76 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 10:55:37
>>74 そういえば欧米人というよりETみたいなやや首の長い眉毛の薄い特徴のある朝鮮人もいるな。
77 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 12:57:36
>>73 ところがハンガリー人は遺伝子「N」はほとんどいなくて
中東とかアルメニア?とかの影響が強いようです。
9世紀にハンガリーに入った「マジャール人」はフン族ではないかも、
でも言語はフィンランドと近いし、
ハンガリー人は我々はフン族の子孫だって主張してる。よく分からない。
>>76 麒麟の田村から生気を抜いたようなの?
78 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 17:58:15
頭示数 比肩峰幅 比上肢長 比下肢長
アイヌ.. 76.55 23.65 44.60 55.14
東北人 80.16 23.07 44.46 54.33
畿内人 84.98 22.67 43.99 54.23
朝鮮人 85.16 22.35 43.30 53.48
>>71 ビルマ人は、彼ら自身の伝承では羌族で、元々古くは中原に住んでいたと言われている。
納豆に近いものがあったり、農耕の基礎、高床式住居など、縄文系と重なる部分が多い。
頭骨の計測値が、日本の縄文人と有意に近い研究もある。
タイ人古人骨も、縄文人人骨とは近い計測値が出てる。
タイとミャンマー(ビルマ)現代人は、実はインド系との混淆があるので、
古人骨とは、形質が異なるが、一部のチベットは、インド系や、北方アジア系の混淆が少ないので
日本人により近い形質を現在でも保持している。
ビルマ語と日本語に共通性が認められている現在、縄文系とビルマ系(古羌)
に計測値の類似性が見られる事も全然不思議ではないね。
ビルマと日本の関連についての研究は、ここ10年くらいで進歩していて、
年々その研究数も増えて、裏付けが取れて来てるけど、
日本語と同様、ビルマ語は現在でも6000万人の話者がいる安定した言語なので、
まだ研究は進む余地がある。
日本人や日本語は、この線を抜きには絶対語れないと思う。
>>80 普通にビルマ・チベット系だろ?
ましてや縄文系D2を「羌」と呼ぶのは意味が分からないというか
意図がキモイ。
>>79 あのな、ハヤトと短頭をくっ付けるなや。鹿児島の歴史ぐらい押さえろ。
ハヤトの祖先はエベンキ族だよ。
名前
第13代 成務天皇(せいむてんのう)、稚足彦尊(わかたらしひこ)
親族
父=景行天皇(けいこうてんのう) 母=八坂入姫命(やさかのいりひめ)
皇后=弟財郎女(おとたからいらつめ)
皇居
志賀高穴穂宮(しがのたかあなほ)
陵墓
陵墓=狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)
形状=前方後円墳、堀
古墳=佐紀石塚山古墳
場所=奈良市山陵町
称号 第14代 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
名前 足仲彦尊(たらしなかつひこ)
父親 日本武尊(やまとたける)
母親 両道入姫命(ふたじいりひめ)
皇后 気長足姫尊(おきながたらしひめ)(神功皇后)---子去来紗別尊(応神天皇)
皇居 角鹿笥飯宮(つのがのけい)・穴門豊浦宮(あなとのとよら)・橿日宮(かしひ)
陵墓 陵名: 恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)
古墳: 岡ミサンザイ古墳
形状: 前方後円墳、堀
所在: 大阪府藤井寺市藤井寺四丁目
名前
第15代 応神天皇(おうじんてんのう)
誉田別尊(ほむたわけ)、去来紗別尊(いざさわけのみこと)
上古の人々は弓の鞆のことを「ほむた」といった。
去来紗別尊(いざさわけのみこと)と呼ばれた皇子初めて皇太子となったとき、越国に行き敦賀の笥飯大神(けひのおおかみ)をお参りした。神の名は誉田別尊。この神に頼まれて名を交換したという。
親族
父=仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) 母=気長足姫尊(おきながたらしひめ)(神功皇后)
皇后=仲姫命(なかつひめ)
長女=荒田皇女(あらたのひめみこ)、
長男=大鷦鷯尊(おおさざき)(仁徳天皇)
次男=根鳥皇子(ねとりのみこ)
妃=高城入姫(たかきのいりひめ)---皇后仲姫命の姉にあたる
長男=額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこ)
次男=大山守皇子(おおやまもり)
三男=去来真雅皇子(いざのまわか)
長女=大原皇女(おおはらのひめみこ)
次女=澇来田皇女(こむくたのひめみこ)
妃=弟姫(おとひめ)---仲姫命の妹にあたる
妃=弟姫(おとひめ)---仲姫命の妹にあたる
長女=阿倍皇女(あべのひめみこ)
次女=淡路御原皇女(あわじのみはらのひめみこ)
三女=紀之菟野皇女(きのうののひめみこ)
妃=宮主宅媛(みやぬしやかひめ)
長男=菟道稚郎子皇子(うじのおさいらつこ)
長女=矢田皇女(やだのひめみこ)
次女=雌鳥皇女(めとりのひめみこ)
その他、男女合わせて20人の子がある。
皇居
軽島豊明宮(かるしまのとよあけ)
陵墓
陵墓=恵我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)
古墳=誉田山古墳・誉田御廟山古墳
形状=前方後円墳、堀
場所=大阪府羽曳野市誉田6丁目
称号
第16代 仁徳天皇(にんとくてんのう)
名前 大鷦鷯尊(おおさざき)
皇后 磐之姫命(いわのひめ)---子=大兄去来穂別尊(履中天皇)、 住吉仲皇子、瑞歯別尊(反正天皇)、
雄朝津間稚子宿禰尊(允恭天皇)
八田皇女
父親 応神天皇
母親 仲姫命(なかつひめ)
皇居 難波高津宮(なにわのたかつみや)
陵墓 陵名: 百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)
古墳: 大仙古墳・大仙陵古墳
形状: 前方後円墳、3重堀
所在: 大阪府堺市大仙町
称号
第17代 履中天皇(りちゅうてんのう)
大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけ) 親族 父=仁徳天皇(にんとくてんのう) 母=磐之姫命(いわのひめ)
皇后=草香幡棱皇女(くさかのはたびのひめみこ)--子=中磯皇女
妃=黒姫(くろひめ)---子=磐坂市辺押羽皇子、御馬皇子、青海皇女、
皇居 磐余稚桜宮(いわれわかざくら)
陵墓 陵墓=百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)
形状=前方後円墳、堀、全長360m、括れ部西側に造出し、葺石や埴輪。
古墳=百舌鳥陵山古墳・ミサンザイ古墳・石津丘古墳
場所=大阪府堺市石津ヶ丘
称号
第18代 反正天皇(はんぜいてんのう)
名前 多遅比瑞歯別命(たじひのみずはわけ)・瑞歯別尊(みずはわけ)
親族 父=仁徳天皇(にんとくてんのう)
母=磐之媛命(いわのひめ)
皇后=津野媛(つぬのひめ)
皇居 丹比柴籬宮(たじひのしばがき)大阪府松原市上田町
陵墓 陵名 百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)
古墳 田出井山古墳・盾井古墳
形状 前方後円墳、堀
所在 大阪府堺市北三国ヶ丘町
称号
第19代 允恭天皇(いんぎょうてんのう)
名前 雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくね)
父親 仁徳天皇(にんとくてんのう) 母親
磐之媛命(いわのひめ)
皇后
忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめ)---子=木梨軽皇子
=多形大娘皇女
=穴穂皇子(あなほのみこ)(安康天皇)、
= 大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけ)(雄略天皇)
妃=衣通郎姫(そとおしのいらつめ)---忍坂大中姫命の妹
皇居
遠飛鳥宮(とおつあすか)
陵墓
陵名
恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)
古墳 国府市野山古墳
形状 前方後円墳、堀
所在 大阪府藤井寺市国府1丁目
名前
第20代 安康天皇、穴穂尊(あなほ)
親族
父=允恭天皇(いんぎょうてんのう) 母=忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめ)
皇后=中帝姫命(なかしひめ)
皇居
石上穴穂宮(いしのかみのあなほ)---奈良県天理市田町のあたりとされている。
陵墓
陵名:菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ)
形状:方丘、堀
場所:奈良市宝来4丁目
名前
第21代 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう) 大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけ)
親族 父親 允恭天皇(いんぎょうてんのう)
母親 忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめ)
皇后 草香幡梭姫皇女 (くさかはたひひめ)
妃 葛城韓媛---子=白髪武広国押稚日本根子尊(清寧天皇)
吉備上道稚媛
春日和珥童女君
皇居 泊瀬朝倉宮(はつせのあさくら)
奈良県桜井市黒埼にある白山神社に冒頭紹介した万葉の歌碑がある。この白山神社あたりからその東にある天の森一帯が泊瀬朝倉宮があった場所だと云われている。
ただ、現在も残る「泊瀬(はつせ)(初瀬)」と呼ばれる地名はもう少しだけ東に入った長谷寺や慈恩寺あたりのことをいう。
陵墓 丹比高鷲原陵
古墳 高鷲丸山古墳+平塚古墳
形状 円丘・掘
所在 大阪府羽曳野市島和泉8丁目
94 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 13:47:11
>>83 ハヤトはマレー系のハイアットが起源という説もあるがな。
方角呼称だろ。その領域集団。
名称の特定地域とのこじつけは必要ない。
96 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 20:37:24
ツンギース系の半島民を受け入れてきたわが国は
世界に冠たる帝国となった。
チョーセン民族だけが残った半島は、ごらんの通り。
97 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 05:14:50
>>96 wikiでもいいから検索してみな。
日本語は、ツングースでもなければ、アルタイ語の中にも完全に
含まれるものではないよ。
満州族やモンゴル族は、アルタイ語系の言語を話す、ツングースだけど。
98 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 13:25:03
>>97 アルタイ語族というのもトルコ学者が否定しているらしいな。
モンゴル語にトルコ語を取り入れた借用語があるだけだと。
99 :
日本@名無史さん:2010/07/15(木) 10:33:00
帰化人でも日本の農民階級のように名字を持たない集団もいたのか
日本で知られている帰化人は下級役人や地方豪族としてたいがい名字があるな
100 :
日本@名無史さん:2010/07/16(金) 21:34:18
>>99 百済の亡命帰化人は王族中心の数千人だけだったので一応姓名はあっただろう。
姓名もないような下層民まで日本は難民認定しなかったはずだ。
101 :
日本@名無史さん:2010/07/16(金) 22:21:52
チョットと驚いた話を一つ。
小学生の時、関西の某市に長野県から引越ししてきた
男子がいたんだけど、中学生なって親しくなって
よく遊んだりしたんしてたんだけど、ある日その子が唐突に
「俺、実は朝鮮の血が入ってんだ・・」ってニヤケながら言って
「先祖は大昔に日本に移り住んだ来たんだ」と語ってたの思い出した。
その子は親から先祖代々語り継がれたんだろうけど・・
後で知ったんだけれども、長野も朝鮮半島からの難民受け入れ地だとか
やっぱり、そういうのってあるんだなぁと・・驚いた。
ちなみに名前は完璧な日本名で顔はアンパンマン
102 :
日本@名無史さん:2010/07/16(金) 23:41:01
大昔ってどのくらい昔だろう
長野は高句麗からの渡来人が多いっていうのはよくいうらしい
なんか顔四角い人が多いと思う、北村弁護士とか乙葉とか
名前 第22代 清寧天皇(せいねいてんのう) 白髪武広国押稚日本根子尊(しらがたけひろくにおしわかやまとねこ)
親族 父親 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)
母親 葛城空媛(かつらぎのからひめ)
皇后 なし
皇居 磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや)---現在の桜井市池ノ内付近
陵墓 陵名 河内坂門原陵(かわちのさかどのはらのみささぎ)
古墳名 西浦白髪山古墳
所在地 大阪府羽曳野市西浦6丁目
名前
第23代 顕宗天皇(けんぞうてんのう)、弘計尊(おけ)、来目稚子(くるめのわかご)
親族
父=市辺押磐王(いちのへのおしはおう) 母=蟻臣荑媛(ありのおみはえひめ)
皇后=難波小野王
皇居
近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつり)---奈良県明日香村山田あたり
陵墓
陵名:傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)
陵形:前方後円墳
場所:奈良県香芝市北今市
名前
第24代 仁賢天皇(にんけんてんのう) 億計尊(おけ)、大脚(おおし)、嶋郎(しまのいらつこ)
親族 父親 市辺押磐王(いちのへのおしはおう)
母親 蟻臣荑媛(ありのおりはえひめ)
皇后 春日大娘皇女(かすがのおおいらつめ)(武烈天皇の母)
皇居 石上広高宮(いそのかみのひろたか)
陵墓
陵名 埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)
古墳 野中ボケ山古墳
形状 前方後円墳、堀
所在 大阪府藤井寺市青山三丁目
名前
第25代 武烈天皇(ぶれつてんのう) 小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせわかさざき)
親族 父親 仁賢天皇(にんけんてんのう) 母親 春日大娘皇女(かすがのおおいらつめ)
皇后 春日娘子(かすがのいらつめ)
皇居 泊瀬列城宮(はつせのなみき)---桜井市出雲
陵墓
陵名 傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)
名前
第26代 継体天皇(けいたいてんのう)
男大迹尊(おおと)、彦太尊(ひこふと)
親族 父親 彦主人王
母親 三国振媛
皇后 手白髪郎女(たしらかいらつめ)---子=天国排開広庭尊(欽明天皇)
皇妃 尾張目子媛(おわりのめのこひめ)---子=勾大兄尊(まがりのおおえ)安閑天皇
=武小広国押盾尊(宣化天皇)
皇居 樟葉宮(くすば)、筒城宮(つつき)、弟国宮(おとくに)、磐余玉穂宮(いわれのたまほ)
陵墓
陵墓 三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ)
古墳 太田茶臼山古墳
形状 前方後円墳、堀
所在地 大阪府茨木市太田三丁目
名前
第27代 安閑天皇(あんかんてんのう) 勾大兄尊(まがりのおおえ)、広国押武金日尊(ひとくにおしたけかなひ)
親族 父親 継体天皇(けいたいてんのう)
母親 尾張目子媛(おわりのめのこひめ)
皇后 春日山田郎女(かすがのやまだ)
同母弟 武小広国押盾尊(宣化天皇)
皇居 勾金橋宮(まがりのかなはし) 奈良県橿原市曲川町
陵墓
陵名 古市高屋丘陵(ふるいちのたかやのおかのみささぎ)
古墳 高屋築山古墳 前方後円墳、堀
所在 大阪府羽曳野市古市五丁目
名前
第28代 宣化天皇(せんかてんのう)、檜隈高田(ひのくまたかだ)、武小広国押盾尊(たけおひろくにおしたて)
親族 父親 継体天皇(けいたいてんのう)
母親 尾張目小媛(おわりのめのこひめ)
皇后 橘仲皇女(たちばなのなかつ)
兄 勾大兄尊(まがりのおおえ)安閑天皇
皇居 檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりの)
陵墓 陵墓 身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)
古墳 鳥屋ミサンザイ古墳
形状 前方後円墳、堀 全長138m、後円部径83m、後方部幅78m、二段築成の造出し有り。
所在 奈良県橿原市鳥屋町
称号
第29代 欽明天皇(きんめいてんのう) 名前
天国排開広庭尊(あめくにおしはるきひろにわ)
親族 父親 継体天皇(けいたいてんのう) 母親
手白髪郎女(たしらかのいらつめ)
皇后 石比売姫命(宣化天皇の娘)
---子=訳語田渟中倉太珠敷(敏達天皇)
妃 蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)---子=大兄皇子(用明天皇)
=豊御食炊屋姫尊(推古天皇)
妃 蘇我小姉君(そがのおあね)---蘇我稲目宿禰の娘
子
泊瀬部(はつせべ)(崇峻天皇)
皇居 磯城島金刺宮(しきしまのかなさし) 別宮:橘の宮(橘寺)
陵墓 陵名 檜隈坂合陵(ひのくまのさかいのみささぎ)
古墳名 平田梅山古墳
形状 前方後円墳、堀
所在地 奈良県高市郡明日香村大字平田
いしひめひめのみこと
112 :
日本@名無史さん:2010/08/02(月) 19:07:35
>>1 >>語学の文法がほぼ同じであること
・・・朝鮮語に動詞の四段活用、形容詞独自の活用、助動詞の活用があるのなら例示してくれ。
113 :
日本@名無史さん:2010/08/02(月) 19:38:12
演歌まで韓国起源とは違うだろう。芸能人が殆ど韓国起源としても。
前方後円墳も騎馬民族征服王朝説から韓国起源というみたいなもん
だ。
114 :
日本@名無史さん:2010/08/02(月) 19:40:24
115 :
日本@名無史さん:2010/08/02(月) 20:12:53
>日本の古代文化は朝鮮系の帰化人がつくってきた
・・・古代日本文化用語に朝鮮語が入っているならそういえるが一語も入っていないだろう。
万葉集にも朝鮮語は一語も使用されていない。
>>115 万葉集は原文で読むと、漢文+大和言葉の万葉仮名なんだよね。
【“朝鮮半島の2000年史”の歴史は朝鮮人の歴史ではなかった!!】
1 檀君朝鮮はまったくの神話、中国のどの歴史書にも登場しない
2 箕子朝鮮は伝説上の国、中国人の箕子が建国した中国人の国家。『史記』巻38宋微子世家「武王既克殷、
訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮」
3 衛氏朝鮮は考古学的に証明できる朝鮮の最初の国家で、燕王盧綰の部将であった、衛満が朝鮮に亡命し建てた亡命政権
4 もちろん衛氏朝鮮の王も朝鮮人ではない『史記』朝鮮列伝「朝鮮王滿者、故燕人也(朝鮮王、満は燕国人である)」
5 衛氏朝鮮もBC108年に前漢の武帝に滅ぼされ、故地に楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡が設置され朝鮮半島中北部は400年間中国の植民地
6 『後漢書』に「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。」とあり、
箕子朝鮮の最後の王、準王が馬韓で韓王となり馬韓を支配し、その馬韓が百済になった
7 百済は扶余系民族だから言語的にも民族的にも今の韓国人は殆ど関係ない
8 新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国
9 『北史』新羅伝「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、
馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。」「新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地
は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来
した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている」
10 『後漢書』辰韓伝 「辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。其名國為邦、弓為弧、賊為寇、
行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。」「辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界
の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と
呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。」
11 百済は扶余系民族だから言語的にも民族的にも今の韓国人は殆ど関係ない
12 高句麗と渤海はツングース民族で、同じツングース民族の満州族系 「高句麗→金国→後金国=清国(女真族のご先祖)」
13 濱田耕策「夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族(Yahoo!百科事典)」、黄文雄「遼東や北満の地は、か
つて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である(黄文雄著『韓国は日本人がつくった』)」
「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数
民族の一つ、満州族の祖先である(黄文雄著『満州国は日本の植民地ではなかった』)」、鳥越憲三郎「高句麗は紀元前1世
紀末、ツングース系の?族によって建国(鳥越憲三郎著『古代朝鮮と倭族』)」、山川出版社『世界史用語集』「【高句麗】
中国東北地方東部のツングース系貊族の夫余族の国」、護雅夫「高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族であり、
4世紀から6世紀の初めにかけての最盛期には朝鮮半島の大半と南満州とを勢力圏に収めた(Yahoo!百科事典)」、森安孝夫
「【渤海】現在の中国東北地方、ロシア連邦の沿海州、北朝鮮の北部にまたがる広い範囲を領有して栄えた満州ツングース系
の民族国家(Yahoo!百科事典)」、藤本和貴夫「7〜10世紀には極東地方から満州、朝鮮北部にツングース系の渤海国が建て
られた(Yahoo!百科事典)」、広辞苑「【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙の建国という」、
大辞泉「【高句麗】紀元前後にツングース系の扶余族の朱蒙が建国」「【渤海】698年、ツングース系靺鞨族の首長大祚栄が建国」
14 唐が高句麗・百済を滅ぼし、旧高句麗領を安東都護府、旧百済領を熊津都督府、新羅を鶏林大都督府とした為、朝鮮半島全域が一時期中国領となった
15 ちなみに弥生人は朝鮮人ではない1999年3月18日に、すでに江南人骨日中共同調査団が
「長江下流域の古人骨と北部九州・山口の渡来系弥生人骨のミトコンドリアDNAが一致した」と発表している。
16 結論として朝鮮民族は新羅が直接のご先祖。でも・・・悲しいことに
17 その新羅も王は朝鮮人ではありません、日本人でした。
金氏王統の始祖瓠公は日本人
(瓠公は新羅の3王統の始祖の全てに関わる、新羅の建国時代の重要人物)
『三国史記』新羅本紀「瓠公者、未詳其族姓。本倭人。初以瓠繋腰、度海而来。故称瓠公。」
(瓠公は、その族と姓は未詳。本は倭人。初めは腰に瓢箪をぶらさげて海を渡って来たことから、瓠公と称される。)
昔氏初代の昔脱解(第4代脱解尼師今)は日本人
『三国史記』新羅本紀「脱解本多婆那國所生也。其國在倭國東北一千里。」
(脱解、本来は多婆那国で生まれた。その国は倭国の東北一千里に在る。)
18 それもそのはず古代において半島南部は日本の属国でした
『隋書倭人伝』新羅 百濟皆以倭為大國 多珎物 並敬仰之 恒通使往來
(新羅と百済は倭国を大国で珍しい物が多い国だとしており、ともに倭国を大国として敬い仰ぎ、つねに使いを送り、往来している。)
『広開土王碑文』
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民
(そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯の年(391年)に海を渡り、百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。)
19 高麗を征服した元は朝鮮半島北西部に東寧府、双城総管府の植民地を設置
20 1259年、高麗の太子(のちの元宗王)がフビライに降り、その息子忠烈王は、1260年に大ハーンに即位したフビライ
の娘婿となった。これ以来、代々の高麗王の世子(世継ぎの太子)はモンゴル皇族の婿となって元朝の宮廷で暮らし、
父の死後、高麗王の位を継ぐのが習慣となった。高麗王の母は、みなモンゴル人になったの
21 李氏朝鮮も実は、朝鮮人王朝では無く、女真族王朝だったの。なのに女真族ををオランケと呼び差別していた
22 15世紀の李氏朝鮮の世宗の時代に侵略して併合し、朝鮮の領土に組み込むまでは、李成桂の出身地の咸鏡道を含む
朝鮮半島北部(咸鏡道、平安道)は女真族居住地域であり、女真族の領土だったの
23 李成桂は女真族の酋長の李之蘭と義兄弟の契りを結ぶなど、李一族は女真族の配下を多数抱えていたの
24 女真族はモンゴル名を持っており、父李子春は吾魯思不花というモンゴル名を持っており、さらに祖父李椿は孛顔帖木兒、
李子春の同母兄李子興は塔思不花、李子春の兄弟も完者不花、那海などモンゴル名を持っており、モンゴル語で書かれた
一族の家系図から、李一族のモンゴル名は完全に記載されているが朝鮮名は不完全にしか書かれていないの
25 元に仕える行政長官ダルガチは、原則としてモンゴル人か色目人が任用されたが、元初期には一部の南人や契丹人、
女真族が、モンゴル名を持つことでモンゴル人とみなされ任用されたが、李成桂の四代前の高祖父李安社はダルガチだったの
26 千戸長として女真族の統治を行っていたの
27 『李朝太祖実録』巻一、九頁下、には「初三海陽(今吉州)達魯花赤金方卦、娶度祖女、生三善三介、於太祖、為外兄弟也。
生長女真、膂力過人、善騎射、聚悪少、横行北邊、畏太祖、不敢肆。(三海陽にいた元のダルガチだった金方卦(女真人と思われる)が、
度祖(李子春の父)の娘を娶って生まれたのが三善三介で、太祖の外兄弟である。彼は女真で育ち(女真の族長になった)、
腕の力が人並み外れて強く、騎射をよくし、悪い奴らを集めて、北辺に横行したが、太祖を畏れて、敢えてほしいままにしなかった)」
という記事があり、女真族の族長である三善三介が太祖李成桂の外兄弟であるならば、太祖自身も女真族であったと考えるのが自然なの
※朝鮮民族が建てた朝鮮民族による朝鮮民族の為の国家は有史以来存在しません。
箕子朝鮮は中国の殷の中国人箕子の国で、衛氏朝鮮は中国の燕の中国人衛満の国で、
箕子朝鮮の準王が馬韓で韓王となり馬韓を支配し、馬韓が百済となり、その後は楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡が設置され、
朝鮮半島中北部は400年間中国の植民地で、高句麗と渤海はツングース民族で同じツングース民族の満州族と同系で、
新羅は『後漢書』『三国志』『晋書』『北史』によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国で、
その後、唐が旧高句麗領を安東都護府、旧百済領を熊津都督府、新羅を鶏林大都督府として朝鮮半島全域を支配して、
高麗王朝時代には朝鮮半島北西部は東寧府、双城総管府の植民地となり、忠烈王以後のの高麗王はモンゴル人で、
李氏朝鮮の創始者で朝鮮王の李成桂は女真族。
ウィキペディア-WikiScanner
http://ja.wikipedia.org/wiki/WikiScanner 駐日アメリカ合衆国大使館から接続のIPユーザーが朝鮮の歴史の朝鮮近代史の項目を削除し、「朝鮮に歴史なし 昔から中国、日本、偏狭蛮族の属国」と書き込む
ウィキペディア-朝鮮半島を中国とみなす記述
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E3%82%92%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%99%E8%A8%98%E8%BF%B0 スペインの有力紙『エル・ムンド』(El mundo) は、朝鮮は建国時点である紀元前2333年から日清戦争の1895年までの4228年
間にわたって中国の植民地だったと紹介した。『エル・ムンド』は「韓半島は長い歴史のなかで数多くの侵略を受けてきた。中国に
1895年まで属していたが、1910年の韓国併合までの15年間にわたって独立を味わったりもした」と報じた。
CNNは韓国が元々中国植民地だったと報道し、ヒストリーチャンネルは平壌を中国植民地だと報道した。
台湾政府の外郭団体である中国語ネットワーク教育センターは、ホームページ上に「歴史的に、韓国は中国の植民地だった」と
掲載している。
ヒストリーチャンネルはウェブサイトで韓国の全体の歴史が「日本と中国の従属国」だったと紹介し、「韓国は韓国の全ての歴史
をひっくるめて中国と日本から強力な影響を受けた国家(Chinese and Japanese influences have been strong throughout
Korean history)」と叙述し、また「韓国を最初に建国したのは中国の学者箕子で、韓国は中国の植民地から最初の国家が始ま
った中国の植民地国家だった」と叙述した。また、丙子胡乱以後は中国の植民地になり、外国との接触を絶って「隠遁の王国」
に転落したと紹介した。
1478年から現在まで、アメリカをはじめ、日本、カナダ、中国など世界約50か国で教科書を出版しているオックスフォード大学の
出版社が制作している中学校課程教科書は、古代中国の領土を表記した「古代の世界」の1ページで、朝鮮半島全体を中国領
土に含ませている。
外国教育機関、百科事典、博物館、図書館などで中国の漢、元、清などの歴史を紹介する世界地図が朝鮮半島全体を中国領
と表記している。例えば、中国の国営放送CCTVのサイトは元の時期の世界地図に朝鮮半島全体を中国の土地として紹介し、
米国のミネアポリス美術館のサイトも元の時代の朝鮮半島を中国の領土と表記している。また百科事典「グロリア」と歴史サイト
「ハウ・ツー・フットワーク」、図書館サイト「アイビブリオ」は清の時代に朝鮮半島を中国の土地と同じ色で塗り、百科事典「ニュ
ー・ワールド・エンサイクロペディア」をはじめとして学術機関「カルチャー・チャイナ」「ピッツバーグ大学」「ミネソタ州立大学」等
のサイトは漢江北側を、中国紹介サイト「スーパートレース」と「NEN」などは全羅北道北側地域まで中国領としている。
世界銀行、イギリス公共放送局チャンネル4を含めた外国教育機関、教科書出版社、ポータルサイト、百科事典など34の機関
の世界地図で韓国を中国領として表記している。例えば世界的なファーストフード会社のバーガーキングは自社のホームペー
ジで朝鮮半島を中国領として表記している他、アメリカの有名旅行情報サイトのゲート1トラベルは北朝鮮を中国領として表記し
ている。また、ニュージーランドの茶販売会社ベル・ティー・カンパニーは、自社サイトで韓国を中国領としている。
バロンズ社が発行しているアメリカの大学進学適性試験の教材は、新羅を朝鮮半島で初の国家と表記している。
Yahoo!シンガポールはアジア地図で韓国を中国の領土と表記していた。
2006年にCIAが国家情報報告において、「韓国は1000年間独立国家だったが、日露戦争により日本が占領した」と紹介した。
これに対してVANKは、「これは西暦1000年以前は独立国家ではなかったという意味だ」と批判している。
世界の1億人を対象にした教科書を出版しているピアソン・エデュケーションは、韓国を中国の属国に定義付ける世界史の試験
問題を出題している。
アメリカの世界史教科書では万里の長城が鴨緑江近隣までのびている地図が掲載され、「1640年代に韓国は中国・清王朝の
属国になった」と記述されている。
アルゼンチンの教科書には「韓国は中国語使用地域」と書かれている。
「朝鮮は近代に至るまで、その国内での抵抗にかかわらず、中国と日本の属国だった」(オーストラリアの教科書)
「朝鮮は、その歴史の大部分で中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。日本は自由な新しい秩序を樹
立することによって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」(フィリピンの教科書)
「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」(タイの教科書)
「朝鮮は中国の従属国」(アメリカの教科書)
「朝鮮は、数百年間中国の属国」(カナダの教科書)
「朝鮮は永らく中国の属国だった」(インドの教科書)
「紀元1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」(ポーランドの教科書)
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀のことだった。その後300年、日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、
唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」 (ドイツの教科書)
「朝鮮を中国の属国」と記し、「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」「朝鮮は言論・宗教の自由が制
約を受ける国」「北部はロシアが、南部はアメリカが占領している」(インドネシアの教科書)
「(日清戦争で)日本の勝利となり、下関条約が結ばれ朝鮮の独立が認められた」(『中等世界史』 韓国・英志文化社 1959年)
「朝鮮は清の半属国だった(『高等世界史』 韓国・教友社 1962年)」
黄文雄は、著書で「これまで清国の伝統的な属国であったベトナムはフランスに横取されてしまったが、残る伝統的属国の朝
鮮は、もう誰にも渡すわけにはいかない。(略)そこで、新疆や台湾のように、朝鮮も中国の属領から正式な領土にするため「朝
鮮省」を設立し、郡県制とする断行案を検討した。そうすることで、列強諸国に対して朝鮮は清国の絶対不可分で永久割譲の固
有領土だとアピールした。(略)呉長慶は、この反乱をうまく鎮圧できれば、「遼東三省と左堤右挈し、実に東方の一大塀障」、つ
まり中国の遼東三省と朝鮮半島で守りを固めれば怖いものなし、と考えていたのである。(略)なかでも有名なのは、科挙状元
出身のエリートで、呉長慶の幕下に身を投じて積極的な対外政策を論じてきた張謇の『朝鮮善後六策』である。それについて
は、田保橋潔氏(京城帝国大学教授)が大要をまとめているので、ここで引用したい。『1.漢四郡建置の例に従ひ、朝鮮国王を
廃し、其地を清の一省とする。2.朝鮮国王を存置するとしても、周の例に従ひ、監国を置く。3.有力なる軍隊を派遣して。其海港
を清の監理の下に置く。4.朝鮮の内政革新を断行する』これ以外にも、張謇は『六策』で次のようなことを言っている。「あるいは
内政の自己改革と新軍の訓練を、我が東三省とつらねて、一気と為す」。清国の東三省から朝鮮省をも含めて「東四省」とし、
(略)張謇が提案した、清国が李朝国王を廃して監国にする、つまり、属藩扱いにするという政策は、清朝以前の早い時期にも
あった。明の太祖朱元璋が、李氏朝鮮をつくった李成桂に対して監国の地位だけを下賜あい、国王の地位を与えなかったのも
そのためだ。中国人からすれば、朝鮮は漢の時代から中国の一部なのだ。中国の歴代王朝の封国といえば、漢時代の「呉楚
七国の乱」で知られる呉や楚が挙げられるが、それよりもさらに一段下の外藩、つまり外様大名ていどしか見なされていなかっ
た。そもそも、朝鮮をつくったのは中国の箕子だと、中国人は主張するほどなのだから。そのため、張謇の『朝鮮善後六策』のよ
うな考え方は、中国人の一般的な伝統的朝鮮属国観なのだ。中国が中華民国になった近現代でも、この中国人の朝鮮版図観
はたいして変わっていない。たとえば、蒋介石は、太平洋戦争後の対日処理を協議した1943年11月のカイロ会談に出席した当
時、船上にてルーズベルト大統領に高麗の返還を要求している。もちろん、ルーズベルト大統領は、このとんでもない要求を拒
んでいる。朝鮮人も属国であることにマヒしているため、「朝鮮省」の設置をむしろ、「小中華」から「大中華」への昇格だと喜び、
中国を恨むどころか、恩恵と謝恩を感じるべきだと思っていた。とくに、これまで大中国人やら大中華人になりたくてもなれなか
った支那人かぶれの両班にとっては、願ってもない恩寵なのである」「モンゴル人が明によって万里の長城の外まで追われ
ると、朝鮮朝の太祖である李成桂は高麗朝から政権を奪い、モンゴル人を叩いて事大の対象を元から明へと鞍替えした。明が
遼東半島に進出していたころ、朝鮮人は明の先頭を切って満州人を征伐したため満州人から恨まれた。そのため、満州人の朝
鮮人に対する大規模な逆襲である丁卯胡乱と丙子胡乱が起こり、朝鮮は清の属国となった。明から清に主人を替えた後の朝
鮮人はじつにおとなしく、清の軍隊召集に馳せ参じ、2回の羅禅遠征と明の征伐に従軍した。父として明を敬っていたはずなの
に、新しい父を迎えた途端、明に対して残酷無情な態度を取った。(略)満州八旗軍はかなり軍紀正しい軍隊であったが、盟友
のモンゴル八旗軍の朝鮮蹂躙には、かなり悩まされていた。しかし、朝鮮軍が満州人の軍門に下り清軍に召集されると、今度
は朝鮮軍が旧宗主国の明征伐を通して漢人への凄まじい虐殺と略奪を行ったのだ。(略)明は300年近く朝鮮を保護し、李氏朝
鮮は宗主国である明から国号を下賜された。しかし、いざ明が弱勢になると、朝鮮はすぐさま清に乗り換えて逆に明を逆襲し、
明人を虐殺した」「長城外の夷狄だけでなく、西南のチベット系民族吐蕃でさえ中華世界を一度は征服するか、都を占領し
脅威を与えているのに、朝鮮だけは中華の脅威になったことすらありません。朝鮮は大中華に君臣の礼、君父に忠のみだった
のです。『四夷八蛮が皆中原に入ったのにただただ朝鮮だけできずにいる。こんな情けない国に長生きしていてもどうにもなら
ない』と嘆きつつ亡くなった林白湖という儒者がいるほどです」と書いている。