【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その10
1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 10:35:40
なんで誰もたてねーんだよ。1乙
立てようとしたけど前スレの水銀厨のgdgd議論に嫌気が差したw
いちょつ
4 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 16:24:38
>>1、乙。
いやあ毎度毎度立てようとはするんだが、もうずうっとスレ立て規制にかかっている(p2でも無理)
で、早速ネタ投入と言うか教えてちゃんなんだが…w
今の今まで古代日本に殉葬の風が確認された事例なんかないと思っていたんだが
(”可能性”と言うレベルは別にして)
『邪馬台国時代のツクシとヤマト』学生社 に柳田康雄氏がまとめた 「九州前方後方墳一覧表」 が載せてあって
そこの 峠山1号墳(筑紫野市針摺峠山) の殉葬墓に副葬品として破鏡・鉄鎌・小玉が出土とある。
はっきりと「殉葬墓」と書いてあるんだが何某かそれを確定するような材料があったのか?
情報知る人がいれば教えて欲しい。
もし本当に殉葬の風が見られると言うのであれば九州説にとって結構な材料になるかも知れんしwwwwww
5 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 17:10:12
6 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 17:29:16
>>4 垂仁28年、倭彦の葬儀で禁殉死の詔あり。つまり、それまでは殉死って風習は
ついぞなかったということですわな。
▼垂/二八(己未前二)十一月丁酉《 二》・十一月丙申朔丁酉
葬倭彦命 于身狹桃花鳥坂。於是 集近習者、悉生而埋・立 於陵→域。數日 不死。晝夜 泣・吟。遂死 而爛・臭之。犬・烏/聚、噉焉。
天皇/聞此(泣・吟之聲)、心|有\悲・傷。詔羣卿 曰
「夫 以(生|所愛) 令殉亡者 是 甚傷矣。其/雖古風之 非良 何從。自今以後 議之、止殉。」
7 :
岡目:2010/01/23(土) 19:04:10
>>6 >垂仁28年、倭彦の葬儀で禁殉死の詔あり。つまり、それまでは殉死って風習は
>ついぞなかったということですわな。
ん?逆ではないんかいな。其/雖古風之 非良 古くからある風習であると言えども良いことではない
と言うていますじゃん。
>>5 「洋一郎容疑者」という言い方、何とかならんか? 韓国寄りの農学者でしょ、この人は。
9 :
日本@名無史さん:2010/01/24(日) 00:09:05
>>4 九州説ってなに?
マキムク遺跡九州説ってのがあるの?
10 :
水銀厨 :2010/01/24(日) 00:16:59
乙です。
>>3 脱線話ばかりするからだよ、続きならいつでもいいよw
>>5 「BC10Cより前の朝鮮の炭化米」ってどこにあるの? 出土しているのか、そもそも。
12 :
4:2010/01/24(日) 10:13:23
>>4は質問がピンポイント過ぎたかも知れんスマヌwwwww
まあご存知の方がいたら是非御教示をと…
でも纏向スレもこれで10に入るわけだけど
纏向遺跡をヤマト王権揺籃地のそのものの現場と言うのはチョッと違うんじゃないかと言う気がしている。
「纏向は結果であってプロセスではない」と…
前のスレに「纏向の前にワンクッション置くべき」たら何たら言ったんだが
例えば大阪城を見て秀吉の天下平定のプロセスを読み解くにも限界があるやん?w
双六で言えば「上がり」の場面と言うか
数学の問題で方程式の最終的な解だけ見てもそれを解く方法は分からないというか
権力構造の総仕上げと言うか…
このスレの大方は九州邪馬台国東遷説なんか支持していないと思うがw
じゃあ北部九州以外だったら上手く行くのかと言えば大同小異だろうと言う気がする。
例えば吉備と出雲が幕末の薩長のようにヤマトに乗り込んできたとしてもw
それであんな特異な遺跡を作る必然性は生まれないと思う。
「だったら纏向を作った主体はあくまで奈良盆地の人々と考えるのが(比較的に)無理がない理屈」
…と言う自生説ともとられかねないのが持論なんだけどwwwwwwwwww
13 :
水銀厨 :2010/01/24(日) 10:20:49
巻向の主体は奈良盆地と都祁・宇陀の山の勢力ですよ。そこに
瀬戸内・阿波の勢力がやって来た状態でしょう。
唐古・鍵遺跡が邪馬台国で、そこに多数の西日本の勢力が参入して新たに卑弥呼を
倭の女王として共立、王都として纒向を建設した。吉備と尾張の勢力が主導して、
吉備は九州担当、尾張は東国担当で小国のネットワークづくりや監察制度づくりを
したんじゃないだろうか。「倭国大乱」は、唐古・鍵とか吉野ヶ里の段階なのでは?
>>14 もう少し考古学の成果を絡めて頂ければ。
マキムク王権の成り立ちを考えるにあたって、出現期の前方後円墳(いわゆるマキムク型)を
どう捉えるか?なんだよね。
吉備東遷説の近藤は箸墓を最初として論を組み立てていたが、それが箸墓以前、庄内期のマキムク型の
存在で霞んでしまった観がある。
16 :
日本@名無史さん:2010/01/24(日) 15:22:24
今のところ前方後円墳の祖としては播磨の西条古墳群・西条52号墓とかなのかな?
阿波の萩原は木槨・礫槨の作りからしてホケノの兄弟的な関係かな?
(まあ正確には突出部付円墳なのかもしれんが)
ただ両方とも更にその元は吉備からかも…と考えないでもない。
(萩原の場合は、吉備→讃岐→阿波と言う伝播ルートで)
吉備って様々な古墳の形の実験場みたいな印象を持っているwwwwwwww
前方後円墳のプロトタイプがとりわけ多い地域は播磨だと思うよ。
流れとしては、阿波讃岐の勢力が播磨に進出してきたところに吉備の文化と
出会い、纒向へって流れだと思う。
18 :
水銀厨 :2010/01/24(日) 18:59:40
おそらく巻向遺跡の少し後の時代のものだが、
秋津遺跡を見学してきた。
遺物は韓式系・東海・北陸山陰・瀬戸内東部の土器が
多量にあったみたいだね。
後はフイゴの羽口や鉄さいといった鍛冶用具、
銅のやじりや馬の歯なんてものもあったよ。
寺沢センセは「薩長土肥」になぞらえて「筑備播讃」というとるね。
>>20 安本センセは最初から結論が決まってるからツマンネ
寺沢の説ってのは、大和がしょぼくて、吉備や讃岐、播磨、筑紫が大挙して押し寄せ、
マキムクを建設したってこと?
なかなか飲み込めない仮説だなあ。
播磨・讃岐までは了解できても、吉備・筑紫は布留0以降という感じがするのだが。
これはまあ、三角縁に先行する画文帯の出土分布を重要視してるんだが。
画文帯は吉備で殆ど出土しない。そもそも吉備にマキムク型前方後円墳あったっけ?
あとこれは個人的な感覚だが、筑備播讃みたいな合議制で、遥か遠くのマキムクに都という発想、冒険が出来たのか?
という疑問がある。全国政権を経験すれば、明治維新の時みたいに「中心を押さえねば」みたいな感覚が生まれるだろうけど。
遠隔地から統治しようとすれば、文字を使用できる官僚機構の整備が必要だが、
3世紀の倭国にそのような代物があったとは思えない。ていうか、文字使用の痕跡すら殆ど出てこないし。
各拠点の首長たちがオウの元へ集住し、直接仕えたってのがこの当時の政治体制だろう。
23 :
22:2010/01/24(日) 23:53:14
私は個人的には、吉備楯築の古墳造りの思想が、阿讃播を経由して、大和に伝わっただけだと思う。
ここでいう大和とは大和川流域、大和+中河内あたり。
吉備で楯築のように、首長権力の高まりが大和でも同じように起きたというだけ。
これが倭人伝でいうところの邪馬台7万戸の正体で、大和川上流に石塚以降纏向型前方後円墳を築いた。
その後、布留0に画期があって、吉備、丹波、越、東海あたりが参加して倭国連合が生まれる。
24 :
水銀厨 :2010/01/25(月) 00:03:20
>>23 私は全く同意見です。巻向に筑紫勢力の影は薄いでしょう。
あくまで交易の為に来てた位でしょう。
河内勢力も見逃せません、ここは弥生中期の水害で
相当やられてるはずなので、大和に移動した集団も
相当いるのではないですかね。
河内南部は遺跡もまだまだ埋もれて(消失して?)いるとみます。
河内とは、弥生時代はともかく、
古墳時代初期はやや敵対していたんじゃないのかね。
近くとの争いを有利にするために遠くと同盟するのは基本的な戦略だし。
挟んだ関係なのがいいので、播磨、讃岐とは友好的な付き合いをしたいでしょう。
26 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 14:46:20
播磨、河内、紀伊は大阪湾型銅戈が出るから、
少し前までは同じ文化圏だったはずなんだけどねえ。
庄内式をみると河内と大和は結び付きが強くなってるね。
>>28 紀伊はともかく、播磨には河内とほぼ同時期の地場産庄内があるだろう。
30 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 23:11:09
>>22>>23>>25>>28>>29 大阪湾型銅戈は使用痕跡が全くなく、埋葬されたもの。
だから首長レベルの強い結び付きが想定できる。
庄内式は土師器が便利だから普及したという面もある。
文様の共通性があっても、特殊器台ほど政治的な意味合いを想定できない。
だから同じ質の繋がりを想定するわけにはいかないよね。
32 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 21:50:20
>>22 >寺沢の説ってのは、大和がしょぼくて、吉備や讃岐、播磨、筑紫が大挙して押し寄せ、
>マキムクを建設したってこと?
>なかなか飲み込めない仮説だなあ。
同感。
マキムクの搬入土器は、筑紫も含め九州はほんのわずか。
それにくらべ東海系土器はたいへん多い。
そこをどう説明するの?って、これ当然の疑問だろうけど、そういう疑問が湧くよ。
33 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 21:56:20
まあ15年以上昔の説だからね>寺澤説
今では吉備主体だとは、本人も思ってないかもしれない
34 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 22:03:12
と言うか寺澤にしても奈良盆地に多くの集落郡があったことは認めているはずで
やはり纏向の出現とそれらの集落の解体とをリンクさせて考えているんだろうか?
「老教授」にしてもそうだったと思うが個人的に懐疑的なのは
盆地の集落が纏向を建設する為にまるで新地にするが如く解体させられたかのような論調で語られるところだな。
環濠集落の解体はそれ自体が歴史の必然で
纏向の勃興とは基本的には直接的関係は無いんじゃないかと思う。
自身の権力を意識しだした首長は環濠集落の中にあって「お山の大将」をやっているだけでは足らず
集落をでて豪族居館のようなものを築く。
そうして環濠集落は解体されていき
畿内ではムラの中心で打ち鳴らされマツリの祭器であった銅鐸は省みられなくなる。
(”聞く銅鐸”の終焉)
埋葬文化を共有する事により首長同士の連携連帯を図り
ローカル連合体の更に統合されたものとしてヤマト纏向を中心とした連合体ができる。
・・・と言う認識なんですがどうでせう?wwwwwwwwwww
銅鐸については、荒神谷や加茂岩倉で出た畿内型の出所を
どう考えるかによってずいぶん変ってくるかと。
阿波や京都と同笵のものが含まれていた。
狭い意味での「祭器」で本当にいいのかどうか。
鏡のような流通を想定する必要があるのではないか。
36 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 08:38:30
見る銅鐸は権威の象徴、レガリアとして機能してたでしょ、たぶん。
で、製作地の中心が唐古鍵で、大和の銅鐸は埋納ではなく破砕されて再利用されたため残らない。
鋳型も石から粘土になって痕跡が残りにくい。
37 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 17:39:23
(秋津遺跡速報)
■巨大祭祀施設の塀跡出土 御所市の秋津遺跡
1月20日21時18分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100120-00000600-san-soci 奈良県御所市の秋津(あきつ)遺跡から、4世紀前半の前例のない構造の塀跡が見つかり、県立橿原考古学研究所が20日、発表した。
分厚い板と丸太を組み合わせた堅牢(けんろう)な造りで、豪族の巨大な祭祀(さいし)空間を方形に囲っていたとみられる。
遺跡は5世紀以降に古代豪族・葛城氏が支配した葛城地域にあり、研究所は「初期大和政権(3世紀後半〜4世紀中ごろ)期に、葛城地域にも一大勢力が存在したことを裏付ける初めての資料」としている。
遺構が出土した塀は、その形状から、大阪府八尾市の心合寺山(しおんじやま)古墳(5世紀前半)で見つかった「囲形(かこいがた)埴輪」のモデルになったとみられ、実物の存在が初めて確認された。
塀跡は南北に3基分が出土し、北側から(1)東西30メートル、南北14メートル(2)東西40メートル以上、南北18メートル以上(3)東西23.5メートル、南北3メートル以上。
いずれも幅約20センチの溝の両脇に、一対の柱穴が1.8〜2.6メートル間隔で見つかった。
溝とほぼ同じ厚さの板を並べ立てて横木で固定し、両側を丸太で補強したと推定される。塀の高さは2メートル前後とみられる。
2基の塀跡の内側からは、塀とほぼ同時期の掘立柱建物が2棟ずつ見つかった。出土遺物は馬の歯など祭祀用の品が全体の6割を占めているという。
(つづく)
38 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 17:41:32
(秋津遺跡つづき)
秋津遺跡は、葛城山と金剛山の東麓に広がる扇状地帯の平地。
葛城氏の始祖、葛城襲津彦(そつひこ)が被葬者とされる前方後円墳、宮山古墳(5世紀初めごろ、238メートル)から北東約1キロと近く、詳細が不明だった4世紀の葛城地域(御所〜葛城市)を知る重要な資料になりそうだ。
現地見学会は24日午前10〜午後3時。
■和田萃・京都教育大名誉教授(古代史)の話
「外から見えないように遮蔽(しやへい)された祭祀空間だろう。巨大で手が込んでいる。
これまで知られていなかった葛城氏の初期の拠点と考えられる。
4世紀前半の大和盆地に、“東の纒向(まきむく)、西の葛城”の二大勢力があったことがはっきりした。
葛城氏が王権と対等な力をつけていく背景を知る手がかりになる」
■葛城氏 葛城襲津彦(4世紀後半〜5世紀初めごろ)の娘・磐之媛は仁徳天皇の皇后で、履中、反正、允恭の3代の天皇の母。
大阪・河内地方に巨大な前方後円墳を造営した古墳時代中期(5世紀)の王権を支え、絶大な権力を持った。対朝鮮外交で力を蓄えたといわれるが、実態は謎に包まれている。
拡大写真
古墳時代前・中期の秋津遺跡。柵を両側の柱で支えていたと見られる跡=20日午前、奈良県御所市(甘利慈撮影)(写真:産経新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100120-00000600-san-soci.view-000
39 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 17:53:16
>>37-38 >出土遺物は馬の歯など祭祀用の品
…これって4世紀に既に大和に馬がいたと言う事なんだろうか?
もし4世紀の前半でかなり早い時期となると馬匹文化の広がりの時期も大きく修正される事になるんだろうか?
>4世紀前半の大和盆地に、“東の纒向(まきむく)、西の葛城”の二大勢力があったことがはっきりした。
この話は良く「連合体なんてありえない」と言う九州説論者、特に東遷説論者に良く言ってたがw
馬見古墳群とかの在り様を見れば崇神の代に全国をほぼ統一どころか、お膝元もお膝元
奈良盆地南西部にもヤマト王権に拮抗するような勢力があったことがうかがい知れるんだよなwwww
まあその事の材料が新たに出てきたってところかな?
40 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 18:09:17
おいおい、とんでもないものが出てきたな
東遷説や九州説の連中は例によって無視するんだろうが
これはヤマト連合説にとっても、大きな転換ポイントになるぞ
こうやって新たな発見によって、自説を修正し
より真実に近づいていく醍醐味を彼らにも味わってほしいものだ
41 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 18:19:22
つjまり、4世紀には、まだ大和はばらばらだったってことね。
42 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 18:45:47
>>41 そうとは限らない
秋津遺跡の勢力が葛城氏なのかどうかは置いといて
唐古・鍵のように積極的にマキムクに参加したのかもしれないし
芝遺跡のように相当あとになってからなのかもしれない
いずれにせよ奈良東南部の開発には、地元の大和の関与が薄いとされるのが
寺澤などの考えであったが、大きく修正を迫られることになる
43 :
水銀厨:2010/01/28(木) 21:30:09
秋津遺跡は構造物の向きは巻向と違うというのもミソですね。
後巻向と同様東海・日本海側の土器も多いです。
>>42 >いずれにせよ奈良東南部の開発には、地元の大和の関与が薄いとされるのが
>寺澤などの考えであったが、大きく修正を迫られることになる
どうして?
古墳時代初期の葛城にそれなりの勢力があったと考えない人はいないし、
これだけじゃ初期古代古墳に関与したのかどうかはっきりしない。
囲形埴輪の原型じゃないかどうかって議論は面白いと思うが。
導水設備は確認できないのだろうか。
ただこれを祭祀設備と言い切るのはちょっとまずいと思うな。
堀がちょっと立派ってだけでしょ。
45 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 21:46:57
まあ葛城氏ってのも良く分からん氏族だなw
確かに日本史の中でもっとも権力を持った時期は
>>38にあるように河内朝での事なんだが
前スレでも挙げた「多鈕細文鏡」をもって弥生末期、既に半島からの鏡の入手ルートを確保していて
葛城氏自体が帰化系という話まであるらしいw
ただこのスレの趣旨で纏向との関係で言えば
庄内期の前方後円墳が葛城にあるわけでもないので
あくまでも崇神朝を支えたNo2の地位だったのだろうか?wwwwwww
>>43 穴師山の方向いてるらしいよ。
宇陀じゃないらしいw
47 :
水銀厨:2010/01/28(木) 21:52:55
方形の池と導水施設は確認されてるよ。
古墳時代初期なら、豪族居館に祭祀施設が付随した形だと思えるが、この原葛城氏と考え
られる勢力が、前方後円墳の祭祀に同調していたかまではなんともいえないな。
特殊器台が初期で、囲形埴輪はかなり遅れるのだから、
初期に葛城は加わってなかったと考えるのが、
現時点での発掘成果に対してより自然では?
>導水施設
良く「水に関る祭祀の為…」と言う話は聞くが
実際のところ、どのような祭祀が行われていたか
具体的なイメージってあるのかな?
まあ纏向遺跡で太陽信仰と言われてもいまいちピンと来なくて
もしろ纏向と言えば「水」のイメージなんだがw
三輪と言えば「上手い水」「上手い酒」で
あと清浄な水は医療・健康、ひいては薬や治癒のイメージにも繋がるのかな?
現在の三輪明神でも毎年4月には全国の製薬関係の人間が集まっての祭りがあるとか…
いまや巻向遺跡は、三輪山じゃなくて、
巻向川一帯の扇状地が中心なんじゃないですか。
三輪山に関係する遺物、遺構がまったく出てこない。
54 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 22:28:18
(産経新聞論説)
■考古学を一変?「卑弥呼の鏡は日本製」 桜井茶臼山古墳の波紋
1月22日12時58分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100122-00000536-san-soci 初期大和政権の大王墓とみられ、国内最多の81面分の銅鏡が発見された桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市)の調査成果が、考古学界に思わぬ波紋を広げている。
これまで“最高級の鏡”として君臨してきた三角縁神獣鏡が実はBクラス向けで、逆に注目度の低かった国産の大型内行花文鏡に脚光を当てる説が浮上したからだ。
出土枚数や技術面がその根拠となっているが、果たして三角縁神獣鏡は、主役の座を明け渡すのか−。(小畑三秋、川西健士郎)
■権威の象徴にあらず?
「古墳研究は、三角縁神獣鏡をピラミッドの頂点として進んできたが、最も重要な鏡は国産の大型内行花文鏡。発掘成果は、学界を二分する議論を起こすだろう」。
調査を行った奈良県立橿原考古学研究所の菅谷文則所長はそう言い切る。
古代の鏡は姿見用ではなく、権力者の権威の象徴だった。故に鏡は「古墳研究の華」ととらえられ、中でも、不老不死を願う中国の思想をモチーフに、神を精巧に表現した三角縁神獣鏡は最高峰に君臨してきた。
各地で出土した三角縁神獣鏡には、邪馬台国の女王・卑弥呼が中国の王朝・魏に朝貢した「正始元年」(西暦240年)と記されたものが含まれる。
学界では魏志倭人伝の記述をもとに、三角縁神獣鏡こそ卑弥呼が魏の皇帝から下賜された「銅鏡百枚」で、国内を統治するため各地の勢力に配った−というのが、50年来の定説となっていた。
(つづく)
55 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 22:29:24
(産経新聞つづき)
これに対し、菅谷所長は、三角縁神獣鏡が東日本以西の全国の古墳で出土している点を踏まえ
「最も容易に入手できた鏡で、中央政権の中でもワンランク下や地方の勢力向けのものだった」
と主張。大王墓の桜井茶臼山古墳で出土した鏡81面分のうち、三角縁神獣鏡が約3分の1の26面分にとどまった点もその根拠としている。
■「大型」に着目
内行花文鏡は半円を組み合わせた単調な文様で、これまで研究者の間であまり重視されなかった。しかし菅谷所長は、大型で高い製造技術を要するが、10面文が一度に発見されたことなどから、
「初期大和政権では、国産の大型内行花文鏡こそが権威の象徴だった」
と推測する。
対して、福永伸哉・大阪大大学院教授(考古学)は「三角縁神獣鏡の重要性は揺るがない」と主張。魏志倭人伝の「銅鏡を国中に示せ」との記述に着目し、
「三角縁神獣鏡は26面しかないというが、権威の象徴として地方に配るものであり、中央で抱え込んでいても意味がない」
と指摘する。
■大陸情勢で価値変化か
一方、小山田宏一・大阪府教委文化財保護課主査は内行花文鏡の価値を大陸の情勢と関連づけて考える。
卑弥呼が朝貢した3世紀前半の中国は「三国志」で知られる魏・呉・蜀(しょく)の時代だったが、桜井茶臼山古墳が築造された4世紀前後は西晋(せいしん)王朝に代わり、内乱が絶えなかった。
(つづく)
56 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 22:30:45
(産経新聞つづき)
小山田主査は
「卑弥呼の時代は強大な中国の権威を国内統治に利用できたが、中国の内政悪化で影響力が低下すると、倭国王は独自に権威の象徴を創出する必要があった」
とし、
「その象徴が国産の内行花文鏡。鏡の国産化政策を推し進めた人物こそ桜井茶臼山古墳の被葬者だ」
と指摘。この段階で国産の内行花文鏡が主役となり、新時代の幕が開けたという考え方だ。
果たして、大和政権は国内をいかに統治したのか。2種類の鏡には、国家誕生の謎が秘められている。
◇
桜井茶臼山古墳の出土品は31日まで、奈良県橿原市の橿原考古学研究所付属博物館で展示されている。
◇
【用語解説】
「三角縁神獣鏡」と「大型内行花文鏡」
三角縁神獣鏡は直径20センチほどで、外側の縁が三角形であることから名づけられた。
国内で400面以上見つかっているが、中国ではほとんど確認されておらず、卑弥呼が中国から下賜されたものではなく、日本製との説もある。
内行花文鏡は、花びらを表す半円を内向きに配置した文様が特徴。中国製は直径15〜20センチが多いが、日本製の大型は直径35〜45センチ。
拡大写真
桜井茶臼山古墳の大型内行花文鏡の破片(写真:産経新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100122-00000536-san-soci.view-000
57 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 23:03:24
内行花文が脱中国の象徴というのは面白いな。
葛城の発掘成果から、奈良盆地さえも統一出来てない状況が明るみになってきたし、
やはり初期大王位は持ち回りで、都市国家群のリーダーという解釈が妥当なんだろう。
言ってしまえば、倭の五王も、南宋が強盛になり山東半島を掌握。倭国に圧力を掛けてきた、という説もあるし。
倭の五王にしてみれば、中国の王朝を無視すると、倭国内の他の勢力を倭王に任じかねず。
反乱を怖れて仕方なく朝貢したというのが実態かもしれん。
58 :
水銀厨 :2010/01/29(金) 13:21:44
国産鏡重要説は同意だね。
大陸・半島勢力は辰砂を欲しがって、東国勢力は
鉄・銅の素材や技術を欲しがったために交易地が
奈良東南部に出来たという事でしょう。
大和盆地からみて東西の入り口にあたる
墨坂山口神社が赤(辰砂)の楯・矛を
大坂山口神社が黒(鉄か金剛砂?)の楯・矛を
祀るのは象徴的な事ですよ。
59 :
日本@名無史さん:2010/01/29(金) 21:09:23
>>54 >故に鏡は「古墳研究の華」ととらえられ
まあ素人の俺が見ても鏡の論争は、もはや一つのジャンルと言うか
違った見方をすれば邪馬台国論争が考古学に与えた悪しき影響と言う気がしないでもないw
三角が舶載だろうが倣製だろうがもはや邪馬台国論争に関係なく
三角と内行花紋どっちが上位だったかと言う鏡の「ランク付け」にどれほどの意味があるのかとも思うww
そもそも本州四国の大型首長墓の登場には鏡の副葬が必ずしも伴っていない。
威信財とは言え古墳の構成要素の「ワン・オブ・ゼム」に過ぎないんじゃないかと思う今日この頃wwww
以前、水銀厨が水銀が貨幣の役割を担っていたと言う趣旨の事を言っていて、俺は
「おいおい、水銀の量はマネーサプライ(通貨供給量)的に問題ないんか?」
と思わず突っ込みそうになったがw
三角縁神獣鏡って実際に作られた数は下手すりゃ万のオーダーに乗るかも知れん訳で
その意味じゃあ三角を通貨の代わりとして考えた方が分有関係も意外と分かりやすい?…とか言ってみるwwwwww
61 :
水銀厨 :2010/01/29(金) 21:28:04
>>60 >その意味じゃあ三角を通貨の代わりとして
俺は国内では(鏡が)次第にそうなってゆくのではないかと
いう主旨を別スレでも書いたよ、プレ通貨価値。
水銀(というか辰砂の塊だな)は、あくまで
対外向けだろうと思う。
後世では大陸の思想浸透と共に国内需要も
増えると思うが。
首長同士の間でしか流通してないのに、通貨はないだろw
戦国時代の茶道具や舶来磁器みたいなもんだよ。
63 :
水銀厨 :2010/01/30(土) 00:55:55
しかし結果的に貨幣が無い時代においては
特定層の首長同士間の通貨になるんじゃないか?
一般流通しないだけで。
>>63 妄想ばかりしてないで、弥生時代の勉強くらいしろ。
65 :
水銀厨 :2010/01/30(土) 10:08:18
>>64 一応文献資料を作成する仕事してたんだけどな。
66 :
日本@名無史さん:2010/01/30(土) 10:34:21
67 :
日本@名無史さん:2010/01/30(土) 10:39:52
68 :
水銀厨 :2010/01/30(土) 11:01:07
2月に二上山博物館で講師橋本輝彦・石野博信両氏による
「邪馬台国発見か〜巻向遺跡の謎を探る〜」
という講演会もある訳だが、スレ住人は誰か行かないのかい?
まぁもう申し込みは間に合わないと思うが。
流通の方向に偏りがあるのに通貨とか頭悪すぎ。
70 :
水銀厨 :2010/01/30(土) 11:49:21
>>69 拘るね、勿論一般的な通貨価値として流通してる訳ないでしょw
ただ結果的にあまりに枚数が多いと、次第に通貨価値のような
扱いに変化していく過程になるのでは?という考え方に
過ぎないだけです。素材も銅だしね。
威信財の研究についてもっと学んだ方がいいのでは?
何千という枚数ならもはや威信財とは言えない。
73 :
水銀厨 :2010/01/30(土) 14:02:16
大体貨幣というのは本来宗教的意味を持つ事も
多いんだよ。三途の川の渡し賃として六文銭を
棺に入れる話なんてそのまんまでしょ。
鏡配布は宗教観の統一という価値交換の媒介であり、
価値の物差しと考えられるからな。
それが国産となると、貨幣的なモノと言えない事もない。
74 :
60:2010/01/30(土) 14:32:24
まあ、今の流れで三角を貨幣の代わりと言ったのは>60の俺なんだが…
従来の「威信財」と言う考え方なら、恐らく基本は上位のものから下位の者への分配
上下関係で無いとしてもかなり濃密な政治的結びつきのある者同士でやり取りされたって事になるんだと思う。
でも、もっとゆるく単に何某かの”見返り”として貨幣的に贈与されたんじゃないのか?って言いたかったんです、ハイwwwwww
75 :
60:2010/01/30(土) 14:36:53
ついでに言うと銅鏡に明確なヒエラルキーが存在し
ヤマトがそれをコントロールしたと言うような考え方にも疑問がある。
副葬品の鏡にそこまで序列をつけて統制するんだったら
古墳自体の形や大きさにもっと分かりやすい法則性が見つかるんじゃないかと…
ぶっちゃけ分かりやすい話、例えばヤマトの中にもありヤマト以西にも分布する前方後方墳
それの位置づけに関し、万人が納得するような説って無いやん?wwwwww
76 :
日本@名無史さん:2010/01/30(土) 15:15:03
通貨になるためには、いくつかの条件があって、その中に細分化できる、と
言うのがあったように思うのだが。
その点で、米や魚を買うときに鏡じゃあ不都合。
むしろ米の方が都合が良い。やはり鏡は、交易品つまり商品じゃなかろうか。
近畿地方辺りに大量に作る集団があって、各地で売りさばいていた。
裕福な豪族は、大量に買って墓の副葬品とした。由緒ある鏡を持たない
裕福でない人は、一つ買って大切にしていたとか。
>>74-75 銅鐸、銅剣、銅矛と違って、
銅鏡が見つかるのは首長クラスの墓ばかりだから、
それはちょっと無理でしょう。
>>76 鏡の配布は、畿内と違って大王クラスの古墳も結構発掘調査されている北九州で、
結構系統だった研究が行われているから読んでみれば? 例えば辻田淳一郎さんとか。
畿内は陵墓指定されていて発掘できないから、系統だった研究が難しい。
一番肝心のところが抜けちゃう。
銅鏡の大きさがヤマトによってコントロールされてたという説を福永が言っていたが。
で、平原の鏡の大きさが特殊で、反ヤマトだったのでは?と。
鏡の研究は、どうしても「初めてヤマトを中心に分布する舶載品」として重要視されるんだよな。
北部九州からヤマトへのポールシフト。
80 :
水銀厨 :2010/01/30(土) 17:38:39
>でも、もっとゆるく単に何某かの”見返り”として貨幣的に贈与されたんじゃないのか?
まぁ簡単に言うとそうでしょう。
鏡も国産鏡が増えて年代と共に(3世紀後半位から)価値が
次第に変化してゆくのでしょう。
製造地は河内・大和で銅は半島、もしくは銅鐸を用いようとした為、
一部で埋めて隠す意図があったと想定してみるが。
北九州の△縁は最初は地域の支配のみ。
徐々に小地域の支配者に。
83 :
日本@名無史さん:2010/02/02(火) 00:31:42
■【萌える日本史講座】鏡が照らす“卑弥呼の政権戦略” (1/3ページ)
産経新聞2010.1.31
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100131/acd1001311202009-n1.htm 女帝・卑弥呼をめぐる大発見のニュースが年明け早々、飛び込んできた。
奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳で、国内最多となる81面分の銅鏡の破片が出土し、卑弥呼が中国に朝貢した「正始元年」(西暦240年)と書かれたと推定される鏡1面分が含まれていた。
「正始元年鏡」の国内での出土は、今回を含めてわずか4面。桜井茶臼山古墳のほかは、瀬戸内海岸や東国などの古墳に限定される。
卑弥呼は、中国から下賜(かし)された正始元年鏡を重要拠点の勢力に与えて服従させた−。
わずかな鏡の破片から、卑弥呼のしたたかな政権戦略がうかがえる。(小畑三秋)
残り物にこそ“福”
「一度発掘したところをいくら掘り返しても、大したものは出ないのでは」
昨年初め、県立橿原考古学研究所による発掘調査が始まったころ、周囲の研究者から冷ややかな声ももれた。同古墳の調査は昭和24年に行われ、すでに鏡片数十点が見つかっていたからだ。
しかし、いざ掘ってみると、土の中から鏡片が出るわ出るわ−。計331点に上り、研究者の度肝を抜いた。
大半が数センチ大の破片だったが、なかでも正始元年鏡は、卑弥呼との関係をクローズアップさせ、まさに「残り物に福」が残っていた。
正始元年鏡といっても、実際に見つかった破片のどこを見ても、「正始元年」の文字はない。見つかった破片は2センチ足らずしかなく、「是」という1文字が確認されただけだった。
(つづく)
84 :
日本@名無史さん:2010/02/02(火) 00:33:12
(つづき)
■【萌える日本史講座】鏡が照らす“卑弥呼の政権戦略” (2/3ページ)
産経新聞2010.1.31
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100131/acd1001311202009-n2.htm この鏡片は本来、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)と呼ばれ、復元すれば直径20センチ以上になるはずだが、残りの破片はすべて盗掘などで失われた。
橿原考古学研究所がこの破片をコンピューターを駆使して3次元測量したところ、群馬県高崎市の蟹沢(かにざわ)古墳出土の「正始元年陳是作鏡…」と記された三角縁神獣鏡と、「是」の文字の形が完全に一致。
これによって、今回の鏡も本来は「正始元年」と書かれた三角縁神獣鏡であることが分かった。
歴史の証言者
「五尺の大刀二本、銅鏡百枚などを与える。持ち帰って汝(なんじ)(=卑弥呼)の国中に示せ」。
魏志倭人伝には、景初3(239)年に朝貢した卑弥呼の使者に対する、中国・魏の皇帝の言葉が記されている。使者は翌年の正始元年、下賜された銅鏡などを倭国(=日本)に持ち帰ったという。
卑弥呼は、中国の権威を帯びた銅鏡を各地の勢力に配布して国内を統治したことがうかがえ、その銅鏡こそが、桜井茶臼山古墳出土の正始元年鏡との見方が強い。
まさに、魏志倭人伝との結びつきを直接物語る歴史の証言者。
正始元年鏡が見つかったのは、大和政権中枢に位置する桜井茶臼山古墳のほかは、山口県周南市の竹島古墳▽兵庫県豊岡市の森尾古墳▽群馬県高崎市の蟹沢古墳−の3カ所で、いずれも当時の都・大和から遠く離れた地方だった。
近藤喬一・山口大名誉教授(考古学)は、この3カ所にこそ注目する。
当時の大和政権にとって、朝鮮半島や中国とのメーンルートは瀬戸内海だった。近藤氏は「瀬戸内海航路を確実に掌握するため、山口・竹島古墳の被葬者に正始元年鏡を与えた」と推測。
豊岡市の森尾古墳に副葬された点については 「瀬戸内海が使えなくなった場合、日本海航路を“保険”として確保するため」とし、「群馬・蟹沢古墳にあるのは、東国を押さえるためだった」と指摘する。
(つづく)
85 :
日本@名無史さん:2010/02/02(火) 00:34:43
(つづき)
■【萌える日本史講座】鏡が照らす“卑弥呼の政権戦略” (3/3ページ)
産経新聞2010.1.31
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100131/acd1001311202009-n3.htm そして今回、桜井茶臼山古墳で見つかった点について「地方に配布する立場にいた大和政権中枢部の人物が保持していたことが、ようやく証明された」と話す。
白熱バトル
わき上がる卑弥呼フィーバーとは裏腹に、「卑弥呼とは無関係で鏡は日本製」とみる研究者もいる。正始元年と記された鏡が中国で1枚も見つかっていないことなどが主な理由だ。
1月7日、桜井茶臼山古墳出土の鏡ついての発表が行われた橿原考古学研究所での記者会見。
「卑弥呼がもらった鏡の1枚に含まれるのか」という記者からの質問に対し、菅谷文則所長は「正始元年の鏡を見て、ただちに邪馬台国という単語が出てきそうだが、それに踊らされるべきではない」と強調。
「正始元年鏡は、倭国の使者が帰国してから、日本国内で作られたもの」とし、卑弥呼が下賜された鏡ではないとの自説を述べた。
桜井茶臼山古墳では、見つかった81面のうち三角縁神獣鏡は26面で、全体の3分の1だった。
「王者の鏡にしては数が少ない。三角縁神獣鏡の価値は、桜井茶臼山古墳の調査によって半減した」との意見も出始め、「何でも卑弥呼に結びつけて大はしゃぎするのは、ナンセンス」という研究者もいる。
これに対し、卑弥呼の鏡説を唱える研究者らは猛反発をみせる。
「三角縁神獣鏡に描かれた文様の変遷は、中国の出土遺物にみられる文様の変遷と共通している」と客観的な根拠を挙げ、「中国製は揺るがない」と反論。
「三角縁神獣鏡を中国製でないというのは、鏡をきちんと勉強していない証拠。荒唐無稽(むけい)な論理だ」と批判するなど、早くも白熱したバトルが繰り広げられている。
60年ぶりの再発掘で見つかった指先大ほどしかない鏡片。卑弥呼の対中国外交や国家戦略を浮き上がらせる一方、考古学者たちの研究者魂を一気にヒートアップさせた。
86 :
日本@名無史さん:2010/02/02(火) 00:36:32
87 :
日本@名無史さん:2010/02/02(火) 02:06:16
e
三角縁神獣鏡の価値が低いのは、「偽作だから」ではなく単に「数が多かった」から。
そう考えないと、わざわざヤマト王権が偽舶載鏡を配り自らの権威を貶めたことになる。
この理屈が分からない輩が多いんだよ。
89 :
水銀厨 :2010/02/03(水) 02:00:11
三角鏡国産説は大歓迎です。オリジンを真似て
畿内で造ってどんどん配ったという事でしょ。
90 :
日本@名無史さん:2010/02/03(水) 02:30:55
しかし良くこんな小片から全体の合致を割り出せるもんだと
素人の俺としては素直に感心するwwwwww
しかし…
>「正始元年鏡は、倭国の使者が帰国してから、日本国内で作られたもの」とし
これはその年号からそう時間の経っていない時期に作られたと言う事なのかな?
結局、国産説であろうとその年代的には3世紀を想定していると言う事か…
91 :
水銀厨 :2010/02/03(水) 11:31:58
3世紀に畿内で造る環境にあったという事でしょう。
鍵・唐古近辺に鏡作神社があるのもそれ所以だろうし、
磨くのに必要な技術・石なら大坂山に、
水銀が必要なら宇陀、吉野という具合です。
国産鏡を貨幣的な物と仮定するなら、造幣局が大和にあったと
考えれば良い訳ですからね。
今のところ、あの辺りで三世紀に鏡作していた証拠はない。
四から五世紀。
93 :
水銀厨 :2010/02/03(水) 15:10:46
>>92 造るのに適した環境なのは事実だからね。
まだ出せないが資料もあります。
>>92 鍵・唐古で銅鐸造ってたんだし、鏡造ってた形跡もある。
>>94 鍵・唐古で3世紀に銅鏡を造ってた形跡って何?
鏡造神社のすぐ横だしな、
あと保津・宮古の遺跡も怪しい。
形跡って妄想かよ
造りかけの鏡(廃棄物か)はあったんじゃないの?
形跡って君の想像のことなのか?
意味無く鏡造神社が存在してる訳ないのだが。
それを普通形跡だというもんですよw
101 :
日本@名無史さん:2010/02/05(金) 23:52:39
鏡造神社ははるか後世(7世紀以降)のものだろ。
内区だけ保存されてたんだっけ?
三角縁を製造していた当時じゃないとそんなことしないと思うんだが。
104 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 00:31:37
これは何処かで都出が小林説の矛盾を指摘する中で書いていたんだけど…
小林は中国地方から関東まで分布するものを「東方鏡群」
畿内を中心に濃厚に分布するものを「中央鏡群」
美濃から九州までに分布するものを「西方鏡群」
として実際には「西方鏡群」より「東方鏡群」の方がより古い様相を呈しているにもかかわらず
「西方鏡群」の方が先に配布されたとしているのが矛盾だと書いていたが
今回、茶臼山と関東の鏡が同型とすれば、また東方の物が古いと言う材料が補完されたと言う事になるんだろうか?
初期ヤマト王権って、ぶっちゃけ『ルック・イースト政策』なのかな?wwwwwwwwww
まあ後代の「神宮」も元々は鹿島・香取や伊勢、何れも大和よりは東なんだしwwwwwwww
105 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 00:42:22
>初期ヤマト王権って、ぶっちゃけ『ルック・イースト政策』なのかな?wwwwwwwwww
4世紀の頃だからそうだろうね。
>>101 言われがあるからその場所に存在するのだろう。
107 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 02:23:17
スサノオの息子が大和朝廷を作ったと何かの本で読んだ事が有る
なんとなく説得力が有った
108 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 14:26:18
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
109 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 23:34:41
110 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 23:56:53
>>109 チンコ・マンコ合体行事かw
石野が何処かで紹介してたなwww
まあ倭迹迹日百襲姫が箸で女陰をついたと言う話と関係あるのかねえ?
111 :
日本@名無史さん:2010/02/07(日) 00:18:24
>>109 >桜井市江包
これは「えっつみ」と読む。ここに出雲庄という荘園があった名残だという。
巻向から西へ行って大和川右岸のムラ。
大西はその対岸。
112 :
水銀厨 :2010/02/07(日) 01:23:40
上流から流されてきたスサノヲとクシナダ媛の結婚話です。
でも昔は大西・江包対岸地区での縁組しないというのが
この話のミソですよ。
113 :
日本@名無史さん:2010/02/07(日) 13:45:18
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
114 :
日本@名無史さん:2010/02/08(月) 22:11:38
3・21予告
http://www.nara-u.ac.jp/news/event/detail_20100116.html ■講演会&シンポジウム 「邪馬台国からヤマト王権へ 〜纒向遺跡の新発見が語るもの〜」
平成21年11月、奈良県桜井市の纒向遺跡で3世紀前半の大型建物跡が発見されました。
床面積は佐賀県吉野ヶ里遺跡を大幅に上回り、同時代で国内最大の建物跡で、新聞・テレビ等で広く報道され、現地説明会には1万1300人が参加しました。
日本古代史に大きな一石を投じた今次発掘調査の責任者、橋本輝彦氏(桜井市教育委員会文化財課主査)は、奈良大学国文学科の卒業生でもあります。
そこで、今年の「春のオープンキャンパス」に併せ、橋本先生と、古墳時代考古学の第一人者、白石太一郎先生(前奈良大学教授、大阪府立近つ飛鳥博物館長)を迎え、講演会&シンポジウムを開催することとなりました。
司会進行は本学文化財学科の坂井秀弥教授です。
聴講無料・予約不要ですので、ご家族やご友人もお誘いあわせのうえ、ぜひご来聴ください。
【日時】平成22年3月21日(日) 13:00〜16:00(入場12:30〜)
【場所】奈良大学
※予約不要・参加無料・途中入退場自由です。
※高の原駅より奈良大学まで無料送迎バスを運行します
(乗車時間約5分。10:30〜17:30の間、約20分間隔)。
【お問合せ先】奈良大学入学課 〒631-8502 奈良市山陵町1500 TEL:0742-41-9502(直通)
タイムテーブル
13:00〜14:10「纒向遺跡の発掘調査 ―卑弥呼の宮殿を探して―」橋本輝彦先生
14:10〜15:20「考古学からみた邪馬台国と初期ヤマト王権」白石太一郎先生
15:20〜15:30 〜休憩10分間〜
15:30〜16:20 ミニシンポジウム
司会進行:坂井秀弥教授
115 :
日本@名無史さん:2010/02/12(金) 00:44:01
■講演会:文化財保護の歩み−−橿原・14日 /奈良
県市町村文化財保存整備協議会の設立10周年を記念した講演会「わがまちの文化財保護の歩み」が14日午後1時から、橿原市小房町のかしはら万葉ホール5階のレセプションホールで開かれる。
文化財保護や調査、活用方法などについて、市町村の担当者が意見交換する場として設立され、現在は37市町村が参加している。
講演会は、県立橿原考古学研究所の菅谷文則所長が「考古学と地域活性化−その技術向上を!」と題して記念講演。
桜井市教委の橋本輝彦主査が「纒向(まきむく)遺跡の調査と活用」▽斑鳩町教委の平田政彦係長が「藤ノ木古墳の調査と整備」▽吉野町教委の池田淳主幹が「大峯奥駈道の世界遺産登録と活用」のテーマで講演する。
入場無料。開場は正午。申し込み不要で先着400人。問い合わせは橿原市教委文化財課(0744・29・5902)。【高島博之】
毎日新聞 2010年2月10日 地方版
http://mainichi.jp/area/nara/news/20100210ddlk29040502000c.html
116 :
日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:44:08
■観光ボランティアガイド:社寺や遺跡…桜井市の良さ広めよう 会員募集中 /奈良
桜井市を訪れる観光客らを市内の社寺や遺跡などに案内・説明するガイド活動を続けている「桜井市観光ボランティアガイドの会」(福本進会長)が、会員を募集している。
同会は、同市を訪れた観光客に同行して観光地を訪れ、歴史や伝説などを説明して、桜井の良さを多くの人に広めるのが目的。
98年に発足。会員は38人(平均年齢65歳)。主に、山の辺の道、初瀬街道、三輪そうめんの里、四季折々の祭礼などのガイドが多いが最近は、纒向遺跡も目立つという。
資格は、年齢、男女を問わず自由。入会後、ガイドの養成研修がある。年会費1000円。
申し込みは、はがきか、ファクスに住所、氏名、電話番号を書き、25日までに同市粟殿の同市役所観光課内、市観光ボランティアガイドの会事務局(0744・42・9111)へ。【稲田敏雄】
毎日新聞 2010年2月12日 地方版
http://mainichi.jp/area/nara/news/20100212ddlk29040269000c.html
117 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 23:40:41
118 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 23:43:26
119 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 22:29:37
■三輪そうめん山本:纒向遺跡の“宝”見てね 本社に展示コーナー──桜井 /奈良
◇社屋建設時に出土
桜井市箸中のそうめん製造・販売「三輪そうめん山本」が本社の売店前に、社屋建設時の発掘調査で出土した土器など23点と、纒向(まきむく)遺跡のパネルを展示するコーナーを開設した。
出土遺物は調査した市教委が保管していたが、初めて民間企業に貸し出した。卑弥呼(ひみこ)と同時代の大型建物跡が確認された同遺跡周辺で、新たな名所になりそうだ。【高島博之】
◇土器など23点、パネルも
同社は1980年、箸墓古墳の西に本社屋を建設。これに先立ち77〜78年に市教委が発掘調査を実施した。古墳時代前期の遺構から、井戸や溝の跡を確認し、全国各地の土器も多数見つかった。
土器の出土は各地から人が集まっていたことを示す根拠になり、邪馬台国の所在地論争にも影響を与えている。同社は地下の遺構の上に盛り土をして保護し、社屋を建設した。
展示コーナーは昨年11月、纒向遺跡で大型建物跡が確認されたことがきっかけ。
報道された後、周辺を散策する人が急増し、同社の売店やレストランに立ち寄る人も多くなったため、「遺跡の紹介を兼ねて出土品を展示できないか」と市教委に相談した。
市教委は、同社の防犯設備が整っており、見学者の対応も経験豊富なことから、収蔵庫に保管していた遺物などを恒久的に貸し出すことにした。
担当者は「多くの人に見てもらい、纒向遺跡への理解が深まる機会になれば」と期待している。
同社取締役本店長の幕田隆司さんは「ここの出土品を展示できて大変うれしく、誇りに思う。散策のついでに立ち寄っていただきたい」と話している。展示コーナーは年中無休で午前9時〜午後5時。
毎日新聞 2010年2月15日 地方版
http://mainichi.jp/area/nara/news/20100215ddlk29040227000c.html 株式会社 三輪そうめん山本(奈良県桜井市箸中880)
http://www.miwayama.co.jp/ http://73867625.at.webry.info/200908/article_4.html
120 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 20:34:12
■時を継ぐ:平城遷都1300年 纒向遺跡/上 石野博信さん /奈良
◇“邪馬台国”に魅せられて−−考古学者・石野博信さん(76)
方形に掘られた柱穴が整然と並ぶ大型建物跡。しかも、計4棟が3世紀前半、整然と配置されていた。
方形の柱穴も、一直線の建物配置も、6世紀以降の飛鳥時代になってみられる様式だという理解が、考古学界の常識。だから、常識を覆す成果は、より慎重に検討しなければならない。
昨年10月、桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘現場を訪れた香芝市立二上山博物館館長の石野博信さん(76)は、調査を担当した市教委主査の橋本輝彦さん(40)に「本当に間違いないのか」と問いただした。
橋本さんは出土土器や遺構の前後関係を詳しく説明し、大型建物跡が女王・卑弥呼が活躍した時代と一致する「3世紀と判断しています」と答えた。「そこまで証拠があるなら大丈夫」。石野さんはようやく納得した。
纒向遺跡で最初の発掘調査が実施されたのは71年4月。調査を担当したのは、県立橿原考古学研究所に採用されたばかりの石野さんだった。
調査地点は、今回見つかった大型建物跡の北約100メートルの場所。古墳時代から奈良時代にかけての河川跡だった。
その後も、祭祀(さいし)に関連した遺構や、大規模な工事を必要とする大溝の跡などを確認し、多種多様な土器を発見した。
顔つきの異なる土器が出土していることは、全国から人々が集っていたことを示している。纒向遺跡の本質を示す、大きな成果だ。
遺跡名は当初、大字の名前からつけた「太田遺跡」が使われていた。しかし、点在する場所での調査で、遺跡が複数の大字にまたがる大規模なものだということが分かってきた。
このため、72年に旧村名の纒向村から取った「纒向遺跡」へと改称された。
76年までは、毎日のように纒向遺跡に通い詰め、発掘調査を担当した。
その後は研究所の後輩や市教委が引き継いだが、纒向遺跡で何か見つかったと聞けば、自転車で発掘現場に駆け付け、若い研究者たちの相談に乗り、アドバイスを与えた。
(つづく)
121 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 20:35:51
(つづき)
調査によって様相が徐々に明らかになるにつれ、纒向遺跡は「邪馬台国の最有力候補地」と呼ばれるようになった。しかし「纒向の中心となるような建物が見つかっていない」と慎重な姿勢を崩さなかった。
それだけに、例のない大型建物跡発見や緻密(ちみつ)な年代決定方法を喜んだ。「現場を直接見ることのできない専門家でも、納得させることができる証拠が必要だ」と考えていたからだ。
2月初めの日曜日、二上山博物館が主催した講演会を開いた。纒向の最初の調査担当者である石野さんが、最新の調査担当者の橋本さんと対談した。
石野さんは「僕が生きている間に大型建物が見つかるのは、無理かと思っていた」と感慨深そうに話した。
邪馬台国の所在地の決め手は「巍(ぎ)から卑弥呼への贈り物を封印した封泥(ふうでい)が見つかること」が持論。
「纒向から封泥が出てきたら、この手に持って記念撮影したいね」と、いたずらっぽく笑った。【高島博之】
==============
◆メモ
◇纒向遺跡
桜井市の三輪山西麓に広がる3〜4世紀の大規模遺跡。
東西約2キロ、南北約1.5キロの範囲内に、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳などの墳墓や大きな運河がある一方、竪穴住居跡はほとんど見つからないなど、一般集落ではなく、人工的な「都市」とする見方が有力。
発掘調査は71年から始まった。3世紀前半の大型建物跡が見つかった09年調査の現地説明会には、全国から約1万1300人が訪れた。
毎日新聞 2010年2月17日 地方版
http://mainichi.jp/area/nara/news/20100217ddlk29040548000c.html 桜井市教委の橋本輝彦さんと対談する石野博信さん(左)=香芝市で、高島博之撮影
http://mainichi.jp/area/nara/news/images/20100217oog00m010006000p_size6.jpg
122 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 20:55:52
恥知らず!!!
さて、この言葉は誰に向けられたものでしょう?
>巍(ぎ)
125 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 19:40:23
以下「ドン来い」スレ66の351あたりからの話の流れでw
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1266146788/351 >
>>320の説明はかなり端折ったもののようで、現状はもっと複雑
>まず布留0式の開始が庄内式とどれだけ交差するのかでさえ
>統一見解がなく、これが現在の議論の焦点でもある
>歴年代ともなると、想像の息を超えないので、シンポジウムなどで私見を語るくらい
>ただ最近の傾向として、マキムク最初期には吉備・山陰の関与は本格的ではなく
>阿波・讃岐・河内そして大和などが主体となり、東海を引き込んだのではないかと見る向きも多い
>これは、その後に吉備・出雲・南関東・北陸などが徐々に参加し
>連合として機能し始めたのが布留0式あたりではないかという見解になる
>ただ北部九州・吉備・山陰などが、最初から主導したという線もまだ消えていない
>このあたりは今後の出土成果待ち
>ちなみに淡路島の製鉄遺跡によって、北部九州主導説は更に苦しくなったと言わざるを得ない
…淡路島の製鉄遺構の話もそうなんだろうけど
纏向の勝山あたりから出てきたフイゴ羽口だっけ?(オリジナルは九州と考えられる物)が
機能的にイマイチと言う話もあるよな?wwww
もし東遷と言えるような事まであったらそりゃ無いだろうって意味でwwwww
伊都国東遷厨は、その論旨には賛同しがたいが考古学はよく本を読んでる。こういうのが増えて
縄文人のようなのが消えていくのは歓迎だな。
127 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 20:27:44
>>125 過去ログをあさってたら面白いものを見つけたので、転載してみようか
*◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART15 04/12/20 00:25:56
6年前の老教授のレスをまとめたものがあって
どうやら当時は、吉備影響説にちかいものを彼は考えていたようだが
いま読み返すと、おそらく貴方の主張にも役立つのではないかと思われる考察がけっこうある
4 :老教授ハイライト :04/12/20 00:37:35
前スレでの老教授(畿内説)の後半ハイライトをコピペいたします。
九州各説の皆様もハイライト若しくはまとめをコピペ等されてはいかがでしょうか。
403 :老教授@畿内説纏向派 :04/12/13 02:14:31
地域による特色を個別に見れば
広い平野や盆地に複数のクニが並立し、相互協力意識が強かったと見られる大和と尾張。
瀬戸内の海路を通じてまとまった豊前、吉備、伊予、讃岐、河内。
日本海ルートにて結ばれた出雲と北陸。
地理的要因で半島との貿易に特化した筑紫、肥前、肥後。
これに越と関東を交えた4大+αが2世紀の主な貿易グループです。
そこから瀬戸内を媒介にして経済圏統合が起こるのが3世紀あたりです。
その形成と体制維持に大きく関わったのが、宗教観統一ともいえる地方祭祀の放棄です。
5 :老教授ハイライト :04/12/20 00:38:36
772 :老教授@畿内説纏向派 :04/12/18 01:00:42
正直なところ、なぜ吉備ブロックが流通拡張路線を目指したのか
その理由は遺物からでは想像しか出来ません。
国内瀬戸内商圏が自然に拡大に向かうのは、文明の道理から見て自然の摂理なのですが
何かの意思統一があるかのように急速に広まるのです。
そのスピードはそれまでの弥生期の常識をはるかに超えています。
恐らくはその急激な変化の中で従来よりあったクニ、妻木晩田や土居ヶ浜などが次第に過疎化します。
これは地域流通の拠点として機能しかつ発展してきたクニが
それよりも大きな流通ルートが台頭してくるにつれて求心力を失った為と考えられます。
ほとんどのクニはこの流れに逆らうことは無かったような形跡があるのですが
結果的には独自性を発揮して残るのではなく、再編成化されて行きます。
さてこれほどの急激な流れの原動力として考えられるのが
新形式とも言える特定の首長一族の祖霊を祭る行為ですが
それまでの青銅器祭祀が基本的に豊作や大量を祈願し、姿の見えぬ精霊に信仰対象を求めたのに対し
新たに広まる「首長霊」信仰は明らかに特定された人物(一族)に集約されます。
つまり「祈り」よりも具体的で効果の高い、つまり収穫成功確率を高める付加価値が認められます。
それが治水・灌漑を可能にした高い土木技術と、量産性を有した建築技術の存在です。
付加価値と言うより、むしろこの新技術がそれまでの宗教観を凌駕したと考えたほうが良いでしょう。
6 :老教授ハイライト :04/12/20 00:39:11
773 :老教授@畿内説纏向派 :04/12/18 01:44:54
ここで従前より高い建築技術を有していたと考えられる玄界灘や河内、大和
特に渡来人の重要な窓口であった玄界灘をさしおいて、吉備グループにおいて
そのような高い技術が結集したのかは、まだまだ議論の余地があります。
と言うよりも今後の重要な課題でしょう。
同時に各地の環濠集落の解体及び再編成に伴って、高地性集落が第2のピークを迎えるのは2世紀後半からです。
これを再編成に与しないクニのものと見るか流通中継地と見るかですが
恐らくは両方入り乱れたものだったでしょう。
このあと半世紀以内にほとんどの高地性集落が放棄される事実から考えて
一過性の混乱状態の表れだと解釈しています。
7 :老教授ハイライト :04/12/20 00:40:18
774 :老教授@畿内説纏向派 :04/12/18 01:45:39
さてこの再編成に多大な影響を受けたのが畿内、それも奈良盆地です。
新技術を積極的に取り入れたと見られる畿内の各クニは、最大の商圏であり文化共有地である東海と共に
他の地域よりも激しい変化が見られます。
水害の多い畿内にとって治水は積年の望みであっただけに、首長霊信仰と共に再編成を始めます。
まず大和川河口の東河内に高土型の墳墓と灌漑施設が登場します。(加美遺跡など)
それらのプロトタイプ的な変革の中、奈良盆地東南部に新設される東海と瀬戸内の中継地のひとつが
纏向遺跡であろうと考えています。
問題はそのような役割を果たした新都市が、纏向ひとつであったのかどうかですが。
大阪湾に面した大和川流域に倉庫施設や市があってもおかしくは無いのですが
現時点では後の時代の私市倉庫群やつばいち等が確認されるに留まっています。
この土木技術の浸透は各ムラの生産活動に対し、如実に変化をもたらします。
まず工事に必要な労働力はそのままそっくり「安定した収入源」となることから
それまでのクニの経営基盤を根本から変化させたこと。
これが流通ルートの再編成に拍車をかけたと考えられます。
新技術によってもたらされた首長霊ですが、そのまま吉備や出雲の首長が君臨したわけではありません。
再編成の中で首長の影響力が二極化し、有力首長達が台頭するに従い
各々の首長霊を並立存続させる機関がこれまた必然的に創設されます。
いわば総本山的なものですね。
そこに専任の神官として置かれたのが「卑弥呼」というシステムであろうと考えるのです。
>各々の首長霊を並立存続させる機関がこれまた必然的に創設されます。
これは同意。各首長霊間の調整機能はどうしても必要だと思う。
133 :
125:2010/02/19(金) 20:57:10
>>127 転載ありがとう。
確かに色々参考にはなりそうだ。
自分なりに咀嚼するにはチト時間がかかりそうだがw
ただ一読しただけでも
>相互協力意識が強かったと見られる大和と尾張。
大和といえばどうしても大和川水系で河内と同じブロックに考えがちだったんで
この発想は正直無かったwww
8 :老教授ハイライト :04/12/20 00:41:25
775 :老教授@畿内説纏向派 :04/12/18 02:17:42
「卑弥呼というシステム」と書きましたが、これは以前よりあったヒメ&ミコ制をベースにしたと考えられます。
為政を首長代表たちが行ない、祖霊を祭る役目を巫女に与えたものでしょう。
実はこのヒメ&ミコ制が具体的な制度として機能していたと見られるのが、伊都国です。
そういう意味では纏向成立の思想的支柱となっていたと考えても良いのですが
なにせ北九州の関与が現時点では認められませんので、保留しておきます。
また墳墓における死後の世界で使用するとの考えの下に副葬される数々の品についても
北九州、特に玄界灘グループの影響を感じるのですが
こと纏向に関しては吉備や出雲の影響を受けたと見られる痕跡のほうが強いですね。
卑弥呼制度の最大の特色は、世間からの隔絶にあります。
よく「見えない王」と比喩される卑弥呼ですが、神秘性の強調は後付の理由であり
本質的には「世間に交じらせてもらえなかった」つまり隔離状態に置かれたのでしょう。
これは首長霊信仰が後の神道形成の礎となる上で、非常に特徴的な「ハレ」と「ケ」の部分に共通します。
同じく「ケ」を受け持った持衰と同様に、世間から隔絶され自由行動を制限されることが神官の条件だったのでしょう。
これを「祭祀王」と呼ぶには抵抗があります。
最後のやつは、連投規制にひっかかったので後から
他にもレスはあるけど、良いようにまとめていたのがあったので、これにした
尾張氏の本貫の地が大和であるという論は本居宣長の頃からあるが・・・。
137 :
縄文人 ◆z.Nil9i28. :2010/02/19(金) 21:32:35
なにを言っているのかさっぱりわからん。この老教授というのはくわせ者だろう。私のレスこそが古代史の真実。
138 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 21:39:12
>むしろこの新技術がそれまでの宗教観を凌駕したと考えたほうが良いでしょう。
そりゃそうだよなあ、中世カトリックでも教会が医療機関として機能したからこそ浸透したのだし
灌漑工事の主導など、実利的な面があったからこそ多少不条理でも受け入れられた
しかしこれを書いたのが
04/12/18 01:00:42
まさに6年前というのは感心するわ
本職というのもあながち嘘ではないかもしれない
139 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 22:06:20
>>138 >まさに6年前というのは感心するわ
現場ではもっと多くの情報が得られるから、正直うらやましい。
部外者のアマチュアは、
>>137みたいに、情報を得ようともしないで妄想に走らないように注意すべきだろうな。
140 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 22:07:55
ただ、
>>134 >本質的には「世間に交じらせてもらえなかった」つまり隔離状態に置かれたのでしょう。
これはいただけない。
魏志倭人伝を鵜呑みにしてしまってる。
>>133 >>相互協力意識が強かったと見られる大和と尾張。
>この発想は正直無かったwww
横失礼。
ちょっと妄想ですが、大和と尾張=卑弥呼と卑弥弓呼。
143 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 22:43:25
127だけど、他人のふんどしで商売したみたいで申し訳ないが
あまりに面白かったので転載してみた
他にも興味深いレスがいくつかあるが
老教授以外に感心したのが、この当時の九州説って、すごくまともなんだよ
もちろん無敵の東征軍とかの馬鹿レスもあるが
コテにしているひとで「豊前説」というのがあって
これが地道に神社縁起とかを丁寧に調べてまわってる、いわば民間の郷土研究家のようで
考古学知識には疑問があるが、そこはプロである老教授に聞いて
なかなか読ませる宇佐説を書き上げている
こういうのが、今ここの板の九州説の体たらくを見たら、どう思うんだろう
144 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 23:48:02
>>143 いや乙だと思う。過去ログさらうのも一苦労だったろう
実は当時から日本史板の住人だったが、老教授の登場は当時からかなり衝撃的だった
ハンドルの由来については、自ら教授などではないと言ってたように記憶している
当時、どうやら現役の考古学者が2ch降臨したらしいということで、他の板にもリンク張られて人大杉だった
そのなかで最新の邪馬台国論を述べる老教授に、かなりのファンがついていたのだが
これは老教授の功罪として、結果的にまともな九州説を駆逐してしまった
つまり、彼の主張を理解できる九州説の論者が、自説の再検討をせざるを得なくなり、そのままフェードアウトしたようなんだ
そして老教授もいつしか書き込みが減り、スレは閑散としてしまった
残ったのが、東征とか神武とか暗号ごっことかの変な九州説になってしまい
これらがドン来いとかを勝手に立ち上げて、2ch開始からあったスレを継承しなくなった
コテ推奨も確か老教授の提案で、名無しだと自説の主張が曖昧になる、せめて番号コテでと呼びかけていたと思う
これもとことん痛いコテが自己顕示に使ってしまったので、更に混迷を極めたのが、老教授が去ったあとの邪馬台国スレだった
たぶん、サガミハラハラ氏、大国氏などはこの当時からいたので知っているはず
彼らは痛い九州説だから、どういうかは知らないが
145 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/19(金) 23:50:09
老教授の話はなかなか面白い。だが、有り難く拝聴するだけというわけにはゆかない。
彼は卑弥呼の共立を
>再編成の中で首長の影響力が二極化し、有力首長達が台頭するに従い
>各々の首長霊を並立存続させる機関がこれまた必然的に創設されます。
>いわば総本山的なものですね。
>そこに専任の神官として置かれたのが「卑弥呼」というシステムであろうと考えるのです。
と、各々の首長霊を並立存続させるために立てられた専任神官だと位置づけているが、これは
一面的にすぎる見解ではないかと思う。
倭は大陸や半島と通交しており、大陸や半島の情勢と無関係な鎖国状態ではなかった。その大
陸では卑弥呼共立の前、倭国乱の頃、後漢王朝の統治能力は低下し、群雄割拠して戦乱状態に
入っていた。また、寒冷化による北方民族の南下で半島も混乱していた。このような東アジア
の情勢がもたらす影響が考察から抜け落ちている。
大陸や半島の混乱は交易に影響するであろうし、列島自身も寒冷化による食料不足の問題が生
じていた筈であり、それによる混乱が生じていた筈である。
きゃー基地外よ。
>>145 >それによる混乱が生じていた筈である。
国内事情に加えて、後漢王朝をバックにした北九州(帥升)勢力の衰退、かな。
ふむふむ、>137とどっちがホンモノなのだろう?
“それによる混乱”とは「倭國亂相攻伐歴年」のことで、
大陸や半島の混乱が、公孫氏や魏によって落ち着いてきために、
“>再編成”されることになった、ということでいいのでは?
>>146 コテも名乗れず、自説も披露できず、他人を中傷するだけとは哀れな存在よな。この老教授というのも私から
見れば妄想を垂れ流しているという点では害毒であるとしかいいようがない。正しいのは九州説、そしてこの
私、縄文人だ。真実の語り部、野にあって輝く朝露のようなこの縄文人のレスだ
>>144 ためになる2ch歴史解説、どうもです。
150 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 00:46:01
>>137 :縄文人 ◆z.Nil9i28
>>145 :縄文人 ◆cM49xEAzX6
>>148 :縄文人 ◆zav1fzPIZx5E
どうしてトリップが異なるの???
152 :
125:2010/02/20(土) 04:06:21
とりあえず折角転載してくれた老教授のコピペに対する現時点での無味乾燥文(チラ裏とも言うw)を書いておくwww
全体として新しい信仰形態である「首長霊信仰」が高度な土木技術を伴って普及したと言うのは説得力を感じた。
ただ自分としてはチョッと違和感を感じたのは以下の部分で
>>129 >つまり「祈り」よりも具体的で効果の高い、つまり収穫成功確率を高める付加価値が認められます。
これだと信仰の対象になった首長(霊)は五穀豊穣を約束する存在と言う事になると思うが
首長が権力を拡大しやがて信仰の対象にすらなるようになっていくと言うのは
基本的に戦争が恒常的になって強力なリーダーシップを有する必要になったからだと思っている。
五穀豊穣祈願は首長霊信仰と平行して別の形で続けられてのではないか?
纏向の祭祀土壙に大量の籾殻があり丁寧に脱穀された新米で
今日の新嘗祭にも通じるような「共食儀礼」が行われていた事が想像されていることとか…
153 :
125:2010/02/20(土) 04:13:19
あと「卑弥呼というシステム」は老教授の、その話しの流れだと
旧来のヒメ&ミコ制をベースにしたとは言え
新たに生み出された(当時最善の)統治システムと言うニュアンスになると思うが
自分としてはヒメ&ミコ制を残した古い社会からより強力な王を頂く社会への転換期・過渡期における
一種の妥協的産物だと思っている。
何より卑弥呼が共立される前に、そして卑弥呼の死後も男王を立てようとしたのではないのか?
…そこが基本的な疑問だな。
まあ俺の浅薄な理解で勘違いしているようなところがあれば指摘ヨロwwwwwwww
154 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 07:35:20
老教授にはおおむね賛同だが、
「ヒメ&ミコ制」には、縄文人と同じデンパを感じる。
何の証拠も無い話で、魏志倭人伝から推測にすぎないからな。
そういうのはヤメてほしいね。
周濠を備えた前方後円墳は、大規模潅漑水路や溜め池などに共通する技術ということか。ふうむ。
>>129 >それが治水・灌漑を可能にした高い土木技術と、量産性を有した建築技術の存在です。
>付加価値と言うより、むしろこの新技術がそれまでの宗教観を凌駕したと考えたほうが良いでしょう。
治水灌漑を専制国家成立のファクターとして重要視するのは、マルクスのアジア的生産様式議論の頃から言われてることではあるけどね。
しかしまあ、弥生終末期に突如として日本各地でパラレルに首長権力の高まりが見られることは、みんな説明に困っている。
最新土木技術の独占、それによる権威の高まり、ってのは単純過ぎる。流石に無理があると思うな、俺は。老教授自身も
>特に渡来人の重要な窓口であった玄界灘をさしおいて、吉備グループにおいて
>そのような高い技術が結集したのかは、まだまだ議論の余地があります。
>と言うよりも今後の重要な課題でしょう。
と書いてるし、玄界灘がヤマト王権の発祥の地ならまだ理解できるのだが。
例えば、ツクシの首長層が最新の技術者や鉄を携えて旧大和湖跡や河内潟の低湿地を開墾するため
集住したとか。まあ、考古学的にはそういった痕跡はないんだけど。
ていうか、何百年単位での人の流れはまさにそうなんだろうけど、短期間での首長権力の高まりの説明は難しい。
157 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 10:55:34
だからねえ。
九州が先進地域だったという前提について、もっと疑ったらどうなのよ?
鉄器の輸入に優位だったっていうだけでしょ。
その鉄器加工も淡路島で行われてるわけで、
技術・文化の均一化が瀬戸内海沿岸でおきていたわけだから、
あとは、東西の流通の核となる地域(吉備・奈良)が繁栄するのは当然。
北九州は、流通の核とはならない。中継してるだけ。
>>144 つまり、ゆるやかな連合を理解できる、普通の頭を持った九州説はいなくなり
理解できないか、したくない九州説がずっと居すわったという流れか
それで納得したわ、ここの九州説はなぜこんなにも極論ばかりなのか、不思議だったから
159 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 11:44:25
北部九州が中継したとしては
巻向に北部九州の物が少ないな。
まだ出雲辺りから水揚げした方が理にかなってないか。
>>159 そうだな、時代が進むにつれて北部九州→出雲→越前と
より畿内に近づいていると考えたほうがいいかも
北部九州が繁栄した時代というのは、まさにそこしか半島との接点がなかったころで
航海術が進むにつれて、直接持ってくることができるようになったか
あるいは北部九州が、単なる出先口に落ちぶれたか
161 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 12:17:00
>そうだな、時代が進むにつれて北部九州→出雲→越前と
>より畿内に近づいていると考えたほうがいいかも
卑弥呼の時代よりずっと後の話だな。ここの畿内説はなぜこんなにも極論ばかりなのか、不思議だ
162 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 12:20:43
巻向の出土物からみても東海の土器が多い。
巻向の支配は東海方面だろう。
163 :
弥生人:2010/02/20(土) 12:24:19
まだ「ゆるやかな連合」とか言う人がいるのですか?のどかな農村社会から想像できるような時代じゃ
なかったのですよ弥生時代後期は。動乱の時代、弱肉強食の時代だったのですよ。
164 :
156:2010/02/20(土) 12:28:20
>>157 いやさ、よく読んでよ。
最新土木技術をみんなが有り難がって、大和王権が生まれたみたいな説はない、
ていうことを書いただけ。
九州が先進地域云々のわけのわからん反論されてもな
165 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 12:50:52
九州が先進地域なら朝鮮半島はもっと先進地域でないとおかしい。
朝鮮半島が劣ってたなら、九州も劣っていないとおかしい。
朝鮮も九州も、交易相手が居ないと商売ができない地勢。
商売をコントロールしていたのが畿内ということですよ。
奈良時代から江戸時代までの1000年そうだったのだから、
奈良時代以前の1000年も同じ。
166 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 14:06:55
老教授のレスをよく読むと、どこかしら九州説に配慮しているような気がするのだが
前に、完全沈黙させるのは得策でないとあったように
これがこの人の、と言うより一般向けアピールを含めた考古学者のスタンスなのだろうか
石野博信さんも、邪馬台国の会とかでも嬉々として公演するとかあったからなあ
167 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 14:19:38
>>162 それは狗奴国と関係しているんですよね。
>>156 >短期間での首長権力の高まりの説明は難しい。
倭人社会の自律的成長、だけではなくて、中国からの干渉を考慮したらどうかな?
(縄文時代の人じゃないけど)
169 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 14:39:40
>>165 奈良時代から江戸時代までの1000年
奈良のような田舎が商売をコントロールしていた?
711年〜800年の蓄銭叙位令などが示すように
畿内大和は8世紀まで通貨経済は皆無であったが、
『続日本紀』769年(神護景雲3年)10月の記事で
大宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也。」と
報告しているように大宰府は国際交易都市であり、
役人程度しか住まなかったという藤原京や平城京などのヤマト王権の首都を凌ぎ、
古代日本で最も繁栄していた都市であった。
170 :
縄文人:2010/02/20(土) 14:42:48
>>163 それはおまえさん達のせいだ。おらたちゃ貧しいながら楽しく暮らしていた。獲物は皆で分け合った。皆で歌や踊りも
楽しんだ。芸術的なセンスも磨いていた。平和だったんだ。
そこにおまえさん等が乗り込んできた。欲しいものは力で奪うという野蛮な思想を持ち込んだ。だから世の中がダメに
なったのだ。
http://www.joumon.jp/
171 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 14:53:27
>>141 大和と尾張=卑弥呼と卑弥弓呼。同認識。
172 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 16:45:06
173 :
125:2010/02/20(土) 18:31:29
>>158 >ゆるやかな連合を理解できる、普通の頭を持った九州説はいなくなり
まあ連中は「畿内説が”ゆるやかな首長連合”とか言ってるから反対してやれ!」って幼稚な反発心で
後先考えない脊髄反射おこしているだけと思われwww
その事はもはや邪馬台国論争なんて範疇も超えている事の自覚がサッパリ無い。
もしくは元から九州王朝説のような歴史観を持っているかだwww
纏向型前方後円墳が広がった(連中なら4世紀半ばか?)既にヤマト王権は
日向から会津辺りまでを強固な中央支配した国家を形成した事になる。
もうこの時点でトンデモ
まあ予想される反論として
「纏向型の分布は単なる埋葬文化の広がり」と言うかもしれんが
そもそも古墳は副葬品も含むトータルパッケージなんだから
それによる政治的結びつきを否定するのなら
九州における副葬品威信財による政治的結びつきも否定せざるを得ない
…と言う自分自身に帰ってくるブーメランで自爆芸そのものwww
で、そんな奴に限って
「銅鏡勢力が銅鐸勢力を滅ぼした」とか
「三種の神器 ガーァ!くぁwせdrftgyふじこ!!」とか言っているんだから
自爆して死んでゾンビになってもう一度アホ踊りを踊っているなんとも異様な光景w
もっともそんな馬鹿をリアルタイムで見られるのもネット・2ちゃんねるならではだろうがwwwwwwwww
>>173 ゆるやかな首長連合くらいしか説明できないしな、実際。
個人的には中国戦国時代の覇者みたいな存在がマキムクの大王なのかなあと考えている。
大和河内が「覇者」に選ばれた理由は、巨大な国だったこと。東西交流の中間地点として富裕化していたこと。
あとは、ヤマトのオウが公孫氏に誼を通じ、倭国の代表、倭王として承認されたこと。
175 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 21:16:56
東遷説の連中は、九州から地名が奈良に移ったという。
百歩譲ったとして、「三輪」の「大神神社」まで九州から奈良に移ったのだといい、
九州の大神神社が本家なのだという。
ここまでくると、かわいそうになる。
郷土愛ゆえの狂気。
九州の大神神社が本家だと主張しないと、地名移動を根拠とした東遷説が崩れるからな。
176 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 21:38:30
安本の言う地名の移動というのは、まず前提として安本が東遷を主張する台与即位後の年代に起こったと
する確証がない。次にどちらの地名が先であるかの確証がない。
彼は、この二つのことを証明しようとはしないまま、このことを自説の根拠として用いている。これは、学問
的な方法とはいえない。しかしおそらくこの地名は大和の方が先であろうことは、安本の概念図に奈良市と
太宰府市の位置を書き込んでみれば瞭然ではないか。太宰府に派遣された大和の官人が古郷を懐かしん
で付けたものと推測される。彼もそのことは知っているから、恣意的に検証を行わないのである。
九州説なんて今や隣国主導でしょ。
主張もよく似ているし。
178 :
125:2010/02/21(日) 00:53:20
しかし「感慨治水・土木技術」と言うキーワードで
その技術の系譜を辿る事で纏向の勃興のプロセスが多少なりとも分かるのでは?
…と考えた時代が私にもありましたwww
それが富山の桜町遺跡だっけ?縄文時代中期に既に高床式建物跡があるとか無いとか…
もうあの時点でそっち方面からのアプローチは無理なんじゃないかと思ったwwww
179 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 01:27:13
邪馬台国九州説の批判がいっぱい出ているが、これに対する反論を書くと
必ず、ここは纏向スレだから、関係ない話をするならよそでやれというのが
出てくる。
九州説批判は大歓迎だが、九州説の主張は許さないというわけらしい。
180 :
125:2010/02/21(日) 02:41:25
>>134 >卑弥呼制度の最大の特色は、世間からの隔絶にあります。
>よく「見えない王」と比喩される卑弥呼ですが、神秘性の強調は後付の理由であり
>本質的には「世間に交じらせてもらえなかった」つまり隔離状態に置かれたのでしょう
ここら辺は後の伊勢神宮の「斎宮」をイメージしているんだろうか?
もし卑弥呼が斎宮のような存在で世間から隔離された存在であったなら
纏向全体が一種の聖域でそれこそ「宗教”だけ”に特化された都市」と言う感じになるのかな?
―明治になるまで、ある例外を除いて(まあ、はっきり言えば持統なんだけどw)
天皇が伊勢神宮には行幸していないというのは話だと思うが…
まあ纏向の時代はそこまで明確に分離しておらず
後に分離され、それが記紀の元伊勢を彷徨って伊勢に落ち着くあの話の元…と言う筋書きもありそうだがwww
なんにせよ纏向の性格づけの為の全体図が欲しいところw
181 :
125:2010/02/21(日) 02:44:08
>180 ””部分訂正(付加)
天皇が伊勢神宮には行幸していないというのは”有名な”話だと思うが…
彼は人口集積地についての推測があって、「見る者少なし」と結論付けてるのではないか。
>>180 >ここら辺は後の伊勢神宮の「斎宮」をイメージしているんだろうか?
自為王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入
居處宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
そのまんまでしょう。
>ここら辺は後の伊勢神宮の「斎宮」をイメージしているんだろうか?
というか、台与以後、王権の進展の必然性から専ら武を司る男王の時代となって、巫女王の時代は
置きやられ、記紀編纂にともない古代を推し量って天武期に制度として復活したというような感じかな?
トヨタン・・・・・・・・・・
186 :
125:2010/02/21(日) 23:58:50
>>184 スゲエ、自分が考えている事をピタリと言い当てられたような
一種の怖さ、気持ち悪さすら感じるwwww
天武と言うか持統の時に伊勢の祭祀に関して大きく動かしているのは間違いなく(渡会氏の降格?w等々)
それ程大きな変革を成す時、天武・持統らがゼロから考えた
”新たな”枠組みで…と言うのはいくらなんでも周囲の反発を招くだろうと。
だから一種の「復古」と言うかいにしえの成功例(?)=纏向の時代の遠い記憶
に拠ったと言うか…
>>186 ま、ずっとレスを読んでれば考えてることはなんとなく・・・。病気がちになった後半生で
天武は自分の死後の政局についての考えがあったのかも・・・まあ考え過ぎか。
188 :
125:2010/02/22(月) 00:16:34
「斎宮」のネタで引っ張ると
伊勢の外宮に「斎館」と言うものがあり神に食事を給する神職はそこで潔斎する決まりらしいのだが
伊勢を訪れた外国の宗教研究家はこぞって案内係の人間に
「ソコデ何カ、秘儀的ナ事ヲ ヤッテルンデスカ?」と訊くそうな。
まあそこではひたすら身を清浄にする事に努めているだけで
彼らの期待は空振りに終わるわけだがw
よく卑弥呼の「鬼道」に関してあれやこれや言われるが
案外卑弥呼も特別な事はやってなかったのかも知れんwww
で、纏向との関連で想像をたくましくすれば
卑弥呼=斎宮 のいた居館は(周辺にはそれなりの建造物があっても)
意外とこじんまりした建物だったんじゃないかとも想像する。
少し回りの建物から離れたハブられたような感じでwwwwww
まあ妄想だが、装身具が多くて身動きがとれず、食事も給されないとできなかったとか。ww
両腕に数十の貝輪をつけていたというような事例もあるしね。案外朝貢以降は魏から贈られた
布地を重ね着していたとか。・・・ところで「襲」は重ね着するという意があるんだな。ww 冗談。
190 :
日本@名無史さん:2010/02/22(月) 01:14:45
>>188 倭人伝に書かれていることのうち自為王以来少有見者、唯有男子一人給飲食伝辞出入のところだけ抜き出して
想像しているな。以婢千人自侍、宮室樓丱観城柵厳設常有人持兵守衛は考慮外か。纏向は倭人伝の卑弥呼とは
随分かけ離れた存在だな。
192 :
日本@名無史さん:2010/02/22(月) 02:49:19
>>192 具体的には出せないんだな。ww
それと・・・・・
纏向遺跡で発掘調査したのは面積にして数パーセント程度。9割以上は未発掘。
「纏向以外」と結論づけるのは早計。
194 :
日本@名無史さん:2010/02/22(月) 04:41:35
やっぱり、倭人伝に書かれている国は環濠集落だろう。
城柵を厳かに設け、常に人がいて武器を持ち守衛する。城柵を作り、武器を
持った人が守っているような場合は、環濠があると考えるのが自然。
195 :
日本@名無史さん:2010/02/22(月) 07:59:57
>>194 唐古・鍵がぴったりだと思うんだけどなあ。
どうして注目されないのか、不思議なんだが。
196 :
日本@名無史さん:2010/02/22(月) 11:29:10
邪馬䑓は山中の台地である。唐古・鍵などではこのような呼称にはならない。
奈良は古奈良湖の縮退に伴う開墾成金のクニ。
5世紀の河内北部も同様。
198 :
日本@名無史さん:2010/02/22(月) 18:31:11
■ノムギ古墳 実態解明へ 発掘調査を開始【天理市教委】
2010年2月21日 奈良新聞
http://www.nara-np.co.jp/20100221114800.html 天理市教育委員会は、初期ヤマト王権の中心とされる大和(おおやまと)古墳群にある同市佐保庄町のノムギ古墳(古墳時代前期)の発掘調査を開始した。
築造時期が3世紀後半までさかのぼる可能性もある最古級の前方後方墳。纒向遺跡(桜井市)が最有力候補地とされる女王・卑弥呼の邪馬台国とも時代が近く、実態解明が期待される。
ノムギ古墳は全長約63メートル。
県道建設などに伴って県立橿原考古学研究所が数回調査を実施し、平成15年には墳丘と周濠の南東にコーナーを検出して前方後方墳と確認されたほか、周濠から「布留(ふる)0式」と呼ばれる土器などが出土している。
今回の調査は古墳の範囲確認を目的に実施。墳丘の後方部南側で周濠の残存状況などを調査する。
事前に行った土中のレーダー探査では周濠の縁らしきものが確認されたという。調査は3月26日までの…
記事の詳細は本紙をご覧下さい ⇒ 【 奈良新聞を購読する 】
古墳の範囲確認に向けた調査が始まったノムギ古墳 天理市佐保庄町
http://www.nara-np.co.jp/photo/46963a9d4684d85ea00819ac88646d99.jpg
>>194 >城柵を厳かに設け、常に人がいて武器を持ち守衛する。
>城柵を作り、武器を持った人が守っているような場合は、
環濠集落が解体し、同時進行で出現した首長居館も
土塁、壕、溝、塀などで方形に囲まれているが・・・
最近ようやくわかってきたことだが、
(邪馬台国)九州説は倭人伝の解釈をもとに、邪馬台国時代の倭国の範囲を九州に限定しているので、
マキムクをはじめとする遺跡の発掘成果に対して、
邪馬台国とは関係ない、邪馬台国とは関係ない、と唱えて無視しているのだ。
また、なんでそんなのしかいないのか不思議だったが、
それも
>>144のおかげで謎が解けた。
だから、九州説に対して考古学的知見をいくら語っても共通理解が構築されず、
相変わらず、根拠を出せと言われるだけ。
201 :
日本@名無史さん:2010/02/22(月) 23:12:02
昔からわかっていたことであるが、
邪馬台国畿内説論者は考古学的知見だと言って明確な根拠もなくゆるやかな首長連合などという概念を
創り上げて纒向などに卑弥呼の都を持ってこようと躍起になっている。
これは実は彼らに倭人伝などの中国史書を正しく読む能力が欠けているからなのだ。ここのレスを見て
いて確信できた。
>>194 環濠集落は首長層のような特権階級と一般庶民が
環濠の中で一緒に住んでるから。
倭人伝を素直に読めば、弥生時代の環濠集落ではなくて、
古墳時代以降の豪族居館の記述だと分かる。
古墳時代、首長は一般人の住む環濠集落を出て、豪族居館で住むようになる。
同時期に古墳築造、首長霊祭祀が始まる。
古墳と豪族居館ってのは、首長権力の高まりを契機にした2つの現れ方なんだよ。
卑弥呼の径百余歩の墓の記述とも符合する。
むろん環濠から出て分散居住したほうが、水稲耕作にとって効率的であることは確か。つまり、
このことを可能にしたのは、老教授のいう大規模潅漑水路などの土木技術。これは前方後円墳
の築造と共通する技術である。
204 :
125:2010/02/23(火) 00:42:45
>根拠を出せと言われるだけ
そりゃ「こっちの台詞」だよなあwwww
もし邪馬台国が九州にあったことが証明できたなら
3世紀に首長連合の範囲が九州にまで及んでいなかったか、年代観を修正するか…
何れにせよ3世紀の日本の姿の理解について修正すれば良いだけの話で
むしろ歴史の解明と言う点では九州説にがんばって欲しいぐらいだwww
が出てくるのはひたすらイチャモンの為のイチャモンだけw
恐らくこのスレの人間の多くは「歴史が知りたい」のであって
邪馬台国と記されたものが畿内にあろうが九州にあろうが話がそこで終わるものじゃない。
その辺の方向性の違いが
このスレで邪馬台国論争ネタが嫌われる要因の一つだろうwww
もっとも考古学板じゃなくてこの日本史板で纏向スレを立てた場合
どうしても邪馬台国論争と言うファクタは回避できないだろうとも思うがwww
考古板、人稲杉。
>>203 >老教授のいう大規模潅漑水路などの土木技術。これは前方後円墳
>の築造と共通する技術である。
どうなんだろ? たとえば唐古鍵にしても三重の巨大な環濠で囲まれてるし、
マキムクで土木技術の革新があったというのも無理があるような。
てか、環濠を掘る意味も環濠内で住む人々の結束力を高めるという説もあって、
堀を掘る代わりに古墳を造るようになったのかもしれん。
つまりは、ムラ全体のための土木工事に向けられていた労働力が、
一個人の墓に集中して向けられるようになったと。つまりは首長霊祭祀の始まり。
土木工事の革新がマキムクの発展をもたらした、ってのは眉唾な感じがする。
マキムクの地で突然の大土木工事ブームが始まったのは確か。
それがどんな要因によるのか?が議論の中心だろう。
で、意見は2つに分かれる。外部主導説か?自生説か?
またどちらの説にしても、マキムクの地が選ばれたのは何故か?
昔から議論されているが未だ結論が出ていない。
潅漑水路は北部九州では稲作開始と同時にあったと思われるが、川に堰を作って水位を
高め小溝で水を引く程度のことだった。これが、河川を繋ぐ大溝に進化したのは画期で、
堤を造れるようになったのも、古墳の周濠と共通する技術。
209 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 02:27:11
横から。
議論に関連して、俺的に確信してることがあるので、書いておくよ。
「纏向大溝は、稲作用の灌漑水路じゃない」
灌漑用なら、あんな広い幅は要らないからね。
それともうひとつ。
「纏向大溝で真に驚くべきは矢板。その膨大な枚数!」
庄内期にあれをやっているところが凄い。
210 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 02:35:22
熊本県の方保田東原遺跡でも、幅8mの大溝が出ている。
この遺跡は菊池川のすぐ隣にあるのだが、どうしてこんなものを作る必要が
あったのか。大溝とはなんだろうな。
211 :
125:2010/02/23(火) 02:43:40
>>207 >で、意見は2つに分かれる。外部主導説か?自生説か?
その外部主導説と言うのが所謂「東遷説」で
東遷説でなければ自生説と言うのなら俺は自生説論者って事になるんだろうがw
まあ(広義の)東遷説が何処の勢力を想定し、あるいはその組み合わせを考えて
大方の人間が納得しうるようなモデルを提示できるのかさえ疑問だな
ぶっちゃけ、そのようなことが可能なら邪馬台国東遷は今頃
年代観”だけ”の争いに持ち込めていると思うwwwwww
俺はゆるやかな連合はむろん肯定で、どちらかといえば外部主導説。気になるのは各クニに
いたと考えられる渡来人グループの果たした役割。
213 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 07:53:47
>>204 >恐らくこのスレの人間の多くは「歴史が知りたい」のであって
>邪馬台国と記されたものが畿内にあろうが九州にあろうが話がそこで終わるものじゃない。
俺もそうだね。
邪馬台国が九州でも畿内でも、どうでもいい。
ただ、邪馬台国がその後どうなって大和朝廷とどういう関係なのか?という話になると、
東征だの東遷だのと言い出す九州説がいて笑う。
彼らに言わせると、卑弥呼がアマテラスで、
神武東征は3世紀末〜4世紀らしい。
で、その物的証拠は?と問い詰めると答えられないわけ。アホかと。
伊都国東遷にしても、それが歴史の真実ならまったくそれでかまわない。少なくとも「んなことある
わけねえだろう、アホウめ。」というスタンスではない。ただ、それですべてが齟齬なく説明できると
は思えない。やはりギクシャクする部分が多々あるように感じる。
>>203 >環濠から出て分散居住
(中期水田は)灌漑水利システムの面では自然地形の克服がまだ不十分な段階である。
そのため水田の管理・運営は(中略)直接・日常的な集落構成員相互による調整が必要になる。
(したがって)集住形態をとり、その結果として大形集落の形成にいたる。
一方、後期水田では、自然地形を克服した完成度の高い水利システムの獲得によって、
(直接・日常的な調整の必要性が著しく低下したのである)
このため後期では、中・小集落の分散形態でも、大規模水田経営が可能な体制となってくる。
以上の検討では、大形集落の形成とその解体は、首長や首長権力の進展や卓越性に左右されたのではなく、
農業生産の技術的段階に規定され対応している。
(秋山浩三 2006 「弥生実年代と都市論のゆくえ」)
>>204 >邪馬台国論争と言うファクタは回避できない
脊髄反射した>201のレスからわかるように、
>倭人伝などの中国史書を正しく読む
ところが論拠なんだから、その話(邪馬台国所在地論争)はスレ違い。
それはそれで(向こうで)やればいいんだけどね。
「末盧国は唐津で伊都国は前原だから、方角も距離もまるで間違っている」
と言えば、少しは話が通じるだろうか?
>>215 これは水田開発および耕作の技術的進展に関してはほぼそのとおりなんだけど、富の集約という
観点が抜けていると思う。つまり、集落の中でどのようにして有力者が産まれ、首長となっていった
か、また首長がその権力を維持するために、祭祀を含めどのようなことを行ってきたか、などの視点。
>農業生産の技術的段階に規定 なら話は簡単なんだが、やはりもっと社会学的な考察が必要と
いう気がする。
つまり住民相互の関係が緊密であろう環濠集落から、分散居住になっても首長が権力を維持できた点。
それは、豪族居館に見られる祭祀施設や、前方後円墳の祭りなどによるものが大きいのではないかと
いうこと。
>>207 >外部主導説か? 自生説か?
ドンこい、での論議が興味深いな。
自生説について、マキムク建設直前、
つまり、奈良盆地の後期後半、銅鐸廃棄からの状況がどうであったか、
がよくわからない。
知ってるエロい人がいたら、紹介ヨロシク。・・・いやマジで。
220 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 11:29:46
>>213、
>>216 纏向と邪馬台国あるいは卑弥呼を結びつけて見ようとしているのは畿内説派じゃないかな。九州説派の
多くは関係ない事だと分っているから静観している。
>「末盧国は唐津で伊都国は前原だから、方角も距離もまるで間違っている」
>と言えば、少しは話が通じるだろうか?
なんだこりゃ。こんな古くさいセリフが通じる訳がなかろう。考える頭脳を持ってるのか?
なら、このスレでは邪馬台国を絶対禁句にすればいい。邪馬台国という単語は以後すべて
纏向あるいはプレヤマト王権と言い換えることとする。wwww
222 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 11:46:00
>>217 >やはりもっと社会学的な考察が必要と いう気がする。
そのとおりだろう。首長の誕生は侠客に求めることができる。腕っ節が強くて人をまとめることの出来る(頭の良い)
人間が集団のボスになる。これは縄文時代に始まっている。稲作が始まってからは開拓や灌漑や共同作業の知識や段取
りなど、また集団の防衛などで指導力を持った人間がボスとなり、そのボスを中心とした権力構造が固定化され、ボス
は豪族となる。こうして階層化された弥生社会ができた。
>>222 これは縄文人か?(違ってたらスマソ)まあ、農業生産の技術的段階が高まるほどに、余剰生産が
産まれ富の偏りができてくる。有力者が、富のみならず権力(武力)も手にするようになれば、収税な
どの概念が生じてくる。唯物史観は否定される風潮ではあるが、このあたりに視点は大切だろう。首
長が、サル山のサルのように年老いて追い出されることがないようにするには、何らかの権力維持の
システムが必要になる。あとは、首長の座の世襲というものがいつからできてきたかたかというのも大
切な論点。
>>222 つまり、 >そのボスを中心とした権力構造が固定化され、ボスは豪族となる。
こんな単純なものじゃないんだよ。腕っ節が強い侠客がボスなら、腕っ節が弱くなれば
他に取って変わられるだけ。長老にでもなるのかな。このあたりは人類学に多くの研究
事例があるだろう。首長権の世襲がいつから始まったのか、できるなら説明しておくれ。
言いっぱなしでもしょうがないから・・・「弥生ミュージアム」HPにはこんな記述があるけど、
>吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓をはじめ、豪華な副葬品や施設を備えた墓に埋葬されているのは成人で、
子供が厚く葬られることはありません。このことは、こうした特別の墓に葬られるような身分・地位にあ
る人々がその能力を認められる「大人(おとな)」であることを必要としていたことを表しています。この
ことから、弥生時代の首長や王などの身分はそのクニの成員によって、相応しいと思われる人物が立
てられるものであり、特定の血筋の家族が代々その地位を踏襲するものではなかったと考えられます。
ただし、高い身分・地位につく人々は支配者層である大人層であり、そのなかでもその土地を開拓した
一族の子孫など格の高い人々であったことが想像できます。
どうだろう・・・?ちょっと疑問もあるよね。
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode05/organization_6.html
226 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 16:59:12
>>224 222には腕っ節が強くて人をまとめることができる(頭の良い)人間と書いているだろ。腕っ節が強いだけ
じゃないのだ。
227 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 18:18:13
>>224 倭人伝を読む限り、当時、世襲制があったとは思えない。世襲制が重要なら
巫女的な女王など誕生しないだろう。
ところが、倭の五王の時代になると、前の王とのつながりが書かれていて、
世襲制であることがわかる。
梁書によると、晋安帝時、有倭王賛。賛死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、
立子興。興死、立弟武
という具合。
賛→弟→子→子→弟となっている。
少なくとも、四世紀には世襲制が出来ていたと解釈すべきかな。
>>217 >富の集約という観点
>215の要約は実は、「首長の役割や首長権力を重視する」
広瀬和雄等の弥生都市論を検証している論なんだよね。
邪馬台国連合が形成されて、世の中平和になったから、
防御のための環濠が必要なくなり、いっせいに消えた、
という話に、一石を投じてみようと思って紹介してみました。
>>217 >集落の中でどのようにして有力者が産まれ、首長となっていったか、
首長権とは共同体の内部から成長してくるものとは思えないのだ。(中略)
首長が共同体の命運をかけて、戦争の軍事指揮官としてその責務を担うとき、
彼は真の首長権力者へと転身しうるのである。
(寺沢薫「王権誕生」)
>>220 >纏向と邪馬台国あるいは卑弥呼を結びつけて見ようとしているのは畿内説派じゃないかな。
いや、そう言ってるつもりなんだが・・・
>九州説派の多くは関係ない事だと分っているから静観している。
・・・だから、そう言ってるんだけど。
>こんな古くさいセリフが通じる訳がなかろう。
古くさいから通じない?
・・・なんだろう、これは。
>>229 なるほど、これはもちろんあるだろう。特に北部九州では、戦争の開始は早かったようだからね。
ただ、このレスのイメージとしては縄文型の首長が、弥生型に切り替わるあたりを想定してのも
のなんだけど。農業生産性に対してのレスだから。
>>221 >プレヤマト王権と言い換えることとする。
それでいいから、九州説の視点からマキムクを論じてもらえばいいと思うんだけどね。
>>231 >縄文型の首長が、弥生型に切り替わるあたり
では>229の前段
縄文時代の共同体にも当然リーダーはいた。(中略)
彼はリーダーからしだいにチーフ(首長)へとその社会的地位を確定していくのだ。
弥生時代の水稲農耕は、この能力の高まりに一層の拍車をかけた。(中略)
首長の統率力が権力へと変貌する環境は整っていたのである。
しかし、(中略)・・・つまり、(以下229へ)
あ、もちろん言いたいことはわかるし、そうだと思いますよ。
上記と229は参考と一応の補足ね。
>>233 あとは北部九州あたりのことなら、渡来人および中国王朝というものが、首長権に
どのような影響を与えていたのか、本来は抜きにして語れないと思うけど、このあた
りの考えはまだまとまってない。
>>234 >渡来人および中国王朝というものが、首長権にどのような影響を与えていたのか、
>本来は抜きにして語れないと思うけど、
あ、それはね・・・
漢委奴国王は、これに先立つこと十三年の漢廉斯邑君と同じような機能を持つもので、
光武帝は(戦乱後)、倭人の百余国が歳時をもって来たって献見するのに応対する手間と費用を省くために、
日本列島の入り口に当たる博多の酋長を倭人の代表として選び、これを保護育成して、
中国人との間の斡旋を一括して委託することにしたまでである。
そうしたわけで、漢委奴国王の出現は、倭人の社会が成長して王国を作るところまできたからではない。
(中略)つまり、国王がまず出来たが、・・・
(岡田英弘「倭国』)
>>235 www 中国側から朝貢を働きかけた可能性はむろんあるだろうし、この後の倭国王帥升等の
生口160人というのも、案外倭国中からかき集めたのかもしれない。この説は読んだし、面
白い見方だと思う。・・・俺が考えてるのは、各クニにおける渡来人のネットワークのようなもの
のことなんだけど、それについての考古学的な証拠はなかなかないんだな。ww
三雲・井原遺跡群の番上地区あたりは、渡来した楽浪人が集団で居住していたとも考えられ
るけど、この人達は単に郡との交渉を担うだけでなく、どの程度日本海ルートなどの交易に
影響を与えていたかとか・・・ちょっと妄想に近いけどね。
>>236 >各クニにおける渡来人のネットワーク
黄巾の乱の余波で漢委奴国王の権威が失墜したあと、混乱に陥った倭人の諸国の間を調停して、
鬼道に事える巫女卑弥呼を名目上の盟主とするアムフィクテュオニアを作り上げたものは、
諸国の市場を支配してたがいに連絡を取り合っている架橋の組織の力であった・・・
(岡田英弘「倭国』)
しつこいか・・・
>>238 www いやよく本持ってるね。俺は読めば売っちゃうから。まあ、古墳時代ならある程度のこと
がわかるけど、それから類推するのもあれだし、遺伝子的な研究というのはちょっと使い物にな
らないしね。
あと、岡田説はあまり細部を気にしてないから、
>諸国の市場を支配してたがいに連絡を取り合っている架橋の組織の力であった・・・
のようなことがあったとしても、検証はかなり骨なんだよな。ww
>>240 >検証はかなり骨なんだよな。
そうでしょうねえ。
渡来人存在の残滓
箸墓周濠の鐙、椿井の鉄製甲冑、下池山の羅張り鏡箱、マキムクの魯般尺、・・・うーん。
架橋→華僑
まあ、よく言われるのは二重木棺なんかだけど・・・これもなかなか一筋縄では。あと、魯般尺という
のは俺的にはちょっと疑問。
>>209 >「纏向大溝は、稲作用の灌漑水路じゃない」
そうだと思うよ。物流のための運河が正解だろう。
マキムクの立地や運河跡を考えると、
古代、東北経営の拠点とされた多賀城や胆沢城のような鎮守府を連想する。
つまり俺は外部主導説なんだけどね。
245 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 01:36:51
>>243 水田の跡が存在しないんだから、灌漑用でないことは最初から分かりきっている。
盆地中央に水田跡はもとより、遺跡が全く出土しない広大な地域があることを
触れたがらないクズ学者が多いね。
実際は湿地帯で耕作や居住が不可能な地域であったことは容易に考えられるが、
それを認めると、ヤマト王権が独自に存在して、他地域と連合していたという前提が
成り立たない。何せヤマト地域が狭くなりすぎるから。
なので、クズ連中はこれをことさらに無視する。
纒向はこの空白地域の辺縁にあって、水田跡はもちろんゼロ。
しかも、明確な居住用建物跡も極めて少数。
これを「古代都市マキムク」などと読んだクズまで出現したのがマキムク教のなせるわざ。
まさにカルト!
247 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 02:39:23
>>245 >水田の跡が存在しないんだから、灌漑用でないことは最初から分かりきっている。
では大溝は何の用途?
248 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 02:47:07
>>245 よう、クズの東遷厨、また怨み節全開のカキコだなwww
「無人都市」どころか「無人盆地」とでも言いたげだが
集落跡なんて掘ったら出てくるなんてものでもないだろうに…
まあ細かな痕跡は「遺跡が出てきた!」なんて発表もされないから目立たないんだろうが
ここまでにも出てきている「王権誕生」にも盆地の集落跡について示した図があって
本当に人がいそうに無かったのはごく限られた範囲だったと思うが…
(郡山あたり?)
もっとも、その無人盆地がある時期に居住可能な土地や農耕可能な土地が広がったと言う形跡も無い。
つまり盆地南東部に発生したと言うヤマト王権自体が嘘っぱち。
欠史八代どころの話ではないw
崇神も垂仁も全部嘘w
無人盆地に王権なんか発生する道理がないwww
九州王朝説が喜びそうなシナリオだがwwww
しかし東遷説論者ってどうしてこうファナティックなんだろう?w
この怨み節の邪馬台国東遷厨の言う
「新しい年代観は畿内説考古学者の陰謀でっちあげ!」
と、伊都国東遷厨の
「新しい年代観こそ東遷説の勝利の証!」
で、どっちが正しいのか話をつけてもらえないだろうか?www
249 :
125:2010/02/24(水) 03:20:17
纏向の大溝が運河か灌漑用の施設なのか?
素人目にはどっちかと言えば運河かなあ…
灌漑用とすればあの「人」型の意味が見えてこないw
かと言って運河として考えた場合、「費用対効果」としてつりあうのかも正直疑問。
恐らく溝の底に土砂の堆積があってそれを除く作業もあっただろうし
護岸の矢板だって何れ朽ちてくる定期的なメンテだって必要だっただろうに…
250 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 10:12:50
>>248 それで反論のつもりかクズ!
纒向で集落跡が出ていないのはまぎれもない事実だわな。
>集落跡なんて掘ったら出てくるなんてものでもないだろうに…
出てない、ってはっきり言ったらどうだwww
この状況で「古代都市纒向」とか基地外レベルだなwwwww
何も出ていない領域は、決して狭くないぞwww
251 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 11:50:29
クズ、基地外は、やめれ
252 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 15:57:03
■時を継ぐ:平城遷都1300年 纒向遺跡/下 川口由一さん /奈良
毎日新聞 2010年2月24日 地方版
http://mainichi.jp/area/nara/news/20100224ddlk29040537000c.html ◇「土地の歴史知りたかった」−−農業・川口由一さん(70)
「纒向遺跡の中枢部が確認できるかもしれません。農地の発掘調査をさせてください」。
昨夏、桜井市教委の担当者が、神妙な面持ちで依頼に来た。土地を所有する同市辻の農業、川口由一さん(70)は「分かりました。楽しみです」と笑顔で応じた。
纒向遺跡の中枢部を探ることを目指した発掘調査は、昨年9〜12月に実施。そこで、3世紀前半の大型建物跡が見つかるという大きな成果をあげた。
その場所は、30年以上前から「耕さず、肥料、農薬を用いず、草や虫を敵とせず」を信条に実践してきた「自然農」の農地の一部だった。
発掘すれば、信条の「耕さず」にいた土を大きく掘り返すことになる。それでも、川口さんに迷いはなかった。「過去の続きに今の僕があるのだから、何があるのか知りたかった」
先祖代々、小作農だった家に生まれた。戦後の農地改革で、父は7反(約70アール)の農地を手にいれた。しかし、川口さんが中学生になる前に亡くなり、中学卒業と同時に一家の大黒柱になった。
収量を上げて、多くの収入を得たいと一生懸命になり、新しい農薬や化学肥料をいち早く試し、効果があれば周囲に薦めて歩いた。
しかし、18歳ごろから頻繁に体調を崩すようになった。通院すると肝機能の低下と診断されたが、原因は分からなかった。
(つづく)
253 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 15:57:54
(つづき)
74年、作家の有吉佐和子さんの新聞連載小説『複合汚染』に出会った。農薬と化学肥料が農産物に与える影響、毒性物質の複合が環境汚染を引き起こしている実態が克明に描き出されていた。
「これまでやってきた農業が恐ろしくなった」。この時、川口さんの人生が変わった。
「自然農法」を提唱、実践し、「アジアのノーベル賞」と言われるマグサイサイ賞を受賞した福岡正信さんの本を読み、77年に独自の自然農に取り組み始めた。
耕すことをやめたので、田畑は土が硬くなり、雑草に覆い尽くされた。2年間は、翌年の種もみを確保するだけで精いっぱいになった。母親は、雑草が茂る田畑が恥ずかしいと泣き、家にこもった。
しかし、3年目になると、枯れた雑草やわらが徐々に朽ち、層として積み重なった。「耕さなくても土がフカフカになった」。作物が豊かに実るようになった。
雑誌に自然農について寄稿した。すると、全国各地から多くの人たちが、自然農を学びにやって来るようになった。このため、20年ほど前から、自宅や近隣の休耕田で「自然農塾」を主宰している。
母は5年前に亡くなったが、その晩年「よう投げ出さずにがんばった」と言ってくれた。何よりうれしかった。
大型建物跡が見つかった場所は現在、枯れ草に覆われている。市教委は、調査した畑をできるだけ元の状態に戻そうと、発掘で掘り上げた土をきちんと分けて保管し、層ごとに丁寧に埋め戻してくれた。
「また発掘する必要があるなら、ぜひやってもらいたい。それで土地に積み重ねられた歴史を知ることができるのだから」。川口さんは、にこやかに笑った。【高島博之】
渡来人のネットワークか。上で面白い話をしているな。
纏向建国に、渡来人集団や公孫氏がどの程度の影響を与えているか、という観点は
検討に値するかも。
255 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 21:38:14
>纏向建国に、渡来人集団や公孫氏がどの程度の影響を与えているか、という観点は
>検討に値するかも。
あほなこと言いなさるな。
256 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 21:46:44
どこが?
257 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 22:03:21
纏向建国・・・・・・妄想爆発WW。
258 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 22:04:44
纏向建国がおかしいだろ。国が建てられたと言えるか?墓が沢山作られただけだろ。
259 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 22:11:40
墓の主はどこに住んでたんだよという。
上でコピペ厨と話してたのは俺だけど、ちょっと岡田説の
>鬼道に事える巫女卑弥呼を名目上の盟主とするアムフィクテュオニアを作り上げたものは、
諸国の市場を支配してたがいに連絡を取り合っている華僑の組織の力であった・・・
このあたりは、土器も含めた楽浪系遺物の出土状況から信じがたい気がする。岡田氏が「倭国」
で説く、「倭国は中国系の移民と、現地住民とのハイブリッド状態である、都市国家の連合体」とい
うような考えは、いくら何でも飛ばしすぎではないか。まあ、氏の論は一種の文明史観で、証拠は
あとでついてこいといったきわめて演繹的なものではあるけど。
俺がここで渡来人のネットワークとかいってるのは、大陸から渡来したが倭人化して、各クニの大
人層に入り込んでいるような人々の動き。
例えば福岡大の武末純一氏は、三雲・井原遺跡群の番上で楽浪系の土器が弥生中期後半〜後期にかけて
継続して出土することから、「三雲南小路王の出現を契機に、渡来した楽浪人が集団で居住していたことを示
すもの。おそらく彼らは楽浪郡との交渉を担うことで政権中枢にも参画した。」といったことを述べている。
これらの人々が、倭国乱にあたってどのように動いたのだろうかといった意味でレスをしたんだが、まあ皆目わ
からないといってよい現状。w
262 :
日本@名無史さん:2010/02/25(木) 01:04:37
マキムクで騒いでいる人たちをみていると、黒又山をクロマンタとかピラミッドとか
決め付けて騒いでいた人たちを、どうしても連想してしまう。
黒又山はピラミッドだと信じる彼らが、山の頂上の神社の礎石を掘って「ピラミッドで
あるいことが証明された。」と涙を流して喜ぶ姿がテレビで放送されていた。
住居跡がほとんどなく、集落跡も出ていないマキムクでやっと出た大型建物一つで
「卑弥呼の居所だ。」と大喜びしている人たちは黒又山で騒いでいた人たちと本質は
同じだよね。
あれは宗教だよ。間違いない。
263 :
125:2010/02/25(木) 02:05:58
>>245 東遷厨(怨み節)
ところで…
古代の奈良盆地に人が住んでいなかったことを認めないのが学者としてクズと言うなら
クズじゃない真っ当な学者
それこそ
「古代奈良盆地には人なんか住んでいなかった」
…とか言っている東遷厨基準によるマトモな学者って有名どころで誰よ?w
後学のために数名ほどでもチョチョイと挙げてもらえないだろうか?
あ、安本センセイはいいから、その他の方向でwwwwwwwww
まあ考古学者ですら、それが常識ってんなら
地理・地質の分野ではもう常識の常識になっているだろうから
その分野からの引用には事欠かないとも思うのだが…
そこから引用してくればイッパツだと思うのだがwww
なんかあるのかい?
264 :
日本@名無史さん:2010/02/25(木) 08:33:35
>>245 >盆地中央に水田跡はもとより、遺跡が全く出土しない広大な地域があることを
>触れたがらないクズ学者が多いね。
どこの盆地中央に「遺跡が全く出土しない広大な地域」があるわけ?
現在の町名のここからここまでとか、挙げてくれないかなー?
君の空想じゃなければ。
265 :
日本@名無史さん:2010/02/25(木) 13:06:54
266 :
日本@名無史さん:2010/02/25(木) 15:18:22
松岡数充/西田史朗 「奈良盆地の最上部更新-完新統」,『長崎大学教養部紀要. 自然科学篇』. 1980, 21(1), p.35-47
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/16526/1/kyoyoS21_01_04_t.pdf (引用)
奈良盆地には,かって上治(1947)によって奈良化石湖と呼ばれた比較的広い面積を有する滞水域の存在が考えられたことがある.粉川(1975)
は泥炭層の形成とこの湖とを関連づけている.
しかし泥炭層の水平方向の拡がりはあまり大規模でなく,またその形成年代もそれぞれの地点で異なり, 34,000Y.B.P.から21,000Y.B.P.にわたる.
このことは当時の奈良盆地には湖と呼べるような広範囲にわたる滞水域は存在しなかったと推察される.
これらの泥炭層は前述の河川の流路の移動によって,自然提防の外に残存していた小規模な池沼域に形成されたと考えられる.
上治寅治郎(1947)石炭地質学(亜炭篇, 330pp.北隆館.
粉川昭平(1975)ミツガシワの分布と種子の大きさの変化. (粉川昭平・田村道夫著) 「植物の系統と進化」, 217pp.日本放送協会出版会.
奈良盆地には湖と呼べるような広範囲にわたる滞水域は存在しなかった!
奈良盆地には湖と呼べるような広範囲にわたる滞水域は存在しなかった!
奈良盆地には湖と呼べるような広範囲にわたる滞水域は存在しなかった!
奈良盆地には湖と呼べるような広範囲にわたる滞水域は存在しなかった!
奈良盆地には湖と呼べるような広範囲にわたる滞水域は存在しなかった!
267 :
日本@名無史さん:2010/02/25(木) 16:06:20
>>266 泥炭のC14の測定で大丈夫かな?
歴史年代の堆積物で同じことをやって正確だったというソースもないね。
普通に考えて、出発点からしてアウトのような・・・
c14は諸外国で普通に使ってるし、日本でもこの年代幅なら全然OKってか、これが
ダメなら地質学や古生物学は日本では成り立たない。箸墓の年代決定とか、数十年
幅で用いるのは危険だけど。
>>268 泥炭でのC14の世界的ソースも無いようだが・・・
270 :
日本@名無史さん:2010/02/25(木) 20:34:21
リビー補正曲線では駄目なのか?
泥炭がどうやってできたか、すべての泥炭について言えるかな。
正体不明の物体を観察して得たデータから結論を導くという状況だよね。
272 :
日本@名無史さん:2010/02/25(木) 21:02:15
C14年代測定法は、植物に固定された炭酸ガスからの炭素に含まれる
C12、C13、C14の内のC14の割合で決定される。
ただ、太陽からの放射線の強弱によりC14が年代によって多少増減する。
これを世界的な過去の遺物から、増減の曲線を出したのが補正曲線だ。
つまり、泥炭の場合、泥炭を構成する植物が呼吸したときの
炭酸ガスにふくまれる炭素の値を測定しているのである。
泥炭だから、違う、と言うことは、原理的にはない。
ただ、太陽の放射線の影響を受けにくい、海洋からの炭素源が
多く含まれる場合、その値が変わるので、海に近いところでは
注意が必要である。
>>239 >いやよく本持ってるね。俺は読めば売っちゃうから。
捨てるのが下手なんだな。筒井康隆の文庫本も26冊・・・
>>260 >いくら何でも飛ばしすぎ
>証拠はあとでついてこい
そのラジカルなところがいいんだけどね。まあ、岡田さんは文献主義の歴史学者で、
「倭国の時代」が76年だ。しかも最初の倭王が仁徳で「河内」の山の向こうの
「山外(ヤマト)」のことなど、日本書紀の完全な創作だと言うのだから、
マキムク遺跡など眼中になかったのは明らか。
いつの間にやら「コピペ厨」になってしまったが、
奥歯に物の挟まったような、もったいつけた言い回しが嫌になった。
単純に事物を整理して検討するだけでいいじゃないの。
ま、だから岡田さんやら縄文人がおもしろいのかもしれないが・・・
>>266 標高45m以下の標本が少ないなあ。
弥生時代の遺跡が皆無なのは標高45m以下なのに。
275 :
125:2010/02/26(金) 02:03:25
>>266-272 つうか既にツッコミかかっているが…
箸墓の様な10年100年単位のお話とはレベルが違うだろうにw
これが東遷厨の妄想が正しいとかなったら
それこそ恐竜と人類が共存していたなんて「ムー」の世界もアリアリっちゅう話しだよなwwwww
結局、怨み節の東遷厨が
「古代の奈良盆地が無人盆地であった事を認めない学者はクズと」言い放ったが
何の事は無い。クズはてめえだったと言うオチでしたとwwww
ま、ボーリング調査によるものなら、堆積した資料の深度とc14測定の結果から、年間堆積量を推定すれば、
当時の地質状態はある程度まで指摘できるんと思う。(年間○mmで堆積していったとか)さらに、調査場所に
よって泥炭の年代が大きく異なるなら、広範囲な帯水域はなかったといっていいだろうね。
標高50mある鍵・唐子は弥生時代から、
微高地で環状集落あったの誰でも知っている。
ボーリング調査したところが、
古墳時代に水に漬っていたはずはない。
いまさら
>>266みたいなことを挙げる奴もどうかしてるし、
>>267>>269>>271>>272のようにに、
何か新しいことでも突きつけられたかのように、
レスしているやつもどうかしている。
278 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 10:44:30
>>277 前半は同意なんだが、後半は同意できんね。
いわゆる盆地湖とは無関係のデータとして突っ込む価値はある。
泥炭のC14がその時代のC14を反映するという他のデータが存在しないので、
誤差が1000年単位の可能性すらある。
279 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 11:20:32
>>274 地質学者が盆地湖があったとしている地域を避けているねww
C14も須恵器が出た場所でかけ離れた数値が出たとか、これじゃあ
なんの価値があるんだかww
280 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 13:30:59
>>279 だから、君の言う盆地湖のあったところって、現在の地図上で何町のあたりなんだよ?
明言すると都合の悪いことでもあるのかwwwwwww
281 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 14:15:08
あれ、この地図は有名ですよ。公式に認められていますよ。
282 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 14:26:23
>>281 この地図って何だよ?
それに、いったい何が公式に認められてるんだ?
283 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 18:01:45
284 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 18:31:01
>>283 >どっちにしても、遺跡も田畑も出土しない広大な領域が存在することは広く知られている。
それがでたらめだってkとは、みんなよく知ってるよ。
奈良盆地の遺跡の場所を記した図が、考古学本によく乗ってるから。
285 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 18:35:30
286 :
125:2010/02/26(金) 18:54:03
まあ東遷厨の与太は置いといてだw
弥生時代の農耕がどのような物であれ低湿地帯が
古代人にとって稲作に一番手っ取り早い環境だったのは間違いないんじゃないだろうか?
だとしたら奈良盆地はむしろ稲作にはうってつけだったわけで…
ただ稲作と言っても収穫された米で腹一杯食えると言う状況で無かったなら
やはり人口の集中にも一定のセーブがかかっただろうが
(無論、奈良盆地でも米の他の雑穀や河川や湖沼で魚は獲れただろうし青垣地帯では狩猟もできたのかもしれんが)
ある時期土木灌漑技術の進展により更に米の収穫が見込めるようになりヤマトが急速に伸びた…
こっちのシナリオの方が耕作地も無い無人盆地に
何を思ったか他所から人が流入してきた…なんてシナリオよりよほどましだと思うがwwww
あと全国展開した前方後円墳も祭祀・埋葬文化と言う点より「土木技術の供与」と言う視点で見るのも面白いかも。
287 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 19:04:01
おまえら、灌漑しないと育たないような品種改良された稲があったと思ってるわけ?
古代米は、湿地帯には普通に自生するだろ。
>>283 奈良盆地湖とは(誰かの)妄想だと思って(無視して)いたのだが、
ようやく実態がわかったよ。
>図を重ね合わせると、盆地湖といわれる領域をきれいに避けて調査している
図を重ね合わせると、盆地湖といわれる領域に、試料採集のマークがたくさんついているが?
>>284の言う
“考古学本によく載ってる奈良盆地の遺跡の場所を記した図”と、紹介のリンク先を重ね合わせてみると、
遺跡は“盆地湖といわれる領域をだいたい避けて”存在しているようだ。
>>288 畿内説では遺跡空白地帯については、無視するのが普通なんだけど、こういう言い方で
反論するのがネットでははやりなのかな?
盆地湖や湿地帯といっても、そのなかには高台のような高くなっていたところもあっただろうし、
そのような場所には遺跡が残っている。
それを殊更に強調しても、虚しいだけじゃあないかな。
290 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 19:25:27
>>287 稲はいったん水没するとアウト。
4方どころか8方を山に囲まれて、排水は1本だけというあの地形では雨季には
湿地帯のかなりの部分が水没しただろうし、そうなると稲はアウト。
292 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 19:34:35
>>290 湿地帯ですならいと、はっきり言う学者も居ないのでは。
そもそも、この問題は畿内自生説の否定ではすまないからタブー扱いで、畿内説では
ほとんどの学者がスルーしているのが現状ではあるが。
ヤマトに王権ができたときに、その食料原がヤマトには存在しなかったってことになると、
「初期から広域の支配地域があった」てことになる。
レンゴウ君にはこの事実は受け入れられないだろうね。
>>290 > >標高50m(網目地域)以下の地域は網流地域と考えて、
> >厳密に水支配の境界が策定できない
これ湿地帯のことだぜ?
湿地帯行ったことあるの?
池とは違うよ。
294 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 19:37:50
ゴボゴボゴボ・・・・・・・
>>292 河川の作り出す扇状地と湿地帯があるのは、富が生まれる条件だよ。
古河内湖の湿地が産む富で、河内の大王たちが覇権を握った。
>>289 なにが言いたいのかよくわからない。
>遺跡空白地帯については、無視するのが
遺跡空白地帯については、言及していないつもりだが?
どこを指して“遺跡空白地帯”と言っているのかな?
>そのような場所には遺跡が残っている。
ならそれでいいんじゃない。
>それを殊更に強調しても、虚しいだけ
強調して? なにを? 指摘しているのは
「図を重ね合わせると、盆地湖といわれる領域に、試料採集のマークがたくさんついているが? 」
なのだけど。
話をそらしてごまかそうとしているのかな?
>>295 こいつ、いつか別スレで城下町のできる条件にも同じようなことをホザイて総スカン食らってたやつだなw
299 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 19:44:28
>>293 『古代「おおやまと」を探る』を書いた伊達先生は慎重に言葉を選んでいるよね。
「湿地帯」という言葉は使わずに、抽象的な表現で代替している。
「水支配」という、灌漑して耕作していたかのように受け取れるあいまいな言葉を選んでいる。
学者ってのは、色々気をつかうみたいだね。
伊達先生としては、この問題に触れただけでも一歩前進で、決してタブーから逃げたわけじゃあないと
いう気持ちなんだろうけど。
>>299 あの範囲を「灌漑して耕作」はあり得ないけどなw
301 :
125:2010/02/26(金) 19:48:21
話がやや大きくなるがw
「四大文明」は全て大河の下流域に発生している。
ナイルじゃあ頻繁に河川の氾濫にあっていた事は誰もが知るところ。
それで土木測量技術や幾何学も発展したんだっけ?
農作に向く肥沃な地は河川の氾濫の被害にあいやすいというリスクとは隣り合わせ。
302 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 19:54:32
>>291 この人は何をいってるんだろうね?
川が氾濫する地勢というのは、栄養価が豊富で作物がよく育つわけだが。
古来、水害に苦しんでる場所は、農業地帯ですよ。
水害があっても、それを上回る収穫があるからそこに住む。
303 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 19:57:40
>>302 湿地帯の辺縁部の纒向ですら、田が1面も出ていないよ。
304 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 20:02:47
ガオーッ
305 :
125:2010/02/26(金) 20:04:07
>>292 東遷厨(怨)
>ヤマトに王権ができたときに、その食料原がヤマトには存在しなかったってことになると、
>「初期から広域の支配地域があった」てことになる。
そう言ったのは今回が初めてじゃなかったかな?w
湖の消失時期や新たに広がった耕作地の痕跡を出せなければ
初期ヤマト王権も食料その他の物資は盆地の外に頼った事にしなければならない
ようやく割り切ったようだなwwww
で、その事が「連合体」をどうして否定する事になるのかな?
むしろ連合体だったが故に食料も外から都合してもらえた…とむしろ蓋然性が高まるwww
逆に単純な武力をもっての領土拡張のモデルだと
食料も無かった奈良盆地は王権発生の地ではなく
かと言って東遷説を持ち出したところで
食料も供給できないところに何で外からわざわざ飢えるのを承知でやってきたのかという話でw
じゃあ食料源も確保で一気にヤマト周辺の畿内全域を征服でもしたのかと言うアホの上塗りのお話wwwwwwww
>>305 邪馬台国東遷説はとってないが、
いわゆる神武神話で、葦原中国を目指しているのは、
灌漑技術集団の行動を反映している可能性はありうると思っている。
この後、低湿地を大規模に灌漑する技術が、東国にも行き渡ったのではないか。
307 :
125:2010/02/26(金) 20:17:44
>>306 いや、だからさあ・・・
東遷厨(怨)は何が言いたいのかと言うと纏向は「無人都市」で
奈良盆地は無人盆地だったって話でw
「灌漑技術集団」がやってきたと言っても、その集団だけで労力の全てを賄えたのか?
”クニ”レベルでの人口でもないと難しいと思うが
灌漑工事の間もそりゃ腹は減るだろうし食料はどうした?
仮に灌漑工事をやるにしても”無人の地”に外部から人がやってきてと言うのは
相当に厳しいシナリオだと思うwwww
>>307 > 纏向は「無人都市」
と、奈良盆地にクニがあったことは矛盾しないのでは?
309 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 20:31:37
纒向では水路の護岸を灌漑設備だとすると、水稲耕作はどうしてしなかったの?
あそこは、勾配があるから、田を水平に作らないと灌漑が機能しないよ。
水平な田もないし、水平な田を作った形跡もないし、そもそも水田の跡もない。
それでも、「あの水路が灌漑用だった」というつもりかな。
そんなことを言っている学者は、纒向信者にさえも居ないよね。
まあね。田地も居住地も無いところに巨大古墳ができたとなれば、結局クニの範囲想定が広がっていくだけ。
連合説にとって「無人都市論」はかえってありがたいような。
311 :
DoW:2010/02/26(金) 21:15:53
纏向は競技会場。オリンピアの地。えっ?何の競技かって?それはもちろん土木工事技術
を競う、古墳築造合戦。古代のもの作りチャンピオンシップ。箸墓に先行する100級初期古
墳はみな一度にできたんですよ。東海の身分の低い者を作業員として各クニに数百人程度
ずつ分配して、ヨーイドンで造った。審判は、とある有名な巫女王。
優勝はどうやら吉備勢力だったようで、箸中山は彼らが中心になったようでやんすね。
312 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 21:43:34
日本書紀には、「仁徳天皇十一年、冬十月。掘宮北之郊原。引南水以入西海。
因以号其水曰堀江」という記述がある。
宮の北部の原を掘り、南の水を西の海に引き入れた。その水を堀江と言う。
というわけである。
これによって、河内湖の干拓が急速に進んだとされる。
また北の河の氾濫を防ぐ為に茨田の堤を築いた、という記述もある。
縄文人の、大和湖の排水を進め開拓した、と言う話もまんざら根拠がないと
言うわけでもないのかな。
ちなみに、縄文時代の橿原遺跡では、船着場のような建物が見つかっており、
水生植物である葦などの痕跡もある。魚の骨が大量に見つかってもいるらしい。
大和湖は存在したのかもしれないな。
>>312 アホウか?橿原遺跡はもともと川沿いなんだよ。応神・仁徳紀は大陸からの新技術により川の流
れを変えられるようになった大土木工事時代。
314 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 22:21:00
広大な湖があったなどと想定できないほど、
奈良盆地のいたるところから、掘れば弥生遺跡が出てくるわけだが。
だからこそ、奈良は遺跡の多さで開発が遅れているわけで。
もういちど聞くが、湖があった場所というのは、
現在の地図上で、いったいどこの町のあたりのことを言ってるのかね?
しかし縄文遺跡は山際にしかないのであった
316 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 22:36:00
>>307 >かと言って東遷説を持ち出したところで
>食料も供給できないところに何で外からわざわざ飢えるのを承知でやってきたのかという話でw
神武東征として記紀に書かれている九州からの入植者集団の移住は2世紀末のことであります。当然先住民との摩擦
がありました。ナガスネ彦に代表される先住民との戦闘もありました。しかし、最終的には神武が勝利し、大物主の
娘を妻に迎えるなどの戦後処理(先住民懐柔)により永住権を獲得したのです。
ですから、食料も無いところに入ってきた訳ではないのです。ある程度の食料はあったのです。そして神武がハツク
ニシラススメラミコトと(後世のことではありますが)呼ばれるからにはこの大和の地に王権を誕生させる基礎を拓
いたと見なければなりません。それこそが大和湖の干拓事業だったのです。湖面水位を僅か10cm下げるのに数年を
要するという根気のいる事業ですが、それによって得られる水田は莫大なものでした。今日の感覚では想像できない
でしょうが、画期的な食糧生産拡大事業だったのです。この事業の成功が民をして神武を大王に戴かせた理由だった
のです。
317 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 22:43:12
>>316 そうだ、それこそ大和湖の排水によって神武が畿内に王権を開いた軌跡そのものだ。君は実によく勉強しているし、正しい史観
を持っているようだ。まさに1世紀から2世紀にかけての大和は、鴎の立ち立つ地であったのだよ。神武は湖水を半湿地帯に変え
米を植えて、植えて、植えまくったのだ。まさに古代の二宮金次郎だ。お前らは金次郎さんの歌を知っておるか?芝刈り縄ない
草鞋を作りじゃ、げははははははああああああああ。
319 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 22:46:10
>>316 >この事業の成功が民をして神武を大王に戴かせた理由だったのです。
のわりには、伝承にもなってないんだな。
東征の現実性を記紀に求めるなら、
記紀にない「大和湖の干拓事業」は認めちゃいかんだろ。
321 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 23:19:14
>>319 その地図は、盆地湖があったとされるところに弥生遺跡が存在しないような書き方がされてるけど、
そんなことはありません。
322 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 23:20:02
パオーッ
323 :
317:2010/02/26(金) 23:25:32
324 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 23:29:13
安本に簡単に騙されるやつが多すぎ。
325 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 23:30:35
>>320 福岡の板付遺跡は最古級の水田跡をもっていますが、ここの開墾伝承はありません。前原地区には楽浪土器が出土して
大陸からの移住者が居たのではと言われますが、伝承は残っていません。春日市の須久・岡本には王墓級の遺跡があり
ますが、伝承はありません。何でも伝承として残るとは限らないのです。
記紀にも書かれていないことがあるのです。神武の時代には人々が恩恵を受けていたことも時代が下ってその恩恵を日
常の普通の事と感じるようになり、次第に人々の記憶から消えてゆくのです。
だいたいこのスレでは、考古学的考察が高級のように思われてる節が見られるが、まったくそんなことはない。遺物として出土
するのは当時用いられていたものの何千、何万分の一でしかない。さらに、それに考古学者の恣意的な考察・知見が介入する。
つまりその学者の自説に沿うように、解釈がねじ曲げられてしまう場合が多々あるということだ。この現象が、特に纏向遺跡関係
の発表に多く見られることに対して、一人の在野の古代史家として大いなる危惧を抱いておる。
考古学者は、卑弥呼や邪馬台国について語ることをせず、土器片の整理分類をやっておればよいのだ。それが本業であろう。
327 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 23:37:38
>>323 箸尾遺跡は微高地になっていて水没していなかっただろう。奈良盆地中央部でも完全に平ではなく凹凸
があった。
328 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 23:43:11
>>325 おぬしは少しは見所のある者と思っいたが、このレスを読む限り私のとんだ勘違いだったようじゃ。記紀の伝承は、これつまり
王道の記録。ここに無いものは史実として価値の無いものであるのだ。神武の大和湖排水事業に関しては、はっきりと記紀の
記述に残っておる。ただし、少しく形を変えておるために凡庸な者にはその見分けがつかんのじゃ。ははは、気になるだろう。
大和湖排水は、イザナギ神、イザナミ神が天の沼矛によって大八州を為した場面に表されておる。つまり国土の修理固成だ。
330 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 23:47:48
>>329 もうなんでもありだな。
邪馬台国はアメリカでいいや。
>>317 あのへん、川の北側は割と急に高くなってるんだよ。
南側は非常になだらかに標高が上がっていくけど。
それに、縄文後期晩期なら、かなり干上がっていても不思議はない。
弥生前期には唐古に人が住み始めるんだからな。
もっと古い縄文遺跡はあるかね?
しかし狩猟・採集中心の縄文人なら、別に湖でなくても、始終洪水に悩まされるねとねとした場所には住まないだろう。
>>325 >何でも伝承として残るとは限らないのです。
そりゃそうでしょうね。板付遺跡の開墾伝承は残らないでしょう。それと、
「大和の地に王権を誕生させる基礎」事業を同列にするんですか?
>神武の時代・・・次第に人々の記憶から消えてゆくのです。
なら「神武東征」もあいまいな記憶でしょう。いいとこ取りのダブスタは説得力皆無です。
奈良県橿原市の観音寺本馬遺跡で、縄文時代晩期中ごろ(約2800年前)のクリの切り株が
25本確認され、市教育委員会が26日発表した。約80メートル四方の範囲に集中しており、
食用などのために栽培していたとみられる。
市教委は「切り株がこれほどまとまって出土したのは初めて。狩猟採取が中心といわれる
縄文時代の食料獲得方法を見直すきっかけになる」としている。
切り株は大半が直径50センチ前後で、樹高は20〜30メートルだったと推定。
クリは腐りにくく丈夫なため、食用のほか建築部材としても多く利用されたという。
市教委が科学的な分析で樹木の種類を特定。クリ林の周辺には、オニグルミや
ムクノキの切り株も確認された。
現場は既に埋め戻されており、発掘成果は27日から橿原市千塚資料館で紹介される。
*+*+ NIKKEI NET 2010/02/27[01:12:27] +*+*
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20100226STXKF043726022010.html
335 :
125:2010/02/27(土) 01:22:25
>>328 本当に縦目なのか?
あいつリアル学生だろ?
>>318で「お前らは金次郎さんの歌を知っておるか」だぜ?w
俺でさえ知らんわ、そんなもんwww
誰かは知らんが縄文人のコテを捨てハン的に使って面白おかしく書いているんだろうwww
多分一種の愉快犯だなwww
まあ手っ取り早いところでは寺沢の『王権誕生』に「奈良盆地の地域構造」として
盆地の水系ごとに集落や母集落を示した地図があるが
初瀬川や飛鳥川のかなり北の方、やがて合流する地域辺りまでそれらがあるのが分かる。
「学者があえて無視している」とは東遷厨(怨)のいつもの被害妄想だろうが
そりゃ「盆地には人が住んでいませんでした」なんて事を言う奴がいないから言及する必要も無いんじゃないのか?
その正論を述べて無視された良心的な学者って一体誰なのか(安本以外で)?
ついぞここまで名前が出てない訳でwwwwwww
336 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 01:54:29
剣の道を志す者として、他人のコテハンを盗用するなどということはしませんよ。ただし、二宮金次郎の
歌は知ってます。
柴刈り 縄ない 草鞋をつくり 親の手を助け 弟を世話し 兄弟仲よく 孝行つくす 手本は二宮金次郎 ww
縦目仮面、中年のおっさん疑惑浮上・・・
339 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 08:42:23
>>334 生活痕がどんどん見つかるのに、盆地湖とはちゃんちゃらおかしいな。
340 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/27(土) 09:12:08
>>318 >まさに1世紀から2世紀にかけての大和は、鴎の立ち立つ地であったのだよ。
現在の大和でも、鴎の立ち立つ地です。
「ゆりかもめ」ですが。
>>339 >生活痕がどんどん見つかるのに、盆地湖とはちゃんちゃらおかしいな。
亀瀬の崩落の繰り返しで奈良湖の水面は上下しています。
奈良湖水面高は、標高40m〜80mの範囲を変動しています。
341 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/27(土) 09:32:07
>>323 >やはり縄文後期から人々が住んでいたようですね。
出鱈目書くな。
箸尾遺跡の最古のものは弥生期だ。
342 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 09:56:20
343 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 10:00:36
>>341 >箸尾遺跡の最古のものは弥生期だ。
ソースを出せ!
出せなかったらお前こそ出鱈目野郎だ。違うか。
>>339 >奈良県橿原市の観音寺本馬遺跡
の場所を調べてから物言わないと恥かくぞ。もう遅いか。
,..-─‐-..、
/.: : : : : : : .ヽ
R: : : :. : pq: :i}
|:.i} : : : :_{: :.レ′
ノr┴-<」: :j| <ソースを書きなさい!
/:r仁ニ= ノ:.ノ|! _
/:/ = /: :/ }! |〕) コツン
{;ハ__,イ: :f | /´
/ }rヘ ├--r─y/
/ r'‐-| ├-┴〆 _, 、_ '⌒ ☆
仁二ニ_‐-イ | | ∩`Д´)
| l i 厂  ̄ニニ¬ ノ ⊂ノ < ヤダヤダー!!
,ゝ、 \ \ __厂`ヽ (__ ̄) )
/ /\_i⌒ト、_ ノrr- } し'し′
└-' ̄. | |_二二._」」__ノ
ヤダヤダー!!て言ってるのが九州王朝だなwww
347 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/27(土) 11:42:07
>>344 下層から出てきたのは弥生土器。
下層の下部が縄文期とするのは、橿原考古学研究所の妄想的断定。
弥生土器の下の層の集落遺構だから縄文後期層と断定するのは間違い。
発掘初期の報告書を読め。
初期の報告書が今直には見つからなかったので僕の記憶による。
348 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 11:43:54
>>342 縄文時代後期とか言ってるが、なんで分るんだ?前期かも知れんだろが。大和湖の形成前のものでないと
証明できるのか?
>>347 コテはずせ
お仲間が来てまた荒れるだろ
>>340 >奈良湖水面高は、標高40m〜80mの範囲を変動しています。
お前の言ってる事に一挙に信用性無くなったな。
まぁ、もともと無いに等しいけどw
351 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/27(土) 13:48:20
>>350 奈良湖最高水面高は、縄文期の標高80〜90mの時です。
奈良盆地の南北に点在している水を表す地名から推定できます。
もしかすれば弥生期の最高水位でも標高80mあったのかもしれません。
残存地名が縄文期のものか弥生期のものかの判別が出来ませんので。
>>352 …当然分かっててやったな?w
しかし水深80mの巨大湖を作ろうとすれば
盆地の北部にも自然のダムが必要なんだなwwww
まあ東遷厨とかこの九州王朝とかって所謂「議論系荒し」だよなw
このスレをこんなトンデモレベルまで落とす事を目論んでいるんだろうwwww
354 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 16:08:31
355 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 16:32:57
>>353 相変わらず「畿内説の恥さらし」は健在ですね。
356 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 16:57:37
>>353 >議論系荒し
うまいこと言うね。
盆地湖があったといいながら、縄文時代の遺跡がみつかりまくりという矛盾。
水位が80mも変動してるところで、
直径50cmの樹木が育つかよ。
357 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 16:58:26
>>352 それは、大和川がなかったら、標高80mくらいまでは奈良盆地に水が溜まる
可能性があるということ示しているわけじゃないかな。
358 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 17:05:55
ちなみに、グーグルアースでざっと見てみたら、奈良盆地で一番標高の低いのは、
斑鳩町南部の大和川沿いで、30mちょっとかな。
359 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 17:36:59
>>356 盆地湖は別として、湿地帯というスジも認めないのかな。
さすがに学者にはそのレベルのトンデモは居ないのでは?
この問題は白石とかの自生説には決定的に不利だけど、その他の畿内説は、
「湿地帯が広い地域にあって耕作できなかった。纒向でも田は存在しない。」という
ことは当たり前に認めているのでは。
無理をして否定して、三角縁舶載説のようなトンデモを増やすこともあるまい。
361 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 18:29:32
>>359 湿地帯だったのは当然だろ。
だから、高床式倉庫ができたわけで。
そして、湿地帯なら、ほっといても稲は自生する。
362 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 19:16:09
>>360 つまり、大和川の付近は地すべりで埋まることもあった。
埋まれば、盆地には水が溜まる。湖があった可能性は高いな。
ところで、言いだしっぺの縄文人は書き込み規制中かな?
364 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 19:35:36
300年続いた唐古・鍵遺跡の環濠だって、
洪水で埋もれたらしいのは3世紀頃の一度だけだというのに、
大和川がせきとめられて盆地湖ができたなんていう発想がどうしてできるの?
365 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 19:57:27
心がゆがんでるからだよ。その原因は執着だな。気の毒な人と思って、道で会ったらおにぎりを
めぐんでやろう。
366 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 21:59:18
しかし、地図を見ると奈良盆地は水溜りが異常に多いな。あれは池かな。
367 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 22:05:46
>>364 大和川がせきとめられれば奈良盆地が水浸しになることは小学生でも分る。君の考えが異常なのではないかな。
368 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 22:40:41
水浸しになった地質学上の証拠が無いと言ってるだろうが?
369 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 22:44:33
古墳から出土する埴輪には美しいものや笑う武人など面白いものもあるが、概して写実的である。
縄文時代の火焔土器や土偶には強烈なエネルギーを感じさせるものやデフォルメの見事さに圧倒されるような
作品がある。芸術としては縄文人の作品が上である。
時代がさがるにつれて芸術性が低くなっているのは、弥生時代から社会がより功利主義的になりおおらかさが
失われたからであろう。人は知識を得ても代りに失うものがある。
370 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 22:55:17
>>368 唐古・鍵の集落の環濠が埋まったことが水浸しになった証拠だ。盆地の縁辺部ではなく、傾斜の極めて緩い地域の
微高地が水没するのは川の氾濫(激流によって土砂が運び込まれる)というようなものではなく湖面の上昇による
ものである。
371 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 22:59:52
糞スレ化してきたな。ww
372 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/27(土) 23:06:07
>>366 >地図を見ると奈良盆地は水溜りが異常に多いな。あれは池かな。
水田用の溜池です。
昔は地下水位が高かったので、穴を掘るだけで自噴式の井戸になりました。
大和郡山付近は金魚養殖池もあります。田圃を1mほど掘り下げるだけで作った池です。
奈良盆地では田圃に水を入れるだけで深さ10cmほどの池にすることができます。
しかし戦後の工場進出で地下水位が下がり、昔の様に簡単には池を作れなくなっています。
>>366 おまえ、小学校のときに何を習っていたんだ?
374 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/27(土) 23:21:45
>>373 >おまえ、小学校のときに何を習っていたんだ?
金魚の養殖池は地元以外では習わんだろう。
他地方に比べて、小さな溜池がやたら多い。
奈良盆地の特徴だ。
何故そうなのかの説明は長くなるので省略する。
375 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 23:26:04
>>372 奈良盆地の地下には巨大に宙水があるらしい。
これは、本地下水と地表との間にある地下水で、奈良盆地がかつて湖で
あった証拠とも言われる。
穴を掘るだけで自噴式の井戸になったというのはそういうわけだろうなあ。
>>369 >人は知識を得ても代りに失うものがある。
なるほど。知識のない縄文時代人は、妄想だけはたくましかった、のだな。
378 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 00:13:37
>>377 そのようなひねくれたレスをするのは魂が汚れているからです。妄想を言うならば「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である
「ヤマト」が新設され た」などという論や纏向を邪馬台国と結びつける論をこそ指弾しなければいけないでしょう。
379 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/28(日) 00:34:44
>>376文献の著者小泉泰一氏は奈良盆地の丘陵部出身だな。
平野のど真ん中出身者の文ではない。
しかし、奈良盆地の状況をよく把握し、僕の省略したことをよく説明している。
やれやれ、縄文人と九州王朝がはびこるようでは完全な糞スレだ。
381 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 00:42:54
ここレベル低すぎ。
ドンこいスレッドは一応考古学スレッドだが、ここは湖の話しか
ないのか。
>>359 むじんくん
>「湿地帯が広い地域にあって耕作できなかった。纒向でも田は存在しない。」という
>ことは当たり前に認めているのでは。
と言うか
「低湿地では耕作はできなかった」なんて事を言ってる学者がいるのかとwwww
いるんならその名前を挙げてくれwwwww
>>356 いや「議論系荒し」なんて言葉自体は他の幾つかの板で見たことがある。
2ちゃん全体で何処まで浸透しているのかは知らんがw
結局この馬鹿げたトンデモは要するに奈良盆地を無人の野にして
そこに突如、巨大古墳が築かれるようになると言うギャップを強調して
その要因として『東遷・東征』をもってくるというのが
東遷説や九州王朝説の狂信者どものシナリオなんだろうwwwww
383 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 00:49:37
>>380 もともとスレタイがピント外れだったのでしょう。大和王権が奈良を本拠として成立したであろうことは
豊富な前方後円墳などの遺跡や記紀の記述から窺えます。しかし、纏向は墓地であり、それに関連した祭
祀施設が作られただけの地域でしょう。
>>378 うふふ
>そのようなひねくれたレス
なんて受けとり方をするのは、魂が汚れているからですよ。
誰も邪馬台国のことなんか言ってないのに、
「纏向を邪馬台国と結びつけ」てチャチャをいれてくる妄想を指弾します。
ところで、
2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」を新設
したのは、いったいどこの勢力なんでしょうね?
385 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 00:55:58
>>384 >誰も邪馬台国のことなんか言ってないのに、
>「纏向を邪馬台国と結びつけ」てチャチャをいれてくる妄想を指弾します。
あなたは言ってないでしょうが、言っている人がいるでしょ。忘れたのですか?
>>383 おやおや。いいかげんイサク説は捨てたらどうなんですか?
>纏向は墓地であり
そのお墓をつくった人たちは、どこに住んでいたのでしょう?
それをうかがったことが、いまだなかったと思いますけど。
裏付けのない話は、「妄想」と言うんじゃないでしょうかね。
しかし、こっちは史実が知りたいだけなのに、面白半分に大和湖などの妄想を書き込む人とか、
東遷に偏執する人とか、古田説を信奉する人とかがしゃしゃり出て邪魔してくるのは、2chだから
なのか?それとも今の日本はこんなに悪い状態なのか?
388 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 01:08:28
纏向遺跡の発掘面積は未だ5%未満。
「纏向は墓地」などという断定は、今の時点では不可。
389 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 01:10:01
390 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 01:11:58
>>387 www むろん2chだからでしょう。この人たちは何らかの鬱屈を抱えて場末に吹き溜まっているんですよ。
>>387 今の日本は悪い状態だけど、あまり関係ないだろ。やっぱ2chなんだから。
東遷というのはけっこう真面目にも考えられてるみたいだね。
392 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 01:18:40
>>387 基本はガキじみたイチャモンw
「気に入らないから文句つけてやれ!」
と言うレベルwww
それを盆地湖とか言う一見、可能性がありそうな物に飛びついていると言うのが今の流れwww
ヒステリーお起こしたイチャモンの為のイチャモンだから後先、全体の整合性なんて考えていない。
巨大湖を想定して奈良盆地を無人にしても、その巨大湖の消失の時期やそれを何で証明できるのかも考えていない。
東遷説的な発想なら新たに出現した土地に集落や田畑がわんさか作られて、そこで古墳時代がスタート
…というシナリオだろうがある時代に人口や耕作地が爆発的に増えたなんて痕跡も無いw
纏向を無人都市にしたところで、じゃあそれを作って維持管理した人間は何処にいたのか?
…そんな事も考えていない、馬鹿だからwww
纏向がヤマト王権発生のその現場であったろう事は現在の日本人の常識だろうが
連中にとってそうやって注目されることが面白くない。
(もしくは纏向の在り様が自説に邪魔かw)
でヒステリー起こしてケチつけるしかしないとwww
393 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 01:24:16
>>388 >「纏向は墓地」
いや、だからそれならそれでその巨大墓地を作った連中は何処にいたのかって話になるだけで
後世、河内と大和に宮と墓が作られたような広域の勢力が既にあったのか?って話しw
俺みたいな素人にはそっちの方が面白いんだが(野次馬的にw)
まあ少なくとも盆地内にそれを支える人口・集落があったと考える方が実は” 穏当 ”なんだろうとwww
394 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 01:27:46
湿地帯を否定しているのはジョーカー1人だけだよね。
いつもの分身自演でレスを汚しているけど。
395 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 01:32:38
>>394 アホか?
俺が何時そのレスで湿地自体を否定した?
「低湿地こそ古代の稲作にとって一番とっつきやすい環境」と言っているわけだが…
ニホンゴワカリマスカ?w
お外の風にでも当たって、もう少し脳味噌冷やそうぜ?w
396 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 01:36:12
>>382 自分で書いた
>>356にレスとか、自演が本当に好きだね。
湿地帯で稲を育てたなんて、マキムク信者の学者でもさすがに言わんだろ。
湿地帯というのは、雨季には水かさが増えて、稲が水没する。
それを防ぐために、土地を平準化して区画した水田を作って、水量を調節して
流し込むということ(灌漑)が行われる。
灌漑なしで水田とか、どんだけ無知なんだ。
まあジョーカーは「脳みそゆるゆる連合説」だから、奈良盆地に自前の耕作地帯が
ないと、ヤマト政権は必然的に広域政権になって、細分化された各地域との
「ゆるゆるレンゴウ」が成り立たない、ということで拘っているんだろうね。
398 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 01:45:46
>>396 >>382の俺と
>>356が同一人物かw
よくこの馬鹿が自演自演と言ってくるんだが自分の意にそぐわないレスは皆自演に見えるんだな
まあ2ちゃんではよくある光景だがwww
と言うか稲作の開始時点でそんな後世の整然とした田んぼの姿だったなんて何処の学者が言っているんだ?w
「王権誕生」でも読んでみ?wwwww
弥生前期の水田は、早くから小水路による灌漑が行われた北部九州などの一部を除き比較的
大きな河川の下流部に発達した後背湿地や谷地の湿地に作られた。これは水没覚悟の農法だ
ったろう。しかし鉄器の普及とともに、畦で囲まれた区画の水位を一定に保つことができるように
なり、後背湿地や谷地の湿地以外の場所にも水田が造られ始める。静岡県の登呂遺跡などは、
その代表的な例。纏向の前方後円墳の頃は、さすがに湿地農法ではなかったように思う。
>>396 >湿地帯で稲を育てたなんて、マキムク信者の学者でもさすがに言わんだろ。
一方、微低地を利用した水田を、私は「微低地型水田」と呼ぶ。
灌漑も排水もしやすく、水田区画もやや大きめで、開発規模も手頃な水田だ。
(中略)
列島最古の水田跡である縄文晩期後葉の菜畑遺跡の水田も、
浅く小さい谷奥の湧水を中央の水路に集めて用排水を繰り返す構造の半湿田だった。
(中略)
その後の弥生時代の開発も、基本的には低湿地農業という限界の中で押し進められた。
(寺沢薫「王権誕生」)
401 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 01:51:38
>>399 無論、低湿地の”水溜り”に自生するに任せるだけ
…なんて事では無かったろうが
水をひくにしても低湿地帯は容易であったろうって話ねw
なんなんだ、この三段そろい踏みは?
403 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 01:52:48
>>400 >灌漑も排水もしやすく、水田区画もやや大きめで、開発規模も手頃な水田だ。
「灌漑」とか、「排水」とか、「水田区画」とか、書いてあるような・・・見間違いかな?
404 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 01:56:46
ワロス
405 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 01:59:31
つまりこの東遷注の考えている古代の稲作は
水害にあうリスクのある低湿地は避け微高地のみに灌漑施設が完備された
田んぼが稲作開始の時期からあったと(湿地には稲が育たないってんだからw)
まあ「いい歳こいたゆとり脳」と言われても仕方あるまいwww
>>403 >見間違いかな?
福岡県板付遺跡の弥生早期の水田は、居住地がある段丘の縁辺につくられている。
段丘に沿って水路を穿ち、給排水のための井堰を設け、杭を打ち込み横板によって補強した畦畔をつくった。
(中略)
日本列島における水田稲作は成立当初からかなり体系化されたもので、・・・
(設楽博己「倭国誕生 農業の始まりと地域文化の形成」)
408 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 02:04:58
>>392 大和湖の話にヒステリックに反応しているのはあなたのように見えますよ。
干拓が進んで食糧生産力が上がったから4世紀に近畿周辺の国を統合できる国力をつけることが出来たのです。
食糧生産力が上がれば人口が増加しますが、他所からの入植者も増えます。盆地の低地には住み難いですから
多くは山裾に近いところに集落を作って住んだでしょう。
>>386、
>>393 墓地を作らせたのは大王です。恐らく三輪山の麓(JR桜井線三輪駅近辺)に居館を置いたのでしょう。
墓地(墓)を作ったのは(労働者等)は各地から集められた人々でしょう。この人達が持ち込んだ土器の所為で
纏向は交易の中心地であったと考える人もいます。しかし、実態は墓地なんですね。
>>408 うん。前よりよい文体になった。
>干拓が進んで食糧生産力が上がったから・・・ここはもう少し考えた方がいいね。w
410 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 02:32:28
>>408 と言うかだな…現実的な夢の無いお話で申し訳ないんだがw
巨大盆地湖なんて言ってるのはネット上の東遷説論者とかの類で
地理・地質とかの本職の分野から聞こえてくる話じゃないんだよなwwwwwww
仮にその可能性があってもン万年前。
2世紀とか3世紀とか言うレベルの話ではないw
まあ東遷説とか九州王朝説ってのは頭に血が上って視野狭窄を起こして
他のジャンルの学問の事まで考えるような余裕は無いんだろうがw
411 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 05:08:01
まあ一応聞いておくとするかw
>九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y
標高80mの水面高の盆地湖を想定した場合
亀の瀬に地すべりで自然堤防ができたとしても
盆地の北部から水がダダ漏れなわけだがwww
(まあ俺も
>>352でやっとこ気がついたから大きな事は言えんが…
つうかそんなもん本気でシミュレートした事なんかなかったんだがwww)
その北部の自然堤防みたいなものは一体何処にできたと想定しているのかな?www
今度は”高さ”のみならず”幅”も要求されるよな?wwww
>>410 >地理・地質とかの本職の分野から聞こえてくる話じゃないんだよなwwwwwww
奈良県の公式なホームページに載ってるんだが。
100万年以上前の話だから、東遷説どころか考古学すら無関係。
413 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/28(日) 10:42:52
>>411 かなり理解できていないようなので説明します。
地名から推測される奈良湖の水面標高は75〜85mと40〜50m。
上記に対応する地形から推測される奈良湖の水面標高は75mと45m。
上記に対応する奈良湖の流出口の水路跡は奈良バイパスと関西本線が平行して走っている場所と、
大和川と竜田川が合流している場所の下流側。
75〜85mの水位の場合は縄文期もしくは弥生期です。
40〜50mの水位の場合は弥生期です。
余談ですが、奈良湖が完全に無くなったの弥生後期崇神6年です。
奈良湖水面標高が90mの場合の流出水路跡は近鉄大坂線と西名阪自動車道が走っている場所。
水面標高が90mの場合は数万年以前のことです。
地面の沈降隆起歴がよくわからないの詳しくはわかりません。
亀瀬の崩落ダムの場合は何回もあったようなので、地名との関連性が判別できません。
亀の瀬が地すべりで埋まって水位が上がったのが事実だとしたら、
かつての流れ出す口の標高は今よりもっと低かったってことだから、かえって自爆。
一度埋まってしまったらもう回復しないからね。
>>408 >JR桜井線三輪駅近辺
レスありがとうございます。そのあたりは磯城瑞籬宮伝承地でしょうかね。
この頃の宮は、掘立柱建物だとしたら、耐久性から考えて、代ごとに建て替えられていたでしょう。
一代ごとに遷宮していたのだと思います。
各墓の築造年代はなかなか決定できないみたいですね。
石塚古墳、矢塚古墳(纆向4類)、ホケノ山古墳(庄内3)、勝山古墳、東田大塚古墳(纆向4類)
宮と墓の関係はどうなのでしょうか。興味深いところです。
纆向遺跡は、弥生5様式の末に始まり布留1式で終わる、らしい。
纆向の扇状地形は、東西約2キロで100mの高低差があり、稲作農業には向かなかった。
(纆向以前の)後期後半までの遺跡はほとんど見られない、そうです。
416 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/28(日) 12:12:38
>>414 >一度埋まってしまったらもう回復しないからね。
何回も大和川が堰き止められ、又浸食を受け、土砂は河内平野に流出している。
現在の亀瀬岩は、過去最も低い河床になることで露出してきたもの。
417 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 13:32:50
>>416 そういう話は、地質学的データを添付してくれないと、全く信用できないわけだが。
418 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 13:41:20
もうウンザリだなこのお話もw
2世紀3世紀の盆地湖なんてお話は何の裏づけも無い
でもイチャモンのネタとしては定期的に出てくる。
東遷厨(怨)のように最初は巨大湖として出してきて
叩かれて今度は湖沼地帯という話にスールダウンすると言うのも毎度の展開w
419 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 14:21:44
盆地湖なんて戯言はスルーしてもいいんだが、
物を知らない中学生が騙されて信じてもかわいそうだしな。
オトナになってから縄文人みたいになっていじめられるとおもうと不憫だ。
420 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 14:23:58
弥生時代の奈良盆地は後進地だからなあ。
鉄器は出てこないし、銅鐸でも取り残された感のある地域だった。
近畿地方で言えば、明らかに近江地方の方が進んでいた。
意外に住みにくい土地だったと言うのも考えられる。
それが大和朝廷の拠点となる。住みやすくなったのかもしれない。
伝説によると、熊本県の阿蘇地方はかつて湖だった。神武天皇の孫に当たる
健磐龍命が、外輪山の一角を蹴飛ばして水を出し、他や畑を作った。
これなんかは、排水工事をしたことを物語っているのかもしれない。
仁徳天皇は河内湖の排水工事をした。奈良盆地がそうであっても不思議では
ない。
421 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 14:38:02
>>370 そうだ。山裾の傾斜地あるいは天井川の側であれば川の氾濫で土砂に埋没することは考えられるが、ゆるやかな傾斜地の
中にある微高地がそのような形で水害を受けることは考え難い。これはやはり湖水の増水による水没と考えた方がよい。
唐古・鍵の集落が水没したことが弥生時代に盆地湖が存在した証拠である。
422 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 14:49:04
>オトナになってから縄文人みたいになっていじめられるとおもうと不憫だ。
ハハハ。縄文人にやりこめられたのか?
423 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 15:03:33
>弥生時代の奈良盆地は後進地
「後進地先進地」の定義をどうするのかって話しだなw
これを言うと
「昔は畿内の学者もくぁw瀬drftgyふじこlp! 」と火病おこされるんだがw
鉄の評価も昔とは大分違ってきているだろうし。
絶対量で言えば北部九州に遠く及ばないのにそれでも古墳時代が始まってしまう事実。
人口の推定でも鉄器の出土量に比例するような数字を出しているような物は無い…etc
まあ盆地湖があって人がいなかったなんて与太を飛ばすのはリアルの学者じゃあいないとは思うがw
かつての小林説の反動からか、結構ヤマトを過小評価する傾向があるのだろうか?
424 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 15:12:19
>まあ盆地湖があって人がいなかったなんて与太を飛ばすのはリアルの学者じゃあいないとは思うがw
盆地湖があったとは言っているが「人がいなかったなんて与太を」飛ばしてはいないぞ。何故そのようにねじ曲げて
レスするのだ?
前にいたよ、そういう事を言ってたやつ。
(なんでもかんでも自分のことだと邪推するものは、匿名)掲示板を使うのは難しい。
AA略
426 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 15:23:22
>>424 纒向で集落遺跡がいまだに出土していないし、出土する見込みがなさそうなのに
「都市纒向」とかのデンパを飛ばす学者が居ることが、この議論の発端だったね。
マキムクはもう宗教なんだよね。
なんかちょっとでも出ると、最大限の過大評価で、都合の悪いことは無視し続ける・・・
427 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 15:23:47
盆地湖があってなおかつ大和王権がそこで興ったんだよな。
湖の上で、葦で舟をつくって、人々はそこで豊かな水上生活をしていた。
灌漑をする必要が無いから、鉄器も必要ない。
人々はその様を「みずかきの宮」と呼んで羨望の眼差しを向け、
ヤマトの水上王国を支配してた王の下に、邪馬台国連合を形成したのである。
428 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 15:24:32
>>424 何も曲げていない。
人がいず王権の発生が物理的に無理と言うのが
東遷厨や九州王朝厨どもの趣旨だからなw
まあ何の為にそんな与太を飛ばすのかは明々白々なわけだがwwww
>>419 >物を知らない中学生が騙されて信じてもかわいそうだしな。
まあ「嘘を嘘と見抜けない人は…」で自己責任としか言いようが無いw
そこで嘘か本当か自分で調べて考えて見るかどうかが分かれ目とwww
ただ本人にそう言うものを信じたいという欲求があったら無駄だと思うがw
単に騙された本人の勉強不足じゃなくて、そっちの方は更生は無理っぽいがwwwww
429 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 15:28:49
>>427 別に全てが水の中というわけではないだろう。標高の高い部分もあるし。
山辺の道は海岸線ぞいだったという説もあるらしい。
430 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 15:35:38
>>428 >ただ本人にそう言うものを信じたいという欲求があったら無駄だと思うがw
現在の九州説の残党はみんなコレだろ。
九州説東遷説を信じたいってだけで、固執してるから、議論したって無駄という。
あくまで、真実を知りたいって気持ちのある人は、最新の情報を自分で吟味して、
畿内説が正しいと結論し、スレから卒業していった。
残るは、九州説に固執してる九州説バカと、そういう可哀想な人が妄言を流布して、
新しく古代史に興味をもった小中学生が騙されて恥をかかないように、
ボランティアで啓蒙する俺のような親切な人だけだろう。
>>430 ただ多少うがった見方だろうが
元々邪馬台国九州説(と言っても戦後のブーム以降に限られるが)に
そう言ったアンチ・アカデミズム…市井の研究家が大学の先生のお歴々相手に勝負を挑む
みたいなものが底流にあって
(そのこと自体は別に悪くないし、チャレンジ精神をもって自身の研究にあたるのはむしろ素晴しいとも思うが…)
その一部分だけを肥大化させてイチャモンの為のイチャモン付けに精進しているのが
ここで与太を飛ばしているような連中だろうなwwww
432 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 15:49:53
甲府盆地も湖だったと言う説があるらしい。
向山土木毘古王が、第二代綏靖天皇の時代に甲斐国に来たころは「甲斐の国の
中央部は一面の湖であり、この湖水を疏導する為、土地の豪族、苗敷に住める
六度仙人(去来王子)、姥口山に住める山じ右左辨羅などの協力を得て、
南方山麓鍬沢禹の瀬の開削により水を今の富士川に落とし多くの平土を得、
住民安住の地を確保した。」
と、ある。
まあ万年ループネタばかりもあれなんで…w
ここは一つ東遷厨(むじん君)の御高説で見るべきものを拾う努力をしてみるwww
まあ「言う事に分があるかな?」と思うのは庄内土器が畿内で見られる地域が限定的で
それからすれば庄内の時期はそう長くないと言うもの。
確かに俺みたいな素人目からしても薄くて軽くて持ち運びも便利
煮炊き用に熱伝導率も良かったろう土器が周辺に拡散していくのを阻む理由は見当たらない。
そこら辺なにか説得力のある説明ってあるものなのかな?
434 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 16:00:56
>>398以下の流れは面白すぎだな。
とくに
>>400以下はどんぶり3杯はいけるw
ジョーカーは最高のネタ師
435 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 16:04:28
>あくまで、真実を知りたいって気持ちのある人は、最新の情報を自分で吟味して、
>畿内説が正しいと結論し、スレから卒業していった。
そう思いたいよね。しかし、実際は君の認識とは違うんだよね。良識ある人は畿内説に疑問を深くして
沈黙しているのだ よね。
>残るは、九州説に固執してる九州説バカと、そういう可哀想な人が妄言を流布して、
>新しく古代史に興味をもった小中学生が騙されて恥をかかないように、
>ボランティアで啓蒙する俺のような親切な人だけだろう。
これまた現状認識が出来ていないよね。君のような一面的なものの見方しかできないおせっかいな親爺は小中学生
には反面教師としての存在価値があるだけ だよね。
>>434 残念ながら俺はネタ師には及ばない。
なにせ「学者の受け売り」とか言われる始末で
そもそもネタを作る能力がないwww
その点、東遷厨みたいな連中はオリジナルのネタを作る才能に溢れているwwww
無論本人のキャラも立っている。
こと 面白おかしさ では到底及ばないwwwww
>>427 湖上に見える大和三山…けっこう幻想的な光景だなwwwwwwww
438 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 16:25:42
>>435 >良識ある人は畿内説に疑問を深くして沈黙しているのだ よね。
君はもっと良識を持ったほうがいいというわけだな。
自分の良識の無さに自覚が無いようだから、親切な俺が教えてあげるよ。
439 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 18:11:54
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
そろそろスレも煮詰まってきたようであるし、私の日本古代史レクチュアーによって、頭のいかれた畿内説連中もだいぶ啓蒙・教化
されてきたようであるな、めでたいことだ。ところで、歴史の真実とは実に不可思議千万なものだ。世界史を紐解いてみれば、226
年、ササン朝ペルシアがパルティアを滅ぼし、始祖王アルダフシールが一大帝国を建国したが、「ササン」が何を表すかについての
諸説は入り乱れておる。これは西洋起源で考えるからいつまでもわからないのであって、実は「ササン」とは「薩・産」の意であるのだ。
つまりは、南九州人が建国した王朝であるということだ。
そのペルシアからシルクロードを通じて派遣されてきたのが「ナシム」、後の「難升米」のことである。彼は珍しき異国の文物を持って
邪馬台国の中枢に取り入り、卑弥呼に魏への朝貢を促した。そうだ。倭人伝にある卑弥呼の鬼道とは、つまりこれ「ナシム」が持ち込
んだ異国の宗教、ゾロアスターのことを指す。
賢明な諸氏ならご存じのように、ゾロアスターは光の象徴としての純粋な「火」を尊んだため、拝火教とも呼ばれ、善と悪の二元論の
中で善の勝利と優位を教義とするものである。まさに倭国の曙の時にふさわしい宗教である。光と善の神、アフラ・マズダは本邦にお
いてはアマテラスと呼ばれることになる。そうだ、天照大神は本来は男神であり、この点で唐松山氏は本質的な史実を洞察していると
いえるだろう。また、この神の直孫は、現在の広島県安芸郡府において自動車作りにいそしんでおる。
卑弥呼は、拝火壇の前で祈り、踊り、慟哭した。これは後の伊勢神宮の静謐な祭祀形態とはまったく異なるが、おそらくその伝承は
長い時の流れの中で失われていったのであろうが、記紀の天の岩戸の記述に反映されている。どうだ、これが歴史の真実である。現
代の世に黄泉帰った知の権化、ツアラトウストラであるこの天才 縄文人のいうことに間違いはない。げははははははああああああああ。
442 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 21:03:51
こんど、邪馬台国近江説の本が出るね。
やっぱり、物をちゃんと考えられる人は、
九州説に見切りをつけて、自説を再構築するものだよ。
一説にこだわらない、研究に対する真摯な姿勢は好感がもてる。
げははは、今宵はうまし酒のありて機嫌がよい。この、ウオーキング・ディクショナリーとも、地獄の電波塔とも呼ばれ畿内説には
蛇蝎のごとく嫌われておるらしい縄文人様が、歴史の真実を存分に語ってしんぜよう。瞠目して聞くがよい。
まず、纏向の地が墓地であること、巨大霊園であることは一目瞭然だ。発掘調査報告によれば住民の居住跡は見られないし、田地
もない。発掘はまだ5%しか進んでないなどとのたまう輩もいるようだが、5%掘って何もないなら、100%掘っても同じと考えるのが
統計学的には妥当だ。
また、箸中山古墳などは中心軸が夏至の方向である斎槻岳(大斎岳)に向かっており、その手前には穴師坐兵主神社があり、それよ
り北のレイ・ラインには斎宮山の天神社がある。春分の日の出の神をもとめて東の山塊へと向かった先には伊勢斎宮跡がある。これ
は箸墓が、墳墓であるとともに田植え開始時期の指針となる天文装置であることも示している。 そして、古墳上に見られることが多い
方形壇や柱跡は、断じて殯の宮などではなく、上記したように卑弥呼がゾロアスターの秘技を行った拝火壇であるのだ。
>>442 阿呆めが。貴様のように自分の頭で考えることを放棄した腑抜けが、歴史の真実をゆがめていることを知れ。そして深く恥じ入るが
よい。何が近江説だ。確かに琵琶湖の東は、盆地から各方面に抜ける交通の要害として重要ではあったであろうが、所詮中継地点で
ある。現在でいえばバス・ターミナルのようなものだ。
しかもこの近江説の元となっている伊勢遺跡は、纏向を築いたであろうゾロアスターを信奉する同勢力が作り上げたものであることは、
方形区画内の大型建物跡を元にして、円状に配置された大型建物跡群の存在が如実に物語っておる。中心部の楼閣たされる跡はむろ
ん拝火壇であり、また、大型建物が順次建て代えられていることは、後年の伊勢神宮の式年遷宮の儀式的意義の萌芽を示すものであ
る。さらにいえば、並び立つ2基の大型建物群の間からは野洲の三上山が望視でき、上気したレイ・ラインの存在と深く関連するもので
あるのだ。
445 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 21:21:55
さすが縄文人だね。学識あふれるレスだ。
いや、すごい高周波のデムパだ。
本物より文章はうまいと思う。
>>446 何がデムパだ。語るほどの自説も持たない虫けらのような名無史が、この私への批判など片腹痛いわ。私はきちんと考古学や宗
教学、建築学、易学等を踏まえた上でレスしておる。例えば上のレスでは、伊勢遺跡と後代の伊勢神宮の類似性を説いたが、この
大型建物群れが棟持柱を持つことを伊勢神宮との類似性の根拠としてはいない。この棟持柱というのは宗教的な意義のあるもの
ではなく、建物の構造上必要な設備であり、これを持って祭殿と見なしているわけではない。このことはは岡田精司氏などの論文に
詳述されておるぞ。
>>447 私が本物だが、誉めてもらえたのは嬉しい。ありがとう。
449 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 21:49:44
>>448 この縄文時は偽者じゃないの?
こんなに畿内説に転向したような書き込みをしてるなんて珍しい。
>>449 私が畿内説だと。これは異な事を聞く。私は九州説派の代表的論客である「縄文人・The・Great」であらせられるのだ。げははは、
例えばこのような下品で下卑た笑い声など、だれも真似のできるものはおるまい。げはははははははははあああああああああああ
ああああああああ。
451 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 22:07:55
どうやら本当に縄文人は畿内説に転向したようだ。
さすがに少々の脳みそはあったみたいだな。
452 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 22:13:22
縄文人が書き込みをするときは、:縄文人 ◆cM49xEAzX6 を使っている。
最近、見ないが、名無しで書き込んでいる可能性もあるな。
>>451 畿内説ではないといっておろうが。私は「縄文ー弥生時代 奈良盆地湖」説をもってして畿内説を文字通り水底深く沈めた縄文人である
のだぞ。上のレス展開を読めば一目瞭然だが、この湖説に対して畿内説はまったく当を得た反論をすることができておらん。さらに
>>440ー
>>441で述べた「難升米=ペルシア人」説、「卑弥呼の鬼道=ゾロアスター教」説に対して何の反論も返ってこないではない
か。ただし、伊勢遺跡などの重要性は否定してはいない。あれは生活に用いる土器が出てこないから、はっきりと祭祀関連施設であ
ろうし、周辺の集落遺跡との距離や位置関係がわかることもきわめて重要だ。倭人伝にある、「宮室・楼観・城柵」と呼べるものが出土
しておるといえるし、このようなものは各クニにもあったということがわかるな。
>>452 私の偽物のレスなら、独特の加齢臭があってすぐわかる。げははは。
では、さしたる反論もないようだからもう少し纏向遺跡について語ってやろう。ここにも九州の 卑弥呼ー男王の関係に見られる、
「ヒメーヒコ」体制というものがあっただろうことは想像に難くない。ただし、これは倭地全体の風習であって、特に珍しいものという
わけでもないようだ。私は、纏向で世俗王の地位にあったのは大物主神であると考えておる。そしてその象徴とされたのが三輪山。
また、大物主神を祀った、倭迹迹日百襲姫の象徴が
>>443で書いた、斎槻岳である。箸墓古墳はこの姫の墳墓であった。しかし、
倭国女王卑弥呼ではない。
http://uproda.2ch-library.com/2182588VD/lib218258.jpg
455 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/28(日) 22:58:31
>>451 >どうやら本当に縄文人は畿内説に転向したようだ。
うん。纏向については畿内説だ。纏向は奈良にあるから当然だ。
ここは纏向スレであるから(邪馬台国)九州説、畿内説を論じるのは適当ではないという思いはあるが、
私は九州説を堅持している。その信念にはいささかの揺るぎもない。いや、益々確信の度が深まっている。
もとより私は郷土愛などの動機から九州説を採るものではない。現に私は福岡に生まれ永く住んでいるが、
邪馬台国を熊本に比定している。郷土愛が動機であればそんなことはしない。ここにも私の真実探求一筋
の生き様が現れているのだ。
私の名を騙る人物が私の意図しないことまで書き連ねているので、ここで私の主張を整理しておこう。
(1)3世紀まで奈良盆地の低地部(標高45〜50m以下)は水没状態(湖沼状態)であった。その証拠は
唐古・鍵集落の水没跡の存在である。あのような地勢の場所が水没するとすれば湖の増水しかあり
得ない。
(2)したがって、3世紀に近畿周辺の諸国を束ねる王権が奈良盆地に誕生する基盤(食糧生産力、人口)
はまだ整っていない。2世紀末に入植した九州からの移民(記紀は神武東征として物語る)が湖の
干拓に着手し、盆地内の主導権を握るが、干拓事業の完成は4世紀まで下る。
(3)纏向は墓地であり、柱穴跡等に見られる建物は前方後円墳築造に関連した施設である。これらの墓や
建物は4世紀の築造である。崇神が中国、北陸、東海までを支配下に収めてから始まった事業である。
(4)つまり、纏向は王都でもなく、ましてや卑弥呼の宮殿など存在する筈も無いのである。
456 :
小野篁:2010/02/28(日) 23:15:25
>ここにも私の真実探求一筋の生き様が現れているのだ。
wwww 出まかせで一生過ごして地獄行き。舌抜かれる前に泣いても知らないよ。
457 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 23:17:37
ここにきて縄文人が畿内説に転向した理由はあれかな?
九州王朝説大好き氏や太国氏のアホ書き込みを見て、
やっぱり九州説ダメダメじゃんって、自覚したんだと思う。
普通の感覚の持ち主なら、九州王朝説大好き氏や太国氏にはついていけない。
こりゃヤバイってなるのは当然だわな。
ただ、残念なのは、縄文人もそれなりに九州説という立場で面白い着眼点を披露してくれたところだが、
今後畿内説に転向したことによって、以前と同じように畿内説を面白おかしく語れるかどうかだが……。
多くは期待してないよ。これからだもんな。
458 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 23:22:35
>>455 なんだなんだ?
九州説のコテハンがまたひとり畿内説に鞍替えかよ。wwwwwwwwww
どんだけ意気地が無いんだよ。男なら九州説で一生押し通せばいいのにwwww
459 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/28(日) 23:23:46
小野篁どの。
八頭身美人土偶を差し上げるから閻魔大王へのとりなしをよろしくお頼み申す。
460 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/28(日) 23:29:29
まあまあ、縄文人のことは、生暖かく見守ればいいさ。
せっかく畿内説に理解を示すようになったわけだし。
それにしても、最近の九州説は本当に元気ないね。
462 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 23:35:43
上の縄文人(偽)はやっぱ縦目さんじゃないの。考古関係のレスはでたらめできない
習性があるみたい。
463 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 23:40:11
実は、縄文人=老教授だったという線も捨てがたいぞ。
縄文人と老教授が同時に現れたことないしな(^O^)
九州説なみだ目。
ますますカオス度が増してきたな
>>462 俺ではありませんって。ただし、偽縄文人は上読むかぎり物知りですね。
小野篁は俺。まあ知ってると思うけど、平安時代前期の官人で学者、歌人。昼は宮廷に仕え、夜になると閻魔
大王の元に出仕するという二重生活の逸話あり。六道珍皇寺の井戸をくぐって地獄に通ってた。
近くの六道の辻が地獄への道の交差点とされ、東の鳥辺野は葬送地の一つだった。篁は現実世界でこの鳥辺
野の整備の仕事もしていたらしい。
マキムク霊園説か。いつまでたっても消えないな、その説は。
結局のところ、立地的になぜそんな内陸部に都が造られたのかが理解できない
ことが原因なんだろう。
俺が上の方に書いた鎮守府説が相手にされてないのは悲しい限りだ。
古代東北で造られた胆沢城にしろ多賀城にしろ、
湾岸部から河川で遡って、運河を掘って繋いだりすることで、
内陸部に政治・宗教拠点を造ることでその地域を支配した。
まさにマキムクの立地そのもの。
つまりは外部勢力、阿讃播の東瀬戸内地域がプレ大和王権の礎を築いた。
その後、吉備・東海・越・丹波が参加することで全国王権となる。
>>455縄文人 ◆cM49xEAzX6
>あのような地勢の場所が水没するとすれば湖の増水しかあり得ない。
根拠なし。
少なくとも俺がそんな事を読んだのはこの板のお前のレスだけだw
例えば、それが永年湖底にあって堆積物で埋まったと推定されるような地層サンプル(?)のようなデータでももってこい。
どこぞのおっさんが「〜あり得ない」とか言っても信用性ゼロwww
あと3世紀とか4世紀とかの数字も根拠無し。一体どこから出した?
そして前にも言ったがその脳内ストーリーの必然としてある時期に耕作地が爆発的に増え
集落や田畑の跡も増えてなければならないがそれも出せない。
東遷説ありきで脳味噌が硬化してしまって念仏題目をひたすら繰り返している馬鹿にしか見えないwww
>マキムク霊園説
纏向が一種の「ネクロポリス」と言うのは可能性としてあるだろうw
がその場合でもそれを作る為の労力は何処から集めてきたんだって?って話で
盆地の外から集めてくるなんて話になれば
それを可能にせしめるだけの国力=人口がなければならない。
それすら盆地の外に求めるならもはや「ヤマト王権」の看板も変えろって話だがw
特に「連合体なんてあり得ない」とヒス起こしているような連中の言い分なら
その労力を提供させた地域を征服するだけの国力がなければならないw
一体連中はそのような大勢力を何処に想定しているのか?
まあイチャモンつけるだけで後先考えてないっポイがwwwww
470 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/03/01(月) 16:44:29
>>468 >>あのような地勢の場所が水没するとすれば湖の増水しかあり得ない。
>根拠なし。
普通の頭脳をお持ちの方であれば「あのような地勢の場所が水没するとすれば湖の増水しかあり得ない」ということが
分るでありましょう。分らない方は砂で奈良盆地の模型を作り雨を降らせる実験をしてみて下さい。頭の良い方はわざ
わざ模型を作らずとも頭の中で実験されても構いません。
1000mm/dayの雨が数日降り続いたとしても盆地出口の大和川が閉塞していなければ唐古・鍵集落が水没することは
ありません。その唐古・鍵の集落が水没したからには盆地出口の大和川の川底の標高が45m以上になっており、盆地
に水が溜まった状態になっていたからです。こんなことは中学生にでも分るのではないでしょうか。
>あと3世紀とか4世紀とかの数字も根拠無し。一体どこから出した?
邪馬台国卑弥呼、壹與の時代:2世紀末〜3世紀半ば。箸中山古墳出土の宮山型特殊器台・特殊壺、都月型円筒埴輪、
その周濠から出土した木製鐙:4世紀の可能性大。
>そして前にも言ったがその脳内ストーリーの必然としてある時期に耕作地が爆発的に増え
>集落や田畑の跡も増えてなければならないがそれも出せない。
爆発的という言葉がお好きのようですが、約2世紀かかって増えたのです。遺跡は今後発掘調査が行われれば見つか
るかも知れませんね。なにしろ纏向でも5%しか調査されていないんでしょ。楽しみに待ちましょう。
471 :
日本@名無史さん:2010/03/01(月) 17:56:57
過大評価のしすぎもいかがなものか・・・・・
473 :
日本@名無史さん:2010/03/02(火) 21:11:17
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
474 :
水銀厨:2010/03/02(火) 21:13:56
>立地的になぜそんな内陸部に都が造られたのかが理解できない
ことが原因なんだろう。
だから水銀鉱床の存在という事です。
>>467 多賀城なんて、海を見渡すことの出来る立地と比べて、
> まさにマキムクの立地そのもの。
って馬鹿じゃねーのw
胆沢城は川の中流部の大扇状地。全然違うだろ。
縄文人が土木屋なら地盤調査関係のレスが出るはずだと思うが、出ないとこを見るとこれは違うか。鉄工所とかかな?w
477 :
日本@名無史さん:2010/03/02(火) 23:48:35
クナ国を濃尾平野に求めるなら、
象鼻山古墳群のほうが、クナ国の候補地として最適かも。
濃尾平野に睨みをきかせた大豪族の墓地なのは確か。
古墳時代前期の前方後方墳なのに鉄刀2点、鉄剣5点、鉄槍1点を出土してる。
三種の神器もそろってる。
よく、東遷説の根拠として、三種の神器は九州由来だとかいう人がいるけど、
それだと、前方後方墳に三種の神器が埋められる理由がわからない。
文化が伝播しただけ、という理由に説得力を与えるだけ。
478 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/03(水) 00:19:12
>>470 >普通の頭脳をお持ちの方であれば
>「あのような地勢の場所が水没するとすれば湖の増水しかあり得ない」
>ということが分るでありましょう。
>1000mm/dayの雨が数日降り続いたとしても盆地出口の大和川が閉塞していなければ
>唐古・鍵集落が水没することはありません。
盆地出口の大和川が閉塞したから、湖が増水したのです。
閉塞場所は亀ノ瀬で、山塊崩落により大和川にダムができたのです。
弥生期に自然のダムがあった場所が地質的に2ヶ所あります。
ひとつが、奈良県王寺町と大阪府柏原市の境界の亀ノ瀬、
もうひとつが王寺町舟戸、河合町大輪田と斑鳩町神南の境界。
前者のダムは山の崩落で形成され、大和川の浸食で消失することが繰り返されています。
後者のダム(元々は湖底にあった尾根)が無くなったのは、広瀬神社縁起によると崇神6年です。
上記2つ亀ノ瀬と神南のダムが奈良湖の消長に深くかかわっています。
鍵・唐古に洪水被害跡はあっても長期水没の痕跡は見られないのだが。
よって弥生期に奈良湖なんてのは存在しません。
480 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 00:51:40
481 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 01:16:30
また、「卑弥呼のXXか?」詐欺だな。
畿内もそうだが、九州説でさえ、やたらと卑弥呼、あるいは邪馬台国と
報道しやがる。ちったあ煽るだけでなく、学問的に慎重に緻密に
報道してはどうか。
482 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 01:27:50
唐古・鍵遺跡の洪水被害というのは弥生時代の中期後半(中期の末頃)だよ。
後期からはそんな大洪水の痕跡は無かったと思うよ。
484 :
482だけど:2010/03/03(水) 01:37:55
482だけど中期と後期の境目は1世紀だよ。念のため。
1世紀の中のどの辺りが境目かは議論があるけど、とにかく1世紀中にW様式からX様式に変わったという点はほぼ間違いないと思うよ。
485 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 02:14:24
>>470 縄
駄目、やり直し。
>普通の頭脳をお持ちの方であれば「あのような地勢の場所が水没するとすれば湖の増水しかあり得ない」ということが
>分るでありましょう。
マトモな脳を持ち現実世界に生きている人間ならそんな馬鹿なことは考えない。
確か平成19年にも集中豪雨で”川の氾濫で”被害が生じている。
お前は川が塞がらなければ流域は水害にあわないとでも言うのか?ドアホ。
この日本に住んでいて、よくそんなそんなお花畑言えるものだw
>邪馬台国卑弥呼、壹與の時代:2世紀末〜3世紀半ば。
>箸中山古墳出土の宮山型特殊器台・特殊壺、都月型円筒埴輪、その周濠から出土した木製鐙:4世紀の可能性大。
馬鹿杉。
根拠になりえない。
卑弥呼壱与の年代は「邪馬台国からやってきて工事が…」と言う妄想ストーリーありき。
箸墓の年代が何時であれ湖のあった根拠にはならない。
根拠と言うなら先ず
「湖底にあった」と言う地質データのような物でももってこい。
先ずそれが無ければ世間一般どころかこの板の人間ですら相手にされないぞwww
イヨタン・・・・・・・・・・
487 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/03(水) 11:54:52
>>482 >>484 >唐古・鍵遺跡の洪水被害というのは弥生時代の中期後半(中期の末頃)だよ。
>後期からはそんな大洪水の痕跡は無かったと思うよ
広瀬神社縁起によると、残存奈良湖の消失は弥生後期後半(崇神9年)です。
弥生中期から弥生後期前半の奈良湖の水位は標高40m〜50mです。
亀ノ瀬山塊崩落によって作られた亀ノ瀬ダムにより、奈良湖水位が変動したのです。
神武集団が奈良盆地に侵入した時期は、弥生後期前半と思われます。
彼等は、葦の茂る奈良湖南岸に定着し、低湿地農業と奈良湖沿岸漁業で生計を立てていたと思われます。
なお崇神は、その先代が河内から奈良盆地中西部に侵入した後、纒向に王権を成立したと考えられます。
キムヨナの不自然な高得点に対し、疑問を抱くのは当然。
その中の意見として、買収があったのではないか?
という考えが出るのも当然。
掲示板で意見を言うのは自由。
それに対して怒りを抱き嫌がらせを仕掛けるのは異常。
しかも数万人規模。
まずありえない。
日本からの報復攻撃は彼らの仕業。
「我々も日本から攻撃を受けている」という大義名分が欲しいための自演。
>>487 あれ?奈良湖は標高80〜90メートルとか言ってなかった?
当然そんな水深だと木津方面からも水が溢れてしまうがw
まだやってんの?
491 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/03(水) 13:46:40
>>489 時代によって奈良湖の湖面水位が変動しています。
水位が現在の標高80〜90mの位置にあった時代は数万年前と推測します。
縄文語と弥生語がよく似た言語であるなら、水位が標高70〜80m位置の時代は、縄文時代と弥生前期の判別不能。
縄文語と弥生語が全くの別言語であるなら、水位が標高70〜80m位置の時代は、弥生前期まで。
弥生中期と弥生後期前半の水位は、標高40〜50m。一時的な最高水位では55m。
弥生前期から弥生中期の期間に、水位は70mから50mに下がりました。
水位標高80〜90mの時代の奈良湖流出口は、香芝市関谷で羽曳野市石川へ流出。
水位標高70〜80mの時代の奈良湖流出口は、奈良市奈良山で木津市木津川へ流出。
492 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 13:52:44
493 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/03/03(水) 16:54:02
>>485 >確か平成19年にも集中豪雨で”川の氾濫で”被害が生じている。
>お前は川が塞がらなければ流域は水害にあわないとでも言うのか?ドアホ。
他人にむかってやたらとドアホなどと言うものではありませんよ。冷静にそして礼儀正しく議論しましょう。
湖が存在していた時代には川は湖面より標高の高いところに形成されます。水が湖に流れ込むところが河口で、
ここで川は消滅します。大雨で川が氾濫しても湖に達すれば奔流は消え、ただ湖水面を上昇させるだけです。
湖が消失して初めて川は盆地外に通じるのです。そうなると大雨で氾濫する場所は広がります。現代の奈良での
水害と同じように考えてはいけません。唐古・鍵の集落は湖の中に突き出た(半島状の)台地にあったのです。
川の氾濫による奔流が直接襲ったとは考え難いでしょう。まだ分りませんか?
やっぱり縄文人=九州王朝大好きかw
495 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 17:09:57
>>487 広瀬大社(北葛城郡河合町)の社伝によると、
社地は、元は水足池(みずたるのいけ)という広漠たる沼地であったが、
里長廣瀬臣藤時に御神託があり、俄に陸地となり、一夜にして丈余の
橘数千株が生じた。
とあるなあ。
>>491 痕跡の無い事をいくら書き綴られても誰も相手にしませんよ。
>>495 伝承では湖なんかではなく単なる沼地だもんね。
497 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/03/03(水) 17:55:11
奈良県の地質については下記をご覧下さい。
http://www.pref.nara.jp/secure/26146/s_01_02.pdf ここに地盤種区分の図があります。奈良盆地の低地部は黄色い3種と赤い4種地盤となっています。説明では
氾濫平野の軟弱地盤(液状化しやすい地盤)となっていますが、湖が存在したことで形成された地盤と考える
ことができます。ただし、これだけでは弥生時代に湖が存在した証拠とは言えません。縄文湖でもよい訳です
からね。
そこで、問題になるのが唐古・鍵遺跡の水没跡の存在です。ここが水没したということが弥生期に湖が存在し
たということの根拠なのです。
498 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 17:59:11
>>497 300年続いた唐古・鍵の環濠が埋まったのは2世紀頃の1度だけだろ。
どこが湖の証拠になるんだアホめ。
499 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/03/03(水) 18:22:43
>>498 >300年続いた唐古・鍵の環濠が埋まったのは2世紀頃の1度だけだろ。
一度だけで十分ですよ。湖が無ければ埋まらなかったのですから。
ところで、あなたは下品な文章を書かれますね。なにか世の中に不満でもお持ちですか?
幸せも不幸も心の持ち方次第ですよ。前向きに生きて行きましょう。
500 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 18:27:34
>>499 >幸せも不幸も心の持ち方次第ですよ。前向きに生きて行きましょう。
現実も直視しないとな。
>>351 >奈良湖最高水面高は、縄文期の標高80〜90mの時です。
>>491 >水位が現在の標高80〜90mの位置にあった時代は数万年前と推測します。
何時のまにやら縄文時代が数万年前まで遡ったらしい。
ネアンデルタール人もびっくり。
502 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 20:03:54
それどころか、日本海は昔は湖だったんだぜ!
503 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 20:09:05
九州の縄文人が、玄界灘を灌漑して日本海をつくったのか。
504 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 20:11:45
>>491 >水位が現在の標高80〜90mの位置にあった時代は数万年前と推測します。
ムー大陸があったころだな。
縄文人は、ムー大陸と交易してたのかい?
505 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 20:16:16
縄文時代は16000年前から3000年前と書いてあったが
どのくらい信憑性があるのか。
それ以前は石器時代だっけ。
>>475 多賀城は確かに違うが、胆沢城は近いと思うが。
栄えてる外港から河川流通を利用。さらに運河を掘って内陸部に拠点を造る、
っていう発想は征服者側から見て、結構ありがち。
507 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 20:57:02
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
>奈良湖最高水面高は、縄文期の標高80〜90mの時です。
>水位が現在の標高80〜90mの位置にあった時代は数万年前と推測します。
何これ‥ホント九州王朝なんていう奴は
ろくでもない嘘つきばっかりだなw
509 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 21:09:49
だいたい書き逃げして、具体的なデータは示さずと。
そんなものさ。
510 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 21:56:42
>>496 沼地も湖も、人が住めないという点ではあまり変わらないと思うが。
それに、沼地は湖の名残りと言う可能性がある。
しかし、大人の議論とは思えない話が続いてるね。水没跡がある=湖の近辺にある というのが論拠だとしたら
そんな遺跡はいくらもある。というかごく最近まで「水つき」は全国で普通に見られていただろうに。治水は難しい。
512 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 23:11:30
日本中の遺跡のそばに湖があったってことだろ?
>>497 しかしこのリンクは、縄文人説への反証じゃないか。明らかに違うことを書いてるのに、自説の根拠として引っ張って
くるというのは、よほど面の皮が厚いか、読解力がないか。だいたい第4種とかいうのは、地盤強度のことで、その成
因とは関係ない。この液状化の可能性のある軟弱地盤というのは、ほとんどが三角州、後背湿地など、沖津平野の
中の特殊な地形に見られるもの。
鳩山並み
516 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 00:58:47
517 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 01:14:48
まあ、いろいろ言わずに、弥生時代の奈良盆地に湖がなかったことを証明してみたら?
>>517 >なかったことを証明してみたら?
立証責任を転嫁して、自説の証明としようとする。卑劣な詐欺師。
519 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 01:43:32
>>470縄文人 ◆cM49xEAzX6
>箸中山古墳出土の宮山型特殊器台・特殊壺、都月型円筒埴輪、その周濠から出土した木製鐙:4世紀の可能性大。
特殊器台や円筒埴輪は型式の変遷が顕著だから時期を推定する大きな手掛かりであるのはその通り。
縄文人が箸中山古墳(箸墓古墳)の時期推定のためにこれら考古資料を取り上げたのは宜しいと思う。
だが「宮山型〜」「都月型〜」…と書き並べただけで「4世紀の可能性大」とは恐れ入るのである。
これではまるで御託宣である。
多くの考古学者もきっと同じ資料を見ている筈だろう。
だからなぜそれらの資料だと「4世紀」という時代が導かれるか、そのことを縄文人氏は詳しく言わなくてはならない筈だが。
520 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 09:20:00
>>519 >だが「宮山型〜」「都月型〜」…と書き並べただけで「4世紀の可能性大」とは恐れ入るのである。
>これではまるで御託宣である。
全く仰る通り!w
>だからなぜそれらの資料だと「4世紀」という時代が導かれるか、そのことを縄文人氏は詳しく言わなくてはならない筈だが。
当然!
でも縄文人には出来んだろよww
521 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/04(木) 09:27:43
下記の間違い放置を訂正します。
後述のレスで訂正したつもりでした。
>>351の訂正
誤 奈良湖最高水面高は、縄文期の標高80〜90mの時です。
正 奈良湖最高水面高は、縄文期の標高70〜80mの時です。
もっと詳しく訂正すると、
正 奈良湖最高水面高は、縄文期又は弥生前期の標高70〜80mの時です。
>>478の訂正
誤 後者のダム(元々は湖底にあった尾根)が無くなったのは、広瀬神社縁起によると崇神6年です。
正 後者のダム(元々は湖底にあった尾根)が無くなったのは、広瀬神社縁起によると崇神9年です。
522 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/04(木) 09:37:47
訂正の追加
>>471の訂正
誤 奈良山
正 平城山
524 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 10:54:40
>>521 そもそも君のレスなんて読んでない。
情報として価値があるのは「根拠」であって君の考えではない。
525 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/04(木) 11:31:17
526 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/03/04(木) 12:18:50
>>514 3種および4種の地盤が(現在の)標高50m以下の盆地部を覆っている。これらの地盤はもちろん水によって
運ばれた土や砂や砂礫からなる沖積層である。
沖積層があのように広い範囲に亘って存在するということはそこが湖底であったことを示す。
527 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/03/04(木) 12:25:07
>>519、
>>520 多くの考古学者の皆さんが土器編年について研究されていますが、実年代については混乱があるようです。
C14や年輪年代法による測定が混乱の原因でしょう。そのうち改められるでしょう。待っていなさい。
528 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 15:07:21
混乱?
混乱なんてあるか?
どこで混乱してた?
529 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 17:22:52
>>528 おまえの頭が混乱してるぞ。弥生土器の年輪年代法での値が従来言われたものより100年ほど
古くでているのを知ってる筈だ。これが混乱の元だ。
530 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 17:46:35
もういいわこんな与太話はw
2世紀3世紀盆地に巨大湖があって人が住んでいなかったとか
考古学者の誰も言っていないし
まして地理地質の分野の人間が言っているわけでもない。
あるとしてもン万年前とか言うスケールの話。
そんな与太を言っているのはここのようなネット上の
「東遷説論者」とか「九州王朝説論者」とかのオツムビョーキな連中だけw
このスレは「東遷説」とか「九州王朝説」とかのネタスレじゃないんで勘弁して欲しいwww
もう少しましなネタに話をふってみるが
『 弥生時代の奈良盆地の生産性 』 とか言うお題でどうだろう?w
低湿地じゃあ水害にあって稲作はできないと言う東遷厨(怨)のご高説だが
例えば板付遺跡なんか地図で見れば標高僅か10mぐらいだろうか?
まあしょちゅう水害にあっていただろう事は誰もが想像するだろうw
ちなみに…
「板付遺跡弥生館」
http://itazuke-iseki.kmtk4.net/question.html >それからの板付人は洪水との戦いの連続でしたが、決してあきらめませんでした。
…だとさw
まあそれが当たり前の見方で、東遷厨とか九州王朝厨の脳内ではノーリスクで稲作もできちゃっているんだろうなwww
531 :
530:2010/03/04(木) 18:06:51
ちなみに
>>407で(設楽博己「倭国誕生 農業の始まりと地域文化の形成」) を引用しているが
同書のなかで板付は「典型的な水田植生」でありまた
「選択的食料体系を持つ本格的稲作栽培を行う類型」としている。
それに対し菜畑遺跡は「水陸未分化稲」の栽培で
「多方面にわたり食料確保する網羅的食料体系」としている。
まあ平たく言えば板付は水田稲作に特化しつつある遺跡で
菜畑は「広く浅く色んなモン食ってた」ってところか?www
確かに菜畑は標高も60mぐらいのところかな?
532 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 18:09:34
>>530 >低湿地じゃあ水害にあって稲作はできないと言う東遷厨(怨)のご高説だが
実際、水害の多い地は肥沃な農作地なのであって。
水害が多くても農作地に適してるから人類は治水に知恵を絞ってきたというのが歴史。
逆に、水害が多いことを理由に人が住まなかった土地なんてあるのか?という。
533 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 18:27:04
530は自分に都合の悪いことや理解できないことはヨタ話として切り捨てる習性があるな。
534 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 18:56:37
まあ
>>532も城下町も肥沃な農作地だからできたなんて与太話を別スレで書いてるような奴なんでどっちもどっちだがな
536 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/04(木) 19:04:02
>>530 >2世紀3世紀盆地に巨大湖があって人が住んでいなかったとか
上記は誰が言っている?
僕も縄文人 ◆cM49xEAzX6氏もそんな戯言は書いていない。
3世紀には奈良湖は消失し、残っていたのは川西町近辺の奈良湖痕跡を示す沼のみ。
その沼も3世紀中には完全に消失してしまった。
崇神は広大な農地が手に入り喜んだそうな。
崇神が奈良盆地に勢力を拡大したきっかけはこの農地獲得だな。
537 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/04(木) 19:14:14
かって存在した奈良湖の範囲を示す地名
南浦・北浦・大輪田・大和田・舟戸 他
538 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 19:31:03
>>536 >崇神が奈良盆地に勢力を拡大したきっかけはこの農地獲得だな。
おかしなことを言うねえ。
おまえは東遷説に鞍替えしたのか?
539 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 19:32:13
>>536 九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y
あん?じゃあ1世紀か?
どの道、何度も言っているように湖があったとしてもン万年前のお話。
>崇神は広大な農地が手に入り喜んだそうな。
…とかイタコだかチャネリングだか知らんが電波飛ばすのは止めてくれ。
他の邪馬台国スレかお仲間のいる九州王朝スレでやれアホ。
このお話は要するにほぼ無人の盆地にあるとき突然に王権が発生し
そのギャップに九州からの東征勢力を組み入れようという見え見えの発想www
ガキみたいに何ゴネてるんだ?馬鹿馬鹿しい。
ネタはネタスレに、ゴミはゴミ箱に。
540 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 19:34:44
>>537 ふうん。
ちなみに、三輪山の麓まで、舟で行き来してたのは常識なんだけどね。
541 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/04(木) 19:44:07
>>540 三輪山の麓には、水面を示す地名が現在残っていないだけ。
542 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 19:45:38
>>541 三輪山の麓は外国との交易港だったのに、地名が残ってないとな?
あまりにも都合の良い話だな。
543 :
530:2010/03/04(木) 19:53:55
盆地と地層と言う事で「王権誕生」に関連する事が書いてあったのを思い出したんで書いておく…
>ところが水田跡の発掘が進むと湿地土壌の水田化が弥生時代前期と言えないばかりか
>灰色土壌は十一世紀に灰褐色土壌は十三世紀後半に開発された土壌であることが明らかになった
まあ要するに3・4世紀に耕地が急激に拡大したような痕跡は無いようだ。
湿地などでの古代の水稲栽培はどうしても水害を避けきれないから、祖霊や穀霊に頼る面が
大きくなるのだと思うけどね。干魃もまたしかり。
545 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 20:45:12
しかし纏向の古墳が下にも置かない崇め奉られたものなら
もっと川の氾濫に削られるような心配の無い(標高の高い)東側に作られるような気がしないでもないw
案外、治水の為の人柱的な意味があったりしてwww
546 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 20:59:20
547 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 21:00:02
>>543 君は学者と名のつく人間の言う事しか信じないようだな。学者にもいろいろあるのを知らないらしい。
「王権誕生」の著者が地質についてどれだけ理解があるか見てやるから連れてこい。弥生時代の奈良盆地
における水稲栽培は水深の浅い水没地で行われていた。これは後の畦や導水路のある水田とは全く異なる
土地利用形態である。水田がそこに作られるのは湖が縮小して陸地になってからである。それも徐々に低
地部へと広がっていったのである。「灰色土壌は十一世紀に灰褐色土壌は十三世紀後半に開発された土壌
であることが明らかになった」とは盆地のどの辺りのことを言っているのか知っているのか?
548 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 21:16:54
>>545 箸中山古墳などは沖積土層に水の流れる道ができたことによって形成された(取り残された)小高い地形
を利用して築造されたと考えられる。低平地に土を盛るより労力が少なくて済むからである。崇神天皇陵
や景行天皇陵とされる前方後円墳は向きが揃っていないが、これも自然地形を利用したからであろう。
あれだけの大型古墳の築造には莫大な労力を要するから、作業量が少なくなるよう工夫したのであろう。
549 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 21:22:07
>>547 ん?九州王朝が名無しで書き込んでいるのかな?
で、その「縮小していった湖」とやらの存在を示す地層なり何なりがあるのか?って話で
先ずその根拠を出してくれ。
地質・地層なんてのはよく知らんが
例えば魚貝類や藻類の痕跡のある地層が盆地全体に広がっていて
それがごく浅い2・3世紀頃にも届きそうな位置と言うなら
そう言うものがあればイッパツでけりがつく話だろう?
グダグダ言わずにそういったものを出せば良いだけの話し。
>>548 箸墓が自然地形を”切り崩して”造られたなんて始めて聞いたw
551 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 21:56:49
ttp://www.lbm.go.jp/satoguti/study/sedi/sedi.html これは、琵琶湖が古代に移動してた証拠を示す資料。
湖があったという証拠として、次のようにある。
>この写真は,甲賀町北上野付近で見られる地層です.
>阿山・甲賀累層の時代は,湖が拡がっていた時代とされていますが,その事は,この地層からもわかります.
>湖が拡がっていたと考えられているのは,湖でたまったと思われる塊状で厚い均質な泥層が卓越していることから考えられるのですが,この写真に見られる地層の模様は,波で出来ます.
>こういう模様をウェーブリップルといいます.
>波はふつう海に見られますが,琵琶湖でもみられます.特に北湖へいくと冬には割合に大きな波もできます.
>波は,ある程度の大きさがなければ出来ないので,波でできた地層があることは,広い湖が拡がっていた事も想像させます.
広大な奈良湖があったというなら、ウェーブリップルという層が見られるはず。
そういう痕跡が奈良の地層にあるのか?
聞いたことないが。
これで決着つけようじゃないか。
552 :
水銀厨:2010/03/04(木) 22:00:41
>>537 湖ではなく単なる沼。
三輪の海柘榴市=椿市の名前が示すように、
ここが本来大陸勢力からみた水銀朱を主とする
鉱山物質の市だったのは明白です。
当然広瀬衆の舟運がここまで入りますよ。
553 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 22:03:18
地層の堆積物を見れば、そこが長い期間地上だったか、川だったか、水面下だったかは、
専門家が見ればすぐにわかる。
泥炭層とか、そういう層があるはずだ。
地質の専門家が、奈良湖が3世紀にあったと指摘してるような研究があるなら示して欲しいな。
地図ソフトの水位を上げ下げして湖を作ってもなんの根拠にもならない。
554 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 22:12:36
>>551 ウェーブリップルはかなり大きな波が寄せたり引いたりするところに形成される。それも数千年以上の
期間でようやく観察できるものとなる。
奈良盆地は縄文時代には水面の標高が60mを越す湖であったが弥生期にはその規模が縮小している。そして
湖岸一帯では水稲栽培が行われるなどの人為的擾乱を受けて特別な紋様を示すウェーブリップル層のような
ものは形成されなかったと考えられる。
したがって、ウェーブリップル層で決着をつけるのは困難である。
555 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 22:14:21
>>554 3世紀の話をしてるんだが。
頭おかしいのか?
556 :
水銀厨:2010/03/04(木) 22:16:38
大体鍵・唐古遺跡をみても洪水の形跡はあっても
直ぐに環濠を掘り直ししているでしょ。
長期に渡って水が滞留するような「湖」の痕跡なんて
周囲には存在しません。大雨の度に氾濫していただけです。
557 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 22:24:12
ttp://www.gsj.jp/geomap/geophoto/peatJ.html 泥炭層の説明。
洪水があったという証拠として次のようにある。
>雄物川の後背湿地に形成された厚い泥炭層です.
>通常は植物の遺骸が堆積するのですが,
>洪水のときには礫や砂〜シルトが運ばれるため,
>これらも泥炭層に挟まれて残っています.
「洪水のときには礫や砂〜シルトが運ばれる」だから、洪水があった証拠となる。
何度も洪水が起こるようなら、そういう報告があるはずだが、そういう話は聞かない。
558 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 22:28:33
>>547 >弥生時代の奈良盆地における水稲栽培は水深の浅い水没地で行われていた。
>これは後の畦や導水路のある水田とは全く異なる土地利用形態である。
さてさて、これはどうなんだろうねえ?
ぶっちゃけ稲の自生に任せるって感じなのかな?
>>407の設楽博己によれば水田での稲作は当初からかなり水路等も整理されたものだったと言う説だが…
それともその技術は畿内ヤマトはパスして登呂遺跡に見られるように東日本には伝わったとか?www
559 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 22:32:54
あと、王権誕生には、古代の川と現代の川の流れる位置が違ってるようなことが書いてあったと思うが。
それも、地層をしらべて、川のあるなしを調査した結果だろう。
湖が広がってたら、簡単に証拠がみつかるはず。
沖積平野とは何かから勉強しなおしたほうがいいんじゃないか?
日本の平野のほとんどは沖積平野なんだが、全部湖と言い張るきかね。
>>558 >設楽博己によれば・・・と言う説だが…
「説」じゃないんだが。。。最も早期の水田が
堰と水路を伴う灌漑水田だった。(広瀬和雄「三国志がみた倭人たち」)
という事実。
562 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 22:59:29
>>561 いつの説?
最近の説だと稲作の始まりが早まってるそうだが。
稲作開始の根拠は、水田跡よりもプラントオパールが見つかったという事実に基づいてるはず。
で、例のコピペをどうぞ↓
>>562 >稲作の始まりが早まってるそうだが。
(縄文時代の)稲作の始まり、じゃなく、水田。
564 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 23:05:09
まあ
>>531でも書いたが設楽は
板付の本格的稲作栽培と菜畑遺跡の「水陸未分化稲」の栽培との二つの体系を挙げていて
単純に「稲作の開始」となると
流石に水田による栽培よりは水陸未分化稲の栽培が早かったって事になるんじゃないのかな?
565 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 23:14:39
とりあえず奈良盆地での水田跡について…
http://naranews.seesaa.net/article/135302735.html >弥生時代前期の水田跡が出土した中西遺跡(御所市で)
>奈良県御所市室、條にまたがる中西遺跡で、県内最古級の弥生時代前期(2400〜2500年前)の水田跡(約6000平方メートル)が出土し、
>調査した県立橿原考古学研究所が、地元住民向けの現地説明会を開いた。
>これほどの広範囲で見つかることは珍しく、同研究所は「奈良盆地での米作りの始まりを知る上で貴重な水田跡」としている。
>出土したのは、河川沿いの傾斜地で、土を盛った幅数十センチのあぜで長方形に区切られていた。
>1区画の面積は約15平方メートルで、水平な田んぼを作りやすくするために細かく区分したとされ、人やイノシシとみられる足跡も見つかった。
まあ水田での稲作の東進と共に田んぼ作りの技術も同時に伝わったって考えた方が良いんだろうなwwww
566 :
ローガン:2010/03/04(木) 23:42:18
567 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 23:43:03
>>556 川の水が集中する一番低いところは、少なくとも「かなり幅の広い川」ではあった。
大和川しか排水先がないから、雨季にはかなり広い範囲が冠水したことも、常識的に
みて認めねばなるまい。
雨季に冠水する部分は、いわゆる湿地帯のような状況であったことも、まあ当然だろう。
実際に耕作の痕跡も遺跡もない「空白地帯」が広範囲に存在するという厳然たる事実がある。
この常識的な前提さえ認めたくないから、学者はこの問題から目をそむけ続けているんだよ。
>>567 >実際に耕作の痕跡も遺跡もない「空白地帯」が広範囲に存在するという厳然たる事実がある。
その「空白地帯」がどこかを提示してくれるだけでいいんだよ。
裏付けも出さず「事実がある」と言ってるから。
「夢でも見たの?」と、いつも言われているんだよ。
569 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 00:08:31
まあ「王権誕生」で寺沢が奈良盆地の集落跡を示した図が嘘っぱちでなければ
初瀬川・飛鳥川の下流域、やがて合流する少し手前まで集落があった事になるが・・・
「空白地帯」とすると郡山付近で佐保川の西あたりかな?
東遷厨はこれで「無人盆地」を主張するつもりなのか?wwww
唐古のそばには水田跡があるぞ。だから、
>実際に耕作の痕跡も遺跡もない「空白地帯」が
あるなら唐古よりは低地部。それを
>広範囲
と呼ぶかどうかは主観の問題だな。
571 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 00:16:40
>>519 実際のところ、特殊器台というのはいつ頃のものだろうか。
昔、著名な考古学者が、箸墓から特殊器台が出たのをきっかけに、それまで
中期とされた箸墓を初期の古墳ではないかと言い始めた。
その理由が、特殊器台は弥生時代の遺物に直接繋がるものであるから、その
特殊器台が出た箸墓は、ごく初期の古墳ではないだろうかと言うわけである。
これが1975年頃の話。
しかし、箸墓の築造年代が布留0というのは現代では定説化している。
上の著名な考古学者というのは、田辺昭三氏なのだが、田辺氏は、布留0に
関しては四世紀中頃から後半と言う説を採っている。だから、箸墓も
その時期ということになる。とすれば、特殊器台も当然その時期という
ことになる。
>>571 >田辺昭三氏
田辺・佐原編年というのは聞いたことがある。66年発表、のちに撤回されたとも。
だれか詳しい方、よろ。
>>573 ありがとう。でも、それチェックしてたんだけど、いまひとつわかんなくて・・・
575 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 01:18:54
>>573 >具体的には、福岡県松原の貨泉をもとに弥生時代中期が「西暦一世紀の前半頃にその実年代をおいている」こと。
これを読むと、「貨泉が中期の遺跡から出土した」という前提があるはずだが、今はこれはどうなっているんだ?
576 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 01:26:22
最近は、「年代遡上なんてことが言われるけど、よくよく昔の学説を調べてみると、
昔の学者も今とほとんど同じ年代観でしたね。」とまとめるのが流行っている。
これも、なんだかなあ、という感じがしないでもない。
>>575 寺沢氏や都出氏の案だと、中期最末から後期初あたりかな。
しかし、奈良湖の話題はいつまで続くんだ?氾濫原の存在を認めるのはやぶさかでないが、
そんな状況は各地にある。もう少し意味のある話題でレスしたいなあ。
578 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 03:09:24
>>571氏へ質問する。
>昔、著名な考古学者が、箸墓から特殊器台が出たのをきっかけに、それまで
>中期とされた箸墓を初期の古墳ではないかと言い始めた。
>これが1975年頃の話。
>上の著名な考古学者というのは、田辺昭三氏なのだが、
(問@)「それまで中期とされた箸墓」とあるが、本当か? 箸墓を中期古墳として扱っ文献を挙げて頂きたい。
(問A)1975年頃に田辺昭三氏が箸墓を「初期の古墳ではないか」と言い始めたのは本当か? それを示す田辺氏の著述文献・論文等を挙げて頂きたい。
579 :
578訂正:2010/03/05(金) 03:11:16
箸墓を中期古墳として扱っ文献 → 箸墓を中期古墳として扱った文献
580 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 03:26:28
>>578 ある本の中で、田辺氏自身がそう言っている。
そのまま抜粋すると、
「(略)崇神陵のすぐ近くに、箸墓がありますが、あの古墳は一見、平野の
真ん中に築かれているように見える。しかも、前方部がかなり発達して、
前方丘が三味線の撥のように外に開いているのですね。
というわけで、これまで箸墓古墳を中期頃の古墳ではないかと考えて
きたわけです。
ところが、この墳丘の上から特殊器台形の埴輪という、時代的に弥生時代
の遺物に直接繋がるような…(略)」
581 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 03:38:08
582 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 03:50:33
>>581 シンポジウム邪馬台国。角川選書。
昭和51年4月30日 初版発行。
583 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/05(金) 13:57:17
>>577 >氾濫原の存在を認めるのはやぶさかでないが
流域面積の狭い奈良盆地の河川では水量が少なく、氾濫原にはならない。
敢えて氾濫原となりうるのは、盆地南北の河川が合流している、河合町の近辺だけ。
大和川は斑鳩町神南で排水ネックとなる。
「この辺りは、明治後半でも洪水多発地帯だった」と明治中頃生まれの祖母に聞いた。
なるほど昔の村落は微高地にある。
>>583 あんたが持ってきたPDFに氾濫平野だって書いてあるじゃん。
585 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/05(金) 14:45:33
586 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 15:24:41
>>584 ちゃんと見なさい。奈良盆地の沖積層は数十mに達すると書いてある。これは排水路が解放されている地形での
河川氾濫による沖積層の出来方とは違う深度である。沖積層が形成される前の奈良盆地は現在より数十mも標高
が低かったのである。文字通り凹みであって、ここに縄文湖が出来た。約5千年に亘って河川から流れ込んだ泥
や砂が溜まって数十mの沖積層ができたのである。盆地の出口が開いていて河川水がそのまま流出するのであれ
ばこんな厚い沖積層は形成されない。
唐古・鍵の集落は盆地中央とは言えないが山裾からは離れた平地部の高台に位置しており、若し盆地出口が解放さ
れていて、山裾を下ってくる奔流に呑み込まれるような事態があったとすれば1000mm/hを越える豪雨が数日間
続いたことであろう。その可能性と盆地出口の川が土砂崩れで埋まることによってそれまで集落の足下1〜2mに
あった湖面が2〜3m上昇した可能性を比べたら後者の方がはるかに起り易いことが分るであろう。
587 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 15:59:43
>>471 朝日遺跡は確かに大規模。前方後方墳の祖形となる墳丘墓は西上免遺跡や
廻間遺跡の方が明白。弥生時代の濃尾平野での最大都市は萩原遺跡らしい。
>>477 象鼻山古墳群も注目だが、東之宮古墳も注目。近くに濃尾平野を流れ込む
木曽川が流れ伊勢湾に。
まだ奈良湖の話題続けるの?
どんなに頑張っても鍵・唐古や箸尾遺跡がある限り
弥生期の湖なんて説明不可能ですよ。
589 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 16:47:09
590 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 17:05:49
>>588 別に拘ってはいないが、君のような道理の分らぬ人間(唐古・鍵の集落が埋まった原因を理解出来ぬ人間)が
いるから説明をしてあげているだけなのだ。
それでなにか?面白いことに話題転換したいと言うのか?いいねえ。で、どんな話題があるの?
591 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 17:21:47
クナ国は、尾張か毛野国か?
592 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 17:31:14
崇神のときに、豊城命に東国の毛野国を治めさせたと書かれているので、
もし、尾張と仲が悪かったとしたら関東まで勢力を伸ばすのに障害が出るだろう。
当然、崇神以前から尾張とは友好的だったはず。
東海土器が大量に流入してるのが証拠。
唐子・鍵からも東海土器は出てたよね?
593 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 20:15:59
まあ巨大盆地湖なんて「ムー」なお話はおいといてだw
>>565で挙げた盆地の田んぼの痕跡とかを見れば水田での稲作はかなり初期から
灌漑技術を伴った物であったろう事が分かる。
>>547は誰だか知らないがw根拠無しの妄想だったとwww
で話は以前の老教授の「土木技術」をキーワードにした王権発生のプロセスに戻るが
基本的な灌漑技術がデフォであったならそこから更に(それまでの弥生墳丘墓に比して巨大な)古墳造営を可能にせしめた
土木技術とは何だったのか?…チト分かり難いというのが素人の偽ざる感想www
ぶっちゃけ纏向の大溝にしても「量的拡充」であってその技術が王権発生の”原因”になったと言うより
王権が発生したその”結果”なんじゃないのかと言う気がしないでもないwww
594 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 20:49:53
「狗奴国=東海 説」と言うより、そもそも畿内ヤマトと東海の対立の構図と言うのが正直ピンとこないw
銅鐸にしても三遠式と近畿式、お互いに排他的な動きをしたとも見えず
ぶっちゃけいつの間にかトレンドが近畿式に収斂しちゃったって感じだしwww
前方後方墳にいたってはヤマトの中にもそれはあるし、ヤマト以西にもある。
元稲荷、西求女塚、湯迫車塚…中には三角も結構な数だしてるのもあるし…
まあ個人的に東海の印象と言えばヤマトと着かず離れずでも全く同じ物はイヤ…というツンデレ(死語?w)状態とwww
もっとも、ひょっとしたら東海がヤマトにツンデレしちゃってるんじゃなくて
ヤマトが東海にツンデレしちゃっているのかもしれんがwwwwwwwww
俺的には、奈良盆地は讃岐平野や東播磨地域などに連続する瀬戸内特有の寡雨気候であるという印象が
強いんだけどね。あちこちにある溜池は多くは江戸期のものだろうけど、記紀の記述に出てくるものもある。
つまり治水というより旱魃対策が重要視されてたのでは。ま、電波組はこの溜池も湖の残存跡だとか言い
出すのかもしれないけど。
596 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 21:28:48
597 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 21:50:13
>紀の川開発史 [編集]
>日本有数の多雨地帯である大台ヶ原を水源とする紀の川は、夏季(6月〜9月)に集中する降雨分布を示す。
>従って梅雨時期や台風の際には容易に氾濫を繰り返す河川であった。
>河口の沖積平野である和歌山平野では河道が度々変遷する状況であったが、
>豊富な水量は慢性的な水不足にあえぐ奈良盆地の人間にとって魅力的であった。
[慢性的な水不足にあえぐ奈良盆地]って書かれてるな。
どこに盆地湖が?
598 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 21:54:32
>>597は、これね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E3%81%AE%E5%B7%9D >吉野川分水 [編集]
>紀州ではこのように紀の川を有効利用した新田開発が行われていたが、大和北部の奈良盆地は紀の川のような水量が豊富な大河は無く、
>大和川などは渇水時には容易に水不足に陥り、旱魃による被害が起こり易かった。
>この為、農民は古くから大小様々なため池を大和川流域に建設。さらに隠し井戸を造って水を確保するという苦労を長年続けていた。
>他の地域がたとえ晴天続きの順調な天候であっても、少雨地帯である奈良盆地では却って旱魃を招くという皮肉な状況であり、この事を指して人々は『大和豊年米食わず』と囁いていた。
>奈良盆地に暮らす住民にとって、滔々と流れる紀の川の水は何者にも替えがたい魅力的な水であった。そして、『奈良盆地に紀の川の水が引けないか』という願望となり、
>やがてそれは「吉野川分水構想」へと繋がっていった。
奈良盆地は湿地だ湿地だと言われてるわりには、水不足だったんだな。
599 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 22:08:35
600 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 22:17:19
結論としては、奈良の水害というのは、湖のせいではなく、
河川が細いために、一時的に大雨が降るとすぐに川が氾濫するということだろう。
雨が少なければ、川の水量も減って慢性的な水不足になると。
>>572 自己レス
「田辺・佐原編年」
銅鐸の製作・土器の製作技法、土器の地域色、高地性集落と石製武器の発達などを中国文献と符合させ、
「A.D.100前後を中期中葉とし、女王卑弥呼を誕生させた倭国の大乱(A.D.180前後)を第四様式末」とするなど、
その年代論は魅力的なもので、9年後に佐原がその方法論を自ら否定するまで(8)生き長らえていた。
<田辺昭三・佐原真「弥生文化の発展と地域性 3近畿」(『日本の考古学』V弥生時代>
弥生時代年代論の学史 2000/8/18 用田政晴 より
なるほど、これが
大陸製品による年代情報が乏しかった近畿地方においては、
考古資料の変化を中国史料の記述に関連づけて理解するという回り道をとらざるをえなかった。
近畿中部では石器時代、とくに石鏃の大型化や量の増加が中期後葉に頂点に達する。
そして、この時期は軍事的性格をもつと考えられる高地性集落のピークにもあたっていることから、
これらの変化が『魏志』倭人伝や『後漢書』倭伝からうかがえる
卑弥呼共立直前の「倭国乱」を反映したもの、という解釈が示されたのである。
弥生中期の終わりは乱の最終段階の180年頃となる。
<福永伸哉「邪馬台国から大和政権へ」>
のことなのだな。
>>573 縦目仮面
ありがと。なんとなくわかったよ。
602 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 22:22:11
河川が細いと、雨量によって、水かさが大きく変動する。
大雨で氾濫し、一時的に湖状態になるかもしれないが、それは一時的なだけであって、
水が引けば水不足状態になるわけだ。
水不足で困ってる奈良人なら、古代に湖があったなら、当時を偲んで言い伝えを残すはずじゃないのかね?
603 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 22:29:00
だいたい、古代人が灌漑技術で奈良湖を消滅させたというなら、
水不足を解消するような治水もできるはずだろう。
九州王朝と縄文人の荒唐無稽なヨタ話に何日もつきあわされたわけだ。
604 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 22:39:03
>>603 いや今後も定期的に出ては消えを繰り返すだろうwww
無人都市、無人盆地…兎に角、古代大和を無人にしたがるのが九州王朝説とか東遷説とかの異常な連中だからwww
環濠を掘って手入れもせず掘りっぱなしだったら
べつに洪水に見舞われなくても次第に埋まっていくんじゃじゃないかな。
低地じゃなくて、もっと小高い丘の上や山の上に深い溝を掘ったとしても
雨が降れば両側から土が崩れていくだろ。
10年も経たないうちに溝は埋まって、無くなってしまうような気がする。
606 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 22:56:28
>>603 湖の水面を下げたのは大和川の浚渫工事です。これは灌漑技術ではありません。灌漑とは水を必要とする場所へ水源から水を
導いてくることを言います。また、治水とは広義には灌漑も含むでしょうが通常の意味では荒れる川を治める、すなわち、水
害防止のことです。
言葉の使い方をご存じない方が何を言われても説得力はあり得ません。
>>571 >特殊器台というのはいつ頃のものだろうか。
立坂型・楯築→立坂型・立坂→向木見型・矢谷→宮山型・宮山→都月型・都月坂1号
(近藤・春成)
立坂円形墓は2世紀末、宮山古墳は3世紀中葉(石野)だそうだ。
年代決定の理由はわかりません。わかる方、よろしく。
>>604 電波連は弥生時代なら弥生時代の、家族制度や社会組織などの人類学・社会学的なまと
もな知識がほとんどないから、東遷とか九州王朝とか大ざっぱなことしか言えない。
>>571 >布留0
私は、製作年代のわかりやすい後漢式鏡などの中国製品の日本への流入時期などを参考に、
弥生時代の終わり(弥生第4-2様式)を西暦3世紀の第1四半期のなかに、
また、日本での最初期の須恵器生産の開始を(中略)西暦400年を前後する時期で考え、
これを起点として、この間の時間を土器様式の数で機械的に按分する方法をとっている。
つまり、それは180〜200年を9つの様式で割ることになり、一様式約20年、
ほぼ一世代で土器様式が変わっていく計算になるわけだ。
これでいくと「布留0式」は、古墳時代の始まりにあたる最初の様式「庄内0式」から数えて
五番目、つまり300年を前後する時期となる。(寺沢 94年12月の箸中山古墳前方部北裾と周辺部の調査 より)
※2002年に正式な報告書を刊行しているので、年代はそちらを正とするそうです。
なお、
布留式土器が4段階程度に分割できるとすると、
古墳出現期に使用された布留式最古層の成立年代は3世紀にかなり食い込む可能性が高くなる。
(福永 2001)
という方もおられます。いずれにしても、ちょっと資料が古いかもしれません。
いや、縄文人はもうすぐ、器台から特殊器台そして埴輪への流れを形式変化や出土土器との
関係から、実年代を踏まえて説明してくれるだろう。なんといっても古代史の天才なのだから。
>>594 >ヤマトと東海の対立の構図というのが正直ピンとこない
卑弥呼と卑弥弓呼は西本願寺と東本願寺みたいなものだったんじゃない?
613 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 02:38:33
まあ「狗奴国=東海 説」とは、邪馬台国論争が考古学の世界にいまだに及ぼしている悪しき影響なのかもしれない
…とか言ってみるwwww
614 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 03:37:30
>>610 >また、日本での最初期の須恵器生産の開始を(中略)西暦400年を前後する時期で考え、・・・(寺沢 94年・・・
今では、須恵器生産の開始期は確実に4世紀後半。宇治市街遺跡出土品の分析から。2006。
>いずれにしても、ちょっと資料が古いかも・・・
そうだね。
>>614 >そうだね
そうだね、じゃなくて、情報持ってんなら入れてくれよ。思わせぶり君。
>>614 >宇治市街遺跡
この情報はありがとうね。
ただ、この板ではいろいろうるさい人が多いので、理科学的分析はあまり出したくないんだ。
私的には採用したいんだけどね。
それを納得してもらえる説明ってできるだろうか?
>>613 >悪しき影響
なのかどうかわからないけど、考古学者がイメージして復元したがってる世界って
ずいぶんそれに引きずられてるって気がする。白石氏、寺沢氏、柳田氏。
618 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 08:38:20
俺なんかは、唐古・鍵が卑弥呼の都に相応しいと思うけどねえ。
支持されないねえ。
>>618 >卑弥呼の都に相応しい
(支持されないのは)相応しいと思わせる物証が提示されてないからじゃないの? あるのか?
唐古・鍵は確かに(詳しい)情報少ない。知名度だけはあるが。
物証じゃなくて、状況証拠でもいいが。
620 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 08:58:19
>>619 ソースが老教授で申し訳ないが。前スレから
>362 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2010/01/10(日) 23:47:16
>
>>353 >>それとも盆地のどっかから毎日労務者がマキムクへ通って来て・・・すか???
>ニヤソ・・・唐古・鍵なんかどうですか?
>纏向建造と同時に再開発され、「異なる土器を使用する3ブロックが並立するベッドタウン」として
>弥生期以上の規模に膨れ上がりますよ。
>ただ「完全無人」と言う訳では無いと考えられますので、ご安心ください。
>367 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2010/01/11(月) 00:10:16
>
>>363 >布留・庄内を「在地系」と見ると、この3ブロックのいずれからも出土しますが
>それ以外の特に「外来系」に注目するとこうなります。
>1、河内以外の外来系が殆ど出土しない東南部(旧市街地と見られる箇所)
>2、吉備・讃岐・山陰・丹後・紀州など(出土量順)が目立つ北部
>3、東海・関東から越などが、2に加えて出土する南西部(調査途中)
>なお纏向後期になると、これに加え全般的に近江や丹後・丹波・但馬・播磨などが増加します。
>なお北部・中部・南部各九州と南四国、常陸・奥羽などは少量ですが全時代的に出ます。
622 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 09:06:07
唐古・鍵遺跡は、吉備・讃岐・山陰・丹後・紀州・東海・関東・越などの地域から人が集まってる。
クニの代表者や商人が、交易や利権の配分を会議してたのではないか?
この状況は、「卑弥呼が30国から共立された」という状況証拠になりえるのではないか?
唐古・鍵は、卑弥呼の都=女王国で、卑弥呼も居住してた。
纏向は卑弥呼が祭祀のみをするための場所、ということではないか?
623 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 09:14:27
邪馬台国論争の弊害みたいなもので、
マスコミには纏向を卑弥呼の都と喧伝するが、
実際は、唐古・鍵が邪馬台国の主体なんじゃないかということです。
だから、俺的には、箸墓が4世紀でも全く問題ないと考えてるわけです。
九州説がすっかり衰退した理由も、纏向より古い唐古・鍵の頃から、
交易連合国家の様相が見えてきたからではないかと。
>>614 須恵器の生産開始が早くなると、何で布留まで古くなるのかよく分からんのだが。
布留と須恵器の併行関係はどうなってんだ?ないに等しいってことか?
併行関係がしっかりと確立しているなら
かつて
布留A−須恵器A 古い
布留B−須恵器B 新しい
という併行関係があったとする。
ここでさらに古い須恵器Xが見つかった。
そうしたら、布留Aよりも古い布留Xを対応させて
布留X−須恵器X もっと古い
布留A−須恵器A 古い
布留B−須恵器B 新しい
になりそうなものだけど、布留まで古くなるというのは
布留A−須恵器X もっと古い
布留B−須恵器A 古い
布留C−須恵器B 新しい
になるということ。これがよくわからん。
併行関係もはっきりしてないのに、
須恵器の生産開始年代で布留の年代を推し量るというのは意味があるのか?
>>624 >>614の元ネタ
>>610を見ればわかるが、彼は庄内>布留>須惠を直列でしか考えていない。
つまり、ただ「厨」なだけだ。
つまらん期待をいだかないこと。
626 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 15:27:12
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
627 :
ローガン:2010/03/06(土) 16:09:36
>>613 > まあ「狗奴国=東海 説」とは、邪馬台国論争が考古学の世界にいまだに及ぼしている悪しき影響なのかもしれない …とか言ってみるwwww
そうだろうか?2002年発表のの箸墓付近の搬入土器 (布留0期)東海はかなりウエイトが下がっていますね。
初期段階では大いに貢献したものの、首班指名を受けられなかった…ゆえ、これが「不屬女王」。
別に敵対関係と考える必要ないでしょ?
628 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 18:09:01
>>627 老眼翁
>初期段階では大いに貢献したものの、首班指名を受けられなかった
うーん、そう言えばこのスレだったか
以前に「狗奴国=吉備説」で似たような事を言ったと思うがw
自他共に認める勢力であった東海勢力にすれば
「当然俺がリーダーじゃんw」
…と思っていたが話がもめて
結局卑弥呼が共立されてしまって元より面白くなかったとwww
そう言えば老眼翁ってこの板にあって卑弥呼=倭迹迹日百襲姫を強く主張していると言うのは皆が知るところだと思うが
「狗奴国=東海 説」を支持しているって事で良いのかな?
629 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 18:16:31
え?
このスレにいる人で卑弥呼=倭迹迹日百襲姫でない人いるの?
俺も 狗奴国=東海説 だよ。根拠はおいおい述べていきます。卑弥呼=倭迹迹日百襲姫 は俺は保留。
記紀の登場人物に比定するのは、いろいろな困難があると思う。
631 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 18:53:04
卑弥呼=倭迹迹日百襲姫などとアホなこと言うたらあきまへん。
狗奴国=東海などとチンケなこと言うたら笑われまっせ。
632 :
ローガン:2010/03/06(土) 21:02:56
>>628 >そう言えば老眼翁ってこの板にあって卑弥呼=倭迹迹日百襲姫を強く主張していると言うのは皆が知るところだと思うが
そんなん言った事無いって。箸墓が卑弥呼の墓だろうとは言ってますが。紀は盲信してないので…
だいたい名称となった伝承に、当時使われていない食器が出てくる訳だし、又、歌謡が古式を伝えやすいとはいえ、芝山の石が箸墓オリジナルという訳ではないでしょう。古墳時代の労働歌…程度の事で。
ただ、大和の他の古墳がおしなべて道に沿うように作られているのに対して、箸墓は南北路を分断しています。
紀の成立段階で古墳編年など判らなかったにせよ、この墓が他より古いものである認識はしていたと思います。
> 「狗奴国=東海 説」を支持しているって事で良いのかな?
あ、話は狗奴国でしたね。もちろんそう考えております。
633 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 21:30:44
>>632 >ただ、大和の他の古墳がおしなべて道に沿うように作られているのに対して、箸墓は南北路を分断しています。
>紀の成立段階で古墳編年など判らなかったにせよ、この墓が他より古いものである認識はしていたと思います。
さすが、目のつけどころが違いますなあ。
箸墓から鐙が出たところでへのかっぱというところですな。
>>623 裏付けがあって、ちゃんとした意見ですね。
唐古・鍵遺跡の情報ってないんですよねえ。量よりも質的に。
歴史の流れの中に、キーとして位置づけようとする論が見当たらないのです。
名前負けではないけれど・・・
マキムク建設のプロセスを考えるのが、このスレの主旨だと思うが、
その前段階の奈良盆地の姿を(私的に)描けていないんです。
「両者の間に、権力論上つながる考古学的状況はなく、(中略)
唐古・鍵遺跡が纒向遺跡の出現と同時に急速に衰退していく理由は、
王都の移動による発展的解消では決してなく、
倭国王都・纒向への吸収消滅を物語っている。」(寺沢)
というけれど、まだ考察の余地はあると思うんですけどね。
古墳の立地や向きについてはいろいろ調べてるんですが、周濠への水の引き込みやすさと
関連してる気がします。
あとは、土師氏の祖である野見宿禰の「野見」とは、呪術的に古墳を築造しやすい場所を選
定する・・・つまり「野を見る」からきているという説もありますね。そのような風水師的なことを
掌る神職があったのかもしれません。
>>633 横からいらぬこと・・・
>へのかっぱ
「輪鐙が出土したのは(中略)幅約10mの周濠に堆積した植物層の中層からである。
植物層は調査地点で確認できる周濠堆積の最上部にあたり、
周濠や渡り堤を覆うもので、約20〜25cmの厚さがあるが、
すべてが木葉や枝などの草木で構成されている。
植物層からの共判遺物には新しい時期の遺物は一切含まない布留1式期の
多くの土器と少量の加工木があり、輪鐙の所属時期は層位や出土遺物から
布留1式の可能性が高いと考えている。
[追記](略)この層の所属時期を布留1式期とする考えに齟齬をきたす
成果は確認されていない・・・(橋本輝彦)」
>>635 >周濠への水の引き込みやすさと関連
築造時には空濠だったって聞きましたよ・・・
>>638 あれっ。よく見たら
「大古墳が築かれた3〜6世紀にはけっしてそんなことはありえなかったのである」
って書いてあります。
清水眞一「最初の巨大古墳 箸墓古墳」新泉社 です。
641 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 22:29:53
>>632 老眼翁
そやったなw
確かに翁は 箸墓=卑弥呼の墓 説であって
倭迹迹日百襲姫=卑弥呼 説ではなかったかwいやいや失礼www
しかし一度この板の畿内説限定で「狗奴国は何処か?」と言うテーマで話し合うのも面白そうだが
まあ少なくともこのスレじゃあやらん方が良いんだろうなwww
>>631 >狗奴国=東海などとチンケなこと言うたら笑われまっせ。
チンケってことはないやろとw
元々その説が出てきた背景にはいくら「緩やかな首長連合」なんて言っても
仮にも魏に親魏倭王に封じられた卑弥呼と敵対するってんだから
それなりの勢力…と言う事で出てきたと思うがwww
642 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 22:32:03
>>634 以前は、「唐古・鍵 → 纏向」は、よく言われていた。
畿内説の考古学者でも、そう言っていた人がけっこういた。
そのつもりで、唐古・鍵を宣伝してきたのだろう。
弥生最大規模の環濠集落とか。
でも、今は全く聞かない。
一見すると、「首長連合」などよりよっぽど合理性があるように見えるが、
そう言えない決定的な理由があるのだろう。それは唐古・鍵の後進性だと思う。
鉄器が出てこないのは困るが、更に石器が出てくるのはまずいな。金属器の
登場は、石器の減少に表れる。石器しか出てこない唐古・鍵は、九州で
言えば、縄文時代に相当するのではなかろうか。
縄文時代→古墳時代ではちょっと繋がらないというわけだろう。
>>640 確かに空濠に水が後代に溜まったというものは多いんだけどね。
以前、福永伸哉氏の銅鐸配布論を挙げたことがある。
で、机上の空論だ、と言われたのだが・・・
「銅鐸は共同体の祭器か」とする論があった。
(桑原久男 銅鐸と武器の祭り「古代史の論点5」)
「弥生時代の社会においては、金属器とくに青銅器自体が限られた稀少財産であり、
特別な価値や意味を有していたと考えたい」
「近年、大阪府の池上・曽根遺跡をはじめ大型の建物が相次いで発見され、
兵庫県七日市遺跡で住居や墳墓に明瞭な格差が存在することが明らかになり、
近畿地方の弥生社会についても、北部九州とは違った形であるが、
一定の階層化が進んだ成層社会であったことが裏付けられるようになってきている」
「(略)銅鐸がただちに共同体の共有物であったという考えはとることができない。
(中略)銅鐸の所有者であるだけで非常に高い社会的威信が得られたものと推察している」
「獲得が困難で、特別な意味や価値を有する貴重品である青銅器を、
人々の面前で惜しげもなく手放して、土中に埋めて最終的に消費してしまうということは、
自らの地位・財力を誇示し、威信を高めるうえで多大な効果があったものと推察されるのである」
まあ、これも机上の論なのかもしれないが、
要するに、見る銅鐸は首長の威信財だった可能性もある、ということ。
>>642 >唐古・鍵の後進性
そう、それがネックなのでしょうね。でも、銅鐸作ってたんでしょう?
>>644 見る銅鐸の大型化は、そういった威信財に変化していった可能性もあると思う。
647 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 23:23:23
>>643 奈良に空濠って掘れるの?
すぐに地下水があがるなり雨水がたまるなりしそうなイメージがあるが。
648 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 23:26:54
そもそも社会における階層化という点について言えば
三内丸山で縄文時代に既に集落内において階層化が見られるってんだから
別に畿内でも階層化が進んでいたと見て間違いないと思うがwwww
もし九州の社会と比較するなら首長の権限の大きさだろうか?
九州のほうが、トップダウン式に意思決定がされる社会=より「帝政」に近いというかw
その事が銅矛と言う武器型青銅祭器にも表れているとwwww
銅鐸の威信財としての性格と言う事なら
ぶっちゃけた話し、そりゃ銅鐸を集落で共同管理してたって事は無く
まあ首長の所有物だったんではないの?w
ただステイタスシンボルとしてもあくまで集落の中で有効であって
「社長」の肩書きも一歩社外に出れば「ただの人」になるみたいな?w
それが銅鏡になると他地域の首長に対しても意味をもったとか?
所有の枚数・大きさ・倣製舶載の違い・etc…で格付けチェックとか?www
649 :
ローガン:2010/03/06(土) 23:34:13
>>642 >鉄器が出てこないのは困るが、更に石器が出てくるのはまずいな。金属器の登場は、石器の減少に表れる。
森岡氏もそう言ってますね。人口増なのに石器が減少しているのは 鉄器を考えないと説明出来ないと。
古墳時代に鉄器が増えたように見えるのは「残りのいい」厚葬が始まるからじゃありませんかね?
>>648 >それが銅鏡になると
銅鐸が銅鏡に変わったの? なら、それまで「集落の中で有効」だったものが、
いきなり「他地域の首長に対しても意味をもった」のはどうしてか。
というのが、“伊都国東遷廚”の言い分だろう。
福永の銅鐸配布論はそのギャップを埋める仮説なのだと思う。
>畿内でも階層化が進んでいた
その根拠がほしいよね。三内丸山からの演繹じゃ、ちょっと・・・
651 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 23:53:07
「銅矛文化圏と銅鐸文化圏」って大昔の教科書に載ってたあれ、相当罪深いな。
あの時代に歴史を習った人間はそれが刷り込まれてる。
652 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 00:03:47
>>650 >その根拠がほしいよね。三内丸山からの演繹じゃ、ちょっと・・・
じゃあ古墳時代からの帰納でどうだ?…と言うのは冗談だがw
なんか後日良いネタが見つかれば書くわwww
>いきなり「他地域の首長に対しても意味をもった」のはどうしてか。
「首長層の意識の拡大が先ずあった」…かな?
高地性集落に見る戦乱の時代 とか 鉄資源の確保のために他地域との連携が必要になった…とかw
653 :
ローガン:2010/03/07(日) 00:05:57
>>633 >箸墓から鐙が出たところでへのかっぱというところですな。
鐙というもの自体が、遅くともいつ頃から見られるかの指標の一つにはなるでしょうね。
>>649 ローガンさん、おひさしぶりです。
畿内の酸性土壌のため残らなかったというわけですね。
北九州の鉄器優越状況を主張するレスを受けて、
村上恭通氏の「倭人と鉄の考古学」を読んでます。
それによると、量もさることながら、
残存遺物の機能性や鍛冶遺跡から推し量った、製作技術の差が指摘されています。
どうも前方後円墳出現直前期においても、鉄の普及については西高東低は確かかと思われますが。
>>652 >首長層の意識の拡大が先ずあった
中国人の入れ知恵があった、じゃダメ?
656 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 00:36:06
>>649 しかし、唐古・鍵に鉄器の可能性があるとすれば、畿内説が、唐古・鍵から
纏向への移動を捨てるとは思えないな。畿内説にしてみれば、もっとも
採用したい考えなのだから。
自生説を捨てることと唐古・鍵を捨てることは、まあ同義と言うことになる。
>>656 >鉄器の可能性
まったくないんじゃないんだよ。展示してあるから。
別に「移行かどうか」は二者択一の問題ではなくて、
「政治経済の中心地が移った。担う部族は違うかもしれないが、
大和盆地南部の、巨視的な物資の集結ポイントとしての性質は、事実上そのまま引き継いだ」
でいいんじゃないのか?
唐子・鍵の詳細がなかなか解明されないのは歯がゆいところだが。
鏡の話などはよく出てくるが、鏡はもはや中華(朝鮮・西南日本など東方でも?)汎用品なので
あらゆる意味で、位置確定の役に立たないと思う。
むしろ、逆向きの遺物はないのかなあと探しているんだが。
朝鮮(南部除く)または中華帝国内で、倭国系の遺物というのは出てこないんだろうか。
政治的・イデオロギー的状況から困難を極めるとは思うが、
洛陽3世紀の地層で、倭国特定地域の遺物が発見されれば、
邪馬台国論争はファイナルアンサーだと思う。
これが出ない限り、たぶん永遠に堂々巡りは続く。
いまのところ俺自身は、「巻向自生発展説(東征完全否定説)」&「邪馬台国九州説」
つまり、平たく言えば「倭人伝も記紀も(各々の金科玉条部分は)完全否定」という
論者がいそうでいない説を採るので、発想法自体が、相当異端だとは思うけどね。
659 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 01:17:22
660 :
ローガン:2010/03/07(日) 01:27:08
>>654 >おひさしぶりです。
はい、お久しぶりです。魏略さんですかな?
>鉄の普及については西高東低は確かかと思われますが。
>>649は 642氏のレスの意図をすっ飛ばして、ただ畿内の弥生に鉄が無いとは考えにくいというだけの事です。
ご紹介の本は生憎読んでおりません。…恥ずかしながら、私は本を読み飛ばしてわかった気になるという悪癖があって 期間を空けて何度も読まないと本当の理解が出来ないんですよ。
そんな訳で今も何冊かの既読の書に向かっています。
さておき、「西高東低」を否定する訳ではありません。とりあえず邪馬台国はおいといて、弥生時代から北部九州は日本の先端、文化の流入路ですね。
その恩恵が、やがて広域化する過程に於いて 各ブロックの思惑の妥協点(というか小異を捨て大同につくみたいな)により出来たものが纏向なんじゃないかなあと想像しているのです。
上手く言えませんが。
>>658 中国まともに相手できないよ。
対日領域部分に絡むもんに胡散臭さ満載だw
662 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 08:49:14
>>654 その本を村上が書いた頃は、淡路島の鉄器加工工房は知ってたの?
>>660 レスありがとうございます。
>魏略
その節はありがとうございました。
その前は狗名国不戦論を聞かせてもらった岡田説です。
今は卑弥呼卑弥弓呼本願寺説なんですよ。
>何度も読まないと
うふふ、おんなじです。
鉄器や鉄素材をめぐる争いが「倭国乱」であって、ヤマトが勝利した、という説に対して、
鉄器文化において優越していた北部九州が負けるはずがない、という反論があります。
その流れでレスさせてもらったのですが、確かに「無いとは考えにくい」ですね。
逆に、畿内の階層分化の未発達をもとに外部からの政権移入を説く論があり、
土器の移動の痕跡からみて、それを否定する反論がある。
と、そんなふうに読んでいます。
>>662 >淡路島の鉄器加工工房
なん年発見のなんという遺跡なんでしょうか?
この本は98年第1版第1刷発行となっています。
淡路島は書いてないんじゃないですかね。地図にも印がないし。
これ読むのたいへんなんです。見落としてるかも知れません。
665 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 09:11:19
>>663 >鉄器や鉄素材をめぐる争いが「倭国乱」であって、ヤマトが勝利した、という説に対して、
>鉄器文化において優越していた北部九州が負けるはずがない、という反論があります。
>その流れでレスさせてもらったのですが、確かに「無いとは考えにくい」ですね。
「鉄器を巡る争いがあった」とか、
「鉄器を多く保有したクニが征服者になった」とか、
そういう小林の考えた話って、今でも信じられてるの?
発掘状況を見れば、大和王権成立と鉄器の豊富さに因果関係は認められないはずだが?
>>665 >そういう小林の考えた話
小林行雄もそう言ってたんですか? 663のネタのソースは白石太一郎です。
「畿内や瀬戸内海沿岸地域の勢力が連合して、それまで朝鮮半島南部の鉄資源、
さらに中国鏡をはじめとするさまざまな先進的文物や情報の入手ルートを独占的に掌握していた玄界灘沿岸地域と争い、
この交易ルートの支配権を奪取するといった事態があったことが想定されるのである。」
(白石太一郎「倭国誕生」)
これについてはこんな話があります。
都出 次に、卑弥呼の登場をもたらした「倭国の乱」というものが、
どうして起こったのかという問題を考えてみましょう。
鈴木 先ほど問題になった「弁辰の鉄」の交易ルートの争いだという説がありますね。
山尾幸久さんあたりが言い出して、都出さんがそれに賛同して、
そのあと白石太一郎さんや私などが尻馬に乗って……。
(古代史の論点 4 巻頭座談会)
>発掘状況を見れば・・・因果関係は認められないはずだが?
もう少し詳しくお願いできませんか。
>>625 >彼は庄内>布留>須惠を直列でしか考えていない。
「庄内式土器から布留式土器への変遷は、庄内式における北陸、山陰、瀬戸内を含む
他地域間との土器交流の結果、多系統の土器が出現と消長を繰り返し、
それらが淘汰された結果として布留系の器種が残存したものと考えられる」
「布留式土器は、須恵器と共に朝鮮半島南部から入って来た韓式系土器が
布留式の生活様式に変革をもたらした結果消滅する」
>>624 >布留と須恵器の併行関係はどうなってんだ?
(布留式期4)
「この段階の内には、朝鮮半島南部から渡来した陶質土器の壷や
韓式系土器の瓶、韓式系平底鉢などが共伴して出土している」
(布留式期5)
「平底鉢、瓶、鍋などの韓式系土器が盛行し、TK216〜TK208形式前後の
古式須恵器が共伴するが、この段階で布留式は終焉を迎える」
(以上、米田敏幸「古墳時代の研究 6土師器と須恵器」)
668 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 10:42:51
>>666 戦後の日本で、まだ本格的な発掘調査が進んでないころ、
畿内説に立つ小林行雄は、大和王権誕生には鉄器が欠かせないと考えました。
これは、産業革命から始まる近代思想の延長です。
資源の少ない日本は、鉄鉱石や原油の確保のために西洋と軋轢を起こして戦争しました。
戦中戦後を生きた小林には、強国日本を作るためには鉄が必要という思想があり、
弥生時代においても大和王権誕生には鉄器が必要だと説いたわけです。
奈良を掘れば豊富な鉄器が出土し、小林説が裏付けられると期待されました。
ですが、実際の発掘状況は、村上の指摘するとおり、九州から畿内に傾斜してるわけです。
古墳時代にあっても九州の方が鉄器が多いわけです。
科学的に視点に立つなら、王権誕生と鉄器の保有量には因果関係は無いと結論しなければならないはずですが。
加えて、淡路島のように王権とは無縁な場所に鉄器加工工房があったりするわけです。
>>658 >巨視的な物資の集結ポイント
それについて、こんな話があります。
「畿内社会は、その(鉄器の生産量や普及度)傾斜を緩やかにし、
関東地方にいたる東方地域への鉄器の普及を促しており、
東日本の窓口として機能していたことがわかる」
(村上恭通「倭人と鉄の考古学」)
外来系土器が出土(老教授より)することからも、
唐古・鍵の存在感は大きかったのかもしれませんね。
670 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 10:55:14
「王権」というものをどんなものとお考えかな。
王権は市場マーケットとともに誕生する。人類学的にはね。
>>668 ありがとうございました。
>王権誕生と鉄器の保有量には因果関係は無いと結論しなければならない
そのとおりですね。王権誕生の要因は他に求めなければならない。
>TK216〜TK208形式前後の古式須恵器が共伴するが、
共伴してるだろ。
だから、より古い須恵器が見つかったところで、
この共伴関係は維持されるから布留式は古くならないな。
673 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 11:15:56
>>670 王権誕生の要因を「市場」に求めるなら、
奈良には十分な状況証拠がありますね。
鉄が主商品だったとしても、威信財として大量備蓄されることなく、右から左に流れてたと。
威信財としては、鉄よりも銅のほうに価値を見出してたはずです。
銅鏡の出土状況を見れば。磨けば、胴のほうが綺麗ですから。
>>670 >王権は市場マーケットとともに誕生する。
夏人は華中の長江・淮河の流域の「夷」と呼ばれた東南アジア系の原住民の出身で、
南方から舟に乗って河川を遡ってきて、秦嶺山脈にぶつかったところで舟を下りて、
そこに商業都市を建設し、北方の狩猟民や遊牧民と交易をした。
それが発展して、黄河の南岸の洛陽盆地に首都を置き、
支配下の諸都市と水路で連絡する国家にまで成長したもののようである」
(岡田英弘「倭国」)
(夏・殷・周など)の都市国家は多く渡し場で開かれる定期市が原型だった。
ここで発生した商人団の頭が「王」であって、ちょうどハンザ同盟の merchant prince のように
(同「日本史の誕生」)
ですね。
>>627 >より古い須恵器が見つかったところで、
宇治市街遺跡でググって、歴博のサイトへ行ってごらん。
(見つかったんじゃなくて)現在の須恵器の実年代が引き上げられた、ってことじゃないのかな?
677 :
674:2010/03/07(日) 11:40:26
これもアンカーミスだ。
674は
>>673へのレスです。
678 :
674:2010/03/07(日) 11:42:53
わあ、677はカン違いだ。スイマセン、もう落ちます。
>>658 唐古・鍵から纏向への移行は、
位置的にも、遺跡形態としても、連続的で段階的なものとなってないのは、
「女王共立のため」とほとんど畿内説の人は考えているんじゃないの?
自分は邪馬台国についてはあまり考えないことにしているので、
正直どうして纏向に移動したかは分からないが。
まあ「考古学的に」そう言う理由が分かることはないからね。
ずっと後の遷都を見ても。
>>648 > 九州のほうが、トップダウン式に意思決定がされる社会=より「帝政」に近いというかw
> その事が銅矛と言う武器型青銅祭器にも表れているとwwww
「帝政」ってのはある時代にとってはより先進的な政治形態だったのだから、
嘲笑的に言っている意味が良く分からない。
それはともかく、古墳時代に入るにつれて、
広範囲に中央集権的な体制を構築出来たのはなんと言っても畿内で、
九州では古墳時代でも、それぞれの地域で首長が古墳を作り、銅鏡が出てくる。
またそれらの遺跡遺物から、地域首長をまとめる大地域の首長が
いたことも分かる。しかし他の地域を支配したいたと思われるような
突出したものはない。
九州は弥生時代の小国乱立の時代から、
なかなかそれをまとめる突出した「帝」が現れなかったと思われる。
必要としなかったからとか、そういう人物がでなかったとか、
いろいろ理由はあると思うが、とにかく現れなかったと解釈するしかない。
681 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 12:42:45
>>680 >「帝政」ってのはある時代にとってはより先進的な政治形態だったのだから、
>嘲笑的に言っている意味が良く分からない。
ん?
んなあ事は百も承知。
俺があざ笑うとしたら「連合体」と言えば近現代的な民主主義しか連想できないアホどもwwww
682 :
ローガン:2010/03/07(日) 12:47:24
渋谷向山の「はそう」はどう解釈されているんですかね?
橿原考古学研究所「大和の考古学」に「景行陵の出土品としては、周濠内の埴輪(盾形を含む)と土師器(布留式期) 前方部埴輪列中の須恵器「はそう」がある。」と。
683 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 12:55:21
>>668 >これは、産業革命から始まる近代思想の延長です。
だなw
今日我々の周りには金属製品が腐るほどにあるが
それは化石燃料と言うエネルギーを得て獲得されたものと言うのを失念しがちwwwww
例えば重要な食料源であった堅果類を供給する広葉樹を切り倒し針葉樹に植生が変わってしまったら
自分の手足を切り落として食っているような物で
そういった「環境破壊」が古代にあってそれが大乱の大きな要因になったかもとw
鉄器の豊富さ・普及がが古墳時代を招いた原動力になったのなら
古墳時代は九州から始まっていなければならない道理w
>>642のような思考はもはや鉄そのものの評価が大きく違ってきている事に対応できていないと言うか
まあ「昔は畿内の学者も鉄を重視してたのに!!」とか怨み節をぶつはめになるんだろうがwwwwwww
>>680 > 広範囲に中央集権的な体制を構築出来たのはなんと言っても畿内で、
> 九州では古墳時代でも、それぞれの地域で首長が古墳を作り、銅鏡が出てくる。
> またそれらの遺跡遺物から、地域首長をまとめる大地域の首長が
> いたことも分かる。しかし他の地域を支配したいたと思われるような
> 突出したものはない。
大規模土木工事などは確かに「集権的政治体制」に似つかわしい事象ですが、
それが「広範囲」なものであることの立証にはなりませんよね。
定型化古墳の分布と銅鏡の分有関係は、その存在の傍証かとは思いますが、
これは弥生期の青銅製祭器の製造と配布(?)の形とさほど違いは無いようにも思えます。
では、何が「確証」に成りうるかと言うと困るのですが・・・
やはり、船団とかで広域に行使できるような武力の痕跡かな。
685 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 13:17:16
>>680 広域にわたる王権(ただそれが中央集権的なものかについては疑問を持つが)の発生が何故九州以東に起きたか?
現時点では瀬戸内海と言う地理的条件が大きいように思う。
きっかけが何かは分からない(後漢の滅亡に伴い玄界灘周辺地域の権力構造が大きく変化した事に起因するかもしれないが)
が、一度戦乱の状態に陥ってしまえば一種のパニックになっただろうと…
瀬戸内の潮の流れを熟知すれば兵員の輸送手段としても優れているわけで
瀬戸内に面した地域の首長らにすれば、いつ目の前の海岸線に強襲部隊が上陸するか分からない。
それが西から来るか、東から来るか、はたまた(山陽地域からすれば)対岸の四国から来るか(と言ってもその間には無数の島々があるわけだが)
そりゃ相当なストレスに晒されたと想像するに難くないwwwww
そう言った先の見えない乱戦状態にあって
先ず今日明日を生き残る為にも広域での連合体を形成する必要があったのではないか?
686 :
685:2010/03/07(日) 13:21:50
蛇足ながら付け加えると…
九州の場合は半島大陸とのチャンネル・パイプを握った者が
そのヒエラルキーのトップに立つという、分かりやすい一種の「勝利条件」wがあって
そのフラッグを奪い合う為の熾烈な争いは起きたかもしれんが
先に述べたような連合体の形成とか言う方向には向かわなかったのだと思うwwwwwwww
>>685 でも、そうすると「なぜ『岡山王権』」じゃなかったの?という話が蒸し返されてしまうよ。
前スレ以来、繰り返し出てきている問題だが。
当時の海進分を差し引いても、
瀬戸内海航路最大の要衝(ボトルネック)にして、
ほぼ唯一の後背平野を持つのは岡山(吉備)で、
今の瀬戸大橋ルート(岡山丸亀ライン)が、まさに要になるはず。
でも、吉備は早々に、それも手前の筑紫などではなく、
奥地の畿内政権への参画一択がその一貫した基本姿勢となっている。
畿内は「奥地にある」のが致命的で、
たとえば瀬戸内海中西部の軍事情勢が緊迫して、吉備が危機的状況になっても
援軍をよこすことは、これは大変に難しい。
むしろ、「フロンティア畿内の王たらん」として、より後進的な畿内に敢えて乗り込んだところが、
全く無視して馬鹿にしていた東海(東国)が意外に強く、結局パワーバランスで、
「畿内政権の有力諸侯」にすぎなくなってしまったという吉備の見込み違いだったのかもしれない。
>>683 「二次林は針葉樹だろJK」というのも、前世紀の古い植物学理論だったりするわけでww
降水量が多く若干温暖な九州では、実は二次林も照葉樹林となる。
松林となるのは、降水量が少ない瀬戸内海沿岸に典型的な現象で、
そもそもこの地域では、雨が足りず、極相到達までの時間が長いためなかなか照葉樹林が成立しない。
また、日本海側では、極相が杉だったことが明らかになりつつある。(照葉樹林のほうが実は二次林)
688 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 14:11:28
>>687 >でも、そうすると「なぜ『岡山王権』」じゃなかったの?という話が蒸し返されてしまうよ。
その辺は大和の地に王権が誕生する前に東瀬戸内地域で一種の『ブロック』が形成されると言う事で理解できない物かと考えているw
カタカナでヤマト王権と言うのは「プレ・大和朝廷」と言うニュアンスだと思うがw
その更に前段階「プレ・ヤマト王権(=プレ・プレ・大和朝廷)」を想定すると言うかwww
ただ吉備の位置は西に東に攻めるにも便利だろうが
同時に東西から圧迫を受けるんじゃないだろうか?
まあオセロゲームでも四隅を取ったほうが俄然有利みたいな?wwwwwww
689 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 16:48:44
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
690 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 16:53:08
>>688 ありそうだ(w
岡山にも王権らしきものはあった、けれども、結果、岡山はヤマトを
連合王権の盟主として選んだってことかモナー。
現代の岡山の人の志向も東向きなんだよなぁー。
691 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 17:26:28
>>690 吉備の人が九州に魅力を感じないのは不思議だね。
九州には鉄がいっぱいあることがわかってたはずなのに、
なぜ吉備は九州に擦り寄って同盟しなかったのか?
九州と吉備では、民族性に大きな違いがあったんだろうかね?
九州は渡来人に占拠されてたとか。
九州は一つの確立した文化圏があったのでしょう。
それが覆ったのが畿内が台頭した古墳時代なのでは。
後の畿内政権になる当時の大和は、
アメリカみたいな新興国家だったのでしょう。
693 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 19:52:36
吉備が東を向いていたのに対し出雲はどうも西を向いていた気がするwww
このスレで記紀ネタはアレだが崇神が出雲の神宝ガメった時
トップが何故か九州にお出かけで留守だったと言うのはなにやら示唆的だし
出雲は前方後方墳の地域とかいうし…
694 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 20:41:51
出雲は古新羅系ですよな、違うならちがうと教えてもいいです
>>693 西といっても筑紫ではないように見える。そもそも全く文化の違う石見が邪魔をするw
いきなり朝鮮半島ではないか。それも北部直結。
高句麗墳墓の四隅の角型が、前方後方に変化した形。
これは日本海沿岸沿いに「越」と共通で、富山方面までつながる。
脊梁山地を越えた例は、神戸に1例あるだけ。
他方、尾張国で祭壇の角型突起?から生まれた前方後方墳は、東国太平洋側と大和盆地に広がっていく。
この重要性は、前スレで正月ごろに議論があった。
696 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 21:01:09
>>695 前方後方墳は、出雲と尾張で起源が違うってこと?
はじめてきいたな。
>>693 >吉備が東を向いていたのに対し出雲はどうも西を向いていた気がする
それは老教授氏も指摘してた。
弥生中期終わりごろ出雲に四隅を造る新たな王権が誕生した後、吉備はそれまで
良好だった出雲との関係を絶ち畿内との交流を始めてる。
>>675 もう、めんどくせぇな。
宇治で見つかったのはTG232。
かつて最も古いといわれていたのはTK73で、TG232はそれより古い。
TG232が4世紀代だからといって、TK73が古くなるわけじゃないんだよ。
TK73は平常宮下層資料によって、五世紀初頭の年代が与えられているが、
宇治のTG232の年代はこれに変更を迫るものじゃない。
というか、むしろそれを追認する結果といっていい。
>>698 >TG232はそれより古い
なるほど、よくわかったよ。歴博のサイトだけ見て早合点してしまったんだな。
めんどくせぇところをありがとよ。
ところで、宇治市街遺跡をググり直してみたら、
この須恵器の年代を決定した年輪年代の暦年標準パターングラフというのが出ていた。
700 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 22:55:03
>>683 鉄の重要性に対する認識は、古今東西の常識だと思うが。
畿内説の考古学者だって、そういう認識だったから一生懸命に鉄を探した。
そして、見つからないとなると鉄はさほど重要ではないと言うことになった。
畿内説は、歴史の常識を覆す。これは鉄だけではない。年代観なども
畿内説の都合の良いように変わってきた。
畿内説の言うことが常識なのか、はたまた畿内説そのものが非常識なのか。
>>696 そもそも、暗黙の前提過ぎて、誰も議論していないんだと思う。
逆に「尾張―出雲同一起源説」を論証することが、どうみても明らかに無理。
「ミッシングリンクらしき候補」としては、
有名な、神戸の求女塚(だったかな)ただ1つしかないが、
推定年代がずれる上に、そもそもこの前方後方墳自体が、
埋葬品なども含めて、きわめて特異なものだったりする。
全く別物であることを前提に、
四隅起源の出雲の前方後方墳の起源が、高句麗に求められるという有名な説が出てくる。
尾張の前方後方墳は、祖形が似ても似つかない上に、
自生的発展の過程が、ほぼ明らかにされている。
遺跡なんてさっさと壊して「生産的な」工場と道路にすることが当然という愛知県という風土で、
これを明らかにする情熱が起こったのは、皮肉にも邪馬台国論争の副産物だろうと思うww
702 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 23:13:58
>>700 畿内説は、物証だけで判断してるだけ。
新たな物証が見つかれば、説は修正される。
九州説みたいな宗教とは違うのだ。
703 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 23:50:07
>>701 尾張、出雲で別起源だという論文とか本とかあるの?
教えてくれたら読んでみるわ。
704 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 00:10:59
前方後方墳というのは、ヤマト王権に二次的に参加した首長層の墳墓じゃないか?
705 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 20:28:15
>墳墓に伴う威信財の存在は、銅鐸のような集落単位の文化の存在ではなく、
>そのような存在を許容する社会階層の分化が進んでいたことを意味します。
>畿内には後期後半でもそのような威信財体系がほとんど見られず、
>社会階層の分化が未発達であったことが証明されています。
>このため、小林らのいうような畿内社会の独自の社会変革により、
>そのような威信財体系が出来たという過程の説明が不可能となったことから、
>多くの学者が東遷説に転向しているという状況です。
上記は、♪邪馬台国 ドンと来い♪ 66 のレスだが、ずっと頭に引っ掛かっている。
マキムク以前の畿内が、どんな社会だったのか語っている資料は確かに少ない気がする。
「いきなり近畿に大型古墳ができて、そこに鏡が集中するという図式は、だれでもご存知のことですが、
だから近畿にもともとそういう素地があったというなら、こういう首長墓一覧表ができるはずですからね。
ところが、鏡はさきほど言ったように小型ボウ製鏡か破鏡なわけです。
そうですと、いきなりというところがまだ近畿側からの説明がいっさいなく、
当たり前という形でいままではとらえられている。
とくに小林行雄先生は九州に劣るはずがないと、そういう形で始まって、なんの説明もしてありません」
(柳田康雄「邪馬台国時代のツクシとヤマト」)
もっともなことだろうと思う。
都出「2世紀の段階では、中国地方ではちゃんとした墓がわかっているんですが、近畿はとくわからない」
福井「墓が出てこないということは、どういうことなんですか」
都出「3世紀ぐらいになったら前方後円墳の前段みたいなものがようやく出てくるんです。
それまで空白なんです」
「いや、中規模の方形周溝墓というものは見つかっていますが、首長墓クラスのものはわからないんです」
(「古代史の論点」4 巻頭座談会 )
この本はちょっと古いが、この後の状況は変わっていないのだろうか?
>>644で挙げた
「近年、大阪府の池上・曽根遺跡をはじめ大型の建物が相次いで発見され、
兵庫県七日市遺跡で住居や墳墓に明瞭な格差が存在することが明らかになり、
近畿地方の弥生社会についても、北部九州とは違った形であるが、
一定の階層化が進んだ成層社会であったことが裏付けられるようになってきている」
についてググって得られた情報
今回の発掘調査で、家と墓の階層差の対応関係が明らかになりました。
集落と墓地はそれぞれ川跡で東西に区切られ優劣関係がはっきりと区別できています。
墓地では(中略)規模の大きい中に葬られた人、溝の中に葬られた人、木棺墓に葬られた人、という優劣関係があり、
また(中略)下位クラス・・・の中でも方形周溝墓に葬られた人木棺墓に葬られた人という優劣関係がありました。
そしていずれの集団の中でも、出身や血縁の違いが棺の構造や方向に表されているのです。
(古田史学会報 十九号)
708 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 21:00:35
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
709 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 21:06:26
古日本列島を上空から見るとよく分かる、ヤマタは太平洋から来た集団、出雲は新羅から来た集団
九州は百済から来た集団がこれから東戦を開始しようとしてる年代がBC500年
710 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 22:44:52
三輪の祭祀がマキムクの後からって話があったけど、
具体的にどういう根拠があるの?
711 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 18:43:21
■三雲・井原遺跡:「三雲南小路王墓」の周溝? 弥生中期の溝など発掘−−糸島市/福岡
◇上覚地区−−13日に現地説明会
糸島市の三雲・井原遺跡上覚地区で、弥生時代中期末(紀元前後)の溝や古墳時代初頭の箱式石棺墓などが見つかった。
発掘調査にあたった同市教委は、この溝が「三雲南小路王墓」の周溝の可能性があるとしている。【竹田定倫】
同王墓は中国の史書「魏志倭人伝」に記された伊都国王墓の一つとされる。過去の県教委や市教委の調査で王墓と女王墓、墓を囲む周溝が出土している。
上覚地区は王墓の出土した場所と道路をはさんだ南側に位置し、溝(幅2・5〜3・8メートル、長さ9メートル、深さ20〜25センチ)は北東から南西方向に延び、王墓西側の周溝に向かっている。
しかし、王墓西側の周溝は切れているとの見解もあり、市教委は、別の首長級墓の周溝の可能性も捨てきれない、との見方も残している。
現地説明会は13日午前10時〜正午。市教委文化課(092・332・2093)。
毎日新聞 2010年3月9日 地方版
http://mainichi.jp/area/fukuoka/news/20100309ddlk40040265000c.html
712 :
倭国王:2010/03/09(火) 19:10:27
>同王墓は中国の史書「魏志倭人伝」に記された伊都国王墓の一つとされる。
伊都国王墓と誰が決めたのだ!!責任者出て来い!!
713 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 19:22:41
あなたはどこの倭国王なのかしら?
たぶん縄文の倭国王
>>710 > 三輪の祭祀がマキムクの後からって話があったけど、
> 具体的にどういう根拠があるの?
逆に三輪山信仰が3世紀に遡ると言う確証もないのではありませんか?
山岳に対する原始的な自然崇拝のようなものの存在を否定はしません。
三輪山山中の祭祀施設に対する本格的な調査は行われていませんが、
分かっているだけでは、古墳時代以前に遡れるものは無いみたいです。
纏向で見つかっている祭祀遺構でも、件の建物列の方位から、
明確に「三輪山を指向する」と言えるものは無いのかと思います。
三輪山の真正面に位置する所謂「三輪」地域に祭祀どころか、
3世紀の遺構自体が皆無であることから、逆にそれを持って「禁足地(聖域)」と想定し、
三輪山信仰の「根拠」だと言う考えもあるようですが、それは単に河川の流路変更で
居住不適な時代だったのかもしれませんしね。
716 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 23:02:46
>>702 畿内説は嘘ばっかり
何の物証も出て無いのに
勝手な妄想して言い張ってるだけじゃん。
717 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 23:10:40
>>716 あれは宗教だと割り切れよwww
三角縁がどれだけ出ても舶載とか。
集落遺跡が全く出ていないマキムクが古代都市だとか。
正気じゃないのはすぐ分かるだろwwwwww
718 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 23:15:52
巻向では、ゴミが出たって卑弥呼だって騒ぐから
もう飽きた。
東海土器や山陰土器が出ても
卑弥呼の有力な証拠らしいぜ。
719 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 23:25:49
巻向から出た物証がゴミだというなら、それでもいいよ。
東遷説も、それで終了するから。
720 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 23:31:01
別に東遷説などいらんよ。
日向から誰かが渡ったかも知らんが
そんなことは、北部九州には何の関係もないことだ。
ここはマキムクスレ
邪馬台国がからむとレベルが落ちるね。
723 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 02:36:54
■三河最古級の「方墳」発見 豊橋市境松遺跡
豊橋市教委は9日、同市牟呂町坂津地内、境松(さかいまつ)遺跡で、古墳時代初頭(3世紀)の方墳(四角形の古墳)1基とともに、方墳の溝から美しく飾られた「加飾壺(かしょくつぼ)」を発見したと発表した。
方墳は三河地方最古級であり、後に大型前方後方墳が出現する以前の有力者が現れていく過程を確かめることができた。
境松遺跡調査は、市内有数の遺跡集中地域である牟呂地区の北西端にある。昨年10月、豊橋牟呂坂津土地区画整理事業に伴う緊急発掘調査として始まり、今月末まで。面積1400平方メートル。
発見された古墳は、すでに盛り土が削り取られ、埋葬施設も失われていた。
周囲を囲む溝だけ残っており、溝の範囲により、一辺10メートルの方墳であることが明らかになった。溝は深さ1メートルあり、比較的深い。
加飾壺は、墓のマツリに使われた土器。墓に供えられた土器と一緒にほぼ無傷で出土した。高さ25センチ。底に孔(あな)が開いており、実用品ではなく、儀式専用の「儀器」。
弥生時代の三河地方にはなく、古墳のマツリとともに近畿、尾張地方から伝えられた。
この方墳のほか、弥生時代後期の方形周溝墓が見つかった。弥生時代中期から古墳時代末期の竪穴住居15棟も見つかっており、遺跡の密集地・牟呂地区で、初めて集落跡が確認された。
同地区には古墳時代前期に前方後方墳が築かれ、東三河地方で突出した首長の存在が分かっており、解明する手がかりになった。
現地説明会は、14日午前10時30分と午後2時の2回行う。問い合わせは豊橋市美術博物館=電話0532(51)2879=へ。(山崎祐一)
東海日日新聞2010.03.10
http://www.tonichi.net/news.php?mode=view&id=31296&categoryid=1 ほぼ無傷状態で見つかった加飾壺
http://www.tonichi.net/news.php?mode=binary&orders=0&id=31296&categoryid=1
724 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 10:07:57
東遷するのとしないのとどれだけの違いがあるのかね?
東遷は事実 -> 九州勢力は大和朝廷始祖
東遷はウソ -> 九州起源を騙りたい大和朝廷の捏造
どっちにしても、九州は困らない気がする。
ウリナラは九州からきたニダ、って大和原住民が騙りたかったのだろうか。
725 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 11:22:31
>>724 もう、そう言う事で良いからこのスレから消えろ馬鹿。
そんなチンケな地域ナショナリズムとかお国自慢レベル、もしくはコンプレックスの裏返し(>724が九州の人間でなくともいいが)は
他の邪馬台国スレでやってくれ。
しょせんチョーセンなどこの程度のもの。
727 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 16:30:08
畿内説や東遷説はチョーセン、チョーセン。
728 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 18:33:59
>>715 >山岳に対する原始的な自然崇拝のようなものの存在を否定はしません。
そう言えば某スレで伊都国東遷厨が九州における墳墓の共通性として
山や丘陵とかと言ったものやその他が醸し出す「九州的空間」見たいな事を言ってたなw
よく言う「神奈備信仰」って奴だろうか?
まあ、この手の話は出雲だと荒神谷から見る仏経山だっけ?
しかし内心「ホンマかいな?」と思う事もしばしばある。
そもそも、日本で四方八方何処にも山が見えない場所の方が少ないと思うのだがwwwwwwww
729 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 18:59:14
九州的空間って何となく分かるな。
北部九州から、広島までがだいたいの仕事の範囲だが
関門海峡越えると、山に畑に田んぼでも、雰囲気は違う。
山陰の方に行くと、山陰や山陽、中国地方
別の名前が付けられている理由が何となく理解できるものだ。
まあ、福岡でも、筑前と筑後でもだいぶ違うのだが。
東海の方は余り知らないのだが、フォッサマグナで
地勢が違うと聞いたことがある。
縄文土器もその境目で変わるとかきいた。
>>723 うわあ、愛知県東三河地方かよw
参ったな。ここは東日本古代史を語る上では、隠れた最重要地域のひとつなんだよなあ。
その後の歴史では、主役級になったことが一度もないという非常に地味な地域だが、
古代においては、濃尾&伊勢平野と並んで鍵になる地域。
しかも、地名が示すように、明らかに「西からの海民の上陸地点」だ。
尾張起源などではなく、近畿地方(紀伊半島)から、氏族まるごと直通で渡来&支配だろうな。
ただの「尾張の裏側」ではなく、伊勢平野と海路で直通(または渥美半島経由)とするなら、
巻向にとっても無視できないものになる。
>>729 そのタイプの印象論でいえば、
筑紫=九州島と、本州(中国地方)は、地質と地形の傾向がかなり違うからね。
筑紫は火山が多く、島は小さいながらもそれなりに平野に恵まれている。
本州に渡ると、さほど険しくはないが平地が皆無の花崗岩質の山岳地形となる。
(地質学的には、中国地方は朝鮮半島南東部の延長といってもいい)
まとまった平野は、姫路と岡山をのぞき、畿内に入るまで出てこない。
東国はといえば、やはり今の「関西と東海(中京)の境目(近畿と中部の境目ではない)」でがらりと変わる。
平野の広さとまとまり、それから平野の構造が全然違う。
ここを境に、縄文文化が得意とした(弥生文化が千年来攻略に苦しんだ)「台地の世界」となる。
伊勢国は、今の住民の文化・方言は完全に近畿だが、地勢的には明らかに東海。伊賀国はどこをどうみても関西。
731 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 20:26:14
言われてみれば、山口とか平地少ないなあ
広島が大きめの平地があるくらいか。
以外と平地って少ないんだな。
福岡が本拠なので、
どこにでもある程度の平地はあるという感覚だった。
なるほど、その観点から見れば、奈良大阪兵庫に
集中するのも無理はない。
そして、名古屋方向に進出と。
弥生時代は平野の広さと国力がかなり密接に
繋がっているのだろうな。
>>731 >弥生時代は平野の広さと国力がかなり密接に繋がっているのだろうな。
脊髄反応で申し訳ないが、
玄界灘沿岸地方と、佐賀平野(筑紫平野)を比べると、
そうとも言えないような気がする。
733 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 22:35:04
>>732 >玄界灘沿岸地方と、佐賀平野(筑紫平野)を比べると、
>そうとも言えないような気がする。
九州においても、
邪馬臺國から俀國まで、中心地は筑紫平野(筑後平野)で続いています。
帥升王の国(倭面土國)も伊都國(倭都国)も筑紫平野(佐賀平野)です。
>>728 > そもそも、日本で四方八方何処にも山が見えない場所の方が少ないと思うのだがwwwwwwww
山といっても周りとの差別化が出来る山でしょうね。
自然のランドマークとして使われていたり、何か特別な感情を醸し出すような山容であるとか。
そういった山々が精霊の住処として、又は山体そのもが精霊と化して畏敬の念を抱かすこと。
私の言った「山岳崇拝」とは、ごく一般的な解釈かと思いますが、そんな感じの話です。
三輪とは違いますが、大山祇とか山口坐皇神を祭る山口社は奈良の式内社だけでも14座もあるし、
山岳信仰とは比較的なポピュラーな信仰形態だと思いますけどね。
磐座とかがある山は、方位と関係がありそうだけど。
736 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 22:57:01
>>733 脊髄反応で、思い浮かんだことを書き付けたのが悪かった。反省する。
その、裏付けのない連呼は、もうさんざん聞かされているから。
念仏はお堂の中で唱えていてくれ。
筑紫平野(佐賀平野)で検出される首長墓は、副葬品からみてどれも大差なく、
他から隔絶された権威をもった、ヒエラルキーの頂点に立つ存在は想定されない。
・・・あるのか?
738 :
733:2010/03/11(木) 01:14:14
>>737 其の通り。
北部九州だけで、小国が30ヶ国から100ヶ国が乱立していたのだから、
ヒエラルキーの頂点に立つ国は存在しなかった。
軍事力がほんの僅か勝った国が中心国となっただけ。
それも連合をうまく組めた国だったからである。
他を圧する国はなかったのだ。
特筆すべき国は奴國2万戸投馬國5万戸邪馬臺國7万戸の3ヶ国だけ。
狗奴國も数万戸あったかも。
俀國の多利思北孤傘下も9万6千戸あったな。
よくもまあ見てきたように言えるな。
とりあえず、憶測であるという大前提を忘れない謙虚な文体を学べ。
740 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 17:32:33
纏向もかっての賑わい(野次馬)を失って寂れてしまった。
741 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 18:18:41
ふむ、30ヶ国共立ということは
突出した有力国家がないと言うことか。
多少の大小はあろうが、突出しない中小規模の国が
並立していた方が、魏志倭人伝の描写に合う。
逆に、突出した首都などがある場合には、
邪馬台国でないか、またはかなり後世に中央集権化された
別の時代の遺跡と言うことになる。
>>738 >北部九州だけで、・・・ヒエラルキーの頂点に立つ国は存在しなかった。
>737は筑紫平野(佐賀平野)の話だぞ。
北部九州ということになると、他の墓と比べてやたら豪華な副葬品をもつ王墓があるから・・・
貧困な想像力を披露してどうする。
>>741 >突出しない中小規模の国が並立していた方が、魏志倭人伝の描写に合う。
小は千余戸から大は可七萬餘戸まで描写されているが・・・
魏志倭人伝読んだことあるのか?
743 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 20:10:56
豪華な副葬品なら平原遺跡かな。
方格規矩四神鏡32面が出ている。
他の遺跡からの方格規矩四神鏡の出土例は一面が多い。
中国から入手して、もったいぶって下賜したような扱いだ。
自分が死んだときは、余った物をまとめて突っ込んだのだろう。
745 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 20:17:11
7万戸、あるいは5万戸の大国がありながら支配ではなく、
共立という当時としては、変に民主的な方法を採った
ことを重視すべきだろう。
支配していたのなら、ヒミコはその国の王、別に実質の王がいるなら
あるいはシャーマンと記述すればよいのだ。
それをあえて共立と書いたことに、なにか普通と違うことがあったのだろう。
746 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 20:20:14
>>744 サンプルを入手して、コピーを作った可能性も無くはないが、
方格規矩四神鏡は中国からも出土している。
中国から全く出土しない三角縁神獣鏡よりは
輸入の可能性は高いだろう。
>>746 「平原遺跡 前原市文化財報告書第70集」 前原市教育委員会 から要約
1号墓出土の鏡を詳細に分析した結果、新たに大型の内行花紋八葉鏡がもう一面あっ
たことを報告するとともに、再度出土の方格四神鏡の再検討すると、各鏡のヒビ、湯口
と鈕孔の位置、湯周りと巣の関係などから、出土した40面中32面の方格四神鏡すべて
が日本製であり、残りの5面の大型内行花紋八葉鏡、1面の内行花紋鏡も日本製であ
ることを報告している。
748 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 20:58:36
なるほど、これは中国産という意見を撤回しなければならないな。
そうなると、平原から出ている大型鏡も国産の可能性が高い。
中国鏡は極端な大型鏡は殆ど出土しないことから
大型鏡は国産魔改造かも知れない。
鏡を宗教あるいは政治的要素として使用した勢力である
可能性は高い。
>>748 それより、弥生終末とされる平原1号墓の被葬者が、なぜ中国鏡ではなく国産鏡を
副葬しているかが問題。原材料の銅および鋳造技術は持ちながら、中国の文物は
持たない理由。
750 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 21:29:11
>>745 >乃共立一女子為王
尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子麻餘。位居死,諸加共立麻餘。(夫餘)
伯固死,有二子,長子拔奇,小子伊夷模。拔奇不肖,國人便共立伊夷模爲王。(高句麗)
この場合は、王位が正統に継承されずに、諸加・国人が共立したとある。
麻余の子、依虜はわずか六歳で王となったが、
麻餘死,其子依慮年六歲,立以爲王。
となっている。
韓伝には、
其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之,世世相繼。辰王不得自立爲王。
とあり、これを後漢書は
馬韓最大,共立其種為辰王,都目支國,盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。
とする。
ということは、「共立」は「自立」と対になる意味だと思われる。
752 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 22:00:42
スレの流れが全然スレタイに即していない
魏志はここで取り上げる必要なかろう
>>752 「共立」は、ここでもまま話題になるネタだと思うが。・・・「ゆるやかな連合」というやつね。
まあ、言いたいことはわかる。
754 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 22:31:32
>>745 それは台与が王になった経緯を考えればわかる。
「復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定」
また、卑弥呼の宗女・壱与、年十三を立て王と為す。国中、遂に定まる。
卑弥呼が死んで男王が立つが、国中不服で争いが起きる。千人余を殺した
とあるのでかなり大きな戦乱だったと思われる。
先代の王である卑弥呼は死んでいる。だから、台与を王に立てた主体が、
卑弥呼と言うのはありえない。やはり有力者たちだったのだろう。
共立の意味も、卑弥呼が王になった経緯も、台与のときと全く同じと考えれば
納得がいく。すなわち、卑弥呼は、跡継ぎをめぐる戦乱のあと、先代の王の
跡継ぎとしてみんなが立て、それによって戦乱が収まった。
畿内説は、纏向の開始時期をどんどん遡らせて、ついに卑弥呼が王になった
時期まで持ってきたが、それでも足りない。倭国の盟主としての邪馬台国は
もっとも前、少なくとも西暦100年頃の帥升の時期まで遡ると考えるのが
妥当だろう。倭人伝の記述からもそれはうかがえる。
トヨタン・・・・・・・・・・
756 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 22:36:08
>>754 ついでに言えば、卑弥呼が死んだのは西暦248年頃。王になったのは西暦180年頃。
在位期間は70年ほどにもなる。卑弥呼が王になったのは、台与と同じ10才くらい
の時だったと思われる。
ま、10代前半の少女なら、支配・征服など世俗的な欲はないだろうからね。むろん
シャーマンとしての血筋・能力に優れていた。
758 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 23:14:05
威信財や墓制その他、倭人伝の30ヶ国の範囲を北部九州のどこら辺に求めるか…
その手の話は九州説論者の有志が他のスレでやれ。
今の話は纏向にどのように関るのかサッパリ分からない。
単なる邪馬台国スレと化している。
まあ九州説の奴で多少なりとも真面目に考古学的考察をやりたい奴が
他のスレじゃあ中々思ったように話を進められないから
このスレで持論をぶっているようにしか見えないw
759 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 23:34:29
>>751 >>754 一応、王は世襲だが、能力的にふさわしくないとかで
王族以外からの擁立で王を立てることを共立という
言葉で表しているのだろうか。
>>758 >今の話は纏向にどのように関るのかサッパリ分からない。
そうだよなあ。どっから話が脱線したんだろ? そもそもは平野の広さと国力の関係からだろ。
筑紫平野は広いけど、王墓が現れるのは玄界灘沿岸地域だって話だ。
奈良盆地にはマキムク出現以前に、中核となる「王」がいたんだろうか?
761 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/12(金) 08:52:43
>>760 >奈良盆地にはマキムク出現以前に、中核となる「王」がいたんだろうか?
いなかった。
中核となる「王」の最初は崇神王権の歴代王。
神武王権は奈良湖南岸にいた土豪レベル。
762 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 10:54:10
何しろ御纏入彦だからね。
いい流れがまた糞スレに
764 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 17:27:06
■弥生後期の鉄器工房? 山ノ神、柚ノ平遺跡 /淡路市
弥生時代後期(1〜2世紀)、国内最大規模の鉄器製造群落・垣内遺跡(淡路市黒谷)の近くにある2遺跡からも鉄器工房の可能性がある建物が見つかった、と同市教委が11日発表した。
多数の土器とともに鉄片も4点出土。「調査を進めれば、垣内遺跡との関係が分かる」とする一方で、「垣内遺跡そのものを知る貴重な手掛かりになるかもしれない」と期待している。
垣内遺跡の北約350メートルにある山ノ神、柚ノ平の両遺跡。いずれも、昨年5月から市教委が発掘調査を進めてきた。
垣内遺跡と同じ標高200メートルの丘陵部で隣り合うように存在しているため、1つの遺跡の可能性もあるという。
山ノ神では、直径約7・3メートルの円形の竪穴建物跡1棟を発見。中心部には、強い熱で赤く焼けた焼土面が残る。溝跡から長さ2、3センチの鉄片も見つかった。
柚ノ平には、竪穴建物跡4棟があり、うち1棟に焼土面があった。工具として使ったとみられる平らな台石も出土した。
両遺跡について、市教委は「出土物や焼土面から垣内遺跡と同じ弥生時代後期の鉄器工房だったのでは」と説明。
また、鉢などの生活用具も見つかっているため、垣内遺跡で鉄器を製造していた人たちの住居跡だった可能性もあるという。
同市内では弥生時代後期、丘陵部に遺跡が急増したことが分かっており、市教委は「今後の調査で、当時の地域社会の様子が把握できる」と話している。
現地説明会は13日午後1時半〜3時半に予定。雨天中止。同市教委埋蔵文化財事務所TEL0799・60・2071
神戸新聞 (2010/03/12)
http://www.kobe-np.co.jp/news/awaji/0002776378.shtml ・竪穴建物跡から見つかった焼土面=山ノ神遺跡
http://www.kobe-np.co.jp/news/awaji/Images/02776379.jpg ・鉄片とともに出土した鉢(右下)などの土器=淡路市黒谷、発掘調査事務所
http://www.kobe-np.co.jp/news/awaji/Images/02776380.jpg
>>764 >弥生時代後期(1〜2世紀)、国内最大規模の鉄器製造群落・垣内遺跡
>の北約350メートルにある山ノ神、柚ノ平の両遺跡。
弥生時代後期、国内最大規模、の近くにある2遺跡、
(全体は)現状よりさらに大きい可能性もあるのかな?
・・・鉄器の普及状況を考え直さなければならないんだな。
>>764の情報から、想像で書くけど、
淡路島で相当量の鉄器生産が行われていたということは、それが周辺の東瀬戸内地域、
吉備・播磨・阿波・河内・紀伊に供給されていたのだろう。
また、鉄器の素材は半島にもとめなければならないから、
素材の入手→加工・生産→供給・販売、は、いち部落のなせるものではなく、
それを一元化して運営する組織があったと思われる。
その(いわば)東瀬戸内鉄器協同組合が、やがて王権を生み出したと考えておかしくない。
さらに、東海以東に未開の鉄器マーケットが存在するならば、
拠点を奈良盆地に移して販路を拡げ、経営の拡大を図ったと考えられる。
これですべての謎が解けた(?)
>>125にも書いてあるが、
古墳時代前半の畿内周辺の製鉄技術は、
技術的にやや劣ったものだった。北九州に比べると。
しかし技術向上の過程を遺物から見いだすことで、
製鉄技術の変遷から社会の変遷を探る事ができる。
だから
>>764のような発見は大変素晴らしい。
やっぱ鉄でしょ。
それ以外、弥生後期の首長権力の拡大を説明できない。
村上の説を引用して、鉄無関係とか言ってた奴は涙目だな。
769 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 14:00:33
あれ?
九州説死亡?
死亡。
771 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 16:14:44
しかしねえ…
古墳時代の初期においてでさえ鉄器の出土量は九州北部が圧倒的であるのは
今後大型の製鉄遺構が畿内でいくつか出ても流石に変わらないんじゃないだろうか?
もし、それでもヤマト王権の発生首長連合の求心力を鉄に求めるなら
九州と九州以東では鉄の意味合いが違った物になるって話だろう…
平たく言えば九州じゃあ「宝の持ち腐れ」wで
畿内では(その絶対量を九州北部と比較するなら)少量の鉄で社会構造が大きく変化し
その変化はやがて鉄の本場の九州をも飲み込んだとwww
772 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 16:22:59
畿内ヤマト王権の発生の原動力、もっと言えば
「ヤマト王権は何をネタにしてのし上がってきたのか?」に対する答えとして
ここまで挙がっているのは…「鉄」と「土木技術」かな?
後者に関して言えば水田の稲作が当初から灌漑技術とセットになった物で
ヤマトもその例外であり得ず
灌漑技術の導入→収穫量の飛躍的向上→余剰の発生、身分階層化等々→王権発生
…と言う分かりやすいプロセスもどうやらなさそうだしwww
さりとて前車の「鉄」も古墳時代初期においても鉄器の出土は北部九州が圧倒的という
事実がネックになると思うが…
>>771 >大型の製鉄遺構が畿内でいくつか出ても
鉄器工房の存在は、鉄器生産つまり鉄器の需要を表し、それは鉄器の普及度を示すものではないか。
だったら、
>出土量は・・・変わらないんじゃないだろうか?
変わるんじゃない? そうでなければ、見つからないだけと考えてもいいんじゃないかと。
>>773補足
これは今後、鉄器工房がじゃんじゃん検出された場合はそうだろという話。
淡路島の鉄器生産規模が、現在の想定を覆すほどのものなのかどうかは、詳細知らないから。
知ってるエロい人は、もったいぶらずに情報ヨロシク。
>>772 大陸への関所、だろう。
東海諸国の大陸ルートとしての山陰道を抑えていた。
魏志倭人伝にもそのような記述がある。
>>771 鉄の所有のされ方や、副葬文化の違いからだと思うのだが。
おそらくは畿内社会では鉄器は個人所有されず、石上神宮のような共同倉庫に
保管されてたんじゃないかと。耕作など必要なときに借り出し。
平安時代の東北などの国衙領でも、国庫から耕作民に鉄器を貸し出す形式が
採られてたみたいだし、
ツクシは個人の墓に鉄器やら銅鏡などを大量に副葬する文化があって、
畿内や吉備は弥生後期の頃はまだ族長社会の影響が強く、もともと薄葬文化。
古墳時代開始で、畿内でも厚葬文化に急ターンする。
弥生後期の畿内の石器の減少は鉄器の普及の証拠だと昔から言われてたしな。
777 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 17:50:19
>>776 いや、畿内に鉄がないのは確かでしょう。
農具だって、木製農具がほとんど。
鉄が無いから、木製なんだよ。
別に、
>>771や
>>772が皮肉交じりや大げさに言う問題でもないと思うがなあ>鉄の偏在
そもそも、先進地域の権力が、その富と武力のゆえに小勢力が防衛できるために淘汰されないことにより、
より分裂的・分立的のままで、ちっともまとまらず、
却って、相対的後進地域(中間地域)のほうに強力な統一政権が生まれて、
先進地域を散々脅かしてついに支配するということは、
日本史を見ても世界史を見ても、ごくごく普通のこと。というよりそうなるのが普通。
日本史でいえば、戦国時代の近畿と中部地方の関係がまさにそれ。
世界史で見ても、古代のギリシアとマケドニア(アレクサンドロス帝国)、そのあとのギリシア諸国と共和制ローマ、
ルネッサンス期のイタリアとフランス、枚挙にいとまが無い。
弥生後期の筑紫は、先進的で人口稠密・生産力膨大であったがゆえに小国分立のままで、
考古学的にも実際に巨大王権の痕跡が無く、
後進地域で、地理的まとまりをもつ畿内に、強力な王権が生まれた。
さらに東は後進的すぎて、王権を生む余裕が無かった。
筑紫→畿内、畿内中央低地→濃尾平野、濃尾→関東東北方面とひとつずれて、
1300年後に同じような状況が展開される。
779 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 18:30:02
>>778 まあ言わんとすることは分かるw
勝者は勝者ゆえに過去の成功体験から脱する事ができず。
やがて新興勢力に飲み込まれていく…と言うのが洋の東西を問わない歴史と言うもの…。
今言っているのは新興勢力のヤマトをやがて全国区の王権にまで引き上げたネタはなんだったのかと言う事で
「鉄の偏在」 がさしたる問題ではないと言うのはむしろ同意もするが
じゃあ王権形成のキーはなんだったんだ?ッて話でwwww
>>779 あえてこじつけるなら、「鉄がほどほどに無かった(あるいはほどほどに手に入った)こと」じゃね?w
先進的でもなく、致命的に後進的でもない。戦国時代の中部地方のような、ほどほどな中間的地域。
おそらくこれに当てはまるのが、近畿中国四国の3地方であって、
四国は島内往来の難しい島であることで脱落、中国地方は平野が皆無であることで主導権を握れず、
比較的まとまった平野や盆地を持つ、畿内が主導権を握ったとw
畿内のうち「大和盆地南部」勢が主導権を握った理由は、また別であって、
戦国時代の中部勢のなかで、武田、上杉、今川など群雄割拠の中、
今の愛知県勢が主導権を握った理由が参考になる「かもしれない」ww
というのは、あくまで極めて大雑把な議論だが、
織田・豊臣という、「先進地に近く土地の生産性の高い中間地域=濃尾平野」がまず勃興して、
その地ならしの上に、やや後進的な三河国出身で、むしろ更に後進地域に向かった徳川が「天下をとった」。
つまり、筑紫や吉備にアクセス容易で先進的な、河内(当時の大和川河口域)でプレ王権が萌芽し、
その畿内勢としての影響力の蓄積の上に、大和最奥部が「天下餅を座って食う皇室」となった。
プレ王権と大和王権との関係は、主観的には断絶的かもしれない。
>>779 >王権形成のキーはなんだったんだ?
あ、「鉄の偏在」ね。「鉄の偏在」は「さしたる問題ではない」よね。
「鉄の流通」でしょう。
782 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 19:08:36
>>764 まあ、要するに「赤く焼けた焼土面」が見つかったということだろう。
鉄器も一つくらいは出てきたのかな。見出しに「鉄器工房?」と?が付くの
もわかるような気がする。
九州の場合は、数百点から千点を超える鉄器が見つかったり、製鉄の痕跡とも
いわれる鉄さいが出たりしている。
近畿地方も負けていないと言うほどのものが出たとも思えないのだが。
>>781 流通も少ないよ。古墳時代前半(初期だけではない)で。
前半って事は、北九州に前方後円墳が作られるようになった、
つまり一般的には、北九州が畿内の勢力の影響を受けていると
考えられている時代にも、鉄の流通は少なくて、製鉄技術も劣っていた。
これはほとんど定説では?
784 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 21:45:16
だから、鉄器と王権は関係ないんだよ。
たとえば水銀朱のほうが鉄より珍重されたとか、そういう考えはもてないわけ?
>>783 >流通も少ないよ
案外とそれが王権強大化の要因かもしれませんね。
扱い量が少なすぎて、余剰食糧の集積や治水事業を束ねるレベルの「王権」では、
「製造・流通」に関与するほどのものでは無かった。
環瀬戸内くらいの広域勢力が寄り集まって、
ようやく交易相手として認められることができたんじゃないですかね。
垣内遺跡の「製鉄工場」みたいな規模のものが存在する半面、
鉄製品自体の痕跡が畿内周辺には少ないと言うことは、
広域王権による管理が徹底していたと「解釈」できないことも無いでしょう。
古墳時代になっても鉄の製造、流通管理については同じ状況だったのかと言うと疑問ですが。
786 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 22:15:58
鉄器加工技術を、他所から隔離するために
淡路島においたような気がする。
当時淡路島はどこが支配してたんだろ?
あるいは淡路島独立国?
787 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/03/13(土) 22:30:03
>>786 当時、淡路島は海人族が支配していました。卑弥呼と台与の一族です。
>>785 なんでそんな面倒な解釈をするんだろう?
>>780で示唆しているのは、もっと簡単な話。
筑紫では、鉄器が(おそらく農具としても武具としても)小国家レベル、一般農民レベルまで普及していたので、
小国が高い生産性を維持して国土防衛することが可能だった。
だから、いつまでたっても小国が滅ぼされず、王権の統合は進まなかった。
ということで、大量の鉄器がみつかるにもかかわらず、巨大王権の痕跡は見当たらない。
他方、畿内では、それほど鉄器が下々まで広まっていない。ということはごく少数者の独占に近い状況となり、
生産力でも武力でも、鉄器をもつ特定の氏族・地域が、簡単に弱小な他国を押さえることができた。
したがって、政治的統合は容易に進み、巨大王権を生んだ。
徳川家康や織田信長の例えは、もう少しミクロの、河内と大和の関係などに示唆を与えると思っているもので、
前のほうの議論では、「大和川水系と河内、大和、吉備、宇陀などの関係」に関わる話。
意外と考古学的に(も記紀の記述にさえも)矛盾しない、きれいなモデルになるので書いてみたんだが。
それを提示しようと
>>788 >ということはごく少数者の独占に近い状況となり、
>生産力でも武力でも、鉄器をもつ特定の氏族・地域が、
>簡単に弱小な他国を押さえることができた。
垣内遺跡の時代(弥生後期前半)において、そう言う状況であったと思われますか?
そも時代の淡路自体は、取り立てて広域王権の中心と見られる痕跡はありません。
では、東瀬戸内あたりを力でまとめるような王権が成立していたのかと。
>>780 まあ、確かに後進地域の方が軍事的強国が生まれ易いのはそうだろうけど、
ちょっとこの場合は例が良くないっていうか。
畿内にしろ吉備にしろ、首長権力の高まりは筑紫や出雲に比べて明瞭ではない。
それが突然、弥生後期後半を境に、急激に首長権力が確立される。
それをどう説明するか?なんだよ。
吉備の楯築遺跡も弥生後期後半?特殊器台の変遷などを見ていると突然というほどでもないような気がするけど。
結局のところ、弥生時代が古墳時代に変わる契機になった大きなファクターが鉄なんだろうと。
村上以降、鉄軽視が蔓延し過ぎていた観がある。
確かに白石の言うような「大和王権による鉄ルートの奪取」なんてことは
なかったのは確からしいが。確かに鉄の技術レベルは古墳時代前期でも北部九州>畿内。
つまりは弥生以来の拠点集落を中心にした、各地域ブロック内である程度自己完結し得た
時代は終焉。つまりは鉄の需要が高まり、遠隔地交易でしか入手できない以上、
新たなる政治的枠組みを構築するしかなかった。それが大和王権誕生の理由。
遠隔地交易をするためには、その窓口になり得る強力なリーダーが必要。
更には交易路の安全を保障するためにも強力な権力が必要とされた。
北部九州と違い、半島から遠く離れた畿内や吉備の首長たちが鉄を入手するためには
交易元締である大和王に頭が上がらず。大和は強大化する。
鉄が希少であったからこそ、その流通を押さえた者に権威が集中したと。
793 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 23:30:08
まあ鉄器と王権発生の因果関係のお話になると
このスレの人間でも鉄器そのものの評価から分かれるwww
俺はかなり悲観的と言うか否定的w
何度も言うように鉄器の絶対量では遠く北部九州に及ばないままに古墳時代は始まっていると言う事実。
農耕に関しても何処まで有効だったか…
生産量がそれによって格段に上がったのであれば
それを反映するような人口推定の資料があっても良さそうだがそんな物は見たことが無い。
下手すりゃ九州や近畿より東海・関東のほうが人口が多いなんて数字も出る始末www
そう言えば寺沢が体をはったw実験で再現した古代の田畑を耕してみたところ
木製の農具でも作業性には特に遜色なく、鉄器の出番はやはり土木作業にあるとか・・・
無論、鉄資源の確保流通を過小評価するのも良くないだろうが
プライオリティのトップには来そうにないというのが現時点での推測wwwwwww
>>791 楯築と石塚、そんなに時代離れてないだろ。
大和を突然とするなら、吉備も突然として然るべき。
楯築の副葬品の貧弱さは文化的なものか?
795 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 23:33:13
>>792は
>つまりは鉄の需要が高まり、遠隔地交易でしか入手できない以上、
>新たなる政治的枠組みを構築するしかなかった。それが大和王権誕生の理由。
とかなんとか言ってるが、
吉備は、鉄を入手するのに大和の力が必要だったのかね?
>>794 しかし特殊器台は突然葬送儀礼用の器台になったわけではなく
一般的な器台からの発展形が見られるらしいので
特殊器台が出来るまでが首長権力が発生するまでの過程とみてよいのでは?
吉備での話だけど。
大和は鉄が寡少だったからこそ、その流通の元締めに権力が集中した、
っていうこと。少なくとも正体の見えない「高度な土木技術」とかよりはマシだと思う。
他の要因を挙げると
畿内は平野が多く、まとまれば大国。
東西交易の中継地点として飛躍。
寒冷化により後漢の衰退、それをバックにした筑紫の地位低下。遼東の公孫氏が
大和を優遇。
大和王権の誕生はこのあたりの説明でいいのでは?
逆に鉄のプライオリティは高い。
>>795 うーん。それくらいしか、吉備が大和王権に参画した理由が見当たらないw
最初は出雲と仲良くしてて鉄を入手してたみたいだけど。
楯築の被葬者も出雲から鉄を持ってくるリーダーとして権力を得た、という説もある。
799 :
水銀厨:2010/03/13(土) 23:48:05
垣内遺跡依頼、淡路島での製鉄工房の具体的痕跡が
明らかにされて行くのは実に結構な事です。
でも弥生後期には畿内にもう一箇所、竜田周辺にもあるはずですよ。
>>800 水銀朱と言われれば楯築遺跡の異常な量の水銀朱はどこから持ってこられたのか?
吉備の支配者は中国人だったのか?
802 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 00:08:43
>>797 >大和は鉄が寡少だったからこそ、その流通の元締めに権力が集中した、
鉄が生産されないのに、どうして元締めになりえるんだよ?
怒るよ。
803 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 00:13:34
たとえば、出雲が入手した鉄は、
そのまま丹後や尾張(関が原が通じてるかぎり)に流すことができる。
奈良を経由する理由は無い。
吉備が入手した鉄は、奈良を経由して他地域に流れるかもしれないが、
それなら、吉備が元締めになるはず。
王権誕生の要因が鉄だと主張すればするほど、
吉備が大和に従属する理由が希薄になることがわからんのか?
>>790 たぶん、そこまでは「分かりようがない」と言うことだろうと思う。
再び戦国時代の話で例えるが、
「応仁の乱終結時」という段階で、それから100年後、天下を握る武将が中部地方から生まれたことは
15世紀の遺物だけから説明が付くか?と言えば、答えは明らかにNoだろう。
さらに言えば、その後100年の考古学的遺物から、
中部地方とりわけ中京地方の飛躍を支えるような、躍進的な経済的・文化的要素はあるか?と言われればそれもNoだ。
考古学的には、畿内がぶっちぎり、その次は大内氏の山口など、中国地方や九州北部だろう。
この時期、経済的にみれば、畿内のぶっちぎりの発展が際立っていて、16世紀末に完成する。
「近畿一極集中」の歴史的ピークは、古墳時代でも白鳳時代でも奈良時代でも平安時代でもなく、
安土桃山時代末の1600年頃というのが人口学的な真実。
ここで、全国全人口の3割が、近畿地方に一極集中するという、
今の首都圏一極集中に匹敵する恐るべき数字を叩き出す。
しかしながら、全国の支配者となったのは、中国地方と比較してもさほどパッとしない中部地方の武将だった。
こういう意味で、俺は鉄それ自体の多寡にはこだわらない。
流通ルートについても、絶対視しない。ルートがつないでいればそれでよい。
最初に鉄砲を組織的に使ったのは織田信長だった。尾張国は、常陸国や相模国などと比べれば鉄砲入手は容易だが、
南蛮貿易本場の西南と比べたらずいぶん不利だ。堺とのアクセスだけで十分だったわけだ。
>>803 さらっと変なことが書いてあるな。
>たとえば、出雲が入手した鉄は、
>そのまま丹後や『 尾 張 (関が原が通じてるかぎり)』に流すことができる。
これはあり得んぞ。ルートとしてあり得ない。
そもそも、のちの律令政府制定の「山陰道」という日本海岸の東西方向陸上ルート自体が
かなり往来の難しい山深いルートで、明治になっても、あの西国出身の明治政府に
「山陰は道が酷過ぎて、今のところ行幸は無理であるわけだが」と言われる始末。
まして、口丹波まで山陰道を引っ張り、そこからズブズブの扇状地だった京都盆地を横断して近江に入り、
さらに関ヶ原を通じて東海方面なんて、全くの空論でしかない。
世界最強レベルの土木技術を持つゼネコンを抱える現在日本ですら機能しないルートなのに。
出雲の文化は、海路を伝って丹後(ここは正しい)、若狭、北陸(越)へと向かう。
陸路は、中国山地が断層でグリッド状に谷間が出来ているので、南北移動はまだ出来る。
出雲と吉備の関係もそうだし、神戸の前方後方墳も、南北移動でやってきたなれの果て(例外中の例外だが)
806 :
水銀厨:2010/03/14(日) 00:37:30
>>801 可能性は国内産(徳島・宇陀)の方が高いでしょう。
貨泉の出土も多いからね。でも支配者は中国人というより、
大陸の思想の影響を受けた人物と考える方が自然です。
変なたとえを使ってしまった。扇状地はズブズブではない。
ただ、この時期の京都盆地中央部が居住に適さない土地で、
例えば老の坂と蹴上を直通するような横断する古道なんて聞いたこともないのは事実。
808 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 00:54:40
鉄のルートとか、流すとか意味がわからん。
古代の鉄はそれなりに貴重品だろう。自分の手元にそれがあり、他人に渡すと
したら、他の何かとの交換以外にはありえない。
809 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 00:58:57
ついでながら、韓伝には、
諸市買皆用鐵、如中國用錢 とある。
鉄は、貨幣のような役割だったかもしれない。
>>791 >特殊器台の変遷などを見ていると
楯築から出土したものは、立坂型に分類されるなかでも最古の型式にあたる。
特殊器台と特殊壷を用いた祭祀は、
楯築ではじめて行われたのではないか、という見方もされている。そうだ。
>>796 >特殊器台は突然葬送儀礼用の器台になったわけではなく
>一般的な器台からの発展形が見られるらしい
手許の資料では
「形や大きさ、文様、胎土が通常の集落などから出土する土器と非常に異なっていること、
また集落遺跡からはほとんど出土せず、特定の墳墓遺跡に限って出土し、
葬送儀礼のために特別につくられた器台と壷であるとみられる・・・」
(福本 明「吉備の弥生大首長墓 楯築弥生墳丘墓」 新泉社)
とある。
どうなんだか、詳細よろしく。
812 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 09:36:39
>>805 関が原は交易ルートじゃなかったんだね?
すると、丹波と尾張ってどこのルートで交易してたの?
「鳥取市の青谷上寺地遺跡では、低湿地という立地条件もあって、
土器ばかりではなく、豊富な木製品・骨角製品・金属製品が良好な状態でたくさん見つかった。
(中略)
これほどの鉄器を集中して出す遺跡は、同じ時期の瀬戸内や近畿にはほとんどない。
2世紀の山陰が、すでにほぼ完全に、鉄器に頼る社会になっていたことは明らかだ。
日本海の交易ルートに直接参加できる地理的条件が、
このように速やかで豊富な鉄器普及の要因になっていたことは確実だろう。」
(松木武彦「列島創世記」)
吉備の特殊器台が西谷3号でも見つかっているから、吉備と山陰はつながっていた。
となれば、吉備は出雲から鉄を入手していたのだろう。
出雲→吉備→淡路島→環東瀬戸内海地域
という鉄器流通ルートが考えられるんじゃないかな?
>>812 そもそも、丹波と尾張が直通で特筆すべき交易をしていた事実なんて存在したのかね?
まさか、「出雲系神社の存在」なんて言うんじゃなかろうな?ww
>>811 弥生初期中期の器台、壺から弥生後期の特殊器台、特殊壺が成立するまでの発展の過程が
首長が権力を持つようになるまでの過程とはとらえられないでしょうか?
特殊器台や特殊壺は突然できたものではなくて
成立するまでの過程が見られるようです。
引用
器台と壺が、弥生時代の中頃、中期に主に西日本で広く使われるようになった。
この頃の普通器台は割合に長くスマートだが、後期の前葉には、
次第にずっしりとしたものに変化していく。 後期後葉になると、器台は非常に
ずっしりして全体に文様(鋸歯文、沈潜文)が描かれるようになり、
上部と裾の間が長い筒状になり、方形の透かし孔も見られるようになる。
壺は、首の長いハの字の形になり、この要素は特殊壺に引き継がれる。
後期中葉から後期後葉に遷る頃の器台と壺の中から、特殊器台と特殊壺が
生まれる。この二つは備中南部に現れ、吉備中に広がっていく。
特殊器台と特殊壺が出てくる頃になると、吉備では村々で普通の器台と壺は
ほとんど使われなくなる。
>>815 ありがとう。検討してみます。
できれば出典も教えてもらえれば、さらにありがたいんですが。
>>816 手元に資料がないためWIKIPEDIAからの引用です。
URLがうまく貼れなかったので、WIKIで探していただければ幸いです。
>>817 よく読んだら
「吉備地方の集落遺跡からは、弥生時代中期から後期にかけて
農耕儀礼に使用されたと思われる器台が出土している。
これが弥生時代後期後半になると、首長墓の出現と時を同じくして
集落遺跡からの器台の出土数が大きく減少する傾向がみられる。
そして、それに対応するかのように(中略)新たに特殊壷と特殊器台として
墳丘墓の上に登場してくるのである。」
(前掲書)
と書いてありました。お世話かけました。
「(吉備の特殊器台・壷の前身である)土器を用いた祭祀の本源は、
・・・お神酒や供物を神とともにいただくという
「相嘗」あるいは「直会」などとよばれる儀礼とされており、
もともとは集落内でおこなわれた収穫や神に対する農耕儀礼のなかで
実施されていたものと考えられている」
(前掲書)
そうだ。ところで、集落の農耕儀礼といえば銅鐸が思い浮かぶが、そうすると
「私は、特殊器台・壷とは銅鐸の生まれ変わりだと思う。
キビ最後の銅鐸は・・・その埋納時期は後期中頃だが、
・・・後期末には特殊器台・壷に変身した、というのが私の考えだ」
(寺沢薫「王権誕生」)
というのも、説得力をもってくると思う。
>>820続き
なにが言いたいのかというと、
銅鐸祭祀が(特殊器台を使う)首長霊祭祀につながるのならば、
畿内での銅鐸祭祀の終焉も、その後に出現する大型墳丘墓に連なる可能性があるのではないか、
ということ。
弥生時代終末期にはほぼ同時に各地の固有の祭祀が衰退しているのでしょうか?
この頃どのようなことが日本で起こっていたのやら。
初期型前方後円墳の構成
大型墳丘墓文化
吉備:特殊壺、特殊器台(祭祀文化)
出雲:葺石、突出形状
大和:方形周溝墓
筑紫:副葬品(鏡)
>>822 >この頃どのようなことが日本で起こっていたのやら。
「それまで何百年も、何十世代もの間続いてきた大きなムラが相ついでおとろえ、
別のところに新しいムラができたり、ほかの地域に移り住んだりするという、
地域社会の大変動だ」
(松木武彦「列島創世記」)
825 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 12:58:26
>>822続き
>各地の固有の祭祀が衰退しているのでしょうか?
「弥生時代中期後半、北部九州には中広形と呼ばれる銅矛が、
山陰には出雲型と呼ばれる銅剣が、瀬戸内西部〜中部には平形と呼ばれる銅剣が、
瀬戸内東部には平形が変化した東部瀬戸内系と呼ばれる銅剣が、
大阪湾沿岸地域には近畿型と呼ばれる銅戈が、近畿から中国・四国地方の東部には銅鐸が、
というように、地域ごとにそれぞれ特徴をもった、さまざまな青銅器の祭器が生み出された」
「これらは、直径100km内外の比較的小さな分布域をつくっているものが多いことから、
石材と同じように、近隣どうしの物の流通経路に乗ってやりとりされたと考えられる」
↓
「弥生時代後期には青銅製の祭器の種類が減り、1種類の祭器が直径数百kmもの
大きな分布域をつくることが多くなる(=広形銅矛・突線鈕式銅鐸)。
これら後期の青銅製祭器は、鉄を軸として活発化した遠距離交易ルートに乗って流通した可能性が高い」
「そのいっぽう、個人の墓を大きくつくる風習が発達した山陰・・・や、吉備・・・では、
後期に入ると青銅製祭器がみられなくなる」
(松木武彦「列島創世記」)
>>825 「寺沢は、定型的な前方後円墳への過程をこのように説明し、
初期ヤマト王権の権力母体は、弥生時代の大和・畿内の勢力を基盤にしたものではなく、
したがって、いわゆる「邪馬台国」でもなければ、奈良盆地・近畿中心部における部族的国家連合でもなく、
「西日本各地の部族的国家連合による連合政権」ととらえている」
「邪馬台国論争において寺沢は、邪馬台国畿内説に立ちながらも、従来のような大和中心主義からではなく、
むしろ鍵を握ったのは「キビ国連合とその息のかかった中・東部の瀬戸内地域」であったとして
弥生時代終末期から古墳時代初期の研究に新視点を提供したのである」
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 纒向型前方後円墳)
これ、ずっと検討してるんだよね。
828 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 14:33:15
>>827 楯築遺跡と纒向前方後円墳がつながっているように見えるんですよね。
楯築遺跡の要素
・双方中円墳(突出部を一つ取れば前方後円形状)
・楯築遺跡→纒向前方後円墳で徐々に墳丘が巨大化
・初期型特殊壺、特殊器台
・一部に葺き石あり
・弧帯紋(楯築亀石)→特殊器台文様、弧紋円盤(纒向)
・破壊された亀石→破壊された鏡
吉備とヤマト政権成立期の歴史が共に空白になっているのも気になります。
北九州や出雲と比べても歴史に残す価値がないほど貧弱な地方だったとも
思えないのですが、なぜ闇に葬られなければならなかったのか?
ヤマトが吉備を支配されていた可能性も考えられる?
>>827 そこまで吉備に事実上の「一辺倒」で肩入れする寺沢説も、俺は危ういと思うなあ。
それに、その肝心の吉備の分析が、なんだか微妙に感じる。
例えば、
>>820引用の前段と後段が、論理的関係で繋がらないw
「農耕儀礼といえば、銅鐸が 『思いつく』 わけだが」
と自分で言っているわけで、
彼の「脳内の思いつき」でしか、銅鐸と特殊器台は繋がり得ないんじゃないか?
830 :
820:2010/03/14(日) 15:34:00
>>829 >前段と後段が、論理的関係で繋がらない
あ、すいません。前段は、福本明の「楯築弥生墳丘墓」からで、後段が、寺沢薫の「王権誕生」です。
それをつなげたのは、俺の「脳内の思いつき」なんで・・・
「農耕儀礼といえば、銅鐸が 『思いつく』 わけだが」
これ思いついたのも俺なんですよ・・・
>>830 すまん。確かに前掲書と書いてあるね。読み落としてしまった。
ただ、
>>828は考え過ぎだと思う。
やや辛い言い方をすると、
しばしば地方史研究家がはまる被害妄想に若干親和的な議論にみえる。
吉備の「抹殺具合」はそんなに珍しいものでもなく、
東側の伊勢国の事情とよく似ていると思う。
○○津彦伝説で、旧来の要素を一掃して全部片付けてしまう。
まだ吉備には、かなりのものが残っている。伊勢のほうがひどい。
伊勢国は、伊勢神宮の御威光が強すぎて、
旧来の要素が猿田彦神に横滑りした要素以外ほぼ「完全消去」であることに誰も気づかないんだが、
考古学的表徴と、文献や祭神の要素がこれほど齟齬をきたしている地域も珍しい。
出雲と日向(宮崎)が別格なのだと思う。風土記なども当っても、この2つは伝承が多すぎて逆に怪しい。
俺は本来関係ない神話や伝承も含めて、この2国に掃き溜められた可能性が高いとにらんでいる。
>>828 >吉備とヤマト政権成立期の歴史が共に空白になっているのも気になります。
北九州や出雲と比べても歴史に残す価値がないほど貧弱な地方だったとも
思えないのですが、なぜ闇に葬られなければならなかったのか?
書いてしまうと神代と人代がごちゃ混ぜになってしまうから
833 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 18:56:47
>>828 >吉備とヤマト政権成立期の歴史が共に空白になっているのも気になります。
吉備には吉備津彦がいるけど?
四道将軍(架空としても)のうちで、一番速く登場した人物だが。
834 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 19:08:49
>>833 吉備津日子はヤマト政権が成立する前の人では?
楯築遺跡と吉備津日子では時代的にどちらが先でしょうか。。
ところで吉備津日子が吉備を平定した当時、ヤマトから吉備に持ち込まれた
文化などはあるのかな?謎が多い。
835 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 19:24:46
吉備津彦は、唐子・鍵遺跡で生まれたことになってる。
唐子・鍵遺跡から「は、山陽の土器とか出てるでしょ。
>>834 なんだ?その皇国史観と九州王朝説の「悪いところ取り」をしたような発想法は??
吉備の「旧勢力の記憶の残り方」は、はっきり言ってごく普通のレベルだ。
吉備津彦の足跡を追いかければ、吉備津彦以前の状況が間接的に見えてくるという、
それくらいの記憶は十分に残っている。
普通、そうやってプレ大和王権の歴史は神話学的には推測されていく。
吉備には、このような「馬脚の見える『天孫系史跡』」にあふれている。
被害妄想ではなく、本当に「消されているはず」と主張できるのは、「伊勢国」のような例を言う。
ここは、どんなに手繰っても、天孫系以外の要素が全く出てこない。
そもそも伊勢津彦を祭る神社が無い。
わずかな鍵は、猿田彦神であることは確実だろうと思われるが、
猿田彦関連の神話伝承は、見事に完璧に洗練されていて、
天照以前を全く推測できない。
しかし考古学の語る弥生後期の伊勢国は、全く異なるものだ。
>835
疑問に対する回答としてはチグハグな
838 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 23:07:17
>>836 >しかし考古学の語る弥生後期の伊勢国は、全く異なるものだ。
どんな風に異なるの?
たとえば、特徴的な彩色土器とかあったけど、あれって伊勢だっけ?
>>838 おいおいw
一応巻向スレなんだから、東のほうの事情も知っておいてもらわないとw
S字甕とも言われる特徴的な東海式土器がポイントで、
この甕の本籍は、尾張や美濃ではなく、明らかに伊勢国にある。
というのは、陶土に三重県中部を流れる雲出川の砂を必ず混入すると言う、
明らかに呪術的・宗教的な意味を込めた制作が為されている。
別に雲出川の砂が、特に陶芸に適しているわけではないので、
(実は未だに本当の用法が確定しない)銅鐸なんかより、よほど「祭祀性・呪術性」が明確にみられると言える。
この甕を作る文化(&前方後方墳を作る文化)を担った民が、
のちの時代には東へ急激に拡散し、
東北南部太平洋側に至る「東国文化」のバックボーンとなっていく。
ところが、問題の雲出川流域に、これを裏付けるような伝承も神社も何もない。
記紀にも、伊勢津彦が「東方のどっかに飛んで行った」という、何ともおおざっぱな逃亡伝承しかない。
茫漠と、伊勢神宮のお膝元としての信仰圏が広がるだけ。
840 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 00:29:27
伊勢津彦は、出雲建子で、出雲の神の子だそうだ。
出雲と聞くと国津系に思えるが、
ある資料によれば天孫系とされる。
841 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 00:41:38
銅鐸も、神話には出てこないから上書きされてると言えるのでは?
伊勢に限らず。
842 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 01:08:27
『 伊勢津彦 』ねえ…
このスレで記紀神話を語るのはアレだがw
伊勢津彦による国譲りと言えば、「出雲の国譲り」のストーリーそのまんまだったと思うがwww
むしろ伊勢津彦の話が伊勢を記紀神話体系に組み込む為の物であったと考える方が自然ではなかろうか?w
まあ個人的には天照の出自を九州どころか東日本の可能性を考えているんで
九州説の連中は元より、このスレの大抵の人間にも受け入れがたいものだろうと言うのは自覚しているがwwwwwwww
843 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 01:15:20
以上ジョーカーさんによる1人4役でした。
844 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 10:51:11
>>842 いや、天照大神が伊勢の地方神であることは、わりと常識。
みんな口には出さないけどね。
845 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 10:59:09
伊勢津彦にしても、系譜を遡れば、天穂日命とつながり、天照大神に遡る。
伊勢津彦を追い出したのは神武なんだが、
ニギハヤヒを帰順させたのも神武。
これは国津神の国譲りとは関係なくて、
天照大神の子孫である、ニギハヤヒ、伊勢津彦、神武の、
天孫の中での主導権争いにしかすぎないという構図。
846 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 22:32:43
>>842 そんなに奇異な議論ではないと思うが>天照東日本出身説
つうか、松本清張説をはじめ、かなりメジャーな考え方でもある。
だが、俺に言わせれば、この説はずっと後代の「神学的操作」の結果に依拠しているもので、
はっきりいってしまえば、すごく「近代臭い」と思う。
巻向の「方角」とりわけ「東」に関する議論は、前スレ以前から間欠的に出現しているので
脱線気味ではあるが、すこし整理しておこうと思う。
この考え方には、「伊勢は東、出雲は西」という発想法が前提にあるんだが、
この出自は、まったく意外なところだったりする。
江戸時代、徳川幕府の「神学的」な正統性付与のため、東照大権現の神格化が行われた。
このとき、
東:「東照大権現−薬師如来−東方浄瑠璃世界−東の国&現実世界」
というメタファーの結びつきが、(おそらく天海か崇伝あたりにより)作られた。
これと対になるものは、
西:「(本願寺、知恩院など)−阿弥陀如来−西方浄土−西の国&死者の世界」
となる。この東西の対を前提に、「東照大権現」は「関八州(あくまで関東地方)の守護神」となった。
このメタファーを、祭政一致の初期明治政府がそのまま流用して皇室の正統性神話に置き換えた。
まず東の東照大権現の系を、そのまま復古神道の皇室神話に置き換える。
東:「明治天皇−天照大神(伊勢神宮)−東の国日本の現実世界の支配者&帝都東京の新たなる支配者」
そうすると西はどうなるか。この空席に対してモーションをかけまくったのが出雲大社関係者で、
西:「出雲大社−大国主−黄泉の国」という神学概念を主張した。
ここに「伊勢は東、出雲は西」という対立が生じることとなる。実は大乗仏教の世界観の転用に過ぎない。
そもそも伊勢が東であったはずはない。明治天皇が東京入城にあたって、最初に参拝した神社はどこか?
東国は「出雲系を名乗る祭神の一大王国」であることは、明治天皇や神祇官であっても認めざるを得なかった。
848 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 23:42:32
>>847 >明治天皇が東京入城にあたって、最初に参拝した神社はどこか?
どこ?
>>847 まったく的外れな議論だよ。
記紀でも神武一行は「東=聖」に弓矢を向けてはならないと反省している。
そもそも東=ヒムカシ、日向かしだし、プリミティブな太陽信仰が日の出を崇拝するのも
世界各地に見られる。
太陽神信仰で有名な場所は、東が海原のような、日の出が綺麗に見える場所が多い。
つまり東は日本古来より聖。江戸時代に作られたとかは有り得ないし、
明治政府は江戸幕府を否定こそすれ、天海が創造した呪術的世界観なんか採用しないよ。
>>849 あのさ、その話のネタをまともに信じているのか?
「東方を征服しよう」とする一行は、東に向けて矢を放たずに進めるわけがない。
だが、大阪に入った時から突然、
突然「東に矢を向けてはいけない」などと、わけのわからん寝言をほざき始めるんだぞ?
この理由は、グーグルアースをみればよくわかる。
中国地方以西は、地球物理学的に南北圧縮場(圧縮ではないと言う説もあるが)なので、
山脈は基本的に東西に延びている。
だから瀬戸内海という地溝帯にそって東へすすめばよい。
ところが、畿内に入ると、プレートテクトニクス上の圧縮場が、北米プレートの影響を受けて東西圧縮に変わる。
最近の地球物理学で話題の「新潟−神戸歪集中帯」に入るわけだ。
東へ進む一行は、ここではじめて、「南北に走る山脈」を突然目にすることになる。
南北に走る山脈を、西から正攻法で攻めたらどうなるか?
全てが手に取るようにわかる山の上の先住民に、いいようにフルボッコにされるにきまっているww
これは良くない、なんとか対策を考えようということで、今の大阪で神武一行が語った戦略の立て直し術が、
「山塊が南北に走っているなら、後ろから回り込むしかない」ということ。それだけの話。
一応書いておくけれど、
>>847の明治初期の出雲大社の強烈な主張についても、
神学論争なので典拠は必ず必要なのであって、それは実際に存在する。
だが、この典拠に書いてあるのは、
「現実世界は我ら天孫が治める。出雲は『スピリチュアルワールド』の主たれ。」というものであって、
東西という方角は、実はまったく関係しない。
ただ、実際に出雲大社がこの企みに成功したとは言い難く、
一般庶民の宗教感覚としては、
>>847「後者の席」には依然として阿弥陀仏と「ご先祖様」が残り続け、
神社神道と葬式仏教を使い分ける、近代日本人最多数の宗教感覚となる。
>>848 埼玉県大宮の氷川神社。いくら武蔵国一宮とはいえ、しょっぱなが出雲神だぞ?
自らの祖先神たる天照大神へのあいさつだけで問題ないのなら、
例えば芝の神明社(芝大神宮)に参拝すれば十分だと思うのだが、そうしていない。
>>850 >あのさ、その話のネタをまともに信じているのか?
いや、そもそも神武東征「伝承」をまともに信じてるか?の意味が分からん。
お前、神武東征が実際にあったことと考えてるデンパなの?
記紀編纂の頃の8世紀か旧辞が編まれたとされる6世紀の頃かは知らんが、
その頃には少なくとも「東=聖」という意識が生まれていたという指摘なんであって。
>>852 じゃあ、どうして伊勢神宮内宮は、完璧に真北を座としている(南面している)んだい?
そんなに東が聖なる方角で、伊勢がそれを象徴しているのなら、
当然、真東を座とする(西面する)のが当然じゃないのか?
教義上、東を聖とするキリスト教では教会建築は、祭壇について東を座としているのが正統とされているぞ。
キリスト教会にできて、なぜ伊勢神宮にできない?
しかも、伊勢神宮は志摩半島北岸に位置していて、南面させるのは本来都合の悪い地形だ。
それにもかかわらず、あくまでも伊勢神宮は回り込むように、ぴったり真北を座としている。
ということで、世界史的にみても、
日本の伊勢信仰が特に「東を聖なるものと見ていた」とは捉えられないんだよ。
伊勢神宮の建物の座山は真北であって、これは、方角で言えばむしろ「北方信仰」の表れ。
たとえばメソポタミアやイランにおいて明確にみられるような、
東方信仰と深い関係のある「春分を暦の特別点とする概念」もなく、
天孫族・皇室が特に重視した新嘗祭は、本来は冬至の祭りだ。
冬至は、方角で言えば「北」と深い関係を持っている。
中国暦導入後は、取ってつけたように「卯の日」(卯は確かに東である)という日取りが入るが、
これは、持統年間、中国暦典拠での新嘗祭最初の冬至日がたまたま卯の日だったので、
その後固定されたという考え方が、俺は正しいと思う。
古代日本が聖であるとした方角を一つ挙げよと言われれば、むしろ「北」であるとしかいいようがない。
もちろん、これが道教思想と深い関係を持つことはいうまでもない。
855 :
日本@名無史さん:2010/03/16(火) 16:28:21
>>853 そういえば、マキムクの神殿って東に向いてなかった?
856 :
日本@名無史さん:2010/03/16(火) 22:32:10
■築造時、墳丘に葺石? 周濠から多量に出土 【ノムギ古墳】
大和(おおやまと)古墳群に位置する天理市佐保庄町の前方後方墳・ノムギ古墳(全長約63メートル、3世紀後半から末)で、周濠(ごう)から墳丘すその葺石(ふきいし)が転落したとみられる石が見つかり、天理市教育委員会が15日、発表した。
これまで葺石は確認されていなかったが、築造時の墳丘には存在した可能性が高まった。出現期古墳の墳丘形成を考える研究材料になりそうだ。
2月中旬から後方部墳丘の南側約68平方メートルを学術調査。過去の調査で墳丘東側に見つかった周濠の延長部が南側でも確認された。
周濠は幅約12メートル、最深部の深さ約50センチで、現状の地形に沿って西側へ傾斜し徐々に深くなっていた。
中央部や墳丘すそ付近で多量の拳大から人頭大(10〜30センチくらい)の花こう岩が出土。周囲の傾斜や堆積状況などから、墳丘すその葺石が転落したと推定される。
古墳の葺石には墳丘の外観を飾る視覚的効果や護岸などの目的があったとされる。
大和古墳群では中山大塚古墳や西殿塚古墳といった大型前方後円墳のほか、同じ前方後方墳で時期がやや新しい下池山古墳などで葺石が確認されている。
ノムギ古墳は前方後円墳や前方後方墳など30基近くが点在する大和古墳群の北端に位置。従来は4世紀後半の前方後円墳とされてきたが、平成15年の県立橿原考古学研究所の調査により、同古墳群最古級の前方後方墳であることが分かった。
調査を担当した同市教委文化財課の青木勘時係長は「高い墳丘を持ち周濠を巡らした出現期の大型前方後円墳と同様に、葺石があった可能性を確認できたことは成果」としている。現地説明会の予定はない。
◆石野博信・香芝市立二上山博物館長(考古学)の話◆
同じ3世紀でも、纒向石塚古墳などのように葺石がない古墳もある。前方後円墳と前方後方墳の違いも含め、墳丘の作り方の差異にどんな意味があるのか、初期ヤマト政権の構造を考える上で重要になる。
記事の詳細は本紙をご覧下さい
2010年3月16日 奈良新聞
http://www.nara-np.co.jp/20100316095947.html 墳丘の葺石が転落したとみられる石 =15日、天理市佐保庄町のノムギ古墳
http://www.nara-np.co.jp/photo/7beb37a7d7973bf565e96be45b715623.jpg
>>853 いや、伊勢神宮とかが建てられたのがいつの時代か?の話で。
図らずも
>>854でも書いてるように、中国の子午線重視の思想が入ってから以降、と考えるのが
妥当だろう。
あとまあ、「春分の日を特別視しない」から「東を神聖視する考えはなかった」とか論理の飛躍が
甚だしくて、どこをどう突っ込めばいいのか?
実際記紀の記述で東西線を重要視する記述が一杯あるんだし、
江戸時代以降とか訳のわからん理屈をこねられてもまったく納得できないよw
>>858 春分の日を特別視しないことと、東を神聖視しないことが、論理の跳躍と言われても困るがなあ。
これは古代人の方位と暦法と呪術の結びつきから考えれば、
ほぼ自明のものとして「不可分一体」なんだが。
というのは、真東に特別な宗教的意味を持たせて、それを太陽と結びつけるなら、
太陽が真東から昇る日を、暦法上特別視しなければおかしい。
普通はここが「正月(暦の始点)」となり、
その記憶を明らかに継承する祭礼が、時に宗教が完全に切り替わったとしても
民俗行事や、変形した宗教行事として生き延びる。
西欧のイースターや、イラン文化圏の春分正月のようにだ。
古代世界の暦法と宗教と形而上学のありさまを見れば、
こんなことは当たり前なんだよ。
前近代の日本人は本当に暦法と(広義の)星占いが大の苦手としか言いようがないようで、
この方面の思想や歴史は実にgdgd(まともな占星術理論を一つも生んでいない)ではあって
さらに、この手の話は、占星術という非科学領域に追放されて、まともな歴史学の取り扱う問題とされないが、
それにしても日本史しか知らない人の、暦法と形而上学への認識の暗さには愕然とする。
水銀厨の「朱色」の過大評価もそうだが、
一言で言えば井の中の蛙なんだろうけれど、ごく平凡などうでもいいレベルの記述を、
さも「それこそが神聖視されたのだ」と騒ぐ例が多すぎる。
それから、巻向の「神殿の向き」に関しては、
今一度、国土地理院の地図を見てほしい。断層崖や扇状地形成の詳しいことは読み解けなくても、
等高線の走る方向と、山脈の向きだけ簡単に確認するだけで良い。
結論から言えば、
「何も考えずにあそこに神殿を建てれば、よほどのことがない限り、ぼぼ真東を向いて建ててしまう地形」
なんだよ。
大和盆地東縁断層の向きは、ほぼぴたり正しく南北方向であり、
扇状地の等高線の向きまでも、ほぼ完全に南北を向いている。
この地形で、建物を建てようとすれば、座山は普通は真東となる。
呪術的意味というのは、非合理性を前提とするのだから、
合理的理由だけで簡単に説明が尽きてしまうかどうか、こういう簡単なスクリーニングを試みてほしい。
なんでもかんでも「祭祀」と「呪術的意味」に放り込むのは、
今の考古学の悪い癖だ。
それから、方位に関しては、人類一般の普通の思考方法として、
360度は、まずは4で割って、東西南北を「正方位」として「意識する」。
いきなり5や7で割ろうと考えることは、普通は無い。
とりあえず、方位について述べる場合は、神聖視云々は関係なく、
東西南北の4つは「意識」せざるを得ない。
地理に関する記述は、地上の方位に関する記述を絶対に含むので、
そこでは必ず、東西南北は「意識される」。
そして、東西は「太陽・月・惑星などの運行する道」、南北は、中緯度では「温度を決める要素」だから、
それぞれについて、簡単な呪術的意味は、どの文化にも付与されることとなる。
太陽や月を信仰する文化では、東西方向は、漏れなく不可避的に一定程度は「意識」される。
周極星を信仰する文化になると、北半球では「北」が意識されることになる。
記紀文献を含む古代日本において、これを超えるような「神聖視」が、「東」についていたとはとても思われない。
これは世界史的「相場観」としかいいようがないが、
この程度では「神聖視」とはとても言えない。ただの「意識」の範囲内にすぎない。
>>860 おまえの断定口調のほうがよっぽどオカルトなんだが。
>何も考えずにあそこに神殿を建てれば、よほどのことがない限り、ぼぼ真東を向いて建ててしまう地形
むちゃくちゃでんがな。
「だいたい東の方を」なら、まだ真面目に検証してみようかって気にもなるが、
「ほぼ真東を」と言い切るおまえの非合理性がなによりも神秘的だよ。
863 :
日本@名無史さん:2010/03/17(水) 00:27:52
>>860 ほほう。あのへんに建ってる民家はみんな東を向いてんのか?
864 :
日本@名無史さん:2010/03/17(水) 08:53:29
>>861 それなりに、拝聴できる意見なので、コテハンつけてくれ。
そうだな、「方位厨」とか。
>>864 ご提案ありがたいが、俺はむしろ「反方位厨」だからなあ。
東が特に神聖視されたこと、これで巻向(や伊勢など)の何かを説明することを否定しているのだから、
命名はありがたいが、かなり違う気がする。
俺が、「朱」も「東」も、その宗教的特別視を否定するのは、
古今東西のオカルトの世界を見たとき、古代日本のこれらは平凡な塗料・方角の範疇に吸収されるからで、
水銀厨とか、
>>849の「東に海が見える→東が神聖視されたのだ!」と言ったりする、
その「オカルト投入」へのハードルの無さへの批判だ。
一言でいえば、
「オカルトは、『万能の掃き溜め(ゴミ箱)』じゃないんだよ」
ということ。占星術などの神秘学が、社会学的考察を除いて学問から完全追放されたことの副作用として、
「変なネタは全部オカルトで説明しよう、どうせオカルトは学問じゃないんだからなんでも許されるさ!」という体質が
これらの発想には露骨に見られるんだが、
本来は、オカルトにだって「知性としての入口のハードル」は厳然として存在する。
変なものは何でも受け入れる度量の広い与太話ではないんだ。
866 :
日本@名無史さん:2010/03/17(水) 22:09:19
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
>>854 >天孫族・皇室が特に重視した新嘗祭は、本来は冬至の祭りだ。
>冬至は、方角で言えば「北」と深い関係を持っている。
冬至=北ってのは無理ないかい?
そもそも太陽の力が最も弱まる冬至の日の出を見て、
太陽の再生と復活を祈る、ってのが太陽信仰の相場だろう。
春分の日は種まきの時季でもあり、農業国家で暦の初めとされることもある、というだけ。
太陽信仰は春分の日>冬至が自明という前提自体が間違っているのでは?
伊勢は巻向が出来たころはどういう状況だったんだろうか
>>867 冬至は、北または南と結びつくのが古今東西オカルトの常道だよ。
北と結びつくのは、実は中華圏プロパーのややローカルな発想で、
他の文明では、「南」と結び付けられるのが「旧大陸グローバルスタンダード」でもある。
これは「太陽が、冬至に一番『南寄り』になる」からであって、
「南回帰線(tropic of capricorn:直訳すれば「太陽やぎ座回帰線」)」の名称からも、よくわかる。
(一応念のため説明しておくと、やぎ座0度を太陽が通過する時点が冬至になる)
いずれにしても、夏至・冬至のニ至は、南北方向の子午線上の方位概念と結び付けられることになるわけで、
東西方向の方位概念とは結び付けようがない。発想のやりようがないからだ。
俺は、別に太陽信仰と冬至の関係を否定しているわけではなくて、
日本の太陽信仰が「東」の神聖視にプリミティブに結びついているという発想を否定している。
日本の太陽信仰では、東は、単に「太陽が昇る方角」以上の意味づけは乏しいということ。
「太陽が昇る方角に過ぎない」と考える以上、
この方角は、年間で47度(直角の半分以上)もずれるわけだから、
非常に緩やかな、茫漠とした概念とならざるをえないし、実際その通りである。
870 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 00:11:10
北は天白とかだろうなあ。いや新しすぎるかw
なんにしても、正方位を定めることのできる文化を持っていたか否かは
古代を研究する上では非常に重要な要素だと思うけどね。
「なんとなくそっちの方」ならオカルトでも「相場観」でもいいけど、
たとえ「ほぼ」でも、正方位を定めている以上はその意図を探らなきゃしょうがない。
無数にある神社の中で、正方位を向いている神社なんて少数派もいいとこなんだから。
どこまでが偶然かという水掛け論もそれはそれで可能だけどさ。
ニライカナイみたいに、漠然と東方を常世として神聖視した、
なんてのは、古代日本にありそうな、いかにもな発想だけどな。
なぜそこまで毛嫌いするのかが分からん。
江戸時代とかは論外だしw
872 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 08:34:13
東遷厨みたいな、理不尽な批判じゃないからいいんじゃないの?
これで、「方位の概念は九州から東征してきた神武が持ち込んだ」とか言いだしたらアレだけど。
873 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 08:41:28
>>865 ただ、「朱」まで特別視しないというのは、どうなんだろう?
宗教とは無関係に、ただの絵の具の一つだとしても、彩色して見栄えのする古代の絵の具は、「朱」しかない。
ならば、その「朱」が手に入る土地は、現在の感覚で石油や鉄の産地に等しい有益な土地であり、
朱を求めて人が集まったと考えるのは乱暴だろうか?
874 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 12:49:53
>>873 >その「朱」が手に入る土地は、現在の感覚で石油や鉄の産地に等しい有益な土地であり、
>朱を求めて人が集まったと考えるのは乱暴だろうか?
大変乱暴な考えですね。朱が現代の石油や鉄に匹敵するはずもありません。せいぜいのところ、
食べ物で言えば鮪、エンターテインメント関係で言えばニンテンドー、プロスポーツで言えば
ゴルフのタイガーウッズみたいなもので、国民の大多数から見れば無くてもいいもの。
875 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 12:53:29
876 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 12:56:45
水銀朱は当時、不老不死の薬ともされており、研究所は「貴重な水銀朱を大量に使って、権力の大きさを示したのでは」としている。
竪穴式石室は長さ6・75メートル、幅約1・2メートル、高さ約1・6メートルと判明。
内部には、木棺(長さ4・9メートル、幅75センチ)の底板がほぼ当時の状態で残っていた。
石室の壁は、一辺50〜60センチ大の板状の石材数千枚を積み上げて構築。石材のほぼ全面に水銀朱が塗られていた。
水銀朱は、大和(奈良県)で多産した辰砂(しんしゃ)という硫化水銀の鉱物を粉状にすりつぶして水に溶かしたのち、石材に塗ったとみられる。
国内の古墳で使われた水銀朱はこれまで、大和天神山古墳(奈良県天理市)で確認された42キロが最多とされていた。
877 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 13:01:25
古代の人々はなぜ「赤」にこだわったのか。「死者の魂をよみがえらせる」「権力の象徴だった」−。
研究者たちは、王者の眠る神聖な空間にさまざまな思いをはせた。
桜井茶臼山古墳が築かれた時代に中国で流行した神仙思想についての解説書「抱朴子(ほうぼくし)」(317年成立)には、
「丹」(=水銀朱)について「飲めば不老不死の仙人になれる」と記されている。
一方「抱朴子」には「仙薬(仙人になるための薬)のうち、最上のものは丹砂(=水銀朱)。次は黄金」と記載。
和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)は「金よりも貴重とされた水銀朱が、200キロも使われていたとは」と驚く。
和田教授によると、水銀朱の産地候補の一つは奈良県宇陀市付近。
この一帯は、昭和後期まで水銀を採掘する鉱山が点在した国内有数の辰砂の産地で、桜井茶臼山古墳やこれまで最多の出土量とされていた大和天神山古墳とも近く、
和田教授は「大和政権の成立を考える上で水銀朱は重要な要素になるだろう」と話した。
878 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 17:03:00
水銀朱が不老不死の仙薬とされていたら必ず誰かが試している。そして直ぐに(二〜三十年も経てば)
全く効果がないことが分る。そんなものが金より貴重とされたのはほんの一時期だろう。
「大和政権の成立を考える上で水銀朱は重要な要素になるだろう」などとはお笑い種だね。
879 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 18:08:47
「(科学的に)殺菌力がある」という事実だけで十二分な特別視の根拠だろ。
科学という体系がない世界で、経験的に特異な効果を認められた事象のことを
マジック=呪術と言うんだよ。
死というものを科学的にも哲学的にも理解できていなかった人々にとって、
不死と再生への憧憬と執念がどれほどのものだったか。
腐りさえしなければ死体が蘇るかもしれない、という考え方は、
どの世界でもいつの歴史でも、とりたてて突飛なものではない。
ピラミッドの作法が日本に伝わってきてたのかきてないのかはしらないが、
そこに通底する権力者の切実な願いをオカルトで片付けるなと。
物質主義/合理主義に毒された世界観をそのまま近世以前に当てはめるのは
愚かに過ぎる。別の時代から現代を見て「生活の役に立たない学問を
義務教育で教えるわけがないだろう!」と断ずるみたいな話。
重金属は総じて、殺菌作用があるから
そういう意味では薬効があると言える。
細菌性の下痢とかには効かなかったのかな?
古墳に朱を塗ったのは腐敗防止、あるいは
しみ出してくる雨水、地下水による
壁面のカビ防止のためではないかと思う。
それが、魔を防ぐ、となっていくなんて
ありがちの展開もなくもない。
イザナミ禁止
882 :
水銀厨:2010/03/18(木) 18:50:28
水銀朱は勿論重要ですよ、今更私が声高に言うまでもないけど。
>>880 だからさ。「重金属」という概念がなかった以上、「総じて」という表現には
まったくなんの意味もないし、目的意識と科学的現象とは直結してないんだから、
「腐敗防止」とか「カビ防止」という概念もないわけよ。
同じ内容、事象が、当時はどんな概念だったのかを考えないと話にならない。
884 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 20:27:37
基本的には水銀朱はあまり重要視しない立場だが
朱を塗ることで、遺体が腐敗して無くなってしまう
よりはミイラが残っていた方が、朱が遺体を守るという
イメージはできてくるだろ。
そして、実際に朱が塗られている遺跡があるのは事実なんだ。
その知識は中国からかも知れないし、はじめは単に赤色塗料として使われていた物が
腐敗防止性を持つことを国内で誰かが発見したのかも知れない。
そういう「経験」があっても何も問題はないと思うが。
いまふと思ったんだが、木棺を直接埋める場合には
遺体と再開する可能性は殆ど無いが
空洞がある石棺、石室の場合、埋葬した遺体を
再び観察する機会がある。
再び観察する機会がある場合の方が、
腐敗防止作用を持つ朱の重要性は増すと思うのだが
どんなもんかね?
885 :
水銀厨:2010/03/18(木) 20:44:29
腐敗防止も何も、大和天神山のように遺骸すらなく
朱自体が木櫃に主体として収められている古墳もあるからね。
他の様々な話を捉えても、奈良東南部においては
水銀朱が一番重視されていたのは否定出来ない事なんですよ。
886 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 20:53:27
うーん、そうすると朱はただのオブジェとしての扱いで
それが持つ性質には意味がないということなのか。
うーん、よくわからんな。
887 :
水銀厨:2010/03/18(木) 21:07:20
まぁ大規模古墳の主として納められる程、
貴重品であり権力の象徴だった事は間違いないのです。
何しろ大陸からわざわざ求めにくるモノですから。
それを扱う市が大市であり、海柘榴市(鉱物の象徴)、
椿市(赤色の象徴)という名前の由来となってゆくのでしょう。
>>877 こりゃすさまじい。どうしようもないね。
天下の名誉教授様が、オカルトネタの扱いになると、途端にこれだww
こんな話、まったくもって
「占い師 『に』 嘲笑される」レベルの、愚にもつかない突発的思いつきの与太話にすぎないんだが、
それでも「学問的解説」たりえてしまうところに、
オカルトというか神秘学の内容に関して、
入口のスクリーニング、要するに「門前払いで済ませるかどうか」ということが、
完全に忘れ去られているということが良くわかる。
門前払いが機能しないということは、「最低限の学問の外縁」が全く忘れられているということで、
もはや、今の古代史学説は、「オカルトネタを扱う能力に欠けている」と断言できる。
水銀厨さんには、もう少しましな議論を期待したいw
889 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 21:28:33
そういや、大溝からベニバナ花粉も見つかってるな。
九州でベニバナって見つかってたっけ?
890 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 21:30:33
>>888 この必死さは、九州説厨のにおいがするな。
おまえ、畿内説じゃないだろ?w
891 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 21:35:22
水銀があれば金がとれるよ。
当時、金が価値を持つ社会だったら、水銀を珍重するには十分な理由であろー。
>>888 叩けるレスだけ選び出して叩くというその非合理的な姿勢にオカルトを感じるw
893 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 22:18:10
>>879 古代人を馬鹿にしてはいけないですね。死んだ人間が蘇ったためしのないことは大昔から経験してきた
ことです。愛する親族が死んだときその再生を願うのは自然なことでしょうが、願っても叶わぬことぐ
らい古代人にも分かっていたでしょう。本気で蘇生を信じていれば棺に閉じ込めて土の中に埋めたりは
しないでしょう。
水銀朱は赤色顔料として優れていたからそれなりの価値があった。しかし、それ以上のものではなく、
王権の誕生に関わるほどの重要性は持たなかったでしょう。記紀にそれらしい記述もないでしょう。
>>892 いや、発掘された棺桶に水銀が何kg使われた云々という話を叩くことは無いよw
俺はそんなところを叩いているんじゃないから。
顕著な事象が見つかった時に、とりあえず合理的理由が見つからないという理由だけで、
それをオカルトネタに放り込んで、適当な思い付きで、「俺の今日の連想ゲーム」の類だけでネタを作って
出鱈目な「宗教的概念」を主張することを批判しているだけ。
まあ、俺はこの程度では、「有用な防腐剤」だろうと思うけどね。
たまたま有用な防腐剤が派手な色をしていたことも手伝って、棺桶塗装として流行したということ。
これ以上の説明をしようとすると、今から書くような阿呆ネタ(全く想像で書いたw)となってしまう。
メソポタミア文明では、アスファルトが珍重された。宗教施設には必ず、漆黒のアスファルトが見られる。
これは、遮る物の無い灼熱の平原であるメソポタミアにおいて、
黒色こそが、聖なる色として珍重されたということを良く示しているだろう。
また、アスファルトは舟の防水塗料としてももてはやされた。
メソポタミアは水路の国である。水の神に対して、漆黒のアスファルトを献上するという意味もあったろう。
そして、メソポタミア地域は、石油とアスファルトの一大産地である。
メソポタミア文明が、世界最古の文明足り得たのは、
聖なる漆黒の物質、アスファルトが世界の人々をひきつけたからではないか。
奇しくも、今のイラクも、石油で世界の超大国を惑わせているではないか。
895 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 22:46:54
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
896 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 22:50:25
だから・・・両極端なんだよな、言ってることが。
おれは
>>879ほかを書いてるが、必要以上に朱の重要性を説くつもりはないし、
まして畿内説の根拠にしようなどという恣意的な立場は取らない。
>>894のような思考にはむしろ共感するが、単に有用&流行という見方は、
あまりにも現代人の視点に拘泥した、硬直した思考だと思う。
>>893も、これは現代人の視点を古代人が持っていたとあたりまえに考える
身勝手な感覚で、むしろ古代人を馬鹿にしている。
まして、己を神の裔だと信じる君主がどんなことを考えていたか・・・
中国の古代皇帝たちがどれだけ不老不死にこだわっていたか知らないのか?
どれだけそのテーマにまつわる伝承が民間に残されているか知らないのか?
その上、古代日本は彼らの死生観や葬制に全面的に影響を受けているんだぞ?
マジックというものが当時の先端科学としてあったということを
「合理の上から」認めないと、彼らの意図や目的を読むことは出来ない。
897 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 22:50:37
>>894 宗教的概念の定義から始めたほうがよいかもしれんね。
古代では、「貴重なもの=有益なもの=邪気を祓うもの=宗教的なもの」ではないのかね?
898 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 23:12:21
縄文人とかのコテはどこへ行った?
899 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 23:18:03
>>896 >中国の古代皇帝たちがどれだけ不老不死にこだわっていたか知らないのか?
知っている。だが、水銀朱を不老不死の仙薬として愛用して効果があったとされる皇帝は知らない。
>どれだけそのテーマにまつわる伝承が民間に残されているか知らないのか?
そんなに沢山は無いだろう。それに水銀朱が有効だと証明されたような話は知らない。
>その上、古代日本は彼らの死生観や葬制に全面的に影響を受けているんだぞ?
それは本当か?古代日本の誰が中国の古代皇帝達の死生観や葬制に全面的に影響を受けているのだ?
具体的に例を挙げて示してくれ。
900 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 23:20:49
三角縁神獣鏡が国産なら、もろに影響受けてるよな。
本論無視の負け惜しみモードになったらもう付き合えないよ。
もう少し見所のあるやつかと思ったが。
あばよ。
>>896 いや、本場中華の神仙思想は、オカルトとしてのきちんとした論理的体系を持っているわけで、
その中に、まず形而上学的な世界観(森羅万象の説明)、人間の生の捉え方(死生観)などがあり、
そのうえで、特定の物質、色彩、方角、作法、墓制などが位置づけられている。
これが「オカルトの体系」というもので、
この思想体系に則った上でないと、神仙思想云々の影響を判定することさえできない。
ただ棺桶がべたべた朱色に塗りかためられていただけで、
「ピコーン!!ひらめいた!!これは神仙思想だ!!ピコーン!!これは不死を願う色に違いない!!」
という思いつきを披露したところで、たとえ大教授のお言葉だろうが、素人の感想の域を出ない。
それに、そもそも「人は一日でも生きながらえることを願うはずだ」という死生観自体、
ある特定の死生観と世界観を前提とするものでしかない。
中華では不老不死願望は当たり前だが、インドでは、生きること自体が苦行になってしまう。
そして各々の死生観は、すべてそれぞれの文明の持つオカルト的体系・世界観に支えられている。
オカルトを論ずるためには、こういうことを全部精査しないといけないんだよ。
中華世界の神仙思想を、古代奈良人が理解して信じていたのかどうか。
文字文献が無い以上、さまざまな遺物から、
文字文献に匹敵する確実さをもつような、オカルト体系が存在したのかどうか厳格に審査するしかない。
「東が海に開けていたから東方信仰があった!」なんて話にならない。
903 :
水銀厨:2010/03/19(金) 00:27:17
>>888 大体水銀なんてオカルトネタではないですよw
宇陀・吉野周囲が鉱物資源が豊富な事は紛れもない事実です。
どっちかというと物欲的なもんでしょう。
貴方は宗教についてもう少し勉強した方がいいですよ。
904 :
水銀厨:2010/03/19(金) 00:34:22
>それは本当か?古代日本の誰が中国の古代皇帝達の死生観や葬制に全面的に影響を受けているのだ?
具体的に例を挙げて示してくれ。
飛鳥・奈良時代の文化その他なんて影響下にあるでしょ。
仏教思想を積極的に受け入れる点なんかも道教に近いと言える点だし。
大体「ここは秦王国か?」なんて発言からもそれは伺えるからね。
>>899 方角と朱の宗教的意義を叩き始めた言いだしっぺだが、どうもそれへのまともな回答は無理っぽいよ。
別に他のスレ住民がダメなわけじゃない。学界全体がそんな感じみたいだから、どうしようもない。
壺の形や地層の分析のような形而下ネタについては、あんなに厳密に議論する人々が、
信仰絡み(俺はここでは「オカルト」と言っているが、前近代の形而上学全般のこと)になると、
その世界観の体系を丁寧に批判的に分析しようとする態度が、すっぽり抜け落ちるみたいなんだ。
中国風の鏡がみつかる→道教!!
水銀朱がみつかる→神仙思想!!
日本は中国に近い→中国思想受容!!
短絡的にもほどがあるww
まあ、日本人の形而上学(呪術的な抽象思想)嫌いはいまに始まったことじゃないからなあ。
仕方ないのかもしれないね。
>>水銀厨さん
水銀朱がとれてなかったら巻向成立はありえない
とかまで主張してるんかね
そこらへんの主張がいつも見えてこないんだわ
水銀朱が当時の風俗的に重要な扱われ方をしていたぐらいの主張なら
否定はできんけどそれがどう巻向にかかわるかだよ
>>905 よくわかるんだが叩くだけじゃなく自説をそろそろ
披露してくれるとありがたいな
結構面白いよ
907 :
日本@名無史さん:2010/03/19(金) 08:18:58
宇陀で水銀が取れなければ、マキムクに祭祀場ができた理由の一つが消えるな。
>>906は、マキムクに祭祀場ができた理由を別のことに想定してるようだが、お聞かせ願えるか?
908 :
水銀厨:2010/03/19(金) 08:33:59
>水銀朱がとれてなかったら巻向成立はありえない
とかまで主張してるんかね
天理〜桜井一帯が宇陀を初めとする
辰砂産地の入り口なんだから、根っ子を押さえるという意味でも
重要な成立要因の一つには間違いないでしょう。
物流、交易の適地という観点からなら河内南部でも
木津周辺でも問題ない訳ですから。
909 :
日本@名無史さん:2010/03/19(金) 22:33:16
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
一応自説も開陳しておくとするか。
水銀朱は、有用な防腐剤として珍重されたと考えられる。
ちょうど、メソポタミアやエジプトにおける瀝青(アスファルト、または石油タール)と同じような用途だ。
200kgというとんでもない数字は、巻向に於いて水銀朱がもはや汎用品であったことを示し、
希少な宗教的物質とはむしろ縁遠いという論拠となる。
神殿の向きに関しては、土地の等高線または山脈の向きに合わせて建物を建てた結果に過ぎず、
方角に特に宗教的意義は無いと断言できる。これはお話にならないのでこれでよい。
>>910 なにをもったいぶってんのか知らないが、
それ、おとといくらいに読んだ。
912 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 07:18:53
建物Dの北東部から大量の寄生虫の卵がでてる。つまり、ここはトイレ。
建物Bのまわりの塀からみて、西にむかって拝むって考えたほうがいいのでは。
913 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 08:17:38
>>910 防腐剤という概念があったことは認めたのか?www
古代の日本人は、太陽がどこから昇るのか?で暦を作っていたらしい。
特に山とか目印があると、「太陽がどこから昇ったか」を特定し易いわけ。
聖はそもそも日知りの転とも言われる。
暦を用い、民に農作業の適切な時期を知らせるのは、権力者、神官の役割だった。
こういった経緯で、自然と東の方角を聖と見る宗教観が生まれた。
こういう考察はある程度信憑性のある話だと思うがな。
>>910 >200kgというとんでもない数字は、巻向に於いて水銀朱がもはや汎用品であったことを示し、
>希少な宗教的物質とはむしろ縁遠いという論拠となる。
俺は水銀厨ではないがw
水銀朱も産地が特定される訳で、交易でしか入手出来ない以上、
流石に希少性は失われてなかったと思うよ。
まあ、確かに過度に神仙思想と絡めるのは安易と言われても仕方ない。
特定首長墓を朱で飾るのは、まあ一種の流行りだった、でいいとは思う。
正直、水銀朱は、マキムクスレでの議論の中心ではないので。
イヨタン・・・・・・・・・・
>>911 実質的にはもう全部書いてしまっていたんだが、
改めて自説を開陳しろというレスがあったから、仕方なく開陳したのさ。すまないね。
>>913 そんなものは最初から認めているw
防腐作用があるから信仰の対象だったなどと考えるのが馬鹿げているんだよ。
そんなことを認めたら、
昭和の大日本帝国は、「梅干しを信仰の対象としていた」という話にすらなりかねない。
「日の丸弁当」は、本気で民族食として推奨されていたからな。
まさに天才バカボンだな。「ボン・ボン・バカボン・バカボンボン(笑)」
>>915 希少かどうかは、相対的なものだからね。
俺は、世界史的に言えば、瀝青並みの使われ方をしていたと判断する。化学的にはいろんな意味で恐るべきことだがw
当時の瀝青も、たとえばエジプトでは渡来品であって、希少品といえば希少品。
瀝青は、日本でも新潟や秋田で産出し、縄文時代には東日本一円、なんと関東平野まで流通圏が広がっていたので、
巻向がこれを全く知らず、危険な有害金属塗料を使いまくったということは、
やはり、巻向は日本海側ルートとは相当縁遠いということを示唆するのかもしれない。
919 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 14:38:45
>>918 さて、どうして、アスファルトが信仰の対象でないとわかるの?
それは、エジプトの棺にアスファルトがまかれて無いからでしょ。
一方、朱が宗教的なものとされるのは、棺に朱がまかれてるから。
なんで、こんな単純な話を理解できない(わざと理解しようとしない)のかな?
920 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 14:42:41
>>918の理屈で進むなら、古墳でさえも「宗教的施設ではない」と断じないとおかしい。
ピラミッドだって宗教的施設より、ただの造形物かもわからん。
どうする?「前方後円墳は、墓ではない」と言い切ってみる?
墓だというなら、どうして墓だと言えるの?
921 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 14:48:25
水銀朱が、それほど重要なものなら、
どうして後世に水銀朱の利用やそれにまつわる話が伝わってないのか。
銅鏡や古墳はあれほど長い間珍重されているのに。
>>919 エジプトでは、棺桶どころか、ミイラ自体に瀝青が使われていたわけだがw
それでも瀝青や水酸化ナトリウムという物質に、「宗教的意義」などを想定する者はいない。
水銀朱つまり硫化水銀に宗教的意義があるかどうかに対応するのは、「ピラミッドが宗教的かどうか」ではない。
「ピラミッドを構成する 石 灰 岩 に宗教的意義があるかどうか」だ。
まさか、古代エジプトでは、石灰岩が宗教的意義を持っていたのか?
今の日本では、墓石として普通の「花崗岩」に宗教的意義があるのか?
またも珍説を書きたくなってしまうw
21世紀の日本では、花崗岩が深く信仰された。全国で出土する墓石の大半が花崗岩であることで証明される。
ところが、同じ花崗岩が、東京や大阪などの中心部の巨大建築物に用いられていることが明らかとなっている。
21世紀初頭と言えば、日本でも次々と巨大建築が建てられた時代、
そこに死者のよりどころとして深く神聖視された花崗岩が多用されているということは、
21世紀の日本において、日常生活に「死」と「神聖視」の概念が深く根付いていたということだろう。
日常の勤務で、買い物で、花崗岩を見るたびに、深い宗教的意義を感じていたのだろう
>>922 奈良の大仏とかメッキに使われてるんじゃん?
ていうか
水銀に葦を差し込んでかたっぽ結んで引き上げれば
気圧計の出来上がりだろ。
まあ俺の想像だけど、こんなのが鬼道の秘法だったんじゃね。
925 :
水銀厨:2010/03/20(土) 19:27:32
>水銀朱が、それほど重要なものなら、
どうして後世に水銀朱の利用やそれにまつわる話が伝わってないのか。
銅鏡や古墳はあれほど長い間珍重されているのに。
いっぱいありますよ。神社、地名や伝承etc‥
奈良の枕詞にすら残っているしw
ただ年月と共に価値観の変化が生じてしまっただけです。
その古墳の中心部に、銅鏡に囲まれて埋葬されているのが
他でもない水銀朱ですから。
他地方ではわずかな水銀朱が一握り頭部中心に撒かれているだけだが、
巻向近辺でのみ大量に使われている点で、希少性を説明できます。
汎用品なら他地方でも豊富に使用されますよ。
>>916 誰からもそれは水銀燈という突っ込みがこなくて寂しい
鏡の代りに水銀朱を配ればよかったのにね。
大変貴重なものらしいから。
928 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 20:21:41
>>927 水銀朱でどうやって一族を見分ける?
鏡なら文様で自分の素性を示すことが出来る。
929 :
水銀厨:2010/03/20(土) 20:36:49
>>927 水銀朱を貴重品として重宝したのは
大陸の文化・思想に影響を受けた人物でしょ。
もし配っていたのなら仙薬として飲んでいた可能性は
あると思うけどね。
奈良のお水取りの儀式でベンガラ(辰砂の代用品だろう)を
舐めるなんていうのがあるが、関係者ですら
意味がわからないまま残っていたりする。
>>926 まったく、このスレの年齢層を考えろですぅ。
931 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 15:54:35
932 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 23:45:24
素人ですが・・・
神武天皇の東遷ってのは、実は東遷じゃなくて、
実は大和を基点とした征西だったんじゃないかという説がありますが、
例のルートは逆向きということで、そうなると邪馬台国は近畿になっちゃいますけど・・・
あくまでも一説なので、物証とか何もないんですけど。
筋書きとしては、こちらのほうが整合性があるような気もするし・・・
こちらのえろいみなさんの持説等ではその辺どうなっておられますのでしょうか?
奈良盆地のうちで淀川水系に近いイワレの王だったのが、
南進して、大和川水系のオオヤマトに行った、とかそんなとこじゃないの?
934 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/03/22(月) 00:46:01
>>932 大和(邪馬台国)の征西に同意いたします。神武天皇の東征など日本の歴史上ありませんでした。
神武天皇は架空の天皇でしたし欠史八代の天皇は実在しません。その天皇陵は全部偽物でした。
したがって邪馬台国九州説・東遷説・九州王朝説などは昔からホラ話しでしたし今でもホラ話しです。
935 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 00:56:06
936 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 01:18:44
>>932 神武東征については、記紀に詳しく書かれているから。
日向を発って、宇佐に行き、筑紫国から安芸、吉備を経て大和となっている。
そのあとも、河内国草香邑から生駒、孔舍衛坂で引き返し、東に回って熊野と、
地名がはっきり書かれているので、征西というのはありえないな。
>>932 合理的な解釈だとはとても思えないなあw
というのは、「征西」に関しては、記紀自身が、その後の話として、吉備津彦からスタートして
景行帝の筑紫行き、熊襲健の話など、かなり詳細な「西への支配プロセス」を記述している。
史実の西征が神武のポジションにあったのに、わざわざ西征の記述を「後倒し」すると考える合理性が何もない。
俺自身は、発想法としては
>>933に良く似た解釈をとる。
>>936の「考え方(思考スタイル)」には絶対反対。
あの神話は、記紀編纂時の各地部族の伝説の「縫い合わせ」と考えている。
1 宇陀の山賊が奈良盆地に降りて磐余の首長となった。
2 瀬戸内海の海賊が、大阪湾方向から河内を攻めて撃退された。
3 吉備の豪族が、瀬戸内海を東へ向かう勢力を支援した。
4 北部九州の豪族の支族が、東へ向けて出発した。
これらは全部、「別の地域」の「別の豪族」の「別の神話」だったと考える。皇室が元々持っていたのは1だけ。
2は、その原型は逆に「河内・大和在地勢の、国土防衛伝承」だったかもしれない(唐子・鍵と関連か?)
3は、考古学的に明らかにされている「吉備勢が早々に大和政権に参画した」ことの反映だろう。
吉備勢の末裔が、「最古参の臣下」であることを改めて主張するために記紀に挿入したのではないか?
4は、もっと古い遠賀川式土器の時代からの茫漠とした古伝承だろうな。
これと接続させることにより、皇室が、西南日本全域の支配者としての正統性を裏書しようとしたのだろう。
938 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 08:55:20
ついでに天孫降臨も、日向の土民の昔話を、皇室が頂いたものでしょ。
939 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/22(月) 10:01:59
>>934 架空とする動機もあるまい。架空に神武、八代を捏造したって、大陸の
三皇五帝とか殷、夏よりも古い設定ではない。つまりオマエが津田妄想
病原菌に脳内が蹂躙された結果の盲象でのオマエ自身が空想した考察と
するのが相当である。だいたい神武以下9代分も架空の天皇を造るため
にまた猫wwの墓のために、多大なカネと万の労働者を集めてあくせく
20年も30年もかけて陵墓を造作するほど朝廷の知能は低下はしていない。
だいたい架空ならば、工事監督以下労働者らから失笑と苦情がわんさと
出て、止めてくれと公言され、どこかの古文献とかにそういう空想反対の
過去の記事が載るはずだし、そんなものはない。
陵墓に見えず単なる小山のようだと文句を言ったて、当時の朝廷の勢力
は後代に及ばず畿内の一豪族程度の時代であったのだから、小山程度だと
いうことは不合理にはならない。これらを総合して考察するに、これは
半玉の唐松山の次席に置くべきひどい妄想度なのだという事になる。それ
には津田以下この病原菌に置かされた連中の「先に結論ありき」の大して
調べもせずウラ付けもないいい加減なインチキ論であって、まるで猫の
サカリのような遠吠え論というのが妥当であろう。ww
>>938 あれは、博多の昔話と淡路島の昔話をミックスさせて、
どちらの痕跡も残らないように、全く無関係の宮崎県を舞台に創作した物語だね。
これを素で信じ込んで、宮崎県に巨大モニュメントを建設して巨大儀式を次々と行った
昭和の大日本帝国はどんだけ阿呆なんだという話になるわけだが。
941 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 10:16:05
■纒向のすぐ「そば」 三輪そうめんPR
◎シンポで振る舞い
古代史最大の謎、邪馬台国の所在地について専門家が議論を交わすシンポジウム「卑弥呼はどこに?邪馬台国と纒向(まきむく)遺跡」(朝日新聞社主催、桜井市、
県立橿原考古学研究所協力)が開かれた大阪市中央区のエル・シアターで20日、纒向遺跡がある桜井市の特産品、三輪そうめんが無料で振る舞われた。
振る舞ったのは、県内のそうめん業者ら約100軒でつくる県三輪素麵(そうめん)工業協同組合。平城遷都1300年祭にあわせて広くPRするためで、県外のイベントに参加したのは初めて。
開演前と休憩中に、各100食のにゅうめんを用意。はっぴ姿の組合員らが容器を手渡ししたが、すぐに長蛇の列ができ、あっという間になくなった。
兵庫県芦屋市の主婦、東野延子さん(75)は「普段は違うそうめんを食べていたけど、三輪そうめんは細くて口当たりがいい」と喜んでいた。
同組合の寺田裕彦理事長(63)は「これまであまりPRをしてこなかったが、纒向遺跡の発掘を機に、すぐそばにある三輪のそうめんを知ってもらえれば」と話した。
また、会場入り口では桜井市商工会の特産品部会が、わら製品や柿の葉ずしなど、約30種類の特産品を販売。同市もふるさと寄付金のチラシを配り、協力を呼びかけた。
朝日新聞?2010年03月21日
http://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000001003210002 シンポジウムの会場入り口で振る舞われた三輪そうめん。カツオだしのつゆが注がれ、香りが漂った=大阪市
http://mytown.asahi.com/nara/k_img_render.php?k_id=30000001003210002&o_id=7947&type=kiji
>あれは、博多の昔話と淡路島の昔話をミックスさせて、
>どちらの痕跡も残らないように、全く無関係の宮崎県を舞台に創作した物語だね。
これ大丈夫? ほんとの話?
もし間違いなのに、あなたが素で信じてるとしたら、あなたもかなりの阿呆だよ?
>>942 「言い切った」のが癪に障った宮崎県民かな?w
まあ、俺の考え方では、皇室の故郷ではなく、記紀編纂者が「何処に住んでいた連中から元ネタを貰ったのか」
というだけの話なので、「故郷の確定」の意味は薄いんだがな。
天孫降臨部分については、
北部九州とすると分かりやすい部分(いろんな人が指摘しているが「朝鮮半島を肉眼で臨める」が決定的)と、
淡路島と解釈したほうがすっきりする部分がある。
穏当に考えれば、このちゃんぽんとするのが合理的。
神話の大半は、記紀編纂者がこんな感じであちこちの昔話をつなぎ合わせて、
最終的に皇室マンセー風味に纏め上げていったという具合だろう。
記紀にはあちこちの地名が出てくるが、宮崎の全部と島根の大半は、編纂者の舞台設定としての創作だろう。
何より、特に宮崎に関しては、地理的合理性と考古学的裏付けがどちらも全くない。
編纂時にはすでに「遺跡」であった西都原古墳群あたりにかこつけて、新規に舞台設定したのではないかと思われる。
944 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 14:00:08
>>943 >何より、特に宮崎に関しては、地理的合理性と考古学的裏付けがどちらも全くない。
南方系からの渡来を全く考慮しないのはどうして?
まあ神話ネタを全くスルーしろと言う方が無理かもしれんがw
何処かの氏族が自分達の始祖神話として
「うちのご先祖さんは消防署の方から…もとい、九州の方から来たらしいでぇ…」
なんてものを伝承していて、それが元ネタであれば、もはや考古学的考証もハナから無理な話し。
加えて言えばアマテラスと言う太陽神の神話は東南アジア太平洋地域の言わば南洋形であり
天孫降臨神話は北東アジア系で元より源流が違う。
それをミックスしたものをあたかも一つの史実から作られたようなお話はあまりにも幼稚で荒唐無稽。
今のところ「天孫降臨」「神武東征」はあくまで神話。
それを歴史の俎上に乗せるだけのネタが無い。
お話を作ろうと思えばいくらでも作れる…って事で
「ボクの考えた神話ストーリー」の発表会と化し、終いにはグダグダになるのがオチwwwwwww
946 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 16:44:23
神武東征を史実とする根拠があればいいんだけどね。
吉備に、「神武を迎えて、大和に送った」という伝承があるとか、
そんなんでもいいんだが、それすら無いのが現状では、7世紀の創作と見るしかあるまい。
947 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 17:30:46
記紀では、天孫降臨を境に、舞台が高天原から日向に移っている。
つまり、瓊瓊杵尊以下の三代は日向で暮らしている。だから、日向での様子が
詳しく書かれている。
そして、四代目の神日本磐余彦(神武天皇)が日向から東征する。
記紀と別系統と思われる王年代記には、神武天皇までの23世が筑紫の日向宮に
都す、となっている。
いろんな記録にこれだけ詳しく残っている日向は、やはり無視できないだろう。
948 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 19:57:45
せっかく、河童やドツボ等のクソコテがいなくなって議論がしやすくなったが、
この東遷厨は死ぬまで居座る気だな。ww
>>944 え??まさかして、「沖縄超古代王国」とか「弥生人はポリネシアからやってきたオーストロネシア語族」とか
ムーにのっているような説の可能性を真面目に信じているのか?
弥生時代の琉球列島は、人と文化の流れとしては、九州→南西諸島の一方通行(しかも南下はどうやら1回だけ)。
交易は当然双方向で行われるから、熱帯系の貝やビロウの葉など、北上して西南日本に達した物資もあるが。
950 :
932:2010/03/22(月) 21:27:27
みなさん、貴重な意見ありがとうございます。
私が東征説に納得いかないのは
神武の勢力は日向から出発したくせに、その後100〜200年くらいして
日向とはほとんどお隣に位置するクマソ討伐を行ってる件です。
クマソの勢力って、ヤマトとは明らかに異形の文明文化っぽいんだけど
そのへん非常に違和感を覚えます・・・
それと、遠征するにはそれなりの兵站、補給能力が必要なはずなんだけど
高千穂峰みたいな小山周辺で(つーか火山w)物質にそれほど恵まれた土地のようには思えません。
兵糧を長年調達出来るだけの穀倉地帯を見渡すとなると
やはり肥沃な奈良盆地が妥当に思えるのですが・・・
あくまでも素人意見なんで(ある歴史学者の説を参考にしてるけど)
御叱咤のほどお願いします(^^;)。
951 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 21:37:41
神武は身内全員が東征したのではないでしょう。一部の身内は残っているはずです。
それなのに、九州出発後、九州と何の連絡も取ってないようですね。
援軍も来ないし、援軍の要請もしてなさそうですし。
まるで逃げ出してきたようですね。この辺りどうなんでしょうね。
>>948 >この東遷厨
「いろんな記録に」「これだけ詳しく残っている」
↑
こんなふうにミスリードしようとしているところで見分けてるのかな?
「王年代記」は「宋史」日本伝によれば、984年に東大寺の僧「然(ちようねん)が宋の太宗に献上した書物。
その一巻というボリュームから考えて、「古事記」(全3巻)や「日本書紀」(全30巻)の、
おそらくダイジェスト版のようなものだと思われる。
953 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 22:41:14
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
>>950 その最初の疑問には、心底同意するよ。その後の発想は全く違うけれど。
俺は、おそらくその宮崎のどうしようもない「僻地さ」こそ、
宮崎が「日向」という皇祖神話創作の主たる舞台に選ばれた理由だと思っている。
宮崎を皇祖発祥の舞台に描いたとしても、それを逆手にとって、
宮崎から皇位簒奪の大反乱が起きる心配は無い。あまりにも貧しすぎ・僻地すぎだから。
もう一つの理由は、宮崎はかなり早い時期から、なぜか畿内の影響を受けていて、
鹿児島と違って、ある意味「安心できる」地方だった。十分手なずけていたから、
鹿児島と連携して「熊襲大反乱」を起こされる心配もなかったのだろう。
これは、「宮崎県という場所は、どう見てもまったくの創作である」ということだけで、
具体的に元ネタがどこのもので、どんな操作を加えられたのかは、もちろん良く分からない。
某説が言うように、「日向」を「ひなた」→「ひうが」と読み替えて
地名をすり替える阿呆レベルの言葉遊びだけで済んだのか、
それとも「日向」という地名選択自体が創作なのか。
記紀の話はやっぱり脱線なので、これくらいにしておこうと思う。
955 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 23:15:00
どげんかせんといかん!!
956 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 23:27:36
>>954 「日向」の地名は、景行天皇が命名したと日本書紀にはっきり書いてある。
古来からの地名じゃなくてね。
ニニギとか祖先の墓を参拝したような記録もなく、土蜘蛛を退治してるだけ。
神武東征が創作である証拠。
957 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 23:27:54
>中村明蔵・鹿児島国際大教授(地域史)は、これら日向神話の舞台が襲(鹿児島県国分市周辺)
吾田(万之瀬川下流域)など熊襲や隼人の根拠地とされる地域で、内容的にも南方系の要素が強
いことに注目、「日向神話はもともと隼人が伝承していた神話」とみている。
「隼人の神話を取り込んだうえで、隼人を朝廷に服属させることを正当化するための造作を加えた
ものが記紀の日向神話。そこには記紀編さん時の、南九州、南島の領域化という朝廷の政治的関
心、意図が強く反映している」
958 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 23:29:42
>>950 熊襲というのは蔑称なんだろう。これには大和朝廷も苦労している。
景行天皇やヤマトタケルノミコトの熊襲征伐は有名だし、仲哀天皇も熊襲征伐
に行こうとしていた。結局、この地方が大和朝廷の支配下に入るのは、
西暦720年の大規模な遠征の後ということになる。
それはまあ良いとして、日向、特に宮崎周辺は、畿内あたりの文化と共通性
が多い。墓制も非常に似ている。
ただ、地下式横穴墓という独特のものもあり、これをどのように解釈するか
という問題がある。
恐らく、在来系とよそからやってきた勢力との共存を意味するのだろう。
しかも、地下式横穴墓の副葬品を見ると、けっこう豪華で、虐げられた在来系
というイメージはない。ただ、宗教観の違いのようなものが感じられる。
これは、鹿児島県の太平洋側、肝属平野にも共通する。
ところが、内陸部や西部になるとかなり文化的に異なるものがみられる。
これらをどのように解釈するか。
恐らく、弥生時代は、南九州のほとんどは同じような文化を持った共通の
人々だったと思われる。そこに異なる文化を持った人々がやってきたの
だろう。では、異なる文化を持った人々がどこからやって来たのか。
記紀をそのまま信じるとすれば、これは高天原からやってきたことになる。
959 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 23:32:39
>和銅7年(714年)には隼人を「相勧め導かしむ」ため、豊前国から隼人の居住地へ200戸の移民が行われた。
10世紀の百科事典「和名抄」に大隅国桑原郡に豊国郷の名が見えることから移住先は桑原郡とみられている。
このほか薩摩国高城郡には肥後国の郡名と同じ合志、飽多、宇土、託萬の郷名が見えることから、薩摩国には
肥後国からの移民が行われたようだ。
「桑原郡は大隅国の、高城郡は薩摩国の国府所在地であり、国府周辺を移民で固めて、隼人の分断や監視の
役割を担わせた」と中村さん。大隅国府跡近くにある鹿児島神宮(鹿児島県隼人町)に、八幡信仰が見られるの
も、「宇佐神宮(大分県宇佐市)の信仰が豊前国からの移民とともにこの地に入ってきたもの」だという。
隼人諸部族には6年交代での朝貢を義務付けるとともに、和銅3年(710年)には、日向隼人の曾君(そのきみの)
細麻呂を外従5位下に叙するなどの懐柔策もとった。記紀に隼人の神話を巧みに取り入れ、隼人と天皇家をともに
天孫系とする造作は、日鮮同祖論と同種の理屈付けであろう。
960 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 23:34:37
>「続日本紀」によれば、隼人の「反乱」を受けて、朝廷は歌人としても知られる大伴旅人を征隼人持節(じせつ)
大将軍とする征討軍を派遣した。「反乱」の実体は、7世紀末からヤマトの支配が強化されたことに対する「抗
戦」であったとみられるが、戦いは1年数か月間続き、「斬首獲虜(かくりょ)合わせて千四百余人」と記録する。
隼人は敗れ、律令国家に組み込まれた。
律令制で隼人は衛門府の隼人司(はやひとのつかさ)に属し、宮門の警備や、元日や即位、外交使節の入朝な
どの儀式に武装して参列する〈天皇の守護人〉とされた。一見格好いいが官人の入場の際に、犬のような吠声
(はいせい)を発する役割だ。6年交代の朝貢も継続され公民と区別され続けた。
961 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 23:39:17
>縄文時代晩期、北九州・山口に朝鮮半島から新しい文化を携えた、高顔、高身長の人々が渡来し、
土着の人々と混血することによって、土井ケ浜のような体質を生み出した。しかし、その渡来は一
時的であり、その数も在来の縄文人に比してはるかに少数だったために、古墳時代には早くも身長
や顔高に逆行現象が起きてしまった。
この現象はただし、北九州・山口地方のみに起こったことであって、南朝鮮経由と思われる渡来要素
は南九州までは達していない。しかし、東方へはかなり強い進出があったと思われ、特に近畿地方には
弥生時代以降も引き続き大陸要素の渡来が持続したことを想像させる。
あくまでここは『 纏 向 ス レ 』だからな。。
963 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 23:44:45
つまり、まつろわぬ隼人と記紀の成立には密接な関係がある。畿内と文化の共通生があるのは
隼人支配のために移植された人々や、現地で早くからヤマト王権と結んだ勢力がいたため。
隼人そのものは、形質的に古モンゴロイドを色濃く残す人々。渡来人系が多くなった8世紀の畿内
とは異質な民俗。
964 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 00:01:24
>塚口義信・堺女子短大学長(日本古代史)は、考古学的にうかがえる盟主権の変動を投影した記述として、仲哀記、
神功紀に見える忍熊王(おしくまのみこ)の反乱を挙げる。
仲哀天皇没後、神功皇后が三韓征伐を終え、生後まもない誉田別皇子(ほむたわけのみこ)を伴い筑紫から大和
へ帰還する際、皇子の異母兄の忍熊王らが「吾等(われら)何ぞ兄を以て弟に従はむ」と挙兵した。皇后は詭計を
用いて忍熊王を破り、誉田別皇子が皇太子となる。のちの応神天皇だ。
「忍熊王の反乱の実体は、朝鮮半島政策を巡る4世紀末のヤマト政権の内部分裂で、その結果、応神が大王家の
正当な後継者である忍熊王を打倒して河内王朝を樹立した。日向の諸県君一族が河内大王家の姻族となっている
のは、彼らが応神側に加担し勝利に貢献したことを物語っている」
塚口さんはさらに、いわゆる神武東征――初代天皇を日向出身とする伝説も、5世紀の河内王朝の時代に、4世紀
末の内乱をモデルに構想されたものとみる。つまり王権を簒奪した河内大王家と諸県君一族が、皇祖はもともと日向
出身とすることによって、自らを正当化しようとしたというのだ。
965 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 00:02:19
続き
>日向を出発した神武天皇の船団は、河内の草香邑の白肩之津(東大阪市)に上陸する。この草香こそは5世紀代、諸
県君一族の髪長媛と仁徳天皇の間に生まれた大草香皇子(おおくさかのみこ)ら日向系王族の拠点だった。
「神武が日向を出発し草香に上陸しているのは偶然とは思えない。神武が大和の在地豪族長髄彦を破り、橿原宮(奈
良県橿原市)で即位したとする記述も、応神が忍熊王を破り軽島の明宮(あきらのみや)(同)で即位したことに対応し
ている」
ヤマト政権の初代天皇が大和を攻め滅ぼして即位するという不自然な伝説の背景には、河内王朝の成立事情が絡ん
でいたことになる
古市・百舌鳥の古墳群の成立期を考えると、
「応神」以前に「河内王朝」(私は別に肯定してはいないが)は始まっていたでしょう。
大草香皇子なんてハッキリ言って建国史を塗り替えるような重要なポジションにいたとは思えないし。
橿原と軽を簡単に結びつけちゃうのもどうかと思うなあ。
いくら近いっつったって、「軽」のそのものに都を置いた帝として懿徳や孝元がいるからねえ、
神武だって「軽」で即位すりゃ良いし、応神も「橿原」で即位すれば良い。
それと、南九州の地は「三輪王朝」(私は別に肯定してはいないが)の時代から、
畿内とよく似た古墳が造られていて、関係は見られます。
まあ同一氏族が造ったものではないでしょうが、要は古くから畿内政権と南九州は接点があったっつうことです。
967 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 00:29:36
マキムクと関係ない話ばっかりだな
968 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 00:32:15
>>967 纏向の話ばっかりしても、纏向はわからないと言うことだよ。
969 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 00:56:39
>>968 じゃあ纏向の理解に繋がる話をしろって事だな。
九州王朝かそれに順ずるようなマイ史観を披露するなら他でやれと。
前のほうで、水銀厨と東方信仰厨を徹底批判した「反方位厨」だが。
教授様や学長様のお話より、
水銀厨の主張のほうが、まだよほど真実に迫っている部分がそれでも存在する
レベルの高い議論であるように思うのは、俺の気のせいなのか?
いくらマスコミ相手の談話とはいえ、
日本の古代史学会って、こんな眠たい平凡な思い付きネタの開陳でも
学問活動として高く評価されるような世界なのか?
俺の読めない、何か凄いことでも書いてあるのか?
高校教師の趣味の自費出版本でも、出版社に止められそうなレベルの話にしか見えないんだがw
>949
え?
九州から琉球への大規模な移動があったのは鎌倉時代前後の話じゃないんですか?
そのときに持ち込まれた新しい農耕技術の影響で人口激増してる事とも符合するし。
>958
クマ諸族/諸国とソ(曽於?)諸族/諸国を併せてクマソ、でしょ?
クマソの勢力範囲は、大隅や薩摩も含め、南九州全域じゃないかな
おまえらすぐ脱線するな
973 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 08:24:41
>>970 君は君で、マキムクが発展した理由を自分で説明できて無いだろ。
974 :
水銀厨:2010/03/23(火) 10:01:55
水銀朱=赤という事で色の事ばかり話題になるけど、
実は宇陀・吉野における自然水銀採取の事も忘れちゃダメですよ。
>>950 > 私が東征説に納得いかないのは
> 神武の勢力は日向から出発したくせに、その後100〜200年くらいして
> 日向とはほとんどお隣に位置するクマソ討伐を行ってる件です。
> クマソの勢力って、ヤマトとは明らかに異形の文明文化っぽいんだけど
> そのへん非常に違和感を覚えます・・・
記紀に出てくる東征って国家規模の侵略じゃなくて、
ごく一部の人の移動ですよ。
どの程度侵略的であったかさえよくわからない。
それから上の方にも書いてあるが、
北九州は小国乱立で、政治的に定常状態にあったと考えられる。
東や南を征服するような状況じゃない。
>>951 二男坊が家を出て田舎に土地を山ほど買ったような状況かと。
身内である神武が戻ってきたという事だよね。
東征なんて話ではない。
977 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 13:28:17
■纒向遺跡:弥生時代にない並び方 今夏以降に周辺調査−−奈良大で講演会 /奈良
◇「成果を楽しみに」 1300人聴き入る
奈良大学(奈良市山陵町)で、講演会「邪馬台国からヤマト王権へ−纒向(まきむく)遺跡の新発見が語るもの」が開かれた。
参加した約1300人は、奈良大OBで同遺跡の調査をしている橋本輝彦・桜井市教委主査と、前奈良大教授の白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長の話に聴き入った。
講演会は春のオープンキャンパスの一環として開かれた。
橋本さんは、同遺跡で見つかった3世紀前半の大型建物跡について
「大きさで注目を集めたが、建物の方向をそろえ、規則正しく並べたものが見つかった意味の方が大きい。弥生時代の遺跡にはなかった並び方だ」
などと述べた。また、今夏以降に周辺を調査することを明かし
「成果を楽しみにしてください」
と話した。
白石さんは、土器や古墳に副葬された三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)の年代研究が進んだことにより
「箸墓(はしはか)古墳(桜井市)は250年代に造営された可能性があり、卑弥呼(ひみこ)の墓の蓋然(がいぜん)性が高い」
と述べた。また
「箸墓を含めた周辺の初期倭国王墓や纒向遺跡などは、日本の国家形成を考える上で非常に重要だ。県や国が本格的な調査や保存を考えないといけない」
と指摘した。【高島博之】
毎日新聞 2010年3月23日 地方版
http://mainichi.jp/area/nara/news/20100323ddlk29040200000c.html
978 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 22:43:02
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
>>970 >前のほうで、水銀厨と東方信仰厨を徹底批判した「反方位厨」だが。
ああ、東方信仰は江戸時代以降とか言ってた人か。
「神武の記述ですでに東を聖視してるだろ」と書いたら、
伊勢神宮の向きが何たらとか話逸らしてた人。
「春分の日を祝わない太陽信仰は存在しない」とか無茶苦茶。
「安易に東方信仰に結びつけるのは剣呑」程度にしておけば誰も文句は言わないのに。
>>979 呼んだ?ww
俺は、東方信仰は江戸時代とさえ言っていないぞ。はっきり言うと、
「日本の東方信仰は、東と日の出と天照が神学的に合体した明治以降のもの」。
江戸時代でさえ、別に東が拝まれていたわけではない。
東方浄瑠璃世界を体現し東国を守護する東照大権現たるところの「神君家康」が拝まれていただけ。
繰り返すが、
太陽信仰と結びついた東方信仰が、二分(春分・秋分)を特別な祭礼期日と「しない」ことは、論理的に絶対にあり得ない。
天文学的に、信仰の対象たる太陽が東から昇るのは、この日しかあり得ないからだ。
「なんとなく太陽が東から昇るから、太陽の昇る東が信仰されるのだ」というのは、
初日の出くらいしか拝んだことのない人の言う机上の空論。実際の太陽は、半年で47度も出没地点を変える。
拝もうにも、毎日毎日出没時点の山の端がずれてしまい、どうにもならない。
それはそうと、近代神道の「伊勢は東・出雲は西」という神学の論拠として、
江戸時代の仏教世界の解釈によるという発想が、全く誰からも聞く耳も持たれなかったことのほうが意外だ。
この期に及んで、「皇国史観の桎梏」を、残念ながら感じざるを得ない。
神前結婚式などが、ただの大正時代の完全創作儀式であることなど、
「復古神道の伝統」なるものの大半が近代の創作であることは、知られてきているが、
まだ明治の思想に対する、「江戸時代の思想の強い影響」について、意識が及ぶ者は皆無らしい。
>>980 >太陽信仰と結びついた東方信仰が、二分(春分・秋分)を特別な祭礼期日と「しない」ことは、論理的に絶対にあり得ない。
じゃあさ、ニライカナイはどう解釈するのよ?
スレも終盤ですぐにDAT行きだろうから、余談を付言するが、
皇室の「伝統行事」として、明治になって唐突に
「春季(・秋季)皇霊祭」などという、なんとも珍妙な祭祀が出没したことの示唆することは大きい。
これが、仏教の彼岸行事のパクリであることは誰もが認めると思うが、
(まさかこれを否定する者はいないだろう)
これまで、皇室は、(仏事でなく)神事としては春分も秋分も祝わなかったということでもある。
いや、そもそも太陽=東方信仰で大事なのは「真東に昇る太陽を拝む」ことじゃないんであって。
むしろ、太陽が弱まる冬至こそが大事だろう。
暦法に拘る中国人ならいざ知らず、正直、真東にさほど意味はない。
>>980 >太陽信仰と結びついた東方信仰が、二分(春分・秋分)を特別な祭礼期日と「しない」ことは、論理的に絶対にあり得ない。
>天文学的に、信仰の対象たる太陽が東から昇るのは、この日しかあり得ないからだ。
>「なんとなく太陽が東から昇るから、太陽の昇る東が信仰されるのだ」というのは、
>初日の出くらいしか拝んだことのない人の言う机上の空論。
琉球神道、ウィキペディアで読んだけど、間違ってるわ、これ
おいおい、ウィキペディア(笑)である以前に、
「琉球神道(笑)」という単語自体に、「ニューエイジ思想臭」を嗅ぎ取ってもらわないとw
なんだかなあ。おまえさん方、
「13の暦は、古代マヤで使われた暦である」なんて話を、本気で信じそうな勢いだな。
>>985 でも実際、琉球神道では太陽が最高神で、東方=ニライカナイを信仰してたんだろ?
論理的に絶対ありえない筈じゃ? どう解釈する?
また伊勢神宮で話逸らすの?
987 :
さてこのスレもそろそろ終わりなわけだが…:2010/03/24(水) 20:32:04
>985
ニューエイジなんたらと言うとF・カプラとかライアル・ワトソンとかのアレか?wwwww
まあ「神道」と言う語自体が曖昧で
それを何処まで拡大して適用していいのかも基準もないだろうが
「琉球神道」と言う語が「ニューエイジなんたら」と言うのは始めて聞いた話だなwwwwwwww
飛ばしすぎると墓穴掘るぞw
ただ俺も「纏向で太陽信仰が行われていた」なんて話にはかなり懐疑的にならざるを得ない。
どちらかと言うと「太陽」より「水」の祭祀かなあ…
988 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 22:43:25
989 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 22:50:10
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
>>986>>987 「ニューエイジ臭(爆笑)」というのは、「古来の信仰復興」などの名の下に、
「既存の宗教からの決別」と言いながら、
相手の「古来の信仰」に、既存の宗教概念をそのまま持ち込み、勝手に投影・ねつ造した上で再編して、
奇妙な宗教概念を創り出している事態のことを言っているんだよ。
もちろん、こんなものは、日本でも吉田神道や平田国学など、ニューエイジよりはるかに昔から見られるが、
ニューエイジ運動の中で爆発的に増殖した。
西欧のペイガニズム復興運動などで気恥ずかしいほどの例を見ることができるんだが、
本当に、あちこちでみられる。
「琉球神道」という単語自体がそうなんだが、
(沖縄の在来信仰は、そんな「体系的な宗教」ではない)
>>986の「最高神」なんて概念自体、明らかに、この意味での勝手な割り込みの典型例。
要するに、近代神道の「天照」を勝手に投影して、
在地の習慣やら古典文献(おもろさうしなど)を勝手に読み込んだだけの創造概念。
他にも、
「アイヌの宗教には、北海道の大地を創造したアイヌラックルという根源的な天地創造神がいる。」
などというお馬鹿思想もある。
ニライカナイ自体、大和の神道の概念を勝手に割り込ませた概念の疑いが極めて強い。
>>990 むしろ逆で、琉球のが古来の形を残してると思うよ。
日本の神道は中国の影響を受け過ぎてる。
まあどちらにしても、変な断定口調がなくなって何よりだw
>>991 さらに脱線してすまんが、それも怪しいぞ。
大和が、隋唐帝国の文化の影響を全面的に受けた(それ以降は散発的)のと同様か、それ以上に、
沖縄は、明清帝国の文化の影響を包括的・全面的に受けている。
これは、首里城などの建築様式などに限らず、
信仰においても強く見られるわけで、
門中なんて、かなり強い明清期の儒教の影響を受けた家族形態・祖先信仰の形だ。
そして、門中無くして沖縄の信仰は語れない。
あまり、オリエンタリズムのドツボにはまらないほうがいいと思う。
「辺境原理主義」の誘惑は、洋の東西を問わず、あちこちにある。
>>992 ていうか水掛け論だし、結論なんか出ないだろ。あくまで蓋然性の問題。
そもそもが、マキムクの議論で東方信仰やら水銀は枝葉。
顔真っ赤にして「徹底批判」とか言ってる方がどうかしてる。
なんだよ、まだいるんだ、バカが・・・
995 :
あ、ちゃんと纏向に絡めますんでwww:2010/03/25(木) 01:55:06
>>980 で仏教の世界観に基づく東西対比の指摘があったが…
>江戸時代の仏教世界の解釈によるという発想が、全く誰からも聞く耳も持たれなかったことのほうが意外だ。
(まあ、この板はともかくリアルじゃあその程度の言及はあると思うがw)
以下、相当荒っぽい理解なんだろうがw
仏教で西方と言えば阿弥陀如来で死後世界での安寧を約束するに対し
東方は薬師如来でどちらかと言えば現世利益の側面が濃い
(まあ現世利益と言う事なら後の観音信仰がより顕著になるんだろうが・・・)
そもそも薬師=バイシャジャ・グル=今風に言えばドラッグ・マスター?wで病に対するご利益があり
その他、衣食なんかも与えるらしいwww(「薬師瑠璃光如来本願功徳経」)
更に煎じ詰めれば「 西=死 東=生 」と言う対比になっても良さそうだが
大和朝廷はどうも西も東もタブー視してるっぽいw
−天皇が明治に至るまで(持統とかの例外を除き)伊勢に行幸していないと言うのは良く知られると思う。
それは仏教だ神道だの宗教的なことより歴史的な経緯から来ている部分が大きいのではないかと思う。
そもそも「神宮」は鹿島・香取と伊勢の何れもヤマトより東にあって
ヤマトの人間にすれば東日本は「荒ぶる神の地」であって
「東日本の連中はマジヤバス、触らぬ神に祟り無し(と言って野放しにもできない)」
で、ひょっとしてその原点が既に纏向に見えるとか?
東海地域との軍事緊張があったとするなら以上の事には合致するんだが
「狗奴国東海説」は個人的にとってないんだよなあwwwwww
996 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 20:00:47
死神博士の正体は?
997 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 20:52:53
ガラガランダ!
998 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 21:09:30
イカデビルだよ!
ガラガランダは潮健児だろ。
999 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 21:47:26
1000 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 21:52:13
うんこ
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。