1 :
ソ連軍もね:
正論 2005年 11月号
引揚民間人を襲った 朝 鮮 保 安 隊 の略奪・暴行・殺戮の嵐
(一部抜粋)
「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、
今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。
北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、
辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。
そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、
ついで 朝 鮮 人 の 保 安 隊 に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、
虐殺されている光景であった。
(中略)
「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対する
ソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。
夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。
娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。
みなソ連兵を 朝 鮮 人 が案内したのだった。
部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。
靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのはふつう。
一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。
城津での惨状は言語に絶した。(中略) 朝 鮮 人 の 男女が数十人の団体でおしかけ、
干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、
あげくは婦人の“提供”を要求されたという」
博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、「二日市保養所」である。
強姦によって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。
また、性病に感染した女性たちにについても、匿って回復するまで治療が行われた
関連動画
終戦から62年 日韓それぞれの引揚げ01
http://jp.youtube.com/watch?v=bDjPZXw0yHg 終戦から62年 日韓それぞれの引揚げ02
http://jp.youtube.com/watch?v=aXPoy_5OFxY&feature=related
2 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 11:17:19
3 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 11:28:16
7 : :02/03/26 08:30 ID:udSz507O
レイプじゃないけど意外と知られていないのが、サハリンの残留婦人。
終戦と同時に朝鮮人の乱暴が始まり、十代から二十代の
日本女性が無理矢理嫁にされて、10人からの子供を
産まされている。
子供がいるために日本へは帰れない。
それを左翼婆は、日本人が朝鮮人を差別していた事で
戦後に鬱憤が爆発してそういった行動に出たと説明してた。
おい!不満があったら何しても許されるのかよ。
事実を知れ
「在日と結婚し北に行った日本人妻」はほとんどが好きこのんで在日と結婚
したのでは無いよ。朝鮮進駐軍と名乗って在日が暴れ回っていた頃に結婚し
てる人がほとんど。なぜか? 在日が日本人女性を当時多く強姦してたから。
妊娠してしまい、親との縁を切られた人も結構いた。そういう人たちを奴ら
が嫁(事実上の奴隷)にしたんだよ。朝鮮人が日本人女性を嫁にする=征服、
という価値観が彼らにあったんだよ。
という書きこがあった。
自分はこの話しを信じる。なぜなら樺太に残留した日本人女性を支援する活動
をしているという女性が、NHKのラジオで同じようなことを話ていたからだ。
樺太に残留した日本人女性を支援する活動をしているという女性が、NHKのラジ
オで話ていた。 樺太に残留した日本女性は、ほとんどが終戦後レイプや脅迫によ
って朝鮮人の妻にさせられた女性です。脅迫というのは、自分と結婚しないと、ソ
連当局に密告して家族全員を収容所送りにしてやる、というような脅しだったらしい。
終戦から2年後ぐらい後に日本の船が日本人を迎えに行ったときは、すでに妊娠
していたため帰るのをあきらめたという。
「サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか―帰還運動にかけたある夫婦の四十年」新井 佐和子 (著)
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794207980/ii-22/249-3887511-5097148
4 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 11:30:58
96 名前: 投稿日: 02/07/18 00:52 ID:TLvRyb2M
如何なる名乗りであらうと、朝鮮人は大暴れしました はっきり申しますが、高齢の
邦人女性が朝鮮人と結婚したのは全て強姦されたものと思って先づ間違ひ無く、だ
から誰もなれそめなどに触れません
最も大々的に行はれた犯罪行為は、空襲で焼け野が原になった空地の不法占拠
です 余りにも頻發するので、わざわざ刑法改正して「不動産侵奪罪」を新設したくら
いです 現在駅前一等地で朝鮮人が営業してるパチンコ屋、焼肉屋は斯る來歴のも
のです
終戦後の第三國人どもは本當に酷かった 軍の兵器を盗んで來たらしく、三八式歩兵銃や
南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人
まで、経済犯、實力犯を中心にあらゆる悪事を重ねてゐた
土地も屋敷も物資も操も、奪ひ放題であった 闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、殊には、
空襲や疎開で一時的に空いてゐる土地が片端から強奪された 今、朝鮮人が駅前の一等地
でパチンコ屋や焼肉屋を営業してゐるのは、皆、あの時奪った罹災者の土地だ
彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩して
いた。通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、
白昼の路上で婦女子にいたずらをする。善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。
5 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 11:33:32
6 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 11:36:00
金素雲も嘆く在日朝鮮人の横暴
日本人はなぜ朝鮮人が嫌いか、差別されるには朝鮮人の方にもそれなりの原因
がある、という筆者の論は決して間違っていないと思ふ。例えばあの有名な朝鮮
人詩人の金素雲氏は、その自伝の中で次のように書いている。
日本人所有の家を借りたなら、家賃は一切払わなくてもよいというのが、その当時
(昭和の初期―筆者注)同胞の間では常識化していた風習だった。
「お前らは国まで盗んでいったじゃないか。家賃ぐらい何だ!」――こちらにはこ
んな腹があったが、引っかけられた日本人の側では恨み骨髄にならざるを得な
かった。家賃をもらうどころか5,6ヵ月分の家賃に当たる金を<立退料>という
名目で払わなければならなかった。こんなとき、その仲介の役割を果たすのが、
いうなれば叔父の職分だった。(同胞が集団居住する町には、こんなブローカー
が必ず何人かいた)
1,2年ただで住んでは<立退料>をせしめて家を空けてやることもあったが、時
には引っ越した次の日に大家から立退料を取ってまた引っ越していく、そんな場
合もあった。 その立退料の半分ぐらいにあたる金が叔父のようなブローカーの
懐に入ってくる。もちろんこれは4,50年前の昔話ではあるが、こんなやり口が
その後長い間い年月を通じて、大多数の日本人の生活感情の底に<チョーセン
ジン>を敬遠し蔑視する後遺症の種となったことも事実である。
中村 粲 文武新論 平成5年7月10日
7 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 10:51:06
田岡一雄山口組組長の回顧録「山口組三代目 田岡一雄自伝」より転載
一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。途中で四、五歳の女
の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」
「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女は私に泣きじゃくりながらしがみつく。この世のものとは思えぬ女の狂気
じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」
私は少女をその場において一目散に走った。少女の母親は木立の中で数人の男
に犯されていた。飛行服の男たちだった・・・
(中略)
通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ、無銭飲
食をし、白昼の路上で集団で婦女子にいたずらをする。善良な市民は恐怖のど
ん底に叩き込まれた。こういった不良分子(朝鮮人)は旧陸海軍の飛行服を好
んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを
首に巻きつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。腰には拳銃をさげ、白い包帯
を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげたかれらの略奪、暴行には目にあまる
ものがあった。警官が駆けつけてきても手も足も出ない。「俺たちは戦勝国民
だ。敗戦国の日本人が何をいうか」警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げ
られ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。
「田岡組長が神戸の静かな住宅街を歩いていると、小さな子供が一人で歩いてきた。
不審に思ってその子供に問いかけるとこどもは向こうの方を指差した。
そこには、その子供の若い母親が三人の朝鮮人に強姦 されていた。
田岡組長が助に行くとその朝鮮人が向かって来たが、
二人の眼球をえぐると一人は腰を抜かして逃げていった。
しかし、その若い母親は気が狂っていた。上品な顔立ちの美しい女性だった」
山口組三代目 飯干晃一 著 より
8 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 10:53:20
9 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 10:56:36
7 :世界@名無史さん:2010/02/27(土) 10:18:46 0
※鳩山一郎首相(鳩山由紀夫民主党代表の祖父)を袋叩きにした朝鮮進駐軍
其最も著しい、象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に
對する集團暴行・傷害事件がある <その、集団>
翁が軽井澤の静養先から帰京しやうとして信越本線の汽車に乗って居
たら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、鐵道員を突き
飛ばし押入って來て、俺達は戦勝國民だ、おまへら被支配者の敗戦國民
が座って支配者様を立たせるとは生意氣だ、此車両は朝鮮進駐軍が接収
するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな! と追ひ立
てた <軽井沢、鉄道、この>
其で鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座ってゐるのにそりゃお
かしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、忽ち大勢飛び掛かって袋
叩きにし、鳩山翁を半殺しにした 幸にして重体にも重傷にも至らなか
ったが、頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった
痛々しい顔で帰京した <それ、たちまち>
年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、如何に
不出來な孫にせよ 孫共は此を知らんのだらう <いかに、これ>
直後に總理大臣に成る程の大物でも如斯 況や庶民に於てをや 土地
も屋敷も物資も操も、奪ひ放題であった 闇、賭博、傷害、強盗事件が
多く、殊には、空襲や疎開で一時的に空いてゐる土地が片端から強奪さ
れた 今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業してゐる
のは、皆、あの時奪った罹災者の土地だ
三国人の不法行為
http://1st.geocities.jp/koreapeacenow2001/didi/sangokuzin.htm
鮮人は日本から出て行ってくれ
11 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 15:26:05
朝鮮人はフェラが上手い!
12 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 17:33:57
582 名前:名無シネマ@上映中[sage] 投稿日:2007/05/09(水) 19:30:10 ID:Jk72oBxe
「中坊公平・私の事件簿」(中坊公平2000.11.22)の中に、一つ在日の犯罪が載っている。
借金を返済しない在日韓国人を法律的に追いつめたところ、中坊弁護士が暴行を受けたのである。
後頭部を打ち付けられて怪我した中坊氏。
「お前こんなことしていいと思ってるのか。こっちは頭に傷を負って出血してるんやぞ。」
すると、彼の連れてきた暴力団風の男は予想もしない行動に出ました。私の目の前で「お前、俺をやったな」と
言いながら、自分で自分のカッターシャツを両の手で力任せに引き裂き、ばーんとボタンを弾き飛ばしたのです。
そして、「俺かてお前にこうしてやられてるやないか」と言う。
その後、警察に行くと在日側の弁護士に暴行で訴えられた。幸いにも証拠と証人があり、冤罪が証明されたの
ですが、街宣車が家まで来て「民族差別を許すな!」。
これじゃあ、弁護士もいやになるだろう。
http://www.youtube.com/watch?v=J53DISMjHuc
13 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 17:38:52
崔洋一が日本映画を駄目にした
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/cinema/1226631913/328 このごろレイプ事件がよく報道されている。
それを読みながら、かつての在日朝鮮人活動家たちによる、
隠された<日本女性レイプ事件>を思い出す。
古い資料だが『マルコポーロ』1993年9月号に、梁石日、崔洋一、鄭義信の鼎談が掲載されていた。
崔「一時流行ったんだな。左翼の日本人少女を口説くときは日帝三十六年史で落とせというのが(笑)」
鄭「いまだにそんな手を使っている人、いるんだよね」
梁「男の風上にもおけんなあ」
崔「梁さん、唇、震えてますよ(笑)」
映画監督の崔洋一は笑っているが、笑い事ではないのである。
朝鮮問題に関わる政治運動をしている日本人女性たちが、在日朝鮮人活動家に警戒心を無くし、
朝鮮人と二人きりになった時にレイプされるという事件が、少なくなかったのである。
そして、彼女たちは「反体制意識」を持っていたがゆえに、警察に通報することもなく、泣き寝入りした。
周囲の日本人からは、運動団体内でフリーセックスが流行っていると思われていたが、実態は朝鮮人左翼による
日本女性のレイプであった。
「我々は人権を重んじる」と自ら主張していた在日朝鮮人の活動家たちが、何故そんなことをするのか。
また、日本の女性たちは、左翼活動家とはいえ在日朝鮮人男性が訪ねてくると、なぜ警戒心を無くして
部屋に上げてしまったのか。
今はどうなのか知らないが、昔はそういう時代であったのである
14 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 17:41:19
『置き去り―サハリン残留日本女性たちの六十年』 吉武 輝子(著) 海竜社
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4759308792/250-6225082-6668210 敗戦より60年目の夏を迎え、国家から見棄てられたため集団自決したり残留孤児になったりした<満州開拓移民>
の悲劇を思い出す人も少なくないだろう。しかし、同様の悲劇が、北方のサハリン(樺太)でもおきていたことを知る
人は多くなかった。吉武輝子さんのこの新著は、その北辺の戦争悲劇に、<聞き書>という方法をもって正面から
取り組んだ労作である。
アイヌ民族やギリヤークなど自然民族の民住地だったサハリンは、19世紀にロシアが植民地とし、20世紀初頭、
日露戦争にによって日本が南半分を領有してからは40万の日本人が暮らしていた。その中には、太平洋戦争期
に入って強制連行されたりした朝鮮人4万人あまりも含まれていた。
そして1945年の8月、ソ連の参戦=サハリン侵攻によって、在住の日本人・朝鮮人は地獄を体験、死者はおよそ
1万人にのぼった。15日の日本降伏の後にも、ソ連軍による空爆や潜水艦による引揚船攻撃は続き、多大の死者
が出ているのは、戦争の現場とはこのようなものなのだろうと察しられて、本当に慄然とさせれる。
そしてそういう最初の悲劇の大波が引いたあとも、もっとも弱い立場にある若い日本女性の上には、新たな苦しみ
の波が襲ったのだった。すなわち、日本敗戦により戦勝民族となった朝鮮人の中には、日本国家への反感憎悪を
近くにいる日本女性に向けて噴出させた人もいないわけではなかったからである。
この状況において、若い日本の女性たちはどうしたか。彼女たちの多くは、生きるために朝鮮人男性の妻となり、
子供を生み、その家族愛に惹かされて、サハリンに留まり生きざるを得なかったのだた。そして吉武さんは、今は
70、80代に達した彼女たちに親しく接して、その事実と心情とを克明に記録さtれた。消滅寸前の人間体験と心情
とが、辛うじて歴史化されたことを喜びたい。
(略
15 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 17:43:59
【統一教会】 日本人妻団体「拉致・監禁の恐怖で故郷に帰れない」日韓両政府に解決促す〜記者会見前に日帝糺弾[06/24]
http://live28.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1277368178/ http://imgnews.jknews.co.kr/outnews/2010/06/24/NISI20100624_0003069321.jpg 「日本の統一教会員拉致監禁による韓国人権被害者対策委員会(対策委)」は24日、韓国男性と
結婚して家庭を持った日本妻らが拉致・監禁が恐ろしくて故郷を訪問さえ出来ずにいるとし、日本
政府の事態解決と韓国政府の協力を促した。
対策委はこの日午後、忠南天安市並川面アウネ体育館で大韓民国に居住する日本人妻500人
余りが参加して記者会見を行い、去る1966年統一教会の拉致が初めて発生してからの拉致監禁
被害に対して訴えた。
ハラ・サユリ忠南大田拉致監禁被害者会支部長は菅直人日本総理に送る要請文を通じて「子供
が母方のお祖父さん、お祖母さんが見たいといっても拉致監禁が子供らまで被害を与えるか心配
で日本に行けずにいる」として「拉致監禁事件は単純な家族問題、宗教問題ではなく憲法に保障
された個人の人権を弾圧する問題」と明らかにした。
日本で統一教会信者を対象にした拉致・監禁事態による被害者は去る1966年初めて拉致事件
が発生して以来、今まで4300人余りに達するという。この日の集会ではタナカ・ユキミさん(仮名)
の拉致被害事例が発表された。
この日の行事に先立ち日本人妻500人余りは日本伝統衣装のキモノと韓国伝統衣装の韓服を着
て天安市並川面の柳寛順(ユ・グヮンスン)烈士追悼閣に参拝して日帝強制支配期に対する謝罪
と日本慰安婦問題に対する日本の責任と解決を促す行事を行った。
キムラ・ジュンコ大田忠南委員長は「大田忠南(テジョンチュンナム)地域にも拉致監禁被害者が
約30人いて今でもその時の恐怖と後遺症から韓国生活が困難になった方々も多く、韓国政府の
協力をお願いする」として「経過報告に先立ち、韓日合併100周年になる年をむかえて日本強制
占領期間に対して日本人として代わりに謝ります」と明らかにした。
ソース:財経日報(韓国語) 日本人統一教夫人団体"拉致・監禁恐怖で故郷行けない"
http://news.jknews.co.kr/article/news/20100624/5670430.htm
16 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 17:46:42
吉田茂氏がマッカーサーに宛てた「在日朝鮮人に対する措置」文書(1949年)
朝鮮人居住者の問題に関しては、早急に解決をはからなければなりません。
彼らは総数100万にちかく、その半数は不法入国であります。
私としては、これらすべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待するものであります。
その理由は次の通りであります。
(1)現在および将来の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能であります。
米国の好意により、日本は大量の食糧を輸入しており、その一部を在日朝鮮人を養うために使用しております。
このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。
朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。
(2)大多数の朝鮮人は、日本経済の復興に全く貢献しておりません。
(3)さらに悪いことには、朝鮮人の中で犯罪分子が大きな割合を占めております。
彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。彼らの多くは共産主義者ならびにそのシンパで、
最も悪辣な政治犯罪を犯す傾向が強く、
常時7000名以上が獄中にいるという状態であります。
--中略--
さて、朝鮮人の本国送還に関する私の見解は次の通りであります。
(1)原則として、すべての朝鮮人を日本政府の費用で本国に送還すべきである。
(2)日本への残留を希望する朝鮮人は、日本政府の許可を受けなければならない。
許可は日本の経済復興の貢献する能力を有すると思われる朝鮮人に与えられる。
上述のような見解を、原則的に閣下がご承認くださるならば、私は、朝鮮人の本国帰還に関する
予算並びに他の具体的措置を提出するものであります。
敬具 吉田 茂
(田中宏「在日外国人」より)
17 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:36:43
>>13 李珍宇事件を思い出すな
連続強姦殺人鬼なのに
俺は未成年の朝鮮人だから無罪だ!と叫んで
それに日本の進歩的な連中が応援したと言う狂気もいい所だ。
面白半分に強姦されて殺された少女や女性が哀れでならないし
これが無罪になってたら、朝鮮人は日本人女性を強姦殺人しても罪にならないって
悪しき前例を作る所だった
18 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 09:49:39
【東亜】 戦後、大陸からの引き揚げ中に「強姦被害」に遭った日本人女性たち 〜堕胎施設の元看護師が語る隠された悲劇 [08/14]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1282309113/ 引き揚げ 葬られた胎児 65年目の「遺言」3
戦後、大陸から最多の人が引き揚げてきた博多。女性たちの隠された悲劇がそこにあった。
万葉集にも詠まれた福岡県筑紫野市の二日市温泉。福祉施設の裏手に、穏やかな顔つきの
水子地蔵がひっそりと建てられている。赤ちゃんを胸元でしっかりと抱いている。1946年3月
から1年半の間、ここに、大陸からの引き揚げ中に強姦被害に遭った女性たちの堕胎施設が
開設されていた。国公認の「二日市保養所」。木造2階の建物とドーム屋根の温泉があった。
「母親の感情が出てしまうから、絶対にオギャーという泣き声を聞かせたらいけない。医師か
らそう言われ、私も首を絞めました」当時20歳の元看護師、村石正子さん(84)は約3ヵ月、
看護師10人の1人として連日のように手術に立ち会った。
終戦後の大陸では、直前に宣戦した旧ソ連軍の兵士らの暴行が女性たちを恐怖に陥れていた。
「マダム・ダワイ!」(女、出てこい!)。市民団体「引揚げ港・博多を考える集い」のメンバー
山本千恵子さん(73)は9歳の時、今の北朝鮮東部でサーベルを持ったソ連兵が毎晩のように
怒鳴り声を上げ、若い女性たちが床下に隠れていたことを覚えている。「当時、辱めを受ける
のは死に値するようなことだった。引き揚げ船から海に身投げした人もいたと後に聞きました」
二日市保養所の開設は、今のソウルにあった旧京城帝大の医師らでつくる「在外同胞援護
会救療部」が旧厚生省に働きかけた。引き揚げ船内で「不幸なる御婦人方へ」と題し、利用
を促すチラシが配られた。地元紙には旧厚生省と連名の広告も掲載された。
19 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 09:51:51
村石さんは日本赤十字社の旧京城救護看護婦養成所で終戦を迎え、種子島の母方の実家
に身を寄せていた。そこへ呼び出し状が届いた。約15キロ北西の博多港に引き揚げ船が着く
たび、女性たちがトラックの荷台に乗せられてきた。
「男に見せかけるためか髪を短く刈り、やせて汚れていました」。村石さんたちは「お帰りな
さい」と手をとり、温泉で背中を流してあげた。女性たちはほとんど何も話さなかった。
器具で胎児を出す手術は、医薬品不足で麻酔なしだった。「頭のほうから両手を握ると、指が
折れると思うほど強く握りしめられました」。「ちくしょう!」と叫んだ女性もいた。妊娠5ヵ月以上
なら陣痛を促し、出てきた胎児の命を絶った。
子どもの首を自ら絞めたのは、昼休みで食事に行こうとしていたときのことだ。苦しそうに
「看護婦さん」と呼ぶ声が聞こえた。赤ちゃんの頭が出そうだった。医師は休憩中でいない。
とっさに首に手をかけた。子どもの髪の毛は赤く、鼻が高かった。かけつけた医師は、いつも
のようにメスを子の頭に突き刺した。
「望まれない子どもであっても命は命。ただ、当時は、女の人たちに無事に故郷に帰って
もらうことに意識が集中していました。胎児たちは5、6本あった桜の木の根元に埋葬された。
「考える集い」が1998年につくった冊子に掲載された保養所の元医師の証言によると、施設が
閉鎖された47年秋までに400〜500人が手術を受けたという。
20 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 09:54:55
村石さんは結婚後、看護師を続けながら3人の娘を育てた。50年間、保養所のことは家族を
含め誰にも話さなかった。しかし96年ごろ、跡地に水子地蔵が建てられていると元同僚から
聞き、97年春の供養祭で初めて体験を明かした。2人の医師は亡くなり、今では唯一とも
いえる語り部だ。
9月18日には九州大学で開かれるシンポジウムで証言する。大勢の学生らの前で話すのは
初めてのことだ。痛ましい記憶を話すのはつらい。「けど、あの女性たちは自分の傷を誰にも
言えなかった。それを思うと、私が話さなきゃいけない」と感じている。「戦争は女こどもが一番
つらい目に遭うんです」
●引き揚げ
厚生労働省の記録などによると、終戦時、軍人・軍属・民聞人を合わせて660万人以上の
日本人が海外にいた。各地の引き揚げ者は博多が1947年、佐世保が50年までに各139万人、
舞鶴は58年までに66万人など。
二至村菁(にしむら・せい)・トロント大学アジア研究所客員研究員によると、舞鶴でも旧国立
舞鶴病院で堕胎手術が行われた。引き揚げ体験を語り継ぐ「引揚を記念する舞鶴・全国友の
会」の藤村正巳・事務局長は「隠れた悲劇」と話す。
(2010年8月14日土曜日 朝日新聞 朝刊 30面 より記者が書き起こし)