源平争覇以前から古い歴史を持ち、戦国時代に興隆し
江戸時代にも高家や旗本として受け継がれ
現代まで存続している甲斐武田氏
そんな武田氏の長い歴史について総合的に語ろうというスレです
平安時代から鎌倉時代、南北朝、戦国時代、江戸時代、それ以降、
あらゆる時代OKです
武田の一族だけでなく好きな配下武将に領国統治、
総合的にいろいろ語り合いましょう
2get
即死回避
4 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 19:56:27
新羅三郎義光から武田勝頼までは男系で繋がっていたの?
確か信玄の男系で残ったのは米沢藩家老の信清の家系だけだよね?
>>4 信玄の二男竜宝の家系が江戸時代に高家武田として継続したよ
6 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 23:01:36
信玄の弟の武田信実の系譜は将軍旗本として
川窪氏と名乗って旗本として4系統に分かれて存続
途中で川窪から武田に復姓してる
この家系は養子とか入らないで続いてったと思う
御旗楯無ご照覧あれ
信玄の祖父の信縄の弟信恵の子孫で信玄に仕えた武田信次の家系も
徳川の旗本として仕えて油川氏を名乗り、後に武田に復姓している
この家系も特に養子入ってなかったんじゃないか
10 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 23:56:08
こんなところに本スレかいw
もともと柳沢氏自体、武田氏の支流の末裔
戦国時代には無論武田家に仕えてた
高家武田家に柳沢の養子が入ったこともそれほど変なことじゃない
甲斐武田氏は戦国時代にいたるまで甲斐を追放されて京都に逃げたり
室町幕府の応援で復帰したはいいけど泥沼の権力争いになったりと
甲斐一国内すらまともに領域として確立できないでいた時代も長いからね
戦国時代に信玄が出てきたら権力も強化され、統治も変わり
領域も甲斐一国から120万石にまで拡大
長い甲斐武田氏の歴史の中でもやっぱ信玄の時代は異色だわ
軍鑑オモロー
また酷い自演肩ロースレが現れたなw
甲斐武田氏は源平時代の富士川の合戦でも平氏を退却させるきっかけになったよね
17 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 14:42:06
この人たち鎌倉と戦国が有名だけど南北朝時代は何してたの
甲斐にいた
>>17 南北朝時代の甲斐武田氏は後醍醐天皇が幕府を倒すまでは幕府方として戦ってた
北条時行の鎌倉幕府再興運動の時も旧幕府方として戦って敗れてる
その後建武政権に属したものの当主が死亡したことから
足利氏の信任厚い安芸武田氏から当主を迎えたりしてる
ちなみにこの安芸武田氏も甲斐武田氏から分家した家
嫡流は甲斐武田氏
上で言われていた江戸時代に存続した武田の家系としては他に
信玄の5男仁科盛信の子供二人が徳川家旗本としてそれぞれ仕え
二系とも現在まで存続してる
22 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 23:09:57
御旗楯無はなんであんなに崇拝されてるの?
言うことを聞かせる為に利用されていただけだろ
答えてみるか
御旗楯無は武田氏というより源氏の祖といえる源頼義が
天皇より得た日章旗と楯無鎧のセットで
その三男にして甲斐源氏の祖である新羅三郎に継承された
これをは源氏としてみても大層な家宝であり
武田氏としてみれば甲斐源氏嫡流たる証
祖先崇拝の強い源氏一門においてその象徴として崇拝されたようで
後に国家統合における象徴となったようだ
この御旗楯無は武田家においては神と等しい崇拝対象だったようで
戦国時代において武田氏の家臣達が信玄に忠誠を誓った書状などでは
この御旗楯無は神々と並んで誓約の対象となっている
いうなればこの御旗楯無を崇拝することは源氏の名流たる武田氏の血統及び
偉大なる源氏の先祖達を崇拝することでもあったんだろう
どどーん
どん!
血統の話ばかりする奴は競馬評論家と同じだな
28 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 11:58:21
家臣あて信玄の手紙見つかる 実像知る手掛かりに
戦国武将武田信玄が、家臣の山本勘助にあてた手紙2通が群馬県安中市の民家から見つかった。
勘助の記述は1969年に北海道釧路市の民家で発見された「市河文書」以来で、実像を知る手掛かりとなりそうだ。
山梨県立博物館の海老沼真治学芸員(31)が確認した。いずれも手紙のあて名は「菅助」。
書式や字体は信玄の時代のもので、花押と呼ばれる信玄のサインもある。
1通目は1548年に書かれたもので「忠信無比類次第候」と、勘助の長野県の戦いでの活躍をたたえ、
山梨の関所で徴収した金を褒美として与えるという内容。
2通目には「小山田種物相煩既ニ極難義候」とあった。「種」は「腫」とみられ、重い病気を患っていた小山田という
信玄の家臣について見舞いに行くように勘助に依頼したもので、1551年に書かれたと推定される。
海老沼さんによると、以前には勘助は軍書「甲陽軍鑑」など江戸時代以降の文書でしか名前を確認できず、
存在を疑問視する声もあったが、市河文書が発見され実在に疑いはなくなったという
http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009122601000051.html どう思います?手紙の筆跡鑑定や年代測定はしたのでしょうか?
本物なら市河文書以来の大発見ですよね?
>>28 すごい!
これが本物なら山本勘助が軍鑑にあるように
信玄の信任厚く、立場もそれなりのものであったことの証明になる
戦功を賞されている事を考えると軍鑑にあるように足軽大将として
戦っていた可能性も高いんじゃないか
>>27 ここは甲斐武田氏総合史スレなんで血統や繋がりも要素の一つ
やはり競馬評論家なんだなw
競馬とか言ってるのはスルーでヨロ
>>28 主君の代理として小山田程の家臣のお見舞いに行くとなると
勘助は信玄とよほどの信頼関係にあったようだね
甲斐武田一族のお隣の諏訪氏とか
武田氏歴代でみると結構長いおつきあいなんだよね
信虎の時代には諏訪は甲斐の内乱を煽動したり攻め込んできたりしてる
信玄時代だけみるとあっさり潰されただけに見えるけどさ
35 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 21:41:31
武田の将でこのスレの人達は誰が一番好き?
36 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 23:12:48
どの馬がってこと?
陣馬奉行の原さんとか
小説の重要人物にしにくいよね
まして主人公なんて
役割としては大切な人だと思うんだけどなあ
原は書状とかでみると信玄側近の政治官僚って感じだな
山県とともに武田家最高の政治役職である両職の片割れを担当したとされているしな
ここは競馬評論以外はスレチだ
家臣などという雑種はどうでもいい
るせーよ#
>>40 原昌胤さんは一次資料でも活躍が顕著だけど
お父さんとされる原昌俊は今のところ軍鑑でしか確認できないんだそうだね
山本勘助の例を見れば将来に存在の裏付けがみつかるかもね
44 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 13:26:28
石田の小山田こと小山田備中が好きです
郡内小山田とは別系統で旧名は上原伊賀守なのであしからず
同じ名前で二人いることが判明した
郡内小山田の小山田信有さんの父親のほうが好きです
まぎらわしいっすよね
よき采配の、其のもとは、よき法度なり
軍鑑の中で好きな言葉
強い軍隊をつくるには良い法令が大切なんだね
47 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 20:28:01
三国志の諸葛亮孔明が良い法令を用いたのと通じるところがある言葉だ
48 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 20:40:13
武田スレならこれを忘れてはいかんのう
其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山
49 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 22:14:13
甲斐武田氏で最大の軍事力を持っていた家臣は誰?
おそらく香坂弾正こと春日虎綱
軍鑑によれば直卒450騎
相備衆合わせれば1000騎を超えたそうだ
さすがに謙信相手とあって大層な軍事力を任されている
51 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 23:37:53
信長公記・長篠の合戦記述
家康、滝川陣取りの前に馬防ぎの為、柵を付けさせられ、
(中略)
三番に、西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。
関東衆、馬上の巧者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる。
52 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 10:30:11
武田勝頼が織田軍に敗北しなければ、韮崎が新府と成っていた訳だから
恐らくは韮崎が「甲府」として県庁が置かれていただろうな。
小幡の率いたとされる軍事力は軍鑑によれば500騎
香坂の率いた総計1027騎には及ばずとも相当な大部隊だね
武田のいう「騎」というのは一騎につき最大で4人の歩従者がつく事を換算してるから
香坂の軍事力は最大で5千以上、小幡の軍事力はおよそ最大で2500程って事だね
もっとも小幡は騎兵主体の土地だから他より歩兵がついた割合が低かったんじゃないかとの説もあるけどね
韮崎新府も結局はそのあと武田が
どれくらいの大きさの大名として存続するかという問題な気がするね
韮崎に移ろうとしたのは勝頼時代末期に北条との戦いを有利に進めた結果、
上野と武蔵方面に領地が拡大して偏ったことから
その上で領国全体の中心を占めうる場所を探した事が原因
甲斐一国で言うなら甲府のが中心で問題ないからね
江戸時代とかもずっと甲府が甲斐統治の中心だった
55 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 22:59:52
信長公記の長篠の記述は武田の部隊が攻めてきた順番は書いてあるけど
それに対して織田徳川方のどこの部隊が応対したかは書いてないね
ここら辺は軍鑑とてらしあわせてみると全体の流れが鏡合わせみたいで面白い
晴信継承時の武田の譜代衆っていう面子は
甲斐武田氏歴代として
それまでの経緯をみると結構違和感があるのが入ってると思う
信長公記によると武田軍の部隊で押し寄せてきた順番は
一番山県、二番武田信廉、三番小幡、四番武田信豊、五番馬場美濃
これを軍鑑で見てみると
山県、小幡、武田信豊は竹広で家康と対決、武田信廉は柳田で滝川と対決、馬場美濃が大宮前で佐久間勢と対決、
公記と軍鑑を照らし合わせてみると
@山県が竹広で家康と対決して戦闘の後退く→A柳田で武田信廉が滝川と対決して戦闘の後退く→
B小幡が竹広で家康と対決して戦闘の後退く→C武田信豊が竹広で家康と対決して戦闘の後退く→
D馬場美濃が大宮前で佐久間と対決して戦闘の後退く、
という流れになるんだろうか
でも軍鑑だと第一戦において悉く武田の部隊が勝利し柵の中まで追い込んだとある
長篠日記とかでもそうなってたはず
というか信長公記を除く他のすべての2次資料が戦闘序盤における武田の奮戦と織田徳川の苦戦を描いている
ここら辺は信長公記はこの大勝利を顕彰する意味で手心が入っているんだろうか
信長公記ではやたらと長い時間戦ってる事が書いてあるけど、公記の描写だと武田勢が鉄砲で一方的にやられたような書き方だから
もっと早く終わってるはずだし
58 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:53:39
>>56 どういう事?
>>57 長篠日記だと武田勢馬場隊は佐久間勢に対して静かに前進し
(これは竹束などを構えて防御態勢をとりながら慎重に前進したと解釈する人もいる)
機を見て二手に分けた部隊のうち一手を突撃させて佐久間勢を撃破し、
織田勢の陣内に入ろうとしたところを一斉射撃を受け、その後も攻撃をしかけたけど信長がこれに危機感を抱き
他の部隊に横槍を入れさせたことからついに崩れたとされてるね
武田勢の竹束活用は有名だし防御行動をとらずに闇雲に突撃ばかりをしたとは考えにくいかもね
>>58 要するに穴山・小山田・飯富といった面子は信虎時代に敵だったんだから
「譜代」じゃないだろうと
60 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:58:29
このスレの連中は、信玄と坂東太郎との義光流の嫡流論争を
聞いていると思うが。
オレは理解できなかった。話が複雑すぎて、家系図見てるのが
途中から面倒くさくなったからだ。
62 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 20:48:37
武田も佐竹も同じ源氏の名族で
同盟を組んで一緒に戦った仲なんだから固いこといいっこなし
ガンバル武田 がんばる清和 平成時代も頑張って
64 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 15:37:05
新年明けましておめでとう
御旗楯無もご照覧あれ!
うわあ続く源氏(清和)
せいわ天皇→ようぜい→六孫王経基ろくそんおうつねもと→満仲まんちゅう→河内頼信→頼義→常陸武田郷主義光→
甲斐市川郷主義清→逸見義光→信義→石和信光→信政→信時→時綱→信宗→信武→信成→信春→信満→信重→信昌→信縄→信虎→信玄→なぜか勝頼さま→信勝…以降不詳
>>45 悪いんだが、三代にわたって同じ信有って諱なんだよ。
越中守信有
↓
出羽守信有(越中守の息)
↓
弥三郎信有(越中守の息。討ち死にし、家督は弟・信茂へ)
紛らわしいよね、小山田三代
従来は出羽守と弥三郎は同一人物と思われてたんだっけ
>>44であげられている石田の小山田備中の存在がややこしさに拍車をかける
元の名前は上原伊賀で郡内小山田とは別系統なのがなんとも
たしかに
武田信長が好きです
でも名前だけみると厨が考えた
「ぼくのかんがえたさいきょうぶしょう」みたいですよね
武田信長の名跡の継承者が
確か晴信時代に武田宗家に次ぐ力を誇った勝沼一門だっけ
勝沼一門は上杉と組んで武田宗家を倒そうとして成敗されるけど
その行動原理には祖先である武田信長とかに対する誇りとかあったんだろうか
72 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 13:07:55
勝沼五朗直卒280騎
甲斐衆としてみれば穴山・小山田の200騎を越える戦力の持ち主ですな
73 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:26:32
岡部正綱は
「この度の武田崩れにて、四郎殿は武運つたなくお破れになるでしょう。
而して新羅三郎義光公以来の名族武田氏が滅びること、わがお館様にはことの外
残念至極なこととお嘆きでございます。さすれば、穴山の御家を残されては如何。
入道様には先祖への御供養となりましょう」
「そうもあるか」
穴山入道は満足げにうなづいた。
裏切りこそ正義であり、先祖への供養だというのである。
その岡部も元は今川
75 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 04:16:22
>>73 司馬遼太郎さんの「覇王の家」じゃん
小説引用するのはどうなのよ
お〜や〜ま〜だ〜
武田のいぶし銀よ!
これは漫画か
77 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 13:15:43
信玄に謀反して成敗されたのは勝沼五郎こと、勝沼信元だけど
その父親で信虎の弟である勝沼信友の頃から郡内小山田と供に行動し
常にその上位に置かれていることから
勝沼氏は郡内小山田氏とその衆の統括という役割を担っていたとされているね
この役割と権限は武田信長とも共通するとか
そうなると郡内小山田氏は武田宗家の分家の指示を受ける立場と。
武田と郡内小山田氏はとても一時期いわれたような同盟関係なんてものじゃないですね。
武田氏の他の家臣達と同様に、郡内小山田領も武田家からの上級裁判権が存在してますし。
>>77 どうして青梅街道(西東京)に勝沼という地名あるのか教えてたも
80 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 15:49:17
>>79 とりあえず答えてみると
青梅には勝沼城という城があり
これは戦国時代よりはるか前から、多摩川上流域を支配していた三田氏の居城であって
甲斐の勝沼氏とは直接の関係はないと思う
もともと甲斐勝沼氏自体が信虎の弟信友が立てた家だしね
勝沼氏はその兵力を生かして、武田軍出陣の時には後詰めとか後方支援とか留守居役とかを担当していたらしいね
信虎時代には信虎が出陣してる間に北条が甲斐に攻めてきた時、
当時の勝沼当主である信友がそれを郡内小山田氏を従えて迎え撃ったのもこうした役割からなんだろう
勝沼信友はその戦いで負けて死んじゃったけどさ
82 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 21:08:52
勝沼信友は一本武田系図の裏書で自らを道存とし
武田信長の名跡を継ぐものとして、これを先祖と呼び
甲斐で反逆者と徹底的に戦った武田信長こそ
武田宗家の正統というにふさわしいと述べている
(つまり自分達の勝沼一族こそが武田正統たるべきと述べているも同じ)とされるね
一見、信虎に協力して甲斐国統一に尽力したように見える信友も
内面は結構複雑だったんだねえ
さすがは戦国乱世
そうした勝沼信友の内面に秘めた野心は息子の信元に引き継がれ
関東管領になった謙信の勢威が大膨張して武田領国が動揺した1560年に
上杉家臣藤田氏(当時藤田氏は当主不在の為、その有力家臣が代行していたとされる)の調略を受け、
謀反による甲斐乗っ取り計画として発現するわけだ
大した執念だわな
84 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 20:49:41
勝沼信元の謀反計画は信玄が出陣してる間に
留守居役としての権限を生かして上杉方を招き入れ、甲斐を乗っ取るという
自分の役割をフルに生かした計画だったね
それを事前に探知した信玄の調査機関である目付け・横目達は有能だね
義信事件でも彼らが真っ先に探知した
さすがは信玄
足長坊主といわれるだけある
信玄は情報収集に熱心だったことが有名だよね。
甲斐リニア上げ
>>79 ホームページみると 「青梅師岡の勝沼城は、三田氏の居城だったが信玄に攻め落とされた」と書いてた人いたけど
そのあと平氏三田氏の女系が武田勝沼家に入って来たのかな
89 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 18:55:52
勝沼城を拠点とした三田氏は北条氏によって1563年に滅ぼされたとされてるね。
武田勝沼家は信虎の時代に信虎の弟である信友が立て、
信友の後を継いだ勝沼信元が1560年に謀反を企てて成敗され断絶してるね
つまり1563年に三田氏が滅ぼされた時にはもう勝沼氏は存在しない事になる
青梅の勝沼城を信玄が攻め落とした事が事実であるとすれば、
それは信玄が北条氏と敵対した1568年から1571年までの間の事なんじゃないかな
その間に信玄、もしくは武田の一部隊が勝沼城を攻め落とした事があったのかもしれない
青梅:かつみ(植物名)沼→築城時に武威をかついで勝沼に改名
甲州:無名の山村→勝沼氏にあやかって勝沼
地名説は根拠なし 信友さんは父信虎が駿州で生んだ11男だから 青梅三田氏と何らかのゆかりがあったのだろう。
91 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 00:36:34
>>90 勝沼信友は信虎の11男じゃなくて
信虎の父信縄の息子で信虎の弟。
信玄にとっては叔父にあたる人だよ。
勝沼信友は晴信が家督を継承する6年前の1535年に北条氏との戦いで死んでる。
あなたの言っている信友は信虎追放後の1541年以降に駿河で生まれた上野介信友(係図における正式名では信基と表記される)の事で
勝沼氏とは直接の関係はないよ。
92 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 00:47:26
一応わかりやすくする為に二人の信友の違いをここに記しておこうか
@勝沼信友→勝沼五郎信友、武田氏係図では次郎五郎、とあり、官職は左衛門太夫とある
信虎の弟して勝沼氏を立て、1535年に北条氏との戦いで戦死。これが勝沼氏の勝沼信友の事。
一方で
>>90さんのいっている信虎の11男は
A武田信友→武田六郎信友、武田氏係図では信基を正式名とする。左京亮・上野介の官職を持っていたとある。
1582年3月7日に織田軍に殺されて没。
93 :
90:2010/01/14(木) 02:59:44
それでWIKIPEDIAに二人載っていたのですね 二人とも側室は不明なのでしょうか
武田氏系図を見る限りじゃ二人とも正室については書いてありますが
側室については書いてありませんね
二人とも高位の武士ですから側室くらいいても不思議はないですが
95 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 20:43:08
>>93 こっちも武田氏系図を見てみたけど
>>94にあるように
二人とも正室については書いてあるけど側室の記述はないね
黒田基樹氏作成の戦国期武田氏系図については
信虎や晴信といった当主は側室についてもいろいろ書いてあるけど
この二人については特に側室が書いてないから不明なんじゃないかな
では勝沼信友さんの側室は三田氏で 信玄が青梅街道で逃げた時の避難場所にした?
97 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 00:18:09
>>96 いや、ですからね
何度も述べているけど
勝沼信友は1535年にとっくに死んでいるので
信玄が青梅に侵攻して勝沼城を攻略したことが仮にあったとしても
直接の関係はないはずなんですけど
その三田氏自体が1563年には北条氏によって滅ぼされているんですから
青梅街道から逃げる、というのがどういう事態を想定されているのかわかりませんし、
勝沼信友の側室が三田氏、とか青梅街道で逃げた時の避難場所にした、というのも正直聞いたこともない話です
何か小説か何かを基にされているんですか?
勝沼氏館跡を中心に勝沼氏にあやかって後から地名が付いたと思います。 甲斐勝沼の地名は 甲陽軍艦など 近世以降できたので(中古文献無し?)。武蔵勝沼は古文献あるので。 勝沼という名は 偶然に出来るネーミングでは無いと思います
99 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 00:47:27
>>98 そうですかね?
軍鑑はその内容が室町後期の言葉で書かれている事から
同時代を生きた人間の口述筆記を基にしているといわれますね
軍鑑にあるならある程度考慮する価値はあると思いますよ
あなたの言うとおりだと仮定してみますと
勝沼信友は三田氏から側室をもらった縁で勝沼の名を名乗った事になるんですが
正室ならまだしも側室からの縁で自分の氏族の名前をつくるなんていう例はちょっと知らないですね
第一、仮に三田氏から室をもらっていたのなら、三田氏の家格からみても
正室であっておかしくないのですが、そこら辺は資料では確認できませんしね
三田氏から室をもらったのならそこら辺の裏付けや根拠がほしいところです
ちょっと
>>96の人は話が飛躍しすぎてる気がする
地元の伝説とか小説を基にしているんだろうか?
桓武平氏の長尾上杉や三田は、清和源氏武田にとっては 貴重な半同盟勢力 後北条やら織田より 信頼のおける 一族だったのでは。 正室はむしろ公家や対抗拮抗する武家との政略婚
ついでに 越後から義塩を送達された信玄は、危機管理の塩をかめなどに貯蔵し 圓山を塩山に改名させ 古文書も書き換えた可能性はゼロではない
103 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 01:19:00
>>101 桓武平氏と清和源氏ってむしろ源平時代に血みどろで争ってきた相手同士ではw
南北朝時代を経て武家が入り乱れた結果、戦国時代には特にそれが理由で敵対したり
味方したりする理由にはならなくなってますね
もともと源平時代でさえ源頼朝に従った平氏というのも結構いたんですから
源頼朝の嫁の実家である鎌倉北条氏は平氏ですから
>>101 >>102 中々楽しい想像をされる方ですなw
とりあえず武田信虎の時代では正室は大井夫人
彼女の実家は甲斐豪族の大井氏です
武田家当主である信虎が甲斐豪族の大井氏の娘を正室にしているのに
その弟の信友が当時はまだ健在だった名門三田氏の娘を側室にするとは
ちょっと考えにくいですかな
105 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 01:44:06
上杉氏に関しては確かに武田は信虎時代に扇谷上杉氏と同盟を結んでいますね
件の勝沼信友が1535年に戦死した戦いというのも、武田が上杉氏と同盟を結んだ結果、
北条氏が信虎出陣中に甲斐に侵攻したのを留守居役である勝沼信友が迎撃した戦いですからね
武田晴信の最初の正室も上杉朝興の娘です(すぐにお亡くなりになってしまいましたが)
しかし信虎の後期になると信濃侵攻で山之内上杉とは対立し、晴信初期にはこれを小田井原で大破するに至ります
山之内上杉を引き継いだ長尾上杉は、その勢力、武略、威光でもって
武田晴信の中盤における最強の敵として立ちはだかりますね
長尾景虎の存在は武田のみならず北条氏康にとっても最強の敵であり
武田・北条は相互連携戦略によってこの勢力削減に努めます
ただ、勢力としては敵でも個人的には晴信も氏康も景虎を厚く認めるところがあった事が逸話などから伺えますね
大井と武田は甲斐盆地を2分する勢力になっていた 南方今川勢に大井が寝返るのを防ぐための 甲斐国守の 誇りをかけた政略婚(甲斐内部)
長尾上杉の背後には関白藤原前久がいたから。
青梅往還は甲斐と武州を結ぶ本道 甲州道は江戸幕府が甲斐監視のため高遠内藤家と新宿を結ぶ役割でひらいた 幕府隠密はつねに青梅往還をチェックしたはず 理由は黒川金山(多摩川上流)
108 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 01:53:25
というか大井氏はずっと前から今川と結んで武田に抵抗しており
そこから信虎に負けて臣従。
大井の方が嫁いでくるのはその臣従の証として差し出されたものです。
晴信の内部崩壊策による諏訪侵攻で
諏訪があっさりと滅んだのは、晴信時代だけをみると
なんか一豪族が晴信にあっさり滅ぼされた、って感じですけど
武田家累代でみると凄い事ですよね
諏訪氏は信虎時代以前から信濃有力勢力で
信虎時代には甲斐に侵攻までしてきた勢力でしたから
110 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 14:39:14
諏訪頼重も決して無能な武将じゃなかったからね
信玄継承以前の経緯は大抵の小説やドラマじゃやらないから
諏訪氏というものの凄さやそれが武田氏累代にわたって与えてきた脅威、
そしてそれを瞬殺した信玄の凄さがイマイチ伝わらないのがもどかしい
皆さんは武田の戦いで何が一番好きですか?
私はやっぱり第4次川中島の決戦ですね
越軍・甲軍どちらも素晴らしい戦いぶりです
112 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 23:52:16
マイナーだけど安国寺の戦いでの完全勝利っぷりが好き
完勝というなら小田井原の戦いとかどうよ
完全勝利というならやっぱり三方ヶ原
全て掌の内って感じで好きだ
115 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 12:36:41
三方ヶ原は軍鑑にある信玄と家臣たちによる合戦前の状況分析がいい
勝つ根拠とかも的確
116 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 12:45:35
幕末あたりにいた「武田正助」って人を知っている人いますか?
117 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 12:50:04
武田正助って明治時代くらいにいた
陸軍大佐にそんな人がいたな
息子の功も陸軍大佐にまで出世してたはず
>>115 この合戦の前にも小山田が馬場と一緒に状況分析を述べにきてるよね
第4次川中島でも信玄は山本勘助と馬場に作戦を立てさせているし
馬場はなんだかんだ言って重要な合戦では信玄に意見を述べによく出てくる
たぶんその武田正助氏は別人です。
ちょっと年代が違うので。
>>75 小説引用したっていいじゃない
武田関連なら
楽しく語ろうよ
それでいいんじゃない
122 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 03:34:32
徳川家康が軍勢を率いて甲斐に入ったとき、甲斐の国人たちが沿道で歓待したというのは真実か?
いつの事?
武田滅亡時はそんなことなかったと思う
本能寺後に河尻が殺された後に家康が入った時は
家康が甲斐国人を既に調略していたので
歓迎されたみたいだけど
124 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 21:26:43
穴山信君がこの時まで生きてれば徳川家臣団の中で結構いいところまで行けたかもね
穴山信君は新府城を勝頼が親族の諫めを振り切って作ったとか書状で言ってるな
信君は書状に武田信君と署名してる事もあるように、結構武田一族としての意識が強いんだよな
それが上で紹介されていたような小説での描写みたいな感じになってるんだろう
ちなみに穴山が新府城建設の経緯を書いた書状では
勝頼の事を「太守として在位してから10年になる」と言ってるので
これもまた勝頼陣代説の有力な否定になりそうだな
127 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 21:42:36
もともと勝頼陣代説って軍鑑くらいにしかないしね
書状で見る限り勝頼は普通に家督を継承してるね
128 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 02:26:45
「じ、陣代だから負けただけよ。武田が負けたわけじゃないんだから!」
って言いたかったんでしょ。
ただ勝頼には諏訪の通り字である頼の字がついたままになっていたり
諏訪衆が武田滅亡の時に家中が崩壊するなかで、唯一に近い壮絶な徹底抗戦していたりと
諏訪衆との結びつきが強かったのは事実らしいけどね
130 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 12:09:09
勝頼陣代説では正統当主を勝頼の息子信勝としているが
この信勝という名前は信玄在世時に決められていたそうな
当時の信勝はまだ年端もいかない子供だったにもかかわらず
武田家通り字である信と勝頼の勝、というか勝は信玄の幼名が勝千代なので
そこから取ったのかもしれないが、いずれにせよ、この二つを合わせた信勝の名は未来の武田家当主となる予定を感じさせるな
信玄が在世中に既にこの名前を定めていたとするなら、軍鑑にあるように信勝が未来の武田家当主として定められていうのは
案外あるのかもしれない。ただそれは勝頼を当主とする事を否定するものではなく、
一次資料などと照らし合わせてみるならば、あくまでも当主勝頼の代が終わった後を継いで当主に就任する事を定められていたとみるべきで
むしろ諏訪家から武田家の当主となった勝頼の息子を未来の当主として定める事で
勝頼とその系統を正統な武田の嫡流と位置付け、勝頼の当主としての立場を確立させる為に行われたと解釈できるのではないかな
勝頼陣代説というのはそれの逆算、あるいは誤解から生まれたのかもしれん
131 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 23:15:26
強すぎる大将と評される勇猛果敢な勝頼はなんか嫌いになれないですね
一手の将であるにもかかわらず
駿河蒲原城に突撃して一番乗りを果たした時代の勝頼は輝いてるよね
猛勇の将っていう感じで信玄の戦略知略があってこそ輝く人だったと思うなあ
133 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 00:05:31
勝頼の勇猛さは信玄よりも信虎の血が濃く出たのだろうか
134 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 11:22:28
つーか武田氏は歴代でみると信虎とか武田信長とか遠い祖先の甲斐源氏とか
勇猛果敢なタイプが結構多い
信玄の肖像画をみると小柄で貴族っぽいのにな
信玄は確実な肖像画とされているものを見れば細面で貴族顔
軍鑑の逸話とか見れば若いころは読書好き、和歌好きの文学青年だったようだしね
勇猛果敢な信虎とはそこら辺の肌合いの違いで仲が悪くなったのかも
137 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 20:57:28
勇猛果敢な勝頼が最後は決戦出来ずに終わってしまったのが残念
勝頼は自身でも「いざ死ぬ時も切腹などしたくない。
相手さえあれば戦って切り死にしたい。」と言っていたんだそうだ
これほどの勇敢な人だから
かなわずといえども敵の大軍相手に華々しく決戦して散るという死に様を望んでいたように思える
そこら辺の考えは源平武者みたいだよね
源平以前から続く名家として勝頼はそういうのに美意識を感じてたのかな
勝頼は最後に死ぬ時も自ら太刀を抜いて6人を切り倒して死んだんだよな
個人的武勇じゃ相当強い
ますますもって知略家・文学青年肌の晴信とは違いが…と思ったら
晴信も上田原では太刀を抜いて戦って浅い傷を負ったりしてるんだっけ
そういった果敢さは武田家の血か
義信が家督継いだら晴信における信繁ポジションになっていたのかな。
142 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 11:37:37
ありえそうだ
ただ勝頼の勇猛な気質からして
義信が総大将なのを幸いに前線で一武将として暴れてそうだ
未熟な英雄、不完全な英雄って感じの勝頼が好きだ
荒削りながら最後まで戦い抜いた勝頼には
知略家で老獪な信玄とはまた違った良さを感じる
>>142 てか義信も川中島の逸話とか見ると結構猛将系な気が…
信玄はバランス型だよね
146 :
日本@名無史さん:2010/01/24(日) 01:27:56
勝頼は勇猛かもしれんが、設楽原では引くことを知らずに無謀な戦をするし、
能登、加賀を謙信に席巻されて、あわてた信長が同盟を申し込んできたのに不決断、
御館の乱に介入したはいいが、金に目が眩んで同盟の北条を裏切り、
北条、徳川の同盟などが成立して東西の敵の連携にあい、奔命に疲れるばかり。
高天神では城将もろとも、ほとんどの将兵をムダ死にさせるし、
諏訪上原城に一万五千を率いて入りながら、なにも動かずに逃亡者続出で自壊...
とほほ
そういった不器用ながらも自分の勇敢さを頼みに最後まで戦い抜いた所が
器用な知略家の信玄とはまた違った意味での良さなんじゃないかな
父に及ばず政略知略において未熟でいろいろ後手に回ったり失敗したりしながらも
勝頼はよく頑張ったと思うよ
御館以降北条が敵に回った後も、鎧も着けずに武器だけで突撃して城を攻略したりして北条相手には優勢に戦いを進めたり
徳川に急襲を仕掛けてを追っ払ったり勇敢に戦ってる
死ぬ時も最後の最後まで太刀をふるって敵と戦って死んだ
その生き様にはお疲れ様といってあげたいねえ
そうしてみると、やはり良くも悪くも先手の将って器というか、そういうポジションでこそ
輝く人物なんだろうな
当主としては贔屓目にみても二流どまりじゃないの?
149 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 19:11:48
まあ当主としてみれば多分そんなもんだろうな
当主としては二流、先手の将としては一流、それが勝頼という人間なんだろう
150 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 19:19:43
軍鑑によれば三方ヶ原で勝頼隊は千に満たない数でありながら
敵軍勢の兜首を六十三も討ち取って、参戦していた武田勢の中で一番の手柄をあげたそうな
一部将としての勝頼はやっぱり強い
怜悧な信玄と違って勝頼は所々感情的というか人間臭いよね
そこら辺、やっぱり信玄は当主として一流だと思うわ
152 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 21:43:42
ただ、謙信の後継ぎ候補が景勝・景虎
信長の後継ぎ候補が信忠・信雄・信孝
家康の後継ぎ候補が信康・秀忠
こうやって周囲の当代一流当主達の後継ぎ候補達と比べてみると
勝頼はそれ程悪くない気がするわ
三方ヶ原では勝頼が千に満たぬ備で持って
家康本隊に斜めに切りかかって切り崩し、敗走させてるんだよね
この経験や当主になって後の果敢な戦闘の挑みようからも
勝頼にしてみれば武勇じゃ家康に負けない自信があったかもね
154 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 00:38:43
三方ヶ原じゃ馬場美濃もいつも通り活躍してるな
左翼で徳川勢を撃破してる
事故なく勝たり、と書いてあるから本当に自然に勝ったんだろう
戦巧者の馬場美濃らしい
155 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 03:13:26
家康は信玄お得意の誘い出しの罠に引っかかったんじゃね
だろうね
家康が関ヶ原で西軍をおびき出したのは
三方ヶ原で信玄にやられたのを真似た、とか言われてるしね
157 :
日本@名無史さん:2010/01/29(金) 00:11:03
内藤さんって地味だよな
一応武田4名臣の中でも結構な地位と立場を持ってるのになんでこうなんだろうな
武田4名臣の一人にして西上野20万石以上を管轄
直属兵力も多くて信玄の数多くの戦いに参戦し活躍も豊富
信繁亡き後の武田の副将とも呼ばれ、北条との再同盟では全権大使もやったりしてる
それでもなぜだか地味な内藤さん
159 :
日本@名無史さん:2010/01/29(金) 01:13:35
他の面子が濃すぎるのが原因ではないですか
160 :
日本@名無史さん:2010/01/29(金) 01:15:53
内なる藤ということで
161 :
日本@名無史さん:2010/01/29(金) 01:42:39
不死身の馬場美濃、赤備の山県あるいは敵なし源四朗、退き弾正の香坂
他の4名臣がカッコイイ異名持ってるのに内藤さんにはなぜかないな
162 :
日本@名無史さん:2010/01/30(土) 20:01:08
山県や馬場は先鋒大将とかよくやって派手だけど内藤さんは地味な役回り
やっぱり先鋒とかやると目立つよね
ところでオードリーの春日って
春日虎綱の子孫か?オードリーみると
大河ドラマの甘利と高坂なんだってのが
いつも頭に浮かぶ。それから相武沙季みると
上杉武田家なんだってのがいつも思うよ?
165 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 00:56:21
どうみても日本人の顔ではない方か?
166 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:19:35
武田軍副大将・穴山陸奥入道は、長篠の戦で撤兵を主張したが、勝頼が聞きとげないため、
怒って単身長篠から撤兵した
まあ単身撤兵しちゃうのもどうかという気はするけど
倍以上の兵力が鉄砲を構えて待ち構える陣城に突撃して来い、なんていう命令は穴山にしてみてもやってられるか的なものがあったかも
168 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:45:47
長篠城を攻囲していたときに、奥平の家臣・鳥居を磔にしたのは、やはり勝頼の狭量さを物語るものだと思います。
あんなことをすれば、山家三方衆のみならず、徳川方の恨みを昂進させるだけ
徳川家康は、旧武田家臣を数多く召し抱えたが、人心のつかみ方が流石だ。
旧家臣団が心酔する信玄には敬意を表し武田流の兵法を採用して自尊心をくすぐり、
旧武田家を滅亡させた勝頼はアホ扱いして、敗北を勝頼一人のせいにして、家臣団の
面目を施した。
しかし、勝頼は、実際問題として、将の器ではないよな。
170 :
日本@名無史さん:2010/02/01(月) 08:11:01
中国風に言うなら勝頼は「兵の将」の器ではあるんだろうが「将の将」の器ではないんだろう
総大将や国主としてはともかく、先手や一部隊の将としては勝頼はすぐれた猛将だ
武田家って装備や訓練についての指示書きが結構あるよね
そういう事に気を配ったのが精強な軍団を作り上げたんだろうね
172 :
日本@名無史さん:2010/02/01(月) 22:26:01
信玄時代から「鉄砲を集めろ」という命令が出て鉄砲の訓練も奨励され
勝頼時代になった直後に「鉄砲の訓練をちゃんとしとけよ」と念押しがでてるくらいなのに
なぜか後世で鉄砲軽視してたとか言われる武田家
173 :
日本@名無史さん:2010/02/02(火) 00:21:37
硝石の輸入ルートを確保できるか否かが運命の分かれ目
運命の分かれ目という程の差だったとはとてもとても
175 :
日本@名無史さん:2010/02/02(火) 05:34:58
大きくなりすぎた織田を相手にするには、
武田・上杉・北条の三国同盟を集結させるべきだったな
176 :
日本@名無史さん:2010/02/02(火) 21:00:52
信虎時代以前は甲斐一国すらろくに統治してなかった武田家が
晴信時代に大拡張して120万石以上の大大名になって天下の政局にも絡むなんて
信縄時代とかは考えられもしなかったろうな
177 :
日本@名無史さん:2010/02/03(水) 12:07:40
勝頼も活躍した駿河蒲原城攻略戦は好きな戦いの一つ
北条家が一門衆を配置して頑強に守りを固める「東海道一の天嶮」と謡われる要害蒲原城を
激戦の末に一日で陥落させた信玄の手腕と武田軍の精強さは見事
あの戦いって戦闘が終了した直後に出された書状をみると
一回野戦があったみたいね
複数の書状を総合してみると
武田勢がまず城下町を放火して蒲原城の北条勢が総勢で出撃してきて
それを武田勢が迎撃して撃破、北条勢が城に退却、
その後で勝頼が武田勢の先陣切って突撃して乗り崩し
激戦の末に城内の北条勢は将から兵に至るまで全滅、って感じかな
信玄お得意のおびき出し戦術がうまく決まったみたいだね
179 :
日本@名無史さん:2010/02/03(水) 19:55:41
勝頼と一緒になって蒲原城を乗り崩した信豊も忘れないであげてくれ
180 :
日本@名無史さん:2010/02/04(木) 18:54:55
蒲原じゃ武田勢の主だったものには一人も負傷や死んだ者がいなかったそうな
武田拡大の要因ってなんだろう
やっぱり戦の強さじゃないか
土地が貧しかったからねえ
兵も必死だったのか
こんなの見つけた
結構的を得ていると思うんだけど、どうなんでしょう?
115 名前: マリーゴールド(catv?)[] 投稿日:2009/05/06(水) 23:08:29.37 ID:4F1+FiGy
田舎の小沢みたいな政治が、都市の市場経済的勢力・価値観に打破されたのが、
武田の滅亡の本質。
織田信長という1人の天才がカリスマで制圧したのではなく、
あの勝利は必然だった。 都市の経済が十分な資本を蓄積して、封建的な価値観を打ち破れるまで成熟していただけ。
農村が余剰人口を養えるだけ発達し、都市を生み出し、市場経済と都市市民層は、封建的な武田のような支配者ではなく、
自分たちを庇護してくれる自身も都市出身の信長を支援した。 武田対織田・徳川ではなく、
前近代と近代の戦い。 武田はかならず滅ぼされなければならなかった。
>>184 全然的を得てない
まーた10年くらい前と同じように過大化された革新者像を信長に投影して
反対に保守的(と思われる)像を武田や反信長勢力に投影してわかったような気になってるだけ
実際は織田は革新的な勢力なんてとてもいえるもんじゃない
>>184 >田舎の小沢みたいな政治が、都市の市場経済的勢力・価値観に打破されたのが、
>武田の滅亡の本質。
実際は武田も市場経済を奨励し商人や職人の保護育成を行ってるね
>あの勝利は必然だった。
信玄西上で方々手ふさがりだと大ピンチになっていたのが信長陣営です
>都市の経済が十分な資本を蓄積して、封建的な価値観を打ち破れるまで成熟していただけ。
>農村が余剰人口を養えるだけ発達し、都市を生み出し、
戦国時代に活躍した都市は戦国時代以前から拓けていた所が多いね
武田が作った甲府は戦国時代に興されて興隆した都市だけどね
>市場経済と都市市民層は、封建的な武田のような支配者ではなく、
>自分たちを庇護してくれる自身も都市出身の信長を支援した。
武田が封建的というなら信長も十分すぎるほどに封建的。
楽市楽座とか言うのも大抵は元からあったのを追認したのばっかり。
信長は銭を要求して本願寺と対立したり、別に過剰な庇護してるわけじゃない。
>武田対織田・徳川ではなく、
>前近代と近代の戦い。 武田はかならず滅ぼされなければならなかった。
完全な結果論。どっちも戦国時代において興隆した2大勢力であっただけ。
織田を近代というなら武田の方もそれに勝るとも劣らないくらい近代への道を歩いてる。
187 :
日本@名無史さん:2010/02/07(日) 23:53:51
いまだに信長を近代、武田を前近代、といった妙な区分けをしてる奴がいたのか、
と思って
>>184のレス日付を見ると半年以上前のレスか
それでも時代錯誤な感じがするが
2chではとんでも説を、さも世間一般の常識のように語る人間が、幅を利かせてるから面白い
>>184にあるようなとんでも説は2chでもそれこそ珍しいと思うけどなw
>>184にあるのは、ぶっちゃけ10年くらい前のメディア本や娯楽本の影響受けてる感じだろw
小泉改革の時とか酷かったよね
明らかに信長側を小泉陣営に仮託して「改革者」と呼んで持ち上げて
武田を始めとする反信長側の勢力を小泉陣営の敵に仮託して
「抵抗勢力」とか「古い利権を守ろうとする保守勢力」とか呼んでた
信長と敵対した勢力もほとんどがそこ数十年程で興隆した勢力だったのに
あまつさえ結果論を振りかざして、そこから逆算して武田の滅亡は必然とか
そんなとんでも説がまかり通ってた
まあ、10年くらい前は不況の中で誰もが
小泉政権を始めとした「改革」とか「革新」といったものに夢を抱いて
それを歴史観に投影していたんだろうけどね
良く見ると
>>184にあるレスでも「田舎の小沢みたいな政治が」と
自分の嫌いな政治家を武田に仮託して、近代的なイメージを信長に仮託してる
なんかこういう現代政治と無理にリンクさせるのやめてほしいね
191 :
日本@名無史さん:2010/02/08(月) 22:48:53
なんか詳しそうなので
誰かここにいる方で信虎末期から晴信初期にいたるまでの流れを
詳しく解説してくださる方いらっしゃいませんか?
193 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 20:03:09
>>192 レスありがとうございます
武田信玄というと長尾、北条、織田、徳川、といった有名大名との戦いが有名ですが
それ以前の信濃侵攻やそれに至る信虎末期の状況といった下積み時代を知りたいと思いまして
ここの方々に出来れば詳しく解説して欲しいと思ったんです
>>193 なるほどねー
それなら自分で良ければ自分なりにまとめてみるけど、どう?
195 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 20:50:57
>>195 んじゃやってみるか
ただ信虎末期から信濃侵攻を詳しく解説となると結構長いから
部分毎にまとめて投下していく事になると思うよ
リアルの都合もあるので各投下の間隔もある程度空くと思うけど
そんでもいい?
さすがにそれはやめてくれw
その間他の話題が振りにくくなるし
198 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 21:04:27
なんか意見が二つに分かれちゃったな
どうしたもんか
まあ意欲は認めるが、ここに直接投下しないで、テキストにまとめたものをアップローダとかにうpして
ここにリンク貼るぐらいにとどめてくれ
たしかにここに長文レスを連投とかはやめてほしい
202 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 21:11:33
投下の間隔については別に気にする事ないんじゃね?
このスレも日本史板らしく過疎スレなんだから
見たい人だけが見て
見たくない人は見たくない人で好きに話すればいいだろうしな
出来れば読んでみたいな
なんで長文いけないのかわからない
スルーすればいいじゃん
どっちにすりゃいいのよ
スレが見辛くなるからなあ
直接書き込むのはやめてほしい
206 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 21:18:38
見辛くなるか?
2chのスレで長文が書き込まれてるスレなんていくらもあるじゃん
>>204 まあ俺は読みたいけど、見難くなるって人もいるみたいだから
>>200みたいな方法でやればいいんじゃね
歴史難民板にでもそれを投下するスレでも立てたらどうだろうか
そんでこちらにはそのスレのリンクを貼って投下されたら報告していき
見たい人はそっち行ってみてみるとかどうだろ
210 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 21:23:54
まあなんにしろ此処に直貼りじゃなければいい
自演臭いなあw
>>218 >>196の者だけどスレ立て乙
自分なりに頑張ってまとめられるように頑張りますわ
一回目の投下はなるべく早く投下できるように頑張ります
>>196頑張れ
このスレのネタでも振るか
秋山信友好きな奴いないか?
俺は結構好きだ
221 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 22:40:16
信友というか虎繁さんは信玄が1573年3月に出した書状で
「信長が東美濃まで出てきたようだ、すぐさま其の地に向かい追い払え」
とあるのがカッコイイ
秋山の一手で持って信長に当たりうる、それだけの信頼をよせられていたんだな
軍鑑によると秋山の戦い方が信長と相性がいいので
美濃方面担当になったとかあったような
同じ理屈で徳川と相性がいい山県がそっちの担当になり
騎馬を得意とする関東衆には内藤を
夜戦や伏兵を得意とする北条勢には小山田を
仲間が倒れてもその屍を越えて突撃してくる越後勢には香坂を
それぞれ相性を見て担当としていたらしい
223 :
日本@名無史さん:2010/02/10(水) 13:40:42
別にそれらを一度に相手にしてたわけじゃないものな
信玄時代では上杉相手にしてた時は北条・今川と同盟
北条相手にした時は織田徳川・反北条勢力と同盟、上杉と和議
織田徳川を相手にした時は北条・信長包囲網勢力と同盟
信玄時代の武田は可能な限り敵を減らす外交努力を行っている
225 :
日本@名無史さん:2010/02/11(木) 21:44:18
猛将肌である勝頼や信虎と違って
信玄は文学青年肌で線も細い感じだが
>>222のように家臣たちの特性を見てそれを使いこなす事に長けているな
まさに将の将という感じだ
馬場美濃守について教えてほしいのだけど、この人って信玄時代ともなれば宿老ながら
朱印状の発給数は少なくて、軍政にもあまり参画してない様な事を耳にした憶えが
あるんだけど、実際のところはどうなの?
そうだと、なんだか跡部や原、山県とはどこか一線を画した存在だったのかな…とか
感じてしまったのだけど
一線を画した存在というか、馬場美濃と跡部や原、山県、それに土屋、といった連中は立場が違う
山県や原達は信玄の側近として武田宗家が領国全体を統括するのを補佐し、あるいは軍政に関わり、と諸々の事務に携わっていた
対する馬場美濃は信濃中部深志城を最初に拠点とし、次に牧之島城に入り、
海津城代として北の強敵である上杉に対抗する春日虎綱(香坂弾正)のバックアップをすると共に
信濃中部から飛騨越中にまたがる地域を管轄とし、飛騨の江馬氏、越中の椎名氏を相備衆としながら
その方面の情報収集も行っていた
よーするに山県や原が信玄の側近くで政務の補佐や事務を行っていたのに対し
馬場美濃は外地で敵最前線に近い場所を管轄地域とし、外部勢力と相対する事を主な仕事にしていた、ってなわけだね
228 :
日本@名無史さん:2010/02/12(金) 18:05:18
馬場美濃は同じ外地組の香坂や内藤と比べても、信玄の側近を経ずに
下級武士から軍事的な活躍を重ねて宿老まで昇った事や
信玄が率いた軍事作戦のほぼ全てに参加したという事実や
主要な合戦では必ずと言っていいほど活躍が見られる事を見ても
バリバリの軍事系だった事が見てとれるな
それでも朱印状とかもやってないわけじゃないんですけどね、馬場美濃
山県や原といった連中と比べると書状数は劣りますが
武田の中じゃあ成り上がりだから、あんまりないんだろ
原昌胤とかも父親の昌俊さんの事績が一昔前の山本勘助よろしく一次資料の裏付けがないそうで
実質的に資料に現れてくるのは昌胤さんからなのに
信玄の側近として重きをなし、数多くの書状や朱印状を発給してるんですよね
内藤は追放されて他国で微禄で過ごしていたのから帰参した人間ですし
春日にいたっては農民の子供です
ただ彼らは山県も含めて信玄よりも年下だった事と地位もそれ程でなかった為に、
最初は信玄の側近として仕えた経験をもっているんですね
おそらく武田領国の主導権と権威の確立をもくろむ信玄は、自らの手足となるものを用意する為に
意図的に優秀な若者を側近として集めていたのでしょう
そして教育を施された彼らは長じてから信玄の手足となり、武田の中枢や重要地域の管轄を担っていくわけですが
馬場美濃さんは年齢が信玄よりも7歳近く上ですから信玄が初陣した時にはもう既に成人しており
現場働きをしていたんですよね
この為、信玄側近として仕える事がなく、現場での武功がメインになっていったのは自然な流れとも思いますね
それでも信玄が馬場に目をかけていた事は数々のエピソードから伺えますが
232 :
日本@名無史さん:2010/02/12(金) 20:42:08
朱印状って武田朱印状?
前、某旧家で見たのだが
定と書かれてあって武田竜印を押して奉行人(?)として名前書くやつ?
それとも直々にだすの?
>>227-229>>231 なるほど、どうも
言われてみればたしかにそんな感じに判断できる材料は幾つも自分のおつむにもあったのに、
結論づけていけずに訊いた自分が恥ずかしくも感じた
丁寧に答えてくれた皆さんに感謝します
>>232 武田朱印状の事
武田竜印押してるのは竜朱印状と言われ
それに名前が書かれてるのは奉行ではなく奏者
ちなみに勝頼期には獅子印を押した獅子朱印状というのも作られた
235 :
日本@名無史さん:2010/02/12(金) 21:46:45
馬場美濃と山県三郎兵衛が武田の武の双璧って感じだな
漫画センゴクでもそんな感じに描かれていたが
内藤修理と原昌胤が武田の地味な裏方の双璧って感じだな
漫画センゴクではそんな感じに描かれてなかったが
>>232 >>234も言っているように竜朱印状なら武田の朱印状だね
その某旧家で見たのはどんな内容だった?
238 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 07:29:43
>>237軍役感状らしいけど自分には読めなかった。
そっか、残念だ
山本勘助実在の証拠となった、あの市河文書ももとは一般家庭の奥様が
大河ドラマで信玄の書状が紹介されてるのを見て
自分の実家にも同じようなものがある事を思いだして鑑定を依頼したから世に出たもの
>>238の書状の内容も実はまだ見ぬ大発見が眠っているかも?
山県はオールマイティな感じ
原虎胤の方は奏者はやっていないの?
確か虎胤はやってなかったはず
原虎胤の方は奏者としての活躍が顕著な原昌胤とは同姓だけど別系列だしね
原虎胤の方は足軽大将(それも預けられた兵力で言えば武田家歴代の足軽大将中で最大)として
前線での戦いで生涯をすごしていた人で、戦で受けた傷は50近くあったとかいう真性の現場人間
243 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 11:54:38
原美濃がもともと鬼美濃と呼ばれていて、信玄がそれにあやかって馬場に美濃守を名乗るように命じた事で
不死身の馬場美濃が登場するんだよな
馬場美濃は原美濃の後継者みたいなもんなのだろうか
もっとも、同じ現場人間でも原美濃が生涯で50近い傷を負った力戦派であるのに対し
馬場美濃は最期に死ぬまで戦場ではかすり傷一つ負わない巧みさがあったが
およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。
その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。
たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。
すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり
良い言葉だね〜
245 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 09:43:38
別の言葉で「勝ちは6分7分でやめておけ。8分は危うい。」というのがあるから
7分くらいまでは許容範囲なんだろうな。
虎胤の頃はまだ定型化された朱印状は無いはず(永禄年間以降だろう)
だから奏者って概念はあったのかな?
ただ、竜印自体はその頃には存在したはずだから署名、竜印はあるかもしれないね
為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ
信玄の名言と言ったらこれもいい
上杉鷹山の言葉とされちゃってるけどなw
248 :
日本@名無史さん:2010/02/16(火) 12:55:53
後途の勝ちこそ最高とも言ってるな
後途の勝ちっていうのは最終的な勝利って事だよね
焦って大きな勝ちを無理に急いで狙うのではなく、着実な勝利や策略を積み上げて最終的な勝利をものにしていきなさい、って事を言ってるんだね
250 :
日本@名無史さん:2010/02/16(火) 22:03:52
山県の直卒は300騎で
駿河・三河・遠江・あるいは信濃の一部の相備衆を加えると合計980騎になるんだっけか
その信濃の一部って小笠原信嶺の事だっけ
山県と小笠原信嶺が一緒に行動して戦闘している事は
1571年の徳川遠征を示した書状で
「山家三方衆を案内とし、小笠原・山県が人数を相添え、菅沼勢を追い打ちし、悉く討ち取った」という
内容の書状からも明らかだね
252 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 12:13:56
軍鑑では山県と原昌胤をもって武田家政治最高職である両職としているが
確かに信玄晩年に出された書状や朱印状では、この両名が連名して記名しているものが結構あるな
確かに
やはりこの二人は軍鑑にある通り信玄を支える武田家政治機関のトップにいたのだろうか
254 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 19:55:47
最盛期の武田領は100万石ぐらい?
120万石ぐらい
最盛期なら確実に120万石くらいいってるはず
257 :
日本@名無史さん:2010/02/18(木) 13:01:53
センゴクの山県カッコヨス
>>171 でもその内容はなさけないのもあるのがおかしい
「乗馬、歩兵とも甲(かぶと)を付けろ、見苦しいものでもいいから早く用意しろ」信玄(1569)
「ちかごろ諸軍の矢靫(やうつぼ )があまりに見苦しいのでもっとマシなものを持って来ること」勝頼(1575)
見栄え良くする苦労もあったんですね
それは北条家とかでも同様
「小旗をちゃんと持ってこい。小旗を持ってないと、(敵側に)いないように見えるから。」
「腰差の類は武者めくように」
「小旗を新しい布で作りなおせ。武具をよく磨いておけ」
「馬上侍は兜をちゃんとつけてこい」
「侍は兜に前立て物をつけないで参戦したら処罰するぞ」
「輝羅美しくしろ」
などなどの見栄えに関する指示がいくつもある
武田にしろ、北条にしろ、ただ人数を集めればいい、というのでなく
見栄えにまで細かい指示が行き届いているのは大名権力や組織が進歩している証拠といえるんじゃないかな
村上義清は長槍戦法が得意だったんだっけか
大将が得意とする戦法によって武装の傾向も変わりそうだね
261 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 12:23:36
上杉は軍役張を見ると槍が多い
まあこの時代は大抵そうだろうが
262 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 13:00:30
当時の得物は槍が主流だからな
そこで我らが武田騎馬軍団は当然騎馬が…
なんてことはいいません、ええ、いいませんとも
264 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 17:02:21
最盛期の武田氏は、甲斐・信濃・駿河、西上野、遠江の大半、奥三河の一部、北飛騨・越中の一部を領有し、
総石高150万石、動員可能兵力3万7千であった
265 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 17:07:48
鬼美濃といわれた原美濃守の跡継ぎと、川中島で陣没した諸角の跡継ぎが、三河弐連木城攻めの手柄争いが原因で不和になり、
その後刃傷沙汰を起こしたがために両名とも侍大将の身分を剥奪されたというのは本当ですか?
その二人の役職は確か使番だったはずだよ
その逸話のもとは確か軍鑑だったと思うので
確実にあったとは言い切れないけど、
両家の消息がその後、途絶えているのは事実だね
原美濃の息子の一人は横田氏に入って続いてるけどね
元亀の頃の家康の立場にだけはなりたくない
でも永禄末期から元亀年間の武田は武田で随分と軍役が重そう
最後の遠征の軍資金の捻出にも苦労したとか聞いた憶えあるし
>最後の遠征の軍資金の捻出にも苦労したとか聞いた憶えあるし
そんな話あったかな
資料上では特にそんな話ないと思うけど
最後の西上は武田家総動員の構えだったな
東美濃に派遣した部隊も含めれば総勢で3万近い兵が動いてる
最初の諏訪攻めは鮮やかだったと思う
最後は廻りに敵を抱えすぎたけどね
戦争の負担に耐え切れなくて最後はほとんど内部崩壊だし
勝頼は御館の乱での失敗が痛い
信玄時代は北条・里見・佐竹・朝倉・浅井・本願寺・伊勢長島・北陸一揆衆、と
多数の味方を揃えて多方面作戦を避けていたというのに
信玄は外交が得意だよね
生涯の最後においても見事に外交で戦略的優位を作ってる
織田、徳川、北条が敵ってのはもう絶望的な状態だなあ
信玄時代には一回北条と敵対したけど駿河攻略の後で再同盟したのにね
勝頼にしてみれば西が織田・徳川で敵対している以上、
北条との関係を敵に回す事がどれほど危険であるか、わからなかったのだろうか
勝頼も長篠の後でわざわざ北条から嫁をもらって同盟強化に努めたんだから
その重要性は理解できていたと思うんだけどなあ
なぜわざわざ切るような真似をしたのか
資料から見るに勝頼の御館での行動は北条との同盟も維持したいし、景勝からの贈り物や領土も貰いたい、という
無理に両方と結ぼうとした揺らぎの結果に見える
北条家からの嫁取りは軍鑑によれば香坂弾正のしつこい献策によったもの、とされていますね
案外勝頼は北条との同盟に重きを置いてなかったのかもしれません
勝頼は自分の武勇に自信を持っていたようですし、北条戦は有利に進めていますからね
北条から来た夫人との夫婦仲はよかったようですが
たださすがに織田・徳川方面への対処をしないで北条まで敵に回したのは勝頼の外交的失敗ですね
勝頼は北条と敵対した後で慌てて織田と和議を結んで北条戦に集中しようとしましたが
うまくいきませんでしたし
余談ですが武田の関東出兵というと利根川がしばしば書状に出てきますね
利根川が増水して渡れない〜というような感じの
これは北条や上杉も同様で、しばしば利根川の増水問題で出兵に支障をきたしています
279 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 22:01:53
利根川は関東無双の大河とされているからな
底は深くて流れも速く、しかも定期的に増水するときた
武田・北条・上杉はしばしばこの利根川の増水によって立ち往生したりしてるな
>>277 勝頼なりには何か考えがあったのだろうか
>>276の方も言っていますが
勝頼は最初から北条との同盟を切るつもりではなかったと思います
景勝から出された条件が切り捨てるには魅力的すぎ、
かといって北条との同盟も失いたくない、
それで中途半端な態度に終始した結果、景虎を見殺しにする羽目になり
なし崩し的に北条との敵対に至ったというように見えます
北条との敵対を意図的にやっていたとするなら
敵対した後で慌てて織田徳川との和議を推進する事はないでしょうしね
北条と敵対した後の勝頼の戦略は信玄がやった対北条戦略の模倣だろうな
北は上杉と和し、関東諸侯と同盟して北条包囲網を構築、武田は目標地に正面から主力で侵攻、
と言った感じで酷似している
しかし信玄が北条と戦った時は事前に織田徳川と結んで西を抑えた上で北条と敵対し、
そこから北の上杉、東の関東諸侯に外交を展開して包囲網を作り上げたが
勝頼の場合は西を敵に回したままで北条とも戦端を開いた事で後手にまわったな
信玄が上杉と講和したことがあるんですか?
ありますよ
いわゆる甲越和与ですね
信玄が北条と敵対した時、信玄は京の足利義昭に働きかけて上杉家との仲立ちをさせ、
そこから上杉と和睦する事に成功しています
これによって上杉と結んで武田を包囲するつもりだった北条の目算は外れ
逆に武田は北の脅威を封じた上に関東諸侯との同盟にも成功して北条包囲網を形成した事から
戦略的な主導権を握る事に成功しました
信玄は自分の力を冷静に見極めたうえで作戦立ててるんだよな
286 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 23:15:52
さすがは名将
利根川増水で武田も出兵に影響が出た事があったのは上にある通りだが
謙信と北条の戦いもこの影響で決戦が流れたんだよな
288 :
日本@名無史さん:2010/02/25(木) 23:22:04
決戦したいけど利根川増水して進めない事を悔しがる謙信と
増水して戦闘が起こらない事を逆手にとって
「上杉勢を追い払った!」と喧伝して政略を優位に進めようとする北条の
対応の違いが面白い
289 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 01:57:33
謙信はなんで本拠地を武蔵に移さなかったのかな?
290 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 02:58:23
それより謙信は東加賀か西越中に本拠を移すべきでござった
291 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 03:00:46
甲越和与のというのは、信玄が提起した甲越相の三和の偽作とは別件ですか?
まるで別物
>>289 >>290 謙信の侵攻方向(つまり敵対勢力が存在する方向)である北陸・北信濃・東北・上野、といった全ての地域に対し
ちょうど中心部に位置しているのが越後
もし北陸・関東のどちらかに本拠を移してしまえば、そこに偏る事になって他の地域にたいする手当がおざなりになる
294 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 22:02:07
春日山にあっても庄内方面の武藤対新発田の騒乱の調停はうまく行きませんでした。
295 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 22:06:03
武田スレなので
武田の隣国勢力として北条・上杉を見ると
武田が駿河の今川を攻めて攻略した時、上杉・北条の双方に
「武田と今川が戦争に入ったようだが、詳しい情報が入ってこない!」というパニくった書状があるのが面白い
この戦いが武田の電撃戦であった事は勿論のことながら
戦争に入ったらそういった情報のシャットアウトが行われるのが常だったのだろうか
武田はこの戦いの前に上杉に対する陽動攻撃もやってるから
それらを含めて考えると随分周到なものだ
結局謙信は信玄の第一次駿河侵攻の顛末を
飛騨口から経由した情報で知る事になるんだよな
信濃口からの情報は遮断されてたようだから
三方ヶ原での家康は坂を上ったらいきなり武田の大軍が待っていてビビりまくりだったろう
298 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 22:52:04
それでも徳川は破れかぶれになったのか
果敢に突撃してきたそうな
結果は跳ね返されて大敗したが、馬場美濃も徳川の戦いぶりを褒めている
むしろ織田兵の方が戦う前から敗色を見せていたそうな
佐久間とか急いで退却して後でこの事を追放の理由の一つにされてる
西上野の小幡兄弟も目立たないけどこの戦いで活躍した武田武将の一人
駿河攻略があらかた終わった後の1571年8月16日の書状で
信玄は佐竹に「要望があれば後詰をしますよ。当方にはただ今は向かう敵無く隣国は服しちゃってますから。」
と述べてる
北条戦を優位に進めてる事の余裕が出ているのだろうか
対北条戦は武田の外交的躍動が凄い
外交的には完全に主導権を握っていたね
ようやく書き込めそうだ
なんか2chがとまってたね
武田は100人単位の部隊を率いる中隊長クラスに優れた人材を多数もっていたように見える
305 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 20:51:01
ローマ軍も100人隊長の質が強さの一因だったといわれているのと同じようなものか
中隊長クラスに優れた人材が多数いる軍は強いみたいだな
武田の24将って信玄を入れるのと入れないのがあるよね
信玄を除いて一般的な顔ぶれをあげれば
1.武田四朗勝頼
2.武田信廉
3.穴山信君
4.小山田信茂
5.板垣信方
6.馬場信房
7.内藤昌秀
8.原虎胤
9.小幡虎盛
10.甘利昌忠
11.横田高松
12.多田満頼
13.山本勘助
14.山県昌景
15.秋山虎繁
16.香坂虎綱
17.土屋昌続
18.原昌胤
19.三枝昌貞
20.真田信綱
21.真田昌輝
22.武藤喜兵衛昌幸
23.小幡信実
24.真田幸綱
こんな感じかな
307 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 20:58:47
甘利虎泰が入ってないな
信繁が入っている場合もあるし、小山田が入らない場合もあった様な
飯富虎昌も入れるべき
真田が入りすぎだろ
真田本24将図の影響か?
真田の昌輝と昌幸入れる必要はないだろ
その二人を抜いて甘利虎泰と武田信繁入れて
小山田を省いて飯富虎昌入れればちょうどいいんじゃ…と思ったが
小山田と飯富ってどっちも捨てがたいな
どっちも兵力的にも軍功的にもいい
小山田を最後の裏切り者として省くなら穴山も省くべきだろうしな
311 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 00:58:41
全時代を24人で構成するのに無理がある
別に24人=全時代の武将全て、というわけでもなし
24人=武田信玄時代における代表武将トップ24、という事だから
業績や能力、役割、存在感とかで24人入れてけばいいんじゃね
313 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 19:38:22
武田勝親や穴山勝千代が生きていれば江戸時代も甲斐武田家二十万石だったのに
>>310の一覧で真田昌輝と昌幸を抜いて甘利虎泰と武田信繁入れる事はできる
だけどあと一人誰を抜いて飯富を入れるかが微妙
穴山と小山田はやっぱり武田の歴史に重要なので入れておきたい気がする
後は抜けそうなのは三枝か小幡信実だけど、
小幡も上野の精鋭にして外様衆最大兵力保持者として入れておきたい
やはり三枝を抜くしかないのか…
315 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 16:56:19
>>312 信玄時代だけなら真田は真田幸綱だけだな
信綱も入るんじゃないか
信綱は1570年には家督を継いで信玄の戦いに従事してるから
317 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 07:58:33
>>313 勝親って池田恒興に匿われたんだろ?
長生きしてもせいぜい岡山藩家老ってとこだろ
318 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 08:13:32
ここは詳しい方が多いみたいなので伺いたいのですが
駿河攻めの是非はどのように考えられているのでしょうか
しばしば美濃に侵攻していれば・・・などとifが語られているようですが
美濃侵攻とか言う人もいるが
そういう人は当時の武田にとって上杉が最強の敵であった事、
1561年〜1567年までの武田が上杉の勢力を削ぐ為に、
北信濃・飛騨・西上野と三方向に北上して上杉勢力と戦闘していた事を見過ごしている
駿河侵攻は、この過程で起きた武田織田の偶発的戦闘から甲尾同盟成立という事態に端を発した
武田だけでなく、今川や他の周辺勢力も含めた勢力の錯綜の結果であり
武田だけの意思や判断で起きたものでは決してなかった
仮にあのまま武田が攻め込まなくても、いづれは今川が武田を包囲しただけの話なので
是非を問う問題ではないと思うな
321 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 17:15:01
よく小説とかでは1565年の甲尾同盟を今川攻めに向けた布石としてるが
当時の武田は西上野攻略の大詰めだから、さすがにそれはないだろう
上杉との戦いも予断を許さない状況なのに、今川という同盟国を攻める準備を始めるわけがない
武田も今川に「徳川を倒すのに協力するから三河半分頂戴」ってもちかけてたんだけどね
今川に断られちゃったしねー
323 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 20:28:19
>>319 駿河攻めの是非といわれても難しいなあ…
上の人も言ってるように駿河攻めに至った原因は武田だけにあるわけじゃないから
いろんな勢力の思惑が複雑に絡み合って事象を積み重ねた結果として
駿河攻めに至ったわけだから
あの時期の諸勢力の外交は本当に有力大名達の行動や思惑が絡み合って複雑怪奇
武田は盛大にぶっ潰れたから面白いな
>>325 その内の一人だけど気にしないでいいと思うよ
質問とかはスレの話のネタになるしね
太平洋戦争が終わった後に石原が裁判の場所で
「この戦争の原因を問うなら、最初に日本の平和を破ったペリー提督をこの場に連れてこい」
といったというが
駿河侵攻もその流れを見ると歴史って繋がりだなあ、って思うわ
原因を追及するとどんどん過去に遡っていって責任の所在がいろんな所に2転3転する
どの勢力も必死にその時を生き抜こうとして最善の手を打った結果としてそうなっていったんだから
簡単にどこかを悪と言えるものでもないというのが複雑な所だ
329 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 19:07:50
1572年11月20日付け信長書状の一部抜粋
「こちらからは信濃伊那に向けて兵を出し、
遠州では家康と当方の加勢の者共を一手に備え、信玄に向かわせます。
あれこれして(信玄が)敗軍するのは既に案の図(想定内)の事です。」
しかしこの書状を信長が書いた一日前に東美濃岩村城が陥落して信濃への道が閉ざされ、信濃伊那に向かうのは不可能になった事、
これから一ヶ月ほどの間で遠州の家康・織田援軍の連合軍が三方ヶ原で武田に撃砕される事を信長はまだ知らなかった…
その武田の勝利も後から見ると一時的なものだったんだよなあ
一時的じゃないだろ
信玄が死んだからそうなっただけ
>>329にある書状は上杉宛のもので
書かれてる該当部分の上に「春になって上杉が北陸の敵と和睦して春日山に戻り、信濃・西上野方面に進出したら」
という但し書きがつく
しかし上杉と北陸一揆の和睦は信玄が派遣した長延寺実了の画策で壊れ、関東方面も北条の侵攻が続いており
結局謙信は1574年末まで行動の自由を得なかった
一方の武田は岩村を抑えて織田の信濃伊那への道を封じ、
遠州では徳川織田連合軍を撃砕し、信長の手の内を完全に封じた上で
春からの織田への包囲反撃を開始しようとしてる
西上では信玄が見事に作戦で翻弄してる
原文は「被納馬候而」なので「春日山に戻り」というよりも「北陸方面での戦いを納め」の方がいいか
もうちょい長生きしてほしかったですよね、晴信
>>330 三方ヶ原の戦いから長篠の戦いまで、わずか三年なんだよな
あそこで重臣を何人も死なせたのが残念でならないね
>>333 しかし未完で終わった所にも味がある
宿願達成を目前にしてまさかの病死
ドラマになる死に様じゃのう
夢があるよね
あと少しだったのに…
武田の西進は織田・徳川との泥沼の抗争に足を突っ込んでしまった結果になってしまったな
戦役の負担に耐え切れず、最後は内部崩壊に近い形で滅んでしまったな
戦役の負担ゆーても長篠の大敗があってもなお、
直後に大軍を出して徳川を追い払い、
その後も7年間徳川・北条と戦い続け
北条相手に優位に進められたくらい
やっぱり勝頼の御館での失敗から北条を敵に回したのが痛かったなあ
晴信がもう少し生きていれば、織田を倒すか大きく力を削げたでしょうから
そのあとの展開もだいぶ変わっていたでしょうね
>>339 そういう戦いをするために、家臣や民に相当の負担を強いたんじゃないのかなあ
最後の裏切りの連続は、その負担への答えだと思う
>>341 だからそれは長篠の大損害に加えて
勝頼が御館で失敗して北条まで敵に回した結果、戦線が拡大して負担が重なった
北条が敵にならないなら徳川だけが主な相手だから問題はないのだし
>>340 やはり武田は織田に勝ったら比叡山を甲斐近辺で復興させるのだろうか
最後まで忠臣だったのは真田昌幸ぐらいかな?
でも真田の所に落ち延びようとしても小山田さんと一緒の行動とったりしてw
武田は「近江まで行ったら制札あげる」と京都の寺社に言ってますからね
近江まで行く気なら、近江で比叡山を復興させてもよさそうですけどね
武田滅亡の時には仁科も依田も忠義を尽くしてる
依田に関しては鉄壁の防御で陥落しなかった
結局近江に行くのも夢で終わってしまったな
信玄の寿命がもう少しあればなあ
本当に残念
>>345 遠江領の寄進を比叡山系の僧侶に通達してなかったか
近江までいくなら確かに現地の比叡山を復興させた方がよかったかもしれん
遠江領の寄進はいわゆる天領みたいな感じで管理させる気だったんだろうか
>>349 確かに10月3日の書状で言ってますね
「遠江で一ヶ所あげます」と
僧正位をもらった事のお礼みたいですね
比叡山系列の僧侶さんにあげるみたいで
その個人にあてての領地なのではないでしょうかね
そういう約束を多くして織田包囲網を築いたのか
あ、いえいえ
この比叡山系列の僧侶さんにあてての寄進は包囲網とかとは関係なくて
比叡山が信玄に大僧正の位を与えてくれたことへのお礼なんですね
353 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 17:44:41
>>348 駿河侵攻でムダな時間を使ってしまった。
武田征伐と逆ルートで瀬田に武田の旗を立てるべきだった。
今川も北条も協力したであろう。
駿河侵攻を防ぐには時系列をどこまでさかのぼっていじればいいのか…
駿河侵攻が起きた1568年末においてはもう既に武田と今川は一触即発
武田が仮に攻め込まなくても、既に今川は今川で武田に対して塩止めを行ってるばかりか、
上杉と組んでの包囲戦略を進めてる
ただ開戦が起きてないだけで戦争まで秒読みの段階だからなあ
武田にしてみればあの状況では先手を打って今川を倒す方が良策
時間を与えても今川が得をするだけ
何が武田・今川の不仲の原因なのでしょうか?
しかし、今川にしても、武田にしても歴史的大敗を喫してから滅亡にいたるまでが結構長い。
最期は、家臣たちがみな離反してあっけなく滅びるんだけど
>>355 一応は1565年に武田と織田が締結した甲尾同盟が
今川の気に障り不仲になっていったと見られている。
ただこれは武田にしてみれば上杉相手の西上野攻略に集中する為に織田の申し入れを受けたもので
今川を倒すとかそういう類のものではなかった。
しかし信玄の息子の義信もこの同盟に反対したばかりかクーデターを起こそうとして
信玄に幽閉されてる。いわゆる義信事件。
よく誤解されている事だが、この義信事件において信玄は義信をとらえてすぐに死なせたわけではなく、
三年近く生きながらえさせており、義信の死も自殺とも病死とも言われている。
義信が死んだ事でますます今川は武田に対して疑心を募らせ、武田に対して義信夫人の返還要求を進める一方で、
北条と結んで塩止めを行い、また武田の敵である上杉と連絡を密かに取って武田に対する包囲戦略を進めていく。
武田もこれに対して義信夫人を返す代わりに起請文を取って武田・今川の同盟を維持する事を確認させ、
今川の塩止めにたいして他の所から塩を調達し、と対応策を取っていく。
そして武田は今川が上杉と連絡を取っている事を確認する為に、一つの偽報を流す。
それは武田・上杉・北条の三勢力が和睦するという偽報であり、もしこれが本当なら今川にしてみれば
逆に孤立してしまう為、あわてて今川はこの三和の仲介をしたいと申し入れてきた。
これにより今川が上杉とつながりがある事が武田に明白となり、両者の関係は緊迫していく。
この後もいろいろな事があって、その果てに1568年末の状況を迎える。
駿河侵攻とは本当に複雑で長い事象の積み重ねの結果なんだわ。
>>357 どうも
あちらを立てればこちらが立たずといった感じで武田の外交って難しいですね
甲尾同盟が今川の気に障ったとしても
当時の武田は上杉の力を削ぐために西上野攻略を進めていましたからね
ここで織田と戦うとなると優位に進めている西上野攻略が後退し、上杉が力を盛り返す可能性があります
当時の今川は遠州錯乱が起きて領国支配も揺らぎ、三河で独立した徳川を討伐する事も出来ない状態で
とても武田が織田・上杉を同時に相手する場合の助けになりそうにありません。
武田としては上杉と戦うために西を安定させておきたかったのでしょうね。
360 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 21:48:33
西上野攻略はどうなんだろ
上杉と北条の間に入る格好になるから上策とはいえない
というよりも長尾上杉+関東勢力という大勢力の脅威を減らすにはその領地を減らすしかなく、
それは北条単独では厳しい
武田にしても上杉の勢力を削減しない事には他の方向に進めないばかりか、下手をすれば食われる
そこで北条からの要請も受けて武田が西上野に進出、という流れ
第4次川中島で多大な犠牲を払いながらも上杉勢を撃退したとはいえ、
長尾上杉の脅威と大勢力は変化しておらず、北条と組んでの反攻作戦に出たのが西上野攻略戦
西上野攻略戦での信玄の箕輪包囲戦略は見事
363 :
360:2010/03/10(水) 03:15:10
西上野に関してだけど、上野の全何郡(何万石)のうちのどれほどなのか教えてほしい
無知で汗顔のいたりだけども…
>>361 石高という実利よりも、謙信の面子を潰すことが信玄の狙いなんだろうな。
北信濃でも西上野でも同じ行動原理で戦争してる。
>>364 上野は全部で49万石
その内武田が獲得したのは20万石余と言われている
367 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 12:28:01
謙信の面子をつぶす事が行動原理というよりも安全保障上の問題だろうな
第4次川中島の直前では関東管領になって謙信の威光を恐れた北信濃豪族達が
謙信に挨拶に行ってしまったばかりか、本国甲斐でも武田宗家に次ぐ力を持つ勝沼一門が
上杉に呼応して甲斐を乗っ取ろうとする計画を立てて成敗されている有様で
武田は領国崩壊の危機にあった
そこで武田は国内の安定を図るためには上杉に一撃を与える必要に迫られ、国中から文字通り兵をかき集めて第4次の決戦に臨んだ
これで国内の混乱は収拾できたが防衛戦で追い払っただけで上杉の大勢力は依然として健在
安全を確保する為には上杉の土地をこそぎ落して武田の勢力を上げ、上杉の勢力を下げ
パワーバランスを変化させるしかない
そこで西上野攻略戦が進められていく
武田VS上杉はどっちかというと武田が防衛側だという事はあまり認識されてないよな
西上野の和田城防衛戦は武田の対上杉防衛ラインの結実って感じだ
和田城防衛戦について詳しく教えていただけないでしょうか。
前史と後史までカバーしていただけると、とてもうれしいです。
歴史難民の長文スレがdat入っちゃったみたいなので簡単に説明
和田城防衛戦について
前史
第4次川中島の決戦で上杉を撃退した武田軍
しかし越後から上野・北武蔵にまでまたがる長尾上杉の大領土と、
関東全土に広がる上杉派関東諸侯をあわせた大勢力は依然として健在であった
北条は上杉に対する反攻作戦を北武蔵で展開していたが、単独でこれに勝ち抜く力はなかった
そこで北条は武田に対して西上野出兵を要請
武田は西上野を自領土化する事で上杉勢力を削減し、パワーバランスを変化させる事でその脅威を減らすべく出陣
西上野攻略戦の幕は切って落とされる
当時の西上野には、山之内上杉家の重臣である長野一門が西上野の旗頭として存在しており、上州屈指の要害として知られた箕輪城を居城としていた
信玄は西上野攻略の主目標としてこの箕輪を攻略し、長野一門を屈服させる事を目指すが、
当然の事ながら上杉輝虎(謙信)がそれを見過ごすわけがなかった
それだけではなく、箕輪周囲には長野一門と大なり小なり血縁関係を持ち、長野一門を旗頭として仰ぐ西上野豪族衆が存在
よって信玄の戦略は「いかにしてこの箕輪を上杉からも、西上野豪族衆からも孤立させるか」という事がポイントとなる
そこで箕輪城の南東に存在する和田城の戦略的価値が跳ね上がる事になったのである
ストップ
それはスレを立て直してやってくれ
和田城防衛戦の経過
和田城は箕輪城の南東に位置し、上杉輝虎が箕輪に入るためには通らねばならない要所に位置していた
なぜなら上杉輝虎が越後から南下して関東に入る場合、もと山之内上杉の居城にして
長尾上杉の上野支配の首城である厩橋城にはいらねばならない
しかし箕輪と厩橋は利根川が間に存在しており、下流から利根川を渡って箕輪に向かうには和田城を経由する必要があった
かくしてこの和田城が武田上杉の争奪の場となったのである
1562年武田氏の調略によって和田氏は武田家に帰属
これによって武田家にとっては箕輪孤立化戦略の重要な一石が投じられ、上杉としてはこれをなんとかして奪回せねばならなくなった
上杉は連年のように和田城奪回を目指すが、武田は戦略的外交的に主導権を取る事によってその矛先をそらし、和田城への攻撃をしのぐ一方、
和田城に改築を施して防御力を強化、さらには鉄砲衆を大量に配備、横田・土屋・山宮といった部隊を防御戦力として派遣
もともとの和田氏の兵力とあわせ、強力な防衛ラインを構築
満を持して上杉勢を待ち受ける
1565年、上杉輝虎がいよいよ大軍を率いて一挙に攻略せんと和田城に押し寄せる
上杉勢が激しく攻め立てる中、武田防衛軍は横田を始めとして大量の鉄砲を駆使しつつ防戦
激戦の末についに上杉の攻撃をしのぎきり、和田城防衛を成功させた
>>371 リロードしてなくて悪いな
ついでなんで後1投で終わりにしとくは
和田城防衛戦
後史
武田の和田城防衛成功は箕輪城の孤立化を決定的にさせた
それは倉賀野城の陥落を始めとする周辺諸城が武田に攻略された事で一層明らかになる
周囲が孤立化していく状況下において箕輪城主長野業盛は上杉輝虎に信濃出兵を要請し
武田の矛先をそらしてくれるように懇願
輝虎も別方向からの西上野へのアクセスを達成すべく、第5次川中島では武田を突破して佐久から西上野に押し通る事も計画するが、
武田が防備に徹した為にかなわなかった
1566年に武田勢の総攻撃によって箕輪城は陥落し、長野一門は玉砕
1567年には惣社城を攻略した事によって武田の西上野攻防戦はひとまず終幕する
>>369です。ありがとうございます。
昔やった信長の野望で、長野親子(めちゃくちゃ強い白髪の老人と一回り小粒なその息子)が出てきたことを思い出しました。
彼らはいったい何者なのだろうかと思ったあの疑問が今解けました。
めちゃくちゃ強い白髪の老人ってのは長野業正さんだね
信玄を6度撃退したとか言われているけど、それを言ってるのは江戸時代の講談だけで
信玄が西上野に進出したのは1561年の第4次川中島以降
そのころにはこの人死んでるんだよね
信玄と戦ったのは業正の息子の業盛さん
和田喜兵衛っていうのが第4次川中島で謙信と一緒に戦場を離脱したと
軍鑑にあるけど、これって西上野の和田氏って事でいいんかね
381 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 07:32:55
>>378 謙信が小田原を包囲してるときに信玄と戦ってるぞ
>>381 一次資料における信玄の書状や朱印状からの分析では謙信小田原包囲時における信玄の動きは
北条氏康に援軍を送り、その後で氏康に一向宗解禁を認めさせ
それを交換条件に本願寺に要請して越中一揆との協力関係構築
そこから謙信を引き返させる為に信濃越後国境の上蔵城を攻撃、
その後で信濃上野国境の碓氷峠に在陣して牽制、って流れだったはず
北条氏邦書状を1561年4月のものとして上野松井田を放火した軍勢を武田とする見解もあるが、
この時代にはまだ氏邦は幼名乙千代でとおしており、氏邦と署名してあるのが不自然な事、
さらにはその軍勢を氏邦が敵と呼んでいる事から、武田軍を指しているとは考えにくく
最近ではその書状は1590年4月の秀吉による小田原攻撃の文書じゃないかとされているらすい
383 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 10:58:36
>>382 信玄と業正は何度も戦ってるよ
有名ではないが川中島の戦いに匹敵する戦いもしてる
安中城を中心に調べてみな
信玄の西上野侵攻は安中あたりからだから
で、業正が死んだ後ぐらいから武田(真田幸隆)が西北部の吾妻方面の攻略を開始
業盛の本格的な登場はこの後
20年以上前に調べてよくは覚えていないが、業正の資料はとにかく少ない
>>383 いやだからそれって箕輪軍記とかの江戸時代の軍記が出典で
一次資料での信玄VS業正の戦いが裏付けられないから最近では疑われているはず
なにせ信玄が業正と戦ったとされている時期は川中島を始めとする信濃攻略戦の最中
たとえば軍記では1557年4月に武田軍と長野軍の戦いがあったとされているが
この時期って実は第三次川中島と重なってて、一次資料においては信玄が北信濃で
上杉軍相手に武田軍の総指揮をとっている事がはっきりしてる
翌年にも軍記ではこの翌年1558年にも信玄が業正に破られたとされているが、
一次資料では信玄はこの年において北信濃の防備を固め、義輝からの景虎との和睦要請に応対し、
さらには越後出兵を願文の中で祈り、そのあとで北信濃から侵攻作戦を開始して帰陣
この後、義輝から注意を受けてその弁解と信濃守護職としての見解を書状で書いている
1560から1561年初頭の動きは
>>382の通り
軍記では1561年5月にも長野勢が信玄を撃退、とあるがこの時期こそ信玄が謙信を関東から引っ張り返す為に
信濃越後国境の割ヶ岳城を攻撃して陥落させて破壊した時期
これが終わったのが1561年6月下旬
この後信玄は謙信との決戦を意識して海津の防御を強化
1561年8月からは武田上杉双方が決戦を求めて川中島に進出して第4次川中島が始まる
このように当時の武田の意識は明らかに信濃に注がれていて、
時期的にも軍記がいう所の箕輪侵攻とは重なっており、とても箕輪侵攻を行えるとは思えないという所かと
385 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 13:26:18
>>384 そうなるのか・・・・
箕輪への侵攻は業盛の代になってからだから、最後の部分には異存ない
箕輪侵攻というか西上野侵攻か
信玄の影武者が信濃にいて・・・などといってみるwww
西上野小幡率いる兵力は500騎
しかも騎兵の割合が大きかったとか
389 :
日本@名無史さん:2010/03/16(火) 21:09:14
小幡は長篠でも騎兵で突っ込んでたそうだな
>>222にもあるように内藤が管轄した地域は騎馬を得意とする敵が多かったそうだね
西上野小幡一族もこの例にもれず騎馬を得意とし、しかも小幡一族は武田家臣団の中でもかなりの精強さをうたわれていた
小幡勢も赤い鎧を着てたんじゃなかったっけ
元祖赤備えって感じか
武田家の前線部隊長たる有能な足軽大将達
原虎胤 騎馬35騎 足軽100
横田高松 騎馬30騎 足軽100
大熊朝秀 騎馬30騎 足軽75
小幡虎盛 騎馬15騎 足軽75
三枝昌貞 騎馬30騎 足軽70
なんか兵力でいうと足軽大将は中隊規模の兵を率いて戦ってたみたいだな
上で言われてたみたいにローマ軍の百人隊長に似てるかもな
騎には一騎あたり最大4人の歩兵がついたというから
横田の例で言うと騎馬30騎 最大従卒120 足軽100で
最大で合計250名位を動かしていたのだろうか
武田家の最大兵力から換算するとどんな感じだろう
武田家最大動員は軍鑑によると五万二千
従卒って騎馬武士に従う戦闘員だから
足軽とはまた別な感じなのかな
足軽が長槍とか弓とか鉄砲とかで武装をして前線を圧迫、
騎馬武士+従卒で白兵戦突撃をしかけて勝負を決める、って感じだったのだろうか
軍鑑では騎は総合計で9121
これに最大4人の従卒がついて合計45650
さらに武田宗家の足軽が6373がついておよそ52000
西上の時が三万動員だから
この比率に当てはめると従卒は大体二人程の動員だったのだろうか
でも軍鑑によると守備兵を置く関係から、遠征先にあわせて特定地方の連れてくる騎の割合を温存したりしてるから
従卒二人、と一概に言うのは難しいかも
398 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 19:17:44
織田徳川を相手にする時は内藤が管轄する西上野勢を半分残して
関東遠征の時は山県が管轄する駿河・遠江・三河勢のうち半分を残し、
馬場は常に抑えの兵を残して少数の兵で参戦、って感じだったな
当時の騎馬兵は大半が馬を下りて徒歩で戦ってたみたいですからね
騎、と称される士分の者達も白兵で活躍する事を期待された装甲歩兵のような役割を担っていたのでしょうかね
小幡党とかは馬に乗って戦っていたみたいだけどね
輜重や雑役はどうなるんだろ
およそ66%が戦闘員で残りが非戦闘員という戦国軍隊の割合で見るなら
>>392にある横田隊の例で行くと
騎馬30 従卒120 足軽100 で合計250(最大)
これが戦闘員
戦闘員の半数近い非戦闘員がいると仮定して125
騎馬30 従卒120 足軽100 非戦闘員125 合計375(最大)
中隊から大隊の中間くらいの兵力だ
横田は甘利の相備衆だったんじゃなかったか
甘利が晴信初期における侍大将で板垣と並んで最高位にあった事から考えても
甘利が旅団長、横田がその下にいる大隊長、みたいな感じだろうか
403 :
日本@名無史さん:2010/03/19(金) 21:52:40
横田にしろ原にしろ晴信初期の足軽大将は信虎に取りたてられたのが多いのに
晴信のクーデターに賛同して参加してるのが面白い
そのころには足軽大将衆も信虎についていけなくなっていたんだろうか
405 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 18:44:09
信虎政権の末期は家臣たちとの軋轢が絶えなかったからな
信玄は西上野攻略戦の時に蘆名氏を煽動して越後に侵攻させ
謙信を陽動に振り回したりしてるね
しかし蘆名家最高の名将である蘆名盛氏を一戦で大敗させて越後から追い返す謙信はさすがにツヨスw
甲州兵の精強さ、とはよく言われるけど
むしろ強さの秘訣は信玄が作った軍法や軍制にあったのではないか
408 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 23:35:44
源平争覇の時代から甲斐源氏は精強さを称えられ
多くの軍功をあげている
あの木曽義仲とも渡り合って信濃に勢力を扶植してるくらいだしな
武田の甲斐といい、長宗我部の土佐といい、山がちな地形の国は勇者が多いのかな
三河武士の三河も結構山がちだろうか
信玄は軍鑑にあるように軍制や軍法の整備に力を尽くしていたそうだから
もともと剽悍な甲州兵にシステマチックな動きを加えたのではなかろうか
軍法については軍鑑でよく出てくる
軍鑑と言えば風林火山で有名な山本勘助
この人物は近年に発見された市河文書で実在が確定したが
それまではどっちかというと架空扱いされていたね
軍鑑は結構武田の内部事情で合致する所があるから近年かなり見直されているけど
そこに描かれている山本勘助と史実の勘助の隔たりはどれくらいなのかね
414 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 21:29:55
軍鑑にある勘助と史実で裏付けが取れる勘助像がどこまで一致してるかだよな
新たに最近見つかった書状からも信玄と勘助が親密だった事は伺えるけどな
軍鑑にはやたらと勘助のエピソードが載っているからなあ
あれだけのエピソードが残っているからには結構な人物だったと見れそう
軍鑑によると勘助の職務は足軽大将
平山氏とかは他国者出身者に足軽大将が多い事を見て
武田家では他国者出身者の出世コースが足軽大将だったのでは、と見て
勘助がそうだった可能性が高いとしている
軍記物を無碍に否定する空気をなんとかして欲しい
>>392にもあるように
信玄に呼応して謙信に反乱を起こし越後から追放された大熊朝秀も
武田を頼って落ちのびてきた後で足軽大将に任じられているからね
>>417 確かにそれはあるかもね
ただ一次資料と比べてみて明らかに矛盾したり、あり得ない記述だったら
軍記物の側が否定されるのは仕方のない事だと思うけど
軍鑑も昔に比べると本当に見直されたよなあ
明治時代に抹殺博士に叩かれてから
やたらとこきおろされてきたからなあ
近年研究が進んで軍鑑の価値が向上したのはいい事だ
もともと軍鑑は成立年代からしてどんなに下げても江戸初期
由来から見ても2次資料として立派に扱っていい存在
晴信初期は一次資料でもそうだけど、
軍鑑を見ると信濃に侵攻していく過程でさまざまに手を尽くし
信玄が成長していく様が見えるね
晴信初期で大きな戦いと言えばやはり小田井原及び志賀城攻略戦だろうか
、
>>416 それは平山さんが講談社現代新書で「山本勘助」書いたときの定見だよね。
平山さんはいま「真下家文書」の調査をした山梨県博の職員だけど、「菅助」文書が出てきた際に
地元のNHK甲府で研究の一端を紹介した番組やっていて、平山さんは「菅助」文書に出てくる「小山田」を
資料紹介で県博学芸員さんが比定した越中守信有ではなく備中守虎満なんじゃないかと想定して
虎満の行動から信濃侵攻における活動を考えていた。まだ文章できちんと発表してないし、その番組も
録画してちゃんと見てなかったから、わかんないんだけど。
この夏に山梨県博で「菅助」文書と購入した市河家文書の公開展やって、シンポジウムも開くらしいから、
果たして「山本勘助」に比定されるのかどうかも含めて、きちんと発表されるんじゃないかな。
ttp://www.museum.pref.yamanashi.jp/5th_tenjiannai_symbol_018.htm
『甲陽軍鑑』はしんどそうだからちゃんと読んでないんだけど、やっぱりあの中で描かれる勘助の存在って特殊なのかな?
「真下家文書」の発見も大きく扱われて安中市や山梨県博での企画展も行われているわけだけど、
でも特に最近は「戦国遺文」の刊行とかあって実在・実名が未確定な武田家臣の再確定なんて相次いでいただろうし、
大河ドラマになったから一般的注目度があるのは当然にしても、でも「菅助」にしろ「山本菅助」にしろ、
果たして武田家中において重要な存在なのだろうかと思っちゃう。純粋な家臣団研究としてね。
「菅助」文書の発見はおおすごい大発見って思っちゃうけど、単に一家臣の実名と実在が確認されただけなのかもって思っちゃうよ。
>>424 『甲陽軍鑑』での勘介は晴信の信頼厚い名軍師。各所で大活躍なんだけど、他の史料に全く現れなかった。
『軍鑑』の信用が低かったこともあって、その存在は疑われていた。
『市河文書』で「山本管助」が確認されたんだけど、そこでの役割は市河氏に対する使者。
ここで424氏の「一家臣の実名と存在が確認された」状態になりました。
一応の存在がわかるけど、その地位や役割はまだ未定。
ついで『真下家文書』でその存在の確定と、軽輩ではなく部将格であった事が確認されたわけですね。
「軍師」として武田家を支えたドラマティックな「勘介」は講談や小説、テレビドラマで人気あるキャラクター。
疑問視されていたその実在が確認されたので話題になってます。
軍師だったかどうかはともかくですが^^;
なんかね、メディアの扱いでは山本勘助=「菅助」が前提になってしまっているのよ。
真下家文書発見以来、まだ武田研究者のうち人物比定に関する見解出している人いないのね。
よく勘助=「菅助」も定説だとか言われるけど、それは『甲斐国志』刊行本の校訂やってる佐藤八郎とか
山梨の郷土研究黎明期から活動している上野晴朗とか、専門は古代史の磯貝正義とか、言い方悪いけど
旧世代の研究者中心で、平山さんとか柴辻さんとか、現役の武田研究者はけっこう比定に慎重なんだよね。
夏のシンポジウムで見解が出されると思うのだけど、「山本菅助」だけじゃなくて、戦国時代史における
人物比定の問題として総論を展開してくれないかなぁと思う。いろいろな研究論文読んでみるとわかるけど、
文書上に出てくる人物比定の問題って、けっこう厄介なんだよね。
「菅助」新出文書だって、そこに出てくる「小山田」は越中守信有か備中守虎満かって見解が別れたわけだし。
真下家文書で重要なのは、第四次川中島以降にも「菅助」の動向が確認されちゃうこと。二代目なのかな?
「菅助」だけじゃなくて諱とか別称がわかれば、手がかりが広がるのにねぇ。
あと、真下家文書は「両職」の用例が確認できる文書でもあるし、家臣団研究においては重要なのかもしれない。
428 :
日本@名無史さん:2010/04/08(木) 00:45:05
池田恒興に預けられたという勝頼の次男て病死?
429 :
日本@名無史さん:2010/04/08(木) 19:59:39
>>428 穴山梅雪の嫡男と共に家康に謀殺されました
430 :
美人は氷高皇女:2010/04/13(火) 11:38:34
信玄と言えば最先端の治水工事,信玄堤
あのセ-ヌの氾濫も信玄堤を手本にし,治水工事した
日本は凄いな
信玄堤は、戦国大名の権力はどの程度のものかっていう戦国時代史の命題のようなテーマと関わるから、大事なのよね。
「棒道」論争もそうだけど、戦国大名は在地社会にどこまで関われたのか。これが研究史的には続いているテーマだよね。
ただ、さすがに治水問題を大名権力抜きに語るのは無理がある
治水は作るのもそうだけど、それ以上に関与する全域を統合した力による維持体制が必要
古代中国の王朝も治水管理の問題から発生したといわれる程なのだから
信玄堤だけそうでないというのは逆に不自然
近世段階になると、例えば甲府徳川家時代には徳島堰とか用水路開鑿が行われている。
信玄堤の修築も近世段階まで延々と継続されているし、これを前提に新田開発が進捗している。
よく甲斐は貧しい土地柄だから領国の拡大を行ったとか、金山収入で財政を補填したとか言われちゃうけど
大名権力が確立すれば治水が行える、治水が行われれば新田開発ができて、農業生産は当然向上するはずだと思うのだけどね。
そりゃそうだが堤が一朝一夕にできるわけではないし、それなりの完成を
みるまでは水害で生産力が脅かされないと限らんのも確かなんでは?
確か1560年代だったよね
信玄堤の一応の完成
それから後も江戸時代に向けて工事は継続していくから
そんな急激に国力が豊かになってたなんて事はないね
妙法寺記を見れば毎年のように水害を始めとする災害で甲斐は餓死者続出
山本勘助以外で、文書上からは存在が確認できてない家臣っている?
山本勘助も文書上で確認とれているよ
まだだよw
原昌俊なんかは、文書が無かったような。。
原昌俊については
>>231でもいわれてるね
息子の昌胤はやたらと文書が残っているけどさ
でも、それを言うなら信虎以前の人物はほとんど記録資料頼りになってしまうよなぁ。
跡部氏とかは棟札資料にも出てくるけど。
「王代記」「塩山年代記」「勝山記・妙法寺記」は、いちおう同時代の記録資料だからまず信頼できるだろうと。
「甲陽日記」は駒井高白斎が書いたかもしれない武田家の用務記録が基になった編纂資料。まぁ信頼できるだろうと。
「甲陽軍鑑」はある程度に信頼性を評価するにしても、「甲陽日記」と同程度にもそれ以上にもならんと思うよ。
ただ当時の風俗や家中の雰囲気、当時の価値観、細かな逸話、など軍鑑を見る事でわかる事はかなり多い
そういう意味で軍鑑は武田家だけでなく戦国時代の研究にも参照されたりする
事績は疑ってもいいかもしれんが、存在については認めてあげてもいいような。
残存文書点数の一覧が欲しいな。。
近年の大きい発見だと、高野山文書の紹介じゃないかな。
毎年高野山入って文書調査している研究者さんいるんだけど、
「甲斐国過去帳」とかで飯富虎昌の没年が確定したり、けっこう新発見があった。
平山さんも講談社新書「山本勘助」で高野山にはまだまだ文書が眠っている可能性あるって書いてたしね。
『甲陽軍鑑』といえば資料性の疑問視だけど、そもそも軍記物だから、近世文学としての評価が第一であるべきだよな。。
どこまで史実性が認められるにしろ、実証史学における活用は二次的にしか使えないのだから、まぁ未だに誤解されている資料ではある。
軍鑑って香坂が勝頼や長坂達に武田の過去の栄光を取り戻して欲しい為に
昔の事をいろいろ口述筆記させたのを、その甥が引き継いで書き上げたもので
軍記物っていう解釈はどうかと思うが
子孫が、先祖の話を小説とかで書いてるようなもんか。
「勝山記」は「日国覚書」っていう古写本?が近年出てきたよね。
甲陽軍鑑も古写本とか、編纂段階の記録資料とか素材資料が出てくれば、状況変わるかもしれないけど。
「高白斎記」の現存本には軍鑑からの引用があったよね。山本勘助士官記事も載ってるし。
>>451 「高白斎記」(甲陽日記)の記事は引用でなく改竄。
江戸初期成立の「甲陽軍鑑」から明応七年(1498)〜天文二十二年(1553)の「高白斎記」への引用は無理!
江戸期の文書所有者が自分の先祖栗原氏のお手柄を無理に書き込んだ。
その時に「軍鑑」の文言も入れて信憑性を増す工作をした。
大正時代に指摘され、研究者なら誰でも知ってることですよ。
「高白斎記」原本に軍鑑からの引用があるなんて言ってないよ。
「高白斎記・甲陽日記」の原本はなくて、この題名は現存本の書題なんでしょ。
改題を書いている柴辻俊六さんも、これは原本ではなく、おそらく武田家の用務日誌をもとに、
おっさる通りの栗原氏の事績を竄入した編纂物であろうと指摘していたと思うし、ということは、
まだ原本に近い諸本が存在している可能性もあるんじゃないかなぁって思っただけ。
>>451-453 脇からですまんが、なるほどな…
ちと皆の衆にお訊ねなんだけど、このスレ的には柴辻俊六氏の書いてる
諸々の書籍ってどう?
中公新書の「信玄の戦略」を読み始めたばかりなもんで、訊いてみたいのだが
結構いい本じゃないの
柴辻氏らしく淡々とまとめてる
味気ないと言えばそうだけど、バイアスかけてないともいえるのだし
柴辻さんは早稲田大学図書館の職員で、古文書整理を担当していた人。武田研究はどちらかといえばライフワークだよね。
戦後に始まった実証研究の第二世代くらいなのかなぁ?若い頃から文書の集成にも関わっているし、地べた這うような研究をしているよね。
テーマは武田領国の構造かな、武田領国の個別地域別に、あくまで文書に依拠して冒険しない緻密な研究を重ねている。
笹本さんとは、いくつかのテーマで見解が異なって論戦している。
一般向け書籍は確かに味気ないかもしれないけど、確実だよね。「信玄の戦略」は「武田信玄合戦録」だったかな?同時期に出ていた選書と対になるような本。
柴辻さんといえば、新府城発掘で武田勝頼再評価ムードが出てきた時に「贔屓、無策」と評していたなぁ。
笹本さんは信玄堤や棒道に武田の大名権力はそれほど関わっていないんじゃないかと疑義を唱えて、柴辻さんは文書上からは問題ないと反論。
あと、平山さんについては、少々大名権力を過大評価しているのではないかと、どこかで書いていた覚えがある。
柴辻さんは論文だときちんと研究史と問題の所在、自分の論考の位置づけをしっかり書くのだよね。
>>455-456 そっかぁ
俺もなかなか良い本なんじゃないかと思いながら読み進めてるんだけど、
文書を丹念に洗いつつ軍鑑を短絡的に講談の一言でぶった切る様な事もしない
俺のなかで漠然と描いていた理想の研究方針というか論説で好感がもててる
確かに普通にみれば味気ないとか地味とかって印象かもしれんけど、
俺はこういう本が読みたかったんで満足してるよ
他の著書もさがしてみたくなった
武田は一般的関心が強いだろうからね。
たぶん、平易に読みやすく面白く一般向けにと心がけなくても、そこそこ売れちゃうんだと思う。
他の戦国大名家研究だと、そうはいかないんじゃないかなぁ。やっぱり、研究者が著作で副収入を得られることは大きそう。
「山本菅助」=山本勘助で確定?
江戸時代の山本菅助
山本勘助の子孫に二代目山本勘助がいたのかな?
先祖と同じ名前名乗るってのも別に珍しくないとは思うけど
甲陽軍艦で好きなのは武田家での裁判の様子が事細かに出てくるところだな
武士道とはこうしたものだったのだなというのがちゃんとあらわされている
法度がしっかりしてないと国民のやる気とかモラルが無くなるとか現代の理不尽な裁判
見てると痛感するわ 何人も殺しといて精神鑑定で無罪主張とか噴飯ものだし
コーヒーで焼けどしたから二億円払えとかアボカド
喧嘩両成敗も甲陽軍艦から来てるの?
喧嘩したならちゃんとお互い殺す覚悟でやれ他人の仲裁に期待して迷惑かけるな
喧嘩したら理由はどうあれ両方成敗する
内藤がそれについて意見してるのが面白い 両方成敗には賛成だけど
いいがかりつけられてそれでも我慢したものには適応しないようにしましょうとか
苦労人らしくフォローうまいと思った 親が理不尽な手打ちにあって関東放浪してたのを
後に甲斐に召還されて旧領回復&謝罪&労いの金子&取立てって感動ものだ
新出文書から山本菅助→十左衛門尉→平一の菅助系子孫が確認されるよね。
菅助系子孫が江戸期にも「菅助」を名乗っていたということかな?
甲陽軍鑑の成立にも関わっているとなると、いよいよ「山本勘助」に比定される可能性は確実になってきたのかもしれない。
武田氏研究41号
・秋山敬「四辻季遠の甲斐下向とその目的―武田晴信の対朝廷政策と関連させて―」
・柴辻俊六「「永禄武田将士起請文」の歴史的考察」
・鈴木将典「戦国大名武田氏と「借銭法度」」
・畑大介「甲斐国の五輪塔と宝篋印塔を一対とする造塔法」
まだ確定視できない。実証史学とは面倒なもの。
「山本菅助」が『甲陽軍鑑』に記される「山本勘助」の活動と重なることを示す文書とか、
あるいは号「道鬼」や「晴幸」の諱が文書から確認されないと確実視はできないのだろうね。
今回の発見は、あくまで近世の山本家子孫は「菅助」を「山本勘助」と同一視していた、とまでしか言えない。
平山さんに『山本勘助』の続編で『甲陽軍鑑』書いて欲しいな。
「山本菅助」展、見たよ。
古文書は読めないからなんだけど、新出の「真下家文書」は前年発給の文書と併設してあって、
筆跡が同じで同一人物の右筆であろうことが指摘されていた。墨の濃淡が濃いことが特徴であるらしい信玄の自筆文書とかね。
タイミングよく出てきた文書だから怪しむ声もあると思うけど、ちゃんと鑑定してるんですよ、みたいな感じ。
「山本菅助」子孫は江戸時代に徳川家に仕官しているらしい、とまでが史料紹介での見解だったけど、展示の後半では
なぜ「菅助」文書が群馬にあるのかも含めて、調査結果が公表されていた。どうやら「菅助」子孫の山本氏は一度浪人して、
淀藩主永井尚政から松平信興に仕え、常陸、下野、越後をへて、高崎藩士になっていたとのこと。所蔵文書は好事家の真下家により収集され、
日の目をみることとなったそうだ。
で、江戸時代には「甲陽軍鑑」が広まっていたわけだけど、「菅助」子孫が再仕官するにあたり、「山本勘助」子孫であることの由緒が役立っていたらしく、
少なくとも江戸時代の「菅助」子孫は自家の先祖を「甲陽軍鑑」における「山本勘助」だと位置づけ、軍学の習得に励んでいたとのことだ。報道にもなったけど、
3世くらいだったかな?「菅助」子孫が小幡景憲から受けた印可状も現存していた。初代を「山本勘助」だと位置づけ法号を「道鬼」としていたことは、報道にもなったよね。
展示の担当には平山優さんが携わっておられたようだけど、平山さんの筆であろう末尾のパネルによれば、問題の「山本菅助」=山本勘助かについては、
まだ不明とのことだ。市河文書以来の発見で、「山本菅助」の実在性は確実で事績も多少はわかり、「菅助」子孫が初代を「山本勘助」と位置づけていたことまでは言えるけど、
「甲陽軍鑑」における「山本勘助」の活動の史実性とか、まだ完全に比定できるとは言い難いらしい。というあたり。
470 :
堀大和守久太郎:2010/07/24(土) 21:56:50
長文乙
471 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 06:49:11
菅助と勘助が同一人物か否かは、
今のところ山勘に頼るしかないのか・・・・
472 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 09:27:51
菅助=山本勘助でとりあえずはいいと思うよ。
だって甲陽軍鑑って人名表記に関してはほんと適当で、
逍遥軒が「勝用軒」とか、当て字が頻出するしね。