1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2010/02/10(水) 21:09:27
4 :
日本@名無史さん:2010/02/11(木) 18:35:06
四稜郭
5 :
日本@名無史さん:2010/02/11(木) 20:35:30
五稜郭
6 :
日本@名無史さん:2010/02/11(木) 21:24:04
まだ、前スレあるじゃん
7 :
日本@名無史さん:2010/02/12(金) 06:24:25
城壁厨とかアンチとかがスレを台無しにしていた名残りで、早期にスレを立てる奴がいるんだよ。
早期のスレ立ちだけなら大した害もない。
8 :
日本@名無史さん:2010/02/12(金) 08:10:19
単にキチガイの嫌城壁厨一人がスレを荒らしていただけだけどね。
スレの住人達が真面目に城壁に関する議論をしていたのに、
意味不明なことを言って嫌城壁厨が執拗にその議論を妨害して荒らしていた。
まさにキチガイそのものだったよ。
相手にすると湧いてくる。まあどうせ前スレが埋まるまでは過疎スレだし。
10 :
日本@名無史さん:2010/02/12(金) 20:27:25
十河城
>>8 城壁厨さま、死んでなかったんですね。
文体もそのままだ。
世のため人のために、早く死んでください。
池沼嫌城壁厨が登場w
13 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 21:24:45
二条城って凄い?
14 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 20:45:42
五稜郭
15 :
日本@名無史さん:2010/02/16(火) 21:13:15
江戸城
16 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 07:58:05
熊本城
17 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 22:05:25
稀有な円形濠を復元して欲しいな〜、田中城。
家康公がここで鯛のてんぷら食べて胃癌が悪化したというエピソードを持つ城でもあるしね。
18 :
日本@名無史さん:2010/02/18(木) 07:59:12
田中城?
19 :
日本@名無史さん:2010/02/18(木) 19:47:24
盛岡城
20 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 08:06:18
大坂城
21 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 21:29:23
津山城
22 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 14:34:39
安土城
23 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 18:36:49
佐伯城
24 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 07:52:29
山中城
25 :
日本@名無史さん:2010/02/25(木) 09:12:15
膳所城
26 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 12:41:17
おいおい
東京新聞 2010-02-28 (日) 朝刊
サンデー版 世界と日本 大図解シリーズ No.930
日本の名城 遅れて生まれた日本の城 荒山 徹
城は中国で城壁を意味します。内側のが
城で、外側が郭。つまり町全体を城壁です
るりと囲んだ城郭都市のことでした。中居
に学んだ朝鮮半島でも事情は同じです。と
ころが日本はそうではあ勺ません。大陸、半
島からの移住民は、自分たちにとって馴染み
深い城壁都市を日本列島に導入しませんで
した。戦乱を嫌って故郷を棄てたのです。一
般市民を戦争に巻ぎ込む・忌まわしい城壁
都市など造りたくもなかったことでしょう。
テンプレを変えられたくないから、前スレが850程度で勝手に次スレを立てる。
無意味な保守を続ける。
日本語に不自由している。
とくに但し書きがなんたるかを理解できない。
城壁厨は真性
28 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 14:34:31
テンプレを変えられたくないかけど、前スレが850程度で勝手に次スレを立てられ。
気に入らないテンプレのスレを無意味な荒らしを続ける。
日本語に不自由している。
とくに但し書きがなんたるかを理解できない。
城壁厨は真性
>日本語に不自由している。
>日本語に不自由している。
>日本語に不自由している。
わざわざ上げるマゾがおる。
30 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 15:05:07
>>30 お前がねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
32 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 08:39:41
城壁厨が発狂中
33 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 18:56:53
ま た 城 壁 厨 か !
城壁厨を否定するようなことが書かれると、
反射的にレスしてくるところが面白いですな。
しかも得意のオウム返しにすら失敗するほどあせってる。
城壁厨を否定するようなことが書かれると、
反射的にレスしてくるところが面白いですな。
しかも得意のオウム返されるレスすら失敗するほどあせってる。
ま た 城 壁 厨 か !
城壁厨が入れ食いのスレでつねw
40 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 08:59:30
山中城
ま た 城 壁 厨 か !
42 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 11:29:34
誰か水戸城の復元願います。
43 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 13:58:42
大老殺害、攘夷を掲げる水戸藩
これからも政府から冷遇されるよ
44 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 14:21:23
茨城空港ができて、就航するのは茨城神戸便のみ。つくばと神戸の医療バイオ研究者以外には誰も利用しません。
それとも、水戸名物のブスが神戸でファッションを学びに大量に移動するのかな。神戸の人間が納豆くらいしかない
土地に高い金払って行くとも思えないし。
45 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 07:46:09
天下の魁の水戸をイジメないで下さい。
46 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 09:55:08
ならば水戸の素晴らしさをアピールしなさい。
城に関しては、神戸の人間はすぐ近くに姫路城や大阪城があるから目が肥えているぞ。
前スレが918しかいってないのに、
ここに書きこむ自分勝手な池沼が集うスレか。
スレを立てたヤツが一番悪いんだろうが、
一応学問板なんだからマナーを守れよ。
48 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 17:38:39
客観的に見て
>>47が一番池沼だなw
スレッドの進行はどんな状況であれ、
各自の自由な判断でどのスレッドに書き込んでも問題なし!
それが2chにある古くからる仕来たりだ!
49 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 17:46:58
>>47 前スレ消費したいなら、前スレを上のほうに上げておけ。よほど入れ込んでいるのでもない限り、
目についたスレに書き込むに決まってんだろ。
50 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 21:05:13
50get!
ま た 城 壁 厨 か !
>>48=
>>49 お前の祖国でしか通用しない、城壁厨の城壁厨による城壁厨のための屁理屈全開w
楽しいか?
48 :日本@名無史さん :2010/03/10(水) 17:38:39
客観的に見て
>>47が一番池沼だなw
スレッドの進行はどんな状況であれ、
各自の自由な判断でどのスレッドに書き込んでも問題なし!
それが2chにある古くからる仕来たりだ!
>>47=
>>52-53 お前の祖国でしか通用しない、城壁厨の城壁厨による城壁厨のための屁理屈全開w
楽しいか?
54 :日本@名無史さん :2010/03/16(火) 20:42:56
>>47=
>>52-53 お前の祖国でしか通用しない、城壁厨の城壁厨による城壁厨のための屁理屈全開w
楽しいか?
57 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 23:33:21
>スレの住人達が真面目に城壁に関する議論をしていたのに
こんなことありましたっけ?
58 :
日本@名無史さん:2010/03/19(金) 06:30:57
たぶん数スレ前のこいつの自演か何かの話じゃないか。
61 :
日本@名無史さん:2010/03/19(金) 20:38:42
>>59 なにがわかりやすいんだ?
>>57はおれだけど、
>>58の時間帯に2ちゃんやってることは絶対にない。
お前が城壁厨とかいう下郎か?
62 :
日本@名無史さん:2010/03/19(金) 23:30:00
>>60 >詳細な設計図は残っていないため、旧岡崎藩士和田家が保存する1781(天明元)年の「岡崎城絵図」と、松山市に現存する松山城の櫓を参考に、江戸時代の工法を忠実に再現。
>城内で発掘された石材を使い、石垣も築いた。
要は推定復元って事か…詳細な設計図残ってないなら復元しなくてもいいのに。
発掘された石材使って石垣築けるんだったら、あのインチキ大手門のインチキ石垣もなんとかしろよw
愛知県は城跡を全然大事にしないよね。三英傑ゆかりの城ですらいい加減な扱い。
城跡が無いのはそれだけ産業が発達している証拠だからな
岡崎城は目の前に国道一号線が通ったのと、伊賀川が城寄りに
流路変更されたのが大きい
前スレがまだ920
65 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 13:38:51
>>64 早すぎるタイミングでこのスレ立てた
>>1をぶち殺すべきだといいたいわけかね。
城壁厨=イコール厨
68 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 17:19:56
明後日から愛媛県の大洲(内子も)へ行くのですが、
木造復元された大洲城の見所を御教示願います。
それと、周辺の史跡で良い所があれば御教示願いますm(__)m
73 :
68:2010/03/21(日) 19:58:44
>>69,
>>71,
>>72 皆様、レス有難う御座いました。感激しております。
天気が悪いのが残念ですが、またレポ書き込ませて頂きます。
>>70 失礼致しました。
>>70をテンプレに入れない役立たずな城壁厨が悪い
・自分について批判的なレスはすべて同一人物によるものと考える
77 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 11:54:22
>>62 犬山城天守のパクリの模擬天守がある清洲城に比べれば、
岡崎城はかなりマシな部類。
>>78 この種の復興建築の不自然さは、木造建築として建物を設計しないから生ずるんだと
藤岡通夫教授が本に書いてた
わかりやすいのは窓と腕木の位置が不一致な岡山城天守だな
ま た 城 壁 厨 か !
82 :
68:2010/04/01(木) 04:10:10
無事、大洲城へ行く事が出来ました。
肱川の河原から城を眺めたのですが、司馬遼太郎の「街道をゆく〜南伊予西土佐の道」に
載ってたように、童話の中に出てくるような美しい城でした。
時間が無く、天守へ行く事が出来なかったのですが、
城下町(古い家並みが素晴らしかったです)を堪能出来ました。
情報下さった方、重ねて御礼申し上げます。
ま た 城 壁 厨 か !
85 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 18:08:49
万里の長城にある楼閣は日本の城郭の櫓に似ている。やはり天守、櫓の起源は中国か?
明代より前の万里の長城の楼閣?
87 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 07:39:35
明代創建の紫金城故宮博物院の四隅にある楼閣は日本の三重櫓そのものだろ。室町中期あたりに中国で見聞した大工か知識人が天守、櫓建築のヒントにしたのは間違いないと思うよ。
88 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 07:36:52
全然ちがうよ。
89 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 07:49:15
中国の楼閣がルーツなら、最初からそれらは層塔型になっていたハズ。
単層の矢倉の上に物見台(望楼)をが載せられ、それが一体化したのが二重櫓で、
やがて三重のものも造られるようになり、それらに装飾的要素が付け加えられ、
城主の権威の象徴とされたのが天守だよ。
90 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 09:23:09
入母屋に一層乗せた建築物は中国に沢山ある。日本の古建築は神社を除いてほぼ中国式が基礎である。
大洲城かあ、いつか行ってみたいな・・・
92 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 14:51:22
愛媛の宇和島城を観に行った帰り、電車から大洲城が見えたんだけど、めっちゃ綺麗だった。
時間が無かったので行けなかったけど(というか、復元天守に興味なかったので)、
事前にしっかり調べて行くべきだった…。
93 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 18:35:11
やっぱりペキンの天安門とか見ると、
日本の近世天守は中国式城壁の究極のかたちというか最終形態だと思う。
大洲城は外観写真があり、内部構造も本来軍事機密で
壊されるはずの天守雛形が棟梁の家に代々伝わって残ってたので、
文化庁から特別に復元の許可が出たんだよね。
宇和島まで行く城好きなら是非見るべきだろうなぁ。
大洲城は去年行ったぜ。
予定に入ってなかったけど宇和島城の城守のおっちゃんに勧められて行った
時間があまり無かったけどかなり立派で満足でおっちゃんに感謝だったな
雨と寒さで最悪だったから晴れた日にゆっくり見てみたいと思ったよ
ここでは大洲城が意外に人気あって、ちょっと嬉しい。俺が行った時は、客は俺以外
学生の社会科見学みたいな一団しかいなかった。現存天守の宇和島城も良いけど、
大洲城は見た目が荘厳で綺麗な城。地元民が復興に熱心だったのは肯けます。
天守が無かった頃は、どんな感じだったのかな>大洲城。
大洲は街並みもイイよね。
しかし、愛媛の南西部というのは、内子、大洲、宇和と、良い町が残ってるなぁ。
98 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 09:29:09
大洲城の天守と江戸城富士見櫓の初層平面規模は同じ。この規模で四層とはかなり無理な建築物だ。
小田原城の寸胴寸詰まりな馬鹿デカい三層天守がキモイ
100 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 05:10:44
小田原城もコンクリートの耐用年数過ぎたろ。大洲城より沢山雛形あるんだから木造再建しろ。
101 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 21:06:11
予算が無いんだよ!
大洲城は本丸の大木が目立ち過ぎ。
遠くから見たら天守より大木の方が目立っている
大洲城は、肱川の河川敷から見ると絶景だな。
104 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 07:29:36
小浜城天守再建計画は史料を無視して模擬木造を予定している。美観を考慮して最上層の妻を逆にしている。計画を中止すべきだ。
>>101 大洲城は寄付で再建されたそうだね。小田原市民も頑張って欲しいものです
106 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 17:47:48
大洲城復元計画が持ち上がったのは、まだ景気が良かった頃じゃないかな。
市民も歴史に誇り持ってる地域みたいだし、色々難航した部分もあるみたいだけど、時期が良かった。
城郭復元の機運が高まってきてるとはいえ、小田原城は難しいかも…。
>>100 昭和6年に再建した大阪城はどうなるんだよw
>>107 横レス悪いが、、、
そういう部分じゃなく、「歴史的文化財」じゃないの?
大洲周辺の内子、宇和(西予だっけ?)なんかは、
文化財の保存状態が良好だし、住民も誇りにしてる感じだったが。
今ある物を壊してまで再建となると、そんな金があるならあーだこうだと
市民団体がうるさいからまず不可能に近いだろうね。
大洲市は金が無くて昭和の再建ブームに乗り遅れたのが功を奏した。
>>106 大洲はお金持ちの誰かが一人で4億くらい寄付してたような・・・
112ですがURLのページ下まで読んだら寄付の大体な内訳出てますねorz
114 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 00:56:33
復元天守はイマイチ興味なかったけど、
>>112読んでたら行きたくなってきたw
しかし、すげえ熱意で復元に至ったんだな・・・
富山の高岡城は一国一城令で廃城になったという割に、
塁濠がそっくり残っているのはどういう理由なの?
幕府から例外として認めて貰ったの?
ところでよく江戸城が世界最大の城ってあるけど本当だろうか
実際の城部分って、本丸〜3ノ丸、西の丸、吹上で
後は大名達の屋敷だし、
紫禁城とかデリーの城の方が宮殿区画だと大きい気がするんだけど
部下の屋敷を含めるならかなり大きいのが他にもあるし
118 :
日本@名無史さん:2010/04/27(火) 23:12:13
119 :
日本@名無史さん:2010/05/03(月) 15:35:58
120 :
龍馬:2010/05/03(月) 17:56:44
おまんら、いつまで過去にこだわっちゅう!
昔の城なんてどこも似たようなもんじゃき。石垣の上に木と土で出来た櫓が載っちゅうだけぜよ。
現代の城ゆうたら、米軍基地ですろう?
街のド真ん中にある危険な普天間城を、海上の辺野古城に移すんがええがか、
ヘリ部隊だけ徳之島城に移すんがええがか、考えるほうが遥かに有意義じゃき!
ええ加減、頭の中の大きなちょんまげバッサリ落としや!
121 :
日本@名無史さん:2010/05/03(月) 19:04:29
>ヘリ部隊だけ徳之島城に移すんがええがか
これは馬鹿の極み。アメリカも運用上意味を為さないとして一顧だにしていない。
>海上の辺野古城に移すんがええがか
環境への十分な配慮をしつつ移転するという現政権の方針は馬鹿の極み。血迷った挙句に環境への配慮が
中途半端でコストが倍近くかかる案を推進中。業務仕分けを何回やっても補えない額をどうやって捻出するつもりか、
鳩知恵の総理に聞いてみたいものだ。
122 :
日本@名無史さん:2010/05/03(月) 20:23:40
現政権のことだから、沖縄の市民感情も環境への配慮もなかったことにして自民党案を踏襲するか、
問題を放置して状況を更に悪化させるかの二択しかないと思う。
山本勘助「次に影虎が信濃に出兵の折は、影虎に決戦を挑まねばなりません」
武田信玄「川中島に、城が欲しい!」
>>119 これは良いね
ちょっくら広島城に買いに行ってくるわ
前スレの現況
955 :日本@名無史さん :2010/05/07(金) 08:38:00
2月初旬に新スレを立てるバカ
地図で見ると、
徳之島に引くと、中国が台湾にチョッカイ出しそうだし、
石垣島に出ると、中国を挑発して小競り合いになりそうだし、
沖縄本島が付かず離れず中国を牽制する絶妙な位置にあることが判る。
アメリカは首里城を手離さないだろうなw
アメリカが崩壊して米海兵隊が撤収しても、結局、自衛隊が基地を置くことになるだろうw
127 :
日本@名無史さん:2010/05/08(土) 14:04:44
大分日出城の鬼門櫓は移築修復が決まったみたいだね。
129 :
日本@名無史さん:2010/05/08(土) 19:20:10
つい先日、鬼門櫓を見に行ったら見つからなかった。大まかな地図しか持ってなかったせいだと思ってたけど。
今はまだ朽ち果てた状態で元の位置にあるんだろうか。
131 :
日本@名無史さん:2010/05/09(日) 08:45:44
>>130 d
去年のうちに撤去されてたんですな。
ま た 城 壁 厨 か !
134 :
日本@名無史さん:2010/05/09(日) 15:20:01
135 :
日本@名無史さん:2010/05/09(日) 18:07:34
金沢城は一昨年の真夏に行ったけど、猛暑にやられて二の丸くらいしか散策しなかった。
河北門だけでなくいもり堀と鯉侯櫓台も復元されてるようだし、また行こうかなぁ。
137 :
日本@名無史さん:2010/05/10(月) 13:41:34
>>134 山形城東大手門が11億、熊本城南大手門が6億。まあ一概には比べられないけどね。
熊本城安いな、ちゃちいのかorz
まぁ色々復元するから一つにそうそうお金使えんけど。
五階櫓でも7億くらいだもんな。
139 :
日本@名無史さん:2010/05/10(月) 19:45:55
門や櫓くらいでそんなに費用がかかることの方が、正直驚きだ。
江戸時代はもっと安く造ってたんだろうけど。
140 :
日本@名無史さん:2010/05/10(月) 19:54:31
今なら一番金がかかる人件費からして領民を徴発すればタダだからな。
檜を始め良材が高価だろうし
安い熊本城の櫓門でも普段は非公開とはいえ
ちゃんと作ってあって展示会の時公開したり
忍者さんの休憩所になってるからな
金沢城や山形城の櫓門の中みてみたいなぁ、
行ければ普段から見れるのかな?
いまきょういくてれびでおおさかじょう
144 :
日本@名無史さん:2010/05/10(月) 23:15:00
あのさ、文化庁って櫓とか門とか復元するのにどのぐらい援助してくれるの?
>>144熊本城本丸御殿で 10億(本丸御殿は総額で54億だから二割弱か)
現存天守を持つ松江城クラスになると櫓や大手門の復元も1/2出るらしい
146 :
日本@名無史さん:2010/05/11(火) 16:35:34
木造城郭の復元費用は天守櫓なんかだと、建物部分だけ(石垣、土台の上)で坪当り750〜1000万位らしいぞ。
飯田丸五階櫓で690万程度だな、やっぱ熊本城はしっくいとか少ない分か安普請だな。
安いんだから早くたくさん造ろう、そうしよう。
148 :
日本@名無史さん:2010/05/11(火) 18:30:53
熊本城の本丸御殿の復元図を見たことあるが、
現在復元されている瓦葺きの御殿のほかに、檜皮葺?の書院とかもあった。
どうせなら、それも含めて完全復元すればいいのに。
>>148 今のは1/3なんだけど全部やっちゃうと消防車通れないし無理なんだ。
月見櫓とかもそれで再建無理なんだと思う。百間櫓や数寄屋丸五階櫓は復元する。
金沢城は平成26年の北陸新幹線開通に合わせる日程で、橋爪門を復元する予定だ。
た・の・し・み!
151 :
日本@名無史さん:2010/05/13(木) 10:46:52
いや、かなり安いよ、素晴らしい!
昭和59年だからかなぁ?それとも完全民間だから?
熊本城だとね、未申櫓(木造二重三階の隅櫓で、建築面積:約119平方メートル)
で建築費が約3億円。平成15年8月に復元。
元太鼓櫓(木造一重一階の隅櫓、建築面積:約65平方メートル)
で建築費が約2億3千万円。平成15年12月に復元。
153 :
日本@名無史さん:2010/05/13(木) 17:34:17
木造復元の嚆矢となった、白河小峰城の三階櫓(平成3年)が、延面積258.73uで総事業費3億8239万円だもんな。
面積だけで計算すると、1億2千万でもそんなに無理じゃないのかも。
154 :
日本@名無史さん:2010/05/13(木) 18:53:41
江戸城の西の丸仮殿舎を復元してほしい。
江戸城明け渡しのあった歴史的イベントの場だし。
>>152 その辺に生えてる松の木を切り倒して材料費をお安く上げる・・・とか?
藤沢周平ブームだし、何とかならんか?
158 :
日本@名無史さん:2010/05/14(金) 23:45:08
江戸城天守の復元案について宮上氏以外の案に全く魅力を感じないのだが、
宮上案に他の研究家はどのような論評を下しているのだろう
159 :
日本@名無史さん:2010/05/15(土) 00:01:29
月山富田城見物に行ったが、三の丸まで
登ったところでヘビに出くわしたので
全力で下山しました。
荒れないためのルールを作っておきます。
・城壁の議論や城壁以外の議論を妨害・規制することを禁止
両者とも双方敬意を表して尊重し共存してマターリ進行すること。
162 :
日本@名無史さん:2010/05/15(土) 16:59:26
>>153 白河小峰城はよかったな。
北側や西側の自然味豊かな風景が旅情を誘った。
桜門とか清水門の復元はしないのかな。建地割図はあるみたいなのにね
小峰城は、本丸の前御門から南に続く多聞櫓の再建計画があるようだ。
小峰城は南側の良い場所をJRが敷地の大半を占拠しているのが痛い。
昔は引き込み線とかの施設があったみたいだけど今は殆どが空き地。
路線を地下に通して上を明け渡してくれないかな。
そうすれば三の丸あたりまで城公園が広がり、中堀も発掘できるし、そのあと太鼓門や会津門も再建出来るんじゃないか。
少なくとも今露天展示している道場門跡の石垣も公園内に含めることができる。
164 :
日本@名無史さん:2010/05/16(日) 10:34:04
史料的に中井家が元和度の江戸城改築に係わった可能性は無さそう
「東武実録」に元和8年5月に表の作事棟梁が中井大和(正清)とあるが、既に正清は元和5年に死んでいる
となるとやっぱり「中井家指図」は慶長度の江戸天守ということになる
二代目も三代目も大和守じゃん。
初代大和守正清が死去したのは元和五年(1619年)、二代目正侶が大和守になるのは寛永四年(1627年)
しかも元和八年には23歳の若さ、とてもじゃないが江戸城の御殿や天守を任されるとは思えない
この当時は正清の従弟、利次が後見していたが彼は信濃守か伊豆守
更には木曽に御殿の用材を注文した古文書が残っているが、そこの署名にある大工は全て鈴木長次となっている
もっとも中井正侶や利次が全く、元和度の江戸城作事に関わっていないという事では無い
169 :
日本@名無史さん:2010/05/17(月) 20:23:50
他にも「中井家指図」には「江戸御天守」としているものとして、よく知られる五階櫓だけでなく、二階櫓の図もある
これは桁行・梁間のそれぞれ一面にのみ破風があり、隅櫓と思われる
慶長・元和・寛永とも小天守台はあるが、これに隅櫓を載せるのは意匠に合わない
そうなると浮上するのが「慶長江戸図」に天守曲輪が描かれている慶長度で、大天守の射界を考えれば対角線上、
西桔橋門を見下ろす位置にある櫓と思われる
他の天守曲輪は小天守台や天守台から伸びる石垣には塀、隅櫓からは多聞櫓、二つある門は高麗門と思われる
これも天守からの射界を遮らない工夫と思われる
http://www.library.metro.tokyo.jp/17/015/img/pic_01.jpg
今夜のタイムスクープハンターは小峰城でロケしたっぽいな
「天守閣」が太鼓櫓扱いは寂しい。掛川じゃダメ?
172 :
日本@名無史さん:2010/05/18(火) 01:08:12
熊本城の復元した元太鼓櫓使ってくれてよかったのに。
五階櫓が良かったのなら飯田丸五階櫓とかでもどんどん使え。
173 :
日本@名無史さん:2010/05/18(火) 21:29:26
174 :
日本@名無史さん:2010/05/21(金) 18:56:18
埼玉三名城
川越城
岩槻城
忍城
>>163 残念ながら今の白河市にはもう財政的に余裕ありません
(その割には白河駅の隣に図書館を中心とした複合施設建てるけど)
現状から更に再建が進むことはないんじゃないかな
176 :
日本@名無史さん:2010/05/28(金) 22:33:54
福山城の駅前の地下遺構は結局どうなったのだろう・・・
>>177 なかなか良いじゃないか
城の遺構を駅前広場に活用するなんて、ナイスアイデア
浜松城天守門は2階建て
やぐらの幅12メートル 30日に説明会
浜松市中区元城町にある浜松城の天守門が、2階建て構造のやぐら門で、
2階部分のやぐらは幅約12メートルと推定されることが26日、市文化財課の発掘調査でわかった。
調査結果は30日、一般向け現地説明会で詳しく解説する。
同課によると、17日からの調査で、天守曲輪を作る石垣の上部から、
やぐら門の礎石や屋根にふかれていた瓦などが次々と見つかった。
礎石などの位置関係から、やぐらの幅は約12メートルと考えられる。
また、やぐらの両脇からは、土塀に使用する塀瓦が多く出土しており、
天守門に土塀が連接していたことも確認できた。
やぐら門の瓦の特徴から、天守門は16世紀末に建てられ、その後も
江戸時代を通じて改修が繰り返されたと推定できる。天守門は城内でも一際大きく、
天守閣が17世紀に消滅した後は浜松城の象徴的な存在として維持されたとみられる。
現地説明会は30日午前10時と午後1時30分から浜松城公園内の発掘調査現場で行われる。
申し込み不要。雨天の場合は出土品の見学だけが実施される。
問い合わせは市文化財課(053・457・2466)へ。
(2010年5月27日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shizuoka/news/20100527-OYT8T00010.htm
あぼーん
182 :
日本@名無史さん:2010/06/01(火) 12:23:42
>>180 山形県の上山城の大手門も、二階建ての櫓門だったみたいね。
まあ、現在は関係ない場所に模擬天主が建てられてるだけですがw
枡形石垣上に模擬天守を作っちゃった富山城って・・・
枡形城址の模擬天守に比べたらましなほうだぞw
図屏風を基準にして天守を復元するのは実はかなり危ない行為
屏風絵によってかなり異なるし、そもそもそれが正しいのかも疑問がありまくり
>>180って上山城みたいなのではなく、ごく普通の櫓門だろ。
屋根は破風は平気で方向違うしな。
自分が妄想した捏造天主を各会に売り込む為に
師弟で示し会わせたように古記録否定に必死な文学科生がいらっしゃるようで
ぶっちゃけ指図・雛形・古写真・江戸以降の図面を基にしていない天守は
「こんなもんかな」というレベルにかならない
そういう意味で安土城の復元は夢のまた夢
190 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 16:46:51
191 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 22:21:26
瓦の色なんていいから多聞櫓の窓を付けろよ。
古写真だと窓があるのにない。
まあ天守自体も全然違うけど・・・
復元天守というよりは、粗相な復興天守レベル。
192 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 22:30:41
鯱も明治初年の古写真では屋根に乗っていないから、取り外す予定みたいだね会津若松城。
193 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 22:33:34
鯱は絵図に描かれていなかった?
194 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 22:37:37
だから砲撃で落ちたと何度・・・
ちゃっちゃと三階櫓の復元を頼むわ。
197 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 11:39:59
少し前のニュースだが
>>127関連
2010年4月28日 (水)
ttp://today.blogcoara.jp/beppu/2010/04/post-e0f9.html 日出町は暘谷城二の丸館新築と裏門櫓(うらもんやぐら)の復元工事竣工・完成披露式典を28日に行った。
敷地面積は約1600平方b。二の丸館は木造平屋建てで、延べ床面積は338平方b。事業費は約9200万円。
観光展示館の他、特産物販売、喫茶店、休憩所、観光案内所がある。
裏門櫓は、木造の平屋建てで、延べ床面積は33・43平方b。事業費は約2000万円。解体・保存しておいた
当時の素材を出来るだけ利用し、復元した。
今後は周辺道路を整備し、隅櫓(鬼門櫓)も萬里図書館と日出小学校の間に復元する予定。
荒れないためのルールを作っておきます。
・城壁の議論や城壁以外の議論を妨害・規制することを禁止
両者とも双方敬意を表して尊重し共存してマターリ進行すること。
tp://minoyan.ame-zaiku.com/image3/ku-oka10.jpg
岡城はいつのまにこんな櫓門を復元したんだ?
期間限定の復元で、もう撤去されたんだろうか?
平成11年に復元された
>>202 この立派な城が五万石ぽっちの居城として作られたんだもんなぁ
都市部近郊ってこともあって無理できるくらいの財力があったんだろな。
山形城なんて縮小する一方だったんだから
尼崎、明石、福山
これ一国一城令の例外で、同時期に築かれた城である
206 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 01:32:34
そーいや、尼崎本丸の復元模型はどこで展示しているんだ?
>>205 3城とも中国街道(山陽道)を押さえる、西国の防御の要(大阪の支城)だから、時の大御所・秀忠自ら陣頭指揮して築城。
美しい白亜の外壁、頭デッカチのズングリムックリした櫓、大きな殻破風は、元和度江戸城天守にも通じる秀忠好みかも。
>>205 元和築城の3城の中で明石だけ天守が建たなかったのは何でだろうね
>>208 西隣が本多氏の姫路城だし、勢威を張るほどでもないと節約したかな?
淡路島・四国への玄関口、明石湊に白亜の大天守が聳えていれば、最も効果的な示威行為だったのにね。
江戸幕府が滅びたのはこういうところの甘さかな?
212 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 13:16:52
>>208 その代わり三重櫓4基あったもんなあ。
残りの乾櫓、艮櫓復元しちゃえばいいのに
213 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 15:18:21
>211
江戸幕府が滅んだのは、従来の武器やそれを想定した城が役に立たなくなった事
>>213 軍事だけじゃない。全てが時代遅れになっていたから。
特に参政権。
大名、それも譜代の家柄にのみが高職に就ける。
そのことに朝廷、外様大名、下級武士らが潜在的に不満を持っていた。
国難にあって、これらの三者が結びつき幕府は倒れた。
世襲の政権が15代265年も続けばじゅうぶんだろ
駿府城坤櫓の復元工事は始まっとるんか?
217 :
日本@名無史さん:2010/06/15(火) 08:55:29
江〜浅井三姉妹博覧会:小谷城の曲輪復元へ メーン施設に−−実行委が方針 /滋賀
今年12月開幕の「江(ごう)〜浅井三姉妹博覧会」の準備を進める実行委員会(長浜市など)はこのほど、
国指定史跡・小谷(おだに)城跡(同市湖北町)のふもとに当時の山城の一部を復元することを決めた。
今後、規模や事業費などについて検討するが、同実行委は広域・野外型博覧会のメーン施設にする方針。
小谷城は戦国時代の武将、浅井長政の居城。1573(天正元)年、織田信長軍の攻撃で落城し、
茶々・お初・お江の幼い三姉妹は城から逃れた。「本丸」「山王丸」など土塁や堀、急斜面がある山城特有の
曲輪(くるわ)が、小谷山(標高495メートル)の尾根などに点在し、攻め上る敵を迎え撃ったとされる。
今回復元予定の「山崎丸」は、浅井方援軍の朝倉義景軍が築いたとされる北寄りの曲輪。
実行委の案では城跡ふもとの土地を整備し、土を盛るなどして一部を復元。戦国ムードの博覧会にふさわしい施設にしたいという。
同博覧会は12月25日、メーン会場の同城跡周辺で開幕。来年3月20日から
連携3会場(奥びわ湖・木之本、長浜市街地、米原・柏原)でも始まり、来年12月4日に閉幕する。
【桑田潔】
http://mainichi.jp/area/shiga/news/20100601ddlk25040580000c.html
昔、NHKの番組でCGを駆使して安土城天守閣内を再現してて吹き抜けにぶったまげてたら
最近(火天の城って映画)じゃ吹き抜け説が否定してあるらしいけど(映画観てないんで)
吹き抜けは当時の技術や建築法で可能だったの?
つか実際は吹き抜けだったの、違うの
>>218 吹き抜けは「天守指図」という加賀藩の大工に伝わる、伝来不明の平面図面に描かれている
内藤昌がこれを安土城天守のものとし、これを活用した復元案を発表した
しかし宮上茂隆が翌年にこれを否定し、「天守指図」は江戸時代の創作と断じている
つまり吹き抜けは一案に過ぎない
しかも、宮上茂隆案は内藤昌が「天守指図」から復元した天守台を借用しているという罠。
>>220 弁護すると宮上氏は建築家なので、作事分野は立派な才能を持っているけど
石垣などの普請分野は専門外と言って良いですから
>>220 「天守指図」を否定しておきながら、「天守指図」を基に復元された天守台の上に、復元するという身勝手な矛盾は、以降の学者気取りの素人による復元案の伝統となっている。
工学博士だろうが、素人だろうが、「天守指図」を否定しながら「天守指図」ベースの天守台に乗っかってるという図式は同じだろ、カス!
宮上案の天守建築は石垣の形状に影響しない構成だからどうでも良いんじゃない
226 :
日本@名無史さん:2010/06/15(火) 17:22:29
どうせだから教えて
専門家のきちんとした復元案と、学者気取りの素人復元案には
それぞれどういう人のものがあるんですか?
>>226 そういう区分を一切無視するなら
奥村得義(江戸時代)、土屋純一、古川重春、城戸久、中田行、渋谷五郎、桜井成広
内藤昌、宮上茂隆、西ヶ谷恭弘、兵藤与一、森俊弘、佐藤大規等
大前提として、安土城復元は資料が乏しすぎて個々の考えが強く出てしまい
「どれが正しい」ではなく「どれが好み」の問題になってしまっている
しかも、ほとんどの復元案は、先人の復元案の順列組み合わせとなってゐる。
俗な言い方をすれば
資料を重視する研究者、内藤
実際の建築を重視する建築家、宮上
の違いとなる
江戸城天守も同じことが言える
ただしこちらは資料的にも宮上が優位だが
>>190 会津若松城の赤瓦って、茶色に近いね。
「やきそばに紅しょうが」みたいのを期待してたんだけどw
>>228 宮上案は、土屋案と古川案の折衷案ってだけ
小屋の段の南北破風の間を東西にしてしまうし、滅茶苦茶
>>231 建築学的常識に従うなら似た様な形にはなるでしょうね
>>231 まとめると、
宮上案=内藤案の天守台 +(土屋案+古川案)÷2
っていう感じだぬ。
良いんですよ、建築学会の重鎮である内藤氏に反論した行為そのものが
評価されたんですし>宮上氏
他の連中(特に学者)、怖くて反論できなかったし
ちなみにそれ以降、市井の研究者による復元案ばかりになったのも同じ理由
学者達は内藤氏に慮って、沈黙し続けた訳だ
まぁ「象牙の塔」の典型的な弊害と言いう奴だな
反論できるだけの史料もないだろ
>>233 しかも古川と土屋が守っていた「南北破風の間」を東西に変えてしまう(反論に夢中になってうっかり忘れた?)というおまけ付き
仮に宮上案が正しいとすると、安土城は後期望楼型となり、前期望楼型のデザインに影響を与えていないことになる
八角の段が下層部の大棟から独立していれば、望楼部が小屋の段からの3階建てとなり、恐ろしく不安定な構造となる
風が吹くたびに最上階にいる信長は船酔いをし、更に雨が加われば、八角の段の回縁の付け根部分から小屋の段から下層部に掛けて、盛大に雨漏りすることになる。建築学的にもこんな構造はありえない
よって宮上案は、他人のフンドシを90度間違えてしめて、チンチンをむき出しにし、内藤案に噛み付いたというだけで、
資料的にも建築学的にも評価に値しない
>>236 ウィングの木版画を取り入れたという特徴があるかな
>>237 俺は江戸城が専門だから詳しいことは判らないが、
あなたがそう考えているということは了解した
>>219 元々、アレは憶説にすぎなかったんですね
冷静に考えたら当時の技術や建築法であれだけの重量を支えれるのかと
自分みたいなド素人でも疑問を抱きますし
ディアゴスティーニのDVD観てまいりましたが
NHKのヤツとずいぶん違ってて驚きました
ただ吹き抜け説はやはり浪漫があり
その宮本説が確定ではないことを願いたいです
うんうん、そうだね、宮ちゃん、よくがんばったよ!
南北破風の間が東西になっちゃった!とかそういうレヴェルじゃなくて、
内藤に噛み付いたってこと自体が評価されてしかるべきなんだよ!
>>239 どれも正しくないというのが真実
安土城の復元は無理・不可能と結論付けるべき
バチカンから図屏風が発見されても、あの手の図屏風に描かれる
天守は実際とは大きく異なる
指図・雛形・江戸時代以降のその城を有した藩が作成した絵図以外を
用いて復元した天守は「復元」でなく「想像」レベルと見るべき
>>239 正確に言うと、「少なくとも宮上茂隆案は正しくない」というのが真実
後、個人的な感想を言わせてもらえば
内藤氏が「中井家指図」を元和度とした理由と、慶長度天守を望楼式にした理由は
酷いものだったし、
宮上氏が元和度した津軽家の「江戸御殿守絵図」を寛永度として、あれだけの特徴の
差を「写し間違えが多い」で片付けたのには失笑してしまったけどね
現代における最もカッコ良い安土城天守は内藤案だがね。群を抜いておる。
内藤晶または池上右平なら信長から褒美を貰える。
宮上案はまだしも、それ以後の珍案の数々に至っては馬糞のよう。
そんなブサイク天守をこしらえた奴は信長に手打ちにされるわ。
>>244 安土城の復元図はどれも夢想レベルの産物だけどね
それぞれのは優劣でなく、趣味で評価される
>>245 少なくとも宮上案は夢想レベルの産物だけどね
が正解
>>246 いいえ、全て夢想レベル
史料が少なすぎるわ、そこから読み取れる内容があまりにも特異なので
類例を比較して考察しにくいわで、どれもこれも想像8割、史料2割というのが事実
いい加減、安土城天守の復元は諦めろといいたくなる
うんうん、そうだね、宮ちゃん、よくがんばったよ!
南北破風の間が東西になっちゃった!とかそういうレヴェルじゃなくて、
内藤に噛み付いたってこと自体が評価されてしかるべきなんだよ!
常陸小幡城、木原城、ひなびていて良いね
>>247 想像10割の宮上案は全くの妄想ってことだね
>>251 いいえ違います
アンタがそう思うのは勝手だが
>>252 無知を相手にするなおw
俺は天守指図肯定派だが、宮上案の内容も理解も一通り理解しているつもりだが、
このスレの内藤信者の知識はあまりにも低レベルで無知。
内藤信者の↓の誤った認識に関して一々説明するのも馬鹿らしい。
>宮上茂隆案は内藤昌が「天守指図」から復元した天守台を借用しているという罠。
>「天守指図」を否定しておきながら、「天守指図」を基に復元された天守台の上に、復元するという身勝手な矛盾
>「天守指図」を否定しながら「天守指図」ベースの天守台に乗っかってるという
>しかも古川と土屋が守っていた「南北破風の間」を東西に変えてしまう(反論に夢中になってうっかり忘れた?)
>八角の段の回縁の付け根部分から小屋の段から下層部に掛けて、盛大に雨漏りすることになる。建築学的にもこんな構造はありえない
>南北破風の間が東西になっちゃった!
安土城址の現存天守台の形状が元来の天守台の形と理解していいの?
元は四角形だったということはないのか?
>>254 天主台角の裾部の腐葉土下の当時の地山から炎上時の痕跡や礎石や部分的に残る壁等が発見されてるだろ
>>254 いくらなんでも思いつきでレスするな。
少しくらいは自分で調べてから発言しなよ。
257 :
日本@名無史さん:2010/06/16(水) 20:13:35
6月17日(木) 江戸城 寛永度天守「復元図」 完成報告会 開催!
江戸城の寛永度「天守」は、こんなに美しい城だった!!
1657年、明暦の大火で焼失した天下一の巨城「江戸城」の「天守」がどんな姿だったのか、
その全容は誰も知る由がありません。その理由は、多数の江戸城天守の図面が伝わっているものの、
本当の天守の姿として遺されているのは「縦地割図」という一枚の絵図だけで、その後約350年間、
誰の手によっても再建が実現されなかったからです。
しかしいまその「天守」の精密な「復元図」の研究制作が、当会の依頼を受けて広島大学大学院、
三浦正幸教授の文化財学研究室の手によって、着々と進められています。
その完成を待って、江戸東京博物館で350年間、秘密のベールに包まれていた寛永度「天守」の実像が当会を通して、
史上初めて世に発表、報告される予定 です。
「復元図」ができ上がれば、天下一の巨城の「天守」が、どんなに壮大で美しい城だったのか・・そう思うだけでも、
再建への夢が膨らんで、わくわくするではありませんか。ご友人、お知り合いをお誘い合わせて、皆さまぜひご参集ください。
日時: 平成22年6月17日(木) 午後1 時〜 4 時
会場: 江戸東京博物館 1階大ホ−ル(両国駅そば)
費:無料(資料代として、1,000 円だけ頂戴します)
主催:特定非営利活動法人 江戸城再建を目指す会
記念講演
第一部 「江戸城・寛永度天守は、こんなに壮大で、美しい姿だった」
広島大学大学院( 文学部文化財学)教授 三浦正幸氏
第二部 「夜空に照らされた江戸城−東京の新ランドマークをつくろう」
照明デザイナー 石井幹子氏
記念シンポジウムテーマ: 「江戸城が再建されたら、日本は甦る」
<出席予定者> 広島大学大学院教授 三浦正幸氏 / 照明デザイナー 石井幹子氏 / 総合文化研究所代表 西川壽麿氏 /
太田道灌公18 代子孫(当会会長) 太田資暁氏 /コーディネーター 当会理事長 小竹直隆氏
http://npo-edojo.org/news/617.html
259 :
258:2010/06/17(木) 03:23:15
名前欄はミス
>>258 そんなヒマがあったら、慶長度や元和度をもう少し研究しろといいたい
>>258 それより富士見櫓の中に入りたい。
あと、誰か西ヶ谷先生を話題にしてあげて!
>>261 あの人、慶長度江戸城天守については宮上案に乗り換えたくさい
刈谷市 「亀城公園」を再整備
本丸跡に隅やぐらなど復元
再整備の完成予想図 刈谷市は、同市城町の史跡「亀城公園」に隅やぐらなどを復元する再整備計画をまとめた。
亀城は1533年に水野氏が築いた刈谷城の別名で、徳川家康の生母於大の方が暮らしたと伝えられる。
江戸時代の地図によると、本丸は隅やぐらと城壁で守られ、天守閣は造られていない。
明治時代に建物などが取り壊され、城跡の面影は失われた。1937年に市が公園に整備、桜の名所として親しまれている。
再整備計画では、同公園12・9ヘクタールのうち野球場と体育館などを除いた本丸跡など約3・9ヘクタールに、
隅やぐらや城門、歴史博物館などを新築する。
同市は昨年度から発掘調査に入っており、今年度は桜並木の土壌改良や博物館の基本設計を行う。
総事業費40億〜50億円を見込む。
完成は博物館が2015年度、隅やぐらなどは17年度の予定。
(2010年4月28日 読売新聞)
http://chubu.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyo100428_2.htm
>亀城公園
土浦城も亀城なんだけど、まぎらわしい
266 :
ぴーす:2010/06/18(金) 18:41:05
江戸城の復元CGが公開されたらしいね
>>264 石垣から造っちゃって、城っぽいものをこしらえる、と。
尼崎城よりは上等?
>>258 皇居東御苑に建てることに対して、あんま敬意が感じられないなあ。
経緯を感じなくて当然。
現存の天守台には江戸時代から天守が建てられなかったのが事実なのだから、あの上に建物を建てること自体が史実に則していない。
それを復元と言うのは嘘であり、遺跡の破壊行為。
復元とか再建ということ自体が間違いで詳しいことを知らない一般人をだます行為だと思う。
おいおい、三代将軍までは江戸時代に含まれないらしいぜw
272 :
日本@名無史さん:2010/06/20(日) 09:25:41
三浦正幸は慶長度および元和度の天守を復元するときに、とんでもない史料改竄・曲解を
行っているので、江戸城天守に関わる資格はない
273 :
日本@名無史さん:2010/06/20(日) 10:39:13
274 :
日本@名無史さん:2010/06/20(日) 11:10:53
>>273 慶長度江戸城天守の天守台を『当代記』は
「去年ノ石垣高サ八間也、六間ハ常ノ石、二間は切石ナリ、此切石ヲ退ケ、又二間築上、其上ニ右ノ切石ヲ積合、
十間殿守也、惣土井モ二間アケラレ、合八間ノ石垣也、殿主台ハニ十間四方也、」
とする
これは天守台の上端の寸法とするのが常識(上に天守を載せるのだからそれに合った建築をしなければならない)
だか、三浦案ではこれを天守台下部の寸法としている
更に問題なのは中井家大工の記録『愚子見記』、この中には
「一、江戸御殿守 七尺間、十八間・十六間 物見、七間五尺・五間五尺
高石ヨリ棟迄二十二間半、是権現様御好也
一、尾張御殿守 七尺間、十七間・十五間 物見、八間・六間
下重側ノ柱ヲ二重目迄立上ル故、物見大キ也
一、大坂御殿守 七尺間、十七間・十五間 物見、四間五尺・二間五尺
一、二条御天守 七尺間、十間・九間 物見、四間・三間」
という記述があり、この内の江戸城天守は「是権現様御好也」とあり、家康の慶長度天守であることは間違い無い
にもかかわらず、三浦案をこの記述を無視もしくは元和度のものと改竄して、慶長度天守の一階平面規模を元和度
より一回り小さいものと捏造した
しかもこの復元案については諸本でそれらの説明を一切せずに、ただ数値のみを書いて読者を欺いている
学者として恥ずかしくはないかと言いたい
>>268 宇都宮城っぽい雰囲気になりそうな予感
コンクリ土塁やハリボテ石垣じゃなければなんとかさまになるだろうが
城○厨さん、削除依頼乙でありました!
>>275 どうしても現代の石積みになっちゃんだよなー
太秦映画村みたいになってしまう。
いや、もう完成してるよ。
江戸城天守閣、CGで復元 「再建」は宮内庁が慎重姿勢?
約350年前の明暦の大火で焼失した江戸城天守閣の復元図が、広島大大学院の三浦正幸教授(文化財学)らの手で完成し、
都内で開かれたシンポジウムで17日、公開された。同教授によると、当時の史料をもとに、詳細な復元図が作成されたのは初めて。
再建を目指し活動する団体は「機運が高まるきっかけに」と意気込むが、江戸城は皇居にあるため、宮内庁からは
「御所を見下ろす高さになるなら、両陛下のプライバシー上問題」と慎重な意見も。
平成の世に江戸城は復活するのか。(篠原那美)
復元図はNPO法人「江戸城再建を目指す会」(東京都千代田区)が制作を依頼。豪華絢爛(けんらん)というより
質実剛健な城は5階建てで、石垣を含めた高さは18階建てのビルに相当する59メートルにも。スクリーンに
壮大な城のCGが映し出されると、会場にどよめきが広がった。
この日紹介されたのは、徳川3代将軍・家光が建てた天守閣の復元図。「再建にはまず復元図が必要」と同会の小竹直隆理事長が
昨秋、城郭復元研究の第一人者として知られる三浦教授に制作を依頼。
三浦教授の研究室が、大工の棟(とう)梁(りよう)が書き残したとされる設計図「建地割図」を基に完成させた。
三浦教授は「江戸城の天守閣は織田信長の安土城の4倍もの体積を誇る一方、外観は正当に受け継がれている。
日本の城郭史上、最大で最高の到達点」と歴史的な意義を語る。
「目指す会」は平成16年、観光振興や文化継承のため、民間の手で江戸城を再建させようと設立。
現在約1800人の会員がいる。小竹理事長は「今後会員を数千、数万に増やし、寄付を募って再建したい」と意気込むが、難しい面もある。
江戸城があった一画は現在、皇居・東御苑に含まれて一般開放されているが、この地域は国有財産法上、
皇室のために用いるとされる「皇室用財産」となっているのだ。宮内庁幹部は同会の活動について「コメントは差し控えたい」としているが、
過去には江戸城再建の議論をめぐり、「景観や両陛下のプライバシー上、問題があるのでは」と慎重な意見が出たこともある。
小竹さんは「江戸城は『戦い』ではなく、天下太平を希求した『平和』のシンボル。美しい城の姿を知ってもらえれば、いつか道が開けるのでは」と期待している。
6月17日22時24分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100617-00000650-san-soci
簡単だきょうわせいにすればいい
>>278 睨み櫓台はカッコ悪いなあ
せっかく河北門を復元するっていうのに
藩財政の悪化で櫓も再建できなかったのを再現しなくても良いと思うんだけどな
284 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 09:33:04
皇居の一部として非公開なら問題は無いだろうが、会としては観光施設で儲けたいだろうからなw費用の問題もあるし。
でも、景観の一部としてだけでも価値はあるでしょ。
皇居を京都御所に戻せば無問題
286 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 20:24:06
皇室と宮内庁の内諾を得るのは当然だが、その前に徳川家当主が賛同してないのはねえw
太田道灌の子孫じゃなあ
287 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 22:55:14
つーか、そもそもその天守を載せる天守台すら無いわけで
288 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 07:09:49
江戸の天守台は高さ一間の石垣が未完成。天守の復興は史跡の破壊、改変だ。戦時中は近衛師団の高射機関銃陣地であったため石垣の一部が撤去されたままになっている。もういじらないで欲しい。
>>286 あまりにも発想が浮世離れしててワロタw
徳川家当主の賛同ってw
こういうのは形式上の箔付けも必要だから、徳川家当主でいいんだよw
291 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 19:41:51
名古屋の経済界ではいまだに徳川は殿様扱いだぞ
292 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 20:23:13
先祖の鎧やら茶器やら展示する美術館事業で
末裔が生活の糧を得ているからな
持つべきものは先祖か
293 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 20:34:25
しかし、江戸城再建の話題になると2chですら、
必ず皇室がどうの、宮内庁がどうのって話になるんだよな。
いい加減、皇室と関係なしにしてほしいわ。興醒めなんだよ。
したり顔で「陛下」とかなんとか言ってるネトウヨもウザいし。
294 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 21:20:06
街のシンボルや観光名所には不自由していないからあえて復元しようとは思わないのでは?
住民(とくに支配層)も大半は明治以降に来たよそ者だし…
296 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 22:18:18
>>294 でも、本丸址は大嘗祭の会場に使われちゃうんだよね〜
二十年も昔、東御苑に行ったとき、広大な芝生の上に桧皮葺の小屋がぽつんと建っていた。
一緒に居た書陵部の関係者(当時)に「あれは何ですか?」って訊いたら
「何でもありません!、(何か見えるかもしれませんが、)何も建っていません」
と即答されたのを今でも思い出すw
>>294 本丸、三の丸には宮内庁関係の建物があるし
女、子供や観光客は細々とした建物よりも天守が好きってことだよ。
簡単な理屈だ。
大金をかけても話題にもならなければ、金を使う意味が無いって事だな。
江戸城を復元するのが目的じゃなくて東京に新たなシンボルを造るのが目的なのだから。
299 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 01:00:44
じゃあスカイツリーでいいじゃん
300 :
ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2010/07/02(金) 01:05:55
先祖が勤めてたらしいから大奥よろしく
301 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 04:14:04
理想を言えば、西の丸仮殿舎を復元してほしいものだ。
302 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 08:34:59
江戸城の本丸、二の丸三重櫓群の再建で十分だ。江戸時代の千代田城のイメージは林立する三重櫓だろ。富士見櫓と共に保存予定だった蓮池巽三重櫓が火薬の事故で焼失しているからこの櫓から復元すれば良い。
303 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 20:08:22
>>298 女子供は天守が好きって誰が決めたの?
城ヲタや天守ヲタは男が圧倒的でしょ。
>>300 自分の発言に既に答えを含んでいるのに気がつかんか?
城オタは男が多い。
天守オタと言うのが本当に居るかは知らんけど。
男の城オタの場合は天守ももちろん好きだが、一部の城オタはコンクリ天守は天守扱いしない。
実態が単なる博物館だから」
天守オタ?かはしらないが、天守が好きな城オタは”天守だけ”というわけではないだろう。
多くが虎口や縄張りの状態等の城郭としての城も好きなんじゃないか?
一方、普通の人が模擬も含めて天守のある城へ行った場合、縄張りとか、虎口とかは全く興味を持たずに真っ直ぐに天守に向かうのが一般的じゃないか。
もちろん女性や子供でもディープな城好きがいるのは否定しないし、天守だけ好きと言う男子も居るのは否定しない。
しかし、少数派の人も居るうちに考慮してしまうと1人だって居ると言うことになってしまい、論点がずれてしまうからね。
あくまでも俺が感じている一般的イメージなので具体数を示す事は出来ないが、大きくは外れていないと思うが。
305 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 09:38:10
>>301 同感だ。
江戸無血開城、廃藩置県など、歴史の舞台となった建造物を復元してほしい。
西の丸仮殿舎の復元に一票。
306 :
因果応報:2010/07/03(土) 10:25:50
戦前の一時期大阪城の城主に朝鮮人がなり、復興天守の上から号令を発した。この時こそ三百数十年ぶりに豊臣秀吉への怨恨を晴らした瞬間だった。この朝鮮人の名は李王垠と言う。大阪城本丸に置かれた第四師団司令部に師団長として赴任したのだった。
307 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 18:42:53
>>304確かに。友達(特に城好きじゃなく観光として行っただけ)も天守直行して直帰してた。
熊本城は天守直行コースだと20分もあれば見学終われるのも来場者数多い理由の一つかも。
城好きの人にも(コンクリ天守アレルギーの人はダメだけど)それなりに満足してもらえるしね。
308 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 19:22:44
>>304 男でもヲタ以外はまっすぐに天守へ向かう。
たいていの観光客は男女問わず天守ばかりを写真に収めてるじゃないか。
男ならば皆縄張りや虎口に興味を持っているなんてことはない。
逆に城を見に行ってそんなところにばかりたかっている奴はほとんど見ない。
お前がかなり特殊な男だということに気づけ。
そりゃいくらなんでも了見がせますぎるぜ
>逆に城を見に行ってそんなところにばかりたかっている奴はほとんど見ない。
この春彦根城へ行ったとき城の外周の撮影に四時間かけて、天守に入る時間の無かった俺に喧嘩売ってんの?
天守は周りから眺めるのが好きだな。中に入っても大して面白くないのよね
木造建築の知識があるわけでもないし
312 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 12:20:23
だいたい明治の破却で本丸付近しか残ってないし映画、テレビで天守の中が御殿風で殿様が生活しているような誤解を与える演出があるのがよくない。
313 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 13:42:17
初期天守の流れを汲む安土城、豊臣大坂城、熊本城は実際に城主が生活していた特殊な例だよ
他だと姫路城天守が篭城時に備えて人が住める設備はあるけど実際には使わなかったくらいかな
315 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 15:34:10
なるほど。あとは武器庫みたいな使われ方だっけ?
316 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 20:25:48
名古屋城天守は厳重に管理されて殿様以外は登れない。萩城天守も参勤交代で藩主が帰った時のみ重臣と登閣。変わった例では小田原城天守に足軽に至るまで全藩士と家族に見学させた事がある。とにかく軍事機密だったらしい。
317 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 23:28:21
>>310 だからお前のようなごく一部のヲタを除くって言ってるじゃん。
一般的な男はそんなところ観てないって話。
318 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 00:04:15
●ネトウヨ(ネット右翼)がみっともない12の理由
1.威勢が良いのはネット上だけで現実の行動は何もしない
2.2ちゃんねる発の噂を裏も取らずに事実と断定する
3.愛着を持っている日本文化が伝統文化ではなく漫画・アニメ・ゲーム程度
4.国防重視を説くくせに現実に自衛隊には入らないし入っても役に立たない
5.都合の悪いことはすべて反日勢力の自作自演ということにする
6.特亜・在日・創価・左翼以外の社会悪は平気で見過ごして批判しない
7.戦前戦中・終戦直後の今よりひどい貧困を味わった世代に敬意を表さない
8.自分は何もしてなくても過去の日本人の手柄を自分の手柄のように誇る
9.反中国のくせに高い国産商品より安い中国製品を買うことを恥じない
10.何の話題でも嫌特亜、反左翼に結びつけないと気が済まない
11.たまたま日本人に生まれただけで努力して何かになったわけではない
12.この文章を読んで「これを書いた奴はチョン」と証拠もなく勝手に断定
319 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 16:12:07
>>317そうだ!一般的な男はそんなところ観ないで
天守の急な階段を上ってる女の子のお尻を観るという一択だ。
再建天主が見たいひとは
入れ乳や整形も好きそうだな
>317
ん?俺は城オタじゃねぃよ。長浜城でも墨俣城でも無問題。そっち系には何の拘りも無いから。
撮影時の桜と青空のコントラストが良かったからそっちに時間を盗られただけ。
秋の紅葉と違って黄ばんだ桜は俺の美意識に合わないから太陽の南中高度の低い春は昼過ぎまでしか写真を撮らねいんだよ。
つーても通勤通学の鞄にカメラをいれて持ち歩く写真オタでもない。
平均して月に一・二度ドライブのついでにカメラを持ち出す程度だから、一ヶ月以上カメラや車と縁の無いこともある。
何が言いたいかつーと世の中には様様な趣向があるし、俺のようにカメラも趣味の一つにしている人間からすれば箱物や花撮りの
アプローチの方法に人それぞれの個性(亀爺のそれは只管有害だが…)があるということを他者を通じて観察しているってこと。
そうした観点から言えば>308は極めて了見が狭い決め付けでしかない。
雲待ちとかで観光地でボーと突っ立っているとツアーの説明なんかも耳に入ってくる。
そういう話を聞くとはなしに聞いていても城にやってくる人たちの関心事項は千差万別なんだと気づかされるわけだ。
この世は君の言う二項だけで語れる程単純ではないし、この次城へ行ったときにはもっと周囲の人に気を配ってみてはどうだろうか。
>>314 本当?その三人が天守閣に住んでたソースはあるの?
天守閣に住んでたのは石川五右衛門とか志村のバカ殿だけじゃないの?
323 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 06:03:33
秀吉は天守に南蛮のベットを置いていたらしいが生活していたかは不明。清正は実際に住んでいたらしい。後に入った細川氏は城を嫌って外郭に屋敷を新造して住んだ。
324 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 13:28:23
熊本城は最初は本丸御殿なかったからね。
一番最初は大天守だけ、その後(おそらく)宇土城天守を移築して小天守に。
この小天守は書院造でじゅうぶん住めたはず。
あ、宇土城移築は宇土櫓の事じゃないからね。
宇土櫓は多分隈本城天守。
325 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 13:42:22
城とか天守とか封建時代のシンボルでしかないものを
有り難がる気持ちが分らない
せっかく明治新政府が取り壊したりしたものを復元なんてしなくてもいいよ
326 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 16:03:06
戦争体験者が軍服のカーキ色に嫌悪感を抱くように明治維新の時に封建的圧政の象徴である城郭を地上から消したいと言う雰囲気はあったと思う。だから狂ったように全国的に破却の嵐は吹かなかったんじゃないかな。
>>326 読点の打ち方を学んでから出直しなさい。
城が破却された理由なんて維持費がないのと
跡地を新政府が利用したからってのがほとんどでしょ
329 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 05:52:55
天守、櫓の保存存続は地元の意向次第だった。
330 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 07:15:54
読点表記は明治の発明。なんでも無知な庶民に文章を平易に理解させるための措置とか。
>>329 明治中頃まで残っていたのに取り壊した大洲城天守って一体。。。
332 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 13:11:27
そいえば中津城がまた売りに出るらしいよ、金持ち買っちゃえよ。
>>331 大洲城天守には構造的な欠陥があったからしょうがないよ
>>334 1階と2階の間に柱が無い吹き抜けのような部分があった為
強度が足りなくなってて天守が相当痛んでいたそうです
吹き抜けといえば小松城三階櫓復元しないかな
>>335 忠実に復原したとなると、現状もやっぱし問題有りなんスか?
いや
それでも200年以上建ってたんだから
資金さえあったら維持できただろう
資金があっても必要性が無ければ・・・
必要性がなければもっと早い時期に壊してるよ。
旧藩士は残そうと頑張ったけど無理だったんだよ。
342 :
日本@名無史さん:2010/07/09(金) 11:54:51
保存は旧藩主、侍など地元の意向だよね。膳所とか尼崎は敗城決定で跡形もなく破却。
城の格から言うと尼崎は勿体無かったね
そこへいくと備中松山城は、山の上過ぎて取り壊すのも手間なもんだから放置されて
現在することに。
最近、層塔型は家康の発想という考えが浮上している
加納城三階櫓とか彦根城の天守以外の櫓とか慶長度江戸城天守とか
346 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 18:47:56
そんなの初めて聞いたけど
>>345 藤堂貴虎が嚆矢だとかいう話はどうなっちょ
>>346 初言いなもので
>>347 三浦正幸氏は天守のみで判断し、その他の櫓には注意を払っているようには見えない
確か、大竹正芳氏と三浦正幸氏によると、層等型天守の起源は
基壇を必要としなかった京南蛮寺にあるとか
別にそっちに行かなくても、金閣とか銀閣とかが昔からありますし
352 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 17:27:29
やっぱり加納城御三階が資料で確認できる一番古い層塔型だと思う
もっとも岐阜城天守の移築なので部材の関係で内部は4階建てだけど
ちなみに三浦氏は加納城は望楼型とおっしゃっています
どうも城郭研究家という連中は自論の為なら、資料を無視したり改竄することを
平気で行うようですね
望楼型は入母屋の上の望楼部とは別の建物が建っているようなものなので
柱間が異なっていてもおかしくはないと思う
加納城御三階もそれを引き継いでいて、また、一重目が2階なのも望楼型の
入母屋の重箱造りに影響されているからかと
>>353 東西と南北の柱間の違いはおそらく望楼型の長方形に近い平面構造から
層塔型の正方形に近い平面構造に換える際に生じたのでしょう
>>354 いっけん一層目が重箱櫓の名残り(城戸案、中嶋案)のように見えるけど、二層目の外壁には窓が無いので
破風から採光していて、そのための破風の間の床板(宮上案)じゃないだろうか?
>>355 普通、身舎の木割りは完数値で建て、石垣上に建てる柱だけ端数で処理するんじゃないかな?
>>357 絵図には窓がないけど本当に無かったかという問題もあります
柱を減らすことで同時に生じる、梁の減少を危惧したのかもしれません
望楼型から層塔型に組み替えるとなると上の階の寸法が大型化しますし
361 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 20:36:28
>>360 /)
///)
/,.=゙''"/
/ i f ,.r='"-‐'つ____ こまけぇこたぁいいんだよ!!
/ / _,.-‐'~/⌒ ⌒\
/ ,i ,二ニ⊃( ●). (●)\
/ ノ il゙フ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
,イ「ト、 ,!,!| |r┬-| |
/ iトヾヽ_/ィ"\ `ー'´ /
加納城って極端に存在感ないよね
城主の石高も小さくはないし、近世の城なのに。
岐阜城がある上に、昭和50年まで自衛隊の駐屯地だったりして一般に入れなかったのが響いているかと
家康自身が縄張をし、本多忠勝が普請奉行というとんでもない城なんだけどね
徳川の城を知る上で重要な城ですし
JRの線路の南側にあるのが加納城
北側が現在の繁華街
城下町であり宿場町だったはずなのに、城周辺が寂しすぎる
武家地というのは再開発に失敗すると空き地にするしかありませんから
彦根城天守も入母屋根ではあるけど、逓減している点を見ると
望楼型と層塔型の中間に位置すると言える
368 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:58:12
皆さんは個性のある望楼型がお好きだと思うのですが、私としてはマスプロ化を
達成した層塔型に合理的美しさを感じます
府内城て正保城絵図以外に資料はないんですかね
370 :
日本@名無史さん:2010/07/29(木) 21:49:44
初期の層塔型天守では破風を有するものは徳川家とその親藩の占有物であったという説を唱えてみる
いかがでしょうか
371 :
日本@名無史さん:2010/07/30(金) 08:53:31
加納城って、中国式の城郭みたいだからなあ。
372 :
日本@名無史さん:2010/07/31(土) 10:47:59
三浦正幸研究室のホームページにあった掲示板が閉鎖されていた
人が来ないというのが理由だが、質問に一切答えないで何を言っているんだか
うるせえよ
もんくあんならおまえがこたえてろ
反応ないので自分で調べて書き込んだけど
向こうの不備を晒してしまったようなので、無反応だったが
375 :
日本@名無史さん:2010/08/03(火) 15:49:59
今号の「東京人」で江戸城を特集していて、天守について三浦正幸が書いていた
これまで唱えていた『愚子見記』を無視した慶長度江戸城天守案を「なかった事に」して、
宮上茂隆が元和度とした津軽家伝来の『江戸御殿守絵図』を慶長度としていた
ちなみに『中井家指図』は元和度のまま
で、なんでも『江戸御殿守絵図』の天守は床から窓を望めない欠陥建築で、出窓からしか
眺望がきかないらしい
へー成程、そんな欠陥建築の本丸作事を見て家康は機嫌が良くて、その後にも駿府城天守
(2期)で雨漏り起こした中井正清を重用し続けたのか、家康って度量広いな〜
http://www.toshishuppan.co.jp/tokyojin_shousai.php
376 :
日本@名無史さん:2010/08/05(木) 00:22:47
江戸城の天主石垣って他の石垣と違う石を使っている見たいだけど何処の石なんですか。
377 :
日本@名無史さん:2010/08/05(木) 00:36:34
へー、御影ってとこの石を使ってたんですかー。
かわってますねー。
380 :
日本@名無史さん:2010/08/06(金) 22:03:13
>>378 もともと「御影」も産地名だから、
「御影産の石を使っている」と言っても変では無いな、間違ってるけどw
>>380 慶長度のは文字通り「御影」の御影石だけどね
元和度はおそらく凝灰岩系の伊豆石
寛永度は安山岩系の伊豆石
それぞれ天守壁面の色と同じ石を用いている
その意味でおそらく明暦の大火後の天守台は築かれた時点で
天守を再建する気はなかったと思われる
382 :
日本@名無史さん:2010/08/07(土) 00:42:11
既に完成されていた城郭の最上段にあのような巨石を運び積み上げた土木技術たるや。
江戸城石垣に大名の刻銘…清正ら10人以上
江戸城(東京都千代田区)の石垣約20か所に、徳川家康の命で普請(築城工事)に携わった大名ら10人以上の名前が刻まれていたことが宮内庁の調査でわかった。
天守台の北西にある乾(いぬい)濠(ぼり)に面した乾櫓(やぐら)の下の石垣からは、「加藤肥後守内」の刻銘が見つかり、
この付近は築城の名手と呼ばれた加藤清正が手がけたことがわかった。書院前櫓の下など2か所で見つかった「羽三左」の刻銘は、
姫路城主の池田輝政が豊臣秀吉から与えられた羽柴姓と、名の三左衛門を組み合わせたものだ。
家康が1603年の開府を機に全国の大名を動員した大規模な工事で、各大名が江戸城中心部で行った石垣普請の、具体的な個所が明らかになるのは初めて。
同庁では、1918年の石垣解体工事の際に撮影された古写真も解析。輝政の次男・忠継を指す「松平左衛門督」と福島正則にあたる「羽柴左衛門大夫」、
輝政の長男・利隆の「松平武蔵守」の名が、それぞれ刻まれた石を積み重ねた部分があったことも判明した。
1614年にこの3人で付近の石垣築造に携わった可能性が高いとみられる。
「天下普請」と呼ばれたこの工事で、城の中心部での具体的な作業個所は、これまで一部の大名について大まかな位置が文献で知られている程度だった。
(2010年8月7日03時05分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100806-OYT1T01183.htm う〜ん、場所や時期を考えると以前の築城時のリサイクルだと思うのだが
384 :
日本@名無史さん:2010/08/09(月) 18:02:05
層塔型の始まりと思われるもの
1.加納城御三階…慶長7年、三重四階、岐阜城天守の改造移築
2.日出城天守…慶長7年、三重三階、一重と二重の逓減率が大きい
3.府内城天守…慶長7年か、四重四階、規模の割に逓減率が大きい(初重7間×8間、4重2間×3間)
時期的にどれか1つを参考にしたとは考えにくい(とくに1と2・3)ので、
同時期に別経路で発案されたか、それぞれを繋ぎ遡る何かがあるのか
385 :
日本@名無史さん:2010/08/09(月) 20:56:11
>>384 小倉城天守と日出城天守は相関があるんじゃね?
386 :
日本@名無史さん:2010/08/09(月) 21:26:21
>>385 細川忠興は城主木下延俊の義兄で色々と援助したとありますね
考えられるのは五重櫓サイズの層塔型でも歪まないような天守台のテストベットとか
ちなみに記録では小倉城も慶長7年中に完成とあるけど、さすがに概略のみとされていますね
記録にはないけど府内城の城主である竹中重利も黒田如水と繋がりあるから、
同様に援助してもらっていたかもしれない
岡山城、上段の本丸御殿は無理でも
表書院、大納戸櫓、鉄門だけでも再建できんかな
388 :
日本@名無史さん:2010/08/13(金) 20:32:30
豊臣期大坂城の本丸の「表御殿」と「奥御殿」は何であんなに離れてるんでしょうかね?
389 :
日本@名無史さん:2010/08/13(金) 20:47:33
信長の岐阜城(山上の天守と山麓の御殿)や、安土城(天守と本丸の他の御殿)の真似かと
>>389 そうかもしれませんね。
そういえば、所謂「奥御殿」でが本丸で所謂「表御殿」が二の丸って可能性はないんですかね?
391 :
日本@名無史さん:2010/08/13(金) 21:47:46
>>388 実戦的な城構えの場合、御殿でさえも防御施設であったのではないかな。
392 :
日本@名無史さん:2010/08/13(金) 21:58:14
とらっどじゃぱんみに
393 :
日本@名無史さん:2010/08/13(金) 22:01:43
>>390 特にそういう例は聞かない
山上(天守と奥御殿)と山麓(表御殿)の演出の意図はあるが、
同時に諸事はあくまで本丸で行うという形式を取りたかったので
はないかと思われる
論文にすれば面白いかもしれない
394 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 16:02:16
奥御殿は家族と側室のプライベート空間だったのでは?
だから隔離したんじゃないかな?
それで奥御殿に招かれる事にステータスを・・・
妄想してみた。
>>394 ステータス化なら江戸城本丸御殿の様に複数の対面所を造ればよいので、
それのみを理由とするのは少々きついかと
奥御殿と天守を御神体の御山と捉え、そこから降臨して拝殿たる表御殿に
姿を現す「日輪の子、豊臣秀吉」という演出装置だったのかもしれない
396 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 18:37:01
秀吉は石山本願寺跡に堅固な大阪城を築いたけれども、
すぐに自身は関白となって京都の聚楽第を本邸としてかまえて住み、
関白を甥に譲って隠居後は伏見城に住んだので、
秀吉存命中に大阪城が秀吉の主城になったことは
ほとんどないんじゃなかった?
大阪城が豊臣政権の主役になるのは息子の秀頼の代だよね。
>>396 住んでなくても「本城」という格は別格ですし
>>394 奥御殿に側室たちの居住スペースがないような気がするんですがどうなんでしょうかね?
>>394 宮上茂隆は二ノ丸に重臣や一族と共に側室たちの屋敷があったとしているね
松本城、本丸は無理でも二の丸御殿再建してほしい
豊臣期大坂城本丸についてですが
広島市立中央図書館浅野文庫所蔵の『諸国古城之図』に中井家所蔵の『本丸図』にそっくりな図があります。
それには表御殿の御座の間と御文庫の間の建物に御風呂と書かれています。
私は表御殿には御風呂や御湯殿がないので、秀吉や秀頼は表御殿で執務をした後、常時奥御殿に戻っていた物と思っていましたが、表御殿に御風呂があるのなら長期間奥御殿に行かず表御殿だけで寝起きしていた時もあったと推測できます。
402 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 15:55:28
大坂城はとりあえず本丸を城塞化したイメージがある。
403 :
ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/08/15(日) 19:52:20
車窓から天守が見えたのでカメラを構えたら
対向車両がきて見えなくなったでござる
の巻
諸国古城図は模写臭くないか?
宮上氏の大阪城天守の復元図は三種類ほどあり、初期の案は中井図の記載通りに
付櫓に張間一間の出隅が有ったが、最新の案だと諸国古城図を参考にしたのか、付櫓の出隅が消えて、天守本体とつらいちの
のっぺりした天守になってる。
405 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 09:26:26
大垣城が天守外観を旧態に復する改修工事中
岡崎、小田原、福山も希望したい
407 :
日本@名無史さん:2010/08/19(木) 20:55:56
福山城は鉄板を入れないといかんぞな
408 :
日本@名無史さん:2010/08/21(土) 06:00:41
山形城は元来土塁の城ではなく最上氏時代は総石垣だったと言う説がある。改易後に破城され虎口以外の石垣が撤去されたと言うのだ。
409 :
日本@名無史さん:2010/08/24(火) 06:36:18
>>408 本丸の北東か北西部石垣で高層櫓があった可能性が
あるとも聞いたことがある。
俺の生きてる間に津山城の天守再建がありますように
411 :
日本@名無史さん:2010/08/25(水) 09:52:37
生きているうちに大金持ちになれば再建のために多額の寄付もできるかもよ?
頑張れ。
412 :
日本@名無史さん:2010/08/26(木) 09:48:23
お城の再建ラッシュですか。羨ましいなぁ〜。
水戸から一言。
413 :
日本@名無史さん:2010/08/26(木) 10:21:03
水戸城天守は詳細な写真もあるでしょうに、再建論は無いの?
水戸城に天守は初めからねえよ
>>414 御三階と言いたいのだろうが、所詮は言葉遊びですから、それ
416 :
日本@名無史さん:2010/08/26(木) 20:18:34
417 :
日本@名無史さん:2010/08/27(金) 01:35:16
大きな城での全面再建は無理だろうから、どこか小さな城で再建してくれる所ないかな。
掛川城は見て来たけど、あそこよりもう少し大きいところで。
418 :
日本@名無史さん:2010/08/27(金) 07:32:40
水戸は御三家なのにねぇ…。ショボイよね。
藩主が常に江戸にいるから、水戸城をデカくする必要もカネもなかった。
420 :
日本@名無史さん:2010/08/27(金) 10:01:34
水戸城天守は、関宿とか忍みたいに少し離れた場所に再建すればいい。
水戸城は天守台は無いが、内部五階の御三階櫓の規模は和歌山城天守や彦根城天守に匹敵してないか?
彦根は廃物利用だからな
水戸城の御三階はデカイから規模だけなら他の天守に匹敵してるとも言えるけど
層塔型でのっぺりしすぎてるのと天守台が無くて迫力がないのが不人気の原因かな?
戦災焼失7天守のうち水戸城だけ再建されていない。
よほど水戸市民には思い入れが無かったのか。
425 :
日本@名無史さん:2010/08/28(土) 06:44:44
ググッテて水戸城古写真を見たが和歌山・彦根に匹敵
するの?なんかのぺっとしていて迫力が無い!
写真だと高いんだか低いんだか解らないよね。
高さで言うと松江城ぐらい
水戸城御三階とか高松城天守、小田原城天守って外観三層の癖にデカイんだよな
そりゃあ、例えば同じ5重でも江戸城天守は23間、小倉城は12間の棟高の差がある
宇都宮城のスーパー模擬土塁は一見の価値がありますか?
栃木県の近世の城はほかにないような
館林城は群馬県、古河城は茨城県
飛山城?
猿山城?
>>429 外観は忠実に再現してるらしいから捏造天守よりはましじゃないかと…
史跡の復元方法としてはぎりぎり可くらいだと思う。
栃木県の近世の城は他にも、太田原・黒羽・烏山・壬生の4城があるけど
どれも中世城郭を小改修した程度であまり近世城郭っぽくないね。
>>433 城内側からみたらそうだけど、城外側から見ればそこまでひどくはない…と思う。
それでもど真ん中に大穴開いているけどw
書いてて苦しくなったけど、城外側から一部分だけ切り取って見ればそこそこ見れたものになるのではないかと…
やっぱ不可ですか?
宇都宮城は緑の土塁上に聳える白亜木造の櫓が美しいだけに土塁のまん中の大穴が残念すぎる・・・
大阪城も伏見櫓すら再建の予定無いな
秀吉時代の城では無いと分かってから
大阪人から思い入れが無くなったんじゃ
438 :
日本@名無史さん:2010/08/30(月) 10:29:46
今の大阪府・市の財政でそんな余裕あんの?
大阪城も将来、今のコンクリ城が老朽化して建て替える場合には、
豊臣時代の天守閣を豊臣時代の場所に再建して欲しいものだ。
もういっそコンクリ天主解体して欲しいんだが無理か
大阪の財源では少なくとも半世紀は無理だろうね…
大阪城は観光施設なのだから、
収支がよさそうなら
財政赤字に関係なく再建でもなんでもやるだろう。
>>442 文化庁的には徳川大坂城しか認めないだろうから、
大阪人としては死んでもやらないだろうね
天守閣以外は天守台も含めて全部徳川大坂城なのにね
大阪人はあほやね
445 :
日本@名無史さん:2010/09/01(水) 20:47:10
水戸城の場合、偕楽園の好文亭が実質的に天守なんじゃないか?
斉昭は偕楽園を造園した際、好文亭を天守のつもりで建築したというし。
すごい、こんなスレがあったなんて
じつは自分もお城とか好きです、これからよろしくお願いします
>>444 大阪城はなんといっても巨大な石垣に尽きると思います
江戸城天主の石垣こそ究極の石垣。
>>447 でも、何といっても場所が場所だから気軽に一般人は近づけないw
昔会社の研修で東京に出て行ったとき江戸城を見学したいと出かけてみたが
よく考えたせ皇居だったことに気付き、
結局、途中で諦めて引返してしまったことがありましたw
江戸城に関しては、
あの石垣の土台になっている土塁が防御に問題ありな気がして正直不満
石垣はたしかに完成度は非常に高いと思いますね
ただ迫力という点では大阪城の蛸石や肥後石と比べると、やはりちょっと
吹上の雄大な土塁は石垣なんかよりよっぽどカッコいいと思うのだが
あ、どうもはじめまして
はい、たしかに情緒や風情は感じますよね、皇居としてもふさわしいと思う
ただ何ていうか城としての本来の役割、防御面っていうんですかね
なんかこあ堀からすぐ登ってこられそうじゃないですか
昔からずっと気になってたんですよ、実は
あれだけ幅の広い水堀だとそのままの渡渉は不可能です
よって大津城の時みたいに堀を埋める必要がありますが、先ず堀際まで降りる時点で
対岸から頭上を銃撃されます
また、埋める資材も坂を降ろして運ぶ必要があり、その間も頭上から銃撃され続けます
とんでもなくきついのは間違いないかと
>>448 江戸城本丸跡はは一般人でも普通に入れる。
天守台にも上がれる。
周囲を含めてすべてアスファルト舗装でげんなり。
巨大だよ。
皇居の西の丸跡。
453 :
日本@名無史さん:2010/09/02(木) 12:19:47
偕楽園の好文亭は物見櫓の意味合い
らしいよ。
仙台城 本丸の眺瀛閣再建できんかな
あと二の丸跡の川内南キャンパス移転させて
大手門再建して欲しい
456 :
日本@名無史さん:2010/09/02(木) 16:06:03
>>454 このスレじゃ広島大の三浦教授の評判は微妙なところらしいが、そこの3DCG作成者は
三浦教授の指導受けてるぞ
広島大の三浦教授という方はよく知らないんですが、どういう方なんですか?
それとあと西ヶ谷恭弘氏なんですけど、
このスレではなんて言われてるんでしょうか?
学研の「戦国の城」上中下とか持ってるんですけど個人的にはあの編纂内容は納得できません
あまりに後北条氏の城に偏りすぎているというか、とても公正な編集バランスだとは・・・
>>457 このスレでの評価は知らんが、
西ヶ谷氏については研究者の間ではあまり評価されていないという話は聞いたことがある。
経歴見れば分かるが、学者というより企画者って感じだし…
>>460 西ヶ谷氏は学者ではなく民間団体の人で、他の大学教授といった学者の人とはスタンスが異なるのは事実
後、宮上氏は博士号は持っているが竹林舎建築研究所を立ち上げており、彼もその意味で一線を画している
三浦氏は建築学的には問題はないと思うが、歴史学については疑問符が多い
西ヶ谷氏は良く言えばフットワークが軽い、悪く言えば腰が軽いと言える
後、「戦国の城」に限らずあの手の本は作者の専門に制約されるので限界はある
まぁ、あの本はそれなりに古いので当時において一番調査されていたのが関東の
城という事情があるとは思うけど
金沢城の辰巳櫓、丑寅櫓、戌亥櫓
再建された姿を死ぬまでに見たい
専門が歴史 → 考証はともかく復元案の構造が建築物としておかしかったりすることがある
専門が建築 → 建築物としての構造はしっかりしているが考証が甘かったりする
そこで学際的な研究ですよ。
個人的には元寇のときの水城とかも興味あるんですが
468 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 22:09:50
>>406 大垣市のサイト見ると、大垣城天守最上層の窓が焼失前の旧態に戻りつつあるね。
名古屋城天守の最上層の窓も戻してほしいんだが…本丸御殿に比べりゃ費用も遥かに安いだろうに。
名古屋の場合はコンクリ天守を改修するか、木造で建て直すか
まだ結論が出ていないんじゃないだろうか
天守に適した大木がないと何度言ったら...
昭和30年代頃の姫路城の修築時ですら特例で1本だけ伐採を許され、
それを運搬中にヘマやって折っちゃったというオチあり。
名古屋の通し柱は約二層分と短いから、
ヒバ材で造れね?
てか、本丸御殿復元経費がすでに厳しいらしいから、木造での天守復元は無いと思うが
姫路城は通し柱だから大変だったけど、名古屋城のような一階ごとに柱が止まっているので
それ程調達には問題ない、もっとも檜なのでその点で値段が跳ね上がるけど
あえて木造にする意味はないと思います
コンクリでどうしていけないんでしょう、これこそ資源の無駄使いの典型
それに木造だとメンテナンスも大変、コンクリで十分ですよ
コンクリ100年、木造1000年
475 :
473:2010/09/06(月) 17:01:44
耐久性に関しては承知しています
私が言いたいのは限られた≪資源≫という問題です
それに木造だと
大勢の見学者たちがごったがえした時、床がg@dg@dいって耳ざわりですし
あと火災に対しての問題もあります
名古屋城天守が、
どうしても木造でなければならない理由が私には解りません
訂正 ×g@dg@d ○ギシギシ
資源云々言うならお前の存在自体無駄だからさっさと死ね
478 :
473:2010/09/06(月) 17:13:06
なぜそんな言い方するんですか? 大人げないな
>>475 色々ある
例えば、天守の主な用途である「外見の威容をもって象徴となす」という点では
別に鉄筋コンクリートでも問題はない
しかし現在の天守は観光客が中に入る、その時に木造とコンクリでは観光客が
感じるリアリティに雲泥の差が生じる
つまりかつてと同じ木造建築なら、天珠の構造的な意味仕組みが理解できるが、
鉄筋コンクリではそれは難しい
個人的には柱を鉄骨とし、本来の構造に一番近いラーメン構造を活用すれば本来の
構造を活用した天守が出来るとは思うが、そうした取り組みは聞かない
安全面に関してはスプリンクラーといった設備で解決できるし、きしみ音はそれこそが
木造建築が重さをたわむことで吸収している証拠と言える
480 :
日本@名無史さん:2010/09/07(火) 04:31:59
名古屋城は今更コンクリ天守ぶっ壊して木造再建するのも非現実的な話に見えるけどな。
外観(窓)だけ旧態に戻してくれればいい。実際旧態の方が見栄えはいいし。
木造再建の掛川城天守にリアルを感じるか?
現存天守は階段が急だよなあ
このご時世、再建するならバリアフリーにしろとか言い出すやつが現れるよ
>>481 「構造的」には
鉄筋コンクリだと内外の格差というか、構造が全くの別ものであることに凄まじい違和感を覚える
ちなみに木造復元天守も基礎の補強や柱や梁の大型化、バリヤフリーも行われているし、
現存の姫路城でも階段の追加が行われている
平井聖氏の台詞だが、例え図面などの資料があってもその時々の状況に応じて同じ楽譜でも
違う旋律が流れる様に、全く同一のものは存在しない
>>480 御殿を焼失時の瓦じゃなく元禄の?葺きで再建するんだから、天守もそのころの初期慶長の外観に改修してほしいけどな。
↑こけら葺きね
485 :
ぴーす ◆u0zbHIV8zs :
デジタル大工とはまた懐かしいもん持ってきたね