1 :
日本@名無史さん:
魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の記事
この国が比定される場所として、古くは畿内説、九州説、あるいは四国説などの
様々な説が議論され続けています。
しかし、畿内説では箸墓巻向などの場所に比定されているにもかかわらず、
なぜ比定されているかの根拠が未だ明らかになっていません。
このままでは、畿内説そのものが存在しなくなってしまいます。
このスレッドでは、どのように解釈すれば箸墓巻向まで辿りつけるのか、
畿内であるためにはどのような根拠が存在するかを提示していただきたいと思います。
スレ立てに特に反対意見がないようでしたので、代理でスレ立てしました。
今までに出た乏しい根拠は全部論破されているので
いまさら何も出てこないと思うよ。
最後には魏志も記紀も漢籍も信用できないという始末だし。
3 :
日本@名無史さん:2010/09/04(土) 23:46:41
スレ立てのタイトルがもう一つあったのですが、学問板ということもあり
自重させていただきましたことをお詫びいたします。
4 :
ローガン:2010/09/05(日) 00:01:56
1乙。
参加しようと思ったけど…
>畿内説の根拠を探ろう
探るという行為の呼び掛け? なら でる幕無しやね。
5 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/05(日) 00:09:49
桜井市大字辻63−1番地、纏向遺跡。
この遺跡は 3世紀前半の遺構の上に盛り土をして3世紀後半の遺構が存在する。
そして箸墓は3世紀後半の遺構の時代である。
この遺跡が垂仁、景行であれば、太陰暦で読むことが出来る。
場所は珠城である。盛り土を均せば、日代(乾いた地をならす)になる。
箸墓をモモソ姫とした場合、崇神以前に“宮”が存在せねばならない。
モモソ姫時代では時代を合わせることが出来ない。
時代を合わせるなら 240年=正始元年=景行元年しか無い。
しかし畿内邪馬台国に卑弥呼はいない。
邪馬台国は大和であるが
卑弥呼は北九州である。
6 :
ローガン:2010/09/05(日) 00:13:51
あ〜ごめん。
>どのような根拠が存在するかを提示していただきたいと思います。
とあったね。前言撤回。
7 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/05(日) 00:14:16
姓は阿毎、字は多利思北孤、とは
景行、大帯日子淤斯呂和気、大足彦忍代別 ヤマト オシロワケ イムナタリヒコ である。
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)
大倭(大和)は北の女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、諸国に使わし検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
刺史の様だ。
卑弥呼を大和に置く読み方は出来ない。
まあ頑張ってやってくれや。
ゆるやかな交易連合を理解できない連中が、どんなトンデモをひねり出すか。
それによってここの九州説連中が、どれだけオカルトに犯されているかが浮き彫りになるからね。
出来れば参考とした論文やサイトなど挙げて、具体的に提示してくれ。
その方がトンデモの元も判明するしね。
というわけで、畿内説諸氏は静観の構えで頼みます。
ここで畿内説の根拠を開示したところで、彼らのためにもならない。
いや案外オカルトから目を覚ますきっかけになるかもしれないぞ
彼らが脳内で想定している妄想畿内説というのは
・三角縁神獣鏡が銅鏡百枚だ
・箸墓は卑弥呼の墓だ
・銅鐸文化圏が銅矛・銅剣文化圏に滅ぼされた
・緩やかな連合が九州鉄器軍団に戦争で勝った
・畿内説は詐欺
こんな誰も考えていないし有り得ない、つまり当の俺らすらも考えていない謎の畿内説だろ
まあしかし、ここの九州説とて、でっちあげの畿内説を攻撃することで現実逃避していることくらい自覚しているだろうし
それ故にことさら架空の畿内説を攻撃することで精神の安定を図っているのだろうから
万一でもそこから脱却して社会復帰できる人が出てきたとすれば、喜ばしいことじゃないか
俺らからすれば、畿内説の根拠ってのは
『学術書を読め』で事足りる
それに対し、『好事家のサイトを読め』や『自称古代史家の本を読め』『素直に読む俺の説が最強』とか、典型的なオカルト論理で戦いを挑んでいるわけだ
それがまわりから見ていかにみっともないものか知ることが出来れば、彼らとて何かが変わるかもしれない
戸塚ヨットスクールに放り込まれた問題児を、温かく見守るようなもんだ
彼らが行き詰ったときに限り、救いの手を差し伸べてやればいい
11 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 02:02:08
邪馬台国連合って
古代の幕藩体制みたいなもんだろう?
これって、邪馬台国時代に限らず、日本では常にデフォルト。
なぜなら、日本みたいな島国では、
大陸と海で隔てられているから、日本列島内で、それぞれの地域が分権を主張できる。
後の足利幕府も、徳川幕府も同じような感じだっただろう?
12 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 07:12:56
スレタイが寒いんだよ。
無理するなって。
こんだけ新聞・インターネットで邪馬台国情報が氾濫しているだろうに。
知らん振りすんなって。しらじらしいぞ。
13 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 07:23:35
スレ主は巻向最新情報を検索しろよ。
世間知らずめが。
14 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 10:11:08
ここまで根拠なしと。
自信のある根拠を理解しているなら、ほおっておいても
解説したくなるもんさ。
自分で調べろでは、本人が理解していないのを暴露している
だけに過ぎない。
畿内のそれらしいところっていまでもド田舎で遺跡も手つかずで結構ですね^^
なに見つけてもあとはマスコミが勝手に邪馬台国に結び付けてくれるし
16 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 10:51:01
大体にして、世間・公に多く出回ってる邪馬台国書籍を無視して、
畿内説の根拠を探れ、だとよ。
脳がいかれているんだよ。
その人にしかわからない2chスレでは良く見られる九州各派と違うのよ。
畿内説は九州説のように個人の解釈・私見が根拠になってるわけじゃないのにね。
17 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 11:15:55
331 :日本@名無史さん:2010/08/20(金) 22:56:54
だからー、
妄想・私見を取りのぞいたのが畿内説で
とにかく、専門家が支持する畿内説は完璧なのよ。
だから、畿内説以外は今の世の中全て妄想や私見なのよ
わかった?
18 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 12:56:05
つまんね。
今じゃ、畿内説なんてのは馬鹿でもやれるんだよ。
19 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 13:13:28
えらいせんせいが いっぱいきないきないいってるので ぼくはきないにきまってるとおもいます
あれれ〜 魏志倭人伝をしっかりと読んでいない人がたくさんいるよ〜
バーロ! 不可能な物を除外していって残った物が…たとえどんなに信じられなくても…それが真相なんだよ
で、畿内説の根拠を探れるような九州説論者はいないわけね
学術書も読めるやつがいないってことだね
畿内説の根拠って…
たまたま今まで見つかってる遺跡物と、ヤマト王権に都合のいい記紀だけだろ
学者クラスは語れるのが当然として
長老コテハンも、差はあるがまあ語れるだろう。
でも、あとは偉い先生が言ったからというレベルじゃないか。
または、直感的に今まで思い込んでいた、というレベルではないか。
24 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 15:12:22
最近気になるのが、畿内説でもなく九州説でもない「無」説。
畿内説が論破されてから出てきたような気もするが
すべての記述は信用できず。存在しない
と言った論が散見される。
これは「無説」として、別扱いすべきだと思うのだが
畿内説、九州説諸氏はどう思うだろうか。
>>22 間違い、記紀を参考にすることはない。
基本的に考古学者の説だから。
>>24 大昔からあるよ、それこそ白鳥VS内藤の頃から。
>>25 国の成り立ちに無意識に記紀が刷り込まれてないヤツはいないと思うがね
でなかったら古墳時代の地方遺跡が見つかるたびにヤマト王権ヤマト王権バカのひとつ覚えみたいに言わないだろ
>>27 いやヤマト王権(政権)と邪馬台国と大和朝廷は別物。
これは歴史認識とかじゃなく、用語の問題。
君らはそこを混同するから、賛否はともかく畿内説を理解できない。
否定するなら、相手をきちんと理解してからだよ。
キチンとした時代専門の考古学者はともかく、邪馬台国→ヤマト王権→大和朝廷って見解を採らない
邪馬台国畿内説論者(自称歴史学者)なんてほうがむしろ珍しくないかい
ろくに実証もせず、まわりでテキトーに研究成果に乗って
騒いでるだけのバカについての責任なんてとりようがなくないか
>>29 そうでもないよ、記紀の謎解きが大好きな暗号ごっこは確かにいるが
基本的にはその三つは別物だと考えるほうが多数。
というか、ヤマト王権は別にして、畿内説でも邪馬台国がすんなり大和朝廷に発展したと考えるのはアマチュアでもごく少数だろう。
九州説でも記紀の記述になぞらえたりするよなあ
歴史マニアさんたちにはそのほうがわかりやすくアピール出来るからねえ
33 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 16:36:58
風呂はいる
34 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 17:30:01
ここは、畿内説の根拠を探ろう、というスレですよね。
嘘でも、本当でも、他スレのように早く始めてください。
他スレに遅れを取っているよ。
畿内説の根拠なんてないんだから
誰も出しようがない。
俺もない。
というか九州説各氏が思い浮かべている『仮想敵畿内説』ってどんなのなんだ?
安本なんかが意図的に吹聴する『実際に存在しない畿内説』を鵜呑みにしてやしないか?
また内藤湖南の時代に提唱された、『すでに消滅した昔の畿内説』を想定してやしないか?
それとも『三角縁神獣鏡配布と前方後円墳分布』をセットにした、『一昔前の畿内説』なのか?
そのへんを語ってくれれば、現在の知己に基づいて間違いを指摘してあげられるのだが。
どうも緩やかな交易連合にしても、全く理解できていないような気がするんだ。
37 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 21:29:51
38 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 21:43:10
九州に径100余歩(魏代公式値)の墓が全くないからさ。
39 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 21:44:21
関係無いけど「緩やかな交易連合」ってなにか変な呼び方じゃないですか?
交易交流があっても別に連合する要因は見当たらないし、「緩やかな倭人交易圏」ならわかるけど
それと「倭人交易圏」で恐らく枢要な地域ではあったろう畿内がそのまま邪馬台国だってのには
ちょっと単純すぎて同意しかねる
魏志倭人伝未登場の大国って可能性だってあると思うけどな
>>37 いい書き込みだね。
畿内説は確信などは持っていない。これははっきりと言い切ろう。
要するに蓋然性の問題なんだ。
倭人伝をこう読んだ、出土物や遺跡をこう解釈したなどではなく
3世紀当時に存在したことがほぼ間違いない多数の無名のクニグニのあいだで
どうやら交易に関する連合体が発足していたというのが、高い蓋然性として考えられる。
この交易連合はそのなかでオウを選んでいたのかどうかはわからない。
しかしその範囲は広く九州から関東にまで及んでいる。
その中心となっていると考えられるのが、畿内纏向である。これが初期ヤマト交易連合と考古学で呼ばれるもの。
そこで倭人伝に目を向けると、邪馬台国なるものがあったということが書いてある。
考古学知見とはかなりの部分で一致しないが、邪馬台国とその連合が広範囲な繋がりがあったとは見ていい。
じゃあこの時代最大の商業勢力である初期ヤマト交易連合と、倭人伝にいう邪馬台国連合がイコールであるという蓋然性が一番高いのではないかというのが、骨子となっている。
もちろんそれよりも蓋然性の低い説も十分成立する。
その交易連合を主導したのが北部九州だという考え方だね。
また九州内でこの交易連合に参加しない別の交易連合があったとする説。
ただこれらの蓋然性の低い説というのは、当然のことながら蓋然性が高い説に比べると矛盾が多い。
だから、一種の消去法として、畿内に中心をもつ緩やかな交易連合説(現代の畿内説)を採用しているわけだ。
>>40 それは畿内中心であれかしって言う思い込みに過ぎないんじゃないの
直接武力行使などはるか後代まで行い得なかったんだから、交易連合にとっての
中心地を設定する意味などないよ
邪馬台国畿内説とはいうけども、考古学者の中には邪馬台国問題は3世紀の実相を探る妨げになってる、
と考えている人もけっこういるんだよ。
>>41 いや現在のところ、各地のモノと文化が集結し、ハイブリッドというかパッチワークというか
そういう特異な新時代のごった煮文化が発祥し、後世に続くものとなったところは、畿内しかないんだ。
(畿内と言っても、面で捉えないように)
これが東海にあれば、当然東海中心説を推すし、北部九州でも中南部九州でも然り。
しかしその痕跡の萌芽すら見えないので、今では考えにくいということ。
あれば当然検討するし、無くてもなにか見落としていないかと検証するというのは、この前の九州説救助スレからでもわかるでしょ。
>>41のように
>直接武力行使などはるか後代まで行い得なかったんだから
この認識をきちんと有している人となら、いい議論が出来そうだ。
>>40 広域連合の考え方の骨子を書いていただけたのはありがたいです。
こういう考え方を出し合って、各自が自らの説の糧になれば素晴らしいことだと思います。
>>41 まあまあ、否定はあとまわしにしましょう。
納得行かないところはそれぞれあるでしょうけど
自分の説の参考にする程度にとどめておいてはどうですか。
もちろん、自分はその説は取らない、もありですし。
46 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 22:14:45
というかさあ、
畿内派は、どうすれば、九州説が成立するか、自分を棄てて知恵を出し合ってあげたのに、
九州派は、いつもと変わんないじゃん。スレ立てた意味なし。
こんな井戸端会議は、ドンと来いスレ、でやれよ。
47 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 22:19:27
畿内説の根拠を探ろう
意気込みはいいけどさあ、
スレ主、なんとかしろよ。
>>43 倭人交易圏も認めて、畿内の一大強国も認めて、その上で俺は畿内が邪馬台国である必要はないと思うんよ
理由はトヨ以降の邪馬台国の足跡が途絶えてしまうこと、遺跡的に見てもこれ以後(支配者の入れ替わりは
あったかもしれないにせよ)ますます勢盛んになってゆく畿内の実相とそぐわないでしょ
>>46-47 上から目線なんだけど、敢えて。
この板に常駐する九州説というのは、本流の九州説すら呆れるレベルなのだから、彼らに他説の根拠を探るなど無理だろう。
自説と反する他の九州説についても言及が無い時点でそれは明白。
そういう連中ってのは、山の賑わいにもならない無駄な枯れ木なんだから
どのスレでも、いや2chじゃない個人サイトでも妄想を垂れ流して粘着するしか出来ないんだ。
九州説とかそんなのじゃなく、たんなる異常者レベルなんだから
そういうのと、ちょっとでもまともに考えようとする人を区別するのは、当たり前だと思う。
トヨタン・・・・・・・・・・
>>48 それは、倭人伝にある『邪馬台国連合』(九州に限定の必要なし)が
そう遠くない時期に埋没したという説だと捉えたけど、それでいいのかな。
理論的にはその見方もアリなんだが、朝貢した連合の痕跡が、まず九州のどこにも想定できないんだ。
逆に言えば、弥生中後期に栄えた九州のクニグニってのは、そんな交易連合など必要としないほど各々が栄えていたんだよ。
これを中小の弱者が大同小異でくっついた商店街というか、ショッピングモールと例えてもいい。
本店のみだが、老舗で歴史もプライドもあっておいそれと連帯化しなかったというのが、特に北部九州の各集落で
それ故に客を奪われて衰退化したと考えて欲しい。
ごめん文章がおかしい。
2段目3行目の「これを・・・」は緩やかな交易連合のことで
4、5行目が北部九州の事ね。
そうね。実は九州説といっても九州島をどちら側に回っていくかで天と地ほども違う。
一方が素直な読みなら、他方は狂った読みだ。なのにまったく他の九州説への批判
がないというのが不思議。これは九州説と畿内説での雪合戦としか、歴史解明をとらえて
いない証拠。サイキバは極端だが、他の九州説も同程度。
>>51 >それは、倭人伝にある『邪馬台国連合』(九州に限定の必要なし)が
>そう遠くない時期に埋没したという説だと捉えたけど、それでいいのかな。
うん、その通り
倭人伝の記述にもある通り、九州のクニグニは離合集散激しく相争ってたんだと思う
たぶん『邪馬台国連合』は内乱で国力を消耗して雲散霧消したと思う
『邪馬台国連合』などもともと砂上の楼閣のようなものだし、後に幾度かの
畿内勢力による征討があったとすればその痕跡を見出すのも困難かと
(後代に平和裏に畿内に組み込まれただろう他文化圏とは事情も違うと考える)
55 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 22:49:57
畿内説の存在できる最低条件が九州まで含めた広域連合
というのは、関連スレでよく書かれた条件ですね。
自分の知る限りの考古学資料から出てくる勢力図イメージとしては、
弥生中期以前の方が各地とも適当に入り交じっていて、それなりに個性もある。
多分広域集権国家の存在以前なので、流通は比較的スムーズだったのでしょう。
弥生後期になってから、流通に方向が見え始めます。
北陸東海から畿内への流れです。
このころ、畿内は北陸東海を支配下においたと言えるでしょう。
そして九州とのつながりになるわけですが、
九州の土器はほとんど畿内からは出てきません。
少なくとも九州との関係は支配関係ではないと思われます。
ここで友好関係を築くことが出来れば、広域連合が成立する可能性も
あります。畿内勢力と九州勢力の大戦争が記録されてない以上、
何らかの友好関係(婚姻関係?)が成立している可能性はあります。
56 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 22:54:39
九州、特に北部九州と言われる福岡佐賀熊本は
激しく戦っていた可能性は高いですね。
鉄製武器の出土数は。他の地方と比べれば、文字通りケタが違います。
それだけ良い武器が大量に必要な状況だったのでしょう。
>>56 うーん、それは考えにくいんだよね。
というのは実用に値する鉄製武器というのが、殆ど見当たらない。
実際に殺傷能力を有する鉄器というのは、小型ナイフのようなものしかない。
まあ農耕具に関しては、先端に鉄器を装着する木製具のほうが効率がいいだろうから
軍事的な観点より、経済的観点から考察すべきだと思う。
58 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 23:11:21
>>57 我々の目から見たら実用に値しない武器でも、実際にそれが武器だった可能性は否定できないのでは
出雲の銅剣も儀式祭祀用だとか言われるが(実際そのように埋められてるようにも思えるが)歴とした
実用の武器だった、隠匿武器だとか降服の証に埋められたのだとかいろいろ説はあるじゃない
>>54 とすると、例えば先に朝貢して金印を拝受した北部九州勢力との整合性もあるね。
その時期でも北部九州に共通する文化様相や、交易の密接製や、統一宗教のようなものはない。
だがそれは別スレでもあったけど、瀬戸内や畿内でも同じ条件で成立するんだよね。
それと内乱という直接的な戦闘の痕跡が、弥生終末期の九州全土に確認できないんだ。
どの集落も環濠を放棄し、再掘削すらしていない。鉄製の武具にしても実用には向かない副葬品が主で、これが実際の戦闘に使われたとh到底考えにくい。
倭国乱という記事内容があるわけだけど、こいつが直接的な軍事戦闘行為だったとは
九州でももちろん畿内でも考えにくいんだよ。
60 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 23:14:30
武器の絶対量はやはり銅剣、銅矛の方が多かったでしょう。
面白いのが、北部九州エリアを越えると
とたんに鉄製武器の出土がなくなるということです。
鉄製農具は少ないながらも他の地方からも出てくるのですが。
そう考えると、やはり畿内との大決戦はしていないような気がするのです。
雌雄を決する戦いだと、やはり鉄製武器を投入するはずだと思うのです。
実用に徹する武器というのがどういうものかは調べたいと思いますが
銅と比べて加工しにくいことが関係あるのでしょうか。
61 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 23:16:30
九州については貴重なはずの鉄製武器が出土しすぎるってのが気になるな
必要ならばまた回収して再利用してもいいはずで、そうでないということは
過剰なまでに鉄製武器があったか、あるいは必要としない情勢になったか…
>>58 いや強度がなくて、木の棍棒とチャンバラしたら折れるか曲がるかの当時の鉄が、実践的武器にはなりえないよ。
これは銅剣もそうで、生きている人間に切りかかるなんて有り得ない、まず切れない。
鉄にしても銅にしても一番有効なのは、弓矢が当たって瀕死状態の無抵抗に近い獣を皆で押さえつけて、頚動脈をスパッと切るといったもの。
あるいは木の実などの収穫に使うかだね。
>>60 3世紀当時の鉄器に、武器としての実用性が無いということをまず頭に入れておいて欲しい。
これは出土物を再現して、実際にその強度を実験しているんだ。
北部九州は、確かに戦闘は多かった。これは弥生時代に入って渡来人が戦争と言うもの
を持ち込んだわけだから当然だ。原因は人口増加による耕地争いと思うが、どのように戦闘
が進んでいったかも、戦傷人骨の出土分布によってある程度わかる。しかし、邪馬台国の頃は
鉄製武器は増えるものの安定していたはず。
むしろ食えないための土地争いのようなことが、交易によって解決されていった時代ではないか。
65 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 23:25:34
ああ、武器としての有効度で言えば
やじりと槍先(矛先)が一番有効になります。
剣はその次の白兵戦用の武器に過ぎません。
弓戦と槍戦で敵が逃げ出せば、剣は不要です。
それでも剣が頑丈であればそのほうが良いのですが
のちの日本刀の太刀でさえ、持ち歩くのには結構苦労するので
軽く作ったかもしれませんね。
66 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 23:27:50
古代の銅器、鉄器については私見だけど現在出土してるおよそ実用に耐えないモノは
すべて祭祀儀礼用のお飾りと見做してもいいと思う
武器は何代も何代も鋳直して使われ続けたんじゃないだろうか(畿内に鉄器が少ない=畿内勢力が
変遷しつつ後代まで受け継がれたであろう某証にならんだろうか)
>>64 最終行には同意なんだけど
戦争を渡来人が持ち込んだというのは疑問(これ頼むからサヨク思想とか言わないでね)
同時に戦勝人骨の分布ってのはランダムで、共通性というか法則性が見い出せない。
むしろ『隣接集落どうしの小競り合い』にとどまるというか、全面的な集落VS集落の戦いには発展していないんだよね。
それは中期集落が、戦傷人骨を有しながらもどこも衰退してはいないという事実から。
だから衰退ということを考えると、むしろ軍事的要素より、あなたの最終行にある交易(経済)による長期に渡る侵食と考えたほうがいいのでは?
68 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 23:32:49
武器の基本は、殺傷力と射程距離。
鉄製矢尻は矢野殺傷力を高める。
矢が当時もっとも射程距離が大きいのは周知の通り。
次は槍、一間槍が主流だった時代に信長が3間槍を採用したのは有名。
一間から三間に射程距離が伸びれば、それだけ有効になる。
長過ぎで振り回せなくて、役に立たないなんてことがない限りにおいてだが。
>>65 もっと有効で廉価なのが『投石」ね。
高地性集落で一番出土するのは、投石用の丸石をわざわざ下流から山間部まで運んで積み上げたもの。
息抜きに弥生人は肉弾戦「すまふ」で戦争したんだよとか言ってみる
>>67 前4・5世紀の中国春秋戦国時代の敗者や難民が大量に北部九州に渡来した様子がうかがえ、
これとともに戦争が始まったと考えられる。さらに、前3世紀以降、秦の中国統一、朝鮮半島への
侵攻により、渡来人の第2波があったと考えられる。
中橋、橋口らの研究によれば、前3〜2世紀頃の戦死・戦傷者は玄界灘に面した平野の中心部に
多かったが、前1世紀には平野の中心部で減り、平野の端や、平野間のの丘陵地帯などにその分
布が増えることがわかっている。
>>68 鉄製鏃が殺傷力を高めるというのは、もっと後世の製鉄技術が発達した時代の話だよ。
3世紀当時の鉄というのは、中原でさえ軟鉄が主で三国志演義にあるバッサバッサと切り捨てる青龍刀は存在しない。
また鏃として使い捨てるにはあまりにも高価すぎる。
後の時代を参考にすると見誤る原因になると思う。もともとの材質が違うんだ。
73 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 23:42:27
畿内説に話を戻すと、前方後円墳を製作し始めた時代は
同時に大軍を編成できた時代と考えて良いと思う。
大規模な墳墓を余り製作していない九州は、
農民による一般兵を大量に編成するという構成ではなく
個人兵の集合体である。
畿内では一般兵を大量に導入する。それが墳墓製作の
大量動員の技術となっていったのではないかと考える。
74 :
70:2010/09/05(日) 23:42:58
でも実際どうなんだろうね?
戦争って言ってもすぐ集団戦思いついちゃうんだけど、ひょっとしたら相互にルール設定した
未開部族なんかがやる限局戦争が行われてた可能性もあるような
実験では弥生後期の鉄製鏃より、黒曜石製のそれのほうが貫通力が高かった。これは
あくまで実験でしかないけど。あと、鉄鏃は回収しての再利用がきいたろう。
>>71 うん?橋口の著書によればそれは直接的な渡来人の移住ではなく
戦法の浸透や伝播と考えられるとあったはずだが。
橋口の推論が誤りだったにせよ、それはムラからクニへの進歩の結果だと見たほうがいいんじゃないかな?
77 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 23:48:04
>>73 そりゃちょっと早計でしょ
大規模墳墓ってのは価値を見出せない者には無価値だから造らないだけじゃないか?
後代になって畿内勢力の影響力が増してきたのか、それとも単なるムーブメントとして
地方勢力でも造りだしてきたのかはわからないけど
>>76 この時期、渡来人が流入した痕跡は多く残っているよ。ただ戦争と言っても殲滅戦のようなものでは
なく、相手を土地から追い出すくらいのものだったろうね。その後、北部九州の平野部ではある程度の
秩序が定まり、漢の影響を受けるようになっていく。
79 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 23:52:25
>>74 相互代表者10名を出し、先に殺し尽くした方を勝者とする!とかなw
クニ集落の防衛的要素の説明がつかないけど(これはひょっとすると
蝦夷や山人みたいな異族対策かもしれないな)
確か、一番鉄が溶けやすいのか、炭素量4%当たりだったような。
だから、銑鉄そのままでは、南部鉄瓶みたいにもろく硬い。
逆に加工が容易で、殺傷力も高かった骨鏃というのは、日本各地で出土しているね。
これには2種類あって、狩猟に使われたと見られるものは返しの部分が大きく、先端も太めに出来ている。
対して対人兵器と見られるものは、刺さった瞬間に肉体内部で先端が砕けて摘出が困難になるもの。
しかもそれは無数の細かい穴が開けられていて、糞尿などに漬けて刺さると感染症を引き起こさせる毒矢として機能する。
そっちのほうが卑劣ではあるけど武器としてははるかに有効なんだよな。
戦死者よりも、不具者や感染症患者を多数作り出す、生物兵器みたいなもの。
82 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 23:57:53
>>81 ああ、地雷と同じか。
即死してくれたほうが軍隊としては扱いが楽。
なまじ生きてると、助けるという作業が必要で
軍隊としては足かせになる。
>>79 各地の環濠集落が防御どころか防犯機能すら果たさなかったというのは
実際の発掘成果から判明しているしね。
逆茂木にしても、採用される時期がある遺跡があるというだけで
あの吉野ヶ里にしても逆茂木が使用された形跡があるのはほんの一時期(後期後半)だけ。
>>82 そうだね、これは別に日本だけでなく世界的に見てデフォな武器。
特に農閑期に兵士となるような兵農分離以前の時代には
労働力すら奪われ、嫌な言い方だが健常者の負担にすらなる。
吉野ヶ里の首なし遺体にしても、そういう卑劣な兵器の犠牲者を『始末』して手厚く葬ったという見方が強い。
www 未開部族の、他集落に行って首を刈って来る通過儀礼のようなものか? ww
えっとここまでの鉄器のまとめとして、その出土量の多寡は勢力の大小とは関わりないってことでいいのすか?
その理由としてこんなとこかな?
@おそらく当時の鉄器は戦闘ではさしたる役に立たない
A鋳直せる
B貴重品なら遺棄されるわけがない=必要無いから遺棄されている(クニが滅んだのかも?)
87 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 00:12:06
勢力の大小というより
北部九州以外で余り使った形跡がない。
つまり、北部九州がまとまった?あとは
対外的には大規模な戦をしていないということは
言えると思う。
北部九州内の戦いでは、大量に作られていたわけだから
その中では必要だったんだろうと判断したい。
戦闘では集団成員間での精神的な緊密度が高いほうが武器の種類にかかわらず強いだろう。これは
軍律のようなものを想定してもらっては困るが。
89 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 00:15:24
定期的に儀式的な戦争やってそれでクニとクニの関係が保たれていたのならそれはそれでアリかも
そこで卑弥呼やら鬼道やらの要素が意味を持ってくる展開になるのかもしれないのだが…
>>86 鉄器の多寡が『直接的な軍事力』に直接繋がるものではない、ということで行きましょう。
当時、武具としてはあまり役立たずだが、レアメタル的な威信的装飾具であり
農耕具や加工具という小片利用なら格段に優秀だった鉄器を多く有することが出来た
北部九州の各クニの経済力というのは、客観的に見ても畿内その他の地域をはるかに上回っていたと考えられる。
これが弥生後期の状況だというのは、ほぼ間違いない。
問題はそれだけの経済力を持った北部九州の各クニが、なぜ没落したかなんだよね。
それは半島情勢の変化や、寡占輸入が困難になったとかの経済的な要因だと思うんだけど。
これまでの議論は微妙にスレ違いなんだけど
罵倒しか書けないエセ九州説が乱入しなければ、建設的な意見交換というのは可能だという事を実感した
おそらくキチガイに辟易してROM専になってしまった殆どの古代史ファンにしても
本当はこういうやりとりをしたかったのだろうなと思うよ
戦国時代になると、毒矢は卑劣であってはならない武器として、忌み嫌われるんだな
これは相手の労働力ごと土地を奪うのが目的だから
労働力を削いでしまうバイオ兵器てのは邪道だったわけだが
89がいう定期の儀式的戦闘というのはありかもしれない
いわゆる戦士の命を懸けたギャンブルみたいなもの
これって古代ギリシャやローマでもあったよね
94 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 01:00:31
頭を殺って、農民をそのまま使役できれば
そのほうが楽だもんね。
支配者になるのが目的なら
頭を盗ればすむだろう。
自国であふれた農民(兵隊)を新天地で
入植させるつもりなら殲滅戦になるね。
>>94 考古学とは関係ないし、スレ違い承知で
記紀にいうヤマトタケルのゲリラ的且つテロ的征伐というのは
もっと時代が下った時期においても
勇ましい武力戦争よりも、そういうアタマを殺るやりかたのほうが有効だったことを示唆しているのかもしれないね
>>93 前提としてそういう共通認識(「限定的な戦」を取り巻くルール的なもの)が倭地全土に広まっていた必要があるけどね
>>96 それはないな。弥生後期ー古墳前期の負けた集落は焼け落ちたものも多いし(火事もあるだろうが)
移住していった様子もわかる。
ヤマトタケルは兵員を与えられていないとか(大倭媛に泣きついたり)
ゲリラ的な戦いが誇張されているように感じる。
当時正規軍があったかどうかは不明だが、
正規軍扱いはされていないということ。
もし、実際の大和朝廷の戦いが記されているのなら
大軍を遠方に運べないという事情が、顕れているのかも知れない。
多分畿内で大軍が動かせるのは、兵庫、大阪、奈良、滋賀、京都、
そして東海がせいぜいだった。これより遠方は軍事より、交易や
経済力の懐柔政策で落としていったのではないか。
同じく九州北部も福岡、佐賀、熊本止まりで
それより外は大軍は送りにくい。
陸軍の基本
兵站は距離の二乗で困難になる。
記紀神話の引用になるけど「誓約(うけい)」で勝ち負けを決めてたかもしれないよ
100 :
99:2010/09/06(月) 09:49:52
神話に依るのは適当じゃないかもしれないが、
スサノオアマテラスや出雲国譲りなんかのように、神託の下に各々代表者1人〜数名による
「戦」によって勝ち負けを決めるケースがあったとか
神託がどれほど絶対的な影響力を持っていたかも不透明だし、このルールに従わない
通じない相手もいたはずだとは思うけど、この時代に殲滅戦に近い戦が展開されたとは想像しにくいし
古墳前期なら、鏡を与えたりして手なずけることが多かっただろう。というか、
おそらく向こうからヤマト王権に貢納してくることのほうが多かった。四道将軍と
いったところで大規模戦闘の様子はないだろう。初期前方後円墳のある集落は
対立集落を持っている場合もけっこう見られる。
誓約も時々記述があるね。
個人的には、ある程度意思疎通が出来て
互いに全面戦争を回避したい場合には有効だろう。
しかし、後の蝦夷征伐のように、同じ人間と見なしていない場合には
この方法は使わないのではないか。
クマソなんかは誓約では済まないから、殺ったのかも知れない。
>>101 ケチつけるわけじゃないが貢納とかってのは少し語弊があるような
たぶん地方勢力にとっては、誼は通じても配下、服属って意識は無かったでしょう
言うなれば相互互助とかウィンウィン関係みたいな、あくまでも対等に近い
付き合いのつもりでいたんじゃないのかなあ
はっきりと関係が変わったのはもっと後代になってからだと思いたい
>>103 貢納というのは、米や特産品を持ってきて交易連合に参加させてくれ、
敵対勢力がいるから前方後円墳を造ってヤマト王権に参画したことを
見せ付けたい、とかそういう意図の行為のこと。これは古墳前期の北部
九州の状況を見ればはっきりわかる。小集団の首長が死んで代替わりする
と、その集落に前方後円墳は継続されず、別の対立集落にできたりする。
これは、地方の側からヤマト王権詣でをしていたということ。
古墳の様式にそこまでの影響力が読み取れるかなあ?
いまだ直接的な影響力を行使しえない時期であるならば、あれは先進舶来(畿内)の
ムーブメントなんだぜって側面のほうが強いような気がするんだけど
魏志倭人伝に言う邪馬台国はどう考えても九州
畿内説が無理矢理邪馬台国とヤマト王権繋げたがるのは発掘予算とかが付きやすいからでしょ
邪馬台国を中心とする九州勢力と巻向を中心とする畿内勢力が併存しててもなんら不都合はないはずなんだがな
266年から399年までの130年間にどういう流れで朝鮮半島に武力侵攻できるまでのヤマト王権が構成されたのかは歴史の謎であるが
こればっかりは文献がないし記紀もあくまで楽しい読み物でしかないんだから何とも言えない
>>105 古墳の様式、というのがどういう意味かわからないが、むろん統一的な宗教形態が全国的に
展開した、というわけではない。地元の習俗がそのまま残っていて、古墳の形式のみが伝播
したんだよ。だから、前に「ドンと来い」で出てきたように、血縁関係のない、とうてい首長とは
思えない高齢の女性二人が古墳の被葬者となっていた集落もある。
だから、前方後円墳というのは初期においては形式のみの伝播ということ。まあ、纏向詣でで、
大規模前方後円墳を見せられ、お前らにはこの1/3を造らせてあげるよ、とかそういった話では
ないかな。ww むろん対外的にはヤマト王権の成員となった集落と言うことで威圧はあったろう。
>>106 九州説は他のスレでやってくれ。ルールを守れ。
>>108 畿内説の根拠を説明しただけ
頭堅いなお前
>>107 微妙なニュアンスの違いなんだけど、
地方出の人たちは畿内で前方後円墳なんか見て、あ、いいな、これオラがクニさでも造りてえってところではw
日本人に限らず、こういう先進舶来のモノを真似して造りたがる人間心理はありますからねえ
そしてここからが重要なんだけど、結果的には古墳築造技術を指導導入させてもらうことによって
文化風土も畿内風になってゆき、それ以前の「緩やかな交易圏」が「畿内勢力圏」へと変貌していったのでは、と
111 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 11:04:58
信長以降の強い日本統一の感覚では当時は語れないかも知れないね。
鎌倉や室町幕府の時代でも、そして戦国時代は当然に、地方では結構勝手に
戦して、領地の取り合いをやっていた。
畿内王権で本当に力を持っていたのは、畿内周辺の勢力だろうし
地方有力勢力は、関係があって、友好的だとしても、たまに顔を出す程度だろう。
多分、地方で戦争が起こって、有力者が入れ替わっても、王権は認定することしかできない。
気に入らないからその勢力を中央が潰すなんて無理。奈良平安まではそんな状況。
平清盛や源頼朝までは、朝廷は実軍隊を持ってない。
一国の統一政府としては非常識きわまりないが、各国連絡事務組織ならあり得るはなし。
鎌倉では元寇で、統一団結して戦ったが、その後どうなったかは周知の事実。
畿内九州の関係も、互いに尊重して(しらんぷりして?)、勝手にやってたが
国の代表の名目が、あるきっかけで統一されていっただけのような気がする。
大和朝廷は、あるいは天皇は国連事務総長的な扱い?
時代によって、御輿になったり、実権を持ったりいろいろあると思うけど。
その説だと4世紀後半からの朝鮮半島での激戦が説明できないと思うんだが
白村江までの約300年間介入し続けたんだから
元九州勢力が一応の盟主である畿内勢力(ヤマト王権)とは別の思惑で介入したと言うことだろうか?
朝鮮半島での倭国の介入を見ると日本国としての強大な介入があったと思うんだけどね
>>110 まあ、地方に対して収穫量を計ってもれなく収税する、というシステムは相当後代になっても難し
かった。畿内勢力の影響を受けた集落が各地に点在し始めた、というならそのとおりだろうね。
ところで、「誓約」の話が出てきたけど、記紀には「盟神探湯」などもあるね。少し倭人伝に戻って、
これなんかどうだろう。
>その俗挙事行来に、云為する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。
その辞は令亀の法の如く、火タクを観て兆を占う。
114 :
110:2010/09/06(月) 11:16:55
ええと、つまり俺の見解では畿内ってのは各地に影響力を及ぼす図抜けた強盛大国であったというわけではなく
(相対的には強国の部類であったろうが)、むしろ先進文化の集積地であったと見るのね
地方が畿内詣でしてたってのならそれは留学とかによる先進文化の採取だと思うんだけど
>>111 そんな感じが妥当だと思うんだけどね
日本の誕生統一というのはごく自然に一緒になっていった感がある
すでに文化的に畿内風になっていた地方は、相当な国力を持ちながらも「なんとなく」日本の一部になっちゃったみたいなw
>>112 広開土王碑にある戦闘は情報量が少なくてなかなか解釈が難しい。
ただし広開土王の事跡を顕彰する意味で大げさに書かれている可能性は
あるだろう。案外、九州の複数のクニ合同での略奪行為のようなものかも
しれない。ただし、この後、倭が半島の情勢に連綿と階級していくのは確かだな。
116 :
115:2010/09/06(月) 11:22:43
階級→介入
117 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 11:22:50
>>112 自分は朝鮮半島の介入は九州勢力の判断だと思う。
最大の介入である白村江の戦いで壊滅したけどね。
記紀に記載されていることから、畿内も知ってはいたと思われるが
その後急速に律令や政治基盤を整え始める。
これは国力が残っていなければ出来ない。
また、自勢力の結果であれば、朝廷の威信を大幅に落とす結果にもなり
かなり割り引いて、書き換えておかしくないが、割と忠実に書いているようにみえる。
そして、倭は日本になる。
>>112 畿内と九州(あるいはさらに他の地方勢力も)それぞれの思惑がたまたま重なっての一大事業と見たらどうか
そしてこの長期に渡る一大事業とその果てのの敗戦がヤマト国家連合から日本へと成るきっかけとなったのでは
鎌倉幕府、室町幕府、秀吉による統一
どれを見ても最後まで武力衝突して統一してるんだが
3世紀末から4世紀初め頃の九州、出雲、吉備、畿内、東海勢力(仮定だが)が
そんなに物わかりのいい奴らばっかりだったのか?
内政で反目し合っていても外敵(と言っていいのかどうかわからないが)に
一致団結して事当たるのはしばしば良くありますからね
やっとヤマト国家連合に参画したばかりの九州勢力が半島の失地回復を願い、
畿内を始めとする国家連合もメリットありと判断すれば国家連合の一大事業として
挙行される可能性もあるんじゃないかなあ
121 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 11:33:10
畿内説専用スレなんぞいらねえー、
目障りだ。
>>115 広開土王碑と後の倭の五王に関する宋書とか見る限り日本が百済、新羅に利権持ってたのは確かみたいだけど
百済、新羅からの朝貢が倭国にあったとしてその相手は畿内勢力なのか九州勢力なのか微妙ですね
>>117、118
兵の主力が九州中心であるのは間違いないでしょうね
ただあれだけの大事業なので国家的な後方支援が欠かせないとは思いますが
案外九州勢力の勢力削減を狙って畿内を中心とする諸勢力の陰謀で朝鮮半島に介入したが何気に百済、新羅に勝ってしまいズルズルとみたいな
で九州勢が負担に耐えられなくなったのが磐井の乱みたいなオチだったのかも
123 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 11:34:14
>>119 出雲勢力は大国主で武力衝突してたような痕跡があるね。
その後いずれ九州と畿内で衝突しなければならないのに
それがなさそうなのが、常識的には変なんだよね。
だから。強い統一国家、政権を取ったら日本を握れる。
なんて状況がありそうな感じがしないんだ。
吉備と言えば吉備真備。
これは個人名なのか、吉備勢力の代表者という意味か。
>>119 始まりはお互いにとっての戦略的同盟的な連合じゃない?
そのまま100年200年友好的な関係が維持されて、最終的にはもう首長クラスの独立自意識は
ともかくとしてあえて戦争やってまでどうこうって情勢じゃなくなってたんでは
125 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 11:37:16
>>122 うーむ、平安時代の貴族の陰謀を思い起こさせる腹黒さだ。
126 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 11:39:12
邪馬台国九州説をぶちまける人って
左翼の九州説、右翼の東遷説で、
どちらも思想的に極端な人。
やはり限りなく首長共和制のような体制だと思うんだけどな
128 :
115:2010/09/06(月) 11:40:40
白村江は九州勢力のみが行ったこと、とするのは難しいだろう。北部九州から
瀬戸内海沿岸にかけて多数の山城や連絡施設が築かれている。近江京遷都に
ついても、この戦いが背景にあるのではという説が有力だ。
>>122 磐井の乱はそんな感じなんだと思うよ。
遠征主体は九州勢力、勝てば半島権益、負けても九州勢力を削げる
う〜むなかなか素敵すぎる策略だw
記紀や風土記にもしばしば見えるヤマト王権お得意の謀略にも通じるものがあるな
130 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/06(月) 11:46:09
>>55 >弥生後期になってから、流通に方向が見え始めます。
北陸東海から畿内への流れです。
書紀で云えば、崇神7年大彦の派遣だ。
崇神は弥生後期後半の人間。
築いた箸墓は、箸陵では無い。
歴史の整合性は
崇神5,6年=新羅192,3年の記事と同等である。
>>56 >九州、特に北部九州と言われる福岡佐賀熊本は
激しく戦っていた可能性は高いですね。
景行による九州遠征の後半を飾る。
壹與直前の“男王”の時代である。
>>60 >とたんに鉄製武器の出土がなくなるということです。
畿内には崇神末から“鉄”が任那より供給される。
131 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 11:57:53
万葉集で太宰府のことを「遠の朝廷」なんていってますからね。
その当時、なんとしてでも大和朝廷がナンバーワン、という意識は低かったのでしょう。
太宰府が朝廷だったという説もありますが、そうではないとしても
朝廷と冗談言っても良いくらいの勢力ではあったのでしょう。
それが問題であれば万葉集が編纂されるときに、書き直されていると思うのです。
また、水城は明らかに太宰府の防御施設で、水城跡のさらに地下から
さらに古い施設跡が発掘されています。結構複雑な人工洪水施設(言い過ぎか?)
なのですが、記紀では単純な掘としてしか認識していません。
九州勢力の壊滅後、代理で来た大和朝廷関係者では分から無かったのでしょう。
132 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/06(月) 12:03:24
>>73 >畿内説に話を戻すと、前方後円墳を製作し始めた時代は
同時に大軍を編成できた時代と考えて良いと思う。
箸墓の築造は、261年景行崩御と重なる。
>>88 >戦闘では集団成員間での精神的な緊密度が高いほうが武器の種類にかかわらず強いだろう。
これは 軍律のようなものを想定してもらっては困るが。
黄旛を下賜するとは、軍隊の存在を意味する。
軍隊があれば、軍律は存在する。
>89がいう定期の儀式的戦闘というのはありかもしれない
この戦闘では、千人を超える死者を出す戦闘に当てはめられない。
>>95 日本武尊の熊襲は、再犯であるから 殺される。
関東に於いては、刃向かわない限り従属させる。
当然従属を拒否する原住民が大半な訳だが、その連中は、屯倉を置きそこに配置された連中の
仕事であり、書紀に登場しない。
133 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 12:08:01
>>127 それって、要するに戦後左翼の人の考え方でしょう?
だいたい、日本の古代において、首長共和制ってなにw?
ところで、畿内説においては3世紀において、首長による広域の面の支配はなく、
また、長距離遠征による戦闘は不能だった、というのが大体の共通理解だと思うけど、
中国では三国はおろか、春秋戦国時代にはこれらのことはだいたい行われていたんだ
よな。だから、社会の発達段階としては1000年レベルで違うわけだが、このあたりが
九州説の諸氏が混乱している一つの原因だと思うんだな。
古代史にまで近代以降の思想で介入してくるのは止めて欲しいな
朝鮮半島への進出についても韓国の民族主義か何か知らないけどメチャクチャな解釈してる日本の?考古学者までいるし
挙げ句の果てには韓国人が朝鮮国家だと主張する高句麗の広開土王碑まで都合の悪い部分は認めない始末
広開土王碑と中国文献に当たれば百済、新羅が日本の勢力下にあったことは明らかだろうに
空白の4世紀に関する出土品とかが出てくればいいんだけどねぇ
ヤマト王権と呼ばれる中央集権的なのか連合的性格なのかは分からないがそういう形ができあがった背景が全く分からない現状では
136 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/06(月) 12:18:06
>>98 >当時正規軍があったかどうかは不明だが、正規軍扱いはされていないということ。
日本武尊は軍の編成はしなかったが、景行が九州で使った軍が、尾張、伊勢に残存していた。
伊勢の軍とは、大彦の子武淳川が垂仁時代に倭姫と共に入植している。
>>101 >四道将軍と いったところで大規模戦闘の様子はないだろう。
四道将軍は畿内大王が大物主から崇神に代わったことの、周知徹底の為に派遣される。
この直後に崇神は、ハツクニシラスと呼ばれる。
>>134 そんな状態からある程度の統一国家の体裁をなして百済や新羅を勢力下において高句麗と戦争とか
ある意味明治維新からの日本の歴史よりダイナミックだな古代はw
しかし、卑弥呼朝貢から広開土王碑の遠征まで150年、
雄略天皇の日本府軍まで200年以上。
これはどんなことが起こっても不思議ではないと思うがね。
社会段階の進展に加速度がついた。
本当の意味での統一国家というのはやはり天智天武まで成立には至らないのでは
でも後の蝦夷征討でもそうだけど、寄り合い所帯・国家連合的な時代から倭国の意思として
かなり半島に志向するものがあったのは間違いないと思いますね
140 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 13:34:51
俺は日本が半島に固執し続けたのはあそこが日本そのもの(倭人交易圏の一部)だったからこそだと思ってるけど
141 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 13:44:38
任那日本府ですね。
国境線の間隔が今と違って当然なんで、
九州勢力としては、「自国領」だったのでしょう。
鉄入手ルートの兼ね合いかなとも考えましたが
白村江の頃は国内でも製鉄は始まっているので
鉄入手ルートの奪い合いという線は少なそうです。
やはり九州北部−半島航路の確保だったのでしょうか。
白村江壊滅後、遣隋使遣唐使の航海は非常に困難なものになります。
半島補給所の喪失は、大陸への航路を難しくしたとも考えられます。
半島の倭人といわれた存在は、おそらく北部九州とほぼ共通の言語だったと
思う。このために韓地域にいながら韓と区別されたのではないかな。
楽浪郡とか帯方郡があった頃からの中国ルート確保という面からも
朝鮮半島南部地域は確保しておきたかったんだろうな
後に遣唐使が南シナ海ルート開拓するようになってから朝鮮半島に全く関心を失ったのもそれを裏付ける気がする
144 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/06(月) 14:34:02
>任那日本府ですね。 九州勢力としては、「自国領」だったのでしょう。
ミマ那とは、ミマキの邦という意味だ。
建国は 209年 新羅 伽耶に援軍、で説明出来る。
145 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 14:37:36
前からすごい疑問なんだけど、
なんで、おまえら、難しく考えるのよ?
箸墓古墳が卑弥呼の墓ならば、
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命で
魏志倭人伝と崇神紀を照らしあわせて、考えればよいじゃん。
なんで、そういう当たり前のことせず、わざわざ
遠回りして解釈するんだ??
146 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/06(月) 14:41:50
新羅 173年 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神 ツノガアラシトの来邦
開化天皇 184年〜187年 3章 1年の異常?
崇神天皇 188年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。6年秋大物主の国譲り 近江伊勢遺跡の衰退。古墳、庄内式の始まり。
209年 新羅本紀に伽耶の登場=任那建国
垂仁天皇 217年〜239年 4章 景初3年。纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵。鐙の登場。遠国をまとめる為屯倉導入
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は女王国(九州)の北部に(自ら)一大率を使い監督する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
成務天皇 262年〜265年 3章
仲哀天皇 266年〜274年 0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜 ここより盟神探湯による世継ぎの部分。磐余桜宮は、桜井茶臼山
メスリ山の時代、佐紀楯列までの70年間。
>箸墓古墳が卑弥呼の墓
土器編年、C14などが出ても年代決定の材料が足りないと思ってる人が多いのでは
ないかな。仮定を元に話を進めても、「仮定こけたら皆こけた」になってしまう。だから
畿内説は年輪年代の採用にも慎重。それに畿内説の目的の一つはヤマト王権発生の
状況を明らかにすることで、それには卑弥呼の墳墓が、ホケノ山であろうが箸中山で
あろうが、西殿塚であろうがあまり変わりはない。
148 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 14:54:30
>>144 >ミマ那とは、ミマキの邦という意味だ。
ミマキは半島の一地名でしょうか?
それともどこかにミマキ国があって、その一部という意味でしょうか?
横からだけど「ミマキイリヒコイニエ=崇神天皇」のことを言ってるんじゃない?
ホツマ関係はわからんけど。
なるほど、崇神の国という意味ですか。
ん、イリも西の意か?
152 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/06(月) 16:19:57
イリの意味、
他人が入り込んだ、となる。
だから崇神の母は、庶母と表記されて居る。
ところで私事で恐縮ですが皆さんは鳥取県の妻木晩田遺跡についてどう思われますか?
出雲じゃなくてあえて雲伯勢力と呼びたいんだけど、魏志倭人伝の傍国に比定しうる「クニ」なのかなあ
親父さんの故郷にも近いのでちょっと思い入れがあるんだよね
そしてああいう場所であの規模のもんが見つかるってことは、まだまだ地方にも面白そうなもんがありそうですよね
154 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 18:08:34
そうとう大規模な遺跡だと聞いてはいますが、
自分は余り知識がないので、知識をお持ちであれば
重要なところ、ポイントなどを説明いただければ
理解しやすくてありがたいです。
出雲勢力ではなくて雲伯勢力と考えられているというのは
おそらく土地勘があり、地勢的な勢力分布がイメージできているのでは
無いかと思います。
そういう点も説明いただければありがたいですね。
大まかでざっくりとした推論だが
弥生中期の交易ルートというのは、まず日本海沿岸を結ぶ形で発展していったと考えられている。
次に吉備や伊予などを介する瀬戸内ルートが、西瀬戸内と東瀬戸内を繋ぐ形で発展し
弥生後期後半からは、日向と畿内が、南四国の小集落の介在によって太平洋ルートが出来る。
この3つが西日本の交易及び物流の主ルートだと考えられている。
中期から後期前半までは、いわばバケツリレーのように物流が動いていたと見られるが
後期後半から終末期には、中継地をすっ飛ばして直接遠隔地どうしが交易を行い始めた形跡がある。
古墳時代に入ると、この傾向はさらに加速する。
東海や関東、また上越や東北などはこれらとは少し異なる交易ルートの発展を遂げていると見られる。
よくわからないけど、日本海ルートが初めにあったのは間違いないだろう。
妻木晩田遺跡の玉造というのは特産の交易品で、壱岐でさばいて鉄を受け取って
いたという感じかな。いずれ日本海側は越まで貴石製品による交易があったのだと思う。
瀬戸内のルートはあえて封鎖のような状況にあったのかもしれないが、山陰ー吉備の
関係もあって利用されるようになった。四国側のルートは156のいうような感じだと思うが、
大分から南四国のルートもあったんじゃないかな。
>>157 大分というか豊後は、海を挟んだ伊予や周防などとの関連が深いね。
豊後は豊前や筑前、筑後、肥前よりも、海向かいの地域との共通項が多い。
古墳時代に入るまでは、肥後や日向ともあまり交流が無かったようだし。
畿内説ってなんというか不毛な議論だよね
魏志倭人伝に言う邪馬台国というのは記述を見る限り九州であろう事はほぼ間違いない
で邪馬台国が九州だからといって出雲、吉備、畿内、東海などの勢力の存在価値が低下するわけでもないんだが
なぜか邪馬台国に結びつけたがる
古代史研究の本命は邪馬台国の位置ではなく初期ヤマト政権(350年くらいに成立?)の成立過程とその政体がどういう物だったか
これがはっきりしないとその後の朝鮮半島への進出と約300年の戦いの理由がわからないまま
魏志倭人伝から広開土王碑や宋書などまで130年時代がワープするんだから邪馬台国にこだわるのは正確な古代日本像を求める上で
阻害要因になりかねない部分が大きいと思うが
160 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 19:15:53
出雲の土地勘がないので地図を開いてみました。
出雲大社が宍道湖の沖積地帯なのに対して
妻木晩田遺跡は米子の砂州(弓ヶ浜?)の根本に位置する場所にありますね。
知らない人間から見れば、出雲を一つの勢力として見がちですが、
出雲の半島からみて、出雲大社と妻木晩田遺跡が互いに両端に存在するのは、
それぞれに別の勢力があってもおかしくないことを示しているのではないかと思います。
この勢力がどのように動いていたのか、遺跡出土物などが頭に入っていれば、
また、いろいろと見えてくるでしょう。
自分もいろいろと探してみたいと思います。
本スレでもよく言われているように
もはや九州VS畿内なんて単純な構図じゃないんだよな
列島各地に有力なクニが存在し、それらがパラレルに交流していた
地域ごとに経済ブロックがいくつも存在し、相互に干渉しあっている
纏向にしても、そのいくつもある交流ルートのひとつが画策して造成されたものかもしれないし
東海が西日本との交易強化を狙って積極参加したとも見られる
>>161 マスコミの頭が古いままなんだよね
九州で発掘されたら「邪馬台国か!」、関西で発掘されたら「こっちが邪馬台国の本命!」とか未だにやってるし
あんな報道では3世紀の日本には九州と畿内にしか有力な勢力がなかったかのような錯覚に陥ってる一般市民多いでしょうね
質が悪いのが仕方がないとはいえ発掘費用の捻出のためにその愚かな邪馬台国論争に乗っかる考古学者が未だに絶えない
いい加減邪馬台国と初期ヤマト政権は切り離して議論すべき時代だと思うんだが
いや、さすがに文化部の論説委員とかは学会の状況把握はしてるんじゃないかな。
ただ、一般の新聞読者の興味を考えると、ってことじゃないかと思う。
いずれにしてもm邪馬台国の言辞を出しても反応はブームの頃とは違うだろうね。
>>160 その地図に青谷上寺地遺跡(鳥取県青谷町青谷)や
島根県も含めて
荒神谷遺跡」(島根県簸川郡斐川町神庭西谷)
加茂岩倉遺跡(島根県雲南市加茂町岩倉)
などの中期遺構を時系列ごとに色を変えて点を打ってみると、いろいろ面白いよ。
更には山口県の土井ヶ浜遺跡(山口県下関市豊北町)のように前中期に栄えた集落なども加えると
山陰が常に東を目指して発展していく様が見て取れる。
>>162 >発掘費用の捻出のためにその愚かな邪馬台国論争に乗っかる考古学者が未だに絶えない
これは許してやりなよ。
吉野ヶ里にしても佐賀県が膨大な赤字覚悟で保存したのは、学者やマスコミが宣伝したおかげだし。
そういう煽りをやらんと、誰も大損覚悟の発掘なんて予算出さないよ。
166 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 19:52:56
>>164 >山陰が常に東を目指して発展していく様が見て取れる。
なるほど。こういう情報は出雲を専門にやっている人なら分かるのかも知れませんが、
よそ者は余り知らないことですね。
様々な場所の要所を全部把握できるほど賢くありませんので
このように、ある程度骨子をまとめて解説していただけると、概念としてよく理解できます。
>>165 難しいところだけど嘘が定説になり、考古学者でさえもはや今更後に引けないような状況を作り出してしまう弊害はかなりデカイよね
国が馬鹿みたいな金使わずにこういう事業に金出すべきなんだろうけどさ
遺跡の発掘なんて何の役にも立たないみたいな風潮あるよね
国としてその起源や成立過程を明らかにするっていうのは重要なことだと思うんだけどね
まぁ日本の場合宮内庁というあまり古代史を明らかにして欲しくない主体がいるのも不運だよな
>>159 これはどうかなあ?
九州説の否定をするわけではないが、その根拠が魏志倭人伝の記述というのは説得力が無い。
貴方は各地にあった交易ブロックや交流ルートを肯定しているわけでしょ。
九州のどこに想定したにせよ、邪馬台国と30ヶ国は相当小さな範囲のものとするか
それとも本州の一部も入れて面ではない点と線のゆるやかな九州本拠地連合とせざるを得ない。
ならば倭人伝の倭国の姿に関する記述は、大幅に間違っていると解釈せざるを得ない。
こうなると行程・里数・戸数などのほとんどの数字が吹っ飛んでしまう。
いまや九州説にしても倭人伝の記述を根拠とする論者は、それこそ異端扱いになったのは
貴方が認めるように各地に多数あった交易ルートとブロックの存在が確認されたからなんだと思うが。
169 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 20:00:37
人任せで情けなくてあきれられるかも知れませんが
吉備岡山とか、四国の状況詳しい人いませんか?
また、ここは重要かも、という場所があれば
教えていただければ幸いです。
骨子だけでも頭に入れておくとまた違うと思うのです。
宮内庁なんて大した事ねえよ。「庁」だぞ「庁」。
>>167 うーん、あまり陰謀論に傾かないほうがいいと思うよ。
もし明日にでも東海地方に終末期の纏向を凌ぐ遺跡が確認されたら
考古学者なんて簡単に畿内説を捨てるから。
宮内庁は明らかにして欲しくないというより、前例を作る当事者になりたくないという後ろ向きな役人根性と言った方がいいかも。
なんだか考古学者もアテになんねえなw
まあ、考古学は遺跡・遺物次第で簡単にひっくり返る学問だから。佐原真だったかな
「明日をも知れぬ身」とか書いてたのは。
>>168 邪馬台国というのがあったとしてそれは魏志倭人伝の中の存在だと思うんですよ
当時邪馬台国と呼ばれる国があったと
でも同じように20カ国くらいを支配して進んだ政体を持ってる勢力が他にあってもいい訳で
魏志に言う邪馬台国だけが当時の日本で一歩進んだ存在と思うからその場所に躍起になるけどさ
九州勢力の勢力範囲は関門海峡や豊後水道の確保の必要性から山口県西部、愛媛県の一部まで含んでたとは思います
ただ巻向が年輪法やC14によって100年時代を遡ったのはどーかなぁと思う
結論ありきというか
法隆寺とかの建築年代もずれてしまって文献との整合性がメチャクチャになってしまった訳で
>>172 ゴッドハンドみたいな奴が肩で風切ってた世界だからね
回りの考古学者も当時から「あれ嘘だろw」って思ってたけど口に出せない状況だったらしいし
>>174 で、その九州邪馬台国はその後どうなったの?
179 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 20:29:20
>>175 ありがとうございます。
瀬戸内海文化圏の中でも、いろいろと個性がある勢力が
しのぎを削っていたのでしょうか。
でも、交易という前提条件はなくせないわけで
戦にさせずに交易の利を確保する。
いろいろと複雑な関係が錯綜しそうです。
勉強させていただきます。
>>174 そこが難しいところなんだけど、九州に大きなまとまった勢力があったとは考えにくいのよ。
むしろ中小であってもそれぞれが裕福で、本州のように巨大交易網化せずとも
近隣と半島、それプラス一部の九州島以外で十分豊かだったようだから。
で、もう熟知されているように、征服や支配といった軍事力はどこも有していない。
関門海峡や豊後水道ってのは、上でも書いたけど九州では豊後や日向などが参加する
筑前や筑後とは別の交流圏だったわけで、これが大同小異ながら結託したとも考えにくい。
あと纏向や箸中山の時代が繰り上がったのは、九州の土器編年との整合性からで
これに関しては九州の考古学者が唱えていた年代観のほうが正しかったということ。
法隆寺などは、もともと法隆寺縁起の記述が曖昧で、再建が確実なのにそれを書いていないなんかがあって
要するに文献の不備を考古事実によって埋めたというものだから、あんまり敵視しないでおくれよ。
>>160 出雲=出雲大社とする見方には現在結構疑義が持たれてるみたいよ
遺跡群的にも神話域的にも出雲大社は西の外れだからね
そこに鳥取の諸遺跡があるもんだから出雲とは出雲-伯耆だと言う人もいるみたい
そう。土器編年は畿内が遡らないのなら、九州もズレていってしまう。
もし九州に邪馬台国があったとして、交易連合だったとしたら、その
中心は北部九州しか考えられないと思うけど、その痕跡がないんだな。
でなければ、本当に山奥の小国で、すぐに歴史から消えたとかだと思う。
「神の汚れた手」は不幸な事件で、在野の方という言葉を使っては
いけないだろうね。考古学界には大きな反省点。
184 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 20:41:51
>>168 自分は北部九州連合は、もし邪馬台国があるとすれば、
福岡、佐賀、熊本の範囲に収まると考えています。
後に畿内と比較的穏便に融合するところから見ても
強い集権国家としてのまとまりはないでしょう。
それが、共立という表現がされた原因ではないでしょうか。
また、交易連合としての繋がりはあるとしても、
九州が独自に朝鮮半島に攻め込むくらいの独立性は確保しており、
畿内や九州がどちらかを支配するという関係ではありません。
その独立した九州エリアをひとつの国家群と見なしたのではないかと思います。
それを強く言ってしまうと、畿内説が消滅してしまうので
苦しいところですが。
日本各地に相当クラスの「クニ」があったとして…
真相はすべて深い土の中かorz
日本の主な平地はそのほとんどが市街地か耕作地だもんなあ
>>184 九州が集権国家としての態を成していなかったと仮定すれば、後に九州丸ごと畿内と
融合したというよりは、国々がバラバラに畿内に一本釣りされてったという考え方もありえますね
>>184 いや消滅なんかしないから大丈夫w
貴方のいうのが、現代の九州説のひとつだし
その3県を面的支配していたものではないというのも、畿内説と共通する認識。
だから北部九州交易連合(これをツクシ交易連合という)が、独自に朝貢したという考え方はあり。
これは九州王朝説とは全く違うもの。
問題は、そのツクシ交易連合の参加メンバーを特定できないというか
共通となるレガリアなんかが見当たらないってことなんだよね。
何か物的証拠となるものが今後見つかれば、俄然有利になる説だと思う。
>>186 九州における初期前方後円墳の分布を考えたら、その可能性が高いと思うよ。
早くから連合に参加したクニと、あくまでも参画を嫌ったクニがあったと。
>>180 自分でも混乱してる部分があるのは承知の上なんだけど
軍事力で他勢力を征服するほどの力はなかったことから緩やかな連合説系の考え方が出てきてると思うんだけど
4世紀後半の朝鮮半島進出は明らかに巨大な国家による一大事業だと思うんですよね
この時代高句麗の伸張に中国の混乱があり日本に大きな影響を与えたのは疑いないとは思うんだけど
緩やかな連合から渡海して当時の一大勢力であった高句麗とガチで対立するまでのある程度の統一国家的な姿への課程が不透明なのがなんとも
朝鮮半島への進出にこだわりすぎかな?
でもその後白村江まで300年間朝鮮半島に固執した執念深さは異常だと思うんだよね
外征というのは高句麗や新羅と紛争起こし続けてた以上大きな財政負担を伴うわけでその結果が磐井の乱だと思っているので
191 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 20:58:00
>>186 ありえますね。
最古のやつは那珂八幡古墳だったかな。福岡の前方後円墳としては。
もっとも、畿内も強い集権国家ではなくて、交流の結果ではないかと考えています。
強い集権国家で、がっちり縛りを掛けていればそういうことは出来ないでしょうし、
支配されてしまえば、それ以降大量の前方後円墳になるはずですが、
そうもなっていません。氏族レベルで変わることはあったでしょうけど
全体として統一されているようには見えません。
おもしろいね
邪馬台国が北九州であっても南九州であっても、また畿内であっても
倭人伝の旅程記事はもとより、肝心の倭国像とも矛盾するわけだ
倭人伝を銅解釈するかという時代では、どうやらもうないんだな
・交易連合の存在
・畿内は必ずしも絶対優位の存在ではなかった
・にもかかわらず畿内を中心とするかのように発展していった
2〜3世紀という時代に、日本地勢、世界情勢を把握し戦略眼的に行動できる何者か(複数可)がいたのか…
九州勢力が半島にも利権を持っていたけど帯方郡の消滅と西晋の大混乱、高句麗の伸張の中で
単独では対処できないようになり広域連合に加盟した(泣きついた)みたいな考え方も有りかな?
今思いついたんだけど
朝鮮半島経由の中国ルートは九州勢力以外の広域連合にとっても喉から手が出るほど欲しいわけで
今まで九州勢力が独占してた大陸利権の再配分の側面もあったとか
>>191 だよね、これは妄想なのかもしれないけど
畿内の交易連合にしても、九州の一部のクニが参加してくれるってのは大歓迎だったろうし
むしろ三顧の礼をもって、先進且つ老舗地域を迎えたのかもしれない。
当然長い付き合いを望むだろうから、あちこちから婚姻関係を結ぼうとしただろうし
そうすれば九州から嫁を貰ったとか、入り婿を迎えたってのも一種のブランドになる。
こういう血族の繋がりが神武伝説の元に発展したのかもしれないし
記紀の欠史八代にしても、ことさら九州出身を名乗る藤原氏の記述とか
古参氏族の出自をなんとかそのあたりに求めようとしているとかも、東征や東遷を想定せずとも説明できる。
>>190 この4世紀後半ってのは、古墳時代開始(つまり邪馬台国の時代)と並ぶ
第2の変革期と言ってもいいんだよね。
この頃に纏向などの弥生終末期から続いた交易ハブ集落なんかが、全国的に放棄されて
大和や河内などに、競うように同時に巨大前方後円墳が乱立する。
副葬品からも鏡や玉が消え、鉄剣や鎧などの武具が主となる。
緩やかな連合から脱皮して、征韓論者や国内拡充論者がしのぎを削る時代に移った気がしてならないんだよね。
それだけの財力や軍事力を100年の間に少しずつ溜め込んでいったのかも。
宋書倭国伝の倭の五王なんかはいわゆる九州勢力かもしれんね
どうも半島の故地にこだわった称号を欲したりしてるし
畿内説の根拠?
それはひとつですよ。
エラい先生たちがそう言っているからです。
ほかには何もありません。
>>198 九州王朝説なんかにハマらずとも、その可能性は考えてもいいとは思うんだよね。
記紀の皇位継承にしても、仁徳のあとで、初めて親子間継承でなく兄弟間継承が唐突に出現する。
これは宋書や梁書を元ネタにして、継承者を当てはめた可能性がある。
ただ個人的には、何度も称号を断られたという点からも
最前線にいる九州の各クニのオウが欲したのではなく、畿内で勢力争いをしていたオウたちが
オオキミの認定を受けようと必死で画策していたというのを考えてるんだけど。
だから、お前は現場の指揮官でも倭国のオオキミでもないじゃんってことで、格下げ認定しかもらえなかったと。
>>186 まったくもって同意ですね
長崎も領域に入っていたのではないでしょうか
ただ同時期に畿内にあった連合国家は
九州のそれ(邪馬台連合)よりも大きく、かつ文化的であったように思えます
邪馬台国は文化的程度の低い、戦争に明け暮れていた軍事国家だったのでしょう
>>196 いま「宋史日本伝」読んでたら、遣宋使僧が北宋皇帝に献じた「王年代記」なる書に
天御中主以来ウガヤフキアエズまで二十三世(スサノオやアマテラス含む)、筑紫の
日向宮に都したなんて書いてあるわw
日向宮に都した…はいいけど、これって神武入り婿?まで天皇家のルーツは逼塞してたってことだよなあ
203 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 22:12:18
■若狭最古級の前方後円墳か 九花峰古墳の研究報告へ
朝日新聞 2010年9月6日
http://mytown.asahi.com/areanews/fukui/OSK201009050089.html 古代朝廷に海産物を貢進した御食国(みけつくに)としての歴史を生かしたまちづくりを考えるフォーラムが8日、小浜市の県立大学小浜キャンパスで開かれる。
花園大考古学研究室の高橋克寿教授が、同市遠敷の九花峰(きゅうかほう)古墳が若狭地方で最古級の前方後円墳の可能性が高いとする、最新の研究成果を報告する。
御食国の草創期の首長に連なる重要な古墳と位置づけられるという。
九花峰古墳は標高130メートルの山頂にあり、全長約45メートル。同研究室が8月中〜下旬に測量調査し、前方部の形から、造営の時期が小浜市史が記述している5世紀後半よりさかのぼることが判明した。
5世紀初めとされる国指定史跡の上ノ塚(じょうのづか)古墳(若狭町脇袋)よりも古いとみて、データの精査を進めている。
フォーラムは小浜市教委と若狭町の共催。高橋教授は今回の演題を「御食国の幕開け―若狭町・小浜市の特徴的な古墳群と製塩」とした。
九花峰古墳は、約2キロ北側にある丸山城址(じょうし)古墳(全長約30メートル、5世紀末ごろ)とともに海を見下ろす山頂にあるのが特徴で、大陸との交易や対外交渉を担った首長の権勢を来航者に示す狙いがあったと推定される。
小浜市から若狭町にかけての地域に王墓級の古墳が群集しており、こうした勢力が御食国の歴史を開いたとする。
午後7時半開会、無料。古墳や製塩遺跡の保存と活用を住民と探るワークショップもある。(土岐直彦)
若狭地方で最古級の前方後円墳の可能性が出てきた「九花峰古墳」後円部=小浜市遠敷、花園大考古学研究室提供
http://www.asahi.com/areanews/images/OSK201009050086.jpg
>>192 ああ、それは違うね。
倭人伝をどう解釈するか、ではなくて
どのようにして、出雲、伊勢への言及を学会が取り上げるか、だよ。
江戸時代から戦前、そして現在まで連綿と続いているタブーを
壊さなければ邪馬台国の論争、研究はいつまでたっても茶番だからね。
205 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 23:37:27
皆さんの議論を見ているとなにかしら気持ち悪いものを感じます。
どうも「畿内説の根拠というのはあやふやなものである」ようですね。
だから、「倭人伝は出鱈目だ」とか「邪馬台国なんかどうでもいい」と言えるのですね。
経済的結びつきを強める中で緩やかな連合政権に発展した
朝鮮半島への出兵は朝鮮半島とそれ経由の中国ルートの確保のために連合政権により決断された
あり得そうな気もするがこの時代の経済規模を把握できるような資料ってありますか?
>>205 >倭人伝は出鱈目
誰もそんなことは言ってないんじゃないかな?
あくまで魏志倭人伝の中での邪馬台国は存在したんでしょ
>邪馬台国なんかどうでもいい
もう議論は出尽くしてその後のヤマト政権の成立過程に重点が置かれ始めてるから
もはや「親魏倭王」の金印でも発掘されないことには邪馬台国の比定は不可能でしょ
>>174 >ただ巻向が年輪法やC14によって100年時代を遡ったのはどーかなぁと思う
暫く静観のつもりだったが取りあえずここには突っ込ませてもらうwwwwwww
>>180も言及している事だがそもそも「弥生後期の始まり」と言っても
昔は九州と近畿じゃあ100年以上の差があった。
今から見れば随分とおかしな話だがw
だから現在の年代観は結果から見れば九州の考古学に近畿の考古学が追いついた格好になっているw
(個人的にはひょっとしたら庄内の開始時期とか今後も九州の考古学に引っ張られてやや早まる可能性もあるんじゃないかと見ているw)
まあ年代の見直しの切欠は後期の考古資料が増えてきて
とてもじゃないが従来の年代幅じゃあ納まらなくなってきたとか
70〜80年代の景気の良かった頃の開発ブームで九州以東からも貨泉がまとまって出たりとか
その他色々あったんだが…
その年代観の見直しを妨げたのが他ならぬサイキバどものゴミクズ九州説が叩いている
京大ブランドの威光だったとw
まあ都出(京大)あたりがやや修正を入れたりもしたが
結局、年輪年代を切欠にしないと大幅な年代観の修正に踏み出せなかったと…言うのが経緯
あくまでも年輪年代は切欠に過ぎなかった。
むしろ年代観の変更はその登場を待つまでもなくされるべきだったもの。
ゴミクズ九州説も叩くならそこを叩くべきw
ここのゴミクズ九州説は畿内説を否定するために
畿内説の学者によって組み立てられた年代観を用いていると言う馬鹿丸出しの自爆芸をやっていると言う話wwwwwwww
>>208 畿内の土器編年を新しくすれば、九州の土器編年が破綻すると
何度も縄文人に言ったんだが、ついぞ理解を得られなかったな。ww
211 :
205:2010/09/07(火) 00:06:24
>>207 倭人伝の記述からは邪馬台国を畿内に比定することは無理ですね。方角の問題と距離の問題です。方角は
南を東に読替えないとなりませんし、距離に関しては、郡から万二千餘里のうち一大国(壱岐)までで9千
餘里ですから、残りはその1/3の3千里しかありません。とても畿内には届きません。
それでも畿内だと言うのであれば、倭人伝は出鱈目だと言っているのと同じことになりませんか?
>>207 えっと老婆心ながら・・・
日本史板にはカルト九州説というのがずっと粘着していてね
これの正体は、こんなのなんだ。
・安本美典の著書やそのホームサイトである「邪馬台国の会」の記述を鵜呑みにして、東遷説を強弁する
彼らは考古学者が意図的に情報を隠蔽してる、それはサヨク史観による陰謀である
・古田武彦の著書などを鵜呑みにした、九州王朝説
彼らも考古学者が意図的に情報を隠蔽してるというが、それは畿内至上主義の皇国史観によるものと考えている
・我こそが魏志倭人伝の解読に成功した。それまでの解釈はすべて間違いで、 なのに誰も私を認めない。
これは巨大な陰謀が私を抹殺しようとしているのだ。
こういうのにずっと悩まされてきたんだわ。
彼らにとって倭人伝は疑ってはいけない聖書で、学会はすべて陰謀に彩られているというもの。
ここで意見を述べる九州説各氏も、彼らにとっては畿内説と区別がつかないんだ。
それは決定的に知識が足りないせいでもあるが、本質的には歴史が好きなのではなく
何らかのイデオロギーを満足させる道具でしかない。
彼らは確たる意見も出さず(出せない)、単レスで罵倒することしかできないから
釣られずにこのまま冷静な議論を心がけて、お互いを高めあおう。
というか文献史学界の結論が、倭人伝では邪馬台国の位置否定は
ムリということだと思うね。だから新しく論文を書く人もいない。考古学が
どうとかいう問題でもないと思うけどね。ま、アマチュアが楽しみでやる
分には何の問題もないんで、どうぞあなたの心の邪馬台国を見つけて
ください、という感じ。
>>209 サンクス
前期古墳時代から一気に鉄器類の出土が畿内中心になるのね
やはりこの時期に流通構造というか連合体の勢力関係が変化したのを物語ってますね
別の言い方で言えば九州勢力の衰退といえるかも知れない
丹後や越前の弥生後期辺りの刀剣出土数見ると日本海航路がこの時代に開かれてたのも間違いなさそうですね
>>208 えっとジョーカー氏
「ここのゴミクズ九州説」と言ってしまうと誤解を招くよ
正確には彼が言うのは、
>>207が分類したカルト九州説を指しているわけだろうから
交易連合の存在、鉄器による軍事力の否定、日本各地の有力なクニの存在などを前提とする
このスレの九州説諸氏とは、別のもので、まさにゴミクズでしかない連中だから
>>211 ヨコだが・・・
もうこれも大概言ってきた事だが
「中国史書における方角の記述は間違いない」
と言う ドグマ を貫くならばだ
隋書の「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」の邪靡堆は
当然九州の(地をひたすら南下した)何処かと言う事になる
(あくまで魏志の記事を踏襲している以上理論的帰結はそうならざるを得ない)
これはもう九州王朝説そのものと言って良いだろう。
文献史学者にそんな与太に付き合えと言うのも酷な話だwwwwwww
ついでに言うと一般的には畿内説に有利のように言われている膨大な日数とて
実際の移動に費やしたのがどれくらいか分からないのだからこれも大概曖昧。
要はあんなもん暗号解読ゴッコして邪馬台国の位置を特定しようなんて事が土台無理と言う話w
そう。匙を投げたのは文献史学界のほう。内藤・白鳥両氏の頃からは
ずいぶん進歩してるし、方法論も確立されてきた。それらをすべて
アマチュアが網羅できているわけでもあるまいにねえ
倭人伝 2000字・・・罪つくりといえばいいのか。www
>>211 あースレタイが畿内説だもんね
個人的には邪馬台国がどこにあったかはあまり重視してないというか
分かればそりゃ大きな発見なんだろうけど今の材料では不可能でしょ
「魏志倭人伝の中の邪馬台国」は九州の国でしょというのはあまり否定する人もいないんじゃないかと思いますけどね
それがヤマト王権と呼ばれる物と関係があるかどうかは全く別問題というのを前提として
>>212 邪馬台国と九州説と記紀(神武東征)がごちゃ混ぜになってるんでしょうね
記紀は神功皇后に卑弥呼を重ねてるみたいですけど別に邪馬台国が天皇の君臨する大和朝廷の由来とは一言も書いてないのにね
変な色つき眼鏡の考古学者やその影響を受けたマニアよりこのスレのような連合体仮説で新たなアプローチする方が余程有益だと思う
ここの中の人で九州説はかなり多いはず。
>>211 >「魏志倭人伝の中の邪馬台国」は九州の国でしょというのはあまり否定する人もいないんじゃないか
俺は倭人伝そのものが、実際の倭国の地理や状況をよく把握しきれていないという考えであり
>変な色つき眼鏡の考古学者やその影響を受けたマニア
これもちょっと一方的な気もするけど
>このスレのような連合体仮説で新たなアプローチする方が余程有益だと思う
これには激しく同意
お互い細部や立脚点は違えども、だからこそ議論も成立するし、こういうのをみんな渇望してたんじゃないか
畿内説というか、緩やかな連合論者の立場から
>>203のマルチコピペに突っ込み。
>前方部の形から、造営の時期が小浜市史が記述している5世紀後半よりさかのぼる
これはいわゆる纏向型前方後円墳だということなのだろうけど
墳墓形態から年代を計るという方法論は、少々危険なんだわ。
この墳墓形態で古墳編年を探るのが模索されて、石野の『纏向遺跡』や寺澤の『王権誕生』にもその表が記載されているけど
どうやら墓室形態にしても副葬品にしても、後世の追加や改修があった墳墓もあるというのが明らかになってきた。
こうなるとそれまでの古墳編年は、根本から崩れ去る。
提唱者の石野でさえ、今は自説に疑いを持っているようだし
このあたりはもっと発掘資料が充実してから、再度構築しなおしたほうがいいというのが、今の考古学会の流れだと思う。
>>220 どんとこい とかスレ荒れてるからこのスレで建設的に議論するのが良さそうですね
鉄剣の碑文とかで九州から東海の各勢力間で連合してたような内容が見つかれば面白いんですけどね
交易の中から緩い連合体制が生まれ、王族(豪族)同士の混血が進み、
また対外的な環境の変化(八王の乱から五胡十六国と高句麗の勢力伸長)で新たな連合体制の拡大が起きたとか
大きな戦争が全くゼロでヤマト王権が盟主の連合体(大和朝廷?)に発展したとは思えないですが、
対外環境の変化で緩い連合体制が必要に迫られて中央集権的な連合体に発展した可能性とかはありそうですね
もう眠たいからか、読み返したら引用レスが間違いだらけw
>>215の引用
>>207は
>>212の誤り
>>220の引用
>>211は
>>218の誤り
訂正の上、深くお詫びいたします。
あと別スレで面白いネタがあった。
「謎の女王卑弥呼は・・・」スレから、古墳造営は一種の古代版ニューディール政策ではないかという流れの中で
134 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2010/09/06(月) 23:06:28
現実には、地方の新規集落などでは、古墳と用水路はセットで建造される。
古墳の墳丘は掘削残土を利用して作られている。
これは北條らの研究から明らかになった、関東における古墳時代の新設集落の特徴だね。
この手法は九州(特に中部)でも畿内(特に湖西)でも見られ、新規開拓集落の基本的工法として確立していたとしてもいい。
この効率のよい手法が確立する前のプレタイプのサンプルが、これからいくつ、どこで見つかるかが鍵を握るように思う。
>>222 >交易の中から緩い連合体制が生まれ
よくこの交易連合の証として、前方後円墳や後方墳また銅鏡配布なんかが昔は考えられたのだけど
それよりももっと基本的な部分で、度量衡の共通化という、商取引におけるルールの共通認識が成されていたという事が重要だと思うんだよね。
ぶっちゃけこれはかの昔の、老教授の受け売りなんだけど。
この一番基礎的かつ最重要な取引ルールが合意されたからこそ、その上に成り立つ文化交流やハイブリッド宗教が急激なスピードで浸透したんじゃないかな。
だんだん良スレになってきたな
226 :
日本@名無史さん:2010/09/07(火) 02:06:26
>度量衡の共通化という
ああ、これは考えが及ばなかったけど、重要な要素で、かつ
明確な考古学的資料がありそうな分野ですね。
>>224 度量衡について共通化されてれば明らかに中央集権的な連合体の証明になりますね
もしよろしければ度量衡の共通化に関する根拠になる論文でもいいので教えてもらえると助かるのですが
中央集権的な連合体とは何ぞや?
徳川幕藩体制みないなもん?
中国王朝の周みたいな感じではないでしょうか?
度量衡の統一というか、老教授説では
例えば北九州ではメートルやキロといった単位が使われ(あくまでも例え)
吉備ではマイルやポンド
畿内では尺や貫といった地域独自ルールによる地方経済ブロックがあって
地域内だけでこと足りた時代から広域化した場合、そこに相場が発生していっただろう
そのなかで賢い商人が利ざやを稼ぎ、それもクニのオウとして発展していったというものだったと記憶している
これは全国的な単位を共通したというより、取引相場の概念が広まった結果が、共通認識を受け入れる下地となったと捉えられるのかも
そこにはやはり生産のばらつきによる諍いもあり、各自の思惑もあったろうが
その調停を担ったのが、各地独自の首長霊を祭る神官による合同機関(だったっけ?)で
それが卑弥呼のような神託を授ける裁判官になって、この起源はやはり日本各地にある二元体制が大きくなったようなものだということだったと思う
お互いの首長霊を尊重するという玉虫色的な合意が、前方後円墳に見られるパッチワーク墳墓に象徴されているというのは
まさにゆるやかな交易連合の繋がりが、どこかの強権的な支配ではなくその時代ごとの流行に近いもので
朝鮮半島への進出を目指す4世紀後半以降とは、どこか様相が違うというものだったように覚えている
九阪行った椰子いる?
232 :
日本@名無史さん:2010/09/07(火) 11:14:53
前方後円墳がパッチワークってのは、
今風に言うとみんなでニュートレンドなシンボルを作っちゃおうぜwってことなの?
作ってみたら地方の人たちも、なんかよくわからんがこれは新しい、文明開化の匂いがするぜとかって
感じに日本中にまたたく間に広まっていったってことかな?
>>230 それは度量衡の統一という概念とはかなりズレがありますね
>朝鮮半島への進出を目指す4世紀後半以降とは、どこか様相が違う
その緩やかな連合が朝鮮への進出まで可能にするような中央集権的な組織に移行するプロセスそのものが大本命な訳で
神官による合同機関
………出雲の神有月をイメージした。
つーか、出雲に神様が集まるのも何かを示唆してないか?
てか出雲の国譲りってなんなんだろう
アレって出雲を譲ったんじゃなくて日本(どの程度の範囲か知らんが)を譲ってるんだよね
んで大国主は改易みたいな感じで出雲の押し込められてオシマイ
いわゆる出雲系の神社の日本全土に占める割合と言い…
九州の入り婿さんとその子分に庇を貸して母屋を乗っ取られた、誰かさんたちじゃね
>>235 出雲については記紀編纂上の都合で全国の神話を整理統合したとの説が有力ですね
あくまで天皇の祖先である天孫に正当な日本の支配権があるという根拠付けのための創作
私も前は記紀というのはある程度史実に基づいて色々な話を神話に託してると思ってたのですが
研究していく中で当時の権力者の思惑に沿うよう編者が適当に創作したIF小説的な捉え方をしています
全てが嘘ではないですがIF小説の中に事実も入っている程度の認識でいいんじゃないでしょうか?
国譲りに参照出来る事実関係は無かったのでは
238 :
日本@名無史さん:2010/09/07(火) 15:27:45
戦後、国民の中から、記紀が消えたから
記紀の当たり前の知識すら持ってない奴が多いからな、ここのスレw
天皇家って、どうみても、近畿南部の出自。
>>236 九州の入り婿って、神武さん?
でも、彼は、私の先祖は、もともとはここの出身と宣言しているんだよね。
つまり、神武天皇は九州南部の出身だったが、
彼の先祖は、近畿南部の出身だったと告白している。
上から目線も結構ですが議論するスレなので
神武天皇のその発言の記紀の該当部分指摘してくれませんか