【初心者】スレッド立てる前に質問をPart25【歓迎】

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437日本@名無史さん:2010/08/01(日) 13:17:01
>>436
安房を忘れてるぞ。
438日本@名無史さん:2010/08/01(日) 17:35:39
大江広元の実父は確定されてますか?
自分の以前読んだ本では実父も大江氏の誰かと推定されていたと思うのですが
439日本@名無史さん:2010/08/01(日) 19:28:52
江戸時代の駕籠(エッサホイサって走る奴)ってあれ乗るのに身分の壁とかあったんでしょうか?
あと、現代のタクシーみたいな感じで距離に応じた料金体系だったんでしょうか
それとも塚とかないと明確に距離とか計れねーよってんで完全前払いだったんでしょうか
440日本@名無史さん:2010/08/09(月) 20:37:54
戦国武将・大名で、大々的に中国から援助を受けて
天下統一しようとした人物はいますか?

441日本@名無史さん:2010/08/10(火) 21:27:32
>439
江戸時代初期は、庶民の駕籠利用は禁じられてました。
が、実際は利用されてたらしく、度々禁令が出されてます。
元禄十三年(1700年)に正式に許可されてからは、庶民も公然と乗れるようになりました。
料金は一律ではなく、距離、地形、速さなどで交渉により違ってきました。
江戸市中なら天保期(1830年〜)で、日本橋〜吉原(約4km)で800文が相場だったそうです。
現代の価格に換算すると、1両10万円として12500円とかなり高く、庶民がおいそれと乗れる物ではなかったようです。
宿場町での駕籠の場合、年代はわかりませんが、宿場町間を平地で100文、山地を1000文ほどだったそうです。
支払いは後払いだったようですが、詳しくは知らないです。

>440
いません。
442日本@名無史さん:2010/08/10(火) 22:26:06
江戸時代の風呂は庶民の娯楽のような印象がありますが
天皇や将軍といったやんごとなき人も風呂に入ってたんでしょうか
443日本@名無史さん:2010/08/10(火) 22:58:50
偉い人が風呂に入る時は自分では何もせずに、女性がお湯かけたり体洗ってくれる事になっていた。
その際に殿様のお手がつくという事がしばしば有った。暴れん坊将軍吉宗とかそうやって生まれた。
444日本@名無史さん:2010/08/11(水) 01:47:14
>>440-441
当時の中国(明朝)は海禁政策というのを採っていて、中国人が自由に海外に出ることが困難だった。
445日本@名無史さん:2010/08/11(水) 10:13:02
>>441-444
いなかったんですか。
と、いうことはその時代になると中国からの影響力は少なかったということでしょうか。

中国の藩国になる、というような思想をもって日本を統一しようという人物もいなかったんですか?
446日本@名無史さん:2010/08/11(水) 10:37:52
>>445
逆に訊きたい。その普通じゃない発想は何処から出てきたの?
447日本@名無史さん:2010/08/11(水) 11:43:46
448日本@名無史さん:2010/08/15(日) 01:25:05
402です(元は399へのレスだった)

>404
レス付いてたんだ... ごめん。

細かな作戦計画に従って、どこが囮をやってどこが伏兵に...
なんて形の、部隊単位の役割分担を実行するための訓練が存在しないでしょ。

複数の段に分担して構えておいて、
次ー、第何弾、何々隊、いけー
と順繰りに出動していくぐらいが限界。
あとは、別働隊ぐらいはあったか。

そもそも、大規模な軍隊が出る場合でもたいてい「後詰め」として、
その主流は敵を牽制するだけで必ずしも戦わない役割だったんだし。

>409
防衛機材の基本は空堀と土塁と、ときに柵・塀ぐらいだもんね。

>419
現在はともかく、過去には中国の古い元号をコピーした前例はあった。
もっとも、その時期のことを「(当時は)なにかと物狂いな事が多かったので前例にはならない」なんて言われてる時期の話だけど。
うん、あれだよ。後漢の光武帝の元号をコピーした、あの元号。
449日本@名無史さん:2010/08/15(日) 01:36:34
>429-430
統廃合を行ったのは平安時代初頭までだよね?
その頃はまだ、出羽や陸奥は南端か、南半分ぐらいしか制圧できていなかった。
制圧といっても、拠点的な都市に城柵を構えて統治拠点にしてただけで、
郡などの設置さえできていない。領域的統治には至っていない。

無知や出羽を本格的に統治できるようになった頃には朝廷の統治能力は落ちていて、
国や郡の統廃合を実行に移す力が無くなっていた。

>431
人口密度は兎も角として、山陰より山陽の方が細切れな気がする。
山陰地方は、朝鮮半島や中国との往来が活発だった平安初期までは、
他の地方よりも栄えていたんじゃないのかな。それで細切れ。
山陽の方はまったく理由不明。

>432
中国地方の国々のうち、兵庫県だけ1県4国だよ。
その4国のうち、2国半は中国地方、1国(島)は四国地方(南海道)、残り半国が畿内だ。

>433
細切れの筆頭は大阪だろ
香川県と最下位争いを続けたほど狭いのに、あれで2国半だ。摂津の半分と河内と和泉。

>434
いや、国司となったときの収入が多くて人気のある国のリスト上位に含まれてるよ
技術的先進性からか、面積の割に、国司の実入りが良かったらしい。
450ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/08/15(日) 13:53:45
大内が明に朝鮮は自分のだぞーって言ったとか
言わなかっとか。
451日本@名無史さん:2010/08/15(日) 14:46:03
>>440 >>445
中国王朝からの援助といっても、あんまあてにならんと思うんよ

陸続きの半島ならともかく、海を越えての援軍派遣なんてまずありえないし、戦国時代の明王朝はもう衰退期に入っててまずもって無理

かといって、冊封を受けて日本国王の肩書もらったところで、どれ程の日本人がその肩書になびくか

九州に割拠していた南朝方の親王が日本国王に冊封されたことがあるけど、その肩書のもとに人々が集まった形跡は殆どないから、日本統一目指して戦い抜くのにはあんま役に立たなさそう
452日本@名無史さん:2010/08/15(日) 21:01:46
>448-449
ググっただけの浅薄な知恵で無駄なレスする必要はないから
夏休みで暇なのだろうが高校生の感想文を書き込むことがこのスレの趣旨では無いという
程度の良識は持ち合わせてね
453日本@名無史さん:2010/08/17(火) 15:33:35
>>452
たかが2ちゃんで何言ってんだお前?
454日本@名無史さん:2010/08/18(水) 20:19:58
なにか自説を否定された感じで逆ギレした厨房じゃないか?
455日本@名無史さん:2010/08/19(木) 03:25:06
どこで聞いてよいかわからず、もしもスレ違いならすみません。
明治天皇遙拝所について知りたいのですが、
(グーグル先生には聞きましたw)
どうしたらいいですか?
456日本@名無史さん:2010/08/19(木) 22:32:30
遙拝所は天皇が神仏を拝んだ場所。
明治天皇が神仏を拝んだという遙拝所は全国各地にあるけど
遙拝所の何を知りたいの?
場所?
457日本@名無史さん:2010/08/19(木) 23:26:10
明治天皇遙拝所って、
明治神宮に行けない人が、
行ったつもりで拝むところ、
って、グーグル先生に習ったのですが、
それはつまり、神社と見ていいのかな?と思ったんです。
神社ではないとしたら、何だろうかな?と。
458日本@名無史さん:2010/08/19(木) 23:28:06
>>452
こいつ舞踊っぽいwww
459日本@名無史さん:2010/08/20(金) 00:09:24
>>457
明治天皇の事は知らんので別として。遥拝所は神社で良いんじゃないかね。いわゆる神社は本殿と
拝殿からなっていて、神様は本殿に居る。人が拝む所が拝殿。神様のトコまで遠くて行けないけど、
此処から拝みますってのが遥拝所でしょ。イスラム教のモスクと一緒だ。
460日本@名無史さん:2010/08/20(金) 01:57:07
>>459
ありがとうございます。
日本人なのに、モスクの説明で腑に落ちましたw
神社と同じだから、おろそかにはできないですね。
461日本@名無史さん:2010/08/20(金) 02:26:39
モスク=遥拝所はいいんだけど、御旅所・山車・神輿がむずいな
462日本@名無史さん:2010/08/21(土) 06:58:34
井伊さんと伊井さんて、先祖はどっかで繋がってるんでしょうか?
463日本@名無史さん:2010/08/21(土) 11:43:43
中世の町にあった飯屋では、客が来たときに時間がたって冷めたご飯をどのように温めて出していたんですか?
464日本@名無史さん:2010/08/25(水) 12:14:43
「天皇は牛車には乗らない」と風俗博物館のサイトに書いてあり、
何かの本でも読んだ記憶があります。
でも車折神社の由来や、各地の御車返しの桜の由来などでは、
○○天皇が牛車で御幸されたおりに〜という場面が語られています。

二条天皇や花山天皇の、偽装して牛車で御所脱出とかは別として、
天皇でもふだん牛車使うことがあるんでしょうか?
465日本@名無史さん:2010/08/25(水) 22:42:10
>>464
天皇が儀式や社寺に出掛けるために内裏から外へ出る「行幸」は
大勢お供を連れて「輿」に乗って出かけるのが常識だったみたい。
牛車はかなり乗り心地が悪く、乗り物酔いする人も多かった。
人が担ぐ輿のほうが乗り心地も良く牛車より上の乗り物であったらしい。
輿の簾を開けて、通行人たちが天皇の顔を拝むのも一つのみものだった。

花山天皇、二条天皇、後醍醐天皇らが脱出に牛車を使ったのは、
天皇であることがばれては困るためで、あえて天皇が載る輿に乗らず、
女装をして女車に乗って脱出したはず。
466日本@名無史さん:2010/08/26(木) 10:58:54
>>465
レスありがとうございます。
×御幸→○行幸のほうが正確ですね、すみません。

私も天皇は「輿」だと思ってたんですけど、社寺の由来などに
天皇の車、というのが登場するので、どうなのかなと。
上皇になってからのお出かけとかなら「車」で納得なのですが。
467某マンガのネタ:2010/09/01(水) 13:08:06
質問です。
「信長は甘党で下戸だった」そうですが、その出典は何でしょうか。信長公記?
468日本@名無史さん:2010/09/01(水) 14:49:07
茶会が好きだったのと、茶菓子の贈り物を受け取っていることが甘党の根拠だろうか。
少年の頃に、干し柿を携帯食として持ち歩いていたというのも当たるんだろうか。
469日本@名無史さん:2010/09/01(水) 15:02:34
元亀二年に家臣達に金平糖を配ったとか・・・
470日本@名無史さん:2010/09/01(水) 18:04:09
>「信長は甘党で下戸だった」そうですが、その出典は何でしょうか

フロイスが酒をあまり飲まないと書き記しているし同時代に書かれた複数の史料にもそういう記述がある
甘党というのは初耳そんなことを書いている史料は恐らく存在しないと思う
471日本@名無史さん:2010/09/02(木) 18:43:43
砂糖自体が希少すぎて
当時甘党なんて概念なかったろ。
干し柿好きなら甘党と呼ばれたとか?
472日本@名無史さん:2010/09/02(木) 23:29:52
質問です。
「チャングム」見て気になったのですが、日本で天皇の御膳や宮中の宴会の食事を作った部署は
どのくらいの規模で明治まで続いてたのでしょうか。
大膳職、内膳司、大炊寮というのは検索で見つけたのですが、
こういうところで女官・女嬬が働くことはあったのでしょうか。

王朝の女官というと=女房になってしまって、後宮外の女官(に限らず下級官僚)の採用方法や
生活・人数などがわかる書籍などご紹介いただけないでしょうか。
473日本@名無史さん:2010/09/03(金) 08:42:14
>>472
奈良時代の頃だと釆女なんだけどねぇ。平安時代に廃れたらしい。
これについてはwikipediaを見てください。
474日本@名無史さん:2010/09/03(金) 11:41:51
>>466
「車折神社」のこと?
あれは後嵯峨「上皇」ですね。
後嵯峨天皇は23歳で即位、27歳で退位していて
在位はわずか4年、以降53歳で没するまで上皇の期間が長かった。
嵯峨離宮(現在の大覚寺)を好んで住んでおり、
洛中と嵯峨離宮を行き来し、川で舟遊びをしたりしたようです。
もっとも、「車折」の由来となったのは後嵯峨ではなく
別の貴人だと言う説も。
475日本@名無史さん:2010/09/03(金) 17:43:50
>472
そもそも後宮という制度が定着してない。ので、女官はみんな「後宮外の女官」じゃないの?
採用はほぼ縁故だと思う。
「蔭位の制」関係とかじゃないの?

もっとも。
たいていの役職は「家業」状態で、特定の一門に産まれた者以外は就任が困難だった。

試験による選抜、公募のような制度は律令時代に一時的にあったものの、
平安時代半ばまでにはほとんど廃れたと思う。

平安時代の途中ぐらいには、下級官僚の給与を廃止する制度まで出現する始末だった。
476日本@名無史さん:2010/09/03(金) 22:33:38
古代からの豪族「平群」「巨勢」など、奈良時代は朝廷の中心にいた氏族は
いつのまに廃れたんでしょう?
ずっと重臣の家系として残ったのは中臣→藤原氏くらいですよね。
477日本@名無史さん:2010/09/03(金) 23:23:55
そのあたりの奈良系豪族は、
藤原京から遷都された際に、遷都を主導した藤原氏にふるい落とされたのですよ。
478日本@名無史さん:2010/09/04(土) 06:23:38
平安朝初期の下級貴族(国司とか)だと、結構氏族的にはバラエティに富んでいるけど、そのうちいなくなっちゃいますね。
重臣とはいえないけど、何とか生き残ったのが紀と菅原くらいかな。
479日本@名無史さん:2010/09/05(日) 17:48:17
関が原にて、島津軍は敵中突破の後、どのようルートで薩摩まで帰ったんでしょうか?
それと、東軍は長い距離を逃げる彼らを、所々で関所を張るなりして捕まえようとしたりしなかったんでしょうか?
480日本@名無史さん:2010/09/05(日) 22:12:14
失礼します
【wktk】韓国経済ワクテカスレ 303won【イランところに半田付け】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/asia/1283121246/
こちらのものなんですが

366、370、381、386、393、397

天皇の御璽や国璽に関する議論を有意義な結果を出せる場所に誘導したくこちらに書き込んだ次第です
韓国の国璽のニュースも絡んでいるのでまったくのスレ違いではないのですが
481日本@名無史さん:2010/09/05(日) 23:56:32
>>473>>475
レスありがとうございます。
朝廷の力が減退しても延々と上から下まで世襲する人材がいたというのも凄いですね…。

>平安時代の途中ぐらいには、下級官僚の給与を廃止する制度まで出現する始末だった。

これはひどいw
482日本@名無史さん:2010/09/06(月) 01:53:11
質問します。
ものすごくうろ覚えなんですが、鬼とか呼ばれてた女が自分たちを討伐に来た男と戦ったらその男に惚れちゃって、結局くっついちゃった……
と言う感じの逸話に心当たりはございませんか?
昔に一度見たきりなので名前も思い出せないんです……
よろしくお願いします。
483日本@名無史さん:2010/09/06(月) 03:12:52
>>482
「うる星やつら」じゃないか?いや、冗談です。
484日本@名無史さん:2010/09/06(月) 05:04:59
うる星やつらの一挿話だよ
485日本@名無史さん:2010/09/06(月) 05:57:10
>>482
「うる星やつら」だろ
486日本@名無史さん
>481
>朝廷の力が減退しても延々と上から下まで世襲する人材がいたというのも凄いですね

それぞれの職務に就くための技術教育、人材養成の機関が無くなったので、
世襲する家に生まれないと(もしくは養子入りか)技能教育を受けられなかったしねえ。

逆に、人材不足ゆえ、一定レベルでの「実入り」はあった。正式な給与の代用として。
これを賄賂とか横領とか、現代的な感覚で呼ぶのはよろしくないだろう。