1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:10:30
.__
|南| ┌──────────
|無|.. │ 南部騎馬軍団!!
|妙| └─y────y────
(゚久゚)
巛∧ ∧(oノヘ| _∧∧(oノヘ
./ ・ ヾ.(゚一゚ R\ (_・ |(゚一゚L\
(_/\ ⊂ ヽ三|| |\Ю ⊂)_|√ヽ
冫´ | / ⌒ Y (  ̄ ~∪ )^)ノ
,/ | ,.し_ 丿 ||` || ( | ( |
\(/ /´ // / ``) ::`) '~ ~ '~ '~
/ / //_/ ; ;; ;;; `)⌒`)
3 :
南部大膳大夫利敬:2010/09/13(月) 01:32:42
わが南部家は、奥州において民政の充実に勤しむ勤皇佐幕の大藩であるが、家来筋に過ぎない大浦右京寧親は近衞侯や田安卿に働きかけて、從四位下侍從を得おった。
伍萬參千石の赤穂浅野家には忠臣大石がいたが、大浦に辞官納地を実現する忠臣は、弐拾萬石のわが南部家にはおらぬのか
4 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 01:47:34
悔辱の怨を報じ申すべく候
5 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 02:33:12
江戸城内でのやり取りをみると
徳川家斉「喜べ津軽。その方に從四位の官位を賜るよう、帝に奏上しておいた。まもなく達しがこよう」
津軽寧親「ありがたきご配慮」
南部利敬「上様!畏れながら!」
徳川家斉「それへ」
南部利敬「それがし、承服致しかねます。わが藩の最も豊かな領地を奪い取った津軽藩が、從四位の位まで賜って、わが藩の上位に座るというのは、到底承服致しかねます。」
徳川家斉「しかしそれは既に決まったことである」
南部利敬「それならばせめて、野辺地、烏帽子山をわが藩に帰すよう、ご裁可、頂きとう存じます。
野辺地、烏帽子山は、当藩固有の領土でございまする。それを津軽藩は、二百年前と同じように武力をもって無理矢理奪い取ったのでございます。」
6 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 19:42:23
同じ外様大名でも関ヶ原のときにガチで徳川と対立した佐竹や、
どう見てもオメー真田と通じてただろ的な伊達と比べると、
南部は徳川家にはかなりいいこちゃん扱いされていたらしい。
しかしチャンスを活かせない星まわりと治政不良は江戸時代通じて変わりませんでした
8 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 13:40:28
まあ完璧にぶっ潰された最上とか人員過剰で藩士全員低賃金の上杉よりはましだろ。
庄内や会津はもともと譜代だし。
9 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 14:44:41
南部領よりも北に位置し、南部領よりも狭い津軽領は実高32万石だ。。南部領より西に位置する荘内領は、やはり南部領よりも狭いが、実高20万石とも言われた
すなわち商業や開墾に励んだわけだが。南部はいっこうに冴えない経営スタイルであり、挙げ句
ま、とーほぐの田舎もん同士、けなし合っていればいいんじゃない?
11 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 19:01:46
まあその田舎もんに毎年米300石送ってもらわないと生活できなかった
京都の近衛家はもっとさえないが。
12 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 00:48:33
津軽家が近衛なら南部は一条家ですから。
公家は大名との縁戚をもって食い繋ぐのは定石。
ねつ造王国津軽 vs 究極のバカ南部
15 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 14:00:19
先々代の当主、南部利英は一条公爵家から婿養子に来た人なんだな。
原敬や米内光政が宮中ででかい顔できた訳だぜ。
16 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 17:52:57
原敬は東北愛いっぱいだが津軽地域への代々の憎しみは無かったの?
17 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 22:24:31
原敬が書いた南部史要の緒言では、
700年41代間に、明君賢相のみあるべきはずなし、これ無論のことなり。
しかして旧藩人の情誼よりせば、成るべく善きを伝え悪きを秘せんとするは、当然の人情なれども、
それに手は当時の真相を伝ふること難し、故に善きも悪きも忌憚なくこれを記したり。
又他藩とこ関係の如き、親密なるもあれど、不和なるもあり、
甚だしきに至りては、数百年仇敵視したるものあれど、
今日よりこれを見れば、皆なこれ一場の夢のみ。
いわんや一朝維新の皇恩に浴して、怨恨一掃、
今や何等感情の衝突なきにおいてをや。
とある。
原敬の場合、地元の敵対政治家との戦いの方が激しくて、
他県への行動はあまり目に付かない。
我田引鉄の典型として出てくるドラゴン線は、その敵対政治家との間で、
自分の地盤に鉄道を引く行為を順々に行ったため、
ひとつの谷をしばらく進むといきなり長大トンネルでもうひとつの谷へ、しばらく行くとまた長大トンネルで元の谷へ、という
わけの分からない路線となっている。
19 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 09:34:06
楢山や相馬 乙
20 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 17:18:00
21 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 16:25:50
>>18 > ひとつの谷をしばらく進むといきなり長大トンネルでもうひとつの谷へ、しばらく行くとまた長大トンネルで元の谷へ、という
> わけの分からない路線となっている。
F1モナコグランプリもそんな感じだから気にするな。
22 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 17:43:24
鉄道ってどこでも政治的で訳わかんない線路たくさんある。
都営地下鉄と営団地下鉄とか阪神と阪急とか。
東急なんか強盗慶太っつーとんでもない奴がいたし。
23 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 18:38:43
地元だけど原敬を尊敬してるやつなんかいないよ。 オザー先生のほうがよっぽど。
24 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 20:30:21
直接面識あるひとはほとんど死んでるしね。
25 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 23:54:56
オザーは原敬の墓参りしてるよ。
県外の人は知らない人多いけどオザーが目標にしてるのは田中角栄じゃなくて原敬。
>>1 南部の向かい鶴は口ばしが阿吽の鶴なので(・>>・)←こんなん
27 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 13:43:28
昨日ケーブルテレビの全国放送で八戸三社大祭の山車やってたが、
南部魂すごいね。津軽が埋没しないようにと危機感もつのもわかる。
青森県の旧南部領を抑えているのは旧会津
青森県の旧南部領
の内の下北半島がだろ
土地が土地だけに斗南藩って石高はものすごく低いけど、面積だけはやたらと広いなぁ。
31 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 13:58:32
B−1グランプリを始めたのは南部らしい。
陸奥国北部に広大な領地を持つ南部がたったの10万石
伊達62万石
佐竹20万石
大幅削減で内陸部の僻地に押し込められた上杉でも15万石なのに
33 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 19:25:04
江戸時代初期の南部家の財源は米じゃなくて鹿角の金鉱山や銅鉱山、高級松材、それに指揮官用の乗馬だったから。
あと江戸時代後半には石高修正で20万石になってるし。
越後時代、会津時代の100万石と
同じだけの家臣を抱える上杉30万石(4代綱憲からは15万石)は生き地獄だろ
それに10万石でも物資豊富な南部はいいほうだ
35 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:40:01
まあ八戸藩の2万石足せば南部合計22万石だし。
36 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:52:08
なにが「いいほう」だ!
百姓一揆の数パネェだろw
>>35 八戸も盛岡の分家とはいえ仲の良い藩ではないし。
39 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 06:16:38
本家と仲が悪い分家ってのはそこそこあるみたいだね。
毛利本家と岩国の吉川家とか。
陸奥国といえば
かつて繁栄を極めた平泉と十三湊
41 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 13:54:38
多賀城領域と鎮守府領域とその北でまた異なる
42 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 14:21:40
盛岡藩士は所領の他に自腹で田畑を開墾する奴が多かった。
自腹で開墾した田畑は代官所の検査を受ける必要もなかった。
またそういう藩士に資金を貸し付けたりする商人も多かった。新渡戸稲造の祖父もそう。
秋田討ち入りのときの楢山とか桜庭とか久保田の家老よりやけに石高低いが、
乗馬や服装や兵器は久保田の家老より上等だった、大館の記録にある。
43 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 14:26:38
その一方で庶民は飢えていたんですね
44 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 19:31:42
新渡戸伝なんかは十和田に銅像たってるくらいだから庶民にも感謝されてるくらいだが、
南部利済やその手下なんかは絵に描いたような遊び狂ってた暗愚だからなあ。
吉田松陰がわざわざ仇討ちの助太刀に盛岡まで来るくらいだからな。
>>40 平泉は伊達領、十三湊は津軽領
かつての繁栄はともかく江戸時代はどっちも廃墟だ
>>45 廃墟を復興させて無理やり世界遺産にするの!
47 :
日本@名無史さん:2010/09/25(土) 21:22:43
まあ菅が辞任して小沢一郎が首相にでもならないと無理だろうな。
小沢が総理大臣になっても、平泉を世界遺産には出来ないだろう
かつての建築は今は土台しかない上に、浄土式庭園は京都に現存例がいっぱいある
石見銀山のような「世界に影響を与えた」という実績もない
むしろ出羽三山の山岳信仰とミイラの方が審査員の興味を集めただろう
>>23 >>25 小沢一郎は水沢でしょうが。
水沢は伊達藩、南部藩ではありません!
だがなあ、尊敬する政治家として原敬・大久保利通の二名を挙げているのは事実
じゃあ斎藤実か?
もっとも原は盛岡藩士族、
斎藤は仙台藩士族だが、
オザーはドン百姓と済州島白丁の合の子だわな。
ちなみに鈴木善幸は漁師の網元の出。
南部家の長女ケコンするよ。
54 :
日本@名無史さん:2010/10/04(月) 18:19:41
明治時代は軍人として出世した旧藩士が主筋の姫様と結婚するケースがあった。
坂の上の秋山兄もそうだった。
藩士の娘と藩主の息子なら江戸時代もいっぱいあるけどね。
うちもそうだけど。
稲葉の姫といえば幕末淀城の裏切りだな
姫様のお相手は盛岡櫻山神社の宮司さんだよ。
南部家があるなら北部家ってないの?
59 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 10:50:03
>>53 当人に迷惑だろうから晒すなよ。
藩主家の子孫が地元で政治家になれないのは、地元民なら分かるだろ?
せいぜい盛岡市議ならなれるかもくらい。
>>60 まあ、秋田県知事は佐竹北家当主だけどな。
どれだけ南部氏が住民に恨まれる政治をやったかって分かる話だな。
62 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 12:40:12
>>60 > 藩主家の子孫が地元で政治家になれない
細川熊本県知事や井伊彦根市長を知っているか?
63 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 14:06:00
いまだに政治家が藩主家の子孫とか単に人材がいないってだけだろ。
秋田から総理大臣が一人も出ていないのも当然だな。
64 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 16:09:23
>>59 まあ南條もあれば北條もあり、北郷もあれば南郷もあるんだから、
(甲斐国巨摩郡)南部牧があるなら、北部牧はなかったのかと考えることはごく自然なことだわな。
もっともそこまで考えた上での話ならばだが。
65 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 19:33:48
つか東部家とか西部家と言うのも聞かないな。
南部家の家老には北、南、東、西と全部そろっているが。
>>63 で、ドラゴンみたいな路線を敷くわけですなw
68 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 20:40:27
すいません、知りませんでした・・
きっと北部にはいます
福士という名字は現在の南部地方(青森も含む)にある名字で、北東北ではけっこうよくある名字だという。
山梨には今でも福士という地名があるが、福士という名字の人達はいない。
きっと南部氏とともに奥羽へ行ったのであろう。
72 :
日本@名無史さん:2010/10/07(木) 14:12:57
山梨には南部姓の人ってまだいるの?
73 :
日本@名無史さん:2010/10/07(木) 14:17:41
いたと思う。
74 :
日本@名無史さん:2010/10/07(木) 14:31:54
ご存知の通り上杉家は、関ヶ原の戦いで破れ、さらには家督相続のミスから120万石から30万石、さらには15万石に削封されたが、上杉洋算の指揮のもと、越後120万石以来の家来が団結して、財政を建て直したにも関わらず、
南部家は百姓から慷血を絞りとる旧態依然な藩政を繰り返し、論外である
75 :
日本@名無史さん:2010/10/07(木) 15:45:42
>>51 斉藤実は岩手県人会には出ないで
宮城県人会に出てたそうですね。
77 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 13:43:42
東条英機は東京生まれだが岩手県人会に出てたとか。
当時は宮城=伊達、岩手=南部だったんだろうね。
伊達は62万石
南部はたったの10万石
ぷぷっw
79 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 14:17:43
伊達は関ヶ原で100万石のはずが、和賀一揆で南部から花巻とれずに62万石。
盛岡南部はさらに北海道でがんばって20万石。八戸南部とあわせて22万石。
80 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 15:44:54
幕府が南部を取り潰さなかった理由は
やはり伊達を牽制する必要があったのと
寒冷地統治のノウハウを幕府が持っていなかったからではないかと思われる。
南部は頼朝の奥州征伐に従って
藤原氏滅亡後の陸奥(の一部)をず〜っと統治してたんだもんなぁ
82 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 16:49:48
でも大浦為信が弘前で奥州藤原氏の統治を再興させたんだよ
タメノブーはかなり汚い手を使って津軽を統一したので、
実は津軽地方ではあんがい嫌われている。
84 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 19:23:10
徳川家は伊達を全く信用してなかったからな。関ヶ原・真田の件からして当然だけど。
南部は葛西大崎一揆のときも関ヶ原のときも大坂の陣のときもまじめに戦ってたし。
夏油川では伊達にも圧勝したし。
85 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 19:24:59
南部は中央政権に取り入るのはうまいよな。
伊達みたいに野心がないからな。
86 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 19:38:36
まあ南部には九戸みたいな身の程知らずもいたが・・アボーン。
87 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 20:52:01
しかし120万石だった上杉が幕末には20万石の南部以下になってるって、
信直が知ったらびっくりするだろうな。
上杉は要警戒だったんだろうな
石高が大幅に減らされたのも痛いけど
当時の日本屈指の湊も取り上げられ泣きっ面に蜂(抜け荷し放題の毛利と大違い)
南部はいい子扱いでよかったな
中央政権にとりいる為には藩領などどうなろうと構わんだろうし。
90 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 22:59:14
中央政権にばかり目が向いてしまい流れが読めない殿様と家臣団
91 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 23:41:12
薩摩の下級武士(西郷隆盛)にタメ口聞かれたと憤慨して帰藩した南部藩家老の楢山佐渡か。
92 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 01:11:35
花は咲き
桜は燃ゆる
春の世に
移らぬものは
もののふの道
94 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 01:38:22
下級武士の重用という他藩や幕府が行っている人事は、南部藩には感覚的に理解できないことだったでしょうから。
95 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 05:31:52
>南部藩には感覚的に理解できない
戦国時代は南部でも強いやつを抜擢したことはあったのではないか?
記録が残っていないのかもしれないが。
96 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 09:31:19
まあ長州とかは下級武士を重用した訳じゃなくて主な上級武士が
蛤御門と絵堂・大田で爆死してただけだがな。
97 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 01:39:41
上も下も次を考えていたんだね。
>>85 そうか?津軽にさき越されて、ムキーッってなるのが常じゃね?
イメージはともかく・・・
戦国期の南部は、内部に爆弾をいくつも抱えてたから、中央権力の支援が必要だった。
そういう構造はどこの外様大名も似たり寄ったりだけどな。
99 :
日本@名無史さん:2010/10/12(火) 13:39:33
事実、津軽爆弾は炸裂。九戸爆弾、和賀爆弾は何とかうまく処理。
大崎、最上は自爆。上杉は大破。秋田は衝撃で隠居がフィギュアオタに・・。
>>99 すこし誤りを訂正。
奥州仕置きの時点でいうなら、
大崎は半ば伊達の家来に成り下がり、戦国大名の体をなしていなかった。
上杉は中央権力の支援の下、新発田や佐渡を鎮圧。となる。かねたんが豊臣政権の優等生として表彰されている。
最上は、伊達・上杉との抗争で追い詰められていた。そのため、中央権力への依存が強かった。
義光は娘を豊臣秀次に差し出している。また、次男家親を徳川家に奉公に差し出した。
この策はどちらも見事に失敗し、娘は秀次事件で斬首、最上家自体も半ば連座させられる。
また、次男家親の家督相続が最上騒動の原因となっている。
長文スマソ。
中央と結びつく≒安定。ままなら無いものです。
101 :
日本@名無史さん:2010/10/13(水) 11:04:57
>>100 最上は中央権力にひたすら尽くしたのに結局はあっさり取り潰されたな。
気の毒だ。
102 :
日本@名無史さん:2010/10/13(水) 19:41:15
秋田はうまく中央と連絡とって関ヶ原でも東軍についたはずなのに、
最上がつくったストーリーで起訴された。証拠品の日付とか合わないはずなんだが・・。
まあ取り潰されなかっただけ最上よりマシか・・。
信直・利家はギリギリのところでよくやったよ・・・。
>>100 幕府は最上の存続を望んでいたようだが、最上家中の亀裂が幕府の想像以上に深刻だったようだ。
小田原の陣、奥州仕置き以来、東北諸侯は徳川の盟友。簡単に切れる仲ではない。
104 :
日本@名無史さん:2010/10/14(木) 02:39:34
奥州征伐をすることが。日本統一をする事の基本なんでそう。
105 :
日本@名無史さん:2010/10/14(木) 06:00:56
九州征伐の方がいつも最後だろ。関ヶ原の島津征伐、島原の乱、西南戦争。
九州で起こる乱はいつも想定外
107 :
日本@名無史さん:2010/10/14(木) 08:45:10
なんじゃそりゃ
108 :
日本@名無史さん:2010/10/16(土) 09:57:13
109 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 09:37:41
110 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 11:01:10
秋田秋田城介、伊賀伊賀守、伊勢伊勢守、
婚礼の儀 おめでとうございます
112 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 17:17:32
南部茂時
113 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 21:37:00
南部の領地、桜山商店街で一揆が発生。
114 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 00:36:58
いっきく゛んか゛かちました
なんふ゛は しほ゛うしました。
115 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 18:22:40
なんふ゛は にけ゛た゛した !!
殿様は生意気づらだよね。
海老と同じタイプ
靖国神社の隣、今は白百合学園になっているけど元は南部伯爵邸だった。
119 :
日本@名無史さん:2010/12/08(水) 04:56:34
とりあえず天皇家男系直系(を養子に迎えた家)なので、
維新期の馬鹿な振る舞いにもかかわらず戦前の家名は高かった。
120 :
日本@名無史さん:2010/12/08(水) 13:45:39
南部伯爵家の家令は原敬がやってたからなあ。
ホームパーティには米内光政、板垣征四郎、東条英機、新渡戸稲造、及川古四郎、
田中館愛橘などそうそうたる顔ぶれだった。
121 :
日本@名無史さん:2010/12/10(金) 03:55:04
帝国陸軍大臣と海軍大臣を左右に置いて写真に写れるのは陛下以外には私だけと言ったとか。
此度の戦争を始めたのは南部の者で終わらせたのも南部の者だったな。と陛下に言わせたりもした。
122 :
日本@名無史さん:2010/12/10(金) 11:29:31
米内は板垣・東條と思想が対立していたが、
同じ南部様の同志、争う事はなかった
昭和にもなって?って思う人もいるかもしれないけど、
元藩士たちの家系は元大名の家系に忠誠を誓っていた
板垣は貧乏な百姓の子
米内は武士の子だったけど、父の失敗で超困窮して育ってるし。板垣征四郎は下級武士の家で貧乏。
及川古志郎は医者の子で金はあったが自信が望む文芸の才能がなかった。
石川啄木は寺の息子で金も才能もあった。宮澤賢治は財閥の御曹司。
将官になった及川古志郎が列車での移動中に啄木の詩集を読んでいたら、お付きの士官にそのような女子供の読むようなものを、言われて答えたのが「啄木のような天才がいるなら文学は無理と知って軍人の道を選んだのだよ。」
名探偵、金田一耕助のモデルとなった言語学者金田一京助。
子供の頃は剣道・柔道をたしなむ武道少年で、盛岡中学でも柔道に打ち込んでいた。
毎朝、朝早く家をでて、近所の湧き水を飲み、そのまま盛岡中学の門を
くぐるのが京助の日課。
「今日こそは一番先だ」と勇んで道場に入るのだが、大抵は、
上級生の米内光正がすでに来て金田一を待っていたそうである。
米内は、背が高く動作に品があり、当時での最高クラスのイケメンだったらしい。
練習で小柄な京助が、長身の米内を投げる。
米内は、京助の下手な投げでも、わざわざ大きな音を立てて受身をとり、
その上「うまいうまい」と褒めてくれるので、逆に恥ずかしくて仕方がなかったそうだ。
この辺、いかにも盛岡の人間の人柄を現しているようで、微笑ましいエピソード。
127 :
日本@名無史さん:2010/12/31(金) 12:09:32
もう一つ京助と米内のお話。
当時、金田一家が間借りしていた家の大家の娘が、京助の小学校の同級生。
近所でも評判の美少女だったそうな。
学業も優秀で、小学校の頃は京助よりもさらに成績が良く、常にクラスで一位。
だがあるとき、体調が悪くて思うように勉強できず、京助に一位の座を奪われてしまう。
京助の友人の男子は、ここぞとばかりにはやし立てるが、彼女は何も言い返さずに
その場を離れ、誰もいないところで涙ぐんでいた。
それを偶然目にした京助少年は、その可憐さに胸を打たれいっぺんに彼女を
好きになってしまう。これが京助の初恋。
その後、彼女の家に長身でイケメンの上級生、米内が頻繁に出入りし、
彼女と親しくしていることを知り、京助は大いにショックを受けたそうな。
米内とその少女が、実は親戚だったことを京助が知るのはさらその後のことである。
先輩には米内、後輩には啄木。京助の立場なし。
なるほど。金田一君は、誰にも負けない為には誰もやっていなかったアイヌ語だと気付いた訳だ。
>>129 そんな甘いものじゃないよ。
当時、民俗学などは全くの未発達で、アイヌ語などは全く省みられなかった。
当然、研究費等もない中、研究発表するアテもないまま
京助は自費でアイヌの盲目の古老を東京の自宅に招き研究をした。
京助自身も、まだ若い学者で裕福でないにも関わらず、だよ。
東京へ招いている間、京助は貧しい家計から、何とか食費を捻出し、
古老には三食おかしらつき。京助と夫人は、米と塩のみの食事。
東京駅で古老を送る際は、北海道へ行くという人を探しだして、
その古老への道中の介助を頭を下げて頼み、財布の中身の金を全てその人に渡してしまう。
古老が、「京助さん、もういい。帰りの電車賃はどうする」と聞くと、
「自分は歩いて帰るから大丈夫」と返答したそうだ。
現在、アイヌ文化が国から保護され伝承されているは、こういった京助の
尽力に負う所が大きい。
古老は、北海道に帰った後で、謝礼に受け取った金で、糸を買い求め網を
作った。盲目であるにも関わらず、その網で自分で鮭ををとって、
東京の京助に送ると言い張ったそうだ。古老も京助の人柄に感動したのだろう。
「誰にも負けない為」とか、人からの評価を研究の動機にしていたなんて余りに失礼。
金田一京助って啄木にも金を貸したままで、啄木が死後有名になると私は啄木に金を貸して有名になったとか言ってみたり。
あまり自信の累進を望むタイプではなかったみたいね。
132 :
日本@名無史さん:2011/01/04(火) 11:31:13
京助は、言語学者としては、どのような分野でも優秀なとてつもない
天才だったらしいよ。
息子の春彦氏は、言語学では何をやっても父親にかなわないがと思っていたそうだ。
ただ、テープレコーダーなどの発達で、唯一発音だけは父親に勝る実績を
残せそうだったので、それを専門にしたそうな。
金田一が有名になったのは、辞書に監修者として名前が載ったため。
ただ、京助自身は実際は、この辞書の作成にはほとんど関わっていない。
もうひとつ有名にしたのは、やはり名探偵金田一耕介。
>>132 「金田一」って名字が有名になったおかげで、読み間違えられることがなくなり、
京助は横溝正史に感謝したらしいねい。
134 :
日本@名無史さん:2011/01/06(木) 00:48:34
>>133 京助さんよりは春彦さんがが感謝しているってさ。
啄木絡みで有名になったであることには違いない。
136 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 19:32:57
NHKの放送用語も作っている。
投資が成功した良い例だ。
138 :
日本@名無史さん:2011/01/22(土) 21:21:14
二人で遊廓に行っても金田一はキッスだけして帰ってきたらしい。
その後結婚して子供ができたときに啄木は、金を借りに行って
「君が結婚して子供をつくるなんてねえ」
とニヤニヤしていたらしい。
啄木は女好きで早熟だけど、与謝野晶子も啄木ファンになったりするし。
与謝野馨は財務省ファン
141 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 20:00:51
南部家とあんまり関係ないな
142 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 16:59:41
鳥羽伏見で薩長の勝利を見届けてから
岩手に帰って幕府に味方した家老は誰だっけ?
この人のことを調べたい。
143 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 17:14:37
南部信直ってなんで生首を持ってこっち睨んでんの?
144 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 21:21:24
あれは勝利のポーズだろ
>>142 楢山佐渡だろ。いろいろ言われる人だね。威厳があったのは事実のようだ。
>>145 ああそうだ。
京都で西郷に会ったのに、その凄さを見抜けずに幕府についた人だな。
まあ、でも岩倉具視に色々言われたみたいだシナ。
>>147 それは知らなかった。なんていわれたの?
京都で南部藩家老として西郷ドンに謁見を求めたが、西郷は一瞥をくれただけで佐渡を相手にせず、来客()との話に夢中になっていた。
待合室で長時間待たされた挙げ句、とうとう呼出しを受けなかったので、失礼な奴だコイツは駄目だと西郷を見限って盛岡への帰途についた
と俺はかつて読んだが。
150 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 16:33:44
捏造乙
あれ?西郷は部下と車座になってなにやら鍋をつついていて、上下の区別を重んじる
楢山佐渡がそれ見てカチンと来たんじゃなかったっけ?
さて、楢山は岩倉具視と会見する。楢山は、あくまで朝廷のご意思を確かめたい一心だった。
あのザマは何だ?朝廷がお認めになってのことか?一方岩倉は、こうした楢山の焦燥が透けて
見えるようだった。「ほほう、薩長が憎いな?好く奴なんぞおらん。所詮、朝廷は兵力を持たぬ故・・・
奥羽はどうじゃ、薩長を凌ぐ連中はおらんのか。貴公はどうじゃ?天子様の思し召しを得たいと
は思わぬかの?グフフフフ・・・」
岩倉の思わぬセリフに楢山はギクっとする。何が言いたいのだろう!薩長に倒幕をやらせたが
どうも好かん、ということか。朝廷も一筋縄ではないらしい・・・ねるほど。
奸物の中の奸物を前に、楢山はまな板の上の鮭のようだった。この単純極まる盛岡人は、陰湿
なお公家さんの生態や、壮絶な朝廷工作の世界に疎い。会津といい、南部といい、結局のところ
「騙された」のだ。
http://sagamihojyo.web.fc2.com/na/na-5.html なんだこりゃw 岩倉がこんなこと言うかあw
>>150 いや捏造じゃないんだよ。
確かに昔何かでそう呼んだ記憶があるんだが。
ただ、一般には
>>151のように言われているね。
『防長回天史』(長州・末松謙澄)
「奥羽鎮撫使と南部口の秋田戦争並に南部藩の降伏」
案ズルニ楢山佐渡ノ京都ニ在ルヤ岩倉卿ハ薩長ノ専横ヲ憂イ、之ヲ抑制スルニハ奥羽同盟
ノ力ヲ以テスルトモ反テ時宜ニ適セリトナシ其ノ意ヲ佐渡ニモラス。佐渡ハ此ノ趣旨ヲ以テ藩論ヲ
決シタリト。然レドモ当時岩倉卿ハ廟堂ニ於テ最モ奥羽ノ形勢ヲ憂イタル一人ニシテ、奥羽官軍ノ
応援ノ為ニハ特ニ尽力シ陣頭ニ立タントスルニ至レルコト既記ノ如シ。佐渡ノ如キ万々其ノ事アルベキ理ナシ。
佐渡ハ全ク一時ノ詭弁ヲ弄シタルコト明ラカナリ。シカモ、東北人間ニハ爾後、
往々ニシテ此ノ詭弁ヲ信ゼザル者ナキニ非ザルハ解スベカラズ。
「官軍応援に尽力した岩倉が、奥羽の一家老ごときに薩長専横の憂いをもらすはずはない。
すべて佐渡の詭弁だが、東北人のなかには信じる者もいるので解し難い」
155 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 14:29:00
>>154 >官軍応援に尽力した岩倉が、奥羽の一家老ごときに薩長専横の憂いをもらすはずはない。
そうだろうな。岩倉は腹の中ではそう思っていたかもしれないが
それを口にするようなやわな男ではないからな。
156 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 18:15:20
西郷や岩倉のような首脳部は相手に対するマナー持ってても案内すり部下が世良修三のような連中だったんじゃよ
>>154 もう永遠にその真偽のほどは分らないだろうが
わざわざ、「防長回天史」で取り上げなければならないほど
この話がひろがってたということだな。
岩倉のやりそうなことだとは思うけどね。
どうなんだろ?
岩倉にどんな得があるんだよw
>>158 互いに武家をいがみ合わせて利を得るってのは
お公家さんの常套手段だからな。
でも南部藩としては時勢に乗るべきだったな。
江戸以西の藩のほとんどが官軍に乗っかってるのに。
>>159 だいたい、そんなこと岩倉が言ったら、東北地方にいた三条とか醍醐とかの同じ公家もやられちゃう可能性が
あっただろうに。味方を減らして岩倉に何の得があるんだよw
>>160 敵を増やしたかったとか?
装備や経済力でも東北諸藩はどうせ官軍に敵わないから、
あっち側に追いやってせいぜい分捕り分を増やしたかったとか。
外国につけ込まれる隙をあたえてまでやるこっちゃないわな。
「夷を以って夷を制す」が朝廷の得意技。
薩摩・長州の政治力が大きくなりすぎることを恐れたんじゃないかな?
新政府が、既に恭順を表明している会津藩を攻撃するのも筋が通らないしね。
薩長新政府は 戦がしたかったのさ。
相手はどう転んでも負けるわけがない東北諸藩だしな。
だったら、庄内にいきなり負けて延々逃げ回るようなコトするなよw
>>163 んな訳がわからん理由よりも、単に楢山佐渡が怒って嘘ついたって説が一番ピンと来る説なんじゃないのw
167 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 05:29:00
南部が列藩同盟側で参戦したとき、既に列藩同盟は敗色濃厚だった。
だから周辺も絶対反対だったし、誰からも論理のある参戦理由は示されなかった。
論理のない参戦をするために、あいつ(西郷隆盛)は悪い奴だ、こっちには味方(岩倉具視)がいる、と
出任せを言う必要があったと思われる。
実際の楢山の参戦理由は、仙台藩土佐からの強い要請に応じたというもの。
しかし南部の実力を考えていなかった。無謀だった。
168 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 09:10:12
169 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 09:13:30
>>167 > 南部が列藩同盟側で参戦したとき、既に列藩同盟は敗色濃厚だった。
アフリカとか南米の小国が
1945年8月に入ってから日本に味方して米英に宣戦布告するようなもんだからな。
170 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 09:45:59
>>164>>169 東北戊辰の役は第二次世界大戦の雛型だなあと思うことはよくある。
>薩長新政府は 戦がしたかったのさ。
>相手はどう転んでも負けるわけがない東北諸藩だしな。
↓
>アメリカは 戦がしたかったのさ。
相手はどう転んでも負けるわけがない日本だしな。
171 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 09:50:18
おとなしくしていれば良かったのに暴発して全てを失ったあたりは似ていますね、
愚鈍東条英機・愚鈍伊達カワウソ藩主
かわうそ?
マンガの?
写真では似ているが
173 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 11:04:51
そんな東北人をトップに戴いた近代日本て何なの?
他はカスだらけw?
174 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 18:29:31
楢山佐渡は嘘を並べて南部を負け戦に導いた。
何が武士道なものか。
175 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 19:00:13
当時、他の家老や殿様は止めることができなかったのか?
結果的にはそうならなかったが、殿様が切腹させられてもおかしくなかったぞ。
176 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 19:01:27
佐渡を止められなかった藩士たちの責任も大きいね。
佐渡はきちんと責任とって武士道の作法に則って切腹してる。
花は咲き
桜は燃ゆる
春の世に
移らぬものは
もののふ道
177 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 20:59:16
楢山へは、同僚が腹を斬ってまでして諫めてますが?
その上、再戦を誓う佐渡を捕縛して今度は佐渡に腹を斬らせてますし。
楢山は汚い
178 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 21:04:19
北東北の盛岡藩の頼みは仙台藩・庄内藩と幕府海軍。
久保田藩を降伏させ、弘前藩を封鎖して、酒田〜米沢〜仙台に防衛ラインを設定。
尾去沢の銅を代金に箱館へ大島高任にファーブルやスネルから兵器や船を購入させる。
政府内各藩の対立や英仏の対立を利用して停戦交渉。妥協打算を引き出す。
庄内藩・桑名藩は連戦連勝、幕府海軍や伝習隊etcも兵力温存。
大誤算は仙台藩・米沢藩の予想以上の連戦連敗。
179 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 21:05:46
三百諸藩中もっとも民百姓を飢餓に苦しませた藩なんだから藩士はみんな苦しんで当然。
楢山は良くやった!
感動したっ!!
180 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 21:09:57
>>178 >大誤算は仙台藩・米沢藩の予想以上の連戦連敗。
大誤算は楢山佐渡の連戦連敗、の誤りじゃないでしょうか?
181 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 21:23:40
秋田藩では、まさか南部藩が戦闘を開くとは思っていなかった。
口では「同じ源氏だから攻めてこないだろう」なんて言っているが、まさかあの状況で攻め込んだら
最終的にやられるのは南部だろうという判断があったに違いない。
だから、大館市方面ではのほほんとしたもので、庄内との闘いでの応援部隊を送り出した残存部隊は、
山野に出かけて山菜取ってたりしている。攻めてきたってんで、招集かけたけど、集まったのは夕方。
鎌倉以来の古い大名家の薩摩と南部の両家であるが。
南部家には家臣を育てる制度がなかったのであろう。
183 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 00:13:12
南部が鎌倉以来?
南部なんて室町以降ですよ。
もっとも島津も戦国で本宗筋は系統絶えてるけどな。
185 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 01:54:34
>>184 君はさぞやお勉強が出来るんだろうね。
まずは君のその「お勉強」とやらの成果を具体的にご披露下さりませませ〜ん。
186 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 03:18:57
>>178 幕府海軍といっても、内陸部にある盛岡が攻められた場合、
艦砲射撃による援護はできないからな。
187 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 03:20:43
>>178 > 大誤算は仙台藩・米沢藩の予想以上の連戦連敗。
米沢藩は謙信以来の伝統で戦闘にはめっぽう強いだろうと誤解されていたのではないか。
188 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 03:22:56
>>182 > 鎌倉以来の古い大名家の薩摩と南部の両家であるが。
佐竹とか、九州の伊東は古いが南部は古くないでしょ。
189 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 06:11:46
仙台藩、米沢藩がもっと粘って官軍の兵力を拘束し、盛岡藩が能代を制圧していれば、
幕府海軍の一部と能代で合流することも考えられる。そうすれば官軍の補給が難しくなる。
秋田の港が危険になれば官軍も盛岡を攻めるどころではない。
久保田藩が降伏したら幕府海軍の一部を酒田へ前進させ、政府海軍を牽制する。
あとは尾去沢の銅、釜石の鉄、本間さまの米でプロシア人米沢藩士スネルから船や兵器を買う。
>189
元々の体力が違うんだから勝てるわけないだろう。
国が割れたら植民地街道一直線ざんしょ。
イギリスなんかそれが国是。
「分割して統治せよ」
192 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 13:51:16
別に勝つ必要はない。東北諸藩に有利なように薩長藩閥政府に妥協させるのが目的。
薩長藩閥には、土佐の板垣退助や佐賀の江藤新平・大隈重信も不満持っている。
土肥は会津への長州の私怨はどうでもいいし。
193 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 17:54:59
むしろ会津や仙台の私怨に南部を参加させないで
迷惑
認めたくないものだな。身内の判断の誤りというものを。
195 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 17:59:54
官軍に敗戦した直後の殿様がどういう態度でいたのか記録残っている?
196 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 18:57:12
私怨といえば、何百年もしつこく津軽を恨んでるどこかの藩の方だわなw
そっくりですね
ウリナラミンジョクとw!
197 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 19:05:36
松前とはトラブル無いのか
198 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 19:12:31
なんの、藤村旧石器といい都合の良い捏造藩史といい、仙台藩の粘着独善には負けますよ
199 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 19:20:28
やけに仙台にも粘着しているようでw
201 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 19:23:51
202 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 19:25:25
官軍に敗戦した直後、弘前藩が野辺地に夜中に攻め込んで放火したが、
炎をバックに弘前藩兵が橋の上に集まっているところを盛岡・八戸藩兵が暗闇の中から次々に狙い撃ち。
弘前藩兵は約30人が戦死して退却。南部側の戦死は8人。しかも私闘扱いで官軍は無視。
これを聞いた殿様、
「幕末最強の佐賀藩には勝てなかったけど、とりあえず秋田と津軽には完勝できたな。藩内はほとんど無傷だったし。」
酷い負け惜しみだ
楢山佐渡が軍を出す前に、閉門蟄居にしていればよかった
204 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 19:53:22
>>202 > 「幕末最強の佐賀藩
そうなのか?たしかに火器は最強だったかもしれないが
アームストロング砲とかは持ってきていないかったはず。
楢山は実力も考えず、空理空論で南部藩を巻き込んで戦いを仕掛け、敗北した。
南部藩を誤らせた彼が立派な武士だったという意見は、ゴミ箱に捨てたほうが良い。
206 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 20:17:50
楢山は武士の鏡だな
肝心の単語が違う
それでは神社のご神体ではあるかもしれないが、見習う対象とはならない
きっと、実際の武士の浅はかさや卑劣さ、ご都合主義や見栄、権威主義を反映した俗物の一人と言いたかったんだよw
>>204 緒戦で南部藩の上級武士がやられている。炸裂砲弾を体験するのは初めてだったからだ。
やはり、アームストロング砲あったんじゃないの?
210 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 20:39:53
このサイトに使ったようなこと書いてるが・・。
http://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/26414923.html 庄内藩相手にはアームストロング砲ないとヤバイくらいだったらしい。
盛岡藩から大館城奪回にもけっこう時間かかってるし、肥前八勇士の墓とか見ると、
オレが佐賀藩士だったらさっさとアームストロング砲よこせって言うだろうな。
盛岡藩兵は箱館の台場でフランス式の砲術習っていたらしい。使ってたのはロシアの船から回収したカノン砲だった。
野辺地の砲台では佐賀藩の船に砲弾命中させてる。
211 :
201:2011/02/18(金) 20:41:18
>>197>>200 天文二年の「津軽弓矢」という合戦で、下北横浜で一揆を起こした杉生大蔵が八戸南部の水軍に攻められて、松前に逃れてきた。
しかし、松前氏(武田信広?)は杉生の松前ての滞在を許さず追い返した。。
南部氏はこの一揆が松前氏による策謀と疑い、松前氏に「同姓隣国の誼み」を忘れたのかと厳しく詰問したためだそう。
(「北から見直す日本史」大和書房、網野善彦・石井進監修
第三章「北方海域における人の移動と諸大名」入間田宣夫p175〜179)
212 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 20:44:04
なんか絵を見るとところどころにアームストロング砲らしきものが・・。
>>210 そのサイト、惜しむらくは絵と写真の場所の検証が甘い。
かなーりズレているトコを表示してます。
>>212 絵を描いている人は、南部藩の人だから、単に南部の砲だと思うが。
>>211 > 南部氏はこの一揆が松前氏による策謀と疑い
そんなことしても松前にメリットはないと思うが。
215 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 21:06:39
>>214 知らんよ。んなこと。
疑った南部の殿様に聞いてくれよ。
ちなみに入間田氏が引用している史料は南部藩の記録「祐清私記」。
216 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 06:25:21
しかしそれじゃあ大館で佐賀藩兵が使った大砲って何だったんだろうか?
小銃は最新式のスペンセル連発銃で大砲だけ旧式だったんだろうか?
ところでスペンセル銃は連発だから密集して突っ込んでくる敵兵を撃ち倒すには便利だったが、
カービン銃だから銃身が短くて射程も短く、軽量だから反動大きくて命中精度もいまいちだったらしい。
だから見晴らしいいところに長銃身の前装ライフル銃もって隠れてる敵兵には意外と苦戦した。
217 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 11:20:05
アームストロング砲だよ。史実でないのは佐賀がアームストロング砲を自作したって話で
イギリスから輸入してたってのが史実。
218 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 19:44:55.18
新田義貞と一緒に鎌倉攻めたのが八戸南部
北条泰家と一緒に逃げたのが三戸南部?
>>218 新田義貞と一緒に鎌倉攻めたのが八戸南部
これはほぼ間違いないだけど。
北条泰家と一緒に逃げたのが三戸南部?
は そう断定はできない というところかな。
日蓮宗を分裂させてしまったのも鎌倉時代の南部氏
>>216 >だから見晴らしいいところに長銃身の前装ライフル銃もって隠れてる敵兵には意外と苦戦した。
秋田戦争ではこの条件がなかなか成立しなかった。なぜなら、季節は秋だったのでこの地方には霧が
多く発生して、視界をさえぎった。霧がなくなると、アームストロング砲が打ち込まれることになる。
また、見晴らしの良い所を確保するには地理を知り尽くしている必要があるが、敵地だったので裏道や
獣道を知り尽くしているのは向こう側であった。
222 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 13:37:11.89
まあ霧が多いと佐賀藩のスペンセル銃やアームストロング砲もなかなか使えない訳で。
盛岡藩も霧を利用した秋田側の白兵攻撃にはけっこう苦戦している。楢山討ち取る寸前までいっている。
霧が多くなると佐賀藩のアームストロング砲は使えないが、秋田藩は槍や刀で白兵攻撃できる。
霧が晴れると秋田兵はライフル銃で一方的にアウトレンジできるがアームストロング砲にアウトレンジされる。
お坊さん系は八戸
224 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 02:11:45.28
戸系の南部氏は分家で本家の南部氏は鎌倉幕府滅亡時に北条氏と共に滅亡じゃんね。
225 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 05:36:12.70
南部茂時のことか?
あれは政村流北条氏説が有力だが系譜上の兄弟は鎌倉から泰家と逃亡、後の三戸南部になる。
まあ三戸が嫡流かと言われれば微妙だが
>>225 <系譜上の兄弟は鎌倉から泰家と逃亡、後の三戸南部になる。>
そうかもしrないし、そうでもないかもしれない。
なにせ、根本資料がないから。
根城系南部の出自こそが奥羽南部の
太平記に出てくる南部茂時は北条茂時の過ちだろうというのが今は多数派。
残念。
北条と南部を間違えるか間違えたのか、そこに意図があるだろうに。
太平記の人物記述で他にも多々あるのならともかく。
ただ一名だけなら、
231 :
日本@名無史さん:2011/02/24(木) 14:12:47.34
分家っつーかもともとどっちも独立領主だろ。会社で言えば子会社じゃなくて別会社。
八戸南部は甲斐南部家の土地を分けてもらったんじゃなくて、ゼネラル頼朝から直接乗馬牧場のオーナーにしてもらったんだし。
独立領主なのに、なんで支藩扱いなの?
幕末だって、のるかそるかの盛岡藩の会議に参加していたのでは?
>>232 毛利の本藩と岩国藩もそういう感じではないか?
234 :
日本@名無史さん:2011/02/24(木) 19:38:36.33
幕末の八戸藩も支藩じゃない。一度幕府が没収した領地を徳川幕府から与えるという形式になっている。
盛岡南部家から分与された領地ではなく、幕府が盛岡南部家から没収した領地を与えている。
秋田討伐には参加していない。野辺地では八戸藩兵も盛岡藩兵と津軽藩兵をボコボコにしたが、私戦扱い。
盛岡藩は賊軍になったが、八戸藩は賊軍になっていない。
235 :
日本@名無史さん:2011/02/24(木) 19:59:45.56
それは当時の八戸藩当主が島津家と血縁にあったことが大きいんではないか?
236 :
日本@名無史さん:2011/02/24(木) 20:11:19.86
大きいが、それでも八戸南部が独立領主ということでしょう。
ちなみに四国の宇和島伊達家も賊軍にはならず仙台伊達家より爵位が上の侯爵になった。
お前ら、根城南部氏と江戸時代の八戸南部氏を一緒にするな。
238 :
日本@名無史さん:2011/02/25(金) 00:23:03.28
南部って何家あるの?
239 :
日本@名無史さん:2011/02/25(金) 00:27:01.73
江戸古地図で盛岡内丸の石割桜あたりが八戸氏の屋敷。八戸氏は遠野の殿様。
240 :
日本@名無史さん:2011/02/25(金) 00:39:20.56
八戸藩の殿様は盛岡の分家
241 :
日本@名無史さん:2011/02/25(金) 00:40:25.33
野辺地では総督だった栃内兵衛が薩長新政府から首を要求されてるな。
一度降伏しときながらもう一度戦闘行為起こすとは何事か!とか言われて。
新渡戸伝の取り成しで何とか収まったけど。
242 :
日本@名無史さん:2011/02/25(金) 06:46:22.77
維新戦争は大名が戦死したり切腹したりすることなく終結したが
カダフィみたいに最後まで抵抗していたならば
南部の殿様はガチで切腹させられるおそれがあった。
243 :
日本@名無史さん:2011/02/25(金) 14:05:42.77
wikiで野辺地戦争みたら、盛岡・八戸藩兵は退却していて、
実際に弘前・黒石藩兵を一方的に撃ちまくったのは、
家老安宅正路の率いる七戸隊とあるが、これは七戸藩兵(盛岡新田藩兵)のことだろうか?
wikiなんか信じるな。
野辺地戦争の項目に関しては、どこの資料を参照したかびっちり書いているから
ある程度信用できるんじゃなかろうか。
>>245 野辺地戦争の最大の功績部隊は、八戸藩の単撃隊。
野辺地川を渡ってきた津軽軍に対して、浜側から猛烈に射撃。
野辺地町への進撃を止めた。
なおこの時の隊長、苫米地又兵衛はこの戦の後、戦死者の家族のため
自分の家屋敷を売ってまでして助けた。
この八戸隊のことに触れてないことでもwikiは信用できない。
馬門にいたのは七戸隊、すぐ後退した。その後頑張ったのは確かだけども。
安宅は主戦論者なので、目立ったんだろう。
そういうのは、後で付け加えないと。
参考文献に書いていなかっただけだろうに。
248 :
日本@名無史さん:2011/02/27(日) 20:28:32.79
さすがの佐賀藩も野辺地では南部に勝てなかったようだな。
249 :
日本@名無史さん:2011/02/27(日) 21:20:20.55
土地勘があるほうが有利だからなあ。
250 :
日本@名無史さん:2011/02/28(月) 20:39:56.91
251 :
日本@名無史さん:2011/02/28(月) 20:42:42.45
『野も山も戦場ならざる処なく、殊に楢山佐渡の厳しい下知に、官軍方は打ち込まるる勢い』
野辺地戦争には佐賀藩は参加してないよ。
>>250 そんな「たら・れば」を使われても…
秋田戦争で良く分からないのは、扇田村を占領後、なぜか楢山佐渡を含む主力が夜中に南部藩まで戻っている
んだよな。これってなぜだろう?
まあ、このおかげで秋田側の深夜の奇襲を避けることができたわけだが。
254 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 13:39:54.32
9月10日に佐賀藩士、中牟田倉之助の指揮する陽春丸から野辺地へ60発の砲弾を撃ち込んだが、
南部側に死傷はなく、逆に南部側の砲弾が船体に命中し、帆綱も切られて逃走したという。
255 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 13:58:43.28
弾薬の消耗が予想以上に多くてタマがなくなりそうになってタマを取りに行ったとか、
小荷駄がなかなか追いついてこれなかったとかじゃないだろうか?
>>255 楢山佐渡を含めて、主力全部が戻る必要ないだろ。
257 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 19:44:56.97
坂の上の雲の奉天会戦のところで
夜襲を避けるために秋山兄がかなり優位だったのにもかかわらず撤退したと読んだ。
258 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 19:45:52.34
楢山佐渡は局地戦での戦闘指揮官としては優秀だったのではないだろうか?
259 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 21:22:18.42
岩瀬会戦の経過を見ると、夜間の警戒厳重、側面射撃多用、突破した敵を奇襲して孤立させ、
大砲隊で敵を制圧、と今の陸上自衛隊の普通化連隊の連隊長にやらせても問題なさそう。
大砲隊を上手く使ってるのは高島流免許皆伝の大島高任の教育か?
260 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 23:50:19.67
相手が弱すぎ。
>>259 そういう人が、一国の指揮官になったつーコトは、第二次世界大戦のひじょーにダブルんですけど。
262 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 08:42:54.10
>>261 戦略も政略もできないが
局地戦の戦闘指揮官としては優秀だった人だな。
263 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 13:51:15.49
戦略的には庄内藩と協同して秋田の海岸を制圧すると言う計画。
南東北は伊達と上杉が戦国時代のようにがんばってくれるはず。
264 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 13:59:19.73
火力で絶対的に劣る秋田は、扇田でも岩瀬でも常に桶狭間のように、
楢山のクビ一つにターゲットを絞って襲い掛かるが、
楢山はいつでも華麗にスルー。そういう勘は鋭かったようだな。
265 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 14:32:33.67
>>264 > 楢山はいつでも華麗にスルー。そういう勘は鋭かったようだな。
薩摩の桐野少将もそんな感じだな。
戦闘では猛烈に強かったが
熊本城なんかほっておいて小倉までいけばよかったのに。
>>264 よくわからん理由で占領地をほんのわずかの兵力で守らせ、主力が戻り手薄になったトコを
奇襲でやられるって事態をよくもまあそんな表現できるなw
267 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 19:54:04.49
楢山をボスキャラにして一人称シューティングゲームつくったら地味に面白そう。
最初のステージは十二所で武器は火縄銃だが大館へ脱出成功するとゲベロ銃ゲット。
霧を利用して奇襲を続けて佐賀藩が来るまで耐えればスペンセル銃とアームストロング砲ゲット。
損害多すぎて能代を制圧されたらゲームオーバー。クリアーの条件は最低でも大館城奪回。
268 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 02:35:21.69
今の南部の殿様は評判悪い。
269 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 04:23:42.54
>>267 大館城の要塞としての防御力はどの程度あったの?
270 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 04:24:25.89
>>268 「島津に暗君なし」
「南部に名君なし」
271 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 13:47:19.32
272 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 13:54:33.70
273 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 14:03:35.95
秋田は城そのものの攻防以前に深追いして南部の伏兵にやられたり、
挟撃されたり、高所からアウトレンジで打ち込まれたりして損害を増やしたようだな。
まあゲベロ銃と火縄銃だけじゃ接近戦に持ち込むしかないが、すでにその狙いを読まれていた感じ。
>>270 だから、南部は秋田の不満分子の農民をとりいれて、地理を把握するとかできなかったんだよ。
そのため、間道や獣道などを利用した秋田側の作戦にやられたわけだ。
275 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 19:30:38.82
間道や獣道で待ち伏せしてる間に大館城を南部に乗っ取られた訳だな。
まあ、その方が被害が少なく、援軍が来るまでの戦略としては良い手法だな。
本当にあったかは別として。
>>268 どういうこと?
まあ南部の威光が通用するのは元々盛岡以北だけだし。
政治家として楢山を批判するのをよく見かけるけれど、視点がおかしいものが多い。
例えば「京都で西郷とであったが、その人物の大きさを見抜けなかった」とか言って、
楢山を批判する人がいる。
それは、我々が後の歴史での西郷が残した実績を知っているからこその
傲慢な批判なんだよね。
一度見ただけで人物を見抜くとか普通は無理だし、仮に見抜けたとしても、
その人物の人間性だけで、藩の政治方針を決めるなんて有り得ないから。
小説や映画では、明治維新の功労者が維新以前から交流をして
お互いの実力を認め合っていたような描写がしばしば見られるけれど、
それはあくまで後の歴史を知っているものが作ったフィクションだからね。
279 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 12:56:53.95
>>278 そういうけどさあ、鳥羽伏見の戦いで薩長が勝ったのを見届けてから
幕府側につくってのは無謀だよ。
280 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 19:16:56.07
まあ鳥羽伏見では勝ったけど、長岡では城奪回されたりとかして一進一退だったからな。
長州はは朝日山で桑名の雷神隊に完敗してるし、薩摩は花館の戦いで庄内藩に完敗している。
281 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 19:21:05.64
>>280 > 長州はは朝日山で桑名の雷神隊に完敗してるし
あれは立見師団長が夜襲かけたんだっけ?
282 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 19:23:35.47
>>280 一進一退とはいえないでしょ。
薩長サイドが2点取ったら、幕府が1点返したような感じ。
全体では明らかに薩長押し気味。
(一部の局地戦で幕府が粘っていたことは認める)
283 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 19:28:05.44
284 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 19:34:37.27
しかし西郷も結局は楢山と同じ賊軍になって自決したんだよなあ。
>>277 前の殿様は靖国の宮司になったり評判のいい人だったから、その比較としてなんじゃないの?
286 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 13:35:34.62
今の殿様って後継ぎいらっしゃるの?
南部の地域も大変なコトになった…。頑張ってくださいとか言いようがない。
289 :
日本@名無史さん:2011/03/22(火) 16:34:38.15
っ南部の地域は仙台領よりも粘り強いから復活するだろう。
相馬、岩城は無人化するかもしれない。
290 :
日本@名無史さん:2011/03/22(火) 19:48:40.93
291 :
日本@名無史さん:2011/03/23(水) 15:31:29.23
南部盛岡藩は広大な地域を有したが何度も凶作があり、加えて幕末には蝦夷地警備などのため財政が逼迫し、
農民の生活は悲惨なものだった。当時は藩の建て直しのため新田開発は重要な課題であり、
ついに安政元(1854)年「十ヶ年士の制」を施行した。これは、格下の武士から身分と家禄をとりあげ、10年の猶予期間内に新田開発で
成功したものや学問や武芸で認められたものだけを、再び藩に召し抱えるという制度だった。
特に新田開発で成功すれば、開墾した分がその者の家禄として与えられ、10年経っていなくてもその時点で再び藩に召し抱えられるので、
十ヶ年士の対象となった者達はなんとか開拓に成功しようと、
開拓のエキスパート・新渡戸傳のもとに助言を求め集まった。そこで傳は、それらの人々や志を同じくする商人などと協力する形で、
かねてから計画していた三本木原の大規模開拓を実行にうつす事を決意し、安政2(1855)年4月、開拓願いを藩に提出、8月に許可され三本木新田御用掛となり工事に着手した。
292 :
日本@名無史さん:2011/03/23(水) 15:52:21.34
仙台藩領地域は犯罪多発で北斗の拳状態になってしまう。南部の盛岡こそがしっかりせねば。
293 :
日本@名無史さん:2011/03/23(水) 23:32:46.23
百姓一揆には気をつけろよw
南部名物だからなw
295 :
日本@名無史さん:2011/03/24(木) 14:07:44.89
南部領の百姓一揆は厳格に統制が取れていることで有名だからな。
暴走はしない。
296 :
日本@名無史さん:2011/03/24(木) 15:56:35.12
≫291
いい仕事やってますねえ。
善政
298 :
日本@名無史さん:2011/03/24(木) 20:56:37.08
明治の本じゃんw
299 :
日本@名無史さん:2011/03/24(木) 21:01:15.30
カルトの作者ぽい
300 :
日本@名無史さん:2011/03/24(木) 21:12:29.78
茶坊主の子孫だ!ということぐらいしかいっていないようだが?
301 :
日本@名無史さん:2011/03/24(木) 21:38:39.47
世界が賞賛する三陸の被災者の秩序の維持とたくましさには、
やっぱり新渡戸稲造が言うような南部の「武士道」を感じる。
三陸の漁民って言っても兵農分離までは武士だし。
302 :
日本@名無史さん:2011/03/24(木) 21:52:35.62
>>301 > 三陸の漁民って言っても兵農分離までは武士だし
ソースは?
>>298 明治だから、江戸時代の南部藩の悪逆ぶりが分かるんだろうに。
304 :
日本@名無史さん:2011/03/24(木) 22:37:14.17
以前過去スレで、南部藩の歴代当主の治世について教えて下さい、みたいなレスがあった時に、
誰かが
「どの代でも領民は飢饉によって塗炭の苦しみに喘ぎ百姓一揆の途絶えることが無かった、と答えとけば間違えでなし」と回答してた人がいてワロタw
305 :
日本@名無史さん:2011/03/24(木) 22:42:38.66
藩政時代の藩の中では統治面積だけなら日本最大の面積を統治していただろう南部藩だが、その実高は10万石程度。
徳川幕府としてもとり潰しても扱いに困るだけだろうし。
実は、
>>297の佐庄物語「旧盛岡藩華族南部氏兇悪大略」 の元ソースの多くは、三閉伊一揆の指導者が
情報収集していたモノ。一揆は収まり、閉伊では噂は忘れさられたが、文書にして残したことで後生まで
のこったのが、「旧盛岡藩華族南部氏兇悪大略」
309 :
日本@名無史さん:2011/03/25(金) 13:39:01.36
なんか変な文章だな。
310 :
日本@名無史さん:2011/03/25(金) 14:23:23.72
閉伊郡はいつごろ(南部家の徳によって)傘下に入ったの?
311 :
日本@名無史さん:2011/03/25(金) 14:24:18.28
阿曽沼はいつごろ(南部家の徳によって)傘下に入ったの?
312 :
日本@名無史さん:2011/03/25(金) 14:25:38.08
阿曽沼はいつごろ(南部家の徳によって)傘下に入ったの?
南部家に徳なんてあったっけ?
314 :
日本@名無史さん:2011/03/25(金) 18:19:14.00
武徳 威徳
315 :
日本@名無史さん:2011/03/25(金) 18:24:15.55
316 :
日本@名無史さん:2011/03/25(金) 20:42:08.71
南部本家って八戸氏=遠野南部だよね
319 :
日本@名無史さん:2011/03/26(土) 13:56:31.10
遠野の阿曽沼広郷は小田原攻めに参加せず、領地を没収されて南部の家臣になったが当然面従腹背だった。
その子の広勝も反乱の機会をうかがっていた。しかしその家臣の鱒沢広勝は南部利直の命令で広勝を討伐しようとした。
広勝は伊達領へ逃亡し、伊達軍と遠野を襲撃した。広勝は戦死したが南部軍350が閉伊の糀坂峠で伊達軍に逆襲し、阿曽沼は仙台へ逃亡した。
その後も閉伊に残る阿曽沼の一族郎党は伊達の支援で何度も反乱を計画。利直は八戸氏を遠野に移住させ、監視を命じた。
320 :
日本@名無史さん:2011/03/26(土) 21:21:37.22
しかし桜山商店街のゴタゴタとか完全に吹っ飛んだな。
>>320 岩手・宮城・福島の再開発計画のほとんどは中断するだろうねい…
322 :
日本@名無史さん:2011/03/26(土) 22:45:25.43
超防震要塞化再開発
324 :
日本@名無史さん:2011/03/27(日) 00:53:52.26
阿曽沼一族は自領の統率さえできない無能だったので淘汰されて当然。
遠野南部家の善政のもと遠野物語という豊饒な文化が育った。
伊一揆は?
変なトコで切っちゃったw
327 :
日本@名無史さん:2011/03/27(日) 13:33:30.03
閉伊氏は閉伊川をはさんで田鎖家と千徳(一戸)家が対立していた。しかし千徳家は九戸政実に味方し敗北した。
小田原攻めに参加できなかった田鎖家は南部のやむなく家臣となり、朝鮮出兵に参加した。その間に田鎖城は破壊された。
千徳家の残党は千徳城に立て籠もったが桜庭安房に一掃された。田鎖家は南部の家臣として存続した。
328 :
日本@名無史さん:2011/03/27(日) 14:49:18.47
かわいすぎる海女の大向美咲生きててよかった。
日本酒で南部美人ってあるけど、
大向美咲や藤川優里みたいに色が白くて目がパッチリしてるのが南部美人なんだろうな。
329 :
日本@名無史さん:2011/03/28(月) 15:22:28.59
日蓮宗を導入していないので、甲州から来たということ自体疑わしい。
太平洋ルートの航海は困難で米もとれない鎌倉時代に。
南北朝のときに、はじめてやってきたんだろう。
そいや、南部の宗教史ってどんなの?
最初に北東北に入ったのは、南祖坊のように天台宗でしょ?その後どうなったの?
331 :
日本@名無史さん:2011/03/28(月) 20:32:17.18
岩手百科事典によると、
1215〜1254年の間に南部実光が南部光行の菩提のため、臨済宗の聖寿禅寺を今の青森県南部町に建立。
1592年、盛岡に移る。歴代藩主墓所がおかれる。
貞治年間(約1360年ころ)、南部守行が三戸に曹洞宗の報恩寺を創建。1601年、盛岡に移る。
1658年、南部重直が浄法寺の天台寺を再興。100石を与え保護。
その後、瀬戸内寂聴が住職となりケータイ小説を発表。
332 :
日本@名無史さん:2011/03/29(火) 10:45:47.78
>>329 > 日蓮宗を導入していないので、甲州から来たということ自体疑わしい。
甲州でも武家は禅宗が多い。
333 :
日本@名無史さん:2011/03/29(火) 14:08:25.40
武田信玄も臨済宗だしな。武田も南部も基本、臨済宗ってことで問題なし。
334 :
日本@名無史さん:2011/03/29(火) 15:14:41.91
新田開発奨励は善政じゃないの?
335 :
日本@名無史さん:2011/03/29(火) 16:59:59.27
南部美人なんかいない!
太平洋側は美女を征夷軍に拉致されているから。
336 :
日本@名無史さん:2011/03/29(火) 19:21:51.58
南部は定住した征夷軍だろ
337 :
日本@名無史さん:2011/03/29(火) 20:18:14.45
そういや久慈ありすも南部美人か
遠野の殿様(根城南部氏=八戸氏)は今は日蓮宗の坊さんだけどな。
岩手では曹洞宗が多いと思う。
340 :
日本@名無史さん:2011/03/30(水) 08:34:20.38
肉食文化の残る東北に仏教をおしつけ
南部藩って無駄に広いよな。
広いだけで、開けた土地は北上盆地の北部と八戸周辺しかないから泣ける。
津軽を奪われなきゃ広大な津軽平野があったのに。
342 :
日本@名無史さん:2011/03/30(水) 18:39:02.05
まあ広いから比較的デカくてゴツい馬がいっぱいいたと。武士的には重要。
343 :
日本@名無史さん:2011/03/30(水) 19:54:45.49
>>341 > 南部藩って無駄に広いよな。
だから改易とかのターゲットにならずにすんだ。
>>343 あれだけ一揆起こしていたら普通は改易だよな
345 :
日本@名無史さん:2011/04/02(土) 02:02:49.60
一揆起こしていたのは同化政策に反対するアイヌ系なの?
346 :
日本@名無史さん:2011/04/02(土) 06:37:31.56
>>344 普通の藩は百姓一揆そのものは怖くないが、自爆テロ式に幕府に直訴されることは怖かったらしいな。
347 :
日本@名無史さん:2011/04/02(土) 20:25:15.17
東北で一番警戒されてたのは上杉と伊達。伊達とガチで戦える南部は幕府にとっても利用価値大きい。
348 :
日本@名無史さん:2011/04/02(土) 20:54:04.61
上杉謙信は曹洞宗
関東公方の子孫は曹洞宗の坊さん
>>347 ガチで恫喝されて、戦わなくても良い負け戦に邁進したのにw?
350 :
日本@名無史さん:2011/04/02(土) 21:15:22.63
351 :
日本@名無史さん:2011/04/02(土) 21:36:08.64
南部は葛西大崎一揆、和賀稗貫一揆のときに伊達軍ボコボコにした。
秋田実季は関ヶ原のときに最上にアイツ伊達上杉と内通してたとか言われて改易された。
352 :
日本@名無史さん:2011/04/02(土) 23:16:03.45
福島難民のコロニーをつくって十和田市のような新世紀都市ができる。
353 :
日本@名無史さん:2011/04/03(日) 11:43:05.04
>>347 伊達がおかしな動きしたら、南部に背後を突かせようという利用価値があったからね。
354 :
日本@名無史さん:2011/04/03(日) 15:37:07.27
だったら八戸を分裂させるなよ
355 :
日本@名無史さん:2011/04/03(日) 15:40:15.27
【鹿角大虐殺とは何か?】(昭和57年発行・鹿角市史第2巻下「戊辰戦争と鹿角」より)
江戸末期、私利私欲のために「奥羽越列藩連盟」という賊軍連合を結成した南部藩は、
勤王の意を持って離反の動きを見せた秋田藩を懲罰するために、
なぜか自藩の一部である鹿角に侵攻し、強盗・強姦・放火・虐殺の限りを尽くした 。
岩手県民の知能の低さと性情の悪辣さを示す事件である。
356 :
日本@名無史さん:2011/04/03(日) 16:39:12.71
357 :
日本@名無史さん:2011/04/03(日) 16:49:28.15
ノウハウが農民がしってるだろうが。
358 :
日本@名無史さん:2011/04/03(日) 16:51:07.99
相馬藩は?熊本藩は?
>>355 検索しても、コピペしかヒットしないんだけどw
360 :
日本@名無史さん:2011/04/03(日) 20:16:36.98
やはり軍馬の良し悪しはユーザーである武士が判断しないと。
相馬や熊本とは気象や植生、品種も違うし・・。
361 :
日本@名無史さん:2011/04/03(日) 20:48:40.29
>>358 相馬藩は一度、房総半島(旭市あたり)への国替えの話があった。
362 :
日本@名無史さん:2011/04/03(日) 20:50:17.48
>>358 > 相馬藩は?熊本藩は?
熊本藩は、島津が万一北上したら食い止める役目があったから動かせなかった。
363 :
日本@名無史さん:2011/04/03(日) 21:13:58.52
南部の農民は先祖を辿ると南部家の血縁が多い。600年以上いたから。
安倍の血縁は秋田(安東)へ行った。あとは北畠の血縁や足利(紫波)の血縁、
多田源氏(和賀・稗貫)の血縁。
364 :
日本@名無史さん:2011/04/04(月) 00:52:47.87
南部家は奨学金だしたので原敬らが出世できたの?
>>354 幕府が分裂させた八戸と、その後の八戸は別物。
>>364 原敬の家も自腹で学費を捻出していました。
367 :
日本@名無史さん:2011/04/04(月) 04:12:42.57
「三日月が丸くなるまで南部領」
ただただ無駄に広く月の変わりくらいしか詠むことができないという意味
368 :
日本@名無史さん:2011/04/04(月) 04:33:14.23
失郷の相馬衆と追分を受け入れて保存せよ
369 :
日本@名無史さん:2011/04/04(月) 16:57:59.21
370 :
日本@名無史さん:2011/04/04(月) 20:07:28.52
久慈ありすの先祖は津軽為信と同じ
371 :
日本@名無史さん:2011/04/05(火) 01:50:30.46
ロシア大統領が日本人難民をシベリア開発に使ってあげると言ってますよ。難民ウェルカムな国が世界のどこにもない以上、これでも一番親切な処遇と感謝しないといけなくなった。
372 :
日本@名無史さん:2011/04/05(火) 13:34:03.80
南部は福島の味方だ!!
373 :
日本@名無史さん:2011/04/10(日) 12:39:45.07
南部美人が東京ですごく売れてるそうです。
374 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 03:57:42.82
人身売買で?
375 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 20:54:51.13
376 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 00:12:40.42
何だかんだで、盛岡の放射線量は少ないな−。
盛岡よりも関西の方が放射線量は圧倒的に多い。
377 :
日本@名無史さん:2011/04/17(日) 14:03:47.95
>>781 文脈上「民衆も必要と分かれば増税を受け入れる準備がある」と言いたいのだと思われます。
しかし、それは現在の政府に全幅の信頼があるということが前提です。
言うなれば宮部氏の議論は、アクチュアリティとは別物の純粋な思考実験、机上の空論です。
378 :
日本@名無史さん:2011/04/17(日) 18:35:01.73
日本式速記術の創始者は閉伊源氏の田鎖綱紀
379 :
日本@名無史さん:2011/04/17(日) 22:14:27.98
南部利英
生没年:1907-1980
父:公爵 一条実輝
義父:伯爵 南部利淳
初名:実英
1930-1947 伯爵
1930-1980 南部家44代当主
貴族院議員
技術院総裁秘書官
妻:南部瑞子(父:伯爵 南部利淳)
長男1932-1980 利久 早世
二男1934- 大塚利博 ←この人なんか面白そうだね。
三男1935-2009 利昭 45代
>>379 大塚寛一の養子になった人なら、まだ生きているよ
381 :
日本@名無史さん:2011/04/23(土) 21:59:51.59
南部の津軽に対する粘着ぶりは朝鮮人を思わせる気色悪さ。
382 :
老中・青山下野守忠裕:2011/04/23(土) 22:24:45.89
相馬大作騒動に関し、南部の憤懣は、わからぬでもない。だがな、二百年前のことを持ち出されても、如何ともし難いのじゃ。
南部利用が死んだのって、早道の者の相馬大作事件への報復?
384 :
日本@名無史さん:2011/04/24(日) 12:53:50.85
それだったら弘前藩が替え玉のことを幕府にばらすんじゃないか?
385 :
日本@名無史さん:2011/04/24(日) 15:06:49.03
浪岡北畠って南部の家臣なの?
それとも独立独歩?
本によって意見が違うからよう分からん
386 :
日本@名無史さん:2011/04/24(日) 15:19:22.92
北畠は本来なら主筋
このスレでは誰も津軽のことなど話していないのに「津軽に対する粘着ぶり」とか
いいだすの心理の方が、よほど屈折していて不健全に思えるのですが。
秋田の火付け、津軽の手長、南部の人殺し
390 :
日本@名無史さん:2011/04/24(日) 22:22:14.35
>>385 家臣だったら南部の大敵安東から正室を迎えられるわけないって。
>>389 うわ、発想が気持ち悪いな…。
じゃあ南部藩主が大槌孫八郎の子孫に襲撃されてたとしても、
もちろんそれは義挙になるんだろうな?
まあ南部みたいな勘違い粘着はいないから、普通はやらないけどな。
戦国時代の遺恨を、ちょっとしたことで取り潰されかねない平和な
江戸時代に晴らすって思考も理解不能だ。
392 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 02:25:51.13
南部の本家は鎌倉で北条氏と共に絶滅したんですよね。
>>391 殺人犯が英雄扱いになる朝鮮人と根が一緒と解すればおk
>>393 その手の話題がしたいのなら、別にスレを立てようか?
随分以前だが、津軽と南部の論争スレで、同じように「南部は韓国に似ている」という
主張があったが、直後に「津軽=朝鮮・韓国」の類似例を、その何倍も突きつけられて、
津軽側がファビョッていたことがあったが。
上にも出ているが、ここでは津軽のことが特に多く話題になっていたわけでもないのに
「南部が津軽に粘着している」と言い出すのはおかしいよ。
395 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 13:24:23.19
凄まじい捏造だな。
396 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 13:55:44.07
浪岡北畠の方が南部より官位の上のことが多いが南部が北畠の直接の家臣と言うわけではない。
南部は源頼朝から牧場もらったんで、北畠から土地もらったわけじゃないし。
397 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 18:48:31.86
南朝総帥北畠との主従関係はあったのは、八戸だけということ?
398 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 18:49:03.19
三の屁には北畠との義理も減ったくれも無い。
399 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 19:32:47.74
八戸南部が北畠顕家の指揮下に入ったのは鎮守府将軍としての公人としての北畠顕家であって、
源頼朝と鎌倉御家人のような公職抜きのプライベートな主従関係ではないと思う。
勘違いしてる奴がいるけど津軽を長年治めていたのは
三戸南部ではなく八戸南部だからね。
401 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 20:43:27.58
本来なら北畠顕村大納言が鎮守府将軍として陸奥の豪族をしたがせるはずだったのに。
402 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 21:57:49.12
>>400 石川高信は八戸南部じゃないだろwwww
三春藩に行った秋田氏には、北畠姓の家臣がいるようだね。
檜山安東氏にも北畠氏が客分として別館を与えられたみたいだし、浪岡顕村はやはり津軽為信に殺されたのではなく
安東氏を頼って落ち延びたのだろう。
404 :
日本@名無史さん:2011/04/26(火) 19:10:25.36
まあとにかく津軽に城落とされたのは確実だよな。
落ち延びて秋田の家臣になったのは子供や親戚かもしれない。
足利幕府は鎮守府将軍は任命してないみたいだな。
>>402 というか津軽での三戸南部は石川氏くらいしかいない。
それ以外の奥瀬氏も堤氏も大光寺氏といった
南部の有力者は殆どが八戸南部。
南部宗家は?
408 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 13:48:12.47
山梨の南部に牧場持っていた源光行が、名字を南部に変えた後、頼朝から牧場もらって三戸に移住。
その後、山梨の波木井に残っていた南部の一部が根城に移住。残っていた波木井の南部は武田に臣従。
何の根拠も示さずにその台詞はいただけんな。
鎌倉で北条氏と共に滅亡したのが南部宗家
南部は朝鮮人
血筋は東北3県ともそれほど変わらないだろ。
根城南部の凋落は哀しいものがあるからな・・・
最初は宗家だったけど次第に衰退していき
九戸の乱では家臣だったはずの七戸や久慈すら
九戸側に就いてる始末だし。
遠野へ行ってあれだけの町を作れたのはさすが根城南部。
417 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 10:25:29.29
>>415 でも何だかんだで南部利直に改易されず
筆頭家老として残ったのは大したもんだと思う。
利直のリストラはそりゃあひどいもんだったけど
それに抗しえたのは八戸南部だけ。
418 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 16:19:06.74
遠野ってあれだけの町?
419 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 20:07:33.56
遠野には清心尼公というマンドリンを弾く美少女当主がいたからな。
>>419 せーしんにちゃんは知ってるがマンドリンって何??
421 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 21:54:45.37
マンドリンの清心の人って本名なんだね、清心尼にあやかった名だけれども。
423 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 12:42:35.55
ここで津軽の話題持ち出してくるのは、やっぱり津軽の人間かね?
南部のスレなのに、流れを無視して自分たちで津軽の話題を持ち出してきておいて、
その上「南部が津軽に粘着している」とか言い出すのって自意識過剰で、
ものすごくキモいんですが。
津軽の話はもう終わっているのに、今更津軽を持ちだすおまえの方がよっぽどアレだよw
蝦夷って朝鮮人だったのか
南部を語る上で安東津軽斯波は欠かせないかと。
427 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 09:37:06.61
三戸城跡に行ってきました。
意外と石垣の跡が多く目についたんですけど
あれっていつの時代のものなんでしょうか?
室町〜戦国時代は東北地方でも石垣を使ってたんでしょうか?
>>427 江戸時代初期の遺構なのでないかと思われます
430 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 13:26:14.76
石垣は東北では、花巻が浅井長政の領地になるまでつくられなかった。それまでは土塁と木柵だけだった。
花巻が南部に与えられると、浅井長政の家臣はそのまま残って南部の家臣になって石垣の城を作った。
431 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 22:06:14.30
432 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 00:07:46.63
小田原評定の頃の小田原城も土塁の総構えで最強だった。
433 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 02:31:11.84
>花巻が浅井長政の領地になる
???????
434 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 02:48:57.57
1590年に小田原に参陣しなかった稗貫氏の領地が没収され、浅野長政の家臣、浅野重吉が花巻城の城代になる。
九戸討伐のあと、津軽の代替地として和賀稗貫が南部へ与えられ、北秀愛が花巻城の城代となる。
三戸城の石垣は南部信直が蒲生氏郷から助言を受けて造営したと一般的には考えられてる。
ただ九戸の乱後には居城を福岡城(九戸城)に移してる節もあるので
実は南部晴政が造ったのではないかという説も一部にはある。
436 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 14:04:19.58
戦国時代に作られたものなんですね。
ググってみたら色々と分りました。
438 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 22:41:18.57
北部東部西部氏はいないの
439 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 16:50:12.57
南部千歳を盛岡市のイメージキャラクターに。
440 :
日本@名無史さん:2011/05/09(月) 21:53:11.50
安東津軽南部でみちのく三国志的な
大河ドラマやってほしい。
安東は津軽に強く、津軽は南部に強く、南部は安東に強くって
設定にすれば意外と受けそうな気がする。
>>440 独眼竜政宗では全力でスルーされた北奥史、映像で見たいな…
安東は愛季?実季でもいけそうだね。
南部はぜひ信直メインで!
442 :
日本@名無史さん:2011/05/09(月) 23:12:11.31
北奥羽メインの大河ドラマって奥州藤原氏しかないからな・・・
今やってるお江よりは面白いと思う。
大河ドラマで、「新渡戸稲造」をやって欲しいと知事が働きかけているって話。
数年前まで武士道ブームだったから良いような気もする。
旧五千円札の人か。地味すぎだろ。
北奥羽でやるなら、鬼玄蕃「酒井了恒」しかないな。
厳密には出身は北奥羽じゃないけどね。鬼神のごとくに活躍したのが北奥羽。
江戸でも薩摩藩邸を義憤により攻撃しているし、ビジュアル的にもその薩摩の大山格之助に「あの鬼玄蕃の勇名をほしい
ままにした足下が、容貌のかくも温和で婦人にも見まほしい美少年(よかちご)であろうとは」と言われている。
彼を出したら、楢山佐渡も登場するしな。
446 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 13:19:48.33
主演がジャニーズになりそうなのが残念だが、戦闘場面に力入れてもらえば許す。
楢山佐渡はやっぱり村上弘明とかか。
>>445 立見尚文だと最北でも寒河江だけど、どうだろ? って、坂の上の雲で
立見なら出てくるかな。
大河で明治モノは受けないから。
原作もいい物がないせいもあるけれど。
幕末の南部なんてドラマ化したら、実況スレで大笑いされるぞ。
「京都で新政府の要人と会ったあとで歯向かうとか。
ちょwwwwwwおまwwwwwww」
みたいなレスがたくさんつくぞ。
まあ、世界遺産登録があったから、平泉やっても良いかも知れないが、
義経でちょっと前にやったばかりだからなあ。
今の流行はビジュアル面も重視して、歴女も組み入れようって魂胆だしねえ。
明治維新だと、各地から反発がありそうだよね。
会津藩も「被害者」以外の表現はできそうにないし。
>>444 地味かな〜。数年前まで武士道の本が沢山出版されていたけど。
「江」よりは知名度が高いよ。
もっとも、江の場合、係わり合いになる人が有名人揃いだけどね。
452 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 13:46:46.90
新渡戸稲造もアインシュタインとかベルグソンとかキュリー夫人が国連の部下だぞ。
453 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 20:29:03.35
>>443 大河では無理だが、正月の単発ドラマならありうる。
454 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 20:30:27.67
楢山佐渡は戦闘指揮官としては有能だったらしいな。
時勢を読む能力はまったくなかったがw
455 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 23:12:35.21
課長としては有能でも取締役としては
無能ということはよくあることさ。
やり手の新聞拡張団の団長が、論説委員になったようなもんかな。
457 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 09:36:33.62
まあ西郷隆盛だって最後は流れ読めなくて賊軍として腹切ったしナ。
458 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 13:09:12.98
建武期は忠臣だったのにこの扱いは
459 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 13:55:44.53
明治になると伯爵南部利祥騎兵中尉の戦死でまた忠臣&天皇家の親戚に。
ところが東條英機・板垣征四郎の馬鹿戦争で日本を破壊しまた逆臣へ
461 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 18:47:52.30
しかし米内光政の終戦工作で再び忠臣に。
そして靖国神社神主に。
463 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 20:44:52.63
あれだけ豊臣の世話になっておいてあっさりと
徳川に鞍替えする尻の軽さは大したもの。
>>454 楢山佐渡の指揮官としての有能さ???
ちょい疑問符がつくんですけど。
なんで、占領地を少数でまもらせて、南部領に戻るの???
おかげで逆襲されて、2度手間になるんですけど…。
466 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 00:47:48.17
南部の殿様、靖国宮司を務めて亡くなりましたよね。
467 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 01:01:34.13
今の天皇陛下に電話で頼まれたらしい
かっこいい
南部藩では、元々列藩同盟について疑念を持っていた重臣が多かったので、
楢山が無理に列藩同盟に参加した後も、国許では勤皇へ転換しようとする動きが強かった。
楢山佐渡=東條英機・板垣征四郎
中山源蔵・東次郎=米内光政
という構図。
470 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 08:24:13.86
南部と伊達と会津は武士の数が多いばかりで無知蒙昧なのばかり
>>470 武士割合最大は佐賀だろ。
仙台は農民多い。
母子福祉法の年子氏が有名。明治まで続いた。
南部は信直利直親子が相当リストラしてるが。
473 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 13:18:39.31
南部は転封なかったから武士と足軽・農民が親戚であることが多かった。
そのため地縁・血縁を当てにした一揆・強訴も多かった。
長州藩などは、吉田松陰などが徹底的に対話を重ねて、江戸幕府を倒した後に
良い社会を作るビジョンがあった。だから彼らの行う倒幕にも正義がある。
江戸時代は侍が主君や幕府に忠誠を尽くすことで、社会基盤が成立っていた。
殺されてでも忠義を尽くすことが武士の矜持で、だからこそ、何代にもわたって、
特権階級として収入を得ていた。
しかし、新政府についた藩の多くは、実の所、将来に対するビジョンなどなく、
長州藩のいう正義を真剣に討論することなく、単に「強いものに従う」という
考えの下に従ったに過ぎない。
これは武士の発想ではない。朝鮮人や中国人の考え方。
我々後世の人間は歴史の結果を知っている。
結果を知っている人間が、上から目線で必死に戦い負けた人間を酷評するのは余りに無礼。
例えば、現在、日本の国債の赤字が大きくなっていて、これが
現在日本にとっての大きな政治課題といえるけど、
これを大きな混乱なく解決する手段を提言できる人間っている?
仮に「出来る」と言い張る人がいたとして、その言葉を信じて、
権限を与えることができる?
偉そうに言っていても、我々だって現在の政治課題を克服する手段など持ち合わせていない。
江戸末期の状況だって同じ。
俺は、当時の社会環境の中で必死に考えて、必死に戦った人間を、
負けたからといって、「無能」とか「時勢を読むことができない」と
小馬鹿にした発言をする人間は醜いと思う。
こういう人を馬鹿にする人たちは、朝鮮か中国に移住すればよいだろう。
中国や朝鮮は、強いものに媚びへつらう社会なのだから、貴方方は、
さぞかし住みよいだろう。
476 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 01:02:04.50
477 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 01:12:12.35
>>474 その吉田松蔭とやらの講和主義者とやらは、
必死で幕府に何度も大老暗殺論文を何度も送りつけてるんだけど、
気のせいなの?w
長州藩の重役にまで基地外ということで牢にぶち込まれてたはずなんだけど、
君の解釈ではこれは講和主義なんだ?
楢山は負けたせいで悪く言われてるわけじゃないんだけどな。
それが分からない頭が不自由な人か、それともわかっていて
論点をそらそうとしてるのか。
479 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 13:45:29.58
ドラマ「楢山佐渡」
一部:剣術修行&三閉伊一揆篇 戸田一心流の修行に励む楢山。剣術で鍛えた度胸で三閉伊一揆の仙台藩との交渉を成功させる。
ニ部:西洋銃陣調練篇 大島高任から西洋科学、西洋銃陣の調練を受ける。また江釣子源吉を道場で鍛える。
三部:藩政篇 家老となった楢山は東中務と対立。京都に派遣され西郷とスキヤキ。
目時隆之進は脱藩。中嶋源蔵は割腹。藩論は二分。藩兵を仙台に派遣。九条総督が盛岡入り。久保田藩士が盛岡藩士斬殺。
四部:秋田討ち入り篇 楢山は西郷への嫌悪から?秋田討ち入りを決心。十二所を一蹴。扇田で久保田藩の刺客と壮絶な格闘。大砲撃ちまくって大館へ突入。
五部:敗北篇 能代の手前で佐賀藩と激突。大館まで退却して一進一退。霧の中、次々に襲いかかる刺客と壮絶な格闘。しかし他の藩が全て降伏し藩主命令で降伏。
判決下って江釣子源吉が介錯。報恩寺の周りを泣きながら回る原敬。
エピローグ: 西南戦争で西郷隆盛も切腹。新渡戸稲造が「武士道」を出版。50年後に原敬が岩手公園で勝てば官軍〜と演説。
>>470 盛岡藩の武家の割合は平均並み
>>471 佐賀藩も武家の割合は高いが、仙台藩の方が高い
盛岡藩:総人口36万5862人(1742年)中、侍方 2万8124人、百姓29万6519人、寺社門前6195人、出家等3241人、町人2万6211人、金山師2989人、その他5824人
武家の割合は7.7%
佐賀藩:総人口42万7023人(1869年頃)中、士族 2万3823人、卒4万3488人、社人850人、僧4412人、平民35万4450人
武家の割合は約15.8%
仙台藩:総人口68万7802人(1825年)中、武家 14万9465人、仙台町方13万749人、仙台寺院方4695人、郡方51万9893人
武家の割合は21.7%
米沢藩:総人口12万9003人(1862年)中、武家3万2036人、城下町人6943人、在方8万9128人、出家等896人
武家の割合は24.8%
薩摩藩:総人口84万3906人(1852年)中、武家29万6723人で、武家の割合は35.2%
奄美・琉球を除くと、総人口62万6103人中、武家24万5066人で39.1%
それぞれの藩についてはなるべく幕末の数字を持って来たけど、
盛岡藩は途中から人口統計捏造疑惑があるので、1742年の数字を持ってきた。
その辺の事情は以下参考。
ttp://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0008631373 >さらに、幕府との関係から、故意に虚偽の記録をする藩さえあった。
>一例を挙げれば、南部盛岡藩は、毎年の藩政記録を残しており、
>領内人口を男女別に記している。ところが、宝暦二年(一七五二)以降、
>極端に変動幅が少なくなり、ほぼ三五万人前後に固定している。
>ところがこの間、宝暦飢饉、天明飢饉があり、前者では死者五万二千人、
>後者では七万五千人に達したとする者もいる。そうすると、
>何らかの事情で藩の公式記録に虚偽な記載がなされたとしか考えられない。
>もう一つ興味深いことは、この記録に、安永六年(一七七七)から寛政二年
>(一七九〇)の間、一年を除いて性比が一一二・九に固定されている。
>これは実際にはあり得ないことで、明らかに人為的な操作の結果である。
>ある意味では、性比まで考慮するかなり高度の人口への知識を持った者の 仕業と言わざるを得ない。
482 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 15:42:58.90
多い藩は、郷士や世襲の奉公人も士分に入れているのねw
>>482 まあ結果として仙台藩は戊辰戦争で負けて郷士階級はほぼ全て帰農し、
最終的に士族・卒族になれたのは4万2500人程度(大体6%)。
でも同じ負け組の米沢藩は明治になっても全員に士族・卒族の称号を維持させているし、
勝ち組の鹿児島藩はもっと士族、卒族の割合が増えている。
武家奉公人の扱いは藩によって大分違うけど、郷士階級は大概の藩では武家扱い。
武家階級の多い少ないは、おおよそ郷士階級がどの程度存在していたかに依存し、
大体のところ土着大名のまま江戸時代に入ったところが、
地方知行制度を維持したままの状態となり、武家人口の多さに反映されている。
あ、
>>480の訂正
仙台町方は13万749人ではなくて1万3749人
しかしこんだけ士分人口がいても、実際の兵力ははるかに少ない。
軍事大国として名高い薩摩藩ですら、実際の常備軍の兵員はたった4万4000人
(城下士1万2000人+郷士3万2000人)で、士分には女子供老人が含まれていることを考慮したとしても、
実際には戦力にならない「士分」が大量にいたことになる。
土佐藩は総人口51万6545人に占める華士卒族は4万9422人(武家人口の割合は9.6%)だけど、
実際の兵力は常備兵6600人、非常兵2400人、合計9000人。
これはまあ健康な成人男性の割合に大体該当している。
幕末の仙台には3万人の兵力があったといわれるけど、
本当の意味で戦力になった兵力はもっと少なかったんだろうな。
ジジイの兵隊なんて役に立たんしな
衝撃隊(鴉組)
488 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 09:52:17.43
みんな、具体的な反論もないまま、相手を罵倒するのは避けようね。
>>476 「キチガイ」→キチガイと言うほどの異常な主張なら反論も容易でしょ。
具体的に反論しようよ。
>>477 >その吉田松蔭とやらの講和主義者とやらは、
>必死で幕府に何度も大老暗殺論文を何度も送りつけてるんだけど、
>気のせいなの?w
>長州藩の重役にまで基地外ということで牢にぶち込まれてたはずなんだけど、
>君の解釈ではこれは講和主義なんだ?
意味不明。
誰も吉田松陰が講和主義者などと言っていない。
相手の主張を読み取れずに、断片的な知識で論破した気になり相手を
嘲笑しているのだから話にならない。
>>478 >楢山は負けたせいで悪く言われてるわけじゃないんだけどな。
>それが分からない頭が不自由な人か、それともわかっていて
>論点をそらそうとしてるのか。
これも反論が具体的ではない。
「負けたせいで悪くいわれているのではない」
では、何を持って悪く言われているのか?事例を示した上で反論しなければならない。
それをせずに「頭の不自由な人」というのは、単なる罵倒。
「論点をそらそうとしている」というもの意味不明。
論点とはなんなのか?
478自身、具体的な反論に必要な歴史事実をあげていない。
つまり、論点も示していないくせに、「論点をそらそうとしている」とはこれ如何に?
いずれにせよ、現代日本人は極めて肥大した自我を持っている。
2ちゃんねらーはその傾向がさらに強い。
後世の視点で歴史人物を酷評して悦に入るのは、きわめて傲慢。
韓国人や中国人と同じ。
>>489 わざわざ新政府側に味方するために上洛して実際に西郷らに会ってて、
反新政府にまわるなんてキチガイ沙汰。
しかも藩の総意ならともかく、反対者もいさめる者もいるのに強行。
戦後は反省のかけらもない時世の句を読むと。
(要は俺の志が果たせなくて残念みたいな恨み節)
新政府側にまわってたら下北から岩手中部までの領土で
南部県とか盛岡県とか成立できてたろうに。
>>490 江戸時代は一揆多発。
維新では勝ち組からわざわざ負け組みに。
これで揶揄してくれるなという方が無理。
まあでも今の南部家は勝ち組だし
先代は陛下からの信頼も厚かったし良いんじゃね
493 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 00:35:45.41
それは楢山佐渡や東條英機あたりを賊として否定した結果なのであって、
南部の家が信用されたことで、楢山や東條が復権したとは思わないほうが良い。
494 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 00:38:44.41
それは楢山佐渡や 東條英機あたりを
↑
495 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 13:41:06.17
東条英機や板垣征四郎は前の南部さんが宮司だった靖国神社に英霊として合祀されているけどな。
今の天皇陛下が前の南部さんに宮司頼んだのはそういう事情もあるんじゃなイカ?
496 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 14:11:57.36
その2人が合祀されてから、それまで行っていた天皇参拝が崩御まで無かったという話
497 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 23:26:24.99
>>495 殿様に宮司を頼んだのは陛下じゃないだろ。
靖国神社には戊辰戦争で亡くなった賊軍といわれている兵士達は今も祭られてはいない。
目時隆之進や中嶋源蔵、熊谷助右衛門の方が時代の先を読むことができる立派な人間じゃないか。
どうやって、楢山佐渡を正当化できるんだ?
499 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 19:22:14.63
楢山節考最高や
501 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 00:16:34.69
スレ違いかもしれないけど八戸南部って本当に2万石もあったの?
太閤検知の石高を参考に見たら1万石にも満たない気がするんだけど。
502 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 13:43:26.78
新田開発したんだろ。だいたい戦国時代は米を江戸や大阪に送って金に換えるなんてシステムないから、
無理して米作る必要なかった。食い物は蕎麦とか小麦中心。
でも江戸で生活するには単価の高い米を売って金にしたほうがいい。
二万はないだろうな。むつとか野辺地といった
美味しい地域は渡されなかったし与えられた地域は
やませの厳しいところと岩手県の山間部ばかりだし。
504 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 19:53:10.50
>>503 美味しいか?やませ+豪雪のコンボ地帯だぞ。
506 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 20:12:34.18
田名部は中世後期には十三湊に代わり西回り航路の要所になってた。
あと蝦夷交易でアイヌ人から購入したホタテをはじめとした
海産物の加工場としても機能していたらしい。
507 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 18:52:14.83
>>465 > なんで、占領地を少数でまもらせて、南部領に戻るの???
> おかげで逆襲されて、2度手間になるんですけど…。
戦場での戦闘指揮官としては有能だったが、戦略眼も政略眼もなかった人物なんだと思う。
508 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 18:54:01.01
>>491 > 維新では勝ち組からわざわざ負け組みに。
鳥羽伏見の戦いで薩長が勝ったのを見届けてから幕府に味方したってのが凄いよな。
殿様は止めなかったのかな。
509 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 13:52:22.15
秋田や長岡では薩長は庄内や桑名に完敗してたからなあ。佐賀が間に合わなかったらどうなっていたか。
510 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 19:10:09.93
桑名藩には、のちに夜襲でロシアにも勝った立見師団長がいたからな。仕方ない。
>>509 局地的に奥羽越が勝っても、しょせんジリ貧だよ。
経済的にも厳しいし装備も劣ってるし何より援軍が見込めない。
512 :
日本@名無史さん:2011/05/30(月) 07:35:18.80
それは後で整理された記録を読み返せるから言えること。
カダフィ軍と反乱軍・NATO軍のどっちが勝つかとか、原発があとどのくらいで完全冷却できるのかみたいに、
リアルタイムで正確な情報を得るのは困難。
上でもいわれているけど、新政府軍ってのは、幕府側から見れば「反乱軍」なんだよね。
戊辰戦争が起こる数年前に全国の武士に「討幕運動が起こったらどうしますか」と
聞けば、99%が「幕府を守るために戦います(キリッ)」と偉そうに答えたはず。
江戸末期で官僚化が進んでいたとはいえ、武士というのは基本的には軍人なんだよ。
「こっちのほうが強そうだからこっちに味方します」では軍人ではないわな。
武士として何世代も俸給を貰ってきた人間が、「生き残るため」と言い張って
あっさりと新政府についたのはやはり卑怯なんだよね。
現在でも「ここは危険だから」「アッチのほうが強そうだから」といって
前線で逃げ出す兵士がいたのでは、国家が維持できない。
軍人ならば、例え危険であっても、作戦のために命がけにならなくては。
そのために栄誉と給与が与えられ、特権階級になっているのだから。
一般市民の感覚で、楢山佐渡を「強いほうに味方しなかった」と非難するのはおかしいよ。
新政府が会津を攻撃したのは、かなり無理筋だったしね。
514 :
日本@名無史さん:2011/05/30(月) 18:10:51.36
徳川慶喜も恭順した時期に、関東各地に軍隊を派遣して
暴れまわっていた会津軍が討伐されるのは、仕方がないと思うが。
楢山が仙台に味方した理由が、擁護する人の説明ではかえって意味不明なんだよ。
>>513 は?征夷大将軍って天皇から任命され、軍隊を率いているんでしょ?
なんでその天皇の言うことを聞かないの?
かつ、大政奉還で徳川家は政権を明治天皇に返還したんでしょ?
この状態でなんで幕府に従う義務があるの????
「あっちが強そうだから」ではなく、名目上も天皇に分があるのでは?
516 :
日本@名無史さん:2011/05/30(月) 20:14:21.48
大政奉還から鳥羽伏見までの2か月は、ちょっと微妙な時期なんだよな。
朝廷は政権担当能力がないから、大政奉還した慶喜にしばらく政治をみてくれって言ってるし、
王政復古の大号令が出たあとでも、慶喜を議定として政府首班に招こうという動きが実現寸前だったし、
慶喜自身も欧米諸国の外交団に、日本国を代表するのはタイクーンである自分だと宣言してるし。
しかも、その時期に譜代大名の間に、官位を返上して徳川家家臣にとどまりたいという動きもおこっている。
鳥羽伏見で幕軍が敗北して、そういう動きは全部どっかにいっちゃったけど。
>>513 鳥羽伏見後は軒並み大勢順応や日和見から新政府側に
動いてますが。
ここでなんで幕府側に着くか不明。
しかも幕府自体が白旗掲げたのに。
>>512 現時点で負けるかどうか分からん闘いと、当時から負け組と
思われてた闘いに参入したのと同列にするなw
楢山は反対意見押し切って無理やり反新政府にまわったんだぞ?
そんで図々しい辞世の句を残してるし。
「俺の先祖が楢山配下の南部藩士だから悪く言わないで。お願い」
と哀願するならお前の主張も分かるが。
519 :
日本@名無史さん:2011/05/31(火) 04:44:23.25
>>518 > 楢山は反対意見押し切って無理やり反新政府にまわったんだぞ?
当時の藩主の発言とかは記録に残っている?
>>515 そういう理屈が通るなら、江戸時代初期に幕府が公家諸法度などを押し付ける
訳がない。
形式は天皇家が上位でも、幕府が実質的な権力者だというのは、誰もが分っていた話。
天皇が、幕府に対抗するような視点で見られだしたのは、江戸時代後期に
国学が発達してきてから。
ちなみに長年、会津藩は大きな負担に耐えながら京都の治安維持にあたっていた。
しかも、新政府には従う旨も表明している。それを討とうというのは長州藩の私怨が
あったからとされている。「会津にも問題があった」等と言い出してもきりがない。
521 :
日本@名無史さん:2011/05/31(火) 14:37:05.31
まあ弘前が野辺地に攻め込んで南部にフルボッコにされたときは弘前の私怨で片付けられたからなあ。
522 :
日本@名無史さん:2011/05/31(火) 15:21:41.46
>>520 会津は薩長による新政府主導が気に入らず、
朝廷の下に徳川宗家を宗主とする雄藩同盟を作り会津藩がそれを主導するために
徹底抗戦を決めたことは明らかだよ。
会津藩が朝廷に絶対服従を誓っているのに、長州が私怨で攻めたわけではない。
松平容保が降伏すると官軍は攻撃を止め、容保の首も要求しなかった。
本当に私怨でやっていたなら容保の首を取ることこそが目的になっていたはず。
523 :
日本@名無史さん:2011/05/31(火) 16:12:25.61
>>520 >ちなみに長年、会津藩は大きな負担に耐えながら京都の治安維持にあたっていた。
>しかも、新政府には従う旨も表明している。それを討とうというのは長州藩の私怨が
>あったからとされている。「会津にも問題があった」等と言い出してもきりがない。
会津が関東各地で略奪や多くの戦役についていたのを、長州の私怨扱いするとは初耳です。
>>520 だから、国学が発達して、大政奉還が成立し、かつ鳥羽伏見が終わった後の話だろ?w
何を言っているんだお前は?
>>524 江戸時代の政治の話でしょ。
国学は民間から盛り上がってきた学問だから、当時の政治機構に
反映されていない。
現実の政治とは程遠いのに「征夷大将軍は天皇が任命されているのだから…」って
形式でしかない論理では説得力がないって話。
元発言辿れよw
>一般市民の感覚で、楢山佐渡を「強いほうに味方しなかった」と非難するのはおかしいよ。
ってコトへの論議だろ。これで、なぜ鳥羽伏見が終わった時代を切り捨てるんだよw
国学は武士階級でもはまっている人は沢山いたぞ。だいたい、慶喜の異様な皇室の持ち上げ方は
もろに、水戸で国学が盛んだった影響なんじゃないの?
527 :
日本@名無史さん:2011/06/01(水) 01:38:22.35
南部藩のあたりでは藩主に意見を求める事などないでしょう。
八戸の殿様は薩摩からの養子だけど、八戸も官軍と戦っている。
528 :
日本@名無史さん:2011/06/01(水) 08:16:20.38
八戸が戦ったのは、奇襲されて仕方なくだろ。
秋田戦争の計画的戦闘へは、裏工作してて参加してないな。
529 :
日本@名無史さん:2011/06/01(水) 13:29:09.23
八戸が戦ったのは私怨と功名心で暴走した津軽軍で官軍ではない、と言うのが明治政府の判断。
野辺地で死んだ津軽藩士は靖国神社にも合祀されてない。八戸は賊軍にもなっていない。
>>526 幕府の政治システムや政治哲学が作られたのが江戸時代の初期で、
国学はまだできていなかった。
>征夷大将軍って天皇から任命され、軍隊を率いているんでしょ?
>なんでその天皇の言うことを聞かないの?
というのは、それまでの現実を無視した暴論ってこと。
たから、幕末の話題だろ?
馬鹿なの?
532 :
日本@名無史さん:2011/06/02(木) 19:19:43.17
>>527 > 南部藩のあたりでは藩主に意見を求める事などないでしょう。
開戦するとか、そういう重大事には藩主の許可を求めるのが普通だと思うが。どこの藩でも。
533 :
白河藩主・松平越中守定永:2011/06/02(木) 21:54:11.31
幕閣は、南部津軽両家を衝突させ、両家を除封・改易処理にし、共に天領にするのが妥当だった
534 :
日本@名無史さん:2011/06/02(木) 22:34:49.91
>>520 名目も大事だろ
幕府は公家諸法度を強要しただろと実際の力関係の話をしだしたら
「あっちのほうが強そうだから」というのは
何も悪くはないことになる
名目の話をするなら天皇に逆らう幕府は逆賊
実力の話をするなら新政府軍より弱い幕府は逆賊
幕末の時点で幕府に忠誠を誓うなんて非難されて当然
>>531 幕府の政治システムが出来たのは江戸時代初期でしょ。
>>534 「社会をどのように運営するか」っていう肝心の視点なしに、
名目と実力だけで語るなんてどうかと思う。
外国の軍隊が、日本を核で攻撃し、皇居を占拠して
「天皇が、日本にわが国の主権を譲るといっている」と主張する。
それに自衛隊員が、負けを覚悟でその軍隊を攻撃して、壊滅したら、
貴方はそれを「愚か」と嘲笑うのか?
だったら韓国人や中国人と同じだよ。
貴方にとっては、特攻隊員の死も犬死でしかないだろう。
537 :
日本@名無史さん:2011/06/03(金) 04:18:37.20
>>536 ちょうど会津若松の人々が、
「先帝の言うことに先帝の生前は従っていた我々が正しいのであって、今の天皇の命令は聞くな」
と叫んでいるのはおかしいということですね。
>>536 内戦でわざわざ負け組みに付いた南部を不思議がってるだけなんだが。
外国の軍隊とか、話をそらすなよ。
あと中国韓国とか持ち出すのもみっともないからやめなさい。
539 :
日本@名無史さん:2011/06/03(金) 17:32:40.23
だから・・・当時は東武皇帝だったの!
540 :
日本@名無史さん:2011/06/04(土) 07:59:07.66
∩
( ゚∀゚)彡万博!草餅!
⊂彡
541 :
日本@名無史さん:2011/06/04(土) 10:02:02.78
>>539 薩長軍内にいた九条や醍醐を、薩長軍を殺した上で監禁して脅迫し、彼らを名目上の盟主としたんじゃなかったかな?
結局逃げられて、仙台藩などの残虐性だけが後世に伝わる結果になったけど。
>内戦でわざわざ負け組みに付いた南部を不思議がってるだけなんだが。
だから、「負け組みにつく」「勝ち組につく」いう発想が、軍人の道徳感覚では
おかしいって言われているの。
543 :
日本@名無史さん:2011/06/04(土) 11:36:44.34
そりゃ現場指揮官の判断手法だろ。
上位指揮官までそれやるなら、悲劇だ。
道徳を持ち出すなら、
>>541のようなことをやった奥羽越列藩同盟なんて唾棄すべきものでしかないが
>>542 いつから大名や家老が政策意思決定権を持たない軍人になったんだ?
連中は政策意思決定権を持つ政治家だぞ?
546 :
日本@名無史さん:2011/06/05(日) 23:05:04.91
∩
( ゚∀゚)彡万博!草餅!
⊂彡
>いつから大名や家老が政策意思決定権を持たない軍人になったんだ?
>連中は政策意思決定権を持つ政治家だぞ?
大名や家老といえども武士。
武士というのは、戦場で戦うことが公的に認められている人間。
つまりは武士も軍人。当たり前の話。
「政策意思決定権を持たない」「政策意思決定権を持つ」というのは、
シビリアンコントロールの概念が確立している近代民主主義国家での定義であって、
江戸時代に当てはめようとするのは無理がある。
現在ですらも、軍事政権国家では、軍人に政策意思決定権がある。
当時の大名や家老は、実態はどうあれ「政策意思決定権を持つ軍人」だよ。
547はたぶんものすごいバカ
549 :
日本@名無史さん:2011/06/06(月) 19:35:11.07
徳川幕府に属さない外様は独立国家ですから。
>>545 >いつから大名や家老が政策意思決定権を持たない軍人になったんだ?
>連中は政策意思決定権を持つ政治家だぞ?
ワケワカラン、というか頭がおかしいとしかいえない発言。
例えば、ここに評価が分かれている家老の楢山佐渡だって、戦にいって軍の指揮を
とっているよね。彼らは、当時、戦争に参加できる武士という立場で参戦していた。
これって軍人じゃん。それ以外にどう考えるの?
「政策意思決定権」の有無は、軍人かそうでないかとは関係ない。
近代化以降、昭和にはいっても、海軍・陸軍出身の総理大臣が何人か出ているよ。
そもそも、陸軍大臣・海軍大臣という政治ポストすらある。
陸軍大臣・海軍大臣は、当然政治家だよね。政策に関与できるから。
だけど軍人じゃないとでもいうのの?軍所属なのに。
文民統制(シビリアンコントロール)が確立していない時代・地域では
軍人が政治家を兼ねることのほうがむしろ普通なんだけどね。
>>548 >547はたぶんものすごいバカ
君は頭がいいのかな?
では、是非とも「戦争に正規に参加している人物が軍人ではない」という論理を
みんなが理解・納得できる形で語って欲しい。俺には全く理解できない。
552はたぶんリアル基地外
>>543 >そりゃ現場指揮官の判断手法だろ。
>上位指揮官までそれやるなら、悲劇だ。
まず「上位指揮官」と「現場指揮官」を自説を展開するために都合よく
分類するのはやめようね。
楢山は、君の言う所の「上位指揮官」でもあるだろうが、自ら戦場に
赴いているから、「現場指揮官」でもあるんだよ。
さて、説明しようね。
当時「幕府」という政権が日本を運営していました。最高権力者は「将軍」です。
「将」「軍」と言う文字から理解できると思いますが、「将軍」は、当然、軍人です。
つまりは、当時、日本の最高権力者すら軍人であり、場合によっては戦場に赴く
「現場指揮官」だったのです。現に、15代将軍、徳川慶喜は、自ら軍を率いて
戦おうとしましたね。(結局は戦闘行為はなかったですが)
当時は、軍人である「現場指揮官」が政権の最高権力者だったわけです。
「軍人が政治的な権力を持つ」
これには弊害が多くということで、「軍事行動の最終決定権は政治家が行う」という
文民統制(シビリアンコントロール)という概念が生まれます
しかし、日本で導入されるのは第二次大戦後、それから約70〜80年もたって
からのことです。
555 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 18:15:09.96
だから何だとw
人を「都合良く分類するのはやめようね。」と糾弾しながら、自分で都合良く分類するのは
リアル基地害の証拠に他ならないと思うのだが?
だから他の諸藩がこぞって新政府側についてる局面で、自分も新政府側に
着こうと上洛しといて鳥羽伏見の結果も知ってながら、わざわざ反新政府に
まわった意味がわからないのだが。
難しいな。まあ新政府に付いても秋田の二の舞になる可能性もあるし
勝ったとしても恩賞はそれほど期待できんからな。
まあ、仙台がドンゴリだってのは、戦った後で分かることだからな。
仙台と戦ったとして、どこかで援軍来るまで食い止めるコトできなかったんかいな?
559 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 00:12:38.10
大名や家老は軍人ではないとか、とんでもない
こと言い出したり、上位指揮官とか現場指揮官とか
曖昧な区分を持ち出したりして、反論されると
『だから、どうした』とか相手を基地外とか
いうのって、メチャクチャだよね。
>>557 あの段階では恩賞というより、地位保全だろ。
そうすりゃ分割されることなく、旧盛岡藩まるごとで盛岡県が成立したはず。
秋田って酷い目にあったのか?
元々南部の鹿角が秋田に編入されて得したような。
>>559 んなモンで妙な理屈作ってどうするんだw
お前もしかして、妙な理屈で南部を褒め殺ししようって言うのかw
562 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 09:05:34.90
>>541 > 薩長軍内にいた九条や醍醐を、薩長軍を殺した上で監禁して脅迫し、彼らを名目上の盟主としたんじゃなかったかな?
> 結局逃げられて
どうやって逃げたんだっけ?
>>562 薩長新政府が薩摩長州じゃない新政府軍を改めて仙台まで送ったら、
「薩長じゃないから朝廷軍だ」と仙台藩が判断して、その新政府軍に人質を明け渡した。
ばかみたいな話。
564 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 11:54:41.55
>>563 コントみたいだな。でも仙台藩の情報収集能力が薩長に比べるとだいぶ劣っていたことがわかる逸話だな。
薩長じゃない新政府軍って要は佐賀でしょ
艦砲外交よろしく脅されて手放したんじゃないの?
仙台の独断専行なのは間違いないけどさ
566 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 14:17:47.49
佐賀は別に庄内や会津はもちろん仙台にも私怨はないから薩長のように積極的に戦闘する動機はない。
佐賀としては庄内・会津の謝罪・停戦を九条・醍醐が朝廷に認めさせれば大して戦闘が起きないと思っていたのでは?
盛岡を平和にスルーしたのもそのせい。
567 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 23:34:03.28
∩
( ゚∀゚)彡万博!草餅!
⊂彡
568 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 23:36:39.45
なんか話を流すのに必死な人がいるけど、大名や家老は軍人ではない!
とバカなことをいい、認識不足を指摘されたら、いい返せずに相手を
基地外呼ばわりした恥知らずがいたことは、覚えておかなきゃならないよね。
こんな卑怯者がよく楢山を批判出来るもんだ。
570 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 00:37:50.65
取り敢えず、南部藩の象徴・盛岡城を復元してくれ!
572 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 01:53:18.70
>>566 その文面では、「佐賀としてはこういう立場だった」ではないな。
「仙台藩としては、佐賀藩はこう考えていると妄想していた」が正しい。
この時期の前から北関東では、旧幕府軍や会津軍と佐賀藩は血みどろの戦いを重ねている。
会津を支持した側を尊重する気は、佐賀藩には今更ありはしない。
現に佐賀軍は、仙台藩から逃れると同時に反列藩同盟に盛岡を引き込むように交渉を始めている。
秋田でも同様の交渉を重ね、秋田の新政府軍帰順を引き出して奥羽征討総督府は復活してしまった。
>>568 どうして楢山さんは556みたいな不思議な行動をしたの?
574 :
山之城有美:2011/06/09(木) 07:58:30.92
情報収集分析能力が他藩より劣っていたと解するほかあるまい
575 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 13:49:57.51
佐賀藩は今市では大鳥圭介に奇襲されて退却し虎の子のアームストロング砲を奪われている。
これでブチキレたか。
キレたのなら仙台藩のように暴発しているでしょう。
相手に自分のやった愚かな行動を押し付けようとして記述を歪めては、仙台藩と同じです。
ちょっと話題変わるけど
南部師行の「師」の文字は高師直や高氏と関係ある
偏諱ではないよな?
578 :
日本@名無史さん:2011/06/10(金) 13:43:22.14
ひょっとしてモロの一族か
末縁に連なるのがDrモロー
580 :
日本@名無史さん:2011/06/10(金) 23:13:09.99
∩
( ゚∀゚)彡万博!草餅!
⊂彡
581 :
日本@名無史さん:2011/06/10(金) 23:39:22.20
三戸氏
甲斐御家人→御内人→北条残党→北朝方→分家扱い→宗家化→大名
八戸氏
奥州御家人→御内人→(大覚寺の)勤皇の忠臣→北畠側近→南朝方→本家→三戸に騙される→陪臣
であってる?
>>581 三戸氏
甲斐御家人→御内人
奥州御家人→御内人
これはどの資料から、推測してるのかな?
奥州南部氏の一戸〜?戸氏まで分かれていった歴史には興味があるな。
584 :
日本@名無史さん:2011/06/15(水) 20:23:16.87
八百八町夢日記スペシャル「みちのく忠臣蔵」(再)
テレビ埼玉6月16日(金)
18時03分〜
津軽藩主・寧親(宗方勝巳)は、将軍家斉(水上保広)に取り入り、従四位下侍従の官位に任命された。
一方、津軽藩の主筋に当たる南部藩主・利敬(長谷川初範)はこれを憤るが、まもなく謎の死を遂げた
津軽藩と南部藩の不穏な空気を危ぶむ夢之助(里見浩太朗)は、自ら南部藩江戸藩邸に潜伏し、次郎吉をみちのくに派遣するが、留守中に、津軽隠密・十兵衛(堀田真三)に妻のお初(未來貴子)が殺害される
老中・阿部正右(大出俊)が南部藩家老岡村(堀内正美)に接近していることを怪しいと見た老中・土井利位(夏八木勲)は夢之助に伝える
585 :
日本@名無史さん:2011/06/15(水) 20:49:39.44
587 :
日本@名無史さん:2011/06/17(金) 00:53:16.49
∩
( ゚∀゚)彡万博!草餅!
⊂彡
ツガルっぽいのが粘着しているのがキモイ。
つうか、論破されると「キチガイ」とか言ってピンポンダッシュで逃げる
奴ってツガルか?
589 :
日本@名無史さん:2011/06/17(金) 19:10:12.94
それは「早道之者」の得意とする技だな。
いわゆる東北電波ですな
奥羽越列藩同盟でおらが町が首都だった、とか言い張った馬鹿と同一人物のような
591 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 13:48:42.93
どうもちがうらしい
592 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 18:31:04.15
保守
593 :
日本@名無史さん:2011/07/08(金) 19:00:59.23
こういう状況だと南部と伊達と団結しないとな。
594 :
日本@名無史さん:2011/07/10(日) 00:53:12.67
∩
( ゚∀゚)彡万博!草餅!
⊂彡
595 :
日本@名無史さん:2011/07/10(日) 11:30:25.17
597 :
日本@名無史さん:2011/07/15(金) 13:21:53.58
南部のボランティアは義士に候
598 :
日本@名無史さん:2011/07/25(月) 23:13:17.38
∩
( ゚∀゚)彡万博!草餅!
⊂彡
599 :
日本@名無史さん:2011/07/25(月) 23:45:55.01
秋田の郷土史家の人が、どうやら、相馬大作は南部藩から津軽藩主暗殺を強要されていた…
なんて説を唱えているようですが。どうなんでしょうね。
確かに、相馬大作は立派な私塾を開いており、従う人も多くて生活も安定していた。それで、
わざわざ自説と全くベクトルが違う津軽藩主暗殺なんて行うコトのメリットは全くないわけで…
あの南部のことだから、人気ある相馬大作に難癖つけて…なんて想像がいとも簡単にできちゃうのがなんともw
600 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 21:01:02.65
疑問点があるんだが
津軽と南部で石高に偉い差がついてるけど
いったい何が違ったの?
南部は農業技術の発展とかさせる気なかったの?
津軽は耕作噺とかあるけど
601 :
日本@名無史さん:2011/07/31(日) 19:30:11.04
そもそも兵糧が米というのは西日本の基準で、南部では兵糧は蕎麦や小麦や雑穀だった。
つまり蕎麦はっとや、南部せんべいが兵糧だった。
米をつくるのは食べるためというより、むしろ江戸の藩邸で売って現金にするためだった。
あとは馬や砂金、砂鉄、銅、塩、漆、松材、あわびなどが大きな収入源だった。
幕末は米本位の石高制の矛盾が噴出した時代だった
603 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 01:02:18.35
国内の石高ではなく金銀の国際相の違い。
幕府は貨幣発行権を持っているのに何故か米本位の石高制にこだわるからな
米は基準通貨ではなく商品の一つに過ぎない、増産すればするほど値は安くなる
米を売って銭に替えて生活をする武士と農民は苦しい
米以外の売り物が豊富な南部藩はラッキーだったな
しかも高値で売れる
それが、米の取れ高が多いほど格式が高いので、
無理に実際の取れ高より多く○○万石とか認定してもらったり、
その通りに格式を整えたりした上に、無理に水田を増やす方向で農地改革を行ったりしたので、
江戸時代が進むにつれて、東北地域全体が飢饉に極めて脆弱ということになってしまうのです。
607 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 02:54:01.86
>江戸時代が進むにつれて、
>東北地域全体が飢饉に極めて脆弱ということになってしまうのです。
財政危機にはなったかもしれんけど
津軽は一応コメの増産に成功してるよ
恐らく早稲の赤米、
ジャポニカじゃなくてインディカ米の奴w
冷害に強いコメ(ジャポニカ)品種とかあったようには思えない
これをみると
http://www.city.hirosaki.aomori.jp/gyosei/koho/nougyou/h230401/pdf/tokusyuu_2-4.pdf 「いわか」っていうのが主力品種らしい
晩稲なので冷害には弱いので早稲は赤米しかないだろ
耕作噺に書いてある「たくさん早稲作ろうね!」は
おそらく赤米のこと
あと津軽の石高は米の取高ではなくそれ以外の収入も含めての話だと
津軽塗や木材とかね
南部は戦前の頃でも米植える時は
「宝くじ飼うような感覚」で植えてたらしい
ひえも植えてた。
あと野辺地近辺では大豆。
みそや醤油の原料で飛ぶように売れた
608 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 14:10:30.93
三陸では盛岡藩御用商人の吉里吉里(前川)善兵衛みたいなのがいて江戸で俵物を売りまくっていた。
あと収入源として大きかったのは南部杜氏で全国的に有名な清酒だろうか。
>>608 その豪商も潰しちゃうしな。
金の卵を産む鶏を殺して肉食うようなもんだな。
610 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 17:05:44.09
秋田に取られたから無視される傾向が高いけど、やはり鹿角の鉱山資源が大きかったんじゃないの?
おっと。そいや鹿角の豪商も潰して財産没収したんだっけ。
南部っていったい…。
612 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 19:10:08.55
南部っていうか暗君の時代はどこの藩もそんなもんだろ。
613 :
日本@名無史さん:2011/08/03(水) 00:08:23.14
気候が厳しい山ばかりの土地柄のうえ沿岸は津波ですから。
>>612 よその藩の話は知らん。
よそでやってくれ。
ここは南部のスレだ。
615 :
日本@名無史さん:2011/08/03(水) 01:21:15.24
南部歴代で一番の暗君といえば、どの殿様ですか?
南部利済とその父(南部利謹)だろ。
利謹は嫡男なのに、「野望」で藩主になれなかった男(「岩手県史」)だ。
藩主の座が約束されていたのに、どんな野望を持つんだよって突っ込みたくなるな。
617 :
日本@名無史さん:2011/08/03(水) 02:28:56.28
>>608 南部藩産業番付というのがあって
東大関 〆粕(海岸部) 西大関 南部檜(山間部)
になってる。
清酒とか米も碌にとれないのにそんなに
評判良かったの?
津軽ですら米がなくなるから清酒造り禁止されてたのに
吉里吉里善兵衛とか仮にどれだけ収益高くても
南部藩の重税で死んだだろうな
野村冶三郎(野辺地)はその課税から
逃げまくれたから昭和まで続いた
618 :
日本@名無史さん:2011/08/03(水) 14:13:03.35
近江商人が育てた南部杜氏の技術が高かったからだろう。
南部杜氏は今でも日本最大の杜氏組合。
619 :
日本@名無史さん:2011/08/04(木) 22:09:27.93
>>618 杜氏は技術者で蔵元に雇われてるにすぎない
杜氏→派遣
蔵元→季節労働者
南部の蔵元は経営難だから優秀な杜氏は全国に散った
つまり出稼ぎなのよ
南部地方の産業で利益を図りたいなら
清酒なんてかっこつけずに、野辺地の野村冶三郎のように
味噌や醤油作ればよかったのですよ
そんなものに藩のお金を出すセンスが分からない
せめて杜氏を生かすために清酒の蔵元作ればいいのに
少なくても領民餓死させてまですることじゃないと思うけどね
まあ味噌や醤油の蔵元だとかっこ悪いから
酒作ろうとしたところが南部らしいといえば南部らしい
620 :
日本@名無史さん:2011/08/04(木) 22:11:10.38
>>619 間違ったw
×
杜氏→派遣
蔵元→季節労働者
○
杜氏→季節労働者
蔵元→資本・経営
621 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 08:52:53.84
いや地元でも酒作ってる上にさらに冬に仕事ない農民に仕込み教えて杜氏にして全国に派遣したんだろ。
近江商人ネットワークで。
622 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 12:18:54.07
>>621 そう、
南部杜氏は出稼ぎ労働者
誇るべきものでもなく、南部藩の経済を劇的に豊かにはしない
南部藩は藩の収入を高めるために
「蔵元を作る」のではなく「派遣社員に簿記2級」を教えた
つまりアホだ
623 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 13:40:48.22
もともと米があんまり取れないんだから地元で蔵元増やすのには限界があるだろう。
>>623 じゃあ何で酒造に走ったんだろう。
米が足りないのに。
625 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 19:51:06.52
むしろ米が足りなくて貴重品だったから無駄なく仕込む技術が向上したともいえる。
あと近江商人が専従杜氏に巡回指導させていたのもある。
南部の杜氏は同じ量の米から仙台の杜氏の1・6倍の量の清酒をつくれたという。
近世大名の南部家って、本当に義光流清和源氏と関係有るの?
系図以外の客観的証拠って有るの?
土豪が清和源氏を称しているだけとかってことはないの?
徳川の清和源氏よりは信憑性有るの?
627 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 21:12:42.65
土豪だった安東氏は秋田氏になって三春藩の藩主家として幕末まで存続してる。
628 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 21:28:45.70
>>624 「つまらない自尊心」
南部藩の首脳は全員が 民主党レベルだったと思えばいい
現在の岩手県民ですら「事業仕訳」と聞いて
「は?憲法違反じゃんw誰が投票するかよw氏ねよカス」
と思う知能すらなかっただろ?
・思いつきで子ども手当
・思いつきで脱原発
・思いつきで朝鮮人参政権
・思いつきで年金の三位一体
南部領内には合理的、客観的という言葉はないあったら腹切らされるw
まあ初期の頃は鉱山収入と言う財源があっただけ
民主党より南部藩の方がましだとは思うけどなw
>>625 >南部の杜氏は同じ量の米から仙台の杜氏の1・6倍の量の清酒をつくれたという
杜氏とはうまい酒を作るための職人だろ?
量など増やしても売れなきゃ意味ないだろw 何を誇ってるんだ?w
だまって味噌や醤油作っとけばいいだけだろうが?
やさしく諭してやってる間に、
「南部杜氏」は単に出稼ぎだったと諦めろよw
>>626 >信憑性有るの?
ない。燃えた後資料の復活作業すらしてないところを見ると
彼らから見て価値の無いものだったんじゃねーの?
何で関係のない民主党を持ちだしてくるのさ
>信憑性有るの?
あるよ。
何偉そうに言ってんだ。
>>628 お前何様?
派遣社員に殴られるど。
人を小馬鹿にして楽しいか?
632 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 22:54:47.00
>>629 残念ながら関係あるだろ?
南部藩主と首脳=民主党=バカ とか
衆議院選挙で岩手県は民主党しか当選させない馬鹿 とか
>>630 >あるよ。
よかったな、お前の中ではな!
よかったな!w
>何偉そうに言ってんだ。
南部杜氏はデカセギだと言ったことが気に障ったか?
文句あるか?もう一遍言ってやろうか?
633 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 22:58:33.51
>>631 事実を指摘されると馬鹿にされたと?w
そういう客観的視点を無視するから
江戸時代無理矢理稲作強行して飢え死にしたんだろ?
人の肉まで喰らったのをもう忘れたのか?
糞みたいな自尊心で飢え死するより
事実を認めたほうがマシだと思うがなw
>>632 文句あるか?もう一遍言ってやろうか?
その上から目線。お前公務員だろ。先生か?
鼻だけ高い馬鹿。
何度でも言え。
歴史板に、今の民主党政治なんか関係ねーダロ。
>>633 俺は、派遣社員を小馬鹿にしてると言ってるんだが。
636 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 23:06:55.65
>>634 南部藩の経済センスの無さを民主党に例えたのは
ナイスな例えだとおもう
小沢とかもろ南部藩の思考ベクトルだしな
もしかして銅銭2〜3枚のワイロと引き換えに
稲作強行したのかも知れんぞ?
637 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 23:08:46.53
>>633 おちつけ
派遣社員増やしたのは小沢だw
南部藩の経済センスの無さを民主党に例えたのは
ナイスな例えだとおもう
オナッテロ。www
小沢とかもろ南部藩の思考ベクトルだしな
小沢は伊達藩だろ。水沢市出身じゃねーの
南部藩と酒造の憶測。
執政「殖産のため、清酒を造ろうと思う」
下級武士「それはちと問題が」
執政「なんだ?」
下級武士「米が足りなくなります。民に米がいきわたらなくなるかと」
執政「へ?」
下級武士「え?」
執政「つまり問題なしじゃな。よし酒造をやろう!」
640 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 23:14:52.70
>>638 その伊達藩に領民が逃げ込んでるだろ?
「そっちに住ませてください」
もう忘れたのか?
>小沢は伊達藩だろ。水沢市出身じゃねーの
岩手の英雄小沢せんせーなんだろ?
くやしいのうwくやしいのうw
小野御殿を当選させた宮城県に失礼だろ?
いいかげんにしろ
641 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 23:16:23.99
642 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 23:19:48.11
久しぶりに来たら盛り上がってるなw
南部藩愛してるなら
南部藩や南部氏に関するちょっといい話とか
心温まる話とか書き込めよwww
津軽に独立されるぞw
>>640 いつ小沢が南部の英雄になったんだよ。みんながみんな
そう思っているのか?
お前の頭のなかだけだろ.
>>642 津軽氏 スレスラたてれない馬鹿津軽衆。
みっともないなー。
>>632 >あるよ。
よかったな、お前の中ではな!
よかったな!
そこまで言うなら、南部氏が源氏じゃない事を
証明してくれないか?
646 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 23:36:18.59
>>643 >>644 論破されてアホみたいなレスつけんな
お前らと同じだと思われると恥ずかしいからやめろ
648 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 23:40:27.89
無駄な罵り合いはやめろ。
スレ流しが目的か?
>>642 聞いてみたいよな。
領民にこんないいことしましたとか、心温まる話。
「津軽との確執」「土地このままだけど石高上げてちょうだい!」
「相馬大作」「飢饉と一揆」「沿岸から搾取」「頻繁に暗君登場」
こんなのばっかりだ。
今度は「米不足なのに酒造」が加わった。
新渡戸伝と新渡戸十次郎の親子の活躍があるな。
不毛の土地であった、十和田市の開拓
652 :
日本@名無史さん:2011/08/06(土) 00:17:50.61
>>650 なんもないよな
領民をいたわった話とか
藩主や殿様の心温まるエピソードとか
653 :
日本@名無史さん:2011/08/06(土) 00:31:16.59
654 :
日本@名無史さん:2011/08/06(土) 01:50:41.68
>>650 >今度は「米不足なのに酒造」が加わった
「藩費で杜氏講習を行うも、杜氏は他藩で酒造り」
の方がいいと思う
655 :
日本@名無史さん:2011/08/06(土) 13:50:20.70
だから蕎麦や小麦や雑穀が主食の南部で米作ってたのは食うのが目的じゃなくて江戸で売って金にするため。
雑穀が酒にならないのなら、ビールもウイスキーも存在しないのだが
そりゃ、日本じゃコメの酒が好まれていたからな。仕方ない。って突っ込むトコそこかw
何故飢饉に弱いものを作ろうとする?
雑穀でいいじゃないか
薩摩の芋のように、作物の範囲内で酒は造ればいいのに
サツマイモみたいにジャガイモを導入する事は出来なかったのか
661 :
日本@名無史さん:2011/08/06(土) 20:59:57.41
>>655 明治初期の証言は聞いたがある。
雑穀喰ってたというより米に混ぜて喰ってたらしい。
江戸期の記録探してるんだが何処にあるのか教えてほしい
>>658 米と雑穀の兼業は小作農には困難なのだろう
炭焼と農業等の兼業してた。
発達した大規模農家がなかったのが致命傷
>>659 雑穀から酒作ってもマスイ。
薩摩のいも焼酎みたいにうまい酒作る能力もなかったんだろう。
野辺地では豊富な大豆でみそや醤油を作った。
その結果大儲けした
>>659 ジャガイモは寒さに強く、やせた土地でも作れるが
連作が利かない。すぐに病気で大不作が発生する。
ジャガイモ飢饉→
http://p.tl/MmyP 五穀の内連作障害が発生しないのは
「米」と「ヒエ」だけ
必然的に南部領内で作付けされるのは「ヒエ」になる。
662 :
日本@名無史さん:2011/08/06(土) 21:16:19.98
炭焼きもそうだが南部といえば馬の放牧は大規模にやってた。あと漆取り。
南部馬、南部せんべい、南部鉄器、南部杜氏、南部赤松、そこらへんが収入源か。
663 :
日本@名無史さん:2011/08/06(土) 21:39:39.97
>>662 まとめ
○南部馬 → 馬小作や牛小作。農家の博打!ドリームジャンボ!
遠野市で売るも重税と上納金の強制で一揆多発
○味噌、醤油 → 野辺地に大規模味噌醤油工場。
大豆で売るより加工して利幅アップ
(南部杜氏はこれをマネしようとしたのか?)
×南部せんべい → 津軽衆が最近広めた
▲南部鉄器 → そこそこ
×南部杜氏 → 労働力が流出しただけ収入源ではない
×南部赤松 → 何これ?
○南部檜 → 津軽領内の山林まで買い漁って
南部檜を京都に輸出
藩としての主収入は江戸初期を除けば
遠野市(馬、牛)、味噌、醤油(大豆)、銅、〆粕、南部檜(青森ヒバ)
こんなもんか
あとなんかある?
664 :
日本@名無史さん:2011/08/06(土) 23:08:56.75
>>660 サツマイモは
@ 収穫量が低すぎる
※明治期に赤沢式甘藷栽培法で収穫量が2倍になった
A すぐに芽が時生えるので保存できない
※蕎麦や麦みたいに粉で保存できない
>>661 ヒエは連作障害無茶起こしやすいのでは?単に、他の作物の連作障害を防ぐために植えることがあるだけで。
その点、コメは連作障害がない凄い穀物なんだよな。(陸稲は駄目だけど)
>>663 南部牛追唄によると「田舎なれども南部の国は西も東も金の山」だそうですが。これも江戸時代初期までという
話もあるけど。
666 :
日本@名無史さん:2011/08/07(日) 01:45:42.68
667 :
日本@名無史さん:2011/08/07(日) 11:20:56.13
釜石には鉄の山もあったし、花輪には銅の山もあったな。
668 :
日本@名無史さん:2011/08/07(日) 21:57:57.87
ここ読んでわかったが
南部藩すげーな
悪い意味でw
669 :
日本@名無史さん:2011/08/07(日) 23:42:19.39
流れぶった切って悪いけど
七戸家国って何がしたかったの?
所領だった今の青森市東部を津軽為信に
ぶった切られたにも関わらず
信直の津軽出陣には反対するわ、
九戸の乱では九戸側に付くわでやる事成す事全てが裏目に出てる。
>>668 南部以外の地域の方ですか?
あまり酷いと改易になるからエピソードも短期間のものだけに
なるんだが、江戸時代ずっと統治だからエピソード満載。
江戸初期に一揆多発なら改易になったろうけど、領民にとって
不幸なことに、危険な江戸初期は無難にやり過ごしてしまった。
それ以降は蓑踊りとかの暴虐はないが、ひたすら頭が悪いって感じなんだよな。
671 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 12:01:57.15
幕府が南部を改易しなかった理由がよくわからん。背後から伊達を牽制させるためか?
672 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 12:53:09.42
南部は大崎葛西一揆のときも和賀稗貫一揆のときも伊達の謀略を完全粉砕できたからな。
秋田(安東)は改易されちゃったけど。あとは軍馬を育てる専門知識が買われていたとか。
安東は移封じゃなかったっけ
実質減封だけど
674 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 14:47:56.67
>>672 >あとは軍馬を育てる専門知識が買われていたとか。
あー、それはあるだろうね。 南部を改易しちゃうと幕府も困るんだろうね。
675 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 15:36:42.27
>>672 >>674 ちがうだろ
朝鮮半島を中国歴代王朝が直接支配しなかったのと同じ理由
統治すると経営損だから
>軍馬を育てる専門知識
馬小作や牛小作が育ててるんだが?
南部一族がなんのノウハウを持ってる?
種馬のリースや牝馬のリーズは商人マターだし
676 :
忍法帖【Lv=15,xxxPT】 :2011/08/08(月) 18:05:29.19
677 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 19:06:09.56
馬小作も牛小作も戸がついてるあたりの農民はみんな南部一族。
何せ鎌倉時代からずっといたから。津軽為信だってもともと久慈にいた南部一族。
あと南部馬の売買は厳しく規制されてたからぜんぜん商人マターじゃない。
だいたい軍馬の調教や良し悪しの区別は軍事を知らないただの農民には無理。
騎手でも調教師でもない人が競走馬育てられないのと同じ。
あと当時の馬の放牧で大事だったのは、狼を駆除することだったという。
678 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 19:33:50.36
>>677 >馬小作も牛小作も戸がついてるあたりの農民はみんな南部一族。
hahaha
源氏の嫡流がみんな小作人だったと?
679 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 20:01:06.73
>>677 こういうのがある
↓
>藩有の「御野馬(おのま)」の育成に対してまで民間の奉仕を強制して
>いました。というか、藩牧の運営は農民の奉仕によって成り立っていた
>と言っても過言ではありません。
http://www.jtng.com/thrc/p70nanbu/p70-13.html ↑
つまり農民や商人が技術を持っていたといえる
そうでもなきゃ飢饉のとき業と火事出して喰うわきゃないw
殿様は大型馬が生まれたら江戸で自慢したあと売ってただけ
民間の牧である里馬に藩が種馬貸してたこともあるらしいが
牡馬は藩が没収w
牝馬は4歳になると売ってもいいので農民はむしろ牝馬が生まれると喜んでいたくらいだ
南部藩が領民のために何かすると思ったら大間違いだ
南部藩なめんなw
680 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 20:03:48.55
>>677 >騎手でも調教師でもない人が競走馬育てられないのと同じ。
普通競走馬は牧場で馴致されて調教された後
厩舎で調教師や騎手がのるんだが?w
681 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 21:25:17.49
小作人じゃなくて名子な。兵農分離以前はもちろん江戸時代でも
家督相続した奴以外の次男三男四男は藩から禄はもらえない。
新渡戸伝も禄を没収されると農民や商人のような身分になるし、復帰するとまた武士になる。
取り潰された家は農民になるし、召抱えになれば武士になる。
三八上北のあたりの農民漁民はほとんど南部と血縁。一揆が多いのもそのせい。
>>669 七戸家は根城南部と同じくらいの血筋だから、残ってほしかったけど、残念。
家国の嫁が九戸の娘っていうのが一番大きかったと思っているけどね。
九戸の乱の前、信直、正晴の争いの時から正晴側についいていたから、簡単に
信直側に寝返るわけにはいかなかったんじゃない。
正晴って誰?
晴政?
>>669 七戸の戦略としては三戸南部派の伝法寺、
六戸、五戸といった地域を切り取る為に遠交近攻政策で
九戸と結んだんだと思う。
また意外と知られてないけど八戸からも側室を受けたりしてるようだから
九戸家、八戸家、七戸家で打倒三戸を考えていたのかも。
686 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 22:54:15.64
>>681 >小作人じゃなくて名子な
馬小作って小作人じゃないんだがw
昭和に入っても馬小作っていうシステムがあったんだけどな
老人に聞いてごらん
>取り潰された家は農民になるし
(ヽシ・ω・`)ナイナイ
土地が無いので農民になんてなれませんw
>三八上北のあたりの農民漁民はほとんど南部と血縁。
(ヽシ・ω・`)ナイナイ
農民はほとんどが戦中、戦後すぐの開拓入植
江戸期の次男三男は奉公、女は女郎屋、江戸や上方にも流れた
>>669 津軽に攻め込まれた時助けてくれそうだとおもったんじゃね?
687 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 23:28:39.19
>>658 そのような考えをする南部藩主は鉄砲の一斉射撃を受けるだ
>>656 雑穀で酒作ってたら歴史変わったんだろうなw
南部藩主がウォッカやジンとか飲んでアル中だらけなら
幕府に改易してもらえたかもw
>>666 「神楽飯」うまそうだなw
焼いた馬肉乗っけたら
完全な南部藩のソウルフードじゃねーかw
十和田バラ焼とかじゃなくて
「馬肉神楽飯」でB-1グランプリでればいいのになw
かっこつけて牛肉の玉ねぎ炒めとか
昔から食ってたとか歴史ねつ造してる場合じゃねーだろw
688 :
忍法帖【Lv=15,xxxPT】 :2011/08/09(火) 03:42:55.43
幕府は伊達や島津や毛利は最初から警戒していたが
南部は警戒していなかったようだ。
689 :
日本@名無史さん:2011/08/09(火) 09:37:25.96
実は津軽もかなり警戒されてた。幕府からは石田三成のシンパとみなされていた。
三八上北のあたりの農民漁民はほとんど南部と血縁。
農民はほとんどが戦中、戦後すぐの開拓入植
スゲー電波。お前らいい加減にしろ!
>>685 九戸政実は八戸政栄に自分に味方するよう書状を送っていたりしてたから
応じていればまた歴史は変わっていたかもしれん。
歴史において、もしを語る意味の無さは司馬遼太郎も知りながらも書いていたね。
693 :
日本@名無史さん:2011/08/09(火) 22:32:05.11
>>691 ないよ。八戸氏の天敵である櫛引氏が
九戸派である以上あり得ない。
694 :
日本@名無史さん:2011/08/09(火) 23:38:49.86
695 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 00:35:18.40
>三八上北のあたりの農民漁民はほとんど南部と血縁
このスレは韓国ですか?
韓国関係ないよね
697 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 01:25:27.31
∩
( ゚∀゚)彡万博!草餅!
⊂彡
698 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 02:14:05.62
韓国:国民のすべてが両班の子孫
南部:農民は全部源氏の一族
韓国;米が碌に獲れないので主食は雑穀
南部;米が碌に獲れないのに日本酒を造る
韓国;肉食が盛ん
南部;馬屋が火事で燃えました
韓国;名君なし
南部;名君なし
韓国;のむひょん
南部;小沢
+に帰れ
700 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 03:04:48.32
701 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 04:51:07.05
>>700 南部藩の兵は意外と強いんだが。
伊達藩の兵は意外と弱いんだが。
702 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 13:35:48.02
いかにも夏休みらしい流れだな。
703 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 13:44:28.05
>>701 強い、弱いの話は無関係、南部藩は隣国
だから強かろうが弱かろうが
警戒ぐらいはする。
南部藩を特別に美化する理由になんてならない
隣に津軽藩や松前藩があった方が伊達としてはこわかっただろうし
もし南部藩を統治したのが南部一族でなく
せめて九戸なら、このスレで妄想される
「馬の生産技術大国」になった可能性はある。
稲作強行も20万石にこだわったのも
すべては南部一族が津軽をちんけなプライドで恨み続けたことに
起因するわけだし
704 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 14:07:41.82
津軽為信の嫡男信建は豊臣秀頼の小姓。
2代目藩主信牧の側室は石田三成の三女で3代目藩主の母。その兄は弘前で生活。
関が原で東軍についたのは隣に南部がいた上、家臣が氾濫していたから。
しかもその後、高坂蔵人の美少年争奪ガチホモ反乱で藩士が南部へ逃亡して半減。
とても幕府の頼りにはならない。
まあ、衆道は戦国の世では当たり前だったけどな。
高坂蔵人ってのは、信牧派と信建(正確にはその子)派の争いの際に、信牧派について
反対派を自らばっさばっさと切り捨てて、信牧を盛り上げた重臣なのにね。
706 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 19:17:32.21
信牧の正室は家康の養女(実の姪)だったが、家督は側室である石田三成の三女に継がせた。
信牧の正室の連れ子は改易された福島家の再興を企図するがヤバイと思った実の母に毒殺される。
その一方で信牧は重臣と美少年取りあって藩士の半分が惨殺されるか南部へ逃亡。
信牧につかえた服部康成は幕府が監視のために送り込んだとも言われるが、こんな感じではそれも仕方がない。
707 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 20:23:24.54
家督を継いだのは石田三成の三女の子供信義だな。つまり三成の孫。
708 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 20:58:05.13
>>691 >九戸政実は八戸政栄に自分に味方するよう書状を送っていたりしてたから
九戸の文書は見たことがないので、「根城南部家文書」以外にあるのなら
それを教えてほしい。
晴政からの書状は三通くらいあるから、それとの間違いじゃないかな?
710 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 21:37:59.77
真田幸村の次男を家臣にした伊達、石田三成の次男を家臣にした津軽。
その両方を心底警戒している南部は徳川にとって利用価値が高いだろう。
南部は加賀前田と親戚になったのも運が良かった。
711 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 21:44:15.73
>>667 話ぶった切ってわるいが
十和田の御当地グルメが
なんで牛肉と玉ねぎの朝鮮味噌炒めなの?
馬肉ならまだしも、牛肉食ってた記録ある?
江戸時代から十和田では朝鮮味噌食ってたとしたら
朝鮮と交流とかしてたの?それとも朝鮮から大量の移民でもあったの?
東北地方から長野くらいまでは、満州移民の引揚者が多いんですよ
713 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 21:51:41.88
>>708 > 石田三成の次男・隼人正重成は、杉山源吾として津軽に落ちのびた。
幕府の隠密はそれを察知できたのではないだろうか?
もっとも薩摩などの濃厚方言の地方には幕府の隠密がなかなか入り込めなかったらしいが。
>>711 それは、三沢市発祥です。
戦後、某食堂さんがはじめましたとさ。
で、挑戦味噌ってなんなの?
715 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 21:58:10.74
弘前城の奥には豊臣秀吉の像が祀ってあった。
こんな藩が真田幸村の子を家臣にした伊達をまじめに監視するわけない。
一方、秋田の佐竹は関ヶ原のときに上杉と密約を結んだことがばれて信用できないから房総半島から飛ばされた藩。
それに対して南部は一度も徳川と敵対したことがない。
房総半島wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
佐竹は宇都宮のあたりだよー
房総の突端は南総里見八犬伝だよー
佐竹は元々関ヶ原じゃあからさまに西軍だったからなw
津軽藩は真田家と同じように、長男が西軍に、次男が東軍についた。
津軽家と徳川家は決して険悪じゃなかったよ。
大体、石田三成の娘を妻にしているのに、正室として徳川家康の養女を与えられているしな。
石田三成の娘との子が津軽藩を継いで、徳川家康の養女との子が後の黒石藩を作る。
黒石藩なんか旗本だ。
719 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 22:41:39.94
>>711 >十和田の御当地グルメが
>なんで牛肉と玉ねぎの朝鮮味噌炒めなの?
>馬肉ならまだしも、牛肉食ってた記録ある?
あれは近くの米軍基地から安く卸される
バラ肉を用いて生まれたと言われている。
アメリカ人にとっては脂身の多い部位は
食するに値しないので安く仕入れた業者が
作りだした言われているよ。
720 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 23:23:38.70
>>714 タレに朝鮮味噌が入ってるのが特徴だと聞いた。
バラ焼のタレに朝鮮味噌の混入なしだと
「スタミナ源たれ」だろw
>>714 >あれは近くの米軍基地から安く卸される
>バラ肉を用いて生まれたと言われている。
もしかして御当地グルメにする必要無くね?w
南部氏関係ないよね
722 :
日本@名無史さん:2011/08/11(木) 00:57:34.05
>>721 十和田市がバラ焼とか言う朝鮮人の食べ物を
市の予算ぶっこんで大プッシュしている辺りが
稲作に適さないのに米の作付け強制してた歴代南部藩主が
無能さでリンクりていると言えなくもない
と言ってみるテスト
たまねぎとジャガイモなら作れるから、米よりは適性があるよ。
あとハムベーコンと卵と鶏で、にんじんとかセロリとかを作ればいいじゃないか。
そっちの方がいいんだよ。
無理に米とか日本的な美学に走るのが良くない。土地がそんな作りじゃないんだ。
牛乳とステーキでバタ臭いほうがいいじゃないか。縄文人は髭だらけなんだし。
724 :
日本@名無史さん:2011/08/11(木) 02:15:13.55
>>715 >弘前城の奥には豊臣秀吉の像が祀ってあった。
>こんな藩が真田幸村の子を家臣にした伊達をまじめに監視するわけない
徳川の姫を嫁にしてた分
南部より津軽の方が信用あったんじゃないか?
>>722 十和田に生まれ住みつづけ20数年の俺が
バラ焼食ったことないんだよね
なんであんなものプッシュするか分からない。
バラ焼プッシュしてる奴なんて
在日とチンピラしか見たことが無い。
あと最近は十和田の商工会議所が
パチンコマネー欲しさだと思うがプッシュ中だよね
725 :
日本@名無史さん:2011/08/11(木) 02:33:27.55
>>679 南部領内って馬鹿しか人の上に立てない仕組みになってるの?
バラ焼は市内のスーパーで単品の牛肉より安いのに売れ残ってる
市内の定食屋では500円で焼肉が食えるこの御姿勢に
バラ焼定食1500円で「庶民の味」とかイミフメイ
>>666 に出てる「焼馬肉乗せ神楽飯」の方が
はるかにソウルフードだし、はるかにうまそうだ
企画者の中に大卒が一人でもいればバラ焼とか
わけわかんねーネーミングは無いと思うんだが
十和田市役所は縁故採用繰り返して
馬鹿しかいないことを全国レベルで住民の低学歴晒してしもた…
何がB-1グランプリ!とか自慢してるけど参加すると
全部グランプリなんだろ?無駄金つっこんでんじゃねーよアホ!
726 :
盛岡藩主・南部美濃守利敬:2011/08/11(木) 02:44:47.40
相馬大作事件
727 :
日本@名無史さん:2011/08/11(木) 06:29:00.96
何だ、十和田市役所の採用試験で落ちた大卒が20代前半でニートになったのを南部氏のせいにしてたのか。
青森県ならではの解釈だな。じゃ津軽の方で採用試験受けてみたら?
728 :
日本@名無史さん:2011/08/11(木) 06:37:35.38
>>724 > 徳川の姫を嫁にしてた分
> 南部より津軽の方が信用あったんじゃないか?
そうでもない。津軽は抜け目がなく油断ならないイメージがある。
現に幕末には幕府を見限った。
729 :
日本@名無史さん:2011/08/11(木) 07:11:47.28
どっちみち家自体は石田三成の孫に継がせたわけだしな。
満天姫がいなけりゃ津軽は川中島に転封されるとこだったのに。
730 :
日本@名無史さん:2011/08/11(木) 10:11:04.98
>>729 >津軽は川中島に転封されるとこだった
津軽にとってはそのほうがよかったような気もするが。
ただしその場合、弘前にはどの大名をコンバートしてくるつもりだったんだ?
731 :
日本@名無史さん:2011/08/11(木) 13:46:04.79
その場合は福島正則じゃないかな。
732 :
日本@名無史さん:2011/08/11(木) 14:12:41.23
>>725 確かに十和田市役所はアホ
というか当たり前、十和田市民なんて
「馬喰の子孫」
である浮浪者だのチンピラに
学歴を求める方がおかしいw
733 :
日本@名無史さん:2011/08/11(木) 14:28:21.55
734 :
日本@名無史さん:2011/08/11(木) 18:34:05.80
>>727 十和田は確かにキモイ
歴代の市長の選挙事務所はパチンコ屋だ
しかも北朝鮮の直営店
「パチンコ国際」
そこを借りる形で北朝鮮に送金してるんだろ
>>730 >その場合、弘前にはどの大名をコンバートしてくるつもりだったんだ?
南部だ(ry
青森県と岩手県に誰が入っても同じ。
農林1号が開発されるまで人が住める環境じゃない
735 :
日本@名無史さん:2011/08/11(木) 20:55:16.78
>>728 >そうでもない。津軽は抜け目がなく油断ならないイメージがある。
そういう記録で残ってるのか?
なんていう本に載ってるのかおしえて
>>732 十和田市役所は職員が無免許運転してたのに
訓告とかで終わらせてた普通なら
懲戒免職だろwって思った
やっぱりキムチだったのねw
>>729 どうして立ち消えになったんだろうね。
津軽家にしても10万石という条件は決して悪い条件ではないはずなのに。
737 :
日本@名無史さん:2011/08/11(木) 23:48:21.03
>>736 引越費用考えれば
大加増でもない限り転封は嫌がるだろ。
>>735 十和田ってコネで高卒に教育免状発行するよね
県内だけで有効の教育免状
都内でも通用すると勘違いして無免許がばれて
懲戒免職のニュースになってたと記憶している
何で高卒に教育免状発行するの?
大卒なんぞ余ってるだろうに
>>737 大加増だろ。
先祖の地を離れたくなかったのかな。
でも津軽よりは越後村上にしろ川中島にしろ好条件と思うんだが。
739 :
日本@名無史さん:2011/08/12(金) 00:43:41.01
>>738 実収入的には減益となるらしい
>津軽家に信濃川中島10万石への転封の内示が出る。
>これは数字上では栄転だが、実収入的には減益となる移動であり、
>本拠地を遠く離れることにもなる。
http://p.tl/egGe >>737 >何で高卒に教育免状発行するの?
>大卒なんぞ余ってるだろうに
青森県東部はコネで何だってできる
つーか上の方にも少し書き込みがあったけど
役場や教員、原燃関連会社は「12割がコネ」
しかも小沢のコネ
知り合いの東大出が
教員採用試験普通に落とされてた。
740 :
日本@名無史さん:2011/08/12(金) 00:50:21.92
>>737 青森県の南部藩領域では
「コネなしと賄賂なし」
だと普通に潰される。
別に、コネも賄賂も逮捕されなければ
それほど悪いとは思わん。
けど1割か2割にしとけばいいのに
全員コネなのでバラ焼ゼミナールとか意味不明の
朝鮮味噌大プッシュで全国に恥さらしてる。
まじで糞
>>738 川中島だと碌に米獲れないから
耕作面積広い分津軽の方がまし
キモいのが湧いてるなwwww
川中島は長野盆地だし実収入でそう大きな差はないと思うが・・・
津軽は近衛家出自の公家大名との名目があるから官位なども高い。
やれやれ あまりにも低水準なのでもしやと思っていたら
やっぱり!馬鹿津軽衆か!
東北にいても南部とはこれいかに。
津軽氏は居城に東照宮を勧進していた唯一の外様大名。
弘前城は江戸城の支部なのだ。これで南部も攻め込めない。
747 :
日本@名無史さん:2011/08/12(金) 11:31:35.35
>>742 お前十和田だろ?学術板でおもうって馬鹿丸出しw
糖質?
749 :
日本@名無史さん:2011/08/12(金) 13:17:16.34
でも弘前城の奥では秀吉祀ってたんだよな。東照宮は保身のためのダミーだろ。
750 :
日本@名無史さん:2011/08/12(金) 13:45:58.08
>>743 > 津軽は近衛家出自の公家大名との名目があるから官位なども高い。
石高の割りに官位が高い(あるいは低い)大名いるよなあ。
ちなみに江戸時代の細川家は思ったほどは官位が高くない。
石高低いのに格だけ高いとめちゃくちゃ苦しいけどね。
交際は格の方だから。
川中島のほうが、寒冷地の津軽よりいいって気もするけどな。
どうなんだろう。
>>752 周辺の境界線が入り組んでいると実高が低くなる。この辺りはどうだったろうか?
754 :
日本@名無史さん:2011/08/12(金) 20:38:38.44
755 :
日本@名無史さん:2011/08/12(金) 21:22:53.26
「おもう」っていうレスが多いスレッドだなw
「おもう」も「おもわないも」文献調べればいんじゃね?
756 :
日本@名無史さん:2011/08/12(金) 22:34:40.45
757 :
日本@名無史さん:2011/08/12(金) 23:11:31.68
自分で自分のことを十和田の奴だって
758 :
日本@名無史さん:2011/08/13(土) 00:05:35.13
>>756 >十和田署は「事実関係を確認し、慎重に捜査を進めたい」としている。
どこにも処分なしって書いてないんだが?www
当然逮捕でクビだろw
まあ、無免許運転してるのは問題だろうがwww
逮捕もクビもなかったら流石に
「十和田はコネばっかり」
って言われてもしょうがないだろうけど
証拠不十分だね
759 :
日本@名無史さん:2011/08/13(土) 01:42:38.13
ここ南部氏のスレだから
南部氏に関係のない話は他所でやってね
十和田の話してる奴はみんな句読点使ってない不思議w
_.. - ―‐ - ._
, '" \
/"レ'/ /\_. へ、 ∧lヽ
/ /´ {/ノノ ,ィ爪Yハ`′ ',
/ / // ノ´ ヽ ', l
| / // : ', l |
| l| l / .:: ,,l !l | 758君だっけ?
|l |l | ド==、、:: ,r='"-| ! | 立ってるのも何だから
ノ|| |l l |t‐t・ッテ, ィrt・ッラ|l | ここ座んなよ
≦ノノll│ | |. ´¨~〃 .,,_ ヾ~´ .|l lト、
_./ノ|l | | l:. ゙:. ′゙ ,'|l l|ヽヾニ=‐ お茶でも飲んで
‐''"ノ| | | ト、 `''"__ /:l l\ー-`ニ=- 話でもしようや・・・
:::´ノ,l li l | ヽ、 '‐ニ-'' ,イ:::l lヾミヽ::l
:::‐"/ / ハ l | ヽ ヽ、._"_/ l:::! l`ヽ、`二>‐
:::::/ノ/ } i l― -、ヾ三/ __ll l::::::::::::::`>― ---- 、
::::"´:::::::;.' ノ、 ', ⊂) 〈フフ _,l l::::::::::::r'´ /¨>'" )
:::::::::::::://::| ヽ ⊂⊃ノ7 '"´l _l. ― 、`='-、/( _,∠ヽ
:::::::::/´:::(cl= ⊂二ノ ,r'‐、 ‐= } `ヽ | }
:::::::::::::::::::::::`l ⊆¨l ハ __ノ} <l ,' ⊂) 〈フフ\-‐'´}
::::::⊂) 〈フフ:::l ⊂ 」 { `¨´ l_> / ⊂⊃ノ7 ヽ/}
::::⊂⊃ノ7:(cl"´┌i 00 V ム Δ / ⊂二ノ l/}
::::⊂二ノ:::::::::l`⊂ ⊃ {` ー''" ⊆¨l l/
:::::::::::⊆¨l::::::::l (フl」<)=、‐-∨⌒ヽ ⊂ 」 /
 ̄ ̄⊂ 」 ̄ ̄ ̄r'rブノ ` ', ┌i 00 // ̄ ̄
┌i 00'" ̄ ̄} }} ̄ ¨''‐、____ノ_ ⊂ ⊃ //
⊂ ⊃ |`` ========''"r==、ヽ-(フl.」<)‐'´
(フl」<) ', ノ } }
763 :
日本@名無史さん:2011/08/13(土) 10:38:58.20
764 :
日本@名無史さん:2011/08/13(土) 10:45:19.64
765 :
T.イチロー:2011/08/13(土) 10:46:29.70
766 :
日本@名無史さん:2011/08/13(土) 22:20:48.26
こんど十和田に行く用事があるんだが
できるだけ関わらないようにして戻ってこようw
ところで質問!
薩摩藩主、島津重豪が、なぜ、北辺の小藩、八戸藩(二万石)へ
五男信順(のぶゆき)を養子にもらえたの?
>>766 当時の藩主同士の気があったからと言われてるな。
ぶっちゃけ薩摩の様な雄藩の大名にして見れば
五男なんてどうでもいい存在。
藩主として拾ってくれれば何処でもよかったんじゃね。
768 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 01:54:58.95
>>767 日蓮宗と仲が良かったことは関係ないのかね?
波木井太郎実長絡みで南部と日蓮宗は仲良しだし
南部信順も日蓮宗は寺院建立してるし
769 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 03:31:01.69
>>719 >あれは近くの米軍基地から安く卸される
>バラ肉を用いて生まれたと言われている。
>アメリカ人にとっては脂身の多い部位は
>食するに値しないので安く仕入れた業者が
>作りだした言われているよ。
やっぱり十和田市役所側の言い分が間違ってるんじゃないか?
アメリカ人が脂身が多い部分が嫌いな訳が無い
むしろ油だけ食うだろ
>>769 一般的には欧米人・特にアメリカ人は、日本人よりずっと
脂肪分の多い食事を好むけど、牛肉に関しては逆。
日本人にとっては、肉はご飯のオカズだから、味を求める。
余り歯ごたえのある硬い食感は好まれない。
欧米人は「主食」という感覚が薄く、肉を、それだけで食べる場合が
多いから肉に歯ごたえを求める。
だから、日本人より脂身の少ない硬い肉を求める傾向があるんだって。
771 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 14:25:32.09
>>770 つまり朝鮮焼(十和田バラ焼)は
終戦直後にアメと直接取引できた
「特権階級」の食べ物ということですね
やっぱり在日かw
772 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 14:46:34.11
つうか
青森県の旧南部藩の領域で牛飼う余裕なんてない
農家は馬小作してたのに
米軍基地に卸していた牛は
関東で主流の農耕用を朝鮮人が
盗んで殺した奴だろ
そんなものをよく名物にしたもんだよ
今すぐ辞めてなかったことにしろよ
言わせんな恥ずかしい///
773 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 15:10:16.14
こいつは南部牛追い歌とか知らないようだな。さすが市役所の採用試験落ちるだけある。
三陸の塩とかはみんな牛で運んでた。
774 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 15:48:13.48
>>773 高卒の方ですか?
まずは落ちついてください
そもそも輸送用の牛を食用にして殺してしまったら
「輸送を担当している牛追い」
はその後どうやって暮らしていくんですか?
高卒に解りやすく例えてみます
「トラックの運ちゃんがトラックのパーツ売るようなもの」
だと考えればわかりやすいと思います
トラックのパーツなら今は電話一本で買えますが
当時は無理なんです。
ってやさしく解説いわねーとわかんねーんだろうな
低能のバラ焼ゼミナールはw
まあ昭和の話を江戸時代にタイムスリップさせて
歴史をコリエイトなんてむりw
涙拭けよひげ男爵www
775 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 16:04:26.68
>>773 そのそも江戸時代の話を昭和で置き換えるのは無理
南部牛追いはタイムスリップしたのか?w
日本人の農耕牛を殺して売り歩いていた朝鮮人は謝罪して賠償しろよ
776 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 16:14:24.33
学歴コンプレックスの
>>773が2レスで死亡www
777 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 16:36:22.10
輸送用の牛殺して食ったら輸送できないという意見の方が説得力がある
そもそも肉牛の解体方法なんて青森県の農民は知らんだろう
米軍に牛肉卸してたのが本当だったとしても、青森県内に解体施設もない以上十和田バラ焼ゼミナールとかいうのは朝鮮人の文化であることは間違いなさそう
_.. - ―‐ - ._
, '" \
/"レ'/ /\_. へ、 ∧lヽ
/ /´ {/ノノ ,ィ爪Yハ`′ ',
/ / // ノ´ ヽ ', l
| / // : ', l |
| l| l / .:: ,,l !l | 採用試験に落ちたんだっけ?
|l |l | ド==、、:: ,r='"-| ! | 立ってるのも何だから
ノ|| |l l |t‐t・ッテ, ィrt・ッラ|l | ここ座んなよ
≦ノノll│ | |. ´¨~〃 .,,_ ヾ~´ .|l lト、
_./ノ|l | | l:. ゙:. ′゙ ,'|l l|ヽヾニ=‐ お茶でも飲んで
‐''"ノ| | | ト、 `''"__ /:l l\ー-`ニ=- 話でもしようや・・・
:::´ノ,l li l | ヽ、 '‐ニ-'' ,イ:::l lヾミヽ::l
:::‐"/ / ハ l | ヽ ヽ、._"_/ l:::! l`ヽ、`二>‐
:::::/ノ/ } i l― -、ヾ三/ __ll l::::::::::::::`>― ---- 、
::::"´:::::::;.' ノ、 ', ⊂) 〈フフ _,l l::::::::::::r'´ /¨>'" )
:::::::::::::://::| ヽ ⊂⊃ノ7 '"´l _l. ― 、`='-、/( _,∠ヽ
:::::::::/´:::(cl= ⊂二ノ ,r'‐、 ‐= } `ヽ | }
:::::::::::::::::::::::`l ⊆¨l ハ __ノ} <l ,' ⊂) 〈フフ\-‐'´}
::::::⊂) 〈フフ:::l ⊂ 」 { `¨´ l_> / ⊂⊃ノ7 ヽ/}
::::⊂⊃ノ7:(cl"´┌i 00 V ム Δ / ⊂二ノ l/}
::::⊂二ノ:::::::::l`⊂ ⊃ {` ー''" ⊆¨l l/
:::::::::::⊆¨l::::::::l (フl」<)=、‐-∨⌒ヽ ⊂ 」 /
 ̄ ̄⊂ 」 ̄ ̄ ̄r'rブノ ` ', ┌i 00 // ̄ ̄
┌i 00'" ̄ ̄} }} ̄ ¨''‐、____ノ_ ⊂ ⊃ //
⊂ ⊃ |`` ========''"r==、ヽ-(フl.」<)‐'´
(フl」<) ', ノ } }
779 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 17:37:57.83
>>778 くやしいのうくやしいのうwwwwwwwwwwwww
780 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 17:57:24.87
バラ焼(ここまでのまとめ)
・ 十和田市民は馬喰(チンピラ)の末裔
・ 終戦直後、朝鮮人が日本人から不当に盗んで殺した牛の流通の片棒担いだ外道
・ 十和田の伝統料理なのに朝鮮味噌で味付け
・ バラ焼ゼミナールのコスプレはベルサイユのばらのつもり
・ しかしデブすぎてひげ男爵の面白くない方のコスプレになっている
・ 十和田市役所はコネだらけ
・ 業務上で無免許運転をしても逮捕されない
・ 教員採用試験は東大卒が落ちて高卒の教員免許が無い方が合格する不思議な試験
・ 十和田市役所のアホが涙目で反論するもフルボッコ
781 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 18:05:48.36
採用試験に落ちたのは本当に市役所にコネがなかったからなのか?
・・・・別の原因じゃないか?
十和田の話は他所でやってくれ・・・
783 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 19:30:47.16
バラ焼きはまちBBSとか知ってる?
784 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 19:53:57.31
ここまで
>>780に具体性のある反論なしw
南部藩領の流れが十和田に受け継がれてるんだろう
しかし十和田のバラ焼が在日産業だとはしらなんダwww
785 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 20:03:08.12
旧南部領内青森県の
役場のコネは確かに尋常じゃない
俺の実家横浜なんだけど町役場の職員全員親戚だぜ?
街の予算で自宅立てやがって職員公舎だってさ
十和田も恐らくそうなんだろw
しかし十和田は朝鮮人の我儘で
はずかしい思い出の味を作っちまったなw
東京で十和田出身って言ったら間違いなく色眼鏡で見られるだろう
786 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 20:09:38.83
>>781 「教員免許の無い高卒」
が合格する十和田の教員採用試験が
東大卒を落とすんだから別の原因があるのは当然んだろうな
コネとか
小沢のコネとか
原燃利権のこねとか
パチンコ利権のコネとか
鹿島利権のコネとか
少なくとも能力本位では選んでないし
採用試験の点数は完全に無関係
ここに沸いてるバラ焼ゼミナールは罵られても
耐える義務くらいあるだろ?
クソ野郎がw
787 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 20:11:05.97
788 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 21:13:15.83
∩
( ゚∀゚)彡万博!草餅!
⊂彡
東北・北海道で部落や在日なんてないんだけど・・・
可哀想な人がいるね。
部落は全くないと思うけど、在日の方は極少数いるなあ。
791 :
日本@名無史さん:2011/08/15(月) 00:48:37.05
792 :
日本@名無史さん:2011/08/15(月) 01:07:08.25
南部氏全然関係ないよね
はい撃沈
794 :
日本@名無史さん:2011/08/15(月) 01:24:12.40
>>793 汚職と腐敗の話題が南部氏と無関係とな?!
在日と馬喰の歴史をバラ焼を通じて検討することは
結構有意義だとおもうが?
神楽飯がソウルフードだと解ったのも
歴史板らしくていいと思うが?
まあ十和田はこれからも叩かれ続けるとおもうけどw
嫌なら市役所や教員の採用公平にすればいい
採点も出題も第三者に委託して公平にやれ
796 :
日本@名無史さん:2011/08/15(月) 01:42:23.68
不正試験と言えば
岩手の誇り東条英機は陸大副幹事の頃
嫌いな長州出身者を入試で全部落としたよね
「校舎の門からここまで何歩であったか?」
とか無謀な質問をして答えさせなかったそうだ
長州閥を入学させるとコネで組織が腐敗するから徹底的に長州閥は入学させなかった
797 :
日本@名無史さん:2011/08/15(月) 01:44:04.00
798 :
日本@名無史さん:2011/08/15(月) 06:52:26.01
十和田は開拓地につくられた米国風都市だから
教員、いわゆる「教諭」ね。
この採用は、「県」でやる。各市町村ではやらない。
ただ、講師等はある。でもあくまで臨時ね。まあパート職員だな。
あと、その講師でもほぼ、大卒、教員免除持ってる人たちだなあ。
高卒で、正規の教諭はいない。
800 :
日本@名無史さん:2011/08/15(月) 09:58:19.58
801 :
日本@名無史さん:2011/08/15(月) 12:35:58.86
802 :
日本@名無史さん:2011/08/15(月) 12:42:02.45
在チョン組織を抱えてるのは津軽だよ。
803 :
日本@名無史さん:2011/08/15(月) 12:42:23.44
804 :
日本@名無史さん:2011/08/15(月) 12:45:06.62
>>802 朝鮮総連直営のパチンコ国際の本店が十和田にある
朝鮮の破壊工作活動の拠点バラ焼ゼミナールも十和田にある
いい加減に諦めろ
ちなみに十和田の歴代市長の選挙事務所は
「朝鮮総連直営のパチンコ店、パチンコ国際」
805 :
日本@名無史さん:2011/08/15(月) 17:40:00.69
十和田やばすぎだろwww
パチンコ国際が選挙本部とか否定してくれよw頼むからwww
806 :
日本@名無史さん:2011/08/15(月) 19:07:35.82
つーか採用試験受けるまで公正平等な試験を信じてたんだな。ウブな奴だな。
別冊宝島くらい就活の前にBook Offで買って読んどけよ。
807 :
日本@名無史さん:2011/08/15(月) 20:06:25.50
>>803 だからこれは、まず第一に、あくまでも臨時処置。
第二にこの採用された人たちは、あくまで講師、正式の「教諭」ではない。
さらに前にも書いたが、市町村ごとに、今は講師のほかに授業補助要員等の
採用がある。(1年とか半年の)
正規の教員採用試験はあくまでも県教委主催。これに合格しなければ正規の先生にはなれないの。
僻地の中学校ばかりでなく、小さい学校で教科違いの授業するのはズーと前から。
しょうがないだろ、採用人数少ないんだから。
コネで採用というなら、県庁にコネがあるのが最強だな。
学歴重視ねーこれもだな、一概にそう言えないんだよ。
「いい大学」でた人がみんないい教師か?使い物になんねーのも沢山いるぞ。
学歴偏重はよくないね。
809 :
日本@名無史さん:2011/08/16(火) 00:09:13.22
>>803 >だからこれは、まず第一に、あくまでも臨時処置。
脳味噌が足りないから
臨時職員に採用させないで
大卒の正規採用を拒むわけだ
陳腐な手口だ
>学歴重視ねーこれもだな、一概にそう言えないんだよ。
どうせ無能のコネの分際なら
裏から東大入ればよかっただけじゃね?
朝鮮総連の直営パチ屋に資金提供してるのに
得られる見返りが少なすぎるんじゃね?
渡すもの渡すなら得るものちゃんと得ろよ
低学歴はこれだから困る
無能極まりない
810 :
日本@名無史さん:2011/08/16(火) 00:20:28.79
>>808 南部藩もそうやって努力する有能な人間を潰し続けて
結果、160回以上も一揆を誘発してきた。
今も同じだ
あんたたちのような無能な人間が
「分をわきまえず」「恥を知らず」
人の上に立つから
いつまでも産業も発展しなければ文化も芽生えない
江戸時代を通じ、ヒエ飯を喰らう極貧生活が続いた
それでもあき足りず人の肉を喰ってた
今では放射能だ
哀しい歴史をここらへんでやめようとは思わないのか?
今からでも遅くない
十和田市役所と教諭と原燃は全部辞職しろ
>>752 もっと早いうちにそういう話が出てれば応じたろうな。
弘前城の築城、青森港の整備、新田開発
転封になったらこれらの投資が全て無駄になってしまうから
反対したんだろ。
812 :
日本@名無史さん:2011/08/16(火) 10:45:41.84
十和田市役所=戦国大名(由利12頭みたいなもんか?)
813 :
日本@名無史さん:2011/08/16(火) 10:46:42.30
>>811 弘前に行った事あるけど、弘前城は立派だしな。
でも投資が無駄になるからよそに行きたくないって思考は
後ろ向きだったな。
>>813 南部にも海はあるが、それほど活用できてなかったような。
商人が活用しても藩が絞り上げて潰してた。
>>809 810
こりゃもう、ただのいいがかりって云うもんだべ
816 :
日本@名無史さん:2011/08/16(火) 18:03:11.16
>>815 アンカーのつけ方も知らない無能っぷり乙
>>814 実は、隠れてやっていた対蝦夷貿易がなかなか旨みがあったってコトなんじゃないの?
これは、南部藩にも共通するコトなんだろうが。
818 :
日本@名無史さん:2011/08/16(火) 18:54:30.46
>>817 津軽は米が取れたので積極的に貿易する意味もなかった
当時大きな船出すのは大きな商人でもない限り難しかったし
黙ってても勝手にアイヌがロシアの珍品持ってくるし
無理して貿易する必要ないだろ
だから米の不足していた南部の方が積極的に
交易してた形跡がある。
下北で中川五郎治が種痘はじめたし
野辺地は千石船がうようよしていた
南部の殿様が関与しなかったので
うまくいってたんじゃない?w
819 :
日本@名無史さん:2011/08/16(火) 19:06:57.13
>>818 津軽地方は十三湊滅亡後は
交易港がなかったから仕方ない。
津軽為信が十三湊を復興させようとしていたが
田名部との競争には勝てなかったようだしな。
821 :
日本@名無史さん:2011/08/16(火) 21:40:30.79
太平洋側には良港無いし、航海技術が幕法によって制限されていた時代は波浪が高く大変。
822 :
日本@名無史さん:2011/08/16(火) 22:14:33.11
>>821 当時の航路としては
秋田、能代、田名部、松前、八戸、宮古、石巻が
千石船の重要な中継港だったよ。
特に三陸海外は世界有数の難所だった為に
三陸海外入りする前の八戸
途中の宮古、三陸を抜けた石巻は航路上重要な拠点だった。
824 :
日本@名無史さん:2011/08/16(火) 23:24:30.96
>>824 東北本線乗ると、岩手北部から青森にかけては駅の案内板に
南部氏の史跡案内がよく出てくるが、沿岸部では
まったくといっていいくらい出てこない。
青森の南部地方は本領で後背地だから大事にし、
岩手沿岸部や岩手中部は新領土でどうでもいいから
搾り取ろうってことじゃないのかな?
>>824 江戸が大消費地ということを知らない頭の悪いレスだね。
何のために幕府が東回り航路を作ったのかすら知らない臭いんだけどwww
828 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 00:50:50.02
>>826 >江戸が大消費地ということを知らない頭の悪いレスだね
船の積載量が同じである以上
積み下ろしの回数が少ないと利益が少ない
何度も停泊して何度も積み下ろしを行う西廻りの方が当然儲かる
市場規模も糞もない
>何のために幕府が東回り航路を作ったのかすら知らない臭いんだけどwww
酒田だのの米を輸送するためだ
829 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 00:52:41.56
>>827 ていうか津軽の商人って酒井や土佐湊に停泊させてもらえなかった可能性はないの?
830 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 00:54:51.28
>>825 米の獲れない上北下北なんてどうでもよかったのかもしれないね
大阪の方が商売に便利だからだろ。コメなら江戸でも消費できたけど。
鉱山資源だって一旦大阪に持っていって精製しないといけなかった。
最近復活したけど、コメの先物取引だって大阪にしか無かっただろ。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1467351854 >が、近年、地元の郷土史家がこの記録を洗いなおしたんですね。「藩日誌」と言う、
>南部藩の内部資料(いわゆる裏帳簿)には、毎年の人口が一ケタまで記録されているんですが、
>それによると、その大飢饉の時期の人口は、たった676人減っているだけなんです。
>そんな程度の増減は、飢饉とは関係なく、毎年よくある普通の「変化」程度の数字。
>人口のわずか0.2%減、だったんだそうです。
>
>さらに、藩内の人口の20%が減ったとされる「天保の飢饉」(1830年代)の時などは、
>「藩日誌」によると、逆に人口は2万5070人も増えているんだそうです。
>
>「最大の被害者」がこれですから、実は「大飢饉」とは名ばかりで、日本全国で、
>実は、そんなには、酷い飢饉はなかったのではないか、と言うのが、最新の研究による見方です。
よくこんなでたらめな回答できるな。
幕府に報告したり、藩内で作成してきた人口報告の方がむしろ捏造なんてのは、
100年ぐらい前から指摘されているのに。
ちなみに捏造の根拠についての、歴史人口学者による解説
http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0008631373 >さらに、幕府との関係から、故意に虚偽の記録をする藩さえあった。
>一例を挙げれば、南部盛岡藩は、毎年の藩政記録を残しており、
>領内人口を男女別に記している。ところが、宝暦二年(一七五二)以降、
>極端に変動幅が少なくなり、ほぼ三五万人前後に固定している。
>ところがこの間、宝暦飢饉、天明飢饉があり、前者では死者五万二千人、
>後者では七万五千人に達したとする者もいる。そうすると、
>何らかの事情で藩の公式記録に虚偽な記載がなされたとしか考えられない。
>もう一つ興味深いことは、この記録に、安永六年(一七七七)から寛政二年
>(一七九〇)の間、一年を除いて性比が一一二・九に固定されている。
>これは実際にはあり得ないことで、明らかに人為的な操作の結果である。
>ある意味では、性比まで考慮するかなり高度の人口への知識を持った者の
>仕業と言わざるを得ない。
>このような例を知ると、もしこの数字が幕府へ報告されていたとすれば、
>幕府の国別人口表の数字自信の信頼性が問われるこのになる。
>しかし、他の藩領人口の記録にはこのような例はない。
>長期に亘って藩領人口の推移を知らせてくれる奥羽地方の会津藩や
>米沢藩の人口史料には、数字の上からのことであるが、
>南部藩領人口のような明らかな人為的作為はなく、信頼性のより高い
>統計史料であると言える。
>>830 米の獲れない沿岸部には酷いことしてるけどな。
835 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 01:52:57.50
南部氏の統治方針がまったくもって不明
エコひいきが過ぎるんじゃないか?w
農民一揆があって、そのたびに妥協してたら一揆が頻発したから、妥協してない地区に厳しい姿勢で臨んだら
生活できないレベルにまで搾り取るコトになり、一揆が行くとこまで行っちゃった…ってコトかな?
おかげで、南部の殿様の悪い噂は流れまくりで、現在でもこの惨状…
837 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 09:27:57.80
津軽の殿様って全国的にはぜんぜん評判よくないよね。
関が原のころも相馬大作のころも戊辰戦争のころも。
日和見のへタレみたいに言われること多い。
日和見でもうまいことやり過ぎると難癖つけられるから
南部ぐらいの目立たなさで丁度いい
839 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 10:41:12.12
>>825 上北や下北、三戸、二戸辺りは大名の直轄地だったからじゃね?
全国的に見ても直轄地は税率や賦役が軽いことが多いからな。
840 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 13:08:46.36
841 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 14:08:03.47
南部の領民とひとくくりにするが、実際は、
●鎌倉時代からの南部の領民(ほとんど縁戚)
●北畠の家臣だった南部の領民
●足利斯波の家臣だった南部の領民
●九戸の家臣だった南部の領民
●安東の家臣だった南部の領民
●和賀・稗貫の家臣だった南部の領民
●閉伊の家臣だった南部の領民
●浅野の家臣や近江商人その他
のようにいろいろと待遇は分かれる。
九戸系領民や和賀系領民に対する監視はとうぜん厳しい。
1189年、頼朝の奥州征伐に従って以来ずっと統治しているのに
統治方針不明とな!?
843 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 14:34:16.27
>>840 ぅはっw
三閉伊一揆が大規模になったのはパトロンがいたからなのかw
しかし野村冶三郎を南部藩がセオリーどおり
濡れ衣で処罰して財産没収しなかった理由がわからないw
何者なんだよ想像上の人物みたいだなw
844 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 16:22:04.03
>>842 普通なら生産力の低い北部で一揆は多発しそうなもんだが
実際は生産力が高い南部で一揆は多発してた。
これは代官を置いて支配してた地域ほど一揆が少ないという事。
その理由の一つとして代官は統治能力なしとされれば
罷免、最悪切腹が命じられた為徴税がどうしても甘くなったと思われる。
あともう一つの理由として代官に支配させていた地域は
武士の数が少ないので、多くの隠し田があったことも上げられる。
845 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 18:13:14.45
>>841 青森や岩手にそんな由緒正しい奴はごく少数。
事実捻じ曲げて
「南部地方の農民はほとんと清和源氏ですw」
とか言いたい奴はバラ焼ゼミナール並の低知能w
先祖が馬喰だの朝鮮人なのを隠したいんだろうけど
無理すぎるので辞めとけよクソが
ほとんどは
西廻り廻船で大量に食料が輸送されるようになってからの入植
そもそも大豆、ヒエ、小麦、ソバの商品作物の輪作なので
売って米買ってたんだけどね
わかったか?低能バラ焼ゼミナールども(ぷっw
煽りたいだけなら他所でやってね
847 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 19:14:39.09
>>845 南部地方で江戸時代から官、民そろって
古文書が大量に出始める理由が分かった気がする
要するに室町以前の南部氏は農業が基盤ではなかったんだろう
江戸時代いきなり石高の概念が出始めて
「やべー津軽より序列下じゃん」
みたいになって、米の獲れる盛岡に本拠を移動したんだろうね
で、徐々に稲作を基盤とした支配者へと移行したということかな
848 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 19:19:44.95
>>837 処世がうまいと思うよ。
つか幕末の南部が下手すぎ。鳥羽伏見で薩摩の強さや西洋式装備を目撃してから敵対するのが理解できん。
849 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 19:21:07.35
>>832 > 幕府に報告したり、藩内で作成してきた人口報告の方がむしろ捏造
幕府もおそらくそれは察知していたんだろうが、幕府は南部に甘いから改易とかしないのな。
850 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 19:29:12.07
>>844 隠し田ってどんな感じだったの?
初めて聞く言葉なので教えてくれ。
太平洋航路に関しては、南部じゃないが伊達政宗が
わざわざ沿岸海沿いに運河を通しているわけで、
航路としては幕藩体制下の船舶技術の抑圧衰退で安全性が期待できない状況。
852 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 19:46:37.48
山伏峠と言われる非常に厳しい山道を通らないと行けない沢内村は、
細長い盆地に3000石の田んぼがあったが村の存在自体が秘密にされていた。
あと盛岡藩の場合、藩士が自分の費用で開墾した田んぼは藩に届ける必要はなかったらしい。
盛岡藩の家老クラスは久保田藩の家老クラスより石高低いの多いが、収入はむしろ多い奴が多かったと言う。
広大な領土なのにたった10万石だしな
後に20万石に修正するも実際には何も増えていないという
854 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 20:40:46.98
>>850 名前の通り幕府や藩に届け出をしていない田畑。
沢内村のような大規模なものから
村単位で作っているのまで千差万別。
当たり前だけど違法なので公的な資料はほとんど残って無い。
855 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 21:17:40.77
>>850 地名で言うと岡○○みたいに岡がつくところに
昔の隠し田があった。
青森県で言うと岡三沢がそう。
苗字で岡田とか岡本とかもそう。
856 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 21:25:51.64
>>848 >処世がうまいと思うよ
うまくないだろ?
旧体制のまま牧畜や狩猟採集で生計を立て
石高に換算してもらえばよかったんだよ
松前藩みたいに
産物も伊達藩圏の商人に買い叩かれるより
市場原理に任せて高値で売り、適切な冥加金を徴収すればよかった
結果としてそれができた野辺地が栄えた
むしろ津軽への僻みで稲作を諦めずに
冷間地で稲作強行して日本酒作った南部藩の統治は
やはり南部氏歴代の失政といえる。
いくらでもやり方次第で豊かになれた
857 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 21:32:27.85
青森県側と岩手県北は山が多いから
隠田は多そうだな。
858 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 21:49:31.96
>>857 さすが南部氏発祥の地
納税意欲が高いなwww
>>856 どうすれば南部藩は豊かになれるのだ?
主を執政に任ずるゆえ、存分に意見を述べよ
藩主を取り替える。
860 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 22:36:40.14
wikiに載ってる事を得意げに
何度も書き込むバカって何なの?
面白くないんで他の話題も探してこいよ。
861 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 23:01:40.67
>>856 北上盆地の生産力は津軽平野を凌ぐんですけど・・・
別に稲作が失敗だったわけじゃないよ。
津軽家だって稲作には力を入れてたしね。
江戸時代までの東北での稲作は博打と前にも書いてあったような
863 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 23:12:25.37
津軽家と違う点。それは大身が多すぎた事。
遠野南部1万3千石ってアホかとwww
単純にリストラが足りなかったから財政が厳しかったんだよ。
864 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 00:05:51.29
>>861 >北上盆地の生産力は津軽平野を凌ぐんですけど・・・
>別に稲作が失敗だったわけじゃないよ。
いや、大失敗ですw
南部統治時代は5万石だった石高を
津軽藩は32万石まで増加させている
ちなみに石高の推移はこんなかんじ
↓
格式 実石高
弘前藩 : 5万石 32万9千石
南部藩 : 10万石 27万6千石
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fjitu60.html これは津軽藩が
(1)藩が限界まで開墾をしたこと
(2)冷害に強い品種「いわか」の開発に成功したこと
(3)「耕作噺」等の著作にみられるように積極的に農業技術を取り入れた
という努力のたまもの
ちなみに南部藩の増収は努力ではない。なぜなら
戦国期の主流品種は戦争対策のため「早稲」で
江戸時代の主流「晩稲」の収穫量の半分に過ぎなかった
よって何もしなくても基本2〜3倍になる。
新規開墾をしたのに27万石にしかなっていない
南部藩は結論から言えば何もしていない
という結論になる
失敗はしてないよね
866 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 00:12:14.97
>>858 >どうすれば南部藩は豊かになれるのだ?
>主を執政に任ずるゆえ、存分に意見を述べよ
・ 盛岡以北では稲作を強制しない
・ 日本酒造りをやめて味噌と醤油を作る
・ 馬売買規制の緩和
・ 直接、清やロシアと交易する
・ 津軽藩と張りあわない
これらをするために藩主以下執政級の藩士の一族郎党をリストラ
学者や商人を登用する
867 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 00:28:06.64
>>864 それソース先が間違えてると思う。
久保田藩(佐竹藩)が40万石弱なのに
弘前(津軽藩)が32万石は有り得ないwwwww
>>844 沿岸は大槌代官所があったけど一揆多発。
869 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 00:53:43.80
六羽川で本陣の旗本まで打たれたのに
勝利したって喧伝する青森県民らしいけどねwwwww
870 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 01:04:05.88
>>867 陸奥国弘前津軽家文書の旧高旧領取調帳に記載がある
お前は
「思う」
でないと文章かけないのか?
それとも調べる方法知らんの?
だから
「高卒低学歴集団のバラ焼ゼミナール乙!」
「馬喰とチンピラの子孫乙!」
っていわれちゃうぞ?w
871 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 01:51:59.38
872 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 13:47:35.97
>>768 なるほど日蓮宗コネクションで南部藩の養子か
>>808 だいたい学歴否定するやつは
その程度の低いとほざく大学入試に太刀打ちできずに
から逃げた人間のカスなんだけどねw
東大とは言わんが
日東駒専くらいに入る知能もない分際が何をほざいてるんだかw
>>855 岡場所っていうくらいだから
873 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 20:01:22.94
このスレは良レスとカスレスの差が激しすぎる。
東廻り航路マンセーと南部藩の統治が悪くない系のレスは
書き込み控えて
東廻り航路マンセーと南部藩の統治が悪くない系のレスが良レスだから
嫉妬しちゃったのかな
875 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 20:56:57.88
>>874 ぼくちゃんにはまだ学術板は早いでちゅよ〜
カケモで半額になった馬鹿焼食ってねなちゃ〜い
876 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 21:21:36.48
ここは楢山佐渡ファンクラブです。
877 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 21:44:56.74
>>874 北部では大した一揆が起こって無いからな。
一揆が多いのは盛岡以南。
878 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 22:08:36.88
>>877 七戸でも奪い合って人の肉食ってたけどな
879 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 09:32:31.02
北上市のあたりでは今でも北信愛にとことんやられた和賀忠親が英雄。鬼剣舞も和賀忠親に奉納する。
仙台藩では和賀の一族が家臣として仕えている。北部より一揆が多いのは当然。
880 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 15:27:29.46
>>879 静岡のあたりでは今でも織田信長にとことんやられた徳川家康が英雄。幸若舞も織田信長に奉納する
幕府では織田の一族が家臣として仕えている。でも一揆は多くありません。
大槌孫八郎が南部鼻曲がり鮭を江戸に輸出して成功したらねたんで謀殺。
でもその後、鮭輸出事業を藩が手がけたとかは聞いてない。
ただ居付きの土豪の大槌氏を謀殺して、代官置いただけ。
変なの。
882 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 19:06:51.54
>>878 それ一揆関係ないよね。
>>879 南方面で一揆が多いのは歴史はあんまり関係ないと思う。
単純に北部より搾取が厳しかったから一揆が多発したんだと。
883 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 19:10:45.76
>>883 裏と言うより、思い切り表で繋がってたからか。
あの辺は合従連衡が激しいから一概に親伊達といえないんだけど、
大槌氏は潜在的な反南部なことは間違いないしな。
885 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 22:02:49.67
>>870 荒らしてたのは津軽人か。
六羽川といい有り得ない30万石といい
捏造が大好きな朝鮮人みたいですねwwwww
886 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 22:25:49.26
スレ違いだけど40年ぶりの甲子園決勝進出おめでとう。
まさか勝つとは思わなかったぜ。
40年前と言うと、太田幸治のときか。
青森は私立二強で集約されてるからな。
岩手は中途半端にいくつかの私立が選手集めてるから、
これという強いチームが出てこない。
盛岡中央、盛岡大付属、花巻東、専大北上、一関学院とかな。
889 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 23:21:37.12
>>886 学校は別だけどな。
>>888 戦国時代を彷彿させるな。
南部、津軽の二強が中央に認可され幕末まで続いたのに対し
斯波、稗貫、和賀、阿曽沼、大崎が改易されたのと全く同じ構図。
なんでこの辺の大小名→斯波、稗貫、和賀、阿曽沼、大崎
独立を保てなかったんですかね。
小田原に行かなかった(行けなかった)だけのため?
俺は奥羽のことなんてどうでもいいと思われてたので
こういう結果になったと思うんだが。
中央政権にしても土豪の既得権益認めて1万石だの
5千石だのの小名を残すより
「この辺は誰それに一括して10万石、その先は誰それに15万石。
小身代の人たちは直接面倒見切れないから
大名の下に組み込まれてくれ」
小田原不参の他にも、こんな感じだと思うんだが。
891 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 18:50:27.56
出羽の由利衆なんかは数千石単位で安堵されてるぞ。
当時の岩手は陸の孤島だったんで情報が遅れたんだろう。
892 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 19:03:02.59
大崎なんかは秀吉に小田原不参を謝罪して、領地縮小ながら独立維持できるはずだったのが、
伊達の自爆的謀略(大崎・葛西領獲得の代わりに旧領喪失→領地縮小)の巻き添えで、
結局復活できなかった。
和賀・稗貫一揆も和賀忠親を煽動してなければ伊達は100万石のはずだった。
しかし北信愛がいなければ葛西・大崎のように和賀・稗貫が伊達になっていた可能性は高い。
閉伊の大槌・阿曽沼も伊達と共謀して遠野を攻めてるから、
大槌を謀殺してわざわざ八戸南部を遠野に移すのもそれなりの理由があった。
>>844 というか単純に統治しきれてなかっただけだろ。
あんだけ広い領土なんだから隣の佐竹藩みたいに
支城をいくつか作らないと管理しきれん。
894 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 22:39:10.02
いちおう遠野には鍋倉城、花巻には鳥谷ヶ崎城があった。
そういうことじゃなくて田名部、二戸にも支城を作って
城下町を形成し領民を管理しなきゃ駄目だったんじゃないか?
いつの時代も監視の目がいないと領民は脱税に走る。
結果として取り易い地域からだけ税金をとり
それが一揆最多藩として後世に残ってしまったと。
896 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 01:09:49.80
面白い見方だな。
897 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 11:04:43.34
一揆最多藩なんて別に汚名でもなんでもないわ。改易・転封された藩にくらべりゃぜんぜんヌルい。
自力で解決できたってことだからな。明治に白石に転封されたときでさえ領民の復帰請願で半年でもどってる。
薩摩藩とか借金500万両無利子250年払いとかしてるが、一揆は全然起きてない。
農民が集団で訴えを起こしても無視して一切交渉せず、「騒動」として一方的に鎮圧し、幕府に報告もしない。
借金の踏み倒しと一揆に何か関連性があるのか?
自力で解決できず、仙台と交渉してやっとなんとかなった状況だろw
900 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 15:47:42.44
美濃の郡上金森藩では数年続いた一揆に幕府が介入し、藩主の金森頼錦は改易されて、
盛岡藩の預かりになっている。北条屋代藩も万石騒動で廃藩になっている。
自力で解決できないってのはそういうレベル。
それにほぼ近い状態だが、仙台藩に黙ってくれと頼んでいる間に、幕府がそれどころじゃ
なくなっただけの話。
902 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 19:37:29.87
騒ぎになってたのは盛岡以南だけ。
田名部、鹿角、二戸なんかは平和そのもの。
903 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 20:15:37.97
仙台は和賀稗貫の一揆煽ったせいで100万石のはずが62万石になったりしてるから、
南部に対してあまり大きな顔もできない。
905 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 23:11:16.50
岩手県下における一揆は明治以降も続いたから、藩政が悪いともいいきれない。
906 :
日本@名無史さん:2011/08/22(月) 00:35:48.13
北部は隠し田で脱税し放題だったから
一揆が少ないんだろう。
>>906 北部は本貫地だから優しい統治。
沿岸と南部は植民地扱いだから一揆多発。
>>891-892 なるほど。
ところで小田原参陣ってどうやって告知したんだろう。
新聞もテレビもあるわけじゃないのに。
知らなくていけなかった土豪もいたのかな?
908 :
日本@名無史さん:2011/08/22(月) 09:25:35.05
幕府は伊達を一番警戒して信用してなかったから、南部の沿岸で一揆がおきても、
また伊達が煽動したんだろうくらいにしか思わないんだろうな。
伊達が仲介して沿岸の一揆を幕府に報告しても逆に伊達の謀略と疑われかねない。
南部信直は小田原参陣のことは、三戸にクマタカの買い入れにきた鷹匠に教えてもらったらしい。
それでもギリギリ間に合ったくらい。
遠野に関して扇動したのは南部だけどな。
鱒沢らが阿曽沼を追い出して遠野を乗っ取り、伊達の支援を受けた
阿曽沼や大槌連合軍を退ける。
でも鱒沢一派は南部の手によりのちに粛清。
910 :
日本@名無史さん:2011/08/22(月) 13:25:55.74
そこで伊達が阿曽沼・大槌を支援するから幕府に警戒される。
>>906 人間のやることはいつの時代も変わらないもんだな。
うちの婆さんも戦時中は山に入って芋や人参を作ってたと言ってた。
なんで芋?
普通米だろ。
男手は兵役と労役に取られてしまい残ってたのは
女子供と老人くらいなんで田んぼは作れなかったみたい。
主に婆さんの友人が何人か集まってやっていたようだよ。
芋は勝手に育つからな。
米は大量の水を田に満たさないと作れません。陸稲の収量は微々たるものです。
>>908 秀吉にしてみたら小田原に来てもらわなかった方が潰す理由になって良かっただろうけど。
潰すのもメンドクサイでしょ
僻地を蔵入地にしたってコストばかりかかるし
918 :
日本@名無史さん:2011/08/24(水) 17:14:50.75
だから南部は伊達を牽制するのに必要だったんでしょ。
実際、葛西大崎一揆のときに南部は浅野長政の城だった花巻を速攻で奪回している。
盛岡城を築城したのも浅野の助言。南部利直は蒲生氏郷の義理の息子でもある。
それに対して伊達家と浅野家は葛西大崎一揆が原因で1994年まで絶交していた。
小田原より以前に恭順の意を示してたのに何で潰すんだよwwww
920 :
日本@名無史さん:2011/08/24(水) 23:01:12.46
>>918 大崎葛西地方が伊達に与えられたのは一揆後。
それまでは接していないぞ。
921 :
日本@名無史さん:2011/08/25(木) 09:21:02.36
大崎葛西は伊達に煽動されていた、と浅野家は証言している。
和賀稗貫一揆には伊達軍も多数参加していた。
922 :
日本@名無史さん:2011/08/25(木) 10:58:00.00
>>917 そうなんだが、潰したほうが盛り上がったw
923 :
日本@名無史さん:2011/08/25(木) 13:32:04.07
九戸で十分盛り上がったじゃん。全国からオールスター大集合で。
東北地方で反目していた大名が全部集まったしな。
何を話したモンだろうかw
925 :
日本@名無史さん:2011/08/25(木) 23:05:51.11
南部を潰してたらどのくらいの規模の乱になってたんだろう?
大崎葛西一揆と和賀稗貫一揆、あと九戸の乱での
一揆勢がまとまったとするとどの程度の勢力になったかな。
和賀稗貫一揆は2000人、九戸の乱は九戸勢6000人、南部勢5000人
大崎葛西一揆は人数が分らないけど万はいった気がする。
ところで、仙台藩ってなんであんなに城が多いの?一国一城じゃなかったのかい?
まさか、南部藩にそなえるために…
927 :
日本@名無史さん:2011/08/26(金) 00:15:09.11
>>926 仙台藩はガチで幕府が攻めてきた場合にどうするか考えていたそうだ。
>>925 だからこそ中央から贔屓目に見てもらえたかと。
斯波を滅ぼしたのだって惣無事令に思いっきり違反してるけど
何の御咎めもない。
929 :
日本@名無史さん:2011/08/26(金) 22:31:25.47
∩
( ゚∀゚)彡万博!草餅!
⊂彡
930 :
日本@名無史さん:2011/08/26(金) 22:36:00.47
幕府が恐れるのは、親真田の伊達、親石田の津軽、九戸、葛西大崎、和賀稗貫、斯波や閉伊の残党が、
反徳川として伊達を中心にまとまること。秋田もそれを疑われて最上のクレームで三春へ転封された。
南部は前田、蒲生、浅野と友好的で、伊達、津軽と本気で敵対していた。徳川にとって信頼できる戦力。
931 :
日本@名無史さん:2011/08/26(金) 22:54:27.97
>>928 仮に豊臣政権に南部が潰されたと考えるとワクワクしてこないか?
当時は東回り航路が開発されておらず
中央からの兵は陸路を通るしかない。
そして大崎葛西一揆に呼応し南部が比内や津軽に侵攻したら
せっかく纏まった出羽側もグチャグチャになるぞ。
932 :
日本@名無史さん:2011/08/26(金) 23:00:43.19
そんなことより江戸末期の南部藩の一揆の話をしようや
933 :
日本@名無史さん:2011/08/27(土) 09:53:44.24
934 :
日本@名無史さん:2011/08/27(土) 12:07:35.40
京都まで出かけて鳥羽伏見で幕府がボロ負けしたのを見てから
幕府に味方した楢山はガチ。
>>931 だからこそ中央に贔屓目にしてもらえたんだよ。
1586年の比内侵攻はまだしも1588年の斯波を滅ぼしたのは
どう見ても惣無事令違反。なのに黙認されただけでなく
新たに和賀郡、稗貫郡、閉伊郡まで加増された。
あと大崎・葛西一揆での一揆軍は2万〜3万くらいと言われてるねえ。
仮に南部家を取り潰して北奥州が完全に反豊臣になったら
かなり面倒なことになるのは必至。
その場合の南部の動きとしては南は旧大崎・葛西の遺臣達が
闘ってるから進出するとしたら出羽と津軽地方か。
伊達政宗も何らかの動きをするかもしれんし
確かに楽しそうな展開になるな。
937 :
日本@名無史さん:2011/08/27(土) 13:41:03.28
南部信直が潰れたら九戸政実が伊達と同盟しただろう。
というか伊達にとって南部は目の上のたんこぶなのでガチで九戸、大崎・葛西、和賀・稗貫、閉伊・大槌を煽動して
南部を潰そうとした。和賀・稗貫一揆のときは斯波の残党も煽動したが途中でびびった。
伊達・九戸・津軽・和賀・斯波・葛西・大崎を合わせたら相当な兵力になるし上杉とも同盟するだろう。
佐竹も反徳川だし。
938 :
日本@名無史さん:2011/08/27(土) 22:03:03.17
>>936 >仮に南部家を取り潰して北奥州が完全に反豊臣になったら
>かなり面倒なことになるのは必至。
なんで取り潰しで反豊臣になるんだ?
九戸か津軽が代わりに統治するだけじゃねーの?
そもそもそんなことしたら
米が輸入できなくて南部が食糧不足になる
餓死者が続出、一揆と反乱で面倒なことにはなるだろうけど
>>938 >なんで取り潰しで反豊臣になるんだ?
>九戸か津軽が代わりに統治するだけじゃねーの?
津軽は所領を安堵されはしたけど
太閤蔵入地というペナルティーを設定されてるので
加増される立場じゃない。
中央とのコネクションを持ってない九戸にしては論外。
大崎・葛西領と同じように中央から誰かが派遣されて
統治を行い、そして失敗するだろうな。
>>938 >そもそもそんなことしたら
>米が輸入できなくて南部が食糧不足になる
>餓死者が続出、一揆と反乱で面倒なことにはなるだろうけど
米不足を解消する手段として他国から略奪するという
方法もある。津軽地方、比内地方、仙北地方に
進出することはありえるよ。
戦国時代において米は特権階級しか食えん。
庶民は蕎麦、麦、稗、粟、芋が主食。
米が庶民の食卓に出てくるのは江戸以降。
941 :
日本@名無史さん:2011/08/28(日) 11:31:22.88
京都の天皇家にとって南部は後醍醐天皇、北畠顕家に最後まで仕えた忠臣というイメージが強い。
遠野南部家が明治時代に男爵になったのは後醍醐天皇に忠誠を尽くした功績によるもの。
大正天皇のご学友に南部伯爵が選ばれて、一条家から養子が来たのもそういう昔のことが考慮されてる。
昔の人はそういう昔のことにやたらとこだわるから、天皇家から評価されてる南部を潰すのは簡単ではない。
明治天皇は北朝の血筋なのに、なんで南朝側を優遇するんだろうなw
新渡戸稲造の弟子筋の宇佐美とかが宮内庁にいたからね。
944 :
日本@名無史さん:2011/08/28(日) 17:44:33.52
戦前の国定教科書では足利尊氏は天皇に弓を引いた逆臣、国賊と記述されていた。
逆に楠正成は楠公と言われて尊敬されていた。
顕家と石津で死んだ南部師行は明治29年になって正五位に官位に上がってる。
そういう天皇家の時空を超越した感覚を理解できないと、南部さんが靖国神社の宮司に選ばれる感覚もわからない。
945 :
日本@名無史さん:2011/08/28(日) 21:38:40.26
>>939 >米不足を解消する手段として他国から略奪するという
>方法もある。津軽地方、比内地方、仙北地方に
>進出することはありえるよ。
そんな簡単にいくのかねえ?
安東、最上といった勢力がある中上手くいくとは思えないけど。
946 :
日本@名無史さん:2011/08/28(日) 22:05:06.36
>>940 米は食ってないかもしれん。
けど戦国期に東廻り航路が確立してなくても
食糧輸入しなかったら北東北なんて食糧足りないだろ
高く売れるから商人もやってくるんじゃねーの?
輪作で大豆とかも作ってるし、安く仕入れることもできる
>>946 庶民に米を食わせる為に交易してたわけではないだろ。
米を食える身分の者が必要な分を輸入してただけ。
あと麦や芋をはじめとした雑穀は北東北でも十分育つ。
>>945 津軽は千徳との不和があったし外ヶ浜
北津軽でも不穏な動きがあった。
安東にしてもただでさえ家中が割れてるのに
比内は浅利という爆弾を抱えてる。
あと当時、仙北地方を治めてたのは戸沢と由利衆。
南部家廃絶となれば南部信直と九戸政実が手を結び
それらの地域に侵攻するのは想像に難くない。
まあ豊臣軍が負けることは有り得ないが折角まとまった出羽まで
戦乱となったらかなり面倒なことになる。
949 :
日本@名無史さん:2011/08/29(月) 03:45:47.95
>>946 >あと麦や芋をはじめとした雑穀は北東北でも十分育つ。
いもって何芋だよwジャガタラか?サツマイモか?
仮に麦と山イモを作ってたとしても
麦を植えてから3年は麦作れんぞ?
連作障害起きるから
だからその3年の間にアワ→ヒエ→マメ
と作物変えて過ごすんだよ
イモや豆作る年の農民とかどう考えても
炭水化物足りないだろ。
だから岩手や下北半島では
連作障害が起きない水田でヒエを植えるんだけどね
950 :
日本@名無史さん:2011/08/29(月) 20:33:44.97
>>946 >イモや豆作る年の農民とかどう考えても
>炭水化物足りないだろ。
芋は炭水化物だからwwwww
あと流石にジャガイモ・サツマイモは入って来てない。
東北地方だとドングリを食ってた地域も多いらしいな。
あと栗やトチの実、胡桃も貴重な食料だったとか。
952 :
日本@名無史さん:2011/08/29(月) 22:55:51.00
見方を変えれば米や麦は大名に取られ
庶民はそういった物しか口に出来なかったともいえる。
953 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 09:32:24.59
戦国時代の南部では武士も南部せんべい食べてたからな。
魚貝類は他よりとれるしカモシカ、熊、鳥はいっぱいいた。
馬も小さくて弱いのは軍馬にしないで食ってた。
954 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 20:43:09.42
南部せんべい戦国時代食ってた??
955 :
日本@名無史さん:2011/08/31(水) 13:25:15.92
南北朝時代の頃、南朝の長慶天皇が名久井岳の麓(現・三戸郡南部町)、長谷寺を訪れ、
食事に困った時に家臣の赤松助左衛門が近くの農家からそば粉とごまを手に入れ、
自分の鉄兜を鍋の代わりにして焼き上げたものを天皇に食事として出した。この食べ物が後の南部せんべいの始まりである。
さらに天皇はその風味を非常に好んで度々、赤松に作らせ、天皇は煎餅に赤松氏の家紋「三階松」と南朝の忠臣、
楠木正成の家紋「菊水」の印を焼きいれることを許したという。現在の南部煎餅には確かに「菊水」と「三階松」の紋所が刻まれている。
956 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 20:21:33.30
ゴマのような高級なものつくってたのか?うそくせーw
957 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 20:22:28.63
長慶天皇はただの伝説
958 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 20:23:08.55
赤松氏は北朝方
「菊水」と「三階松」
はついてるな。
960 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 22:45:27.53
しかし長慶天皇はもともと記録の少ない謎の多い天皇だから、
南部せんべいの創始者という伝説を完全に否定するほどの確実な論拠もない。
伝説にしては菊水はともかく南部では珍しい「三階松」の紋が南部せんべいに刻まれているのは不思議な話だ。
961 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 22:49:34.74
>>956 縄文時代から栽培されてるから不思議でもない。
三戸南部の出自は色々あるけど断定できるものが何もない。
放火さえなければ色々分ったろうにな。
964 :
日本@名無史さん:2011/09/03(土) 13:29:21.11
天皇家は三戸とか八戸とかの違いとかよくわからないから
南部と言えばすぐに師行のことを思い出すんだろ。
965 :
日本@名無史さん:2011/09/03(土) 13:49:55.35
南部太郎だろうがな
966 :
日本@名無史さん:2011/09/06(火) 00:10:24.96
∩
( ゚∀゚)彡万博!草餅!
⊂彡
当時の草餅の甘みって何で作ったの?
黒砂糖?
968 :
日本@名無史さん:2011/09/11(日) 22:28:03.31
>>967 当時ってのが何時か分らんので何とも言えんが
砂糖が日本に伝わるのは戦国時代。
とはいっても輸入に頼っていたけどな。
それ以前は果物や蜂蜜から甘味を得ていたと言われてる。
当時ってのは、万博に出品した時だから幕末のつもりだったのだが…。
やはり砂糖が既にあったのかな?
万博は1970年だな。
白砂糖なら、戦国末期には国内に流通している。
千利休が白砂糖を塗したスイカを批判した話が有名。
で、奄美の黒砂糖が有名だけど、幕末の頃なら白砂糖も国内でそこそこ生産されていた。
ただ長崎経由の輸入品に比べて国内産の白砂糖の質は悪かったらしいけど。
972 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 19:36:15.42
盛岡の和菓子が美味くなったのは対馬藩の方長老(規伯玄方)が藩預かりになったからだという。
罪人と言えど先進的な知識をもった人物だから
厚遇されたらしいね。
974 :
日本@名無史さん:2011/10/03(月) 16:44:33.56
保守
秋田藩とか津軽藩とかは自藩を擁護する地元歴史家が沢山いるけど、
南部藩に関しては、調べてみると自藩を批判する地元歴史家も結構いるんだよね。
いかに藩政時代に庶民をいじめ抜いたかという…
976 :
日本@名無史さん:2011/10/03(月) 18:22:38.69
「島津に暗君なし」
「南部に名君なし」
977 :
日本@名無史さん:2011/10/03(月) 20:30:51.03
つうか批判する歴史家がいる方が健全でむしろいない方が不健全だと思う。
>>975 褒めようがないからな。
南部擁護する人も、批判に対して
「寒冷化してたんだからしょうがないだろ」
「他にどうしろって言うんだ?」
みたいな返答しか出来ないしw
979 :
日本@名無史さん:2011/10/04(火) 07:20:24.80
>>978 > 「寒冷化してたんだからしょうがないだろ」
わろた
俺は秋田県在住だ。
一人、南部の郷土歴史家の人を知っているけど、この人も是々非々で南部藩の
コトを書いているのだろうが…結果的に南部家への批判ばかりになってしまうという…。
981 :
日本@名無史さん:2011/10/06(木) 14:09:04.08
秋田の記録だと楢山佐渡はかなり恐れられていたようだな。
982 :
日本@名無史さん:
>>981 鳥羽伏見で薩長が勝ったのを見てから敵対しているからな。
狂信的人物特有の強さはあっただろうな。