【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その11

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1日本@名無史さん
次の意見(老教授氏)に関して議論するスレなのだ!

「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
それが王権の礎になったってことです。
その母体は、参加時期や規模の差はあるが
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
後の大和朝廷だと考えられています。
そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」

■前スレ
その10 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1264210467/
その9 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1262915333/
その8 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1259561327/
その7 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1246924785/
その6 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1238078055/
その5 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1231414308/
その4 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1222374987/
その3 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1203827235/
その2 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1177791246/
その1 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1166155276/
2日本@名無史さん:2010/03/27(土) 20:27:34
マキムクってなんであんな難しい漢字なの?
3日本@名無史さん:2010/03/27(土) 20:42:17
この時代のクニは各地にあり、まだ、ドングリの背比べ状態と思います。
しかし、纏向を指導主導していたグループが大和政権になり、倭から日本へ
導いていったのは確かでしょう。
4日本@名無史さん:2010/03/27(土) 22:06:20
>>1


>>2
易しい漢字だぞw

>>3
記紀だと崇神→垂仁→景行の時代だな
宮の伝承や陵墓の伝承とかなり一致している
おそらくマキムクとその北側の天理市にかけてが中枢地域だったんだろう
5日本@名無史さん:2010/03/27(土) 22:45:26
>>4
>記紀だと崇神→垂仁→景行の時代だな

崇神天皇 在位 紀元前97年2月17日 - 紀元前29年1月9日
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

唐松山氏の力を借りないと時代があわないんじゃないか。

河内の大王陵の初現を5世紀初頭(=仁徳天皇)とし、大王陵をさかのぼって、
佐紀石塚山→佐紀陵山→宝来山→五社神→
渋谷向山・メスリ→行燈山・桜井茶臼山→西殿塚→箸中山
となり、8世代160年で3世紀中頃。

てのはどうかな?
6日本@名無史さん:2010/03/27(土) 22:56:27
>>1 ☆乙 www

で、このスレで過去に出てきた或いは巷間言われているような纏向の勃興・発展のファクタ書いてみるとこんなところかな?

(1)鉄資源の確保…ただし威信財の銅鏡とかに比べればそれが畿内中心にシフトするのは大分後か?

(2)土木技術…水田での稲作が当初から灌漑技術がセットされた物であり奈良盆地もその例外ではない。
          そこから更に飛躍させる技術となるとイマイチその具体的な形が出てこない?
          盆地にも農耕地が拡大したような痕跡や人口がある時期に拡充した痕跡も無いと見えるが…         

(3)地理的要因…東海またその先の関東と東日本との交易で発展したとする。
           当然、外来土器に占める東海系土器の多さもその主張の材料。

(4)水銀…個人的には否定にしろ肯定にしろ弄り様がないというかwww

(5)(邪馬台国畿内説を前提にして)卑弥呼のカリスマ性とか謎のオカルトパワーとかw
7日本@名無史さん:2010/03/27(土) 23:16:14
>>5
唐松山なんていらんよ。

崇神のときに箸墓が作られたって書いてあるだろ。
8日本@名無史さん:2010/03/28(日) 00:13:01

■甕棺から弥生後期後半の青銅鏡片 佐賀市久保泉

佐賀新聞2010年03月27日
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1587696.article.html

整備中の第2工業団地発掘調査で

 佐賀市教委は26日、佐賀市久保泉町の久保泉第2工業団地内の発掘調査で、弥生時代の後期後半(2世紀後半)の甕棺墓(かめかんぼ)から青銅製の中国鏡の破片が出土したと発表した。
「同時期の甕棺の副葬品に鏡片が見つかったのは佐賀県内初で、北部九州でも珍しい」としている。

 鏡片は長さ10センチ、幅3センチ。中国製で新〜後漢の時代の1〜2世紀に作られたとみられ、原形の3分の1程度に割れた状態で出土した甕棺の中に入っていた。
甕棺はつぼ型の土器で、形状などから弥生時代の後期後半と推定した。

 市教委文化振興課によると、北部九州で鏡片の出土例は百例程度ある。弥生時代後期は竪穴(たてあな)住居跡や石棺墓などで発見されるケースが多く、甕棺からは数例目という。
佐賀大学文化教育学部の重藤輝行講師(考古学)は「希少だった鏡片を持つ人や甕棺で埋葬された人の位の高さなど、当時の社会形成を解明する上で貴重な手がかりになる」と話す。

 同工業団地(8万平方メートル)は現在整備中だが、弥生〜江戸時代の白石原(しろいしばる)遺跡にあたるため、西側4万平方メートルで昨年度から3年計画で発掘調査をしている。

【写真】弥生時代後期後半の甕棺墓から見つかった青銅鏡=佐賀市久保泉町の久保泉第2工業団地
http://www.saga-s.co.jp/var/rev0/0110/2783/seidou.jpg
9日本@名無史さん:2010/03/28(日) 00:14:58
■邪馬台国は九州だ!=第3弾シンポジウム盛況

【PJニュース 2010年3月24日】
http://www.pjnews.net/news/390/20100323_4

福岡歴史ロマン発信事業実行委員会主催の三年連続開催の邪馬台国シンポが最終回を迎えた。「邪馬台国徹底検証第3弾!シンポジウム:邪馬台国は九州だ!!」である。
3月22日、福岡県春日市のクローバープラザ大ホールで開催。500名の県民で満席であった。進行は次の通り。

第1部:基調講演は「大和王権と邪馬台国―崇神天皇とヒミコは同じ時代に生きていた―」と題して、原秀三郎氏(静岡大学名誉教授)。
第2部:「あなたが決める邪馬台国」投票結果発表と討論。

原秀三郎氏の講演は文献史学の立場から九州説を支持するものだが、斬新な内容で聴衆を圧倒した。原氏は魏志倭人伝の解釈と古事記、日本書紀の記述を総合的に検討する必要性を強調し、つぎのように結論付けた。

「大和王権の創立者崇神天皇は、248年に没したとされる邪馬台国の女王ヒミコと同じ時代に生き、その治世が女王ヒミコと重なることが明らか」である。
「三世紀の日本には北九州に邪馬台国のヒミコの統治する女王国があり、一方、女王国の東、海を渡る一千余里の地には、大和を中心に大和王権が存在した」のである。

このように、原氏の立場は、従来の論争の視点の転換を迫るもので、邪馬台国は九州か畿内かというものではない。邪馬台国は明らかに九州で、それと並存した大和の王権の存在を主張するものであった。

第2部では、「あなたが決める邪馬台国」集計結果の発表があった。
2009年10月1日?12月23日に市民が協力した邪馬台国比定地投票(約1000名)の結果である。トップは甘木・朝倉が131票、2位は博多湾沿岸で102票、3位は吉野ヶ里で86票であった(以下略)。
討論は、西谷正氏(九州歴史資料館長)をコーディネーターに九州各県の教育委員会・博物館の専門家が参加する討論会であった。

この三年間参加した私は、一般市民の関心を惹き付けたポピュラーな企画で、回を追うごとに邪馬台国論争の視点が明確に転換して深まったシンポジウムであったと感じている。【了】

10日本@名無史さん:2010/03/28(日) 00:19:08
>>9
>このように、原氏の立場は、従来の論争の視点の転換を迫るもので、邪馬台国は九州か畿内かというものではない。邪馬台国は明らかに九州で、それと並存した大和の王権の存在を主張するものであった。

さようなら東遷説

プゲラwwwwwwwwwwwwwwwwwww

11水銀厨:2010/03/28(日) 00:51:41
>>1
乙です。

>>6
水銀については弄れば弄る程興味深い話が多いですよ。
12日本@名無史さん:2010/03/28(日) 01:21:02
考古に詳しい人に尋ねたいんだが、上の新聞記事だと、弥生時代の後期後半は

>>8
>「同時期の甕棺の副葬品に鏡片が見つかったのは佐賀県内初で、北部九州でも珍しい」

>弥生時代後期は竪穴(たてあな)住居跡や石棺墓などで発見されるケースが多く、甕棺からは数例目

と書いてあるんだが、これは本当なのかな?
どうも当方に先入観があったのか、すんなりと受け入れられないんだが。
13日本@名無史さん:2010/03/28(日) 02:32:03
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■


@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)

Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)

Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。

Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
14日本@名無史さん:2010/03/28(日) 07:22:58
>>11
やっと水銀厨さんの主張がわかった
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1268146432/624
15水銀厨:2010/03/28(日) 09:52:24
>>14
邪馬台国に関してはここでは極力発言しませんが、
以前から主張してたんだけどね。
あえて言えば畿内説でも四国東部〜河内南部派です。

天理〜桜井周辺にかけては宗教的にも重要。
神道、仏教からイエズス会、天理教に至るまで、
年代を問わず重視されている点をスルーしてどうする?
というのが私の意見です。
16日本@名無史さん:2010/03/28(日) 10:31:58
天理教って地元ではどう思われてんの?

建物が異様なんだけど。
17日本@名無史さん:2010/03/28(日) 10:40:42
野球が強いイメージかな
18日本@名無史さん:2010/03/28(日) 10:44:35
井上光貞は、景行天皇の名前オオタラシヒコオシロワケの「オオタラシヒコ」は後から付加したもので、
実名は「オシロワケ」だから実在の可能性があると書いていた。
オシロワケの系統にホムタワケが入り婿して、河内王権に移行したような解釈だった。
19日本@名無史さん:2010/03/28(日) 12:34:35
【須恵器の編年】 (田辺昭三「須恵器大成」より)
    高蔵209型式
600    ↑
    高蔵43型式    (飛鳥寺出土587年頃)
      ↑
    高蔵10型式の新古
      ↑       (岩戸山古墳527年頃)
    陶器山15型式
      ↑       (稲荷山古墳471年頃?)
    高蔵47型式
500    ↑
    高蔵23型式
      ↑
    高蔵216型式
      ↑       (布留式期5と共判)
    高蔵208型式
      ↑
    高蔵73型式
400    ↑
     TG232
20日本@名無史さん:2010/03/28(日) 12:36:18
【土師器の編年】(「古墳時代の研究 6土師器と須恵器」 雄山閣)
布留式期5 (平城宮下層溝SD881) TK216〜TK208形式前後の古式須恵器が共伴
  ↑
布留式期4 (平城宮朝集殿下層SD6030上層)
  ↑
布留式期3 (船橋遺跡01)
  ↑
布留式期2 (小若江北遺跡)
  ↑
布留式期1 (坂田寺下層)
庄内式期5
  ↑
庄内式期4 (纒向遺跡辻土坑4下層)
  ↑
庄内式期3 (纒向遺跡東田土坑5)
  ↑
庄内式期2 (纒向遺跡東田南溝中層)
  ↑
庄内式期1 (唐古45竪穴上層式)
21日本@名無史さん:2010/03/28(日) 16:42:43
>>20
布留、庄内、共に1〜5式か、
各期間に機械的に1世代を20年としても、その時間を与えれば160年ぐらいの年代幅になってしまうが
某東遷厨なんかはもう発狂レベルの話しだろうなwww

ただ一律に「一形式=○年」と言うのも果たして根拠があるのかどうかも良く分からない話だが

学者が土器を持ってきて
「ほら、ここんトコの形状がチョッと違うだろう?」
と言われれば俺みたいな素人には判別の仕様もないし

まして発掘に携わった人間なら場所や地層の深さ…等々の出土状況も念頭においているんだろうし…

22日本@名無史さん:2010/03/28(日) 16:56:54
>>14
リンク先の水銀厨の主張

>私のように巻向を重視していても邪馬台国本体ではなく、
>あそこは宗教的な土地というだけと認識している者もいます。

実は個人的にはそう言うモデルを考えないでもない、てか考えてますw
なんせ現在のところは一次産業の痕跡が殆ど見えてこないと言われているからね

ただ、そうなると3世紀に既に政教(の空間的)分離が行われたと言う事になりかねず
強く主張するには、まだ時期尚早と言う気がするwwwwwwwwwww

23日本@名無史さん:2010/03/28(日) 17:25:08
纏向の発展理由は東西交易だけじゃダメなの?

24日本@名無史さん:2010/03/28(日) 17:57:22
>>15
「天理〜桜井周辺」が「イエズス会」に「重視」されたというのは寡聞にして
知らなかったのですが,どういう事実があったか教えてもらえませんか。

>>16
天理よろず相談所病院,天理図書館,天理参考館(民俗学,考古学の博物館)
のように信者以外の者も利用できる施設を設けているので,教派神道としては
評判がいいんじゃないかな。他宗教の排撃なんかしないし。
25水銀厨:2010/03/28(日) 20:59:29
>>24
重視といっても水銀を探しに来たとは言いませんが。

日本でのザビエルの受洗者でも重要なロレンスが、
宇陀の沢城主、高山友照と子の右近を受洗させていますからね。

1563〜64年という初期の段階で畿内の拠点にしている点は
注目していいと思いますよ。他では堺と京都、安土位でしょう。
26日本@名無史さん:2010/03/28(日) 21:45:14
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
27日本@名無史さん:2010/03/28(日) 23:22:06
>>21
コトはそんなに易しい話ではなさそうだ。詳しい人にツっ込んでもらいたいんだけどね。

>1世代を20年としても

「布留3式以降については土師器、須恵器ともじつに1様式(型式)=約20年が
 熱残留磁気法などの理科学的な成果をも含むいくつかの年代のクロスチェックによっても
 整合的であり、大きな矛盾のないことを示しているのである」
(寺沢薫「纒向 箸中山古墳」)
2824:2010/03/28(日) 23:44:28
>>25
なるほど。言われてみれば宇陀も「桜井周辺」に入りますね。
 回答ありがとうございました。
29日本@名無史さん:2010/03/29(月) 00:33:46
巻向成立時は伊勢って重要だったんだろうか?
尾張よりも近いし
30日本@名無史さん:2010/03/29(月) 09:22:28
>>29

「伊勢人にとって、巻向は重要だったのか?」と言った方が正しい。


31日本@名無史さん:2010/03/29(月) 22:17:48
>>6
>纏向の勃興・発展のファクタ

近年になって一部の学者で云われ始めているファクタがある。
付け加えさせていただく。


(6)水の祭祀…河川と人工水路(大溝)、湧水を汲んだと思われる土坑群、導水施設、など


※参考:産経新聞
・纒向遺跡中枢域は“水の宮殿” 3方に河川と人工水路
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/091116/nar0911162241003-n1.htm
32水銀厨:2010/03/30(火) 01:19:57
祀りに酒は付き物ですからね。
また市への交通手段確保の為でもあります。
33日本@名無史さん:2010/03/30(火) 19:48:21
>>27
>布留3式以降については

纏向に関してはそれ以前、庄内の物についての材料が欲しいところw

まあ以下は素人の”あてずっぽう”に等しいが一般論と言う事でwww

今日我々の身の回りの工業製品や、また大きな話では生命の進化でもいいが…

先ず新しいものが現れたら、最初は短期間に大きな変化を繰り返し
その形も様々なものが出る(先に言った生命の進化だと所謂「カンブリア大爆発」とか?w)

それが徐々に淘汰され「スタンダード」と言われるものに収斂して行く。
変化の度合いも徐々に小さくなっていきその頻度もまた小さくなっていく…

…と言う事からすれば庄内の登場から一様に20年毎のバージョン・アップは考えにくいようにも思うwww
34日本@名無史さん:2010/03/30(火) 19:55:09
>>31
>(6)水の祭祀

俺自身も纏向の祭祀については
「太陽信仰なんてものよりはむしろ水の祭祀」
と言うのは今まで何度か言ってきたクチだがw

良く豪族居館で導水施設が見つかり
それが祭祀に関わるものだと言うのは良く言われているが

そもそもああ言った「水の祭祀」と言うのはいつ何処から起こったんだろう?

まあ、あくまで「イメージの世界」だが
銅鐸には水鳥や亀あるいはトンボと言った水辺のモチーフが描かれていることが多いが
それと底流では繋がっているんだろうか?

少なくとも銅剣・銅矛と言った武器型青銅祭器のイメージじゃないような希ガスwwwwww
35日本@名無史さん:2010/03/30(火) 20:50:21
水で清めるのは祭りの基本だが。
36日本@名無史さん:2010/03/30(火) 23:37:38
>>35
ハイ、そこ思考停止しないw

その「基本」ができたのはいつからなんだ?
何処で、どのような形で始まった?



37日本@名無史さん:2010/03/30(火) 23:50:15
>>36

神話では、真名井で、アマテラスとスサノオがウケイをしてる。
イザナギがヨミの国から戻ったとき、天の安川で禊している。
つまり、ずいぶん古代から水で清める儀式があったってことでしょ。
38日本@名無史さん:2010/03/30(火) 23:55:26
>>36
全然流れ読んでない闖入者ですが、水に対する信仰は、
サルが意識を持った(人間になった)瞬間から、
間違いなく中枢として存在し続けているでしょうねえ。
縄文文化を少しでも勉強すれば普通にわかることです。

資料に囚われ過ぎると「当たり前のこと」が見えなくなるので、
そこは科学的近代的考古学の有り様として反省すべきです。
39日本@名無史さん:2010/03/31(水) 00:10:19
>>37-38
人間は水が無ければ生きていけない。
飲用のみならず体を清浄にする為にも必要だ。

禊(みそぎ)の原型を辿れば川辺での水浴び当に行き着くことは容易に想像もできる。
…んなあこたあ最初から分かってる。

そこから更に発展し豪族居館に導水施設を作ってまで祭祀の形態をとるに至ったのは
いつでそれがどのような時代背景に基づくのかって話だよ。

そんな事を言い出したらおよそ主教・信仰なんていつ始まったか?
石器時代にその原型が見えるなら以後の信仰はその発生を考える必要も無い「自明の理」だ。

もうちょっと話の流れと言うか空気読んでくれ。


40日本@名無史さん:2010/03/31(水) 00:13:15
まあね。火とか水とか、太陽とか・・・人類にとって大切なもので、古代から信仰
されていた・・・とかいってたらきりがない。
41日本@名無史さん:2010/03/31(水) 00:17:38
>>39

井戸の遺跡なら縄文時代からあるが、井戸は祭祀の原型には含めないの?含めるの?
それは個人的な感想とどう違うの?
42日本@名無史さん:2010/03/31(水) 00:26:37
祭祀は、前スレでもあったように根拠薄弱な水掛け論になるから、
よほど明確なもの以外、唱えるのは筋のよい議論ではないと思う。
否定肯定どちらに立論するにしても、遺物なり立地なりとの関連性の証明が困難すぎる。
巻向にたいして、「いわば『人臭さ』が希薄であること」がしばしば批判されてきたから、
ついつい神殿・信仰ネタに走りたくなる気持ちは、分からんでもないが。

ただ、巻向が水の「宮殿」(神殿とは言っていない!!)であることは、注目すべきだとは思う。
前も書いたんだけど、巻向の地理的立地は、京都御所とよく似ているんだよな。
平安京大内裏ではなく、里内裏が放浪の末「落ち着いて動かなくなった」今の京都御所。
山麓の扇状地の中ほどで(頂でも端でもない)、扇状地の勾配は例外的なほど緩やかものとなっている。
勾配が緩やかで地下水位が浅いので、扇状地でありながら水田を開くこともでき、
沖積地のぬかるみから逃れつつ、豊富な水も得ることが出来る。
これは、もはや、「皇室という一族の、居所の一貫した趣味」の問題に思える。
世界の王家が宮殿を開く際に、扇状地ばかりを好むとは言えない。
むしろ、丘陵の突端や丘の上に宮殿を開くほうが多い。
また、交易の便を考えて、ずばり河畔の船着き場のすぐ隣に宮殿を作る場合もある。
皇室が丘の上に宮殿を置くときは、「外来思想に力んで」何かことを起こそうとした特殊な時期ばかり。
難波宮、長岡京大内裏、平安京大内裏、そして今の江戸城=皇居。
でも、これも「趣味の問題」の憶測で、単なる感想の域を出ないけどね。
43水銀厨:2010/03/31(水) 14:23:30
水とくれば丹生、水銀でしょう。
祭祀で水が重要視されるのは農業がより盛んになってからで
それ以前は呪術に用いる水銀が重視されていたはずです。

お水送り〜お水取りの行事なんかは、仏教伝来以前の
呪術的要素を残しながら現代に至っているモノでしょう。

赤土をなめる、水を送る、アカイ屋の井戸から水を汲む。
咒師、達陀作法等 明らかに仏教とは異質です。

巻向が水の宮殿だという意見があるのなら、それは
やはり水銀朱と縁が深いと指摘できるとは思いますね。

44日本@名無史さん:2010/03/31(水) 21:38:38

■網野銚子山古墳など歴史を通観  京丹後市史資料編、第1弾出版

京都新聞2010年03月25日(木)
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P20100325000090&genre=K1&area=K60

 合併後、初めて編さんされる京丹後市史の資料編「京丹後市の考古資料」が出版された。全14冊のうちの第1弾で、市内に多く残る遺跡や古墳などの考古資料を通観できる。
 市教委は2005年度から10年計画で市史編さん事業に取り組み、通史と自然史の本文編2冊と資料編12冊の出版を予定している。

 「考古資料」では網野銚子山古墳や赤坂今井墳墓など市内の160遺跡を紹介する。
 第1章は豊富な考古資料をもとに各時代の自然環境や人々の暮らしなどを概観し、2章から5章は河川流域ごとにこれまで確認された考古資料を掲載。所在地や年代、調査年、遺物の保管先とともに地図や出土遺物について詳しく記されている。
 6章は銅鏡や墨書土器などの特徴を解説し、7章では近世から現代までの遺跡の調査と保存についての研究史をまとめている。
 冊子はA4判で、巻頭図版カラー32ページと単色404ページ。900部発行し、2千円で各市民局で販売している。

刊行された京丹後市史資料編「京丹後市の考古資料」
http://www.kyoto-np.co.jp/static/2010/03/25/P20100325000090.jpg
45日本@名無史さん:2010/03/31(水) 22:27:52

■貝輪など577点重文に 吹上遺跡出土品 国の文化審答申 日田市

 弥生時代の有力者の墓と推測されている日田市吹上の吹上遺跡から出土した貝輪や管玉など577点が、新たに国の重要文化財に指定されることが決まった。
当時の装飾具の付け方などを示す点が評価され、国の文化審議会の答申に盛り込まれた。日田市での同指定は、昨年12月の草野家住宅に続き11件目で、考古学の資料は初めて。

 吹上遺跡は、1995年7月から96年1月、携帯電話基地局の鉄塔建設計画に先だって行われた発掘調査で、甕棺墓(かめかんぼ)7基と木棺墓(もくかんぼ)3基が出土した。
うち2基では、右手にゴホウラ製の貝輪をはめた成人男性の骨と、左右両手にイモガイ製の貝輪をはめた成人女性の骨が埋葬されていた。

 男性の骨の周辺からは、鉄の剣やガラスの管玉も見つかっている。この2体は、当時の装飾品の装着方法や、男女で使い分けられていたことを示しており、「弥生時代の葬祭儀礼の実態を知る上で欠かせない資料」と認められた。

 市教委によると、ゴホウラやイモガイは奄美諸島(鹿児島県)以南で採れる貝。同様の装飾品は、隈・西小田遺跡(福岡県筑紫野市)、立岩遺跡(同県飯塚市)でも出土している。
 福岡、佐賀両県にまたがる一帯では、弥生時代の遺跡で副葬品が入った甕棺が出土するケースが多く、吹上遺跡はその東端に位置するため、筑後川流域の集落が交流をしていたことも推測されるという。

 合原多賀雄・市教育長は「日田の歴史の奥深さが認められ、とても名誉なこと」と話している。

 また、日田市吹上町の長善寺の鐘楼門(しょうろうもん)は、大きな改造がなく、江戸中期の形式をよく伝える建築物として、国の有形文化財に登録される。

西日本新聞2010年3月30日
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/161924

写真
・成人男性の骨が見つかった甕棺(かめかん)=日田市教委提供
・成人男性の甕棺の副葬品。ガラス管玉(左)、鉄剣と銅戈(右)、ゴホウラ製貝輪(下)=日田市教委提供
46日本@名無史さん:2010/03/31(水) 23:14:54
>>45
日田はもっと注目されてもいいと思う。
時折、鉄鏡を出して振ってみるけど、みんななかなか乗ってこない。
小迫辻原遺跡の環濠居館なども時代は近いのに。

いろんなところに満遍なく興味を持って、その中から邪馬台国が浮かび
上がるというのが正しい方法だと思う。
47日本@名無史さん:2010/03/31(水) 23:39:09
>>46
まったくだ。まず自説ありきの電波野郎が多すぎる。
48日本@名無史さん:2010/03/31(水) 23:40:03
>>46
ここは巻向スレなんだが。
49日本@名無史さん:2010/03/31(水) 23:47:39
>>46

>>48で既にツッコミが入っているがここは纏向スレなのだから
九州の何処の遺跡を語るにしても纏向との関連で語るべきで

まして「邪馬台国を浮かび上がらせる為」に取り上げたいのなら
他の腐るほどある邪馬台国スレに逝けと言う話だなw

「小迫辻原遺跡」を重要視していると言うと
実は関U2だったりして、確か何処かで小迫辻原遺を称して
「プチ纏向」みたいな扱いをしていたなwwwww



50日本@名無史さん:2010/04/01(木) 00:37:06
>>49
あのねえ。お前は単純すぎる。
日向について話をすると日向厨と言う。
日田について言うと、関か?
東遷厨ともよく言ってくれるが、これはまあ間違いないだろう。

いろんなことに興味を持っているのであまり決め付けないように。
ただ、東遷説であることは間違いない。

しかし、ここに書き込んだのは間違いだった。もうこのスレには二度と書き込まない。
51日本@名無史さん:2010/04/01(木) 01:10:08
>>50

じゃあ、さようならwww

関が日田について良く言及するのは事実だが何か?

自分がそれとは違う視座を持って(纏向との関連を)語ることができるのなら
書き込めばよろしい、ただそれでけの事だw
5249:2010/04/01(木) 01:19:01
しかし関が小迫辻原を纏向のミニチュア版みたいに言う根拠がイマイチ分からない。
そこら辺の説明は読んだ記憶が無い。

もし説明できる人がいたらヨロ。

まあ纏向を超大型の豪族居館みたいに見れば
>>42
>「いわば『人臭さ』が希薄であること」
と言う事の説明もできるかもしれんが

豪族居館から纏向へ…と言う発展過程を考えた場合
「ミッシングリンク」が多すぎるようにも思うw
53日本@名無史さん:2010/04/01(木) 01:50:25

■駅前に特産品店開店 - 市商工会女性部が運営【桜井】

奈良新聞 2010年3月30日
http://www.nara-np.co.jp/20100330105711.html

 手作りの「卑弥呼みたらし」や三輪素麺、柿の葉寿司などを販売する店「まほろばの里 卑弥呼」が28日、桜井市の桜井駅北口にオープンした。

 桜井市商工会女性部(林三起子部長)が運営。「木材のまち」らしく丸太などを使用した約40平方メートルの木造平屋建て。看板の市マスコットキャラクター「ひみこちゃん」が客を招く。

 店内では、こだわりの手作りのたれを使った卑弥呼みたらし(70円)、五平餅(100円)が焼き上げられ香ばしい匂(にお)い。飲食できるスペースもあり、三輪素麺や日本酒「卑弥呼の里」、木工品など土産物が…

      記事の詳細は本紙をご覧下さい

・テープカットで開店を祝った=28日、桜井市の桜井駅北口
http://www.nara-np.co.jp/photo/8440d52e603069341dab24b2e0247cb9.jpg
54日本@名無史さん:2010/04/01(木) 08:08:25
日田はやっぱり杉資源で発展したのかな?

マキムクの発展も吉野杉と関係あったのだろうか?
55日本@名無史さん:2010/04/01(木) 08:39:02
特に関連性を示す物は今の所ないです。
56唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/01(木) 20:42:58
日田は朝日宮
アマテラス大神に出番はあっても、纒向時代に出番は無い。
57日本@名無史さん:2010/04/01(木) 23:15:35
>>34
>纏向の祭祀

奈良盆地の銅鐸祭祀は突線鈕1式をもって終わった、といわれる。
いわゆる「見る銅鐸」の祭祀は行なわれていないという。

同時期に銅鐸祭祀が終焉を迎えた山陰・瀬戸内中部では
代わって首長墓が巨大化しはじめ、
共同体祭祀から首長霊祭祀への萌芽がうかがえるという。

銅鐸祭祀終焉の理由はなんなのか。また、銅鐸祭祀に代わる祭祀は行なわれたのか。
纒向の祭祀とのつながりはあるのか。
58日本@名無史さん:2010/04/07(水) 22:05:44

■県内最大の土塁跡発見 方保田東原遺跡 溝に沿って100メートル 山鹿市/ 熊本

西日本新聞 2010年4月5日

 山鹿市教育委員会は、同市方保田の国指定史跡「方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡」で、弥生時代に防御のために築かれたとされる土塁跡が見つかったと発表した。
土塁跡は約100メートル続き、同市教委は「これほど大規模な土塁跡が見つかったのは県内で初めて」としている。

 市教委によると、土塁は溝に沿ってつくられるのが一般的。昨年10月に始まった調査では、遺跡を南北300メートル以上にわたって横断していたとみられる大きな溝(幅約7メートル、深さ約1・2メートル)も見つかった。
この大きな溝と並行して掘られた小さな溝の一部も発見され、土塁は二つの溝の間に土を盛り上げて築かれた可能性が高いという。

 同遺跡は、1900年近く前の弥生時代後期から古墳時代前期の集落跡。調査担当者は「土塁や巨大な溝をつくるには多くの労力が必要。防御を厳重にしていたことも考えると、当時は一帯が大変栄えていたと考えられる」と説明している。

 山鹿市出土文化財管理センター=0968(46)5512。

【写真】方保田東原遺跡で見つかった大きな溝の一部(右手前)。土塁は溝の左側にあったと推定される
59日本@名無史さん:2010/04/07(水) 23:07:30

■桜井市マスコットキャラクター『ひみこちゃん』が決定しました!

奈良県 桜井市サイト(更新:2010/4/1)
http://www.city.sakurai.nara.jp/himiko/news.html

 桜井市を全国的にPRし、情報発信することを目的として、マスコットキャラクターの公募(10月1日から11月30日まで)を行い、全国から586点の応募がありました。
 これらの応募作品のなかから、「邪馬台国の卑弥呼」をモチーフにした親しみあるデザインをコンセプトに選考を行い、入賞作品が次のとおり決定しました。
 最優秀賞は、今後『ひみこちゃん』として、桜井市の観光振興、まちづくりなどあらゆる場面で活用していきます。
 また、市役所ロビーにも、4月30日(金)まで展示します。併せてご覧ください。

●市マスコットキャラクターの入賞作品(敬称略)
◆最優秀賞 1点(副賞 5万円)
塩崎 歩美(大阪市生野区)
http://www.city.sakurai.nara.jp/himiko/image/himiko01.jpg

※キャラクターに関しては、企画課(電話42‐9111内線256・257)まで問い合わせてください。


■ひみこちゃんのページを新設しました。
(キャラクター使用要綱掲載)
http://www.city.sakurai.nara.jp/himiko/index.html


■ひみこちゃんのポーズ紹介

基本ポーズ 歓迎のポーズ 踊るポーズ 歩くポーズ 占うポーズ 紹介のポーズ 後姿
http://www.city.sakurai.nara.jp/himiko/himiko02.html
60日本@名無史さん:2010/04/08(木) 01:41:22
ちょw
61日本@名無史さん:2010/04/09(金) 02:09:24

■九州VS畿内 本格議論開始100年  邪馬台国は一体どこ? 宇佐市で5月「論争大会」

西日本新聞2010年4月6日
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/163449

 宇佐市で昨年、23年ぶりに復活した「全日本邪馬台国(やまたいこく)論争大会」が今年も5月30日に同市南宇佐の宇佐神宮参集殿で開かれる。
日本古代史最大の謎の一つ、邪馬台国の所在地についてアマチュア論者が議論を戦わせる。

 大会は、同市のパロディー国家「新邪馬台国」の呼び掛けで1981年に始まり6回目。
昨年は全国から約320人が集い、立ち見も出るなど盛況だった。論者5人が中津、朝倉、吉野ケ里、宇佐などの自説を紹介した。

 実行委によると、今年は九州説と畿内説の本格的な論争が始まり、100年の節目の年という。

 大会実行委員長の西太一郎さん(72)や同市のキャンペーンレディー「ミス卑弥呼」佐藤博美さん(23)、「ミス壱与」行時未加さん(22)らが3月25日に是永修治市長を訪問。
西さんが「今年も熱い議論で、沈滞した経済をぶち破りたい」と抱負を述べた。是永市長は「最近は畿内説が有力といわれるが、宇佐説で決着を」と応じた。

 実行委はアマチュア研究家の論者を募集中。2千字以内の論文で選考、応募は4月30日必着。

 大会当日は午前9時半から初心者向けの講演を行い、同10時に論争を始める。参加は事前予約による先着300人。参加費は2千円(昼食代含む)。同市観光協会=0978(37)0202。

【写真】大会をPRするミス卑弥呼の佐藤博美さん(右)とミス壱与の行時未加さん
62日本@名無史さん:2010/04/09(金) 21:56:48
ミス卑弥呼(笑)ミス壱与(笑)
63日本@名無史さん:2010/04/09(金) 23:40:26

イヨタン・・・・・・・・・・
 
64日本@名無史さん:2010/04/10(土) 00:10:31

■古墳の変化、出土品で追う  さきたま史跡の博物館

朝日新聞 2010年4月8日
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201004080285.html

 埴輪(はにわ)が生まれる前の古墳には何が置かれていたか。
埼玉県行田市にある県立さきたま史跡の博物館で開催中の企画展「埼玉古墳群とその周辺 『稲荷山』出現以前の古墳」は、県内で発掘されたごく初期の古墳に光をあてる。

 古墳時代の開始期にあたる3世紀後半〜4世紀初め、旧武蔵国では比企丘陵などを中心に、まず前方後方墳の造営が始まった。
展覧会は、三ノ耕地遺跡(吉見町)、南志渡川遺跡(美里町)などの弥生時代以来の溝を巡らせた周溝墓に始まり、前方後方墳を経て前方後円墳が登場するまでを描く。

 周溝墓〜前方後方墳の段階では壺(つぼ)などが供えられたが、近畿にルーツを持つ前方後円墳の出現と同時に、埴輪が登場する。
また、墳丘墓などからは東海地方で作られた土器が出土しており、同地方とかかわりを持った集団の下で造られたことがわかる。

 展示品の多くは土器と埴輪。埼玉という土地を通して古墳出現期の地域相を語っている。5月16日まで、同月3日を除く月曜休み。(宮代栄一)

参考:
・埼玉県立さきたま史跡の博物館 企画展パンフレット
  ◆「埼玉古墳群とその周辺 『稲荷山』出現以前の古墳」
http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/kikaku0313/kikaku0313.html

・さきたま古墳公園のサクラが満開です
http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/22hana/hana-0409.html
65日本@名無史さん:2010/04/12(月) 00:49:23

■女王卑弥呼の国を探る:遺跡巡りやフォーラム−−桜井で6月12・13日 /奈良

毎日新聞 2010年4月10日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20100410ddlk29040687000c.html

 ◇5月20日必着、奮って参加を

 女王・卑弥呼(ひみこ)と同時代の大型建物跡が見つかった桜井市で6月12、13両日、「女王卑弥呼の国を探るin桜井」(同市主催、毎日新聞奈良支局など後援)が開かれる。
12日はフォーラム、13日は遺跡などを巡るフィールドワークがある。参加は先着1200人。往復はがきで5月20日必着で申し込む。【高島博之】

 12日は午前10時〜午後4時半、桜井市民会館で、橋本輝彦・市教委係長の発掘調査報告▽寺沢薫・県立橿原考古学研究所総務企画部長の基調講演▽専門家によるシンポジウムなどがある。1000円。

 13日はAコースが、大型建物跡の現場など、Bコースが桜井茶臼山古墳などを訪ねる。いずれも無料。長谷寺や市立埋蔵文化財センターを訪ねるバスコースもあり、参加費は6800円。

 希望者1人につき1枚の往復はがきに、郵便番号・住所・氏名・年齢・電話番号を記入。
12日の昼食(1000円)の有無、13日の参加有無とコース選択を明記し、〒633−8585桜井市粟殿432の1 桜井市観光課「桜井市歴史観光フォーラム」担当へ郵送。13日だけの参加は不可。
問い合わせは市観光課(0744・42・9111)。


・参考: 桜井市HP
平城遷都1300年記念事業「2010桜井市歴史観光フォーラムと現地フィールドワーク」
 ◆女王卑弥呼の国を探るin桜井 ‐卑弥呼は纒向にいたか?‐

↓チラシ(PDF)【388KB】
http://www.city.sakurai.nara.jp/event/photo/kanforum.pdf
66日本@名無史さん:2010/04/16(金) 22:09:48
マイタウン徳島

■海渡った?権力の象徴 ──遺跡を歩く 邪馬台国と阿波

朝日新聞2010年04月16日
http://mytown.asahi.com/tokushima/news.php?k_id=37000001004160003

 邪馬台国の女王・卑弥呼(ひ・み・こ)の墓だという説がある奈良県桜井市の箸墓(はし・はか)古墳。周辺にある前方後円墳、桜井茶臼山(ちゃ・うす・やま)古墳(3世紀末〜4世紀初め)で昨年10月、全面に朱が塗られた石室が見つかった。
 古代人が顔料に使っていたとみられる貴重な水銀朱。試算では約200キロ使われていたらしい。これまで古墳で見つかった水銀朱としては最大量の40キロをはるかにしのぐ量だったことから、大王級の墓と考えられている。

 古代人は、水銀を含んだ岩石を石器などで粉々にして水に入れ、比重が重くて沈む水銀朱を取り出していた。魔よけのため顔に塗ったり、死者がよみがえることを祈って古墳の石室に塗ったりしたとみられている。木棺の防腐用との考え方もある。

 水銀を精製していた遺跡は全国にいくつかある。だが、岩石の採掘から精製まで一貫していた遺跡は、若杉山遺跡(阿南市水井町)でしか見つかっていない。
 同遺跡は、四国霊場20番鶴林寺から21番太龍寺に向かう遍路道の脇にある。戦後すぐにミカン畑の開墾をしていた際、多量の石臼や石杵(きね)が見つかり「水銀朱の遺跡ではないか」と注目された。
 古代遺跡から頻繁に見つかる朱が、権力を象徴するものとして関心を持たれ始めた時期だった。正式な調査が始まったのは1984年。県立博物館が発掘したところ、原石も見つかり、2世紀後半から3世紀初頭の遺跡だったことが分かった。
(つづく)
67日本@名無史さん:2010/04/16(金) 22:10:40
(つづき)

 県内の古墳からも水銀朱は見つかっている。邪馬台国説がある奈良・纏向(まき・むく)遺跡にある前方後円墳、ホケノ山古墳の原型ではないかとされる鳴門市の萩原2号墓では、石室の積石や棺(ひつぎ)に付着していた。
西山谷2号墳(鳴門市)では木棺を支える粘土に練り込まれていた。徳島市の鶴島山古墳からは水銀朱で塗られた顔面の人骨も発掘されている。

 これらの多くは成分分析から若杉山遺跡で作られた水銀朱であることが確認された。
では、桜井茶臼山古墳の大量の水銀朱は若杉山遺跡産かというと、どうも違うらしい。奈良県内で昭和まで続いていた鉱山の水銀と成分が似ているため、大和産との見方が強まっている。

 ところが、若杉山遺跡の水銀朱が海を渡り近畿に入っていったことを示す遺跡が最近、いくつか見つかった。

 兵庫県・淡路島にある二ツ石戎(えびす)ノ前遺跡(旧石器時代〜弥生時代)からは02年、水銀朱を精製した石杵が出土。明石海峡を越えた兵庫県たつの市の養久山(や・く・やま)・前地遺跡からも95年、同様の石器が見つかっている。
これらは、近くに水銀朱を含む岩石が採れないことから、若杉山遺跡から原石が運ばれたとみる考古学者もいる。

 県埋蔵文化財センターの植地岳彦主任研究員は「桜井茶臼山古墳から見つかった200キロもの水銀朱は、ひとつの鉱山から採れたとは考えにくい。各地からかき集めた水銀朱を使ったのではないか。当然、若杉山遺跡産も使われていたはず」と言う。


・若杉山遺跡に向かう遍路道。ここから登ると遺跡がある=阿南市水井町
http://mytown.asahi.com/tokushima/k_img_render.php?k_id=37000001004160003&o_id=5165&type=kiji
68日本@名無史さん:2010/04/16(金) 22:35:07
■いまだ解明されていない古代からの謎を解明していく旅 土曜スペシャル「古代ミステリー謎解きの旅」
  【放送】4月17日(土)19:00〜20:54(テレビ東京系列)

テレビドガッチ 2010/04/15
http://dogatch.jp/blog/news/tx/1015049399.html

1、奈良:高木美保

 卑弥呼で盛り上がっている奈良県、本当に奈良に卑弥呼がいたのかを確かめに来たのが高木美保。さっそく奈良駅から電車に乗り込み、卑弥呼に関する重要な物が見つかったという「黒塚古墳」へ。
発掘されたものが展示されている「天理市黒塚古墳展示館」に卑弥呼と発掘品の関係を尋ねる。しかしこの古墳にはさらに重要な物、卑弥呼や当時のシャーマンがかぶった可能性のある「日本最古の木製仮面」も発掘されました。

 この木製仮面をクッキーにしたという「三輪座」という喫茶店でお店の人と卑弥呼談義で盛り上がる。再び電車に乗り込み、田原本町にある「唐古・鍵遺跡」に向かう。
この遺跡は今からおよそ2,000年前に栄えた、弥生時代の代表的な集落の遺跡である。
説明を受けるため、遺跡に隣接している「唐古・鍵考古学ミュージアム」に入る、当時のシャーマンの模型が展示されており卑弥呼もこのような人物だったのではないかと説明を受ける、そしてこの遺跡の目玉といわれる、楼閣が描かれた土器を拝見する。

 一日動き回った疲れを癒すため、大正元年創業の老舗の宿「大正楼」の卑弥呼プラン13650円、古代の食材や奈良の特産品を利用した料理を美味しくいただくことができました。
2日目、奈良で有名な三輪山を御神体とする「大神(おおみわ)神社」に向かう、日本国最古の神社と名高いだけではなく、薬の神社としても有名で、その力は卑弥呼と関係があったかもしれない。

 卑弥呼の謎の最後の場所「著橋古墳」まで、日本最古の道と言われる「山の辺の道」を使って向かう。途中にある「桧原御休処」にて休憩をとり、旅の人と卑弥呼について盛り上がる。再び歩き出し到着した「著橋古墳」の圧倒的存在感に驚く。
この場所は卑弥呼の墓ではないかと噂され、全長278メートルに及ぶ前方後円墳となっている。卑弥呼の存在に思いを寄せる旅を締めくくる。

…以下省略…

2、大阪〜京都:大和田獏

3、長野:永島敏行

4、出雲:森下千里
69日本@名無史さん:2010/04/17(土) 20:32:02
マイタウン徳島

■吉野川産 近畿の石室に ──遺跡を歩く 邪馬台国と阿波

朝日新聞2010年04月15日
http://mytown.asahi.com/tokushima/news.php?k_id=37000001004150003

 邪馬台国があった3世紀前後に築造された県内の古墳から、頻繁に出土している青石。古代の阿波と近畿の密接な関係を物語る遺物として注目されている。

 2006年3月、大阪府高槻市の闘鶏山(つ・げ・やま)古墳の石室に、デジタルカメラが入った。同古墳は4世紀前半の築造。未盗掘だったため、石室の様子に関心が集まっていた。
 板状の石を天井まで積み上げた石室内が、鮮明なカラー映像で映し出された。あまり見られないタイプだが、実は似たような石室は県内の古墳から多く見つかっていた。その後の調査で、板状の石は吉野川流域で産出する「阿波の青石」と分かった。

 青石は四国山地や紀伊山地を通る中央構造線と呼ばれる断層から多く出土する。結晶片岩と呼ばれ、ぬれると深い青みを帯びる。板状に割れるため積みやすい。県内では徳島市の眉山や吉野川流域の山地で多く産出し、徳島城の石垣にも使われた。
構造線の通る各地の古墳のなかでも、県内の古墳で集中的に使われていることで知られる。

 板野町の県埋蔵文化財センターには、青石を積み上げた西山谷2号墓(3世紀半ば)が出土当時のまま移築・展示されている。00年春、高松自動車道の建設に伴い鳴門市大麻町で発掘された。
 長さ約4・7メートル、幅0・8〜1メートルの内部を囲むように、青石が約70センチの高さに積み上げられている。
同センターの植地岳彦・主任研究員は「中央には真っ赤に塗られた石棺があったはず。埋葬者には金や銀の服が着せられていたと思われ、相当派手な埋葬だっただろう」とみる。

 近畿では「将軍山古墳」(大阪府茨木市、4世紀半ば)、「牧野車塚古墳」(同府枚方市、4世紀後半)、「西求女塚(もと・め・づか)古墳」(神戸市灘区、3世紀後半)からも県産出の青石が見つかっており、瀬戸内から淀川に沿って阿波の青石が渡ったと推測されている。
奈良県の古墳からも青石が出土しているが、和歌山県産出との説もあり、今後の考古学のテーマの一つだ。
(つづく)
70日本@名無史さん:2010/04/17(土) 20:33:06
(つづき)

 それにしても、どうやって近畿まで運んだのだろう。

 瀬戸内の海を、大きな船で渡ったとしか考えられない。だとすれば、古代阿波人は水運にたけていたはずだが、今のところそれを物語る遺跡などは見つかっていない。

 そんな中、船で石を運んでいたことをうかがわせる事例として同センターが注目しているのは、高松自動車道・大代古墳トンネル上にある大代古墳(鳴門市大津町)周辺だ。00年3月に発掘され、4世紀末の円墳や前方後円墳計3基が発見された。
 うち、前方後円墳からは、香川県さぬき市津田町で出土した凝灰岩で造ったとみられる長さ約2・8メートルの舟形石棺が見つかった。これだけの石を香川から運ぶには、船を使うしかない。同古墳は小高い丘にあり、南側を撫養川が流れている。

 古墳周辺には大規模集落があったと推定され、撫養川を使って瀬戸内に出る海運をつかさどった集団がいた可能性があるという。青石も、この集団が近畿まで運んだのかもしれない――。
 植地主任研究員は「古代の近畿と阿波を結ぶ遺物は、県内の遺跡を中心に今後も出土するのでは」と期待している。

【メモ】

 ●西山谷2号墓
 鳴門市大麻町大谷の尾根上にあった直径20メートル、高さ2メートルの円墳。石室は3世紀半ばごろ造られ、全国でも最古級。銅鏡や鉄剣、鉄槍(てつ・やり)、ヤリガンナなどの副葬品が出土した。

 ●大代古墳
 鳴門市大津町大代の尾根上の前方後円墳。全長54メートル。4世紀末の築造とみられ、銅鏡や玉、鉄剣など副葬品が多数あった。西山谷2号墓とともに高松自動車道の建設を前に調査された。出土品は県埋蔵文化財センターに収納してある。

・県埋蔵文化財センターに移築されている西山谷2号墓の青石の積石=板野町犬伏
http://mytown.asahi.com/tokushima/k_img_render.php?k_id=37000001004150003&o_id=5160&type=kiji
71日本@名無史さん:2010/04/17(土) 20:44:14
マイタウン徳島

■古墳が証し わくロマン 萩原2号墓 ──遺跡を歩く 邪馬台国と阿波

朝日新聞2010年04月14日
http://mytown.asahi.com/tokushima/news.php?k_id=37000001004140001

 鳴門市中心部から県道鳴門池田線を車で西に約30分。右手に崩れかけた崖(がけ)がある小高い丘が見える。その頂上部に、邪馬台国(3世紀)前後に造られた萩原(はぎわら)墳墓群(同市大麻町)がある。
この中の萩原2号墓の調査報告書が3月末、県教委から発表された。

 「これって、萩原と同じやないの」。2000年春、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡にあるホケノ山古墳を発掘調査した結果を知った、徳島県埋蔵文化財センターの職員が声を上げた。

 纏向遺跡は、邪馬台国があったと有力視される場所だ。ホケノ山古墳は3世紀半ばの日本最古の前方後円墳とされ、邪馬台国にかかわった重要人物が埋葬されたとみられていた。

 職員が注目したのは、棺を納めた小部屋が、木で作られた「木槨(もっかく)」に囲まれ、周りを石積みで囲む竪穴式の構造だったこと。この時代の古墳ではあまり見つかっていない。
だが、1978年から3年かけて発掘調査をした前方後円墳の萩原1号墓に似たような構造があった。ただ、当時は何か分からないまま。1号墓はすでに県道になっていた。しかし、その北側に未発掘で同じ形の2号墓が存在することは知られていた。

 2号墓の発掘が始まったのは2007年2月。高速道路の建設に伴う義務的な発掘調査が多い中で、同センターにとってやっと実現した「積極的な発掘」だった。2カ月かけて慎重に進めた。

 木棺があると推定される場所を掘り起こした。約1800年の間に朽ち果てた材木の粉や、崩れ落ちたものの規則正しく積まれた形跡のある石が現れた。「石囲い木槨」だ。
土器などから弥生時代末の2世紀末〜3世紀初めの建造とみられ、1号墓やホケノ山より古い。日本最古の前方後円墳の可能性が高まった。
(つづく)
72日本@名無史さん:2010/04/17(土) 20:46:55
(つづき)

 古墳は土地の首長や王らの墓で、大きな勢力を持つ集団がいたことを物語る。萩原2号、1号、ホケノ山と続く「石囲い木槨」をどうみるか――。

 県埋蔵文化財センターの藤川智之・事業課長は言う。「2号墓は近畿地方にある前方後円墳の原型で、木槨は当時としては最高の埋葬施設。古代阿波に畿内の邪馬台国に影響を持つ集団がいたのでは」。
邪馬台国畿内説を主張する白石太一郎・大阪府立近(ちか)つ飛鳥博物館長は「阿波に大きな勢力を持つ首長がおり、邪馬台国のある畿内に来て前方後円墳の建設を担当した」と推測する。

 萩原2号墓は、“邪馬台国ファン”のロマンをかき立てる。08年12月にできたNPO法人「阿波国古代研究所」代表の笹田孝至さん(66)は、約30年前から「邪馬台国は阿波にあった」と唱えている。
 笹田さんによると「畿内説」「九州説」ともに無理があるが、邪馬台国についての文献「魏志倭人伝」の行程などから、阿波だとぴったり一致するという。
笹田さんは「阿波にあった邪馬台国が列島を監督するため奈良に移り、阿波の技術で巨大な前方後円墳を造った。萩原2号墓はその証拠」と主張した。

  ◇   ◇   ◇

 卑弥呼のいた邪馬台国は近畿にあったのか、それとも九州か。県内からも論争に一石を投じる遺跡が多く見つかり、県内外の考古学者や古代史ファンから注目されるようになった。
邪馬台国の「近畿説」と阿波のつながりを、5回にわたって紹介する。

◆萩原2号墓◆
 直径21・2メートルの円丘部と長さ5・6メートルの突出部を持つ前方後円墳。全長約27メートルで、ホケノ山古墳の3分の1の大きさ。
古代の墓のうち、3世紀後半から7世紀後半に造られたものが「古墳」とされるため、弥生時代末の2世紀末〜3世紀初めの萩原2号墓は「墓」か「墳丘墓」と呼ばれる。
鳴門市から板野郡にかけての吉野川沿いには、ほかに「天河別(あまかわわけ)神社古墳群」「池谷(いけのたに)宝幢(ほうどう)寺古墳」「大代(おおしろ)古墳」などの史跡が連なる

・邪馬台国との関係が指摘される萩原2号墓=鳴門市大麻町
http://mytown.asahi.com/tokushima/k_img_render.php?k_id=37000001004140001&o_id=5155&type=kiji
73日本@名無史さん:2010/04/19(月) 00:53:29

■宮古北遺跡:古墳時代前期「朱」の精製に使った土器発見 流通解明へ手がかり /奈良

毎日新聞 2010年4月18日 地方版
http://mainichi.jp/area/nara/news/20100418ddlk29040288000c.html

 ◇青垣生涯学習センターで展示

 田原本町宮古の宮古北遺跡で、古墳時代前期に貴重な赤色顔料「朱」の精製に使った土器が発見された。調査した同町教委は
 「全国的にも発見例が少なく、当時の政治状況や朱の流通を考えるうえで重要な発見」
としている。田原本青垣生涯学習センターで17日にあった「発掘調査報告会」で発表された。

 同遺跡の調査は、携帯電話無線基地局の建設に伴い、昨年5〜6月に68平方メートルで行われた。見つかった土器は直径12・5センチ、高さ5・3センチで、内側に朱がこびりつき、外側は火をかけたことによるすすが付着していた。

 朱は鉱物の辰砂(しんしゃ)をすりつぶし、水で溶いて塗る赤色顔料。精製する際に加熱処理が必要とされ、土器はその際に使われたという。

 古代中国で朱は、不老長寿を目指す神仙思想で、金よりも貴重な最上級の「仙薬」とされた。国内では古墳時代に大王や首長クラスの古墳の石室に塗られるなどした。しかし、流通経路や精製方法は分からないことが多いという。

 土器は同センター内の唐古・鍵考古学ミュージアム前で開かれている「発掘速報展」で5月23日まで展示される。月曜と5月6日は休館(5月3日は開館)。開館時間は午前9時〜午後5時。【高島博之】

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※参考: 唐古・鍵考古学ミュージアムサイト
http://www.karako-kagi-arch-museum.jp/event.html#kouen

 ・春季ミニ展示 「たわらもと発掘速報展2010」

多遺跡・羽子田遺跡・宮古北遺跡などの調査成果を、発掘資料を中心に紹介します
74日本@名無史さん:2010/04/19(月) 01:12:28

■卑弥呼の宮殿、思いはせ …纒向遺跡シンポに160人

(2010年4月18日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/nara/news/20100418-OYO8T00341.htm?from=ichioshi

「建物整然とした都会」

 平城遷都1300年を記念した考古学シンポジウム「纒向遺跡とヤマト政権の謎に迫る〜女王卑弥呼の宮殿はどこか」(大阪よみうり文化センター主催)が17日、大阪市北区の読売大阪ビルで開かれた。
邪馬台国の最有力地とされる纒向遺跡(桜井市)から出土した、3世紀前半〜中頃とみられる大型建物跡などについて報告され、熱心な考古学ファンら約160人が卑弥呼の時代に思いをはせていた。

 建物跡の発掘を担当した桜井市教委の橋本輝彦係長が、東海や四国地方などの土器が多数出土する同遺跡を、「全国各地から人が集まる当時の都会だった」と説明。
建物跡は4棟が中軸線をそろえて東西に並んでおり、「3世紀前半にこれほど整然とした建物はなく、国家形成を考える上で大きな意味を持つ」と語った。

 遺跡内には、「卑弥呼の墓」との説がある箸(はし)墓古墳など、出現期の前方後円墳が多数あり、辰巳和弘・同志社大教授は「中国からの神仙思想の影響を受け、前方後円墳が造られるようになったのだろう」と述べた。

 パネルディスカッションでは、邪馬台国の所在地についても議論。
九州説の専門家が、纒向遺跡で見つかった大型建物跡を4世紀以降と指摘していることに、橋本係長は「近畿の土器だけでなく、九州の土器も含めた細かな研究が進んでおり、100年も違うことはありえない」と反論した。

 市教委は、今年度も大型建物跡周辺の発掘を予定。何度も纒向遺跡を訪れたことがあるという堺市東区、会社員清水英史さん(60)は「中国の思想が纒向遺跡にも影響しているという指摘が印象的。また現地に行くのが楽しみ」と話した。

・纒向遺跡の特徴などについて意見を述べる橋本係長(左)と辰巳教授(大阪市で)
http://osaka.yomiuri.co.jp/photo/20100418-765589-1-N.jpg
75日本@名無史さん:2010/04/19(月) 01:35:24
>>74
>・・・「全国各地から人が集まる当時の都会だった」と説明。


集落遺構が1箇所も出ていないということも、ちゃんと説明しているのだろうか・・・
学者としての最低限のモラルとして
76日本@名無史さん:2010/04/19(月) 08:44:01
近くに集落が無くて、ポツンと大型建物があったとすれば、
それこそ宮殿としか考えられないな。
77日本@名無史さん:2010/04/19(月) 23:06:12
マイタウン徳島

■近畿で流行 ブランド品 ──遺跡を歩く 邪馬台国と阿波

朝日新聞2010年04月17日
http://mytown.asahi.com/tokushima/news.php?k_id=37000001004170003

 遺跡の発掘で最も重要な出土物は、土器。
形や作り方、材料などを分析すれば遺跡の年代が分かるからだ。

 邪馬台国があったとされる弥生時代後期から古墳時代前期の3世紀ごろの土器は、いくつかのタイプに分けられる。その中で、県内から多く出土している「東阿波型土器」が今、注目されている。
邪馬台国説のある奈良県・纏向(まき・むく)遺跡から東阿波型がたくさん見つかったためだ。

 出土した土器で最も多いのは米や水をためたり、煮炊きに使ったりする甕(かめ)。大きな物だと高さ約40センチ。東阿波型の特徴は、厚さ2〜3ミリと極端に薄く、材料の粘土に細かくすりつぶした青石が含まれていること。
阿波の古代人は、どんなふうにこの土器を作っていたのだろうか。

 県埋蔵文化財センターの近藤玲・整理係長は、東阿波型土器作りに何度も挑戦した。

 (1)青石をすりつぶし、粘土に練り込む。(2)手で甕の形に仕上げて乾かす(3)固まったら、ヘラで内部を丹念に削って限界まで薄くする。(4)木や草を燃やした焚(た)き火の中で焼き上げる――。
だが、薄いために割れてしまい、これまで一度も成功したことはないそうだ。「絶妙な粘土の厚さと火加減が必要で、阿波の古代人は高い技術を持っていたようです」

 東阿波型は、黒谷川郡頭(こう・ず)遺跡(板野町)や萩原2号墓(鳴門市)、矢野遺跡(徳島市)など、鳴門市から板野町にかけての吉野川沿いにある、弥生時代の遺跡から多く出土する。県外では、近畿の遺跡のほか、四国の各県からも見つかった。
(つづく)
78日本@名無史さん:2010/04/19(月) 23:07:15
(つづき)

 ところが、吉野川上流の三好市などの遺跡からは、また違った土器が多く出るという。
厚さは5ミリ以上。スタイルも、流れるような曲線を持つ東阿波型に比べ、どこかやぼったい。
近藤係長は「東阿波型土器は、近畿に持っていっても通用するブランド品。上流の土器は、地元産のいわば地産地消品みたいなもの」と言う。

 吉野川の下流と上流で違うタイプの土器が出土するということは、二つのタイプの豪族が住んでいたことをうかがわせる。

 上流の豪族は三好市周辺で長く住み続け、それほど多くは移動していない。
一方、下流の豪族は、近畿のほか四国各地に積極的に出て行き、各地の豪族と情報交換を進めていたらしい。その根拠は、東阿波型土器のスタイルが、讃岐(香川県)や吉備(岡山県)から出土する土器と似たような形をしていることだ。

 土器の時代の移り変わりから推定すると、吉備から讃岐、東阿波へと土器のスタイルの流行が移っていったようだという。

 近藤係長は「邪馬台国の時代、吉野川下流にいた豪族は、船に大量の土器や青石、水銀朱を積んで瀬戸内海を渡り、奈良に入っていった」と当時の様子を描く。
東阿波の豪族が、邪馬台国とその後の大和の国造りに一役買ったことは、間違いなさそうだ。

【メモ】

●県埋蔵文化財センター

 旧石器時代から江戸時代までの土器1455点を常設展示しており、四国各地の同様の展示では最大。
すべて出土した土器の破片から復元したもの。とくに弥生時代から古墳時代は897点にのぼる。予約すれば職員が説明してくれる。場所は板野町犬伏。電話は088・672・4545。入場無料。月曜と祝日休館

・県埋蔵文化財センターで常設展示されている東阿波型土器=板野町犬伏
http://mytown.asahi.com/tokushima/k_img_render.php?k_id=37000001004170003&o_id=5171&type=kiji
79日本@名無史さん:2010/04/21(水) 12:42:35

■邪馬台国論争 近畿説VS九州説

朝日新聞2010年04月21日
http://mytown.asahi.com/fukuoka/news.php?k_id=41000001004210001

 ■2氏が来月対談

 「邪馬台国はどこ? 特別激突講座」が、5月9日午後2時半から福岡市博多区博多駅前の朝日カルチャーセンター福岡教室で開かれる。
九州説の代表として高島忠平・前佐賀女子短大学長、近畿説の立場から俳優で考古学研究者としても知られる苅谷俊介さんの2人が対談する。

 「魏志倭人伝」記載の邪馬台国をめぐっては、江戸時代から近畿説と九州説に分かれて論争状態にあり、いまなお決着がついていない。

 だが、吉野ケ里遺跡(佐賀県)や纒向(まきむく)遺跡(奈良県)など全国各地で発掘調査が進み、考古学的な新発見が相次いでいる。
それらをもとに、吉野ケ里遺跡に携わってきた高島さんと、纒向遺跡での発掘経験を持つ苅谷さんが徹底討論し、邪馬台国の所在地を浮かび上がらせる。
 会員2700円、一般3000円。問い合わせは同センター(092・431・7751)へ。

高島忠平さん
http://mytown.asahi.com/fukuoka/k_img_render.php?k_id=41000001004210001&o_id=6632&type=kiji

苅谷俊介さん
http://mytown.asahi.com/fukuoka/k_img_render.php?k_id=41000001004210001&o_id=6633&type=kiji


※関連サイト
朝日カルチャーセンター福岡教室
http://www.acc-fk.com/fukuoka/f_topics_40th.htm
80日本@名無史さん:2010/04/21(水) 15:03:52

ただいまニュース速報+板で大激論中!

【福岡】 邪馬台国論争 近畿説VS九州説
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1271827571/
 
81日本@名無史さん:2010/04/21(水) 22:08:48

■大刀に竜の文様、大和政権と結びつき示唆 宮崎で出土

朝日新聞2010年4月21日
http://www.asahi.com/culture/update/0421/SEB201004210004.html

 宮崎県えびの市の島内(しまうち)地下式横穴墓群で、刀身に竜の文様を象眼(ぞうがん)した6世紀前半の鉄製大刀(たち)が出土したと、同市教委が20日、発表した。
刀身に竜文がある象眼大刀は全国3例目で、大和政権との深い結びつきを示唆するという。

 市教委によると、大刀は全長98.2センチ、幅3.6センチ。長さ78センチの刃の表面に溝を刻み、銀をはめ込む象眼の技法で、表に全長約9センチ、裏に約8センチの竜がひとつずつあった。
奈良県橿原(かしはら)市の新沢千塚(にいざわせんづか)327号墳(6世紀中ごろ)、奈良市の吉備塚(きびづか)古墳(6世紀前半)に次ぐという。

 同墓群ではこれまで約120基が確認されており、大刀は送電線の鉄塔建て替え工事に伴う発掘調査で114号墓から出土。
遺体を安置する深さ約2メートル、広さ2畳ほどの玄室(げんしつ)に埋葬されていた熟年男性の人骨のかたわらに置かれていた。
さびてさやがこびりついていたため、昨年8月にエックス線調査を実施し、文様の存在が分かった。その後、文様部分のさやは除去したという。

 エックス線調査で表裏に星か太陽とみられる図形も1個ずつ確認できた。

 同市教委の中野和浩主任技師は
「竜文は新沢千塚のものより一回り大きく、この時期のものとしてはかなり質が高い。保存状況も極めて良い。現在のえびの市一帯を治めていた有力者の一人で、大和政権から分配されたのではないか」
と話している。

 大刀は同市歴史民俗資料館で5月3日まで一般公開される。今月23日午前10時から資料館で市民向け説明会がある。問い合わせは市教委社会教育課(0984・35・2268)へ。(知覧哲郎)

・出土した竜文銀象眼大刀。鮮やかに浮かぶ竜文は10センチ足らずの長さ=宮崎県えびの市
http://www.asahicom.jp/culture/update/0421/images/SEB201004210005.jpg
82日本@名無史さん:2010/04/22(木) 22:44:50

■道成寺の鐘巻銅鐸 本格調査・修理へ

日高新報 2010年4月16日
http://www.hidakashimpo.co.jp/news/2010/04/post-2066.php

 日高川町の道成寺にある県指定文化財、「鐘巻銅鐸」が近く保存修理されることになった。
 
 銅鐸はこれまでの研究によると、1世紀後半から3世紀初頭の弥生時代に作られたとみられ、1762年(宝暦12年)に道成寺の南約200bの田んぼで出土。以来、道成寺で保管されている。
全長116aで県内最大の大きさ。裾部が欠落、ひび割れ部分などあることから、本格修理は道成寺の望みで、住友財団と平川に工場を持つ日本有数の歯車メーカー、大和歯車製作鰍フ助成(2分の1ずつ)で実現することになった。
修理事業は財団法人元興寺文化財研究所(奈良市)が約1年間かけて実施。裂傷部分をつなぎ合わせるなどして復元、整形するほか、将来的な保存も視野に入れて表面の防錆処理や樹脂含浸・湿布で全体強化を図る。費用は550万円。
 
 事業では、修理に先立ち、最新技術を駆使して銅鐸を調査。銅鐸内に含まれる鉛から製造された年代や産地まで厳密に解明されるという。
結果次第では弥生時代の人々が道成寺の近くで鐘(銅鐸)に祈りを捧げていたこと、銅鐸は大和朝廷からの造船の褒美で日高湾は中国との海運の拠点だったこと、宮子姫は漁師でなく造船師の娘だったことなど、夢いっぱいの歴史ロマンが生まれる可能性も。
 
 小野俊成副住職は
 「当時のことが今日の日高港湾の第一歩だったかも知れませんね。それに、調査では1800年も前から道成寺が鐘の聖地だったということが証明されることになると思います」
と話し、期待を寄せている。

写真:修理されることになった銅鐸
http://www.hidakashimpo.co.jp/news/img/0416%E2%91%A0.jpg

↑↑↑
問題が多い記事なので、他紙もどうぞ。

■道成寺・銅鐸修復へ/日高川町 (朝日新聞 2010年04月17日)
http://mytown.asahi.com/wakayama/news.php?k_id=31000001004170001

■鐘巻銅鐸:発掘以来初、修理・調査へ 日高川・道成寺所蔵の県指定文化財 /和歌山 (毎日新聞 2010年4月21日)
http://mainichi.jp/area/wakayama/news/20100421ddlk30040484000c.html
83日本@名無史さん:2010/04/23(金) 22:45:52

■造山古墳に周濠 確実に …岡山大・新納教授発表

(2010年4月23日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/university/research/20100423-OYO8T00442.htm

二重に存在の可能性も

 墳丘の周濠(しゅうごう)跡とみられる遺構が3月に確認された国史跡・造山古墳(5世紀前半、岡山市北区新庄下)について、同古墳を調査している岡山大の新納(にいろ)泉教授は22日、その後の調査で、周濠とその輪郭である周堤の存在がより確実になったと発表した。
周濠の約25メートル外側に弧を描く形であぜがあることから、新納教授は「被葬者がより大きな権力を持っていたことを示す二重の周濠が存在した可能性がある」と推測している。

        ◇

 造山古墳は、大首長墓だったことを裏付ける周濠の有無が分かっていなかったが、2009年度の調査で黒土が堆積(たいせき)した遺構が見つかった。
弥生時代末から中世初頭にかけての土器が数種類出土したことから、それより後の時代に造られた合戦のための防御壁跡などではないことが判明。周濠であることがより確実になったとみている。

 周濠の外側に見られるあぜについて、新納教授は「周堤の端にしては幅が広すぎる」と言い、その間にもう一つの周濠が掘られていた可能性があるとみている。
岡山大が行う調査の最終年度となる10年度に、その確認を目指す。

・周濠跡とみられる遺構で行われた説明会(3月20日、岡山市北区の造山古墳で)
http://osaka.yomiuri.co.jp/photo/20100423-864964-1-N.jpg

■造山古墳第2次発掘調査速報(岡山大学文学部考古学研究室)
http://okadaiarch.blog102.fc2.com/
84日本@名無史さん:2010/04/23(金) 23:09:23
>>83
>造山古墳は、大首長墓だったことを裏付ける周濠の有無が分かっていなかったが

え?あの巨大古墳が今まで「大首長墓」と認められて無かったって話しなのか?

周濠の有無が必要条件という話が良く分からん…

外界との隔絶が条件とか?
85日本@名無史さん:2010/04/24(土) 01:59:38

■「河内の馬飼い」検証 四條畷・蔀屋北遺跡 府教委が報告書

(2010年4月23日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100423-OYT8T00104.htm

 府教委は、古墳時代に馬を飼育した「河内の牧」とされる四條畷市にある蔀屋(しとみや)北遺跡の発掘調査報告書を刊行した。
馬の骨や馬具、住居跡など、大量に出土した遺物や遺構を詳細に分析。日本で馬が飼育された初期の様子を明らかにしており、韓国の研究者らからも注目を集めている。

 発掘調査は2001〜09年、府営下水処理施設「なわて水みらいセンター」建設に伴って実施。
報告書では、調査経緯のほか、出土した馬の骨や馬の飼育に必要だった塩を供給したとみられる土器などの図面や写真を収録、それらの科学的な分析も紹介。
朝鮮半島の影響を強く受けた馬飼い集落の約1世紀半にわたる実態について詳述している。

 箱入り4分冊(A4判、計約1500ページ)とCD1枚。府立図書館などで近く閲覧できる。

 財団法人中部考古学研究所(ソウル)の金武重(キムムジュン)所長は
 「韓半島では馬の飼育を示す遺跡は見つかっておらず、日韓の馬文化を考える基準資料になる」
と高く評価している。

 府教委文化財保護課の渡辺昌宏・文化財調査事務所長は
 「日本書紀に記された『河内の馬飼い』の実態に迫り、これまで文献でしかわからなかった日本の馬文化の受容を、考古資料から学術的に検証できるようになった」
と話している。

・刊行された蔀屋北遺跡の発掘調査報告書
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100423-862122-1-N.jpg
86日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:16:57

■但馬「茶すり山古墳」整備終了 公園と学習館開業 /朝来

神戸新聞 2010/04/24
http://www.kobe-np.co.jp/news/tajima/0002907540.shtml

 国史跡「茶すり山古墳」の整備・公園化事業が終了し23日、古墳公園と古墳学習館のオープニング式典が朝来市和田山町筒江であった。
地元関係者や市議ら約30人が参加し、歴史的遺産を活用した公園完成を祝った。

 同古墳は1984年の旧和田山町教委の調査で山城跡と埴輪片が見つかり、存在が確認された。
北近畿豊岡自動車道工事のため県教委が2000年から03年にかけて発掘調査などを行い、頂上に豊富な副葬品を伴った埋葬施設が2カ所見つかった。
墳丘の直径は約90メートルで近畿地方最大の円墳であることも判明。04年には国史跡の指定を受けた。

 地方に存在する古墳でありながら、中央政権と深い結びつきを示す副葬品が多数出土しているのが特徴。その一方で、山を削りだして造られた構築手法や埋葬方法に但馬地方の特色がみられた。
日本国家形成期の歴史を考える上で重要な遺跡として、朝来市教委が築造当時の姿に復元し、一般に公開できるよう05〜09年度の5カ年かけて整備してきた。

 古墳頂上部には第1埋葬施設と第2埋葬施設を出土時の復元模型で紹介。墳頂部と中段テラス部に埴輪のレプリカを設置している。その一部は市民が粘土で形を作り、野焼きして制作したものも含んでいる。
古墳の内容を説明するガイダンス施設「古墳学習館」には、解説パネルや約8分間のビデオを視聴できる設備を整えた。総事業費は3億2244万円。

 式典で多次勝昭市長は「墳頂からは町並みや竹田城跡も見渡すこともできる。地元住民にとって心豊かな生活の一助になる」と話し、完成を祝った。

【写真】茶すり山古墳公園と学習館の完成を祝うテープカット=朝来市和田山町筒江
http://www.kobe-np.co.jp/news/tajima/Images/02907541.jpg


参考:
・茶すり山古墳発掘調査成果について(兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所)
http://www.hyogo-c.ed.jp/~maibun-bo/report/14/tyasuri/tyasuri.htm

・続報茶すり山古墳(同)
http://www.hyogo-c.ed.jp/~maibun-bo/06event/15/tyasuriyama2/tyasuriyama2.htm
87日本@名無史さん:2010/04/26(月) 23:37:06

■「弥生文化、もっと多様」高島忠平さん講演

朝日新聞 2010年04月26日
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000001004260002

 吉野ケ里遺跡発掘を指揮した研究者で、佐賀女子短期大学理事長の高島忠平さんが25日、西都市の県立西都原考古博物館で講演し、
 「弥生時代の文化はどこかに中心があって広まるのではなく、地域ごとに独自の文化があったと多極的に見ていくべきだ」
と、中央集権的な邪馬台国像の修正を訴えた。

  高島さんはまず、宮崎、鹿児島両県に多い弥生時代の住居跡(花弁形住居跡)が、南九州より早い時代の佐賀県の遺跡で見つかっていることを紹介。
また、稲作で使う石包丁が北部九州だけでなく宮崎でも多数出土していることを明かした。
稲作が九州の南と北に伝わったと考えられるとも述べ、中国や朝鮮半島との交流が地域ごとに盛んだったとの考えを示した。

  高島さんは
 「弥生時代の研究者の大部分は、近畿と九州に文化の二極があり、ほかの地域に波及したと考えるが、発掘の成果を見ると、地域、地域で独自の文化を持っていたと言わざるを得ない」
と述べた。

・高島忠平さん
http://mytown.asahi.com/miyazaki/k_img_render.php?k_id=46000001004260002&o_id=3752&type=kiji
88日本@名無史さん:2010/04/27(火) 16:34:24
倭の国に金印が贈られたのは

西暦52年の事だったそうです、志賀島の金印の事です。
89日本@名無史さん:2010/04/29(木) 18:31:39

■【社告】面会謝絶だぁ 孤高の考古学者 原田大六 藤田中著

=2010/04/28付 西日本新聞朝刊=
http://www.nishinippon.co.jp/info/announce/syakoku/20100428/20100428_0001.shtml

 本書は、在野の考古学者原田大六さん(1917―85)の生前の軌跡を記した本紙連載「面会謝絶だぁー」(2009年3月18日―4月3日付)に、森浩一・同志社大名誉教授などの寄稿文を収録、再構成したものです。

 その激しい気性から「ケンカ大六」などと呼ばれた原田さん。玄関には「面会謝絶」の札を下げ、来客はシャットアウト。
学者たちに激しくかみつく一方で、伊都国の王墓とみられる平原遺跡などを発掘したほか、「磐井の叛乱」などの著作では大胆な新説を展開しました。
圧倒的な迫力、ふてぶてしいまでの自信。なぜ、こうまで先鋭的に生きなければならなかったのか。
不器用に、熱く古代のロマンを追いかけた原田さんの人物像から、要領よく器用に生きることが習い性となった今の時代の物足りなさも見えてきます。

 ◇体 裁 四六判、並製、152ページ、定価1365円

 ◇ご購入 お近くの書店、西日本新聞エリアセンター(販売店)、西日本新聞ホームページ「ネット書店」へ。

 ◇お問い合わせ 西日本新聞社出版部=092(711)5523


・藤田中著『面会謝絶だぁ 孤高の考古学者・原田大六』西日本新聞社
http://shop.nishinippon.co.jp/asp/ItemFile/10000263.html?Bno=2086846623dd2f48f48103c4c818a726
90日本@名無史さん:2010/04/30(金) 23:05:41

■出雲弥生の森博物館:開館 古代文化の実像を体感 土器や馬具など1000点 /島根

毎日新聞 2010年4月30日
http://mainichi.jp/area/shimane/news/20100430ddlk32040325000c.html

 ◇「西谷3号墓」10分の1模型も

 出雲の古代文化を紹介する「出雲弥生の森博物館」(出雲市大津町)が29日に開館し、多くの考古学ファンや家族連れでにぎわった。【目野創】

 同館は床面積2882平方メートル、鉄骨2階建て。展示室には弥生時代の人々の暮らしを表した模型や、同市内の遺跡で出土した土器、馬具など約1000点の資料が並ぶ。

 見どころの一つは、約1800年前に出雲地方を治めた王の墓とされる「西谷3号墓」の10分の1模型(縦6、横4・5メートル)。60体以上の人形も使い、当時の王の葬儀を再現している。
 また、割れた土器を復元するパズルや、弥生時代の衣装を試着できるコーナーがあり、小さな子どもでも飽きさせない工夫がされている。

 29日の開館式には長岡秀人出雲市長ら約160人が出席。渡辺貞幸館長が「古代出雲の実像を体感し、楽しんでほしい」とあいさつした。
マスコットキャラクターの「よすみちゃん」(愛称・よすみー)も紹介された。よすみちゃんの頭はガラスのまが玉の形、体は同館近くの西谷墳墓群で見られる四隅突出型墳丘墓をイメージしている。
同館は大型連休中、まが玉や古代鏡作りが楽しめる体験イベント「めざせ!弥生の森の出雲王」(参加費・500円)などのイベントを予定している。問い合わせは同館(0853・25・1841)へ。


参考@
■出雲弥生の森博物館(新設サイト)
http://www.city.izumo.shimane.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1244161923233&SiteID=0000000000000

参考A
■日本考古学協会 第5回公開講座 Webキャスト(動画配信)
   テーマ「西谷墳墓群をささえた人々−むかし、いま、そしてみらい−」
http://archaeology.jp/cast5/index.htm
91日本@名無史さん:2010/05/03(月) 03:11:00

■考古学研究会 岡山例会のご案内
  「古墳出現期の地域と地域間関係」「山陰における前方後円墳の出現」

考古学研究会
http://www013.upp.so-net.ne.jp/kouken/okayamareikai.htm

 考古学研究者のみならず、大学生や一般の方々にも参加いただき、毎回活発な議論が交わされ、親しみやすい会に成長しています。
 岡山例会は誰でも参加できます。発表内容は毎回変わりますので、お聞き逃しのないように興味のある方はぜひお越しください。

     岡山5月例会

・開催日: 2010年5月8日(土)午後2時〜(約2時間)
・会場: 岡山大学文化科学系総合研究棟2階 共同研究室

[発表者・内容]

◆岩本 崇(島根大学法文学部)「古墳出現期の地域と地域間関係」

 揖保川流域の前期古墳を対象に、地域と地域間関係の具体像について、副葬品や埋葬施設、墳丘など古墳を構成する諸要素のあり方から考察する。

◆大川泰広(財団法人鳥取県教育文化財団)「山陰における前方後円墳の出現 −本高古墳群の調査から−」

 平成21年度に行った本高古墳群の発掘調査で,全長63mの前方後円墳(14号墳)のほか,6基の方墳を確認した。前方後円墳は前期中葉頃に築造され,山陰地方で最古級のものと考えられる。

・事前申込 不要
・参加費  資料代300円がかかります。
92日本@名無史さん:2010/05/03(月) 03:24:53
>>91

■本高古墳群の調査 (現地説明会資料、PDFファイル)

財団法人 鳥取県教育文化財団
http://business4.plala.or.jp/kyo-bun/moto11.28.pdf

(一部引用)
 本高 14 号墳は、古墳の形状や周辺の埋葬施設から出土した土器の特徴から、古墳時代前期(4世紀前半)につくられたことが判明しました。
確認されている限りでは、山陰地方で最古の前方後円墳となります。
 3世紀に前方後円墳が発生した近畿地方に対し、山陰地方では4世紀まで前方後方墳や方墳がつくられてきました。
そうした中での本高 14 号墳の発見は、山陰地方への前方後円墳の波及と、当地域の有力首長と近畿地方の関係性を考える上で重要なものとなります。
 また、一般的な前方後円墳の特徴として、墳丘にテラス状の段を築き、埴輪を立て並べ、葺石で表面が覆われていること、が挙げられます。
しかし、本高 14 号墳では後円部に段があるものの、埴輪や葺石はありません。こうした特徴は、広く日本海沿岸地域に点在する初期の前方後円墳とも共通するものです。
93日本@名無史さん:2010/05/03(月) 22:41:13

■ヒマワリで鍛冶工房表現

読売新聞 2010年5月3日
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hyogo/news/20100503-OYT8T00079.htm

  五斗長垣内遺跡 淡路市教委と住民、種まき

 弥生後期(1世紀中頃〜3世紀初め)で国内最大の鍛冶(かじ)工房跡が見つかった、淡路市の「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」で、市教委と住民が2日、国の史跡指定を目指して埋め戻した遺構上に、ヒマワリの種をまいた。
花々で形状を再現する取り組みで、瀬戸内海を一望できる丘陵地だけに、市教委は「朝鮮半島から九州、瀬戸内を経て鉄器生産の技術が伝わった『鉄の道』を思い描いてほしい」としている。

 同地区は6年前の台風23号で、ため池が決壊。水稲栽培が出来なくなり、地元の五斗長まちづくり協議会が遊休農地などで観賞用ヒマワリを栽培し始め、毎夏、まつりを開いて大勢の人たちでにぎわっている。
 これに着目した市教委が、土中の〈遺跡の姿〉を知ってもらおうと、協議会に提案。円形工房(最大直径10・5メートル)など竪穴建物跡計6棟の形通りに、背丈約60センチのミニヒマワリの種をまくことにした。

 この日は、協議会メンバーや市教委職員ら約40人が午前8時頃から、周辺の畑を含めて作業を開始。
遺跡付近は50センチ〜1メートル埋め戻し、遺構上はさらに約40センチ盛り土をしていることから、トラクターで耕した後、約30センチ間隔に種をまいていった。直径10・5メートルの円形工房跡のみ作業を終え、残る5棟の種まきは近く実施する。
 地元の脇本万里子さんは「かわいい花を咲かせて」と話し、片山重文さん(51)は「夏まつりに、より多くの人が足を運ぶ機会に」と願っていた。

 県立考古博物館の石野博信館長(76)の話
 「非常にユニークな試みで、遺跡の配置などを知る助けになる」

     ◇

 同遺跡の名称が、従来の「垣内遺跡」から「五斗長垣内遺跡」に変更された。
市教委と県教委が協議し、全国に同名の垣内遺跡、淡路市浅野には同音の「開戸遺跡」があることなどから、混同を防ぐためという。

・円形の工房跡にミニヒマワリの種をまいていく住民ら(淡路市黒谷で)
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100503-041409-1-N.jpg
94日本@名無史さん:2010/05/04(火) 23:30:57
マキムクてキムタクに似てね?
95日本@名無史さん:2010/05/05(水) 01:05:57
>>94
おまい,脱力系だな。
96日本@名無史さん:2010/05/07(金) 21:15:39
卑弥呼の里なのかニギハヤヒの里なのか、二人の里なのか、いい加減、歯っ切りして欲しい!
97日本@名無史さん:2010/05/08(土) 18:22:07
>>92
元々丘陵地の自然地形を利用して造られたものなんかな?
こんなものよく前方後円墳といくつかの墳墓とわかったものだなw

しかし山陰は本当よくわからないなあ…

「葺石」が確認できない?
素人の単純発想なら葺石は、それこそ山陰が本場じゃないのか?w

前方後円墳の葺石は山陰から吉備経由で伝わり
山陰のヤマトでの政治参加は無かった?
(故に前方後方墳がメインと…)

これに記紀の出雲神話やら混ぜると妄想ストーリーが
幾らでもできるんだろうなあ…とwww


>>96
「たけのこの里」が正解。
98日本@名無史さん:2010/05/09(日) 01:29:50

■「珍しい」古墳期土器片に人物絵 敦賀・大町田遺跡から出土 

福井新聞 2010年5月8日
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news0/index.php?page=article&storyid=21331&storytopic=1

 福井県敦賀市羽織町の大町田遺跡で、絵が描かれた古墳時代初頭(約1750年前)の土器破片が見つかった。同市教委が7日発表した。
土器に絵を描くのは、さらに古い弥生時代の出土品に多く見られるが、古墳時代では珍しいという。同市教委では「当時の敦賀人は、かたくなに伝統を守っていたのだろうか」と推測している。

 発見された土器片は、かめの一部で縦14センチ、横8・5センチ、厚さ7ミリのほぼ長方形。敦賀市内によく見られる鉄分が多い赤土の粘土で作り、下部がすすけていることから煮炊きに使用されたとみられる。
水田地表面から約30センチ掘り下げた同遺跡の深さ30センチの穴から、古墳時代の原型を保つつぼやかめなどとともに見つかった。

 描かれているのは、2人の人物像で、一人はかさをかぶり、もう一人は鳥の格好をしているように見える。
土器片の上部に描かれており、大きさはそれぞれ縦4センチ、横2センチ程度。粘土が軟らかいうちにヘラ状の工具で描いたとみられる。

 絵が描かれた土器は弥生時代中期(約2000年前)に多く製作され、農耕祭事に使われたと考えられている。同後期(約1800年前)になると、記号が描かれるようになり、古墳時代には絵や記号は描かれなくなっている。
県内では同遺跡から約500メートル離れた吉河(よしこ)遺跡で、シカが描かれた弥生時代の土器2点が見つかっているが、古墳時代のものはないという。

 かめの形状からも、発見された土器片は古墳時代のものと推測される。同市教委では「なぜ、古墳時代の土器に絵が描かれたのか分からない」とし、専門家に鑑定を依頼している。

 同遺跡は、中郷公民館建設に伴い2008年から、約2500平方メートルを発掘調査していた。同公民館は09年完成予定だったが、調査のため建設が遅れて今年10月の開館を目指している。


※参考: 広報つるが 平成21年2月号 P8〜9

■敦賀で初めて 弥生末期〜古墳初期の集落跡を発見
http://www.city.tsuruga.lg.jp/sypher/open_imgs/info/0000009931.pdf
99日本@名無史さん:2010/05/09(日) 11:16:59
卑弥呼が死んだ時、仕えていた女子は口止めのために殉死させられて塚の周りに埋められたんだよね?
箸墓が卑弥呼の墓だとすると、その墳丘に(土師氏の始祖・野見宿禰の献策であり、殉死の代替としての)埴輪が並んでいたことをどう説明するんだろう?
100日本@名無史さん:2010/05/10(月) 21:45:59
面白い論文だったので邪馬台国ドンと来い70スレのレス450からコピペ。

南武志「遺跡出土朱の起源」、『地学雑誌』117号 p948-952  2008年
http://www.geog.or.jp/journal/back/pdf117-5/p948-952.pdf

最後の方でマキムクについて言及あり。
101日本@名無史さん:2010/05/10(月) 23:34:16

■知的情熱、自説も覆す 梅原猛さん

(2010年5月10日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20100510bk10.htm?from=navlk

  新著「葬られた王朝」

 発表した学説を自ら批判することほど、研究者にとって難しいものはない。それを文化勲章受章者である哲学者の梅原猛さん(85)が、新著『葬られた王朝』(新潮社)でやってのけた。
自らの古代学の集大成と位置づける書は、古代出雲王国の実在を、現地調査から得た知見を盛り込みながら、大胆に、スリリングに説いている。(西田朋子)

  古代史3部作完結

 法隆寺を聖徳太子一族の怨霊(おんりょう)鎮魂の寺と論じた『隠された十字架』(1972年)、万葉歌人・柿本人麻呂の刑死説を唱えた『水底の歌』(73年)に続く古代史3部作の完結編。
「過去50年間に及ぶ諸学問の経験を総合して、思想上の冒険ができたのは大変幸せ」と語る。

 この中で梅原さんが自説を方向転換したのは、ヤマタノオロチ退治などの出雲神話。
70年に発表した「神々の流竄(るざん)」では、出雲で成立した神話ではなく、「大和の先住民の伝承が、8世紀の律令国家形成期に、ある政治的意図をもって出雲に置き換えられ、古事記・日本書紀に収録された」と論じている。

 しかし、84年に島根県・荒神谷遺跡で銅剣358本が、96年には加茂岩倉遺跡で銅鐸(どうたく)39個などが出土。出雲周辺に一大文化圏が存在したことを示す遺物が次々と見つかった。

 梅原さんは2年前、出雲を訪れたのを機に「自説が間違いなら、生きているうちに正さんといかん」と意を決し、現地を再訪。遺跡や出土品の調査だけでなく、古い神社をくまなく歩いた。
「神事や奇祭は文献上、隠された事実を冷凍保存していることが多い」からだ。その結果、「アマテラスを開祖とするヤマト王朝以前に、スサノオを開祖とする出雲王朝が数百年にわたり日本を支配していた」と、記紀神話を読み解いた。
(つづく)
102日本@名無史さん:2010/05/10(月) 23:35:12
(つづき)

 韓国(からくに)から渡来したスサノオは、圧政で人々を苦しめる豪族=ヤマタノオロチを退治し、出雲平野に豊かな王国を築く。
6代目の大王オオクニヌシの時代には因幡(現・鳥取県東部)や越(北陸〜新潟県)、南進して近畿まで支配するがやがて衰亡。南九州から東征してきた天孫族に「国譲り」を迫られ、稲佐の海に隠れた――。

 「弥生時代、日本列島の文化的中心は日本海沿岸にあった」などとする梅原さんの推論は、終章でさらに熱を帯びる。
「日本に律令制を導入した藤原不比等こそが記紀編纂(へんさん)の実務者であり、藤原氏が権力の中枢を占め続ける布石として建国神話を改竄した。そして闇に葬った前政権の神々を鎮魂するため、出雲大社に巨大本殿を建造した」

 戦前は皇国史観に支配され、戦後はその反動から長らく記紀神話の歴史的解釈はタブー視されてきた。「うぬぼれず自棄に陥らず、このようなかたちで国をつくった日本の姿を、冷静に見つめなければならない」

 年齢と共に、「学説は過激さを増している」。
自説も含め通説を覆し続ける知的好奇心、精神の柔軟さの源とは? そう尋ねると、しばし沈黙して
 「青年だった僕らを『死ね』と戦場に駆り立てた祖国への怒りと、それでも消えない愛情。相反する強い気持ちが、私をさらなる日本研究に駆り立てる」
と答えた。

 90歳までに近年最大のテーマである世阿弥論と親鸞論を完成させ、「最終解答として、西洋近代思想批判と自然回帰の思想を書く。それから人麻呂論、アイヌ言語論……。120歳まで生きないとなぁ」。知的活火山は健在である。

・「まだまだ新説を世に問うつもり」と意気盛んな梅原猛さん(京都市で)=奥村宗洋撮影
http://www.yomiuri.co.jp/book/photo/BK20100510103040213L1.jpg


※梅原猛『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』新潮社
http://www.shinchosha.co.jp/book/303023/
103日本@名無史さん:2010/05/11(火) 01:18:02
碩学の人の説は傾聴に値するが、「出雲王国が畿内まで支配」は
流石に苦しい気がする。「南九州から東征してきた天孫」ってのも。

弥生時代は都市国家が離合集散を繰り返していた、ってのが真相に近いと思う。

国譲りとか東征とか、戦国時代みたいに語るのは違和感がある。
104日本@名無史さん:2010/05/11(火) 01:53:34
>>103
じゃあなんで、「国譲り」「東征」神話が伝承されているのか?であって。
105日本@名無史さん:2010/05/11(火) 01:53:42
>梅原猛『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』新潮社

確かに纏向勃興における日本海側の文化の影響については個人的にも大変興味のあるところだが…

>韓国(からくに)から渡来したスサノオは、圧政で人々を苦しめる豪族=ヤマタノオロチを退治し、出雲平野に豊かな王国を築く。

…もう勘弁してくださいホント ('A`)

誰か読んだ人は特に纏向遺跡との関連について言及があれば報告ヨロwww
106日本@名無史さん:2010/05/11(火) 09:41:06
>>104
6世紀の世界観で記紀が書かれたから。
107日本@名無史さん:2010/05/12(水) 21:10:56
tes
108唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/12(水) 21:47:44
6世紀の世界観で記紀が書かれたら。

畿内大和が先に出来たであろう。
109日本@名無史さん:2010/05/13(木) 23:18:10
>105
まあ、あの人の言うことは、ただの知的な遊びだからな。
尻の穴で聞いときゃいいよ。
最近知的でもないが・・・
110日本@名無史さん:2010/05/15(土) 01:29:43

■青谷上寺地遺跡 調査報告書刊行

朝日新聞 2010年05月14日
http://mytown.asahi.com/tottori/news.php?k_id=32000001005140002

 県埋蔵文化財センターは、国史跡の青谷上寺地(あお・や・かみ・じ・ち)遺跡(鳥取市青谷町青谷)に関する調査報告書など3冊と調査研究紀要1冊を刊行した。

 「青谷上寺地遺跡11 第10次発掘調査報告書」(A4判153ページ、1400円)は、遺跡の中心域を囲んでいたとみられる溝が古墳時代前期に埋められ、中心域が西側へ拡張していったことが分かった2008年度の発掘調査を考察。
「発掘調査研究年報2009」(A4判26ページ、320円)は昨年度の第11次調査の研究結果概要をまとめた。

 「出土品調査研究報告」は、遺跡で見つかった土器2千箱以上、建築部材7千点以上の出土品を紹介するシリーズ5冊目。
今回は「骨角器」(A4判151ページ、1300円)を取り上げ、動物の角や骨で作られた道具類の写真、実測図を収録した。
研究成果を2年おきに発表する「調査研究紀要3」(A4判50ページ、400円)では遺跡から出土した緑色の木製盾などについて述べている。

 いずれも県内の各教育委員会や図書館などに配布されている。購入の問い合わせはセンター(0857・27・6711)へ。出土品は順次データベース化してセンターのホームページで公開している。

 このほか、国道9号の工事に伴って調査した松原古墳群(鳥取市松原)と、小竹下宮尾遺跡・西坪岩屋谷遺跡(大山町)の調査報告書2冊も刊行した。この2冊は非売品だが全ページをホームページで公開している。(中田和宏)

・県埋蔵文化財センターが刊行した調査報告書類
http://mytown.asahi.com/tottori/k_img_render.php?k_id=32000001005140002&o_id=8546&type=kiji


※参考
鳥取県教育委員会埋蔵文化財センター
http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=4314

同センター 新刊図書のご案内
http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=128096
111日本@名無史さん:2010/05/23(日) 19:06:29
しかし >>101-102の梅原猛の古出雲と言い
>>110の青谷上寺地遺跡と言い、山陰・日本海側がキテルのか?w

確かに山陰は纏向との関連を考えてみたくなる魅力があるが

良く前方後円墳の葺石は出雲の四隅からの影響と言われるが
石塚・矢塚・勝山・東田大塚からは見つかってないと言うし

土器にしても山陰北陸の影響が見られるのは布留からなんだろう?

少なくとも纏向勃興にはタッチしていたとも思えないが・・・

ただ纏向に見られる土木技術のルーツとしては
日本海側に興味を惹かれる。

例の縄文時代の高床式建物が出たとか言う「桜町遺跡」
http://www.city.oyabe.toyama.jp/sakura/
これって学者の間で取り扱いどうなってるんだろう?

まあ流石に教科書にはまだ反映されていないと思うがw
112日本@名無史さん:2010/05/23(日) 22:30:21

■妙見山古墳国史跡へ 調査整備の意義再確認を

愛媛新聞 社説 2010年05月22日
http://www.ehime-np.co.jp/rensai/shasetsu/ren017201005226308.html

 斎灘を見下ろす標高80メートルの丘陵上にある妙見山古墳(今治市大西町)が、国史跡に指定されることが決まった。県内12件目、古墳としては初の指定となる。
 古墳としての評価を、文化庁は「出現期の古墳のあり方や当時の政治社会を検討する上で重要」とする。在地の独自性を認めた上で、出土土器などから畿内や吉備地域などの影響を見て取るものだ。
 調査で判明した古墳の特徴は、海上交通の要所で活躍した人々の存在を証言する。古代に輝いていた地域の力は、現代に生きるわたしたちに活力を与えてくれよう。
 復元整備の手法も先駆的だった。全国でも例のない竪穴式石槨(せきかく)の保存公開や景観保存に配慮した墳丘整備は、遺跡を活用した施設として初めてのグッド・デザイン選定(97年度)に結びついた。
 築造時の姿が忠実に再現された意義は大きい。身近に触れることのできる本物の前方後円墳として、歴史体験や教育への活用が期待される。
(つづく)
113日本@名無史さん:2010/05/23(日) 22:31:28
(つづき)

 1967年発見の1号墳は今では瀬戸内を代表する古墳出現期(3世紀後半)の前方後円墳として知られる。契機は旧大西町の「藤山健康文化公園」整備計画。古墳をランドマークとし、愛媛大考古学研究室の協力を得て90年から4年間かけて調査した。
 当時、復元整備を前提とした本格的な学術調査は本県では画期的だった。文化財保存活用の模範として県内外に与えた影響は大きい。
 調査の結果、2段築成の墳丘から二重口縁壺(こうえんつぼ)や特殊器台(壺などを載せる筒形土器)が出土。埋葬施設は後円部と前方部に竪穴式石槨があり、中国後漢時代の斜縁獣帯鏡が見つかった。
 県民としては古墳の在地性に注目したい。愛媛大研究室が2008年にまとめた報告書では、西部瀬戸内(高縄半島以西の愛媛と大分・広島)の古い前方後円墳に共通する特徴が強調されている。
 前方部が極めて短いことや九州経由で入手したとみられる後漢鏡の副葬、礫(れき)石積みの石槨、墳丘上での小型飲食器を使った祭祀(さいし)などだ。
 加えて特殊器台の独自性が際だつ。弥生時代後期後半の西部瀬戸内の伝統を反映するもので、形や文様から「伊予型特殊器台」と命名された。
 こうした成果は、わかりやすいかたちで地域に還元される必要がある。96年に開設され出土資料を展示している公園内の資料館も、来年度以降ようやく展示替えがされるという。あわせて発信拠点としての役割強化も課題だ。
 旧町村の文化を尊重しつつ新市としての一体性を探るためにも、古墳などの文化財を生かさない手はない。国史跡指定を新たな活用・発信への機運につなげたい。

※妙見山古墳(みょうけんさんこふん):伊予の前期古墳 (愛媛大学考古学研究室ホームページ)
http://www.h.ehime-u.ac.jp/~archaeology/myoukenzan.htm
114日本@名無史さん:2010/05/23(日) 22:55:22

■旧練兵場遺跡:弥生時代の大規模集落 住居跡500棟以上−−善通寺で説明会 /四国

毎日新聞 2010年5月22日
http://mainichi.jp/area/kochi/news/20100522ddlk39040537000c.html

 香川県善通寺市仙遊町2の旧練兵場遺跡群発掘現場で、ワークショップ「旧練兵場遺跡−大規模集落の遺構をみる−」(県ミュージアム主催)が開かれた。
弥生時代の住居跡500棟以上が見つかっており、初めての一般公開。歴史愛好家ら約40人が参加した。

 同遺跡は、01年の国立善通寺病院建て替えの際、同県埋蔵文化財センターが本格的に発掘調査を開始。
鎌倉時代までの約2300〜700年前の遺跡で、広さは東西1キロ、南北500メートル。弥生時代の住居跡は当時としては非常に大規模な集落であったことが明らかとなった。

 ワークショップでは、同センターの文化財専門員、松本和彦さん(37)が約4000点の出土品のうち、弥生時代中期から後期の土器や銅鐸(どうたく)、ヒスイの勾玉などの実物を見せて説明した。
発掘現場では、同センター主任文化財専門員の森格也さん(49)などから、古墳時代の竪穴住居や、奈良から平安時代の土器などについて解説を聴き、参加者は当時の生活の跡に見入っていた。【鈴木理之】


※香川の弥生時代研究最前線―旧練兵場遺跡の調査から 前編 (香川県埋蔵文化財センター)
http://www.pref.kagawa.lg.jp/maibun/yayoijidaikenkyusaizensen_zenpen.html
 同 後編
http://www.pref.kagawa.lg.jp/maibun/yayoijidaikenkyusaizensen_kohen.html
115日本@名無史さん:2010/05/24(月) 23:37:55
今月号のニュートンを立ち読みしたら、マキムクのことが書いてあったお。

マキムクはそれまでの集落の規模を数段上回る巨大な集落なんだって。

考古学的事実として約150回の発掘で集落遺跡は一つたりも出ていない
ということを、どうしてマスコミは報道しないのかな。

騙される人が続出しちゃうよ。

なんか発表する学者の側のモラルも問われるべきじゃないのかな?

ひどすぎだよ!
116日本@名無史さん:2010/05/25(火) 15:00:17
だって、○沢薫だもの・・・
117日本@名無史さん:2010/05/25(火) 17:43:03

「古代都市纒向」

という文章を書いた人が居たなあ(遠い目)。


ひどいよ。ひどすぎるよ、おじちゃん。
118日本@名無史さん:2010/05/25(火) 18:04:25
  ∧,,,,,,∧
 ミ,,´∀`彡 
  ミ   ミつ
 ミ,,,○,,,,,,,,,ミ
119日本@名無史さん:2010/05/25(火) 20:41:22
縄文都市・三内丸山ってのもあったような…
都市の定義って何?
120日本@名無史さん:2010/05/26(水) 02:35:21
>>119
質と量の問題がありそうな…

量と言うのは規模・人口で恨み節の東遷中が言う
「纏向は無人都市、都市なんて出鱈目も良いところ」
と言うのはそのセンの話だと思う。

もう一つは質=機能かな?

一次産業の農業から分離して工業や祭祀・政治の機能の比重が上がり
食料等の生活物資は集落の外に依存する形になる
(まあ実際には上納させる形なんだろうがw)

後者の見方をすれば纏向は都市と言うのに相応しいと言う事になる。
むしろ「無人都市論」大歓迎と言う事になるかな?www

あと質の問題で集落を構成する集団内部の身分の階層化がどれくらいか?
ってのもあると思う。
「三内丸山」の場合そこも結構インパクトあったのでは?

121日本@名無史さん:2010/05/26(水) 12:45:40
纏向≠首都、纏向=王家の谷?
122日本@名無史さん:2010/05/26(水) 21:35:03
>119
計画的に造られたことが条件だってたやつがいたな。
直線道路のありなしだってか。
123日本@名無史さん:2010/05/26(水) 23:03:12
>>119
伝統的なユーラシア西方の歴史学・政治学・法律学では、

明確な結界で区別されていること
周辺の農村地域と、統治上別の扱いがされていること
そこの住人についても、周辺住民と異なる身分が付与されていること
観念的には、面ではなく点として扱われること

各人の居住区域が袋地になっていないこと
中央に神殿と広場があること
都市の政治が広場で行われること

後3つは、南ヨーロッパのポリス成立の要件なので巻向には関係ないが、
前4つは、メソポタミアやインドなどでもあてはまる。
でも、東京は全く当てはまらない・全ての要件にかすりもしないというのも面白いところで、
東京を首都と戴く日本国で、「都市」の概念が全く定立出来ないのは、当然なのかもしれない。
124日本@名無史さん:2010/05/29(土) 19:38:33
>>119
「古代史学会では694年遷都の藤原京を日本最古の都市とする定説がある。
 多くの考古学者もこれに同調する。
 都市とは「相対的に大きな人口と密度をもった、人とものが集中する大集落」
 という定義が前提にあり、
 1天皇の宮殿と中央政庁、2官人の集住、3物資の交易手段と市場、4寺院、
 5条坊制という都市計画と技術、6都城民の階層性、7第一次産業者の欠如、
 などがその理由とされる。」
(寺沢薫「王権誕生」)
125日本@名無史さん:2010/05/29(土) 20:56:48
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
126日本@名無史さん:2010/05/29(土) 22:54:42
>>124
じゃ鎌倉も都市ではなかったのか
127日本@名無史さん:2010/05/30(日) 20:01:41
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
128日本@名無史さん:2010/06/01(火) 20:49:28
要するに「ゆるやかな連合説」というのは

かつて九州に強大な王国があり、それがまた強大な大和朝廷との戦いの末に滅亡したとする「九州王朝説」
記紀は基本的に真実を伝えており、王家の系譜もまた正しいと考える「記紀原理主義者」

これらにとっては根底を揺るがされる説であり、考古学会どころか歴史学会そのものが「連合説」に傾きつつあると言う現実に耐えられないのだろう。

そういえば流石に最近は2chでも見なくなったが、「九州説を唱える考古学者などほとんどいない」ということすら信じなかった阿呆が何年か前までは普通に居たなあ。
今はもうそこは認めざるを得なくなったのか、もっぱら詐欺だの陰謀だのと声を枯らして叫ぶ芸風にシフトしたみたいだが。
129日本@名無史さん:2010/06/01(火) 23:40:48
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■


@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)

Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)

Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。

Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
130日本@名無史さん:2010/06/04(金) 15:42:03
マキムクは王家の谷
131日本@名無史さん:2010/06/05(土) 03:45:08
巨大都市だったって言い張らないとお金集まらないのかね
132日本@名無史さん:2010/06/05(土) 04:09:54
>>124
『大和・纒向遺跡」で石野が

   「三世紀の『都市』纒向」

という章を書いていますな。たぶんネタだと思うけどww
133日本@名無史さん:2010/06/05(土) 11:26:27
で、「都市」の文字に必死に噛み付いているヒステリーちゃんとしては
纏向をなんと呼ぶべきと考えているのかな?

まあこっちはその呼称は何でもいいが
現時点、一次産業の痕跡が殆ど見られない
纏向の特性を表せればその呼称は何でも良いのだがwwww
134日本@名無史さん:2010/06/05(土) 12:10:55
>>133
そのままの状況をごまかさずに説明するだけだろ。
ネタを書く必要などない。

土器の出土が多い。
集落遺跡が一つも出ていない。
外来土器が多い。

よって、「大市」との古代地名が示すような市場と考えるのが
知能を有する生物としての最低条件。

まあマキムク信者に知能を要求することは無理かな。
135日本@名無史さん:2010/06/05(土) 13:37:47
>>134

「市場」という機能があったことは認めるのか?この低脳は。
136日本@名無史さん:2010/06/05(土) 14:02:30
市場を裏付けるようなものが、出てるかどうかだな。
とりあえず、広域の土器は出てるようだが
それ以外は?

あと、市場そのものには住居跡が無くても、
その周辺は自然に集落になって
住居跡を含む様々な出土物があっても良さそう。
137日本@名無史さん:2010/06/05(土) 14:20:00
市場でなければ、
どうして広域の土器が集まってきたのか説明しろよ低脳。
138日本@名無史さん:2010/06/05(土) 14:20:59
>>136
>それ以外は?

とりあえず、なんに使った土器が多いか調べてみ。
139日本@名無史さん:2010/06/05(土) 14:33:37
広域の土器が出てくると言えば、太宰府もかなり広域の土器が出てくる場所だ。

太宰府の面白いところは、弥生中期と後期などの別時代の土器が同じ地層から出てくると言うこと。
長い間、都市として存在しており、整地埋め立てが繰り返された結果、旧時代の瓦礫が
混ざって埋められたとか、土砂崩れによって混ざってしまったとかいわれている。

案外、太宰府に出入りする様々な地方では、古い時代の土器をまだ使っている地域が
あったのではないかともおもう。
たとえば、太宰府周辺では新しい形式の土器を使っていたが、佐賀熊本ではまだ古いままだったりとか。
その逆だったとか。

煮炊きしたら溶けてしまう縄文土器よりは、さすがに弥生式土器に移り変わりやすいだろうが、
弥生式で違うのが形状だけなら、回りが使い続けていて、特に困りもしなければ、
古い時代の土器を使いつづけても問題ないよなあとおもう。
140日本@名無史さん:2010/06/05(土) 14:49:47
纏向遺跡は、飛鳥奈良時代に市が発達したことは、ほぼ間違いないようだ。
そのころの呼び名から、大市という地名が定着している。

市が発達しているから、位置的には市が成立しやすい環境ではあったのだろうが、
それが、古墳時代から弥生時代にまでさかのぼって良いものかどうかは、不明だ。
141日本@名無史さん:2010/06/05(土) 14:55:12
纏向遺跡では、製鉄遺跡が存在するなど、5世紀以降の時代を示唆する
ものも多く存在するが、纏向編年というこの地域専用の土器編年では
1世紀から4世紀までとされている。

また、4世紀までに製鉄が行なわれていたとしたら、(鉄器加工でなく)かなり大変なことなのだが
他の地域と比べて、特に鉄に対して優位であるような状況も認められない。
全体として整合性がとれていないのではないかと思う。
142日本@名無史さん:2010/06/05(土) 15:33:46
>>141

意味不明。

おまえが整合性がとれてないと思うのは、
自分勝手に鉄器を過大評価してるからだろ。

何が重要だったかは、実際の物証から考察すべきだ。
143さてさてこいつはサイキバ君かはたまた怨み節か?:2010/06/05(土) 16:11:50
>>134
>よって、「大市」との古代地名が示すような市場と考えるのが

ふむ、要するにだ…

>考古学じゃ巻向は市場だって明らかなのに、畿内説は必死だな。

…と言うサイキバ君の解釈でおkと言う事かw

いや元々市場説と言うのは恨み節東遷厨がこの板で必死に喧伝していて
そこにサイキバ君が乗っかった格好だったと記憶しているがwww

しかし
「当時の列島屈指の大きさの大溝やら古墳やらがある無人の市場」
…って言われてもそんなもの誰もイメージすら出来ないと思うのだがw
朝一番に外から人がやってきて夕方には市をたたんでまた遺跡の外に帰っていくフリマのイメージ?w

>ネタを書く必要などない

いやいやいや、お前のお話がネタでしかない訳だがwwwww

144日本@名無史さん:2010/06/05(土) 16:20:15
>>141
と言うかだなお前

「纏向の製鉄遺構」とか見たら鉄の原料(砂鉄・菱鉄鉱・褐鉄鉱 等々)から生産したことだと解釈しているのか?

ひょっとして、おっちょこちょいのサイキバ君か?wwwwwwwww
145日本@名無史さん:2010/06/05(土) 16:27:18
何れにせよ鉄の問題は、村上の本なんか読んだ感じじゃあ

「九州以東にいつどのような形で普及したのか?
 一斉に一様に普及したのではなく地域によって受容の差異が見られるのではないか?」

等々の検証の段階のような印象を持ったが…

そこら辺の共通認識が出来て次に「鉄の評価」に移るんだろうか?

まあ畿内には鉄の普及が遅かったと言うことになれば
それは王権発生の必須項目ではないプライオリティはかなり下がると言う事で

恨み節やサイキバのヒステリーのテンションは益々上がるとwwwwww

146日本@名無史さん:2010/06/05(土) 16:39:15

m(-_-m)〜 ウラメシヤー
 
147日本@名無史さん:2010/06/05(土) 17:22:44
まあとりあえず、橿考研は詐欺師と叫ぶサイキバや東遷厨が
高倉式や掘っ立て、それに土壁跡などを「これらが単なる住居だとは考えにくい」という
橿考研の見解発表に従っているというのは笑える。
148日本@名無史さん:2010/06/05(土) 17:40:41
あれだ、NASAが公開している火星の人面岩の写真を引き合いに出して
NASAは真実を隠蔽している!と叫ぶオカルトビリーバーと同じ施行形態だね
149日本@名無史さん:2010/06/05(土) 18:07:31
>>145
鉄器の有用性をことさら低く評価したいようだな。そうしないと畿内説が成立し難いのか?
鉄器の有用性(他材料製器具に対する優位性)がなければ何故(辰韓の条に「國出鐵韓[偏水旁歳]倭皆從取之」
と記述があるように)わざわざ半島まで出かけて鉄を求めるのだ?
150日本@名無史さん:2010/06/05(土) 18:14:57
>>149
因果律が全く逆だな。鉄の有用性の低さが判明したことがまず先にあって、それで九州説が衰退した。
しかも畿内に大量の鉄が持ち込まれた形跡もないのに、王権が発生・拡大している。
だから鉄ルートを畿内が奪取したという説もほぼ消えた。
更には東海地方が畿内よりもっと鉄が少なかったと見られるのに、大勢力として存在することもわかった。

つまり鉄器の有用性がそれほど高くなかったということが、まず判明したんだよ。
そこで浮上したのが畿内説という狭い枠の話でなく、首長交易連合説だ。
151日本@名無史さん:2010/06/05(土) 18:57:13
>>149
>わざわざ半島まで出かけて鉄を求めるのだ?

ん?そりゃあ「あれば便利な道具」だからなんだろう?www

ある地域に金が出る。
そこに人間が群がり「ゴールドラッシュ」が始まる。
しかし金が無ければ人々の生活が成り立たないと言うわけでもない。

金が産出される間はその国は栄えるだろうが
枯渇すればそれと共に国も衰退する。
国家の地力とは別の話。

精緻に造られた鉄器ならともかく
鉄テイが威信財のように副葬されていたりもする。

実用性については疑問視するのが普通だし
人口のの推定もそれを押す形になっている。
(アホレスの前に言っておくが”絶対数”じゃなくて”比率”だから馬鹿はきちんと区別しろよw)

まあどう転んでもこの纏向スレに乗り込んできてイチャモンレベルのケチレスつけている
邪馬台国九州説論者のアホどもの思うようにはいかないって話だなwwwww
152日本@名無史さん:2010/06/05(土) 19:23:01
>>140
逆じゃねえの?
奈良飛鳥以後に市場があったことなんて確認できない。
つうか、それ以後は廃れているので、市場なんてない。

なので、「大市」の地名の由来はそれ以前の時代に遡ることになる。
マキムクの開発が始まったのは弥生終末以降なので、市場があったのは、
弥生終末から古墳時代にかけてということになる。

まさに、マキムク信者が「都市」があったとか、騒いでいる時期に相当する。
まあ信者には何を言ってもムダかな。
153日本@名無史さん:2010/06/05(土) 19:24:32
>>150
鉄の有用性の低さがどうやって判明したのかな?

もう幻覚まで見え始めているのが、畿内説の現実なのかな?
154日本@名無史さん:2010/06/05(土) 19:34:44
>>153
理由は>>150で書いたとおり。もっと簡単に書いてあげないと判らないのかな?
ちなみに鉄の有用性を主張する学者とか居る?
白石さんくらいじゃないか、今は。
155日本@名無史さん:2010/06/05(土) 19:38:29
>>152
単に「都市」という言葉が気に入らんだけかwww
寺澤がわざわざ「弥生都市」とした理由くらい知ってるだろ。それとも「王権誕生」すら読んでないのか?

別に長くていいなら「宗教・交易・政治などの中心複合地区」でもいいぞ。
都市が気に入らんのなら、君は以降はこの呼び方を使え。俺が許すwww
156日本@名無史さん:2010/06/05(土) 20:00:18
>>153
分からんやっちゃなwww

例えば一本の木があってそれを切り倒すのに石斧と鉄製の斧
どちらが早いかは当然後者だろう。

がそう言った単純な比較じゃなくてもっとマクロな
「それが果たして王権発生に結びつくような主要因であるか否か」
と言うお話。

現状ではどう見てもストレートに直結しない。

鉄資源をいかにして入手するかまたそのコスト
鉄器を作りまた継続的に使う技術(打ち直し等)etc…

古代の地域ごとによってその背景を考え直す必要があるってお話で

「鉄の豊富さ=国力の充実=邪馬台国に相応しい地 マンセー!」

なんて幻覚を見ているのはお前だドアホw
157日本@名無史さん:2010/06/05(土) 20:05:40
>>154
>白石さんくらいじゃないか、今は。

どうなんだろうねえ?

王権の発生、首長連合の求心力…それらを「鉄」に求めるってのは
やっぱり古い学者に多いのかな?

確かに分かりやすい話しだし、鉄によるそれらを否定したら
「じゃあどうして王権が発生しえたのか?」
と聞かれたらイッパツですんなり答えも出てこないんだろうが(苦笑

今出てきている材料を考える限り鉄の役割に
そこまで万能性を期待する方が無理だろうとwwww
158日本@名無史さん:2010/06/05(土) 20:15:23
まあ、鉄はたとえ通貨のような用いられ方をしたとしても、大量の食料と交換となるほどのものではないだろう。やはり首長層
のための大陸からの威信財のほうが重要だろうね。
159日本@名無史さん:2010/06/05(土) 20:17:13
そうだな。鋤先につけるほどの量の鉄が大量の米に化けるわけがない。
160日本@名無史さん:2010/06/05(土) 20:19:12
wikipedia 纏向遺跡

飛鳥時代から奈良時代にかけては、この地域に市が発達し「大市」と呼ばれた。
箸墓古墳のことを、宮内庁治定では「大市墓」というのはこのためである。
奈良・平安時代では井戸遺構や土抗、旧河道などが検出されている。
「大市」と墨守された土器も検出されている。
161日本@名無史さん:2010/06/05(土) 21:21:05
>>157
ジョーカーさんは相変わらず自演が好きだねえ。
これは精神的な問題かな。

鉄が有用じゃなかったら、なんで鉄が普及したのかな。
162日本@名無史さん:2010/06/05(土) 21:30:58
>>155
「大市」の由来はもういいのかな?

都市というのは、人の居住がないと無理だよ。
なんでマキムク信者の連中は、「集落遺跡が一つたりとも見つかっていない」
ということをちゃんとマスコミ発表のときに説明しないのだろうね。

これは、研究者としてのプライドの問題かな。

というか、もうそんなレベルじゃないよね。
意図的に誤解をするようにマスコミを利用しているに過ぎない。

少し勉強したらすぐにいんちきがばれるのに、なぜそんな幼稚なことをするのだろう。
精神的に追い詰められているのかな。
163日本@名無史さん:2010/06/05(土) 21:33:34
>>161

鉄がそんなに王権に必要なものなら、
どうして九州がずっと政治の中心地として機能できなかったんだ?
ということだよ。

164日本@名無史さん:2010/06/05(土) 21:35:23
だいたい、台与が13歳で女王になったことからして、
現代人の価値観とは違うところで古代の政治が動いていたことは明らかだろうが。
165日本@名無史さん:2010/06/05(土) 21:48:58
>>162

>>147>>160を声を出して読め
166日本@名無史さん:2010/06/05(土) 21:52:02
てか精神的に追い詰められているのは>>162のほうだな

熱いシャワー浴びてから、冷たい麦茶飲んでぐっすり寝ろ
167日本@名無史さん:2010/06/05(土) 21:54:19
>>165  >>166
それしか言えないの?

憐れだねえ。
168日本@名無史さん:2010/06/05(土) 21:56:12
>>162

集落跡が無いのに、建物があったことは認めてるのかな?

だったら、その建物は誰が何のために作ったか、そこまでは考えようとしないのか?
タヌキが作ったとでも思ってるのだろうか?
169日本@名無史さん:2010/06/05(土) 21:56:44
>>167
うん、それしか言わない
なぜならすでにこのスレでさえも完璧に論破しつくしたネタだから

芸がないんだよ、チミは
170日本@名無史さん:2010/06/05(土) 22:00:51
サイキバくんに無視された。
なんか悲しい。
171日本@名無史さん:2010/06/05(土) 22:00:57
>>168
君の集落に対する概念が古すぎる
吉野ヶ里どころか登呂遺跡止まりのレベルだから、君が理解できないだけ

で建物跡についてだが、これは全く九州の影響がないことが明白
何故そう判るのかについては、きちんと礼を尽くすなら教えるが
一発芸を延々続けるつもりなら、書いても無駄だから過去スレ掘れ
172日本@名無史さん:2010/06/05(土) 22:06:28
>>171
九州の影響がないだと?

高床式は南方系であり、九州から伝播したことは明らかだろう。
173日本@名無史さん:2010/06/05(土) 22:12:34
>>172
九州のどこに高床式とみられる柱跡が出土している?具体的に述べよ

答えの一部は、多分必死でぐぐれば出てくる。まあ頑張って自分で調べる癖をつけろ
174日本@名無史さん:2010/06/05(土) 22:21:57
>>173

九州に高床式遺跡が無いわけないだろ。

高床式住居は、東南アジア発祥で、九州を伝わってきたのは常識だろうが。
175日本@名無史さん:2010/06/05(土) 22:48:39
>>174 具体的にどうぞ。九州のどの遺跡?
176日本@名無史さん:2010/06/05(土) 22:51:42
高床式ねえ。掘立柱建物なら縄文前期からで、北からの由来なんだが。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%98%E7%AB%8B%E6%9F%B1%E5%BB%BA%E7%89%A9

どうせこれを見ても、建物かどうかはわからないとか屁理屈をこね回すんだろうが。
177日本@名無史さん:2010/06/05(土) 22:57:27
いずれ、柱を立てる=縄文時代=東日本のほうが古代史フアンには常識と思うがね。
178日本@名無史さん:2010/06/05(土) 22:58:38
鉄器に続いて、今度は建築様式まで非常識なことを言ってるな?

高床式住居は、南方からの伝来なの。
稲作と一緒に九州に伝らしたわけ。わかる?
収穫した稲を湿気から守るために高床にしたという知恵なの。

それがなに?縄文時代から日本にあっただあ?
縄文時代は竪穴式住居がメインだって学校で習わなかったのか?

あ、ゆとり世代は縄文時代なんて習わないかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

179日本@名無史さん:2010/06/05(土) 22:59:08
なんか韓国人と由来論争をしているような気分だ・・・

発祥は全部九州ですタイ!ってことかね
180日本@名無史さん:2010/06/05(土) 22:59:18
>>173 横からだが
>九州のどこに高床式とみられる柱跡が出土している?

後学のために聞いときたいんだが、
キミの言う高床式建物ってどんなので、その判定は?

地面を掘り込んだのが竪穴住居で、
掘立柱建物のうち、側柱のみは平屋、総柱は高屋。

・・・これどうなの?
181日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:00:44

「マキムクで集落遺跡が一つたりとも見つかっていない」
というのは、ジョーカーでさえも否定しないんだ。

しかし、この事実はマスコミには載らないんだな。

研究者のプライドも捨て去って、自暴自棄な発表を繰り返すのがマキムク信者

182日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:03:43
>178
>それがなに?縄文時代から日本にあっただあ?
そうだよ、それが現代の常識。もっと今の情報を学べ。

>あ、ゆとり世代は縄文時代なんて習わないかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
たぶん君より年上だよ、私は。
しかしきちんと学んでいるんだよ。そんな古い情報に縛られたりしない。

ちなみに

>稲作と一緒に九州に伝らしたわけ。わかる?

「伝ら」って何?????「伝播」のことかなwwwwwwwwwwww
183日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:05:06
>>154
まあこのスレでも何度か出ているが縄文時代に既に高床式が出現していた
なんて話もあるからねえ…
『桜町遺跡』
http://www.city.oyabe.toyama.jp/sakura/g-tyumoku.htm

まあ仮に高床式建物が九州から伝播したとしても
それは文字通り「伝播」
東征勢力が持ち込んだなんて事の証拠にもならない。

もしそれがなるんだったら水田での稲作も東遷説の根拠だw

ちょっと頭冷やして区別しようぜ?wwww
184日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:06:02
>>180
悪いが、それを書いてしまうと馬鹿にいらん知恵を与えてしまうのでパスさせてくれ。
貴方がまともな人なら、おそらく同じものを想定しているはずだから。
185日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:11:01
>>181
君、集落遺跡という言葉そのものがおかしいわ
正確には「住居遺構」だろう

なんでマキムク遺跡のなかに集落遺跡というような、馬から落馬したような表現するの?
186日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:12:36
しかし鉄の問題は面白そうだ。

それは邪馬台国なんて範囲を超え古代日本の王権の発生の問題にリンクし
更に人類と鉄の係わり合いがどうだったのか?

…そこまで考えさせる。
いやマジでwwwww

最初に疑問視して自己に問うた時
近現代における、それこそ「鉄は国家なり」と言うイメージを
引きずっていた自分に気づいたw

こう言う自分のそれまでの固定観念をひっくり返される
発見の面白さと言うのは恨み節やサイキバその他の九州説の連中には無いんだろうなwwwww

187日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:13:06
>>184

ありもしないものを、あるように書いておいて、
じつは無かったことを誤魔化そうとしてるのか?
それが畿内説のやちくちか。
188日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:13:28
出雲大社の伝承だって、大柱を立てる日本海側の習俗から来てるとも考えられる。マジで勉強しろよ。
189日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:15:56
>>181
てかマスコミにはとっくの昔に伝えられて、とっくの昔に報道されてるわな

様々な建築物柱跡は、単なる住居とは考えにくいと

そして周辺の唐古・鍵や大福からは、マキムク建設と同時期に竪穴式住居が爆発的に増え
そこには東海からの土器が多く出土するというのも、もちろん発表されているし新聞にもデカデカ載ったわな

こんなの、古代史ファンにとっては常識レベルだわな
190日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:17:50
おいおい、高床式住居は、南方由来ってこと、マジに否定するつもり?
そんな自分勝手な妄想が世間で通用すると思ってんの?

テレビで、東南アジアの人が高床式住居に住んでるのみたことない?
なんで狩猟採集の縄文人が、わざわざ高床式住居に住む必要があるんだよ?
そんな詐欺には子供でも騙されんわ。
191日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:18:10
>>189
集落遺跡は「ドカンと大きいのを掘り当てるまで未発掘であることは言わない。」
というのが、信者の暗黙の了解だよ。

知らなかったのかな?
192日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:19:51
>>190-191
まあヤフーでもどこでもいいから、それそっくりそのまま主張してみ

2chで畿内説に言ってやりましたって付け加えてもいいぞ
193日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:20:28
>>190
お前の知識はテレビかよ。
194日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:20:56
>>190
ソースはテレビかよ・・・onz
195日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:22:05
しかも世界ふしぎ発見っぽいぞ、それ・・・・・・・onz
196日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:24:33
なんかこいつ、世界ふしぎ発見がソースとか
〆か河童っぽいぞ
サイキバの正体ってこいつなのか?
197日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:25:49
高床式住居は弥生時代から、稲作とともにはじまった。
縄文時代は、竪穴式住居に住んでた。

どこか、歴史博物館でも行って見てごらん?
普通に復元模型が展示されてるから。
で、学芸員に聞いてみなよ。

「高床式住居は、南方から伝わった」って、常識だから。

198日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:27:18
>>192
じゃあさあ、なんで石野は纒向を「都市」だなんて言ったんだろうね。

>>124の文章には、集落遺跡は一つたりとも出ていません。」なんて書いてないよね。

むしろ、「空想上の集落」のことを事細かに書いているよ。
「平屋と高屋のマチ、そして外来者」なんて空想をふくらまして書いている。

これが信者のあるべき姿ですよ。
199日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:29:30
>>198 の訂正

 >>124>>132
200日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:29:48
>>190
>なんで狩猟採集の縄文人が、わざわざ高床式住居に住む必要があるんだよ?

なんでかは考えたこともなかったが、
確かに近くで発掘されて、復元建物もあるわ。縄文時代の高床式建物が。

(地理的にみて)南方由来のものとは別に発生したんだろうな。
201日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:33:43
>>200
>縄文時代の高床式建物が。

ないない。
縄文時代のイメージを町の人に聞いて、
「高床式住居にすんでた」なんて答える人いないよ?

世間と乖離したヒッキーなの?
202日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:34:05
>>197
おまえが学芸員に聞け
なんで俺らに」そんな見え透いた嘘をつく?もっと素人に言えよ、そんなレベルの嘘は

>>198
1995年時点の寺澤の王権誕生では、住居出土を想定していたということだ
それは想像図を見ても容易に推し量れる
それから15年経ってんだぞwwwwww
学説が変化するには十分すぎる年月だ。お前15年前の情報を今知ったんだろwwww
203日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:35:41
>>201
なんで町の人なのwwwww

おまえ町の人レベルかよwwwwwwwwwww

アスペはこれだから怖いわ
204日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:40:33
>>199
石野は寺澤の主張に従っているだけだろ
つーか「都市」という言葉から離れろ
>>155のフレーズを俺も許してやるから使え
205日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:43:12
>>202
都合が悪くなると今度は嘘吐きよばわりか。

高床式住居とは?

食べ物を湿気から防いで保管するためのもの。
熱帯雨林の東南アジアで広まった建築様式(常識)
稲作も南方で始まった(常識)
収穫した米は、高床式住居に保管した(常識)
稲作は、南方から伝播した(常識)
したがって、高床式住居も南方由来であり、九州を経由してマキムクに伝播したのは事実。

これだけ事実を突きつけられて、まだ「マキムクには九州の痕跡が無い」などと、大嘘がつけるのかね?

みんなどう思う?>ALL
206日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:43:54
縄文人が大柱を立てるのは祭祀の一環だろ。天に近ずくため、神の止まり木、秋に葉を落とし春に再生する樹木信仰、その他。
これが櫓のようになり、屋根がついて・・・。
207日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:43:57
>>202
15年前までは集落が多数ある「都市」を念頭に議論していたことは認めるわけだ。


今は、集落のない訳の分からんものを「都市」と呼ぶようになったということか・・・


多分マキムク信者は、その教義の変更は受け容れないと思うよ。


208日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:45:13
>>205

>ALL

さて、大自演の始まりですwwww


こいつやっぱりサイキバじゃなくて〆か河童(プラム)だわ
209日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:49:02
>>201
>ないない。

まあ、復元建物は現実にあるから。

・・・しかし、まいったな。こいつ。
210日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:49:28
河童じゃないと思うけど。河童なら言語関係のことを黙ってはいられない。www
211日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:49:34
>>208
さんざん自演を繰り返してきた唯一の畿内説論者がそれいう。
212日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:50:38
>>207
マキムクを建設した人々が周辺の旧集落を再開発して住んでいたとの痕跡があるのを知らんのか?
>>189に明記されているだろうyが

まあ例によって都合の悪い事実は信じないのだろうけどね

と書くと、それはマキムク信者だろ!と脊髄反射してくる一発芸は飽きたぞ

違う芸で俺らを笑わせろ
213日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:51:19

マキムクに高床式住居をたてるにせよ、その柱を切り出すには、鉄の斧が必要だ罠。
つまり、高床式住居も九州由来だし、その加工技術も九州由来。

マキムク遺跡そのものが九州由来なのに、
九州の痕跡は無いなどと抜かしてウソをつく畿内説のこれが真の姿だ。
みなのもの騙されるでないぞ。
214日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:53:49
>>211
畿内説つーか連合説が一人じゃないって、読めばすぐにわかるだろwww

てかお前の自演の下手さにはうんざりなんだよ
自演を磨いてからやってこい

いや・・・・・・ホントに一人の自演だと思ってるのか?このアスペは
だとしたら本物のキチガイに俺は今遭遇しているわけなのだが、これって貴重な経験か?
215日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:55:55
>>213

高床式は韓国ニダ!加工技術も韓国ニダ!マキムクも韓国ニダ!

高床式は九州ですタイ!加工技術も九州ですタイ!マキムクも九州ですタイ!
216日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:57:06
>>212
ようするにマキムクのあの広大な地域には集落がないことを認めるのね。
その代わりにちょっと離れたところに集落があるからこれで我慢しろと。

それは信者が拒否するよ。
217日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:58:58
>>216
なにを言ってるんだおまえは?

マキムクの高床式住居が、九州から来た王族の住まいだとどうして理解できんのだ?
218日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:01:06
>>216
いやそれおまえの脳内にしか存在しない信者だから

お前の脳内には舶載説信者や橿考研工作員や陰謀畿内説やマキムク信者がいっぱいいて大変だなwwwwwwww
219日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:02:12
>>217
マキムクの掘建て建物はイナバ物置のような規模だよ。
市場の陳列用の簡易建物くらいにしかなりようがないレベル。
220日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:02:27
>>216-217
おっ!サイキバVS東遷厨かwwwww
221日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:04:18
>>219

どうやら、マキムク遺跡が九州から伝播したことは認めるようだな?
222日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:06:33
>>221
お前が相手しているのは同じ九州説だよwwwwwww
223日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:08:04
しかも、基地外に近いアスペ。流れが読めてないな。www
224日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:11:15
>>219

なんで、九州から来た王族(神武)がイナバ物置で暮らさなきゃならんのだ?ドあほう。

あれはあれで、立派な宮殿なのだ。
225日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:18:04
>>.221
君が今相手している>>224はたぶん縄文人だ

九州説からも嫌われてるのがよく判ったろ
226日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:22:01
クナ国の御曹司だった神武は、邪馬台国との交戦を回避し、かわりに畿内へと東征した。

そのとき、南方から日向に伝わっていた高床式住居をマキムクに建てて住んだのだ。
227肛門人:2010/06/06(日) 00:22:29
私が嫌われるのは臭いからなのか?
228日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:24:51
ははあ、縄文人は日向=狗奴国説なのか?誰が誰だかよくわからんが、日向東遷厨とのバトルなら見ものだな。
229日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:31:13
>>228
>誰が誰だかよくわからんが、

東遷廚、祭器場、縄文人、・・・こんなもんだろ。あと、いるか?
230日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:33:33
邪馬台国に窮したクナ国の神武は、ヤマトで体勢を立て直し、
東国の兵を抱きこんで邪馬台国を攻め、台与を殺害し、九州王朝邪馬台国は滅びるのであった。
がはははははははははは。
この完璧な理論を誰が覆せるというのか?
231日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:40:53
>>230 クナ国の神武ですって?アホですか?
神武天皇は日向にあった邪馬台国から大和に侵攻したのでしょう
これは日本書紀にある由緒正しい記述ですから、間違いありません
232日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:49:23
日向が邪馬台国なわけないだろ。
あんな何も無い辺境が。

233日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:50:05
おお、ついに九州説同士の議論になるのか?
234日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:52:22
サイキバくん、ショック受けて引っ込んでしまったな
そのうち縄文人も畿内説工作員だと認定して復活するだろうけど
235日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:53:20
つーか邪馬台国論争はドン来いでやってくれ
236日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:56:57
>>232
日向の考古実績を無視して展開する説に何の説得力もありませんね
北九州だけが先進だったとか、貴方夢見ているんじゃないですか?
237日本@名無史さん:2010/06/06(日) 01:11:48
縄文人VSサイキバか
まるで、出会ってはいけない二人が出会ってしまったとかのノリだな
238日本@名無史さん:2010/06/06(日) 01:24:21
相手が縄文人とかどうとかは、私にはどうでもいいことです
でもスr違いということですので、私はここで終わります
239日本@名無史さん:2010/06/06(日) 01:41:08
>「マキムクには九州の痕跡が無い」

普通この問題は所謂「東遷説」のように九州の勢力がやって来たとか
そこまでいかなくても交易でも密接な関わりがあったとか言う問題であって

「高床式建物」だとか「鉄器・製鉄技術」だのはそれこそ文化の伝播で片付く話。

ウリナラ起源説的メンタリティで火病起こすのはやめろゴミクズどもw
240日本@名無史さん:2010/06/06(日) 01:49:57
>>202
>それは想像図を見ても容易に推し量れる

そう言えば寺澤って絵描くの好きなのかな?wwww

まあ想像図やスケッチ残すなんてのはままある事なんだろうが
241伝らwwwwww:2010/06/06(日) 04:04:41
178 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2010/06/05(土) 22:58:38
鉄器に続いて、今度は建築様式まで非常識なことを言ってるな?

高床式住居は、南方からの伝来なの。
稲作と一緒に九州に伝らしたわけ。わかる?
収穫した稲を湿気から守るために高床にしたという知恵なの。

それがなに?縄文時代から日本にあっただあ?
縄文時代は竪穴式住居がメインだって学校で習わなかったのか?

あ、ゆとり世代は縄文時代なんて習わないかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

182 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 23:03:43
>178
>それがなに?縄文時代から日本にあっただあ?
そうだよ、それが現代の常識。もっと今の情報を学べ。

>あ、ゆとり世代は縄文時代なんて習わないかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
たぶん君より年上だよ、私は。
しかしきちんと学んでいるんだよ。そんな古い情報に縛られたりしない。

ちなみに

>稲作と一緒に九州に伝らしたわけ。わかる?

「伝ら」って何?????「伝播」のことかなwwwwwwwwwwww
242日本@名無史さん:2010/06/06(日) 09:22:32
サイキバ語録がまた増えたなw
243日本@名無史さん:2010/06/06(日) 11:59:16
縄文人がこんなところに来るわけはないわな。彼はもう古代史には飽いて芸術活動に励んでいるという
噂があるからな。
244日本@名無史さん:2010/06/06(日) 12:09:15
なんという・・・わかりやすい


縄文人は空想力があってもバカなのは変わりないしなw
245日本@名無史さん:2010/06/06(日) 12:13:28
やっぱり畿内説派は縄文人が怖いんだ〜 僕もバカ呼ばわりされたいな〜
246日本@名無史さん:2010/06/06(日) 12:15:22
邪馬台国論争に、弥生人、縄文人という話は意味ない。
なぜなら、日本列島で、新アジア人種と古アジア人種が混血しだしたのは
およそ5000年前からで、
邪馬台国時代の西暦3世紀(1700年前)は、そういう話は関係ない。
247日本@名無史さん:2010/06/06(日) 12:40:49
縄文人には・・・ちょっと(伸び代が)期待できないか?
東遷廚は、曲がりなりにも自説とその根拠(記紀)があるだろう?
248日本@名無史さん:2010/06/06(日) 12:55:09
>>247
多分どっちも駄目w

東遷厨というのは例の「恨み節」だと思うが
もはや自説の展開と言うより現在の考古学に対するクレーマーとして振舞うことに終始しているからなw

それがもはや自身の中で「脳内イデオロギー闘争」にまで来てしまっているので救いようが無いwww
249日本@名無史さん:2010/06/06(日) 12:56:08
影さえもない縄文人に怯えるの図 か。
250日本@名無史さん:2010/06/06(日) 13:08:21
「縄文人」を恐れると言うより弄りやすいみんなのオモチャだからなwww

「恐れる」と言うのなら邪馬台国九州説とりわけ
「邪馬台国東遷説」の人間が如何に纏向遺跡を恐れあるいは憎悪しているか
このスレを見ているとひしひしと伝わってくるwww

年代を別にしてもこんな物が連中にとってヤマト王権の始まりの遺跡であっては非常に不味いw

本来ならそこからは土器であろうが威信財であろうが
あるいは鉄や銅の鋳造施設であろうがそれは九州色の濃い
九州から直接人間がやって来て集落を形成した遺跡でなければならないはずでwww

纏向のおかげで九州説に立っているような例えば関みたいな作家にすら
「邪馬台国東遷説 オワタ\(^o^)/」と言われる始末wwwwww

251日本@名無史さん:2010/06/06(日) 13:34:34
まだ、邪馬台国東遷説に固執してる人っているの?

安本くらいしか思い浮かばないが。
原田は解脱したんだっけ?(笑)
252日本@名無史さん:2010/06/06(日) 13:35:18
彼らは気の毒な存在だと思うけどね。考古学的な成果は今後積み重なっていく一方だろうし、それ以外の学問も進歩している。
分子生物学など怖い存在になってくると思うよ。
253日本@名無史さん:2010/06/06(日) 17:35:23
>>252
そうだね。マキムク信者には何を言っても仕方ない。

「現時点では集落遺跡は出ていない。」

この事実を直視することから始めなければならないけど、それができない。
254日本@名無史さん:2010/06/06(日) 18:33:37
>>252
世の中の変化…というか事実が明らかになっていくことに対して
脳内がついていけないことの整合性がとれなくなっていってるんだから

喩えるなら、自分は食事していないと思っているのに
周囲から「お爺ちゃんもうご飯食べたでしょ?」っていわれてるみたいな
とんでもない葛藤が生じているんだろう

放射分析を否定し年輪を非難してここまできたけど
分子生物学的成果とか発表されたらどうするんだろうね?
255日本@名無史さん:2010/06/06(日) 18:37:15
ねえねえ
「集落遺跡」の定義って何?
集落じゃない遺跡は宇宙人が作ったの?
256日本@名無史さん:2010/06/06(日) 18:47:31
『発掘された日本列島2010』の31頁以下で纒向遺跡を扱っていますね。

もちろん、「集落遺跡は一つたりとも出土していないこと」は書いていませんw
・・・真実は出るまで黙ろうホトトギス。むしろ、みんなで黙ろう、かな。

調査面積は遺跡の5%にも満たない・・・は暗黙の言い訳ですね。
てゆうか、あと95%の発掘費用も税金から浪費させるつもり?自費でやれよ。

広大な面積の都市?・・・集落が未発見なので、「?」マークは忘れずに。
「?」はアリバイでしょうか。良心でしょうか。

他地域から持ち込まれた土器の比率が高い
・・・都市らしく見せるためのレトリックですね。
257日本@名無史さん:2010/06/06(日) 18:55:02
>分子生物学など怖い存在になってくると思うよ。

しかし考えてみれば人口のお話なら「歴史人口学」
「卑弥呼=アマテラス」なんて類のお話なら「比較神話学」
紀元後に奈良盆地に巨大湖あったなんて与太なら「地質学」
…等々ことごとく

「それは嘘、信用できない、全て畿内説の陰謀だあぁwせdrftgyふじこlp」

と叫ばねばならないこの板の九州説の連中って何なんだろう?www


258日本@名無史さん:2010/06/06(日) 18:57:23
>>256
いやだから「集落遺跡」の定義を教えてよー
自作自農できる体勢があったってこと?
259これはネタですw:2010/06/06(日) 18:58:11

まだ調査は5%未満だから、これから住居跡がたくさん出る予定です。
整然と整理された多数の住居跡が広大な地域に広がっているはずです。
大型建物が出た以上、小型の住居が出ないことはあり得ません。

もし出なかったとすれば、纒向に対抗する勢力が住居を完全に破壊したからです。
連合国内部での熾烈な紛争があったに違いありません。
260jこれもネタですww:2010/06/06(日) 19:00:30
>>258
そうなんだよね。
集落というのは、住居跡が必要というのは誤った固定観念だよね。

住居跡が全くなくても、都市であることは可能なのに、なぜ分からないのだろう?
261日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:02:40
>>256
>他地域から持ち込まれた土器の比率が高い
>・・・都市らしく見せるためのレトリックですね。

事実だろ。
レトリックじゃないぞ。
262日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:03:31
>>259
よく分からんのよ。ほんま、分からん
奈良盆地なんて広いんだから、毎日食料が運び込まれたってのもフツウに考えられることでしょ
なんでそんなに「集落遺跡」が鬼の首取ったように語られてるの?
263日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:08:12
>>261 日本語OK?
都市だというなら、都市遺構を示すのが普通だろ。
平安京や平城京や藤原京などは都市遺構そのものが都市の根拠になっている。


これに対して、マキムクで行われていることは、途方もなく異常なことだよ。

やっている本人たちは何とも思っていないかもしれないが。


264日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:09:58
俺もネタじゃなくて、サイキバがなぜ住居跡にこだわるというか鬼の首を取ったように喜ぶのかよく判らん。
彼の頭の中にはどんなイメージがあって、何をもって集落遺跡と定義しているのか想像もつかない。
たぶん本人もよく判ってなくて、見当はずれのことを連呼していることすらわかってないのではないかと思うのだが。
265日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:11:54
>>263
おまえ・・・もしかして条里が都市の定義だと思ってるの?
ならば江戸は都市ではなくなるのだが、それ判ってる?
266日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:14:53
>>263
脳内で勝手に都市定義を決めているわけか
あのな、古墳時代初期の前原も弥生都市の要件を満たしているからそう呼んでもいいんだぞ
まあ弥生時代じゃないから厳密にはおかしいのだが
267日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:16:01
>>265
お前はアホか?それともネタか?

「あるレベル以上の居住の痕跡がないと都市を議論する前提さえ存在しない。」
という自明のことを無視しているのが、途方もなく異常なことなんだよ。

268日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:18:38
>>267
それはお前の脳内定義の話だろwwwお前だけ自明でどうするんだよwww
269日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:20:22
ごっちゃごっちゃうっさいな

デカイ建物があった=それだけ人が集まった

異論あんの?
270日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:20:23
ああこいつ、弥生都市の意味がわからないんだ・・・
ということは縄文都市の意味も知らんわけだな
単に現代の意味の都市と混同してるんだ
271日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:22:03
>>269
そうそう、日本全国に多数の「都市」が存在したんだよね。

居住の痕跡がほとんどないとか、うざいったらありゃしない。
272日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:24:43
>>271
ゴメン、無知なもので
マキムクと同規模で同時期の遺跡って多数あるんですか?^^
273日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:25:12
つまり、考古学用語としての「クニ」の意味が理解できず、「国家」と混同しているようなものか。
ああそれで「ゆるやかな連合」の意味も判ってなくて、国連や植民地みたいなものを連想したわけなんだな
やっとお前の馬鹿主張の中身が見えてきたよ
274日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:25:32

主流派が「カラスは白い」と言ったら、下っ端は「純白です。」と言うべきだなww
275日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:27:05
>>267のような馬鹿が必死に食い下がるその根底は恐らく倭人伝の
「七万戸」とか言う数字のイメージがあって
人が少ない=邪馬台国でありえないと言う図式があるからだろうw

ところが今日纏向を纏向たらしめているのはw
良く「人々の生活の臭いがしない」なんて言われる特異性にあるわけで

この馬鹿にはいくら言っても無駄。

アホの一つ覚えのように
「竪穴式住居による集落郡が認められない」
と繰り返すのみ。

276日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:27:17
>>273
そうなんだよね。

仮に住居跡が1個も出なくても、都市の定義の問題にすりかえれば済むのにねえ。


んで、この場合の都市の定義って何だったかな?


277日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:29:28
>>275
だよな。

仮に定住者が一人もいなくても、ジョーカー様が都市だといったら都市なんだよね。

学者どもは、住居跡が少なすぎる事実を隠そうとしているが、それは邪道なんだよね。

   「無人都市」

まさに纒向にふさわしい名称ですね。
278日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:31:33
>>277
無人じゃないよ〜無農民だよ
地図見てよ、奈良盆地は広いよ
279日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:32:08
>>271 同規模とは言わないが、伊都国とされる前原周辺も複数の集落が衛星のように機能する
マキムクとは違う形の弥生都市だとの見方がある。
これは主に九大や九州歴史資料館の見解だが、頷ける部分が多い。
280日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:35:18
サイキバはマキムク周辺に農耕遺跡がないことは知ってる?
また第一次産業従事者がほとんどいなかったことも知ってるか?
なのになぜ「弥生都市」と呼ばれるか、そういうのはホントに知ってるのか?

ここでも相当恥かいているけど、他所で同じこと言ってもやっぱ笑われるだけだぞ
281日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:38:15
>>280
>なのになぜ「弥生都市」と呼ばれるか、そういうのはホントに知ってるのか?
あ、わたし知らん。
ご解説いただけるとありがたいです^^
282日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:41:23
>>277 はサイキバ君だな?w

火病起こしても中身の薄さをどうすることも出来ず
行間のスペースで何とか自己主張しようとする芸風は相変わらずだなw

例えば「豪族居館」と言われる遺跡が出れば
より権力構造が進んだ段階を見るのが常識。

そこに何千何万と言う人口を想定しうる竪穴式住居郡が無くてもだwwwww
283日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:43:08
>>280  そうだよね。

A、纒向周辺では1面の田畑跡さえも見つかっていない。 しかし、大きな水路がある
  これは、もう都市と言い切っていいよね。

B、各地の土器が出土するのも、各地から人が集まる都市だからだよね。

C、纒向からちょっとはなれた所に人が住んでいた遺跡がたくさんあるから、そこに
 住んでいた人が纒向に集まって労働したしたんだよね。これはもう都市に違いない。


だから、纒向で住居跡がほとんどないとか、余計なことは言う必要ないよね。
むしろ、言ってはいけないよね。

A、B、Cは纒向が「大きな市場」であったとの説明で済むとかも余計なことだよね。
284日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:48:50
>>281

>>124にあるのが、まあ普通の「都市」の定義だよね。
これに対し
1、の天皇の宮殿を首長層居住区とし
2、官人の集住から人つまり一般層の居住を省き
3、は必須とし
4、寺院を宗教施設とし
5、から条坊制を外し
6,7、は必須としたのが、寺澤の提唱した「弥生都市」だね

だから「都市」とはかなり意味が違うんだ。
これが縄文都市となると、もっと縛りは緩くなる。
もっともこの定義も、先にあげた前原なども弥生都市とするならばまた変わってくるのだが。
285日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:48:52
>>283

結局、この知障は、マキムクが市場だってことは認めてるの?
286日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:52:39
ジョーカーさんって、みんなのおもちゃなの?
287日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:55:50
>>285
みんなの努力もあって、ちょっと進歩したみたいw

相変わらず日本語が不自由なのは変わらんようで
「伝ら」などと「祭器場」の過ちを繰り返してるし、都市と弥生都市の違いも判らんようだけど。
288日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:57:23
都市国家間で連合が成立し、女王を推戴。
女王の住まう処としてマキムクが造られ、聖地として運河やら古墳が造られた
ってこと?
289日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:00:49
>>288
いや今のところはそこまで判ってない。
というか倭人伝記述と照らし合わせて、仮に卑弥呼が実在したと仮定しても
マキムクが先なのか女王が先なのかは、当分判らんだろう。
俺はマキムクのほうが先で、卑弥呼は交易連合機能してから女王認定されたと考えているのだが。
290日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:15:03
>>289
マキムクは2世紀中頃には機能してたってこと?
291日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:20:07
>>290
それも判らない。というのは最初からあの面積を持ってたわけではないんだ。
大溝が最初に作られ、その時点では大和や河内が主メンバーの中にいただろうとは出土品と地層から推測できるが
その後にどうなっていったのか、吉備は布留以前は何をしていたのかなど、まだ不明な点が多い。
こういうのはマキムクの調査よりも、各クニの拠点の精査な調査が必要だから。
292日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:20:58
>>284  纒向は都市には程遠いということか?

1、天皇(首長)の居所と中央政府   → 未出土
2、官人の集住              → 未出土
3、物資の公益手段と市場       → 解釈により○とする
4、寺院(宗教施設)           → 大型建物で○とする
5、城坊制ないし都市計画(らしきもの) → 未出土
6、都城民の階層性           → 未出土
7、7第一次産業者の欠如       → ○(二次産業も欠如だが)

首長の居所も、支配者層の集住も、さらには二次産業従事者の集住さえも確認できない。
というか、人の居住の痕跡があまりにもなさ過ぎる。
これを都市とかいうのは、精神的におかしいと思う。
293日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:25:46
>>292
前に言ったろ、嘘をつくなら俺ら相手じゃなくもっと素人を狙えって。
俺らにそんな見え透いた嘘をついて、何がしたいんだお前。

全部出土してるよ。

それと「都市」じゃなく「弥生都市」な。
両者はまったく別物だから何度も間違うな。
294日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:28:10
>>293  そうだよね。

支配者層の集住の住居跡は、これから出土するんだから、
現時点だけで判断してはいけないよね。

事実だけを前提に考えるというのは、夢がなさ杉だな。
295日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:30:46
>>293  そうそう。

マスコミ発表は控えているけど、王宮も既に見つかっているし、
支配者層の集住の遺跡も出ている。
二次産業従事者の大規模な集住の遺跡も出ている。

脳内ソースなので、マスコミには発表できない。
296日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:32:50
太宰府なら、弥生中期から後期終末期を超えて、飛鳥時代まで
住居跡も政庁跡もありますな。

奈良までずっとつづいていて、都市と呼ぶにふさわしい。
297日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:35:17
まあそれでは、サイキバ君にちょっとショックなことを書いてあげようかな。
実は寺澤の弥生都市論にいち早く賛成して、纏向より早く九州に弥生都市が出現したと主張する人たちがいる。

それは誰か?

安本美典と古田武彦なんだわwwwwwww

彼らはそれぞれ、平塚川添を中心とした衛星都市、玄界灘を舞台とした連携都市。
こういったものを想定している。

だから弥生都市論を否定する、つまり纏向が弥生都市ではないと主張するならば、安本や古田の否定でもあるわけだ。
だから君の主張は、根本的におかしいんだよ。
脊髄反射で無人とか書いているだけだろうが、安本や古田の主張とも反するということも今後は頭に入れろよな。
298日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:36:40
>>294-295
知らんのなら書くな、安本と古田にも謝れ。
299日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:40:15
1 人口密度が高く集住
2 異質な職掌の共生
3 政治的・経済的・宗教的センター機能を発揮
4 人々を政治的・経済的・宗教的に統合した首長の存在
5 共同幻想を創出した神殿
6 センター機能を掌握し多様な人々を一箇所に集めた首長(権力)の求心力
(<広瀬和雄の弥生都市論> 秋山浩三「池上曽根遺跡」より)

纒向では3456は認められるんじゃないか。

集住についてはともかく、大溝・大型墳墓(=大土木工事)の存在から、
人々を大量動員する求心力(=首長権力)があったのは間違いない。
300日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:43:19
>>297
ごめん、もうちょっと分かりやすく言うてくれる?

「弥生都市論」ってナニ?

別に日本列島に住む全員が同じ文化レベルを共有しなきゃいけないわけじゃない
301日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:43:26
>>299
そうだね、広瀬の定義を用いるならば
前原は1,2,4,6などが現在確認されている。
だから弥生都市論というのは何も纏向限定の話ではないんだ。
302日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:44:32
>>300
すまんが質問の意味がわからん。もっと絞って尋ねてくれる?
303日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:49:20
wwwよ
たぶんサイキバ改め伝ら君は言葉尻だけ見てやり返そうとしてるw
ゆえに支離滅裂オワットルw
304日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:49:51
>>297
>彼らはそれぞれ、平塚川添を中心とした衛星都市、玄界灘を舞台とした連携都市。
>こういったものを想定している。

>だから弥生都市論を否定する、つまり纏向が弥生都市ではないと主張するならば、安本や古田の否定でもあるわけだ。
>だから君の主張は、根本的におかしいんだよ。

いや〜〜
この「弥生都市論」
わかる?要約してよ
305日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:52:29
纏向は太田地区周辺が前半期の中心地で、後半期には中心は巻野内のほうに移ってるだろ。珠城山古墳群の北に断面V字形の溝に
囲まれた居館あるいは神殿のような建物群が推定される大規模な区画があり、そこからさらに西で、樋・槽を連ねた祭祀場の遺構が検
出されてる。これが記紀にいう垂仁天皇の「纒向珠城宮」かな。
306日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:54:55
>>299
筆頭部分の1、2がダメなのに多数決でOKなの?
人がいないと、3〜6も前提が成り立たないよ。

だからマキムク信者の間では、集落遺跡が出ていないことは言わない約束だろ!
307日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:56:50
>>304
そっちかwww
安本大先生は、平塚川添に居館や祭祀場があって、その周辺に前原のような各技術に特化した工房を持つ中小集落があると仮定してるんだよ。
で、これらが平塚川添の直轄の元に機能していたと、まあそんなことをおっしゃっておられるわけよw

で、古田御大は、玄界灘一円に散らばる各集落遺跡が、実は相互に強固な同盟関係にあり、その中心で王都にあたるのが須玖岡本だとかのたまわっておられるとw

まあ好きにしてwwwって感じだけどね。
308日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:59:43
>>306
僕たちいま大切な話をしているから、アスペ伝ら君は泣かないでおとなしくしててねw
309日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:00:44
ばかばかしい議論だね。だいたい纏向遺跡の範囲というのは誰が決めたのかな。単に旧磯城郡纒向村という行政区域を便宜的
に範囲としているだけで、実際はもっと広い。少なくとも大和川沿いは河内のほうまで続いてるだろうし、東西にかけてもそう。さら
に外来土器からわかるように、人は極めて広範囲から集まってきている。限定された地域の集落跡とかに何の意味があるのか?
310日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:02:05

                 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                 | ちょ、ちょーとまって!!!今>>293が何か言ったから静かにして!!
     , ,-;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:,.  ヽ─y──────────────   ,-v-、
    /;:;:;:;:;:;:ミミ;:;:;:;:;:;:;:;:;:;`、                          / _ノ_ノ:^)
    /;:;:;:;:彡―ー-、_;:;:;:;:;:;:;:;|                           / _ノ_ノ_ノ /)
    |;:;:;:ノ、     `、;;:;:;:;:;:i                        / ノ ノノ//
    |;:/_ヽ ,,,,,,,,,,  |;:;:;:;:;:;!                      ____/  ______ ノ
    | ' ゚ ''/ ┌。-、  |;:;:;:;:/                     _.. r("  `ー" 、 ノ
    |` ノ(  ヽ  ソ  |ノ|/               _. -‐ '"´  l l-、    ゙ ノ
_,-ー| /_` ”'  \  ノ   __       . -‐ ' "´        l ヽ`ー''"ー'"
 | :  | )ヾ三ニヽ   /ヽ ' "´/`゙ ーァ' "´  ‐'"´         ヽ、`ー /ノ
 ヽ  `、___,.-ー' |   /   /                __.. -'-'"
  |    | \   / |   l   /            . -‐ '"´
  \   |___>< / ヽ

      
  んで、何が出土しているのかな?
311日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:06:33
>>309
いや議論ちゃう節子、子供をあやしているだけやからw

で弥生都市論というのは、中心となる集落の存在だけでなくそのまわりに対する求心力と特化工房の存在も大きく関係するわけだね。
だから纏向は当時としては桁外れに大きい弥生都市だったというのが、だいたい一致した意見だね。
あとはもっと出土例が増えて、弥生都市の定義をもっと絞り込めるかという、これはまあ用語の定義みたいな話だから実態とは関係ないけど、そういうこと。
312日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:08:05
ただ面白いと思うのは、記紀の各天皇の宮というのが、それなりに発掘成果と対応していることだな。今度発掘された御所市の
秋津遺跡にしても4世紀前半で、孝安天皇の室秋津島宮から発展したものとか考えれば馬鹿にはできないと考えるようになって
きた。ww
313日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:10:35
>>309>>311  自演乙☆ジョーカー

つまり、「マキムク遺跡」からは集落跡が出ていないから、二次産業従事者どころか、
支配者層の集住さえも確認できないので、もっと広域にしろということか。

それではマキムク信者は激怒するぞ。
彼らは出土を信じている。
信じているからこそ、それを見込んでマキムクを都市と発表しているんだから。
314日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:13:56
>>310
何でそんな初歩的なことも知らんのかねえ、アスペ伝ら君は

1、天皇(首長)の居所と中央政府   → 昨年の大型居館
2、官人の集住              → 同上、そして土壁と御簾とみられる藁製織物
3、物資の公益手段と市場       → 多方面からの大量の外来式土器
4、寺院(宗教施設)           → 纏向型前方後円墳を始めとする多数の墳墓と祭祀具
5、城坊制ないし都市計画(らしきもの) → 大溝
6、都城民の階層性           → 2と同じ
7、第一次産業者の欠如        → 農具の異常な少なさと農耕以降の欠如
315日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:15:33
>>313
いやそんなマキムク信者とか、アスペの脳内にしかいないから
これが普通の纏向論で、君のはサイキバ脳内マキムク論。
316日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:17:23
というかお前にかかったら、みんなジョーカー氏なんだなw
たぶん彼は今ここには居ないよ。
俺ともうひとりかふたり、ジョーカー氏以外が居ると思うわ、レス内容から判断して。
317日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:18:29
そのうちのひとりはたぶん縦目さん。>>312とかは彼じゃないかな?
318縦目仮面:2010/06/06(日) 21:18:35
>>305 >>309は俺のレスだよ。

なんで、めずらしく名無史で真面目なことを書いてるのに、自演を疑われなきゃならんのだ?
319日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:20:11
>>314
1は居住の痕跡は出ていないよね。
2も無理な解釈だね。
3は市場だから、当然だな。
4は古墳なら全国に10万以上あるぞ。
5は我田引水も甚だしい。住居跡のない水路に何の意味があるのか?
6は階層を形成する前提の集住が未確認
7は、結局二次産業従事者は一人もいないでFAか。

これじゃあマキムク信者は激怒するだろ。
「出土予定のものは出土したとみなせ!」って。
320縦目仮面:2010/06/06(日) 21:20:16
あ、>>312 も俺。
321日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:22:13
>>312
案外そういうところは一致しているといってもいいかもしれないね。
ただ秋津遺跡はどうやら渡来系の要素が強いということらしいので
複数並列していた有力首長たちを、天皇家の名の下に一元化したのが記紀だと考えたほうがよさそう。
322日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:23:34
名無史で書くからだろw
ほいで後から正体あらわす様なことしてるから
叩かれるんだろww
323日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:24:29
>>319
うわーっ!纏向型とか庄内式とかも知らんのか・・・こりゃあかんわw
324日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:25:44
>>323
それが反論?哀れだな。 もう遊んでやらないぞww
325日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:27:08
>>322
いいんじゃない?名無しで書いて後から叩くのって
サイキバ、縄文人、東遷厨の三馬鹿と日向厨とかの素直に読めばさんぐらいなんだから。
とまたドン来いに続いてこっちでも縦目さん擁護www
326日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:27:57
>>324
あっ遊んでくれないってw
そりゃ嬉しいわ
じゃあバイバイ、二度とくるなよ
327日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:27:57
>>321
まあ、書かれた時点の視点が大きく入ってるのは間違いないだろう。あと、渡来系は重要だと思う。岡田英弘氏の説はちょっと
飛ばしすぎだけど、渡来人系が歴史の要所要所に大きな影響を与えてるのは確かだろうね。
328日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:28:03
>>325
自演乙☆
329日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:31:26
あと歴板でコテで書くのは、ローガン氏とか他のコテに話しかけるときと自演を疑われたときだけにする.。ww 実際は「ドンと来いスレ!」
でも俺のレスは大量にあるよ。叩くのはどうぞお好きなように。ww
330日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:31:45
やっぱジョーカーがいるとスレが伸びるな。
奴は良い反面教師だ。
331日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:32:38
>>327
うん俺は纏向もそうなんだけど、いかに渡来系を取り込んだかが
権力拡大の重要な要素なんじゃないかと考えている。
渡来人がイニシアチブを取ったとかの昔の単純な説じゃなくて
彼らの技術や知識を吸収し、それを原動力の一つとして台頭した首長たちが拮抗していたんじゃないかと。
332日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:32:38
>>306
>人がいないと、3〜6も前提が成り立たないよ。

前提もなにも3〜6は検出された事実により既に成り立っている。

確かに、
都市とは「相対的に大きな人口と密度をもった、人とものが集中する大集落」 という定義が前提
だろうが、

纒向が都市かどうかの議論には関係なく、
王権の存在を示すものがあるかどうかが問題だと思っている。
333日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:34:05
>>320

お前ほんと悪い奴だな
コテがスレを私物化して遊ぶのって感心せんよ
邪馬台国関連のスレってちょっとおかしい
334日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:34:19
>>330
いやアスペ君が居ると無駄レスが増えて鬱陶しいんだわ。
だから遊んでくれなくていいから帰ってね。
おじさんたち、もう君とは遊ばないから。
335日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:36:21
>>332
その理屈はアウトだな。
マキムクでの集住の痕跡が少なすぎることを隠して言うならなおさら。
336日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:36:29
>>333 いやおかしいのはお前。
こうやってきちんとした話が出来るから、俺は縦目氏やジョーカー氏を買っている。
でもお前は一発芸の自演叫びと無駄な煽りしかないだろ?だからもう遊んでやらない。
337日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:38:05
>>334
そんな涙目で言うなよ。
意地を見せて、また来いよと見送る度量を見せてくれよ。
338日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:39:39
>>336

おいおい俺はサイキバ伝ら君じゃないぞw
サイキバ縄文に限らずまともじゃないコテも叩くけどな
縦目も相当アスペ入ってるなw
339日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:40:01
>>337
ダメ!アスペと遊んじゃいけないって、おじいちゃんの遺言だからw
340日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:42:16
まあ、前に書いたものだけど、

「考古学研究」に載った次山淳氏の研究では、布留0,1期の吉備型甕の移動ルートは、
>博多湾沿岸⇔周防灘⇔松山平野・今治平野⇔備後東南部⇔吉備⇔播磨⇔摂津沿岸⇔大阪湾⇔河内湖⇔大和川⇔大和。
  最多出土が「河内・小阪合遺跡」で45点。分布の両端にあたる「西新町遺跡」と大和への出入り口「船橋遺跡」そして「纏向遺跡」
  で突出した出土がある。

こんなように、センターへ向かうルートが徐々に明らかになりつつある。都市がどうのこうのというのは定義の問題でしかない。
341日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:44:58
>>340
おっ!一時期は播磨越えが謎とされていたんだが、それは出土例がでたのか!
それは知らなんだ。
342日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:48:43
西新と後期の唐古・鍵はよく似た特徴を持っているよね。
船橋は居住区分は確認されてたっけ?
343日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:51:28
まあアレだ「都市」と言う文字が気に入らないのなら
リアルで学会にでも働きかけてより正しくその内容を伝える語を提案して認めさせろって話だな。

「そこには大型建物や大型古墳や大溝が何故かある無人の市場」

…じゃあ言っている意味が分からないwww

このサイキバか恨み節の言っている都市の定義は手っ取り早く言い換えれば
「藤原京以前に都市なんか無い」で済む話。

弥生時代、古墳時代に都市を認めようと言うのは
そもそもその定義も違ってくる話。


344日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:54:56
>>343
ジョーカー氏登場かw
今まであんただと間違って俺に絡んでくる馬鹿が居て困ったよw
悪いが遊んでやってくれw
345日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:56:03
>>342
遺跡が河川の中にあって土器だけが出土してるんじゃなかったっけ?あと、東海ルートをいろいろ考えてみるんだけど実に興味深い。
だれか情報ないかな。
346日本@名無史さん:2010/06/06(日) 22:07:55
>>340
「周防灘」って所に注目したいな、やはり宇佐との絡みでwww
宇佐と言っても記紀の内容より本州と同型の鏡を多数出している「赤塚古墳」とかの関係が気になるところ。

あと土器で言えばやがて布留に入って山陰や北陸と言った
日本海側の影響が認められると言うが
その辺の発展経緯も現在どれくらい分かっているんだろう?

>>344
>ジョーカー
人違いです。
私は通りすがりの名無しですwwwwww
347346:2010/06/06(日) 22:15:52
まあ考古に詳しいこのスレの大半の人には今更だろうが
「赤塚古墳」について参考までに

http://www.e-obs.com/heo/heodata/n12.htm

>全長約58mとさして大きいとはいえない赤塚古墳がとりわけ重要視されるのは、
>初期ヤマト政権の九州進出の拠点として、宇佐地方が大きな役割を果たしたからにほかならない。
>後世、仏教の受容、 八幡神 の登場といったこの地方の重要な節目に、それぞれ大和との強い絆で結ばれるが、
>その最初のきっかけは、宇佐赤塚に始まるといってよいだろう。
348日本@名無史さん:2010/06/06(日) 22:17:52
四国ルートは銅矛・銅剣祭祀圏からの繋がりかな。四隅の領域とは吉備を通じて繋がりがついたか?赤塚はヤマト王権の
拡充拠点なんだろうね。
349日本@名無史さん:2010/06/06(日) 23:04:16
しかし、マキムクに関しての報道で興味を持った人がこのスレを見たら驚くだろうな。
なんせ、集落や集住の痕跡がまったく出ていないことが出発点なんだから。


「騙された!」と思うのが普通の人。

しかし、集落がないことを前提に反論するのがジョーカー。
この空気を分かっていないのがジョーカーのジョーカーたるゆえん。

マキムクに関しての報道で集落が出ていないなんて弱点はひた隠しにされてきたのに、
開き直って反論するジョーカーにはマキムク信者も激怒だろ。
350日本@名無史さん:2010/06/06(日) 23:20:31
>>349 サイキバ君

…しかしお前、本当に古代史・邪馬台国関連についてネットだけ
しかもこの2ちゃんといくつかのサイトしか見てないだろう?

「纏向が政治・宗教に特化した都市」なんて
ほんの少し古代史に興味持っている人間なら常識レベルのお話。
(むしろこっちの方が話が膨らみやすいw)

俺が壮大なペテンの構図を作り出したって話か?www
逆にそんな事を俺レベルでやれるものならやってみたいわドアホw

まあサイキバ君とかはこの板で散々馬鹿にされて地縛霊化しちゃったんだろうが
古代史なんてのが元々浮世離れしたネタなんだろうが
もう少し現実世界と接点持とうな?wwwwww

「アスペルガー」だっけ?
ちゃんと病院にいって治した方が良いと思うぞw

351日本@名無史さん:2010/06/06(日) 23:35:24
>>350
君は釣られるとすぐに出てくるね。
そのくせ自演も好きだよね。
「サイキバ」ってのも自分が自演した分身のことだろ。

しかし、君が何を書こうが一般の人は「マキムクはですごい数の住居跡が
見つかったんだろうなあ〜」と受け止めているわけ。
連中がマスコミ向けに過大な発表をするのも、これを期待してのこと。

「学界よりも先にマスコミ発表というのは良くない。」とさんざん言われて来たし、
旧石器捏造事件の背景にも同じ事情があるのだが、止められないんだろうね。
352日本@名無史さん:2010/06/06(日) 23:36:34
>>351

誰だこいつは(笑)
353日本@名無史さん:2010/06/06(日) 23:48:22
それにしても、石野は都合のいい立場に居るね。
>>132みたく、纒向が「都市」とかあおり倒してきたのに最近では「市場」の可能性も
示唆して、状況が悪くなったら逃げるアリバイも作っている。

三角縁舶載説を否定して、C14にも否定的な意見を言って、年輪年代は10年前から
無視し続けて、年代遡上に不可欠な「危ない学説」をきちんと避けつづける一方で、
なぜか年代遡上を維持し続け、マキムク論でもトップに君臨する。
まるで小沢一郎のようである。
354日本@名無史さん:2010/06/07(月) 00:11:16
>>351 
>しかし、君が何を書こうが一般の人は「マキムクはですごい数の住居跡が
>見つかったんだろうなあ〜」と受け止めているわけ。

>>353で小沢一郎とかスッと出てくるのはやはり脳内イデオロギー闘争大好きの恨み節かな?w)

で、それはどのようなリサーチで知りえるのかな?w

はっきり言ってやろうか?
”一般人”なんて居住跡がいくら出たなんてあまり関心ない。

吉野ヶ里でも池上曽根でも居住跡がいくら出てきたなんて
その規模のイメージすら持っていないだろうwww

ぶっちゃけ一般人の関心を引くのはやはり大型建物wでっかいハコモノwww

「一次産業従事者の居住跡が殆ど無い」とか言っても
「騙された!」なんて思うのは稀だと思うぞ?w

まあお前が周りの人間に精々この事を喧伝して
「現在の考古学会はペテン師のすくつだ」と言いふらして世論を喚起すればよろしいw

悪の組織キナイセツの野望を打ち砕くまで精々がんばれw

355日本@名無史さん:2010/06/07(月) 00:20:50
>>354
そうそう。一般人を騙すのなんて簡単だよなあwww


って、ジョーカーっがそれを言ったらおしまいだろ・・・

356日本@名無史さん:2010/06/07(月) 00:31:39
俺、一般人だけど、邪馬台国はヤマトでしょ。
357日本@名無史さん:2010/06/07(月) 01:16:29
>>344
やぁ太国
358日本@名無史さん:2010/06/07(月) 14:21:53
>>340
>「考古学研究」に載った次山淳氏の研究では、布留0,1期の吉備型甕の移動ルートは、
>>博多湾沿岸⇔周防灘⇔松山平野・今治平野⇔備後東南部⇔吉備⇔播磨⇔摂津沿岸⇔大阪湾⇔河内湖⇔大和川⇔大和。
>  最多出土が「河内・小阪合遺跡」で45点。分布の両端にあたる「西新町遺跡」と大和への出入り口「船橋遺跡」そして「纏向遺跡」
>  で突出した出土がある。

>こんなように、センターへ向かうルートが徐々に明らかになりつつある。都市がどうのこうのというのは定義の問題でしかない。

要するに、纏向に政治的、商業的中心があったと言いたいのかな?
しかし、異なる地域での類似土器の出土は何を意味するのであろうか?

それらの地域間で交易が行われていた(壷は品物の容器として用いられた)ことを示すのか、
あるいは土器職人が各地を巡りながら製品を作っていたのか、
または土器製造技術が各地に伝わっただけなのか。

仮に「異なる地域での類似土器の出土」が交易の結果だとして、

その交易は誰がどのように行っていたのであろうか?
国としての貿易であったのか、民間(商団)によるものだったのか。

以上のような疑問に考古学は答えることができるのだろうか?


359日本@名無史さん:2010/06/07(月) 17:24:25
>>358

ヤマト王権の庇護のもとに、海運が行われた、という以外にどういう説明ができるんだ?

360日本@名無史さん:2010/06/07(月) 18:38:36
>>359
ヤマト王権の庇護など必要なかろう。だいいちヤマト王権の考古学的証明などあるか?まして庇護など
考古学で分かるわけがなかろう。
361日本@名無史さん:2010/06/07(月) 19:22:01
>しかし、異なる地域での類似土器の出土は何を意味するのであろうか?
>その交易は誰がどのように行っていたのであろうか?
>以上のような疑問に考古学は答えることができるのだろうか?

自らは蓋然性のあるモデルを提示することなく
ひたすら「〜だろうか?」だけの繰り返し…鬱陶しいな。

そこから蓋然性のある仮説を組み立てるのが考古学って分野だろうが

お前のやっているのは質面形式にした単なるイチャモンつけにしか見えんわwww

布留を契機にが巨大な定型化した古墳が出現し
古墳時代が本格的にスタート。
そして弥生土器にない斉一性をもつ土器が九州から畿内まで現れる…

これをヤマト王権発生にリンクさせないなんて考え方は
正直、九州王朝説的立場にしか思えない。

中学生の歴史教科書の内容が書き換わるようなレベル。

このスレの住人は そこまで付き合えない のが殆どだろう。
(サイキバ、恨み節…といった連中除いて)

まあ、できれば他のスレでやって欲しい。
個人的にはいい加減ウンザリ。
362日本@名無史さん:2010/06/07(月) 20:39:35
>>358
>以上のような疑問に考古学は答えることができるのだろうか?

考古学の先生の回答を待ってるわけ?
検出された事実をもとに、自分で考えるってできないの?

つまらん文句を言ってるキミより359氏ははるかに優れてるんじゃないか?

>異なる地域での類似土器の出土は何を意味するのであろうか?
>土器職人が各地を巡りながら製品を作っていたのか

共同体から離れて自己資本を保持し得る段階ではないだろう。

>土器製造技術が各地に伝わっただけなのか。

そうであれば、型式の変遷が漸次的に伝播するものだろうし、全体がいずれかに統合されてゆくものではないか。
そうすると

>それらの地域間で交易が行われていた(壷は品物の容器として用いられた)ことを示す

というのが妥当じゃないかな。
363日本@名無史さん:2010/06/07(月) 20:46:39
まあ、>>340のような研究報告は、これから山のように積み重なっていくだろうから、東遷厨にとってはこれからの人生は
「苦の世界」以外の何物でもない。www
364日本@名無史さん:2010/06/07(月) 20:51:53
>>363
東遷厨なのかなあ?いまドン来いと卑弥呼で九州王朝がひとり暴れてるじゃない?
こいつのような気がするし、案外古田東遷説(古田説の中の一派)ということで同一人物かもしれない。
365日本@名無史さん:2010/06/07(月) 21:01:37
>>361
横レスすまんが、

俺は、>>340を一読したその瞬間には、
「センター」なるものは、当然「吉備」だと思ったんだがw


もちろん、>>340の読解としては誤解だろうが、
このルートが示されただけで、
いきなり「絶対にこれはヤマト王権誕生!!それを想像できないなんて所詮古田論者!」
というのも、大和王権絶対主義に嵌っていると思う。
このルートが、東国の果て、茨城県あたりまで繋がっているとするなら、そりゃ「センター」は畿内だろうけれど。

この話は、前前スレあたりからずっと論ぜられてきた。
「西南日本の『東の果て』」にすぎない巻向が、なぜ全国の覇権を握ったのか?という
根本的疑問だ。議論そのものは出つくされている感があるが、
だからといって、>>340ルート⇒大和王権誕生!!教科書も完全に書き換えるのが当然!!
と早まるのは、やはりおかしいと思うが。
366日本@名無史さん:2010/06/07(月) 21:13:20
>>365
いや俺も「吉備型甕の移動ルート」とあるから、当然ここで言うセンターは吉備だと解釈した。
だからこそ次の>>341で播磨超えが確認され、吉備から見て東ルートである畿内への繋がりに物証が出たのかとレスしたんだ。

ややこしく見えるのは、その後にこの>>340の示唆するところを全く理解していない九州王朝?が
見当違いのいちゃもんをつけてきて、そこで議論が止まってしまったからだと思うが。
367日本@名無史さん:2010/06/07(月) 21:15:16
>>362
>考古学の先生の回答を待ってるわけ?

358の意図はそうじゃないだろう。考古学では答えられないと言っているのだと思うよ。
土器の出土状況が大和王権誕生を物語るというのはおかしいと言っているのだろう。
たしかに、それらの地域で交易が行われていたということを示すだけだからね。
368日本@名無史さん:2010/06/07(月) 21:25:11
>>367
それはおかしい罠。では文献学が答えられるのかと問い返されたら
まともな文献学者ならわからんと答えるだろう。
それを文献どおりだ、記紀が真実だ、いやいや九州年号だ、とか言ってるのは素人だけだろ。

考古学成果からは、今までの近接交易とは明らかに違う遠隔直接交易が始まったと見ざるを得ない。
それとその直後から始まる前方後円(方)墳の急激な拡散と、日本各地で同時多発的に起きる集落再編成を踏まえて
これは畿内に何か大きなムーブメントが起きたとの仮説を立てているわけだ。

そのムーブメントの正体としていくつか考えられるもののうち、現在最も蓋然性が高いと考えられているのが、ゆるやかな連合説ということだ。
369日本@名無史さん:2010/06/07(月) 21:41:28
>>367
>考古学では答えられないと言っているのだと思うよ。
>それらの地域で交易が行われていたということを示すだけだからね。

この時代の交易がどんな意味をもっていたかを考えることはできないかな?
当然、物々交換の段階であり、交換する物資が双方になければならない。
では誰が交易品である物資(余剰生産物)を保持していたか。

弥生社会の誕生以来、生産は集落単位の活動であり、
その余剰物資は共同体成員の共有財産として共同管理されるものであった。

やがて首長権の成長とともに、物資は首長層の管理するものとなるのであるから、
それら余剰物資をもって交易していたのは、各地域の首長層であったと考えられる。

交易の主体が首長層であるなら、その行為は政治行為とみなせるだろう。
ならば、交易の在り方は当時の政治情勢を反映するものと考えていいのではないか。
370日本@名無史さん:2010/06/07(月) 21:55:25
>>368
>考古学成果からは、今までの近接交易とは明らかに違う遠隔直接交易が始まったと見ざるを得ない。

糸魚川のヒスイは縄文時代から各地に運ばれている。沖縄産の貝の腕輪が北部九州に運ばれている(例:吉野ヶ里
のゴホウラ腕輪)。漢鏡などは随分遠いところから運ばれている。遠隔地交易は昔からあったのではないか。
371日本@名無史さん:2010/06/07(月) 22:10:09

■沖ノ島 韓国研究者ら注目 「共同で世界遺産に」

朝日新聞 2010年6月6日
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201006040283.html

 玄界灘に浮かぶ沖ノ島(福岡県)。その昔、大和朝廷が航海祭祀(さいし)を催した神の島として、今、世界遺産をめざしている。
近年、韓国の遺跡との類似が指摘されたり、祭祀の主催者は外国勢力だったとの見方が浮上したりと、海外の専門家からの注目度も高まっている。

 沖ノ島は古代の海路上にある孤島。古代国家が航海の安全を祈って、4〜10世紀に祭祀の舞台にした。8万点もの遺物は国宝に一括指定されており、「海の正倉院」とも呼ばれる。

 昨年、世界遺産“予備軍”となる暫定リストに「宗像・沖ノ島と関連遺産群」として記載されたが、文化庁からは、国際的な評価を得るには顕著な普遍的価値の確実な証明が必要などと注文がついた。
関係自治体はアピール活動をしており、「東アジアでも一流の遺物が出ており、国家レベルの交流があったことは間違いない」(中国社会科学院考古研究所の王巍さん)と評されるなど手応えもある。

 先月30日に福岡市内で開かれた、自治体や関係団体でつくる推進会議では、来年2月に東京で国際シンポジウムを開き、世界遺産実現に向けて弾みをつける計画も報告された。

 ソウル大名誉教授の任孝宰さんは「沖ノ島と韓国の竹幕洞は多くの点で共通している。お互いに密接で、分かちがたい遺跡だ」として東アジアを視野に入れた連帯の必要を説く。
竹幕洞遺跡とは全羅北道の祭祀遺跡。海岸線にあり、たくさんの遺物が見つかった。日本や中国の品々もあり、沖ノ島と共同で世界遺産に提案したらどうか、との声もちらほら聞こえてくる。

 韓国・東亜大の朴廣春さんは、祭りの主催者として新羅を想定する。
金の指輪や馬具など新羅の優品が目立つことを根拠に、新羅の使いが近畿に向かう途中で祭祀をしたり、6世紀前半に大和政権に対して蜂起した筑紫君磐井と新羅の使いが一緒に祭祀をしたりした、という。

 大胆な仮説ながら、専門家会議の委員長、西谷正・九州歴史資料館長は「世界遺産の実現には海外有識者のサポートを得ることが大事だ。学術的な注目も大きな追い風になる」と歓迎している。(編集委員・中村俊介)
372日本@名無史さん:2010/06/07(月) 22:15:50
>>369
>それら余剰物資をもって交易していたのは、各地域の首長層であったと考えられる。

売り手なり買い手としては各地域の首長層が考え易いが、それを仲介するものとしての商人(商団)
の存在があったのではないか。大陸では殷(商)の時代に商業が興ったとされる。その後の各国の
高官の中には商人の出身者も多い。日本列島でも商行為を生業とする者やその集団なり組織があった
としても不思議ではない。
373日本@名無史さん:2010/06/07(月) 22:16:38

■梅原猛氏講演「出雲王朝は存在」

山陰中央新報 '10/06/05
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=520090004

 かつて古代出雲王朝の存在に否定的な自説を示し、昨年、雑誌上で撤回した哲学者の梅原猛氏が5日、出雲市駅南町、ビッグハート出雲で講演し、出雲地域で度重なる青銅器群の出土などを理由に「出雲王朝は存在した」と語った。

 講演会は、梅原氏の新著「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」(新潮社)の出版を記念し、松江市の今井書店が主催。県内外から古代史ファンら100人が聴講した。

 梅原氏は約40年前に書いた「神々の流竄(るざん)」で、出雲地域に神話を裏付ける考古学的遺跡がないことを根拠に、出雲神話について「大和に起こった出来事を出雲に仮託したもの」と主張した。
しかしその後、荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡など、古代史を塗り替える貴重な発見が出雲地域で相次いだ。

 この日の講演で、梅原氏は「神話に匹敵する遺跡があったと言わざるを得ない」と自説を撤回。
出雲王朝の存在を認めたうえで、八岐大蛇(やまたのおろち)や国譲り神話、出雲大社の建造が示す出雲の歴史について、古事記や日本書記の記述を基に、梅原流の解釈を分かりやすく紹介した。

 6日に出雲大社に参拝することを明かした梅原氏は「大国主命におわびをしたい」と講演を締めくくり、会場を沸かせた。


・古代出雲について語る梅原猛氏=出雲市駅南町、ビッグハート出雲
http://www.sanin-chuo.co.jp/photo/0605/5200900041.jpg
374日本@名無史さん:2010/06/07(月) 22:20:22
商人というと胡散臭くなるが、「船に乗りて南北に市てき」し、かすりを取ってた、航海技術を売り物とする集団ならあったかも
しれない。
375日本@名無史さん:2010/06/07(月) 22:27:38
>>370
それらはふたつの意味で弥生終末期とは違うと思うよ。
ひとつはこれらの特産品はバケツリレーのように徐々に漸進したという意味で
今ひとつは、まあこちらのほうが重要だが装身具や副葬品という一部支配者層用の貴重品ではなく
庄内式土器のような一般階層が使用する道具が、爆発的にしかも徐々なる漸進でもなく一気に北部九州に広まるという伝播スピードの速さ。

それと前方後円墳や水路遺構などの技術共有が、これもまた短期間に広まるなど
なんらかの流通革命が発生したとしか考えられない事象が特徴だからね。
376日本@名無史さん:2010/06/07(月) 22:28:21
>>372
>日本列島でも商行為を生業とする者やその集団なり組織があったとしても不思議ではない。

「弥生社会の誕生以来、生産は集落単位の活動であり、
 その余剰物資は共同体成員の共有財産として共同管理されるものであった。

 やがて首長権の成長とともに、物資は首長層の管理するものとなるのであるから、
 それら余剰物資をもって交易していたのは、各地域の首長層であったと考えられる。」

と言いましたが・・・。
共同体から独立して商業資本が成立し得る段階でしょうか?

中国人の華商ならあり得るかもしれませんよ。
377日本@名無史さん:2010/06/07(月) 22:32:17
>>372
その商人集団も一種のクニなんだよ。
このクニの概念がわかりにくいかもしれないが

たとえばの話として、吉備がこの商人によるクニだったと仮定してみよう。
吉備は瀬戸内ルートにて九州や畿内の特産物をそれぞれに輸出入し、いわば海商組織として発展していったと。

まああくまでも仮定だから、吉備東遷説論者でもなんでもないということは念押し。
378日本@名無史さん:2010/06/07(月) 22:36:50
>>376
>>377でも書いたけど、その商集団もどこかのクニだと考えたほうがいいと思うよ。
たとえば玄界灘沿岸の各クニなどは、弥生中期のころから半島貿易を積極的に行っていた形跡があるから
それで得た貿易品を中南部九州や本州に売って利益を得るという、いわば「商社」的なクニだったと見られるのだし。
379日本@名無史さん:2010/06/07(月) 22:41:41

■6〜7世紀の巨大柱穴発見 飛鳥京正殿に匹敵 脇本遺跡

朝日新聞 2010年6月4日
http://www.asahi.com/national/update/0604/OSK201006040051.html

 奈良県立橿原考古学研究所は3日、同県桜井市の脇本遺跡で、6世紀後半〜7世紀初めの大型掘っ立て柱建物跡の一部とみられる巨大な柱穴6個が見つかったと発表した。
日本書紀には、遺跡のある一帯に欽明天皇(?〜571)の仮の御所があったと記されており、関連する建物だった可能性もある。

 橿考研によると、柱穴はほぼ方形で1辺約1.3〜2メートル、深さ約0.8〜1.1メートル。約2.7〜3.7メートル間隔でコの字形に並んでいた。建物は東西7.4メートル、南北5.4メートル以上だったとみている。

 それぞれの柱穴は、掘り直した跡があった。6世紀後半に建てられた後、老朽化などで7世紀初めまでに建て替えられたらしい。
柱の太さは最初が38センチ、建て替え後は最大58センチとみられる。飛鳥京(同県明日香村)で天皇が政務を執った正殿の柱の太さ(約60センチ)に匹敵する。

 周辺は、6世紀末に飛鳥京に都が置かれる以前に歴代天皇の宮殿が多く造られた地域で、5世紀に雄略天皇の「泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)」があったとの説がある。

 また、東国と大和を結ぶ交通の要衝でもあり、和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(日本古代史)は「一帯を監視する望楼だったかもしれない。巨大な柱は王権の権威を示すためでは」と話す。

 調査地はすでに埋め戻されているが、写真パネルなどを展示する速報展(無料)が5〜20日、同県橿原市の橿考研付属博物館(0744・24・1185)である。(渡義人)

・脇本遺跡で見つかった六つの巨大な柱穴=奈良県桜井市、県立橿原考古学研究所提供
http://www.asahicom.jp/national/update/0604/images/OSK201006040057.jpg
・地図
http://www.asahicom.jp/national/update/0604/images/OSK201006040058.jpg


※脇本遺跡(第15次)の調査成果について (PDFファイル、全10ページ)
  ・奈良県立橿原考古学研究所 報道発表資料 平成22年6月3日
http://www.kashikoken.jp/from-site/2010/wakimoto15.pdf
380日本@名無史さん:2010/06/07(月) 22:50:42
>>378
>その商集団もどこかのクニだと考えたほうがいいと思うよ。

はい。そう考えているわけです。
381日本@名無史さん:2010/06/07(月) 22:56:17
まあ実際問題として、船団を持ってて、瀬戸内あるいは中国から越への日本海航路を定期往復してれば食っていけるだろう。
あと前方後円墳の伝播については、宗教的な側面を外してはいけない。
382日本@名無史さん:2010/06/07(月) 23:23:42
古代フェニキアみたいな海洋商業小国家群(東瀬戸内地域)の盟主であった中河内。
内陸部の豊かな人口に裏打ちされた陸軍力を基盤とした大和が合体したのが
ヤマト王権だろう。アテネとスパルタ連合みたいなものか。それぞれが都市国家連合の盟主だったわけで。

大和も中河内も、大和川水系で繋がる運命共同体で同じ「見る銅鐸」勢力圏。
もともと「ゆるやかな連合」だったのが、共同でオウを祀るようになり、マキムク=王墓域が造られた。
383日本@名無史さん:2010/06/07(月) 23:28:45
>>382
今のところ、大和を「見る銅鐸」勢力圏に加えるのはちょっと無理がないか?
というか見る銅鐸の出土地域に、なんというか共通項が薄いんだよね。
紀伊や近江それに三遠などは、逆に見る銅鐸しか共通項がないくらいだし。
大和はぽっかり穴が開いて見る銅鐸がないようだしね。
384日本@名無史さん:2010/06/08(火) 00:29:06
>>383
私は唐古鍵が銅鐸の生産センターの中心地だったと思っているので。
ていうか福永先生の受け売りですw

滋賀野洲町は埋納形式で残り易く、奈良マキムクは破砕して再利用の違い。

そもそも様式が統一していて一括生産一括配布が想定される「見る銅鐸」、
その分布の中心である奈良盆地を空白にしてドーナッツ状なのをどう解釈するか?だと思うよ。
三上山山麓から各地に配布されたのだとしたら、なぜ奈良盆地の首長たちは無視されたのか?
マキムク建設にも一役買っているとされる唐古鍵は、紀伊や越とかより弱国で
近江勢力から相手にされなかったとするのか? ちょっと無理ない?って感じがすると。

まあまだ根拠なき仮説なのは承知している。これからもっと銅鐸の破片が見つかるのに期待w

大和は新宗教=前方後円墳祭祀の発生場所で、昔の神様を容赦なく破壊できた。
前方後円墳祭祀の周辺部はまだ昔の神様に未練があり、大事に埋納したと。

出雲か青銅器祭祀と決別し、首長霊祭祀を始めた頃から二百年ほど過ぎて
首長霊祭祀が大和に伝播。
出雲や吉備の人らに、「え?まだ銅鐸とか祭ってるの?w」とか笑われて
むきになって破壊とかw
385日本@名無史さん:2010/06/08(火) 00:35:04
銅鐸は滅ぼされたとかいうけど、「カネ」は日本語として残ってる以上、
滅ぼされてるわけじゃありませんな。

「カネ=金属=鐘」であって「カネ=金属=矛」じゃないのですよ。

386日本@名無史さん:2010/06/08(火) 00:41:45
>>384
初期ヤマト王権は、土着の泥臭い銅鐸を捨てて、
中国王朝の権威で倭国を纏め上げようとしたんだろう。
銅鐸に替わるレガリアとして、公孫氏や魏など中国政権との結びつきを
強調できる画文帯・三角縁を採用したということ。
387日本@名無史さん:2010/06/08(火) 01:18:08
マキムク狂想曲はいつまで続くのでしょうかね。
周りはかなり冷めてきた感じだね。
石野ですら市場の可能性をほのめかして、逃げ道を用意している。

あの連中もまさかここまで集落の痕跡が出ないとは、想定の範囲外だったろうね。

まとまって数個出れば「マキムク100倍」の原則で大々的に報道して「都市」に
仕立てられただろうけど、現状で「都市」というのは、ストリーキングに近いさらし者。

なんかもう、三角縁の舶載説に近い腫れ物扱いになりつつあるね。
388日本@名無史さん:2010/06/08(火) 01:30:08
>>387

やっぱりこの知障は「市場」ってことは認めたようだな。
389日本@名無史さん:2010/06/08(火) 01:33:53
>>387
まあ、馬鹿の東遷説は無視していいと思うよ。

神武とかアマテラスを歴史上の事実とする時点で常軌を逸してる。
390日本@名無史さん:2010/06/08(火) 02:21:32
>>384
>福永先生の受け売りですw

個人的にあれは頂けないw
要するにヤマトが畿内周辺地域(阿波なんかも含む)に銅鐸を配布して

「おめーらこれやるから畿内をガッチリガードせえや」

…とか言う話だったっけ?w

んじゃあ三遠地域の解釈とかどうすんの?とかw
391日本@名無史さん:2010/06/08(火) 02:31:43
>>390
>んじゃあ三遠地域の解釈とかどうすんの?とかw

三遠式が畿内王権に組み込まれなかった、東海地方の敵対勢力というか。
まあ狗奴国なんだろう。
392日本@名無史さん:2010/06/08(火) 03:12:11
まったく邪馬台国がココだから、アソコは狗奴国だ……とか都合の良いこってw
393日本@名無史さん:2010/06/08(火) 10:55:14
>>391

それならどうしてトヨスキイリヒメ、倭媛は美濃を巡幸して伊勢に天照大神を祀れたのか?

崇神のときに毛野氏が登場してるから、クナ国は毛野国だと思われ。
394日本@名無史さん:2010/06/08(火) 20:55:00
マキムクの周りに建ってる汚い貧乏マンション潰して掘り返したい
395日本@名無史さん:2010/06/09(水) 22:49:03
>>394
汚くって悪かったな
そりゃこれからの季節はやぶ蚊がひどいし、交通アクセスはお世辞にもいいとはいえないが

夜風は涼しいし夏は稲穂の香りに包まれて眠れる。クーラーなんぞ要らん
そして目を覚まして窓を見れば、目の前には箸墓だ、しかも朝の光にに包まれた・・・
396日本@名無史さん:2010/06/09(水) 23:43:04
巻向はいいところだよ。
大阪人だが、月に何度か巻向に行ってる。
パワースポットなんてものは信じないが、行くと元気になることは間違いない。
397日本@名無史さん:2010/06/10(木) 00:39:07
住んでる人に影響のない範囲でガシガシ発掘してほしい
398日本@名無史さん:2010/06/10(木) 00:47:46
>394→>395→>397

ワロタ
399日本@名無史さん:2010/06/10(木) 01:21:06
>>396
でも公共交通機関(電車)だとアクセス不便だよね?
400日本@名無史さん:2010/06/10(木) 08:24:04
>>395
>夜風は涼しいし夏は稲穂の香りに包まれて眠れる。クーラーなんぞ要らん

スサノオが纏向を選んだのは、案外そんな理由かもしれないねw
401日本@名無史さん:2010/06/10(木) 08:32:36
九州は暑いからなあ。
海沿いは蒸すし、内陸は熱いし。

しかし、今年はえらく涼しい。
CO2削減しすぎたに違いない。
402日本@名無史さん:2010/06/10(木) 12:56:40
狗奴国とは、中古音で「コノ国」であり、
許乃国のこと。
ここの領主は、武埴安彦命。
403日本@名無史さん:2010/06/10(木) 21:18:57
>399
車なんだ。
西名阪天理東インターで下りて南下する。
渋滞がなければ、1時間かからない。
404日本@名無史さん:2010/06/10(木) 22:01:31
>>399
巻向駅がすぐ近くにある。
405日本@名無史さん:2010/06/10(木) 22:53:50
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
406日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:28:07
>404
じゃあ、こないだの宮殿?遺跡のすぐ近くだね。
407日本@名無史さん:2010/06/12(土) 06:55:33
狗奴国=コノ国=許乃国

狗奴国の乱とは、武埴安彦命の乱
408日本@名無史さん:2010/06/12(土) 08:29:22
>>402
でも上古音ならやっぱりクナ国だよ
三国時代はまだ上古音
仏典の音訳字や古詩の押韻からも明らか
409日本@名無史さん:2010/06/12(土) 11:49:32
>>408
「ボクの考えた邪馬台国」はよそでやれ
410日本@名無史さん:2010/06/12(土) 14:30:38
>>409
それは音韻学の基礎も知らない>>402に言え
411日本@名無史さん:2010/06/12(土) 15:16:35
森博達は後漢はすでに中古音といってるけどな。
412日本@名無史さん:2010/06/13(日) 00:26:25
邪馬台国の時代は上古音から中古音に変わる過渡期
413日本@名無史さん:2010/06/13(日) 06:42:00
>>411
おそらく、西暦57年ころは、上古音の時代でしょう?
でも、西暦2世紀後半以降には中古音の時代に確実に移行していたと思われる。
西暦3世紀中ごろ、つまり、魏志倭人伝が書かれていた時代は、すでに
中古音になって時間があっていると思われる。
414日本@名無史さん:2010/06/13(日) 23:06:51

■「纒向に卑弥呼」想像膨らむ

読売新聞 2010年6月13日
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news/20100612-OYT8T00944.htm

 桜井市民会館で12日開かれた纒向(まきむく)遺跡をテーマにしたフォーラム「女王卑弥呼の国を探るin桜井〜卑弥呼は纒向にいたか」(市主催、読売新聞大阪本社など後援)は、考古学などの専門家が同遺跡と卑弥呼を巡る豊富な話題を語った。
県内外から訪れた考古学ファンら約1000人は、約1800年前に卑弥呼が纒向にいた可能性について思いをはせていた。

 同遺跡の発掘調査を担当したこともある寺沢薫・県立橿原考古学研究所総務企画部長は「諸国の王が談合して纒向に王都を建設した」と持論を展開。
大阪市西淀川区、無職森岡正治さん(68)は「何らかの政治的な力が働き、この地が選ばれたと納得できた」と話した。

 前田晴人・龍谷大非常勤講師は「文献から倭の女王は7人いたと推定できる」と述べ、大和郡山市泉原町、会社員野村宏輝さん(31)は「邪馬台国論争にはまだまだロマンのある話があり、もっと多くの視点から勉強してみたくなった」と耳を傾けた。

 桜井市は遺跡の発掘だけでなく、活用も検討。
福永伸哉・大阪大教授の「散策路を整備し、遺跡を歩いて体感できるようにすればいい」との提言に対し、纒向遺跡の現地説明会に参加したという神戸市垂水区、会社員大和純二さん(42)は「発掘だけでなく、後世に伝えていくことが大事だと感じた」と感心していた。

 討論で司会を担当した俳優の苅谷俊介さんが、最後に「卑弥呼は纒向にいたか」と質問。全員が「いたと思う」「いても不思議はない」と答えると、会場から大きな拍手が起きた。
桜井市朝倉台、主婦池田登美子さん(62)は「史実に基づいた話で、本当に卑弥呼が纒向にいたんだと思った」と話した。

・パネリストの話に聞き入る考古学ファンら(桜井市民会館で)
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100612-771347-1-N.jpg
415日本@名無史さん:2010/06/13(日) 23:08:16

■卑弥呼はいたか 纒向遺跡討論会

朝日新聞 2010年06月13日
http://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000001006130002

 ◇桜井で1千人参加

 3世紀前半では国内最大級となる建物跡が昨秋、纒向遺跡(桜井市)で見つかったのを記念したフォーラム「女王卑弥呼の国を探る」が12日、同市粟殿の市民会館で開かれた。
同遺跡は邪馬台国の女王、卑弥呼とのつながりが指摘されるなど注目度が高く、専門家らの議論に約1千人が耳を傾けた。

 フォーラムでは、発掘担当者による報告や基調講演に続き、「卑弥呼は纒向にいたか?」の題で討論があった。

 黒田龍二・神戸大大学院准教授は「建物配列は同じ方位で並ぶ中国式なのに、建物自体は日本文化を尊重した造り。いい所だけを取り入れている」と、纒向遺跡の文化レベルの高さを指摘。

 福永伸哉・大阪大大学院教授と前田晴人・龍谷大非常勤講師は、副葬された鏡の分布などから、卑弥呼を支えた勢力の発祥の地が、畿内だったか九州だったかを論じた。

 柳田康雄・国学院大教授は「復元建物を造るなど、何か人が来る工夫を」と要望。コーディネーターを務めた俳優の苅谷俊介さんは「卑弥呼は纒向にいたと思う」と最後に断言し、会場を盛り上げた。
416日本@名無史さん:2010/06/14(月) 10:25:24
なにこの宗教ww
417日本@名無史さん:2010/06/14(月) 11:11:56
本来なら邪馬台国論争もっと盛り上がっててもいいと思うんだけどな。今回の宮殿後発掘はかなり決定的だろ
418太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/14(月) 11:16:12
どうせ垂仁、景行の御殿だろ。w
419日本@名無史さん:2010/06/14(月) 13:00:21
>>417
もう残党狩りのフェーズだからね。盛り上がらんよ。
420日本@名無史さん:2010/06/14(月) 22:48:40
>>420
残党狩りねえ…
もう文献原理主義者の土蜘蛛だけだろ
421日本@名無史さん:2010/06/15(火) 02:21:33
土蜘蛛…
422水銀厨:2010/06/15(火) 07:17:53
でも邪馬台国自体は巻向が主幹地ではない、

あそこは政事、聖地であり交易の場所でしょう。
423日本@名無史さん:2010/06/15(火) 21:54:49

■「海にひらく古代日向」刊行

朝日新聞 2010年06月13日
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000001006130001

 朝日新聞宮崎版で「城から読む中世日向」を連載中の県埋蔵文化財センター副所長、北郷泰道(ほんごう・ひろみち)さん(57)が、
同じく宮崎版に連載した「海にひらく古代日向」「沈黙の埴輪 雄弁な埴輪」などをまとめた『海にひらく古代日向』(鉱脈社、定価1500円)を刊行した。
専門の考古学の知見に加え、『古事記』『日本書紀』などの文献を読み込んで「古代日向」の実像に迫ろうとする意欲作だ。

 都城市出身の北郷さんは立正大学で考古学を専攻し、県教委に入った。西都原古墳群の調査や整備、2004年に開館した西都原考古博物館の設立準備・運営などに携わってきた。
 一般向けに書いた本としては、『熊襲・隼人の原像』(吉川弘文館)、『古代日向・神話と歴史の間』(鉱脈社)に次ぐ3冊目となる。
 今回の本について北郷さんは「古代日向(今の宮崎県と鹿児島県)がなぜ畿内王権から重要視されたのか、『海』をキーワードにして考えた」と説明。近現代になって鉄道や車、飛行機が普及するまでは、海上交通こそが「もっとも高度な交通手段の主役だった」と指摘する。

 古代日向は、その先に朝鮮半島や中国大陸を見据える、海にひらかれた地域だった。そして、制海権を掌握した者が権力と利益を握る。その代表的人物が、『記・紀』に登場する諸県君牛諸井(もろかたのきみうしのもろい)だと北郷さんはみる。

 『記・紀』によると、諸県君の娘、髪長媛(かみながひめ)は、5世紀ごろに実在したとされる仁徳天皇に嫁ぐ。諸県君は畿内王権の外戚(がいせき)として権勢を誇ったと理解できるという。
「畿内が南九州と強く結び付く理由は、諸県君が掌握する海上交通の権益にあった」と北郷さんは記し、西都原古墳群の二つの大古墳、男狭穂(おさほ)塚・女狭穂(めさほ)塚が、諸県君と髪長媛に結びつくとみている。
(つづく)
424日本@名無史さん:2010/06/15(火) 22:02:19
>>423
(海にひらく古代日向 つづき)

 そして、諸県君や髪長媛、仁徳天皇、その後の畿内王権内の抗争などの歴史的事実をベースとして、
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と木花開耶姫(このはなさくやひめ)、その“夫婦”の子どもの海幸彦、山幸彦などが織りなす「日向神話」の骨格が構成されたのではないか、と大胆な推測もしている。
 また、現在の串間市出土と伝えられる古代中国の謎の宝器、玉璧(ぎょくへき)についても、当時の海上ルートなどを踏まえて詳しい考察を繰り広げている。

 北郷さんは「海にひらかれていた古代日向の姿を知ることは、これから宮崎がどのように道を切り開けばよいのか、そのヒントを知ることにつながる」と話している。(神谷裕司)

・本を手にする北郷泰道さん
http://mytown.asahi.com/miyazaki/k_img_render.php?k_id=46000001006130001&o_id=3827&type=kiji


※参考サイト

◆北郷泰道 「海にひらく 古代日向」 (特定非営利活動法人「ゆめ豊かにちなん」)
http://yumeyutaka.com/index.php?Ancient%20Hyuga%20that%20opens%20in%20sea
425日本@名無史さん:2010/06/16(水) 02:03:44
俺自身は畿内説だが、筑紫説は完全には否定できないと思うぞ。

ヒラバルの女王、古くは筑後山門郡の田油津媛などが候補。
田油津媛以外、神夏磯媛にしても、北部九州勢力圏内の伝承では
ヒコ・ヒメ制の残滓が伺える。倭人伝が伝える女王・男弟の政治体制とも
整合性がある。

特に山門郡説は、高良神が古くから信仰を集めていること。
女王山に見られる巨石郡など、十分に可能性はあるだろう。

公孫氏に支持されて倭国の大王として飛躍を始めた畿内マキムク王権に対抗する意味で、
公孫氏と対立する魏に遣使したとか。
つまりは、呉&公孫氏&畿内 vs 魏&筑紫の対立構造。
公孫氏滅亡で慌てた畿内は、呉の鏡職人を呼び三角縁を偽作、
周辺諸国を繋ぎ止めるのに必死になった。
弥生以降何度か一時的に畿内に大陸からの文物が入らなくなる時期があるが、
それは瀬戸内海の東西、畿内vs北部九州が政治的に対立して、
北部九州勢力が瀬戸内海航路を封鎖したためだろう。
後世の歴史を見ても、継体vs磐井、直冬懐良vs幕府、細川vs大内、織田vs毛利など
瀬戸内海航路を挟んで東西は常に対立している。

古墳時代に入っても、筑紫は石人石馬、装飾古墳など独自性を出している。
磐井の乱も、邪馬台国後裔の磐井が新羅と同盟し、畿内王権から分離独立を画策したのかもしれない。
筑紫が畿内の軍門に完全に降ったのは磐井以降か。

西都原とか宇佐は古くから畿内ヤマト王権と親密だったから、
邪馬台国候補地からは除外されるだろう。
畿内王権の先遣隊、前進基地として機能したのが、日向と豊の国で、
鎌倉時代、島津と大友が派遣されたのもその流れで解釈できると思う。
筑紫と肥の国は、大陸交易の利潤を巡って畿内王権と常に対立関係にあり、
畿内王権から危険視されていたように思う。
426日本@名無史さん:2010/06/16(水) 02:18:05
>>425
このスレは邪馬台国スレじゃなくて纏向スレな、一応wwww
まあ邪馬台国ネタを完全に遮断するのもまた不可能かとも思うが…

ただ言っておくと、畿内説が筑紫説を完全に否定できるか否かが問題じゃなくて
筑紫説が自説を立証する、あるいは畿内説以上の蓋然性を出せるか否かが問題なのであって

それによって纏向をその中に抱える首長連合と北部九州の関係も変わってくるって話だな。
427日本@名無史さん:2010/06/16(水) 02:39:38
いやさ、邪馬台国問題は所詮蓋然性のもんだし、結論は出ないのは十分了解してるよ。
世紀の新発見でもない限り無理。
倭人伝に振り回される邪馬台国論争より、考古学の成果をベースにしたヤマト王権の成立プロセスの方が、
学問的に有意義なのは確かだろう。

しかし、「邪馬台国はマキムク決定!」とか騒いでいるのは気持ち悪い。
筑紫説よりはマシ程度なのに。
何度も書いて悪いが、畿内に反発した筑紫のオウの一人が魏に遣使、
たまたま倭王に任じられたという仮説は否定出来ないだろうと。
マキムクフィーバーは桜井市の町おこしの意味合いもあるだろうし
まあ仕方ないかもしれないがw
九州説もっと頑張れよ
428日本@名無史さん:2010/06/16(水) 03:12:55
奴国で庄内式生産プラントが畿内から移設されてるから、北部九州に畿内勢力が進出したのは間違いなさそう。

ただ、那珂八幡以降、親畿内王権が筑紫で続いていたとは思えないのだが。
古墳時代中期以降の凋落から考えて
429日本@名無史さん:2010/06/16(水) 09:20:34
太宰府、久留米は少なくとも5世紀以降
ずっと大都市だけどな。

ああ、あと佐賀の肥前国庁後付近も

古墳とか寺社、各時代まんべんなく出てくる。
430日本@名無史さん:2010/06/16(水) 22:07:53
注意されたのにまだ自説を垂れ流すって何なの?バカなの?
431日本@名無史さん:2010/06/16(水) 22:43:09
>>430
注意できるほど偉いのか君は。
ためしに何か書いてみろよ。
432日本@名無史さん:2010/06/16(水) 23:01:44
バカなんだよ。まだわからないのか?
433日本@名無史さん:2010/06/16(水) 23:16:32
>それによって纏向をその中に抱える首長連合と北部九州の関係も変わってくるって話だな。

ふむふむ。ところで「纏向をその中に抱える首長連合」とは「ゆるふん首長連合」のことか?
434日本@名無史さん:2010/06/17(木) 00:37:25
>>427
>しかし、「邪馬台国はマキムク決定!」とか騒いでいるのは気持ち悪い。

それはある程度あきらめるしかないんじゃないのか?
今後も纏向の報道には「邪馬台国」の文字が踊るだろうw

まあかつての邪馬台国ブームから見れば下火も良いところなんだろうがw

なんだかんだ言っても「邪馬台国」の4文字は一番キャッチーなネタなんだろうし…
435日本@名無史さん:2010/06/17(木) 00:40:41
>>428
半島との交易の中心が、勒島→壱岐→博多湾と移ってきて
古墳時代にはそこから更に「交易の主体性」みたいなものが失われていくって事なんじゃないのかな?
まあ、ありきたりの解釈だろうがw
436日本@名無史さん:2010/06/17(木) 01:31:19
>>434
宣伝している学者も、完全に割り切っているね。
集落の痕跡も全く出土していない地域が都市とか、普通なら恥ずかしくてできない。

しかし、「邪馬台国」で本を作れば数倍の売れ行きになる。
印税ウホウホの前には、全てが無意味なんだな。
437日本@名無史さん:2010/06/17(木) 02:29:08
>>431
コレと同一人物か?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1276396464/371

○○するならまず君がXX
という言い訳で自身の説明を回避するタコ
438日本@名無史さん:2010/06/17(木) 09:37:08
>>436

印税ウホウホなら、九州説なんだが。
畿内説で本を書いても売れるかボケ。
439日本@名無史さん:2010/06/17(木) 09:51:34
>>438
意味不明。石野の著書数は膨大だぞ。
440日本@名無史さん:2010/06/17(木) 11:10:37
>>439
九州説で季刊誌まで出してる人はどうするw
441日本@名無史さん:2010/06/17(木) 23:04:46
>>437
どーなんだろ?
まず先に、内容のない、まともじゃない反論(てか難癖)を書いたのは>>430でしょ。

もうちょっと内容のある、まともな反論を書けよ、窘めただけなんだよ、俺はw

442日本@名無史さん:2010/06/17(木) 23:22:47
そうだな。430には内容として見るべきものがない。
443日本@名無史さん:2010/06/19(土) 00:07:29
例えば、遥か後代に熊本城跡と市内の繁華街と郊外の住宅地がセットで発見されたなら
2000年頃の日本の首都は熊本になるのだろうか?
444日本@名無史さん:2010/06/19(土) 02:37:33
>>443
もし現代までに記された夥しい文書などが「一切残らなかった」と、まあ有り得ない仮定をしても
それらが出土するのは熊本以外にも山ほどあるだろうし、もっと規模が大きいだろうから
そういう仮説は出されないだろうね。
445日本@名無史さん:2010/06/21(月) 17:19:46
卑弥呼宮殿の一角か 纒向遺跡で柵など出土

邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、
3世紀前半の建物跡(柱穴)や凸字形の柵(さく)が見つかり、市教育委員会が20日発表した。

 過去に見つかった建物跡とあわせ、3棟が東西に整然と並ぶことも確認。
当時、方位に合わせて計画的に建てられた例は極めて珍しい。

 女王・卑弥呼が活躍した時期とほぼ一致しており、卑弥呼がまつりごとを行った宮殿の一角との見方が浮上、邪馬台国畿内説に弾みをつけそうだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090320-00000576-san-soci

446日本@名無史さん:2010/06/21(月) 17:23:50
1年以上前のネタだな
447日本@名無史さん:2010/06/21(月) 18:50:45
そもそも『宮室・楼観・城柵』の所謂「三点セットwww」は何かしらの客観的検証に基き
「これこれこう言う形大きさの物」と言う規格があるわけじゃない。

吉野ヶ里の場合マスコミの煽りが先導していつの間にか定着しちゃったってだけの話だろうw
(もっとも、そのマスコミを”焚き付けた”のが某考古学者だがw)

そんな物が吉野ヶ里あるいは九州の環濠集落に特有の物なんて言ってる学者はいないわけでwww

逆に言えば纏向に大型建物や柵の跡が見つかったからと言って
過剰反応する必要は無い、このスレの連中ならそんな物は想定済みの範疇だろう。

まあこの板の九州説のアホ連中が火病起こすのは仕方が無いがwww


448447:2010/06/21(月) 18:54:43
そうそう

吉野ヶ里の復元されている「楼観」は鳥取県の稲吉遺跡出土の土器の絵が参考にされている

…と言う話を聞いた事があるがこれってマジなん?w


449日本@名無史さん:2010/06/21(月) 19:08:20
しかしこの板のゴミクズ九州説の妄想は酷いな、いや今に始まった話じゃないがw

大和朝廷によって改竄された歴史
無論、文献や考古資料の中にもその真実の姿は断片的に垣間見えていたものの
戦後になってようやく古田や安本と言った学者によって世に真実が晒された事になって

それでも「悪の秘密結社キナイセツ」によってそれらは社会的に抹殺されていると…

歴史改竄で言えば「南京大虐殺」とか「従軍慰安婦」とかのレベルじゃないかもwww

なんせ日本と言う国家の起こり、その黎明期、事によったら8世紀までの
義務教育の中学の歴史でも教えるような事がまるっきりデタラメだと言うのだから

本当ならこんな2ちゃんのスレで「ギャアギャア、ビービー」とヒステリー起こして
わめいている様な話じゃないはずだがwww

俺ならそんな国家レベルの陰謀に立ち向かう勇気は無いwwwwwww
450日本@名無史さん:2010/06/21(月) 19:09:17
ギャアギャア、ビービーうるさいぞ
451449:2010/06/21(月) 19:10:48
すまん誤爆った。

内容的に「ドン来いスレ」だよなorz
452日本@名無史さん:2010/06/22(火) 00:03:30
>>449
いや、「文献重視の九州説」でなく、「考古学に軸足を置いたまともな九州説」なら、
ここのスレで議論してもいいと思うよ。

確かに「倭人伝好きの、考古学に疎い九州説」の相手が疲れるというのは分かる。

無人くんとかと違って、陰謀史観に取り憑かれていない、「まともな九州説」の登場に期待。

ただまあ、寛容な老教授ですら「九州説はありえん」みたいな論調だったし、もう難しいのか…
昔は九州説の方が考古学重視だったのになw

俺が上で書いた、筑紫+火の国vs豊の国+日向←畿内、っていう九州島での対立構造はどうなんでしょ?
有り得んかな?
453日本@名無史さん:2010/06/22(火) 02:14:37
遠賀川周辺と、博多周辺では文化が全然違うんだってな。

遠賀川周辺が大和の前線基地だったんだろう。

454日本@名無史さん:2010/06/22(火) 04:14:26
邪馬台が
大和じゃ都合
悪いのか?
455日本@名無史さん:2010/06/22(火) 12:08:21
どうも、九州の人は、日本の一部であるより、
中国の属国となりたいらしい。
456日本@名無史さん:2010/06/22(火) 14:21:16
>>455
アホなこと言うたらあかん。料簡の狭いやっちゃな。
邪馬台国や卑弥呼がどうであろうと現在の日本には関係ないやんけ。
457日本@名無史さん:2010/06/22(火) 14:27:04
そうね。魏と現在の中華人民共和国は別体制であり関係ない。大日本帝国と日本国も別体制であり、いつまでも
謝り続ける必要は理屈の上ではない。
458サガミハラハラ:2010/06/22(火) 19:28:29
纏向遺跡は東の山沿いにある王宮の生活品を供給するための集落であった。
景行天皇はそこから、近江国の高穴穂に宮をつくり引っ越したので、以来纏向
は放棄された。
日本書紀によれば景行58年に遷都したとある。
復元日本書紀年代法によればそれは西暦343年の秋の年のことである。
よって纏向の衰退は4世紀中ごろとなるのであるが、考古の結果とはいかがでしょうか?
459日本@名無史さん:2010/06/22(火) 22:52:36

■来月にも調査再開 - 纒向遺跡中枢部

奈良新聞 2010年6月22日 
http://www.nara-np.co.jp/20100622102515.html


 卑弥呼の時代に重なる3世紀前半の大型建物跡が見つかった桜井市の纒向遺跡で、中枢部の調査が7月にも再開される。廃材などがのぞく穴を本格的に調査するほか、柵で囲まれた区画の広がりなどを確認する。

 昨年の調査区を市教育委員会が南側に拡張。穴は直径約5メートルに達する可能性もあるが、北端の一部が見えただけで調査は行われていない。
 加工痕のある板材や多数の土器が確認されており、移転時に廃材を捨てたとすれば、建物構造の解明に有力な材料となる。

 纒向遺跡は邪馬台国の有力候補地で、3世紀前半は女王卑弥呼の時代と一致。同後半には中枢部が三輪山寄りに移転したと考えられ…


    記事の詳細は本紙をご覧下さい ⇒ 【 奈良新聞を購読する 】

・纒向遺跡で行われた昨年の発掘調査。写真奥の南側へ調査を広げる=昨年11月、桜井市辻
http://www.nara-np.co.jp/photo/c749d9e85d5d0a9782c3d1243fc0fd48.jpg
460日本@名無史さん:2010/06/23(水) 00:23:13
>>459
ワッフルワッフル
461日本@名無史さん:2010/06/23(水) 16:53:50
魏の皇帝と中華人民共和国の主席には、何の縁もゆかりもないないが、
邪馬台国の女王と天皇陛下には、ヒョッとしたら縁やゆかりがあるのかもしれない…
纏向は、それを立証する証拠になるのかもしれない。
462日本@名無史さん:2010/06/25(金) 23:14:43
>邪馬台国の女王と天皇陛下には、ヒョッとしたら縁やゆかりがあるのかもしれない…
>纏向は、それを立証する証拠になるのかもしれない。

まあ少なくとも、3世紀、卑弥呼と同時代の大和に天皇陛下の先祖(直接の血の繋がりはないにしろ)
がいたことは確かだろう。

神武とか欠史八代の天皇たちと違い、同時代史料に載る、確実に存在が確かな卑弥呼が
記紀に登場する人物として誰が適正か?という議論は確かに興味深い。

しかしまあ、マキムク王権の末裔である8世紀の皇室の公式見解が、
「卑弥呼=神功皇后」という甚だアテにならないものであり、
卑弥呼に関わる伝承が、後の大和朝廷に正しく伝わっていなかったことを物語る。

そういった意味で、私は山門郡の田油津媛こそ卑弥呼に相応しいと思っている。
大和に対抗した筑後の女王、その後裔に磐井がいる。
日本書紀を編纂するにあたり、魏の皇帝より倭王に任じられたのが筑紫の女王であってはならず、
大和の女王に仮託されたのか? 単に8世紀の大和朝廷に「卑弥呼遣魏使」が伝承されていないことを
不審に思った紀編纂者が、それらしい大和の女王を「卑弥呼に違いない」と誤解したのか。
463日本@名無史さん:2010/06/26(土) 00:12:58
>>462

>神武とか欠史八代の天皇たちと違い、同時代史料に載る、確実に存在が確かな卑弥呼が
>記紀に登場する人物として誰が適正か?

またかよ…

昨年来、俺が繰り返し繰り返し揶揄しても揶揄しても、
手を変え品を変え馬鹿にしても嘲笑しても、
どうしても、お前さん方の「中華帝国文書への絶対帰依」という致命的洗脳は治らないようだなあ。
おまえ、
中華史書に
「偉大女王卑弥呼即位於三億光年南方的惑星。中華皇帝令官僚真正執筆。」
と滅茶苦茶な出鱈目漢文で書いてあったら、『漢文である』というそれだけの理由で、本当に信じそうな勢いだな。

繰り返しになるが、地理書として出鱈目であるから信用に値しないという、致命的欠点を除いても、
倭人伝は、当時の西南日本の正確な権力構造を記述しているかどうか、甚だ怪しいのだけどな。
世界のさまざまな情報を知り尽くして波濤をこえてやってきた、
16世紀のイエズス会宣教師でさえ、彼らと接触した戦国武将が、
日本の権力構造でどのポジションにあるかを理解することに、相当苦しんだ。
ただの小大名を過大評価したり、またただの臣下だと過小評価したり、
ずいぶんブレている。17世紀に至っても、徳川家康を「タイカウサマ殿下」と書いた文書が見つかったりする。


464日本@名無史さん:2010/06/26(土) 09:08:17
>>463
倭人伝アレルギーひどすぎ
普通じゃないよw
465日本@名無史さん:2010/06/26(土) 10:22:46
東遷説のほうが病的。
466日本@名無史さん:2010/06/28(月) 21:11:04
卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命
台与=豊鍬入姫命
やろ!普通に考えて!

それはそうと
纒向石塚古墳って普通に入れたっけ?
小学校の隣で普通に立入ができたような気がするんだけど。
467日本@名無史さん:2010/06/28(月) 21:38:12

トヨタン・・・・・・・・・・
 
468日本@名無史さん:2010/06/28(月) 23:17:45

■銅が木棺1700年守る…鏡から溶け出し防腐 /桜井茶臼山古墳

読売新聞 2010年6月27日
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100627-OYT1T00269.htm?from=navlp

 初期大和王権の大王級の墓とされる奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳(3世紀末〜4世紀初め)で、石室内の木棺に大量の銅が含まれていることが、県森林技術センター(高取町)などの調査でわかり、
26日に関西大学(大阪府吹田市)で開かれた日本文化財科学会で報告された。

 石室に納められた銅鏡から、抗菌作用がある銅の成分が溶け出し、「防腐剤」になったとみられ、同センターは「木棺が約1700年間も残る一因になった」としている。

 木棺はコウヤマキ製で、長さ4・89メートル、幅0・75メートル、重さ264キロ。劣化が懸念されたため、昨年10月、県立橿原考古学研究所が石室から搬出後、採取した六つの木片(5〜10ミリ角)を蛍光エックス線分析装置で調べた。

 自然界の木材や土壌に含まれる銅は平均で数ppm以下だが、すべての試料で100〜800ppmを検出。
石室には少なくとも81面の銅鏡を副葬したとみられることが、これまでの発掘調査などで判明しており、雨水で銅イオンが溶け出し、木棺にしみ込んだ可能性が高いという。

 また、木棺が残ったほかの理由に、耐久性が高いコウヤマキ製▽石室の高い密閉性▽石室に塗られていた水銀――といった項目も示された。

 同センターの酒井温子・主任研究員は「古代の人が木棺の腐食防止のために銅鏡を副葬したとは思えないが、結果的に保存効果をもたらした可能性が高い」としている。

・桜井茶臼山古墳の石室内に納められた木棺(2009年9月、代表撮影)
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100627-069673-1-N.jpg
469日本@名無史さん:2010/06/28(月) 23:26:37

■川西市:「画文帯同向式神獣鏡」など4件、市指定文化財に /兵庫

毎日新聞 2010年6月27日
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20100627ddlk28040168000c.html

 川西市は、6世紀初めの勝福寺古墳(同市火打)から出土した「画文帯同向(がもんたいどうこう)式神獣鏡」など4件を、市指定文化財に指定した。

 神獣鏡は直径20・9センチで、中国の後漢時代の鏡を原型に、神や獣の像が同一方向に描かれている。製造年代やどこで作られたのかは不明という。

 1891(明治24)年に古墳の石室が発見された際、偶然出土したものだが、その後、行方不明となり、約30年前に大阪府池田市の個人宅に収蔵されていることが判明した。
同市は06年、300万円で買い戻し、市文化財資料館(同市南花屋敷)に保存・展示。出土先の勝福寺古墳が、猪名川流域で6世紀初めに活躍した有力首長のものであることを裏付ける貴重な副葬品として、文化財に指定した。

 ほかに指定されたのは
▽江戸時代前期〜中期の神社本殿様式を伝える「小戸神社本殿」(同市小戸)
▽鎌倉時代(13世紀)の美術品「小戸神社木造狛犬(こまいぬ)」(同)
▽平安時代(10世紀)の「観音寺木造十一面観音菩薩(ぼさつ)立像」(同市小花)。【浜名晋一】


※参考サイト 川西市ホームページ
 ・市指定文化財に4件追加
http://www.city.kawanishi.hyogo.jp/88622010_0618.html
470日本@名無史さん:2010/06/28(月) 23:34:35

■【ふるさと便り】大津・古墳時代中期の石棺から頭蓋骨 赤い顔料 魔よけのためか

産経新聞 2010.6.28
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100628/acd1006282156006-n1.htm

 大津市神宮町の近江神宮境内にある宇佐山古墳群で、古墳時代中期(5世紀前半)の石棺が出土し、中から魔よけのためとみられる赤色の顔料が塗られた頭蓋骨(ずがいこつ)が見つかり、県文化財保護協会が28日、発表した。
赤は血を表し、「魔」を遠ざけるために使われたとみられるという。当時の人々の顔立ちを知る手がかりにもなり、研究成果が注目される。

 協会によると、見つかった頭蓋骨は上あごまでで、下あごはなかった。ほおや額の形などから被葬者は20〜40歳代の男性で、身長は155センチ前後と推定されるという。
赤く塗られた人骨は弥生から古墳時代の古墳などで、山陰地方から丹後地域にかけて出土した例があり、県内では高島市の打下古墳でも赤く塗られた頭蓋骨が見つかっている。

 一方、今回頭蓋骨が入っていた石棺は長さ158センチ、幅24〜36センチ。頭蓋骨の位置から琵琶湖側に足を向ける形で収められていたとみられる。

 宇佐山古墳群からはこれまでに、古墳時代後期(6世紀ごろ)の古墳が12基出土。琵琶湖を眺望できる標高約150メートルにあり、協会の担当者は「被葬者は水運業に従事した氏族の可能性もある」としている。
 現地説明会は7月4日午前10時と午後1時半の2回。京阪電車・近江神宮前駅下車。

 片山一道・京都大学名誉教授(骨考古学)の話 「保存状態が良く、古墳時代の人々の顔立ちや体形などを知る上で貴重な資料になる」

・古墳時代中期の石棺に収められた人骨=大津市神宮町
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/100628/acd1006282156006-n1.jpg
471日本@名無史さん:2010/06/28(月) 23:50:23

■遺跡立体復元、誤り認め改修も…議論の場なし

読売新聞 2010年6月28日
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100624-OYT1T00738.htm

 平城宮大極殿など遺跡の立体的復元が全国で進められている。柱穴や礎石など発掘されたままの状態を見せる保存方法と比べて当時の姿をイメージしやすいが、本当に正しい復元なのかという疑問が常につきまとう。

 そんな中、北海道上ノ国町の上之国勝山館(かみのくにかつやまだて)跡で、「過去にほとんど例がない」(文化庁記念物課)という、復元の誤りを認めた改修が行われることになった。

 ◆「分かった以上は…」◆

 勝山館跡(国史跡)は、アイヌとの最前線に築かれた15〜16世紀頃の山城。1985年に杭(くい)をすきまなく並べた「塀」を復元したが、これをすきまのある状態に改め、城内の守備側が攻め手を目視できるような構造にする。
老朽化による更新に合わせ、今年8月に着手する予定だ。

 上ノ国町の塚田直哉学芸員は「もともと発掘調査の成果や文献の研究などから、杭の間を離して外が見える柵として復元すべきだった。なぜ現状のような復元が行われたのか不明だが、誤りと分かった以上、改める」と話す。
当時、中世の山城を立体復元した例が北海道や東北地方にはなく、あまり厳密さを気にかけていなかったという背景がありそうだ。

 文化庁記念物課によると、1989年に史跡内の建物の復元への補助が始まり、全国の遺跡で立体復元が増えた。
「まだ20年しかたっていないので、ほかに変更した例は聞いたことがないが、確実に違う復元だったと後の発掘や研究などで分かれば、新しい成果を反映するほうが望ましい」と指摘する。

・上之国勝山館跡は全周460メートル。高さ1.8メートルの柵が計150メートルにわたって復元されているが、このうち、25年前に復元された30メートルについて改修が行われる
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100624-010557-1-N.jpg
(つづく)
472日本@名無史さん:2010/06/28(月) 23:52:06
(読売新聞つづき)

 ◆「ありえない構造」◆

 今後、修正するケースは増えるのか。
弥生時代の大規模な環濠(かんごう)集落跡、吉野ヶ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町)は歴史公園として整備。3階建ての建物や、物見やぐらを板の「壁」が2重に取り囲む形で復元されているが、城郭考古学を専門とする千田嘉博・奈良大教授は
 「全く防御性がなく、ありえない構造」
と批判する。勝山館跡と同様、守備側の視界が遮られ、敵に矢や石を放つことができないからだ。

 遺跡の発掘から復元まで担当した佐賀県教育委員会の七田忠昭参事は、
 「目隠しの役割を重視して復元した。今のところ修正すべき点はない」
と批判を一蹴(いっしゅう)するが、その一方で、復元の根拠を明示する配慮は必要だとの考えを示した。

 松木武彦・岡山大教授(考古学)も
 「過去へのあこがれの気持ちは、考古学の重要な要素で、遺跡をアミューズメント化すること自体は悪いことではない。しかし印象が強いほど、どこまでが推定なのかきちんと説明すべきだ」
と指摘する。

 東日本のある古代遺跡の整備担当者は
 「復元は多かれ少なかれ推定に基づく。整備している段階では『本当にこれでいいのか』と悩んでいた個所も、完成すると、本当に昔は復元のような姿だったと思いがちだ」
と明かす。専門知識のある学芸員が定年後に補充されない地方自治体が増えており、このままでは施設の更新期という修正の機会を逃し、誤った復元を継続させてしまう可能性もある。

 千田教授は
 「復元するまでは、制度的に専門家の意見や文化庁の許可などが必要だが、復元後に疑問点が浮かんでも第三者が議論する場すらないのが最大の問題だ」
としている。(文化部 岡本公樹、清岡央)

・吉野ヶ里遺跡の主祭殿があるエリアは、高さ2メートルの柵がほとんどすき間なく復元されている。一見、完璧な防御に見えるが…
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100624-010597-1-N.jpg
473日本@名無史さん:2010/06/29(火) 00:16:29

■邪馬台国の滅亡 若井敏明著  記紀を読みこんだ九州説

日本経済新聞夕刊 2010年6月9日付
http://www.nikkei.com/life/culture/article/g=96958A96889DE2EAEAE5E1EBE0E2E2EAE2E4E0E2E3E29C9C99E2E2E3;p=9694E3E4E2E4E0E2E3E2E5E3E2E4

 卑弥呼は、3世紀はじめの倭(わ)国に君臨した女王だと、中国側の記録にある。
そして、近年の考古学は、大和の纏向(まきむく)が3世紀初頭の一大中心地であることを、あかしだてた。そのため、女王のいた邪馬台国も纏向にあったとする畿内説が、有力になっている。

 だが、邪馬台国がそれほど大きな勢力をもっていたという保証はない。
九州北部の酋長(しゅうちょう)たちをたばねた地方勢力が、女王国として中国へつたえられていた可能性もある。倭国は、のちの日本国よりずっと小さい、地方政権だったかもしれない。

 最近、纏向で王宮とおぼしき大規模建築群の跡がほりおこされた。卑弥呼の宮殿かと、マスコミへは喧伝(けんでん)されている。
しかし、その様子は記紀がつたえる崇神、垂仁、景行の宮殿をこそ、しのばせる。あれは、初期大和政権の本拠だったんじゃないか。考古学は、記紀がつたえる伝説の妥当性を、あかしだてていたのかもしれない。

 この本を読むと、畿内説のもろさやあぶなっかしさが、よくわかる。著者は奈良に生まれ、大阪大学で歴史を学んだ関西人である。地元びいきではない、記紀を読みこんだ九州説が、あじわえる。(風俗史家 井上章一)


※吉川弘文館サイト 歴史文化ライブラリー294 『邪馬台国の滅亡 〜大和王権の征服戦争〜』
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b56094.html
474日本@名無史さん:2010/06/29(火) 00:29:25
吉川弘文館 これから出る本 
 
▼『三角縁神獣鏡研究事典』 下垣 仁志 著
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b61587.html

出版年月日 2010/06/29  判型・ページ数 菊判・580ページ  定価 本体9,500円+税

【目次】
T=三角縁神獣鏡研究の意義(三角縁神獣鏡の研究意義/本書の目的と構成)/
U=三角縁神獣鏡の世界(三角縁神獣鏡とはなにか/中国鏡のなかの三角縁神獣鏡)/
V=三角縁神獣鏡研究の現状(系譜と製作地/製作体制と製作背景/製作技術/編年と実年代/化学成分分析と原料の産地/流通方式と政治史的意義/銘文と信仰)/
W=三角縁神獣鏡の研究史(第T期(江戸期)/第U期(19世紀末〜1920年代)/第V期(1920年代末〜1940年代)/第W期(1950年代〜1960年代)/第X期(1970年代)/第Y期(1980年代)/第Z期(1990年代〜))/
終章=三角縁神獣鏡研究の将来(三角縁神獣鏡研究の展望/三角縁神獣鏡研究の課題と指針)/
資料(三角縁神獣鏡関連論文/三角縁神獣鏡目録/三角縁神獣鏡出土地名表/同笵(型)鏡分有図/三角縁神獣鏡銘文一覧)

【内容説明】
「卑弥呼(ひみこ)の鏡」の最有力候補である三角(さんかく)縁(ぶち)神(しん)獣(じゅう)鏡(きょう)とは何か。江戸時代からの膨大な研究史を初めて整理し、研究に便利な資料集成を付す。
誕生の経緯と製作年代、製作技術と原料産地、流通方式と政治史的意義、銘文と信仰など、最新の発掘成果と豊富な図版を駆使して、その全貌を明らかにする。重要な考古資料として、様々な可能性を秘めたその実像に迫る。

【特色】
・膨大な研究史を初めて整理。研究のポイントとなる点と、その意義を明示。
・豊富な図版を用いて視覚的にも理解しやすく編成。
・最新の発掘・研究成果を網羅し、基礎的資料として有用。
・鏡に記された銘文の一覧を付し、考古学のみならず文献研究にも資する。
・「卑弥呼の鏡」の有力候補、三角縁神獣鏡の実像に迫る。
・邪馬台国研究にも必携。
475ローガン:2010/06/29(火) 01:20:48
>>466
>それはそうと 纒向石塚古墳って普通に入れたっけ? 小学校の隣で普通に立入ができたような気がするんだけど。

へえ〜だとすると 大先輩ですね。当時の様子教えて頂けたら幸い。
476日本@名無史さん:2010/06/29(火) 13:20:48
え?今入れないの?
だいぶ前だけど、柵も何もなかったから普通に上ったぞ。
477ローガン:2010/06/29(火) 14:27:35
>>476ごめんなさい。私の勘違い。
勝手に「埋葬施設を見た」というふうに受けとってしまった。 忘れて下さい。かなり呑んでたので…
478日本@名無史さん:2010/06/29(火) 19:15:14
>>477
>「埋葬施設を見た」というふうに受けとってしまった。

高射砲陣地になる以前のことですね。見た人いるんですかね?
いたとしてもたしかにかなりの大先輩。2ch住人の可能性は・・・
479日本@名無史さん:2010/06/29(火) 22:03:54
>>474
ほ、ほしい・・・・・・・
480日本@名無史さん:2010/07/02(金) 01:54:05

■一色青海遺跡 赤いシカ描いた土器出土 日本最古か 愛知

毎日新聞 7月1日
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100701-00000019-maip-soci

 愛知県埋蔵文化財センターは1日、同県稲沢市の一色青海(いっしきあおかい)遺跡で、酸化鉄を原料とした赤い顔料のベンガラを用いて6頭のシカを描いた筒形土器が出土したと発表した。
土器は弥生時代中期後半に当たる紀元前1世紀ごろのもので、日本最古の色付きの絵とみられる。

 遺跡は約300棟の竪穴式住居が確認されている大規模集落。センターによると、土器は09年12月の発掘調査で見つかった。高さ9センチで縁と底が欠けており、全体は約12センチだったと推定される。
絵は、焼く前に細い線を刻んで下絵を描き、これをベンガラでなぞるように描かれていた。

 弥生時代の絵画土器は全国で約600点見つかっているが、ほとんどは線を刻んだだけ。
福岡県筑前町の大木遺跡で出土した紀元前2世紀ごろ(弥生中期前半)の土器には黒い顔料でシカが描かれていたが、彩色のものは今回の土器が最古という。
センターの樋上昇調査研究専門員は「色を付けたのは儀式で使うためでは」とみており「日本の絵画の成り立ちを知るうえで貴重な資料」という。

 センターは3日から9月26日まで愛知県瀬戸市の県陶磁資料館で、この土器を一般公開する。【丸山進】

拡大写真
一色青海遺跡から出土した、赤い顔料でシカの描かれた土器=愛知県庁で2010年7月1日、丸山進撮影
http://ca.c.yimg.jp/topics/1126527822/img.news.yahoo.co.jp/images/20100701/maip/20100701-00000019-maip-soci-view-000.jpg
481日本@名無史さん:2010/07/02(金) 02:10:50

■国重要文化財指定記念 吹上遺跡出土品を展示−−日田市 /大分

毎日新聞 2010年6月29日
http://mainichi.jp/area/oita/news/20100629ddlk44040687000c.html

 日田市小迫の吹上遺跡出土品が国重要文化財に指定された記念展「弥生時代のヒタを治めた人々」が7月11日まで、同市のパトリア日田で開かれている。入場無料。

 同遺跡では、発掘による出土品として県内で初めて第6次調査分の副葬品577点が3月に一括指定された。
95年ごろの発掘では弥生中期(紀元前3〜紀元1世紀)の「王墓」とみられたが「クニ」の裏付けがなく、現在では「有力者の墓」とみなされている。

 第6次調査では、かめ棺墓7基、木棺墓3基の墳墓群から銅剣、鉄剣、管玉、勾玉(まがたま)などが大量出土。文化審議会は
 「人骨に着装された貝輪はゴホウラ製とイモガイ製が男女で使い分けられ、当時の貝製装身具の状態を知る稀有(けう)な資料」
と高く評価した。

 会場は考古学ファンでいっぱい。貝輪や甕(かめ)棺、発掘現場の模型などに目を奪われた。初日の20日には、田中良之・九州大大学院教授の講演「人骨研究が解明する弥生時代像」もあった。【楢原義則】


※参考サイト(いずれも日田市ホームページから)

・吹上遺跡出土品 重要文化財指定記念展示「吹上〜弥生時代のヒタを治めた人々」
http://www.city.hita.oita.jp/bunka/page_00046.html

・吹上遺跡 重要文化財指定記念展示チラシ(PDF:1,608キロバイト)
http://www.city.hita.oita.jp/content/000017074.pdf

・日田市埋蔵文化財センター常設展示 〜旧石器時代から弥生時代〜
http://www.city.hita.oita.jp/bunka/page_00010.html
482日本@名無史さん:2010/07/02(金) 12:23:42
>>397

それだと掘れる範囲が余りに狭すぎて話にならないんだよな
かといって周りの家や団地潰すわけにいかないし・・
ほんとどうしようも無いわ
あんな住宅地の中にあるのが運の尽きだな

483まあ素人が生意気言うわけですがw:2010/07/03(土) 12:29:07
>>474
三角に対する古今の研究を網羅した内容ならコストパフォーマンスとしては良いのかな?

ただミーハーな素人の自分からすれば
もはや国内における三角の研究は出尽くしたんじゃないのかな?と思っているがw

正直一番欲しい情報は中国における3世紀前後の銅鏡製作事情で
それが分からない事には舶載/国産の製作地論争も所詮水掛け論の域をでないように思うが…

無論「500対0」をマントラの如く繰り返すアホなんかは論外www
484日本@名無史さん:2010/07/03(土) 12:57:38
>>483
実はそこのところは韓国の考古学者も困り果てているらしい。
というのは、肝心の楽浪郡がピョンヤン周辺にあるわけで、今のところ調査のしようがない。
言うなれば北海道を行くことすら出来ず、物も入ってこない状態で、どれが北海道産バターかを論じなきゃいけないという状況だから。
485日本@名無史さん:2010/07/03(土) 16:08:54
>>483
いまだに舶載説を信じているカルト学者が本当に居るとでも思っているのか?
おめでたい奴だな。

サッカーで500対0で試合終了したのに、結果を受け容れずに抗議している
サポーター並みに哀れだな。
486483:2010/07/03(土) 16:45:53
>>484
まあ正直将軍サマの体制下で発掘が進まない方が良いんじゃないかとも思っているwww

>>495
サイキバか恨み節かな?
マントラの詠唱乙w
487日本@名無史さん:2010/07/03(土) 20:10:05
>>486
もしかして舶載説を本気で信じているのかな?

違うよね。


舶載説の弱点からあえて目をそむけ続けて、「ハクサイ」と連呼し続けていても
信心は誰にも伝わらないよ。
488日本@名無史さん:2010/07/03(土) 20:58:59
舶載説を本気で信じていた最後の学者は誰だろう?

小林かな。彼は森浩一が批判する前までは本気で信じていたと思う。
森の批判に真面目に応じていないように見えるので、その後はアレだが。

以降の学者は最初から信じずに政治的スタンスでやっている感じが強い。
批判を無視しすぎ。
489日本@名無史さん:2010/07/03(土) 21:20:08
森浩一は「王様は裸だ」と言うレベルの当たり前のことを言ったに過ぎない。
その後になっても、パンツもはこうとしない連中が想定外なだけ。
490日本@名無史さん:2010/07/03(土) 22:01:43
国産説も宗教と化したようだな
491日本@名無史さん:2010/07/03(土) 22:32:17
舶載説に対して
「研究者は本気で信じていない」
とか
「政治的過ぎて」
などという一種の陰謀史観が出てくる時点で
ビョーキだな

自説に都合が悪いことを無視し
さらには妄想でおとしめるのは
国産説側の方が常軌を逸しているようにしか見えない
492日本@名無史さん:2010/07/03(土) 22:52:16
>>490-491
国産説がビョーキなのではなくて、『国産説にぶらさがる安本信者』がビョーキなんで、区別してやってね。
その証拠に、未だに森浩一でしょw
モリコーさん自身はもう邪馬台国関連から身を引いちゃったので、もう過去の人ではあるが
安本東遷説に引き合いに出されるほど落ちぶれちゃあいない。
493日本@名無史さん:2010/07/03(土) 23:51:21

■纒向中枢部の調査再開 - 桜井市教委

奈良新聞 2010年7月2日 
http://www.nara-np.co.jp/20100702095836.html

 邪馬台国の有力候補地とされる桜井市辻の纒向遺跡で1日、市教育委員会が中枢部の調査を再開した。昨年見つかった大型建物跡(3世紀前半)の南側で、約450平方メートルの調査を予定している。

 同遺跡では昨年、床面積が約240平方メートルに達する大型建物跡が出土。3世紀前半では最大で、祭祀(し)施設とみられている。

 今回の調査は9月末までの予定で、初日は調査区の草刈りや器材の搬入が行わ…


     記事の詳細は本紙をご覧下さい ⇒ 【 奈良新聞を購読する 】


調査区の草を刈る市教委の職員=1日、桜井市辻
http://www.nara-np.co.jp/20100702095836.html
494日本@名無史さん:2010/07/04(日) 01:59:28
>>490>>492 自演乙

ジョーカーの自演癖は、自演しないと説得力がないことの自覚だな。
要するに自分でも舶載説なんて全く信じちゃいないってことだ。

しかし脱洗脳は受け付けないのが畿内教
495日本@名無史さん:2010/07/04(日) 02:22:11
しかしまあ三角縁神獣鏡に関しては王の論文が一種の「黒船」みたいなインパクトがあったんだろうなw
が、それから数十年…今舶載説を唱えている人間は当然、王の主張を踏まえて述べているわけで

実際のところ例えば福永あたりを真正面から論破できる国産説の学者っているのかねえ実際?www


496日本@名無史さん:2010/07/04(日) 03:47:14
>>495
じゃあ500対0の理由を説明しろよ。


その説明から逃げ回って自分に都合の良い妄想を垂れ流すからカルト扱いされているんだろ。
学者からも。

497日本@名無史さん:2010/07/04(日) 04:07:02
>>496
ん?

国内の「500」に関してはもし舶載があっても極一部
卑弥呼が貰った鏡が100枚なら一枚でも出てりゃ御の字w

中国の「0」に関してはそもそも魏が短命であった事
また基本的に薄葬であった事もあいまって確実に魏代のものと分かっている鏡が極端に少ない。
「0」なのは当たり前。

こんな分かりきった事を(しかも過去に何回も言った事を)繰り返すのはいい加減馬鹿馬鹿しいのだがw

答えてやったんだからこっちの質問にも答えてもらえないかな?

じゃあ三角縁神獣鏡は置いといて卑弥呼の鏡の候補はどんな鏡が候補になる?
それは中国で確実魏代と分かる鏡でどれくらい出てるんだ?
三角の「0」に対してどれくらいの数字を挙げる事が出来るのかな?
人に答えてもらって自分はトンズラこくなよゴミクズwww

どうせお前みたいなアホは言った直ぐから脳内をリセットして「500対0」を繰り返すだけなんだろうがwwww
498日本@名無史さん:2010/07/04(日) 08:42:47
昨日、マキムクに行ったら
近くの団地の住民に物凄く睨まれたよ
カメラ下げて考古学オタク丸出しだったのが良くなかったのかしらんが
わざわざ東京から来たってのになぁ
とにかく子汚い貧乏団地なくなればいいと思います
499日本@名無史さん:2010/07/04(日) 09:36:56
500日本@名無史さん:2010/07/04(日) 13:14:55
>>497
つまり500面以上出土した△のうち、舶載はほんの数面〜せいぜい数十面ってことだな。

A 中国での出土状況から、三角縁の変遷のごく初期のほんの一部だけを舶載にする説。
  しかし、これだと文様変遷の後期に位置づけられる紀年鏡は、日本製で確定する。

B Aの結論が困るの舶載説の大半は、△の7〜8割を舶載と言い張っている。
  これでは中国で1面も出土しないことが説明不可能。まさにカルト。

C Bはあまりにも無茶なので、文様変遷の議論はなかったことにして、紀年鏡を変遷の
  当初の時期に位置づけて、舶載の三角縁はごく僅かとする説も一部にある。


つまりジョーカーはC説ってことか?
三角縁の変遷の議論をなかったことにしようとする流れも確かにあるが、そんな恥ずかしいことを
するのが学者とは言えないよね。カルト以前のえせカルトだな。
501日本@名無史さん:2010/07/04(日) 13:40:58
>>500
いつもの「恨み節」かな?
悪いんだが、そもそも紀年鏡を国産として何が都合が悪いのかが理解できないw

それにこっちの質問はスルーかな?

そもそもお前は中国における魏代(魏の領域)の鏡についてどれくらい出ていると認識しているんだ?

例えば何百枚も出ていてその中に神獣鏡が一面も無ければ
お前らがマントラの如く繰り返す「中国で0」も意味があるだろうが

その分母がほんの数枚程度なら意味があるのか?と聞いているのだが?w
502日本@名無史さん:2010/07/04(日) 14:52:55

m(-_-m)〜 ウラメシヤー
503日本@名無史さん:2010/07/04(日) 19:20:46
>>500 恨み節@東遷廚
横からシツレイ。

>文様変遷の後期に位置づけられる紀年鏡

これ、以前から言ってるけど、そのソースを教えてください。
504日本@名無史さん:2010/07/05(月) 00:12:14
>>501
紀年鏡を国産とすると三角縁の日本での流通開始を4C以前にする根拠なくなる。

魏で三角縁が出ないのは、魏代の出土品が少なすぎるからという主張かな?
中国の学界では、魏は極度の銅不足であったというのが定説。
なので、銅鏡の出土が少ない。
鏡を重視する文化でもない。

この状況で「魏で出ないのは、まだ出土していないからだ。」と叫んでも
哀れみを受けるだけだよ。



PS:魏の出土物が少ないことへの「恨み節」を自虐ネタにしているのかな?
  それって面白くないよ。
505日本@名無史さん:2010/07/05(月) 00:31:54
で、
>文様変遷の後期に位置づけられる紀年鏡
のソースは?
506日本@名無史さん:2010/07/05(月) 00:43:09
>>505
文様変遷(具体的→抽象化)の議論のソースは小林から現在に至るまで多数あるが。
まさか全部をださなきゃいかんのか?
実際の文様は、古鏡総覧、三角縁神獣鏡新鑑などで確認できる。


最近は昔はやった変遷の議論をなかったことにして、ごまかそうとするかのような
傾向もないとは言えないが、良くない傾向だな。
507日本@名無史さん:2010/07/05(月) 01:48:28
でもなあ、魏における鏡の文様の変遷なんて、
昭和から平成にかけての「小学生の持つペンケースの形の変遷」みたいなものだろ?
金属製になったり、プラスチック製になったり、布製になったりするあれだ。
茫漠と何年程度かの推測はできても、その程度の意味しかない。
例外があっても全くおかしくない。

明らかな威信材かつ宗教用具であって、
無文字時代において明らかに特別な意味をもった当時の日本の鏡の文様とは、全く位置づけが異なる。
508日本@名無史さん:2010/07/05(月) 02:37:47
>>506
はぁ?何言ってんだお前?
その「現在に至るまで多数ある」研究の結果、
紀年鏡を三角縁の後期に位置付けるなんて見解にはなってないのだがね

最近というか、そうした研究成果をなかったことにしてるのは
お前の方じゃないのか?
509日本@名無史さん:2010/07/05(月) 03:04:15
>>504
>紀年鏡を国産とすると三角縁の日本での流通開始を4C以前にする根拠なくなる。

ここで今度は制作年代のお話かw
まあいいんでないの?

逆に国産だから4世紀以降だという根拠にもならないんだしw
昔は「後代日本にとって由緒のある年号を入れた」
なんて理屈があったらしいが呉の年号の物まで出てきた時点で
その仮説も意味のないものになっているしなwww
(森浩一も自著の中でお手上げみたいだったがw)

>魏は極度の銅不足

はあ?
それが反論になると思っているのか?
単に魏代の鏡の出土が極端に少ない事の理由を更に付け加えてくれただけだな乙w

だったら尚更の事中国で三角が出ないのは当たり前と言う話だ。
なんせ極端な銅不足な当時の魏にとってはそれこそ”なけなしの百枚”だったんだろうからなw

魏代の鏡が出土しなくて当たり前だと言う事を知った上で
「中国からの出土がゼロ」と馬鹿の一つ覚えで繰り返しているのは
単なる恣意的ミスリード、イメージ戦略と言うことでいいな?w
510日本@名無史さん:2010/07/05(月) 03:23:54
それから…どうにもこうにも、この恨み節の言う事が分からないのは

 ・紀年鏡を様式変化の変遷の後期に置く
 ・紀年鏡を舶載とする事で三角縁の日本での流通開始を4C以前とする根拠にする。

そもそも元々この二つは同時に成り立たんだろう?

例えば景初銘の鏡をほぼリアルタイムで日本に流入してきたとする。

で、これが様式変化の後期とすれば
じゃあその初期に位置付けられる鏡はい日本に来たのだ?って話で

この恨み節ちゃんの御高説なら
「三角の流通期間は精々二世代(40〜60年)ぐらい」
と言うお話だったと思うが

その御高説に従えば三角の登場は下手すりゃ2世紀になるわけだがwwwwwwwwww
511日本@名無史さん:2010/07/05(月) 09:57:25
三角縁 0対500 の理由として
魏の銅不足とやらを持ち出してきたか。
もはや何でもありだな。

一枚も作れないほどに動画不足しているのなら
そもそも下賜しないのが正解だと思うんだが。
なんかほかの下賜しやすいものにしとけばいいだろ。
512日本@名無史さん:2010/07/05(月) 12:43:22
九州に下賜されたとしても、中古の漢鏡ばかりじゃん?
513日本@名無史さん:2010/07/05(月) 13:10:00
三角縁スレあるんだからそっちでやれよ
514日本@名無史さん:2010/07/05(月) 13:56:41
無効はあれな人ばかりでねぇ・・・
515日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:46:04

■【麗し大和】(27)紺碧に浮かぶ大王墓 垂仁天皇陵

産経新聞 2010.7.4
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100704/acd1007040701002-n1.htm

 紺碧(こんぺき)の空を映し、ゆったりと水をたたえる古代の王墓。近鉄尼ヶ辻駅の雑踏を抜けると、時の流れが止まったような垂仁(すいにん)天皇陵(宝来山古墳。ほうらいやまこふん)がある。
町や田園風景のなかで突然出合う太古の遺産。だから、奈良歩きはおもしろい。

 古事記、日本書紀に伝わる11代垂仁天皇は在位なんと約100年。とても信じられないが、古墳自体は約230メートルと4世紀中〜後期の前方後円墳としては最大規模だ。
4世紀といえば、中国の史書にみえる卑弥呼(3世紀)と倭の五王(5世紀)の間で、文献上は謎だらけ。古墳は、ベールに包まれた謎の4世紀に強大な権力を持つ王がいたことを教えてくれる。

 水鳥が憩う濠(ほり)の周囲をぐるりと歩くと、東南の片隅に、田道間守(たじまもり)の墓と伝わる小島がぽつんと浮かんでいた。
記紀によると、天皇の命で非時香菓(ときじくのかぐのこのみ、橘の実という)を求めて常世(とこよ)の国に渡り、10年後に帰ったがすでに天皇は亡く、嘆き悲しんで死んだという。
当時の果実は菓子のルーツとされ、今では田道間守は「菓祖」として菓子業界の信仰を集めているそうだ。

 ところが、どうやらその小島はそれほど古いものではないらしい。「幕末から明治のころに堀を拡張した際に、当初の堤の一部が残ったもの」という和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授。

 ともあれ、陵(みささぎ)に寄り添う小さな島に人々は、伝説の忠臣をなぞらえた。永遠へのあこがれもあったろう。そこに新たな信仰が生まれるあたり、なんとも日本人らしい心のありようだと思う。(山上直子)


周濠に浮かぶ垂仁天皇陵=奈良市尼辻西町
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/100704/acd1007040701002-p1.jpg
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/100704/acd1007040701002-p2.jpg
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/100704/acd1007040701002-p3.jpg
手前の小島は田道間守の墓と伝えられる
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/100704/acd1007040701002-p4.jpg
516日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:57:00

■【麗し大和・記者の裏話】(27)ナゾの古代4世紀 移動する前方後円墳

産経新聞 2010.7.4
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100704/acd1007040700001-n1.htm

 特に熱心な古代史ファンというわけでもなかったのに、この1週間、“謎の4世紀”にハマった。
4世紀は、中国の魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代(3世紀)と、宋書倭国伝にある倭の五王(5世紀)の間の時代。けれど、文献的には“空白の世紀”だ。
ところが、考古学的な遺産でいうと、前半は三輪山周辺に、中期から5世紀にかけては奈良市北部・佐紀地域に大規模な前方後円墳が築かれている。
たぶん、その墓の主たちが当時の「王」だったんだろうけど、移動しているのはどういうこと?(にわか勉強なので勉強不足の点はお許しを)

 ◇王の墓が移動?

 そもそも、最古と見られる前方後円墳は桜井市の箸墓古墳(3世紀なかごろ? 卑弥呼の墓かとよく話題にのぼる)で、山自体が大神神社のご神体の三輪山のふもとという意味深なロケーションだ。
その後も、4世紀前半にかけて箸墓からすぐ北の天理市柳本町に巨大な前方後円墳が築かれている。

 ところが。4世紀半ば以降、突然、王墓としか思えない大規模な古墳がずっと北の佐紀周辺に造られる。奈良市北部の佐紀古墳群だ。
神功陵や成務陵などの天皇陵とされる古墳のほか、5世紀とみられるウワナベ古墳、コナベ古墳もある。
奈良県の地図をみると一目瞭然、桜井・天理からポーンと奈良市のなら山(京都府との県境)周辺へと、王墓が飛んでいったような感じなのである。
(つづく)
517日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:58:50
(つづき)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100704/acd1007040700001-n2.htm

 さらに、次の5世紀に入ると、有名な仁徳天皇陵(堺市)など、さらに巨大な前方後円墳が大阪府の河内・和泉地方に造られはじめること。
といってもまだ、佐紀には仁徳陵ほどではないにしろ、それなりに大きな古墳が同時期に造られていて、「どういう関係?」と疑問がおこる。確か、河内王朝とか、王朝交代説というのを聞いたこともあったなあ…。

 ◇王朝交代というよりは

 で、「ははぁ、なるほど」と思った解説があった。王朝交代というよりは、盟主権の移動があったというもの。元来、大和の王家があり、王権を握った大阪の首長は大和の王家と縁組みすることで“王”としての認知を得たと…。
背景には当時の朝鮮半島を中心とする国際情勢変化がありそうだ。

 またそれから考えると、さかのぼって三輪から佐紀へと王墓が移ったのも、佐紀の有力一族が王家と婚姻を結び、生まれた子供が王位を継いで、その墓はたぶん母の出身地だった佐紀周辺に造られたのではないか、と。

 うーん。いずれにしても、考古学と文献研究の協力がさらに謎の4世紀の解明を進めてくれそうだ。

 【参考】白石太一郎著「考古学と古代史のあいだ」(ちくま学芸文庫)、「古墳とヤマト政権−古代国家はいかに形成されたか (文春新書)
518日本@名無史さん:2010/07/06(火) 18:12:37

■常設展 広く見やすく - 12年ぶりに一新【桜井市埋文センター】

奈良新聞 2010年7月3日
http://www.nara-np.co.jp/20100703105115.html

 桜井市の出土遺物を展示する同市芝の市立埋蔵文化財センターが常設展を一新した。リニューアルは12年ぶり。纒向遺跡で見つかった大型建物跡の復元コンピューター・グラフィックス(CG)パネルも展示した。

 桜井のあけぼの▽マキムクの時代▽王権と祭祀(し)▽律令国家の成立へ―の4ゾーンを設け、常設展のスペースを1.5倍に拡充。ゾーンごとに色分けして見学しやすくした。

 10年ほど前に農地整備で見つかった前方後円墳、小立古墳(5世紀後半)の家形埴輪や蓋形(きぬがさがた)埴輪は復元が終わって初めて展示…


      記事の詳細は本紙をご覧下さい


リニューアルで露出展示された埴輪=桜井市芝の市立埋蔵文化財センター
http://www.nara-np.co.jp/photo/57dae7d1283de1c06358fad2eb856679.jpg
519日本@名無史さん:2010/07/08(木) 02:29:28
395 名前:日本@名無史さん 投稿日:2010/06/09(水) 22:49:03
>>394
>そりゃこれからの季節はやぶ蚊がひどいし、交通アクセスはお世辞にもいいとはいえないが
>>482
>それだと掘れる範囲が余りに狭すぎて話にならないんだよな
>かといって周りの家や団地潰すわけにいかないし・・

  やっぱり全部潰してもたほうがええで!

>>395
>汚くって悪かったな

  悪い!(←キッパリト) はよ潰せ

>夜風は涼しいし夏は稲穂の香りに包まれて眠れる。クーラーなんぞ要らん

  家がなくなって外で寝たら、もっとよう寝られるで

>そして目を覚まして窓を見れば、目の前には箸墓だ、しかも朝の光にに包まれた・・・
  朝の光にに包まれた・・・ままこいつを箸墓の池に沈めてしまえ
  まああの辺一帯を百年ほどかけて全部更地にする必要はあるでしょうな
  あの辺一帯とは桜井市全域のことね
520日本@名無史さん:2010/07/09(金) 00:09:00

■舟形木棺はヒノキ製 日本最古、昨年名古屋で発掘 

中日新聞 2010年7月6日
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2010070602000041.html

 名古屋市北区の平手町遺跡で昨年2月に見つかった弥生時代中期後半(約2000年前)の日本最古の舟形木棺が、ヒノキ製だったことが市教育委員会の分析で分かった。
当時の丸木舟にヒノキが使われた出土例はないことから、廃船となった丸木舟を棺(ひつぎ)に転用したのでなく、初めから木棺として作られた可能性が高まった。

 木棺は幅約1メートル、長さ約2・8メートルで状態が良く、併せてふたと、30〜50歳代の性別不明の人骨の一部も棺内から見つかった。発掘後の分析で、棺はヒノキの丸太をくりぬいて作られたと判明した。

 「精霊(しょうりょう)舟」などで現代にも受け継がれる、魂を舟であの世へ送る「舟葬(しゅうそう)」という葬送風俗は、弥生末期以降の遺跡で確認されていた。
平手町遺跡の舟形木棺はこれを約200年もさかのぼるため、廃船を転用しただけとの見方も捨てきれなかった。

 同志社大の辰巳和弘教授(古代学)によると、縄文以降の遺跡から出土した実用の丸木舟約400例を調べたところ、材質はスギやクスノキなどで、ヒノキは1例もなかった。
木棺がヒノキ製だったことで、辰巳教授は「舟葬思想に基づいて、わざわざ舟形に棺を作った可能性が高い」と話している。

 市教委は木棺の保存処理作業を終え、17日から名古屋市瑞穂区の市博物館に常設展示して一般公開する。

・ヒノキ製と分かった名古屋市北区出土の舟形木棺(名古屋市見晴台考古資料館提供)
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/images/PK2010070602100031_size0.jpg
521日本@名無史さん:2010/07/09(金) 00:27:07

■古代の炭化米、焼けずにできた  京大などエックス線画像解析

京都新聞 2010年07月06日
http://www.kyoto-np.co.jp/environment/article/20100706000145

 奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡から出土した約2500年前の炭化米が、火事などで焼けたものではないことがエックス線画像解析で分かり、京都大総合博物館(京都市左京区)が6日発表した。
遺跡の炭化米は焼けた炭と考えられてきたが、再考を迫られそうだ。

 弥生時代の環濠(かんごう)集落跡から出土した炭化米の塊の内部断面を、島津製作所の高精細エックス線CT(コンピューター断層撮影)装置で解析した。
もみの細かい毛や穂とつなぐ穂軸が残り、火を受けてはいないことが判明した。穂軸などの状態から、もみは穂についたまま積まれ、何らかの理由で土に埋まって、化学的に炭化したらしい。今後、炭化のメカニズムを探る。

 泉拓良・文学研究科教授(考古学)は「弥生時代の米が石炭のように炭化するとは考えていなかった。炭化しているから火事があったと短絡的に考えないようにしないといけない」と話している。

 佐藤洋一郎総合地球環境学研究所教授(植物遺伝学)は「ここまで高精細に分かれば品種も特定できる。当時の収量や保管法なども分かるのではないか」と期待する。

 解析した炭化米とエックス線画像は、京大総合博物館の企画展「科学技術Xの謎」で7日から展示される。入館料が必要。

・高精細エックス線CT装置でとらえた炭化米の断面。だ円形のもみから伸びる細長い穂軸が確認できる(京都大総合博物館提供)
http://www.kyoto-np.co.jp/picture/2010/07/20100706191417tannkamai.jpg
522日本@名無史さん:2010/07/09(金) 23:10:36
柳田翁が言うには、古代、巫女をイチと呼んだのだとか
イツキメの略なのかもしれない

こう考えると、大市墓とは偉大な巫女を埋葬した塚という意味になる。
523日本@名無史さん:2010/07/13(火) 03:06:19

■邪馬台国テーマに出土品陳列 「発掘された日本列島」展

朝日新聞 2010年7月9日
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201007090387.html?ref=reca

 全国各地で続く発掘調査の最新成果を展示する「発掘された日本列島2010」が東京・両国の江戸東京博物館で開かれている。
09年に奈良・纒向(まきむく)遺跡から3世紀では最大規模の建物跡が見つかり、邪馬台国論争が再燃したことを受け、今年は邪馬台国を前面に出している。

 旧石器時代から近代まで8区分して展示している。古墳時代のコーナーでは、纒向遺跡から出土した木製仮面(長さ26センチ、幅21.5センチ)や木製の鎌の柄などを陳列する。

 邪馬台国を巡る「畿内説」「九州説」の両説を展望できるよう配慮。奈良の唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡の土器、青銅器の鋳型、福岡の須玖(すぐ)遺跡群と三雲・井原(いわら)遺跡からの鏡、ガラス小玉など幅広く展示している。

 近代では、軍事や戦争に関する遺跡の発掘が目立つ。

 1865年に国産初の実用蒸気船を完成させたとされる佐賀県・三重津海軍所跡からは染付海文茶碗(ちゃわん)などが出土。「海」の文字が入った茶碗は、海軍と焼き物文化が融合した象徴ともとれる。

 沖縄県の沖縄陸軍病院南風原濠群(はえばるごうぐん)は1945年、太平洋戦争下の沖縄戦時に実際に使われていた病院跡だ。
注射溶液用のガラス瓶、ピンセットなどの医療品がひとかたまりとなって発掘された。パネル展示ではあるが、沖縄戦のありようをしのばせる。

 同博物館では25日まで。青森県立郷土館・三内丸山遺跡展示室(8月3日〜9月5日)▽宮城県の多賀城市埋蔵文化財調査センター(9月14日〜10月11日)
▽大分県立歴史博物館(10月22日〜11月19日)▽香川県立ミュージアム(11月27日〜12月23日)▽大阪歴史博物館(2011年1月12日〜同2月28日)。

奈良県の纒向遺跡から出土した古墳時代前期の木製仮面=文化庁提供
http://www.asahi.com/culture/news_culture/images/TKY201007090381.jpg

関連記事
http://www.asahi.com/event/AIC201005180011.html

文化庁ポスター
http://www.bunka.go.jp/oshirase_event/2010/pdf/hakkutsu_2010_poster.pdf
524日本@名無史さん:2010/07/13(火) 03:41:37

■発掘調査現場から(247回) 広報「わかざくら」(桜井市) 平成22年7月掲載

・箸墓古墳の外濠状遺構
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/index.html

 纒向遺跡の南端に位置する箸墓古墳は、3世紀中頃〜後半に築造された最古の定型化した前方後円墳として、また日本列島における最初の大王墓として、全国的にもよく知られている古墳です。
全長約280mの墳丘部分は、現在倭迹迹日百襲姫の大市墓として管理され、調査・立ち入りができません。したがって墳丘周辺で実施される発掘調査は、箸墓古墳に関する新たな知見が得られる貴重な機会となってきました。

 このような発掘調査の積み重ねにより、墳丘の周囲をめぐる幅10m程度の周濠と、その外側に広がる大規模な外濠状遺構の存在が明らかになりつつあります。
平成21年度に前方部の南側で実施した纒向遺跡第163次調査(箸墓古墳周辺第19次)においても、外濠状遺構の一部が検出されました。
前方部南側で確認されたのは今回がはじめてであり、その幅は50m以上と大規模なものでした。
またその南端部分では人工的な盛り土が確認されました。外濠状遺構が掘られたのちに、外周部分が整えられている可能性が考えられます。

 箸墓古墳の築造は、日本列島はじまって以来の国家的大事業であったと考えられます。確認された大規模な外濠状遺構は、列島最初の大王の墓にふさわしい、箸墓古墳の壮大な全容を浮かび上がらせました。【文化財課】

写真 箸墓古墳・大規模な外濠状遺構
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/photo/chosa247.jpg
525日本@名無史さん:2010/07/17(土) 22:07:15
てす
526日本@名無史さん:2010/07/29(木) 15:18:27

■弥生時代の石棺に人物画、呪術師か 北九州・城野遺跡

朝日新聞 2010年7月22日
http://www.asahi.com/culture/update/0722/SEB201007210082.html

 北九州市小倉南区の城野(じょうの)遺跡で、弥生時代終末期(3世紀前半ごろ)の墓の石棺に、武器らしいものを持つ人物像が描かれていることがわかった。
弥生の石棺に描かれた人物画は極めて珍しく、弥生人の葬送儀礼を知る貴重な手がかりになりそうだ。

 城野遺跡は同市芸術文化振興財団の埋蔵文化財調査室が発掘してきた。
昨年、周りに溝を巡らせた方形周溝墓が発見され、子供用の石棺が見つかった。石棺の内側には赤い顔料が塗られ、頭側の板に、大きさ約20センチの人物の上半身が薄く彫り込まれていた。
右手に武器、左手に盾のようなものを持っている。武器とすれば、弥生遺跡で出土する戈(か)とみられる。胴体には格子模様、顔には複数の目のような表現があるという。

 弥生時代の土器などには、武器を持つ人物が描かれたものが見つかっているが、それらは、農耕儀礼を表しているとみられている。
だが、今回の人物像について、設楽博己・東京大教授(考古学)は「石棺にあったということは、墓の中で邪霊をはらうものと考える方が理解しやすい」とみる。

 さらに、古代中国の文献「周礼」に登場する呪術師「方相氏(ほうそうし)」ではないかとの指摘も出ている。
方相氏は四つ目の面をかぶって戈と盾を持ち、律令時代の日本では宮中の、鬼を払う追儺(ついな)の儀式にも採り入れられた。
ただ、石棺の絵は線が細く、細部もはっきりしないため、研究者のなかには慎重な見方もある。
同市教委は「これからさらに詳しく検討したい」としており、近く石棺の一部を現場から屋内に移し、調査を続ける予定だ。

城野遺跡の石棺の壁に描かれた人物
http://www.asahicom.jp/culture/update/0722/images/SEB201007210084.jpg
http://www.asahicom.jp/culture/update/0722/images/SEB201007210089.jpg

方形周溝墓から出土した石棺。朱色に塗られていた=2009年11月、北九州市の城野遺跡
http://www.asahicom.jp/culture/update/0722/images/SEB201007210088.jpg

古代中国の方相氏
http://www.asahicom.jp/culture/update/0722/images/SEB201007210083.jpg
527日本@名無史さん:2010/07/29(木) 17:31:01

   ■□■ お百度コピペ(吹き出しに願いを込めて100コピペすれば願いがかなう) ■□■


般 波 羯 即 実 呪 多 三 般 倒 掛 般 無 無 明 法 眼 是 不 亦 色 厄 多 観  摩
若 羅 諦 説 不 是 是 藐 若 夢 礙 若 得 老 亦 無 耳 故 生 復 即 舎 時 自  訶
心 僧 羯 呪 虚 無 大 三 波 想 故 波 以 死 無 眼 鼻 空 不 如 是 利 照 在  般
経 羯 諦 曰 故 等 神 菩 羅 究 無 羅 無 盡 無 界 舌 中 滅 是 空 子 見 菩  若
   諦      説 等 呪 提 蜜 竟 有 蜜 所 無 明 乃 身 無 不 舎 空 色 五 薩  波
      波   般 呪 是 故 多 涅 恐 多 得 苦 盡 至 意 色 垢 利 即 不 蘊 行  羅
   菩 羅   若 能 大 知 故 槃 怖 故 故 集 乃 無 無 無 不 子 是 異 皆 深  蜜
   提 羯   波 除 明 般 得 三 遠 心 菩 滅 至 意 色 受 浄 是 色 空 空 般  多
   薩 提   羅 一 呪 若 阿 世 離 無 提 道 無 識 聲 想 不 諸 受 空 度 若  心
   婆     蜜 切 是 波 耨 諸 一 掛 薩 無 老 界 香 行 増 法 想 不 一 波  経
   訶     多 苦 無 羅 多 佛 切 礙 陀 智 死 無 味 識 不 空 行 異 切 羅
          呪 真 上 蜜 羅 依 顛 無 依 亦 亦 無 觸 無 減 相 識 色 苦 蜜


             / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     ,__     | ロト6かBIGが当たり、高級ソープで総揚げできますように…ナムナム
    /  ./\    \______________
  /  ./( ・ ).\       o〇..      ヾ!;;l;::lilii|//"
/_____/ (´ー`) ,\    ∧∧         |;;l;;::|liii|/゙
 ̄|| || || ||. |っ¢..|| ̄   (,,  ) ナモナモ    |;;l;;::||iii|
  || || || ||./,,, |ゝ iii~    ⊂  ヾ..        |;;|;l;::i|ii|
  | ̄ ̄ ̄|~~凸( ̄)凸 .(゙  ,,,)〜 wjwjjrj从jwwjwjjrj从jr
528日本@名無史さん:2010/07/29(木) 18:26:58
高級石鹸で天ぷらでも作るのか?
529日本@名無史さん:2010/07/29(木) 19:06:44
>>526

>さらに、古代中国の文献「周礼」に登場する呪術師「方相氏(ほうそうし)」ではないかとの指摘も出ている。
>方相氏は四つ目の面をかぶって戈と盾を持ち、律令時代の日本では宮中の、鬼を払う追儺(ついな)の儀式にも採り入れられた。

北九州市埋分の発表内容は置いておくとして、asahi.comの紹介図に出てくる方相氏が手にしているのは、どう見ても「矛」だよね。
530日本@名無史さん:2010/07/29(木) 19:35:06
>>529
うーん、「矛」と言うよりむしろ「戈(日本の戈とは少し使い方が違う)」とか「戟」のように見えるが…
531日本@名無史さん:2010/08/02(月) 23:23:09

■あの卑弥呼の大刀から半世紀…幻の報告書刊行 東大寺山古墳

産経新聞 2010.8.2
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100802/acd1008021208004-n1.htm

 邪馬台国の女王、卑弥呼が中国皇帝から授かったともいわれる大刀(たち)などが出土した東大寺山古墳(奈良県天理市)について、未完のままだった学術報告書が、発掘から半世紀を経てようやく刊行された。
当初計画された作成作業が止まったままになり、一時は“お蔵入り”も危ぶまれたが、関係者が古い発掘資料を丹念に探し出すなどして思いを結実。「やっと肩の荷が下りた」と喜んでいる。(小畑三秋)

 ◆関係者の情熱結実「肩の荷下りた」

 発掘調査は、天理大学付属天理参考館が昭和36年11月から実施。20本以上の大刀や剣などの副葬品が出土し、一級の成果を挙げた。

 調査を担当した金関恕(ひろし)・現天理大名誉教授(82)らは、翌37年に調査概要を古代史の専門誌に掲載したが、詳細な報告書は改めて出す予定だったため、25ページの“ダイジェスト版”にとどめた。

 ところが、その後出土品が重要文化財に指定され、文化庁に移管されたことなどから、報告書の作成作業はストップ。手つかずになったまま長い時が流れた。

 平成17年11月、金関さんの誕生会で久々に教え子らが顔をそろえ、未完の報告書が話題に上った。「このまま放ってはおけない」と意見が一致し、刊行に向けて約20人が研究会を立ち上げることになった。
小田木治太郎・天理大准教授(44)は「あれだけ重要な古墳なので、報告書が出ていないことはみんな気にしていた」と語る。

 資料の在りかすら分からない状態から始まった作業。1年がかりで探し出していったが、副葬品の出土状況を記した実測図はどうしても見つからなかった。
21年夏、小田木さんらが改めて研究室の書棚などをくまなく探し、ようやく紺色の布張りの箱に入った実測図を見つけ出した。
(つづく)


昭和36年に行われた東大寺山古墳の発掘調査現場(天理大学付属天理参考館提供)
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/100802/acd1008021208004-n1.jpg
532日本@名無史さん:2010/08/02(月) 23:26:46
(東大寺山古墳報告書刊行 つづき)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100802/acd1008021208004-n2.htm

 金関さんがノートに記した当時の調査日誌も見つかった。
調査終盤の昭和36年12月21日、宮殿風の建物が浮き彫りされた豪華な大刀が出土した。国内初の発見。「一同驚喜」と書かれた文字は、現場の興奮を示すようにひときわ大きかった。

 保管先の東京国立博物館の協力を得て、同館で出土品の調査も実施。今年3月、「東大寺山古墳の研究」と題した分厚い報告書がようやく完成した。

 「(報告書の未完成を)自責して心の休まることがなかった。刊行遅延が研究に少なからぬ障害となったであろうことを思うと慙愧(ざんき)の念に堪えない」。
序言の中で金関さんは、学術報告書としては異例ともいえる文章を記している。

 遺跡の報告書は、多くの研究機関で調査から5〜10年かかり、刊行されないままとなるケースもある。
関係者の情熱を結集して報告書が完成したことに、金関さんは「私だけではとてもできなかった。若い研究者が労苦をいとわず頑張ってくれた」と喜んでいる。

 A4判、578ページで税込み9450円。問い合わせは真陽社((電)075・351・6034)へ。

      ◇

 【用語解説】東大寺山古墳

 全長140メートルの前方後円墳で、古墳時代前期(4世紀中ごろ)の築造。出土品のうち、大刀の1本には「中平□年五月…」(□は文字が欠損)など計24文字が、細い金線を刀身に埋め込む「金象眼(きんぞうがん)」という技法で記されていた。
中平は2世紀後半の中国の年号で、日本では邪馬台国の女王・卑弥呼の時代と一致することから、卑弥呼が中国皇帝から授けられた大刀との説もある。


発掘から半世紀ぶりに刊行された東大寺山古墳の報告書「東大寺山古墳の研究」
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/100802/acd1008021208004-p2.jpg
533日本@名無史さん:2010/08/04(水) 23:50:43

■杉谷古墳群6号墳の発掘開始

読売新聞 2010年8月3日
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/toyama/news/20100802-OYT8T01372.htm

  王墓の可能性も

 呉羽丘陵に位置する富山大学杉谷キャンパス(富山市)で、弥生末期から古墳時代初期にあたる3〜4世紀頃の「杉谷古墳群」のうち6号墳の発掘調査が2日始まった。
規模の大きさなどから、富山平野を治めた王の墓である可能性があり、3年間かけて調べる。弥生時代と特定された場合、北陸最大級の墓となる。

 杉谷古墳群は同キャンパス内にある11基で構成され、調査にあたる同大考古学研究室の高橋浩二准教授(40)によると、6号墳は縦45メートル、横30メートルの長方形で、方墳としては11基のなかで最も大きい。

 6号墳については、1974年に富山市教委が深さ3メートルほどの細長い溝を数か所掘る試掘調査をしたが、出土品はなかった。
しかし、古墳群に隣接する杉谷A遺跡の弥生時代の墓からは鉄剣やガラス玉、土器などの副葬品が出土している。
高橋准教授は
 「A遺跡は小規模で6号墳よりも格下。王や王族の墓と考えられる6号墳からは、もっとすごいものが出てくる可能性がある」
と今回の調査を決めた。
(つづく)
534日本@名無史さん:2010/08/04(水) 23:52:52
(つづき)

 2日には学生ら約20人が、古墳周辺に生い茂った竹を伐採して地表をきれいにした。3日から実際に地面を掘る作業に入るほか、測量で正確な大きさを確かめる。
市教委調査で見つからなかった、ひつぎが埋葬された場所を特定するため、理学部の協力でレーダー探査にも取り組む。作業は9月10日でいったん終了し、出土品などを分析して来年度以降の発掘計画を検討する。

 現在、北陸では福井県永平寺町の乃木山墳丘墓(縦34メートル、横24メートル)が弥生時代最大とされる。高橋准教授は
 「土器など副葬品が出てくれば時代が分かる。6号墳はこれだけ大きな古墳なので、王だけでなく王族の埋葬施設も出てくる可能性がある」
と期待を膨らませている。


・6号墳の発掘予定地を指し示す高橋准教授(右)(2日、富山市の富山大杉谷キャンパスで)
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100802-782914-1-N.jpg

・富山大学杉谷キャンパスと杉谷古墳群
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100802-782921-1-N.jpg


※参考: 富山大学サイト
 プレスリリース 7月22日
  ◆富山大学人文学部考古学研究室が杉谷キャンパス内にある古墳を調査 [PDF, 1.1MB]
http://www.u-toyama.ac.jp/jp/publicity/pr2010/pdf/25.pdf
535日本@名無史さん:2010/08/19(木) 02:28:19
弥生後期を通じての首長権力の進展を考えるにあたって、ヤクザの歴史とか土一揆は役立つ。
つまりは、権力の空隙地域で政治経済の混乱が発生し、それを収めるべく、新たな権威が立ち現れてくるという流れ。

縄文の族長社会を引きずり、特定首長層の権力の進展が見られなかった吉備、畿内で
劇的に広範囲に権力を行使し得る首長権力が誕生。
その直接の原因になったのは、瀬戸内海航路による列島内の東西交易が盛んになり、
瀬戸内海沿岸部に海賊が出現。手前勝手に関所を設け通行税を徴収、
瀬戸内海が機能不全に陥ったこと。
536日本@名無史さん:2010/08/19(木) 03:10:18
>>535
君の頭の中で歴史が飛んだのは解った。
537俺以外の男全部殺す残虐に:2010/08/19(木) 04:37:52
553:犯罪する :2010/08/19(木) 01:30:43 ID:7YuptFrf [テロする]
アフリカの黒猿は迷惑なストーカー全部殺す:2010/08/19(木) 00:22:06 ID:eFB1qaB40 [チャンコロにテロする]
柔道の山下殺す、柔道のメダル、柔道世界選手権、柔道最強
元寇、日清、日露、日独戦争、テロする、奪う、破壊する、殺す
インドネシアの糞猿、インドネシアで好き勝手に暴れまくるw ヒトラーはユダヤ人、メルケルはヒトラーの娘 、戦争する
山口組の男全部殺す、アフリカの黒猿はゴキブリ
醜い女は抱けるように整形しろ、乗っとられた飛鳥朝廷 戦国時代から奴隷の倭猿女ww
百済、新羅、高句麗の庶民は部落民にされた、王族達は天皇家藤原氏になった 藤原氏の正体 成長するため、正しい地図を手にしよう やたがらすの系譜で検索[日本人総源氏化計画で検索]
cia男全部殺す時代精神、日本を騙した悪魔、ハルノート、abc包囲網。バーニング、ジャニーズの男全部殺す
総連、民潭、チョン学校男全部殺す
電通のチョン成田殺す 文鮮明殺す イルミナティ殺す
細木数子、詐欺師殺す、江原啓介、詐欺師殺す、美和明宏、詐欺師殺す 俺以外の男全て殺す
ザイン リチャードコシミズ、輿水正 これほど醜い日本人女性
エラ通信 金福子殺す 萩原舞犯して殺す
ゴイム呼ばわりの調子こいてるデーブスペクター殺す
異国の豚男全部殺す 小泉売国レイプ殺人チョン一郎殺す 竹中平蔵インサイダー取引韓国人殺す 倭犬で検索 、倭猿で検索
ソーゾー君 さてはてメモ帳
オルタナティブ通信書いてるチョン殺す 独立党w ベンジャミンフルホード殺す 2ちゃんねるから子供たちを守ろう
2ちゃんねる裏の歴史 黄金の金玉、総理、大統領、王族、皇族の男全部殺す、喧嘩買う、喧嘩売る、侵略する
お笑いみのもんた劇場 鳥肌実殺す 東アジア人
人間の屑ジャニーズの裏の全て 日米欧三極委員会
フリーメーソン殺す、喧嘩売る、喧嘩買う
政教分離違反ソンテチャク殺す コイルミョンきもい殺す
汚職、腐敗、賄賂、パチンコ天下りチンピラ警察官男全部殺す 百式のブログ アイヌのウィキぺディア、密入国マルハンチョン社長殺す、枕営業
538うましか:2010/08/20(金) 00:29:39
>>535
私と全く同じ考えですね
539日本@名無史さん:2010/08/28(土) 02:23:11

■弥生時代技法 鉄器できた/淡路

朝日新聞 2010年08月27日
http://mytown.asahi.com/hyogo/news.php?k_id=29000001008270001

 弥生時代の鍛冶工房跡が見つかった淡路市黒谷の五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡で26日、同市教委が遺跡から見つかった炉の跡などをもとに古代の鍛冶作業を再現する実験をした。
「ふいご」でおこした炭火で鉄を加工できることや、炭で焼けた地表が遺跡の炉の跡と同様に赤く変色することが分かった。市教委は「実験結果から、ここで鍛冶作業が行われていたことはほぼ間違いない」としている。(藤本久格)

 同遺跡からは、矢じりや鉄片など加工された鉄器や鉄をたたく石製の工具、高い熱を加えたことでできる赤茶けた炉の跡が出土している。しかし、見つかっている遺構は本格的な炉とは言えないため、実際に鉄の加工が可能かどうかを実証することにした。

 この日は遺跡の一角に、市教委の職員らがつくった炭を置いて火をおこした。牛の革袋の先端にハスの茎を取り付けた「ふいご」で空気を送り続けること約1時間。炭火の温度は測定器で883度まで達した。
市教委の職員が炭火に五寸クギを入れ、赤くなると石のハンマーでたたく。この作業を数回繰り返すと先端がとがったペーパーナイフのような加工品が出来た。2回目の実験では20分間で炭火が1100度まで上がった。

 鍛冶作業の後、炭を燃やした直径約30センチの地表は赤茶色になっていた。特に空気を集中的に送り込み、温度が高くなっていた部分は白っぽく変色し、土も硬くなっていた。
発掘調査にかかわった市教委社会教育課の伊藤宏幸主幹(50)は「この遺跡から見つかった建物跡の床面の状況と極めて似ている」と話す。
(つづく)
540日本@名無史さん:2010/08/28(土) 02:25:00
(つづき)

 実験を見学した石野博信・県立考古博物館長(76)は
 「最初はこの程度の炉で鉄を加工できるか半信半疑だったが、今回の実験で実証された。五斗長垣内遺跡はおそらく、東瀬戸内の各地域に鉄器を供給する生産センターだったのだろう」
と述べた。

・革袋でつくった「ふいご」で炭火(手前)に空気を送り込む。金具で持ち上げているのは、焼けて赤くなったクギ
http://mytown.asahi.com/hyogo/k_img_render.php?k_id=29000001008270001&o_id=10413&type=kiji

・炭火で焼いてペーパーナイフのように加工されたクギ(上)。下は加熱前のクギ=いずれも淡路市黒谷
http://mytown.asahi.com/hyogo/k_img_render.php?k_id=29000001008270001&o_id=10414&type=kiji


関連記事

■鍛冶実験:淡路市教委が鉄器作り検証 五斗長垣内遺跡、炉跡や出土遺物を基に /兵庫
毎日新聞
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20100827ddlk28040456000c.html

■弥生時代の鉄器づくり実証 淡路・五斗長垣内遺跡
神戸新聞
http://www.kobe-np.co.jp/news/awaji/0003363946.shtml
541日本@名無史さん:2010/08/28(土) 09:47:20
はじめまして
いきなりで恐縮てすが素朴な疑問をひとつ

そもそも『纏向』という名称がいただけない
これでは世間一般の人たちは何が何やらチンプンカンプン

ちゃんと本質的な意味が伝わるよう
『纏向遺跡』ではなく『三輪山遺跡』と名称は呼び改めた方が良いと思う
542日本@名無史さん:2010/08/28(土) 09:58:52
なんで纏向が「三輪山」になるのか?
纏向地区と狭井川を挿んだ対岸にある三輪地区は、現代の空間認識では別の存在。
纏向が三輪山を指向したものかどうかもわからんと思うし、
「三輪山遺跡」じゃ、や三輪山山中の祭祀遺跡と混同するだろう。
543日本@名無史さん:2010/08/28(土) 10:10:29
>>542
違いますよ
大まかな一般の人たちに意味が伝わりやすいようにってことです
だって『纏向』じゃぜんぜん分かりませんよ一般の人たちは
とにかく大和朝廷発祥の地であることはほぼ間違いないのだから、
そういったことが伝わりやすいような名称にした方が良いんではないかと
以前から思っていた素朴な疑問なんです
544日本@名無史さん:2010/08/28(土) 10:18:19
纏向と三輪を結びつけて、そこに山岳信仰あるいは神奈備信仰を見出そうと言うのは
(中には三輪山・纏向山・初瀬山の三山信仰ってのもあったが)
むしろ多数派?と思ってしまうがw

今のところ纏向の人間が朝夕に三輪山を拝んでいた
…なんて窺い知れるようなものは無いわけでw
(例えばまっすぐ三輪の山頂を望んでいる拝殿とか)

立地がたまたま三輪の近くだったと言う可能性もあるわけでw

そう言う意味では『三輪山遺跡』と言うネーミングは余計な先入観を与えかねないと思ったりもする。

実際、宮の伝承地には纏向遺跡の範囲より三輪に近い物もあるし…


545日本@名無史さん:2010/08/28(土) 10:20:10
じゃ他に一般の人たちに分かりやすいような名称というと?
546日本@名無史さん:2010/08/28(土) 10:39:16
やはり「纏向」が一番だね。
何せ最寄り駅が「マキムク」なんだからさ。
「三輪」なんかにしたら、一般の人は一駅手前で降りてしまうがなw
ただ「纏」の字はやめて「マキムク」とカナ表記にした方いいかも。
読めない奴、変換できない奴、多すぎw
547日本@名無史さん:2010/08/28(土) 10:46:02
>>546
まぁ「マキムク」が古い名称だってことは自分も承知してます
でもやっぱり一般の人たちには正直「纏向って何?」ってのが普通の反応だと

うーん、もっと何か他にないですかねぇw
548日本@名無史さん:2010/08/28(土) 10:50:58
>>543

つまり、キミは纏向は三輪山信仰の地であったことにしたいわけだね。
しかし、3世紀当時に「三輪山」に対する信仰が、どこまで及んでいたかは定かではない。
「マキムク」と名乗ったくらいだから、三輪山の横から顔を出している巻向山の方が対象だったかもしれない。
実際のところ、最近発表された建物列の配置だって三輪山にソッポを向いてるわけだ。
549日本@名無史さん:2010/08/28(土) 10:57:56
>>548
というか、自分はヤマト建国と三輪山信仰には密接な関わりがあるような気がして
三輪山のふもとにある大神(おおみわ)神社は三輪山そのものが御神体ですし
神話にも三輪の名前は何度も出てきますし

自分としては個々の遺跡とはべつに
もっと大まかな意味での、たとえば『三輪山周辺遺跡』とかww
550日本@名無史さん:2010/08/28(土) 11:00:17
>>547
「纏向」が古い地名だから選ばれてるわけじゃないよ。
現在の地名だから選ばれてるんだよ。
今、そこで生活している人たちが、呼んでいる地名を採用している。

>>544氏が言うように「先入観」を与えるようなネーミングはよろしく無い。
受け手が一般の人達であれば尚更のこと配慮すべき事項だと思うよ。
現在のところ2〜3世紀の纏向の地と三輪山信仰を結びつける事実は何も無い。
「有っただろう」と言うのは単なる「私見」に過ぎない。
551日本@名無史さん:2010/08/28(土) 11:04:28
>>549
「三輪山周辺遺跡(山中や三輪地区の祭祀遺構)」って概念なら、今だったあるだろう。
ただ、時間的にも空間的にも一致しないので、それに纏向は含まれないってことだ。
纏向をそれに含めたかったら、纏向における三輪山祭祀を立証する必要があるよ。

552日本@名無史さん:2010/08/28(土) 11:12:56
>>551
なるほど納得しました
553日本@名無史さん:2010/08/28(土) 11:41:38
あ、それと一つ質問があります
誰も言わないですが、
この纏向遺跡と先代皇族だったかもしれないと言われる
物部氏は関係あると思いますか?
554553:2010/08/28(土) 11:55:47
あ、すいません質問取り下げます
よく考えたらそんなことあるわけありませんよね
纏向はやっぱり大和朝廷固有の遺跡で間違いないと思います
どうもお騒がせしてすいません
555日本@名無史さん:2010/08/28(土) 17:38:51
>>554
>纏向はやっぱり大和朝廷固有の遺跡で間違いないと思います

これすらダウトなんだよなあ。
「大和朝廷」あるいは「現皇室の先祖」は、
あくまで記紀文献学(や神社の縁起・伝承などの解釈)に基づくもので、
少なくとも先文字時代の場合、考古学とは単純には結び付けられない。

まともな考古学者は、皇室と関連するかどうかさえ中立的だ。
そして、怪しさ(不整合)を根拠づける事実がある。
それこそが「三輪山信仰」であって、
巻向の遺構は、どうやら三輪山信仰の『発生』に先行する!!んだよ。
ところが、記紀文献学は、
三輪山信仰は、皇室が大和盆地を治める前の先住者の神だと示唆している。

ということは、巻向は、皇室の大和盆地支配より前の三輪信仰部族の時代の、
更に前の時代の遺跡だと解釈され得ることになる。(なんと皇祖皇宗の『先先代』の可能性すらある)
もちろん、記紀と考古学を直接結びつける「古墳」の研究が必要だが、
これが困難であることはよく知られた通り。


実は、皇室と巻向さえ、全然関係ないかもしれないのだ。
このことを前提に、巻向遺跡の研究は行われている。
勝手にいろいろ結びつけているのは、マスコミの中の人と歴史ロマン愛好家だけ。
556日本@名無史さん:2010/08/28(土) 21:08:59
>>550
>「纏向」が古い地名だから選ばれてるわけじゃないよ。
>現在の地名だから選ばれてるんだよ。
>今、そこで生活している人たちが、呼んでいる地名を採用している。

いや、これは嘘でしょう。纏向ってわざわざ古い漢字で名づけたのは、明らかに記紀伝承を意識してのものだし
(現在は巻向)、現地の人たちも自分たちの住んでいる地域をマキムクなんて呼ばず箸中と呼んでいる。
マキムクとか呼んでたのはいつの時代?

箸中山古墳と呼ぶべきものを、紀に引きずられて、いつまでも箸墓だし。
なんとかならんものか

557日本@名無史さん:2010/08/28(土) 21:55:32
>>556

> >現在の地名だから選ばれてるんだよ。
> >今、そこで生活している人たちが、呼んでいる地名を採用している。
>
> いや、これは嘘でしょう。纏向ってわざわざ古い漢字で名づけたのは、明らかに記紀伝承を意識してのものだし
> (現在は巻向)、現地の人たちも自分たちの住んでいる地域をマキムクなんて呼ばず箸中と呼んでいる。
> マキムクとか呼んでたのはいつの時代?

もともと纏向地域の遺跡は「太田遺跡」「勝山遺跡」などと小規模遺物散布地ごとに区別されていた。
これが、昭和40年代の「大溝」発掘により、広域遺跡であることが判明し、それ以降「纏向遺跡」と呼ばれるようになった。

この「纏向」と言う地名は明治22年の町村制施行には「式上郡纏向村」として存在しているよ。
「纏向村」は昭和30年に合併(大三輪町成立)により消滅するが、旧村域を表す広域地名として、現在も有効な呼称だろう。
その地域は、現在の字名で牧野内、辻、太田、東田等に当たる。ただし、箸中は旧織田村域にあった字名である。

> 箸中山古墳と呼ぶべきものを

貴方がそう呼べばいいこと。
実際のところ、そう呼んで普通に通用するでしょう。
「箸墓」と呼んでも「大市墓」と呼んでも、それぞれ通用するというだけのこと。

ただ、「箸墓」とか呼ぶ人は、ここではベタな九州説さんに多いけどねw
558日本@名無史さん:2010/08/28(土) 22:07:05
別に学術論文書くわけじゃなし通称なら箸墓で問題ないし、一般向けの本でもそこまでこだわるかどうかは筆者しだい
だろうね。箸中山古墳と書いたところで、百襲姫を連想してしまうのに変わりはないから。
559日本@名無史さん:2010/08/28(土) 22:28:07
纏向遺跡や前方後円墳が作られた年代は確定したのかな?
560日本@名無史さん:2010/08/28(土) 22:36:36
>>555
>あくまで記紀文献学(や神社の縁起・伝承などの解釈)に基づくもので、

じゃあ、他に何を参考にするの?
まさか三国史記じゃあるまいなw
561日本@名無史さん:2010/08/28(土) 22:42:23
>現地の人たちも自分たちの住んでいる地域をマキムクなんて呼ばず箸中と呼んでいる。

つまり、旧纏向村の人たちは、隣村の一字名を自分たちの地域の広域地名として使っているわけだね。
郷に入らずば分からない「真実」だねw
562日本@名無史さん:2010/08/29(日) 12:54:32
箸中山古墳は4世紀初頃に作られ始めた崇神の墓じゃないかな。
563日本@名無史さん:2010/08/29(日) 13:33:22
箸中山古墳は3世紀中葉に作られた卑弥呼の墓だよ。
564日本@名無史さん:2010/08/29(日) 14:09:38
>>557
>貴方がそう呼べばいいこと。
>実際のところ、そう呼んで普通に通用するでしょう。
>「箸墓」と呼んでも「大市墓」と呼んでも、それぞれ通用するというだけのこと。

こういう呼称に無自覚な輩がいるから、余計な先入観が芽生えるのではないかな?
伝仁徳陵は大仙古墳と呼ぶべきだし、伝履中陵は石津ヶ丘古墳と呼ぶべき。

565日本@名無史さん:2010/08/29(日) 15:46:05
昔みたいに仁徳天皇陵に戻してほしい
被葬者が違ってたら、
そのときに大々的に発表して命名し直せばいいだけ
566サガミハラハラ:2010/08/29(日) 18:15:45
ヤマトトトヒモモソヒメの逸話の出てくる日本書紀の崇神天皇10年は私の解読した復元日本書紀紀念年法によれば273年のこととなります。
媛の死と箸墓築造はその数年後でしょうか。
567日本@名無史さん:2010/08/29(日) 22:37:04
>>541見てて思ったんだが









新東京国際空港とか東京ディズニーランドって詐欺だよな?
568日本@名無史さん:2010/08/29(日) 22:54:11
>>567
そうですね
あれはたぶん外国人視点の大雑把な名称ではないでしょうか
たしかに日本人から見ると、
あれはまさし<く詐欺>以外の何者でもないw
569日本@名無史さん:2010/08/30(月) 22:15:49
記紀神話自体が初期大和朝廷と三輪山との関係を強く語っているのにさ。
箸墓伝承=三輪山説話と言ってもいい。

箸墓は箸墓と呼んでおきながら、「三輪山信仰は定かでない」とか
支離滅裂だよ
570日本@名無史さん:2010/08/31(火) 16:21:24
>>569
三輪山と箸墓の本格的な発掘調査を熱望
おそらく、それで古代の謎の大まかな部分は解明されるはず
せめて非公表の極秘裏にでも
571日本@名無史さん:2010/08/31(火) 19:01:11
三輪山は禁足地だぞ
それに発掘なんかしなくても九州説や騎馬民族征服王朝説は
反日サヨクや在日が垂れ流した日本弱体化工作のデマだということは
既に明らかになってる
572日本@名無史さん:2010/08/31(火) 19:14:32
>>571
いや、そうとばかりも言えない
九州説の根幹は記紀神話の東征を基にしているのだからむしろ逆ともいえる
記紀神話を完全に無視している方が反日や在日的な感じさえする
573日本@名無史さん:2010/08/31(火) 19:59:39
横スマソ
ときに自分は大和三山の、とくに畝傍山なんかが気になるんですが
なんかあるような気がして
574日本@名無史さん:2010/08/31(火) 20:22:03
>>571-572
そのあたりがサヨの九州王朝、ウヨの東遷と言われるゆえんだな
575日本@名無史さん:2010/08/31(火) 21:31:30
>>574
結局、九州王朝説というのは、「皇国史観の裏返しバージョン」でしか無いんだよなあ。
それが、20世紀後半の、元皇国少年だった在野の教師が創った説の限界でもある。

西太平洋を大筑紫民族の生存圏として一つにまとめ、日本列島など完全支配するに至っており
アジア太平洋を大宰府大筑紫帝国の指導の下一つにまとめ、
世界に羽ばたく大筑紫帝国の「多利思北孤」総統が、
東シナ海の向こうの小王国隋に「日没する国のおっさん、元気と?」
という手紙をよこした、なんて解釈する。
結局、彼らの言う「多元主義」は、大筑紫帝国アジア統一論でしかない。

要するに、ウヨとサヨは同じ穴のむじなということ。
東アジアの古代文献は、おそらうウトとサヨしか生まない程度の、
質の悪いものだということだろう。

何か出るたびにかつては八紘一宇、今は邪馬台国と騒ぐマスコミを上手にあしらいながら、
考古学が、淡々と掘って見つけていくしかないんだろうな。
576日本@名無史さん:2010/08/31(火) 23:04:48
>>575
しかしまあ、当時の大和中心史観から脱却する意味で、「筑紫中心史観」は役に立ったと思うけど。

実際のところ、現在、考古学の発展で分かってきたことは、弥生終末期の首長権力の発生・拡大は、
我々の予想以上に「多元的」であったということ。

倭人伝の「共立」は文字通りの共立、多くのオウたちが自らの上に新権威としてダイオウを創り出したということだ。
明治維新や鎌倉幕府のような政治状況が近いのだと思う。
577日本@名無史さん:2010/08/31(火) 23:10:10
>>576
天皇の本質的意義ということにも繋がりますね
みんなが一つになるために大王という象徴的な存在が必要だったのだと
578日本@名無史さん:2010/08/31(火) 23:35:39
>>577
まったくそう。
天皇位は比較的後代まで、有力な大夫たちに推戴されるという形式をとっていた。
天智・天武の頃まで?

古代天皇位は都市国家連合にありがちな、有力クラン間の持ち回り、っていうが妥当なところだろう。
これを言うと、記紀絶対主義の右翼?、安本とか東遷説の連中がむきになって反論してくるんだけど。

記紀みたいな、8世紀まで遡れるような由緒正しい歴史書があるせいで、
理性的な古代史解釈が妨げられていると思う。
579日本@名無史さん:2010/08/31(火) 23:38:26
王を共立した例は歴史上多々あるが
当然それには共通の祖先や文化を持つなどの基盤が必要
580日本@名無史さん:2010/09/01(水) 06:34:49
元々、奈良は朝鮮からきた百済の亡命王子が後背地の日本に済む縄文人を征服したからしゅつげんしました。
つまり、弥生人=朝鮮の人々と考えるべきでしょうね。
581日本@名無史さん:2010/09/01(水) 07:40:12
……それで釣ってるつもり?
582日本@名無史さん:2010/09/01(水) 09:05:06
俺奈良人だけど、みんな体の中に流れている朝鮮民族の血を意識していますよ。
俺達の祖先は朝鮮半島からやってきて日本人を征服した誇り高き朝鮮貴族です。
583日本@名無史さん:2010/09/01(水) 09:17:41
……奈良人てなに?
帰化した地点で日本人だろ、言ってること訳わかんない
584日本@名無史さん:2010/09/04(土) 06:15:44
邪馬台国九州説ってのは、
近代皇国史観の結果だからw

でも、結果的には、邪馬台国九州説のほうが
皇室の歴史を短く矮小化してしまった。
つまり、完全に裏目に出たということ。
585日本@名無史さん:2010/09/04(土) 07:46:39
↑バカ?
586日本@名無史さん:2010/09/04(土) 15:00:40
>>585
あなたは、邪馬台国九州説なんですか?
587日本@名無史さん:2010/09/04(土) 15:14:14
>>578
「共立」って、あくまでも、西暦3世紀くらいの中国人が書いた言葉だから
それを踏まえて判断しないといけない。
で、中国での使用例だが、同じ王家内部で
お家騒動がおこって、その場合に臣下などが話し合って、王を擁立する
という場合ばかりだと思われ。

様々な氏族の持ち回りだと、「共立」なんて言葉は使わない。
そもそも、魏志倭人伝によると、卑弥呼の王朝を建国したのは卑弥呼ではなく
それよりも、ずっと前に男の王によって建国されたらしいから。

だいたい、氏族の持ち回りだと、その都度、違う国が誕生したと解釈するのが
中国流。
588日本@名無史さん:2010/09/04(土) 18:09:25
>>575
ただ、その考古学者も邪馬台国と何かと関係していると判断しているような気がするんだが。
考古学者の9割が畿内説支持みたいに言われてるけど。
589日本@名無史さん:2010/09/05(日) 16:44:43
>>587
氏族ってのが曲者で、氏族同士が共通の祖先や神話を共有することで、結束する。

590日本@名無史さん:2010/09/05(日) 22:50:24

■海を渡った黄と紫色のガラス玉 福岡・糸島市の「伊都国」で出土

西日本新聞 2010年9月5日
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/195412

 古代「伊都国」の王都があったとされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で出土したガラス小玉(弥生時代後期)に、国内では極めて珍しい黄色と紫色の小玉が含まれていたことが4日、分かった。

 同市教委によると、ガラス小玉は黄色が2004年度、紫色が06年度の発掘調査で確認された。黄色は直径約5ミリで、甕棺(かめかん)の中から青、緑色のガラス玉と一緒に4個が出土した。
紫色は二つの木棺からそれぞれ中国製の銅鏡とともに見つかり、直径約1ミリの小玉が計185個。いずれも穴があり、ひもを通して首飾りなどに使ったとみられる。

 同市教委は、黄色と紫色の小玉の成分について、それぞれ福岡市埋蔵文化財センターと奈良文化財研究所(奈良市)に分析を依頼。
黄色はソーダ石灰ガラスで西アジアから北アフリカ、欧州に分布、紫色はカリウムを多く含むカリガラスで、インドから東アジアにかけて分布していることが分かった。

 糸島市教委文化課の江崎靖隆主任は
 「当時、国内では着色できない色で、一緒に出土した中国製の銅鏡などと大陸から入ってきたとみられる。伊都国が大陸と交流する中心地だったことを示している」
と話している。
591日本@名無史さん:2010/09/05(日) 22:53:35
>糸島市教委文化課の江崎靖隆主任は
>「当時、国内では着色できない色で、一緒に出土した中国製の銅鏡などと大陸から入ってきたとみられる。伊都国が大陸と交流する中心地だったことを示している」と話している。

正直どうでもいい内容だと思うんだが本人達は予算付けるためにマスコミにアピールして必死なんだろうな
592日本@名無史さん:2010/09/06(月) 11:46:14
>>589
いや、だから...

箸墓古墳が卑弥呼の墓だとしたら、
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命だろう?
だとしたら、倭国大乱ってのは、崇神天皇のちょっと前くらいの時代に
おこったことになるんだよ。
そこから考えると、同じ王家内部でのお家騒動と考えたほうが自然だろう?
593日本@名無史さん:2010/09/06(月) 21:35:44
>>592
わたしはそこまで記紀至上主義者じゃないものでw

そもそも崇神より前の欠史八代をどう見るのか?

寿命が短かったであろう古代日本で、何代も父子相続、世襲が行われたとは
到底信じられないと。
ずっと後世、仁徳以降の兄弟相続の方が理に適っている。
で、おそらく欠史八代ってのは、父子相続を志向した天武朝の頃に創作されたもの
なんじゃないかと。

もしくは、実際に大王はいたのだとしても、あくまで父子関係に擬制されただけで、
血の繋がらない大王を縦に結んだだけ?とか解釈するわけ。

上でも書いたが、伝履中陵の方が伝仁徳より古いことが分かったりしていて、
記紀の記述は鵜呑みに出来ない。もしくはかなりの混乱や誤謬があると見るのが
正解だろう。
594日本@名無史さん:2010/09/06(月) 21:39:11
しかし>>591ってどう言う人間なんだろう?w

このスレに書き込んでいるような(大体が畿内説だと思うが)人間なら
「伊都国が大陸と交流する中心地だった」なんて当たり前すぎるような話だと思うのだがwww
595日本@名無史さん:2010/09/06(月) 22:10:23

■若狭最古級の前方後円墳か 九花峰古墳の研究報告へ

朝日新聞 2010年9月6日
http://mytown.asahi.com/areanews/fukui/OSK201009050089.html

 古代朝廷に海産物を貢進した御食国(みけつくに)としての歴史を生かしたまちづくりを考えるフォーラムが8日、小浜市の県立大学小浜キャンパスで開かれる。
花園大考古学研究室の高橋克寿教授が、同市遠敷の九花峰(きゅうかほう)古墳が若狭地方で最古級の前方後円墳の可能性が高いとする、最新の研究成果を報告する。
御食国の草創期の首長に連なる重要な古墳と位置づけられるという。

 九花峰古墳は標高130メートルの山頂にあり、全長約45メートル。同研究室が8月中〜下旬に測量調査し、前方部の形から、造営の時期が小浜市史が記述している5世紀後半よりさかのぼることが判明した。
5世紀初めとされる国指定史跡の上ノ塚(じょうのづか)古墳(若狭町脇袋)よりも古いとみて、データの精査を進めている。

 フォーラムは小浜市教委と若狭町の共催。高橋教授は今回の演題を「御食国の幕開け―若狭町・小浜市の特徴的な古墳群と製塩」とした。

 九花峰古墳は、約2キロ北側にある丸山城址(じょうし)古墳(全長約30メートル、5世紀末ごろ)とともに海を見下ろす山頂にあるのが特徴で、大陸との交易や対外交渉を担った首長の権勢を来航者に示す狙いがあったと推定される。
小浜市から若狭町にかけての地域に王墓級の古墳が群集しており、こうした勢力が御食国の歴史を開いたとする。

 午後7時半開会、無料。古墳や製塩遺跡の保存と活用を住民と探るワークショップもある。(土岐直彦)


若狭地方で最古級の前方後円墳の可能性が出てきた「九花峰古墳」後円部=小浜市遠敷、花園大考古学研究室提供
http://www.asahi.com/areanews/images/OSK201009050086.jpg
596日本@名無史さん
>>593
皇室系図、神代系図を見れば、よく分るよ、なぞは。
天津神(高天原王家)の出自というのは
大きく分けて二つの家系がある。
一つは、熱田社の尾張氏の先祖である天火明命の家系。
もう一つは、皇室の祖先であるニニギ命の家系。
両者の共通の祖先は、天忍穂耳命であり、
この人物が、尾張氏と皇室の最初の男系の先祖である。