藤原薬子(ふじわらのくすこ、生年不詳 - 大同5年9月12日
(810年10月17日))は平安時代初期の女官。式家の藤原種継の子。
中納言藤原縄主の妻で三男二女の母。
長女が桓武天皇の皇太子安殿親王の宮女となり、
東宮宣旨(高級女官)として仕えるように ...そして伝説へ…
薬子の変の歴史的意義
式家藤原氏が没落し、南家藤原氏が興隆する契機となった事件。
人気ないねこのスレ。
5人の子持ちでありながら、年下の平城天皇を狂わせ譲位後、旧都奈良へ遷都させる。
天皇位さえスッパリと捨てさせるほどの女性なんて、どんな人だったか魅力を感じます。
中央政界では上皇方に情報が漏えいするのを防ぐために、薬子の変の時、蔵人頭が置かれます。
天皇に直接奏上できる役職ですね。初代蔵人頭は巨瀬野足と藤原冬嗣だっけ。
これによって令外の官の設置が急速に進んで行きます。平安京(嵯峨天皇側)では一種の宮廷革命があったようですね。
4 :
日本@名無史さん:2010/08/01(日) 17:21:05
タイトルは「藤原薬子について語ろう」ではなく
「薬子の変について語ろう」だからなあ。
薬子の変自体は平城上皇が帝位奪回のために
古都平城京へ遷都を宣言して同母弟嵯峨天皇と敵対。
嵯峨天皇が勝利した事件で、
わざわざ薬子の名前を冠するほど
薬子が主導した乱ではなかったと思うけど。
クスコの変
6 :
日本@名無史さん :2010/08/01(日) 19:13:55
娘の夫を寝取る姑。よっぽど妖艶で魅力的な女だったのかも。
後代の後宮にもいましたね。花山法皇の子を交互に産んだ親娘。
平城天皇はどうも神経質な人だったらしい。突然退位して上皇になるのも
皇位というものの性格を考えると、思慮分別のある人とはとても思えない。
この時代の上皇に後年のような権力があるわけではないから。
感情に任せて、おそらく弟の嵯峨といさかいがあった程度なのだろうけど
退位した後、復位を目論んで奈良に遷都するなど忙しい人だ。当時重そ(字が出ない)
は孝謙女帝の例があるから、突拍子もない話では無かったし。
もしかしたら、『また戻ればいいや』程度で退位したのかも。
さて、いまの歴史家は薬子の変と名付けているが、おそらく戦前の皇国史観の影響じゃない?
天皇が過つはずは無い。女狐の仕業だと言う論理。
本当は薬子の胸で寝ている時が一番落ち着く程度の、年上の優しい女性だったと私は思う。
兄仲成が教唆していたと思います?
8 :
日本@名無史さん:2010/08/01(日) 22:14:25
>>55 別スレにあったが、藤原仲成はどうやら平城天皇と同い年(限りなく年齢が近い)らしい。
となると、妹の薬子は平城天皇より年下だった可能性がある。
平城天皇は即位したのが33歳の時だったから、その東宮時代に薬子が知り合ったとしても、
平城天皇30歳・薬子の娘13歳・薬子28歳ぐらいだったとも推測できる。
平城が薬子の娘婿だったからと言って、義母の薬子が年上だとは限らない。
ちなみに薬子が乱を主導したという説は現在ではかなり否定されている。
平城上皇は長生きで、嵯峨天皇に配流されることもなくのんのんと平城京で余命を送った。
乱で死亡した仲成と自殺した薬子が悪かったんだよ、
私は誑かされただけだ、また仲良くやろうよ〜みたいな雰囲気で、
この兄妹がいつのまにか乱の首謀者に仕立て上げられただけなんじゃないか。
もう一部の高校教科書では薬子の変ではなく「平城太上天皇の変」となっているらしいね。
9 :
日本@名無史さん:2010/08/02(月) 04:29:18
内舎人山辺のハルヒ
平城京自体が流刑先のようなものでしょうね。
これで小説を書くなら、『私の命で愛する上皇をお守りします』
みたいな感じ。
確かに薬子というか、藤原式家に乱をおこす動機がないんだよね。
失敗すれば(実際そうなった)、自分たちだけでなく家も没落するから。
冬嗣の家系(北家)に反映が移って行った。
>>2は南家でなく北家の誤りでしょうね。
奈良の都がいつまで人が住める状態で残っていたのか気になる。
当時の日本に陪都制(副都制)という考え方は無いはずだし。
12 :
日本@名無史さん:2010/08/02(月) 20:50:39
平城京にあった第二次大極殿をはじめ国家の主要な建物は
長岡京に移築された。
しかし、まだ何らかの建物は残っていたらしい。
桓武天皇の皇女朝原内親王(のちに平城天皇妃)は伊勢斎宮に任じられた際、
遷都していた長岡京ではなく平城京で潔斎を行っている。
平城天皇は薬子の乱の後も、生涯弟嵯峨天皇から
「太上天皇」の称号と待遇を保証されたから、
朝廷から受ける御封で生活は保障され、裕福ではあっただろう。
自身で宮殿を建てることもできたと思う。
息子の阿保親王(在原業平の父)も四品に叙されていたし。
なるほどね。長岡京に移築したんだ。平安京と長岡京では
近すぎてすぐやられちゃうから、奈良の旧都に引っこんだのね多分。
早良親王の怨霊のせいとか理由つけて、薬子たちに全部押しつけて
生きながらえたという感じ。今で言うとうつ病だったのかもね。平城さん。
当時の天皇位は後代のように雛飾りじゃないから、天皇家に生まれても
勤まらない人はいたと思う。それが平城さんで、その心の隙間に入って来たのが
薬子だったんでしょうね。
悲劇の女官藤原薬子・・・。
平城天皇は桓武天皇寵愛の式家皇后藤原乙牟漏を母とする
生まれながらの桓武天皇の嫡子。
思い通りにならないことなど何もないお坊ちゃん育ちで
桓武天皇が早良親王を廃してまで皇太子にした。
失敗したことがないからそのために弟に位を譲れといえば
簡単に譲ってくれると思ったーみたいな。
薬子の変後も太上天皇として暮らした平城上皇の思い通りにならなかったことといえば、
復位と、人の心かな。
平城上皇の妃であった朝原内親王と大宅内親王は、薬子の変の直後、
いずれも平城上皇との離縁を嵯峨天皇に申し出て許された。
さすがに寵愛の女官と一緒に追われて平城京を逃亡した夫があまりにも情けなかったのだろう。
妃のほうから正式に離婚を申し出て許された例って、このときぐらいなんじゃないのか。
藤原朝臣仲成(764?(774とも)〜810、47歳(37歳とも))
(種継の子(長男):母は粟田臣道麻呂の娘)
正六位上(785時点)→従五位下(785、22歳)→出羽守→出雲守→従五位上(797、34歳?)
→右少弁(797、34歳?)→左少弁(798、35歳?)→左中弁(798)→越後守(799?、36歳?)
→正五位下(799、36歳?)→治部大輔・山城守(799)→主馬頭(800、37歳?)→従四位下
(801、38歳?)→大宰大弐→大和守(806、43歳?)→兵部大輔(806)→右兵衛督(806)→
従四位上北陸道観察使(808時点、45歳?)→左衛士督(808時点)→右大弁(808)→
常陸守(809、46歳?)→右兵衛督(809)→大蔵卿(809)→伊予守(809)→参議(810、47歳?)
→近江守(810)→伊勢守(810)→逮捕(810、47歳?)→佐渡権守(810、47歳?:左遷)→
殺害(810、47歳?)
生年は764年説と774年説があるようだ。12歳で五位と言うのは、この時期としてはい
くら何でも早すぎで、764年説が妥当だと思う。
正三位中納言だった種継の子としては、22歳での五位昇進でも本来ならあり得ない早さ、
さらに言えば、785年時点での正六位上でも通常はあり得ない早さ。父が寵臣であったた
め特例的に早い叙位を受けており、暗殺されたことにより五位への特別昇進があったのだ
ろう。
ちなみにすぐ下の弟らしい縵麻呂(768年誕生?次男?)も同時(当時18歳?)に正六位上から
五位へ昇進。
737年誕生の種継の長男としても764年の方がありそうだとは思う。根拠になるほどではないが。
弁官等要職を歴任している官歴からみて能吏ではあったのだろう。
従五位下から従五位上への昇進期間が長めなのは、五位昇進が特例だからか?
あるいは薬子事件の影響か?
774年誕生なら、五位には叙したものの、年少すぎてその後はしばらく停滞もあり得るが。
藤原朝臣薬子(?〜810:種継の娘)
東宮宣旨(785?)→宮廷追放(793?)→典侍(806)→従四位下(808時点)→正四位下
(808)→従三位(809)→従三位尚侍(809時点)→正三位尚侍・尚蔵(810時点)→自殺(810)
父種継が737年誕生、夫縄主が760年誕生と言うことから考えて、755年頃以後の誕生だ
と思われる。774年誕生の平城天皇の愛人と言うことからも、そのあたりが限界か?
薬子の長女が平城天皇皇太子時代(785〜806)に選ばれて入宮。下記から793年以前か?
その後薬子は東宮宣旨となって皇太子の寵愛を受けるが、そのことに桓武天皇が激怒し宮
廷を追放される。この時期は明記はされていないが、延暦12年(793年)に皇太子関係で
殺人事件があり、これが薬子追放に関係している可能性がある。
平城天皇即位後、薬子は典侍として宮廷に復帰。
長女の生年は、女官となった時点で最低でも10歳と思われる。793年以前に10歳以上だ
ったとすると、遅くとも784年以前誕生と言うことになる。
その母であり薬子は、普通に考えて770年頃以前の誕生ということになるだろう。
その一方、764年誕生(774年とも)の仲成の妹されており、そうであれば同年としても764
年以後の誕生と言うことになる。
以上から760年代後半あたり、平城天皇からみて姉程度の年齢ではないだろうか?
ただし793年の事件が薬子追放事件と無関係だとすると、極端な話娘の入宮が806年と言
うこともあり得なくはない。その場合、娘が806年時点10歳だとすると、薬子が当時25
歳程度と言うこともあり得なくはない。つまりもっとも若く見ると782年頃の誕生と言う
ことも可能性はゼロではない。種継の没年、享年からも不可能ではない。
まあさすがにそこまではいかず、この場合でもせいぜい770年代半ば頃以前、平城天皇と
ほぼ同年輩といったあたりが下限ではないだろうか?
なお760年に無位から従五位下に叙された同名の人物がいるが、これは別人だと思われる。
理由、さすがにこの時期に10歳未満の幼さない娘(755年頃の誕生だとしても)に叙位が
あるとは思えない為。
また父種継もこの当時は一介の下級官吏にすぎず(五位昇進は766年)、娘が厚遇される理
由がない。父より6年も五位叙位が早いのも不審?
まあごちゃごちゃ言う以前にまだ生まれていない可能性が高いが。
当時の女性がどの程度の年齢から出産可能だったかによりますよね。
現代ほど食生活が良くなかったでしょうから。体の成熟も遅かったはず。
ただいつの時代にもどの方面にも優秀な人はいるから、
薬子が子供を産み易い女性だった可能性はありますよね。
>>1に書いてあるように5人の子供の母親だったわけだし。
その5人の子供はどうなったんだろう。お母さん服毒自殺しちゃって・・・。
5人の子供の父親藤原縄主は生きているからね。
こちらは嵯峨天皇のもとで中納言にまで出世しており、
自殺した妻とは明暗を分けて嵯峨朝において冷遇された形跡は全く無い。
東宮妃だった薬子の娘がどうなったかは不明だけど。
@薬子の年齢、父が種継であることは後紀に明記。
種継の737年誕生から、どんなに早くても750年頃以後の誕生だろう。
種継は785年の終わり頃(49歳)暗殺、786年生まれの子がいる可能性はある。
750年頃から786年までの誕生なのはほぼ間違いない。
A娘が平城天皇皇太子時代(785〜806)にその後宮に入ったのも確定。
すぐに床をともにすることがないにしても、いくらなんでも10歳以上だろう。
となると母である薬子のその時期の年齢は25歳程度にはなっているだろう。
逆に娘が入宮当時20歳を超えているとも考えにくい。
となると母の年齢は60歳程度以下と思われる。
つまり、806年当時25歳程度以上、785年当時60歳程度以下、
726年頃から782年頃まで。ただし上限は@より750年頃だろう。
B夫縄主の生年760年からかんがえると、755年頃以後の誕生か?
C後紀では一応仲成(764ないし774誕生)とは兄妹とされている。
そうであれば、異母か同母か不明だが、双子ないし同年の異母兄弟としても、
764年ないし774年以後の誕生と言うことになる。
以上@〜Cから一応764年以後782年頃以前の誕生として、
平城天皇(774年誕生)の姉妹程度の年齢だと思われる。
21 :
日本@名無史さん:2010/08/29(日) 23:15:29
台閣首班の内麻呂は薬子の変の時に何をしていたんだろう
22 :
日本@名無史さん:2010/08/30(月) 01:30:55
>>18 それは実はこの時代における女性の出産可能年齢の問題は別の案件でも重大な問題になっている。
光仁天皇の廃太子である他戸親王の没年は通説では16歳とされているが、
角田文衛がそれだと、母親の井上内親王が45歳の時に生んだことになっておかしいと主張して、26歳説を唱えてこれを支持する学者も多い。
ところが、その説を認めてしまうと、今度は称徳天皇の没後に光仁(あるいは候補者であった道鏡や文室兄弟を含めて)が他戸成人までの中継ぎとして即位したという主張が崩れてしまうために、これを認めない学者も多い。
この時代に45歳の女性が子供を産むのが可能であったか、出産可能年代の議論は結構大きなテーマだったりする。
もっとも、角田氏って『平安時代史事典』の編纂で有名なんだけど、崇徳天皇が白河法皇の実子であることを証明しようとしてかなり強引な計算をしているからなぁ……。
村上天皇も母が42歳の時の子ってことになるし、
まあ45歳もあり得なくはないような。
それと没時26歳の場合は、出自立場からみて、
無位無冠ではなくもう少し何か処遇がありそうな気もする。
戸籍(養老5年=721年)に掲載されている母子関係や年齢に誤りが無ければ、
知る人ぞ知る「奈良時代のとらさん」こと下総国葛飾郡大嶋郷の孔王部刀良(とら)は、
母親が46歳の時の子供だね。
それと刀良には、知る人ぞ知る年上のいとこ孔王部佐久良売(さくらめ)がいるんだけど、
その末妹である孔王部嶋津売は、母親が48歳の時の子供。
婦人科用医療器具クスコって
藤原薬子が語源なのかね?
インカ帝国の都市よりは近い気がする
確かに初産は高齢だと無理だけど、若いころから生んでいる場合、40歳を過ぎても
子供は産めるようです。
明治時代生まれの祖母には7人の子供がいましたが、最初と最後の子供の年齢差20年
でした。祖父が亡くなってしまい7人で打ち止めになりましたが、もし生きていれば
更に続いた可能性もある。ちなみに最後の子供は43歳で産まれている。
仏教関係の食事タブーもまだあまり強くないから、
奈良時代の最上流女性は栄養状態はかなり良いんじゃないだろうか。
少なくとも前近代日本の中では。
あるいは1960年代庶民より良いかも。
現代はまた別の意味で栄養状態が悪化しているようだが。
前近代でも、妊娠そのものはかなり高齢でも問題ないんじゃないのかなあ。
医療水準の関係で出産時の危険が多いってことくらいで。
丈夫な体質に生まれついて、栄養状態も良ければ、40代前半程度はさほど問題ないのでは。
もちろん、その条件が簡単には整わなかったわけだが。
藤原温子(醍醐天皇女御)・・・4人目の子を42歳で出産
源倫子(藤原道長妻)・・・6人目の子を44歳で出産
櫛笥隆子(後水尾天皇典侍)・・・9人目の子を44歳で出産
本光院(足利直義正室)・・・初産、42歳で出産
年齢がはっきりして分かる女性が少ないからだけど、
結構例はあったのでは。
ちなみにうちの曾祖母(明治生まれ)も55歳で死んだときに
一番下の子供が9歳だったというから末子は46歳の時の子だ。
>>21 敢えて目立たずに傍観してたんじゃないのかな
真夏は平城上皇側、冬嗣は嵯峨天皇側で
どう転ぼうが御家安泰になるように手を打ってあるし
しかしそれは逆に言うと、
どう転んでも責任を問われる可能性もあるわけだな。
ここまでの内容を見ると、1,000年くらい前の人であっても、40代で妊娠・出産は可能のようです。
この点は現代と遜色が無いと言えそう。
ただ若年で出産することが可能だったかについてはどうだろう。
今は時々高校生が学校のトイレで出産するけど、1,000年前に15〜16歳で出産出来ただろうか。
薬子の一番最初の子供は何歳の時の子なのだろう?
藤原薬子の年齢だけれども、ひとつ、薬子が縄主と結婚したのは
父種継は785年に没した後なのではないかと推測している。
薬子の夫藤原縄主は同じ式家とはいえ宇合の九男の家系で
それほどの権勢一家ではない。
一方、種継の娘東子(薬子の姉妹)は桓武天皇に入内しており、
薬子も父が存命中に結婚適齢期を迎えていれば
入内の道や権門に嫁いでいたのではないかと思われるためだ。
しかし、父が没し、入内や権門の夫人となる道は断たれた。
そのために同族ながらぱっとしない縄主に嫁いだのではないかと。
薬子は770年代前半の誕生ではないかと思う。
それならば774年誕生の平城天皇とも年齢的につりあうし、
父種継が没した785年には10代前半でまだ嫁入り前でおかしくない。
ちなみに、藤原種継の妻に藤原縄主の娘がいて、
縄主は薬子と結婚する前に複数の妻妾がいたことが伺える。
薬子は年の離れた後妻ではなかったかと思っている。
摂関期の皇妃クラスの初産の年齢は20歳を越えてるとか前にどこかで読んだような気が。
奈良時代の貴族は摂関期よりは良いものを食べてたらしいが。
人類史関係の本で読んだところだと妊娠出産と脂肪の蓄積が関係あるらしい。
奈良時代の方が摂関期より多少は成熟が早いかもしれない。
個人差があるから中には早い人もいるんだろう。
数え年で15歳くらいより前ってのはさすがに超レアなケースだろうな。
>>33 藤原乙牟漏(桓武天皇皇后)・・・15歳で第一子を出産
正子内親王(淳和天皇皇后)・・・16歳で第一子を出産
年齢が分かる人が限られるが、薬子が生きた平安時代初期に
15,6歳で出産する例はあったみだいだね。
摂関期のほうが結婚する時期は早くても
初産は20歳前後になるみたいだ。