1 :
名無し募集中。。。:
北条政子って実母なんでしょ
北条政子は子供可愛くないわけ?
嫁の実家・比企氏を優遇、将軍外戚の地位保全をもくろんだ、北条氏に比企諸とも消された。
3 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 12:33:22
まちがってん。
4 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 22:13:52
幽閉はされたが、暗殺されたとは決まってないだろ。
5 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 03:47:14
政子は、頼家が実子だと言う事で、必死に助けようとしている形跡があるらしい。
梶原景時を滅亡に追いやった時から、北条氏は比企氏撲滅を考えているよ。
頼朝は、頼家の外戚に比企氏、側近bPに引き続き景時を選び、かれら二氏に
頼家の後事を託している。
北条氏は、頼朝死亡直後から、実朝擁立計画を他の御家人を巻き込んで企んでいた。
しかし梶原景時にこの計画を嗅ぎ付けられ、頼家にチクられている。
が、頼家が北条ら御家人を呼びつけて実朝擁立計画を問い質しても恍けて知らん振り、
梶原景時が御家人達と対決し逆に言い負かされて、頼家にウソを誣告した事になり
逆に責任を問われ失脚した。
頼家が、比企氏と共に梶原景時を庇い通せば、北条氏は頼家を倒せなかったと言われる。
しかし、現実には頼家は景時を庇わないし、比企氏も景時弾劾に加わってしまうんだよな。
>>2 >北条氏に比企諸とも消された
まず北条氏に消されたのは、比企氏で頼家は数年後しばらく経過してから。
6 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 14:00:49
比企氏と梶原景時がガッチリスクラムを組んでいれば、北条氏がここまで
のさばる事は無かったであろうし、源氏将軍を守る事が出来たかもしれない。
しかし逆に言うと比企氏や梶原氏が北条化する可能性がある。
つまり比企氏か梶原氏のどちらかが、執権に就任し源氏将軍を祭り上げて、
政治の実権を握ってしまう可能性もある。
8 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 22:45:04
頼家は頼朝恩顧派と頼家近習派の権力争いに巻き込まれて、
決裁権を半ば奪われたといえよう。
実朝は文弱といわれるけれど、決裁権の制限を受けた形跡はなく、
自ら決裁したことは最終決済として、周囲の反論があっても撤回しなかった。
武人としては頼家>実朝だが、将軍職の権威は実朝>頼家だ。
9 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 15:03:09
頼朝が比企・梶原を頼家の後見に選んだのは何故?
北条や三浦の娘を嫁にさせた方が、外戚が頼りになったんじゃね?
10 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 03:29:31
まず、梶原の場合は、事務処理能力が関東御家人の中ではずば抜けて高かった。
この時代まともに文字や計算が出来ない御家人がゴロゴロ居て、文字は書けて
も自分の成果を膨らまして報告するなど、正確な事務処理能力が皆無に等しい
奴ばかり、その点梶原は、合戦の報告なども、敵何人討ち取っただの自軍は何
人やられただのかなり細かく頼朝に報告している。他の御家人は大勝利としか
報告していない。
頼朝や頼家の任期つまり将軍独裁期には、京下りの下級役人が将軍行政を支え
ており、御家人が政務に関与する事は、かなり限定されていた。その中で唯一
と言って良い位に頼朝に頼りにされていたのが、梶原景時で京でも「鎌倉ノ本
体ノ武士(鎌倉殿頼朝の第一の家来の意味)」「一ノ郎党」と評価されている。
また景時は和田義盛から侍所別当を奪い取ったとされるが、無骨者の最たる義
盛を幕府成立以後にはあまり評価しなくなった頼朝の判断が背景に有ったとされる。
比企氏が後見に選ばれたのは、頼朝が流人として不遇を託っている時期にもち
ゃんと面倒見てくれた比企尼に対する返礼と、不遇時代に支えてくれた位だか
ら将軍になった源氏への比企氏の忠誠心は間違いないとの頼朝の判断。
頼朝は14歳まで京暮らしで、義朝に正式な嫡子として育てられている。因みに
長子の悪源太義平は、母が遊女である為に嫡子にはされて居ない。頼朝の京生
活はかなり良い生活のはずで、いきなり伊豆に配流されて自炊自活は無理、当
初は近隣の農民さえ頼朝には近づかず食料も差し出さなかったと言われている
ので、比企尼が面倒見てくれなければ、頼朝は餓死していた可能性すらある。
平清盛から監視役を命じられていた北条時政や伊東佑親は、比企氏が自分の領
地からの収入の中から頼朝の生活費を差し出すのは黙認していた。
また、識者の中には、配流された当初は頼朝は幼年であり、比企尼や安達盛長
が同居していたか、もしくは頼朝の寓居近くに家を立て、頼朝の生活の面倒見
る用人を派遣していたのでは?としている。
11 :
日本@名無史さん:2010/03/16(火) 00:32:54
北条氏にとって頼家を暗殺する理由はいっぱいあっても、
実朝を暗殺しなければならない理由は見つからないな。
12 :
日本@名無史さん:2010/03/16(火) 03:19:21
実朝暗殺の件は三浦義村だって言われているな、公暁に実朝を殺す様に嗾けたのは。
源仲章は、北条義時と間違われて殺されたって言う話だし・・・・
三浦義村にしてみれば、同族の和田義盛は義時に殺されているので、動機はあるな。
だから実朝暗殺と伊賀氏の変は、リンケージしているだろう、
実朝義時同時暗殺が失敗したから、北条政村の烏帽子親であった三浦義村は
伊賀光宗とその妹で義時の後妻の伊賀の方と組んで、伊賀氏の変を起こした。
義村や光宗、伊賀の方は、義時を毒殺し北条政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍に任官させようと企んだ。
義時毒殺までは成功したが、北条政村を執権に、一条実雅を将軍任官には失敗した。
14 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 02:05:29
外戚に利用されるだけの将軍になったら
将軍の地位はもうおしまい
源氏の一族が将軍になる体制を続けるとしたら、頼家も実朝もどこから嫁を取れば良かったんだ?
有力御家人の娘を娶ったら北条に邪魔者扱いされ、かと言って実朝のように公家の娘を娶れば
朝廷寄りと見られて消される・・・・結局北条に乗っ取られるという流れは変わらないのか。
16 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 17:02:21
頼家は私の理想のひと。
愛情に飢えてたんだよね。母親の政子から思うような愛情をもらえなかったから。
頼家がどこかの洞窟に行った時に、不思議な声が聞こえたんだっけ?
『お前の親は私だ』って。
それに、暗殺された頼家の死体からは、数多の妖怪が出てきたとか。
特別な人なんだと思う。
17 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 19:33:39
北条に刃向かうと、将軍とて消される。
18 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 23:07:48
(^o^)
19 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 04:27:09
>>15 北条から嫁をとればよいのだ
頼朝の時みたくさ
そんでその子を跡継ぎにする
それをしなかったのは頼家や実朝の意志なのか北条の考えなのかは知らね
20 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 08:46:07
自分の外孫を殺す時政。
凄過ぎる・・・・・。
21 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 09:09:20
北条氏が梶原や比企を追い落とそうしてたのは間違いないだろうけど
頼家が大病しなければ廃するとこまでいってたかどうか?
頼家が健康だったら時間をかけて比企が巻き返した可能性もあると思うが
家康が豊臣政権を乗っ取ったのよりずっとスマートな手口だ
その分散り際も壮絶な北条一族・・・・
と言うか北条一族って陰謀のイメージが付きすぎて、深読みしすぎてる所があると思う。
頼家が生きてたら生きてたで折り合いをつけようとしただろうし、
後継体制が決まらないままぶっ倒れたから非常手段に出ただけで
26 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 14:34:23
27 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 00:05:29
短パン
28 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 06:26:51
しょせんは一族から離され伊豆に流刑になった
男の子孫だから…ね。
源平藤橘しか認められない時代に
北条氏だけでは国政を握れない
が、関東の豪族が団結し
西日本の少数派・野心家と駆け引きすればよい
むしろ
源氏のトップの存在により関東で裏切り者扱い
され
朝廷と連繋される方が
愚策になっていた
29 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 10:53:14
頼家って蹴鞠が大好きで
政治そっちのけで毎日蹴鞠仲間と蹴鞠ばかり
吾妻鏡の記録にも、仲間と輪になって鞠を地面に落とさずに何回蹴り上げ続けたか、の回数ばかりが記録されていたとか
で、ついたあだ名が、
「蹴鞠だけ将軍」
こんなに素敵な人、他にいませんw
私は頼家を愛していますwww
30 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 11:27:37
>>28 >しょせんは一族から離され伊豆に流刑になった
>男の子孫だから…ね。
w
31 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 11:30:32
しょせんは北条さんちのマスオさんだったからな。おまけにニートだし。
32 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 12:37:48
考えたら、波平とカツオがタラオを抹殺するようなものなんだよな。
33 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 13:02:49
>1 実子じゃないからでしょ? 政子の子は実朝だったとオモ
頼家のために命はろうというやつが比企以外にほとんどいない事実
北条の散り際はすさまじかったぞ
35 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 13:53:17
波平=時政、サザエ=政子、カツオ=義時、ワカメ=阿波局
マスオ=頼朝、タラ=頼家
なるほど…
牧の方は、、、
波平の愛人っていた?
三浦義村は花沢さん
39 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 19:16:55
梶原景時は伊佐坂難物
40 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 19:37:25
平清盛さんが、頼朝等兄弟を助命したことで、平氏が滅亡してるわけだから
政権を乗っ取る為には非情でないとね。
嫡流だけ途絶えさせても意味がないことは、後々判明するわけだがw
信長は、是に倣って非情を貫き、敵対した相手は一族郎党討ち果たす主義
で臨んだ。
42 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 16:40:10
北条氏って平家なんでしょ
結局、平家の怨念が北条の人間を使って源氏を滅ぼしたんだよね
こわいこわい
43 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 17:36:25
>>42 それを「怨霊史観」といふ・・・
案外当たっているかもね
44 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 19:43:12
>>40 冷泉天皇は華麗なるマヂキチで危険w
頼家は、なんていうか ファンキーな遊び人でカッコいいんだよなぁ
まぁ、ふたりとも可哀想な人ではあるけど
>>42 清盛の一族(伊勢平氏)以外の平氏は、普通「平家」とは呼ばない。
それに、北条氏以外にも、頼朝の配下に平氏は沢山いるわけで、
いわゆる源平合戦は、当時としては、「源氏と平氏の闘い」っていう意識はあまりなかったはず。
だから、少なくとも北条氏が、清盛の復讐を意識して源氏を滅ぼしたっていうことな、ないだろう。
それとも、「当の北条一族自身がどう思っていたかには関係なく、彼らは怨霊に動かされていた!」という主張をしたいのなら、
それはもう反論の成立する領域ではなくなってしまうが。
46 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 22:56:44
>>45 北条氏は自分が平家という意識なかったのかな?
貞時の貞は桓武平氏の貞盛、高時の高は桓武平氏
の祖である高望王から取ったという人がいるが・・・。
47 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 02:58:53
平家ではないんじゃないか?
48 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 10:29:00
>>46 同じ平貞盛流の家系を主張していることからみても、平家に近いという意識はあったと思う。
そして平良文系の坂東平氏に対しては、頼朝のそれを引き継ぎ、勢力分断政策をとった。
49 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 21:10:51
伊豆の土豪にすぎない北条ごときが、伊勢平氏の平家一門と系図上近すぎるのが、
わざとらしいというか不自然なんだよな。
どう考えても仮冒、僭称だろ。
50 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 19:47:18
伊豆の土豪に過ぎないと決め付けちゃっていいのかな
挙兵前の北条氏って過小評価されてきた気味があると思う。
現実には頼朝が伊東氏に次いで庇護者とするだけの評価はあったんだし
牧の方をはじめ京人脈があるし、直方系を自称してもおかしくない家柄なんでは
>>50 僕も北条氏は桓武平氏の直方流とみて良いと思います。
52 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 14:07:39
最近の研究で、時政以前の北条氏について少しずつ明らかになって来ている。
それによれば、桓武平氏であることはほぼ間違いなさそうだ。
53 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 20:09:26
誰が言ってるの?
54 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 21:23:41
「伊豆北条氏の周辺―時政を評価するための覚書」野口実
「北条時政と北条政子」関幸彦
「伊豆北条氏の存在形態について―時政を中心に―」立花美香
大昔の北条氏大豪族説の反動で、昔に北条氏ちっぽけな土豪で家系詐称説が出たんだろ
どっちも不自然だ
普通に桓武平氏貞盛流直方子孫でいいと思う
否定するのが一部の残存史料の混乱というのは弱すぎる
それにあんなにでかい顔ができた理由もわかりやすくなる
56 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 16:12:15
直方流は桓武平氏の嫡流だよね。
清盛の伊勢平氏の方が傍流だろ?
時政は実朝も暗殺しようとしてたからね。
さすがにそれは政子義時に阻止されたが。
58 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 01:36:23
鎌倉幕府は清和源氏嫡流の頼朝と桓武平氏嫡流の政子の結婚によって誕生した。
平家が「平家にあらずんば、人にあらず」といった徹底した平家中心の政権だったのに対し、
鎌倉幕府は源平の嫡流がしっかり手を握った上に、宇多源氏の佐々木氏や藤原秀郷流などを取りこんだ
まさしく武士全体の政権だった…。
そんな意識(イデオロギー)が草創期の鎌倉幕府あったかもしれない。
59 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 01:52:32
>>57 御家人達が、清和源氏嫡流による将軍独裁に反発し、その牽制役を
源氏と同格である桓武平氏嫡流の北条氏に期待したのかもしれない。
60 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 02:01:35
インチキ学者の言うことなんか真に受けるなよ。
北条氏が桓武平氏の直方流だなんて仮冒に決まってるだろ。
直方流だから、他の御家人も北条がトップにきても受け容れていたのか
家自体は大きくなくても、何となく認めるところがあったんだろうな
頼朝も北条には気をつかってるしな
>>58 頼家という名前にしたのは多分それ
頼義と直方娘の息子が八幡太郎義家や新羅三郎義光だったから、
その子孫の頼朝と政子の子どもを義家にちなんで、頼家にしたのだろう
挙兵後、武田一族の説得に北条がおもむいたのも、先祖の縁かもしれん
63 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 08:20:31
学者は目立つため、先行研究や通説とちがったこと書いて、
存在感アピールしないといけないからな。
どんな分野でも、定期的に珍説奇説が出てくるよな。
64 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 11:39:31
時政や政子の頼朝に対する態度は対等という感じがするよね。
政子が頼朝を諌めたり、ハデに喧嘩したり。時政も怒って兵をまとめて伊豆に帰えったり。
それから、ある御家人が十歳の北条泰時に下馬の礼をしなかったのを頼朝が知り
「北条家の金剛は汝等傍輩とは身分が違う」といって怒っている。
これらは、旗揚げの恩義とか正室の実家だからというだけでは説明できない気がする。
65 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 12:38:42
>>58 ないない
>>63 それは自分もよく思うが、「どんな分野でも」ではなく、特に歴史についてそうだと思う。
勝手な説を立てやすいし、そもそも他の学問分野(数学とか哲学とか)に比べて
頭の悪い人でも参入しやすいからね。
「若い人が既存の説にとらわれない思考をする」って、単にお前が目立ちたいだけだろって。歴史の場合。
66 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 12:50:06
通説だって頭の悪い人が作ってる可能性がたかいじゃんw
67 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 13:51:11
>>60 「北条氏は桓武平氏ではない」と主張している学者って誰ですか?
68 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 14:07:33
>>62 >頼義と直方娘の息子が八幡太郎義家や新羅三郎義光だったから、
義家や義光の母親は別あったような希ガス
間に生まれたのは女子で後三年の役で問題になった清原の夫婦養子の嫁の方になったような
直方流をはっきり否定してる人っていないんでないか
否定する根拠が不十分だから
てか、北条でなかったら、直方流は誰になるのだ?
70 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 15:01:30
68ですが勘違いしてたスマソ
清原に夫婦養子になったのは平宗基の娘が産んだ娘だった
義光だけは母親が別説があるみたいだが
71 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:26:56
72 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:33:45
北条氏の系図は多数あり、まちまちで混乱しているが
貞盛―維将―維時― 直方・・・時家―時兼―時政ここまではほぼ確実。
問題は・・・の部分で、大別すると@直方―維方―盛方…時家A直方―聖範…時家の二つになる。
@の盛方は直方の嫡流。Aの聖範は伊豆山権現に入った分家。恐らくAが血統的には正しいんだろう。
しかし、@は桓武嫡流だが盛方の次の代で衰亡してしまう。原因は、盛方が事件の首謀者村上源氏の家来だったから
彼の子が永久の変(鳥羽天皇暗殺未遂事件)に巻き込まれて没落したと思われる。
それで分家筋の聖範が、名目上桓武嫡流を継承したのではないか。(暗殺関与の党類が伊豆に流刑になっている)
系図の混乱はその為ではないかと思う。
73 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:39:53
74 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:48:21
>>73 清和源氏も頼朝の流れが絶えて、足利が源氏嫡流になった
75 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:52:30
>>74 頭のおかしな学者の戯言を鵜呑みにしてる暇があるなら、いい加減社会に出ろよ。
世間は広いぞ、厳しいぞ。
76 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:58:33
社会の出ていますが何か?
北条氏って、坂東の縁戚関係は事前にそんな広くないけど、
政子の配偶者を山木兼隆か頼朝かで迷ったり、娘婿を見ると基本的に京志向が強いよね。
結婚当時は知行国主が三位にのぼった頼政だから、頼朝も悪い相手じゃなかったんだろう
時政も京都守護を大過なく務めてるし、大江・三善ら吏僚とも関係が良いから、
後世の後北条氏(伊勢氏)と似たような出自なんじゃないの
78 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 17:10:58
>>75 2ちゃんに書き込みしてると社会に出ていないという事か?
なら、2ちゃんにカキコしてるお前も引き籠りということになるぜ。
ちっとは論理的にものを考えような。
そんな非論理的な頭じゃ世間は厳しいだろうw
79 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 17:20:25
時家が伊勢平氏からの婿養子だという話がある。
又、その時家の娘が源頼安に嫁いでいる。
京都と関係が深いんだろう。
それから時家の父の時直は和田四郎と呼ばれたらしいが、
伊東市に和田と言う所があるから、伊東氏と何か関係があるのかもしれない。
80 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 17:36:31
>>74 で、嫡流だった足利が滅んで、新田の得川(徳川)が源氏の嫡流になったわけだ。
81 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 21:38:43
>>78 大学に籠って自分の好きな研究だけしていると、世間知らずになるということだろ。
82 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 22:47:18
平氏であろうが源氏であろうが地侍は地侍だということ。
頼朝は違うし、尊氏も違う。北条は地侍。だから将軍にはなれない。
今で言えばキャリアとノンキャリアみたいなもの。ノンキャリアでも
頂点近くまで行く人がいるがつぶされる。
83 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:11:46
>>82 北条氏を地侍と主張している学者は誰?
北条氏に関する研究論文はほとんど読んだが
「北条氏は地侍」と主張している論文を見たことが無い。
後学のためご教示を。
84 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:41:44
85 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:54:02
北条氏に関しては知らない知識は必死で探すんだよ。
それで、飯食ってるからw
86 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:55:36
インチキ学者とその信者が集うスレはここですか?
87 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:06:08
つ インチキ学者って・・・
その前に、知ってる中世史の学者の名前上げてごらんw
十人ほどでいいからさ。
素人さんじゃ無理か?w
88 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:07:18
>>87 そんなもん知ってたって世間で飯は食えんよw
89 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:11:51
素人さん退場決定
90 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:15:12
91 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:17:48
ホントは何がインチキで何が正しいかも分かんねえんだろ?
「北条氏のことは無知です。知ったかぶりして御免なさい。」
と正直に白状しちゃいなよ。誰にも言わないからさあ。
あんたの会社の上司に言いつけたりしないからさあ〜。wwww
92 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:19:15
>>91 ホントは何がインチキで何が正しいかも分かんねえんだろ?
「世間のことは無知です。知ったかぶりして御免なさい。」
と正直に白状しちゃいなよ。誰にも言わないからさあ。
あんたの大学の学長に言いつけたりしないからさあ〜。wwww
93 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:19:28
北条氏が地侍wwwwwwwwwwwwwwwwwww
94 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:20:52
95 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:43:22
コイツどこまでえ〜〜〜使えないの?
社会で苦労してるだろうなあw
社会は広いよ、厳しいよ、てなもんでw
地侍の意味知ってんの?
吾妻鏡読んだことある?
96 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:44:22
97 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:50:09
話はぐらかすなよと
98 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:50:35
使えない学者とその信者が日頃の憂さを晴らすスレはここですか?
99 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:51:56
>>97 下らない研究なんかしてる暇があるならさっさと社会に出て働けよ。
100 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:53:16
北条氏は偽平氏で100get
地侍という説はみたことないが、京との関連が強くて
板東武士とは少し異質な性格というのはよく見るな
発掘跡なんかもそういう解釈されてんでないか
時政や義時の姻戚関係なんかも京志向が強くないかい
泰時以降、むしろ関東に根をはってくというか
102 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:57:19
103 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:09:13
むしろもっと身分の低い階層の出身だと思う。
104 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:20:02
>>102 >ということにしたいんですねw
つ
>>101は別人。オレじゃないちゅうの。
その説は学界の主流だよ。痛いなあwwww
「北条氏地侍説」なんて言ってる学者はないつーの。今日初めて聞いたよ。
自分でどのくらい恥ずかしくて低レベルの発言してるの分かってんの?
で、
>>101さんへ
鎌倉開府まえに時政と吉田経房が交流があったらしいから、
確かに時政は京都との関係はあるんでしょうね。
直方流は関東から伊豆に流れて残って、伊勢平氏は西上したのかと漠然と思ってたが
北条が西から流れてきたという説もあるのか。なるほど。
106 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 02:10:53
直方の孫の盛方は、村上源氏で左大臣の源俊房の家来になってますね。
直方は忠常の乱の後京都に戻っていたんでしょう。
107 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 02:44:59
>>104 狭い学会の連中が何をほざこうが、世間はそんなことに興味はない。
一般の認識は北条氏は平氏の末裔を仮冒するどこの馬の骨かもしれない連中。
たまたま源頼朝の外戚になれたから勢力を拡大できた存在でしかない。
自分が2chで論争してると結構熱くなるもんだが、
傍から見てるとどっちが勝とうが負けようが、どうでもいい程下らなく見えてくるもんだなww
でもまあ、この場合
>>107 お前さんの負けだ。
109 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 03:40:47
つまり北条氏は桓武平氏の嫡流だったってこと?
それなら何故頼朝を保護したの?
自分でてっぺんに立てば良かったんじゃないの?
頼朝の利用価値ってそんなに高かった?
すまんがおしえてくだしあ
110 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 10:05:55
地侍のイメージの違いで騒いでいるんだろ。
「地侍=土着」の人もいれば「地侍=農民上がり」
の人もいる。北条氏は農民上がりって感じじゃないけど
土着っぽいね。学会はシラネ。学会の人は2CHにこない
方が自分の為に良いと思うけど。
111 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 10:46:51
地方豪族の子孫が中央貴族の末裔を仮冒したケースの一つだろうな。
112 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 11:19:24
>>107 まあ、せいぜい「世間、一般の認識」について議論してくださいw
113 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 12:10:22
大事なのは、北条氏自身が桓武平氏を名乗ってて、
当時の「世間」もそれを認めていたということ。
実際に北条氏が平氏だったかどうかは、どうでもいいこと。
なんちゃって平氏でも、当時の社会で平氏として通用していれば、
社会的には平氏。
それで十分なのに、自分の研究の独自性を出すために、
やっきになって北条氏の自称する家系を肯定している学者はキモい。
114 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 13:10:54
>>113 >当時の「世間」もそれを認めていたということ
>社会で平氏として通用していれば、社会的には平氏
何故、世間で認めたんだね? 何故、社会的に通用したんだね?
そこが一番重要な論点なのに、なんら問題意識を持たないお前って・・・
お前大学出てないだろ?論旨見ればわかる。
高卒丸出しで恥の上塗りを一日続けてろ。つきやってやるよ。w
115 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 13:51:49
学会でも相手にされないへっぽこ学者とその助手が虚勢を張るスレはここですか?
116 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 13:57:35
ここ、だんだん見えない相手に個人攻撃を行う、罵倒スレになってきたな。
もう終わったな。
117 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 13:58:39
>>115 同じ書き込みを飽きもせず続けるのは、やはり知能指数が・・・。
119 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 14:00:50
120 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 14:02:29
>>115 痛いところを突かれて激昂したようだ。
もっとからかってやれよw
121 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 14:06:15
>何故、世間で認めたんだね? 何故、社会的に通用したんだね?
高卒に聞いても無理だろ。頭の弱い者をいじめるのは罪だぜ。
高卒が泣きながら突っかかって来てるじゃないかwwww
122 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 14:07:31
123 :
↑:2010/04/25(日) 14:12:08
ほんとだ。
高卒が泣きながら突っかかってるwww
124 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 14:13:41
2chネラーなんてドンキホーテの集まりだろって常々思ってたが
こいつぁすげえわ、ハリボテの風車どころじゃねえや、見えない戦車と戦ってやがる
すげえレス延びてる
「2ちゃんは頭打ち みんなツイッターに移動してる」
とか朝日新聞に出てたけどウソだったのか
>>122 私は中央大学の卒業ではありません。
馬鹿にしないでください。(怒)
わからないのは、なぜ北条が直方流なのを嫌う人がいるのかということだ。
直方流のがいろいろ説明がつくのに。
自分は、そこそこの家柄だったからトップにたったと思いたくない方だが
家柄なしにあそこまでいけるというのも非現実的な気もちょっとはする
直方流を「自称」「仮冒」していた、でもいいんじゃないか?
北条時政は、娘が頼朝の正室であることを唯一の手段として
権謀術数を駆使して幕府の実権を握った・・・。
という陰謀史観には違和感があるなあ。
もし、一時的に権力握っても幕府内の秩序を長く維持出来ないだろう。
そう。単に陰謀が上手かったからじゃどうしても説明つかないんだよね。
伊東は頼朝と娘をひきさき子どもを殺したが、北条はなんだかんだと許し
また平家もそれを見逃してる、というのも都のコネがあるならわからんでもない
仮冒は無理だろう。
時政は、伊豆の国府近くに所領を持ち、在庁官人をやっていて、父は北条介で、母は伊豆掾伴為房の娘で
妻が伊東祐親の娘で、祖父の娘(時政の叔母)は陽明門院判官代源頼安の妻だった。
その時政の家系を伊豆の武士達が知らなかったとは思えないなあ。
時政の血縁関係から見て、伊豆では小規模ながら上位に位置する武士団だろう。
北条氏の祖先がどこの馬の骨とも分からぬ小武士団なら
これだけの血脈を作るのは無理だろう。
又、他の伊豆や関東の武士団の系図で北条氏を連ねているのは
桓武平氏の系図以外に見出すことはできない。
(中世の系図は各家で作るから、もし北条が自家の分家筋なら遠慮なく記入するはず)
134 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 18:11:47
義家に直方流の血が入っているから
北条が直方流じゃないと困る人が今
でもいるのかな?
というか、4,5代前なんてすぐそこだからな
仮冒はかなり難しいぞ
136 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 18:34:07
北条とか熊谷が伊勢平氏の平家一門と血統が近すぎるのが
不自然というかわざとらしい。
137 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 18:48:40
北条は直方流だから、伊勢平氏とは血統が近すぎないぜ。
138 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 19:04:37
清盛はケチなやつで、平氏全体のためになんか何もやってないぜ。
せいぜい兄弟と子息ぐらいの面倒しか見ていない。
清盛絶頂期でさえ同じ伊勢平氏でも真面目にカネ積んで朝廷に懇願しなければ国司にさえなれない。
清盛が口利きなんか絶対してくれない。だから、伊勢平氏でなく直方流の時政なんかが「オレ清盛様と同じ平氏ですぅ〜」
とか言っても「だから?」」と無視されてしまうのがオチ。
139 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 19:09:56
貞盛―維将ー維時― 直方―聖範―時直― 時家―時兼―時政
貞盛ー維衡ー正度ー正衡ー正盛ー忠盛ー清盛
伊勢平氏の平家一門と血統が近すぎる?
140 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 21:36:38
>>138 おまえ市役所かなんかにこねあってすり込もうとして失敗して
結局ニートになってその課長かなんかを逆恨みして犯罪犯して
刑務所から投稿しているの?
141 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 21:50:15
142 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 21:59:59
>>141 じゃあ、正しい系図を教えてくれ給え。w
143 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:03:56
>>140 >刑務所から投稿しているの?
小学生でつか?
ほれ、ほれ、高卒君。
泣きながら突っかかってこいよ。
相手してやるよ。www
145 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:10:29
146 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:14:27
文字や漢字通りにしか理解できない(軽度だとは思うけれど)アスペルガー
はやはりいるのですね。
>143のことですが・・・
>>141 伊勢平氏の系図までねつ造かよ
面白い子だね
つぎも面白い事を書いてね
待ってま―すwwwwwwwwwwwww
148 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:20:53
>>146 出たあ〜
高卒らしい脳内妄想肯定論だぁぁぁぁ―
大卒のみなさん笑ってあげてくださあ〜い。
で、次のレス待ってますwwww
150 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:21:35
>>147 貞盛―維将ー維時― 直方―聖範―時直― 時家―時兼―時政
これは疑わしい。伊勢平氏じゃないし。
151 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:22:36
>>148 「乙」ばっか わ―高卒らしいよ〜
馬鹿の一つ覚えだあ―
もっと他のこと書けよ―っ
でつぎのレス待ってます
乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙・・・
いつまで乙を続けるの?wwwww
154 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:27:00
>>149 脳内妄想肯定論(w)
って
すばらしい学会(w)の論文ですね
155 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:28:10
>>152-153 どこの馬の骨とも分からないご先祖様を馬鹿にされたのがそんなに悔しいわけ?
そりゃ、高卒とは違うわな
で、乙はもう止めたん?
157 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:31:46
158 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:32:44
どうも学歴にこだわっているのが一匹紛れ込んでいる様子。
まぁ、しょうがないか・。
>>155 こいつ、まじで北条氏の子孫に語りかけてるよ
アタマ大丈夫かよ 冗談通り越して怖ェ―
160 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:33:47
161 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:34:45
162 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:38:18
ほれ、ほれもっと「乙」を続けろ
一晩中「乙」を書き続けろ
オレ様の命令だあ
アレ? オレを無視するなよ
反論のレス続けろよ
165 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:42:19
>>163 赤卒。
胎卒。
精卒。
卵卒。
この辺で勘弁してくれ
166 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:42:32
勘弁出来ねえ〜
これからが本番じゃろ
一晩中書き続けろや
最近の高校教科書には「北条氏は地侍…これが世間一般の認識」と書かれてあるのか?w
169 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:47:48
170 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:49:56
「一般常識」だってさあ
じゃあ、どの本に書いてあったか教えてくれよ
鎌倉幕府関係の研究書や論文は、だいたい持ってるから今すぐ確認してみるよ
Zは駄目
乙じゃなくちゃイヤだ
173 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:54:57
>>171 専門書や論文なんか一般人は読まないだろ。
174 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:58:36
>>171 だからこんなところでわめいてないで学会逝けって言ってるだろ。
頭悪いの?学会ってソーカじゃないの分かってる?
>>173 じゃあ、一般人向けの本も多少あるから、どの本に書いてあったか教えてくれたら確認してみる
歴史読本何月号とか言われるとちと困るがw
一般向けの「日本の歴史」といった通史ならあるよ
176 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:03:23
清盛の平家と直方流は別に近くないのに、近すぎる
といってるのが一名いて謎だたが
自分が思うに、多分貞盛にやっつけられた将門ヲタ
コンプレックスがあるんだよきっとw
178 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:05:03
>>175 大学に引き籠ってないで、たまには外に出ろよ。
>学会ってソーカじゃない
これがキミの頭のレベルか?
「北条氏は地侍」とか言い出しそうなレベルだなw
180 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:07:05
清和源氏のヲタだろ
清盛一門にくらべて家格がかなり低いから、同じ祖先
といわれて頭に血が上ってるんだよ
別にそんなに近い系統でもないのに
182 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:09:34
>>180 研究者の学会を創価学会と間違えてやんの
183 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:11:23
185 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:15:32
186 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:16:17
>>183 また「北条氏の子孫乙」かよ
芸が無いなあ
別の「乙」考えろ、とあれほど言っといたのにw
自分の負けか
まあ、将門ヲタには卑屈なのはあまりいないといえばそうかな
188 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:18:50
>>185 >ということにしたいんですね
お前も同じ言葉ばかり使うなよ
まったくボキャブラリーが少ないんだから w
189 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:19:43
190 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:21:41
北条氏は農民の有力者が所領防衛のため武装して武士階級に発展した
家柄です。通り名の時は農業にふさわしい文字で、時そば、金時芋など
多数あります。時直のころに一族に箔をつけるため平氏後裔を自称した
ようです。
なんで義時の娘は公家にばかり嫁いでるのか
と思ってたが、元々、京に近い家なら納得した。
192 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:23:50
へえ、そうなんだ
193 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:24:46
北条氏は部落出身。
194 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:25:39
195 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:28:45
北条氏は在日出身。
196 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:37:53
198 :
日本@名無史さん:2010/04/26(月) 00:07:58
>>197 ご先祖様をコケにされたのがそんなに悔しいの?
>>198 真夜中に北条氏の子孫に本気で話しかけてる人がいる
怖〜い
200 :
日本@名無史さん:2010/04/26(月) 00:49:06
脳内妄想キモ
北条氏の出自は直方流でなくともそれを自称するだけの豪族として、
頼家暗殺に至る経緯ってどんな感じだったんだろうね。
毒殺と言う手段を採らずに、1回生き返らせてしまっているんだよね。
と言うか暗殺だというのは愚菅抄のふぐり云々が根拠?
202 :
日本@名無史さん:2010/04/26(月) 01:24:06
鎌倉年代記をもとに時系列的にまとめると以下のようになりますね。(金吾は頼家)
建仁3年7月27日 金吾将軍受病。
建仁3年8月27日 譲遺跡於長子一万、6才、以関西38ケ国地頭譲舎弟千万君、11歳
建仁3年9月2日 比企判官能員以家督外祖、誅遠江守時政欲掌世務之由、有其聞、仍時政招寄能員、以天野藤内遠景令懐能員、令新田四郎忠経指殺能員畢
建仁3年9月6日 誅欲一万並宗朝之間、於小御所合戦訖。
建仁3年9月7日 金吾出家
建仁3年9月9日 忠経(一萬御前乳父也。「注:仁田四郎忠常のこと」)被誅訖。爰金吾所労少減之間、密々企謀叛之由風聞。
建仁3年9月29日 遷奉伊豆国修善寺
元久1年7月19日 奉誅金吾了
203 :
日本@名無史さん:2010/04/26(月) 01:27:08
204 :
202:2010/04/26(月) 01:35:18
分かりやすく書くと・・・
建仁3年7月27日頼家発病。重病のため一カ月後に跡目相続を決定。
それに不満を持った頼家の妻の父である比企能員が時政暗殺を画策。
建仁3年9月2日時政が先手を打って能員を謀殺。
建仁3年9月6日政子の命で時政らが小御所を攻撃、頼家の子一万をはじめ比企一族を滅ぼす。
建仁3年9月7日頼家出家
建仁3年9月9日頼家が息子一万の乳父であった仁田四郎忠常に時政誅殺を命令するが失敗。
建仁3年9月29日頼家鎌倉追放、伊豆修善寺に幽閉。
元久1年7月19日頼家誅殺
205 :
日本@名無史さん:2010/04/26(月) 01:53:15
北条氏は最初から暗殺する気はなかったようです。
頼家重病を受けて跡目相続で比企氏と衝突し、
比企氏を滅ぼした。恐らく北条氏は一万の幼少を理由に
実朝に将軍職を継がせようとしたが、比企が反発したので
折衷案で譲歩したというのが真相でしょう。
で、頼家は二回にわたって時政暗殺を画策したので修善寺に幽閉し
約一年後に後憂を断つために暗殺したんでしょう。
幽閉された頼家は、懲りもせずに近習を寄越せとか安達を処分しろとか
要求してくるので煩しかたんでしょう。
北条はいきなり暗殺、ということはしない。
問題が生じたときに殺す、というパタンだ。
頼家の子どもも大体がそういう扱いだし、全成の息子もそうだ。
問題がおきなかった頼朝の遺児の貞暁はずっと生き延びていた。
207 :
日本@名無史さん:2010/04/26(月) 02:15:13
時政・義時の権力闘争の仕方は
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」
と言った感じがしますね。
力づくのごり押しを決してしない。
件の荒らし、戦国板の三成スレに湧いてきた気違いと同一人物っぽい雰囲気
鎌倉年代記でも誅し奉りおわんぬと明記されてるんだ。幕府末期成立でも、何か意外
210 :
日本@名無史さん:2010/04/26(月) 13:46:11
211 :
日本@名無史さん:2010/04/26(月) 18:57:14
>>208 私は三成スレに行ってない。言いがかりです。
212 :
日本@名無史さん:2010/04/26(月) 21:15:50
>>207 >力づくのごり押しを決してしない。
しないのと出来なかったではかなり違うよね。
力づくのごり押しを出来る状況だったのかな?
薄氷を踏む時代だったという解説を読んだことが
あるが。
213 :
日本@名無史さん:2010/04/26(月) 22:30:48
>>212 >力づくのごり押しを出来る状況だったのかな?
確かに北条は強引な権力闘争はできないしやらない。
一方梶原・比企・畠山・和田・三浦・安達等の豪族は
強引なやり方で権力闘争して滅亡してしまう。北条とは正反対だ。
では、北条氏は権力闘争の天才か、というとそれは違う。
北条は、自己に有利な時期や条件のもとで権力闘争を開始し
不利になれば途中で中止や延期できるような、いわば、
権力闘争をコントロール出来る非常に有利なポジションを
幕府草創期から確保していたのだと思う。
しかし、他の豪族には、そのようなポジションにないから
権力闘争に不利な条件下でも最後まで戦うしかない。で、滅亡してしまう。
214 :
日本@名無史さん:2010/04/26(月) 22:55:36
>>209 鎌倉年代記以外にも頼家暗殺を記した史料がありますね。
将軍執権次第 元久1年7月18日 於伊豆国修善寺被誅。年23。
武家年代記 元久1年7月19日 於修善寺卒。平義時殺之云々
将軍次第 元久1年7月18日 於伊豆国修善寺誅了。廿三。
北条の怖さは、普通は力づくでやらないからそういう安心はあるが、
でもやるときには断固やるというとこだろう。
比企一族の葬り方はかなり強引だ。
それと、稲毛兄弟を討ったのは三浦らの御家人だが、あれも正当性はなく
有無をいわせない葬り方だが、多分、北条が黙認してるだろう。
平賀朝雅も弁明の機会もなく、鎌倉からの指令一本でやられた。
ところが、宇都宮頼綱は小山が間にはいってうやむやに許されてる上に
やがて得宗家の外戚になったりするんだから面白いもんだ。
ガツンといくところ、寛大なとこが混在してる。
216 :
日本@名無史さん:2010/04/26(月) 23:29:59
>>215 それが「蝶のように舞い、蜂のように刺す」ということだと思う。
権力闘争を仕掛けてみて「ちょっとやばいな」という状況になると
あっさり矛を収めてしまう。宇都宮の時なんかそうだと思う。
しかし、「これは行けそうだ」となると猛攻して潰してしまう。
比企がこれだな。もっとも頼家相続では一万実朝半々でいったん妥協してるが、
あれも「無理は止めとこう」で、形勢が有利になると「よっしゃ!行け!行け!」と
大軍繰り出して攻め滅ぼしてしまう。
闘うと怖いが、それ以外には寛大というのが支配のコツでは。
他の御家人からすれば、北条に逆らいさえしなければ安泰
となれば、自然と従うようになるというか。
北条は、強い相手には無茶苦茶きついが、弱い相手には優しく見えるのも
そういう支配のメカニズムがあると思う。
前将軍誅殺の事実が堂々と北条氏関連の記録に出てくるということは、
当人たちも誅殺に正当性があると考えていたと言うことかな。
宇都宮は名族だけど源姓じゃないし、小山が庇うだろうし、庇ったら許そうと思ってたんでは
逆に血統的に門葉で脅威となりうる平賀に関しては抹殺せざるを得なかった
実朝暗殺後に阿野氏の息子まで抹殺したのとちょっと似てる
自分も宇都宮は最初から討伐する気なかったと思うな。
小山朝政と義時は、お揃いの衣装で行列するほどツーカーだから
宇都宮を討てといったらどういう反応するか、わかっていたはずだ。
わかりつつ命じたり、わびてきても簡単に許さないあたりは厳しいと思ったが。
平賀については、あんなにあっさりやられるもんなんだな、と思った。
>>217 >闘うと怖いが、それ以外には寛大
秀吉も家康もそういうところはあるな。
信長なんかは弱者も怖がらせちゃったところあるし
尊氏は味方には優しすぎる。
>>213 でけっきょく最後に残ったのが足利氏で、
やっぱそこに北条はやられちゃったってことか・・・・
>>220 秀吉はまだしも、家康はそんなに戦は強くない。
政治力なら北条以上だが。
あと足利氏は京都と闘うといって軍勢連れて出て行って途中で天皇側に寝返って
孤立した六波羅潰しちゃった。
そんな手使われたらどうしようもないさ。
222 :
日本@名無史さん:2010/04/28(水) 09:56:32
シンボルにいつでもつぶせる平賀氏を担ごうというのだから
寛大ということでなく陰険ということなんじゃね。
実力は十分あるが家柄の低さから、尊氏のころの高氏みたいに
陰謀専門家っぽい。
223 :
日本@名無史さん:2010/04/28(水) 12:05:34
>尊氏のころの高氏みたいに
?
佐々木道誉のことか
高氏のことだろう。
京極って家柄が低いのか?
227 :
日本@名無史さん:2010/04/28(水) 15:42:10
>>221 > 秀吉はまだしも、家康はそんなに戦は強くない
逆。
秀吉は戦はあんまり強くなかった。
一番得意な戦法は相手の数倍の大兵力で包囲して相手を飢えさせるやりかた。
これに対して家康は野戦攻城の猛将。
228 :
日本@名無史さん:2010/04/28(水) 15:58:34
>>227 秀吉が大将として撃って出て、野戦で勝ったってあんまり
聞いたことないな。
勝家に勝った位か?
229 :
日本@名無史さん:2010/04/28(水) 20:26:47
平賀朝雅って頼朝との血縁はかなり遠いのに、
なんで範頼とか全成より格上の「御門葉」の身分だったんだろう?
もし、時政の陰謀が成功していたら、本当に将軍になれたんだろうか?
家康って、戦むっちゃ強いよねぇ・・・
233 :
785:2010/04/29(木) 11:21:41
家康と秀吉だと、小牧・長久手で、
圧倒的な兵力差にもかかわらず、家康側が撃破しまくってるわけだから
どっちが戦強いかってのは自明だろう。
武田に負けたのはまぁ、相手が相手ってのと、兵力差・経験不足もあって仕方がないが
家康は戦国でもトップクラスの、戦の強い(というか戦「も」強い)武将だろ。当り前の話だが。
>>229 門葉の資格は親等の近さではなく、頼朝が選抜した親衛隊みたいなもの
平賀氏の場合、義光流だが父の平賀義信は平治の乱から義朝に従軍している。
(足利氏も平治の乱で義朝に同心し、治承寿永の乱でも非常に協力的だった珍しい一門)
平賀・足利の場合はこう言う経歴も重視されたんじゃないかしら
任官も武蔵守、兄の大内惟義が相模守で、この二国の国司を歴任したら門葉の中でも筆頭
家康直系が家綱で絶えた後に宮将軍か、庶弟の綱吉将軍かで揉めたように、
頼朝の従兄弟的に位置づけられた平賀氏将軍が誕生する可能性はあったんでないのか
236 :
日本@名無史さん:2010/04/30(金) 11:01:08
>>235 ですね。だから新田の鎌倉攻めのとき足利の義詮
ぼっちゃまうを飾るしかなかったのですね。血筋は
大体同じなのに。
源氏ってプライドが高いのか内輪もめが趣味なのか、
一族が素直に纏まって行動したためしがない。
伊勢平氏のほうは合戦ごとに一族が真っ二つとか聞かないんだけどなぁ
>>229 時政の陰謀
あの事件は奇怪だよね
真相は藪の中か?
時政が擁立したばかりの実朝を平賀に取り替えるとは思えないな。
>>239 たぶんうまく操れると思った実朝が
朝廷寄りになっちゃったから、邪魔になったんじゃないかな?>時政
241 :
日本@名無史さん:2010/05/02(日) 12:38:56
つ 実朝12才
242 :
日本@名無史さん:2010/05/02(日) 12:39:56
間違えた 14才
243 :
日本@名無史さん:2010/05/02(日) 14:04:10
実は時政の陰謀じゃなくて、畠山事件あたりから時政について行けなくなった
政子や義時たちがしくんだでっちあげで、牧の方を時政もろとも追い出すための謀略だった
と言ってみる
もし実朝が朝廷よりになったんなら、それを邪魔感じるのは時政だけじゃなく
義時やその他御家人勢も一緒なわけで
むしろ牧の方なんかの方が実は、朝廷よりだった可能性もあるし
元久1年に政範は16歳で従五位下
元久1年に義時は42歳でやっと従五位下
元久1年時房は30歳でも無位
差別だよなあ
245 :
日本@名無史さん:2010/05/02(日) 20:24:11
当時はまだ武家による政権の前例がなかったから、重臣たちも何をどうして
いいかわからなくて、成り行きや感情で行動してしまったんじゃないでしょうか。
頼朝は暗殺された可能性があるそうですし、
重臣同士の血縁争いが原因で源氏将軍が3代で絶えて、京都から貴族の子を
呼んで将軍にして、そいつが物事の分別がつくくらいに成長したら辞めさせ
て、交代させて・・・って、やってること明らかにおかしいでしょ。
246 :
日本@名無史さん:2010/05/02(日) 23:57:03
北条氏は所詮土民上がりだからしょうがないんだろうな。
武家の政権と言うか、頼朝が構想した将軍専制で鬱積してた不満が代替わりで爆発
頼家が倒れたので後継者がいないと言う非常事態になり、きわめて中世的に比企を滅ぼす
そしたら頼家が復活 怒る 討伐を命ずる 困る 出家させる 追放 ウザイのでひそかに殺害
実朝を擁立したはいいが幼少、大きくなったら子供は生まれないわ暗殺はされるわ、
とかやってたら、結局政子と執権以下で政務を切り回して何とかなる形態が成立してしまい
「もう将軍なんて箔付けだけでいい」と言う話になった
>>243 >畠山事件あたりから時政について行けなくなった
十三人の合議制が出来た時、北条氏だけ時政と義時の二人が参加してるが、
これは北条氏の力が他武士団より強かったからではなく、すでにこの時、
時政と義時は別個の政治主体と考えられていたのではないか?
>>248 追加
つまり、すでに北条氏は分裂し、時政の嫡子は牧の方の生んだ政範で、
義時は分家扱いになっていたのかもしれない。
ちょうそ三浦と和田のように一族でありながら、利害が微妙に違う関係。
そういえば十三人の中に三浦と和田も入っていた。
武家の次男ってーのは、時代にもよるけど結構微妙な立場だったりするもんね。
平安時代だと貴族でも武家でも嫡男じゃなくても普通に出世していったのに、
土地と密接に絡むようになる地方武士団が前面に出てくるようになると
嫡男が絶対視されるようになった感じが。
分家あつかいというほど明確ではないと思う。
頼朝時代は、従軍でも上洛でも義時が北条を代表して動いていて、時政は
あまり活動してない。
北条自体が元々大きな家でなくて、鎌倉にきてから大きくなった家だから
それを継ぐこと自体どれほど意味があるのかわからんが。
江間姓で。
254 :
日本@名無史さん:2010/05/22(土) 20:46:44
ああ、盛り上がっている最中アク菌だったのに
いまきてみたらもうスレがしぼんでいるorz
かりに政範が本家を継いでても、
執権は年齢的にも実績的にも義時に行ったんじゃないの?
いや、合戦の活躍ぶりを見ると、そうとも限らないのか?
256 :
日本@名無史さん:2010/05/23(日) 00:19:21
たとえ義時が執権になっても
長時みたいに「家督幼稚程の眼代なり」
となってしまうかも
257 :
日本@名無史さん:2010/05/23(日) 14:35:05
この時期の北条って、まだ「天下人」ってほど優位が確率してないんじゃ?
執権のポジションだって、たまたま北条から二代続けて出してたけど
世襲というほど安定もしてないと思う
そもそも北条本家の家督にどの程度の意味があったか、も
畠山事件のきっかけになった政範の死ってそこまで意味のあるもの、かな?
それとも義時にとっては実はラッキーが続いていたの?
258 :
日本@名無史さん:2010/05/23(日) 14:37:31
北条氏スレにも書いたけど、
今起きているセイコーの御家騒動、(ワンマン会長をクーデターで解任)
平賀事件→時政&牧の方追放、とそっくり
執権といっても時政時代はまだ、侍所別当は兼ねてないでしょ
侍所別当まで兼任した義時時代にようやく幕府最高実力者と言えるような気がする
政範が北条を継いだ路線では、後の得宗時代ほどにはなってないんじゃ?
早死にしたから彼の器量がどの地度がわかんないからなんだけど
260 :
日本@名無史さん:2010/05/23(日) 19:39:45
頼朝の正室の実家であり、また源氏旗揚げに協力し鎌倉幕府設立に重要な役割をになった北条家だから、
その家督を継げば、政治的立場からみて有形無形あらゆる点で有利じゃないか
その正室とは母親が違うだろ
その時点での北条の所領の規模は?
旗揚げに協力して実際に働いたのはだれ?
幼かった政範じゃないだろ?
それに本流だといばったところで、力のある分家が本家を凌駕するのは
珍しくもない時代だし
262 :
日本@名無史さん:2010/05/23(日) 23:51:44
家督を継ぐと言う事は、その家の正統な政治的地位や財産を継ぐ事だから重要。
時政期のに獲得した所領規模は30か所以上にのぼり、義時期に獲得した所領は約18箇所程度。
それも山内庄等の3か所は和田義盛を倒して手に入れたから
義時が家督を継いで政所別当にならなかったら和田義盛を倒すことはできず
所領の獲得はもっと少なくなっていた。
政範は文治5年生まれで、旗揚げのときは生まれていない。
>>262 タラレバを言うなら、政範が家督継いだら
和田を倒したりする荒業だってできなかったかもしれないよ
政範の器量次第だけど(義時以上だったかもしれないけど)
尼御台の実家の家督というなら、その尼御台との関係がよくなかったら
力も発揮できないんじゃねーの?
政範と政子ってそんなに関係良好じゃなかったんじゃ?
親父の時政にしてからが、政子と対立して政治的に失脚してるわけで
政範が生きてたらあそこまで暴走しなかったもしれないけど
畠山の息子だって時政の孫なのに、ためらいなく殺しちゃったら
義時だって政子だって危なくってそんな親父にはついてけないよ
実朝の身だって危ないし、先手を打ってってなるよ
264 :
日本@名無史さん:2010/05/24(月) 01:47:58
義時が信濃・越後などの北陸守護になってるが
あれは、比企の乱のあと最初から義時に与えられたのかな?
それともまず時政に与えられ、時政失脚後に義時に継承されたのかな?
265 :
日本@名無史さん:2010/05/24(月) 22:39:20
比企の乱で義時は大隅国や北陸道の守護職を数多く獲得するが
時政が獲得したのは薩摩国だけだが・・・。この差は何だ?
266 :
日本@名無史さん:2010/05/24(月) 22:41:51
そもそも同族の父子が複数国の正守護になるのも異常な気がする
267 :
日本@名無史さん:2010/05/24(月) 23:05:33
現代だったら今の鳩山を小沢が頭にきてブチ殺しちゃった みたいなもんですかね。
義時は頼家や頼家与党の捜索誅伐をやってるが
どういう職権で執行してるんだろうか
そもそも梶原追い落としとか、比企殲滅とか全部、企画実行したのは義時なんじゃ
でもって政範の死もただの病死じゃなかったりして
→平賀朝雅や逆上した牧の方が時政に色々讒言→時政暴走→畠山討伐(ここまでは見て見ぬふり)
→御家人連中が時政に反感を持ったところで親父を始末してウマー
梶原や比企や畠山を潰すまでは父親を利用しておいて・・・
腹黒さじゃ時政の比じゃないだろう、旗揚げ以来の修羅場を経験していないであろう
政範にも太刀打できる相手じゃなかろうて
平賀や牧の方が何と言おうと、時政が冷静になって、畠山討伐しようなんて血迷った事をしなければ
義時に足元をすくわれることもなかったんじゃねーか
270 :
日本@名無史さん:2010/05/25(火) 01:32:45
>>267 ちがうちがう。鳩山安子さんがユキオ政権に見切りをつけて
クニオちゃんを総理にするべく奔走するってことさ。
この頃の御家人を主人公にした面白い小説って何かない?
できれば義時泰時あたりの勝者が主人公のもので
>>271 永井路子の短編集に義時主人公のがあったと思う
タイトル「覇樹」だったかな
>>269 中央公論の「日本の歴史」でも最初に北条陰謀史観を示しておいたあと、
やっぱりそれは考えすぎという意見を載せてたけど、ヲレもなにもかも
後ろに義時が控えていたという感じの陰謀史観に染まるのもどうかと思う。
頼朝の浮気が原因で時政が伊豆に引き揚げた時
義時は同行せずに鎌倉に残って父親とは一線画している
>>273 269でつ、実朝暗殺には北条は絡んでないと思うけどね
あれは北条にしては「手際が悪い」から
仮に北条が実朝殺すなら、後釜を確保してからやると思うから
「宮将軍」お願いしてたけど、まだ身柄が鎌倉にないわけで
実朝死んであわてて京都にお迎えに行ったら後鳥羽院にゴネられて
仕方ないから九条家から頼朝の姉の外孫をさらってくる
段取りがgdgd
永井さんの三浦説や朝廷謀略説もイマイチ、結局公暁単独犯行ってなんのひねりもないオチでは、と
276 :
日本@名無史さん:2010/05/25(火) 16:48:31
>結局公暁単独犯行ってなんのひねりもないオチでは、と
旗揚げして戦で攻め殺したならともかく、暗殺実行犯が
天下人になれるなんて思いも寄らないが。
>>276 公暁は単に実朝と義時を殺したかっただけじゃないの?
「腹痛になった義時の代役」源仲章も殺されてるから、本当は義時もやるつもりだった
あの二人が父親の仇だと思ってたんだろ
将軍になろうとしてたかどうか、は??と思うよ
つーか、じゃあおたくは実朝暗殺の真相は何だと思ってるの?
実行犯が公暁だったのは受け入れてるんだよね
もし裏に北条なり三浦なり朝廷なりがあったなら
公暁は自分が暗殺実行すれば将軍になれると思い込んでも不思議ではないと?
有力な協力者がいれば将軍になれると?
そもそもまともな頭の持ち主なら、天下人になるのが目的なら自分じゃやらんでしょ
>>269 ところがさ。
あんなに陰謀論好きで北条氏に関しては疑いの目を向ける史家(好事家)も、
政範の卒去に関してだけはノータッチなんだよね。
明月記の尊長みたいな流言もないし、やはり偶然じゃないかと思う。
ああ申し訳ない、もう決着済みだったのね
>>278 thx
だとすると、ものすごい神風が義時に吹いたことになる?
たしかに京都に出かけてる政範を病死に見せかけて殺すのは結構むずかしいかも
第三者が一緒にいるからね・・・
このときに政範が死んだのは「畠山の息子の手落ちだ〜」と畠山親子と折り合いの良くない平賀がぶちあげて
ってのを「草燃える」でやってたけど
その畠山の息子は時政の外孫でもあるのに畠山親子を死に追いやった
当時、中学生だったけどその時の時政が随分バランスを欠いたというか常軌を逸して見えた
耄碌してたのかねえ・・・
>>274 頼朝の浮気が原因、
「草燃える」知識だと
あれってたしか政子が牧の方の兄に亀の前の家をぶち壊させて
怒った頼朝が実行犯の牧の方の兄のもとどりを切ったんだっけ?
それまで生温かくヲチしてた牧の方が逆切れ、で北条一家引き上げ
義時は逆切れした牧の方につきあう義理はないって別行動だっけ?
大河じゃ空き家になった家に義時が一人残ってやや不自由してるってなってたけど
すでに別に一件家を構えて独立してたんじゃないかな
義時の邸宅は、ちょっとあとになるが建久2年に
小町にあったことが史料に出てくる。
たぶん、すでに寿永1年の時点で時政とは別の邸宅だったんだろう。
283 :
日本@名無史さん:2010/05/25(火) 21:24:33
>>277 じゃあ将軍になるつもりというのは北条側からの悪意の宣伝で、
当人は復讐目的が第一で、バックにいた三浦に嬉々として
報告に行っただけってことだろうか。
愚管抄によると公暁が実朝を殺す時「親のカタキ」といって切りかかったと
暗殺現場にいあわせた公卿達がはっきり聞いたという。
また、吾妻鏡には鶴岡の上宮(現在の階段の上の拝殿)で「父の敵を討った」
と名乗りを上げたという記事がある。
公暁が実朝暗殺に成功した直後に、三浦氏に使者を立て
「今将軍の闕有り。吾専ら東関の長に当たるなり。早く計議を廻らすべき」(吾妻鏡)
「われかくしつ、今は我こそは大将軍よ、それへゆかん」(愚管抄)と言ったそうだ。
まあ、愚管抄も吾妻鏡もここまでは同じような内容だが・・・。
しかし、事件発生時の義時の行動が吾妻鏡と愚管抄ではまるで違う。
吾妻鏡では義時は白い犬を見て気分が悪くなり自分の邸宅に帰って災難をのがれたとある。
しかし愚管抄には、実朝は太刀を持っていた義時に「中門にとどまっておれ」といって制止したとある。
つまり愚管抄では、義時は事件発生当時、実朝の命令で実朝の御剣を持ったまま鶴岡八幡宮の中門にひかえていたことになる。
これはどういうことだ?
吾妻鏡は明らかに「日頃の行いがよかったから神仏の加護で助かった」
と言う教訓めいた創作の文脈。
愚管抄のほうが史実に近いと思うんだが、すると義時が助かったのはほんとに偶然だな。
>>286 なにか確証はないけど、不穏な空気を感じたってことじゃないかな
例えば、「公暁の様子がおかしい」って報告が上がっていたのかもしれない
まだ当人の目的ははっきりしないけど、自分に対して公暁がいい感情を持ってないことは
想像がつくよね、父親を殺したのは北条なんだから
ともかく身に降りかかる危険を回避するために仮病をつかって
他の人間に代わってもらう・・・源仲章はとんだ災難だ
しかし報告が上がってたら、まあ普通は実朝近辺にも上がるわけで、
貴賓来賓多数の拝賀の式で「私怖いんで辞退しますわ、将軍もご一緒に」とか言ったら、
来賓に面目が立たない実朝にめちゃめちゃ怒られるんじゃね?そのあたりが良く分からない
>>288 実朝に報告上げられるほど確かな状況ではなかったんじゃ?
色々身に覚えのある北条は独自に公暁の監視してたとしても
実朝はそこまで公暁に警戒はしてなかったのでは?
だから、とりあえず自分は「腹痛」とか言い繕ったんでしょ
吾妻鏡では義時が御剣を源仲章渡したから、仲章は殺される時に御剣を持っていたことになるが
愚管抄では源仲章が殺される時松明を持っていたという。(中門にいる義時が御剣を持っていた)
愚管抄の著者の慈円は「将軍たる者が剣を身近に持っていなかったのは怠慢だ」と非難している。
たしかに武士の棟梁としては迂闊であったと思うが・・・
>>290 だけど文官である右大臣の就任式でのことでしょ
これが武官である近衛大将の装束だったら・・・まあそう言えるかもしれないけど
仮に仲章が剣を持ってたとしてもすでに相手は抜刀して切りかかってきていたら
急場に間にあったかな、なんせかなり動きにくい装束だと思うし
それに、「愚管抄」は慈円の立場のベクトルのかかってる記述かもしれないし
少し前、九条家と鎌倉の間柄が疎遠になることがあったでしょ?
頼朝の娘を入内させる話が出て、後鳥羽院の中宮の実家の九条家とそれまで緊密だったのに
疎遠になってなかった?(源通親の策謀大当たりっていうのが永井説だったかな)
で、九条家出身の慈円も頼朝一家にあまりい感情を持っていなかったかもしれないでしょ
三浦一族は頼家の遺児である栄実と禅暁の兄弟の後見をしていた。
実朝・公暁・義時の三人を殺し、栄実か禅暁のどちらかを将軍にして自分は
執権になる・・・という筋書きも考えられるが・・・。
京都からも多数の公暁を招いて盛大に行われた実朝の右大臣拝賀の式典に
三浦一族では義村子息でまだ若年の朝村一人しか参加していないというのは不思議な気がする。
>>292 栄実は実朝暗殺の時点で、すでに死んでるはず
「源頼家」のウィキソースだが↓
>母が三浦胤義と再婚した三男栄実は、建保2年(1215年)に和田氏の反乱である泉親衡の乱に擁立されて自害に追い込まれ、
公暁も三浦が乳母だし、そそのかして危ない真似させるのはリスクがあるでしょ
普通に考えれば、三浦にとっては大事な「玉」なんだから、実行犯役をわざわざやらせるのも不自然
栄実は健保1年10月6日自害と尊卑文脈と諸門跡に載ってるが。
健保2年11月13日に自害した頼家子息の禅師を栄実に比定していいのかな?
人名事典にはそう書かれてるのもあるが・・・。
どちらが正しいか俺にはよくわからんが、
ひとまず典拠がはっきりしている健保1年説をとることにする。
考えてみたら義時が還暦前、義村もいい年だから寒中は辛かったのかも知れないな
298 :
日本@名無史さん:2010/05/27(木) 13:24:21
ネパールの王族殺害事件みてーだな。
突発的事件なのか、陰謀なのか。
当時は陰謀論はなかったんでは
最初に公暁の背後に誰かいる、といいだしたのは誰だろ
それから、父親の時政のいうことを聞かなかった義時が、政範のいうことに
従うなんてありえないよ
勝手に独立して動いただろうし、もめたら弟を追い出しただろうw
>>256 なんで名越でなくて長時にやらせたか
名越にいったら、もう執権職が戻ってこないからだろ
義時の場合も眼代にならずにそのまま泰時に執権職がまわっただろうな
政子が義時泰時びいきだし
八幡宮の境内で、源家嫡流の血を引く別当と将軍の戦いでしょ。
八幡宮別当ってどれだけ敬われてたかは知らないけど
部外者が手出しをするのは畏れ多いみたいな意識が御家人たちにあったのかしら
いろいろな陰謀説あるけど
結構こーゆー事件って真相は突発的な暴走って気がするなあ
当時の御家人たちも何が起きたか図りかねてただ混乱してただけ・・・みたいな
304 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 02:37:32
朝廷に媚売ってると坂東武士に思われたから。
東国武士は絶対朝廷の犬にはならないという意志表示が、実朝の暗殺。
ついでに頼朝も東国武士による暗殺。
305 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 05:20:34
実朝殺せば自分が将軍になれると思ったのだろうか?
公暁がよほど馬鹿か、バックに誰かいたか
犯人は別人で公暁の名前をかたったか
306 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 05:59:04
公暁の顔なんて誰も知らないし、誰も暗殺の瞬間を見ていない。
明らかな罪のなすり付け。
そもそも、わざわざ多数の公家衆が参集している祝賀の場である鶴岡八幡宮で暗殺が行われた事自体、意味がある。
単なる暗殺なら、頼家のように居館に押し入って殺せば済むんだから。
>>306 実行犯の引き受け手がいるかな?
その場で殺されるリスク高いのに
308 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 14:29:17
頼朝でさえ落馬を名目にして暗殺されてるんだから、実朝の暗殺など遥かに楽だろ
>頼朝でさえ落馬を名目にして暗殺されてるんだから
断定しきってるけど、根拠は?
310 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 15:03:35
落馬で死ぬかよ、乗馬に長けた武士が。
吾妻鏡には頼朝が落馬した当日の記録がすっぽり抜け落ちている。
政権のトップの大事件なのにだ。
頼朝の死因は謎だよなぁ。吾妻鏡に「落馬」と出てくるのは頼朝の死後13年も
経ってから。頼朝記の最後の3年分が無いのは異常としかいいようがない。
土御門通親による朝廷工作の結果、九条兼実が失脚するなど頼朝が朝廷での
発言力をなくしたときだし、頼朝の死後に三左衛門事件が発生して、朝廷内の
親鎌倉幕府勢力は一掃されてしまった。
312 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 16:10:37
頼朝の息子の頼家、実朝の扱いを見れば、頼朝が用済みと見なされ始末されたのは容易に推察できる。
頼朝が橋供養の帰りに落馬したのは、建久9年の10月27日か12月27日かどっちが正しいのかなあ。
ちなみに出家したのは建久10年1月11日、死去は1月13日だけど。
結城朝光が、頼朝に「遷化の刻遺言」されて、出家遁世を断念した話があるね。
頼朝は死の直前まで家来と話せる状況だったんだろう。
死因は飲水重病(重い糖尿病)という記録がある
ウィキ w
316はwikipediaって時点で思考停止してしまう程度の知能の持ち主。
318 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 20:28:24
猪隈関白記の正治1年1月18日に「前右将軍頼朝卿依飲水重病、去十一日出家之由世以風聞。」とある。
頼朝出家の七日後の18日に京都にもたらされた情報は他に伯業資王記や
明月記があるが、それらには「所労(病気)」とのみ記されている。
具体的病名は猪隈関白記に記されているだけ。
吾妻鏡建暦2年10月11日条に三善康信が建久9年12月に頼朝が病の最中だったと回顧している。
まあ、死因について色々な可能性を考えてみるのは良い事だと思う。
新しい問題提起は歴史学の発展につながるから。
>>317 6分しか間隔の開いていない即レスだし、リンク先を読みもしないで
脊髄反射レスしたんだろ。この手の基地外荒しは放置推奨。
320 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 21:18:55
>>318 御免、明月記には「所労」ではなく「大略頓病(急死)か。」と書いてある。
321 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 22:18:13
「『今年必シヅカニノボリテ世ノ事サタセント思ヒタリケリ。萬ノ事
存ノ外ニ候』ナドゾ、九條殿ヘハ申ツカハシケル。」(愚管抄)
頼朝が「今年上洛しようと思ったが無理になってしまった」という内容の手紙を
建久10年1月に九条兼実に送っている。(正確には1月1日から死去する13日までの間)
頼朝は自分の死期がちかいのを悟ったのかもしれない。
では卒中とかではないのね。明月記ってまるで週刊現代だな
323 :
日本@名無史さん:2010/05/30(日) 23:31:42
九条兼実の日記玉葉が建久10年1月5日以降抜けてるのが残念
324 :
日本@名無史さん:2010/06/02(水) 06:52:38
1月13日逝去なら、兼実に手紙を送った時期が死の直前すぎるな。
と言うことは暮れに発病、容態が急変したと考えたほうが妥当かも知れない。
飲水重病って一服盛られたみたいだな
326 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 13:26:25
色々な可能性を考えてみるのが許されるなら、いちばん有名なのは政子のアレだな
327 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 15:04:13
アレってなに?
328 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 06:41:08
政子と畠山重忠の話だろww
329 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 16:54:49
比企藤内の一族はどうなったんだろうね
いなくても困らないから。要は利用価値が無くなったから。
九条頼経みたいな感じ。おとなしく操り人形でいればよかったのにね。
食べるには困らないのだから。
源氏は単に反平氏の旗印に担がれただけ。頼朝も晩年は娘大姫を
後鳥羽天皇に入内させようとするなど、貴族的趣味を見せ始めた。
武士たちは朝廷にこき使われてきた記憶があるから、
幕府もできたことだし、こりゃ消してしまおうと言うところ。
頼朝もお神輿だってことが分かっていたはずなのに、
最後は惜しいことをしましたね。
2代目がしっかり後をついたから頼朝暗殺はさすがに違うと思う
ただ、実朝の死を見るとそんな疑念を抱くが
332 :
日本@名無史さん:2010/08/03(火) 14:34:19
平家追討を命じたのも弟たちを追ったのもさすがに頼朝の命でしょう。
流罪人の頼朝に味方し真っ先に挙兵の軍に加わったのが北条氏だったとしても
さすがに頼朝はそこまで北条の操り人形ではないでしょう。
政子もそんな男に惚れて追い掛け回すはずもない。
たまたま娘婿が出世したので2代目以降北条氏が乗っかってきちゃっただけ。
まあ北条にしたら、自分たちにとって頼朝は主君だけど、
その子頼家の家臣では無いという頭はあったでしょう。
あくまでも盟主的役割を望んでいたのに、好き勝手に
裁判をしたりして、害悪の方が大きくなったので、ついに手にかけた。
伊豆の温泉にでも浸かって、愛妾と大人しくしていれば良かったのにね。頼家。
頼家と北条氏の亀裂が決定的になったのは、彼が昏倒して非常事態になり、
北条氏が比企氏を滅ぼしてからでは
335 :
日本@名無史さん:2010/08/10(火) 23:02:53
地侍上がりの北条から見ると貴族の頼家はうざいだけ、それだけ
336 :
日本@名無史さん:2010/08/11(水) 11:41:51
頼家に北条氏の娘を嫁がせなかったのが北条最大の失策
頼朝に対して外戚政策でうまくいったのに
なぜそれをしなかったのかが不思議
適当な娘がいなかったからかもね。
婚姻政策の面倒なところは、外戚が力を持つことで、
下手な娘と目合わせて、時政・政子のラインから権力が逃げていくケースが
一番怖い。一族の娘なら誰でもいいというわけではないのです。
それに頼朝の場合、女好きだったから勝手にくっついた側面が強い。
その当時は頼朝も伊豆で朽ち果てる予定だったろうし。気楽さが違うよ。
338 :
日本@名無史さん:2010/08/11(水) 11:54:06
>>337 源氏将軍滅亡後、源氏最大の御家人だった足利氏には
北条氏がかなりしつこい政略結婚で正室を送り込み続けた。
そのために足利氏はかなり濃い北条氏の血が流れている。
その気になれば遠縁の娘を養女にしてでも方法はあったろうに。
それとも、北条氏を頼朝が嫌って、息子と縁組させなかったとか?
339 :
日本@名無史さん:2010/08/11(水) 20:32:26
故オクトミー先生は「頼家を暗殺させたのは義時だという
説がある。もちろん間違いである。のちのちまで政子と
義時の兄弟は仲が良い。頼家を殺させたのが義時なら、
あれほど2人の仲が良かったはずがない」と言ってるが、
そのとおりだと思う。
頼家を殺させたのはやはり時政だろう。
340 :
日本@名無史さん:2010/08/12(木) 11:57:58
しかし、政子は頼家を殺した父時政を政界引退と隠居だけで済ませた。
普通なら将軍を殺害しておいてそれはないだろう。
身内の処分に甘かったのは事実だろう。
341 :
日本@名無史さん:2010/08/12(木) 12:53:34
政子は頼家を嫌っていたから義時に命じて殺させたんだろう。
義時は政子の命令で比企氏討伐や頼家郎党の誅殺にも活躍しているし。
母親が実の子を殺そうとするのはよくある話し。
伊達政宗や織田信長の母親等々・・・。
342 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 00:16:55
>>338 実朝死去時の源氏門葉筆頭は大内惟義な
正四位だから従五位の足利義氏より上
343 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 00:57:29
伊達のは言い訳用の捏造だろ。
>>342 その大内氏は滅亡しちゃったの?鎌倉幕府で唯一『殿』と呼ばれたのは
足利氏だけだと聞いたことがあるけど。
いずれにせよ平家出身の北条得宗家にとって、源氏は忌むべき存在だったでしょうね。
だから源氏将軍から摂家将軍、宮将軍へと乗換えていったのかと。
345 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 01:18:06
北条鎌倉幕府が源家の嫡流に近い所を滅亡させてしまったから。
>>342 とはいえ牧氏騒動以降、幕府とは疎遠になっちゃったしな。
347 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 01:20:03
大内氏は源氏でもないし。
348 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 08:49:22
政子って、怖い。
頼朝暗殺(?)にも関わっていたんじゃないかな?
349 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 17:38:07
>>347 源氏だよ新羅三郎系で武田と佐竹と一緒だよ
350 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 17:53:09
>>348
>>348
政子は頼朝は殺してないでしょう
だいたい政子が政治に関わりだしたのは
若い息子が次々死んだあたりからだよ
頼朝存命中は政治に関わった形跡がなく
ふつうの主婦だった
娘を入内させたいという都育ちの頼朝の夢実現のために
鎌倉育ちの政子が大君を伴って見たこともない都へはるばる行き、
丹後局に対面して頭を下げたり
頼朝の存命中は夫に協力して従順っぽいんだけどね。
351 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 18:42:31
>>349 大内・平賀一族が滅亡したあとの源氏門葉重臣は
足利義氏
山名氏(重国?)
武田信光
加賀美遠光
ぐらいか。佐竹義重の動向がどうだったかわからんな。
352 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 23:46:23
天皇の王子を将軍にいただいた方が東国のためになると考えたから頼家なんていらないわな
353 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 23:48:47
>>351 八幡太郎義家公の孫である新田上西入道が源家の長老
>>353 御門葉か否かで大違いだからなぁ。山名・足利・武田・加賀美は御門葉だけど、
新田は違う。
庶家の山名は御門葉だけどね。
>>340 父と弟では大違いだよ。
父は目上だからね。父時政が子頼家を殺させたからといって、
いくら尼将軍といわれた政子でも処分はできなかったろう。
また、一昔前まで通説だった「実朝暗殺の黒幕は義時」が
誤りであることもわかる。わが子を殺させた義時と政子が
あとまで仲が良いはずがない。
356 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 14:30:05
>「実朝暗殺の黒幕は義時」が
>誤りであることもわかる。わが子を殺させた義時と政子が
>あとまで仲が良いはずがない。
激しい思い込みw
黒幕のままなら政子が知るよしもないし。
357 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 21:32:59
確かあれって義時が途中からついてくるの禁止され雪の外に待ちぼうけていう政義状態なのを誤魔化そうとしたからだろ
358 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 21:41:41
まだ北条も大した力を持ってなかったってことだな
鎌倉へ行ってきました。思っていた以上に小さな街並で京都の1/10くらいかもっと小さい街。
武家しか住まない軍事都市をイメージしました。
360 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 10:16:13
朝廷からの独立性をもつ幕府なのに、
公家を将軍にするなんて後退じゃん。
361 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 12:34:09
一応将軍も朝廷に任じられるんだぜ
362 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 13:07:57
これは、北條政子の責任だろ。
元々幕府を創ったのは北條政子が創った。
ご恩と奉公ができるのは彼女だけ。最終的な判断はいつでも政子がやってる。
戦争の判断も政子がやってるしね。
行政権を一時的に手放してるからこうなった。
自分の息子や娘を助けようにもできなかった。頼朝が保身に走ったからね。
政子が強大な権限と判断能力があったのに、手放したからだ。
ご恩と奉公ができない頼朝とその子供に任せたからこうなった。
だって政子は田畑もってるし男性も女性も人身掌握できているが、
源氏はできていない。
傷一つで戦功の判断ができない。政子は弓馬の達人だからできるが。
頼朝は、政子が義経に行ってしまったら大変だから殺したんだよ。
浮気して財産も他の女に分与した罪深い自分が捨てられたらアウトだから。
男性の知行がないのに、よく幕府なんていえる。
北條政子の知行地と支配権は、幕府の行政権より大きいから。
そもそも朝廷も幕府も政子なんだけどね。
戦争の報告を頼朝に行っているのではなくて、全部政子が処理してんじゃねぇか。
歴史学者は何考えてんだ。東国の田畑は男性と女性が半々。
女性のは全部政子の所有だし、そもそも関東の武家の所有地や知行地は
政子が与えてるじゃねぇか。
363 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 13:15:01
御台所っていうのが最高の役職。
その下に朝廷と幕府が存在する。
そういう仕組みだから。
あれ幕府役職図の上位の政子と朝廷や寺社の部分が
書いてないのが誤解を生む要因。
364 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 13:22:25
まず、東国の1/3が政子の直轄地なんだよ。
人口でいうと当時日本が500万人で東国が200万人強
そのうちの半数以上が政子の直轄知行地。
少なくとも100万人は抑えてる。
与力を含めると御台所の版図はほぼ東国全域。
北條家本体は小さいよ。そりゃ。
だからとんだ誤解を生む。
365 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 13:51:22
すげぇ電波…。そういう史料があるなら教えてくれよ
366 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 14:00:31
>>365 電波ではないよ。
これが事実。吾妻鏡や武家の史料を研究すればこうなる。
史料ってないよ。後北条家や戦国期でもそうだが
知行安堵状で直轄地は記載されないし破却する。
367 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 14:04:02
また、武家の知行地は男性だけでなく、
女性の武家の知行地があるんだよ。相続は女性にもいくから。
368 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 16:08:25
>>361 そりゃ形式だけだよ。実際の指名は幕府の人間がやるだろ。
武士たちにとって、朝廷はどんな存在だったか。尊敬か無関心か。
369 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 18:44:41
朝廷は敵だと認識してた可能性は高い。朝廷は坂東武家庶流の清盛の武家政権だよ。
六波羅殿の政権(実質、六波羅中央幕府な。三位以上で軍人なら幕府は設置できるからな)。
そもそも武家である清盛は太政大臣だから、
清盛は幕府設置を許認可を自分でできるから。幕府を実際いくつも設置してるし。
幕府は何個でも同時に設置できるからねw
また貸し付け詐欺同様の水挙制度はそのまんまだし、租税がきついから。
関東の侍の大多数を占める坂東平家庶流は、
そして、重要なのが坂東平家庶流のクセに何にもしてくれない
清盛政権の朝廷はあきらかに敵だと認識しているのでは。
武士にとって朝廷は武士がほとんどで公家が交代でだから。
将門の時代とは大分違って。だって清盛の政権は坂東武家の伊勢平氏じゃん。
平氏直系である政子が、伊豆源氏まで担いででてきたので、
一斉に政子に与力して反乱をおこした。寺社勢力も政子は抑えていたことは
そうとう清盛の政権に対して反発はあったと思われる。
坂東平氏は、清盛すてて伊豆平氏の政子を頼った。
北條家は公田を押さえている。なぜ公田である北条を押さえているのかはしらん。
政子の三世代前ぐらいに所有したんだと思われるが、まったく史料も
ないし予測もしがたい。
370 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 18:50:45
また、公家の朝廷については、伊勢平家の六波羅を北條家が
押さえているので伊勢平家の朝廷の権限はそのまま委譲されてる。
どう思っているかは、北條政子は自分が朝廷の権限の一部だから
わからないが政界。他の武家も朝廷が鎌倉御台の支配下に入って
いるからべつに特に感心はないだろう。
坂東の侍が 公 家 をどう思っているか?ということだな
若しくは 天 皇 家 を どう思っているか?
朝廷は実質上の行政は組織は、北條家の運営になっているので違うと思うが。
371 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 18:52:38
酷い駄文だな。文章の校合かけてなくてご免。
372 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 18:55:14
北條政子は、六波羅を押さえているから太政大臣より上位って
なぜわからないんだろうか。
朝廷の頂点にいるのが、そもそも政子だってばよ。
373 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 19:14:55
義経に、六波羅を警護させようとして官位を取得して言い許可を
おそらく政子が出したんだな。朝廷が太政大臣が公家しかいなくて
北條政子にお伺いをたてる。誰もいないから天皇の嫁にお手紙かいて
やった。頼朝と載頼がピンチになった。
源氏の棟梁と名乗っているが、ほとんど与力がいないし兵力もない。
義仲の子供は政子が管理してるし。
自分の義仲と大姫の子供に日本の全権を管理させるはずだった。
本来は源氏の将軍とか幕府ではなくてそんなのどうでもいいんだよ。
ただの江戸期に情報がないし史料もない学者の誤認だろ。
明治や大将の官僚も同じ間違いしてるからどうしようもない。
どう考えても政子が創った仕組みだろ。
これをなんて名づけるのかって?
平のなにがしの一女性侍による、通称鎌倉御台所の日本一統した全国政権の樹立だろ。
何も問題ない。あとは源氏による内輪揉め。
北条弟の家系(いわゆる執権)は、政子の血が入ってないので低いまま。
徐々に判官政治で勲功をあげ、北條の傍流が力をつけていった。
はい、全部納得できた?
基地外電波はコテハンでもつければ?
375 :
日本@名無史さん:2010/08/17(火) 23:16:10
まあ、北条が将軍になるにはオオキミが天皇になった時と同じプロセスをたどる必要があるだろうな。
中国から官位をもらいつつ、他の豪族をつぶしまくる。
さらに東北地方に北条の直轄地をたくさん持つ。
376 :
日本@名無史さん:2010/08/22(日) 21:52:25
別段北条氏は将軍になる必要もなかったのだろう
都から迎えられる将軍に実権はなく大人になれば都へ帰してしまうし
政治は北条得宗の手にすべて委ねられていた
藤原氏が摂関の地位に甘んじてついに天皇を滅ぼさなかったのと同様
トップに立てば風当たりも強い
ナンバー2の実力者が一番良いって話
377 :
日本@名無史さん:2010/08/23(月) 02:38:15
鎌倉幕府の征夷大将軍なんてお飾りでなんの権威もないでしょ。
執権政治なんだから。
378 :
日本@名無史さん:2010/08/23(月) 12:25:21
頼朝も、お飾りという事ですか?
379 :
日本@名無史さん:2010/08/23(月) 18:28:49
北条は平氏だから将軍になれない(前例主義)。
冷静に史料を読むと、高時は知らんが、北条の政治は悪くない印象だ。
現代の政治よりよっぽど上。
後鳥羽や後醍醐の世間知らずDQNがどうかしてたのさ。
まあ、ああいう坊ちゃんをうまく利用したヤツ(勢力)がいたんだけどさ。
380 :
日本@名無史さん:2010/08/23(月) 18:36:21
北条は平氏を仮冒・僭称してただけで、
平家じゃないし、本当の平氏かどうかも疑わしい。
公的に平氏を称して、それで通用してたというだけ。
381 :
日本@名無史さん:2010/08/23(月) 21:01:07
>379
それは間違い。
初代征夷大将軍が誰か知ってる?
大伴弟麻呂で、「大伴」氏。
第2代征夷大将軍は有名な坂上田村麻呂。
当たり前だがこちらも姓は「坂上」氏。
第3代は文屋綿麻呂。
つまり、征夷大将軍になれるのはこの姓だけ、
などという決まりはなかった。
源氏将軍が3代続いただけの鎌倉時代でも
そのような不文律はなかったと思われる。
北条時政は別の娘婿を将軍にしようとした(源氏ではない)とされるくらいだし。
鎌倉幕府ー室町幕府でたまたま源氏将軍が続いたために
これを踏襲して江戸幕府の徳川氏が源氏を自称したために
後世、征夷大将軍は源氏であるかのような印象を与えるかのようになった。
382 :
日本@名無史さん:2010/08/24(火) 00:03:25
>>376 なる必要がない以前にそもそもなれない。
384 :
日本@名無史さん:2010/08/30(月) 18:46:08
>>381 >源氏将軍が3代続いただけの鎌倉時代でも
>鎌倉幕府ー室町幕府でたまたま源氏将軍が続いたために
鎌倉時代に摂家将軍、宮将軍と続いた知識もないみたいだ。
ひどすぎるな。
385 :
日本@名無史さん:2010/08/30(月) 21:04:48
>>384 皇族が将軍になるのは飛鳥時代から例があるから
当たり前でしょ
頼家と徳川家光を対比して考えると面白いかもしれない。
頼朝はあくまでも武士の旗印として担がれていた。決して絶対的な武力で
ライバルを屈服させたのではない。
対して徳川家康は関ヶ原で勝利し、武力を背景に天下に君臨した。
その子孫の代になって、家光は『生まれながらの将軍であり、諸侯とは格が違う』と言い、
頼家は将軍独裁を始めようとした。
家光のそれが是とされたのは、武力で諸侯を圧倒していたからであり、
頼家が否とされたのは、共立されている存在にすぎないから。
たまたま手を下したのが北条であって、実は当時の武士の総意だったのだろう。
頼家を排除したいという思考は。
>>386 んで、それから数十年にわたる血で血を洗うような坂東武者の内部抗争の結果、
北条氏の覇権が確立すると。
しっかし、頼朝が身内を殺して回ったり、嫡流以外は源姓を名乗らせないようにして
将軍家の権威を確立 & 将軍家を脅かすような存在を消して回ったことが、本当に
裏目に出たなぁ。
つまり『武力に裏打ちされていない権威』は、クソの役にも立たないということです。
ところが頼朝は、娘の大姫を後鳥羽帝に入内させようとまでした。
そういえば権威の総本山のような朝廷も、武力が無いから政権を持っていかれた。
足利義満は将軍直轄の親衛隊である同朋衆を持っていたし、
後世の権力者はこの頼朝の失敗に学んでいるようです。
>>388 頼朝の失敗を繰り返したのが秀吉でしょうねい。
秀次事件、大和大納言家に後継者を入れず取り潰しなど、ただでさえ
頼朝とは比較にならないぐらい少ない身内を潰して周った上に、
直轄地ではなく諸大名の領土内に太閤蔵入地なんてものを作ったり…
390 :
日本@名無史さん:2010/09/04(土) 00:17:40
単純なことだろ
伊豆の小土豪にすぎない北条氏が坂東八平氏など諸豪族を抑えるには
鎌倉殿の妻の実家という金看板がどうしても必要だ
二代将軍頼家の妻の実家に幕府を乗っ取られては元も子もない
391 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 20:27:28
>>390 実朝が武家の嫁を拒んだのは、それがもとで政争に巻き込まれるのを避けるため、
そして、外戚関係を北条氏に固定化することが目的だったのでしょうか?
頼家とちがい、実朝は裁断権まで奪われてしまうことはありませんでした。
>>391 実朝の結婚が1204年12月で、頼家が外戚となった比企氏ともども粛清された
あとですから、当然その考えはあったと思います。
393 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 22:35:33
>>392 足利の娘が不細工だった可能性は無いのか?
394 :
日本@名無史さん: