1 :
神奈川県民 :
2009/12/19(土) 10:57:12
>>1 。新しいスレッドを立てるといくらになるの?
支払は月払いですか?
3 :
メ :2009/12/19(土) 14:12:04
「卑彌呼」をなんて読むかだって? まあ、適当に三冊準備しようじゃないか、三冊あれば十分だろ。 人気があるのは「角川」、「旺文社」、「学研」かな・・・。 「角川」 卑・・・ヒ 彌・・・ビ(ミ) 呼・・・コ 「旺文社」卑・・・ヒ 彌・・・ビ(ミ) 呼・・・コ 「学研」 卑・・・ヒ 彌・・・ビ(ミ) 呼・・・コ(ク) 御存じの通り、「卑彌呼」というのは「名」である(名曰卑彌呼)。 ヒビコ、ヒミコ、ヒビク、ヒミクの四つか。 「事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國」これは古代の巫女の事。 「日巫女」或いは「日御子」で「ヒミコ」ということが分かる。 ちなみに「日」の部分は「火」の可能性もあり。
4 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/12/19(土) 14:13:31
河童虫どの それがしはアマチュアですから、大先生の号は不要で願います。
5 :
メ :2009/12/19(土) 14:14:24
「卑彌呼」 <大漢和辞典 巻二 五五一〜五五五ページ> 「卑」・・・@ヒ Aヒ Bヒ、ビ Cヒツ、ヒチ Dハン <大漢和辞典 巻四 七七四〜七七七ページ> 「彌」・・・@ビ、ミ Aビ、ミ Bゲイ Cベイ、マイ <大漢和辞典 巻二 九五九〜九六九ページ> 「呼」・・・@コ、ク Aカ_ウ、ケ_ウ Bコ、ク Cカ Dカ、ケ
6 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/12/19(土) 14:17:56
>桃太郎伝説の地 岡山もいいかもしれない 昔、清水の高松城の様子見に行った。そして吉備津彦神社に行きキビ団子の土産買ったなあ >天の橋立 餘部鉄橋見た帰りに寄り道したが、感動なし。 でも、城崎温泉はよかったよ
そうそう 桃太郎伝説といえば、あの犬山にあるモンキーセンターの遊園地、閉園しちゃったんだね あそこでパターゴルフしたの思いだした。
9 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/12/19(土) 14:38:52
そんなことはないですよ。だいたい漢字に関しては、それがしは貴殿の足元にも 及びません。〜大先生の号は不要で願います。
10 :
メ :2009/12/19(土) 14:48:19
>>3 >御存じの通り、「卑彌呼」というのは「名」である(名曰卑彌呼)。
え?
本当に「名」の意味理解しているのだろうか? 漢語だよ。
>ちなみに「日」の部分は「火」の可能性もあり。
7500%ありません。
昼間に隣の奥さんと、自分の奥さんを比べ、どちらが自分の奥さんかを考えているようなものです。
12 :
質問 :2009/12/19(土) 15:01:39
>>9 >漢字に関しては、それがしは貴殿の足元にも及びません。
いや、おれにはアホにしかみえん。
「次有奴國」を次と有奴國を離して「ウヌコク」と読むような人で、
漢文の魏志倭人伝もろくに現代語訳したこと無いらしいし・・・
>>御存じの通り、「卑彌呼」というのは「名」である(名曰卑彌呼)。 >え? 本当に「名」の意味理解しているのだろうか? 漢語だよ。 >>ちなみに「日」の部分は「火」の可能性もあり。 >7500%ありません。 >昼間に隣の奥さんと、自分の奥さんを比べ、どちらが自分の奥さんかを考えているようなものです。 上のレス見ても「卑彌呼の本」もろくに読んでないと一発で分かるレスだし ・・・
>>13 それは一体誰ですか?
「次有奴国」
は、「じゆうなくに」って読むんですよ
ヤダ。知らなかったの?
16 :
日本@名無史さん :2009/12/19(土) 15:32:25
河童君 火の巫女説があるのぐらい知ってるかい? たぶん他のコテさんとかなら知ってるとおもうゾ
17 :
日本@名無史さん :2009/12/19(土) 15:47:21
河童君 もう一点 自分が2,3冊しか本を読んでないので、相手も同じと思わないほうがいいよ。 君と話してる相手は、君の想像よりも『はるか』に本を読んできてる。 さて、落ち
>>16 今日言われたばかりだよね?
思考を加えろって。
>>17 自分で自分の馬鹿さを証明して、何考えてるの?(信じられない)
駄目だコリャ
稲荷山古墳出土の鉄剣銘 「獲(くさかんむりが無い異体字)加多支鹵(ワカタケル)大王」より 邪馬台国の官・彌馬獲支は「ミマワケ」と読むべきで、「水沼別(みぬまのわけ)」と思われる。 日本書紀卷第七 大足彦忍代別天皇 景行天皇 次妃襲武媛。生國乳別皇子與國背別皇子。一云。宮道別皇子。豐戸別皇子。 其兄國乳別皇子。是水沼別之始祖也。弟豐戸別皇子。是火國別之始祖也。 景行以前は水沼は無かったような書き方だが、次の記事からそうで無いことが分かる。 十八年秋七月丁酉。到八女縣。則越藤山以南望粟岬。詔之曰。其山峯岫重疊。且美麗之甚。若神有其山乎。 時水沼縣主猿大海奏言。有女神。名曰八女津媛。常居山中。故八女國之名由此而起也。 ここで水沼縣主猿大海は、父祖が仕えた女王を景行天皇に語っているようだ。
邪馬台国の官・彌馬升は「水沼背」ではないか。 水沼別の祖、國乳別(くにちわけ)の弟・國背別(くにそわけ)の名が参考となる。 女王がいる八女から見て、水沼(三潴)の背後の佐賀平野を担当していたのではないか。 邪馬台国の官・伊支馬は「イケマ」である。 イケマは「牛皮消」または「生馬」と書き、ガガイモ科の有毒植物である。 誤食した場合、軽症では嘔吐が、重症では痙攣が起こる事がある。 学名Cynanchumとは、「犬を殺すもの」という意味で、イケマの根の毒成分により犬を殺すことができることから。 アイヌ語の「巨大な根」または「神の足」の意味で、アイヌでは薬草とされていたらしい。
>17: 2009/12/19 15:47:21 河童君 もう一点 自分が2,3冊しか本を読んでないので、相手も同じと思わないほうがいいよ。 君と話してる相手は、君の想像よりも『はるか』に本を読んできてる。 毎日人一倍素振りをすれば、イチローの様になれると信じるガキの夢を壊すようだが、 オマエがなれるのはイチローではなく マッチョだ。
23 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/19(土) 17:40:44
24 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/19(土) 18:14:49
都市牛利を田道間守に比定するのは、それが常世の国へ派遣され、その一回のみの登場であるから、 田道間守(20才以下)は、帰国後垂仁を追って殉死をしています。 この時景行は16〜18才程度だと推理しています。 伊聲耆掖邪狗 伊勢のベテラン磐鹿 30才程度 彌馬升→ヤマショウ→ヤマシロ=山城→山城たたねこ 52才位か 景行の子作り直前の話です。
河童の玩具になってる事に気付かず、一生懸命自己努力をうったえてるメって・・・・ 自分のキャパシティーを超えた大容量の情報を一気に詰め込んだので 脳内ドライブがフリーズしたみたいだ。でも、それさえも気付いていない。
>>25 PC98にWindows7のOSは無理な事、気付かないのかな?
27 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/19(土) 18:34:11
田道間守は、垂仁に呼び出されるまでは、任那との交渉役ではなかったか? 渡来人相手の仕事であるから、少しは中国語を話せた?そしてまだ若い。 長旅の体力もあれば、任那に寄ることも考慮された上の人選。 またこの朝貢に垂仁が声を掛けられた理由の一つに任那の存在がある。
>>24 >彌馬升→ヤマショウ→ヤマシロ
これはどう考えてもおかしい。
官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]
連続して書いているのに、「彌」の読み方が違うんですね?
それなら投馬国の官「彌彌」は「ミミ」「ミヤ」「ヤミ」「ヤヤ」?
任那(みまな)が崇神天皇の名と関係していることは書紀の垂仁天皇段に記されている。 天皇詔阿羅斯等曰。汝不迷道必速詣之。遇先皇而仕歟。是以改汝本國名。追負御間城天皇御名。便爲汝國名。 しかし「御間城」の名は、繼體天皇段では「水間城」と記されており、 水沼君は雄略天皇段では「水間君」と記されている。(呉との交易記事で) しかも水沼君は神代で海北道中の三女神を祭るとされている。 何かありそうだ・・・
>>30 >『魏志』倭人伝の2008文字の世界
そこまで細かく言って・・・『魏志』倭人伝は一大國なのですが。
33 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/19(土) 20:48:03
彌馬升、彌馬獲支は、朝廷側又は田道間守が表記した、対する「彌彌」は、魏使の聞き書き。 最初の朝貢での記事ですから、魏使は、伊都辺りまで来ていると思われる。 その時「不知正歳」などの博物誌を見聞した。
34 :
太国 :2009/12/19(土) 20:55:04
デ○パでは〜どう考えてもおかしい。ww
実は、彌馬升=ヤマシロ説は私の説と共通点があったりする。 山城は古くは山代または山背と書かれた。「背」であれば、私の「水沼背」と通じる。 「升」は帥升、難升米にも使われる文字だけに知りたいところ。
国乳別(くにちわけ)と国背別(くにそわけ)という名は面白い。 筑紫平野を筑後川で分け、福岡県側を乳=前、佐賀県側を背=後としたのだろうか。
帥升王=スサノオ 説も根強いですね。
38 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/19(土) 21:47:32
難升米は書紀に難斗米と書かれる。 「升」と「斗」は、筆運びが似ている。 斗米なら「とべ」や「とめ」で説明付くが…
39 :
日本@名無史さん :2009/12/19(土) 21:49:34
ヒメコ塚古墳が高速道路で壊されます。
邪馬台国の遺跡もすでに開発が進んで破壊しつくされているので発掘は不可能。 邪馬台国の宮殿は、東大寺の五重の塔の下かもしれない。 大仏をどかして発掘すれば発見される可能性はまだある。
>>38 >斗米なら「とべ」や「とめ」で説明付くが…
難升米は女性という説ですか?
率善中郎將で黄幢も貰っていますが。
「〜目」という男性だろうと私は思っています。
>>39 >ヒメコ塚古墳
行橋市の古墳のようですね。
前期の古墳ではないらしいですが、残念なことです。
43 :
日本@名無史さん :2009/12/19(土) 23:10:07
斗?米と書いて「とよ」と読むのさ。
45 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/19(土) 23:30:59
>「〜目」という男性だろうと私は思っています。 私もそう主張したいが、世の中が認めてくれない。 「とべ」なら男として認めてもらえる。 最大の妥協ですな。
48 :
卑狗模古二世 :2009/12/19(土) 23:45:47
>>41 難升米は魏の武官位率善中郎將を授けられていたが、正始六年に帯方郡に於いて黄幢も授けられている。
何のために郡に於いて黄幢を授けられたのか?恐らく、この頃半島の韓族の反乱が活発化しており、難升
米は(倭兵を率いてかどうかは判らないが)反乱鎮圧の戦いに参加させられたのではなかろうか。
>>45 >「とべ」
古事記の苅幡戸辨などは明らかに女性だが荒河刀辨は男性らしいとか、性別は一貫しないようです。
>>46 otu
トヨタンは? トヨタンは? トヨタンの湯は?
>>47 otu
トヨタンは? トヨタンは? トヨタンは?
トヨタン・・・・・・・・・・
>>48 おや、ローガン説寄りになってるな。
「付郡假授(郡に付して假授せしむ)」だから、まだ直接渡してないんだよ。
トヨタンは? トヨタンは? トヨタンは? トヨタン・・・・・・・・・・
54 :
日本@名無史さん :2009/12/20(日) 00:15:57
今、肥前国風土記読んでるんだが、水沼はでてこないな・・・ ヒメコさんならいるんですが
>>55 >今、肥前国風土記読んでるんだが、水沼はでてこないな・・・
肥前? それは出てきませんね。
水沼は筑後ですから。
ZZZ・・・
>>21 >邪馬台国の官・彌馬升は「水沼背」ではないか。
>水沼別の祖、國乳別(くにちわけ)の弟・國背別(くにそわけ)の名が参考となる。
>女王がいる八女から見て、水沼(三潴)の背後の佐賀平野を担当していたのではないか。
佐賀平野に惑わされたw
58 :
縦目仮面 :2009/12/20(日) 01:03:54
今日も奇妙な話題だなあ。邪馬台国と温泉?・・・温泉の起源といえば弘法大師が有名だけど、それ以前は 各地風土記などによれば、大国主命と少名彦命が開いたとされる道後温泉、玉造温泉、有馬温泉なんか有 名どころ。これは彼らが、因幡の白兎の治療などから医薬の神と見なされていたからなんかね? ま、卑弥呼の時代でも沐浴はしてたんじゃないの。
59 :
縦目仮面 :2009/12/20(日) 01:38:57
倭人伝の「持衰」は、 >頭をくしけらせず、キシツ(のみ・しらみ?)を去らせず、衣服垢汚し・・・ とあるんで、普段はこうならないように衣髪を整えるという衛生観念のようなものはあったんじゃないかな。 そういえば前に万葉集の、大伴胡麻呂宿が遣唐副使として渡海する際にはなむけた歌として、 >櫛も見じ 屋内(やぬち)も掃かじ 草枕 旅行く君を 斎(いわ)ふと思いて というのを引いたけど、この歌を見れば、櫛を使って髪を杭かないことや家を掃除しないことが、旅をしている 人の無事を祈る行為として、後代において認識されていたようだね。
60 :
縦目仮面 :2009/12/20(日) 01:56:25
>>50 トヨタンの湯ねえ・・・ 倭人伝には、 >王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。
とあり、これは卑弥呼についての描写だが、台与も似たようなもんだったとして、「婢千人」は大げさとしても、
数人の女性に体を洗わせていた、というようなことはあったかもね。
しかし・・・こういうのを覗き見したりするとピーピング・トムのような強烈な神罰を食らうのは、まあ、お約束で。
・・・なんか変なレスをしたなw
(;´Д`) ハァハァ
>>57 >佐賀平野に惑わされたw
ウィキペディアによると、筑紫平野のうち、筑後川より西の地域を佐賀平野と言い、
東の地域を筑後平野というとのこと。
なんか分かりにくい・・・
全体は筑肥平野というべきだろうが、そういう呼び名はないらしい。
因みに尾張から美濃へは濃尾平野が広がる。
63 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/12/20(日) 09:37:40
>>48 >>正始六年に帯方郡に於いて黄幢も授けられている。
難升米は帯方郡に居ないし、まだ渡されてもいない。
日本語さえまともに読み書きできない知能なんだから、漢文を読むなどあなたには荷が重過ぎますよ。
64 :
縦目仮面 :2009/12/20(日) 10:31:46
>今難升米を以て率善中郎将と為し牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮し、引見して労い賜いて遣還 せしむ。 この任官は、皇帝に謁見させるためのものではないのかな?
65 :
日本@名無史さん :2009/12/20(日) 10:45:21
>>64 つまり無位無官の者が、皇帝に謁見する行為を許さず。
そう言う事ですか?
66 :
縦目仮面 :2009/12/20(日) 11:16:38
狗奴国=畿内説を言ってきましたが、地名の比定が困難なことから考え直す余地があると思っています。 狗馬国でないので、熊襲説は気に入らなかったのですが・・・ 日本書紀卷第七 大足彦忍代別天皇 景行天皇 十八年秋七月辛卯朔甲午。到筑紫後國御木。居於 高田行宮。時有僵樹。長九百七十丈焉。百寮蹈其樹而往來。 (中略) 爰天皇問之曰。是何樹也。有一老夫曰。是樹者歴木也。嘗未僵之先。當朝日暉。則隱杵嶋山。當夕日暉。亦覆阿蘇山也。 九百七十丈の歴木(くぬぎ)狗奴国の暗示でしょうか。狗奴国は大牟田市? それならそれで後漢書の拘奴国の記事など、新たな疑問が出てきます。
68 :
日本@名無史さん :2009/12/20(日) 11:35:03
>>66 しかしここでの任官は、皇帝の言葉を伴っての任官行為なので、
形式的には皇帝に謁見しての任官(謁見に対するプレゼント)になっています。
これは
国内の謁見ではなく、外国からの謁見だからではないでしょうか?
そう言えば、帥升は百六十人も生口を献上したのに会えなかったみたいですねw
70 :
縦目仮面 :2009/12/20(日) 11:46:42
>>68 うんまあ、わからないけど、そのままだと陪臣だし・・・。
今年もとうとう終止符を打てないまま年越かよ? もううんざりだぜ。 そろそろ投票かなんかで決めようぜ。 訴訟を起こして最高裁判決を持って結審てのはどうだ? 代表者同士で決闘させるってのも後腐れがなくていい。
72 :
日本@名無史さん :2009/12/20(日) 12:06:18
>>71 決着はついてて後は畿内間での論争なんだが、
ゾンビどもが諦めがつかないようでw
>>71 自力で終止符打たせようとは思わないのかね。
おまえの意見はどうなんだよ?
76 :
日本@名無史さん :2009/12/20(日) 13:01:33
>>69 会えたか会えなかったはわからないと思うし、単に願いがかなわなかっただけじゃない?
>>35 >山城は古くは山代または山背と書かれた。「背」であれば、私の「水沼背」と通じる。
「升」は帥升、難升米にも使われる文字だけに知りたいところ。
背が「シロ」と読まれるようになったのは平安時代の「背中はからだのウシロ」などという
言葉遊びからなったそうです。
豊島区は、トヨの直轄地だった。 豊田佐吉はトヨのしもべ。 豊臣秀吉もしかり。 源氏との闘いの歴史は長いです。
ですので一番古い呼び名は「山代」のようです。 逆に山代を「ヤマダイ」と呼ばれたくなかったから当て字をしたのでは? という意見の人もいますw
>>77 >背が「シロ」と読まれるようになったのは平安時代の「背中はからだのウシロ」などという
>言葉遊びからなったそうです。
違います。
「山背」は日本書紀で使われています。
桓武天皇が山城国に改称し、これが「城」が「シロ」と読まれた最初だそうです。
>>75 >ケ太后政権の政治ショーですよ。
それなら、ちゃんと会わなければ意味が無い。
むしろ帥升が押しかけたから「願」で終わっているのだろう。
>>81 >ちゃんと会わなければ意味が無い。
その必要はありません。遠方の蛮夷も慕う有徳の天子、とアピールするためのイベントです。
むしろ、中国側からの働きかけによるものでしょう。
>>82 中国側からの働きかけがあったとしても、生口百六十人は尋常ではない熱意。
習近平副主席が天皇陛下に会えなかった場合よりも腹を立てたことであろう。
GRRR・・・
84 :
日本@名無史さん :2009/12/20(日) 15:27:27
>>82 >その必要はありません。遠方の蛮夷も慕う有徳の天子、とアピールするためのイベントです。
いつ?誰にどこでアピールするのですか?
ひっそりと書庫に眠る資料としてアピールするの?
>>83 GRRR・・・ってなんですか?
「東夷列伝」には帥升が実際に洛陽に来たとは書いてないし、
「孝安帝記」に、冬十月,倭國遣使奉獻。とあります。
このときに朝貢したのが倭国使であって、倭国王自身でなかったことは間違いないでしょう。
>>84 >いつ?誰にどこでアピールするのですか?
もちろん朝貢の場で政府・宮廷関係者一同に対して。
手土産の生口160人というからには、使節団も大規模で、
洛陽入場のパレードはさぞや壮観なものだったろうし、
謁見に際しては「表」が取り次がれ読み上げられる。
そして、倭国の表敬訪問は公式発表となり、記録に残るわけだ。
>>86 >手土産の生口160人というからには、使節団も大規模で、
洛陽入場のパレードはさぞや壮観なものだったろうし、
謁見に際しては「表」が取り次がれ読み上げられる。
そして、倭国の表敬訪問は公式発表となり、記録に残るわけだ。
でも、願いは叶えられずに失敗に終わる。それを後世にわざわざ取り上げて
皆で笑いものにしたのですか?それは壮大に行われたものなら尚更ギャップが大きくなるので、酒の肴にはもってこいのネタですね?
で、
>使節団も大規模で、 洛陽入場のパレードはさぞや壮観なものだったろうし、
というのは何処にそれに類似する内容が書かれているのですか?いや、仮に書かれていなくても、それに相当するような他の使節団の様子は何処から参照されたものでしょうか?
>>87 >願いは叶えられずに
倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。
ここから読み取れることは、倭國王帥升が「請見を願った」。
つまり、自身も朝会に出席したいとの希望を表明したことだけです。
使者を通じて、そう伝えたのですよ。
>何処にそれに類似する内容が書かれているのですか?
これは「生口160人」からの推測です。
生口っていうのは生娘(処女)のことだよな。 それをいっぺんに160人も献上するというのは、 魏の若い新王にしたところで嬉し恥ずかしだったろうな。
90 :
日本@名無史さん :2009/12/20(日) 21:27:22
妄想して⇒漢字をトンデモ読み 二つを合わせて「妄想読み」といおう。 妄想読みしてる人はヨソのスレへ行ったか。 悪いけど単なるヒマ潰しなら、 別サイトで若い女の子と話した方が楽しいんだよね♪ あくまでも学問というか、古代史の謎を解き明かすという姿勢じゃないと。
91 :
日本@名無史さん :2009/12/20(日) 21:29:38
>>89 それは違うだろう。
倭人伝読んだことアル?w
>>90 人気を奪われて一番困るのはお前だからな。それが証拠に
今此処にいない相手を持ち出して、脳内をさらけ出しているwwww
お前は何処まで行ってもピエロで楽しいぞw
93 :
日本@名無史さん :2009/12/20(日) 21:35:50
94 :
メ(寝る前) :2009/12/20(日) 21:43:22
あそこのスレは、また金印ネタかよw 偽モノがどうの〜しかもベターなネタだしwww 江戸時代に志賀島(現福岡市東区)から漢委奴国王印が出土した。 これが後漢書に記載される、 『建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬』 の印綬に当たるとされ、現在では国宝とされている。 これが偽造したものなら、江蘇省で出土したモノと符合するのは何故かって話になって 今では、偽造説のギの字も出ないのが現状。 そんなことも知らずに議論してるやつを見かけると笑えてくるのは私だけかw
95 :
メ(寝る前) :2009/12/20(日) 21:50:53
96 :
電波 :2009/12/20(日) 21:52:04
97 :
メ(寝る前) :2009/12/20(日) 21:52:28
>>97 これをもう一度読み直せwwwwwwww
22 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 16:47:47
>17: 2009/12/19 15:47:21
河童君
もう一点
自分が2,3冊しか本を読んでないので、相手も同じと思わないほうがいいよ。
君と話してる相手は、君の想像よりも『はるか』に本を読んできてる。
毎日人一倍素振りをすれば、イチローの様になれると信じるガキの夢を壊すようだが、
オマエがなれるのはイチローではなく
マッチョだ。
現在の宇佐神宮では、本殿は向かって左から一之御殿、二之御殿、三之御殿とならび、 二之御殿の前に申殿があり、八幡造りの本殿がある。 この本殿には、何故か「比売大神」が真ん中に祀られている。 古代史のミステリーともいわれ興味がある人も多いよう。 一之御殿 八幡神 誉田別尊(応神天皇) 二之御殿 比売大神(多紀理毘売命、多岐都比売命、市寸島比売命) 三之御殿 神功皇后 息長帯比売命
100 :
メ(寝る前) :2009/12/20(日) 22:17:16
101 :
電波 :2009/12/20(日) 22:20:06
>>94 >偽造説のギの字も出ないのが現状。
そんなことも知らずに議論してるやつを見かけると笑えてくるのは私だけかw
たとえ偽造説のギの字も出ない現状であっても、それをもう一度再検証しようとする議論が、なぜ笑いの対象となるのでしょうか?
貴方は相当歪んだ性格をしているようにお見受けいたします。
既に有罪と判断が下された裁判であるにもかかわらず、再審請求を出す被告を
貴方は笑いでもって対応する方なのでしょうか?
それが人として有るべき対応なのでしょうか? 私は貴方に対し遺憾の意を表明いたします。
>>99 もう 30年以上前かと思うが、高木淋光という推理小説作家が
邪馬台国の秘密という著書にて
宇佐神宮の神殿配列について紹介したことを思い出した。
104 :
メ :2009/12/20(日) 22:36:18
>>102 >たとえ偽造説のギの字も出ない現状であっても、それをもう一度再検証しようとする議論が、なぜ笑いの対象となるのでしょうか?
答える義務はありません
>既に有罪と判断が下された裁判であるにもかかわらず、再審請求を出す被告を
>貴方は笑いでもって対応する方なのでしょうか?
そのレスのどこが法律違反なの?君を名誉毀損で訴えちゃうぞww
105 :
メ :2009/12/20(日) 22:41:03
>>103 では、思い出した内容をどうぞ。
みんな、河童さんに注目。
106 :
電波 :2009/12/20(日) 22:41:53
>>102 この人の性格は、残念だがもう直らないと思うよ。
にしても、こないだの纏向掘立柱建物騒動の影響か、名無史で頭のよい人が増えた感じがする。メはますます
大変だな。
107 :
日本@名無史さん :2009/12/20(日) 22:46:12
金印については何故か俺の中では 『奴国に持って行く途中に船が沈没〜千数百年の時を経て見つかった』 って事になってる 何故だろう?
纏向掘立柱建物騒動の影響かしらんが 最近やたら増えたな、それは良いことだが 新入りのくせに2ちゃんねるの『先輩』を立てようって カワイイ後輩も居ても良いんだが、居ないのが残念・・・
レスの内容すら把握出来ないこんな馬鹿が未だに存在するのかよ
104 名前:メ :2009/12/20(日) 22:36:18
>>102 >たとえ偽造説のギの字も出ない現状であっても、それをもう一度再検証しようとする議論が、なぜ笑いの対象となるのでしょうか?
答える義務はありません
>既に有罪と判断が下された裁判であるにもかかわらず、再審請求を出す被告を
>貴方は笑いでもって対応する方なのでしょうか?
そのレスのどこが法律違反なの?君を名誉毀損で訴えちゃうぞww
>>105 まだ古本屋に行けばあるだろうから、買って読めばいいじゃん。
いちいち内容まで取り上げる程の事はないよ
111 :
日本@名無史さん :2009/12/20(日) 23:01:25
112 :
メ :2009/12/20(日) 23:02:13
>>109 卑弥呼や邪馬台国について語るスレです。
関係ない話しをするなら他でやって下さい m(__)m
>>110 いや、
「佐神宮の神殿配列について紹介したことを思い出した」んですよね?
たとえばどういう事を思い出したんですか?
>>111 >その程度の本ってことか。
人それぞれかとは思いますが、私はそう評価します。
神津恭介・松下研三という配役が、神津恭介の入院をきっかけに邪馬台国の謎に挑むという
ベットトラベル形式で構成された推理小説です。
同様の歴史ベットトラベル推理物で、同氏は「成吉思汗の秘密」が出版されていますが
個人的には後者の方が私は好きです。
>>112 >たとえばどういう事を思い出したんですか?
>>99 さんが書かれていた配列ですよ
115 :
日本@名無史さん :2009/12/20(日) 23:28:49
>>99 それ、デンパ神の関裕二が嬉しそうにPHP小説に書いてたな
116 :
メ :2009/12/20(日) 23:31:18
>>114 ほう、
んでこの「宇佐神宮の配列の謎」について調べたりしましたか?
117 :
メ :2009/12/20(日) 23:33:56
>>115 115さんの考えはどうなんです?
関裕二さんは〜こういう古代史の謎とか好きそうですね
貪欲というか・・
そうそう書き忘れましたが、 高木氏は、もう一冊歴史ものとして「天皇家の秘密」という著書も出版しておりまして こちらは邪馬台国の秘密の続編と言う内容になっています。 私の本棚にはこの3冊が、本棚に誇りをかぶって眠っています。
119 :
電波 :2009/12/20(日) 23:35:34
>>113 「成すよし(吉)もがな(思汗)」ですね。いかにも河童さんの好きそうな。
>>119 私もこれを読んでから25年ほどの歳月が流れています。
「しずやしず しずのおだまき くりかえし
むかしをいまに なすよしもがな
よしのやまに・・・・・・・・」 でしたかな?
最後 天城山心中が出てきたりと
121 :
メ :2009/12/20(日) 23:46:36
>>111 >その程度の本ってことか。
>>113 >人それぞれかとは思いますが、私はそう評価します。
邪馬台国宇佐説では、『高木彬光』氏が一番名が知られてるようですね。
まあ、『卑弥呼と宇佐王国』著清輔道生氏も有名ですし、それから〜
『邪馬台国の位置と日本国家の起源』著鷲崎 弘朋もそこそこ売れてるようですね。
122 :
メ :2009/12/21(月) 00:12:05
一之御殿 八幡神 誉田別尊(応神天皇) 二之御殿 比売大神(多紀理毘売命、多岐都比売命、市寸島比売命) 三之御殿 神功皇后 息長帯比売命 宇佐神宮の「比売大神」は真ん中に祀られている。 古代史のミステリー? これは、最近そのようになっているというだけ。 息長帯比売命が祀られる前は「八幡神」と「比売大神」が並んで祀られていた。 その後、「息長帯比売命」が祀られるようになって三神となったんだが、 一、八幡神 二、比売大神 三、息長帯比売命 現在はこの順番で比売大神が真ん中だが、その前は 一、比売大神 二、八幡神 三、息長帯比売命 で八幡神が真ん中でしょうね。 <豊前志 九之巻 宇佐郡上> 「中殿に、八幡大菩薩宇佐宮」 とあります、二六四ページですね。
>>122 順番が変わるという事は、結局順番なんてどうでもよかったということだよ
124 :
メ :2009/12/21(月) 00:34:11
>順番が変わるという事は、結局順番なんてどうでもよかったということだよ 「香椎」、「大隅」、「住吉」、「高良」、「筥崎」とかの 宮、神社、大社の『順番』はご存知でしょうか? つねに主神を真ん中に祀っているようです。 <託宣集 第二巻> 省略(めんどうなのでご勘弁・・・)
>>124 >つねに主神を真ん中に祀っているようです。
ところで、その主神とは
何を基準に主神としているのかね?
三つ、五つと、一つを除けば全ての奇数には中央が存在するのだが
その真ん中という事は何か大事な意味でもあるのかね?
それにその主神とはどんな基準で主神と判断するのかね?
>>119 「吉」野の誓い「成」りて、我「水干」を「思」う
の解釈もありましたよね。
>>126 「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の あとぞ 恋しき」
静御前が、義経を慕い舞いうたったものでしたね
それを時空を越えた昭和に重ね合わせ、清朝末裔の愛新覚羅慧生と浩の出来ごとに結び付けるのですから
天晴れとしか言いようがありません
128 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/12/21(月) 00:58:15
世界文化遺産の宇治上神社は、真ん中に応神天皇、向かって右側に菟道稚郎子皇子、 向かって左側に仁徳天皇ですが順番に何か意味があるのですか?
129 :
メ :2009/12/21(月) 01:06:23
>>125 おたく、質問が多いですねw
ま、勉強がてらに答えてあげましょう。
主祭神に関しましては、「由来記」、「縁起由諸」だったり、
あるところでは「秦氏本系帳」、「新撰姓氏録」とか古文書の記録でしょうね。
八世紀より神社の祭神の格というんですか、古代の制度が発生し、『正五位』だとか、
『従五位』とかの祭神の格も決められたようです。
もちろん、この場合は大和朝廷による詔書によってでしょうが、
のちに『従五位』から『従四位』に改められたという話もよく耳にします。
130 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 01:11:05
>>129 別にそんな事は聞いていない。
基準聞いてるのだよ。
131 :
メ :2009/12/21(月) 01:15:05
>>130 主祭神に関しましては、「由来記」、「縁起由諸」だったり、
あるところでは「秦氏本系帳」、「新撰姓氏録」とか古文書の記録でしょうね。
こたえてるじゃん。
132 :
メ :2009/12/21(月) 01:18:29
>>128 >宇治上神社は、真ん中に応神天皇、向かって右側に菟道稚郎子皇子、
>向かって左側に仁徳天皇ですが順番に何か意味があるのですか?
わたしの
>>127 よく読んで
「つねに主神を真ん中に祀っているようです。」
133 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 01:19:51
>>131 主神の判断基準が、それら出版物が刊行された以降の事なら
余りこだわる必要性もないようですね。
134 :
メ :2009/12/21(月) 01:19:59
135 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 01:21:55
早い話し、主神なんてなんでもよかった。 そういう事ですね。
136 :
メ :2009/12/21(月) 01:24:11
>>133 >>135 そんなこと言ってると笑われるゾw
なんか一気に力が抜けるレスだな・・・そろそろ寝ようかなっと!w
志初心者に教えるの苦手だしwww
137 :
メ :2009/12/21(月) 01:28:06
あ〜言い方が悪かったかな・・・ 主神が三つの場合は、格が最も高い神が真ん中に祀られる。 以上〜そろそろ寝ますね、では、Good night 〜☆ zzz・・・・
138 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 06:54:37
>>137 宇佐神宮は中央が入れ代わっているのだから、神様の人事異動があった
わけだろう?
140 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 09:53:07
関西人が勝手に邪馬台国だと盛り上がってるだけでしたwww
奈良は何処かと違って年代を冷静に判断してるだけですよw
142 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 10:09:02
三世紀なんて、世界中が三世紀のわけだし。 奈良だけが三世紀なわけではない。
143 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 11:46:41
堂ノ後の方がホケノ山より古いってことは・・・ ホケノ山は六世紀以降?
144 :
愛知県民 :2009/12/21(月) 12:40:42
狗奴国は熊にあらず。木の国です。
145 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 12:49:00
じゃあ奴国は「の国」かいな
146 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 12:49:41
狗奴国は日本国です。
147 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 12:55:46
>>139 もう決定打だよな
マキムクマキムクほざいてたジジイは自殺するのではないかな
148 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 13:08:30
さて、全て200年ズラそうか!
149 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 13:16:43
土器編年も200年さかのぼらせなきゃな あ、古墳時代を200年ずらせば済むのか。 古墳時代は2世紀から…と
150 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 13:18:44
邪馬台国関連スレでは、堂ノ後の話題に触れまいと、必死で話しを逸らそうとしている様子がひしひしと感じる
151 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 13:20:55
こうなったら、どんなゴッドハンドが飛び出すかわからないから 皆で監視しようぜ。
152 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 13:35:56
ホケノ山古墳が6Cなら、他の古墳の比定はどう変わるのか。 それともこのニュース自体が抹殺されることになるのか。 なんかすごい歴史の1ページを見てるみたいだ。
これでマキムク遺跡群は素直に5世紀のものに落ち着きそうだなぁ
154 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 13:40:00
すでに土器編年の年代も相当ムリヤリに遡上されている。 それまで元に戻せば、7C、8Cなんてことにならないか?
155 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 13:44:54
九州説の連中はこういうのは素直に受け入れるんだなw
156 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 13:45:52
日本最古と言われてきた堂ノ後が 五世紀後半と判断されたのだから、当然その周りの古墳も、見直し必死だろう。まさかホケノと堂ノ後だけの問題では済まないし。 箸墓の被葬者も、当然六世紀の人物を想定しなければならないだろう。 日本最古のブランドがズレたんだから、
157 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 13:47:55
>>153 吉野ヶ里も4世紀ってことになるのかな?
158 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 13:48:14
まだマキムク以外に邪馬台国の候補は無いと言い張るんだろうか。 一つに絞ると、他の可能性が出て来たときに、完全消滅するのだが。
159 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 13:56:33
吉野ヶ里は直接的には関係ないと思う。 ただ、奈良では ホケノが周りに影響を及ぼしている事が確かなので ホケノが六世紀と判断せざるおえない場合、あの周辺の古墳築造年代 は影響する事必至。
160 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 14:03:41
>>158 いると思うよ。
でももうそいつらは、電波だから気にする事はないよ。
161 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 14:13:17
土器編年を200年ずらすなら、 時代が早すぎると言われている吉野ヶ里の時代が ぴったり合ってくるな。 まあ、吉野ヶ里が卑弥呼の宮殿であるとは 思っていないが、可能性は高くなる。
162 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 15:01:25
あのあたりで 堂ノ後だけ新しいんだよなぁ 他はそれより古いんだぜ
163 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 15:06:14
堂ノ後古墳の一部が壊されて、 その後にホケノ山が築造されているそうだから ホケノ山はそれより後の遺跡というのは確定か
164 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 15:24:47
奈良も大変だよな。 ただの山を墓と言ってみたり、五世紀後半を最古と言ってみたり ホケノは六世紀確定だね
165 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 15:36:33
今夜のマキムク厨のコメントが楽しみだ。 箸墓は関係ないとでも言い出すのかな?
166 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 15:42:32
>139
>これによって、最古の前方後円墳は、ホケノ山古墳をはじめ、
>約1キロ北西にある纒向(まきむく)石塚古墳などに絞られることになった。
体勢に何の影響も無いように見えるが。
>>165 君は何を勘違いしてるの?
167 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 15:52:24
>>166 最古と言われていたものが、蓋を開けてみたら五世紀後半だったんだよ。
今更大勢に影響はないと言われても、蓋をあけてみたらまた大勢に影響大有りでしょ
168 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 15:55:29
5世紀後半の堂ノ後古墳の後にホケノ山が作られている。 つまり最古の前方後円墳は5世紀後半以前にさかのぼらないということである。
169 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 16:02:30
単独の古墳なら、比定間違いによって 年代が変化することもあるだろう。 だが、古墳同士の重なりや整地、破壊の状況により 他の古墳にも年代比定の影響を与える。 土器その他の出土物により、さらに 他の古墳に影響を与える。 影響の広がり具合によっては この調査は無かったことになるかも知れない。
170 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 16:19:08
>>167 堂ノ後古墳が五世紀後半だとわかったのは、
ホケノ山が古いという前提の上の話だろ?
何が問題なのかわからんな〜。
>>168 >5世紀後半の堂ノ後古墳の後にホケノ山が作られている。
すごい、悪質なミスリードだな。
「堂ノ後古墳の後にホケノ山が作られたと考えられいたが、ホケノ山のずっと後に堂ノ後古墳が作られたことがわかった」
というだけ。
ホケノ山が6世紀とかになったわけじゃない。
君、もしかしてバカなの?
171 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 16:48:03
3世紀って言ってた物が5世紀なんだろ。 そもそも調査力自体が微妙なんじゃないの?
172 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 16:49:04
>堂ノ後古墳は約20メートル東にあるホケノ山古墳(3世紀中ごろ、全長約80メートル) >が築造される際に、一部が壊されたり埋められたりした可能性のあることが判明した。 > >築造時期については、須恵器と呼ばれる土器や円筒埴輪(はにわ)、鶏形埴輪などが見つかり、 >いずれも5世紀後半のものだったことから、堂ノ後古墳は、ホケノ山古墳より200年以上新しいことが分かった。 面白い矛盾だね。ホケノ山が作られる時に、壊されたり埋められたりしている堂ノ後古墳が なぜかホケノ山古墳より200年以上新しいらしい。 これはホケノ山が3世紀という思い込みで書いているから矛盾する。 ホケノ山が5世紀の堂ノ後古墳より新しいと比定すれば、何の矛盾もなくなるのである。 まあ、こう書いてフォローしているつもりなのだろうが。
173 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 16:51:27
>>170 気持ちが動転しているのはわかるが
先ずは餅つけ。
何も捕って食べようとしているわけじゃないんだ。
174 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 16:53:20
ぱくっ、もぐもぐ
175 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 17:23:37
>>173 で、ホケノ山が6世紀ですってか?
面白いやつだなあ。
176 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 17:26:00
畿内説終了のお知らせ
浮かれる気持ちは解るが、畿内説は年代を捏造しない証拠だな。
178 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 17:56:20
アホらしい… 蓋を開けてみたら堂ノ後は最古ではなく5世紀だったって話で そもそも堂ノ後がホケノより古いと言う事が何某かの出土物等により 担保されていたわけでも何でもないwwwwwwww
179 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 18:01:16
いいから、先ずは涙を拭いて餅つけよ。
180 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 18:02:00
堂ノ後が最古かどうかよりも いままで最古だと言われていた根拠が知りたい。 ホケノや箸墓同様に、じつはたいした根拠無かったりして。
181 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 18:05:45
>>179 まあ歴史教科書の内容が
「古墳時代の始まりは5世紀後半から6世紀初頭…」
なんてのに書き換わったら餅でもつくとするかな?wwwwwwww
182 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 18:08:38
6世紀か あと1世紀後には藤原京だな
183 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 18:09:39
鬼の首を取ったつもりの九州 涙目で退散wwww
>>180 堂ノ後古墳なんて、最古かもと言われたのがごく最近だよ。
2005年にレーダーを使って学生が発見したとか言われてた奴。
当時も殆どスルーされてたと思うが‥
185 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 18:21:30
>>180 ホケノはともかく、箸墓はまだ墓じゃないし
問題外だ。
186 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 18:41:36
6世紀を埋める古墳があると、 マキムクの古墳を作った勢力が 藤原京の母体となる流れが 非常に素直になる。 東遷説別にしてね あ、前方後円墳の時代を、 日向も結構古く見積もっているはずだが 一緒に新しくなるのか、それともそのままなのか。 日向の前方後円墳の年代比定を古いままにしておくと 前方後円墳のルーツが日向と言うことにならないか?
188 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 18:57:29
とにかく今まで最古と言われていたものが沈んだのは事実だ。 同時にホケノも200年ズレた。 これだけは事実なんだ
189 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 19:01:34
前方後円墳の年代比定を3世紀前後にするレースをやっていて とつぜん、トップを走っていたはずのホケノが200メートルバックしてしまった。 他の前方後円墳はどうしたらいいのか分からない。
190 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 19:04:30
九州説では卑弥呼の墓は方墳とか円墳と言われてきたが 前方後円墳全体が200年ほどズレルとすると、 畿内説の言う前方後円墳が卑弥呼の墓という可能性はなくなりそうだね
191 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 19:17:29
>同時にホケノも200年ズレた。 >これだけは事実なんだ …で、現時点、堂ノ後がホケノより古いと言う根拠は何なんだよアホwww 古いと言われていたものが実は新しかったと言うだけの話で 全体をズラすなんて何処の馬鹿がやるんだ? まあ九州説を唱えてくれている学者でも そんなアホな事は言わんと思うぞ?wwwwwww
九州説の短絡的発想が笑えるwww
193 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 19:25:53
今日は静かだね。 またどこか大量規制なのか それともどこかで祭になってて こちらに来ないのか。 工作員抱えてるネット会社が契約解除 されたという噂もどこかでみたな。
194 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 19:26:35
今回も土器によって5世紀と判ったのだが、土器偏年自体がずれると 勘違いする九州説馬鹿多すぎ
195 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 19:31:34
土器編年がズレルかどうかは分からないけどね ホケノを3世紀に持ってきたいなら 土器編年をまたいじるだろうって 思ってるだけだよ。 いつものことだし
196 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 19:33:52
もともとマキムクは5世紀だったからな 土器年代修正で3世紀まで持って行った歴史がある。
197 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 19:35:13
「国内最古」の堂ノ後古墳 掘ってみたら5世紀後半 奈良 ここの調査員たちは空想でやってないだろうな。 なにはともあれ科学的でたのみます。 発見されるのはいいことだが尾びれや背びれの方が大きいんでないかい?
198 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 19:35:42
まあ分かりやすい話で言うと 「葺石」が確認されたと言う時点で 最古と言う名称には疑問符がつくわなwww でも、まあ九州説論者にとってメリットの全然内話でもないかもw こ の全長60mの古墳が所謂「纏向型」(死語?w)と言うやつなら 北部九州の前方後円墳もその出現時期を(流石に5世紀後半と言う事はないにしろ) 相当時間の”幅”をもって見ることができやしないかな? そういえば東遷厨は以前 「古墳の規格は一時代一規格」 …みたいなこと言って無かったかな?wwwww
>>139 燃料投下乙。
記事をまともに読みもせず、大騒ぎしている連中の様子が笑える。
出土品で年代を決めるなら、築20年の俺んちに仮にある江戸時代の茶碗の存在で俺んちの築年代は江戸時代になるねw
201 :
加藤鷹 :2009/12/21(月) 20:00:51
結局わたしの出番ですか?
203 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 20:20:48
堂の後古墳が古いと言い出したのは天理大の学生で、堂の後の周濠の一部を壊してホケノ山が造られた可能性が あるという話だったが、その部分が間違ってたというだけのこと。おそらく周濠は、ホケノ山を避けて掘られたのだろう。 つまり地中レーダー探査の画像解析など考古学専攻の学生にできる話ではないということ。出土品から見るのが本筋 だし、ホケノの年代観は変わらない。
204 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 20:24:37
>>203 >おそらく周濠は、ホケノ山を避けて掘られたのだろう。
という想像でした。
>>197 よく読めよ。堂ノ後は元々6世紀とされていた古墳だよ。
それを数年前に天理大の学生達がレーダーを使った調査で
3世紀かも知れないといいだしたのが発端だ。
大体堂ノ後古墳なんて相当マイナーだぞ。 皆存在知っていたのか?
207 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 20:47:18
俺らの間ではこの話は「天理大の考古学???」「レーダー調査で土の質が違ってる????」というような反応 だったけどね。おおかたもそうでしょ。
208 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 20:49:54
>天理大学の桑原久男教授(考古学)は「地中レーダー探査では前方部の有無など平面の形は明確 に把握することはできたが、古墳の新旧については、判断が難しいのかもしれない」と指摘。 これは「変なこと言い出してすみません」という反省の弁だよ。
209 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 20:54:24
堂ノ後古墳なんて、ここに張られていた記事で始めて知った。 しかも、ホケノ山の下の層にあると言うことと それにより、相当期待されていたことがわかる。 残念だったね。
210 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 21:01:11
九州説にはこういう誤りをするネタすらないの?
211 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 21:03:36
>桜井市教委担当者は「地中レーダー探査のデータがあったからこそ、前方部の存在を予想して発掘調査 ができた。探査の重要性が変わることはない」としている。 天理大関係者以外はそんな大きな期待はなかったと思うよ。上のコメントは「君たち残念だったねー、も少し 勉強してからまたチャレンジしてね。」というニュアンスかな。
212 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 21:16:54
大体5世紀後半つったら安康・雄略あたりだよな? もし前方後円墳の出現を5世紀後半にするのなら それまでの天皇の墓は前方後円墳に定めるのは無理と言う事になり 「家なき子」ならぬ「墓なき子」だなwwww 欠史八代どころの話じゃなくなると思うんだが…w そこら辺この件で小躍りしている九州説の連中は無問題ですか?wwwww
堂ノ後古墳??? エンタメ派の河童虫さんに聞けばいいじゃん 河童虫さん、一言宜しく
畿内説は卑弥呼の墓どこで絞ってるの?
堂ノ後古墳
216 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 21:36:04
>>213 そう言えば河童は 倭王武=神武 と言うのをどこかで言ってたなw
それを雄略とすれば
>>212 の件もスムーズに解釈できるのではあるまいか?www
この記事だけじゃいまいちわからんが、 堂ノ後古墳の一部の上にホケノ山古墳があるのは確定でいいの? 堂ノ後古墳が6世紀と言われてたのは、円墳と思われてたからでしょ
218 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 21:42:05
え? 重なってなんかいないと思うが…
219 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 21:54:52
>>217 確定じゃないよ、というかその部分が間違いだろう。1回レーダー探査の画像見てみるといいよ。そんなのよほど
明確な例でない限り考古学の学生にわかるもんじゃない。(地下工事や水道管のプロならもしやわかるかも)
堂の後の周濠自体にしても発掘してみないと確かなことはいえないよ。
おそらく発端は、学生達が盛り上がったんじゃねの。自分たちはすごい発見したかもしれないって。
220 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 22:08:09
卑弥呼の墓だと言われてる箸墓古墳って魏志倭人伝の記載が正しいとなると大きすぎない? なんか都合よく後円部だけで判断してるけど
C14、レーダー・・近代兵器ほどあてにならないものはないですね。
223 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 22:42:24
>>222 うん結局、データの解釈をするのは人間だからね。ガラガラポンとやれば、実年台が出てくる機械ができれば
いいんだけど。
224 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 22:47:10
箸向も実は5世紀ごろ遺跡なのでは?
箸墓ってどうみてもヤマト政権誕生後の遺跡だよな なんとなくだけどw
226 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 22:51:27
ただまあ、そんな機械ができたら考古学はダメになるかな。本来は土器の整理・・・ナンバリングして、実測 したり、拓本をとったり、トレースしたり、接合したり・・・クソめんどくさい作業の中から、遺物の声を聞き、古 代人の心に触れる・・・いつまでもそんな学問であってほしい気もするね。
227 :
日本@名無史さん :2009/12/21(月) 22:57:34
本日、堂の後の件で盛り上がってるのは約一名様だけのように見えますね。 確か、天理大のレーダーの結果は、当時のマキムクスレで話題になってました。 そこで桜井市の中の人っぽい方が、早急に実トレンチを入れる、みたいなことまで言ってましたがその後沙汰やみに。 半年ほどしてネタを振ってみたら、トレンチの方は中止だと。 レーダー図をよく見たら、周濠の食い合い関係の先後は曖昧だけど、 ホケノの周濠の方が古いのは変わらないとのこと。 既にその時点で堂の後が古いという説はお釈迦になっていたんだと思いますけど。
学生さん残念でしたという事。 大騒ぎする話題ではないよ。
230 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 00:15:29
卑弥呼って、日向く王なんじゃね? phimukwoって感じの発音で
>>221 マキムクスレにも書いたけど誰もレスくれないですね
232 :
愛知県民 :2009/12/22(火) 06:46:14
九百七十丈のクヌギは狗奴?
233 :
愛知県民 :2009/12/22(火) 07:18:33
卑弥弓呼は日御木王かも
234 :
愛知県民 :2009/12/22(火) 07:54:39
ククノチヒコは木の神
235 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 08:40:00
今回は学生さんの発見だったので、簡単につぶされたのだろうけど、これが某有名研究所の が発端ならば、別の結論がでていたかもしれないね。
236 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 10:29:07
卑弥呼の墓が箸墓だっていう説だけど、邪馬台国の王は卑弥呼だけじゃなかったよね。 男王もいたし、イヨもいる。 魏志倭人伝には卑弥呼の墓についての記載があるけど、邪馬台国では卑弥呼以外の王の墓も 当然作られているはずなんだが、あの墓の近くに、そんなに大きい墓がいくつもあったっけ?
普通にあるけどw
238 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 12:04:07
古墳なんてのは、だいたい時代が下がるほど 大きくなる傾向にあるんだな。 生活や国力に余裕があれば どうも、前より大きい物を作らないと気が済まない物らしい。 大きいと言うことはそれだけで、新しい可能性が高くなる。
239 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 14:33:40
240 :
卑狗模古二世 :2009/12/22(火) 18:10:22
畿内説のみなさん元気出ませんなあ。頼りにしてたホケノ山古墳の年代が怪しいねえ。箸墓なんか下手すると 6世紀の築造になりかねんねえ。 年輪年代法で遺跡年代を操縦してきたけど化けの皮が剥げてきよりますなあ。木材なんか酸素のない所か乾燥 した所に保存されない限り何百年も保ちませんのや。土に触れていたら百年で腐ってしまいまっせ。年輪年代 法には千年以上前の標準試料なんて無かったんよ。木材や微生物のことをよく知らん奴がやるからこんなデタ ラメな間違いを起こすんでっせ。功を焦ったんやねえ。畿内説の皆さんも騙されたねえ。お気の毒さま。
>>240 お前は情弱か?
さては縄文人の爺さんかw
242 :
卑狗模古二世 :2009/12/22(火) 18:25:55
>>241 訳のわからん、無意味な書き込みをしているおまえはアホか?
ホケノ山古墳 提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 >築造時期:副葬品や埋葬施設などから箸墓古墳に代表される定型化した出現期大型前方後円墳よりあまり遡らない時期[1] >の前方後円墳と考えられ、邪馬台国時代に築造されたと推測されている。前方後円形をした弥生墳丘墓であるとする見方と古墳 >時代出現期のものであるとする見方が出されている。 > >[1] 3世紀前半 どうすれば >ホケノ山古墳の年代が怪しい になるのか疑問だw
>>242 あっ、図星かw
相変わらずバカで情弱だからすぐ判ったよ。
245 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 19:01:44
246 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 19:07:30
前方後円墳が卑弥呼の墳墓じゃ無かったと言うだけだ。 ほかに円墳や方墳もある。 だいたい箸墓、マキムク以外あり得ないとする方がおかしい。 弥生時代の遺跡なんて畿内にもいくらでもあるのだ。
247 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 19:08:11
パーカ。 斬新だな使わせてもらう
248 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 19:10:43
邪馬台国関係のスレは畿内説のお通夜状態だな。
>>221 魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置を、方角軽視の距離重視で論じてる畿内説厨何かレスくれ
250 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 19:24:51
>>248 九州説の頭の悪さをさらけ出してるだけに思うがw
>>228 >盛り上がってるのは約一名様
ヤフー、鷲崎板、曲学板、でも約一名様もり上がってますね。
マキムクスレに実体が出現しています。
252 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 20:35:45
>魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置 はっきり書いてあるのは伊都国周辺の位置関係だけで投馬国や邪馬台国はどこでも当てはまる
投馬は出雲、邪馬台は大和で問題なし。
卑弥呼の墓は讃岐富士だと思うのだけれど…賛同を得られたためしがない。orz
255 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 21:09:11
知り合いが良識ある人でよかったね
邪馬台国の最有力候補といわれてる巻向遺跡は、奈良盆地の東南部に位置し この周辺には巨大な古墳が点在する。 土器についてだが、巻向1類〜5類までの各年代は次のようにいわれてる。 巻向1類(弥生5様式末)・・・二世紀後半 巻向2類(庄内古式)・・・三世紀初め 巻向3類(庄内新式)・・・三世紀半葉 巻向4類(庄内新新式・布留0式)・・・三世紀後半 巻向5類(布留1式)・・・三世紀終わり 古代史に考古学は欠かせないが、土器の話になると おっさーん臭いと思うのは私だけだろうかww 華やかさがないww
257 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 22:40:59
また覚えたことをコピペするだけで自分で考察する能力のない人が来た。
258 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 22:42:11
くやしいのう、くやしいのう、河童は人気があってくやしいのう。
260 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 22:45:10
つまり玉無しということか!!
巻向遺跡から出土してる土器は、大半が「大和系」なんですが 外来種系の土器としては「吉備」、「河内」、「北陸」、「尾張」、 「山陰」、「近江」、それから筑紫にまでおよんでいる。 土器の種類は大まかに、5様式土器、庄内式土器の2タイプがあり、 前者は東へ、後者は西へ広がる。 誰か知らんが、庄内式土器は九州に無いとか言ってる子がいたが、 この薄型でまんまるいタイプの土器は、九州でめっちゃ発見されてるしww
>質問が多いな〜w >おたく、質問が多いですねw 追求されるのを避けるのは答えを持ってないから?
264 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 22:53:50
また初心者をバカにしてる。
>>257-261 もっと1レス1レス大切に使えよ。
最低でも4行は書き込んで方がいいと思う。
>>251 >鷲崎板
へえ〜2ちゃんでも何故か鷲崎さんの掲示板が人気になりつつあるよね。
発端は「太国」そしてわたしかな(笑)
>>257 >また覚えたことをコピペするだけで自分で考察する能力のない人が来た。
コピペちゃうしw 一字、一字、 書き込んでるのにこんなこといわれるなんて・・・
それはそうと、土器の話はこれくらいにして(おっさん臭いしw)
卑弥呼=イチキシマヒメ説でも話すべw
宦官の性格ー情緒的になり、感情の起伏が激しく、猜疑心に富み、自分より強いものには迎合する。
267 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 23:00:53
>筥崎宮 ↑ウィキによれば創建は10世紀とかいわれてるようなんですが、 実はコレ、かな〜り古い神社という情報を得ましたわ。 まあ、本当かどうかはよく分かりませんが、古代史の謎を解く上で、 重要な神社らしいです。 実際行った人ここにおるのかな? 現地では有名な神社の一つに数えられてるようです。
269 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 23:06:11
卑弥呼は日本史の誰に当たるのか?を考えて、 卑弥呼=イチキシマヒメ説というのも面白い。 箸墓、箸墓、モモタン、モノタンばかり言ってないで、 たまには、イチキシマヒメ説も考えてみるっていうのも面白い。 まあ、ここでは卑弥呼=イチキシマヒメ説をとってる人ってみかけないが、 あるのは事実なんだし、聞いたことが無いのかって!思ってしまうww
271 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 23:18:05
また人をバカにしてる。
>聞いたことが無いのかっ で、詳しいことを追求すると >おたく、質問が多いな〜w
運営さん、運営さん、メをプロ固定から外してください。ものすごく嫌われてます。
274 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 23:30:32
出雲や吉備の歴史は危機にも描かれているけれど、 九州や四国、東海、関東の歴史は全く残されていない。 その辺に、謎を解くカギが隠されている。
275 :
卑狗模古二世 :2009/12/22(火) 23:45:41
危機に描かれているとは、鬼気迫る必死さを感じさせるね。
276 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 23:52:32
>>272 そこが河童とは違う最大の相違点。
彼が質問に応じる事は皆無である。
277 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 23:53:53
メ組の人は穢多
278 :
卑狗模古二世 :2009/12/22(火) 23:56:06
メ氏を排除しなくてもいいだろ。彼はなかなかマメに調べものをしているし、悪い人間ではない。
279 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 23:58:36
47.太国 2009/12/22 23:02 また2ちゃん、規制がかかって書きこめ ないようだ。改めが眠い感じで発端が どうのこうのと言っている。w それがしも寝る。zzz・・・
280 :
日本@名無史さん :2009/12/22(火) 23:59:25
メ組の人は非人
281 :
卑狗模古二世 :2009/12/23(水) 00:02:49
277,280のような人間性を疑われるような書き込みはやめようぜ。他人を罵倒するにも節度というものが あるだろ。
282 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 00:03:49
メ組に関してはまったく許されるものである。 あの生き物はその程度の屑である。
283 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 00:04:43
メ は在日
284 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 00:05:09
メは池沼
285 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 00:05:17
>>278 >メ氏を排除しなくてもいいだろ。彼はなかなかマメに調べものをしているし、悪い人間ではない。
排除することはないでしょう。彼がなかなかマメに調べものをしているのなら
彼がここでしなければならない役割は
調べた事を五十音順に貼付ける作業人としての役割だ。
そうだろう、彼は質問に応える事がないのだから
286 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 00:06:18
メは基地外
287 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 00:07:59
メ は壊れたレコード
288 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 00:12:28
メ は肥溜め
289 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 00:12:54
メ は駄目
河童が名無史になりすまして人の批判をするのは卑怯というwww
291 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 00:17:10
壊れたレコードのメ組に必要なのは、出されたご飯を残さず ごちそうさま。と着地する事だ。 せめて出された質問ぐらいは、テンポよく答えろ。 応える事が嫌なら最初からネタ振りするなと言う事だ。 ゴミを撒き散らすな。
>応える事が嫌なら ・・・できないんだよ。普通の人ならそこで少しは苦悩するもんだが、こいつの面の皮の厚さ、無神経さときたら・・・
293 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 00:22:51
>>290 人違いではありませんか?私は河童さんではありません。
294 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 00:26:04
おれもかっぱじゃねいや
メ は卑しき者。無辜の人物に罪を擦り付ける。 まさしく人間の屑として賤しむべきといえよう。
296 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 00:29:22
>>290 少し河童さんの亡霊に怯え過ぎですよwwww
あなたに無くて河童さんに有るのは
例え脳論と言われようが、前向きに質問や反論に応えようとする姿勢なんです。
297 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 00:42:05
くやしいのう、くやしいのう、河童は人気があってくやしいのう。
298 :
愛知県民 :2009/12/23(水) 07:01:36
ラッツアンドスター、懐かしいね。 卑弥呼は八女 弥馬は三潴 卑弥弓呼は三池 狗古智は菊池
マキムクに点在する古墳の出土品に変化ってあるんですか? 古い時期の古墳からは出土してないけど新しい古墳からは出土したとか
土師器の広がりと前方後円墳の関係についてわかりやすく説明されているサイトか書籍はあったら教えてください。
301 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/23(水) 10:05:11
纒向に各地の土器が急に現れるのは、崇神11年の「異族多帰」の結果、2世紀末。 庄内式は、たたねこ 布留式は、野見の宿禰 ホケノ山は、垂仁稜に田道間守の殉葬 240年。 現箸墓は、景行陵 260年。 景行の全国統一。景行、成務による屯倉設置と前方後円墳は同時に各地に広まる。
302 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/23(水) 11:12:48
>>266 この板にも、約1名居るな、赤玉放出でそれを認めた本人が。
303 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 13:41:51
ははあ、太国は宦官であると。
メ は出入り禁止。
メ は人蝿、嫌悪し、忌避し、打ち叩くべき存在。
306 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 17:18:50
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■ @まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、 それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。 (朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる) Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、 長江江南人が渡来したと狂言しまくる。 (バカ、ダマサれ信じ込む) Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を 働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。 Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
307 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 17:46:25
「改め」に改めたほうがいいんじゃないの?
308 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 19:41:24
メ 登場から廃墟と化したな・・・。
309 :
愛知県民 :2009/12/23(水) 19:41:27
福津市に花見と有弥がある。 不弥国かな?
310 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 20:10:50
メ は穢多
311 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 20:22:08
メ はお仕事としてスレを回してるから、ネタ投下や煽りはある面しょうがない。 ただ残念なのは、人格の低さがモロにレスに出てしまうことだな。自分はたいした知識もないくせに、初心者 と思われる人をケアせずバカにしたり、他のコテ(おおかたはメより高レベル)を論評したりするのはきわめて よくない。それでレスが伸びるわけではなく、自分の人としての未完成さがあらわになるだけ。 ネタ投下にしても、「自分は詳しくないけど、こういう話題があるよ」ならいいが、「こんなことも知らないのか、 でも質問には答えないから自分で調べな。」これでは反感を買うのもむべなるかな。 それこそ2chに向かう態度を「改め」たほうがいい。
312 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 20:55:16
メ の歴史センスのなさはあちこちに表れている。
>>256 これは聞きかじりの土器編年を書き込んであるものだが、古式土師器との平行関係はよいとして、それぞれの
考古学者によって様々な論が存在する実年代を書き加えているのは無神経であり、学問的でもない。
>>268 神社の縁起や伝承は、誤謬や自己喧伝が相当に混じり込んであるものが多く、一級資料とはいいがたいし、
これを調べても何も出ない場合がほとんどだろう。それに時間を費やすのなら、もっと実になる勉強をしたほ
うがいい。本殿の位置がどうこうというのは鷲崎某の幼稚な論に惑わされているのだろうが、きちんとした教養
を持った名無史になら鼻で笑われる程度の話である。
いずれにしても、他人を「本を読んでない、知識がない。」呼ばわりするのはやめることだな。
314 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 21:11:39
それほど人柄が表れるとも思えないこのような学問板の古代史スレで、ここまで人としての醜さがあらわに なり、嫌悪されるというのは メ 氏の実生活が心配であるな。
メ。 お前が「神奈川県民」「改め」「メ」「名無し」等を、使い分ける理由は一体どんな意味があるのか?
316 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 21:35:27
>>315 小心者なので目立ちたいんだが、衆目を集めてそれらを敵に回して自らの論理(ダメ説だが)を説得させるだけの
能力と自信がまるで備わっていないということを露にするもの。
生活態度の改善の為に「メ」がやるべきことは、先ず「河童」に対する嫉妬心を無くすことだ。あれは傍目から見ても見苦しいの一言
帰宅〜♪ 疲れて帰ってるのに、ヒマ人の相手なんか何でしなきゃならんのだね。 お前らヒマ人ってか、よっぽどすることがないんだろうね。 女の子とだってデートしなきゃいかんし、他のサイトもやってるし こっちは忙しいんだよ。 それと、人に低レベルだの〜批判する前に 批判できるだけの知識を得てすることだな。 全然はなしにならんし
319 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 22:03:39
改善の余地なし、と。www
>>319 >>314-317 固定ハンドル叩きはこちらへ
http://mamono.2ch.net/tubo/ ちゃんと読んでから書き込みましょうね
◆スレッドに書き込むときの注意◆
●レスを付ける時はレスを全部読んでからにしましょう。
既出の話題をむしかえすと、議論の妨げになります。
●荒らし・煽りは『完全無視』+削除依頼しましょう。
煽りにはsageでもレスしないこと。無視できない貴方も荒らしです。
321 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 22:18:37
メはコテハンではなく、ステハン。 そしてこいつはレベルの低いアラシでしかない。 どんどんやっつけましょう、それが正しいスレの運用の仕方です。
>>320 何処がどのようにコテハン叩きなのかを説明してもらおう。
話はそれからだ。
324 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 22:21:26
>>320 きちんとした議論をじゃまするコテハンは荒らしではないの? どうすれば消えてくれるの? 明らかにみんな
迷惑なんだけど。運営に訴えるの? NGだけじゃみんながまんできない・・・。
>>318 >疲れて帰ってるのに、ヒマ人の相手なんか何でしなきゃならんのだね。
疲れていようが疲れていまいがお前の個人的な事情で、こちとらには何ら関係ないことだ。
それに、疲れて相手出来ないようなら書き込むな。
>お前らヒマ人ってか、よっぽどすることがないんだろうね。
それがどうした。
>女の子とだってデートしなきゃいかんし、他のサイトもやってるし
こっちは忙しいんだよ。
サイトで見つけた、所謂淫行援というやつだな?
>それと、人に低レベルだの〜批判する前に
批判できるだけの知識を得てすることだな。
全然はなしにならんし
コピペの上達を言ってるのか?
327 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 22:28:12
>>325 運営に訴えてみます。私に同意見の人、みなさんでやりませんか?
328 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 22:28:21
325 自体がまともな議論を無効にしようと必死なアラシにしか思えないんだが。 運営に 323,325 を通報しておいた。
329 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 22:29:40
以前河童がこいつにキレた気持ちわかるわ。
古代史の知識がないとか、レスの文章が下手だとかはしかたないが、この人間としての醜さをどうにかして くれ。反吐が出そうだ。
>>333 いったいどの固定ハンドルを叩いているというんだね?
誰も固定ハンドル叩きなんてしていない。
夢の中に出てきたことをここに持ち込まれファビョられても迷惑だ。
固定ハンドルと判断した具体的な根拠を書き込んで欲しい。
>>333 なぜ メ を擁護するレスが一つもないのか考えてみろよ。普通こういう場合は味方もいるもんだ。つまりこの
流れはみんなの総意なんだよ。
336 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 22:57:24
だから、333はアラシなんだって。
337 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 23:08:21
♪嫌われ、憎まれ、蔑まれ、それでも生きてく板の中〜〜 とくらあ。
どうして今日はこんなに荒れてるの? 今銀世界の山形出張から帰ってきたばかりで 意味わからん? 教えてくれ。
339 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 23:25:02
畿内説の連中がヤケを起こしているらしい。
340 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 23:26:34
改め君の醜態なんて 今始まったばかりではなく、今日に至るまでずっと同じだし 改めて今日荒れる理由がわからない。 流れつかんでないと、なかなか把握できない。
>>340 >たぶん仕掛け人がいるんだと思う・・・
私が居なかったので、矛先が改め君に向かったとか?(笑)
343 :
日本@名無史さん :2009/12/23(水) 23:58:46
イベント
344 :
日本@名無史さん :2009/12/24(木) 00:00:51
畿内説の連中のフラストレーションが爆発したんとちゃうか。
昨日と今日のレスを読み終わり、いまやっと流れがわかりました。
346 :
日本@名無史さん :2009/12/24(木) 07:55:06
桜井茶臼山の木の棺の調査が 始まったみたいだね。 誰の墓だろうか
347 :
日本@名無史さん :2009/12/24(木) 15:59:59
卑弥呼とは、ちゃうっす
348 :
愛知県民 :2009/12/24(木) 18:48:43
狗奴国がクマなら、邪馬台国はヤナタイ。
349 :
愛知県民 :2009/12/24(木) 20:13:01
狗奴国は木の国 後漢書では紀伊 魏志では三池
土は土に、灰は灰に、塵は塵に・・・・
351 :
日本@名無史さん :2009/12/24(木) 21:35:34
>>347 「おい、あれチャウチャウとちゃう?」
「ちゃうちゃう、チャウチャウとちゃうんちゃう?」
>>348 煮込み三分味一流、ラーメンはマルタイ
宗像氏は、3世紀には既に玄界灘から朝鮮半島へつなぐ海域を支配していた。 従って、宗像氏の協力なしには卑弥呼は魏に使者を送ることも、帯方郡からの使者を迎えることも不可能だったと思われる。 914年、宇多天皇の御子源清氏に宗像の姓を賜り、宗像の地に配された。 この頃から、宗像氏が大宰府の高官に任命されるようになった。 筥崎神社は延喜21年(921年)6月21日に八幡神の託宣があり、筑前国穂波郡の大分宮を玄界灘に面した土地に移したのに始まるわけだから、 もともと宗像神社があった場所に建てられたと考えるのが妥当。 つまり、邪馬台国は宗像氏を支配していたか、少なくとも友好関係にあったことがわかる。
353 :
愛知県民 :2009/12/24(木) 23:06:07
邪馬台国の官、奴佳 は宗像かも。
メ は出入り禁止。
355 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 01:28:27
メがきたら総攻撃スタンバイ。
356 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 01:32:00
>>352 その場合、宗像市ー>大島ー>沖ノ島経由のルートのみならず、魏志倭人伝に書かれている、
壱岐ー>対馬経由のルートも宗像氏が掌握していたということになるのか?
三女神の一人、イチキシマ姫のイチキシマとは壱岐の島だといったのは田中卓だったが、
本来は壱岐方面も手中にしていたということか。
357 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 01:44:01
358 :
愛知県民 :2009/12/25(金) 06:14:18
イチキシマヒメはオキツシマヒメとも言うが、沖の対馬? 一大国と一大率?
359 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 07:54:39
>>357 そうだとすると、自動的に東征が4世紀以前となって
邪馬台国は大和という事になるな。
361 :
ハニワ幻人 :2009/12/25(金) 08:56:50
邪魔大王国は熊本ですよ
ローガンさんとか河童さんとか 2ちゃん専門でやってる人が『幅を利かせる』っていうんなら 分からんでもないが、なんでヨソ専門の人に鍛えるなんて エラそーな事いわれんといかんのだね? 河童さん、2ちゃん専門でやってる人として、新入りに言い返してやれww
363 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 15:49:53
>>362 俺は古いぜ。
なんせ、俺がお前のあだ名を付けたんだからな(笑)
よう、ドツボくんwww
364 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 17:17:38
>>360 そんなことはないよ。大和へ九州人がきていたからといって、大和が都になる
わけではない。都は九州にあって何もおかしくはない。
365 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 17:26:34
>メ。 お前が「神奈川県民」「改め」「メ」「名無し」等を、使い分ける理由は一体ど んな意味があるのか? 何か、この方はあちこちで御活躍される大変器用な方のようですよ。
366 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 18:31:49
本丸が隠れるしね。
>>364 倭人伝に書いてるじゃないか、
邪馬台(ヤマト)国は女王の都だって。
368 :
愛知県民 :2009/12/25(金) 19:33:54
狗奴国は三池 拘奴国は紀伊 また明日にでも。
369 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 21:15:50
>>356 鋭いですね日本と朝鮮半島を結ぶルートは複数ありました。
@宗像>大島ルート
A博多湾>志賀島ルート
B松浦半島>壱岐ルート
C若狭湾>出雲>隠岐ルート
それぞれ別の勢力が支配していたのか?
それぞれのルートは朝鮮半島の別の国と結託していたのか?
帯方郡の使者が一番西のCのルートを使ったとすると、それはなぜなのか?
たぶん、目的地が九州西部だったからだと思います。
へぇ 詳しいですね ちなみに佐賀ルート説なんてどうでしょう?
371 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 21:32:20
佐世保>済州島ルートというのもあったでしょうね? その場合の目的地は山東半島の斉の国、その宗主国、つまり魏?
372 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/25(金) 22:05:51
佐賀は、熊襲こと白水郎の本拠地 このルートで運ばれた鉄は倭国大乱の源。
>>371 倭国大乱はどこであったのでしょうか?
弥生の乱を思わせる、各地の遺跡はどれも中期でしょう。
やはり高地性集落で探すべきでしょうかねえ。
374 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/25(金) 22:22:05
吉野ヶ里の首無し遺体の埋葬も、倭国大乱の範疇に入る。 乱は九州。
>吉野ヶ里の首無し遺体 これは弥生中期の甕棺から発見されたものですが、 倭国大乱時期といえば二世紀末ですね。 この年代差はどのように考えてるんでしょうか?
それに甕棺が流行した時期といえば、倭国乱があったと思われる 弥生後期〜弥生終末期ではありません。 これも弥生中期のはずです。 弥生後期〜弥生終末期にかけては九州でも甕棺墓が衰退してる時期で ここらへんをみても、唐松山さんの考えが分からない。
新モンゴロイド人が渡来して、新しい文化が広がった。 もちろんここで旧モンゴロイド人との間に摩擦が生じたことが予想される。 倭国乱についても国と国との間に摩擦が生じて大乱へと発展したのであろうか。 あるいは、倭の国王決める際の覇権争いともとれる。 旧王朝から新しい王朝へとかヵ考えてる人も多いはずで・・・
378 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 22:41:03
志村…目欄、目欄!!
もん太は普通に精神を病んでると思う。
【其地無牛馬虎豹羊鵲】 馬具が出土されるのは、基本的に古墳時代中期の遺跡なんですが、 それ以前にも「馬」はいたようで、倭人伝の記述が完璧に合ってるとはいえない。 上流階級のみ所持してたのだろうか? それか、魏使が来た時には隠したのか?でも何のために? 魏志倭人伝の記述が100%正しいと考えてる人はこのへんも含めて 九州説を説明して欲しい。
382 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 23:02:46
それ もん太じゃなくカッパ君やしwww
383 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/25(金) 23:04:00
倭国乱は、7,80年継続し壹與を以て終焉。 吉野ヶ里等弥生末期の衰退は、乱の継続を意味する。 吉野ヶ里が弥生終末期で消えるのは、滅ぼされた為と考えられる。 景行時代になる。
384 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/25(金) 23:07:22
韓国の考古学は、百済本記と合わない。 夢村土城は自然丘陵を版築城壁で繋いだ南北最大730m,東西最大540m,最大比高25mの楕円状をなし,丘陵が切れるところは北門址,南門址等と呼ばれている。 『三国史記』にいう「百済前期」都城である「河南慰禮城」・「漢城」の異同・変遷・比定について諸説を列挙することは省くが, 夢村土城も候補に挙がっている〔崔夢龍・權五榮1985:表1〕。しかし,1983年以前の夢村土城には,成周鐸の踏査〔1983〕等を除くと, ほとんど考古学的調査の手が及ばず,文献上の百済都城との対応が考古学的に証明されたことはなかった。(以下,各年度の調査・報告書・ 遺構名を,調査年度を冠して「84年報告」・「88-1号住居址」等とする)。 実年代(表1) 85年報告は同年出土「西晋銭文陶器」によって夢村土城の上限を3世紀末〜4世紀初とし〔85年報告:162-163頁〕, 88年報告でこれを「夢村I 期」の上限年代に当てている〔88年報告:199-200頁〕。しかし,銭紋陶の年代と「夢村I類」 上限とを関連づける根拠はなく,「初期百済の重要な土城のひとつ」としての夢村土城の築造・使用との関連も証明されていない。 銭紋陶片から夢村土城の上限年代を西晋並行期に求めうる可能性は否定できない〔亀田1987:48-51頁〕が, 遺構や土器と結びつかないことは留意すべきであろう(後述)。 日本書紀の記述と百済本記の記述は合わない。 また 百済本記と新羅本記が合わないことも周知の事実。 百済本記の記述を韓国考古学は否定する。 日本書紀は自ら書き換えられている可能性のあることを肯定する。 允恭天皇四年(乙卯四一五)九月戊申《廿八》◆戊申。詔曰。羣卿百寮及諸國造等皆各言。 或帝皇之裔。或異之天降。然三才顯分以來。多歴萬歳。是以一氏蕃息。更爲萬姓。難知其實。 故諸氏姓人等。沐浴齋戒各爲盟神探湯。… 盟神探湯により決められた部分、それは允恭の父親?仁徳を含む~功から仁徳の3代である。 ここには、「武内宿禰」や「継体は応神の五世孫」が含まれる。 これらの事実を勘案しないと、実年代は得られない。
385 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 23:10:20
>>383 吉野ヶ里の衰退といわれるものは、倭国の新秩序を原因としての環濠集落の解体です。この時代、全国的に
人口は増加しているし、九州も例外ではありません。戦乱が減り、人々は環濠から出て郷を作り始めた。この
ほうがもちろん水稲耕作には適した生活形態。
>>383 いえ、吉野ヶ里の首無し遺体と三世紀の南内郭周辺の集落跡の時期は
かなりの差があるようです。
ようは時期からみても一致しないし、三世紀の7.80年前としても
二世紀ですよね?
首無し遺体は二世紀という理由はどこからですか?
>>383 同時代の集落は皆衰退してるだろ。
倭国乱の舞台は瀬戸内海をめぐる争いなのは
否定できないよ、淡路島の遺跡もそれを裏付けてるでしょう。
んん、三世紀の7.80年前っていえば二世紀ですよね? その二世紀といえば弥生後期です。 ヨシノガリ首無し遺体は弥生後期のものとか初めて聞いた。 唐松山氏の返答が楽しみです。
389 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 23:19:00
吉野ヶ里の衰退と平行して、各地で弥生環濠集落が解体が見られ、そのかわりに土塁や壕・溝・塀など で方形に囲まれた首長層の居館が同時進行で出現します。祭政を執り行う場である首長居館の出現は、 クニの王が民衆と一層隔絶した階級的支配者へと変貌したことを示し、彼を葬る古墳の出現とも表裏の 関係にあるといえます。倭国の社会進化段階が一つ上がったのです。
390 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 23:21:16
つまりこれまで環濠とその周辺という点の支配者であった首長が、いくつかの郷を束ねる面の支配者となった ということです。
392 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 23:31:09
このことを信仰の面から語ると、環濠集落では祖霊信仰、そしてそれが広域を支配する首長の豪族居棺が 見られるようになる頃に首長霊信仰に切り変わったと言うことです。これはかなりはっきりした図式であると いえます。首長霊信仰とは、有力豪族の祖先を「首長霊」として祭り、その霊が自身の子孫だけでなく、庶民 も守ってくれるとする発想であり、ヤマト王権から前方後円墳とともに各地に分配されました。
393 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 23:33:56
メ は穢多。
394 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 23:41:28
ここで、ヤマト王権は、後に天皇霊と呼ばれる大王の首長霊を最も尊いものとし、これを頂点として、各豪族 達の首長霊の序列をつくりました。各地に分配された前方後円墳の規模とこの序列は比例関係にあるといっ てよいでしょう。そしてその序列を、上から一方的に強制するのではなく、確かに序列はあるけれども地元民 にとっては各氏族、各地方の神が大切な存在であるというように、それぞれの自立性を残しながらまとめてい った節が見られます。巧妙な支配の手法です。
そうですね、首長霊信仰がハッキリと確認できるのは吉野ヶ里でしょうね。 しかし、原始信仰から首長霊信仰に変わった時期がこの吉野ヶ里を期に一斉に全国各地で 始まったとは思えません。 吉野ヶ里の環濠集落には一段階、二段階、三段階があり、この北墳丘墓のにみえる 首長霊信仰は吉野ヶ里の一段階にあたりましょうか(紀元前二〜紀元前一世紀)。 この時期には、他の各地では、まだ原始信仰が行われていただろう。 同じ九州の宇佐には二、三世紀にも首長霊信仰ではなく、原始信仰が行われていたとか 聞いたことがありますし、吉野ヶ里一段階には全国で首長霊信仰がみれたといえるのは まだ、少し早い気がする。
396 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 23:45:15
これが記紀の記述に、各豪族の祖先神の系譜として記載されています。ただし、豪族の勢力関係は変化する ものであり、この系譜の序列も少々ゆがんだ形になっています。
397 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 23:47:06
>>395 全国一斉と解されたのは、言葉不足でした。そうではなくヤマト王権から前方後円墳の祭祀を許可された
地域を中心として・・・という仮説です。
398 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 23:48:05
メ は在日。
んで、倭国乱れの遺跡といえるモノはどれでしょうね? 私も少し調べたことがあるんですが、倭人伝に記載された「倭国乱」よりも それ以前の弥生中期ですね。 こちらのほうが凄まじい争いがあったであろう、思えて仕方ない。 よく首なし遺体がどうの言いますが、それらは全て弥生中期といわれている。 吉野ヶ里にしてもそうですし、土井ヶ浜遺跡 人類学ミュージアムにある 首なし人骨にしても弥生中期でしょうね。
400 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/25(金) 23:52:01
>>388 編年は、私の主張する数字に近づいている。
まだ畿内のみだが、これから地方に波及する。
>>400 いえ、倭国乱は九州のどこであったんですか?
吉野ヶ里?時期がちがうでしょw
いや、まてよ・・・ この場合は二、三段階時期から首長霊信仰がみられる といったほうがよさそうだね。 一段階時期というのは墳墓が構築された時期をいうんだし
403 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 23:59:58
>>399 弥生中期頃の高地性集落の分布から、北部九州〜瀬戸内沿岸〜畿内の地域間で軍事衝突を伴う政治的
紛争が絶えなかったとの見方をとっています。これは北部九州から、瀬戸内連合に倭国の派遣が移動する
過程、あるいは北部九州勢力の東遷という見方もありえるかもしれません。
こんばんは 国内の資料がないのは 資料を残す手段が無かったからですか? あったのに無くなったのですか? それとも隣の家の事情は分からないけど一家離散したから、あの家も俺ん家的な流れで不明になったのでしょうか?
405 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 00:07:21
高地性集落は、弥生後期においては前後2回その出現期があると見ていますが、周防から安芸にかけての 地域と、大阪湾岸から紀伊水道の東岸にかけての地に多く出現しており、動乱の発生地域が瀬戸内から畿 内を経て紀伊水道の東岸の地域に局限されていたことを表していると思います。特に、周防から安芸にかけ てのものは、この時期に何らかの争いがこの地域で展開されていたとも考えられ、研究者によっては、この 前半の出現期を3世紀中葉の狗奴国との争乱や卑弥呼没後の男王時代の内乱にあてるとする見方もあり ます。
>>403 高地性集落といえば「畿内」のが多いように感じています。
ま、九州にもあるようですが、比べるとその遺跡数が他の所に劣るかもしれません。
自分は九州説ではないので、良いんですがw
いずれにしても、魏志倭人伝の倭国乱と高地性集落は関係があるように思います。
吉野ヶ里、土井ヶ浜遺跡 人類学ミュージアムの「首なし人骨」は時期が違うでしょうね。
貴方は邪馬台国東遷説ですか?
そうすると安本氏と同じような筑紫→行橋京都→畿内という考えなんだろうか?
407 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 00:11:18
>>406 弥生中期の高地性集落は、おそらく奴国から瀬戸内連合への倭国覇権の移動であると考えています。ただし
この時期(1〜2世紀)の九州勢力の東遷の可能性も否定はしないということです。おっしゃるように九州の
高地性集落は少ないのですが、北部九州がこの弥生中期の瀬戸内の政治情勢と無関係であったとも思え
ません。
>>404 現在ではいろんなことが言われています。
わざと卑弥呼に関係する資料を意図的に抹消したのだとか
もともと残って無かったりとかも・・・どうなんでしょうね。
貴方はどのように考えてるのでしょうか。
>>407 そうですか、
そうすると魏志倭人伝の倭国乱は瀬戸内海ないし、畿内周辺と考えてるのですね。
『倭国乱は九州』と答えた唐松山さん、反論お願いしますw
409 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 00:20:05
さらに弥生終末期から古墳前期にかけて、紀伊水道の東岸から山陽、四国、畿内、中部、関東、東北地方 に高地性集落の出現が見られるのは、ヤマト王権の基礎が固まり、記紀にある四道将軍の派遣のような出 来事があったのだと推察されます。そのヤマト王権の祭祀の中心地が纏向遺跡。こう考えると唐松山さんが 景行天皇にこだわるのもあながち的外れとはいえないかもしれません。
山陽、四国、畿内の高地性集落遺跡は皆さんもよく耳にするでしょう。 しかし、中部、関東、東北地方の 弥生終末期〜古墳前期の遺跡ってどこのことを指してるんでしょうね。 >409さん、良かったら書き込んで下さいますか。
411 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 00:31:22
モンタ君&カッパ君とはエライ違いだな 彼等がアホに見えてくるのは私だけかww
412 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 00:34:39
首長霊信仰は3世紀にはなかったんではないか。前方後円墳は少なくとも4世紀以降に出現するものだからな。 倭国乱は2世紀後半のことだが、1世紀末から2世紀初にも戦乱があったな。吉野ヶ里の戦死者と見られる遺体 は2世紀初頃のものだろう。九州に始まった戦乱は本州,四国にも影響を与えたね。 神武東征は2世紀後半だろうが、1世紀末頃から九州を飛び出して瀬戸内から畿内方面へ侵略して行った集団が あるね。高地性集落の分布はそれらの状況を示すものだろう。
>>412 >首長霊信仰は3世紀にはなかったんではないか。
「吉野ヶ里遺跡」で検索して下さい
たぶん、そんな事言わなくなると思います。
414 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 00:39:15
>>414 弥生時代の弥生墳丘墓だったり、
古墳時代の前方後円墳だったりするのです。
もうどんな切り口でも九州(特に北部)説は矛盾するんだよ。 北部九州が栄えていた事は誰も否定する訳ないし、 東征らしきものがあったとしたら、それは3世紀以前の事としか 考えられないでしょうね。
417 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 00:44:49
>>414 補足すると、首長霊信仰は文献(例えば記紀)によって存在がわかるが、遺跡、遺物でその存在を示す
ものは何かと聞いているのだが。
418 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 00:47:15
>>416 うんうん 同意です。
しかし、九州説にも手強いのとそうでない人がいる。
三世紀の畿内に巨大な王権があったとしてもても、そこが倭の都とは限らん
とか言い出しますもんね やれやれ・・・
420 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 00:47:31
>>415 弥生墳丘墓がどのようにして首長霊信仰を物語っているのかね。
421 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 00:49:44
>>412 >前方後円墳は少なくとも4世紀以降に出現するものだからな。
おそらくこの部分の見解が異なるので議論は成立しないだろう。
422 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 00:51:31
>>419 三世紀の畿内に巨大な王権があったという証拠はあるんか?
>>417 それはご自分で探してみてくださいな。
たとえば、遺跡を周るとかするとよくわかってくるかもしれません。
>>418 ヤマトタケル東征の爪痕かもしれませんよねw
>>419 倭人伝の「伊都国」の記述を否定する事にもなるのにね。
あ、ヤマトタケル東征は群馬じゃなかったな・・・スマソ
426 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 00:58:49
>>417 上でずっとレスしたように、環濠集落が解体され、祭祀施設の併存した豪族居棺が建てられるようになること
が、首長霊信仰を示すものだと考えています。ただこのあたりの年代観は相当に違いがあるようですね。
そもそも、集落の墓域から離れて巨大な前方後円墳が築かれること自体象徴的だと思います。
427 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 01:01:43
>>423 ヤマトタケルは何人ものヤマト王権から派遣された将軍の事績や人格を複合して造形されたものでしょう。
ただし、面的に掃討、支配していったのではなく各地の拠点を叩いていったのでしょう。
>>427 私はヤマトタケルは実在の人物と考えてます。
只、タケル一人の伝承ではなく、多数の豪族の「事績」、「勇士」が、
タケル一人の伝承され語られてるというふうにみています。
では、今日は遅いので、そろそろ落ちです。See you again...
429 :
縦目仮面 :2009/12/26(土) 01:14:51
たくさんレスしたけど、首長霊信仰についてはまだ考えがまとまってるとはいえないんで、ま、話半分に聞いといてね。 あと、もん太師はともかく、河童さんに関しては、このような掲示板ではどれだけ人を集められるかも勝負のうちじゃな いかな。
>>429 あれはたんなるヒマ潰しだってw
河童さんに手玉に取られてるぐらい気付こうよww
431 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 01:28:41
また嫉妬してる。ww
>>426 「首長霊信仰」と言う言葉って、その内容を的確には表現していないのでしょう。
既に定着化したものなので如何ともしがたいところですが、他の表現「古墳時代神道」とかにした方が、
イメージ的にはわかりやすいでしょう。
私は政治的リーダーが、その集団の祖霊祭祀を取り仕切り祭主にもなる、政・祭一致の体制のことと理解します。
集団間で政治的結合が行われるとき、祖霊祭祀も共有する擬似血族集団(ゲマインシャフトって言うのかな)となり、
その最終形が天皇制の成立でしょうか。
なので古墳の定型化と言う祭祀形態の共通化は、祭祀の共有と言う現象の傍証くらいにはなるかと思います。
433 :
縦目仮面 :2009/12/26(土) 01:48:38
>「首長霊信仰」と言う言葉って、その内容を的確には表現していないのでしょう。 これはたいへん同意で、この語には「人民支配のための装置」てきなニュアンスも含まれていますね。オカルト ・・・いやいや古代史における宗教的・呪術的側面を重視してる俺としてはちょっともどかしい感じもします。
縦目が来るとスレのレベルは上がるが、素人が近づけんようになる。人を集めるには不向きだな。www
>>433 > >「首長霊信仰」と言う言葉って、その内容を的確には表現していないのでしょう。
>
> これはたいへん同意で、
それ以外は、おそらくかなり考え方が違いますね。
私は首長霊祭祀以前の社会は政・祭分離型であったと思っています。
しかし、それが何故「政・祭一致型」に変化していく必要があったのかはわかりません。
記紀の天皇制は正しく政・祭一致型ですので、権力の集約化かという漠然とした感はありますが。
ただ、政・祭一致といっても祭を司るのは祭主として、祭祀権を持つということで、別に祭祀の実務者がいても構いません。
邪馬台国の時代前後には、男王>争乱>女王>争乱>女王・・・と変遷があったとされています。
これなどは、政・祭分離から政・祭一致型社会への変動期の姿を外国史が記録しておいてくれたのだと思いますね。
では、また。
>>435 うーん、アニミズムから、水稲耕作の開始とともに穀物霊に特別な地位が与えられるようになり、それがやが
て祖霊信仰と結びついて、祖先の霊が穀物霊に働きかけて豊作を成就させるというような形になり、これが首
長霊信仰の前段階かと思います。ただこのあたりは考古学的に裏付けられるようなものでもないし。
ただ、シャーマンと首長の集落内での格付けというようなことは、人類学の成果がかなりあるんではないです
かね。
>>434 すみませんね。また「邪馬台国殺人事件」でもやりますか。ww
437 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 03:43:48
>>435 >私は首長霊祭祀以前の社会は政・祭分離型であったと思っています。
どうしてそうなるの?
逆じゃないのか?常識的に。
>>381 >それ以前にも「馬」はいたようで
何処情報ですか?
畿内説は考古学的だが、だったら九州説否定も考古学的に説明してほしい
440 :
メ :2009/12/26(土) 09:42:36
首長霊信仰? 山の幸、海の幸というか古代日本の信仰には、「原始的な信仰」として、 人々は「山」「海」などの自然に感謝し、それぞれのモノ全てに神が宿ると考え、 八百万の神々というかこれら自然の神を祀っていたのです。 そして、新モンゴロイド人が渡来し、それにともなって巫女さんという神職も列島に渡り、 新モンゴロイド人は、先住の古、旧モンゴロイド人の「原始的な信仰」を認め、 新モンゴロイド人の巫女さんが古、旧モンゴロイド人の「原始的な信仰」を祀ったと考えられる。 先住民もこの新モンゴロイド人による行為にはたいへん喜んだでしょうね。 新モンゴロイド人と先住民(古、旧モンゴロイド人)の共存といいましょうか。 やがて、巫女さんから次の神主へ、時代が変わる中で、巫女が祖霊信仰の対象となり、 王が支配する時代の中では、首長霊祭祀へと変化していった。 ま、政治主導による当り前の「変化」なのかもしれませんね。 このようにして、原始信仰から首長霊祭祀へと変わり、時は流れて現在に至る。 ま、自然な成り行きといえば、そうなるのかもしれません。
さて、仕事してくるかな... 又、夜にでも
宗像は胸形とも表記されるように、匈奴(=胸奴=フンヌ)系の部族だったのではないだろうか? 秦の始皇帝が万里の長城を築いたのは匈奴の侵入を防ぐためであり、匈奴は東アジアの広大な領域を支配していた。 匈奴の日本における前線基地が宗像だったのではないだろうか? そして倭国大乱のきっかけになったのも海族である宗像が手助けし、騎馬民族である匈奴が倭国に大量に侵入したことにあった。 首狩りの風習を持ちこんだのはツングース系の匈奴以外に考えられない。
443 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 11:02:35
>>442 宗像の読みが「むなかた」ならば、胸形は(むなかた)とは読まないので、完全な当て字。だから
匈奴とは全く関係ありません。
444 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 11:15:24
つーか、そもそも匈奴が倭に潜入したとなどどこにも書いていないが。
445 :
メ(新幹線で・・・) :2009/12/26(土) 11:24:30
少し時間が出来たのでレス・・・ 宗像はもともとは「胸肩」と言われてたんじゃないの? 「胸形」とか「胸型」とか、後付もいいところで、たんなるマンガの一部では? 日本書紀にも「此則筑紫胸肩君等所祭~是也」とありますね。
446 :
メ(新幹線で・・・) :2009/12/26(土) 11:38:23
今気づいたが縦目さんが「首長霊信仰」について長いレスしてますね。
良かったらこっちも読んで下され。
http://www1.atchs.jp/most/ なんか難しいことを考えてるようなんですが、
国々、そして、国王が誕生するに伴って、「首長霊信仰」は必然的に生まれ
成り行きだったのかも知れません。
古代日本の祭祀を司る「神主」は一般的な民間では行われず、
ごく一部の上位階級の人で行なわれていたと聞きます。
そりゃ、民間でもそういうのはあったでしょうけど、上位階級の「神主」中心ですから
いつのまにか、原始信仰から首長霊信仰へと、そして、祖霊信仰へと変貌したことが考えられます。
447 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 11:40:44
>>445 「胸肩」も、単なる当て字。
「胸肩」で (むなかた)とは読みませんので
宗像が当て字で、本字が胸肩ならば別ですが
448 :
メ(新幹線で・・・) :2009/12/26(土) 11:49:02
449 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 11:49:21
>>447 宗像氏は古代豪族胸肩君を祖としている。胸肩君は天照大神の三人の姫神を
沖津宮(田心姫神−たごりひめかみ)・中津宮(湍津姫神−たぎつひめかみ−)
辺津宮(市杵島姫神−いちきしまひめかみ−)の三社に祭る司祭者である。
450 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 12:01:38
>>449 いや、そうではなく
胸肩が本字かどうかです。
胸肩が本字なら(むなかた)ではなく「むねかた」
或は「むねとかた」ですから
451 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 12:02:18
宗像について語るのであれば、日本書紀に現れている天照大神の神勅も忘れてはならない。 「汝三神の神、宜しく道中に降りまして、天孫を助け奉りて、天孫の為に祭かれよ」
>>446 >原始信仰から首長霊信仰へと、そして、祖霊信仰へと変貌したことが考えられます。
オイオイ。
日本書紀では木の神ククノチを「句句廼馳」と表記している。
狗奴国、拘奴国は「木の国」と解釈できる。
「木の国」といえば、まず思い浮かぶのは紀伊の国。
後漢書倭伝
自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王。
この「拘奴國」は紀伊と見てよいだろう。
では、魏志倭人伝の「狗奴國」はどの国か?
日本書紀によると、景行天皇は九州遠征で八女国の前に、その南の「御木国(みけのくに)」に立ち寄った。
ここが「狗奴國」ではなかろうか。
卑彌弓呼は「日御木王」書紀では九百七十丈の歴木(くぬぎ)として表されている。
狗古智卑狗は「菊池彦」書紀では「當夕日暉。亦覆阿蘇山也」とあり、阿蘇山のふもとに菊池がある。
菊池は古くはククチと読まれた(菊理媛はククリヒメ)。ククノチ=狗古智か。
このように、邪馬壹国=八女国、狗奴国=御木国説では両国の国名・王名・官名を組織的に理解できる。
八女については
>>20 >>21 参照。
また後漢書の「拘奴國」を紀伊と見ることにより、范曄の名誉を回復することができる。
曰く「范曄は南も東も分からない」「魏志倭人伝の狗奴国と倭種を勝手にくっつけた」
それは誤解だった。
>>448 >景行天皇の同世代よりも数代、または数十代も前ということが想像できる。
数十代は困りますが、数代なら問題ないでしょう。
私は太国氏・唐松山氏のように細かい編年は分かりませんが、おおむね太国氏の年代観に近く、
景行天皇の九州遠征は4世紀初めと考えており、卑彌呼より2〜3世代後と考えています。
>狗奴国、拘奴国は「木の国」と解釈できる。 普通「クの国」でしょ。熊襲、熊野、そして蜘蛛のク。 つまり先住の出雲族の事。 だから場所が特定できないんですよ。
>>455 >普通「クの国」でしょ。熊襲、熊野、そして蜘蛛のク。
それなら「狗馬國」になりそうですが・・・
ただ、熊襲と熊野なら南九州と紀伊だから、結果的に似てきますね。
日本書紀の史料評価は人によって違うと思われるが、九百七十丈の歴木(くぬぎ)とは何だろうか。 そんなに高い木があるわけがない。 「九七」を万葉仮名で読むと「クナ」となるが? あと三十丈で千丈とは、倭人伝の三十国と関係あるのか? 書紀の編者が魏志倭人伝を読んでいたことは確かだが、そこから伝説を創作したというのは行き過ぎではないか。
458 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 15:07:30
「出雲族」とか口走ってる人は何なの? おまえが「出雲族」とか、勝手に脳内で設定してても、他人にはわからないんだよ。 「出雲族」って何だ? まずそこから説明するか、参考文献を紹介せよ。 トンデモ本の類には、よく登場するらしいけどな。 所詮、古代史謎解きゴッコの先住民族設定で、根拠も何もないんだろ。
以前にも筥崎宮の参道はまっすぐ志賀島の方向を向いていて、その線を延長すると、玄海島の柱島、 対馬の神岳の上を通過し、栄山江(ヨンサンガン)つまり現在の光州広域市に達するという話を前にも書きましたが、 栄山江流域の前方後円墳と博多湾から有明海流域の前方後円墳の横穴式石室などの構造や埋葬品が一致し、 被葬者は同一勢力の首長だった可能性が指摘されたいます。 やはり福岡県桂川町の王塚山古墳の被葬者がこの海路を支配していたのではないかと調べているところです。
>>458 横ですが「出雲族」は懐かしい言葉という印象です。
神話に基づく言葉で「天孫族」と対になる言い方でしょう。
司馬遼太郎の本などでは普通に出てきますが、今の歴史学では使わないのでは?
461 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 17:11:19
司馬遼太郎がモトネタかよ。 とんでもねえな。 「出雲族」という言い方が、それだけで古代史観をミスリードするものだ。
462 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 17:15:34
酷いのになると、ニギハヤヒが出雲族だとか言い出すやつもいるしな。 で、ニギハヤヒの子孫の物部氏が出雲族だぁ? アホぬかせ。 ニギハヤヒはニニギと同じ天孫だっての。
出雲族は天孫族に協力した先住民族の総称ですよ。 出雲を単に本州西部と局地的に捉えるから 解りにくくなるのです。 反対勢力には土蜘蛛の蔑称を用いただけです。 魏志倭人伝と後漢書倭伝の編纂時期では、 時間差があるでしょ。 抵抗する先住民族を、次第に東、あるいは南へ 追いやるので「狗奴国」の範囲が混乱してるのでしょう。
>>461 司馬遼を元ネタに?
私の場合それは無いですよw
466 :
メ :2009/12/26(土) 17:43:16
>>452 >オイオイ。
オイオイ、じゃなくってその続きはなんだい?
おれのレスのどこがオイオイなのか不明・・・・。
>>466 普通は、精霊信仰→祖霊信仰→首長霊信仰 と考えるのが自然、ということでしょう。ただ、祖霊信仰というのは
底流としてずっとあるともいえるでしょうね。
468 :
メ :2009/12/26(土) 17:56:05
>>467 君は何をいってるんだね。
ぎゃくだろ、逆〜!
469 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 17:56:12
古代などオカルトと一緒で、学問の領域ではない。 永久に解らないことをあれこれ妄想してるのは端から見てると気違いだぜ。
470 :
メ :2009/12/26(土) 17:58:26
>原始信仰から首長霊信仰へと、そして、祖霊信仰へと変貌したことが考えられます。 これが何がおかしいのやら 古代〜近代まで「信仰」の流れは上記の通りだろう。 原始信仰というのは「縄文信仰」 首長霊信仰といのは「王権」が誕生して行く中で生まれた信仰。 そして近代の江戸時代まで、自分たちの「祖先」を氏神として祀ったと言われてる。 これが、「祖霊信仰」です。 よって、原始信仰(縄文)→首長霊信仰(王権誕生していく中)→祖霊信仰(〜江戸時代)
471 :
メ :2009/12/26(土) 18:06:26
>祖霊信仰というのは底流としてずっとあるともいえるでしょうね。 意味分からん 底流としてずっとあるって何のことでしょう? 祖霊信仰というのは、分かりやすくいうと 「氏神様(うじがみさま)」のこと。 江戸時代かどうかはしらんが、氏神様〜っていうのはよく耳にするだろう。 これに対して、首長霊信仰というのはかなり古いでしょうね。
>>469 じゃ、そういったスレに来ない方がいいのでは?
でも最近は結構解明される兆しがあると思うけどね。
473 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 18:12:51
まあ、見てると、無罪がわかりきった事件を先輩の面子を保つために、 証拠を捏造までする検察、警察と同じように見えるw 80年前ぐらいだったのか、出土が乏しく、分析科学も未発達だった当時、 直木とか言う京大の先生が三角縁・・・説を出しちゃった(w) 直木の弟子が直木を守り、直木の弟子の弟子はその師を守る・・・ うそにうそを重ねて これが80年近くくりかえされてきた 考古学教室は京大にしかない 大手新聞の記者も含めて日本の考古学関係のポストは 全て京大の考古学教室が握っている 「茶色の巨塔」とでもいうべきか 考古学教室が東大にもなかったのが日本の不幸をもたらした 東大も、昔、法医学教室が同じワルさをしたが 京大考古学教室、厚生省、検察、東大法医学教室・・官僚という意味で何の変わりはありはしない まあ、当分は、このまま世の中をだまし続け、 あと何10年たってホトボリがさめるころ 九州説がいつのまにか当然になってるんだろう NHK教育なんかで、今やっと昔の三鷹事件の無罪の証拠が少しづつひっそりと語られ始めている
>>455 は河童さん?
「ク」の言意学的解明が必要ということ?
けれど、「くだもの」は「木のもの」が語源らしいから
木の古形は「く」だと思いますがね?
>>471 傷が深くなるだけなので、もうやめたほうが・・・。祖霊信仰は縄文時代から、もちろん現代の仏教のお盆まで
一つの流れとしてあるんですよ。
476 :
メ :2009/12/26(土) 18:26:26
>祖霊信仰は縄文時代から、もちろん現代の仏教のお盆まで >一つの流れとしてあるんですよ。 いや、いや、縦目さんの言ってることはオカシイでしょ。 「祖霊信仰は縄文時代」なんて初めて耳にしましたよ。 たしか、これは考古学でもそうです。 縄文時代の遺跡に「祖霊信仰」があったような遺跡・遺物は日本全国探してもありません。 情報源はどこからなんです?
test →
>>475 オイオイ、メ君の言ってることは、どうやら次元が違ってるようだ。
原始信仰→首長霊信仰→氏神様、と書いてくれればよかったのに。
479 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 18:32:52
>>473 寺沢あたり、スパッと思ってること言っちゃえよw
寺沢の苦渋もわからないでもないが、寺沢の文章ほどよみにくいものはないww
480 :
メ :2009/12/26(土) 18:36:58
年末年始はどこへいく? 愛知県民は福岡県南部の八女市にいきそうですね。 関東とか東海に住む人は、卑弥呼とは関係ありませんが、 八百ヒメ伝説を追う旅っていうのも面白そう。 関東は福井県だったかな・・・? 東海は三重県ですね。 ちなみに、八百ヒメ伝説というのは、網に人魚がかかり、その肉を食べた娘さんが 八百歳まで生き延びたという伝承です。
>>476 どの本を見ても祖霊信仰の起源を探るのは難しい、とあるんですが、俺的には遺骸を放置して獣などに荒らされる
のが無残と考え、地下埋葬が始まったあたりがその萌芽と考えています。少なくとも首長霊信仰以前には確実にあ
るでしょう。
482 :
メ :2009/12/26(土) 18:42:01
>>478 >オイオイ、メ君の言ってることは、どうやら次元が違ってるようだ。
>原始信仰→首長霊信仰→氏神様、と書いてくれればよかったのに。
意味不明
なんでそう書かなきゃならん理由はなんでしょうね。
>>480 いやいや、年末年始はゆっくりしますよ。
八百ヒメって「八百比丘尼」のことですか?
この県内では尾張富士とか、伊勢神峠に伝わっています。
>>483 「八百比丘尼」は殺生戒を表す仏教説話かと思ってたんですが、もう少し古いのかもしれませんね。
>>482 死者に対する哀れみと再生の願望、と同時に畏怖。
そんなとこから、葬送と墓への祀りは始まっただろう。それが
死者は共同体を災いから守り繁栄をもたらしてくれる霊となる、
という観念を生み、祖霊信仰が発生する。
江戸時代の話じゃないだろ。氏神様の話だとわかっていたら、オイオイなんて言いません。
祖霊信仰というと人間に限りそうですが、獣祖伝説をもつ民族もいるわけで。 倭人には獣祖伝説は無いけれど、「狼(おおかみ)」の名前を考えると?
488 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 19:01:21
489 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 19:05:18
>>487 「噛み」と「上・神(かみ)」と「紙(かみ)」と「髪(かみ)」は、全部違うものだよ。
490 :
メ :2009/12/26(土) 19:08:01
>>484 うーん、そのホームページではそうなってますね。
チト、もう少し調べてみないとなんともいえないですね・・・。
>>489 >「噛み」と「上・神(かみ)」と「紙(かみ)」と「髪(かみ)」は、全部違うものだよ。
狼は「大噛み」ですか? そのほうが素直な解釈かもしれません。
492 :
メ :2009/12/26(土) 19:15:01
>>483 >八百ヒメって「八百比丘尼」のことですか?
たぶん、そうです。
福井県と三重県にその伝承が多いみたいですが、
他の県にもあるのかもしれません
ちと、外出〜のちほど・・・
>>487 そうですね。日本のトーテミズムというのはよくわかりませんね。記紀には大物主神の蛇、豊玉毘売神の
ワニ(サメ?)などが出てくることは確かですが、氏族の起源に野生の動物や植物などが特別に関連してい
るというような説話はほとんど見られない。アイヌのカムイに見るような、アニミズムからの発展はなかった
んでしょうかね?
>>493 アイヌと朝鮮ではクマが先祖なのに、不思議な話です。
495 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 19:31:34
>>489 >「噛み」と「上・神(かみ)」と「紙(かみ)」と「髪(かみ)」は、全部違うものだよ。
同じです。
>>494 例えば縄文時代の蛇のトーテムが、その後、剣(ヤマタノオロチを連想)などのアイテムに形を変えたなどの
説もあるにはあるんですが、トンデモの域を出ない気もするし。ま、わからないことだらけです。
なんでも 否定するけど 気になる? なんでも 否定したくなる? そこから何も 生まれない。 でも ヤメラレナイ いるよね そんな人
498 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 19:52:01
土蜘蛛に対して水蜘蛛が出雲、もしくは両方の総称ではないの?
>>494 うーん、あとはヤマト王権による各氏族の祖先神の序列化にともなって、国津神系や土蜘蛛系の荒唐な神
話伝承は消されていったというような話もあるんですが、これもうがちすぎという気がするし・・・。
500 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 20:08:24
>あと何10年たってホトボリがさめるころ >九州説がいつのまにか当然になってるんだろう 想像できないなw 逆に九州説なんて学説の扱いを受けない状況と言うのなら想像に易いんだがwwwww なんだかんだ言っても今の学者の多くは小林説の薫陶を受けてきているわけだし 世代交代が進めば進むほど年代観もドラスティックに変化しそうだw 今でも一応は邪馬台国の比定地候補として畿内と九州が併記されるのが常だが 言っちゃあ悪いが九州説の場合やっぱり過去の栄光と言うか 長年一方の雄(と言うか時代によっては優勢だったわけで)だった事に対しての ”配慮””遠慮”みたいなもんだろうwwww
ま、九州説のほうが自由度があって楽しいんだろうね。縄文人とか見てれば。
>>499 強いて挙げるとすれば、国常立尊はアシカビのようであったとか、イザナギ・イザナミの形ができていく過程とか。
残ってない神話が多くあったのかもしれない。
503 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 20:22:30
>>497 そんなアホーに嫉妬嫉妬
知っとるけ〜!
504 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 20:26:06
>>473 ところでドン来いスレで
>神武東征を認めたら日本が軍国主義なって戦争を始めるとかいう9条信者の長老も
…って言ってたのはお前かな?
だとしたらやっぱこの「長老」って直木センセイの事なのか?wwwwwwwwwww
505 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 20:32:44
>>473 三角縁は多くは国産だと思うが、
それを「卑弥呼のもらった鏡」だと喧伝したことを批判するなら、
同じように、吉野ヶ里を「邪馬台国」と喧伝する人に対しても批判しないと。
>>502 文字として記録されたのは後代ですしね。また土蜘蛛など辺境の民は消されるか、ヤマト王権の祭祀に取り込
まれたわけで、実際、長く取り込まれなかったアイヌの伝承は残ってますし。
507 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 21:11:47
イザナギ・イザナミも アダムとイブも 女が悪い方に引き込まれるな。
>>507 旧約聖書のロトの妻も、後ろを振り返ってしまい「塩の柱」になる。・・・微妙な問題なんで、女性蔑視の歴史
が反映しているというしかないですね。
イザナギ・イザナミ も元ネタは、ギリシャ神話のオルフェウスの話という説は有名だけど、確かに起源はギリ
シャ神話のほうが圧倒的に古いんですが、伝播してきたのかどうかは証明できないですね。洋の東西、時代
は違っても、人は同じような死生観、冥界感を抱くのでは、という説もそれなりに有力なようです。
あと、上で土蜘蛛の話をしたけど、これについての記述が記紀や風土記に出てくるのは、神武、崇神、景行の各帝、 神功皇后など積極的に軍事行動を起こし、領域拡大していった大王の逸話として。つまり、ヤマト王権の勢力範囲 の境界線にある反抗的な人々と見なすこともできる。実際、神武時代の土蜘蛛は大和のごく近いところにいるんで すよね。
>>509 碑田阿礼とは藤原不比等の本名であり、
中臣鎌足はシルクロードをと通ってやってきたユダヤ人だったということですね?
>>509 ヤマトタケルとヘラクレスの類似もよく言われる。
>>510 土蜘蛛は神武の後は、九州しか現れない。不思議だ。
514 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/26(土) 21:57:53
土蜘蛛はまだ感化されていない輩で、縄文以来の住居にすんでいる。 猿は感化された経歴はあるが、今現在は背いている。 内猿は、少し位が高い。 国麿は名の如く春日か三輪の長老。
515 :
メ :2009/12/26(土) 22:12:04
八百比丘尼の伝承は日本各地にあって、比丘尼が全国行脚したからと説明されることもあるけど、実際は 殺生戒を破るとこうなるとか、不死の無残さを説く仏教説話として広まったのかもしれません。 漁師が魚の霊に祟られて・・・最終的には出家するといった話はよくあるし。 ちなみに仏教の五戒は、殺生、偸盗(盗み)、邪淫、妄語、飲酒。「妄語」というのは少し自戒しないと・・・。
>>514 その説明はおかしくないですか?
又於直入縣禰疑野有三土蜘蛛。一曰打猿。二曰八田。三曰國摩侶。
打猿も國摩侶も土蜘蛛ですよ?
520 :
メ :2009/12/26(土) 22:47:24
あと、関東には 「大国主」や「事代主」の伝承地も数多くある。 たとえば、静岡県伊豆半島東岸の白浜海岸には事代主が船でやってきて 上陸したという伝承地とかある。 ここには縁結びの神として祀られてるので、婚約者、恋人と来るのも良いかもしれない。 ちなみに、「姉」や「妹」と二人っきりで来ても御利益はないだろうww
521 :
メ :2009/12/26(土) 22:50:25
あ、静岡県伊豆半島東岸の白浜海岸付近に伝わる 事代主の伝承地には行ってきました。 古代史の旅というよりは、海がきれいで、浜辺の水着を着てるお姉さんのほうに 眼がいってしまいますw
523 :
メ :2009/12/26(土) 22:55:30
>>518 その答えを探し求めるのが楽しいんですよ。
>>518 風土記は全て集めててるのでしょうか。
512でも「土蜘蛛は神武の後は、九州しか現れない。」とあるし。
524 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 22:56:53
もちつけ
525 :
メ :2009/12/26(土) 22:59:53
>>524 意味不明
君、突っ込みするタイミングが少しおかしいよ?
誰も焦ってないしww
526 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 23:02:32
集めててるwww
>>517 抵抗する勢力が多かった土地でしょ。
勿論他にもいるでしょうね。
名や表現をかえますが。
528 :
メ :2009/12/26(土) 23:04:18
突っ込みするタイミングがバシッと決まれば、 このスレを読んでる人も面白いだろうし、書き込んでる人たちも笑えるだろうが タイミングが少しちがうんだよな・・・。 524は、次はバシッときめてくれ〜ww
530 :
メ :2009/12/26(土) 23:07:46
>>521 >あ、静岡県伊豆半島東岸の白浜海岸付近に伝わる
事代主の伝承地には行ってきました。
それは大浜の方?それとも中央の方?
白浜には何度か行ったけど、あの頃はぜんぜん頓着なかったわ
532 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/26(土) 23:21:33
>>519 たとえ名のある相手でも、戦の時には見下した方便をとるのが常道。
ホ04178 アメミコまなぶ アメのミチ ひとりはんべる フリマロは ムヨヤソキネの ヨツギコぞ
フリマロや国麻呂の如き名は、かなり身分の高い名前で、神代の時代から使われている。
このように身分の高い人々までもが背く状態を「乱」と表現するのは、大陸の習慣。
同程度の間の戦だけでは使われない表現です。
534 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 23:23:28
535 :
メ :2009/12/26(土) 23:23:57
>>531 「白浜神社」、「縁結びの神様」で検索して下さい。
約2000年も前、ここにあの有名な事代主が船で来てこの光景を観たんだな...
とか想像するわけです。
ちなみに、ここへは23才の当時の彼女と一緒に来て、
白浜海岸で遊んだり、泳いだり、お互い水着同士で彼女のラインが気になり
古代史も好きだったんですが、それどころじゃ〜ありませんでしたけどねww
536 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/26(土) 23:30:57
八田も八咫と書けば、八咫鏡を持つ身分。 こうなれば下克上の乱を想定出来る。 四道将軍の前には、このように身分の高い人間を想定出来ない。 よって「乱」ではあり得ない。
白浜って三嶋絡み?
三嶋大社には行ったことがあります。ここの祭神は「三嶋大明神」なんですが、これは本体が大山祇神であるとする説が 有力だったけど、平田篤胤が事代主神説を唱えて現在はニ神同坐となってるようです。 なんか宇佐神宮と似ている気がします。古くからの地元の神の正体が不明になって、記紀の有名な神が後付けされたの かもしれません。宇佐の場合は応神天皇、神功皇后でしたが。 神社についての伝承は、「徒然草」の狛犬の話(ある僧が神社の狛犬が背を向けて立ってるのを見て感涙にむせんだが、実 は子供のいたずらだった)のようなことが多々あるんではないですかね。
539 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/12/26(土) 23:37:49
愛知県民さん 唐松山という男は、稀代の妄想野郎だから、ほかの書きこみ者とは同じ 待遇で議論しないほうがいい。ww
540 :
メ :2009/12/26(土) 23:42:33
>>538 >三嶋大社
三嶋大社って 箱根から下ってきて三島駅に向かう道路の右手にある大きな神社ですよね?
一度仕事で行ったことありますよ
親戚が逗子市に住んでるんでよく行きました。ただこのあたりは、古代史というより鎌倉幕府関係の遺跡のほうが より興味深いような。三嶋大社も源頼朝の崇敬が厚かったはずです。
>>539 おや、太国さん登場ですか。
>>453 で狗奴国を比定したのですが、長さ九百七十丈のクヌギ=男王というのは
唐松山氏の意見を参考にした部分もあります。
太国さんは単なる巨木という見解でしょうか?
景行紀の巨樹伝説ですか・・・。970丈が、クナ=狗奴国を表すという・・・・。まあ記紀暗号説なんかでよく出てくる ようですが・・・。
545 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/12/27(日) 00:06:26
その件、なんとも分からんですな? zzzzz・・・・・
>>542 >三嶋大社も源頼朝の崇敬が厚かったはずです。
伊豆と頼朝は密接な関係の地ですから
しかし、この大社も繁栄は江戸時代からではないでしょうか?
東海道が整備され、幕府天領地として代官所がここには置かれ、藩という縛りのない宿場町として栄えたのではないでしょうか。
確かこの大社は、歌川広重の画にも登場していたほどの有名な大社ですね
箱根峠を越える前、越えた後には必ず休息するところという立地条件に恵まれた場所
現在でも新幹線の基地があり、上りこだまの始発駅として東京に向けての通勤圏内となっていますね
547 :
メ :2009/12/27(日) 00:11:43
関東と言えば、埼玉県立歴史と民俗の博物館があります。
http://www.saitama-rekimin.spec.ed.jp/ ここには、かの有名な稲荷山古墳から出土の国宝にされている「鉄剣」があります。
関東に住んでる人で、九州が羨ましいなっておもうのではなく、こういう所に行けばよい。
あ、ちなみに、この『国宝』も観たことがあります。
私が紹介する時は大体、自分の目で観てお薦めしてるのであって、
適当に、薦めてるんじゃないってことです。
>>547 >ここには、かの有名な稲荷山古墳から出土の国宝にされている「鉄剣」があります。
関東に住んでる人で、九州が羨ましいなっておもうのではなく、こういう所に行けばよい。
行田にあるさきたま古墳群の中にある円墳ですね
現在はすっかり公園化されて、古墳て言う感覚の持てないところです。
ここの古墳を見るのなら、少し足をのばして
群馬県前橋にある群馬総社の古墳群がいいかも、大型の横穴式石室が口をあけて
出迎えてくれます。なかには大変綺麗な切り石積みの石室がありますよ
先たま古墳群の近くの東松山市には、吉見百穴がありますが
第一印象が「なんじゃこりゃ〜」的に穴だらけ
550 :
メ :2009/12/27(日) 00:27:05
伊豆と源頼朝といえばまず静岡県伊豆市『修善寺』でしょうか。 国道から階段で下りれる所があって、そうですね...かなり20分ぐらい下るんですが そこに綺麗な川で今にも飲めそうなぐらい透き通ってる。 古代史を追い求めるのもいいんですが、 たまにはこういう中代ゆかりの地へ行くのもいいかもしれません。 気分転換にもなるし それと、伊豆といえば海の魚介類が美味いですよね。 「金メダイ」なんて最高です。 なんか、旅行の話になってきてるな・・・w
>>549 >古墳て言う感覚の持てないところです。
ですね。世界遺産化の話はどうなるのか興味深いです。ただ俺ももっと鬱蒼とした雰囲気のほうが好きです。
552 :
メ :2009/12/27(日) 00:32:03
群馬県前橋市の駅前を通る「祭り」なら参加したことがあります。 当時、祭りで御神輿にスサノオの人形が載せられて駅周辺を周るという行儀みたいだったような。 群馬県の大型古墳群は、実は観たことが無いんですよね。 榛名山の頂上まで車で行ったことがあるんですが、その周辺らしいので ついでに観とけばよかったと後悔しています。。。
>>551 >鬱蒼とした雰囲気のほうが好きです
鬱蒼とした所なら、関東では茨城ぐらいかな?
開発されていない場所に大小さまざまな古墳がいたるところにありますから。
千葉の北部は、成田空港が出来てから
芝山古墳群が整備されて、やっぱり公園て言うふんいきです。
栃木は単独古墳が多く、歩き回るには意外と不便で、小さな範囲で多くの古墳を見ようというニーズには答えることができません。
554 :
メ :2009/12/27(日) 00:45:33
愛知県民さんも居ますので、東海地区も・・・・他の地方の人からクレームがきそうだしw
東海地区はヤマトタケル伝承地を周ったことがあります。
ヤマトタケルさんは天皇の命令によって嫌な東国遠征の後、
三重県の能煩野(のぼの)で亡くなったとされます。
ここが、三重県亀山の能煩野(のぼの)でヤマトタケルの墓と伝えられる所であり、
諸説あるんですが、一般的にココと言われてる気がします。
詳しくはこちらをみてちょーだい。
http://book.geocities.jp/geru_shi_m/nobono.html もうひとつ、ヤマトタケルの墓と伝えられる所があり、この近くで白鳥塚と呼ばれるところもある。
私は両方とも行ったことがあるんですが、こちらの場所は、能煩野(のぼの)と違って
あまり整備されてないところで、細い山道を登っていくようなイメージでいいと思う。
ま、東海地区で年末年始に古代史の旅に行きたいと思ってる人はいってくらさい。
>>554 >東海地区はヤマトタケル伝承地を周ったことがあります
東海地方と言ったら古城見学ですよ。 松平家発祥の地とされる松平郷なんて
茨城よりも田舎だった(笑)
556 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/27(日) 00:54:07
大木だよ 釋に郡南ニ山アリ。 洪樟ト名ヅク。一ニ斷株《キリカブ》山ト名ヅク。高サ一里許、周廻二里餘。上平ニシテ臺ノ如シ。相傳フ。古昔一大樟樹アリ。 樹ノ高サ幾千尺トイフコトラ知 ラズ。其樹自僵倒ス。土人之ヲ伐リテ株ヲ斷ツ。蟠根化シテ石トナル。即此山ナリト。又曰ク。昔此山ニ寺アリ洪樟ト名ヅク。 其廢趾、土人地ヲ發キテ磁器古物 ヲ獲ル者|間《ママ》アリト(39)といへり。キリカブ山は萬年《ハネ》山の前峯なり。圓錐形なるが其頂平にて横に截りたる 如くなればキリカブ山といふな り。洪樟傳説は其形より生じたるならむ。一名をコウシヤウジ山といひそのコウシヤウジは又興正寺と書くといふ。 興正と洪樟と音相同じきより興正を風土記の 洪樟に傅會したるにあらざるかとも疑はるれどなほ然にはあらじ。國志廢寺の下に 興正寺 山田郷中山田村ニ在リ。萬年山ト号ス。然レドモ寺モト斷株山上ニ在リ。因リテ洪樟寺ト稱シキ。音相近シ。故ニ改ム。山上寺跡尚存ズ云々 とあり。萬年山は西方、日田郡に跨れる高山なり○地理志料に天武天皇紀元年に 且遣2佐伯|連《ムヲジ》男於筑紫1遣2樟使主《クスノオミ》磐手於吉備國1並悉令v興v兵云々
559 :
メ :2009/12/27(日) 00:59:03
東海地区・・・ 愛知県に「尾張旭」とかいう地名がありますよね。 東海地方で古代史っていうよりも、河童さんのいうように古城見学が面白いかもしれません。 私は、名古屋市にも愛知県岡崎市、刈谷市にも住んでたことがあるんですが、 まず、名古屋に来て真っ先に行ったのが名古屋城ですねw 名古屋城内を周り、その近くに名古屋城公園っていう広い公園もあるんですが、 そういう所を散策するのも気分転換になることでしょうね。 松平家発祥の地は聞いたことがあるような…ないような・・・・ってかんじですw
560 :
メ :2009/12/27(日) 01:01:48
>>558 おっと失礼しました〜
こりゃ眠くなってきてるかな・・・・
うましかさんが訂正してくれたので、観に行きたい人はそちらにいきましょうねww
>>556 ただ、巨木伝説というのはこの景行紀以外にもいくつかありますよね。例えば、播磨国風土記逸文では、
>難波高津宮天皇の御代に楠が井の上に生えて朝日には淡路島に影を落とし、夕日には大倭島根を影にした。
そこでその楠を切って船を作った。その速いことはまるで飛ぶようであった。
描写もよく似ています。誇張かただのお話と見てはまずいんですかね。
562 :
メ :2009/12/27(日) 01:17:04
九州の人からクレームがきそうなのでついでに・・・・
まだ紹介してないのは、どこだったかな...w
日本書紀の神武天皇条に載る
大分の関サバで有名な「早吸日女神社」、「椎根津彦神社」でもいっとけぇ〜w
http://www.hayasuihime.biz-web.jp/ ここの半島は一周ぐるっと回って10キロぐらいあるんですが、
歩いて回るとシンドイ・・・・っていうか自分は10キロ歩いたんですが・・・w
神武天皇が東征の際にこの地に着き、土地の海女から伝説の剣を海底から引き抜き
奉じられたという「剣」が御神体となっているのが「早吸日女神社」。
そして、猿田彦みたいに先陣を切って船で天皇を案内した椎根津彦を祀る
「椎根津彦神社」がある。
関サバ、関アジも美味いし九州に住み人は、一度行ってみてはいかがだろうか。
>>559 >>群馬で興味深いのは、旧北群馬郡子持村黒井峯遺跡ですね。日本の
ポンペイともいわれます。
群馬なら、TBSと糸井重里に頼みますか?
「すばらしい穴」なんて言って、赤城山ろくなんか掘ってね〜で
こういう場所を・・・・・・
>>559 私は犬山城の天守閣から眺めた風景が大好きです。
マイナーですが、豊橋の近くの田原城祉なんて好きです。ちょっと足を延ばせば
マスクメロンのハウスが並び、安く食べれますし
あの「椰子の実」で有名な伊良湖岬。 そこからは鳥羽行きのフェリーが出てるから
伊勢神宮まで足を延ばすもよし、
高台にある伊良湖ビューホテルの露天風呂から海を眺めながらの温泉モードも最高です。
>>563 赤城山は埋蔵金の話でしたっけ?これはムリがありますよね。むしろ一攫千金なら海洋考古学に期待ができるのでは
ないでしょうかね。スキューバ発明までは、沈没船はほとんど手つかずでしたから。
565 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/12/27(日) 01:45:00
>>564 トレジャーハンターですね。
バミューダ海域や、メキシコ湾に沈む
大航海時代からの難破船
今頃はあの辺暖かいだろうな〜
死ぬまでには絶対行きたいキーウェスト。ヘミングウェイ気分で海を眺めたいです。
>>554 ヤマトタケルといえば伊吹山頂の石像。あまり威厳がなく、「日本百名山」の深田久弥氏は「尊にお気の毒・・・」と書いている。
私のお気に入りは、猿投山にあるヤマトタケルの双子の兄、大碓命の墓。やはり真冬は難しいが、絶好のハイキングコース。
>>555 松平郷も良いですな。王滝渓谷とか(御嶽山の王滝村とは違う)街から近いのに絶景でした。
>>563 犬山城は、まあそれなりに。あの奥に継鹿尾山寂光院があり、紅葉の名所。もう遅いw
>>561 これは古事記でも仁徳の世に
此之御世、免寸河之西、有一高樹。其樹之影、當旦日者、逮淡道嶋、當夕日者、越高安山。故、切是樹以作船、甚捷行之船也。時號其船謂枯野。
とあります。「枯野」という船の話は書紀では應神世にありますが、伊豆國で造ったとされ、巨木も出てきません。
>誇張かただのお話と見てはまずいんですかね。
そう見るのが普通でしょうね。ただ「木の国」の王「日御木王」が狗奴國の卑彌弓呼かもという妄想(?)です。
>>453 で書いた通り、あの地域なら彌馬獲支と水沼別、狗古智卑狗と菊池彦など、官名も含めて合うと思いましたので。
568 :
日本@名無史さん :2009/12/27(日) 08:29:51
紀の国熊野に牟婁郡(むろぐん)という地名がって、和歌山県から三重県にかけての広大な地域を指します。 この牟婁の地名は、継体六年(512年)、大友金村によって百済に割譲された任那四県の1つと同名です。 紀の国の牟婁郡の名が歴史上初めて登場した時期は孝徳天皇の在位中(645年〜654年)であり、 領地を失った任那の牟婁の住民が移り住んだのかもしれません。 牟婁とは何かといえば、囲まれた土地、神のよりしろ「聖地」のことです。「室」と同じです。 現在ほとんど使われなくなったこの「牟」という文字が博多湾から有明海にかけて数多く残っている ことに注目して調査中です。福岡県大牟田市、糸島郡の桜谷神社の古計牟須姫命・・ 牟とは鉾(ホコ)のことだとすると、祇園祭の山鉾のてっぺんの鉾との関係もうかがえます。
>>568 「牟」はカタカナ「ム」の元の漢字で、万葉はもちろん、記紀歌謡でも使われています。
景行紀では
次妃日向髪長大田根。生日向襲津彦皇子。是阿牟君之始祖也。
阿牟君は長門国阿武郡らしい。
570 :
日本@名無史さん :2009/12/27(日) 12:04:07
その「牟」も痕跡を追うことで、記紀以前の歴史が見えてくると思います。 713年(和銅5年)の好字令で、「牟射志」が「武蔵」、「佐賀牟」が「相模」に変えられたように、 地名から「牟」の文字は消えていったているけれど、大牟田などの地名は変えなかったのはなぜか? それは、「牟」が表音文字ではなく、意味のある文字だったからではないでしょうか?
>>570 「牟」は「牛の鳴き声」「むさぼる、奪う」「増す」「多い、大きい」という意味があるようです。
「ムタ」は湿地や沼らしいが、それ以外の意味があるのですか?
572 :
日本@名無史さん :2009/12/27(日) 13:12:49
すまん、日本語が変ですね。orz
>>572 経が岳ねえ・・・少し遠くないですか?
御木国(三池)における景行紀の巨木伝説では「當朝日暉。則隱杵嶋山。當夕日暉。亦覆阿蘇山也。」
とあるので、東の阿蘇山は問題ないとして、西の杵島山が強く意識されているようです。
失礼!筑後国風土記逸文では杵島山ではなく「多良の峰」となっていますね、有り得るかも。 調べてみます。
釋日本紀 卷十 公望の私記に曰はく、案ずるに、筑後の國の風土記に云はく、三毛の郡。云々。 昔者、楝木(あふち)一株(ひともと)、郡家(こほりのみやけ)の南に生ひたりき。 其の高さは九百七十丈なり。朝日の影は肥前(ひのみちのくち)の國藤津の郡の多良の峯を蔽ひ、 暮日(ゆふひ)の影は肥後(ひのみちのしり)の國山鹿の郡の荒爪の山を蔽ひき。云々。 因りて御木の國と曰ひき。後の人、訛りて三毛と曰ひて、今は郡の名と為す。 日本書紀では東に大きく、風土記逸文では西に大きく書かれている。九百七十丈は一致している。
>>576 訂正
>風土記逸文では西に大きく
杵島山と距離はあまり変わらないが、方角と山の高さが違う。
多良山系の最高峰は経ヶ岳だが、太良岳神社があるのは多良岳。
どちらか、あるいは漠然と多良山系を指すのか。
倭人伝では狗奴国と鬼国、鬼奴国が重複して存在してるので 狗奴国=木の国説は無理ですよ。
579 :
日本@名無史さん :2009/12/27(日) 14:19:01
斯馬国(しまこく), 已百支国(いわきこく), 伊邪国(いやこく). 支国(ときこく),
580 :
日本@名無史さん :2009/12/27(日) 14:58:24
>>578 1丈は3.03mですから970丈と言えば3,000mということになります。こんな高い木などあり得ません。
>朝日の影は肥前(ひのみちのくち)の國藤津の郡の多良の峯を蔽ひ、
とあるので、もしかしたら、多良岳の東、おそらく阿蘇中岳の噴煙のことを指しているのだと思います。
>>578 鋭い指摘!
「木(き)」の古語が仮に「く」であったとして、「き」が何を表すのか?
「生(き)」「城(き)」とか?
魏志の狗奴国=御木説については、九百七十丈のクヌギに頼らざるを得ないのか(涙)
でも、御木国は景行がつけた名だと明記してあるから。
後漢書の拘奴国については鬼国、鬼奴国は無いので木の国で行きます。
>>580 朝日で阿蘇は無いでしょう? 東から射す朝日の影は西にできるから。
どのみち、現実離れした話ですが。
>>580 そうなると木の国とは火の国、阿蘇山と同義になるかと思います。
584 :
縄文人 :2009/12/27(日) 16:27:58
だいぶ長い間留守していたが、どうやら邪馬台国は九州で決定のようじゃないか。堂の後古墳が5世紀後半か、妥 当な数字だな。これでホケノ山は6世紀となり、とすれば箸墓は6世紀後半か。今まで3世紀半ばなどといっていた のは何の話だったのかということになる。これはいよいよ畿内説考古学者のこれまでのペテンに対する懺悔が始ま ったと解釈していいのだろうな。ぐははは。 まあ、いつまでも世間を欺いているのはさぞやつらいことだろうて。正直なことを話して後生を軽くしておくというのは 正しい考えだ。纏向は5世紀代の宮地、倭人伝とは何の関係もない。だいたい3世紀の頃にはこのあたりは盆地湖 であったことは証明してやったではないか。畿内説はご苦労さんなことだ、御用学者を信じてさぞや悔しかろう。ぐは はははははははははああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
585 :
神武の子孫 :2009/12/27(日) 16:56:13
阿蘇はどうして湖にならなかったのだろう? 降水量が少ない?水抜きの川がある?
>>581 狗奴国はやはり「ク」の付く国の総称じゃないかなと
思うんだけどね。それなりの大国じゃないと。
熊野に熊襲はやはり同属だとしか思えなくて。
熊襲だか狗奴国だったかで何か鉱物産出してなかった? たしか鹿児島でそれが産出してたところがあったと思うが
589 :
日本@名無史さん :2009/12/27(日) 17:35:00
「狗」の国と「牟」の国は戦争をしていて、「牟」の国の女王が卑牟呼ってことだろうな。
590 :
神武の子孫 :2009/12/27(日) 17:40:58
>>586 阿蘇外輪山内の盆地は白川によって排水良好。
「クマ」は隈に通じるしね、追いやられたんでしょう。
>>590 そうでしたか。はじめて知りました。
ところで、白川といえば日銀総裁。何人もの候補が民主党の反対にあっった後、共立された総裁です。
それはともかく、菊池川と白川に挟まれた地域に邪馬台国があったのではないかというのが、今のところ私の予想です。
593 :
神武の子孫 :2009/12/27(日) 17:57:57
3世紀に卑弥呼と対立した卑弥弓呼の居た狗奴国は鹿児島と熊本南部(球磨川以南)と宮崎南部(日南以南)を版図とした。 この国の民は黒潮に乗って四国から紀伊半島まで出かけていた。また、沖縄にいたる諸島や中国江南地方との交易も行っていた。 この交易によって九州の大部分を占める邪馬台国連合と張り合えたのである。
594 :
日本@名無史さん :2009/12/27(日) 17:59:10
595 :
神武の子孫 :2009/12/27(日) 18:00:42
>>592 う〜むなかなかよいところに目をつけられましたね。
>>592 そのエリアで70000戸が入ると思います?
現在の熊本市でも人口68万ですよ。
597 :
神武の子孫 :2009/12/27(日) 18:19:40
>>596 私の友人の縄文人氏や卑狗摸古氏は邪馬台国の版図を熊本県(球磨川以南を除く)と宮崎県(日南以南を除く)
にしている。私はこれに大分県の南東部も加えたいね。ただし、卑弥呼の居館があった都は熊本県北部だろうね。
598 :
縄文人 :2009/12/27(日) 18:19:49
>>595 神武の子孫とやら、大仰な名を付けているだけになかなかやるではないか。そうだ、狗奴国は誇り高き熊襲の地。その王、卑弥弓呼
とは卑弥呼の男兄弟であり、弓の名手であったと想像できる。しかし、高貴な巫者の血筋として王とはなったものの実権はその官、
狗古智卑狗に握られていたようだな。狗古智卑狗とは、一般に言われる菊池彦でなんの問題もなかろう。
599 :
卑狗摸古二世 :2009/12/27(日) 18:25:09
これはご両人お揃いで、結構なことだ。まったく我々のような群を抜く知者が揃って解決できない問題などあるまい。 狗奴国の位置は自明。神武子孫氏の説のとおりである。それにしてもこのような単純なことに長年悩んでいる畿内 説はまったくの愚者ばかりではないか。畿内説愚劣、畿内説虚妄、畿内説痴愚、畿内説魯鈍と、まずは言っておこう か。
600 :
日本@名無史さん :2009/12/27(日) 18:32:32
>>596 そのころ戸籍があったと思います?7000戸というのは、誇張した数字ですよ。
たとえば、水戸藩は実高は25万石程度に過ぎなかったのに、御三家という高い格式を重んじて表高38万石を標榜したため経済的に破たんして没落した。
女王国としての見栄から、戸数をはサバ呼んだのです。これからは、卑弥呼改め「さば読み呼」、そうお呼びしよう。
つまらん自演するなよ。
>>597 その居館か周辺で祭祀をやったんですか?
603 :
神武の子孫 :2009/12/27(日) 18:44:03
>>602 そうじゃ。ところで私は今から宴会じゃ。崇神の子孫が猪をぶら下げて来た。応神の子孫は鹿を持って
来た。家の子郎党集まって大賑わいだ。忙しいから又後でな。
群を抜く痴者が揃ってるなw 勿論大王は縄文人だが。
605 :
縄文人 :2009/12/27(日) 19:02:20
>>602 祭祀の場所は「トンカラリン」と呼ばれる古代隧道だ。この遺構の年代は新しいとする畿内説の批判もあるようだ
が、実際は年代を明らかにする根拠などないのだ。トンカラリンは鬼才松本清張氏の指摘により有名になったが、
この遺構建造の真の目的や用途はいまだ判明していない。また、土器類や時代を特定する地層とかも明らかで
はない。しかし卑弥呼の祭祀の場所としてはまことにふさわしい。ここが鬼道である。
606 :
日本@名無史さん :2009/12/27(日) 19:03:43
上記で首長霊信仰についてのやり取りがあってROMっていたが
下記の部分について少しレスしておく
>>435 うましか
>私は首長霊祭祀以前の社会は政・祭分離型であったと思っています。
>>437 >どうしてそうなるの?
>逆じゃないのか?常識的に。
まあ確かに「政教分離」であったというのは理解しがたい話ではあるw
無論俺もそのような考えはとらないが
おそらく うましか がそのような考えに至った理由としては
古墳文化の前の墓制を見てもそこにはあまり政治的な意図が見えず
(ぶっちゃけ、弥生の墳丘墓見ても土盛っているだけだしw)
それが古墳(この場合前方後方や四隅も含めて)になると
これ見よがしに政治の部分が目に見える形で現れてくるwwww
つまり未分離ではっきりとした政治的意思を表現しなかった(内在はしていたが)ものが
ある意味”露骨”にw表面化されるようになって
それが今まで分離していたものが一体化したように見えたんだろうと思うwwwwwwwwwwwwww
607 :
卑狗摸古二世 :2009/12/27(日) 19:29:15
>>600 あほうめが。もっと倭人伝をよく読んだがよかろう。戸籍はないだろうが、国の人口は把握していただろうよ。倭人伝には、
<租賦を収む邸閣あり>との記載があり、租税徴収が行われていたことがわかる。人員把握なくしてこれはできることで
はないのだ。おそらく戦前の隣組制度のようなものがあったのだろう。また、邪馬台国は全体が武力を背景としての法治、
すなわち強権支配であったことは、<その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す>
の部分から明らかである。人民を把握できずにどうやってこのような統治ができるというのだ。
608 :
日本@名無史さん :2009/12/27(日) 19:38:48
卑狗摸古二世
609 :
日本@名無史さん :2009/12/27(日) 19:40:30
縄文人 と 卑狗摸古二世 …現在この板の九州説をリードする 二大巨頭による対談を是非希望します!!wwwwwwwwww
610 :
縄文人 :2009/12/27(日) 19:54:49
「トンカラリン」は熊本県菊水町にある450m近い隧道型古代遺構であり、その建造目的、用途、年代なども上記のように 不明である。用途については、排水施設、抜け道などの説もあるが、排水施設にしては天井が高すぎたり低すぎたり蛇行 が多かったり土壁だったりとその目的にそぐわない構造が多々見られました。同じ理由で抜け穴としても不適当であろうし、 地上を通行したほうが早い場所でもある。これはやはり自然の地割れを利用した祭祀施設であり、倭人伝の元資料を記し 魏使が鬼道の語を用いたのも、その現場を実見したからであろう。また、ここは天の岩戸でもあった。
>>610 せめてもう少し説得力のある説明を考えろよw
魏志が実見してたら詳細に書くだろ。
612 :
縄文人 :2009/12/27(日) 20:10:41
>>611 自分で考える力もないあほたれが、黙って聞け。魏使には鬼道の詳細は明らかにしなかった、または秘匿を約した
のだ。なぜなその祭祀の中身は戦慄すべきものであったからだ。
613 :
卑狗摸古二世 :2009/12/27(日) 20:13:23
>>612 縄文人氏は真相を掴んだのか。畏るべきお人だな。
614 :
縄文人の弟 :2009/12/27(日) 20:14:58
流石は兄上。
615 :
縄文人 :2009/12/27(日) 20:24:41
まずは倭人伝の記述だ。<年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり佐けて國を治む。王となりしより以来見るある者少なく、 婢千人を以て自ら侍せしむ。> 卑弥呼を見る者が少ないというのはその神秘性を保つためと解されることが多いようだ。むろんその目的もあるのだが、そ れだけではない。卑弥呼は一人にして千人、千人にして一人。その年の収穫を確約する太陽ともいうべき存在であったのだ。 この意味がお前ら知能の低い畿内説にわかるかな。
616 :
卑狗摸古二世 :2009/12/27(日) 20:26:09
ま、まさか。
617 :
縄文人 :2009/12/27(日) 20:31:07
そうだ、卑弥呼の鬼道とはトンカラリンを用いての死と再生の儀式。つまり、年毎の豊作を祈念して古き卑弥呼が 死に、新しい卑弥呼が誕生するのだ。倭人伝には<年已に長大>とあるが、このこととは矛盾しない。なぜなら、 卑弥呼はあくまでも一人であるからだ。そしてこのことが後代、天の岩戸伝説として残ることになる。
618 :
縄文人の秘書 :2009/12/27(日) 20:34:14
流石です。 でもその情熱を少しは来年からの仕事に向けてくださいね。
619 :
俺様が崇神だ! :2009/12/27(日) 20:36:44
うむ、完璧だな。
真央タンの演技ですね。 卑弥呼もそんな感じの娘だったのかもしれません。
621 :
縄文人の母 :2009/12/27(日) 21:16:35
すみません縄文人が馬鹿なことばかり言って よく怒っておきますから また遊んでやって下さいね
622 :
メ :2009/12/27(日) 21:48:23
>>479 >>488 >>500 >寺沢
誰の事を言ってるのか分からんかったが・・・
寺沢薫?君ら考古学が好きだね〜www
それ以外のは興味無いの???って思うw
まあ、この人の本を購入して読んだわけではないので
どういう人なのか詳しくは知らないが。
623 :
日本@名無史さん :2009/12/27(日) 21:48:25
2chには悪魔が棲んでいる。このことを理解できない者は多い。
624 :
神武の子孫 :2009/12/27(日) 21:54:21
う〜い。呑んだ呑んだ。酒は百薬の長とはよく言ったものだ。無礼な奴らの戯れ言も笑って聞き流せるわい。 縄文人は人気があるの〜。本人より過激な発言をするニセモノも登場したな。しかし、トンカラリンと天の岩戸伝説 は本人から聞いたことはないが、ほんとかね。
625 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/12/27(日) 22:06:42
曹操の墓が中国河南省で発見されたそうだが、卑弥呼のほうもそう願い たいところだな。
>>624 >縄文人は人気があるの〜。
河童には遠く及ばないけどな。
一人何役も大変だな。
河南の墳墓「曹操の墓」と断定…
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091227-00000019-scn-cn 最も有力とされた証拠は、「魏武王」との文字が刻まれた石牌が発見されたこと。
記録によると、曹操は「魏公」ついで「魏王」に封じられた(地位を与えられた)。
死後に贈られた諡号(しごう)は「武王」で、出土した石牌と一致する。
なお、曹操は後に「魏の武帝」と呼ばれるようになったが、曹操を「武帝」と称するようになったのは
子の曹丕が後漢の献帝からの禅譲(位を譲ること)により皇帝に即位してから。
石牌にある「魏武王」は、むしろ曹操が死去した当時の史実に合致しているという。
629 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/12/27(日) 22:19:55
一致するとは凄いね。 これで曹操の頭骸骨があれば、その正姿が判明するだろう。頭蓋骨は 出てるのかい? エジプトのクレオパトラの妹のアルシノエの正姿も復元 できてNHK番組で放送されたが、今後に期待したい。
630 :
縦目仮面 :2009/12/27(日) 22:37:49
631 :
日本@名無史さん :2009/12/27(日) 23:03:42
60代の男性の骨が見つかったらしいからいろいろ判明するかもね しかしよく長い間盗掘されることなく隠されていたよな。奇跡だ。 卑弥呼の墓もこういう風に異説論者が ぐぅの音も出ないような形で見つかって欲しいものだ
632 :
縦目仮面 :2009/12/27(日) 23:11:47
がんがん盗掘はされてるようですね。それから救うための発掘であるというようなことが書いてあります。
633 :
日本@名無史さん :2009/12/27(日) 23:15:30
そうなのか。 でも埋装品は見つかったようですね。
634 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/27(日) 23:30:46
魏明帝の墓所から勾玉が見つかれば面白いが。 明帝の墓所は?
>>606 「少しレス」されたので少しコメントします。
>「政教分離」であったというのは理解しがたい話
そのコメントのニュアンスからは「政・祭一致」型が原初型で社会進化に伴い「分離型」へが原則のうように取れますが、
はたしてそうでしょうか?
宗教がヘゲモニーを有する社会では、「一致型」「分離型」どちらも普通に存在する制度だと思いますよ。
日本の場合、古代(一致型)>中近世(分離型)>近代(一致型)>現代(分離型)と変遷してるわけだし
聖職王と世俗王が並立するような制度(分離型)は世界中にあるでしょう。
卑弥呼と男弟の関係もそのタイプかと思います。
636 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 01:16:17
>>635 おまえは、
古墳時代=首長霊祭祀
邪馬台国時代=政・祭分離型
もっと古代=政・祭一致
と、言ってたのか?
それなら、何の問題も無い話だが。
まぎらわしい書き方するな。
>>636 > もっと古代=政・祭一致
> と、言ってたのか?
弥生時代の「クニ」レベルの話なら違いますね。
世俗王と聖職王が分離しているケースの方が多いんじゃないですかね?
当然、両者の間には序列があるでしょうけど、どちらが上位でも別れていれば分離型ですかね。
逆に原初の形が、政・祭一致だと思っているのなら、その根拠を教えてください。
例えば日本のハレとかケガレとかを重視する思想が弥生時代に成立しているとすれば、
弥生時代の聖職者にもそれなり(卑弥呼のような)の戒律が求められるでしょう。
卑弥呼みたいに引きこもっていたら戦争指揮や食料の分配などの世俗王的機能は果たせません。
原初の王権とは、先ずはこういった世俗王的なものだと思います。
そして、社会進化の過程で世俗的な方法では解決できない問題に対処する権力として「宗教」が成長し、
聖職王と世俗王と言う二元化が生まれるのかなと思います。
638 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 01:57:51
>社会進化の過程で世俗的な方法では解決できない問題に対処する権力として「宗教」が成長し・・・ >権力としての宗教 が表している意味は推察できますが 死生や自然現象など人の力の及ばない事象に対する、 宗教的なものの萌芽はずっと早かったのではないでしょうか。
639 :
606 :2009/12/28(月) 02:03:57
>>635 なるほど、おk。
やや思い込み先入観に過ぎた部分があったかも知れぬ、一度最初から考え直してみるwwwwwww
で、これは吉野ヶ里に多少なりとも詳しい人間に聞きたいのだが…
この「首長霊信仰の発生」の件に関し先に吉野ヶ里と絡めた話があったが
吉野ヶ里に「ほぼ特定の首長、お一人様用の墳丘墓」とかあったっけ?
「北墳丘墓」は歴代王の墓らしいが・・・
640 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 02:06:14
いくら祭祀をやっていた姫だからと言って、箸墓古墳みたいな 姫のためにあんなに大きな古墳て作るの? 完全素人の俺が纒向遺跡発掘の件で興味が湧いて色々調べてみたが・・・ 倭迹迹日百襲媛命=卑弥呼=天照大神じゃないの? 完全に的外れならごめんwで既出ならごめん 今まで卑弥呼は完全伝説上の人物だと思ってたけど、色々説があるのね
641 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 02:08:32
>>640 >倭迹迹日百襲媛命=卑弥呼=天照大神じゃないの?
そういう認識で当面はOK。
ただ、「天照大神」は7世紀の創作くさいから。
記紀を見ても、古墳時代に天照大神を祭った記録は無いんだよ。
642 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 02:13:01
国内の名前=倭迹迹日百襲媛命、中国の名前=卑弥呼 その後7世紀頃に倭迹迹日百襲媛命が神に昇格?したと考えられてないの?
643 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 02:16:55
>>642 そういう認識で当面はOK。
ただ、
倭迹迹日百襲媛命=卑弥呼=鬼道=祖霊崇拝で一致するけど、
天照大神は純粋な太陽神で、性格が違う。
644 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 02:23:52
ごめんなさいw同じ質問してしまいましたねw でも天照大神は男性的な側面もあるって見たけど? 政治と軍事両方兼ね備えてるんじゃないの?
645 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 02:28:28
まあ、おネエちゃんのストリップショーでおびき出されること自体 おっさんぽいんだけどなwwwwwwwwww
646 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 02:32:46
天照大神が女性にされたのは、 女性天皇が即位したことの正当性のためだよ。
>>638 そりゃ、集落単位社会レベルでも祭祀的行為あるでしょう。
それを誰が統べるかは状況によると思います。
世俗型リーダーが統べるのであれば、一致型のリーダー。
多くの場合、シャーマンのようなスペシャリストが登場し、
聖職型リーダーとして分立して、それぞれの職分で集団を率いるのでは?
これが王権レベルの社会となっても基本は一緒なのですが、
社会制度が違うので、説明の仕方も変わってしまいますが。
>>643 皇統の開祖として位置付けられた時点で「単なる太陽神」ではなくなり、
首長霊祭祀の対象です。
各氏族の系譜が皇統に絡められて行くことによって、
祖霊祭祀も統合され古代天皇制が出現するわけです。
649 :
メ :2009/12/28(月) 09:33:16
>ハレとかケガレ
晴れ、穢れ・・・懐かしい言葉ですねw
この言葉は、他の人も知っておいた方がいいので、、
まだ、この言葉を知らない人のために書くが(Wiki引用)、
>「ケガレ」を「気枯れ」すなわちケがカレた状態とし、
>祭などのハレの儀式でケを回復する(ケガレをはらう、「気を良める」→清める)という。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AC%E3%81%A8%E3%82%B1 ほとんどの人が地方で行われる夏祭りなどに参加したことがあるだろう。
祭りというのは友人、家族でワイワイ楽しむだけではなくって、、
こういう、祭りで「神とふれ、日々のケガレを払い」、「ハレの状態に戻す」のが、
「お祭りの根本的なもの」であり、ここらへんを覚えておいた方がいい。
650 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 10:37:11
>ハレに戻す 通常がケガレていて 特別な日だけハレにするんじゃないのか?
651 :
メ :2009/12/28(月) 10:43:00
>>650 いや、だからそれの繰り返しです。
日常の生活の中でケガレて行き、祭りで神と触れることによって、ハレ。
652 :
愛知県民 :2009/12/28(月) 12:32:50
後漢書クナ国は紀伊熊野か出雲熊野か。
653 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 12:42:41
ケガラい、そしてケガレる。そのケガレたものをハラう事でハラいハレる 祭とはいっさい関係ないものです。
>>644 >でも天照大神は男性的な側面もあるって見たけど?
>政治と軍事両方兼ね備えてるんじゃないの?
一応正解。 政治(和御魂:にぎみたま)と軍神(荒御魂)としての性格がある。
軍神として 西国に睨みをきかせているのが和歌山の日前神宮、 東国に睨みをきかせているのが伊勢神宮。
ちなみに、沖縄の戦争は女同士の罵り合いで始めるそうです。
あなたは、仲間由紀恵や上原多香子に「私のために死になさい」と言われたら、素直に戦争にゆくでしょう。 軍神は必ずしも男である必要はない。
655 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 13:02:30
まず罪を犯せば穢れが生じ、祓わなくてはならない。罪には古神道では、天津罪、国津罪とあって、天津罪は 例えば、畔放 - 田に張っている水を、畔を壊すことで流出させ、水田灌漑を妨害すること。など水稲耕作の根 幹にかかわること。また、生剥 - 馬の皮を生きながら剥ぐこと、糞戸 - 祭場を糞などの汚物で汚すこと これらは記紀でスサノオの行為として紹介されてる。 また国津罪は、生膚断 - 生きている人の肌に傷をつけること・・・これは現代の傷害罪にあたるか。あとは近親相 姦、獣姦、呪詛など。白人 - 肌が白くなる病気でハンセン氏病の一種か・・・のように本人にはどうしようもないもの もある。 一般的に天津罪は農耕・祭祀に関する侵害行為であり、国津罪は共同生活に対する侵害行為。このことから、い かに古代では、農耕と祭祀が結びついていたかがわかる。
656 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 13:08:46
ただし注意しなくてはなえらないのは、これらの罪が起きた場合、罪を犯した者に対する罰より先に、禊、祓が 行われなくてはならないこと。つまり古神道では法的概念よりも、神の定めたタブーに抵触することをより重要 視していたと考えられる。
一方法制史をひもといてみれば、固有法成立の要因として次の二つがあげられる。 ・ 内部的基盤 - 人の集住により形成され、地域の共同団体または共同組織の内部に生成した秩序 ・ 外部的基盤 - 上位政治的権力がもつ共同団体相互間に発生する紛争の調停機能 wikiより 多くの社会では、名部的基盤を基にして法体系が整っていく場合が多く、日本も例外ではないと考えられる。外部 的基盤というのは、ある程度の社会体制が発達してからのものであろう。
658 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 13:22:38
ここで倭人伝を見ると、 >その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。 とあり、この記述を信ずるならば、法治の外部的基盤たる社会支配の体制が強固に整っていたものと見ること ができる。つまり倭人社会にはかなりの成熟度が見られる。これは、 >尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。 という身分制の発達からもいえることである。
659 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 13:31:04
しかしながら、訴訟など善悪の当否が測りかねる場合も多々あったであろうと思われ、ここで倭人伝の、 >云為する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。 のような占いの出番となる。占いといえば日本では「盟神探湯」(くかたち)が有名であるが、これは、対象となる 者に神への潔白を誓わせた後、釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、正しい者は火傷せず、罪のある者は大 火傷を負うというものである。 これについての記述は、記紀では応神、允恭、継体帝の各帝紀などに散見され、かなり後代まで行われていたこ とがわかる。
660 :
縦目仮面 :2009/12/28(月) 13:55:37
これら法制の変遷は、精霊信仰→穀霊信仰→首長霊信仰、半定住生活→環濠集落→郷の発達 と切り離して論じるこ とはできず、興味部会研究対象であると考えています。
661 :
縦目仮面 :2009/12/28(月) 13:56:32
×興味部会 ○興味深い あたたた。
662 :
メ :2009/12/28(月) 14:23:03
>>662 ? 俺は寺澤薫氏の本や文化人類学の本で読んだんですけどね。俺の
>>436 レスなどをちゃんと読みましょうね。
>高島忠平さんに洗脳されすぎだってw 俺は畿内説だし、この人は信用してません。ww
664 :
メ :2009/12/28(月) 14:39:57
>>663 あれ・・・
精霊信仰→祖霊信仰→首長霊信仰 と思ってレスしたんだけど
いつの間にか、精霊信仰→穀霊信仰→首長霊信仰 に改めてるしw
それは「改めた」ということでしょうか?w
>>664 そうではなく・・・まったく人のレスを読んでませんね。「祖霊信仰は底流として常にあった」と書いたはずです。
縄文時代にその萌芽が起こり・・・今でもお墓参りに行くでしょう。
ここでなぜ穀霊信仰を出したかは、狩猟・採集に重点を置いた生活から、水稲耕作が始まることによって、共同体化
が進んだことを言っているのです。掲示板なので、少ない字数で論を進めなくてはならないからです。
ところで今回の一連のレスの中でそこは枝葉の部分です。日本の法制、刑罰史についてのお考えはあるのですか?
666 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/12/28(月) 14:55:31
三輪(半径r=3の円)の球化したもののその体積Vと表面積Sは V=4πr**3/3 、 S=4πr**2 (**はベキ)から、r=3のときでは V=Sとなり、これを天津金木(天津神算木)といい、以下の算式をいう。 4π×3**2=113.0973355・・・・・ これの左辺を金と称し右辺を木と称する。 ここで天津金木を本打ち切り末打ち断つとき、同式は 3**2≠113.097335 の不等式となる。そこで千座の置座とは右辺に千の位(千位)を設定することで 逆読み(向かって右から〜左へ読むとき) 3**2≠0113.097335 の整数第4位を配置する。ここから金の先端の3と木の末端の5を接着させて 10/2 西暦353年 神功皇后 摂政 立皇太后 の実年代を得る。神功の他の編年は真ではない。
>>662 >>ケガラい、そしてケガレる。そのケガレたものをハラう事でハラいハレる
>>祭とはいっさい関係ないものです。
>モンタ(河童さん)みたいな奴だなwww
まさか御本人じゃないの?w
だからなんなのです?
私の意見と
貴方の書かれたものが、全く噛み合わないのですが。
668 :
メ :2009/12/28(月) 15:03:09
穀霊信仰から首長霊信仰というなら私も聞いたことありますし、文句ありません。
いきなし、改めるんだもん〜ww
私のレス
>>662 の「穀」「祖」ぐらい大目に見てほしいw
>日本の法制、刑罰史についてのお考えはあるのですか?
その前にその「日本」というのは、七世紀に成立し、
我々がいってる縄文・弥生・古墳より遥かに新しい。
「日本」よりそれ以前の呼び方としては「倭」といわれており、
「日本の法制、刑罰史について」なんて、直接は関係がないことでしょうね。
だからそんあ質問されても答えようがないというか。
669 :
メ :2009/12/28(月) 15:09:05
>>667 それなら、
ハレ、ケガレはお祭りとは関係が無いという事を証明して下さい。
さ、さ、どうぞw
みなさんもレスを読んでいることでしょうし、注目。
test
>>668 改めてはいません。これは、数ある精霊の中で水稲耕作の開始によって、特に穀霊が重要視されるようになり、
そして祖先の霊が穀物の霊に働きかけて豊作にしてくれる・・・という考え方なのです。首長霊はもっと後のこと
です。
日本という言葉はまた枝葉の部分で、俺は倭人伝の風俗記事の法制にあたる部分を引いて論じてるんですが。
わからないのなら口を出さないように。あなたの言ってることはただの上っ面だけですよ。
>>668 だいたい首長霊というのは、上でもレスしたようにその首長氏族の祖霊に決まってるじゃないですか。だから
祖霊信仰→首長霊信仰というのは常識の範囲で、祖霊信仰がなければ首長霊信仰は成り立たないのです。
673 :
メ :2009/12/28(月) 15:20:34
縦目さんが怒りだしたw 逃〜げよっとwww
>>669 >ハレ、ケガレはお祭りとは関係が無いという事を証明して下さい。
無ものを証明しろと言うのは、正に悪魔の証明。
有るとするものが証明するのが常識だ。
675 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 16:00:10
頭の悪い人には誰もかなわないよ。ww
まったく、わかりきったことでレスをムダにした。
677 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 16:04:52
まあアレだ、改めドツボの思考パターンは極めてシンプル。 難しく考えちゃイカンよwwwwwwwww この板で「首長霊信仰」なる言葉を知る ↓ たまたま高島センセイが「首長霊信仰」について言及しているのを本かネットで知る ↓ 「首長霊信仰」と言う語・概念が高島センセイによる提唱・発案だと ノーミソ に刷り込まれる …とまあこんなところだろうwwwwww
678 :
メ :2009/12/28(月) 16:17:19
>>677 wwwジョーカーか?
>この板で「首長霊信仰」なる言葉を知る
アハハ、吉野ヶ里とか現地にも言ってるし、
お前らと一緒にしないでおくれ。
吉野ヶ里遺跡といえば「首長霊信仰」が有名だろ。
>たまたま高島センセイが「首長霊信仰」について言及しているのを本かネットで知る
ああ、これは正解かもしれん。
おれは、高島信者ではないので・・・・
>「首長霊信仰」と言う語・概念が高島センセイによる提唱・発案だと ノーミソ に刷り込まれる
「本」しか読まないので、そういう思想になるのだろうな...。
>>562 でも書いたが、おれとか10キロ歩いても全然平気だし、
君らと「足」や「腰」の鍛え方が全然ちがう(御主のそういう話は聞かないし)。
お勉強ばかりじゃなく、おれみたいに自然に触れ考えるという思想を養ったらどうか?w
>>677 またドツボが自らドツボに嵌まったか?
これ以上ドツボに嵌まるようなら、ドツボから肥溜に昇進だなwwww
680 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 16:31:08
>>678 >吉野ヶ里遺跡といえば「首長霊信仰」が有名だろ。
はあああああああああああああっ?
恥の上塗りにつぐ上塗り・・・
自覚がなく学習しないところがドツボのドツボたる由縁wwwwwwww
この「首長霊信仰」なる語にどれだけの学者の考察やフィールドワークが凝縮されているのか想像もしないんだろうなあ・・・
まあ俺もそれを説明できるような知識はないが流石に一人の学者や遺跡に求めるようなアホな真似はようせんわwwwwwww
>>672 ここで書いてることは小学生でもわかるようなことなのに、どうして理解できないんだろうね。ww
いずれ上で書いた邪馬台国の法治は、古神道が説く罪と穢の概念とはかけ離れているように感じられる。
古神道(これが文字化されたのは後代なので、原初のものからは変質しているだろうが)の法制は内部的基盤
から生じたものであるようだが、倭人伝では法制の外部的基盤が確立しているようだ。
3世紀、倭人の社会の進化段階はかなり進んだものだったと考えられる。
682 :
ローガン :2009/12/28(月) 16:48:31
>>648 >皇統の開祖として位置付けられた時点で「単なる太陽神」ではなくなり、首長霊祭祀の対象です。
> 各氏族の系譜が皇統に絡められて行くことによって、祖霊祭祀も統合され古代天皇制が出現するわけです。
この「古代」とは、具体的にはいつ頃とお考えでしょう?鉄剣銘に「奉事の根源」とありますね。
擬制的な血縁だとすると、既に地方に、この概念があったなら、上祖からの斉く首長霊とは 大王家の祖霊となりませんかね?
極端かもしれませんが…。
683 :
メ :2009/12/28(月) 16:48:51
わかった、わかった、考古学バカを相手すると疲れるなw 考古学養護界では、高島センセイが発言してることによって、 精霊、祖霊、首長の順番(^-^)というのは常識らしいよwww しかし、われわれが使う祖霊信仰というのは、本当にこれで正しいのか、ということよ。
684 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 16:56:39
>>683 >しかし、われわれが使う祖霊信仰というのは、本当にこれで正しいのか、ということよ。
貴方の言う「われわれ」とは、一体誰を指しているのか?
たぶん街角で、この「祖霊信仰」なる言葉を使用する人は先ずいまい。
685 :
メ :2009/12/28(月) 16:59:31
そうだべ?高島センセイやその他の先生方が、 精霊、祖霊、首長の順番で語ることが多い(精霊、首長、祖霊の順で語る人もいる)ので それが主流になり、君らは、その書き込みを読んで、それが「正しい」と結論づけてるだけで 単なるそれだけw 単純でバカというかwそういうことだよね?w
まったく、I know nothing except the fact of my ignorance. まあ、これは自戒でもあります。
687 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 17:09:23
>>686 「無知の知」「無知なるを知れ」か。ソクラテスだなwww
689 :
メ :2009/12/28(月) 17:38:39
>>684 >貴方の言う「われわれ」とは、一体誰を指しているのか?
我々というのは民間を指します。
「祖霊信仰」というのはですね、大和朝廷成立度に氏族制度が成立され、
その後に、そういう「信仰」が民間の間に広がると考えるわけです。
「家葬」とか聞きますが、家の床や、入口付近に埋葬されたからといって、
それが「祖霊信仰」といえるのか?もちろん、その一種でしょうが、
一般的に、「祖霊信仰」というのは御先祖様を敬う。
民間で御先祖様〜という信仰が広がるのはずっと後の時代。
縦目仮面にもいえることですが、遺体を御墓に葬るというのは、
その一種かもしれませんが、「祖霊信仰」という根本的なものは氏神崇拝ではなかろうか?
日本全国に民間で御先祖様〜という信仰が広がり浸透されるのは、弥生、古墳時代の首長信仰より
新しいと考えています。
690 :
メ :2009/12/28(月) 17:40:40
>>690 あなたは少しは勉強して断片的知識は増えたでしょうが、それをつなぎ合わせるための基盤がない。もん太師と
基本大差ないと思いますよ。もん太師ほどの爽快さもない。
ま、今日は暇なんで少し進めましょう。ただ、これは苦手な分野なんで詳しい方のヘルプ希望。
倭人伝によると、
>その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。
・・・嘘書いてもしょうがないようなところなんで、ある程度真実かとも思いますが、これは父系社会ということでしょうか?
もっと古い時代からたどってみると、今いろいろと話題の春成秀爾氏が、
>(縄文の)古い段階ではすべて母系的な妻方居住婚であったが、東日本では中・後期の双系的な選択居住婚の時期
を経て、後期末・晩期には父系的な夫方居住婚が優勢な社会へと移行した。
と、書いてます。
このことは「オオヒコ」スレでかなりよい議論になったんですが、一部 母権制(女性が家族内での権威や政治権力を 握っているような社会体制)と母系制(親族集団への帰属権が母を通じて継承され、母系出自集団が社会的、政治的 に重要な機能をもっているような社会)との混同が見られました。 邪馬台国は、父系制による一夫多妻制だったんでしょうか?このあたりはローガン先輩が詳しそうですが。
693 :
メ :2009/12/28(月) 18:43:42
いやはや、参りました〜高島センセイの次は、春成センセイだもん 早めに謝っとこうっとw 学生さんを怒らせるとマジでおっかないしwww ちと、用事がアルので一旦落ち、続きは、みんなで議論して下さい See you again
>>693 ことわっておきますが縦目仮面というのは一人ではないんですよ。おおかたは俺が書いてるけど、このコテを使って
大学の他の人が書いてる場合もある。ルールは他のスレに同時出現しないこと。学生ばかりではありませんよ。w
695 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 19:53:10
>>692 母権制とか母系制とか、
母親側が権力をもってたという仮説は、誰が提唱してるの?
本があったら読むから教えてくれませんか?
696 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 20:08:43
>>683 改めドツボ
もう自分の傷口を自分で広げるような真似はヤメレwwwww
・・・で、首長霊信仰と吉野ヶ里のお話を続けさせてもらうとw
北墳丘墓は歴代の首長の墓と考えられていて
そこに首長霊信仰を見ると言うのなら、それに文句も一切ないんだが
じゃあ念を押してそれが本当に「首長霊信仰」なのかと聞かれると少し心もとないw
首長霊信仰=首長を厚葬するの前の段階として
特定の階層・血縁集団を厚葬するという段階があったはずで
(まあその二つを明確に線引きはできないだろうが)
北墳丘墓もその段階なのかな?と言う疑問もあるw
だから
>>639 で
>「ほぼ特定の首長、お一人様用の墳丘墓」
の存在を聞いたわけでw
・・・ところで首長墓と言うのなら吉野ヶ里にも前方後方墳(←後円ではない)があるが
もし独自の首長霊信仰が確立していたのなら何処かの段階で
新しい「前方後方墳」と言う形態にシフトしたと言う事だろうか?
まあ「吉野ヶ里の前方後方墳」ってのはこの板で言及されているところを
何故か見たことがないんだがwwwwww
>>694 >ことわっておきますが縦目仮面というのは一人ではないんですよ。おおかたは俺が書いてるけど、このコテを使って
大学の他の人が書いてる場合もある。ルールは他のスレに同時出現しないこと。学生ばかりではありませんよ。W
何処をどう見てもひとりでしょうし、大学の他の人が書いてる場合もあると言われても、それを証明することが出来ないでしょう?学生ばかりではないと言っても、掲示板には職業という概念はそんざいしませんよ。
で、そんなこと発表することに何か意味があるのですか?
>>682 > >皇統の開祖として位置付けられた時点で「単なる太陽神」ではなくなり、首長霊祭祀の対象です。
> > 各氏族の系譜が皇統に絡められて行くことによって、祖霊祭祀も統合され古代天皇制が出現するわけです。
>
> この「古代」とは、具体的にはいつ頃とお考えでしょう?鉄剣銘に「奉事の根源」とありますね。
> 擬制的な血縁だとすると、既に地方に、この概念があったなら、上祖からの斉く首長霊とは 大王家の祖霊となりませんかね?
> 極端かもしれませんが…。
乎獲居臣が自らの祖霊を大王家に結びつけているのかどうかもわからないですよね。
「意富比?」が巷間で噂される「大彦命」なのかもわかりませんが、
製作時に孝元−大彦と言う系譜が有り、自らの系譜を大王家につなげるなら、
やはり初代は孝元にした方が分かりやすいはずです。
そうでは無いことの理由として、大彦自体が大王家につながる存在では無かったとか、
乎獲居の家系が大王家に系譜をつなげられるよう有力なものでは無かったとか・・・・想定はできますが。
最後に御質問の「古代天皇制」の時代ですが、明確な定義をして使ったわけではありません。
日本書紀が天皇教の経典だとすると、天武・持統が最終進化型でしょうか。
当然、雄略の時代が「武の上表」にあるようなものであれば、地方の統合は行われているのでしょうから、
発展途上ながら天皇教は波及しているはずです。
699 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 21:27:44
魏武王の石板が発見されて、曹操の墓と断定されたというのに、 どうして巻向からは石板も木簡も出ないんだろう? 邪馬台国は文字がなかったとしても、魏に使いを送るほどの文化を持った国が、 漢字の石板一枚持っていなかったとは思えませんよね。
追加で少し書きます。 「乎獲居臣」家の場合、鉄剣銘やさきたま古墳群の存在から、 首長霊祭祀自体は受け入れている(皇統に結べるかは別にして)かと思いますが、 単発の古墳しか作らなかった地域では、確実に「首長霊祭祀」が行われていたとは考えないことにしています。 ただ、トレンドとして古墳を作ってみたけど、祀るほどの血統が存在しないようなところでは、 全く違う宗教の道具として古墳が使われていなかもしれないからです。
701 :
日本@名無史さん :2009/12/28(月) 21:54:12
昔からお役人は箱モノが大好きですからね。 文化センターとか博物館として作ったのでしょうか?
>>696 >首長霊信仰=首長を厚葬
確認したいのですが、首長霊信仰、というからには
信仰なのであって、カミのマツリだと思います。
前段階は、銅矛・銅鐸のマツリであって、
それにとって代わるものが首長霊信仰だと思うのですが。
704 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 00:24:21
>>702 質問の意味をイマイチ斟酌しかねるが・・・
大型青銅祭器のマツリの後に大型(巨大)首長墓による首長霊信仰がやってきたというのはその通りだと思うが
それが墓上の祭祀の為、あるいは権力を見せ付ける為に
如何に巨大であろうが、墓であることは間違いないのだから
これを祖霊信仰の延長上に置かないというのなら理解しかねる話だな。
705 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 00:44:00
さて『首長霊信仰』なるものについて興味のない人間は 「そもそも、そんな話し邪馬台国に関係ねえだろ!」 ・・・と思っている者もいるだろうw じゃあ邪馬台国のお話につなげて見せましょうって事でwwwww 九州でも首長霊信仰が起きていたとしても、九州以東と状況が異なるのは その為に大型の首長墓をつくり、尚且つその様式がある程度の地域で共通するものが見られるかどうか …という点だろうと思う。 山陰の四隅、吉備の祭祀に使われたであろう壷や器代、前方後円墳や前方後方墳・・・ 埋葬文化・首長霊信仰を目に見える形で共有する事で、首長同士の連合体を築く そこに卑弥呼共立に参加した30ヶ国の連合体を見るのが畿内説・・・だと思っているw そこには年代の問題や果たして範囲はどれくらいなのか?等々考えなきゃならない事は色々あるんだが そもそも九州にはそのような連合体を想定しうるこれと言った材料がない。 (比定地がバラバラなのもこれに起因するところが大きいだろうwww) だったら倭人伝にでてくる卑弥呼共立の動きとはヤマト王権発生のプロセスに重ねるしかないだろうと 多分、邪馬台国論争に首を突っ込んでもいない多くの学者も年代論とか三角縁神獣鏡の問題とかを別にして 大まかに日本の歴史の流れとして以上の様に考えていてそれが畿内説一辺倒と言われる現状になっているんじゃないのかな?www
よくはわからないけど、吉野ヶ里のような環濠集落であればその中の人間関係は緊密だと思う。それが解体して 郷に分かれていった場合、軍事的支配というのとは別に、集団を一つにまとめるための装置はどうしても必要だ という気がするね。現在のような行政区画というものもむろんないわけだし。
>>705 >だったら倭人伝にでてくる卑弥呼共立の動きとは
卑弥呼共立はそんな仰々しいものではない、倭人伝の前時代史後漢書倭伝には
相攻伐によって主が歴年不在だった為に立てられた緊急処置
そして倭人伝での卑弥呼共立は、相攻伐歴年によっての卑弥呼共立
>>707 その緊急措置が、少なくとも畿内を中心とした
諸国で行われただけですよ。
709 :
705 :2009/12/29(火) 01:45:15
>>707 >倭人伝の前時代史後漢書倭伝には
はて?
後漢書倭伝が魏志・魏略に先行する史料なんて話しは聞いたことがないが?
後漢書がよった原史料の中にそういった情報があったと言う想定なのか?
そこらへんはっきりしてもらわないと無茶苦茶な話しになると思うが
いくらこっちが素人だといっても、あんまりデタラメ言うたらあかんで…wwwwwwwww
河童が出たから寝ることにしよう
>>654 >ちなみに、沖縄の戦争は女同士の罵り合いで始めるそうです。
これは興味深かったなw
記紀にも武埴安彦の妻の吾田媛や、兄の夏羽とともに戦場に出て来た田油津媛…等々
記紀には戦場に出張ってくる女傑が目白押しだがw
それと共通するものなのかな?wwwwwwwwwww
それで戦意が高揚するものなんかな。ww古代人は女のヒステリーに悩まされてはいなかったということなん ですかねえ。www
713 :
707 :2009/12/29(火) 09:09:02
>>709 >はて?
後漢書倭伝が魏志・魏略に先行する史料なんて話しは聞いたことがないが?
後漢書がよった原史料の中にそういった情報があったと言う想定なのか?
そこらへんはっきりしてもらわないと無茶苦茶な話しになると思うが
いくらこっちが素人だといっても、あんまりデタラメ言うたらあかんで…wwwwwwwww
はて? 後漢書倭伝が魏志・魏略に先行する史料なんて話しは言った覚えがないが
後漢書がよった原史料の中にではなく、後漢書そのものにそう書かれているのだが
「桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立爲王」
いくらこっちが素人だからって、あんまりこちらの書き込みに「尾ひれ背びれにお年玉」付けて、話を大きくしたらあかんで…wwwwwwwww
714 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 09:30:01
九州に上陸して行程を考えた。イト国は前原市「平原遺跡」あたり。 次のナ国は福岡市早良区「野方遺跡」あたり。 次のフミ国は同市博多区「比恵遺跡」あたり。 そこから三笠川を水行して、次のトバ国は筑紫野市「塔原遺跡」あたり。 そこから宝満川を水行の後、陸を歩き次の邪馬台国は朝倉市「平塚川添遺跡」あたり。
716 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 10:02:02
>>714 戸数から考えて投馬国と邪馬台国は国邑ではない。
国邑の連合体だろう。
投馬国は朝鮮半島南岸、邪馬台国は九州北岸の国邑の連合体だろう。
718 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 10:18:14
>>717 航行日程でも大丈夫です。
投馬国と邪馬台国の説明文全体を行程文の補足説明と見れば
航行日程の出発点は郡治、終着点は女王国の中心地と考えられる。
いい加減謎解きパズルのような考え方から 脱却した方がいいですよ。 北部九州は女王国の可能性はあっても 邪馬台国では有り得ません。
>>718 朝鮮半島南岸の方が時間かかるのはダメでしょw
721 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 10:32:25
>>719 倭人伝はパズルではない。
投馬国と邪馬台国の説明文全体を行程文の補足説明と気付きさえすれば
なんでもない。
郡治から水行二十日で投馬国(狗邪韓国)、
投馬国(狗邪韓国)から水行十日、陸行一日で邪馬台国中心地(伊都国、奴国、不弥国)。
722 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 10:36:54
>714です。 「野方遺跡」の位置を早良区と書きましたが,西区の間違いです。 早良郡の早良平野ではありましたけど。 戸数や日程については,もともと三国志の数字は誇張が多いので, 大小系関係以外は,あまり考慮していません(証明にはならないが)。
>>721 中々良い着眼点だが投馬国がなぜ朝鮮半島南岸になるのかの理由は?
それに女王国は伊都、奴国より南でないと記述とは矛盾するよ。
>>721 >気付きさえすれば
それがパズルを解くヒントになるわけですね、分かりますw
725 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 11:30:19
>>723 >中々良い着眼点だが投馬国がなぜ朝鮮半島南岸になるのかの理由は?
「南至投馬國 水行二十日」が「到其北岸狗邪韓國 七千餘里」を補足説明したもの。
>それに女王国は伊都、奴国より南でないと記述とは矛盾するよ。
「自女王國以北 其戸數道里可得略載」とは
「自女王國(女王国の中心地)より以北はその戸数、道里は得て略載が可であるが」の意。
伊都国、奴国、不弥国は女王国の中心地であるから。
意訳すると「伊都国、奴国、不弥国より以北はその戸数、道里は得て略載が可であが」となる。
726 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 11:31:48
>>724 パズルなんて難しいものではない。
普通に読めはよい。
727 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 11:33:43
>>725 意訳すると「伊都国、奴国、不弥国より以北はその戸数、道里は得て略載が可であるが」となる。
「る」が落ちてた。
>>725 女王国の中心は都でしょ、つまりそれが邪馬台国です。
ずっと南でないと矛盾してますね。
>>725 投馬国とはどう読んで、朝鮮半島南部に存在するという
根拠を聞いてるのですが。
ただ倭人伝の記述に沿って投馬国をその場所に充てているのが
パズルそのものだと言ってるのですよw
730 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 11:56:42
投馬は丹波だと何度言えば・・・
投馬は丹波。トバ、タバだよね。
732 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 12:27:26
>>728 邪馬台国は「可七萬餘戸」です、
「女王之所都」を「邪馬台国は女王の都」だと訳すと
70000戸もの大都市が3世紀の日本に有ったことになります。
これは大変に可笑しいですね。
「南至投馬國・・・可七萬餘戸」を「從郡至倭」の行程文の補足説明と考えると
倭を代表する国の名が邪馬台国であり、これ以後に女王國と記された国の名が邪馬台国である
と読めます。
「女王之所都」は「邪馬台国は女王の都の在る国だ」だと訳すべきでしょう。
邪馬台国=女王国ですよ。
>>729 >ただ倭人伝の記述に沿って投馬国をその場所に充てているのが
パズルそのものだと言ってるのですよw
倭人伝の記述に沿ってその場所に充てているのがパズルですか?
自分の思う読み方と違うからパズルに思えるだけですよ。
>>732 女王は諸国によって共立されてます。
女王国は総称になります。
70000戸の大規模な国があっても別におかしくないですね。
それだけ広大とも解釈できます。
>倭人伝の記述に沿ってその場所に充てているのがパズルですか?
自分の思う読み方と違うからパズルに思えるだけですよ。
裏づけが無いと単なるパズルですよw
734 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 13:10:56
縄文人といっしょ
735 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 13:23:08
>>733 >女王は諸国によって共立されてます。
>女王国は総称になります。
>70000戸の大規模な国があっても別におかしくないですね。
>それだけ広大とも解釈できます。
女王国は国邑の連合体の総称で、邪馬台国が正式名称ですね。
>裏づけが無いと単なるパズルですよw
裏づけは倭人伝の内容を矛盾無く説明出切ることです。
736 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/29(火) 13:32:02
>>732 邪馬台国は「可七萬餘戸」です、
「女王之所都」を「邪馬台国は女王の都」だと訳すと
70000戸もの人口を抱えた領域国家の城郭が3世紀の日本に有ったことになります。
「南至投馬國・・・可七萬餘戸」を「從郡至倭」の行程文の補足説明と考えると
倭を代表する国の名が邪馬台国であり、これ以後に女王國と記された国の中に邪馬台国がある
と読めます。
「女王之所都」は「邪馬台国の城郭は女王の都の在る場所だ」だと訳すべきでしょう。
邪馬台国は女王国に含まれる国々の中の一ヶ国ですよ。
因みに女王國を構成する国々は、奴國・不彌國・投馬國・邪馬台国の4ヶ国です。
>>735 >女王国は国邑の連合体の総称で、邪馬台国が正式名称ですね。
何処にも記述がない推測です。
>裏づけは倭人伝の内容を矛盾無く説明出切ることです。
その説明が必要なだけですw
投馬という国は半島南部のどの辺りで
そう呼ばれる意味、由来があるのかという説明ですよ。
738 :
意味不明の文 :2009/12/29(火) 13:42:17
70000戸もの人口を抱えた領域国家の城郭が3世紀の日本に有ったことになります。 「女王之所都」は「邪馬台国の城郭は女王の都の在る場所だ」だと訳すべきでしょう。
739 :
意味不明の文 :2009/12/29(火) 13:52:01
>>737 >>女王国は国邑の連合体の総称で、邪馬台国が正式名称ですね。
>何処にも記述がない推測です。
韓伝から続けて読めば「可七萬餘戸」を国邑とは思われない。
3世紀の日本に70000戸もの大都市はない。
>>裏づけは倭人伝の内容を矛盾無く説明出切ることです。
>その説明が必要なだけですw
>投馬という国は半島南部のどの辺りで
>そう呼ばれる意味、由来があるのかという説明ですよ。
狗邪韓國を中心とした地域です。
倭人伝には意味、由来については書いてないよ
邪馬台国だって意味、由来は分からないじゃないか。
740 :
伊都国女王卑弥呼 :2009/12/29(火) 14:03:14
>>737 >>女王国は国邑の連合体の総称で、邪馬台国が正式名称ですね。
>何処にも記述がない推測です。
韓伝から続けて読めば「可七萬餘戸」を国邑とは思われない。
3世紀の日本に70000戸もの大都市はない。
>>裏づけは倭人伝の内容を矛盾無く説明出切ることです。
>その説明が必要なだけですw
>投馬という国は半島南部のどの辺りで
>そう呼ばれる意味、由来があるのかという説明ですよ。
狗邪韓國を中心とした地域です。
倭人伝には意味、由来については書いてないよ
邪馬台国だって意味、由来は分からないじゃないか
>邪馬台国だって意味、由来は分からないじゃないか。 隋書に邪馬台国は大和とかいてあるじゃないか。 投馬が半島南部というのはまさにパズルw
>韓伝から続けて読めば「可七萬餘戸」を国邑とは思われない。 3世紀の日本に70000戸もの大都市はない。 それじゃ北部九州にも存在出来ないだろw
>女王国は国邑の連合体の総称で、邪馬台国が正式名称ですね。 今の日本にたとえると、 女王国=倭国 邪馬台国=東京都 ってことですよね?
倭国=日本ですねw
百家為里、百戸為里 戸や家から人口を割り出してはいけません。
746 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/29(火) 15:47:06
>>738 女王居所城郭:『卑彌呼・・居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞』
女王之所都=女王居所城郭
邪馬台国は人口7万戸の領域国家。
弥生時代に人口7万戸(35万人)の都市国家は、都市機能設備面で成立が無理。
>>746 >邪馬台国は人口7万戸の領域国家。
弥生時代に人口7万戸(35万人)の都市国家は、都市機能設備面で成立が無理。
戸から人口は割り出せないし、戸と人口は関係ないから
748 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/29(火) 18:01:17
>>747 魏代の戸は人口も表す。
1戸の構成は幼を除く成人男女で約5人。
魏志東夷伝を全部読め。
戸数は国家規模を表す。
即ち戸数は人口と比例すると見做して良い。
749 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 18:22:52
>>743 >>744 倭人伝であって倭国伝ではない。
倭はまだ統一されておらず倭国は無い。
倭には邪馬台国の他にも狗奴国、倭種など多くの国があった。
女王国=邪馬台国=北部九州(福岡県、佐賀県+その他)
女王国=邪馬台国じゃないですよ。 傍国として説明されている国々が女王国です。 ヤマトがその都です。
751 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 18:48:00
>>750 アホか、傍国は「次有斯馬國・・・次有烏奴國」までの国邑。
女王国は邪馬台国で構成国は対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国+傍国。
これ全て北部九州の国々。
ヤマトなんて出てこないよ。
752 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/29(火) 18:52:44
女王国=邪馬台国+投馬國+不彌國+奴國=北部九州(筑紫平野)
753 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 19:01:35
>>704 > 質問の意味をイマイチ斟酌しかねるが・・・
やあ、確かにわかりにくい文かも知れない。申し訳ない。
>祖霊信仰の延長上に置かない
そうではありません。
祖霊信仰は、縦目仮面の言うとおり、現代の我々にも共通するものですが、
祖先の霊を「カミ」とするものとは違うと思うのです。同様に、
青銅祭器のマツリ段階、「カミ」は祖霊とは別の観念的存在だったと思います。
首長の権威増大により、首長の霊が「カミ」と見なされるようになった。
その段階が、首長霊信仰ではないでしょうか。
「カミ」の概念が変わったため、それまでの青銅の依り代は廃棄されました。
ふしぎ発見(だったかな)でやっていたアレです(視られたかどうか分かんないけど)。
>>751 アホはお前だ、邪馬台国が女王国の都
北部九州に間違っても邪馬台国はない。
女王国は瀬戸内海に面した本州、四国の国々だよ。
傍国がその構成国で、吉備や播磨に山城といった
国も、倭人伝の記述で確認できる。
756 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 19:15:44
>>755 >邪馬台国が女王国の都
そんな訳ない、7000戸の都なんか当時の日本には無い。
>北部九州に間違っても邪馬台国はない。
単なる思い込み。邪馬台国は北部九州以外にない。
>女王国は瀬戸内海に面した本州、四国の国々だよ。
単なる馬鹿じゃん。方角が全く違うよ。
>傍国がその構成国で、吉備や播磨に山城といった
国も、倭人伝の記述で確認できる。
ご冗談を。
>>748 >魏志東夷伝を全部読め。
読みましたが、戸と人口の関係なんて何処にも記載されていません。
何処に記載されているのでしょう? ぜひともその文面をコピペして下さい。
>戸数は国家規模を表す。
これは理解できます。
>即ち戸数は人口と比例すると見做して良い。
東夷伝に書いてあるわけじゃなくて、個人的な考えという事ですね?
>>756 >そんな訳ない、7000戸の都なんか当時の日本には無い。
じゃ、倭人伝が間違ってるのでしょうか?
>単なる思い込み。邪馬台国は北部九州以外にない。
単なる思い込みでしょう。
>単なる馬鹿じゃん。方角が全く違うよ。
古代中国で方位を間違えてる例は多いです。
正しいというなら、当時の正確な方位の地図を
探してください。
もう少しまともな反論ないのw
759 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 21:07:28
>>758 >>そんな訳ない、7000戸の都なんか当時の日本には無い。
>じゃ、倭人伝が間違ってるのでしょうか?
キミの頭が狂ってるの。
>>単なる思い込み。邪馬台国は北部九州以外にない。
>単なる思い込みでしょう。
はい、キミの思い込み。
>>単なる馬鹿じゃん。方角が全く違うよ。
>古代中国で方位を間違えてる例は多いです。
>正しいというなら、当時の正確な方位の地図を
>探してください
東を南には間違えんよ。間違ってる例のはやはりキミの頭。
>もう少しまともな反論ないのw
何でも間違いで済ませる馬鹿はキミ、
何の根拠も理論も無い、反論の必要もないな。
760 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 21:08:46
誤 東を南には間違えんよ。間違ってる例のはやはりキミの頭。 正 東を南には間違えんよ。間違ってるのはやはりキミの頭。
761 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 21:14:10
日本列島は南北に長いという認識があった。 南にいくということは、東にいくという意味。
762 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 21:32:54
東というのは、冬至の日に日が昇る方向。 つまり、緯度34度の地点では、南の34度の方向になる。 これですべての謎が解けた!
763 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 21:36:24
>>761 根拠のないご都合主義の主張だな。
こんな考え方では何時まで経っても謎は謎のままだな。
764 :
メ :2009/12/29(火) 22:08:33
【狗石智卑狗】 狗・・・ク、コウ 意味「子犬」 石・・・セキ、ジャク、シャク、コウ 意味「いし」 智・・・チ 意味「会得したり、あてたりできる」 卑・・・ヒ 意味「いやしい」 狗・・・ク、コウ 意味「子犬」 この人は、いったい何者なんでしょうね?!
>>760 慌てちゃだめだよw
倭人伝解釈も同じ事です。
>東を南には間違えんよ。間違ってるのはやはりキミの頭。
残念ながら間違ってる例はありますから。
知らないならあまりに勉強不足ですね‥
767 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 22:34:30
>>765 よく畿内説の人が示す怪しげな地図の事でしょうか
根拠とはならないと考えていますが
仮に例が有ったとしても、
倭人伝が方向を誤っている証拠にはなりませんよ。
>>767 >残念ながら間違ってる例はありますから。
知らないならあまりに勉強不足ですね‥
では、その間違っていると言われる例を、ハッタリでなければ提示してください。
>>767 その地図ではなく、九州よりも
測量が容易なはずの済州島の形を
間違ってるものもあるから。
だから正しいと主張するなら、少なくとも
朝鮮半島〜日本で、正しい地形認識でかかれた
書物也を、証拠として出せなきゃダメだろ。
770 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 22:57:37
>>768 混一疆理歴代国都之図のことだろう。
確か、元の時代に朝鮮で作られたもの。
これで、卑弥呼時代の魏の書物を説明しようとするほうが無理がある。
771 :
日本@名無史さん :2009/12/29(火) 23:03:46
>>769 済州島は間違い。日本の記述は正しい。
これでいいんじゃないかな。
一つ間違いを探してきて、それを根拠に、他のものも間違っていると主張する
のは、間違った方法。
>>770 違うよ、それが怪しいと言ってる奴。
>>771 年代的にも同じ頃だし、間違えるという可能性は証明できますよ。
あとは君がこの年代で正しい方位関係で記述された
この地方の地図を出せばいいだけです。
773 :
メ :2009/12/29(火) 23:30:24
774 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/29(火) 23:45:06
>>773 >宗像はもともとは「胸肩」と言われてたんじゃないの?
「胸形」とか「胸型」とか、後付もいいところで、たんなるマンガの一部では?
>「宗像はもともとは「胸肩」と言われてたんじゃないの?」
これはいただけないけど、
>「胸形」とか「胸型」とか、後付もいいところで、たんなるマンガの一部では?
これはまちがってないよ。
>>774 彼は以前独身だって言ってたよ
776 :
日本@名無史さん :2009/12/30(水) 00:02:31
>>772 倭人伝の記述は大体、方位的に正しいと思う。
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
これも間違っていない。
乘船南北市糴
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國
これも、四方位とすれば、一番妥当。
まあ、帯方郡から狗邪韓国、対馬を経て壱岐に至るまでは良いと思うが。
>>766 >実に面白い
テレビ観てますね。海峡横断に適した季節は夏ですから、
日の出が東、日の入りが西だと思っていれば・・・
>>777 >日の出が東、日の入りが西だと思っていれば・・・
曇っていたらどうするの?
779 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/30(水) 00:35:22
河童虫さん 暦の呼び名 甲=きのえ← キアエ 乙=きのと← キアト これらの「呼び」は何時からでしょうか? 私の主張、弥生時代。を 「不知正歳」で否定されるが、 漢字導入後の、呼び名 では「隔絶の感」がある。
>>779 >これらの「呼び」は何時からでしょうか?
いつの時代かは私にもわかりません。ただ、漢字に和語をあてたのはずっと後世のことでしょうが、和語自体はかなり古いものかと思います。
>不知正歳
つまりこれは、中国のように新たな年を迎えることをしないと言っているのです。
中国では、一年が過ぎれば次の年を二年として、そして次の年を三年と
年を改めながら時間が経過しますが、
日本では土地を耕し、秋に収穫する。そしてまた春に土地を耕し秋に収穫するという
循環的な(一年を繰り返す)暦だと言っているのです。
ようするに、日本には元年の次は二年、三年と
年を改める習慣はないという事です。
781 :
メ :2009/12/30(水) 01:22:18
782 :
メ :2009/12/30(水) 01:49:21
>>780 >>不知正歳
>つまりこれは、中国のように新たな年を迎えることをしないと言っているのです。
おお、河童さん〜詳しく知ってそうですね。
時間あるときでいいので「陽歴」と「陰歴」の違いでも語ってくれませんか。
783 :
メ :2009/12/30(水) 01:51:27
782訂正 「陽歴」と「陰歴」・・・× 「陽暦」と「陰暦」・・・○
784 :
メ :2009/12/30(水) 02:07:47
785 :
日本@名無史さん :2009/12/30(水) 02:38:22
786 :
日本@名無史さん :2009/12/30(水) 09:40:02
> 地中レーダー探査は平成17年、天理大学の考古学専攻の学生らが実施し、 言ってるの天理大だけじゃんwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
学生さんを苛めちゃですよ。
788 :
日本@名無史さん :2009/12/30(水) 12:52:01
箸墓も年代が先にあったような。 調査して出てきた土器で、また年代論争。
曹操の墓発見!に異論、慎重論が続出のようです。 異論が出るということは「檀君の墓」よりは健全なのかもしれません。
>>705 畿内説の人は「共立」を過剰に評価していませんか?
魏志高句麗伝では、不肖の長男でなく次男が後を継いだとき「共立」と記されています。
791 :
メ :2009/12/30(水) 13:35:37
>堂ノ後古墳 そんなマイナーな古墳知らなかったし、 今回の騒動で初めて知ったわww ホケノ山の年代が早くなったわけじゃないし、どうでもいいと思ってるww
訂正 「訂正前」 早くなったわけじゃないし 「訂正後」 遅くなったわけじゃないし
>>764 「狗石智卑狗」は太平御覧の魏志倭人伝ですね。
「狗古智卑狗」は間違いと判断しているのでしょうか?
795 :
日本@名無史さん :2009/12/30(水) 14:05:48
コナベ古墳も調査してるみたいだね。 元正天皇の古墳とは言われてたけどどうなんだろ。 近くのウワナベ古墳はまだ調査しないのかな?
796 :
メ :2009/12/30(水) 14:07:18
いえ、狗石智卑狗、または、拘右智卑狗からも考えてみよう ということです。
>>796 了解。
魏略の「拘右智卑狗」が「コウチヒコ」で「河内彦」だという人がいますが、どうでしょうね。
これは現代語の発想でしょう。
日本書紀では欽明天皇二年で百済本記の「加不至費直」を引用して「河内直」と記しています。
798 :
メ :2009/12/30(水) 14:24:24
>>795 おたく、マイナーな古墳が好きなようですねww
ホケノ山やら巻向矢塚こふんなどから土器や銅鏡(三角縁、画文帯)が出土してるでしょう。
ということは、いくら堂ノ後古墳というのが五世紀後半だろうと、ホケノ山なんかの古墳は
そうならない。
もしホケノ山も五世紀後半というならば、土器によって全国に広がる古墳も五世紀後半以降となるでしょうし、
あまり関係が無いんですよね。
堂ノ後古墳自体の問題と思います、しらんがww
799 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/30(水) 14:28:04
>首長の霊が「カミ」と見なされるようになった。 戦前までは、生きた神が存在した、それを現人神と崇めていた。 現人神の住まいを「宮」と表現し、死んだ神なら「社」に祀る。 何時の時代に混同されるように成ったか?
800 :
メ :2009/12/30(水) 14:31:31
>コナベ古墳 >ウワナベ古墳 愛知県民さん知ってます?w マキムク内の古墳の図みたいなの持ってるんですが、 載ってないんですけど・・・w ホケノ山のまわりに何点かあるようですが・・・
おまいら、役人の本質見誤ってるよ。 出張先を遠くにごまかして手当てを多くもらおうとしてるのが バレバレじゃん。 工程も里程も戸数も何倍かされてるんだよ。(多分5倍) 水行10日陸行1月は水行2日陸行6日くらいな。 あと投馬国は殺馬(サツマ=薩摩)の誤記な。
803 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/30(水) 14:40:03
三嶋大社 孝霊の富士登山から始まる。 ホ32100ミナミヂを ミヤコにかえり ムメミヤの ハフリホツミの ヲシウドに イヅアサマミコ ヤマヅミの ヨカミうつして ヤスガワラ 日本武尊の関東遠征よりかなり早い段階で、伊豆には入植している。 伊豆に皇統の神が多いのは、その為。
804 :
メ :2009/12/30(水) 14:46:31
>>797 >河内彦
狗古智卑狗の候補と言われている、武埴安彦がカワチの娘を娶ったとありますね。
まあ、もう少し調べてみないと分かりません。
>>801 私か愛知県民さんに聞いたのでは?と思い話を振りました。
>>800 改めドツボ
>マキムク内の古墳の図みたいなの持ってるんですが、
>載ってないんですけど・・・w
そりゃ奈良盆地北部の佐紀古墳群のものだからな
纏向の地図には載っていないだろうさwwww
もうここまで来るとわざとネタを提供するためにやっているんじゃないかと疑ってしまうわwwwwwwww
ちなみに佐紀古墳群の中にあってその二つはそんなにマイナーと言うものじゃないと思うぞw
(まあ観光スポットとしてのレベルなら分からんがw)
806 :
日本@名無史さん :2009/12/30(水) 15:04:48
時代もぜんぜん違うのにな。
自称スレ主のドツボがスレを盛り上げるために我が身を犠牲にしてわざとやってんだよ…多分w
808 :
日本@名無史さん :2009/12/30(水) 15:08:50
自虐ネタなどのような高度なことはできないだろ。
809 :
メ :2009/12/30(水) 15:08:56
>>805 アハハハ 突っ込まれたかw
それなら、探してもあるわけないじゃんw
コナベ、ウワナベ古墳って全長が200メートル以上。
こりゃ抑えとくべきだったねw
おれだって知らない事あるんだから、お前らが教えてくれたらいいじゃん〜
ただそれだけ。
こうして馬鹿にされながらもスレ運営を続けるのでありました。
811 :
メ :2009/12/30(水) 15:15:15
たぶん、あれだな コナベ、ウワナベ古墳って日本列島発掘2007か2006に載ってたやつじゃないかな。 2005〜2009年版、読んだりしてるけど古墳の名称まで全て覚えてないんだよw 考古バカ連中めw
いや、正直、考古学とか言う以前のレベルの問題w
813 :
日本@名無史さん :2009/12/30(水) 15:25:07
許してあげようよ、かわいそうな人なんだから。
景行天皇が出会ったという南の歴木(クヌギ)と北の八女津媛(ヤメツヒメ) 八女津媛の存在を告げた水沼県主=水沼別=彌馬獲支 阿蘇山まで伸びる歴木の影と、阿蘇山麓の菊池彦=狗古智卑狗 ここまで偶然で合うものかな? 後漢書の拘奴国は「熊野」でしょう。出雲か紀伊か、どちらも有り得る。
>>811 今は三重県在住なんだろう。
だったら、駅で近鉄特急のパンフとかを見てごらん。
佐紀盾列も奈良の観光スポットとして紹介されてると思うよ。
狗奴國=熊襲ではないと思う。 熊襲は熊の国(球磨)と襲の国(曽於)を合わせた名というのも疑問がある。 「熊襲」は襲の国のことで、「熊」は形容詞か接頭語でしょう。 景行天皇は熊襲討伐の前に「朕聞之。襲國有厚鹿文。迮鹿文者。是兩人熊襲之渠帥者也。」と言っている。 翌年「悉平襲國」球磨については、京への帰り道で「熊県」の弟熊を討ったと簡単に触れるだけ。 日本武尊の熊襲討伐も、賊の名前から見て景行天皇と同じ襲の国と思われる。 仲哀・神功紀でも熊襲が出てくるが、具体的な記事が無い。
817 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/30(水) 15:59:06
卑弥呼は、瓜生島付近に葬られたが、その後の地震で水没した。 ホ31217 ナヲリカミ ウサにイトウの ミメカミや ホ38170 かれスミヨロシ ナヲリカミ モロハノヤシロ さらにたて これまつらしむ カエもふで 祭主は、住吉治神で在ったが、書紀編纂時その確認が出来ない。 直入県や禰宜野を作りその地名として書き込んだ。 住吉神も確認出来ないので 物部中臣神とする。 禰宜野とは、治神の彊場を指す言葉である。 今の禰宜野では彊場として失格である。 約400年前の瓜生島水没は、確認出来るがそこからさらに千年前の出来事を確認出来るか? ここで止まってます。
818 :
メ :2009/12/30(水) 16:29:37
>>817 『豊陽古事談』附載図と幸松家所蔵図にはそれらしきものは載ってない。
住吉社とか海門禅寺や、その他の寺に伝わる
『瓜生島』『海門禅寺由来記』『豊陽古事談』にもそれらしきことは載っていませんが
これについてはどのように考えてるのでしょうか?
>>666 球の体積や表面積が日本書紀の編年と関係するとは、荒唐無稽のようにも思われるが、
いつかNHKで、数学上の未解決問題「リーマン予想」とやらに関して
素数の分布を表す数式が原子核のエネルギー間隔を表す数式に一致すると言っていた。
宇宙にはどんな神秘が隠されているかもしれないということかw
820 :
メ :2009/12/30(水) 16:32:29
821 :
日本@名無史さん :2009/12/30(水) 16:44:09
方角論争はいい加減にしろよな。 畿内説の御都合主義にはうんざり、辟易。 都合のいいとこだけを倭人伝の間違いに決め付け、曲解甚だしく、バカバカしい。 仮にも、大学で教授を名乗っている奴が、「南は東の間違い」だとか、 クソみたいな主張するな。
822 :
添削 :2009/12/30(水) 17:26:54
>>821 > 方角論争はいい加減にしろよな。
> ×畿内(正:九州)説の御都合主義にはうんざり、辟易。
> 都合の×いい(正:悪い)とこだけを倭人伝の間違いに決め付け、曲解甚だしく、バカバカしい。
> 仮にも、大学で教授を名乗っている奴が、×「南は東の間違い」(正:万二千余里は郡からの総距離)だとか、
> クソみたいな主張するな。
メ はクソ。
824 :
日本@名無史さん :2009/12/30(水) 17:35:15
鼻クソよりはましかな。
>>816 狗奴国は簡単に言うと先住民族の事です。
葛、国栖、土蜘蛛や熊襲も細かいルーツは兎も角基本的に同じでしょう。
敗走してる状態なので、倭人伝に記述に混乱があるだけです。
倭国大乱は瀬戸内から紀伊半島を巡る戦いで、西の倭国連合が
東に勢力を拡大して、大和で卑弥呼が即位した状態が
倭人伝の記述時の状態です。
これが東征として記録された状態です。
>>791 筑波山だね。毎日目の前にそびえていますよ
>近くの桜川はイサ川、イザ川ともいわれ
地元に人は誰も言わないけど
「つくばねの 峯よりおつる 男女川
こひそつもりて ふちとなりける」
この男女川は、神社側の表筑波、真壁側の裏筑波の両側に存在し、両川ともに桜川へと続いています。筑波山への観光客は、TXの開業によって徐々に回復傾向にあり、往年の活気とまでは行きませんが、取り戻しつつあります。
神社境内の階段下では、時折「ガマの油売り」が生で拝見でき、訪れる観光客の目を楽しませています。
>>790 >魏志高句麗伝では、不肖の長男でなく次男が後を継いだとき「共立」と記されています。
王位継承は、「共立」か「禅譲」(世襲も含む)しかありませんので
長子相続が慣習の地域では、次男の相続は「共立」という形になるのではないでしょうか?
>>825 >狗奴国は簡単に言うと先住民族の事です。
>葛、国栖、土蜘蛛や熊襲も細かいルーツは兎も角基本的に同じでしょう。
狗奴国は男王・卑彌弓呼の下に纏まった国ですので、その解釈は無理なのでは?
>>827 >王位継承は、「共立」か「禅譲」(世襲も含む)しかありませんので
卑彌呼死後の男王即位は、本来の姿に戻ったという意味で「禅譲」であり、
壹與の即位は卑彌呼宗女という意味で「禅譲」なので、どちらも「共立」ではない、
と解釈していますが?
830 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/30(水) 18:36:17
瓜生島は約400年前の水没時は半島であったらしい、地図は島で在る事を表示してはいるが、 島では、港としての繁栄が説明出来ない、 卑弥呼の頃は、平野でありその後の地震で島として残る、その後土砂の堆積で半島となるが その名は瓜生島のまま、繁栄を迎えるが、400年前の地震により瓜生島水没。 古墳時代の地震後 住吉は、筑紫や河内に避難した。 それでも住吉は現地に残り、瓜生島水没後、大分に移る。
日本書紀卷第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇 廿一年春三月。天皇聞百濟爲高麗所破。以久麻那利賜[シ文]洲王。 「久麻那利」はコムナリと読み、熊川(錦江)、又はその畔の都市・熊津を指すという。 「コム」は韓国語で熊の意、「ナリ」は川または港の意という。 投馬国の副官「彌彌那利」は美々津、耳川であろうか。
>>829 >壹與の即位は卑彌呼宗女という意味で「禅譲」なので、どちらも「共立」ではない、
「宗女」と書かれているので「禅譲」ではありません。
>>832 >「宗女」と書かれているので「禅譲」ではありません。
「宗女」という語句の中に国人が共に・・・の意味が入っているということですかね。
選出された、みたいな。
「宗女」の意味については違う解釈もあるようですが。
>>828 >狗奴国は男王・卑彌弓呼の下に纏まった国ですので、その解釈は無理なのでは?
その時点での王という事では?
クド国なら紀伊半島の解釈は出来るでしょう。
>>833 >「宗女」という語句の中に国人が共に・・・の意味が入っているということですかね。
選出された、みたいな。
「宗女」の意味については違う解釈もあるようですが。
「宗女」=選ばれし女 「宗家」と同じ意味解釈です。
よく「宗家」と「本家」を同じものとして扱っている人を時折見かけますが
全く違うものです。
「本家」は「分家」が出来れば自動的に「本家」が誕生しますし、「分家」がなければ「本家」という語句も存在しません。
宗家は、宗家を取り巻く関係者によって支えられるものです。
宗家に生まれれば必ず宗家を相続するという性質のものではありません。宗家を継ぐのは
宗家を支える者の意向協力によってです。
>>834 く、クド国って。
「奴」を「ド」と読むのは、もっと後世。
837 :
日本@名無史さん :2009/12/30(水) 19:35:37
838 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/30(水) 20:09:05
宗女は壹與だけでないな。 7世紀末の薩末比売も宗女だな。
>>836 倭人伝の記述はクナでいいんだよ。
後世の九度山の地名が、狗奴からの由来の名前かも?
という事ですよ。
空海にちなんだとされてるけど、実ははっきりしてないし。
もし、金印が志賀島ではなく、本宮の筥崎宮で発見されていたなら・・・残念でなりません。
www(ジョーカー)と愛知県民さん、九州王朝大好きさんはどこへ?
>>841 いますよ。
投馬国は西都市〜日向市かと考えていたところです。
843 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/30(水) 21:29:43
投馬国は戸畑でしょう
>>843 >投馬国は戸畑でしょう
ええ? 邪馬臺國は「ヤバト」ですか?
845 :
日本@名無史さん :2009/12/30(水) 21:51:53
邪馬台国は山田国。 全国200万人の山田さんの支持を受けているのだから間違いありません。 何度言ったらわかるんでしょう?
846 :
日本@名無史さん :2009/12/30(水) 22:09:44
>>845 日本国民1億1600万人は山田説に否定的。
847 :
日本@名無史さん :2009/12/30(水) 22:16:35
>>846 山田さんだけではなく、山本さんや山中さん山口さん、山内さんにも協力を求めれば、
国民の過半数を制することも可能です。
山田国(邪馬台国)の力を見くびってもらっちゃ困りますね。
通称「山ちゃん」連合。
>>847 3世紀に7000戸もあった邪馬台国の住民が絶滅してしまったとは考えられません。
その当時の日本の全人口が100万人だとすれば、そのうち5万人、5%が邪馬台国に住んでいたことになる。
現在もその比率を維持しているとすれば、1億2千万人の5%600万人が邪馬台国の住人の子孫だということになる。
たぶん、そのあと、全国に広がって性も変わったと思うけれど、山田氏の過去を調べれば、邪馬台国との関係がはっきりするはずです。
しまった、「性」が変わったではなく「姓」が変わったでした。 山田さんはオカマではありませんので念のため。
851 :
日本@名無史さん :2009/12/30(水) 23:20:59
山田姓が多いのは近畿ですよ。(電話帳調べ)
852 :
日本@名無史さん :2009/12/30(水) 23:22:20
>>849 <3世紀に7000戸もあった邪馬台国の住民
一桁少なくしているのはなぜかね。
853 :
日本@名無史さん :2009/12/31(木) 01:17:45
>>827 先王が決めたのではなく、家臣を含めた満場一致で決まったというのが「共立」でしょう。
「共立」という言葉から、対立勢力との連合なんていう突飛な妄想をする人もいるみたいですが。
協力する第三者が立てるから「共立」です。 つまり、他力本願。
855 :
日本@名無史さん :2009/12/31(木) 01:56:14
>>852 えーっ?7000戸でも多いと思っていたのに70,000戸なの?
だとしたら、当時の日本の半分が邪馬台国の住民ではないか。
ということは、邪馬台国の住民の血を引いていない人は、
明治以降の渡来人くらいということになってしまう。
日本人はすべて邪馬台国の赤子、みな兄弟です。
山田さんも鈴木さんも佐藤さんも渡辺さんも邪馬台国の生き残りに違いない。
結局、邪馬台国は人口が増えすぎて、ちょっとした干ばつで食うに困るようになった。 それで東へ東へと領土を拡大していったのだろうと思います。
倭人伝記述時点でのヤマタイ国は 河内南部、奈良盆地、徳島の範囲ですよ。
859 :
日本@名無史さん :2009/12/31(木) 13:13:21
>>858 葛城の領土ですね
すなわち葛木日女命=モモソ=卑弥呼ってことでFA
>>855 >それは「連立」じゃないの?
連立とは違うだろう。
861 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/31(木) 14:52:16
>球の体積や表面積が日本書紀の編年と関係するとは、荒唐無稽のようにも思われるが、 これは、『神の声』ですよ。 神の手と同様の品物。 信じるのは各自の勝手ですが…
>>861 >神の手と同様の品物。
「ゴッドハンド(神の手)」旧石器捏造事件もありました。
初心者スレで崇神紀の「畿内」という表現について書きましたが 崇神紀にはもう一つ気になる言葉「印綬」があります。 四道将軍に「印綬」を授けたとあるが、書紀の「印綬」はここと魏志の引用だけで、 景行天皇は日本武尊に「斧鉞」を授け、繼體天皇も物部麁鹿火に「斧鉞」を授け、 天武天皇も羽田公矢國に「斧鉞」を授けている。 これらが何を意味するか、崇神紀の突出ぶりは・・・
864 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/31(木) 16:41:43
承和十年(八四三)正月辛丑《十二》にも「印綬」があります。 考えるに 「印綬」は複数名、「斧鉞」は単独、ですかね。 解らん。
>>864 >承和十年(八四三)正月辛丑《十二》にも「印綬」があります。
続日本後紀ですね。
日本三代実録でも天安二年(八五八)十一月十一日戊辰に「乞收將軍之印綬」
崇神から六百年?も後ですが・・・
866 :
縦目仮面 :2009/12/31(木) 17:07:08
>>865 現存する最古の印は5〜6世紀頃のものではなかったですかね。普及するのは奈良時代です。崇神帝の倭製
の「印綬」ですか。後代の脚色としても、なぜそこだけその語を用いたのか・・・面白い着眼点ですね。
>>866 >現存する最古の印は5〜6世紀頃のものではなかったですかね。
『漢委奴国王』の金印は中国製なので除いて倭製で、ということですか?
詳細ご存知でしたら教えていただけないでしょうか。
868 :
縦目仮面 :2009/12/31(木) 17:41:02
869 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/31(木) 17:48:24
>>868 ありがとうございます。
書紀が正しければ崇神天皇が最初ですが、果たして?
親魏倭王の金印か、難升米たちの銀印は何処かで見つかるだろうか。
>>869 唐松山さん、細かい話ですが、百済本記と百済本紀は違います。
「百済本記」は、「百済記」、「百済新撰」と共に百済三書と呼ばれ、日本書紀に引用されている現存しない歴史書です。
百済本紀は新羅本紀、高句麗本紀と共に現存する「三国史記」の本紀であり、「三国史記」は本紀28巻、年表3巻、
雑志9巻、列伝10巻、計50巻です。
卑弥呼(モモソ媛命)の時代くらい前では 倭国の政治体制は 祭祀王と世俗王の二元体制が敷かれていた。 そして、形式的に身分が高いのは、祭祀王>世俗王であり、 中国の歴史書では、祭祀王のほうを倭王だと解釈していた。 しかし、後に、一人の人物が、祭祀王と世俗王の両方を兼ねるようになった。 その最初が、卑弥呼(モモソ媛命)の死後に イニエ命(崇神天皇)によって始まった。 だからこそ、日本書紀では、崇神天皇を、 神武天皇に次ぐもう一人の初代天皇と認定した。
a
てすと
ありゃ?
876 :
日本@名無史さん :2010/01/01(金) 00:46:19
>>872 それだとトヨの存在が説明つかん
あ、あけましておめでとうございます
877 :
日本@名無史さん :2010/01/01(金) 01:00:10
トヨ=トヨスキイリヒメまでは体制がわかれてたんだろ。 祭祀王が消滅したのは応神以後ではないか。
878 :
日本@名無史さん :2010/01/01(金) 01:15:22
卑弥呼が死んで男王が立った。しかし、国中不服。争いが起こり、千人あまりを 殺した。台与が王になると国中ついに定まる。 となっているなあ。
>>878 それを時事に合わせると
倭国大乱=タケハニヤスの反乱=卑弥弓呼
再び倭国乱れる=11代垂仁天皇時代のサホヒメ・サホヒコの反乱
トヨはその後だから、伊勢神宮建立のヤマトヒメか神功皇后ですね。
880 :
日本@名無史さん :2010/01/01(金) 08:28:28
881 :
日本@名無史さん :2010/01/01(金) 08:36:02
あけおめ 結局、去年は終止符が打てなかった。 今年こそ、邪馬台国卑弥呼の石碑を見つけて 終止符を打つぞ!
882 :
日本@名無史さん :2010/01/01(金) 12:15:49
>>879 確かに
>神功皇后
とその周辺は名前に「トヨ」がつくからね。
883 :
日本@名無史さん :2010/01/01(金) 13:06:11
>>872 >一人の人物が、祭祀王と世俗王の両方を兼ねるようになった。
世俗王が邪馬台国から倭国全体の君主になっていくのに連れ
祭祀王が斎宮になっていったのでは?
豊葦原中津国とは奈良盆地のことだった。
あけましておめでとうございます。 景行天皇の皇子・国乳別皇子は書紀によると「水沼(みぬま)別」の祖とされているが、 先代旧事本紀では国乳別命は「伊與宇和別」の祖とされる。 伊予国宇和郡には「三間(みま)郷」「御馬(みま)山」がある。 伊與に筑紫の水沼別(=弥馬獲支?)の同族がいたとすると、 卑彌呼宗女・壹與の存在も理解できそうである。
886 :
卑弥呼&壹與 :2010/01/01(金) 18:13:16
祭祀王と世俗王 そんな王はいません。居たのはボスとその参謀です。祭祀を取り仕切ったのはボスですが、祭祀王という ものはありません。
景行紀の「九百七十丈」の歴木について。 「三国遺事」で新羅の脱解王は身長九尺七寸と伝えられているが、ちょうど千倍に当たる。 関係は不明。 古事記では、反正天皇の身長が九尺二寸半と伝えている。
>>887 あまり意味ないんじゃないか。
脱解王の多婆奴国は丹波だろうし。
それに記述を信用するなら多婆奴国は女王国は別。
889 :
日本@名無史さん :2010/01/01(金) 18:35:31
多婆奴は玉名(たまな)、丹波(たんば)とは読めない。
890 :
日本@名無史さん :2010/01/01(金) 18:42:02
>>886 おいデブ国まだやってんのか(笑)
また横綱がどうとか言い出すのかよ(笑)
>>889 玉名なんて無理だろw
仮にそうだとしたら、その地方が
女王国ではないという事になるけどな。
脱解王の故郷は三国史記では多婆那国、三国遺事では龍城国。
彌馬升と彌馬獲支
これは、それぞれ「水沼主(みぬまぬし)」と「水沼別(みぬまわけ)」と解釈すべきだろう。
今まで彌馬升は「水沼背」だと書いてきたが、彌馬升が先に書かれていること、
>>885 の先代旧事本紀の記事からも、筑紫の水沼にいたのは彌馬升と考えたい。
水沼の分家は伊予だけでなく各地にあったらしく、物部氏や宗像の神とも関連する。
奴佳[革是]はあるいは「(む)なかた」かもしれない。
>>892 宮津に竜宮伝承もあるしな。他でもない新羅国で王になった
者がいるという伝承まであるのでやはり丹波だろう。
クレオパトラに関する資料がほとんど残っていないのはクレオパトラの宮殿が海の底に沈んだためだったとか。 邪馬台国も与那国島付近にあったとするのがロマンがあって良い。
後漢書倭伝 會稽海外有東[魚是]人分爲二十餘國 [魚是]は鯰(ナマズ)の意。「鯰」は国字で、中国では一般に「鮎(日本ではアユ)」がナマズを意味し、アユは「年魚」 私も谷川健一氏の本を読むまで知らなかった。 肥後国誌、上益城郡嘉島町 往古阿蘇大神数鹿流を蹴破りて、阿蘇湖を乾かし給う時、 湖主の大鯰流れ出て比所に止る。故に地名を鯰と称す。 この他にも、熊本県にはナマズの伝説が数多くあるという。 隋書倭国伝にも阿蘇山が登場するが、やはり東[魚是]人は肥後の国々だろうか。
897 :
日本@名無史さん :2010/01/02(土) 15:07:16
898 :
日本@名無史さん :2010/01/02(土) 15:11:30
熊本市にも鯰の地名が在りますね。
899 :
日本@名無史さん :2010/01/02(土) 15:27:58
上益城郡嘉島町鯰だった。熊本市の隣だ。
>>897 >本の名前をおしえてくださいますか?
続・日本の地名―動物地名をたずねて―
岩波新書(新赤版)559
901 :
日本@名無史さん :2010/01/02(土) 21:33:14
今、ビートたけしの番組で 卑弥呼やってます。 畿内説よりの番組のようです
九州説はもう2chネタでしかないんだよ。
903 :
日本@名無史さん :2010/01/02(土) 23:28:21
天武天皇がアマテラスを祭ったという話をするなら、 卑弥呼とアマテラスをだぶらせるのは余計だろ。 視聴率取るには、卑弥呼=アマテラス=日食ネタは外せないのかなあ。 俺は、まったく関係ないと思うのだが。
ビートたけしの番組でやってたに熊野いこう
>>903 >視聴率取るには、卑弥呼=アマテラス=日食ネタは外せない
俗受けしやすい考えではあると思いますね。
手塚治虫が「火の鳥・黎明編」で思い切り使っていた。
フィクションとして読めば、よく出来た作品ではあったが・・・
火の鳥は騎馬民族征服説に拠ってる時点で現在的ではない。 しかし手塚の名前で未だに信じてる人が多いのも困ったもんだ。
907 :
日本@名無史さん :2010/01/03(日) 05:45:30
手塚は戦争で酷い目にあったから天皇が嫌いなんだよ。
>>906 >しかし手塚の名前で未だに信じてる人が多いのも困ったもんだ。
報道によると、今の大物政治家も信じておられると聞くが・・・
909 :
日本@名無史さん :2010/01/03(日) 07:27:45
小沢か(笑)
>>909 今の財務大臣も「卑弥呼は天照大神」と。
というか、百何人の議員はみんな信じているのでしょうか?
911 :
日本@名無史さん :2010/01/03(日) 10:20:17
>視聴率取るには、卑弥呼=アマテラス=日食ネタは外せないのかなあ。 俺は、まったく関係ないと思うのだが。 安本のおっさん得意顔で出てたね。
まあ事実かどうかはともかく、「日の巫女」説を 唱えると、そこへ行き着くのはある程度仕方ない事でしょう。
913 :
日本@名無史さん :2010/01/03(日) 12:59:25
卑弥呼=アマテラス=日食ネタは、昨年来の甘木ショック・金印騒動からの流れである。 安本教授が、行き過ぎた報道にて国民を欺き続けた畿内説巻向緒派に、 自発的敗北宣言を促している、との事。 巻向緒派はなす術がなく、この申し入れに抗し切れない様相。 「金印が甘木で発見された以上、仕方のない事、何もいうべき事はない」 各報道機関の質疑インタビューへの回答も終始歯切れが悪い。 東大考古学研究機構の見解によれば、事実上の畿内説敗北宣言も間近の見通し。 甘木ショック以降、古代史学会再編の動きがより活発になって来ている。 これを期に日本の古代史は新しく蘇る。 (東福岡新報)
914 :
日本@名無史さん :2010/01/03(日) 14:05:49
金印が甘木で発見された以上って、ガセネタですか?
>>914 当然ガセネタ。
本当なら邪馬台国論争も終わっているでしょう。
エープリルフールでもないのに、誰が何の目的で?
916 :
日本@名無史さん :2010/01/03(日) 14:37:38
遊んでるだけだろう。 でも楽しそう。
で、みんなは邪馬台国はどこにあったと思ってるの? 九州説はもう駄目??
ダメ
理由は??
920 :
日本@名無史さん :2010/01/03(日) 15:41:13
安本教授も、今後は韮澤みたいな立ち位置になっていくんだろうな。 超常現象スペシャルみたいに、 畿内説VS九州説バトルすればいいのに。 そうすれば・・・結果は・・・
>>919 明らかに物的証拠不足
九州説はここをクリアしない限り、妄想の域でしかない
邪馬台国が、当時の日本で最大の国だったなんて 根拠はないでしょ? 小国だった可能性もあるし。
卑弥呼が朝鮮半島や大陸の情報に通じていたのは、帯方郡が魏の手に落ちて すぐに使者を出したことからも明らか。 しかも、帯方郡までは特に障害になるものもなく行き来している。 九州が紀元前から大陸と交流があり、前漢鏡なども出ていることを考えると、 こういう行動を取れるのは、やはり大陸に精通していた九州の勢力だろう。 近畿地方などは、早い時期の大陸との交流がほとんど見られないのだから。
924 :
日本@名無史さん :2010/01/03(日) 16:44:15
>小国だった可能性もあるし。 ない。 邪馬台国7万戸だ。 8世紀で10万戸だ。 >根拠はないでしょ? 隋書。 魏志でいう所の邪馬台国が後の大和政権だと記されている。 遣使と年代が中国史書で一致。 それでも九州説を主張するならば、文献無視で行くしかなくなる。
925 :
日本@名無史さん :2010/01/03(日) 16:52:07
最強九州説 魏志倭人伝も隋書もいいかげんである。 径100余歩(当時の魏・晋尺基準で145m余)という表現も大げさな表現でいいかげんである。 魏志倭人伝の記述は信用できない。 畿内説の根拠とされる墓の記述は判断材料にはならない。なぜなら、文献が信用できないからである。 よって、中国が敢えて北部九州勢力と交易していた可能性を否定できない。 畿内説・九州説五分五分である。
926 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/03(日) 17:14:31
>径100余歩(当時の魏・晋尺基準で145m余)という表現も大げさな表現でいいかげんである。 まったくその通り 男王時代に千人からの殺し合いがあるんだからそんな墓なぞ造っていられない。
927 :
日本@名無史さん :2010/01/03(日) 17:33:04
九州説論者が心の寄り所の 魏志倭人伝を否定するとはな(笑)
九州説が倭人伝否定とはねw 時代は変わったもんだ。 というよりどう考えてももう終わったんだよ。
929 :
日本@名無史さん :2010/01/03(日) 18:07:40
邪馬台国は、これは、完全に九州なんですよ! 3世紀の奈良は湖で人が住める状態じゃなかったんですから! で、卑弥呼はアマテラスだってことは神話学で明らかにされてるわけでね、 アマテラスが住んでた高天原が、九州の甘木なんです。 その甘木から、高千穂を通って日向に行ったニニギという人がいましてね、その子孫が神武なんです。 卑弥呼が死んだ後に、神武が東征して、奈良を開拓したってわけですよ。 日本書紀という文献にはっきり書いてあるわけですから。これは本当の出来事を書き記したものなんですね。 しかもですね、甘木と奈良の地名を見てください。同じ地名がそっくり移植されてるわけですよ。 これが、邪馬台国東遷のあった何よりの証拠なんです。 畿内説を唱える学者の言うことなんで、全部デタラメなんですよ。 巨大な陰謀がそこにあるんです。これには、宮内庁が絡んでるって確かなルートからの証拠もあるんで、今度お見せしますよ。
>>929 陰謀で古墳は出来ませんよw
言語学に続く新たな学問ですか?『神話学』
931 :
日本@名無史さん :2010/01/03(日) 18:22:58
>九州説論者が心の寄り所の 魏志倭人伝を否定するとはな(笑) ははは、倭人伝に拘る巷の九州論者が馬鹿揃いなのよ。 今の畿内説と対決するにはこれしかないんだよ。 魏志倭人伝はいいかげんである。
>>930 神話学というものは存在はしますが、
日本の神話学といわれると??ですね。
あれはローマやギリシアの神話の学問ですから
神話だと高天原は葛城で何の問題もない。 それに大和の地名は九州の物と類似してる なんて説がまかり通るなら、出雲こそ 旧大和そのものという説もOKだよな。 ヤマタノオロチなんてどうみても畿内の話だし。
934 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/03(日) 20:28:14
>3世紀の奈良は湖で人が住める状態じゃなかったんですから! 唐古、鍵や3世紀の古墳は、可なりの土地で人が住めることを物語っている。 >ヤマタノオロチなんてどうみても畿内の話だし。 ヤマタノオロチ登場で神話の世界に突入。 同じ話でもホツマは人間の世界。
935 :
日本@名無史さん :2010/01/03(日) 21:33:36
>九州説が倭人伝否定とはねw 時代は変わったもんだ。 というよりどう考えてももう終わったんだよ。 つーか、最近の畿内説は魏志倭人伝に忠実に頑なに南に進もうとするようですよ。 開き直りで、海に落ちようが怖いものなし。つーか海に落ちたがっている。
936 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/03(日) 21:50:59
>つーか海に落ちたがっている。 仕方ないんだよ 奴国あたりから船で移動しないとたどり着けないんだから。
畿内説の方が倭人伝の解釈に添うんだよ。 方角以外はね。
出雲国譲りとは 近畿にあった葛木高天王朝が、出雲王朝から禅譲をうけて 倭国全体の王になった事件。 その時の、葛木高天王朝の王が、火明命。 ニニギ命(神武天皇の曽祖父)の兄(弟という説もある)とされている人物。 火明命は、通称を、天照国照日子とも言われた。 これは、天津と国津の両方の支配者という意味。 つまり、出雲国譲りをうけて、はじめて、この世のすべてを束ねた支配者という意味。 出雲国譲りの後、ニニギ命が、高天原(葛木の高天の原)から 九州の高千穂に派遣される。(天孫降臨) つまり、皇室が長年、隠したかったことは、ここにある。
三輪としては葛城王の存在は 極力 消したいだろうからね
941 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 11:37:36
>>937 陸行1月もちょっと説明に困るな・・・。 あ、それから倭地温暖、東渡海千里、周旋五千余里も・・・。
942 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 11:41:58
>>925 は本当に九州説か? 今の畿内説の論法そのままじゃないか。
普通、全く休みもせずに一ヶ月なんてあり得ない。 至る所に寄って飲めや歌えの宴会をしながら進んでたんだろ。 九州に上陸してから急に日数で数えるようになったのはその為だろう。
>>924 その表記をそのまま信じる事はできないと言ってるのは
畿内説の方じゃなかった?
945 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 12:01:46
>>924 >魏志でいう所の邪馬台国が後の大和政権だと記されている。
よほど頭が悪いな。そんなことは一言も書いてないだろ。
隋使が訪ねた先が魏志倭人伝にいう邪馬台国と同じだと書いてあるだけだよ。
946 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 12:29:14
九州から陸行1月なら関東に着いちゃうし 更に水行10日もあるから東北までいけるな。
947 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 12:30:21
マクモニーグルの透視による邪馬台国調査のDVDがアマゾンで売っている。誰か買って内容教えて!
>>946 それ、招待されたり休憩もせず、毎日毎日歩き続けた場合でしょ。
常識的に考えて、格上の国から使者が来てるのに、そんなこと
あるわけない。
949 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 13:08:38
946は魏の使者を飛脚か何かとまちがえてるんだよ。
950 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 13:11:19
>>921 物的証拠は九州の方がありそうだな。畿内の物は邪馬台国に結びつかないもの
ばかりだ。
仄々とした幼稚園生の会話が続いているようだなwwwwwwwww 飲めや歌えの宴会道中って、こいつら倭人伝を東海道中膝栗毛と勘違いしている。
>>941 >陸行1月もちょっと説明に困るな・・・
丹波経由の日本海ルートでOK。
> あ、それから倭地温暖、東渡海千里、周旋五千余里も・・・
伝聞説だと気候は倭国の説明だから全く問題なし。
東渡海は静岡以東。周旋五千余里は九州説でも
狗奴韓国をどう判断するかという問題があるよ。
>>950 当時の九州では丹「水銀朱」の採掘跡がない。
徳島と紀伊半島が産地で、これは支配者階級の古墳石室に
撒かれていた水銀朱の産地分析とも一致している。
九州説では「その山に丹あり」という文と矛盾するからね。
954 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 15:13:18
>>952 丹波経由の日本海ルートなんて言い出すところがむちゃくちゃな話しだ。
畿内へ行くのにそんなルート使うはずはない。
伝聞説? それも苦し紛れだな。
渡海千里は東と書いてあるぞ。南とあるのを東北と読み替える以上、東は
北西ぐらいを考えないとつじつまが合わんだろ。
南は信じない、東は信じる? 場当たりきわまりない話だ。
狗奴韓国って何だ。倭人伝を読み直せ。基本的知識がなっとらんね。
955 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 15:17:47
>>953 採掘跡が見つからない? 誰もそんなもの探さないだけだ。
九州に紀伊半島、四国に続く鉱脈があることを知らんな。朱はあるんだよ。
>>954 たかが幼稚園生の会話に、そうムキになることはないだろうwwwwwww
日本海ルートの妥当性はともかく、当時の 情勢では日本海側がまさに表日本だったわけで。
958 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 15:45:58
幼稚園並みの頭だって自覚しているんなら結構なんだが・・・・。
>丹波経由の日本海ルートなんて言い出すところがむちゃくちゃな話しだ。 畿内へ行くのにそんなルート使うはずはない。 釣りか?20年前ならともかく、 今時そんな事唱えるなんて奴いないぞw
>>955 鉱脈があっても採掘跡がなけりゃ意味ないしな。
平原の水銀朱は中国産らしいぞw
962 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 16:08:45
>>959 最近は畿内説の馬鹿さ加減にあきれて言わなくなったのかもな。
963 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 16:57:09
>>960 平原の水銀朱だけとりあげたって意味ないんだよ。九州各地の水銀朱を調べてみな。
それに、採掘跡なんぞは、時代とともにどんどん埋もれていく。跡がなければなんて
言ってるようじゃおつむの程度が知れるな。
964 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 16:58:19
>>961 人にばかり頼らず、自分で調べてみな。少しは利口になるだろう。
>>963 何故意味無いのかわからんけど。
一応有力な候補地ではなかった?
>九州各地の水銀朱を調べてみな。
当然調べてますw
でも採掘跡なんてのは確認出来てないから。
あって表面に露出してる程度のもんだよ。
>それに、採掘跡なんぞは、時代とともにどんどん埋もれていく。跡がなければなんて
言ってるようじゃおつむの程度が知れるな。
畿内の鉄もまだあるかもしれないよ。淡路島の垣内遺跡なんて
どっから鉄を調達したんだ?
九州説の人って、丹波と水銀朱の事になると すぐむきになるからわかりやすいなw
967 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 17:54:47
淡路島から鉄器が出てきた時点で九州説終了。 あんな(九州から見て)辺境な島にまで鉄が行き渡ってるのに、 九州単独で邪馬台国は無いわ。
968 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 17:58:46
鉄に関して畿内では、俺は信貴山辺りも怪しいと思ってんだけどね。 大県ではなく現金山彦神社辺り。 あの変は地盤が軟弱で地滑り地帯だから ダメになったんじゃないかと予想。
970 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 21:11:32
age
971 :
1 :2010/01/04(月) 22:22:03
1/5中に次スレを立ち上げますので それまでにこちらを終わらせましょう。
972 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 22:48:16
稲荷山鉄剣は八幡製鉄謹製 贈答品だろう?
974 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 23:11:37
丹生神社なんかは水銀採掘と信仰の名残だと思うけどね
976 :
日本@名無史さん :2010/01/04(月) 23:52:13
丹生神社にこだわる理由はなに?
>>974 リクエストに甘えて、以下の私見を二つ提示してみました。
私見を二つ提示します。
@ 前方後円墳は女性内性器であり、円墳は女性の子宮に相当し、前方部は膣に相当するという考えです。死者を再び誕生までに営まれてきた母体に帰すという考えから、内性器をモチーフにした前方後円という形が出来上がったのではないでしょうか?
A 或いは前方後円墳そのものが女性であり、前方部が女性の上半身、後円部が下半身(腰回り)をモチーフし
その下半身である円墳部分に死者を埋葬するという形なのではないでしょうか
やがて時が経ち埋葬施設にも改良が見られ、横穴式石室では女性の下半身に相当する円部に、女性内性器である膣や子宮を設け、死者はその一番奥の子宮にあたる玄室に埋葬されるという考えです。
>>977 女性の子宮というのは二つあると聞きますよね
しかしそのような前方後円墳はない
それに前方後「方」墳はどのようになるんでしょうか?
それにしても考古学博士の河童虫さんに誰も突っ込めないこの現状はなんとかしたいもんだね。
考古学博士の河童虫さんに誰も突っ込まなくていいのかい?て思うw
ああ、ごめんw 子宮は普通一つだったねw しかし、wokandian4さんのほうがベテランにみえるのは私だけだろうかw 河童さん、負けてますよ。 批判してやりましょうよwww
>>983 どちらが一般的に支持されるかは第三者が決めること。
貴方は2ちゃんねる代表です。
>>984 これはwokandian4 vs nebbia_18ではなく、先人vs河童虫という戦い。
986 :
日本@名無史さん :2010/01/05(火) 00:48:31
987 :
日本@名無史さん :2010/01/05(火) 01:01:03
子宮で思い出したが、 死因がホトが原因で死んだ人が3人いるんだよな 一人はモモソ 一人はセヤダタラヒメ 一人はイザナミ 時代が合わないから同一人物ではないだろうけど、 前記の二人はどちらも大物主神絡みなんだよな
988 :
日本@名無史さん :2010/01/05(火) 01:10:41
989 :
日本@名無史さん :2010/01/05(火) 01:12:28
miyabi0794さん まで現れやがった・・・orz こりゃ河童さん負けてられんねww
990 :
日本@名無史さん :2010/01/05(火) 01:16:46
>>987 イザナミも産むときになんたらだったよね
ホトが絡んでるっていえば絡んでるのかもしれない
しかし突いたわけではないが・・・・
991 :
日本@名無史さん :2010/01/05(火) 01:19:32
女の死因は出産が多いんだから、おかしくない。 ただの偶然。
992 :
日本@名無史さん :2010/01/05(火) 01:24:01
993 :
日本@名無史さん :2010/01/05(火) 01:25:40
>女の死因は出産が多いんだから、おかしくない。 >ただの偶然。 ん?生まれてきた赤ちゃんの話じゃないの? その情報源はどこからですか?
994 :
日本@名無史さん :2010/01/05(火) 02:32:35
セヤダタラは神武の嫁で葛城氏 モモソは祟神の義姉で葛城氏 二人とも大物主のせいで、ホトを突いて死んでるな こりゃ何かあるな…
995 :
日本@名無史さん :2010/01/05(火) 02:38:28
モモソヒメがどうして葛城氏になるのかわからんな。 倭国香媛は葛城氏なのか?
大和、出雲、吉備、東海、阿波、讃岐、播磨、丹波、筑紫 土器の流れで、どこが邪馬台国に相応しく、相応しくないのか 考えるってのも面白い。 あと吉備については巨大な古墳もあるね。 おれ眠いので、残り4レス 誰かさん宜しく
>誰も読まないのに一人で連レスするバカ いや、おれいまさっき読んでたんだけど・・・ 【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その8スレに書き込んでる名無しさんで 近畿の古い歴史になかなか詳しい人がおるね。 まあ、どうでもいいかw あと3 あと宜しく
1000 :
日本@名無史さん :2010/01/05(火) 03:27:20
邪馬台国は畿内で終了。
1001 :
1001 :
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