凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part15

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1日本@名無史さん
14が落ちたみたいなんで15で。テンプレ
とかはまた考えよ。
2日本@名無史さん:2010/09/11(土) 01:22:39
自治スレぐらいみろよ>1
ログが復旧したらこのスレの処理はお前がやるんだよな?
3日本@名無史さん:2010/09/11(土) 06:18:44
はぁ?
4日本@名無史さん:2010/09/11(土) 07:18:33
駿府城の坤櫓の復元はどうなったんか?
5日本@名無史さん:2010/09/11(土) 07:20:15
 
6日本@名無史さん:2010/09/11(土) 09:11:32
7日本@名無史さん:2010/09/11(土) 10:45:13
【入試】「徳川家康の時代に江戸城から最も近かった八百屋の名前を答えよ」東京の私立大学の日本史で超奇問

http://toki.2ch.net/test/read.cgi/bread/1277724585/
8日本@名無史さん:2010/09/11(土) 12:44:38
名古屋城の本丸御殿は創建時復元で天守は江戸中期仕様のとんちんかん。金沢城も本丸櫓再建計画で既存の櫓、門等との時代矛盾が起こりつつある。
9日本@名無史さん:2010/09/11(土) 12:56:27
埼玉三名城

川越城
岩槻城
忍城
10日本@名無史さん:2010/09/11(土) 16:08:01
>>8
本丸御殿は創建時じゃなく改修後の元禄年間の復元だよ。
だから天守も創建時の初期のに改修してほしいな。
11日本@名無史さん:2010/09/11(土) 16:21:18
保存の事を考えると天守は銅瓦、樋付きが最良だろうよ。
12日本@名無史さん:2010/09/11(土) 16:39:05
それなら御殿も天守と同じく焼失時のにするべきだったな。
瓦じゃなくわざわざこけら葺きにしたんだからさ、時代を合わせないと。
13日本@名無史さん:2010/09/11(土) 18:11:14
史実に基づかない、観光客寄せのための模擬天守が多すぎて困る。
14日本@名無史さん:2010/09/11(土) 18:57:02
>>8
本丸櫓というと、どれを再建する計画なの
15日本@名無史さん:2010/09/11(土) 22:59:18
阿呆みたいに段差が高かったり、足場が不揃いだったりする石段って、歩兵の侵入を妨げるための仕様だったのかな
16日本@名無史さん:2010/09/12(日) 01:38:00
経年劣化もあるだろうけど、そこまで正確さは求められてなかったのかもね
古銭収集が趣味だけど同じ貨幣でも色々な個性(というかエラー)があるからね、収集家の間では手変わりというけど
17日本@名無史さん:2010/09/12(日) 07:27:25
前スレで水戸城の書き込みが有ったので調べてみた。
御三階櫓。高さは約21m。(マンションの高さで約7階建てと
同じくらい)一層目は約11.7m四方。
木造での復元は建築法で可能なのかな?
意外と大きいのでビックリです!
18日本@名無史さん:2010/09/12(日) 09:18:14
石垣を入れないとかアナタ馬鹿でしょ?
19日本@名無史さん:2010/09/12(日) 10:07:30
>>18
ギャグのつもり?
20日本@名無史さん:2010/09/12(日) 12:50:14
>>19
やっぱり馬鹿でしょ?
2119:2010/09/12(日) 13:22:57
>>20
いや、17とは別人なんだが
で、あなたは水戸城の御三階には石垣があるとという認識なのね?
22日本@名無史さん:2010/09/12(日) 13:23:52
金沢城の本丸丑寅、中、辰巳櫓。特に異形の丑寅櫓は模型まで製作されている。宝暦大火以前の櫓が復元されると新様式の石川門や菱櫓と時代的矛盾が生じる。
23日本@名無史さん:2010/09/12(日) 13:54:59
>>21
少なくとも盛り土の上に築いてるでしょ?そうじゃないと防御施設の意味ないもの
24日本@名無史さん:2010/09/12(日) 14:25:30
古写真を見ると盛り土も無いみたいだね。
2519:2010/09/12(日) 14:40:25
>>23
防御施設の意味合いは低い
26日本@名無史さん:2010/09/12(日) 16:09:23
17ですが、水戸城は石垣は無いと思うですが…。
盛り土でも無いと…。
皆さんどう思いますか?
27日本@名無史さん:2010/09/12(日) 16:16:10
平地の上にそのまま建っている。
天守、櫓というより、もろ倉庫ですってカンジ。
28ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/09/12(日) 18:41:17
関東は当時天守閣の建設禁止だったとか最近
どっかで見た。小田原は例外らしい。
29日本@名無史さん:2010/09/12(日) 19:39:49
水戸城そのものが高台にあるために、城全体も切り土の堀に盛り土を加えた防御設備
現在でも
旧県庁跡地や水戸一高付近で確認出来ます。
天守閣跡地も、高台の平地に築かれた土蔵といった感じで、石垣などは存在しない。ま、当時あったとしても
土台補強の為の基礎的な敷石程度でしょう。
30日本@名無史さん:2010/09/12(日) 19:53:37
>>28
禁止というより自粛
関東の城は基本的に江戸城の支城という認識だったとか
31日本@名無史さん:2010/09/13(月) 13:23:56
沼田城にも天守あったよね。
あれって江戸時代につくられたんじゃなかったっけ?
32日本@名無史さん:2010/09/13(月) 14:29:45
左様。沼田藩主の真田信利が、本家筋の松代藩に張り合うためという、非常に不健全な思惑で建てた城。のち、暴政により沼田真田家は改易。城も破壊される。
33日本@名無史さん:2010/09/13(月) 20:58:27
沼田城は全国でも数例しかない五層天守があった。
よくもまあ江戸から中途半端に近い位置なのに建てられたものだ。
34日本@名無史さん:2010/09/14(火) 07:48:16
関東に土塁の脆弱な城ばかり造らせたから戊辰戦争では全く役立たずだったな。
35日本@名無史さん:2010/09/14(火) 09:19:53
前将軍が謹慎しているのに、
おひざ元の関東でまともな戦闘行為があるわけないだろう。
江戸での戦闘は上野山
36日本@名無史さん:2010/09/14(火) 11:05:19
真田伊賀守信利が、酒井雅楽頭忠清の女婿だったから許可が出たのかな。
酒井失脚後の沼田の命運は決まった
37日本@名無史さん:2010/09/14(火) 11:11:07
もっと前から天守あるだろ
38日本@名無史さん:2010/09/14(火) 12:17:08
知り合いが沼田真田家の末裔で六文会の会員なので天守指図を見せて欲しいと頼んだか、「そんなものはない」との返事だった。
39日本@名無史さん:2010/09/14(火) 12:25:19
天守閣をたてたのは真田信利だバカタレ
40日本@名無史さん:2010/09/14(火) 13:29:46
それ改築だろ
41日本@名無史さん:2010/09/14(火) 14:39:06
信利が天守閣を改築したっていう証拠があんのか証拠が。証拠を示してから書けバカタレ
42日本@名無史さん:2010/09/14(火) 14:45:21
ttp://www.techas.co.jp/papercraft/pc/detail/rekishi/008/index.html
ttp://blog.livedoor.jp/techas296094/

1/300日本の城ペーパークラフトシリーズで、三浦案の寛永江戸城天守を作成中だそうな。
43日本@名無史さん:2010/09/14(火) 15:03:36
天守閣w
44ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/09/14(火) 18:24:57
瓦も金箔だってね、小諸も上田も。
45日本@名無史さん:2010/09/14(火) 20:39:00
正保城絵図に五重天守が描かれているじゃん。
46日本@名無史さん:2010/09/14(火) 21:02:09
>>33
江戸開幕以前から存在していた建物なんでしょう。
47日本@名無史さん:2010/09/14(火) 21:17:48
48ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/09/14(火) 21:38:56
慶長12年だから江戸と桃山の中間くらいかな。
49日本@名無史さん:2010/09/14(火) 22:04:11
沼田市のホームページ(http://www.city.numata.gunma.jp/introduction/koen.html)によると
「慶長2年(1597)(一説には12年)には天守が完成したと云われています。」とある。
金箔瓦が出土していることからみて創築は豊臣期に遡るのだろう。
50日本@名無史さん:2010/09/14(火) 22:49:02
もしそうなら沼田城が本城で、上田城が支城ということなんだろうか
51日本@名無史さん:2010/09/15(水) 02:02:55
真田信之は沼田城を居城としていたんだよね?
52日本@名無史さん:2010/09/15(水) 08:55:15
>>51
夏の陣が終わるまでは、その後に上田に移った
53日本@名無史さん:2010/09/15(水) 10:41:48
天正18年(1590)〜慶長5年(1600)
 本城 上田城(真田昌幸)
 支城 沼田城(真田信之)

慶長5年(1600)〜元和2年(1616)
 本城 沼田城(真田信之)
 支城 上田城        ※関ヶ原戦後、破壊されている。

元和2年(1616)〜元和8年(1622)
 本城 上田城(真田信之) ※本格的な再建はしていない。
 支城 沼田城(真田信吉)

元和8年(1622)〜
 本城 松代城(真田信之)
 支城 沼田城(真田信吉) 

 ※上田城は寛永3年(1626)、仙石忠政により再建。
54日本@名無史さん:2010/09/15(水) 10:52:17
>>53
それだと本城である上田城には天守はなく、支城の沼田城には天守があるという奇妙な話になる
55日本@名無史さん:2010/09/15(水) 11:06:56
昌幸の頃の上田城には天守はあったでしょ。金箔瓦出土してるし。

56日本@名無史さん:2010/09/15(水) 11:39:29
一応、天守はなくても金箔瓦はあるという城は存在する
57日本@名無史さん:2010/09/15(水) 16:06:32
五階建ての天守をつくったのは信利なんだよ
58日本@名無史さん:2010/09/15(水) 19:37:32
>>54
本城の鳥取城にはチンケな二層天守だが、支城の米子城には四層の大型天守、とか
こいつの方が困りモンだぜ
59日本@名無史さん:2010/09/15(水) 20:16:34
>>57
元和偃武以後で天守を大型化する改築は無理じゃね?
60日本@名無史さん:2010/09/15(水) 20:25:15
>>58
あれは結果としてそうなったという話ですし
61日本@名無史さん:2010/09/15(水) 21:49:28
誰か14のURLわかる?
62日本@名無史さん:2010/09/15(水) 22:52:44
63日本@名無史さん:2010/09/15(水) 23:07:01
>>62
なんかくどい外見だよなぁ
64日本@名無史さん:2010/09/15(水) 23:08:37
>>62
これぐらいゴテゴテした櫓が日本に一つくらいあっても良い
そう思わせるゴテゴテっぷり
再建して欲しいなぁ
65日本@名無史さん:2010/09/15(水) 23:45:56
>>57
真田信政の時に作成された絵図に五重天守がありますが。
http://www6.wind.ne.jp/housan/numata-kouen01.jpg

こちらでも真田信利は「天守修復」となっている。
http://www.city.numata.gunma.jp/sanada/m05_00.html
66日本@名無史さん:2010/09/16(木) 23:42:34
なんかさぁ〜〜最近?江戸城復元したいとかなんだか言ってるけど、皆さんは
どう思う?? 俺的にはしなくていいな。(安土も反対だな・)
67日本@名無史さん:2010/09/17(金) 07:58:11
復元したら皇居の中が丸見えの為
宮内庁が許しません。
68日本@名無史さん:2010/09/17(金) 08:38:20
新発田城のように内部非公開にすればいい。
69日本@名無史さん:2010/09/17(金) 08:47:45
実際、櫓なんて倉庫同然なんだから、一般人が中身を見ても面白くないぞ
狭くて薄暗くて窓小さい。
70日本@名無史さん:2010/09/17(金) 09:10:27
別に丸ビルからでもよく見えるけど
71日本@名無史さん:2010/09/17(金) 09:21:33
篠山城二の丸書院は考証ができないから障壁画がない
殺風景だが、実に潔い
ねつ造反対
72日本@名無史さん:2010/09/17(金) 09:37:04
説明があれば別に良いけどね
「実際はこれこれですが、なになにの理由でふむふむになりました」
という感じで
73日本@名無史さん:2010/09/17(金) 11:09:55
丸ビルは城外
天守は城内

全然違うと思うけどね。
74日本@名無史さん:2010/09/17(金) 11:37:39
見える範囲を問題としているなら大した違いはない
75日本@名無史さん:2010/09/17(金) 15:27:34
>>73
外堀の内側だから丸ビルは城内
76日本@名無史さん:2010/09/17(金) 15:44:45
今の天守台は未完成で建物が建った事がない。天守を復元する事は史跡の破壊だ。戦時中には近衛師団が高射機関砲陣地にしたため石段が撤去されたままになっている。
77日本@名無史さん:2010/09/17(金) 16:25:12
今後、近代工法で天守の復元をするなら、鉄骨構造で内部も復元して欲しい
78日本@名無史さん:2010/09/17(金) 21:07:34
やっぱ、中途半端な再建はやめてほしいな・・・。
江戸城や安土城は俺たちの希望と夢があるんだから、再建するんなら、復元にかなり近い状態で再建してほしいな。
79日本@名無史さん:2010/09/17(金) 21:57:18
東京にろくな史跡がないから江戸城を何とかしたいという気持ちはわからんでもない
芝の徳川家霊廟が残っていさえすればな・・・
80日本@名無史さん:2010/09/17(金) 22:51:55
 
81日本@名無史さん:2010/09/17(金) 22:57:51
>>79一応結構あると思うよ・・・・・
でも江戸城なんかは、外国人から見ても、かなりの価値があるのは間違いないし、
中途半端な再建したら糞になるな。もし現存だったら、国宝、世界遺産間違いないっしょ。
まぁ、家康が嫌いな人もいるわけだが、かなり貴重な城であることは間違いないね。
あ、でも城の意味(軍事的機能)果たしてないのか・・・・・。そう考えると江戸城や安土城って城じゃないのか・・・?
82日本@名無史さん:2010/09/17(金) 23:04:49
>>79充分東京にも歴史的なものは多いと思うが・・・・(史跡はないか)
でも、中途半端な再建は絶対やめてほしいな。世界観から見てもかなりの価値はあると思うし。
現存してれば国宝、世界遺産間違いないと思うが・・・・・・。
でも、安土城や江戸城って城の意味(軍事的機能)果たしてないよね。城なのかあれは??
まぁ、特別なんでしょうね。  ところで、姫路城とか歴史的価値は全くないのになんで世界遺産、国宝になったのまいまだにわからん。
きれいなのは分かるけどなんだかな〜〜。
83日本@名無史さん:2010/09/17(金) 23:53:05
歴史的価値ってなんだよ
84日本@名無史さん:2010/09/17(金) 23:54:10
無知な奴にはわからんのさ
85日本@名無史さん:2010/09/17(金) 23:54:39
東京といえば、≪平山城址公園≫
86日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:14:29
>>84
あなたにとっての歴史的価値とは?
87日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:16:18
・・・・・っことを聞いてみたいんですけど。
88日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:21:30
そもそも、世界遺産ってどうやって決めるの??
やっぱそれなりの価値があるもんでしょ。他の世界遺産はなんらかの「歴史的価値」ってものがあると思うけど。
姫路城は何なんだ??  なんで世界遺産に選ばれたんだ??
89日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:23:38
なんだ、単に姫路城が嫌いなだけか。
90日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:24:50
>>84、はっ?ならとっても賢いあなたの意見を聞きたいもんですね。
91日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:29:30
ちなみに言っときますけど、姫路城は素晴らしいと思いますよ。
ただ、表面上の美しさで世界遺産になるいみが知りたいだけです。
92日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:42:06
>>91
姫路城じゃなければどこがある?
現存天守は必須条件だろ。だったらせいぜい松本城、彦根城、犬山城。
世界遺産に「日本の古城」を選ぶなら、姫路城一択だよ
93日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:45:12
http://himejijo.ninpou.jp/guide11a.html
なるほどね・・・・・・。
94日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:48:25
>>92確かに日本の城は世界とは異なる木造建築だし、天守なんて日本だけですね。
でも、何だか納得いかないのは俺だけか・・・・・・。
95日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:55:40
>>94
例えばどこなら納得いく?

次に世界遺産に推薦されてるのは彦根城。
見込みは限りなくうすいらしい
96日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:57:35
松本城とかも頑張ってるみたいだね・・・・。
そんなこと言ってたらきりがないか。 俺が悪かったな、すまない。
97日本@名無史さん:2010/09/18(土) 01:00:20
でも正直、納得いかないって気持ちはわかるよw
98日本@名無史さん:2010/09/18(土) 01:03:55
俺、中三だからさ、まだ城に関しても未熟なのに、あーだこーだ言ってて悪かったな。
皆さんのほうが断然詳しいか・・・・・w
99日本@名無史さん:2010/09/18(土) 01:24:44
姫路城より規模の大きかった城や政治的価値の高かった城で
まともに残ってる城はないから必然的に姫路城が世界遺産

姫路城は播磨、備前、淡路、因幡を有する池田家の本城として
西国将軍とまで言われた池田輝政が築いただけあって
白亜の連郭式五層天守な上に惣構えも有するん立派なものだよ

池田家が転封で姫路を去ってからは城の規模に見合わぬ小身の譜代大名が
入れ替わり立ち替わりしたから歴史的価値が低いような気がするだけだろうね
100ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/09/18(土) 02:42:32
大阪城は世界遺産にしてもよかったけど、もう
公園のままでいいや。本丸もあと4950年は
いじれないしね。
101日本@名無史さん:2010/09/18(土) 12:57:00
大坂城は日本のエルサレム神殿の丘。巨大前方後円墳の上に石山本願寺、豊臣大坂城、徳川大坂城が重なっている。
102日本@名無史さん:2010/09/18(土) 14:32:32
>小身の譜代大名

本多、榊原、酒井らが小身とな
103日本@名無史さん:2010/09/19(日) 00:22:52
姫路城の縄張りは全体的に小じんまりと複雑な感じですね
やはり羽柴時代の名残なのかな
豊臣大阪城本丸の中井図を見てもけっこう複雑な縄張りしているし

それはさておきどうせ調査するなら、
もっと深く掘って巨大古墳の存在をぜひ確認してみて欲しい
個人的には信長を十年手こずらせた石山本願寺の縄張りも気になる
104日本@名無史さん:2010/09/19(日) 10:27:17 BE:4317343889-2BP(240)

大阪城の堀は無敵
トーチカもいっぱいあるし
105日本@名無史さん:2010/09/19(日) 13:54:37
古墳の石室発掘ポイントは桜門内側、山里丸本丸寄り。発掘すると徳川、豊臣、本願寺の遺構破壊になる。ここが痛いところ。
106日本@名無史さん:2010/09/19(日) 14:02:09
大阪城に天守を建てたのが間違いだったな。
107日本@名無史さん:2010/09/19(日) 14:52:23
大阪冬の陣で徳川家康が、次いで夏の陣で真田幸村が本陣を置いた四天王寺近くの
茶臼山古墳は、古墳であるとする証拠がない。

これまめ
108日本@名無史さん:2010/09/19(日) 15:11:20
仁徳陵は中世から戦国期にかけて砦や陣所になった事がある。
109日本@名無史さん:2010/09/19(日) 23:14:33
ぶっちゃけ、大阪城しょぼいな・・・・・。
あんだけ大規模だったのに3日で攻略か。理由はともあれショボい。
110日本@名無史さん:2010/09/20(月) 06:19:18
>あんだけ大規模だったのに3日で攻略か。理由はともあれショボい。
大坂城は半年。江戸城なんて無血開城だからな
111日本@名無史さん:2010/09/20(月) 06:34:57
結局、最後は政治力ってことでしょ
とくに天下人の城である場合、ますますその傾向は強まるかと
ただし防御力云々も
その政治の駆け引き時の交渉材料にはなるような気がする
112日本@名無史さん:2010/09/20(月) 08:38:53
>大阪城
>3日

阿呆ですか?
113日本@名無史さん:2010/09/20(月) 09:01:37
>>109
大阪冬の陣は無視ですか?
家康がどうにも攻めあぐねたため
外堀と内堀まで埋めてしまって騙し討ちにしたんじゃ?
114日本@名無史さん:2010/09/20(月) 09:24:34
あれも立派な城攻めの一つ
115日本@名無史さん:2010/09/20(月) 09:49:06
堀がなくとも籠城すれば良かった。まだ十万の兵力があったからな。野戦で消耗したのが敗因。俗に高所や陣地に潜めば敵の三倍の兵力に匹敵する程有利になると言う。
116日本@名無史さん:2010/09/20(月) 09:50:59
淀がすべての元凶。
117日本@名無史さん:2010/09/20(月) 09:52:00
>>114
よくそういった意見も聞きますが
ああいう一種の約束を反故にした騙し討ちが日常化すれば
そもそも交渉して解決しようということ自体に意味がなくなってしまいますね
結果的に、こちらも力攻めしか出来なくなってしまうし
やはりあれは一種の禁じ手ですよ

老い先短い家康は相当焦っていたんじゃないでしょうか
あんな禁じ手を使ってしまったがために家康は後世かなり評判を落としてしまった
全体的に見れば
家康の城攻めの下手さ加減が際立った戦いでもありましたね
118日本@名無史さん:2010/09/20(月) 09:54:33
淀は糞。身障、きちがい。
大阪城は事実上、女の城ですから一番の権力は淀にあった。
淀は小さい頃城を2回攻め落とされて戦を怖がっていたことからすぐに大阪冬の陣で大砲などで怖がったんだよ
119日本@名無史さん:2010/09/20(月) 09:56:12
ねねちゃんはどうなったんだっけ??
120日本@名無史さん:2010/09/20(月) 10:01:21
>>117
明確に約束を破ったのは豊臣方ですよ
家康は明確な和議違反はしていません
121日本@名無史さん:2010/09/20(月) 10:03:08
>>119
高台寺でひっそりと贅沢に尼さん生活やっておりますた
おそらく内心「淀氏ね」ってな心境だったと思われ
122日本@名無史さん:2010/09/20(月) 10:15:44
>>117

約束を反故にした騙し討ちなんて戦国時代には日常化していたぞ。
信長の長島一揆に対する処置なんて有名だし、
和平交渉の席で暗殺された土豪なんて数知れない。
123日本@名無史さん:2010/09/20(月) 10:15:51
二条城大規模修理で募金受付ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kyoto/2014080501.html
世界遺産の京都の二条城で、来年から大規模な修理が行われるのにあわせて、京都市は、募金の受け付けを来月
から始めます。
京都市中京区にある二条城は、江戸幕府が開かれた1603年に徳川家康によって造られ、平成6年にはユネスコの
世界文化遺産に登録されています。
ところが、施設に老朽化が目立つことから城を管理する京都市は、来年からおよそ20年間かけて、城にある28の
すべての建物などを対象に大規模な修理を行うことになり、京都市では、来月2日から募金の受け付けを始めること
になりました。
募金の受け付けは、3通りあり▼城の事務所で現金を払い込む方法▼ホームページからクレジットカードを使用した
振り込み、さらに、▼専用の払い込み用紙を使った金融機関での振り込み、となっています。
京都市によりますと▼寄付の金額に応じて使用期間の違う二条城のフリーパスが発行されるほか、▼抽せんで
ふだんは公開されていない建物を見学できるということです。京都市では、50億円を目標にしています。
詳しくは、京都市の元離宮二条城事務所まで。電話番号略

124日本@名無史さん:2010/09/20(月) 10:57:41
二条城ならすぐ集まるだろ
20年かけてっていうことはその間いつもどこかは工事中なんだなぁ
しょうがないけど
125日本@名無史さん:2010/09/20(月) 12:53:14
大阪城天守閣って建築史的には価値あるのかな。
あれはあれで、世界最古の鉄骨鉄筋コンクリート建築物らしいし。
126ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/09/20(月) 17:32:30
3年前に行っといてよかった。あとは工事中に
姫路に行かんとね。
127日本@名無史さん:2010/09/20(月) 18:53:35
>大阪城天守閣って建築史的には価値あるのかな。

ちゃんと登録有形文化財に指定されている
128日本@名無史さん:2010/09/20(月) 19:03:50
洲本城模擬天守最高だわ
特に四棟造りの屋根
129日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:02:13
日本史板なんだから
大坂城と大阪城は使い分けような
130日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:53:00
天守が大阪城で、それ以外が大坂城みたいな?
131日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:33:58
>>129
元大阪住人ですが、べつにそこまで細かく言うことはないてしょう
いちいち変換を変更するのも面倒ですし
自由闊達な意見が阻害される元になりかねません
132日本@名無史さん:2010/09/21(火) 00:07:49
一番ショボい城ってどこだと思う。(〜近代までに作られたもの)
133日本@名無史さん:2010/09/21(火) 00:15:16
四稜郭
134日本@名無史さん:2010/09/21(火) 01:49:48
>>132
そういうのは蛸石や肥後石を見てから言ってもらいたいでするぇw
135ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/09/21(火) 07:09:02
しょぼいと歴史に残らないよ。
136日本@名無史さん:2010/09/21(火) 07:17:39
>>132
飛騨:高山陣屋
137日本@名無史さん:2010/09/21(火) 07:40:41
>>136
町家ひとつを代官所にしていたような例はいくらでもあるぞ
138日本@名無史さん:2010/09/21(火) 07:44:13
>>131

歴史学の常識を元住人だの変換が面倒だの
アホな理由で否定すんじゃねーよ。
最後の行に至ってはまったくもって意味不明。
139横から:2010/09/21(火) 08:25:01
細かいことにこだわってたら新参者が寄り付かなくなるって言ってるだけだろ
ここは過疎板なんだからくだらねえことで玄人ヅラして人を追っ払ってんじゃねえよ
140日本@名無史さん:2010/09/21(火) 09:05:35
カテゴリー名を見ろ
新参者は大歓迎だが基本も知らないアホは来なくていい
ここはレス数が増えることに価値がある場所じゃないんだよ
141日本@名無史さん:2010/09/21(火) 09:23:42
大坂城 江戸時代まで
大阪城 それ以降現在まで

おおよそこんな感じ
これくらいは理解できるよな
142日本@名無史さん:2010/09/21(火) 09:30:31
そんなこと言ってたら明治維新後は江戸城じゃなく
東京城、宮城、皇居と言わなくてはならないようになってしまう
そういった呼び方が城を論ずるのにふさわしい呼び方だとは思えない
江戸城でも十分に意味は通じるんだかそれで良いじゃない
143日本@名無史さん:2010/09/21(火) 09:38:42
歴史的に城を論ずるなら当時の呼称で呼ぶべきだろう。
国内旅行板なら好きにすればいい。
144日本@名無史さん:2010/09/21(火) 09:53:31
それは理想としてはそうでしょう
でも現実問題、例えば色々と議論している時に大坂城じゃなく
つい大阪城と書き込んでしまった場合
いったん議論を中断し一々その間違いを正すように指摘しろと?
そんなことで城好きなファン同士の熱い議論が中断してしまうのはちょっと
そんなことをやっても結果的にスレの雰囲気が悪くなるだけでは?
145日本@名無史さん:2010/09/21(火) 09:53:38
>>141
それは明治になって大坂から大阪に改めたからってことでしょ、じゃあ江戸期に築かれ今も現存する石垣、建造物の話をするときはどっちなの。
今日大阪城行ったけど、大坂城の石垣立派だったよ・・・とかか。
146日本@名無史さん:2010/09/21(火) 10:00:21
誤字や用語の使い間違いは歴史やってる奴なら恥じ入る所だよ。
確かにあまり細かく言いすぎるのはどうかと思うが、
だからといって指摘されて逆切れするような奴は論外。
お里が知れるというもの。
147日本@名無史さん:2010/09/21(火) 10:00:56
江戸期以前は人名だろうが地名だろうが同音なら平気で別の文字を使っていた
坂と阪なら音も意味も同じだから、当時の基準に照らせば大阪と表記しても充分通じる。
正しい表記なるものも明確でない時代だからな。

どっちが基本も知らないアホなのやら。
148日本@名無史さん:2010/09/21(火) 10:05:17
誤字じゃなく、何を大坂城といって、何を大阪城というのか時代だけで区切れるわけじゃないよね
149日本@名無史さん:2010/09/21(火) 10:20:37
>歴史的に城を論ずるなら当時の呼称で呼ぶべきだろう。

>誤字や用語の使い間違いは歴史やってる奴なら恥じ入る所だよ。

現代の歴史学用語なら文字の揺らぎは最小に留めるべきだろうが、その歴史学用語は
必ずしも当時の表現表記を踏襲していないのは少しでも学んだ人間なら当然わきまえている。
当時の固有名詞の表記の揺らぎは既に指摘されているとおりだしな。
150日本@名無史さん:2010/09/21(火) 10:20:41
>>147

当時の常識ではなく現在の学問基準に則って話をしろといってるんだろ
そんなに言うなら大坂と大阪をごっちゃにして本なり論文なり出してみろよ
151日本@名無史さん:2010/09/21(火) 10:20:51
城じゃないけど、浮かべる城ってことで。

広島大の三浦教授が復元設計した阿武船だけど、随分前に解体されてたんだね。
こういうのも保管できないというのは寂しいもんだが、木造ではしかたないのかな?

大阿武船 因島市  
復元船として実際に使用可能な全国唯一の中世の船
ttp://home.hiroshima-u.ac.jp/miurayu/images/hune.jpg


中国新聞地域ニュース
復元水軍船、引き取り手なく解体 ‘06/6/8
ttp://www.nauticalarchaeologyjp.com/news/20060615414.html

大阿武船は一九九七年、村上水軍の本拠地の旧因島市が地域振興を目的に建造。
合併で同船を引き継いだ尾道市は、船の保管維持に年間三百万円かかるうえ、
「文化財的な価値も低い」として今年一月に廃棄処分を決定。北海道などから
数件の問い合わせがあったが、因島総合支所は「輸送や補修費用の問題で
立ち消えとなった」と説明している。
152日本@名無史さん:2010/09/21(火) 10:30:06
後先考えずに復元するとこうなるという話
木造復元した櫓も以後、同様の道を辿りそうで怖い
まぁ、船と陸上建造物では猶予の差はかなり大きいけど
153日本@名無史さん:2010/09/21(火) 10:37:13
大坂は西南の役以後大阪に改名される。理由は坂の土偏を「士」に見立てると大いに士が反乱するので時節柄縁起が悪いとの発想にある。似た例が駿府を静岡に改名。「駿」が軍馬を集める意があるとかで徳川宗家が自発的に行ったとか。
154日本@名無史さん:2010/09/21(火) 10:37:47
>>152

公園を沢山造りすぎて維持費が足りずに民間に丸投げって
今では珍しくなくなったからねぇ。
史跡公園や復元建築もこれからの財政難に耐えられるかどうか…
155日本@名無史さん:2010/09/21(火) 11:23:43
>>150
キミは本や論文を書いているのかな?
もしそうなら、こんなとこでケンカみたいなことしてないでさぁ・・・
ていうか、ここってそんな高尚なとこだっけ
156日本@名無史さん:2010/09/21(火) 11:40:09
>>155
反論できずに人格攻撃に移るのは見苦しいよ。



http://www.bunka.go.jp/bsys/index.asp

文化庁のデーターベースを検索すると
江戸期に建てられた大手門や櫓等の建築物は大阪城で、
史跡自体は大坂城で登録されていたw
結構いい加減なんだな。
157155:2010/09/21(火) 11:50:59
>>156
別に人格になんて触れてないでしょ。
この板にはいろいろな考えの人がいるってことを理解して、自分の考えを押し付けるのはどうかということだよ。

156にも書いてあるようにどこで区別できるかなんて言うのは厳密に確定されてないでしょう。
158日本@名無史さん:2010/09/21(火) 11:54:58
ただ便宜上大坂から大阪に改められたから区別してるだけでしょう
どっちを使っても間違いじゃないと思うけど。
159日本@名無史さん:2010/09/21(火) 12:03:21
160日本@名無史さん:2010/09/21(火) 12:09:16
本や論文は個人とか統一されたグループが書いてるし、ここはいろんな人がいるからでしょう
161日本@名無史さん:2010/09/21(火) 13:40:47
名古屋もいろんな書き方があったけど、那古野、名護屋、名古屋、浪越、名越・・・
浪越市、名越市の方がかっこ良かったな
162日本@名無史さん:2010/09/21(火) 13:53:11
はじめは当時の表記で書けと言いつつ、批判されると専門用語表記だと言っているだろなどと主張を摩り替える。
困った奴もいたものだ。
163日本@名無史さん:2010/09/21(火) 14:01:26
>>162
自分と意見が異なるレスはすべて同一人物によるものと思い込みたいんだね。
まともな高校のテストで、秀吉が築城したのは「大阪城」と書いたら、×だろうな。
164日本@名無史さん:2010/09/21(火) 14:24:46
>>163
だろうな・・・・・はやめようよ。
165日本@名無史さん:2010/09/21(火) 14:32:37
>自分と意見が異なるレスはすべて同一人物によるものと思い込みたいんだね。

なんだ、話の流れもわきまえずに見当外れの茶々入れをしに来ただけのアホだったか
166日本@名無史さん:2010/09/21(火) 14:40:59
>>165
どこまでも恥ずかしい下郎だな
恥という概念はないのか?
ないんだろうな
167日本@名無史さん:2010/09/21(火) 15:04:44
話トン切りますが、最上義光時代の山形城の古絵図が新たに発見されたニュースってガイシュツですか?
168日本@名無史さん:2010/09/21(火) 15:19:29
少し前に既出
169日本@名無史さん:2010/09/21(火) 15:39:32
>>166
(´,_ゝ`)プッ
170日本@名無史さん:2010/09/21(火) 15:42:36
古地図か。某入札誌にヨーロッパから里帰りの城郭平面図数十点が次々に出品されてるな。
一点5万円くらいからスタート。
171日本@名無史さん:2010/09/21(火) 23:52:38
172日本@名無史さん:2010/09/22(水) 10:31:38
>>170
どんなのがあるんですか?
173日本@名無史さん:2010/09/22(水) 14:27:18
そういや普通の城とは違うけれども、沖縄首里城はほとんどの建物が再建されてるが
木造なのは正殿だけで、後は鉄筋コンクリなんだよね。
174日本@名無史さん:2010/09/22(水) 15:16:30
>>172
政府が明治5年までに各城の管轄の府県庁に製作させた縄張り図面だそうで、手書き彩色なんだと。

先日終了した入札分では陸奥八戸、横手、磐城平、伊勢田丸、三河挙母、美濃岩村、苗木、郡上、
信濃高島、高遠、越前丸岡などが白黒写真付きでリストに載ってる。
175日本@名無史さん:2010/09/22(水) 22:15:32
>>174
凄いな
176日本@名無史さん:2010/09/22(水) 23:47:11
>>174
しまったぁ〜、うちの地元の絵図が出ていたじゃないか!
願わくは地元の人が落札していて欲しい。そして、公開して欲しい。
177日本@名無史さん:2010/09/23(木) 00:27:37
熱海城ぶっ壊そ〜〜〜(笑)
178日本@名無史さん:2010/09/23(木) 01:35:52
ゴジラとキングコングにぶっ壊されたんじゃないのか?
179日本@名無史さん:2010/09/23(木) 01:51:38
怪獣に壊されて、そのご忠実に復元されました
めでたしめでたし
180日本@名無史さん:2010/09/23(木) 06:57:16
>>175
元は全150点ほどのコレクションだそうで、鹿児島藩砲台や陪臣屋敷なども含まれているから
もともとの明治政府の資料の半分弱くらいなのかもしれない。

>>176
落札結果を見たら、落札されたのは半分ほどみたいだ
伊勢田丸、三河挙母、美濃岩村、郡上、越前丸岡は売れ残ってる。信濃の二城は高い値で
競り合ってるから思い入れの強い地元の人かもしれない
181日本@名無史さん:2010/09/23(木) 08:50:18
よく分からんのだけど、雑誌の話?
詳細はどこで見れるの?
182日本@名無史さん:2010/09/23(木) 09:03:58
こういうのは自治体が落札して博物館で公開すべき。
183日本@名無史さん:2010/09/23(木) 10:20:57
岩村城のは、ぜひ欲しいわ。ハァハァ
184日本@名無史さん:2010/09/23(木) 11:32:09
某入札誌ということはネットでは見ることができないのか・・・。
185日本@名無史さん:2010/09/23(木) 12:04:55
>>181 >>184
大井貨幣研究会ってところが出してる入札誌。ググってもうまくヒットしない。名前の通り古銭関係の入札誌で、
『収集』のような古銭雑誌に広告を出してる。

>>182
確かに史料価値は抜群だよね

>>183
この画像の中から、岩村城の絵図を選びなさい(5点)
http://www.harikonotora.net/history/img/176-1.jpg
186日本@名無史さん:2010/09/23(木) 17:06:41
>>185
1365
1366 岩村城
1367
1368
1369 高島城
1370
1371 丸岡城
1372
187日本@名無史さん:2010/09/23(木) 17:34:14
188日本@名無史さん:2010/09/23(木) 18:43:43
>>187
どういう経緯で海外流出したの
189日本@名無史さん:2010/09/23(木) 19:05:54
>どういう経緯で海外流出したの

さあ。物自体は入札誌出してる人たちが海外オークションで見かけて落札したものらしい。
絵図資料の作成経緯は分かっても、流出経緯まではコレクション自体に記録が残らないだろうからわからないかも。
入札仕切ってる人に問い合わせたいなら、入札誌の申し込みの連絡先なら広告の載ってる雑誌が手元にあるから
教えることができるけど。
190日本@名無史さん:2010/09/23(木) 19:36:12
戦後のどさくさ、というのも結構ある気がするんですが
191日本@名無史さん:2010/09/23(木) 19:44:38
入札誌に書いてる情報以外は私には知りようがないんでどうにもならないけど、
軍事研究目的で明治期の陸軍に回り、正式な書類として整備される前に
欧米の軍人との交流で軍事機密情報との交換みたいにして流れちゃったとか、
色々可能性はあるかもね。
192日本@名無史さん:2010/09/23(木) 20:20:06
福岡城って最近の報道によると復元整備を目指す動きがあるみたいけど、できるの?今度の市長選でも今のところ誰も取り上げてないと思うけど?
ウィキを見ると熊本城の復元整備に影響を受けた市民の動きがあるみたいだけど、熊本城とは資料の残り方とか条件が違い過ぎる気がする。
さすがにあったかも分からない天守復元は無理だろうし、他もそう簡単にはいかないと思う。
皆さんはどう思いますか?
193日本@名無史さん:2010/09/23(木) 20:42:57
>>192
寺から持って来た櫓の復原が予算不足で宙に浮いているんじゃなかったかと。
ただ福岡城の櫓って不格好で困りモンですけど。
194ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/09/23(木) 21:17:33
その資料を見て、熊本城は航空攻撃でないと落とせないなんて論評したのかもね。
195日本@名無史さん:2010/09/23(木) 21:24:28
194が言っていることがよくわからんw

福岡城は多聞櫓はまともだと思うがよく
196日本@名無史さん:2010/09/24(金) 05:47:38
福岡城は移築建造物を精力的に城地内に保存してるのはたいしたものだ。
197日本@名無史さん:2010/09/24(金) 07:21:22
黒田伯爵が個人的な感傷から菩提寺や福岡の私邸に櫓、門を移築していたのが保存に幸いした。もちろん武具櫓のように私邸もろとも戦災焼失した物もあるが。
198日本@名無史さん:2010/09/24(金) 07:59:27
個人に売却したものが福岡の金持ちが買い戻して寄附というのもあったんじゃなかったっけ
199日本@名無史さん:2010/09/24(金) 18:01:10
福岡城に無理に天守を妄想復元する動きがある。
200日本@名無史さん:2010/09/24(金) 18:21:47
福岡は資金不足で保管してある櫓の木材が痛みだしてるらしい
このままでは桑名城の櫓の二の舞になりかねん
201日本@名無史さん:2010/09/24(金) 20:02:48
熊本一口城主の真似したら福岡の経済規模なら速攻集まるだろ
202日本@名無史さん:2010/09/24(金) 20:03:47
>>193
民家みたいな形だよな
203日本@名無史さん:2010/09/25(土) 04:07:20
だから特に意味があまりないものは基本
メンテナンスが楽なコンクリ製で再建すべきなんですよ
204ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/09/25(土) 06:55:14
福岡における福岡城の認知度や如何に
205日本@名無史さん:2010/09/25(土) 13:11:26
知ってるのはみんな知ってるんじゃないの?お城へ愛があるかどうかは別だけど
206日本@名無史さん:2010/09/25(土) 13:29:31
博多の意識が強いね。福岡の名称自体が黒田氏の持ち込みだからね。
207日本@名無史さん:2010/09/25(土) 16:46:50
北九州市とかいう変な名前の方がもっと気になる
208日本@名無史さん:2010/09/25(土) 16:55:43
199の言うように、天守復元を目指す声もあるが、昭和の一時にあったような妄想復元(事実上ねつ造に近い)は、今はあり得ない。福岡城は国史跡だから、建物の復元は文化庁が許認可するが、文化庁が認める訳がない。
他の建物も、文化庁が復元を認めそうな資料や部材が揃っているのは、意外に少ないんじゃないか?
201のような意見もあるが、金があるから復元がじゃんじゃんできるかというとそうでもないし、206の言うように、城よりも博多の意識が市民に強い。
城自体は知られていても、熊本や名古屋みたいな市民全体の愛着があるか疑問。
福岡市自体が財政難を脱していないのが問題でもある。
209槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/09/25(土) 19:21:49
たしかに・・・・・・だったら駿府城はどうなんだ。
210日本@名無史さん:2010/09/25(土) 20:03:51
中津城って買い手は付いたのかな
211日本@名無史さん:2010/09/25(土) 21:04:09
当時の権力者、悪く言えば搾取者だった大名の象徴である城、
なかでも天守を再建しようなんて純粋に思うものだろうか。
文化的な価値は二の次で、
観光資源にしようくらいの気持ちしかないのでは。
212日本@名無史さん:2010/09/25(土) 21:19:43
>文化的な価値は二の次で、観光資源にしようくらいの気持ちしかないのでは。
まさにそれだろ
文化的歴史的真実性なぞ二の次で、観光資源や経済効果とかだけ第一に考える香具師がどこでも大杉
あったかどうか不明、ましてや無かった天守の復元なんか詐欺に近い。
また、城をわからん一般人が「城といえば天守」みたいなある種の誤解を持っているのが痛い。
城を前にして、天守が無い故に、「城はどこですか?」という人たちに各地の城で会ったことがある。
なんとかならないものか?
213日本@名無史さん:2010/09/25(土) 21:25:38
>>211
いや思うでしょ普通
自分の昔住んでたところではあるお祭りが有名ですが
みんな今でも「※※の殿さん殿さん」とかって言って慕ってますよ?

大坂人だって秀吉が好きな人は大勢いるだろうし
実際そういう意気込みで寄付をする人も多かったとか
山梨県の人だって武田信玄を慕っている人とか多いだろうし
いわば「おらが村の」みたいな感覚でしょ?
実際あちこちに一杯銅像とか建ってるじゃないですか
214日本@名無史さん:2010/09/25(土) 21:27:23
>>212
今の城址の多くが城本来の役割である防御施設として必須だった
縄張りを感じさせるような保存状態でないことが原因じゃないかな

城址に木を植えすぎてしまって石垣や土塁が分からなくなっていたり
堀を埋立てしまったことにより縄張りが縄張りじゃなくなってしまっている

城=防御施設だということを一般に広めたいのなら石垣、土塁といった縄張りの基礎と
門と塀と櫓といった構造物を復元させる、又はその跡を明確に示すことが大事だと思う
215日本@名無史さん:2010/09/25(土) 21:39:37
でも、前に話の上がった福岡城は石垣や土塁などの縄張りが確か割りと残ってたよな?
そういうところでも天守復元を言う人たちがいるんだが?
216日本@名無史さん:2010/09/25(土) 21:41:20
とりあえず昔は城
217216:2010/09/25(土) 21:44:18
失礼しました

とりあえず昔は「お城」といえば≪城跡≫のことで
石垣や堀があっても天守台には天守閣がないのが当たり前
そんな時代と比べると
ずいぶん贅沢な・・という気もちょっとするんですが
218日本@名無史さん:2010/09/25(土) 21:47:22
近頃は御殿を復原しちゃうんだから、昭和三十年代頃のなんちゃって城再建ブームと比較にならぬ
凝りようですがな
219日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:07:29
高松城の天守復元計画ってどうなってる?
220日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:20:09
高松城は県庁所在地でもあるし天守は再建しても良いと思います
221日本@名無史さん:2010/09/25(土) 23:44:27
県庁所在地だから天守再建していいって意味不明なんだがw
県庁所在地なら妄想復元天守もありなの?

高松城は、確か新出の天守が写った写真によって天守復元を文化庁が認めたという話だが、問題は無いの?
教えてエロイ人
222日本@名無史さん:2010/09/26(日) 00:34:43
県庁所在地に
シンボルとしてのお城の天守閣ぐらいあってもいいんじゃないですか?
少なくとも丸亀城を復元するよりも費用対効果も見込めますし
223日本@名無史さん:2010/09/26(日) 01:17:32
出た!「費用対効果」w
文化的歴史的真実性は関係無くていいんですね?その理屈なら城が無かった県庁所在地にも「天守」復元ありですねw
分かります
224日本@名無史さん:2010/09/26(日) 03:08:12
文化省が許可したってことは、最低限の条件はそろっているということだ。
高松城天守は比較的鮮明な写真も残っているし、外観は問題なく復元可能だろう。

何を問題だと考えているのかはっきりと言ったら?
225日本@名無史さん:2010/09/26(日) 06:44:19
高松が天守建てたら天守王国四国で徳島だけが取り残されるからな。江戸期の天守で現存4城、
再建すらされてないのは高松と徳島だけじゃないかな
226日本@名無史さん:2010/09/26(日) 06:46:41
徳島はなぜか城山の中腹に天守台も作らずに建てちゃったようだからな。
忠実に復元できたとしても素人の勘違いブーイングで台無しになるだろうw
227日本@名無史さん:2010/09/26(日) 08:34:57
徳島色の天守はハッキリ言って少々失礼な言い方になりますが
ちょっと地味な感じがします
全面板張りじゃあまり見栄えもしないし雨風等ですぐに劣化してきてしまう
まぁ四県とも平等に
という観点からは良いのかな?とも思いますけれど、でも地味だw
228日本@名無史さん:2010/09/26(日) 08:40:24
しかし何故に四国だけ現存天守が多いんだろうか?
229日本@名無史さん:2010/09/26(日) 08:47:41
爆撃の標的にならなかったとか?
明治政府も軍の基地置かなかったとか?
230日本@名無史さん:2010/09/26(日) 09:03:56
>少なくとも丸亀城を復元するよりも費用対効果も見込めますし
珍しいバカですね

高松城は着見櫓だけでもじゅうぶんカッコウいい
231222:2010/09/26(日) 09:22:58
>>230
そう思うんなら復元しなければいい
私はべつに高松城復元案の推進者じゃありませんが?
232日本@名無史さん:2010/09/26(日) 09:44:37
小泉時代の規制緩和の一環として文化庁が認可したのが高松城天守復元。天守台を解体して復元建造物の重量負荷に耐えられるように工事が進んでいる。
233日本@名無史さん:2010/09/26(日) 09:46:30
そういえば天守台組みなおしてたな
234日本@名無史さん:2010/09/26(日) 10:19:53
復元が成れば、木造御天守としては3件目か。
南蛮風としては初。
大きさで言えば大洲城とどっちが大きいんだ。
235日本@名無史さん:2010/09/26(日) 13:58:54
>>234
それはもう、高松城天守の方がずっとデカい
236日本@名無史さん:2010/09/26(日) 14:36:07
高松城天守は四層五階の初層と最上階が掛け造り構造
白亜壁で見栄えは結構良いものと想像され
237日本@名無史さん:2010/09/26(日) 15:04:01
高松に舞い降りた天女のようにかね
238日本@名無史さん:2010/09/26(日) 15:09:35
高松城は木造復元とは発表されていない。コンクリートかもしれない。
239日本@名無史さん:2010/09/26(日) 15:55:53
文化庁が許可するのは、基本木造復元じゃないのか?
しかし天守を復元するために、現存の天守台を解体するとは、、
少し崩れてるから積み直すのならいいが、そうでなく天守閣復元に合わせるために新たな天守台を作るとかなら、江戸城天守復元もありになる希ガスが大丈夫か?
240日本@名無史さん:2010/09/26(日) 16:19:13
そりゃ、石垣だって長い年月経てば歪むものですし
241日本@名無史さん:2010/09/26(日) 18:45:43
指図もないのに掛川のような模擬木造復元にならぬ事を祈る。
242日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:57:01
掛川城は天守の外観すらわからなかったので高知城が掛川城に似ていただろうという推定から設計されている。

高松城は指図や雛型が残っているかは知らないけど少なくても外観がはっきりしていて礎石の位置も明確にある。
外観と礎石の位置から内部構造はおおよそは推定可能なのではないだろうか。
もちろん100%と言う事はありえないが、内部の推定自体はさほど問題ではないのではないか。
243日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:01:57
>>231
丸亀城には日本一小さな天守が現存してますが、
なにを復元するんですか?

と書かないとわかりませんか?
244222:2010/09/26(日) 22:03:46
>>243
>>243
勿論そんなことは知っていますが?

いつ私が「丸亀城天守復元」などと書きましたか?
私が言っているのは
高松城天守を復興するのと同じ費用で同じ香川県内にある
丸亀城の櫓や塀などを復元した場合ということ

もう一度繰り返しますが
私がいつ「丸亀城天守復元」などと書きましたか?
245222:2010/09/26(日) 22:24:11
>>243
あぁそれともう一つ
あなたは一体なにをどうされたいのかな?
人の揚げ足取ろうとしたりツッコミを入れたり質問ばっかりしてないで
そろそろあなた自身の考えを聞かせてもらえないでしょうかね?

で、あなたは結局、高松城天守復興に反対なわけですか?
246日本@名無史さん:2010/09/27(月) 07:01:31
丸亀信者=城壁厨
247日本@名無史さん:2010/09/27(月) 08:11:54
>で、あなたは結局、高松城天守復興に反対なわけですか?

横から言わせて貰うと、復興でなく復元でなければ当然反対。重要な部分書き間違えるなよ
248日本@名無史さん:2010/09/27(月) 09:25:17
高松城は天守台の積み直しは進行しているが建造物の復元計画は白紙状態のようだ。
249日本@名無史さん:2010/09/27(月) 10:31:36
城の復元は市町村がやるんじゃないの?
名古屋城御殿の復元は河村市長が頑張ってる。
高松城用のカネで丸亀城の復元は妄想の域だ。
250日本@名無史さん:2010/09/27(月) 11:35:58
>>234
広島大 三浦研究室復元図案
ttp://home.hiroshima-u.ac.jp/miurayu/castle.html

全部、同縮尺のはずと思ったんだが・・・確認してない。
でも高松城の不恰好なくらいのデカさがわかる。
251日本@名無史さん:2010/09/27(月) 12:13:50
>>250
なぜ豊臣大坂城天守復元図が
信長の安土城天守復元図よりも小さくなっているの理解できない
252日本@名無史さん:2010/09/27(月) 12:30:46
白石城は櫓台の根石しか残存していなかったのに大胆に木造復元したが、考証は大丈夫だったんか?
253日本@名無史さん:2010/09/27(月) 12:51:52
完全妄想で失礼だが、場所は湾岸区域で良いので慶長度、元和度、寛永度の
3つの江戸城天守が立ち並んでいるのを見たい
254日本@名無史さん:2010/09/27(月) 12:56:01
そこまでするんなら、俺的理想の超巨大天守閣をつくった方がいいんじゃまいか
255日本@名無史さん:2010/09/27(月) 13:06:03
いや、ギザの三大ピラミッドのノリなので
スフィンクスの代わりは安宅丸で
256日本@名無史さん:2010/09/27(月) 17:27:53
確かに天守はきれいだけど軍事的機能はあまり備わってないんだよな・・・・。
>>254超巨大天守を作ったら大砲のかっこうの的だな。うん。
そもそも天守はいらないっす。
257日本@名無史さん:2010/09/27(月) 17:36:43
ヨーロッパだと大砲の発達に比例して建物は低くなったそうだが
日本だと大坂の陣後も天守を造り続けている。
大砲の性能が低かったということかな?
258日本@名無史さん:2010/09/27(月) 17:52:45
日本の地形では重砲の運搬は至難の業ですしね
カルバリン砲クラス(欧州では野戦砲)が限界
259日本@名無史さん:2010/09/27(月) 18:21:36
故、荻原一青画伯の本が復活するぞ

日本の名城 鳥瞰イラストでよみがえる
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1102976242/subno/1
260日本@名無史さん:2010/09/27(月) 18:28:42
>>259
これは良いものだ
261日本@名無史さん:2010/09/27(月) 18:34:47
>>259夢精した
262日本@名無史さん:2010/09/27(月) 20:25:16
大砲装備の城郭は名古屋と今治がある。
263日本@名無史さん:2010/09/27(月) 21:53:13
水戸城ってのもある。
元々天守閣なんてなものが無い平城。
お寺の釣鐘みたような大砲は置いてあったが実戦では使ってない(らしい)。
今でも偕楽園との間に秘密の抜け道が掘ってあった説があるが距離的に無理だと思う。
264日本@名無史さん:2010/09/27(月) 23:26:20
>>239
崩れてからでは元に戻すことは出来ない。
崩れる前に石の位置を正確に記録し、元々あった順に積み直す。
積み治す際は、石が積まれていた場所と向きは一切変えない。
また、積み直しには発掘調査と言う意味合いもある。

積み直しと、何もないところに新たに積むのは全く意味が異なる。

ttp://www.city.takamatsu.kagawa.jp/file/10248_L12_1.pdf
265日本@名無史さん:2010/09/28(火) 01:58:35
今度、攻城戦サバイバルゲームをやるよ。
266日本@名無史さん:2010/09/28(火) 07:02:21
高松城天守台は完全に石垣ばかりか内部の土盛りも撤去。穴蔵の礎石、謎の堀立て心柱跡も破壊された、掛川式のコンクリに石を張り付けた天守台にするつもりか。
267日本@名無史さん:2010/09/28(火) 07:25:23
>>266
俺もこの前見たとき更地になっててびっくりしたw
あそこまで撤去していると復元してももう別物って感じがするな。
268日本@名無史さん:2010/09/28(火) 07:38:25
>>263
水戸城の大砲?初めて聞いたぞ!
269日本@名無史さん:2010/09/28(火) 09:07:07
270日本@名無史さん:2010/09/28(火) 09:22:37
高松城大丈夫か?
石垣積み直しの域を超えているんだろ?
復元の枠を超えている。
文化庁もよく許可したな。というか、本当に天守台盛土撤去まで許可してるのか?
271日本@名無史さん:2010/09/28(火) 09:38:25
>>266
礎石や心柱跡は位置・形状の記録さえしていれば無問題
272日本@名無史さん:2010/09/28(火) 09:52:54
盛り土復元時に十円玉が混入してしまい、千年後の学会で平成時代に新造された近世城郭として脚光を浴びる。
273日本@名無史さん:2010/09/28(火) 10:11:10
>>272
千年なら文献資料は残っているな
274日本@名無史さん:2010/09/28(火) 11:08:25
名護屋、佐賀、新発田城も復元整備時に礎石等の現状保存に努めたが、生駒氏以来の歴史的空間が消滅したのは残念。
275日本@名無史さん:2010/09/28(火) 11:25:57
直すということは壊すということでもある
東京駅の復元でも似たような話がある
276ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/09/28(火) 12:31:06
名古屋城も石垣直すときに宋の古銭が出土
したんだよ。
277日本@名無史さん:2010/09/28(火) 13:08:52
名古屋城はコンクリートの基礎打ち込む時石垣崩れたよ。
278日本@名無史さん:2010/09/28(火) 15:30:17
鳥取城の色違いな積み直し石垣には萎えたもんなあ
279日本@名無史さん:2010/09/28(火) 18:51:58
>>278
鳥取城の石垣は、修復前は石が孕んで危ない有様であったからして。
280日本@名無史さん:2010/09/28(火) 19:38:04
ところで、熊本城とかの小天守があるじゃん。
小天守と付属櫓の違いが分からん。
あと熊本城って3層6階ってあるけど、どう見たら3層になるのかわからん。
281日本@名無史さん:2010/09/28(火) 19:40:13
>あと熊本城って3層6階ってあるけど、どう見たら3層になるのかわからん。

薬師寺三重塔のモコシと同じで庇扱いだから
282日本@名無史さん:2010/09/28(火) 20:44:50
>>280
どう呼ぶかは決まりはないんじゃね?
熊本城の場合だと小天守は天守(大天守)ができた後に増築して
(おそらく宇土城天守を移設)
御殿代わりにも使えるようにしてあったからな。
櫓とは役割が違うと思う。
(本丸御殿はもっと後でできた)
283日本@名無史さん:2010/09/28(火) 22:58:38
>>278

建物でも石垣でも解体修理をするとどうしても
修理前と全く同じ外観には出来ずに微妙に(ああるいは大幅に)
変化したものになってしまう。
それを何回も繰り返すと誤差はますます大きくなって築城時の姿とはかけ離れてしまい
現存を謳っていても実際には捏造と大差ないなんてこともあるかもしれんな。
284日本@名無史さん:2010/09/28(火) 23:10:18
>>283
素人が施工するわけじゃないんだぞ。

それから、捏造とは実際になかったことを事実のように仕立て上げることだよ。
職人がその技を駆使して取り組んだ仕事を悪意の捏造と一緒にするんじゃねーよ。
285日本@名無史さん:2010/09/28(火) 23:31:30
東南海地震が起きたら折角積み直した小田原城の石垣も
関東大震災の時のようにガラガラポンに成ってしまうのだろうか。
なんか、賽の河原の積み石のようだ。
286日本@名無史さん:2010/09/28(火) 23:33:18
>>284

捏造は言いすぎかもしれないが修理後の変化は職人自身が認めていることだよ。
287日本@名無史さん:2010/09/28(火) 23:43:58
>>286
いったい何が言いたい。
俺は変化については否定しない。
しかし、元あった状態とかけ離れてしまうので、現存を謳っていてもも捏造と変わりないと考えること自体に腹立たしいだけだ。
288日本@名無史さん:2010/09/29(水) 00:02:01
>>287

捏造という言葉に過剰反応しているのでは?

解体修理はできるだけしないほうがいいし、(鳥取城のような場合は仕方ないけど)
修理した物を見るときは注意が必要ということかな。
289日本@名無史さん:2010/09/29(水) 00:25:52
>>288
崩れて元あった状態が失われてしまっている物を復元するのであれば、現存との見分けをしたい人は注意をすればいい。
しかし、傷んだ状態の物を修復する事と失われた形状を復元するのは似ているようで違う。

>>283は解体修理の事を言っている。
職人が修理後の変化があると言う事を、元あった状態とかけ離れてしまうほど変わってしまうと職人の言葉を変換してしまっている。

日本には古来よりある、尺貫法で建築物が設計製作されてきている。
測量前に崩れてしまっている部分を推定復元する場合はともかく、傷んだものを修復する場合は厳密な測量をしてからいったん解体して組み直す。
100%元の状態になるわけではないが、測量結果が記録保存されれば、何度修復したとしてもかけ離れたものになるはずがない。
また、形がゆがんでしまっている物も尺貫法により造られている物に対し、5cm、10cmのずれが生じれば尺が合わなくなったりもするので、変形具合などの状況にもよるが周囲の状況と勘案して元の寸法を割り出すのはさほど難しいことではない。


まるで少しの変化が幾重にも重なっていって、大きく変わってしまうと職人が言っていると言わんばかりの事を書いている。
修復では何回修復しても元の状態からかけ離れた様な状態には決してならない。
290日本@名無史さん:2010/09/29(水) 08:37:44
>>280
小天守と付櫓の違いは
建物として独立しているかどうかだと聞いた
291日本@名無史さん:2010/09/29(水) 10:50:50
決してならないなんてことはねーよ
292日本@名無史さん:2010/09/29(水) 13:30:32
>>290
>小天守と付櫓の違いは
>建物として独立しているかどうかだと聞いた

名古屋城小天守 独立
熊本、広島、福山、丹波亀山、姫路、伊予松山、松本、和歌山、岡崎城小天守 接続
293日本@名無史さん:2010/09/29(水) 13:43:22
付櫓は天守に付属する多聞櫓のことでしょう
294日本@名無史さん:2010/09/29(水) 14:07:21
名古屋城も大天守とつながってるし(大天守への入り口は小天守から)、完全に独立した小天守ってあったっけ。
天守に付属した櫓か、建物として独立してそのうえで多聞などで天守とくっ付いてるかじゃない。
295日本@名無史さん:2010/09/29(水) 14:08:41
内部構造で分類してるとすれば付櫓は天守への廊下機能をもつ櫓ということになるのではなかろうか
296日本@名無史さん:2010/09/29(水) 14:21:34
>完全に独立した小天守ってあったっけ。

米子城
297日本@名無史さん:2010/09/29(水) 15:03:28
米子は別の時代に建てられたからちょっと違う感じだけど
新しいのを建てたけど古いのも残したってのだから
298日本@名無史さん:2010/09/29(水) 15:20:31
大坂城も秀吉天守と家康天守が同時にあったんじゃなかったかな
いまはどちらも跡形もないけれど
299日本@名無史さん:2010/09/29(水) 17:15:40
なんですかそれは?
もしかして西の丸にあったと言われるやつのこと?
300ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/09/29(水) 17:21:54
夏の陣図で天守の右下にあるやつ?
301日本@名無史さん:2010/09/29(水) 17:33:17
たしか記憶では四層だったと記憶してますが
302日本@名無史さん:2010/09/29(水) 18:55:43
米子城の5角形小天守かっこいいぞ
http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000006074578
303日本@名無史さん:2010/09/29(水) 19:47:14
>>297
古いのを取り壊して改築するのが普通だと思うのだけど、変なことをするもんだ
304日本@名無史さん:2010/09/29(水) 19:57:32
>>285
小田原城の石垣「もうゴールしてもいいよね・・・」

本丸南面(図書館の前)の石垣が算木積みの状態を残したまま崩れてたりするので
塁線が分からなくなる前に修復してほしいです(´・ω・`)
305日本@名無史さん:2010/09/30(木) 07:16:25
>>304
>小田原城の石垣「もうゴールしてもいいよね・・・」

耳元でシネシネ団のテーマでも歌ってやれ
306日本@名無史さん:2010/09/30(木) 09:24:47
福井城は指図のある天守を差し置いて古写真一枚しかない辰巳三重櫓の復元運動がある。
307日本@名無史さん:2010/09/30(木) 10:22:38
福井城よりも北の庄城の天守復元を希望(妄想中)
308日本@名無史さん:2010/09/30(木) 11:27:06
指図より古写真の方が‥
309日本@名無史さん:2010/09/30(木) 11:31:44
単に官庁舎が林立する所に天守を再建しても興ざめだが、三階櫓なら誤魔化せるということでしょうな
310日本@名無史さん:2010/09/30(木) 13:35:08
大阪城西の丸は迎賓館建てるやら史跡の破壊が進行しているので家康の四層天守台発掘しても問題なし。
311日本@名無史さん:2010/09/30(木) 14:02:44
今の大阪城が秀吉時代の城ではないと分かってから
大阪人の思い入れが無くなったのか
312日本@名無史さん:2010/09/30(木) 14:23:15
今更だけど付櫓と小天守の違いは
付櫓の最上層が天守本体から独立すると小天守と名前が変わるって
読んだ本を忘れてが書いてあったぜ


313日本@名無史さん:2010/09/30(木) 15:20:17
天守と櫓の厳密な区分やら定義はない。
314日本@名無史さん:2010/09/30(木) 15:33:29
偉そうだったら天守、働き者そうだったら櫓
315日本@名無史さん:2010/09/30(木) 17:12:31
『城の鑑賞基礎知識』という入門書には

「天守に櫓が付属する場合では、一般に二重以上の櫓を小天守、一重の櫓を付櫓と呼ぶ」

と書いてある。
316日本@名無史さん:2010/09/30(木) 18:09:38
一重の付櫓を小天守と呼称していた城がある。どこだか忘れた。
317日本@名無史さん:2010/09/30(木) 18:34:31
小田原と小倉じゃない?

岡山、広島、萩には二重の付櫓があるが、小天守という感じには見えないな
318日本@名無史さん:2010/09/30(木) 18:37:30
>>316
忘れたと書くのはさすがにひどくないか?

でも例外が多い分野なのか入門書でも歯切れの悪い記述が多いな。
上記の本では、大洲城の2重櫓を小天守ではなく隅櫓とする例外を挙げている。

ついでに天守の定義についての記述をみると
「今日では、城中で最も高く立派な櫓を天守と称しているが、問題もある。
江戸時代においては、四重や五重の場合では例外なく天守と称したが…
(以下三重櫓の問題に多くの紙面を割いている)」
とある。
319日本@名無史さん:2010/09/30(木) 20:57:56
天守焼失後に手近な三重櫓を天守とした例が岸和田城にある。
320日本@名無史さん:2010/09/30(木) 21:02:33
米子城の小天守は名目上四重櫓と呼ばれたがな
321日本@名無史さん:2010/10/01(金) 10:08:13
焼失後の再建天守又は天守級の三階櫓一覧。弘前、盛岡、村上、江戸、小田原、和歌山、福井、高知、鳥取城。他にあったっけ?
322日本@名無史さん:2010/10/01(金) 10:13:37
松山城
323日本@名無史さん:2010/10/01(金) 13:18:06
>>321
何故に水戸城は再建しないんだろう…?
324日本@名無史さん:2010/10/01(金) 13:22:05
>>321
何故に水戸城は再建しないんだろう…?
325日本@名無史さん:2010/10/01(金) 13:22:54
御免なさい。連投しますた。
326日本@名無史さん:2010/10/01(金) 13:24:57
test
327日本@名無史さん:2010/10/01(金) 13:36:03
>>321
なんのネタですか?
328日本@名無史さん:2010/10/01(金) 17:16:11
江戸時代再建の話です。水戸も再建でしたっけ?立て直しかもしれませんね。
329日本@名無史さん:2010/10/02(土) 07:17:02
和歌山城は焼失前と下見板張以外は寸分違わず再建したのが面白い。
330日本@名無史さん:2010/10/02(土) 07:26:50
伊予松山城天守は幕末も幕末、安政元年の完成だけど、これは旧態に復したとは思えない。
二階建て三階建ての土蔵みたいな天守建築群と反りのない破風。
こんなブッ細工な城郭建築は従来あり得なかったろう。

まさかと思うが、モダニズムの先駆けなのか?
331日本@名無史さん:2010/10/02(土) 09:22:35
熊本城宇土櫓がそうだが
332日本@名無史さん:2010/10/02(土) 09:27:56
江戸時代における城の再建は、文化財や史跡としてではなく、
現役の城(リアル殿様の居城)としての再建だから、
焼失前のまんまの設計やデザインで再建する必要はない。
333日本@名無史さん:2010/10/02(土) 14:25:12
幕末の二条城の櫓台だか天守台の上に実用本位の超大型の火見櫓風の高層建築を建てたな。
334日本@名無史さん:2010/10/02(土) 15:09:00
>>332
元の通りに造り直しますと幕閣に申請しなきゃ再建の許可が下りなかったんじゃね?
335日本@名無史さん:2010/10/02(土) 17:22:27
二条城天守の復元計画などはないのでしょうか?
336日本@名無史さん:2010/10/02(土) 17:31:09
京都は城下町ではないと市民が拒否。古二条城天守の移築先の淀城で再建計画がある。
337日本@名無史さん:2010/10/02(土) 17:34:28
>>334
それは中期くらいまででしょ
幕末なんかそれどころじゃない
338ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/10/02(土) 18:04:40
和歌山城
浅野が天守つくる→頼宣が白いのに立て替えようとする→
謀反疑惑で取りやめ→吉村が立て替えようとする→
将軍になったから計画おじゃん→天守燃える→5層で計画→
幕府に断られる→3層白亜の天守完成
339日本@名無史さん:2010/10/02(土) 23:20:36
伊予松山城の山上の郭は御殿の類が無いからして、籠城するとなったら
城主は天守群に住むんだよな?
340日本@名無史さん:2010/10/03(日) 00:14:54
>>339
天守には戦時に城主が住む御座所という場所がある。
伊予松山城の3階部は畳敷きになっており、
床の間や棹縁天井などの装飾も設けられていたことから
たぶんそこに住む予定だったと思う。
341日本@名無史さん:2010/10/03(日) 01:21:51
松山城で思い出したが、三之丸ってどうなるの?
俺が最後に見たときは、当時の通りが少し復元されつつあった。
二ノ丸のすぐ下の石垣沿いの道路をやめて堀を復活させたりするのかな?
342日本@名無史さん:2010/10/03(日) 08:28:42
伊予松山城が平山城に分類されてるのが納得いかない。
あれって備中松山城みたいに山城+麓の居館(城)ではないか?
いちおう登り石垣で山上山下が連結されてはいるけど。
343日本@名無史さん:2010/10/03(日) 10:00:40
似たような城は他にもあるな。
二本松城とか

で、何が納得できないの?
344日本@名無史さん:2010/10/03(日) 13:40:17
>>342
禿同
345日本@名無史さん:2010/10/03(日) 14:13:39
山城、平山城、平城の分類自体、かなりアバウトじゃね?
現地歩いたら平山城としか思えない城が本によっては平城だったり
346日本@名無史さん:2010/10/03(日) 15:19:37
>>345
三浦がそう言ってるね>江戸とか上田とか・・・。
347日本@名無史さん:2010/10/03(日) 15:54:31
山城が藩庁として不便で山麓に居館を建てて平山城化した例は数多い。
348日本@名無史さん:2010/10/03(日) 16:01:37
福岡城は平山城だよな?
349日本@名無史さん:2010/10/03(日) 18:16:04
こんな感じか

山城+山麓の居館のばあい

・平山城
山麓の居館が堅固で山の一部にかかっている
例:伊予松山、鳥取、萩・・・

・山城
山麓の居館がそれほど堅固ではない
例:高取、備中松山、岩村・・・

でも備中松山は復元図見たら麓も結構堅固そう
中国地方は山城+麓の近世城郭多いね
350ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/10/03(日) 20:11:12
備中の方は小松山城と大松山城と松府城で構成
されてんだよ。
351日本@名無史さん:2010/10/03(日) 20:24:13
岐阜城は山城に分類されるが、山上部分はかなり規模が小さい一方、
山下部分は相当な規模だったんだろうな。なにせ織田の本城だから。
鳥取が平山城なら岐阜城も平山城でいいんじゃね?

まあ現状では山下部分の規模が不明だからどうにもならんけど。
352日本@名無史さん:2010/10/03(日) 20:49:53
ということは
月山富田城なんかも平山城という事でいいんでしょうか?

http://www.geocities.co.jp/yogo139/simane/yasukisi.htm
353日本@名無史さん:2010/10/03(日) 21:30:30
平山城としての定義の内には、その山が独立峯と言うのがあるんじゃないのか。
比高と山の周辺が平地で、山麓の根古屋の規模や機能、そして、周辺の構えかどうか等を総合して考慮するとある程度見えるものがある。
全てがそろっている必要はないけどある程度共通のイメージが見えてきそうな気がする。

松山城の場合比高は100m程度で、山の周辺は完全に平地で囲まれた独立峯。
麓には広大な二ノ丸、三之丸の他に東と北にも曲輪があり、二之丸は登り石垣で山頂部の曲輪と一体的に防御しているという特徴的な構造。

比高は少し下るが新潟の村上城も構造的には似ていて、こちらも平山城だ。
354日本@名無史さん:2010/10/03(日) 22:30:42
萩城が平山城のミニチュア的実例。天守が山麓にあるのが面白い。
355ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/10/04(月) 14:48:40
356日本@名無史さん:2010/10/04(月) 15:19:34
鳥取城なんか山だけ見てるとどう見ても山城なんだけど、
近世鳥取城はあくまでメインは麓の平山城で、山の上はおまけみたいなもんだからねー。
萩城なんかも山の上はおまけだという典型的な例だな。
357日本@名無史さん:2010/10/04(月) 17:40:51
>>356
あれは要害山城と躑躅ヶ崎館の組み合わせと同じ、麓の居館と詰城の流れかと
358日本@名無史さん:2010/10/04(月) 18:29:09
中津城が売却されてもうた
遊園地に改造されるんかのお
359日本@名無史さん:2010/10/04(月) 18:34:17
中国の企業に買われなくて良かった。
360日本@名無史さん:2010/10/04(月) 18:44:21
>>359
それはあるなあ・・もし中国の企業が買収してたら合理的に更地にして
なんか建てるだろうし。

かといってもう1つお隣のあの国に買収されたら
日本の城をついに陥落させた!実に誇らかニダ!とか言いそうだし。
361日本@名無史さん:2010/10/04(月) 19:07:42
萩城は立派な麓の平城としょぼい山上の詰の丸とのギャップが大きすぎる。
山上部分は詰の城というよりも監視台に毛が生えた程度のような・・・。
なんというか、平城の上に観測用の気球(詰の丸)が上がってる感じ。
362日本@名無史さん:2010/10/04(月) 20:11:15
>>361
山上の郭の面積は小さいが、山自体が大きいから、なかなかの要害よ
363日本@名無史さん:2010/10/04(月) 20:51:13
萩城はむしろ裏山が弱点だと思う。
364日本@名無史さん:2010/10/05(火) 07:20:18
平山城が本領を発揮したのは西南の役の鹿児島か。城山は自決を華々しく演出する劇場として役立ったが。萩城の詰の丸も腹切丸だと推定する。
365日本@名無史さん:2010/10/05(火) 13:06:02
中津城天守閣売却へttp://www.nhk.or.jp/lnews/oita/5074318232.html
中津市のシンボルとなっている中津城の天守閣が埼玉県の会社に売却されることになりました。
会社はこれまでと同様に一般への公開を続けていくとしています。中津市にある中津城の今の天守閣は最後の
城主となった奥平家の子孫が昭和39年に建設した鉄筋5階建ての建物で、現在は博物館として公開されています。
しかし、収益の低迷などを理由に天守閣を所有する観光会社の「中津勧業」が天守閣を売却する方針を決め買い手
を探していました。その結果4日開かれた会社の株主総会で老人ホームの運営など福祉事業を行っている埼玉県
の会社に売却することが決まりました。
「中津勧業」によりますと売却するのは延べ800平方メートルの天守閣とやぐらの建物で売却金額はあわせて5000
万円だということです。
埼玉の会社はこれまで通り観光施設として天守閣を一般に公開するほか建物のある土地や奥平家ゆかりの武具や
絵図などの美術品は会社に貸し出されて公開されるということです。
「中津勧業」は「今の形を継承してくれる会社を選んだ」と話しています。
また購入する埼玉県の株式会社「千雅」は「社長が大分県出身で郷土の発展に貢献したいと思い購入した。新会社
を設立したうえでこれまで通り博物館として運営し市民に愛される事業を続けて行きたい」と話しています。

366日本@名無史さん:2010/10/05(火) 16:59:18
中津城は一見妄想模擬だが奥平氏が建てるから真性天守とも言える。
367日本@名無史さん:2010/10/05(火) 21:29:05
今更だけど熊本城大天守って3層6階だよね。
どっかの資料に5層って書いてあった。
368日本@名無史さん:2010/10/05(火) 21:45:58
>>367
松江城天守は四層なのか五層なのか
369日本@名無史さん:2010/10/05(火) 21:46:23
中津城って復元模擬天守だろ?
ていうか、天守は無かったという説もある。あったという説が最近は強いが、今の構造や外観には根拠は無い。
370日本@名無史さん:2010/10/05(火) 21:56:08
>>367
腰屋根は数えんのか?
371日本@名無史さん:2010/10/05(火) 23:15:41
>>370
数えんのだ、熊本城公式ホームページも三層。
372日本@名無史さん:2010/10/05(火) 23:19:53
屋根ではなく、“ひさし”ということになるらしい。
373日本@名無史さん:2010/10/05(火) 23:36:58
文化庁の呼称だと屋根の数を数えて五層六階地下一階になるんじゃね
374日本@名無史さん:2010/10/05(火) 23:43:16
>>372
あれがひさしと言う事になると、佐藤案の安土城天守も1層減ることになるかな。
375日本@名無史さん:2010/10/05(火) 23:54:56
まあ、一般的には5層に見られるけどな
376日本@名無史さん:2010/10/06(水) 01:10:45
五層だと偉すぎるから三層でいいんだよ、キット
377日本@名無史さん:2010/10/06(水) 01:15:34
江戸幕府以前に建てられたんだから、3層に抑える必要はなかったはずだけどね〜。

あれが3層だということであれば大変優れた意匠だと思うぞ。

大きな規模で無理やり3層にした感の強い高松城はあまりにも不格好。
378日本@名無史さん:2010/10/06(水) 07:19:17
九州は台風が多いから屋根は小さめに廂は短めに。最上階は雨戸付となったらしい。
379日本@名無史さん:2010/10/06(水) 08:14:36
中津城は日本版ノイシュヴァンシュタイン城 つまり時代は違えど本物
380日本@名無史さん:2010/10/06(水) 09:00:10

天守があったか定まってない(論争中)で、天守があった場合の構造や外観を示す資料が全く無いコンクリート模擬天守なのに、「本物」とか頭大丈夫?
381日本@名無史さん:2010/10/06(水) 09:10:45
城主が建ててるんだから本物。
安土城だって威厳の象徴。こっちは観光目的。天守閣なんて城主のおもいのまま。成金が造ったわけじゃない。
構造は昔鉄骨コンクリートがあれば100%コンクリート造をつくったとおもうよ。
382日本@名無史さん:2010/10/06(水) 09:31:57
明治維新以降に藩主又は元藩主の意向で造立された天守に該当する建物は菰野城?中津城。御殿建築では高松城。
383日本@名無史さん:2010/10/06(水) 10:19:15
>>381
全く意味不明だな。歴史的な話をしてるのに。
大体敷地所有者が建てたら本物だっつーんなら全国ほぼ全ての模擬天守が本物だわな。
384日本@名無史さん:2010/10/06(水) 10:31:26
近代も現代も歴史。それとも100年以上たたないと歴史じゃないとでも
所有者が自治体のものは世間では公共建築っていうけどな。
最近出来てる木造復興天守も見ようによっちゃ偽物だろうに
385日本@名無史さん:2010/10/06(水) 11:17:26
木造復興天守なんて本物に見せかけた偽物に決まってるだろ。
386日本@名無史さん:2010/10/06(水) 11:43:29
写真や資料があるなら、それに忠実がいい。木造が出来るなら木造で。
昭和模擬天守もあとで資料が発見されたら、次建て直すとき修正すればよい。
コンクリート造の寿命は短い。
小倉城も次は昭和大阪城からの脱却で

387日本@名無史さん:2010/10/06(水) 11:57:51
木材は高いし枯渇しかけているから、骨組み配置はそのままで鉄骨に変更したものを希望
388日本@名無史さん:2010/10/06(水) 12:43:38
バリアフリーの時代だし、エレベーターは必須だな。
389日本@名無史さん:2010/10/06(水) 12:57:22
指図がなく江戸末期の地震被害の絵図と正保図を元に創建風推定木造復元天守を建てた掛川城は模擬に近いだろ。
390日本@名無史さん:2010/10/06(水) 14:30:16
◇高松城堀に大物マダイ

海水を堀に引き込んだ日本三大水城の一つ、国史跡・高松城跡(高松市)の堀で、
魚の餌付けを始めてから、放流したり、瀬戸内海から迷い込んだりしたマダイがすくすくと
育っている。体長50センチを超える大物が姿を見せることもあり、観光客の人気を
集めている。堀ではマダイのほか、ヒラメやクサフグなど18種が確認されており、
城跡を管理する高松市立玉藻公園管理事務所は「これだけの海の生き物に
出会える城は高松城だけ。〈堀の水族館〉に足を運んで」とPRしている。

■日本三大水城 高松城、今治城(愛媛県今治市)、中津城(大分県中津市)の3城で、
海の近くに築かれ、堀には海水が引き込まれている。高松城は1587年に讃岐国に入った
生駒親正が数年かけて築城したのが始まり。生駒家4代54年間、松平家11代228年間にわたり
居城。天守閣は1884年に取り壊された。高松市は天守閣の復元を目指している。

ソース(読売新聞)http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kagawa/news/20101005-OYT8T01154.htm

391日本@名無史さん:2010/10/06(水) 20:07:32
国難を救った実戦を経験した福岡県の水城は偉大w



392日本@名無史さん:2010/10/06(水) 20:33:07
>>359-360
知名度も収益率も低い上に市民の監視付き。そんなド田舎の狭い城跡を買うほど中国人は馬鹿じゃないでしょ。
フランスじゃ、整備すると騙して買ったお城の内装を違法に持ち出して売り払い逮捕された日本人がいたけどね。
393日本@名無史さん:2010/10/06(水) 22:25:33
逮捕された日本人は横井秀樹の娘。明治維新以降外国人が城主になった例は第四師団長になった李王垠が大阪城本丸の師団司令部に着任して復興天守から大阪市内を見下して以来例はない。
394日本@名無史さん:2010/10/06(水) 23:47:22
熱海城は本当に止めてほしいわ。アマチュアの人は歴史がある城だと思ってるし、
これじゃあ、「城」そのものの価値が落ちる・・・・・。造る際苦情なかったのかな??
ああいう城は、恥だな。これじゃあ、日本のどっかにあるホテル風の城と同格。
395日本@名無史さん:2010/10/06(水) 23:55:28
中津城は5千万円で売れました。
新城主は22歳の歴女だそうです。
396日本@名無史さん:2010/10/06(水) 23:57:27
熱海城よりひどい模擬天守は全国に沢山ある。最悪は墨俣金鯱城。建設予定中止で救われたのが東京練馬区の石神井城の五層の模擬天守。
397日本@名無史さん:2010/10/07(木) 00:18:55
いやいや、熱海城こそ最高峰だべさ。
398日本@名無史さん:2010/10/07(木) 00:23:29
熱海城は5層9階だし、ぶっちゃけかなり有名・・・・普通にそこらの城よりも豪華!!
知名度もまぁまぁだし、勘違いしてしますのはしょうがないな。
まぁ、アマチュアに人たちの考えだけどね。
ああいうの見るとやっぱり城って天守なんだよなぁ〜〜〜〜

     
399日本@名無史さん:2010/10/07(木) 02:15:08
>391
400日本@名無史さん:2010/10/07(木) 02:19:53
>391
水城は実戦経験してないと思うが
白村江の後、結局、唐も新羅も攻めて来なかった。これは半島にまだ高句麗があったことと、新羅の半島統一後、半島北部の統治で唐と新羅が揉めて仲違いしたからだが。
>391は水城でなく、元冦防塁の間違いか?
401日本@名無史さん:2010/10/07(木) 02:24:29
>>395
城整備奴隷に自ら志願すとはなかなか見所のあるアホだ。
あっぱれ。
402日本@名無史さん:2010/10/07(木) 04:34:05
>>395
模擬天守を取り壊して史実に基づく復原をやってくれたら面白いのだが
403日本@名無史さん:2010/10/07(木) 07:30:14
浜松模擬天守をコピーした越前大野城が面白い。
404日本@名無史さん:2010/10/07(木) 13:14:51
城跡でもなんでもない場所で、竜を浮き彫りにした石垣に建てたたゲテモノ天守か。
グロテスクにもほどがあるわ
405日本@名無史さん:2010/10/07(木) 13:59:21
それ大野じゃなくて勝山じゃない?
406日本@名無史さん:2010/10/07(木) 14:26:31
>>400
確かにね。
元寇の時でも博多が占拠され、
侵略軍を水城の城壁でもって食い止めるように日本側が
待ち構えていたが侵略軍は撤退したようなので、
戦場にはならなかったらしい。
でも、一応当時は水城を城壁として再整備されてたのかな?
407日本@名無史さん:2010/10/07(木) 14:45:10
>>404
大野城も史実と違う復興天守だが
勝山城と混同するのは失礼
http://www.fuku-e.com/photo/kankou/00000924S.jpg
408日本@名無史さん:2010/10/07(木) 18:17:04
戦後初の模擬天守が富山城。犬山城をモデルに升形に無理矢理建てたのが凄すぎ。
409日本@名無史さん:2010/10/07(木) 18:59:20
>>407
江戸城天守並みにデカくないか?
410日本@名無史さん:2010/10/07(木) 19:04:37
>外観は5層6階の天守閣で、石垣から鯱までが57.8mと日本一の高さを誇る。
らしい
ほとんど江戸城天守と同じサイズだな
411日本@名無史さん:2010/10/07(木) 19:05:50
平将門公のお膝元、茨城県豊田城も負けてはいないぞ
ttp://static.panoramio.com/photos/large/27101484.jpg
412日本@名無史さん:2010/10/07(木) 19:09:20
何このひどい模擬天守スレ
413日本@名無史さん:2010/10/07(木) 20:01:13
>>411
天守デザインの基本は押さえているのに、どうしようもなく格好悪い
なんぞこれ。
414日本@名無史さん:2010/10/07(木) 20:03:03
勝山城は姫路城のぱくり、
豊田城は福山城のぱくり、
浜松城は丸岡城のぱくり。
415日本@名無史さん:2010/10/07(木) 20:42:19
>>407
越前大仏建てた勝山市だししかたない
416日本@名無史さん:2010/10/07(木) 20:50:11
大仏まであんの?
すげえな勝山
417日本@名無史さん:2010/10/07(木) 21:01:22
福山城は本体が人気今一ってのがつらいな。江戸期の形状だけど後期の松山城より人気ない。
福山城=高度成長期の昭和のビル
松山城=和風遊郭巨大旅館で趣がある

てとこか
418日本@名無史さん:2010/10/07(木) 21:05:47
勝山ってとこはお金が余ってるの?
419日本@名無史さん:2010/10/07(木) 21:07:54
福井は社長が多いっていうじゃない
420日本@名無史さん:2010/10/07(木) 21:08:04
民度が低いんだろ
421槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/07(木) 21:12:20
なんでさ、城の資料って少ないんだろうね?  敵に縄張りとか悟られなくないのは分かるけど、
これじゃあ、復元できる城が少ないじゃないか。
今、復元できそうな城ってどんくらいあるんだろう?
422日本@名無史さん:2010/10/07(木) 21:21:04
軍事機密でそのつど燃やすんじゃないか
423槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/07(木) 21:24:16
江戸城とか、再建しようと頑張ってるグループあるけど、ぶっちゃけどの程度まで詳細わかってんのかな。
天皇とか人権持ってないんだから皇居から出て行ってくれればいいのに・・。
424日本@名無史さん:2010/10/07(木) 21:30:02
中世城郭の場合は戦火で、
近世城郭の場合は大火で失われるケースが多いんじゃないかな。
425日本@名無史さん:2010/10/07(木) 21:31:33
>>423
宮上氏の説に従えば江戸城天守の構造は慶長・元和・寛永とも
指図があるので、復元は可能
面白い点として三代の天守は基本的に同規模・構造であること
426日本@名無史さん:2010/10/07(木) 21:32:41
>>421
加納城御三階
気象台をどかす必要があるけど
427槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/07(木) 21:44:13
絶対、城のファンは多いと思う。。=復元天守増やしてほしいな。
まず城って想像すると天守が多いのは仕方がないけど、そこから、城ってかっこいいなって思う人が増えてほしいな。
無駄な税金を使うなら城に回しておくれ!!
>>425是非とも復元なら建ててほしいな・・・・。
428日本@名無史さん:2010/10/07(木) 21:48:38
まず大垣・名古屋・和歌山・広島・岡山・福山の建て替えが先決。
429日本@名無史さん:2010/10/07(木) 21:49:48
>>427
あんた酔ってんのか?それともガキなのか?
天皇に人権無いから江戸城から出て行けとか
無駄な税金を使うなら城に回しておくれとかスレが荒れるようなこと言うなよ
城の復元なんて税金の無駄と言われることのほうが多いんだぞ
430日本@名無史さん:2010/10/07(木) 21:50:02
駿府城の天守復元計画が頓挫して良かった。巨大天守内部は図書館。内藤博士案の奇想天外な模擬天守が建設されるところだつた。
431日本@名無史さん:2010/10/07(木) 21:53:17
>>430
当時の駿府城天守案は内藤氏が固執した名古屋城前期層塔型の影響で、
後期望楼型になっていたが、最近は層塔型の復元案が多い
432日本@名無史さん:2010/10/07(木) 23:21:21
江戸城天守復元するなら、今の天守台を壊す必要がある。それは史跡、文化財の破壊に過ぎない。
天守閣があった時は異なる天守台な訳で、
明暦の大火の後、結局天守を再建しなかった歴史を大事にすべきだろう。
433日本@名無史さん:2010/10/07(木) 23:28:33
>402
まず、天守が本当にあったか検討が必要。
文献史の丸山先生はあったと力説しているが、史料が断片的なものばかりで、、
あったとしても、天守台の調査もまともにしてなかったはずだし、現状の史料で外観や構造を示す指図や絵図が無い。
あっ、でも中津城って国史跡じゃないのかな?だったら、文化庁の直接的指導はないから建てられるか?
でも、いずれにしても根拠のある天守は復元できないよな。
434日本@名無史さん:2010/10/07(木) 23:43:04
>>432
やるんなら長岡市郷土資料館的な形でしょうね
高台の上とか場所や周辺整備さえ気を使えばそれ程違和感はないはず
435日本@名無史さん:2010/10/08(金) 00:00:58
天守に関してだけど、某サイトで聚楽城に天守は有ったけど、一階建てが二階建ての可能性が高いって主張してたけど、これってどうなんだろ?
436日本@名無史さん:2010/10/08(金) 02:37:14
屏風絵を見れば歴然だが、聚楽第天守の一層目は二重で、三層四階だと思う。
最上階の高欄は彦根や丸岡と同じ飾りで、実用性はなかったのではないだろうか。
437日本@名無史さん:2010/10/08(金) 05:58:48
三井屏風の天守に構造が似ているせいか飛雲閣が聚楽の遺構と誤解されてきた。実際は全く無関係。
438日本@名無史さん:2010/10/08(金) 11:32:45
>>437
正直、屏風絵の天守は信用できないかと
439日本@名無史さん:2010/10/08(金) 13:16:42
BS朝日で城番組やるな
440ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/10/08(金) 16:43:06
ヒストリーチャンネルでも松本とか弘前とか
やってたよ
441日本@名無史さん:2010/10/08(金) 17:07:46
聚楽廃城後に建てた京都新城って櫓とか天守あったの?
442日本@名無史さん:2010/10/08(金) 17:34:01
>>441
京都新城には宝寺城天守が移築されてきたらしい
つうか、大坂城完成まえの清洲会議の時に作られた秀吉の居城、宝寺城の天守が残っていたか疑問だが
443槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/08(金) 17:45:43
松本城とか今、世界遺産登録頑張ってるけど、実際一番可能性があるのって何城だと思う??
444日本@名無史さん:2010/10/08(金) 17:55:37
熊本城
445日本@名無史さん:2010/10/08(金) 18:04:40
どこも単独ではもう無理じゃないの。
姫路を含めてまとめて再登録しか
446日本@名無史さん:2010/10/08(金) 20:12:23
>>444
熊本城は無理でしょ、そりゃ好きだけども。
宇土櫓はもっとちゃんと調べて欲しいけれども。

城址なら原城が可能性あると思うな。
447日本@名無史さん:2010/10/08(金) 20:33:40
世界的に見て熊本城は日本の歴史上一番変換期で魅力的でしょ。ここしかない。あとは江戸城だけど別権力(俺は民主じゃない)の住まいになってる。
448日本@名無史さん:2010/10/08(金) 20:37:02
四十年生きてきて、京都新城なんて初めて知ったわ
何だよそれは、最近の発見なのか?
おまえらすげぇ博識だな
449日本@名無史さん:2010/10/08(金) 20:40:12
松本は既に単独登録はあきらめている。
姫路と彦根等と合わせてどうかという路線を模索しているようだ。
姫路と比べたら遺構が少ないのでどうかと思うが
450日本@名無史さん:2010/10/08(金) 20:48:05
五稜郭は近代日本では珍しい西洋城郭(調べる飲めんど)だけど物まねの域だろうとおもう。上屋もないし
451日本@名無史さん:2010/10/08(金) 20:48:47
452日本@名無史さん:2010/10/08(金) 21:21:25
>>448
今の仙洞御所にあった城館で、秀吉死後に北政所が移ったのもココ
ちなみに関ヶ原合戦時の8月終わりに突如、櫓・石垣・塀を破却するという行為に出ている
453ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/10/08(金) 21:48:26
そういや御所に石垣があったけど残骸だったのかもね。
454槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/08(金) 21:57:09
日本の城って世界の城と全く違うよね。木造っていうのも一つの魅力なんだから
復元するなら木造でやってくんないと・・・・・・。
 まぁ、日本の城姫路以外ので世界遺産登録は難しいな、、。(天守を含めての)
そういえば国宝は現存じゃないといけないけどなんで世界遺産は復元のものでもいいんだろ?
455日本@名無史さん:2010/10/08(金) 22:00:13
>>454
復元できるという知の遺産の継承に注目しているんじゃない
456日本@名無史さん:2010/10/08(金) 22:05:24
石見銀山は植林やほったらかしの自然や駆逐した遺構しかないんだけど
457日本@名無史さん:2010/10/08(金) 22:11:51
>>454
そうなのか?
復元物での登録って何?

>>456
石見銀山は歴史的に見た時の世界との関係も重要な要素のはず。
遺構が登録対象だから、”物”が対象と勘違いしているみたいだけそうじゃない。
458日本@名無史さん:2010/10/08(金) 22:21:44
聚楽に天守がなかった説の論拠。天守に関しての記録がない。特に天皇行幸の際に天皇が天守から眺望した記述がない事。
459日本@名無史さん:2010/10/08(金) 22:43:31
熊本城や
460槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/08(金) 23:04:19
>>457
金閣寺は世界遺産だけど国宝じゃないんだよね。
461日本@名無史さん:2010/10/08(金) 23:44:49
>>460
たしかに。
しかし、世界遺産登録は通称金閣と言われている建物だけではなく、鹿苑寺となっている。
一方、金閣は国宝ではないが、鹿苑寺は国の特別史跡。
特別史跡と言うのは、建物や、絵画等の美術品や文化財で言うところの国宝にあたる。
つまりは寺の一帯が国宝扱い。
462日本@名無史さん:2010/10/08(金) 23:47:17
まあ、金閣もまとめてなんぼのうちのひとつだからなぁ
463日本@名無史さん:2010/10/09(土) 00:12:29
金閣は近世の天守にあたると思う。信長の岐阜城山麓の天守、家康駿府城の天守は金閣の意匠即ち天下人の形式を受け継いでいると推定する。
464日本@名無史さん:2010/10/09(土) 00:38:19
形状だけで物を言っていると思わないか?

目的が全く異なるので却下。
465日本@名無史さん:2010/10/09(土) 07:00:34
>>458
寛永の二条城行幸の時は天守から眺望したのかな?
466日本@名無史さん:2010/10/09(土) 07:15:41
天皇は二回天守に上がった。一回目は悪天候で見晴らしが悪かったので翌日再度眺望したと言う。天皇が出入りするため二条城天守内部は御殿風の豪華な内装となっていた。
467槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/09(土) 11:48:24
>>446なぜ原城・・・・・?
城址ならもっと他のがあるでしょ
468日本@名無史さん:2010/10/09(土) 13:17:33
切支丹が喜びそうだからな
選ぶのもどうせほとんど切支丹だろ?
469日本@名無史さん:2010/10/09(土) 14:23:56
切支丹弾圧の文化遺産、でも国が申請するとは思えんがなあ
470槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/09(土) 14:32:40
安土城って実際どうだったんだろうか・・・・?
理由はともあれ、あまりにも過剰視されているような気がするのは俺だけか??
471日本@名無史さん:2010/10/09(土) 14:53:11
大垣城天守が外観(最上階窓)を焼失前の状態に戻すための改修工事してるようだけど、
名古屋城も見習ってやってほしいな。焼失前の窓の方がカッコいいし。

小田原城、岡崎城も復元天守で付け加えた高欄無くしてほしい。
まぁ小田原城は高欄からの相模湾の眺めはいいからもったいないかもしれんけど、
他の建造物(常盤木門、銅門、馬出門)はほぼ忠実に復元してるから合わせてほしいんだよね。
福山城も焼失前の意匠の方が断然カッコ良いのになんであんなヘボい復元になったんだか…。
472槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/09(土) 15:05:43
↑それは言えてる・・・・・。
城って9割がた完全に観光目的って言うのがね・・・・・・
少しは俺たちのこと考えてほしいよな。
473日本@名無史さん:2010/10/09(土) 15:39:46
>>472そうね。たぶん儲かることか法規に抵触しないかとかしか考えていなかったと思う。
9割方の観光客が、細部が違っていても昔をしる人間はいないのだから、わかりゃしないということだろう。
>>471大垣城天守は木造復元でもよさそう。大洲城とあまり変わりはなさそうだし。
名古屋城は天守を木造復元するという計画があるのだとか。到底無理だと思うが。
474日本@名無史さん:2010/10/09(土) 15:42:57
消防法とかバリアフリーの問題もあるからなぁ
熊本城も石の階段をスロープ化する事も要望されたし
(障害者の中でも登り易くするため今の階段無くすのは意見別れてるけど)
475日本@名無史さん:2010/10/09(土) 15:49:14
大垣城址は公園になっているが、本丸の背後がすぐ市街地で、
吃驚するくらい天守とビルが接近している。
せめて濠を残す努力をすべきだったろうに
476日本@名無史さん:2010/10/09(土) 15:59:27
堀は道にちょうどいい。どんどん埋め立てて道路を作るべき。
477日本@名無史さん:2010/10/09(土) 16:07:18
堀といえば、高島城天守の真下は国道だったね。今になるとわかることだが昔は
自分たちの生活のことばっかりだったから。
478日本@名無史さん:2010/10/09(土) 16:08:54
>>466
ありがとう。
ということは聚楽には天正16年の行幸時に二層以上の天守はなかったってことなのかな?
479ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/10/09(土) 16:09:54
後水尾天皇が天守に登った回数は3回じゃないの。
480日本@名無史さん:2010/10/09(土) 16:15:19
金沢城の二の丸菱櫓にはエレベーターがあるそうな。ついでに階段の角度は緩やかに。幅は大きく広げて参観者が利用しやすくなってあると言う。史実を改変するぐらいなら木造復元はしない方が良い。
481日本@名無史さん:2010/10/09(土) 16:29:06
>>480
但し書きがあればそれで良いと思うけどね
482日本@名無史さん:2010/10/09(土) 16:38:58
>>480
平井聖も、その点を断って書いていた
483日本@名無史さん:2010/10/09(土) 16:55:59
>>475
大垣市の長期構想では内堀復元の計画はあるらしいよ。
484日本@名無史さん:2010/10/09(土) 17:12:56
>>483
すると道路を掘り返しちゃうんだろうか。凄いな。
485日本@名無史さん:2010/10/09(土) 17:16:03
姫路城が補修用防壁に。
次に姿を見せた時には身障者用エレベーターが設置されてたりしてな
486日本@名無史さん:2010/10/09(土) 17:59:56
さっきNHKでやってた平城京大極殿は八割方推定木造復元。模擬木造が流行している。
487日本@名無史さん:2010/10/09(土) 18:07:56
>>486
あれは外観に関しては空想建築だよな
488日本@名無史さん:2010/10/09(土) 18:27:17
流行していると言うよりは、現在復元をするとしたら木造しかあり得ない。
489槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/09(土) 19:44:02
もう、復元できそうなものってあるか?? 復興になりそう・・・。
>>485それはないでしょ。世界遺産、国宝なんだし、もしそうなれば名古屋城や大阪城同様きらわれてしまう。
490日本@名無史さん:2010/10/09(土) 20:30:50
天守の事を言っているのか?
だったら少し前に話題になったが高松城が一番実現に近いか。
491ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/10/09(土) 20:35:07
松本城も天守の横の橋なくそうか
492日本@名無史さん:2010/10/09(土) 20:39:40
そうそう、それっていつ頃やるのかな?
博物館の移転と堀の復元も早くやってほしい。
現在堀跡に建つ建物が無くなて、堀越しに天守が見えるようになればそうとう見栄えがいいだろうな。
493日本@名無史さん:2010/10/09(土) 20:59:38
494日本@名無史さん:2010/10/09(土) 21:24:03
495日本@名無史さん:2010/10/09(土) 22:37:19
BS朝日の板東三津五郎の日本の城ミステリー紀行が始まった訳だが

初回は熊本城だったね
未だ行ってないからますます行きたくなった
496日本@名無史さん:2010/10/09(土) 22:55:28
伊丹に住んでいたころ有岡城が近所にあったが
信長の虐殺の歴史を聞いてか、陰気なイメージしかなく
駅前に邪魔だから石垣を壊して欲しいと思っていた
497日本@名無史さん:2010/10/10(日) 01:04:43
松本城整備計画

松本城外堀の復元(南・西外堀 約8,900平米)
平成20年 3月 西外堀の外側ラインを確定のため発掘調査実施予定

松本市立博物館の移転(二の丸古山地御殿跡)
遅くとも平成26年度までに移転完了の予定

松本城管理事務所の移転(本丸内)
市立博物館移転と連動して検討



外堀ラインの発掘調査は実施されたんだろうか?
発掘調査を実施するには建物があっては出来ないけどもう撤去済なのかな?
498日本@名無史さん:2010/10/10(日) 01:18:21
>>495
登城の暁には200円のパンフレットはよくできてるから買ってやってくれ
499日本@名無史さん:2010/10/10(日) 03:27:44
松本城の堀の底に民家が建ち並んでるけど、あれを退去させればいんじゃね?
500日本@名無史さん:2010/10/10(日) 04:16:25
堀の底に住んでるのか?
なら水流し込んじまえばイチコロじゃね?
501日本@名無史さん:2010/10/10(日) 07:34:01
宇都宮城も再建した本丸の残り半分をビルや住宅地を撤去して造成するらしい。残りの櫓、門、御成御殿まで建てるそうだ。
502日本@名無史さん:2010/10/10(日) 09:53:56
>>501
ソースは? 宇都宮市にそんな予算あるの?
503日本@名無史さん:2010/10/10(日) 10:09:43
>>501
俺の知っている限りでは、公園の範囲を拡大する事にはなっていないぞ。
正門に当たる清水門と御成御殿の復元が計画にあるのみだったと思うが。

>>502
予算なてあるわけ無いな。
あくまでも再建させる建物の候補が計画になっているだけであって、日程は予算次第だろう。
次世代に夢を託すといった計画はどこの自治体でもある。
504日本@名無史さん:2010/10/10(日) 11:19:51
熊本もビル撤去して陽春庭も再現して欲しいが金無いよなあ
505槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/10(日) 11:21:30
>>501いつの話になるんだか・・・・・・・・・
506日本@名無史さん:2010/10/10(日) 11:51:19
507日本@名無史さん:2010/10/10(日) 12:16:58
松本城二の丸御殿の復元どうなった?史料をお持ちの方いませんか?と呼掛けてたよね。
508日本@名無史さん:2010/10/10(日) 12:38:42
以前、寛永度江戸城天守のペーパークラフトのブログがあったが、
小天守台の構造が違うとツッコミがあったようで
http://blog.livedoor.jp/techas296094/archives/51604368.html

江戸城って史料が豊富な割にあまり研究が進んでいないのね
509ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/10/10(日) 14:05:09
書棚の松本城、お堀でビスマルクが転覆してた。
510日本@名無史さん:2010/10/10(日) 14:43:15
>>508
ttp://livedoor.blogimg.jp/techas296094/imgs/5/1/51732f6d.jpg?4122377e

江戸城 安土城 名古屋城

岐阜城 彦根城 清州城 弘前城

同一スケールだとわかりやすいな
511日本@名無史さん:2010/10/10(日) 14:52:10
清洲城なんてこしらえてどうすんねん
512日本@名無史さん:2010/10/10(日) 15:25:15
白石城って天守台一段しか発掘されなかったのに簡単な絵図を参考にあそこまで作るっていい加減すき。
513日本@名無史さん:2010/10/10(日) 15:28:54
>>512
木造模擬天守だわな
史跡でなければ現代でもやれるということで。
514日本@名無史さん:2010/10/10(日) 16:20:59
http://nagamochi.info/src/up38284.jpg
形が良すぎて嘘くさい
515槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/10(日) 16:51:44
早く鶴ヶ城の天守見てぇ〜〜!!
516日本@名無史さん:2010/10/10(日) 18:57:08
>>514
映画のセットみたいだな
517日本@名無史さん:2010/10/10(日) 20:04:00
>>516
石垣の具合と背後の木の感じから言って二股城だろうこれ。

だったら、祭り用に造られた張りぼて天守だ
セットと同じようなもんだな。
518日本@名無史さん:2010/10/10(日) 20:04:14
519槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/10(日) 21:00:05
おお!!浜松城とかが国指定史跡登録ガンバてるらしいね・・・・・・。
どう思う?
520日本@名無史さん:2010/10/10(日) 21:11:40
>>517
細かい細工はすぐ出来ないとしても当時の建設業の集団はこれくらい作っちゃったかもね
521槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/10(日) 21:14:28
ところでみなさん、江戸城再建を目指す会ってあるじゃん。
会員登録してる人いる?? どんな感じ?  迷惑メールとかないよね。
522日本@名無史さん:2010/10/10(日) 21:26:59
あorz  墨俣と勘違いしてた。@>520
523日本@名無史さん:2010/10/10(日) 21:47:59
>>521
そんなものに加担してはいけない。
524日本@名無史さん:2010/10/11(月) 01:47:50
>>523
同意。
復元と称した模擬建築になることうけあい。
525日本@名無史さん:2010/10/11(月) 04:00:39
よく、既存の天守台にCG合成してるけど、ダメだろあれはw
おまえら、やるなら天守台から復元しろよと

ところで、秀忠、家光の天守台は伊豆石だったのかな?
それとも西国大名が運んだ御影か?
526日本@名無史さん:2010/10/11(月) 06:03:51
↑鞭
527日本@名無史さん:2010/10/11(月) 06:08:23
実は高校のときまで、瓦町に住んでいました。
あの頃に比べて町の様子はだいぶ変わったけど、所々変わらない店もあり、
なんだか懐かしい・・・って、
空 き 店 舗 多 く な い か?
商店街を散策したんだけど、所々に下りたシャッターと
「テナント募集」の張り紙。

その前に行った松山の大街道が店も多くて、
イベントもやったりして頑張っていたので、
さらに寂れてるのを感じたのかもしれません・・・。
528日本@名無史さん:2010/10/11(月) 07:07:19
>>519
本丸の大半が地盤ごと失われてる城の国史跡登録なんてできるんかいな
529日本@名無史さん:2010/10/11(月) 09:34:05
秀吉の伏見城くっきり 「洛中洛外図屏風」で初確認

2010年10月11日 09時18分

 豊臣秀吉が京都に築いた伏見城を詳細に描いた「洛中洛外図屏風(びょうぶ)」が、名古屋市博物館の調査で初めて確認された。
同城は再建を繰り返したことなどから、城の姿を伝える絵画資料はほとんどない。
東海地方の個人が所蔵し、同博物館で開催中の「変革のとき 桃山」展で19日から初公開される。

 京のにぎわいを描いた洛中洛外図は室町末期〜江戸時代に制作され、90点以上が確認されている。
しかし伏見城が描かれていても小さかったり雲に隠れていたりして建物配置などを詳しくうかがい知ることはできなかった。

 初公開される八曲一隻の同屏風は、縦1・9メートル、横4・8メートル。江戸初期の作で作者は不明。
5層の天守と御殿を持つ伏見城が2面にわたり主要画題として表現されている。

 市博物館の調査で、城の本丸から延びる望楼付きの橋に豊臣家の桐(きり)の家紋が金で描かれていたほか、1597(慶長2)年の完成後、
わずかな期間だけ城内にあったことが文献で分かっている三重塔が確認された。
このため、家康が関ケ原合戦後に再建した伏見城ではなく、秀吉が建設した城が描かれていると特定。さらに、堀端の水くみ小屋、
通路を伴う古い形式の石垣などの構造も他の洛中洛外図には見られないほど細かく表現されていた。

 調査担当者は「伏見城跡は明治天皇の陵墓となっており発掘調査などができない。
文献中心だった伏見城の研究にとって、この屏風は貴重な存在となる」と話している。

 <伏見城> 1592(文禄元)年、豊臣秀吉が現在の京都市伏見区に隠居所として建設したが、4年後の大地震で倒壊。97(慶長2)年に再建され、
秀吉が翌年に病没するまで過ごした。その後は徳川家康が入城、1600(慶長5)年に関ケ原合戦の前哨戦で焼失した。
家康が01年から再建し、家光が3代将軍になった23(元和9)年以降に廃城となった。

(中日新聞)

http://www.chunichi.co.jp/s/article/2010101190091859.html
http://www.chunichi.co.jp/s/article/images/2010101199091859.jpg
530日本@名無史さん:2010/10/11(月) 09:39:44
発掘調査しろ
531槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/11(月) 09:58:05
>>529おお!!だったら、今ある 桃山城 の糞天守ぶっ壊して復興でもいいから伏見城
の天守が見たいな・・・・ww
532日本@名無史さん:2010/10/11(月) 10:08:41
>>529
狩野英徳の安土城屏風もこんな感じなんだろうか?!
19(火)から公開か。。。逝ってよし!
533日本@名無史さん:2010/10/11(月) 10:26:31
聚楽第(秀吉期・秀次期)にしろ伏見城(伏見隠居屋敷・文禄期・慶長期)にしろ指図が出てくればいいんですけどね。
534日本@名無史さん:2010/10/11(月) 10:49:26
535日本@名無史さん:2010/10/11(月) 11:02:15
>>533
http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100722/1279765730
元和の頃にはあったようだけど、今の中井家に無いところを見ると廃城時に必要なしと
廃棄処分にあった可能性が高い
536日本@名無史さん:2010/10/11(月) 11:15:24
>>533
城の指図は基本的に軍事機密(内部資料)で、地震や火事に遭った場合に備えて【修繕&再建のために】保存される場合がほとんど。

聚楽第は秀吉自身が【破却】し、秀吉の大坂城や伏見(富士見=不死身)城は家光将軍宣下の後、幕府によって【破却】されているから、
修理はもちろん、再建の可能性もないわけで、当然指図も破棄された可能性が高い。

安土城の天守指図も完成直後の様子を岡部大工が後の修繕用に描いていると思われ、それが写本を繰り返して残ったのは(真偽は兎も角)奇跡に近い。
537日本@名無史さん:2010/10/11(月) 11:34:15
岡部又右衛門以言・以俊父子は本能寺で雇い主の信長と揃って討ち死にしちゃったからね。
処分する暇がなかったからこそ指図が残ったんだと思われ…
538日本@名無史さん:2010/10/11(月) 13:10:32
↑妄想やね。
539ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/10/11(月) 14:01:22
息子がなこや城つくってたような
540日本@名無史さん:2010/10/11(月) 14:10:11
>>534
これは凄い
どういう由来の屏風なのよ
541日本@名無史さん:2010/10/11(月) 15:52:44
今さらながら秀吉の木幡山伏見城の屏風が出てくるとは・・・
聚楽第やオランダの大坂城の屏風に続けて奇跡が続いてるな

ただ、天守が本丸中央なのが気になるが
秀吉の天守は本丸の角に造ると思っていた
542日本@名無史さん:2010/10/11(月) 16:15:54
今回の伏見城、基本的な構図は徳川伏見城と同じなんだよね、違いは勿論あるけど

http://ci.nii.ac.jp/naid/110003882286
http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100701/1277973748

やっぱり図屏風だけで復元はできんだろうなぁ
543ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/10/11(月) 16:20:20
次は安土の番だ
544日本@名無史さん:2010/10/11(月) 16:26:52
この人↓の立場はどうなる?!
http://miyakoweb.at.infoseek.co.jp/momoyama/momoyamajyo.htm
545日本@名無史さん:2010/10/11(月) 16:44:24
天守の位置は、中央というより大手から右奥隅のようね。
546日本@名無史さん:2010/10/11(月) 16:51:41
あの橋は大手門でなく松の丸からの極楽橋とされている
この橋もそうだが本丸と二ノ丸を繋ぐ廊下橋も明治の測量によると土橋になっているね
松の丸外にある出丸もないな
547日本@名無史さん:2010/10/11(月) 16:57:00
>>544
正確には遊園地のアトラクション的な物なので正確性はありませんが
なんとなく桃山調的な雰囲気は伝わってくると思う

木幡城が明治天皇陵で無理なら
いっそそれ以前の指月城の方での発掘調査を実施し
将来的な復元を考えてみるとか・・・やっぱ無理でしょうか
548日本@名無史さん:2010/10/11(月) 17:19:12
田舎大名の御三階櫓のような天守なら割と簡単に復元できるが、天下人クラスの天守閣の復元となると、信じられないような金額になる。
安土城は西武の堤清二・義明の親父が見積もったら、天主(内藤案)と本丸御殿だけで「5,000億円也」という見積もりが出て、断念したらしいw

なんてったって、天下普請(他大名の財力削減が目標)だからねw
549日本@名無史さん:2010/10/11(月) 17:23:30
因みに安土駅前の安土城郭資料館にある安土城復元天主の模型は総額1億2千万円だってw
550日本@名無史さん:2010/10/11(月) 17:40:06
>>546
徳川の伏見城に冬の陣図や祭礼図のパーツを当てはめただけにも見えるから判断は保留かな
天守のとなりの三階櫓も冬の陣図から持ってきたようにも見える
551日本@名無史さん:2010/10/11(月) 17:47:41
>>550
二段石垣や井戸櫓というなかなかマイナーな面を付いているので、
豊臣伏見城の可能性は高いとも言える
552日本@名無史さん:2010/10/11(月) 17:54:15
宮城県の白石城の復元工事で、総工費25億円だったね。
553日本@名無史さん:2010/10/11(月) 17:58:28
>>547
指月城の方も復元は難しいだろう。団地の改築で発掘作業が行われたのは
伏見奉行所跡だけだし,大部分は伏見の旧市街になってるからね。
554日本@名無史さん:2010/10/11(月) 18:09:23
>>553
文禄の伏見城が指月にあったんだじゃなくて木幡山にあったって説もあるんでしょ。
555日本@名無史さん:2010/10/11(月) 20:37:16
安土城は天主上層部を10億円でこしらえてるんだから
5000億はかかり過ぎだろ
せいぜい500億もあればいけるはず
バブル時代なら可能性はあったがもう無理だろうが
556日本@名無史さん:2010/10/12(火) 00:46:36
天守の腰壁が茶色なのが気になる。
白木造りなのだろうか?
写真が小さいから高欄の有無も今一判然としないな。
557日本@名無史さん:2010/10/12(火) 01:01:42
>>556
新聞の写真だと大坂城図屏風のように装飾てんこ盛り状態に見える
高欄はない
558日本@名無史さん:2010/10/12(火) 06:48:21
天守の二層重目に唐破風屋根の張り出しのあるのは「冬の陣図屏風」に共通し興味深い。
559日本@名無史さん:2010/10/12(火) 07:36:45
内藤の伏見城復元案には二重目に唐破風があったな。やはり姫路城は伏見城の影響を強く受けているのかな。
560日本@名無史さん:2010/10/12(火) 11:49:07
広島県の福山城は10万石の大名の城にしては広さも建物の大きさもなかなかだよな。
松本城や姫路城みたいに造られた後に石高が縮小した訳じゃなくて、
最初から10万石だったんだもんね。しかも幕府から資金融資はもちろん、
伏見城の遺構まで提供されて造られたっていうところが地味に凄い。

津山城(18万6500石→10万石)も、もし天守閣や門が現存していれば間違いなく
岡山県北部最大の観光名所になっていただろうな。
561日本@名無史さん:2010/10/12(火) 13:17:36
>>555
あの天主望楼部が【地上に建てて】10億円掛かったってことは???
562日本@名無史さん:2010/10/12(火) 13:20:37

秀吉が築いた大坂城 ホンモノはどれだ?
http://tategaki.jp/data_C/
563日本@名無史さん:2010/10/12(火) 17:37:15
まだあるぞ

出光美術館蔵 大坂夏の陣図
ttp://www.geocities.jp/themusasi2de/image/osaka_natu1.jpg
564日本@名無史さん:2010/10/12(火) 17:40:03
伏見城の遺構って下賜や移築でたくさん残ってるんだね(ビックリ)。。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%9F%8E#.E9.81.BA.E6.A7.8B

位置関係を確認(今回見つかった屏風→U期)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/94/Fushimi_momoyaja_jyou_20.jpg
・指月城(T期=秀吉が最初に築城〜慶長地震で倒壊)
・木幡城(U期=秀吉再建〜秀吉死去〜関ヶ原前哨戦で焼失/V期=家康再建〜家光破却)
・桃山城(1963年復興w・モアイの目)CG
 http://kytfushimi.exblog.jp/11097092/
 http://kytfushimi.exblog.jp/11127442/
565日本@名無史さん:2010/10/12(火) 18:05:47
建物じゃないけど、山形市最上義光歴史館所蔵の「山形城本丸御殿の杉戸絵」が、
もともとは伏見城から運ばれたものではないかと推測されている。

ttp://yamagata-np.jp/news/200912/11/kj_2009121100206.php
566日本@名無史さん:2010/10/12(火) 18:13:09
ゴイスーだね、ゴイスーだね!みんな国宝か重文じゃん!!
567日本@名無史さん:2010/10/12(火) 19:07:13
>>563
これはなんか嘘くさいですね壁が白だったりとかw
ただ本丸桜門のすぐ側にある本丸御殿が描かれている点は評価できますね
568日本@名無史さん:2010/10/12(火) 19:10:55
>>562
狩野派の連中の描いた絵は二条城だろうが大坂城だろうが丸っきり同じだな
本当に判子を押してんじゃないのかこいつらは
569日本@名無史さん:2010/10/12(火) 19:14:41
570日本@名無史さん:2010/10/12(火) 19:28:15
>>559
秀頼は(義理の祖父・家康のススメもあって)近畿一円の神社仏閣を修築・寄進しまくっていますから、
秀頼によって、父・秀吉の築いた大坂城を更に豪華に飾ろう(あるいは家康の侵攻に対応すべく物見櫓としての機能を強化しよう)として、
(寛永期江戸城の第4層同様)唐破風屋根の凸部などが増築された可能性もありますね。

>>562
秀吉大坂城の第1層目北面に縋(すがる)破風が葺き降ろされていたとすると、内藤案安土城第2層北面と共通しますね。
とすれば、北に一段低い大倉を配置するのが、織豊期天守の定石だった可能性も出てきますね。
571日本@名無史さん:2010/10/12(火) 19:32:11
>>569
おお、素晴らしい!お産クスコ!
572570:2010/10/12(火) 19:34:23
訂正
(寛永期江戸城の第4層同様)唐破風屋根の凸部や【千鳥破風】などが増築された可能性もありますね。
573日本@名無史さん:2010/10/12(火) 20:13:53
>>563
それは最上屏風の系統で、現在は大坂夏の陣のでは無いという説が主流
574日本@名無史さん:2010/10/12(火) 21:21:19
>>573
一見すると縄張り的には豊臣大坂城の本丸に見えなくもないような
よく見ると手前に米蔵の曲輪らしきものも描かれているし
575日本@名無史さん:2010/10/12(火) 21:38:03
豊臣伏見城は(伏見桃山キャッスルランドのような)朱茶漆塗りの真壁造り、
徳川伏見城は(和歌山城や江戸城富士見櫓のような)柱長押浮き出しの白漆喰塗込、で桶?
576日本@名無史さん:2010/10/12(火) 21:48:25
なんだなんだ。
近頃じゃ指月山伏見城が存在を否定されておるのか?
577日本@名無史さん:2010/10/12(火) 23:08:32
徳川伏見城は案外層塔式の新鋭天守だったかもしれない。故宮上氏は二条城移築天守は二層以上に窓が少ないのは規模を縮小したのに破風の数を旧来のまま減らさなかったためと推論している。三層目の唐破風は移築前は大入母屋だった可能性もある。
578日本@名無史さん:2010/10/13(水) 03:57:47
御所参内・聚楽第行幸図屏風の信憑性が高いなら
大垣城タイプの層塔型ならは早くに出来ていたのかもしれないな
ttp://pc.gban.jp/img/23592.jpg
579日本@名無史さん:2010/10/13(水) 06:31:16
>>562>>570
大坂城屏風・冬の陣屏風・夏の陣屏風を参考に、
秀吉死後、秀頼が(豊国祭に合わせて)唐破風凸部や千鳥破風の追加を行った可能性を考慮して、
慶長20年落城直前の豊臣大坂城・最終形態を描いてみますた!
http://pc.gban.jp/index.php?p=23593.jpg

先輩方の御指導&御鞭撻を(当方弱冠20歳につき、お手柔らかに)よろしくおながいしまつ!
580日本@名無史さん:2010/10/13(水) 06:47:54
雰囲気は良いと思う

細かいことを言うと、
平面規模は東西12間(北面12間、南面13間)
南北11間
581日本@名無史さん:2010/10/13(水) 06:48:34
慶長U期の駿府城復元図(内藤昌教授)も描いてみますた!(以下同文)

http://pc.gban.jp/?p=23594.jpg

柱・長押などの木部は、茶漆塗り真壁造り…家康好みとのことです。
582日本@名無史さん:2010/10/13(水) 06:49:24
>>579
入母屋の向きはどうでしょう
583日本@名無史さん:2010/10/13(水) 06:54:22
>>582
入母屋の向きはみんな違うからなあ
ただ気になるのは、この時代に千鳥破風と比翼千鳥破風がはたして存在していたかどうか・・・
584日本@名無史さん:2010/10/13(水) 07:11:53
寝ぼけて「千鳥破風の追加を行った可能性」を見逃していた
失礼
585日本@名無史さん:2010/10/13(水) 07:18:54
>>578
その屏風成立年代も含めて某サイトでフルボッコにされてたような?
586日本@名無史さん:2010/10/13(水) 07:19:17
内藤案の駿府城は真実味がないな。アンチ豊臣で新式天守を志向した家康が時代に逆行するわけないと思う。名古屋城天守に大入母屋を取り入れたイメージが推定される。
587日本@名無史さん:2010/10/13(水) 08:11:51
>>584
偉大な太閤殿下の死後、大老・家康に、大坂城西の丸には4層天守を新築、さらに関ヶ原の合戦で焼失した伏見城を再建されており、
それらは当然のことながら、秀頼の大坂城を上回る豪華絢爛さであった可能性が高い。
やたら気位の高い母・淀殿の面子のためにも、主家としての体面を保つためにも、
秀頼が大坂城に装飾を追加した可能性は低くはないと思われ。
588日本@名無史さん:2010/10/13(水) 08:26:40
豊臣大坂城の竣工(完成)が1585年だとすると、家康の隠居(慶長T期駿府城完成)時=1605年には、すでに築20年が経過しており、
風雨に晒されて、最上階の高欄から雨漏りしたり、外壁の黒漆や金箔が剥がれ落ちたりしていたと思う。
大改修ついでに唐破風や千鳥破風を追加したかも、という説はあり得るなw
589日本@名無史さん:2010/10/13(水) 08:38:05
>>579
木割りは、輝元の広島城、清正の熊本城を参考にした?
590日本@名無史さん:2010/10/13(水) 09:29:41
大阪城コンクリート天守に似てますわ。
591日本@名無史さん:2010/10/13(水) 12:09:07
天守とか櫓ができた年って建築残ってるやつも鑑定法ないの?
592日本@名無史さん:2010/10/13(水) 14:31:57
>>591
解体修理時の書き込みを基にするという手段はある
593日本@名無史さん:2010/10/13(水) 16:42:37
難破救助されたスペイン人が「立派な石段を上がると・・・吹き抜けのある・・」と駿府城天守に内部吹き抜け構造があったと記述している。
594日本@名無史さん:2010/10/13(水) 17:24:09
釣れますか(笑
595579:2010/10/13(水) 17:59:52
皆さん、コメントありがとうございます!

>>580-584さん
ご提供いただいたデータを元に、秀吉創建時の姿に描き直してみますた(風鐸も付け足しちゃいましたw)。
http://pc.gban.jp/?p=23600.jpg
596日本@名無史さん:2010/10/13(水) 18:45:23
597槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/13(水) 19:33:45
>>595素晴らしい出来だと思いますよ・・・。
598579:2010/10/13(水) 20:12:33
>>596-597
ありがとうございます。

     南北×東西
第5層…3間×3間
第4層…5間×5間※
第3層…7間×9間▲    
第2層…9間×11間
第1層…11間×13間(※南面→北面は12間)

デザイン上の処理の問題
▲第3層から※第4層において-4間の大幅逓減=片側-2間の大幅逓減
→(A)大屋根ですくい上げるか?(B)破風2軒を連立させる(比翼千鳥破風)か?が考えられる。
→そこで、大坂城図屏風、冬の陣屏風、毛利輝元が大坂城を模したと伝わる広島城、同清正・熊本城を参照すると、
 大幅逓減部分では、いずれも大屋根ですくい上げている。
→また>>583さん情報で、天正13年当時(B)比翼千鳥破風の存在に疑問あり。
→したがって(A)大屋根で掬い上げる処理を採用しまてみますた。 

http://pc.gban.jp/?p=23604.jpg

普段使わない頭を使いすぎてもうこれで限界ですw
599日本@名無史さん:2010/10/13(水) 20:18:28
とりあえず安土城天守と豊臣大阪城天守の規模が
なぜか大して変わらないという現在のとんでも復元案(!?)だけは
とりあえず何とか修正して頂きたいと思う次第でありますw
600日本@名無史さん:2010/10/13(水) 20:39:08
>>598
屋根が上階まで突き抜けるか、突き抜けないかとか、これいじょう正確性を求めるなら
内部構造から考証していかないと難しいかもね


望楼型天守の考察 : 基部と望楼部について
tp://ci.nii.ac.jp/naid/110007073058
601日本@名無史さん:2010/10/13(水) 21:08:55
比翼千鳥破風を上層の千鳥破風で受ける、という規則性は有りや無しや?
602日本@名無史さん:2010/10/13(水) 21:48:33
豊臣大坂城を煮詰めると三浦じゃないが岡山城に帰結するのだよ。そして岡山城を原風景に大坂城の推定復元が始まるのだ。
603日本@名無史さん:2010/10/14(木) 17:24:50
>>600
ありがとうございます。屏風絵だけでは、これ以上の詮索はムリポ・・・
中井家本丸図↓毛利輝元や大友宗麟の拝見記も調べないとダメですね・・・orz
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/97/Osakacastle-5.jpg

>>601
安土城第4層東面に、比翼千鳥破風とそれを受ける上層部の千鳥破風が三位一体で構成されており、
内藤昌教授は、これがその後の天守建築における千鳥破風(を三位一体に構成する)デザインの起源となったと考察されていますた。
例:彦根城妻側、姫路城平側など

http://pc.gban.jp/?p=23618.jpg
http://pc.gban.jp/?p=23619.jpg
604日本@名無史さん:2010/10/14(木) 19:27:57
>>592ありがとう。
やっぱ解体修理時とかに書き込みが見つかるとかじゃないとムリかぁ
605槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/14(木) 21:06:56
国とかが大規模の発掘調査をしてくれればな・・・・・・・。まぁあり得ないか。
606日本@名無史さん:2010/10/14(木) 21:51:35
>>603
>屏風絵だけでは、これ以上の詮索はムリポ・・・
>中井家本丸図↓毛利輝元や大友宗麟の拝見記も調べないとダメですね・・・orz

天守の柱の全体の位置関係とか同じ中井家が担当した淀、二条、名古屋、小浜の天守指図も参考になるかも。
特に、淀城天守が元々は大和郡山城に有ったのなら、築城年数が聚楽第とほぼ同じなので貴重な資料になるはず。
607日本@名無史さん:2010/10/14(木) 22:01:02
淀城天守の初重と大和郡山の天守台の面積は、ほぼ同一らしい。
608日本@名無史さん:2010/10/14(木) 22:51:26
新刊登場

『週刊絵で知る日本史』
http://www.shueisha.co.jp/weekly/nihonshi/index.html
http://www.shueisha.co.jp/weekly/nihonshi/images/pict_left5.jpg

これが楽しみ

大坂夏の陣
大坂冬の陣図
築城図・縄張図
名護屋城図・朝鮮軍陣図


609日本@名無史さん:2010/10/14(木) 22:58:27
次から次と良く考えるな〜。
610日本@名無史さん:2010/10/14(木) 23:23:07
集英社、ですか
はてさて監修は誰がやるんでしょうかねぇ
611日本@名無史さん:2010/10/14(木) 23:25:38
皇統が絶えるのを待とう
612日本@名無史さん:2010/10/14(木) 23:26:01
宮上茂隆による移築仮説(4棟ともすべて焼失)

・家康江戸城→【徳川大坂城】

・秀忠江戸城→【仙台青葉城】

・豊臣大和郡山城→二条城二の丸→【淀城】

・徳川伏見城→【二条城】本丸天守台
613日本@名無史さん:2010/10/14(木) 23:29:04
天守のない仙台城に何を移築したの?
614日本@名無史さん:2010/10/14(木) 23:39:11
>>613
あくまで予定という話
その時に作成され元和度江戸城天守の図面が、縁戚のツテで
天守の炎上した津軽家に流れて図面が残ったとしている
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b0/Edo_Castle_keep_towr_order_%28Tsugaruke%29.jpg
615日本@名無史さん:2010/10/14(木) 23:46:48
仙台(青葉)城本丸には天守台あるよ。
616日本@名無史さん:2010/10/14(木) 23:57:15
本当に天守台なのか?
少なくとも石垣で出来た天守台は無いはず。
ただの高台という話もあると聞いている。
立ち入り禁止区域内なので、一般人はだれも見る事も出来ないが・・・
617日本@名無史さん:2010/10/15(金) 05:02:29
家康に妙な疑惑を持たれないために天守作らなかったんだよね政宗
何事にも派手志向の強い政宗が
一体どんなに派手で壮大な天守を建てたかったのかが気になる
618日本@名無史さん:2010/10/15(金) 05:53:34
仙台城天守の雛型が存在していた。行方は不明。
619日本@名無史さん:2010/10/15(金) 07:07:43
津軽の図は立面の描き方がやや稚拙で、焼失した弘前城天守の再建の為の試案(願望)図だと思われる。
620日本@名無史さん:2010/10/15(金) 07:18:22
>>618
空襲で焼けたんじゃなかった?
目撃者の話だと、雛型は江戸城天守に似ていたとか
621日本@名無史さん:2010/10/15(金) 07:20:23
大坂城天守の妙なアンバランスさの由来が江戸城天守の縮小移築なら納得できる。
622日本@名無史さん:2010/10/15(金) 09:25:05
>>619
そりゃないかと
何しろでかすぎる上に、京間ではあるが寸法は江戸城天守と同じ
天守石垣も同様で更に言うと最上階に東照宮まである
(元和度に東照宮があったことは史料でも明らかになっている)

描き方が稚拙なのは写しだからと宮上は指摘している
623日本@名無史さん:2010/10/15(金) 13:43:47
昭和天皇が戦前に天覧した葵文庫の駿府城天守指図は戦後行方不明だが戦災で焼けたのかね?
624619 :2010/10/15(金) 17:00:04
>>622
だから試案だって言ってるじゃん。

和歌山城天守の五重再建案も江戸城天守をベースにしたものだし、
「こんな感じで」と江戸城天守に手を加えたものだと考えられる。

張り出しの形状が平側と妻側(→出窓)で異なっているのも不自然。
625日本@名無史さん:2010/10/15(金) 17:44:12
津軽藩の江戸城天守指図は新井白石の天守再建準備の折りの試案の一つだった。
626日本@名無史さん:2010/10/15(金) 17:57:30
>>624
>張り出しの形状が平側と妻側(→出窓)で異なっているのも不自然。
正保城絵図にある高田城や関宿城なんかで平側と妻側の破風の形状が異なる例はある

>>625
それだと石垣の高さは6間では、津軽家のは7間
627日本@名無史さん:2010/10/15(金) 18:50:56
話切ってすみません
城跡や古戦場を甲冑着て散策するのが夢なんですが実際にやると違法ですか?
628日本@名無史さん:2010/10/15(金) 19:07:15
刀は無理でも甲冑は武器じゃないからいいんじゃね
629日本@名無史さん:2010/10/15(金) 19:17:35
名古屋城本丸御殿の復元工事の内部が26日まで限定公開されてるから、近くの人は見れていいよな。
630日本@名無史さん:2010/10/15(金) 19:43:05
伊予松山城に自由に着て下さいのような感じで当世具足が一領置いてあった気がするw
631日本@名無史さん:2010/10/15(金) 19:55:09
>>628
>>630

ありがとうございます
やはり刀は模擬でも駄目なんですね・・・
鞘から抜けない刀風のなんちゃってなら大丈夫ですかね(´・ω・`)?
632日本@名無史さん:2010/10/15(金) 19:56:54
松山城か。八時前に登ったら人が山ほどいた。それも、裸足で走り回って、あちこちの柵などを利用して
慣れたポーズでストレッチを行いつつ走り回ってる人まで。有名人なのかねえ。
633日本@名無史さん:2010/10/15(金) 20:04:41
現存の江戸城天守台は家綱再建ではなくて吉宗が天守再建計画に合わせて新規に積み直したと新説が出ているがどうなの?
634日本@名無史さん:2010/10/15(金) 20:08:45
伊予松山城?
俺も早朝に行ったとき思いのほか人が多いので違和感を感じたよアノ城
ただ、美人がランニングしているのには目を惹かれたが、そういう団体さんにはでくわさなかったが
635日本@名無史さん:2010/10/15(金) 20:09:51
>>631
いや、俺は岩村城で刀を構えてポーズをとっている武者姿の集団を見たことがるぞ。

違法かどうかは知らないが・・・

銃刀法に該当しなければいいんじゃね?

そうでなければ木刀とか竹刀もダメになっちゃうぞ
636日本@名無史さん:2010/10/15(金) 21:22:48
>>627
お化けが出たと話題になりそう
637日本@名無史さん:2010/10/15(金) 21:23:03
映画『雷桜』より、新説江戸城天守
ttp://pc.gban.jp/img/23646.jpg
638日本@名無史さん:2010/10/15(金) 21:24:20
>>637
福井城ぽいな
639日本@名無史さん:2010/10/15(金) 21:27:30
模造刀の屋外携行は銃刀法に抵触します。特に抜刀してた場合に亜鉛、真鍮合金刀身の場合には没収確実。
640619 :2010/10/15(金) 21:39:51
>>626
>正保城絵図にある高田城や関宿城なんかで平側と妻側の破風の形状が異なる例はある

正保城絵図じゃ話に成らない。細部描写の正否は千差万別だからね。
それに問題は破風の形状がでは無く、特に妻側二重目のそれが出窓状になっている点で、
実例を知らないが何処かにあったかな?
全体的な印象的にもくど過ぎる気がする。

張り出しを重ね上げた形態は現弘前城天守に通じるところがあり、もしかしたら焼失した旧天守が
そうした形態をしており、入手した江戸城天守の図に手を加え旧態を偲んだのではないかと考えられる。
641日本@名無史さん:2010/10/15(金) 21:42:05
>>637
姫路城のCG加工だね。
642日本@名無史さん:2010/10/15(金) 21:52:50
>>640
二連の千鳥破風の下に出窓がある構図は名古屋城にある
クドイ印象は確かだが、だからこそ寛永度で修正をしたという考えもできる
また、慶長度は中井家であった大工が元和度で鈴木家に替わったのも大きいと思われる
643619:2010/10/15(金) 22:20:09
>>642

名古屋城のそれは隠し石落としにもなっている張り出しであり、
津軽図のそれは完全な出窓状で異なってます。

津軽図平側の張り出しの屋根(元よりあった唐破風は別)の勾配が
直線的で稚拙なのも、それが後から付け加えられたものであることを
窺わせています。
644日本@名無史さん:2010/10/15(金) 22:37:03
>>643
あの構造は下の千鳥破風と干渉するのを避けるための工夫でしょう
確かに張り出しの下部が切れているのは珍しいですが
そうでない例は館林城の二重櫓にあります

後、張り出しの屋根勾配が稚拙といいいますが、それは図の屋根勾配
全てに言えるので書き加え説は成り立たないかと
645619:2010/10/15(金) 22:56:53
>>644

平側では屋根の反りなどは比較的まともに描かれているのに張り出しは直線的で、
なおかつ妻側の張り出しが軒先すれすれに描かれているのも極めて稚拙で、原図を写したというより、素人(に近い人物が)の改竄を窺わせます。

646日本@名無史さん:2010/10/15(金) 23:07:31
>>645
自分にはそういう差があるようには見えない
647619:2010/10/15(金) 23:21:58
結論から言えば、元和度江戸城天守は一部の絵図にその姿が描かれていますが、家康の天守が白亜であったのを
秀忠の好みにより下見板張り風の漆黒にし、初重に窓を二段に並べたもの(同時期に再建された大坂城天守もそれに倣ったもの)
であったと考えられます。
648日本@名無史さん:2010/10/15(金) 23:30:01
>>645
ちなみに千鳥破風の下にある張り出しが上の破風より突出しているのは
江戸城巽奥三重櫓でもそんな感じに見える

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4b/Tatsumi_Oku_Mie_tower%2C_Higashi_Mie_tower.jpg
649日本@名無史さん:2010/10/15(金) 23:35:14
>>647
自分は元和度は津軽家蔵の絵図だと思いますね
慶長を基本としつつも、元和で破風を多種にした上で張り出しを加えて、
寛永で四重以外はそれを修正している
650日本@名無史さん:2010/10/15(金) 23:44:43
後、津軽家蔵絵図の破風配置で面白いのは江戸城の隅櫓にある張出付破風を全て網羅していること
入母屋、千鳥、切妻、唐破風、最後の唐破風に張出を含まないものを入れれば全ての型式を揃えていることになる
ちなみに江戸城には据唐破風の隅櫓はない
651日本@名無史さん:2010/10/16(土) 00:00:07
東海道何とか絵図に描かれている江戸天守に据唐破風が描かれている。徳川天守で据唐破風の実例は大坂、二条城しかないのに。元和度には据唐破風があった可能性がある。
652619:2010/10/16(土) 00:09:01
江戸城巽奥三重櫓など、千鳥破風の下にもうけられた張り出しの奥行きは比較的浅い(半間ほど)が、
津軽図妻側では一間と深くそれが軒先すれすれの不自然さを生じさせている訳で、
何より、平側の張り出しが上部屋根より分離した形状の張り出しなのに、妻側のそれが
破風下に取って付けたような形状と異なっているのも不可思議と言わざるを得ません。
本来なら同じような様式で統一するのが順当ではないでしょうか。
653日本@名無史さん:2010/10/16(土) 00:18:49
>>651
あの手の絵図は信用できない

>>652
入母屋・切妻と千鳥破風の違い、前者は屋根の下部に置けるが、後者は上部に置く必要がある
結果として張出は後者が長くなる
この辺については多種の張出、破風を用いて層塔型の味気なさを拭おうとする意図が感じられる
654619:2010/10/16(土) 00:26:52
>>651
元和度では慶長度での据唐破風(平側)を張り出しに改め、次の寛永度では八方正面を意識し、
妻側の千鳥破風を同じ唐破風の張り出しに改めたと考えます。
655619:2010/10/16(土) 01:09:41
>>653
>入母屋・切妻と千鳥破風の違い、前者は屋根の下部に置けるが、後者は上部に置く必要がある
>結果として張出は後者が長くなる

だからこそ前者の張り出しの奥行きは深く、逆に後者の奥行きは浅いのが順でしょう。
ところが津軽図では、後者も同じように描かれているから軒先が浅く成り過ぎて不自然な訳で、
とてもプロのデザインとは考えられない。

>>647
ちなみに、秀忠は駿府城天守を意識してその意匠(白→黒・二段の窓)を改めたものと考えます。





656日本@名無史さん:2010/10/16(土) 07:30:06
駿府城の外壁は屋根と同じ錫か銅板が貼付されて表面はちゃん塗りで黒く塗装されていたらしく家光の寛永天守の外壁意匠に影響したと推察する。
657日本@名無史さん:2010/10/16(土) 07:46:33
駿府城って

新築時は(徳川伏見城同様)真壁造り(木部白木・白漆喰壁)
→傷んできたので、改修時に大壁造り(木部黒漆・銅板貼り)に仕様変更
→家光が権現様お好みと(勘違い)して寛永江戸城で再現w

という可能性はありやなしや?
658日本@名無史さん:2010/10/16(土) 08:52:05
駿府城の外壁の材質については特に記録はありません。

秀忠の天守では板張りもしくは黒漆喰で、二世権現を自負する家光としては、
より豪華な銅板、ちゃん塗りとしたと考えます。
659日本@名無史さん:2010/10/16(土) 09:32:20
あまりこのスレとは関係ないが
無茶苦茶な金遣いしまくった家光からお犬様の綱吉にかけて
この将軍たちは本当に終わっていると思う

ただしこのスレ的には
家光なんか色々と≪ありがたい存在≫って事になるのかねw
660日本@名無史さん:2010/10/16(土) 10:51:32
>>631
痛いコスプレで歩き回るのと同じだから、罪にはならないよw
模擬刀なら大丈夫。ただし、もし職質受けたらちゃんと説明すること。

最近は城下町の観光キャンペーンで、甲冑姿の案内人がいたりするから、
他の観光客に記念撮影をねだられる可能性が高いよ。
661日本@名無史さん:2010/10/16(土) 11:26:40
>>655
巽奥三重櫓をみると切妻と千鳥破風下の張出は高さこそ差はあれ、厚みについては差は
無いように見えます

また張出の厚みついてはミスの可能性も否定できないが、張出の突出は張出の側面からも
射撃ができることや、張出を大きくすることで慶長度との差別化を図ったとも考えられる
662日本@名無史さん:2010/10/16(土) 12:28:40
>>660

ありがとうございます
第一弾は人目につきにくい夜に関ヶ原の笹尾山の三成陣でデビュー狙います
663日本@名無史さん:2010/10/16(土) 12:54:39
こんな風になって捕まらないように。


397 おさかなくわえた名無しさん 2008/12/28(日)

武者鎧が好きで金貯めて買った。付属品含めて20万也。

んで届いた日の夜にすぐ装備。カッコヨスw

装着具合を確かめるために散歩してたら悪ガキ連中がタムロしてるのに出くわした。

周りは元は城の鬱蒼とした森で外灯の下にぽつんと鎧武者一人。

悪ガキ連中ダッシュダッシュ猛ダッシュwww一人など腰砕けて匍匐前進w

雰囲気を出しつつゆっくりと腰砕けに近付くと小便漏らして気絶したw

その後、あの森には落ち武者が出ると噂になったのは言うまでもない。

今は反省してる。

664槌の子狩人 ◆Hmbebrs1CA :2010/10/16(土) 13:01:37
>>662 夜は逆にまずいでしょ・・・・ww 夜そんなところで出たらマジで怖い。
最近はコス多いし大丈夫だよ。原宿とか、キャラは違うけど似たような格好に人多いし。
外国人に記念写真とられると思うよ。 まぁ、頑張ってね。
665日本@名無史さん:2010/10/16(土) 13:05:13
キモー
666日本@名無史さん:2010/10/16(土) 14:37:44
>>662
結構人家が近いぞ。用心するんだ
667日本@名無史さん:2010/10/16(土) 17:57:50
時代劇(ユニオン映画&C・A・L)に出てくる江戸城イラストについて教えてください
668日本@名無史さん:2010/10/16(土) 18:52:45
>>660
こんな感じか・・TVでも取り上げられてたな。
ttp://allabout.co.jp/gm/gc/20119/
669日本@名無史さん:2010/10/16(土) 20:21:58
>>656
江戸城、名古屋城、和歌山城の青海波は燻した黒だと思っていたけど、
黒チャン塗りなの?
670日本@名無史さん:2010/10/16(土) 20:52:46
>>669
宮上はコールタール説、西ヶ谷は燻べ説、三浦は黒ちゃん説
671日本@名無史さん:2010/10/16(土) 21:43:54
豊臣秀頼寄進の出雲大社本殿が、外観黒漆塗、内部朱漆塗の総漆だったというが
どれだけの人数が漆にかぶれたことやら
672日本@名無史さん:2010/10/16(土) 22:11:34
質問に答えろ!
673日本@名無史さん:2010/10/16(土) 22:31:24
輪島塗を始めとする繊細かつ高尚な漆器の数々は
かつて日本の夜明けを支えてくれますた
674日本@名無史さん:2010/10/16(土) 23:26:12
>>672
画像がなくてはなんとも
675日本@名無史さん:2010/10/16(土) 23:30:56
何事だ?
676日本@名無史さん:2010/10/16(土) 23:36:49
まだ研究が進んでなく、白亜の天守だと考えられていた時代だね。

だからと言って、イラストはイラストだろうになにを剥きになってるのやら。
677sage:2010/10/17(日) 09:09:38
多分剥けてないだろう。
678日本@名無史さん:2010/10/17(日) 09:54:53
【岩手】「市による裏切り行為」…盛岡城跡の桜山神社参道地区整備構想、住民を立ち退かせての江戸史跡復元に町内会猛反発
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1287274982/
679日本@名無史さん:2010/10/17(日) 10:14:05
江戸城の現存櫓の銅張りの部分はちゃん塗り。桜田二重櫓で至近距離から確認できる。銅板の腐食進行防止が意匠以上の目的かと推察。駿府、家光天守では天下人の天守は黒いと言う信仰が黒ちゃん塗り金属板の採用に至ったと思う。
680日本@名無史さん:2010/10/17(日) 10:29:56
江戸時代の史跡>商店街の60年

比較するまでまでもなく当然
681日本@名無史さん:2010/10/17(日) 10:39:43
比較以前に、戦後の城跡の不法占拠だし
682日本@名無史さん:2010/10/17(日) 13:14:44
弘前城現天守は層塔型の張出付きだが、他の櫓は望楼型で張出や他の飾破風は無い
その辺を考えると、あれはあくまで江戸城三重櫓を参考にしたと思われる
683日本@名無史さん:2010/10/17(日) 14:21:40
>>682
他の櫓は三層櫓・・・日本一不細工な三層櫓・・・
684日本@名無史さん:2010/10/17(日) 16:24:00
弘前城天守は既存の三重櫓を天守風にアレンジ改装しただけ。
685日本@名無史さん:2010/10/17(日) 16:25:03
>>657
家康駿府城と寛永江戸城、似てるようで微妙に異なってるな 
違いはまさに、真壁か大壁か? GJ
ttp://www.shizuoka-cvb.or.jp/oogosho400/study/imgs/photos/c20.jpg
ttp://takemovies.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_19d/takemovies/E6B19FE688B8E59BB3E5B18FE9A2A8E381ABE68F8FE3818BE3828CE3819FE5AF9BE6B0B8E5BAA6E5A4A9E5AE88-e3193.jpg

こんなん見つけましたけど…

(慶長・元和・寛永)江戸城・破風デザインの違い
http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100627/1277650213
686日本@名無史さん:2010/10/17(日) 17:20:53
>>684=無知

>>682 の言うとおり、現存する他の三重櫓とは形式が異なるから、実際には新築だよ。
687日本@名無史さん:2010/10/17(日) 17:27:13
>>684
改修と名を借りた新築というのが実際
688日本@名無史さん:2010/10/17(日) 17:59:35
弘前城天守の前身建造物は現存の三重櫓と異なり当初より副天守的な大型櫓で基本構造は変わらない。基本構造のままで意匠変更の例は讃岐高松城天守がある。
689日本@名無史さん:2010/10/17(日) 18:00:48
江戸城の三重櫓もそうだが、現存する他の三重櫓もその平面は正方形に近いが、
現天守が明確な長方形なのは、やはり天守を意識して建てられたからと考えられる。
690日本@名無史さん:2010/10/17(日) 18:04:28
現天守は、その部材などからも慶長年間まで遡るものではありません。
691日本@名無史さん:2010/10/17(日) 18:27:41
>>685
白か黒かは別として、
駿府城天守の外観と構造は二条城に似た、初期層搭型だと思う
ttp://pc.gban.jp/img/23706.jpg
ttp://www.free-style.biz/book/img/yosiro19.jpg
692日本@名無史さん:2010/10/17(日) 18:28:46
693日本@名無史さん:2010/10/17(日) 18:43:31
>>692
カコイイ
694日本@名無史さん:2010/10/17(日) 18:56:07
695日本@名無史さん:2010/10/17(日) 19:33:04
>>691
初期層塔型という区分自体が正しくないと思う
696日本@名無史さん:2010/10/17(日) 19:35:52
下部に欄干らしきものが描かれているのは興味深い。
697日本@名無史さん:2010/10/17(日) 19:38:37
>>694
二条城?
千鳥破風と唐破風が合体しているのがキモイ
698日本@名無史さん:2010/10/17(日) 22:37:33
とりあえず駿府城、二条城、大坂城西之丸天守閣も再建しようじゃないか。
699日本@名無史さん:2010/10/17(日) 22:44:15
それより大阪城の千畳敷を再建してよ
700日本@名無史さん:2010/10/17(日) 22:54:04
>>698
二条城は兎も角他のは図面がないので不可能
701日本@名無史さん:2010/10/17(日) 22:59:41
まじっすか じゃあ無理だな
702日本@名無史さん:2010/10/18(月) 02:45:53
西ヶ谷恭弘氏の聚楽第の復元平面図が乗ってる本を知ってる人いますか?
703日本@名無史さん:2010/10/18(月) 02:56:28
>>702
学研の「戦国の城」シリーズに載ってなかったっけ
704日本@名無史さん:2010/10/18(月) 03:20:10
>>703
あれは平面図じゃなくて鳥瞰図だったような?
705日本@名無史さん:2010/10/18(月) 06:57:58
>>683
規模からして二層で相応の所、腰屋根を付けて三層にしちゃうのは津軽さんの見栄ですか
706日本@名無史さん:2010/10/18(月) 07:24:55
西ヶ谷に建物の復元は無理
707日本@名無史さん:2010/10/18(月) 09:39:42
駿府城の復興計画が立ち消えになって良かった。何しろ巨大天守台をコンクリで内部を図書館にすると言う宇都宮の拡大改悪構想だったからな。
708日本@名無史さん:2010/10/18(月) 17:13:53
徳川伏見城も層塔式だろ。
709日本@名無史さん:2010/10/18(月) 17:26:07
>>708
図屏風から望楼型と思われる

徳川の層塔型は加納城御三階に始まると考えられ、この時既に破風のある層塔型は完成していた
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/35/Site_of_kano-castle2.jpg
710日本@名無史さん:2010/10/18(月) 18:08:37
加納城は大入母屋を撤去(寸法縮小)で層塔式に改造移築ですか?
711日本@名無史さん:2010/10/18(月) 18:35:10
大阪城と伏見城は壊して建て直すべきだ。両城とも史実に反するデタラメだ
712日本@名無史さん:2010/10/18(月) 18:42:48
>>710
多分としかいえない
時期的には岐阜城は望楼型と考えられるが、少し前までは慶長後期に始めて
層塔型が創始されたという説が主流だったし
713日本@名無史さん:2010/10/18(月) 19:41:53
城戸博士は加納城を元に織田、池田の岐阜城復元案を発表しながら現在の模擬天守を設計している?
714日本@名無史さん:2010/10/18(月) 19:47:27
>>713
学問と営業は別なんですよ
715日本@名無史さん:2010/10/18(月) 20:19:26
加納城の6間×7間御三階を岐阜城天守台に乗せることは平面規模の面から無理
ソースは天守に付櫓を伴う明治24年の岐阜城山頂の実測図 『稲葉山城計測図』

因みに模擬天守が建てられたのは明治43年
716日本@名無史さん:2010/10/18(月) 20:19:34
>>711
あまりこのスレ的に言うへへきことじゃないけど
史実に忠実なだけが全てじゃない
伏見城は史跡じゃなく遊園地のアトラクションとして建てられたものだし
大阪城の復興天守は
徳川天守台の上に豊臣型天守を模して建てられたもので
現在ではあれが大坂のシンボルっていう感じで
多くの人たちに親しみや愛着も与えているし無意味ではないと思う

おそらく多くの大坂人にとっては
現在の天守台に史実に忠実に徳川型天守を復元される方が
心理的によっぽど抵抗感あるし歓迎もされないだろう
717日本@名無史さん:2010/10/18(月) 20:26:34
>>715
加納城御三階は妻側と梁間で柱間の単位が異なるから、相当いじっていると思われる
718日本@名無史さん:2010/10/18(月) 20:39:32
現大阪城天守をあんまりディスらないでやってくれよ
関市長が呼びかけ、市民から多数の寄付を募って再建した天守は誰がなんと言おうと大阪の象徴なんだよ
719日本@名無史さん:2010/10/18(月) 20:59:44
逆に二条城天守の復元は当分ありえない。京都市民は千年の都は城下町でないと拒絶するだろう。
720槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/18(月) 21:01:28
北庄城ってなんそうだったの??
721日本@名無史さん:2010/10/18(月) 21:20:31
>>720
福井城なら四重五階

秀吉書状の「九重」は「いくつにも重なっている」という程度の意味なので全く不明
722槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/18(月) 21:39:12
↑ありがとう!! 九層って書いてあってびっくりしてたところ・・・・。
一番多い層って5層??だよね。
723日本@名無史さん:2010/10/18(月) 21:51:26
>>722
外見の屋根数ならば五重までと思われる
724日本@名無史さん:2010/10/18(月) 22:34:33
記録の上では七層があった
725日本@名無史さん:2010/10/18(月) 22:39:47
>>724
会津若松城のなら地下二階を含めた七階という意味での七重と思われる
726槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/18(月) 23:12:22
↑穴蔵を含めたら姫路をそうだよね。
727日本@名無史さん:2010/10/18(月) 23:15:28
しかし、一般的には「層」とか「重」は屋根の数の事であり、内部は「階」だよ
728日本@名無史さん:2010/10/18(月) 23:23:54
>>727
いや、当時は用語なんていい加減も良いところ
729日本@名無史さん:2010/10/18(月) 23:33:52
現存天守でそのような記述が残っている実例が有るの?
730日本@名無史さん:2010/10/18(月) 23:36:27
外観五層で、中二階、ほらの間、地階等をいれての九階かと
731日本@名無史さん:2010/10/19(火) 02:40:13
大溝城は破却されたにも関わらず、なぜ天守台石垣だけ残されたんでしょうか?
山奥で放置されたとかならわかるのですが平地にぽつんと石垣があるので目立ちますよね。
732日本@名無史さん:2010/10/19(火) 03:30:21
『匠明』に載ってる聚楽第大広間の平面図ってどこまで信用できるのでしょうか?
733日本@名無史さん:2010/10/19(火) 07:10:03
>>731
本丸周辺は陣屋で再生しなかった?
一応、天守台の角は城割りされてるようだけど
734日本@名無史さん:2010/10/19(火) 07:24:34
屏風図は時系列の錯誤が多い。聚楽と家康二条城が同時に書き込まれたりする。今回の伏見城屏風は最上階に高欄干がない所から徳川伏見城天守がモデルのように思う。
735日本@名無史さん:2010/10/19(火) 11:27:49
>>732
基本的に否定できる要素は無い
736井上正甫:2010/10/19(火) 13:32:50
陸奥棚倉城には天守閣はあったんですか?
737日本@名無史さん:2010/10/19(火) 13:43:31
>>736
隅櫓だけ
738日本@名無史さん:2010/10/19(火) 17:53:05
聚楽は白漆喰の全面採用とか建築面以外に広島城とかの縄張や寛永二条城の改築に多大な影響を与えた。
739日本@名無史さん:2010/10/19(火) 19:10:57
>>731
壊したくないという未練がよく分かる遺構ッスね
740日本@名無史さん:2010/10/19(火) 20:14:55
三浦正幸の名前を見ただけでインチキ臭く感じるのは、佐藤大規の安土城のせいだろうか??
741日本@名無史さん:2010/10/20(水) 00:00:24
そういえば城の建物が板壁から白漆喰に変わったのって
正確にはどの城が影響与えたんでしょうか?
742日本@名無史さん:2010/10/20(水) 09:30:27
諸説紛々
聚楽第、名護屋城、姫路城とされるが、一番最後のは除外してもよいかと

個人としては宣教師が松永久秀の信貴山城を
「今日までキリスト教國において見たことがなき甚だ白く光澤ある壁を塗りたり。
其の清潔にして白きこと、あたかも當日落成せしものの如く、天國に入りたるの感あり。
外より比城を見れば甚だ心地よく、世界の大部分にかくの如く美麗なるものありと思はれず」
としているので、松永が始めたものかもしれない
743日本@名無史さん:2010/10/20(水) 09:39:09
神社仏閣、皇室、貴族の住居には土壁は用いないと言う思想があり、漆喰は板壁に塗装と言う使用法だった。奈良の大仏殿等で確認できる。
744日本@名無史さん:2010/10/20(水) 11:07:52
>>734
聚楽第、石垣山城、名護屋城と、漆喰塗込めが続いた後で再び下見板張りに回帰したとは
とは考えづらい。
家康による再建も、基本的には豊臣家臣としてだろうから旧形式に倣って行われたはず。

景観は秀吉時代だが、制作年代は下る。つまり想像復元図といったところかも知れないね。


745日本@名無史さん:2010/10/20(水) 11:09:53
例のサイトで、やっと上層部だけだが公開されたね。
746日本@名無史さん:2010/10/20(水) 11:36:38
『南北の 破風 に四畳半之御座敷両方在之 こやの段 と申也(もうすなり』 が、ただの出窓になっとる

破風と小屋裏(窓が無い屋根裏)の記録にに対応できるのか心配ではある・・・
747日本@名無史さん:2010/10/20(水) 13:20:38
金属片を壁面に貼付する起源は?金属張りの壁面を下見板張と見誤る例もある。
748日本@名無史さん:2010/10/20(水) 13:58:32
>>747
鉄門からかと
749日本@名無史さん:2010/10/20(水) 16:10:39
新発見の伏見城屏風図の天守は他の絵画と様式の差異が殆どないのにガッカリ。
750日本@名無史さん:2010/10/20(水) 16:12:57
日本の名城 天守閣
751日本@名無史さん:2010/10/20(水) 16:23:51
>>747
>金属張りの壁面を下見板張と見誤る例もある。

ん?誰が見誤るって?
752日本@名無史さん:2010/10/20(水) 16:35:28
絵師が見誤る。江戸城天守とか下見板張に描かれている。最近の学研の刊行物の駿府城の復元CGが下見板張だった。
753日本@名無史さん:2010/10/20(水) 16:40:10
ああ・・・

壁に金属をはるのは金沢城もだな
壁の角を黒い鉄帯で補強してるやつ
754日本@名無史さん:2010/10/20(水) 16:52:02
>>749
狩野派ですから

>>752
駿府城の壁面はよく解らない
ちなみに幕府の安宅丸も銅板張りだったというのも面白い
755日本@名無史さん:2010/10/20(水) 17:44:00
中井家に戦後に製作した二条城天守模型がある。伝来の指図に忠実で桁行に大入母屋が乗り、大垣城風のイメージだ。何となく徳川伏見城が想像できる。
756日本@名無史さん:2010/10/20(水) 18:39:37
>>752
『江戸図屏風』は黒いが下見板張りじゃないし、『江戸名所図屏風』は立て板張り。
『武州州学十二景図巻』も下見板張り風の白黒に塗り分けて描かれているだけ。
『江戸天下祭図屏風』もしかり。

実際に下見板張に描かれている例を挙げてくれ。
757日本@名無史さん:2010/10/20(水) 19:47:40
姫路城も備前丸を復原しないかな
758日本@名無史さん:2010/10/20(水) 21:06:36
下見板張の細密な描写なんて見たことないな。色の塗り分け程度だろ。江戸祭礼図も省略化してるんだから銅板の茶色なんだか木板なんだか判断できない。
759日本@名無史さん:2010/10/20(水) 23:55:57
三浦正幸って、いつも虚仮脅しの権威づけの一言で済ませてしまうね。
760日本@名無史さん:2010/10/21(木) 06:04:53
三浦正幸はコケオドシというよりは子供だまし
761日本@名無史さん:2010/10/21(木) 07:13:22
三浦は岡山城にこだわり過ぎ。ついでに絵画の虚飾と誇張の世界を真に受けている。
762日本@名無史さん:2010/10/21(木) 08:51:17
三浦正幸センセイは城郭研究者というよりも城郭業者。
つまり城郭イラスト業者、西ヶ谷恭弘センセイの部類。
763日本@名無史さん:2010/10/21(木) 09:09:50
三浦の弟子の島原城復元案何?
764日本@名無史さん:2010/10/21(木) 09:18:49
島原城なんて復元してもあまり意味がない
キリシタン弾圧&権力に抵抗したことを強調したいのだろうか
思想的に偏った勢力が
島原を抵抗のシンボルとして第二の沖縄化するつもりとか
765日本@名無史さん:2010/10/21(木) 09:33:23
>>759-764
文学部の学生(佐藤大規)のお絵描き復元案を、そのまま出版しちゃうんだから相当重症だなw
766日本@名無史さん:2010/10/21(木) 09:46:07
駿府と名護屋は竜宮城の世界。小倉をビミョーにいじるあたりは他人の業績への嫉妬かな。
767日本@名無史さん:2010/10/21(木) 09:50:57
安土城の絵描き歌、きぼんぬ!w
768日本@名無史さん:2010/10/21(木) 16:54:20
豊臣伏見天守って関ケ原の前に完全に焼け落ちたんですかね?
769日本@名無史さん:2010/10/21(木) 17:05:56
>>768
それは間違いない
770日本@名無史さん:2010/10/21(木) 17:54:41
洛中洛外図の伏見城は共通している点が多い。
771日本@名無史さん:2010/10/21(木) 18:04:59
安土城って家康が焼いたってマジ?
772日本@名無史さん:2010/10/21(木) 18:28:00
>>757
そこを復原すると城下から見て天守が隠れ気味になる。
熊本城もそうだけど、建造物の復原が進むと城下町から見上げる眺めが悪くなるんだわさ
773日本@名無史さん:2010/10/21(木) 19:04:11
>>771
トンデモ歴史家、明智憲三郎の妄想。
774日本@名無史さん:2010/10/21(木) 19:55:14
でも見栄えとか景観を重視する発想は、
観光重視で高欄つけたり破風つけるウソ復元と五十歩百歩のような。
775日本@名無史さん:2010/10/21(木) 20:18:09
>>770
基本が松の丸と本丸を中心として西側から見た構成
池田本は異なるが、これについては明確に表現したとは考えにくい
776日本@名無史さん:2010/10/21(木) 20:31:41
ノック知事の頃に大阪城の紀州御殿、再建してほしかったよな。
777日本@名無史さん:2010/10/21(木) 21:17:10
あれ、伏見城の屏風に福山城伏見櫓にそっくりのがあるぞ、天守の左下。
778日本@名無史さん:2010/10/21(木) 21:27:19
屏風とかって工房に下絵(こういうのを粉本っていうんだっけ?)があれば、後の時代でも、その当時の景観は再現出来るし、異なる時代の景観を切り貼り出来たりするんじゃないのかな?
779日本@名無史さん:2010/10/21(木) 21:33:23
>>777
残念だが伏見櫓は松の丸東櫓の移築
780日本@名無史さん:2010/10/22(金) 01:46:14
大阪城天守閣って、何で6階だけ入れないの?
史実に基づいてる?
781日本@名無史さん:2010/10/22(金) 13:34:22
江戸城は縄張が良くないという輩が多いと聞くが、これを見るとしっかり門を
周りの櫓や多聞がカバーしている巧妙な縄張だなと思う

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c5/Haichi1.jpg
782日本@名無史さん:2010/10/22(金) 14:26:45
>>780
大阪城の復興天守閣内は資料館になっているので
関係者の控え室や倉庫になってるとか
783日本@名無史さん:2010/10/22(金) 15:50:18
>>780
名古屋城なんて七階建てだよ、全然違う
784日本@名無史さん:2010/10/22(金) 16:47:28
福山城以外の全国伏見櫓はほぼ層塔式なんだ。やはり福山のは豊臣時代だと思う。
785日本@名無史さん:2010/10/22(金) 18:15:03
福山城の伏見櫓、見に行きたくなっときた!
太閤殿下を偲びたい。
786日本@名無史さん:2010/10/22(金) 18:54:09
家康の頃は層塔と望楼の混在した時代だから、徳川伏見城に望楼型の櫓があってもおかしくはない
787日本@名無史さん:2010/10/22(金) 22:09:21
豊臣伏見城は何となくイメージし易いが徳川伏見城は難しい。
788日本@名無史さん:2010/10/22(金) 22:53:55
板東三津五郎の「日本の城ミステリー」、来週また熊本城やるの?
789日本@名無史さん:2010/10/23(土) 18:36:23
>>788
再放送けっこう挟むらしいことを最初から言ってたよ。
790日本@名無史さん:2010/10/23(土) 20:47:50
三津五郎の城おもしれーな
これくらいのレベルの話が丁度いい
三津五郎のヒートっぷりもかわいい
791日本@名無史さん:2010/10/24(日) 01:33:06
>>782
いやいや、五階から確認できるだけの回廊があるだけですよ。
本当に存在意義がわからない。
792日本@名無史さん:2010/10/24(日) 12:31:42
秀吉が鑑賞用に伏見城に移築させた三重塔、仁王門は焼け残って家康が他の寺に移築させた。血天井もあるし伏見城は全焼ではなかったようだ。
793日本@名無史さん:2010/10/25(月) 06:51:06
名古屋市博物館で屏風見てきたyo!
聚楽第、大坂城、伏見城の有名な屏風が勢揃いしてて見応えあった。

新発見の秀吉の木幡城、黒漆に金菊紋の高台寺蒔絵で黒かった。
冬の陣屏風の大坂城も腰壁はちゃんと黒く描かれていた。幕末の写本らしいが、天守は迫力あった。

冬の陣屏風の白い大坂城のデマは城郭出版業者MMの陰謀かも?
794日本@名無史さん:2010/10/25(月) 06:56:40
>>792
http://kawai52.cool.ne.jp/siga-onjyouji.htm
その三重塔は現在、大津の三井(園城)寺に現存しています。
795日本@名無史さん:2010/10/25(月) 08:41:40
三重塔や仁王門を城内に移築させたと言えば、あの信長の安土城・・・

秀吉が隠居(不死身=伏見)城で、自身の神格化を生前に模索していた傍証ともなろう。
796日本@名無史さん:2010/10/25(月) 17:50:06
徳川伏見城天守の謎は多い。大和郡山から移築説(二条城に移築説との混同か)?と新築説がある。ややこしいのは廃城の際に淀城移築予定が二条城と入替わり、二条城へは縮小移築(寛永二条城天守は新築説あり)と複雑である。
797日本@名無史さん:2010/10/25(月) 19:09:36
山県有朋が自分の屋敷地に三重塔を移築させたのも
自身の神格化を模索しておったんですか
798日本@名無史さん:2010/10/25(月) 19:42:41
聚楽第、伏見(不死身)城、極楽橋、豊国神社…

秀吉のばやい、やることなすこと、わかり易くてイイ!
そこいくと、信長(岐阜はともかく、安土、総見寺…)は何考えてたんだか本当にワケワカメ…orz
799日本@名無史さん:2010/10/25(月) 19:57:33
信長=スターリン

生殺与奪の権を握っておるからこそ部下が統制されていたのである
800日本@名無史さん:2010/10/25(月) 21:20:43
明国や西洋文化を吸収しよういていたんじゃ信長は

秀吉の成金趣味ほど単純でもなく


801日本@名無史さん:2010/10/25(月) 21:20:47
>>798
家康なんてもっと簡単
「大きいことは良いことだ」
802日本@名無史さん:2010/10/25(月) 22:07:53
家康は信長にコンプレックスがあったようで安土同様最上階の屋根の色を特別なものとして銅板葺きで表現して天下人の証を踏襲した。特に駿府城は安土城の要素をふんだんに取り入れている。
803日本@名無史さん:2010/10/25(月) 23:08:20
>>802
コンプレックスというより追慕の念かと、何だかんだで両者の仲は良好だったし
後、江戸城のみはしっかり全屋根を鉛瓦にしている、層塔型も家康が大々的に導入してものだし
804日本@名無史さん:2010/10/25(月) 23:34:24
遠江横須賀、三河西尾、三河吉田には天守閣はあったのか
805日本@名無史さん:2010/10/26(火) 00:00:15
>>802,>>803
俺はどちらでもないと思うな。

大御所の居城として、幕府のある江戸城とは趣を異とする天守の意匠を模索した結果、安土城を参考にしたという事は考えられなくもない。
しかし、意匠の変化のヒント程度として考えたかもしれないが、それ以上の思いまでは無かったと思う。

最上層の銅板葺は単に屋根の軽量化と見た目の美しさ、寿命が長い等の理由。それ以外を瓦葺として見た目の変化をつけて幕府の城との差別化をしていると言う程度ではないかと思う。

一方構造面では別の理由が考えられる。
一つは、家康が富士山が好きだったという点に着目したい。
好きだったと言われている富士山を最上階から眺める為の場所として、ただ単にシンボルだけの城の様に内部は簡素という造りではなく、比較的頻繁に利用する為、内装もそれなりに造る必要があったという理由。
そのため、御殿の造りを取り入れた事が考えられ、結果的に安土城天主と同じような要素が含まれる事になったのかもしれない。

又、ちょっと突飛な発想ではあるが、駿府城の下層が三浦研究室の復元図のような意匠で、(住むまでは行かないまでも)内部に居住するスペースがあったのなら、自分を神格化するための装置としての機能も考えられていたのではないだろうか?
三浦研究室の復元図に依ると1階と2階はまるで神社仏閣の様な佇まい。
内部がどうなっているかはわからないが、もし正面中央に対面所の様な間があったりしたら、来訪者はまるで参拝に来たような錯覚を覚えたりしたかもしれない。
そうだとすると、それこそがまさに安土城で信長がやろうとしていた事とダブって見えてきたりする。
806日本@名無史さん:2010/10/26(火) 00:36:24
駿府城天守の復元案についてはいい加減に、史料に記述がない二・三階間の
腰屋根を追加するのを止めろと言いたい
807日本@名無史さん:2010/10/26(火) 05:47:30
>>802-803
いや、家康は信長を恨んでいたと思う。
今川義元から押し付けられたとはいえ、正室と前途有望だった嫡男・信康を殺されているからね。
昔話を話して聞かせるのが好きだった晩年の家康も、信長のことに話題が及ぶと途端に口数が少なくなったことからも、
大御所の内面で、信長への恩義と恨みが激しい葛藤を引き起こしていたことが伺える。
したがって、駿府城天守は義元へのコンプレックスと信長への葛藤を解消する格好の手段となったと思われ…

>>804
天守というより御三階櫓という感じだね。もちろん城主や家臣は「天守」と言い張っていただろうがw
808日本@名無史さん:2010/10/26(火) 07:25:39
秀吉の天下人サイズはどうよ。10×12間だっけ?この寸法の根拠って何なの?
809日本@名無史さん:2010/10/26(火) 07:47:12
宮上説による継承される天守の平面規模

11×12間 安土⇒大坂

10×12間 名護屋⇒駿府

9×12間 聚楽第⇒二条城


これは俺の個人的な見解だが、
江戸の16×18間は諸国古城の図に記載された
豊臣伏見の 【天守曲輪】 の規模を受け継いだものじゃないだろうか
810日本@名無史さん:2010/10/26(火) 07:48:23
下に訂正

9×10間 聚楽第⇒二条城
811日本@名無史さん:2010/10/26(火) 07:49:27
また訂正

8×12間 名護屋⇒駿府
812日本@名無史さん:2010/10/26(火) 09:46:35
まぁ、地方大名が「自分にご褒美」で、自腹切って建てる高知城みたいな天守と、
全国の大・中・小名を総動員して、出来栄え(=出世)競争をさせる天下人の5層7階の巨大天守では、
雲泥の差ってことですよ。
813日本@名無史さん:2010/10/26(火) 09:54:37
>>807
信康については家康首謀説が強くなっている
ちなみに家康と信長の交友については年始に信長が吉良に鷹狩に行く際に、
家康が清須まで出迎え、共に鷹狩をして、帰りに岡崎に寄るということを何年か
行っている
語らないについては、家康の昔話は基本的に苦言が前提ですし
これ以上はスレチかな
814日本@名無史さん:2010/10/26(火) 11:57:11
>>793

最上階に外縁が無いのは、同図がやはりそういった天守が主流となった時代に描かれたことを物語っているんだろうね。

その上で矢倉などが下見板張りで天守が絵?蒔仕様なのは、実物がそうであったからというより、
すこしでも豊臣時代の雰囲気を再現しようとした絵師の創意工夫だろうね。

その際には「大坂城図屏風」や「冬の陣図屏風」が参考にされたかも知れない。


>冬の陣屏風の白い大坂城のデマは城郭出版業者MMの陰謀かも?

さすがにそれは聞いたことがないが?
815日本@名無史さん:2010/10/26(火) 12:18:48
伏見城は三度も天守を建て替えたから事情を知らない絵師の時代的錯誤があったと思う。様式が改変された寛永二条城天守を参考にした可能性もある。
816日本@名無史さん:2010/10/26(火) 13:26:02
どう見てもここは平均年齢高すぎる。年齢も書き添えていただくとありがたい。
817日本@名無史さん:2010/10/26(火) 13:56:51
>>815
洛中洛外図屏風を見ると慶長期と寛永期二条城は、ちゃんと望楼型と層塔型の描き分けはしている
818日本@名無史さん:2010/10/26(火) 14:36:51
まさか、外縁付き=望楼型なんて思ってないかい?
819日本@名無史さん:2010/10/26(火) 14:42:25
>>817
入母屋破風の有無で
820日本@名無史さん:2010/10/26(火) 15:52:11
ほとんどの洛中洛外図は入母屋破風の積み重ねで表現されているがね
821日本@名無史さん:2010/10/26(火) 15:59:32
>>788
初回録画してなかったからラッキーだぜ
822日本@名無史さん:2010/10/26(火) 16:03:39
復元 寛永度江戸城 (復元:佐藤大規)(監修:三浦正幸) ぺパクラ
ttp://blog.livedoor.jp/techas296094/

今週の27日から発売します。
amazonでは手配の都合上29日からとなります。
823日本@名無史さん:2010/10/26(火) 16:11:00
淀城に構造的に類似している絵もあるから伏見城も何らかの事実を含んで描かれているはずだ。徳川天守の存在期間が長いから屏風図への影響は大きいと推定される。
824日本@名無史さん:2010/10/26(火) 17:36:05
ほとんどの洛中洛外図は入母屋破風の積み重ねで表現されているがね。
思い込みじゃないかい。
825日本@名無史さん:2010/10/26(火) 17:50:49
>>820
寛永期の二条行幸を描いた図屏風は層塔型がデフォ
826日本@名無史さん:2010/10/26(火) 18:30:45
キャッスルランドの模擬天守が秀逸過ぎ。世間の期待を超越する美麗さ。この先入観が邪魔して地味な屏風絵の天守を絵師の架空として認めたくなくなるのだ。
827日本@名無史さん:2010/10/26(火) 18:55:32
>>826
うむ。全国のなんちゃって天守は桃山城を見習えと言いたい。
特に今治城な。
828日本@名無史さん:2010/10/26(火) 20:33:48
今治城って素直に亀岡城を復元すれば良かったのに。だって亀岡の天守台は教祖の墳墓でいじれないからね。いらない破風いっぱい付けて小倉と同じだよ。
829日本@名無史さん:2010/10/26(火) 21:11:43
>>828
破風無し層塔型のモダニズムを理解できるのは少数派なんでしょう
だから徳川家は破風有り層塔型というポストモダンを案出した
830日本@名無史さん:2010/10/26(火) 23:53:46
ポストモダンといえば聞こえは良いが、アバンギャルド
831日本@名無史さん:2010/10/27(水) 00:00:52
>>830
破風付層塔型はどちらかと言えば、保守回帰なんだけどね
832日本@名無史さん:2010/10/27(水) 00:16:05
すなわちロココ調ネオコンサバティブ、プロテスタント的コンサバティブで有ります
833日本@名無史さん:2010/10/27(水) 06:33:38
破風は視察や射撃の邪魔。死角が生じる。破風に窓があっても使いにくい。小倉なんかは忠興が倭城で朝鮮、明相手に苦戦した戦訓の集大成だと思う。
834日本@名無史さん:2010/10/27(水) 07:32:46
下層櫓と(屋根に載せた)望楼が分離(セパレート)した望楼型から、
最下階から最上階まで一体(モノコック)化した層塔型になって、
耐風性や耐震性が飛躍的に向上し頑丈になったものの、五重塔みたいで味気がなくなったのを補うべく、
望楼型への復古趣味ともいえる千鳥破風や唐破風で天守をゴテゴテに飾るようになった。
835日本@名無史さん:2010/10/27(水) 08:52:01
坂本城址消滅したのか・・・
http://pc.gban.jp/?p=23958.jpg
836日本@名無史さん:2010/10/27(水) 09:28:00
前衛は小倉城の唐造りですな
837日本@名無史さん:2010/10/27(水) 13:03:56
名古屋城・最上階の窓について、おまいらに質問!どっち?

@焼失前のオリジナルに戻して欲しい。
 http://morishige.omlog.net/archives/759

A復興後の現状でいい。
 
838日本@名無史さん:2010/10/27(水) 18:13:01
富山のニュース 【10月15日01時53分更新】
増山城跡のシンボルに となみセントラルLC、冠木門の建築開始

冠木門の建築が行われる増山城跡の登山口=砺波市増山
http://www.toyama.hokkoku.co.jp/subpage/T20101015201.jpg

砺波市増山の国指定史跡増山城跡の登山口で14日、となみセントラルライオンズクラブ(LC)による
冠木(かぶき)門建築工事地鎮祭が行われ、同LC、増山地区、市教委の関係者約20人が城跡のシンボルとなる門の完成を願った。
増山城は越中三大山城の一つで、2009年、国指定史跡となった。今回、同LCが門を整備することにし、
増山地区や市教委の協力を得て、設計建築を職藝学院(富山市)の上野幸夫教授に依頼した。

地鎮祭には同LCの太田守会長や上野教授らが出席した。冠木門は2本の門柱の上に冠木と呼ばれる
横木を貫いて渡した形となっている。今回建設される門は2本の柱の間が約3・3メートル、高さ約3・5メートルで、
鏡柱と呼ばれる主柱を支える支柱2本と礎石を施すことで、堅固な造りにする。

上野教授は「冠木門による城門の再現は全国的にも珍しい試み。100年は風雪耐えられる冠木門にしたい」と話している。
冠木門は27日にまで完成させる予定で、23日にはLC会員が防腐剤を塗る。

http://www.toyama.hokkoku.co.jp/subpage/T20101015201.htm

839日本@名無史さん:2010/10/27(水) 18:39:39
>>837
窓を小さくすると最上階からの眺望は悪くなるだろうね
どうせ観光用の展望塔なんだから今の姿で良いのか?もしかして
840日本@名無史さん:2010/10/27(水) 18:53:56
>>837
外から見ると@、中から見るとAがベスト。そんな技術ないのか??
でもオリジナルの方が安定感と塊(ソリッド)感あるなぁ…ヤッパシ@がイイ!
841日本@名無史さん:2010/10/27(水) 20:15:37
842日本@名無史さん:2010/10/27(水) 20:45:30
>>837
窓を直すんなら瓦を土瓦にして、破風の金箔をもとに戻した方がいいな。
843日本@名無史さん:2010/10/27(水) 20:52:34
>>http://pc.gban.jp

このリンク観れないんだけど
844日本@名無史さん:2010/10/27(水) 20:54:02
>>843
自己解決。
観れた
845日本@名無史さん:2010/10/27(水) 21:14:07
>>841
なんだろう、この格好悪さは一体・・・
846阿部頼母:2010/10/27(水) 21:39:40
格好悪いといえば筑前筑後両ヶ國を睥睨する小倉城天守閣。
847日本@名無史さん:2010/10/27(水) 21:40:45
>>840
中井正清が草葉の影で喜んでいるでしょうNE
私も焼失前のオリジナルがいいです、って優香、それしかないでしょう!
848日本@名無史さん:2010/10/27(水) 21:45:20
849日本@名無史さん:2010/10/27(水) 21:51:42
>>848
うーん、やっぱり前衛、前衛
850槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/27(水) 22:08:24
豊臣の大坂城って籠城して10年持つって言われてたけど、結果ね・・・・
淀がいなかったら実際はどうなってたんだろう?
851日本@名無史さん:2010/10/27(水) 22:41:19
>>850
心臓部である本丸を一方的に大砲で叩かれ続けたんなら、どのみち士気は崩壊する
個人的には和議締結時には、総構門下まで掘り抜かれていた坑道が炸裂する瞬間も見たいが
852日本@名無史さん:2010/10/27(水) 23:20:24
城の下を掘り進めて爆破するというのは、大河内なにがしという旗本がホラを吹いたにすぎないんじゃなかったか?
853日本@名無史さん:2010/10/27(水) 23:26:48
>>852
それは本丸まで掘り抜いて天守を爆破という大法螺
実際に行なったのは総構の土塁や城門を爆破で崩すというもの
854槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/10/28(木) 00:04:58
まぁ。豊臣側は圧倒的に人材がね・・・・・牢人集めたのはいいが、信頼度が・・・。
大野修理も指揮官としての価値があったのか?凄い消極的な考えだったしね。
大阪城にはリーダーらしい大名はいなかったし、関ヶ原と同様、従おうって言う気持ちがなかったな。
でも、籠城してれば大損害は間違いないが、2年後に家康が死ぬって分かってたら豊臣家は滅亡しなかったのに・・・。
やっぱ、淀が悪いと思う。
855日本@名無史さん:2010/10/28(木) 06:05:36
>>842
今の名古屋城、瓦も破風も銅版っぽいよね。築城当初は金箔瓦、金箔破風だったの??
856日本@名無史さん:2010/10/28(木) 06:27:37
↑鞭
857日本@名無史さん:2010/10/28(木) 06:58:13
>>850
兵糧がもたないと思うけど

石山本願寺の場合も毛利水軍からの兵糧輸送が信長の水軍に敗れ
兵站ルートが絶たれて和睦に
858日本@名無史さん:2010/10/28(木) 08:53:43
>>570
秀頼の代で大坂城を建て直した可能性はどうよ?

ところで、秀頼の秀は丹羽長秀→秀吉だろうけど、頼ってやっぱ頼朝(初代武家の棟梁)かな?
小田原攻めの帰りに鎌倉の鶴岡八幡宮に立ち寄って、頼朝の木像の肩をポンポン叩きながら、
「貴殿は天皇に繋がる血筋で天下を取られたが、私は卑しい出ながら天下を取った。私の勝ちですなw」と
話しかけたらしいし…
スレ地スマソ。
859日本@名無史さん:2010/10/28(木) 09:01:06
>>858
織田信秀→丹羽長秀→羽柴秀吉→豊臣秀頼
860日本@名無史さん:2010/10/28(木) 09:34:27
>>858
いくらなんでもあの大天守を代替わりってだけで「立て直す」までしてないんじゃないかな?
江戸城(慶長→元和→寛永)の場合は、元和の場合は大坂城へ移築、寛永の場合は本丸御殿の拡張のためで、それぞれ必然性があったからね。
某掲示板でも否定されてますた。

秀頼の頼は、諏訪大社が武門の聖地だし、諏訪大明神は武家の守り神だから、
諏訪氏の通字(平氏「盛」源氏「朝」足利「義」織田「信」徳川「家」…etc)から取った可能性もある。
861日本@名無史さん:2010/10/28(木) 10:02:27
>>860
江戸城天守は元和度が本丸と御殿の拡張という理由があるが、寛永はこれといった理由は乏しい
862日本@名無史さん:2010/10/28(木) 10:12:43
寛永期に史上最大の超巨大天守に建て直した理由は、(家光に中々子が出来ないのに危機感を覚えた)春日局によって大奥が更に大拡張されたため。
その際、家光が(神君の遺産である)駿府城天守を模したと思われ。
863日本@名無史さん:2010/10/28(木) 10:37:53
>>862
家光は秀忠を通り越して「2世権現」を自認していたからな
自分は権現様(家康)の生まれ変わりである!と天下に示したかったんだろう…
だから家康の生まれた岡崎城ではなく、死んだ駿府城をモデルにした、と
死んだ家康の霊が家光の身体に乗り移って天下に睨みを効かせる、と
864日本@名無史さん:2010/10/28(木) 11:18:28
>>862
それは初耳、よろしければ出典を教えていただきたい
865日本@名無史さん:2010/10/28(木) 11:18:32
家光〜綱吉にかけての直系将軍は史上稀にみるアホさ加減
系統が絶えたのはまさに天罰
866日本@名無史さん:2010/10/28(木) 11:23:08
>>862
なるへそ!!それで合点承知の介
でもその大奥が原因で幕府の台所事情が火の車になるとは夢々思わなかったろうな
寛永天守は振袖火事で燃えちゃったし、天守を再建しようとしたら「無い袖は振れぬ」って、そこから北野加奈???
867日本@名無史さん:2010/10/28(木) 11:23:47
家光の貿易制限(所謂「鎖国」)・重量車両禁止令・大型船禁止令などという決定的なミスがあったにせよ、
この二代から七代目の幕府は体制を固めることには成功しており、あまり批判したくない。

幕府の崩壊は、八代目の経済音痴から始まった。
868日本@名無史さん:2010/10/28(木) 11:35:35
(7代家継生母)月光院と(6代家宣正室)天英院の主導権争いを発端に、幕末まで両派は因縁争いを続け、
ついには御三家の対立や将軍選び(表向きの政治)にまで飛び火してもうた・・・

江戸幕府は、家康によって開かれ、春日局によって作られ、春日局によって滅んだ、とも言える(?)
869日本@名無史さん:2010/10/28(木) 11:47:02
>>862
寛永度天守は慶長・元和度とほぼ同じ規模・構造
後、寛永度本丸御殿の大奥はそれ程大きくはない、幕末の御殿のような今の天守台東にあった長局はもとより存在しない
870日本@名無史さん:2010/10/28(木) 11:48:33
>>868
それって、角福戦争を発端に始まった今の国会の自民(旧福田派)VS民主(旧田中派)因縁争いそのものじゃん!

政権与党にお灸を据えることしか頭に無い国民と相俟って、日本は滅びるかも知れないjo!(完全にスレ違いだが)
871日本@名無史さん:2010/10/28(木) 13:45:42
銅板は熱に弱い。江戸城天守は、長時間高熱で炙られて銅窓は変形して内側に倒れ落ちて火の粉を天守内部に吸い込ませた。金属板で屋根から壁まで包み込んだ駿府城天守も同じく大火で焼失。京都御所も銅葺にしたら大火であえなく全焼。以後は檜皮葺に戻る。
872日本@名無史さん:2010/10/28(木) 13:55:22
>>871
内部は普通に土壁ですが
873日本@名無史さん:2010/10/28(木) 14:02:56
白漆喰壁も剥がれやすいよ。
土壁が乾かないうちに上手に塗っても、10年くらいで剥離して下地が見えてしまう。
だから取替えが簡単な下見板や銅板で覆うようになったと思われ。
874日本@名無史さん:2010/10/28(木) 18:29:16
徳川伏見城↓って、福山城の伏見櫓みたいに長押型出し白漆喰で、最上階のみ黒漆柱だったのかな?
http://www.youtube.com/watch?v=jFjQAbVEdvo
875874:2010/10/28(木) 18:32:10
リンク貼り間違えた!スマソ!
http://www.youtube.com/watch?v=oFy6KIq8Foo

広島県・福山城(伏見櫓)ページの中程
http://www.arch.kobe-u.ac.jp/~ta2/student/2004/kimoto/hukuyama.HTM
来年の大河ドラマ「江」の安土城はどうなる?
877日本@名無史さん:2010/10/28(木) 22:58:50
むしろ慶長度江戸城天守が…
三浦案なんてだしたらマジで抗議の電話をする
878日本@名無史さん:2010/10/28(木) 23:26:14
このスレ的には、やはりそういうことにんなるんだw
879日本@名無史さん:2010/10/28(木) 23:33:41
現在、三浦は、津軽図が慶長度だって言ってるんじゃなかったけ?
880日本@名無史さん:2010/10/28(木) 23:44:47
投石器(カタパルト)
http://www.youtube.com/watch?v=BYY1XXQondw
881日本@名無史さん:2010/10/29(金) 00:13:01
>>879
家康が存命時に建てられた慶長度天守に東照宮がある
石垣の構造が『当代記』の記述に合わない
それ以前の復元案をなかった事にしている
なんか知らんが写しの図面を額面通りに受け取って欠陥建築とかぬかしだした

えー加減にせーよ
882日本@名無史さん:2010/10/29(金) 06:04:31
883日本@名無史さん:2010/10/29(金) 06:29:25
884日本@名無史さん:2010/10/29(金) 08:14:55
>>881
【エエ加減にせー】三浦正幸【インチキ城郭業者】

スレ立ててくだちい。
885日本@名無史さん:2010/10/29(金) 15:20:50
>>874
コーシー吹いたw
886日本@名無史さん:2010/10/29(金) 22:43:06
コーシー高峰
887日本@名無史さん:2010/10/30(土) 01:17:55
なんていうか典型的な権力執着型の
反面、劣等感ありまくりの人みたいな感じが漂ってくるな
888日本@名無史さん:2010/10/30(土) 01:21:49
内藤宮上三浦
889日本@名無史さん:2010/10/30(土) 07:51:15
宮上氏の建築学に裏付けられた慎重な考証と異なり、三浦氏は不合理な屏風図の構造に惑わされる等学者としての資質に欠ける。三浦氏の思考回路はアマチュア研究者の先駆け櫻井氏に似ている。
890日本@名無史さん:2010/10/30(土) 08:38:00
宮上案の安土城は、大棟をちょん切って載せた望楼部が分離した不安定な構造を採用するため、風が吹くたびに6階は大きく揺れ、信長は船酔い状態になる。
しかも5階6階の二重高欄にしてあるため、その付け根(5階八角堂)の高欄床下から雨水が浸入し、数年もすれば、雨が降るたび小屋の段が水浸しになる。
コーキングという現代の技術を前提とした構造になっていて、櫻井案同様、お絵描きの域を出ないものとなっている。

891日本@名無史さん:2010/10/30(土) 08:57:00
望楼型天守の大入母屋の大棟なんて皆、切れているがね。
そんなこと自慢げに指摘するなんて、香具師鵜呑みのバカの一つ覚え。
892日本@名無史さん:2010/10/30(土) 08:59:53
それに、最初の超大型天守なんだし、なんたったて施主は信長なんだから無理もしただろうね。
893日本@名無史さん:2010/10/30(土) 09:06:43
>>890

>その付け根(5階八角堂)の高欄床下から雨水が浸入し、数年もすれば、雨が降るたび小屋の段が水浸しになる。

>コーキングという現代の技術を前提とした構造になっていて、櫻井案同様、お絵描きの域を出ないものとなっている。


ttp://www.kyoto-ranzan.jp/news/080705f2.JPG

ttp://ryokou-ki.sakura.ne.jp/wp-content/uploads/4589-4.jpg
894日本@名無史さん:2010/10/30(土) 12:13:41
>>890
雨が漏ったって、船酔いしたって、カッコイイ宮上天主なら信長も耐えたと思うyo!
895日本@名無史さん:2010/10/30(土) 12:16:38
>>891-894
ネタにマジレス(悪)…
896日本@名無史さん:2010/10/30(土) 12:21:38
>>893
安土は望楼部が2階建てで、4階建ての櫓の上に乗ってゐる。
風圧は相当なものになると思われるのだが、どうだらう??
897日本@名無史さん:2010/10/30(土) 12:52:24
城戸博士は駿府城の縁側と欄干が天守内部の装飾と考証していたが、櫻井氏は外側の造りとして模型まで制作している。櫻井氏の素人的発想は的得ていたと思う。
898日本@名無史さん:2010/10/30(土) 13:24:37
>>893
なにこの変な建物
899日本@名無史さん:2010/10/30(土) 13:30:25
↑鞭
900日本@名無史さん:2010/10/30(土) 13:40:32
>>890
大体それ以前に何もない手探り状態で建造した物なのに
あんな朱塗りやら金箔だのといったド派手な作りであるわけがない
そもそも奇抜な構造というのは
積み重ねた経験や実績があってこそ初めて冒険的な試みが可能となる
とくに信長の場合、天守そのものを居住空間として使用しており
そんな危なっかしい構造になど出来るわけがない
901日本@名無史さん:2010/10/30(土) 14:04:08
>>898
格好良いと思うけどなー
>>900
安土が初めての天主(高層建築)という訳ないだろ
それまでも4階櫓的なものあったし、岐阜城にも天主は立っていた
光秀の坂本城や秀吉の長浜だって規模は安土に劣るとしても立派な天主だろう
坂本城は宣教師の記録にも安土に次いで立派だったと書いてある

極端に大型化して、派手な装飾をこしらえたのが安土であって
何もわからない状態からいきなり手探りで安土天主を建築したわけではない





902日本@名無史さん:2010/10/30(土) 14:58:35
>>900
普段、居住空間として使用していたのは一、二階部分で、毎朝最上階に登り朝日を拝んでいたわけでもなかろうに(笑
903日本@名無史さん:2010/10/30(土) 15:19:00
信長は自分の脚でエッチラオッチラ石段を登って大手門から天守まで上がったのかね
それとも籠や輿に乗って運ばれたのか?
904日本@名無史さん:2010/10/30(土) 15:26:02

その為に石段の歩幅を馬に合わせてある
905日本@名無史さん:2010/10/30(土) 15:36:03
木戸が言う「登りにくいのも天下人の道」という意味が最初わからんかった。
906日本@名無史さん:2010/10/30(土) 16:40:18
>>900
無知。
日本の大型木造建築物の技術はもっと以前から成立していた。
都の建物や仏閣等ではもっと大きい。
装飾だって似たり寄ったり。

大型天守と言う建物を発明したのが信長と言うだけ。
907日本@名無史さん:2010/10/30(土) 17:28:42

結論:「城は安土に始まり、安土で終わる」

(安土城解明の手掛かりになるものはないか?と)他の城にいろいろ手を出したりするんだけど、
結局、また安土に戻ってくるんだよなぁ〜
908日本@名無史さん:2010/10/30(土) 18:25:39
多聞城や岐阜城を忘れてるだろ
909日本@名無史さん:2010/10/30(土) 19:04:00
とりあえず「旧者のそれを遥かに凌駕していることは――」とまで書かれている
豊臣大坂城天守とあまり変わらない大きさになっているという
どう考えても不自然な大きさの設定だけは何とかして貰いたいな、と
910日本@名無史さん:2010/10/30(土) 19:51:26
豊臣大坂城の具体的な史料って中井家の平面図しかないのにな。
911日本@名無史さん:2010/10/30(土) 20:04:27
>>908
それらも大型天守に含めていいの?
912日本@名無史さん:2010/10/30(土) 20:10:13
913日本@名無史さん:2010/10/30(土) 20:12:50
>>911
>それらも大型天守に含めていいの?


>>907
>(安土城解明の手掛かりになるものはないか?と)他の城にいろいろ手を出したりするんだけど、
914日本@名無史さん:2010/10/30(土) 20:21:08
あづちを追い求めると岡山城にたどり着く。
915日本@名無史さん:2010/10/30(土) 20:35:55
層塔型一本槍の私には興味の薄い話
916日本@名無史さん:2010/10/30(土) 21:11:20
917日本@名無史さん:2010/10/30(土) 22:56:44
競艇のCM、あの唐津城を文化財整備に貢献に入れていいのか?
918日本@名無史さん:2010/10/31(日) 09:42:18
>>915
理想の層塔型天守はどれでつか?
919日本@名無史さん:2010/10/31(日) 11:22:34
>>918
芸がないと思われるだろうが、江戸城
天守自体と破風の配置とバランスが安定している

次点で丹波亀山城、モダンなシンプルな構造が良い
920日本@名無史さん:2010/10/31(日) 11:32:59
江戸城は(慶長・元和・寛永)と3つある>>685みたいだけど、どれでつか?
921日本@名無史さん:2010/10/31(日) 11:55:15
>>920
慶長の奴、白で統一された意匠が空に映えると思う

寛永は黒色系で重すぎるし、元和は破風が複雑すぎて層塔型に合わない
922日本@名無史さん:2010/10/31(日) 12:39:27
そんな貴兄に質問!
望楼型の場合、前期(大屋根と望楼の棟方向が直交=安土城、岡山城)と後期(大屋根と望楼の棟方向が同じ+最上階平側に唐破風=姫路城、駿府城…)で簡単に見分けが付くけど、
層塔型の場合、前期(名古屋城>>837)と後期(寛永期江戸城)で何が違うんですか?
923日本@名無史さん:2010/10/31(日) 12:58:00
>>922
層塔型の前期・後期はかつては最初期とされた名古屋城や松本城の1・2重が同規模であることから、
戦前の藤岡通夫氏や城戸久氏、戦後は内藤昌氏が提唱されていました

しかし松本城は解体調査の結果、基が望楼型であったという説が有力になり、また名古屋城以前にも
加納城や日出城など初重から逓減している層塔型が確認されており、現在は否定されています

では何故かという話になりますが、これについては初重規模を拡大させることなく、高さを稼ぐ方法
だったと考えられます
似たような例として大垣城天守、間に腰屋根がない駿府城、水戸城、小田原城、古河城
望楼型も含めれば、金沢城や水戸城も含まれます
924日本@名無史さん:2010/10/31(日) 13:10:13
つまり層塔型の前期・後期の見分け方としては、

前期:1層目と2層目の床面積が同じ=2層目から逓減し始める(例:名古屋城)。
後期:1層目からいきなり規則的に逓減する(例:寛永江戸城)。

やっと解った!お産クスコ!

ちなみに慶長(家康)江戸城も元和(秀忠)江戸城も後期望楼型で桶?
925日本@名無史さん:2010/10/31(日) 13:16:09
>>924
ちゃんとスレ読んでる?
926日本@名無史さん:2010/10/31(日) 19:01:00
例の木幡山城、少し大き目の写真を発見


洛中洛外図屏風 秀吉が築いた伏見城描く 教育・文化 中部発 YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://chubu.yomiuri.co.jp/kyoiku/img/kyoiku101019_1.jpg
http://chubu.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyo101019_1.htm
927日本@名無史さん:2010/10/31(日) 19:11:54
なんとなく、肥前名護屋城に似た佇まいだね。
黒漆塗り鉄板に菊紋や桐紋、唐草など蒔絵を描いた腰壁…これが秀吉好みだったとしていいだろう。
928日本@名無史さん:2010/10/31(日) 19:12:10
でも、なぜに土塁なんでしょうかね
929日本@名無史さん:2010/10/31(日) 19:49:04
学研の本に伏見城も黒塗りだったと書いた人がいたね。徳川も白漆喰から銅板を黒塗りにしたし、聚楽、名護屋で白漆喰に飽きて伏見は黒塗りにしたかもね。
930日本@名無史さん:2010/10/31(日) 19:53:02
>>926
天守の形はいつもの判子絵に見えるわ
931日本@名無史さん:2010/10/31(日) 19:56:47
932日本@名無史さん:2010/10/31(日) 20:05:52
判子絵風天守を実際に造ってしまった金沢城御三階櫓
933日本@名無史さん:2010/10/31(日) 20:09:51
>>926
本丸の右にある廊下橋と繋がっているのは二ノ丸、その下にあるのが治部少丸と思われる
下の縄張り図を参考にするとつまりAの地点からの俯瞰となる
ここで注目するのは空堀に人がいる点で、ここから推察すると豊臣氏時代の伏見城は今より
も空堀が浅く帯曲輪的な要素が多きかったと考えられる

http://www.geocities.jp/alfetta007/mokeFile/zgsiro/husimi3.jpg
934日本@名無史さん:2010/10/31(日) 20:20:54
カラホリを通路にしていた可能性はありそうですね
ttp://www.geocities.jp/tokodreamstory/DSC_0384.jpg
935933:2010/10/31(日) 20:39:48
他にはAと松の丸の間にある出丸がないのでこれは徳川時代に造られた可能性が高い
天守が松の丸側にないのは御殿の手前に天守を描かない技法的な問題と思われる
936日本@名無史さん:2010/10/31(日) 20:45:26
http://www45.tok2.com/home/todo94/trip/trip2008/kanazawajo2008imoribori.JPG
金沢城のこの石垣は、二段目以外が落とし積みになっているところを見ると
明治以後に積み直されたものなの?
937日本@名無史さん:2010/10/31(日) 23:52:13
938日本@名無史さん:2010/10/31(日) 23:55:55
>>937
納得
939加州侯附家老・本多安房守政重:2010/11/01(月) 00:03:37
前田藩が幕府に遠慮して金澤に天守閣を造らなかったのが悔やまれる
940日本@名無史さん:2010/11/01(月) 06:59:24
仙台藩も、赤穂藩も天守台だけ作っておしまい
石垣だけが残る怪
941日本@名無史さん:2010/11/01(月) 07:16:26
江戸時代前期に天守台があれば城の体裁が整うと言う思想が定着。明石、赤穂等はその典型。
942日本@名無史さん:2010/11/01(月) 07:35:18
>>941
ふむ。一国一城令以後に着工された例外の城だな。
943日本@名無史さん:2010/11/01(月) 07:52:04
新政府の許可で築城した園部城は、山上にでかい櫓をぽつんと建てて天守扱い。
944日本@名無史さん:2010/11/01(月) 08:11:25
天守閣の格付け
・松(最高国宝級)…安土城、大坂城、伏見城、江戸城、駿府城など
・竹(要衝に建つ示威城)…松本城、岡山城、姫路城、名古屋城、熊本城、福山城など
・梅(地方大名の御三階櫓)…高知城、掛川城、犬山城、彦根城など
945日本@名無史さん:2010/11/01(月) 08:40:47

日本には1800年前から、スサノオが将来役に立つ時が来るからと天皇家に渡した金塊があった。
鎌倉(元のフビライ)時代、マルコ・ポーロが「黄金の国ジパング」と呼んだのは、その金塊量が当時世界一だったから。
室町(大航海)時代になって、イエズス会や東インド会社が日本にやってきたのはそれ目当て。

ヴィクトリア女王は三浦按針ことウィリアム・アダムスを通じて、日本を植民地化し、スサノオの金塊を手に入れるべく、
傀儡に選んだ家康にあれだけ最新式の武器を提供し(関ヶ原合戦&大坂の陣で圧勝)天下を取らせてやったのにもかかわらず、
家康がヴィクトリアの野望に気付いため、鎖国されて失敗!
この時のイギリスの恨みが産業革命を経て、やがて明治維新を起こすことになる。

KWSKはこちら↓
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/tomokop/sakuryaku.html
946日本@名無史さん:2010/11/01(月) 10:01:43
格式でがんじがらめの時代に新築された相良城を見てみたい。映画のセットみたいな城だったんだろうがね。
947日本@名無史さん:2010/11/01(月) 13:13:04
>>944
梅はデフレの今でも復興できるだらうが、竹や松は次回のバブル経済発生までムリだらう。
948村岡官房庁長官:2010/11/01(月) 14:06:57
その格付けは恣意的だ。
駿府は竹にすぎない
949日本@名無史さん:2010/11/01(月) 14:14:24
竹にはぜひとも津山城天守を加えてもらいたい
950日本@名無史さん:2010/11/01(月) 19:44:38
>>945
マジレスするとヴィクトリア女王は産業革命以後
951日本@名無史さん:2010/11/01(月) 19:59:04
>>943
園部城でぐぐって先頭に出てくるサイトが、インフォシークの昨日サービス終了した
無料プロバイダ上だという哀しいお話。
952日本@名無史さん:2010/11/01(月) 20:29:13
>>941
同時期着工の尼崎、福山には天守を作れて明石は作れなかったとはこれ如何に
953日本@名無史さん:2010/11/01(月) 21:04:34
954日本@名無史さん:2010/11/01(月) 22:09:28
明石は縄張りの段階で天守建立の可能性が無かったと考えられる。天守台が隅ではなく側面に凸型に少しせり出すだけで防御上無駄な配置となっている。築城者が最初から幕府に配慮したとしか考えられない。
955日本@名無史さん:2010/11/02(火) 00:53:04
明石の築城者は小笠原か?
956日本@名無史さん:2010/11/02(火) 01:10:06
野球場を撤去して堀の復元を
957日本@名無史さん:2010/11/02(火) 06:19:50
「この城堅固にして天守を建てるべからず」権現さまが丹波篠山城に下した宣告。このあたりから諸大名の天守建立を遠慮する傾向が出てきたと思う。
958日本@名無史さん:2010/11/02(火) 08:05:32
>>945
家康に武器を供給したのはエリザベス1世だyo!
959日本@名無史さん:2010/11/02(火) 08:15:06
>>948
小田原攻めの後、家康が関東に移封されたのは、秀吉も宿泊した天正期・駿府城があまりに立派だったのも一因という説もある。
秀忠に将軍職を譲った後の慶長期駿府城は間違いなく天下普請で「(伏見城修築に携わっていた)京・大坂の大工が雲のように(駿府に)消えた」と記録があることから、間違いなく「松」と思われ。
960日本@名無史さん:2010/11/02(火) 08:22:55
>>944
松=天下普請(全国大名総動員)
竹=周辺大名動員
梅=自腹天守

よって名古屋城・彦根城は松!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E6%99%AE%E8%AB%8B
961日本@名無史さん:2010/11/02(火) 08:35:40
彦根城は廃物利用の城だわさ
よって格下であります
962日本@名無史さん:2010/11/02(火) 08:40:48
大津城だっけ
963日本@名無史さん:2010/11/02(火) 09:12:05
その大津城天守は(本能寺の変後)丹羽長秀が再建した坂本城天守の移築だった可能性について。

坂本城の位置と構造(1-8 坂本城と明智光秀をクリック!)〜坂本城を考える会
sakamoto-jyoh.org/_userdata/data/sakamotojo-mitsuhide1.pdf
964日本@名無史さん:2010/11/02(火) 13:03:29
なぜか完全に忘れ去られている近江八幡城について
965日本@名無史さん:2010/11/02(火) 14:01:52
>>964
殺生関白の城じゃぁね
966日本@名無史さん:2010/11/02(火) 15:04:09
その八幡山の天守台が神社の工事で破壊されたらしい。
967日本@名無史さん:2010/11/02(火) 22:05:21
移築の系譜
坂本城→大津城→彦根城
968日本@名無史さん:2010/11/02(火) 22:23:37
埼玉四名城

川越城
岩槻城
忍城
岡部陣屋
969日本@名無史さん:2010/11/02(火) 22:49:53
川越…酒井重忠、松平信綱、柳澤吉保、秋元喬知、松平斉典、松平康直
岩槻…阿部重次、大岡忠光
忍…阿部豊後、奥平下総
岡部陣屋…安倍摂津守
970日本@名無史さん:2010/11/03(水) 14:28:50
全国の移築櫓を紹介しあおうぜ
笠間城
http://takayama.tonosama.jp/image/kasama03.jpg
971日本@名無史さん:2010/11/03(水) 14:58:25
横ですが
ヨーロッパの城マニアも中々ですね

http://www010.upp.so-net.ne.jp/papercraft/index.html
972日本@名無史さん:2010/11/03(水) 15:49:52
>>716
あれって豊臣と徳川のミックスじゃなかった?
973日本@名無史さん:2010/11/03(水) 16:00:15
>>850
豊臣方が城の北側の中洲?を除去してしまわなかったのはなぜだろう。
あんな大規模な総構えを作ったぐらいなのだから、それぐらいやってもよさそうな気が。
秀頼時代にしても、真田丸の建造と合せてやろうとは考えなかったのだろうか。
974日本@名無史さん:2010/11/04(木) 09:01:46
>>970
それって寺に移築されてんだっけ
975日本@名無史さん:2010/11/04(木) 09:35:36
笠間は天守が神社に縮小改築されて旧位置に現存する唯一の例。
976日本@名無史さん:2010/11/04(木) 16:52:27
土浦城も捨てがたい(太鼓門・高麗門が現存、東櫓は再建、西櫓は復元)
www.kohgin-syohji.co.jp/syasinsyu/tutiura3.jpg

地味ではあるが、愛知県の西尾城(天守が月見櫓)、飛騨高山城(安土城を横に寝かせたような複雑な御殿)も風情があってイイ!
blogs.yahoo.co.jp/merce203/11254422.html
3.bp.blogspot.com/_-qr2cFrSTJE/SmEdInmZwjI/AAAAAAAABoc/PRWabl8jRuY/s400/0901%E9%A3%9B%E9%A8%A8%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E5%A4%A9%E5%AE%88.jpg
977日本@名無史さん:2010/11/04(木) 17:43:30
駿府城の坤櫓も財政難で復元延期かな。川越城の富士見櫓はどうなったんだろう。
978日本@名無史さん:2010/11/04(木) 17:53:33
竹下内閣の「ふるさと創生1億円」を元手に、櫓を再建した水口城には敬意を表したい。
http://www.pref.shiga.jp/minwa/15/15-02.html
979日本@名無史さん:2010/11/04(木) 17:56:49
980日本@名無史さん:2010/11/04(木) 17:59:05
>>979
981日本@名無史さん:2010/11/04(木) 18:05:50
>>979
乙です
なんだかんだで気が付けばもう
前スレからやって来た新参ですが
こんなマニアックなスレなのに進行が早くてびっくり
982日本@名無史さん:2010/11/05(金) 08:11:37
>>915
岸和田城って現在「彦根城もどき」の望楼型天守だけど、
江戸時代は五層五階の層塔型天守が建っていたんでせう?
983日本@名無史さん:2010/11/05(金) 12:20:47
>>982
そうらしいデス
単にお金がもったいなかっただけのような気もしますが
今ではあの天守が市民のあいだですっかり定着してしまったので
ちなみに私は元岸和田市民デス
有名なだんじり祭りを始めたのは城主の岡部氏だったこともあってか
地元の人は今でも岡部の殿さん殿さんといって慕ってマス
984日本@名無史さん:2010/11/05(金) 14:33:32
岸和田市には天守復元の計画はなく天守台に城郭風図書館を建てただけなのです。その後も史実を無視して八陣の庭や櫓、多聞を模擬建設しております。
985日本@名無史さん:2010/11/05(金) 14:41:46
岸和田城には下見板張の層塔式に近い五層の天守があったようです。落雷焼失後は二の丸の三重櫓を「天守」と改称させて藩主の具足一式を格納させてます。古写真が一枚も出てこないのが残念です。
986槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq. :2010/11/05(金) 19:00:58
田中城について語ろうじゃないか。
987日本@名無史さん:2010/11/05(金) 19:15:56
丸いなあ。
988日本@名無史さん:2010/11/05(金) 19:41:44
典型的な輪郭式縄張りかと
989日本@名無史さん:2010/11/05(金) 21:00:58
きっと櫓も円柱状だったことだろう。
990日本@名無史さん:2010/11/05(金) 21:39:23
990
991日本@名無史さん:2010/11/05(金) 21:56:55
991
992日本@名無史さん:2010/11/05(金) 22:00:00
992
993日本@名無史さん:2010/11/05(金) 22:01:51
993
994日本@名無史さん:2010/11/05(金) 22:12:15
994
995日本@名無史さん:2010/11/05(金) 22:13:25
995
996日本@名無史さん:2010/11/05(金) 22:13:57
996
997日本@名無史さん:2010/11/05(金) 22:15:06
997
998日本@名無史さん:2010/11/05(金) 22:19:15
998
999日本@名無史さん:2010/11/05(金) 22:19:34
1000
1000日本@名無史さん:2010/11/05(金) 22:19:51
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