1 :
神奈川県民 :
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛
謎につつまれた邪馬台国のミステリー。
古代日本のあり方、また魏志倭人伝に記載された邪馬壹國の場所や
女王卑弥呼の正体は? 今、古代最大の謎に挑む!
【アク禁用】
http://www1.atchs.jp/most/
2 :
茨城童子:2010/06/22(火) 05:49:35
>>1 おや、ご健在でしたか?死亡説や失踪説が流れてますよ。
3 :
日本@名無史さん:2010/06/22(火) 13:54:17
サガミ先生も東京都日野市に引っ越しちゃったし。
4 :
日本@名無史さん:2010/06/22(火) 18:41:45
メ さんはどうして書き込みをやめたんですか?プロ固定をクビになったから?
5 :
日本@名無史さん:2010/06/22(火) 19:24:22
太国さ〜〜〜ん!
7 :
ローガン:2010/06/23(水) 15:41:51
度量衡というものがある。当然、万人が共有するものであり、中華においても時代による変遷は認められるものの、同時代に複数の度が混在した事実はない。
魏の1里とは434mである。長里も短里も無い。公定の里があるのみである。しかし倭人伝に書かれた倭国の所在、この尺度では、遥か南海上にあった事になり明らかに現実と乖離している。
つまり、間違っているのである。このような間違いを含有する書を金科玉条として、記述の逐次解釈をした所で徒労である。
もう一度云う。短里などない。同一人物が同一史書内で二種類以上の度を用いていると考える事など論外である。
現に倭人伝においても陳寿は、「会稽東冶之東」としている。机上計算であろうが、都より東北に位置する帯方郡から東南に12000里移動すれば、現在の福建省ビン侯辺りであると。公定里に基づいた記述をしている。
8 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 15:49:29
>都より東北に位置する帯方郡から東南に12000里移動すれば、
>現在の福建省ビン侯辺りであると。公定里に基づいた記述をしている。
計測したら、西南に1500キロ
一里125mになりました。
9 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 15:53:25
一里434mで12000里を計測すると
パプアニューギニアに着きました。ぴったりです。
長里はこの矛盾をどう埋めるかだな。
11 :
ローガン:2010/06/23(水) 16:06:50
では何故、編者がこのような誤認をしたのか?これは陳寿が間違ったというより、引用した先行史書に既に錯誤があったのだろう。魏略である。
翰苑引用魏略に「自帯方至女國万二千餘里」とある。さて、この万二千餘里とはどのようにして得られた数字なのだろう。
これに先立つ漢書の注記に「帯方東南万里」と見える。この注を入れたのは魏代の人、如淳である。この万里が何に基づいたものか…
既に、魏使来倭によりもたらされた情報を得ていたとするなら、当然その注記は「帯方東南万二千餘里」となる筈であるから、この東南万里と云う認識は魏使来倭以前である事が判る。
しかしながら三国志東夷伝序文には、淵を斬り、位宮を追って後 ようやく東夷の事が判るようになったとある。
「帯方東南万里」 起点が帯方郡という事は、当然公孫氏時代の話であるが、その時は序文が述べる通り、東夷は絶域であり、遠く離れた倭までの距離など、知り得る筈がない。
よって、この万里とは実測ではなく、単なる修辞であったと考えざるを得ない。
昔から何度も繰り返されてきた話だが
長里を取ると
狗邪韓国、対馬、壱岐、末羅の場所がずれてくるが
どこに設定するか。
狗邪韓国7000里=3000キロ となり
南東に引けば、グアムサイパンあたりとなる。
あとの壱岐と対馬、末羅はもうどこか分からん。
まあ、距離も方向も完全否定するのはいつものことだが。
13 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 16:22:41
距離は間違えるが方向は間違えないと思うんだ。
古代に海上の距離をどうやって測ったんだろ。
移動にかかった日数や体力の消耗の度合いから推し量るしかないのでは。
とすれば、険しい行程で距離を長く誤認する事はあっただろうと思う。
しかし、方向は間違えないと思うんだな。
間違えたら帰れないからね。
14 :
ローガン:2010/06/23(水) 16:36:02
そして、その後に書かれた魏略には「万二千餘里」とある。この二千餘里が付加された原因は云うまでもなく、来倭した使者がもたらした情報であろう。
東夷伝を通読しても、里数表記において極端におかしなものは見えない。現実離れした表記がなされているのが 韓地の大きさと、倭への3渡海部分であり、これこそが「帯方東南万里」の正体なのである。
確たる情報、資料に立脚しない万里… 倭国とは「遥か遠く万里の彼方」という観念的数字なのである。
そしてこの現実離れした数字を、史家は使者の持ち帰った情報、上陸から都までの二千餘里に付加したのである。
そして書にする過程で韓地水行7000里+3渡海各1000里に按分。これが他では見られない、極端に伸長され 現実の地理と乖離した韓地及び3渡海で万里という記述の正体であろう。
繰り返すが、公定の里しか存在しない。よって万里は現実の数字ではない。使者来倭によりもたらされた二千餘里こそが、実際の知見であろう。
この女王都へむかう二千餘里に消費された日数が、水陸行2ヶ月である。後世、隋書、書紀に見える裴世清の道程から寸法どりすれば、向かった王都の場所をヤマトと考える事になんら不合理は無い。
15 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 16:36:44
当時、纏向はパプアニューギニアにあったんだよ。
また、詐欺を使って畿内説を補強しなきゃ。
16 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/06/23(水) 16:42:14
「大唐六典」によると1日の行程は
「凡そ陸行の程、馬は日に七十里、歩および驢は五十里、車は三十里」とあります。
つまり、邪馬台国九州説などと言うホラ話しは通用しないということです。
17 :
ローガン:2010/06/23(水) 16:46:57
云うまでもないが大和は南では無い。しかし、隋書にも済州島の表現で方角を取り違えている例が見受けられる。
倭人伝が間違っていたとする直接の根拠になる訳では無いにせよ、「方角は間違える訳がない」とは決して言えない一例である。
又、九州上陸後、方角に従えば、古来、楽浪郡と関係の深い糸島、金印出土地をもつ博多といった 北に開けた玄関口、
まして、怡土 那という古地名を持つ地に対する考察を敢えて無視しなければならず、このような考え方は多数の支持を得る事は難しいものであろう。
18 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 16:49:24
仮に、方向も距離もめちゃくちゃだったとしよう。
それでも邪馬台国の描写は、畿内ではありえない。
>>18 邪馬台国の描写じゃなくて、倭の描写ね。勝手に変えてはダメだよ。
邪馬台国の描写といえるのは、居所宮室楼観城柵厳設のところだけ。
20 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 17:26:47
日本全土=倭国が、纏向の支配下だったとする畿内説だと、
北海道でも九州でも、全部倭の描写だからな。
21 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 17:30:41
畿内説だと、日本中どこもかしこも温暖で、内陸でもバンバン大魚がとれるそうだ。
22 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 17:32:25
短里だと松浦までは、せいぜい1.5倍以内で合うんだな。
現実離れした数値なら、そこまで一致するはずが無かろう。
23 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 17:40:40
方向も距離も間違っているという立場なのに
畿内と決めた理由が分からない。
極端な話、東アジアならどこでも良いと言っているに過ぎない。
東アジアの中の無数の候補地から、畿内を特定するだけの根拠が無ければ
畿内説などあり得ない。
24 :
ローガン:2010/06/23(水) 17:42:51
>>8>計測したら、西南に1500キロ
一里125mになりました。
どうやって計ったの(笑)
文献あたってご覧よ。洛陽からハノイまで南万千里、洛陽から楽浪郡まで東北五千里。
なら、帯方東南万二千餘里なら台湾辺りと編者が考えて おかしくないでしょ?
25 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 17:49:35
>>24 地図で計りましたがなにか?
街道の違いはあっても
実測で倍、せいぜい3倍以上違ったら
軍事的な記録の意味がないでしょ
距離が3倍も違ったら、軍の派遣計画は
根底から変わると思うんだ。
26 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 17:56:56
旧陸軍では、補給は距離の2乗が必要とされていたからな。
それで踏み切れなかった作戦計画もいろいろとあったそうだ。
補給がつきて悲惨な結果となった作戦も多々ある。
27 :
ローガン:2010/06/23(水) 18:14:24
>>25 >地図で計りましたがなにか?
つまり当時既に黄海、東シナ海の正確な地図が あったと云うの?
陳寿も参照していた???
28 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 18:14:50
数百年議論して、邪馬台国が確定しないのは
ほんとに日本じゃないのかも知れないな。
29 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 18:33:51
>>27 当時正確な地図があったかどうかは分からないけど
歩測でも日数でも距離を記録する以上、
その数値がある程度使えなければ意味がないでしょ。
その記録された距離が、実距離と全く関係ない数値でもいいのですか?
何のための記録ですか。
じゃあ、100万里と書いて全く支障はありませんか?、という話です。
公定里っていつ決められたのかな
それ以前は里程が決まってなかったから
公定里を決めなければならなかったと言うことはないのか
31 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 19:20:12
ローガンは元引き揚げ兵だけあって、土地勘にプライドがあって、出しゃばるんだな。
32 :
ローガン:2010/06/23(水) 20:26:16
>>29 君は
>>8で、帯方ビン侯県間を地図で計測して 1里=125mを得たとしましたね。
では陳寿は、君が云う所の当時の度、1里(=125m)を用い、何を参照して帯方郡から「万二千餘里」先の場所を、会稽東冶之東としたと云うの?
>当時正確な地図があったかどうかは分からない
それなら、帯方郡とビン侯県間の距離を明示した史料の提示を求めますよ。(笑)
33 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/23(水) 20:42:10
>>28 100年やって結論の出ないのは、距離や方向が間違っているだけでなく
議論している時代も間違っていると云うこと。
34 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/23(水) 21:07:03
その昔、考古学は百済本紀を元に日本の編年を考えた。
ところが今、考古学は50年ほど古い方へ動いた。
しかし文献史学は動いていない。これでは齟齬を生じる。
35 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 21:08:33
>>32 >それなら、帯方郡とビン侯県間の距離を明示した史料の提示を求めますよ。(笑)
そ、それは意味が分からない
逆に言えば陳寿が距離を記録した資料には必ずもと資料があり
それは全て現代でも提示可能と言うことですか?
36 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/23(水) 21:21:41
纒向遺跡中枢部
来月にも調査再開 - 纒向遺跡中枢部
卑弥呼の時代に重なる3世紀前半の大型建物跡が見つかった桜井市の纒向遺跡で、中枢部の調査が7月にも再開される。廃材などがのぞく穴を本格的に調査するほか、柵で囲まれた区画の広がりなどを確認する。
昨年の調査区を市教育委員会が南側に拡張。穴は直径約5メートルに達する可能性もあるが、北端の一部が見えただけで調査は行われていない。
加工痕のある板材や多数の土器が確認されており、移転時に廃材を捨てたとすれば、建物構造の解明に有力な材料となる。
纒向遺跡は邪馬台国の有力候補地で、3世紀前半は女王卑弥呼の時代と一致。
37 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 23:09:37
>>32 なんでそんな返答になるのか意味不明だったのですが
なんどか繰り返して読み返しまして、なんとなくわかってきました。
陳寿は、当時の不完全な地図をもとに里程を書いた。
これは前提条件ですね。
そして、帯方郡から日本までの情報は乏しく、実際の距離の
5倍を超える記述になってしまうが、地図がでたらめなので仕方がない。
狗邪韓国7000里と壱岐対馬3000里も大雑把に割り振ったでたらめである。
そしてなぜか残りの2千余里は正確である。
ですね。
38 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 23:10:22
ただし方向はでたらめである。
これも追加ですね。
39 :
ローガン:2010/06/23(水) 23:18:29
>>35 いや、私にそんな事を立証する責務は無いんですよ。
「会稽東冶之東」なんて、前段の習俗を受けて 南方のものと似ている。道里を計れば、なるほど、さもありなん って記述だと考えてるから。
道里を計る…その根拠としたアバウトな地理感、後漢書郡国に見えるでしょ?上で書きました。
しかし、こういう経緯で帯方郡とビン侯県間を「万二千餘里」で記述したと云う者に対して、
万二千餘里とは1里=125mの度で書かれたものだ、と主張するのであれば、編者が何に基づいて帯方郡から万二千餘里離れた地点を「会稽東冶之東」としたのか?
と質問されて当然でしょ?如何にして万二千餘里離れた場所が会稽東冶之東であると知り得たのか?とね。
40 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 07:14:21
>>11 単なる修辞として無視してしまうというのは自分が決めた結論に合わせるための
ごまかし計算だ。倭が「帯方東南万里」ならば、女王国は倭に上陸して更に二千
里と考えるべきだろう。
41 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 07:25:39
帯方郡から南へ万二千里進んだところにある女王国が会稽東冶の東だという。
当時、中国人は中国の大きさをどのくらいとみていたのかな? 南北六千里、
東西一万里とかどこかでみたような気がするが・・・もしそうなら、万二千
里で会稽東冶などという考え方は、公定里をもとにしたものでないことは明
白だな。
42 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 08:30:08
なんだ、いつもの畿内説詐欺か。
読んで損した
だったらそんなに気にする事ないのにw
44 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 10:29:46
これは、畿内説の里程には無理があるんだよと言う、
ローガン氏の畿内説に対する皮肉か?
45 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/24(木) 12:14:41
晉書卷十四 志第四 地理上
有四瀆。八紘之外,名為八極。地不足東南,天不足西北。八極之廣,東西二億三萬一千 三百里,
南北二億三萬一千三百里。自地至天,半八極之數,自下亦如之。昔黃帝令豎亥 步自東極,至于西
極,五億十萬九千八百八步。史臣案,凡周天積百七萬九百一十三里,徑 三十五萬六千九百七十。
所謂南北為經,東西為緯。天有十二次,日月之所躔;地有十 二辰,王侯之所國也。或因生得姓,
因功命土,祁、酉、燕、齊,在乎茲域。
作為五服。天子之國,內五百里 甸服,百里賦納總,二百里納銍,三百里納秸服,四百里粟,五百
里米。甸服外五百里侯服, 百里采,二百里任,三百里候。侯服外五百里綏服,三百里揆文教,二
百里奮武衞。綏服外 五百里要服,三百里夷,二百里蔡。要服外五百里荒服,三百里蠻,二百里流。
訖于四海, 弼成五服,五服至于五千里。
46 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/24(木) 12:38:02
さて 世界地図を 東西二億三萬一千 三百里,南北二億三萬一千三百里。
として、
洛陽から万二千里に邪馬台国があると…
47 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 15:36:39
(1) 新しい資料の提供
このまま、歴史書と遺跡の発掘情報のみでは、どこまでも水掛け論となり、
邪馬台国の位置や女王卑弥呼問題は永遠の謎となりそうです。そこでひとつ、
新しい情報を提供したいと思います。回数を分けて感動を届けます。
古代人が山名に託したと思われる、東征の足跡です。東征に参加した勢力、
集合地点、経路などが残されていました。なぜ日向からの出発か、なぜ岡田
宮に迂回したかなど多くの謎が解けました。古代人の英知に驚くでしょう。
48 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 15:43:35
>>47 いいから、いらないから。上の腐れレスで十分だから。
49 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 15:44:37
50 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 15:56:27
51 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 16:09:55
今時寝言を言うなよなw
53 :
ローガン:2010/06/24(木) 16:21:38
>>41 >当時、中国人は中国の大きさをどのくらいとみていたのかな?
後漢書郡国志、読めば良いでしょう。元始二年、地東西九千三百二里、南北万三千三百六十八里。
洛陽から交趾郡まで南万千里。洛陽から楽浪郡まで東北五千里。
その感覚で捉えたとして、帯方から東南万二千里なら、福建省ビン侯の東海上。別におかしくない。
54 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 16:22:33
(5)東征の謎
記紀は若御毛沼命(神武)兄弟が日向(宮崎県)を出発し、瀬戸内海を東に
向かい、大和(奈良県)の橿原で即位したと記します。これを神武東征と呼び、
内容は記紀でほぼ同じですが、いくつか分からないことがあり、その謎が解け
ない為、後に創作された神話とされています。主な謎は次の通りです。
謎1)弥生時代後期の当時、考古学的にみて日向は、大陸に近い北九州より遅
れていました。その日向から出発した東征隊が、なぜ北九州を征伐せず、
あるいは協力しないで東に向かったのだろう。
謎2)日向を出発した東征隊は、宇佐に寄ったのち遠回りして、北九州市の岡
田宮(日本書紀は岡水門)に行っています。なぜすぐに東に進まなかっ
たのだろう。
謎3)瀬戸内海を進むのに、古事記で16年、日本書紀で6年かかったと記し
ます。瀬戸内海を船で進むだけにしては、年数がかかりすぎている。
謎4)大和に入るとき、太陽を背にして戦うため熊野の山を越えたと記します。
道も無い時代に峻険な山やまを、ほんとうに越えたのだろうか。
高取山→鷹取山のベクトルとベクトルを補佐する○尾山が、これらの謎を解き
明かしていきます。
55 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 16:32:13
(6)全国の「たかとり山」
国土地理院の地図による調査では全国に高取山が18、鷹取山が17見つか
りました。対として一つ足りないのは、奈良県五條市の高取山です。
べくトルの概念
「高取山→鷹取山」のベクトルには、古代人の次の意思が隠されていると考え
ました。
1)高取山から鷹取山への直線は、東征隊が進んだ方角である。
2)高取山の付近またはその先から、出発した。
3)鷹取山の付近かその前方に目的地がある。
4)直線の長さは意味を持たない。
高の1字を鷹に変えて、ベクトルの矢先とした古代人の英知に驚きます。
(2)に示したベクトルはもっと先にある高天原に、吉野ヶ里の人たち
が集合したことを示したのでしょう。
56 :
ローガン:2010/06/24(木) 16:44:00
>>40 >単なる修辞として無視してしまうというのは自分が決めた結論に合わせるための ごまかし計算だ。倭が「帯方東南万里」ならば、女王国は倭に上陸して更に二千里と考えるべきだろう。
だから、上陸後の二千餘里が使者来倭により、もたらされた情報だと云っているんですよ。よく読んでね。
例えば、史記に前漢高祖11年に陸賈が劉邦の命で南越王を封ぜるべく派遣された時、皇帝と自分(南越王)、どちらが優れているか?の問いに「中国之人以億計,地方万里」と答えて、皇帝を讃えている。
又、漢書地理志序文に「 昔在黄帝,作舟以不通,旁行天下,方制万里…」
とあり、時代に伴う版図の変化を考えたら、「万里」が実数とは思えないでしょ? 修辞ですよ。
57 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 17:16:42
>>56 読み違えたかと思って読み直したが、分からん文章だね。もう少し書き方を考えろよ。
上陸してからは二千里で、それは公定里で考えろというのかな?
しかし、東南五百里の伊都国はどこに比定するんだ? 奴国は? 不弥国は?
それらは従来の説に従って、邪馬台国だけは公定里で考えるというのは、理論的では
ないぜ。
漢書の数字が実測かどうかはともかく、倭人伝の数字は、七千里、千里、千里、千里
と区切っている。まとめて、万里だ、修辞だというわけにはいかんぜよ。
58 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 17:26:42
まあ、いろいろと言い訳してるけど
最初の一万里は不確実な地図によるでたらめな数字だから実測と5倍違っても問題ない。
最後の2千里は畿内説に合うように、実測値でやる、となれば
都合のいいとこ取りだもんな。
ちょっと引く。
全部短里にしたら倍も違わないよ。
59 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 17:31:06
議論すればするほど、畿内説が詐欺、という結論に帰着する。
60 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 17:36:10
煙に巻いて、ごまかしを分からないようにするテクニックのひとつ
なんだと思うけど、確かに読みにくいよ。
先に結論を書いて、文章は短めに、
時系列、または論理展開通りに論を並べる。
読まれなかったら、読まれない文章を書いた方が悪い。
ふつう、論文を書くときはこれを叩き込まれるはずなんだ。
61 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 17:38:04
(7)九州の「たかとり山」
九州には高取山と鷹取山はそれぞれ五山あって、五対のベクトルがあります。
D1)高取山(441m、佐賀市大和町久留間 付近)
E1)高取山(139m、福岡県大牟田市歴木 付近)
F1)高取山(721m、福岡県八女郡矢部村北矢部 付近)
G1)高取山(341m、熊本県天草市二浦町亀浦 付近)
H1)高取山(328m、熊本県山鹿市城 付近)
D2)鷹取山(403m、佐賀県三養基郡みやき町 付近)
E2)鷹取山(364m、福岡県みやま市山川町 付近)
F2)鷹取山(802m、福岡県久留米市田主丸町 付近)
G2)鷹取山(620m、福岡県直方市永満寺 付近)
H2)鷹取山(375m、宮崎県都城市夏尾町 付近)
同記号の高取山・鷹取山を対と考えました。
62 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 17:51:25
方制万里、っていう版図の大きさを表現する数値と
2点間の距離を表現する数値は、表現が違うと思うんだけどどうだろう。
広さの場合はかなりおおざっぱな数値でも、感覚としてイメージできれば
それでいいけど、2点間の距離の場合は、何度も行き交っていればそれなりの
距離が分かっているはずなんだ。それを一緒にして良いのだろうか?
63 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 17:51:59
>>53 >洛陽から楽浪郡まで東北五千里。
これは劉昭の注釈で梁 (南朝)502年 - 557年)の人。
本の後漢書郡国志には書いてない。
度量衡が変わった可能性が大で、これをもって根拠とするのは誤り。
また、本秦京師為內史,分天下作三十六郡。漢興,以其郡大大,
稍復開置,又立諸侯王國。武帝開廣三邊。故自高祖搏十六,文、
景各六,武帝二十八,昭帝一,訖於孝平,凡郡國一百三,
縣邑千三百一十四,道三十二,侯國二百四十一。
地東西九千三百二里,南北萬三千三百六十八里。
に見えるように漢書地理志にも同じ里数が書いてある。
前漢の初めころにすでにこの大きさであったので、後漢に於いて同じ大きさはありえない。
なので、その情報は前漢時代のものであてになりません。
64 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 18:32:24
65 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 19:09:20
66 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 19:20:04
67 :
ローガン:2010/06/24(木) 19:28:43
>>63 お! 初めて反論が…
ごめんなさい、記憶で書いたので間違っていたら訂正を。
いずれにしても、「四千里征伐」なんで目くじらたてる程ではないでしょ?
だいたい、淵誅まで東夷の事はわからないと云っています。「帯方東南万里」なんだから公孫氏が自立している時代。
つまり、「絶域」の時代。 実数とは考えにくいでしょう。 淵誅後の使者来倭に基づく数字なら、帯方東南万二千餘里としたでしょう。故に万里は修辞であるが結論。
これはどう?
「於是ワイ狛倭韓万里朝献」 実数ですか?
68 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 19:43:29
69 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 19:54:23
70 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 19:58:17
>>69 おまいはそれらの山名がいつついたのか全部調べたのかよ。
いつもの畿内説の連中、フォローしねえのか
72 :
畿内説:2010/06/24(木) 20:17:09
これはシュメールの同類なのでフォローできない。
73 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 20:23:00
たしかに山名による歴史調査は、信憑性に疑問が提起されます。山名は麓の
村の違いにより別名で呼ばれることもあるでしょう。だれだれが名付けた山と
いう言い伝えも多く在ります。
でも、最終的に現在残された山の名前には、いくつかの呼び名があれば調査
比較して残されたもので、もっとも有力で意味のある山名を選択していると考
えます。また、後のだれだれが付けた山名との伝承が真実かどうかは、判断の
しようがありません。
たしかに、一山では何も分かりませんが、このように多くの同名の山を調べ
ることで、偶然に後の人が名付けた山か否かが見えてくると考えています。
74 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 20:29:18
75 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/24(木) 20:39:03
>>54 謎1, 日向は筑紫から派遣された五瀬命が見ていたが、痩せた土地であり、穀物の
実りが良くなかったため、筑紫に帰ったところで長脛彦の出奔を知る。
謎2, 神武は筑紫を継ぐために、筑紫へ帰り、そこでタビラ媛と結婚、手研耳を産む。
謎3, 当時の暦法。
謎4, だから道案内にヤタガラスを使う。
鷹取山など無くてもいっこうにかまわない。
76 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/24(木) 20:52:14
神武の杖に止まっているのは、金鳶なの
鷹は関係無いの。
もしかしたらトビも知らないの?
77 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 21:10:43
記紀の二書が記す東征は、ほぼ同じ内容です。ところがこれらの謎が解け無い
ので創作された神話とされています。しかし、まったくの創作でなく、これに近
い事実があって、それに基づき記しているとする意見もあります。むしろ創作さ
た神話ならば、謎に満ちた筋書きにはしないだろうとする考えです。
謎に対して、全く創作としないで、いろいろな謎解きがあってよいように思いま
す。
78 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 21:22:32
山の名前を変えて進んだ方向を表しているように見えて、その方法に感心
します。しかし、なぜ高取山と鷹取山なのだろうと疑問が出ます。
高取山の高は「高天原」の高と考えました。方向を表すために高に代わる
「タカ」を探すと貴、鷹、隆、嵩などの候補があがります。その中で「鷹」
は東征の戦いにふさわしい字です。取は国取の意志も隠されているのかも
しれませんが、鳥の意味であることは、後に多くでてくる○尾山から推定
されます。
79 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/24(木) 21:34:53
神武元年は西暦42年とお月様が申して居ります。
もう謎は無いだろ。
80 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 21:46:56
(14)東日本のベクトルの意味
東日本にもベクトルがあります。次のとおりです。
A1)高取山(556m、神奈川県伊勢原市三ノ宮 付近)
B1)高取山(522m、神奈川県厚木市飯山 付近)
C1)高取山(705m、神奈川県愛甲郡清川村宮ヶ瀬 付近)
M1)高取山(584m、奈良県高市郡高取町高取 付近)
N1)高取山(358m、茨城県東茨城郡城里町錫高野 付近)
O1)高取山(362m、岩手県九戸郡洋野町種市 付近)
P1)高取山(565m、岩手県宮古市茂市 付近)
Q1)高取山(170m、埼玉県入間郡越生町 付近)
R1)高取山(271m、山形県東村山郡中山町土橋 付近)
A2)鷹取山(219m、神奈川県中郡大磯町生沢 付近)
B2)鷹取山(139m、神奈川県横須賀市湘南鷹取 付近)
C2)鷹取山(472m、神奈川県相模原市藤野町 付近)
M2)鷹取山(1036m、山梨県南巨摩郡身延町 付近)
N2)鷹取山(424m、茨城県常陸太田市天下野町 付近)
O2)鷹取山(607m、山形県山形市大字柏倉 付近)
P2)鷹取山(597m、岩手県気仙郡住田町下有住 付近)
Q2)鷹取山(459m、山形県上山市久保手 付近)
R2)鷹取山(419m、新潟県村上市寺尾 付近)
ちょうど九対になります。
これは日本武尊の東征のベクトルと考えるのでここでは割愛します。機会が
あればまた報告します。
81 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 21:57:52
(15)倭国連合の痕跡
鉄の文化や地名は北九州から大和への移動が見られるのに、何故、宮崎県か
ら東征が出発したのか謎でした。このベクトルが示すように、北九州勢力と倭
国連合して二手に分かれて出発したならば記紀に記す内容が納得できます。本
隊を指揮したと考える五瀬命は東征の途次戦いで亡くなり、日向から出発した
若御毛沼命が即位したので、本隊との合流の伝承が小さくなったのではないだ
ろうか。倭国連合の痕跡が無いか探してみます。
(1)古事記は東征出発の様子を「すなはち日向(ひむか)より發たして筑紫
に幸行でましき。」と記し、その数行後で「竺紫の岡田宮に一年坐しき。」
と筑紫・竺紫の異なる「つくし」を用いているのは、一旦筑紫に向かい
その後、日向から竺紫の岡田宮に向かったとも解釈できます。
(2)高千穂神社参道案内板の由緒書では「神武天皇の皇兄三毛入野命が御東
征の途次高千穂に帰られて日向御三代をおまつりされたのが初めで、」
と書かれていて、東征以前にどこかに出向いたことを示唆していました。
http://www.genbu.net/data/hyuga/takatiho_title.htm
82 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/24(木) 21:58:17
>山の名前を変えて進んだ方向を表しているように見えて、
その名が定着するには何が必要か?
初めての土地で名も解らないから、鷹取山と名付けて前に進む。
地元の民はそんなことにお構いなく以前からの呼び名を使う。
83 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 22:25:54
「日本古代文明の謎(井上赳夫著)」に次のようなことが書かれ
ていました。
日本武尊の東征と「タカ」型地名という章で、
『神武東征後の英雄日本武尊の足跡を眺めているうちに、神武東
征時にみられた「タカ」型地名が、日本武尊の経路に沿っている
ことを見出した』という内容です。
神武天皇は稲作技術を伝えながらの東征だったので、豊後高田、
熊野の高田、大和高田などを残し、日本武尊も陸前高田、越後
の高田などを残したという説です。
日本書紀にも、難波や雄水門など東征途次の名付が記録されてい
ます。そのころ、山名がどの程度付けられていたか不明ですが、
強力な東征隊の力であれば、必要箇所に名付けて残すこともでき
たと考えます。
取り上げた山を訪ねると、形良く見える場所に必ず村があること
に気づきました。名を残すために人の残置までを想像します。
84 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 22:33:29
85 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/24(木) 22:37:25
つづきは明日にします。
86 :
ローガン:2010/06/24(木) 23:03:00
>つづきは明日にします。
ああ…そうなんですか。過疎ってたんで書いたんですが…
又、来ます。
87 :
日本@名無史さん:2010/06/25(金) 09:41:28
88 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/06/25(金) 11:16:16
>>ローガン氏
陳寿が万二千里を測った訳ではないからね。韓の方四千里を魏の里でどう説明する?
帯方東南万里の万里は、万二千里をさらに大雑把に言ったものといえる。三国志を読めば万里で陸行に
変わるのが分かるので万里は万二千里より、より正確な数値と考えたとも言える。
少なくともこれをもって三国志以前に万里が書かれたとは言えない。前提が崩れるので以下の考察は意味がなくなる。
後世の書は三国志の記述を踏襲して書かれている。畿内ヤマトへの行程文が三国志の記述に似ているのは偶然ではない。
水陸行2ヶ月というが、陸行1月はどこをどう歩いたというのか?もちろん水行せずにという意味も含まれる。
末廬國、伊都國、奴國を松浦川河口、怡土、那とした場合、方位・距離が三国志の記述と合わないのは周知の事実だが、
それを持って魏志倭人伝の方位・距離が信用に値しないと結論するのは早計。例えば私の説では問題ない。
そもそも漢書の万里+二千里という主張とのつながりが見えない。
89 :
ローガン:2010/06/25(金) 15:23:13
>>57 >上陸してからは二千里で、それは公定里で考えろというのかな?
いいや、全て公定里。現実と著しく乖離するものは、当然、間違いであると判断される。もしくは、単なる修辞と判断。短里も長里もない。万人が共有する度は一定。
>しかし、東南五百里の伊都国はどこに比定するんだ?
だから、上で書いたやん。怡土 糸島だと。使者は壱岐から海路、伊都国へついたんですよ。
倭人伝は紀行文じゃなく地誌なんだから。
90 :
日本@名無史さん:2010/06/25(金) 15:30:32
むしろ、魏志倭人伝の部分においては、氏が主張される公定里の方が、
現実と著しく乖離し、間違いと判断されるのではないか。
91 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/25(金) 15:32:23
昨日のつづきです。
(17)魏志倭人伝のクニグニ
三つのベクトルが示す以外の東征参加勢力はどうだったのか気になります。そ
れが高尾山・高雄山を残して東征への参加を残していました。
魏志倭人伝に記すクニの参加です。
1)高尾山(142m、長崎県壱岐市芦辺町付近)
一支国の都とされる原の辻遺跡の北3kmにあります。
2)高尾山(218m、佐賀県唐津市養母田付近)
末櫨国とされる唐津の松浦川左岸にあります。
3)高雄山(151m、福岡県太宰府市石穴付近)
この山も奴国・不弥国が東征に参加したことを表しているのでしょう。尾でな
く雄を用いたのは、この経路の終点を示していました。魏志倭人伝に残るクニ
グニはここ大宰府で本隊に合流したのでしょう。
92 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/25(金) 15:42:30
93 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/25(金) 15:53:09
94 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/25(金) 16:02:48
95 :
ローガン:2010/06/25(金) 16:06:26
>>88 >韓の方四千里を魏の里でどう説明する?
だから云ってるのに。万里が修辞だと考えているの。四千里四方の韓地、南方向へ四千里。東方向へ三千里で計七千里。残りの三千里を三回の渡海に均等割りという「万里ありき」の机上の計算。
>三国志を読めば万里で陸行に変わるのが分かるので万里は万二千里より、より正確な数値と考えたとも言える。
どうやって海路の「正確な数値」を計ったの?
それに(あなたの論調でいくと)上陸までは正確に万里。そしてその後、帯方〜末盧間の5分の1強を陸行した事になるけど…それでいいの?
>少なくともこれをもって三国志以前に万里が書かれたとは言えない。
なんで?
>水陸行2ヶ月というが、陸行1月はどこをどう歩いたというのか?
使者が歩いたとは書いてないよ。
96 :
日本@名無史さん:2010/06/25(金) 16:16:46
>帯方〜末盧間の5分の1強
熊本、宮崎付近か。ちょうど良いですね。
97 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/25(金) 16:20:17
(20)重層で示す東征経路
ここで、東征経路を次のように階層的に使用していると考えました。
第一層 高取山→鷹取山のベクトルで東征の大まかな方角を残している。
第二層 高尾山・高雄山でベクトルで表現できない足跡経路を残している。
第三層 ○尾山で東征経路や事跡などを強調している。
第一層の高取山→鷹取山のベクトルがあるから、第二層の経路が読み取れる
ので、第二層や第三層の○尾山のみでは、経路の把握は困難と思います。
東征隊は、実に良く考えて的確に配置していると思われます。
さらに○尾の地名なども残しているようです。東征は単に言向けや討伐が
目的でなく、先にも記したように、潅漑稲作を普及させたり、村々に名前を
つけて区別できるようにすることも、重要な建国の作業だったと考えます。
98 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/25(金) 16:44:32
(21)なぜ○尾山なのか?
なぜ○尾山なのかもう一度考えて見ます。鷹取の取は鳥を意識したものとの
考えは前に述べました。神の遣いは鳥となってやってくる、そんな意味と思い
ます。吉野ヶ里遺跡の環濠の門としておかれている鳥居にも、鳥の木彫がとま
っていました。
○尾山の尾や雄は鳥の尾や雄であることが分かります。
○尾山の中でも、高尾山・高雄山は全国に54見つかっていて、高天原の高を
使用しているので、ランクを分けて使用しているようです。
上記の高尾山と高雄山を除いた○尾山は全国に177見つかっています。
西日本の東征経路にあると思われる、○尾山を続けて検証して見ます。
99 :
日本@名無史さん:2010/06/25(金) 16:55:38
>>95 いくら公定里だなんて言ってみたところで、修辞だ、誤解だ、と言って記載を否定
するならば、倭人伝はでたらめだという説と何ら違いはないな。
つまりは、畿内説では合理的説明はできないってことだ。
100 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/25(金) 17:07:24
101 :
日本@名無史さん:2010/06/25(金) 17:22:40
仮に松浦に上陸してから、公定里が正しいとすると
松浦−伊都間500里=200km
伊都−奴国100里=40km
奴国−宇美国間100里=40km
邪馬台国から海を千里=400km渡ると倭種有り
公定里を使うと、伊都、奴国、宇美国は定説からは外れますね。
というか、公定里を使うと、松浦から二千余里で畿内に届くという
一点以外は全部外れるんじゃないかな。
公定里を使うと
狗邪韓国 ×
対馬 ×
壱岐 ×
松浦 ×
伊都 ×
奴国 ×
宇美国 ×
水行、陸行不明
松浦から畿内までの距離、遠回りなどを考慮すれば ○
実際には瀬戸内海側で600キロ程度 1500里
102 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/25(金) 17:32:43
103 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/25(金) 17:42:55
>(20)重層で示す東征経路
東征は何時ですか、数字を付けてから始めて下さい。
104 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/25(金) 18:10:06
東征が何年ごろの出来事か私も大変興味があります。魏志倭人伝にに出てくる
クニグニに東征の足跡と思われる高尾山や高雄山が見つかったので、魏志倭人
伝が記す時代と、東征が近い時代と考えました。
しかし、このような、ベクトルからの時代推理はこれが限界だと思います。
105 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/25(金) 18:15:14
狗邪韓国はその北岸である。
もちろん狗邪韓国が任那であった時代である。
任那建国は新羅本紀に書かれた209年の出来事。
ここの連中から聞き出した邪馬台国の位置は、かなり間違っていました。
106 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/25(金) 19:09:53
107 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/25(金) 19:31:38
108 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/25(金) 19:44:19
109 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/25(金) 19:55:26
110 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/25(金) 20:16:23
111 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/25(金) 20:51:42
高取山→鷹取山は東征のベクトル さんよ
いくら書き込んでも数字が無ければただの作り話でしか無い。
112 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/25(金) 21:36:15
113 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/25(金) 22:22:53
>>唐松山さん いくら書き込んでも数字が無ければただの作り話でしか無い。
ここでいう数字とは、実年代あるいは暦年のことをおっしゃっていると思い
ます。
今、果てしなく議論されている状況をみますと、建国への過程(九州説・近
畿説など)の問題とその実年代についての問題があると考えます。
(1)で述べたように限られた歴史書の解釈と遺跡の発掘情報のみでは、永
遠の謎になってしまいそうです。そこで別な視点から、記紀が記す東征が、
東征の全てを記しているのでは無いが、真実の一端を記していることが分か
ればもう少し実年代を絞れる議論ができるのではないかと期待しています。
今回の報告は、全く別な視点からの検討なので、ファンタスチックな物語と
受けとられる方も多いと思います。でも山は千数百年を経ても現実にそこに
あるのです。これから、千年経ても残ります。まずはその全体構成を考えて
みる必要があると思います。
インターネットが発達した現代だから、あたらしく得られた視点なのです。
つづきは明日にします。
114 :
日本@名無史さん:2010/06/25(金) 23:41:12
倭人伝は、帯方郡から「万二千餘里」先の場所を、会稽東冶之東としているわけではない。
万二千里は女王国に達する距離、すなわち女王国の北の境界までにすぎない。このような読
み方は、既に明治時代に内藤湖南が、そのようにも読めると指摘しているところだ。
したがって、万二千里の地点から女王国の南の境界までは、まだまだ距離がある。と言うわ
けで会稽東冶の東というのは、女王国の北の境界が会稽の東、南の境界が東冶の東というこ
とだ。
次に、倭人伝は、なぜ、北の境界を会稽の東としたか、という問題だ。
これは、倭人伝が1里=80メートル前後の短里を使用していることを前提に考えると簡単
に理解できる。郡から万二千里といっても、そのうち、朝鮮半島の南では東行する。
それと、伊都国へは東南陸行となっている。そのことを考えると、女王国は、郡から南へ一
万里程度のところということになる。郡の緯度から約800キロ南、それが万二千里の位置
だ。それがすなわち会稽付近だということだ。ぴったりだろう?
115 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/25(金) 23:44:04
昔の編年は書紀と百済本紀の整合性を取ることで得られた数字だ。
それが、崇神=卑弥呼 同時代である。
今考古学が50年ほど遡上した。であるならば、
纒向(2世紀末)=崇神 となる。
そうすれば、新羅192,3年=崇神5,6年という文献同士が同じ時代を表記している
事がわかる。
この事実を書紀に反映させれば、42年=神武元年=第X様式の始まり。が得られる。
考古学の数字と書紀は合わせられるのだ。
数字の合わせ方は各自の勝手でも良いが、歴史の話なら数字は避けて通れない。
116 :
日本@名無史さん:2010/06/25(金) 23:55:55
よく考えたら、公定里の存在を示す情報が皆無のような気がする。
ローガン氏も、公定里と実測が合わないことを証明している。
既知の地名と実距離も合わない。
つまり、公定里が434mであることを証明するものがない。
公定里そのものの存在を疑ったほうが良いのかもしれない。
そこまで言うのは極論だとしても、里程が統一されていない可能性は高い。
あくまでも陳寿が不完全な地図を元に、公定里で計測したとするなら
その地図が、昔の各地の公定里でない里程で記録たもので
実距離と記録された公定里が合わないのかもしれない。
117 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/06/26(土) 00:00:53
>>95 方四千里は韓伝であって倭人伝ではないだろ。万里は倭人伝なのだからそれをもって韓伝を歪めるのはよろしくない。
また司馬懿が公孫氏を攻めるに当って説明する場面では、帯方郡の東や南に接する国および地形にある程度の
知識があったことが伺える。つまり韓半島は未知の領域ではなく、ある程度は知られた場所であった。
それを方四千里と書いているのである。むしろ(万里ありきの)卓上計算では決して書かれない数値とみるべきである。
>>どうやって海路の「正確な数値」を計ったの?
なにか間違えておられる。
三国志に7000里+1000里+1000里+1000里の水行が書かれている=万里、といっているだけだ。
その後陸行になる。つまり万里が三国志を読んで出てくる倭までの大雑把な距離なだけだ。そしてこれは
あなたの主張とは全く関係なく言える話。
>>帯方〜末盧間の5分の1強を陸行した事になるけど
意味不明。陸行は末盧以降の行程、三国志にそう書いてあるだろ。
>>使者が歩いたとは書いてないよ。
水陸行2ヶ月とは水行1月陸行1月ではないということか?理解できるように自身の主張をしてくれないか。
118 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 00:11:33
>>116 実を言えば、公定里が434mだなんて証拠はまったくないんだよ。公定というからには
布告か何かなければならんが、そんなものは全くみつかっていない。
現代の辞書等をみて、1里=434とかが公定されていたと思い込んでいるだけだ。
119 :
ローガン:2010/06/26(土) 00:49:55
>>117 >方四千里は韓伝であって倭人伝ではないだろ。万里は倭人伝なのだからそれをもって韓伝を歪めるのはよろしくない。
倭人伝の起点はどこ?帯方郡でしょ。その起点と倭人が居る所の間にあるのが韓地。(なんでこんな事、説明がいるのか…)
>三国志に7000里+1000里+1000里+1000里の水行が書かれている=万里、といっているだけだ。
上の貴レス
>>88に「三国志を読めば万里で陸行に変わるのが分かるので万里は万二千里より、より正確な数値と考えたとも言える。」
とある。だから、「より正確な数値」の万里を構成する海路7000里をどうやって計ったの?と尋ねているの。
>理解できるように自身の主張をしてくれないか。
だから、地誌だと云ってるのに、わかりませんか?紀行文じゃない。
120 :
ローガン:2010/06/26(土) 01:04:02
>>118 >現代の辞書等をみて、1里=434とかが公定されていたと思い込んでいるだけだ。
否定する前の段階で、現代の辞書が何故、そのように記載されるようになったか? とか、疑問に思うでしょ?
疑問に思って、調べてみた? どうだった? 辞書の編集者は何をどう間違ったの?答えられる?
121 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 01:16:19
他人がなぜ間違えたか、それは分からんな。思考過程までは書いてないんでね。
だが、根拠があるなら答えてみて。何を根拠に公定里というの?
122 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 03:28:28
>何を根拠に公定里というの?
邪馬台国を、遠い畿内にまで引っ張ってくるために、
根拠のない詐欺を吹聴しているだけ。
123 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 07:41:41
当時の公定里が約400m強である事は、
誰も動かすことの出来ないものだ
124 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 08:19:10
>>123 それじゃローガンの助けにならん。根拠を出してね。
125 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 08:41:10
>>124 >それじゃローガンの助けにならん。根拠を出してね。
ここではこんな単純な事まで根拠の提示が必要なのか?
秦の始皇帝が度量衡の統一を図ってから唐の時代の唐六典をまとめるまでの間
一切度量衡の変更がされていない事は周知の事実
時代によって里の長さを割り出すに至る原器的な存在である尺の定規は、若干の違いはあるものの
概ね現在の単位で言う、約20cm強という長さ
その尺の1800倍が里であることも変えることのできない不変のものだよ
里の1800分の1が尺ではなくて、尺の1800倍が里という長さを知る単位であることは
秦の度量衡の統一制定から唐六典が編纂されるまで、変わったという史実が存在しないことが根拠というか論拠だよ
126 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 08:58:02
>秦の始皇帝が度量衡の統一を図ってから唐の時代の唐六典をまとめるまでの間
>一切度量衡の変更がされていない事は周知の事実
そうとは限らん。王朝がかわったときに制度が変わることはよくあることだ。
ましてや、今問題になっているのは、東夷伝における里の話。東夷においては、
中国本土と違う里が使用されていることが当時の人々に知られていたとしたら?
>その尺の1800倍が里であることも変えることのできない不変のものだよ
今の日本の里はちがうみたいだね。誰が変えたの?
127 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 09:03:23
六尺で一歩だから6歩歩いて一歩、また300歩で一里。
1800歩歩いて一里。これは計算大変だと思う。
もしも長里だとしても、歩いて計ればでこぼこの道、坂、山、谷などあって
曲がり練って計れば、現代人が計る感覚の約6分の1になるのかもしれないし。
だからどう考えても短里計算のほうが、現代人の感覚にはぴったり。
中国の歴史についても、領土の大きさは今までの定説とは変わって来ますよ。
128 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 09:03:25
>>126 >王朝がかわったときに制度が変わることはよくあることだ。
制度が変われば変わったことを記す史実が必要だ
それがなければ変わったとすることが間違い、禅譲行為と言うモノを否定するものだ
現王朝は、前王朝を譲り受ける
前王朝の制度が現在にそぐわない場合は、制度変更と言う公の行為が必要となる。
気分や趣味で変えられるものではない。
129 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 09:11:40
>>126 >中国本土と違う里が使用されていることが当時の人々に知られていたとしたら
知られていたという史実での話なら請け負うが、知られていたという史実を提示できるのかね?
そのような空想活劇を織り交ぜるから話の収集がつかなくなるのだよ
>今の日本の里はちがうみたいだね。誰が変えたの?
その話と現在取り上げられている問題と、どんな接点が存在するのかな?
日本は中国領土ではないぞ
まあ君の主張はすべて、個人的な感覚の話が根幹となっているので
ここで目くじら立てる必要もないけれど
>>127 >これは計算大変だと思う。
主観的なものを組み込んではいけない。
それとも1800倍という計算が大変だったという、当時のエピソードでもあるのかね?
130 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 09:12:03
>制度が変われば変わったことを記す史実が必要だ
なんか、言葉をよく知らないみたいだが、制度が変わったら必ず公の記録に残っ
てるはずだといいたいのかな?
尺の長さが時代によって少しずつちがうということは知ってるかな?
それ、全部公の記録に残されていると思ってるの?
当時は何かがあったとしても、それが今に伝わる史料に残っていないことは
いくらでもあるよ。
131 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 09:15:02
>>129 >日本は中国領土ではないぞ
東夷伝が伝えるところも中国の領土の話ではないんだよ。
132 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 09:16:38
>>127 >六尺で一歩だから6歩歩いて一歩
貴方の場合、ここの認識がそもそもの間違い
歩くことと単位の(歩)をごっちゃにしている。
文字は(歩)と同じだが、一歩という単位とあゆみの一歩は違う
133 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 09:21:37
>>131 >東夷伝が伝えるところも中国の領土の話ではないんだよ。
東夷伝であろうとなんであろうと、中国の歴史なんだよ
中国と言う視点から見た東夷のお話だ
東夷の歴史ではない。東夷からの視点でモノを見た東夷伝と中国からの視点の東夷伝を
同じテーブルに乗せてはいけない。
君たちの場合、味噌も糞も同じような形状色と言う観点から
同じテーブルにのせる傾向が有るようだが、それは当然間違いと言う事は分かると思う
134 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 09:23:33
歩にしても、距離を表す場合と面積を表す場合がある。
六尺一歩は面積の場合の一歩のことで距離とは違っていたとか。
そうじゃないと文献に直線距離として○歩と書いてある距離は普通に歩いて何歩という
意味にしか思えない。歩いて六歩で一歩と距離の場合は言わないだろうと普通に思う。
六尺一歩は面積の場合にだけ使用したのではないの?
135 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 09:30:17
>>132 では歩くことはなんといいましたか?
単位の歩が面積と距離の両方を表したのなら、
普通に歩くのをなんと表現したのんでしょうかね。
136 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 09:50:28
>>133 >東夷からの視点でモノを見た東夷伝と中国からの視点の東夷伝を
>同じテーブルに乗せてはいけない。
あなたの考え方はそうかも知れないが、皆がそう考えるわけではない。
東夷で中国とは別の里が使われていた、それがかなり知れ渡っていた、
となれば、現地の里をそのまま使って中国の東夷伝が書かれることも
あるだろう。いちいち、中国の里に換算するのは面倒だからね。私は
そう考えるよ。
東夷で別の里を使っていたのか、それが知れ渡っていたのか、その明
確な証拠はないが、東夷伝の距離は中国の里では理解できない、しかも、
東夷伝を通じていわゆる短里で考えるとバランスがとれている。となれば、
別の里があったと考えるのが合理的だ。
137 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 09:58:44
>>136 私も短里のほうがバランスがとれていると思うけど、
中国の里とは分けて書かれていたとは思わない。
中国の里も東夷伝の里も同じだと思う。
つまり、中国の里も同じ時代の文献のものは短里の方が真実に近いのだと思う。
138 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 10:03:21
>>136 >東夷で中国とは別の里が使われていた、それがかなり知れ渡っていた
知れ渡っていたという史実はありません。
それに中国からの視点というのは私の観点ではなく、中国の歴史書であるという事実からくるものです
当国の歴史書が、別の国からの視点にて書かれたという歴史は存在せず
当該国の歴史書と言うものは、当該国からの視点観点から書かれるものであるという
基本姿勢は動かす事ができません。
139 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 10:17:14
中国の歴史は全部長里に合わしてあるので、秦時代に
ベトナムまで領土があったとしているけど、ほとんど信じがたい。
秦の前は周で其の前は殷、夏、五帝時代で領土もはっきりしたことがわからない。
それなのにいきなり秦がまるで中世、近代のように大きな国を持つことは
無理だよ。
やはり長里であっても、大昔のは短里の感覚でピッタリだということを
日本の対馬、壱岐間で示したほうがいいんじゃないの?
140 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 10:18:24
>>134 >六尺一歩は面積の場合にだけ使用したのではないの
「健歩立畝」という言葉があるように、「六尺一歩」の基本的な概念は
面積を数値化する場合の応用です。
面積「畝」は面積「歩」の100(10×10)個分と言う基準を成立させるための換算的な基準です
で、畝の100分の1個分の「歩」という面積単位の大きさを数値化するに当たり
面積の一辺を、面積「歩」に対して辺「歩」というものが導き出す事ができるという
原理からくるものです。
(歩×歩=面積歩) で、この辺「歩」の長さを六尺と統一したのが始皇帝と言う事になります
つまり、この六尺一歩とは
あなたの言われるように、面積を数値化するために用いられたのが根本です
正方形の一辺の長さだけを提示する事によって、面積を知ることができる
これが「方歩」
この一辺の長さが、後に距離という長さにも応用されたというわけです
だから「建歩立畝」という言葉が必ず前置きされるのです
141 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 10:22:06
>知れ渡っていたという史実はありません。
ないということも立証できません。
>基本姿勢は動かす事ができません。
それはあなたの考え方。私などはそうは考えません。
そして、あなたの考え方では魏略も魏志も理解できないでしょう。私の考え方ならば
両方とも何の問題もありません。
ちなみに、直木孝次郎氏も特別の里を考えていましたね。
142 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 10:24:56
>>135 >普通に歩くのをなんと表現したのんでしょうかね。
根本的に表す必要がなかったという事です
当時は「歩く」のは常識で、乗車というのは特別な事
特別な事だけに名称が存在していれば、歩くと言う事を改めて示す必要がなかったという
時代背景があります。
陸地を移動する=歩く
陸地を移動している文章内容が存在していれば、歩くという行為を掲載する事がないからです
143 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 10:29:53
>>141 >ないということも立証できません
「ない」とするものは立証する必要がありません。ないものを証明すしろというこういは
悪魔の証明であって、話にもならない愚かな行為です。
>それはあなたの考え方。私などはそうは考えません。
これも同じ事で
動かせるとする方に立証責務が生じます
動かせないとする方に立証を促す事はできません。動かないのだから
基本的な考え方ですよ
144 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 10:33:14
でも普通に距離を測る場合、足で歩いて計るけどね。
いちいち六尺一歩だと尺が元になるから、メージャーかなにかを
もっていなければならないし、持ってなかったら、目視で一尺を決めその六倍を
数えなければならないから、とても普段使いには不便だ。
145 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 10:33:59
事実の探求に、立証責任は関係ありません。
立証責任というのは、事実とちがっていてもかまわず、どちらかに結論をだすための
便法です。
物凄いハイペースで付いていけないwww
におうよにおうよ。水生動物のにおいが
>>145 それは事実探求という蓑に隠れた逃げ行為
立証と言う言葉を用い出したのは
>>143です。
一度立証と言う言葉が登場すれば、それは立証と言う観点から物事を考えなkれば成りません
事実探求と言う観点にて議題をすすめたいのであれば
>>143みたいな言葉は生まれません。
一体どちらなのですか?
立証するのか?事実探求をしたいのか?
>>144 >でも普通に距離を測る場合、足で歩いて計るけどね
現在でもグリーン上ではそうします。
グリーン上では歩測にておおよその長さを知り、脳内でその歩数をメートル化し認識します
しかし
その行為は本人だけの脳内行為であって
第三者にその長さを言葉にする場合は、第三者にも理解できるメートル法にて
相手に伝えます。
「だいたい10メートルかな?」と
「15歩だよ」
なんて言葉にはだしません。
149 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 11:04:13
実距離と5倍6倍違えば
公定里の信憑性を疑うのが当然だと思うがな。
実距離と相関が認められないくらいに違えば
距離を記録する役には立つまい。
150 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 11:04:49
後漢時代の帝陵にしても山方○歩という方を周囲としないと
実測値に合わないから周囲を表すなどと言っているけど、
これなんかほんとうに決りを無視している。
一辺にすれば、○歩で短里計算すれば、ぴったりなのに。
そういう現実を無視するから、詐欺的だと言われてもしかたないのだよ。
151 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 11:06:43
152 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 11:15:36
>>150 誰がそんな事言ってるの? で、その話と今の話題と何が関係するの?
153 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 11:21:10
別スレの過去レスの話ですけどね、唐突ですみません。
歩についての計算ですから関係あります。
154 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 11:25:01
ここまでに、公定里を使ったという根拠が無い
155 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 12:29:14
赤壁の戦いや穆天子伝は、短里でないと説明がつかない。
156 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 13:44:07
>>155 では短里で説明がつくということか?
で、その短里の元となる原器に相当するものはなに?唐突に都合で設定されたアバウトなものなのか?
157 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 14:14:56
それは公定里や日本の度量衡他の原器に相当する
ものを提示してから聞くべきであろう。
158 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 15:22:24
>>157 原器に相当する当時のものさしが存在する。
公里とされる約400メートルの値は、そのものさしからはじき出された数値だ
159 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/26(土) 15:26:43
短里と言われている数値にはその元となるものが存在せずに
すべて結果を元に編み出された
いうなれば、答えを提示し問題や式を後から作成する作業だ
>>157は
>>158で原器に相当するモノサシを提示されたのだから、すぐさま
短里の経緯に至る原器に相当するものを提示するべきだろう
161 :
ローガン:2010/06/26(土) 15:36:21
>>121 >他人がなぜ間違えたか、それは分からんな。思考過程までは書いてないんでね。
いや、「現代の辞書は 間違いだ」と指摘してるんでしょ。どう間違っているの?
多分答えられないとは思うから無理強いしないけど。
162 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 15:38:42
>>162 中国国内で発掘され出土した考古学的遺物です
たしか数点出土しているはずで、故宮博物館にも集蔵されていると記憶します
164 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 15:43:47
>短里と言われている数値にはその元となるものが存在せずに
>すべて結果を元に編み出された
これはそのとおりだ。
しかし、少なくとも、魏志倭人伝において
一致するところが全く無い公定里は、
魏志倭人伝の距離の根拠とすることは出来ない。
一致することが全く無い以上、公定里を使ってない
根拠となる。
早く短里の元となる原器に相当するもを提示してください。
まあ、机上の空論から発生した思いつきなら
提示する必要はありませんが、というより出せないでしょうから
166 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 15:49:42
まあ、公定里原器の提示待ちだな。
故宮博物館らしいぞ。がんばれ
167 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/26(土) 15:54:04
168 :
ローガン:2010/06/26(土) 15:54:50
確か上で、「現実離れした距離では軍事記録としての意味がない。」と九州派のレスがあった。
軍事記録であるなら、天子の軍人が王朝の統一度量衡を使用しない理由は何?
それとも公定里が短里であったと主張するのかな? …しかし書き込む時間帯がベクトル氏とかぶる…
169 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 15:57:06
ローガン氏は公定里原器の資料持ってないですか?
>>164 >一致するところが全く無い公定里は、
それは倭人伝を正確に把握できた後の話であって、中途半端な人が言う台詞ではないような?
倭人伝の読み方が正確でないのであれば、公里を使用していても
その存在は決して確認できないものになります。
公里を否定するのに、倭人伝では一致しないからというのは理由になりません
公里というのが、それら原器に相当するものの根拠にもとづいて想定されたものであるのだから
それを否定するのであれば、それに相当するような経緯をもって否定すべきでしょう
秦の時代から延々と受け継がれた制度を否定する場合、それなりの根拠は
あってしかるべきではありませんか?
それが出来ないのであるならば、それが出来るまでは決してそれ以外の架空的な考え方は慎むべきです
結果が間違いとか正しいという結論ではなく、過程における論拠提示は
最低限必要な事とか難がえます。
それが間違いか正しいかはその次の段階です。
171 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 16:01:44
>>170 少なくとも魏志倭人伝、あるいは魏志倭人伝の基となった資料では
公定里を使っていないという根拠になるでしょう。
もちろん、また別の時代地域では公定里に近い数値を使った
資料もなるでしょうけども、全国完全に度量衡が
一致しているわけではないという根拠になるでしょう。
172 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 16:07:17
公定里でググっても多分出てこないと思うよ。
公定里という言葉を使っているのはローガン氏
だけみたい。
中国語で何か正式な言葉があるんだろうけど
>>171 ならないよ
結果から導き出せば、その原点は無数に存在できる。
どんなにとんでもないものにも結び付けることが可能だ。
最低限スタートと結果ぐらい揃っていないと話にならない。
短里は結果だけが厳然たるしじつであり、その他はすべて想像上のものにしかすぎない
174 :
ローガン:2010/06/26(土) 16:08:05
北京八宝山晋墓出土象牙製一尺物差し24.1cm
甘粛省新城2号墓出土骨製一尺物差し 23.8cm
175 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 16:10:36
>公里というのが、それら原器に相当するものの根拠にもとづいて想定されたものであるのだから
これを前提条件とするなら、まずこれを証明してからにした方がいい。
これに近いものが使われていたことまでは否定しないが、
どこまで統一されていたかは分からない。
魏志倭人伝では明らかに一致していない以上、統一されていないと考える方が自然だ。
物差しの写真なら河童さんが持っている筈・・・・・・?数年前で売る覚えだけど、
そんな写真をリンクしていたような・・・・・・・・・・・・?
間違っていたらごめんなさい。
>>175 >どこまで統一されていたかは分からない。
個人的に認める認めないと言うはなしではなく、王朝と言う公のものに付随するのがそのモノサシです
統一されているとかいないとかではなく
公式的な書として認められたものに書かれているものは、公式的な見解にて読み取れ確認できると
いう証明でもあります。
その公的な制度を認めないと言うのであるならば、書全体を否定するものでもあります。
>これを前提条件とするなら、まずこれを証明してからにした方がいい
証明などする必要もないでしょう。
ここで議論する人達の最低限的な認識です。それを改めて証明してあげなければならないほど
低レベルなものですか?
そういうレベルをもって公里を否定すると言うのは
まったくの無教養のもとにここに参加しているという、新興宗教の一信者的な発想ですよ
そのようなレベルでは、ここで改めて説明したところで
説明の意味さえも理解できずに、ただ無駄な時間をすごすという愚かな行為となるでしょう
さっきから短里説は自分達の証明をしないで、他人にばかり証明をねだってばかりいないか?
>>178 出来る限り自分たちに証明の要求が向かないように必死だから
180 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 16:31:55
中国では三国志時代の短里なんて主張してる学者はいないよ。そんなことを言うのは
日本の一部の厨だけ。
魏晋朝里=約420mは、今では定説と言っても過言ではないでしょう。
その定説とするものにその経緯を証明する義務はなく
むしろ異説を唱える者にその証明責務が発生する事は半ば常識。
その証明責務を果たせないのであるならば、短里なる異説は引っ込めるのがスジというものです。
短里を唱えるのであるならば、きちんとその原義と過程を述べるべきでしょう
誰だよ?こんなアップテンポにレス進めたのは。
183 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/26(土) 16:51:39
短里者には証明を要求するのが一番効果ある。
185 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/26(土) 17:02:33
186 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/26(土) 17:13:45
187 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/26(土) 17:26:12
このベクトル厨は新手の荒しか?
189 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/26(土) 17:36:25
190 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/26(土) 17:45:55
191 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/26(土) 17:55:02
192 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 17:56:38
>>160 原器というが、単なる物差しだよ。ま、それはともかく、それを原器というなら、
短里の原器もそれなのだよ。短里の原器も実在するというわけだ。
1里=435説は、その物差しが示す1尺の1800倍が1里だという。短里説は
1尺の長さを争っているのではない(1尺の長さを別に考える説があるかも知れな
いが少なくとも私はそうではない)。1尺の360倍が1里だとかいう別の里があ
ったかも知れないと考えるのだ。
193 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 18:24:21
>>161 辞書の問題と、それを読む側の問題とがあるね。
辞書の問題としては、1里435以外の可能性に顧慮して書くべきだといえるかな。
読む側の問題は、辞書に1里435とあるからといって、それを公定里だと思い込む
ことだ。辞書に「公定」とは一言も書いてないだろう?
194 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 18:42:10
>>192 一尺の360倍でもいいが、その数値はどこからか?という説明が肝心要
195 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 18:59:21
>>194 東夷の地において1里が何尺だったかという文献史料は、まったく残ってないんだな。
だから、実際にどの程度の距離を何里と記しているか、というところから、考えてみる
ほかはない。扶余は方二千里、高句麗も方二千里、韓は方四千里などとある。
倭人伝の行程も里数を示している。それらを元に、1里がどのくらいかを出してみるこ
とになる。
196 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/26(土) 19:07:49
197 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/26(土) 19:26:20
198 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 19:30:37
>>156 フランス革命以前の原器を、一つでも挙げてくれる?
ついでに聞くけど、原器がないことが何か意味するの?
199 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/26(土) 19:59:53
200 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/26(土) 20:19:27
201 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 21:05:54
>>198 イミフ。
融通のきかないタイプと普段言われませんか?
202 :
ローガン:2010/06/26(土) 21:14:05
>>193 心情の吐露はいいから、辞書が記す度量衡のどこがおかしいのか 具体的に云ってごらんなさい。こんなとこでも一応、学問板なんだから。
>辞書に「公定」とは一言も書いてないだろう?
当たり前。それしか無いんだから。勿論乱れ…というか変動はあるよ。晋書読んでみ。
楽器の音が下がったのを修正して、逆に上がりすぎたとクレームが出てる。
それに(お約束事と云ってしまえばそうかも知れないけど)、魏文帝も「同律度量」と云っている。魏が短里とかは無い。
203 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 21:27:09
そう尺の長さが変化すれば、それを元にした笛の音律も変化する。漢書の律暦志ではこの音律が長さの基準とされ、
「長短を測ること黄鐘の長さを基本とする」とある。黄鐘とは古代中国の12音律の基準音である。この黄鐘律の笛の
長さに矩黍(くろきび)の中位の粒を並べれば90粒分となり、この1粒が1分。そしてこの音律を出す笛の長さを9寸
=90分とした。そして10分=1寸、10寸=1尺、10尺=1丈、10丈=1引とした。
204 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 21:33:05
歴代中国の「距離の原器」が残っていると考えている奴は、ちょっと頭がおかしいぞ。
>>198 >ついでに聞くけど、原器がないことが何か意味するの?
それに答えたところで今後の進展が望めないような単純な質問だな
普通は、原器がなくてもこれこれこういう理由で
原器が無くてもこういう論理が成り立つから、ここで原器を提示する必要が
ないと考えるが、どうなんだろう?
とかいう筋道の通った質問なら、こんご議論にも進展性を見出す可能性を秘めるので
その質問に答えることは吝かではないが
いかにも小学生レベルに匹敵するような疑問なので、それに対応するようなレスは無駄と判断し
遠慮しておくよ
理由を説明したところで内容を把握できるような能力があるとは判断しずらい
だからお互いに時間の無駄だよ
206 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 21:39:40
つまり、原器を示せっていうのは、なんら価値のないヤジだったワケね。
207 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 21:41:11
早く出せよ、歴代中国の距離原器を!
>>204 >歴代中国の「距離の原器」が残っていると考えている奴は、ちょっと頭がおかしいぞ
あなたの理解度がおかしいだけ
ここで言われている原器とは、里=約420mと換算することが出来る
物的な考古資料の事を言っているのであって
現在のようなメートル原器のようなものを言っているのではない
里=420メートルという数値は、その尺の曲尺の存在とそれに至る換算経緯が史料確認できる
範囲にあるから
現在定説と言う地位をえているわけだ
>>206 提示出来ない者にとってはヤジとする方が都合がいいわけで
それで片付けてしまいたいとする心情も察する
210 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 21:44:27
原器という言葉が出る時点で
ちょっと…な。
こういう単純な事に対して短里なるものの存在理由を、理路整然と述べることを誰もしないから
単なる一オタク的な地位しか得られないし、
永遠にその地位から抜け出す事もない
212 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 21:53:58
度量衡の制度史上、公的なものについてはきちんと整合していて疑義を挟む余地はない。古田が持ち出した「周髀算経」は
トンデモもいいところだ。だから「三国志」などの記載で度量衡に合わない部分があっても、それは実測値ではない不確かな
ものとして解釈するのが中国でも一般的だ。ただし地域によっては公里とは異なる数値が用いられていて、それで記述された
文献が史料として混じり込むことまで否定はできないかもしれない。
213 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 21:55:04
赤壁の戦い
孫権の呉軍が対岸の魏軍船団に水上二里(短里で百五十米強)の距離から火船を突入させて大勝、
魏軍を敗走させた有名な「赤壁の戦い」(レッドクリフ)は、長里(約九百米)を適用すると奇襲戦術が成立しない。
一キロ近くも離れた無人の火船は下流に流されてしまうか、発見されて撃沈されてしまうだろう。
>>210 原器と言う単語が登場したところでなんら議論に対する骨子は変化するものではない。
一単語のあげげ足とり的な表現にその活路を見出そうとする
その観点こそが浅はかで薄っぺらなものと判断できる
つまり、根本的に信じる信じない的な考えが大本となって組み立てられている所があるので
そのような傍流をあぶりだして本流から逸らそうとする流れが反射的に見に付いてしまったのだろう
215 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 21:59:08
まあ、仮に434mを示す原器があろうがなかろうが
魏志倭人伝の記録で公定里を使った形跡がないことは明らか。
仮にローガン氏の言うように末羅国までは、
非常に大雑把にしか記録されていないと仮定しよう
そして末羅国からは魏使が正確に測ったということなので
ここから一里434mを適用したとする。
そうすれば、伊都国まで500里なので217km
南東に行けば鹿児島、北東なら徳山だ。
そして奴国までさらに100里=43km
そして宇美国までさらに100里=43km
公定里説では伊都国、奴国、宇美国をどこに比定するか
少なくとも定説の場所ではないということは明らかである。
216 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:00:52
赤壁の戦いと同じ、短里をつかったとみるべきだろう。
217 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:06:33
で、3世紀にはどんな測量技術があったんですか?
お答え願おう。
>>215 >魏志倭人伝の記録で公定里を使った形跡がないことは明らか。
明らかではないだろう。
明らかとするには、そこに至るまでの経緯と言うモノが存在するからこそ「明らか」という判断が出来
その結論に至るのではないか?
その明らかとする経緯を一向に示さず「明らか」とするのはおかしい。
219 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:08:30
220 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:09:19
3世紀の測量技術が未解明なのに、
里数を語るのは愚かなことですな。
221 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:11:00
>>215 を突き崩すのは簡単
魏志倭人伝の中で明らかに公定里を使った例を示せばよいのだ。
222 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:12:13
>>221 そういう証明をする必要性はない。
三国志が正史として扱われている以上、その中身は公的なものに準じると言うのが大原則だ
書は正史で中身は適当では、その史料的な価値は限りなく薄っぺらなものとなる
224 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:15:18
>>222 現代との実測との誤差をどの程度するかまで論考しなければ、何の意味もありません。
225 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:17:20
というか赤壁の戦いでもなんでも、三国志の個々の度量衡を用いた記載がすべて正確な実測地であるなどと考えるのは歴史
センスの欠如もいいところだ。伝聞・錯誤・誤謬・推測・検証されないままの引用・・・のオンパレードと見るのが常識だろう。ww
226 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:20:45
実測値と全く関係がない里程になんの意味があるのだ?
当時は歩測か日数だろうから、大幅な誤差はあるだろうが
実際の距離を反映した数値であるべきだろう。
227 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:20:54
正確な実測値の話ではなく、短里でないと、
ストーリーが全く成り立たないわけだが。
赤壁の戦いが短里でないと説明できないというのは、単なる勘違いだっていう議論が、
ここか、ドン来いスレで、随分前にされていたと思うんだけど、
だれか過去ログ持ってない?
>>227 ストーリーが成立しないからと言って、ありもしない短里を作りだして
底にあてはめてしまうわけにはいかないだろう。
辻褄さえ合えば、その過程は何でもOK的な発想なのか?
230 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:25:47
>伝聞・錯誤・誤謬・推測・検証されないままの引用
これは確かにありえる。
しかし頻繁に行きかっていれば、修正される。
100キロのところが500キロという間違いが
そういつまでも残っているなどありえない
修正されないまま残っているほどの僻地であれば
公定里ではなく、ローカルな里程である可能性も高い。
というより公定里を使っている保証がない。
231 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:27:20
短里でないと理解できない例
一大(支)国・・・・・方可三百余里
232 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:28:02
>魏文帝も「同律度量」と云っている。
度量が常に統一されていたならば、必要のない言葉だな。
233 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:28:51
一大国って、その後、6倍も成長したのか?
>>231 どのように理解できないか説明してから「理解できない」という流れにはならないのか?
短里を唱えるものが、理路整然と説明すれば
それに意を唱えるものはいなくなる。
先にそれを何故しないで、あげ足取りてきな事ばかりしているの?
236 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:33:08
公定里300里四方なら、壱岐が120キロ四方の島ということになるな。
九州の半分くらいの島か。
>>228 >だれか過去ログ持ってない?
743 :日本@名無史さん:2009/10/02(金) 12:29:36
>>736 >・・・1里は430mよりはるかに短い。 要は’いわゆる’魏の公式里・・・
魏の公式里は短里です。例をあげます。
A「三国志」の「赤璧の戦い」。揚子江の赤璧で北岸の魏と南岸の呉と蜀の連合軍が対峙します。
その後、十隻の船が『北軍を去る2里余』に来たとき、船に火を放ち・・という戦いです。
つまり、川の中央より北に行き、北岸から2里余になったときというものです。
ここの川幅は400〜500mですので、
もしこれが長里なら2里は870mになりますから実体に合いません。
しかし、短里なら2里は150m位ですからリアルです。
よって、この話は短里でしか説明できません。
972 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 12:38:53
>>971 >>842で書いたように、そこは、中華書局の標點本は、「北岸」ではなく「北軍」になっています。
「北軍を去ること二里餘り」です。
「北岸」ならば、あなたの仰るように、南から接近したのだろうと推測できますが、
「北軍を去ること二里余」を、直角に河を渡る様に解釈しなければならない必然性がありません。
だから、前記の矛盾を帳消しにする説得力はありません。
自陣を出て、河の真ん中の航行しやすい所まで来て帆を立てて、それから矢のように進み、
魏軍の陣地まで二里餘りのところで一斉に船に火を付けたということです。
238 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:35:12
>>236 そういう話をするまえに、
当時の測量技術がどのようなものだったか説明したまえ。
239 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:35:29
長里で理路整然と説明できるならば、それに意を唱えるものはいなくなる。
しかし、ひでえ字だな。
240 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:37:28
>>238 測量技術が問題だというならば、その趣旨を説明したらいいだろ。
242 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:38:23
中華書局だけ、原本を改ざんしたんだろ。
243 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:39:13
で、壱岐が120kmってのは正しいのか?
244 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:41:21
韓の大きさが、方四千里。
245 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:43:12
対馬海峡は魏志倭人伝では三千里だが、今の海峡は200kmぐらいだけど、何で?
246 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:45:06
方四千里=1700キロ四方
オーストラリア大陸の半分程度。
>>239 長里などは存在しません。
長里と言う言葉は短里というバッタものが登場するに至り誕生した言葉ですので
バッタ物さえ登場しなければ存在しません。
初めから疑問の発生するものではなかったのです。
そもそもそのバッタ物が騒いでいるに過ぎないという事で
そのバッタ物さえ騒がなければ、こんな事に時間を費やす事もなかったでしょう
248 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:49:59
>>247 そうだな。短里などという言葉も不要なんだ。倭人伝がいう千里がどの程度の
距離か、半島から対馬まで、対馬から壱岐まで、壱岐から九州島までなどを考
えて見当をつければよいだけの話だ。
>>213 去北軍二里餘,同時發火,火烈風猛,往船如箭,飛埃?爛,燒盡北船,延及岸邊營柴.
100メートルって、人間が走っても10秒そこそこ。
往船如箭ってあるように、矢のように進む船ならもっと早いかも。
そんな短時間で船に乗せた柴に、火が十分に回るわけないじゃん。
燃え出す前に敵の船にぶつかって消されてしまうよ。
900メートルくらいあったら、十分火が回る。
それに流されてしまうとか、撃沈されてしまうなんてありえるの?
大艦隊に十艘の船をぶつけるんだよ。
矢のようなスピードで流れてくる船を、どうやって撃沈するの?
250 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:51:43
対馬海峡は、三世紀に1300kmぐらいあったのかな?
1700年で200kmに縮まったわけ?
251 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 22:54:49
>>249 火をつけて十分燃やしてからから船を放つから大丈夫。
人の乗っていない船が超特急で進むことはない。
252 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 23:02:11
>>240 ようするに、ここの人たちは、測量技術については考えなしで、
里数を議論してたということかね?
バカかと。
当時の文献でA〜Bを1000里と書いてあり、
現代の正確な測量技術で作られた地図上を定規で測って、
1000里は、何キロとかって議論してるってことでしょ。
それがいかに意味の無いことか、一から説明しなきゃならんほど、バカばっかりなんですか?
253 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 23:05:40
>>252 バカと信者は世にたくさんいるんだよ。ww
255 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/06/26(土) 23:06:50
魏の骨尺の寸法は23・8センチ、漢代は23・29〜23・72センチ、魏正始の弩機尺は24・1センチ
銅尺は24・9センチ「伝世古尺図録」「中国古尺集説」「中国古代度量衡集」の考証。
「陸行の程、歩および驢は五十里」大唐六典の示す1日の行程は約20kmです。短里など戯言は存在しない。
256 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 23:13:20
>>251 自分だけの想像を語ってもしかたない。
原文に則って論証したらどうかな。
エンジン全開の河童を久しぶりに見たなwwwww
河童は九州説のはずだが、何時から短里を否定するようになったのだ???
258 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 23:18:33
ていうことは、対馬海峡が1300kmあったとでもいうのか?
259 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 23:22:59
で、測量技術がどこでどう影響するって?
260 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 23:25:19
>>259 まだ理解できないバカがいるのか。
統一された正確な測量技術が無ければ、
ある文献で書かれた里数と、別の文献で書かれた里数は大きな誤差があると考えるべきこと。
ある文献で、1里=何メートルと計算できたとしても、
他の文献の1里にあてはまるとは、全く考えられないということだよ。
バカに説明しても無駄かな?
>>257 oh〜。このスレの流れといい材料といいもしやとは思ったが
、降臨したとなればこの先荒れそうだな
262 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 23:29:24
なるほど、正確な測量技術がなかったから、本当は80キロぐらいなのを
430キロと誤解したんだと言いたいわけね。
陸行五百里も本当は40キロくらいなのを200キロ以上に誤解したと。
なるほど、なるほど。畿内説論者の考えそうなことだ。
263 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 23:35:00
>>263 そんな心配しなくていい。
出土した漢簡などからもわかるように、漢代から広大な版図を文書によって統治していた。
官僚は正月には都にのぼって会計報告をする決まりになっていた。
80キロが430キロになったり40キロが200キロになったりするような
いい加減な測量技術では、帝国は統治運営できないんだから、
測量方法が具体的にわからないとしても、測量方法の心配をする必要はない。
机上の空論という言葉があるけれど、机上の心配ってところかな。
測量方法を研究テーマにしたいって言うのなら、それはそれで意味はあるだろうけど、
そうじゃなければ、具体的な測量方法から出発しなければならない必然性は無い。
265 :
ローガン:2010/06/26(土) 23:50:16
議論読んでてふと思ったんですが…。短里とか長里とか云う人ってひょっとして魏志倭人伝しか読んでないんじゃない?
よくwww氏が云う暗号解読?仮にそうだとして解読するにももっと色々調べなきゃいけないと思う。三国志の魏書の巻末の最後の倭人伝だけ読んでたって…。
そんな気がしただけで偉そうに云うつもりはないが、
一向にまともな「短里」とか「長里」とかの根拠、書く人居ないので。
266 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 23:51:08
>>263 5倍もの間違いをするとは考え難いではないか。1mを5mに間違えるか?大いに問題ありだ。
267 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 23:51:26
>>263 いや、別に。ただ、へぼな測量技術はそう簡単には治らないだろう。という
ことは、そいつが測量した上陸後2000里という数字は、実際には400里
くらいに見るべきだってことだな。わかった、分かった。
268 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 00:01:53
ローガンは、魏志倭人伝に「赤壁の戦い」が載っていると思ってたのか。
269 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 00:02:05
>>266 古地図をみたことないのか?
朝鮮半島が巨大だったり、日本列島が小さかったりしてただろ。
古代の測量技術なんて、無いに等しいんだよ。
270 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 00:03:57
3世紀の時代に、距離が5倍以内の精度だったら、それこそすごい精度の地図が出来るだろうな。
271 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 00:04:13
だれか、古代は対馬海峡が1300kmあったと証明して!
そうすれば畿内説が証明できそうだ。
272 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 00:05:26
古代は壱岐が九州の半分ぐらいあったと、だれか証明して!
そうすると、畿内説が証明されるらしいから。
273 :
ローガン:2010/06/27(日) 00:07:49
>>266 そういうなら、その時代の度が、極端に短いものであったことを示す「度」にふれた記述を書けばいいだけ。
それに「5倍」とか云う規則性の根拠は?それを認めた人がいたかね?
274 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 00:16:45
昨日の結論。
畿内説は詐欺
275 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 00:19:29
例えば縄文人(クソコテ)をアフリカ大陸にほうり出して、コンゴのキンサシャからシリアのダマスカスまで歩かせる。で、大体何キロ
くらい歩いたかを言わせて、地図上の実測値と比較してみるってのはどうだ?ただし生還率は一桁台だろうけど。www
>80キロが430キロになったり40キロが200キロになったり
てめえら技術者を馬鹿にしてねぇか?
これは測定誤差のレベルじゃねぇ
測定誤差の原理から勉強し直したほうがよくないか?
277 :
縄文人:2010/06/27(日) 00:32:39
>>275 このやろう!てめ〜皮剥がれたいのか?ふざけてないで勉強しろ このクソガキめ!
278 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 00:33:26
>>276 いやいや、技術者のレベルが問題じゃない。畿内説論者のレベルが問題なんだ。
279 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 00:47:01
中央政府への報告書を、辺境のローカル度量衡で書くわけないじゃん。
魏の朝廷への報告書なら、魏で通用する度量衡で書くだろう。
これは倭人が使う短い単位で書いてますって注釈があるなら別だが、
そうじゃなきゃ、都で読む人間にわかるわけない。
280 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 00:47:39
どんな測量方法をとっていたか、誰も語らないうちに、
誤差もへったくれもないもんだ。
281 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 00:58:34
机上の空心配はいらない。
帝国を統治運営してるんだから、その測量方法で短里と長里ほども誤差がでるわけない。
282 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 01:15:35
>>277 勉強ねえ。古代中国の地理認識か。・・・少しマジレスすれば、中国全土の地図は秦による統一前の戦国時代頃にはあったと考え
られている。これは文献からのもので、戦国時代には降伏の証として勝者に領土の地図を差し出したうんぬんという話もある。ただ
し、残念ながら現在までに出土してる中国全土地図で最も古いのは確か12世紀頃のものだったと思う。狭い地域の地図なら前3
世紀戦国末頃のものが最も古く、秦代の墓から出てるが、これはかなり正確。
あとは漢代初期の長沙馬王堆漢墓から出た「駐軍図」と「地形図」が有名で、特に「地形図」は現在の広西〜広東省にまたがる広範
囲のもので、十里を一寸とした縮尺で書かれているらしい。この1里は公定里と思われるがはっきりしない。2011年に中華書局から
資料集が出版される予定のはず。
http://www.lib.meiji.ac.jp/about/publication/toshonofu/matuza.pdf
283 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 07:20:57
>>282 非常に参考になるねえ。古代の中国の地図がかなり正確なものだったということは
良く分かるよ。
しかし、上の方に測量技術が云々言う奴がいるが、倭人伝を考える上で、測量技術
は関係ないだろうな。倭人伝の行程やそこに記載されている国々の大きさなどは測
量して記載されたものではない。郡使らが倭を訪問した時の、自らの体験、案内人
や訪問先の人々から聞き取った情報などをもとに、書いたものだろう。
例えば、普通にみえるのは五百里以内、条件が良いときに見える島ならば千里とか。
島の大きさならば、東西は歩いてどのくらいの時間がかかるか、南北はどのくらい
の時間がかかるか、とかね。対馬の方四百里(200里×800里とみたんだろう)、
一支の方三百里などかなりいい数字をだしていると思うよ。
284 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/06/27(日) 07:47:52
>>119 如淳について良くしらないので、梯儁や張政が倭に行く前に漢書の注記を書いたのなら私の考えは間違いだが、
彼の書いた万里の根拠も梯儁や張政のもたらした情報が元ではないか?という話をしている。
ローガン氏の如淳の万里は別情報によるもの、という根拠がまず乏しいと感じる。その理由として、
1、万二千里を略すして万里と書くことができる。
2、倭人伝に見えるように(最初の)水行部分の行程が合計で万里になる。
という2つをあげて反論している。
次に万二千里を、漢書の万里+二千里というローガン氏の主張を前提にして考え、
倭までが万里であるとしても、韓の地はある程度しられているため、韓の地を方4000里とする根拠は何か?と問うている。
韓を方800里とし、歴韓国1000里+渡海3000里x3などとすればよい話で、机上の計算ならこうなるだろう。
そうでないのは、前提の「漢書の万里+二千里」という主張が間違えてるからではないか?ときいている。
最後に+2000里と魏志倭人伝との関係がどのような主張なのかわからない、という質問。
梯儁や張政の行程が郡から2000里で、それに万里を付けた、なら末廬国から不彌国までの里数は何ですか?
285 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 09:58:49
九州に上陸して女王国までは2000里。対馬国から末盧国までの距離と同じだ。
上陸地点を唐津とすれば、せいぜい熊本か大分。水行十日・陸行一月もかかるはず
はない。ということは、2000でたどり着けるのは、女王国の境界であってその
先に女王国はまだ続いているということだ。
倭人伝は、女王国が会稽と東冶の東にあるという。万二千里でたどり着く女王国の
境界が会稽の東、女王国の終わりが東冶の東ということになる。会稽から東冶まで
約400キロ、女王国はかなり広大な領域を有しているということだ。
286 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 10:44:37
>>282 >例えば、普通にみえるのは五百里以内、条件が良いときに見える島ならば千里とか。
>島の大きさならば、東西は歩いてどのくらいの時間がかかるか、南北はどのくらい
>の時間がかかるか、とかね。
それが「当時の測量技術」というものだ。
目視で計るなら、見晴らしがよくなければならない。
徒歩の時間(日の角度、体内時計、ともに誤差有り)なら、
山道を歩く日本と平原の中国では距離感が異なる。
それでも里数に誤差がほとんど生じるわけが無いと考えているのだろうか?
このバカは。
>>285 >倭人伝は、女王国が会稽と東冶の東にあるという。
>会稽から東冶まで約400キロ、
「会稽東冶」で1地点の地名なんですよ。
288 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 11:11:05
>>286 中国人の測量技術をなめてはいかんな。私が言ったのは、測量なんてものではない。
単なる見当をつけるといった程度の話。当然、ある程度の誤差はあるよ。東南五百里
が実は六百里とか、渡海千里とあるのが実は八百里とか。その程度の誤差はあるかも
知れないと考えて読むべきことだ。しかし、80キロが430キロになったり40キロが200
キロになったりすることはない。渡海千里が関門海峡のことだなんてこともない。
>>287 そういう説もあるが、まちがっているね。東冶は有名な地名だ。わざわざ会稽(郡)
なんて地名をつけなくても読者は十分に理解できる。呉書孫策伝にも単に東冶とあるよ。
289 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 11:19:21
会稽東冶というのは会稽郡東冶県という意味ですよ。
会稽の場所は時代により移動しています。
現在の上海の南の会稽は10世紀頃の五代十国時代の呉国の名残だと思われます。
3世紀の会稽はもっと内陸の北にありました。
会稽という地名はすでに五帝時代から出てきているのです。
290 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 11:47:00
中国歴史地図集では、三国時代の会稽郡に東冶県というのは記載がないんだが。
今の福建省福州市(台湾海峡を挟んで台北の向かい側くらい)に東冶侯官があるが、これは建安郡だ。
会稽郡の東冶県というのはどこ?
>>288 >わざわざ会稽(郡)なんて地名をつけなくても
>>290さんのいうとおり、三国時代に会稽郡東冶県はありません。
呉書呂岱伝の「會稽東冶五縣賊呂合」がしめすように、
會稽東冶というのは行政区画じゃなくて、慣用的な地方名なんです。
292 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 12:17:10
>>290 漢書地理志には会稽郡の中に冶という地名があります。
前漢が滅ぼした東越の首都が東冶です。
頭に浮かべなければならないのは、五帝時代に諸侯が会盟した場所です。
夏殷周などの国はご存知の通り長安今の西安周辺がら起こりました。
その間もない時代に現在の上海の南の会稽まで出かけて会盟に集まるはずがないということです。
また会稽は古代九山の一つですから、長安の周辺数百キロ四方の内の大きな山の一つだったということが
想像できます。また夏の始祖が葬られたところです。周時代太伯が国を作った呉の
中に会稽郡はありました。
前漢時の東越は現在の東冶より内陸で北にありました。
現在の東冶はおそらく五代十国時代の越のあった場所の名残だと思います。
会稽東冶というのは漢代に当てはめると確かに東冶ではなく「冶」があるだけです。
会稽郡冶県です。
魏代には三国時代の呉国が会稽郡の中に、かつての東越の東冶を合併したのかもしれません。
推察に過ぎませんが。
293 :
292:2010/06/27(日) 13:05:22
Wikiからの引用だけど
後漢が成立すると冶県は東冶県に改められ県西部には候官県が設置された。
とあります。
これを信用すれば後漢時代に会稽郡冶県が東冶県になったということになります。
294 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 13:07:18
>>288 >しかし、80キロが430キロになったり40キロが200キロになったりすることはない。
朝鮮半島がバカでかくて、日本列島が小さいちう古地図を見たことないのかね?
あれは日本列島が南北に長く傾いて書かれており、九州説には都合の悪いものだろうが。
295 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 13:10:04
296 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 14:36:48
>>294 壱岐が九州島の半分もある地図は見たことがない。
対馬海峡が1300kmある地図も見たことがない。
297 :
冗漫人:2010/06/27(日) 15:10:31
あのう私はですね。卑弥呼はラリパッパじゃなかったかと思うんですよ。つまりは薬をやっていたと。
つまりアルカロイドを摂取して幻覚を見ていたんじゃないかと思ってます。これが他の凡百の巫女連
と卑弥呼との違い。卑弥呼の憑依(神降ろし)は強烈だったでしょうな。
298 :
冗漫人:2010/06/27(日) 15:17:11
卑弥呼がやっていた薬の候補はいろいろあるんでしょうが、私は西洋でベラドンナと呼ばれる植物の
近縁種「ハシリドコロ」でなかったかと推測しております。これは日本の本州から四国・九州にかけて分布
する多年草で、食用すると錯乱して走り回るところからこの名が付けられているんですよ。主な成分は
トロパンアルカロイドで、副交感神経を麻痺させ異常興奮や幻覚・幻視をともなう症状が出ますよ。
299 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 15:21:15
そんなもの使わなくても、イタコはできる。
300 :
冗漫人:2010/06/27(日) 15:22:48
まずね、不思議でしょう。全国に数多いると考えられる巫女の中から卑弥呼が選ばれたのか、また
高齢までその役を務めたと考えられる卑弥呼ですが、どうやって老齢でもその力を保ちえたかがね。
これも、卑弥呼がラリパッパだと考えれば納得がいくんですよ。私はね、邪馬台国の所在地論について
は九州説ですが、おそらく卑弥呼の宮城の付近には「ハシリドコロ」の群生があるはずですよ。ホホホホ。
301 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 15:26:00
日本の本州から四国・九州にかけて分布する多年草が九州説の根拠かよバーカ
302 :
冗漫人:2010/06/27(日) 15:27:24
>>299 ホホホ、私はね、橋幸夫さんの大フアンなんですよ。いいですよねえ「潮来笠」。ほんの一節歌ってみませうか。
♪潮来の伊太郎 ちょっと見なれば 薄情そうな 渡り鳥〜 ・・・お嬢さん、あっしに惚れちゃあいけませんぜ。
ホホホホホホホ。
303 :
冗漫人:2010/06/27(日) 15:33:19
>>301 >九州説の根拠かよバーカ
ホホホホホホ、バカとおっしゃりましたね。いやあ、私はね小学校時からあだ名が「イエローピーポー」だった
んですよ。「ピーポー」はpeopleのことではなく救急車、つまり基地外病院が迎えに来る伝説の黄色い救急車の
ことらしいんですが、何でなんでしょうねえ。ホホホ。
304 :
冗漫人:2010/06/27(日) 15:42:08
ここからはほんの推測なんですがね。卑弥呼の一族は薬草知識に長けた人たちじゃなかったかと思い
ます。狂言題にもなってる附子(ブシ)つまりね、毒を操る一族の宗女と考えていますよ。ホホホ
卑弥呼らが用いた毒としては、トリカブトが含有するアコニチン、シビレタケなどの毒きのこ類のシロシ
ビンなどでしょうねえ。毒殺にまで手を染めていたかはわかりませんが、まさに日本のルクレチア・ボル
ジアといってよい存在だったでしょう。
また一人、基地外が邪馬台国スレに出現したか。
306 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 15:46:29
九州説は、荒らすしか脳がなくなったということだろ。
307 :
冗漫人:2010/06/27(日) 15:56:00
あとですね。私は邪馬台国の東遷は史実だったと思いますよ。記紀はよくこの出来事を伝えている。記紀に
は奇妙な生物が登場しますよね。金鵄とか八咫烏などがね。あれは邪馬台国の陣営に「鳥師」がいたという
ことでしょう。つまり鳥類をヒナの時代から育て、自在に操れる人物。カラスなどは鳩と比べてもたいへん賢い
ですから、簡単な芸を仕込むのはわけないでしょう。むろん金鵄というのは金色(黄銅鉱を用いたか)を塗った
ものだし、カラスの三本目の足は人工のものでしょう。ホホホ。
308 :
冗漫人:2010/06/27(日) 15:59:07
>>306 私のいうことを嘘だと思ってるでしょう。いや、古代人こそね現代では失われた自然知識を持って
いたんだと思いますね。中国戦国時代の「虫師」を知っていますよね。あれは「飛蝗」を操って敵国
の耕地に大損害を与える役割の軍属。ホホホホ、自然の力を侮ってはいけませんなあ。
309 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 16:08:35
>>292 漢書地理志に冶県は存在します。
これに顔師古は「本ビン(門+虫)越地」(もとはビン越の地である)と註をつけています。
戦国時代のビン越の地は、現在の福建省福州市の周辺です。
台湾海峡を挟んで台北と同じくらいの緯度です。
会稽は長江の流域で、ビン越とは全然違います。
秦の時代には冶県周辺の地域はビン中郡になり、その北が会稽郡になります。
前漢になると会稽郡が、ぐっと広がり、ビン中郡を併合して会稽郡となります。
この段階で、冶県はビン中郡から会稽郡に所属が変わり、後漢まで続きます。
でも、位置は変わりません。現在の福州市の辺りです。
さて、あなたが引いたwikiの記事の、もうちょっと下に
魏晋南北朝時代の変遷が説明されています。
「260年(永安3年)には郡南部に建安郡を(中略)設置した。」
呉が支配していた永安3年に、
会稽郡から東冶県(もとの冶県)を含む南部が分割されて建安郡となります。
晋の時代になっても、建安郡には変化ありません。
呉は、魏が晋になってから滅びたので、魏は会稽の辺りを支配していません。
だから、魏書が漢の行政区で書いたとすれば、あなたの言うように、会稽郡の東冶ということになります。
この場合、倭は福建省福州市の東ということになります。
しかし、水行十日陸行一月の倭がそんな一都市の東ということがあるでしょうか。
もうちょっと、広がりがある海域を指定するのではないでしょうか。
それに、会稽といえば会稽山が思い浮かぶでしょう。
わたしは、ここは行政区としての会稽郡や東冶県ではなく、単に会稽と東冶という地名ではないかと考えます。
まあ、後半は、どう考えるかで、確たる根拠はありません。
310 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/27(日) 17:07:24
311 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/27(日) 17:16:20
312 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/27(日) 17:26:28
313 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/27(日) 17:35:35
314 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/27(日) 17:48:39
315 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/27(日) 17:58:05
316 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 18:13:40
>>309 >水行十日陸行一月の倭がそんな一都市の東ということがあるでしょうか
会稽東冶が一地方名だとしたら(五県あるらしい)、広い地域になるし、会稽、東冶を別々にしても
其の間が広いですから、結局両方とも同じようなことだと思いますね。
ただ現在の会稽と福州の東冶をそのまま当てはめてはおかしくなる思います。
長い歴史の間に会稽の場所は移り変わっていますから。
信じられないでしょうが後漢書に会稽東冶県の人が「海」に入って風に遭うことがあると
ありますが、この「海」は東シナ海のことではないのです。海は川幅2,3キロの
大きな川も海というし、湖も海と表現します。むしろただの海は大海のことを
言わないです。
ですから会稽は3世紀には内陸のもっと北にあって東冶も会稽のそばにあって
現在の会稽と東冶ほど遠く離れていなかったと思います。
高取山の長文うざい、自分のブログでやれよ。
318 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 19:15:30
誰か相手してやってくれ。悪いけど、先に帰るわ。
→ 高取山+唐松山+冗漫人
319 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/27(日) 19:21:12
>>317 大変、重要な発見と思いましたので、皆さんに知っていただきたく、連投に
なってしまいました。すみませんでした。
東征の半分近くまで来たのですが、迷惑ならば中止することにします。
でも、一人でも継続の要望があったら、続けさせてください。
320 :
冗漫人:2010/06/27(日) 19:27:47
321 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/27(日) 19:37:05
>>319 冗漫人さん、支持をありがとうございます。
あまり、連投にならないよう気をつけて、投稿することにします。
322 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 19:51:46
どういう意味か分かりやすく書いてからにしてくれ。
ベクトルって何のことだ?高取山がなんだって?
323 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 20:21:24
>高取山→鷹取山は東征のベクトル
自 分 の ブ ロ グ で や れ 。
324 :
高取山→鷹取山は東征のベクトル:2010/06/27(日) 20:44:21
ベクトルはあまり使わない用語で、説明不足でした。主として力がかかる
方向と力の大きさを表す技術用語です。力の大きさは矢印の長さで表します。
簡単に言えば矢印(→)です。
WCでデンマークに勝ったのも、全員の力が一つになったことが勝利の
要因と評価されていますが、全員のベクトルが同じ方向に向いたため、
大きな力となり勝利したとも表現できます。
こでは、東征隊が高取山付近から出発して、鷹取山方向に進んだこと残すため
に「たかとり山」の「たか」を高から鷹の字に変えて矢印の代わりにしたと考
えました。
>>55 に古代人がこの矢印(高取山→鷹取山)に託した意志を述べました。
325 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 21:14:23
オカルト板に帰れ。
>>324 >WCでデンマークに勝ったのも、全員の力が一つになったことが勝利の
要因と評価されていますが、全員のベクトルが同じ方向に向いたため、
大きな力となり勝利したとも表現できます
なるほどな
そうすると、先日行われたポルトガル対北朝鮮の試合は
全員のベクトルが一つの方向に向かなかったからというわけか
全員のベクトルが同一方向に向かってさえいれば、あの試合の結果も
北朝鮮が逆に7対0でポルトガルを破っていたということだな
327 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 21:29:48
将軍様の前で、数千人が同じベクトルで動くから
北朝鮮はベクトルを合わせるのは得意だと思っていた。
328 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 21:44:38
>>309氏も言われるように、会稽東冶は会稽と東冶、二つの地名。したがって、
前に書いたとおり、万二千里でたどり着く女王国の境界が会稽の東、女王国の
終わりが東冶の東ということになる。
倭人伝は、「その道里を計るに」と書いているが、これは倭人伝が記す行程か
ら計算すると、という意味。すなわち、行程からすれば、帯方郡から女王国ま
では万二千里、そのうち南へ進まないのは朝鮮半島の南の「乍東」と伊都国へ
の「東南」のみであるから、郡から南へおよそ一万里行ったところに女王国が
あると考えられる。郡と同じ緯度にある山東半島から南へ一万里行けばそこが
女王国の境界と同じだろう、それが「道里を計るに」の意味だね。そして、そ
の地点が会稽だと言っているわけだ。
山東半島から会稽までは約800キロ。このことからみても、倭人伝が1里約
80メートルで書かれていることが確認できる。
将軍様がスタジアムで観戦していないから、普段のベクトル効果が出なかったのだろう
かわいそうに
今頃選手や関係者は、一日中暗い穴ぐらでスコップ握らされているのだろうし
監督に至っては、その消息さえ知られずに闇から闇と言う筋書きだろう?
330 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/06/27(日) 22:41:54
邪馬台国が会稽・東治の東にあるなら、ミッドウェー諸島沖にドボン!
>>330 もう少し融通をきかせればハワイがある。
シェラトンワイキキ30階展望レストランハロハロで、夕日を眺めながらのディナー
なんていいんじゃないかい
333 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 22:54:01
>>328の続き
倭人伝に記載されている方角と実際の方角とを比べると、半島の南の「乍東」が
少し北東ぎみだったこと、狗邪韓国から末盧国までが真南ではなく東南ぎみだっ
たことなどで、少し女王国を南にみすぎたという結果になったが、計算の趣旨は
理解できる。
ところで、会稽東冶を会稽郡の東冶県と読むと主張される方々は、道里を計るに
というのをどう解釈したのかな? ちゃんと説明ができるとは思えないが。
>倭人伝に記載されている方角と実際の方角とを比べると
比べるなよ
335 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 07:21:03
1里=80メートル前後で書かれていることがまちがいないとなれば、周旋五千里
は400キロと計算できる。すなわち、倭の地の大きさは、上陸地点である唐津か
らおよそ400キロ以内ということだ。しかも、倭の地は島。
方角を無視して本州方面に進んでも400キロの範囲となれば、せいぜい岡山あた
りでだ。本州に邪馬台国があったならば、周旋数万里と書かれたはず。
倭の地は九州であることが明白だね。
336 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 08:46:13
山口県を知らないというのは無理があるな。
337 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 09:18:22
>>333 そもそも女王国の入り口と終わりを示しているという説は
私には理解できない。
女王国は邪馬台国であると解釈していますので、
万二千里の場所に邪馬台国があってその入り口も終わりもない。
であるから会稽郡の東冶県の東辺りだと見当をつけているわけだと。
何度もいうようですが、現代の会稽をそのまま当てては誤りです。
それに山東半島から現代の会稽まで現代地図帳を使っての直線距離です。
これはちょっと無理がありすぎます。
338 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 09:44:57
>女王国は邪馬台国であると解釈していますので、
女王国=邪馬台国ではない。同じならば同じ表現をするはずで、別の表現を用いたからには
別の概念のはずだ。邪馬台国は北九州から少なくとも水行十日陸行一月を要する遠方の地点。
と言うことは、邪馬台国に至るまでの間にいくつかの旁国があったはずでありる。ところが
「女王国以北は略載できる」とある。旁国は略載できない国だが、それが女王国の中に入る
となれば、女王国以北は略載できるといって差し支えない。
以上のところから、女王国とは邪馬台国だけではなく、邪馬台国に同調していた旁国を含む
概念であることが分かる。
>現代地図帳を使っての直線距離です。
しかし、中国は数千年の歴史があるわけですからね。自国内の距離ぐらい十分わかっていた
でしょう。
339 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 09:57:52
>>338 傍国は女王国に属してはいるけれど女王国には含まれてはいません。
女王国以北の国々も同じで、女王国には属しているけど、女王国には含まれていない。
女王国以北の国は略載できるが、傍国は女王国よりもっと南になるので略載しないということです。
現代の会稽の東は屋久島種子島になりますよ。
現代地図帳を使う場合は直線距離よりも思い切り短めにしないと大昔の
人の感覚と同じようにはならないでしょう。
340 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 10:09:11
>>338 それと水行十日陸行一月というのはおかしくありませんか?
水行30日陸行一月です。
途中の投馬国は女王国に行く途中にありますから。
別々に考えたらおかしなことになりますよ。
341 :
水銀厨:2010/06/28(月) 10:24:52
>>339 境界が奴国とありますからね。
ここから遠方が女王国(傍国)だと解釈は出来ますよ。
だとすると女王国まで萬二千という距離も問題ない訳です。
342 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 10:26:23
>>339 北九州から水行十日陸行一月もあるのに、邪馬台国以外の国を通らないというのですか?
行程全部が邪馬台国の中だということかな?
>>340 それは連続説ですね。しかし、北九州からは放射式で読むべきです。
榎、山尾、その他何人かの学者らが指摘しているので、理由は省略しますが。
343 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 10:31:47
>>342 女王国に属していない傍国はいくらでもあって女王国に北にもあったでしょうが、
ここで言っているのは女王国に属した国の情報ですから。
魏に朝貢して来た約30カ国の情報になります。
ですから魏志倭人伝の傍国は女王国より南にあるということです。
344 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 10:34:32
>魏に朝貢して来た約30カ国の情報になります。
ですから魏志倭人伝の傍国は女王国より南にあるということです。
理由になってないと思うけど。
346 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 10:43:32
>>345 女王国に属していない傍国は北にもあっただろうけど、それは女王国に属してないので情報から除外されているということです。
あくまで女王国に属した国の情報で、女王国に辿り着くまでの女王国に属した
国の情報です、ですから女王国にたどりつくまでの女王国の北にある国々は略載できたのです。
傍国は女王国より南に行ったところにあるので、使者の目的は女王国にあるので、
それ以上、先に進まなかったから傍国の情報は略載できないと書いてあるのです。
347 :
水銀厨:2010/06/28(月) 10:47:22
348 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 10:58:12
>>346 下段2行の「傍国」は「女王国に属している傍国」のことです。
349 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 11:02:34
>>347 原文は奴国此女王境界所とあるので、女王国とはありません。
女王国に属する、あるいは女王に属する境界が奴国という意味です。
350 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 11:17:18
>>343 倭の国々は、「旧百余国」とあり、これに対応して、「今三十国」とあります。
もとは百余国あったが、今は統合されて三十国になっているということです。
そして、その三十国が「使訳通じる所」なのですね。邪馬台国の支配下に属して
いない国は狗奴国だけで、そのほかにたくさんあるわけではありません。
351 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 11:23:19
>>350 支配下に属してない国はたくさんあったと思います。
その30カ国が旧百余国を統合したことは
どこにも書いてありませんから、そうはっきり決め付けることはできないでしょう。
北部九州の東西両端の国々は女王国には属していなかったでしょう。
352 :
水銀厨:2010/06/28(月) 11:29:48
>>349 同じ事でしょう。
傍国の説明の中に奴国がその位置で出てくることが重要でしょう。
奴国より以北が伊都王の範囲と解釈するのが普通だと思いますが。
353 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 11:44:03
>>352 奴国は二つあり、最初の奴国は伊都国の東南にあります
もう一つの奴国は女王国の南にあって略載できなかった傍国の一つで、
女王国に属している国々の最南端にあって、
その南が狗奴国だとあります。
この二つの奴国は名前が同じであるけど、別国です。
>>350 >倭の国々は、「旧百余国」とあり、これに対応して、「今三十国」とあります
いいえ
旧百余国は漢書を受けてのものであり、旧に対応するものは「後漢時代」と言う事になります
後漢時代に対応し、旧という言葉にて前漢時代を意味します。
それまでのテレビの流れを引き継いだテレビが誕生するから、それまでのテレビを旧型テレビと称します。
新型テレビの対義に旧型テレビが存在するわけではありません。
355 :
水銀厨:2010/06/28(月) 11:47:05
>>353 >この二つの奴国は名前が同じであるけど、別国です。
結局は憶測だという事でしょう。
百余国が統合されて三十国になったわけではありません。
三十国と書かれたその時代も、
楽浪海中、東南大海之中 と書かれた日本列島には百余の国が存在し
その中で魏と交流が有るのが三十国という内容が倭人伝に記載されているのです
357 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 11:59:08
>>354 魏志が「今」という以上、それは魏時代のことだよ。後漢時代ではない。
358 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/28(月) 13:24:35
>倭の国々は、「旧百余国」とあり、これに対応して、「今三十国」とあります
今、通訳の出来るのが30国であり、その某国も加えれば百余国でもかまわない。
>>357 誰が後漢時代と今を一緒にした?
「今」の対義は「旧」じゃなくて「昔」
「旧」と「今」を一緒に語ることは出来ないぞ
「旧」は漢時代の前後の前
360 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 14:03:43
>>358 あなたの読み方では、旧の数が示されているだけで、今倭国にいくつ国があるか分から
ないことになる。しかし、「旧」の数だけを書いて、今の数を書かないのでは片手落ち
だ。今の数は当然書いてあるわけで、それが三十国だよ。
361 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/28(月) 14:29:48
東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国
西の衆夷を九州とすれば、30国では少なすぎる。
西の衆夷66国と中国以東畿内までで、百余国。
その内 通使の通うところ30国。
つまり内乱により、国の数が増えこそすれ減ることは無い。
もし減ずるのであれば、2極集中の如く数国にならねばならない。
>>360 初めから倭国の国の数なんて書いていないし、書かれているのは楽浪海中と東南大海之中にあるところの
国が百余国と書いてあります
その数は倭人伝を編纂した時もほぼ同じで、変わっているのが
魏王朝は30国とだけ国交しているという事です
363 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 15:43:55
>その数は倭人伝を編纂した時もほぼ同じで
ごまかすなよ。そんなことは書いてないぜ。
前漢時代も後漢時代も、そして魏時代も
歳時来献する数は、前漢時代と変わらず百余国
しかし、後漢時代になって
王朝と国交するようになった国は30国ということ
だから倭人伝では、旧と今の間に「漢時有朝見者」という言葉を挟んでいるのです
>>363 >そんなことは書いてないぜ
だから今説明したでしょう。
歳時来献は百余国
使訳所通は三十国
この違い分かりませんか?
366 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 15:53:12
367 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 15:58:42
>歳時来献は百余国
舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。
良く読め。百余国の中に朝見する国があったというだけだ。いくつの国が朝見した
のかは書いてないんだ。
もう少し分かりやすくお話すれば
「旧」と書かれていれば、その旧は絶したのではなく
現在あるものと「旧」とされるものが同時進行で存続しているから「旧」なんですよ
「旧」とされるものが、現在存続していなければ
それは「旧」ではなく「昔」です。
倭人伝に「旧百余国」と書かれていれば、魏時代にも来献国が百余だと言う事です
しかし、それでは何も変わらないから「旧」と言う文字は使用されません
が、魏時代は来献だけではなく使訳所通する国が三十国という前漢時代とは
異なった形がなされていたからです。
わかりましたか?
それが倭人伝に書かれた「旧と今」です。
>>367 >百余国の中に
どこに「中に」と書いてありますか?
370 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 16:11:42
>>369 生徒が50人いる。万引きをした者がいる。
万引きしたのは全員か?
>>370 そのたとえにはふさわしくありません
生徒と万引きした者の関連性がありませんから
しかし、漢書は一体文ですよ
久しぶりの河童節か
里数といい今日といい、河童の完全復活か?
またとんでもない奴が戻って来たものだ。
374 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 16:51:11
漢時有朝見者
記録上後漢を建てた光武帝(劉秀)に朝見し「漢委奴国王」の印綬を授けた倭国
のことでしょう。(委奴国=伊都国と私は考えています)
当時の文献上は「これ以外に存在しない」と思います。
375 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 16:52:43
授けられた
376 :
ローガン:2010/06/28(月) 16:55:09
284:二 ◆.L.MXSPOgc>ローガン氏の如淳の万里は別情報によるもの、という根拠がまず乏しいと感じる。その理由として、
>1、万二千里を略すして万里と書くことができる。
何故略する必要があるの?史書に書き入れる際に、元の記述の数字を略する事が常套?「略した」と主張するなら、立証出来る?
>2、倭人伝に見えるように(最初の)水行部分の行程が合計で万里になる。
そう。東南海中の倭人の居る所まで万里。こちらの主張通り。反論になっていない。
>倭までが万里であるとしても、韓の地はある程度しられているため、韓の地を方4000里とする根拠は何か?と問うている。
万里の彼方の倭に向かう際、3渡海各1000里と韓地の水行移動7000里に按分したから。
渡海地点を金海辺りとするなら、南方向4000里及び東方向3000里。で韓地は1辺4000里の正方形。
で、あなたの云う「ある程度しられている」とは具体的にどのような記述に基づいて述べているのですか。
それに、中華の東夷観とか考えた事ありますか?
>韓を方800里とし、歴韓国1000里+渡海3000里x3などとすればよい話で、机上の計算ならこうなるだろう。
そんな記述ないやん。
>そうでないのは、前提の「漢書の万里+二千里」という主張が間違えてるからではないか?ときいている。
>記述のないものが、相手の主張に対する反論の根拠になるの?
>最後に+2000里と魏志倭人伝との関係がどのような主張なのかわからない、という質問。
>梯儁や張政の行程が郡から2000里で、それに万里を付けた、なら末廬国から不彌国までの里数は何ですか?
郡から2000里とは云ってないよ。九州上陸後約2000里離れた場所が女王都。地誌なんだから。
>>374 漢時有朝見者と光武帝の記事は、倭人伝上では別物
漢時有朝見者は「旧」の部類で
光武帝の記事は「今」に相当するもの(魏時と後漢時の違いはありますが)
378 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 19:03:05
>>376 >九州上陸後約2000里離れた場所が女王都
これだけ435で計算しようってことね。場当たり的じゃん。
379 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/06/28(月) 19:35:33
>>376 不弥国から水行20日+水行10日+陸行30日=約3000里が正しい。
380 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 19:54:29
女王国以北は略載できるというのに、女王国以北に略載できない国がたくさんあった
などという説はとうてい無理だろうな。そんな状態では、どうして女王国が北九州の
諸国を従属させることができているのか、理解不可能だ。
相変わらず連続説の信者がいるようだが、文章の違いに注目すれば、やはり放射式に
読むべきだよ。従来、放射式が疑問を持たれたのは、伊都国を怡土に比定していたか
らだ。確かに怡土に比定すると、何でそんなところから放射式に書くのか、理解が難
しくなるんだね。
381 :
冗漫人:2010/06/28(月) 19:59:03
ところで畿内説は瀬戸内航路なのか、日本海j航路なのかを明らかにしてほしいですね。そして
上陸地点はどこ?陸行1月ならかなりの距離ですねえ。大阪湾から大和まで30日?まさかね。
>>380 普通に順次式ですが
しかも略載って極めて珍しい熟語のようだが、一体なんですか?
>>381 はじめから存在していないものに瀬戸内航路も日本海航路もあったもんでない
385 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 20:22:51
>>384 存在してる証拠がいっぱいあるのに、
存在していないとはどういう考えで?
386 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 20:24:36
瀬戸内航路詐欺と日本海航路詐欺とをいくら聞いても、
単なる詐欺だということしか理解できない。
387 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 20:28:56
一里434mとして、伊都国、奴国などをどこに比定するのか聞いてみたいもんだ。
388 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 20:39:06
おまえらまったく漢文読めないんだな
389 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/06/28(月) 20:40:24
>>381 日本海ルートに決まっているでしょう。
北九州市小倉にあった不弥国から船に乗って水行20日366km進むと島根県米子市にあった
投馬国の美保関に到着する。投馬国からさらに船に乗って日本海を水行10日165km進むと
兵庫県豊岡市の気比に到着する。その後、卑弥呼・台与の海人族の本拠地である丹後を経由して
陸行1月235km進むと邪馬台国の都である纏向にめでたく到着する。
390 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 20:42:52
↓ はい次の出番は、瀬戸内ルート詐欺です。
391 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 21:09:37
同剣文化は、九州〜吉備まで広がっている。
九州が吉備と交流していたのは明らか。
>>380 >女王国以北は略載できるというのに
いったい何を略載出来ると言うんです?
393 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 21:40:38
女王国に属した連合国といっても、合併しているわけではなく、
みなぞれぞれ独立して国を称しているのだから、
女王国の北にも女王国に属していない国があっても不思議ではない。
それにその頃の国は国邑であって邑の字より小さい国が銅像できる。
邪馬台国や投馬国はその中でも群を抜いて大きな国だったのでしょう。
邪馬台国は今でいう八女市から大牟田市のあたりまで領有した国だったのだと思う。
394 :
宇治金時:2010/06/28(月) 21:47:08
>>389 アホウがっ!! 魏使の1回目は軍の上陸だぞ。建中校尉梯シュンは尉官で二百名程度の
現代でいえば中隊規模だろう。それが任務を帯びて行軍速度で進んだ。不慣れな倭地でも、
1日30kmは進んだだろうな。とすれば大阪湾に上陸して陸行1月で岩手あたりまで進んだ
はずだ。そう、邪馬台国は八幡平だ。
395 :
赤城しぐれ:2010/06/28(月) 22:09:59
>>394 はああ?邪馬台国が岩手って、どんだけバカなんだこの親父は?邪馬台国100年論争で
まだ見つかってないということは、北部九州と考えられる不弥国から、朝鮮半島南部に戻った
んだよ。むろんここも倭地のうちだ。おそらく邪馬台国は現在の金海市周辺。倭人伝に南と
書いてあるのは、半島の南に戻るという意味なんだよ。
396 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 22:13:31
邪馬台国は、今の大和、つまり奈良県にあり、
卑弥呼は、ヤマトトトヒモモソヒメという人です。
知りませんでしたか?
397 :
ガリガリクン:2010/06/28(月) 22:19:28
チッチッチ。二人とも倭人伝をなぜ素直に読まないんだ?方角は真夏の日の出日の入りのために
ややずれるけれどもほぼ正確だ。また里程は連続式。放射式で読むならそれとわかる記述がある
はずだ。水行計30日、陸行計30日で着くのは、倭人伝を素直に読んだらここしかないじゃないか。
そう、邪馬台国は沖縄諸島、おそらく与那国島だ。これは >当在会稽東治之東 という記述と符号
する。
398 :
ホームランバー:2010/06/28(月) 22:28:18
>>396 よくできたな。良い子だ。卑弥呼は「倭迹迹日百襲媛命」で間違いはない。この倭はむろん「倭人
伝の倭」であり大和を意味する。この字を用いたのは記紀編者の隠し味だろうな。むろんやつらは
知ってて隠しているのさ。「迹迹日」は日(太陽)を追いかけて祀るという意味。箸墓古墳が夏至の
日の出の方向を向いているというのは有名な事実だ。「百襲」は百(たくさん)の衣装を重ね着して
いたという意。つまり魏からの答礼品の織物を独り占めしてゴタゴタ身に纏っていたということだ。
399 :
カミタケ:2010/06/28(月) 22:38:54
>>396 そう思っているのは、古代史に無知にしてマスコミに影響されやすい人々だけですよ。
少しでも古代史をかじっていれば、邪馬台国は北部九州であることがわかりますよ。
400 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 22:42:21
伊都国の都は中古音はツと発音します、伊はイと発音して丁寧語のようなものです。
意味としては御港国という意味です。
都をトと発音するのは唐時代以降になります。
さて港といったら、唐津か博多です。
ではツ(港)とはどこを言ったのでしょうか。
筑紫のツクシはツクチが訛ったものでツ(港)のクチ(口)です。
筑紫野市は博多湾に出る谷間の口に当たります。ですからこの辺り一帯を筑紫と言ったのでしょう。
つまり伊都国とは博多湾の南、今の大野城市あたりにあったのです。
そうすると末ラ国は唐津ではなく博多湾の西、前原の東、糸島の南辺りのめいの浜あたりが
比定できます。実は唐津の松浦と言う名前は江戸時代にできた名前だそうです。ですから
松浦を末ラ国とするのは誤りで、末ラ国をめいの浜とすれば、東南に陸行で大野城(伊都国)に
着くというわけです。
401 :
雪見だいふく:2010/06/28(月) 22:49:24
>>398 よい理解だが少し違う。惜しいなあ。「百襲」は文字どおり百人の徇葬者を出したということ。つまり
これは死後に付けられたおくり名だな。また同時代を生きた崇神天皇の和風諡号である「御間城入
彦五十瓊殖」は、纏向に入ってこられた天皇という意味で、この「五十瓊殖」は五十人の徇葬がなさ
れたという意味だろう。百対五十で百襲姫の勝ちだ。これはやはり倭王に封ぜられるだけの意味は
あるな。
402 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 22:50:10
邪馬台国は、温暖で冬に生菜を食べているし、大魚や蛤もいる土地だ。
蚕を飼い絹を生産し、鉄鏃を使っている。
中国の使者が纏向に行っても、こんな描写にはならない。
>>396 ほう、珍説だなぁ
ヤモトトトヒモモソ姫に比定する説ははじめてみたよ、
おれは全く邪馬壱国くわしくないんだが
だがそれだと歳長大な婆さんが箸を陰部に刺してしまって
神話の持っているエロさが薄れてしまうから、賛成できん
404 :
ジャイアントコーン:2010/06/28(月) 22:59:59
>>403 古事記で、アマテラスが岩戸にこもる原因となったのが、アマテラスの女官がスサノオに
驚かされ陰部を傷つけて死んでいる。これは倭迹迹日百襲媛命の死因と類型が認められ
る、この女官は倭迹迹日百襲媛命のことであり、これが元で百襲媛が祀っていた太陽(ア
マテラス)が翳ったという比喩だろうな。
>>398 >「百襲」は百(たくさん)の衣装を重ね着していたという意。
それは漢字を全く理解していない人の思い付きだろう
そもそも「襲」は死人に対する衣装の意味で、生きた人に用いる文字ではない
だから
「つまり魏からの答礼品の織物を独り占めしてゴタゴタ身に纏っていたということだ。」
と言うような状況にはならないということ
しかも、死人の衣装には襲着や襲衣という言葉が有り、百襲という言葉は生まれる余地が無いという事
406 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 23:08:54
アイスのシェアに関しては激戦。戦国時代だ。
江崎グリコ 13.0%
森永乳業 12.3%
明治乳業 12.3%
ハーゲンダッツジャパン 11.7%
ロッテ 10.1%
407 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 23:10:22
>>405 それアイスの名がついたレスは全部冗談だと思うよ。マジレスは思う壺。
408 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 23:13:42
邪馬台国は温暖が特徴。アイスも纏向も失格。
409 :
アイスの王:2010/06/28(月) 23:18:29
>>408 アホか?暑いからアイス食うんじゃねえか。その短レスでも論理間違えるのか?wwww
410 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 23:20:08
古代の話だからな。
411 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 23:20:09
ドンコイスレは唐松と大国の不毛の論争に占領され、ここではヒョットコが踊っている。
412 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 23:23:54
>>409 アイス食うのは暑い時に限ったものではない。近所のガキはアイス食いながらスケートしてたぞ。
413 :
アイスの王:2010/06/28(月) 23:26:56
>>412 それは特殊なケースであり、畿内説の論理構築と同じだ。www
このアイスシリーズを演出するのはあいつか?
あいつしかいないよな
415 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/28(月) 23:28:48
>百襲媛が祀っていた太陽(アマテラス)が翳ったという比喩だろうな。
モモソ媛は三輪神
416 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 23:32:02
>>416 それは河童に対する挑発か?
河童もこのくらいの演出をしてみろという。
418 :
宇治金時:2010/06/28(月) 23:38:10
なんで岩手じゃだねなんだよ。東北蔑視か?日本の地名で語末に「平」が用いられる場合は
「日本平(にほんだいら)」のように「たいら」と読まれることが普通で、「八幡平(はちまんたい)」
のような読み方は特殊だ。これは古代の地名「邪馬台」の名残と考えても不自然ではない。
また、「卑弥呼」は「ピメハ」でありアイヌ語の音韻に近い。(といいつつカシス・シャーベットを
注文)
419 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 23:39:19
いちばんのアイス好きはモスクワっ子って読んだことある。
420 :
アイスの王:2010/06/28(月) 23:45:43
>>419 不確かな伝聞。www 単位人口当たりのアイス消費量を載せないとね。www これだから
畿内説は根拠なしっていわれるんだよ。www
421 :
ガリガリクン:2010/06/28(月) 23:53:34
422 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 23:59:17
423 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 00:00:54
>>421 嘘っぱちの説に金使ってるのか。仕訳の対象だな。
424 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 00:02:07
425 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 00:03:21
また、畿内ウリナラ説か
426 :
ローガン:2010/06/29(火) 00:11:21
え、河童さんが来てたの? 2ちゃんの住人なら河童さんとサガミ先生が大好きですよ。
どうりでレスが伸びると思った。先日まで過疎スレだ、と思って書いたんですが降臨となれば私など出る幕なし。ではまた。
427 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 00:28:59
>2ちゃんの住人なら河童さんとサガミ先生が大好きですよ。
ここまで白々しい嘘は、2chで初めてだ。
428 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 02:34:17
やっぱり、邪馬台国は、今の大和、つまり奈良県にあり、
卑弥呼は、ヤマトトトヒモモソヒメという人だったのですね。
僕の考えが当たっててうれしいです。
考古学も神話学もいっぱい勉強したかいがあります。
429 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 02:57:11
寒い奈良県は無理
430 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 11:36:28
>>337 >そもそも女王国の入り口と終わりを示しているという説は私には理解できない。
>女王国は邪馬台国であると解釈していますので、万二千里の場所に邪馬台国が
>あってその入り口も終わりもない。であるから会稽郡の東冶県の東辺りだと見
>当をつけているわけだと。
こんな考えをするのは、邪馬台国や女王国の大きさを考えないからだろうな。
韓は戸数十五万戸ぐらいで方四千里だ。邪馬台国は戸数7万戸、方二千里ぐらい
はあるんだよ。女王国(邪馬台国+投馬国+旁国)は方三千里くらいを考えない
とな。当然、北の境界と南の境界とでは大変な隔たりがある。それをそれぞれ表
示することは考えられるところだよ。
431 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 11:53:11
>>392 倭人伝ぐらい読め。戸数道里以外に何があるってんだ?
432 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 11:55:14
邪馬台国は奈良県です。
九州説はいつまで夢を見て傷口を広げるのでしょうか。
433 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 11:56:21
奈良県で潜水漁ってどうやるの?
大魚や蛤は採れるの?
434 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/29(火) 12:06:38
卑弥呼の女王国は畿内にはないよ。記紀を見てもその相当年代あたりに
女王(女天皇)が在位した記事はない。これはどう考えても卑弥呼が畿内
にいたとは到底言えない。ならば九州が正解だということが知れる。
435 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 12:31:00
邪馬台国が奈良なんて、捻くれた性格の奴の妄言だな。
南へ南へって書いてるのに・・・。
436 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 12:59:12
蚕を飼い、絹を産出し、鉄鏃を使っていたのが邪馬台国。
畿内にはその形跡なし。
437 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 13:13:56
末盧国から東南五百里が伊都国。となれば佐賀だな。
そこから行けるところが邪馬台国。
438 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 13:51:16
やっぱり邪馬台国は大和しか考えられないよな。
439 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 13:55:13
× やっぱり邪馬台国は大和しか考えられないよな。
○ やっぱり邪馬台国が大和でないと、俺は飯が食っていけないな。
440 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 16:15:23
末盧国はめいの浜(博多湾の方)にすれば、東南五百里で伊都国の大野城、
不彌国で宝満川に乗って久留米は投馬国、久留米から筑後川にのって陸に上がり、
山門郡山川の女山が女王国=邪馬台国の都の宮殿のあるところ。吉野ヶ里によくにた
宮殿。
ちょうど万二千里。陸行きは現代地図帳の直線距離の半分未満が目安。
もちろん短里計算で。
441 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 16:40:43
邪馬台国が大和だと、どんな風に儲かるのか教えて欲しいな。
>>431 >倭人伝ぐらい読め。戸数道里以外に何があるってんだ?
その前に、漢文の勉強ぐらいはしなさいよ
漢文を日本語の文法で読んでどうすんのよ?
いいかい、何を略載したのか?という質問だぜ
それを日本語文のように「戸数道里」と答えてどうすんだよってな話で
後はこれ以上言わなくてもわかるよな
443 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 17:01:25
>>442 ばーか、何を気取ってるんだ。言いたいことがあったらはっきりいえ。
444 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 17:11:21
もう、完全に邪馬台国山門説で終止符ですね。
宝満川はむかしは蘆城(あしき)河といったそうです。
現在、宝満川が流れるところに阿志岐(あしき)という場所があり、
其のそばに「冷水」という地名があります。
冷水はヒミと読めます。冷水=不彌になります。
完全に不彌から宝満川を下って久留米(投馬)にいって筑後川を下り、陸にあがって
山門郡の山川というところの女山(昔は女王山)のところが邪馬台国の宮殿の
あったところというのが正解ですね。
>>443 はっきり言わないと分からないほどおバカさん揃いでもないでしょう
446 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 17:22:02
>>441 儲かるんじゃなくて、職を失う、今後の就職先も無くなる、学閥が崩壊するといった、
既得権益が無くなるということだ。
447 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 18:41:09
>>446 九州説の高島は、立派に学長してますが?
あれは九州の既得権益ではないのかな?
448 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 18:47:30
449 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 18:50:36
>>446 ,,/ ̄''l 彡/-'''"" ̄-=彡彡/ ,,-''",,,,,,,ノ .彡''"
(, ,--( 彡 ,,-- ===彡彡彡"_,-_ ヽ Υ
ヾ-( r'''''\ //=二二''''''彡ソ ̄ ∠__\ .\ソ .|
\;;;; \ Ζ彡≡彡-'''',r-、> l_"t。ミ\ノ,,r-v / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
\;;;; \ 彡""彡彡-//ヽ" ''''''"" ̄'''""(エア/ /
\;; \'''''')彡ヽ// | (tv /| , r_>'| < 一体何と戦っているんだ
\;;; \'" \ ,,"''-,, ノ,r-", / r'''-, .j \
\;;; \ /,,>--''' 二"''' r-| 二'" /. \______
\;;r'""彡 _l:::::::::::::::::::::: /./_ " /
)''//rl_--::::::::::::::::/:/ヽ"'=--":
450 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 19:30:20
>>444 山門へ行くんなら、豊満川なんぞに関わり合う必要はないな。
451 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 19:52:06
>>449 畿内説詐欺が日本に蔓延している構造を披露したまで。
>>451 学説が間違ってたからって馘首にするような大学はないね。
複数の仮説が提出され淘汰されるというのが学問だから。
仮に、邪馬台国が九州にあったと証明されても、畿内説を唱えた学者が職を失うことはない。
たかが邪馬台国なのに、学閥崩壊とか大袈裟に考え過ぎ。
453 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 20:25:22
>>450 伊都国が博多湾にあったので行かなきゃならないのです。
それと川を船に乗って坐(すわ)って進行するほうが、立って歩いて行くより楽なんですね。
それは博多湾から筑紫野を通って宝満川、筑後川に乗ってから歩いた方が、
唐津の最初から歩くよりずっと楽なんですね。
それと女王国に属する国が博多湾の方にあったためもあります、伊都国を含めて。
454 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 20:25:26
戦後の学界は、極左支配ってのが一番大きいよ。
「神武東征(=皇国史観)は絶対に認めてはならない」という極左の最大のテーゼ。
そこで、弥生時代の鉄器や絹や鏡の出土が畿内の倍どころか10倍以上と判明しても
その事実自体を著書で認める学者はほとんどいなかった。
認めれば、「日本の中心は九州から畿内に移った。」として神武東征を裏付ける。
そのため、弥生時代の鏡の出土において、九州が本州より桁違いに多いことを正直に
著書に書く学者が、現在もほとんど居ないという悲惨な現状が続いている。
これは学者のプライドをかなぐり捨てたと判断すべきであろう。
鉄の出土量の差をいまだに認めない者、過小評価する者、果てには鉄は権力と無関係と
うそぶく者までいる。
絹は100〜400倍の出土なので最初から畿内説は無視を決め込んでいる。
455 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 20:35:12
集落遺跡が一つも出ていないマキムクが7万戸の邪馬台国の中心地とかいうキチガイもいるよ。
456 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 20:52:25
大和王権が誕生してからも、
鉄器量は、九州の方が多かったんだから、
王権と鉄器は無関係と見るのが常識だろ。
457 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/29(火) 21:03:44
217年垂仁元年任那より朝貢
ここから大和に大量の鉄がもたらされる。
239年崩御
この王宮が昨年出土した、纒向辻の珠城宮です。
458 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 21:05:49
九州説=左翼、近畿説=保守派、だったと思ったけどな。昭和時代までは
459 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 21:15:29
右翼が極左出身だったり、保守派が元は左翼だったりしたな。
極左出身の赤尾敏は右翼の有名人だったし、
左翼出身の石原慎太郎は保守やってるしな。
ソ連が崩壊してマルクス主義経済学が骨董品になってから、
いまさら学会で右翼だの左翼だのなんてないだろ。
461 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 21:32:59
今は、
畿内派が学閥を作り
畿内派が博物館を牛耳り
畿内派が就職ルートを牛耳っている。
これだけの理由で畿内説詐欺が行われている。
しかし真実は
>>454の通りだ。
462 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/29(火) 21:33:11
239年≠垂仁没年
これでは239年鏡の畿内から多数出土する事由が説明できない。
つまり景行ご本尊に権威を持たせたい唐松山の恣意的操作のインチキ。
463 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 21:38:48
つまり卑弥呼が3世紀まで九州にいたとすると記紀の神武の東遷がそれ以降になってしまうって、
畿内説のいうヤマト王朝の名は邪馬台国の名から来ているという説が不都合になるから?
結局畿内説は左翼というより右翼だと思うな、基本的に。あえて左翼、右翼という言葉を
使わせてもらえば。
じゃあ、同じ皇国史観でも戦前はどうして東遷説で良かったんだろう?
邪馬台国は九州でも良かったのかな?
というか中国史書の卑弥呼の年代がわからなくて中国史書は中国史書、卑弥呼とモモソヒメとは関係ねえ
というスタンスだったのかな。
戦後、卑弥呼とモモソを結びつけたために、東遷説が不都合になったので、
東遷説攻撃をしているのだろうか。
464 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 21:56:40
>>458 まあそこら辺は右左が色々入り組んでいるwwwwwww
「そもそも論」で言えば九州説自体が本居宣長らの皇国史観からスタートしたんだろうが
70年代からのブームで言えば九州説と言うのは
「反アカデミズム=体制批判」で根底に左の思想が色濃いw
特に九州王朝の古田や邪馬台国ブームの立役者の一人松本清張なんか
まあ「左の人」と言って良いんじゃないかな?wwwww
ところが畿内説も「騎馬民族王朝説」に刺激を受けた
「三朝交替説」とかがでて来ているw
まあ「邪馬台国東遷説」なんて今や右からも左からも見放されているトンデモであるのは確かwwwwww
>>454のような内容は今じゃこんな匿名の掲示板でしかお目にかかれない”恨み節”w
なんせコイツラのシナリオじゃあ東遷勢力は人っ子一人いない奈良の原野を開拓し
西に東に征服劇をおっぱじめなければならないのだから
鏡なんかより実用性のある鉄を普及させる事の方がどう考えても急務w
まあ子供が考えても分かるような自己矛盾のオンパレードなわけでwwww
要するに素朴に
「鉄の多いクニ=豊かで強いクニ」
と考えられていた昔は良かった…と言う話wwwww
466 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 22:03:17
まあこの手の「ウヨサヨ論」を語るとき
「そもそも右だの左だのの定義って何よ?」って話だがw
左の究極的目標を「天皇制の廃絶」とした場合
この板でトンデモ九州説の連中が良く食いついてくれる
「ゆるやかな首長連合」と言う考えはむしろ都合が悪いだろうwwwww
その最初において「担がれた王、神輿のような存在」と言うのは
現在の「君臨するとも統治せず」の「象徴天皇制」とかなり相性が良いwwwww
467 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 22:11:11
やっぱり畿内説は皇国史観だと思う。
神武東征だけなかったことにして、
天皇万世一系でずっと紀元前から奈良にいたことにしたいわけだから、
むしろバリバリの極右だよ。
468 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 22:17:45
たしかに畿内説は、天皇純血主義、畿内聖地主義、大和朝廷崇拝国粋主義などの臭いがする。
469 :
醜の御楯:2010/06/29(火) 22:18:40
海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ
東征が問題なのではありません。神武帝が前660年に日向から来られたというのであれば
自分らは何の文句もないのであります。根拠もなく皇紀を操作することこそ非国民の所業。
金鵄輝く日本の 榮ある光身にうけて いまこそ祝へこの朝 紀元は二千六百年 ああ一億の胸は鳴る
470 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 22:18:48
つまり、畿内説=安っぽい民族派思想
471 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 22:19:50
>>469 よお、極左から極右に転向した早稲田政経オヤジの心酔者。
近江説からはどんなにおいがしますか^^
鮒寿司のにおいですかそうですか^^
473 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 22:23:33
>>469 では3世紀の邪馬台国はどこにあったとしていますか?
474 :
醜の御楯:2010/06/29(火) 22:24:27
畿内説というか、自分らは東征をはっきりと認めております。ただし天照大神が卑弥呼であるとか、
神武帝の東征が3世紀であるとかいうのは、何の根拠もなく非国民の言説であります。史学会に
巣食う佞人は必ずや天誅を受くるでありましょう。
475 :
醜の御楯:2010/06/29(火) 22:27:33
>>473 前に書き込みいたしましたが、これは九州でしょう。蛮夷の女酋が神功皇后の御名を騙った
と考えるのが当然であります。記紀編者には誤解があります。
476 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 22:29:50
>>469 神武は北部九州出身だ。日向で傭兵をやっていたが雇用を切られ、フラフラしていた。
半島まで出かけて戦うノウハウがなければ軍人として使いものにならない時代となった、
3世紀のことだったろう。
神武軍自体が少ない人数だったし、畿内で得た領土も小さかった。徳川家初代も、
乞食坊主が一般民家(松平家)に住み込んだことに発するが、神武もそのレベルだ。
477 :
醜の御楯:2010/06/29(火) 22:37:36
>>476 >3世紀のことだったろう。
www 自分の説は戦前ではごく普通の見解でしょう。日向三代の御陵もむろん真物であります。貴公らは
記紀の記述を元にしながらも、その年代を改変するという大きな愚を犯しておりましょう。年代が信ずべき
でないならば、などてその記述が信じられましょうか。ご都合主義のいいとこ取りはもういいかげんに止め
たらどうか。
478 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/29(火) 22:37:51
神功は卑弥呼の時代より後代なので、その女酋が神功を語ることはありえ
ないと観るべきである。
479 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 22:37:51
神武東征は3世紀ですよ。
そしてその正体は公孫氏なんだなこれが。
単純な話でしょ?
480 :
醜の御楯:2010/06/29(火) 22:46:03
天に代わりて不義を討つ 忠勇無双の我が兵は 歓呼の声に送られて 今ぞ出で立つ父母の国
勝たずば生きて還らじと 誓う心の勇ましさ
>>478 卑弥呼の時代はむろん魏書にあるとおりでありましょう。九州の土蜘蛛にすぎない。その所在地
など知りようもないのであります。
481 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 22:53:44
>>480 天皇同士が殺し合ったりしている場合は、醜の御楯はどっちにつくの?
482 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 22:55:28
>>475 そうですか。同じ皇国史観でも本居宣長風なのですね。
でも畿内説とは根本的に仲良しになれる素質があるというか。
今の畿内説は卑弥呼を3世紀に畿内にいたとして、皇族の一族としているのです。
それで魏に朝貢していたのは都合が悪いので、天皇家の傍系にみなしているそうなんです。
483 :
醜の御楯:2010/06/29(火) 22:58:42
天照大神=卑弥呼 などという見解は、戦後の人心の荒廃ここに極まれりというところでしょう。
米帝国主義に骨まで抜かれた非国民の哀れむべき姿に他なりません。などて皇祖神を蛮夷の
女族と同一視するなどの愚行を許しておけましょうか。
大東亜共栄 天皇陛下万歳 万歳 万歳
>>481 記紀によれば悪逆といわれた天皇もおったようですが、天皇のもとに国体を護持することが大切な
のであります。どちらに味方するもない、今上陛下が日本民族統合の証であり、神聖にして侵すべ
からざるものなのであります。
484 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 23:08:53
>>483 今上陛下は、暗殺された睦仁親王にすり替わって明治天皇になった大室寅之祐の子孫だけど、
岩倉具視が睦仁親王を暗殺したことは支持するの?
485 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 23:10:38
神武天皇は「東夷」だよ。
中華思想の方の言い方するならね。
486 :
醜の御楯:2010/06/29(火) 23:14:18
487 :
醜の御楯:2010/06/29(火) 23:19:34
恥を忘れし惰弱は、靖国にて土下座し英霊に詫びよ。死して英霊に詫びよ。
天皇陛下万歳 天皇陛下万歳 天皇陛下万歳
488 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 23:21:27
>>486 そのヤマトっつうのが百済と同族なのよ
おそらく大東亜戦争では、ヤマトの末裔達は先頭に立って戦って散っていき
残った人間がぱかすか子供生んだわけだから、団塊がダメ世代なのも当然だね
489 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 23:24:35
>>486 馬鹿を言え、睦仁親王を暗殺した側が今の天皇家をやっているんだ。
それを支持するのか、しないのか、言え。
490 :
醜の御楯:2010/06/29(火) 23:30:11
>>489 まず睦仁親王を暗殺という前提が虚妄であり史実ではない。今上陛下が日本、いや大日本帝国
そのものであり、「指示する」などという言辞は驕慢の限り。自分らは陛下に臣従し、御事跡を翼賛
するものであります。
キヨソーネとか天然痘とか信じてるのかwww
491 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 23:31:41
九州説の次の作戦は、天皇を見下すことか。
492 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 23:32:45
エセ右翼どっか行け
493 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 23:33:03
なるほど、畿内説が一番嫌っているのは邪馬台国東遷説なのね。
ということは邪馬台国は3世紀にあったということはわかっているので、
天照が卑弥呼だったりすると記紀の記述と食い違うから絶対ゆるせないわけね。
畿内説は本居宣長風説だったら許せるわけよ。
九州邪馬台国東遷説は皇国史観で右翼だという見解は、それは誤りですね。
どちらかというと左翼ですね。
494 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 23:36:55
>>493 要は九州にいたウリたちの先祖が東遷したアル!ってことでしょ
九州はチョンシナ系が多いから
495 :
醜の御楯:2010/06/29(火) 23:37:22
496 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 23:38:46
497 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/29(火) 23:45:29
邪馬台国は畿内大和であり、九州女王国を併呑した。
498 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 23:45:33
安保闘争で絶叫した左翼が、いまじゃすっかり
醜の御楯みたいな「民族派」を称して、
うさんくさいエセ右翼をやっている。
文鮮明の統一協会や朝鮮労働党が裏でこれを支援。
馬鹿は氏んでください。
499 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 23:46:32
マジレスすれば、少子化、人口減少の国は発展の余地は少ない。技術立国とかいったところでもはや危うい。
戦前を思わせるから、結婚するしない、子供を産む産まないは個人の自由とか称して、「産めよ増やせよ」と
口にすることもできない。衰退の未来しかない。
500 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 23:46:56
>>497 あ、それ、逆だから。
九州政権の天武が畿内政権を簒奪しちゃったわけ。
501 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 23:53:27
>>499 なにこれ誤爆?
それとも「産み増やして棲み着いたもん勝ちアル」って宣戦布告?
502 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/29(火) 23:57:35
でも可愛そうな九州には王宮がありません。
そして時代が違う、今議論しているのは、天武の云う、箸陵のご主人の時代ですよ。
人口が増えること=発展、ではないのは、どこかの国を見れば明白ですがね??
>>499 おそらく近い将来、移民を受け入れざるを得なくなるだろうな。
505 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 23:59:43
>>502 纏向にも王宮なんか一切ないから、心配するな。
日本のロボット技術があれば、人手なんかいらなくなる一方じゃね?
移民に農業でもやってもらうんだろうか
509 :
日本@名無史さん:2010/06/30(水) 00:05:51
畿内が九州を併合できるわけないじゃん
>>507 わかんね。
年齢構成比率をキープしなきゃいかん道理が分からん。
ま、移民を受け入れろって主張をする類の人が
このスレに書き込んでるってことは分かったよ
おk
511 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/30(水) 00:12:32
出征した時代は人口減少等で大きな事は出来ない。
つまり高句麗の南下した西暦400年前後に応神、仁徳陵は作れない。
その後も敗戦の痛手でやはり巨大古墳は作れない。
だから405年崩御の履中は、古い古墳に埋葬される。
512 :
日本@名無史さん:2010/06/30(水) 07:08:16
河童復活と聞いて、消防署の方から
すっトンで来ました。
で、どこ?
513 :
日本@名無史さん:2010/06/30(水) 13:10:41
亡霊は昼はでない。
514 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/06/30(水) 17:38:01
>>376 漢書の万里が独立な情報というから、そうではないのではないかと2つの例を挙げているのに、
「最初の水行部分が万里」というのが主張通りというなら、独立な情報という前提があやしいと
いうことになるのだけど、それで良いの?
その万里を按分して、というが、なぜ3度の渡海を3000里と歴韓国7000里に按分したのか?その根拠はなにかと訊ねているのですよ。
歴韓国1000里、3度の渡海9000里にしなかったのは何故ですか? 韓を方800里ではなく方4000里としたのは何故ですか?
その方4000里は魏の里なのでしょう?どうして現実の韓半島と全く異なる数値になったというのか、ローガン氏の考えを教えてくれませんか?
>>九州上陸後約2000里離れた場所が女王都
末廬國から500里で伊都國、100里で奴國、100里で不彌國、なんでしょ。これと2000里の関係を教えてと聞いてるの。
末廬國が唐津市、奴國を福岡の那とするなら、その里数は魏の里とは全く違う値のものなのだけど、それはどうして?
それと、河童氏は来ていないよ。
>>514 >河童氏は来ていないよ
内容といい、レススピードといい誰が見てもモロ河童だろう。
516 :
日本@名無史さん:2010/06/30(水) 19:04:11
妖怪は、さわぐと、すぐ逃げるよ。
付かず離れずで、そっと観察しないと。
「王の帰還」だな。
内容がないから、というか調べなくても書ける内容だから。
勇者現る。
河童さ〜ん
河童さんの挑戦者見つかりましたよ
521 :
ローガン:2010/07/01(木) 01:12:13
>>514 >その方4000里は魏の里なのでしょう?どうして現実の韓半島と全く異なる数値になったというのか、
そう。魏の里。長里も短里もない 天子の公定里。
仮にこれと、極端に違う度があると云うなら、その根拠となる当時の「度量衡について触れた直接の史料」を、明示してください。
「極端に違う度が、当時の中国で使われた事に触れた直接の史料」など、ないでしょ?
なら、万里や万二千餘里と云う記述を解釈する上で、「当時の中国で極端に違う度が使われた」という可能性は、当然排除されるのは言うまでもない。
では何故、現実と乖離した数字の記述があるのか?という事について述べたのが先日の書き込み。
522 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 05:34:08
本当に魏の公定里か?
度量衡に触れた直接の史料があるか? 尺のものさしが出土しただけでは
足りない。
東夷伝は本当に魏の里で書かれているのか?
記述は東夷に関するもので、魏本国に関するものではない。
東夷伝の記述で魏の里に一致するという部分はあるのか、それはどこか?
東夷は魏とちがう度量衡を使用していると分かっていたら、それをそのまま
記載することもあり得る。
523 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 05:44:48
>何故、現実と乖離した数字の記述があるのか?という事について述べたのが先日の書き込み。
ローガンの説では、扶余方二千里、高句麗方二千里、韓方四千里の説明はできない。
524 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 08:41:22
すくなくとも魏志倭人伝において公定里が使われた形跡が
全く無い。
525 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 08:53:38
公定里なんていうけど、距離と面積の場合では違うんじゃないの?
例えば井は面積では方一里のことだけど、距離では井=千歩だからね。
526 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 10:15:03
公定里も関係なく、1里=約76m
527 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/07/01(木) 11:49:00
>>521 >>では何故、現実と乖離した数字の記述があるのか?という事について述べたのが先日の書き込み。
何も述べてないですよ。何かを説明したつもりになっていますか?
もう一度ききますよ、何故韓の地が方4000里なのですか?
万里をなぜ歴韓国7000里と3度の渡海1000里に按分したのですか?その根拠は?
そして何故、魏の里と5倍近くも乖離した数値となってしまったのですか?
>>527 横から失礼。つまり、東夷伝の信頼性は、その程度ってこと。
529 :
ローガン:2010/07/01(木) 15:36:24
>>527 >もう一度ききますよ
じゃあ元のレスに戻って…
>>284:二 ◆.L.MXSPOgc 2010/06/27(日) 07:47:52 AA
>彼の書いた万里の根拠も梯儁や張政のもたらした情報が元ではないか?という話をしている。
>ローガン氏の如淳の万里は別情報によるもの、という根拠がまず乏しいと感じる。その理由として、
>1、万二千里を略す万里と書くことができる。2、倭人伝に見えるように(最初の)水行部分の行程が合計で万里になる。 という2つをあげて反論している。
1.だから仮に如淳が、あなたの云うように万二千餘里という情報を得ていた上で、万里と略した…とするなら、
その略すると云う行為が、当時の史書において常套であった事を論じる必要がありますよ。
出来ますか?出来なきゃ反論にならない。まずはそれから。
2.東漢の始めに北部九州が朝貢しているのは確定。如淳注記に対する本文も、この朝貢者を指していると考えて何ら問題無し。
「楽浪海中の倭人とは、帯方の東南はるか万里の彼方である」が当時の漠然とした認識であった。海中ゆえ、倭までの交通手段は船。
よって万里は、船での移動距離。倭人伝にある7000里と3000里で万里。当初からの主張通り。
>韓を方800里とし、歴韓国1000里+渡海3000里x3などとすればよい話で、机上の計算ならこうなるだろう。
だから、その記述はどこにありますか? と尋ねているのに…。あるなら書いてね。ないなら、意味がないので却下。
530 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 19:19:19
対馬海峡が三世紀には1300kmあった証拠、マダ〜?
531 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 19:55:27
ローガン、扶余方二千里、高句麗方二千里、韓方四千里の説明はできんの?
532 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 21:41:54
ローガンは逃げたようだ。弱いな。
>>530 >対馬海峡が三世紀には1300kmあった証拠、マダ〜?
それ以前に、三世紀にkmという単位が存在しないだろう
だから何時まで待ってもそんな証拠出てこない
>>525 >例えば井は面積では方一里のことだけど、距離では井=千歩だからね。
そんなこと何処に書いてありますか?
535 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 22:59:28
ローガンは一日から二日経って
忘れたころに、反論らしきものを書き込む。
が、そのころにはもう誰も相手にしない。
>>535 >反論らしきもの
どれに対する反論? 与太レスばかりだが。
537 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 23:05:21
畿内厨は、フォローしてやれよ
公定里説は畿内説側からも特異な説なのか?
538 :
ローガン:2010/07/01(木) 23:11:44
>>531 >ローガン、扶余方二千里、高句麗方二千里、韓方四千里の説明はできんの?
はいはい。でそれの何をどう説明すればいいの?出来るかできんかなんて質問されても
何を書けばいいかわからん。
539 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 23:19:02
そんなに無理して説明できるふりをしなくていいよ
540 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 23:22:09
弱いコテだな。
もう一つのスレには臭いコテがいるみたいだよ。
542 :
ローガン:2010/07/01(木) 23:33:14
>>539 質問の意図すら書けんのか… つまらんなあ。
543 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 23:38:26
与太レスばかりだな。
544 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 00:00:36
老眼だから気力がないんだよ
545 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 00:11:48
>>538 扶余は方二千里とあるが、「玄菟を去ること千里、南は高句麗、東は挹婁、西は鮮卑
と接す、北に弱水」とある。ローガンのいう公定里では方二千里はおよそ870キロ
×870キロ。とても、上記の範囲にはおさまらないね。
同様に、高句麗も方二千里。遼東の東千里、南は朝鮮濊貊、東は沃沮、北は扶余だ。
これも公定里ではとうてい納まらない。
韓の方四千里も同様だ。
これらは、いわゆる短里で読むほかないと思うがね。
546 :
ローガン:2010/07/02(金) 00:14:03
ははあ。
>>531>ローガン、扶余方二千里、高句麗方二千里、韓方四千里の説明はできんの?
の前レスはこれやね。
>>523>ローガンの説では、扶余方二千里、高句麗方二千里、韓方四千里の説明はできない。
私にそれの何をどう説明して欲しいと云うのか?がよくわからん。
君が「ローガンには出来ない」とした理由を書ける?
それ聞けば、何とか返事出来そう。しかし…、ここまで言わなあかんのかなあ。何かスルーするのが悪いような気がしたんやけど…。
君、大丈夫? 書けるかなあ?
547 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 00:14:20
ローガンには、自分の身長が、1.5mか10mかの区別もできないんだよ。
548 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 00:20:57
ローガンのオ○ン○ンは、10cmでもあり60cmでもある。それが畿内説。
>>537 先日は九州説の河童がフォローしていたぞ
550 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/07/02(金) 00:31:22
>>529 万二千を略して万とする、ということは一般的にありえることでしょ。史書において常套でなくてもありえるなら
可能性として考えるべきなんですよ。あなたはそれを放棄しているから、私は違うのではないかと訊ねているのです。
加えて、これは略すというのとは別の話で、倭人伝と同じ情報から最初の水行の部分が万里であるので、倭を万里と
注を入れたのではないか、という可能性を書いています。
これらは、ローガン氏のいうように万里が先にあり、魏略や三国志の記述がそれを参考にしている可能性を
否定していないことに注意してください。それ以外の可能性を考えないことに疑問を投げかけています。
次に歴韓国の7000里と3度の1000里の渡海について、これが万里の按分とするなら、
なぜこのように按分したのか?と根拠を聞いているのですが、それに対してどうして回答できないのでしょうか。
他ならぬローガン氏の意見を聞いているのですよ?
私なら万里を按分するなら歴韓国1000里と、3度の3000里の渡海に按分するのに、なぜそうなっていないのか、
私には分からないのです。ですからローガン氏に、何故7000里と1000里x3の按分になったのかと説明して頂きたく
たずねているのです。
また他の方が聞いておられますが、扶余方二千里、高句麗方二千里の説明を、魏の里とする説明も合わせてお願いいたします。
551 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 01:37:46
ローガンはまたダンマリかあ。
552 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 01:48:54
都合のよいときだけ、耳が遠い。
553 :
ローガン:2010/07/02(金) 02:03:42
>>545 >扶余は方二千里とあるが、「玄菟を去ること千里、南は高句麗、東は婁、西は鮮卑
と接す、北に弱水」とある。ローガンのいう公定里では方二千里はおよそ870キロ
×870キロ。とても、上記の範囲にはおさまらないね。
エリアが確定してないと、「おさまらない」とは言えないよ。どこと確定出来るか書いてね。吉林省?黒竜江省?どの辺?
>同様に、高句麗も方二千里。遼東の東千里、南は朝鮮貊、東は沃沮、北は扶余だ。
これも公定里ではとうてい納まらない。
なんで?例えば阜新の東辺りから北朝鮮の日本海沿岸部まで直線距離でも800km位。当然、直線距離を測ったなんて事はないから、沿岸部に沃ソの領域があった所で、問題無し。
それより、あなたの言い分に従うと高句麗と夫余、その面積はそれぞれ、三韓の25%になるけど。
そう主張していると受け取っていい?
では、お休みなさい。
554 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 02:07:43
ローガンの身長は10m?
555 :
ローガン:2010/07/02(金) 02:28:09
>>550 >私なら万里を按分するなら歴韓国1000里と、3度の3000里の渡海に按分するのに、なぜそうなっていないのか、私には分からないのです。
いや、あなたがどう思った所で、そう云う記述は無いんだから。
「私だったらこうする。」と言われても返答しようがありません。
556 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 02:32:15
じゃあ三世紀には、対馬海峡が130Kmあったワケね?
557 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 08:32:50
>>534 大戦礼記 主言:
然後布指知寸,布手知尺,舒肘知尋,十尋而索;百步而堵,三百步而里,千步而井,三井而句烈,三句烈而距
方里而井,井九百畝,其中為公田
両方を比べると同じ井の単位でも面積と長さでは違う。
尺についてもキビ粒が元ではなく、上の場合身体尺がもとになっています。
ですから千歩而井(千歩にして井)の歩は身体尺で歩測だろうと検討をつけました。
そうすると方一里の一里が300歩で1歩が6尺余りなので、6尺は3歩分と考えると
歩測だと3余×300=900余で、約1000歩になるなあと。
だから千歩而井の千歩とは歩測の場合の歩だなと。
つまり歩は面積を表す場合と、長さでは違うのだろうと思った。
558 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 09:45:39
>>553 >エリアが確定してないと、「おさまらない」とは言えないよ。
逃げ口上だな。エリアは、「玄菟を去ること千里、南は高句麗、東は婁、西は鮮卑
と接す、北に弱水」とあり、方二千里とあるところから考えろ。
今だって扶余という地名は残っている。そこを中心に870キロ×870キロの領
域を考えたらとんでもないことになるのは分かるだろうが。
160キロ×160キロならば問題はない。
>あなたの言い分に従うと高句麗と夫余、その面積はそれぞれ、三韓の25%になるけど。
>そう主張していると受け取っていい?
そう主張も何も、魏志はそう書いているんだよ。素直に読め。戸数だって、扶余8万、高句麗
3万とあるだろうが。韓よりずっと少ない。扶余も高句麗も韓より狭いという認識が当然だ。
559 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 11:40:57
答えは出ちゃったな。短里が正解。短里じゃないと矛盾百出。
560 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 11:47:38
>>557つづき
学書:廣度: 跬,一舉足也。倍跬,謂之歩。
とあるように一足の倍が歩であるとある。
歩は右足裏の形と左足裏の形を組み合わせた会意文字。
557で書いたように6尺余を3歩とすると、2尺余で1歩。ちょうど足裏の長さの2倍程度になる。
ということは長さの歩とは2足で一歩のことで、だいたい2尺余位と理解できる。
そうすると、一里は300歩なので計算すると約140メートルになる。
仮に一里=140mとすると三韓の方四千里は方560キロとなります。
地図で確かめると三韓は直線距離で東西が300キロ位なので、その倍は昔の人は
感覚として道のりで計ると思うのでだいたい合っているのかなと。
561 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 11:50:59
魏の1里=約76m
百年理屈をこねても同じ。
>>558 残念だなあ。
君は何か勘違いしている様だけど、聞いて揚げ足取りをしたいんじゃなくて、
単純に君の意見が面白そうだから聞いてみたかっただけなんだよ。
もっとまともなレスを期待してたんだけど。ごめんね。
ちなみに君は揚げ足を取られる事を恐れているようだけど、それは違うと思う。
揚げ足を取られるのは、君に隙があるから。
隙だらけの人間ってのはそうやって余計な所でつまらない恥をかく事になるもんだよ。
他人につっこまれる事は、自身の知識をより客観的で多角的なものとする為に
有益な指針となるものだと思うな。
563 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 12:29:24
>>567 どこに書いてあるのときいたから、
書いてある場所まで示しましたよ。親切だと思いませんか?
私の意見は蛇足にすぎません。
違うと思われたら、反論していただければよいだけのことです。
それにあなたの書いていることの意味がわかりません。
揚げ足を取られるのを恐れているようだとか、隙あがあるとか、
なんのことかさっぱり。
そういうけんかを売るようなものいいしかできない人なんですね。
564 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 13:34:34
>>562 のようなレスを中身がないレスという。
無視した方が良い。
565 :
ローガン:2010/07/02(金) 14:17:28
>>558 >方二千里とあるところから考えろ。
しっかりしてね。いいかい、度量衡史料が皆無の「短里」とやらを「あった!あった!」という為に現実の地理との比較という方法を採っているんでしょ?
なら、現実の地理における夫余のエリア位しっかり書かないと…。「ローガンの説では、夫余の方二千里が説明出来ない」と言い出したのか君。頑張って!
>今だって扶余という地名は残っている。そこを中心に870キロ×870キロの領域を考えたらとんでもないことになるのは分かるだろうが。160キロ×160キロならば問題はない。
1里が80mって事ね。じゃあ烏孫から東へ1000km足らずが夫余の西端でいいね?
直線距離で考えても 五原辺りだけど、北にアムール川ある?道のりで考えたら、もっと西。(笑)
その南方向にある高句麗…長安の真北。これでいいかね。
566 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 14:33:10
公定里が詐欺だとバレちゃったローガンは必死
567 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 14:41:50
>>565 しっかりしてくれと言いたいのはこっちだよ。何で烏孫が出てくるんだ?
老人性徘徊か?
私は、「玄菟を去ること千里、南は高句麗、東は挹婁、西は鮮卑
と接す、北に弱水」で、方二千里とあるところから考えろ、と言っただけだろ。
568 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 14:51:53
どうでもいいところに、ツッコミを入れて
本質的なところは、なにも返答しないのな。
これがローガン詐欺か。
569 :
ローガン:2010/07/02(金) 14:52:11
え?
>>558に「魏志はそう書いているんだよ。素直に読め。」とあるので、君の云う事に従って魏書を素直に読んだんだけど。
何がおかしいのかな?君の主張通りに夫余の場所を探したんだけど。
570 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/02(金) 15:02:18
>公定里が詐欺だとバレちゃった
そこで詐欺師は短里を発明し、短里で説明使用とするが、短里なる物は存在しない。
簡単にいえば、魏志の距離とは、軍を移動するために必要な里程、
都から遠く離れた辺鄙な地では、軍の移動に都近辺より多めに見積もらねばならない。
1日の移動距離を100里とし、郡より倭まで、120日。後方支援も考えればこの程度になる。
571 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 15:13:46
いや、魏里が今日からみて短里であるにすぎないんだよ。
周代も同じだったんだからね。
根拠カラッポ松山は、それを知っていて隠してるでしょ。
まあ、詐欺師集団の一味だから、しょうがないか!
572 :
ローガン:2010/07/02(金) 15:16:37
>>568 >どうでもいいところに、ツッコミを入れて 本質的なところは、なにも返答しないのな。これがローガン詐欺か。
結構、昨日からの話の本質部分だと思うけど。気がつかないかなあ。
573 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 15:53:05
鮮卑の領域
574 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 16:49:48
>>569 まともな答えができないから、誤魔化そうとしているんだろうが、
見苦しい限りだねえ。
私は「今だって扶余という地名は残っている。」と書いている、それを
探してね。そうすれば、徘徊せずにすむんだから。
575 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 16:53:45
>>567 横から失礼。
あなたは、どんな地図をみているんだろう。
中国歴史地図集第三冊の3−4「三国時期全図」を見ると、
扶余は870キロ×870キロでも、それほど的外れの数値ではない。
むしろ160キロ×160キロじゃあ小さすぎて、全然お話にならない。
それから「玄菟を去ること千里」だが、短里だと75m×1000=75000m=75km
これって、玄菟の郡衙からだと、玄菟郡ないからすら出られない数値。
玄菟郡の境界からにしても、高句麗か扶余かってくらいで短すぎ。
434m×1000=434000m=434kmなら、
玄菟から扶余の領域の中心あたりでちょうど良いです。
これから見れば、
「玄菟を去ること千里、南は高句麗、東は挹婁、西は鮮卑と接す、北に弱水」
という記述は、短里だと地図上では短すぎて明らかに間違いです。
576 :
ローガン:2010/07/02(金) 17:45:34
>>574 夫余の西は鮮卑。鮮卑は東西万二千餘里。敦煌の西、烏孫に接する所までが鮮卑。
だから、烏孫から東方向へ12000里の所が夫余との境。1里が80mだとしたら直線距離で五原辺りが精いっぱい。そんな所に弱水は無い。
しかしこれが君の云う「短里」とやらで砂鬼読んだ結果。どこにごまかしがある?
577 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 18:52:40
対馬海峡が三世紀は130kmあった証拠、マダ〜?
578 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 19:16:37
短里だったとすると
「玄菟を去ること千里、南は高句麗、東は挹婁、西は鮮卑と接す、北に弱水」
は、実測に対して全然小さすぎるし、
烏孫から東方向に12000里が五原あたりで、やっぱり短すぎ。
では、全部長里だったかというと、韓方四千里とか対馬海峡が1300kmとか、今度は長過ぎ。
つまり、三国志の距離情報の精度というのは、その程度のものということ。
そもそもが、いろんな資料を寄せ集めて切り貼りしたのが史書なんだから、
全書を通じて同じ精度の情報を期待する方が無理。
そんな情報を実測値に照らして、だから短里が存在したなんていうのは、なんの信憑性も無い。
579 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 19:18:32
↑
畿内説詐欺の常套手段。
>>579 君は「詐欺詐欺」と連呼するだけのようだが、
具体的な論拠なり妥当な論理的推測なりを書き込んだことはあるのか?
心情的に「詐欺詐欺」と連呼するだけならレスの無駄だし、
議論じゃなくて中傷合戦になって、うんざりなのでやめてくれないか。
九州説を主張する振りをしてスレを荒らしたいだけなら、
「オレオレ」詐欺ならぬ「詐欺詐欺」詐欺だな。
581 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 19:50:13
対馬海峡が三世紀は130kmあった証拠、マダ〜?
582 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 19:59:00
>>581 130kmじゃなくて1300kmだろ。
>>580 だからその人は病気なんだよ。障害を持った人との接し方を学ぶよい機会じゃないか
と思う。さすがにこの板の九州説だってこの仲間とは思われたくないだろ。
584 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 20:09:42
魏朝の本拠地や周辺部で、公定里が使われた可能性は否定しないが
支配している勢力によっては、別単位の里程が使われていた可能性も
否定できないんじゃないかな。
歴代王朝が統一令を出していたようで、地域によって統一されてない
傍証になる。
魏志倭人伝の記述では、公定里を使った痕跡が全く無くて
短里を使うと、既知の地名では距離が一致するのは事実なんだから。
585 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 20:48:10
>>584 度量衡に地域差があった可能性は否定しない。
でも、倭人伝は魏の朝廷への報告書をもとにしているんじゃないのか。
魏の官僚が魏の官僚に報告書を書くのに、倭の度量衡を使う理由は無いよ。
しかも単位記号が同じ「里」なんて混乱の元でしょう。
586 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 21:00:21
>>585 まったく、混乱の元であるとしか言いようがない。
公定里を使うと、倭国がパプアニューギニアになったり
末羅国がグアム、サイパンになったり
末羅から500里で、鹿児島になったりする。
伝聞そのままじゃなくて、換算して書けよと言いたい気分だ。
これが正確なら、もう終わった議論なんだが。
587 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/02(金) 21:17:36
>もう終わった議論なんだが。
卑弥呼が邪馬台国に居住する限りまた繰り返される。
>>586 >伝聞そのままじゃなくて、換算して書けよと言いたい気分だ。
魏の官吏が本国あてに報告したものなら、当然換算してある。
つまりは、パプアニューギニアになっちゃうのは、数値がいい加減だから。
こんなものを基に、あそこだここだと議論しても始まらん。
589 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/02(金) 21:43:56
590 :
ローガン:2010/07/02(金) 22:40:09
>>587 >>もう終わった議論なんだが。
>卑弥呼が邪馬台国に居住する限りまた繰り返される。
唐松山さん 覚えてる? ザbbsにいた歴史好きなおっさん。あなたも秀真の議論でガリガリやったでしょ?(笑)
いい九州説だった。それと比べるとこの板の九州説の人達は 短里とやらをまだどうたらこうたら…
短里と三倍暦どちらに軍配があがるかなあ。
>>590 短里説論者は、誰か魏晋朝短里説を論文に書いて中国語に訳してもらって中国社会科学院に送ってみればいい。
どういう返事が返ってくるか。www
592 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 22:52:48
>>576 >烏孫から東方向へ12000里の所が夫余との境。
で、公定里だとどのあたりになるのかな?
593 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 23:03:11
>>575 >あなたは、どんな地図をみているんだろう。
私はあなたの見ているような地図を盲信はしないんだよ。
しょせん、その地図は、方二千里を君らの言う公定里をもとに考えて、扶余を
できるだけ大きく塗りつぶしたものなんだよ。公定里を前提にしてつくった地
図だから、何とかそれらしく見えるってだけだ。
>「玄菟を去ること千里、南は高句麗、東は挹婁、西は鮮卑と接す、北に弱水」
>という記述は、短里だと地図上では短すぎて明らかに間違いです。
では、あなたがローガンに代わって答えたら? 弱水の南に方二千里(公定里でね)
の面積を塗りつぶしたら、高句麗の方二千里はどこにもっていくの?
ローガンがどうしても答えようとしないところだ。むずかしいぜ。
594 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 23:04:14
日本の里が4キロになっている時点で
そう簡単には統一はできんわな
冊封体制やら遣唐使やら遣隋使やら
日本は合わそうとは考えなかったのか?
もともと独自の4キロという単位があって
それに漢字の里を当てたのか。
595 :
ローガン:2010/07/02(金) 23:13:57
>>593 なんだ。来てたのか。
576:ローガン 2010/07/02(金) 17:45:34 AA
574
夫余の西は鮮卑。鮮卑は東西万二千餘里。敦煌の西、烏孫に接する所までが鮮卑。
だから、烏孫から東方向へ12000里の所が夫余との境。1里が80mだとしたら直線距離で五原辺りが精いっぱい。そんな所に弱水は無い。
しかしこれが君の云う「短里」とやらで砂鬼読んだ結果。どこにごまかしがある?
答えてね。つまらん切り返しの質問は不要。どこにごまかしがある?
596 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 23:16:41
>>593 >しょせん、その地図は、方二千里を君らの言う公定里をもとに考えて、扶余を
>できるだけ大きく塗りつぶしたものなんだよ。
塗りつぶしたも何も、長春から弱水(黒竜江)まで、一番近いところまで直線でたどっても600km超える。
この時点で160km×160kmはアウトじゃん。
長春と黒竜江の位置関係は、公定里を前提にしようがしまいが変わらんでしょ。
>高句麗の方二千里はどこにもっていくの?
オレの答えは、
>>578
馬鹿くさいなあ。中国の学者はむろん、三国志の度量衡は実測値であるものは少なく、公定里に近いものもそうでない
ものもあることは知っている。そもそも不確かな記述が多いということ。陳寿が正確な広域地図を持ってて、いちいち物
差しで測って書いてたとでも思うのか。wwww
598 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 23:45:23
漢倭奴国王や、親魏倭王として冊封体制に組み込まれたはずだが
統一令があったとしても、倭国に対する度量衡統一圧力は強くない。
強ければ、ズレはあるだろうが、現代の里は公定里に近い距離になっているだろう。
帯方郡あたりの国で、魏朝からの統一圧力がどの程度あったかが問題だな。
599 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 00:20:08
>>595 >夫余の西は鮮卑。鮮卑は東西万二千餘里。敦煌の西、烏孫に接する所までが鮮卑。
夫余の西は鮮卑と言っても接触しているとはないな。烏孫に接する所までが鮮卑だと
いうわけでもない。西は烏孫をうちなどという記述はあるが、凶奴の故地に拠すと続
いており、烏孫がその拠した所というわけではない。
国が接触していると思い込むのは間違いだ。国は王の支配が届いている範囲れ。即ち
徴税、徴兵などが実施されていた範囲だ。しかし、当時の扶余、高句麗などはそう広
い地域を支配していたわけではない。その支配領域の広さは方二千里に過ぎん。その
周辺に、扶余や高句麗に属さない人々がいくらでもいたんだな。
くらでもいたんだよ。
600 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 00:46:09
>>596 >長春から弱水(黒竜江)まで、一番近いところまで直線でたどっても600km超える。
扶余はもとは玄菟郡に属していた所、しかもたった戸数8万戸だ。その首都は扶余か農安、
又は阿城。いずれも松花江の南。弱水ってのは、黒竜江に合流する松花江のことだよ。
今の黒竜江ではない。
601 :
ローガン:2010/07/03(土) 00:48:14
>>599 >夫余の西は鮮卑と言っても接触しているとはないな。
乃分其地爲中東西三部。從右北平以東至遼、東接夫餘
>烏孫に接する所までが鮮卑だというわけでもない。
從上谷以西至燉煌西接烏孫爲西部
それより
576:ローガン 2010/07/02(金) 17:45:34 AA
574
夫余の西は鮮卑。鮮卑は東西万二千餘里。敦煌の西、烏孫に接する所までが鮮卑。
だから、烏孫から東方向へ12000里の所が夫余との境。1里が80mだとしたら直線距離で五原辺りが精いっぱい。そんな所に弱水は無い。
しかしこれが君の云う「短里」とやらで砂鬼読んだ結果。どこにごまかしがある?
の返事は? (笑)
602 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 00:54:13
ローガンが逃げて逃げて逃げまくっている問題。
対馬海峡が千余里
対馬が方四百余里
壱岐が方三百里
さあ、この「里」って、何m?
603 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 00:58:15
>>601 理解力のない奴だな。烏孫に接する所までが鮮卑という前提がまちがいだ。
烏孫から東方向へ12000里の所が夫余との境だという前提もまちがいだ。
>>599を良く読むことだな。
604 :
ローガン:2010/07/03(土) 01:34:49
>>603 >烏孫に接する所までが鮮卑という前提がまちがいだ。
乃分其地爲中東西三部。從右北平以東至遼、「東接夫餘」
>烏孫から東方向へ12000里の所が夫余との境だという前提もまちがいだ。
從上谷以西至燉煌、「西接烏孫」爲西部
前提がどうたらこうたら何のこと?砂鬼読むんじゃないの?(笑)
だいたい、これ。君のレス。
>>567日本@名無史さん [] 2010/07/02(金) 14:41:50
AAS
「
>>565 しっかりしてくれと言いたいのはこっちだよ。何で烏孫が出てくるんだ? 老人性徘徊か?」
夫余の件で、烏孫が出てくるのなんて想定範囲内と 勝手に思ってて、多分来るであろう反論の回答も準備してたんだけどね。
元々、夫余の話を振ってきたのは君。でも今日の昼の段階で、この話になった時「烏孫」が出てくる事すら君は知らなかったわけだ。
もうこれまでにしとこうよ。お休みなさい。
605 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 06:31:34
あなたが真面目に議論する気がないなら仕方がないね。理解できないようだが、私が上で指摘したのは、
「接」とあるのは、くっついているという意味ばかりではないということだ。弁辰涜盧国が「倭と界を
接す」とあるように、間に別の国がなければ、離れていても「接」だ。したがって、鮮卑の位置から扶
余の位置を決めることは不可能。
あなたがどんなに屁理屈を言おうが、どこを徘徊しようが、扶余が松花江の南の扶余、農安あたりにあ
ったことは動かんよ。一方で、高句麗が丸都(集安)あたりにあったことも動かない。扶余の方二千里
を870×870キロで考えれば、玄菟郡も高句麗も存在する余地がなくなり、高句麗の方二千里を考
えれば、扶余の成立する余地がなくなる。
高句麗や扶余は、中国が長く関心をもってきた相手でもある。それに関する情報はそういいかげんなも
のではない。それが公定里で考えるとまったく矛盾するということは、公定里ではないことは明らかだ
な。まあ、子供でも分かる論理だね。
>>605 しかしお前は白痴か?ただの不確かな記述だと何度教えたらわかる、ああ。建前は公定里
ですべて書かれてることになってるし、その実情はほとんどが曖昧な、実数とはいえない数字
なんだよ。三国志なんかはそういうように読むべきであって、現に中国の専門家の見解もみな
そうだ。日本の、しかもこんな2chでお前がいくら屁理屈をこねまわそうが何か変わるようなこと
ではないんだよ。わかったかな。
607 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 09:15:18
ローガンが逃げて逃げて逃げまくっている問題。
対馬海峡が千余里
対馬が方四百余里
壱岐が方三百里
さあ、この「里」って、何m?
608 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 09:18:01
畿内説が、里程の記述が曖昧だと主張するのを否定するつもりはないが、
ならば、その曖昧な数値で畿内に比定できるのかということだ。
曖昧ででたらめなら、日本中、あるいは東アジアのどこでもよいとなってしまう。
なにかプラスアルファがないと、畿内には比定できない。
プラスアルファなら、散々既出だが、気候の描写から九州でよかろう。
609 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 09:21:46
>>606 都合が悪くなると実数とは言えない、不確かな数字だ、なんていうが、
不確かなのはあなたの頭だ。魏志は確かな史書だよ。
中国人って誰のこと? 中国人だっていろいろな見解があるぜ。
>>608 そのプラスアルファが考古学なんじゃないかな
実際、曖昧な文献に頼るとまさにどこにでも比定できるというのが畿内説の出発点だし
611 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 13:20:55
そのプラスアルファが、九州説の場合
鉄だったり、絹だったりするわけね。
612 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 13:24:17
>>610 >そのプラスアルファが考古学なんじゃないかな
そのことには文句はないが、考古学の名の下に恣意的な解釈、推論をしているのが畿内説なんでね。
2世紀後半に北部九州から吉備、出雲、四国までを連合傘下に収めた畿内の勢力(邪馬台国?)が
存在したことが考古学で分かると言っているようなものだが、妄想の積み重ねに過ぎん。
613 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 13:27:49
里程の記述が曖昧とするなら、
そこで。畿内説と九州説は同じスタートラインに立つ。
あとは鉄や鏡などの考古学の成果で決めることになる。
614 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 13:28:20
九州に王権が台頭した痕跡がないんだからしょうがないだろう。
いくら鉄器があろうが、クニとして衰退してるわけだし。
615 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 13:33:18
どう解釈しても、魏志倭人伝では公定里を使っていない。
そのため、一里の長さが分からない。
そこで、全く信用ならないとするのが畿内説。
既知の地名と距離の比率から、ある程度信用できると考え
短里を定義したのが九州説。
616 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 13:58:28
>>614 王権などというものの痕跡(遺跡、出土物)はないだろう。政治は文字でしか分からんだろう。
王の存在ならば威信財などを副葬した墓で推定することはできるだろう。
紀元前後から2世紀にかけての王墓らしきものは畿内には見当たらんな。九州には須玖・岡本、三雲、
井原鑓溝、平原などいくつもある。漢委奴国王も倭国王帥升もここら辺りに居たと見ることが出来る。
邪馬台国の卑弥呼が倭王に共立されたのは2世紀末(AD180前後)であるが、これは帥升系男王の跡を
継ぐものである。
ということで、邪馬台国は九州、それも北部九州から南の方角千里ほどのところにあることになる。
617 :
ローガン:2010/07/03(土) 14:47:23
>>605 お、ちょっと見直しました。
>弁辰涜盧国が「倭と界を接す」とあるように、間に別の国がなければ、離れていても「接」だ。
そう。間が海でも砂漠でも 「接」。 つまり韓地内陸行なんてのがトンデモであると云う事が、短里説の御仁と共通認識できた訳だ。
さておき「兵馬甚盛南鈔漢邊北拒丁令東卻夫餘西撃烏孫盡據匈奴故地東西萬二千餘里南北七千餘里罔羅山川水澤鹽池甚廣。
漢患之桓帝時使匈奴中郎將張奐征之不克。乃更遣使者齎印綬即封檀石槐爲王欲與和親。檀石槐拒不肯受寇鈔滋甚。乃分其地爲中東西三部。
從右北平以東至遼東接夫餘ワイ貊爲東部二十餘邑其大人曰彌加闕機素利槐頭。從右北平以西至上谷爲中部十餘邑其大人曰柯最闕居慕容等爲大帥。從上谷以西至燉煌西接烏孫爲西部二十餘邑」
鮮卑の領土は東西万二千餘里である。檀石カイは領土を三分割した。東部は右北平から夫余、ワイハクと接する辺り。
西部は上谷から西は敦煌の西、烏孫と接する辺りまで。
貴説を尊重して鮮卑が、烏孫〜夫余間を全て領土としている訳では無いとしよう。
では少なくとも地名の記述がある右北平〜敦煌間が万二千餘里以内である事は、認めるね?
>>616 >ということで、
なにが「ということで」なんですか?
「漢委奴国王も倭国王帥升もここら辺り(北部九州)にいた」ことと、
「邪馬台国は九州、それも北部九州から南の方角千里ほどのところにある」とは
論理的につながっていないじゃないの。
>紀元前後から2世紀にかけての王墓らしきものは畿内には見当たらんな
と言うのなら、「北部九州から南の方角千里ほどのところ」に見当たる
「紀元前後から2世紀にかけての王墓らしきもの」を挙げて下さいね。
(しかしこれ、ドン来いスレの話じゃなかったっけ?)
その人は縄文人といって、みんなに嫌われてる人だからレスしないほうがいいよ。
620 :
616:2010/07/03(土) 16:18:56
>>618 1.倭人伝に書いてあるじゃろ。伊都国や奴国や不彌国からだと南の方角に邪馬台国があると。千里ほどとおうのは
万二千里から末盧国ー伊都国間の五百里、伊都国ー奴国間の百里、奴国ー不彌国間の百里をさっ引いた残りの距離
を指す。分かりきったことだから省略したのだ。
2.邪馬台国に卑弥呼以前には王は居なかった。首長は居たが、帥升系男王が君臨していた間は王として振る舞うこ
とはできなかった。だから、北部九州ほどの王墓はない。北部九州の王墓を凌ぐような墓があったらおかしい。
621 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/03(土) 17:11:39
>>616 >邪馬台国の卑弥呼が倭王に共立されたのは2世紀末(AD180前後)であるが、
卑弥呼の共立2世紀末は、倭国乱が設定できない畿内説の為にある。
無主歴年とは、数年では無い、最低でも20年は無主である。
でなければ、歴年が意味をなさない。
>>620 >北部九州の王墓を凌ぐような墓があったらおかしい。
じゃあ、「紀元前後から2世紀にかけての王墓らしきものは畿内には見当たら」なくても
別にかまわないでしょ。
>2世紀後半以前に畿内には
>「九州北部を連合に組み込むほどの国や王の存在を示す遺跡がないから邪馬台国が畿内にあったとするには無理がある」
(ドン来い77 >228)
とは言えませんよね。スレ違い失礼しました。
623 :
616:2010/07/03(土) 21:28:32
>>622 北部九州の王墓を凌ぐような墓でなくてもいいんだが、畿内には漢鏡や銅矛や鉄刀などを副葬した弥生王墓らしきもの
がほとんどないところが問題なのよ。九州には博多湾沿岸以外にも漢鏡や鉄刀などを副葬した墓は多いよ。
>>605 学問板なので細かいことを言いますが
>「接」とあるのは、くっついているという意味ばかりではないということだ
「接」文字には、そもそもくっついているという意味はありません。
>弁辰涜盧国が「倭と界を 接す」
「界を接す」という日本語は変ではありませんか?
「界」と言う目に見えないものを「接す」という動詞で修飾出来ないでしょ
ここは
「界にて接ぐ」という日本語になるのではありませんか?
「接」を(セッす)と音読みするのは、接という文字がなんらかの文字と組、熟語
として日本語読みする時に○○セツ、セツ○○とし
単独で「接」を日本語としてセツとすることはありません。
単独文字「接」をセツと音で読む場合は日本語ではなく、漢語文字として扱うのではありませんか?
だから「接す」という読み下しは誤解を招くものです。
簡易的な読み下しだからと言われてしまえばそれまでですが、読み下しのイメージをそのまま
ダイレクトに日本語として受け入れてしまう
行為をしばしば見かけるもので、ここに一言添えさせてもらった次第です。
625 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/03(土) 21:56:40
伽耶韓国が任那と呼ばれた時代。
伊都に玉を供給していた振根は殺され、畿内は任那から直接鉄を手に入れる。
九州中部は、北九州を経由しないで鉄を手に入れる。
3世紀初めは、この様な時代です。
626 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 22:22:48
>>617 >右北平〜敦煌間が万二千餘里以内である事は、認めるね?
万二千里は順帝の時代、分其地爲中東西三部は桓帝の時代。領域はまったく
別かもしれないな。
>>624 >「接」文字には、そもそもくっついているという意味はありません。
まじわるというべきだということかな? くっついているときにも使うね。
例えば接線。
>「界を接す」という日本語は変ではありませんか?
界は境だろ。境を接するという使い方は、広辞苑にも載ってるぜ。
>>626 >例えば接線
それは「接線」であって「接」ではありません。日本語でいう(線を接ぐ)
>まじわるというべきだということかな?
まじわるであれ、くっつくであれ動詞ですから「接」一語では意味は生じません
意味が生じるのは、接を名詞として扱う(まじわり)
>界は境だろ
一概にはいえません。界は(さかい)であっても「境」とは限りません。
>境を接するという使い方は、広辞苑にも載ってるぜ
簡易的な読み下しをそのまま使用しているだけでしょ
日本語として掲載されたわけではないと思いますよ
日本語なら、「境(さかい)をまじえる」とか「境にて接ぐ」という文章になるはずですから
>>626 境(さかい)は目に見えますが(視覚で確認できる)
界(さかい)は目に見えません(視覚で確認できない概念的なもの)
629 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 23:05:52
>>627 >それは「接線」であって「接」ではありません。日本語でいう(線を接ぐ)
日本語の「線を接ぐ」と「接線」は意味が違います。
「線を接ぐ」と「接する線」の違いは解ってますか。
「− −」が「――」になるのが「線を接ぐ」。
「○ |」で「○」と「|」の距離がゼロになるとき、「|」のことを「接する線」
つまり「接線」といいます。
631 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 23:15:37
632 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 23:28:13
接戦という言葉もあるんやけど、
「接戦とは戦いを接ぐ」じゃおかしいやろ。「お互いに同じ程度の力をもっているため、勝敗がなかなか定まらない激しい戦いのこと」
ですさかいな。
633 :
ローガン:2010/07/03(土) 23:48:39
>>626 >万二千里は順帝の時代、分其地爲中東西三部は桓帝の時代。領域はまったく別かもしれないな。
「因南抄縁邊北拒丁零東卻夫餘西撃烏孫盡據匈奴故地、東西萬四千餘里南北七千餘里、網羅山川水澤鹽池。永壽二年秋、檀石槐遂將三四千騎寇雲中。延熹元年、鮮卑寇北邊。(中略)
從右北平以西至上谷十餘邑爲中部、從上谷以西至敦煌烏孫二十餘邑爲西部、各置大人主領之、皆屬檀石槐。(後漢書鮮卑)
これ桓帝代の話。全く違うかな(笑)。2000里違うぞ。なんてだだコネはご勘弁。(笑)
>>629 >「線を接ぐ」と「接する線」の違いは解ってますか。
「線を接ぐ」は日本語ですが
「接する線」は、漢語と日本語の合成文です
>>632 >「接戦とは戦いを接ぐ」じゃおかしいやろ
おかしいですね
接戦の「接」は(つぐ)という日本語ではなく、(まじわる)という日本語の方ではないでしょうか
>>629 >「− −」が「――」になるのが「線を接ぐ」。
> 「○ |」で「○」と「|」の距離がゼロになるとき、「|」のことを「接する線」
いいえ
「接する線」ではなく、「接線」といいます。
日本語で言えば、(線を別の線につぐ)(線を○にまじえる) といいます。
>>635 線を○に交えると、団子の串刺し状態。接線とは違う。交線だね。
接戦で「まじえる」を思いついたのは良かったけど、それは接線には通用しない。
「接戦」の漢文での用法は「戦いに臨む、敵と対決する」というような意味で、「互角の戦い」とかは日本でしか通じない
と思うけど。
638 :
632:2010/07/04(日) 00:25:49
>>637 そうでんな。接戦は日本語でんな。中国語では激烈交锋 と言うんでんな。
>>636 だれが一体「交」という文字を使いましたか?
私は(まじえる)という日本語は使いましたが、「交線」の(線を交する)
とは述べていません
そのへんの所を今一度確かめてください
たぶん、私の(まじえる)という日本語に対して(交える)を思い浮かべ
交線に辿り着いたのでしょうが
「交」という漢字熟語から(まじわる)という日本語には結び付きますが
(まじわる)という日本語から「交」という漢字に結び付けることは
出来ませんよ
日本語(まじわる)を漢字にて表すと「交」ではなく「交わる・交わり」です。
その違いを十分理解しないと、漢語と日本語がごっちゃになって
正確に文章を把握する事が困難となります。
640 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 00:32:39
>>633 范曄は適当に史料をくっつけては間違えた男だよな。内容をみると、これも、魏志が順帝の時代と桓帝の時代に
分けて書いていたことを一緒にしているみたいだな。
相変わらず河童の頑固さは折り紙付きだなww
642 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 00:46:42
>>642 俺はこの頑固さ好きだし、見習うべきかとも思うww
>>639 >日本語(まじわる)を漢字にて表すと「交」ではなく「交わる・交わり」です。
なら、「まじえる」を漢字で「交える」と表してはいけないの?まちがいなの?
君の言う(線を○にまじえる)は、「線を○に交える」と意味が異なるの?
>>644 別に「交線」も日本語なんだから(まじえる)を交えるとしても別にいいんだけれど
あくまでここは
「交線」も漢語という形で話を進めているから
途中から「交戦」も「交線」も日本語だという話になったら「シラケ」ちゃうじゃん
「交線」を漢語と言う前提に話をすれば、(まじえる・まじわる)という日本語から
漢語の「交」には結び付かないよ
「交○」という漢語を日本語として表現する場合(まじわる・まじえる)という日本語をあてはめることが出来る
という後先の問題が発生するから
646 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 01:24:21
もう 寝る
647 :
ローガン:2010/07/04(日) 01:32:01
>>640 >分けて書いていたことを一緒にしているみたいだな。
いいや。
順帝永建元年秋鮮卑其至寇代郡太守李超戰死 明年春 中郎將張國遣從事將南單于兵歩騎萬餘人出塞 破之 獲其資重二千餘種 時遼東鮮卑六千餘騎亦寇遼東玄菟 烏桓校尉耿曄發縁邊諸郡兵及烏桓率衆王出塞之 斬首數百級 大獲其生口牛馬什物 鮮卑乃率種衆三萬人詣遼東乞降
三年 四年 鮮卑頻寇漁陽・朔方 六年秋 耿曄遣司馬將胡兵數千人 出塞破之 冬 漁陽太守又遣烏桓兵之 斬首八百級 獲牛馬生口 烏桓豪人扶漱官勇健 毎與鮮卑戰 輒陷敵 詔賜號 率衆君斬獲甚衆 詔賜夫沈金印紫綬及綵各有差
秋 鮮卑穿塞入馬城 代郡太守之 不能克 後其至死 鮮卑抄盜差稀
陽嘉元年冬 耿曄遣烏桓親漢都尉戎朱率衆王侯咄歸等 出塞抄鮮卑 大斬獲而還 賜咄歸等已下爲率衆王・侯・長 賜綵 各有差 鮮卑後寇遼東屬國 於是耿曄乃移屯遼東無慮城拒之
二年春 匈奴中郎將趙稠遣從事將南匈奴骨都侯夫沈等 出塞鮮卑 破之…
桓帝時とは分けて書いているので ご心配なく。 いずれにせよ短里の否定材料な訳。
それに、魏志ではなく注記だからね。
648 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 01:33:54
>>645 >>626の「例えば接線。」のレスを見て、君は、どんな図形を思い描いたんだ。
「− −」が「――」になった図形か?それとも、「○ |」で「○」と「|」の距離がゼロになるときの「|」か?
649 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 01:57:51
>>648 >>626からじゃ
どの図も該当しません。
くっついている。では、既に静止状態であるので
接を動詞で表現することが出来ないからです
>>649 >接を動詞で表現することが出来ないからです
の意味がわかんないんだけど。説明してくれる?
651 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 02:18:20
649だが、カミナリなってるんで、今日はもう終わりね。
652 :
622:2010/07/04(日) 08:40:08
>>623 >畿内には漢鏡や銅矛や鉄刀などを副葬した弥生王墓らしきものがほとんどないところが問題なのよ。
銅矛はともかく・・・、(2世紀後半以前に)漢鏡や鉄刀など下賜品と思われるものがなくてもかまわないでしょ?
>九州には博多湾沿岸以外にも漢鏡や鉄刀などを副葬した墓は多いよ。
それはどの遺跡のことですか?
あなたの言う、のちの「女王之所都」である熊本平野にあるんですか?
・・・いや、まわりくどいことを言うつもりはなく、
纒向以前の奈良盆地に、他地域に比べて階級分化を示す痕跡がないことに関して、どう考えるかなんとも言えない。
ただそのことが直接的に畿内説の否定材料になるという考え方には納得しがたい。
そうであるならば、熊本なら熊本の、(王権の)萌芽の存在を明らかにした上で比較すべきだろう。
www 縄文人に論理学的なことを言ってもどうもならんだろう。邪馬台国の所在地というのは直接証明すべき命題だよな。
自分の候補地を明示して、堂々と論陣を張ればよい。間接証明、とくに背理法を用いるのは本来不向きなものだ。つまり、
いくら畿内説を否定したところで九州説が正しいとなるわけではない。
654 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 11:49:13
九州説が正しくなくとも、畿内説の根源が詐欺であるのは隠せないわけだが。
655 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 11:58:16
九州説には、甘木説、日向説、宇佐説、熊本説といろいろあるが、
仮にそのどれかが正しければ、他の九州説も詐欺ですよね?
656 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 12:17:18
九州邪馬台国128王朝が並立していたので詐欺ではありません
657 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 13:23:07
>>653 >>612>>616以後出張っている奴は縄文人じゃなくて「日向東遷厨」とか言われてる奴だろうw
まあ邪馬台国の比定地を日向においているわけじゃないが
神武東征の出発の地の日向を重視していて
一方の縄文人は宮崎〜熊本と九州を横断した一大帝国を想定している為
両者の芸風は似てくるwwwwww
脳内ストーリーとして師升から邪馬台国卑弥呼まで
連綿と九州の王朝に権力は継承されている…と言うのがあるので
3世紀じゃなくて2世紀に王墓王権が見られなければ邪馬台国はそこに無い…と言うトンデモロジックだなw
ドン来いスレでも言ったが
「そりゃ順序が逆でしょう」って話で
九州に邪馬台国を見つけてから権力の連続性を語るべきで本末転倒。
しかも玄界灘周辺から有明以南、九州中南部にその権力の中枢がシフトしたなんて
想定をしている九州の考古学者自体いないと思うがwwwwwwwww
658 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 13:54:31
>>650 それは、
くっつく と くっついている の違いですよ。
659 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 16:31:50
>3世紀じゃなくて2世紀に王墓王権が見られなければ邪馬台国はそこに無い…と言うトンデモロジックだなw
君は相手の論をまともに読まないのだね。
卑弥呼が共立されたのは倭国乱を鎮めるためだろ。2世紀後半の倭国と言えば帥升の倭国だろ。これが九州に
あったことは中国の史書からも遺跡出土物の状況からも妥当と考えられるだろ。
この2世紀後半において畿内には漢鏡などの副葬品を持つ弥生王墓は見つかっていない。つまり、倭国乱の収拾に
当たれるほどの有力な国や首長の存在が想定しにくい。しかも九州北部から遠い。
そういうことを踏めての論なのだ。それをトンデモロジックなどとは・・・おぬしはとんでもない論者だな。
>「そりゃ順序が逆でしょう」って話で
>九州に邪馬台国を見つけてから権力の連続性を語るべきで本末転倒。
順序はそうでなきゃならんと決まったものではないだろ。九州に邪馬台国を見つけてから権力の連続性を語っても
いいし、権力の連続性から邪馬台国の所在地を語ってもいいだろ。君の論は相手の論を否定したいがための言い掛
かりにすぎんだろ。
660 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 17:45:53
でも、北九州は衰退し、畿内が発展してるのは確かだしね。
661 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 17:50:11
北九州の「呉国防衛基地」は規模を縮小していったけど、九州王権はどんどん栄えていますが何か?
662 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 18:12:24
どこで栄えたの?
詐欺バカの脳内で。
664 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 19:13:34
九州全体で衰退?衰退どころが大繁栄していますが。
665 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 19:39:21
畿内なんか、銅鐸とともに滅亡しちゃったしな。
>>659 横からになってしまうが
>2世紀後半において畿内には漢鏡などの副葬品を持つ弥生王墓は見つかっていない。
おや、2世紀<後半>になりましたね。でも、
>倭国乱の収拾に当たれるほどの有力な国や首長の存在が想定しにくい。
という考え方はいいんじゃないでしょうか。さて、
「倭国乱の収拾に当たれるほどの有力な国や首長の存在が想定」できる地域とはどこが考えられるのでしょうか?
弥生後期後半の有力な弥生墓といえば、吉備や出雲が頭に浮かびますが、逆に九州や畿内では思いつかないような・・・。
667 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 19:57:16
>>659 >権力の連続性から邪馬台国の所在地を語ってもいいだろ。
アホか?w
連続と言うからにはA点とB点、二つを結べてこそ連続と言う事ができるのであって
「邪馬台国は何処かは分からずとも連続しているのは分かります」
なんてオカルト理論は通用するかw
そんな理論が通用するならそれだけで畿内説なんか吹っ飛ぶわドアホwwwww
大体、『倭国大乱の収拾に当った有力な国や首長の存在』を何に見るんだ?
畿内説なら畿内を中心に分布する画門や三角と言った神獣鏡の登場や
列島規模に広がる前方後円墳の登場
各地から持ち込まれた土器…等々に見るわけだが
お前らの大好きな銅鏡=威信財でもいいから3世紀の九州にその王権構造があったことを論証してくれ。
特にお前は熊本あたりを押しているんだから熊本に威信財の集中でもあるのか?
そこんとこ具体的にヨロwwwwwwwww
668 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 20:02:08
>倭国乱の収拾に当たれるほどの有力な国や首長の存在が想定しにくい。
各国兵士の大半が死傷するような段階に至った場合、もっとも軍事大国になる危険性のない、
呪術的女王国を、九州各国が宗主国に推戴することで、決着がついたのだろう。
その代わりに共同運営軍=一大率を置いて、反乱のないよう諸国を厳しく取り締まった。
669 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 20:04:20
魏志倭人伝には、巨大古墳をたくさん造営した気配がまったくない。
畿内はまず大正から外れるということだ。威信財以前の問題だ。
威信財を言うなら、その前に魏志倭人伝に出てくる絹が重要だろう。
>>669 その絹も3世紀と見られる弥生終末期には、九州でもまったく出ないな。
つーことは九州も対象から外れるんだな。
671 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 21:07:23
>>658 つまり、接には、「くっつく」という意味はあるけれど、「くっついている」という意味はないということ?
672 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/04(日) 21:41:05
>魏志倭人伝には、巨大古墳をたくさん造営した気配がまったくない。
240年時点ではホケノ山古墳しか存在しない。
>>671 >接には、「くっつく」という意味はあるけれど、「くっついている」という意味はないということ?
「接」にはその両方ありませんよ
接の文字が入り、意味に(くっつく)という目に見える現象を表している
ようにとらえられたのは、「接」と言う文字でなく
「○接」「接○」という熟語と言う形になって初めて(くっつく)という
目に見える現象として表現されるようになったのであって
「接」一文字で(くっつく)という意味は発生しないと言う事です。
そしてここで取り上げられているのが「・・・倭接界」
「界」が目に見える現象なら、「接」を動詞として それに関係する日本語の意味が発生するでしょうが
「界」はどう考えても目に見えない概念の世界を表現する文字ではありませんか?
概念を表す文字と、動詞としての「接」を一緒に考えることが
可能かどうかは考えれば分かることですね
674 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 22:37:43
>>647 >桓帝時とは分けて書いているので ご心配なく。
分けて書いてあればいいってもんじゃないよ。檀石槐の年齢を考えながら
読み直してみな。范曄の「桓帝時」は完全な誤りだ。計算は得意なんだろ。
675 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 22:58:10
「接する」の意味
(動サ変)[文]サ変 せつ・す
[一](自動詞)
(1)二つの物が間をおかずに隣り合う。
「空と海とが—・する」
(2)物事に出合う。でくわす。
「急報に—・する」
(3)人に会う。また、つきあう。
「人に—・する作法」
676 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 23:11:23
>>673 >概念を表す文字と、動詞としての「接」を一緒に考えることが
>可能かどうかは考えれば分かることですね
「謦咳に接する」の謦咳は概念を表しているのではないかな?
677 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 23:16:09
>>672 ホケノ山の下層に5世紀の古墳がなかったっけ?
>>675 それらは全て、漢語の「接」に対する日本語の解釈ですよ
だから「接する」(セッする)
(1)に相当する熟語 隣接
(2)に相当する熟語 接戦
(3)に相当する熟語 接待
>>676 謦咳自体はそうかもしれんませんが、人の行為という見方も出来ます
「(人の行為)に接す」
680 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/07/05(月) 00:10:58
681 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 00:24:38
682 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 00:26:00
>>667 >連続と言うからにはA点とB点、二つを結べてこそ連続と言う事ができるのであって
>「邪馬台国は何処かは分からずとも連続しているのは分かります」
>なんてオカルト理論は通用するかw
A点とB点というのは場所のことかね?
権力の連続性というのは漢委奴国王→倭国王帥升→倭国王卑弥呼のことなんだがね。
漢委奴国王は博多湾岸地域に本拠を置いていたと思われ、帥升は(通常の継承か禅譲かクーデターによる簒奪かは置くとして)
漢委奴国王の王権を握り(恐らく自国の版図を拡大した)。その帥升系倭国王の後を受けて卑弥呼が王に共立された。
帥升系倭国王の嫡子のような正統な後継者が王になるのであれば共立とは呼ばれない。帥升の一族ではあるが傍系である者が王
に立てられたから共立と呼ばれたのであろう。つまり、卑弥呼は帥升系の傍系の出身であろう。
以上のように権力の連続性をみているのである。
>>大体、『倭国大乱の収拾に当った有力な国や首長の存在』を何に見るんだ?
>畿内説なら畿内を中心に分布する画門や三角と言った神獣鏡の登場や
>列島規模に広がる前方後円墳の登場
>各地から持ち込まれた土器…等々に見るわけだが
君と私の年代観にはおよそ1世紀のズレがあるようだ。画文や三角や前方後円墳は4世紀以降に埋められたり作られたりしたもの
だろう。2世紀末までの邪馬台国は倭国の王権を持っていなかったから九州北部の弥生王墓のような豪華な副葬品を納めた墓など
作らなかっただろう。
ただし、帥升系倭国王の統率力が衰えた2世紀後半から鉄器の開発に力を入れ、国力の増強に励み、版図を広げてきたのであろう。
恐らく伊支馬(の父)が主導したのであろうが、戸数7万余の大国となったから卑弥呼を王に共立することができたのであろう。
九州中部には弥生期の鉄器の出土が多く、製鉄も行われていた形跡がある。
マジレスすれば、河童を崩すには各々が河童以上の知識身に付けないと
崩れないと思うのでありんす。
いや河童のはたんなる屁理屈の強弁だからw
>>677 それ単なる間違い。天理大が「間違ってごめんね」というコメントだしてる。
685 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 00:55:59
>>684 >
>>677 >それ単なる間違い。天理大が「間違ってごめんね」というコメントだしてる。
正直言って俺もそう思うんだが、間違いだとはっきり言ったソースがあったら
お願いしたい。どんな経緯になったのか非常に興味がある。
学会がどう動いたのかとかいろいろと。
>>683 河童は知識なんかじゃ崩れないよ。
河童が書き込んでるのは、知識じゃなくて言語虫から植えつけられた妄想だから。
屁理屈ともちょっと違う。新興宗教の信者が、信じる教理を語るのと同じ。
>>685 いまはっきりしたソース元は忘れたのだが、今年の春先ぐらいに天理大からコメントがあって
それが新聞記事にもなっている。
ドン来いあたりにそのコピペがあったはず。
レーザー探知で、ホケニより古いんじゃないかと学生が言い出したってのが、2,3年前の話で
学会は、本当なら大変なことだが、そのデータ信用できるの?と見守ってた。
で結局、すんません間違いでしたとなって
まあレーザーの読み取りは難しいから、実際掘ってみないと分からないよね、キニスンナみたいな流れ。
河童虫は、ただ辞書を引き、あてもなく妄想を展開するだけ。
689 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 04:21:44
>>682 >2世紀末までの邪馬台国は倭国の王権を持っていなかったから九州北部の弥生王墓のような豪華な副葬品を納めた墓など
>作らなかっただろう。
ハイ逃げ口上入りましたwwwwwww
結局、師升の亡き後その権力を受け継いだクニが現れたという「連続性」とやらを証明する手段を持たないと言う事だなwww
いくら畿内説を「それは年代が違う」と否定しても
自説の方に(混乱後の新たな)王権構造の誕生を示せるものが無ければ話にならないw
>>653の言うように
>つまり、いくら畿内説を否定したところで九州説が正しいとなるわけではない。
って事だなw
690 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 06:48:48
>>667 >>689 >『倭国大乱の収拾に当った有力な国や首長の存在』を何に見るんだ?
弥生時代から古墳時代へと支配体制に連続性が認められるところを探すべきだな。
倭国の乱の勝利者は、当然、基本的に体制を変える必要などないんだ。畿内は、畿
内説論者でさえ「(混乱後の新たな)王権構造の誕生を示せるものがある」なん
てこじつけてるように、体制に連続性はまったくない。北九州も銅剣銅矛に続くも
のがない。弥生の繁栄が古墳時代に続いていかなかった。
弥生から古墳時代への連続性が認められ、繁栄が続くのは、南九州だけだ。
古墳が南九州発祥か、外の習慣を取り入れたものかは、はっきりしないが、古墳ば
かりでなく、独自の葬制も続けており、権力が変更した気配はまったくない。
>畿内説を否定したところで九州説が正しいとなるわけではない。
これはそのとおり。邪馬台国は、倭人伝の記述から考えるのが一番だ。倭人伝に合
致しないところをいくら邪馬台国だと主張しても、いつまでたっても主張以上には
ならん。行程記事に合致すること、邪馬台国が伝える風土、風俗に合致することが
重要だ。邪馬台国の所在は、北九州に上陸した後、かなり南へ進んだところ、しか
も「その地は温暖」南国の香り高いところだ。北九州や畿内ではないことが明らか。
691 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 07:49:22
>>673 >接の文字が入り、意味に(くっつく)という目に見える現象を表している
>ようにとらえられたのは、「接」と言う文字でなく
>「○接」「接○」という熟語と言う形になって初めて(くっつく)という
>目に見える現象として表現されるようになったのであって
>「接」一文字で(くっつく)という意味は発生しないと言う事です。
これは、河童流の仮説でしょ。
自分で作った仮説を証明抜きで出発点にして、議論してはいけないよ。
河童君は、上記の自分の仮説にしがみついてるんだから、
他の人がいくら辞書だのなんだの引き合いにだしても認めるはずがない。
他の人は、証明されてない河童仮説なんか、やはり認めるはずがない。
結局、議論はかみ合わない。
ということで、河童君は、まずは自分の仮説の証明から始めなきゃね。
>境(さかい)は目に見えますが(視覚で確認できる)
>界(さかい)は目に見えません(視覚で確認できない概念的なもの)
これも河童仮説だから、証明が必要だよ。
692 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 07:57:05
ついでに言うと、「界にて接ぐ」というのは、日本語として変だよ。
河童君は、「にて」と「かと」という言葉の使い方が独特だから、
名無しで書き込んでてもすぐに解る。
693 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 08:05:20
>河童君は、「にて」と「かと」という言葉の使い方が独特だから
奥ゆかしい表現だ。私ならすぐ「間違った使い方をするから」などと言ってしまう。
694 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 12:24:01
「にて」格助詞
「に」格助詞
「て」接続助詞
原因などをあらわす。
病気にて休む。
「にて」も焼いても食えない河童「かと」
696 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 16:53:31
>>691 証明する必要もないんじゃないかな?
名詞を除き、漢字は一文字だけでは意味をなさない事ぐらいは周知されているはず
名詞以外は他の文字と関係することでさまざまな意味が生まれる事ぐらい
理解出来るはずだぞ
それでもわからないというんじゃ
何を説明しようと時間の無駄
697 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 17:34:20
>>696 証明されない事象はただの仮説。
仮説をもとに、別の仮説を構築してはいけない。
何時もながら河童の人気に脱帽。
お前凄いわw
どんな理由で、プラムは河童虫に改名したんだろ?
昔のコテがいなくなったと思って、初心者だった頃の自分を消したいと思ったんだろ。
701 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/05(月) 20:48:13
宝賀 寿男
考古学分野では、知見急増の事情を受けて従来の通説・年代観の再検討がなされた。
そのなかで、古墳・土器等の年代観が総じて繰上げ傾向を示すと ともに、考古学界では
邪馬台国畿内説が大多数となっているとされるのは周知の事実であろう。是非はともかく、
九州在住の研究者ですら、畿内説を採る者が圧 倒的多数であるとさえいわれる。文献学者
においては、さすがにこんな極端な傾向を示していないのが、救いといえば救いである。
残念ではあるが、取り残されたのは、文献学である。
卑弥呼=崇神時代も仮説の一つに過ぎない。
しかも100年も議論しても正解が得られないと云うことは、間違いであることの証明になる。
へえ〜、そうだったんだ。
そういえば、プラムって名乗ってる奴は、一時、複数いたと思う。
河童虫と名乗った奴は、一人しかいないが。
703 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/05(月) 20:53:57
続き
個別の古墳の築造年代については、この通説を基礎において年代設定がなされてきた模様
であり、体系的で具体的な個別年代の説明は、戦後の一 九六〇年代以降では小林氏以外の
誰からも殆どなされなかった、という趣旨を白石太一郎氏もいわれる。ここでも、検証抜き
で議論が進み、曖昧なかたちで多数 意見が形成されてきたことになる。こんな状態にある
多数説なら、批判や異論提起(保持)の対象に十分なりえよう。
>>701 × 考古学界では邪馬台国畿内説が大多数となっているとされるのは周知の事実であろう。
○ 考古学界では九州説が真実だったというのはタブーであり、邪馬台国畿内説でないと、
出世や就職、学閥内の地位に支障をきたすことは、周知の事実であろう。
>>700 プラムのコテでスレ立てしてあるから理由は他にあるかと?
706 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 21:22:26
>九州説が真実だった
御前の妄想じゃん
707 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 21:23:29
あれほど2ch限定で調子に乗ってた九州説も今や風前の灯だなw
708 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 21:36:18
本来ならば、2〜3世紀に、九州と山陰近畿がいかに交流していったかがテーマになるはずなのに、
九州説バカのせいで何の情報も降りてこない。
709 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 21:40:35
と言いながら、九州説に理論的な反論が何もできないとは情けないな。
710 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 21:43:36
九州のどこに邪馬台国があったのか特定してもらわないと、反論も何もできんよ。
>>705 邪馬台国に重きを置かず「言意学」中心に切り替えたんじゃないですか。「言語虫」の弟子であることを鮮明にした、と。
言語虫の弟子を示したいなら、「源五郎虫」にすればよかったのにな。
713 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 21:57:49
>>710 日向南部だね。倭人伝に従えば、末盧国は唐津。そこから、東南五百里は当然
有明海周辺、佐賀市付近ということになる。そこからは放射式に行程が書かれ
ているから、まず投馬国は佐賀から舟で南下して薩摩川内。邪馬台国は舟で八
代、そこで上陸して陸行1月、都城盆地あたりだろう。その行程は倭人伝どお
りだ。
714 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/05(月) 22:28:26
日本書紀と歴史の整合性
崇神5,6年は新羅192,3年の記事に対応
崇神12年異族多帰は、巻向より各地の土器
その直後から巻向に前方後円墳が造られ始める。モモソ媛はここです。
崇神世 新羅209年 伽耶に援軍=任那建国
239年 景初3年=都市牛利(タシウリ)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁、
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
273年 神功元年の日食記事←差し込み 神功元年は275年
312年 神功38年(39年太歳)新羅 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
313年 神功39年太歳=書紀の仁徳元年でもある
323年癸未 神功49年 千熊長彦←ラジオさん参照の事
326年 神功52年 七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午、
343年 神功69年、仁徳31年春正月癸丑朔丁卯 立大兄去來穂別尊 爲皇太子
344年 新羅 倭国が花嫁を求めたが辞退
715 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 22:38:10
>>713 日向南部は近畿より鉄も鏡も出てないのに?
716 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 22:47:28
南部鉄器出捲くりソースは↓
まあ、王宮も住居もない纏向より、はるかにマシだろうな。
718 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 23:02:19
>>715 近畿は範囲を広げて中国、四国を含めて考えても鉄はやはり少ない。
しかし、南九州はある程度はもっていたし、熊本を勢力範囲に収めていた。
必要な鉄はあったな。
鏡? がらくたは確かに少ないが、貴重なものは結構あるよ。
719 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 23:07:52
>>718 3世紀の日向の話をしてくれませんか?
近代じゃなくて。
古代の畿内に、鉄はないでしょ。纏向には王も住民もいないけど。
721 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 23:18:44
>>719 「宮崎県の考古学」石川恒太郎著によると、延岡の祝子遺跡付近で弥生時代の製鉄
炉の跡がみつかっているとのことだ。熊本を勢力範囲に収めていたというのは
日向を中心とする女王国勢力が北九州と戦った、それが倭国の乱だ。万二千里で
始まるのは熊本を含むから。つまり、3世紀に熊本は日向の勢力下にあったという
ことだよ。鏡は、3世紀当時のものがいくつか出ている、ちょっと調べればすぐに
分かることだ。
時代が下ればイ妥国は、阿蘇山で国家儀式をやっているからな。
723 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 23:39:40
>>689 卑弥呼が倭国王となる前の邪馬台国(2世紀末までの邪馬台国)では華美な副葬品を持つ墓を作らなかったと
してもおかしくはなかろう。倭国王となった卑弥呼の死に際して初めて大いに冢を作ったのである。
その卑弥呼の冢は徑百餘歩で徇葬した奴婢は百餘人であったと倭人伝に記されている。
ところで日本書紀や古事記には(神功皇后のところで倭人伝からの引用があるものの)倭国王卑弥呼の存在は
記されていない。何らかの意図で隠匿されたとも考えられる。つまり、卑弥呼の存在は大和朝廷にとっては消
し去りたい不都合な歴史だった。
その意図を貫くには史書に記述しないことだけでは不十分であるから、墓などの物的証拠も消し去る必要がある。
朝廷は密かに卑弥呼の墓を壊し、それを知る人々の口を塞いだ・・・
まあ卑弥呼の墓は、直径25mぐらいの塚だし、即席づくりだから風雨で自然に無くなっただろう。
畿内の箸墓など、卑弥呼の国ではなかった証拠にしかならない。
725 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 23:53:09
畿内には鉄が無いじゃないか→溶けた
九州には墓が無いじゃないか→崩れた
蛤や大魚がいて、冬でも生菜を食べているような土地じゃないとな。
727 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:29:41
なら、沖縄でいいじゃん。距離的にも。
728 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:48:31
畿内よりはマシだな
729 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 06:46:59
>>725 行程からみて九州から出ていない。九州南部ならばすっきりと理解できる。
そして、九州南部に、九州随一の古墳が造られている。となれば、それが
邪馬台国の遺したものでなくて何だ?
従来、畿内説論者は、日向の古墳は5世紀以降だ、ヤマト朝廷が南九州を
征服してそれ以後造ったものだ、と主張し、日向の古墳を無視しようとし
てきた。ところが、そんなごまかしがきかなくなってきたんだな。
今や、畿内説はただダンマリだ。近畿式銅鐸は西には広がっていない。西
へ勢力拡大した気配がないのに、古墳は急に各地に造られる。しかし、そ
の造られ方が、北九州と南九州とでまったく違う。どうして大きな差があ
るのか? ヤマトが関心をもっていたはずの北九州がおろそかで、南九州
に大きな墓が造られていく理由が説明できない。
ただ、ただ、知らん顔をするしかないってところだ。
730 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 07:28:42
>>729 九州南部には狗奴國があって、男王卑彌弓呼がいたんじゃねえの。
731 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 08:13:42
いたよ。だが、狗奴国は小国だ。戸数道里も書いてない。官も一人。
男王が女王国からはじき出されてふてくされていただけのことだろう。
卑弥呼は援助を頼んだのではない。その証拠に魏は援軍をおくってきた
りはしていないだろ。狗奴国を討伐して文句を言われないように布石を
打っただけのことだよ。
魏がオオボラかましてる可能性がある。
ただ誰かを牽制するにしても絵空事じゃ糞の役にも立たんしなw
733 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 09:57:39
734 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 10:03:53
>>731 その余の傍らの国の戸数道里が書かれてないのは小国だからじゃなくて、遠絶だから。
魏は中原を統一してないのに、韓を越えて海を渡って援軍を送るわけないじゃん。
女王国からはじき出された小国なら、不和の状況を帯方郡に訴えるはずもない。
邪馬台国に対抗できるだけの勢力が九州南部にあったということになる。
735 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 11:56:24
>>734 >戸数道里が書かれてないのは小国だからじゃなくて、遠絶だから。
それはそうだが、戸数道里が書かれていないのは旁国であることは明記されている。
旁国とは何か? 大国の傍らにある国だよ。ということは、小国なんだ。
> 女王国からはじき出された小国なら、不和の状況を帯方郡に訴えるはずもない。
訴えたのは卑弥呼だよ。朝貢国同士が勝手に戦うことはタブーだ。だから、実情を
訴えておくんだ。いわゆる根回しだな。
>邪馬台国に対抗できるだけの勢力が九州南部にあったということになる
それほどの大国があったのなら何でその後の史書に出てこないんだ?
それに、卑弥呼に倭の王という称号を与えたのはなぜ? 魏からすれば、
卑弥呼を倭の王と認定することは、狗奴国の反発を買うおそれがある行為だ。
狗奴国を呉の側へ追いやる結果となるかも知れん。
狗奴国が小国だから、卑弥呼を倭の女王と認めたのさ。
736 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 12:32:29
「倭人伝の読み方」
本文
自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國不可得詳次有斯馬國…(中略)…次有奴國此女王境界所蓋。
@自女王國以北次有斯馬國…(中略)…次有奴國、可得略載其戸数道里、此女王境界所蓋。
A自女王國以北其餘旁國不可得詳其戸数道里
このように読みます。
737 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 12:39:43
其戸数道里を略載できる。なんて
日本語を読むように読んではいけません。
略載出来るは述語で、戸数道里は目的語です。
738 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 12:47:19
「帯方郡からの援軍」は実際に来た。
日向に降り立ち、東征し、大和で王になった。
辻褄合いましたよ^^
魏は帯方郡の歴史をパクっただけで、邪馬台国には関与してないと思う。
739 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 12:51:17
>>736訂正
@…次有奴國其戸数道里可得略載此女王… A其餘旁國其戸数道里不可得詳
に訂正します。
740 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 13:29:14
741 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 13:33:09
なんだかまとまりなくなったので、
分かりやすく日本語的に書けば
@自女王國以北のその戸数道里は、次有斯馬國…奴國と、略載出来る。此女王境界所蓋。
A自女王國以北の其餘旁國の戸数道里は、遠絶不可得詳。 漢文では可得略載の目的語は、戸数道里にはならない。
戸数道里を可得略載の目的語とするのは、漢文をそのまま日本語のように読んでいるからです。
742 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 14:17:17
漢文の講釈をするから少しは読めるのかと思ったが、ひどい読み方をするもんだ。
斯馬國…奴國は以北の国ではないよ。戸数道里がないだろ。
あなたの読み方だと、以北以外のことには触れていないということかな?
743 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 16:00:33
>>742 関係ないよ
戸数道里は可得略載の目的語ではないから。
略載したから国名だけが掲載された。
744 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 16:46:39
>>741 河童訳
自女王國以北のその戸数道里は、次有斯馬國…奴國と、略載出来る。
通説の訳
自女王國以北のその戸数道里は、略載出来る。
目的語がどうのこうのと言ってるけど、
「次有斯馬國…奴國と」を後ろから引っ張ってきて挿入しただけで、
日本語の構造は同じだね。
通説が戸数道理を可得略載の目的語としていて、それが間違いである、というのなら、
同じ日本語の構造をしている河童訳も、同じ間違いを犯していることになるね。
745 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 17:13:29
>>744 同じ間違いではありませんね。
略載出来ると書いてあるのだから、その目的語は当然前ではなく後に書かれ記載されてある。
日本語だったら述語の前に書いてありまが
746 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 17:23:30
>>745 河童訳
自女王國以北のその戸数道里は、次有斯馬國…奴國と、略載出来る。
これを倒置すると
自女王國以北のその戸数道里は、略載出来る。次有斯馬國…奴國と、
通説訳
自女王國以北のその戸数道里は、略載出来る。
自分の訳のおかしい点がわからない?
河童は、「戸数道理は記載せず、国名だけ略載した」と言いたいんじゃないの?
747 :
漢文を知る男:2010/07/06(火) 22:08:46
其戸數道里可得略載
主語:其戸數道里
述語:可得
目的語:略載
「略載」は目的語にはならないでしょ
後世「略載」を熟語(成語)とし取り扱うようになってからは、略載スという形で
名詞として扱っているようだけど
ここは「可得略載」を述語ととらえるべきじゃない?
749 :
文法にうるさい男:2010/07/06(火) 23:45:03
可:助動詞
得:動詞(他動詞)
略載:名詞
仮に「其戸數道里」が主語の場合、戸数道里が掲載されている文章などこの後一向に登場しないだろ?
「自女王国以北」なんて
ここで初めて登場するわけで、初めて登場する以前の文章を持ちだして
ここにあてはめることは出来ない。
それ以前に戸数道里が掲載されてきたのは衆知する情報だから、「可得略載、不可得詳」とある文章は「自女王国以北」の前後で切り離し考えるべきだよ
これが私の見解だ
751 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 00:27:57
>>749 「其の戸数道里は略載することを得べし」と訓読すると、
「略載すること」と謂わば動名詞となって
略載を可得の目的語として読んでることになるね。
一方で「其の戸数道里は得て略載すべし」とも訓読できるよね。
この場合、略載を動詞として読んでるから、可得は補助動詞と考えられないかな。
でも、どちらにせよ、「可得略載」が一つの述部になっていて、
「其戸数道里(主部)」=「可得略載(述部)」
という構造じゃないかな。
まあ、いずれにせよ、漢文を現代の文法用語で解析するのは限界があるような気がするよ。
752 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 00:34:15
>>750 帯方郡を出発して女王のキする所まで、行程は南か東か東南だけで、一回も北には移動していない。
つまり、女王の都する所=女王国&順次式だとオレは考えているが、
拘邪韓國から投馬國まで、みな女王国よりも北にある。
だからまとめて自女王国以北と言い直しただけ。
女王国まで記述してきた所で、
「ここまでは戸数道里は略載できましたが、ここからはできません。
なにしろ遠絶なもので。じゃ、続けますよ。次は斯馬國・・・」
てな感じ。
753 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 01:07:26
女王国に至るのは万二千里。伊都国からは残り僅か千五百里。したがって、水行二十日の
投馬国、水行十日陸行一月の邪馬台国は女王国以北でないことは明白。
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」というのは、奴国までは其戸數道里可得略載だと
いうことで、「其餘旁國不可得詳」というのは、「其の余」(以北にあたらないところ)
については、投馬国、邪馬台国について略載できただけで、その傍らの国々については略
載できなかったということ。
754 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 01:27:26
日本の古代史は中国の史書によるしかないわけで幻の女王である可能性のほうが高い気がする。
755 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 07:19:07
ローガン逃げたのかな?
756 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 07:49:14
以北にあたらなかったら旁とは言わないよ。
以北にあたる部分があって、その先にあるから旁(かたわら)
757 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 08:16:21
主たる国があって、旁国(傍らの国)がある。以北にだって主たる国、旁国はある
だろうし、其の余の地域にだって主たる国、旁国があるわけだ。
758 :
ローガン:2010/07/07(水) 09:11:38
>>755 だって返事ないもの。 夕方覗くから、よろしく。
759 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 09:42:52
ローガンが逃げて逃げて逃げまくっている問題。
対馬海峡が千余里
対馬が方四百余里
壱岐が方三百里
さあ、この「里」って、何m?
761 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 12:16:08
韓国を視点に、北朝鮮は隣国。日本は旁国
大分県を視点に、福岡県は隣県。山口県は旁県
762 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/07(水) 12:53:16
763 :
ローガン:2010/07/07(水) 14:59:33
>>759 >
>>674のあとがないと思うが。
ごめんなさい。見逃してた。 光和中の死だから、誕生が順帝時だと云う事ね。後漢書の信憑性についての議論は面白いとこだけど、当該テーマからずれるので又今度。
光和中だけど、仮に光和元年としてみましょう。178年−45才で誕生は順帝陽嘉二年。 檀石槐が推挙されて大人になるのは、十四、五才以降の事。
つまり、目一杯早く見ても、14才で桓帝建和元年。鮮卑の版図、「東西万二千餘里」も、「遼東〜烏孫間」も桓帝時の記述。
764 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 16:32:32
>>761 隣国というだけなら優劣はないけど、旁国は主国に対する旁国、つまり優劣があるということ
だよ。主系、旁系というという言葉を考えれば理解できるかな。
765 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 17:53:53
>>764 主とほ旁の関係ねえ。
この時旁は形容詞だよね?なら、ここで言う主と旁の関係が成立する
なにが主に対して正統じゃないの?
なにが主に対してよこしまなの?
なにが主に対して異端なの?
これら対的なものが表されないかぎり、主に対して旁は成立しないよ。
成立しなければ単なる名詞としてカタワラ、ワキと訳すべきだ。
766 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 18:06:05
国の大小とか主系旁系じゃなくて、使者が通る道筋に当たる国と、それ以外の国ってことだろう。
道の旁という意味で。ちなみに、旁は広いという意味にも使われて、三国志にも使用例がある。
仮に、この道筋が主要交易ルートにもなっていたのなら、
ルート上の国が繁栄して国力も他を凌いでいたかもしれんけど、倭人伝だけじゃ、それはわかんない。
そこまで言ってしまうと、文献考証じゃなくて文献妄想になっちゃう。
ま、
>>761の
>韓国を視点に、北朝鮮は隣国。日本は旁国
は正確には違うんだけどね
正確に言えば、北朝鮮は隣国で、北朝鮮を隣国とした場合、旁国は中国と言うのが正しい答え
え。
道すがらにある国は手短に紹介しましたが、
その他の旁国は名前だけ挙げときますね。
みたいな感じじゃないの
>>766 >旁は広いという意味にも使われて
それは「広い土地」などを表す「広い」じゃなくて、普遍的と同じような
物事の範囲を「広範囲なさま」「普遍的なさま」として使われるんだよ
じゃあ、一体なにが普遍的であったり広範囲なさまなのか?
やはり形容詞(連用)としての使用になるね
いや普遍的とか広範囲とかw
途中で寄れる国と、その他のかたわらの国、でしかないでしょ
なんなんだこの人達
>>768 違うよ
其餘旁國遠絶不可得詳
ここで使用されている「遠」は(遠近)ではなく、動詞としての「遠」
きわめて遠い国(土地)なら「遠絶」じゃなくて「絶遠」だな
>>768 手短なんて単語をどっから引っ張り出してきたんだね?
書は書かれていることが最大の情報だぜ 手短も詳しくもない。
書かれてあることが全て
773 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 18:38:29
>>772 >河童は、「戸数道理は記載せず、国名だけ略載した」と言いたいんじゃないの?
で、どうよ。これ。
>>771 だーから極めて遠いんじゃなくて、
離れてて道が接してないってことでしょー
>>772 略載=手短に記す
女王より北の、通り道にある国は戸数とか位置を簡単に紹介できたけど、
その他たくさんの国々は、遠くて詳しく紹介できないよ。
そんな感じでしょ
もしかして普通に解釈しちゃうと
「放射説」だっけ、あれに分が悪くなるからこねくり回してんの?
>>775 ぜんぜん違う。この人たちのは言語遊びで邪馬台国の所在とはあまりかかわらない。厨なんだよ。
>>774 >略載=手短に記す
略載を熟語として(簡略に記す)と訳したのは、熟語が成立してからのことじゃないの?
>離れてて道が接してないってことでしょー
旁が(離れている)のは間違っていないけど、道が接していないというのはどうかな?
帶方郡と倭は道が接していないけど
こうして文章になっているよ。
だから、離れていて道が接していないと言うのは理由にならないんじゃないかな
>>773 >「戸数道理は記載せず、国名だけ略載した」と言いたいんじゃないの
国名だけを掲載する事が、ここでいう「可得略載」
>>777 例えば北陸は東海道に接してないでしょーが
>>778 じゃあ、その北陸と東海道に該当する部分を文中から抜粋してみて
781 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 19:15:19
ところで
帶方郡←なんでそんなキモイ字体なのwww
>>780 だから、今具体的な例として北陸と東海道で例えたんだろう?
だったら、北陸と東海道に例えられる要素が前文に含まれているわけだよ
その場合、
自分の考えではなく、その例えの元となるものが本文中にあるはずだから
それを抜粋してくれといっている。
「旁國が不可得詳」なのは、遠絶だからと私は考えますが
783 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 19:35:34
>>777 >国名だけを掲載する事が、ここでいう「可得略載」
じゃあ「略」って何が略なの?「載」は国名を掲載することと理解して良いの?
この二点よろしく。
>>781 帶は帯の旧字体。ちなみに旧字体の旧字体は舊字體。
784 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 19:38:31
>>783 >じゃあ「略」って何が略なの
国名、戸数、道里などの情報を把握し、国名だけでそれら全てをを表す
>「載」は国名を掲載することと理解して良いの?
はい。国名だけを掲載
>遠絶ってどういう意味?
疎遠となり絶つ(交流がなくなる)
>>じゃあ「略」って何が略なの
>国名、戸数、道里などの情報を把握し、国名だけでそれら全てをを表す
ど ん な 国 名 だ
ぜひ教えてちょんまげ
787 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 20:29:29
>>785 >国名、戸数、道里などの情報を把握し、国名だけでそれら全てをを表す
国名だけで「国名、戸数、道里などの情報」をどうやって表してるの?
斯馬國という国名を見たら、あら不思議、戸数道里もわかっちゃうというの?
>>787 >斯馬國という国名を見たら、あら不思議、戸数道里もわかっちゃうというの?
ちがうだろ
次有斯馬國・・・・・次有烏奴國次有奴國 だろ
と、書いたところで
そんな質問ここでしているようじゃ、説明しても意味ないくらいわからないよ
倭人伝が読めるようになれば、いまここに書いてあることが理解でき
思わず相槌を打つ(ナルヘソ)と
>>747>>749 >お正月に河童さんとやったネタだなあ。
「自女王國以北其戸數道里」が主語で
「可得略載」が述語ですね。
可得(助動詞:=can) 略(副詞:ほぼ) 載(動詞:記録する)
790 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 21:32:54
>>788 >国名、戸数、道里などの情報を把握し、国名だけでそれら全てをを表す
全てを表すんなら「略」してないことになると思うんだが、
「略」という字は、河童訳のなかでどういう役割を果たしているんだ。
どういう意味なんだ。
>>789 贔屓目かもしれないが、休養明けの河童さんパワーアップしてる洋ナシ
>>790 >全てを表すんなら「略」してないことになると思うんだが
それは違うよ
略しても本来持っている姿を失ってないから「略」と言える
本来持ってる姿を失ってしまったら
それは「略」じゃなく「変」
「學」という文字が「学」と表示されるようなもの
793 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 21:45:52
>>792 河童訳でも「略載」の「略」は、「省略」の「略」という意味だととっていいのかい?
>>793 「省略」=はかり、そして理解するという 意味が熟し(はぶく)という意味になってるが
「略載」や「略記」=略を副詞とし、略を修飾している
私は「略載」ではなく、「省略」の意味を重視しています。
つまり、細かいことを言えば
「略」と「載」を熟語として扱いたくはない。
>>794 誤解しているようだけれど、熟語というものは、誰かが最初に「略載」という言葉の組み合わせを使ったら、
後から皆が真似して使うようになって、その組み合わせが固定化したというもの。
熟そうが熟すまいが、言葉の意味、文字の働きは変わらないよ。
>「略載」や「略記」=略を副詞とし、略を修飾している
「略を副詞とし」は解るけど、「略を修飾している」とは略が何を修飾してるの?
間違えた。
× 「略を副詞とし」は解るけど、「略を修飾している」とは略が何を修飾してるの?
○ 「略を副詞とし」は解るけど、「略を修飾している」とは何が略を修飾してるの?
>>794訂正
>「略載」や「略記」=略を副詞とし、略を修飾している
「略載」や「略記」=略を副詞とし、載や記を修飾している
これにて漢字学習の時間は終わり
あとは適当に議論してください。私は株の世界に行きます。
799 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 22:53:36
>>797 河童訳のなかで副詞として働く「略」の意味は日本語に訳すと何?「ほぼ」で良いの?
800 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 22:58:21
>>798 君が説明下手だから、論点整理をしてたんだよ。
こっちは、まだ何の議論も主張もしてないんだけどねえ。
>>799 ヨコから
>「ほぼ」で良いの?
辞典ではそう書いてあるよ。
802 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 23:35:40
>>801 辞典に書いてあっても、河童説がそうなのかは本人しかわかんないよ。
803 :
ローガン:2010/07/08(木) 00:04:30
>>759 催促に応じて
>>763に書いといたよ。理解出来ましたかあ?
それでもまだここに書かれた万二千餘里が順帝時の事なので短里だと云うなら、何故そうなのかと言える史料の提示、
及び桓帝時に、急に鮮卑の東西方向の版図が、極端に広がった事を指す史料を提示してね。
804 :
日本@名無史さん:2010/07/08(木) 00:07:52
ローガンが逃げて逃げて逃げまくっている問題。
対馬海峡が千余里
対馬が方四百余里
壱岐が方三百里
さあ、この「里」って、何m?
805 :
日本@名無史さん:2010/07/08(木) 00:54:53
>>768 それが正解。
で、ここには変な人がたくさん居ますよ、というのを皆が頑張って証明しているところw
806 :
日本@名無史さん:2010/07/08(木) 10:11:08
807 :
日本@名無史さん:2010/07/08(木) 13:42:39
>>803 アク禁なので詳しく書けないが、順帝の末と桓帝の末では20年ぐらい
差があるね。桓帝時代に版図を広げたことは魏志や後漢書にあるだろ。
ところで、西の端を敦煌と考えてるようだが、その万二千里東ってどの
あたりになるの?
808 :
ローガン:2010/07/08(木) 15:55:21
>>807 甘粛省、長城の西側と内蒙古自治区大遼水辺り…玉門関から白城の西南辺りか?
ジョウ楽水で春に宴会するんだから遼西の北は鮮卑の版図。仮に玉門関〜白城だったら直線距離で3000km強でしょう。道のりなら万二千餘里でちょうどいい位。(笑)
その前に…
>>674>檀石槐の年齢を考えながら読み直してみな。范曄の「桓帝時」は完全な誤りだ。計算は得意なんだろ。
↓ ↓ ↓
>>763 >光和中だけど、仮に光和元年としてみましょう。178年−45才で誕生は順帝陽嘉二年。 檀石槐が推挙されて大人になるのは、十四、五才以降の事。
つまり、目一杯早く見ても、14才で桓帝建和元年。鮮卑の版図、「東西万二千餘里」も、「遼東〜烏孫間」も桓帝時の記述。
今ココなんだけど、返答は? 理解してもらえたのかなあ。
809 :
日本@名無史さん:2010/07/08(木) 15:57:07
ローガンが逃げて逃げて逃げまくっている問題。
魏志倭人伝に載っている
対馬海峡が千余里
対馬が方四百余里
壱岐が方三百里
さあ、この「里」って、何m?
810 :
日本@名無史さん:2010/07/08(木) 16:20:11
>>808 >光和中だけど、仮に光和元年としてみましょう。
光和中というのは、どこから出てきた年代だろう。范曄は自分で計算したのかな?
となれば、怪しいね。彼は思い込みが激しいから。
811 :
日本@名無史さん:2010/07/08(木) 16:27:38
>>808 距離は道のりで考えるのかな? 南北七千里も道のり? 直線では何里?
方何里のときは道のりで考えるわけにはいかんね。
812 :
日本@名無史さん:2010/07/08(木) 19:02:06
2010/07/08 19:00〜19:56 の放送内容 日本テレビ
ミリオンダイス
▽チュートリアルが古代の鏡「銅鏡」をイチから作って、IKKOさんにメイクをしてもらおう!▽腹ぺこベッキー&イモトが行く!日本全国究極の晩ご飯の旅
▽チュートリアルの物作りシリーズ第2弾! ⇒古代の鏡「銅鏡」をイチから作って、IKKOさんにメイクをしてもらおう! ▽腹ぺこベッキー&イモトが行く!日本全国究極の晩ご飯の旅 ⇒自らの手で食材を調達!ありつけるまでは一切食事禁止の珍道中!
出演
【MC】チュートリアル、ベッキー、イモトアヤコ 【ゲスト】IKKO
813 :
日本@名無史さん:2010/07/08(木) 22:11:33
安息国 万5.6千里位 長安からの距離 史記
安息国 二万五千里 東界二万里 洛陽からの距離 後漢書
大月氏国 万二.三千里位 長安からの距離 史記
大月氏国 万六千三百七十里 洛陽からの距離 後漢書
以上比べるとだいたい洛陽ー長安間は約三千里〜五千里位の間がある。
ところが孫算経(3世紀〜5世紀頃成立)では洛陽ー長安間は九百里とある。
明らかに両者は其の間で里の計算が違っていることがわかる。
814 :
日本@名無史さん:2010/07/08(木) 23:42:21
九州説終了(笑)
815 :
日本@名無史さん:2010/07/08(木) 23:44:20
詐欺は畿内説だけが残りましたw
816 :
日本@名無史さん:2010/07/09(金) 06:22:51
河童台風はもう終わりですか?
>>813 史記と後漢書の測量コースが同じという前提がないと、その判断に誤りが出る。
818 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 10:40:33
魏志倭人伝を素直に読むならば、
@ 邪馬壹国の北
末廬国 → 松浦市近辺
伊都国 → 糸島市近辺
奴国 → 福岡市近辺(那の津、那珂川)
※不弥国 → 宇美町近辺?
A 邪馬壹国の南
狗奴國 → 球磨郡近辺(後の熊襲:球磨郡・曽於市)
であり、邪馬壹国(邪馬台国)は北部〜中部九州以外考えられないと思われるのですが…
なぜ、この説が不当なのか、反論を聞かせてください。
>>818 肝心の不弥国から邪馬台国までの行程を、どう素直に読んだかを書いてくれないと論じようがない。
また「壹」の字を採用する根拠も必要。
ショウコウ本がそうだからという程度のものでなくて、ショウコウ本の記載をなぜ敢えて採用したかなどをね。
820 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 11:20:07
ヤマイチ国は、北京語では、イェマイだ。
弥生時代において、ヤ・マ・イという発音はありなのか?
中国では、王朝によって「使っちゃいけない漢字」っていうのもあるでしょう。
821 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 11:44:17
>>819 道程の表記方法の違いから、不弥国〜邪馬台国までの関連はないものと考えます。
つまり、帯方郡(または帯方郡の使者が滞在していた伊都国)から水行20日で投馬国へ、そこから水行10日(陸路なら1月)で邪馬台国へと至ると考えればつじつまが合うのではないでしょうか?
その行程度なら、日本海回りで、有明海を経て九州中部に到着します。
大国を支える、資源、つまり穀物(米)を十分に産生できる地域といえば、九州でも大河の存在する九州中部(筑後川、または菊池川)ということになります。
>>821 えーっと、それは『伊都国基点の放射説』だよね。
だからなぜ放射説を採用したのかを書いてくれないと、なんとも言いようがないんだよ。
至と到の使い分けや標記の順番が異なるからそう解釈したとか
榎の主張が正しいと思う根拠とか。
823 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 11:54:31
もともと、地理的にも中国大陸、朝鮮半島に近い北部九州は、それぞれの国が、独自に交流を持っていたことが魏志倭人伝にも記載されています。
交流があったのであれば、不弥国までの道程が詳細に記されているのも納得いきます。
不弥国までの記載は、邪馬台国の支配(連合)する、中国の王朝との朝貢関係にある国々の詳細を述べているのではないでしょうか?
「放射説」の考えということになりますか?
>>823 >中国大陸、朝鮮半島に近い北部九州は、それぞれの国が、独自に交流を持っていたことが
「使譯所通三十國」のことかと思いますが、この七文字の中には「中国大陸、朝鮮半島に近い北部九州」を示すものは無いでしょう。
「記載されています」は事実誤認ですね。
>>823 >>818の「※不弥国 → 宇美町近辺?」は?がついているから、これは置いといて
あとの比定は、倭人伝の方角記事と実際の九州の地理とはややズレがありますよね。
これらは「倭人伝記事を素直に読むと」という前提から外れませんか?
むしろあなたの考えは、倭人伝を参考にして考古学見地を元にしたものですよね。
出来ればもう一度最初からまとめ直して再提示願います。
826 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 13:12:35
>>824 確かに、おっしゃるとおりですね。
しかし、北部九州の遺跡よりの出土品や地理的条件を考えると、「使譯所通三十國」の中に、あるいはそれ以前に交流があった国として末廬国、伊都国、奴国、不弥国が入っていると考えることの方が自然だと思われますが?
827 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 13:25:33
>>825 完全に素直に読む言うわけにはいかないんじゃないでしょうか。
その時代には、日本地図も、羅針盤も、だいいち近世のように整備された道路すらなかったのですから。
そのなかで無理のない仮説をたてたつもりですが…
>倭人伝を参考にして考古学見地を元にしたものですよね。
その通りです。
>>827 了解しました。
しかし情報を小出しにするのではなく、最初から自説の立脚点を明示していただきたいものです。
>>818などは、倭人伝情報だけでは導き出せない仮説ですし
>>823にもすでに指摘があったとおり、読み下しに誤謬があります。
もう一度最初からまとめ直してくださいと書いたのは、そういうことです。
ところで伊都国までほぼ通説通りだということは、伊都を三雲・伊原など、奴を須久・岡本や板付などとお考えのはずですが
邪馬台国はどの集落遺跡周辺を想定しておられますか?またその根拠はなんですか?
出来れば投馬、狗奴についてもお願いします。
829 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 14:04:14
@ 邪馬台国の北
末廬国、伊都国、奴国、不弥国:以前より(漢代より)の交流があったから、詳細な地理を記載できた九州北部の邪馬台国の支配(連合)国家。
A 帯方郡〜投馬国:帯方郡より南(@の南)へ水行20日、投馬国〜邪馬台国:さらに南へ水行10日(陸行1月)
= 帯方郡〜邪馬台国:総距離12000余里
= 九州北・中部(筑後川or菊池川流域)
B 邪馬台国の南
狗奴國 → 球磨郡(川)近辺(八代市以南、後の熊襲:球磨郡・曽於市)
830 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 14:29:59
あくまでも推論ですが・・・
@ 投馬国:帯方郡より南へ水行20日
→ 有明海沿いの国 → 玉名?
玉名はかつて、「たまきな」と呼ばれていました。
たま → 投馬国
きな → 鬼奴国
玉名は肥沃な穀倉地帯、菊池川の河口都市です。
A 邪馬台国:南へ水行10日(陸行1月)
→ (投馬国より)菊池川を遡上、または北へ進み筑後川へ。
大和政権による征服、破壊(景行天皇九州巡行?、日本武尊熊襲征伐など?)
墓は破壊、財宝(銅鏡、勾玉、鉄剣)は略奪 → 畿内へ
B 狗奴國
→ 球磨川近辺以南
八代市以南、南九州の連合国家。朝貢がないため、中国の記録に残っていない。
後の熊襲:球磨郡・曽於市
>>818さんの一連のレスを読む限りでは、どうも論理的に物事を進めるのが苦手な人のようだね。
質問されて始めて考えを明かすのでなく、最初から何レスか費やしてきちんとまとめてから質問を募るべきなのにそれすら出来ていない。
また倭人伝解釈も考古学知識も中途半端なようで
要するになんとなくここかなあと思った程度のものに過ぎない。
もっと根拠を明確に述べるための論文的文章力を磨いたほうがいいと思う。
ここまでレスを費やしながら、まだ根拠がひとつも示されていないというのは、はっきり言ってスレの無駄遣い。
>>829-830 >>828ですが、やはり最初からもう一度考え直してください。
根拠が倭人伝の数字合わせや記紀のつまみ食い、そして地名の語呂合わせでは、それは説とは呼べません。
833 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 14:54:46
むしろ、私が言いたいのは、
818を否定する根拠があるのかということです。
理論的に論ずるのであれば、とても、このスペースじゃ収まりません。
※そんなものだれが読みますか?
この説を否定し、畿内説を支持する根拠をください。
あなたがたも、この説を否定する倭人伝解釈や考古学的知識を示してみてはどうですか?
私は、少なくとも、今までの反論から、そういった説を受けていませんが?
>>826 > しかし、北部九州の遺跡よりの出土品や地理的条件を考えると、「使譯所通三十國」の中に、あるいはそれ以前に交流があった国として末廬国、伊都国、奴国、不弥国が入っていると考えることの方が自然だと思われますが?
では、「道程が詳細に記されて」いない投馬や邪馬壹は「使譯所通三十國」には含まれないのですか?
多分、そうはお考えになっていないでしょうに。
つまり、特定の国の「道程が詳細に記されている」ことと「使譯所通三十國」の文章は全然関係ないのです。
貴方が、道程が詳しく書かれていることに納得しているのは、「北部九州の遺跡よりの出土品や地理的条件を考える」からであって、
魏志倭人伝を素直に読んだ結果では無いことになります。
文献以外の知見から、文献の記載と異なることを推察する、別に間違ってはいませんんが、
貴方の「素直」の定義に興味がありますね。
>>833 否定も肯定も、それを判断する材料をまだひとつもだしていないじゃない?
それとももうそれがあなたの底なの?
単に思いつきだけで書いているようにしか見えない。
836 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 15:11:44
>>830 邪馬台国論争では、どんな説を出しても必ずどこからかケチがつくというのは
心しておいた方がいいですよ。
特に、畿内説の人は九州説を容認することはないですから。
837 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 15:17:44
私の言う「魏志倭人伝を素直に」という言葉に関しては、
極論を言うのであれば、
@ 奴国 → 福岡市:
1) 金印の出土
2) 那の津、那珂川といった地名の残存
A 狗奴國 → 球磨郡
1) 後の熊襲勢力
2) 球磨川、球磨郡、曽於市といった地名の残存
@、Aの南北にはさまれた地域は、九州北中部しか考えられないということです。
>>837 金印の出土は倭人伝と無関係です。
あとは単なる語呂あわせで、これも倭人伝解釈とはまったく関係がありません。
何か根本的に勘違いされているのではないでdしょうか?
>>836 いや九州説とか畿内説以前の問題。
>>818が単なる思いつきレベルでしかなく、それは九州説とも呼べないものであるということ。
だからもう一度まとめなおして来いといわれている。
840 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 15:35:08
>>838 >金印の出土は倭人伝と無関係です
それはもちろんです。
でも、奴国が福岡(北部九州)にあったという根拠にはならないのですか?
>あとは単なる語呂あわせで
ということは、倭人伝にでてくる地名と、現在の地名の相関は全くないというのですね?
その根拠は?
841 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 15:38:55
>>839 思いつきレベルとする根拠は?
@ 邪馬壹国の北
末廬国 → 松浦市近辺
伊都国 → 糸島市近辺
奴国 → 福岡市近辺(那の津、那珂川)
※不弥国 → 宇美町近辺?
A 邪馬壹国の南
狗奴國 → 球磨郡近辺(後の熊襲:球磨郡・曽於市)
倭人伝にでてくる地名と、現在の地名の相関はないのですか?
818のどこまでが、適当で、どこまでが不適当なのですか?
842 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 15:50:05
球磨郡というのは、地名の残存のみであって、球磨川河口(八代市)以南を勢力とする南九州連合国家のことです。
>>840-841 地名の相関は、どんなに遡っても5世紀あたりまでしか文献上の根拠はありません。
それ以前からあったとする見解は、それが妥当かもしれないとしても根拠とはなりません。
むしろ3世紀まで遡るという根拠を見つけ出さねばならないでしょう。
あなたが
>>818で挙げた
>末廬国 → 松浦市近辺
>伊都国 → 糸島市近辺
>奴国 → 福岡市近辺(那の津、那珂川)
にしても、地名に基づいて比定されたわけではなく、
>>828にあるような遺跡群の詳細な調査から導き出されたものです。
またすでに指摘されている通り、なぜあなたが『邪馬壹国』と読むのが正しいと考えているのかについても、全く語られていません。
おそらく何冊かの新書や文庫本また擬似歴史本か、もしくはネットでのアマチュアによる邪馬台国関連サイトを参考にしたのでしょうが
それらの中から、なんとなくチョイスして地名の語呂合わせをやりましたという程度にしか思えないのですよ。
844 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 16:31:56
>地名の相関は、どんなに遡っても5世紀あたりまでしか文献上の根拠はありません。
それ以前からあったとする見解は、それが妥当かもしれないとしても根拠とはなりません。
むしろ3世紀まで遡るという根拠を見つけ出さねばならないでしょう
まぁ、普通に考えて、文字のなかったその当時の日本に文献的な根拠をみつけろというほうが無理がありますよね…
(あえていうなら、倭人伝そのものが文献となりますか?)
しかし、その当時生きていた人間は、われわれの先祖であり、その地名が現在も残っていると考えてもなんら不思議はないのではにでしょうか?
また、あなたがおっしゃるとおり、詳細な調査から導き出された松浦国、伊都国、奴国と比定されている国々の遺跡発見場所の地名が倭人伝に出てくる国々の地名と奇妙に一致しているのはいったい何故なんでしょうか?
「邪馬壹国?」か「邪馬台国」あるいは「邪馬臺国?」どの記述が正しいのかについては、良くわかりませんので良かったら現在どのような説があるの教えてください。
845 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 16:35:07
「邪馬台国」の記述法は江戸時代の学者が、大和政権と邪馬台国の関連をこじつけるために「邪馬臺国」の"臺"の字を、"台"をもって代用した、というように聞きましたが…
846 :
日本@名無史さん:2010/07/11(日) 16:35:13
糸島に行くなら松浦で下船して歩くより(方角が違う、現地で調べた方角なので誤りはない)
松浦から船で博多湾までいって下船して歩いた方が楽。
それくらいの知恵は地図の発達していない昔でも当然していたと思うし、
それが自然。
だから当たり前のように末廬国 → 松浦市というけど、それは誤り。
それに松浦の地名は江戸時代にできた名前らしい。
つまり壱岐から松浦湾に行ってそのまま船に乗って博多湾に行く、その方が
陸に近い分安全な航路。壱岐から直接、博多湾にいくよりも安全。
ですから末廬国 というのは博多湾よりの前原(まえばる)に近いところにあった国とみたほうが方角的にも素直な読み方。
末廬が原(はる)に名残として残っている。
847 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 16:50:27
>>846 じゃあ、宇木汲田遺跡や、桜馬場遺跡は別の国の遺跡ということですか?
あれだけ大きな遺跡で、大きな力を持った国が倭人伝に登場しないのですか?
というより、「江戸時代にできた名前らしい」というのがそもそも間違え。
どっからの情報ですか?
>>847 ちなみに
>>846は、あなたとは違うタイプの九州説だね。
だからまず九州説でもどのようなものがあるのか、畿内説とは何を根拠にしているのかなど
まず基本的なことを学んでから書き込んだほうがいいと思う。
「邪馬壹国」は古田武彦説。つまり九州王朝説。
通説は「邪馬臺国」でめんどくさいからみんな「邪馬台国」と表記する。
849 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 17:34:04
>>848 >「邪馬壹国」は古田武彦説。つまり九州王朝説。
通説は「邪馬臺国」でめんどくさいからみんな「邪馬台国」と表記する。
邪馬壹国:『魏志』倭人伝記述
邪馬臺国:『後漢書』東夷伝記述
たいした問題ではない。木を見て森を見ず。
もう一度お尋ねしますが、
@詳細な遺跡の調査から導き出された松浦国、伊都国、奴国と比定されている国々は北部九州でよいのですか?
A狗奴国 = 球磨地方でいいんですか?
>>849 >邪馬壹国:『魏志』倭人伝記述
>邪馬臺国:『後漢書』東夷伝記述
それも間違い。wikiでいいから魏志倭人伝の項目を読んで。
@はそれが通説
Aは単なる一候補地
>「邪馬壹国」は古田武彦説
これ地雷。踏んだら終わり。
九州説の人間は極力避ける。
852 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 18:15:39
>>850 「壹」か?「臺」か?それは今、問題ではありません。よかったら、話をすり替えないようにお願いします。
100歩譲って狗奴国が候補地からはずせないなら、邪馬台国九州説は否定できませんよね?
それとも、その他のもっと有力な候補地があるのですか?
熊野、濃尾平野(桑名、加納)、毛野国、出雲どれも歴史的背景を考えるなら、根拠に薄いと思われますが?
>>852 いや最初に「壹」を持ち出したのは、他でもないあなた。
当然そこも突っ込まれます。
今はその話はしていないという権利は、あなたにはありません。
そこは後回しにしてくださいとお願いするか、撤回しますといえばいいだけ。
間違いは素直に間違いだと認められない人に、何を教えても無駄でしょ。
あと狗奴国に関しては、各九州説でも異なります。
単にあなたが『これが一番説得力がある』と考えているに過ぎません。
第一何度も繰り返し書きますが、なぜあなたがそう考えるのかを地名の語呂合わせ以外に理由を述べていません。
この状況では、他の参加者は全く判断材料を渡されていないのに等しいので、あなたと議論することすら出来ません。
可能性があるだけなら、沖縄でも北海道でもあります。
結論から言うと狗奴国の位置比定に関しては、まだ通説と呼べるものはありません。
854 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 19:53:58
九州説自体、通説と呼べるものは無い。
自分の考える九州説を披露したところで、大多数から賛意を得ることは無い。
何がしたいのか?
855 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 20:28:26
だいたい「邪馬臺国」=「邪馬台国」=「やまたいこく」と読んだのは、本居だっけ?
これだってこじ付けであって、「臺」は「ト」と読んでいたんだよ。
古い日本語の場合、「たい(ta+i)」などと、母音が続く発音はしないわけで。
本居のずっと後に、そういう日本語の研究も進んだんじゃなかった?
856 :
日本@名無史さん:2010/07/11(日) 21:08:48
関係ない話だけど、どうして今日は揃いも揃って名前が名無しさん@そうだ選挙に行こうに
なんだろう。
私の場合、名前は今までのものが自動的に書かれているので書き換えが必要なんだけど。
みんなもわざわざ名前を今日のために変えているの?
なんでみんな揃って同じことをするのかなあ。それがとっても2ちゃんの不思議なとこなんだけど。
だれか教えてくれるかなあ?
857 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 21:32:46
>>855 「おい」って、古い日本語じゃないの?
呼びかけの「おい」とか「老いてますます盛ん」とか、
他にも母音が続く発音はいろいろあると思うけど。
859 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 22:05:16
>>853 まぁ、「壹」でも、「臺」でもどっちでも構いませんよ。そこが、本題ではないのですから。
私は、魏志倭人伝の記述における「壹」を用いていただけなので、そこを議論の対象とされても…
そんな、細かい部分を論じたところで、ねぇ。貴方がお望みなら、邪馬臺国でもどっちでもいいですよ。
では質問ですが、貴方の考える狗奴国の場所ってどこなんですか?できれば理由も教えてください。
860 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 22:05:28
861 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 22:06:53
>>853 まぁ、「壹」でも、「臺」でもどっちでも構いませんよ。そこが、本題ではないのですから。
私は、魏志倭人伝の記述における「壹」を用いていただけなので、そこを議論の対象とされても…
そんな、細かい部分を論じたところで、ねぇ。貴方がお望みなら、邪馬臺国でもどっちでもいいですよ。
では質問ですが、貴方の考える狗奴国の場所ってどこなんですか?できれば理由も教えていただければ幸いです。
このひとは壹か臺かで立場が全く変わることすら知らんのか
863 :
日本@名無史さん:2010/07/11(日) 22:15:02
>>858 親切にどうもありがとう。初めて知りました。感謝です。
名前を空欄したら、明日投稿するときは名前を書き込まなきゃならないのかな。
それにしてもそういう”わざ”をみんな知っているって私にとっては2ちゃんの最大ミステリーなんですけどね。
どこの板もどのスレもみんな2ちゃん全体がそうなっているってことは、
2ちゃんに書き込む人ってみんな常連ばかりってことなのかな。。。??
>>860 >「老いる」の古語は「おゆ」
それは表記で、音声とは限らない
ここで問題なのは読みだから、どちらかというと音声。
865 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 22:21:20
>>865 それを皆に聞いてまわるつもりかね
たぶん全員違う答えがかえってくるよ
つーかこのひと2chをよく分かってないっぽい
868 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 22:32:10
>>866 他人の理論を批判するのは容易いですよ。
あなたの意見を聞かせてください。理由も添えてね。
全員の意見が違うのなら、全員の意見を聞いてみたいものですね。
>>868 俺がいつあんたを批判した?
なんで俺があんたにつきあってやらんといかんのか?
アホですか()笑
870 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 22:39:04
>>869 失礼しました。
ただ、私は、純粋に狗奴国がどこにあるというふうに考えているのか知りたいのです。
不快な思いをさせたのであれば申し訳ありません。
狗奴国は近江・東海だと思いますよ。瀬戸内連合の大きさに対して、これ以外に対抗馬はない。
>>870 ここで聞くより本を読んだら?
可能な限りサイトを回ってみてもいい
そちらのほうがよっぽど多くの意見や見解を得られる
>>870 私は畿内説ですが、狗奴国が熊本でも構わないと思っていますよ。
> 此女王境界所盡。其南有狗奴國
「狗奴」は、女王の境界の南に有るのであって、「邪馬台」の南にあるわけじゃないでしょう。
福岡県から瀬戸内、奈良県まで、これが女王の支配権であれば久留米の南にある熊本は十分候補足りえますよ。
戦前からの論争史を踏まえていれば、こういう反論が来ることは了知されていることですが。
874 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 23:07:12
>>873 そうなると、奴国の南→邪馬台国
邪馬台国の南→狗奴国で、やはり邪馬台国は九州北〜中部ということになる。
875 :
873:2010/07/11(日) 23:11:04
>>874 邪馬台国への「南」は「東」の間違いだから気にしませんw
876 :
日本@名無史さん:2010/07/11(日) 23:33:01
>>875 奴国の東が邪馬台国なのに、狗奴国が南というのはおかしくなりません?
奴国の南を東と間違えたのに、狗奴国は南だとわかったんですかね?
878 :
日本@名無史さん:2010/07/12(月) 00:09:53
>>875 末盧国は西で、伊都国は南で、奴国は北で、不弥国は東だろう。
あれ、元に戻ってしまったか。
投馬国は上で、邪馬台国は下なんてのもありかな?
879 :
873:2010/07/12(月) 00:14:26
ジョークのつもりはありませんよ。
例えば「女王國東渡海千餘里、復有國」の「東」も正しい表記。
間違ってるのは末羅→伊都、→邪馬台、→投馬。
倭人伝原理主義に陥っているとわけの判らない話でしょうけどねw
俺も
>>871に一票。
ただ近江・東海と瀬戸内が対立していた、つまり倭人伝の邪馬台国と狗奴国が敵対していたという解釈はとらない。
あくまでも『ゆるやかな交易連合』内での、主導権や利益主導などでの経済的な要因による争い。
政党内の派閥対立のようなものを想像して欲しい。
根拠は数々の出土物の分布と関連から。
ただ中南部九州を狗奴国としても、この考えには矛盾しないのだが
初期型前方後円墳の分布時期を考慮して、今のところは東海説。
ただ九州説各氏にしてみれば、一人一人邪馬台国の位置が違うのだから
その南に位置するという狗奴国もまた一人一人違うだろう。
ものすごく大雑把にまとめると、畿内説(連合説)にとっての狗奴国は、東海・近江・中南部九州・関東などになり
九州説各氏にとっては、論者が考える邪馬台国の南に位置するどこかということになる。
882 :
日本@名無史さん:2010/07/12(月) 00:54:16
>>831 九州説では@狗奴(クナ)=球磨地方または、
A狗古智卑狗(コクチヒコ)=菊池彦=菊池という説が多いそうですよ。
かわいそうだけど
>>870は、ここを教えてgooと同じだと勘違いしている
2chは罵倒あり自作自演あり印象操作ありキチガイありの、便所の落書き以上のなんでもありの場所です
884 :
日本@名無史さん:2010/07/12(月) 00:59:04
球磨は熊襲との関連しており、菊池からは方保田東原遺跡も見つかっており、いずれにしても九州との関連が強そうなのですが。
>>882 今では決してその考えは多くはない。
それは50年近く前の考え方で、今日では九州説でさえそういうったごろ合わせはしていない。
主流となっているのは数々の発掘成果を元にした推論で
たとえば鉄の問題にしても、古墳時代に入って鉄加工遺跡が増える中部九州をどう捉えるかなどを論じている。
倭人伝をどう読むかどう解釈するかというのは、すでに議論され尽くしている。
その結果、倭人伝からは邪馬台国の位置は判明しないというのが、文献学の出した結論。
886 :
日本@名無史さん:2010/07/12(月) 01:10:48
邪馬台国を素直にヤマトと読めば、畿内しかないんだがな。
方保田東原遺跡を例に挙げるならば、当然『巴型銅器』についての言及が必要になる。
なぜ同じ形式及び同じ鋳型によるものが山口県や広島県に存在するのかなど。
また同遺跡で出土している加工玉製品が、北部九州のものと酷似しているにもかかわらず
銅器作成技術が近江に代表される後期大型銅鐸と極めて類似している点など
九州内だけで片付けられる問題ではない。
888 :
日本@名無史さん:2010/07/12(月) 05:35:45
みんな優しいなw
889 :
日本@名無史さん:2010/07/12(月) 09:58:13
>>879 つまり自説に都合の良いように読み替えるということね。
890 :
日本@名無史さん:2010/07/12(月) 10:35:36
>>843 >末廬国 → 松浦市近辺 伊都国 → 糸島市近辺 奴国 → 福岡市近辺(那の津、那珂川)
>にしても、地名に基づいて比定されたわけではなく、
>>828にあるような遺跡群の詳細
>な調査から導き出されたものです。
邪馬台国研究の歴史を知らんな。これはまず地名が先行しているんだよ。
その後、遺跡が出てきた、それで、それを結びつけて考えているだけ。
891 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/07/12(月) 11:43:32
>>885 >>倭人伝をどう読むかどう解釈するかというのは、すでに議論され尽くしている。
そうかな?w
3年前に読み始めて、2つのルート説と卑弥呼の死が正始8年より前だという2つの新しい(かつ正しいw)読みを見出したよ。
魏志倭人伝を本気で読んだ人とかまともに読んだ人が、これほど少ないのかと驚いたくらい。
例えば「今使譯所通三十國」の30国は誰が数えたのか、なんていうのも、
三国志を書いた陳寿でも、倭に行った梯儁でも張政でもないと私は考えているけど、
これさえ議論され尽くしているとは言えないんじゃないかな。
892 :
日本@名無史さん:2010/07/12(月) 11:52:40
2つのルートとか言い出したら、まともに読んでいるとはいえないな。
893 :
日本@名無史さん:2010/07/12(月) 16:54:17
>>870 近畿説は東海地方に考える。
北九州説は、邪馬台国を山門あたりとして狗奴国を熊本(菊池郡)あたりとする
説が多い。狗奴国を南九州全体とみる見方もある(熊襲=狗奴国という考え方から)。
この場合、北九州説だと邪馬台国と狗奴国とが遠くなってしまう。
南九州説は邪馬台国と投馬国が南九州にあったと考える。となれば、狗奴国は当然大
国ではあり得ないわけで志布志湾沿岸の小国であったと考えることになる。
狗奴国は、魏志以外の中国史書に出てこない。官も一人。道里戸数も記載されていない。
倭人伝が伝える邪馬台国時代からまもなく消えたと考えられる。これらは小国とみると
納得できる。今は、これが一番理論的かな。
>>893 フェニックス@日向廚
>今は、これが一番理論的かな。
相変わらず、その満々たる自信が笑いを誘う。
フェニックスとはよくぞ名付けた。
>>893 > 狗奴国は、魏志以外の中国史書に出てこない。
後漢書の『拘奴國』はスルーですか?
896 :
日本@名無史さん:2010/07/12(月) 22:50:12
>>891 魏志倭人伝の解釈なんて各自の思いこみでどうとでもなる。
あなたと全く同じような言い方をする連中が今までいくらいた事か。
「自分は新しい解釈を見つけた。他の解釈ではなく自分の解釈が正しい」ってね。
どうにもならんから考古学的アプローチしかないっつうのが今の大方の考え方。
サイキックバカ隔離スレが消滅してる
該当者は新スレ立てろよ
898 :
sss:2010/07/12(月) 23:32:23
>>895 後漢書の拘奴国は東に海を渡るだから、出雲を指していると受け取ることが
出来る。出雲には、妻木晩田遺跡のような大規模な弥生集落があり、九州に
ある程度の勢力があったとすれば、ぶつかる可能性は大だと思う。
記紀には、出雲の国譲りがあり、高天原と出雲の争いが書かれている。
九州説をとった場合は、倭人伝にあるような南にある狗奴国ではなく、
後漢書に書かれている東にある拘奴国の方がぴったり来るとも言える。
後漢書の拘奴国は東に海を渡るだから、海路で伊勢湾に行くと取ることができる。
900 :
日本@名無史さん:2010/07/12(月) 23:59:18
>>898 こんなところで妄想してないで、現実社会と接点を持ちなさい。
まずは、伊勢神宮に電話して、
「天照大神は卑弥呼だと思うのですが、真相を教えてください。」と、意見を聞いてみること。
相手の離し方のニュアンスで、伊勢神宮の立場もわかるだろう。
それは東遷説を採る君にとっても有益なものなる。
伊勢神宮に電話することすら怖がってるようじゃ、君の信念もその程度ってことだよ。
俺が思うに、伊勢神宮の宮司さんはその手の電話は慣れてると思うよ。というか東遷なんてまだぜんぜんたちのいいほうで、
「心御柱がキリストの十字架というのは本当ですか?」とか聞いてくるやつもいるんじゃないかな。wwwwww
902 :
日本@名無史さん:2010/07/13(火) 00:23:33
伊勢神宮のとなりの小さい小屋って、あの中に心御柱が立ってるのかね?
すると、心御柱が2つあることになるが、何なんだろう?
903 :
sss:2010/07/13(火) 00:24:18
まあ、電話をしろという発想は面白いんだが、結局、何を言いたいのかわからない。
そんなことを伊勢神宮に言ったら怒るぞ、と言いたいのかな。
伊勢神宮に聞いて何もかもがわかるんだったら自分で聞けばいいわけだし。
しかし、考えてみれば、伊勢神宮の主祭神である天照大神を他にどう考えたら
いいのか。全くの架空の人物か、それとも実在の人物の反映か。
年代はいつ頃になるのか。
皇室の誕生とも関連してくるわけだが、やはり、卑弥呼+台与と言うのが
一番妥当だろう。
904 :
sss:2010/07/13(火) 00:30:57
思うに、卑弥呼が女王になったのは、西暦180年頃。死んだのが248年頃。
台与が西晋に使者を送ったのが西暦266年。
台与がいつ死んだのかわからないが、3世紀の終わりくらいまでは女王だった
可能性が高い。となると、卑弥呼+台与の時代は百年ほども続いている。
これは伝承として残っている可能性が高い。
では、どういう伝承として残っているのか。
やはり、天照大神伝説として残っているとしか考えられない。
905 :
日本@名無史さん:2010/07/13(火) 00:32:33
>>903 君が「卑弥呼+台与」と思ってるなら、
そして、伊勢神宮の神職がそのことを知らないと思ってるなら、
君が教えてあげればいいと言ってるのだ。
きっと喜ぶんじゃないかな?
喜ばないとしたら、その原因は何だと思う?自分で考えてね。
906 :
sss:2010/07/13(火) 00:44:21
>>905 卑弥呼は、日本古代史上もっとも有名な女性だし、その地位も「倭王」と
なっている。知名度、地位とも申し分ない。これに勝る女性はいないだろう。
記紀の神代でもっとも有名で、もっとも地位のある天照大神に比肩するには
卑弥呼を置いて他にいないと思うが。
それとも、他の誰が天照大神だと思う。誰を天照大神にしたら伊勢神宮が
喜ぶと思う?
907 :
日本@名無史さん:2010/07/13(火) 01:23:16
>>906 だから、君が天照大神=卑弥呼と思ってて、
伊勢神宮がそのことを知らないと思ってるんだったら、
伊勢神宮に連絡して教えてやればいいというのだ。
東遷説を世に広めるには、一番てっとり早いだろ?
こんなところでグダグダ言ってないでさ。
>>906 違う宗教をごっちゃにされても、誰も喜ばないどころか怒ると思うぞ。
聖母マリアの正体が卑弥呼だとか考えましたよって、君ファンメンダリストの前で言える?
909 :
日本@名無史さん:2010/07/13(火) 02:23:03
言えるか言えないかじゃなくて、SSS君は本当に信じてるわけだから、
相手が怒るかどうかなんて関係ないんだよ。
で、伊勢神宮の側は、
「天照大神は卑弥呼かもしれないと知ってるが、建前上は、卑弥呼ではないとしている。」
「天照大神は、記紀に書かれた設定通りの神だと信じてる。」
の、どちらか。
質問者が上手く聞けば、相手の反応から、どちらかニュアンスを読み取れるはず。
どちらであっても、SSS君には収穫になるはずなのに、
なぜ実行しようとしないのか?と
自説を証明する手がかりがそこにあるのに、なぜ拒否してるのか?と。
自分が傷つくのが怖いとしか思えんな。だったら東遷説なんて捨てろ。
910 :
日本@名無史さん:2010/07/13(火) 09:49:51
>>898 愛媛県にいた河野氏のことだろうと言われているよ。
出雲では渡海千里に相当するところがない。愛媛県ならば大分から渡海千里
ということで問題ないからね。范曄は河野氏を狗奴国と誤認したのかも知れ
んが、それは想像の域をでない。
911 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/07/13(火) 10:40:39
>>892 魏志倭人伝には魏の使いが梯儁と張政の2回あったことが書かれているのだから、
それぞれの行程を考える必要があるんだよ。まー1回しかないとかいうようなトンデモ説なら別だけどね。
そう考えると、大抵の説で2回の行程は別のものとならざるを得ない。
例えば放射説なら、2回とも邪馬台国の行程上にない奴國や不彌國に寄ったとは考えられないからね。
他の説でも末廬國からの陸行や、水行20日、水行10日陸行1月の行程など、
まったく同じだと考えるほうが不自然であることが分かる。
自説があるなら思考停止に陥らずに考えてみてね。
そうすれば私の2つのルート説は、決して突飛な話をしている訳ではないと気が付くでしょう。
912 :
日本@名無史さん:2010/07/13(火) 11:43:09
>>894 うん、これと言った反論はないからね。誰もが正しいと認めざるを得ないんだろう。
914 :
sss:2010/07/14(水) 00:02:02
>>909 一番重要なのは、畿内説にとって天照大神がいつ頃のどういう人物かを
はっきりさせること。それを言わなければ話にならない。
電話するのが好きで、自信がないならば、伊勢神宮にそれを確かめたら良い。
こちらは、いろんな資料から天照大神=卑弥呼+台与は確信しているから
人に確かめる必要もない。さらに、伊勢神宮がどういう考えかも由緒を
見れば想像がつく。
最初何を言っているのかわからなかったのだが、ひょっとして伊勢神宮に
気兼ねしろということなら、そういう気持ちは全然ない。
神社に限らず、こういうことでどこかに気兼ねをしていたら、歴史について
語る資格などないだろう。
915 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/07/14(水) 00:24:49
>>912 >>893 >>狗奴国は、魏志以外の中国史書に出てこない。官も一人。道里戸数も記載されていない。
>>倭人伝が伝える邪馬台国時代からまもなく消えたと考えられる。これらは小国とみると
>>納得できる。今は、これが一番理論的かな。
狗奴国を邪馬台国に置き換えても成り立つ。
さらに魏に助けを求めていることを考慮すると狗奴国優勢だったのではないかと推測される。
# 理論的って何だ? 理論じゃないけど理論っぽいということかw
916 :
日本@名無史さん:2010/07/14(水) 00:52:11
>>914 SSS
>一番重要なのは、畿内説にとって天照大神がいつ頃のどういう人物かを
>はっきりさせること。それを言わなければ話にならない。
チョットマテw
「アマテラスは実在の人物のモデルがあった」と言う事が自明の理前提として語られているが
それは何によって担保されるんだよアホ?wwwww
結局『三貴神』で登場するツクヨミに関してはこれを無視するしかない
(純粋に神話としてみるなら太陽と月がいて「蝕」を起こす第三の存在といわば「3点セット」で解釈できる)
おまけに天孫降臨劇も神武東征劇も史実とするのなら間にある「日向神話」は如何なる史実の反映かも説明しない(できない)
まあ「夫は見た!産屋を覗いたらヨメの正体はワニだった!」とか
不細工な姉を追い返してカワイコチャンの妹だけを娶ったが為その子孫は儚い命になってしまった…なんてお話に
史実を見出せと言うのが無理なんだろうがwwww
まあ仮にモデルを出せと言うのなら「アマテラス=持統 説」の方が話としては良くできている。
誰が?何の為に?いつ?その改編を行ったか実際の政治状況に合わせてかなり具体的に言えるところが味噌だなwwww
917 :
日本@名無史さん:2010/07/14(水) 01:03:03
>>914 >最初何を言っているのかわからなかったのだが、ひょっとして伊勢神宮に
>気兼ねしろということなら、そういう気持ちは全然ない。
伊勢神宮に気兼ねしろ?
そんな気はこっちにもないね。
おそらく、伊勢神宮側は、「卑弥呼=天照大神」といわれても、
鼻で笑うだろうね。君が最初に想像したとおりにね。
そうやって君が恥をかけば、現実に目を向けられるんじゃないかという。
しかし、君が現実から完全に乖離してることは何回かの発言でよくわかったよ。
君が「卑弥呼=天照大神」だと思ってるなら、死ぬまでそう思ってればいいんじゃないの?
でも、なんらかの自己実現を目指すなら、「卑弥呼=天照大神」について論文を書いて伊勢神宮に突きつけて、
ぎゃふんと言わせるくらいの気概は欲しいところだね。
そこまでの根性が無いから、掲示板でぐちぐち言ってるわけだろ?
所詮、その程度の人間ってことだよ。
>>916 そういう部分は例によって
アーアー聞こえない聞こえない
だから
聞こえてる奴はこんな無様な書き込みしないよ
919 :
日本@名無史さん:2010/07/14(水) 10:14:23
>>915 >狗奴国を邪馬台国に置き換えても成り立つ。
狗奴国は魏志以外の中国史書に出てこない(後漢書の拘奴国はどうみてもちがう国)。
邪馬台国は後漢書、宋書、隋書等に出てくる。
官も狗奴国は一人。邪馬台国は四人。
狗奴国は道里戸数も記載されていない。邪馬台国は水行十日陸行一月。
これで置き換えても成り立つとはどうゆう意味だ?
>魏に助けを求めていることを考慮すると
助けを求めた? 援軍なんぞ来ていないぜ。
920 :
終止符貼っときますね:2010/07/14(水) 11:20:23
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ┏━━━━┓ ┃ ↓|フクイ
丿 ┃ 高天原 ┃ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,┗━━━━┛
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市 (気比の松原)
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡 (古保利古墳群)
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市 (国友鉄砲村)
\ | 川 不弥国・・・米原市 (息長稜)
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・近江盆地
(日本最大銅鐸、伊勢遺跡)
邪馬台国 ▲ 天
岩 ☆為吾国 邪馬国・・・旧信楽町
戸 呼邑国・・・甲賀市 (手裏剣=鉄?)
為吾国・・・伊賀市 (同上)
☆巴利国 巴利国・・・名張市 (同上)
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市 (辰砂・丹の産地)
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
921 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/07/14(水) 11:23:58
>>919 邪馬台国も魏志以外に出てこないだろ。それで消えたというなら同じこと。
官の書かれた人数や道理戸数は、国が消えたことに寄与する事ではない。
いろいろ原因を書いているが、結論と因果が認められないものが多い。と書けばわかる?
「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和。遣倭載斯・烏越等詣郡説相攻撃状。」
をどう読んでいるんだ?
援軍が来てないのはそうだが、助けを求めたが魏が応えてくれなかっただけだろ。
一応、張政は来たけどね。
922 :
日本@名無史さん:2010/07/14(水) 11:46:58
>>921 >邪馬台国も魏志以外に出てこないだろ。
ちゃんと出ているから、読み直してみな。
>「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和。遣倭載斯・烏越等詣郡説相攻撃状。」
>をどう読んでいるんだ?
単に説明した、だな。援軍を求めたとすら書いていない。
923 :
920:2010/07/14(水) 11:54:29
つまり「アマテラス」とは忍者です。
「ツクヨミ」は投馬国人。ここに天安河原があります。
邪馬台国ができる以前、倭人の国の中心地でした。
「スサノオ」は伊都国の王。
スサノオは満州系だったので、同じ系統である公孫氏に、
邪馬台国に加勢しないかと話を持ちかけました。
「援軍」は実際に来ました。
それが宮崎・日向に降り立った神武天皇です。
狗奴国はどこかと言えば、大阪です。「狗奴」は鼻濁音の「かが」。
大阪には人形浄瑠璃の伝統がありますが、人形使いを「くぐつ師」とも言いますね。
これは「かが」の人々が持ち込んだ習俗だと思われます。
まだ解決しねーのかよ
925 :
日本@名無史さん:2010/07/14(水) 18:39:23
邪馬台国は北九州であるのは、鉄剣・鉄戈の分布状況から
明らかなんだけど、何せ、日本の歴史書の文献には、ねつ造された
記紀が幅を利かせているので、そう簡単ではない。
せっかく政権交代したのだから、日本史も洗いなおしましょう。
926 :
日本@名無史さん:2010/07/14(水) 19:06:15
>>925 >ねつ造された記紀
そう、シナチョン系の藤原氏によってね。
>せっかく政権交代したのだから
自ら出自を名乗って、ご苦労様なことです。
927 :
日本@名無史さん:2010/07/14(水) 20:46:22
藤原氏はどう見ても縄文系
928 :
日本@名無史さん:2010/07/14(水) 20:49:00
>>927 これはなかなか面白い捏造をしてきましたね
929 :
日本@名無史さん:2010/07/14(水) 21:08:45
>>925 >せっかく政権交代したのだから、
天皇制廃止ですか?
藤原は「とうげん」と読み、唐から来た人を意味するのです
天皇家の人を見ていると日本人とは思えない顔してますね
皇太子なんかどうみてもチョン顔だと思うのですが
932 :
日本@名無史さん:2010/07/14(水) 23:32:37
大室顔でしょ?
アフォ臭。新モンゴロイド面が増えてんのは著名人家族追跡すりゃぁ、アフォでも解る
だろがよw
てめぇの餓鬼も薄面になる。
934 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/07/15(木) 00:15:48
>>922 すまぬが私は古代史や考古学に疎い。
邪馬台国が魏志以外に出てるというなら教えて欲しい。
>>単に説明した、だな。
何のために説明したのか考えろ。思考停止はバカ・アホだ。
935 :
日本@名無史さん:2010/07/15(木) 00:16:12
936 :
日本@名無史さん:2010/07/15(木) 00:37:48
937 :
日本@名無史さん:2010/07/15(木) 01:01:41
大室寅之祐 でググれば、明治天皇がよくわかる件
>>937 今の天皇ですら出自があやしいわけですね
万世一系どころか天皇家そのものがわけわからん
週刊誌の芸能ゴシップと変わらんレベルの話。
940 :
日本@名無史さん:2010/07/15(木) 10:58:59
>>934 後漢書
倭在韓東南大海中,依山島為居,凡百餘國。自武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。其大倭王居邪馬臺國
梁書
從帶方至倭、循海水行、歴韓國、乍東乍南、七千餘里始度一海。海闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名未盧國。
又東南陸行五百里、至伊都國。又東南行百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、
陸行一月日、至邪馬臺國、即倭王所居。其官有伊支馬、次曰彌馬獲支、次曰奴往鞮。
>>934 >邪馬台国が魏志以外に出てるというなら教えて欲しい。
魏志には出てこないよ
942 :
日本@名無史さん:2010/07/15(木) 23:04:44
女王国とか邪馬壱国とか倭国しか出てこないな。
943 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/07/15(木) 23:13:01
>>940 なるほど。
でもどれも三国志の記述の書き直しだね。
これが狗奴國が早々に滅んだ小国である証だと言われても、説得力皆無ですね。
「理論的」ってやつはこういうものなのかな?w
後漢書すら読んだこと無かったのか・・・・
945 :
日本@名無史さん:2010/07/16(金) 09:48:33
>>943 いやいや、あなたの理解力が皆無なんだよ。猫に小判、豚に真珠という言葉を知っているかな?
無知の者には、玉でもただの石にしか見えないってことだ。
例えば、梁書。7世紀初めに姚思廉が書いたものだが、内容は梁(502年から557年)の歴史を記
した歴史書だ。と言うことは、梁書が書く邪馬台国は、当然のことながら梁時代に邪馬台国があ
ったということなんだよ。卑弥呼の話は載っているが、魏時代に倭国があったということではな
く、その倭国が「晉安帝時(396−418年)、有倭王贊。贊死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立
子興。興死、立弟武。」とあるように宋時代の倭国へ続き、また、梁時代の倭国へ続いている、
そして、梁時代にも倭国の王が邪馬台国にいるというわけだ。
一方、狗奴国は後漢書に拘奴国という国が出てくるだけで、梁書にはまったく書かれていない。
だから、3世紀か4世紀に消滅していると考えるべきだということ。
二もおかしいけど
>>945もえらく飛躍した論理だな
と言うかだな、「後漢書」「 梁書」に引かれている倭人伝は魏志のそれのいわば「改編コピペ」と言うのが定説だと思うのだがwww
もし仮に「又〜」と連続式に書いてある 梁書が改編コピペでなく
実際に梁代に存在した邪馬台国までの道程を記したものなら放射説は即死w
ちなみにやはりの「大平御覧」の倭人伝はやはり連続式で書かれていて
内藤湖南はかなり評価している(まあスッキリしているって事なんだろうがw)
>>945は「放射説はありえない」と言うことでおk?
後漢書は、何時の時代に書かれようと
後漢時代を書いたものだ
なにをとぼけたことを言っている
後漢書の成立は南北朝時代なんですけど^^
後漢はAD25年〜AD220年。後漢書の編纂がAD432年。
200年後に、記録によって編纂されたんだから、
現代人が江戸時代の歴史書を編纂するようなもんだ。
すべてが後漢の事情の正確な記録だとは言い難いだろうね。
>>951 >すべてが後漢の事情の正確な記録だとは言い難いだろうね。
で、正確な記録は何で知るの?
後漢書が正確でないとする正確な情報って何?
>>952 >で、正確な記録は何で知るの?
知りようがない
要は、後漢書だから後漢時代のことを正確に記載してあると思い込むのは危ないよってこと。
後漢の始まりは後漢書編纂の400年前!!だよ。
平成に生きてる人間が、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の事績を編纂するのと変わんない。
>平成に生きてる人間が、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の事績を編纂するのと変わんない。
しかもほとんど資料もなく参考出来る書物も少ないわけだ。
平成に戦国時代の編纂をするよりさらに困難で不確かなものになるのは当然だよね。
全ての文献を徹底精査したところで、せいぜい10か20程度しかないものに信憑性など求めるべくもないってことさ。
歴史学ってのは、ある事象について文献を参考にして推論を出す場合は
100や200じゃきかない量の史料断片を、それぞれ比較する。
その史料が徹底的に少ない古代史では、文献から全てがわかるはずがない。
日本史にしても、本当に確定事項だと言えるのは、江戸時代中期以降なんだよ。
史料が少なかろうが多かろうが、それを検証できる別の史料が存在しない限り
、書かれていることがその時代の歴史なわけ
その内容が正しいとか間違いなんて言うモノは関係ない。
真実とか偽りを検証するなんて、後世の人間の思い上がりであって
歴史を愚弄するものだ
他にその時代を知る手立てがないんだから
歴史とは真実を知ることではなく、記録されたものを後世知ることだ
959 :
日本@名無史さん:2010/07/19(月) 21:27:07
>>958 何処をどう読んでも河童理論だが
なんで名無しで書くのか?w
「書いたものが全て」ならアトランティス大陸は実在し
神が天地を創造してエデンに住んでいたアダムとイブが人類の祖先だなww
アホらしい。
要するに
『金科玉条の倭人伝を史料批判する事は許さない!』
と言う姿勢、もはやドグマだなこりゃw
まあ多かれ少なかれこの板の九州説の「暗号解読ゴッコ」の連中には共通するがwwww
>>959 >「書いたものが全て」ならアトランティス大陸は実在し
おいおい勘違いするなよ
書かれているものが全てと「事実」は同じではないぞ
事実と言う言葉と、知るは違う事だと認識してからレスを入れてくれ
歴史は事実を追うモノではない
書かれた記録を知るものだ
961 :
日本@名無史さん:2010/07/19(月) 22:11:57
>>960 下らない
おまえの「歴史と言う物のオレサマ定義」なんざあどうでも良い。
お前の言っているのは文献史学のそれも「そこに何が書いてあるのかを知る」プロセスのみ。
普通なら他史料との比較検証がされて
単一史料なら当然史料批判が徹底的になされる。
まあ思考停止して「オレサマ設定の土俵」を設定するのは何かと都合がいいのだろうがwww
…で、なんで名無しで書いているんだ?w
そこまで書いたらもうバレバレだと思うがwwww
おそらく、言霊ならぬ文字霊・・・文献霊といえばいいか・・・のようなものがあると言いたいんじゃないかな。
>>961 話に窮したか? おきまりのフレーズ乙ってところだな
>単一史料なら当然史料批判が徹底的になされる。
かなり主観的な検証なんだな「徹底的」という言葉を出せば解決できるもんでもないだろう
で、誰が「徹底的」に検証したと評価するのかな?
その線引きは一体何なの? 言葉のあやってやつかい。
まあ、便利な言葉だからな
>…で、なんで名無しで書いているんだ?wそこまで書いたらもうバレバレだと思うがwwww
隠すつもりはないからバレバレという表現が正しいかどうか?
それに
バレバレなら尚更コテ付ける必要もないだろう。
理由は単純で、なんかメンドクサイ
賢人范曄先生が微言大義を込めてお書きになられた後漢書を疑うなど許せぬ大罪です。
と言いたいんだろうな。
そうかなあ。単に漢文の枝葉末節にこだわって珍妙な論を展開する「言意学」が成り立たなくなるから、ということ
じゃないのか。
966 :
日本@名無史さん:2010/07/19(月) 22:38:00
>>963 はっきり言えば人間が検証する以上完全に主観を排除するのは無理
(そもそも検証の対象たる文献史料そのものが人の主観によって書かれている)
だがかと言って思考停止して検証する事を止めたなら
それはもう学問でもなんでもない。
いいところ「宗教」だなwwww
でその不磨の大典を読み解く事ができるのが
「言意学」を引っさげた河童尊師だけだと言う運びかな?wwwww
967 :
日本@名無史さん:2010/07/19(月) 22:40:34
河童君が来てるんで、以前面倒で放置してたのに、ちょっとレス。
>696 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2010/07/05(月) 16:53:31
>
>>691 >証明する必要もないんじゃないかな?
>名詞を除き、漢字は一文字だけでは意味をなさない事ぐらいは周知されているはず
これ間違いだから。漢字は一文字で意味を持ってる。
ただ、他の文字との関係が決まらないと、名詞か動詞か他の語かわからず働きが決まらないので、
日本語としての訳語が決まらないというだけのこと。
>名詞以外は他の文字と関係することでさまざまな意味が生まれる事ぐらい理解出来るはずだぞ
そもそも名詞かどうかも文の中の位置で決まるもので、名詞以外は他の文字と云々というのは間違い。
968 :
ヨコだが…:2010/07/19(月) 22:47:11
>>967 と言うか素朴な疑問として
そもそも意味のない物を二つ重ねたところで意味が発生するのか?w
0+0=0なんじゃないのか?w
単独では様々な解釈があって、それが組み合わさる事により
その意味が限定されるのでわ?www
単なるヲタの縄張り意識? というところかな。
まあ、末期の頃の河童は歴史の真実というより、いかに言意学フアン=河童フアンを増やすかに汲々としてた感じがするけどね。
しかしそれがカキコの動機になるのはすでに危うい。事実解明というのがやはり一番のモチベーションになるんじゃないかな。
>>967 >これ間違いだから。漢字は一文字で意味を持ってる
持ってないだろう。
漢字は文字の意は存在するが意味は他の文字との共存によって発生するもの
文字一文字では存在できないよ
意味が多数存在するのもその為さ
>そもそも名詞かどうかも文の中の位置で決まるもので
それは視線の方向や思考が過去を向いての考察だからだろ
名詞なら、文章を組み立てる以前にその存在がある
>>970 真実の追求ねえ〜
誰がタイムマシーンを作れるか?ってところに最終的には集約されちゃうだろう?
(ま、思考だけで真実に近そうだ)はありそうだが
ブツを見ても、そこに思考を乗せないとブツは何も語らないし
私は、真実云々よりも
そこに何が書かれているかの方に興味は向くっが
973 :
日本@名無史さん:2010/07/19(月) 23:05:49
>>971 だから、
>漢字は文字の意は存在するが意味は他の文字との共存によって発生するもの
>文字一文字では存在できないよ
>名詞なら、文章を組み立てる以前にその存在がある
が河童説なわけで、まったく周知の事実ではない。
それは、ここで意見の食い違いがあることから、既に自明だろ。
これを出発点にするなら、まずは証明から入る必要があるだろうって言ってるの。
あれこれ一所懸命考えているうちに、いつの間にか自説を周知の事実を思い込んでしまったんだろうね。
・・・俳句にはひとつの物をよむ「一物仕立て」と、二つのものを組み合わせる「取り合わせ」があって、例えば有名な蕪村の句の、
「短か夜や 毛むしの上に 露の玉」などでも、 「短か夜」と「露の玉」 はなんの関係もないけど、この取り合わせによって夏の夜
の情景が広がっていくとされる。このあたりの感覚は、日本人以外にはなかなか理解が難しい。
漢文にもそんなところがあって、日本人の作った漢文や漢詩は「和習」があるとして嫌われたりする。文法などの論理だけで情緒
的なものを読み解くのは難しいんだな、これが。
975 :
日本@名無史さん:2010/07/19(月) 23:08:59
しかし何だな…
そこでは自分が最高の(と言うより唯一の)権威になりうる
学問のニュー・ジャンル(w)を打ち出してくるというのは
トンデモでは良くある現象だよなwwwww
>>966 >文献史料そのものが人の主観によって書かれている
文献史料に主観が含まれようが含まれまいが関係ないのでは?
>はっきり言えば人間が検証する以上完全に主観を排除するのは無理
排除しているのではなく、極力さけられるものは避けるべきだと言う事だよ
>>973 >が河童説なわけで、まったく周知の事実ではない。
と、あなたが判断しているだけだろう
結局同じじゃん。
978 :
日本@名無史さん:2010/07/19(月) 23:27:28
>>977 少なくとも、このスレで周知と主張しているのは河童君一人。
河童説だと主張しているのはオレと他数人。
他の人はロムってるのか無言。
この状況なら、証明が必要だろう。
>>975 言葉とは便利なものだな
>良くある現象だよな
という言葉を用いて100%を意識させたいと言う意図が見え見え
でも「良くある」という表現が物語っているように100%と限定する事は
出来ないと言う苦肉の策から使用された表現かな?
しかし意図は100%なんだよね?
>>978 >河童説だと主張しているのはオレと他数人。
え?一人じゃないの 私と貴方
別に河童が言意学を広めて、その信者を獲得していくというのは別に問題はないと思うけどね。2chだから邪馬台スレといっても人の
興味は様々だし、スレ違いというわけでもない。ほとんどの河童フアンは、これが真実とはほど遠いところのものだという健全な自覚?
はあると思うし。メ のように嫉妬するのも変だし。あとは面白いかどうか。
982 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/19(月) 23:39:55
五十音言霊によるときは宇治山田の宇治はウヂ、ウジ、氏、ウシ、牛、
宇主、ウス、碓等にして宇宙統治者、宇宙主宰神なり 氏神は宇治神、
宇主神にして氏子は宇治子、宇主子なり 故に宇治子は宇主宰神の子孫の義
なり 宇主はウシ、ウスなり 宇主も家主と同一義にして家主はイエスとも
發音せらる、イエスは耶蘇教(八十教)に於て救世主キリストのこと
なり 古来赤子即ち神の子なる赤坊産衣の背中に(△+▽ カゴメ紋 ダビデ
の星)の印縫を持ち用ゆる所なり 即ち氏子、宇主子、宇治子の義にして
六甲山、亀甲山、武甲山の三スクリットを以て啓示せられたる最も難解と
する南海道六ヶ國六合六面亀甲表象せられたるものなり。
宇主即ち宇宙主宰神を表象せる(△+▽)章は日陽菊に相當する降神三申の
御寳▽と 月陰桐に相當する昇天三口の御寳▽とを合一混合(金剛)せる
ものなり 而して三申の申東洋のマウスと三口の口西洋のマウスとの混合
(金剛)は片假名五十音とアルハベット二十五音との混合(金剛)東西合一
即ち七十五は結婚七十五年の金剛婚式なり 之れ天照遍照金剛にして世界
統一即ち宇宙統治にして宇治なり。
故に伊勢國五十鈴川の川上宇治に鎮座まします日本否世界一尊き御神徳の
廣大無邊なる 恐れ多くも天照大御神サンは日本天皇サンにおはしまし
たると同時に世界天皇サンにておはしますものと拝察し奉る所なり
983 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 00:13:28
>>980 IDが出ない板だけど、自分以外に河童説だと主張しているレスがあったから、
オレ一人でないことは確か。
感じからして2,3人じゃないかと思ってる。
それから、去年か一昨年か、河童君とは漢字一字について議論したね。
壁に一字、目だか見だかの字が書いてあるときに云々ってね。
もし、そのときの議論で一字に意味がないと思ったのなら、それは誤解だよ。
>>983 >そのときの議論で一字に意味がないと思ったのなら、それは誤解だよ。
それが原因じゃないよ
ごめん
明日仕事だからもう寝ます。 一方的すみませんが
986 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 00:48:21
おやすみなさい。
最後に、「文字の意」というものの存在が、そもそも言語虫説で、周知ではないからね。
>漢字は文字の意は存在するが意味は他の文字との共存によって発生するもの
が「文字の意」というものに立脚している以上、
それは自説・仮説であって、周知ではないよ。
987 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 16:01:08
>>986 これは自説でもなければ仮設でもない。物事の道理
漢字に意味があれば、そこには当然「意」が存在する
「意」の存在なくして「意味」の存在はない。
「意味」は「意」の趣や内容を表現したもので、組み込まれた文章環境によって
文章環境分の意味が発生する。
しかし、「意」は一つ
「意」が一つだからこそ、そこから「意味」は発生できるし
組み込まれる文章もランダムにはならない
周知でなければそれは単なる勉強不足
世間の勉強不足まで計算できるほどこっちは暇じゃないし
世間に合わせる気もない。
>>988 それは、言語虫が発見した道理でしょ。
世間一般で、「意」という言葉をそういう風には使わないから、
それが世間一般で認められた道理じゃないことは自明の理だね。
自分の唱える理屈を、これが道理だって主張するのは無茶な話だよ。
独自の用語を使う場合、まずその言葉の定義を明確にしなければならないよ。
「意」という言葉の定義を明確にし、その「意」が存在することを証明し、
漢字一字では「意」しか持たないことを証明して、はじめて君の主張が認められるんだよ。
オレが言ってる「漢字一字の意味」と君が言ってる「意」というのは
同じことを指している可能性はあるとは思うが、
定義がはっきりしない以上、それを確かめる術がない。
>>990 別に貴方がどう受け止めようと私には関係ないし、あなたを説得するつもりもない
文字の「意」とは 人の意思を音声などから心の動きを形で表現したもの
「意味」は「意」では表現できないから「意味」だし
「意」で全てをカバーできれば世の中に「意味」なんて言葉は存在しない
「意」と「意味」の関係は「意味」という言葉で十分カバーしている
「意」と「意味」が同じなら「味」とは一体なんなんだという疑問が残ってしまう
「意」に「味」を付けたものが「意味」であり、「味」が無いのが「意」だよ
「意」の定義を述べれば
意は不変であり、単一な物事、道理
意味のように文章によってさまざまな意味は発生しないし、
たとえば、漢字の「一」の場合、意味を日本語で表現すると辞書にも掲載されているように
数多くの意味が存在する
しかし、そのさまざまな意味の根本となっているのが、味の付いていない「意」
この場合
「一」の意を日本語で表現すると(基準)
漢字についていえば
漢字自体が、表象心象抽象と進化していってるから
その語義を単一に「定義」はできないんじゃないかな。
いわゆるメタだね。
995 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 21:54:28
漢字は、何かを表現するために作られる。だから作られた瞬間に、すでに意味を持ってる。
そして、おそらくは類推や連想の力で、最初に作られた場面と似ているけれど少し違う場面でも使われるようになる。
そうすることで、最初に作られたときとは少し違う意味を担うようになる。
こう考えるのが自然じゃなかろうか。
こうして漢字には複数の意味を持つようになる。
しかし、それぞれの意味は無関係ではなく、類推や連想が効く程度の関連性を持っている。
そうしたイメージの共通する部分を概念化して「意」と名付けることは可能だろう。
しかし、最初に「意」があるというのは間違い。
じゃないと、意味以前の「意」のみで人間が漢字を作ることになる。
シュミレーションしてみると、文の中でそれまで存在しなかった漢字をいきなり作るなんて不可能。
漢字を作る時は単漢字。しかし、単漢字には意味が無く、意しかない、ということになれば、
その漢字を意味が無い状態で作ることになる。
そうやって意味を持たない漢字を作り出して、それぞれの場面に当てはめて意味を生じさせるという、
かなりオカルトチックなことになる。
つまり、「意」なるものが存在するとしても、それは漢字が複数の意味を持つようになって、
後から概念化されうるもので、漢字に先立って存在するような性質のものではない。
ところで、河童さん。
言語虫の本名でググると、古神道とか日ユ同祖論の掲示板がヒットするんだけど、
あの人って、その方面の人?
漢字導入が日本語をわけのわからない言語にしたんだ
そんなことないでしょ
彼はプロのミュージシャンですよ
だから本名でググると、古代史関係やライブ関係のメニューにリンクするよ
>>995 「意」があり「味」がなければ「意味」は存在しない
しかし、「意味」がなくても「意」や「味」は存在できる
>>995 >漢字は、何かを表現するために作られる。
だから「意」なんだよ
「心」の表現を「音」に表し、それを形にしたもの それが文字(漢字)
それは無味な表現だから「意味」にはならない。
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