1 :
日本@名無史さん:
語ろう
2 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 14:42:20
会津兵と新撰組は強かったらしいね
幕府海軍とフランスが大きく動いていたら、
どうなったかわからない
>>2 なぜ動かなかったか考えた方が早い
たらればで妄想の選択肢広げていくのはただのファンタジーだ
4 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 09:24:00
会津は個々の戦闘での武勇伝はいろいろあるが、
戦略レベルで適切に軍を動かせる指揮官がいない。
大きく動けば大きく負けただけだろう。
ナポレオン3世が有能な将軍を送ってくれていれば、
フランス植民地帝国の一尖兵として世界史に名を
残せたかもしれないが。
>2
つかさ、
イギリスだって薩長の味方をしたわけではなくて、いちおう中立だったんだろ。
うっかり片方の味方をしてフランスと戦争とかしたくなかったわけだからさ。
フランスだって同様で、うっかりした肩入れでヘタを打って、イギリスと戦いたくない時期だったわけだろ?
6 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:55:38
>>2 実際は、惰弱と呼ばれた幕府歩兵より、会津兵は遥かに弱かった。
というより、戦闘後に敵が死ねば首を慢心の力を込めて斬って腰に釣り、
戦闘後に味方が死ねば、これも時間を掛けて首を切り取って腰に釣っていた、と
記録に残っている。
そのため、会津軍の大部分は首切りの最中に銃撃で死んでしまったそうだ。
会津軍は頭の中の武士道感覚で動いて、戦場を見なかったんだね。
>>6 実戦経験の差なんだろうな。
薩長は蛤御門、薩英戦争、下関戦争、長州征伐、鳥羽伏見〜上野〜北陸と戦い近代戦のほぼ全てを経験。
幕府の歩兵隊も厳しいフランス式(元はイギリス式)の実地的な調練受けて散兵で敵弾を受けない知恵を身に付けつつあったらしいからな。
8 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 02:37:45
なにが「松平容保は朝敵にあらず」だ
会津藩は藩祖保科正之以来の勤皇藩で、松平容保も勤皇の念が厚く、
孝明天皇も容保を御信任遊ばされ、御宸翰を下された。
薩長は天皇を暗殺し、密勅を偽造して、不義の戦争をしかけた。
11 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 15:21:07
失礼。陳腐なタイトルとくだらない内容の小説があったものでね。
容保が勤皇なのは間違いない
12 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 17:18:36
幕府にも諸外国の情勢は分かっていたので、
天皇を元首とした国家体制を作らなければいけないという考えはあったんだよね。
会津藩だけでなく桑名藩も新撰組も勤皇で間違いはないでしょ。
ということは、明治維新は新体制においての主導権を幕府が持つか薩長が持つかの争いなのか。
大政奉還後の薩長の新しい時代の主権者としての権威確立、それへの幕府側の不満のぶつかりあいか。
明治維新詳しくないけど、こういう理解はどうなのでしょうか?
14 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 18:13:16
>12
だね。
それ以前の体制では外様大名は幕臣じゃなく、
幕府に従属する立場とはいえ、主従関係が確立されているともいいがたい状態だし。
幕府が外様大名の内政に口出しすることもできない一方で、
外様大名は幕政に関与する余地がゼロだったもんなあ。
これでは近代社会、国際化社会の中で生きていけないから、新しい体制への移行を模索して、
天皇中心の合議政体を試行するとこまでは行ったんだよね
そうなると困ったのが薩長。
旧幕府を含めた合議政体に賛同しはじめた諸大名をだまくらかして、
幕府殲滅を強行しようとクーデタを起こし、天皇に倒幕命令を出させたわけだね。
もっとも、この勅命は正式な書式が整っていないシロモノで、法律上は効力がなかった模様。
法律上の効果がなかったら実効がないかというと、そうでもないわけで、
正式ではない勅命でも実際には効力を発揮したんだよね。
15 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 22:42:57
京都で帝や住民を守る為に、長州のテロ活動を防いだばかりに
会津で報復され50万人が大虐殺されてしまった。。。。。
長岡藩の件がやるせない。
河井継之助は薩長と戦争する気はなかったんだよな。
むしろ会津と薩長の和解に向けて動こうとしていた
17 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 00:29:54
>15
ちょww
50万って。
つか、京都守護の件と奥羽侵攻の件は別件じゃん。
会津だけじゃなく各地でやってないか?
50万とかそういうのは無しで。
19 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 00:08:28
「無理やり借金の保証人にさせられたけど、土壇場で借金した人間がトンズラして、その結果借金を全部引き被る羽目になって破滅した人」のような感じの藩主
20 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 01:22:08
保証人にされる と 借金主に逃げられる の間に
「借金主と一緒に年中豪遊して親戚からも嫌われ、ゴロツキという評価を受ける」
が入ることになる。京都で強権を発動しすぎて嫌われたのが、身の破滅の原因。
あと、破滅する前に
「保証人を呼びつけた銀行に腹を立て、一族を連れて銀行に押しかけ、放火暴行を働く」
が入る。明治天皇の命令を無視し続けて勤皇を謳っているというのでは、ご都合主義もはなはだしい。
例えてかえって分かりにくくなってるぞw
22 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 18:48:07
>>20 >「借金主と一緒に年中豪遊して親戚からも嫌われ、ゴロツキという評価を受ける」
>「保証人を呼びつけた銀行に腹を立て、一族を連れて銀行に押しかけ、放火暴行を働く」
具体的に、何の話?
>明治天皇の命令を無視し続けて勤皇を謳っているというのでは、ご都合主義もはなはだしい。
”明治天皇の命令”とか言われてたものは、実際は、薩長が自分達に都合よく作った偽勅じゃん
23 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 20:21:14
一会桑体制を良いと思った人は、孝明天皇一人しかいなかったんじゃないかな
他の人はみんなこの時期に、この三人から反対の側に移ってしまった
独走ゴロツキ集団、それが朝廷や幕府・諸藩から見た一会桑体制だ。
会津が好き、と主張する人は、幕末以降の明治天皇の命令を全て偽勅と主張する(例 中村彰彦)けど、
何か根拠があるのだろうか。要するに彼らは日本が嫌いなのだと思う。
>>23 そこにいくまでに文久の改革という外様大名の幕政介入があったからな
「徳川一門と譜代だけで決める政治運営に逆戻りした」と感じる人は多かっただろうな
薩摩、長州、土佐辺りの勢力は色んな下心があったから余計に反感は強かった
しかも一会桑は、江戸の幕府と敵対してきた一橋慶喜が
会津桑名の兵力を取り込んで他の連中を排除して独裁化した集団だったから、
江戸の佐幕派にも京の尊王攘夷派にも、この三人の評判は悪かった
26 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 21:12:03
一会桑が権勢を振るったこの時期、公武合体派だった尾張の徳川慶勝、越前の松平春嶽、宇和島の伊達宗城も
一会桑とは距離を置くように変わって行く。
一会桑は権勢は振るっていたが反面、他から嫌われ、孤立していた。
27 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 22:02:23
>>23 >要するに彼らは日本が嫌いなのだと思う。
今現在の日本に納得いかない人間達が、今現在の日本の元になってる明治維新と明治政府に批判的なのは当然じゃん?
若い世代の中で、かつて”偉人”ともてはやされてきた明治の元勲とかの支持率がサッパリなのは、それ相応の心理があるわけだし
今まで散々持ち上げられてきた尊王の志士達の人気がガクンと下がってる今の状況について考えてみた方が、面白くない?
>独走ゴロツキ集団、それが朝廷や幕府・諸藩から見た一会桑体制だ。
なんで薩長土側なんかに、ゴロツキ集団なんか言われなきゃなんないんだろう
松平容保なんて、美貌の超優雅なお殿様だったのに
今、尊王の志士側って坂本竜馬以外全然ウケないから、会津を落すのにすごい必死なんだね
会津?
あれはゴロツキさ
29 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 23:33:34
>28
そりゃ、武士なんざ元々はみんなゴロツキだからな。
会津とて例外ではないだろうさ。
それがどうしたんだ?
福島県人きめえ…薩長が侵攻して来た時、領内で一揆が多発したのはどう説明すんだよ?
もともと終わってた藩だったんだろ、支配層に関しては
まあ武家さんがどうなろうと自分の生活がどうなるかにしか農工商には興味ないだろうな
32 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 05:50:26
容保さんは容大が生まれるまで子供いなかったの?
33 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 17:50:08
子孫が徳川元将軍家相続。ベトナム人と結婚って彼岸から彼はどう思ってるだろう?
34 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 21:59:34
>>30 明治政府なんか、創られた最初からずっと反乱や一揆が起きまくってたじゃん
あんたの理屈で言うと、明治政府は最初から潰れた方がいい存在だったって事だね
現に、初期の明治政府の指導者である明治三元勲の西郷・大久保・桂は、維新から10年ちょっとの間で3人とも死亡してる(内、西郷と大久保は内部抗争の結果)し、討幕の主力になってた長州軍も薩摩軍も、反乱を起こして明治政府自身に弾圧されて壊滅してるんだし
あと、私は福島県人じゃなくて、大分県人だから
「薩長=明治政府が嫌いなのは福島県人だけだ」と思いこんで安心したいんだろうけど、明治政府に納得できない人間なら、日本全国どこにでもいる
明治政府に納得がいかない理由も、会津の事抜きで、色々ある
35 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 22:01:37
>>30 っていうか、あんたらマジに鹿児島県民とか山口県民なわけ?
36 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 22:06:49
>>34が、自称山口県民とか自称鹿児島県民とか自称1とか自称大分県民と名乗ってきたことは分かる。
それで、宮城県の悪事は絶対に取り上げないことも。
37 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 22:17:55
大分は、私が言うのもなんだが、あまり人間性は良くない。
嫉妬と口汚さでは九州でも最も酷い部分がある。
しかし、大分の名を騙って悪事に手を染めるのは、やめて欲しい。
大友宗麟の帝国が崩壊したのは、大友宗麟が日向を侵略したからだ。
大友の首府であった府内(大分市)が炎上し略奪にあったのは、当時の戦争なら当然のことだ。
大友の領国を滅ぼしたのは、島津ではなく豊臣秀吉だ。むしろ廃藩置県によって大分は復活した。
薩摩を叩くのは、お門違いなんだよ。
そんなスレ違いのレスはいらん
自称仙台人の基地外クソコテも明らかに会津人だしどうして会津厨は自分の出身を偽るの?
会津人と名乗る事が恥ずかしいという自覚があるの?
41 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 23:41:19
今まで会津厨に対して甘すぎたな
これからは精神崩壊起こすまで会津関連スレを徹底的に監視して
書き込みがあった瞬間、いたぶってやろうぜ
会津厨は一人たりとも許さねえ
>>41 会津人さん、強引で非道な言動を、敵対する人の名を騙って書いてはいけませんよ。
43 :
34:2010/09/19(日) 02:02:39
>>36、
>>37、
>>39、
>>40-42 私は本当に会津人じゃないし、山口県民とか鹿児島県民とか1とか名乗ったことはないし、自分の出身地の大分県が歴史的に得したかどうかなんか関係なく会津戦争は酷いと思うから、自分の思っている事を正直に書き込んでる
あんたら薩長信者が、自分達に反対する者すべてを落としいれて平気な人間達だって事が、よく解ったよ
44 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 02:25:43
幕末関連のスレッドはことごとくアンチ会津に荒らされるよな
こいつら病的だよ
多数の薩長関連スレを病的に荒らしておいてどの口がそんな事言うのかな?
会津の人は平気で嘘をつくから困る。
その上、嘘をついて被害者だと言い張り、他人から金品を奪って喜ぶ。
被害者は後を絶たない。
佐賀県民は会津若松市に行って土下座して糞尿漏らすべき
49 :
日本@名無史さん:2010/09/24(金) 22:20:58
会津藩松平容保と
長州藩山田顕義は
親戚らしい
50 :
日本@名無史さん:2010/09/25(土) 04:01:02
反会津を気取る輩は、ネットの世界だけ張り切り坊やなんだろうな〜
また近代史板で罵倒を跳ね返されて、泣いて帰ってきたか
会津はこれだから
53 :
1:2010/09/25(土) 13:54:07
会津叩いてる時が一番幸せだわ
54 :
日本@名無史さん:2010/09/26(日) 07:01:34
会津叩いてる奴らって嫌韓厨に似てるよな。ねちっこく叩いてる自分も卑しいことを自覚できないところとか。
会津も長州も変に白黒つけたがる性癖があるよな。似たもの同士仲良くすればいいのに。
56 :
日本@名無史さん:2010/09/26(日) 09:33:05
>>55 単発レスと数年数十年に渡る粘着を同一視されてもな。
やっぱ思考からして一般人と違うわ
多年にわたって粘着カキコをしているというと、会津厨房のことだと思う
会津観光史学に洗脳された患者が立てたスレッドは一つ一つ潰してこう
ここはもう住人が逃げたからクリアだな
59 :
日本@名無史さん:2010/10/15(金) 17:47:24
60 :
日本@名無史さん:2010/10/16(土) 09:42:41
会津ファンの皆様へお願い
お願いです
近代史板の方ヘお越し下さい
最近、貴方方が近代史板を敬遠なさっているので暇です
アンチ会津ファンといたしましては、忌憚なき議論を望んでおります
なお、お越しの際は根拠となるソースをご用意して頂く事になります。
ソース無き議論は、過去の経験から議論にすらなりません。
楽しむ為に、是非ともご協力をお願い致します。
61 :
西郷頼母:2010/10/19(火) 00:09:18
殿は生真面目すぎる……
生真面目というよりは、観念に酔って現実を見ず、同じ失敗を延々と繰り返す人
松平容保こそ真の忠臣だった。謀略で賊にされて気の毒だ。
薩長が憎い!
会津観光史学www
65 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 12:31:37
容大誕生まで実子いなかったの?
正室死んだのかな?
66 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 14:21:25
元仮屋ユイカちゃんてかわいいうえに、容保を知ってるとはなかなかやるな
67 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 16:13:52
本仮屋ユイカだろうが
69 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 19:33:18
ひたすら恭順の意を示す会津藩に無理難題を吹っかけて
戦わざるを得なくしたのが薩長。会津武士は強いられた郷土防衛戦争を
受けて立って敗れた悲劇のヒーロー。
70 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 19:42:23
会津は武装帰順と人には言うが、その実は、天皇は偉いですね、新政府は叩き潰しますという宣戦布告であったことは隠す
71 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 19:46:51
松平容保を御信任遊ばされた孝明天皇を毒殺し、
謀略と挑発で戦火を開いたのが薩長。
戊辰戦争の大義は徳川方にある!!
毒殺は風説。
しかもその際身辺にいたのは会津
謀略と挑発で戦火を開いたのが会津。
明治天皇に嫌われるわけだよ。
73 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 19:51:51
武装恭順が真っ赤な嘘ということがばれると、話をすりかえですか
会津って卑怯だね
東北なんて人間のクズしかいねえだろ?
福島以北は別の国だよ
76 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 13:17:36
>72
「謀略と挑発で戦火を開いた」のは薩長だったろ
そもそも「王政復古の大号令」とか、薩長によるクーデタだったじゃん。
だから、毒殺説とか怪しい風説が流されたりするんだよ。
火のないところに煙が立っている分けじゃない。
もっとも、>75 の言うように、しょせん「勝てば官軍」であって、負ければ大義など雲散霧消する。
正義が勝ったのではなくて、勝ったから正義ってだけだ。
まあ、古い時代の武士の世界では、全国どこでも、敗北者の大義などはゴミ扱いだったしな。
どんな理由が有ろうとも勝たねば無意味という世界だった。
ま、(昔の?)欧米社会とか、遊牧民社会とか、いまでも中国とか、そういう価値観は広く通用してると思うけど。
77 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 17:46:39
>>76 「謀略と挑発で戦火を開いた」のは会津でした。
会津が戦端を開かなければ、戊辰戦争は開始しませんでした。
暗殺説は、火のないところに煙を立たせている俗説だと思います。
研究者でこの説を取っている人は、現在ほぼ見当たらず、小説家と自称研究家の説にまで落ちています。
78 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 19:52:23
薩摩が先に砲撃したんだよ。
79 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 22:46:31
攻めてきたのは旧幕府軍ですね。
薩長が一切汚い事してないとは言わないけど会桑が卑怯な事は一切しなかったなんて都合のいい話信じてるのはおめでたすぎるね
81 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 00:07:33
そりゃな。
どちらも卑怯なことやズルいことはやってるだろうさ。
より卑怯な方が勝つだけ。
一方がまったく卑怯なことをしなかったというわけではないよな。
で、実際に勝ったのは薩摩の方。
どちらの方がよりズルかったかは自明と言えるだろう。
そりゃ、国力に勝る側が勝つなら別だが、
国力に劣る薩摩が幕府に勝ってのち、会津その他の東北諸藩を殲滅したのは、
国力以外の要因が大きかったからに他ならない。
所詮幕府は長州一藩にも完敗した無能だからな
図体ばかりでかい木偶の坊
貧乏な東北諸藩より金持ち薩長のが国力上だろw
東北て冗談抜きに貧乏だからな
東北諸藩が束になっても薩摩+長州勝てなくても無理はない
84 :
1:2010/10/22(金) 01:33:34
なんでここまで荒らされるんだろう?
このスレ立てたのはいけない事だったのかな?
>>83 会津はともかく、庄内とはマトモに相手にしたくないわ
>>84 そんなの覚悟で立てたんじゃないの?
会津側にも薩長側にもおかしな奴がうじゃうじゃいるんだから
荒らし行為を肯定するなよアンチ会津くん♪
荒らしと言えば、会津と会津の自称他県人だよ
513 :日本@名無史さん :sage :2010/10/23(土) 12:34:23
この土日も徹底的に会津を叩く
家のねきの神社に鳥羽伏見の戦いの先端となった記念碑があるがそこには薩長が
挑発したとあるぞ
91 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 14:13:24
>89
この書き込みが、
・オレは荒らしだという宣言
・この週末も荒らすぞという荒らし宣言
の2つの意味を兼ねていることに、ヤツは自分で気付いていないのか。
末期的な荒らしだな。
それが仙台から他人を装って犯罪的なやっているという点が、また末期的なわけで
佐幕関係のスレッドはどこも荒らされてボロボロだな
94 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 12:07:56
ざまあww
>>92 仙台の人間が会津を叩いているという構図がお望みなんですね。
佐幕同士が叩き合えば都合がいいもんな。
96 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 19:28:21
>95
誰が叩いてるかは関係ない。
叩いてるお前さんは誰が見ても明白にスレ荒らしだという点だけが重要。
控えい控えい!双方控えい!
會津藩公用方・秋月悌次郎。之より勅許の趣旨を申し渡す。謹んで拝聴されよ。
勅許ぢゃ〜〜〜?
ここで戦になってはまずい。ひとまず引いて次の策を考えよう
これが有名な会津観光史学ですか。
史実を無視して、会津マンセーやりたいのなら、小説板か歴史ゲーム板で思う存分やればいいよ。
京都見廻組に坂本龍馬の暗殺命令出した奴
>>101 松平容保が見廻組に坂本龍馬の暗殺命令を出した?
新しい史料が見つかったのか?
状況的に見ると薩長以外に龍馬暗殺を望むような怪しいヤツは見つからないんだが...
組織以外で、例えば個人的怨恨(以前、何らかの場面で出し抜かれた怨みとか)なら、
同陣営とか協力関係の陣営とかのものでも可能性があるだろうから、
どこの陣営であろうとも可能性はあるだろうけど。
京都見廻組とか松平容保とか言われると、個人的怨恨じゃなく組織の話になってくるから、
ちぃと考えづらいよなあ。
大政奉還や公武合体の路線が進むと困るのは、当時は薩長だけだったから。
104 :
日本@名無史さん:2010/12/08(水) 04:39:18
大政奉還は薩摩が推進してきたことなのですが。
>大政奉還や公武合体の路線が進むと困るのは、当時は薩長だけだったから。
会津の松平容保が大政奉還に激怒し、即時撤回と大政再委任を求めた記録がありますよ。
望む望まないみたいな仮定の話じゃなく見廻組が自供して刑に服した事実が先にあるんだから
坂本龍馬暗殺の見廻組に関して会津は関係ないことを証明する方が先じゃなかろうか?
てか見廻組が実行犯じゃないって確実な証明が出来てからだよね
薩摩、長州がーは
106 :
日本@名無史さん:2010/12/08(水) 05:20:04
というか、他スレで根拠の乏しい会津無罪説を吹いて
抗弁らしい抗弁もせずに中傷に走っていた人間が、
sageでいかにもウソだらけの会津正義論を入れて、
他人からは隠れて悦に浸っていたと思うと、そのことの方が腹立たしいのだが。
会津武士道って、こういう行為のこと?
会津観光史学が荒らしてるのか
会津&松平容保の悪行を日の下に引きずりだせたらイイネ☆
会津の嘘・悪行は最近明らかにされてきてるネ☆
龍馬を暗殺したのはこの人ですか
佐々木を動かす権限のある人で、暗殺事件の時点で動機がある人となると、この人。
・徳川慶喜:大政奉還に積極的・見廻組を動かす権限有り・「龍馬?それ誰?」証言
・永井玄蕃:大政奉還に積極的・見廻組を動かす権限有り・「龍馬よ、身辺に気を配るように」発言
・その他幕臣:大政奉還に敵対的・佐々木を動かす権限なし
権限があり(というか佐々木を私兵化していた)、動機がある(大政奉還に敵対的)人間というと、松平容保ということになってしまう。
もっとも、松平容保が暗殺行為を実行する際の同士として、松平定敬とか他の幕臣もいたかもしれない。
@佐々木達見廻組の独断先行である
A清河暗殺と同じように佐々木の実兄の手代木直右衛門の指示である
B松平容保からの御指図である
あたりが濃厚だが
「御指図」があったようだというのは今井も自白してたし
手代木は「御指図」の上での暗殺だったと言い残した。
星のHPの過去の日記見たら
「手代木直右衛門伝」(手代木家による私家本)で
松平容保の龍馬暗殺への関与を示唆してる事にファビョってる件w
なぜこんな本が…これは陰謀に違いないとかかんとかw
龍馬が汗血千里駒で国民的ヒーローになってたから手代木も気まずかったんかねw
龍馬暗殺の下手人ってことは全日本人の仇敵ってことか。
とりあえず金八先生は許さないだろう。
間違いなく会津の松平容保だろ?
会津は人間のクズしかいない
いわゆる御指図を出せる立場の人間では疑いが濃厚
ってくらいかな。
京都守護職始末で大政奉還に対する態度の書き方が慶喜の本と真逆になってるのが臭い。
現場の判断で不定脱藩浪人を取り締まるなら一々京都守護職が知らなかったのは当然だが
現場の判断で他藩士を暗殺を、まったく知らなかったとか事後報告だとかじゃ
京都守護職の管理能力と統率力が疑われるだろう
大政再委任運動について詳しい本はないかな?
気になる。
他藩といえば
時期的に龍馬暗殺の件と思しき怪しげな手紙を
手代木が彦根藩に送ってたな。
容保の側近が主人に黙って他藩と重要連絡はしないだろう。
容保の父(義父だけど)が新人幕閣の頃の井伊直弼の面倒を見たこともあって
会津と彦根は仲良かったのよね。
直弼のイメージがアレなせいかあまりアピールされないけど。
>>946の話だが、
歴史を学ぶには「史料批判」という概念が必須でね。
一次史料=事件発生当時の当事者によるもの
二次史料=当事者が後年当時を振り返って残したもの
三次史料=二次史料を編纂したもの
という分類になる。
信憑性の順位は上の方ほど高い。
「復古記」は当時の当事者、つまり各藩の記録や日誌、個人の日記や家の記録が
新政府側・旧幕府側の双方収録されてるいわゆる一次史料の歴史書。
「京都守護職始末〜旧会津藩家老の手記」は会津家老であった山川浩の家系の者が
会津藩の名誉回復を目的に出版した物。考明天皇の手紙もこれが出典だが出版目的から全体的にバイアスがかかっているのは否めない。
こんなクズが郷土の英雄かよ。
東北はよほどの人材難なんだな。
121 :
日本@名無史さん:2010/12/24(金) 00:35:08
たしかにお坊ちゃまで、線が細くて、
若くて、無知だったかもしれないけど、
クズなんて言われる筋合いは、無いと思う。
少なくとも、利用されることはあっても、
天皇や将軍を利用した形跡は見られない
気の毒な、まっすぐすぎる美しいお殿様。
122 :
日本@名無史さん:2010/12/24(金) 10:49:45
>>113 まぁ武田は馬鹿だからこいつの存在自体知らんだろ
今まで散々薩摩やら土佐やらに龍馬殺害の疑惑を被せおって‥‥。
これからは土佐と全国の龍馬・中岡ファンに正々堂々と怨まれるようになってほしい。
東北が戦乱に巻き込まれたのはコイツにも原因がある。
大政奉還で京都での地位も有力大名間での立場も失い
慶喜に逆らって私怨で暴走しただけの奴。
忠義の為に戦った訳じゃない。
>>124 「にも」つーか、こいつに原因があるんだろ。
江戸城無血開城の直後にでも江戸経由で京都に出頭して、「自分が責任をとるので部下には寛大な処置を」とか
言っとけば当時の流れからして慶喜同様の隠居ぐらいで済んだはず。
自分の命優先で周りをみんな不幸にした、荒木村重クラスのクズ。
126 :
日本@名無史さん:2010/12/26(日) 15:48:43
>>125 アナタ歴史何にも知らないでしょw
江戸無血開城前に、勝が話しを付けて明治政府の命令として「水戸で謹愼しろ」って言われてるの。
水戸へ行けと天皇の命令を無視して、京都に行けば「朝敵がまた命令違反しやがった」として徳川宗家家臣一同もろともお家断絶だ。
まずグズだと歴史上の人物を批評するなら、アナタ自身が歴史を知らずに歴史を語るグズだと気が付く事だよw
>>126 日本語わかるか?
>>125は容保の話だ。誰も慶喜の話はしとらん。
128 :
日本@名無史さん:2010/12/26(日) 17:48:10
>>126 涙ふけよw
容保と慶喜を混同しちゃったのか?
会津藩主が水戸に謹慎処分にされたことってあったか。
132 :
日本@名無史さん:2010/12/27(月) 13:49:32
全然。
会津の人は、無関係な人のことを時にわが身と謳い被害者と名乗り、
また、同じだから責任はお前、と都合の悪いことを接近した人へ押し付けて喜ぶ人々です。
彼らの「歴史」の中では、このような嘘が「真実」としてまかり通っているのでしょう。
そんなに徳川慶喜と松平容保を同一視したいのなら、
鳥羽伏見の戦いで逃亡したといって徳川慶喜を罵るのではなく、松平容保が恐怖に駆られて逃亡したと言い換える程度のことはしても良いでしょう。
しかし会津の人は自分勝手だから、そうしない。
おーい、
>>126。どうした?
てっきり、「sage推奨って誰が決めたんですかww」とか煽って
容保の真実に関する話を誤魔化しにかかると思ってたんだが。
>>126って面白い人ですね。
自分は君達と比べたら日本史は無知だけど、126には勝てる自信がある
龍馬殺しの下手人はやっぱり会津藩だったのか。
だとすると、今度は日本国民は会津兵を斬り殺す祭をやるころになるが、
そんなDQN祭やるべきかな。
なんか、反会津の書き込みが必死すぎて失笑級だな。
もっと落ち着け。ゆっくり深呼吸してから書き込め。
そんなに必死な雰囲気を醸し出してると厨房呼ばわりされるだけだぞ。
139 :
日本@名無史さん:2010/12/28(火) 19:45:34
会津の不正直さは丸分かりなので、今となってはそれらの人たちも一緒にされたくないと思うだろうよ。
各々、俺達の正義の歴史は真実、周辺から出てくる証拠は全て捏造、だもの。
日本でヘタな国粋回帰を主張している連中も、信じたい嘘に絡めとられている。
中国も韓国も日本も会津も、愛国主義を名乗る連中は互いに争っているが、嘘を付いているという点では全て同じだろう。
>>138 在日会津人は日本人のふりをしようとして必死だからな。
やるんじゃね?
141 :
日本@名無史さん:2010/12/29(水) 02:52:12
素直に負け組地域の悲しさを噛み締めてればいいのに
無理やり自分とこ美化する為に嘘吐いて事実をねじ曲げたり
よそを根拠なく中傷したりするから反感を買うんだ。
下2行のみは同意
でもここで会津がどうとか反会津がどうとかはスレ違いでは
会津民にとっての容保は忠義に生きた清廉潔白な悲劇の藩主なんですぅ〜
と捏造イメージの最たる物だからなw
アンチ会津のヤツは、
つい先日、堂々と「荒らす」宣言した人非人だから、
会話が通じる相手と思ったらダメだな。
ちょっとログを遡ったらわかる。
つまりこのスレはアンチの隔離スレだから触っちゃダメってことだな。
アンチ会津連呼の奴も端から見りゃ同類だっつの
厨語りしかしてねーじゃねーか
149 :
日本@名無史さん:2010/12/29(水) 23:57:55
会津と聞くとすぐ感情的になる
愚問でしょうが、薩長の犯罪者どもが作った明治政府なんか、会津人は認めたりしないですよね。
151 :
日本@名無史さん:2010/12/30(木) 12:14:33
>>150 ハブられて暴れただけの賊軍が何言ってるのw
>>150 当然だろ。
権力亡者の戦争基地外なんて縄文人が認めるわけないだろ。
隔離スレらしくなってきたな。
155 :
日本@名無史さん:2010/12/30(木) 20:39:55
ここいらで、中傷でスレを埋めようとする会津さんは置いておいて、彼についての話にスレを戻そうか
>109 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2010/12/08(水) 20:21:46
>龍馬を暗殺したのはこの人ですか
>110 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2010/12/08(水) 21:27:51
>佐々木を動かす権限のある人で、暗殺事件の時点で動機がある人となると、この人。
>
>・徳川慶喜:大政奉還に積極的・見廻組を動かす権限有り・「龍馬?それ誰?」証言
>・永井玄蕃:大政奉還に積極的・見廻組を動かす権限有り・「龍馬よ、身辺に気を配るように」発言
>・その他幕臣:大政奉還に敵対的・佐々木を動かす権限なし
>
>権限があり(というか佐々木を私兵化していた)、動機がある(大政奉還に敵対的)人間というと、松平容保ということになってしまう。
>もっとも、松平容保が暗殺行為を実行する際の同士として、松平定敬とか他の幕臣もいたかもしれない。
156 :
日本@名無史さん:2010/12/30(木) 21:27:57
この世の殺人事件はすべて松平容保が犯人っていうのはどう?
会津人の白骨の上に、会津人の鮮血が滴り落ちた惨劇を図案化したもの。
それが日の丸だ。
>>157 日の丸を国旗に提案したのは薩摩藩だけど?
ヤクザはイレズミを入れ
海賊は髑髏マークをつけ
薩長は血と骨の旗を振り回す
会津に侵攻したのは土佐と薩摩だろw
まあ土佐を迂闊に叩くと龍馬暗殺ネタをほじくり返されて
結果的に松平容保が只の狭量なバカ殿だってバレちゃうけどなw
161 :
日本@名無史さん:2010/12/30(木) 23:21:04
会津叩きのスレッドって何か殺伐とした空気だね
>>159 イレズミといえば
板垣退助が戊辰戦争で旧幕府軍の死者の体を調べたら
イレズミ入れたヤクザもんばっかでゲンナリって話があったっけ。
幕府が武術訓練を旗本に命じたら泰平の世に慣れきった旗本達は
幼い息子に家督を譲って隠居を決め込むほど弱体化してたからな。
1人の農民が謹慎中の容保に芋を差し入れた話を美談扱いしていた事に対して
藩士以外の領民が我関せずだったせいで負けたのに農民の芋位で喜んでる場合じゃないだろうと
汚点を美化のオブラートで包んで反省しない会津気質に突っ込んでたなあ。
誰が突っ込んでたのか書いてないなぁ。
164 :
日本@名無史さん:2010/12/31(金) 00:14:33
アンチ会津が出没してるスレはとたんに白ける・・・
165 :
日本@名無史さん:2010/12/31(金) 00:22:26
普通に史料を集めているだけでも会津への評価は低くなってゆくのに、
ましてそれに対するカキコが中傷ばかりでは、会津最低
創作物と史料を区別することもできない、
どころか、史料と資料を混同してる人間の言うことは違いますな。
もっと勉強してから出直して来なされ。
そうそう。
ここみたいな隔離スレに対して、面白い・面白くないなどという評価は無意味だよ。
ま、アンチの人と、それ放置できずに構いまくる馬鹿と、二種類の人間(合計で数人程度?)しかこないスレである以上、
最初から最後まで常に一貫して白けてるのはしかたがない。
コイツの龍馬暗殺命令が表沙汰になっていれば
戦後のフォローもあそこまでお優しくはなかったと思うぜ。
>>163 日本語の文脈で判断しろ、在日会津人。
「板垣退助が突っ込んでる」んだ。
169 :
日本@名無史さん:2010/12/31(金) 16:51:13
会津人のクズさが国民の間に周知徹底されるまで
このスレはpart100、1000と続けなければならない。
171 :
日本@名無史さん:2010/12/31(金) 19:14:09
板垣らが自由民権運動の演説で東北に行ったときには、
東北の人たちから
政府内の派閥争いに敗れて逼塞してる土佐の人間が巻き返しを図ってるだけだろ
見たいに冷たい目で見られたって記録もあるから、
意趣返しのための文書だったりしない?
174 :
日本@名無史さん:2011/01/01(土) 10:01:01
>>162 なんか偉そうな事のたまわってるけど
結局誰が突っ込んだのかよーわからん
>>172 他ならぬ会津から頼まれて書いた「会津戊辰戦争」序文の文章からなので
板垣としては本当に言わずにはおれなかったんだろうな。
それがホントならやっぱり意趣返しに言ってやりたかったんだな。
>>166 そうだな
司馬遼太郎や星亮一やらの創作物しか主張の根拠がない会津はもっと勉強するべきw
会津民がまともな出典挙げてるのを見たことは一度も無い。
でもまあ、板垣の言うことも至極最もだよ。
領民が藩士に冷たかった事は外国人の記録にも残ってるし、
お国の大事に領民に見捨てられるどころか新政府軍に協力されて敗北した事実は無視して
農民が藩主に芋くらいで藩士がこぞって喜んでたら余所からバカにされない方がおかしい。
179 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 05:12:10
倒幕派寄りの兄徳川慶勝と殴りかからんばかりの議論はなかったんだろうか?
保科から松平に改姓したのが失敗だった。
「我がご先祖様は東照権現様なるぞ」という自意識が時代を見誤らせたね。
天照vs東照
大神(大日如来)vs大権現
そりゃ勝てんわな。
182 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 13:29:05
切腹して欲しかった
天皇と対抗しようとして失敗した信長の惨めな最期を見てるから、
アマテラスの権威を超えようという気は起きなかったんじゃないか。
徳川家はみんな明治天皇に忠節を誓ってるのに、松平ごとき支流の傍流の小物がその気になって勝手にコケたw
容保、余の顔を見忘れたか。
幕府の親藩にありながら将軍家の意向に背き、
あまつさえ明治天皇に刃を向けての乱暴狼藉。
この慶喜、断じて許すわけにはいかぬ。
せめて武士らしく腹を切れ!
ふん、大政奉還した以上、貴様などもはや上様でもなんでもないわ
我が主は、権征夷大将軍伊達慶邦様よ
イタチの子分に成り下がるとは哀れよのう
成敗!
せーっぷく!せーっぷく!
容保君のちょっといいとこ見てみたーい
京都なんて、守護するに値するもの何もなかったと思わないか。普通に。
かつがれでもしないと一文の値打ちも出てこないようなクズな公家が居るだけだし。
容保も固辞していたというが、これを引き受けたことと、その役職の遂行の仕方
は非常によくなかった。今いっても仕方ないことだが。
会津がエセ勤皇であったことが良く分かるレスだ
歴史的な事情から、会津じゃ卒業式でも君が代は歌わないんだって聞いたことがある。
東北をナメんな。
誰がヤマトの酋長なんか讃えるかってのw
まあ所詮トンポクジンはまつろわぬ蛮族だしな
勤皇なんて嘘っぱち
大室王朝歴代首長名
諡号 本名
1 明治天皇 大室寅之祐
2 大正天皇 大室卯之祐
3 昭和天皇 大室辰之祐
4 平成天皇 大室巳之祐
5 最終天皇 大室午之祐
馬之助w
197 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 21:08:20
>>178 >領民が藩士に冷たかった事は外国人の記録にも残ってるし、
>お国の大事に領民に見捨てられるどころか新政府軍に協力されて敗北した事実は無視して
会津の領民達が新政府軍に寝返ったのは、新政府軍が「新しい時代になれば、四民平等の世の中になって、税金も安くなる」と
各地で大嘘をついたからでしょ
実際には、明治新政府の時代は、平民には選挙権が無いのに、兵役だけ”四民平等”で平民から徴兵されていったし、税金に関しては、
地租改正が実行された後、農民は徳川幕府時代より生活が苦しくなった
結果的に、明治政府時代はずっと、反乱・一揆続きじゃん
198 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 21:12:46
ところが、旧会津藩領に関しては、幕末からの一揆が明治になってから収束するんだよな
会津の苛政は酷かったらしい
199 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 21:16:32
会津w
会津の悪事へは全て隠蔽
201 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 21:28:41
そもそも、ヤーヤー一揆の存在自体、南会津では語られても会津若松では徹底的にその部分が漂白されている。
史料を読むと、会津藩士の強盗放火誘拐が頻発しているのに、会津若松市教育委員会によると薩長とされている。
しかも、一揆頻発に関しても王政復古前から記載があるのに全て薩長のせい。
その上明治になってから記載が減っているのは、全て隠されたからとのこと。
どっちが隠蔽しているんだろうね。
会津は自らの過ちを認めると死んでしまう病気に掛かってるんだよw
家永三郎編『日本の歴史4』より
>「若松城が落城すると、200余年の長いあいだ役人の圧制に苦しんでいた
>会津の人民がいっせいに『世直し』一揆に蜂起した。
>10月3日、大沼郡ではじまった一揆は、11月下旬の南会津郡の一気におよぶまで
>2か月近く、全領内で、しかも、まだ、政府軍の砲火のおよばないところでもおこった。
>政府軍は、この2か月におよぶ『世直し』一揆の波を、手をこまねいて見ていた。
>こういう政府軍を見て、農民たちは、じぶんたちをこれまでの悪政から解放してくれるものと信じていた
>>199 駐日英国公使館付き医員ウィリアム・ウイリスの報告書のなかに
・会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりは領内の何処でも一様に聞かれた。
・会津兵は新政府軍兵士ばかりか、非戦闘員の人夫たちまでをも殺した。
・会津兵は民家に押し入っては略奪を繰り返し、婦女子を乱暴し、それに反抗した者を惨殺した。
・会津の領民は徒党を組んで竹槍で武装し、後退する会津軍の退路を阻んだ。
・会津藩降伏後、会津の領民は護送される会津藩主一行を冷ややかな態度で見送った。
とある。
ウイリスについて、薩摩閥じゃん、と価値を貶めようとした発言をやらかした人間がいたが
彼は生麦事件の際の英国人治療を行った医師で、戊辰戦争時は薩摩に敵意を抱いていた。
その後は新政府にドイツ閥が出来て、彼は薩摩系を頼って生きることになるのだけどね。
205 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 09:17:48
>>197 馬鹿な知識を持つ者の見解ですよw
>実際には、明治新政府の時代は、平民には選挙権が無いのに、兵役だけ”四民平等”で平民から徴兵されていったし、税金に関しては、
地租改正が実行された後、農民は徳川幕府時代より生活が苦しくなった
士農工商という身分の内、最上級の武士階級を真っ先に潰してますよw。大名も廃藩置県で消滅してます。知らないのですかw?
廃藩置県を知らないのに、地租改正を知っているあたり、貴方の知識力がどうなっているのかサッパリ解りませんがw。
明治維新後の一揆が多発した事は事実ですが、幕末期の一揆と多発とたいして変わりません。
ただし、その一揆も明治初期のみで終息していきます。何故だか解らないから、そのような”稚拙な見解”をするのですよw。
まず、一揆の性質中身を見る事です。
幕末期の一揆は、経済困窮に端を発しています。地租改正一揆は、その延長でしか有りません。
しかし、明治期の一揆には義務教育一揆などもあります。子供を働かせたいが故に、学校制度義務教育への反対一揆です。
貴方は、義務教育など不用だと御思いですかw?。このように、民の知識意識が非常に低い時代でした。
そのような民をもって、普通選挙を行ったらどうなるでしょう?
教育はいらない。子は親の奴隷、外国人は嫌い。そんな人が大多数
多数決で決める民選議員達の政治w。
第一、権利という考え方すら解らない人達に”選挙権”や選挙など理解できますかねぇw。
会津の忠君愛国は日本一だな。
207 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 17:08:22
時代を見極めできないバカ殿様の犠牲になっただけじゃないのか。
明治天皇は寛大にも戦後会津藩を咎めだてしなかったが
普通なら松平容保も重臣たちも皆切腹だ。
孝明天皇への忠義一筋。
まことに天晴れな生涯であった。
>>208 明治天皇になったら速攻で手の平返しやがってw何が忠義だこの朝敵がw
既に即位してる考明天皇の息子の明治天皇さしおいて東武皇帝擁立しようとしてた癖にwww
忠臣と言えば楠木正成だが松平容保とどっちが上かな。
211 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 17:59:51
忠臣大楠公と、馬鹿逆賊にして犯罪者、明治天皇意向の天皇を全てないがしろにしている会津藩の松平容保を比べようだなんて
212 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 18:04:13
楠木正成→義に殉じて戦死
松平容保→戦ってみたものの、敗北して降伏。そのまま生き続け、最後は華族に列して特権階級入り
で?何だって?
容保公も楠公も命をかけて逆賊と戦って皇統をお守りし、
時、利あらず逆賊に敗れ賊軍の頭目された人物。
両者の人生はただの偶然とは思えぬほど酷似している。
214 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 18:11:50
どこも似てはいない。
明治天皇の意思に逆らい戦争まで起こし敗北し、
過ちを認めて降伏したかと思えば、屋敷内に不穏分子をはべらせ日々明治以降の日本を呪って生きた、
そんな松平容保など、逆臣以外の何者でもない。
215 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 18:16:13
>>213 >逆賊と戦って皇統をお守りし
会津人の妄想発露だね
実際は天皇は明治政府の頂点にいた。、会津が逆賊としか表現のしようがない。
その上、この書き込みにもあるように、会津人は明治天皇以降天皇家に逆らい続けて現在に至る。
もしかしてその天皇とは大室さんのことですか?
>>214 てか明治天皇ってだれだよ
即位するまで誰も知らなかったような奴だぜ
皇太子に容保が会った事ないわけね〜じゃん
218 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 18:39:56
要するに会津藩は権力闘争に敗れた挙句、我を張って国許の混乱を招いただけなんだけど、
それをうちこそ忠臣です!会津は朝敵に非ず!(実際は幕府にも朝廷にも逆らっていましたね)
と事実に反した主張をし、
逆恨みから根拠のない事で余所様を叩くから観光史学と嗤われ嫌われているんだよ
219 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 18:40:28
容保が守るべきものは初めから天皇家ではなく江戸幕府だ
容保が禁門の変で薩摩を討ったのは何も孝明天皇のためではなく
それが徳川幕府の命だったからだ
孝明天皇が幕府に逆らえば当然のごとく孝明天皇を攻めていただろうし
大政奉還の際には明治天皇を幕府に逆らうものとして攻めた
禁門の変で容保が孝明天皇から忠臣の歌をもらったのは
たまたま唯一幕府と朝廷の利害関係が一致する事件だったからに他ならない
容保が朝敵でないとするのは誤りであるし
逆に容保が朝廷側の人間であったという方が容保に対して失礼だろう
220 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 19:03:53
いえいえ、会津藩の中央政界への登場は、薩摩藩島津久光と岩倉具視らの斡旋によるもので、
最初は、江戸の幕府に対抗する朝廷側の武力として期待されたものだったのですよ。
事実、孝明天皇は身辺を会津桑名に警備させつつ、自らの権威で江戸の幕府へ干渉を続け、
この時期に江戸の権威は落下し、京都の朝廷と、京都に越して来た幕府の出先機関とで日本は運営されるようになります。
ところが、会津桑名は新撰組や見廻組を用いて尊王攘夷派浪士へ捕縛殺害を繰り返し、彼らと完全に敵対し、
また、京都の政界では薩摩や諸侯側と一会桑との対立が激化し、この最中に将軍家茂が死亡し徳川慶喜ら一会桑が幕府を手にします。
すると、幕府側に鞍替えした一会桑が、朝廷や諸侯と対立するようになり戦争に至ります。
要するに、会津や桑名は幕府を手にし、朝廷を裏切ったわけです。
会津の何が忠義なのかと思います。会津は実のところ、朝廷にも幕府にも従っていませんから。
>210-213
正成が守ろうとした後醍醐流の皇統は室町時代半ばには完全消滅して歴史から消え去った。
以後の歴史で皇統を保ち続けた北朝の中では、明治維新に至るまでずっと、正成は逆賊として語られ続けた。
>219
まあ、そうだよな。
ちなみに。禁門の変での長州藩は誰の目から見ても逆賊ではあった。
このときの長州の言い分は叛乱を起こすヤツが伝統的に口にする言葉である「君側の姦を討つ」の亜流にすぎないし。
>220
>ところが、会津桑名は新撰組や見廻組を用いて尊王攘夷派浪士へ捕縛殺害を繰り返し、彼らと完全に敵対し、
この時期には京都の治安を乱す叛乱勢力は薩長だったから、
朝廷からも会津の活動を頼みにしていた。
岩倉たちは朝廷内では非主流派で、岩倉らとの対立と朝廷との対立はまったく別物だったしなあ。
(つまり、岩倉たちとは対立しても朝廷とは対立していない)
朝廷と対立するようになったのはもっと後の話だろう。
222 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 19:40:38
どうも時系列がおかしい人がいる。
>岩倉たちは朝廷内では非主流派で、岩倉らとの対立と朝廷との対立はまったく別物だったしなあ。
岩倉具視は公武合体派で、この頃騒がせていた尊王攘夷派ではないのですが。
>(つまり、岩倉たちとは対立しても朝廷とは対立していない)
>朝廷と対立するようになったのはもっと後の話だろう。
徳川慶喜の将軍就任以降、朝廷と一会桑ととの対立は激化してゆきます。
諸侯まで敵に回したのは、京都への進軍を行った会津・桑名の責任でしょう。
223 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 19:45:52
どうも
>>221の発言に根拠が見当たらない。
>叛乱を起こすヤツが伝統的に口にする言葉である「君側の姦を討つ」
東北戦争で東武皇帝を擁立しようとした会津藩は、あなたの言う「叛乱を起こすヤツ」にしか見えない。
実のところ、王政復古以降の会津の行動は逆賊以外の何者でもないわけで、それを忠義と言い繕うところに無理がある。
224 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 19:53:34
>>220 いや、島津久光は単独で幕府にものを言えない外様大名なので
ものを言いたいときに朝廷を使ったというだけで、
何も朝廷側の人間ではなく、むしろ朝廷を利用する人間。
孝明天皇もこれに乗じて朝廷権力挽回に勤めたため
薩摩藩を利用したわけだが。
島津久光は江戸幕府存続を望んでいたし、
朝廷側の武力として会津を用いたわけではない。
また、容保も大勢の兵を率いて入京して朝廷にその権威を見せつけ、
反幕府勢力を徹底的に取り締まった。
孝明天皇は強引な長州を嫌っていたから利害関係が一致したが、
何も容保は孝明天皇の好きにさせていたわけではない。
朝廷の監視は京都守護職の大事な任務だった。
225 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 19:59:48
それにしては、一会桑は開港問題では執拗に横浜鎖港を徳川家茂に迫り、
孝明天皇の命令で徳川家茂を京都居住と定め、江戸に戻しませんでしたが。
一会桑は孝明天皇の権威で成長し、江戸幕府を乗っ取った勢力と看做すべきでしょう。
227 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 22:24:58
>>225 勅命で妹を徳川家茂に嫁がせた孝明天皇は公武合体派であり、
妹婿の徳川家茂より何の繋がりもない容保を信任する意味がない。
孝明天皇は朝廷復権のために容保や慶喜を利用したかもしれんが、
江戸幕府の存続は認め、家茂の将軍職も認めている。
慶喜や容保は家茂と将軍職を巡って対立した関係にあり、
孝明天皇が家茂と対立して容保を入れる意味がないのだが。
228 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 23:13:39
>>227の回答は
>>225でしょうね。
というより、事実を憶測で否定しようとしている。
孝明天皇による徳川家茂の京都連れ去りと、
孝明天皇の威を借りた徳川慶喜・松平容保による執拗な対外条約破棄要求は、
江戸幕府から京都の一会桑への権力の強奪という形で、徳川家茂の権威と健康を傷つけました。
229 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 23:24:20
>>228 だから、徳川幕府内には慶喜派と家茂派という二派の対立がはじめからあった。
そのどちらもが朝廷権力を利用して自分に優位に進めようとした。
倒幕の先鋒だった長州藩は三条美実らと結んで強引な尊王攘夷を進めようとした。
家茂を京に呼び出したり石清水行幸に同行させたりしたのは会津・薩摩の意向ではなく
むしろ長州の意向であり、逆に親家茂であった孝明天皇の意向を傷つけ、
孝明天皇は長州藩を退けてしまう(八月十八日の政変)。
退けられた長州藩は尊王攘夷をあきらめきれず、薩摩・会津に囲われた孝明天皇を救い出すと称して
禁門の変をおこし、ますます孝明天皇を怒らせた。
薩摩・会津は尊王攘夷派ではないし、徳川家茂に対する強硬策のほとんども
長州藩によって編み出されたもの。
薩摩・会津の主導によって尊王攘夷が実行されたわけではないよ。
230 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 23:31:42
いえいえ、横浜鎖港問題は孝明天皇が要求し、徳川慶喜・松平容保らの支持によって
孝明天皇が徳川家茂へ無理な要求を飲ませるという形をとっています。
京都の一会桑は徳川家茂存命中は、反江戸幕府の立場で攘夷を推進していました。
彼等が諸侯のように開国へ転じていたのなら、江戸幕府は孝明天皇だけを相手にすればよかった。
しかし実際は、一会桑は自らの権力増大のため、徳川家茂へ無理な要求を出し続けた。
231 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 23:40:39
異国船打ち払い令もですね。
孝明天皇の要求を一会桑は江戸幕府に提示し、
実行不可能な要求を飲ませることで江戸幕府から権威を奪っていった。
一会桑は孝明天皇の尖兵として反幕府攘夷運動を推進していました。
これで一会桑が幕府恩顧だと表現するのには、無理があります。
彼等が幕府を手にするのは徳川家茂の死からのことでした。
232 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 23:43:56
>>230 「反江戸幕府」という使い方が間違い。
正しくは、慶喜&容保は「反徳川家茂」。
家茂と慶喜の争いは元々あったと言ったでしょ。
慶喜と容保は将軍後見職、京都守護職の地位をきちんと受けているし、
江戸幕府存続は異論なく賛成していた。
そりゃ、江戸幕府がなくなったら徳川(松平)一門に生まれた
自分自身の既得権益がすべてなくなってしまう。
ただ単に家茂の将軍就任が不満だったから家茂のやることに文句を言っていた。
家茂憎しで反論を繰り返していただけで、江戸幕府をつぶそうなんて
みじんも思っていない。
233 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 23:50:46
いいえ。
徳川家茂が将軍の座にあり、一会桑が将軍の権威を否定する形で
江戸幕府から一会桑への権力の強奪を実行し続けた以上、
徳川家茂存命中の一会桑の行動は、反江戸幕府に他なりません。
松平容保は、孝明天皇恩顧と主張しうる時期には、江戸幕府には反抗していたし
その後も徳川慶喜の意に反し、京都で天皇に弓を向け敗北し、賊軍の汚名を旧幕府全体に被せ、
徳川慶喜が恭順の意思を明らかにした後も、徳川慶喜の権威を否定する形で戦闘を続け、
新政府に対する徳川家の立場を不利にしていった。
松平容保を忠義の人扱いする人がいるが、何が忠義なのか分からない。
彼が忠義と言うのなら、どんな裏切り者も忠義の人だろう。
確かこの要職?臨時職は前田や仙台にも打診あったけど
すぐ固辞してる件。ヤバイとみんな思ってたけど保科家家訓がなぁ・・
国許の家老が否定している家訓を持ち出すこと自体、立身出世と京都暮らしがしたかったんだよ
でも会津藩の財政は火の車で一揆多発
領民のことを考えない領主ではあったね
237 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 00:23:19
国許の実情を考えない浪費は、名君の誉れ高き阿部正宏の例もあるので一概には言えない。
しかし松平容保の場合、一揆が頻発しても京都駐在を辞めず、
京都で政変が起こって一気に賊軍に転じたと思ったら、関東各地に兵を出し更に浪費の上新政府の怒りを買い、
降伏を勧められても従わずに東北全体を戦場化し、日本全体に犠牲を撒き散らし、
おまけに明治以後は俺は正しいと反政府姿勢で一生を過ごした。
ついでに、昭和の軍国主義すら、会津関係者の主張する会津正義噺が元になってしまった。
さらに現在日本を苦しめている悪性デフレも、会津武士道の説く清貧主義が元凶だ。
酷い人間だよ、松平容保と彼を支持する人間は。
238 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 00:25:04
ああ、阿部正弘だった。語句を訂正する。
なんで会桑は他の佐幕派大名と仲悪いの?
241 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 03:07:33
長州は売国奴だよ。
主上への忠義一筋。
文字通り武士の鑑よ。
自分への忠義一筋、って、忠義と言えるのでしょうか?
御宸翰と御製、それを入れていた錦袋、禁門の変図屏風、牡丹獅子図金屏風を、ガラスにくっついてじっくり観覧しました。
綺麗に表装されていて、本物なんだな〜と思いました。
鶴ヶ城 御宸翰公開
解説文には「会津は孝明天皇の絶大な信頼を得ていた官軍であり、これらの展示はその官軍性を表すものである云々」といった事が書いてありました。
【御製】
たやすからざる世に、武士の忠誠のこころをよろこひてよめる
和(やわ)らくもたけき心も相生の まつの落葉のあらす栄えん
武士とこころあはしていはほをも つらぬきてまし世々の思ひて
これ以外にも複数、松平容保は孝明天皇から直筆の御宸翰をいただいています。
という訳で、「暴論をつらね、不正の処置増長」し、時の天皇を「心痛耐え難く」した人たちに
「会津は帝に逆らった賊軍」とか言われるのは甚だ心外なのであります。
246 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 07:55:52
明治天皇以降の天皇へ全て敵対し、現在でも天皇家への悪評を撒いて暮らしていることについてはスルー
247 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 09:09:55
>>245 それならば会津は明治天皇に降伏して真っ先に官軍に加わるはずなのにね?
足利尊氏は昔後醍醐天皇の篤い信任を受け、後醍醐天皇の官軍として戦った。
後醍醐天皇からの信任厚い証拠に後醍醐天皇から名前を一字もらったりした。
だけど結局後醍醐天皇と敵対し、これを攻めた、みたいなもんだよね。
昔、会津と孝明天皇は一時的に利害関係が一致していた時期があったけど、
のちに会津は朝廷と利害関係が一致しなくなり、朝廷と争った。
しかも、朝廷が勝ったからって昔の遺品を所持されてもねえ。
会津が明治天皇に刃を向けた事実は変わらない。
248 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 09:49:46
しかも、会津松平家は御宸翰は出してくるのに歴史史料は絶対に出さないんだよ。
よほど会津は悪事をやらかしているのか、無いの一点張り。
でも御宸翰は出してくる。
不思議な家さ。
249 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 14:07:36
>>会津は孝明天皇の絶大な信頼を得てい
会津を攻めた明治天皇はどれだけ親不孝ものだよw
明治天皇は16歳にして父孝明天皇が佐幕攘夷派(親徳川派)なのか倒幕開国派(薩長派)
なのか知らなかったバカ天皇。さすが明治大帝といわれただけのことはある。
維新後父孝明天皇を暗殺しようと企てた岩倉伊藤を政治の側近にしてしまう
明治天皇はまさに親不孝者の天皇。さすが右翼が「お父さんお母さんを大切にしよう」
と街宣するだけの事はある。(言ってることとやってることが正反対)w
バカ天皇を祭り上げ殺戮暴行を繰り返す長州人w
>バカ天皇
な?これだから会津は朝敵逆族なんだよ
御所から出た事なかった孝明天皇だって世界情勢はまともに把握してなかったヨw
よく分らない割には戊午の密勅にはじまり勅書宸翰の乱発で数々の事件の火種になりはしたがw
>>250 孝明天皇崩御時身辺を固めていたのは一桑会で岩倉や長州は近づけないんだが?
よって暗殺に拘るなら犯人は兵庫開港問題で悩んでた会津らの仕業w
最終的な勝者は常に会津で、長州はいつも敗北者。
長州人「ムキーーーーーー!!!」
会津観光史学が対長州だから、会津観光史学洗脳者も自然と長州に視線を送る。
解りやすいだろ?会津観光史学洗脳者って。
悲劇のヒーロー会津 vs 極悪非道の長州
天網恢々、正義の天秤は必ず正しきものに報いるものだ。
守護職に歓喜して就任した不思議。
新撰組を藩預かりにして浪士の恨みを集めた不思議。
将軍と大阪逃亡、重臣の神保詰め腹。
世羅の言う殿様の首を差し出せば、会津攻めはなかった可能性。
(長州征伐みたく家老全員の首でもよかったかも?)
仙台、米沢救済に動いたのに、武装して篭城論。
会津に遁走してきて、東北を戦火にさらす決断。
猪苗代より不毛地帯をチョイスした不思議。
すべて逆のベクトルに動く・・・・
258 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 19:40:52.22
ならぬものはならぬものです、というのがいけない。
目の前に現実に起きていることも、上から「見てはならぬもの」と言われているので見過ごしてしまう。
おかげで会津人の政見に頼ると事態が悪化する。
昭和の軍国主義も、彼ら会津人は日本の精神性を守るために必要だと言っていた。
平成のバブル退治も、彼ら会津人は日本の精神性を守るために必要だと言っていた。
どちらとも日本を破壊するどうしようもない愚行であったが、未だに会津人は
武士道のためには犠牲はいくら出しても良いし国が潰れても良い、社会が絶滅しても良いと言ってくる。
どうしようもない、会津人が持ち出した時点でその忠義も武士道も腐り果てている。
会津観光史学洗脳者って18時辺りで一回消えるのか(笑)
しかし会津観光史学洗脳者って、毎度毎度、発言元が不明だよな〜。
で、会津って、ドイツに売国しようとしたんだよな?
260 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 20:22:15.69
ここの会津賛美は、親元で生活しているとは聞きましたが
それでは平日日中もかまわず延々と出てくるのが、家に常駐しているようにも思えます
まあ、会津若松は雪に閉ざされるので、引きこもりには良いところです
会津が売国行為を行ったということに関しては、外国史料まで出てしまったので定着するでしょうね
それにしても、会津人が盛んに唱えていた、「明治新政府は千島樺太交換条約で樺太を売った売国奴だ」説は、
根拠がなかった(江戸幕府が北海道を開発せず領土保全を怠っていたため、江戸時代にロシア人入植者で樺太は押さえられてしまっていた)し、
逆に会津の売国の証拠が出てくるということで、彼ら会津若松を愛する人々の発言は、決まって逆効果なのだと思い知らされます。
東北戦争時、会津藩が江戸幕府から警備を任されていただけの北海道の幕府領をプロイセンに割譲しようと
会津・庄内の代表がプロイセン外交官へ伝達していた、という売国行為
前述の会津人の発言ともあいまって、ここの会津擁護の出鱈目さを暴露する結果となったようです
明治新政府の北海道開発重視の姿勢は、樺太を徳川幕府の開発放棄で失った
という苦い経験に基づくものであったのに、会津に言わせると
「東北へ資本を投下しなかった、差別が行われた」だもんね。
会津や仙台が江戸時代に放置し、そのおかげで現実に樺太という領土が消えたということについて、
この両藩は反省をすることはない。しかも東北イジメだと言い張り、更に中傷を仕掛けてくる。
明治新政府の北海道開発は、江戸時代の幕府や仙台・会津の怠慢を償うものだった。
>>258 ていうか武士道と朱子学の悪い所を煮詰めたのが会津気質。
プライドばかり高い反面差別的で後先考えない。
263 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 22:02:13.11
>>250 孝明天皇からしたら会津など地べたに這いつくばって尽くす
駒にすぎないのにね。
会津だけが唯一孝明天皇の絶大な信頼を得ていたというのは誤り。
孝明天皇は長州藩や薩摩藩とも蜜月時代があり、
こっちにはもっといいもの渡してるかもよ?
そりゃあ、孝明天皇にとってみれば成人するまで育った唯一の男子
明治天皇は何よりも大事で、会津が滅びようが知ったこっちゃない。
その明治天皇を裏切った会津は孝明天皇をも裏切った逆臣。
>>254 とうとう史実の会津と長州を入れ替えた妄想の世界に逝ってしまったか…
そんなに嫌がらず自分達の郷土史を直視しろよw
会津民なら戊辰戦争で出兵した先の地域の記録も探しやすいだろう
会津の暴走と蛮行に関する苦言だらけだからよく読めw
265 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 22:39:39.48
>>264 おじちゃん
今日も一日中会津を叩いてたの?
坂本龍馬暗殺指令犯人=松平容保
>>266の根拠は多分手代木証言だろうけど仮に今の警察が
このレベルの情報得たらどのくらいまで動くかな?
(都道府県警ごとに温度差あるとは思うけど)
1.噂話として片付ける
2.事件の鍵を握る人物として張り込みや周辺の聞き込みをする
3.重要参考人として任意で事情聴取や礼状取って家宅捜索
4.礼状取って逮捕
つ時効
当時露見してたら容保も
新政府の金で都内の豪邸で遊び暮らしたりなんてできなかったろうw
土佐藩の谷干城なんかは過去は不問に処す方針だったらしいが、
陸援隊で中岡慎太郎の右腕だった田中光顕は犯人を探していたみたいだからな。
ちなみに手代木は生涯給料の半分を元藩主に貢ぎ続けた忠義者、
罪悪感に耐えかねたと見える。
>>268 それ言ったらミもフタもありませんがなw
まあ「今の警察が」じゃなくて「今の捜査基準で」って書いたほうがニュアンス
伝わりやすかったんだろうけどさ・・
とはいえ確かに警察に捕まるよりも元土佐藩士の報復のほうが
現実的にはありそうかもw
暗殺じゃなくて被疑者死亡だろ。一応指名手配犯だから(池田屋事件かなにかのときに
捕り方を撃ち殺しているので)。特別公務員凌虐致死罪とかなら考えられるな。
時効でも事情聴取はする筈だ。
272 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 21:05:50.96
松平容保は曲がりなりにも徳川一門のだし
龍馬暗殺を指示してても明治新政府から一切罪には問われないんじゃないか。
明治維新後、新政府がどっかの大名を切腹させたとか一切ないからな。
ましてやどっかの浪士を殺しただの何だの、馬鹿馬鹿しくて事情聴取もないだろう。
>>272 薩摩黒幕説が通用しなくなってきたから
龍馬を叩く事で容保の罪を少しでも軽くしようとする…
さもしいねえ、この会津根性
性根が腐ってるw
>>272 このスレで会津の悪行を徹底的に暴いてやるから覚悟しろよおまえw
会津という神話―〈二つの戦後〉をめぐる〈死者の政治学〉 田中悟[著]70年生まれ。神戸大学助教(政治学)。
[掲載]2010年4月25日 asahi.com
[評者]中島岳志(北海道大学准教授・南アジア地域研究、政治思想史)■呼び戻された「悲劇」の死者
「いまだに長州への怨念(おんねん)を抱いている」
お酒の席でそんな思いを吐露する会津の人と、私はこれまで何度も出会ってきた。
幕末の戊辰戦争で長州軍にさんざん痛めつけられた会津は、いまでもその時の恨みを忘れていないというのである。
しかし、本書の著者はそのような感情は戦後になって高揚したもので、戦前・戦中の会津では、長州人と同じ「勤皇精神」の持ち主だという思いが大勢を占めていたという。
「長州への怨念」は、戦後に「無垢(むく)な敗者」「近代日本の被害者」というアイデンティティーを獲得する過程で、あらためて喚起され直した感情だというのである。
戊辰戦争の死者は、明治政府によって「賊軍」とされ、国民の物語から排除された。
しかし、会津の人たちは勝者による物語の独占に異を唱え、自分たちこそが真の勤皇の志士だったと主張する。
そして、国民の物語への吸収を悲願とした。
この願いは、1928年に会津松平家の節子(勢津子)と秩父宮雍仁(やすひと)の縁組が実現することで果たされる。
さらに30年代後半、徳富蘇峰が各地で行った講演で、「会津は逆賊などではない」と強調し、その「尊王の大精神」を称揚したことによって達成された。
そして会津の「勤皇精神」は「大東亜戦争」中に国民が見習うべき規範という地位を確立し、絶頂期を迎える。
しかし「大東亜戦争」の敗戦によって、会津の人々はこの物語をリセットし、司馬遼太郎による「悲劇の会津」という新たな物語に飛びついた。
会津人は「軍国主義の寵児(ちょうじ)」という側面を「忘却の淵(ふち)に沈め」、好都合な「司馬史観」に乗り換えたのである。
その過程で白虎隊の「非業」や「純粋さ」が神話として再設定され、会津の観光化の中で利用されていったと著者は主張する。
会津にとっての二度の敗戦経験は、どのような記憶を紡ぎだし、何を忘却していったのか。
本書の問いかけは、会津という空間を越えて、靖国神社に象徴される「国家と死者」の問題に鋭いメスを入れている。
277 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 14:50:31.00
>>276 悪いが、会津厨でも何でもないんだが?
龍馬が松平容保の命で殺されていたら、どうなると思ってるんだ?
当時、京都守護職解散前で、京都の治安は容保が預かっていた。
龍馬は伏見奉行所の役人を殺害した殺人犯だ。
仮に京の治安を守るために龍馬の殺害を命じたところで何の咎めがあるんだ?
明治維新後も龍馬を殺したと言って薩長が新撰組の奴を殺したりしているが
新撰組に対する私怨に近く、あの時代に何を言っても始まらない。
278 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 20:53:06.20
会津に関する問題は、坂本龍馬殺害の罪を薩長に着せて自己正当化をやらかしてきたというところだろう。
薩長から奪い取ればよい、あそこの出身者を差別すればよい、
そのような言葉を経済誌や通俗歴史雑誌で現在でも毎月のように見かける。
会津藩が好きと自称する人の性癖なのかもしれないが、彼らには嘘で他人を罵る習慣がついてしまっている。
だから嘘がばれると、このように逆方向の煽りが出てくる。
279 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 21:30:41.95
はっきりいえば、松平容保による龍馬暗殺は、松平容保の徳川慶喜への裏切り行為なんだ。
四境戦争=長幕戦争=第二次長州征伐で、江戸幕府が敗北を重ね、将軍徳川家茂が大阪城で急逝すると、
一橋慶喜は終戦工作を始め、京都における幕府に代わる自らの政権作りに乗り出した。
当時慶喜は、幕府に代わる自らの政権創設のために土佐藩との提携を模索していた。
山内容堂にとっては、容堂をはじめとする当時の有力諸侯が
政権に参加することが明示されなければ、徳川慶喜に協力できないわけで、
そのために大政奉還を実行するように要求した。
徳川慶喜はこれを了承し、大政奉還が宣言された。
ところがその土佐藩で大政奉還の立役者であった坂本龍馬を、徳川慶喜の部下である松平容保が暗殺してしまうと
徳川慶喜は土佐藩を味方にすることが困難になる。
この時点での旧幕府側からの暗殺は、徳川慶喜の政治方針を潰そうとする裏切り行為に他ならない。
徳川に忠義を尽くしたっていうのは
「四賢公」の山内容堂や松平春嶽らの事を言うんだよ。
他の佐幕派諸侯や幕臣と松平容保の行動を見比べて見ろ。
コイツは自藩の体面を保つために汲々としてただけのバカ殿じゃねえか。
281 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 21:58:30.29
初期と途中までは評価できる部分もあるのだけどね。
尊王攘夷派捕縛即処刑も、当時の政治状況では止むを得なかったという意見もある。
しかし大政奉還前後から現在に至るまでの松平容保とその後継者・シンパの行動には
評価すべき部分が全く見当たらない。
味方の足を引っ張り
起こしてほしくない騒動を殊更に煽り
政治では裏工作暗殺三昧
会津軍が出向けば略奪暴行放火が日常
朝廷も将軍も日本国政府にも敵対し、降伏後も相手が悪で我々が正義と言い続ける
282 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 22:48:45.48
>>279 龍馬がいつからそんなに偉い人間になったんだ?
徳川慶喜が一介の浪人、坂本龍馬なんて男を知っていたとも思えんが。
ついでに言えば土佐藩が坂本龍馬を大政奉還の立役者として大事にしていたということもない。
大政奉還という考え方こそ入れたものの、土佐藩は坂本龍馬という男に恨みがある、
そりゃそうだ、本来脱藩者など討ち首なのだから。
それを帰国命令にも従わずのうのうと逃げ回っていたのが龍馬だ。
龍馬暗殺犯は土佐藩だと言う説があるくらいだ。
283 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 23:14:59.93
>>282 >ついでに言えば土佐藩が坂本龍馬を大政奉還の立役者として大事にしていたということもない。
>大政奉還という考え方こそ入れたものの、土佐藩は坂本龍馬という男に恨みがある、
>そりゃそうだ、本来脱藩者など討ち首なのだから。
>それを帰国命令にも従わずのうのうと逃げ回っていたのが龍馬だ。
>龍馬暗殺犯は土佐藩だと言う説があるくらいだ。
この部分に根拠が全く見当たりません。
長幕戦争における江戸幕府の敗北後、江戸幕府のままでは政権が維持できないという空気が
朝廷・諸侯はおろか京都の徳川慶喜の周辺にまで認識として広まり、徳川慶喜は次政権創設への準備行動を始め、
土佐藩では、以前弾圧していた土佐勤王党への急接近が起こります。
この過程で、薩長同盟を成立させた中岡慎太郎・坂本龍馬は土佐藩の広告塔として
土佐藩が尊王攘夷派に接近する道具として重用されるようになります。
薩摩藩が出資する坂本龍馬の亀山社中が、土佐藩出資の海援隊へと衣替えするのもこの頃です。
土佐藩にとって坂本龍馬は、土佐藩を薩長尊王攘夷派へ取り入る際に欠かせない人物でした。
そして彼の土佐藩による大政奉還斡旋提案が、後藤象二郎を経て山内容堂へと伝わり、大政奉還要請となります。
ちなみに、徳川慶喜自身は後世、
「坂本龍馬? それ誰?」と受け答えをしたそうですが
これについては、松平容保が暗殺命令を行ったとされる当時、
徳川慶喜は容保の主君そのものでしたので、
いくら容保の行為が慶喜の意に沿わない犯行だったとしても、
管理不行き届きを対外的には認めることが出来なかったのかもしれませんね
容保は上司に後世まで迷惑をかけたというわけです
>>282 土佐藩が金出して海援隊・陸援隊になった訳だが。
無知乙w
土佐藩が龍馬に恨みって何だ?
この時期既に土佐勤王党の生き残りと勤王派上士が遺恨を忘れて手を組み共に土佐と京都を行き来してるぞ。
龍馬は権限こそないが「坂本龍馬入京」がお偉いさんの日記記録に残る位には有名人。
まあ慶喜くらいになると龍馬を知らなかったかもね。そこは問題じゃないの。
容保達の大政奉還反対工作とは
せっかく纏まりかけてる徳川生き残りのプランを潰す行為なの。
>284
そうかな?
直接の関係者や知人ならともかく、
それ以外の人にとっては坂本龍馬はほとんど無名人に近くて、
司馬遼太郎が小説の題材にするまでは知られてなかっただろ。
単純に、徳川慶喜は龍馬という人物のことをまったく知らなかっただけじゃないかな。
>282とか285とか
薩摩や長州も含めて、たいていの藩では当時は派閥争いが激しくて
派閥間の力関係によって藩論が左右されてたわけじゃん。
土佐藩にだって、坂本龍馬と親しいグループもあれば敵対的なグループもあった、のではないかい?
288 :
日本@名無史さん:2011/02/23(水) 00:02:55.01
清河八郎や山岡鉄舟ら幕府内尊王攘夷派が暗殺・罷免で幕府から遠ざけられたことについて
君はどう思うのかな?
あちらの方が人材としてはマシだったと思う。
そして、土佐藩で坂本龍馬を狙う人間なんて聞いたことがない。
尊王攘夷派にとっては薩長同盟の立役者にして武器供給者、山内容堂らにとっては大政奉還の実行者、
どちらにしても敵対者のいない状況。
ただ、大政奉還に反対した松平容保らの周辺が気がかりであったが、
徳川慶喜の方針を松平容保が裏から転覆させようと狙っているとは、坂本龍馬は思わなかったというわけだね。
>>287 手紙で複数人に有名人になったねーとか言われてるよ龍馬。
なんで大政奉還が龍馬→後藤→容堂のコースで建白されたかわかってる?
大政奉還には藩内の勤王派弾圧で出遅れた土佐藩の復権と徳川の地位の維持が掛かってるんですけど…。
あと大政奉還の表向きの立役者は後藤だよ、龍馬はそのブレーン。
まあ大政奉還前後に薩長土間を行き来してれば何してるかの察しは誰でもついただろうけど。
日光東照宮宮司を務めただけあって都合が悪いと「見ザル 聞かザル 言わザル」でごザルの〜
291 :
日本@名無史さん:2011/02/23(水) 12:47:54.77
>>285 海援隊は脱藩していた龍馬が薩摩藩に近づき、
薩摩藩の資金援助でできたものだが?
無知はどっちだ、乙w
海援隊には土佐藩出身の者もいたが皆脱藩しているし、
他藩のものも入隊している。
どこが土佐藩の援助でできた、だ。
>>291 薩摩の援助でできたのは亀山社中だろうがアホがw
初歩的な間違いすなぁ
日の本一の忠臣大容公
295 :
日本@名無史さん:2011/02/24(木) 15:55:09.80
江戸幕府の忠臣なら、徳川家茂の開国維持をあからさまに否定し、異国船打ち払い令を押し付けたりはしない。
孝明天皇の忠臣なら、攘夷の誓いを破って開国推進などに転じない。
明治天皇の忠臣なら、王政復古を無視して天皇へ軍を向け、その後も東北全域を巻き込み戦争を続けたりはしない。
徳川慶喜の忠臣なら、江戸開城以後に徳川慶喜の恭順を無視して関東での武装蜂起に参加したりはしない。
日本国の忠臣なら、内戦に際して外国に領土割譲を進言して歓心を買おうなどとは思わない。
松平容保はこの全てに違反している。
松平容保はこれらの全ての主君に対して、どうしようもない逆賊として生きた。
松平容保は、京都に来た最初の頃は名誉欲と忠臣ぶりが両立していたが、
徳川家茂の死のあたりから、松平容保自身の権力維持が優先され、
主君を取り替えては、前の主君へ唾を吐きかけるような行動を行うようになる。
東北戦争の頃になると、別人を天皇に擁立し挿げ替えようと画策したり
果ては、会津藩領ですらない日本国領土を他国に割譲しようとしたりした。
会津は主君を取り替えていった結果、全ての主君を裏切って孤立した。
最後は仙台藩を上位者としたが、仙台藩が先に降伏して見捨てられた。
実際は、清廉潔白、義を重んじる人物だったからこそ、今に至るも武士の鑑、日本民族の手本として会津武士道が讃えられるのだ。
298 :
日本@名無史さん:2011/02/24(木) 20:19:41.81
会津お得意
根拠なしの妄想
はい、マッチポンプ完成w
1:会津を褒める、もしくは穴だらけの論を展開
2:すかさず反論
3:基本、単発だから反論なし
4:勝利宣言
アンチってずっと前からこの調子だろww
300 :
日本@名無史さん:2011/02/24(木) 20:46:02.90
むしろ、穴だらけの話しか出来なくなったので
穴だらけの会津の論と、それに対する指摘を意図的に混同させ、マッチポンプ扱いすることにしたんでしょ
会津はそんなことをしても、
会津側にまともな論理が出ないことには変わりがないことに
気付くべき
302 :
日本@名無史さん:2011/02/28(月) 23:06:44.39
これは会津若松の地域性が推し量られる展開だね。
会津側が決定的な失言を行ったスレは、彼らが放棄するので沈む傾向にある。
>>291 亀山社中にどう土佐藩の息が掛かっているのか、説明してほしいものだ。
松平容保は、龍馬暗殺によって徳川慶喜の大政奉還を裏から破壊しようとした、とんでもない裏切り者だね。
〜朝敵・松平容保物語 あらすじ〜
・将軍徳川家茂から権力を奪いたい→孝明天皇の忠臣だから私は江戸幕府に逆らってもいいんです
・江戸幕府の将軍を慶喜公が手に入れました→将軍のために孝明天皇の攘夷方針は捨てて明治天皇を掲げます
・明治天皇が会津を排除した王政復古を起こしました→徳川慶喜の名で軍を明治天皇へ向けます
・敗北して徳川慶喜は恭順することにしました→恭順なんて徳川の天下に逆らう行為だから慶喜の意見なんて捨てて抵抗します
・関東は鎮圧され恭順となりました→徳川は頼りないので仙台藩を盟主と仰ぎます
・仙台藩が降伏しました→それでも私は正義なのです、論理的な説明は出来ないけど。
304 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 10:43:35.64
龍馬暗殺の黒幕ってイメージしかないんだが
でもでも、孝明天皇から下賜された菊の御紋のアイテムあるから
官軍だお!
松平容保はそのすぐ後に、孝明天皇の攘夷の遺志を踏みにじったよね。
家茂と孝明天皇を毒殺したのは天下を支配したかった会津藩なんだろうな、と。
少なくとも一桑会が
オラッ考明天皇様の御命令だぞオラッ
とどう見ても不可能な外国船打ち払い令を家茂に強要し
幕府の権力と家茂の健康を害したのは確か。
考明天皇死後?
これからは明治天皇様の時代ですよねー攘夷なんてムリムリ
会津の言う忠義なんてこんなもんですハイ。
我が大君に召されたる
生命光栄ある朝ぼらけ
讃えて送る一億の
歓呼は高く天を衝く
いざ征けつわもの会津兵士
310 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 21:43:13.27
軍歌か昔の校歌の一部だけ改変してあるような・・・
題材に使われた元歌が泣くね
大体、戊辰戦争時の日本の人口は一億ではない。
考証が間違っている。
数字は多少大袈裟だが会津人の精神をよく表してる。
313 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 22:03:58.17
軍歌なら、日本人を意味する単語を押しのけて会津を代わりに入れたことになる。
なんて傲慢な振る舞いだろう。
ところで、本当に会津藩士はつわものだったのだろうか?
鳥羽伏見からはいいとこなしだし、敵が白兵主体だった禁門の変のときも薩摩が間に合わなかったら突破されるとこだったんだろ?
315 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 22:47:55.84
役に立つ気があるのなら、兵士の中に入れるべきだろう。
しかし会津藩は戊辰戦争時にはあまり勝利には縁がなかった。
鳥羽・伏見の戦い:旧幕府軍瓦解の原因の一つが会津藩の惰弱さ
宇都宮城の戦い:大鳥圭介の命令に必ずしも従わず戦力集中を怠り敗北の一因へ
白河城の戦い:戦闘の初期に城を奪回され、いくら大軍で攻めてももはや城は陥落せず
長岡の戦い:略奪暴行放火など悪評を列藩同盟内の他藩が記述、最後は長岡市を焼き払って会津へ逃亡
鶴ヶ城の戦い:最初に藩主命令で城下を焼き払うが白虎隊は何が起こっているか把握できず集団自殺
城門を早々と閉ざしたため各所で特攻と自決が相次ぐ
戦後堀を探すと後ろ手に縛られ刺されて死んだ新政府兵士の死体が次々と上がる
悪い点ばかりが目立つ
>311
現代人による偽作としか思えないな。
明治維新の頃の日本の人口は三千万
日露戦争の頃でさえ六千万ぐらいだろ
一億とか言い始めたのは昭和に入ってからじゃないの?
それぐらいだったら「実数としては八千万だが、ちょっと誇張して一億」とかできるしな。
>313
お前さんが適当に書いたんじゃないんだな?
>314
「つわもの」とは「兵」のことだろ、
戊辰戦争に従軍して戦ったことがある人は誰でも「つわもの」になるんじゃないか?
317 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 13:46:53.26
松平肩こり
318 :
日本@名無史さん:2011/04/04(月) 08:07:55.19
会津藩士人気だなw
ハプログループD(縄文人)はネアンデルタール系
http://gigazine.net/news/20110331_humans_mate_neanderthals/ ネアンデルタール人の脳の発達は現代人と違う道筋をたどっていることが判明
「haplogroup D」は他の変異体とは異なっていて、研究チームはこの変異体が
少なくとも約100万年前には存在していたと考えており、これは現代の人類である
ホモ・サピエンスの出現以前のことになります。
研究チームは先史時代のホモ・サピエンスが「haplogroup D」を持つ種と交配したと
考えており、その交配した種がネアンデルタール人なのではないかと推測しています。
>また、大人のネアンデルタール人の脳は現代人とは違って小さく細長い形状をしており、
>この特徴はチンパンジーにも見られるそうです。
320 :
日本@名無史さん:2011/04/16(土) 09:36:24.77
は?
321 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 04:11:40.65
ほっしゅ
会津粘着民族キメー
北海道の処分が成功してたら、最低でも東北は日本の首都、できれば東北国を建国できたな
残念だ
325 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 10:22:57.32
この人は烏帽子が似合うよね
再来年の大河の主役は「新島八重」だというレスが、
まだ一つもあがってなかったんだな
マジで知らんかった。元々の予定はどうなってたんだっけ?
山本家って下士ではないけど「上流階級」ではないよね?
大河板で「八重って上流階級の武士の家だから」ってのがあって
首をひねってしまったのだが
329 :
日本@名無史さん:2011/06/24(金) 11:56:00.20
ここで言い争いしてる人達で有名なご先祖様の子孫とかなの?
なんで熱くなってんの?
会津だけは絶対に許さない。
いったいどういう理由で会津を憎んでるのかがすごく気になる。
明治維新で明らかに負け組だった上、その後の会津が何か勝利を挙げたような記憶がないが、
お前さんは何か会津関係者に惨敗でもしたのかい?
332 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 02:35:05.40
>>331 最終的には負け組みだが、途中までは一会桑とやらでハバをきかせてたのに
負けてからの一方的な被害者ズラが気に食わんのだろう
どーやん出身だが、八重のことは正直シランかった。
>>331 アンチなんて2chでかわいく文句言ってるだけだから
そっと見守ってやろうぜww
335 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 13:21:55.48
批判してる自分に酔ってそう
336 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 15:45:54.19
反論が出来ないと相手の人格を傷つけようとするのが会津人の特徴
>>331 じゃあ、聞いてみるが。
お前は北朝鮮or中国がなんで嫌いだ?
その答えの北朝鮮or中国を会津に変えるとわかると思うよ。
お前が北(朝鮮・中国・会津)の工作員だったら理解出来ないと思うが。
>>337 判るわけないだろ。お前が北朝鮮なんだから。
339 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 17:12:04.56
アイゴー!
会津は被害者ニダ!会業!
>>338 論理的におかしいだろ、馬鹿www
お前じゃなくて俺が北朝鮮だというなら、なんでお前自身が北朝鮮を嫌いな理由を提示できないんだ?
悪い、お前らが日本語苦手なのは分かってるんだけどな。
>337
おや、名指しで質問が来たか。
いや、オレは別に中国も北朝鮮も嫌ってないし。
二十数年来の三國志ファンだから、むしろ中国は好きな方だ。
ただ、劉表とか劉備を相手にするときと曹操を相手にするときでは、
警戒の仕方とか気の許し方が変わるだろ。
中国は曹操、北朝鮮は呂布。ぐらいに思って、
それ相応の態度で対応すればいいだけ。
軒先を貸しただけなのにいつの間にか母屋まで取られてた!
なんてことが起こりうる相手だから、警戒が必要なのはたしかだが、
そういう個性の国だってだけだ。嫌うほどのものではない。
そういう奴らと比べたら、会津とか、純朴じゃん。公孫淵みたい。
会津叩きのオナニズムが気持ち悪すぎて吐きそうだわ
知れば知るほど会津ってクソだな
346 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 02:44:45.92
>>345 正確に言うとクソなのは会津士族で
会津百姓は新政府軍の手引きをしたり
戦後に一揆を起こして猪苗代でなく斗南に行かせるなど功労者w
347 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 03:02:10.78
この人は御三家の誰の子孫だっけ?
御三家じゃなくて2代将軍秀忠の隠し子。
アンチ会津は真夜中に連投する傾向があります。
謀反に失敗したあと部下は潔く自決してるのに、当の張本人は腹も切らず生き続けるという恥さらし。
351 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 12:38:33.59
まあ、そうだな
主君(慶喜)の責めを負って自分が罪をかぶるべきなのに
命惜しさに新政府に反抗、さすがに会津武士道
>>348 ちがくね?
水戸系からの養子だろ
何代か前にも水戸から来てただろ
会津松平は本来は秀忠庶子の家なのだけど、容保は養子だ。
本来の会津松平の血統を継いでいるといえば、西郷頼母の方になってしまう。
容保の実家は高洲松平家といって尾張徳川の分家で、、兄弟は尾張徳川慶勝だったり桑名松平定敬だったりする。
しかし尾張松平家という家も、徳川宗春と徳川吉宗との対立以来、閉門蟄居に無理やり養子とかが続いていて、
本来の家系ではない。
>>351 慶喜の事は勝がやってんだから余計なお世話。新政府だってそれとこれとは別だから江戸で
止まらないんだろう。
>>352-3 そうだ養子だった。でもその話だと何処の馬の骨ってことか?
>>350 それに比べておまえは立派だよ。
後ろ見てみろ、かあちゃんが泣いて喜んでるぞw
>>353 西郷頼母家のくだり、どういうこと?
西郷さんちは養子が来る前の藩主の娘とかを嫁にもらったの?
357 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 20:01:47.69
保科家は秀忠の子を養子に押し付けられたわけだが
西郷家は本来の保科の系統で明治維新で保科に改正してる
358 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 20:07:54.26
会津松平家の本家と筆頭家老の西郷家は、互いに婚姻を重ねております。
養子としてやってきた松平容保と、国許の筆頭家老であった西郷頼母に
意思疎通のずれがあったのには、その点もあるかもしれません。
>>355 史実に対して言い返せないので言った相手を罵ろうとする、中傷のように見えます。名古屋の方でしょうか?
> 【 958 】: 日本@名無史さん 2011/03/11(金) 15:43:36.78
> 会津観光史学洗脳者もこれで頭数が減ったろ?
> どうした?
> 挑発と個人攻撃はどうした?
> 震度6だからできませんってか?
> 624 名前:日本@名無史さん :2011/04/11(月) 20:10:42.25
> 連発する余震と停電で会津は完全に死んだかな(笑)
> 得意の誹謗中傷はどうした会津よ?
> 次々にスレッドを変えて自作自演しないのか?
> 返事をしろ会津(爆)
361 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 21:55:47.35
坂本竜馬はただの三下だったのに、維新後に無理やり英雄化されているので、
割引が必要かと。
新撰組も同じく英雄化されているけど歴史学上は、その他大勢のうちの一派でしかないので、
割引が必要。
>>360 その書き込み、日にちと時間がヤバすぎる。
363 :
日本@名無史さん:2011/06/27(月) 07:31:22.61
ちなみに発信は名古屋
364 :
日本@名無史さん:2011/06/27(月) 23:33:49.13
>>363 名古屋に住んでる人間は全員会津を心底憎んでるからな
多分会津を憎んでる一般的な名古屋住人の自作自演だろう
そんな事は皆わかってるよ
ちなみに松平容保の正体はジャギだ。
むしろ他人の借金を返すために強盗殺人に走って、そちらの罪が大きくなってしまった馬鹿という感じ
親会社の倒産で起こったごたごたを従業員にすべて押し付けて逃げた子会社の社長って所かな
「白昼の死角」を思い出した。
370 :
日本@名無史さん:2011/07/06(水) 02:52:26.89
>>336 反論したら喧嘩になるでしょ…。
そこまで叩くエネルギーはどこから湧いて来るんだ?
>>336 会津人って何?
会津若松市民だとでも言いたいの?
おまえはIPアドレスがわかるのか?
>371
彼にとっては、少しでも会津関係に対して擁護的な内容を含んだ書き込みは全部、会津人による書き込みということになるのだと思う。
たぶん彼にとっては、>343 のような書き込みでさえ、会津擁護的に見えてるに違いないから、
いってみれば、会津を叩く書き込み以外は全て会津人(それもただ一人だけ)による書き込みって事なんだろうな。
373 :
日本@名無史さん:2011/07/06(水) 20:23:12.63
まあ、ここに来る会津の人が全員嘘しかついていないということには違いはないんですけどね。
そのため、ウソツキには会津を自称する権利があるということでしょう。
>>373 おまえは俺のIPアドレスがわかるのか?
375 :
日本@名無史さん:2011/07/07(木) 00:16:14.48
結局、犯罪嗜好=会津ということなんでしょう。
その通りの事を、会津若松の人間は日常的に実行しているので、反論したいのでしょうけどね。
会津若松の人間?
おまえ、IPがわかるの?
藩主が政を間違っても責任をとらない
藩主の責任はすべて末端の部下に押しつけられ文字通り命を賭けてのご奉公
どこかの原発事故と似てますね
378 :
日本@名無史さん:2011/07/07(木) 19:12:45.13
会津が嫌いなのは分かったけど、恨みでもあるの?
379 :
日本@名無史さん:2011/07/07(木) 19:46:02.23
また史実で言い返せないから恨みますーですか
会津若松の人の精神が思い量られますよ
380 :
日本@名無史さん:2011/07/08(金) 00:00:42.72
模範的なバカ殿
朝鮮儒教の考え方ではお父様が絶対だもんね。
朝鮮儒教を金正日がモディファイしたチュチェ思想では、容保様はお父様と同じで、
どんなにアレでもお父様を代えることが出来ないのと同じように、容保様を代えることが
出来ないのだから、容保様の仰ることがたとえ間違っていたとしても、黙って従うのが
正しい主体思想だもんね。
383 :
日本@名無史さん:2011/07/19(火) 00:04:40.56
>>381 ゴロツキの私刑集団(新選組)を雇ったのがケチのつき始めだな
安政の大獄でさえ裁判があったのに問答無用w
客観的証拠が何もない「池田屋事件」のでっちあげは容保の指示か
巨大な陰謀があってこその存在意義がある新選組単独のでっちあげだろう。
長州の陰謀を吹き込めば吹き込むほど重用されるからねw
稀代の馬鹿殿
386 :
日本@名無史さん:2011/08/04(木) 15:46:53.97
烏帽子イケメン
387 :
日本@名無史さん:2011/08/04(木) 16:05:23.83
老醜の肖像
恨みでもあるの?とか 憎いの? とか。
恨みがなくても憎くなくても、
ちょっと自分はそれとは意見が違うな、そうは思わないなと感じれば批判する場合はいくらでもありますよ。
それとも自分と違う意見や批判は認めないっていう感じなのかしら?
389 :
388:2011/08/04(木) 19:29:43.82
>>386 こいつが逝けメン?
ただの馬面じゃねーかw
まあ殿様顔だとは思うけど、イケメンとかキモ過ぎ。
参内すると、女官が騒いだというから、美男であることは間違い無さそうだが。
いつの時代も腐女子はいる、と。
徳川斉昭が参内しても大奥は騒いだのだが
最後に切腹でもすりゃまだ同情の余地ぐらいあったのにな
大東亜戦争で敗戦後も何らの責任とらずに生き延びた大本営のカス軍人みたいなもん
396 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 07:28:30.86
397 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 15:08:49.58
なんだかんだで松平容保も西郷頼母も生きてたよね
頼母の妻子は自害したけどな。城を出るんなら自害する必要なかったじゃん。
つーか、再来年の大河ドラマの主人公とか籠城した女子供がちゃんと役に立ってるのに
勝手に自害した人たちは全く無意味な死だよね。
食糧他物資が尽きる前に開城してるし。
>>398 会津藩が徹底抗戦を決めて籠城を命じた時に逃げ遅れて城に入れなかったから自害したんだろ
動ける男性は兵にとられて女子供老人が中心の会津城下では
新政府軍を発見して登城の鐘に合わせて人々が城に入る速度より
新政府軍が城下まで攻めくる速度のほうが早かった
城の中にいていよいよ開城するときに自害したんじゃないし
>>401 それが正しいとしたら、その段階になる前に頼母は城を出てるんだから一緒に逃げられる筈でしょ。
普通に城に逃げ込んだ人がいる中、一族で集まって自害した人たちは
間に合わないから死んだ、とかじゃなくて足手まといにならないように自害した
んだと思うよ。
しかし、この人たちはまだ理解できるが、籠城せずに自害した武士はわからん。
武士として永年禄を食んできて、いざという時に緒戦で負けたから自害します、
なんて黄泉路への敵前逃亡だろう。
戦時の武士なら最期まで戦って死ぬべきだ。
蛤ご門の時の長州系志士も同じことが言えるけど、戦国武士に比べると
どうしようもなく軟弱だよね。
少なくとも吉田松陰の生きて何とかなりそうなら生きろ、には反してるな。
死して不朽の見込みあり、と判断したのかもね。
過激攘夷派が全滅したおかげで維新回天が早まった、ってメリットはあった。
単に賊軍の汚名を着せられて、
違う違うと原理原則論を立てて突っぱねているうちに、味方がいなくなった感じ
肥溜めに突き落とされ、俺は悪くないとそのまま出歩いたら友達がいなくなった
まず体を洗えよ
平身低頭してでも朝敵の汚名だけは解いてもらうべきだった
>>406 順番が違うだろ、低学歴。
蛤御門の時に御所に立てこもった会津人を攻撃したことで御所を攻めたと言われて賊に貶められたんだ。
で、俗論党の奴らが土下座外交でなんとかしようとしたのを、正義派が立ち上がって長州士民の総意として
真の尊皇を貫くために立ち上がったんだ。
長州士民の意思に感じて同盟した薩摩は勿論、津和野や芸州も不戦中立の立場をとって長州を黙認している。
>>407 薩摩が禁門の変を黙認したって笑うとこ?
>蛤御門の時に御所に立てこもった会津人を攻撃したことで御所を攻めたと言われて賊に貶められたんだ。
貶められたとは、吹かすな。
会津がどうとか関係ない。
君側の姦を討つとか除くとか言って天子のおわす御所に攻め入れば明白に謀反。
こういう表現は叛乱軍の大義名分の代表格だから、良識ある人は信用しないものだよ。
のちに長州が勝って逆転したから、有り得ない非常識をごり押しできるようになっただけ。
「勝てば官軍」という言葉の典型。
そう、その勝てば官軍に楯突いた時点で会津は賊なのです
411 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 12:45:06.47
松平アワモリ
412 :
日本@名無史さん:2011/12/06(火) 11:38:00.73
>>407 長州藩は孝明天皇を薩摩・会津に奪われたと妄想して
孝明天皇を助けだし場合によっては長州へお連れして軟禁し、
孝明天皇の勅を称して長州の思うがままに政治を操ろうとしてたはず。
もはや会津云々の話ではない。
413 :
日本@名無史さん:2011/12/29(木) 04:35:31.79
ほ
>>368 大王製紙関係で子会社が倒産したとして、
独断で融資した子会社社長が逃げ出してしまい、
部下に自殺や逮捕が出たってところかな。
一番悪いのは大王製紙元会長=徳川慶喜だけどね。
>>406 単に薩長が朝廷を手中に置いてしまったし
薩長の方が勢いありそうだからって西国の他の藩は日和っただけ
西国で会津支持なんてやったら即潰されるからな
薩長に下った奴も会津が賊だなんて思ってるのはいなかっただろ
賊だから味方しないんじゃなくてスケープゴートになったら
同情はしても助けることは無理というだけのこと
賊じゃないから近隣の奥羽や越後には味方がいたんだよ
その味方というのがかえって始末が悪い。
そいつらのせいで引っ込みが付かなくなって破滅まっしぐら。
そのくせいざとなるとたよりないことこの上ないし。
特に藩祖が来年の干支にちなんでる大藩とか。
なまじ味方などいなくて完全に孤立していた方がむしろ良かったかも。
仙台藩は白河城などで十分すぎるほど犠牲を払ってるのに評価が低いのは何故なんだぜ?
むしろ、出ると負けなのは会津藩じゃねえか
418 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 03:41:39.50
>>415 ちがうなあ
賊という汚名を着せられたのであって、賊ではないという表現は間違い
419 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 05:29:45.03
賊=天皇に逆らった
なんで天皇に逆らっちゃいけないのか。
いけないんだと言っている時点で、薩長が作った皇国史観を受け入れているって事だよ。
薩長の価値観を受け入れ、その価値観の中でどんなに賊だ官軍だと叫んだ所で、皇国史観である限り馬鹿でしかない。
かつて源頼朝の家臣達は、平家が攻めてきた時「頼朝様!官軍が来ます。戦のご用意を」とご注進した。
そこには賊軍と呼ばれる抵抗感がまったくない。何故か?天皇が悪いからでしょ。
ならば賊軍大いに結構!むしろ賊軍の名は勇気のしるし。呼ばれて嫌がるのは薩長の影響を受け入れた証拠。
呼ばれようよ賊軍と。会津や東北は賊軍である!と胸を張れ。
ちがうだろ。勝手に平家と官軍をすり替えるな。
だが松平容保は、賊じゃない、賊じゃないと言い張って孝明天皇の書簡を掲げたりした。
でも、その時天皇は既に明治天皇だったから、先帝と仲良くしてましたという話は懐古でしかない。
逆に、現在の天皇の命令をないがしろにして、私は先帝と仲がよかったのだと誇ったのだから、
かえって討伐の理由が深まった。やっていることが逆効果だった。
薩長の思想というより、元凶は、水戸学だろね。
そして、慶喜、容保は、水戸家の血筋。
まあ別に薩長にも水戸学にも限らないけどな。
儒学はずっと前から幕府が公式に推奨してきた学問。
つまり徳川は自分で自分の首をしめた。
>>417 出れば負けなのはたいして変わらんだろドンゴリ
>>424 白河城の時も会津が足引っ張ってるだろうが。
さすが、ムソリーニにシンパシー持たれるだけのことはあるよな。
◇ ミ ◇
◇◇ / ̄| ◇◇
◇◇\ |__| ◇◇
彡 O( ^ω^)/
( P `O
/彡#_|ミ\
【ラッキーAA】
このAAを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けるお
そうすれば2日後から好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事だお
427 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 11:23:24.91
>>425 ドンとなった瞬間に五里逃げてればそりゃ負けないわなw
鶴岡だって兵を出すといって出さなかったじゃないか
>>417-428の流れをを見る限りでは、
奥羽は負けるべくして負けたとしか言いようがない。
足並み乱れて、足の引っ張り合いだけ。
勝ち負けだけで言うなら、さっさと頭を下げるべきだった。
まあ負けても戦うこと自体に意味があるって考え方もあるだろう。
その考え方そのものは認める。賛同はしないけどね、
会津や旧幕臣はまだわかるけど、
ほかの藩は何のために戦いを続けたのか良くわからんよね。
九州が出来るならオラたちもできるっぺ、とでも思ったとしか思えんのだが。
白河をがっちり固めてれば、東北全域でフリーハンド、北関東へも出兵できたわけで。
冬将軍の到来を待てば戦線を膠着させて政治決着で和解には持ち込めたんじゃね?
東北諸藩出身者を新政府に送り込むとか。
伊地知と西郷じゃ無理ゲーだけどな
大義も目標もなにもないからどうしようもない。
ちゃんと戦意があったのは会津と庄内だけだし。
仙台は藩祖以来のたいした準備も無く大風呂敷広げたがるDQN体質が残ってたのかな
433 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 23:49:02.84
久保田藩GJww
434 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 02:01:58.10
仙台は、世良みたいな乞食同然の足軽が官軍風ふかしすぎたからじゃね。
引くに引けなくなったというか。
世良は常識的な言動しか見られないのだが。
後の悪評は、勝手に小説として追加されたものばっかりだし、当時の状況と合わない物が多い。
世良は上司に「仙台藩が会津征伐の戦法を勤める、って言ってるから、箔付けのために参謀連れて行ってきて」
って言われて出張したら、仙台藩が「え、なにそれ、こわい。そんなこと言ってないよ」とか言ってきやがったから
いまさら何言ってやがる、とねじ込んでただけ。
437 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 15:10:09.96
そしてドンゴリへ
438 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 22:10:15.46
仙台は世良到着以前から錦旗を持っていたが?
世良が死んだ後もずっと錦旗を持っていたが?
ま、佐賀藩にあげちゃったけどな。無料でw。
439 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 00:04:29.34
そりゃ錦旗はもってるだろw
藩士が京までいって会津攻めの先鋒をつとめると言ってもらってきてんだからw
世良とは関係のない話だわ。
まあ世良は庄屋の生まれだし、学問もあった。
下士なんかよりも品性はいいだろう。
奇兵隊を率いて実戦経験もある。
仙台がのらりくらりと動かず藩論も二転三転とか馬鹿やってたから仕方がない。
世良はさほどの人物でもなければ、無能というわけでもない程度じゃね。
世良って旧軍の秀才参謀の雰囲気なんだよね。
学問だけを武器に成り上がって、局地戦の幾つかで功績も上げて、
調子に乗った所で大役を受けて、喜んで任地に行ってみれば現地の
土民共が言うことを聞かなくて癇癪を起こす。
442 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 17:20:25.41
>>441 君の表現では、世良を討った姉歯などは、
「学問だけを武器に成り上がって、調子に乗った所で大役を受けて、喜んで任地に行ってみれば現地の
土民の西郷頼母共が言うことを聞かなくて癇癪を起こす」になってしまう。
君には悪意がありすぎるんだよ。
そんなのとそんなのがぶつかりあっただけ、で良いんじゃね。
違うね。
仙台藩は軽率だった。
445 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 17:15:58.23
つか、仙台藩は京都藩邸に入っている連中(会津征伐尊王派)、国許の佐幕派と尊皇派(実は仙台藩校内の学閥で、佐幕派は明治政府と戦争しようとし、尊皇派は会津征伐論)、
藩主体の日和見派(藩政で一番勢力で戦争回避派、対会津非戦論もこいつらの主張)の四波が入り乱れていた。
四者が四者とも譲らず、世良が来た時に政権抗争に発展している。
世良がブチ切れて外野から文句を言ったがラチが明かなかっただけでしょうw。
江戸から西の諸藩は藩内で揉めてても西から薩長の大軍が押し寄せてくるから、藩内を無理やり尊王で意思統一してるんだよね。
新政府軍が仙台京都詰め連中の話を鵜呑みにしないで、国元からそれなりの部隊を送り込めるようになってから押し寄せてたら、
東北諸藩は敵に回れなかったし、世良も死なずに済んだんじゃないかと思う。
何を言いたいかといえば、仙台藩が全部悪い。
どう読んでも話を鵜呑みにした連中が悪いという結論になるが。
448 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 01:12:23.25
仙台の御屋形さまが馬鹿だから仕方がない
449 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 02:07:42.53
DQN眼流のDNAだね
>>447 なんでだよ。
戦略的にはあんまり関係の無い世良ひとりの命
それをとって溜飲下げてるだけで満足する阿呆が一番理解不能だろ
新政府からすれば痛くもかゆくも無い
>>450 俺は史実について書いた訳じゃないぞ。446を要約したら『話を鵜呑みにした新政府軍が悪い』に
なる筈なのに、最後の一行で仙台藩のせいにしてるから、変とツッコミ入れたんだ。
>>451 いや、それって「騙されるのは騙された奴が悪い」って理屈だろ。
京都新政府に公式に送られた仙台藩の代表からの申し出を信じることのどこに問題があるんだ。
まあ、お陰で仙台伊達家は伯爵止まり。対する宇和島伊達家は侯爵。
>>452 普通の議論ならその通りだが、446が『鵜呑みにしなかったら世良も死なずに済んだ』と書いてるんだから
素直に読めば『鵜呑みにするのが悪い』だろ。
455 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 17:07:22.72
>>454 それはおかしい。
他藩では京都駐在の藩士の意見と大差ない形で国許でも新政府への臣従が行われている。
しかし仙台藩では違った。
と書いてあるのなら、仙台藩が異常だったと続くのが当然。金は仙台藩を不当に愛するあまり文章が読めなくなっている。
456 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 17:08:43.10
「キム」ではなく「君」か。これは単なる打ち間違いなので気にしないように。
457 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 04:29:48.69
城下全体を落とし穴作って敵がみんな乗っかったら一斉に紐引っ張って落とせば勝てた
458 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 12:27:30.56
あんな戦略性もない土人の発狂みたいなことをするとは思わなかったのはしょうがない
また、新政府側としても家族には気の毒だけど世良一匹の命ぐらい戦略的には別にどうということもない。
459 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 05:09:23.03
福島県の食べ物と原発は安全です!
左翼マスゴミ、太郎が偏った報道して煽ってるだけw
日本のテレヴィもこういったこと放送しようよ!
富士わ生扉の買占めで、在日社長のsbに借りを作った為に韓流ドラマ垂れ流す始末。
BAZOOKA 切腹ピストルズ 田母神俊雄
http://www.youtube.com/watch?v=WuZ2-2gXIts MCの小藪干豊って意外とまともで安心した!
地球人とか言っちゃってるウジムシ真木素人と♪女はウマシカw 山田朝右衛門に介錯してもらいなさいw
460 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 15:42:00.61
久保田藩GJww
461 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 09:53:25.84
私は広島がルーツですが、
原爆は会津攻めの報いだといわれました
462 :
日本@名無史さん:2012/03/20(火) 00:04:51.00
そして会津以外の福島全土被爆
463 :
日本@名無史さん:2012/04/04(水) 19:42:50.63
>>232 >正しくは、慶喜&容保は「反徳川家茂」。
>家茂と慶喜の争いは元々あったと言ったでしょ。
>ただ単に家茂の将軍就任が不満だったから家茂のやることに文句を言っていた。
>家茂憎しで反論を繰り返していただけで、江戸幕府をつぶそうなんて
>みじんも思っていない。
長州オタって、ホント薄汚い人間だね。 「自分は学識がある人間だ」という態度を取りながら、平気で相手を
貶める事を語り続けるんだから。
容保は「反・家茂」なんかじゃない。
容保は家茂の事をちゃんと大事にしてた。
文久3年4月に、将軍家茂がまだ京都にいる時期に、松平春嶽たちが家茂を京都に置いたまま帰国した後、
慶喜も江戸に戻ろうとしてた時に、容保が慶喜に対して、「将軍家茂のそばに留まって、幼い将軍である家茂を
助けてほしい」と家茂のために懇願してる。
464 :
463:2012/04/04(水) 19:45:28.20
>>463の続き
『昔夢会筆記』 p.155~156
「藤井(甚太郎) 文久三年四月に、いよいよ攘夷の勅諚を御奉じになりまして、御帰府ということになりました時の
ことでございます。三月に松平春嶽公なり、水戸中納言殿なり、それから引き続きまして小笠原図圖頭などが皆
京都をお立ちになり、その後四月二十二日に御前が京都をお立ちなさいます時に、松平肥後守が申しますには、
さきに小笠原図圖頭が東帰し、今また御前がお帰りなさいまするというと、なにぶん京都に御滞在になるところの将
軍様はお年がお若い、その機に乗じてもし堂上方から、なにか難題がましいことでも申し出されて、それを将軍様が
お受けにでもなるということになりますと、取り返しがつかぬようなことになりますから、ここは是非とも御前が京都の方
に御滞在になって、将軍様を御輔けなされますることが必要ではございますまいか、また江戸の方へお帰りになりました
ところが、既に江戸では水戸殿に攘夷を御委任ということにきまりました以上は、政令が二途に別れるという憂いがある、
かたがたもってこの節はお帰りなさらぬ方がおためではありますまいかということを、申し上げたということが書いてあります。
今から私ども考えますると、いかにも肥後守の申したことは尤ものように思われますが、それにも拘りませず、御前が勅諚を
受けてお帰りになりましたのは、前年その事につきましてお伺いはいたしましたが、何かまだその他に裏面の御事情でも
ありましたことでございましょうか。
(慶喜)公 それはよほど前に話したことがあったと思う。攘夷の旨を受けて帰ったのは、あれはあれだけのことで、ほかに
どうということはない。 」
465 :
日本@名無史さん:2012/04/04(水) 22:10:35.83
家茂の「いのち」は大きかったな。
あれが生きてたら幕末最終局面も大きく変わってたろう。
466 :
日本@名無史さん:2012/04/13(金) 01:32:19.46
容保が京都守護職を引き受けたのは、まだ十代の幼い将軍である徳川家茂を補佐するためだったからだよ。
もし家茂が容保より年上の将軍だったら、容保は京都守護職を辞退し続けたかもしれない。
467 :
日本@名無史さん:2012/04/13(金) 21:06:49.84
バカ殿
468 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 13:12:08.51
松平容保の息子が作家の有島武郎と学生時代の級友らしい。
会津藩主の息子と、それを滅ぼした薩摩の武士の息子が友人というのも面白いな。
469 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 14:15:23.53
日本の文化は韓国や中国に盗まれ放題になっている。
京都の舞妓に中国人をいれるなんて論外。ホントにバカじゃねーの?
数年後には中国で”中国が起源の都をどり”
が始まり京都に難癖付けてくるに違いない。
日本の田舎の祠から盗まれた文化財が韓国に韓国が起源として
展示したり飾ってあるのに。京都府は知事からして売国奴。
京都府は何も手を打たない。
470 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 21:08:21.81
>>390 >こいつが逝けメン?
>ただの馬面じゃねーかw
『京都守護職始末』に載ってる容保の写真は、本来の写真より画像全体が何故か縦長に変化してる。
容保の馬揃え姿の本来の写真
↓
『レンズが撮らえた幕末の日本』(岩下哲典、塚越俊志/山川出版社) 89ページ目
http://kie.nu/7HT 容保、可愛いー
10代の少年に見えるじゃん
471 :
日本@名無史さん:2012/04/23(月) 08:17:00.83
>>470 そうかあ?
慶喜とかついでに容堂とかの方がよっぽどイケメンに見えるが
天然痘あばた顔こと松平定敬をイケメンと呼ぶ人はいないのであった
天然イタチかわうそクンこと伊達慶邦も美しい評判は皆無
475 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 22:23:12.78
>>472 >そうかあ?
>慶喜とかついでに容堂とかの方がよっぽどイケメンに見えるが
「可愛いー」と書いてるのが読めねーのか
慶喜ファンの皮をかぶった長州オタめ
龍馬暗殺の黒幕
477 :
日本@名無史さん:2012/04/25(水) 14:52:44.35
烏帽子の写真は確かに可愛く見える
でも兄慶勝が撮影した写真は馬面に見えるかも
478 :
日本@名無史さん:2012/04/25(水) 15:16:54.63
馬面こそ大名
479 :
日本@名無史さん:2012/04/25(水) 15:37:12.76
徳川慶喜も若い頃は美男だったが
年取ってくると頬の肉が下に垂れ下がって馬面になってた
480 :
日本@名無史さん:2012/04/25(水) 22:40:02.40
松平喜徳の写真見たけど慶喜に全然似てない。
なんか濃い
481 :
日本@名無史さん:2012/04/26(木) 17:43:59.28
桑名藩主も似てない
482 :
日本@名無史さん:2012/05/03(木) 03:00:18.37
483 :
日本@名無史さん:2012/05/03(木) 09:48:43.25
慶喜と昭武、池田茂政なんかは似てると思うけど。
同母兄の慶篤は写真残ってないの?
>>477 慶勝が撮った容保の写真も可愛いじゃん。
女顔で、おっとりした癒し系な雰囲気で。
485 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 10:58:37.35
顔はよく見えないけど馬に乗ってる写真もあるんだね
馬、20分ぐらいじっとしてたんだよね。
偉いな、馬。
ダウンタウンの金魚の糞の構成作家の高須って高須藩と何か関係はあるの
昭和3年9月28日、旧会津藩主 松平容保公の孫娘 勢津子様と秩父宮殿下との御成婚が厳かに執り行われました。その日、会津では人々が大いに慶び、ご成婚をお祝いする行事が各地で三日三晩続いたと云われています。
それまでの会津は戊辰戦争から60年を経たとはいえ、まだまだ朝敵の汚名が拭い去られたわけではありませんでした。
勢津子様の宮家お輿入れはそんな会津にとってまさに「会津復権の日」であり、勢津子様は会津にとって救世主でありました。
489 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 17:23:38.61
松平容保はやっていることは筋が通っているが、不器用過ぎるイメージ。
奥羽越列藩同盟が機能してれば一矢報いた予感。
豊島岡墓地で勢津子妃殿下の墓
参拝してきました。
491 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 20:12:52.35
一般人は墓前参拝出来ないんじゃないですか?
492 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 20:21:28.33
養子に引っ掻き回されたよな
493 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 20:32:30.32
養子?
>>491 寛仁親王の参拝のついでに。。
明治維新で朝敵となった徳川家、会津松平家から嫁がれた高松宮、秩父宮の妃殿下が寄り添うように並んでました
495 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 13:15:13.72
孝明天皇のお気に入り
ちなみに今世生まれ変わってるらしい。誰やろね・・・そのせいで
明治期神霊ランク無茶苦茶あがってるらしい・・・
愛子さまはさつまのある人なんだけどやっぱ皇室か?
たる人様だったりしてな・・・
熾仁様より前に生まれてると思うが、愛子さまより上のランクなんだぜ・・・
皇位継承権1位か2位だろうな・・・ちょっと素敵じゃないっぽいほうに
目が似てる気が・・・
498 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 14:13:31.64
前世の記憶はあるのだろうか
499 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 00:36:57.70
「イギリス公使館付の医者ウイリスによれば、会津軍は、政府軍の捕虜をすべて殺し
沿道の婦女子に乱暴し、民家から略奪し、反抗したすべての者を殺した。
そのため、沿道の人民はみなにげ、会津軍は、人夫さえ求めることができず
みずから、兵器や荷物を運ばなければならなかった。新津の近くでは、会津軍が近づいたので
庄屋はほら貝を鳴らして『農兵』を集め、竹槍で会津軍の退路をはばんだ。
会津軍は、うしろからは政府軍の大軍に迫られ、まえからは農民の蜂起で退路をはばまれ
みじめな敗走をつづけた」(家永三郎編『日本の歴史4』)
「若松城が落城すると、200余年の長いあいだ役人の圧制に苦しんでいた会津の人民が
いっせいに『世直し』一揆に蜂起した。10月3日、大沼郡ではじまった一揆は
11月下旬の南会津郡の一気におよぶまで、2か月近く、全領内で
しかも、まだ、政府軍の砲火のおよばないところでもおこった。
かれらは、『徳政』あるいは、『肝煎(庄屋)征伐』と書いたむしろ旗をかかげ
『村役人の農民による選挙、土地を平均に所有する、高利貸から借りた金は
徳政としてかえさない、3か年の無年貢』などを要求した。
農民は、役場・肝煎・高利貸などをおそって打ちこわし、土地台帳や借金証文を焼き
村役人を新しく選挙した。政府軍は、この2か月におよぶ『世直し』一揆の波を
手をこまねいて見ていた。こういう政府軍を見て、農民たちは、じぶんたちをこれまでの
悪政から解放してくれるものと信じていた」(同前)
>>499 なんだ。また、ウィリアム・ウィリスの手記かよ。ww
これ以外、会津を攻撃するネタがないんだろ。
イギリスを日本の経済から締め出そうとした幕府と会津を潰したがってるイギリス人なんかの手記なんか信用できないのにさ。
それは大政奉還で終わってるやん?
何だかんだで神戸も開港できたし、慶喜もパークスにとっては悪くない
だから褒めちぎってた
>>501 >何だかんだで神戸も開港できたし、慶喜もパークスにとっては悪くない
>だから褒めちぎってた
慶喜がパークスから好感持たれてても、全く意味ないね。
慶喜は、幕臣たちを、全然掌握できていなかったからな。
慶喜一人がパークスの意思に従うだけじゃなくて、その他多数の幕臣達が慶喜に従ってイギリスに
対して従順な態度にならなければ、イギリスの立場の安全は保証されない。
でも、幕臣たちは慶喜に対して反感と不信感だらけで、慶喜に素直に服従する気は薄かったからね。
実際、大政奉還後、慶喜が官軍に恭順・服従する方針を幕臣たちに示しても、それを無視して、
自発的に江戸を脱走して戊辰戦争に参戦した旧幕臣たちが多数存在したわけだから。
503 :
502:2012/10/31(水) 16:20:21.44
>>502の続き
>>501 >それは大政奉還で終わってるやん?
イギリスは、”大政奉還後も、容保が日本の社会情勢に影響を与える可能性が高い”と考えたんだよ。
「 大政奉還がされた後も、幕府が潰れる事に猛反対な旧幕臣たちが日本国内に多数存在してる
状態だし、フランス・オランダ・ドイツは、隙あらばイギリスが世界の覇権を握ってる状態から
イギリスを引きずり落としたいと、内心で考えてる。
もし容保が、その旧幕臣達やイギリスに対して内心反感を持ってる欧米諸国と結んで、明治新政府
にリベンジして幕府を復興?するような状況になったら、日本の外交はその後もイギリスに対して
強硬な拒否の態度を取り続けるだろう・・・」
・・・・・・と、イギリスは考えたんだよ。
まぁ幕臣と慶喜の乖離は、それが鳥羽伏見に繋がった訳で否定はできないけどw
でもイギリスに対して強硬的な姿勢なんてとったことあったっけ?
それに立場の保証なんか、自力でもぎ取ってきた奴らでしょ。列強なんて連中は
>>501 >何だかんだで神戸も開港できたし、慶喜もパークスにとっては悪くない
>だから褒めちぎってた
神戸開港後、神戸での外国貿易で幕府はフランス商人を優遇してフランスとの関係を強化して、反対にイギリスに対しては、
できるだけイギリス商人が神戸での貿易で好き勝手にできないような状況を作ろうとしてたんだよ。
だから、パークスは内心で幕府に怒りを持ってたんだよ。
フランス優遇とかありそうではあるが、具体的にはどんな施策だったん?
507 :
名無しさん@恐縮です:2013/01/04(金) 21:45:14.06
このアホが領主だったのが会津の民の最大の悲運であったな・・・
『八重の桜』始まってしまうんですね・・
五代前の先祖が某藩大隊長として白河口の戦いに参戦してる私は多分冷静に見ることはできません・・・
509 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 22:23:40.96
容保公の赤心・忠義の道など、物質に溺れた現代日本人にとっては、笑い話かクズほどの価値しかないのだろうな。
藩幹部の個人的なメンツで一般藩士や領民を巻き込むのは身勝手というもの。
不服であろうが藩主あるいは重臣らが腹を切って収めようとするのが誉ある武士のやり方だ。
511 :
名無しさん@実況は禁止です:2013/01/15(火) 19:54:53.65
自分のメンツにこだわって家臣、民百姓に地獄の苦しみを
与えた松平容保よりも同じ徳川一門の筆頭格にも関わらず
とっとと将軍家を見限って官軍に従った徳川慶勝の方が
遥かに名君だよ。
それが敗因でも現代のナショナリズムから見てこの人批判するのはど〜かと思うけどな。
まぁ領民が感じたと言う「責任者が腹切らずにのうのうと生きやがって…」と言うのも今に
通じる日本の庶民感情かも。
>>511 >徳川一門の筆頭格にも関わらず
>とっとと将軍家を見限って官軍に従った徳川慶勝の方が
>遥かに名君だよ。
慶勝は、岩倉具視からの脅迫に屈して官軍側についただけだよ。
岩倉から脅迫を受けるまでは、慶喜を担いで徳川家の権力を温存する事に拘っていたはずだ。
『レンズが撮らえた幕末の日本』(岩下哲典、塚越俊志/山川出版社) P.67〜68
「 さらに、大垣の先の名古屋城主の徳川慶勝は、京都で新政府の議定になっており
岩倉具視からなかば脅しにも似た言葉を聞かされた(太田尚宏「青松葉事件と勤皇
誘引」同上書)。「国元へ退いて慶喜の加勢にまわってもかまわない。ただし、新政府
軍に敗れたあと助命嘆願」しても受け入れないと。 」
514 :
名無しさん@実況は禁止です:2013/01/26(土) 10:51:32.41
>>513 だから名君じゃないですか 誇りも捨てて恥を忍んで官軍に付く
勇気の要る事ですよ お陰で尾張の人達は会津民の様な悲惨な
事にはならなかったわけですからね。
向かい風と知っていながら
それでも進む理由がある
新政府から討伐の対象とされた西国諸藩は土下座外交で、派兵や拠出金を行うことを条件に許された。
中には討伐軍から攻撃を受けたと同時に無条件降伏するという形をとってから交渉を行う藩もあった(桑名とか)。
会津も仙台藩から形式的な攻撃を受けた際に無条件降伏していれば、問題はなかったはず。
駐屯軍も仙台になるだろうから、後は仙台から寛大な処分の要求を出してもらえばいい。
長州が会津を憎んでいたと言っても、新政府には長州以外もいるんだからそっち経由で嘆願すればいい。
とにかく、会津は恭順するといいながら、武装勢力としての実態を保持したまま停戦に持ち込むことしか考えていなかったのが問題。
>>516 >新政府には長州以外もいるんだからそっち経由で嘆願すればいい。
大政奉還後の慶喜の処遇について山内容堂が口を挟もうとして出来なかった事を考えてみろ。
>>517 慶喜を新政府に残す訳にはいかないってのは、アル中以外全員の共通認識。
会津がにくいのは長州だけ。
この差を考えろ。
松平春嶽もだろ?
衝鋒隊にも援助を渡し活動させ、
大鳥圭介にも部隊長以下参加多数(会津藩砲兵部隊まで参加)、しかも田島では補給に資金支援に援軍まで与えている。
慶喜による停戦と容保への江戸退去命令にもかかわらず、松平容保は最初から戦争をしていた。
今更止められるわけがない。
「ひたすら恭順していたのに」は会津びいきの小説家のついた嘘。
>>513>>514 尾張殿は、1月3日(新暦)の段階では、旧徳川勢代表のようなポジションを得ていて、
王政復古政府の正統性に、大きく貢献する存在だったのに、
その後で、春になってから、岩倉が干しにかかったんだよなあ。
この段階になって、名古屋と福井が干されて、後に非難される藩閥専制の原型ができる。
福井は、この時点で融和論を唱えはじめ、論争を巻き起こしていたから、仕方ない面があるにしても、
名古屋は、いつのまにか「お前の席ねーから」状態に追い込まれている。
522 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 23:30:15.55
席なんかどうでもいいですよ将軍家と違って尾張家の財宝守れましたから
県民性の違いだな
524 :
日本@名無史さん:2013/03/11(月) 18:35:06.14
容保が隠居して、定敬か高須の末弟の義勇に家督譲ってたら、
守護職なんて引き受けなくて済んだのに。
実際、徳川宗家に最期まで忠義を尽くした一門って津山だけなんだよな
526 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 00:07:27.26
そうか?
527 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 15:42:07.09
名古屋は開祖徳川義直公以来の勤王派。
チンピラの容保風情と一緒にしてもらっては迷惑。
528 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 16:46:10.57
だけど尾張藩主徳川慶勝と会津藩主松平容保って兄弟でしょ
それぞれ別のところへ養子にいっただけで尾張藩支藩の息子
どっちも尾張徳川義直の子孫なんだよね
529 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 17:37:34.51
>>528 おいおい、二人ともじいさんは水戸の殿様の息子だぞ。
なにを勘違いしてるんだ?
530 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 23:10:40.07
水戸治保→松平義和→義建→容保
水戸治保→治紀→斉脩→斉昭→慶喜
531 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 17:21:43.87
ヤーヤー一揆はなぜ起きたんだい?
532 :
日本@名無史さん:2013/03/18(月) 18:38:48.92
住民が反対して猪苗代転封を断念した会津藩
534 :
日本@名無史さん:2013/03/19(火) 19:44:46.00
喜徳という人が割食ったのか?
535 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 20:42:02.99
>>533 猪苗代だと家臣でついてくるのが大量に出そうだが、
猪苗代だと希望者が減るからじゃないの?
>>531 会津戦争後に農民一揆が起きたのは、会津藩が京都守護職時に、過激攘夷主義者達を
抑える為に必要な莫大な軍事費を、会津藩の領民達に何の説明もしないまま強制徴収し
続けたからじゃないのかな。
京都で暗躍する過激攘夷主義者達をなんとしても抑える必要性について、ろくな説明も
されないまま軍事費だけ強制徴収され続けたから、領民達は会津藩に対してずっと理不尽感を
溜め込んでて、それが会津戦争後に吹き出てしまったんじゃないのだろうか。
もし、容保が、領民達から莫大な軍事費を徴収しなければならない理由(迂闊に欧米列強を
刺激する国内の過激攘夷主義者達をなんとしても抑える必要がある事)を、会津藩の領民達に
詳しく説明をして、領民達の理解を得た上で軍事費を徴収していたら、後に一揆という形で
反感が吹き上がる事は無かったかもしれない。
>>536 そもそも、戊辰戦争で会津軍は焦土作戦を実施して、領民から恨みを買いまくってる。
そんな奴らに士民心を合わせて戦おう、なんて意識が有るわけがない。
538 :
536:2013/04/06(土) 22:18:22.60
>>537 いやいや、会津藩側には「士民心を合わせて戦う」という意識はあったんだよ。
だけど、それが「大名・藩の意思決定に、領民達が無条件に従う」という形でしかなかったんだろう。
それまで”大名・藩の意思決定に、領民達が無条件に従う事が当たり前”という時代がずっと続いてたし、しょうがないんじゃないの。
このスレが立ったのが2010年9月11日
2010年9月5日 龍馬伝36回「寺田屋騒動」 放映
チンピラみたいな容保が暴れた回か。
ここ2〜3年、ヒステリックな会津叩きが増えたと思ってたが、大河板を見てわかった。
龍馬伝ヲタが荒らしてたんだな。
昨今の研究では、王政復古の大号令は徳川排除ではなく、会津桑名の排除が主目的だったそうな。
会桑排除は慶喜も黙認し、むしろ支持していた模様。
まあ実際には会桑に劣らず幕閣もわあわあ怒りまくってたわけだが
>>542 辞官納地は強硬派の会津桑名を排除すれば交渉の余地があったとかどうとか
一旦辞官しても新政府の役職(参与?)につけば当然官職もついてきただろうし。
そもそも新政府の体制だと内大臣とかもっててもあまり意味が無い。
納地は尾張・越前の政治工作で骨抜きにできる寸前だった。
薩摩藩邸焼き討ちから鳥羽伏見の流れにならなければ、慶喜は政治的に挽回できていた。
ついでに、薩摩は風向きが怪しくなったので藩邸の焼き討ち部隊に行動を控えさせようとしていた矢先に庄内藩が暴発した。
鳥羽伏見の主戦派、会津・桑名を含めて、庄内・会津・桑名が慶喜の足を引っ張った。
政治情勢が理解できないから使いやすい道具だと思ってたんだろうけど、あまりにも情勢を理解する能力に欠ける連中ばかり使ってたのが裏目に出た。
545 :
日本@名無史さん:2013/05/13(月) 23:43:51.26
家近説だと、会桑に対する西郷・大久保の認識は
排除というより叩き潰して見せしめにするという内容だったが。
それを会桑に受け入れろというのは無理だし
>>541にもあるけど大阪城でも江戸でも、沸騰してたのは幕閣も一緒だったからなあ。
何もかも会桑のせいにするのはちょっと無理ある。
546 :
日本@名無史さん:2013/05/13(月) 23:47:36.78
「おまえら俺を生き残らせるために犠牲になれ」と言って言うことを聞かせるには慶喜は人望が無さ過ぎたんだな。
側近の暗殺も内部犯行ばっかりだし。
>>546 薩長信者の我田引水ぶりは鮮人と五十歩百歩だな
548 :
日本@名無史さん:2013/05/14(火) 02:07:16.63
帰国願い出した時に返してやればよかったのに
そだね。結果論だけど、主戦派の会津と桑名がいなければ、鳥羽伏見は無かったのかもしれない。
というか、たかが鳥羽伏見で会津・桑名軍が敗北しただけで、その後幕府が軍事的に何の打つ手もないとしたら、
所詮幕府は終わってる。
たかがって、その敗北で日和見だった諸侯が一斉に新政府側についたんだが。
そんなことも理解してないのかよ
会津桑名はどうでもいいだろ。まずいのは日本最強のはずの洋式歩兵部隊を投入しても勝てなかったこと。
それで朝廷が薩長を新政府=官軍と認めて、西国諸藩が一気に流れた。
錦旗が出ようが、明治帝が薩長の手の中だろうが、戦闘で勝ててれば西国諸藩の帰順はありえなかった。
容堂なんかは新政府に不満タラタラで
1月6日の晩、東本願寺の会津の残留組に密使を送って
「薩長は全力でやってるけど、諸藩はバラバラだから
今大阪にいる全軍で京都を攻めれば勝てる」とそそのかしている。
でもすでに慶喜が逃亡して全軍東帰が決定したあとだからどうしようもなかった。
容堂www
乾退助は土佐軍を全力で動員してるわけですけどね。
555
西国諸藩(福岡熊本佐賀あたり)は1月中に京都へ軍を送る手筈を整えてた
たぶん薩長の領国へ攻め入る準備も併行してやってた
>>554 板垣は土佐に戻ってて鳥羽伏見にはいないよ
ところで、八重の桜の役者さんの感想はどうなん?
悩める中間管理職って感じ。
560 :
日本@名無史さん:2013/05/29(水) 16:43:51.39
よろしおすな
561 :
日本@名無史さん:2013/05/31(金) 08:35:38.57
きれえなお殿様やー
562 :
日本@名無史さん:2013/06/04(火) 18:31:03.89
歴女1000人に聞く 訪ねたい城下町ランキング
1位 京都
「平安京」など古都のイメージが強い京都は「城下町として発展した地域もある」。
伏見は大阪や近江と陸路や水路でつながる要衝で、豊臣秀吉が伏見城を築き商業が栄えた。
「伏見の酒」が発展したのもこのころで、今も酒蔵が立ち並び往時をしのぶことができる。
坂本龍馬ゆかりの旅館「寺田屋」など幕末の名所は女性ファンでにぎわう。
世界遺産の二条城は徳川家が建造したものだが、以前には場所は違うものの織田信長の二条城などがあった。
2位 姫路 白鷺城眺めて散策
3位 金沢 戦災免れた武家屋敷
3位 松本 大火に備えたなまこ壁
5位 大阪 天下の台所支えた水路
http://www.nikkei.com/article/DGXZZO45853740X00C12A9000000/
563 :
日本@名無史さん:2013/06/04(火) 20:15:36.15
会津は行ってみたいな
鶴ヶ城
飯盛山
鶴ヶ城は正門(北出丸)からじゃなくて三の丸(県立博物館)の方から入るのをお勧めしたい。
565 :
日本@名無史さん:2013/06/05(水) 08:19:18.02
仙台出身だが荒城の月は鶴ヶ城にこそ相応しい
青葉城は青葉城恋歌あるしな
566 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN
松平容保ほど状況判断の出来ない藩主はいない。全てが判断ミス。
容保のせいで会津で無駄な命が散った。容保は裕仁と同罪。
知識・知恵の無い奴が上に立つと無駄死にする。それを権力者は美談にすりかえる。
玉砕だの特攻だの 人間・裕仁のせいで何百万人殺したんだ!
天皇制存続でどれだけの財閥・華族の財産が守られたことか 終戦の財閥解体などは言葉だけ
事実 三菱 安田 住友 etc 残された財力で大会社を興している 終戦の食うに食われぬ時代にだ
金を持たない奴は人にあらず それが権力者の論理 騙されるな 八重の桜 裏を読め
567 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN
松平容保 愚将なり
薩長関係者は京都の治安維持に際して処断された人が多かったから、
その私怨で徹底的に弾圧されるに違いない
と、江戸が降伏した時点ではたいていの人が思ってただろ。
勝てないと思っても徹底抗戦するしかないと考えた人の方が、会津藩では多数派だったんじゃね?
邪推の人
570 :
日本@名無史さん:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN
悲劇の明君ベスト3に入る人だな
571 :
日本@名無史さん:2013/08/08(木) NY:AN:NY.AN
>>570 旧幕府軍を匿って新政府軍を挑発しまくり、北関東から東北の諸藩に
戦争けしかけた松平容保のどこが名君だよ?
アホ言ってんじゃねーよ、ばーか!
572 :
日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN
大政奉還の時点で寺に隠れとくべきだったな。赦免を待てばよかった
そもそも大政奉還したら賊として討伐されるいわれは無い筈だったから
赦免を待つ必要が有ると思った人は誰も居ない。
ベストは兵を国に返した上で、自分は京都に残留して朝廷に出仕し、叛意が無いことをアピールかな
岩倉が「逆臣松平容保を殺せ」って偽勅を書いてるのにそんな事をしたら即死だ。
>>575 そりゃ岩倉の建前だよ。
岩倉だって松平春嶽や尾張義勝らの進言受けたふりをしながら態度をどんどん軟化しているぞ。
徳川慶喜はそれを察知して「はいはいわかりました」と恭順の態度を示してるのに対し、
松平容保たちは「そんなら戦だ!」といきまいているなんて、バカとしか思えんわ。
>>575 偽勅じゃねえよ。大帝陛下の新政府にたいして武力放棄したんだから死罪で当然だろうが。
つーか、大政奉還時点では会津にはなんの罪も処分もないだろうが。
>>577 形式が整っていない。天皇の署名が無い勅は正式の勅とは言えない。
後から追認したけど、明治政府の権勢で問題にさせなかっただけ。
>>578 何の罪も無いのに偽勅で罪を被せたんだよ。大政奉還の時点では偽勅の事は
知らなかったけど、裏でそんな動きになっていたんだから軍勢を帰国させて朝廷に
出仕したら即拘束されてそのまま死罪だよ。
>>576 出仕して捕まったら軟化する暇も無いやろ。
>>577 武力で抵抗した会津藩よりか、御所に武力で押し入ろうとした長州(禁門の変のこと)のほうが、
より明確に大逆罪が適用されるのが本来の筋だがな。
「勝てば官軍」が適用されたから不問に付されただけで、普通の常識で考えたら、地方での武装蜂起より圧倒的に重い罪状だよ
>>580 されただろ。ちゃんと幕府に節刀まで授けらてるんだから、完全に賊。
なのに無理ですって逃げたのは幕府の責任。
その上で正式に赦免されてるんだから何の問題もない。
一旦、賊になれば未来永劫許されないっていうんなら、容保はじめ
戊辰の賊軍諸藩が赦免されたのもおかしい、ってことになるが。
>>579 新政府における岩倉の権力を過大評価しすぎ。
尾張、越前、土佐といった佐幕派の力もあるし、公卿もまだ姿勢が定まっていない。
だからこそ、慶喜の政治工作がうまく行きかけたんだ。
この状況で公式に罪に問われていない容保に何かできるわけがない。
慶喜みたいに政治工作する実力もないんだから、誠意を示しておとなしくするのが一番。
岩倉の権力はともかく(偽物とはいえ)勅に書いちゃった重みは有るだろう。
それこそ岩倉の思惑だけで取り消せるのかよ?
>>583 討幕の密勅は大政奉還で無意味になってるじゃん。
なってないよ。それで薩長の軍勢が実際に動いたんだから。
だいたい、討幕の密勅に岩倉のサインはない。
あるのは中山忠能・正親町三条と土御門の名であり、しかも筆跡は一人、三名ともに花押等の署名はしていない。
幕府が入手したなら、その全員がしらを切ったであろう。
甚だ勅の形式に値しない代物だったので、対外的に提示できず、もっぱら薩摩内で討幕反対派を黙らせる道具となった。
587 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 05:11:19.74
KIRINビールまじい
関東ドライブ
お前らハローワーク
588 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 17:39:18.13
京都が人気観光都市ランキングで世界9位
[あこがれの京都]
世界で最も影響力のある旅行雑誌「トラベル+レジャー」の読者を対象に行った
世界の人気観光都市調査「ワールドベストアワード2012」で、京都が9位に選ばれた。
日本の都市としては初めての世界トップ10入りを果たした。
京都市によると、採点ポイントは風景、文化・芸術、レストラン・食べ物、ショッピングなど五つ。
1位はバンコク、2位フィレンツェ、3位イスタンブールと続き、9位に京都がランクインして10位のパリを上回った。
京都市は08年に目標だった年間観光客数5千万人を達成。現在、外国人富裕層の誘致に力を入れている。
京都市産業観光局は「京都の良さが十分に伝わった結果。伝統産業や文化財など、京都ならではの魅力が評価されたのでは」としている。
589 :
日本@名無史さん:2013/12/13(金) 10:00:48.46
真の尊皇攘夷とは何たるかを一身を賭して示してくれた会津藩士の鑑
降伏するなら最初にしろ、馬鹿殿
シムケンの馬鹿殿以下
>>590 旧日本軍もお偉方のことが思い出されますなw
592 :
日本@名無史さん:2014/01/03(金) 10:39:12.07
こいつがのうのうと生き延びたのが許せん。
潔さがない。
自分のせいで多くの人間が死んだという自覚がない。
少なくとも、牟田口と同程度には評価してやってもいいと思うんだ
美貌の殿さん
596 :
日本@名無史さん:2014/07/12(土) 13:45:08.44
松平容保は常識のないただの馬鹿
馬鹿でなければ家臣とその家族を守るため城を囲まれた時点で切腹をすれば
済んだことである。
597 :
日本@名無史さん:2014/07/12(土) 13:47:35.94
松平容保はセウォル号の実質的オーナーの馬鹿な韓国人とよく似ている
598 :
日本@名無史さん:2014/07/12(土) 16:24:39.26
長州のクソヤロウどもを
粛正すべきだろまた
>>596 そもそも、まともな殿様なら、幕府から京都守護職を持ちかけられた時点で固辞するはず。
実際、家老たちはみんな反対してたし。
あのとき断ったからといって改易されることはありえないんだから。
600 :
日本@名無史さん:2014/07/12(土) 18:43:54.62
息子の容大の生まれた時期(1869年7月)から逆算すると、
容保が容大を仕込んだ時期って落城直後の謹慎初期なんだよね。
降伏して待罪謹慎中の身で女を抱いて、中だしするって不謹慎だろ。
謹慎中に女体を堪能して悦楽するなんて、本気で反省してたのか?
601 :
日本@名無史さん:2014/07/12(土) 22:18:36.22
容保は史上最悪のバカ殿
志村けんのバカ殿と容保は同レベルのバカ殿だろう
602 :
日本@名無史さん:2014/07/12(土) 22:20:27.17
603 :
日本@名無史さん:2014/07/12(土) 22:22:10.99
結局、女抱いて負け戦の憂さ晴らししてたんだろ。
そしたら、容大が生まれたと。
とんでもねーオヤジだな。
605 :
日本@名無史さん:2014/07/13(日) 07:09:38.03
むしろ、降伏直後の謹慎中に愛妾を侍らしていたことのほうが驚きだわ。
何の反省もしとらんな、カタモリ。
606 :
日本@名無史さん:2014/07/13(日) 09:20:39.17
松平容保は志村けんのバカ殿レベルだったようだな(笑)
607 :
日本@名無史さん:2014/07/13(日) 09:38:44.36
容保は盛りのついた犬
608 :
日本@名無史さん:2014/07/13(日) 15:14:17.67
盛りのついた犬が藩主だったとは(笑)
どんだけ必死に会津disしてんだよ。
なんか辛いことでもあったのか?
610 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 19:56:40.39
まあ、容保が容大を仕込んだ時期を考えるとねえ・・・w
弁解の余地なしだろ。
611 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 21:28:48.52
朝州をいい加減やるべきだろもう
612 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 22:44:15.78
アホの容保を話題にすると実におもろいな!
613 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 22:47:24.95
馬鹿の容保をいじるとおもしろい
614 :
日本@名無史さん:2014/07/15(火) 01:07:25.85
松平容保とアホの坂田はどちらがアホだろう・・
いい勝負だと思うが・・
615 :
日本@名無史さん:2014/07/15(火) 11:03:11.34
容保の顔はマヌケ顔だ
616 :
日本@名無史さん:2014/07/16(水) 12:39:17.17
超マヌケ顔
617 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 07:56:31.76
容保の顔は「超マヌケ顔」で「アホずら」か(笑)
完璧に当たっとるな!
618 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 22:44:46.34
切腹さえできないチキンバカ殿
619 :
日本@名無史さん:2014/07/21(月) 22:21:01.61
馬鹿・アホ・マヌケ・チキン・異常な性欲
620 :
日本@名無史さん:2014/07/25(金) 15:42:18.62
八重の桜で松平容保の役をやったタレントは容保の役でイメージダウンして
最近はまともな仕事が入らなくなったようだ。
621 :
日本@名無史さん:2014/07/25(金) 21:58:11.92
>>620 容保の役でタレント人生を終わらせたのか・・
可哀そうに・・
622 :
日本@名無史さん:2014/07/26(土) 11:04:31.61
>>620 綾野剛は来年公開の主演映画撮ってるじゃん
623 :
日本@名無史さん:2014/07/26(土) 11:28:02.72
興行失敗間違いないな
624 :
日本@名無史さん:2014/07/26(土) 12:25:16.86
話がそれてんな
ここはアホの容保をいじるスレだろう
625 :
日本@名無史さん:2014/07/28(月) 07:23:27.36
倒幕は薩長の罪
それを認めないのは容保の罪
626 :
日本@名無史さん:2014/07/29(火) 18:07:23.66
アホで異常性欲者の容保
627 :
日本@名無史さん:2014/07/29(火) 19:43:51.03
ウリは桓武天皇以来の生粋関西人ニダ。
しかし薩長の会津攻めは完全な間違いと思う。
ごめん、福島の人たち。
628 :
日本@名無史さん:2014/08/02(土) 10:05:08.72
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629 :
日本@名無史さん:2014/08/04(月) 19:15:55.48
腹を切って自害すれば多少は擁護する余地もあった
暗愚の君主としか言いようがない
630 :
日本@名無史さん:2014/08/05(火) 03:33:34.14
容保は腹を切ることさえできないチキンであり、馬鹿な異常性欲者だった。
会津プロパガンダで美化されてるけど希代の暗君だからな(笑)
つか、悲劇の会津が既に嘘っぱちだからよ(笑)
皇居襲撃などという大逆罪を犯した長州とか、自藩の利益のために勝手に大逆班と手を組んだ薩摩みたいな賊とくらべたら、
希代の暗君なんていったって、かわいいもんだよな。
633 :
日本@名無史さん:2014/08/05(火) 22:13:56.48
会津でまともな人間は西郷頼母一人だろう
容保は馬鹿で無能な異常性欲者だった(笑)
634 :
日本@名無史さん:2014/08/06(水) 09:48:01.67
そら西郷頼母は城に入った自分と長男以外の母妻妹娘ら総勢12人が皆自害で
戊辰戦争が終わった直後の謹慎中は子作りどころじゃなかったからな
農民間では容保が腹切らなかったことで大ブーイング。この辺がたぶん同じくらいの
能力だった敬親との違いかな。
636 :
日本@名無史さん:2014/08/08(金) 07:55:36.26
新政府軍がいとも簡単に進軍できたのは会津の農民が新政府軍の手先となり進軍を
助けたためであるといわれている。
会津の農民は新政府軍を官軍様と呼び、会津軍を会賊と呼んで喜んで新政府軍の
手先を務めていたらしい。
妊娠させたのは籠城中じゃないか?
638 :
日本@名無史さん:2014/08/09(土) 00:12:33.66
万が一籠城中に容保が妊娠させたのなら完璧なキチガイの異常性欲者だ!
戦場みたいに死ぬかもしれないという状況なったら性欲って盛り上がると聞いたが。
慶喜もだけど若年時代に子供出来なくて隠居後に子供バコバコ出来るつーのは
現役時代のストレス凄かったんだろなと思う。
妊娠させた時期だけど、開城直前にせよ、開城後にせよ、側女の女体を堪能して、
悦楽してるような状況ではないと思うんだが・・・
こんなんだから、領民から愛想尽かされたんだろうな。
妊娠させた時期は篭城戦始まる前だろ?
子供の誕生日が翌年7月だから仕込んだのは9月。
篭城戦は10月下旬。
642 :
日本@名無史さん:2014/08/19(火) 13:16:09.99
会津開城って9月じゃなかったか?
643 :
日本@名無史さん:2014/08/19(火) 13:25:10.93
妄想が凄いのはわかった
644 :
日本@名無史さん:2014/08/19(火) 15:42:45.88
松平容大
明治2年(1869年)6月3日生(太陽暦7月11日)
最終月経日から出産までがだいたい280日
太陽暦で言う明治元年9月20日〜27日頃が容大母の最終月経日
受胎日(排卵日)はおよそそれから2週間後なので容大が受精したのは
太陽暦でいうおよそ明治元年10月4日〜11日頃だと思われる
慶応4年(1868年)閏4月20日(太陽暦6月10日)容保の命令で会津藩家老西郷頼母が白河城を攻略、会津戦争開始
慶応4年(1868年)5月1日(太陽暦6月20日)新政府軍、白河城を奪い返し、会津を追う
明治元年(1868年)8月23日(太陽暦10月8日)新政府軍が会津若松城下に侵攻
明治元年(1868年)9月22日(太陽暦11月6日)会津、新政府軍に降伏、会津若松城開城
やっぱり籠城中(もしくは新政府軍が会津若松に迫る直前)のセックスで妊娠だな
645 :
日本@名無史さん:2014/08/20(水) 15:37:41.00
幕末のヒムラー、手代木直右衛門の傀儡
京都守護職受けなかったら天狗党鎮圧に回されて松平頼徳のようになったかもしれん
647 :
日本@名無史さん:2014/08/21(木) 12:23:54.16
田代嬢は正式な側室だったんだから容保がいつ孕ませても構わないだろ
648 :
日本@名無史さん:2014/08/21(木) 12:27:45.82
また長州を打つべき
会津閥って 長州政権で あんだけ優遇されたのに そりゃないぜ
650 :
日本@名無史さん:2014/08/23(土) 10:57:05.22
大体、鳥羽伏見で負けて江戸に逃げ帰って、慶喜が寛永寺に蟄居謹慎した時点で、
家来の容保も謝罪謹慎すべきだろ。
それ以降に女抱いて悦楽して孕ませるなんて、全く反省の色が見えない。
651 :
日本@名無史さん:2014/08/23(土) 11:43:18.59
>>650 会津人は皆反省はしていないだろ?
自分らが悪かったとはこれっぽっちも思っていない。
その証拠に130年経った今でも恩人の長州を憎んでいる。
>>651おいおい
松平肥後守家中一同は みんな甲信越人の子孫ばっかだよ
寧ろ 公用人の手代木直右衛門だけが 純血会津人なくらいだし
そりゃ一揆おきるわ
織田氏や豊臣氏や徳川氏に続いて
京で馬揃えをした会津松平氏こそ天下人。
京都守護職こそ真の朝臣。
>>653まあ 天皇にしたら 会津藩の変わり見つかるまでは
そうだろうね
会津を私兵化(義経、義仲化)して
幕府(頼朝)の勢力に対抗しようというのが
天皇の狙い
ある意味で京都の会津政権は、
東西が敵状態だったな。
戦略上まずい。
徳川家茂(江戸) 「最近、公武合体したからって天子と会津の奴がちょーしこいてんな、おい!本荘と阿部!都いって二人シメてこい」
西郷隆盛(薩摩)
「つーか、会津の奴誰のおかげで禁門勝てた思ってるでゴワス。最近一人で勝てたと思ってこっちまで嫌がらせ、マジムカつくでゴワス。坂本君、ちょっと長州までお使頼むでゴワス」
一橋慶喜
「会津マジ引くわ〜長州、御所攻めたからって普通、町ごと焼くか?おかげで庶民から苦情殺到だよ。つーかこっちは別に、長州と敵対してないのに勅って無理やり呼びつけといて中将だけ天子の隣とかマジあり得ねー。おかげで余、撃たれてケガしちまった」
桂小五郎 (長州)
「耐えろ俺」
松平容保は自己陶酔の自己中
659 :
日本@名無史さん:2014/08/29(金) 12:45:34.03
会津藩主を左近衛大将
桑名藩主を右近衛大将 に任官し
孝明天皇が親政すべきでしたな。
孝明天皇の信頼厚い将こそ、
まことの朝臣。
661 :
日本@名無史さん:2014/08/29(金) 13:14:58.63
孝明天皇の後は東武天皇の即位で。
伊達を左大臣、上杉を右大臣にすれば、さらに盤石。
孝明天皇がそもそも天皇親政に反対して 長州を追放したんだが
それに親政したら
やっぱり明治天皇に禅譲されたやろ
ただし太政官は岩倉ではなく
手代木直右衛門で
しかも 当然 幕府は会津と敵対するやろうから
徳川徳川の内戦と 薩長より最悪な事態に
663 :
日本@名無史さん:2014/09/16(火) 02:23:16.88
会津武士道こそもののふの本懐
京・江戸は反日反皇室の外道
665 :
日本@名無史さん:2014/09/16(火) 10:00:41.41
>>664 将軍よりも天皇に仕えてこそ真の官軍
藩祖の遺訓を超えて正しき武士道を成し遂げたのだ!
帝より賜った陣羽織で出陣した会津中将こそ武家の棟梁
平安時代の宮中で、
蔵人頭と中将を兼任の公家が天皇の席次に一番近く仕えたように
会津中将こそ天皇の側近武官として相応しい品格
末裔も宮内省の長官である宮内大臣に昇進できるわけだ・・
戦前、
内大臣は長州藩木戸だが、宮内大臣は会津藩松平氏でしたな
666 :
日本@名無史さん:2014/09/16(火) 11:42:52.77
かたもり
>>665戦後も優遇されとるやん容保ファミリア
そもそも 孝明天皇の寵愛って 手代木さんと天皇が 白紙の手紙 渡して口裏合わせただけやん
南紀派時代 孝明天皇と対立した大老 井伊直弼の部下だった 容保が孝明天皇の忠臣なんだ
この時点で訳わからんのだが
龍馬を殺した黒幕って噂本当ですかね?
すでに大政奉還され、無血開城してたのに坂本龍馬、中岡慎太郎を殺す意味なんてあったのかな?
容保は、朝廷から徳川家にもう一度大政委任してもらおう、って主張してるグループだった
どっちかというと、容保と言うより 腹心の手代木勝任の都合で起きたみたい
近江屋事件
会津内部すら神保修理や山本覚馬見たく 薩長や坂本と組んで、手代木降ろしを水面下でやっとる輩までいるし
だから 会津藩公用方は
龍馬と中岡を暗殺して 土佐藩で 後藤を失脚させ 佐幕派に藩の実権を握らせ、新政府から一時離脱
井伊直弼死後 再び政権に返り咲きたい彦根藩に 佐幕派諸藩と京都周辺を封鎖させ
江戸では 嘗て 手代木が新撰組同様 発足に 関わった新徴組と庄内藩が 薩摩 江戸藩邸を焼き討ちさせたわけだわな
672 :
日本@名無史さん:2014/09/18(木) 19:59:25.34
東北では、
北畠顕家 卿・奥州北畠氏 結城宗広 公・白河結城氏 以来の
真の朝臣
それが、松平容保 公
帝より賜った陣羽織を纏い戦う真の武人
>>672しんかん と
ぎょせい ならまだわかるが、陣羽織は聞いたこと無いな
孝明天皇の手紙に至っては 白紙みたいだし
悪いが、容保さん
騙されたんだよ
手代木と天皇に
松平容保公は緋の御衣を
毛利敬親公は白の御衣を
攘夷戦の陣羽織にせよと賜った。
孝明帝のご叡慮に従って攘夷を遂行した敬親と
ご叡慮に逆らってその毛利家に刃を向けた逆賊容保。
>>674 そのご叡慮もクルクル代わったけどね
毛利も鷹司も三条も孝明の被害者
676 :
日本@名無史さん:2014/09/19(金) 09:31:45.35
松平容保 内大臣
手代木 内務卿
この組み合わせこそ
朝廷に相応しい
会津こそ真正の官軍
>>676そして、手代木政権の軍隊が 西郷頼母率いる会津の不平氏族と会津戦争して 磐梯山で頼母を切腹か
仙台や米沢も抹殺だな
678 :
日本@名無史さん:2014/09/22(月) 12:25:47.43
もう幕末大河ドラマ手代木を放送すべき
むっさ見てみたいが、松永久秀を大河ドラマにするようなもんだしな〜
手代木が主人公の大河
680 :
日本@名無史さん:2014/09/23(火) 14:04:47.71
軍師官兵衛よりも
公用方手代木 を大河ドラマにしたほうが 面白そうだ
会津の観光で力を入れるべき
坂本龍馬 最凶の敵
必殺公用人手代木か
面白そう
大河ドラマになれば、
城下町の行列祭りでは
手代木さんに扮した時代劇仮装も見れるわけだなw
やっと、佐々木只三郎が評価されるのか
坂本龍馬と腕組みしてにらみ合う図は絵になりそう
容保の影薄なりそう
でも、神保修理切腹を指示した疑惑があるんだよな
手代木
政治、軍事、外交その他もろもろ指導者として必要な能力が最低レベルの人
義侠心に溢れた人物っていうより頭悪すぎて今までやってきたことを踏襲するしかできなかったんじゃないかと思う。
手代木直右衛門
「お陰様で私はメシ旨でしたよ」
688 :
日本@名無史さん:2014/12/22(月) 18:43:10.81
会津プロパガンダで美化してるだけ。
コイツは信州から来たバカ殿だよ ( ´∀`)
689 :
日本@名無史さん:2014/12/22(月) 19:03:00.92
手代木って、最後はどうなったんだ?
弟の佐々木は無惨な最期を遂げたけど。
>>689 左院少議生
香川県権参事
高知県権参事
岡山区長
宇喜多直家と手代木勝任
岡山の誇る二大謀将か
>>691 岡山区長時代は日本原開拓で辣腕を発揮してたりしてたし
現役時代は暗殺弾圧とかダーティーな作戦の指揮を取ったり 兄弟二人三脚で栄達してったりと
生国や時代は違えど 宇喜多様と共通点が多いな
693 :
日本@名無史さん:2014/12/23(火) 08:05:23.47
こいつは戊辰の戦犯にはならなかったのか。
ていうか高知県権参事って、何のギャグだよ・・・
とことん抜け目がないというか要領のいい悪党だな。
>>693手代木は
会津降伏は取りまとめたからな
元々、彼は奥羽同盟を発足させる際 米沢藩と組んでいた関係で
越後口司令官の一人だった
そのため 米沢藩を降伏させた板垣相手に
秋月らと交渉出来たから 新政府も許したんだろうな
695 :
日本@名無史さん:2014/12/26(金) 22:10:20.30
>>669 >すでに大政奉還され、無血開城してたのに坂本龍馬、中岡慎太郎を殺す意味なんてあったのかな?
すでに大正・昭和・平成となったのに、反薩長をやってる人たちであります。
年を経るごとに被害妄想が酷くなっていくという事例はあります。
>>695 でも容保と違って
手代木って、佐幕系原理主義者には見えないな。
どっちかというと、栄達の邪魔になりそうだから、坂本中岡を抹殺したり、薩長殲滅を目論んだだけみたいな。
会津戦争で20歳ちょっとで死んだ家老の横山クン、いい男だわ
パリ博に派遣させられ、欧州留学を打ち切って戊辰戦争へ
若くて優秀でイケメンなのに勿体なかった
禁門の変後の勝海舟の日記に依れば
『京地の風評、長を善とし、会、殊に悪説有り。(略)
又、薩・会の処置、暴に過ぎ、頗る正中を得ざるものあり。
薩は形勢を明察し、機会に乗ずる、天下第一といふべく、昨冬以来、長人是に仇すれども、私怨を忍び改めて咎めず、
彼が挙不正に到るに及んで、憤怨以てこれに答へんとす。尤も巧なりといふべし。
会藩は、上に人物なく、下士激烈無着落。その規模、殊に狭小。必ず労して天下の大害を生ぜん。また憐れむべし。』
寺石正路「南国遺事」の同時期の記録に依れば、薩摩の寛大な処置に対し会津の捕虜の扱いは苛烈を極め
『長人の捕虜を頗る惨酷に扱ひ、爪を抜き、舌を切り、手を切り、なぶり殺しにした。
其中、或一人の頭に釘を打込む。容易に死せず。遂に十三本も打込むと死した。中々豪傑であった』
と会津の者から聞いたそうだ。
会津ろくでもねえな
そりゃ負けた長州に対する判官贔屓だろ
客観的に言って、皇居に武力侵攻しようとして撃退された長州には叛乱軍・逆賊以外の評価を出し得ないよ
>>699 そもそも孝明天皇が手代木直右衛門の口車に乗って8月の政変を起こしたり、古高俊太郎の和平工作を新撰組が妨害して 池田屋事件を起こしたのが原因だしな。
だいたい諸藩が長州の中立要請には応じても、孝明天皇の勅に応じたの 薩摩と
慶喜【嫌々】な位な時点でな。
妄想乙
「禁門の変で長州は京都に火をつけた!」
資料では長州と会津の両藩が火をつけたとある。ちなみに当時の京都民は会津が主犯としている。
「孝明天皇を暗殺した!」
資料なし。岩倉具視とか言われたが動機もないため学会では天然痘でほぼ確定。
「会津藩は恭順したのに、薩長は松平容保の首を要求した!」
資料なし。薩長が要求したのは主戦派家老の切腹・武装解除・降伏開城
「長州兵が私怨で会津各地を荒らした!」
資料なし。長州軍は長岡藩と戦闘中。会津戦争に参戦したのは会津降伏の一ヵ月前、若松城攻めだけ。
「降伏した会津人を薩長が悲惨な目に合わせた」
資料なし。しかも戦後処理は福井藩担当。薩長は榎本軍を追って北上しており関与していない。
「町野主水の話によると遺体埋葬を禁止した」
資料なし。言い出したのは石川寅次
「孝明天皇から宸翰を賜った」
本物か不明。宮内庁にはそのような資料なし。会津人は本物と言い張っている。
さすが朝敵会津ファン
資料を出せと言えば「小説」と「郷土史家の推測」ばかり
チョンレベルの捏造して恥ずかしくないの?
恥ずかしくないんだろうな。チョンの同類項だからな
>>702 >資料では長州と会津の両藩が火をつけたとある。ちなみに当時の京都民は会津が主犯としている。
市街に関してはともかく、御所に武力でもって押し入ろうとした件は明白に反逆罪
御所警護の諸藩の兵と戦っただけでも罪状が明白。
そうだよ
だから朝廷に謝罪して、罪を赦免してもらった
毛利父子ならびに長州藩一同は、正式にお許しも頂きました
で?
会津藩は?
いつ朝敵赦免の勅令をもらったの?
あ、もらえずに永遠の朝敵のまま消滅しちゃったかwww