平城京遷都1300年を記念して『Wisard of NARA』
吉備真備を語れ!
2 :
日本@名無史さん:2010/05/20(木) 19:06:30
遣唐使
3 :
日本@名無史さん:2010/05/20(木) 19:48:34
この人が活躍するのは年くってからで
20代〜30代は唐へ留学中。
爺さんなってから出世したのは安倍晴明と同じなんだけれど
何故かどっちも美青年イメージが定着しているんだよなあ。
4 :
日本@名無史さん:2010/05/21(金) 03:28:57
吉備真備の
唐での暮らしがどんなものだったか
興味津々
5 :
日本@名無史さん:2010/05/21(金) 23:58:52
6 :
日本@名無史さん:2010/05/22(土) 00:03:59
俺もこの番組、見てたw
孝謙が弓削道鏡を天皇にしようとしちゃったのは
真備から易姓の思想(皇帝の姓は革まる)を教わったからだ、
と受け取られかねない箇所があったな
孝謙が「乞食を天皇にしようと私の勝手」などという
奇異な発想をしたのは、たしかに
易姓革命の影響があるのかもしれないね
吉備大臣入唐絵巻って絵本とか漫画みたいで面白い
8 :
日本@名無史さん:2010/05/23(日) 00:57:09
お、こんなスレあったのか
9 :
日本@名無史さん:2010/05/23(日) 01:06:43
ドラマ大仏開眼
吉備真備公入唐絵巻
ヒストリア遣唐使
とりあえず吉備真備3部作はGJだったな
最後に、実際は大したことは何もしてないくせに、吉備真備より有名な菅原道真をちょっと皮肉ってたのが良かった。
どっちが本当の「神」として崇め奉られるべき人物か、はっきり比べてやればわかる。
道真なんて大宰府に引きこもってのうのうとしてただけ。
道真の悪口かくと怨霊が・・・なんてwww
くわばらくわばら…
12 :
日本@名無史さん:2010/05/26(水) 10:07:36
道真がなんであんなに持ち上げられてんのかわからん。
真備は何度も死線を超えて国や民衆に貢献したが、道真はマジでこれってことはしてないよ。
のんびり漢詩読んでただけ。いけすかないマイペース野郎。
遣唐使にさせられそうになったら強権発動して遣唐使自体廃止しちゃうヘタレ。
こいつのせいで日本の発展はかなり遅れた。
祟って出て来たければ来るがいい!
俺には真備が付いてる。
ベッドの横で寝てるぜ。
13 :
日本@名無史さん:2010/05/26(水) 17:35:10
道鏡は座ると膝が三つでき
ドラマ大仏開眼のほうの阿部内親王は可愛かった
命がけで帰って来たら美少女内親王のちの皇太子に
勉学を教える立場になれて幸運
でも阿部皇太子の容姿は現実だとヒストリアのほうだったのかな
まきびが阿部内親王とエッチしてたら
二度目の遣唐使でもし死んでいたとしても
他の遣唐使と比べれば勝ち組だろうとぼんやりと考えた
仲麻呂って真備がやりたくてもやれなかったことを
阿倍内親王に教えてしまったのかなー
いけない男だ
17 :
日本@名無史さん:2010/05/26(水) 23:21:22
吉備真備陰陽変て
小説があるんだが
真備と行動を共にするヒロイン
明言はされてないけれども
どう考えても阿部内親王。
恕(じょ)の刺繍帯
賜れても
要らなかったよねタブン
>>6 父親の聖武帝に言われたらしいが。
実際どうなんだろ。
20 :
日本@名無史さん:2010/05/28(金) 11:18:23
聖武帝「わしは三宝の奴だから」
これを踏まえた上での
称徳女帝「天皇が奴になっても、奴が天皇になってもいいじゃないか」
発言なのは間違いないと思う。
聖武帝が謎の放浪ができちゃうほど、天皇への権力集中が完成してた時代だったから、好き勝手できちゃったっていうのもあるのでは? 近い時代に則天武后っていうお手本もいたことだし。
>>12 同感だな。
真備様がいれば、祟りなんか怖くないもん。
真備様最高。
23 :
日本@名無史さん:2010/06/04(金) 09:18:06
最後の仲麻呂とのバトルは、ドラマでは割と余裕ぽく勝ってたけど、真備がいなければけっこう危なかった。
25 :
日本@名無史さん:2010/06/06(日) 23:17:29
>>14 分からん
しかし母親の光明皇后は大変な天平美人だったというから
オカメではなかったかも
現在の日本を代表する歴史上の美女は小野小町だが
当の小野小町の生きた平安時代には(もう少し後の平安時代中期だが)
本朝3美人といえば
右大将藤原道綱母、衣通姫、光明皇后の3人を指したらしい
26 :
日本@名無史さん:2010/06/07(月) 08:07:40
>>22 八所御霊最強は
祟道天皇を押さえて吉備聖霊なんだぜ。
ちなみに火雷天神は八所御霊の末席。
27 :
日本@名無史さん:2010/06/21(月) 20:40:35
>>25 女の子は父親に似る
男の子は母親に似る
聖武天皇の外貌しだい
気になる・・・・
聖武天皇のお母ちゃんは光明皇后の異母姉宮子。
その理論だと、宮子と光明皇后は似ていることになり、
聖武天皇は宮子に似ているわけで、
女帝はその純粋培養と言うことになるから……
結局不比等とそのお母ちゃんが美形だったと言うのが結論?
29 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 18:47:54
>>25 >光明皇后は大変な天平美人だったという・・・・
誰からの伝聞なの?現代の歴史漫画家の説ですか?そもそも「天平美人」と
いうのは、どういう目鼻立ちを指すの?
>本朝3美人といえば右大将藤原道綱母、衣通姫、光明皇后の3人を指した・・・・
これも平安中期のどの文献に書いてあったのですか? 10世紀後半を生きた
道綱母の似顔絵が平安中期に流布していたとは思えないし、道綱母の周囲の
人間の日記あたりですか?
30 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 21:29:34
>>29 光明皇后の姿を映したとされる光明皇后創建の法華寺本尊
十一面観音像は有名な美人像(ネットで見れるよ)。
光明皇后が天平時代を生きた美人であることからの表現。
法華寺には光明皇后が美女であったという伝承が残る。
また、南北朝時代成立の尊貧分脈には「本朝第一美人三人内也」
の表現があり、本朝三美人に関する記述がある。
尊貧分脈は伝承や記録をもとに編まれている。
これには現在は残らないが当時はまだ残っていた記録が含まれる。
実際に本人を見ていないから解らないだろうと言われれば、
小野小町が美人だったかどうかも現代人にはわからないよね。
31 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 12:14:53
32 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 19:01:52
>>15-16 光明皇后を寝取った上
下手したら井上と不破まで手を出していたかもしれんぞ
33 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 20:12:25
>>32 仲麻呂って光明皇后のため、いや藤原氏のために安倍内親王の敵となる
井上内親王と不破内親王の同母弟安積親王を暗殺したんだろ?
井上と不破は光明皇后や仲麻呂の敵。
藤原氏命の仲麻呂はさすがにそれはなかったと思うがな。
敵と密通したら敬愛する光明皇后激怒、だ。
とても光明皇太后に紫微中台長官に大抜擢してもらえなかったと思う。
34 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 20:41:16
安積親王暗殺説は
すでに事実扱いなのか・・・?
歴史上の人物には珍しく学者筋にも支持する人がいる暗殺説なのは確かだが
支持する人もいるなら支持しない人もいる
そのレベルの説だろう。
織田信長vs朝廷の公武対立史観とどっこいどっこい。
一般向けな歴史の本は
センセーショナルな説しか採りあげないから
そこのところが分かりづらいけれど。
35 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 20:55:57
>>34 安積親王の突然死が暗殺でなかったところで
藤原氏の敵には違いない
藤原氏は聖武天皇にれっきとした男子がいたにもかかわらず
皇后腹の安倍内親王を皇太子に立てている
井上内親王が不審な死を遂げているのも
自然死とか思ってる人?
36 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 21:20:03
アホか。
井上と他戸が同日に死んだ時と
安積が死んだ時とでは
政治情勢がまるで違うだろう。
だいたい藤原四家をひとくくりに藤原氏でまとめるなよ。
大炊王の即位を仲麻呂がゴリ押しした時
永手や豊成が塩焼王(不破のダンナ)を擁立しようとしたことや
氷上川継の乱で浜成その他が加担したことを知らないのか?
これだから単純思考の藤原陰謀史観信者は。
37 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 21:50:38
>>36 聖武天皇の不在中、仲麻呂が留守を守る都で若い親王が突然死したのに?
何より井上内親王の死と不破内親王の件をいっしょくたにしているのが馬鹿だな。
不破内親王は暗殺などされてないんだが。
どこまで単純思考なんだ。
すいません
>>37氏はわたしには見えない行間を読めるんでしょうか?
>>36のどこを読んでも不破内親王が暗殺されたなんて書いてないと思うのですが?
>聖武天皇の不在中、仲麻呂が留守を守る都で若い親王が突然死したのに?
まず安積親王が恭仁京で死んだという前提そのものが
仮定の域を出ない話だぞw
「続日本紀」には「桜井頓宮から急病で引き返して、2日後薨去」とあるだけで
どこで死んだとも書いていない。
もちろん、恭仁京の可能性だってあるが
本当に急病なら地理的に近い平城京でもおかしくない。そう考える学者もいる。
暗殺説信者どもは自説に都合のいいように
恭仁京薨去説があたかも確定事項のように説明するから始末が悪い。
それにもしも安積親王が恭仁京で死んだとしても
天平十六年時点の藤原仲麻呂を首謀者とみなすのは
天正十年時点の徳川家康に本能寺の変の黒幕を期待するようなものだ。
40 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 18:53:32
安積親王が死んで得したものが犯人と睨むのは
推理小説でも定石
このじけんの場合に当てはめれば光明皇后と仲麻呂
41 :
日曜8時の名無しさん:2010/06/29(火) 19:13:07
藤原氏が一枚岩と思ってる時点でもうダメ
日本史板って、いつから推理小説が根拠になるようになったんですか?
俗説をとやかくあげつらうのもあれだが
光明皇后と藤原仲麻呂(当時従四位上)がホントにそんなバレバレな暗殺をやったとしたら
聖武天皇、元正上皇、橘諸兄、藤原一族のほとんど、その他もろもろを全部敵にまわして
潰されるのがオチ。
当時は吉備真備・玄ムコンビだって健在だ。
44 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 22:28:52
>>43 うすうす気づいても誰も手を出せなかっただろ。
聖武天皇は藤原氏を外戚とする初めての天皇。
自身が藤原氏を外戚としていることを誇りにしていて
安積親王を退けて安倍内親王を皇太子に立てた愛藤原氏天皇。
藤原氏高揚に尽くした天皇で仲麻呂弾圧などもってのほかだった。
吉備真備も安倍内親王の教育係に抜擢されて燃えていた。
橘諸兄は光明皇后の異父兄。
姪に当たる安倍内親王が即位してくれれば万々歳だ。
元正太上天皇は聖武天皇から敬愛されてはいたが
実の妹吉備内親王が長屋王とともに自殺するのを止められなかったくらいだから
この当時政変に首を突っ込むような行為は一切していない。
また、この頃の藤原氏は分裂などしていない。
皆、藤原氏を外戚とする安倍内親王を押し立てていた。
たとえ安積親王が仲麻呂に暗殺されたところで
誰一人安積親王をかばって対立する理由がある者がいない。
45 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 23:23:11
誰一人安積親王に味方しないのなら
初めから安積親王は危険でもなんでもないんだから
放っておいたらいいじゃん。本末転倒。
それに藤原氏藤原氏連呼しているけど
光明皇后の母方は県犬養氏だよ。
46 :
日曜8時の名無しさん:2010/06/30(水) 01:18:35
結論にあわせて
後から背景作ってるから
何をいってんだか自分でもわかってないんでないか(藁
47 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 20:12:39
>>45 安倍内親王は生涯未婚を運命づけられていたから
その皇太子に安積親王の息子辺りを擁立されたら困るからではないか。
聖武天皇や光明皇后が生きているうちは安倍内親王優位は変わらないだろう、
しかし、それ以後は解らない。
光明皇后は藤原氏や橘氏の兄たちとは親しく引き立てたけど
母方の県犬養氏の影はなく疎遠だった節がある。
安積親王の母県犬養広刀自と光明皇后の母県犬養橘三千代との血縁関係も不明。
三千代の代に橘氏が創設され、三千代は県犬養氏という実家の力で出世したというより
女官の力が評価されて新たな姓を賜った人物だから。
48 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 22:50:56
安倍(孝謙)の即位は既定路線としても
その後はどのみち誰かが後継者に指名されることになる。
当時の皇族は誰でも条件は同じだろう。
聖武や橘諸兄クラスが皇太子交代を企てたというならともかく
そうでないなら安積親王だけが敵視されて殺されなくちゃいけない説明にはならない。
だいたい当時の安積親王はまだ十七歳。
暗殺なんて余計な軋轢をつくるような危ないマネをしなくても
いつものように藤原氏の女を嫁がせて手なづければいい。
聖武の死後に永手や豊成は塩焼王(不破の夫)の擁立を画策しているし
井上・他戸が失脚したのだって、北家の永手が死んで
山部王(桓武)を即位させたい式家が権力が握ったからだ。
県犬養の血を引く天皇が忌避されたという前提はムリ。
安積親王暗殺説の根拠らしい根拠といったら
大伴家持が残したオーバーな挽歌くらいのものだろう。
通俗本がもっともらしく採りあげているといっても、
信憑性は孝明天皇暗殺説と大して変わらない。
49 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 20:32:32
安積親王に藤原氏の娘を入れて手なづける気があるなら
藤原氏は安倍内親王を無理に皇太子にしないだろうよ。
安積親王はすでに17歳で結婚できる年齢に達していたにもかかわらず
藤原氏の女をみつがれていない。
あえて女帝擁立に踏み切ったこと、安積親王に女をみつがなかったこと、
これだけみてもこの時期の藤原氏が安積親王の即位を阻止していたことが分かる。
天智天皇が卑母の大友皇子の即位を実現させようとして失敗して以来、
帝位についたものはすべて母方が皇族か藤原氏だ。
よって、この時期の藤原氏は皇族出身の妃が文武天皇や聖武天皇に近づくのを阻止し、
事実上藤原氏出身の天皇を即位させることを大前提としていた。
すでに中年の聖武天皇に若い藤原氏系の妃を次々入れ、
安積親王は無視したままだ。
年頃になった安積親王は邪魔者でしかない。
しかし、天武系唯一の男子となった安積親王がいつ
反対勢力に擁立されないとも限らない。
安積親王は危険分子だ。
一方、同母姉の井上内親王はわずか5歳で伊勢斎宮に任じられ、
幼いころに都を後にしていた。
鵜野皇后配下の大伯皇女と大津皇子の姉弟のような状況だ。
何が起こっても不思議はない状況だ。
50 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 20:37:37
51 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 18:03:14
>>49 >しかし、天武系唯一の男子となった安積親王・・・・
どの年代でのことなの?死亡直前の740年年代初頭でいうと、天武系の二世王、
三世王男子はごろごろしていたんだがね。
52 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 19:37:26
脊髄レスで思いつき並べるだけだし
あんまり相手しなくていいよ。
そのたびに矛盾がひどくなっていく自覚もないようだし。
54 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 12:18:29
吉備真備の文室兄弟擁立は
ほとんど鎌倉時代といっていい時期の水鏡に出てくる話で
なんでそんな安直に史実扱いできるのか、そっちの方が疑問なんだがな。
称徳女帝が山芋でオナニーしていたら抜けなくなっちゃって
それがもとで死んじゃったとか書いてある文献だし。
白壁王の擁立は当たり前に井上が妃だったからでしょ。
藤原永手は以前も塩焼王の擁立を画策しているんだから。
この時点で塩焼王の子たちは臣籍降下していて
聖武天皇の血が流れている男子皇族は井上の子の他戸しかいない。
白壁→他戸で皇統が繋げるのが
一番抵抗のない皇位継承なのだから普通に考えたら妥当な人選。
井上、他戸の失脚は北家の永手が死んで
式家の連中が勢力を伸ばしたからだよ。
結果論で歴史を見て、なんでもかんでも最初からの予定通りと考える奴が多すぎ。
55 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 16:10:35
>>51 その天武天皇二世王、三世王たちが
安積親王以上に有力な皇位継承者だったの?
県犬養氏を母方に持つ聖武天皇の親王や内親王には初めから即位の可能性がなく、
よって藤原氏が敵視する可能性は一切なかったというのは早計。
56 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 16:39:19
>その天武天皇二世王、三世王たちが
>安積親王以上に有力な皇位継承者だったの?
アホか。天武系で唯一の皇太子が安積親王だと
最初に思いつきでデタラメ書いたのは
>>49だ。
テメエのずさんさを棚上げして問題をすり替えるな。
聖武天皇と天武天皇を勘違いしたと
素直に謝ればいいだけなのにね。
バカじゃないの。
58 :
日本@名無史さん:2010/07/15(木) 21:31:39
>県犬養氏を母方に持つ聖武天皇の親王や内親王には初めから即位の可能性がなく、
>よって藤原氏が敵視する可能性は一切なかったというのは早計。
この人、いったい誰と戦っているんだろう・・・?
安積親王や井上・不破に即位の可能性がなかったとは誰も主張していないけれど。
藤原陰謀史観懐疑派の主張は
藤原永手・豊成らが塩焼王(不破の夫)に肩入れした史実や
実際に白壁王(井上の夫)が即位できたことから
県犬養氏系の聖武の皇子皇女にそれほど抵抗はなかったと考えるのが妥当
藤原氏の血をひいてないというだけで敵視されたと安直に判断するのは早計
というものでしょう。
ガチで文盲さんなのか
それとも自説に都合のいいように反対意見を改ざんしているのか・・・
まあ藤原氏に敵視されなかった可能性は一切なかったといっている人に
何いってもムダだろうけれど。
59 :
日本@名無史さん:2010/07/16(金) 06:41:26
>>41 814年に死んだ息子の吉備泉の子孫は、平安朝ではどのような官職に
就いていたの?他氏排斥に暗躍する藤原氏に敵視され、零落帰省したの?
吉備氏の現実はきびしー!!
駄洒落ではなく、事実そうだったと思われます。
61 :
日本@名無史さん:2010/07/16(金) 21:32:40
藤原一族は一枚岩じゃないよへの反論が
他氏族排斥って
ぜんぜん筋が通ってないじゃんwww
藤原良房と良相がぐるになって伴善男をハメたとか
藤原時平・仲平・忠平の三兄弟がぐるになって道真をハメたとでも
いいたいのか?
藤原氏が一族同士でつぶしあいやっていた事例が
どれだけあると思うんだよ。
広嗣の乱・仲麻呂の乱・薬子の乱・・・
藤原京家なんか
不破内親王と氷上川継の母子に肩入れしたばっかりにすっかりおちぶれてしまい
末端貴族としてたまに歌舞音曲の名人を出してはちやほやされる程度だった気がするが
たぶん気のせいで
藤原一族はずっと一枚岩だったんだろうな。
藤原永手や豊成が塩焼王を擁立したのもきっと気のせいだよね!
藤原家は一愛岩で、
不破内親王の姉弟たちを敵視していたんだからね!
史実の方が間違っているんだよね!
すまん、一枚岩だった。
誰かさんと違って居直ってごまかすつもりはないから
ちゃんと謝っておく。
65 :
日本@名無史さん:2010/07/18(日) 23:35:47
なんか論理のすり替えがあるなあ。
藤原氏同士でも内輪もめはある、だから藤原氏は連携行動なんか一切しないって言ってるみたいだ。
藤原氏というのは、藤原氏全体の利益については絶対的に結束して行動する。
ただし自分たちが実権取ってる中で、誰か一部が権力を独占しようとすると他の氏族を利用しても引きずり落とす。
そんな感じでしょ。
もともと永手や豊成や浜成の動向から考えて
藤原氏が井上・不破・安積を敵視していたと決めつけるのは安直過ぎるという話なんだし
話題をすり替えたんじゃなくて
もとに戻っただけだけれどねえ。
道祖王が廃太子になった時
藤原永手・豊成が新皇太子として推したのは不破の夫の塩焼王。
皇族出身の文屋智努や反藤原の大伴古麻呂が推したのは
不破や井上の縁者でもなんでもない池田王。
称徳天皇が死んだ時
吉備真備が文屋兄弟を推したという説は俗説レベルで信憑性を欠くが、
藤原一族が井上の夫の白壁王を支持したのは確か。
聖武の血筋の井上や不破を重く見ていたのは
他皇族や他氏族じゃなくて藤原一族だよ。
阿倍の立太子で皇嗣決定を先送りした件だけで
一族ぐるみで井上・不破・安積を敵視したとか抵抗があったというのは飛躍した解釈。
私教類聚の現代語訳どっかにないですかね
読んでみたい…
藤原史観厨って
確定事項のように結論を主張するだけで
根拠を出してこないよね
70 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 22:46:24
ていうか、藤原氏擁護の人の論理ってのは常に「藤原氏の誰々は反対派だった。藤原氏は一枚岩だったんだから、反対者がいるって事は藤原氏の意志じゃない」
自分では気がついてないけど一枚岩理論なんだよね。
もちろん都合のいいときには一枚岩なのが藤原氏の強み。
そうでなければあそこまでの権力の独占はできない。
それと目的にためには手段を選ばない強み。
目的は藤原氏全体で一緒じゃないけどね。
擁護者は善悪二元論に縛られてない?
藤原氏は悪玉じゃないって。
君、自分が何を主張しているか
理解できている?
藤原氏の誰々は反対派だった→藤原氏は一枚岩ではない
以外の論理展開はないよね。
72 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 23:26:41
謀略史観に疑いを挟んだら擁護
どっちが善悪二元論なんだかなあ
73 :
日本@名無史さん:2010/07/22(木) 20:32:04
氷上川継(不破の息子)の嫁は藤原京家からもらってるんだし
井上・不破・安積は藤原一族の敵!というのは疑問だわな。
結果的に政争に勝利して権力を握ったのが
長男の未亡人を大炊王にあてがった藤原仲麻呂だったり
姻戚関係のある山部王を後押しした藤原式家だったりするのを
初めから藤原一族の総意だったとでも決め込んでいるんだな。藤原史観の人たちは。
74 :
日本@名無史さん:2010/08/02(月) 21:56:20
聖武や光明皇后が生きていたうちは藤原氏は一応反県犬養で
まとまっていたと思う。
光明子立后に働いた藤原四兄弟の中には当然末弟の京家の祖麻呂も
含まれている。
麻呂だけ別行動していたなら他の兄3人に殺されていただろう。
式家や南家に大きく後れを取っていた京家が聖武の孫の代に
一発逆転を図るべく川継に娘を差し出したともとれるがな。
藤原氏も他氏排斥が進むと同族内で争ったりするわけだ。
永手や豊成が塩焼王を推したのは
光明皇后の存命中じゃん。
76 :
日本@名無史さん:2010/08/03(火) 21:20:18
塩焼王・道祖王の父新田部親王は、天武天皇と藤原五百娘の皇子。
五百娘は藤原鎌足の娘で藤原不比等の異母妹であるだけでなく、
天武天皇の没後は異母兄不比等の妻となり京家の祖麻呂を生んでいる。
新田部皇子が伯父不比等の庇護を受け、
塩焼と道祖も藤原氏の庇護下にあったことは想像に難くない。
それはそうと、不破内親王はたしか塩焼王と「私通」したんだよね?
内親王の結婚は天皇が決めるものなのに、不破内親王は父聖武天皇の許可を得ることなく私通、
聖武天皇の在位中に一時期実の娘である不破内親王が内親王の地位をはく奪されていたらしいのは
このことと関係があるらしい。
そういや遠山美都男は
道祖王は ガチホモ で将来子どもを作る見込みが薄いから
塩焼王と不破内親王の間の皇子(聖武の孫)が成長するまでの中継ぎのつもりで
聖武が後継者に指名したのだろうとか書いてたな。
で、称徳に嫌われたのもアーッ!だから。
78 :
日本@名無史さん:2010/08/03(火) 22:41:45
本来は藤原氏を外戚とする新田部親王の子である塩焼王、道祖王のうち、
弟の道祖王ではなく兄である塩焼王が皇太子になってしかるべきだが、
たしか聖武天皇の代に塩焼王は政争に巻き込まれて流罪になっているんだよね。
聖武天皇の娘不破内親王と私通したのも帝位への野望あってのことかもしれないし
とにかく聖武天皇に嫌われて崩御のときにも塩焼王ではなく弟の道祖王のほうが
孝謙天皇の皇太子に選ばれた。
ホモの天皇ねえ・・・
まあ、いたら面白かったかも。
79 :
日本@名無史さん:2010/08/04(水) 21:24:54
きっと兄嫁に虐待されまくって
女性が怖くなったんだよ。
井上皇后も義理の息子の山部親王をつまみ食いしたという伝説があるし
失脚して殺されたのもそれで恨まれたからかね。
28歳まで斎宮だったわけで、結婚は30歳前後以上、
当時の感覚だと中年婦人?
それが目覚めちゃったら、年上の光仁天皇では満足できないかも?
安積親王が藤原氏の多くの人達にとって煙たい、扱いが面倒な存在であった。
ここまでは誰が見てもそうだとは思われる。
しかし邪魔だったかどうかとなると必ずしもそうは言い難い。
非主流派とか野心家にはそう言う存在こそ利用価値が高いわけで、
いっぱしの陰謀家そろっている藤原氏に誰も利用を考えなかったとは思いがたい。
逆にそう言う動きがあったから、始末された可能性もあるが。
仮に全体にとって邪魔な存在だとしても、必ずしも排除に方向に行くとは限らない。
邪魔者だからこそ取り込めた場合には利益が多いこともままある。
それに邪魔者全部排除方式は結局は破綻することが多いわけで。
その点仲麻呂は粛清タイプのようにも思われるから、消したかもしれない。
後世の人間には結局想像することしかできないんだなあ。
82 :
日本@名無史さん:2010/08/06(金) 21:09:40
煙たがられたというより
若い親王に誰が嫁さんの世話して手なづけるかで
藤原四家が腹の探り合いやっていたような印象。
桓武天皇や淳仁天皇の場合はノーマークだったから
早いうちに仲麻呂や百川にがっつり押さえられたけれど。
83 :
日本@名無史さん:2010/08/06(金) 21:26:29
安積親王はすでに17歳だったんだよな。
この年には父の聖武天皇はすでに結婚していたし、
貴族たちの例を見ても15歳前後で結婚している例は少なくない。
藤原四兄弟が味方に引き入れたいなら娘を差し出していただろうに、
安積親王はこの時点で未婚で、妻らしい人物の名は上がっていない。
としたら藤原氏に無視されていた&敵対していたとしか。
藤原氏は女性の安倍内親王を皇太子に立ててはいたけれども、
この時点でも何とかして男子の天皇を得ようと
すでに中高年の聖武天皇のほうに娘を勧めていた。
藤原仲麻呂の姉妹(南殿)や、藤原永手の姉妹(北殿)が、
安積親王ではなく父の聖武天皇の後宮に入れられている。
それでもどうしても藤原氏を外戚とする男子が誕生しなかった。
安積親王に娘を勧めていない以上、手なづけるつもりだったとは思えない。
吉備朝臣泉(743(補任では740、75歳没)〜814、72歳:真備の子(嫡子?))
従五位下(766、24歳)→近衛将監(767時点、25歳)→大学員外助(767)→従五位上(767)→
正五位下(769、27歳)→左衛士督(769)→従四位下(770、28歳)→大学頭(770)→
造東大寺長官(778?、36歳:782再任?)→伊予守(784、42歳)→解任(784)→佐努守
(785、43歳:左遷:795時点同)→流罪(795)→入京(805)→式部大輔(806、64歳)→
南海道観察使(806、64歳)→右京大夫(806)→准参議?参議?(806、64歳)→右大弁(806)
→参議停止(807)→従四位上(808、66歳)→左大弁(808)→刑部卿(808)→正四位下(808)→
伊予守(810、68歳)→参議(810)→武蔵守(810)→左衛門督(812、70歳)→致仕?
(812、70歳:正四位上とも)→正四位上(813、71歳)
若い頃(20代)までは父の七光りだろうが相当に順調(同時期藤原氏主流並)に昇進。
その後はいまいち、60過ぎてからの官歴をみると相当な能吏ではあったようだが。
光仁朝・桓武朝での三十数年間1階も昇進せず。特に桓武朝では左遷、流罪となり、よほどに桓武天皇に嫌われていたのか?逆に平城天皇の父帝に対するあてつけで昇進か?
容姿はわからないけど、もしかして父に似てるのは長生きなことくらい?
高円朝臣広成・広世(同一人物かも?)みたいな立場なら殺されなかったんだろうな。
内舎人だったり六位だったり完全に普通の貴族扱いだけど。
殺されたなんて主張しているの
一部の謀略史観厨だけじゃん。
史書でも明記されてない恭仁京死亡を確定事実扱いしたり
安積親王が天武系唯一の男子だとかホラ吹かなくちゃ
成り立たない説だぜ?
87 :
無双立花宗茂:2010/08/15(日) 08:28:24
「長生の幣,この恥にあう」と言い残し政界から去る素晴らしいジャマイカ
88 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 02:39:29
家の近くに吉備真備駅がある。
89 :
無双立花宗茂:2010/08/16(月) 06:25:06
当時の中国荘園風な公園だよね
91 :
日本@名無史さん:2010/08/24(火) 14:42:22
>>86 聖武唯一の男子なのだから
命を狙われる危険性はあるわな
92 :
日本@名無史さん:2010/08/24(火) 14:47:03
>>86 天皇に皇子があるにもかかわらずそれが退けられて
皇女が皇太子になったなんて、安倍内親王が唯一。
おそらく現在の男系女系論争が比にならないくらい
水面下で反対運動はあっただろうし
安積親王は帝位から遠く超安全で暗殺されるわけの無い皇子だなんて
歴史を知らすぎる奴がいるみたいだな。
93 :
日本@名無史さん:2010/08/24(火) 18:28:26
テスト
なまじ藤原朝臣八束(後の真楯:北家)とかと関係があったのがまずかったのかも。
甥である氷上真人川継も京家の浜成と関係なければ流罪にならなかったかも。
暗殺されたという証拠もないが、されなかった否定する明確な根拠もない。
暗殺されかねない境遇にはあったんだろう。
そういう人物がころりと死亡。
まあ世の中にはそんな偶然もあるさ。
あるけどねえ……
暗殺されていないとは断定できない→暗殺されたで確定
なにこの短絡施行