サーバーごと吹っ飛んだので立てます。
2 :
日本@名無史さん:2010/09/09(木) 19:27:08
10 名前:中大兄皇子[] 投稿日:03/06/09(月) 05:54
唐の時代というのは、俗に支那史における最盛期という見解で一致している。
現代で言えば、米国と戦争するようなものだ。
勝てる方がおかしい。
新羅は例によって虎の威を借る狐、所詮は雑魚だからどうでもいい。
11 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:03/06/09(月) 09:25
後の日米戦と比べてみると、
結果的には局地戦でさっさと負けて撤退したのは幸いだったかも。
3 :
日本@名無史さん:2010/09/09(木) 19:34:42
388 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:04/01/25(日) 14:19
倭は
「風下接戦時の放火」戦法=赤壁の戦法に負けただけである。
その点は無知だったが、三国時代までは歴代将軍号をもらっているくらいだから
今日の日本ほど「厭戦だけの無策国」でもないし、外交もわかっていたと思う。
『週刊 (新)マンガ日本史』
【特別付録】
[創刊号]『週刊マンガ日本史』前シリーズのダイジェストブック
[第2号]加藤和恵描き下ろし聖徳太子番外編マンガ「厩戸皇子の華麗なる日々」
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作家サイン入り色紙が当たる抽選もありますのでどうぞお楽しみに!
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10号:安倍晴明(さらちよみ)
12号:北条政子(シヒラ竜也)
15号:楠木正成(みなもと悠)
20号:上杉謙信(山田孝太郎)
24号:伊達政宗(清水栄一/下口智裕)
25号:黒田官兵衛(池上遼一)
27号:出雲阿国(垣野内成美)
35号:雷電為右衛門(荒川弘)
37号:高杉晋作(高橋ツトム)
40号:篤姫(池田理代子)
43号:夏目漱石(杉基イクラ)
47号:南方熊楠(アントンシク)
ほかお楽しみに!
唐・新羅連合軍という言い方してるけど、新羅ってこの戦いでどういう
活躍してたの?赤壁の戦いでいう孫権・劉備連合軍の劉備軍みたいなもの?
Wikipediaに「守大石」の記事を新設しました。
まだごく簡単にしか書いてないので、編集していただけるかたが
おられたら協力お願いします。
7 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 13:45:54
うっひょう!
8 :
おたわけな学者の妄説信者へ:2010/09/10(金) 16:23:52
今の天皇家は聖徳太子を暗殺した中大兄皇子(実は百済王子の豊璋)の末裔で
イスラエル12支族でもある。こいつが日本の天皇に摩り替わって、我々日本人
を欺いてきたのである。天理教では高山の神は韓神だと見抜いている。高山の
神は天皇を指し示す隠語である。こいつが百済を復興させる為に日本兵を白村
江の戦いに投入して多くの犠牲者を出させたのである。
たこのパウル君がサッカーのW杯の試合の勝敗予想を的中させた事で話題に
なっているが、こんな事は神学から見れば当然である。悪神はこの世で起きる
未来の出来事を知り尽くしているからである。悪神が支配し、そうなる様に仕
向ける事もできる。たこは魔物であり、悪神の意思を感知できる。科学万能主
義者はこんな時にもただの偶然だと白を切る。
なんのトリックも介在していないし、確率論から計算すれば当たる確率は1/2×
1/2×1/2で1/8以下である。次回のW杯の試合の勝敗予想を的中させたら、なん
と言い訳するか、見物である。
ユリ・ゲラーのスプーン曲げ等の超能力も魔力によって発揮できる。これも
アカデミー側はトリックだと言い訳しなければ、ノーベル賞で築いて来た嘘の
の科学が崩壊してしまう。
つまり、君達が学んで得た学問の常識はすべて嘘である。この世の現象はす
べて神の働きである。悪神(メーソン)はこの事を隠す為に嘘の科学を構築して
我々を騙して来たのである。メーソンがこの世を支配しているのだから、嘘の
宗教、学問(物理学、数学等)、社会制度等がまかり通っている。
メーソンも正神の計画書の9分9厘まで知っているが、神の1厘の仕組みが
分からない。悪神はこれによって滅ぼされる。悪神に魂まで売っている人間も
草木に替えられる。
我々が神の知性と同調するには、神の御旨に沿った生活を行わなければなら
ない。穢れた身魂には神は感応しない。神の知性と同調すれば、神の1厘の仕
組みも分かるようになる。坂本龍馬の様にこの世を破滅から救う英雄にもなれる。
9 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 20:35:14
>>5 地元の地理にくわしいし言語が同じだから、偵察とかやっていたと思う。
>>1 前後の歴史を見ると、
日本は「白村江の戦」の前は普通に唐と国交してたし(百済は唐と国交してない)
戦後も普通に唐と国交してるから、思ったよりダメージは受けて無い。
韓国に味方と思わせて、中国と戦わせ滅ぼした後はまた普通に中国と国交してるような
そんなイメージ?
11 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 22:30:34
外征軍がやられただけで
日本本土には攻め込まれていないからね。
唐にもそんな余力はなかったのでしょ。
白村江の戦後は702年まで、遣唐使を送れていないようだが。
665年に守大石が、669年に河内鯨が唐に派遣されている。
畿内政権と九州政権をちゃんぽんにしてない?
>>13 ごめん、そのとおりだった。
終戦処理交渉のつもりで
665、667、669は脳内で白村江と一体化してた。
唐と敵対した九州政権は遣唐使どころではないが、
唐と密通していた畿内政権は唐となかよし。
17 :
どんくさい学者の妄説信者へ:2010/09/11(土) 15:43:51
神学1
日本人の後ろ盾には、この宇宙を創造された神がおわします。悪神(メーソン)
はこの神に成り代わろうとして、日本人を人質にとって言いなりにさせようと
している。メーソンが日本に原爆を落としたのもこの理由からである。最近、
日本人が海外で死亡しているのはメーソンの陰謀である。日本人の血統は一番
神に近い。そのことは竹内文書にうたってある。日本人はキリストのように人
類の罪を贖わなければならない運命に置かれている。
西洋人の面貌は昔の人が言っているように、紅毛青眼の醜夷である。ほりが
深く、青眼なのは吸血鬼ドラキュラと一緒で、青眼だから太陽の光が眩しいの
で彫りを深くして眩しさを防いでいる。つまり、悪魔の類である。韓国人の面
貌、特に目の形がつり目やたれ目でいびつなのは、これも同様に目蓋で眩しさ
を防いでいるのであり、悪魔の類である。日本人の目は均整が取れて美しい。
昔の日本人の大和魂も美しい。
メーソンは日本人を卑しめる為に、洗脳して来たのである。日本には固有の
文字がなかったとか、中国文化を習ったとか、西洋文化で文明開化したとか、
太平洋戦争でアジアを侵略した(この戦争は自衛戦争、その前の中華事変で挑発
された。米英は中立を守らず、蒋介石に軍事援助した)とか。そのお陰で日本古
来の伝統の神道が絶たれた。神国日本に神風が吹かなかったのは、戦争と言う
武力で物事を解決しようとしたからである。その罰が原爆被害として表れた。
神が表に現れて善と悪を立て分ける。ヨハネの黙示録に言う悪魔の刻印を押
された者とは、肉食を行なう事によって内なる神の分け御霊を穢して、まるで、
太陽が黒雲で覆い隠された様なものである。この悪魔に取り憑かれた者は、慈
悲の心と羞恥心が欠如し、自己の欲望を満たす為に正義から外れた行動をとる。
五戒(殺生、偸盗、邪淫、妄語、贅沢)の罪を犯す。この者は神を信じないか、
悪魔の宗教に魂を売っている。神を否定した科学を妄信して、科学によって生
ずる害毒が自然を破壊する事に手を貸している。この者達は神の最後の審判に
よって草木等に替えられる。内なる神の御霊が発揮出来る様に直ちに菜食に移
行しなければならない。
18 :
どんくさい学者の妄説信者へ:2010/09/12(日) 12:55:06
587年、物部、蘇我氏との間で神仏戦争が起き、聖徳太子の家来である迹見
赤檮が物部守屋を弓矢で射殺した。彼は押坂彦人大兄皇子の家来でもあった。
日本書紀は彦人皇子が死んだとも記述しないで、突然、その子・舒明天皇が即
位したと述べている。その皇后・皇極天皇治世時に大化の改新が起こり、中大
兄皇子らが蘇我入鹿を暗殺した。罪名は国政を専横したと言う。しかし、皇極
天皇は彦人皇子の孫で蘇我氏の血を受けていない。なぜ、蘇我氏が専横してい
るのに、皇位が蘇我氏の血を受けていない本流に戻ったのか。どうしてそれが
専横となるのか、矛盾している。彦人皇子は皇太子であるのに天皇になれなか
った。まるで聖徳太子とそっくりである。両者の家来が迹見赤檮である事から
聖徳太子の正体は押坂彦人大兄皇子であり、天皇に成れない訳がない。聖徳太
子は蘇我入鹿として斬殺された。三韓の朝貢時に事件は起きた。つまり、犯人
は中大兄皇子(百済王豊璋)である。だから、彼は滅んだ祖国・百済を再興す
る為に、日本軍を白村江の戦いに注ぎ込んだのである。中大兄皇子はイスラエ
ル12支族のユダ族である。天皇家の紋章がイスラエルのシンボルの麒麟(一角
獣)である事からも分かる。
この偽の天皇の為に、楠正成、2.26事件の将校、神風特攻隊員等が犠牲となっ
た。未だに日本は朝鮮人に支配されている。真理を悟る事が出来るのは聖者だ
けである。本来世界は天皇が治めるべきものであり、その国の王が委託を受け
ていた。メーソンが世界制覇の為に各国の王政を破り、天皇に成り替わらんと
している。悪魔が統治しても悪の世は潰れる。神の信任を受けた聖者が統治し
なければならない。民主主義などと言う衆愚の多数決ではものごとは解決しな
い。悪魔は世を潰し、神の裁きを受けて退治される。
1ガチ勝負で勝てると思った
2敵の動員戦力・戦闘能力を見誤った
3こちらの動員数・戦闘能力から、おいそれとは負けないと踏んだ
4負けても半島拠点を失うだけだから気が楽だった
5負けても本土防衛に自信があった
6メンツ優先
どれだろ?
20 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 23:19:47
唐の参戦を阻止しきれなかった、とか
唐が参戦すると思わなかったとか?
ソ連の参戦みたいなもんですが。
21 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 00:47:16
>>19 > 2敵の動員戦力・戦闘能力を見誤った
風上から火を放たれるとは思っていなかったのと
敵が守りを固めているのにこちらから突っ込んでいった
(日本海海戦の逆パターン)
のもまずかった。
この戦いの前まで、倭人は半島の南の方にある程度居たわけだが・・・
全部帰ってきたと見ていいのかね?
第二次大戦後の、引き上げみたいなもんかな?
倭語を喋る、倭の風習の倭人がそのまま半島に残るのは無理だろうしなあ。
前の日本人引き上げの悲惨さを考えれば
古代和人も残ることは無理だったはずだ。
23 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 02:10:49
白村江の戦いに負けた大和は大陸からの侵攻に備えて各地に防衛拠点を構築した。
24 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 02:18:30
遣唐使が渡るのも大変だった時代なのに、数千人の軍隊を派遣とか無理でしょ。
>>24 せめて、遣唐使がどんなルートを通ったのか調べてからモノを言え
最初は黄海を通って、着実に天津あたりに到着していたが
新羅海賊が出るようになって、東シナ海に羅針盤もなく突っ込むようになり
遣唐使は命がけの任務になってしまった。
27 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 05:06:16
>>23 大和国にも朝鮮式山城をつくったけど
あそこまで攻め込まれたらどうしようもなかっただろうね。
28 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 05:09:18
このころは関東はまだアイヌの支配下だよな
エミシだよ。アイヌとは別者
前方後円墳があるところは、ヤマトだと思う。
だから、関東はだいぶ早くヤマトじゃないか。
だから、百済の南の方にも前方後円墳があるんだから
任那の存在は確実だと思うんだが。
そういう古代からの領土を維持するための戦いだったとすると
白村江以後の日本の半島征伐は、領土奪回の戦いだろうよ。
古代半島に倭人が自主的にに居たと歴史書にも書いてるんだから。
このあと、唐対新羅になる
唐にとって、唐対新羅より、唐対吐蕃のほうが必死だった。
これにより新羅と倭は、唐からゆるい恩赦を得た。
ならねーよ。
唐が高句麗を攻めて、7世紀に高句麗が滅びる
高句麗なんかとっくに滅んでるわけだが
>>33 お前、世界史板の質問スレとかにも湧いている、ものすごい馬鹿だろ?
36 :
三十三:2010/09/16(木) 01:36:56
先生ー 紀元前206年と起源前8年はどっちが先の時代ですか?
ボクは数字が小さいから起源前8年のほうが先だと思ふんですが〜
37 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 15:33:38
>>34 高句麗が滅びるのは白村江の後だよ。
高句麗の同盟国だった日本が、唐の高句麗滅亡の祝賀に代表を送ったことが、
降伏儀式のかわりになった。
38 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 19:13:42
39 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 19:27:49
.┌─────────────
│吐蕃は馬とヤク牛使って突撃だ!!
└─y───────y────
巛∧ ./\ AA ./\
./ ・ ヾ.(゚一゚ R\ ⊂・・つ |(゚一゚L\
(_/\ ⊂ ヽ三|| ωノ |\Ю ⊂)_
冫´ | / ⌒ Y (  ̄ ~∪ )^)〜*
,/ | ,.し_ 丿 ||` || ( | ( |
\(/ /´ // / ``) ::`) '~ ~ '~ '~
/ / //_/ ; ;; ;;; `)⌒`)
40 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 19:30:30
それより日本は天智・天武・藤原鎌足とAクラスの人材揃っていながら
どうしてあれだけ大敗したのか?
単に水軍の運用に暗かったのか?
天武はともかく、天智や鎌足が戦争でAクラスってことはない。
42 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 19:50:51
戦争でAクラスとは言っていない。
智謀というか判断力がAクラス。
唐の強大さや巧妙な戦術を知らなかったはずがないのだが。
特に鎌足は息子を留学させているのだし。
大海人やサララ媛が新羅を助けるために、天智のミスリードを誘ったんじゃないかな
>>37 さらっと嘘を書いてるけど、日本は高句麗とは全然同盟国じゃないよ。
唐と高句麗が戦ってる時、唐に使者を送ってるし。
高句麗から援助を求められた事も全く無いし、高句麗に援助した事も無い。
百済や新羅の動きも、結局、
唐が昔からの悲願である、「高句麗の討伐」を果たすための布石でしょ。
時系列で言うと、
唐が新羅を使って百済を滅ぼす
→新羅を使って高句麗を攻めさせ唐との連合で高句麗を滅亡させる事に成功する。
→朝鮮半島は新羅一国支配になり、唐は安東都護府を置き、百済・高句麗の地を直接支配
朝鮮半島の属国化
でしょ。
日本は列島内の領土は失わず、独立を保って、その後も唐との外交を続けたんだから、
当時の外交手腕は相当なものだと思う。
45 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 08:59:45
>>44 百済は643年に高句麗と同盟した。
その百済と日本はもともと同盟国である。
だから日本は間接的に高句麗の同盟国だ。
実際、白村江戦のあと、百済王は高句麗へ逃げたし、高句麗滅亡のあと、
高句麗の王族・貴族は大挙して日本に帰化した。
唐・新羅連合VS高句麗・百済・日本連合の構図だ。
しかしその結末は唐による朝鮮半島の直接支配ではない。
新羅は独力で、かつ実力で唐を半島から追い出した。
新羅は半島で唐を破ったからこそ、朝貢国という名の独立国に
なれたのだ。
>>45 朝鮮半島しか見て無いから、そういう誤った歴史の見方をするんだよ。
それに百済はいつも高句麗と同盟してない。
新羅と同盟して高句麗を攻めた時期も有り、北魏に朝貢してたのを
日本の影響で南朝に朝貢したり、日和見で、国を維持するために
各国に対し同盟したり離反したりの繰り返しだよ。
その間、日本は、常に南朝に朝貢したり、自分の立場を一貫させた上で、
結構冷静に対処してるし、百済なんて、日本にとっては道具の一つでしか無い感がある。
当時の日本人は日本を死守するために、相当な外交努力をしてるよ。
その結果が朝鮮半島が唐一辺倒の新羅一国になり、朝貢国化・属国化に対し、
日本は独立を保ち、唐に対しても、一時敵対しながらも、新羅よりも上の席次を要求する
強い外交力でしょ。
今の日本の政治家にも見習ってほしいくらい、当時の日本人の国家意識とプライドと
冷静さはすごいよ。
>>45 それに、元々の白村江の戦い開戦の原因は何だか知ってる?
高句麗の王子が保護を求めて、唐に亡命したのが理由だよ。
唐の大義名分は「高句麗の正統な王族を保護して、高句麗の不当な政権を倒す」で、
それが後の、高句麗跡地に「安東都護府」の設置にも繋がってるわけで、
唐の外交力もすごいんだよ。
48 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 16:31:54
>>45 > 新羅は独力で、かつ実力で唐を半島から追い出した。
> 新羅は半島で唐を破った
これは誇張されていて、実際は唐にとって西域での戦いのほうが大事で
朝鮮半島は片手間の戦であったという人もいる。
羅唐戦争は実際にはたいした規模ではなかったのではないか?
>>48 もちろんそうだよ。
唐にとっては西域の戦いの方が重要でしょ。
50 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 22:04:35
これを はくすきのえ と読ませたのはどういう理由なのよ
51 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 22:08:33
>>50 現地民がはくすきのえと呼んでいてその意味を漢字にすると白村江になると考えるのが妥当でないか。
52 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 22:38:37
>>46 >それに百済はいつも高句麗と同盟してない。
>新羅と同盟して高句麗を攻めた時期も有り、
これは、「アテネとスパルタは同盟してペルシャと戦った」と言うのに対して、
「アテネはいつもスパルタと同盟してない。互いに戦争していた時期だってあるんだよ」
と言ったり、
現在の国際情勢を説明して、「日本はアメリカの同盟国である」というのに対して、
「日本はいつだってアメリカと同盟してない。アメリカと戦った時期だってあるんだよ」
と言ったりするのと同じだね。
白村江戦をめぐる国際関係の話じゃないのか。
歴史上、国際関係は常に変転しているのに、違う時期の話を持ち出してどうする。
53 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 22:52:39
大きな目で見ると、白村江の戦いは日本という「小中華」と、本家の「大中華」
とのぶつかり合いだと思う。
日本は倭の五王時代このかた、小中華を自認していた。
その意識と、膨張する大中華とがぶつかったのだ。
敗れた日本は以後、小中華を捨てて内向した。
唐との関係など、15年に一回の朝貢で、形式的。
本質は内向き姿勢だ。
渤海が小中華を認めて、おだててくれても、乗らずに表面的ないつきあいに
留めた。
もう一つの小中華の例はベトナムだ。
ベトナムは中国に朝貢しながら、周辺諸国に対しては小中華としてふるまった。
これは独自年号や「皇帝」の称号などに現れている。
54 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 23:39:05
すると世界文明発祥の地、世界最優秀民族を自認するウリナラはどういう位置づけになるニカ?
56 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 08:15:10
>>54 おのずから明らか。
日本・小中華体制のなかの朝貢国だ。
しかし新羅はその体制を脱して大中華についた。
小中華体制のなかの裏切り者だ。
57 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 08:49:35
>>54大中華につてから安定期に入ったのは良いけど
民族の衰勢みたいな時期が無くなっちゃって
一度として中国を冷や冷やさせなかった
周辺国ではレアな民族。
天武はAクラスだが
唐の将軍も優れてるわけで
59 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 11:15:24
>>57 >一度として中国を冷や冷やさせなかった
唐の時代まではそうとも言えない。
新羅は山東半島の沿岸部を支配し、さらには長江河口に至る東シナ海の
海運を握っていた。
唐もそれを容認しているふしがあった。
山東半島沿岸部は治外法権を認められた事実上の新羅租界だった。
唐末期に書かれた、円仁の日記を読むとわかるよ。
ただし、国家の力ではなく、民間の力によるものだった。
新羅王国そのものはすでにがたがた。
60 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 11:41:21
新羅明神のときか
61 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 11:43:23
新羅は羅唐戦争のとき、「高句麗は残しとけば良かった」とか思ったのかな
62 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 11:57:46
>>54 今も昔も緩衝地帯。
>>59 冗談言ってはいけない。
新羅王国そのものはすでにがたがたなのに、
唐のなんて皇帝、どこの将軍が肝を冷やしたと?
63 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 12:17:55
>>61 そう思っただろうけど、唐と高句麗が戦争になったら喜んで高句麗攻撃するのはデフォですから意味無い想像でしょうね。
64 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 13:53:04
>>63 >>62 だから、書いたように、新羅王国そのものより民間の力が強かった。
具体的には半官半民の海賊であるチャンボコ将軍だ。
山東半島は彼の天下だったのだ。
「肝を冷やした」かどうかは修辞上の問題。
65 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 14:00:12
羅唐戦争で百済人と高句麗人を新羅に団結させることはできたみたいだけどな
66 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 14:07:13
扶余族高句麗人はどっかに逃げてしまったろう。
粛慎を支配下に入れて渤海国の支配者になった者もいるだろうし、鉄勒回鶻になったりしてんじゃね?
67 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 17:23:19
68 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 12:22:37
海神チャンボコ私もみました^^
69 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 12:29:11
羅唐戦争は誇張されていて、実際には激戦はなかったという説があるようだな。
くわしいことは知らんが。
70 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 12:36:13
この後、唐は異民族の侵入に負け続けて、五胡十六国の時代になるんだろ。
鮮卑や契丹にできたんだから、日本にもって思うよな。
71 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 12:39:42
日本は、唐や明の全盛期と戦ったからな。戦後に鮮卑やジュルチンが漁夫の利を得て、中国を支配
してるんだから、貧乏くじを引いてるよ。
72 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 12:42:02
1710年にロシアがカムチャッカ(日本と同じくらいの面積)を征服したときの兵力が120人、
大陸ばかりじゃなく、北方に目をむけていてくれたらなあ。
676年伎伐浦戦役なんて新羅側にしか記録が無いんじゃね?
韓ドラの見すぎで頭が混乱してね?
「大祚栄(デチョヨン)」のほうと「海神(ヘシン)」では整合性がとれてなかったりする。
ドラマが主人公ageで作られることを忘れて、それが史書に書かれているようにとらえると痛いよ。
74 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 12:48:20
>>70 逆。五胡十六国の胡族が隋唐を建国した。
古い時代から胡族は華北にいぱーい住んでいて
クーデターを起こして洛陽をゲットしてしまっただけ。
75 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 12:49:17
>>70 日本軍は騎馬兵ではなく歩兵主体だからキツイと思う。
76 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 12:51:30
>>74 すまん、勘違い。巨大な中国も少数民族にころっと負けることを言いたかっただけ。
77 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 12:56:04
少しスレ違いだけど、好太王碑文の改鼠疑惑が完全にはれたけど、韓国の学会
は、ちゃんと歴史の修正をしてるのかな?
78 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 12:58:42
>>76 新しいリーダーが出現したら盛り立てる
遊牧民じみた鮮卑や羌のような行動様式は
福建の民である鄭成功にはありませぬ。(キリ
>>70 わかった!
五代十国の突厥や西遼のことが言いたかったんだね。
80 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 13:39:22
阿部比羅夫はここで戦死したのだろうか?
81 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 18:17:17
>>73 >それが史書に書かれているようにとらえると痛いよ。
チャンボコには円仁の日記という同時代資料があるから強い。
失礼しました
誤爆です
誤爆でも唐の時代のが入っていて興味深い
85 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 01:01:59
白村江の戦いにおける大和軍はどこで造船して何処の港から出兵したの?
87 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 06:19:59
百済水軍は高句麗や新羅に比べて造船技術が劣っていたとの説もある。
88 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 06:21:13
>>85 造船した場所はわからんが、博多あたりから出航したように思う。
89 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 08:40:14
>>86 新羅海軍とも言えない。チャンボコの私兵だ。
ただしチャンボコは新羅の官位も持っていたから半官半民。
後世のイギリスの海賊が王権とも関係を持っていたのと似ている。
90 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 14:50:50
チャンボコw
後世のイギリスの海賊が王権とも関係を持っていたのと似ている.
アホが沸いてるのはここですか?
鉄と中国文化を百済だけに依存していた九州王権=倭は、百済に入れ込み過ぎた。
畿内王権は唐や新羅と密通し、半島での戦闘を回避するなど、有利に立ちまわった。
92 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 09:33:49
ここは、倭国と日本国を分けて考えるのが前提のスレですか?
93 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 19:56:02
倭国を日本国に切り替えた時には東大寺大仏開眼みたいなでかいセレモニーやっていないんだな。
>>91 いや加羅地方に依存していた
北に押された百済が南下したので、仕方なく百済とも友好関係を結んだ
その結果ベトナム戦争に入れ込んだアメリカの様になった
96 :
日本@名無史さん:2010/09/24(金) 03:05:30
白村江の戦いに負けた大和連合軍は日本列島に逃げ帰り。
列島の防備を固め各所に城を構え敵の来襲に備えたそうじゃないか。
97 :
日本@名無史さん:2010/09/24(金) 04:51:01
>>95 いいや仕方なくでは無い得るものも大きかったからな。
ベトナムの様に泥沼化してないから見当はずれ。
>>96 しかし、九州系の百済、南朝シンパの仁徳方面の大和政権はそれで終って
飛鳥方面のの大陸シンパの連中、つまり継体天皇(出雲系?)か?
とにかく唐と新羅のシンパの政権が支配する体制に変わった。
(唐に対する事大・属国主義、、今の民主党みたいなもんかな。)
つまりそれが奈良時代の政権だったわけだ。
斉明天皇(結構高齢のおばさんだったような気がする)自らが陣頭指揮に向かって
福岡の朝倉の宮で死んでるね。
地元の豪族とのいざこざがあったのかもしれんが・・・。
天智も博多湾で活動してる。
大和の住民でも彼らはがんばって戦ったんじゃないの?
弟の大海人皇子(天武)がこの戦争のどこにも出てこなかったような記憶があるけど、どうなの?
100 :
日本@名無史さん:2010/09/24(金) 19:10:05
大海人皇子は福岡まで来たのか、畿内で留守していたのかわからん。
斉明・天智と共に伊予の温泉に寄る(661)
菟野皇女、草壁皇子を産む(662)
大田皇女、大津皇子を産む(663)
102 :
日本@名無史さん:2010/09/25(土) 00:15:04
海を越えての戦いで大和からの派遣軍を運んだ船は半島からやって来た船が往復したんでしょ。
歩兵の戦いじゃないよ
世界史的にも当時最大規模の大海戦
104 :
日本@名無史さん:2010/09/25(土) 09:50:49
白村江の戦いを起こした天智天皇は新羅への侵略者だといってるコリアンがいたんだけど、
どうなの?
百済はすでに滅亡していたから、百済救援の名目は成立しないのか?
お家再興
新羅が百済への侵略者であることだけは間違いない
それより朝鮮人がウザ過ぎるんだが
やつらもう一度併合して滅ぼせないの・
108 :
日本@名無史さん:2010/09/26(日) 05:24:26
>>107 コラコラ、併合したら統治せにゃならんのだぞ?w
それに今度はダイレクトに中国に隣接しちゃうわけだが…
俺はお断りだwwwwww
>>108 北朝鮮まで攻めるとは言わんよ。
隣接すると言うなら満州でも独立させてやればいい。
110 :
日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:39:07
1000年以上も前の歴史の事と現代を混ぜこぜにするのは、異常者の歴史観ですから。
111 :
日本@名無史さん:2010/09/30(木) 21:27:20
滅んだ隣国の復興を助けるために出兵したなんて、
日本がそんな侠気を見せたのはこの時代だけだな。
一人死ぬ危険があるだけで自衛隊の派遣もできない
今の日本からは想像もできない。
112 :
日本@名無史さん:2010/10/01(金) 00:12:33
大陸への侵略行動をして負けて帰ってきただけ。
114 :
日本@名無史さん:2010/10/01(金) 17:33:50
惜敗ならいいがボロ負けはきつい。
>>112 まあいつものことだなw
しかも今度はアメリカに手をだし資本主義や自由主義を導入。
古代より変わらんなw
>>114 結果、単に朝鮮半島での権益をすべて失っただけではなく、
戦後唐から約2000人クラスの使節団が送られてきて、緒論あるけど
事実上唐に臣従したようなものだしなぁ。
>>116 唐の技術で2000人も乗れる船を派遣できるのかね?
119 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 00:06:18
>>111 というか、日本(倭国)の国益のためにやっている。
日本としては、中国(唐)との間に緩衝地帯がほしい。
また、なるべく、半島は一つにまとまらずに、
複数の国に分裂してくれていたほうが良い。
このへん、近現代の地政学と全く同じ。
120 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 00:12:49
>>116 でも、まあ、唐のほうも
倭を恫喝しても、倭を占領するほどの余力もない。
たかだか数千の兵で、倭国にいる十数万の軍隊を戦えないだろう?
白村江の戦いで、倭が4万の軍隊で二方面作戦してきて
唐のほうも兵站の確保から考えて、半島の先の海の向こうの倭と
長期的に戦闘を続けるだけの余力も利益もなかったから、
ほどほどにして、終戦協定むすんだといいうことだろう?
>>120 終戦協定というか、元寇の前にフビライが日本に送った親書を受け入れた
感じでそ。臣従して冊封体制入った。
122 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 00:30:17
元の対外戦略はまた別の話。
かりに唐が日本にせめても占領は事実上無理だろうね
唐の戦力を把握してなかったのか
都を移転したり城を作るなどマジで占領されると思ったんじゃないか?
124 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 07:28:03
>>123 > かりに唐が日本にせめても占領は事実上無理だろうね
いや、唐に寝返る日本人が続出すれば占領は可能だった。
その辺、当時の日本の統一具合によるよなぁ。もし九州王権が存在していた
ような状態だったら、唐の侵攻での内部分裂は十分にありえたわけだし。
126 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 08:00:33
唐が驚いたのは、倭国の動員力だろう?
倭国は4万2千を半島に渡海させて、兵を二つに割って
2万7千を白村江で唐本体にぶつけて、もう一隊の1万数千を
東側から半島に上陸させ、荒らしまわっている。
唐にとっては、半島南部ぐらいまでだと、やや補給が伸びてしまって
兵站の確保という面で面倒くさい。
しかも、唐は、半島情勢だけにかまっているわけではないから...
唐としては完全征服するメリットはないんだな、東方に関しては。
東方は対高句麗が本命だから倭に構ってられない事情も
128 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 12:13:06
というか水軍を全滅させた以上、海の向こうの倭国などどうでもいい。
129 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 16:10:30
倭はしょせん、海の向こうの国。
だから、唐はほどほどにして、あっさり講和。
そもそも、白村江以前に、倭と唐は、一応
外交関係あったでしょう?
唐にとっての防衛戦だったと
白村江後、一年置きに3回遣唐使を出したあと
長い間遣唐使を出していない。
戦後処理のあと、事実上断絶したというべきでしょう。
132 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 18:29:32
>>131 これは日本国内で壬申の乱が発生して
外交どころではなくなったという理由もあると思う。
133 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 18:45:06
大人になったら、他所の家でお茶漬け食べてはいけないよw
134 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 18:48:36
倭は元々大陸の沿岸部にあった国だよな?
135 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 20:20:29
呉からの難民はかなり来ていたと思う。
呉からの難民なんて、ほとんど、いや、全く来てないと思うが。
中国の王朝が崩壊した事は何度もあるけど、難民なんて来てないじゃん。
近世〜近代の明や清の時は、日本の存在は良く知られていたから
有力者の一部の中には日本に脱出してきた連中もいたけど。
宋や明のように日本側にも文字記録がある時代になってからも
記録しきれないほどの難民が押し寄せた事態は発生していない
邪馬台国とかの倭人(稲作文化人)の祖先は呉人(中国南部人)だね
半島から来た人などと人種的には混血しただろうけど、
文化的には呉の海岸部の人たちのものが支配的
現代日本人は文化的には欧米だから祖先は欧米人だよね
140 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 23:26:40
白村江に負けて九州から瀬戸内海まで要塞化して防衛していたんだよね。
>>138 呉人は、現代の日本人が一番嫌っている中国人のグループ。南京蟲。
ミサイルに燃料注入して、日本へ撃つ準備をしているやつら。
142 :
日本@名無史さん:2010/10/04(月) 00:21:45
143 :
日本@名無史さん:2010/10/04(月) 06:47:47
>>140 あちこちに朝鮮式山城を作っただけだから、
唐に懐柔されて寝返る倭人が続出したら勝ち目はなかった。
「寝返る倭人が続出したら」って、どんな戦争でも当てはまるじゃねえか。
太平洋戦争も寝返るアメリカ人が続出してたら日本は勝ってたよ。
145 :
日本@名無史さん:2010/10/04(月) 08:54:11
軍事専門家したら、
前近代は日本を占領するのは難しいらしいよ。
146 :
日本@名無史さん:2010/10/04(月) 12:44:15
大津京はいざという時に琵琶湖経由で東国に逃走できる場所だというが
都を捨てて疎開するようなことになれば王権は保持できなかったように思う。
若狭湾から上陸されたりして
148 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 00:11:14
>>146 現に壬申の乱では東国の連中はみんな
新羅に味方したからな。
149 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 08:58:36
>>144 横からだが、強い方に寝返る話じゃないの?
唐とアメリカは強い方。
太平洋戦争だって、米軍の反抗がはじまったらそっちに
寝返る現地人は多かった。
日本の連合艦隊司令長官が現地人ゲリラの捕虜になるくらい
だからね。
>>149 海路はるばる日本までやってきた唐の軍隊のほうが確実に弱い。
151 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 23:24:48
白村江に限らず古代の戦いはダイナミックだよな。
白藤江とかな
153 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 15:21:22
お互いどういう船で戦ったのかな?
以前のNHKの番組では、日本側の船は埴輪そのままの姿のしろものだったからなあ。
>>148 吉備と尾張は伽耶(任那)からの渡来人だったから。
それで奈良時代の装束は韓国風味。
韓国風味って、伽耶の文化が現在の韓国にどれだけ残ってるんだ?
156 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 20:21:43
>>153 埴輪船ってことはない。埴輪船は瀬戸内などの内海用の小船。
東シナ海対馬海峡を横断できる平均40人乗りの船だから、
又、波よけ板付のローリングを防ぐ構造の船だから、
又、船材に松やアベ[木青]を使っているから、
少なくとも小型の準構造船と思われる。
又、3世紀には持衰が乗るほどの長期航海のできる船が既にあったから、
7世紀では最大70人乗りの準構造船はあったと思われる。
バカタリがいなければこんな間違いは犯さなかっただろうw
もしこの戦いに勝って
最終的に新羅を滅ぼしたら
今の朝鮮は変わっただろうか
朝鮮人の今の気質って新羅人の気質が多く残っているものだし
新羅人気質なんて分かるはずが無い。
少なくとも、7世紀の新羅の事跡は素晴らしいと思うぞ。
この後、唐と争って朝鮮半島から追い出したんだし。
160 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 00:34:36
倭国に亡命船としてやって来た百済の船で戦いに臨んだのでしょ。
161 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 05:34:54
百済の造船技術は新羅や高句麗より劣っていた。
163 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 01:09:45
164 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 08:37:13
>>158 新羅を滅ぼすって、民族浄化でもするつもりか?
国体だけ変わっても中にいる人間は変わらんだろう
新羅の伽耶人はどこかへ逃げたから
当時の新羅は今の慶尚人全羅人の先祖だろう。
新羅に勝って百済を再建しても高句麗に滅ぼされただろうな
百済って支配層と被支配層とで民族も言語も異なっていたみたいだから、
支配層は国が滅びたら居場所がなくなる(庶民に混ざることができない)から必死。
敗戦による日本軍の被害はかわいそうだったけど、
結果的には百済の支配層の大多数が日本へ脱出することには成功したんじゃない?
大東亜戦争で言えばキスカ島撤退作戦みたいな感じ。
別にいらねーよ
日本にメリットねーし
169 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 19:31:58
でも新羅も国王は中国から来たみたいなこと書いてあるよね
昔氏は日本人って説もあるし
倭人は、紀元前から日本に居たと思われるよな。
日本に居る人間は、皆倭種と書かれてるくらいだし。
百済、高句麗は扶余族だ。
新羅が何なのか?ということだよ。
漢人は多く居たようだよな。歴史書から見ると。
韓人ってのは、漢人が来る前から居る中華系なのだろうか。
もしそうなら、中華の名を王は名乗るはずだ。
金は中華か満州かどちらかなんだろうけど、どっちか確定は無理だよな。
韓族でええんでない?
前期新羅には伽耶人というのがいた
これは明らかに韓族とは違う
『ユーラシアの風 新羅へ』
http://www.sa.il24.net/~aom/ten0908sinla.html > ユーラシア東端で漢帝国が崩壊すると、草原の遊牧民族による空前の大移動がおこり、
> やがて中央アジア、南シベリアを含め中国全土を統一する唐の国際文化が形成されていきました。
> この大きな潮流の中で韓半島に生まれた新羅は、ユーラシア西方の香りを伝える特有な文化を形成し、
> やがて7世紀には、韓半島を統一する王国にまで成長しました。
これの4〜5世紀の出土物はぶったまげものだっだ。まるでペルシャあたり直伝の文化だ。
古代の半島は、様々な民族が記録されてるからなあ。
伽耶って任那だろう。
倭人の基地だろう。まあ、他の半島地域と同じで
細かく見ると雑多だったろうけど。
扶余の領域が、高句麗
扶余、漢人、倭人の連合が、百済
扶余、漢人、韓人の連合が、新羅
倭人の領域が、任那
だろうよ。百済、任那の滅亡で
半島から倭人の領域と、倭人の影響は消えるわけだろう。
>>174 いやいや、伽耶は弥生時代の倭人とは別種の倭人っぽいよ。
>>175 倭そのものとは書かれて無いしね。
伽耶、加羅、任那とか
細々してても、固有の国家名持って書かれてるから
独立した国だったんだろう。
韓人だの倭人だの別種の倭人だの分ける事に意味はあるの?
黒い髪、黒い瞳、黄色い肌
元はと言えば全部大陸から来た同じ人種だろうよ
178 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 00:10:15
倭という名前や文化からして、中国南部からきたようだが、
日本人韓国人の遺伝子や身体的特徴はモンゴルやシベリアに近い不思議。
>>177 どこの集団で活躍してきたか、というのは大事だ。
今の時代の会社や企業のようなものだな。
どこで仕事してきたのか。
民族がわからんって奴は
仕事を何やってきたかわかりません、と言うのと同じ。
民族なんてどうでもいいジャンと言うのは
履歴書を適当にいろいろやってたと嘘をついて誤魔化すことと同じだろ。
181 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 00:41:34
>>177 大陸の地続きなら北から南へ徐々に民族が変化するだろ
ところが半島ではいきなり違う系統がぶつかっていたんだな
同じ大陸の人間でも倭人は海からやってきた南方系
>>177 そりゃ現代での話だw
古代においては、今で言う国の境と言うのはほぼ別世界で県とか言うのは
今で言う国ぐらい違うものだった。
だから倭では50もの国が個別で存在し、それは韓でも同じだった。
特に韓では騎馬民族系の連中や中国人がかなり流入していたし。
そういう意味で九州の倭人は当時の半島人と比べても独特だったと思う。
>>173 それはいわゆる秦氏だな。
当時の中国の文献ですら民族が異質だと書いてある。
馬韓が彼らに半島の東部を割譲した事から秦韓とよばれる。
彼らはいずれも西域の流れ者であると考えられる。
>>173 あと、そこででた出土品って言うのは日本の飛鳥でも出てくるんですよ。
蘇我氏が新羅との貿易でたくさん輸入していたことは明らかでしょう。
九州から〜東北にまで蔓延った古代古墳王朝とは朝鮮とのかかわりが
非常に強く、また朝鮮南部を倭が支配して、シルクロードの経由地として利用した。
つまり、そうすると雄略天皇などは鮮卑系、あるいは新羅系であったり
した可能性もあるだろうしとにかくオリエントや遊牧民族との親交が深い。
15世紀以降に日本へ来た西洋の人々は日本のオリエント的な風土に
驚いてて、中国朝鮮とはどこか違う印象を日本に覚えたそうだ。
あと、こうした文様は唐草模様というよな。
中国唐から来たのか、それとも朝鮮の韓(秦韓?)から来たのか、語源はどっちが先かね。
唐草
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8D%89%E6%A8%A1%E6%A7%98
唐草模様はペルシアですね
「だから、日本はペルシア人による征服王朝だ!」という論を展開する人はいないけど、
むしろいるべきだよな
「騎馬民族の工芸品が豪族の古墳から発見されるから古墳時代の日本は騎馬民族による征服王朝だ」
という馬鹿単純な主張をする人がかつては大勢いたんだから・・・
現代の日本にヴィトンのバッグがあるからと言って現代日本がフランスによる征服王朝であると主張するような
こうした類の論はアホらしいと個人的には思うが・・・
新羅三郎 甲斐源氏武士団の棟梁
>>188 実にいい例えだ。グッジョ!
確かに産業革命後の大量生産されたヴィトンやエルメスの洋服、おベンツやBMWの模型を副葬したからと言って、
影響を受け珍重した証にはなっても、おフランスやドイツの支配下にあったとは言えない。
しかし(産業革命前の)職人の手作業による高級嗜好品やブルボン王家の百合の紋章が入った品を副葬したとなると意味合いが全然違ってくる。
そこら辺は区別しないといかんな。
192 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 10:29:27
それらしいスレがないからここで質問しますが、1389年の高麗の対馬侵攻についての
日本側資料ってどんなもんがあるんですかね。
ネット上では、1389年の対馬討伐で倭寇が激減した、としか書いてなくて。
194 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 12:07:06
康応の外寇って年表に載ってるだけだな。
倭寇との関連で調べたほうがいいじゃないか?
対馬市の資料館なんかに聞くとか。
李成桂が行ったのか?
197 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 14:32:23
>>194 それって裏をとれる物なの?ものすごく嘘ぽい気が・・・
199 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 19:38:37
だから日本側資料で裏を取りたいんだけどw
韓国版wikipediaでは
1389年 第一次対馬征伐(指揮官 朴イ)
1396年 第二次対馬征伐(指揮官 金士衡)
1419年 第三次対馬征伐(指揮官 李従茂)
となってますね。
取り敢えず
ww.pref.nagasaki.jp/t_reki/
にメールで聞けば?後は国会図書館なりで調べるとか・・・
そうします。
>>191 いまさら騎馬民族説に勇んで反論するのもいかがなものか
204 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 22:19:52
鎧馬具や横弓が日本の古墳から発掘されていたから。
九州人は石人とか作ってたし、奈良に亀石の作りかけがあったり
騎馬民族系文化が輸入されてたのはあるよね
207 :
日本@名無史さん:2010/10/12(火) 10:33:35
石人石馬は熊本系だな。
筑後では岩戸山、石人山古墳群くらいしか例がない。
熊本勢力が筑後平野に侵入してきた橋頭堡的な場所。
久留米まで来ると石人石馬の痕跡はない(とおもう)
>>207 熊本系ってなんだよw
石人石馬は磐井と新羅とのつながりという文脈で注目されてる遺物だろ
八女も新羅も熊本勢力ってか?
ん、らーめんの話?
熊本の勢力は磐井が倒されてから領域を広げたんでしょ
>>197 わけの分からん奴に降伏して刀差し出すより死を選ぶのではないかと思うのは贔屓目な見方なのかな?
>>199 3回も対馬に海賊しに来てるのか・・・
最悪だな
日韓の不安定な方が海賊になって一方を襲うものらしい。
これは唐代以降の地図だと思われるが面白い事になんかいろいろある。
ちなみに日本列島は省略されて書かれてない(笑
あるいはそれぞれ小さな島として書かれてる。
日本、扶余、毛人、倭奴、昌国がかれてある。
俺は日本は畿内ないし九州で、毛人は関東、倭奴は関西か東北であると考えてる。
ここで問題なのは扶余と昌国である。
実は琉球と言う国は唐代の頃よりすでに確認され日本系の国として
存在し日本書紀にも書いてあると、くろがねひろしがお昼のワイドショーで言ってた。
昌国は台湾か琉球であると思われる。
問題は扶余である、これはひょっとすると対馬かも知れない。
あるいは耽羅国(済州島)であると考えられる。
http://www5.tok2.com/home2/okunouso/photo1.jpg で、何がいいたいかと言うと白村江以降の時代と言うのは
まあ要するに白村江の唐の戦勝国陣営のシンパ連中が
和国の政権を支配してるんだろうけど倭奴は「イェード」とか
朝鮮語の「倭奴=ウェノム」つまり上野とか蝦夷なわけ。
で、もし倭奴が実は関西の堺の河内王権の事でそれが
白村江以降は関東や東北人に対して言われるようになったとしたら
つまり、朝鮮半島南部も含めた倭の連合王国は白村江の敗戦で
事実上崩壊したことになり、その後その倭の政権あるいは王権は
関東に追い出だされ、それ以降の日本では朝鮮から完全に撤退して
中国系の新興文化国として再スタートしたわけだ。
平将門は実は倭の旧王権の末裔で関東で新皇をやろうとしたが失敗。
これは想像だが、そうなってくると天皇家のルーツも含めてちょっと大変な事になる。
つまり誰が白村江以降の王権を引き継いで運営したかってことなんだから。
>>212 単なる海賊行為じゃなくて元とか金の使いばしり。
朝鮮がアメリカとベトナム戦争したのと同じ関係。
訂正
関東に追い出だされ、それ以降の日本では朝鮮から完全に撤退して
中国系の新興文化国として再スタートしたわけだ。
↓
関東に追い出だされ、それ以降の日本では朝鮮から完全に撤退して
倭の王権のあった奈良に都を移して中国系の新興文化国として再スタートしたわけだ。
中国系といっても、その時代は五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)であり
唐はアルタイ諸語の鮮卑拓跋部の王朝である
217 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 13:58:52
日本人はトルコ人の一派だろう。
218 :
214:2010/10/18(月) 14:00:54
で何が言いたいかって戦後の日本とまったく似たようなもんじゃないかと思うわけ。
日本は朝鮮の権益を失い前時代を否定するようになり勝った国の
文化に準じて天皇と言うある種の中国式の王朝制度を整えた。
厳密には丸パクリじゃないから中国式と言うのは誤まりだけどさ。
トルコ厨がくると狼狽するのであった・・・
220 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 16:05:41
>>213 向こうは正規軍だから少し違うんじゃない?
チョンは戦下手だから少数では相手にならないし。
221 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 16:25:22
で、何がいいたいかと言うと
トルコと言うなら根拠を示せ。
222 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 16:34:32
223 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 20:40:32
白村江は比羅夫が神託に従い無理に回り込んで
日の出の方角から攻めたから負けた。
唐の放った火が、
偏西風に煽られてみるみる船に燃え広がった。
船の舳先を廻らすこともできなかった。
そりゃそうさ後ろに逃げ道は無いさ、
動ける船は先を争い帰ろう倭国へ。
なんで半島南部に上陸して陸上戦でじわじわ行かなかったんだろ
秀吉の時みたいに
225 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 02:20:41
船がないからさ
226 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 09:00:46
じわじわだと
周留が落ちる。
227 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 17:53:37
日本語はウラル・アルタイ語族だろ。
>>224 半島南部はすでに倭が征服してた。
現地戦は現地の兵に任せたんじゃないか?
>>99 >
>>83 >紀元2600年はウソだからな。
>初期の天皇には120歳以上生きたことになってるのが沢山いる。
>在位期間も異常に長い。その後の天皇と比較すれば明らかだ。
230 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 13:03:36
その中で強国の百済が滅亡しかけたから出兵したんだし、現地兵はあてにならんだろ。
豊章とかいう皇太子が一番の食わせ物だったな
奴の救援要請に応じて出兵した倭の武将たちが大勢戦死したり捕虜になったりしてる中で
自分だけはちゃっかり高句麗に亡命しやがったんだよな
朝鮮クオリティー全開のクズ
今後一切朝鮮人に関わるのはやめようという決心がついたという点では良い戦争だったんじゃないでしょうか
授業料は高くついたが・・・
>>231みたいなクズはともかく
朝鮮と日本の紐帯が切れたのはこの時代だな。
豊章が自軍の優秀な軍師殺した上に
大事な城を、倭軍迎えにいくとか理由つけて(本当は自分がその城を気に入らなかっただけ)抜け出して
それで倭・百済の両軍の士気がガタ落ちしたとかなんとかいうのを
どっかの本で見たな
235 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 09:14:39
>>234 > 豊章が自軍の優秀な軍師殺した上に
これは一番痛かったな。
236 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 09:21:10
まあ、余豊は中大兄のモデルだけどな。
237 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 10:40:29
舒明こと大王田村王子=義慈王
天智こと中大兄王子=余豊
これはガチだな。
舒明とか天智は当時の百済王族をモデルに創作された虚構の人物
電波乙
239 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 15:14:23
解決しました。
画家は太田天洋、村上水軍博物館所蔵のようです。
韓国人は秀吉朝鮮出兵とか明治以降の韓国併合とかの日本の半島進出は非難するのに、
何故楽浪郡崩壊あたりから白村江敗戦までの半島進出はなかったことにしたいのだろうか?
242 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 07:32:57
古すぎて関心が低いってのもあるだろうな。
日本でも太平洋戦争は話題になるが、壬申の乱は歴史マニアしか話題にしない。
243 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 08:35:47
>>241 倭に文化や鉄を伝えてあげた百済や伽耶が
倭の大王の宮家扱いかつ
二重朝貢の異民族国家だったなら
日本に恩を着せれないからじゃないか?
我々の先祖は一体何をしていたんだみたいな疑問の生じる。
>>242 彼らの関心は低くない
漢人であろう和邇吉師をと
教科書で朝鮮人と教えている
朝鮮人は焚書してしまったので
教科書に文献以上の正当性を与えている
古墳や遺跡も新造でOKな国だからな
事実よりも願望の方が真実であるミンジョク
245 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 18:26:56
日本に支えた連中の子孫は災囚島&全裸道に追放
現代まで差別し続ける連中だもん
246 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 21:47:11
朝鮮の文化が倭より進んでいたのも
地理的な問題と漢四郡があったからってだけの話
なぜ発展、継承出来なかったのかな?
韓国は日本の資金&技術援助でやっと飯が食えるようになったが、
朝鮮人本来の実力はアジア最貧国の北朝鮮だし。
247 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 04:20:56
この時代を現代の日本、韓国にからますのは歴史の事実(実際に有った事)を探求するには有害なだけ
それよりも
1)なぜ軍事力総動員してまで百済救援をしたのか(強大な唐を敵にする事になる)?
2)敗退後攻め込まれる事を想定して防備に邁進(近江遷都もその一環)
3)脅威が薄れた後は(天武以降だが)再び半島(新羅)にはあたかも宗主国まがいの態度
特に1が謎だ
248 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 04:40:52
>>247 > 2)敗退後攻め込まれる事を想定して防備に邁進(近江遷都もその一環)
水城や朝鮮式山城をつくったところで、唐が本気で攻めてきたら
守れなかったと思う。
249 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 04:42:13
>>247 > 1)なぜ軍事力総動員してまで百済救援をしたのか(強大な唐を敵にする事になる)?
唐の水軍を過小評価したんだと思う。
250 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 05:12:37
>>22 昔は今みたいな民族主義無かったんじゃねーの
新羅4大王とか初代総理大臣なんて日本人だっしょ
倭国が半島南部を治めてたとしても現地頭領は今で言う日本人かも知れないし朝鮮人かも知れない
251 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 05:24:12
隋書によれば百済なんて日本人中国人朝鮮人の坩堝だったみたいだし
白人とか黒人とかの違いがあれば何か違ってただろうけど中国人日本人朝鮮人なんて見た目ほとんど変わらんし
旧石器人(港川) 身長150cm
縄文中期人(東北地区) 158cm
縄文晩期・弥生早期人 (若海貝塚) 170cm
弥生前期人 (土井ヶ浜) 167cm
見た目で旧石器人は目立つと思うぞ。
>>250 ああ、少なくとも今ほど民族区分ははっきりしてないと思うよ。
255 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 13:11:02
247と248
の時間がおかしいが
たまにあるんだっけ?
どうも唐がどの位強いか何も調べず戦闘に
入ったらしいぞ。日本人らしい話だが。
257 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 15:58:37
アマド分が足りない
甲冑、盾、石人、石馬はどこから来たんだ!!!
armored warriorはどこから来たんだ〜
260 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 18:27:26
>>256 流石にそれはわかるだろう。仮にも当事最大の大陸だし。
滅亡の遠因となる位全力だしてくるのは予想外だったろうが。
また百済ら味方勢力の残党過大評価してた様に見える。
>259
石人石馬は筑紫独自の文化だろう
>>256 さすがにありえん。白村江の戦いの4年前に遣唐使出しているんだぞ。
650年代は遣唐使が3回も出ていて、唐との関係が一番密接な時期ともいえる。
なのに、なぜか白村江で戦った。
拓跋部族同士の争いなんじゃない?
日本にも、拓跋が政権に食い込んでいたとしたらの仮定の話だけど。
264 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 19:36:06
>>263 > 日本にも、拓跋が政権に食い込んでいたとしたら
日本ユダヤ同祖論以上に過激な説だ。
265 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 19:46:12
よ、読めない
266 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 19:49:12
白村江以後に3回
これは、戦後処理や交渉じゃね?
捕虜も沢山居ただろうし。
それとも、「ごめんなさい、朝貢貿易させて下さい」
かな。
でもそれ以降は30年、遣唐使無くなるんだよね。
268 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 20:20:15
>>267 開戦当時の軍部と
天智・天武・藤原鎌足がいた倭国首脳の能力には格段の違いがあったと思う。
269 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 20:57:51
百済救援戦争って天智や鎌足がいて、あの惨敗だったわけだが・・・
270 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 00:24:33
全近代日本はよくも悪くも海が天然の鉄壁となったからな。
同盟を結んだ以上は正式に解消するまでやれるだけのことはやるしかないんじゃ
272 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 04:53:11
どのような同盟か分からないが
なにせ百済自体は滅んでいるのだから
倭国にいた王族を送り込み現地のゲリラ部隊(?)と共に
百済復興しようという戦争だから簡単に決断できる話ではない
出兵に反対した勢力もあったんじゃない?
斉明天皇は救援要請を受けてよっしゃと奈良を出発したものの、
北九州についてさらに詳しい戦況を逐一リアルタイムで聞くにつけ、
これはちょっと話が違うぞと悟って開戦に反対して主戦派(中大兄皇子)に殺されたんじゃなかろうか
一応、斉明天皇は中大兄皇子の母なんですが
あちこち出張させて過労死させたんですかね?
275 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 18:27:32
>>269 インパールの名将・牟田口だったらもっと負けていたぞ。
蝦夷討伐に出ずっぱりだった軍隊を、休息もなしにそのまま朝鮮に送り込んで、
ろくな計画もなしに戦闘に至ったわけだから、負けるのは必然ともいえる。
朝鮮出兵に至るまでの、朝廷の放漫ぶりは酷すぎる。
しかもそれを諫めようとした家臣を粛清したりしている。
277 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 03:48:56
>>276 > 朝鮮出兵に至るまでの、朝廷の放漫ぶりは酷すぎる。
天智・天武・藤原鎌足といえどもおごりがあったのか?
唐の水軍を過小評価して
アベヒラフの個人的な勇猛さを過大評価したのか?
>>251 百済人ではないけど同じ半島の秦韓の秦人は明らかに民族的なものが違うと書いてある。
秦人は現在のウィグルやキルギス、カザフスタンなど中央アジア系民族であったと思う。
彼らは胡人だから人種的にも極東新モンゴロイドとは大分違ってたはず。
>>276 朝鮮直接支配、占領のチャンスだと思ったんだろ。
あと唐に半島までこられるとまずいってのもあるが。
>>278 カザフやオイラトモンゴルも新モンゴロイドであることには変わらない。
骸骨を見れば、ハルハモンゴルやマンチュリアと同じアスペクト比。
骸骨から復元した顔は20%近い誤差があるので眼や鼻の形は特定できない。
美容整形では骨を変形させなくとも、20%程度の顔の補正ができるからだ。
秦人といっても、骸骨ではそれほど変わりはない。
また、ウイグルでもホータンのほうは人種が違いコーカソイド。
あと、史書は民族的に違うという記述は言語の面に着目している。
「秦語を話す」というのは、陝西あたりの西戎の言葉を話すと解釈する人が多い。
281 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 12:06:20
>>280 妥当な説ですね。秦人はコーカソイドではない。
魏志韓伝に「洲胡」がある。これは「胡人の島」の意。
>>280 そうそう。
「我〜」の事を「阿〜」と言う風に話すとかね。
>カザフやオイラトモンゴルも新モンゴロイドであることには変わらない。
>骸骨を見れば、ハルハモンゴルやマンチュリアと同じアスペクト比。
>骸骨から復元した顔は20%近い誤差があるので眼や鼻の形は特定できない。
骸骨の形質はモンゴロイドかもしれないけど目が垂れてるとか
眉毛がVの字で上向きとか多分違ったと思う。
肌の色も褐色とか、髭が濃いとか。
胡人という言葉の意味も、髭を生やしたイスラム的な人々という意味もこめられてるそうだ。
あと養蚕を生業にしてたというのもあったと思う。
そこから「はたおり」という言葉が来たとか。
>>282 たしかに陝西あたりまでいくと髭が濃くなるなー
女子中学生でも髭が生えている
284 :
283:2010/10/28(木) 12:25:18
>眉毛がVの字で上向きとか多分違ったと思う
逆だ、逆V字の眉毛で泣いたような顔
犬のように黒目が大きいので視点がどこ向いているかわからない
285 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 14:23:53
>>279 > あと唐に半島までこられるとまずいってのもあるが。
魏のラクロウ郡やタイホウ郡があっても、日本は別に困らなかったからなあ。
286 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 15:44:58
>>286 もろに古モンゴロイド形質だな。
まあ日本人女性はそんなに古モンゴロイドってわけではないけど。
高顔で北方形質の古モンゴロイドって、人類学的に正しい言い方なの?
>>287 こんな平べったいナシ族のような顔を、古モンゴロイドとは呼ばない。
おまえの概念は人類学に沿ってないから、誰にも用語が通じないんだよ
>>287 髭とか二重瞼なんか枝葉末節で、骨格のほうが優先順位が高いの!
>>285 隋や唐は異民族国家
漢民族国家以外は受け入れがたい雰囲気があったのかも
292 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 21:54:29
_......_
__ /.::::::::::`:.、
/, - r, /::::i::::ハ:i:::::;::',
r-'ヽ./イ i::::|イ/' '-ヘl:::i
` ー、i { l::::l '"´  ̄ l:::l そんなことはない
l! l l::::ト、 r_っ ,ィ:::l 秦も漢民族ではない
l トヽ::l弋ニ<l::::l!
ゝ- イ` イ^イ
| /-{′
始皇帝陵を公開しないのはそういう意図もあるのかな?
異民族の支配王朝だから、隠すと。
チベット族、ナシ族も渤海あたりとルーツは一緒らしいから、エミシとも共通性があるだろう
>>291 隋・唐は拓跋氏ではない。
隋唐を拓跋系国家とか異民族国家と決め付けるのは少々乱暴だと思うぞ
六鎮出身者も、五胡十六国時代初期ならまだしもこの頃になるともう胡族と漢族が通婚しあって風習や出自なんてごっちゃ煮状態
>>293 始皇帝の陵墓は本当にあるのか確定していない。
呂不韋が、「呂氏春秋」で自分達の民族は火葬をすると記述しており
さらに、墓標を立てないor散骨すると受け取れるような記述もしている。
司馬遷は、「史記」で始皇帝は呂不韋の子であるようなことを書いている。
あとは過労死した賦役者の死骸がゴロゴロでてくるからかな?
湖北や湖南あたりの人と頭蓋骨が似ているというので騒ぎになった。
やぱーり、楚の国から連れてきていたのね・・・と。
それじゃ項羽も怒るでしょう。
>>291 日本て古代から、実は漢民族国家以外とは基本的につきあわないんだよね。
例外なく。後漢とか南北朝時代の南朝とか、宋とかとは国交有るけど、
異民族だと基本は無視。
今の状況を考えると嘘みたいだし、反論されるかも知れないけど、
古代から近代まで(清朝まで)含めて
、日本ほど親漢民族な国家はアジアでも本当に稀。
まあ、昔の本当に古代の「漢民族」に対する親近感だったのかもしれないけど。
301 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 02:19:13
だって、江沢民は嫌いなんだもん!
302 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 04:02:07
>>300 高句麗、百済、新羅、渤海などなど、
東夷諸国とは普通に国交あったてば
日本は中国の覇者が何民族かなんてそれほど
気にしてないんじゃないか?
漢民族じゃないから馬鹿にしている文献ある?
執拗〜にこだわったのはお隣。
303 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 04:17:41
>>300 つか、このスレでもさんざガイシュツのように、隋・唐の支配層が
鮮卑という意識を持っていたのかというと非常に疑問なわけだし。
民族意識なんて実際の血統うんぬんよりも、どう自称するかのほうが重要
なんだけど、隋書では隋の皇室の楊氏は後漢の官僚の震煬の末裔、新旧の
唐書では唐の皇室の李氏は老子(李耳)の末裔ってことになっているんだぞ。
そして、当時の日本人も隋・唐が鮮卑だなんて思ってもいないだろうし。
>>302 えー知らないの?
半島諸国は、中国が漢民族と北方民族で分裂してる時は、
ほぼ間違いなく北方の方について、漢民族とは国交して無くて、日本と真逆だよ。
日本が晋や宋と国交してる時は、朝鮮は北魏と国交してるし、
日本が宋と国交してる時は、朝鮮は金とかモンゴル系の国と国交してる。
元の時代の高麗王朝は女真族の王朝で代々王妃がモンゴル人で名前もモンゴル名・
辮髪胡服の国。日本は南宋滅亡直前まで南宋側で、元寇で元と戦い、どんなに使者を送ってきても、
絶対に国交を結ばなかったのは有名な話。
日本:親漢民族国家
朝鮮半島各時代の国家・王朝:親モンゴル系や北方民族国家
これは事実でしょ。
>>302 漢民族じゃないから馬鹿にしてる文献なんて沢山あるよ。
元とか清とか、向こうから丁重に使者を送られても、絶対拒絶してるし。
日本人の祖先でも、新撰姓氏録とか見ても解るけど、
渡来系でも先祖が鮮卑系とか拓跋系ってOだよ。
秦の始皇帝か漢民族系だけしかいない。百済だって扶余系とは書いてない。
拓跋に石人石馬作られているからな ^^;ゝ
↑本気で言ってるの?
310 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 18:01:04
藤原紀香ってぜってぇ拓跋系だよな
311 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 20:01:06
藤原紀香のルーツは紀伊半島の山中
関西では珍しい非朝鮮系の長身族
313 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 21:26:15
>>306 >朝鮮半島各時代の国家・王朝:親モンゴル系や北方民族国家
武力で屈服させられた末の泣きの涙の親モンゴル・親満州だ。
地続きだからしかたない。
モンゴルの人質になった王子がモンゴル服を来て弁髪で帰って来たときは宮廷の女たちは
みな泣いたという。
李氏朝鮮は始祖が女真の疑いが強いが、そのくせ満州を軽蔑していた。
だから満州から臣従を迫られても無視した。そのあげく徹底的に負けて
王が首に縄をかけて降伏儀式をやった。
それがあっての清国への臣従だから、朝鮮人の対清感情は非常に屈折している。
>>313 その歴史は本当に史書に書かれてる事ですか?
対モンゴルの感情とか。ソースがあったら、教えて欲しい。
なぜなら朝鮮系の事って、事実と違って、感情論で書かれたり
捏造が多すぎるから。
朝鮮半島諸国が、日本と違う歴史を歩んできたのは事実だし、
奈良時代以降は国交も殆ど無いし、移民した人間も双方共に
ほぼ0でしょう。古代の百済人の系図は現代の朝鮮民族(高麗人)
と全く違うし、事実上、朝鮮諸国と日本は、本当に近くて遠い国だったんですよ。
意味不明の馬鹿が無理矢理書き込んでるみたいだけど
何が面白いのやら意図や目的がわからん
嫌韓厨だろ、鮮卑族拓跋部も朝鮮の鮮の字が付くから嫌い
浅はかなやつ (^o^)ケケケ(^o^)
>>315 >>316 俺が立ち上がったのは、歴史を普通に見れば解る事を誤魔化す奴らを
野放しにしてきた事の延長上に、今の日本の現状が有ると思ったから。
例えば尖閣で日本側が譲歩したら、その後攻勢をかけてきて、
日本がとことん譲歩させられるだろ。
こういうのは全てに共通する事なんだよ。
言われっぱなしにしてると、日本人の祖先が守ってきた歴史すら奴らに蹂躙されて
失うって気付いたから。
正論は絶対にやめないよ。虚偽よりも真実の方が崇高だし、面白いから。
日本人全部と、先祖の名誉と、真実の尊さの為に、絶対俺は
語る事を止めないよ。
もう一度書くよ。
朝鮮半島諸国が、日本と違う歴史を歩んできたのは事実だし、
奈良時代以降は国交も殆ど無いし、移民した人間も双方共に
ほぼ0。古代の百済人の系図は現代の朝鮮民族(高麗人)
と全く違うし、事実上、朝鮮諸国と日本は、ごく近世まで
本当に近くて遠い国だった。
不自然な、誰かの陰謀の為に、日本人が、朝鮮人に譲歩し、
自らの崇高な歴史を売り渡す必要は全く無い。
なぜここに再び書くかって?
>>315や、
韓国人達が、歴史の捏造を政治的に利用してきた事実が有るからさ。
319 :
日本@名無史さん:2010/11/01(月) 01:30:31
これ→
>>306 のほうがよっぽどおかしいだろ
こんなの書くやつは江沢民の手先にちげえねぇ
【審議中】
∧,,∧ ∧,,∧
∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
| U ( ´・) (・` ) と ノ
u-u (l ) ( ノu-u
`u-u'. `u-u'
320 :
日本@名無史さん:2010/11/01(月) 01:34:25
>>306 半島諸国は、中国が漢民族と北方民族で分裂してる時は、
ほぼ間違いなく北方の方について、漢民族とは国交して無くて、日本と真逆だよ。
日本が晋や宋と国交してる時は、朝鮮は北魏と国交してるし、
日本が宋と国交してる時は、朝鮮は金とかモンゴル系の国と国交してる。
元の時代の高麗王朝は女真族の王朝で代々王妃がモンゴル人で名前もモンゴル名・
辮髪胡服の国。日本は南宋滅亡直前まで南宋側で、元寇で元と戦い、どんなに使者を送ってきても、
絶対に国交を結ばなかったのは有名な話。
日本:親漢民族国家
朝鮮半島各時代の国家・王朝:親モンゴル系や北方民族国家
これは事実でしょ。何が不都合?
だからと言って今の中国とは関係ないじゃん。江沢民とか当然大嫌いだし。
そうじゃなくて、
朝鮮人が、ずっと中国と日本の文化の懸け橋とか、朝鮮経由で中国文化が来たとか
根拠のない事を書いてるから、
朝鮮諸国がモンゴル文化一辺倒だった時代に、日本が直接宋などと交易してた事実、
むしろ朝鮮よりは日本の方が直接中国と国交してた事実があるって事を、
多分朝鮮人は知らないか、ごまかしてると思う。
だから書いてる。
いまの中国(中華人民共和国)みたいな、反日な国はずっと国交断絶でいいと思ってるよ。
だからといって拓跋までモンゴル・女真と一緒くたにして嫌悪することねーだろ(^o^)
>>321 当時の日本人が隋・唐を鮮卑国家だとみなしていたとういうソースを出してから
モノを言え。キチガイ
高句麗や新羅から難民・移民来とる。
新羅・高麗・朝鮮とも貿易もしてた。
朝鮮が倭寇対策に倭寇に官職を与えて朝鮮国内に住まわせたり、日本の交通使のために倭館を建てて日本人がそこに常駐していた事を知らんのか。
325 :
日本@名無史さん:2010/11/01(月) 08:34:10
>>314 >その歴史は本当に史書に書かれてる事ですか?
>対モンゴルの感情とか。ソースがあったら、教えて欲しい。
そんなことも知らないで脳内だけで書いてるの?
李成桂女真説以外はすべて高麗史、朝鮮史に書かれていることだよ。
>>323 ソースもなにも当時の世界の人々の常識
日本人にとっても朝鮮人にとっても、もちろん中国人にとっても常識すぎる
逆に隋・唐を鮮卑国家では「ない」とみなしているソースがあって、その勘違いを面白がるのならわかるが・・・
君は恥ずかしいから書き込まないほうがいいよ
327 :
日本@名無史さん:2010/11/01(月) 12:49:20
ツングースやチュルクの言語で文書を送ってきてないだろw
一応、隋・唐はシナ・チベット系の言語らしく、語順のぁゃιぃ漢文だ。
328 :
日本@名無史さん:2010/11/01(月) 12:57:51
日本は、隋・唐も秦とおなじぁゃιぃ漢文で
チベット羌系かなーって錯覚していたに違いない。
330 :
日本@名無史さん:2010/11/01(月) 13:00:59
はい昼休み終了
また夜に相手したやるよ
331 :
日本@名無史さん:2010/11/01(月) 16:35:09
>>306 えー知らないの?って東夷諸国と国交あったの知らなかったの自分でしょ?
勉強もないで馬鹿まるだしなんだよなぁ。
その他の主張も見当違いで説得力も無ければまともなソースすら見つけられない子、読んでて痛いぞ。
>>329 お前、頭おかしいから書くのやめたら?
>>331 >>306って全部普通に歴史書に書いてある事でしょ。中国史、三国史記など。
朝鮮諸国は大体いつの時代も北方系(モンゴル。女真。)と国交してる。
ところが、不思議なのは、
実は日本の方が歴史上、一貫して(一応)漢民族系の国とだけ国交してたという事実を、
朝鮮系の人が認めたがらず、時にはその事実を突き付けられると、
>>329みたいに狂う事。
「朝鮮が仲介して日本に文化を伝えた」という虚構が崩れるからだとしか思えない。
333 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 08:32:23
仏教は後秦や北魏に経典が集積して
そこから渡来したものが日本の主流になっている。
ところが朝鮮では天台系や密教系の宗派は非主流であり
日本とは趣きが異なっている。
韓国自体は北方系文化の色彩が弱いので
朝鮮半島南部を基盤とする政権は、李朝でも高麗でも
北方系に自己に足りないものを求めたのであろう。
335 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 10:25:14
>>334 > ところが朝鮮では天台系や密教系の宗派は非主流であり
> 日本とは趣きが異なっている。
日本の宮廷は現世利益(密教)が好きだからねえ。
だいたい日本の宗派は比叡山からの暖簾分けだから
現世利益的ですよ。
>>300 おれは日本は少なくとも4つの異民族王朝と古代から関係を持っていたと考えてる。
インカ、マヤ、アステカなどのアメリカ圏、インド・東南アジアの圏、中華圏、そして
中央アジアから北東アジアのモンゴル圏。
ただ、最終的に漢(中国)以外に関係が続かなかったと言うだけ。
あと、漢は最も身近である。
(あと、王朝ではないがシルクロードと言う交流があった。相手はペルシャ帝国だろうか?)
基本的にインカや東南アジア、インドとは直接的に関係は無かった
だろうが、日本の巨石文化を見るとおれは海上の貿易と言う形でインカや
東南アジア、インドからの渡来人が多く来ていたと考えてる。
338 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 15:23:52
巨石文化は突厥チュルク系経由のスキタイ文明じゃろ
熱して冷水を掛けて割る
それがスキタイ文明
>>318 共感するよ。
いや、ほんとこの1500年間は近くて遠い国だったと思う。
それがどういう事なのかをもっと今の日本人は追及するべきだろうね。
>>307>>308 それは古代日本と飛鳥・奈良時代以降の日本と言うことで説明がつくとおもうぞ。
古代の渡来系はほとんど鮮卑とか扶余とか。(もちろん漢人も多い)
日本で古墳作りまくったのも、文化的体質が鮮卑など北東アジア系文化圏に
属していた鮮卑系の渡来人が多かったからだろ?
あと百済は南扶余である事は有名でしょ?
古代の中国の制作した古地図で対馬かあるいはチェジュが扶余って書いてあるよ。
で、当時の日本は日本国と倭奴国に分かれてる。
飛鳥時代以降になると日本の内部勢力が大きく転換されたんだろ。
そすると中華主義的な意識が根付いて天皇と言う小中華主義を築いた。
>>327-328 この時代の西域事情を考えれば隋唐が西域系の遊牧勢力
である事は間違いないだろ。
不滅の漢民族は実は三国志以降からは被支配側になってて
宋と明を除けばほとんど北東アジア遊牧系王権。
漢民族至上主義的な理想を追い求めてる中華思想のシンパだけは
そういうのをやたらと否定したがるけど。
>>341 上は梵字の臭いが強い
下はパスパ文字に近い
どちらも北インド系だが・・・
>>342 面白い事言うね。
上はソグド文字で、下はシリア文字だよ。
まあどちらもアラム系の文字だが。
ソグド文字は唐代にソグド人が使用していた文字で
西安に入ってきたマニ教やゾロアスター教の経典に使われていた。
後にウィグル人に採用されてウィグル文字に変化する。
その後ウィグル人は滅亡したが、ウィグル文字はモンゴル文字と
満州文字になって受け継がれている。
シリア文字は景教を伝来したペルシャ人が使われていた文字。
>>339 318参照。
貿易などの日本と中国朝鮮の関わりはかなり軽視されてるような気がする。
>>341 >鬼を崇拝したり
雲南のトンパ教とかポン教とかそのあたり共通で
一応、家族経営の拝み屋さんが担当することになっている。
政教分離されているので、モンゴル帝国や清朝の時代を経ても
存続し辛亥革命や文化大革命の後も復活した。
仏教を流行させたのは非漢民族の作った北朝だね。
日本は北朝系の隋が中国を統一して慌てて北朝の文化宗教政治社会制度を研究しだしたようにも見える。
特に仏教。
日本が南朝と交流を持つのは自然。
本流は南朝政権だしね。
>>344 ああ、それは勿論あるよ。
もちろんある、これはねえ恐らく日本の中華コンプレックスでしょ。
朝鮮が歴史帝に日本との関わりを抹消してるのと同じ。
だから、天皇の祖先が中国人だとか、仁徳陵の中の人のDNAは
中国人だから日本は中華王朝、中国領土であると言う人も居る。
だからあと、天皇号成立時に日本は属国であった事を
隠すために中国に朝貢していた倭の5王の記憶を
汚名になるから隠蔽したって言う事もやっぱり言われてるよね。
>>346 日本らしいなw
隋が中国統一して慌てて研究するなんてw
いつの時代もこの国はスタンスが変わらんのかなw
奈良時代は大仏が示してるとおり北朝仏教文化だね。
350 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 03:00:18
銅製の巨大仏像などを建立させようと進言したのは誰だったんだろうか?
玄ムだという説があったな
352 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 10:55:51
353 :
ダイワ:2010/11/07(日) 20:32:11
>>339 当時の日本は日本国と倭奴国に分かれてる (倭奴国?)
旧唐書・唐会要の 日本倭國之別種 の一文をもって判断されているのあれば直後の文章も読んでみてはどうか?339がいかに装丁の派手な文献史学を少しかじった輩の書いたトンデモ本に踊らされてるのが解るから
354 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 11:34:20
唐にたてつくことが危険なことだって日本はあまり意識してなかったんですか?
355 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 13:00:46
>>354 海の向こうだから倭国水軍がボロ負けさえしなければ大丈夫と考えていたのだと思う。
まるで太平洋戦争だな・・・・・
日本だけで戦ってたわけじゃないんだが…
358 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 13:20:31
それは太平洋戦争も同じ。同盟国を過大評価していたな。
まあ百済のアフォなプリンスが軍師を殺さなければ
かなり粘れたと思う。
それでも負けたかもしれないが。
359 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 13:22:51
一時的とはいえ数年の間東亜を日の丸だらけにしたWW2と一緒にするのはどうなの?
だいたい、投入兵力は大和が一番多かったわけだから
高句麗に何回か負けてる唐を破ることもできると
思ってたんだろう。
倭と高句麗って、渡海と言う面倒さもこなしてた倭だが
半島での戦いである程度互角だったみたいだし
ということは、唐相手でもやれると思って不思議では無いだろう?
日清日露戦争前後除いて古来から現代まで日本は
情報音痴、戦略軽視、現地戦闘能力重視、全く変わっ
ていない。
我等先を争はば、敵自づから退くべし
363 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 03:19:24
>>354 唐の膨張を恐れていたから百済・高句麗を戦略的に利用できる半島で勝負にでた
日清日露戦争前後除いて古来から現代まで日本は情報音痴、戦略軽視、現地戦闘能力重視
勝てば官軍負ければ賊軍の好例みたいな解釈だな
364 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 04:18:33
>>362 敵を待ち構えて成功した日本海海戦の逆パターンだよな。まずかった。
365 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 05:03:01
無理やり都合の良いところをピックアップして近代戦争と結び付けても
意味が無いだろ
>>363 勝てば〜みたいになってしまうが、事実だから仕方がない。
白村江、元寇、秀吉の明侵攻、満州事変を含む日中戦争、第二次世界大戦、
及び尖閣問題と日清日露戦争とを詳しく検証して比べると分かり易い。
367 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 08:08:16
白村江はたしかにボロ負けだが、
百済を復興させて唐の勢力を半島から減退させないと
日本が危ういという危機は切実だったろう。
高句麗百済の地は新羅が治めてたわけじゃなく
唐の領土になっていたのだから。
新羅だっていつ唐に飲み込まれてもおかしくはなかった。
開戦は必死だったろう。
日露戦争と状況は変わらんと思う。
必死…×
必至…○
370 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 19:17:46
>>368 > 白村江はたしかにボロ負けだが、
ニュー速住民なら「唐オワタ」と騒ぐんだろうな。
371 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 19:19:09
関係ないが新羅と唐の戦争は実際にはしょぼかったとする説もあるようだが。
372 :
本田:2010/11/12(金) 21:53:07
>>293 始皇帝陵をCGで再現したTV番組を見たけど、
アケメネス朝ペルシアの最後の王ダレイオス3世の墳墓と似ていた、
始皇帝はセレウコス朝に関係ありそうだ。
兵馬俑はヘレニズム文化の影響がある。
373 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 13:07:59
>>366 こいつに言わせれば
日清、日露で負けてたらボロカス言ってそうだな
ってか日清、日露だって日本側に甘いところを探せば
いくらでも見つかるんだから意味がない
374 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 13:17:26
何かこういう奴ってゲームの能力値が高い人物とか
教科書で太字になってる人物とかを
無条件に全ての面で能力が高かったと思いこんでそうwww
375 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 14:10:07
天智・天武・藤原鎌足と揃っていて
それでもボロ負けしたのは日本の限界かなあ。
唐は片方ではチベットなどと戦争もしてたから、ほとんど
2次大戦のアメリカ状態だね。
片手でやられたんだわ。
そしてその後は中国文化依存の1300年史が始まる。
377 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 16:05:55
大海人皇子が朝鮮半島にみずから乗り込んで指揮をとっていたらどうだったろうか?
戦術能力が無いんだよな。ヤマトは。
初めて、戦術能力のある人材を得たのは
坂上田村麻呂だろうけど、彼は帰化漢人系だからな。
まあ、彼は当時はすでに民族的にはヤマトになってたろうけど
中原に意識を持って、戦術を学ぶ必要があったんだろうな。
孫子とか。
>>373 勿論日清日露戦争はやる前から勝てる、という保証があったのではない。
但し、日清戦争は海軍力が五分五分になって戦争に挑めた。(その10年
前は1:3で勝負にならなかった。)
日露戦争は日英同盟を締結し戦った。この時代の政治家は幕末、明治維
新を生き抜いた先人ばかりで冷酷なパワ−ゲ−ムに立ち向かった。
こんな時代は日本史上例外ではなかったか?
380 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 21:58:41
そもそも
>>366の間違えは
白村江の時代の戦略比較で元寇から果ては尖閣問題まで持ち出し
日本の戦略が時代を通じて駄目だといっておきながら
日清・日露に至っては例外だときている。
どうせ比べるのなら同時代のアジア諸国の見識を聞かせてくれ
これ以上説得力の無い事をだらだら書きたくないだろう?
381 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 22:00:48
>>380 高校の教科書しか読んでない人には日清日露戦争は例外だ、と
言っても分からん奴には分からんだろう。
歴史を学び直せよ。俺もだらだらパソコンの前に居る程暇では無
いんでね。
383 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 11:49:42
これは失礼、もし382が歴史学の一分野でも学ばれているなら
この分野は客観的な思考が求められるのは承知のとうりです。
何か一つの結論をだしてしまったら「主観」に変わり「説」になる。
そうなると自分に批判的と感じる異論をぶつけられるのも当然ですよね?
「言っても分からん奴には分からんだろう歴史を学び直せよ。俺もだらだらパソコンの前に居る程暇では無いんでね」
では情けなくないか?
384 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 20:35:38
教科書しか読んでないのは
>>382だろう
いや歴史小説も読んでるのかな?www
385 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 20:39:00
388 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 10:15:30
通して歴史を見る目が足りんな。
389 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 13:27:26
天皇は百済から日本に渡ってきたの?
そんな事実は無い
鹿を聖獣とする連中が渡ってきたのは事実かもしれない
中国遼寧省から朝鮮半島の北部にかけて住んでいた民族といわれている
392 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 15:12:34
俺が立ち上がったのは、歴史を普通に見れば解る事を誤魔化す奴らを
野放しにしてきた事の延長上に、今の日本の現状が有ると思ったから。
例えば尖閣で日本側が譲歩したら、その後攻勢をかけてきて、
日本がとことん譲歩させられるだろ。
こういうのは全てに共通する事なんだよ。
言われっぱなしにしてると、日本人の祖先が守ってきた歴史すら奴らに蹂躙されて
失うって気付いたから。
正論は絶対にやめないよ。虚偽よりも真実の方が崇高だし、面白いから。
日本人全部と、先祖の名誉と、真実の尊さの為に、絶対俺は
語る事を止めないよ。
鹿は、皮革に価値がある
だが、トナカイのように世話をして乳をもらうことができない
搾乳や毛織での家畜としての価値は殆んどなく、狩猟対象動物である
なぜ奈良公園に鹿がぎょーさんいるのだろう?
394 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 15:16:59
どこで立ち上がるの?2ちゃん?
395 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 15:20:24
대한민국!
396 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 15:26:37
2CH?
397 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 15:27:25
この板は韓国に向けて発信できることを確認した
398 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 15:28:46
つインターネット
399 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 15:29:43
enjoy koreaなきあと2CHしかあるまい・・・
yuzuruサーバは韓国からアクセスできないぉ
kamomeかtokiで議論展開するしかないぉ
まあ日本から渡って行った人が百済の王になったことはあるよ
百済の文斤王がなくなり、天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、幼くとも聡明なので、内裏へ呼んだ。
親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵五百人を遣わして国に送り届けた。
これが東城王である。
廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王、以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。
親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、并遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。
402 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 22:24:10
>>393 :日本@名無史さん:2010/11/16(火) 15:13:11
>鹿は、皮革に価値がある
>だが、トナカイのように世話をして乳をもらうことができない
>搾乳や毛織での家畜としての価値は殆んどなく、狩猟対象動物である
>なぜ奈良公園に鹿がぎょーさんいるのだろう?
日本には鹿を家畜の様に飼う時代と地域があった。
それは5世紀の近畿である。
『車有馬車牛車鹿車 國人養鹿 如中國畜牛 以乳爲酪』『梁書』諸夷傳(東夷条扶桑國)
扶桑國は播磨國である。理由は以下の文による。
『扶桑國者 齋永元元年(499) 其國有沙門慧深來至荊州』
『名國王爲乙祁』
『其地無鐵有銅 不貴金銀』
『其俗舊無佛法 宋大明二年(458) [冠网厂垂扁炎旁右剣]賓國嘗有比丘五人游行其國 流通佛法經像 教令出家 風俗遂改』
百済って、扶余と漢人と倭人とその他が居たというが
そんなまとまりが無かったら
戦えないよな。
ヤマトが豪族の集まりでどうのとか言うことあるが
それでも同じ倭人とされる民族だが
百済はそれ、全く違う外人がバラバラに集団作って住んでたんだろ。
それを維持するのは至難じゃないか。だから百なのかな?
中国だって似たようなもんじゃね?
華南地区の百越とか
>>403 ヤマトも《唐書》によれば、
イズモ系なのかエミシ系なのかはわからんが
6世紀ごろお互い言葉が通じないようなバラバラだったと書いてあるな
407 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 07:07:04
神や神使いって時代が下れば増えてくものだし
鹿の他にも鳩狐鷺鶏猿烏蜂鶴鰻狼だってそうでしょう
ポスト騎馬民族征服説のつもりか知らないが、
半島経由と無理にこじつけるにはソースが弱いな
408 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 09:08:47
そこらは主力民族の割合じゃないか。
409 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 11:17:19
>>192-201の件で
対馬の長崎県立歴史民俗資料館に聞いてみた。
1389年の事件は、江戸時代の「宗氏家譜」に康応元年2月18日に高麗勢を追い返したと書いてある。
ところが、これは「高麗史」の該当記述をそのまま引用して書き加えただけらしい。
その他の書物も高麗史の引用が前提で、そこに藤・早田といった地元の土豪が追い返したという定かでない
伝承を採用してあるそうで、なにしろその子孫が書いてるから。
だから、日本側では記録がなかったのだろうってことだそうです。
1396年の件では、朝鮮の記録でも直接の戦闘があったとは書いていないし、1392年以降は李氏朝鮮なんで
1389年からわずか何年かの違いでも、日本側が閲覧できる歴史書は手に入らないので引用できなかった
みたいです。
朝鮮王朝実録が公開されたのは日本統治下の時代なわけで。
詳しくは厳原町史にまとめてあるそうな。
>>406 この頃の関東と中・西日本ってのは間違いなく別の国ですよ。
ただ関東の武蔵や相模などの国は物部系の属国とか支配地で
前方後円墳があります。
前方後円墳って、東日本のほうが多いんだっけな。
日本王国がどうのとかテレビでやってたが・・・
日高国だっけ?そういうのがあったと古事記とかに書いてたっけか。
でも、それって百済より前の話だよな?
まあでも、百済王族って百済滅亡後
そのあたりか東北に流されて、金山掘ったんだっけか。
甲斐信濃も亡命者の入植地で金山を掘っている
百済のもいたんじゃまいか?
>>403 百済の国名表記については、そうではない。
「百済」という漢字表記は、
実際のところ、原音への当て字だったろうと見られてる。
諸説あるうちの一例としては、
韓系古語由来の「パルク・チャッ(明るい城)」などが
唱えられているそうな。
>>411 一般論として、日本に亡命してきた百済の王族・貴族は、
西日本に入植した例が多いらしい。
たとえば、近江の蒲生あたりが有名だ。
近江大津宮の時代に学識頭(今で言うなら文部科学大臣)になった鬼室集斯(きしつ しゅうし)が祀られてる、
鬼室神社の名前を聞いたことないか?
(あと付け加えると、「東北に・・・」というのは、後に国衙の管理職として配属された人たちのことだろう)
一方で、高句麗系、新羅系の人たちは、東日本、例えば武蔵あたりに入植した例がかなり多いようだ。
>>413 百済人の亡命者が、百済を「くだら」って発音し続けてるんじゃないのか?
倭、大和をヤマト、と読むように。
それとも、そのパルク・チャッとか言う漢音っぽい国名だった
可能性のほうが高いわけかな。
415 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 22:50:01
>>413 韓系古語由来の「パルク・チャッ(明るい城)」などが唱えられているそうな
韓古語ねぇ〜殆ど解明されてない上に
あっちの研究者は結論を先に持ってきて、裏付け無しで適当いうからな
もっとも参考文献は外国文献だが
奈良が安羅だったり万葉集が韓古語で読めたりとかアホすぎ
>>403 初以百家濟海、因号百濟。
初め百家で済海(海を渡る)した故に百済と号す
>>415の403向けレス
それ、何だったか中国の史書の一節だったっけ?
それはそれで裏付けが無くて、説話的なくだりと見たほうがいいんでは。
百済社会の主流を成していた二大言語集団であるところの、扶余系、韓系のいずれにしても、
アルタイ系言語集団だったわけで、
漢系言語集団が主流の国ではないんだし。
417 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 23:17:25
熊津に遷都するまでは王族や貴族はほとんど扶余だったらしい。
>>414 日本で「百済」を「くだら」と読む慣習の由来には、
いくつか説があるけれど、
一つには「百済人が自国を誇った『クン・ナラ(大いなる国)』説」があったり、
また一つには「海洋交易場または首都の河川港からの『クドゥレ(船着き場)』説」があったりする。
それだが・・・・「くだら」と発音してる人と
「ひゃくさい」のような読みをしてる人と
これは、日本を「やまと」と読むと記録にあるように読むのと
「にほん、にっぽん」と音読み風に読むようになったことと
同じような現象なのかね。
420 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 23:36:42
「やまと」や「しら(き)」みたいにもともとは小地名なんじゃないのか?
>>419 まあ、「百済・くだら」の読みの由来が、まだ定説化されてないから、確定的なことは言えないにしても、
「日本」という国名は、大和朝廷成立のかなり後に、新しく使われだした用語なんで、
まったく同様の例としては、比較・対照させにくいみたいだね。
「百済」という漢字表記そのものが、当て字の可能性が高いものでもあるし。
漢字・漢文そのものは含蓄があって好きなんだけど、
古文献から原音を再建しようとすると難点が非常に多くなる文字・文献でもあるんだよなあ。
基本的には表意文字であって、表音文字じゃないから・・・。
>>420 その可能性もかなりあるね。
上の「パルク・チャッ(明るい城)説」も、
基本的由来としては都市国家単位を想定してるわけだし。
423 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 23:56:05
>>416 中国文献が説話的と切り捨て
ソースの無い現在の韓国人の戯れ事を信じるのは
どーかと思うぞ
古い文献の無い国なんだから日中の文献に頼らざるを得ない
>>423 いや、だからさ、
古語音の再建ていうのは、
単純に「史書にこう書いてありますから」ていうものなんじゃなくて、
たとえばモンゴル語とか日本語とかジュルチェン語とかエヴェンキ語とかヤクート語とか、
同一系統と見られる特徴のある各言語との比較対照の中で見ていくのが、基本だってことだよ。
425 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:02:30
「しら」、「あら」、「から」、「たむら」などみんな「ら」がつくよな。
>>425 (モンゴル語専攻でもあった)司馬遼太郎は、
「ら」という末尾音には国か何かを表すような意味合いがあったんじゃないか?とも言ってるね。
ちなみに日本語も韓国語もモンゴル語もトルコ語も、語頭にはRやLが付かなくて、第二音節以降に出てくる。
427 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:14:23
>>424 そこまで言うなら
パルク・チャッ
クン・ナラ
クドゥレ
具体的にこの説がどこの言語と比較対照した上で
導き出した結論なんだ?
428 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:15:02
しかしだ、百済を建国したのは扶余だし、
上に書いてあるように熊津遷都まで上層部は皆扶余系だったようだから韓系の名前が付いてるのはおかしい。
完全な想像だが、最初は「くだ」だけで韓人が後から「ら」を付けたとか。
429 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:18:09
司馬遼太郎?
少しかじった小説家という認識だが・・
>>428 韓人は、ぺくちぇ、と呼んでるだろ。
百済帰化人が、くだら、と呼んでるんじゃないか。
基本的に、今では日本人だけが〜らと呼んでいるわけよ。
たかまがはら、あしはらもそうだな。
しんら、はどうなるか。
しんらは、高麗の記録では建国に倭人が大きく関わってるようだし
何より、新羅の歌が残ってるようだが
朝鮮語で読むことが不可能と聞く。
やはり、〜らというのは倭人が元なのだと思うね。
432 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 01:07:55
日本にそんな地名あるか?
中国の音読み
〜らなら、〜はらは日本中にあるけどもな。
ヤマトの本拠地の橿原とかか。
435 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 02:06:01
らがつく言葉はある一定の領域を表す
のら 野良・畑などの生活空間
むら 村・共同体の空間
はら 原・のらの外側
から 自分たちとは別のところ
そら 空
うら 裏 浦
オラ 悟空
436 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 07:42:47
437 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 07:45:05
松羅なら古代からある。
朝鮮にも近い。
らの付く場所、全ての国に関わりがあるのは、倭人だな。
倭人の活動が強く見られだしてから
くだらやしらが建国されてるから。
それ以前は、〜韓だろ。
で、白村江の後、倭人は日本に帰って
半島では地名に〜はらなどを命名することは無くなった。
が領域をならのように呼ぶが、それだけが残った。
という流れが自然だ。
439 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 12:17:38
古代日本には古代朝鮮と似たような地名はあるか。
話はそこからです。
とりあえず松浦は関係あってもおかしくはない。
言語と言う以前に
日本と半島は、中国と比べて古代の資料が無さ過ぎる。
日本の古いので7世紀、半島は10世紀だったか
それじゃあ、百済の頃の言語や地名もわからん。
現在の地名は、古代とある程度発音が変わってるのが自然だろうし?
『三国史記』は12世紀頃
>>431 現代韓国語は、系統としては新羅語の流れにあるというよ。
新羅の郷歌も、ある程度、現代韓国語に通ずる表現を使ってたみたいだ。
たとえば格助詞にあたる部分の当て字の使い方とかは、現代語からもある程度類推できるみたいだし。
>>440 事例をここで一つ一つ挙げるのは難しいけれど、
昔の文献に残ってる地名等に関しては、
意訳と音写の混在や、古地名との照合などで、
ある程度解明されてる言葉や音もかなりあるそうだ。
>>426一部書き直し
日本語も韓国語もモンゴル語もトルコ語も、語頭にはRやLが付かなくて、第二音節以降に出てくる。
↓
日本語も韓国語もモンゴル語もトルコ語も、固有語では語頭にRやLが付かないという特徴があって、
固有語でRやLが付くのは必ず第一音節母音よりも後になる。
フィンランド語は日本語の文法に通じる見たいなトンデモ説
>>444 フィンランド語その他を含むウラル語族と、
モンゴル語その他を含むアルタイ語族とは、
系統的な関係があるかどうか不明だとされてるし、、
>>443の記述自体、別にフィンランド語と日本語が共通してるとかいう話じゃないじゃん。
そもそも、アルタイ語族言語の語頭にRやLが無いっていうのは、有名な話だぞ。
とんでも説扱いするほうがおかしい。
446 :
日本@名無史さん:2010/11/20(土) 19:16:19
クヤ韓国=加羅?
なぜ「ハクスキノエ」?
訓語読み
音読みだと
白・・・ハク
村・・・ソン
江・・・コウ
訓読みだと
白・・・しろ
村・・・むら
江・・・え
だよな?
つまり、ハクは音読み、スキは不明、エは訓読みになるな・・・。
村をスキと読むのは、百済の言葉なのかね。
451 :
日本@名無史さん:2010/11/21(日) 18:21:37
村主を「スグリ」というのを忘れてないか?
452 :
日本@名無史さん:2010/11/21(日) 22:13:51
白村→ハクソン(ハクスキ)
江→え
でよくない?
ミシシッピ川とかドナウ川とか言うじゃん
基本的に半島に住んでた一部の倭人や、百済亡命者だけが
つまり百済に住んでた人は、土地を奪われて
語り継いたが、他の日本人にはどうでもよかったから
白村江の発音が、向こう寄りになったんじゃないかね。
だから、ハクスキのえ。
>>451ググると、やっぱし百済系みたいだね。
スキはスク朝鮮語の村で問題ないと思うんだ。
ハクだよ。これなに?
ラは日本語だと思うな。こちら、そちら、あちら、どちら
たいら・凹凸のないところか?
ひら・基準面か?
つら・見て一番目に入るところか?
素人の思いつきだけど場所につく言葉の気がする
>>454 朝鮮語で、村ってスクなのか。習ってるの?
だとすると、朝鮮語も基礎的な言語は
百済の頃からあまり変わって無いのか。
ハクは白の漢語読みそのまんまじゃないか?
457 :
日本@名無史さん:2010/11/22(月) 20:36:54
逆にハクという固有語の地名があって、それに漢字の白をあてた可能性もある。
458 :
日本@名無史さん:2010/11/22(月) 21:14:28
ハンナラのラとは違うの?
>>458 それ、
昔からの言葉かどうかわからない。
百済人が、〜ナラと言ってた形跡が無いんじゃないか?
百済人も日本書紀製作に関わってるけど
大和のナラの語源を、「ふみならす」の、ならす=平らにする
と記してるんだよな。
もし、ナラの語源を外のものも知ってるなら、それも書いてるはずで。
>>456 「すき」というのは、おそらく古語だな。
現代韓国語では、「むら」に当たる言葉は「ma-eul (マウル)」って言う。
日本書紀には、新羅の「佐知村」という地域を「さちすき」と読む箇所がある。
>>460でいう「古語」は「当時の百済の言葉」ね。
白村江を「はくすきのえ」と読ませた人物が半端な知識だったんでしょ。
思いつきで、日本語でスクだと沖縄のグスクが近いような気がするようなしないような。
グスクは12世紀かららしいから…
妄想しだすと止まらないね(-"-;)
464 :
日本@名無史さん:2010/11/23(火) 00:38:31
〜スクと言えばロシア
465 :
日本@名無史さん:2010/11/23(火) 00:46:08
スキ焼きの“スキ”
466 :
日本@名無史さん:2010/11/23(火) 02:40:58
朝鮮語の「ナラ」は昔は「ナラク」と発音していた可能性が高いとか。
で、加羅も「駕洛」とか書いたりする。
467 :
日本@名無史さん:2010/11/23(火) 05:25:24
468 :
日本@名無史さん:2010/11/23(火) 05:35:58
百済人が多く移住した滋賀県日野町は、近江牛の産地。
ここは蒲生氏郷の出身地でもある。
つまり会津の人々は、百済の血を受け継いでいる可能性が高いのです。
何故天皇家が会津を頼みの綱にしていたか。
それには理由があった。
469 :
日本@名無史さん:2010/11/23(火) 10:32:19
百済滅亡時には百済王家もかなり韓化してたのかね?
首都も南下して韓系の人間がかなり入り込んだらしいから。
半島に残った百済(ペクチェ)人は
ペクチョンと呼ばれて迫害されたらしいけどね
まあ・・・・・
こういう滅亡した王国ってさ
その、滅亡する時に
真面目に守ったのか、必死で戦ったのか
それが重要じゃないか?
百済が日本に仏教を教えてやった、とか上から目線で言うことのできる
一族って何よ?
昔から疑問だったんだよな。
そんな一族、存在し無いよな。
472 :
日本@名無史さん:2010/11/23(火) 15:09:32
済州島民や全裸道民だな
大和民族の成り立ちはせいぜい奈良時代から
現在の日本人(大和民族)は平安時代に成立。
現在の朝鮮民族は高麗時代に成立。
現在の漢民族は清時代に成立。
…こんなモンじゃないか?
475 :
日本@名無史さん:2010/11/24(水) 06:09:46
確かにさ
百済から仏教や文物が伝わった見返りに
軍事支援をした、貴族を倭に亡命させた。
でギブアンドテイクが成立している訳で
しかも伝えたのは今の日本人。
土地にしかユカリの無い今の半島人に言われたくないな
過去に百済があったってだけでね
朴 正煕(パク・チョンヒ)
第5〜9代大統領(在任:1963年 - 1979年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E6%AD%A3%E7%85%95 朴は自著『国家と革命と私』で、次のような言葉を遺している。
「我が半万年の歴史は、一言で言って退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった」
「姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図に過ぎない」
「わが民族史を考察してみると情けないというほかない」
「われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあっても、
この歴史を改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史は、
むしろ燃やして然るべきである」
さらに自著『国家、民族、私』で、李氏朝鮮について次の言葉を遺している。
「四色党争、事大主義、両班の安易な無事主義な生活態度によって、
後世の子孫まで悪影響を及ぼした、民族的犯罪史である」
「今日の我々の生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史(韓国史)の悪遺産そのものである」
「今日の若い世代は、既成世代とともに先祖たちの足跡を恨めしい眼で振り返り、
軽蔑と憤怒をあわせて感じるのである」
477 :
日本@名無史さん:2010/11/24(水) 09:50:49
半島は儒教の悪い面に全面的に染まっているからな。
だから秀吉の朝鮮出兵で李舜臣が犬死させられたり不遇な扱いだった職人の大量亡命に綱がっていった
徳川時代になって連行された捕虜受け取りの時に儒者は喜んで帰ったらしいが陶工なんやらの職人は日本に留まったらしいね。
479 :
日本@名無史さん:2010/11/24(水) 12:40:14
朝鮮の職人って陶工以外なにかいる?
トンスル職人
481 :
日本@名無史さん:2010/11/24(水) 13:21:45
よく倭と新羅の仲が悪かったのは
中華思想云々言われてるけれど
新羅の極めて不誠実な行動の積み重ねではないだろうか
不幸な地理的環境には同情するが
同時に国家も民もなんの努力もしなかった
普通に考えれば大陸の技術で生産した物や交易品を
海を隔てた大陸知識を渇望する国との貿易にあてれば
古代朝鮮の発展も有り得たかも知れないが
それをしなかったのか出来なかったのか
朝鮮は長い長い衰退期に入る
483 :
日本@名無史さん:2010/11/24(水) 13:44:08
484 :
日本@名無史さん:2010/11/24(水) 13:54:47
>>474 「現在の日本人(大和民族)は平安時代に成立。」
中国各王朝の倭国伝なんか読むと
強い連続性を感じるけどね
民族成立は血統だけの話かい?
>>483 新羅は唐と同じ鮮卑族、おそらく、Y-dna O3 あたり
百済の前身・馬韓時代に、土地を譲って住まわせたらしい
たぶん、「バカ」の語源
>>484 大和の威光が本州北端まで到達しての事じゃないの?
487 :
日本@名無史さん:2010/11/25(木) 11:44:25
白村江で戦ったのは九州王朝?
百済王族や亡命者は、普通に畿内に住んだり
大和で官位を任命されたりしてるので
九州王朝と言うのは無いと思う。
>>487 もはや提唱者のキチガイ古田ですら九州王朝説は捨てているんだけど…
そうそう、だいぶ前の方で話題になった羅唐戦争だけど、某日本人学者の書いた
本に拠ればこの戦争で活躍したのは下級貴族や地方豪族みたいだよ。
あと、大和政権が「小中華」体制をつくりあげたという話だけど、あくまで
「つくりあげようとした」というのが正しい表現らしい。
NHK日本と朝鮮半島2000年に出演した森公章教授が産経新聞で当時の日本を無能
と切り捨てる一方で、朝鮮三国、特に新羅について「唐と結んで百済や高句麗を滅ぼし、目的を
達すると恐れず唐と戦うという新羅の戦略は、したたかです。」絶賛。
491 :
日本@名無史さん:2010/11/25(木) 19:10:47
>>490 三国が大和に朝貢している時点で小中華は成立しているよ。
小中華思想なのは京都人だけ。
大和朝廷じゃなくて汚らわしいフジワラ氏。
>>491 日本書紀に見られるような「朝貢」という表現を、そのまま言葉通り受け取らずに慎重に扱うという意味だよ。
はくすきのえの戦いで動員された兵隊さんなのですが、
この人たちは天皇家の直接支配地域の人民なのでしょうか?
それとも天皇家及び豪族の連合軍?
それとも豪族の支配地域の人たち?
それとも中央集権化がすすんでいて日本全土が政府と臣民になってた?
>>494 白村江の戦いは、九州倭国の戦争であって、衛星国の大和政権は不承不承付き合わされただけ。
で、動員された兵隊は、九州各地と関東各地(毛の国)から徴兵された連中。
当時、福島県から鹿児島県のうち、畿内を中心とした地方だけは、衛星国大和政権が支配しており、他は九州倭国が支配していた。なお、宮城・山形県以北には、両国の支配権がまったくが及んでいない。
国自体が豪族の寄せ集めなのだから、それを纏められる力をもっている豪族の代表みたいなのがいたんでしょう。
498 :
日本@名無史さん:2010/11/29(月) 23:15:03
>>494 九州各地と関東各地(毛の国)から徴兵された連中
越智直は瀬戸内海の豪族
499 :
日本@名無史さん:2010/11/29(月) 23:17:21
>>414 新羅を「しらき」と読むのは昔氏と朴氏が倭人(出雲人)で「知る城」という意味だそうだ。
>>46 現代韓国語のマウルは統治時代の日本の漢字読みの名残じゃないか?
朝鮮じゃ統治時代以前までは漢音だっただろうし。
>>481 新羅と倭が仲悪かったのは単純に支配の関係。
金氏以前の昔氏と朴氏は出雲系倭人王朝で「朴」とは「ほこ=日子」で
しかし当時の日本では姓という概念が無いから金氏はこれを姓と勘違いした。
昔氏もそうで、朴氏以前の時代の「昔加羅」と言うのを
倭語では「昔」を「ありしひ」と読んでいたためこれを
昔という姓だと金氏が解釈した。
503 :
日本@名無史さん:2010/12/02(木) 13:20:15
>>502 「朴」とは「ほこ=日子」
とか言ってる時点で
「たわごと」だと・・
当時の倭=日本じゃないからな。もっと広い概念だ。そもそも歴史的事実と認められてるのは金氏のみで、王統は金氏が独占。
505 :
日本@名無史さん:2010/12/03(金) 15:16:30
チョンって自国の文献資料が無いから
日本文献の言葉の発音が少し似てると
すぐにトンデモ説を言いやがる。
悲しいくらいに根拠を欠く、
やるんなら祖国でやってくれ
506 :
日本@名無史さん:2010/12/03(金) 17:59:31
昔がありしひ>ありひしなんて語呂合わせもいいとこだ。
おこし多利、あるし多利の「あるし」との関係を考えた方がいいと思う。
507 :
日本@名無史さん:2010/12/03(金) 18:02:56
508 :
日本@名無史さん:2010/12/03(金) 18:11:59
朝鮮半島の諸国は日本にとっては諸藩だったんだ。
小中華はたしかに実在した。
509 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 19:33:00
>>506 いやいや馬鹿 ありしひ など在日の釣りだろ
510 :
日本@名無史さん:2010/12/14(火) 21:41:14
新羅を打つって出て行った2万7千の軍は、新羅で戦った後白村江に来てまた戦ったのか
2万7千とは別の軍をさらに白村江に派兵したのか
別の軍なら2万7千の軍はどこで何をしてたのか
どう考えれば良いでしょうか
万単位の軍隊を派兵するのは無理だったでしょう。
512 :
日本@名無史さん:2010/12/16(木) 19:31:19
えっ
513 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 13:07:03
>>480 敗戦後トンスル職人は帰化しなかったのだろうか?
それともまだ抽出する技術が完成していなかったとか
3・4万くらい半島に派兵してなかったか?
515 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 11:43:46
不老不死の妙薬としてトンスルは珍重され朝鮮人の誰もが欲しがった。
516 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 11:47:00
>>515 白村江の戦いが実はトンスルの利権をめぐる戦いだったらひくわ。
もし羅唐戦争で新羅を制圧しても、長続きしたかね?
518 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 19:31:14
四郡を四百年支配できたんだから無理ではないでしょ
しかし、漢は南部までは支配してないし、その頃と違い
自前の国家持ってるからな。
【三韓から】古代朝鮮【後三国時代】
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1231231310/408 > 408 :世界@名無史さん :2010/08/01(日) 17:02:09 0
>
>>401 > その問題(真番郡の位置)についてのみだけど
> 国際的な通説はなく、国による。
>
> 北朝鮮や中国には定説がある。この両国では通説と定説の違いがあまりない。(中国の通説は
>>400に近いが異説も認められてるっぽいので絶対的な定説というほどの扱いかどうかは知らない)
>
> 韓国には民間と学界が乖離していて、民間に流布してる通説は北朝鮮に近い。
> 学界は建前は民間と似たような話、本音での通説は
>>400に近いが、この説を唱えた李炳涛は立派な偉い先生として尊敬される時と、日本帝国主義の御用学者として排撃される時があり、韓国の学者も裏表の使い分けがたいへんそう。
>
> 日本は真番郡の位置について通説も定説もないと思う。が、通説「っぽいもの」を挙げるとすれば
> 帝国書院その他から出てる高校世界史の歴史地図に
> もう何十年も錦江流域を中心とした韓国の西半分が真番郡として出てる。
> これ今西龍の説でむちゃくちゃ古い上に最近の有力説とも思えないので、出版社が惰性でやってるんだろうけども、
> それにしても世間に流布してるという意味ではこれが通説といわざるをえない。
>
> 真番郡の位置については李朝時代の朝鮮から戦前の日本にかけて、長い論争史・学説史の実績があるが、日本の学者は地雷ふむ恐れがあり功績にもならないので触れたがらない。
>
> ちなみに俺が支持するのは
> 慶尚道説。「真・番」は後世の「弁・辰」(辰韓弁韓)に当たる。(このことを指摘したのは意外にも韓国の学者だったけど本人は案の定真番郡否定派だった)
521 :
日本@名無史さん:2011/01/02(日) 10:27:50
負けたのは九州王朝でどうこういう香具師がいるけどさ
沖縄に明が攻めて来て占領された。島津を筆頭に西国大名を沖縄に送ったら負けた。
島津当主は討死した。
というだけじゃね?
中大兄皇子らの「白村江の戦い」など一連の百済復興支援・援軍の半島出兵の決断は正しかったか否か?
俺は最初は無謀な戦いを挑んで多くの兵を失い、日本自体を危うくした愚策と思った
だが、最近は半島紛争に介入しなかった(百済復興や援軍を送らない)方が、むしろ日本を危うくした可能性もあったとも思うようにもなった
唐vs吐藩情勢など読みにくい裏事情の要素も含んでいるのだが、半島情勢介入の決断は正しかったか否かどうだろう
戦略は悪くないが、戦術(敗戦の決定打となった白村江の海戦、河口戦など)が悪かったのだろうか?
大きな目で見た意見を聞かせてください
523 :
日本@名無史さん:2011/01/02(日) 15:59:03
任那って百済領になったんですよね?
にも関わらずこの戦いで百済に救援を送っていることから考えて
「磐田の乱は大和王権と百済で任那領主の磐田を鎮圧した」
と考えると辻褄があってきません?
・百済援軍が正しい?
・完全不介入が正しい?
・百済・高句麗と裏で協力し、半島情勢に表向き不介入が正しい?
・唐(や新羅)と同盟し、半島情勢に表向き不介入を貫くのが正しい?
・唐(や新羅)と同盟し、唐に援軍する形で半島紛争に介入するのが正しい?
唐に余力さえあれば半島制圧、そしてゆくよくは日本制圧(属国化など)を考えたとは思う
この後に及んで半島情勢に完全不介入はやはり難しいとは思う
525 :
523:2011/01/02(日) 16:06:46
×磐田
○磐井
ですね
失礼しましたorz
>>523 新羅討伐を妨害したのが「磐田の乱」じゃなくて
謀叛や反抗的になった領主の磐田自体を百済と組んで半島南端で討伐したという意見か
乱は半島南端だけ?北九州も含んだ?
半島南端の出来事を北九州に完全に置き換えたにしては、昔の事とはいえ無理が出ると思うな
あ、俺もつられて間違えた
中大兄皇子に粛清された皇族や臣下の中には、親百済外交路線の反対派、親新羅派、多方面外交路線派とかも外交方針が対立した者も居たのか?
蘇我本宗家の外交方針が、本によってマチマチなんだがそんなに分からないものなのか?
俺は結局この失敗が政権を不安定にし壬申の乱につながったのではと考える
あながち天智の暗殺説なんかも事実だったのかもしれんなんてふと思ったり
白村江の戦いは、則天武后と薩夜麻の戦いだったといえる。
後世、中国では則天武后=武則天の事跡を隠ぺいし、日本では薩夜麻の事跡を隠ぺいしたため、
いまでは白村江の戦いは、誰が何を戦った戦争だったか、わからないような論評しかなされなくなった。
今さら九州王朝説?
まさかいまだに古田の「失われた九州王朝」読んでいるんじゃ。
聖徳太子の時代に援軍を送るべきだった
救援が遅すぎたんだ
534 :
日本@名無史さん:2011/01/20(木) 03:15:19
朝鮮史観洗脳プロパガンダを大々的に図っていたのが朝日新聞であることも判明。
朝鮮半島南部で日本固有の前方後円墳が多数発見され、日本原産のヒスイが出土していることからも半島南部の任那が当時の大和朝廷日本の勢力下にあったこと疑いの余地はありません。
⇒
http://j.mp/b3Q4eS
535 :
日本@名無史さん:2011/01/20(木) 12:08:01
反日メディア、反日内閣、反日国家、
反日教師に反日人権家、反日作家、反日タレント、そんな屑ばかりが
のさばり続ける毎日にはうんざりです
経営者や主筆がCIA=統一教会工作員の読売や朝日、フジサンケイは、基本的に売国新聞。
537 :
523:2011/01/27(木) 13:22:24
九州王朝説は、古田個人から多くの人の研究対象になっている。
ホットな九州王朝説は、すでに古田の手から離れているということだ。
539 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 00:08:53
「オウム」と「アレフ」みたいなもん?
白村江の戦いに負けた後に、大和政権は日本国内に防衛線を作り多数の城を築城したってNHKはいっていたけど。
541 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 07:28:17
7世紀ごろの航海技術・造船技術では、半島に馬を輸送できないから、騎兵を送ることはできなかったんだよね。
また、どんな大船団を組んでも、それほど大人数の兵力を輸送できなかったと思う。
当時の我が国の人口、国力で数万人の大軍を外征につぎ込むのは難しかったのではないか。
百済支援は思いのほか小規模なものだったように思うけど、どうだろう?
542 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 10:53:35
>>541 任那という、倭の固有領土があったくらいだから
秀吉の出兵に比べると、向こうに兵を安全に留めて置ける場所があるから
小船で繰り返し輸送すればよかったんでは?
543 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 16:21:37
>>541 島伝いに朝鮮半島南端へ行くのはそれほど難しくなかったと思う。
遣隋使も推古朝当初は朝鮮半島を経由して島伝いに行っており、
ほぼ安全に航海している。
白村江の戦いに負けてからは朝鮮半島経由で唐へ行くことができなくなり、
航路を島のない南側に変えざるを得なかったために頻繁に難破した。
(遣唐使船の25%が難破)
北九州〜朝鮮半島南端までは7世紀でもそれほど危険な航海ではなかったはず。
>>542 その任那の実勢がよくわかってないのが日本古代史じゃねーのかよ
545 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:22:21
朝鮮半島は昔から、声を大きくしては語れない場所なものでして。
>>541 九州の装飾古墳では、船に馬を載せている意匠が、一般的。
「白村江の戦い」自体はそこそこ知られているけど白村江の戦いで、日本が参戦してた事は韓国一般層はほとんど知られていないらしいね
百済vs唐・新羅みたいな認識
548 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 02:27:42
任那日本府の関係で古代に日本の軍隊が半島で活動してる事実が都合悪いから白村江でも隠したいのさ
好太王碑文や、三国史記で半島で軍事活動する倭は単なる傭兵に過ぎないってことにして
日本書紀の内容は捏造で、宋書の内容は出鱈目ってことにしてるでしょ
日本の寺の原型は百済だってさ。
550 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 10:00:00
>>549 そら、仏教は百済から日本に伝わったんだから、当たり前だろう。
日本で最初の仏教寺院飛鳥寺を建てた蘇我馬子は
百済から技術者を呼んで寺を建てさせた。
百済の技術者が建てたのだから百済の寺と同じ工法で建てるのは当たり前。
以後、日本の技術者は百済技術者から学んだのと同じ方法を伝承して
日本国内で寺を建てていったのだから。
百済は中国人の国。
しち面倒なので、直接遣隋使や遣唐使を送って本物の中国の文化を仕入れた。
百済からしたら、中国(隋や唐など)よりも日本の方が心情的に親しみや交流あった気がするけどね
中国の方が脅威だったというか、日本との関係の方が対等な交流に近い付き合いというか
553 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 22:42:13.14
鬼室福信
>>551 倭人も勢力をもっていた。南部に前方後円墳が築かれたのが証拠。
555 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 01:27:26.70
この時代に同盟国との戦いに渡って攻めて行った日本ってすごいな。
さらに凄いのは、この戦いに参加した阿倍比羅夫はこの戦いの2年前、奥尻島まで行って
オホーツク人と交戦しているコト。大和政権側にも指揮官レベルで死亡者が出ている。
まあ、北海道と朝鮮半島の2面作戦だとどれだけ庶民にしわ寄せが…
戦いに負けた後に作られた日本の防衛戦の城も凄いぞ。
558 :
威迦櫓守:2011/02/21(月) 14:36:21.46
>>556 ゲッ!奥尻島まで行ってたの?
東北の南部辺りまでと思ってた
敗戦後は中大兄皇子は、パニック状況だったろうな
■唐(新羅)の脅威
■東北の蝦夷征伐問題
■大和や地方豪族の反感増大(蘇我征伐+対唐敗戦+改新政治不満等々)
■皇太子選定問題(大海人皇子・大友皇子)
これほどの内憂外患を同時に抱えるなんて、あり得ない
大量暗殺で粛清の恐怖政治をいくら敷いても、心安まらなかっただろう
559 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 17:20:25.86
>>541 馬って半島から5c頃きたのだろ。
7cなら運べるだろ。
ただ、当時、騎馬戦に使う程、大量に馬がいたとも思えないが
560 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 18:20:45.97
白村江の頃なら馬は現地調達かもしれんな。
百済の救援に向かったのだから、馬は百済が用意するとか。
船が揺れると怖がるから、動物輸送は難しい。
561 :
威迦櫓守:2011/02/21(月) 18:59:25.11
>>560 馬は生き物だから、車を乗り換えるみたいに現地調達で乗り換えるとか難しいと思う
馬の調練とか操作指示方法とか、半島と日本でも微妙には違うだろうし、馬は乗り手との相性とか難しくて乗り手を選ぶ
戦時でいつ戰かも分からないから、ただの移動ならまだしも慣れない土地で馴染んだ軍馬じゃなければ戦地では乗るのを避けたかったと思う
交戦必至であり、命を懸けている訳だから
562 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 20:52:40.12
7世紀当時って、日本には騎馬戦は主流じゃなかったんだろ?
5世紀にモンゴル馬が朝鮮半島から入ってきたが、数はそれほどではなく、
その後繁殖を重ねて馬の数は徐々に増えていったが
まだ大将が地上を短距離移動用に使うくらいしかいなかったんじゃないのか。
白村江でも日本軍は難波津を出て水路で瀬戸内海を渡り、朝鮮へ。
400の船からなる水軍を送り、実際に唐と海上戦を行っている。
地上戦も少しはやっているが、水軍を送ることが主な目的だったんじゃないかと。
帰りは日本兵に加え百済から二百人もの亡命者を乗せて帰ってきたという。
馬といったら、時代劇映画の影響でどうしてもサラブレッドみたいな巨大な馬を想像するけど、日本の戦国時代でも実際はアジアの馬なんてロバに毛が生えた様な二周り小さな馬だったみたいだな
競馬のサラブレッドが450キロぐらいあるけど、多分2割は小さく軽かったんじゃないかな
サラブレッドは競馬が貴族社会の楽しみであったイギリスで
何代にもわたって人工交配が行われた結果の人工馬(すべて血統書付き)。
野生の馬はヨーロッパの馬でもあれほど立派な体格をしていない。
日本の在来種は小柄でサラブレッドのような走りを追求しないが、
それでも時速40キロ程度で走ることができ、性格は温和。
乗ると走りは安定している。
今は日本在来種が希少なので時代劇俳優はサラブレッドに乗るわけだが
サラブレッドはとにかく走りを追求し品種改良さえた馬なので
気性は比較的荒く、脚が長い分高く、走りが速いため大変揺れる。
俳優からしたらサラブレッドに乗るほうが大変かもしれない。
565 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 15:19:34.60
在来馬(もとは輸入といわれている)は馬は4尺◯寸くらいしかなくて、通常4尺部分は省略して高◯寸だけで通じた。
一寸大きくなると飼い葉が二倍になるとかで、大きくする気がなかったようだ。
つまり、大きな馬は交配させないってことね。
566 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 15:47:42.06
>>565 日本でも有力大名はあちこちから名馬を求め、
その馬の大きさを競っている。
飼い葉がかかるので大きくする気がなかったというのは誤り。
一般的に小柄な日本馬は甲冑の重さに耐えきれず
何度も乗り換える必要があり、体力のある大柄な馬は重宝された。
馬は移動の道具だからね
騎乗射撃をやるには日本の主流の弓は長尺すぎる
日露戦争も騎兵は兵站用に馬を多く配分し
機関銃による迎撃をやったから、馬は荷駄用でしょう
平安末期〜戦国時代には日本でももろに騎馬戦やってるが。
当時の軍記物・絵巻物に残っているから間違いない。
明治以降は西洋風の大砲・銃を用いた戦争が主流になっただろうが
それは一騎打ちがなくなったから。
白村江の頃には日本に馬が入ってきて200年ほどだから
それほど数がいない貴種だったと思う。
しかし、荷駄用には日本古来の牛がいた。
牛だと多少時間はかかるがね。
牛は明治時代ごろまで日本の主流の運搬方法だった。
馬鎧が発掘されたり、弓も横弓だったりヨーロッパ風だよね。
「白村江の戦い」の考証の参考に。更に書くべき事や誤りがあれば教えてくれ。見辛いのはすまない。
〈7世紀の東アジア国際情勢年表など抜粋〉
日本を中心に唐(隋)・高句麗・新羅・百済など
高句麗が起こる(B.C.37年??)
新羅が起こる(356年)
高句麗、隋を撃退(611年〜614年)
隋滅び、唐が起こる(618年)
唐が中国全土を統一(628年)
唐が東突ケツを滅ぼす(630年)
百済の義慈王が日本へ(631年)
唐が高昌国を滅ぼす(640年)
〈続き〉
高句麗で親唐穏健派の王や大臣などを淵蓋蘇文がクーデターで倒し、反唐軍事政権化(642年)
麗済同盟なる(642年頃〜百済滅亡の660年まで)高句麗・百済
乙巳の変〜大化の改新、蘇我宗家滅亡(645年)
唐、第一次高句麗遠征(648年まで3回行うが失敗)
羅唐同盟なる(648年〜670年)唐・新羅
日本が遣唐使派遣(653年、630年以来23年ぶり)
孝徳天皇が崩御(654年)
百済滅亡(660年・復興軍壊滅663年)
百済王族で重臣の鬼室福信、義慈王の息子の百済王子の(余)豊璋を召還要請&ヤマト朝廷に援軍要請(661年)
斉明天皇が筑紫・朝倉宮で崩御(661年)
■白村江の戦いで日本・百済連合軍、唐・新羅連合軍に敗れる(663年)
唐の劉仁願の使者来日(664年)
近江・大津宮に遷都(667年)
高句麗滅亡(668年)
羅唐戦争(670年〜676年)
唐から使者、郭務ソウが来日(671年)
天智天皇が崩御(671年)
壬申の乱(672年)大海人皇子vs大友皇子
飛鳥浄御原宮に遷都(672年)
新羅が朝鮮半島を統一(676年)
天武天皇が崩御(686年)
武則天即位し唐が周(武周)と名を改める(690年)
「日本」国号が武則天により国際舞台で承認される(702年、旧唐書・新唐書の記述より)
武則天死して唐が復興される(705年)
この年表で言えば年表2にあたる部分の642年以降の
高句麗クーデター642年
麗済同盟642年(高句麗・百済)
乙巳の変(暗殺・紛争クーデター)645年(日本)
この3つの国の出来事は、お互いに符合してるというか、対唐(対羅)姿勢・親済姿勢の勢力による国家的権力の掌握・強化だった気がしないでもない
664年、高宗の封禅の儀に、新羅・百済・耽羅・倭の酋長が参加
575 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 21:19:02.60
淵蓋蘇文
何故 ハキスキノエ ってわざわざ いうの?
昔の教科書なので 教えて貰えなかった 日本はそのころ二重外交やってらしい
遣唐使をこのころ前後して2回ぐらいヤってるし^^^^−−−
577 :
日本@名無史さん:2011/03/08(火) 13:23:48.45
「はくすきのえ」か「はくそんこう」だろ
578 :
日本@名無史さん:2011/03/08(火) 16:36:15.62
「はくすきのえ」は「白村江」の呉音。
呉音は、最も古い時代に日本に伝えられた漢字の「音読み」。
仏教伝来の時に経典類とともに伝わって飛鳥時代には
日本古来の訓読みと合わせてこの読み方が使われていた。
遣唐使が始まると、当時唐の都長安で使われていた漢音が日本に到来して、
日本の漢字の音読みの多くは漢音となった。
呉音は漢音が主流となる前の中国式の読み方。
ちなみに「白村江」は漢音で読むと「はくそんこう」。
そうは読まないと思うのですが。
バイツンジャンじゃないの。今の普通語。
漢音は今の普通語と違うんですか。
580 :
日本@名無史さん:2011/03/08(火) 21:50:13.07
「はく」というのは、百済語への当て字または意訳だった可能性がある。
(ちなみに現在でも、錦江の中流には「白馬江」という別名がある。)
「すき」は、百済語で(ひょっとすると新羅語においても?)「むら」を意味することばだったようだ。
日本書紀の欽明天皇紀の記述によれば、
白村江の戦いよりも1世紀以上前に、
百済の聖明王が新羅との戦いで亡くなったとき、
聖明王を斬った新羅兵は「佐知村」の(出身または在住の)者であったとあり、
この「佐知村」という地名は「さちすき」と読む。
「え」は、もちろん日本語音での訓読。
>>578 ありがとう。勉強になった
「の」の字の扱いだけど
はくすき“の”え(=白村の河・江)
〜の〜
=はくすきえ
って事かな!?
大海人皇子=おおあま“の”みこ
みたいに
583 :
日本@名無史さん:2011/03/09(水) 22:17:10.92
おれ
>>580だけど(578さんとは別人)、
580に書いたとおりの事情から、
「はくすきのえ」は「はく」以外の読みは呉音とは関係無いと思う。
また、581さんがそう考えたように、
もちろん「はくすきのえ」の「の」は
日本語の格助詞の「の」だね。
584 :
日本@名無史さん:2011/03/09(水) 22:22:56.29
あ、ちょっと待った。ごめん。
(おれ583です。)
今確認してみたら、「白」を「はく」と読むのは漢音だね。
呉音だと「白」は「びゃく」だった。(例えば「白蓮」を「びゃくれん」と読むときなど)
585 :
日本@名無史さん:2011/03/10(木) 01:52:48.90
現代風にいうと白村湾の戦い
そのころの百済人がそのあたりを「ハクスキー」と呼んでいたので、
そこにある港なら「ハクスキーのえ」だろうという
現代語でいう「アラビア『わん』」みたいな感覚じゃないのかね。
すげー単純に考えるとさ。
587 :
日本@名無史さん:2011/03/10(木) 13:35:59.79
白村江って、錦江(湾)河口と書かれている事が多いけど、
実は錦江が一番可能性が高い、ほぼ錦江付近のこの辺りに間違いないだろう
って事で、実はしっかり確定されている訳じゃないらしいね
近くの別の川河の河口付近とか、幾つか説があるらしい
663年9月7日、百済は最終防衛拠点の周留城(するさし)落城で完全に滅亡したけど、周留城は首都や政庁から近かったのかな?
単に防衛上の問題かな
例えば最終防衛地点が、もっと南や東南側だったら、日本にも近ずく唐からはより遠くなる
ギリギリの生き残り策よりも体裁やら政治・経済などの中心地に縛られ拘り過ぎたんじゃないのかな!?
一旦は中心地を放棄する決断が出来なかったというかね
>>588 史実から見ると、その逆じゃないかな。
周留城だったからこそ、百済復興軍側が或る程度の期間持ちこたえてた面が大きい。
「周留城であろう」と比定されてる城跡は数箇所あるけど、
特に有力な説とされてるところは、はっきり言って難攻不落の凄い山城。
軍事に疎かったとみられる扶余豊璋が、周囲の反対を押し切るかたちで、
一度、周留城よりもずっと南の穀倉地帯付近に拠点を移したものの、
戦況の悪化ですぐ周留城に舞い戻るという展開にもなってる。
あとそれから、
百済の首都だったシヒを奪還するための包囲戦が百済復興軍側にかなり有利に展開していた勝負どころで、
百済復興軍が和平交渉を強気に進め過ぎて交渉が決裂したことや、
シヒを占領していた唐軍の司令官のうち特に劉仁軌が、不利な状況下にありながら強力な主戦論を展開したことから、
重要な補給路を唐軍が百済復興軍から奪還して、戦況を徐々に押し戻していったという経緯もあった。
590 :
日本@名無史さん:2011/03/19(土) 08:03:30.65
敗戦当時の天智天皇の心情からしたら、
1945年敗戦や原爆被害や東京大空襲などの昭和天皇の心労、
今の東日本大震災の今上天皇の心労
これに負けない程の恐怖と絶望があったかもしれないな
>>406 江戸時代まで、日本はそういう状態だ。
ガチで方言で話されたら分からない。
>>430 今の朝鮮語、朝鮮民族は高麗末に確立されたもの。
それ以前は全く不明なんだよね。
>>431 郷歌だね。
530 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/12/29(水) 23:16:40 0
ここで問題なのは被支配者側がどういう言語を使っていたかと言うことだよね?
ハングル成立前に朝鮮語が使われていたのかというと、もの凄く疑問なんだわ。
いわゆる郷歌(郷札)が、漢字読みだと中世朝鮮語とかけ離れてる。
吏読も実は同じ。
で、支配者側も被支配者側も朝鮮語ネイティブだった李朝は民族が入れ替わった
と考えられるわけ。
531 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/12/29(水) 23:41:47 0
郷歌は日本の万葉集みたいなものだが、万葉集は漢字の読みを
そのままひらがなにすると日本語として読める。
ところが郷歌は、漢字の読みをそのままハングルにしても、まったく朝鮮語にならない。
ただ、一部中国語でおおよその意味が把握可能。
語順から、朝鮮語や日本語と同じく膠着語だろうと言うことは分かる。
(中国語は孤立語)
郷歌は新羅・高麗時代に作られているが、李朝以降になると全く作られなくなる。
それどころか、李朝以降に作られた時調などの詩歌に全く影響を及ぼしていない
と思われる。(そもそも残存する郷歌自体が少ないので断言できないが)
時調は3章6句の約45字からなり、音数律は三四調、もしくは四四調であるが、
そのような特徴は郷歌にはなく、残存する郷歌に影響されたと思われるものはない。
以上の考察により、郷歌は失われた言語で書かれているのではないかと思われる。
594 :
日本@名無史さん:2011/04/04(月) 20:57:31.91
ほっしゅ
595 :
日本@名無史さん:2011/04/04(月) 21:48:33.99
>>406 蝦夷には後の時代まで通訳がついたというからな
アイヌ語は難しい
俺達日本人は現政権の無為無策により夏には蒸し殺される
超無能な現政権よりちょいマシな自民党政権ですら夏までに電力を確保する方策を有してるのに、無為無策の現政権のまま猛暑に突入すれば被災地はもとより東日本の大部分でクーラーが使用不能になり俺達日本人は蒸し殺される
超無能な現政権に国の舵取りを任せておけば俺達日本人は真夏の猛暑で熱中症で死ぬ運命にある
俺達日本人は現政権の無為無策により秋までに大多数が殺される
597 :
日本@名無史さん:2011/04/05(火) 10:25:12.45
青山繁晴さんが国の人々の為に福島原発へ赴く人々を讃え「防人」と書いてて、何ともいえない
この国難は全国民一致でやらないと越えられない
598 :
日本@名無史さん:2011/04/05(火) 20:31:57.42
>>596 原発は吹き飛んだ
この現状を回復するには
今は止まってる柏崎を動かすか
火力発電を動かすか
変電所を作るしかない
だがこれらはいずれも数年はかかりそうなものばかりだ
だれがどうしようがどうすることもできんよ
599 :
日本@名無史さん:2011/04/05(火) 20:38:42.62
>>596 お前だったらどういう対策をする?
言っておくがこの国に期待するのはやめろ
水俣病を秘匿しようとした国だ、世界初のカドミウム公害を発生した国だ、
薬害エイズを秘匿しようとした国だ、満州の民間人を見捨てて政府高官が
逃げ出した国だ、戦時中の民間への軍需の支払いを踏み倒した国だ、
原爆が落とされても本土決戦を行おうとした国だ、(満州へ亡命政府を作る計画だった
が、ソ連の進行でおじゃん、ソ連侵攻が日本降伏の決定打)
もとより下の人間の扱いが悪い国なんだよ。
>>596 弱音を吐くな、昔はクーラーなんざなかったんだ。
いまは非常時である、クーラーは敵だ。贅沢は敵だ。
同意。お父さん。
贅沢は敵だ。
KLで楽しく暮らしています。仕事だけれどね。
贅沢は素敵だ
俺なんかエアコンは始めから無い
去年夏は猛暑熱帯夜の寝不足で遂に失職した
604 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 19:54:50.78
先の大戦を乗り越えたじぃちゃんから良い言葉を貰ったんだ。
『欲しがりません、死ぬまでは』
605 :
日本@名無史さん:2011/04/09(土) 04:01:42.46
貴族や皇族の祓い清め「穢れ」忌避の穢れ信仰
穢れって放射能汚染以上に怖れたみたいだね
相次ぐ遷都だって防衛上、政治上、都市計画上以外にも穢れ被曝を恐れたのも一員だろ
606 :
日本@名無史さん:2011/04/21(木) 21:18:48.10
ほ
ん
608 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 15:23:15.51
>>541 しかしその割には白村江の敗北後は唐や新羅の報復侵攻を恐れて
北九州から畿内に至るまでの防衛・連絡施設の拡充だけでなく大津遷都まで
やってるけど。
>>608 いや、541は
>北九州から畿内に至るまでの防衛・連絡施設の拡充だけでなく大津遷都
は、ひとえに
>白村江の敗北後は唐や新羅の報復侵攻を恐れて
のものではなかったと考えているんでないの
報復される恐れがなくたって、すぐ横ででかい戦争やってたら
「戦争こえー一応こっちも色々整備しとくか」ってなるだろ
天智は意見の分かれる唐を真っ向から敵対する大戦へ参戦決めて、敗戦に追い込まれて国力や諸豪族の生命財産に多大な被害出す原因を作り、
国家的危機に陥れた張本人なんだから、国内でも相当に恨みを買っただろう
もう九州に居る必要はないけど、大和の都にも帰られなかったかも知れない
天智天皇からしたら内憂外患の具合、窮地具合からしたら菅さんどころじゃなかったろう
歴代の嫌われた天皇のトップ3に入るくらい嫌われたんじゃないか?
意見の分かれる唐を真っ向から敵対する大戦へ参戦決めて、
それを実行したんだからたとえ嫌われてても凄い実力があったんだろうな
皇位についたプロセス考えても敵は多かっただろうな
613 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 06:21:08.73
天智天皇の謎
・書紀記述で言えば入鹿謀殺以降実権者と読み取れる
・孝徳の死後母が再び即位
・同盟関係が有ったとはいえ国内軍事力を総動員して百済再興を計る
・母の死後皇位不在のまま称制
・近江遷都後に初めて即位
・称制期間中に令制定をほのめかす記事はあるが官位を除けば即位後の庚午年籍の作成
大友皇子以下の新しい官職の出現ぐらい
主観では力は有ったが過去の慣習では即位を阻む事情が有ったのでは?
だとすれば大友が打倒されたのは父の因果が子に報いと成るけど
614 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 13:40:06.89
>>613 > 主観では力は有ったが過去の慣習では即位を阻む事情が有ったのでは?
同母妹と関係していたという説がある。
当時は異母の姉妹と関係するのはOKだったが、同母は当時でもまずかった。
615 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 13:41:17.71
>>613 > ・近江遷都後に初めて即位
このときには同母妹が既に病死していたらしい。
>>613 > ・孝徳の死後母が再び即位
古来より天皇は即位したら死ぬまで在位していた。
その慣習を破って孝徳帝が即位したものの、その死後は
結局旧習に戻し、存命の皇極帝が復位することになったもの。
いかにも関裕二な話だけど
室町時代の南北朝…とまでいかなくても、その発端になった鎌倉末期の二大皇統「大覚寺統」と「持明院統」の相剋みたいな派閥・皇統争いはあったろうね
(大津遷都時点で実質は擬似南北朝対立か)
しかしあれだけ粛清をした中大兄皇子一派だけど、逆にもっと狙われててもおかしくないよね
あと鎌足や皇極(斉明)天皇だとか誰か真の黒幕が誰か居て、上手く煽られ操られて動かされてたような気もする
618 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 03:37:52.56
>>614 俺はむしろ血統的な問題と思ってる(主観だが、母や妹を尊重したのも)
彼の和風諡号(天命開別)・・・漢語として読めば新王朝を開いたと読める
前後では和風諡号を漢語として読んでも意味をとれるものは無い
619 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 00:57:16.26
天智称制の年(元年ではない、斉明崩御の年)が紀の年紀では神武即位の1320年後というのも暗示的だな
三善清行「革命勘文」(901年)の辛酉革命説、明治以降の1260年は易学の側面を無視したまちがい
つまりこの年を基準に神武即位の年が設定された
1200+120=1320年か
621 :
日本@名無史さん:2011/05/06(金) 12:39:43.21
白村江での日中両軍の艦艇がどういうもんか、想像図の描いてあるサイト・書籍ってあります?
>>621 数年前にNHKスペシャルが意図的に中国船をあり得ない大戦艦に、日本船を弥生時代の小船が毛が生えたみたいな圧倒的で酷い自虐的対比にしたんじゃなかった?
623 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 19:09:13.18
去年発売の学研歴史群像シリーズ「歴代天皇列伝」で白村江の戦いが、見開き2ページでイラストがあった。
まだ本屋にあると思う。
唐側は全長130mの戦艦(楼船)で、舷側は海面から10mはあるんじゃないだろうか、クレーンみたいな仕組みで上から石を落してくる。
日本側は(オールを漕ぐ)水夫10-16人くらいに兵士が10-20人乗ってる船。
MHKの番組は見ていないので、どう違うのかは分からない。
624 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 19:11:29.00
タイトルは「古代天皇列伝」だった。
>>623 URL貼ろうとしても携帯だから「URLが長すぎます」と出ちゃったから貼れないけど
「白村江の戦い 戦艦」で検索すれば、NHKやNHKが元にした中国の資料とかが見られるのが幾つかある
個人のホームページだからどこまで調べて検証してるか分からないが
記事の内容を信じる信じないは各自判断で
626 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 15:24:38.03
>>625 ぐぐってみた。
NHKの画像とほぼ同じだったねw
ちなみに「古代天皇列伝」当該記事の監修は来村多加史、作画は谷井建三。
627 :
日本@名無史さん:2011/05/09(月) 07:27:34.42
大昔にあんな船作れるのかね。
木をつないでいけばいいのか。
しかし、大きい方が燃えやすそうなんだがな・・・
なんで大きい唐の船は燃えなかったんだ?
628 :
日本@名無史さん:2011/05/09(月) 20:38:38.42
白村江の戦いで国家間の海戦で大敗北して以降
明治時代に日本海でロシア海軍のバルチック艦隊に東郷元帥が大勝利するまで、日本は水軍の後進国というか負けたりいつも遅れを取ってきたよね
1200年以上も海軍下手
その後の大東亜戦争も海軍戦力と補給・輸送力と資源供給力で負けたしな
いまは中国海軍なんてのも力つけ始めてる…
つ 倭寇
倭寇は元寇と違って日本国軍(国有の海軍)じゃなくて、イチ地方の海賊・航海商人だからね
(政府の意思と全く関係無い)
しかも話せば長くなるしスレチだから調べてもらうしかないけど、たとえば16世紀の後期倭寇は8割が中国人だったりの「偽倭」がかなり資料上から認められるから
632 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 22:57:16.07
>>629 そうそう、秀吉の朝鮮侵略でも、水軍力が勝敗を分けたw
633 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 09:01:50.67
秀吉の朝鮮「討伐」だろ?
李氏朝鮮の圧制で搾取されまくっていた朝鮮の庶民奴卑は
秀吉軍を解放軍として各地で反乱蜂起。秀吉軍に地理を案内し地方官吏や王子まで捕らえて差し出した。
王朝が管理していた奴卑の身分台帳を朝鮮人自身でごっそり焼き払ったから、本当は白丁だったはずの君にもいまは姓と族譜があるのだよ、そこな在日くん。
肝心な部分隠すなw
634 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 09:08:29.82
>>633 水軍のはなしがくやしかったのか? 話題すり替え乙
635 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 13:35:20.55
>>614 >>615 同母妹でなく、同母姉ね。
この同母姉は孝徳の后でもあった。
だから血族婚であると同時に不倫。
636 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 13:40:52.75
この不倫の部分に遠慮して皇位につかなかったと見られる。
同母姉弟、兄妹の婚姻はべつにタブーでもなかった。
その証拠に古代、「いもせ」という言葉は夫婦と兄妹の二つの
意味があった。
「わぎもこ」は「我が妹子」だが普通は愛人、妻の意味。
「せのきみ」は「兄の君」だが普通は夫の意味。
いや妹でしょう。
日本書紀の記載順序からして。
天智の妹、天武の姉。
ここでは天武は置いとかないと、別の意味でややこしくなるw
639 :
威迦:2011/05/11(水) 15:29:23.74
天智が娘を4人も天武に嫁がせた異常
額田は天武の元から天智方へ
>>639 天智・天武はどちらも天皇(大王)の地位の向上・確立を目的としていたんだから
その辺の近親婚は当然じゃないの?
天孫の血を濃く継ぐ者にはそれだけ崇敬の対象としての霊威が備わる
額田は知らんw でもあれもそんな大した話じゃないと思うぞ
641 :
威迦櫓守:2011/05/12(木) 09:11:10.57
晩年の天智病床の天武との最後の会話なんてみると、戦国時代の秀吉と家康の会話みたいだな
嫡男の大友皇子(秀頼)の行く末が気掛かりみたいな
政略結婚で固めたというか、相互人質交換(相互偵察)に近い裏切り防止策というか徹底ぶりを感じる
天智が元日に天皇即位後の同じ668年に三種の神器の刀が新羅スパイ僧に盗まれて、危うく失うところだったんだよな
643 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 00:51:13.95
>>642 それって熱田神宮の神剣だよな?(草薙の剣)
取り戻して宮中に置いてたら天武の晩年にどういう訳か祟った
644 :
威迦櫓守:2011/05/13(金) 16:37:15.86
天智天皇は書記なんかの記述では中興の祖みたいに言われて頭脳明晰・行動派の傑出した天皇といわれているが
実際は取り巻き達(鎌足など)に巧みに指示・操縦されたのかなと
だから書記は意図的に天智天皇の事を過大評価で書かれているとみる
仮に臣下に利用された凡庸な(暗愚な)天皇という評価では、利用した側は天皇を操った腹黒い陰謀家、
もっと言えば国家を危うくした逆賊と言われかねないから天智は英傑じゃないと都合が悪い
だから天智が皇太子でありながら実質的に支配力・指導力を有し、自ら主体的に動いたと記述されたんじゃないかと
三韓の儀の蘇我入鹿暗殺(645年・乙巳の変)
で直接の斬殺の実行犯は誰か?…驚く事に後に天皇になる天智天皇(中大兄皇子)本人であると伝えられている
臣下である鎌足は弓矢を持って入鹿征伐の援護をしたとも言われるが、一説には大極殿の門外だった(参内出来る身分でない)とも
仮に入鹿暗殺に失敗しても、場合によっては言い逃れ出来るのは天智と鎌足どちらか?
一歩引いて冷静に考えて、実行犯と首謀者はどちらがどうだろうか
君と臣下がまるで逆転してはいないだろうか?
首謀者というのは常識的に考えて自らの手を汚さず、仮に計略が失敗し計画が露呈しても巧みに「蜥蜴の尻尾切り」して身の安全を計り、逆に予定通り計略が成功すれば最も大きな恩恵に預かるものだ
実際に以後1200年間もの長きにおいてこの恩恵に預かって日本を朝廷を天皇を裏から支配したのは、一体どの一族だったか?
犯人探しの鉄則の1つに「事件が起きて(一番)得をしたのは誰か?」という言葉もある
かなり諮意的な記述にはなったが、実質的な支配者と見られた中大兄皇子が、更に裏で支配・指示されていたのではないかという主張であります
まあ支配されていたとまでいわなくても、共存共栄一蓮托生、お互い利用し利用されあう仲といいますか
だから天智天皇―中臣(藤原)鎌足の相互寄生関係が、時代によっては多少揺らぐ事はあれど、付かず離れずを繰り返しほぼそのままの形で1200年続いたと
645 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 19:03:59.25
646 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 19:05:15.32
648 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 18:53:23.76
そりゃ鉄甲船も安宅船もあるし遣隋使船もあるし、丸木船もあるし、戦艦大和もあったよ
それで?
秀吉は外洋軍艦を入手出来たら、朝鮮なんか経由しなくても直接中国の明を攻めてたんだけど奴らは売らなかったんだよ
というか平安以降、正規軍は明治まで廃止されてたろうに
私軍で大規模水軍の維持は無理じゃね?
唐人二千人が来朝したこととか戦そのものより戦後の方が気になるな
652 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 07:37:19.17
日本が博多の唐軍に一生懸命、軍需物資を差し出したのは一種の賠償金
653 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 09:16:01.89
旗頭が心変わりしたってのは他に例みないよな
弟はどんな気持だったんだろ
北九州にチャイナタウンが出来ていてもおかしくないような気がするな
655 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 12:43:57.13
>>654 日本書紀に出てくる「筑紫都督府」なるものがあるよね。
百済に熊津都督府が置かれたように、日本にも占領地があったんじゃないか?
新羅がすぐに唐を裏切ったからねえ
>>651 対新羅を意識した日唐同盟や外交交渉か
白村江の戦いの日本人捕虜の返還か
事実上の占領政策か
日本国内の親唐勢力に協力しての反唐勢力への牽制・排除か
>>653 >旗頭が心変わり
もう少し補足説明してくれないと何を差して言ってるか意味不明だよ
あと弟って大海人皇子?
都督府に太宰府に九州探題
やたらと出先機関を置きたがるもんだな。
>>658 政府内に震災復興の会合部会の組織がいくつもあるし、
原発関連でも原子力委員会、原子力安全委員会、原子力保安院とか
徳川幕府も幕末京都に、京都所司代に京都守護職だもんな
白村江の戦いも最高責任者を決めたりとか指示系統の1本化が全くされてなくて、統制や命令も現場責任者の各自対応だったらしいな
各部隊の連携とか作戦とかあったもんじゃない
そもそも通信に時間がかかるんだから出先機関に権限与えて対応させるしかないんじゃないのかな
朝鮮半島に足場を失ったせいかその後は
東北の経営に力を入れ始めるよね
>>661 半島南端は勝手知ったる場所だろうだけど、海を隔てた海外だし中央からも遠い中国にも接近する
東北蝦夷の地は化外の奥地とはいえ列島の地続きで蝦夷も各部族に細かに別れていて、連合体や連携や国家的繋がりは薄かっただろうし
蝦夷征伐で実際すぐに得る物はさほどでも無かったろうが、比較的「与し易し」で勝ち戦で士気は揚がりやすかっただろうし、大和政権の威光拡大・国威増強の意をある程度高めて自信が出来、前段階の地固めをしてた気がする
しかし勝って兜の緒が緩んだ(慢心)可能性はなきにしもあらずか?
あと、九州って歴史的にも地理的(朝鮮や中国に近い)にも大和政権(朝廷)と微妙な力関係で緊張感をはらんだ土地だと思う
防衛・外交の最前線として北九州にはある程度の権限や軍事力の備えも絶えずあった
古くは半島利権・利害・毎度こうむる出兵物資負担に対する不満報復等々も複雑に絡んだと思われる、527年(継体天皇二十一年)の筑紫国造の磐井の反乱(磐井の乱)=朝廷軍の半島出兵の毛野軍6万(?)への妨害・反乱〜二国占領
壬申の乱でも筑紫大宰(オオミコトモチ、大宰府長官)の栗隈王が近江朝廷(大友皇子)の出動命令を拒否して戦後に天武天皇から褒賞人事を受けている
平家も足利尊氏も一度足場を無くして落ち延び、九州方面から都へ再起の捲土重来を果たそうとした
そして最後の内戦、西南戦争…
663 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 13:43:47.16
>>654 >北九州にチャイナタウンが出来ていてもおかしくないような気がするな
元寇のころの博多って、事実上チャイナタウンだったんですが・・・
664 :
がめ煮:2011/05/19(木) 15:44:37.07
↑↑そうだよ〜(^O^)
当時の博多は人口の七割が中国人で中国語が飛び交ってたんだよ(^o^)/
平安時代末期に平清盛が博多に宋などと交易をするための拠点として博多に湊(港)を整えて、結果大きな利益を独占して集めたみたいだね
博多商人や、駐留する宋商人の為に大唐街(中国人街)も栄えた
7世紀にも存在したのかな
岡田英弘先生は邪馬台国以前から日本各地にチャイナダウンが存在し彼らの衣食住性を満たすために周辺に都市が生まれそれがやがて邪馬台国のようなクニに発展していったみたいなことを言っていたな
チャイナタウンまでいかなくても、中国人が集った集落は日本各地にあっただろうね
百済人集落、新羅人集落、高句麗人集落もね
先進技術で日本発展に貢献したりして特別に土地を与えられたりはあっただろうね
中でも中国人は伝統的に商業活動が盛んで、人の集まる都市部に商店やら商業施設を形成するよね
今の時代も続いてて世界中でチャイナ・コミュニティーや中国人街を作って違法合法含めてあらゆる商売に従事している
商人の語源になった「商」も中国の王朝名だからね
国内の乱世を統一した指導者は海外侵略に乗り出す世界的な歴史法則
豊臣秀吉、アレキサンダー大王、チンギス・ハーン、ナポレオン、ヒトラー、
蝦夷討伐→半島出兵の中大兄皇子も
669 :
威迦櫓守:2011/05/20(金) 00:32:23.49
中大兄皇子
・「大兄」とは……同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号
・「中大兄」とは…二番目の大兄を意味する語
天智天皇は、舒明天皇と皇極(斉明)女帝の次男という事だろうか?
長男(天智の同父同母兄)は早世したのか??
この辺はどうなってるんだろう?
必ずしも名前が言葉の意味をそのまま反映してるとは限らないからか?
670 :
日本@名無史さん:2011/05/20(金) 01:09:22.16
>>669 舒明には古人大兄皇子(母は馬子の娘蘇我法提朗媛)がいたからじゃないのか?
それよりも中大兄として出てくるのは皇極紀のみなのが・・・(古人も出てくる)
舒明紀には葛城、開別、孝徳紀以降は皇太子(即位記事を除く)
斉明紀には天智の異母兄として漢皇子(実父用明の孫高向王)の存在の記載が有る
私見だがもしかして同一人物?(孝徳以降の皇位継承の不自然さから見て)
この記事に注目した論者はむしろ天武に注目してるようだが
そうか古人が「大兄皇子」で丁度、中大兄皇子と対になってるのか
しかし古人は完全に蘇我家有りきの「大兄皇子」だね
常識で言えば普通は母親は皇族ではない=継承権は低いだもんね
実際皇后の宝皇女(皇極)に子供がある訳だから
(逆に言えばそれだけ蘇我に力が有ったと)
しかしこの辺は後の書記編纂時の創作や潤色(蘇我の蛮行演出)の様な気もするね
いくら蘇我の専横力を持ってしてもそこまでねじ曲げる力は無かったんじゃないか
=実際は中大兄皇子では無かった…かも知れない
それと漢皇子は誰と同一人物として見てるって言ってるかよく分からないな
天智?古人大兄皇子?
漢皇子は謎だよね
用明天皇孫の漢皇子は、もう1人の「大兄」山背大兄王…とかは有り得ないのかな?
(裏付けなにも考えてない思い付きけど)
672 :
威迦櫓守:2011/05/20(金) 02:43:32.95
天智天皇はあれだけ蘇我家殲滅を謀ったが、実は
蘇我稲目―蘇我堅塩媛―桜井皇子―吉備姫王―皇極(斉明)天皇―天智天皇……今上天皇
5代遡ると蘇我稲目にたどり着く
蘇我入鹿殺しも蘇我倉山田石川麻呂殺しも血の繋がりのある親戚殺し
673 :
日本@名無史さん:2011/05/20(金) 03:05:31.14
古人大兄皇子の謎
1.蘇我の後ろ楯を無くして焦った古人が出家して吉野へ→だが結局は謀反疑惑で攻め殺される
大海人皇子は何故、結局攻め殺された古人と全く同じ行動を取った?
2.乙巳の変で蘇我入鹿暗殺後「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」発言の真意の謎
3.天智天皇が病に倒れた際、大海人皇子「倭姫王(古人の娘、天智の皇后)が次期天皇即位し、大友皇子が太政大臣として摂政を執るべき」発言
4.古人大兄皇子の娘、倭姫王の存在感の薄さ(実在の有無?)の謎
生没年不詳、母は不明、天智の皇后だが子は無し、
ただし万葉集に歌4首残す
大海人に次期天皇に推される
子孫も何も残ってないんだっけ >漢皇子
二度も皇位に就いた宝皇女の第一子があの扱いってのは不審だよな
父の身分がそこまで高くないためか、若しくは夭折したか、あるいは両方?
夭折したと聞いてはいるけど公的な資料には残ってないから正史として書き残すわけにはいかなかったとか…流石に雑か
>>672 蘇我を殲滅しようとは思ってなかっただろ…
中大兄は蘇我から二人も嫁取って、近江朝の重臣にも蘇我を加えていたはず
>>674 皇后が皇位を継ぐのは、この時代の意識では
不自然ではなかった可能性もある。
>>676 それはそうだよ
天智の母の皇極(斉明)天皇が女帝なんだから
34舒明天皇→35皇極女帝→36孝徳天皇→37(斉明)→38天智天皇…
夫である舒明天皇から天皇位を継いだ
しかし宝皇女(皇極)も、軽皇子(孝徳天皇)も皇族だけど3代遡ってやっと天皇(30敏達天皇)だから、倭姫王より天皇に遠いしね
でも中大兄皇子を退けてまで、天皇とやや繋がりが血縁的に遠い孝徳や皇極に行ったのはやっぱり解せない
>>677 宝皇女は舒明天皇から見て姪。
軽皇子は皇極天皇の弟。
直系相称がまだ確立していなかった
この時代では、血縁的に遠いとはいえない。
>>678 宝皇女や軽皇子の姉弟が血縁的に天皇から遠いと言った意味は、34舒明天皇との関係性(姪や甥)の事じゃなくて、姉弟2人の血統から一番近い天皇が曾祖父の30敏達天皇だって事
姉弟の父と祖父は天皇位に着いてない=皇族ではあるけれども元々は血縁的にさほど重要視された高級皇族という訳ではなかった
ただ後に聖徳太子らの父の31用明天皇系統の血統が急速に減退して(絶えた?)歴史の表舞台には出て来なくなったので相対的に皇族の数が減って、皇統はほぼ30敏達天皇―押坂彦人大兄皇子の一血統だけになった
宝皇女(皇極女帝)も、結婚した田村皇子がその後に天皇に即位して舒明天皇になったから、結果的に皇后の地位が転がりこんだ
38天智天皇の生年626年
34舒明天皇の天皇即位629年
>>678 皇統譜から見て、事実として直系継承が確立されてるの分かるじゃん
直系相称って言葉は調べたけどよく分からない
中大兄が中々即位しなかったのは、乙巳の変で血のケガレを浴びてしまったから、というのは無いかなあ
天皇は神祇のトップに立つ存在でもあるのだから、清浄な身であることが望ましい筈
少なくとも継体以降直接その手で人を殺した天皇は他にいないし、
先帝崩御後宮を移すことが慣習になっていたのも死のケガレの問題と見るなら…
しかしそうすると、斉明崩御後はまだ少し足りないけど間人薨去後なら大田・讚良あたりが二十歳に達していたわけで、
その辺に即位させれば最後まで人殺しの中大兄を即位させる必要性はなかったことになる。あとそもそも大海人がいるんだし。
先ず大海人に皇位は渡さないという前提があって、
大田・讃良は既に大海人の妃であったから、若し彼女らを皇位に就けた後その「彼女」が大海人より先に逝くことになれば
大海人即位の可能性が強まってしまうので、中大兄即位はそれを避けるための苦渋の決断ということ?
天智について考える際にはどうしても大海人の素性が問題になるなー。
永楽帝朱棣が、甥から帝位簒奪したようなものだろう。>大海人
そんなに近縁でなくても、同じ朱一族だから馬氏皇后の子だと、
系図を書き換えさせて偽称したのだ。
>>679 >
>>678 > ただ後に聖徳太子らの父の31用明天皇系統の血統が急速に減退して(絶えた?)歴史の表舞台には出て来なくなったので相対的に皇族の数が減って、皇統はほぼ30敏達天皇―押坂彦人大兄皇子の一血統だけになった
まてまて、用明系統の上宮王家の存在を無視すんなよ。
>>683 用明の血統が歴史上の表舞台に出て来なくなった
これの何がおかしいの?
用明皇統も上宮王家も太子一族も生き残りは誰か僅かに居たにせよ歴史上・政治上・正史上からは抹殺されたと言っていいじゃん(社会的抹殺)
誰が表舞台で活躍したの?書記に活躍が記載された人いないじゃん
斉明女帝の前夫の高向王(伝、用明の孫)と子供の漢皇子も、その後名前全く出てないじゃん
正史以外の書物で「一説に…は聖徳太子一族の子孫である云々」なんていうのは都市伝説的な権威付け、ハッタリ、偽家系の粉飾としか言えない
山背大兄王自決で数十人に及ぶ一族も後追い自決したとされてるし、事実上の上宮王家滅亡(歴史上から消えた)じゃないか
用明天皇の血統を男系でれんめんと嗣がれた子孫は現在、存在が確認されてない
仮にいても正史はそれを承認してないし、今現在どうやっても証明は無理だろう
用明天皇の血を女系で嗣いだ者も記録は見られないし同じく証明も無理だろう
結論
現実はともかく歴史上的には用明天皇血統は完全に絶えたと言える
>>681 ■前半部分
触穢による天皇即位を自発的に止めた(あるいは周囲の強い反発があった)は確かに俺も考えない事はないけど
ケガレ忌避信仰はこの時代よりも平安時代が最もピークだったと思う
触穢を気にするなら、そもそも何故自らをあそこまで触罪させたのかが疑問でもある
入鹿を斬ったり実力者の粛清を繰り返した所をみると、自らを必要悪と定義して、もう即位出来ないの覚悟で「毒を食らわば皿まで」式に掃除屋を買って出たのかも知れない
「1人殺してしまったら、もう20人殺しても同じ」みたいに
それで即位は無理でも事実上の権力を握ろうとしたのかも知れない
■後半部分
女帝の即位は原則として、男帝が崩御した後にその皇后がつくもので、その崩御した天皇の皇子が次期天皇として十分に成長するまでのあくまでも時間稼ぎ、中継ぎ役としての即位である
だから皇后は中継ぎとして女帝になる可能性があるから、皇族の子女から選ばれるのが原則
(聖武天皇の皇后に、藤原不比等の娘の光明子が日本史上初めて皇族以外で皇后になる)
大海人皇子が天皇位に即位してないのに、皇后や夫人が即位する事はおかしいし、そもそも天智からすれば自分の娘の天皇即位じゃなくても、普通に大友皇子(弘文天皇)でいいじゃん
それと仮に娘に継がせてもその後は結局は天武の皇子に天皇位を継がせるなら、天武の即位を避けてもあまり意味がない気がする
(天武の血統が天皇位継げないようにしないとあまり意味ない)
2歩先の展開である自分の死後の新しい皇太子(親王=次期天皇)のビジョンまで計算に入れないと
つまり一時的に大海人皇子の天皇即位を避けても、あまり根本解決してない
百済そして高句麗が滅ぶと、唐と新羅の互いの利害がぶつかり袂を分かつと、
新羅は旧百済遺臣(残党)、唐は旧高句麗遺臣を使って相手側への抵抗・妨害を始めたらしいな
>>686 実力者の粛清が中大兄主導のものだってのはあくまでも定説であって、書紀にはそう書かれていない。
自分はなるべく書紀に沿う考察をしたいと思っているので、
潤色や誤魔化しがあるのは否定しないけれど、なるべく書紀の記述を優先することにしてる。
ただ掃除屋というのは面白いなw 中大兄は国のことより大王家という「家」を重視してる印象がある
後半部は、大海人に嫁がせた娘らに皇位を渡すくらいなら、と渋々自らが即位して、大友そしていずれは葛野王…と
続けていくつもりだったんじゃないかって話。仮にも何も中大兄に娘に継がせるつもりはなかったと言いたかったわけ
それとこれも書き忘れて悪かったけど、大田と讃良の年齢を出したのは、当時即位するには二十歳以上であることが原則と仮定したから。
間人薨去後でもまだ大友は二十歳に達してないので除外した。
入鹿殺害の首謀者は孝徳天皇とか
>>681 でもさ、それでいうと、
大海人皇子は壬申の乱のときの吉野方の総大将だよ。
前線にも赴いてなかったかな?
>>687 旧高句麗人にとって唐は、地理的にも歴史的にも新羅よりずっと直接的な仇だったから、
唐に味方した旧高句麗人は、多くなかったんじゃない?
逆に新羅は、対唐戦のとき、旧高句麗人の相当数も味方に引き入れてたはず。
あと、旧高句麗人の一部は、靺鞨人と手を組んで、渤海の建国に関わってるな。
>>688 中大兄皇子が主導とは認めなくても、ではまず少なくても
『中大兄皇子や中臣鎌足らが手を組んで乙巳の変(暗殺、クーデター、テロ)を起こした』は認めるんだよね?
書記にも書いてあるんだし
でもそれを認めて主導は認めないは通らないと思うけどな
参謀がいくらアイデアや実行プラン提案してても、最も責任が掛かってくるのは立場が上の人や実行決断した君の側だと思うしんだけど
れっきとした皇子である中大兄皇子がある程度能動的に動いてなければ、単なる臣と臣の権力争いテロ襲撃にしかならない
入鹿は専横してたし臣の中では最高ランクの地位・権力にはあったはずだよね
(鎌足ら)テログループがその後に全く罰された形跡もない(むしろ鎌足は「内臣」に出世してる)のはおかしいでしょ
最低でも承認・了承はされてる
>>689 その可能性もゼロではないよね
でもその後の中大兄皇子から孝徳天皇が受けた事考えたら、そこまで孝徳に実権あったか甚だ疑問でもある
乙巳の変時点で仮に実権あったとしても、その後に急に失墜した理由がさっぱり分からない
何の関係もないのに、もしかしたらテログループらから「真の首謀者」役を無理矢理被せられてた人かもしれない
中大兄皇子も自分がこの時に天皇即位したら「中大兄皇子は天皇即位する為に暗殺クーデターを起こした」
と言われて、皇位を脅かした逆賊(=蘇我入鹿ら)を征伐するという大義名分が成り立たない訳だし
(まあ中大兄皇子もこの時に一応すぐ皇太子にはなってるんだけど)
>>690 総大将の大海人皇子は下手したら実は「天皇」だったかも知れない大友皇子を自害に追い込んでる可能性有るよね
仮に弑逆してしかも天皇即位だったら、タブーの大きさハンパないよね
あと旧高句麗遺臣、旧百済遺臣共にそれぞれ一枚岩じゃないしそれぞれ分かれて一部は唐にも新羅にも繋がって綱引きしてたけどね
唐も新羅も相手を出し抜く為に、遺臣を陣営に率いれようと必死に工作してたし
693 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 00:44:00.82
乙巳の変は軍事クーデターだがテロ(一人一殺)では無い
直後に諸氏族の軍事力を動員してるし
>>693 入鹿暗殺はテロとしても、その後事実上のいわば体制側(権力掌握した側)よりになったんでしょうし、入鹿暗殺以降の蝦夷の自害までの流れは、確かにテロとは言えないかもしれませんね
そこで議論を争うのは本意じゃないので今後「乙巳の変」の全てをさしてテロと言うのは今後控えます
失礼しました
695 :
威迦櫓守:2011/05/26(木) 03:15:14.43
斎明天皇崩御後から白村江の戦いを挟み、長い称制期間の後に668年になってようやく中大兄皇子が天皇即位する(天智天皇)
次期天皇候補といえる皇太子には第一皇子である大友皇子ではなく、皇太弟として同母弟の大海人皇子が選ばれ、大友皇子は2年後に史上初の太政大臣となった
この辺の皇太子の選定人事は、兄弟である大海人皇子との軋轢を思えば天智天皇の真の意図とは反しているようにも思える
周囲の強い反対・抵抗にあって妥協した人事となったか、事実を書記が改竄したか
696 :
年表史料(斉明崩御〜天武即位まで):2011/05/26(木) 06:14:15.93
A.斉明天皇7年7月(661年8月)−斉明天皇が崩御
B.天智天皇2年8月(663年10月)−白村江の戦い
C.天智天皇4年2月(665年3月)−間人皇女が薨去
D.天智天皇6年2月(667年3月)−斉明女帝と間人皇女(大田皇女)を合葬
E.天智天皇6年3月(667年4月)−近江大津宮へ遷都
F.天智天皇7年1月(668年2月)−中大兄皇子が天皇即位(天智天皇)
G.天智天皇7年2月(668年4月)−大海人皇子を皇太弟とする
H.天智天皇7年9月(668年10月)−唐・新羅連合軍が高句麗を滅ぼす
I.天智天皇8年10月(669年11月)−中臣鎌足に大織冠と大臣の位を授け、藤原の姓を与える
J.天智天皇8年12月(670年1月)−近江宮内の大蔵や斑鳩寺で火災発生
K.天智天皇9年4月(670年5月)−法隆寺が全焼
L.天智天皇9年11月(671年1月)−大友皇子を太政大臣とするなど、新たな人事刷新
M.天智天皇10年10月(671年11月)−大海人皇子が皇太弟を辞退し、大友皇子を皇太子とする
N.天智天皇10年11月(671年12月)−朝廷の中枢となっていた蘇我赤兄、中臣金、蘇我果安、巨勢人、紀大人が大友皇子と病床の天智天皇の前で忠誠の誓盟
O.天智天皇10年12月(672年1月)−天智天皇が崩御
P.天武天皇元年7月(672年8月)−壬申の乱で大友皇子が敗れ自害
Q.天武天皇2年2月(773年3月)−大海人皇子が天皇即位(天武天皇)
697 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 13:28:46.54
この唐って、鮮卑なのか?
それとも漢人なのか?
まあ遺伝的には似たようなもんかも知れんけど、民族が違うと揉めるよな。
なんか、百済に本当の漢人が居たから
目障りで潰したのかなあとか思って。
>>695 不常改典が本当に天智天皇のときに
制定されたものなのか疑問。
>>697 同じ民族にせよ異民族にせよ自分達以外の存在や持ち物(国家、領土、財産、民族)は自分に従属姿勢の者も含め基本的に気にくわないが、利用価値が有れば最大限利用する
絶対に勝ち安定的に占領運営出来ると踏んだら人海戦術を使って人命に多少被害出してでも掠め取る
同じ民族ならまあ多少共感は出来るかもしれないが、基本的に利害関係抜きで助けたりはしない
例外はあるにせよ中国に政権をうちたてた国家は漢人国家にせよ、他民族国家にせよ結局は歴代国家みんなそんな感じでしょ
更に漢人の方が辺境や外国人や騎馬民族なんかの自分達から遠い存在に対する卑下・偏見とか中華思想的な自己独善意識が酷いのかな
それに鮮卑王朝にせよ最低でも末端の役人には漢人もいくらか登用しないと国家運営もまともに出来ない訳で
>>698 私も不改常典は言葉だけ出されるけど実態内容が明かされない、
正史に作成が記されてないなど様々な理由から権威付けや正統性補完の為に後付けで拡大解釈されたか存在が架空に創作された物だと思いますが
>>695と
>>698はどう繋がって来ますか?
>>700 必ずしも直系継承優先でなかったことを考えると、
采女所生の大友皇子が、すんなり立太子できるとは限らない。
むしろ、大友が皇位継承するにはハンデがあった可能性も。
>>701 でも結果として671年11月には大友皇子の立太子が実現してますよね
その辺で天智が新たに作った不改常典(の雛型?)が果たした役割があるという感じですかね?
でも采女の身分の高低はよく分かりませんが、蘇我稲目や蘇我馬子の娘らは皇族ではないけど後に天皇になる子を3人も生んでいるところを見ると、
もしかしたら背景に力が有って専横と呼ばれるくらいごり押しが出来ればどうとでもなる物なのかもしれません
703 :
威迦櫓守:2011/05/26(木) 23:04:54.49
■中大兄皇子は斉明天皇の崩御後から6年半もの長い期間に於いて、なぜすぐに天皇に即位せず称制し続けたか?
■何故に天智天皇に即位後にすぐ出された事実上の次期天皇候補指名である「立太子」されたのが第一皇子の大友皇子(皇太子)ではなく、同母弟の大海人皇子(皇太弟)だったのか
この全く関係ないと思われる様な2つの事象は、実は深く繋がっている…のかも知れない
仮定
・天皇に即位する事や皇太子に選定される為には、数え年で20歳以上という明文化されない付帯条件があった
(574年生まれの厩戸皇子=聖徳太子が592年に19歳で天皇即位かなわず、翌年に20歳になるのを待ってから皇太子となった事例からの推測)
・天皇即位後には速やかに立太子(皇太子の指名)をしなければならない、もしくはした方がよい、いう明文化されない暗黙の了解があった
(孝徳天皇即位時に、すぐ中大兄皇子が立太子されている等、ちなみにこの時中大兄皇子はちょうど20歳)
つまり斉明女帝の崩御後に直ちに皇太子である中大兄皇子がそのまま天皇に即位してしまうと、その直後に新たな立太子の必要が生じ、
まだ立太子の選定条件である20歳以上というのを自身の第一皇子の大友皇子がまだ越えていないため、望んでもいない別の候補者を立太子しなければならないというジレンマに陥いる
それに中大兄皇子にとってまだ戦時下→敗戦→臣民からの様々な不満や反発が強い状態で、即位するには更なる反発が予想され政情がかなり不安定である
E.天智天皇6年3月(667年4月)−近江大津宮へ遷都
強行策ではあるが大津京への遷都によって不満渦巻く大和を離れ、少し落ち着いた朝廷政治を行う地盤がようやく出来た
その時点で大友皇子は20歳、遂に立太子条件は整ったので心おきなく天皇即位が可能であり、翌年1月3日にまず
F.天智天皇7年1月(668年2月)−中大兄皇子が天皇即位(天智天皇)
そして残すは21歳になった大友皇子の立太子…だが大津宮の中枢メンバーの想像以上の反対にあった
704 :
威迦櫓守:2011/05/26(木) 23:06:16.35
もしくは、全く別の推論で
中大兄皇子の天皇への即位条件として立太子の際に「皇太弟」として大海人皇子を選定するという何らかの約束があった
その条件を飲めずに天皇即位を拒否して時間を引き延ばしていたが、大津宮遷都で自信をいくらか回復し、まず一旦即位し大海人皇子の皇太弟選定が行われた
いずれにしても天智天皇にとって「近江大津宮遷都」は安全地帯が出来たというか一番鍵になる気はする
705 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 00:34:42.19
>>703 > ・天皇即位後には速やかに立太子(皇太子の指名)をしなければならない、もしくはした方がよい、いう明文化されない暗黙の了解があった
> (孝徳天皇即位時に、すぐ中大兄皇子が立太子されている等、ちなみにこの時中大兄皇子はちょうど20歳)
この推論は、舒明・皇極即位時につづけて、立太子自体が行われていないから、
違うのではないかと思う。
戦後、中大兄が大海人を通じて、集権政策を緩和し
諸豪族に譲歩する政策を行っているところを見ると、敗戦処理の責任分担を
担わせる代わりに、大海人立太子を条件とせざるを得なかったとか(B説)。
スレの本来の議論から徐々に(だいぶ)離れているかも知れないが
この時代における「立太子の意義」ってそもそもなんなんだろう?
後継者である皇太子を早めに決めて宣言する事で、
・時期天皇になる心構えと覚悟を練り、事前準備をする予備期間
・朝廷内外に後継者が誰であるかをあらかじめハッキリと明らかにし知らしめる為
・皇子同士・後継候補同士の無駄な争いや対立を極力避け、朝廷を一つにまとめる為
だいたいそういった事ぐらいなんだろうか?
何かしら前の歴史の失敗からくる反省は入ってるハズなんだが、結構はっきりと事前に後継者を明言してない事で群臣の間でも意見が分かれて揉めてる場合があるよね
(推古天皇崩御直前の後継遺言問題など)
もちろん立太子されずにすぐ天皇になった皇子は一杯いるんだけど、一体なんなんだろうね
707 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 18:46:29.01
>>655 > 日本書紀に出てくる「筑紫都督府」なるものがあるよね。
これは気になっている。
>>628 そこのCG、高句麗兵が衝角付冑や短甲に伴うタイプの頸甲を付けてたり
弥生時代後期の武人が鉄製の革綴短甲着てたり、考証が微妙だな・・・
709 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 13:21:42.19
>>2 そうなんだけど、無理を承知で『そこをどうにか』というのが、男の主業だよ。
たとえ百済滅亡しても、みなまを回復出来てたら御の字だったな
>>639 4人も娘もらってるんだから額田一人くらい譲ってもいいじゃん。
と思うのだが、そうはならず、恐らく二人が険悪になった原因となった。
そのくらい額田が魅力的だったんだろう。
>>711 天武天皇と額田王の間に出来た第一皇女の十市皇女は、天智天皇の第一皇子で皇太子の大友皇子の正妃です(仮に天皇即位していれば皇后)
天智天皇は天武の娘を産んだ額田王までも召しあげています
政略婚の次元をさらに越えて、実態はほとんど人質交換に近い気もします
(ただし十市皇女は大友皇子との間に葛野王を産んでいるので、いくらか夫婦生活実態は確かにあったのでしょう)
天智天皇の皇后の倭姫王は、異母兄の古人大兄皇子の娘ですが、子供がないので夫婦実態の無い政略結婚だったかも知れません
孝徳天皇の皇后の間人皇女(天智の同母妹)にも子が有りません
半ば洗脳台詞としても「恋愛結婚とは犬畜生がやる下品なこと」と、20世紀初めは上流階級社会で言われていた結婚観の国なので
今の時代の本人同士の自由な意思による結婚観から政略結婚云々を偏見や欲得で論じるのも何ですし、子供の有無から夫婦実態を読み解くのも大変早急なんですが、確たる資料が有りませんのでね
>>712 妻問婚の時代もあったけどね。
ひとづまゆゑにわれこひめやも
大海人が過去を引きずっているようにも見えませんね。
714 :
日本@名無史さん:2011/06/04(土) 09:11:43.05
阿倍比羅夫、安曇比羅夫らの事とか聞きたいな
阿倍比羅夫が海を渡って蝦夷や樺太まで行ったというのは本当だろうか?
一時的に征伐に成功しても、その場所を維持出来ないしする気もないと思うんですよね
勢力拡大を警戒して、放置せずわざわざ遠く遠征して早めに芽を摘んだって感じでしょうか?
危機管理とはそういう物かも知れないが、樺太までの遠征は労多くして得るものはあまりない気がするというか…
「労や出費多くとも蝦夷征伐で戦功や名前を挙げるのが目的」ならばある程度理解出来ます
実際に白村江の戦いでもメンバーに選抜されてますし
阿倍氏も安曇氏も、饗をつかさどる豪族。
しかもどちらも水軍を率いる軍事氏族。
名前が比羅夫と共通。
同じ時代で比羅夫が共通だから目立つよな
「宿禰」みたいな共通の職種を表す様な、よくある名前なんかなと思ったり…
「ひらふ」っていうのは「指令官」とか「隊長」とかってところの意味じゃなかろうか、って説が無かったっけ?
違った?
この時代でひらふという人物はほかに、
東漢直荒田井比羅夫(大化三年・書紀)と
中臣塩屋連枚夫(補闕記)がいますね。
>>718 関係ないけど平安時代の最初の征夷大将軍(厳密には初代の大伴弟麻呂の後任を引き継いだニ代目)の坂上田村麻呂は、倭漢氏(東漢氏)の配下の帰化人系の一族みたいやね
「ひらふ」ってトルコ料理だろ!?
721 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 09:03:32.20
>>714 > 阿倍比羅夫が海を渡って蝦夷や樺太まで行ったというのは本当だろうか?
疑問。秋田県の男鹿半島あたりまでは行ったと思うが。
>>721 近場だと箔が付かないし嘘がバレるから遠征という事に潤色したのかな?
国をあまりに跨いでの遠征だし、朝廷まで樺太とか北海道極地の情報が簡単に速やかに入るとも思えない
723 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 17:18:07.56
阿倍比羅夫は戦死したのかどうか?
724 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 03:06:19.45
>>721 書紀には渡島に行ったとなってる
問題はそれがどの地か?
蝦夷地(北海道)か津軽かの両説がある
当時の男鹿半島、なかば島だったはずだしなぁ。
沿岸航海していたら、突如巨大な内海(八郎潟)と、幅1km程度の
細い陸地でつながった半島(男鹿半島)が現れたら、渡島とか
言いたくなるはず。
まさか佐渡島なんて事はないよね?
728 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 16:02:54.73
佐渡島というのが存在するということは比較的古くから知られていたはず。
>>728 俺もそれはそうだと思うんだけど、いまの新潟の辺りに大和政権の拠点(城や砦や防衛陣地)が出来たのが、だいたい7世紀中頃ばかりだからさ
佐渡島がいつ大和政権下に組み込まれたかは、調べれば資料が有りそうなんだけどね
佐渡島がまだなのに、何か特別な理由でも無い限り男鹿半島征伐を優先はしないだろうし
大和政権の方針として新潟より先に佐渡島を抑えたとは、戦略上考えづらいし
(新潟から敵援軍が来て補給線分断される可能性もある)
拠点作って恒久支配することではなく、大船団派遣して威を示すことが
目的なんだから、7世紀の時点ではまだ新潟県界隈までしか支配できて
いなかったよんというのは関係ない。
あと、男鹿半島から北海道までは200kmぐらいだし、波の荒くない時期を
選んでいるはずだしで、北海道まで行っていた可能性はそれなりに高い。
とはいえ、さすがに樺太まで行ったとは思えないし、日本書紀にあるよう
後方羊蹄に郡領を置いたとかいうのも極めて怪しい。
簡単に200キロはすぐとか言うけど、長距離遠征の場合は総員の食糧物資が往復分必要で、兵数が増えれば増えるほど食糧消費量も増えるし、現地調達とかは基本的には事前には考えない物だからね
兵士以外に非戦闘員の船の漕ぎ手も大量に要る
船団や兵数が増えれば増えるほど、艦船の故障やら疾病も増えるから移動速度も落ちるし中継寄港地点もおそらくないし、武器なんかの物資搭載量も限られてるし
よっぽど何か確たる成果を挙げる目標・目的がないとやれないよ
獲得した拠点を維持出来なければ、成果あると思えない
ほぼ未開の土地までわざわざ向かう理由が見つからない
「来るべき半島決戦の前の前哨戦として勝ち戦の経験と自信を得たかった、または総大将としての戦功を挙げたかった(阿倍比羅夫)」のならまだ理解出来る
海路を船団で行くから、勝ちやすい(恭順しそうな)敵だけ選んで戦う(威圧外交)のが容易いのは利点だな
658年の遠征で、生きた羆(ひぐま)と毛皮の羆を献上されてる記事があるな
羆は日本では本州には居なくて北海道しかいないから、北海道までやっぱり行ってたのかな
う〜ん
733 :
ワッカ:2011/06/10(金) 15:00:33.36
663年の白村江の戦いというのは、実は、
「唐帝国&新羅 対 高句麗&百済&九州王朝(倭国)」という、
東アジア全体の命運を決する、世界史的な大きな戦いだった。
その結果、唐帝国&新羅が勝ち、高句麗&百済&九州王朝(倭国)は負けて国家と
しても消滅した。
中国 韓半島 日本列島
白村江の戦い以前 隋 高句麗・百済・新羅 九州王朝(倭国)
白村江以後 唐 新羅 畿内大和王朝(日本国)
734 :
ワッカ:2011/06/10(金) 16:20:59.39
663年の白村江の戦いによって1世紀の“漢委奴国王金印”以来の九州王朝(倭国)が
滅亡したので、当時の東国にあった畿内大和王家が、新しい日本列島の代表者になる
ことができた。それが668年の天智天皇の即位、畿内大和王朝=日本国だ。
「日本書紀」では、白村江の戦いをしたのは日本軍(畿内大和軍)だとしているが、
それは九州王朝(倭国)を古代史から消したことによる、すり換えだ。
九州王朝(倭国)を唐が亡ぼしてくれたことによって、畿内大和王家が畿内大和王朝
=日本国として新しい日本列島の支配者になれたのだから、畿内大和日本国が唐帝国
と仲良くして遣唐使をしたのは当然だ。
735 :
ワッカ:2011/06/11(土) 02:12:00.59
畿内王朝(大和朝廷)というのは、軍事力を少ししか持たないどちらかといえば
平和国家だ。そんな国が、はるばる韓半島で唐帝国と大海戦した、できたわけがない。
畿内王朝(大和朝廷)は、遣唐使の時でさえ、東シナ海の安全な渡り方を知らずに、
無理やり東シナ海の中央を突ききろうとして多くの遣唐使船が沈んだ。大和朝廷は
東シナ海を知らない国なのだ。
なのに、「日本書紀」にあたかも大和朝廷の日本軍が韓半島の白村江で戦ったと
記されていれば、旧来は皆が鵜呑みにして来たのは、いかに多くの人たちが、東シナ海
のことも知らないし、大和朝廷が日本列島の内陸のあまり軍事的でない国家だった
ということも分かってないということだ。
>>733-735 そう考えた根拠は?
たとえば「犯人はお前だ」というのなら、万人が納得する…とまではいかなくても、それなりの証拠なり根拠がないと説得力ないよ
いまさら、基地外古田ですら引っ込めた九州王朝説…
比羅夫がヒグマ献上したとあるから渡嶋はやはり今の北海道でいいんじゃね?
生きた羆と、羆の毛皮というのはやはり今のアイヌ文化的だな
子熊は1年くらい飼って育てる風習・文化・祭祀がアイヌ文化にある
当時の北海道のエミシ=アイヌの先祖という風に安易にしてはいけないけど、少なくとも何かしら繋がりは感じる
当時のエミシや熊襲や隼人の実際は興味あるね
弥生人以前のネイティブ・ジャパニーズと、弥生人の交流・融合・敵対を知りたいね
しかし当時から今まで渡来人に世界一優しい国家だな
異国人天国(先住民受難)な国だよね
どの時代も
先住者が受け容れるのもそうなんだけど
後から来た方も徹底的な殲滅はしてないんだよね
空白の4世紀古墳時代は違うんじゃね?
中国の春秋戦国時代や三国志時代とか侵攻・圧政から逃げたり、半島の争乱や国家滅亡から逃れ亡命してボートピープルみたいになって運良く日本に来れた渡来人達
彼らはこれ以上の戦争や争いに懲りた(極力避けた)から日本は「和をもって貴しとし…」という様な争いを避ける様な平和・話し合い思想が醸成されたみたいな話があって、納得出来る部分もある
ものには功罪両方あって、争いを嫌いモラルが有るのはいいけど平和ボケで危機意識が希薄とかね
蘇我氏の名前で毛人、韓子、高麗、馬子、蝦夷、入鹿と付くのは後付けなのかなんなんだろう
半島系みたいだったり蝦夷系みたいだったり
家臣は半島や大陸系の人も多いよね
外交や渉外に長けてて異国人対応力や包容力があるって事か、みずから出自もそういった筋なのか
仏教導入したり柔軟性は有るよね
蝦夷って名前の人は他にも何人かいたはず
あと韓子ってのは混血児の総称だから、ハーフ説を採るなら後付じゃないかもしれないですね
息子の「高麗」というのも総称で本名は馬背らしい。
まぁその場合でも吉備韓子「那多利」・「斯布利」のように本名があったはずだが、
蘇我韓子の本名は確か伝わってないな。
745 :
日本@名無史さん:2011/06/13(月) 17:13:25.91
>>743 > 蘇我氏の名前で毛人、韓子、高麗、馬子、蝦夷、入鹿と付くのは後付けなのかなんなんだろう
佐伯今蝦夷の例にもあるように、勇猛な動物や精悍な未開人の名前を名乗ることが「健康に良い」と思われていたようだ。
ソースは「空海の風景」
AKBの「ユキチカ!」で特集やるっしょ
>>721 オレは北海道の奥尻あたりまで行ったと思う。
なぜなら、彼らは蝦夷語が通じない人たちと会い、交戦したと記録されているからだ。
当時オホーツク文化人(多分、ギリヤーク人)は奥尻島まで進出していた。(発掘より明らか)
北東北は地名からアイヌ語が話されていたのは事実だろう。アイヌ語が通じない民族との交戦だ。
交戦した人たちがギリヤーク人だとすると、記録とばっちり合う。
室町時代の設定だけど「もののけ姫」で蝦夷が出てきたね
「自分にも蝦夷の血が入ってるに違いない」と信じてる宮崎駿の空想なんだろうけど蝦夷側からの視点での和人や中央の朝廷勢力とか描くなんて、面白い視点だよね
俘囚みたいな同化していった人々とか気になるね
王を立てるとか無くて長老の村長とか酋長みたいな関係かな
749 :
日本@名無史さん:2011/06/15(水) 03:58:16.05
>>748 あのアニメの蝦夷の意匠は、オロチョンそのもんだぜ?
か、樺太まで・・・
前から思ってたけど唐・漢(中国)に韓(朝鮮)に、樺太にと
やけに隣国に「KARA(KAN)」が多いね
というか多すぎる
これでは意志疎通で混乱が起きるよね
おそらく混同しないように明確に使い分けてただろうけど
あと樺太は最近の名前かもだけど
「KARAの国」「KARA-HITO」「KAN-JIN」のいわれて大陸か半島か一瞬迷うみたいな(漢人or韓人)
KARAの響きに何か深い意味合いがあるのかな
確か、karaって確か、加羅が語源なんじゃなかったか
それから本土から見た半島の事、半島を支配した唐の事って適用範囲が広がったとか
確か、そんな感じのをどっかで読んだ
ヨーロッパとアジアだって最初はギリシャとトルコの事だったんだ
それが、適応範囲が広がった
なるほど、KARAって日本向けのネーミングだったのか。
最初から日本進出は規定路線だったのかな?
>>755 俺はスゲー違和感が有ったが
世界史選択だったから、加羅が倭人国家だって知ってたんだよね
何でこいつらは自分の国の様にアイドルユニットに付けてくるんだろうか的な感が有ったが
奴らは国内じゃ加羅が倭人国家だったって事は無かった事に成って、朝鮮人国家だったって事になってるらしいな
758 :
日本@名無史さん:2011/06/21(火) 15:59:19.93
加羅(伽耶)か何処かは別にして天皇家の先祖の大元の出身地が半島だったら、
つまりもともとの倭=半島南部とかだったら日本は半島の征服地になるよ
ヨーロッパ人からみて今のトルコの西端部分だけをアジアと言ってたのが、だんだん範囲が広がっていって、いつしか極東までもアジアと呼ばれるようになったのと同じなんだよな。
それを同じアジア(人)なんだからとか、アジアは一つなんだからとかのたまう進歩的文化人がちょっと前まで多くみかけられたが、馬鹿も休み休み言えよと思ったもんだ。
日本から見て、朝鮮半島の南端部だけをカラ(加羅)と呼んでいたのが、やがて半島全体をカラ(韓)と呼ぶようになり、更に中国大陸もカラ(唐)と呼ぶようになり…と「カラ」の場合はここまでだが、
仮に更に進めていってインド〜西アジア〜そしてユーラシア大陸西端のヨーロッパまでもカラと呼ぶようになってしまっていたとしよう。
それを「同じカラ(人)なんだから」とか「カラは一つ」なんて言ってしまうのと同じくらい「アジア」なんて概念はフィクションなんだよと。
760 :
日本@名無史さん:2011/06/21(火) 18:20:02.02
>>758 フランスのノルマンディー地方に土地を持つノルマンディー公爵が、ドーバー海峡を渡ってイングランドを建国しスコットランド・ウェールズ・アイルランドも併合した
フランスの王位継承権も持ってたから揉めて英仏百年戦争になった
井沢元彦も例に出してるけど、公爵とはいえフランスのイチ地方領主がイギリスを征服して母国フランスに対抗する大国家になる事はあるんだよ
日本と伽耶と半島の関係だって絶対ないとは言えない…
>>758 天皇家が半島から来たなんて朝鮮人しか言ってねーだろ
百済の王族の遠い先祖を持つ日本人の皇后が過去に居ましたから
縁を感じると言ったんだろうが、しかも百済の王族は倭人と満州人で朝鮮人関係無し
この縁を「朝鮮人と血縁」を感じると勝手に翻訳して広めてんだろうがボケ
しかも朝鮮人は何回これを言って論破しても、同じことを繰り返して言い続ける
朝鮮半島は二千年属国と植民地だって何度言っても理解しないで、同じ議論を蒸し返す
>>758 しかも百済も新羅も倭国の属国だろうが
属国の歴史を無かった事にして、百済出身の天皇が日本を支配したとかもチョンしか言ってねーだろ
何回繰り返し怒鳴りつけても理解出来ないチョン
何でお前は二千年奴隷だと歴史書にも書かれてれば物的証拠も出てることを理解出来ないんだ?
だからチョンは二千年も奴隷なんだろ
>>761 百済が倭人と満州人とか断じてる奴の方がボケじゃ
>>758は可能性がゼロではないという話の一例に過ぎない
反日も愛日(親日)も、中国や朝鮮の過剰な愛国偏向も、結局学問の判断を歪める(都合が合わない結論は絶対認めない)考え方に於いて同じ結論しか導かない
一番嫌ってる集団とアンタは同じ穴のムジナだよ
どんな考古学的発見があっても、都合が悪ければアンタは絶対認めないのはよく分かった
俺は客観的事実が出たら如何なる結果でも受け止めるし、今はもう日本が歪められるとも思わない
>>763 で、百済は何人だと?
文献で残ってるし、遺跡も出てるんだが?
お前の見解でもいいから出してみろ
まさか古代から朝鮮人が半島一帯に住んでいたと?
765 :
日本@名無史さん:2011/06/21(火) 21:59:31.10
>古代から朝鮮人が半島一帯に住んでいた
大概の学者は"YES"だろうな。
新羅初期王朝、百済支配層、高句麗は朝鮮人ではない。
新羅・新羅被支配層=奴隷・生口が朝鮮人だ。
支配者層と違い、どんな言葉を話していたかは記録には残らない。
766 :
日本@名無史さん:2011/06/21(火) 22:00:17.24
× 新羅・新羅被支配層=奴隷・生口
○ 新羅・百済被支配層=奴隷・生口
>>765 百済も民衆は?加羅と南部の倭国にまで朝鮮人が住んでた事になってるのか?
それでイエスと言い切るお前は日本語が理解出来てるのか?
768 :
日本@名無史さん:2011/06/21(火) 22:28:11.44
加羅というか金官伽耶は朝鮮人じゃねーよ
倭国というのも朝鮮人じゃねーよ
なんで、4世紀頃に奴隷・生口だった連中が、政権を樹立して都市なんか作れるんだよw
公孫氏の南下じゃね?
>>767 民衆なんていない。4世紀の朝鮮民族は奴隷か農奴の身分だろ?
>>770 なんか今日になって急に極論が目立つなー・・・。
一般論で言うなら、
百済上層階級の内部にはいろいろと系統の違いがあるようで、
漢城首都時代以来有力だった王族(扶余氏)や貴族の一部(解氏や真氏)は扶余系あるいはわいばく系だったろうし、
高句麗による漢城陥落で百済が熊津に遷都してから、次第に百済の中央政界に台頭してきた、南部の有力氏族(沙氏など)は、韓系だった蓋然性が大きいな。
772 :
日本@名無史さん:2011/06/21(火) 23:51:39.04
4世紀に奴隷だった韓系が、6世紀に豪族となるには、どういうプロセスがあったんか?
>>771
>>772 「韓系が奴隷だった」というのは極論だと思う。
「誰にとっての」ということが無いでしょ。
結局、漢城周辺の扶余系またはわいばく系の有力部族の勢力がだんだん南下していっても、
はじめのうちは北部有力氏族も、南部にはそれほど影響力を持てなかったらしい。
で、南遷に伴って、南部の住民をまとめていた有力者たちが、中央政界にも幅を利かせるようになっていった、って経緯のようで。
取り敢えず思想ありきで結論を導き出そうとする信者は、右も左も反日もネトウヨも去れ
感情論で怒りに任せて語る奴も去れ
韓系が台頭してくるのは6〜7世紀。
もう日本では大勢(タイセイ)が決まっていて、万葉仮名もでてくるので
たとえ台頭してきても、影響は薄いため、痛くも痒くもないわw
つーか韓系って倭人でしょ?
馬韓辰韓弁韓は倭人の国だろ?新羅に成る辰韓でさえ初期は倭人の国だったと思ったが
その内秦の移民を住まわせたら新羅に成る頃には乗っ取られたらしいが
今のチョンが韓が自分のルーツって言い張ってるのは、国の地域が大体重なってるからだろうけど
奴らの文化的核は小便で顔洗う所から見てどう見ても水のない所で遊牧生活してた奴らで
長江流域で大河文明築いてた倭人じゃねーぞ、多少混血しては居るだろうけど
ID出ないからどれが同一の奴の意見かしらんが
ここでの議論の前提として、半島南部に倭国が有ったのは規定事実でイイよな?
加羅も完全な倭人国家を前提としてイイよな?
コレも否定し始めたら否定した奴朝鮮人認定すっからな
ああ、後、半島南部の文化は倭人文化ってのも前提にして議論するから
否定した奴は朝鮮人として扱う
test
780 :
日本@名無史さん:2011/06/22(水) 19:09:16.48
土遁の術でスレスト狙ってるな〜♪
結局いつかの時点で日本へは、半島や大陸や南洋から島伝いに来てるし、身も蓋もない極論な言い方すると人類全てがアフリカ起源なんだから
それをまるで日本という島国に突然降って湧いた人が居た様に主張されてもな
天皇家の先祖が日本に居たと主張し続ける奴は、本当に高天原から天下ったと思ってるか、なんなんだろう?
それか天皇家の先祖は蝦夷より古くから日本に居るとでも?
天皇家の先祖が日本に来た時期が500年、1000年、5000年ずれてもさほど変わらんし、いつかの時点で日本にやって来たのには変わりないって
いわゆる「天孫降臨」が絶対に=渡来の隠喩じゃないとも言い切れない
何か「外の世界」から日本の九州にやって来た可能性も大いにある
誰も天皇が日本に最初から居たなんて言ってないが?
天皇家は弥生系倭人のトップだが?
どう見ても稲作文明のトップだが?
それは長江流域から発生した長江文明人であり、海流にのって九州や半島南部に流れ着いた
稲の遺伝子や、古墳の年代から見て、九州の方が中心で、先に倭人が到達してたのは事実だと思われる
半島や北海道を通ってきたであろう先住民は縄文人で、古モンゴロイド
この遺伝子は半島には微塵も残っていない事からして完全な別民族だし
今のチョンより遥かに古い民族で、明らかにチョンでは無いが?
弥生人が長江文明人だと言うのは遺伝子が一致して証明されているが?
つか、文献でも残ってるな
倭人は呉人の末裔だと自分で言っている
物的証拠も一致している
大体朝鮮人は農耕文明人じゃねー
古代の半島南部の農耕文明人は倭人だ
これを前提として議論を進めろ
否定すれば朝鮮人だとみなす
チョンにも古モンゴロイド風のやつがニ割ぐらいいるぜwww
全羅道へ行ってみそwwwwww
>>784 お前が朝鮮人だってのは判った
出て行け
全羅へ行けないチキン野郎がいるスレはここですかー?
古モンゴロイドだからこそエラが張っているニダ!
.. _____ _____
∧_ || //∧_∧ | ∧_∧ |//∧_∧ ||_∧
(´-ω||//<#`Д´>|< > |/ <`Д´#>..||ω-`)
( .⊃ ||/ ( ) |( ) | ( ) ||⊂ )
⊂_)' ̄) ̄ ̄ ̄ u―u'  ̄ ̄ ̄ ̄ ( ̄(_⊃
789 :
日本@名無史さん:2011/06/22(水) 20:15:40.11
全裸age
全裸南道
ぜんら なんどう
全 裸 男 道
なんたいもり
男 体 盛り
沖縄の人と東北や北海道の蝦夷の関係は、弥生人と比べて近いの?
蝦夷=縄文人??
蝦夷の一部=縄文人?
エミシの人骨って、どんなんだっけ?
沖縄の8〜10世紀頃の人骨もどんなんだっけ?
査読付き論文を探さないとわからんよな。
あと弥生人骨はタイプがいくつかあるけど、
数の上では縄文人骨と変わらんよな。
在来系←→渡来系というほうが、人骨マニアには通じ易いんじゃないかな?
大体チョンは日本人を見下してるって言ってるのに
何で自分と同族にしたくて仕方ないんだろうな?
例えば乞食が居たとして、そいつと親戚とか兄弟とか親父だとか人に知られたく無いよな?
アーサー王が親戚とかなら必死に同族にしたいのは判るが
まさか、チョンにとって天皇はアーサー王か?
その内チョンは、自分は倭人の子孫だとか言い出すだろうけどな
確かにチョンは、倭人の血も混血しているだろう
しかしチョンにはそれより遥かに漢民族やモンゴルの方が混血して居る上に
小便で顔を洗う所やチミッコイ弓からして
先祖はどう見ても水の無い所で遊牧生活していた奴で
どう考えても大河農耕文明人では無い
何べん「小便で顔洗う」ばっかりにフォーカスするんだよ
咨意的だな。そのつもり無くてもそう取られても仕方ないぞ
もっと他に証拠無いのかよw
韓国人が「天皇は半島から日本に渡った」論は「朝鮮の没落貴族ふぜいが列島に渡って中心になってどうにか建国したに過ぎない日本」=元を辿れば朝鮮無しには絶対生まれなかった日本(朝鮮ありきの日本ふぜい)
って理論じゃないか?
幼稚な優越感というか先輩風・先生風というか親元主張というか
799 :
日本@名無史さん:2011/06/24(金) 23:18:11.33
|┃三 , -.―――--.、
|┃三 ,イ,,i、リ,,リ,,ノノ,,;;;;;;;;ヽ
|┃ .i;}' "ミ;;;;:}
|┃ |} ,,..、_、 , _,,,..、 |;;;:|
|┃ ≡ |} ,_tュ,〈 ヒ''tュ_ i;;;;| 粛慎の裔はロシア国民である
|┃ | ー' | ` - ト'{
|┃ .「| イ_i _ >、 }〉}
|┃三 `{| _;;iill|||;|||llii;;,>、 .!-'
|┃ | ='" |
|┃ i゙ 、_ ゙,,, ,, ' {
|┃ 丿\  ̄ ̄ _,,-"ヽ
|┃ ≡'"~ヽ \、_;;,..-" _ ,i`ー-
|┃ ヽ、oヽ/ \ /o/ | ガラッ
>>798 その百済も倭人国家なんですが
王も倭人と満州族だかだっけ?
小便で顔を洗うから穢族って名前つけられたんだろうから、繰り返しても自然でしょ
それ以外にだって、エヴェンキって生き証人が居ますがな
801 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 00:06:47.79
独自理論の人はオカルト板でも池
穢族もエヴェンキもチョンとは違う文化だ
>>805 それは今の韓国人の話す言語と百済人や新羅人の言語の事か?
あながち間違いじゃないな
漢城の語源すら不明なんだからな
>>805 同じですが?アリランが
そっから二千年の間に言葉が変わって行ったんだろ
多分今のチョンの言語はモンゴルに支配された時にガラっと変わった筈
実際聞いてみると判るが、トルコから始まって日本まで一応同じ語族とされるが
モンゴル語は語族とか言う文法的な見地以前にあからさまに朝鮮語に似ている
バカか?
>>807 それだと、日本民族と満洲民族が同系になってしまう。
>>808 良くしらんけど文法的に同系なのは事実だろ
ちょっと調べてみたら、チョン語と日本語はアルタイ諸語とはちょっと違って扱ってるらしいが
なら、チョン語はアルタイ諸語の方が日本語より遥かに近いって言い換えるよ
810 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 01:19:33.46
いやー 満洲語は朝鮮語よりも日本語に近いな
それと モンゴル語は朝鮮語と近いな。
あくまでも抑揚とか各音節での比較でわな
朝鮮と蒙古はひっつけられるので、一緒に遠ざけようとすると
日本に満洲が近寄ってきちゃうので、痛し痒しか。
チュルク諸語 モンゴル諸語 ツングース諸語 韓国朝鮮語 日本語
お互い語彙の語源が違うので、語族や方言の関係がなく通じない。
漢語や梵語や英語の語彙を介して通じる。
チュルク諸語でもウズベクやウイグルだとイランやアラブの語彙が有力なので
隣接のモンゴル諸語とは全く通じない。
>>810 閉音節(パッチム)を多く持っていることは、モンゴル語と韓国朝鮮語の共通点。
また、アクセントで単語の区別をしないで平板なことも共通。
北朝鮮の放送局は、歌を歌うアナウンスなので、単語の区別のためのアクセントではない。
タイ語やベトナム語も閉音節(パッチム)=入声を多く持っているが、アクセントで単語の区別をする。
チュルク諸語 モンゴル諸語 ツングース諸語 韓国朝鮮語は絶対敬語であり
シナチベット語族のような相対敬語ではない。
北方官話の漢語やチベット語では、間接話法で第三人称の行為に尊敬の副詞はつけない。
あくまでも話者と聴者が、「よそゆき」の関係の時に謙譲表現をする。
日本語の敬語表現は、シナチベット語族的である。
ただ、春秋時代の古い漢籍を元に書く文語では、字面上の絶対敬語が残存する。
春秋時代華夏族は、シナチベット語族とは違う文法体系であったのかもしれぬ。
815 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 10:45:45.54
「小便で顔洗う」ばっかりにフォーカスすると
マンシュウ民族経由で日本にブーメランが来るから、要注意だな。
マンから潮ふいたのを舐ってるから、別にかまわねーけど
816 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 12:11:25.61
マンコ舐って、聖水で顔洗ったことないんか、おマンらは!?
白村江の戦いの総司令官とか、命令系統がハッキリしてないのも失敗の原因の一つというのを読んだ記憶がある
気を使って上下を付けずぼかして複数人に並列的に権限があったり、格式や家柄が低い者が最高責任者だと反感持って言うこと聞かないはみ出し者が出たりとかあるしな
818 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 23:54:48.74
んな古代の戦争のコトで、そんな細かい事情がわかっているのかよw
819 :
日本@名無史さん:2011/06/27(月) 03:34:27.06
NHKの歴史スペシャルでの解説は、ひどかった!
( ̄∀ ̄)
てs
天智と天武は結局九州までしか行ってないんだよね?
半島には行ってないよね?
822 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 18:26:46.75
>>821 渡海した天皇はいないでしょ。
雄略天皇は渡海して戦争したい希望はあったようだが。
>>822 天皇の半島遠征(渡海)って意味深いよね
九州での仲哀天皇の新羅遠征拒否直後の謎の不審死や、神功皇后やお腹の中の応神天皇の新羅征伐
824 :
日本@名無史さん:2011/06/30(木) 08:31:33.12
仲哀天皇が新羅遠征ではなく、九州南部を平定しようとしたのは戦略的には正しいと思われる。
新羅遠征に反対したら(呪い)殺される天皇…
しかしいくら戦略上理にかなっていても、勝って得るものが無い(得られる物があるかどうか分からない、不鮮明な)戦よりも、
多少困難が予想されても明確に得られる物が明確な戦の方が理にかなっていたかも知れない
基本的に2国間の外交・政治上のゴタゴタの問題解決の延長線上に、ほとんどの戦はある訳だし
南九州とか北関東や東北は、得られる物が明確に無い(?)割に、敵は勇敢で精強だっただろうし
半島には鉄資源やら先端技術やらいろいろあったのは、ハッキリ分かってる訳だし
しかし出撃最前線の九州入りしてからの、侵攻対象国の意見対立とかチグハグというか、ちょっと考えられない事態というか
神の神託とはそんなに意見が180度動かされるのか…
軍船の事も考えたら、あり得ない詐欺的侵攻/クーデター的侵攻としか言えない
仲哀帝は熊襲の放った流れ矢に当たって戦死された
名前通り「仲を哀しむ」したのは熊襲との仲か、新羅や半島諸国との仲か、神功皇后や武内宿禰との仲か…
神功皇后は久米氏族なので隣領の熊襲を討つのには反対で、新羅のみを討つよう仲哀帝に進言していた。
仲哀帝(隼人-大和)はもちろん熊襲を討つつもり。熊襲と新羅は結託していると見ていたので、新羅だけを征伐しに行ったら、その背後を熊襲に襲われるのは必至だったから。
そうして仲哀帝一行(隼人-大和&久米+播磨ほか)が、熊襲征伐を敢行している最中に不意に背後から新羅が襲ってきた。
それで帝軍は大混乱に陥り、帝は流れ矢に当たって崩御される。
この混乱をなんとか鎮め態勢を立て直したのが、神功皇后の腹心・難波根子建振熊だった。
建振熊は神功から全権を委任されて熊襲との和平交渉に当たる。
熊襲はかねてから親熊襲的だった久米の息長姫(神功)が帝位に就かれるならば、新羅と縁を切り、神功皇后の臣下にくだりましょうと提案する。
危急のことだったので神功皇后方大使・難波根子建振熊は独断で熊襲側の提示してきた条件を受諾し、ここに神功皇后(久米)連合軍と熊襲軍の和睦が成立する。
その時、戦目付けとして熊襲から神功皇后側に送られてきたのが、武内宿禰である。
同盟が成った神功皇后・熊襲連合軍は新羅軍を攻め、新羅を散々に打ちのめす。
ただ、この事態(神功・熊襲同盟及びその盟約)に怒り、異議を唱えたのが亡き仲哀帝嫡流筋の大和方である。
大和方の仲哀帝側近は、熊襲と同盟しての新羅征伐にこそ従ったものの、
一方でとり急ぎ大和にいる故仲哀帝嫡流の香坂皇子、忍熊皇子兄弟に急使を送り、神功皇后が帝位に就くことを条件に熊襲と盟約を結んだことを知らせる。
知らせを聞いた香坂、忍熊両皇子は新羅を討って九州から凱旋してくる神功皇后軍を迎撃するべく播磨明石に向けて進軍する。
ここは「白村江の戦い」スレなので、
百済晩期の近隣諸国情勢と直接関係しないうえにそれと具体的に関連付ける記述も無いような長文を
延々と書くのはやめてください。
832 :
日本@名無史さん:2011/07/03(日) 05:56:52.87
>>818 指揮命令系統の話は文献でも確認できるので、古代国家と武力の研究では
相当前から言われている(確か戦前の研究で既にあったはず)。
異論も少ないしほぼ通説といってよい。
学問よりエンターテイメントとして見てると言われれば否定は出来ないが、作家・関裕二さんの著書ってどうなんですか?
真剣に学問として学んだ方からすれば、ただただ噴飯ものなんですか?
もちろん彼は「歴史学者」じゃなくて「歴史作家」なんで正確さよりも、著書を売らんかなの為の要素や飛躍、エンターテイメントとして読者を楽しませる、興味を持たせる事に何より重きを置かれているのは間違いないでしょう
自分の主張を補強する材料を殊更取り上げ、都合が合わない部分は伏せて取り上げない部分もあるでしょうし、理論構築が不完全な部分や憶測に憶測を重ねた様な部分もあるとは思います
同じ様な事は、作家・井沢元彦さんにも言えるでしょう
しかし専門の学者さんは立場上迂闊な事は言えないが故に、自由な意見や仮定が語れない部分もあり、前例主義や権威主義、派閥や大人の利害関係に縛られて柔軟な議論は難しい部分もあるでしょう
そういうものに何かしら一石を投じる役割はないでしょうか?
歴史学会では彼らの主張は全く無視されていて、1ミリたりとも影響は与える物ではないでしょうが…
例えばちょっとトンデモ歴史に入るかもだけど関裕二さんが主張する
「中臣(藤原)鎌足が、百済王子の余(扶余)豊璋じゃないか?」
てのはどうなんですか?
彼なりに幾つもの論証は挙げてはいるんですが
このスレの住人さん方は、やはり関裕二さんや井沢元彦さんには全面的否定派(全く相手にしてない、鼻で笑う存在)ですか?
あと作家さんでありながら、歴史学会に多少なりとも影響を与える意見を出した歴史作家というのは居られるんですか?
たとえは高名な司馬さんや松本清張さんも、古代史もいくらか語られてますが専門家には全く相手にされてないんですか
最初に歴史に興味を持つキッカケは彼らだったとしても、歴史専門家になれば彼ら作家はいつしか「卒業」する様な存在なんですか?
スレ違いだったらスミマセン
中大兄の即位が遅くなったのは、間人の密通が原因だったと指摘したのは国文学者だし、
文学の側から一石を投じて議論・研究がすすむことはあるんじゃない?
個人的には、関の「怨霊鎮魂」で歴史が動いた考え方に違和感を持っている。
「怨霊」「穢れ」「言霊」は日本通史の井沢元彦で、
「神功皇后とトヨの血脈」「武内宿禰と末裔達」「出雲系」「蝦夷」「蘇我」「聖徳太子」「天智と天武の相剋」「藤原家vs反藤原の相剋」「不比等による記紀印象操作」とかの古代史論が関裕二
確かに怨霊思想は関裕二も扱ってるけど
>>833 白村江の戦いの前後のころ、
中臣鎌足は大和朝廷の首脳部の一人であったわけで、
実質的な政策立案者でもあった。
当然ながら、外交の第一線にも立っていた。
そういう人物が、もしも本当に直接の百済王族出身者であったなら、
東アジア各国いずれかの史書に、何らかの記述が残るはず。
それに、直接的な政治家や外交官以外にも、
その当時すでに、
高位の政治家とコネクションを持ち、かつ国際的な情報網を構築し得る人々は実際にいた。
端的に言うなら、たとえば仏教僧侶がそういう立場にあった。
しかし、日本にも韓国にも中国にも、
「豊璋が日本の首脳部をとりしきっていた」というような記録は、(仏教関係の書物にも)全く無い。
百済復興軍との直接的な対戦相手であった(つまり、豊璋の動向について極めて敏感であったはずの)新羅や唐の記録あたりにも、
そういうことを示唆するような記述は何も無い。
そういうわけだから、「『鎌足=豊璋』説」というのは根拠がきわめて薄弱で、信憑性に欠けてるんだ。
>>836 大体朝鮮側の史書自体、日本に関心がない。
真偽は知らんけど
そもそも朝鮮の正史やら国選の漢詩集とかも、相次ぐ戦火やら焚書やらで大方失われて、残念ながら古くは日本の鎌倉時代以降くらいの物しか現存してないんじゃなかった?
記録上は実在したとされる幻の書籍がいくつかあったとはされてるけど、今は完全な物は現存はしてないとか
豊璋に関しては日本書紀と旧唐書しか事実上情報源がない。
あとは資治通鑑に少しだけ独自の情報がある。
鎌足と豊璋はどこをどう読んでも別人。
朝鮮の史料の史料価値は成立年代などから見ても大幅に低いし、
三国史記の豊璋関係の記事は新・旧唐書を書き写しているだけで
独自の情報はないので読んでも仕方がない。
>>837 いや三国史記と三国遺事の日本関係情報や説話はかなり多い。
高麗史にしても朝鮮王朝実録にしても同じ。
むしろ対中国と同様に関心があるといってよい。
大織冠だか織冠だかの官位(?)を授与されたのは、豊璋と鎌足だけらしいな
2人とも実質は天智天皇あたりと深い関係あったんでしょ?
その後は誰にも叙任されなくなったのは何故?
織冠についてはいろいろ解明されてるの?
エミシとも語源が同じと思われる「エビス」って
外国人、異邦人、野蛮民族、自分たちとは異なる種って言葉・意味だと思うけど、
大陸や半島系の血も幾分受け継いだ渡来人の末裔達である新興勢力の弥生系が、それより先に元々いたネイティブ・ジャパニーズ達を「外国人」と呼んでいるっていう構図は面白いね
先人のネイティブ・ジャパニーズ側なのに歴史の勝利者側に「外国人」と言われる滑稽さ
仮にいま中華系や半島系が完全に日本列島の権力掌握してしまったら、現・日本人たちも列島内では「外国人」という最も虐げられる被支配者層になるんだろう
日本人の各レジスタンス軍は、まるでかつての蝦夷みたいに強大な各地方の連携・連帯が上手く作れなくて、各個撃破や騙し討ちで進駐軍に北へ北へと次第に追いやられていくんだろう
日本人が心を1つにする根源の様ないろいろな伝統文化を、外国人達が必死に芽を摘んできた
日本人の心の最後の砦である天皇や皇室が無くなったら、日本人を心を一つに繋ぎとめるものが何も無くなって、蝦夷みたいに個人主義的な村社会になって、無政府主義みたいな空虚な空洞国家になってしまうかもしれない
>>841 つっても、昔の国って今で言う村みたいなもんだからな
統一国家がそれ以前に有った訳でも無いし
今の感覚での隣村は当時の感覚では外国なんだよ
少し後に成ったって、隣の県が外国って認識だし
>>841 しかも半島系って倭人だからね?古代の半島は倭人の領土なんだから
北の方にエヴェンキと中国の植民地が有ったけど
半島南部は倭国だし
「倭人」だけど一説に中国資料で日本に居る民族よりも半島に居る民族へ使われたのが先だという話も昔読んだがな
倭人と倭国と倭に縛られて、固定観念持たない様にした方がいいかも知れない
あるいは倭人と倭国の間に何の因果関係も無い可能性だってある
それを無思考に思い込みと偏見で「倭人の国=倭国だろう」「倭国=日本だろう」というのは、大前提の段階でボタンの掛け違いが起こる気がしてならない
同時平行的に同じ民族名が全く別地域で付けられてしまった可能性だってゼロではないし、中国の役人の見識やいい加減な視察報告の問題で、全く違う民族を一緒くたにしてしまったかもしれないし
後にまとめた人間が同名だから誤ってゴッチャになって混ぜ合わされたり混同された可能性だって…
まあ疑いだしたら何だってキリが無くなるんだけどね
いや、当時倭人は半島や日本以外にも居たけど
そんな事言ったら、今の朝鮮人は古代とはまったく関係ないモンゴル人かもしれないとか言われたらどうすんだよ?
同じ倭人と呼ばれた人々だって最初に命名された当初と、国号が「日本」にほぼ固まった飛鳥時代頃とで民族・文化圏の構成要素が次第に大きく変化していった可能性は高いと思う
諸説あるが「日本」の国号、「天皇」の名称がほぼ固まったのがこの時代か
天智天皇期の日本最初の「戸籍」は、白村江の戦い後の兵役の人員把握の為なんだろうけど
日本最初の時計(水時計?)も、遠因として何かしら白村江の戦いに関係してるのかな?
848 :
日本@名無史さん:2011/07/15(金) 21:02:04.27
>>847 > 日本最初の時計(水時計?)も、遠因として何かしら白村江の戦いに関係してるのかな?
これは関係ないと思う
壬申の乱で多発した大友→大海人への寝返りをどう見る?
852 :
日本@名無史さん:2011/07/25(月) 00:14:40.59
天智は「賢者」「中興の祖」か?
後の世に影響を与えた様な天智の善行や偉業ってなんだろう?
天智を後の世の人物で例えるなら、暗殺・粛清やりまくった後醍醐天皇だと思う
853 :
君が代:2011/07/25(月) 02:25:15.83
天皇親政はダメって視点でいくと、
天智→天武→桓武→後醍醐→昭和ときて、
天智(白村江大敗)は昭和(第二次大戦大敗)に匹敵しそう。
昭和天皇が「親政」だったかどうかには疑問が残るが・・・。
854 :
日本@名無史さん:2011/07/26(火) 07:03:50.00
同じ天皇親政でも天武には、あまり落ち度が無かった気もする
歴史の巡り合わせの運不運な部分もあるが、天智は自業自得な面もあるし、優れた指導者という気はしない
韓国のMBCで「階伯」始まったらしいね。
日本でも放送するかな? 観てみたい。
DVD出たら買おうかな。
856 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 13:27:05.34
タイムスクープハンターで、対馬の狼煙で商船や海賊船を伝えるドラマやってた
見張るのは主に新羅や唐などの船と言ってた
誤報だと罰則はキツいな
858 :
日本@名無史さん:2011/07/31(日) 01:36:15.83
対馬って単なる小さな辺境の一地方なのに、半島との国境に面した島だから、節目節目で板挟みやらえらく酷い目にあってて厳しすぎるよな
元寇、秀吉の朝鮮征伐、etc…
元寇の時なんか、男は虐殺女子供はレイプ(?)やら手のひらに大穴開けられて、縄通されて奴隷化されて引っ張られて拉致されたんだろ?
蘇我氏は渡来系氏族か原日本人系氏族(蝦夷など)か!?
860 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 17:17:16.61
>>859 黒岩重吾さんは「先祖は百済の王族だろう」と言っていた。
>>860 先祖は始祖とされる武内宿禰(のモデルになった人?)まで遡れるのか、
記録に見られる活躍が始まった継体天皇期以降なのか、どうなんだろうね
日々の生活環境にもよるが帰化して300年とか経過してたら、祖国(出身地)より今居る土地の文化・言語・習慣にかなり同化してたとは思うんだけど
862 :
日本@名無史さん:2011/08/11(木) 03:48:07.92
日本史の転換点!
>>862 この時代なら壬申の乱の方がより転換点な気がする
白村江の戦いは、壬申の乱に至る原因を作った決定打にはなった
乙巳の変(大化改新)〜白村江の戦い〜壬申の乱までの、七世紀中頃〜後半は一般世間の認識よりもより日本史上でもかなり重要な激動期・転換期だよな
ドラマや映像作品化しづらいのが、過小評価や低い認識・認知の原因な気がする
小説はあるけど、注目があまり集まらないからさほど売れないだろうし
転換期で言うなら
■鎌倉幕府成立で貴族から武士による政治実権移譲
■幕末〜大政奉還〜明治維新移行で西洋化・近代化・富国強兵・殖産振興が進む
この次くらいの重要度ないかな?
この後は
■ポツダム宣言受諾し日本敗戦、第二次大戦終戦、GHQ指導管制下の復興
■大和朝廷の成立・発展、大王を立て東北地方南部まで支配下に入れて列島に統一国家体制の体裁を整える
■戦国時代の乱世で各地で国力・軍事力・経済力の拡大、宗教勢力の武装解除、刀狩りと士農工商の固定、南蛮貿易で鉄砲とキリシタン信仰流入
865 :
日本@名無史さん:2011/08/11(木) 16:17:52.83
>>861 黒岩重吾さんは「蘇我氏が来日したのは雄略天皇の死後だと思う」と書いている。
韓子は架空とする立場だったのか。
867 :
日本@名無史さん:2011/08/12(金) 03:09:23.93
転換点は、国際関係から考えるべきだと思うよ!!
国内問題はその連鎖だと。
自分の痴態は人前では見せられない、他人の痴態は見せまくるのか?
最悪でも犠牲は無駄には出来ない!!!!!
リアルに負ける戦争へ連れて行かれたのですか?←これは芸術作品なんですか?
半分過ぎてすぐ消える人間よりはまし、数字は色々ある
独裁者(知らない国の人々には見せられない、見てもらいたくない)
>>867 ■確かに遠くからの渡来人や隣国などからの国際関係・国際政治状勢からの影響や、外交交渉や対外戦争の影響も重要な転換点の要因の1つだけど、
織田信長みたいに諸外国からの影響じゃなくて独自の考えで大きく日本の旧態依然とした政治体制を動かし作り変えた人の方が、個人的には一大転換点でエポック・メイキングであると言える気がするな
信長は確かに西洋近代文明への理解が良く偏見もなく合理主義者だから、鉄砲や武具など西洋先端科学技術の恩恵に浴したけど、
今でいう闇カルテルみたいな閉塞感のある既得権益を廃し「楽市楽座」を断行して自由競争で万民に均等な商売活動の機会を与えたり
各所に作られた関所の通行税搾取を全廃したり、
通貨や尺度の地域差を無くして価値統一したり、
健全な商業活動を刺激し促進する事も多くしてるし
僧兵やら傭兵で武装し、時に強訴した宗教勢力や独立都市を解体したり
庶民にとって決して利益をもたらさない形骸化した旧態依然とした意味の無い有害な体制を次々と解体した訳でしょ!?
他の領主と全く違って弱い庶民に対して略奪や強姦や虐殺や意味不明な重税の強制は決してしないし、善政で街は活性化するし農民や町人は信長軍が遠征に来て、自分の地方を征服する事を望んでたんだから
朝廷貴族やら寺社やら老舗豪商やらは、既得権益を奪われ侵されて苦々しく思ったろうが、庶民にはほぼ苦でしか無かった意味の薄い存在達だから
でも誰も反感やら抵抗を恐れて手出し出来なかった日本の末期癌にメスを入れた信長は一番日本を改革した人間だと思う
いま常識になって当たり前な事が、信長によってもたらされた事が多いよ
比叡山焼き討ちだって、庶民勘定的は口にはしないけど内心よくやったと思ってた
信長以上の改革者も革命児も、日本史上で居ないと思うな
■幕末〜明治維新は確かに黒船来航にもよってたらされた(必要に迫られた)部分=国際状勢からの変動・影響のウエイトは大きいけどね
■大化改新〜天武朝くらいまでの、土地所有を認められた各地方豪族による連合体国家から、全ての土地が国有地とし天皇を中心とした統一国家体制への移行とかは強力な国家形成に大きく前進した契機にはなったと思う
しかしその後の藤原氏の台頭で土地など国の国力や財源が藤原氏に蝕まれて国家体制造りは後退した
871 :
日本@名無史さん:2011/08/12(金) 10:20:42.85
信長も大化改新も、国際関係の中で考えてみたら面白いと思う。
872 :
日本@名無史さん:2011/08/12(金) 10:26:51.10
やはり、磐井の反乱から白村江の戦いまでは、大陸との関係じゃないかな?
その中で、今までの大王制度から継体欽明朝への移行、天智天武の登場を考えるべきじゃないかと!
873 :
日本@名無史さん:2011/08/12(金) 13:50:02.98
>>869 > 織田信長みたいに諸外国からの影響じゃなくて独自の考えで大きく日本の旧態依然とした政治体制を動かし作り変えた人
信長の鉄甲船は西洋の影響でしょ。
鉄甲船も西洋甲冑も鉄砲も、舶来品好みも信長がポルトガルなど西洋から受けた影響だろうけど、
より有効で効率的だから使用した道具(ツール)に過ぎないし、実用品で無いないものは趣味・嗜好品でしかない
つまり西洋文明の利器は合理的人間の信長が有益と認めて「手段」として利用しただけであって、信長の斬新なる革命性・改革性に強く働きかけたとも思えない
国内外を特に問わず、優れていて有益性のあると認めた政治方式や武器は採り入れただろう
西洋人に偏見を持たなかった変わりに、一部キリシタン大名の様に深く信奉したり強く西洋流儀に染まり人生観を変える事も無かった
つまりキリシタン大名みたいに、日本よりキリスト教や西洋思想が大切になる事も無ければ
時代錯誤で現実逃避的で閉鎖的で単に空想理想論的な幕末の鎖国主義・攘夷主義・異人嫌悪みたいな極端な変節は、信長には絶対有り得ない
室町時代の将軍・足利義満は大きな野望を持った人物だが、中国・大明国皇帝に親書を送って「日本国王」の裏書き証書を貰おうとしたり、
外国権威から身分を担保して貰おうとしたのは聖徳太子らが脱した中国冊封体制下にふただび入る様な愚かな行いだった
まあそれだけ天皇より少しでも権力・権威ともに対等・優位な立場に立つのに心を配ったという事だろうが
「聖徳太子らが脱した中国冊封体制下に再び入る危機」といえば、
白村江の戦い直後の唐に対する天智ら中央政府の対応は、よく分かってない部分もあるがかなりグレーゾーンというか、黄色信号まで行ってただろうな
言い逃れ出来ない明確な証拠といえる記録までは残されていないからギリでセーフという所だろうか
天智あるいは大友皇子ら天智系朝廷が壬申の乱が無く続けば、もしかしたら「日唐同盟軍」などで対新羅征伐戦に再び半強制的に駆り出されたかも
天武朝では天智朝と異なって遣新羅使の船の往来が増大したんだよね
876 :
日本@名無史さん:2011/08/14(日) 11:24:05.14
>>844 「アングル人」からイングランド、
「デーん人」からデンマーク
になるようなもんか
「白村江の戦い」は最終的に勝敗が大きく決した戦いではありますが、局地戦名ですよね
その戦い直前にも百済遺民と日本の連合軍は、陸戦で新羅軍に対して半島南西部で勝利して当地から新羅軍を撤退させたりしてるようです
「白村江の戦い」はイチ局地戦名なのに戦全体の総称にもなってしまってるのは変ですよね
まるでたった1つの戦いに日本軍が参戦しただけで、それのみで大勢が決してしまった様であります
半島南西部の陸戦で勝利した部隊が気の毒ですね
結局歴史は勝者が作るという事なんでしょうか
>>878 局地戦いくつかで多少勝ってたとしても、
白村江の戦いの敗戦ていうのは、
それこそ、対馬沖でのロシア軍やミッドウェイでの日本軍のような大負けだったうえに、
そもそも、「百済復興軍を支援して、伝統的同盟国たる百済の国土回復を達成させる」
という戦略そのものが根底から失敗したんだから、
負け戦には違いないでしょ。
ナショナリスティックな色彩が非常に強いはずの日本書紀の記述にしてからが、
白村江の戦いの状況を、
「ときのまに みいくさ やぶれぬ」
っていうほどの表現で、ばっさり言い切ってるくらいだよ。
というか、日本が百済復興軍に本格的に加勢した頃には、
すでに戦局の大勢は相当かたまりつつあったくらいだったし。
日本の本格参戦よりもずっと早い時期、百済復興軍側がかなり押してた段階で、
百済復興軍側と羅唐連合軍側が和平交渉のテーブルについてたら、
その後の歴史の展開はまだしも分からなかっただろうけど、
初期の攻勢で強気一辺倒になった百済復興軍側が、
「実務交渉レベル程度の相手じゃ話にならん」って、和平交渉そのものを自ら蹴ってしまってた。
それからしばらくして、徐々に戦局は羅唐連合軍側に有利な方向へ移っていった。
中大兄皇子と中臣鎌足が実質仕切ってた日本側が、
そういう外交情報まできっちり把握できていたのかどうか・・・率直に言って、かなりあやしい。
>>879 そんな話してないじゃん
名称が変だって話
一連の戦いの総称が無い
議論になってない
君が例に挙げた「ミッドウェー海戦」だって『太平洋戦争(大東亜戦争、第二次世界大戦)』の中のイチ局地戦だよね
『元寇』だって「文永の役」と「弘安の役」(と前後外交交渉)に大別出来るし、「文永の役」の中でも「対馬襲撃」「壱岐襲撃」「博多湾沿岸の戦い」などの局地戦に分けられる
ただ「関ヶ原の戦い」みたいに1つの戦の規模や結果や影響力が圧倒的に大きくて、その前哨戦が霞んだ場合は理解出来る気はする
「白村江の戦い」は、そういう扱いなのかな
>>881 一般論として言うなら、「白村江の戦い」は、「関が原の戦い」のように、
「決定的な戦い」、あるいは、「とどめの戦い」になったと言えると思う。
日本が送った大規模な水軍が、一度に事実上殲滅されたほどの戦況で、
百済復興軍と日本軍は事実上このとき戦力の大半を失ったのだから。
そのうえで、君が言うところを敷衍して解釈してよければ、
『戦争・・・ウォー』という用語と『戦い・合戦・会戦・海戦・・・バトル』という用語とを分けて考えるべき、ということだよね?
そういう意味としてでなら、言わんとするところは分かる。
そういう意味で、「ウォー」に近い用語でもって「白村江のバトル」を含む総合的な事象について、
660年の百済首都陥落以降に百済を再興しようとした、百済人の活動全体をまとめて表現する場合、
(百済の視点からの場合では)「百済復興運動」や「百済復興戦争」といった用語が使われるようだ。
さらにいうと、より長期的なスパンでもって各国間の対立の事象をまとめるなら、
たぶんそれは、「(百済・新羅・高句麗の)三国時代」という時代区分そのものだったかもしれない。
言ってみれば、時代相それ自体が「戦国の世」だったから。
ところで、「三国時代」全体にあって、新羅による最終的な統一への戦略的な転換点となった事象を求めるなら、
多分それは、白村江の戦いよりも1世紀以上前の6世紀中期、
漢江の中下流地域を新羅が領有して、
黄海への回廊(つまり、中国への直行路になる地域)を獲得したことだったんじゃないだろうか。
このとき以来、新羅と百済はそれまでの同盟関係を喪失して対立関係に入り、
また、7世紀に百済の東進が激しくなったことに対抗するかたちで、新羅は最終的に唐と同盟を組むに至った。
883 :
日本@名無史さん:2011/08/16(火) 17:08:11.07
>>879 > 中大兄皇子と中臣鎌足が実質仕切ってた日本側が、
> そういう外交情報まできっちり把握できていたのかどうか・・・率直に言って、かなりあやしい。
現地の日本軍は「総大将」に匹敵する人がいなかったらしいね。
天武が現地軍の総帥で渡海していれば、たとえ負けたとしてもボロ負けは避けることができたかもしれない。
鉄甲船が西洋文明の影響って初めて聞いたわ。
電波なんだよな?
>>883 当時の日本は、まだ堅固な中央集権国家になってたわけでもないから、大規模常備軍はもちろん存在しなかったわけで、
(というか、天智天皇こと中大兄皇子を頂点とする中央集権化のきっかけそのものが「白村江での大敗」だったので・・・順番が後になる)
各地域の豪族に頼み込んでの寄せ集めの軍隊に近かったわけだから、
「統制が取れてないほうが当然」だったろうね。
(一説には、「後の天武天皇こと大海人皇子は親新羅的な見解の持ち主で、百済への一方的支援に反対していたのでは?」という見解もあるけれど、)
仮に、大海人皇子が親百済的人物であって百済支援の現地軍に自ら直接加わっていたとしても、
現地軍の統制をとることはできなかった可能性のほうが相当に大きいと思う。
大海人皇子が軍人・政治家としての強い指導力を発揮するのは、これよりずっと後の時代のことでもあるし。
現地の百済復興軍を実質的に指揮してたのは百済貴族出身の鬼室福信だったけど、
もう一人の有力な復興軍指導者だった僧兵の道琛を鬼室福信が斬ったあたりから見えるように、
復興軍内部には相当激しい内部対立がもともとあった。
さらにその鬼室福信を、軍隊の指揮には不慣れな扶餘豊璋が斬った、というくらいの状況だったのだから、
ましてや百済国外からやってきた日本の武将たち(しかも、自分たち自身の指揮系統が不安定)による統制なんてことは・・・
まずもって無理だったろう。
886 :
日本@名無史さん:2011/08/16(火) 22:53:58.68
>>885 > (一説には、「後の天武天皇こと大海人皇子は親新羅的な見解の持ち主で、百済への一方的支援に反対していたのでは?」
という見解もあるけれど、)
天武は唐の底力を理解していたように思う。証拠はないんだけど。
>>885 >天智天皇こと中大兄皇子を頂点とする中央集権化のきっかけそのものが「白村江の敗戦」だったので・・・
これがよく分からない。補足を頼む
「もっと中央集権化を進めないと今以上の国家力の強化増強は望めないと、身をもって痛感した天智であった」…って感じ?
>>887 広義で言えばそういう意味でもあるけど、
もっと直接的に言うなら、
「唐や新羅に報復されるかもしれないから、
俺を頂点に全体を束ねとかないと危ない」
中大兄皇子はそう考えたんだろうと思われる。
(一方、弟の大海人皇子は、そういう路線の兄からやや距離をとりたかったのかもしれない)
旧百済遺臣が大勢ブレーンに加わった時期でもあったので、
広域行政や築城技術のノウハウも、より蓄積されただろう。
西日本一帯に多い、いわゆる「朝鮮式山城」や「こうご石」の遺跡も、
この頃から一気に築かれたのでは。
また、外国からの仕返しを恐れたであろうことだけでなく、
ただでさえ強引な権力掌握を続けることで最高指導者にのし上がっていった人であるだけに、
大惨敗の責任をまわり中から追及されて政権基盤が揺らぐのを、非常に恐れていただろうし。
890 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 19:15:03.83
朝鮮式山城は京都府にも築城されたみたいだが、あそこまで攻められたら日本おしまいでしょ。
891 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 19:17:03.72
のちに藤原純友があっさり太宰府を占領するが
結局「水城」は役にたたなかったのだろうな。
892 :
A:2011/08/17(水) 21:09:52.63
俺は日本書記で語られたりているように、天智が中央集権化を進めようとしてたとか、何か明確な志向やグランドデザインがあったと思えない
グーデターを起こし、遷都を繰り返したり防衛拠点建設、敗戦で民の苦役や豪族の軍事力や莫大な国家財政等を浪費し、粛清や左遷人事を繰り返し、
893 :
A:2011/08/17(水) 21:12:35.97
「豪族の私有地・私有民の所有を辞め、一旦国に集めて天皇の名の元に国家資源として一元管理し再分配する
という中央集権化の国家力強化増強と全く正反対の存在である、藤原(中臣鎌足ら)氏に1000年間も国と皇室が寄生され血を吸い続けられるキッカケを作ってしまったw
最盛期には国も朝廷も天皇家も他の貴族も大貧乏な時に、国家財政以上の莫大な財産や私有地を事実上有していた藤原氏ですよ
「藤原氏に非ずは、人に非ず」
普通に考えて蘇我なんて目じゃない暴挙でしょ
天武は臣下が二分する天下分け目の「壬申の乱」で大勝利を納めただけに、相対的に臣下の発言力も低下したお陰で、最も天皇親政や強大な発言力・影響力を得た天皇の1人でしょう
天智と違って周りはかなり自分の肯定派(つうか自分に壬申の乱で味方した側のかわいい臣下)ばかりだった訳だし
「白村江の戦い」で大敗したのに、その後に中央集権化が進められるかな
やれないしそういう志向も持つ余裕もないと思う
仮に白村江の戦いの戦前まではそれを目指してたにせよ、戦後はどうにか政権維持するだけで精一杯だろう
きみも敗戦の責任を取らされる云々って認めてるじゃん
地方豪族も中央の豪族も「抵抗勢力」だらけだったんじゃないか?
戦後に西日本に盛んに作った朝鮮式山城などの防御陣地や防衛施設だって、「仮想敵」は唐や新羅だけでなく国内抵抗勢力へのもしやの時の対策・備えの意味合いもいくらか想定されてのことかも知れん
(多少は内憂外患で全てが疑心暗鬼にもなったろう。疑心暗鬼からくる内部粛清や、アンチらによるクーデター計画や暗殺未遂事件は恐怖政治を断行する独裁者の常でもある)
震災後に総スカン喰らった菅さんみたいな敗戦責任政府陣が、指導力・実行力・支持力をそのまま維持出来てると到底思えない
そんな状況で強制力・指導力を無理に行使するのは命取りになりかねん
近江大津京への遷都だって、マトモに胸張って大和には帰れなかったのかも
中大兄皇子の政治を見ているとクーデター、粛清、戦争、と恐怖独裁政治のスターリンや毛沢東みたいだ
よく生前に消されなかったよ
(作家・井沢元彦は天智天皇暗殺説を唱えてるが)
「壬申の乱」で天智政権の政策を継承する公算の高い大友皇子軍側から大海人皇子軍側へ裏切り者が続出したのも頷ける
天智天皇の皇太子…というか跡継ぎ指名で最初に弟の大海人皇子(皇太弟だけど)って事になったのも、天智の意思に関係なく反天智陣営の突き上げプレッシャーがあまりに強かったせいなんじゃないだろうか
嫌々約束させられたというか
身内なんだけどなんとなく「禅譲を迫られた」に近いイメージだな
元寇の時は各地の武士団の活躍もあり、2度に渡るモンゴル勢の襲来をどうにか跳ね返した訳だが、新たに土地を得た訳でもないため活躍に見合うだけの満足な報償や損失の補填が成されずに結果として武士の棟梁たる鎌倉幕府に対して不満が募った
日露戦争の時も、日本側戦局優位の段階でアメリカを仲介役として交渉し戦争終結へと繋げたが、国民が期待していた程の納得いく賠償金や領土は手に入らず結果として国民に不満が残った
戦に勝ってなお、指導者やまとめ役、政府に対するこれだけの欲求や不満が噴出する
真の意味で戦に勝ち終戦に繋げる事の難しさ
それが負けて逃げ帰ったとなると…
いろんな悪感情が日本各地に充満してた事だろう
899 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 02:12:59.19
そもそも「乙巳の変」における中大兄皇子らと蘇我氏の対立は
中央主権を推し進める側とそれに抵抗する側と言う国内問題ではなくて
「百済救済」と言う外交方針の一点だった可能性もあるわな。
中央主権を目指すのは中大兄皇子らも同じだったと…
まあ仮にそこが同じだったとしても大敗は更にそれを加速しただろうし
本当日本と言うのは今も昔も「ガイアツ」によって大きく進む国なんだなあとwwwwww
900 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 06:21:17.83
>>894 壬申の乱。最初から明確に天武サイドについた有力氏族は大伴氏だけだっけ?
901 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 06:27:30.74
>>896 > 近江大津京への遷都だって、マトモに胸張って大和には帰れなかったのかも
あそこは非常時には逃げやすい地理的条件だな。
天智天皇って歴代最もアンチが多かった天皇、ドイヒー天皇、敵が多かった天皇じゃないかと思ってる
後醍醐天皇らと並んで、すくなくともワースト3には入るだろ?
中興の祖なんてとんでもない
やる気がある天皇、ちょいとばかり聡明と評されるような天皇、野心家の天皇は結局ロクな事にならねえ見本
自らの手で人(臣下など)を殺めた天皇って天智天皇以外にいるの?
死の穢れに過剰反応した平安時代の宮廷内や皇室内だったら、絶対にあり得ない存在を全否定された皇族(天皇)だったろう
903 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 22:33:27.53
>>902 > 自らの手で人(臣下など)を殺めた天皇って天智天皇以外にいるの?
雄略はそれに近いことをやっている。
>>903 武烈天皇はさらに激しかったみたいだなあ。
日本書紀にまで、「暴悪」とまで断ぜられてるほどだし。
905 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 22:57:12.02
武烈天皇は実在だったかどうかがあやしいと思う。
>>902 天智天皇の百人一首の詩は民のコトを思うとっても良い詩なのにな。
中大兄皇子は、敗戦の責任を追及されそうになるのを称制(=即位したのはしばらく後だよね)や遷都や人材登用でやりすごしつつ、
実際に、軍事拠点増設や公地公民制の導入を進めてるよね。
敗戦の危機感を逆手にとって、有無を言わせず急進的政策を進めようとしてたのはというのは見える。
古今東西、良くも悪くも「豪腕の政治家」って、「たとえ危機すら利用できるものなら最大限利用する」ってところがあるじゃない?
相当なワンマンのうえに、そこら中から突き上げを食らってても全然不思議じゃない状況に追い込まれたりしながら、
最後まで失脚しなかったというあたり、さすがに只者ではなさそう。
そのぶん、跡を継いだ大友皇子は相当に割を食ったんだろうなあとも思うし、
こちらも豪腕で鳴らした天武天皇は、
その兄と比較すれば、周囲にはよほど穏健に見えてたのかもしれない。
>>907 進めようとしてたのはというのは見える
↓
進めようとしてたのは見える
跡を継いだ
↓
後を継いだ
909 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 00:41:57.26
質問なんですが、斉明天皇の朝倉宮から大津宮遷都まで
どこに都があったか「書紀」には記事がないですが、
政務は飛鳥で行われていたんでしょうか?
>>903-905 なるほどね〜
武烈天皇の残虐非道な行いの記述って、中国の暗君というか不徳な皇帝の記録から引用されてるみたいだね
どおりで支那文化の伝統っぽいバラエティーかつ悪趣味な拷問処刑方法の数々なんだよねw
雄略も武烈も前後の天皇即位が波乱の薫りプンプンだし
中国で言う、いかにも易姓革命が起きる前触れみたいな暗君ぶりだね
>>907 天智はもう既に相当に反感を買い嫌われてるから、どうせなら嫌われついでに本当に必要だが日和見で今まで誰も為し得なかった「必要悪」な政策断行の数々を進んで踏みきって「嫌われ役」を自ら買って出たんだったら真の男前だけどな
絶対に必要なんだけど抵抗が強くて普通は断念するような英断と相当な覚悟がいる刷新みたいな改革
今の政治のリーダーって目先の自分の体裁と票の事しか考えてないでしょ
100年後の日本の事より、自分可愛さに必要悪な事も先延ばしして後の世代により大きな負担を強いる
嫌われついでに俺が未来背負ってやってやるって責任感な人が居ないっつうか
912 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 04:48:40.45
ここのレスを見ても倭の軍事力を総動員してまで百済再興を計ったのか合理的説明は難しいな
俺個人の見解(前にも書いた)ではその後の経緯を見れば明らかだと思うのだが
・百済は5世紀以来半島拠点の同盟国(最初は列島と半島の政治権力のありかたはかなり曖昧)
・まだかろうじて維持されていた半島利権のためと思う
913 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 05:24:14.40
>>907 > 古今東西、良くも悪くも「豪腕の政治家」って、「たとえ危機すら利用できるものなら最大限利用する」ってところがあるじゃない?
> 相当なワンマンのうえに、そこら中から突き上げを食らってても全然不思議じゃない状況に追い込まれたりしながら、
> 最後まで失脚しなかったというあたり、さすがに只者ではなさそう。
それは同意。
914 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 05:26:45.66
>>910 雄略は足利義教タイプであって、暴君ではあっても、一定の業績を遺した。
>>912 そういった面や天智の個人的な感情志向という面に加えて、
第29代欽明天皇の御世(6世紀中頃)に朝鮮半島南端部の加耶(伽耶・任那)諸国が新羅に滅ぼされている
以後、「新羅討伐・任那復興(奪回)」は欽明天皇の厳命した遺言として後継の、敏達・用明・推古女帝時代の摂政・聖徳太子ら天皇家で必ずや果たさなければならない悲願・大命題・家訓となっており、その実行に実際に相当に労力を割いた形跡は見られる
(いずれも諸事情により征伐の遠征までは上手く叶わず)
後の舒明・皇極・孝徳・(斉明)ら天智とも繋がり深い天皇らで停滞していた感もあるが
天智がその欽明天皇の約100年前の厳命も頭の片隅のどこかにあってか、
合理的理性的な判断や確固たる勝算や展望というよりも使命感的・感情論的ウェイトにやや重きを置いた部分で実行に踏み出したような部分もなきにしもあらず
916 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 08:23:58.57
天智は政治的才能は凄かったが、軍事的才能はそれほどでもなかったし
軍事面でのブレーンも不足していたのではないだろうか?
軍事的才能云々以前の問題というか、才能の有る無しを判断する段階にすら立っていないほどに日本側に対外戦争の経験も経験者もあまりにも皆無すぎだ
蝦夷というサンドバッグを少し叩いた経験だけで、近年でも東突厥や高昌国など国際戦を戦って完全KO(滅亡)に相手国を葬ってきた、最盛期を迎えた世界チャンプ唐といきなり実戦試合を組まれたみたいなものだ
経験から物量から科学力から何から何まで違いすぎる
仮に白村江の戦いを引き分けたとしても、長期化すればするほどいつかは敗れる結果だったろう
唐側は兵は幾らでも用意出来たろうし
918 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 11:08:06.80
軍船の構造や耐久性、火矢が飛ぶ範囲や命中率も違っていたと思う。
自分達の土地だから「地の利」はあったとはいえ、よく新羅は唐を半島から完全に追い出して朝鮮統一に漕ぎ着けたよな
あくまで中国冊封体制の傘の下とはいえ
唐軍と戦って半島から排除させる(旧百済領や旧高句麗領の多くを唐から奪取)
唐に謝罪し赦される
唐から半島の自治統治権の正式承認を得て朝鮮統一に漕ぎ着ける
あの中国の大唐帝国を相手にこんな真似、外交交渉ベタ、戦争軍事ベタ、諜報・調略ベタの日本には到底成し得ない奇跡的な快挙だ
現に百済滅亡、高句麗滅亡と唐の「遠交近攻」策は確実に功を奏していた訳だから
唐の次の段階は日本と結び、新羅を滅亡させて最終的仕上げで日本滅亡まで一直線に詰んでいる流れだった
井沢元彦説は日本滅亡フラグである「日唐同盟」締結直前だったが、天智暗殺及び壬申の乱勝利で御破算に成功し新羅とも国交回復し日本安泰に戻した天武朝政権下
(天武死後の持統女帝&藤原不比等ら政権下で再び反・新羅方針転換)
新羅が凄いところは表向きは唐に従ってるフリをしながら、
裏では滅亡した旧百済と旧高句麗の旧臣残党らを密かに支援して対唐ゲリラ的抵抗活動なんかをさせて唐を相当揺さぶったりもしてる
ひたすら反新羅、新羅憎しで凝り固まる天智政権下で同じ事が出来たかは甚だ疑問
新羅の外交力の凄さは、王族のフットワークの軽さから来る気がする。
新羅の文武王は即位前に唐を訪問したことがあるし、
父の武烈王に至っては、即位前に唐だけでなく、日本に来たこともある。
王自身が自ら諸国の事情に通じていたことが、
巧みな外交手段を駆使できたことに繋がると思う。
もっとも百済や高句麗の王子だって、結構、唐を訪問しているので、
新羅だけのことではないが、
日本の皇太子で、自ら唐や新羅、百済、高句麗等を訪問した例はあるのかな?
仮想敵対象国の事情をどこまで理解していたのだろう?
新羅と唐の関係は当初から微妙だった。
新羅の有力貴族たちが挙兵して、
在位中の女王を廃して、唐の王族から王を迎えようという動きがあった。
鎮圧されたけれど。
この挙兵は明らかに唐側の働きかけ工作だろう。
対百済・日本戦では唐の軍事支援は欲しいが、
唐軍が来たら軍糧を供給しなければならず、
唐はスキあらばすぐに内政干渉してくるし、
占領地は唐人の地方長官に支配され、
貴族たちは唐人の手足となって、
納税業務を行わされる。
逆に、白村江で日本海海戦並みに圧勝したとして、百済復興まで持っていけるかどうかだよなあ。
倭としても百済に対して相当の要求をするだろうから、ただでさえ乱れがちな足並みが完全に狂うこともあり得るし。
660年以降で百済復興に日本が協力する見返りに、百済は何を日本に約束したんだっけ?
何かで読んだんだけど忘れたな
百済の王権に関する何らかの発言権や注文付けたり口出し出来るとかだったかな??
>>923 てか、戦術でも技術開発でも兵站でも、現実問題としてそんな圧勝は想定不可能な状況。
やはり、早期の段階での講和が行われず、逆に羅唐連合軍が補給路を回復した時点で、
百済復興軍の劣勢は避けられなくなっていたと見るべきだろう。
>>924 厳しいことを言わざるを得ないけど、
その話の出典が何なのか分からないとなると、
そもそもどこに書いてある話なのか、
本当にそういう話が何かの文献に書いてあったのか、確かめようも無いよ・・・。
日本にとって最も有利な内容での記述をしてる日本書紀にも、
具体的な取引内容や見返りについての記述は見当たらないな。
三国史記のほうにも、そういった内容の記述は無い。
旧唐書、新唐書、資治通監にも、おそらくそういった記述は無いと思うけど、
誰かきっちり読んでみた人はいる?
しかし、支援を与える側の国にどれほど有利な取引になるとしても、
自国の中央政府の人事権に他国が直接介入するのを許す約束をするようなことは、
どれほど支援される側であったとしても、まず考えられないよ・・・。
926 :
日本@名無史さん:2011/08/22(月) 06:38:36.87
「六韜(りくとう)」三略とかいう武経七書の1つに数えられて、孫子兵法の次くらいに重んじられたという兵法書を空で暗唱するほど記憶していたという中臣鎌足
六韜の中の一つの巻が源義経が使って成果を挙げたことから「虎の巻」という言葉の語源にもなった
ところで鎌足は「白村江の戦い」の最中は何してたんだw
まあ兵法書なんていっても机上の学問だし、考え方だから数回の戦現場の経験に勝るとも思えんし
国内の戦ならハッタリ(相手がビビる)にもなったろうが
今回そもそも「六韜」や「孫子兵法」が生まれて一番読まれ研究された当の国が相手だからねw
まあ使われたとすれば、六韜は1300年間にも渡って藤原氏が日本を牛耳ってくる過程で一番使われたのだろうねw
日本が平和ボケすればするほど、企みのない素直な人間ほど有効だった
>>925 誤字訂正
資治通監
↓
資治通鑑
失礼。
928 :
日本@名無史さん:2011/08/25(木) 08:56:37.67
>>925 > てか、戦術でも技術開発でも兵站でも、現実問題としてそんな圧勝は想定不可能な状況。
技術面でいうと、軍船の大きさや耐久力、火矢の性能などで日本はかなわなかったのだろうなあ。
929 :
日本@名無史さん:2011/08/25(木) 08:58:24.62
>>925 > てか、戦術でも技術開発でも兵站でも、現実問題としてそんな圧勝は想定不可能な状況。
五分五分とか辛勝狙いではあったんだろうが、辛勝で百済が復興できたかというと疑問。
普通に考えれば唐vs日本・百済・新羅・高句麗の4ヶ国連合軍くらいじゃないとバランス取れんのじゃないか
唐相手に新羅一国で本当良くやったよ
最終的に唐に侵攻を諦めさせ、朝鮮統一を正式に認めさせたんだから
唐に連行された百済王や王族や諸侯はどうなったん?
932 :
日本@名無史さん:2011/08/25(木) 18:44:41.25
羅唐戦争は実際よりもだいぶ誇張されている説があるが。
>>930 >>932 高句麗は軍が非常に強かったから、
自国の防衛に関しては、百済が滅ぶまではなんとかかんとか自力で持ちこたえてた。
当時の高句麗の武人としては、淵蓋蘇文や乙支文徳とかが有名だね。
それに、最終的に新羅が唐軍を駆逐するときには、
旧百済や旧高句麗の遺臣の力も糾合した格好だった。
従前の新羅限定の国力だけだったってわけではないな。
>>931 660年に百済が滅ぼされた当時の百済王だった義慈王は、
唐に連行されてからしばらくして、唐で亡くなった。
義慈王の息子の隆(義慈王代の太子)は、唐に連行された後、
唐が旧百済領に設置した統治機関の関係者として旧百済領に戻ってきたけれども、
結局は、唐の旧百済領統治がままならぬ中で再び唐に渡ることになり、最後は唐で客死した。
中国で、隆の墓碑銘が発見されてる。
復興百済の指導者として日本から百済に戻ってた豊璋は、百済復興軍の壊滅直前に高句麗へ亡命したらしい。
一説には「その後の消息は不明」とされたり、
また一説には(資治通鑑によれば)「高句麗滅亡後に唐に連行され、唐の南部の地方へ配流された」
とされてたりする。
晩期百済の若き猛将で百済復興軍の有力指導者の一人だった、黒歯常之は、
唐に降伏した後、唐軍の武将の一人になり、
吐蕃そのほかとの戦いに出征して、各地で功を挙げた。
しかし、後年、権力闘争に巻き込まれ、自決したという。
黒歯常之の墓碑銘も中国で発見されてる。
ちなみに、上のほうのレスにも出ているが、
現在、韓国のMBCテレビでは、ドラマ「階伯(ケベク)」を放送中。
階伯は晩期百済の名将で、
660年夏、羅唐連合軍による百済滅亡の直前、
黄山の原(ファンサン・ボル)で5千人の決死隊を率いて5万人の新羅軍を相手に正々堂々の激闘を5度繰り広げ戦死した、という人物。
なお、このドラマ「階伯」での階伯役の俳優は、MBCドラマ「イ・サン」で主人公イ・サン(18世紀朝鮮王朝の正祖王)役だったイ・ソジンさん。
>>933 必ずしも自前の戦力で戦わないといかんって事はないから、利用出来るものは利用すればいいし
戦は戦力だけじゃなく外交交渉や折衝、計略や工作、内政、物資や食糧の兵站、財政力経済力、引き抜き、とか総力戦であり、
いかなる形であれ、誰の力を借りようとも最終的目的や目標を達すれば一応の任務成功なわけだしな
(結果がおおよその被害想定内や最小限に収められればならなおよし)
能力が低ければ連合軍との相互連係も機能せず、瓦解したり反目したり同士討ちしたりする可能性も有るわけだし
だからそういうのを持ってて使える(利用出来る、能力がある)っての込みで、広義の「財産」だよ
一番いかんのは百戦百勝だけど、結果もついてこず任務も果たせてない「戦の為の戦」
676年 新羅が唐を半島から排除し事実上の朝鮮統一を遂げる
(旧百済領と旧高句麗領の南半分)
696年 唐と新興勢力の渤海が対立が決定的になる
735年 唐が新羅による朝鮮統一を容認
なぜあの唐が、新羅の朝鮮統一をわざわざ容認する様な事したか疑問というかイマイチ腑に落ちなかったけれど、旧高句麗遺臣などが多く含まれると思われる新興勢力(国家)「渤海」の急速な勃興が大きいんだな
唐にとっての新たな脅威の芽を摘み対抗する為にも、新羅の事をいくらか容認せざるを得ない事情が出来たみたいだね
事実上果たされている統一を60年も認めてないってのも唐らしいな
渤海が居なかったら延々認めてないかもな
702〜704年辺りに「倭→日本」の国号変更の認可もよく旨味の無い唐がそれを認めたなと長年疑問だったけど、それも唐の対渤海への敵対政策の副産物かも
こういう推理はよく調べもせずに年表見てほぼ直感でなんとなく推理しただけなんだけど、全然見識が甘いですかね?
でも中国歴代王朝が見返りや裏や狙いがなく他国にとって「いいこと」しないよねw
937 :
日本@名無史さん:2011/08/26(金) 01:08:59.85
676年 新羅が唐を半島から排除し事実上の朝鮮統一を遂げる
(旧百済領と旧高句麗領の南半分)
696年 唐と新興勢力の渤海が対立が決定的になる
735年 唐が新羅による朝鮮統一を容認
なぜあの唐が、新羅の朝鮮統一をわざわざ容認する様な事したか疑問というかイマイチ腑に落ちなかったけれど、旧高句麗遺臣などが多く含まれると思われる新興勢力(国家)「渤海」の急速な勃興が大きいんだな
唐にとっての新たな脅威の芽を摘み対抗する為にも、新羅の事をいくらか容認せざるを得ない事情が出来たみたいだね
事実上果たされている統一を60年も認めてないってのも唐らしいな
渤海が居なかったら延々認めてないかもな
702〜704年辺りに「倭→日本」の国号変更の認可もよく旨味の無い唐がそれを認めたなと長年疑問だったけど、それも唐の対渤海への敵対政策の副産物かも
こういう推理はよく調べもせずに年表見てほぼ直感でなんとなく推理しただけなんだけど、全然見識が甘いですかね?
でも中国歴代王朝が見返りや裏や狙いがなく他国にとって「いいこと」しないよねw
唐が、新羅の百済・高句麗との統一を、数十年経って承認したのは、渤海を牽制するためだったというのは、
確かに、一つの有力な見解にはなり得るだろうね。
唐としては、かつて対高句麗の外交や戦争を有利に展開させるために新羅と同盟を組んだやり方を、
再度試みたというわけか。
これもまた、言ってみれば「三国鼎立」によるバランス・オブ・パワーだなあ。
ただ、そこに至るまでに数十年掛かってるのは、
やはり、新羅と組んで百済・高句麗を倒した後に、
当の新羅と戦火を交わして撤退する羽目になったという、
遺恨が残っていたからなのかな。
渤海に関する史料が極めて少ないことが、
当時の外交史を解明しようとする上で大きなネックになってるってところはあるよね。
>>938 >遺恨が残っていたからなのかな
確かに59年という年月は、羅唐戦争時代の唐側の将兵の世代の入れ替わりは完全に済んでいる時間経過だね
直接的に新羅に対して遺恨の記憶がある唐将や官吏は、既に退役して皆無だったろうね
940 :
「白村江の戦い」後の東アジア国際年表:2011/08/26(金) 21:51:01.27
660年 百済滅亡
663年 「白村江の戦い」で、日本・旧百済遺臣らによる連合軍が敗れる(敗戦後天智朝で遣唐使など明らかな親唐姿勢が明確に、新羅との交流は不通)
668年 高句麗滅亡
670〜676年 羅唐戦争
671年 天智天皇没
672年 「壬申の乱」で大海人皇子勝利
673年 大海人皇子が天武天皇に即位(遣唐使停止、遣新羅使を盛んに送るなど親新羅姿勢が明確に)
676年 新羅が唐を朝鮮半島から排除に成功し、事実上の朝鮮統一
686年 天武天皇没
696年 唐と急激に勢力拡大した「渤海」との対立が決定的になる
702年 「白村江の戦い」後の天智朝以来となる遣唐使か復活。「日本」の国号を唐が承認
735年 新羅の朝鮮統一を唐が承認
>>940 もう少し厳密に言うと、
696年にはまだ渤海は建国されてないね。
696年は、大祚栄とその父の乞乞仲象が対唐自立の旗揚げをした時期ってことになる。
建国はその2年後の698年で、建国当時の国名は「震」、大祚栄が初代の王になった。
「渤海」の国名になったのは、713年に大祚栄が唐から「渤海郡王」に冊封された段階からってことになるかな。
942 :
日本@名無史さん:2011/08/27(土) 00:51:11.79
>>937 > 702〜704年辺りに「倭→日本」の国号変更の認可もよく旨味の無い唐がそれを認めたなと長年疑問だったけど
俺もそれは疑問だったが、唐にとってはプラスにもマイナスにもならない
どうでもいいことだから、ってのはあったと思う。
>>942 だからっていつでも唐が「日本」国号を承認したかって言ったら違うと思うけどな
日本側にしたら支那に漢字を選んで付けられた、差別的な意味を含んだ卑名を止めて自分達で改めて国号を創設し承認されるのは喜ばしく嬉しい事なのは、唐の人間も十分理解してるんだから
だからそんな考え方によってはどうでもいい事でも、唐からしたら外交カードに出来る(他国に「貸し」に出来る)訳でしょ
見下された意味を含んだ、下賜された名前なんて延々眉を潜めながら卑屈に使い続けるなんて誰だって嬉しくないし、
関税自主権回復とか劣勢な不平等条約撤廃と比べられないけど、場合によればそれより価値ある事だし
唐が認めれば形式上は唐の冊封体制下の全ての国で国号が改まる効果ある訳だから
(いまだに天皇を倭王とか倭乱とか意図的に卑下して言う失礼な国もあるけど)
唐に承認受けなきゃいけない時点で、まだへりくだってるとも言えるんだけど、そこはまあ古くからの東アジアの常識・通例だからね
実際に歴代中国王朝でも最強クラスの強さと領土拡大誇った時代だし
中国伝統の外交策「遠交近攻」や、実際に唐がやった外交策を見ても、
>>940の年表でいう
670〜676年 羅唐戦争
この期間前後はいかなる形であれ、唐側が日本に歩み寄った可能性は大であると推測出来る
つまり唐としては「唐日同盟(日唐同盟)で新羅を討つ」「日本を上手く利用して走狗として存分にコキ使って、新羅を挟撃する」狙い
天智は敗戦後の対唐政策としては、是非もなく謝罪外交・恭順外交みたいな姿勢方針だったろうし、
かなりの劣性同盟でも「大唐帝国の恐るべき脅威からのとりあえずの脱却」という甘い誘惑に十分にかられた事だろう
しかし「唐との同盟は、(結果として)自国滅亡への序曲・近道」
唐日同盟締結なら、新羅は滅亡あるいは半島各地で泥沼の長期戦で半島疲弊→日本滅亡
最悪、渤・唐同盟軍vs孤立日本→日本滅亡もあり得たかもしれん
(「遠交近攻」が忠実に実践されるのなら、新羅滅亡→渤海滅亡→日本滅亡の順だろうが)
〈天智朝〉の新羅敵対政策(国交断絶政策)、対唐積極的恭順政策
→〈天武朝〉の親新羅政策(新羅との国交正常化)、対唐慎重政策へと180度舵が切れなかったら新羅は無かったかも
天武天皇の思いきった英断は、新羅と日本の滅亡を未然に防いだ可能性すらあるよ
推論に立脚した推論というか、多分に飛躍しすぎる想像だけど新羅系の日本国内潜入組織(新羅系帰化人や日本人の新羅側間諜スパイなど)が天智抹殺や、壬申の乱の天武側に何かしら手を貸して働きかけ暗躍し大いに協力した可能性だって少しは有り得るかも知れん
天智朝系統の継続(後継の大友皇子ら等)では新羅滅亡の可能性が少からずあったんだから
天智の死の直前は、唐の郭務宗ら来日して3000名とかの唐兵も引き連れて九州から近畿まで威力行進?しているし、東アジア国際情勢の命運が天智が没する前後数年に日本国内で国際的にうごめいて綱引き駆け引き諜報戦が密かに至るところで暗躍してた気配がするというか
945 :
日本@名無史さん:2011/08/28(日) 04:40:02.85
武則天(則天武后)時代の690〜705年の、唐王朝→周武王朝→唐王朝の期間も気になる
660年頃〜705年まで則天武后の意が強く唐(周武)の政策に反映されたんだからな
946 :
日本@名無史さん:2011/08/29(月) 04:13:45.42
話題はズレるが、天智天皇が死ぬ時に、のちの天武が「皇位は皇后にゆずって、
政務は大友皇子にやらせると良い」と言ったそうだが、
結局天智は皇位を皇后にゆずらないまま死んだんだよね。どうして譲らなかったんだろうか?
>>946 天智が病に倒れた後の大海人皇子からの助言
「倭姫王が(天皇)即位し、大友皇子は大政大臣として摂政を執るべき」
ってやつか
倭姫王は「中興の祖」の皇后の割に生没年不明だったり、いろんな情報が少なすぎるのは子をひとりも成さなかったからなのか何なのか多少疑問点はある
倭姫王は父が古人大兄皇子で母は不詳、
古人大兄皇子は夫である天智天皇の異母兄で、舒明天皇と蘇我法提郎女の間の子供
父の古人大兄皇子からして蘇我腹であり、蘇我の後援を大いに受けた皇族であり、次期天皇候補筆頭的な立場から645年の「乙巳の変」で入鹿・蝦夷らが滅ぼされるに至って、天皇即位の望みが完全に消失したという象徴的な「蘇我(後援)系皇族」
倭姫王はその古人大兄皇子の娘…
日本書記を文脈通り信じるなら、大海人皇子からの蘇我系などの反天智陣営への人事妥協案・譲歩案の中立人事つうか、蘇我も溜飲を下げる人事提案のアドバイスだった気がする
蘇我系などアンチ天智派の気に入らないのが明白な「天智天皇→大友皇子への天智系による天皇位継承」の強硬人事で反発や争乱や揉め事を起こさない為の無難な落とし所
時代は全く変わるけど鎌倉末期〜室町初期の96代後醍醐天皇の頃にと「持明院統」と「大覚寺統」という皇統が二つあって
(元々は89代後深草天皇=持明院統の祖、弟の90代亀山天皇=大覚寺統の祖から始まり)、
交互に交替で皇位を継承しあう約束事があったのに、次第に揉め始め自分の息子に継がせて敵対皇統は排除したい後醍醐天皇が約束破りの継承を進めたりで混乱したりで、
結果的に南北朝(天皇2人が同時に別々に即位)併立までいってしまって争乱や正統的低下や混乱の一因になってる訳でしょう
「天智系」「反天智系(蘇我・天武系)」の二党併立時代、そして一歩間違えればもう1つの南北朝時代(大友皇子朝vs天武朝の併立)くらいはあった気はする
後醍醐天皇ら南朝が奇しくも大和・吉野へ移ったのも、最終的な勝利者の大海人皇子の行程をなぞらえた部分も十分考えられるし
ただ先程の主張に反するけども、倭姫王の実在やもっといえば古人大兄皇子の実在も怪しんでいる部分も個人的にある
倭姫王絡みの「倭姫王が即位し、大友皇子が太政大臣として摂政を執るべき」の発言の謎や
645年「乙巳の変」直後の、古人大兄皇子の「韓人が豊浦大臣(蘇我入鹿か蝦夷だろうといわれる)を殺した」発言の謎など、歴史ミステリーじみた謎の発言が日本書記に頻発する
古人大兄皇子は吉野へ出家するが、謀叛を計画したという理由で中大兄皇子らに討ち取られ葬られる(乙巳の変直後の時期)
大海人皇子は、何故吉野へ出家しても中大兄皇子から許されずに討ち取られた古人大兄皇子の先例を知ってなお、行動を重ねる様に吉野へ出家(と称して赴いた)のか?
山背大兄王、古人大兄皇子、倭姫王などは存在の有無は非常に疑わしく思っている
古人大兄皇子=天武の影の姿の投影?
日本が中国の冊封体制の傘の下からの脱却したのは、いつと考えられるだろう?
聖徳太子の隋の煬帝の時?
あの時に一旦脱却したけど、天智朝でまた冊封された??
それで天武朝で再脱却かな?
足利義満が明に「日本王」の承認貰ってまた冊封下
秀吉の「唐入り」で完全脱却
古代最後の冊封記事は武烈天皇の代
故に脱却したのは継体天皇以降と思う
955 :
日本@名無史さん:2011/08/31(水) 19:59:59.19
皇極(斉明)天皇の重祚って、「史上初の重祚(男子も含め)」なんだね
女帝が史上初の重祚って異常とまでいかないけどかなり特殊な事情アリだよね
やっぱ中大兄皇子の即位に何かしら制限か抑止かかなりの抵抗・反感か何かがあったとしか
956 :
日本@名無史さん:2011/08/31(水) 20:18:19.59
「日本書記」そして事細かくは「扶桑略記」斉明元年の条などに、
「唐人に似た顔付き、青油笠を着た男が空を竜に乗って飛び回り、皇極に付きまとった
蘇我豊浦大臣(入鹿または蝦夷が濃厚か)との人々の噂」
何故に中大兄皇子に付きまとわずに、斉明に付きまとうのか?
それか捻って考えれば怨みではなく愛着や守護霊的な出方??
ちなみに斉明崩御の時もこの同じ亡霊(?)は現れる
>>954 梁書武帝紀に、(502年)倭王武を進号したという記事がある。
武は雄略のこととされているが、梁が武烈と雄略を同一視したとする説がある。
>>956 >同じ亡霊
「斉明の葬式を鬼が覗いていた」って話ですな
958 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 02:43:25.91
皇極天皇が退位した理由がよくわからん。
皇極は、舒明崩後、有力皇族が複数いて後継者が定まらなかった為、定まるまでの中継ぎとして即位した。
蘇我宗家滅亡で古人大兄が脱落し、後継者として残った(中大兄は世代的に対象外)軽皇子が、皇極から譲位された(孝徳天皇)。
960 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 06:38:09.74
>>958 今フッと思っただけだし、それが一番の理由と信じてる訳じゃないけど
蘇我入鹿惨殺場面を間近で見たPTSD的なショックで、精神的にかなり弱ってた時期だったってのも1つの退位の要因ってのは有り得ないかな?
元々「女帝の即位は次期継承候補者の継承準備(たとえば年齢とが)が整うまでの繋ぎ・時間稼ぎ」みたいな意味もあるし
でも皇極女帝が誰かに退位させられたと考えて、敵対や親交など関係相関図を考えるのも面白いかも
645年「乙巳の変」直前の
皇極と蘇我入鹿、
皇極女帝と孝徳天皇、
皇極と中大兄皇子
その辺の関係性の変化の現実を知りたいよね
例えば皇極と蘇我入鹿ら蘇我家は親しい仲だったというのが定説だけど、直前時期に袂を分かつ事があって皇極もグルで入鹿殲滅に動いたのかも知れない
「乙巳の変」の時は中大兄皇子がまだたったの20歳くらいで若いし、まだ孝徳が裏で主導権握ってた時期→次第に中大兄皇子に主導権が移動だったかも知れない
961 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 08:22:07.99
入鹿や蝦夷たちの一族は
蘇我宗家と蘇我本家(と蘇我本宗家)
前から疑問だったけど、どの表現が正解なの?
962 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 10:44:00.53
>>960 >皇極もグルで入鹿殲滅に動いたのかも知れない
皇極には何も教えないままで入鹿暗殺計画は進んだのだと思うな。
皇極と入鹿の関係が悪化していれば、入鹿のほうも「やばそうだ」と思って暗殺現場までは来なかったかもしれない。
963 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 10:48:21.60
>>960 > 蘇我入鹿惨殺場面を間近で見たPTSD的なショックで、精神的にかなり弱ってた時期だったってのも
1つの退位の要因ってのは有り得ないかな?
それは大いにありうる。
皇極と入鹿が肉体関係あったというのら、なおさらありうる。
精神的に執務不能な状態。
軽皇子を摂政にして乗り切るということはできたかもしれないが、
政治的に大動乱だったので、摂政政治では乗り切れないと判断したのかもしれない。
964 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 10:58:47.15
>>960 >元々「女帝の即位は次期継承候補者の継承準備(たとえば年齢とが)が整うまでの繋ぎ・時間稼ぎ」みたいな意味
それはない
これまで天皇には退位というものがなく死ぬまで天皇
女帝であっても近親者の男子が成人したら退位するということはなかった
つまり、「中継ぎ」という天皇は存在しなかったということ
ちなみに皇極天皇を先例として天皇の退位が始まったことで
後世には男性天皇でも中継ぎ天皇が発生した
965 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 14:54:25.10
>>964 > 後世には男性天皇でも中継ぎ天皇が発生した
後白河法皇はワンポイントリリーフで即位したのだが
結果的に6イニングぐらい投げ込んだ。
966 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 23:57:46.04
中継ぎで即位した男帝ってだれだ?
宣化や安閑は欽明への中継ぎと考えられなくもない
968 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 07:29:31.37
この時代って同じ1人の人物に名前が多くて混乱するよな
皇子→天皇もだし
役職名で呼び慣わしたり、いわれの強い地名で呼んだり
特に聖徳太子は異常な名称の多さ
中継ぎの男性天皇なんてないよ
名前と言えば一つ疑問があるんだが
百斉復興戦争で活躍した鬼室福信は、百斉王族の一員なのに、何故扶余姓ではないのかと
>>969 >男性の中継ぎ天皇
後白河天皇
花園天皇
後醍醐天皇
後西天皇ら
いずれも傍流から即位、嫡流が成人するまでの中継ぎ
972 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 20:19:10.65
新羅と敵対する二国を滅ぼし、
さらにそれらの国の民がまとまりやすいように憎まれ役を買ってでるとは…
973 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 23:41:21.88
「新羅を走狗にして領土拡大を目論む予定の唐が、結果的に逆に新羅の走狗になってたかの様に利用され新羅だけが1人勝ちした」
と言いたい訳ね
超大国の唐に勝つには、泥沼の様にドロドロのゲリラ戦に引き込んで心底ウンザリさせたりとかしかなかったろうね
真っ正面から戦っても仕方ないしね
974 :
日本@名無史さん:2011/09/03(土) 00:30:23.59
>>971 > 後西天皇ら
この人は江戸時代だから、事情がかなり異なるかと。
中継ぎと言っても10年頑張ったし、学問には寄与した。
975 :
日本@名無史さん:2011/09/03(土) 00:31:40.59
>>973 > 超大国の唐に勝つには、泥沼の様にドロドロのゲリラ戦に引き込んで心底ウンザリさせたりとかしかなかったろうね
朝鮮式山城は一見しょぼそうなんだが、意外と防御力あるのな。
976 :
日本@名無史さん:2011/09/03(土) 08:02:25.32
>>975 う〜ん。山城の件あくまで想像や予想だけど
鎌倉末期〜室町初期の「悪党」「忠臣」の後醍醐天皇方の楠木正成は戦やあの手この手の軍略計略上手で地の利を生かして自領の山城に籠って、数倍する(時に数十倍)敵を撃ち破ったり長期防衛したりしてるけど、
籠城戦にはいろんな意味で限界や制限がある
唐はべつだん時間に迫られておらず、無限の人海戦術を繰り出せる圧倒的な兵力、戦争経験豊富で戦略戦術の最先端先進国、豊富で経験豊かな物資兵站能力、最先端の攻城用の攻撃侵攻兵器技術も所有
これではさすがに戦力比が違いすぎると思う
戦上手・計略上手・籠城上手でも10倍の敵から凌ぐくらいまでが限界だろうし
唐相手は下手したら桁が2つ違ってくるだろうし、兵糧や水も山城籠城では尽きるだろう
楠木正成も10倍の敵に、数ヵ月とか半年も籠城し敵に大ダメージを与える事に成功するけど、結局はさすがに陥落されて別拠点へと転戦して再度籠城を繰り返してるし
拠点としてかなり有効だろうけど、いずれは限界が来たと思う
977 :
日本@名無史さん:2011/09/03(土) 08:21:43.41
それに旧高句麗領や旧百済領には、いまだ唐から抵抗を続ける様な大規模軍事拠点はもうさすがにほどんど無かったと思う
唐進駐軍の手薄な重要拠点や重要地点や物資や兵糧に放火や破壊工作したり、
暗殺を狙ったり神出鬼没に襲撃して援軍や追手が来る前にすぐ退却
そういう中国共産党の毛沢東的な
あるいはアメリカやイスラエルに立ち向かうイスラム過激派ゲリラみたいな
「ゲリラ抵抗運動の蓄積」「テロ」「ピンポイント攻撃」で精神戦に持ち込むしか、世界で1,2を争う強大国家の大唐帝国相手には戦えないと思う
反唐抵抗軍(旧高句麗・旧百済遺臣ら抵抗ゲリラ)の彼らは、地の利と住民民衆の支持と新羅からの秘密裡の裏援助だけが頼みの綱だったろう
978 :
日本@名無史さん:2011/09/03(土) 08:28:22.94
あと朝鮮三国時代は、日本で言う忍者や間諜(スパイ)のノウハウや活躍が飛躍的に伸びたらしい
三国間の緊張関係の中で複雑に変化する国際情勢をキャッチして敏感に情報収集して本国に連絡したり
新羅が朝鮮統一して落ち着いたら、諜報の必要が無くなって一気にそういった勢力やノウハウが衰え廃れたらしいが
979 :
日本@名無史さん:2011/09/03(土) 13:49:31.85
蘇我馬子と物部守屋の争いで「稲城」の呪術的障壁を構築したりと
戦に於いても超心理学的な物
戦における呪術やら奇門遁甲やら陰陽師の様な側面は、幾らか重視されただろう
日本の戦国時代初期の「軍師」はそういった占い師・呪い師や陰陽師的な職業だったし、
三国志の諸葛亮孔明も風を読み(風を起こし)星をみて暦から日付を占う意味の「軍師」でもあった訳で
>>978 601年(推古9年)には新羅の間諜カマタが対馬で捕まって、上毛野国に流されてるね
その次の年には来目皇子を将軍として2万5千の兵で新羅を攻めようとしてるわけだが
981 :
日本@名無史さん:2011/09/03(土) 15:08:53.24
>>980 あと新羅僧(を装った工作員・間諜??)が神器を奪って新羅に持ち帰ろうとしたんだろ
運よく難破か何かして奪還したらしいけど
奪還したのも結構怪しいかも
どうしても新羅に神器を持ち帰られなかったとしたら、普通は神器の破壊や遺棄を考えないかな?
本当に新羅工作員なのか、単なるお宝泥棒か、そして任務内容にもよるけど
あと超・国宝級の宝の管理があまりに杜撰すぎるしw
持ち出し簡単に出来たらイカンって!
982 :
日本@名無史さん:2011/09/03(土) 15:20:39.04
「磐井の乱」は新羅の密使にそそのかされた(新羅による磐井謀叛工作)説ってなかった?
その辺はまだよく知らないんだけどどうなの?
でも日本書記は悪い事は何でも「新羅陰謀説」ばかり語られてて過剰に新羅を悪者に演出脚色偽装されてる様な気はするんだよな
アンチ新羅も大概にせえよと
983 :
日本@名無史さん:2011/09/03(土) 19:13:18.16
「磐井の乱」を始め、日本史上に半島征伐の責任者が北九州入りしてから、思わぬアクシデントで大豪族が謀叛して征伐潰れたり、天皇や最高責任者の皇子や貴族が九州で死んだり、ちょっときな臭いアクシデントが多すぎない?
あ、仲哀天皇(神功皇后、武内宿禰)の新羅征伐前もだな
聖徳太子が摂政の時にも弟の皇子を最高責任者にして新羅征伐軍を九州に送ったけど、当地で没して結局御破算になったんでしょ?
秀吉は九州入りしてなかったかもだけど、没して唐入り(朝鮮出兵)は御破算になったし
朝鮮併合反対派の最右翼である伊藤博文は朝鮮で暗殺されたな
新羅征伐の遠征途中の九州で病に没した聖徳太子の弟は、来目皇子で初の皇族将軍(?)みたいだな
三種の神器の1つ草薙剣は日本武尊、天武天皇、安徳天皇に祟ったのか?
わざわざ熱田神宮に手厚く御神体として祀られるくらいだから、異常事態である
平安時代辺りから基本的(例外はもちろんあり)に、「武」「軍事」「殺生の穢れや触穢する事」「国軍」「死刑」を放棄し意識的に遠ざけてきたと思われる天皇像と草薙剣の祟りは何かしら因果関係はあるのか
>883
「我等先を争はば、彼自づからに退くべし」とか言って調整の取れていない突撃を行ってたみたいだし。
1:1.7の数的優勢でも負けるわけだわ。
>926
死ぬ間際に「役に立てなくてごめんね(特に軍事的に)」とか言ってるんだよねえ。
>985
安徳は、竜神の生まれ変わりとして、草薙の剣を取り返しにきた……という伝承が。
源平合戦自体が竜神たちの仕組んだ復讐劇ということになるんだけれども。
987 :
日本@名無史さん:2011/09/04(日) 17:57:35.46
>>986 鎌足は政治顧問であって、軍人ではないから仕方ない。
988 :
日本@名無史さん:2011/09/04(日) 22:14:55.85
あの時代に作られた鎌足の「内大臣(うちつおみ)」は、令外の官だし出来たばかりの特別職だし後の世の同じ役職の職分との違いとかまだよく分かってない部分も多いみたいだけど
最高参謀とか、最高秘書とか、最高顧問とか今でいう官房長官みたいな天皇などの傍らで、実際に政策立案したり補佐したり意見を述べたり助言したりする役職だろう
もちろん信頼されてるが故に、大事な大和の留守を代理代行役として全面的に任された可能性も多いにあるが
しかし貴重な兵法書「六韜」を空で暗唱出来る程に調略に長けた人間で、
実質上の「乙巳の変(入鹿・蝦夷ら蘇我宗家誅殺クーデター)」の絵図面を描いて見事やってのけた程の参謀格なんだから、
慣れない北九州で落ち着かないであろう中大兄皇子の傍らに従って懐刀として助言してもおしくないが、九州入りの記事は無し、大和を取り仕切った記事も無し
>>970 鬼室福臣が「鬼室」姓であることには、
例えば二つの説を挙げられるようだ。
一つには、平安期日本の「新撰姓氏録」の中に、
日本に渡った鬼室氏の由来について、
「シャーマンの家系だったので、『鬼室』の姓がついた」
という趣旨の記述があることを根拠とする説がある。
(日本で有名な鬼室姓の人には、例えば天智天皇代に学識頭になった鬼室集斯がいる。
滋賀県の日野町にある鬼室神社に祀られてるのが、その人。)
ただこの場合、鬼室福信を「百済王家の親戚で、義慈王のいとこである」とする見解とは、やや食い違いそうにもなる。
もう一つには、「『鬼室』というのはもともと地名で、封地名を姓として名乗るようになった」とする説がある。
日本の武家や欧州貴族の苗字によくある例だね。
これならば、百済王家の傍系であるとすることとの整合性も、ある程度理解しやすい。
この説に則る例は、他の著名な百済人の姓にも、いくつか見られるようだ。
ただ、鬼室福信その人自身は、長い間ずっとさほど官位が高くならなかった人物のようで、
本当に王家と濃い親戚だったかどうかとなると、やや疑問点もあるようだ。
或いは、百済王家の外戚という可能性も考えられるだろうか?とも思うが、
いわゆる百済の「大姓八族」と呼ばれる有力貴族は、
隋書によれば、「解」「真」「国」「木」「(きょう)」「燕」「沙」「白」で、
「鬼室」と音がかなり近そうな家系は、どうも見当たらない。
鬼室福信のもとの官位がさほど高くないことから見ても、これら八つの家系とはあまり関係が無いかもしれない。
いずれの説にしても、決定的な傍証となる史料が発見されてない状況なので、
「鬼室」姓の由来については、まだ定説が固まるまでには至っていないだろうと思う。
>>988 白村江の戦いの経緯は、鎌足にとっては政治的大失点に相違無いことだったろうから、
日本書紀の編纂時に、
「不比等あたりが身内の恥のかさぶたを引っ掻き回したくなくて草稿から削除させた」
というような可能性は無いだろうか?
さすがに中大兄皇子は存在感が目立ちすぎて、関連記述を無しにするわけにはいかなかったろうけど・・・。
そろそろこのスレも満了になるけど、
誰かが「2」のスレ立ててくれたら、また参加しようかな。
(自分で言っておいて申し訳ないけど、俺はスレを立てられないもので)
>>976 隋も唐も。高句麗にあれだけ手こずった(隋に至っては国が潰れる要因の一つになった)ことを考えると、
やはり遠路はるばる攻め込むのは難しかっただろうと思われる。
ただでさえ兵站が伸び伸びになるから、それを断ち切られるだけでも大きな痛手になる。
旧高句麗領を避けようと思えば海路になるわけで、これもまた大変な道のり。
それでなくても旧百済人からすれば、唐は百済を潰した仇に違いなかったわけで、
いったん新羅が唐の敵に回れば、唐にとっては渡海作戦もままならなくなっただろう。
>>990 そうだね。それだと多いに納得するね
日本書記は天智も鎌足も立てた記述だけど
ポジティブな印象の政策や出来事は、中大兄皇子&中臣鎌足コンビ
ネガティブな出来事は、中大兄皇子1人(を意識的に矢面に立てて防波堤にして中枢参謀である鎌足への責任追及をかわす)
と意図して著された可能性は多いにある
藤原の評価を上げる為に、天智天皇の評価も一緒に上げざるを得ないというか
994 :
日本@名無史さん:2011/09/04(日) 23:37:11.98
新スレ立て大いに希望します。どうか宜しくお願いします
話し変わって「古墳時代」「古墳時代後期」とかにくくられる事にいまいち、ピンと来ないんですがどうですか?
一般の古代史に興味ない人達からすれば、古墳時代と聞けば何か苔の生えたとてつもなく太古の巨石・石器の墓文明(石器時代とか石のお金w)みたいな我々の想像以上に原始的な印象があると思うんですよね
下手したら弥生時代より遥かに古い様な、自分達と全く違った遠い存在と認識を持ってる方も多いかも知れません
飛鳥時代ってのも違うし、聖徳太子が没した辺り以降〜大化の改新〜白村江の戦い〜壬申の乱〜奈良遷都までの言い方で適切でイメージが捉えやすい区分名称が欲しいです
もちろん古墳埋葬文化が集合集約統合されて、南東北までの日本文化が固まった時代ではある訳ですけど
いずれも諸説ありますけど初めて「年号(大化)」が出来て、この時代に「天皇」と名乗って、国際的に国号「日本」と改まって認識された重要な時代ですし
すみませんが、新スレどなたかお願いします
>>994 文化史の観点からは、白鳳時代なる言い方もありますね
996 :
日本@名無史さん:2011/09/05(月) 06:10:05.79
>>980 > 601年(推古9年)には新羅の間諜カマタ
キラー・トーア・カマタみたいでかっこいい名前だ
997 :
日本@名無史さん:2011/09/05(月) 09:21:49.49
998 :
日本@名無史さん:2011/09/05(月) 13:48:25.36
乙です
うめますか
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1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。