元寇総合スレ2

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16日本@名無史さん
取り敢えず>>1乙。
>>7のサイトに訳文が載っているが、自分が見ただけでもいくつか訳し間違いや省略が見られるので、
『元高麗紀事』「耽羅」至元九年十一月十五日条の原文と、サイトの訳文をベースにしつつ仮訳を
付けてみる。ただ、自分はあまり漢文が読めないのでここでも訳し間違いがあったら、そこは勘弁して
欲しい。ちなみに『元高麗紀事』原文では「耽羅」の「耽」は耳偏ではなく目偏だが、ここでは
「耽」で代用する。また原文では平文のままだが、会話部分などで一応段落別けをしてみた。

『元高麗紀事』「耽羅」至元九年(1272年)十一月十五日条
-------
「(至元九年)十一月十五日、中書省奏、
 「先奉旨議耽羅日本事、臣等樞密院官詢問、有自南國經由日本來者耽羅人三名、
 畫到圖本、稱『日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬』。臣等謂若先事日本。
 未見本國順逆之情。恐有後詞。可先平訖耽羅賊寇。然後若日本國。果不放趙良弼等返國。
 徐當再議。似無後患。又兼耽羅國王曾來朝。見今叛賊逐其主。占據城郭。義當先平」。
  上曰、「察忽先令人入耽羅。今囘未」。
  臣僚奏、「未囘」。
  上曰、「其人囘日。若耽羅歸順。夫復何言」。
  又奏、「其人囘而不歸順。竊恐遲誤軍事」。
  上曰、「行之。至如耽羅歸順不用兵。別亦有調用之處。卿等議合用多少兵力」。
  囘奏、「臣等約量本處屯田軍可摘二千。復於漢軍選三二千人。船中載馬費力。蒙古軍可少。
 差高麗國合僉五六千。共一萬餘軍可矣」。
  上曰、「武衞軍差二千。卿等更議餘者」。」
-------
17日本@名無史さん:2009/12/04(金) 23:51:11
>>16の続き。
『元高麗紀事』「耽羅」至元九年(1272年)十一月十五日条 の訳文。
----
「(至元九年)十一月十五日、中書省が奏上するには、
 「先だって聖旨にて承ったところの日本・耽羅のことについて、臣らは枢密院(軍政担当部門)官と
 打ち合わせ致しました。南国より日本を経由して来たった耽羅人三名がおりまして、(彼らに)
 地図(圖本)を書かせましたところ、彼らは申しますには、
 『日本の太宰府周辺に上陸地から向かうには、軍勢約二、三万ほどが必要でしょう』とのこと。
 臣らは申し上げます。もし日本への出兵を先にするのであれば、(かの国は)未だに我が国(の意向)
 に順応するのか反抗するのかその意思を見せていませんので、後々問題がありましょう。まず先に
 耽羅の賊を平定した方がよいでしょう。しかる後に日本国が、趙良弼らを我が国に帰国することを
 させぬようなことがあれば(つまり趙良弼らを拘留して帰国させないようなこと)、当然再び軍議を
 開くべきですが、この時には後顧の憂いを考慮する必要がありません。また、あわせて耽羅国王が
 来朝しましたが、今、叛賊がその主を放逐し、城郭を占拠したことを見ますに、まず先にこちらの
 平定制圧にあたるのが正しいかと存じます。」

  皇帝は仰せられるには、
 「察忽(洪茶丘)が耽羅には(和平を勧める)使者を派遣している。まだ戻っていないのか。」
  (中書省の)臣僚が奏上するには、
 「戻っておりません」
  皇帝は仰せられるには、
 「その人(使者)が戻って来た日に、耽羅が帰順を受け入れれば、何も言うことはあるまい」
  また奏上するには、
 「(しかし、)使者が戻って来ても、帰順しないようなことがあれば、軍事に遅誤が生じませんか。
 我々はそれを恐れます。」
  皇帝が仰せられるには、
 「(では、)こうするがいい。もし耽羅が帰順したら派兵には用いない。その軍は別のことに用いよう。
 卿らは(派兵に)必要な兵力はどの程度か協議せよ。」
18日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:07:12
>>17の続き。(『元高麗紀事』「耽羅」至元九年(1272年)十一月十五日条 )

 中書省が回答して奏上するには、
「臣らが概算しましたところ、本処屯田軍は二千を選り抜き、また漢軍は二三千を選び、
 船中に馬を載せますと体力を費やしますので、蒙古軍は少なくすべきです。高麗国は
 総計五六千を差遣させます。合計一万余りにすべきかと存じます。」
 皇帝が仰せられるには、
「武衛軍(主として漢人からなる精鋭部隊)二千を差遣させよ。卿たちにその他のことは任せる。」
----

さて、『元高麗紀事』という史料は、もともとは大元朝時代後期、1331年、文宗トクテムルの
勅によって編纂された大元朝における典故・制度に関する官庁文書集『経世大典』の外征や
軍事関係の項目に書かれていた記事で、後に明代になって『永楽大典』が編纂されると、他の
資料ともに転載された。

こうした『経世大典』→『永楽大典』に移録された資料としては、他には『站赤』『駅站』
『大元馬政記』『大元官制雑記』『大元倉庫記』『大元海運記』なんかがある。
『元高麗紀事』はこれらのうち高麗や耽羅島への軍事・遠征関係を扱った部分の記事で、
中書省やクビライなどの軍事関係の政務上のやり取りを記録したもの。
>>7の記事はその「耽羅」の段に出て来る。

『経世大典』は894巻(目録12巻、公牘・纂修通議各1巻、本文880巻)という大部な官庁文書集で、
『元史』編纂時の主要な典拠になったが、大元朝末期の混乱と、『永楽大典』に転載された文書が
多かったこともあって早くに散逸した。しかし、肝心の『永楽大典』も清朝末期の混乱でほとんど
散逸し(編纂当初の約3%のみ現存)、現存する『永楽大典』の断簡のなかに『元高麗紀事』と
称されるこの文書などが辛うじて残るに過ぎない。(『元文類』など現存する『経世大典』と同じ
時期に編纂された文書集類を見ると日本に関する記事も『経世大典』にあったと考えられる)
19日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:13:41
>>8までの経緯を貼っておく

730 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 19:42:21
>>727
>元軍の攻撃はことごとく撃退され、

え? 日本軍の間違いか?

>あまつさえ指揮官が重傷を負わされてるのに

漢人の指揮官一人怪我したところで、指揮官はあと3人いるではないか。
なにをおおげさな。

ところで、ジャヴァに行った蒙古軍は現地人のだまし討ちにあってほとんどの
幹部を殺され、将軍3人はかろうじて逃げ帰った。
その結果、2人の将軍が罰を受け、むち70回と財産1/3の没収を食らった
ことが記録に残っている。

文永の役でたった1日で逃げ帰ったのは、かなりぶざまな負け方だが、それで
罰を食らった将軍は一人もいないどころか、ほとんど弘安の役に再任されている。
これはジャヴァの場合と較べてかなり不公平だ。
これをなんと説明する?

731 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 20:23:40
>>730
自分の発言の中に答え出てるのに・・・元は不意打ち・だまし討ちを受ける
ような事態になることを固く戒めていた。親衛隊衛士の規則にも、警戒を
怠った者への厳罰規定があるのは当然知ってるよね?

戦って負けた者とだまし討ちを受けるほど油断した者との差だよ。
20日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:16:08
732 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 21:18:14
阿塔海
金方慶
洪茶丘
忻都
范文虎

弘安の役の大敗戦の後、彼らはどんな罰を受けたんだ?処刑でもされたのか?
引き続き第3次遠征の計画に関わっているのもいる。

フビライの怒りを買って斬首されたという話のある范文虎も、『元史』世祖本紀によると
フビライの没年以後も生存していたというしな。

738 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 11:22:07
>>732
秀吉の唐入りだって、敵前逃亡した大友を除けば
一回目の講和の後、所領取り上げられたり処刑された奴はいないな。
加藤とかは石田との仲間割れが原因だし。

敗軍の将のその後の待遇で
軍の勝敗や目的を判断するとか愚かしいわ。
古代ローマ軍なんて、遠征失敗しても
お咎めなしだった例は幾らでもある。
21日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:18:07
745 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 12:54:44
秀吉の唐入りは威力偵察、古代ローマ軍で任務失敗しても咎められなかった例も威力偵察だったからww

ああ、弘安の役も威力偵察ですw
だってジャヴァよりもはるかに多くの損害を出したにも関わらず将軍が厳罰を受けていないんだからねww

はんぶんこなんか斬首どころか成宗の時代まで生きていましたよ。これが弘安の役が威力偵察であった証拠。
http://www.chinapage.com/big5/history/y02.htm

750 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 13:40:30
>>747

>敗軍の将のその後の待遇で
>軍の勝敗や目的を判断するとか愚かしいわ。
>古代ローマ軍なんて、遠征失敗しても
>お咎めなしだった例は幾らでもある。

これについてジャワ遠征と文永の役の将軍の処分の違いを書いた人間としてどう思うんだ?



以降、>>750への回答を求めても最後までスルーする威力偵察君でした。
22日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:20:05
http://mimizun.com/log/2ch/history/1245701930

前スレはここで読めます。
23日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:41:34
>>16-18
現代語訳乙

>肝心の『永楽大典』も清朝末期の混乱でほとんど散逸し
つい最近の事じゃないか・・・ググったらひどかった・・・(´;ω;`)
24日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:59:19
>>16-18
誤訳の訂正と自分勝手な解釈は違うものだって事知ってる?
例えば、トンデモ本書いてる奴なんて
完全に自説ありきで引用史料を強引に解釈して語るから
いくら参考文献や参考論文が多くても
結局、馬鹿げた答えにしか辿り着かないんだよね。
逆説の日本史の人とか日本刀役立たず説唱えた人とか騎馬民族制服説の人とか。
まあ民間のトンデモ本書いてる奴だけでなく
プロの大学教授ですらそういうの割といるからね。
お隣の国の大学教授の電波捏造ぶりには負けるけど
我が国にだってFランどころか宮廷にすらトンデモ教授が結構いる。
25日本@名無史さん:2009/12/05(土) 01:13:27
おっと早速威力偵察くんの登場か?
26日本@名無史さん:2009/12/05(土) 02:19:45
そうなると
主力艦隊を温存し露払いの航空戦力で攻めたパールハーバーすら威力偵察
27日本@名無史さん:2009/12/05(土) 02:54:33
ソ連の大軍相手に少数で善戦したノモンハンも威力偵察
28日本@名無史さん:2009/12/05(土) 05:22:57
>>24
> 誤訳の訂正と自分勝手な解釈は違うものだって事知ってる?
どこか間違っている箇所があると思ったら、どこら辺がどう間違っているのか
ここがこうだと指摘してくれたら良い。
(ただ、文全体でいまいち何が言いたいのかちと良く分からないが。)

例えば、>>17の「察忽」は『高麗史』その他の資料で、この時期の高麗関係の記事で何度か
現れるが、これは高麗に派遣された管領帰附高麗軍民総監、洪茶丘だと考えられている。
洪茶丘は本名を洪俊奇という。「茶丘」はモンゴル名のチャクゥ caqu だろうと考えられる。
特に大元朝時代にテュルク・モンゴル語の固有名詞を漢字に音写するとき、ca(チャ)は
「察」で、qu は「忽」で表すのが一般的なので、「察忽」もチャクゥと読むべき単語だ。
例えば、「クビライ」(qubilai)は「忽必烈」と書くし、その皇后のチャブイ(cabu'i)は
「察必」と書く。

当時、高麗で耽羅島に使者を送れるような権限を持っていて、「チャクゥ」と呼ばれている
ような人物は、洪茶丘しか知られていない。また、『高麗史』でも洪茶丘を単に「察忽」と表記して
いる場合もあるため、『元高麗紀事』のこの「察忽」は、普通「洪茶丘」のこと考えられる。
(そこら辺は杉山先生の最近の著書とか森平論文などを読むと良い)
29日本@名無史さん:2009/12/05(土) 06:07:15
>>28の続き。
こうしたモンゴル帝国史というか、大元朝史、高麗史関係の論文とか
読んでいれば、大体、当時の用語の使われ方から重要と思われる単語を拾い、
それに合わせて文意を読み説くことができる。(というか普通はそういう風に読む)
>>7のサイトの人は「察忽」とか重要そうな単語をいくつか読み落としているので
一応は、こちらに張るには全文を見て欠けている箇所を補う必要があった。

それで>>7のサイトの人はえらく史料を博引して論展開していて、その労力には
甚だ敬服するが、「通説の不条理的な言説に反駁する!」という鼻息の荒さがどうにも
目立ち、巨視的な観点が欠けているようにも感じる。
(例えば『八幡愚童訓』の扱い方だが、諸本ごとに書き方に微妙な差異があるため、
 自分の意見に都合の良いことが書かれている写本の箇所を切り張りしているような
 印象さえ受ける。『八幡愚童訓』諸本おのおのの特徴や欠陥など全体を見据えつつ、
 史料としてどう扱うか、という慎重さに欠けてるようにも。)

ただ、『日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬』を
(上陸地から太宰府に向かうには、軍勢数万が必要でしょう) と訳すのは
文意の通ったかなり良い意訳だと思う。少なくとも自分ではこういう訳し方は
出来ない。

あと、自分自身としては、『日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬』
という耽羅人の発言に基づいて文永の役の時における派遣軍の規模が決定された、
とか、この文面から文永の役には大宰府攻略が目標となっていた、という意見には
ちと首肯し難いのだけれども。
30日本@名無史さん:2009/12/05(土) 07:45:35
首肯しがたいのならば理由を書こうよ。
31日本@名無史さん:2009/12/05(土) 08:32:11
なるほど、つまり耽羅人の発言にあるのと同程度の軍隊が同じ発言のなかにある大宰府の近くまで
来たのは単なる偶然という訳か。

ふむ、確かにそう考えればつじつまはあう。
32日本@名無史さん:2009/12/05(土) 08:45:09
>>29の根拠というか、個人的な意見に過ぎないが、

> 『日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬』
> (日本太宰府等ノ処ノ下船ノ地、倶ニ下岸シテ約二三万ヲ用フベシ)

確かにこの『元高麗紀事』の「耽羅」(「耽」は耳偏ではなく目偏)において、文永の役の
二年前にあたる至元九年十一月十五日条に、中書省とクビライとのやり取りで、中書省の
奏上のなかに、「日本を経由して南国から来たという耽羅人三名(「有自南國經由日本來者
耽羅人三名」)から図本を書いて言った言葉として、「日本の太宰府周辺に上陸云々」と
発言している記事が載っているのは確かだし、これは文永の役の時の『高麗史』忠烈王世家や
金方慶伝に載る「蒙漢軍二萬五千と、我軍八千」(つまり合計3万3000)という実戦力の
規模とほぼ一致するのは確か。

ただし、これは飽くまで、『元高麗紀事』の耽羅島人の発言と、『高麗史』に記載されている
遠征軍の規模がほぼ一致するという以上のものでは無く、何よりもこの耽羅島の発言をもとに
文永の役での軍団派遣規模が決定した、という明確な記録は無いため、これだけでは
この発言から「大元朝は(1)文永の役で大宰府攻略を意図し、(2)それを達成する規模の
兵力として実戦力2、3万の軍勢を派遣した」というような推測の証拠とはならないので、
注意せねばならない。これらを立証するには関係者がこれに類する意見なりを述べたような
資料を見付けねばならない。

これだけでは、せいぜいが、太宰府を拠点とする地域の日本の兵力と伍するには、こちらも
2、3万の兵力を動員する必要がある、という認識が中書省からの奏上で「推測」できるとか、
耽羅島や日本への遠征についての議論で、中書省の奏上のなかにある耽羅島人の発言も
日本遠征計画への参考の一つになったろう、程度の推測は十分可能だが、飽くまで
そのレベルに留まる問題だ。

何より、この中書省からの奏上は「〜と耽羅人が申していますので、臣らが思いますに、
太宰府を攻略するためには2、3万の兵力が必要かと存じます」とかいう内容の発言では
無いからだ。
33日本@名無史さん:2009/12/05(土) 08:49:06
>>32の続き。
そもそも、この十一月十五日条の頭から最後まで読めば分かるとおり、これは耽羅島の
遠征計画について各部署から派遣される人員など、方針が決められたという内容であって、
日本についての話しがメインではない。
「耽羅人がこんなことを言ってましたが、日本ではなく耽羅島を先に攻めるべきです!」
という程度に留まり、冒頭以後、日本については全く話に絡まない。
(上の『元高麗紀事』の場合、中書省の奏上に「耽羅人は『〜』と申していますが、日本は
耽羅と違い、未だに我が国の(意向に)順応するのか反抗するのかその意思が明らかでは
ありません。まずは耽羅を攻めるべきでしょう。日本を攻めるのであれば趙良弼等が帰還
してその意見を聞いてからでも遅くは無いでしょう」とかいう内容が続く。なので、本文は
「耽羅人の進言」を入れたというか文脈ではない。)

例えば、
「太宰府を攻める/陥さんとして、2、3万を用いてこれを攻めんと欲す」みたいな言い方が
『元史』本文や『国朝文類』などの文書類で、クビライの発言や大元朝側の中書省や同じく
軍政を担っていた枢密院、あるいは高麗からの奏上で明確に記述があれば、
(1)の文永の役で大元朝側は太宰府を攻略目標としていたことと、
(2)のその大宰府攻略のために2、3万を動員した、と確実に言えるが、そのような
記録は今のところ、『元高麗紀事』の他の部分を見ても、『元史』、『高麗史』、その他、
『国朝文類(元文類)』や『元典章』など大元朝時代に編纂された政書・文書集類を見回しても、
どうも現存しない。

最終的な文永の役での派遣軍の規模を決定する主要な要因であれば、耽羅島人の発言よりは、
むしろ文永の役の直前まで太宰府に来て(一年近く滞在して)いた趙良弼の報告を重視したはずだ。
趙良弼は文永の役の前年に帰還したおり、六月には「日本君臣爵號、州郡名數、風俗土宜(産物のこと)」
について報告書を提出したことが『元史』世祖本紀に出て来る。
34日本@名無史さん:2009/12/05(土) 09:05:49
>>33の続き。
『元史』趙良弼伝によると、太宰府から帰還して五月にクビライと謁見した時、クビライから
慰労の言葉を受けており、「臣は日本に一年ほどおりましたが、その民の風俗を見ますに、
狼勇殺生を好み、父子の親しみや上下の礼を知らず、地味は山水が多くて耕作にも向きません。
人民を得ても役に立たず、土地を得ても利益を増せません。水軍を使って海を渡っても海風の
時期をはかれないので、損害がどれだけ出るか予測も出来ません。これは有用の民を底なしの
巨大な穴に埋めるようなものです。臣が思いますに、遠征などはなさらぬのが宜しいかと」
というようなことを言上している。

クビライはこれに従ったと書かれてあるが、周知の通り遠征は取り止めていない。
前年の耽羅人三人は中書省と枢密院との協議の中で、耽羅人が図本と「太宰府に〜」という
発言があったと奏上のなかで触れているだけだが、趙良弼の場合は、現物は残っていないが
「日本の君臣爵号、州郡の名や数、風俗や産物」についてより詳しい報告をクビライ自身に
している。
『元史』や大元朝時代後期に編纂された『宋史』などの日本伝では、日本の歴代天皇のリストや
諸国の名前が列記されており、趙良弼の遠征反対の意見自体は採用しなかったが、「日本君臣爵號、
州郡名數、風俗土宜(産物のこと)」について趙良弼の報告が後々まで参考にされたと伺わせる。

まとめると、
1)耽羅人の発言にそのものに、クビライや中書省側が政策として採用した明確な形跡が見られない。
2)この耽羅人の発言以外に太宰府に行くには2、3万必要だという話が記録に無い。
3)そもそもクビライや中書省、枢密院などが文永の役で太宰府を攻略すると明言している資料が
  見付かっていない。
4)日本への政策には国使である趙良弼の報告データを採用したはず。

というのが、まあ大元朝は(1)文永の役で大宰府攻略を意図し、(2)それを達成する規模の
兵力として実戦力2、3万の軍勢を派遣した」という意見に否定的な根拠。

35日本@名無史さん:2009/12/05(土) 09:34:04
>>34の続き。
加えて、イラン鎮戍軍やカシミール鎮戍軍がだいたい騎馬部隊だけで2〜3万騎の
規模だったことからも分かる通り、国家規模のモンゴル帝国外部の勢力に近接する
辺境部の鎮戍軍の場合、外部遠征などでも普通にこの規模で行動していた。

同じく辺境部の鎮戍軍と同じ性格を持っていたと思われる文永の役の時の高麗周辺の蒙・漢軍と
高麗軍をあわせた歩兵・騎兵からなる実戦力三万強という数字はそれほど特殊とは言い難い。
むしろ通例に近いと言える。

なので、『元高麗紀事』の「日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬」と
『高麗史』の「蒙漢軍二萬五千、我軍八千」の直接的な関連性は、『元高麗紀事』のこの
部分だけでは立証出来るとは言い難い。

『元高麗紀事』単発だけでは、鎮戍軍の通常見られる規模とも大差が無いため、個人的意見
としてはぶっちゃけ>>31のいう「偶然」だと思う。
(関連性が全く無いとは、これも言えないが、『元高麗紀事』のこの部分だけでは証拠不十分)


書くと長ったらしくなるんで控えていたが、まだ100スレいってなかったので根拠とか意見を
書くと大体こんなところ。特に興味が無かったらスルーしても構わない。
36日本@名無史さん:2009/12/05(土) 10:00:46
 .| ヾミ,l _;;-==ェ;、   ,,,,,,,,,,,,,,,_ ヒ-彡|
  〉"l,_l "-ー:ェェヮ;::)  f';;_-ェェ-ニ ゙レr-{   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  | ヽ"::::''   ̄´.::;i,  i `'' ̄    r';' }   | 久々に良レス
 . ゙N l ::.  ....:;イ;:'  l 、     ,l,フ ノ   | こういう冷静な書き込みが沢山あった
 . |_i"ヽ;:...:::/ ゙'''=-='''´`ヽ.  /i l"  < のが昔の歴史板なんだよな 最近は資料も読まずに
   .| ::゙l  ::´~===' '===''` ,il" .|'".    | 煽り合いをする奴が多いから困る
    .{  ::| 、 :: `::=====::" , il   |     \________
37日本@名無史さん:2009/12/05(土) 11:49:09
至元十八年八月の弘安の役の報告に「日本に至り、太宰府を攻めんと欲す」と
あるように弘安の役の目標に太宰府が設定されていたのも偶然だな。

攻略しそこねた目標を再度狙ったなどということは考えられない。
38日本@名無史さん:2009/12/05(土) 14:06:52
前スレとうって変わって良スレの予感、読みごたえあるわ。
39日本@名無史さん:2009/12/05(土) 14:11:12



自画自賛乙
40日本@名無史さん:2009/12/05(土) 15:17:53
自画自賛かはともかく前スレがひど過ぎただけ。

威力偵察くんは工作員をクビにでもなったのか?
41日本@名無史さん:2009/12/05(土) 15:45:15
文永の役で元軍が野営せずに船に戻ったのは、夜襲の危険もあるだろうが
すでに地元漁民ゲリラなんかに船を襲われはじめてたんじゃないか?
一日目の昼間の戦闘だけで決戦で敵を大いに破るか逃げるかしないと
元軍自体が略奪の対象になりつつあったんじゃないだろうか?
42日本@名無史さん:2009/12/05(土) 15:55:40
スレがクロスオーバーしてきたなw
43日本@名無史さん:2009/12/06(日) 04:23:58
>>37
いや、それは「偶然」という語彙の使い方を間違えている。

「日本に至り、太宰府を攻めんと欲す」というのは、『元史』日本伝、至元十八年八月条にある、
「八月、諸將未見敵、喪全師以還、乃言:『至日本、欲攻太宰府。暴風破舟。猶欲議戰、
 萬戸雌ソ彪、招討王國佐、水手總管陸文政等不聽節制、輒逃去。本省載餘軍至合浦、
 散遣還郷里。』」

「 (至元十八年)八月、諸将未だ敵を見ざるに、全師を喪って以て還る。
 乃ち言う、
 『日本に至り、太宰府を攻めんと欲す。暴風舟を破る。なお戦わんことを議せんと欲せしも、
  万戸雌ソ彪(れいとくひょう)・招討王國佐(おうこくさ)・水手總管陸文政(りくぶんせい)等
  節制を聴かず、輒(すなわ)ち逃げ去る。本省、余軍を載せて合浦に至り、散遣して郷里に
  還らしむ。』」

と続く文章で、本文に「日本に至って太宰府を攻める」ことを「欲する」ような「本省」なので、
状況的に、この文章の発言者は征日本行省のことと考えられている。
44日本@名無史さん:2009/12/06(日) 04:38:18
>>43の続き。
すなわち、これは「征日本行省」つまり「征収日本行中書省」(略して征東行省、日本行省とも)」という
『大元朝の日本遠征を担当する部署』が『直接的に』、「日本へ行って太宰府を攻撃することを意図した」
と述べており、大元朝の公的な方針(少なくともそのひとつとして)として弘安の役では太宰府の攻略が
目標とされていたことが分かる。(「征東行省」は1280年に高麗国王忠烈王を長官として設置された、
日本遠征にともなって新設された地方行政組織)

よってこれは、>>37が言うような「偶然」云々とか何とかそういう問題では無く、疑い無く、
>>33で書いた「クビライの発言や大元朝側の中書省や同じく 軍政を担っていた枢密院、あるいは
高麗」のような、遠征の政策当事者の「直の証言」、「明確な記述」の類いそのもの、また
>>32で書いた「関係者がこれに類する意見なりを述べたような資料」そのものにあたる。

つまり、(くどいようだが)
『元史』日本伝、至元十八年八月条の「日本に至り、太宰府を攻めんと欲す」の部分は、
大元朝が弘安の役で太宰府を攻略する計画を持っていたことが、政策当事者からの発言によって
分かる、明確な「例証」「証拠」の類いと見て良い。

>>17-18などの『元高麗紀事』の耽羅人の発言とは、状況・立場が根本的に違う種類の
資料なので、そこは十分注意せねばならない。
45日本@名無史さん:2009/12/06(日) 04:47:12
もうちょっと口語調というか
くだけた口調で書いてほしかったりするな
46日本@名無史さん:2009/12/06(日) 11:27:10
>>37
うっかり>>43-44でもうひとつ書き忘れていたけど、殊、この日本伝の部分の例を
考えた場合、もし文永の役で大宰府が攻略目標として予め定められていたら、この
『元史』日本伝、至元十八年八月条では「日本に至り、『再び』太宰府を攻めんと欲す。」
みたいな言い方をしているのが自然だと思う。しかし、文永の役の時の事を踏まえたうえで
「太宰府を攻め」るのに「再び」とか「再度」とかそれに類する言葉が、見ての通り文中には
全く無い。

もし前回の文永の役の時に大宰府を攻める予定で、実際に攻めたり、攻めようとしてそれが
出来なかったのだったら、それらしいことを文中で何がしか書くなり触れるなりしておくのが
やはり自然だろう。それが全然無いってのは、これは十分注意しておくべきことだと思う。

>>36,>>38
やあ、そう言ってくれると非常に有難い。
前スレの後半なぞは、資料の概説とかその中身の吟味とかまるでやる気配が無く、ひたすら
煽り合戦に終止して目を覆いたくなる感じだった。あの状況にいい加減フラストレーションが
貯まってたというか見ていられなかったので、前スレの終わりあたりからついガーッと書いてしまった。
資料を単発でぽんと出しても、事情を知らない他人が見たらそれがどんなものか理解出来ないか
知らない場合があるんだから、まずそれがどういった資料かあらましを触れつつ、自分の言いたいことを
説明するとかいうスタイルは大事だとは思う。(前スレの場合資料の引用を他のサイトあたりから
コピペして大した説明もなしで、とにかくこうだ!という雑なやり方が流行っていたけど)

日本史板にしろ世界史板にしろ、ここ数年で資料を吟味した上での長文カキコ、みたいなのが
いつの間にか殆ど無くなってしまった。日本史は戦国時代板へ、世界史は難民板と中国英雄板
あたりに人口流失したせいとかでこんな状況になったんだろうかねえ・・・ 

>>45
すまん、もともと文体が固くて読みづらい方なので、眠気も手伝って大分ガクガクした文章に
なってしまった。これ以上くだけた感じにすると、自分の考えている内容に沿って文章化出来るか
自信が無いので、読みにくかったらまあちょっと勘弁して欲しい。