1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 16:03:56
3 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 18:55:42
■国内最多81枚分の銅鏡破片
大半は大型、直径40センチも 桜井茶臼山古墳で
大和政権の大王級の墓とされる奈良県桜井市の前方後円墳「桜井茶臼山古墳」(3世紀末〜4世紀前半、全長約200メートル)を発掘調査している県立橿原考古学研究所は7日、これまで12種類、計81枚分の銅鏡の破片が確認できたと発表した。
1カ所の墳墓から出土した銅鏡としては、平原遺跡1号墓(福岡県糸島市)の40枚分を超え過去最多とみられる。
今後の調査でさらに増える可能性もあり、同研究所は
「不明点が多かった大王級の大型前方後円墳の副葬品の一端が明らかになった。古墳を研究する上で画期的な発見だ」
としている。
同研究所によると、見つかった銅鏡の破片は384点。分類したところ、少なくとも12種類、81枚分が確認できたという。
破片の大半は1〜2センチ程度で小さいが、復元すると直径20センチ以上の大型鏡が半数で、最も大きいのは直径40センチ程度。
国産と中国製が混在しているとみられ、中国の神人や獣形の文様を持つ三角縁神獣鏡が最も多く計26枚分あった。
うち一つには「是」の文字が刻まれており、調査の結果、蟹沢古墳(群馬県高崎市)など3カ所で出土している正始元年(240年)の銘がある鏡と同型と判明した。「是」は作者名の一部だという。
時事通信(2010/01/07-17:56)
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010010700758
4 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 19:03:57
正始八年(西暦247年)に、帯方郡の太守・王頎が赴任した。
卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼は、もとより不和。
倭は、使者を郡に派遣して、攻撃し合っている状況を説明した。
張政が派遣され、詔書、黄幢を難升米に授け、檄を為し、これを告喩した。
卑弥呼以って死す。大いに冢を作る。径百歩。殉葬者百人。
さらに、男王立つ。国中不服。互いに誅殺した。当時千人を殺した。
また、卑弥呼の宗女・台与、年十三を立て王と為す。国中ついに定まる。
台与は、使者をして張政の帰還を送り、都に詣でて貢物をした。
戦乱の最中に卑弥呼は死んでいる。大きな墓を作る余裕はなかっただろう。
意外に小さい可能性が高い。
6 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 19:11:54
>>4 三角縁神獣鏡が出ている時点で、三世紀はないな。四世紀後半だろう。
7 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 19:12:55
8 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 19:44:18
>>6 はあ?
三角縁神獣鏡が出た古墳はみんな四世紀後半以降になるわけですか?
9 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/07(木) 19:44:45
今朝春の七草を台所でじっと観察した。
そして古代のことを考えた。
太陽暦2月の上旬に春の七草を食べられるところは何処だろう。
京都盆地や奈良盆地では無理だ。
福岡平野でも難しい。
筑紫平野有明海沿岸部なら食すことは可能だ。
倭人伝の冬期野菜生食とはこのことを言っているのだろう。
10 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 21:07:41
三角縁神獣鏡は、地方の豪族が都に朝貢した時のお土産。
最初は珍しがられ大いに喜ばれたのだけれど、そのうち飽きられて、在庫がたまって製造元の大王は巨額の負債を抱えて倒産したのだと思う。
11 :
縄文人:2010/01/07(木) 21:47:15
桜井茶臼山古墳で大量の鏡の出土だとう。うははは、三角縁を始め大方は国産だろう。5世紀後半と見ておこう
かいの。ふげっけっけっけええ。
12 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 22:11:24
桜井茶臼山古墳の鏡の副葬が81枚と大量だったことで、平原との比較だけが
されているのは片手落ちだといえる。
九州に古墳ではないものの、大量に鏡が出土している一方の雄との
かかわりが究明されなければならない。
それは、沖ノ島である。50枚以上銅鏡が出土している。
沖ノ島は宗像大社のご本尊であり、桜井茶臼山古墳に隣接しているのも宗像神社である。
九州vs畿内ではなく、両者を鏡の故郷宗像が取り持っていることに注意されたい。
13 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/07(木) 22:15:18
>>11 他人の名前を騙ってはいけんぞなもし。じゃっどん鏡で騒ぐんは畿内説派の悪い癖でごわんな。
14 :
縄文人 ◆4nSSJ9f8PjUN :2010/01/07(木) 22:27:10
皆に告ぐ。13は私の偽物だ。
15 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 22:37:07
なぜ鏡が砕かれた状態で発見されたのだろうか?
それは、桜井茶臼山古墳の被葬者が九州王朝系統の王を倒し、
王権の移行があったからだ!
16 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 22:38:03
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
17 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 22:54:09
>>3 鏡の詳細を知りたいところだな。
鏡の種類としては、柳本天神山、佐味田宝塚、新山、黒塚、椿井大塚山との同型が
多そうな感じがする。
長生きして、三角縁の大量製造が始まる前のものから、三角縁の隆盛期のものまでを
網羅して収集して墓に入れたということか。
18 :
アブラハムの子:2010/01/07(木) 22:56:17
2chにおける、天才縄文人の功績を数え上げてみよう。
@大和盆地湖説・・・・縄文海進の名残により、大和盆地一帯が弥生後期にあっても広大な湖状態であったと
する説。これは九州から来た神武らが、大陸の先進技術を用いて干拓工事を行い、人
の住める場所とした。
A畿内説批判・・・・・・畿内土器編年は100年程度古い方に恣意的にずらされているとする批判。年輪年代批
判、年輪年代は日本の気候には合わず、用いることができる場合も限られているとする説。
B伊都国非前原説・・いわゆる倭人伝を素直に読むことにより、伊都国を唐津東南の地に求めようとする説。
まだまだあるのだが、これらの偉大な言説により、氏は畿内説を打ち負かした
色んなスレでアホが暴れてるな。
余程ショックだったんだねw
20 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:49:12
発掘はかなり前だったのに、なぜ今発表になったんだろうか?
今回の発表を例のマキムクの建物より先にしたら、畿内説はさらに不利になったね。
1、三角縁がまた増えて舶載の可能性はさらに薄くなった。すでに舶載説は死滅状態だが。
2、黒塚、椿井大塚山も考慮すると、三角縁が一時期に大量に作られたことがさらに確実になる。
3、 すると三角縁の製造期間が短くなる。そうなると三角縁の末期(4C末〜5C初頭)からそれほど
遡らない時期(せいぜい4C半ば)に三角縁の製造が始まったことになる。
4、茶臼山の三角縁と他の鏡の構成からは、柳本天神山の時期には三角縁の製造が始まって
いなかったので柳本天神山からは出土しなかったとの結論に向かう。
5、柳本天神山は明らかに崇神稜の倍塚なので、崇神の治世より以後に三角縁の国産が始まった
との結論が導かれる。
6、以上より三角縁の製造開始は4C半ば以降との結論になる。
7、紀年鏡も4C半ば以降の国産との結論になる。
8、黒塚、椿井大塚山を3Cに遡上させることが絶対条件であった年代遡上が崩壊する。
9、畿内説終了。
10、なので、例のマキムクの建物の発表のあとの今になって発表した。
まあ邪馬台国の位置論争には三角の製作地ではなくて制作年代が関ってくるはずだが…
日頃ボロカスに扱われている東遷厨としては
溜飲を下す数少ない材料だから舶載・倣製の論争に拘るんだろうwwwwwwwww
22 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:54:38
三角縁神獣鏡は、発掘するたびに腐るほど出てくるな。
23 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 02:11:00
なにせ国産だからね〜
24 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 02:13:21
安心・信頼性の国産wwwwwwwwwww
25 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 02:24:34
存在しない中国年号の記年鏡が出てくること事体
中国政府とほとんど交流がないところで作られたことが
はっきりしてくるわけだ。
26 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 02:29:11
梯儁が下賜品の銅鏡100枚を持ってきたのは正始元年だから、景初四年の
ものが混じっているわけがない。
つまり、年号の刻まれた鏡は、日本で作られた。
だから、作られた時期も年号にこだわる必要はない。
27 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 02:52:58
こちらにも書いておこう。
桜井茶臼山古墳からは、正始元年の銘が入った鏡と同型のものが見つかって
いるらしい。他に正始元年の銘の入った鏡の見つかっている古墳は、
蟹沢古墳(群馬県高崎市)、森尾古墳(兵庫県豊岡市)、竹島古墳(山口県)
年代的には、全部、4世紀前半となっている。まあ、これは鏡から
来る年代なのだろう。
ただ、森尾古墳のところに、気になることが書かれている。
遺物の内容からは古式な要素とやや下る要素がみられることが指摘されている。
というのがそれ。どうも、鏡からは前期古墳とされながら、他の部分では
もっと新しい要素もあるということらしい。
28 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 03:21:12
倭から大和に変えたように
卑弥呼から巫女に使う漢字を変えたのかな?
29 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 03:32:37
三角は国産でも4世紀でも、
畿内説には何の問題も無いと思うのだが、
何を騒いでるのかわからんなー。
九州説なんて最初から無かったんだ
32 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 08:39:35
正始元年鏡ですか、
九州説に強烈なパンチ。
じわじわと効いてくるね。
KO寸前。
33 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 09:43:19
正始元年鏡? そんなもの、今までだって出ているじゃないか。
どうってことはない。それよりも、桜井茶臼山古墳が正始元年よりも後の築造だって
ことが確認されたことが大事かな。3世紀後半に九州勢力が東征した、それが裏付け
られるということになろう。
34 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 09:55:27
九州勢力が東征?
まだ安本に騙されてるやつがいるのか。
>>33 九州勢力が東征したのなら、
もっと痕跡残してなければダメだな。
しかも東征以前に巻向に都があった事にもなる。
他の大王級古墳が日本海側や吉備、阿波の
影響があるのと同じく、卑弥呼が各地の
豪族に共立されたという説が裏付けられただけの事。
鯖規制解けたのですが、スレがいっぱいでしたので
申し訳ありませんが、ご質問のお答えだけでもこちらをお借りさせていただきます。
まず引用されている
>例外的に終末期に三河・尾張については・・・
についてですが、これは「倭国大乱と称されるような大規模戦争の痕跡は認められない」
という前提がありまして、その例外としてあげたものだったように記憶しています。
ただこれも近隣同士の衝突の域を出るものではなく
他のブロックに比べると集約王権的な要素が少ない、ムラやマチ程度の集落が多かった東海において
他地区よりも短期の間に交易なり共有文化なりが浸透する過程での、いわば軋みの痕跡と見たほうが良いかもしれません。
続いて「箸墓の木製鐙」についてですが
最新情報はありません・・・と言いますかまったく進展していません。
ただ随分前にも書きましたが、これを以って「乗馬の習慣」と位置づけるのは無理です。
石野さんの発言は、単なるリップサービスくらいに考えていてください。
ご本人も、牧の遺構が確認されていない現状はよくご存知ですから。
ただ擦り減り具合から実用品だった可能性は極めて高く
さらに周濠内での落ち込みでもないということですので
やはり少数ながら乗馬する層はは存在したと見るのが妥当かと思います。
最後に、鐙の出土は箸中山の築造実年代にはあまり関係が無いことも挙げておきます。
それと「桜井茶臼山古墳の正始元年銘鏡」ですが
基本的に蟹沢や竹島と同じ鋳型で作られた「兄弟鏡」であるというのが、発表のキモでして
これもまたあまり邪馬台国の位置とは関係が無いというか
遠い親戚の話くらいの感覚でいたほうが良いかと思います。
むしろ畿内王権が従来考えられていたより速いスピードで拡散していたとの解釈のほうが妥当でしょう。
まあ「桜井茶臼山の段階で、「畿内王権」とか「原ヤマト連合」とかの言葉を使って良いのかどうかは疑問ですが。
「ヤマト」の交易範囲が思ったよりも広く、また早い段階から各地と濃密な関係にあったとの傍証には成り得るということでしょうか。
九州説の方々も、これはまだ決定打にならないということでご納得お願いしますね。
顔面にいいフックが入ったくらいはあるでしょうが。
39 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 11:40:13
>>35 銅鐸を消滅させてでかい墓をどんどん造ってみせたんだ。これ以上に何の
痕跡が欲しいんだ?
>>39 その墓が全部九州の勢力だとするのが
とても有り得ない話だという事ですよw
42 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 12:20:32
老教授さま
マキムクスレへもどうぞ。
新スレ(その9)が立っています。
纏向では歴博の箸墓年代推定や、昨年は大型建物の発掘もありました。
ぜひ老教授さまの、今の時点での新しいご見解を承りたいです。
43 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 12:34:22
>>38 九州説は、特に何も感じていないな。
言うことがあるとすれば、どうして桜井茶臼山古墳をいまさら持ち出すのか。
どうして邪馬台国や卑弥呼と関連づけるような発表をするのかと言うことかな。
森尾古墳などの正始元年銘の鏡と同じ形式とすれば、むしろ、茶臼山古墳は
卑弥呼や邪馬台国と関係ないことを裏付けることにもなると思う。
新聞発表で、卑弥呼や邪馬台国の名前が踊っているのを見て、むしろ
笑ってしまった。
44 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 12:42:11
>九州説の方々も、これはまだ決定打にならないということでご納得お願いしますね。
顔面にいいフックが入ったくらいはあるでしょうが。
まだまだ序の口。
これからパンチが連発されるんですけどね。
九州論者はそのまま怯え続けて下さいね。
九州説あと1年も持つかなぁ……。
あー、楽しい。
45 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 12:54:06
畿内説はもうパンチを出せる状態じゃない。
タックルしたり、頭突きをしている状態。
昨年の色んな発表の数々で言える事は、
3世紀末の時点で奈良東南部に、
各地に影響を及ぼす王権があった事は
確実にあったという事でしょう。
邪馬台国なんてのはあくまでオマケですよ。
>>45 九州説の存在感が薄い、
消滅しかけで姿が見えないんだよ。
>>36 質問者です、回答ありがとうございます。
異なる文化圏の対立ではなく、小競り合い程度の争いということですね。
お忙しい中ありがとうございました。
50 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 15:35:53
>>45 と言うよりマウントとってパンチの雨霰。
勿論、九州説はとっくに白目むいて失神KOされているんだが
試合を止めるレフリーがいない…
51 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 15:41:25
まあ、言うのは簡単だが、倭人伝をまったく無視じゃねえ。
しょせん学問とは無縁の野次馬だ。
52 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 16:39:27
桜井茶臼山古墳に関する新聞記事は面白い。
例えば、産経新聞。
「正始元年鏡は卑弥呼が中国から授与された可能性が極めて高い」と指摘する
のは、福永伸哉・大阪大大学院教授(考古学)。桜井茶臼山古墳を280年代
築造とし、「被葬者が正始元年当時に20代で、60〜70歳で亡くなったと
すれば、生前に卑弥呼から鏡を直接もらったとも考えられる。邪馬台国と
大和政権を結びつける重要な史料」と話す。
しかし、そんな貴重な鏡が80枚ともいわれるものの中に混じっているのは
どうかと思う。出土状況はわからないが、26枚と言われる三角縁神獣鏡の
中に混じっていた可能性が高いのではないだろうか。
それに、同じ鏡が他の古墳からも出ているというのも考えなくてはならない。
蟹沢古墳(群馬県高崎市)、森尾古墳(兵庫県豊岡市)、竹島古墳(山口県防府市)
がそれで、これらの被葬者も卑弥呼から直接貰ったことになるのだろうか。
それにしても、考古学者の見解は十人十色、いろんな考え方があるものだと思う。
53 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 17:06:50
54 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 17:13:56
読売新聞とか、勝手に邪馬台国→大和政権 が既定という調子で書いている。
他の新聞も殆どそう。
仮にそうだとしても、宮内庁が奈良県内の巨大古墳を軒並み陵墓認定してしまっているから、
当分結論は出ないだろう。
調査できないから。
55 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 18:19:48
なぜ鏡は割られていたのだろう?
その謎は、実に面白い。
盗掘者が割ったという意見には疑問がある。
わざわざ鏡を粉々にしてそこに残して行く理由があるだろうか?
やはり、鏡は粉々に割られてから埋葬されたとするほうが合理的だ。
57 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 21:33:01
続吾妻鏡第一巻
いにしえの奈良の三輪山の麓の村に住むモモ姫は鏡の愛好者であった。ある日直径1尺を越える内行花文鏡を貰った
姫は鏡に向かって尋ねた。「鏡よ鏡、世界で一番美しい女性は誰ぞ?」鏡は答えた「それは百年前に九州の邪馬台国に居
られた卑弥呼さませす」
それを聞いたモモ姫は怒りのあまり鏡を粉々に砕いた。その挙句気を失ったが倒れたときの打ち所が悪く命を落としてし
まった。人々はこれを哀れみモモ姫のために墓をつくり、壊れた鏡を集めて一緒に埋葬した。
この時以来鏡を砕いて埋葬する習わしが行われたが、いつの世からか鏡の代りに鏡餅を割る習慣に変わり、今では割った
鏡餅を墓に納めず人々が集まって食する風習となった。人も世もうつろい易きものとは理なり。
(現代語訳:縄文人、改竄編集:唐松山、校閲:太国)
58 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/08(金) 21:37:29
九州説論者は余裕じゃの〜。
59 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 22:54:47
今回の茶臼山古墳の記事は、ニュー速でも話題にならず、日本史板に乱入して
来る人もいなかったな。
60 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 22:58:10
NHKのニュースを見ていたら、解説委員は、三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡である
という前提で話を進めていた。わずかに、舶載か国産か、というのをちらっと
言っただけだった。どうもNHKは、畿内説らしい。
61 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 23:06:23
国民の7割近くが九州説を支持しているので
畿内説が巻き返し図り
マスコミを使っての宣伝活動に力を入れているようだ。
62 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 23:40:49
邪馬台国誘致運動かな。
近畿地方は盛んだなあ。
九州の場合は、盛んなのは福岡県だが、ばらばら。
熊本県、宮崎県、大分県は全く関心がない。
佐賀県は吉野ケ里があるから、関心はあるのだろうが…。
九州にも、橿原考古学研究所みたいなのを作らないと広報活動がいま一つ。
63 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 23:55:09
>>62 JR九州なんて社歌にまで卑弥呼が入ってるよw
65 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 00:04:39
66 :
サガミハラハラ:2010/01/09(土) 00:10:51
>>56盗掘者が割ったというのはかなり説得力があります。
どうも人間の本性として、こういう破壊行為に快感を覚えるもののようです。
せんべいをパリンと割ったりとか荷物の詰め物の粒粒をプチプチつぶしたりとか。
平原の鏡も、掘り出した農民が鍬の頭でパリンパリンと割って、さてどうしようってんで、
邪魔なので畑をちょと深く掘りまとめて埋めたものと思いますよ。
盗掘者が割った説に同意するよ。
沢山あったら間違いなく割ってる。
68 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 00:29:34
>>51 「倭人伝を無視している」これもこの板の九州説の決まり文句だなw
まあ、ぶっちゃけ主に方角の件と言う事になるんだろうが
現実南北が逆さまになったような地図もあるし
「方角は絶対間違えない!」と言うドグマに固執するのなら
理屈上、隋使の訪れた邪靡堆も、やはり九州の何処かと言う事になる。
何の事は無い九州王朝説だw
それってまともな学問なのか?wwwwww
「方角も含め書いてあることは間違いが無い」として史料批判もすることない
この板の九州説は倭人伝を聖書にする宗教か
もしくは暗号解読ゴッコと言うゲームだなw
ゲームなら分かる。
先ず基本ルールがあってそれを皆が守ってこそゲームが成り立つんであってwwwwwww
69 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 00:50:38
>>68 末盧国からだと、
東南陸行五百里、到伊都國
東南至奴國百里
東行至不彌國百里
南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
畿内説は方向の間違いというけれど、都合の良いところの「南」を「東」に
変えるだけではすまない問題だと思うが。
70 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 00:54:24
>>69 循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里
始度一海、千餘里至對馬國
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國
又渡一海、千餘里至末盧國
こちらの方はどうなるんだということにもなるし。
72 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 01:57:46
>>66 なわけないですねwww
仮に目の前に完全な鏡、しかも大型の鏡が多数あるとして、それを1枚残らず割るなんて有り得ない。
仮に不注意で1枚を割ったとしても、その時に気付いて2枚目は割らない。
なので、意図的な破砕行為があったというのは、完全に間違いないでしょう。
1cmほどの大きさに粉々に粉砕されたのが不注意とか盗掘者の快楽とか噴飯モノですねww
ネタとしてもつまらなさすぎます。
ではなぜ、「意図的な破砕」という当たり前の考えを「意図的に」避ける輩がいるのでしょうか?
それは九州で破砕鏡の風習が存在して、それが畿内に持ち込まれたことが明確になると、
「東征」ないし「東遷」という方向に向かわざるを得ないからでしょうね。
「東征」すなわち「神武東征」を認めるのは、皇国史観であり軍国主義であるというイデオロギーが
根強い学界では危険の芽は早期に摘み取られなければならないのです。
平原ほどでないにしても、巨大内向花文鏡が出土している点も「東遷」を裏付けるので、なおさら
破砕鏡であることを否定する方向に向かったのでしょう。
まだ東遷なんて寝言いってるのかw
吉備や出雲、阿波の影響残った遺跡もあるのに。
大和における宗像神社と、杵築神社の数の差をどう説明するんだよ。
74 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 02:16:05
>>3 >破片の大半は1〜2センチ程度で小さい
とあるように、意図的にやらないと、80枚以上の鏡をここまで破砕することは不可能だな。
狭い穴の中で盗掘に来た盗人が大事な鏡をここまで念入りに砕くとかありえない。
一方では墓のあったほかのものは盗んだんだから、普通に考えたら破砕しつくされたものを
かき集めるなんて面倒なことはしなかっただけだわな。
こうまでして「破砕」じゃないと言いたがるのは異常すぎて、ちと怖いくらいですな。
この状況で「鏡を破砕する九州の文化が伝わった」なんて当たり前のことを言おうものなら
どうなるか分からないくらいの怖さだわな。
何度も盗掘されてんだぜ?
割れた小さな欠片が残っただけだよ。
76 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 02:25:32
77 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 02:26:22
東遷の根拠の一つとして、熊襲を除いた九州と畿内の決定的な争いがないと
いうこともある。
崇神天皇の時代には四道将軍派遣があり、畿内周辺に兵を出している。
周辺も固めていないのに、九州まで兵を出すことは出来ない。
にもかかわらず、その後、九州、特に北部との争いは書かれていない。
後の、磐井の乱のように、双方ががっぷり四つにぶつかるような戦争が
あっても不思議でないのに、それがない。
景行天皇も仲哀天皇も、熊襲征伐には精を出しているが、日向にはなんの
抵抗を受けることもなく宮を築いている。北部九州との争いも特にない。
吉備などの中間の敵に阻まれた九州と畿内がこんな状態なのは、同族では
ないかとの考えがあるのが自然だろう。
78 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 03:02:15
>>77 争いが無いのは、吉備もだし、阿波も、尾張も丹波も出雲も、
どことも戦争としたという記述はないが。
唯一成敗したのが九州と関東。
79 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 08:53:05
>>75 すると割られずに持ち去られた鏡が数百枚あってもおかしくない。
各地の豪族の墓から発見された鏡は、みな、この墓からの盗掘品。
大和朝廷とは盗掘団のボスということになるが・・・
80 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 09:02:30
結構コレクターがいて、個人で仕舞い込んでいるのが
相当数いるとは聞く。
三角縁程度なら、コレクターズアイテムの基本で
そんなに珍しくもないものらしいが
どのくらい出回っているのだろうか。
ときどき個人で秘蔵している出土品を
博物館に寄贈したりすることあるよね。
でも鏡が割られているのは、なにか宗教的な意味が
あるんじゃないかなあ。
あの世との境界が鏡で、戻ってこないように割った
なんて説は定番だろう。
81 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 09:08:29
やっぱり、はじめから割られていたのです。これで納得。
82 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 09:23:51
姫后(奈良) VS 卑弥弓呼 (高天原)
85 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 11:51:29
いずれにせよ、古代人が異常なまでに魏の年号にこだわった事は確か。
それも、景初三年と正始元年。
86 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 12:51:04
日本全国各地で大量の国産と見られる
景初三年と正始元年の年号の三角縁神獣鏡が出土するから
古代人の知識人の間では景初三年と正始元年の卑弥呼は
誰もが知る有名な話だったんだ。
この有名な話を記紀が書いていないのは
記紀には卑弥呼の話を書くと都合の悪い事実があったから
卑弥呼の末裔を滅ぼし国を奪ったのだ。
87 :
うましか:2010/01/09(土) 13:07:04
>>86 >卑弥呼の末裔を滅ぼし国を奪った
そうだとして、どこが「都合の悪い事実」なのですか?
>>87 >ゼネコンからやみ献金もらって土地の購入資金に充てた。
そうだとして、どこが「都合の悪い事実」なのですか?
89 :
うましか:2010/01/09(土) 14:05:46
>>88 もう少し直接的に書いていただかないとまどろっこしいですね。
貴方にとって、卑弥呼の末裔を滅ぼすこととやみ献金をもらうこととは全く同義のことのようですが、
私には理解できません。
先ず、
>>86の例は、誰が誰に対して事実があからさまになると思うのですか?
そこら辺から書いていただけますでしょうか。
90 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 14:11:16
記紀は日本は始めから現皇室によって統治されて来たとの立場で書かれている
現皇室以前に別の倭王朝があっては
現皇室は倭王朝の家臣であった時期があったことになる。
91 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 14:29:12
>>86 >日本全国各地で大量の国産と見られる
中国製とする説や、日本製とする説や、中国人の職人に作らせたとする説などが
あって「日本製」とは決まっていない。
>記紀には卑弥呼の話を書くと都合の悪い事実があったから
卑弥呼の末裔を滅ぼし国を奪ったのだ。
滅ぼしたなら、邪馬台国の女王の鏡など豪族に配ったりはしないだろうねぇ。
こっそりと乗っ取った・・・というのなら分からないでもないが、常識として、
滅ぼしたの何のという大掛かりな戦争があれば、卑弥呼の鏡など見たくもないわな!
92 :
うましか:2010/01/09(土) 14:37:40
>>90 >>88さんとは別の方ですよね。
私にとっては、その考えの方が理解しやすいですね。
でも、現皇統の前には大国主がいましたから、統治は「始めから」じゃないですね。
私見は「中国との対等外交」と言うスタンスを維持するため、
過去の朝貢外交時代の資料は、文献上無視したと言うことにしておきます。
93 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 14:38:26
>>90 >現皇室以前に別の倭王朝があっては
現皇室は倭王朝の家臣であった時期があったことになる。
それでいいんじゃないのか?
平和的に移行したのだから、血で血を洗う大戦争をしかけて卑弥呼を滅多切りにして
大和政権を建てたわけではないでしょう。
ていうか、そういう痕跡がないでしょう。
読売新聞なんか凄いぞ、断言調で。
「畿内にあった邪馬台国を引き継いだ大和王権が・・・」とか書いているしな。
昨日の新聞だが。
94 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 14:45:05
大和朝廷は邪馬台国の正当な後継者を装うため、魏から卑弥呼に贈られた銅鏡を偽造し、
それを各地の豪族に配布することで王権を主張してきた。
しかし、時は流れ青銅器から鉄器の時代になると、旧時代の権威の象徴である青銅製の鏡が邪魔になった。
それで古い王家を滅ぼし、旧王の墓に一緒に埋めたということだろう。
95 :
うましか:2010/01/09(土) 14:50:50
>>94 >大和朝廷は邪馬台国の正当な後継者を装うため、魏から卑弥呼に贈られた銅鏡を偽造し、
>それを各地の豪族に配布することで王権を主張してきた。
それが正解かもしれませんね。
でも、後半部分は違うでしょう。
鉄器時代の到来はそんなに遅くないし、副葬鏡の多くは伝世品ではありませんから。
96 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 15:01:36
>>94 >大和朝廷は邪馬台国の正当な後継者を装うため、魏から卑弥呼に贈られた銅鏡を偽造し
じゃぁ、ますます家臣か、親戚か、、邪馬台国の傘下の国の王だろう。
レプリカを造るには、実物を目にしていなければならないから。
邪馬台国とカスリもしなければ、鏡など知らん。
じゃ魏年号純金象眼太刀は
ふつうに卑弥呼(倭迹迹日姫)と台与(豊鍬入姫)を結ぶ宗族の当主が崇神天皇だろ?
みんな難しく考えすぎなんだよw
99 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 15:28:53
100 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 16:00:14
>>99 三角縁神獣鏡が沢山出るような古墳は卑弥呼や壱与との直接的な関係は薄いだろうな。
101 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 16:05:39
>>85 年号の刻まれた鏡は魏のものだけではない。赤鳥元年、赤鳥七年という呉の
年号の刻まれたものもある。元康という晋の年号のものもある。
赤鳥元年は景初二年で西暦248年。卑弥呼が帯方郡に使者を送る前の年。
どうしてこのような年号の鏡があるのか。
年号に絶対的な信頼を置くとすれば、卑弥呼が魏に使者を送った頃、呉からも
鏡を貰っていたことになる。西暦290年あたりに晋からも鏡を貰っていた
ことになる。
赤鳥元年の平縁神獣鏡と、元康○年の平縁神獣鏡は、年だけでなく月日も
刻まれており良く似ている。同じ頃に作られたとすれば、その時期は元康以降。
西暦300年以降と考えられる。
総合すると、これらは日本で作られた物であり、当時の日本人はかなり前の
中国の年号も知っていたと考えられる。
景初三年などの鏡もかなり後になってから、日本で作られたものだろう。
だから、景初四年など勘違いの年号もあるのだろう。
102 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 16:08:00
>>101 訂正
赤鳥元年は景初二年で西暦248年→西暦238年
なんのためにわざわざ昔の紀年を入れるのだ?
104 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 16:09:54
>>103 商品価値を高めるためだろう。
三角縁神獣鏡などは、商品あるいは交易品という位置づけのような気がする。
偽装表示だと価値は下がるぞ
それにバレたら大変だぞ
>当時の日本人はかなり前の
>中国の年号も知っていたと考えられる。
茶臼山古墳のような大古墳の被葬者が
偽装表示に引っ掛かって有難がるようには思えんが
106 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 16:29:32
>>101 邪馬台国が押しもおしもおされぬ大国で、後世までその名前が轟いていた
事になるな。
レプリカだとしても、卑弥呼の使者が景初三年に洛陽まで行った事は、
古代日本列島の常識であったという事になる。
それはそれでもの凄い事だと思わんか?
107 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 16:32:53
>>106 この頃の記憶が伝承として残っていた可能性が高い。
記紀にも残っているかも。
108 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 16:42:57
>>107 >この頃の記憶が伝承として残っていた可能性が高い。
残っていない方が断然可笑しい。
後世魏鏡の模倣品が続々と出回るほど権威が有った国であり、女王が尊敬されていたとしたら、
何故邪馬台国の場所がいまだに特定できないのだろう?
都の跡が住宅街の下にあるとか、何か理由があって発掘調査が思うようにできないのだと思う。
>>108 普通に邪馬台国はヤマトだろ。
本居のおっさんがいちゃもんつける前は
それで認識されてるぞ。
110 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/09(土) 16:54:15
とにかく記紀に卑弥呼とその女王国の記事がただの一行畿内にあったと
書かれていれば、各説が他出の混乱など起きず、それでもう決まりなわけ
だよ。それが無いということは、これだけで畿内に卑弥呼とその国が
なかったということがうなづけるのだ。
場所の特定できない事由は、女王国が畿内と隔絶した奥九州のたどり着き
にくい秘境に近い場所に位置していたからだと想う。それが何らかの事情
でた大陸のほうに少々情報が漏れて届いたから、これが大陸から遣使が行く
きっかけになったと考えられる。ただ北九州でもめったにあまり行き難い
場所があれば、そこも可能性は残る。
111 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 16:59:34
>>109 別に邪馬台国が大和と認識されていたわけじゃない。
記紀によると、大和朝廷は紀元前660年から存在していた。
三世紀の倭王が大和朝廷であることに疑問を持たなかっただけ。
112 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 17:00:30
>>108 問題は、記紀のどこにその伝承が残っているかだろう。
113 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/09(土) 17:07:01
>>111 >紀元前660年から存在
それは見かけの年代です。そのころはまだ大和朝廷は畿内にあり
ません。
114 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 17:09:49
>>113 江戸時代の人は、その見かけの年代観を信じていたということですよ。
>>110 >めったにあまり行き難い場所
そんな場所、北九州には無いでしょう。
日田や竹田は山奥ですけど、交通の要所ですし、
山国川上流域とか言う話もありますが、これも宇佐と日田を結ぶルートですよね。
南九州だと五家荘や高千穂峡あたりですかね?
でも七万戸は在りそうも無いしw
>>114 宇宙の年代も200億年と言われたこともありましたしね。
117 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 17:45:06
>>110 邪馬台国が九州にあった場合、東遷したか畿内と親戚かのどちらかだろう。
わざわざ卑弥呼の鏡の偽物を大量に作って各地に配って回るって、
畿内人はどんだけ卑弥呼の事が大好きなんだよ?
118 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/09(土) 17:46:13
>>115 太国のおっちゃんは阿蘇盆地だと思うとるね。でも彼は日本書紀が専門だから勘で言うとるとばい。
そいからね、うましかどんよ 卑弥呼の居館のあった場所は戸数7万余である必要はなかとよ。単に
都があったとこじゃけん狭くてもよかと。邪馬台(壹)国は広かとぜ。
>>118 > そいからね、うましかどんよ 卑弥呼の居館のあった場所は戸数7万余である必要はなかとよ。単に
> 都があったとこじゃけん狭くてもよかと。邪馬台(壹)国は広かとぜ。
あー、そうですか。
要するに婢1000人と女王+給仕の男+守衛さん達が暮せるくらいのところなんですね。
宮崎だと米良荘と言う秘境もありましたね。
120 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 19:21:12
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
縄文時代の大きな集落はたいてい盆地にあったから、
邪馬台国も盆地にあったことはまず間違いなかろう。
筥崎宮の参道を延長して志賀島、玄海島、対馬とつなぐ線を
今度は反対側に伸ばすと湯布院につながる。
> そいからね、うましかどんよ 卑弥呼の居館のあった場所はである必要はなかとよ。単に
> 都があったとこじゃけん狭くてもよかと。邪馬台(壹)国は広かとぜ。
だから、戸数7万余を擁する国土がどこにあったかという話でしょ?
邪馬台国論争って、女王の都だけの話じゃないと思います
国土が九州にあったとするか、本州内部にも広がっていたとするかで、邪馬台国像は全く変わってきます
大和には、巨大古墳をはじめ後の大和朝廷に直結する遺跡が多数あります、これは無視できない
だから、邪馬台国を大和朝廷の原型とする立場の人は畿内説に傾き、大和朝廷と関連付けたくない人は九州説に傾いた
例えば、女王の都が九州の一画にあって、国土全体は本州にも及んでいたとも考えられる話だ
でも九州説の人って、九州一島に全部押し込んで完結させようとするんだよね
ちょっと違うな。九州説でも東遷説は、大和朝廷が九州勢力によって造られたものであるとする説。もちろんこれを
説くのはほとんどが九州出身者であり、不健康な郷土愛に裏打ちされた偏向した説であるといえる。そして、大和朝
廷はゆるやかな広域連合を母体として造られた、などの言説を最も嫌う。
思うに、これは彼らが持つ半島の血脈がなせるわざであろう。韓国発生説(漢字、儒教、etc)は世界中で憎み嫌われ
ているが、それと何ら変わるところのないものだ。
東遷説では、魏使が訪れたころの邪馬台国は九州一島なのか?
125 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 22:18:37
>>122 >でも九州説の人って、九州一島に全部押し込んで完結させようとするんだよね
これは、倭人伝の記述からも妥当性がある。
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種
女王国の東、海を渡ること千里余でまた国あり。皆倭種。
126 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 22:27:13
>>123 それは間違い。安本さんは九州ではなかったはず。大学は京大。
井上光貞は東京生まれで東大。
和辻哲郎は、兵庫県生まれで東大。
連合説というのは、一つの仮説で、広く認められたわけじゃない。
特に、文献の面からの根拠がない。
>>125 >女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種
>女王国の東、海を渡ること千里余でまた国あり。皆倭種。
この文面だと、大和でも説明が付く
伊勢湾を渡れば東海地方がある
128 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:04:10
>>97 じゅんきんは 魏から輸入して 嵌め込みは ニポンで やって え〜と その次の工作は。。。
神武テンノウって3男だったの? 兄の子孫は 紀伊から 宮崎へ。 奈良の姫皇(神功ひめ様) vs くまその 姫旧皇(卑弥弓呼)の サイゴのたたかいW
131 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:38:36
>>126 連合説というのは、とても中途半端な説だね。邪馬台国が倭国の盟主といいながら、
古墳の状況をみると、少し時期がずれて他にも畿内に匹敵する大古墳が出現したり
する。したがって畿内が絶対だったとは言えない。やむをえず、連合とかいって時
々別の地域の者が大王に選出されたとか言わざるをえない。そのための連合説だ。
132 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:18:11
133 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/10(日) 00:35:51
大和王権を築いたのは3世紀末〜4世紀初頃に九州から奈良に入った崇神大王であったというのはどうだい。その前、2世紀
後半の倭国乱の頃東征した神武の子孫達が迎えた。崇神は邪馬台(壹)国の王族の一員であったが、半島への出兵が失敗に終
わり、高句麗が海を越えて侵攻してくるかも知れないという(倭国が半島に侵攻したのであるからその逆のこともあり得る)
心配もあり、前々から悶着の絶えない狗奴国との関係にも嫌気がさして故郷を捨てたのである。
崇神は百済からの渡来人など多数の知識人や軍人を部下として引き連れていた。政治的手腕もあったので畿内の指導者にのし
上がったが、遠縁ではあるものの神武の直系ではなかったので、王権を手に入れたことについては記紀編纂当局も苦労して欠
史八代の天皇で系統をつないだ。
崇神が王権を宣言しても従わない地方の豪族達が居たので、将軍達を北陸、東海、西道、丹波に派遣して服従させた。このとき
多くの捕虜を連れ帰った。崇神の部下で戦死した者もあり、苦労を共にして来た腹心の者で亡くなった者達もいた。これらの人
達の霊を慰め祀るために、崇神は捕虜達を主体に各地から集めた人夫を使って墓を造営した。このとき作られた箸墓などの古墳
が巻向地域に存在する。
134 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:54:47
>>133 あれだけ「自分は東遷説ではな〜い」といっておきながら、
結局東遷説に鞍替えかい。
まあ、妄想を積み重ねると、行き着く先は東遷説しか無いけどな。
135 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/10(日) 01:27:34
>>134 まあそう目くじら立てなさんな。三世紀末から4世紀のことを明確に示す文献史料がほとんど無いのだから
推測しているんだよ。
136 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 02:02:37
文献史料なら記紀があるだろうが。
どこに崇神が九州から来たと書いてあるんだ?
137 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 09:09:00
神武については書いてあるな。神武は架空の人物で、実際は崇神が初代だろう
という見方も結構根強い。
138 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/10(日) 12:51:54
139 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 14:01:11
神武天皇については記紀に詳しく書かれているので、架空というのは
どうだろうか。それよりも神武天皇と崇神天皇は同一人物ではないかという
説がある。
140 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 14:04:41
神武が架空だの、崇神天皇と同一だのは、単に自分の都合のよい年代の帳尻合わせをしたいだけの都合の理由だよ。
141 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 14:12:19
>>140 神武天皇や崇神天皇については詳しく書かれているが、その間の天皇は
系譜くらいしか書かれていないというのもある。
だから、昔から欠史八代とか言われるのだが。
142 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 14:17:14
>>141 欠史といわれている間の8代は特筆するほどの事跡がなかったということ。
造作はいくらでも後世可能なので、適当な事跡をでっち上げて書くべきだったのにそれをしなかったのが
むしろ架空でない証拠。
>>142 >特筆するほどの事跡がなかった
それは違うでしょう。
「事跡」そのものが伝わっていない、と言うのが正しい表現かと。
でも、皇子は書かれていて、何々氏の祖となっていると説明がある
そこが味噌では?
氏族の出を説明したいだけ、天皇の家系が至上とされていく動きが読み取れる
神武天皇〜欠史八代〜崇神天皇〜
垂仁天皇〜景行天皇〜成務天皇まで
13代もの長きにわたって親子間でのみ
皇位の継承がなされているのも奇妙だ。
146 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 16:14:03
「事跡」はだれそれの親というのも重要な事跡だといえるね。
147 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 16:41:15
神武天皇については、即位するまで詳細な記述があるのに、
即位してからの記述が非常に少ない。
2年に、功績のあったものに恩賞を与えたという記述があり、
次は、31年のちょっとした行幸。
42年に皇太子が決まり、76年に崩御。これだけ。
欠史八代にも特に記述はない。
崇神天皇になって、極端に詳しくなる。
148 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 16:56:49
149 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 17:02:54
欠史八代の事跡が少ないとか言ってるやつはちゃんと読んでないだろ。
タギシミミの反乱とか、
モモソヒメが誰の子とか、
オオヒコが誰の子とか、
丹波から姫を娶ったとか、
国家成立に関わる重要な出来事がちゃんと書き残されてるだろ。
崇神と神武が同一なら、モモソヒメは架空か?箸墓の被葬者は誰なんだよという。
151 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 18:23:18
祟神天皇と神武天皇は同時代の人物で、欠史8代は神武の祖先の神話。
152 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 18:36:03
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
153 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 19:27:24
神武が九州からなんとか畿内入りした後に続く欠史八代は天皇(大王)ではなく、
出雲出身の大物主の配下にある、葛城に所領を与えられた一豪族にすぎなかったのでしょう。
それが八代のうちに同じ葛城にいた尾張氏などとともにクーデターを起し、大王の地位を
乗っ取ってしまったのでしょう。(その過程を描いたのが国譲り神話)八代は後世、
天皇の名前が贈られますが、大王ではなかったわけですから、欠史とならざるをえなかったわけです。
そして崇神天皇に至って初めての名実ともに天皇となったのでしょう。
154 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 00:10:00
>>147 続きだが、神武天皇は即位してから崩御するまでの76年間(これが事実とは
思わないが)に見るべき功績はほとんどない。同じく、欠史八代にもない。
崇神天皇になってから、四道将軍を周辺に派遣している。
このことから、神武天皇と崇神天皇の同一性が考えられる。
つまり、一人の人物の即位までが神武天皇で、即位してからが崇神天皇では
ないかと。
155 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 00:49:48
156 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 00:52:37
神武・崇神同一説の奴らって、自分勝手に年代をずらしたい厨どもだよね。
157 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 00:56:08
158 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 01:17:43
>>156 そういう先入観で物事を考えるから、何も見つけられないんだよ。
159 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 01:48:50
神武天皇と崇神天皇を同一視することのほうが何も見て無いだろ。
途中の系図をすっとばしてるんだからな。
古事記には鬼のように氏族名が並んでるのに。
160 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 03:43:33
それはあれだな、ひえだのあれのおもいちがい。
161 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/11(月) 15:09:00
>>160 あれあれ〜つ。せっかく洒落いったのに誰も笑わんとはこのスレも尾張やな。
私は肛門人。九州説の王。よろしくな。
見苦しい
神武天皇と崇神天皇が同一人物なんて説は
この説をとなえる学者たちが、
自身の無力さをさらけ出したような
いい加減な説に過ぎない。
「私は無能だから、もう投げやりになって、その説を出しました」
と宣言しているようなもの。
魏志倭人伝を読んでも分かるが
卑弥呼の存命中には、倭国の実際の政治は、彼女の弟とみられる
人物が行っていたんでしょう?
もし、卑弥呼=モモソ媛命ならば、
モモソ媛命存命中の崇神天皇は、祭祀を継承する正式な倭王ではなく、
実際の政治を行っていた世俗王のような存在だったことになる。
だとしたら、崇神天皇以前の天皇とされている人物たちは、
倭王の正式な祭祀を継承していない人物たちだったことになる。
祭祀を司る巫女を女系で繋ぎ
世俗王は親族なら誰でも良かったって可能性もある
万世一系とは男系の事ではない、かも
>>165 倭国は建国以来、倭国大乱以前は、男王の時代が続いていたそうです、
魏志倭人伝によると。
この男王の倭王も、祭祀を継承する祭祀王だった可能性が高い。
そして、この王統は、神武皇統とは別の王統だった可能性が高い。
卑弥呼=モモソ媛命ならば、卑弥呼自身は、神武皇統から擁立された
祭祀王だったわけだけど、
彼女が擁立される切欠になった倭国大乱以前の
倭王(祭祀王)たちは、神武皇統は別の王統でしょう、おそらく。
で、卑弥呼(モモソ媛命)の死後、崇神天皇が一人で、祭祀王と世俗王の地位を兼ねるように
なってしまった。
168 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 21:11:23
遅まきながら・・・
■太刀の銘文は卑弥呼統治の証か 魏志倭人伝の記述に符合
東大寺山古墳出土の太刀に銘文「中平」 象眼は純金、卑弥呼に授与裏付け?
1月6日 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100106/acd1001060201001-n1.htm http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100106/acd1001060201001-n2.htm 邪馬台国の女王・卑弥呼が中国から譲り受けたともいわれ、中国の2世紀後半の年号「中平」などの文字が象眼(ぞうがん)で記された奈良県天理市の東大寺山古墳出土の大刀(たち)(重要文化財)について、
象眼が純金だったことが、東京文化財研究所(東京都台東区)の調査で分かった。
国内で金象眼の文字のある大刀は数本しかないうえ、銀が数十%含まれる例は確認されているが、純金は極めて珍しい。中国の高度な製錬技術で作られた大刀が日本にもたらされた可能性を裏付けるものとみられる。
東大寺山古墳は4世紀中ごろの築造で、全長約140メートルの前方後円墳。昭和36年に発掘され、20本以上の大刀や槍(やり)、碧玉(へきぎょく)製腕飾りなどが発見された。
金象眼の大刀(長さ110センチ)は、刀身の峰の部分に0・5センチ程度の大きさの文字が24文字分確認された。
金象眼は、刀身に細い溝を文字の形に彫り、金線を埋め込む手法。銘文は「中平□年五月丙午造作文刀百練清剛上應星宿下辟不祥」と書かれていた。
「中平□年五月に銘文の入った刀を造る。百回鍛えた立派な刀は天上では星座の神々のお役に立ち、地上では災いを払う」
という意味で、大刀の製作年や神秘的な力を示している。
(つづく)
169 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 21:12:09
(つづき)
東京文化財研究所が、大刀の修復作業に伴い、各文字の金象眼を蛍光エックス線分析で調べたところ、すべての文字について、金が99・3〜99・9%を占める純金だったことが判明。
金鉱石に含まれる銀を精錬でほぼ完全に除去した、当時の国内では難しい極めて高度な技術だったことが分かった。
一方、同研究所では過去、埼玉県の稲荷(いなり)山古墳(5世紀後半)で出土した115文字が金象眼で記された鉄剣も同様の方法で分析したが、銀が10〜30%含まれており、純金ではなかったことが判明している。
稲荷山古墳の鉄剣は日本製とされている。
東大寺山古墳の大刀は、「中平」が西暦184〜189年に相当することから、180年ごろ女王になった卑弥呼が中国王朝から権力のシンボルとして譲り受け、その後、東大寺山古墳の被葬者に与えられたともいわれている。
分析した早川泰弘・同研究所分析科学研究室長は「金象眼でも、銀が10%混じるだけで文字は白っぽく見える。東大寺山古墳の大刀の銘文は金色が鮮やかで、高度な製錬技術がうかがえる」と話している。
170 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/11(月) 21:30:58
>>154 古代史は探偵小説ではないぜ。
まるで明智小五郎が怪人二十面相のような発想だな。w
171 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 22:01:07
172 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/11(月) 22:09:44
古代南バイロニアでも2倍暦の行使があるそうです。推理ではない
ですよ。
173 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 22:31:47
推理小説は辻褄があってるが、倍暦は合ってないよ。
戦国時代の斉藤道三は一代で成り上がったのではなく、
親子二代で成り上がったとの説も主張されてきているし、、
>>154のような発想があっても別に構わないな。
真実は小説より奇なり。
倍歴と4倍暦を織り交ぜて使えば、すべて辻褄が合う。
176 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/11(月) 22:47:37
>>172 訂正
× 南バイロニア
○ 南バビロニア
南バビロニアではサロス周期のことから、日食が半年ごとに起こる
事実を掴んで、ここから2倍暦法をやるきっかけになったという
ことです。
バビロニアでは南部のほうは春分を元旦としていたが、北部のほう
は秋分を元旦としていたそうで、統一のカレンダーでは2回元旦が
あることになり、双方の言い分を聞くことになったのか? ここ
から1年の中に2回元旦を置き、現今の1年分が2年として数え
、2倍暦を行使してたようです。
米の二期作は、年間を通じて平均気温が16℃以上の温暖な太平洋側の地方、高知県や宮崎県、鹿児島県、沖縄県などで多く見られる。
たとえば、1回目は3月中に籾蒔きをし7月中に収穫され、2回目は7月中に籾蒔きし11月ごろに収穫されることになる。
米の収穫を1年とする倍暦は九州王朝では普通に使われていたことがわかる。
まあいやだ。基地外スレよ。
179 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:09:36
>>168 >東大寺山古墳は4世紀中ごろの築造で
以前は4C末頃だったのに、最近また古くなったんだ・・・
中平刀の環頭の飾りが国産であること(定説)も紹介するべきだね。
刀身も「逆そり」なので、国産の可能性の方が高いことも紹介すべきだろう。
おそらくは4C末頃に作られたものであろうことも紹介したほうが良い・
その上で、「銘文だけが2C末葉頃の中国製」と言い切ると、ネタとしては最高だったww
そんなことより東大寺山古墳の全体の報告書はまだ出ないんだね。
中平刀が国産であることを認めたくないために、半世紀も報告書が出せない状況なのかな。
>>177 それじゃ3倍暦だろ
1期目(3中〜)、2期目(7中〜)、休耕期(11月〜)
1年で3サイクル。
181 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:19:09
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
182 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/11(月) 23:19:34
古代マヤは農耕暦(=通常暦)のツォルキン暦と祭祀暦(=1.4倍暦)の
ハアブ暦を長期暦(バクトゥン等)とともに並用していたわけで、また
古代アステカもシウイトル暦(通常暦:但し1ヶ月が20日での18ヶ月)と
トナルポワリ暦(1.4倍暦)での行使だったそうです。
倍年法はスリランカにもあるそうで、くわしくは分かりませんが、赤道直下
では1年に2回夏が来ることからなのだろうとの話です。
184 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:49:24
暦をつかさどることは神の業。ゆえに、暦は天皇の神性の源だった。
そこで、天皇は、ひそかに天文学の専門家を養成し、暦を自分のものにした。
それが陰陽師、とテレビの番組で言っていたな。
陰陽師は、日食の予想も出来たとか。
185 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:49:30
二期作は斉の国で行われていた。
筑紫の磐井でも二期作は行われていたと思われる。
しかし、奈良盆地では二期作は難しい。
倍暦は九州王朝の暦だったことがわかる。
186 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 00:09:23
>184
明らかに順番が違う。
第1期には、暦は完全輸入だった。
第2期には、暦を作成する専門家を派遣してもらい、日本列島内で暦の作成を行わせた。
日本列島出身の暦専門家が活動するようになったのは、もっと後だ。
だいたい、その専門家は中国に留学して知識・技能を学んだのであって、
(まあ、いわゆる国費留学みたいなものだろうが)、日本列島内で養成されたわけではない。
187 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/12(火) 10:17:24
まぁ時置師神とか月読命とかの名からして、日本にも暦法作成はあったでしょう。
188 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 10:25:18
2期作と倍歴の関係は面白いかも
189 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 11:18:55
茶臼山から240の鏡が出たってことはおもしろいな。
畿内説論者がいくら年代をさかのぼらせようとしても、240以前にはさかのぼらせる
ことができないということだ。
191 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 12:26:31
>>189 べつに桜井茶臼山をとくべつ古くする必要もないんだがw
桜井茶臼山は学者の見解では3世紀末か4世紀初めとなってるね
それでいいんじゃない
畿内説には全然痛くも痒くもないんじゃないのw
192 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 12:46:27
逆に茶臼山が240なら箸墓は卑弥呼の墓には古すぎるかもw
193 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 13:23:08
正始元年銘の三角縁神獣鏡は他の三つの古墳からも出ている。
古墳の年代はみな四世紀前半となっているのかな?
しかし、古墳についての詳しい記述はない。
森尾古墳は古墳としての実態をとどめておらず、蟹沢古墳は、古墳としての
実態はつかめていないとなっている。
竹島古墳については、4世紀前半につくられた県内最古の前方後円墳で、
全長56m、後円部の直径35m、前方部の幅は23mあり、後円部のほぼ中央に
竪穴式の石室がつくられています、となっている。
九州説論者の息切れが聞こえる...
195 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/12(火) 15:03:52
>>194 相手にするに値するほどの畿内説論者の書き込みがないからだろうね。あ〜退屈だ!
196 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/12(火) 15:05:35
九州女王国の卑弥呼の年代が畿内の天皇の何時の年代に相当するかという
ことは、239年=景初3年のことから、紀年確定に重要なポイントとなる。
それがしは卑弥呼の活躍が崇神の代だと、倍暦逆算の積み上げによって、
これを結論づけた。先ほどのニュースから五島列島沖で10人乗りの漁船が
大荒れの海にて遭難したそうだが、ただただ全員が無事生還できること
を祈っている。それだけに九州と半島間の海上の危険は大きいもので、
近代装備を持つ船といえど、かような遭難に会う可能性が多分にあるの
だろう?
唐松山は崇神5,6年あたりを新羅の193年だと強行論を押し出しているが、
空腹百姓千人の海上経験のない操縦も危険地域の知悉も熟達していない
状態で、果たして畿内から北九州へ至り半島までの船舶入手もままならぬ
はずで、いかようにあの荒波を超えて半島に至れるのか? 甚だ疑問と
いうより以上に千人の大半が海底に沈むのが目に見えるようだ。残っても
せいぜい数人いればいいほうだろう。このことから、崇神5,6年とやらが
新羅の193年になることはありえず、奴の妄想なのである。丸木舟を出して
千人も渡海できるとあやつは思いこんでいるようだが、とても無理な話。w
197 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/12(火) 15:15:50
唐松山の主張が通らないのは崇神5.6年には天皇も船に乗っていない時代で
あり、最初に船舶を造ったのが崇神17年であるから、これだでけ彼の言い分
が成立しないことが明らかなのに、どこからか奴は丸木舟の文を持って
来て丸投げし、かろうじてでも言い分を通そうとやっきになっているが、
千人も、また積載少量しかできない丸木舟で大揺れの荒波の中を半島まで
たとえ多量の丸木舟でも無理な話だと思う。唐松山は潔く妄想と認めて
これ以上デタラメの垂れ流しをやるのは控えるべきであるのだ。
198 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/12(火) 15:27:16
それがしが崇神5,6年の奴の主張が出回っているときにこの崇神17年の始め
て船舶ができた紀の文証を提示してその主張が間違ういであることを彼に
伝達したところ、どうやら奴はあわてたらしく、彼の妄説の責任をこちら
に糊塗して言い訳をして来たわけで、奴はかなりこれでグロッキーと
なったようだが、その後いろいろと妄想の言い訳たる可能性を強く固持
し、毎度の如くこの主張を曲げることなく書きこんでおり、それで丸木舟
の文を丸投げしてま〜だ193年だと思いこんでいるようだが、今回の五島
列島沖の船舶遭難を聞くに及んで、あやつが自論の妄想に気づくことを
期待したいが、まだまだ奴の盲象はブレーキをかけようとしないだろう?w
九州論者って、あいかわらず2ちゃんねるでは必死だけど
マスコミやら何やらで、邪馬台国ヤマト説で大合唱。
九州論者、あわれ。
200 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/12(火) 17:00:55
畿内に卑弥呼がいたんなら、とうの昔に軽く卑弥呼だと分かるよう明確に
記紀に彼女の活動記録が満載だよ。w
というか日本書紀の編者が卑弥呼を知ってるのは確実(神功紀に倭人伝の引用あり)で、
その上で、卑弥呼を天皇家の系統に載せていない以上、卑弥呼と天皇家は無縁。
仮に畿内に邪馬台国があっても、天皇家とのつながりは無いというべき。
202 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/12(火) 17:27:52
神功39年のことで、編者が卑弥呼を知っていたことは確かだな。
>>201 関係なくて、かつ、知っていたならなんらかの形で書くだろ。
書きたくない理由があったと考えるほうが自然。
>>201 書きたくない理由とは、「中国の史書であれだけ有名な人物が、じつはヤマト王朝ではない」ということ。
アホか。権威付け目的ならどんなデタラメでも系統内に入れるだろ。
ましてや、結果的に自分ら(ヤマト)が勝ってるんだから。
国譲りでも諏訪の雪隠詰めでも書きたい放題。そういう性質の本だろ?
206 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 18:08:50
>>205 まったくだ。
日本書紀は、日本の独立性を首長するものだからな。
魏に朝貢してた卑弥呼が天皇のご先祖様と認めるのがイヤなんだよ。
今の皇室だって卑弥呼は話題にも出ないだろ。
207 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 21:15:17
当方大阪府枚方市在住の素人に過ぎませんが
そもそも「土佐日記」の時代でさえ土佐〜大阪が海行幾日かかったとお思いなのですか?
方角も旅程もデタラメな畿内説など最初から成り立たないのは明白なのですよ
邪馬台国は九州にあった国で狗奴国に滅ぼされた国なのでしょう
王族の子孫が宇佐などという僻地に逃亡し、後に半島から入ってきたタラシ系の一族は
その女王の血筋を利用しようと婚姻関係を結んだうえで畿内の銅鐸文化を滅ぼした
邪馬台国などよりもっと文化的に発達した国家が畿内にあったにしろ、それは半島から入ってきた蛮族に滅ぼされた
高い文化を誇る国家がより低い文化程度の蛮族に滅ぼされるのは
新羅に滅ぼされた百済をはじめ世界中いたるところに見ることができます
邪馬台国よりも、畿内に大きな勢力を誇っていたであろうこの謎の国家のほうが興味深いですね
209 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 21:26:22
>>201 邪馬台国や卑弥呼は、中国の呼び名だから、誰だかわからず、日本の歴史上の
人物に当てはめることが出来なかったのだろう。
そこで、年代だけで決めてしまった。卑弥呼は、西暦で言えば200年頃の人物。
これは皇紀で言えば、900年くらいになるのかな。たまたま?そこにいたのが
神功皇后で、結果的に重ね合わせるような結果になってしまった。
>>208 個人的にはけっこう興味深い妄想だと思うけど、
したり顔で妄想を語る癖は直したほうがいい。
卑弥呼が中国側の呼び名な訳ないだろ
日本語を音写したに決まっている。
さらに卑弥呼は上表文を出してるから、自分の名をそこに書いて提出してるはず
212 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 22:02:36
>>211 で?
「卑弥呼」という当時の当地における表記の読み方について、キミの見解は?
もちろん、同時代の具体的なサンプルを複数挙げた上で説明してね。
213 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/12(火) 22:03:15
書きたくないとかイヤならば、神功39年の記事も載せないはずだな。ここ
で書きたいからこの記事を挿入したわけで、イヤならば神功39年の記事を
書くわけもなく、当初から入れる必要がない。
太国がいいとこを、ついた
ん〜、単純に言って「卑弥呼(字はなんでもいいけど)」と書いてない以上、
この話の流れでその見解はなんの意味もないんじゃない?
魏から卑弥呼に贈られた鏡は、三角縁神獣鏡のような大きくて粗悪な鏡ではなく、
現代のコンパクトのように女性が帯に挟んで持ち歩けるようなおしゃれで精緻な鏡だったらしい。
三角・・では、顔が歪んで写ってしまう。
217 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 23:22:50
>>216 そういえば、鏡というくらいだから、物を映す面のほうにもう少し焦点が
当てられてもいいのかもしれないな。こちらのほうがけっこう、鏡の質を
考える上で重要かもしれない。
きれいな面をしていて、きれいに写ることは重要だろうな。
裏の模様のほうばかりに眼が行っているが。
>>213 神功39年の注射というのは
日本書紀編纂当時にはなかった記載。
これは完全に後付け。
後世の人間が、あとあと解釈したものだよ。
219 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 10:41:41
↑と考えた人もいたけど、一般に支持されていないね。
220 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/13(水) 11:05:52
>>218 そうならばどのようにそのウラを取ったのか?w
後付けした人物は誰かね? 動機は何かね?
そういうことを言ってから、そういう攪乱話をして欲しいね? 君の脳内の
即興でないのかね? だってこういうウラをどう取ったとかの内容の書きこみは
まるでないがね?w その話は誰か以前書きこんでたが、やはり脳内想像だけ
で、ウラを取った説明はないよ。だから君の妄想さ。ウラが取れれば別だがね。
日本書記や古事記、
現存の最古本は、ずっと後世の写本でしょう?
あと、記紀の編纂者たちは
王朝の創世記、暦が違っていたことを考慮せずに
外国書との間に整合性を取ろうとしているからおかしいことになっている。
判定:技ありで、太国の勝ち
これだけ、邪馬台国ヤマト説が出回ると
2ちゃんぐらいでしか、はけ口のない邪馬台国九州説論者が
哀れになってくる。
224 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 15:21:57
そうかね。私は理論的説明がまったくできないのに強がりを言っている畿内説
論者が哀れになるよ。
畿内説→とりあえず発掘して地固め
九州説→ネタが無いから畿内説の揚げ足取り
こんなとこだろw
226 :
スリムドカン:2010/01/13(水) 15:32:02
神道と日本の起源はこんな風だったのではないか? パート1
約1千600年前の豪族の屋敷で、とある部族の部族長と部族長補佐が
話し合っている。
部族長「最近の神託は全く当たらん。困ったものだ。」
補佐「全くです。巫女は今年の飢饉や日照りを完全に外しました。」
部族長「先々代の巫女のギボを最後に、神託は外れてばかりじゃ。
誰か良い巫女はおらんものか?そう言えば
エハラという者が巷で有名なそうな。」
補佐「あれは霊能力は確かですが、見映えがしない上に最近では
芸能人気取りで髪を金髪に染めており、不適格かと・・・」
部族長「ミワという巫女はどうじゃ?なかなかの美形と聞いたぞ。」
補佐「あれはかなりの歳ですし、イロモノゆえ・・・、相応しくは
ございません。それに神託の巫女は、卑弥呼様の血筋の者と代々
決まっておりまする。下々の巫女では、他の部族が納得しますまい。」
部族長「ううむ・・困ったものだ。このまま当らぬ神託に従う訳にも
いかぬし、巫女を替えるわけにもいかぬか・・。」
227 :
スリムドカン:2010/01/13(水) 15:33:43
神道と日本の起源はこんな風だったのではないか? パート2
補佐「良案がありまする。これからは部族長が神託を行うのです。」
部族長「何!?わしが!!わしには何の霊感もないぞ!一体どういう
事じゃ。」
補佐「もはや卑弥呼様の血筋は枯れ、巫女の神託が当たらぬ事は
誰にも明らか。卑弥呼様の血を引く部族長が神託の儀を表向き
執り行うのです。実質の政事は部族長会議での決定を行なえば
いいのです。さすれば、他の部族も文句はありますまい。」
部族長「なるほど。それなら、できるな。しかし、神殿の神官どもが
黙っておるまい。」
補佐「彼らには国の為の祈祷・呪術を行う特権を与えるのです。
当たらぬ神託を下し続けるより,
彼らにとって都合がいいでしょう。」
228 :
スリムドカン:2010/01/13(水) 15:35:25
神道と日本の起源はこんな風だったのではないか? パート3
部族長「う〜む、わしが神託の儀を行うには理由が必要だ。
やはり神意がなければ・・。」
補佐「神意を作るのです。次の神託の儀で、部族長に神託の儀を
執り行うよう神託が下ったと巫女に言わせましょう。今年の飢饉を
外した責任を追及すれば、いやとは言いますまい。」
部族長「いい考えだ。未来にはわしの子孫が代々神託の儀を執り行う
ことになるのか。」
補佐「部族長が祭り事と政り事の両方を行うことになりまする。
我が部族の優位は揺るがぬものとなりましょう。」
部族長「我が部族が祭事をも執り行う事に敵対部族は反対しはしないか?」
補佐「敵対する出雲狂走連盟はヘッドが島根県警にパクられてから
内紛状態にあります。全九州特濃男闘呼汁連合も最近弱体化して
おります。今、我が部族の兵力に逆らえる者達はおりませぬ。
我が部族は断トツ独走状態、仏恥義理夜露死苦でありまする。」
部族長「う〜ん、何か良く分からぬ例えじゃが、敵対部族の反対は
心配ないということか」
229 :
スリムドカン:2010/01/13(水) 15:37:39
神道と日本の起源はこんな風だったのではないか? パート4
補佐「御意。この際、王を名乗られたらいかがでしょう?」
部族長「王とな?」
補佐「左様。但し、ただの王ではございませぬ。天からの神託を受ける
王、そうですな・・、天皇と名乗られたらよろしいのでは?」
部族長「天皇か・・。いい名だ。」
補佐「ゆくゆくは天皇が治める独立国として、大国宋も対等に外交するようになりましょう。
まずは、部族連合の長としての権力を固めるのです。そして、我が部族がこの地にたどり着くまでの
流浪のホームレスな歴史を神話にして、天皇の神聖さを民に知らしめるのです。
そうすれば我が部族は永遠にこの国を治めることができましょう。」
部族長「何と!そなたはそこまで考えておったのか!真に知恵者じゃ。
早速、語り部に神話作りを行わせよう。
あっ、肝心な事を忘れておった!」
補佐「何でございますか!神武部族長さま?」
230 :
スリムドカン:2010/01/13(水) 15:38:41
神道と日本の起源はこんな風だったのではないか? パート5
部族長「よう考えたら、ここは奈良やんか!わしら関西弁で喋らな
あかんで。」
補佐「それはそうですが、1600年前に関西弁があったんでしょうか?」
部族長「アホンダラ!わしが関西弁喋れ言うたら喋るんや!」
補佐「分かりましたがな。そんな怒鳴らんでええがな。」
部族長「しかし、何やな。この改革が上手いこと行ったら、わし等の
ヤマト部族も安泰やで。」
補佐「ほんまに、ここまで来るのには並大抵の事やおまへんでしたで。」
部族長「そうや。振り返れば小さな努力をコツコツ積み上げてきて、
やっとここまで来たんや。ほれ、コトワザにも言うやないか?」
補佐「何でっか?」
部族長「チリも積もればヤマトなるって」
補佐「こら、アカン。関西弁で喋っとると、
どうしても漫才になってまうわ。」
かくして、天皇家は神道の最高宮司として、神託を行うようになった。
部族のホームレスな歴史は古事記(こじき)として神話に編纂された
のである。
231 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 15:58:28
畿内説→研究が行き詰まり、マスコミを使った宣伝活動しか打つ手が無い
九州説→多くの国民に支持され、着実に研究が進み解明は目前
こんなとこだろw
232 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 16:17:00
魏志倭人伝の記述で
宇美国以降は曖昧でよく分からないわけだが
その判断の違い
畿内説→巻向!巻向!根拠が無くても巻向、なぜならそこに巻向があるからだ!!
九州説→環濠、望楼、戦痕、三種の神器など各地から出るので決められず決定保留中
畿内、特に奈良県関連は発掘の予算がドーンとつく→大いに発掘進む
→新聞記事になる→記者は邪馬台国の文字を入れたい(注目されるから)
→なんとなる世間一般・シロート達には「邪馬台国畿内説」が有力になる
九州は発掘予算なし→道路建設で偶然発見の遺跡しか発掘できない
こんな感じの差異が現在の現象だろ
234 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 16:29:49
>>226〜230
ぱちぱちぱち。よくできました◯
私は肛門人やで〜。九州説の王やで〜。私は肛門人やで〜。光り輝くレスをする。ちっとも臭くはおまへんで。
私は1世紀以降の東アジアの政治情勢、軍事的状況(兵法や兵器などの変遷も含めて)、産業、気象、思想な
ど幅広く考えている。そのような観点から古典に限らず現代の著書も見ている。私は古代史の天才だ。太陽の
子だ。私は過去に2万冊の本を読んでいる。私は偉い、偉い、偉い、えら〜〜〜〜〜〜い。
んがっははははあああああああ。
236 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 21:04:01
大阪羽曳野の事件、部落問題の根深さを思い知らされますね。
彼らを被差別民として区別しながらも、人の毛嫌いする仕事をさせるために温存した。
だから今でも神がかりなことを言う頭のおかしい血統まで生き残ってしまった。
大阪という表層的な近代都市の暗部をさらけ出してしまいましたね。
しかし、彼らこそ邪馬台国の生き残りなのかもしれない。
安本さんの時代は、ある意味、終わったな。
本の売れいきにも影響するから
彼は内心、畿内説のほうが正しいと思っても、必死なんだろうけど。
でも、安本さんの「アマテラス」に着目して
邪馬台国論争をするのは、ある意味、商業的ともいえる。
世間的には無名のモモソ媛命を卑弥呼とするよりも、
世間的に有名なアマテラスを卑弥呼としたほうが
世間的には、宣伝効果があるから。
卑弥呼は被差別民。
エタとして今も子孫が生きながらえている。
239 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 21:56:55
畿内説は、足元ふらふらで、目はつぶれ、出血にまみれながらガッツポーズを
しているボクサーのようなところがあるな。
241 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 22:25:50
>>241 つまり、日本や中国南部などの亜熱帯地域から
朝鮮半島南部に稲が伝播していたということだなw
「筑紫の日向の小戸の・・・」
福岡市西区に小戸という地名があり
その名も小戸神社(神宮)というのがありますね
神功皇后(オキナガタラシヒメ)の上陸神話が残っているこの地こそ
あるいは神道発祥の地なのではないでしょうか、この近辺は古くから「神功」と呼ばれていたそうですね
宮司の方々は近くにある壱岐神社を国津神系だと敵視しておられるようです
244 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 00:25:07
>>242 違うだろ。
結局、稲作は朝鮮から伝わっただけだろうが。
>>244 稲作は、気候変動によるところが大きいんだよ。
何を言っているんだか…
>>244 おまえかw 必死に無意味なコピペを貼っている朝鮮人はw
邪馬台国九州説は終了。
でも、2ちゃんねるでは、いまだに空元気w
249 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 02:33:54
けっきょく 4男の神武天皇から15代めの神功 と 日向に戻った神武の兄の15代めくらいは、 初代家康から分かれた 紀州系家茂 と水戸家系の15代慶喜 くらい どちらもプライド高く 互いに知り合いだた どちもニニギの末裔(今に名が伝わらなくとも、当時は)。
251 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 03:12:43
日向に戻った神武の兄って誰だよ。
捏造すんなボケ。
252 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 04:14:59
>>251 いや、まんざら嘘でもなさそう。
神武四兄弟は、上から五瀬命、稲飯命、三毛入野命そして狭野命(神武天皇)。
上の三人は、東征の途中で死んだことになっている。
ただ、常世国に行ったことになっている三毛入野命は、日向に帰ったと
いう説もあり、高千穂神社の祭神になっている。
日向に帰り、一帯を荒らしていた鬼八を退治し、高千穂に宮を築いたとか。
この鬼八というのは、阿蘇あたりにも伝説として残っているから、
ひょっとしたら実在したのかもしれない。
253 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 07:48:14
それが本当なら、神武東征=邪馬台国東遷は無かったってことだな。
ぜんぜん遷都になってない。
高天彦神社の社伝では
ニニギ(神武天皇の曽祖父)は、葛城の高天の出身で
そこから、九州の高千穂に降臨したことになる。
そして、東征神話では
神武が畿内に入った時に、彼の親戚は畿内に在住していて
彼を出迎えたことになっている。
神武伝承をトップに繰り上げて後世に脚色したのでしょう。
ミマキイリヒコが実質神武。
葛城王朝がそれ以前から存在したのは明白だな。
神武天皇は後世の人間がつけた名前。
彼の本名は、若御毛沼(ワカミケヌ)という名の日向の豪族で
彼の曽祖父のニニギは、葛城の高天の出身。
葛城邑は、元の名前を
高尾張邑といったそうである。
258 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 12:33:26
>>254 日本書紀にはそれらしきことは書かれていない。
神武東征のときに葛城について書かれているのは、
高尾張邑に土蜘蛛がいた。その人態は身丈が低く手足が長かった。磐余彦尊の
軍は葛の網を作り罠をはって捕らえこれを殺した。そこで邑の名を変えて
葛城とした。
>>258 畿内に先に降りた天孫ニギハヤヒがいると、はっきり書いてあるし。
抵抗した先住豪族は土蜘蛛、協力した先住豪族が出雲。
260 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 13:13:48
>>258 高天彦神社近くに
土グモの墓があるね。
高天彦は高木神(タカヒムスビ)を奉る
最高位の社ですね。
記紀などでは
ニギハヤヒは、天孫ではなく、天神とされ、
天火明命とは、別神(別人)とされている。
ニギハヤヒ=天火明命としているのは、物部氏の見解だけ。
土蜘蛛が、何を表しているのかは、確定的なものはない。
あと、出雲国譲りは、ニニギ(神武の曽祖父)の時代に起こっいる。
神武東征の時代には、出雲国譲りより、後の時代。
高尾張=葛城
高木
高天=高天の原
高鴨
奈良県御所市のあたりは、
「高」がつく名称が多い。
>>261 海部氏系図は?
記紀が全て正しいなんて人は流石にいないでしょ。
264 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 20:42:24
>>263 系図は人名の羅列だから、簡単に作れる。
過去の有名な人に繋がる家系図はけっこうたくさんあって、大体偽物らしい。
徳川家康も、将軍になるには清和源氏の流れを引いていなくてはならないと
言われ、そこに繋がる家系図を作ったという話を聞いたことがある。
国宝になったから、系図自体が正しいというわけでもないらしい。
265 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 20:55:39
尾張国の尾張は大和葛城国高尾張(尾治)邑からの由来でしょう。
天火明命(天香山命)は伊勢湾入海、海中島に降臨しました。
>>264 それを言い出したら記紀だってどうなの?という話になるでしょ。
267 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 21:05:56
天火明と饒速日は別系だったかもしれもさんが、
海部氏と尾張氏には強い結びつきがありますね。
268 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 21:06:43
269 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 21:13:32
まあ、記紀がなかったら、海部氏系図もあんまり意味があるとは言えなく
なるんじゃなかろうか。始祖は記紀に書かれているわけだし。
というか、記紀から取ったとも言えるし。
270 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 21:47:59
記紀がすべて真実のみを書いているのなら何の問題もないのだが・・・
時の治政者は、往々にして自分の都合のいいように書き改めようとする。
陸山会の会長の言動を見れば一目瞭然!
同時に、検察とマスメディアが結託すれば何でも隠せる。
恐ろしい時代になったものです。
記紀だって元々各豪族等の伝承資料等をまとめたもんでしょ。
>>268 偽物というより、何が都合悪くて書きたくなかったかを
検討する事が古代史の研究でしょう。
勿論只の推測ではなく、他国の資料や残された
他文献等とどう折り合いを付けるかという事で。
272 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 21:54:13
証拠が揃わなければ、記紀というアリバイを崩すことは不可能。
藤原不比等は、日本史上まれにみる完全犯罪を成し遂げたといえる。
葛木日女命=モモソ=卑弥呼
274 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 23:42:35
記紀や倭人伝などの文献がないと実は何もわからない。
それは、文献の記述のない時代、例えば紀元前の日本を考えればわかる。
吉野ヶ里遺跡や、近畿地方で言えば唐古・鍵遺跡などがあり、国があったこと
もうかがえるが、考古学だけでは取っ掛かりさえつかめない。
にもかかわらず、文献を否定するのは、本末転倒だろう。
まして、箸墓は倭迹迹日百襲姫の墓だなどと言いながら、記紀は間違って
いるなどというのは、おかしな話だと思う。
文献が自分の説に合わないのは、文献がおかしいのではなく自分の説の方が
おかしいのだろう。
文献なんて、宮内庁所管の大王の墓を漁ればすぐに出てくる。
しかし、あのGHQでさえそれができなかった。
それが卑弥呼の鬼道の凄さってことです。
尾張氏と海部氏に関しては、尾張氏のほうが本姓で、海部氏のほうが別姓。
尾張氏の本拠地はあくまでも
葛城の高尾張か、尾張国であって
丹波のほうは、分国にすぎず、
海部氏は、天村雲命の三男の倭宿禰命が初代だったんだけど
途中で、この血統が断絶したので
本家筋にあたる尾張氏の当主が、丹波のほうの領主も兼ねたことから
後の系図に混乱が生じていると思われます。
277 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 23:58:24
>>275 発掘調査された唯一の大王墓というのがあって、継体天皇陵の今城塚古墳が
それ。学会ではこれが定説になっている。しかし、宮内庁は、かたくなに
太田茶臼山古墳を継体天皇陵としているので、御陵に指定されていない
今城塚古墳は発掘調査された。
でも、他の古墳と同じで、特別なものは出てこなかった。棺が熊本県の
宇土市から運ばれたことがわかったくらいかな。
>>272 藤原不比等を過大評価しすぎていると思う。
もし、記紀が藤原氏の都合が良いように徹底的にでっち上げられるのなら
藤原氏は自分たちの出自を皇族から別れたことにでっち上げることもできたのに
それをしていない。
それどころか、悪者にされた蘇我氏のほうを
皇族から別れた家系ということにしている。
自分は、記紀を藤原氏の陰謀と単純明快に考える人たちを
馬鹿にしている。
279 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 00:15:25
記紀はその時代に現実に存在した伝承を書いたことは間違いなかろう。
そうではなく、為政者が自分に都合の良い歴史を創作したという説がある。
この立場は成務天皇や仲哀天皇は創作で、本当は実在しないなどの「天皇の消去」を多く認める。
神武天皇より古い時代はほとんど全部が創作であるとする。
しかし、日本書紀を一読すれば明らかなように、異伝を豊富に収録している。
本文に言い伝えの問題点を指摘して、「のちの人が解明せよ」などと書かれている部分もある。
「歴史の創作」をするのであれば、なぜ異伝をいくつも書くのであろうか。
「歴史の創作」をするのであれば、なぜ後の時代の人に解釈を委ねるのであろうか。
記紀を編纂した人たちは、言い伝えを誠実に後の世に残そうとしたからこそ、異伝をできるだけ多く残し、
問題点の解釈を後の世に託した。歴史家として歴史に向き合う誠実な姿勢がここにある。
記紀を捏造や創作であるとする「でっちあげ史観」の人は、この記紀編纂者の歴史に向き合う
誠実な姿勢には到底及ばないといわざるを得ない。
「でっち上げ史観」が戦後学界で通説ないし定説の地位を築いてきたことは、不幸なことである。
戦後はマルクス主義に脳を汚染された人たちが跳梁跋扈した不幸な時代であった。
でっち上げとは言わないが、創作部分、取捨選別、脚色が
あるだろうとは思うけどね。
権力者なら現代でも行われる当然の事だろう。
為政者が歴史を創作できるのは 民度が低いか 権力抵抗勢力が弱いか
その逆であったなら 歴史は創作できない(中国の歴史書)→知識人も多く知的にも抵抗勢力が無数にある
ジヤップは永遠の原始人集団なのか
282 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 01:24:48
徳川光圀の「大日本史」でも、方針としては客観的で正確なものを編纂すると
いうものだったらしい。そのために、各地で資料を集めた。これがいわゆる
水戸黄門漫遊記の元らしい。もちろん、本人が各地に赴いたわけじゃないが。
そして、必ず出典も明らかにした。出来たものを他人がどう評価するかは
ともかく、編纂者が、どういう方針だったかは重要だろうな。
記紀に関しては、祖先を美化するようなところは見受けられないと思うから、
可能な限り正確な歴史を後世に伝えようという意識があったのではなかろうか。
一番問題になっている神武東征にしても、どうしてこれを挿入する必要が
あったのかということになる。
物語を作るのだったら、天上の高天原から三輪山あたりに降りてきて、
そこから全国に支配を広げていくという物語を作るのが自然だろう。
なのに、天孫は西の果ての日向に降臨する。そして、大和に東征し、大和の
長髄彦を滅ぼして初代天皇になる。想像でこういう物語を作る必要性が
あるのだろうか。
これが、大和朝廷にとって都合の良い物語なのだろうか。
283 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 01:34:49
>>280 記紀は当時の知識層に広く読まれていた。
例えば直木孝次郎など多数説の主張するよう、記紀が崇神以後に多数の架空の天皇を挿入して
歴史の大幅な改ざんを行ったとすれば、これに対する抵抗は激しいものになったであろう。
しかし、記紀編纂後にそのような抵抗がなされた形跡はない。
「でっちあげ史観」によれば、これは記紀史観に対する一切の反論が封殺された結果ということになろう。
しかし、この考えでは先代旧事本紀や古語拾遺などが記紀とは異なる歴史を伝えることを、なぜ封殺
できなかったのか説明できない。
「でっちあげ史観」によれば、本当は存在しないがでっち上げられたにすぎない天皇や重要人物の事跡が、
多くの神社の由来や祭り神になり、風土紀や稲荷山古墳の鉄剣銘文に記載されるなどしたことは、権力に
より数十世代、数世紀にわたって一貫した念入りな「でっち上げ」がなされたことになろう。
しかし、そこまで念入りな謀略を想定しなければ維持できないことが「でっちあげ史観」の最大の弱点である。
>歴史の大幅な改ざんを行ったとすれば、これに対する抵抗は激しいものになったであろう。
しかし、記紀編纂後にそのような抵抗がなされた形跡はない。
抵抗の記録を残さなければいいだけな気が。
蘇我氏が焼いてしまったなんて記録もある事だし。
285 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 01:50:02
>>284 「さらに念入りなでっち上げ説」ですねww
欧米史学者もびくり ニポン歴史書陰謀論世代
287 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 01:59:14
先代旧事本紀や古語拾遺が記紀とはことなる伝承を伝えているといっても、ストーリーの骨格は
記紀と同じで、細部にこだわって、その部分を後世に残すためだけにわざわざ書かれているに過ぎない。
つまり、記紀のストーリーの骨格はその時代やその1〜2世紀あとの時代においても、支持されていた
ということが裏付けられる。
この状況で記紀のストーリーを根本から否定して、多数の天皇を架空にしてしまうような
「でっち上げ史観」は古今東西の歴史書解釈のなかでも有数のトンデモと言わざるを得ない。
>>287 言ってることには一理あるし、個人的に反省すべき点も感じたけど、
操作がまったくなかったかといえば、そんなことは絶対にないね。
だからみんな邪馬台国問題で悩むんでしょうが。
意図的なでっち上げの目的意識が一元的なものだと考えるからおかしくなる。
あの人にも、この人にも、必要に応じて気を使うのが政治ってもんでしょ?
別にここでは多数の天皇を架空になんかしてないでしょ。
でも意図的に操作がある部分は否定できないという事。
正史として文言に残す事は大変なんだよ。
290 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 10:44:04
記紀は基本的には事実だよ。
事実と言うか、事実を書くつもりで編纂されているね。
でっち上げなんて言ってるバカ学者は、自分を進歩的な学者に見せかけたいだけ
。
記紀は、編纂者が創作したのではないのは事実。
いろいろな伝承や口伝をまとめた訳だ。
しかし、どういう視点でまとめるかという点では恣意的な部分がある。
本来ヤマト王朝の伝承ではないのに、ヤマト王朝伝承とした可能性は高い。
天皇家の万世一系なんて、科学的視点で見てありえん話。人類史に例がない。
>>291 おまえ、歴史や考古学を分かってないだろうw
いかなる歴史も考古学も、科学では解明は不可能だよ、実質的に。
人文科学というのは、芸術と同じで、科学では解明は無理。
ヒストリーとかいって、物語の延長線上に歴史があるわけだから。
あと、ヤマト王朝はな、少なくとも、出雲王朝の歴史は
自分たちとは別けて考えている。
もし、万世一系で長く考えたいのなら
出雲王朝の歴史も万世一系でまとめるはずだろう。
「科学的」を辞書で調べてみ
科学=理科と思ってるだろ
294 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 14:36:17
皆々様のカキコよりずっ〜と鋭い、記憶に残るネラーのコピペ。
日本には謎の鳥がいる。
正体はよく分からない。
中国から見れば「カモ」に見える。
米国から見れば「チキン」に見える。
欧州から見れば「アホウドリ」に見える。
日本の有権者には「サギ」だと思われている。
オザワから見れば「オウム」のような存在。
でも鳥自身は「ハト」だと言い張っている。
私はあの鳥は日本の「ガン」だと思う。
295 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 15:08:11
鳩山ですね
昭和8年に「自由主義的である」と滝川教授を追放した鳩山文部大臣の孫でしたか
297 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 16:05:13
『記紀には本当の事も書いてあれば事実で無いことも書いてある』
ただそれだけの話し。
「大和朝廷に都合の良い事ばかり書いているわけじゃないから
先ず書いてある事を事実として認識せよ」
なんて言うのならもはや宗教に近いw
まあこの理屈の先には東遷説があるのが見え見えと言うのが情けない話ではあるwwww
298 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 16:20:28
はっきり言って東遷説なんか学説としての体をなしているのか?
「東遷説」…その目指すところが何かと考えれば
当然記紀に描かれるような東遷が史実としてあった事を証明する事にあるんだろう。
看板に偽りがなければだw
で、その為に何が必要か?
先ず出発点の卑弥呼=天照のいます高天原=九州邪馬台国を確定し
次に神武がたどり着いたヤマトの地にその足跡を探す。
スタート地点とゴール地点を確定し
確かに文化の伝播ではなく直接的に人の移動があった事を証明する。
言わば「スタート地点」と「ゴール地点」その2点をいわば線で結ぶような作業。
…これらができてこそ東遷説が証明された事になるんだろうが
現実はどうか?
スタート地点の九州邪馬台国は見つからず
ゴール地点であるはずのヤマトには神武の足跡も見えない。
纏向は九州系の遺物が少なくて東遷説を否定する材料に使われる始末wwww
当然「始まり」と「終わり」の2点が分からないんだから
それを結びつけるなんてできるはずも無い。
それでも記紀神話に頼るが、その神話も海外との類似を見れば、何も史実を下敷きにしなければ
出来上がってこないストーリーでもなんでもないwww
(まあ東遷厨が一点突破目指すなら太陽神が何故女神なのか?と言う一点だろう)
これで現時点東遷説って「学説」として扱えるのか?と言うのが素人の素朴な疑問ですwwwwwww
思うんだが、神武東遷は隔離スレ立てたらどうかね?
300 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 16:28:54
>>299 でも流石に邪馬台国スレ立ちすぎだろう?w
どうせこの板の九州説の連中の半分以上(8〜9割方?w)はと東遷説をとっていると思うし
隔離スレ作っても同じ事だと思うwwww
301 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 16:33:33
そう言えば記紀神話と海外の神話との類似について
東遷説教教祖の安本センセイはどう言っているのかな?
神話を扱う以上避けて通れない話だとは思うが・・・
302 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 16:40:08
神武東征のとき、神武天皇は日向から息子の手研耳命を連れて行っている。
また、大和で五十鈴媛を娶り、三人の息子が生まれる。
三人のうち、一人は影が薄く、あまり登場しない。
神武天皇が死ぬと、五十鈴媛の陰謀?で、手研耳命は、三男、四男から
殺されてしまう。四男が即位し、二代目綏靖天皇となる。
なんか、生々しいな。
303 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 16:47:27
>>301 そんなのは、よその神話との類似点を一生懸命探して、ちょっとでも似ている
ところがあれば、ほら似ているだろう、神話なんてそんなものといっているだけ
の話。
総体的に似ているかどうかは別問題。
304 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 16:53:10
さすがに半島→九州、東南アジア→沖縄→九州くらいの範囲では、
ご先祖様の神話をそのまま持ってくることもあるだろうけどな。
実際、あると考えられてるし。
>>301はなにを言いたいんだ?しらんけど、朝鮮の神話に東遷の
モデルになるような話でもあるの?
305 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 17:07:58
>>303 逆だなw
東遷説の連中が自分達に都合の良いところだけを摘み食いしているだけwww
例えば、卑弥呼を天照に、狗奴國の卑弥弓呼を素戔鳴に見立ててそれで岩戸隠れを説明するが
じゃあ三貴神としてもう一人、月讀はどうすんだ?って話で
恐らく連中はそんな事は考えた事も無いんだろうwwwwwwwwww
コレが神話なら太陽と月の神がいてもう一人し悪さをして「蝕」を起こす神がいる…という3点セットで説明がつくw
まあその他色々あるが餅は餅屋に神話は神話学者に任せた方がいいんじゃないかな?w
おまえら、まだ気が付いてないのか...
まあ、2ちゃんで文字で説明しても分からないだろうけど。
近畿王朝は、神武東征で誕生したのではない。
神武東征よりも前の出雲国譲りで誕生したんだよ。
つまり、神武天皇(というか、若御毛沼命)は近畿王朝の始祖ではなく
近畿王朝の中興の祖ぐらいの位置づけ。
系図で説明したら、一発で理解できるんだろうけど
まあ、2ちゃんに系図を書き込んで説明するのは、たいへん。
まあ、簡単にいうと、
近畿王朝の正当性は、前の覇者だった出雲王朝からの禅譲にある。
この出雲王朝からの禅譲をうけた倭王が天火明命なんだよ。
大国主命は、娘婿の天火明命に、倭王の地位を譲った。
ここで革命が起きたわけだ。
そして、天火明命は、通称・天照国照日子(天津と国津の両方の支配者)とされていた。
男神アマテルとは、彼のこと。マキムクの真ん中でも、彼が祭られている。
そして、近畿王朝の倭王の地位は
天火明命ー天香語山命ー天村雲命ー天忍人命
というふうに受け継がれていた。
この天火明命には、ニニギ命という兄弟がいて、出雲国譲りの後、
九州の高千穂へ派遣され、そこの統治をまかされた。
このニニギ命の曾孫が、若御毛沼命(神武天皇)
>>306 おれもそれに近い感覚で理解してるし、そういう方向の本も数冊読んだが、
まあ現状で威張って言うほどのことでも断言できることでもないな。
>>307 まあ、確かにそうだけど。
この時代の文献が少ないから、どうしようもないわけで。
309 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 17:44:40
で茶々が入ったが結局のところ安本センセイは記紀神話と海外の神話の類似について
何某かの言及は無いのかな?
この板の東遷説連中みたいに
「たまたま似ている部分があるだけで日本のはあくまで邪馬台国からの史実に基づくもの」
と言う主張なのかな?wwwwwwwww
記紀をすなおに読む限りは「東遷」じゃないな、「東侵」だな。
「東遷」であんなに苦労するか?どっかに7年も滞在したり。
311 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 18:34:02
なんか話がずれてきたな。
>>279 とか
>>283で主張たのは、記紀や先代旧事本紀や古語拾遺や新撰姓氏録が
支持している基本的ストーリーまでを「後世のでっちあげ」としてしまうのは、かなりカルトな
謀略史観と言わざるを得ないということ。
神武東征なんかも、上記の文献が一致して認めている「基本ストーリー」である。
実際にも考古学的には、九州の絶対優位の時期が続いた後に、畿内中心の時代になっている。
神武東征前に出雲の興隆期があったことも「基本的ストーリー」である。
考古学的にも、九州の絶対優位の時期に本州で鉄器と鏡を最も出土するのは出雲であり、
銅鐸などの大量出土によっても、出雲に本州で優位した勢力が存在したことが裏付けられる。
九州の絶対優位の時期(笑)
313 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 19:27:31
そもそも記紀の何処に
「天照のいます高天原は九州にありました」
…とかいてあるんだって話でwwww
あと荒神谷や加茂岩倉と言った山陰での考古学的成果で
出雲に対する印象がガラリと変わったのは事実だろうが
アレで昔の歴史教科書に載っていた日本の東西に銅矛文化圏と銅鐸文化圏の
二つの円が広がっている図がどうも怪しくなってきたと言うのもあるだろうw
現在山陰の銅鐸祭祀の終わりはヤマトより早いと言うのが常識だと思うが
この板の東遷説論者にはいまだに固執している奴がいて
全ての銅鐸が一斉埋納されたとか言っているwwwwwwwww
おいおい東遷説敵に鬼の首をとったように喜んでられるのか?とwwwwwwwwwww
314 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 19:36:53
冷静に考えて東遷説なんてのは超絶アクロバチックな説で
仮に九州邪馬台国が発見できてもそれは必要条件の一つでしかないwwww
もう雲をつかむどころか数万光年先の星をつかむような話しw
で、現在のところは九州の邪馬台国どころか畿内説を否定するのに手一杯www
東遷厨の悲願成就は一体いつになるんだろうか?wwwwwww
まあたとえばだな。ヤマト成立以降の東征を考えてみようよ。
記紀に残る英雄や名将軍の数回の遠征だけでなしえたことなのか?
違うだろ。
じわじわと、長い時間と多くの人員を割いてようやく成し遂げた、
もしくは成し遂げ切れなかったことだろう?
真実か嘘かの二択でなく、「伝説の翻訳」という視点を持てよ。
316 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 20:17:20
317 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 21:30:01
とにかく、葛城地方の発掘が不可欠だよな。
欠史の事やモモソの事が明らかになる。
御所は破綻寸前で余裕がないようだが
明治政府が皇居を京都御所から東京に移したように、
卑弥呼の時代にすでに天皇が権力を持たない象徴的な存在にすぎなかったとすれば、
九州から畿内に呼び寄せることはたやすいことです。
政治王祟神が、斉王神武の子孫を九州から探しだして三輪山に迎えたというのは実に興味深い説です。
葛城はやはりタブーなのかな、色んな意味で。
和歌でも葛(クズ)は裏見草、(恨み)にかけてあるし。
320 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 21:40:45
怨みは蘇我入鹿の伝説からでしょ
蘇我も葛城所縁でしょ。
>>315 そういう解釈をしたら、もう記紀無視だわなw
東遷厨は、記紀を大切にしろとい割には
記紀にあることを大幅に崩して解釈しようとしている。
君らも早くコテを名乗れるぐらい成長しないとな
今のコテ付き以外は、まだ名乗ったらいけません
今度にコテを名乗るやつは許可制にするって案はどうだ?
現コテ連中に認められたやつじゃないと駄目てことにして
325 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 22:49:58
卑弥呼に脅威を抱かせいた東国の王って東進(尾張)した
男神・天火明命じゃないですか??
326 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 23:03:17
>>306 出雲の国譲りは、高天原時代の話。
高皇産霊尊と天照大神は、神々を派遣して出雲を征服した。
大己貴神(大国主神)は、高天原に国を譲ることを約束して姿を消した。
その後で、天孫・瓊瓊杵尊が日向に天降る。
なんか、直接、記紀に当たるのではなく、誰かのフィルターを通して
記紀を解釈しているような人が多いな。
327 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/15(金) 23:21:08
古典板は書きこめたが、ここは駄目かな? テスト。
328 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 23:38:00
330 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/15(金) 23:44:08
寝るまえに制限解除じゃ、もう書きこみは少しにするしかないな。
縄文人氏は神功が架空だと思っているらしく、また欠史八代も架空だと
考えてるんだろうな? そこで前者の場合、いちいち北九州まで朝廷の
一行を派遣して架空だとする捏造の強要をあちらの多数の神社へ金と労力
をかけて、新幹線も航空機もない時代だから、日数がうんとかかり、その
手間は著しく面倒であるが、こんなことで捏造をしに人員を借り出して
行くヒマなんかあろうはずもない。それを彼はむこうの神社はずっと後代
だとかぬかして架空説を頑張っている。w
ところで八代のことだが、「鹿児島史官記録」によると、
懿徳天皇御宇 薩摩国開聞山湧出、神代皇帝記 爰ニ云フ 湧出ハ
噴火ト解スベキモノナラン
つまりこの天皇の年、噴火ということのようだ。
縄文人さんよ こんなことは記紀の欠史八代の記事にないが、何で創作
するに記紀になく上↑のはこういう八代関係の記事があるのか? これを
記した関係者は太安万侶、舎人親王らとはおそらく別人だろうがね?
331 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 23:53:13
>>313 まあ、状況証拠に過ぎないかもしれないが、高天原が出雲の国譲りや天孫の
日向降臨の出発点になっているところを見ると、やはりその間にある地域と
考えるのが妥当だと思うな。
それは、出雲や日向があれだけ詳しく書かれているのに、その間にある
北部九州が全く書かれていないことからも推定される。
実は、書かれていないのではなく、高天原という主要な舞台だったという
ことで。
北部九州が古代日本の中心地だったのは疑いのない事実なのだから。
神武東遷は、フン族の大移動によって押し出された朝鮮半島からの移民によって
九州が内乱続きで荒れ、新しい土地を求めて畿内に移ったということだろう?
歴史というものは世界に繋がっているものなのです。
333 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 23:55:47
縄文人はほっとけばいいよ。
昨日今日、歴史本を読んだだけの知識で、このスレの長老の相手にはならん。
スルーされっぱなしじゃないか。
しかも、長老達は本当の持ちネタは明かさないから、
縄文人を手のひらで転がしてる状態。
縄文人だけがそれに気がついてないのが笑う。
縄文人よ。おまえの浅い知識で、長老達に物申しても、
長老達は、はるか上の次元で、腹を探り合いながらネタを小出しにして議論してるのだよ。
10年くらいロムって出直したらどうかね?
長老達って誰のこと?
335 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 00:05:50
>>334 縄文人にマジメにレスしてる人以外の人。
みんな、記紀などの時系列を無茶苦茶に解釈している。
高天原とは、葛城の高天地方のこと。
このあたり一帯には
高天、高鴨、高尾張、高宮などの地名や
高天原神話に主役級で登場する一族の総本山の神社などが勢ぞろい。
延喜式でも、このあたりの神社は区別級の扱いを受けている。
あと、記紀の混乱のもとは色々あるんだけど、
その一つが時系列がグチャグチャになっているのも大きな要因。
だから、史書によって記述が違い。
たとえば、天火明命の後胤の氏族たちは
かならず、天火明命が後胤したという伝承をもつことが多いが
実際にその地方に赴任したのは、
天火明命から数えて、数代後の子孫の場合が多い。
>>332 考古学者にそのような解釈する人はいないです。
そもそも、九州から近畿に大規模な首都移転があったと見る人などいません。
どうみても、近畿の勢力が西遷して、九州を併合したとしか考えられないそうです。
だいたい、西暦5世紀の倭王武(雄略天皇)の上奏文からして
九州から近畿へ流れて行ったと思えるような記述はありません。
339 :
縄文人 ◆Vqr/JTiKqY :2010/01/16(土) 00:14:23
『三国志』裴注の魏略逸文では、倭について「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」とある点
に関して尋ねたのです。この文からは当時は暦がなかったと考えられます。
日本書記には神武天皇から始まる歴代の天皇の即位年(例外もあるが)に大歳記事があり、朔の
干支が記されていますが、これらは元嘉暦と儀鳳暦によって割り当てられているとされます。と
ころが、元嘉暦は宋の元嘉22年(445)に施行されたものであり、儀鳳暦は唐の麟徳2年
(665)に施行されたものですから、少なくとも445年以前については倭では用いられていな
かった暦の暦日が書かれているわけですから、暦はなかったと考えることができるでしょう。そ
れとも、元嘉暦とは異なる暦があったのであるが書紀編纂チームが苦労して元嘉暦あるいは儀鳳
暦に変換したのでしょうか。私は暦は無く「但計春耕秋収爲年紀」とあるように季節の移り変わ
りで1年の長さを知る程度であったと思います。
こういうことですから、書紀などで5世紀以前の天皇の在位年代を割り出すのは無駄な努力では
ないかと思う次第です。
340 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 00:18:57
葛城について言えば、葛城の神社が格上扱いなのは事実だな。
神武天皇以後の、天皇の宮が葛城に多いのも事実。
だから、
神武東征が、邪馬台国東遷の証拠だとか説を立てるなら、
邪馬台国は葛城に東遷したと主張するのがスジなんだ。
そういう論を立てるなら、すこしは聞く耳も持てるというもの。
ところが東遷説は、葛城を都合よく無視してマキムクに東遷したとか言っている。
浅いんだよなあ。
葛城に大した遺跡は無いだろ
古墳とか
343 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 01:12:40
>>312 学者は弥生時代は九州が圧倒的に優位であったことを書きたがらないね。
九州では弥生時代中期〜後期の王墓または王族の墓(いわゆる特定個人墓)が多数出土している。
なお同時期の本州では特定個人墓は1個も出土していない。
九州ではこの特定個人墓やその他の墳墓から膨大な数の鏡が出土している。
この時期の本州では出雲で10枚前後の鏡の出土とその他の地域で数枚の出土があるのみ。
九州では特定個人墓その他の墳墓、住居跡などから大量の鉄が出土している。
本州ではひいき目に見てもこの30分の1以下、とくに奈良県の出土は少ない。
玉の出土においても、九州の方が圧倒的に多い。玉の製造は本州が担っていたが、
本州では特定個人墓が存在しないので、墳墓からの出土はわずか。当然ではあるが。
弥生時代は九州でのみ存在した特定個人墓が、古墳時代の直前期以降は本州でも見つかるようになり、
しかもそこに鏡が副葬されるようになったことなどは、まさに「神武東征」の裏づけと言わざるを得ない。
文献と考古学的事実が一致して声高に主張していることを、一生懸命無視し続けるのが、
反天皇制を信条とするマルクス主義史観(=今の学界の多数説)である。
344 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 01:15:48
>>343 「弥生時代は九州が圧倒的に優位であった」
と、考古学者に話したとしたら、
たぶん、生暖かい目で見られると思うよ。
345 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 01:18:05
>>344 反論は具体的にしたほうが良い。何とかのオーボエにしかみえないから。
>反天皇制を信条とするマルクス主義史観(=今の学界の多数説)である。
これは違うんじゃねの。唯物史観の最大の特徴は、生産力と生産関係の矛盾により社会が進展していく
といったようなことだけど、そんなことを言ってる考古学者はほとんどいない。むしろヤマト中心史観という
感じならわかるけどね。
>九州では弥生時代中期〜後期の王墓または王族の墓(いわゆる特定個人墓)が多数出土している。
なお同時期の本州では特定個人墓は1個も出土していない。
丹後にはあるけど。
348 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 01:27:01
>>344 マルクス主義の悪口を書きなぐったら、信用してやるwww
「マルクス主義なんて、現実無視のカルトだったことがすでに証明されている。」
「マルクス主義に洗脳されて人生を台無しにした無能学者は哀れだな。」
「マルクス主義を信じることだけを人生の目標にして、人生オワタww」
「歴史の真実よりマルクス主義の方が大切だった。そんなバカもいましたww。」
「反天皇制マルクス主義に騙されて、一生台無しの歴史学者が戦後は続出でしたな。」
「老害マルクス信者のカルト学説は、見るに耐えない。」
「ソビエトが崩壊して、中国が資本主義になって、それでも洗脳が解けないマルクス信者は哀れ」
丹後には天孫降臨伝承を記した海部氏系図もあるしな。
先に畿内に入っているのは確実でしょう。
大和に痕跡も多いし記紀にもニギハヤヒが
先に治めた事を伝えている。
350 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 01:33:11
白石は、昔は研究会にいくとマルクスの著書の朗読で始まることが多かったなんて書いているな。
40台以降の学者はマルクス主義に帰依していないと、学内でのポストにも影響しただろうし、
マルクスに屈しなければならない状況もあっただろうね。
今でも、著書の冒頭の方の章でマルクスを引用するという「踏み絵」に従う人は多いね。
今の時代の普通の人には、「マルクスの著書=オウムの著書」という感じなんだけどね。
>>291 推古女帝の次からきんじょう陛下さままでの1400年近くの一系も 例外ない空想の歴史大国 のチショー=スチュピッドたち(とアメリカ学者は謂うでしょう
352 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 01:44:26
九州が絶対優位って思想も、何度も聞かされるとキモチワルイんだな。
なんでも起源を主張する朝鮮人みたいで。
353 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 01:48:49
ゴホウラの貝輪というのが弥生時代の北部九州を中心に見られるが、これは
沖縄で作られたことがわかっている。沖縄から出ているし、作りかけの
半製品も出ている。つまり、沖縄とも交流があった。
朝鮮半島とも交流があったことがわかっており、狗邪韓国は倭の一部では
ないかとの説も有力。そうでなくても、帯方郡との往来では自由に行き来
している。
古代人がかなり広範囲に交流していたことがうかがえる。
当然、瀬戸内海も往来していただろうし、山陰地方とも交流があったに
違いない。むしろ、航海の容易さという点では、こちらの方が上なので
国内の移動の頻度の方が高かったと思われる。
そういうことも踏まえた上で、古代のことは考える必要があると思う。
354 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 03:56:51
>>343 このいつもの怨み節(ルサンチマンともw)爆発のいつもの東遷厨によると
現在、九州説が下火で東遷説が迫害されているかのような状況は
「学会を支配している左翼かぶれの爺どものせい!」
と言うまあ一種の陰謀論なんだなwwwwwwwww
ところで、こいつの言う「特定個人墓」には出雲の四隅・西谷3号墳や吉備の楯築、あるいは丹後の赤坂今井墳丘墓は含まれるのだろうか?
それらからは銅鏡が出てたっけ?
結局、本州の大型首長墓と言うのは銅鏡の副葬を必要条件にもしていないwwwwwwwwww
出雲で言えば銅鐸や銅剣といった青銅器の祭祀から大型首長墓の祭祀へとシフトしたのであって
銅鏡の祭祀にシフトしたわけでも無いw
ヤマトにしても例えばホケノより古いとされる勝山に果たして銅鏡が副葬されていたのかどうかも怪しいもんだwwwwwww
鉄なんかはもう古墳時代が鉄器鉄資源の(九州と以東の)保有数逆転が起きたから後起こったのではない事は明々白々。
東遷厨が鉄の優位性を説けば説くほど神武東征が遠のくと言う皮肉wwwwwww
355 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 04:10:08
あとこの怨み節東遷厨以外のこの板の九州説論者の多くに通じる事なんだが…
こうやって九州の優位性を説く、あるいは畿内説を否定するに
鉄や鏡を持ち出しておいて、次に九州内で比定地を定める時今まで言ってきた
鉄や鏡をすっ飛ばすのはやめてもらいたいものだwwwwwwwww
具体的に言えば「銅鏡の出土は九州が圧倒的に多い」と言っても
玄界灘周辺地域、通説の伊都国〜奴国の範囲に絞られるわけでw
畿内説を否定して一旦九州内が確定できたらフリーハンドを得て
九州の何処でもおk的なダブスタと言うかアホ丸出しの展開は止めてもらいたいwwwwww
つうか、マルクス主義者とイデオロギー闘争しちゃってる国士東遷厨は
そもそも邪馬台国の比定地は何処だっけ?
やっぱ東遷説の本場w甘木なん?wwwwwwwwwwwwww
356 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 04:27:49
九州説のイメージする邪馬台国ってのは、こうだろ?
近畿に負けない大規模な環濠集落があって、
鉄器がいっぱい出てきて、
鏡がいっぱい出てきて、
近くに径百歩の卑弥呼の墓がある。
最低限、上の条件を満たしてくれないと、邪馬台国としては脱落だよね。
自分で、そうハードルを決めたんだから、文句無いよね。
で、九州のどこにそんな遺跡があるの?
357 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 04:37:42
>>356 恐らく九州説論者にしてもそんなものが本当にあったと思ってないだろうwww
ただそうやって自分が倭人伝空受けたイメージに合致する事を金科玉条にしておけば
少なくとも畿内説は否定できるwwwwww
あ?なんか文句あんの?俺ガキん頃アラブとかに住んでて学校が銃撃戦で俺何発か食らって
ナイフとか刺さって鉄パイプとかで殴られて内臓破裂して血とか吐いたけど
そのまま3人ボコって潰して病院で奇跡的とか言われたけど全然平気だったよw
俺ジャニーズ事務所みたいなイケメンとか目とかきれいって言われるけどお前ら温室みかんみたいな
虚弱人間と言うよりもはや物体レベルの惨めな肉片見てるとむかつくんだよね実際
359 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 08:33:06
神武が東征してくる前に奈良盆地の西側を支配していた葛城氏、
彼らはどこに消えたかについて考えたのですが、
その風俗習慣からして、関東、葛飾郡に移り住んだのではないかと思うのです。
葛飾郡とは、東京都墨田区や江東区、東は千葉県船橋市、北は埼玉県栗橋町・茨城県古河市にまたがる広大な地域です。
葛飾とは葛城氏の繋がりは何だったのでしょう?
361 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 12:42:19
畿内説は絶対誰かの受け売りだな。
みんな同じようなことばかり言っている。みんな同じ本を教科書のように読んで
オウム返しのように言っているだけなのだろう。
>>356 九州の遺跡についても毎度毎度同じようなのが次々に沸いてくる。
そのたびに同じようなことを言わなければならない。
たまには、自分で探せばと言いたい。
インターネットという便利なものがあるわけだから。
362 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 12:45:19
九州説は、みんな微妙に違う。それなりに自分で考えているからだろう。
畿内説は、まるで中学生みたいに、だってこないだ先生が言ってたもん、
みたいな感じがしてならない。
363 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 12:57:42
>>361 >そのたびに同じようなことを言わなければならない。
この板じゃあ
「九州には候補になる遺跡がいくらでもある!」と言って誰かが
「じゃあ具体的に挙げてくれ」と言ったら大概
「自分で探せ」とかお茶を濁して逃げるしか見た事がないw
で結局、吉野ヶ里で「宮室・楼観・城柵」の3点セットのお話しかでてこないとwww
もう九州説は吉野ヶ里一本に絞ってくれんかね?wwwwwwwwwwww
ホント頭わるそうだな、九州説の連中はwwww
365 :
363:2010/01/16(土) 13:05:35
結局この板の九州説の殆どの場合
畿内説を否定するに鏡だの鉄だのを持ってくるが
それを引き継いで比定地を求めるなんて一貫性を持った奴が殆どいないんだなwww
366 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 13:06:28
>「九州には候補になる遺跡がいくらでもある!」
それじゃダメだろという話だよなw
少なくとも畿内説では巻向周辺が、その成り立ちはともかく、
国家成立に関わる重要な場所であるという
意見では統一されてるだろう。
368 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 13:16:35
>>366 あと過去に出てきたのは「惣座遺跡」あたりかな?www
で何をもって邪馬台国の候補とするのかイマイチ分からんわwwwww
吉野ヶ里なら倭人伝との一致。
じゃあそれらの遺跡の場合ウリはなんだって話でw
369 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 13:21:27
>>367 いや、倭国には邪馬台国しかなかったわけじゃないから、遺跡が多くあるのが
普通だろう。一支国とされる壱岐にも原の辻遺跡と言う大規模な遺跡がある。
倭人伝の国に比定されている地域にはそれなりの遺跡があって当然だと思う。
ほかに惣座遺跡やうてな遺跡などもある。
吉野ケ里遺跡のように、ちゃんと発掘調査されているのは少ないが。
>>369 畿内にだって遺跡なら他にもあるけど、そこを比定しないだけの話でしょ。
それだけ奈良東南部は色んな意味で条件が突出している。
371 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 13:40:00
>>365 その鏡も今じゃ
桜井茶臼山に潰されたしな(笑)
372 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 13:42:50
>>371 いや、まあ、そこは年代観のお話wwww
373 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 13:49:30
中国の鏡が奈良から出た時点で九州説はもう諦めろよw
もしくはスコップ持って九州の痩せた土地、発掘してこいよw
つーかな、畿内説叩いてる暇があったら安本先生の尻でも叩いて
調査なり発掘でもさせたほうが良いんじゃないか。
学者の尻なんか叩いてどうすんの。貧乏なんだから
予算さえ出してくれれば、発掘したい人はいくらでもいる
安本先生は知ってて九州説のふりしてるだけな気が。
377 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 16:34:57
>>354 >出雲の四隅・西谷3号墳や吉備の楯築、あるいは丹後の赤坂今井墳丘墓
これらは本州では古墳時代直前にならないと、特定個人墓が登場しないという実例だろ。
つまり、上に挙げたもの以前には本州には特定個人墓が存在しない。
一方九州では弥生中期のころから特定個人墓が存在する。
379 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 17:08:25
>>377 古墳時代直前?
まあどうせそこらの話は年代観争いになるだろうから割愛したと言うかこの場合はどうでも良い。
この話の肝は結局、東遷説厨の言う
>弥生時代は九州でのみ存在した特定個人墓が、古墳時代の直前期以降は本州でも見つかるようになり、
>しかもそこに鏡が副葬されるようになったことなどは、まさに「神武東征」の裏づけと言わざるを得ない。
なんてのが全くのデタラメって事だなwwwwwwww
そもそも鏡だったら何でもおkで東遷の証と言うのが馬鹿げている。
ある時期に同笵同型の鏡が九州の何処かとヤマトで出て
その後銅鏡の出土が九州以東に移るというのなら兎も角
東征勢力による直接の持込か文化の伝播かその区別もしてないアホ理論wwwwwwwwww
そのくせ三角については恐らく同笵同型でなければ舶載を認めないんだろうがwwwwwwwwwww
380 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 17:19:44
ちなみに九州での首長墓で四隅や前方後円墳、前方後方墳…のように
墓上での祭祀を執り行ったと思われる形のものがあったかな?
(該当するものがあるとしたらは平原ぐらいかな?)
尚且つそれが一定の地域的広がりを見せるとなると思いつかないw
大きさや副葬品を別にして単なる土を盛った墳丘墓ってイメージしかないが…
そこら辺が九州と九州以東の首長墓の違いと言うか…
墓制の違いが形とか大きさというのではなくコンセプトからして違うと言うかw
仮にヤマトに何処からか遷都の如き人口流入があったとしても
俺なら九州は真っ先にその候補から外すwwwwwwwwwwwww
「九州には古くから首長墓がある!」と子供じみた自慢ゴッコ如きの話は
一体なんの役に立つのか?wwwww
381 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 17:26:09
382 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 18:26:20
>>354 こっちには古い墓あるもん!!
と駄々をこねられても、卑弥呼以前の話だし、どうでもいいな。
では、そんな小さい墓なら、奈良は手付かずで誰の物かわからない墓が
まだまだゴロゴロあると言っておくか(笑)
383 :
縄文人 ◆/xu1OicFrg :2010/01/16(土) 18:41:08
私は縄文人。九州説の王にして天才史学者。畿内説には蛇蝎のごとく嫌われておるようだが、私は正しく根拠の
あること以外はレスしない。私は、経済学、金融工学、冶金学、鉱物学、認知心理学、書肆学、ドイツ文学、英文学
法医学、肛門外科、切手の歴史、ありとあらゆることに深い知識を持つ、知の巨人だ。ぐはは、私は偉い!私は
小林秀雄より偉い。私はこれまで十万冊以上の書籍を読破してきた。私は縄文人だ。
386 :
縄文人 ◆xkw9CZfB6w :2010/01/16(土) 19:15:31
>>385 私は映画俳優でもある。ロックは大根じゃな。
387 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 19:30:59
>>380で…
>墓制の違いが形とか大きさというのではなく
とはいったが「出雲の西谷3号墳・吉備楯築、丹後赤坂今井墳丘墓」
何れも長さが30〜40mぐらいあるんだよな。
対して九州なら平原の方形周溝墓で一辺が十数mぐらい。
やはり方向性が違うと言うかw
本州の首長墓は副葬品の充実を図るより巨大化の方向に行っちゃうというかwww
纏向型を経てやがて箸墓なんてものに到達するわけでwwww
この九州と九州以東の方向性の違いはなんなんだろうと思うw
>>386 ダイコン役者ってこと?
大根の焼酎をロックで飲むのが好きってこと?
最近、飲み過ぎじゃないの?
>>387 >この九州と九州以東の方向性の違いはなんなんだろうと思うw
副葬品が手に入んないもんだから、別な方向へと・・・
ザ・ロック・・・米国のプロレスラー、映画俳優。
ジャブローニ・・・ザ・ロックが操るイタリア語風の造語、「負け犬」という意味。
391 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2010/01/16(土) 19:43:46
>>380 >ちなみに九州での首長墓で四隅や前方後円墳、前方後方墳…のように
>墓上での祭祀を執り行ったと思われる形のものがあったかな?
>(該当するものがあるとしたらは平原ぐらいかな?)
何をいってるんだ・・・前方後円墳なら九州にだってあるし、
ていうか、こいつはwwwジョーカーかな?
同じ畿内説として恥ずかしいぞwwwwwwww
393 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 19:49:11
>>391 ドツボ
・・・・・・・・・・・・・・いや、だから当然、九州に前方後円墳や後方墳が出現する前のお話。
もうチョッと話しの流れ読めよドカスw
「同じ畿内説として恥ずかしい」?
ドアホこっちの台詞だ…もう勘弁してくれ('A`)
394 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 19:56:37
ジョーカー(植草wwwミラーマン)は畿内説のフリをした東遷説論者だから注意が必要www
395 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2010/01/16(土) 19:56:59
>>393 >いや、だから当然、九州に前方後円墳や後方墳が出現する前のお話。
それを早く家ってww
しれにしてもジョーカーは吉野ヶ里遺跡にいったことないのかい?
君の質問に対して、すぐ思いつくのは「吉野ヶ里」、「ヒラバル」だよな。
しかしだな、九州に前方後円墳が出現する前の貝塚でみつかる、
「人骨」や「動物の骨」、それから「魚の骨」にしろ、一定の向きに並べられており、
そこで、なにかの祭祀や儀式があったんじゃないかとかはよくいわれてることだよな。
396 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 19:59:43
>>389 まあ、それも一つの推測だとは思うが…
個人的には大型首長墓による祭祀を一定の地域で共通したものを採用し
首長同士の連携連帯を図り、そこで墳墓を大型化する事により
そのローカル連合体の中での自身の序列・地位の向上を図ったのではないかと想像するwwww
「何?隣のクニの○○が全長30mの墓を作っただと?じゃあこっちは40mだ!」
…みたいな感じでwwwwwwwwww
398 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2010/01/16(土) 20:04:55
>>396 いや〜君とは話が合わないな
前方後円墳というのは、墓の規模、それから墓の形にしろ
自由だったとは思わないぞ?
許可制と言うかだな、ヤマト王権から、なにか設計図のようなものを渡されて、
ちゃんと指示があったよう というのを何かの本で読んだことがあるぞ。
399 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2010/01/16(土) 20:06:21
400 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 20:11:43
>>398 ドツボ
もういい消えろアホw
今語っているのは定型化された前方後円墳の話ではなくて
九州以東に巻き起こった大型(巨大)首長墓の話し(纏向型含む)
お前、歴史の知識がどうこうじゃなくてコミュニケーションの能力が決定的に欠落しているw
まあ実際の会話とこういったネット上での文字のやり取りは違うんだろうが
…大丈夫か?wwwwwww
401 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2010/01/16(土) 20:27:25
>>400 だから〜君は九州の考古学知ってる?
近畿の考古学ばかりやってるからそんなこといいだすんだよ。
たとえば、九州の弥生時代の遺跡、スグ岡本とか鏡・玉のセット、
それから平原は鏡・玉・剣のセット、野方遺跡にしろ桜井馬場にしろ鏡・玉のセット、
ここから言えることは「隣のクニの○○が全長30mの墓」とかではなく
ある身分によってこれら埋葬方法、副葬品などが決められていたとか言われてるんだよ。
隣の村同士で張り合ってた〜〜〜とかじゃないと思うぞ。
402 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2010/01/16(土) 20:32:12
>>400 あまり上の方は読んでなかったよ。
纏向型以前、すなわち弥生時代の話してことね
>>396 うーん、いまひとつわかりにくい。
>一定の地域で共通
大型首長墓といえば、
出雲の四隅突出型方丘墓、吉備の双方中円墳、丹後の方形墳丘墓。
>「何?隣のクニの○○が・・・」
隣のクニ、って?
404 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 21:02:45
纒向遺跡は大集落遺跡といいながら、ムラを構成する住居址や倉庫址は発見されておらず、遺跡を囲む環濠もない。
しかも、弥生時代の集落は存在せず、古墳時代前期(3世紀初頭〜4世紀)になって急激に発展し、周辺の古墳群の築造が終わる頃には衰退する。
一帯は、弥生時代には未開発地域であったと思われ、3世紀初めになると、急に村落が形成されはじめ、やがて大集落に発展していったようである。
だが、およそ150年後の4世紀中頃には、大集落が消滅してしまった。
時代は前後50年くらいの誤差があると思う。九州からどうかはわからいにせよ、東征説を裏付ける痕跡ばかり目につきますね。
>>396 もうひとつ、わかりにくいのが
>ジョーカー(植草wwwミラーマン)
なんと呼べばいいのかな? 私的にはwww(=ワラワラ)と読んでるが。
406 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 21:11:57
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
407 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 21:19:58
>>403 いや別に「クニ」でも「ムラ」でも「地域」でも良いが
四隅なら四隅の文化圏、分布範囲内における首長同士の競り合いみたいな感じでw
自身の権力を大きさを見せ付けるためとした方が
5世紀ごろ既に副葬品も十分に入手できるようになったヤマト王権が
依然、巨大な古墳を作り続けた事に対する説明が上手く行くんでないかい?wwwwwww
>>405 …好きにしてくれ ('A`)
408 :
縄文人 ◆xkw9CZfB6w :2010/01/16(土) 21:53:49
井原鑓溝の王墓は甕棺で漢式鏡が多数出土したとされる。江戸時代の天明年間(1781〜88)に発見され
たが出土品は現在残されておらず、『柳園古器略考』(青柳種信著)に図が記録されているのみである。
1世紀辺りのものと見られるが、これを伊都国の王の墓とみるのがいつの間にか定着している。
恐らく、過去の大学者達の伊都国=前原説を無批判に受け入れて王墓クラスの出土品であるからこの辺り
に伊都国の都があったのだろうと速断した結果だろう。
ほげえ、1世紀には博多湾沿岸部の奴国が覇権を握っていた。覇権国である奴国は大陸および半島との交
易ルートを抑え、倭の国内の交易も支配していたであろう。それには軍事力が必要であるが、福岡平野部
の食糧生産力とそれに支えられた人口の多さが多くの兵を養うことを可能とし、大陸や半島での戦闘体験
を持つ帰化人の存在が軍の構成や戦術や武器の進歩に寄与していたであろう。福岡市西区の吉武高木遺跡
の出土物は半島からの渡来人(軍人)が多数居たことを示唆している。
1世紀における覇権国である奴国を差し置いて大陸や半島との交易を行える国は九州北部には存在し得ない
のは当然である。今日よりも力がものを言う世界である。ボス猿は自分の目を盗んでメスにちょっかいを出
す他のオス猿を許さない。ちと例えが下品だったが、そのような世界であり時代であった。
1世紀において前原は奴国の一部であり、交易の基地、水軍の基地であったと見る卑狗模古氏の説は理に
適っている。とすれば、井原鑓溝に葬られたのは奴国の王族であった可能性が高い。
牽強付会
旧肥前国三根郡に在る吉野ヶ里は倭人条に出てくる邪馬台国の傍国、弥奴国の遺跡でしょう
30ほどあったという邪馬台国の傍国の一国の遺跡にすぎません
そもそも伊都国にしろ奴国にしろ旧郡のひとつかふたつ程度の領域にすぎないわけですから
その傍国群もその程度の大きさでしょう、邪馬台国の領域もそうです
>>410 吉野ヶ里を一つの国と考えて、その範囲はどれくらいを治めていたと思いますか?
>>411 三根郡一帯でしょう
邪馬台国は肥後肥前筑後筑前に散在していた小国家群を
おそらくは鉄器と卑弥呼の鬼道で配下に従えていった新興国家ではなかったでしょうか
スサノヲがヤマタノオロチを退治して草薙の剣を手に入れたという伝説が物語るとおり
邪馬台国は別の国家群、おそらくは狗奴国(隼人・熊襲)によって滅ぼされた可能性があると考えています
>>412 九州の鉄は殆どが輸入だと思っているんですが
やはり帯方郡が置かれた漢・魏・西晋のときに朝貢の記録がありますね
半島が中国の支配下に入った時期は、リーダー的な国が倭王を名乗って朝貢していたんでしょう
>>407 >分布範囲内における
了解。
>首長同士の競り合い
うーん、どうなんだろ? 四隅突出型墳丘墓は三次盆地発祥らしいけど。
そこから順次進出したという人もいる。
少なくとも楯築は吉備の国の首長だろう。
415 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 02:38:51
>>408 読んでみたら意外と納得できたww
普通に考えて、奴国のすぐ隣に、奴国から独立した国が繁栄していたなんて想像はちょっと
できないですね。
魏志では、「〜奴国」という名前の国が多数出てきますが、これは奴国が勢力を拡大して
できた国でしょう。ありふれた考えですが。
伊都国が「伊都奴国」のように「〜奴国」の名を付けられなかったのは、当初から奴国の
版図に入っていたからでしょう。
奴国は九州全土に「〜奴国」を作って支配を確立した後に、ヤマト人(日本人)の国、
すなわち邪馬台国を称したのでしょう。
416 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 02:51:19
>>413 阿蘇は鍛冶遺跡が多く、鉄器生産が非常に盛んだった。
もし、鉄素材を輸入していたとしたら、こんなところで鉄器生産をすると
いうのは考えにくい。玄界灘沿岸とか佐賀平野とかその辺りで鉄器を作るのが
合理的だと思う。
なのに、どうして阿蘇なのか。製鉄が行われていたからではないかと
考えられているらしい。中国や韓国の学者も良く阿蘇を訪れるとか。
>>415 そう?
例えば、大国フランスのすぐ隣で
オランダが海上帝国を築いて繁栄してたなんて不自然なのか?
また、「世有王」と合わない気がする。
418 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 11:46:39
>>416 外国の優れた物を
自国で作ろうとするのは当たり前。
日本人なら尚更
419 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 12:41:15
鉄加工の痕跡は伊都国今宿にもある。
製鉄は5世紀以降とされているが
近くの元岡遺跡
流石に最初の鉄材料は輸入かなあ
「〜奴国」って「〜の国」では
そういう国名
421 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 15:53:26
>>408 縄
要するに玄界灘周辺地域に奴国と伊都国、両雄並び立つ訳がないと言いたいんだろうが、倭人伝では
伊都国が千余戸、奴国が二万余戸…と伊都国の方は昔日の栄光の影すらない状態なのだから
(ゆえに「いくらなんでも少なすぎ」としてこの数字が誤写とかの説が昔からあるが・・・)
通説はその点でも矛盾しないwwww
三雲南小路遺跡出土のガラス璧や金銅四葉座飾金具は前漢王朝から臣下に下賜された葬具で、当時冊
封体制に組み込まれていたという説が一般的。大きな権威の下で、伊都国ー奴国で内紛はできなかったの
でないかな。また、出土品の一つである国産のガラス勾玉・ガラス管玉などは、北部九州に地域最高の首長
墓にも威信財として配布されていて、この地域には一定の秩序があったのだと思われる。
423 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 16:50:22
棺の場合は盗掘の影響も大きいな。
井原鑓溝遺跡は、200年以上前の江戸時代に、数多くの鏡の入った甕棺が見つかった
そうだが、鏡は現存していない。
当時、几帳面な人がいて、村人に聞き取り調査を行い、記録を残していたので
それがわかるが、もし、記録がなかったら、何の証拠も残っていないことに
なり、井原鑓溝遺跡も表に出てこなかったかも知れない。
>>422 >の地域には一定の秩序があったのだと思われる。
それが、三雲南小路の前1世紀(漢時有朝見者)。
金印奴国は57年で、帥升の朝貢が107年。
それが、3世紀の「倭人伝」では、伊都国に「世有王」。
この流れをどう読むか、という問題でしょ?
425 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 21:28:30
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
>>421 伊都国と奴国の戸数とではケタがひとつ違うわけです
一大率が置かれていたという伊都国は軍事国家であり
軍事、警備、監察用の施設が並んで一般民家はわずかな状態だったのではないでしょうか
現在、今宿駅南に広がる環濠遺跡が発掘されている最中ですね
あるいはこの地域は「伊馬国」とでも呼称されていたのかもしれません
南から侵入してきた邪馬台国によって歴史ある王国も大陸に備えた軍事・外交拠点としておおいに利用されたのでしょう
428 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 14:50:49
>>421 伊都国は1万戸とみるのが妥当だろうな。魏略にそうあるわけだし。
伊都国と奴国を玄界灘沿岸の国とすると、筑後川流域に国がなかったのかと
いう話になる(邪馬台国や投馬国があったというのはおかしい、水行20日
や水行10日陸行1月がそんなに近いところのはずはない。)。
したがって、伊都国を佐賀市周辺に求める方がずっと合理的だね。
>、筑後川流域に国がなかったのかという話になる
なぜそんな飛躍した論理になるんだ? 筑後川流域にはその他の傍国があったんだろう。
吉野ヶ里のような。ここは神埼郡の地名から、華奴蘇奴國かもしれない。
430 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 15:23:01
>>429 何も飛躍していないよ。
女王国は万二千余里からだから、筑後川流域はまだ女王国ではない。
つまり、筑後川流域は、女王国以北の地だ。したがってそこに道里戸数
が分からない旁国なんぞあるはずはないんだよ。
以北の地にある国はすべて道里戸数が分かっている国のはずだ。
431 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 17:06:27
いところのはずはない。)。
がずっと合理的だね。
妥当だろうな
うのはおかしい
結論、消えろ
432 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 17:22:30
>>431 何書いてんだかわかんないおまいが消えろ。
確かにw
>>430 以北というのが現代日本語の以北と同じかどうかは検討すべきかもね。
手元の訳文だと、
「女王国から北にあたる国々についてはその戸数や道のりをほぼ記述する事が出来るが、
それ以外の方向に連なる国々については、遠く隔たっているため、詳細を知る事が出来ない」
となっている。
一筆書きのように女王国以北の国々を全部辿ったとは考えにくいので、
この訳文は当たってるのではないかと思うのだけど、どう?
435 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 21:10:00
以北は女王国を基準としてその北という意味だ。その場合に、女王国を含むか否かが
問題となる。現在の用法としては、含むとする場合が多い(20歳以上と言うときは
20歳を含む)。しかし、言葉そのものとしては含む場合もあれば、含まない場合も
ある。そこは解釈で読み分けなければならない。
倭人伝の場合は、女王国以北という言葉は、一方で一大率に検察される地域とされて
いることを看過してはならない。女王国を含むとすれば、女王国も一大率に検察され
る地域となってしまう。女王国の中心が邪馬台国であることはまちがいあるまい。そ
の邪馬台国が北九州に置かれた一大率の検察を受ける? それは読み方が間違ってい
るといわざるを得ない。
436 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 21:37:45
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
>>435 >そこは解釈で読み分けなければならない。
ならば、「 自女王國以北其戸數道里可得略載」の場合は、
邪馬台国の戸數道里が略載を得可くので、含んでいる。
「 自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之」の場合は、
女王国が検察されるのはおかしいので、含んでいない。
と、同じ以北でも意味が違うという解釈で読み分けなければならない。
438 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 09:46:07
>>437 読み分けると言っても、一つの史書の中では統一した使い方がなされてい
るはずです。だから、倭人伝はどうゆう使い方をしているか、を見極める
のです。
まともな文章家は、同じ史書の中は読者を混乱させないように、同じ言葉
は同じ意味に使用するはずです。ですから、倭人伝の中では統一的に解釈
すべきなのですよ。あなたのように、あれこれ場当たり的に意味をもたせ
るというようなことはまともな文章家はやりません。
>>438 まったく同意です
文章を素直に読んで検証するのではなく
まず自説ありきでそれに合わせるために文章の解釈をどうねじ曲げるかに腐心しているような学者が
世間から曲学阿世の徒とそしられるのは致し方のないことでしょうね
440 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 10:47:40
「自女王國以北其戸數道里可得略載」も
「自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之」も
「自女王國」であって「女王國」ではないので
「自」基点より以北の意味
女王國の基点とは奴国付近
奴国付近より以北の意味。
441 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 11:18:56
>>440 「自」は単に「より」と訳すべき文字。基点が奴国だなんていうのは
あなたの発明だろうが、そんな意味はないよ。
443 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 11:48:49
>>441 「自」を「より」と訳すのは「自」が基点を指すからです。
女王國中で最大の奴国が女王國の基点だ。
「自郡至女王國萬二千餘里」の場合でも「自郡」とは帯方郡の中心地(郡治)よりの意味。
444 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 11:55:33
女王国は郡から1万2000里です。奴国は1万600里、女王国には入りません。
>>438 >一つの史書の中では統一した使い方がなされているはずです。
>同じ言葉は同じ意味に使用するはずです。
はずです、とか言われても・・・。
あなたは「以北」をどう解釈するの?
そして、二つの文それぞれの訳は?
446 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 12:20:03
>>444 「自郡至女王國萬二千餘里」とは
帯方郡の中心地(郡治)から女王国の中心地までが1万2000里の意味です。
方可四百里と方可三百里を距離として考えれば奴国までが丁度1万2000里。
奴国は二万戸もあり女王国の中心地に相応しい。
>>439 >曲学阿世の徒
ひとの尻馬に乗ってごたくを並べる自分のことでしょ?
まず、「以北」についてのあなたの解釈を述べなさい。
>>446 それは解釈が強引すぎです。
女王の「都」はヤマトですから。
449 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 12:46:23
>>448 >女王の「都」はヤマトですから。
違います、倭人伝には「邪馬壹國女王之所都」「邪馬壹國は女王の都する所」とあり
女王の「都」は邪馬壹國にある、つまり邪馬壹國=女王国の意味です。
450 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 14:55:21
まあ、普通に考えて、女王国=倭国
邪馬台国は倭国の中心都市で、女王の居る場所
三国志では「国」の定義があいまいだな
452 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 15:12:31
倭人伝を読んでみたが、女王国=邪馬台国の方が意味が通じるところが
多いかも。
(伊都国は)世有王皆統屬女王國
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國
>>449 女王の一、市の国、マキムクのある「ヤマト」ですよ。
女王国は女王を共立した諸国の総称です。
454 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 15:49:17
女王国=邪馬台国ではありません。史書は正確性を重んじますから、同じならば
言い換えたりはしません。
女王国は、邪馬台国と投馬国、それに旁国を合わせた概念です。
邪馬台国は北九州からさらに少なくとも水行10日、陸行1月も行った所にある
国ですよね。当然、その邪馬台国より北にも旁国はあったのです。ですが、その
旁国は女王国に含まれるから女王国以北の国にはならず、女王国以北の国々は
戸数道里を略載できると書くことができたのです。
455 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 16:09:02
>>450>>451 倭人伝に倭国は出てきませんよ。
倭国があるなら倭国伝。
卑弥呼も倭国王ではなく倭王です。
邪馬台国は倭の中心国、伊都国や奴国などの国邑の連合体で女王の治める国。
>>454 史書は正確性を重んじますから女王国には邪馬台国との名称があると記したのです。
女王国=邪馬台国。
女王国には一大国、対馬国、松浦国、伊都国、奴国、不弥国と旁国が含まれます。
投馬国は女王国(邪馬台国)とは別。
女王国の中心部の伊都国、奴国、不弥国までは戸数道里を略載できると書くことができたのです。
その先の旁国は現地で国名を聞いた程度。
456 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 17:14:04
>>455 >倭人伝に倭国は出てきませんよ。
読み方が雑だねえ。
正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王
ちゃんと出てきているだろ。倭国の王が倭王だよ。
そんなことだから、支離滅裂な読み方をするんだな。
457 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 18:01:18
458 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 18:07:54
倭国伝ではなく倭人伝であることには違いない。
倭には倭王に従わない狗奴國や倭種など倭国に含まれない地域もある。
当時の倭は倭国として統一されていなかった。
459 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 19:30:59
倭の地は九州だけだよ。だから、東渡海千里の倭種が住む地は倭人伝の対象外だ。
本州から先が大陸につながるのか、島なのかなんてことは全く無関心だ。
倭には倭王に従わない狗奴國があるということはその通り。なのに何で卑弥呼は
倭王という称号をもらえたのか、考えてみたことあるかな?
東渡海千里の倭種は中国人の幻想世界に過ぎないだろ。
461 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 19:42:11
>>459 古代の中国人が日本の地理に関して
そこまで明確な「線引き」をしていたと言うのは到底信じがたいなw
「旧唐書」に倭国と日本国が別物であったり
倭国が自ら国号を変えて日本国とした
…と相反する事を載せているのが好例か?
中国人が「倭地」「倭国」を玄界灘でラインを引いて明確に区分していたかのようなお話は
チョッと真に受けるには躊躇するwwwwwwwwww
古代中国人にとって日本なんか半分神仙世界で「東勝神州」とか「蓬莱」とかの世界だろう?w
その事は倭人伝にも見て取れると思うがwwwwwwwwwww
462 :
461訂正:2010/01/19(火) 19:44:55
誤)玄界灘でラインを引いて
↓
正)関門海峡でラインを引いて
463 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 22:19:40
東に海を渡ったところにある倭種の国は、本州や四国だろう。
邪馬台国や投馬国については、ただの水行で海を渡っていないから九州だろう。
464 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 22:24:01
參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
東北地方は、大和朝廷のかなりあとになってから支配が及んだ。
つまり、島としての認識はなかった。そういう意味からも、倭国を九州と
考えるのは妥当。
末盧国が松浦半島なら、邪馬台国は九州の西海岸だ。
九州西海岸や瀬戸内海に行くなら、直接博多湾に渡った方が近い。
南九州に行くのなら西周りの海路のほうがいい。
やはり、邪馬台国は有明海沿岸とするのが最も合理的だ。・
>>447 >あなたの解釈を述べなさい。
ですか、命令形ですね、どこまでも上から目線ですか
女王国=邪馬台国より以北ということでしょう
30の傍国の最後に奴国の名が出てくるということは
すなわち南の邪馬台国から北の奴国のあいだに1国旧1郡から2郡程度の
30の傍国がひろがっていたということでしょう
中国語が話せないばかりか読めもしない者が自説の方向へねじ曲げようとするのを見るのは
滑稽を通りこして哀れですらあります
日本古代史の研究者たちには本当に中国語を知らない者が多いですね
あるいは知っていても知らないフリをしているのではないかと勘ぐってしまいます
まさか中国語ひとつ知らないのにエラそうなことを言っているわけでもないでしょう?
中国語を知っていれば出てこないような、ありえない日本語訳をしばしば見かけますよ
その解釈ぶりを台湾から来ている留学生たちからあざ笑われたり同情されたりしているようでは駄目ですね
>>466 > 女王国=邪馬台国より以北ということでしょう
> 30の傍国の最後に奴国の名が出てくるということは
> すなわち南の邪馬台国から北の奴国のあいだに1国旧1郡から2郡程度の
> 30の傍国がひろがっていたということでしょう
その読みもオカシくないか?
「・・・次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國」なんだからさ
先ず、最後の奴國と言うのは「境界」らしい。
しかし、初めに出てくる奴國の方は、伊都→奴→不彌と淡々と説明されていて、文章に「境界」を超える雰囲気は無い。
次に、狗奴國と言うのは最後の奴國と隔てる境界の南に在るらしい。
30の国が全て女王の都より北(都が最南端)にあるとすると、狗奴國とは奴國と女王の都の間に在る国になってしまう。
つまり、文脈上、女王の都は最南端には成り得ない。
いやさ、漢文とは難しいものだ。
論語 雍也第六
子曰、中人以上可以語上也、中人以下不可以語上也
子曰く、中人以上は、以て上を語るべきなり。中人以下は、以て上を語るべからざるなり。
中人には上を語っていいのか、語ってはいけないのか。
以+○というのは、現代語のように、含む含まないを明確に区別しない。
>>466 >女王国=邪馬台国より以北ということでしょう
いや、だから・・・
「以北」という語が女王国を含むか含まないか、という問題でしょう?
>中国語を知っていれば出てこないような、ありえない日本語訳
中国人に漢文を読んでもらったこともあるんだが・・・
中国人も、ちゃんと訓練を受けないと漢文は読めないよ。
現代中国語と漢文は違うから。
現代日本語読み書きできても、源氏物語は読めんだろ。
>>470 >現代中国語と漢文は違うから。
・・・そういうこと。
472 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 09:04:10
>>469 「自女王國以北」「女王國以北」の違い分かるかな。
473 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 10:11:17
>>472 自があると女王国は以北に含まれないというニュアンスを感じるね。
474 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 10:18:41
>>467 女王国とは邪馬台国だけではなく、旁国も含む概念なんだよ。
邪馬台国よりも北にも旁国はあるが、南にも旁国はある。万2千里から
女王国が始まり、邪馬台国はもちろん女王国の中心、そしてその先の奴
国までが女王国だ。その南に狗奴国があるということだね。
475 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 13:29:24
>>473 自があると女王国は以北にが含まれる
自がないと女王国は以北に含まれないが正解。
476 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/20(水) 13:47:06
>>467 >>474 女王国は、帯方郡より12000餘里のところにある。
郡より12000餘里にあるのは、奴国及び不彌国である。
又、不彌国の南に投馬国と卑彌呼女王の居る邪馬台国がある。
ゆえに、女王国は、奴国、不彌国、投馬国と邪馬台国の4ヶ国の総称を指す。
余談
卑彌呼を共立したのは、この4ヶ国であった推察される。
477 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 15:17:37
>>470 現代中国人と古代中国人も違う民族だから。
・・・そういう事。
478 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 15:26:15
「韓の国々を経て」だから狗邪韓国は韓国じゃないな
479 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 15:39:58
>>478 朝鮮半島の南部は、倭の領域だったのだろう。
韓伝にも、
「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接」
韓は、帯方の南にあり、東西は海を以って限りと為し、南は倭と接す、
など、それを裏付ける記述がある。
倭人伝でも、
「歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
韓国を経て、南、東しながらその北岸である狗邪韓国に至る、などは
それを表している。
480 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 16:00:04
>>478 >>479 韓を経てではないよ。韓を歴るにだ。だから、狗邪韓国は韓国の最後の国ということ。
ちゃんと韓国と書いてあるのに妙な読み方をするもんじゃないな。
韓を経てと読んでしまったら、乍南乍東はすべて韓国外のことになってしまうぜ。
481 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 16:15:41
え?
>>472 >「自女王國以北」「女王國以北」の違い分かるかな。
なるほど。そうやって分けてみると、微妙な違いがあるような・・・
ただ、今の場合は
「自女王國以北其戸數道里可得略載」と
「自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之」の
違い、という具体的事例を対象とする問題なので、
>>468さんの解釈でいいかと思いますけどね。
483 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 18:14:51
>>479 >倭接
つぐ倭 韓の南はついだ倭と関係するんだよ
484 :
サガミハラハラ:2010/01/20(水) 19:12:55
韓国内陸行で間違いないのです。
旧来の半島沿岸水行ではありません。
なおクヤ韓国での到着出航地は金海やプサンではありません。
固城です。
485 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/20(水) 20:57:19
486 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 23:07:52
>>486ありがとうございます。続きもお願いしますね。
>>485 >
>>475さんの解釈で、
>>468さんの例文は曖昧さ無しで読み取れる。
「自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之」(例文)
>自があると女王国は以北にが含まれる(
>>475さんの解釈)
一大卒は女王国を検察しているんでしょうか?
489 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 00:07:11
>>486 戦後、記紀否定の時代が続いたと書かれているなあ。
でも、森浩一さんはめげずに、記紀も倭人伝も読んでいたらしい。
その後、記紀の記述を裏付ける考古学的な遺物(稲荷山古墳の鉄剣銘文や
武寧王の墓誌銘文)が見つかり、記紀にも史実を反映する部分があることを
裏付けた。
土器による年代は、ある程度の幅を持たせるのが普通で、特定の年代を
強弁するのは異常とも書かれている。
また、纏向の建物を、さも卑弥呼の宮殿であるかのような発表をするのも
おかしいと書かれている。
490 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 00:22:12
>>488 一つ問題になるのが、一大率を置いたのは誰か、ということかな。
考えられるのは、魏(帯方郡)かあるいは邪馬台国(卑弥呼)。
魏あるいは帯方郡が置いたとすれば、もう少し詳しい説明、一大率を置いた
経緯などが書かれていてもよさそうだが、書かれていないところを見ると、
卑弥呼が置いたものと考えられる。
そう解釈すれば、一大率が女王国を検察するのはおかしい。
というわけで、「自女王國以北」は、単なる位置関係を示しているだけでは
ないだろうか。
491 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 00:36:30
>>489 森さんは普通のひとが普通に正しいと思うようなことを言っているだけ。
記紀を普通に読んで、その骨格が捏造だという多数説に疑問を持つのは当たり前。
稲荷山の鉄剣にオオヒコからの系譜があっても、いまだに「架空のスターであるオオヒコの
伝承はこの時点で存在していた。」などとオオヒコの実在を認めないのも、かなり異常。
土器ではピンポイントの年代が出ないなんてのは、イロハのイ。
それを無視した決め付けをするカルトを批判するのも、普通のことだろう。
纒向の建物を卑弥呼とのみ結びつけてマスコミに発表するいかがわしさも、普通なら
批判するべきだろう。
森さんは普通のことを言っているだけなんだが、その普通のことが言えないという
学界の北朝鮮のような空気が際立ってしまうんだよね。
>>490 >一大率が女王国を検察するのはおかしい。
ですよね。
>「自女王國以北」は、単なる位置関係を示しているだけ
そうだと思いますけどね。
493 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 00:52:54
494 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 01:13:11
>>493 もし、帯方郡が一大率を置いていたとすれば、諸国が畏れ憚る一大率が、
狗奴国との争いのときに全く存在感がないのがおかしいと思う。
帯方郡の太守は、わざわざ、調停のために張政を派遣したわけだから。
495 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 01:16:13
496 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 01:22:48
確か、奥野正男さんも一大率は、魏が派遣した高官と言っていた。
これは、やはり位置関係なのだろう。北部九州説を取る人の中は、邪馬台国と
一大率が、かち合うような位置では困ってしまうということかな。
例えば、筑紫平野や佐賀平野に邪馬台国があったとすれば、邪馬台国が直接
検察できるわけで、一大率を置く意味がなくなってしまう。
そういう意味からしても、邪馬台国は、少なくとも筑後川以南と考えた方が
いいのではないだろうか。
>>495 終止符スレで言ってやって下さいな あのやろうに〜w
498 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 01:32:43
>>496 恐らく「皆臨津搜露」の仕事もしてたろうから、
北の海に面した場所が良いんじゃね?
499 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 01:45:32
>>498 末盧国から東南陸行五百里で伊都国。東南百里で奴国。東百里で不弥国。
という方向からすると、投馬国や邪馬台国への水行は有明海と考えたい。
筑後川北岸の付近に港町があり、これが不弥国ではないかと。
具体的にいえば、その痕跡がある旧諸富町あたり。
500 :
PPPa3276.e19.eacc.dti.ne.jp:2010/01/21(木) 01:47:57
a
501 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 01:56:35
>>499 投馬國は有明海を通ったと思うが、邪馬壹國は違うと思う。
ただ、これの説明は本一冊分かかるから、又今度。
投馬は山陰、邪馬壹は河内+奈良の国ですよ。
503 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/21(木) 02:22:15
>>488 >>492-494 >>496 一大率(一支率)は伊都國の初代の王が置いた組織。
(一大率は、海峡支配を目的として、一大國と組んで帥升が創設したと思われる。)
(最初の目的は漢から金印をもらった福岡平野の勢力(倭奴國)を押さえ込む為。)
その組織を継承利用したのが邪馬台国(卑彌呼)。
一大率は邪馬台国以前の旧制度であるから、
邪馬台国を除く女王国を構成する奴國不彌國投馬國には残存していたと考えられる。
少なくとも奴國には一大率が残存していた。不彌國投馬國では一大率は消滅。(理由説明省略)
>>496 邪馬台国にある都(卑彌呼の城郭)は筑後川以南である久留米にあった。
東夷伝の韓の項に「卑彌國」ってあるんだけどこれは韓国でなんて訳されてるのか気になる
505 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 02:30:02
古代日本の親族が男系に移行したのってこの頃から??イマイチよく分からん
506 :
504:2010/01/21(木) 02:32:38
「弁辰彌烏邪馬國」ってのもある。
「邪馬台国」って本当の名前じゃないのかもしれない。
あと「彌」って字、多いから当時の読み方わからんものかな。
507 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 10:15:54
>>501 投馬国と邪馬台国で水行する海がちがうならば、何らかの断り(説明)があるだろう。
それがないということは、同じとみるべきだな。つまり、いずれも有明海。
508 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 10:24:43
>>497 森さん並みなと言われたら河童は狂喜するだろうなW。
投馬国は水行しか記されていないところから見て島、もしくは陸の孤島のような僻地でしょう
ここが女王国連合の南限であり南の狗奴国との接点にあった国ではないでしょうか
510 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 11:51:59
>>505 天照大神=卑弥呼+台与と思っているから、台与の後、女王は生まれなかった
と思う。なぜなら、天照大神の後、推古天皇まで女性の王らしき人物が現れて
いないから。
卑弥呼のような巫女的な王は、内部の調整役に向いている。内輪もめを
収めるためには都合が良い。しかし、外に向けた戦い、侵略戦争のような
争いには向かない。だから、女王から男王に変わったことは、戦乱の時代が
連想される。また、男王が続くことは世襲制が生まれる要素にもなると思う。
511 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 14:03:13
>>486>>493 「帯方郡も一大率を派遣して検察していた。」以外で
森さんの可笑しな点は邪馬台国を女王国の中の国邑と考えていること。
邪馬台国は七万戸もあるので国邑の一つではなく
邪馬台国=女王国で、邪馬台国は北部九州の国邑の連合体の名称である。
512 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 15:56:24
>邪馬台国は七万戸もあるので国邑の一つではなく
7万戸だと国邑と言わないとでも思っているのかね?
513 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 16:09:53
7万戸だと国邑と言わないのではなく
3世紀の日本に7万戸もあるような国邑(都市国家)はないですよ。
514 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 16:41:35
>>513 それはあなたの思い込みだ。倭人伝を普通に読めば、邪馬台国は単一の国家だよ。
連合体の総称だなんてことは一言も書いてない。
515 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/21(木) 16:43:17
>>511 >森さんの可笑しな点は邪馬台国を女王国の中の国邑と考えていること。
邪馬台国は女王国の中の国邑(領域国家)です。
この部分は、森浩一説を支持。
516 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 16:54:10
>>514 倭人伝のどこに邪馬台国は単一の国家だとあるの?
>>515 邪馬台国(女王国)は領域国家です。
国邑は領域国家ではなく都市国家です。
都市国家とは都市と周辺の農村部を含みます、
例を示すなら吉野ヶ里遺跡とその周辺を含んだものが一つの国邑。
領域国家は都市国家(国邑)が幾つか集まったものです。
517 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 17:18:41
国邑というのは、諸侯の領地のことだよ。都市国家に限った話ではない。
都市国家なんて我が国にあったかどうかは分からない。
吉野ヶ里だって、大国のほんの一部の集落にすぎない知れない。
518 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 18:15:01
>491
>学界の北朝鮮のような空気が際立ってしまうんだよね。
へえ、考古学会の空気なんか知らないが北朝鮮のような有様なんだw
内部事情に詳しい人なのかな?…っていつもの東遷厨のいつもの「怨み節」なんだろうがwwww
その”特殊な”立場上、記紀の全面肯定を望んでいるんだろうが
教科書からは「聖徳太子」や「大化の改新」が消えていると言うしw
(まあ「聖徳太子」は以前から何れ消えるだろうと言われてたが、「大化の改新」が消えているって本当か?)
しかしこの森幸一をもってして箸墓を
「(九州からその遺骸が運ばれてきた)卑弥呼の墓とか壱与の墓」
と言わしめているんだから隔世の感はあるwwww
あと森幸一と言えば「黄金塚」だろうが
あの紀年鏡(景初3年)については本人どういう年代を現在のところ想定しているんだろう?
「五世紀の河内朝で日本にとって記念すべき年号を入れて作られたもの」
…なんて説は呉の年号の物までが出た時点で成り立つもんじゃないと言うのは本人も分かっているだろうし・・・w
519 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 18:16:17
あと森幸一には3世紀の日本状況全体について
九州に邪馬台国があったとして本州四国はどういう状況だったのか?
九州の邪馬台国と本州四国の勢力との関係はどうだったのか?
邪馬台国が九州にあったらそれが後にどうなっていくのか?
を語ってもらいたいw
先にあがっている新聞掲載のコラムにも幕末明治の天皇の所在地と言う事で
所謂「奠都説」を示唆しているようなところが見受けられるがwwwww
520 :
訂正:2010/01/21(木) 18:17:51
521 :
訂正:2010/01/21(木) 18:19:44
522 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 18:27:06
>>517 国邑というのは、諸侯の領地のことではありませんよ
国邑に諸侯がいたかどうかは分からない。
森さんは国邑は倭だけのものではないと記されていますね。
全ての古代文明の初期段階では都市国家が形成されています
その都市国家が興亡を繰り返し統一に向かい領域国家へ発展して行く。
3世紀の倭は丁度、都市国家(国邑)が集まり領域国家へ発展していく時代。
吉野ヶ里は都市(柵に囲まれた地域)と周辺の農村を含んだ国邑です、
吉野ヶ里のような国邑が領域国家に組み込まれていって倭が誕生した。
それに領域国家が国邑(くにむら)では字として変でしょ。
九州説唱えるのもいいけど、倭国が九州単独の事なんて説
挙げてる奴は流石に止めといた方がいいぞ。
3世紀の後半の時点ではどんな解釈しても無いから。
524 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 19:04:12
525 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 19:06:55
>>485 九州王朝さん、間違ってるよ。
>
>>475さんの解釈で、
>>468さんの例文は曖昧さ無しで読み取れる。
自があれば含まれ、なければ含まれないというなら、
子曰、中人以上可以語上也、中人以下不可以語上也
の文では、中人は以上にも以下にも含まれないことになる。
だとすると、上人には上を語れるが、下人には上を語れないという意味になり、
中人に対する態度が言及されていないことになる。
だから、
>>475さんの解釈では、この論語の例文の解釈はできない。
526 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 19:10:50
>>524 よう東遷厨、それともサイキバ君かな?
まあどっちでも似たようなもんだがwwww
お前も大変だな北朝鮮と化している考古学会で迫害されている東遷説を支持してるんだからw
大丈夫か?脅迫状とか届いてないか?身の危険は感じてないか?
…まあ全てお前の脳内の出来事だろうと思うがwwwwwwwww
527 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 20:01:11
倭人伝の記事の女王国や倭とは九州のことであり
「女王國東渡海千餘里」の倭種が山口県あたり
侏儒國が愛媛県
裸國、K齒國が香川県や岡山県あたり。
528 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 20:27:13
>>527 >「女王國東渡海千餘里」の倭種が山口県あたり
関門海峡どんだけ広いんだって話だがw
関門海峡なんて河だよなw
関門海峡を掘削したのも邪馬台国の女王卑弥呼の偉業ではないだろうか?
その昔、関門海峡は閉じており、これを掘削して瀬戸内海と日本海を繋げることで、
滝のように海水が流れ込み、両方の海面の高さが同じになるまで、
瀬戸内海の気候が変わるほどの変化があったのではないでしょうか?
それが国産みの神話になったのです。
本当に掘ったとも思えなくないよな。
それで瀬戸内に船が入れるようになったとか。
532 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/21(木) 21:23:45
>>525 >だとすると、上人には上を語れるが、下人には上を語れないという意味になり、
>中人に対する態度が言及されていないことになる。
これでよいのでは?
例文は論語の何処にあるのですか?忘れました。
文脈の前後関係を調べてみます。
>>522 國邑は韓の國々のようなものを指すのだと思います。
舊百餘國は國邑と云えるものでしょう。
魏志では不彌國伊都國末盧國一大國對馬國及び餘旁國問等を指すのではありませんか。
奴國投馬國邪馬壹國においては、3世紀には旧國邑の連合体としての領域国家となっていた。
だから百餘國が三十國になったと。
533 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 21:27:33
パナマ運河は26名とるの水位差を閘門で乗り越えるのですが、
関門海峡も水位差は数mはあったと思われるし、それを直接つないでしまったとしたら、
滝のような流水で大変なことになったと思います。
534 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 21:40:23
>>522 国邑を辞書で調べてみたか? 私の辞書には、漢代諸侯の領地とあるよ。
君の辞書には何て書いてあるのかな?
536 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 23:36:06
>>534 漢の領地内なら諸侯の領地だろうが
倭は漢の領地ではない
国邑に王がいるとは限らない
アテネのような共和制の国邑があったかもしれない。
537 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 23:40:09
>>528 「女王國東渡海千餘里」だから女王國を北部九州と考えた場合
博多港から船出したとすれば千餘里で山口県あたり。
538 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/21(木) 23:52:11
>>525 >倭人伝の記事の女王国や倭とは九州のことであり
隋書俀國も九州のことですよ。・・・・証明済
倭種は山口県周防のあたり。
周防灘は周防への海の意。
倭種は下関あたりのことではありません。
「国邑」について
「以北」もそうだが、「渡海」「水行」とか、いろいろ調べてみて、
あまり厳密に意味を限定しなくていいのではないか、と思うようになった。
三国志東夷伝、漢書匈奴傳・匈奴傳・西南夷兩粵朝鮮傳・西域傳
後漢書東夷列傳・南蠻西南夷列傳・西羌傳・西域傳・南匈奴列傳・烏桓鮮卑列傳
の中で、「国邑」は 三国志東夷伝の馬韓と倭人の条にしか出てこない。
1 依山島為國邑,旧百余國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國。
もと百余国、今三十国。どちらも国邑だろう。
2 其俗少綱紀,國邑雖有主帥,邑落雜居,不能善相制禦。
国邑の中に制御できない邑落がある。都市国家には見えない。
3 信鬼神,國邑各立一人主祭天神,名之天君。
これからはなんとも言えない。
540 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 00:32:07
>>539 >「以北」もそうだが、「渡海」「水行」とか、いろいろ調べてみて、
あまり厳密に意味を限定しなくていいのではないか、と思うようになった。
それは不幸な出来事で
>隋書俀國も九州のことですよ。・・・・証明済
誰も認定してないしな。
542 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 01:11:36
>>541 >誰も認定してないしな。
そんなことはないな。
隋書自体が使者が訪ねた先は魏志にいう邪馬台だと認めているよ。
倭人伝に書かれている行程は、北九州から南へ水行陸行だけだ。隋書の資料を
書いた人物はそれを正しいとみたから、倭人伝にいう邪馬台だと書いたんだろ。
魏志の方角がちがっていると思ったら、そんな本を引用するはずはないからな。
ということは、南という方角は正しいんだよ。
>隋書自体が使者が訪ねた先は魏志にいう邪馬台だと認めているよ。
言うまでも無く邪馬台国は大和。
混乱してはいけないから念押ししただけの事だね。
544 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 02:38:19
魏志倭人伝を書いた中国人が、大和だって注釈してるんだから、
大和しかないでしょ。
545 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 03:03:27
残念。
この板の九州説だと隋使の訪れた地も「九州の何処か…」と言う解釈が主流だからwww
何の事はない「九州王朝説」まんまなわけやねwwwwwwwww
546 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 04:59:00
「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭」
阿蘇山を知ったんだから、九州上陸で良いんじゃね?
「日出處天子致書日沒處天子無恙」
隋にケンカ売った日本の天子が、戦術的に九州に案内させたとしか思えん。
ただ、小野妹子は戦争しても勝てない事が解かって穏便にしたんじゃね?
547 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 07:27:01
>>544 大和だって注釈? どこにそんなことが書いてあるんだ。
魏志の邪馬台と同じだって書いてるだけだろが。
548 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 08:14:49
>>547 なるほど、あなたが九州王朝説さんですか。
僕はね、奇妙に思うんだよね。どうして邪馬台国は九州だと思うのか?大和だと思えないのか?
畿内説の言うことを聞けば、邪馬台国は畿内で納得できるのに、なぜ、納得しようとしないのか?九州だと納得できるのか?
所詮、あなたが、「納得したくないから」でしょ。何故、納得したくないのか?ってことを自問したことはありますか?
「学者の言うことは信じられない」ですか?それって偏見でしょう?たしかに、学者の言うことも100%正しいとは言えない。
でもね、自分の偏見から畿内説が間違いで、九州説が正しいと思うことも、正しくないんです。わかりますよね?
逆に、あなたは、「九州説の本」に影響を受けてたりしませんか?気をつけてください。九州説の本は、九州説に都合の良いことしか
書いてありません。そして、畿内悦の不利なことばかり書いてあり、畿内説は間違ってると思い込ませようとしています。
九州説の本だけ見ると、九州説が正しいように思えます。九州説が正しいと思い込ませるように書かれてあるわけですから当然です。
自分が、もしかしたら、そういう九州説の本に惑わされてるかもしれない、と、自分を疑ってみてください。
あなたは、九州説の本を何冊持ってますか?あなたが九州説の本を買えば、著者は儲かるわけです。著者は儲かるから、また九州説の本を書く、
すると、また九州説の著者は儲かる。あなたは、まんまと、九州説に踊らされ、騙され、カモにされてるだけ、
そう思ったことはありませんか?畿内説は、あなたを騙すつもりなどありません。だって売れてませんからね。
あなたは畿内説の本を買いますか?買いませんね?ほら、畿内説は、あなたを騙して儲けようとはしてないと証明されました。
それでも、あなたは、九州説が正しいと信じて、九州説の本を買い、騙され続けるつもりなんですか?
549 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 08:20:34
あら、あなたは九州説の本を何冊もってますか?
ほとんど持ってない? 九州説の本が売れないことは
明らかなんじゃありませんか?
タリシホコなる男王が治めていたという俀國が九州にあったという説は
初めて見ましたが、あるいはそうかもしれませんね
とすればその首都の跡が大宰府でしょうか、領域は九州北部を中心に半島南部から吉備あたりまで
広開土大王の碑文に出てくる、しばしば国境を侵して攻め込んできたという倭もこれでしょう
倭は百済とともに滅んでいった国なのでしょうね
畿内にあった「日本」はその混乱に乗じて西進し倭を併合したのでしょう
551 :
サガミハラハラ:2010/01/22(金) 08:49:47
大和の人がヤマトといったのを、ヤマタイまたはヤマトイのことと思ったのです。
発音がにてますからね。
現代の日本の学者でもヤマタイまたはヤマトイがヤマトに似ているから大和であるとみていますからね。
外国人のハイセイが誤解しても不思議ではありません。
552 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 08:51:37
九州説で有名なある人は、天照大神が卑弥呼だって言ってます。卑弥呼が死んだ頃に日食があったから、
それが天の岩戸隠れだと言うわけです。 そしてね、神武東征神話は邪馬台国が大和に東征したんだって、
こういう具合に論を進めてるわけなんですよ。 しかも、ご丁寧に統計で天皇の在位期間をグラフ化すると、
卑弥呼の時代と天照大神の時代が一致すると、 弁舌軽やかに説明さますんで、うっかり面白おかしく読んで
しまったりするんですけど、冷静に考えれば、おかしな話なんですねこれが。
天照大神と卑弥呼が同時代だと、グラフから求められると、それはいいでしょう。
でもね、じゃあ、その前の天照大神の前の世代はどうなってるの? ってことについて、何も説明してないですよね。
日本神話だと、天照大神の前は、イザナギ・イザナミの時代にすぐ来てしまう。
おかしいじゃないですか?卑弥呼の前には、代々王がいたと中国の文献にもあるし、帥升等という人物名も出てくる。
卑弥呼と同時代にスサノオがいたわけですが、そのスサノオの子の大国主はどこで何をしてたんですか?
その九州説の先生は、大国主は、銅鐸の時代の神様とも言ってるんですよね。おかしいでしょ?
天照大神と大国主の神話の時系列を無視して、天照大神以後はグラフを持ち出して、ほら、
天照大神と卑弥呼は同時代でしょ?って言ってるんですね。どういうおつもりなのか、小一時間問い詰めたいくらいなんですけど、
そうした矛盾に、九州説の人は、何も批判をされないのは、なぜなんだろうなあ?って思うんです。
553 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 08:54:25
九州説を唱えてる先生の言うことは、とにかく絶対正しくて、批判は許されないってことなんですか?それでいて
畿内説の先生の言うことは間違いときめつけるのは、やはり、偏見としか言いようがありませんねえ。
僕はね、こうした偏見がどうして生まれるのか?背景が興味あるんですよ。九州説を信じてる人は、
社会に対して何か不満でもあるのかしら?ってね。邪馬台国が九州にあると、何か溜飲をさげるような何かがあるんですか?と。
社会に鬱積した気持ちでもあるんですか?と。そうした九州説を信じたい人たちを利用して面白おかしい九州説本を書いて
儲けてる人がいるという社会構造ね。社会に鬱積を持ってるひとは、さらに九州説を信じさせられ、
九州説本に踊らされ、九州説の作者の懐を潤してるだけっていうのは、結局、社会的弱者は、どこまでも搾取されてるだけで、
搾取されてることにも、気がつかないっていう事実がね。なんだか切ない現実だなあって。
>>552 記紀には書いてないってことでいいんじゃないですか?
555 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 10:37:28
>>554 記紀に書いてないって何が書いてないとこの人は言ってるのでしょうか?
そりゃあ、記紀に書いてない事実はたくさんあるでしょう。天照大神の前にもたくさんの神様がいたかもしれない。
だけども、それなら、神武と崇神の間にもっとたくさんの天皇がいたかも知れない。神武東征は紀元前数百年前の
ことかもしれない。それなら、邪馬台国東征などということは起こりえなかったことになりますね。
自分の都合で「書いてない」とか安易に考えていいんですか?良いこととはおもえませんね。それよりも、
かいてあることを、もっとよく読みこんだらいかがですか?記紀のどこに九州の王朝が東征したとか、書いてありますか?
神武は九州の王でしたか?王ではありませんね。ニニギは天孫降臨してきましたが、王という称号は与えられておりません。
神武は大和で天皇に即位したのであって、九州では何の役職も無かったのです。神武が九州の邪馬台国の王なら、
そう書けばよいでしょう。神武のじいさんもひいじいさんも、ニニギも、代々九州の王だったでしょうから、天孫降臨してきた
時点で、ニニギは九州で初代天皇を名乗ればいいはずですね?どうして名乗らなかったんですか?
それは、神武は、九州では「ただの無名の人」であり、無名の人が東征しただけであり、邪馬台国東征は無かったと
いうことなんですね。それにですね、神武は隼人と連れてましたね。神話でも神武は日向の人だといってる。
それなら、せめて、九州説を唱えるなら、邪馬台国九州説を唱えたらいかがですか?
でも、東征説を唱えてる先生は日向説じゃ無いんです。言ってることに整合性がありません。
まったく、デタラメなんですよ。
九州王朝説w
集団催眠にでも掛けられてるのか?
神武東征話はどう見ても矛盾だらけだよね。
特に宇陀に入ってからの話は明らかに別物。
神武の周囲は皆現地の人間ばかりだし。
つまり別の人物の話に神武という人物をくっつけた
だけのものですよ。
558 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/22(金) 10:52:12
古史古伝にはウガヤ朝の記述あり。なお女王(女天皇)卑弥呼の記述は
卑弥呼相当の時代、記紀に記述はない。つまり皇籍に存在しない。これは
卑弥呼が畿内の朝廷と無関係であることを物語っている。ということは
卑弥呼の所在は九州と観るのが相当であるのだ。
559 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 11:03:08
>>552 九州説の立場だから言うのでは無いが。
「箸」が日本に入ってきたのは、弥生時代末期と言われている。
倭人伝にも 「食飲用籩豆、手食」 と、手づかみが書かれている。
なのに、スサノオのヤマタノオロチ退治で、何故か「箸」の話が出てくる。
古事記の時系列が信用出来ないのは明白。
560 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/22(金) 11:09:47
日本全土を周知した情報でもあるまい。だから不合理のようで不合理では
ない。
561 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 11:11:51
>>558 ウガヤ朝というのは聞いたことがありますね。「上記」でしたか?
でもそれは、神武より前に何十代も続いた王朝でしたよね?卑弥呼に相当するような記述がありましたか?
聞いたことありません。つまり、九州説であるなら、「上記」は偽書と切り捨てるのが筋なんじゃないですか?
他にも、ホツマとかあったと思いますけど、ホツマに卑弥呼が出てきましたか?出てきませんね。
ならば、九州説にとってはホツマも偽書と切り捨てないとダメですよ。
とにかくね、記紀にしても卑弥呼は出てこないのだから、九州説を採るなら、記紀も読んだらダメなんですよ。
でも現実は、都合の良いところだけ、文献を引き合いにだすわけです。おかしいですね。しかもね、邪馬台国は
魏志倭人伝に書かれてることだから、もっと魏志倭人伝に立ち返れとも言う。だったら、それこそ記紀なんて
引き合いに出したらおかしいでしょうということなんですね。魏志倭人伝だけを読めば、どうやっても卑弥呼が
天照大神とか、そんな珍妙な説が生まれるわけが無いんですよ。天照大神が天の岩戸に隠れた後で、
スサノオがヤマタノオロチを退治したり大国主が登場するわけだから、時代が全然合わないのでどうしようもないんですね。
562 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 11:18:20
>>599 時系列が信用できない、というのなら、それも良いでしょう。
では、天の岩戸の話をしますが、天照大神が岩戸に隠れたのは、スサノオが暴れたからですね?
スサノオは、馬の皮を剥いだと書いてありますね?
魏志倭人伝に、倭国に馬がいたとか、書いてありましたか?「倭国に馬はいない」とあったでしょ。
だから、どういうことかというと、天の岩戸の話も、時系列的におかしいってことであって、
どのエピソードがいつの時代かってことは、まったく特定不可能なんですよ。
それなのに、天の岩戸だけを3世紀のエピソードにしようってのは、あまりに都合が良すぎるでしょう。
日食は、3世紀だけに限っておきた現象ではないんですよ。もっと真昼間に皆既日食が起きたことは、何度もあります。
563 :
559:2010/01/22(金) 11:23:07
一応
>>599は
>>559と思って書く。
卑彌呼と天照大神が同じとは思っていない。
九州説でも色々ある。
564 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/22(金) 11:25:42
厳格に言いますと、記紀にも卑弥呼と言える情報はほんの少しですが
あります。→神功39年
ただこれは伝からの借り物記述ですから、紀の原書群等阿礼の耳に
入った情報には卑弥呼の内容がなかったということで、記紀に
卑弥呼の記述がないと書きこんだものです。これも書いておけば
誤解が少なかったかなと、失礼しました。
あなたは当時の日本を一国的に考察しちゃうから、間違えてしまうん
ですよ。だから畿内と九州を別国と観て考えて下さい。九州が畿内
の遠方の外国で付き合いがなければ、記紀に卑弥呼を書く必要は
なく、九州でも広いですから、付き合いがなく九州で双方が隔絶
した状況なら、ウエツフミに記載がなくてもおかしくありませんよ。
ウガヤ朝は参考のものです。
565 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/22(金) 11:41:47
>>561 あなたのおっしゃるとおり、卑弥呼と天照大神とは時代が合いませんので、
双方は別人と観て間違いありません。前者のほうは神武以降、後者のほうは
神武より古い時代の方ですから・・・。
566 :
559:2010/01/22(金) 11:44:05
神功皇后と卑彌呼に関係性を持たせる考えが在っても、
神功皇后と天照大神に関係性を持たせる考えは無い筈。
九州説でも色々ある。
567 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 12:00:30
>>564 あなたのおっしゃることは、九州と畿内は別だから、記紀やウエツフミに記載がなくてもおかしくありません、ということですね?
魏は、九州だけに通じていて、畿内のことは知らなかったというわけですか。それも一理あるかもしれません。
しかし、これには、大きな落とし穴がありますよ。卑弥呼が朝貢してきたとき、魏は公孫氏を排除したばかりでした。
ですから、公孫氏に通じてた勢力が倭国にあったなら、それも排除したいと考えていたはずですね。卑弥呼に金印を贈ったのも、同盟関係を結ぶためです。
九州が単独で、魏と同盟したとき、畿内のことは、魏は無視していたのですかね?もしかしたら公孫氏と通じていたり、公孫氏の残党が畿内に逃れていたり、
そういうことを魏は考えていなかったのでしょうか?おかしいですね?魏は畿内を警戒していなかったなんて。
考古学上は、弥生時代の終わりには、朝鮮半島と丹後の交流があったことがわかっています。
つまりですね、公孫氏の影響は、丹後〜畿内にもあったと考えるべきことなんですね。すくなくとも、朝鮮半島と交易していた倭人は、
九州のほかにも、出雲や丹後にもいたことを、魏は把握していないとおかしいと思うわけです。
そうした場合、魏が、畿内を警戒もせずに、九州だけを味方にして、クナ国(クナ国が九州の国なら)との諍いに介入するというのは、
はなはだ不自然と考えざるをえないわけですね。第一、画文帯神獣鏡が、畿内と公孫氏の交流があったことの証拠でありましょう。
>画文帯神獣鏡が、畿内と公孫氏の交流があったことの証拠でありましょう。
一部の九州説はこのことを全く無視だからね。
そりゃ相手にされませんよ。
569 :
559:2010/01/22(金) 12:31:16
>>567 >九州が単独で、魏と同盟したとき、畿内のことは、魏は無視していたのですかね?もしかしたら公孫氏と通じていたり、公孫氏の残党が畿内に逃れていたり、
伊都國が前原で一大率が居たなら、それは地形上無理。
女王國が畿内を魏に教えなかったのかも。
570 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 13:06:46
画文帯神獣鏡 コピペ
@三角縁神獣鏡とおなじく神獣鏡の一種。こちらの方が古い?
A内側の部分に、神仏思想をあらわす神仏や、竜、虎などの霊獣の文様をもつ鏡。
B縁の部分が、厚く平らになっている。三角縁神獣鏡は三角形。
C平縁部分に、画文帯と呼ぶ絵画的な文様帯をもつ。
D画文帯神獣鏡のなかまに、画文帯仏獣鏡がある。
Eほとんどは、前方後円墳など、古墳時代の遺跡から出土する。
Fこれまでに、日本から150面ていど、中国から80面ていど出土している。
G中国では長江の流域など、南東部から出土することが多い。
H朝鮮の楽浪郡にあたる平壌 などからも、数は多くないが出土している。
>>564 記紀成立の時代に、九州が書く必要のない遠い外国って・・・
どんだけ無茶苦茶な歴史観だよw
572 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 13:32:35
>>567 >公孫氏に通じてた勢力が倭国にあったなら、それも排除したいと考えていたはずですね。
畿内に問題にするような勢力はなかったということでしょうね。
畿内の勢力は銅鐸勢力。三世紀に九州の勢力に討伐されたんですね。
>画文帯神獣鏡が、畿内と公孫氏の交流があったことの証拠でありましょう。
この鏡が畿内勢力のものならば、銅鐸と一緒に発見されてもよさそうですね。
この鏡は、九州勢力が畿内その他に配布したと考えるべきですね。
>三世紀に九州の勢力に討伐されたんですね。
その痕跡が全くないです。
574 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 13:47:11
>>573 銅鐸が消滅していますね。畿内の唐古、鍵などの都市(村?)も消滅している。
それに鏡が配布されている。鏡は九州勢力が珍重していたものですね。
575 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/22(金) 14:22:19
>>567 そんなの把握してたんなら、より身内に近い畿内朝廷も卑弥呼のことをもっと
把握していたはずで、女王国が畿内にあったならなおさら記紀に載りますよ。
擬からすれば畿内に関係が少しはあったかもですが、女王国でさえ伝に書かれて
あるんだから、そんなに畿内を把握してたんなら天皇の記事がもっともっと伝に
派手に掲載して然りでしょうがね?
576 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/22(金) 14:29:29
>>571 w君のはまるで当時畿内と九州に新幹線や航空路線があったような言い回し
で、滑稽だな。なんなら今から畿内→九州へ駆け足で行ってみたらどうだな?
当時は超特急や航空機はないんだよ。双方は遥か彼方の外国で、交流してる外国
は当然あったが、歩いて行く道程は極めて多いはずであり、そんなたやすく
平々凡々と行ける土地ではないぜ。
>>574 それは痕跡にならないですね、大体3世紀に
栄える巻向は吉備や阿波との関連が深いですよ。
影響があるとすれば九州ではなく大陸からの影響ですw
578 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/22(金) 14:31:30
579 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 14:35:49
古墳時代全盛期に、前方後円墳から鏡が出るのは
非常に当然で納得できる物だ。それだけの力があり
中国との交流も深かったのだろう。
580 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 14:40:14
>>577 3世紀後半から壹與タン達が東征すればOK
581 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 14:55:04
>>577 九州との関係が薄い? そんなところに邪馬台国があるわけはないな。
>>580 東征する理由が無いですが。
そんな勢力が消息不明になるのも?
普通3世紀の時点で畿内に都があり、内乱があって
政権が混乱したと考えれば何の矛盾も無い事です。
>>581 でもヒミコちゃんは大陸好きみたいだからねw
584 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 15:00:03
中国大陸の戦乱もあったんだし
畿内の未開の蛮人を征伐するのはありだろう
反抗的な蛮人は銅鐸と一緒に頭叩き割ってしまえ
じゃ、まず自分で実践しなきゃな。
>>576 w君に一般常識などを期待してはいけません。
587 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 15:14:48
>>582 >東征する理由が無いですが。
狗奴國との戦争を教訓に国力増強
>そんな勢力が消息不明になるのも?
3世紀に壹與タン東征
古墳時代に男王卑彌弓呼クンの子孫東征
飛鳥時代前に外人勢力台頭
飛鳥時代に頭取り合戦
8世紀にようやく落ち着いた
って感じ。
>狗奴國との戦争を教訓に国力増強
で、東へ?それじゃ背走ですよ。
589 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 15:32:51
>>552 人間の伝承には限界というのがある。どんな昔のことでも記憶に残っていると
いうわけではない。どのあたりからの伝承が残っていたかが問題で、
天照大神=卑弥呼(+台与)と考えた場合には、卑弥呼の時代あたりからものが
残っていたと考えられる。
記紀で言えば、天照大神と素戔鳴尊との軋轢のころからだろう。
だから、それ以前のイザナギ・イザナミは明らかに荒唐無稽とも言える物語
になっている。
日本書紀が出来た頃、各地で風土記が編纂されたが、この風土記も邪馬台国
時代を考える上で特に参考になるようなものはなく、古い伝承が残って
いるとは言い難い。
ちなみに、天照大神の岩戸隠れを、現実の日食に係わらせるのには疑問がある。
卑弥呼が死んだときの倭国の状態を、日食で比喩的に表したものでと思う。
590 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 15:33:16
>>588 別に国を空にしなくても、
年貢徴収すればメシが増える
メシが増えりゃ子供も増える
人が増えりゃ軍隊は強くなる
九州に開拓する土地が無けりゃ東進するしかない。
591 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 15:42:53
>>553 あなたの方が偏見があるな。
もともとは、記紀の年代の記述から邪馬台国は大和朝廷と見られていた。
しかし、江戸時代の本居宣長以来ほとんどの学者が九州説になった。
明治時代になって、記紀の年代観に疑問がもたれるようになると、東遷説が
登場する。それに反発する形で畿内説が登場した。
歴史的に見ても主流は九州説で、畿内説はアンチ九州説として成りなっている。
>>590 だから東征なんていう実態はないんだよ。
よく神武東征という記録があるじゃないかという人もいるが、
あれはあくまで「畿内の現地勢力を味方につけて」
後で政権を正当化する為の話だろう。
民族がそのまま移動したとかいう物ではない。
>記紀の年代の記述から邪馬台国は大和朝廷と見られていた。
だったらこれが主流でしょう。
594 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 15:49:27
>>555 それは記紀を編纂した大和朝廷が大和にいたからだろう。
大和中心の物語にするために、神武天皇は大和で即位し初代天皇になった。
しかし、王年代記には、歴代の王が書かれていて、
「およそ二十三世、並びに筑紫の日向に都す。彦瀲の第四子を神武天皇と
号す、筑紫の宮より入りて大和州の橿原の宮に入る。」
となっていて、連続していることが明示されている。
595 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 15:52:55
>>593 記紀は、神武天皇の即位を、西暦でいえば紀元前660年としているから、
その頃から大和朝廷は成立していたと考えていた。
卑弥呼は、西暦180〜248年あたりなので、中国から「倭王」とされる人物は
大和朝廷であると漠然と考えていたに過ぎない。
596 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 15:53:33
壹與タンは晋と仲良しだから
男王卑彌弓呼クンの子孫は最低316年まで手が出せない
晋が滅べば男王卑彌弓呼クンの子孫は思いっきり雪辱戦が出来る
こう考えれば、銅鐸や鏡の変化も自然な流れ
根拠もない妄想話されてもな。
598 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 16:05:48
>>591 >明治時代になって、記紀の年代観に疑問がもたれるようになると、東遷説が
>登場する。それに反発する形で畿内説が登場した。
ったくこの板の九州説はこうやって直ぐにデタラメを言う、クズが。
じゃあ記紀の年代観に疑問を持ち東遷説を掲げた明治の学者って誰だ?
それに反発して畿内説を出してきた学者ってのは誰なんだ?
きっちり説明してもらおうか?
少なくとも内藤湖南が東遷説に反発して畿内説を立ち上げたなんて話は生まれてこの方聞いたことがないwwwwwwwww
まあ東遷論者で九州説が邪馬台国論争の保守本流で
その九州説の中でも東遷説が保守本流中の本流としたいんだろうが
妄想はチラシの裏にでも書いておけドアホwwwwwwwww
599 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 16:09:05
>>598 批判するばかり、相手に根拠を求めるばかりじゃ駄目だな。
自分から根拠を言うこと。
600 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 16:12:01
今のアメリカ議会の民主党VS共和党は
白人VSインディアンでも
イギリスVSフランスでも
黒人VS白人でも無い
飛鳥時代と同じ権力闘争
逆にそれらが古墳時代まで
601 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 16:16:36
>>599 ほうれ、デタラメを言って根拠があるはずもないから逃げに入ったかクズがw
内藤湖南の業績と言えば漢籍・史料の徹底検証で、むしろ九州説に対し
「もう一度史料の徹底的な検証をするべし」と迫った学者。
(「文献的には九州説、考古学的には畿内説」なんて誰が言い出したか知らないが
明治以来の論争史を俯瞰するならそれは当たらない。)
東遷説に反発した??
何の話だ?
今までこの板で散々九州説の与太を聞いてきたが
ここまで堂々と学説史をでっち上げるのは初めてだwwwwwwww
602 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 16:20:03
>>599 で、明治に東遷説に反発する形で畿内説を立ち上げた
『 アンチ東遷説としての畿内説の祖 』って誰なんだ?wwwwwwwwwwww
603 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 16:43:55
>>601 本居宣長は九州説だが、新井白石も「外国之事調書」では、邪馬台国を九州に
比定している。那珂通世、久米邦武など明治時代の人も九州説を取っていた。
内藤湖南のライバルといえば、言わずとしれた白鳥庫吉。
江戸時代から九州説は主流だった。
この頃、畿内説を取っていた人は誰かいるかな。
白鳥庫吉が、天照大神の高天原と卑弥呼の倭国の類似性を指摘し、東遷説で
あったことは知られている。
東遷説がこの頃すでに登場していたのは明らか。
畿内説はどのような学説史を持っている?
内藤湖南の前に誰かいたかな。
604 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 16:47:39
>>599は東遷説論者の中でも多分、日向厨かな?w
そう言えば以前、別の東遷厨で邪馬台国論争において
市井の研究家 VS 象牙の塔の住人たる学者先生のお歴々
と言う構図が明治頃からあった…なんて言っていた奴がいたが
この板の九州説の連中って邪馬台国論争の今日に至るまでの歴史を根本的に勘違いしているアホが多いように思うwwwww
まあ2大仮説・学説が長年対立してきた…なんてのは他のジャンルの学問でもいくらでもあるんだろうが
邪馬台国論争の変わっているところはある時期から一般大衆マスコミをも巻き込んだ形になったと言う事だろう。
具体的に言えば恐らく松本清張あたりが火付け役になった邪馬台国ブームと言われるものがそれ。
この時代の背景の中で安本や古田と言った学者が出てきて一世を風靡したと言って間違いはないだろうwwww
(個人的には榎の放射説にしてもこの背景があったればこそ登場し(榎がその嚆矢ではないが)注目されたんだと思っているw)
この板の九州説の連中はそのブーム華やかりし頃が普通の状態だと思っていて
九州説が脚光を浴びた過去の栄光を追い求めているだけのような気がするwwww
ブームが過ぎ去って沈静化している現在、邪馬台国を取り巻く状況はむしろ本来の姿に戻りつつあるのかもしれないwwwwwwwww
605 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 16:56:17
>>603 ああ、やっぱり日向厨だったかw
話をそらすな。
お前は畿内説はアンチ東遷説として登場してきたものだと言ったんだぞ?
そう言う形で畿内説を立ち上げた畿内説の開祖って誰なんだ?
そもそも皇国史観丸出しの本居らの偽僭説は東遷説に繋がらないwwww
本居が九州の女酋が皇室の祖とか言ったのか?アホwwwww
>>604 他分野の学者に比べると、考古学分野の連中の頭脳レベルは低い。
607 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 17:00:27
>>604 考古学的には畿内説と言ってきたのは畿内説だった。
裏を返せば、文献的には九州説ということになる。
畿内説もそれは認めているということになる。
しかし、考古学的にも畿内説はいろいろ破綻してきている。
最初は自生説。邪馬台国は大和で生まれ、発展し、大和朝廷になったという説。
しかし、その期待に唐古・鍵は応えられなかった。
今の纏向にも劣らないくらい熱心に掘ったが、いくら掘ってもめぼしいものは
出てこなかった。
今、唐古・鍵遺跡について語る畿内説の人はほとんどいない。
次は三角縁神獣鏡。これが卑弥呼の鏡で、畿内を中心に分布するから畿内が
邪馬台国だという良くわからない理論を立てた。そして、畿内説の柱として
これを根拠に畿内説を主張してきた。
結局、三角縁神獣鏡魏鏡説は破綻。もう今振り返る人もいない。
今、畿内説には何の根拠もない。年代でごまかしているだけ。
608 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 17:06:01
>>605 いつの時代も、畿内説の根本は東遷説否定だろう。
お前だってそうだろう?
609 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 17:07:01
ちなみに久米邦武曰く…
「卑弥呼は姫子にて名にあらず、景行記に見えたる八女国の八女津媛に当たる…」
と言う説だったらしいw
まあ九州説の保守本流が東遷説で良いのかどうかは九州説の連中の中で協議してくれって話しだなw
比定地も一本化できない、まあそれは良いとしても
肝心の倭人伝の「正しい読み方」も統一できない
皆が皆「素直に読んだらこうなった」と叫ぶだけw
おまけに東遷説こそが保守本流と言う奴までいる始末www
もっともこの板の九州説じゃあ意外と東遷説でまとまっちゃいそうなのが痛いところだがwwwwwwwww
610 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 17:11:51
畿内説は行程は説明できないからな。説明できないと投げ出せば、畿内説の間での意見の
衝突は起こらない。
611 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 17:24:58
九州説がまとまった時は、畿内説が一切反論出来なくなる時。
畿内説は九州説の分裂の上に成り立ってる。
612 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 17:27:18
そもそも…
>>603 >白鳥庫吉が、天照大神の高天原と卑弥呼の倭国の類似性を指摘し、東遷説で
>あったことは知られている。
確かに白鳥が「倭女王卑弥呼考」で卑弥呼と天照の類似をあげたなんて話しは聞くが
白鳥が「神武が九州から大和に入って皇室の祖となった」と東遷説を言ってたなんて話しは知らんのだが
これって間違いない事なのか?w
日向厨のいつものお得意の自説に合う学者の言の切り取りじゃないのか?wwwwwwwwww
613 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 17:40:30
>>607 ハイハイ、いつもの「怨み節」w
そりゃ学問なら進化して当たり前なんじゃないのか?w
唐古鍵がどうしたって?
まあいまだに吉野ヶ里にすがっている九州説にどうこう言われてもなあwww
『吉野ヶ里から邪馬台国が見える』んじゃなかったのか?wwwwwwww
で、三角、確かに倣製であると言う声は大きいと思うが
お前が言うように完全に方がついたと訳じゃない。
そもそも中国での魏代の鏡の出土があまりに少ない。
それでも「神獣鏡」は出ているがwwww
まあ溜飲を下げる事のできる貴重なネタなのは分かるが
製作地はともかくその年代は東遷厨の願ったようには言っていない事実wwwww
恐らく椿井大塚は小林の想定した年代からそう動いていない。
結果オーライってところかな?wwwwwwwwwwwwwwwwwww
614 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 18:14:28
>>613 >まあいまだに吉野ヶ里にすがっている九州説にどうこう言われてもなあwww
卑彌呼が狗奴國との戦争で負けたなら、吉野ヶ里が三世紀に放棄も在りでそ
615 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 18:20:08
吉野ヶ里が放棄されたかどうかは分からんが
放棄されたのなら、熊本勢力と福岡勢力の
筑紫平野の取り合いかなあ。
縄文時代はともかく、弥生時代に米作るようになったら
筑紫平野はいい場所だよね。
ただ平坦すぎて、戦となると隠れる場所がない。
負け側は一気に追い込まれてしまって
膠着状態に持ち込めない。
大戦争になりやすい。
616 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 18:39:41
>負け側は一気に追い込まれてしまって
だから卑彌呼ちゃんは魏の援軍が来る前に負けたんじゃね。
「 筑紫vs福岡平野 」と言う構図なら俺も良く考えるwwwwwww
我が国に銅や鉄が入ってきてその鋳造に取り掛かったのは
玄界灘周辺より佐賀周辺の方が早かったらしい。
(高島は出土する鋳型の古さでその事を言っていて
寺澤も王権誕生の中で同様の事を言っていたと思うが・・・)
でワンテンポ遅れて福岡平野辺りでも銅や鉄の鋳造が始まる。
(右から来たものを左に流す単純な貿易より加工貿易の方が利幅が大きいのかな?w)
そうすると今まで潤沢に鉄や銅を入手できた筑紫側に
鉄や銅の資源が投がれにくくなった状況ができたのではないか?
でもって
「もっと鉄や銅をよこせやコラ!」 と筑紫側と福岡側で戦争が始まったとwwww
福岡にすれば何も商売相手は筑紫に限る必要は無い訳で
(実際、山陰に福岡あたりで作られたと目される銅矛も出ているw)
逆にヤマトを中心にした東の連合体と手を結ぶ動機になったとwwwwwwwwwwww
618 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 18:43:15
磐井も結局筑豊の方まで逃げなきゃならなかったしなあ。
619 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 18:46:53
筑紫VS熊本だろ
620 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 18:49:28
福岡平野で鉄加工は春日の辺りだったっけ。
鉄加工と製鉄を分けなければならないと思うけど
鉄加工で一番古い痕跡は伊都の今宿だったと思う。
長垂海岸が伊都と福岡の境目なんだけど
今宿はその近くなんだよね。
鉄器を福岡と糸島に供給していたのかな。
そうすると、福岡と糸島は仲が悪くなかった
というより実質同じ国扱いなのかと考えたこともある。
621 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 18:54:17
福岡VS筑紫VS熊本
これに佐賀も入るかな。
筑後川流域 北西側の拠点、基山
同南東側の拠点、高良
筑紫を巡って、福岡佐賀連合と、筑後熊本連合の戦いか?
筑後の磐井の石人石馬の風習は熊本にもあるから
結構、繋がっていると思うんだけど
622 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 19:02:30
筑紫卑弥呼ちゃんVS熊本卑彌弓呼クン 勝者 卑彌弓呼クン
筑紫残党+福岡+前原+唐津+魏 勝者 難升米ドン
最終結果 壹與タン 祭上げられ
で、取りあえず仮の遷都
623 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 19:08:16
魏志倭人伝の行程を出来るだけ素直に当ててみると
確かに、佐賀の西の方に出ちゃうんですよ。
いまでも山越えのうざったいルートですけどね。
卑弥呼が筑後熊本連合の人と仮定して
福岡佐賀連合と筑後熊本連合が戦っている最中だとすれば、
福岡佐賀連合に鉢合わせしないような絶妙なルートなんだな。
624 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 19:11:46
>>623 >福岡佐賀連合と筑後熊本連合が戦っている最中だとすれば、
一大率が居るから福岡佐賀連合はアリエン
625 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 19:18:29
福岡、佐賀は近いけどなあ
糸島や、室見川流域からでも、三瀬峠とおったら佐賀だから。
春日、筑紫野から南はすぐ鳥栖だし。
ちなみに三瀬から吉野ヶ里に降りる道もあるよ。
はじめはともかく、ある程度国の規模が大きくなると
関係を遮断するのは難しい位置関係だと思う。
九州説はもう文献的にも考古学的にも
破綻してますよ。
627 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 19:40:29
>関係を遮断するのは難しい位置関係だと思う。
島と各平野が一国と考えれば良いんじゃね?
628 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 19:52:35
うん、国としてはそれでいいんだけど
連合があり得ないというのを敵対関係と判断すると、
福岡佐賀間は、しょっちゅうあちこちから侵攻してきたり
小競り合いがあったりして、うざい。
敵対でなければ、佐賀側からすれば
一応大国っぽい国と手を繋がないはずはないのではないかと。
消極的中立はあるかも知れないけど、敵対している国からみれば、
中立は敵を利するか、何かの弾みに寝返りかねない敵扱い。
場所的に関係がよっぽど希薄じゃないと中立の可能性は小さいと思うんだな。
629 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 19:55:31
あ、佐賀が筑後熊本連合の一員で、福岡との最前線というのは有りです。
そのときは筑後熊本側と関係があると言うことだから。
中立や無関係が無いというだけで。
630 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 19:56:21
>>599 ないものねだりをしちゃいかん。近畿説に根拠何ぞあるか?
631 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 20:05:35
>>628 「乃共立一女子為王名曰卑彌呼」
狗奴國以外は納得ずくじゃない?
しかも筑紫平野は広いし、一大率を前原に置いて監視してるし、
熊本平野に攻められるまで筑紫平野が最強だった。
632 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 20:14:36
>>631 仮に九州内だけで倭国大乱があったとしたら
筑紫平野周辺だと思うのです。
もちろん前提条件が崩れれば関係なくなるけど。
先ほど言ったように、守りにくく攻めやすい地形なので
ある程度、知恵が付いて、平和協定みたいなものを
結ぶくらい頭が出来てこないと、
筑紫平野は平和にならないのです。
目の前に豊かな土地があって、それを奪えば勝ち
みたいな文化だと、永久に奪い奪われが終わらないのです。
この平和協定が
「乃共立一女子為王名曰卑彌呼」
ではないかと妄想しています。
証拠があるわけではないから、妄想としておきます。
吉野ヶ里の戦の遺体はそんな時代を示しているのではないかと思います。
633 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 20:21:15
>>632 >仮に九州内だけで倭国大乱があったとしたら
>筑紫平野周辺だと思うのです。
それで良いと思います。
634 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 20:25:37
「乃共立一女子為王名曰卑彌呼」
これは、倭国の乱で相攻伐した双方が共に立てたという意味だろう。
だから、平和協定と言えば言えるが、実際は北九州が敗北した、ただ、無条件
降伏ではなく、かろうじて面子を保ったというところだな。
実質的に敗北したから北は一大率に厳しく検察されたんだ。
635 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 20:28:41
「舊百餘國」が、小さな村単位から平野単位に合併して
「今使譯所通三十國」じゃないかな。
636 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 20:37:31
>>634 うん、初めは福岡平野が最強
筑紫平野が合併して台頭
倭国の乱で、周りの平野を巻き込んで泥沼
で、「乃共立一女子為王名曰卑彌呼」の流れかな。
637 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 20:41:21
まあ行程記事の”縛り”がなければ今頃九州説は福岡平野が最右翼だったんじゃないのかな?w
邪馬台国のその後がどうなったのかも
那珂八幡とかの前方後円墳が築かれるにおいてゆっくり吸収されていったという
シナリオも立てやすいんじゃないかと思うwwwwww
638 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 20:53:12
個人的にはプレ太宰府政庁みたいなのがあって
そこが拠点になっているのではないかと思っていますが
東遷したのか、あるいは大和朝廷に吸収されたのかはわかりません。
しかし、そこにかなりの規模の痕跡が残っており
神籠石山城や水城などの整備状況から見ても
ここに拠点が移った可能性は高いと思います。
しかし、筑紫という名前が謎だ。
筑紫は筑紫野のちょっと南側にあるし、少しは遺跡も出てくるのだが
そこが九州の代表となる地名になぜなるのだろうか。
ここが両軍のぶつかった場所であり、協定を結んだ場所ではないか
と妄想してたりします。ちょっと妄想が過ぎますね。
639 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 20:53:39
>行程記事の”縛り”がなければ
一切間違ってない読み方なら邪馬壹國は筑紫平野。
少し説明します、
「又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國」よく南が間違ってると言われるが、
「倭人在帶方東南大海之中」が一番最初に倭の方角を書いてるから、
南は進む方角では無く、對馬國の南からと読めばOK
640 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 21:02:28
おまえら縄文人の説を読んでないのか?
1世紀まで福岡平野(博多湾沿岸部)が覇権国
2世紀に帥升が覇権を握り筑紫平野(福岡平野と佐賀平野)を版図とする。
2世紀末熊本平野に本拠を置く邪馬台(壹)国が分裂した帥升王国の佐賀平野部奴国と筑後平野部投馬国を
抱き込んで卑弥呼を王に据え、南部を除く九州を支配。
だとよ。
まだそんな暗号解読ごっこやってるのか、九州説の諸君はw
畿内説は既にそんなレベルは卒業してるぞ。
妄想ばかり耽ってる暇があったら
どっか遺跡の一つでも見つけるなり掘るなりした方がいいな。
643 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 21:31:32
仮面の一つも出れば、推理推論が自在にできるだろうが・・・かな。
あ、これも妄想だな。
644 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/22(金) 21:41:58
>>617 >「もっと鉄や銅をよこせやコラ!」 と筑紫側と福岡側で戦争が始まったとwwww
その戦争で勝ったのは帥升、負けたのは倭奴國。
勝因は一大國(壱支國)を味方につけたこと。
帥升は倭面土國(吉野ヶ里)と一大國の通商権益を福岡勢力(倭奴國)から守る為、一大國をして一大率なる検察組織を作った。
>>615 >>623 吉野ヶ里(倭面土國・米多國)が放棄されたのは、筑後北野勢力よる佐賀勢力(倭面土國王帥升)と福岡勢力(倭奴國)の分断化政策だね。
筑後北野勢力は、福岡勢力(倭奴國)を支配した佐賀勢力(倭面土國)の本拠地を攻略した。
佐賀勢力は弱体化し本拠地を吉野ヶ里から惣座(伊都國)に移した。
縄文時代はともかく、弥生時代に米作るようになったら
筑紫平野はいい場所だよね。
ただ平坦すぎて、戦となると隠れる場所がない。
負け側は一気に追い込まれてしまって
膠着状態に持ち込めない。
大戦争になりやすい。
魏志倭人伝の行程を出来るだけ素直に当ててみると
確かに、佐賀の西の方に出ちゃうんですよ。
いまでも山越えのうざったいルートですけどね。
卑弥呼が筑後北野連合の人と仮定して
福岡連合と筑後北野連合が戦っている最中だとすれば、
福岡連合から半島交易ルートの妨害を受けないような絶妙なルートなんだな。
645 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 21:42:29
>>642 <まだそんな暗号解読ごっこやってるのか、九州説の諸君はw
<畿内説は既にそんなレベルは卒業してるぞ。
上記は誤記でした。訂正します。
<まだそんな暗号解読ごっこやってるのか、九州説の諸君はw
<畿内説は既にそんなことは諦めたんだぞ。
647 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 21:55:18
狗奴国は南にあると思っている人が多いが、又、倭人伝にもそう書かれている
わけだが、後漢書には、
自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王
女王国より東に海を渡ること千里で拘奴國に至る。倭種といえども而して
女王に属さず。
と書かれている。
つまり、狗奴国(拘奴國)を出雲に比定することもありだと思う。
648 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 21:56:35
>>646 方角を勝手に変えてることの風刺じゃね。
649 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 21:58:45
>>647 というのは、邪馬台国は、狗邪韓国まで支配している可能性があるし、
帯方郡にも大陸にも行き来している。しかし、目と鼻の先の中国地方には
その痕跡が見られない。
ここら付近には、かなり強力な勢力がいた可能性がある。
650 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 22:07:04
>>647 范曄は
其南有【狗奴國】男子為王其官有狗古智卑狗不屬女王
と
女王國、東渡海千餘里【復有國】皆倭種
を、
混同しただけ。
倭人伝を先に読み解けば簡単に理解出来る。
651 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 22:11:28
>>647 范曄は
其南有【狗奴國】男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王
と
女王國、東渡海千餘里【復有國】皆倭種
を
混同しただけ。
先に倭人伝を読み解けば簡単に解かる。
652 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 22:12:56
>>647,
>>649 後漢書は倭人伝を基にして書かれているね。その観点からすると狗奴国の位置を訂正した可能性もある。
その場合は5世紀初頭頃の情報で訂正されたのだろう。3世紀には九州南部にあった狗奴国が5世紀には
九州から東の地域に移って拘奴国となっていたのかもね。
653 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 22:19:46
>>650 そんなもの混同するかな?
後漢書には、倭人伝には書かれていない倭奴国あるいは帥升のことも
書かれている。倭人伝だけを基にしているというわけではないことは確か。
陳寿の方が間違えた可能性もあると思うのだが。
>>652 つまり狗奴国=クの国。葛、隈、という事だろう。
国境が変動している為の混乱だな。
655 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 22:28:07
>>652 その可能性も無くは無いが、
范曄の書き方は倭人伝の方角と違う書き方が解かる
>>653 順次説と放射説の組み合わせが違うし、第一地形に合わない
先に倭人伝を読み解かなければ理解し難いが。
656 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 22:33:26
しかし、元は火の国だった肥前と肥後が離れているのはどうしてだろうな。
大和に対する勢力を削ぐためでしょう。
吉備も丹波も越も筑紫もだからな。
658 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 22:54:27
>>656 日に向かうと日の後が対応していたんじゃないかな。
659 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 22:55:16
さてさて議論はまだ続いておりましたか。
>>603 この方は文献にお詳しいようで、江戸時代の学者を持ち出すなど、自分が博識であるかのように装っていますが、
本当に博識であれば、近年、籠神社で見つかった海部氏系図について知らぬはずはありますまい。それとも、
いつものごとく、都合の悪い資料は見てみぬふりですかな?そのような態度をとられても、こちらはお見通し。
九州説からどんな反論をされようが、いたくも痒くもありません。本当に、よくみかけるのは、天照大神が卑弥呼と同一
だという説ですが、江戸時代の学者ならともかく、海部氏系図を知ってしまった以上は、そのような見解はもてないはず。
なにせ、海部氏系図には、始祖の「彦火明命」は、またの名を「天照御魂」であると明記してあったのですから。
それ以前から、神社伝承を調べていけば、天照御魂神社では天火明命を祀ることがおおく、怪訝に思われる方が多くいたわけです。
海部氏系図の発見で、ああ、やはり天火明命は、天照大神その人だった、あるいは、天皇家よりも直系の子孫であったと、
よく文献を読み込んでる人は納得するはずのことです。もちろん、記紀を読みましても、天火明命が天照大神とは書かれておりません。
同時に、海部氏についても、書かれておりません。記紀が海部氏を黙殺してることは明らかなのであります。
しかし、神武東征よりも先に大和の地に降りたのはニギハヤヒ尊(天火明命)であるということは、記紀にも書かれていることです。
その頃、神武は日向の王でもない「ただの人」でしたが、ニギハヤヒはヤマトの支配者でした。格が違うことも記紀は認めているわけです。
結論から言えば、天照大神の流れを汲むのは天火明命であり、神武は、横取りをしたと、こういうことです。
文献重視の立場から、天照大神=卑弥呼という論が、いかに古臭く、陳腐なものか、おわかりいただけましたかな?
660 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:00:09
誰もまともに相手をしようとしないトンデモは資源の無駄だよ。
僕は優しいからお子様のおなだめだけしてあげよう。
661 :
岡目:2010/01/22(金) 23:00:53
>>656 島原(雲仙岳がある)と熊本(阿蘇山がある)は有明海を隔てているが距離的には極めて近い。島原と
天草は目と鼻の先と言ってもよいし、島原と宇土の舟での行き来はさほど困難ではない。火の国として
熊本は島原とつながり、同じ種族の人間がそのつながりで熊本、長崎、佐賀に跨がって文化圏を形成し
ていたのだろう。火の国が肥前と肥後が分かれているのではなく、火の国の肥前の端と肥後の端が筑後
に接しているんだな。
662 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:06:43
>>659 長々と書いているが、何を言いたいのか良く分からんな。
海部氏系図って何時書かれたんだ?
663 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:08:39
>>661 なるほどね。確かに、島原や天草・宇土方面から考える方法もあるな。
火の国は元は広かったが、何かの拍子に筑後が間に入ったのかと思った。
664 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:18:48
>>659 まず、天火明命だが、これは天照大神の孫となっている。
一般的に天孫といわれるニニギノミコト(瓊瓊杵尊)の兄とされる。
瓊瓊杵尊は日向に天下り、その子孫の神武天皇が東征し、皇室の祖先になる。
一方で、天火明命は、記紀によると消息不明。
消息不明に付け込んで、都合の良い系図を作ったんだろう。
天火明命を饒速日命に比定する人もいるが、これも根拠はない。
天火明命を祖先にすれば、皇室と同等の家系を持つことになり、箔は付くが
根拠はないと思うな。海部氏系図は、このように記紀がないと意味がない。
665 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:20:01
>>622 文献について、きちんと説明しようとすると、とても複雑になってくるわけです。
だから、簡潔に「天照大神=卑弥呼」としたほうが、初心者にはウケがいい。わかりやすいのが一番ですからね。
海部氏系図については、海部氏系図だけ見ても、ほとんどなにもわかりません。いろんな文献を調べ上げた上でないとね。
だから、海部氏系図について、誰がどんなレスをするかは興味のあるところ。ほとんどは、
スルーされる方が多いのではないでしょうか?具体的に反論しようとしても、「書かれた時代」に言及することしかできない。
それなら、記紀も同じで、7世紀頃に書かれた記紀を斜め読みして、「天照大神=卑弥呼」とすることの愚かしさにも、
気がつくべきであろうかとそういう話ですね。
666 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:21:03
>>663 仰る通り
佐賀から熊本にかけてのの有明海沿岸が肥の国で
筑紫が久留米側から割り込んだという説もありますよ
667 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:27:06
>>664 この方がいみじくも指摘しておられるように、系図というのは「箔」をつけるもの。
天皇家の箔をつけるものが記紀なのですから、記紀のいったい何を信用できましょうか?
7世紀に天皇家がいじくりまわした天照大神→ニニギ→神武東征という系図に何が信用できるのでしょう?
海部氏系図を作り話とするなら、それ以上に記紀は、まったくの作り話と考えるのが筋というもの。
そうでないなら、都合よく文献を引用してるだけと批判されても仕方の無いことですね。
九州説というのは、このように、文献を都合よく引用するだけ。
引用した文献は正しく、引用しない文献は正しくないと、勝手に決め付けて、「天照大神=卑弥呼」などという
妄言を撒き散らしているわけです。愚かしいこととは思わないのでしょうか?
668 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:29:51
>>665 7世紀とか8世紀に書かれた記紀が、どうして天照大神のような女性を皇祖に
したのかというのが問題。女性を皇祖にすると、いわゆる万世一系がしっくり
来ない。おまけに独身だし。
それに、記紀の書かれた当時には、そういう女性を王として書く下地がない。
だから、天照大神は伝承に基づくものであり、そのモデルになったのは
卑弥呼ではないかというわけなのだが。
>>667 いや、その理屈はおかしい。AA略
事実がもとにあるからこそ、それを改変するという作業が可能になる。
改変というのは、改変がばれない程度にしかできない。
なので、書いてあることの大筋は事実ということになる。
実際にも記紀やほかの書物も大筋では同じことを書いている。
670 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:32:14
記紀は卑弥呼を描こうとした。だから、まず天照大神を持ち出したんだな。
671 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:33:40
>>667 その記紀がないと、天火明命が皇室と繋がっていることがわからず、
海部氏系図は意味がないと思うのだが。
672 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:35:31
記紀も作り物、系図も作り物だろう。
673 :
岡目:2010/01/22(金) 23:36:36
>>667 天照大神=卑弥呼で九州説を一括りにするのはよくないな。九州説を批判するならよく調べてからにしないとね。
「九州説というのは、このように、文献を都合よく引用するだけ。」と言うのは根拠のない暴言であると気づか
ないでは貴殿は嘘つきと呼ばれますよ。
674 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:38:46
天照が卑弥呼だとしたら
記紀編纂時には、まだ卑弥呼の伝説が色濃く残っていたのかね
それともすでに天照に改変されていたのだろうか
675 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:39:36
>>672 記紀は、意外に中国の文献と似ているところがある。記紀が作り物だとしたら
同じようなことが中国に文献に登場するのは腑に落ちない。
大筋では、史実を反映しているのだろうと思うのだが。
676 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:41:05
文献を研究されてるかたが、いくら九州説が主流とかいってもですね、所詮は、都合の良い文献をさがして、
つまみぐいて、張り合わして、自説に都合よくまとめてるだけなんですね。そんな体たらくな学問は、学問と呼ぶこともはばかれます。
自分は、文献だけで古代を読み解く自信があるというのなら、すべての古文書は同等にあつかい、この古文書は信用できるというなら、
あっちの古文書も信用し、この古文書が信用できないなら、あっちの古文書も信用できないと、差別を無くすことからはじめなさい。
そして、文献の中でどうして信用できない箇所があれば、なぜ信用できないのか、きちんと説明し、同じように信用できない箇所が
あれば全部切り捨て、残ったところから採用すべきです。であれば、「天照大神」という神が本当にいたのか?7世紀の創作ではないか?
というところまで考察すべきです。そうすればほら、天照大神が3世紀にいたなどという証拠は何もなくなります。よって、
天照大神=卑弥呼なる考えも間違いになる。どうしたって天照大神=卑弥呼という論は成立しないわけです。
いまだに、そしてこれからも、天照大神=卑弥呼などとほざく人は、学問の何もわかってない、辻褄合わせ言葉遊びをしてる暇人と同じ。
しかしまあ現実は、そういう愚かしい説がまかり通っているということは、いわゆる古代史マニアのレベルを推し量るとその程度であると、
その程度のレベルで、魏志倭人伝をいじくりまわして、九州のどこそこだと、小さい小さい議論をしてる。
はたから見てると、まるで、蟻の喧嘩のようにしか見えなくて滑稽ですよ。
677 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:46:22
>>668 >それに、記紀の書かれた当時には、そういう女性を王として書く下地がない。
女帝がいたことも知らないの?
678 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:52:00
>>674 天照大神が生まれる頃までの記紀は、かなり荒唐無稽のところがあり、
現実味はほとんどない。しかし、天照大神が登場すると、けっこう現実味を
帯びてくる。
この頃からの伝承は残っていたのではないかと思うのだが。
天照大神=卑弥呼とすれば、おりしも魏使、郡使が日本にやってきた頃。
魏の皇帝からの詔書なども持ってきており、檄文なども出てくる。文字を目に
する機会が多くなったということからすれば、文字による記録があったのかも
しれない。
まあ、これは定かではないが。
679 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:58:26
>>677 女帝にはみんな夫がいるから。天照大神には夫がいない。
680 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 00:03:21
>>678 いやはや、まだ、わからない人がいるとは驚きですねえ。いったい何があなたをそこまで洗脳させているのか?
天照大神が登場すると、けっこう現実味を帯びるですって?まあ、どこの記述が現実味なんですかね?
岩戸隠れですか?ウケイですか?スサノオとの喧嘩ですか?さらに、天照大神=卑弥呼とすれば、おりしも魏使、
郡使が日本にやってきた頃などと言う始末。いったい天照大神が3世紀の神だと記紀のどこに書いてあるのやら?
あなたが勝手に天照大神=卑弥呼と推量して、それにあわせて辻褄合わせしてるだけでしょう。もっと冷静になって自分を
見つめてみなさい。あなたのしてることは、「辻褄合わせ」です。都合の悪い記述は目を背け、作り話と言い、
都合の良い記述だけを取り出しているだけ。卑弥呼は、鬼道をしてましたが、天照は太陽神です。中国では、太陽信仰を鬼道と
呼んでましたか?そんな説は聞いたことがありません。卑弥呼は魏に遣いを出しましたが、天照大神は、どこか別の国に遣いを
出しましたか?出してませんね?卑弥呼は、クコチヒクと仲が悪かった。天照大神は誰と仲が悪かったですか?
スサノオでしょう?クコチヒクはスサノオと同一だとでもいうのですか?ならば、クナ国は出雲ですか?
そんな話はきいたことがない。このように九州説はデタラメもいいところ。どうしてまともな議論ができましょうか?
あまりにもデタラメすぎる。
681 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 00:15:56
天照大神が登場すると、けっこう現実味を帯びるなどという意見には、あきれました。本当。
本当に記紀神話をきちんと読んでるのですかね?九州説の誰かが、天照大神が登場すると、けっこう現実味を帯びると言ってたから、
それを真に受けて、自分で調べもしないで、天照大神が登場すると、けっこう現実味を帯びると信じてるだけでしょう。
九州説のレベルは、本当にこの程度なんですか。悲しいですね。せめてもうちょっとレベルの高い議論を見てみたい。
まず、天照大神が卑弥呼と同一などという発想は捨てるべきことです。そこから神話解釈をはじめなさい。
どうやっても、天照大神が卑弥呼だなどといっても、論証を少し重ねれば破綻するだけです。無意味です。
天照大神が登場すると、けっこう現実味を帯びるなんていってる具合ですから、天孫降臨も現実ですか?
海幸彦山幸彦も現実ですか?ポリネシアの神話と共通性があるのは偶然ですか?ワニと結婚して天皇の祖が生まれたのも事実ですか?
いったいどこが現実味なのやら?九州説のおっしゃられることは、なにもかもがちぐはぐでデタラメですね。
682 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 00:18:13
>>680 じゃあ、完全に辻褄の合うことって何かあるかな。
記紀は古い時代の伝承に基づくもの。中国の文献は日本人とは視点が異なる。
そういう状況で、完璧なものを求めるのは無理。
あなたは完璧なものを論じられるのかな?
だったら、より妥当性の高いもの、一致点の多いものを採るのが普通。
あなたこそ、不一致点にばかりに目を向けている。
683 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 00:24:19
>>681 >ワニと結婚して天皇の祖が生まれたのも事実ですか?
王仁の事かも
684 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 00:24:35
>>673 あなたは、僕の指摘を暴言だというけれども、だったら、あなたから、
>>678みたいな人をたしなめたらいかがですか?僕も長くいろんなヤマタイコク論争をみてたけど、
九州説同士で、卑弥呼=天照大神だと言う人に対して、それは違うと、きちんと説明してる人はみたことない。
九州説の中だけで、もっと「卑弥呼=天照大神」は本当なのかどうか?議論をふかめても良いはずなのに、それが無い。
みな、暗黙の了解で「卑弥呼=天照大神」ということを黙認してきたわけでしょう?そんな状態が何十年も続いてて、
よく他人を批判できますね?あなたが、「卑弥呼=天照大神」ではないと思うのなら、あなたが率先して主張し、
もっと現実的な九州説に成長させてあげたらいいじゃないですか?あなたも、「卑弥呼=天照大神」という意見が稚拙で幼稚で、
これからの九州説にそぐわないと、そう思ってるから、僕を批判したわけですよね?人を批判するだけで、自分は何も主張しないなんて、
最低ですよ。
685 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 00:26:01
>>681 イザナギ、イザナミは、国を生むのですよ。日本を。
そのほか、穀物や神様を生んでいく。黄泉の国の話からは、イザナミが
お前の国の人間を一日に千人、黄泉の国に連れてくる、と言い、イザナギは、
だったら、私は一日に千五百人の人を生もう、なんて言ったりする。
これが現実味があるかな。
一方で、天照大神は素戔鳴尊と争いをする。
素戔鳴尊に怯える。怒って岩戸に隠れる。岩戸から出てくると、出雲と戦争を
する。瓊瓊杵尊を日向に天下らせる。
イザナギ、イザナミに比べると比較的現実味があると言えると思うが。
須佐の王とは宇佐の王だとすれば話が早い。
687 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 00:31:49
>>684 九州説には、九州王朝説というのがある。
九州王朝説そのものではなくても、それに近いものもある。
これらは、天照大神=卑弥呼と言うわけではない。
一般的には、東遷説が天照大神=卑弥呼となる。
そうでない場合もあるかもしれないが。
688 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 00:32:03
>>684 俺も九州説の立場から書かせて貰います。
記紀の神功皇后の話は、恐らく卑弥呼に合わせて書いていると見られる。
しかし、神功皇后と天照大神を結びつける記述は俺は知らない。
卑弥呼=神功皇后≠天照大神 と考えれば、卑弥呼=天照大神は無い気がします。
689 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 00:37:11
>>682 文献を重視することが間違いだということです。文献を重視しようとしても、
その記述が本当に本当かどうか、なかなかわかるものじゃない。
一致点の多いものを採るといっても、それは人の主観であって、完璧に正しいわけじゃない。
完璧に正しいわけじゃないなら、大きく間違ってる可能性だってある。すこしでも間違ってる可能性があるなら、
わからないなら、文献はすべて捨てるべきでしょう。ここは正しいかもしれないという憶測だけで
文献の記述を採用することは、ただの辻褄合わせだと言ってるわけです。人間というのは、そういう
都合の良い解釈を採りたがるものなんです。だから、なおのこと、文献を採用するなら、慎重にしないといけない。
天照大神と卑弥呼が似てるからってだけで、同一だなんていうのは、笑い話です。
信用できる文献は、もちろん九州説の言うとおり、魏志倭人伝だけです。そして、記紀神話は信用できません。
信用できるわけがありません。7世紀に書かれた、天皇家に都合の良い書物ですからね。
その文献をつき合わせて、卑弥呼は天照大神だなどとは、とても言えない。たとえこれから、九州で金印が見つかって、
九州説の正しさが証明されようとも、卑弥呼=天照大神なんていう説は、証明されたことにはなりません。
3世紀の文字資料として「卑弥呼は天照大神の別名」という文献が出てきたとき、はじめて証明されることなのです。
現段階で、まったく証明不可能なことを、推測だけで、卑弥呼は天照大神として、九州説の論拠にするのは滑稽です。
なぜなら、簡単に論破してしまえることですからね。
690 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 00:48:00
天照大神=卑弥呼(+台与)の根拠をもう一つ言うと、天照大神が岩戸から出て
くるとかなり異常な状態になる。つまり、高皇産霊尊が登場し、どちらが上か
わからない状態になる。
記紀を読むと、何かに付け、天照大神と高皇産霊尊は…、と両者並立で
物事が進んでいく。同位の王が二人いるとしか思えない。
二人の王が共存するなんてことが有り得るのか。
実は、これが中国の書物にも出てくる。
正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王、
其後復立男王、並受中國爵命
正始中、卑弥呼が死に、さらに男王が立つ。国中不服。さらに相誅殺。
又、卑弥呼の宗女・台与を王と為す。その後、又男王が立つ。
中国の爵命を並び受く。
王が並立すると言う極めて異例なことが、記紀にも中国の書物にも書かれている。
691 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 00:57:49
結局のところ、現在の九州説の状況はと言えば、古代史を正確にひもとき、真実を知りたいという知的探究心からではなく、
自分の空想してる邪馬台国と卑弥呼像が本当だったらいいなと、願望を述べ合ってるだけにすぎない。
九州の人が九州説を信じてるのはまだ可愛いけれども、卑弥呼は朝鮮人だと、韓国では信じられはじめていることを知ってますか?
佐賀県が吉野ヶ里の観光を韓国にアピールし、吉野ヶ里の遺物が韓国の遺跡と共通するものが多く、
3世紀から佐賀と朝鮮半島の交流が盛んだったことが、事実として明らかになっている。
韓国人はそれに目をつけて、それならば、吉野ヶ里を作ったのは、朝鮮から移民したひとだと、吉野ヶ里の王は、朝鮮人だと、
吉野ヶ里が邪馬台国なら、卑弥呼は朝鮮人だと、もうすでにそういうことで話が広まっているありさまです。
佐賀県もそれを黙認して、韓国から観光客を誘致してるわけですよ。するとどうなりますか?
邪馬台国が九州で、天照大神が卑弥呼という話になれば、天皇家の祖は朝鮮人だと、そういう論調が既成事実になっていくわけです。
韓国人にしてみれば、自分達より劣ってるはずの倭人が金印をもらったなどという事実は認められない。
しかし、卑弥呼が朝鮮からの渡来人なら、韓国人も納得するわけです。そういうシナリオを暗に描いて、
佐賀県は吉野ヶ里の観光化を進めてるわけですよ。いいんですか?そのうち、韓国の歴史教科書にも、
朝鮮人が倭国に渡って、九州に邪馬台国を作り、朝鮮女性が卑弥呼になったと、そう書かれますよ?
そうなったとき、九州説の人は、反論できますか?できないんじゃないですかね?九州説を捨てることにもなるからね。
九州の人はそれで納得しているのか?そこのことろ、知りたいですね。僕は納得できませんね。
692 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:04:35
>>691 卑弥呼が朝鮮人というのは文献的にありえない。
それはみんなわかっているはず。
問題は、そういうことを持ち出して九州説を批判していることが、非常に
感情的であるということ。
それが自分でわかっているのかな。
693 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:06:23
吉野ヶ里が、渡来人の影響が濃いのは事実。吉野ヶ里の王は、渡来人だったかもしれない。
そこまでは、僕も事実として、いつか認めないといけないかもしれない。
九州説が本当で卑弥呼が実際に朝鮮からの渡来人だったとしたら(韓国人はそう信じはじめている)
僕はちょっとがっかりするけど、歴史的事実であるなら受け入れるしかしょうがない。
しかし、歴史的事実というのは、声の大きい側が作っていくものだ。
韓国人が声を上げて、卑弥呼は朝鮮人だと、世界に発信し始めたらどうしますか?
外国のwikiを書き換えはじめたら、のんきな日本人は対処できますか?
>>690 このひとは、「天照大神=卑弥呼」だと、本当に食い下がってきてますけど。
だったら、はっきりさせましょう。
あなたは、卑弥呼が、朝鮮からの渡来人だったとしても、それを受け入れるのですか?
天照大神が朝鮮女性で、天皇家の祖も朝鮮からの渡来人だと。
そういうことをはっきり認める用意があって、天照大神=卑弥呼だと言い続けるつもりですか?
それとも、天照大神=卑弥呼だけども、朝鮮からの渡来人ではないと、
はっきりした証拠でも持ってるのですか?
694 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:11:46
>>692 >卑弥呼が朝鮮人というのは文献的にありえない。
それは、なぜですかね?
興味があります。今後のためにも、ぜひ、お聞かせ願いたい。
なぜ、文献的に卑弥呼が朝鮮人で無いと断言できるのか?
3世紀に朝鮮人はいなかったとか、そういう話のすり替えはごめんですよ。
問題は、今の韓国人が、卑弥呼は朝鮮人だと信じ始めてることについて、どう具体性のある本論ができるのか?ということ
ですからね。文化も、稲も朝鮮半島から伝わったとしたら、ニニギも朝鮮から渡来した人の記憶ということも、
文献からは推測できるはずでしょう?僕はそういう解釈はしませんけどね。
同時に天照大神=卑弥呼とも信じていない。でも、天照大神=卑弥呼というひとは、
ニニギは朝鮮からの渡来人ではないと、どう文献的に証明できるのですかね?
695 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:14:13
上の方の卑弥呼平和協定説は、妄想だと自分で言っていたが
面白かった。
重箱の隅を突っつくような下らん議論はつまらないな。
中身のないディベートみたいだな。
696 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:15:07
>>693 日本の話をしているのであって、朝鮮は関係ない。
卑弥呼が朝鮮系というのも有り得ない。
どこからそんな話が出てきたのやら。
スレッド一覧を見てみればわかるが、なんでもかんでもも朝鮮系というのが
あふれている。朝鮮系ネタは、もう、お笑いネタくらいにしか考えられないな。
697 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:18:28
698 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:18:41
>>689 >すこしでも間違ってる可能性があるなら、わからないなら、文献はすべて捨てるべきでしょう。
極論過ぎるな。お前ただの釣りだろ。
完全なもの以外全部捨てろというのなら、記紀捏造説の側の方が全然ダメなことになるぞ。
なんせ捏造という想定に反した記紀の記載は「それは捏造」の一言で片付けられるから、
無限の捏造パターンが作り出される。
それがまさに戦後の多数派の変遷だったりする。
自説に合わない部分は「これは捏造」で読み替えてきた。直樹孝次郎なんかはその筆頭。
重要なのは、何が正しくて、何が間違っているのかの選択なんだよ。
>7世紀に書かれた、天皇家に都合の良い書物ですからね。
まあ捏造史観の連中は「病気」みたいなもんだから、仕方ないかwwwwwww
699 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:20:38
>>694 相手するのもめんどくさいが、例えば倭人伝を見てみればいい。
卑弥呼共立の経緯が書かれている。
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、
名曰卑彌呼
その国、もとまた男子を以って王と為す。住まうこと7,80年、倭国乱れ
相攻伐すること歴年。すなわち、一女子を共立し王と為す。
どこに朝鮮系が書かれている。もし、良かったら朝鮮系の根拠を示してくれる?
吉野ヶ里のガリは、ハンガリーと同じく匈奴=フン族の言葉で国という意味。
広い視野で世界の歴史をみれば、
フン族の大移動がユーラシア大陸の西岸ではゲルマン民族の大移動を誘発し、
一方、東岸では倭国大乱の原因になったと見るべきだと思います。
701 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:26:57
>>689 「完璧に正しいもの」って何なのかな?
「完全に正しいもの」だけを追い求める立場は、哲学的には「基礎付け主義」という
とうの昔に放棄された考え方だなww
戦後のサヨク史観も似たようなところがあるが、他者批判には完全性を要求するが、
自説はいい加減なんだよねえ。
そもそも「記紀は捏造」といいながら、その記紀の「読み替え」をやったりする。
「あれは捏造、これは事実」と勝手な基準で10人いたら10人がその「完全」な解釈とやらを展開する。
もうビョーキだよな、あの連中は。
結局は、「記紀は天皇中心の歴史観を捏造した支配者側の書物だ。」という抵抗主義の反天皇制の
マルクス主義史観まるだしなんだよねえ。
イマドキこんなことをいう奴は渋谷の交差点を素っ裸で歩くようなもんだが、本人はその自覚がない。
もちろん、お前のことだよ。
702 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:27:59
「天照大神=卑弥呼」という人はですね、文献を解釈するのは自由ですが、その結果として、
天照大神以前は、イザナミイザナギしかいなくなって、3世紀以前の日本神話は無いに等しくなることをどう考えてるのか?
まさしく朝鮮から渡来人がきたという記憶が、天孫降臨や国譲り神話となり3世紀にあったと言ってるわけでしょ。
昔も、文献派は、天孫降臨は渡来人の記憶だったということが普通に言われてたはずですよ。
ニニギは稲を持って降臨してきましたし、稲が外国からもたらされたことも事実ですよ。
だったら、ニニギは渡来人ということになり、ニニギの祖の天照大神も渡来人のカミであり、卑弥呼も渡来人ということですよ。
>>690は、そういうことを言っている。そういうことを視野に入れての発言なら、まだいいのですよ。
でも、「天照大神=卑弥呼」だけど、渡来人ではない、と言い出すとしたら、
これはもう、都合よく文献を読んでるだけの辻褄あわせと、言われてもしょうがない。
>>699 記紀の天孫降臨は、渡来人の入植の記憶ではない、と、断言できるわけですか?
断言できないなら、高天原は、朝鮮半島だし、天照大神は朝鮮のカミであり、天照大神=卑弥呼なら、
卑弥呼は朝鮮系となりますが、どこに論理矛盾がありますか?
「記紀の天孫降臨は、渡来人の入植の記憶ではない」または「天照大神=卑弥呼ではない」と、
いずれかを否定してもらわないと困りますね。
703 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:31:39
>>702 朝鮮人の流入は考古学的に否定されている。
弥生時代をとおして、朝鮮の土器がでる朝鮮人の居住区はせいぜい2〜3%しかない。
君は「絶対に正しいもの以外はダメ」っていう考え方なんだろ。
朝鮮人が日本にきて支配したことを「絶対に正しい」という根拠を書いてみたらww
もいしかして、それもできずに「絶対に正しい」ものだけを採用すると言っているのかなww
704 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:34:40
>>700 つられたかもとおもいつつ
律令制時代には土地の区画整理を条里制と言ったが、
「吉野ヶ里」の「里」はその呼び名が今も伝わって残っているもので、
旧神埼郡内には他にも「○○ヶ里」という地名が多く見られる。
ウィキだけどな
705 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:35:37
>>703 >朝鮮人の流入は考古学的に否定されている。
>弥生時代をとおして、朝鮮の土器がでる朝鮮人の居住区はせいぜい2〜3%しかない。
はい、これで邪馬台国東征説は不成立となりましたね。奈良には九州の土器はほとんどありません。
あなたの論でいけば、九州勢力の東征など、ありえないということになります。
ですから、あなたは、今後、東征説を批判する立場に立たなければなりません。
言ってる意味はわかりますね?
706 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:41:52
>>701 なぜマルクス主義が反天皇制につながるのか、分からない人がいるのかな?
マルクス=階級闘争史観なので、階級の頂点にいる王は打倒すべき存在になる。
ロシア革命でも王族皆殺しで革命が成立した。フランスでも革命で王は処刑された。
なので共産党も天皇制打破を目標の一つにしていた。
戦後のサヨク史観の中核には天皇制反対・打破という目標があって、その目標に
沿った言論が無条件で正しいとされた。
なので、崇神以降の伝承も天皇陵も残っている多数の天皇が実在しないというへんてこな
学説が流行るという異常事態が起きてしまった。これは日本の知性の恥ですな。
707 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:43:49
>>702 記紀に書かれていて、イザナギ・イザナミが生んだ大八洲国は、日本の八つの
島のこと。朝鮮のことは全く書かれていない。
はなから、朝鮮は問題外。記紀には日本のことだけが書かれている。
708 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:44:35
>>705 それが論理のすり替えによる逃走ということは、お前の知能でも理解できるよなwwwwww
てゆうか、おまいの理屈はわけ分からん。
709 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:46:05
>>707 大八島ができる前に、高天原はありました。
つまり、高天原は日本ではなく、あるとしたら、朝鮮半島ということになるね。
710 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:49:14
妄想だが、日本がもっと東に在って、大陸との交流が難儀だったら
ハワイみたいなノンビリした国に成ってたのかな?
711 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:49:18
>>703 このひとは、
>朝鮮人の流入は考古学的に否定されている。
>弥生時代をとおして、朝鮮の土器がでる朝鮮人の居住区はせいぜい2〜3%しかない。
だから、渡来人が九州で王になったことは無いといてますね。同じことが東征説の否定につながるわけです。
奈良からは、九州の土器がほとんど出ません。だから九州から邪馬台国が東征したことにならないわけです。
当然、卑弥呼=天照大神でもない。こんな簡単なことがわからないで、いったい何がわかるというのか?
713 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:51:10
>>709 記紀の筋を全く知らないんだな。
高天原はずっと後。天孫降臨の意味も知らないし、前後関係もわかっていない。
少しくらい、記紀の筋を知ってから書き込むべきだな。
714 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:52:34
>709
朝鮮半島にもヒルコの伝承ってあるの?
715 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:55:15
>>713 どうでしょう?この人の発言を見ましたか?
記紀の前後関係をもっとよく見ろというわけです。記紀の前後関係を見たら、天照大神が岩戸隠れしたあとに、スサノオのオロチ退治や、
大国主の国作りがあるということをどう考えているのか?
ますます、卑弥呼=天照大神ではないということ。
こういう風に、みんながバラバラに、都合よく文献を解釈してるものだから、ダメだというわけです。呆れますね。デタラメだ。
頑張ってますね。
717 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:58:05
>>715 アホ!
掛け算できない小学生と、微積分の話をしているみたいだ。
南九州の邪馬壱国が畿内のたい国(ユダヤ秦王国)と合併して邪馬台国になったんだよ。
だから邪馬台国の本拠地は南九州〜北九州〜畿内と移ったんだよ、たぶん。
720 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 02:07:19
>>711 結局話しのすり替えはそのまま放置かwwww逃走はみっともないぜ。
んで、なんで土器の話何だ。
てゆうかなんで土器だけで全部を決めようとするんだ。
鏡や朱や貝装飾(石になり再現)とか色々と伝わっているぞ。
なによりも伝承のすべては東征を前提になりたっている。
つまり、記紀が書かれた時代には東征の伝承が受け継がれていたってことだ。
土器にしても庄内式は主として畿内北部九州で出土する。
北部九州は弥生末期に出土して、畿内は古墳時代が主体。
庄内式の発生源は神武が長期滞在した吉備だという説もある。
薄くて軽くて持ち運びが便利な庄内式はまさに「移動」のために発明されたというのが
もっともしっくり来る。
ウガヤ朝最終拠点が北九州の豊日国(朝鮮南部〜九州を領有した東表国)だから、神話的裏づけがあるのは当たり前っしょ。
ウガヤ朝の拠点も小アジアのワン湖から東に移動して来たわけ。
ウラルトゥ王国からウガヤは始まったんだな。
723 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 02:15:51
邪馬台国東征説とか、天照大神=卑弥呼説が、いかにデタラメか、おわかりになりましたか?
邪馬台国九州説で、天照大神=卑弥呼なら、韓国人はよろこんで卑弥呼=朝鮮人説を主張するでしょう。
なぜなら、九州に文化を伝えたのは朝鮮人であり、その朝鮮人が邪馬台国で王になるのは道理だからです。
中国の歴史書には朝鮮人が倭王になったとは書かれてませんが、57年までのことです。
それ以前に、朝鮮人が倭国にきて王族なったというケースを誰が否定できるでしょう?
韓国人はそういうシナリオを描いてますよ。そうした韓国人に対する反論としては、
九州から朝鮮の土器が出ていても、ごくわずかだから、朝鮮人が倭王になったことは無いということです。
同じことが奈良にも言えるのであり、奈良には九州の土器は少なく、したがって九州からの東征は無いということです。
よって、東征説が不成立である以上、天照大神=卑弥呼もありえないということです。
ほんの1日、おつきあいしただけで、東征説は完全に論破されてしまいました。
九州説というのは、所詮、この程度の幼稚な議論なんですね。いいかげん、目を覚ましたほうがいいですよ。
724 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 02:17:26
昔は庄内甕を「軽量甕」と言ったんだな。
それまでの土器よりも格段に薄く軽くなったのが庄内式。
重さが4から5分の1に軽量化された。
この軽量化は普通に考えれば、持ち運び、移動のためなんだな。
その持ち運びって何だということだが、庄内甕の出土が北部九州と畿内と吉備などで
出土はピンポイントで周辺地域に拡散しなかったことが参考になる。
主として移動のための土器なので、関係ないところには普及しなかったんだな。
つまり庄内式を出土する地域は相互間に往来が多かったってことだが、
それ自体が神武東征の裏づけなんだな。
だから、土器で東征が否定できるという連中は、この庄内式の問題に本気で回答する必要があるな。
ウラルトゥ王アマテルが日本神話のアマテラスになった。
で、結局は土器の話になっていくんだよなww
観戦してたけどソロソロねますわっっ
みなさん 又です zzz
727 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 02:22:23
卑弥呼は公孫氏安羅王家の女王です。
728 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 02:24:45
>>720 >つまり、記紀が書かれた時代には東征の伝承が受け継がれていたってことだ。
何度も同じことを言わせますか?神武は九州で王だったですか?ニニギは九州で王だったですか?
なぜ、ニニギが、九州で初代天皇を名乗らなかったのか?
ニニギが実在だったとしても、「ただの人」で王族とは関係ないからでしょ。
それに、神武東征は紀元前660年ですよ。なぜ、10世紀もサバ読むのか?
4世紀に神武東征があったなんて、何の根拠も無いでしょ。邪馬台国が東征したなら、
ニニギが初代天皇を名乗ればいいじゃないですか。なぜ、ヤマトにきてから天皇を名乗らないと
いけないわけですかね?しかも、ニニギから神武までの間に、海幸彦山幸彦とか、
ポリネシアの神話が挿入されてるわけで、歴史書として、何の真実味もありません。デタラメです。
729 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 02:28:26
因みに考古学的遺跡や遺物やらは、炭素14測定法では正確な特定は出来ません。
過去にポールシフトや大洪水等の大規模な天変地異があった場合はほぼ不可能ですね。
730 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 02:31:05
>>728 今度は土器からも逃走するのかww
もう寝る・・
731 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 02:35:02
西日本と東日本は別々の島だったかもしれないし、日本列島の形や位置も現在とは違っていたかもしれません(笑い)
732 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 02:38:45
>>730 土器って
>>724の庄内甕のことですかね?それこそ、庄内甕が、九州で作られたといったのは、
九州説のあの先生しかいないじゃないですか。庄内甕が九州から奈良に移動したなんて話は、
まったくあの先生の捏造ってことで、あなたもそのウソ話を信じて、ここで吹聴してるだけじゃないですか。
正面から九州説を唱えるならまだしも、いまだに、ウソ話を流布させようという魂胆がさもしいというか、
どうしようもないというか、人間性を疑いますね。
まあ九州説はもう詰んでる、これはガチです。
734 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 02:40:43
735 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 02:49:56
倭人はスキタイ人と古代ユダヤ人の王家、司祭者、将軍などですね。
縄文人はシュメールのナーガ王家、司祭者、将軍など。
縄文以前の日本人はスンダ大陸等の太平洋系ですね。あと、ゴビ砂漠辺りからですかね。
736 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 03:37:56
a
737 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 03:52:51
まあ庄内式土器と言えば普通は畿内の弥生土器の「タタキ」と吉備の「ケズリ」の融合で生まれたと言うのが一般的だわなw
一体何処をどう見れば九州発祥になるのかさっぱり分からない。
例の「邪馬台国の会」に書いてあるかな?w
少なくとも土師器のように広範囲での斉一性の見られるようになった土器なら
年代は統一するのがスジだろうが
>>720のように九州のは弥生時代、畿内のは古墳時代と言うのも理解の範疇を超えるw
弥生時代に遠くまで移動するに便利な庄内式甕を作っておいて弥生時代の間はずうっと保持し続け
古墳時代になってやっと東にそれを持ち出す…言っている意味が分からんわwww
それとも九州の庄内式は弥生時代畿内の物は古墳時代と先に定義付けておいて
「ゆえに庄内は九州から畿内へ移動した」とかのアホ理論なのか?wwwwwww
一方で庄内の年代幅を殊更短く主張して
他方で九州のものは弥生時代、畿内の物は古墳時代と言うその発想が狂っているwwwwwwww
738 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 04:29:41
>>720 >庄内式の発生源は神武が長期滞在した吉備だという説もある。
つまり庄内期はまだ神武ちゃんが東へ東へと移動の最中だったと言う事だなw
で、ヤマト入りして欠史八代を経て布留期に入る…
そりゃ布留開始を極力5世紀に持って行きたがるのも無理はないなwwwwwwwwwww
739 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 04:32:33
寝たらジョーカーが出てきたww
>>739 ジョーカーがいつ出てくるのか心配でおちおち寝れないんだねW
スサノヲとアマテラスが誓約をしたという「天の安河」は
あるいは筑後の夜須川なのでしょうね
日の国と筑紫の国の軍勢がここで対峙したときの状況を伝えているのかもしれません
742 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 08:09:58
「天の安河」は滋賀の野洲川だろうな。
北が出雲族の地で、南にヤマトの勢力があったわけだ。
743 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 08:15:17
>>728 >>720 728は東征って意味が分かってないのかな。何で王を名乗るとか名乗らないという
話になるんだろ。
720はごく当たり前の話をしていると思うな。素直に理解できる。
744 :
水銀厨 :2010/01/23(土) 08:23:59
天の安河の舞台は葛城山系にあります。
石川の支流、現明日香川の事でしょう。
745 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 08:47:28
東遷厨は、コテハン名乗れば?
アマテラスは卑弥呼でちゅ〜
神武が東征してヤマト王権になったんでちゅ〜
う〜ん、ボクって素直〜。
746 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 09:12:37
筑紫野市筑紫を中心にして、福岡から小郡、甘木朝倉を領域とする筑紫勢
佐賀から熊本までの有明海湾岸を領域とする肥国勢
筑紫と肥からこんな見方もできますね。
ここに割り込むように久留米が入りますが、
福岡側が筑後川を奪取したのでしょうか。
肥国勢が劣勢だったのかな。
夜須川は福岡勢よりだと思いますが
福岡勢が主導権握ったところで、ここで停戦交渉が行われたと。
分断された形になった肥国勢は圧倒され、
いくらかの時代を過ぎて、やがて大宰府に集権される事になったのでした。
なんてね
747 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 09:24:47
平和協定、あるいは停戦交渉の結果
久留米が生まれたとすれば
そこは中立地帯だったのかもしれません。
そういえば、久留米からちょっと離れたところに
山門ってあるよねー
久留米って豊姫神社ってあるんだよねー
妄想が過ぎるかしらん
748 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 09:39:04
平和協定か!すごいな!誰も考え付かなかったすばらしいアイデアだ!
君はサイコーだ!ハグしていい?
749 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 09:46:29
いや、30ヶ国共立を平和協定と見るのは
珍しくもなんともないからwww
750 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 10:02:28
平和協定は共立という言葉からイメージする
一番素朴なイメージなのではないでしょうか。
初心者の頃に誰でも一度は考えたことはありませんか?
751 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/23(土) 14:26:18
>>746 墓制から見て次の様に考えられます。
邪馬台国(卑彌呼の都=久留米)は筑後平野と北野地域にまたがる在地新興勢力であった。
3世紀末から4世紀初頭に邪馬台国勢力は衰退し、
菊池川流域勢力(狗奴國)が筑後東部(八女・山門)に進出して来た。
1世紀の最大勢力は福岡平野の倭奴國であった。
この時2番目の勢力を持つのは佐賀平野の倭面土國で、
吉野ヶ里に城郭を置き、上峰町前牟田米多に湊持ち、長崎壱岐経由で半島交易もしていた。
倭面土國=倭米多國 : ヰメタ(ト)國 筑志米多國(旧事本紀)
2世紀初頭に倭面土國王帥升が、半島交易で倭奴國と覇権を争う壱岐国と同盟を結び、
福岡平野の倭奴國を滅ぼし後漢安帝に生口160人を献上した。
2世紀倭國乱の頃、福岡平野方面ルートで倭面土國と対峙する邪馬台国と、
有明海の海上交易ルートで倭面土國と対峙する投馬國(筑後平野)は、
連合して倭面土國の城郭である吉野ヶ里を占領し、不彌國を置き、福岡平野と佐賀平野を分断した。
倭面土國は西方の城郭である惣座に都を移し、魏使に伊都國(倭都國)と呼ばれる様になった。
又、福岡平野の反倭面土國である奴國(旧倭奴國)は、
佐賀平野(佐賀城を城郭)に分国を置き伊都國を監視する体制を牽いた。
卑彌呼の共立は、邪馬台国、投馬國、不彌國と奴國の4ヶ国によるものと推定される。
又女王國は上記4ヶ国の連合体を指すものである。
不彌國は帯方郡より丁度12000餘里の位置にあり、女王國の玄関の位置になる。
752 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 14:59:22
八女ってのはどんなものかな。現在の感覚では福岡県という枠で捉えられる
ことが多いのだが、県境を抜きに考えると、北部よりも南部からの影響の
方が大きいのではなかろうか。
時代は下るが、岩戸山古墳で有名な石人、石馬は、熊本県で多く見られる。
江田船山古墳のあたりに多いし、八代市の近くの野津古墳群でも見られる。
一方で、八女より北ではあまり聞かない。
まあ、磐井の乱の後、火の君がかなり勢力を伸ばしたともいわれるので、
その影響かもしれないが。
邪馬台国時代はどうだったのか、はけっこう重要かも。
753 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 17:43:06
八女=旧八女郡は30の旁国のひとつ、邪馬国かもしれませんね
九州道を走っていて熊本県に入ると土の色が変わる感じがします
なんとなく肥の国は畑作地域、筑紫の国は稲作地域であるという感じもします
755 :
日本@名無史さん:2010/01/24(日) 09:54:33
>>751 墓制だけで国の大きさや範囲が分かるものではないな。
筑豊の、嘉麻盆地の南西にある王塚古墳は見事な装飾古墳ですね
被葬者がいったい誰なのかは不明だそうですが
肥後あたりからこの地に進出してきた一族の王だったのかもしれません
炭鉱があったこともおおいに関係があるのでしょうが実際のところ
肥後の玉名や熊本あたりと筑豊のあいだでの人の行き来は現在でもよく見られますね
筑豊では肥後にルーツを持つ人も割合多いようです
757 :
日本@名無史さん:2010/01/24(日) 20:54:07
>>745 いや、お前こそコテるべきだぞ。
ん〜、ぼくちゃん馬鹿でしゅ〜。
そう、「ぼくちゃん馬鹿でしゅ」でコテ決定だな。
758 :
日本@名無史さん:2010/01/24(日) 23:20:57
九州説か畿内説かと言うことからすれば、やはり九州だろうな。
邪馬台国時代の舞台は、西に偏り過ぎている。
九州を中心に考えるとあり得るが、大和中心ではものすごくイビツな支配関係に
なってしまう。
安本さ〜〜ん!
マルチコピペは止めてくださ〜〜〜い!
今見たら安本の説なんてホント電波にしか見えないな。
それだけ現状にはそぐわない。
ていうか、もし邪馬台国が畿内にあるなら、あの倭人伝の記述はお粗末杉
マツラあたりから九州北部が異常に詳しい記述だろ。
畿内にあるなら、上陸する摂津湾あたりから詳細解説に入るべき。
764 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 00:13:53
安本さんは、C14には厳しい態度なのに、年輪年代にはちょっと甘いところがある。
765 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 00:19:25
安本?
邪馬台国時代の、出雲・吉備・丹後の関係性を論じもしないで、
九州ですの一点張りじゃあねえ。
30年前より、読者の知恵もついたんだから。
いまさら、ムー大陸がどうのアトランティス大陸がどうのと言ってるようなもの。
>>763 だから伝聞情報なんだろう。
傍国が遠くてよく解らないと言ってるし。
767 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 00:24:31
>>764 俺もその点を疑問に思っていた。
寺沢なんかは、はっきりと「問題外」と言い切ったし、そこまで行かないにしても
データ開示がなされるまで距離を置いて様子見という人も多い。
まあデータ非開示の問題を無視して「信者」になっているバカもいるが、安本も
基本的にはこっちに分類されるんではないかな。
768 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 00:26:30
>>760 歴博批判なんて、幼児を論破して自慢しているに等しいな。
歴博の発表を本気で信じているのは、歴博だけだろww
てゆうか歴博も本気かどうか疑わしい。
769 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 00:35:47
安本の説は、倭人伝の行程に合ってないからなあ。行程記事に沿った南九州説
の方がよほどすっきりと理解できる。
日向の古墳からしても、九州説ならば南九州だね。
770 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 00:40:49
古田さんの説も安本さんの説も納得出来るんですよね。
微妙には違うし、互いに結構批判しあっているようだけど。
この2大巨頭の先生の著書も、邪馬台国関連で意見をぶつけ合っている
コテの先生方の書き込みも全部とは言わないけれど
いい意見あるとおもうんだな。
そんな参考情報の中から、自分が納得出来るような
卑弥呼像、邪馬台国の位置づけ、そして古代日本の
あり方がイメージできるというのは楽しいんですが、
そんな楽しみ方は邪道なんでしょうかね。
771 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 01:13:30
>>770 個人で妄想して楽しむのはいいが、それが「真実だ」だと思い込むとヤバイ。
安本みたいに考古学者は嘘つきだとか陰謀だとか言い出すと、人間性を失墜する。
だいたい安本は
>>770みたいな夢を買いたい人に夢を売って儲けてるだけなんだが。
だいたい「いい意見」って何だろうね?
それが間違ってても、「いい意見」だったらうれしいのか?
こういう苦言は、君にとっては「いい意見」じゃないんだろうけどな。
772 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 01:22:44
九州で間違いないでしょ
金印が出土したのが決定的
>>770 批判しあって議論することは良いことだけど、九州王朝説はちょっと・・・
学界本流の方はあんまり言論の自由がないようだし、自分のタコツボのなかに
こもって、そのタコツボで勝手に振る舞うのが当然になって他の人と批判しあう
ようなふいんきはないね。
>>770 >コテの先生方
おっ 誰の説が良い?(すこし期待)
775 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 02:12:07
安本説は、確か、女王国までの万二千里を元に、それまでの行程の里数を
差し引く方法で、邪馬台国をあのあたり(甘木市)にもって来た。
僕は、安本説と似ているのだが、その古典的な手法には納得できないな。
もう一つ言えば、安本説は、天照大神と卑弥呼を同一視していて、記紀を重視
しているにもかかわらず、天孫降臨の地、日向を全く考慮していない。
東遷説でありながら、神武東征の視点も抜けている。
と言っても日向説ではないので、念のため。
776 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 02:14:34
いまだに九州説にしがみついてるなら、どっちもどっち。
邪馬台国を九州とするなら、
吉備や出雲や丹後との関係を論じてみよ。
777 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 02:20:23
客観的な良い意見というのは定義しにくいと思うんですよ
ようは、様々な意見があり、提示された資料がありという状況なわけですが
自分に知識がなく、理解できなければ、それらの情報は
「わからない」と言う事なんですね。
結局今ある自分の知識の範囲でしか、本当の情報は読み取れず
理解はその範囲に留まってしまうのですね。
それでもそれらの意見を頭の中になんとなく留めているうちに
知識がついたり考察したりして、理解できるようになるわけです。
そして、その理解にたどり着く過程には、知識のボディーがいるとおもうのですね。
結論をうのみにするのではなく、その結論に達するまでの過程を
構築する部分です。
自分的には裾野と呼んでおります。先生方諸氏の書き込みを見てると
それなりに裾野をお持ちだと思うのですが、それを考えながら見ていると
いろいろと見えてくるのではないかと思うのです。
様々な意見があっても良いのではないでしょうか。
今は九州説ですが、納得できる証拠があれば
畿内説に変わるかもしれませんよ。
778 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 02:20:36
弥生時代後期には、朝鮮半島と出雲・丹後が交流してたのは、どうしようも無い事実。
出雲・丹後が朝鮮半島と交流するためには、九州を安全に通る必要がある。
九州に邪馬台国があって卑弥呼を共立したなら、出雲・丹後がカヤの外であるわけがない。
ここで、従来のアホな九州説は、出雲・丹後を外した上で、卑弥呼は九州の中の国でだけで共立されたと言う。
それをおかしいと思わないなら、勝手に九州説を採っていればいい。
時代は、君らを置き去りにして、どんどん先に進むだけ。
779 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 02:23:16
だいたい卑弥呼ってさ
日本でそこまで歴史的な大人物なの?
今の時代でも
中国でなら尊敬されるけど・・・。なひとも
いそうだけど
780 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 04:38:02
>>778 其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼
秦から逃げた人々と前漢から逃げた人々は紀元前の話。
倭国大乱と卑弥呼は2〜3世紀の話。
3世紀以前に朝鮮半島と出雲・丹後が交流してても構わない。
一大率が前原市付近で監視しだすと勝手に交流出来なくなっただけ。
壹與以降から邪馬壹(ヤマト)國の東征。
その後、狗奴國男王卑彌弓呼の子孫が東征・・・・・・
何にも矛盾しない。
781 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 04:52:28
>>780 こんな苦しい空想をするしか、九州説は逃げ道が無いのかね?
狗奴国が南九州から後に四国伊予あたりに移った可能性はあるのかもしれませんね
伊予の河野氏の祖、河野越智彦=狗古智卑狗なのでしょうか
河の字を苗字に持つ人は比較的肌の色の黒い人が多いようにも感じますが
「河」の入る姓は南方系の海洋部族の流れを引く姓なのでしょうか
783 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 07:38:05
邪馬台国は畿内なので、狗奴国は南九州ではありませんね。
南九州は文化的に畿内よりもっと遅れた地域です。
鉄も鏡も銅矛も何もない。
南九州にてこずるくらいなら、畿内の様子が魏志倭人伝に書かれていないわけがない。
784 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 08:44:18
日向と畿内の前方後円墳の数が半端じゃない。
近隣の交易とは別のレベルで
文化的宗教的関係があったのではないだろうか。
どっちが先かというのは、また別の話で。
>>780 少なくとも九州と本州西部を離して考える事は
もはや成立しないでしょう。
弥生後期には丹波でさえ北部九州と遜色ない
宝物や鉄が確認されてるよ。
九州単独の話なんてもはや詐欺レベルの話です。
日向の見事な前方後円墳群は畿内から入ってきたものである、何となくそんな感じがします
が、高塚古墳は九州から発生したものではないかと個人的には感じています
九州北西部から発生したものが畿内で大きな華を咲かせたのでは、と
奈良には古墳に愛着を持つ方や熱心に研究なさっているアマチュアの方が何人もいらっしゃいますが
彼らは日向の古墳はまるでミニチュアみたいだと言いますね
アマチュアでは高塚古墳が九州から来たと考える人も多いようです
787 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 09:54:26
>>786 「高塚古墳」ってなに?
特定の形状や築造方を指して言うの?
古墳名なら正確に記さないとね。
高塚、茶臼山、天神山は特に混乱する。
789 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 10:57:03
>>785 >弥生後期には丹波でさえ北部九州と遜色ない宝物や鉄が確認されてるよ。
どんな物があったのかな?
それに、邪馬台国勢力ならば、矛を使用していないとね。弥生時代に矛を使用して
いた形跡はあるのかな?
790 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 11:38:23
>>789 はあ?なんで邪馬台国勢力と矛が関係あるんだ?バカじゃないの?
もしかして、いまだに「銅矛勢力」「銅鐸勢力」が別勢力だったと思ってるの?
>どんな物があったのかな?
無知にもほどがある、奈具岡遺跡でググレどアホ。
791 :
水銀厨 :2010/01/25(月) 11:47:30
792 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 11:53:02
>>790 >>791 玉、鉄剣? 邪馬台国に関係ありそうな物はないなあ。
邪馬台国と矛の関係を知らないのか? 倭人伝を読め。
793 :
水銀厨 :2010/01/25(月) 12:10:54
>>792 あれは邪馬台国伝ではないですよ、倭人伝です。
別に九州地方の風俗あお紹介していると考えても
何の問題もないのですよ。
あくまで倭人伝に拘るのなら、丹波は「丹」が由来の名前
という説でもあります。
794 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 12:18:08
>>792みたいなバカはほっとけばいいよ。
畿内説優位の大勢になんにも影響しないし。
795 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 12:53:54
>>790 倭人伝には、矛が出てくる。銅鐸は出てこないな。
兵用矛楯木弓
兵は、矛、楯、木の弓を用いる。
記紀にも矛は出てくる。やはり銅鐸は出てこない。
796 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 12:59:04
>>793 倭人伝は九州の風俗しか紹介していない、しかし倭国の範囲は本州まで
含むってことかね? 苦しい弁解だねえ。
郡使は倭王に拝仮し云々とあるのに、九州にとどまり邪馬台国へは行か
なかったという珍妙な解釈にしがみつくつもりかね。
797 :
水銀厨 :2010/01/25(月) 13:28:16
>>796 その為に女王に従属する、代々王のいる伊都国がありますから。
それに後の隋書に「倭人は里数を知らない、日を持って計る」
とありますよ。
つまり投馬、邪馬台国に関しては、倭人の伝聞情報に拠る物と
文献上ではそう判断するしかないですね。
更に指摘すると投馬・邪馬台国に関しては「行程」ではなく
「国土の広さ」を表している物ですよ。
798 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 13:41:11
>隋書に「倭人は里数を知らない、日を持って計る」
>とありますよ。
>つまり投馬、邪馬台国に関しては、倭人の伝聞情報に拠る物と
>文献上ではそう判断するしかないですね。
ほう、隋使も日数しか書いてないね。隋使も倭の都には行かなかった、倭王に
会わなかったと判断するのかね?
史書は行程を里数で表示するときもあれば、日数で表示するときもあるんだよ。
西域伝を読んでみな。両方の表示が混用されているから。
国土の広さを表示するのに、南投馬国に至る、水行20日なんて書き方はしないよ。
漢文の勉強からやり直しなさいね。
799 :
水銀厨 :2010/01/25(月) 14:08:45
>>798 陸行五百里至伊都国‥行程
南至投馬国水行二十日‥
同じですかね?
>ほう、隋使も日数しか書いてないね。隋使も倭の都には行かなかった、倭王に
会わなかったと判断するのかね?
どの部分でしょうか?東西に五ヶ月、南北に三ヶ月の事なら
当然伝聞情報の事でしょう。
800 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 15:06:00
>>799 同じだろ。伊都国までは順次式だから語順が違うだけだ。東南至奴国百里。
これと南至投馬国水行二十日はまったく同じと言っていい。
随書に「後十日」とあるだろ。そこだよ。海岸から十日かけて邪馬台国近く
へ着いたんだよ。
>随書に「後十日」とあるだろ。そこだよ。海岸から十日かけて邪馬台国近く
へ着いたんだよ。
後十日なら単に日程ですよ、単純な移動ではない。
802 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 16:34:14
単純な移動とか複雑な移動とか、何を言ってるのかわからないが、
十日かけて着いたことは間違いないだろ?
803 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 16:42:44
水行10日、陸行1月をどう解釈するかで
いろいろな場所に着くだろうが
これをでたらめとして無いこととしてしまっては
畿内にも着かない。
804 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 16:57:25
そうですね。水行二十日、水行十日陸行一月はいずれも行程。
問題は連続式に読むか放射式に読むかだけで、それが北九州からの行程
であることはまちがいない。それを否定するのはトンデモですな。
>>802 難波から十日後にまた郊外(大和)で慰労を受けたと書いてあるだけですよ。
十日の距離を移動したとは書かれてませんね。
806 :
水銀厨 :2010/01/25(月) 17:08:15
>>803 別にデタラメとは言ってませんよ、
文意を解釈すればそうとれると言ってるだけですから。
単に国の情報を、官名や戸数と同様と共に書いてるだけですね。
奴国は人口密度の高い国であり、投馬は水行20日の広さの海沿いの国。
邪馬台国は海と陸にまたがる国という事ですよ。
ま、私は淡路島沿岸から紀伊半島中部位とみてますが。
>>796 > 倭人伝は九州の風俗しか紹介していない
「出真珠青玉其山有丹」
青玉は翡翠、丹は水銀朱。当時の九州では採掘されない。
「以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火坼占兆」
九州本島では見られない風習。
808 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 21:00:17
>>804 連続式に読むのも放射式に読むのもまちがい。
日程を北九州からの行程であるとしたのがまちがえた原因。
里程から日程に単位が変わったのだから
日程は郡からの里程を再度説明したもの。
809 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 22:25:22
>>809 古代中国で丹は基本的に辰砂の事。
特に真珠は海の真珠ではなく、より赤がキレイな水銀朱ですよ。
811 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 23:20:36
中央構造線沿いの代表的水銀鉱床群
大和鉱床群 伊勢から紀ノ川河口の間 伊勢神宮と日前国縣神宮が東西の端に鎮座している。
阿波鉱床群 阿波吉野川沿い 若杉山遺跡は古墳時代の辰砂採掘遺跡で石臼石杵が多数出土している。
九州鉱床群 大分市坂ノ市から姶良郡溝辺町丹生附 丹生側沿いの丹生神社に朱沙の原石が祀られている。
九州西部鉱床群 佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市
812 :
水銀厨 :2010/01/25(月) 23:25:08
丹はよく混同されるけど硫化水銀でベンガラは酸化鉄。
赤色顔料でも別物です。
特に神仙思想の錬丹術でもわかるように、丹は水銀朱の事です。
金1gより価値があるとも言われる物ですから。
813 :
水銀厨 :2010/01/25(月) 23:36:19
>>811 そのうち現在古くからの採掘跡が確認されているのは
大和と阿波です。どちらも弥生期からの採掘跡が確認されてますよ。
中でも宇陀はずっと後年ですが、唯一銀色の自然水銀も確認されました。
九州は露呈している辰砂位はあったかもしれませんが
弥生期の採掘跡自体はまだ確認されてないですね。
814 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 23:56:47
>>812 水銀朱と言うのは、辰砂を砕いてすりつぶせば出来るものだろう?
丹がどちらかはわからないな。ベンガラは鉄丹とも言われるし。
なお、ベンガラは無害で薬にも使われていた。仁丹にもベンガラが
使われていたらしい。
それに、吉野ヶ里遺跡の弥生中期の甕棺に塗られた赤は水銀朱とされる。
どこで調達したのか。地元からも知れないし、よそから持ってきたのかもしれない。
いや別に丹が中国地方の山だってイイんだよ
邪馬台国が九州で、倭国(女王国)の版図は中国地方まであった、と。
それで「其山有丹」は「倭国の山には丹あり」ってことで。
個人の妄想をあたりまえのことのように上から目線で言う人たちって・・・
こういう世界は謙虚さと中立が大基本だってことを忘れないでね。
817 :
水銀厨 :2010/01/26(火) 00:36:17
>>814 今の所吉野ヶ里の水銀朱は中国産だと言われてます。
出雲・丹波の墳基から採取されたものが大半大和・阿波の物で
一部が中国。大和天神山が大和・阿波のものとされてますね。
桜井茶臼山は当然未調査ですが、おそらく宇陀でしょう。
ただ倭人伝記述の真珠は間違いなく水銀朱ですね、それも上質の奴です。
818 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 00:48:14
真珠が水銀を意味する用例があるの?
819 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 00:48:51
吉野ケ里の場合は、始祖王といわれる紀元前の甕棺にも水銀朱が使われている
とされるわけで、この頃から中国から輸入していたのかな?
それに、水銀朱の産地を特定するのは今のところ不可能と言うのも聞いたこと
があるが。
820 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/01/26(火) 00:55:47
>>817 エ〜〜〜ッ!真珠が水銀朱???あなたは漢字が読めないのですか?真珠は真珠でしょう。
821 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 01:02:02
まあ、真珠が水銀朱なら、丹は何だって事にもなるし。
822 :
水銀厨 :2010/01/26(火) 01:06:44
823 :
水銀厨 :2010/01/26(火) 01:15:01
>>821 当然辰砂にも種類があるんですよ。
加工や色、状態で別けていたのでしょう。
真珠は「真の朱の王」です、真っ赤。パールではないですね。
824 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/26(火) 01:16:21
>>812 >>814 ベンガラは本来は消臭剤です。(製鉄の原料としても使われました。)
現代でもリモナイト(ベンガラの原料)がペット家畜の糞の消臭に使われています。
ベンガラは遺体の腐敗臭を消すのが本来の使用法です。
隋書にある貴人の殯にはベンガラが使われたと思われます。
その消臭剤としてのベンガラが赤いので遺体安置所である墓の装飾として使われ様になったのでしょう。
水銀丹は鉄丹に比べて鮮やかな赤であり貴重なのでもっぱら装飾用とされたのでしょう。
赤色「丹」は水銀丹と鉄丹の二種類になります。
「白丹」は鉛丹です。
825 :
水銀厨 :2010/01/26(火) 01:31:16
>>824 鬼道〜道教の影響が強いなら、装飾用途とは少し違うのでは?
何時何処まで神仙思想が入っていたかまでは特定できないですけど。
826 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 01:42:40
>>822 その資料はどんなものだろうな。
まず、「弥生後期の王墓と推定される北九州から丹後にかけた遺跡から出土
した朱に中国産の朱の可能性が示唆された」となっている。
吉野ケ里の朱は中期なのでこれには入らない。
それに、遺跡の名前があまり出てこない。どこの遺跡なのかを指摘しなくては
ならないと思うのだが。
それに「可能性が示唆された」など言うのは歯切れが悪い。
また、顕微鏡観察ではわからない。微量元素分析でもわからない。
イオウ同位体比分析は異なるとなっているが、産地を混合しているものを
使用した場合、あるいは人造朱を用いていた場合はイオウ同位体比分析だけ
では推定不可能と考える、となっている。
それに、一番最後に書かれているのは、突っ込みどころ満載の畿内説の
主張そのまま。
各地の土器があるから権力が集中していただの、中央集権の成立に朱が
係わっていただのと言うのは、笑ってしまう。
これじゃあ、結論さえも見え見え。
827 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 01:59:41
黒塚古墳にも確かベンガラが使われていたはずだが、あれはどこで取れたもの
なのだろう。
828 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 02:05:21
朱やベンガラの話でいつも思うのだが、それらは鉱山についての知識が必要で、
朱やベンガラを採取する過程で自然銅はもちろんのこと鉄鉱石や銅鉱石は当然に
見つけて、それと分かったはずではないのか。
弥生時代の国産の銅や鉄が使われたのかどうかは、結論が出ていないが、銅や鉄を
輸入に頼って加工した一方で国産の朱やベンガラを使用したというのは腑に落ちない。
829 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 02:18:31
>>828 >>809 阿蘇の鍛冶遺跡では、朝鮮では使用が認められない菱鉄鉱や
褐鉄鉱を使った鉄器が見られるそうで、製鉄が行われていたらしい。
830 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 08:11:10
鉄加工は炭火でもできるのですが
製鉄はたたらが開発されるまで難しいのです。
弥生時代に鉄加工痕は時々ありますが
製鉄の痕跡は5世紀位からになります。
銅はもっと早くできるようになったとは思いますが。
九州では伊都国の今宿で弥生時代の鉄加工跡。
同じく前原の元岡遺跡で5cに製鉄遺跡が発掘されています。
最初は鉄材料を中国から輸入して加工し、
技術が上がってきて、製鉄に移行していったのでしょう。
近くに砂鉄の層が露出しているのも理由かもしれません。
831 :
水銀厨 :2010/01/26(火) 09:43:20
>>826 >各地の土器があるから権力が集中していただの、中央集権の成立に朱が
係わっていただのと言うのは、笑ってしまう。
笑うだけじゃなく具体的に反論すれば?
当時の朱が貴重でないとでいう意見でしょうか。
畿内説云々は別にしても、それだけ広範囲の交流が
あった事は確実でしょう。
>>828 >結論が出ていないが、銅や鉄を
輸入に頼って加工した一方で国産の朱やベンガラを使用したというのは腑に落ちない。
それが交易なんじゃないですかね?大和に権力が集中したのも
そういう事でしょう。
畿内で鉄といえば大坂山〜信貴山一帯にも痕跡がありますね。
832 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 10:24:26
>>831 >それだけ広範囲の交流があった事は確実でしょう。
そんなことは権力の集中していた証拠にはならんな。
畿内には九州からの東征軍が駐留していた、その軍は各地の兵士を集めて
構成されていた。それだけのことだろう。
東征するのに東海や北陸、山陰の土器?
ワケ解りませんw
武器を忘れてくるような駐留軍なんてありえんわwwwww
835 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 10:56:34
辰砂に関しては、代表的な場所だけではなく、
小規模なものなら日本全国に百カ所以上出土する。
また、丹生神社、丹生川、地名丹生などがあるところは
かなり古くから採取していたことは確実である。
また、墓を塗るための塗料としては貴重だろうが、
国力に必要な物ではない。
食糧の増産や戦に役に立つ物ではない。
836 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 10:58:31
>東征するのに東海や北陸、山陰の土器?
土器は生産地にしかないと思ってるのか? 全国に売られるんだよ。
>武器を忘れてくるような駐留軍なんてありえんわ
ほう、畿内には武器はなかったのか。知らなかった。
837 :
水銀厨 :2010/01/26(火) 10:58:51
畿内での痕跡は内乱でしょう。
高地性集落自体は確認できますが、九州の勢力が
東征したとは思えませんね。
記紀の記録でも神武東征やアメノヒボコにしても
畿内へは入れなかったですから。
838 :
水銀厨 :2010/01/26(火) 11:11:53
>>835 また、丹生神社、丹生川、地名丹生などがあるところは
かなり古くから採取していたことは確実である。
そこから水銀朱が採取出来たとは限らないです。
重要なのは 大陸勢力が求めた「モノ」という点です。
貴方のように興味無けりゃ単なる赤い石ですからw
大陸の文物を取り入れ国力を増大させるのに重要な「モノ」ですよ。
3〜5世紀というと、抱朴子で代表される神仙思想の
年代ともろに重なります。
錬丹術では水銀朱が重要なのは言うまでもありません。
839 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 11:38:32
日本は水銀の埋蔵量が世界的に見てもかなり高いということです。
丹生神社などが各地にあることからみても、丹に何らかの神性をみていたのでしょう。
仮に水銀を好む大陸勢力が来たら、日本は良い国だったのでしょう。
水銀を求めて各地に広がり、それが丹生神社などとして残ったのではないでしょうか。
840 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 11:49:16
丹生とは英語のNEWと語源が同じ。
再生を意味する。エジプトをはじめメソポタミア文明でも使われてきた。
841 :
水銀厨 :2010/01/26(火) 12:25:27
英語といえば年代は相当離れるが、16世紀のイエズス会が
来日初期に宇陀で布教を始めたのも不思議な話だ。
1563年に肥前の領主大村純忠と宇陀沢城城主高山厨書が改宗、
1564年に息子の高山右近が改宗したのも宇陀。
当時は水銀なんてさほど重視されてなくて、宇陀が再び
開発されるのはもう少し後世なんだけどね。
842 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 13:18:13
>>837 高地性集落は一つの大規模な戦いで出来るものじゃないと思う。
防御的な性格を持つ以上、恒常的な敵に対する備えと考えたほうがいい。
瀬戸内海沿岸の地域に密集しており、九州にはほとんどないというのも
考えなくてはならないと思う。
843 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 13:35:27
>>831 西谷三号墓の祭祀土器も他の地域の土器が非常に多い。これは、その墓の主が
全国的な権力者の証なのだろうか。この時期、各地の土器が見られるのは
纏向に限ったことではないわけだし。
各地の土器があるのは、交流の証ではあっても、権力と結びつけることは
出来ないと思う。
朱は、単なる墓の装飾品。必要ならばそのつど調達すれば良い。
それを中央集権と結びつけて考えるのはどうかと思う。
むしろ、そういう習慣がどこから来たのかの方が重要だろう。
朱は、文化としての意義を考えるほうが大切。
また、鉄は、道具としても武器としても重要で、国土の発展には欠かせない。
生活や戦いに大きな影響のある鉄を軽視し、墓の装飾である朱を重要視する
という態度もおかしい。
>>843 まったくもってそのとおり。
西谷3号墓のことを書き込もうとしたら、先に書いていらっしゃる方が。
845 :
水銀厨 :2010/01/26(火) 14:03:01
>>843 >むしろ、そういう習慣がどこから来たのかの方が重要だろう。
朱は、文化としての意義を考えるほうが大切。
少なくとも九州発祥の影響じゃないですねw
何度も中国の神仙思想の影響だろうと
指摘してますけど。
後の飛鳥〜奈良時代の都城建設や文化的交流、
思想的な影響でも簡単に証明出来ますよ。
卑弥呼は鬼道を用いると倭人伝でも記述されてますが、
鬼道も後の道教思想との関連が深いです。
846 :
水銀厨 :2010/01/26(火) 14:09:20
各地の土器が見つかった西谷三号墓も当然王クラスの墓でしょう。
水銀朱も使用されてますしね。
847 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 14:26:58
宗教儀式というものは、古式にのっとって行われるのが普通だ。
ところが、吉備などで墳丘の上に立てられていた特殊壺や特殊器台が大和で使われるようになった。
このことから王権の基盤が吉備から畿内へ移動したと見るのが正しい。
つまり、邪馬台国の時代の王都は吉備にあった。
848 :
水銀厨 :2010/01/26(火) 14:54:39
>>842 九州も半島勢力から襲来される可能性は高いと思いますよ。
>>847 王権の移動は兎も角、吉備・阿波勢力が巻向の
主要な構成員なのは間違いないと思いますね。
巻向が成立していた期間は現地勢力との均衡が
取れていた状態なんでしょう。
849 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 15:03:49
丹生神社で、伊都国から佐賀の嬉野
そして大分に移り渡ったという伝承があるらしいが
丹の信仰が中国から来たとすれば納得できるものだ。
最初は伊都、あるいは吉野ヶ里では中国産の丹を使っていたのだろう。
嬉野で丹があると言うことが分かると、そこから調達するようになる。
そして、中央構造線に添って大分、阿波と移り住み、やがて大和に達したのでは
ないだろうか。
そして、ふと気づいたのだが、辰砂がある松浦から嬉野というのは
魏志倭人伝の方角と距離を忠実になぞると通るコースなんだな。
ここを使者が通過するときに「この山に丹有り」となることも有りか?
前原伊都も捨てきれないのだが、関係のない事象が
佐賀ルートで重なってくると、佐賀伊都の可能性も高くなるのかな。
850 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/26(火) 15:21:51
>>830 >鉄加工は炭火でもできるのですが
>製鉄はたたらが開発されるまで難しいのです。
3世紀の弁辰に、たたら跡がありませが、韓人倭人濊人が寄り集まって製鉄をしています。
>弥生時代に鉄加工痕は時々ありますが
>製鉄の痕跡は5世紀位からになります。
鉄加工痕といわれるもののなかに製鉄痕はないといえません。
たたら跡だけを製鉄の跡ではありません。
たたらは鉄の大量生産方法にしか過ぎません。
>九州では伊都国の今宿で弥生時代の鉄加工跡。
>同じく前原の元岡遺跡で5cに製鉄遺跡が発掘されています。
今宿は伊都國にはありません。
元岡遺跡には5世紀のたたら跡があっただけです。
>最初は鉄材料を中国から輸入して加工し、
>技術が上がってきて、製鉄に移行していったのでしょう。
>近くに砂鉄の層が露出しているのも理由かもしれません。
それはあなたの思い込みと夢です。
製鉄について無知な考古学者の製鉄仮説は無視しましょう。
古代の製鉄について論じたければ、鉄化合物の化学反応式について十分な学習をしてください。
反応式の熱力学理論解析の基礎的知識は最低必要です。
>>828氏の言は正論です。
852 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 16:10:38
>>850 怒られちゃったかな。 申し訳ないm(_ _)m
>たたら跡だけを製鉄の跡ではありません。
ちょっと言い訳しますが、たたらだけが製鉄の手法だというニュアンスではありません。
製鉄手法の代表としてこの言葉を使わせていただきました。誤解を招く言葉であれば
陳謝します。
元となる鉄原料がベンガラにせよ砂鉄にせよ、酸化鉄が原料となります。
これはそのまま溶かせば良いという物ではなくて、(酸化鉄のままでは、たたらでも溶けませんが)
900度から1000度程度の一酸化炭素雰囲気中に酸化鉄を置いて、酸素を奪い、二酸化炭素と鉄になる
還元反応を行なわせなければなりません。そして、その高温雰囲気中に酸素があると還元反応は行なわれません。
十分に一酸化炭素を発生させて、なおかつ余分な空気は少ない状況を維持しなければなりません。
その還元反応は結構時間がかかるのと、還元反応だけでも結構プロセスがあるため、
高温を長時間維持する必要があります。還元されると鉄は溶けた状態となり、容器?にたまっていきます。
つまり、高温と一酸化炭素、酸素のコントロール、溶けた鉄の流路の確保と保持が、製鉄に必要な要件となります。
今宿でそれが出来れば喜ばしいことですが、今宿の痕跡からはそれを証明出来そうな物は自分には見つけられませんでした。
それが見つけられたら、いまごろ伊都国で最も早く製鉄が行なわれたと書き込みまくっていることでしょう。
>今宿は伊都國にはありません。
厳密には福岡市西区ですね。ただ、個人的には長垂海岸までが伊都国の領域だと思っています。
その向こうは室見川流域勢力ですね。
>それはあなたの思い込みと夢です。
これは全く否定できません。ぺこり
>反応式の熱力学理論解析の基礎的知識は最低必要です。
専門じゃないのでこの程度↓しか分かりません。済みません。
http://www.isc.meiji.ac.jp/~sano/htst/History_of_Technology/History_of_Iron/History_of_Iron_background01.html
853 :
水銀厨 :2010/01/26(火) 16:21:37
>>849 >そして、ふと気づいたのだが、辰砂がある松浦から嬉野というのは
魏志倭人伝の方角と距離を忠実になぞると通るコースなんだな。
ここを使者が通過するときに「この山に丹有り」となることも有りか?
その可能性はあると思いますよ。
私は丹を求める九州の一族は、畿内だと和歌山北部に
移動したと考えてますが。伊都郡、那賀郡、志賀といった
地名にも痕跡が認められますしね。
四国阿波で弥生前期から丹を掘っていた勢力は別の気がしますが、
大元は同じではないかという気もします。
854 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 16:37:21
>>848 >九州も半島勢力から襲来される可能性は高いと思いますよ。
それは逆だと思う。三国史記・新羅本記には、倭が攻めてきたという記録が
たくさんあって逆は一つもない。記録の信頼性に疑問はあっても、その根幹に
あるイメージは確かだと思う。
倭国には攻められ続け、自ら攻めたことは一度もないというイメージは
ずっと残っていたのだろう。
海を渡って、朝鮮半島に行くくらいだから、瀬戸内海付近にも船出して
いた。この痕跡が高地性集落ではないかと思う。出て行くほうには
防御の施設は必要ないから、九州には高地性集落がほとんどないのだろう。
855 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 17:21:01
宝のありかは企業秘密、明かさなかったんじゃないの?
856 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 19:02:38
今でさえ製鉄から行なっている刀鍛冶って
殆どいないからなあ。
857 :
水銀厨 :2010/01/26(火) 19:09:48
>>854 >防御の施設は必要ないから、九州には高地性集落がほとんどないのだろう。
それじゃ倭国大乱はやっぱり瀬戸内が舞台という事か。
858 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 22:46:36
北九州が一番強いという自負があったんだろう。
859 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 23:03:12
>高地性集落
まあこの板じゃあこれを神武東征の証であるとか、逆にヤマト王権の西征の証であるとか言う説が時々出てくるが
九州がワンサイドゲームで瀬戸内に進出したと言うのも、その類の話であまりリアリティのある話とも思えないwwwwwwww
先ずそもそも高地性集落と言うのは数世紀にわたっての現象であって
瀬戸内の西から東、もしくはその逆に東から西へ展開していくような傾向は見られない。
(時代により偏りはあるが)
瀬戸内東部にまで九州勢力が進出するのなら
足場を瀬戸内西部に築かねばならんだろうがそのような痕跡もない。
それとも九州北部から一気に大阪湾まで行ける様な機動力を有していたとでも言うのか?w
まあ九州は「蚊帳の外」だったと言う印象だなw
この事が九州に大型首長墓による祭祀を共通する事により
ローカル連合体を形成する動きがなかった事の遠因になると予想するw
860 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 23:06:40
861 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 23:08:13
高地性集落は、見張りのため、あるいはいざと言うとき逃げ込むためのものと
されるな。
862 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/26(火) 23:18:55
>>852 >怒られちゃったかな。 申し訳ないm(_ _)m
あやまることではありません。胸を張っていていいことです。
@提示の製鉄説明は、現代の高炉による製鉄です。
各還元行程が連続的に行われる方法です。
巨大な設備が必要となります。
Aたたら製鉄法は、全還元行程がバッチ方式で行われる方法です。
1回のバッチ量を多くすると設備が大きくなります。
B弥生時代の製鉄方法は、各還元行程を一段づつバッチで行う方法だと思います。
鉄原料からは数段階の脱水と還元工程を繰り返しますから、能率は悪いが小さな設備でできます。
弁辰や肥後ではこの脱水と還元工程を幾つかの製鉄工房で分業していた様に見えます。
これらの工程は、リモナイトからベンガラを作る技術の延長上にあるのです。
この場合、鉄原料の各段階の半製品を、椎や樫の豊富な地方に運んで作業するのが最も効率的です。
後期弥生時代の熊本平野及びその周辺では、上記なような方法で製鉄が行われていたように見えます。
今宿の痕跡は製鉄の部分工程跡にしては小さすぎます。
弥生時代の村の鍛冶屋の跡でしょう。
上記のことは、銅鐸等の青銅の鋳物製造方法を研究された方(誰か忘れた)の様に実証実験はしていません。
>>825 >>何時何処まで神仙思想が入っていたかまでは特定できないですけど
三角縁が道教そのものじゃん
864 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 00:48:28
>862
なんとなくおっしゃることの意味がわかってきました(つもり)
赤錆の水和物であるリモナイトから赤錆、黒錆を経て
鉄にいたるまでの工程を示しているのですね。
違っていればご指摘ください。
水酸化鉄であるリモナイトは若干色が薄い褐色です。
これを脱水することで色が濃い赤錆(酸化第二鉄)にします。
色が濃くなることで塗料としての性質が良くなります。
これを完全に還元してしまえば鉄になるわけですが
それは難しいということで、還元して黒錆(酸化第一鉄)にします。
これはほぼ砂鉄の成分と同等です。
さらにこれを還元することで鉄にすることができるというわけです。
実際にはたたらなどでは赤錆から鉄にするのは、エネルギーが
余分に必要というわけで、砂鉄(酸化第一鉄)から製鉄を行います。
極少量ならば赤錆からでも燃料の心配をする必要はありませんが
量が多くなってくると赤錆から黒錆に還元する必要がない砂鉄を
材料にすることが多くなってきたのではないでしょうか。
865 :
水銀厨 :2010/01/27(水) 01:39:51
>>863 神仙思想は通じるものがあるが、道教自体はもう少し後だからね。
866 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 01:43:23
>>854 それなら、邪馬台国東遷説もありえないな。
九州には、景行天皇を迎える祭りは民間に残されてるが、
奈良には神武天皇を迎える祭りなどありはしない。
867 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 01:47:06
意味不明だよ。
868 :
水銀厨 :2010/01/27(水) 01:55:34
神武東征神話の和歌山から先の部分は、
別人の記録(おそらく葛城氏系)を取り入れてるとしか
思えないですね。
869 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 02:31:17
九州には民間レベルで景行天皇を迎える祭りがあるが、
奈良には、民間レベルで神武や崇神を称える祭りは無い。
だから、東遷説はありえないんだよ。
870 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 08:18:02
景行西征なんぞ実話ではない。そんなものと比較したところで何も出てこないよ。
871 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 10:12:12
神武東征も実話ではないよな。
872 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/01/27(水) 13:58:12
もうすぐ京都府木津川市の湧出宮で居籠祭がある。反乱を起こした武埴安彦命の生首のお祭り。
873 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/27(水) 14:21:45
たわ言ばかりだな。w
一番の戯言大王なのにw
875 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 15:03:46
三国史記・新羅本記の日本関連の記述(三世紀)を見ると、
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、
鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
これをどこまで信頼していいかは疑問だが、倭から攻められたという自国に
取って都合の悪い話なので、作り話とは言えないと思う。
特に、攻撃された季節がほとんど同じなのを考えると信頼性は高いと思う。
では、この攻撃の主体はどこか。大和か、九州か、それとも他の勢力か。
もし、九州ならば、瀬戸内海周辺をも攻撃していても不思議ではないと
考えたわけなのだが。
876 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 15:40:35
>>872 木津川の祝園ですね
祝園は昔、鉾園と呼ばれ、
戦乱後に死体と鉾が無数に広がっていたから
名付けられたとか
>>875 その頃は瀬戸内海も九州に本拠を置く「倭」の領域だったのではないでしょうか
出雲にあった国、そして畿内に勢力を誇っていた「日本」は強大な国であったがゆえに
「倭」は半島進出を繰り返したのでは、という感じもします
半島の鉱物資源も魅力だったでしょうが、半島こそ「倭」の故地ではなかったでしょうか
倭人は江南、山東半島、朝鮮半島南部に分布していた海洋民族でしょう
それが日本の北部九州でその文化を開花させ、百済とともにあっけなく滅びたのだという感じもします
878 :
岡目:2010/01/27(水) 16:39:40
>>859 >先ずそもそも高地性集落と言うのは数世紀にわたっての現象であって
>瀬戸内の西から東、もしくはその逆に東から西へ展開していくような傾向は見られない。
>(時代により偏りはあるが)
>瀬戸内東部にまで九州勢力が進出するのなら
>足場を瀬戸内西部に築かねばならんだろうがそのような痕跡もない。
高地性集落や防護柵を設けた環濠などを作るには相当な労力を要するから、それなりの必要性があった筈である。
それは大掛かりな略奪行為あるいは抗争というような戦闘が頻発していたか、あるいはそれが予想される状況が
存在したからであろう。
高地性集落が作られた時期が西から東へあるいは逆に東から西へという明確な傾向がないということや存在した
期間がごく短期間でないということは東征や西征とは関係がないことを示すと859は考えているのだろう。
しかし、そのことをもって東征や西征がなかったという根拠にはできない。
859は九州からの東征があったならば高地性集落は先ず瀬戸内の西部に出現し、それが次第に東に移り、最後に
畿内に達する筈だと考えているのだろう。
だが、このような考えには抜け落ちている視点がある。
記紀の神武東征の話では神武は疾風のように奈良に入ったのではなくかなりの年月を要している。そのような東
征であれば859の言うような高地性集落の移動もあるだろう。だが、弥生時代は戦争の多い時代であり(高地性
集落や環濠の存在がそれを示す)ある程度纏まった九州勢力の東征以前に例えば(九州勢力とは限らない)海賊
的な侵略行為が度々起きていた可能性がある。それに対する防衛のために高地性集落が作られていたとしたら必
ずしも西から東へと順次移動しなければならないという理由はない。
879 :
岡目:2010/01/27(水) 16:41:05
878の続き
「瀬戸内東部にまで九州勢力が進出するのなら 足場を瀬戸内西部に築かねばならんだろうがそのような痕跡もない。」
とはどういうことであろうか?痕跡とは土器のことだろうか?
征服とは武力も用いるだろうから東征にあたった集団は兵士を主体に構成されていたであろう。兵糧は携行した
であろうから食器も含まれていただろう。だが、遠征軍に土器製造職人などを伴っていただろうか。遠征初期は
別として食糧にしても食器などの日用品にしても現地調達であろう。東征の経由地に九州の土器が残されないの
は当然だろう。
では、墓なのか?
遠征の途中で死者も出たであろうから埋葬をしたであろうとは考えられる。しかし、遠征途中であるから簡略に
行われたであろう。墳墓遺跡として現代に発見されるようなものは期待できない。
遠征を行う場合、既に征服した勢力の反乱は防がねばならない。弥生時代でもそれくらいのことは知っているだ
ろう。東征軍の指導者や将軍などと彼征服豪族の娘達との婚姻や息子達を人質にするなど、あるいは利益の共有
など懐柔策はいろいろある。そのような政治的、戦略的判断のできる東征指導者がいたことが神武東征として記
紀が描いた話の元になっているのだろう。
東征らしき物が仮にあったとしたら、3世紀以前の事は確実でしょう。
どちらにしても倭人伝記述時の邪馬台国とはヤマトの国だな。
881 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 19:01:11
相変わらず高地性集落を神武東征に結び付けて語りたがる奴がいるようだがアホらしい…
神武がどれだけ時間をかけたと言っても所詮一代の話で
高地性集落の見える数世紀の話とは次元が違う。
それとも神武は襲名制で何代もの神武がいたのか?www
聞いていて頭痛くなってくるのは
「じゃあ瀬戸内全体にそのような現象を引き起こすなら一体どれだけの期間、人数の移動だったのか?」
と言うのがまるではっきりしない。
まあ言っている連中自身らもはっきり分かっていないんだろうがwwwwwwwwww
882 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 19:06:38
東征は5世紀ごろの事でしょう。
倭王・武が「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」
と478年宋に上表している。
「東は毛人を征すること五十五国」の中に東征も含まれていると考えられる。
883 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 19:10:43
はっきりと言っておくが東遷説なんておよそ学問の俎上に上るレベルではないと思っている。
「(邪馬台国)東遷説」その目指すところは何か?
…と問うなら当然
「記紀に描かれる神武東征が史実である事を証明する」
になるだろう、その看板に偽りが無ければだwwwwwwwww
そのために何が必要か?
(1)出発の地「九州邪馬台国」を見つける
(2)神武がヤマト入りしたその場所を見つける
(3)(1)と(2)において共通の遺物なりを見つけそれがダイレクトに人の移動により九州から持ち込まれた事を証明する
…普通に考えてこうじゃないかな?w
が、現状はどうだ?
出発の地の九州邪馬台国は見つかりません。
神武がヤマト入りした痕跡も見つかりません。
纏向は九州系の遺物が少なく、逆に東遷説の否定に使われる始末w
橿原神宮でも掘り返すか?wwwww
あとは記紀神話頼みだが、これも海外との神話の類似等を見れば
無理矢理に九州邪馬台国をそこに見る必要性も無い。
無い無い尽くしの無い尽くし・・・
やる事と言えば畿内説の否定で精一杯。
もう終わってるって話wwwwwwwwwwwwwwww
884 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 19:19:29
ついでにもう一つ。
先に東遷説論者の日向厨が
「東遷説こそが江戸時代からの九州説の保守本流」
…みたいな事を言っていたがトンデモも良いところだ。
九州説が所謂「偽僭説」からスタートした事は誰もが知るところで
明治あたりじゃあその流れを受け継いで「卑弥呼は熊襲の女酋」と言うのが一般的だった
(まあ徐々に変化はしていくんだが)
そもそも「偽僭」「僭称」と言うのは大和に既にヤマト王権
(…というより昔の事だからもっとストレートに大和朝廷だろうがw)
があったからこそ「偽僭」であり「僭称」であるんであって
東遷説なんてものはそもそも「偽僭説」と並び立つはずも無いwwwww
885 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 19:46:22
>>878-879 岡目
・・・この岡目と言うのはなんか内容が縄文人ぽいなw
>九州勢力の東征以前に例えば(九州勢力とは限らない)海賊的な侵略行為が度々起きていた可能性がある。
語るに落ちたな・・・
じゃあ高地性集落は神武東征には直接的に関係ないと言う事で
その証明材料にはなりえないって話でw
他の事にしても同様
「土器や墓が無くても良いんですよ」
と必死に抗弁しているだけで
「じゃあ東征の痕跡を何に見るのか?」
と言う根本的な問題には答えていないwwww
要するに
「痕跡は何もありませんしなくても問題ありません
記紀に書いてあるから史実です」
と言っているに過ぎない、アホらしいwww
886 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 20:01:42
九州説だが、正直言って東遷したかどうかはどうでもいい。
ひょっとしたら記紀にあるようにごく少人数で日向から東遷したことも
あったかも知れないが、少人数なら記録も残らないし
九州北部の勢力の知ったことでもない。
大まかなコースや手順はあっているのかも知れないが
10年単位の北上では、東遷したと言うよりは
居候を転々としていたようにしか見えない。
賢くて、たまたま土地の有力者に紛れ込んで
家を乗っ取ったくらいが関の山だろう。
たとえ九州北部の出身者だったとしても
10年単位では、九州北部からみれば気がついたら畿内の勢力の
頭が変わっているな位のもの。
証拠がないとすれば、あったとしてもその程度だろう。
もっとも後にはその九州北部を同化、または飲み込んでしまうわけだが
その過程で激しい戦がなかった理由はよく考えなければならないと思うが。
887 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 20:08:36
>>886 >その過程で激しい戦がなかった理由はよく考えなければならないと思うが。
まあ福岡平野辺りの勢力にすれば自ら積極的に東の連合体に参加したんだろうと思うなw
畿内系の土器や前方後円墳(那珂八幡等)を積極的に受け入れているようだしwwwww
むしろ敵は九州内にいたんだろうw
九州の敵は九州だったとwwwwwww
888 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 20:37:10
>>887 まったくもってその通り
記紀にあるからとか倭人伝の記述がどうとかは根拠ではない
その記述や内容が正しいのかをまず検討すべきで
その材料となる発掘事実をまるっきり無視して論じたところで
誰も説得できない
だから邪馬台国九州説は
九州のどこにあってどれくらいの勢力で、その後どうなったのかを
少なくとも考古学成果を踏まえた上で、そのあとで記紀や倭人伝との整合性を図るべきだろう
記紀にこうあるとか倭人伝ではこうだといくら力説しても
事実に合わないと、一言の元に切り捨てられているレベルでは、それは説とはよべない
889 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 20:43:18
と言うかね、記紀だけ読んでも物語り全体を見れば
天孫たる神武が「約束の地」に帰還すると言う
いわば「貴種漂流譚」
(悪い家臣の反逆で国を追われた王子様が成長して苦労の末王位を取り戻す…類の話ねw)
だと言うのが分かりそうなもんだがwwwwwww
890 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 21:00:22
東遷説というのは、かなり昔に九州説VS畿内説がまだ
倭人伝解釈で対立していた頃、つまり白鳥・内藤論争をひきずっていた時代に
和辻や井上光貞といったひとたちが
当時の考古学レベルを基にして唱えたのがそもそも始まり
だから銅鐸VS銅矛とかの、今では誰も唱えない二大文化圏とかが根拠になっている
つまり考古学の発展途上で出てきた説であり
近年の更なる発展で自然消滅したという、それだけのはなしだ
そこに安本美典なんかが、日食やアマテラスや地名の類似などを絡めて
安本東遷説をぶちあげたのだが
これまた最近の成果から全否定されてしまい、逆ギレして
考古学は間違ってる!庄内式土器も前方後円墳も九州が発祥などと
どこかの国みたいなことを言い出したから、さすがの信者たちも距離を置き始めている
いまはそういうところかな
891 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 21:08:08
どうかな。
892 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 21:15:17
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
893 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 21:28:11
>>890 やっぱり東遷説の事実上の開祖は和辻あたりに置くのが適当なのかな?w
ぶっちゃけ明治頃に
「熊襲の女酋を担いだ国が皇室の祖だ」
…なんて言った日にはどうなるか流石に分からないだろうしwwwwwww
894 :
890:2010/01/27(水) 21:34:35
まあ安本美典をあまり悪く言うと信者がまたうるさいから
その功績も列記しておくわ
古田説の反論からはじまった安本東遷都説は、発表当時は
それこそ学会や知識人からの支持者も多く
もっとも的確に説明できるとの最大級の賛辞を得ていた
当時としては画期的な説だったんだ
天皇在位計算についてはたしかに疑問も多く出ていたが
記紀神話がうまく説明できるし、難解なパズルがきれいに解けたかのような爽快感に満ちていた
じっさい、記紀だけでなく当時の考古学成果ともきっちり整合性が取れていたし
いま読んでも新鮮だよ
しかし後の世に安本東遷説に反する発掘結果が次々とあらわれ
日食や地名の類似も詳細な検討が加えられた結果、残念ながら根拠なしとなった
だからこそ東遷説は当時の安本さんを超えねばならないと思うんだ
安本説があったからこそ、さまざまな研究が進んだ面も十分にある
これは古田説もそう。あれも当時としては画期的だった
いつまでも当の安本さんや古田さんがさまざまな修正を施す前の古い説を
ここで御開陳してもしょうがないじゃないか
そんなの誰も望んでないと思うよ
895 :
890:2010/01/27(水) 21:38:09
>>893 うん、戦後イデオロギーも大いに関係あると思うよ
そんなこと言うと、ここの東遷説はアイデンティティ崩れるかもしれないけどwww
でもそれは関係なしに、当時としては本当によくできた説だと思う
896 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 21:42:31
>>894 多分今後の主流と言うかポスト東遷説は『奠都説』になるんじゃないのかな?w
と言うか恐らくこの板でもガチガチ安本タイプの東遷説を唱えているのは
例の東遷厨(キーワード:無人都市・まばらになる古墳群・マルクス史観・古墳規格・怨み節…etc)
だけなんじゃないだろうか?wwwwwwww
897 :
890:2010/01/27(水) 21:46:08
>>896 ならば安本さんからみても邪魔な奴だね>例の東遷厨
898 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 22:14:44
NHKのあの朝鮮の番組の中で、「科野」の倭人が百済に任官されていたという説を聞きました。
つまり、善光寺の信濃(科野)の勢力は、大和朝廷とは関係なしに独自に百済と交流を行っていたことを示します。
それはどんな勢力かということになりますが、それが大彦ではないかと思うのです。
百済王氏の始祖である「善光」の名前からつけられたことでもわかるように、東国は古くから百済を通して南北朝以前、
つまり、魏との交流があったと考えます。
邪馬台国は信濃(科野)にあった!そう結論付けます。
899 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 22:32:46
信濃と言えば5世紀になって各地で軍馬が生産されるようになるんだが
信濃は国内有数の牧場があったらしい。
「犠牲馬」の跡も多く見られるとか・・・
まあ何れにせよ邪馬台国の時代には関係の無い話だがwwwwww
無理矢理新説考えようとしなくてもいいのに
901 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 22:37:23
東遷説難民とか出てきそうだなwww
902 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 22:50:28
>>899聖徳太子と善光寺如来の書簡のやり取りが残っていることでもわかるように、この当時、科野は仏教の先進地域だった。
それは、中国の南北朝時代以前から、科野は独自に魏との交流を進めていたからに他ならない。
長野市に移される前に善光寺のあった飯田市の山田地区、ここが邪馬台国だったのだ。
903 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 22:53:41
>>902 信濃ぐらいなら今更驚きもしないw
まあ「陸行一月」は消化しやすいだろうなwwww
904 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 23:14:29
>>903驚きもしないも何も、邪馬台国は科野なのだからしょうがないじゃないか。
なぜ今まで気がつかなかったのか、不思議なくらいだ。
信濃は姐奴国だよ。
906 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 23:29:13
>>905違います。邪馬台国そのものです。
信濃以外に、この時期、魏と交流のあった国は存在しない。
907 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 23:33:50
>>884 アホか。誰が東遷説が江戸時代から始まったと言った。
江戸時代は、記紀的な年代観に縛られていたから、東遷説的な考えは生まれて
いなかった。生まれたのは明治時代から、そう言ったはずだが。
白鳥庫吉は、高天原と卑弥呼の国の状況が酷似すると述べ、皇室にはその頃の
記憶が残っていたのだろうというような意味のことを言っており、東遷説を
示唆していた、ということ。
908 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 23:42:21
>>893 本居宣長は、九州の女酋が神功皇后の名を騙って魏と通行したと考えた。
つまり、卑弥呼は大和朝廷とは無関係だと考えた。
大和朝廷の皇后が、中国に朝貢したり、親魏倭王と呼ばれたりするわけが
ない、と考えたとされる。だから、皇国史観とも言われる。
909 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 23:44:25
>>907 日向厨
無理だなw
明治になって年代観が飛躍的に変わったと言う話も聞いたことが無い。
邪馬台国の時代には大和に既に大和朝廷はあったと言う年代観。
いつものように白鳥に必死にすがっているがw
そもそも白鳥が
「九州の邪馬台国が皇室の祖である」
なんていったという話は聞いた事が無いwww
まあ何とか東遷説の歴史に箔を付けたいんだろうが
どの道今じゃあトンデモの部類になっているのは間違いないwwwwwww
910 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 23:50:03
>>883 の続きで言えば
冷静に考えれば「東遷説」なんて九州に邪馬台国があったことが証明できても
それは必要条件の一つでしかないと言う恐ろしくハードルの高い
雲を掴むどころか数万光年先の星を掴むような話しwwwwwwwwww
さてさて安本センセイの生きているうちに陽の目を見ることができるんだろうか?w
もっとも例の東遷厨の話しだと
あと十年もして今考古学会を牛耳っているサヨクかぶれの爺さん達が死んだら
東遷説も復権しているらしいがwwwwwwwww
911 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 23:58:12
>>909 別に白鳥庫吉の話をしたいわけじゃないが、そちらのほうに話を持っていく
からしかたがない。井上光貞でもいいのだが。
それから、その日向厨というのは止めてもらいたいものだ。一度も
邪馬台国日向説と言ったことはないので。
ちなみに、いまのところ熊本内陸部が有力と思っている。
山鹿、菊池、阿蘇あたり。
総合的に見て、やはり東遷説はゆるぎないだろう。
このスレでも、その理由はたくさん書かれている。書いている。
ちなみに、邪馬台国畿内説はすでに死んでいる。
まあ、亡霊がさまよっている状態だろう。もともと根拠は希薄だったが、
その根拠さえも破綻してしまった。
纏向を邪馬台国と宣伝しまくり、何とかごまかしている状態。
912 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 00:05:16
>>911 はて?
東遷説の根拠なるものが何処に書かれているんだ?w
>>883にシンプルに東遷説の証明すべき内容を書いたつもりだが・・・
結局
「東遷厨の自分には神武東遷神話はこう読めます」
と言う程度の話しか出ていないと思うが?wwww
913 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 00:18:18
最近、縄文人さんが現れない。
914 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 00:20:33
>>912 三国史記の新羅本記の話や高地性集落の話も出てきただろう。
初期の大和朝廷と九州の関係などもあった。
いろいろ総合するとどうなるか。
例えば、崇神天皇の条に、任那が朝貢して来たという話がある。
日本書記的に言えば、任那は日本府。
四道将軍を派遣して周辺を固めている状態で、朝鮮半島には日本府がある。
非常にイビツなこの状態をどう説明するのか。
また、九州北部との大きな争いが記されていないのはなぜか。
南九州の熊襲との争いがあれだけ頻繁に出てくるのと対照的。
ところで、今日は非常に眠たいのでもう寝る。
915 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 00:21:20
東遷説がクズなのはだw
所詮考古資料なんか無く、神話頼みなんだろうが
例えば 高天原=邪馬台国なら 何でそこに馬が出てくるんだ?って話で
仮に後世の後付け挿入だとしてもその時期がいつなのか?
神話の原型がどのようなものでどう変遷して言ったか…?等々の考察なんてせず
「あっちが似ている、こっちはこう解釈できる」
と摘み食いで食い散らかすだけなんだよなwwww
916 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 00:28:48
高地性集落なんかは、それこそ東遷説が明確に否定された根拠のひとつでもあるのだが
どこをどうやったら東遷説の根拠になるんだろうか?
917 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 00:28:56
頭悪そうな輩。
918 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 00:39:12
>四道将軍
その前提条件として崇神の代までには畿内のあらかたを掌握してなきゃならないんだろうが
欠史八代の記述を見ても勢力拡大の様子は全く書いていないwwww
じゃあ考古学的資料はというと、これも奈良盆地から徐々に勢力を拡大していった痕跡は無いと思うが・・・
例えば纏向型前方後円墳はいきなりに全国展開するわけでwwww
>>764 C14全般に厳しいんじゃなくて、歴博のC14データの取り扱い方だろ?
他の人からも批判はたくさん出てるから、
安本うんぬんは無視して、虚心坦懐に読んでみるといいよ。
920 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 00:47:35
東遷という言葉が出るだけで正気を失う人が約1名・・・・・・・ジョーカー・・・
921 :
水銀厨 :2010/01/28(木) 02:15:27
馬といえば4世紀前半とされる秋津遺跡からは
馬の歯も出てる訳だが。
九州勢力の大和への東征説はこれでもアウトでしょ。
3世紀後半、馬のいないはずの(九州の)邪馬台国からの
移動なんて無理な話。
つまり高天原は4世紀頃の葛城地方を舞台として
描かれている可能性が出てきた訳です。
東遷説なんて既に矛盾だらけ。
923 :
水銀厨:2010/01/28(木) 10:35:13
馬の話で言えば、現在の出土状況では畿内・信州が
古くて(4世紀半位から)九州の方が逆に新しい(5世紀半以降)
仮に大陸・半島から騎馬民族が入ったとすると、九州ではなく
丹波・敦賀辺りから入った事になりますね。
924 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 12:26:56
騎馬民族は、遠路はるばる沢山の馬を船に乗せて荒海を渡ろうとしたのですか?
925 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 12:31:52
案外古代の航海技術はショボかったらしいのです。
空海が、実家のある讃岐から奈良の都に赴く場合、風や波に細心の注意を払いながら、
海上何日もかけて赴いたそうなんです。
馬がもともと、少数ながら日本列島に存在した可能性はありませんかね?
あるいは畿内や北陸、丹後、但馬あたりには弥生時代から馬がいたのではないですか?
魏志によると倭国には馬はいない、ということは文献資料から見れば
少なくとも邪馬台国はそういった馬のいる地域には無かったということです
927 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 13:11:15
ちゃんとした統一政権なんぞ 蘇我の時代にもなかったのに、さぞ中国は窓口をどこの国にするか迷っただろう。邪馬台国は中国との使節交換が容易い北九州にあった。
そして内部抗争と狗奴国の侵入で 滅んだ
倭人伝の「馬なし」の記述はいろいろ考える必要ありでは。
まず動物種としても馬がなかったのかどうか。
つまり中国のように乗馬の風習がなかったということだけなのかも。
次に倭国にも馬はいたが、中国馬のような種類ではなかった可能性。
つまり、中国人には馬に見えなかった、と。
さらに、馬は中国のように多くはいなかった、という可能性。
倭国にも馬はいたにはいたが、中国から見れば「馬なし」と言える程度しかいなかった、と。
929 :
水銀厨:2010/01/28(木) 13:27:03
今の所言えるのは、馬は九州よりも畿内より東の方が
早い時期に存在したと言える事ですね。
つまり過去のような西からの騎馬民族征服説も
ちょっと考えにくい状況なんですよ。
それに信州での遺跡状況をみる限り、馬を使う民族と
争った形跡も?な感じです(やはり昔から飼っていた?)
それに高天原とされる葛城地方に早くから一応4世紀早期に
馬がいたとなると、神話との関連性も出てくる訳です。
>>927 邪馬台国は数ある小国家連合群のひとつにすぎなかったのでしょう
この時期、ほかにも小国家連合が存在していたのではないでしょうか
「女王國東海渡千余里復有國皆倭種」というのもこのあたりの事情を伝えているのでしょう
931 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 15:10:38
>>930 その想像ごっこは、何時まで続くんかい?
933 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/28(木) 16:05:16
>>864 基本的には864さんの考え方で間違いありません。
補足的に説明を追加します。
加工工程
@リモナイト・沼鉄鉱等→(脱水反応)→ベンガラ等
Aベンガラ等→(脱水・還元反応)→3価の酸化鉄(酸化第一鉄等)と2価の酸化鉄(酸化第二鉄等)の混在物(砂鉄等の成分)
B3価の酸化鉄(酸化第一鉄等)と2価の酸化鉄(酸化第二鉄等)の混在物→(還元反応)→鉄(ケラ)
@ABの工程は燃料(炭)の供給問題から別々の場所であったと推定されます。
Bの技術が発展し、砂鉄を原料にし、大規模量産化する様になったのがタタラだと思われます。
現代のミニタタラ・・・弥生時代の製鉄はこの程度の規模の炉であったのでは?
http://www.kajidai.com/kanemasaryuu-kodatara-seitetu.htm
935 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 17:25:37
まあ馬に関しては何処が一番古いのかは今のところ良く分からないのが実情なんじゃないのか?
何れにせよ信濃や日向は相当に古く牧場の規模も相当に大きかっただろう事が想像されるが
これも俺が日向をスタート地点にする神武東征神話が
その成立が5世紀頃だろうと想像している根拠の一つwwwwwww
936 :
830、852、864:2010/01/28(木) 17:35:51
>933
リンク先、見せていただきました。
ああ、やはり酸素、一酸化炭素のコントロールは重要なのですね。
紙放り込んで、炭化だけすれば酸素がない良い状態。
燃え尽きてしまえば、酸素が残っている悪い状態。
還元反応を維持するには、こういう技術が必要なのですね。
そして、小さな炉でも還元反応の各過程を適切に維持するための仕掛けとして
高い塔状の構造にし、交互に炭と砂鉄を入れていく必要があるというのも興味深いです。
また、地面からの湿気対策も(おそらくは断熱対策も)
かなり念入りに行なっていますね。あそこまでしないと
うまくいかないのでしょうか。
なかなか興味深かったです。これらの知識が蓄積されるのには
どのくらいの経験が必要だったのでしょう。ありがとうございました。
937 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 19:11:21
鍛冶屋はともかく、当時製鉄なんて出来たのか
tes
939 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 20:39:47
出来たかどうかは分かりませんが
絶対数はまだ少なかったでしょうね。
明らかな製鉄の跡が出てくるのが5世紀からです。
940 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 21:40:47
もしかして、豊城入彦の母といわれる紀伊国の荒河戸畔の女(むすめ)遠津年魚眼眼妙媛とは、
「意冨比古(大彦)」の娘なのではないだろうか?
つまり、大彦は祟神の義理の父であり、豊城入彦とは大彦の孫。
だからこそ、豊城入彦は、天皇の長男でありながら大彦の跡継ぎとして東国に送られたのだ。
では、なぜ紀伊国の荒川戸畔が大彦なのかということだが、
大彦は、平地の少ない紀伊国に見切りをつけて東国の開拓に当たっていたのだ。
だんだんわかって来ました。
941 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 22:49:33
>>940もし、それが本当なら、日本の歴史教科書を覆す新発見ですね。
942 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 23:08:58
>大彦は祟神の義理の父であり
古事記に明記してあるじゃないか。
>>934 こいつわけわからんwwwww
笑わせてくれるw
俺は畿内説だからどうでもいいけどw
>>940,942
荒川戸畔が大彦だとすると、荒河とは紀伊半島ではなく、関東の荒川(旧利根川)ではないのだろうか?
そしてその上流の行田市に鉄剣で有名なさきたま稲荷山古墳がある。
つまり、大彦は娘を祟神に嫁がせ子の豊城入彦を関東の大王にすることで大和朝廷と姻戚関係を結んだのだ。
そして、さきたま古墳群にある丸古墳(これだけ円墳)こそ、卑弥呼の墓ではないだろうか?
稲荷山古墳や二子山古墳より後に作られたというのは俗説。(ろくに調査もしていない。)
記紀には、関東の大王に関する記事が欠落しており、それが卑弥呼の記事がないことと一致する。
何故唐突に卑弥呼の墓が?
妄想が酷いですw
946 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/29(金) 14:44:21
>>936 >湿気対策
水対策ではありません。水素対策の為の脱水作業です。
還元物質である水素があると一酸化炭素による還元反応が妨害されるからです。
>これらの知識が蓄積されるのにはどのくらいの経験が必要だったのでしょう。
弥生時代熊本の人々がベンガラ製造経験の中から自然に生まれてきた知識でしょう。
リモナイト(丹土)から防臭剤としてのベンガラ(殯用)を焼成して作る中で、
脱水還元が行き過ぎて、偶々鉄を産出できた。
上記ベンガラ製造法は土器製作法と炭製造法との共通技術だからです。
(顔料としてのベンガラ製造法は別法です。)
菊池川流域の装飾横穴墓内で消臭用ベンガラが使われていたので、
このベンガラを作る時に派生的に鉄が生産されてしまったのでしょう。
ですから日本で最初に鉄生産をしたのは弥生時代の熊本だと思われます。
熊本の鉄遺跡には、この小規模分業製鉄も含まれると思われます。(分業:@ABの工程がある)
947 :
日本@名無史さん:2010/01/29(金) 21:43:26
>946
>水対策ではありません。水素対策の為の脱水作業です。
>還元物質である水素があると一酸化炭素による還元反応が妨害されるからです。
水素は還元補助剤になりこそすれ、水素が妨害にはなりません。
あえて言うなら、水が熱分解で水素と酸素に分かれて、その酸素が
還元の妨げになるので、できるだけ水を防ぐべきだと思います。
http://www.tohogas.co.jp/rd/kankyo/67.html だからこそ湿気をできるだけ防ぐように炉を構築しているのです。
水素対策ではありません。うまくやれば水素を一酸化炭素の代わりに
還元反応に使うこともできます。結局それでできた水がまた熱分解するので
制御が難しくあまり使わないと思いますが。
また脱水は比較的低エネルギーで処理できますが
還元はガス雰囲気のコントロールと熱エネルギーの大きさから
比較的難易度が高いです。
全くないとは言い切れませんが、砂鉄(黒錆系)から製鉄するのが普通で
赤錆系から製鉄するのはあまりないのは、これが理由と思われます。
おそらく化学反応式の反応エネルギーから
難易度をある程度推測できると思われますが
当方は科学屋ではないので探すのが難しく、
適切な数値を見つけられませんでした。
知識がある方があれば、指摘していただければありがたいです。
948 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/30(土) 00:22:35
>>947 >水がまた熱分解するので
>制御が難しく
それが一酸化炭素による還元反応の妨害です。
>おそらく化学反応式の反応エネルギーから
>難易度をある程度推測できると思われますが
化学反応の化学平衡式とその反応のエントロピー値から難易度が推定できる。
インターネットでは熱力学データーの入手は難しいと思います。一般人の場合。
僕は昔々化学を学びました。
その頃の基礎知識を使って弥生中期後期の肥後での製鉄仮説を2〜3年前から立てていました。
残念ながら実証実験はしていません。
949 :
日本@名無史さん:2010/01/30(土) 02:15:22
馬と言えば、日向の都井岬の野生馬。
2000年くらい前にはいたとされるので、卑弥呼の時代にもいた可能性は
あるはずだが。
日本書紀にも「蘇我の子は、馬なら日向の駒に、太刀なら呉のまさびに
例えられる」とある。まあ、当時の権力者、蘇我氏の子供は抜きん出ていると
ゴマをすっているのだろう。
鎌倉の武士も、日向の駒を称えたとされる。
950 :
日本@名無史さん:2010/01/30(土) 02:22:27
test
>>929 > つまり過去のような西からの騎馬民族征服説も
> ちょっと考えにくい状況なんですよ。
いつの時代の人間だよw
とっくの昔に終わってる説だよ。
952 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/30(土) 15:56:36
>>947 >赤錆系から製鉄するのはあまりないのは・・・
現代の製鉄原料は赤錆系(3価の酸化鉄)が主力です。
古代において砂鉄が製鉄原料とされたのは鉄成分純度が高いからです。
古代において砂鉄次いで純度の高い製鉄原料が得られるものは、
水酸化物を含むリモナイト(肥後)と沼鉄鉱(弁辰)です。
筑豊にもリモナイトがありますが、
製鉄に先行する技術としてのベンガラ製造技術がなかったので、
製鉄に至ることは、肥後に比べてかなり遅れたと思います。
953 :
日本@名無史さん:2010/01/30(土) 16:26:03
戦争中は、八幡製鉄所で阿蘇のリモナイトを原料に製鉄していたらしい。
鉄資源が不足する戦争中だったから、緊急的に使用していたのかな?
葦の根に溜まる天然の褐鉄鉱を原料として製鉄がおこなわれていた。
葦原中津国とは鉄鋼の原料となる褐鉄鉱の豊富な湿原のこと。
卑弥呼の時代に製鉄技術を持っていたのは諏訪の富士王朝。
『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫こそ卑弥呼に他ならない。
卑弥呼は記紀にも出ていたのだ。
>954
刀一振りつくるのに、どれだけの葦が必要なんだろう
現実的な話ではない、実用量としての鉄は大陸から輸入していた
朝廷は飛鳥時代ですら銅山を持っていなかった
ようやく東国が手中に入り、秩父の銅を運上できたのが和銅元年だ
九州王朝が言う早期の製鉄も製銅も、もしかしたらあったかもしれない程度の話。あった
としてもおそらくごくわずかの量しかとれず、採算に合うようなものではないだろう。
>>955その通り。
鉄は極めて貴重品であり、鎌は司祭用の神器だった。
958 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/30(土) 20:00:28
>>956 狗奴國(菊池)が女王國の脅威であったことは、
狗奴國が女王國に匹敵する武器を持っていたことを示している。
菊池(肥後)には鉄矛や鉄鏃を生産するに足りる十分な量の鉄を生産していたと判断できる。
製鉄の状況は地域によってかなり異なります。
梁書によれば、5世紀に扶桑國(播磨國)は製銅はしていたが、製鉄はしていなかった。(鉄の原料が無い地域だから当然だ)
面白いことに銅と共に取れる金銀にはあまり関心がなかったようだ。
959 :
水銀厨 :2010/01/30(土) 21:56:09
>葦の根に溜まる天然の褐鉄鉱を原料として製鉄がおこなわれていた
畿内では河内の柏原、奈良の竜田周辺がそうだろう。
伝承ではあまり上手くいかなかったという話だが。
亀の瀬近くの金山彦神社の近辺ではタタラの跡らしき
ものはあるが、何しろ日本有数の地滑り地帯なので
痕跡等は探しようが無い。
もしかすると木の切りすぎで鉄砲水を誘発したのかも
しれない。
960 :
日本@名無史さん:2010/01/30(土) 21:59:49
ベンガラ製造から鉄製造までにはあまりに敷居が高く
そこにいたるまでの可能性は極めて低い。
ベンガラ製造の延長にもうひとつ、道がなければ
たどり着けそうにない。
リモナイトからベンガラにするのは、ある程度の時間100度以上を維持すれば良い。
これは容易にできる作業だ。また、この赤錆は800度程度までは安定し、
酸素が豊富な状態では1300度程度まではそのままである。
酸素がなければ800度を超えたところから徐々に黒錆に変わっていく。
この温度は弥生式土器の温度なのである。(縄文土器はもっと低温)
ベンガラを塗った弥生式土器(あるかどうかは知らない)を焼くときに
たまたま一酸化炭素が多く、無酸素の状態が発生すると
還元反応が起こる可能性がある。これで黒錆製造まではいける。
これのレベルが上がると製鉄だが、そう簡単に行けるかどうかは分からない。
タタラは砂鉄が原料
畿内周辺で砂鉄が取れたっけ?
962 :
水銀厨 :2010/01/30(土) 22:11:01
>>961 タタラは別に砂鉄だけじゃないですよ。
餅鉄、岩鉄等でも出来る、亀の瀬では近くの二上山系からの
石に含まれているものとされてるけどね。
まあ上あまり手くいかなかったんだろうが。
963 :
日本@名無史さん:2010/01/30(土) 22:13:48
たたらは砂鉄が普通使われる。磁鉄鉱などもその仲間。
赤錆系から鉄を作るには、還元焼成で黒錆(砂鉄)にする必要があるから
脱水工程、還元工程(赤→黒)、還元工程(黒→鉄)、となり
最初を二つの工程を余計にしなくてはならない。
砂鉄よりリモナイトの方がエネルギーが必要。
もし赤錆系から製鉄をしているとすれば、
何らかの理由で良質の砂鉄が手に入らなかったのであろう。
964 :
日本@名無史さん:2010/01/30(土) 22:37:32
>953
戦前はアメリカからくず鉄を大量に輸入していた。
その禁輸措置も大戦の引き金の1つ。
製鉄するよりは、くず鉄を溶かし直した方がはるかに効率がいい。
かなり切羽詰っての措置だと思います
965 :
水銀厨 :2010/01/30(土) 22:49:31
>何らかの理由で良質の砂鉄が手に入らなかったのであろう。
まあそのとおりなんで上手くいかなかったのだろう。
竜田や柏原周辺は湿地も多くて葦が多く、(葦原〜柏原は地名の語源?)
褐鉄鉱を採取してたらしい。竜田川では鳴石も取れたしな。
何より金山彦、金山媛神社がこの場所にあるのが
大県以前に初期製鉄があった証拠じゃないの?
タタラの炉内は1,000〜1,200℃、鉄の融点1,535℃より低いが、これで還元反応がすすむ
青銅は融点が1,250℃なので、銅鐸の時代から温度的には達成しているということ
加熱するだけで硫黄がとんで精錬できる銅にくらべ、製鉄はもっと複雑な反応を制御する必要がある
タタラ炉をつくる土の成分が還元に効いてくるから、土の選別から始まって、炉の形成の技術、
温度管理、炉内酸素の管理、、のろ(スラグ)の排出タイミング、などなど難しい
967 :
日本@名無史さん:2010/01/30(土) 22:52:11
狗奴国が邪馬台国の脅威だったのは 農耕民族が狩猟民族には戦では勝てないから。戦士の数と練度がちがう。中国の歴史を見ればわかる。
トヨの時代に滅ぼされただろうな。
968 :
日本@名無史さん:2010/01/30(土) 23:11:54
弥生時代には石器が激減する。石器を使わなくて何を道具にしていたかと
いうわけで、鉄の普及が考えられる。では、素材を全部輸入していたの
だろうか?
そんなことはないだろうと言うわけで、製鉄が考えられる。
日本の製鉄は、古墳時代の6世紀あたりに始まったと言う説もあるが、
どうも、弥生時代には始まっていたと考えられる。
出雲や九州の各地でその痕跡のある遺跡が見つかっている。
インターネットで調べても、弥生時代の製鉄跡と書かれている遺跡が
たくさんある。
総社市の藤原遺跡、宮崎県延岡市の祝子遺跡。
大分県国東の安国寺遺跡、下城遺跡。
熊本県には、狩尾遺跡、小野原遺跡、下扇原遺跡、方保田東原遺跡、
諏訪原遺跡などがある。
969 :
メ:2010/01/30(土) 23:15:32
ここは邪馬台国スレではなく考古学スレになってきてるなw
>>968 出雲の初期のタタラ炉は小さい様だよ
タタラには違いないが、50cm四方くらいの炉で、1回当たり何キロ作れるんだろうと言う感じ
そうして得られた鉄は貴重なので、身分ある者の剣か、兵の柄の先につける槍先(ポイント)くらいが精々だろうな
石器がすべて鉄器に置き換わったとすれば、日常で使う刃物や斧や狩りの鏃などにも鉄を回さないといけない
輸入じゃないと足りないと思うよ
でも製鉄に使う森林資源は、大陸や半島より日本の方が濃かったので、製鉄技術が普及すると一気に生産が増えたんじゃないかな
それが古墳時代の様な
やがて室町時代には鉄製品の輸出国になるんだよね
971 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 00:52:13
>>968 昔は、弥生時代の鉄器の大半は九州で見つかるとされていたが、最近は本州でも
多数の製鉄遺構が存在していたと主張されるようになったね。
そんな主張をする連中にとって最大の難点は、その大量に作られたはずの鉄器が
出土しないことだな。九州と違って本州の鉄はよく溶けるんだなww
普通に古墳時代以降の製鉄遺構とするべきものが大半ではないかな。
972 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 03:32:17
>>971 古墳時代になっても、鉄の保有量は圧倒的に九州が多いわけだが、
現在まで九州が首都になれなかったのはなぜなんだい?
973 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 04:11:17
と言うか現在じゃあ鉄そのものに対する評価も変わってきていると言うか…
少なくとも昔の様に鉄をオールマイティな文明の利器と言う能天気な考え方はなくなったというかwww
以下の話は古代の稲作の生産性をどれくらいに見積もるかによって変わってくるんだろうが…
鉄や銅が入ってきて最初は広葉樹をバンバン景気良く切り倒したんだろうが
それはドングリや栗と言った堅果類の供給元を無くしてしまったと言う事で
言わば自分で自分の首を絞めたと言う状況になったんではないだろうか?
(生態系の変化により堅果類のみでなく例えば猪も減ったとかもあるかもしれない…)
加えて保水能力の無くなった山は洪水を引き起こしやすくなったとか
様々なトラブルを引き起こしたのではないか?
975 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 07:24:26
>>971 なるほどね。何をもとに年代を決めてるのか、信憑性はあるのか、を
良く検討しないといけないと言うことだな。
976 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 07:34:44
吉野ヶ里は、3世紀には衰退してるのに、邪馬台国だとか言ってるアホもいるしな。
977 :
サガミハラハラ:2010/01/31(日) 08:13:20
卑弥呼の活躍した時代は3世紀ですが、彼女の時代は邪馬台国の最盛期ではなく、
狗奴国との戦いで魏に助けをもとめるほど国力が弱っていたのですよ。
978 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 08:58:13
>>977 そんな弱小国ならば、親魏倭王などと言ってくれるわけがないね。
宋書、隋書と邪馬台国が続いていることを忘れてはいかんな。
狗奴国は4世紀以降、姿を消すけどね。
979 :
水銀厨 :2010/01/31(日) 09:48:31
狗奴国が女王国連合に負けない国力を持っていたのでしょう。
980 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 10:11:27
それが何ですぐに姿を消すの?
981 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 10:13:16
昭和35年、日本は朝鮮戦争でクズ鉄になったアメリカ軍の戦車を輸入して東京タワーを建てた。
平成23年、日本は多々良の子孫であるタタ製鉄から鉄を買って作った東京スカイツリーが完成する。
日本はいつも輸入品で済ませているのではないだろうか?
982 :
水銀厨 :2010/01/31(日) 10:32:31
>>980 大陸の国体変化と共に、国内でも
国力バランスが変化するからだろう。
983 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 10:47:17
いまの日本の製鉄業は壊滅状態だし、外国から安い鋼材が入ってくれば、割高な国産を使う必要はない。
鉄の輸入で膨大な利益を上げていたのが宗像氏ではないだろうか?
古代の国の繁栄や衰退も外国との交易にかかっているのにのです。
984 :
水銀厨 :2010/01/31(日) 11:10:04
宗像氏は交易商社の原型だと思えば判りやすいでしょう。
大国主は資源産出国で大穴持ち(鉱山物資持ち)
国譲りはその利権移動の事なんですよ。
985 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 11:13:33
>>984 大穴持ち=鉱山って妄想しすぎ。
古代の鉱山って穴掘ってたわけじゃないだろ。
986 :
水銀厨 :2010/01/31(日) 11:20:52
>>985 まあ判りやすい例えでの話しですから。
大和でいえば穴虫(石、金剛砂の産地)、
穴師(辰砂)という場所に由来があります。
987 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 11:57:39
>>982 長続きしない魏と結んだ邪馬台国が生き残り、魏と結ばなかった大国の狗奴国が
簡単に崩壊する? そんな想定はおかしいな。
倭人伝を良く読め。狗奴国は小国に過ぎない。物の数ではないんだよ。
988 :
水銀厨 :2010/01/31(日) 12:03:36
魏自体崩壊してるだろw
大体邪馬台国が4世紀生き残ったと言えるのかい?
狗奴国が邪馬台国の実権を握った可能性もあるんだよ。
989 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/31(日) 12:10:09
>狗奴国は4世紀以降、姿を消すけどね。
狗奴国との戦争が景行。ただしこの時代を4世紀には、移動できない。
266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
273年 泰始9年 三月,立皇子祗為東海王。夏四月戊辰朔,日有蝕之。六月乙未,東海王祗薨。
鮮卑寇廣寧,殺略五千人。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
276年二月丙戌,東夷八國歸化。秋七月,東夷十七國內附。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
280年 太康元年 6月 東夷十國歸化。7月 東夷二十國朝獻。
281年 太康2年 三月東夷五國朝獻。夏六月,東夷五國內附。冬十月,鮮卑慕容廆(歸か)寇昌黎。
282年 太康3年 九月,東夷二十九國歸化,獻其方物。
286年 太康7年 夏五月,郡國十三旱。鮮卑慕容廆寇遼東。八月,東夷十一國內附。是歲,扶南等二十一國、馬韓等十一國遣使來獻。
287年 太康8年 八月,東夷二國內附。
288年 太康9年 九月,東夷七國詣校尉內附。
289年 太康10年 五月,鮮卑慕容廆來降,東夷十一國內附。是歲,東夷絕遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻。
この年11月に 晋は、軍を再編する。
290年 太熙元年 二月辛丑,東夷七國朝貢。
これが歴史の続きだ。
990 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 12:13:23
>>973 鉄の重要性は変わらない。
しかし、近畿地方から鉄が出ないから、畿内説としては鉄に触れることを避ける
ようになった。まして、鉄の評価が変わったというものまで出てくる。
畿内説の問題点がそこにある。
畿内考古学は、客観的な評価で邪馬台国を考えるのではなく、畿内説を
前提として考古学を考える。方法としては間違っている。
991 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 12:15:57
>>989 >狗奴国との戦争が景行。
思い込みだけではなく証拠をあげてほしいな。
たくさん書いてるが、どこにも狗奴国の名前が出てこんね。
992 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 12:20:16
>>990 >畿内考古学は、客観的な評価で邪馬台国を考えるのではなく、畿内説を
前提として考古学を考える。方法としては間違っている。
それは九州説にもそっくり当てはまる事で。
994 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 12:22:46
>>988 宋書も隋書も倭国を書いているだけだ。魏志にいう邪馬台だとあるだろが。
狗奴国が生き残ったのならば、狗奴国と書くだろう。
少なくとも倭狗奴国とでもするはずだ。
995 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 12:23:51
>>989 倭に関連する記述は、
266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
だけだな。
梁書などの「復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命」
から、泰始二年に朝貢したとされる倭女王は、台与だろう。
つまり、狗奴国との争いがあったにせよ。邪馬台国はその後も存続し
中国から爵命を受ける。
996 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 12:28:56
>>990 下らない。
「昔は良かった」と言う九州説の怨み節だなw
新たに出てきた材料でその形を変えていく
学問の進歩としてはそっちが当たり前で
九州説(つうか東遷説かな?w)にとって昔の方が都合が良いからと言って
そっちにあわせるなんて馬鹿を誰がやるって話しwwwwwww
どうしても反論したかったら鉄の出土量と社会の発展について
説得力のあるデータをもってこいって話し。
「昔は良かった」を連呼しても意味が無いぞアホw
確かに九州には鉄の出土が多い。
が、そこから先の話しが無いwwww
その出土量に比例して人口が他地域より多いなんてデータがあるか?
あるいは鉄製兵器でぶそうした「むてき の きゅしゅうぐんだんw」が本州にその版図を広げた痕跡があるか?
どの道、九州説に言わせればヤマトが「鉄不足」のままヤマト王権が興り
古墳時代に入っていく事実は変えようも無いwwwwww
>>995 >泰始二年に朝貢したとされる倭女王は、台与だろう。
いいえ倭人です。
998 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 12:35:12
>>996 新たに出てきた材料で考え方を変えたのではなく、出てこないから考え方を
変えたんだろう。都合が悪いから、考え方を変えた振りしてごまかしたに
過ぎない。
しかも、九州の優位を基にした東遷説は頭から無視する。
歴史は結論から導かれるものではない。いろんな資料の総合で結論を
導き出すもの。
999 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 12:37:20
次のスレ誰か立ててくれないかなあ。
スレ立て規制に遭っている。
1000 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 12:40:39
>>997 梁書には、爵命を受けたのは台与と書いてあるだろうに。
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。