名・侍中2名の合計6名が正宰相。
後に僕射がはずれて正宰相4名。
他にも同中書門下三品とか同中書門下平章事の肩書きを与えられたのがいたりして、
さらにはこっちの方が主流になったり、
准宰相格の参知政事も複数いたりするし。
制度的な宰相が居た唐〜元まで、宰相は複数居るのが当たり前。
って考えると、参議が宰相でもさほどは変でもないかも。
まあ、参知政事とかその略の参政の方が良いかもしれないけど。
参議は6人どころじゃないからなあw
632 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 21:38:04.41
参議は三位(貴、ただ人)の一番低い官職(四位もいるが)だから宰相だとやはりおかしい。
大納言が亜相だから、唐名の釣り合いが取れていない。
亜相、黄門、宰相の順に偉いと変。
尚書でも何でもいいから複数いる者か何かにすればいいのに。
633 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 21:41:45.95
アフリカかどこかに日系人が住む公国を作れたら公家風の役職にしてみたい(´・ω・`)
自分が君公となり、関白を太子のような扱いにして太政大臣をご意見番に、
左大臣と右大臣を要にして、
左右近衛大将を軍司令官にするのだお(´・ω・`)
>>632 大納言の亜相は、「丞相(府)に亜ぐ」という意。
「官職要解」見てみ。スレ違いなのでこれ以上は書き込まんが。
>>634 自分
>>632じゃないが、
その書き込みじゃあ、何が言いたいんだかわからない。
ちゃんと説明しないのなら、初めから書くなよ。
もし書きこむのなら、スレ違いとかつまらんこと言ってないで、
相手に意味が通じるようにちゃんと書け。
複数宰相制との対応で、参議以上を宰相グループと捉え、
そのうちで単独の唐名がない参議だけが宰相と呼ばれるようになった。
みたいなことを、どこかの本で読んだような気がする。
637 :
日本@名無史さん:2011/03/07(月) 23:37:46.54
「摂関時代史論集」だったか(記憶モード)
最広義の参議は大臣以下議定官全員を指す
という用法があったらしい。
>>615 今川過大評価w
三職>御相伴衆>国持衆>准国持>御供衆・・・
という序列で言うなら、今川は国持衆だから細川賛州や畠山匠作より下
ということになるよ。
いけね讃州だった。。
>>616 大館尚氏が武家衆の官途を
1.衛門督・兵衛督
2.四職大夫・左右馬頭・衛門佐・兵衛佐
3.弾正少弼・八省輔(後略)
てな具合に5段階にランク分けしているけど、受領は
相武奥の守が四職大夫と、
讃予阿の守が衛門佐・兵衛佐と、
尾張守・播磨守・伊勢守・上総介等が八省輔と同等だそうな。
鎌倉時代は上総介だった吉良の極官が室町時代には兵衛佐になったこと、
今川上総介(国持衆)が細川讃岐守や畠山修理大夫(御相伴衆)より下であることが
ここからも分かる。
因みに尚氏によれば御一家は「三職同事」
その中でも吉良の厚礼ぶりは三職以上だ。
まぁ、武力・財力・政治力抜きの格式の話だが。
>>639 それだと畠山金吾家の管領は吉良、斯波を飛び越えて、
鎌倉公方に匹敵するということ?
逆に言えば、官途と家柄は別物といえるのだろうか?
つか、そういう事例もあるということ?
>>642 >官途と家柄
もう一つ、年齢ってファクターもあるよね。
斯波家でも左兵衛督になったのは義将、義重、義敏だけ。
夭逝した義淳・義郷は左兵衛佐、義健に至っては初任官の治部大輔止まり。
鎌倉公方は元服と同時かその前後に左馬頭に任ぜられ、
斯波や畠山よりも若くして左兵衛督になってるはず
(以上、記憶に頼って書いてるんで、間違ってたらゴメン)。
本郷恵子女史の近著に、
官途より
>>638に書いたような序列が重視されたって書いてあったけど、
位階だって家格とあってないよね。
吉良の家格が高い高い言うても従四位下左兵衛佐止まり。
武家衆で赤松政則以前に三位に叙せられたのは
斯波、畠山、山名家の内の何人かだけ。
あくまで印象なんだけど、
初叙年齢が、平堂上の場合でもかなり幼少(5歳前後とか)だったりするのに、
摂家の場合はある程度の年齢(10歳前後?)のように見えるんだけど、
これはなにか理由があるの?
一般的には家格が高い方が昇進が早いと思われ、
とすると、普通は初叙年齢も若年のような気がするけど。
645 :
日本@名無史さん:2011/03/28(月) 00:58:55.78
歴代の摂政で最も権勢を誇ったのは誰ですか?
聖徳太子か藤原道長か裕仁親王でしょうな
647 :
日本@名無史さん:2011/03/28(月) 01:52:25.42
道長の場合は、摂政と言うよりもというという気がする
権勢というと初代人臣摂政の良房さんも相当のもの
二条治孝と斉信、どっちもかなり長命なのに摂関の座に縁なし。
なんで?
その前後の当主。嫡子は早死にだからしょうがないけど。
650 :
日本@名無史さん:2011/03/29(火) 23:19:34.01
何世代もご無沙汰の家が頻繁に摂関に就任したりも珍しくないけどね。
鎌倉期は一条が優勢の期間、戦国時代は近衛優勢、幕末は鷹司等々、平等にたらい回しじゃなくて
家勢が出世に響いているのかな?
18世紀後半生まれの摂家当主(40歳以上生存)
九条尚忠(藤原:1798〜1871、74歳:二条治孝の子:輔嗣の養子)
従五位上(1808、11歳)→左権少将(1808)→従四位下(1808)→左権中将(1808)→正四位下(1809、12歳)→従三位
(1809)→権中納言(1810、13歳)→権大納言(1811、14歳)→正三位(1811)→従二位(1813、16歳)→正二位
春宮大夫(1815、18歳)→春宮大夫辞任(1817、20歳)→左大将・左馬寮御監(1820、23歳)→内大臣(1821、24歳)
→右大臣(1824、27歳)→左大将・左馬寮御監辞任(1824)→従一位(1824)→左大臣(1847、50歳)→関白・内覧
(1856、59歳)→左大臣辞任(1857、60歳)→内覧辞任(1858、61歳)→内覧(1858)→関白辞任(1862、65歳)→出家
(1862)→還俗(1867、70歳)
一条忠良(藤原:1774〜1837、64歳:輝良の子)
従五位上(1782、9歳)→左権少将(1782)→従四位下(1782)→左権中将(1782)→正四位下(1782)→従三位
(1783、10歳)→正三位(1784、11歳)→従二位(1785、12歳)→権中納言(1785)→権大納言(1789、16歳)→内大臣
・左大将・左馬寮御監(1792、19歳)→正二位(1792)→右大臣(1796、23歳)→左大将・左馬寮御監辞任
(1797、24歳)→従一位(1799、26歳)→東宮傅(1809、36歳)→左大臣(1814、41歳)→関白・内覧(1814)→東宮傅
辞任(1814)→左大臣辞任(1816、43歳)→関白(1818、45歳)→関白・内覧辞任(1823、50歳)→准三宮
(1828、55歳)
二条治孝(藤原:1754〜1826、73歳:宗基の子、重良の弟)
従五位上(1769、16歳)→左権少将(1769)→従四位下(1769)→正四位下(1770、17歳)→従三位左権中将(1770)→
権中納言(1771、18歳)→正三位(1772、19歳)→権大納言(1772)→従二位(1773、20歳)→正二位(1775、22歳)→
右大将(1782、29歳)→右馬寮御監(1782)→左大将(1789、36歳)→左馬寮御監(1789)→右大臣(1791、38歳)→
執事(1791)→左大将・左馬寮御監辞任(1792、39歳)→従一位(1796、43歳)→左大臣(1796)→左大臣辞任
(1814、61歳)
二条斉信(藤原:1788〜1848、61歳:治孝の子、斉通の弟)
従五位上(1801、14歳)→左権少将(1801)→従四位下(1801)→左権中将(1801)→正四位下(1802、15歳)→従三位
(1803、16歳)→権中納言(1804、17歳)→正三位(1806、19歳)→権大納言(1808、21歳)→従二位(1809、22歳)
→正二位(1813、26歳)→内大臣・右大将・右馬寮御監(1815、28歳)→左大将・左馬寮御監(1815)→左大将・
左馬寮御監辞任(1820、33歳)→右大臣(1820)→院執事(1823、36歳)→左大臣(1824、37歳)→従一位(1824)→
左大臣辞任(1847、60歳)
鷹司政熙(藤原:1761〜1841、81歳:輔平の子)
従五位上(1768、8歳)→左権少将(1768)→従四位下(1768)→正四位下(1768)→左権中将(1768)→従三位
(1769、9歳)→権中納言(1769)→左衛門督(1769)→左中将(1769)→正三位権大納言(1770、10歳)→従二位
(1773、13歳)→正二位(1775、15歳)→右大将(1775)→左大将(1781、21歳)→左馬寮御監(1781)→内大臣
(1789、29歳)→左大将辞任(1789)→左大臣(1791、31歳)→内覧(1795、35歳)→関白(1795)→従一位
(1796、36歳)→左大臣辞任(1796)→関白・内覧辞任(1814、54歳)→准三宮(1815、55歳)→出家(1823、63歳)
鷹司政通(藤原:1789〜1868、80歳:政熙の子)
正五位下(1796、8歳)→左権少将(1796)→従四位上(1797、9歳)→左権中将(1797)→従三位(1797)→権中納言
(1799、11歳)→正三位(1800、12歳)→権大納言(1801、13歳)→従二位(1804、16歳)→左大将(1807、19歳)→
左馬寮御監(1807)→春宮大夫(1809、21歳)→正二位(1810、22歳)→右大臣(1815、27歳)→従一位(1815)→
院執事(1817、29歳)→左大臣(1820、32歳)→関白(1823、35歳)→左大臣辞任(1824、36歳)→太政大臣
(1842、54歳)→准摂政(1846、58歳)→准摂政停止(1846)→太政大臣辞任(1848、60歳)→関白辞任(1856、68歳)
→准三宮(同日)→内覧辞任(1858、70歳)→出家(1859、71歳)
二条父子は、丁度同世代の鷹司父子との競争に敗れたってところで、
一条忠良と九条尚忠は丁度狭間の世代でライバルが居ないから、
ほぼ自動的に関白ってところなのかな?
一条輝良(藤原:1756〜1795、40歳:道香の子):関白(1791、36歳)→関白辞任(1795、40歳)
がぎりぎり40歳だった。見落とし。
ちなみにこの時期の近衛家の経熙・基前父子は享年39歳と38歳で、左右大臣止まり。
656 :
日本@名無史さん:2011/04/04(月) 21:00:36.88
保
657 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 01:34:37.22
江戸時時代でも、太政大臣は則闕の官という「特別な大臣」という意味は残っていたのか?
摂関経験者でも必ずしもなってるわけでもないし、
それなりの年齢にならないと任官されないようだし、
特別な肩書きとしても重みくらいは有ったんじゃないのか。
江戸時代は将軍を除けば8例7人で内4例が天皇・皇太子の元服加冠。
滅多なことでは任じられない官ではあったようだ。
660 :
日本@名無史さん:2011/04/24(日) 22:06:00.15
661 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 17:23:20.78
平島公方家最強かな?
662 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 02:57:15.69
政治家としての頼通はどうだろ?
父道長の生前はともかく(後見を受けてた)
その後はかなりしたたかという印象は有るが?
663 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 16:08:56.15
>>662 頼道は荘園整理令を出したり、衰退する地方に目を向けたりで
けして政治家として無能ではないんだよね
外戚政策においては父道長ほどの運がなかったけどね
逆に道長なんて閨坊政治というか娘をどんどん天皇の後宮に押し込んで
ライバルを追い詰める政権闘争だけだからね
664 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 16:35:47.80
藤原信頼
関白になれなかった男
665 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 16:40:44.72
>>663 50年も摂関続けた時点で有能な人だと思うね。
666 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 17:01:33.39
頼通が五十年もの長期にわたり摂関の地位におれたのは父道長のおかげ。本人の実力によるものではありません。
つか、独身の派遣社員ががんばってたおかげという事例もあるということ?
668 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 20:20:34.15
摂政関白 略して摂関だろ
摂政の間違いだろ
後三条天皇の即位を阻止する手段はなかったのかね。
670 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 20:42:24.53
>>666 道長というより姉の彰子のおかげ
彰子が一条天皇の男子2人を産むと言う快挙を成し遂げなかったら
頼道は摂関になることもその地位を維持することもできなかったし
父の道長が死んでからも姉の彰子には一切頭が上がらなかった
>>669 後冷泉が男子作れば良かっただけ。
ただし、それが実現しなかったのが全て。
672 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 20:51:31.99
>>669 藤原寛子が小一条院との間に設けた皇子は親王扱いになっていたし
これをなぜ頼道が即位させなかったのかという論文は見たことがある
寛子は頼道の異母妹だがその皇子は頼道の甥に違いはない
結局頼道は悪いことはできない坊ちゃんだったという結論になっていた
道長ならば皇統に孫はいなくとも甥がいればどんなことをしてでも即位させただろうと
673 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 21:39:27.41
甥だけれど、寛子の同母兄弟がいるし寛子自身が亡くなっているから影響力は行使できないんじゃないの?
親王たちの住居は高松殿なのかな?
674 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 21:56:41.78
>>673 後冷泉天皇が即位したとき、母の藤原嬉子はすでに亡くなっていたけど、
嬉子の兄の頼通・教通が影響力を行使し続けてたよ
敦元親王は高松殿で成長したみたいだけど頼通らの力で即位できるなら
頼通・教通がこれまで通りの関白でも悪い話ではなかったはず
675 :
日本@名無史さん:2011/04/28(木) 00:16:06.98
上東門院彰子のバックアップは強いな。
676 :
日本@名無史さん:2011/04/28(木) 23:16:47.84
後三条廃太子は早い内なら可能だったんでは?
しかし逡巡するうちに機会を失った・・・
>>676 皇太子を廃するって言うのは、現代の総理大臣をポンポン変えるのとわけが違う。
小一条院を例外にすれば古代の皇太子交替は大抵謀反と絡められている。
678 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 05:22:26.06
彰子といえば
後一条の皇太子だった敦明親王(小一条院)辞退の後、定子の子の敦康親王を父道長に提案したり
(父と打ち合わせ済みのジェスチャーかもしれないが)
結構政治的能力は有りそう
頼通の後を道長の遺言(確かに生前からその意向は有ったようだ)と称して教通に譲らしたのは御堂摂関家の内紛を回避するためでは?
それでも嫡流は師実に引き継がれたわけだから
>>679 あのキモいのは
一条三位だったり六条公麿三位中納言だったり
藤原だったり源だったり
まあ、フィクチョン人物だしねw
左大臣が「菊亭」と自称してるから、
今出川公規あたりか?
綱條室の父だし、光圀が頼っても不思議じゃない。
もっとも公規は右大臣までしかやってないはずだけど…。
682 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 22:28:02.35
今出川ごときが摂関家である一条家に意見できるのか?
685 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 16:05:11.63
>>677 小一条院だって廃太子の見返りに上皇扱いにされたわけで、そこまでするということは相当無理のある手法だったんだと思う。
さすがに何回も使える手じゃなかったんだろうね。
>>680 清華の今出川が主筋の摂家?一条を叱責するの図にものすごく違和感あったな
摂家で30過ぎて三位中納言というのもおかしな話だけどね
687 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 22:45:51.35
藤原道隆
藤原隆家
藤原忠隆
藤原信頼
藤原成親
徳川御三家は、極官が権大納言、権中納言だけれど、宮家、摂関家との婚姻が多いから、公家社会から見た評価は、官位以上のものがあったのではと思う。
690 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 00:56:46.80
>>従一位権中納言
従一位権大納言なら聞いたことはあるが、従一位権中納言は本当にいたのか
>>685 後三条は当初、臨終間際の後朱雀が藤原頼通に立太子の件を
言いだせないまま頼通が退出したのを
藤原能信が後朱雀に強引に迫って頼通を呼びもどさせ立太子させたらしいね
三条天皇が強い意志で立太子させた小一条院と違って
後三条は立太子そのものが能信の頼通・教通系に対するクーデターに近かった
>>678 教通は一応後三条の東宮傅だったから、後三条の即位で頼通ほどのデメリットはなかった。
征夷大将軍って日本で唯一戦場(現場判断)独断専行権を行使出来た役職。
朝廷の許可を得ずとも勝手に派兵した後に事後報告(結果報告)のみでOK。
日本でこんなコトして許される(罪に問われない)のは
天皇、上皇くらい。
関白、摂政もこれに準ずる地位だけど一応、参議以上(〜大臣)の承認が必要。
>>693 確かにそのように言われてるけど、その権限の根拠は何だろうね?
やっぱり持節に由来するのかな?
持節だとすれば他にも独断専行が許されていそうな軍官がありそうだが。
>>694 近年言われているのは、一般に征夷大将軍の権限と解されていたものは実際には頼朝個人の権限で、征夷大将軍は頼朝の後継者であることを示す以上の意味はなかったという説。
例えば、寿永二年の宣旨とか文治の宣旨とか。
五摂家の上に将軍家有り、か
697 :
693:2011/05/17(火) 08:05:43.07
>>693>>694 そんな事ないよ。
権力の源泉は頼朝じゃなくて坂上田村麿だろ?
当時、朝廷軍は蝦夷に対して連戦連敗だった。
「この(連敗の)ままでは大和朝廷の威信に関わる!」
として東国(蝦夷地)での田村麿に朝廷は全権を与えて蝦夷鎮圧にあたらせた事による。
だから田村麿は戦わずして降伏してきた胡に対しては改めて大和朝廷の名で
勝手に元々のヤツらの領地を安堵(承認)したりしている。
逆に頼朝がこの官職を欲したのはソーした前例(軍事権の発動、領地の切り分け)
があったからだろう。
ま、頼朝なら無役でもヤリたい放題できただろうけどね。
最近のドラマでは、
関白は小娘にビンタされる程度の地位だよ
>>698 あれはコント番組だなw
ドラマスレでもありえんことのオンパ
>>697 >勝手に元々のヤツらの領地を安堵(承認)したりしている。
最終決定権が朝廷にあったのは阿弖流為の処刑の件で明らか
>軍事権の発動、領地の切り分け
当時は20名以上の兵を動員するのにも天皇の命令発動が必要でしたが(将軍に許されたのはあくまでも最前線での戦術的判断のみ)
ついでに言えば、『吾妻鏡』では後白河が頼朝に征夷大将軍を与えなかったことになっているが、それは鎌倉後期の曲筆で、
『玉葉』によれば、後白河の方から一回就任の打診を行って頼朝の方から断っている。
そりゃー最終決定権者はイツの時代においても帝(朝廷)だよ。
足利将軍の時代だろうと徳川将軍の時代だろうとソレは同じだ。
その時の双方のチカラ関係で異なる。
幕府の終焉の頃は朝廷(天皇)>幕府(将軍))、、、
田村麻呂は慢心しちゃったのが失敗の元(東国を離れればタダの小役人だ)。
武家の棟梁(源氏の長者)としての将軍とは違い
雇われ(お上に仕える身の)将軍は辛いね。
>>697みたいに江戸幕府の征夷大将軍の権限と律令国家の征夷大将軍の権限が同一かそれに近いと勘違いしている人が意外といる。
豊臣関白やら江戸時代の関白の権限と、摂関政治の頃の関白の権限が同じだという
誤解も多いね。
704 :
日本@名無史さん:2011/05/23(月) 22:52:43.87
殺生関白
>>702 鎌倉幕府の成立が守護地頭設置時期だとされる由縁だね。
源頼朝は征夷大将軍という役職によって権威を付与されたのではなく
守護地頭によって庶民から直接租税を吸い上げる権限を得たのと
自分の命令ですぐに徴兵できる直臣を持ったことで幕府を開けた
幕府というか厳密には東国武家支配圏だな。
この時点では東国というかというか関八州限定?
708 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 21:29:11.29
>>691 少し後の白河天皇の時代、天皇は皇太子を置かない時期があった。
頼通も後冷泉帝の皇子に望みを託し、無理に尊仁(後三条)を皇太子に
急いで指名する必要も無かったと思う。廃太子しにくいなら尚更。
征夷大将軍の源氏が三代で滅んだあと、暫く将軍空位の時間がある。鎌倉は親王将軍の推戴を望んだようだ。
つまり当時から将軍位はお飾りと考えられていたこと。将軍位は東国自治権の継承手段と割り切っていたのだろう。
それにしても九条頼経は気の毒だ。長兄と次兄は摂家の当主となったのに。
鎌倉時代、源家将軍が三代で滅んだ後、源氏の名族筆頭は足利氏になった。
幕府は足利を潰そうとしなかったのだろうか。後世に禍根を残すことになった。
>>710 えっ、後三条の立太子は御朱雀の遺詔なので、摂関といえども決定をひっくり返すのは無理話だぞ。
>>713 だとすると摂関家は権勢維持のために何を画策していたのだろうね。
後冷泉に子が生まれた場合、後三条の太子にする腹だったのか?
あるいは権力の源泉が外祖父の血縁にあることを軽視する油断を犯したのか。
>>714 後冷泉の子供を太子にするのが一番良かったんだろうけど、実際には皇子が生まれなかったからな……
ちなみに実際に取った対策は後一条の皇女を後三条に嫁がせて皇子誕生を待つことだった。
もっとも、この方法自体が矛盾を抱えていて、目的通りに皇子が生まれて皇位を継がせたとしても、摂関家の血縁関係は後三条と全く同じにしかならないという希薄ぶり……。
>>715 養女じゃダメなの?頼通には寛子という実娘しかいないのだけど、
養女をもらいまくって後三条に嫁がせるというのは。
717 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 23:41:31.43
仮に後三条立太子を阻止したとして、
他に手駒(その言い方はどうかとも思うが)は居たの?
それとも当面東宮は空位って所まで決断してたのか?
展望もなしにただ阻止じゃあ、まるでどこかの国のマニフェストみたいな。
>>717 後冷泉に男子誕生を願うしか手は無い。
上にも出てる白河天皇も、実子の誕生を待って太子をあけていた。
>>717 唯一、実際にいる皇族で後三条の差し替えの可能性があるとすれば、小一条院の息子(皇太子辞退の代わりに子孫一代に限り親王待遇)を立てることだったんだろうけど、それだったら余りにも疎遠過ぎて後三条を懐柔した方がマシなレベルだし。
>>717 とりあえず後朱雀崩御時点では頼通の娘寛子はまだ10歳で入内前だったから、
頼通は若い寛子が産んでくれる皇子に期待して東宮を空けておくつもりだったんだろう。
後冷泉には教通、頼宗ら頼通の弟たちも次々娘を入内させて次の外戚争いに挑んだが、
結果的にはあろうことかどこにも皇子が誕生しなかった。
多分、これは予想外(どの妃との間にも皇子が一人も誕生しない)だったんだろう。
721 :
720:2011/06/10(金) 18:51:58.36
小一条院の皇子敦元親王は頼通の甥だが(母は異母妹の寛子)、
後朱雀よりも先に死んでいるので東宮に立てようがない。
結局、皇子がないまま後冷泉が死んで後三条の世か。
後三条と摂関家の関係はよくなかったが、頼通の子師実は後三条の子白河天皇に養女を入内させ中宮に立て、
実際に摂関家を外戚とする堀河天皇が誕生している。
もっとも、堀河天皇と実際の血縁関係にある村上源氏が出しゃばる実態はあったようだが。
後三条の東宮在位は25年に及ぶ。その間彼は何を考えていたのだろうか。
東宮につけてくれた藤氏に感謝していたのか。そうではなく、藤氏打倒の策を練ったのだろう。
後冷泉没後に天子になった後三条は、延久の荘園整理令と宣旨枡をつくり出す。
政治を藤氏から奪い去ろうとしたのだろうが、荘園整理令に接した頼通の心情はいかばかりであったか。
>>722 荘園整理令自体は後三条よりずっと早く、藤原頼通が出している。
藤原頼通は関白時代の後朱雀、後冷泉の御代、3度も荘園整理令を出している。
ただし摂関家に関してはそれ自体が国家みたいなものなので
(当時の天皇の幼少期の養育費はほぼ外戚摂関家から出ている)整理から外されていた。
後三条の延久の荘園整理令では摂関家の荘園も整理の対象となったことで有名だが、
実際には前関白頼通が隠居していた宇治平等院の荘園が整理の対象外になったりと、
摂関家を追い詰めるには至っていない。
724 :
日本@名無史さん:2011/07/03(日) 00:49:27.05
あげ
725 :
日本@名無史さん:2011/07/04(月) 05:05:55.16
>>723 摂関家の荘園も幾つか没収されてるけどな。
残った荘園は、手続き的に問題無いものだったんだろう。
>>725 そう、頼通が後三条が荘園整理に乗り出すと予想して、事前に後冷泉帝の勅許を得た奴はOKとなった。
これを認めないと、反対に天皇の勅許の権威が揺らいで却って荘園整理に悪影響を及ぼすから。
727 :
日本@名無史さん:2011/07/04(月) 12:46:18.01
>>726 事前に後冷泉の許可を受けていればおkなんてことはないよ。
そら、後冷泉の時代には摂関家の荘園はすべておkだったんだから。
後三条は摂関を廃止せずに教通を関白にとどめたり、
摂関家の養女を東宮(白河天皇)に勧めたりと、
摂関家と一方的に全面対立していたわけではけしてない。
後三条自身、藤原道長の曽孫として優遇されてきた時代もあったわけで、
いきなり摂関家から完全独立して天皇親政を取り始めたわけではないよ。
>>727 摂関家の荘園を34か所のうち13か所停止した後三条だが、停止した荘園は班田とせずに天皇家に没収した。
つまり天皇家の荘園になったわけで、摂関家に対する私怨の発露と看做されても仕方のない行為である。
後三条の荘園整理令には二つの意義があり、いずれも天皇家にとってマイナスの意味を持つ。
1.この大規模な整理令でも整理を逃れた荘園は、国家公認の荘園と看做され以後手出しできなくなったこと。
2.天皇家自身が律令の規定に回帰する理念さえ失っていること。律令政治の変質化を国が容認し肯定した。
つまり、古代の終わりを早める意味を持っていたと言える。
>>727 そもそも後三条は荘園の存続・廃止は天皇の大権に所属させることで荘園拡大による公領の侵食を抑制するための方策として延久の荘園整理令を出したのだから、
先帝の大権を否認する荘園の廃止を行ったら、逆にそれを先例として自分が定めた原則(延久の荘園整理令)を否定する天皇が現れる可能性がある。
その後三条の弱みに老獪な頼通が上手く立ち回ったんだよ。
突然だが、
日本人はどうして天皇制の廃止または皇位簒奪といったことを2000年もの間誰もしなかったのか?
いや多少あるけどさ・・・。やっぱり島国だからかな?
スレチ 出て池
732 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 00:13:02.82
閑院流や花山院流は複数の家が清華家になれたのに、
村上源氏はなぜ、久我家だけしか清華家になれなかったの?
733 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 00:28:51.33
参議って役名好きだわ。
あと、本願寺が名乗っていた門跡なんたらとか。
734 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 00:46:40.51
正一位 内閣総理大臣
従一位 法務大臣
この官位制を復活させてくれと思ったがこうみてみると、未だ日本も大臣とつけてる分、それに近いよな。
市民平等が建前となった現在、順位こそつけられんが。
大臣が多すぎる。卿に戻したらいい。大蔵省も復活してほしい。
>>735 「じゃあ、検非違使も復活させるのか?」
橋本龍太郎が大蔵官僚に実際に言ったとされる名言
>>732 広幡家は、村上家から養子を迎えて承継しているから、それ以降は、村上家の分家みたいなものかな。清華なのに極官が内大臣でぱっとしないが。
まあの頃の清華はおおむね内大臣止まりだから。
もっとも養子で家禄が半減してるから、
家格も落ちてる可能性はあるな。
検非違使とか火付盗賊改の方が犯罪抑止には良いんじゃないか。
えん罪増えそうだけど。
740 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 00:15:26.88
>>735 内閣制度が発足した際に、各参議・省卿が天皇を直接輔弼できるように、
大臣・省卿兼任制にしたという話は何かの本で見たことがある。
現在では、天皇輔弼という意味は事実上ないから、
総 理:関白左大臣
副 総 理:右大臣
官房長官:内大臣
そ の 他:参議兼○○
でも問題がないような気がする。
(大物大臣は「大(中)納言」の自称を許すとか)
それとも、
総 理:大臣(おおおみ)
その他:大夫(まえつきみ)
とでもするか
広幡家は久我家から養子を迎えたけど、その血筋を遡ると近衛なんだよな。
江戸時代のちょうど真ん中である享保末年頃の清華家当主の血筋なんかを見ても、
結構本来の家系とは違っちゃってるものが多い。
本来どおりなのは、三条と醍醐くらいのもんで、
上記のとおり源氏の久我は藤原摂関流(近衛系)、広幡も同じ。
公季(閑院)流の西園寺も摂関流(九条系)、その庶流の今出川も同じ、徳大寺は醍醐。
師実流の花山院は公季流の西園寺、大炊御門は同じ師実流でも花山院系の中山ときたもんだ。
血筋で見たら摂家ですら藤原ではない家多数
>>742 日本の思想は『君は一代、家は末代』だから、家の存続が第一命題で、血筋は二の次。
これを別の言葉で言い換えると、『家を継ぐと血筋はリセットされる』となる。
この弊害は幕末、水戸出身の徳川慶喜が一橋を経て、徳川宗家を相続したことに集約される。
なにがどう弊害なのかわからんね。俗説はともかく、水戸家にはもともと将軍家
相続の資格があるんだから、弊害でもなんでもない。
水戸家も徳川家康の子孫には違いないし、血筋リセットってほどではないような。
その意味では朝鮮王朝の高宗とどこか似てるなあ。
あっちは比較的継承権上の家に養子に入ったのは父親だけど。
慶喜程度の例では日本だけの特色とまでは言えないでしょう。
全くの赤の他人や母系でもかまわないのが日本の特色。
>>745 >全くの赤の他人や母系でもかまわないのが日本の特色。
大嘘つくなチョウセンジン
松代藩は8代幸貫の時に信之の直系じゃなくなってるでしょ
旗本の家系ですら、他家の次男三男坊の部屋住みで才能のある人間を
養子に迎えて家督を継がせたりしてる
中国朝鮮の考え方だと、姉妹の息子を養育したり、地位を継がせることはあっても、
養子にはしない、できない。
つまり羽柴秀次は、関白の地位を譲られることはあり得ても、
秀吉の養子になることは絶対にあり得ない。
仮に秀吉に娘が居てその息子、つまり外孫がいてもそれと同じ。
秀吉に男子がなければ、秀吉流羽柴家は断絶。
誰か男系男子の親類が居れば養子にとれるけど。
しかし日本では養子にすることもできちゃうんだな。
藤原頼経は実朝の死後養子なのか?
系譜はつながらず、単なる鎌倉殿の継承者なの?
仮に後者だった場合、直系尊属でもない単なる先々々代の後家、
先代の母にすぎない政子が、権限代行者であり得たのはなぜ?
北条氏は足利氏なんかの有力御家人と縁続きだしな
>>749 藤原頼経の場合、征夷大将軍任命権者である後鳥羽上皇の意向が大きいと思う。
政子は上皇と京で実朝の後継について会談もしている実績がある。この時点で
幕府の最高権力者との承認を得ていたのだろう。これが権限代行の根拠
政子は後鳥羽皇子の将軍擁立を望むも、後鳥羽が断ったため、公武和合の象徴として
消去法で頼経が選ばれたにすぎない。
恐らく実朝は男子が生まれなければ、親王を猶子などの形にして後を継がせる算段であったのだろうが、暗殺事件によってご破算になった。
分かっていない人もいると思うので補足すると、藤原頼経は源義朝の玄孫なので消去法とは言え全く清和源氏と無関係な人選をした訳じゃない。
>>749 九条頼経は頼朝妹の孫であり、一応、頼朝孫に「婿入り」する形で体裁を整えられた。
九条頼経の御台所となったのは竹御所(源鞠子)。
竹御所はただ一人生き残った源頼朝と北条政子の孫娘で(2代将軍頼家の娘)政子が手元に引き取っていた。
彼女が頼経の男子を産めば、女系上の頼朝と政子の曽孫が5代将軍となるはずだった。
しかし、竹御所は第一子の男子を死産、竹御所もこのときの難産で死亡したために叶わなかった。
「婿入り」かあ、養子とも微妙に違うのかなあ?
なぜか藤原氏のままなんだよね。
755 :
日本@名無史さん:2011/08/07(日) 23:11:03.53
756 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 22:24:57.25
養子が後を継いでも氏が変わらない場合が多いけど
畠山氏の場合は平氏から源氏に変わってるのはどうして?
養子じゃないからじゃね?
758 :
日本@名無史さん:2011/08/09(火) 06:57:45.09
なるほど
畠山の名前を継いだだけだから氏が変わったんだね
養子なら必ず氏が変わるってこと?
>>754 北条氏が頼朝を婿取りして北条頼朝とせずに
都の貴種である源氏の名を温存したように
源氏を超える貴種である摂家九条家の名をあえて残したんだろうね
氏なんてのは土着した土地の名称だったりするから
姓と違ってころころ変えるのはあまり違和感なかったのかね
761 :
日本@名無史さん:2011/08/09(火) 12:58:18.90
苗字はころころ変えるのは違和感ないけど
氏(本姓)は血統でしょ。
畠山氏は途中で平氏から源氏に変わっている。
でも他にはそういう例はあまりなくて
藤原氏の家が源氏の家から養子をとっても藤原朝臣のまま。
徳川なんか藤原から源になってます
織田信長=藤原氏→平氏
豊臣秀吉=平氏→藤原氏→豊臣氏
徳川家康=藤原氏→源氏
養子だの関係なしに一代でころころ変わっている例あり
畠山は養子でなく単に土地と名跡を受け継いだだけということじゃないかな。
>>763 秀吉は近衛前久の猶子になっての改姓だし、豊臣になったのは賜姓だから
>養子だの関係なしに一代でころころ変わっている例あり
としては適当でないように思うが。
秀吉の場合は平氏を名乗ったところから本姓なんてどうにでもなるって感じだけどw
織田の場合も多分本当は忌部氏だわな。
家康の松平家は遅くとも祖父の代には源氏を称しているね。
>>766 いや、徳川家康は松平家康だった初期の頃
藤原家康と自著したものが現存しているよ。
家康自身、藤原から源に改姓している。
>>768 三河守に任官するために、朝廷、公家に献金して藤原氏と認めてもらったような。
あと、豊臣氏を名乗っていた(名乗らされていた)こともあったとか。
>>768 家康が藤原を称するようになったのは、
>>769が指摘しているように
松平→徳川に名字を変えたのと合わせての三河守任官に絡んだ
話で、その前は源氏を称している。
本来徳川(得川)は新田流源氏で祖父清康が称した世良田の同族。
任官にあたって一度却下され、近衛前久の口利きで任官するとき、
「徳川は源家にて二流の惣領の筋に藤氏にまかり成り候例候」という
系図を吉田兼右が「発見」し云々といういきさつで源氏から藤原氏に
変わったという話を、近衛前久が記しているらしい。
(谷口研語「流浪の戦国貴族近衛前久」等)
というかそもそも新田氏の血筋どころか
地頭に逆らってた武装農民
徳川が賀茂氏だって話はどうなの?
織田が忌部で徳川が賀茂なら似合いだけどさ。
>>772 賀茂氏説は、徳川ではなく松平のほうじゃないかな。
賀茂社ゆかりの葵紋を使ってる時点で賀茂氏説の確度は高そう。
>>774 >徳川ではなく松平のほうじゃないかな
松平竹千代と徳川家康別人説っこと?
多分、
時宗の僧であった親氏の出自である得川氏→徳川氏
親氏の婿入り先の松平氏
に分けると、松平氏が加茂郡を根拠地とする賀茂氏一族だという趣旨かと。
ああそっちですか。了解。
確か網野氏の鎌倉時代の通史(どれか日本史通史シーリズの1冊)で、
鎌倉時代の荘園の話があって、その中になんたら{仗って人物が居た。
それで当時は{仗の家に宿を通ることが多かったとかなんとか。
この{仗ってどういうものなんだろう?
将軍とかの従者か護衛らしい{仗と、なにか関係があるのだろうか?
文脈からは単に荘園内の有力者かなにかのような感じだけど。
古代の{仗の意味が、転じたものなんだろうか?
頼朝の征夷大将軍は単独の官職であってシステムじゃないよね。
なんで組織としては導入されなかったんだろう?
まあ特に必要はなかったとは思うけど。
副将軍を置くと相対化されてしまいそうって懸念はわかる。
どうやっても対象者は河内源氏一門になりそうだし。
ただ、有力御家人が軍監、京下りの実務官人が軍曹とかでもよさそうな?
征夷大将軍は頼朝的には飾りだったからじゃないの?
結局、頼朝の権限の多くは頼朝個人が獲得した権限であるから征夷大将軍の権限とは関係ないし。
征夷大将軍が世襲するものという概念が無かったと思う。
頼家の代に合議制になっていくが、これは将軍権力の収奪である。
鎌倉殿は世襲だけど、征夷大将軍は世襲できないから、いちいち将軍宣下などの手続が必要だった。
そう言えばなぜか日本では西欧と違って官職の爵位化は起こらなかった。
どう考えても下策でしょ。
律令体制のシステムを有力御家人の組織化に使った場合
武家集団の人事権を京都が握ることになるわけで。
大きな力を持つ御家人が鎮守府将軍に任官して自立しても止める手がない。
日本国惣追捕使・日本国惣地頭の二つを朝廷が頼朝に与えているが、あくまでも一身専属権であり
これらの世襲を認めるものでは無かった。
そこで、武士の叙位任官は、幕府の奏請によるものとされる。叙位任官は、朝廷が行うが、その決定権は幕府が持つ。
公家の叙位任官が摂関家の奏請によって行われるのとパラレルの関係。
江戸幕府は、さらに僧侶の人事件まで手に入れ、紫衣事件が起きた。
武士の官位って、衛門尉は大少の間に断層があるようだけど、
兵衛尉・馬允は大少の差はほとんど意識されないようだ。
正式の任官は当然ちゃんと区別されてるんだろうけど、
もらう方はさほど気にしてなかったんだろうか?
788 :
日本@名無史さん:2011/08/15(月) 02:47:01.44
スレタイにある官職はすべて名誉職のようなもの
名誉職とはなんぞよ?
790 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 15:54:11.08
関白や太政大臣、征夷大将軍クラスに任官するには、
朝廷にどのくらいの献金が必要だったんだろうか?
関白、太政大臣>>>>>越えられない壁>>>>>征夷大将軍
793 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 19:57:08.81
征夷大将軍は、公式には大臣より下になるから、摂家と対等
にするために、左大臣右大臣を兼務するんじゃねえ?
義満以降の将軍は、現職の摂関も含め、摂家を家臣あつかいしているよ。
摂家側も偏諱を拝領したり折々挨拶に伺候したりしているし。
江戸時代でも、幕末の一時期以外は将軍が摂家を下座においているし。
>>790 献金でどうにでもなるのは太宰大弐くらいまでだな。
それより上は実力での貢献か脅迫がないと。
家格が確立したあとは、摂家の少将の方が平堂上の大中納言を
軽く扱うような状況なわけであり、建前としての官位の上下は基準
にならないね。
過去いくらでも将軍の首の挿げ替えなんかあったし
室町幕府13代将軍は暗殺されるわ傀儡立てられるわあちこちで公方が沸くわ
義昭がまだ将軍の座にあるにもかかわらず三職推任とかあったし
今川みたいな傍流でも将軍職の上位の継承権あったり
(室町幕府の継承という意味で)足利氏に近い血縁でありさえすればいいわけだしわりと緩いんじゃねーの
ころころ氏変えたりするやつ多いし、ある程度の勢力があればわりと将軍任官の難易度は低そう
義仲みたいな前例もあるしな
それに引き換え五摂家のみという、秀吉に覆されるまで不可侵だった関白なんてのは
明らかに難易度や格が違うんじゃないの?
摂関家を家臣扱いしてる=摂関家に取って代わって関白職を得るのが容易
なんて頭悪い事言い出す馬鹿とかなんなの?死ぬの?
偏諱っつえば、将軍家の通字である「家」の字を名前に使ってるのは
お公家さんならではなんかな?
江戸初期以降幕末までの大名諸侯にはいない?(禁止されてた? 憚られた?)
800 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 22:55:42.68
秀吉が関白になれたのは近衛家と二条家の争いに
付け込むことができたからだしな
ただ関白になれなかったとしても
秀吉なら豊臣氏を創設したように
新たな令外官を創設してたかも
801 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 23:30:57.27
征夷大将軍が関白より座次が上位となった事例は一度も無し。
関白には、一座宣下が付される例は多々あるが
征夷大将軍就任者で一座宣下を受けた者は一人もいない。
義満、義持、義教等々に「おれの方が上座だ」と主張する勇気のある
公卿はいなかったろうね。仮にいても、直ちに解官、所領没収の上
逼塞、追放という目にあったのは疑いないし。
近衛前久なども、義昭の命に背いたという理由で出奔し解官されて
いる。
それはともかくとして、幕末の宮廷に記されている通り、秀忠や家光
は、上皇と同じく天皇と同間に対面して坐するという格式であり、
当然ながら関白以下の諸公家よりも上に座しているよ。
803 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 00:07:25.84
大和高取藩植村氏が家を通字にしてんな
>>803 おお居たか! ありがとう。
それにしても全体的に少ない観があるよね、江戸期武家で名前に「家」がつく人。
>義満、義持、義教等々
>秀忠や家光は、
一部絶頂期の征夷大将軍だけ抜き出して論拠とするのはどうなんよ
近衛前久の例だって信長の影響力背負ってる状況だし
一部の全盛のころの影響力をもって、それを「征夷大将軍という職の格」
ってのはどうなのよ
関白も天皇と同間で対面して坐すじゃなかった?
>>805 義満以降、幕末までは将軍の権威が摂関をはるかに超えていたというのは、
常識だぞ。
後、近衛前久の追放に関しては義昭の意向であり、信長はとりなしをしている。
>>806 秀忠、家光の時には、関白や京都の大臣よりも上に座しているね。
王政復古の大号令が出た時、同時に朝廷が廃止した官職がある。
それが征夷大将軍と摂政関白であり、天皇親政にこれらの官職が
いかに邪魔だったかが分かるのである。
810 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 10:51:32.49
>>808 それは将軍としてじゃなく、官位が上あるいは同等だからじゃない?
江戸時代の摂関は幕府の出先機関みたいなもんだし、天皇はもとより
排除された摂家以外の公家からも反発があったようですね。
812 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 10:57:52.95
御所に参内する時は、もちろん公式に摂家や勅使に会う時は、
将軍と言えども、束帯を着て公卿として会っているからな。
将軍は在職中は正二位が基本だから、その時点で左大臣右大臣と
対等。
>>810 大御所秀忠は左大臣、将軍家光は右大臣で、左大臣の関白近衛信尋や
右大臣一条兼兼遐の上に上げた、とあるね。
将軍うんぬんより天下人、その時期の最大実力者であるかどうかだな。
武家官位が認められるようになって以降、
武家と公家の官位は別物となったのだから、
誰が政権を握っているかで判断するのが正しい。
歴史的事実は無いが、左大臣が二人いることも可能なのだ。
事実、刑部卿などの八省長官クラスは公武で重複がみられた。
816 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 21:06:45.70
その幕府自体は、官位によって大名を序列化していた。
江戸時代でも自称とかおおかったんかな
818 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 23:11:03.01
>>809 微妙にスレ違いだが
ということで、明治憲法の統治機構の分立性(とくに統帥権の独立)を
是正しようとする動きは「現代の関白・幕府の復活」として忌避された
(最後の元老西園寺公望は、十代半ばだったが、西園寺家当主として
戊辰戦争・王政復古の大号令の当事者だったので、その意識が強かった)
>>798 摂関は不可侵だったというより家があまりにも長く続きすぎたため
実質摂家が「第二の天皇家」だったからだろうね。
天皇だって首のすげ替えや多分暗殺?もあったんだろうが
とにかく長く続きすぎたのでたとえ権力をなくしても
攻め滅ぼすのは不謹慎みたいな感じがあった。
その天皇に千年以上仕えてきた摂家を代表とする公家たちも同様に守られた。
太政大臣だけで権力を行使したのは秀吉だけだね。
>>820 平清盛の間違いだろ。
秀吉は関白辞任後太閤と呼ばれて太政大臣だけで伏見城において権力行使し続けたが
それは「前関白」の肩書あってこそだろ。
徳川家康が将軍辞任後駿府城で大御所と呼ばれて権力行使したのも
太政大臣の官位によって権力行使してたわけじゃないし。
822 :
日本@名無史さん:2011/08/22(月) 09:45:49.96
>>820 つ道鏡、清盛、家康、秀忠、家斉
藤原良房以下の面々
>>818 統帥権の問題点が初めて浮上したのはシベリア出兵の時
それ以前はの軍の指導者は何らかの軍以外の要職も経験していたから軍の利益だけを追いかけることが長期的に軍の利益を損なうことを理解していた。
それが崩れたのは、軍の職務しか経験して事の無い人たちがトップに立つようになってから。
秀吉の権力行使に「前関白」の肩書などは必要なかったろうね。
特に、関白を追放、切腹させるという形で「関白」自体の権威を
自分の手で失墜させた後では。
825 :
日本@名無史さん:2011/08/22(月) 23:11:22.32
>>818 恐らく、それは、山縣没後の、西園寺が「最後の元老」となった頃だと思われ。
その時代で、国家指導者層に戊辰戦争の生き残りがいなかっただろうし。
「王政復古」、「明治維新」の生き証人という体験はそれなりに大きかったのだろう
826 :
日本@名無史さん:2011/08/22(月) 23:16:26.80
天下人になるまでは、それなりの名誉や肩書きは必要ってことだな。
一旦、天下人になって逆らう者がいなくなると、名誉や肩書きは
用済み。(但し本人のみで権力の世襲を示す、物として官位は
絶好の名誉と肩書き)
827 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 07:52:24.18
>>824 あれは単なる「父権の行使」だろ。
秀吉は秀次の養父だったから養子を改易、切腹させる権限があった。
武田信玄や徳川家康が長男を切腹させたのと同様、
この時代、子が親を切腹させることはできなかったが、
親が子を切腹させる権利すら持つのは当然だった。
秀次は豊臣家の当主じゃじゃなかったんだね。
関白を譲られただけだったんだね。
統合幕僚長を征夷大将軍と改称して支那や両朝鮮、ロシアと
対峙してほしい。
>>828 秀次は関白就任と同時に豊臣家氏長者になっているよ
つまり豊臣家当主になっている
(朝廷が秀次を豊臣家当主と認定している)
それが確定してないから殺されちゃったんだろjk
>>832 いや、秀次の死後のことを聞いてるんですが。
1,秀頼が豊臣家の当主になった
2,秀吉が当主に復帰
3,当主不在のまま隠居の秀吉が権力を行使
このうちのどれだったんですか?
氏長者が必ず家当主になるのかはちょっと疑問。
徳川将軍家は基本的に将軍任官と同時に氏長者の宣旨を受けてるけど
前将軍が存命の場合でも同時に徳川家当主になったのか?
摂関家でも平安時代は前摂関が大殿として実権を持ち続けるケースがあった。
この場合は家産の管理権は大殿にあったようだけど、これは大殿が家当主ではないのか?
氏長者とは違うが天皇家でも上皇が家長となった時代もあったようだけど。
天皇家では治天の君が家長でしょ。
当主ってのがなんというか正式な意味合いなの?
氏長者が建前はトップで、実質は?、という意味だとこれは
ケースバイケースになっちゃうんじゃないか。
837 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 22:51:16.81
>>834 確か、前将軍が西の丸に入り、継嗣が本丸に入ると、「明日から、上様と
称するように」と言うお触れが出たんじゃなかったけ?
徳川当主で上様、将軍宣下を受けて公方様だったと思う。
838 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 23:58:25.05
で、秀次死去の後の豊家当主は誰?
豊臣の人間が秀頼と思っても
結局周りの連中がそれを支持しないと意味が無いわけで
鎌倉殿システムみたいな
公家と武家とでは官職の意味がちがう。武士は官職とは無関係に
家中への命令権、行刑権、裁判権、所領宛行権を行使し得た。
841 :
日本@名無史さん:2011/08/24(水) 08:54:42.36
>>838 通常は秀吉に戻されたんじゃないのか。
一般的に、同族のうち最も高位の者が氏長者になる(忠通・頼長の兄弟争いの件は別として)。
関白秀次と太政大臣秀吉では関白が上だから秀次が氏長者。
秀次死後は豊臣一門で一番高位なのが太政大臣豊臣秀吉だから秀吉が氏長者。
842 :
日本@名無史さん:2011/08/24(水) 22:57:20.28
秀次が秀吉の実子なら
仲違して切腹させられても
妻子の命は奪われなかっただろうな
でも秀次の子も幼児ばっかりだから結局一緒か
最高位だからというのは、少々違う気もするね。むしろ、当主を譲った
のと合わせての話じゃないかな。
関白秀次と太政大臣秀吉のどちらが上かというのも難しい話だし。
秀吉は関白を譲っても一座は譲らなかったという話もあるし。
>>840 秀吉の頃よりはるか前に、公家でも官職は完全に形骸化していたと思うが。
家中への命令云々と言った私的な事柄に関しては、それこそ(昔は)「政所
政治」と総称されていたような摂関期でも官職とは別の形で権限を行使して
いたわけだし。
>>841 むしろ、父の「大殿」忠実が忠通を氏長者から外して頼長を新しい長者にしたように、
自分で長者を兼ねたんじゃないの?>秀吉
勿論、将来秀頼に譲ることを前提で。
846 :
日本@名無史さん:2011/08/25(木) 07:29:51.20
>>843 秀吉って、関白を辞めてからも議定に参加してたっけ?
御所から遠い伏見城に移って、ほとんど参内してないんじゃなかった?
秀次と一緒に参内して天皇の前で席次を争ったことあったっけ
848 :
日本@名無史さん:2011/08/25(木) 10:18:53.98
豊臣秀吉は、関白は辞したが、太政大臣まで辞していない。
秀次に関白宣下がなされたとき、あるいはその後、
一座宣下を受けた史料(他の者が受けたという史料も含めて)が
今のところ見当たらないということから、
一座は従前通り、秀吉が受けていたという見方。
当時の公卿補任を誰か読めないかな?
通常は現任者の関白、太政大臣の順で記しているが、
秀吉、秀次父子だけは、太政大臣、関白の順だったと思う。
私の記憶が正しければ、秀吉の一座は変わらないという
傍証になると思う。
近衛前久なんかは現任の関白のまま関東に二年も下向していた
くらいだしね。
そもそも、武家関白が五家の摂関と同様にふるまったとも思えない
し、ふるまう理由もないけど。
信長だって、大納言〜右大臣の間に一般の公卿と同じような形の
出仕はしていないわけだし。
851 :
日本@名無史さん:2011/08/25(木) 22:16:41.20
征夷大将軍が時代によって変わっていったように
武家関白も続いていたらそれまでの関白とは
違ったものにどんどん変わっていった気がするね
>>850 当時の朝廷は実務的な意味での政務は行っていなかったからね。
前官待遇さえ保障されれば、前右大臣でも全く構わないと思うのは信長じゃなくても思うところ。
征西大将軍とか鎮西将軍とか征東将軍とかの、征夷大将軍もどき。
855 :
日本@名無史さん:2011/08/28(日) 14:51:35.29
豊臣秀次は、関白のほかに、左大臣も兼帯していたから
太政大臣たる豊臣秀吉の下位に位置することは自明の理。
もともと、関白には序列上の規程が内在していないから、
関白宣下の際、一座の宣下も受けて百官の最上位に列することが可能になる。
摂政も同様。
856 :
849:2011/08/29(月) 20:35:06.88
>>854 おお、これはありがたい、と思っていたら、
>>855 のおっしゃる通り、関白が一座とは限らないことを発見!
清盛が太政大臣だった年、摂政の次に名前があったことから、
最強太政大臣清盛でも摂関を超えることはできないのか、と
思った結果、関白>>>太政大臣という架空の図式を描いてし
まいました。御免。
そっか、普通は関白になれば一座なんだろうけど
場合によっては一座の宣下をうけないこともあって
その時は別のものが一座になるのか。
こういう例は稀だと思うけど他にもあるんだろか。
日本歴史大事典では、
「摂関全員に一座宣旨が下されたのではなく、摂政は上首大臣と異界が同等かそれ以上の
場合に限られ、政情あるいは父子関係によって宣下が見送られる場合もあった。」
とあるね。
で、鎌倉中期まで摂政は太政大臣の上、関白は下を命ずるのが原則だったとか。
以前見た葉黄記の見本でも、摂政が三公の下に列した例として、忠実や忠通、頼通等々
の例が上がっていた。
>>858 異界とはなんぞや、だな。もちろん位階の間違いです。
860 :
日本@名無史さん:2011/08/29(月) 23:51:11.11
摂政や関白に関しては
「皇室制度史料(摂政)」 宮内庁書陵部
を図書館経由で一読するとよい。
当方は、よく借りている。
861 :
日本@名無史さん:2011/08/29(月) 23:56:43.75
藤田 覚「天保期の朝廷と幕府--徳川家斉太政大臣昇進をめぐって」
日本歴史 (616号:1999年9月)
の論文は興味深い。
ところで、この論文を作るとなると、
相当、種々の文献を読みこなしていないと構想が描ききれない。
862 :
849:2011/08/30(火) 08:49:08.44
自説整理
秀吉、秀次父子は、太政大臣、関白の順で公卿補任に記されている。
これは一座が出ていない傍証になるが、絶対決定的な証拠ではない。
公卿補任の記載順にはかなり変則的なものもあるから。
「天正十年」(!)など、関白左大臣一条内基がそれまで筆頭であったところに、
現任太政大臣になった近衛前久(前関白・准三宮)が筆頭に返り咲いたりして
いる。これは一座宣下が出ての記載順逆転か、前久の格によるものか??
ただし、秀吉、秀次父子についての傍証としては生きているのであって、やはり
秀次には一座宣下が出ていないとみていいだろう。
863 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 11:21:27.16
藤原氏の場合平安時代中期以降
一座・関白(摂政)・氏長者・内覧は基本的にセット
関白と内覧を分けた忠通・頼長では保元の乱まで勃発したほどの大事件だった
秀吉がこれを分け関白・氏長者・内覧を秀次に、
一座は自分に与えていたのならば公家社会の常識を打ち破った大事件だが
秀頼誕生までは何の問題も起きていないというのも不自然だな
864 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 14:09:19.97
豊臣秀吉が薨去した慶長3年8月18日以降、
4ヶ月間、徳川家康(内大臣)が一座宣下は受けていないものの
実質的な一座であった。
現任の左大臣も右大臣も任命者無しの状態。
同年12月19日、前右大臣今出川晴季を右大臣に
復帰させ、晴季が実質的な一座となった。
晴季を右大臣に復帰させた政治的な経緯(動き)は
どうだったのであろうか。
因みに、前左大臣九條兼孝は前関白で准三宮にある。
865 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 19:01:37.73
秀吉は秀次に関白を譲った時には国政に対するやる気がゼロだったんじゃなかったっけ?
秀吉は准三宮には興味なかったんだろうか?
>>863 >>858で例を挙げたように、一座と摂関は必ずしもセットではないようですね。
関白頼通は太政大臣公季の下に座していたし、忠実、忠通も一座でない時期があったというし。
摂政三公の下に列する例
・忠実:従一位左大臣俊房。正二位右大臣の間は同階でないため「不被下一座宣旨」
従一位に叙された日に有此宣旨
・忠通:関白左大臣の時は太政大臣の下に列するべき由の宣下、摂政の後は一座 宣旨事不詳
関白官次に従ひ列する例
・頼通:(経頼記云)(関白殿被仰云)頼通が、自分を太政大臣の下に列するようにという宣旨を出すように命じたという記述
・師通:関白 正二位内大臣。従一位左大臣俊房、従一位右大臣顕房 従一位になった日に、左大臣の上に列する宣旨
・忠通:関白左大臣従一位
(或記云)頼通の例に従って座を設けるように言ったという記述
・基実:関白右大臣 正二位 太政大臣従一位宗輔・左大臣正二位伊通 左大臣に転じた同日に左大臣伊通
任太政大臣、「同日 宣旨云、太政大臣・左右大臣、依官次可座烈者」
(葉黄記一 寛元四年十月)
(続き)
一座に関しては、子が父の上に座する不孝を避けたり等々も含め、
いろいろ例外があるということなんでしょう。
流れに乗らず悪いんだけど、実朝ってなんで頼でも義でもなく実?
朝の方は、父・祖父・伯父の名にあるけど?
右大臣の諱などスレ違いも甚だしい
あれっ、ここは頼家の子孫が将軍を継ぎ、三浦氏が執権になってっるとかの、
異次元の掲示板かなにかだったのか?
とにかく何らかの理由で実朝は征夷大将軍になってない世界なんだな。
どうしてそんなところと混線してしまったんだろう?
>>861 おぉ、それは面白そうだ。
何かに再録されてないかな。
一般書だと、長期将軍にあったご褒美、とだけだもんな。
>>863 鋭い視点だなー。
秀吉の場合関白就任時点で常識を打ち破るを超越
しちゃったようなところがあるからそれ以後はなにをしても
「これが新例」と過去の公家社会のみならずもっと大きな
部分で日本史自体に影響が出てたようにも感じる。
旧来のシステムをそのまま踏襲してるところがかえって
「名前は同じだが中身は全く別物」ということになって
不気味なものがあるというか。
源氏物語の冷泉院や江戸時代の尊号一件等が典型だけど、
子が父を下におくということを不孝として避けようとするのは
昔から綿々と続いてきた考え方だし、「一座でない摂関」と
いうのも前例はいろいろとある。
父である秀吉が現任の太政大臣である以上、子である秀次
が「太政大臣の下に列するべき由の宣下」を受けたとしても
さほど奇異には取られなかったんじゃないかな。
>>873 秀吉が関白秀次を押さえて一座宣旨を受けたというのは史料にはなくて
ずっとこのスレで頑張っている人の想像にすぎんわけだが
そもそも、関白を辞めた秀吉が宮中に出仕する気が合ったのだろうか?
関白辞任後も宮中に関わる気があるのなら、一座宣旨よりも内覧宣旨の方が先じゃないの?
>>874 秀吉は太政大臣従一位なんだから、元々首座であり、「秀吉の一座宣旨」なんて
ものはあり得ない。
一座宣旨は摂関が上席の大臣を越え、本来の座次より上に着くために必要な
ものなんだから、「秀次が秀吉の上に座するように」という宣旨が出たかどうか
だけが問題になる。で、そういう宣旨が出たという史料がないねというのが今の
流れですよ。
そもそも位階が上臈の大臣がいる場合には宣下されないという原則が生きて
いたとすれば、秀次が従一位に上がるまでは一座にならないし、父より上座
に着かないという意味合いでもやはり一座にはならない。
しかも、秀次は左大臣に上がっているから座次は太政大臣秀吉のすぐ下で
あり、一座の宣下がなくても実質的には問題が生じる余地がないし。
>>875 内覧なんて、名前以外何も残っていないような代物の宣旨がなぜ必要
なのか理解できないんだけど。
近衛前久が関東で日を過ごしている間には朝廷がまったく動かなかった
というならともかく、いてもいなくても普通に日常業務は回る状態だったし、
「内覧宣旨」なぞなくても、大臣以下普通に宮中に関わっていた官人は
いくらでもいるでしょう?
内覧宣旨が維新に至るまで発給され続けていた事実を無視する暴論
慣習的な手続きに必要も不要もない
事実上の権限付与の効果がないから不要というのだったら関白宣旨も征夷大将軍宣旨も何もかも不要ということになる
そんなものを無視して大いに新儀を起こせばいい
問題は秀吉が関白だの太政大臣だのの旧例に則っていたのなら内覧や一座などの宣旨はどうだったの?ということであって
そんなものが何故必要なのか理解できないとか言う個人的な感想なんかではない
>>878 だから、太政大臣が宮中に関わりかつ首座に座するには、「一座宣旨」だの
「内覧宣旨」だのは全く不要だと言っているんだけど。
特に一座なんてのは内大臣で関白になり、かつ上に左右大臣がいた時期の
秀吉には形式上必要だったけど、本人が上首大臣になった後で出るものじゃ
ないよ。自分が太政大臣なのに、「太政大臣の上に座するように」なんて宣旨
を受けるなんてことはあり得ないというくらい、わかるだろう?
秀次に関白を譲った後での秀吉の「一座宣旨」へのかかわりというのは、
秀次に対して「太政大臣の上に座すべき宣旨」を出すかどうかだけで
あり、自身が宣下されるかどうかじゃない。
繰り返しだが、太政大臣はそもそもが一番上席の大臣であり、「一座を
宣下された摂関」という例外的存在がいなければそのまま首座に着く。
それに、摂関でない太政大臣への「一座宣旨」なんてのは、それこそ
異例中の異例ということになるだろうね。
大体、「太閤」が内覧もなにも無しで宮中に関わっていた前例なんての
はそれこそ掃いて捨てるほどある訳であり、
> そんなものを無視して大いに新儀を起こせばいい
なんて話にはならんよ。逆に、わざわざ「内覧宣旨」を別に出させる方が
よほど「新儀」だ。
鎌倉中期以来、関白退任者に対する礼遇として内覧宣旨を与えて従来通り国政に関する諮問をさせる例があった訳だが。
南朝で関白は置かなかったけど内覧は置いたことがあった
秀次は、正二位止まりだったのに、秀吉が従一位なので、一座宣示の要件をみたさなかったんだろうね。
884 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 08:30:36.82
一座宣旨を出そうと思えば
位階の上下、官職の上下は関係ない。
要するに当時の政治的情勢を鑑みて
当該本人を一座とすべきか否かで選択することになる。
初歩で悪いが、一座宣下というのは誰の意思によって
出されるものなの?主体というか。
886 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 09:17:46.36
>>880 逆、逆。
従来、摂関が一座で、「一座を宣下された太政大臣」だけが
例外的に摂関の上位につく。
関白藤原頼道の上位に太政大臣藤原公季が置かれた例を参照。
ちなみに藤原道長は摂関を止めてからも生涯従一位であり続けたが、
基本的に職を辞すれば致仕扱い。
887 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 17:08:46.29
一座宣旨の文面には、勅を奉(うけたまわ)に、といった
文言が入るから、勅すなわち天皇の命ということになる。
その命を議政官(たとえば大納言)の一人が宣言し、
大外記などの下級官僚がそれを承知し、その命を当該本人に
通達するということになる。
摂関就任の条件を『天皇の外戚』から『北家御堂流』に改めた源俊明の功績は大だね。
>>886 一座宣旨のそもそもの起こりが、右大臣兼家が摂政になったとき、太政大臣、左大臣の下に座する
ことを嫌って出したというところからも明らかなように、宮中の座次は本官の序列によるのが原則。
で、一座の宣旨は、この原則を越え、摂関に本官の序列以上の座を認めるというもの。
頼通の例では、関白頼通が「可列太政大臣下之由」と自分の座次を定めた宣旨を下すように
指示しているが、一座の宣旨は「摂関の座次」を定めるものであり、摂関でない他の大臣の
座次を定めるものではないよ。
890 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 23:08:06.68
もともと、摂政や関白には、序列の規程がないから
一座宣下を受けないと百官の最上位に列することは出来ない。
そのため、摂関就任と同時に一座宣下を受ける倣いがおきる。
尤も、世の中には例外というものがあるから、
摂関に限らず、他の官職でもこの一座を受ける者も出てくる。
因みに、征夷大将軍にも序列の規程は元来、無い。
それらはみな、天皇の代行者であり例えるなら勅使のようなものだからだ。
征夷大将軍はもともと臨時の職で、本来は本官があるって想定で、
座次は本官に従うはずだったんだろう。
だから本来なら大納言なり右大臣なりの座次で良かったはずなんだけど、
それを越えた存在に成っちゃったからなあ。
江戸に2度にわたって下向した近衛基煕の江戸城内での待遇、席次はどうだったのでしょうか。家宣の岳父として丁重にもてなされたそうですが。
894 :
日本@名無史さん:2011/09/03(土) 21:03:46.15
将軍職が公卿等を超えた存在になったわけではなく
公卿を超えた存在が将軍になっているという方が正しいと思うが
>>893 それで言うと、江戸時代以前で江戸に下向した唯一の天子、
後西院天皇(下向時は花町宮良仁親王)の待遇席次も気になる。
このとき皇嗣ではないから、やはり将軍より下座だと思われるが。
連投すまん
×江戸時代以前
○明治時代以前
スレタイとは関係ないけど、後西院天皇は後西院(天皇)とでも書くのが良いのかなあ。
898 :
日本@名無史さん:2011/09/06(火) 21:34:05.26
後西院だけで通じるでしょ
戦争に負けたら「後西天皇」にされちゃった。
900 :
日本@名無史さん:2011/09/06(火) 22:43:03.93
徳川将軍は日本国タイクーン様にあらせられ、中華冊邦ファンタジーでは日本国王
例。日本国王、源家康
タイクーンは幕末に対外的に呼称と地位(天皇(ジャパニーズ・エンペラー)との関係とパワーバランス)が問題と成った際の窮余の一手。
タイクーンは大君。
出展は古代の天皇号以前の呼称の大王(オオキミ)からチョイと拝借。
「後西天皇」は実に悩ましい。
淳和天皇の別称である「西院の帝」に「後」加号したのだから、「後西院天皇」が正しいとの意見がある。
しかし、「柏原の帝」や「水尾の帝」に「後」加号して「後柏原院」「後水尾院」としたのならば、
ほんらい江戸時代に、「後西院院」とすべきではなかったのか。
あるいは「西院」が御在所としての「淳和院」の別称であったのなら、
そもそも平安時代に「西院の帝」と称されたのが間違いのもとではなかったのか。
(嵯峨の帝とか清和の帝とは言うが、「嵯峨院の帝」とか「清和院の帝」という言い方をするだろうか。
「淳和の帝」の別称は「西の帝」であるべきだったのではなかろうか)
さすれば、江戸時代の後加号も「後西院」、近代の天皇号も「後西天皇」で問題なかったわけなのだが……。
904 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 09:55:06.25
豊臣秀吉は関白>>>征夷大将軍と考えた上で関白になったという説。
1、 源姓でないと征夷大将軍になれないというのは俗説。鎌倉幕府4代、5代将軍は藤原姓。
平将門の征伐のために将軍(征東大将軍)になった藤原忠文の例もある。
2、 征夷大将軍職にあった足利義満は明から「日本国王」の称号を得ており、これは明皇帝の配下になったという意味を持つ。
4代将軍は「日本国王」の称号を無礼として明と国交を絶ったが、6代、8代将軍は「日本国王」として明と貿易を行った。
このことにより、征夷大将軍=明皇帝の配下という先例が生まれた。
明を征服対象と考えていた豊臣秀吉にとって、明皇帝の配下である征夷大将軍になるという選択肢はなかった。
秀吉が関白されていた当時、征夷大将軍は普通に在任していましたが何か?
906 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 22:16:22.56
源氏しか征夷大将軍になれなかったのなんて
足利幕府成立以後だからな
平安時代以来、藤原北家嫡流にしか許されてなかった
関白になったことの方が凄い
907 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 22:38:15.28
>源氏しか征夷大将軍になれなかったのなんて
>足利幕府成立以後だからな
釣り?
宗良親王の話かな?
源氏しか征夷大将軍になれないなんてのは、
ただの室町幕府ないし足利将軍家のプロパガンダだし。
便乗してさらに広めたのが自称新田の馬の骨徳川で。
しかし嘘も数百年積み重なれば本当になる。
世間の人が信じていればそれは真実。事実じゃなくてもね。
問題はそれが「本当」の「真実」とやらになったのが
歴史上のいつの時点かということですけどね
911 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 08:51:34.03
法的根拠はないけど、先例・慣例って言うやつだろ。
徳川将軍が「源氏長者」だけならともかく、こんなの就任
して何の効力があるの?っという「淳和奨学両院別当」に
宣下されるのは、明らかに先例・慣例による物だからな。
足利氏→徳川氏による征夷大将軍の継承により源氏でなければ
就任資格がないと言う慣例が確立したかもしれない。
関白はともかく、摂政は元々皇族しかなれなかった物と藤原家が
代々継承したことによって摂家、大臣も平安前期には色々な
家が就任していたが、それも藤原家が独占して大臣家とか
清華家とか成立した過程があるからな。
信長のことじゃねえの?
好きなのを選べというやつさ
どうでもいいな
904は別に突飛な説ではないよね。
義昭の追放中だしその前もすでに将軍職は軽視
以上の軽い扱いだし秀吉がそんなに重要視してなかったのは普通。
ただ逆算して「どうして秀吉は関白を?」みたいに考えると
こじつけっぽくなるわけで望む限りの最高の権威をと
考えて関白になっちゃった!わけだろう。
というか関白職が勝手に転がり込んできたってのが真相だろw
これが問題なく摂家持ち回りしてれば秀吉は征夷大将軍なり太政大臣なりになったんじゃね?
>>910 そんなもの特定できるわけないでしょう。
グレーゾーンのどこが分岐点かなんて水掛け論以外になるわけない。
916 :
904の補足です。:2011/09/16(金) 13:35:07.74
豊臣秀吉は関白>>>征夷大将軍と考えた上で関白になったという説。
1、 源姓でないと征夷大将軍になれないというのは俗説。鎌倉幕府4代、5代将軍は藤原姓。
平将門の征伐のために将軍(征東将軍)になった藤原忠文などの例もある。
つまり、近衛家の養子として藤原姓を得た時点で、先例を重んじる公家社会では征夷大将軍就任は十分可能だったはず。
2、 征夷大将軍職にあった足利義満は明から「日本国王」の称号を得ており、これは明皇帝の配下になったという意味を持つ。
4代将軍義持は「日本国王」の称号を無礼として明と国交を絶ったが、6代義教、8代義政は「日本国王」として明と貿易を行った。
このことをもって、征夷大将軍=明皇帝の配下という先例が生まれたと考えることが可能。
明を征服対象と考えていた豊臣秀吉にとって、明皇帝の配下である征夷大将軍になるという選択肢はなかった。
秀吉は天正13年7月1日に関白になったが、9月3日には一柳末安に「秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国迄仰せ附けられ候心に候歟」と述べていることから、関白就任当初から明に攻めこむ意識があったのは明らか。
>>911 源氏長者は淳和奨学両院別当(淳和院のみの場合もあった)に授けられるものだから、理論上淳和奨学両院別当でない者が源氏長者に就くことは出来ないのだが。
>>915 別に何年何月何日だと幼稚園児のようなことを
聞いてるわけでもないでしょうに
江戸時代でも、家康の直系が絶えたときに皇族将軍の案が出たことあったよね
>>919 家康の直系が絶えたことなんてないよ。
家綱が死んだときの話だろ。
家綱の兄弟が健在なのに常識的に他家から将軍を迎えるのは無茶すぎだったな。
義満は天皇になろうとしたんだから、秀吉が関白になっても
驚くにあたらない。
> 義満は天皇になろうとした
なんて言ってる史学者いるかな?
さすがにそれは聞いたことのない説だな。
義嗣を天皇にするって話ならともかく。
924 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 22:11:52.13
>>917 それも源氏長者が絶対条件じゃなく
>>911の言う「慣例」なんだよ。
別に淳和奨学両院別当は源氏長者しかなれないと言う、制度はない。
>>917 なるほど、じゃ源信は源氏長者につくことはできなかったわけだ。
>>924 そんなん言い出したら皇室典範で明文化される明治時代以前の
皇位継承すら先例・慣例・暗黙の了解みたいなもんだろ
慣例ってのは必要性の前では簡単に放棄される。
秀吉が本気で征夷大将軍に任官するつもりなら、先例を持ち出して慣例を無視しただろうな。
929 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 23:03:30.48
『源氏と日本国王』嫁
読むと、著者が本当に歴史学者かどうか疑わしくなる、とすら
言われている本だろ?
将軍(=源氏長者)が公家を支配できるのは、降下した皇族が源流だから
とか言ってる本だっけ
932 :
日本@名無史さん:2011/09/17(土) 00:19:44.20
全然違う
家康が将軍を秀忠に譲った後も、駿府で実験を握り続けたのは、
源氏長者のままだったから、という本だよ。
義満も信長もある意味絶頂期に死んでるもんなぁ。
うんまあそれはわかって言ってるんですけどね
937 :
日本@名無史さん:2011/09/17(土) 16:32:09.68
>>927 まさにその通りだよ。律令で規定されていな事項は先例・慣例が
事実上の制度になったわけだよ。後光厳天皇の即位も先例を無理やり
探して、実現したわけだし。
現代に置いても憲法法令に違反しない限り、慣例は法令に準じて
有効と言う判例もあるし。
> 先例・慣例が事実上の制度になったわけだよ。
>>924は慣例だから制度じゃないと言ってるような気もするけど
先例と慣例は別だよ。
先例ってのは慣例を無理やり破るときに多用されるもの。
940 :
日本@名無史さん:2011/09/17(土) 22:59:18.38
それはみんなわかっているだろう。
律令制からできてから明治維新まで、日本の職制は先例・慣例の
繰り返しでなりたってきたと言うことを言いたいんだろ。
変わらなかったことは、天皇は皇族しかなれない(宇多天皇の
特殊例があるが)と言うことぐらいだろう。
何か言ってるようで何も言ってない
もし義昭以後も形式的に足利将軍家が征夷大将軍に任じ続けられていたら、
徳川家康はどうしたんだろう?
まずあり得なかったとは思うけど、ふとそんなことを思った。
943 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 13:41:03.91
>>942 足利将軍は小大名の地位を与えられて、
徳川氏に将軍職を譲ってただろ。
その分喜連川を保護する必要もなくなるから、あっちは没落かな。
足利氏嫡流が、おそらく関東でなく畿内あたりに残っただろうってだけで、
あとは実質上違いがないだろう。
944 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 13:46:32.65
ふと思ったんだが、後半の足利将軍って、
自分の出自をどこだと思ってたのかな?
既に、下野が故郷だとは思っていなかったんだろうね。
945 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 13:53:05.33
徳川将軍は、三河は発祥の地であっても
故郷だとは思ってなかっただろうな。
三河には庶宗家が残ってたしね。
各徳川将軍は家光以降江戸からでたことないんだっけか。
日光までは行ってるか。
京へは将軍宣下の時200年の間がはさまるわけか。
947 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 17:46:39.83
948 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 19:24:45.63
足利家は、義教以後従四位下から直に従三位に進むことが多いようだ。
あと歴代ほとんど中納言にはなってないような。
これって基本的は単なる先例主義?
慶喜は将軍として江戸にいたことがないのだが
>>946 14代徳川家茂=孝明天皇の命により上洛、長州征討の最中大坂城で病死
15代徳川慶喜=将軍就任並びに大政奉還を京の二条城で行う
そいや征夷大将軍についての新書がなんか出てたなぁ。
>>947-948 綱吉(館林藩主)と家宣(=綱豊、甲府藩主)は定府で江戸から出てないような気がするがどうなんだろ
>>953 江戸定府の家も、幕府の許可取って、時々お国入りしてるよ。水戸家とか。
955 :
征明仁大将軍:2011/09/30(金) 13:54:38.69
>>922 什麼狗屁的源ョ朝,織田信長,豊臣秀吉,コ川家康 全部靠邊站。。。。
足利義滿在馬背上打倒後醍醐天皇,用兵馬一統天下,成為太政大臣,
手握天下兵權,是歴代征夷大将軍的典范
956 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 00:28:32.40
>>945 んなワケねーだろ
秀光とか、三河は大切な先祖の地とか言って、寺・神社とか建てまくっているだろうが
957 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 01:28:17.85
×秀光
○家光
958 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 08:18:35.08
>>956 家光はまだそうかも知らんが、
吉宗あたりになるともう、自分の故郷は紀伊だって思ってたんじゃないか
徳川はマシだろ。
足利氏の足利荘放置は異常。
えっ、足利荘の支配権を巡る京都と鎌倉間の抗争が永享の乱や享徳の乱の遠因の1つなのに?
先祖の地として大切にするのと、故郷と思うのはまた別問題でしょう。
家光以後は江戸こそ我が故郷って思ってたんじゃないの?
庶子のあがり吉宗はともかく、他の傍系相続は江戸屋敷暮らしが長いだろうし。
962 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 14:28:03.93
足利義満にとって、自分の国は三河
足利義満関連の史跡は三河が一番多い
もちろん規模では、相国寺、金閣寺にはかなわないが
秀吉の教養というか観念が、極めて
京都風、というか公家風であることは
もっと注目されてよい。
百姓のまま、無学を通したというのは後世の俗説で、
むしろ、幼少時に教養がなかった分、
強烈に神道に染まったのだと思う。
964 :
日本@名無史さん:2011/10/04(火) 19:29:06.97
>>962 足利義満の故郷は京都だろ
義満は父方ではなく母方で育っている
母親同士が姉妹という後円融天皇の身内として育ち
自分の息子を天皇にしようとしたほどに都に染まりまくってた
965 :
日本@名無史さん:2011/10/05(水) 11:30:12.85
しらんがな、義満が自分で言ってるんだから
三河守護すっ飛ばして管領に城を造らせたり、治水工事やってるわな
西条吉良の菩提寺の実相寺、関係ないのに義満が大掛かりな建て直しとかしている
斯涙義将が一族の眠る三河に寺を建てたいと言えば、支援とかしてるし
義満は三河に関してなら何でも口を出したし、義満に話を通さなければ三河では何も出来なかったんだろうね
同じ三代目の家光とよく似ている
966 :
征天皇大将軍:2011/10/18(火) 01:35:29.62
还有天皇
天皇是日本统治身份の正体
正义大将军原为征东大将军,持节大将军的演化
平将门就不像他们,自称天皇,天下無雙
967 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 03:13:43.48
俺の先祖には関白やら太政大臣やら左大臣やら右大臣やらがたくさんいる。
>>967 母系も含めれば、大抵の日本人がそうだよ。
970 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 22:34:46.37
父系も母系もそこいらの田子作だろ。夢みるな。
971 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 23:45:20.44
>>970 見てるのは夢じゃないよ。きっと系図だよ。
平安時代、五世孫王が常に500人以上いたらしいから1000年経った今、彼らの遺伝子は
相当拡散している。
おそらく現代人の男性の数パーセントは天皇の男系子孫(男系をたどると天皇につながる)
であり、女系を含めると、80パーセント以上が天皇家の子孫。
天皇の男系子孫は数多くいるだろうが
天皇の女系子孫はいないだろ。
母系をたどっても天皇には行き着かない。
俺はこんな感じ。(○には男女ともに含まれる。)
天皇ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー自分
女系を含めれば天皇家の子孫なのは明らか。
男系も源氏を主張してるけど、こっちは激しく疑問。
誰だって一部重複がありうるだけで10代前の先祖は1024人確実にいるからな。
一代30年で計算してもそれは300年分に過ぎない。
900年30代前の先祖に至っては10億7374万1824人も誰でも確実にいるんだから
どんなにカブりまくってもそりゃ天皇家が全く入ってこないヤツの方が珍しいだろうw
家系図で30代遡るって10億7374万1824人中の先祖のたった1人だけを問題に
してるんだと思うとアホな話だよな。絶対数万人分カブってる別の先祖とか
いるんだろうにw
人類史の方でよく話すんだが、数万人分血が混雑してたら相当
おかしくなってるんだろなって。
今はDNAとか相当に解析出来るからいつかそういう系図も
マジわかったりするかもよ。
977 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 08:08:41.91
文系板だけあって、すまんが、数学的感覚もってない人が多いね。。。
>>972 もし母系含め50パーセントが「天皇の子孫」だとしたら、
次の世代では75パーセントが、
その次には94パーセントが「天皇の子孫」になる。
つまり、一度拡散しだしたら、瞬く間に「ほぼ全ての人が天皇の子孫」になるわけ。
だからあなたの言う、「80パーセント以上」っていう主張には、根拠がないと思うな。
正しくは「女系を含めると、ほぼ全てが天皇家の子孫」だと思う。
>>975 日本人は10億人もいないだろw
ちなみに、父系で天皇の子孫という人は、かなり少ないはず。
「数パーセント」もいるはずはない、と思う。
言うまでもないことだが、過去のどの世代をとってみても、父系で自分の先祖である人は
たった一人しかいない。
>>972の言うように、天皇や大名みたいな支配者階級は
多くの妻をもち、子供をたくさん生むから、一般庶民に比べて圧倒的に
男系子孫が多いんだが、その皇孫たちも一度零落すると、普通の庶民と同じように
自分の跡を継がせる程度の男子しか設けなくなるはず。(そうでないと、人口膨張が止まらなくなる)
皇室が始まってから数十代の間に、それぞれの天皇が数人〜十数人以上の男子を設け
その一族の清和源氏がやはり支配者階級となり、分家を作りまくったことを考えると
おそらくは、数万人程度は父系子孫がいるだろうが、せいぜい」その程度。
仮に10万人いたとしても、日本の全人口の0.1パーセント程度にしかならない。
978 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 08:21:16.91
>>977 日本人のほとんどが「源氏」「平氏」「藤氏」に分類されることを見ると
やはり支配階級は男系として残りやすいよ
支配階級はやがて庶民に落ち跡取りの男子一人以外は根絶やしにするとはいっても
いきなり庶民まで落ちるわけではない
天皇→皇族→王→地方の支配者→地方の有力者→村の有力者
とゆるやかに何百年もかけて落ちていく
その間多くの妻を持ち、地方の人々が貴種を好んで娘たちを差し出すわけだから
やはり男系子孫は増える
一方で貧民階級の家にはそもそも嫁が来ないために断絶する
>>977 数学的感覚は持ってるようだけど、歴史的感覚がおかしいんじゃないか?
男系のみで継続してる子孫が少ないのは同意するけど
女系を含めた計算は血統の拡散が均一だって前提の数字だよね。
現実には日本のほとんどの集落では集落内や近隣の集落グループ内での結婚が当たり前で
外部から血が入る例は少ない。
それが自由になったのは最近の数世代だけだよ。
>>977 天皇家の女性の婚姻は長らく制限されてたよ
天皇、皇族、摂関家(江戸時代には将軍家)に嫁ぐのでなければ
原則、斎宮、斎院に任じられたり尼寺に入れられたりして
生涯未婚を強要されていた
ただでさえ一人の女性が大量の子孫を残すのは難しいのに
婚姻制限により天皇家の女系拡散はずっと抑えられていたはず
>>980 女系ってのは皇族の女だけじゃないだろ。
源護の娘だって女系になるんだぜ。
>>981 女系が広がれるうちは男系も広がっていただろ
しかし男系が狭まれば女系も狭まる
息子に官位を与えられなくなって息子を全員出家させてしまえば
必然的に娘も生まれないわけで
>>981 >源護の娘だって女系になるんだぜ。
ならないよ。天皇の女系(母系)ということは
母−母−母−母−母−○
で母系を辿ると天皇に行き着かなければならないから。
父ー母ー母ー父ー母ー父ー○
とかでも一般的には女系という。
母だけをつなげるミトコンドリアの遺伝のような系統だけを言うわけじゃない。
そんな父系と母系を適当に繋いだらどこにでも行き着くよw
30代で10億7374万1824人の先祖ってことは日本中が500年くらいで
シャッフルってことだものw
逆に天皇家でも先祖の名前が全員ちゃんと判るのは5〜6代でもけっこう難しいんだろうな。
名家でも出自の怪しい女の血とかはばんばん入るからな。
>>984 それだと誰でも天皇の女系子孫と名乗れそうだな。
>>986 だから天皇の女系を含めた子孫が8割いるか、それともほぼ日本人全員かって話になってるわけ。
そもそも
>>983が書いた定義で女系を辿るってのは有史以降日本にはない概念だし
そういう血族がいるかどうかは知らないがいても大した意味はないw
織田家、豊臣家、浅井家の血が天皇家に入ってる!というのも
女系だしな
藤原道長も紫式部も平清盛も皆天皇の先祖だがいずれも女系だ
いつから、男系、女系子孫のスレになったんだ。いい加減、スレチだろう。
990 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 20:12:44.63
土百姓の子孫が数字遊びで夢見てるんだよ。
まともな家系図も身分もないくせに、数字遊びで何妄想してるのやらw
もっと農民の末裔であることに誇りを持てよ。
いや、985のあとでそれ言うと家系図とか信仰してるみたいで
よっぽど馬鹿みたいだぞw
992 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 21:25:34.55
いや、家系図ですら信用できないものが多いのに、
まして家系図も何もない、数代前の先祖すらはっきりしない土百姓の子孫が、
数字上の確率論だけで天皇の子孫だの、貴族の子孫だの言うのは、
酔っぱらいの戯言みたいで妄想でしかないよ。
地べたの農民の子孫であることに胸を張れよと言いたいね。
ホンキで数字に弱いんだなw
30代ののべで日本の人口の10倍以上の先祖が存在するというのは確率論では
99.9999以上のほぼ100パーセントってことなんだよw
30代遡っても農民しか先祖がいないヤツってのが存在しないんだ。
頭悪杉。
994 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 21:49:30.78
何の証拠もないのに、確率論だけで貴種の子孫なんて言っても数字遊びの戯れ言でしかないわ。
逆だよ。貴種といもの自体制度に支えられた虚構だから物理的事実に支えられた
現役の貴種以外は「証拠」とか言っても全く無意味だと言ってるんだよw
リアルな現実は間違いのない先祖ののべ人数の方で、いいかげんにピックアップした
系図の方が虚構なのだ。
997 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 21:56:26.71
ていうか、確率論に従って、どっかで天皇やら貴族の血が混じってたとしても、
実証不可能な、はるかな昔の遠縁のそのまた遠縁のそのまた遠縁みたいなものだろ。
百姓の血という大海原の中に、目薬一滴ほどの名門の血が混じったところで、
そんなもの何の意味もないわ。
天皇の貴族の子孫とか名乗るのもおこがましいというか、証拠なんてないしw
ほとんどの日本人の圧倒的大部分の血は百姓の血で構成されてるわけだから、
確率論で貴族云々とかいうのは、やっぱり酒飲みの与太話レベルだわ。
親は常に二人なのに生物学的先祖に遠縁も近縁もないわw
真の血縁は500年程度で間違いなくシャッフルされるんだから
制度上の「家系」には生物学的意味は何もないって話だよ。
おまえがこだわってる「オレも天皇家の子孫だー」とか言って鼻高々の馬鹿など
どこにもいないっつーの。
999 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 22:15:11.24
>百姓の血という大海原の中に、目薬一滴ほどの名門の血が混じったところで、
>そんなもの何の意味もないわ。
>ほとんどの日本人の圧倒的大部分の血は百姓の血で構成されてるわけだから、
>確率論で貴族云々とかいうのは、やっぱり酒飲みの与太話レベルだわ。
もう、これに尽きるな。
>
FIN
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