2 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 15:48:48
水垣宮あまり注目されてないですね。
何で?!
___ ,∠三ヽ__
/: :/ : : : `¬/
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| く<リリ '⌒ヽ __ ムイ
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979 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 01:04:46
九州以外で、どんなスゴイ遺物が出てきても、それは邪馬台国に直結しないんだと。 →もちろんです。
そもそも、九州が一番先進国だったんだと。 →当たり前です。
他の地域は九州より絶対遅れた未開地であったのだと。 →畿内なんて土人の巣です。
だから、九州よりスゴイ遺物が出てきたら、それは4世紀以後なんだと。 →そういうことです。
じゃあ、大和王権がどうやってできたかと言うと、九州の邪馬台国が東遷したからだと。 →その通りです。
そのあと、畿内に東遷した邪馬台国は九州と不仲になったのか、九州討伐に軍を送るようになったと。 →おおむねそんなところでしょう。
これ本気で書いてるならかなりの九州馬鹿。
てか、まともに相手にすべきかどうかだな
6 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 08:44:58
最早、十年くらい前から争点は、
邪馬台国はどこか?
から
大和マキムクはいかにして誕生したのか?
に古代史好きの関心は移っている。
邪馬台国が大和以外だとすれば、マキムクから政治的に独立した一地方首長が
3世紀初から半ばにいたということ。
7 :
サガミハラハラ:2009/12/02(水) 09:31:04
邪馬台国は一地方首長ではなく、倭の正当な王朝なのです。
それより仁徳天皇の高津宮は未だに見つからんのだが…
もし大阪城の下とかだったら、もう見つからないかもしれんな
今ある難波の宮の更に下って事は考えられないのかな
11 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 22:27:47
仁徳天皇自体が実在性の薄い天皇だからなあ
オオサザキっていう忌み名も、大きいササギ(陵)に葬られた天皇ぐらいの意味だし。
伝履中陵が伝仁徳より古いという考古学的成果も出ている。記紀の記述もかなり混乱があるのだろう
12 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 22:46:15
マキムク古墳の真東は伊勢神宮
13 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 23:00:17
14 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 15:50:10
>>12今は地図をみれるからそうわかるんだ。
昔は東と認識できても、真東などとはわかるはずない。
15 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 17:11:12
北極星の角度で緯度が計測出来れば、
真東にするのは可能だろ。
16 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 17:38:34
>>7 おまえ、九州の邪馬台国と、畿内の大和王権が並立してたと考えてたはずじゃなかったのか?
なんで邪馬台国が倭の正当な王朝とか言ってるんだよ?
17 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 18:04:53
>>15あのな、地上ではマキムクから伊勢はみえないのだよ。
みえないのに伊勢は真東とどうしていえる。東の方とはいえるが。
18 :
サガミハラハラ:2009/12/03(木) 18:31:38
>>16 並立していましたが、中国から正当なる王朝とみとめられていたのは邪馬台国であるということです。
当時のアジアにおいては、正当か否かは中国が決めることなのです。
どちらが経済的に栄えていたかとか国土がどちらが広いとかはさしたる問題ではないのです。
19 :
サガミハラハラ:2009/12/03(木) 18:33:11
>>16 並立していましたが、中国から正当なる王朝とみとめられていたのは邪馬台国であるということです。
当時のアジアにおいては、正当か否かは中国が決めることなのです。
どちらが経済的に栄えていたかとか国土がどちらが広いとかはさしたる問題ではないのです。
20 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 18:43:09
外国の視点で正当かどうか決めてる国って日本くらいだよな。
21 :
サガミハラハラ:2009/12/03(木) 21:34:14
いいえ、東アジアの諸国はみんなそうですよ。
22 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 22:23:46
>>21 隣の韓国ですら中国は無視してるってのに、あまりに無知すぎやしませんか?
23 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 22:41:19
>>17 レイラインとか知らない?
そもそも古代人を馬鹿にし過ぎなんだよ。
北極星がなぜ信仰対象になったのか?とか考えたことある?
【日本国家成立史】
【日本民族の統一】
@神武(神話)
A崇神朝(ヤマトマキムク)
B応神仁徳朝(筑紫朝)
C顕宗仁賢朝(播磨朝)
D継体欽明朝(越近江朝)
【天智天武】律令体制
【文武聖武】平城京
【桓武】平安京
〜【幕府体制】〜
【明治大正昭和】近代日本
■■■■■■■■
【*】連合体としてのヤマトマキムク王権
【*】筑紫朝による畿内王権の制圧
【*】筑紫朝断絶、播磨朝で連合体を調整
【*】磐井と継体が「応神の子孫」を名乗って内乱
【*】継体の勝利、しかし畿内豪族のクーデターにより「欽明朝」成立!
■■■■■■■■
各王朝内は男系で繋がり各王朝間は実質女系で維持。女帝は置かれたが女系は認められなかった。
現在125代
25 :
サガミハラハラ:2009/12/04(金) 11:08:31
>>22あのね、古代の話をしているのですよ。
レイラインですか?知りません。
北斗七星信仰じゃなくて北極星信仰ですか?これも知りません。
26 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 14:25:58
>>25 おまえは、
>>7で、
>邪馬台国は一地方首長ではなく、倭の正当な王朝なのです。
と、言い切っただろ。
これは、中国からの視点だよな?
自国の歴史を研究するものが、自国の正当な王朝を他国の視点にゆだねるって、おかしいだろ。
27 :
サガミハラハラ:2009/12/04(金) 15:28:48
当時の話ですよ。
28 :
うましか:2009/12/04(金) 21:00:15
>>23 でも伊勢の方で三輪を意識したような伝承もないですよね。
ただの偶然かと。
まあな、もちはべとべとだし、サルモネラはねらねらだ。
>>28 能の作品内で、三輪神=伊勢神というのが語られているよ。
ほか伊勢にアマテラスが蛇神っていう伝承も伝えられてる。
神官が朝ウロコまみれになっていたとか
31 :
うましか:2009/12/05(土) 12:09:54
>>30 >能の作品内で、三輪神=伊勢神というのが語られているよ。
そうですか。
そう言う伝承が有って、能の題材に取り上げられているということですね。
でも、その能はどういうところ演じられるのでしょうかね。
私のコメント(単なる感想ですが)は、伊勢の方が三輪を意識していないと言うことです。
神宮の影響の強いところでも演じられるので有れば、表向きはとは違う扱いがあるのかも知れないですね。
倭姫命世記とかを眺めていると斎宮の霊感頼りにあちことと彷徨しているだけのように見えます。
スタート地点が纏向近辺なのに大物主は出番が無いし、
逆に「大物忌」などと言う嫌味かと思える供を連れていくところなど
関係を断つのが遷座の本当の理由のようにも見えたりします。
倭姫命世記を読むと、
昔から丹の産地として交流があったから濃い繋がりがあり、
それで選ばれたって感じじゃないな。
伊勢とのつながりは本当に不思議だな。
33 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 15:00:57
伊勢とのつながりが不思議って、どういう意味で?
三輪〜伊勢は、伊勢街道とかあって、宿場町が点在してるけど。
伊勢の伝承だと、倭姫は鏡を伊勢に届けるとまた明日香に戻ったということだ。
35 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 00:42:02
マキムクの立地はまさに東海方面を意識したものだろう。
敵対か友好かは意見が分かれるところ。
個人的には、東海は西からの物流を畿内に抑えられているので、敵対は出来なかったんではないか
と思ってるが。
マキムク開始時期に環濠が一斉に埋め立てられる時期があって、
その動きは伊勢北部まで波及してる。
伊勢北部はわりと畿内寄りだったんだろう
伊勢といえば丹波と鳥羽は多分同義だよ。
水運の要所の意味。
京都の南部で鳥羽と丹波が隣接してる所からもわかる。
ここは淀川水系のターミナルだったという事。
丹波は田庭由来が一般的だが、これは水運が発達していたから
田庭として栄えたとも言える。
37 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 20:17:43
トバとタニハは流石に違うだろ。
>>37 タニハもタバからきてるかもしれないよ。
それに伊勢の鳥羽も食料が豊富という土地だしな。
39 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 23:52:23
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
40 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 00:07:27
京都市内の丹波は丹波への街道口だろ
丹波って内陸じゃなかったっけ?
>>40 保津(桂)川、木津川、淀川、宇治川が会する場所だからね。
道が整備されるまでは水運の要所。
>>41 本来は丹後も丹波だよ。
43 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 14:09:15
若狭湾から琵琶湖に行くには、どういうルートがあるの?
44 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 14:43:30
>>44 毎日京都周辺をクルマで走ってますが。
干拓池の存在は結構最近までだし、
現京都市南部が水運の要所だったのは事実だよ。
>>43 琵琶湖までは山越え。
48 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 20:27:12
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
49 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 21:30:32
>>45 じゃあ余程無知なのか
桂・宇治・木津の三川が合流して淀川だ
近畿に住んでいてこんな初歩的な間違いはない
>>49 無知という言葉はそのまま返すよw
というより理解力が無いのか?
それらの河川が会する場所が京都南部。更に昔は
この一帯に巨椋池が存在して、大昔は琵琶湖〜瀬戸内、丹波〜大和というように
水運で往き来していた時代の要所だと言ってるんだよ。
>>49 まさか巨椋池の存在知らないなんて言うなよ。
戦前まで存在したし、江戸時代以前なら
現在の桂、木津川合流点から宇治の平等院辺りまでは
池(というより湖)だからな。
この地が水上交通の要所で、京都が都として
発展した重要な要素なのは言うまでも無い。
だから個人的には伏見区辺りが「鳥羽」だと思うけどね。
52 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 22:47:04
必死で調べて補足したか
で城南宮が巨椋池に面してたんだぞ
埋め立てた跡に飛行場作るのに連れてこられた人が住んでたのがウトロだ
無理に豆知識なんか加えなくてもw
日本海側から畿内に入る水運は、瀬戸内が使えなかったら
琵琶湖〜宇治川〜淀川〜河内南部、
もしくは木津川経由で奈良盆地だったんだろう。
だから、由良川ー加古川経由だってば
55 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 23:24:36
淀川から
河内湖のなれの果てを経由して
大和川というのもある
56 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 23:31:58
京都の人間からすると
桂・宇治・淀・木津という言い方や
鳥羽と丹波が隣接してるって言い方は
激しい違和感があっただけさ
>>56 その違和感が古代史を調べる上で結構邪魔だから。
例えば奈良の俺からすると、巻向に出雲の地名や伝承が多い点とかね。
3世紀代に琵琶湖周辺と大和が協力関係にあった証拠ってあるの?
滋賀は前方後方墳の地域だし、むしろ敵対していた可能性すらあるのに、
どうして古臭い琵琶湖ルートにこだわるかな。
実際に物流が出土遺物から実証されている
由良川流域から加古川流域へ抜けるルートを考えるのが当然だと思うけど。
>>58 近江はどちらかといえば東海文化圏と言われている。
大和に対しては異文化圏と考えて良いとおもうな。
巻向遺跡の搬入土器は東海が約半数を占めるけど。
北陸、山陰が17%、近江は5%あるのだから
琵琶湖〜宇治川経由の交流は当然あったと思う。
北陸山陰より遥かに近い近江が5%しかないことをどう見るか。
北陸からは琵琶湖を通じて来ることは確実だし。
近江の協力がないとここを通過させて貰えないはず。
それに隣接している河内が10%なんだから、まあ妥当じゃないの?
瀬戸内東部だってそれ以下だし。
丹後経由で由良川〜加古川でこれるだろ。確実なんてことはないよ。
>>63 拘るね。別にそのルートを否定はしないが、
越からの琵琶湖ルートも普通に重要だと思うけど。
アメノヒボコの伝承も、まず近江に行ってから但馬に落ち着いてるし。
庄内甕に吉備の影響がみられ、布留甕には北陸の影響がみられるから
布留期に北陸勢が加わったんじゃないかな。
66 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 21:52:29
土器の多寡が、国同士の親密度合いと必ずしもイコールじゃないだろ。
要は、各地から中に何を詰めて持って来たのか?ってことだし。
でも土器は歩いて来ないからな。
流通が有るということは、協力関係がないという無理。
>>66 おそらく各地から来て古墳を作った人たちの食料。東海地方の土器が多いということは、そこが狗奴国で
対邪馬台国戦争敗戦のつけを払わされてる?
69 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 22:43:04
東海地方と戦闘した痕跡が何かあったっけ?
>>69 環濠が無理やり埋められてるような感じだとかなんとか・・・
71 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 23:23:50
東海地方の環濠が?
東海地方との戦闘痕跡なんて無いと思うが。
73 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 23:37:44
邪馬台国が畿内説で決定なら狗那国は濃尾平野の勢力と見ていいんじゃないか。
それが武力による併合なのか邪馬台国連合への平和的参加だったのかは別にして
74 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 23:37:46
環濠の埋め立ては広域な政治権力の誕生を意味するもので、戦乱の痕跡じゃないよ。
焼けた土とか出れば別かもしれないが。
あと前方後方墳が奈良県にもあるんだから、前方後円VS前方後方なんてのは成立しないだろうと。
東海を狗奴国にしたい人が多いんだろうけど
75 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 23:42:36
>>67 いや土器が交易の証拠なのは当たり前だけど、
出てくる土器が一番多い国が一番親密、とかいう議論は単純過ぎるよ、ということ。
たとえば鉄とかヒスイとか壺で運ばないだろう物資は?
76 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 23:52:56
ある種、地形的要因から考えても、東海と畿内は衝突する可能性は少ない。
むしろ協力関係にあったと見るべきだろう。
東海勢力の目は畿内よりむしろ東方に向いており、
畿内は西方に向いていただろう
狗奴国は濃尾平野の勢力ではないと思う。
やはり九州南部〜紀伊半島南部の勢力だろう。
畿内では葛城山系が境界じゃないかな。
531 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/18(木) 23:49:05
あ、すいません。
例外的に終末期に三河・尾張については「平定」に近い事が起きていると見られます。
この時代、各地の大型環濠集落が次々と放棄されるのはご存知でしょうが
唯一と言って良いほど、武力衝突の影を匂わせるのが朝日遺跡に代表される東海地区です。
東海の土器は尾張じゃなく伊勢産ではないかという話もあるよね。
>>78 朝日のサカモギって中期だろ。
朝日の最後は海面の上昇で放棄されたためといわれている。
何言ってんだ、この馬鹿。
81 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 13:29:36
>>78 熱田神宮はやっぱり東海勢力抑えこむために作られたものなのかな
狗奴国は遺跡の状況から判断して関東北部あたりが妥当ではないかな。
83 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 19:45:40
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
84 :
490:2009/12/11(金) 23:12:31
>80 :朝日の最後は海面の上昇で放棄されたためといわれている。
いいえ、朝日の断末魔はたった今です。
85 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 19:47:12
新聞かTVかどっちの方だ?
86 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 23:28:34
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
88 :
244:2009/12/13(日) 23:54:45
>85
両方だろうけど、新聞の方が早いんじゃね?
89 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 07:09:01
90 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 21:22:16
狗奴国は、熊野や紀ノ川水系豪族の可能性が高いと思う。
大和川水系豪族の連合によって脅威を感じた木の国の豪族らが結束したのだろう。
抗争の原因は、瀬戸内海航路を仕切り出したヤマト王権に対する反発か?
似たような話が前スレ以前から繰り返されているが、
巻向(というより大和盆地勢力)が日本列島の覇権を握った最大の理由は、
東海(中京)勢力との交通を押さえたからだろうと思う。
おそらく、この東海(伊勢・濃尾)というのは、単独で考えるべき話ではなく、
中京地方が、三重県から宮城県まで続く、「東日本の太平洋側勢力」の出発地であり、
「東国弥生人の故郷」であることと、深い関係がある。
伊勢・濃尾から三河くらいまでを一手に押さえれば、
今でいえば「津から仙台まで」、
東海・関東・東北の太平洋側という広大な地域を一手に押さえることができ、
しかも、地形の関係上、西南日本の他の勢力は、
ここに直接手出しをすることが、全くできない(ここ重要)。
この地域は、弥生時代には進んだ地域とは言えないが、
平野が広く、土地が広大で、総生産を足し合わせると、
規模の結果かなり高かったと思われる。
西南日本は平地に乏しく、北陸は扇状地と沖積地しかなく
土石流や洪水から逃れる洪積台地が無いため、開発が難しかった。
92 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 22:47:40
反論ではなく質問なのですが
稲作が棚田中心から平野部に移ったのはいつ頃なんでしょうか
平野部は灌漑と洪水は紙一重なので難しかったときいてます
93 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 23:55:30
棚田のほうが古いの?
棚田のほうが耕作技術が要るような。
焼畑なら関係ないか。
>>92 日本の歴史26 寺沢薫「王権誕生」に
鋤の変遷から推測しているぞ。纏向の時代より後。
>>93 水平地に田んぼを広範囲に作り、
水路を整備するのは土木工事的に難しい。
扇状地に棚田を作るのが圧倒的に楽。
高低差がはっきりしている方が、水路を整備しやすい。
典型的なのが琵琶湖南部西岸の棚田。
纏向はどうなんかイマイチ良くわからん。
ただ後の時代は水路整備の技術が上がったので、
古奈良湖や古河内湖の縮退に合わせて
水平地に広大な田んぼを整備した。
河内に政権が移ったのはこの富が原因。
外国の使者を向かえるためにうんぬんってのは
単なる妄想の域を出ない。
巻向はなだらかな高低差があって水量も豊富だからな。
96 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 01:34:54
97 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 02:04:07
よく語られる纏向の立地を攻守の視点を変えて考えてみるw
例えば畿内・河内勢力にとってヤマト川水系上流を東海等の
東日本の勢力に抑えられたらそれは相当な脅威になるだろう。
遡上より下る方が楽なのは当たり前で
余談だが以前関西ローカルの深夜番組で
奈良からボートでヤマト川を下って堺の勤め先に
通勤できないかと言う実験をやってたが
まあ色んなトラブルに見舞われつつも夕方終業前ギリにはついとったwwwwww
しかし東へ攻めていく進出拠点にしろ、東からの脅威に備える防衛拠点にしろ
現在発掘されている纏向からはあまり軍事的な意味合いを読み取れないと言うのがネックかな?
そういえば武光センセーはどこかで纏向に対し「平和都市」と言うキャッチフレーズをつけてたがwwwwwwww
ちょっとメをいじりすぎた。w
巻向は宗教都市であり水銀産地の拠点だよ。
100 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 08:49:47
マキムクにしろ唐古鍵とさほど立地条件は変わらないんだし、特別に軍事的意味合いを強調する必要はないだろう。
単に交通の要衝だったということ。
各地の豪族が寄り集まって大規模な計画都市を造るのにはある程度の空き地が必要で、
それに適した場所として、マキムクが選定されたんだろう。
あと、古代の市は宗教的意味合いが強く、敢えて三輪山の麓という聖地が選ばれたのかもしれない。
101 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 12:10:03
525 :名無しのひみつ :2009/12/15(火) 12:05:47 ID:/aR7ALQl
> 今のところ魏志倭人伝に添った出土物は何もないだろ。
それゃあ倭人伝自体が出鱈目だから
魏志の倭人伝以外を見ても間違いがいっぱいあるというのに
なんで倭人伝だけが全部真実を書いてるといえるんだ
アホが多すぎ
103 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 13:06:29
たしかに魏志倭人伝に沿った出土物はないな。
104 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 13:09:01
使者はイト国で伝聞を聞いてただけだからな。
女王に合わせろ!って要求したとしても、当時小沢がいたわけじゃないし。
> マキムクにしろ唐古鍵とさほど立地条件は変わらないんだし、特別に軍事的意味合いを強調する必要はないだろう。
> 単に交通の要衝だったということ。
お前みたいなアホが書き込むなよ。
106 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 13:36:12
> 使者はイト国で伝聞を聞いてただけだからな。
それを読み取れない馬鹿が多くてしょうがない。
邪馬台国伝でも倭国伝でもなく「倭人伝」だからな。
畿内説では九州で何が出土しようと
何の問題も無い事ですよw
女王の都する処はヤマト、それで充分です。
仮にヤマイチでも全然OK,古市に大市、高市
畿内の古い地名は市だらけだからな。
109 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 16:51:41
なんかよくわからん理屈だな。
説によっても違うだろうが
魏志倭人伝がでたらめでまったく信用に値しないとすれば
畿内説自体存在しないことにならないか
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1259674044/ 学問・文系 [日本史] “謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!42”
211 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/12/07(月) 22:37:52
魏史倭人伝は、魏と親しい国を細かく書く一方で、呉と親しい国を一切無視だからな。
たとえば、192年に南方で区連が後漢に反旗を翻し、林邑を建国した。
で、子孫は呉に朝貢したが、これらの記事は『三国志』には一切見られない。
呉のあとの晋を扱った『晋書』では、「四夷伝」に林邑の項目があり、そこで触れられている。
邪馬台国が詳しく触れられているのも、べつに倭を代表する大勢力だったからではなく、
単に魏と親しい国だったから詳しく書いただけで、倭の主要勢力は呉と親しかったのかもな。
>>111 >魏と親しい国を細かく書く一方で、呉と親しい国を一切無視だからな。
誰だか知らないがこれを書いたやつ。
>魏史倭人伝
これが読めるか?正しくは『魏志』だがまあ意味は同じだ。
113 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 22:25:40
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
114 :
みむろもなか:2009/12/15(火) 23:31:15
>99 :巻向は宗教都市であり水銀産地の拠点だよ。
香具山には昔水銀鉱山があったと言われている。宇陀には大水銀鉱山が昭和まで稼働していたし、ウカシは水銀の露頭鉱床だった。
フォッサマグナに沿った水銀鉱山の集積地として巻向が選ばれた。水銀は当時の主要輸出品だもんね。
俺自身は三輪山には水銀鉱脈が走っているんじゃないかと疑っている。小子部のスガルの話もあるし。
99さん、話、合いそうだね。情報交換しない?
115 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:33:04
「ウカシ」ってヤマトの地名?
今のどこあたり?
116 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:38:08
>>94 >扇状地に棚田を作るのが圧倒的に楽。
農業を知らぬ者のタワゴト。
扇状地で簡単に稲作が出来るとでも思っているのか!
117 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:41:59
どっちなんだよ。
118 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:49:56
119 :
みむろもなか:2009/12/15(火) 23:59:34
そうそう、神武の東征で殺された兄猾の血が飛び散った所。
その血が水銀の露頭鉱床だった言われてる。
近くに中将姫伝説で有名な雲雀山があり、中将姫伝説そのものも、藤原氏が水銀利権を握った証拠じゃないかと思っている。
120 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 00:19:11
あと、関なんとかの、
藤原氏関係の陰謀説は、トンデモなんだわな。
藤原氏が渡来系? いい加減にしrとよと言いたい。
関は電波入ってるし。
122 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 02:23:12
>関
トヨ東遷説ってまったくわけわからん。
読者の反応リサーチしながら売れる本を書いてるんだろうが。
土蜘蛛なんて字の如く朱を知る虫なんだから、
神武が宇陀に入った事や、葛城の土蜘蛛退治の話は
まさに水銀をめぐる争いだよな。
で、土蜘蛛=土雲なんだから、やっぱり大和も本来は出雲なんだろう。
124 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 13:19:13
土蜘蛛は九州にもいますが?
>>124 そりゃそうだろ、土蜘蛛は本来出雲族の蔑称から、
次第に先住民の総称的な使われ方に変化したんだから。
土蜘蛛が出雲族の名称なんて記述はどこにもない。
蜘蛛の枕詞の話なんて結構意味深だけど。
「ささがねの蜘蛛」なんて未だにはっきりしないし。
よく糸に絡めた意味ととる説もあるが、
「ささ」は御陵なんて言葉にも使われてるしな。
128 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 14:33:48
あおのねえ、出雲と雲を絡めるのが、最初から間違ってるんですけど。
出雲は「イヅモ」=「イ+ツモ」
蜘蛛・雲は「クモ」
語源が全然違いますよ?
129 :
みむろもなか:2009/12/16(水) 15:33:20
日本古代史に占める水銀の位置は軽くはない。
魏志倭人伝における卑弥呼の貢納物の「真珠二樽」も、真朱で、水銀のことだというし、
古墳の棺の中は朱(水銀朱)詰めにしなければならなかったし、
神武の使いが香具山の赤土を水に入れたら魚が死んだというのも水銀のことだし、
神宮皇后のエピソードに出てくる天野祝とは、天野神社で水銀鉱脈の上にあるし、
伊勢神宮の経済基盤は水銀だったし、
光明子の光明は、光明砂で水銀からきてるらしいし、
天武の年号の「朱鳥」とは水銀砂の別名だし、
東大寺修二会のお水送りは、若狭彦神社から水銀を貰ったことに感謝する反復儀礼だし、
もうきりがない。
古代では水銀利権を握ったものが、支配者になったんではないかと・・・
99番さん、どう?
>>128 簡単に語源なんて判明すれば苦労しないよw
大体ツモの語源、意味は?
>>129 俺はスサノヲ=朱砂ノ王からの転化説をとってる。
132 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 15:59:52
>>129 99氏ではないが、水銀利権が三輪山麓を発展させたのはその通りでしょう。
九州説の人には理解できないでしょうがね。
古代史を語る上で、水銀は鉄と同じ位重要でしょう。
何故か今まで軽視されてきたけど。持運び出来る出土品とは違うのに。
畿内説においては鉄を求める対価としての財となるし、
九州の東遷説においても、何故東に向かう必要性があるのか?
という質問に対しての重要な項目なのにね。
134 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 18:26:54
中国では水銀は、秦の時代にすでに金属水銀が作られていて
様々に利用されていたわけだが、
当時の日本では美しい朱の塗料原料に過ぎない。
中国人からみれば重要な産品なのだろうが、
日本でそれほど珍重されていたのだろうか?
>>91 > 巻向(というより大和盆地勢力)が日本列島の覇権を握った最大の理由は、
> 東海(中京)勢力との交通を押さえたからだろうと思う。
纏向に王権が確立したのは敵対していた東国との対立が解消したことが大きいだろう。
その王権が東国支配に重きを置いたのは狗奴国とされる関東の支配者を恐れたからだろう。
纏向遺跡が誕生したのは、倭国大乱が関係しているが、
東国と敵対していたとか、そんなことは、とてもじゃないけど推測できない。
またまた、考古学者たちが、誤った推測に没頭しつつある。
もし、卑弥呼とモモソ媛命が同一人物なら
記紀などの系譜などから
倭寇大乱が東国との対立など想像出来ない。
どちらかというと、ヤマト(桜井市周辺)の西側の
葛木(御所市周辺)との対立だった可能性が高い。
>>134 水銀は薬でもあるし、船の防腐剤にもなるからな。
海人にとってはとても重要だからね。
>>135 単に東国への交通の要所なら、彦根や米原辺りもそうだからね。
でも巻向辺りが発展したのは、やはり紀伊半島の水銀鉱山の存在だろう。
狗奴国というのは、中古音でコノ国と読むべきであり
許乃国(この国)のことであり、
そこの男王卑弥弓呼とは、武埴安彦命のことである。
卑弥呼が死ぬ直前に起こった狗奴国の乱というのは
モモソ媛命の死ぬ直前に起こった武埴安彦命の乱のことである。
ちょうど毎日の夕刊にも巻向の記事が載ってたよ。
発掘された建造物跡が東西軸を揃えている点についてと、
水銀鉱山についての記述もあるね。
卑弥呼は水銀鉱山を管理していた存在ではないか?という説だったよ。
水銀に関しては、そこまで重視されるかなあという疑問があるなあ。
塗料としても、倭人が世界的に見てそんなに赤色に対して
宗教的・文化的に偏執する文化を持っていたとも思えない。
赤色は世界中で尊ばれてきた色で、大和族の嗜好は、まあ世界でも平均的だ。
かといって、船底に塗るほどの汎用品でもない。
古代中東のアスファルトのように、量をとれるものじゃないからね。
聖なる染料という一定の宗教用物質で、珍重されたものだろうが
鉄のように生産技術や軍事技術にかかわらず、麻薬のようなものでもないので、
それを理由に日本列島の覇権が決まるような代物ではない。
なんというか、「ベニバナの覇権で山形が首都になる」ようなもので、それはない。
141 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 21:16:24
朱は阿波のイメージがあるなあ。
>>141 重視すると思うけどなぁ。
貨幣、金がない時代で財としての視点からすれば。
143 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 22:04:05
>>140 出雲出土の柱は朱で塗られてたはずですが。
昔の神社ほど真っ赤だったと思うよ。
今は白木でも。
邪馬台国ヤマト説ならば、
九州は、ヤマト政権の支配下に過ぎないことになる。
なぜなら、魏志倭人伝には、
伊都国には、邪馬台国が一大率を設置して
諸国を監視していたとあるから。
古墳時代、畿内の朱は阿波産だった筈じゃ?
マキムクとか唐古鍵とかで辰砂採掘とか水銀精製の跡は見つかってるの?
>>145 畿内ではないが、弥生時代からの跡が伊勢にあるよ。
>>143 それくらいで宗教施設の世界標準としては平凡なレベル。
つうか、その後の日本の宗教施設の色彩忌避が、特異な変態的嗜好で、
易経第22「賁」の「白賁。无咎」を真に受けてリアル世界で実行するなどという、
中国人が聞いたら絶句するようなレベル。
彼らにとってはこれは、皮肉というかアンチテーゼであって、
真に受けるような代物ではない。
でも、染料で覇権が決まったなどという話は、世界にほとんどないんだよ。
金だって元々装飾品として使われてたはずだぞ。
149 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 23:37:26
>>147 実はね。水銀よりも重要な産物である塩が淡路を中心に瀬戸内海・伊勢湾では採れるんですよ。
九州では塩が取れないので輸入に頼るしかなかったんですなあ。
俺自身は魏志倭人伝の記述は最早ネタである(信用するに値しない)と考えるので、
まあどうでもいい話ではあるが、
倭人伝に引っ張られて、「狗奴国」を中京地方だとしてしまうのは、
中京地方の正しい位置づけという点で問題が大きいと思う。
これは、巻向の位置づけにダイレクトに響く。
中京地方というのは、考古学的分析のどれをどうみても、
「女王国『果つるところの』奴国」ではないんだよ。
かといって、今の名古屋人が勘違いしているような、
「名古屋は日本の真ん中・中央だぎゃー」というのも、全くの間違い。
「中央」でも「終点」でもなく、おそらく「東国の『起点(出発点)』」なんだ。
俺は、前にも書いたが、むしろ神話上の「出雲」との関連性を疑っている。
東国太平洋側の「出雲族」が、島根県出身というのは明らかにおかしいので、
在地なのだろうと思う。在地の出発点を考えれば、中京地方あたりになる。
倭人伝などよりも、こちらのほうがまだマシな気がする。
151 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 23:48:42
あほなこと言いなさんな。塩は海水があれば大抵のところで採れるよ。
152 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 23:53:17
>>150 おまえのような粗雑な頭の持ち主に倭人伝が読めるとは思えんな。信用するに値しない理由を述べてみろ。
島根は本来の出雲ではないよね。
狗奴国とは旧出雲族で熊襲、熊野、土蜘蛛‥
そう呼ばれた人々の総称だろう。
だから場所の特定とかは基本的に無理じゃないかな。
154 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 00:04:04
>>152 「地理書のくせに、イト国より先の地理的位置の確定が、どれもこれも全く不可能」
これに尽きる。本当にこれに尽きる。
倭人伝によれば、朝鮮の南から真南に数百km長々と伸びる、
謎の「アトランティス倭人島」を想定しなければならない。
なんでこの当たり前の事実を直視できないのか、
頭がよすぎる人の考えは、俺には理解できん。
鋭利な頭脳をお持ちのようだが、
倭人伝の分析なんて、無駄なことに使って「もったいない」ものだよ。
抜群の記憶力を、JRの駅名暗記に使ってしまった小学生のようなものだな。
156 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 08:39:58
阿波系土器が広範囲に拡散するのは、阿波の商人が壺に朱を入れて、各地に売り歩いたから、とされる。
マキムクの王権が、本当に宇陀の朱を権力基盤としたなら、何らかの痕跡が残っていて然るべきだろう。
157 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 08:48:43
出雲〜越の日本海側は、四隅突出型墳丘墓という他地域とは違う葬送儀礼で共通している。
何らかの政治的統合がなされてたと見るべきで、安易に土蜘蛛とか熊襲と同一視すべきでない。
あと、出雲の語源としてはイツ・モ、厳藻が有力だった筈。
>>156 各地の土器が巻向にあるのはその為かもしれないよ。
売り歩かなくても各地から求めてやってきていた
痕跡かもしれないし。
>>157 現出雲地方と熊野に共通の地名が多かったりするからな。
あと出雲は東や伊豆にも通じるだろ。
159 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 14:12:07
>>156 その阿波系土器の内面からは、朱が検出されてるの?
ソースは?
朱はどういう状態で壷に入ってたの?
原石?精錬した後?
狗奴国がどこかというのは、
魏志倭人伝と日本書記の記述内容を照らしあわせたら
狗奴国王の乱というのは、武埴安彦命の乱の可能性が高いんだよ。
箸墓古墳の研究の結果、
卑弥呼とモモソ媛命が同一人物なら
卑弥呼の死の直前に、卑弥呼と戦った狗奴国王。
一方、モモソ媛命の死の直前に戦ったのは、武埴安彦命の勢力だけ。
これは、青木慶一さんの説だよ。
で、狗奴国。これは、当時の中古音で発音したら、コノ国
と読んでいた可能性が高い。
武埴安彦命の領国は、山城の南部なんだけど、
このあたりは、山城国風土記によると。
許乃国(コノ国)と呼ばれていた可能性が高い。
狗奴国=許乃国説だと人物比定等では
可能性あると思うが、方角関係が滅茶苦茶なんだよな。
あとは邪馬台国の領域をずいぶんと狭く考えざるを得ないね。
163 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 21:52:31
崇神の頃に毛野国を平定した様子があるから、
ふつうに毛野国がクナ国だと思うが。
だから狗奴国も飛び地的に存在してたと思うけどね。
許乃国(宇治)が主幹地という事で。
その末裔達が散って、土蜘蛛や蝦夷やらの蔑称で
後世に呼ばれたとか。
その為倭人伝の記述も混乱してるとは
考えられるとは思う。
165 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 22:19:09
許乃国と毛野国は関係ないだろ。
九州説が消えたからって、畿内説で妄想すんな。
まぁそう言うなよ。
魏志倭人伝によると
卑弥呼の死の直前に、卑弥呼に反抗したのは、
狗奴(この)国王の卑弥弓呼(ひみここ)と、その副官の拘右智卑狗(こうちひこ)
日本書紀によると
モモソ媛命の死の直前に、モモソ媛命に反抗したのは
許乃(この)国の領主の武埴安彦命(タケハ二ヤスひこみこ)と、
その外戚で支援者の河内彦(かわちひこ)
つまりだな、
狗奴国王の乱=許乃国王の乱
>>161 そう。
まあ、畿内説自体、方角をある程度、無視した結果だしな。
まあ、ある程度、比定が確かな北九州の国の所在地も
魏志倭人伝だと90度くらい外れているし。
この時代の中国人って、方角に関して、見識がむちゃくちゃだな。
実際に、三国志の記述なんかでも、方角がずれまくっているらしいじゃん。
>>168 魏志倭人伝の時代どころか、日本の安土桃山時代の頃に
ヨーロッパで出版された地図ですら、方角はデタラメだったからね。
大昔の地理の方向感覚などが支離滅裂なのはやむを得ないだろう。
170 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 23:50:53
実際方角なんて重要じゃなくて、国から国へ通じる道を知ってることが重要だったんだよな。
古代においては。
実際魏使も、宇美からいったん南にいったんで、ずっと南だと思ったわけで。
倭が呉の太伯の裔だから、会稽と同緯度、近くだと考えたのが間違い。
お陰で、呉の孫権が派遣した軍団もほとんど戻らなかったんだよ
思考は安易に流れる。その方が楽だから。
マキムクが水銀の国だとか、ヒミココが武埴安彦とか、ほとんど根拠がない
話を学問板でするのはどうか?
172 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 15:38:26
ヤマトが水銀の産地なのは、
邪馬台国九州説よりも学問的だけど?
>>171 根拠がないことないと思うが...
武埴安彦命なんて、青木慶一が指摘していたしな。
まあ、邪馬台国九州説論者からしたら
けむたい説なんだろうけど...
邪馬台国九州説論者には、いろんなタイプがいるが
その一つのタイプに、記紀の神武の東遷を神聖化して
邪馬台国九州説を唱える者がいる。
が、それは、記紀の解釈を誤ってしている可能性が高い。
安本氏なんか、完全にその口。
175 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 17:02:28
安本がインチキなのは、
天皇の統治年代を数値化グラフ化して、天照大神を卑弥呼の時代とあわせたこと。
そこまではいいが、じゃあ、スサノオも卑弥呼と同じ時代の人物なのか?
スサノオの子孫の大国主は、4世紀の古墳時代に生きてたのか?
イザナギ・イザナミは、2世紀の人なのか?と、
矛盾が出まくりなんだが、その点を無視してるのが不誠実。
>>171 根拠が無い‥
宇陀水銀なんかすぐ横にあるけど。
日本語や地理が理解出来ない人でしょうか?
177 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 17:18:29
神武が宇陀の水銀利権で東征したことなんか、
説明するまでもないよね。
178 :
みむろもなか:2009/12/19(土) 18:00:06
ま、纏まったものとしては、
考古学選書「手の考古学」市毛勲・雄山閣
あたりが適当ではないかと・・・
179 :
みむろもなか:2009/12/19(土) 18:19:44
>178
ごめん、「朱の考古学」ね。
180 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 21:06:31
水銀なぁ…
貴重品には違いないけど
国を穫るほどのもんかな
まだまだ食いもんか武器でないと無理じゃね
181 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 21:56:33
宇陀の水銀はマキムクの一交易品に過ぎない。大規模な精製工場跡とかが出てくれば別だが。
土蜘蛛が朱を知るとか噴飯物だったんで苦言を呈しただけなんだが。
武埴安彦の話をどこまで史実と見るか?神武にしろ、都合よく記紀を抜き書きするのは学問じゃない
182 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 21:57:29
水銀は不老長寿の薬だって知らないのか?
183 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 22:27:41
権力者がそれを求めるだけで
持ってるからといって権力者にはなれない
184 :
みむろもなか:2009/12/19(土) 23:02:16
岡田英弘説によると、対中貿易の日本側業者代表が大王だそうで、
その交易品の一つが水銀朱だったそうだ。
まあ、阿波式土器や土蜘蛛はこの際関係ないと思うけどね。
詳しくは、「倭国」や「日本史の誕生」など著書多数あるから読んでみてね。
185 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 23:23:58
>>184 アマゾンのレビューみたけど、過激な内容らしいね?
安本の畿内説版といったところか?
>>185 >安本の畿内説版といったところか?
そんなのと一緒にしないでほしいな。過激は過激だろうけど・・・
文献屋だから、このスレ向きではないと思うが、おもしろいよ。
著述時期が古いので纏向にはふれていない。今書いたらどんな論旨になるのかね?
ところで、水銀朱についてなんて書いてあったかな?
187 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 00:10:08
どの本に水銀のことが書いてあるの?
>>181 土蜘蛛が「朱を知る虫」なのは事実だろ。
じゃなきゃ字の意味が無いじゃん。
神武伝承の宇陀ルートや、葛城の土蜘蛛退治話なんて
まさに奈良南部の水銀利権の争いだろ。
184ではないが、自分は岡田説は6:4くらいでは受け入れているけどね
北東アジアの中の倭国という視点がしっかりあるのがいいと思う
黄巾の乱→倭国大乱とか
帯方郡陥落→暗黒の4世紀とか
邪馬台国の遠距離、大国っぷりは大月氏に対抗するためとか
190 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 00:56:30
>>188 >土蜘蛛が「朱を知る虫」なのは事実だろ。
意味がわからんのだが。
ソースは?
191 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 00:59:54
九州の葬送に使用されてる水銀朱は中国産と聞いたが
>>189 おや、仲間がいてうれしいね。
あれはけっこうカルチャーショックだったんだよ。
交易が国家形成を促したというのがさ。
これは纏向の出現を論ずる場合の骨子になり得ると思うがね。
ただし、司馬懿顕彰説は疑わしい、と最近思っているけどね。
「蜘蛛」は中国語でもこのままだから、中国での語源を調べないと意味ないと思うけど・・・
>>192 自分は「倭国」を読んだだけなんだが
夏、殷の成り立ち、三韓の成り立ち、倭の成り立ちと一貫してるんだよね
まあ、一貫しすぎてるともいえるがw
>ただし、司馬懿顕彰説は疑わしい、と最近思っているけどね。
何故?
196 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 01:55:06
>>194 だから、そのソースを示して欲しいわけだが。
中国では蜘蛛は、「朱を知る虫」で、実際に辰砂を好む習性があるのか?
聞いたこと無いが。
辰砂を好む習性?
アホか、単に穴を掘る事の比喩。
だから朱の在り処を知る虫(昆虫ではないが)なんだろう。
蜘蛛はその二文字でその意味。
蜘が雄で蛛が雌を意味するとされる。
蜘蛛を思わせる話なら日本書紀にも
両面宿禰の話もあるな。
興味深いのは単に怪物の類ではなく、
飛騨の丹生川町なんかのように
英雄視されている地域も多い事だ。
198 :
194:2009/12/20(日) 02:32:41
199 :
縦目仮面:2009/12/20(日) 02:48:34
>>197 両面宿禰は手足8本の土蜘蛛で、まつろわぬ美濃、飛騨の首長?丹生川町は丹土の産地?
いいレスですね。三題噺になってます。
200 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 03:00:46
美濃は、後々まで大和朝廷に服属しなかったんですかね?
そんな証拠ありますか?
201 :
縦目仮面:2009/12/20(日) 03:24:26
>>200 そんなに詳しいわけではないから?をつけた。尾関章「濃飛古代史の謎」という本の帯に、谷川健一氏が、
>美濃、飛騨は大和朝廷にまつろわない異族の国である。両面宿儺はその首長であると考えられている。
その名は日本書紀に一度登場して、誅殺されたあと正史に姿を見せないが、濃飛ではいまでも敬愛され
ている。
と書いているね。
202 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 03:42:17
縦目仮面さん、考古学的な交流の有無の話かと思ったら、
本の帯だけが根拠ですか…
203 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 04:53:36
『大和・纒向遺跡』より
第3章 3世紀の「都市」纒向
2世紀末から4世紀前半にかけての約150年間、奈良県桜井市にそのころには珍しく
大きな都市が栄えていた。大和の神山=三輪山の麓にある纒向の地である。
・・・白木作りの高屋(高床式住居)が軒を連ね・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その時期だけ高床式に住んでいて、その後はまた竪穴に戻ったのか?
物を調理した痕跡は皆無だが、本当に居住用なのか?
てゆうか、ただの掘建て建物で人が住むレベルのものではない。重みに耐えられる柱でもないだろ。
イナバ物置のような空間に家族7〜8人が生活したのか?
出土した掘建て建物を具体的に示さないのはなぜ?
てゆうか、都市というのは、掘建て建物が少数点在しているところをいうのか?
204 :
美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/12/20(日) 05:28:00
土蜘蛛ってのは、百穴遺跡に住んでた類人猿の事で、太平洋沿岸に沢山伝承がある小人族の事だよ
マレーシアでは化石も見つかってる事とか知らないの?
記紀の記述にある通りの、固い岩盤の穴のなかに済む、毛むくじゃらの種族だよ
400年ぐらい前の東南アジアの目撃情報を最後に、もう化石や住居跡以外は発見されてないよ
絶滅した種族だよ
205 :
美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/12/20(日) 05:30:33
>>197 土蜘蛛族は確かに魏志倭人伝では朱儒族とかって書かれてるね
アイヌはコロボックルって呼んでたよ
世界各地に沢山伝承のある種族だよ
化石も住居跡も発見されてるよ
206 :
縦目仮面:2009/12/20(日) 08:28:58
>>202 いや、普段はこんなレスはあまりしないんだけど、
>>197に感心してね。
うわあ、師だ。w
>>195 魏志倭人伝に明記されている年号は景初二年(238年)から 正治八年(247年)。
この間、政権を担っていたのは曹爽です。
そして嘉平元年(249年)春正月甲午(六日)、
司馬派のクーデターが発生し、政権が交代する。
その後も倭国からの遣使があったことは「倭国」にも書いてあるとおり。
しかし、それは記録されなくなる。それは、政権交代による政策変更のためではないか?
このことから、この時期、対倭国外交を推進したのは曹爽政権ではないのか?
と思うのです。
>>203 だから宗教的施設なんだろう、それと水銀を使った交易の場で。
それにまだ発掘5%だよ。
209 :
縦目仮面:2009/12/20(日) 10:04:20
あんまり土地勘がないんで間違ってるかもしれないが、東山道ルート沿いのあたりは環伊勢湾文化圏として
4世紀頃にはヤマト王権に帰属してたんではないかな。それに比して、上レスの丹生川村のある飛騨・高山
方面は、やはり帰属は遅れたと考えられ、書紀の両面宿儺の記事(5世紀初頃か?)はその服属の象徴とし
て記されてるんだと思う。高山市の冬頭王塚古墳は5世紀台の円墳で、遺物の直弧文鹿装鉄剣は、宝器とし
てヤマト王権から地元豪族に授与されたものと見られてる。まあ、ヤマト王権のアメとムチムチ政策の一端
かな。
まあ、地元である師が詳しく語ってくれるだろう。w
両面宿儺についての話は奥が深すぎるからな。
でもこれはやはり旧出雲と関係の深い存在だろう。
211 :
縦目仮面:2009/12/20(日) 11:27:39
>>210 この飛騨・高山地方への北陸方面からの影響というのは、あとで暇があったら調べて見るね
水銀厨に聞きたいんだが、
ツチグモと争っていた時代の日本に、クモ=蜘蛛って漢字が存在してて、
漢字の意味をふまえてツチグモと呼んでたってこと?
古事記には土雲って書いてあるんだけど…
都知久母、土蜘、土蛛でも読みはツチグモでしょ?
213 :
縦目仮面:2009/12/20(日) 12:26:12
飛騨市あたりだと、富山、金沢に近いし影響はあると思うんだけど、この辺の弥生時代の資料は少ないね。
やはり住みにくい場所なんかな。今大学にいるんでちょっと本をあたったけど、弥生遺跡は飛騨川、宮川流
域に集中してて、弥生前期の開始は縄文時代に押されて遅れてるようだね。東海地方の貝殻による条痕文
土器がけっこう出てて、この時期は東海勢力下かな。
で、中期になって高山市を中心に独自形式の土器が出てくる。後期はそれまでとは逆に北陸系土器の影響
が強いようだ。やはり地理的にも東海、北陸両文化圏のはざまで、そう肥沃な土地でもなかったろうから、ヤ
マト王権との関係も遅れてたんだろうね。
>>212 その事はまさに「出雲」を仄めかしてると思うんだけどね。
215 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 13:41:53
>>212 水銀厨とか、ひとくくりにするな。
俺は、大和の水銀鉱山は古代大和でも利権の源だったと思ってるが、
「土蜘蛛」はまったく関係無いと思ってる。
「土蜘蛛」厨とは分けてくれ。
はっきりいって、迷惑だ。
216 :
みむろもなか:2009/12/20(日) 13:41:59
>197
書紀の神武紀に、神武が吉野で井戸の中から出てきた尻尾の生えた人(井光)に会ったと書いてある。
これは、腰に命綱を付けた丹生採掘者だという説があって、格好から見れば、まあ蜘蛛に似て無くもないか、と・・・
でも、自分的には水銀採掘と土蜘蛛とは直接関係ないと思うけどね。
土蜘蛛=水銀鉱山炭鉱者が
無関係とはとても言えないと思うけど。
丹生という土地に関連してる伝承がとても多いのに。
>>216 ナガスネヒコなんて名前も土蜘蛛そのもの。
まあ土蜘蛛とは「対立した」先住民を、
蔑称でよんだだけだと思うけどな。
協力者はそれなりの呼び方をしたけど。
>>217 >ナガスネヒコなんて名前も土蜘蛛そのもの。
「八束脛(ヤツカハギ)」って言う名の土蜘蛛もいますよね。
ヤマト王権を築いた人たちからみた身体的特徴に「脚なが」と言うところあったのですかね。
神武が吉野で会った「尾のある」人は国津神扱い。
で、その後桜井の忍坂でも「尾のある」人を成敗するけど
こちらは「土雲」と呼ばれてる。
今でも「出雲」と呼ばれてる場所はすぐ近くだし、
ここは勿論宇陀水銀の麓の場所だからな。
協力者も居たんだろうから「蜘蛛」とは呼ばないという事では?
220 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 16:32:06
宇陀で神武が戦った本命は土蜘蛛じゃなくて、エウカシなんだが・・・
ちゃんと記紀読んでるのか・・・?
>>220 宇陀を制する事に意味ある訳だが。
そこで兄が従わずに弟が従っただけの事だろ。
仮に兄弟どちらも反抗していたなら
単なる土蜘蛛成敗の話で終了だよ。
222 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 17:05:57
土蜘蛛は九州にもいるんですけど・・・
いても何もおかしくないけど。
かなり前のスレに、三輪山の裏から伊勢ルート、
しかも水路があって、伊勢には辰砂があるから、
東海製土器があるのは不思議じゃない、
木津でさえ、三輪山の裏から川を下った可能性があると書いた者だけど、
伊勢とマキムクの関係にはいろいろと疑問がある。
まず宇陀に初期古墳がないのはどうして?
伊賀上野にも。
伊勢西部がどういう文化圏だったのかはっきりしない。
伊勢北部(亀山より北)ともなると前方後方墳圏内がはっきりするけど。
その辺は、辰砂が宇陀のものなのか、阿波のものだったか、
とも関係があると思う。
225 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 18:08:43
マキムクの話に無自覚に神武伝承を出してるバカ、消えろ。
>>224 宇陀にある大王山遺跡とかはどう?
あと桜井の忍坂辺りも、何が出てくるか
解らない状態じゃないかもね。
227 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 19:01:37
宇陀に、豪族が出現するような地勢ではないんじゃないか?
山奥すぎて、大王直轄の採掘場の管理程度で。
228 :
みむろもなか:2009/12/20(日) 22:34:20
>225
まあまあ。巻向と水銀は切っても切れないし、神武伝承には水銀が濃厚にからんでいるからね。
宇陀はかって奈良でもっとも豊かな土地だった。
伊勢、熊野への交通の要衝で、林業薬種業、吉野川の海運、水銀生産もその一つ。
奈良で最初の自動車を買ったのは宇陀の人だったし、最初のバスが走ったのも宇陀。
「奈良県歴史散歩」だったかな。
229 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 22:42:26
そう考えれば、宇陀を抜きにしてマキムクの発展は語れないわけだな。
230 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 23:06:20
>>208 >それにまだ発掘5%だよ。
それは言い訳にならん。というか出てから主張しろ。
出る予定のものを主張すること自体が異常だな。
藤村が「神の手」を発揮したときも、出る予定の石器とやらをやたらと公表し続けた
人が居たな。そのとおりのものを藤村は掘り出し続けた(埋め続けた)。
君はそれが学問の王道という感覚なのかな?
231 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 23:20:48
>>224 >まず宇陀に初期古墳がないのはどうして?
馬鹿。あるんだぞ。見田大沢4号墳。
たぶん庄内期だろう。
>>230 どうせ何か出ても難癖つけるだけでしょ。
で、藤村という人が巻向の発掘に関与してるのでしょうか?
ゴッドハンドをいうなら、某「紙の手」の人が
九州説に関与してる以上は信用が無いですw
学問の王道を語るなら、「九州説の人」は、
まずこういう人を何とかしてからじゃないと‥
>>228 詳しいですね、戦前までは確かに豊かな土地でした。
鉄道線が予定どうり松山に延びていれば
また事情が変わったでしょう。
予断だが、10年位前に宇陀の山中で
本物のオリエント急行の客車が資材置き場に
何両か置いてあったのを見つけた事があって驚いた記憶がある。
あれは一体なんだったんだろう?
>>228 近代は関係ねえ
宇陀、宇陀
うるさいと思ったらそういうことか
235 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 00:58:40
236 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 01:11:29
やっぱり、宇陀といったら水銀なのは、
わかってる人はわかってるんだな。
さっきから一人だけ否定してる人がいるけど。
237 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 01:53:38
>土蜘蛛
記紀に描かれるその姿と言うのは…
背が低く手足が長く山野を素早く駆け巡る…というものだろうか?
これってひょっとしたら渡来系弥生人(新モンゴロイド)が縄文系弥生人(古モンゴロイド)と
遭遇した時の記憶なのかもしれない…と思う事があるwwww
以下のような勘違いしている奴も多いんだろうが
古モンゴロイド→彫りの深い顔立ち→白人ぽい→体も大きかったとw
実は寒冷地に適応した新モンゴロイドの方が身長は高かったわけで
「同じ種でも寒冷地に生息する個体のほうが大きくなる」
と言うのは生物学の「ベルクマンの法則」だったか?w
(まあ平たく言えば同じ100℃の湯でもコップ一杯のものよりバスタブ一杯の方がそりゃ冷めにくい
また中生代の恐竜が大型化したのもその方が体温維持に有利だったから…なんて話しもあるw)
まあ記紀にはこういった、どえらく古い記憶が混じっている可能性があると言うのも
”記紀のタチの悪さ”ではあるw
238 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 09:24:25
>>236 肯定してるのも2、3人だよ
水銀は高価だったろうけど貴重品ではない
ましてや必需品でもないからそれだけでクニがどうこうってもんじゃないだろ
いろんな要素のワンオブゼムにはなるだろうが
地元礼讃もいいが度を越すと笑えるぞ
>>238 >水銀は高価だったろうけど貴重品ではない
ましてや必需品でもないからそれだけでクニがどうこうってもんじゃないだろ
それは認識不足としか思えないな。
海人族には必需品ですよ。
大した鉄も発見されない奈良東南部に
3世紀以降、大規模古墳が発生し、権力が
集中したのはどう理解するの?
東国との交通が便利というだけでは、他にも
候補地は沢山あると思うけど。
しかしそれにしても宇陀の重要度は低いんだよなあ。
>>241のつづき
記紀や遺跡の上でね。> 重要度低い
国を左右するくらい重要なら、
鉄があった出雲のような国が、
阿波や宇陀にあっても不思議じゃないんだけど。
だから重要なのは重要だけど、
国がどうのこうのってレベルじゃないと思う。
>>242 この周辺の土地勘あるの?
だから宇陀の麓の三輪、飛鳥周辺が
発達したんだと思うけど。
244 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 11:34:06
低いところがズブズブだったからだろ
245 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 13:36:41
土地勘の無い人の意見は参考にならんだろうな。
関が原が重要だったのに、宇陀が重要で無いと言えるのか?
関が原からは鉄も水銀も取れないが、宇陀からは水銀が採れる。
246 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 14:08:35
土地勘あったら宇陀宇陀いわないよ
今でも陸の孤島じゃないか
日本最古と言われてる堂ノ後古墳は5世紀後半だって。
するとホケノは当然6世紀。
どうするのよ?
248 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 15:04:11
別に
箸墓は3世紀
249 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 15:21:20
251 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 18:12:08
どう足掻いても九州の目はないから
邪馬台国九州支部の道を模索しなさい
>>250 根拠も糞も、埋葬施設でも見つかったか?
>>252 じゃ、宮内庁に文句いえば?
あれはただの森ですとクレームをどうぞw
頭おかしい奴と記録されるだけだろうが。
254 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 18:34:41
いまのところ、邪馬台国と比定できる物は
箸墓には何もないってことかな
モモソ姫は卑弥呼を思わせるけどな。
256 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 18:46:37
思わせるだけなら、宗像三女神とか、宇佐神宮のヒメ大神とか
久留米の豊姫とかあるんだよな。神功皇后も。
さあ、どれだ
>>253 別に宮内庁にクレーム付ける事はないよ
宮内庁が何か喋ったか?
ペラベラ妄想してるのは、世間じゃないのか?
宮内庁が、あそこには埋葬施設がありまして云々
なんて発表したことあるのか?宮内庁関係の祭祀場所だから、宮内庁が絡んでいるのでは
先ずは涙を拭け
3世紀末に書かれた魏志倭人伝によると卑弥呼の墓は百余歩の大きさ
前方後円墳である箸墓は後円部だけでそれを解釈してますが、
箸墓の前方部は後に増築されたものなんですか?それともまだ築途中だったのでしょうか
まだ箸墓箸墓言ってるのか…
260 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 20:28:25
仕方ない事実だから
>>257 アホ、まず冷静に日本語位ちゃんと書き込めw
宮内庁が箸墓はモモソ姫の墓と比定してるだろ。
ここが森だと主張するなら、まず宮内庁に文句言えば?と
言ってるだけだよ。
箸墓=モモソ姫=卑弥呼=6世紀?
263 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 22:30:24
しかし、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫 とした場合、
先のレスにもあったが
狗奴国=許乃国
卑弥弓呼=武埴安彦
…になるんだろうが、記紀を読む限りアレって身内の喧嘩だよな?w
それを魏に報告すると言うのはどうも納得できないwwwww
アマテラスとスサノオも身内の喧嘩してるような
265 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 22:51:33
水銀で古代の真相がすべてわかった気になってるのはバカ丸出し。
もうちょっと落ち着け
昔そんな名前の政治家がいたな・・・・小水銀
>>265 しかしスルーは出来んでしょ。
卑弥呼の嗜好品ですよ。
268 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 23:26:22
スルーていうか、一交易品でしょ、水銀は。
マキムク王権の成立プロセスはさ、どこか一つの勢力が主導したとは思えない、っていう議論がまずあるんだよ。
いきなり、2世紀後半にマキムクという計画都市が生まれ、
周辺の拠点集落の環濠が一斉に埋め立てられ、運河やら古墳などの大土木工事が行われる。
非常に政治的な現象。
おそらくは卑弥呼共立という政治的決着で、出雲を除く倭国社会が大同団結した結果だろう。
水銀を押さえた勢力がヤマト王権になったとかの議論は、
結局、大和自生、大和中心史観や、筑紫東遷説とかわりばえのしない、古くさい説なんだと
>>268 だから何故奈良盆地東南部か、という話になるでしょ?
となると、この場所が選ばれる点という話では、
水銀鉱脈の存在は非常に重要なんですよ。
だってそれしか無いですから、ここには。
古臭い、なんて言って避けてる限り
君には古代史を語る資格ないと思いますよ、マジな話。
270 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 23:42:34
>だから何故奈良盆地東南部か、という話になるでしょ?
これなら水銀よりも、東海以東を見すえた地政学的観点からということのほうが重要だと思うけどね。
271 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 23:51:03
水銀は中国から貰っている。
丹はベンガラ。
272 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 00:21:55
ハリーポッターと賢者の石
273 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 00:42:19
>>269 水銀しかない、の意味が不明なんだよな。
大和川の上流域だし、当時の重要な陸路・山辺の道が傍を通ってるし、交易路の交錯する地だよ、マキムクは。
そもそも弥生の拠点集落、畿内経済ブロックの中心地の一つだった唐古鍵とマキムクは地勢的にほとんど同じ。
マキムクの立地が特殊で、水銀でしか説明できないというのが無理矢理。
>>270 >これなら水銀よりも、東海以東を見すえた地政学的観点からということのほうが重要だと思うけどね。
それなら現京都市南部辺り、琵琶湖南岸周辺だって
候補地になるでしょ?
日本海側にも近いし、水運の便なら
むしろそっちの方がいいはず。
水銀燈
>>273 交易する為に何が必要なんですかね?
山の辺の道がいつの時代に、何故あの場所なのかと
いう事を考えてみたら答えはわかるでしょう。
水銀馬鹿
宇陀にしたところで、初瀬川沿いの、対東海交易路として発展してたと思うけど。
水銀でないと駄目ですか?
>>274 それを言うなら、宇陀との近さで言えばマキムクよりイワレだと思うが。
>それなら現京都市南部辺り、琵琶湖南岸周辺だって
>候補地になるでしょ?
椿井大塚山や武埴安彦説話からも分かることだが、
当時の大和川水系と淀川水系は別国で、安易にそのルートは使えないよ。
>>279 >それを言うなら、宇陀との近さで言えばマキムクよりイワレだと思うが。
大差ないでしょ。それに当時の水運状況、信仰対象の山の存在もあるでしょうね。
>椿井大塚山や武埴安彦説話からも分かることだが、
当時の大和川水系と淀川水系は別国で、安易にそのルートは使えないよ。
それは対東国の立地条件とは無関係でしょう。
むしろ対立は水銀利権の争いじゃないの?
>>280 >大差ないでしょ。それに当時の水運状況、信仰対象の山の存在もあるでしょうね。
大差ないことないよ。イワレ地域の桜井茶臼山・メスリ山を知ってる?
柳本とは明らかに違う別の造墓集団がイワレ地域にいる。
>それは対東国の立地条件とは無関係でしょう。
意味不明。
>むしろ対立は水銀利権の争いじゃないの?
なぜそこまで水銀水銀言うの?
>>281 大差ないよ、水銀があるから近くに別集団の豪族がいるんだろ。
茶臼山なんて半端じゃない水銀朱が確認されたじゃないか。
>意味不明。
東国との連携を深めるだけなら、対立する集団も
淀川水系で交易場所を設ければいいだけという事です。
>なぜ水銀言うの?
水銀鉱脈が桜井、飛鳥方面に集中してるからだろ。
逆に何を交易の対象にしたのか聞きたいねw
284 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 09:44:35
こいつは水銀厨じゃなく宇陀厨なんだよ
まず宇陀ありきだから何いっても通じない
>>284 そんな事ないですよ、水銀厨ですw
偶々今は宇陀に話が集中してるだけで。
徳島や葛城山周辺も当然重視してますから。
3〜6世紀頃に関しては、奈良東南部を舞台にした
権力争いの主な要因の一つだと認識してるから。
286 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 10:07:50
水銀厨か…
でも宇陀にこだわりを感じるね
コメや鉄なら生存に関わるけど
嗜好品・贅沢品の水銀だろ
腑に落ちないんだよな
そりゃ宇陀が日本で最大の水銀産出地だったからね。
嗜好品、贅沢品というより、薬であり
貨幣以前の財だから重視してるんだよ。
宗教的視点でも、石室の頭部を重点に撒かれるのかを
考えてみたら、単に嗜好品・贅沢品の類ではないと思うからね。
それに国内でも貨幣が出現して、金が登場する事で
奈良は衰退してるでしょ?
288 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 11:12:17
>>288 新説なんか全然ないじゃん
自分の都合の良い部分だけを他の本から抜粋してきて
いい気になってるアホブログ
どうぜブログ主が貼ったのだろうが、アホ丸出し
290 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 12:12:07
どうみてもホケノ山の築造があとです。
ありがとうございました。
>>289 確かに時間と労力の無駄だなw
何も新鮮さも説得力もない。
単に旧来説の焼き直し、勉強不足だよ。
292 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 14:31:32
>>287 薬と言っても現在のように誰もが買えるわけじゃないし
効果もないんだから
実用品ではなく贅沢品だよ
それにある程度普及しないと財にはなりえない
宝ではあるかもしれないけど
294 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 17:01:34
日本史には欠けてる要素がいくつかある。
水銀もその一つだし、他にも通商だの外交だの、いくらもある。
客観的に評価して、包括的に解析に用いるべきだよ。
大化の改新だって、つい数年前まで、外交的要素なんか全く考慮に入れてなかったけど、
今は唐高句麗戦争の影響を考慮に入れないやつなんかいないだろう。
>>294 あと倭人が日本海を渡って半島南部を支配していたという視点な。
これが理解出来ないと日本の古代史は相当歪になる。
まあどっかの幹事長が未だにあんな発言してる位だし、
外交問題もあるから公には論じれないのだろうけど。
> まあどっかの幹事長が未だにあんな発言してる位だし、
あの人は朝鮮人だから、朝鮮人に都合のよい歴史しか見れないのよ
297 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 00:12:39
司馬遼の「街道を行く」の第2巻、韓国道だったかに、
南朝鮮の老人が、釜山あたりのやつらは倭人だから信用できないなんて言うシーンがある。
司馬遼のような、中国マンセーのヤツでもそう言っている所を見ると、やっぱ本当なのかと思ってしまう。
>>287 >嗜好品、贅沢品というより、薬であり
>貨幣以前の財だから重視してるんだよ。
なんじゃあそりゃあ
どんどん古代(誇大)妄想が肥大化してますね。
大丈夫ですか? お薬出しときます?
水銀が貨幣?
鉄鋌が貨幣として使用されてた説ならまだ分かるんですけど
299 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 01:37:52
そういやエンコリだったかDCだったかは忘れたが
「釜山のヤツらの顔は日本人そっくり」とか書いてたな。
オレから見れば半島人はどれも真四角だが、連中には別な視点があるようだ。
300 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 02:29:54
>>288 言いたいのは、
ホケノ山古墳が堂ノ後古墳より後に作られた
ってことだろ。
素直に事実を直視すれば、そのとおりだな。
ホケノ山の銅鏃が普通は中期に分類されるものだとか。
数世紀後の追葬なんていう異常な例外で処理した埋葬施設があるとか。
あの同向式神獣鏡の同型が全部5C以降とか。
普通にそれを考えれば、ホケノ山は5C以降だったってことだわな。
301 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 05:52:55
邪馬台国の支配領域が狭ければ「水銀」の重要度は高まる
邪馬台国の支配領域が広ければ「水銀」の重要度は低くなる
そして邪馬台国の支配領域は30カ国
302 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 08:07:28
優しく言っててもダメみたいだね
水銀なんてどうでもいいよ
産業資材としての価値はあるだろうがそれ以上ではない
頭の周りに撒いてたのも
重要なのは赤い色であって水銀を撒きたかったわけじゃないたろ
鉄由来の顔料で代替可能なんだから
>>298 じゃ、当時鉄や製鉄技術を求めるのに
何が必要なんでしょうかね?
鉱脈を押さえれば当然それを使いますけど。
>>302 最も貴重だったのが水銀朱だったからでしょ。
水銀の産業資材としては船の防腐剤としてでしょうか。
鉄由来の顔料で代替、ベンガラ?
宗教的要素に用いるなら代替品じゃだめですよw
それでは勢力を主張出来ないですね、何故墓が
巨大化していったのか理解しないと。
アホとしかいいようがないブログだからな
他サイトからパクって来て、一人悦に入ってるオナニーブログ
ホケノ山は確かに興味深い古墳なんだよな。
萩原1・2号との共通点から阿波出身者を埋葬したと言われてるが?
そうなると水銀を押さえた阿波勢力が初期ヤマト王権内に深く入り込んでいたことになるが。
伝承にあるように、本当に豊鋤入姫が被葬者なのか?
豊鋤入姫が倭人伝の台与だとすると、副葬品の鏡類が貧弱だし、三角じゃなく
画文帯だし、やはり違うのだろう。
後世、アマテラス信仰の高まりのため?か、追葬施設やら堂ノ後などが造られたんだろうし、
古代人にとってホケノは重要な墳墓だった?
307 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 09:53:15
ブログは糞でも
ホケノ山古墳が堂ノ後古墳より後に作られた
事実は動かせないな。
>>307 庄内が出てるし、それはないだろ。
周濠の問題はどう解釈するか?になるが、おそらく後世造られたでいい
と思う。
309 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 10:24:32
土器は移動が簡単に出来るが
周濠だけ後世造られたは?
>>303 水銀が当時貴重だったのはそう。
ただ「すべては水銀で説明できる」とか気持ち悪いことを言うから馬鹿にされるんだよ。
水銀は大和王権の一要素でいいんでは?
>ホケノ山古墳が堂ノ後古墳より後に作られた
事実は動かせないな。
それは100%無い。
>水銀は大和王権の一要素でいいんでは?
じゃ、とても重要じゃないのか?
茶臼山の石室で水銀朱が200kgも
使われていたというのは事実だからな。
少なくとも軽視する人は古代史を語る資格はないですね。
丹生を追いかける事は東遷論を語る上でも重要なのにねw
丹生氏の本拠地、和歌山北部に伊都、那賀、志賀
なんて地名が集中してますよ。
313 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 10:51:52
>>308 庄内の編年が誤っていた可能性もありますね。
>>311 大量に使われたのは大量に採れたから、とも言えるよな。
なんか感情的になってて、理性的な判断できてない感じが。
軽視してないし、そういうファクターもあるでしょう。
確かに今まで水銀は軽視されてきたかもしれない。
これで満足?
せめて、唐古鍵やマキムクから水銀朱の精製の痕跡が見つかっていればな。
前方後円墳の祭りに阿波の影響が強いと言われていて、それは阿波が水銀利権で
発言権を持っていたからと考えるのが自然。
マキムクが宇陀の水銀で権力を確立した、というのは無理があるだろ。
ていうか、「水銀ですべてを説明できる」と過信するのはゆとり教育のなせる業?
シンプルなものに飛びついて「わかった」と思い込み思考停止。
宗教っぽいな。
>>314 過去に軽視されすぎだと思う点は同意ですね。
>>315 水銀で全てを説明出来るなんて言ってたかな?
軽視しちゃダメですよと言ってるだけですよ。
勝手な解釈は止めてねw
マキムクが宇陀の水銀で権力を確立した、というのではなく
3〜7世紀に奈良東南部に豪族達が集中したのは、水銀鉱脈の
存在があるのは明白だと思うだけですな。
他に何が在るのか教えて欲しい位です。
それに当然阿波勢力も重要視してますけど。
>>316 大和川水系の流通。瀬戸内海航路を経て西国に通じていて、それが陸路に切り替わる船着場。
盆地中央部が湿地で、山沿いに縄文弥生から集落が点在。それを結ぶ交易路が山辺の道。
初瀬川沿いに東海に。山を越えて紀ノ川水系に。
マキムクは当時の交易路の交錯する交通の要衝。まずそこから理解すること。
あと、吉野の木材資源や、大和湖跡の湿地帯を灌漑工事で開拓するなど。
>>316 しかしまあ、二時間かけてこの程度のレスじゃ、勉強不足というか。
君の思う大和王権の成立プロセスってどんなの?
水銀水銀言うだけじゃ建設的でないし
>>317 で、その条件じゃ河内南部、京都南部、琵琶湖南岸も大差ないですよね。
>>318 アホ、パソコンに貼りついてたとでも思ってるのかw
大和王権の成立プロセス?
じゃ、水銀厨らしいレスしてやるよ。
当然水銀を求めて各地の豪族が2世紀に集まったんだよ。
で、最終的には神武東征の記録なんて正にその軌跡を
脚色したものだろう。
採掘権を取られたのが出雲族で、協力者は国津神、
逆賊は土蜘蛛扱いだな。
当然水運の便や灌漑工事の件なんて今まで散々語られた基本中の基本だろw
>>319 水銀で頭がおかしくなった宇陀出身者か
まともに相手にして損した。
>>320 まともに相手してくれてたのw
どのレスがまともなのかな?
じゃ、もう一つ水銀厨らしいレスを。
スサノヲとは「朱砂ノ王」なんですよ。
>>278 > 宇陀にしたところで、初瀬川沿いの、対東海交易路として発展してたと思うけど。
宇陀は分水嶺の向うなんで、
木津川水系の宇陀川沿いだよ。
マキムクとの往来はあくまで陸路。
長谷寺から初瀬街道に沿って峠越え。
ヤマト南部と対立した木津とは水路で行き来できるが。
宇陀の水銀がクニを左右するほどのものだとしたら、
記紀上も遺跡上も貧弱なことの説明がつかない。
天神山など初瀬川上流も古代の逸話の少ないところ。
>>228 吉野川の水運の奈良側の根拠地は、御所、高市あたりだよ。
>>319 オオヤマトが当時湿地が急速に拡大して、
稲作が傾斜地から湿地の開墾に変貌した時代の有力地だったんだと思う。
河内で湿地が拡大したのはもう少し後の時代。
>>322 >宇陀の水銀がクニを左右するほどのものだとしたら、
記紀上も遺跡上も貧弱なことの説明がつかない。
宇陀そのものというより、そこの採掘権を押さえる事が
重要なんですよ。後世も鉱山そのものが
都になった例はないでしょう。
>>322 初瀬川沿いが陸路なのは当たり前だろ。
こんなことまでいちいち書かなきゃならんのか…
まあなんていうか「水銀厨の誇大妄想はチラシの裏に書け」ってことだな。
まともなソースもないし、思い込みばかり。
スサノヲの「スサ」は「荒ぶ」からきてる説の方が信憑性があるなあ。
スサノヲは暴風雨の神なんだとか。
こんなのは何とでも書けるし、日本史板には相応しくないと思わない?
自信満々で出してくるあたりが痛々しい。
古代、水銀朱なら阿波>宇陀。
大和王権は徳島県で産まれたって言うならまだ分かるけど。
残念。
>>326 ソースが要るような事かいてるかい?
日本最大の水銀鉱床は宇陀ですよw
まあスサノオの件は思いつきだが、
ヤマタノオロチ伝承は何故か大和盆地の東南部に多いんだよ。
巻向東部に出雲という地名が古くからあるのも
紛れも無い事実だしな。
>ヤマタノオロチ伝承は何故か大和盆地の東南部に多いんだよ。
ソースは?
>>328 思いつきを書くなばか
おまえ、これからHNを水銀厨で書いてくれないか
NG設定するからさ
>>329 有名な所では東南部ではないが、大和郡山の山田にある杵築神社。
ここはそのものズバリでヤマタノオロチ伝承がある。
あと桜井の江包・大西神社のお網まつりも興味深いぞ。
箸墓のすぐ近くで、上流(つまり初瀬の方)から
スサノオとクシナダ姫が流されてきて、当地で結ばれるという話だよ。
あと確認が取れていない話も何個かあるね。
>>330 ヤだねw
興味なけりゃスルーすればいい。
332 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 17:27:20
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
333 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 17:49:02
しかし東遷厨の中の人も大変だな
一方では…
ホケノの小形丸底壷を布留としつつ
他方
須恵器や象形(鳥形)埴輪の出ている堂ノ後をそれより古いと言うのだから
もう相対年代もあったもんじゃない、グチャグチャww
334 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 18:03:51
>>478 縄文人の中の人
>おまえの畿内説を改めて説明してみろ。
甘えるなクズw
お前にも何回も説明したぞ?
ボランティアでボケ老人の相手をしなきゃならない義理はない。
もう忘れたのなら過去ログ漁って来い。
説明をねだるなら俺が興味を引くネタでももってこい。
そうすりゃバーターで考えてやるwwwww
鐙の件で布留1を4世紀初頭に求めるは可能だと思うが
それを不可能とし
4世紀半ば頃とするような合理的な説明があるのか?
またあくまで5世紀以降というのなら先に言った
「馬匹文化の空白地帯」の問題にも答えろ。
それに答えず関係の無い年輪年代の話しでイチャモンつけられてもなあ…w
335 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 18:05:51
336 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 18:08:51
おちつけよ
なんだか笑ってしまうなw
>>331 それだけで
>ヤマタノオロチ伝承は何故か大和盆地の東南部に多い
は言い過ぎだろ。
ていうか嘘書いたのか?
そもそも神は習合するし、もとは別の神だったのが、記紀神話成立後名前を変えるケースは
よくある。
338 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 22:46:49
カッコいい話は真似したくなるしな
339 :
みむろもなか:2009/12/23(水) 23:13:11
>315 :せめて、唐古鍵やマキムクから水銀朱の精製の痕跡が見つかっていればな。
まあ、あまり水銀だけに拘るものどうかとは思うけど、315さんのご要望にお応えして・・・
石野博信編「大和・纏向遺跡」学生社 P16に、
纏向辻地区の3−4世紀の河床遺跡から、水銀朱の加工用の石臼が出たことが書いてあるよ。
それと日葉酢媛陵から水銀朱用の石臼石杵がでている。
一度考古学選書「朱の考古学」雄山閣くらい読んでみることをお勧めするね。
>>339 いやさあ、大規模なのが出てないと意味ないっしょ。
奈良盆地南東部が栄えたのは水銀だけが原因だと仰るなら。
極端な水銀至上主義をたしなめただけだよ
>>316 >マキムクが宇陀の水銀で権力を確立した、というのではなく
>3〜7世紀に奈良東南部に豪族達が集中したのは、水銀鉱脈の
>存在があるのは明白だと思うだけですな。
>他に何が在るのか教えて欲しい位です。
こいつの言ってる大和王権の成立プロセスはどうなんだろ?
水銀のゴールドラッシュみたいなのがあって、各地から人や物が集まって、
大和王権になったという。
水銀採掘で人がいっぱい集まったとうのは百歩譲って理解できるとしても、
拠点集落の首長層(豪族)が故地を捨ててまで集まってくるというのが
どうにも理解できないのだが。
水銀は重要だが、絶対的なものではないと思う。
地理的にみて、大和盆地というのは、周囲から見たら山の上にある
軍事的に攻められにくい土地だった上に
当時は大和湖が存在していて、水にも恵まれていた。
(その後、大和湖が枯れたので、琵琶湖の水を使いやすい山城に
首都を移転したと思われる。
>>337 何処が嘘はなんですかね?
>>340 水銀「だけ」なんて言ってないですよw
>>341 じゃ、他に何があるんですかね?
何度も既出だが、交易の地理的要因や当時の田畑適地の
問題とかは理解してるつもりだし。
>水銀採掘で人がいっぱい集まったとうのは百歩譲って理解できるとしても、
拠点集落の首長層(豪族)が故地を捨ててまで集まってくるというのが
どうにも理解できないのだが。
別に捨ててまでは来ないでしょ。
中央集権といっても故地はそのままなのは
後の歴史でも証明出来ますしね。
>>342 大和盆地が周囲から見たら山の上?
ちょっと理解できませんね。
それと大和湖の存在は縄文期まで、
弥生中期には湿地帯ですよ。
>>344 おまえ、土地勘ないね。
大阪府などからみたら、大和盆地というぐらいだし、
山の上にある感じなんだよ。
大阪在住の人間なら、よくわかるわな。
>>345 俺も大阪だけどw
君からみれば京都盆地も山の上なのかい?
それに土地勘だけじゃダメだね。
当時の河内ならそれこそ湖ですよ。
山の上の表現は変だね。
>>340 水銀「だけ」なんて言ってないですよw
>>341 じゃ、他に何があるんですかね?
こいつ馬鹿か。自分でまったく逆のことを言ってることに気づいていない。
HNつけりゃあ見逃してやるのに
>>347 本当に理解力がないバカなんだね。
対東国や日本海側、瀬戸内を介しての大陸交易に有利な水運の存在、
攻められ難い地形、灌漑工事による田畑適地の存在。
ここまでなら他にも候補がある。
それプラス「水銀鉱脈の存在」が近いから、
奈良県東南部に権力が集中したんですよ。
アホ相手は疲れるよ‥
>>348 いやだからさ、その水銀至上主義が気持ち悪いんだって。
なぜそこまで水銀にこだわれの?馬鹿なの?
>>349 反論出来ないなら感情論ですかw
まあ重視してるのは事実だけど
至上主義ではないな。
>>348 奈良南東部なのは、その当時中央部が湿地帯だったからだろ。
東海や奈良北部、京都南部の政治勢力の影響もあるかもしれない。
水銀でしか説明できないとかは馬鹿の妄想。
>>346 大阪から奈良にドライブする時、どうなる?
>ここまでなら他にも候補がある。
そんなことを言えばそうなるでしょ。
地勢的に政治権力が生まれる候補地はいっぱいあって、
なぜマキムクが選ばれたかは、「たまたま」の可能性もある。
何が何でも水銀を理由にしたいなら、マキムク=水銀の根拠を提示してもらわないと。
水銀は重要だけど
人間は別に水銀がなくても生きていける。
人間にとって重要なのは、水と食料。
>>343 >別に捨ててまでは来ないでしょ。
>中央集権といっても故地はそのままなのは
>後の歴史でも証明出来ますしね。
いやさ、初期前方後円墳の分布から考えても、故地に本拠を残したまま出張って来てるとは
考え難いんだよ。あくまでマキムクに巨大な王権が誕生し、それが各地に拡散している。
>>351 河内南部、奈良県王寺町辺りでもよかったんじゃないか?
>>352 どうなるの?
私の場合は生駒を越えるかR25の亀の瀬を行きますけど、
山へ行くという感覚は無いです。
山へ行く感覚は、信貴スカか名阪国道、吉野辺りを走る時ですね。
六甲から大阪平野を眺めたら
大和盆地というのは、大阪平野の背後の山の上にある感じだよ。
そこには、葛城(高天原)もあるしね。
>>353 簡単にいうと、巻向という土地が
宗教的要素が強いと思うからです。
となると朱の中でも特別な物である水銀朱を
産出する場所に近い方が、やはり選ばれると思うからね。
>>355 そういう考えはあると思いますよ。
360 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 07:51:29
水銀が宗教に欠かせない物だったのか?
>>360 そうだよ。飲む場合は不死不老の薬、
墓に塗るのは復活を期待しての防腐と魔除け。
363 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 10:47:00
>>362 薬にしろ石室に塗りたくるにしろ
普遍性はあったのか
他の地域も同様であって初めて価値をもつ
>>363 吉野ヶ里で支配者層のカメ棺に水銀朱が見つかり、
重視されはじめたのが最初だよ。
後平原、吉備の楯築、丹波の日吉が丘の
全て支配者層の墓でも確認されてるだろ。
最大は今のところ桜井の茶臼山の200kgだな。
それまでは楯築の30kgだったか。
365 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 11:39:51
ベンガラを使ってる古墳も多いが
下位互換がある心の広い宗教なんだな
まあ水銀という切り口は、纏向立地条件のひとつとしては面白いし
あながち間違いではないかとも思います
しかしそれだけでは説明がつかないのですよ
ならば何故わざわざ未曾有の大規模土木工事を敢行してまで
新都市を建設したのか
唐古・鍵の再開発ではなぜ駄目だったのかなど
もっと重要な疑問があるんですよね
当然力のある支配者層が水銀朱を大量に使ったからな。
これが産出地に豪族が集まる理由でもある。
368 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 11:55:04
水銀朱でもベンガラでもいいとしたら
水銀朱ではなく赤という色に意味がある
と考えるのが自然ではないのかな
369 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 11:57:55
>>366 ワンオブゼムなら問題ないんだよ
絶対に関係ないなんて言ってない
十分条件だっていう人がいるからさ……
>>368 自分もそう思います
一時期の出雲では、青が使われていましたから
ただ赤の意味を深読みする必要はないかもしれません
単なる流行か、派手に見えるかがまずありきで
その後に意味が付け加えられていった可能性もあるからです
今のところは、当時の人は赤が好きw・・・程度でいいのではないかと
>>366 推測ですが、唐古・鍵は水害でやられて最終的に
再建を諦めたのではと思ってます。
それに唐古・鍵が水銀を売り物にしていたとは
思えないので別勢力でしょう。
やはり東に向いてきた勢力が、合同で巻向に
新しい都を造ったと考えますね。
>>368 しかし今のところ水銀朱が確認できるのは
「支配者層の墓」に限られてますよ。
>>371 いえ唐古・鍵は纏向建設とともに再開発され
出身によって居住区も分けられた計画都市へと変貌して
ある意味過去をしのぐほどの最盛期を迎えます
(これを自立的隆盛と見るか他力とみるかで、最盛期の評価は変わりますが)
それと纏向はご存知のように、東海系土器の出土が外来のなかではダントツに多いんですよ
「東に向いてきた勢力」のみが主力というのも考えにくくありませんか?
この文体、、、まさかあのお方が帰ってきたとか
>>373 私は他力説ですね。
「東に向いてきた勢力」が入ったのは、後々権力を
握ったのは間違いないと思うレベルです。
えっと・・・ハンドル固定にしときますか?
なにせ3年ぶりの帰国&2chですので、最初は名無しでと思ってましたが
>>375 私も他力だとは思うのですが
「東に〜」ってどの地域を想定されておられますか?
北部九州、出雲、吉備、讃岐etc・・・多々ありますが
それらをひっくるめてでもいいのですが
なかなか地元大和も東海、北関東も北陸も
近いところでは河内、近江、丹波なんかもかなり重要な役割を果たしているのではないかと思いますが。
これはマジであのお方が帰ってきたのですか。
ぜひともハンドル固定にしていただきたい。
では年末年始帰省限定ですがw
あとトリップ何だったか忘れましたので・・・違ってたらごめんなさい
また夜にお邪魔します
それと、久しぶりの邪馬台国関連スレでしたが
議論内容が桁違いにレベルアップしていて、心から感服しました。
かつての倭人伝暗号解読ごっことは雲泥の差です。
私も皆様の意見を拝聴して、ぜひ己を高めたいと思っています。
どうぞ宜しくお願いいたします。
>>376 倭国大乱の結果だと思いますからね。
吉備辺りを中心にした瀬戸内が主勢力でしょうか。
北部九州は和歌山北部と関係が深いのではと考えてます。
>>378 うあ、本当に老教授だったのですね。
では、夜にでも
>>78の解説をお願いします。
381 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 14:59:40
老教授復活記念あげ
今夜楽しみだ
382 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 15:42:20
老教授氏に質問です
箸墓の鐙について最新の情報を教えてください
教授の考えも一緒に
>>378 私は日本史スレはここ半年の新参なので一応挨拶を。
ここでは水銀厨と呼ばれてますけど、別スレでは
丹波厨とも呼ばれてますので。
むしろ水銀より出雲や丹波に拘ってますね。
>>383 > ここでは水銀厨と呼ばれてますけど、別スレでは
では、私は製鉄厨になろうかな。
奈良盆地南部は中央構造線に近いので以外と鉱物資源が豊富そうです。
年代が定かではありませんが、纏向でもスラグや鞴羽口などの鉄器生産関連の遺物でています。
同時代の北部九州、出雲、丹後等に比べれば多寡が知れた量かもしれませんが、
そして、三輪山周辺は砂鉄の産地です。
纏向が王権の地に「選ばれた」のは、交易上立地以外に意外と鉱物資源の採取が容易そうな点もあったのかと思います。
ちなみに、私は纏向建都の主体勢力は河内からの「東遷」勢力ではないかと考えています。
>>371 > 推測ですが、唐古・鍵は水害でやられて最終的に
> 再建を諦めたのではと思ってます。
倭国大乱が終わって、
沼地の中の環壕都市が必要なくなったんだよ。
>>384 基本的に私も同意見ですよ。
奈良での鉄に関しては、竜田川流域や亀の瀬周辺も
そうですね。後の大県地区もそうですが、
現金山彦神社のある信貴山周辺等は、今でも不明な点が多いです。
>>385 環濠を再発掘しつつ、最終的には放棄されたという印象をもってます。
>>378 >暗号解読ごっこ
ううむ、俺以外にも使う人間がいたのかwwwwww
もっとも、使い出したのがそっちが先だったのなら今後は
「暗号解読ごっこ (C)老教授」とでもするかな?w
倭人伝も本当は暗号でも何でもないんだよね。
女王国と邪馬台国を混同してる事でおかしくなる。
素直に書かれた見聞録だろ
公的な史書がか?
三国志は陳寿の私撰
結局女王国は共立国の総称でしょう。
395 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 17:49:08
老教授です
鯖規制で書けません
携帯からだとこれだけうつのに一時間ちかくかかりました
解除されたらまた来ます
申し訳ありません
396 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 17:52:43
お!老教授が来てたのか?
あの頃は、俺が老教授に噛み付いて徹底的に畿内説を叩きつぶしたもんだ。
またいっちょ揉んでやるかな。
もう畿内説つぶすのは無理ですよw
398 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 19:42:51
え?
そんなこと無いでしょ?
399 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 20:06:19
>>396 あのころはってw
別に老教授は「議論」なんかしにきてたわけじゃないから「論破」とかあり得ないだろうw
過去ログくらい見てごらん。
>>398 巻向遺跡の発掘もそうだが、
桜井茶臼山古墳の件でほとんど駄目押しじゃないかなぁ。
401 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 20:41:17
桜井茶臼山古墳は出土物から
被葬者は女性のような気がする。
ただ石室、葺き石とその規模の大きさから
王権初期ではなく、かなり国が安定して
大きくなってからの物だろうね
女性であの水銀朱の量なら卑弥呼という可能性もあるよw
403 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 21:42:39
>>399 老教授は総スカンだっただろ。
邪馬台国は九州だっていくら説明しても理解できなくてさ。
>>403 てか、お前ダレ?
自意識過剰じゃねーの‥
老教授キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!
406 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 22:29:14
老教授、カエッテ・・・
┏━┓ ┏━━━━━┓ ┏━┳━┓
┏━┛ ┗━┓┃ ┏━┓ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃┃ ┗━┛ ┃┏━━━━━━━━━┓ ┃ ┃ ┃
┣━ ━┫┃ ┏━┓ ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃┗━┛ ┃ ┃┗━━━━━━━━━┛ ┗━┻━┛
┗━┓ ┏━┛ ┃ ┃ ┏━┳━┓
┗━┛ ┗━┛ ┗━┻━┛
ろ、老教授復帰、熱烈歓迎!!!
>>403 ばかだね。おまいが総スカンくらってたんだわな!
407 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 22:37:52
アンチって醜いね
408 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 23:22:00
>>402 個人的にはある時代までの古代日本社会は
それこそそこら辺に「プチ卑弥呼」や「プチ壱与」がゴロゴロしていたんじゃないかと思っているので
茶臼山や箸墓の被葬者が女性であっても驚くに当たらないw
むしろ自分の考えを補完してくれる材料でむしろウェルカムwwwwwww
「朱」で言えば大量に使われていたとされる楯築も
出てきた歯で被葬者が女性とも言われてたっけな・・・
>>403 ゴメンナサイ…
俺も理解できません。
むしろ御高説を伺えば伺うほど
九州説とやらのアヤシサを感じるんですがwwww
409 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 23:30:00
畿内で出土する画文帯は呉鏡。
これは、畿内が公孫氏と関係していたことを示す。
卑弥呼が畿内にいた場合、
公孫氏が滅んだあと、すぐに魏に朝貢したというのでは、心証が悪すぎる。
>>408 しかし200kgはちょっとなあ、
産出地の麓なら当然かもしれないけど
当時の神仙思想の影響ならさ、丹>金だよ。
あぁやっぱり水銀にはこだわってるなw
でも「その山に丹あり」とある以上、
これは畿内説有利な条件には違いないですから。
>>409 逆に言えば公孫氏の下にあった畿内ヤマトは
公孫氏の滅ぼされるのを目にして次は自分達かと戦々恐々。
それがあの素早い行動に繋がったとも見えるなwwwww
412 :
みむろもなか:2009/12/26(土) 00:51:09
>410 :でも「その山に丹あり」とある以上、これは畿内説有利な条件には違いないですから。
九州にも、大分を中心とする九州南部鉱床群、佐賀を中心とする九州西部鉱床群があります。
特に、大分市南の丹生遺跡は有名。丹生式土器は年代基準土器じゃなかったかな。
私も色々考えてみたけど、朱を邪馬台国論争の争点にするのは無理でしょう。
>>412 >特に、大分市南の丹生遺跡は有名。
そんなに有名じゃないよww
理由:大分に詳しいおれが言うんだからそうだろうw
>朱を邪馬台国論争の争点にするのは無理でしょう。
「朱」といえば畿内というイメージがある。
ま、九州にもあることには、あるだろうが・・・マイナーだなw
414 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 01:13:01
大分と佐賀は丹生神社のルーツだからね
>>412 当時大分に水銀発掘跡は確認できませんよ。
例えば吉野ヶ里や平原での水銀朱は中国産とされていて、
出雲、丹波の墓のものは、徳島か伊勢で一部中国産。
杵築のものは産地不詳で、おそらく各地のものが
ブレンドされているといわれてます。
畿内は勿論徳島と伊勢、宇陀のものです。
弥生後期〜古墳前期で他地区の物は、現状では
確認されてないはずですよ。
416 :
みむろもなか:2009/12/26(土) 01:15:47
あなたは知らないかもしれないけど、丹生遺跡は有名ですよ。
私は関西在住ですが、丹生大地のことは20数年前から知ってます。
九州の丹生神社のことを調べたことがあるので。
まあ、灯台もと暗しって言いますけどね。
>>416 そこの「丹」は何時頃採掘されていて、
何処でどのように使われたのでしょうか?
本当なら興味深いですからね。
なんか、そろそろ空海のお話でも出てきそうな勢いだなwwwwwww
いや、この時代中国目線で丹の意味を語るならまず神仙思想だろ。
最低抱朴子辺りは念頭におかないとね。
420 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 03:38:45
除福が紀元前2世紀に来てたから、水銀を探し回ったろうな。
除福といえばまず吉野ヶ里だしね。
首長層の墓には中国産水銀朱が使用されてる。
そこを起点に弟子や影響を受けた人物が各地
散って(あるいは最初から漂流して各地に)いった
という流れでしょう。
そうなるとやっぱり水銀朱(丹)が重要な意味を持つからね。
それが最終的に産出地の麓に権力が集中してるのだから
判り易い話だと思うけどな。
大和では縄文中期のベンガラ用の石皿が見つかっていて、
ベンガラ好きが中国の影響と言えるかどうかかなり微妙。
伊勢でも縄文時代から使ってる。
>>422 ベンガラと水銀を混同してるでしょ。
ベンガラは色が目当て、水銀は仙薬だから意味合いが異なる。
>>422 だから東方の国に丹があるという話しが
古代中国に伝わったのかもしれないよ。
色が目当てっていうか、水銀朱の代用じゃないの
426 :
みむろもなか:2009/12/26(土) 15:13:50
>418
あなた、99氏かな。なかなかお詳しいですね。
もっとも、空海と水銀の関係はかなり有名になっていますが。
空海には丹生氏の影がつきまとっていますね。
もっとも、空海に行くのなら、その前に大仏と水銀の関係ははずせませんが。
427 :
418:2009/12/26(土) 20:39:10
>>426 いや俺は
>>99でもないし、水銀については詳しくもない。
大仏建立のお話で「金の精製のための材料」と言う話しが出て
空海で「不老不死の妙薬=仙丹の材料」と言う話しが出て
伊勢御師のセールス活動で「白粉(おしろい)の原料」と言う話が最後に出てくるのかな?w
まあこの場合あくまで塗料としての話に限定するべきだろうが
いくら水銀朱が珍重されたと言っても、それが纏向の勃興・発展に繋がる話は中々イメージできないなあ。
全国展開した初期の前方後円墳(纏向型)に、もれなく朱が使われていたとか
各地からやってきた人間がどうやら朱を目当てにやってきた節があるとか
…言う話があるのならともかくwwwwwwww
しかし神武東征ではまず宇陀を押さえてから
橿原で即位したという点はどう説明する?
河内湖で破れて、竜田すら越せれず、
和歌山でイツセは死ぬ状況で
大和へ攻め込むのに、普通宇陀なんて大回りしないからな。
水銀厨としては宇陀の水銀目当てとしか思えないんですよw
宇陀を滅ぼしてるわけじゃなく従わせてるしな。
429 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 21:10:24
>>428 まず、論法としては神武東征伝説が史実であるという証明が先だな。ずっと後代にできた話かもしれない。
神武東征は5世紀頃できた伝承、建国神話と考えるのが自然
>>429 そうですかね?史実かを証明する必要は無いと思いますが。
話の上でまず宇陀から入ってるという点が重要なんですよ。
それに後代に出来た話なら尚更だと思いますね。
わざわざ迂回させる必要性がない。
新宮から大和盆地を目指す進軍なんてまず無いな。
433 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 21:59:21
記紀や神話の話をどこまで史実とするかは、恣意的になり過ぎる。倭人伝も同じだが。
もうちょっとまともな論拠を示しなさい。
434 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 22:05:16
>>431 後世、宇陀が実際盛んだった頃にプロパガンダ的にできた話かもしれない。
>>433 思考停止だな‥
それじゃ最初から卑弥呼や邪馬台国の議論も無いだろw
>>434 ここは我々が制圧した、と宣言するのだから
やはり戦略上で重要な土地だったと思うが。
437 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 22:27:29
宇陀の重要性については、神武東征が史実かどうかは関係ないだろ。
438 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 22:36:20
えっ?
439 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 22:39:31
地理的な重要性だけでは足りませんか
何としても水銀が要りますか
440 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 22:41:44
宇陀の関係者が、「自分達は、初代神武天皇の頃から協力してきた」と主張してた。
7世紀の朝廷が「もっともだ」と、それを事実と認めた。
これで、宇陀の重要性がわかるだろ。
441 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 22:57:57
えっ?
444 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 23:20:14
俺は、昔、宇陀の重要性を東国への中継地という地理的要因だけで説いたとき、皆から叩かれた。
誰も宇陀の地理的重要性を認識できなかったんだよ。
で、次は、水銀の話になってるようだが、
水銀を否定する人は、宇陀の重要性を地理的要因に置いているようだ。
やっと俺の説が認められてうれしいよ。
水銀もそのうちスタンダードになるんじゃないの?
叩いてるやつは、単純に無知なだけだと思われ。
445 :
みむろもなか:2009/12/27(日) 00:24:01
>415 :例えば吉畿内は勿論徳島と伊勢、宇陀のものです。
弥生後期〜古墳前期で他地区の物は、現状では確認されてないはずですよ。
1995年に小浜市で古代の水銀鉱山跡が発見されてます。ただ、時代が何処まで遡るかはっきりしないんですよね。
個人的には、これが若狭彦の正体ではないかと思ってます。
水銀鉱山は、ごく小さくてすぐ枯れるものが多くて、跡として証明しにくいものだそうです。
千早赤阪の赤坂も水銀朱のことで、楠正成はその販路を握っていたと聞いたことがあります。
>>444 勿論宇陀の地理的要因は重要ですな。
>>445 今のところ弥生後期時代で確実に確認出来る水銀鉱床は
徳島と伊勢、(宇陀はまだ限りなく○に近い△)しかないんですよ。
水銀鉱山は表面に露出している物を採取すると
すぐ枯渇するとも言われたので、当時の中国の思想的
影響下にあった一族なら、これを捜し求めて
移動したとは考えられると思います。
神仙思想の影響下にあるのなら、丹の価値は
金と同等以上にあるのですから。
447 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 01:38:11
>>440 7世紀の話じゃ纏向とは無関係でしょう。
少なくとも神武天皇は7世紀じゃないぞw
堂ノ後古墳が五世紀後半で、
箸中古墳群の配置には年代関係ないことが確定したな。
まあそんなこったろうと思っていたが。
石塚はどうなのかなあ。
しかし60m級の堂ノ後古墳が五世紀後半って事は、
河内とほぼ同時期に纏向にも王権があったってことだな。
451 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 13:10:02
堂ノ後程度の大きさは、古墳中期なら無視していいレベル。
古墳初期なら別なんだが。
しかしまあ、ホケノ近くにわざわざ造ってるから、何らかの意味合いはあるんだろう。
3世紀以降は王権が大和盆地周辺で移動してただけでしょ。
453 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 13:58:59
雄略天皇は、普通にシキ宮に居ましたが?
454 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 16:06:46
河内王朝なんて言葉があるから、しらべてみたけど、
御陵が河内に多いだけで、宮が河内に多いわけじゃないじゃない?
仁徳の難波高津宮
反正の丹比柴籬宮
↑の二入だけでしょ。
皇居が奈良盆地の外にあるのは。
これでどうして、河内王朝なんて言葉ができたのか不思議。
いったい誰が始めに言い出したんだ?
どうせまた歴史小説家あたりだろ。
考古学者まで河内王朝を認める発言までしちゃって、どうなってるの?
455 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 16:13:33
河内に御陵があるのは、
治水工事で河内湖を埋め立てて未開発の土地が生まれたから、御陵をつくるスペースができたってだけでしょ?
これがどうして王朝の中心が河内に移ったかのごとき話になったわけ?
さっぱりわからん。
456 :
縄文人:2009/12/27(日) 16:25:10
だいぶ長い間留守していたが、どうやら邪馬台国は九州で決定のようじゃないか。堂の後古墳が5世紀後半か、妥
当な数字だな。これでホケノ山は6世紀となり、とすれば箸墓は6世紀後半か。今まで3世紀半ばなどといっていた
のは何の話だったのかということになる。これはいよいよ畿内説考古学者のこれまでのペテンに対する懺悔が始ま
ったと解釈していいのだろうな。ぐははは。
まあ、いつまでも世間を欺いているのはさぞやつらいことだろうて。正直なことを話して後生を軽くしておくというのは
正しい考えだ。纏向は5世紀代の宮地、倭人伝とは何の関係もない。だいたい3世紀の頃にはこのあたりは盆地湖
であったことは証明してやったではないか。畿内説はご苦労さんなことだ、御用学者を信じてさぞや悔しかろう。ぐは
はははははははははああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
457 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 16:45:03
マキムクが5世紀なら、
唐古・鍵遺跡が卑弥呼の居城になるだけなんだけどね。
むしろ、環濠があるし、相応しい。
>>454 考古学者が陵墓を重要視するのは当たり前。
宮なんてどこにあったか考古学上分かるのは極小数。
459 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 16:56:44
>>458 マジで?
考古学者も「河内王朝」があったと思ってるの?
それこそ、王都にふさわしい皇居跡が河内から見つからないとダメだろ。
河内も邪馬台国の範囲なだけでしょ。
70000戸なら最低でもそれ位は必要だよ。
で、宮を巻向に造っただけで。
皇居跡なんてオオヤマトでもほとんど見つかってないから無問題。
462 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 17:27:08
邪馬台国の頃の河内は湖だろ。
奈良湖はとっくに干上がってるが。
当然現在の河内南部の事でしょ。
464 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 21:24:59
水量は減っていたとしても湿地帯
でないと山の辺の道があんな所通ってない
467 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 21:56:31
つまり、鍵・唐古でさえ、水がなくなった後で設立した
相当に後世の遺跡と?
468 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 22:02:52
唐古・鍵には水害の跡が見られる。これが衰退の原因かもしれない。しかし、昭和30年代あたりまでは道路が
水没するほどの洪水に見舞われる地域は多かった。治水が整ったのは長い日本史から見ればごく最近のこと。
しかし、ゲリラ豪雨などもある。
川の近くで水害にやられない古代の集落なんて存在しない。
山なら当然鉄砲水だ。
470 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 23:40:28
>>456 >これでホケノ山は6世紀となり、とすれば箸墓は6世紀後半か。
箸墓古墳の後円部墳頂付近では、特殊器台(宮山型)が見つかっています。
これは脚部が、地表に据え置くために「八」字状に広がる形態であり、円筒埴輪に先立つものです。
円筒埴輪になると脚部は広がらず、地中に脚部が埋められるようになりますから。
したがって箸墓古墳の築造・埋葬は、古墳時代の極めて古い時期であり、前期前半に位置づけられるでしょう。
箸墓古墳築造が6世紀後半などということは、絶対に有り得ません。
472 :
470:2009/12/28(月) 00:02:50
それと、ホケノ山古墳には、1999〜2000年の発掘調査で検出され話題になった石囲い木槨のほかに
横穴式石室もあったことを留意しておく必要があるでしょう。
この横穴式石室は、中心主体部(石囲い木槨)の西側に、墳丘を再利用してつくられています。
発表では6世紀末頃の横穴式石室と推定されていますので、
この再利用時に墳丘など外部にも、なんらかの手が加わった可能性があると思われます。
>>471 何を根拠に言ってんだ?
田畑はどうするんだよw
474 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 02:10:45
まったくだ。
生活基盤の無いところに、
日本最大の環濠集落ができるわけないだろ。
鍵・唐古は環壕の廻りの湿地で稲作を行ったって常識だぞ?
www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/593PDF/takahasi.pdf
住居は環壕の中にあった。
477 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 05:58:52
ありがとう、これで俺の疑問が解けた
鍵・唐古は低いはずなのに、なんで集落があったのか不思議だったんだ
微高地だったんだな
奈良盆地は北から南へ僅かずつ低くなっていってる
鍵・唐古の2kmほど南が一番低くて
また僅かに高くなっていってる
その差は微々たるもので豪雨があれば水がつくんだ
少し前にそれを書いたら水中都市かと笑われた
一番低いのは鍵・唐古の南ではないよ。
479 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 10:32:19
唐古を通る南北軸だとあのあたり
>>479 それでは奈良盆地で一番低いとは言えないので
誤解を招きますね。
>>477 だから自然の低湿地を使った稲作は豊作不作の波が激しい。
大乱が終わって、冠水しにくい扇状地を徐々に開拓していったはず。
ただ、その後、また湿地の開拓が始まる。
これは治水技術が高まっていったからだと思う。
その一つの現れが纏向大溝。
また扇状地の棚田での導水技術開発が、
導水信仰のきっかけになっているかも知れない。
482 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 12:41:33
古代の稲は草丈が長く、冠水には比較的強いんだよ。導水に関しては棚田は簡単、上から下への掛け流し
にすればよい。難しいのは平らに整地すること。だからどうしても一枚一枚の田が斜面と平行に細長くなる。
鉄製の鋤などが一般化するまで、稲作は大変だった。
483 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 14:51:27
>>482 文の前後で矛盾してるだろ。
鉄器が無かったら棚田は作れないってことだろ?
484 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 14:57:15
>>483 広い面積を平らにするのが難しいということです。棚田であっても幅2〜3m位を一枚として作っていくのはできた
ようですね。平地と言っても実際は微妙な高低差があるので、水位を一定にするため平らにすることが、広い面積
では難しかったようです。
485 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 15:19:20
>>484 質問だけど、マキムク川の扇状地に棚田を作った場合、
その水量から、どれくらいの面積の棚田に水を枯らすことなく供給できると思ってる?
あと、雨量が減って川の水位が下がると、棚田はすぐに枯れたりしない?
ダムを作れば別だが、そんな技術はないだろう。
486 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 15:24:35
487 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 15:29:48
488 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 15:47:05
489 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 15:47:19
>>487 確認だけど、
1、自然の低湿地を利用して稲を育てた
2、棚田を作って稲作をはじめた
3、平地を整備して水田を作った
あなたは、1の段階は無くて、2→3とだけ変遷したと、考えてるわけ?
490 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 15:53:22
>>489 いや、1はあったでしょう。それが自然だと思います。導水の必要のあまりない恵まれた場所で。縄文後期の
乾燥に弱い陸稲なども似たような栽培条件では。
扇状地に関しては、どれだけ「水が地下に抜けてしまうか」がポイントとなる。
いくら灌漑用水を整える技術があっても、
ふつうは、水が地下に抜けてしまうため水田にはならない。
水田に不可欠の不透水層は、近代になってもできなかった扇状地がごろごろある。
しかも洪水の際には、水どころか巨岩含みの土石流がやってくる。そうして扇状地ができたのだから当然だ。
踏んだり蹴ったりすぎて居住には向かない。
ただ、扇の末端部は、泉が多く居住&農耕最適地となる。
まあ、神戸(六甲山麓)のように、明らかな不適地でも結構弥生遺跡が見つかったりするけどね。
巻向飛躍の秘密は、明らかに「東国を独占したこと」に尽きるだろう。
後背地を考えれば、ほぼ自明のこととなる。
大和>吾妻(あづま:三重から宮城までの太平洋側全域)
出雲>越(こし:新潟までの日本海沿岸)
筑紫>熊襲(くまそ:九州中南部)
日本地図をみれば、関ヶ原を持つ近江さえ押さえれば、大和の覇権は約束されたも同然。
東国全域において、他の西国勢には指一本触れさせない鉄壁の後背地ができる。
(その意味で、「東国の出雲神」というのは、金日成将軍の縮地法もびっくりのネタ話だ。
神武東征とはウソ臭さのレベルが違う。)
巻向はその交通路の要となる。
まして、後背地をもたない吉備などは、固有の文化水準がどれだけでも、話にならない。
巻向は水銀ですよw
対東国だけならなら近江の方が適してるから。
493 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 17:13:39
>>492 大阪湾からの利便もあるだろう。西と東をつなぐ場所だ。
>>493 京都南部もあるでしょ。
それに奈良の枕詞をスルーしちゃダメですな。
事実水銀朱の重要性が
薄れてからは遷都されてるし。
>>492 いや、不破越えは次善の策で、
東国との交通は、大和のほうがよほどよい。
これは、農地整備が進んだ今では信じがたいことだが、
交通の便というのは、
完全な海上>>>>>(越えられない壁)>>>>>深い湿地帯
であるということによる。
大河川下流部の深い湿地帯というのは、
現代人には信じられないほど交通を途絶させ、文化的断絶を生む。
今でもわかりやすい例としては、
関東平野の方言分布がある。
神奈川と房総半島の方言は、それなりに連続性がある。
しかし、埼玉と茨城の方言は、素で話されると意思疎通不可能なほどの別物。
濃尾平野は、濃尾傾動運動により、大垣から安八にかけては
水害常習の低湿地となっているわけで、
関ヶ原を越えたとしても、美濃から尾張に入ることは大変に難しい。
>>494 そもそも、大和盆地南部が、県域名として「なら」という名称で呼ばれるようになったのは、
明治20年のことだと思うけど。それ以前に巻向が「なら」と呼ばれたことはない。
>>495 その理由だけでは現田辺市から、奈良市付近に
権力が集中してもおかしくないでしょ?
実は東国方面へは木津川沿いに関西本線ルートを進む方が、
桜井経由の近鉄大阪線ルートより、水運を使うにしても
距離的にも楽なのです。
奈良盆地南部に当時権力が集中したのは、
やはり水銀鉱床の存在があると思いますよ。
枕詞はその読まれた時点での都の事を歌ったもので、
丹にはそういった意味があったのでしょう。
497 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 19:49:20
枕詞って何だよ?
いっぱいありすぎるぞ。
>>496 木津川中流域は、「高燥な平野」がない。
氾濫原からいきなり山地になる地形で、
これは、中国地方(や朝鮮半島)とよく似ている。
ちょっと洪水が起きると人の逃げ場がなく、
しかも農作物は全滅する。
これは西国にとって致命的なハンディになった要素であって、
近畿地方が、「畿内」つまり古代の「統一日本の首都圏」となった
もうひとつの重要な理由でもある。
平城京域は、逆に水が絶望的に不足しているし、
水運が全く使えない。木津川―平城山越えというのは、
平城京の存在を前提とすれば、重要ルートだが、
そうでないかぎり、ばかばかしいことこの上ない。
結局、構造盆地の存在の有無で、畿内、それも大和・山城・摂津・近江に絞られる。
そして、次に構造盆地の山際の扇状地の質というのが、非常に重要となる。
たとえば、神戸の扇状地に水田は非常に難しいが、京都ならいける。
傾斜が緩やかで水利の比較的良い扇状地上というのが、
巻向以来の「皇室の原風景」なんだろう。
皇居は思考錯誤の上、京都に落ち着き、
さらに、台地を好んだ桓武天皇の定めた千本丸太町の段丘上ではなく、
鴨川の完新世扇状地上の今の御所の位置に落ち着くこととなる。
ここで述べてるのは当然「あおによし」の事だろw
奈良(都)といえば「丹」。
勿論色彩の事なのか、特産なのかという議論はあるが、
当時都といえば「丹」だったという事でしょ。
500 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 20:26:59
「青丹」って辰砂なの?
なんで青いの?
>>498 現田辺市〜精華町〜奈良市にかけては充分適地だと思うよ。
それに平城京域が水運が全く使えないというのは変。
南端は現大和郡山市だぞ?
>481
標高の高い遠方から長い用水路を引いて、
川から離れた微高地でも水田を開くことができるようになったのは鎌倉時代ごろからで、
それ以前の水田遺跡は至近の川からしか用水を引けず、川から離れた微高地に水田を作ることはできなかったと言うことだが。
つまり、大規模に棚田を作る技術が発達したのは中世後半期以後、というわけで、
弥生時代や古墳時代はもちろん、奈良〜平安時代にも棚田はなかったのでは?
>492,495
近江から関ヶ原へ向かう不破ルートは、平安京を出発点とする東西王冠が前提で発達したんでしょ
平安京を通らなくてもいい、という条件なら奈良経由の方が便利だったはず。
それどころか。交通網が寸断されそうになった戦国期の前後だと、平安京から関東へ向かう場合でさえ鈴鹿越えなど
奈良県へ入るルートが利用される例がたびたび見つかっている。
>>482 平らにするのは灌漑のためだろ。
どうして水管理を切り離して、
平らにすることの重要性を説くのかまったくわからん。
>>495 > 大河川下流部の深い湿地帯というのは、
> 現代人には信じられないほど交通を途絶させ、文化的断絶を生む。
大乱の時代はこれが有利に働いたと思うんだよね。
鍵・唐古では。水に守られた大阪城のように。
ヴェネチアが攻められた時、澪標を抜いて、
敵の船を浅瀬に座礁させた。
しかも稲作も可能。
>>502 >>492で言ってる近江とは、別に関が原越えを前提にしてる訳ではないよ。
野洲川周辺の琵琶湖南岸では、そのまま鈴鹿峠へ向うと
対東国に関しては大和盆地の条件と差がない事を言ってます。
それに平安京の地が弥生後期に都として選ばれなかった理由が、
まさに水銀鉱床の存在だろうと思う訳です。
>>506 >それに平安京の地が弥生後期に都として選ばれなかった理由が、
>まさに水銀鉱床の存在だろうと思う訳です。
水銀を手放して平安遷都した理由は?
鈴鹿峠の武平峠はかなりきびしいぞ。あそこは冬は雪が降るし。
伊賀上野、亀山を抜けるのに比べると。
大和街道の柘植、加太、関の辺り。
>>507 国体がある程度統一されて安定した為。
貨幣や他鉱物の存在、神仙思想自体の変化等ですよ。
>>508 武平なんか越えないでしょw
近江からも普通に亀山に抜ける加太越えでしょう。
雪は鈴鹿山脈系はある程度あります。
青山越え、宇陀から近い高見越えも大変ですしね。
>>509 >国体がある程度統一されて安定した為。
>貨幣や他鉱物の存在、神仙思想自体の変化等ですよ。
抽象的な説明でぜんぜん意味がわからん。
列島全体で見て、琵琶湖南岸、京都あたりが交通の要衝なのは確かにそうなんだが。
それに比べると奈良盆地東南部のマキムクが一枚落ちるのもそうだろう。
ただ、3世紀、マキムクが王都として選ばれた理由は水銀なんかじゃなくて、
単に、ヤマト王権の初期メンバーが大和川水系の首長たち、大和と中河内の豪族だったからだよ。
近江や山背の豪族たちは敵対まではいかないにしろ、一定距離を置いた友邦。
東海みたいなもの。
>>510 全部説明すると長くなるので要約したんだよ。
平城京や平安京が造られるほどにまで
権力集中が進んだという事です。
後は水銀朱でググレばある程度出てくる事ばかりなはず。
>>511 その豪族達が何故大和川水系に集中したかというと、
水銀鉱床の存在という事になるでしょ?
徳島、紀伊半島‥重要なはずの鉄器が少ないのに
何故権力が集中するのかというと、結局これしかないのですよ。
>>512 普通に考えれば、権力集中が進んで、大和政権の版図が拡大して
中心地が移動したと考えるけどね。
マキムクの頃はまだ山城や近江は中心じゃなかった。
ていうか、在地豪族の力が強くて進出出来なかった。
大和川水系を中心とした初期大和王権で考えれば、必然的にマキムクあたりが中心となる。
王権の運営で考えると、都は王国の中心地がベスト。
物流や情報を押さえるにしても、軍を動かすにしても、
領地の一方に偏るとデメリットが多い。
必然的に領土が拡大すると中心地はシフトする。
大和川水系のみではマキムク。
西国や半島に勢力が伸びると河内へ。
その後、東国征服になると山城か近江がベスト。
織田信長は一代で急速に領土を拡大したが、本拠地を
清洲、岐阜、安土と何度も移動させている。
秀吉みたいに対外出兵を考えていたとすれば、
最終的には大坂あたりに本拠を移していただろう。
何故鉄器を持った連中が、畿内東南部へ押し寄せたかと考えれば
山(木材と鉱物)しかないんですよ。
あと中国起点の書物と絡めて考えるなら、
当時の神仙思想位は頭に入れておかないとダメです。
そうなると紀伊半島に拘る理由がわかりますから。
東遷説なんか、とっくの昔に否定されてるだろ。
>大和川水系のみではマキムク。
河川流通で考えると、下りの方が断然簡単だから、流域の上流を押さえることは
軍事的に重要だったのかもしれない。
後はまあ、宗教で考えれば河川の上流、水源とかは河口に比べて神秘的で、祭祀王の居所として相応しいとか。
川の上流から聖なるモノが流れて来るという神話や説話は多い。
マキムクとは、おそらく河内や東瀬戸内の水運を押さえた豪族連中が、大和川上流に聖地を作ったのが真相
だろうと考えている。
旧大和湖跡の開墾とか、対東海交易の拠点とか、ましてや水銀とかはあくまで一要素だろう。
>>514 >だからその権力集中基盤は何?
大和王権が誕生したのは、瀬戸内海航路の安全保障を求める東瀬戸内地域の豪族が
結集、新権威を作り出したから。
その王都として選ばれたのがマキムク。
520 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 15:12:39
>>518 >旧大和湖跡の開墾とか、対東海交易の拠点とか、ましてや水銀とかはあくまで一要素だろう。
君は頭から水銀を否定してるわりに、
>大和川上流に聖地を作ったのが真相
この考えには根拠が見出せない。
結局、「自分はこう思う」というレベルで水銀を批判してたのかね?
だったら、ウザイのは君のほうだから、そろそろ消えてくれないか?
あるいは、もっと具体性のある知見を聞かせてもらおう。
宇陀に水銀鉱山があるのは事実だし、東国への要衝なのも事実。
これらを否定する理由がさっぱりわからない。
瀬戸内海航路の利潤を求める綱の引っ張りあいは、実は日本の歴史上たびたび
行われている。
日本列島全体で考えれば、古くより瀬戸内海航路を押さえた者こそが「天下人」足り得た。
大和政権しかり。平清盛しかり。
足利義満vs大内義弘、細川氏vs大内氏、織田と毛利にしても、瀬戸内海航路の両端同士が
その利潤を巡って争ったのだとも言える。
>>520 宇陀の水銀鉱床を否定してる訳じゃないよ。
あくまでマキムク王権のメインファクターじゃないと言ってるだけ。
むしろマキムクが水銀の都であるという証明をそっちがすべきだろう。
自分に都合が悪い人間を消えろという精神構造が駄目だな。
独裁スイッチ貸してやろうか?
>>522 瀬戸内主導権が重要なのは当然だけど
一体何を求めて半島からやってくるの?
東国は何を西に求めていたの?と考えれば
答えは簡単でしょう。
巻向は東国との連携にも便利で稲作適地
そこに鉱脈があるから豪族が集中したんだよ。
理由は大陸の技術、知識が必要なら、
彼らが欲しがる丹を売り物にしただけの話。
もっと近い茶臼山古墳からは大量の水銀が使われてるのも
証明の一つにはなるだろう。
瀬戸内海航路の覇権はないよ。
奥地過ぎる。
525 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 15:51:14
>>522 >宇陀の水銀鉱床を否定してる訳じゃないよ。
いや、
>>518を見れば、
マキムクが開発された根拠は、東国への要衝でも水銀でもなく、
「川の上流を聖地とした」という、君の考えがはっきり読み取れるわけだから、
その根拠を明示すべきなのは君のほうだよ。
3世紀の倭人が「川の上流を聖地とした」と考える根拠は何だ?
中国や東南アジアや世界中にそういう思想があるなら示してくれ。
526 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 15:56:42
マキムクが、開発された要因として、
「東国への要衝」
「水銀の産地」
これらは、根拠がある。
しかし、
>>522は、それらはメインではなく、
もっと重要なファクターとして、
「古代人は川の上流を聖地とした」という思想があったという仮説を提示したわけだよ。
これには、まだ根拠が示されていない。
だから、根拠を示してくれという話。
根拠がなくて、思い込みで話をしてるなら、それは旧態依然の九州説と同じだ。
本人じゃないので、
上流ってのはどこのことなのかよくわからないが、
扇状地の末端で「湧水信仰」があったってのなら、
考古学的な根拠があるよね。太田微高地の祭礼施設。
528 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 16:05:22
>>527 3世紀の日本で、川の上流に限って祭祀場が作られる例が多く見られるなら、
「古代人は川の上流を聖地とした」という説は、拝聴できる話。
だが、俺は、マキムクの場合は、そうは認識してないがね。
1に東国への要衝。2に水銀だろう。
だから、もっと説得力のある話を展開してもらいたいね。
529 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 16:10:31
それに、マキムクが東国への要衝という根拠は、東海系土器が多いことから明らか。
「古代人は川の上流を聖地とした」というだけなら、
東国の人は何のためにマキムクに来たのか、説明できんだろ。
東国からみたら、マキムクは上流じゃないからな。
水銀の産地である紀伊半島が重要だと思う神仙思想を書いておくよ。
漢の武帝に対する言葉だったと思うが、要約すると、
窯(クド‥本当は漢字が違う)祀れば鬼神を呼ぶことが出来る。
鬼神を呼べば丹砂を黄金に変える事が出来る。
その黄金を食すれば寿命が延びる。
そうすれば海中の蓬莱の仙人に会える‥
倭人伝に鬼国なんて文字もあるけど、
これはやっぱり紀伊半島じゃないの?と思う訳です。
クドヤマなんて地名も重要な場所に二箇所程あります。
当然丹の産地でもありますしねw
>>523 半島から何を求めて来る?の意味が不明。
鉄を求めて倭人が半島に渡ったんだろ。
>巻向は東国との連携にも便利で稲作適地
これもそうだろうし、なぜ水銀が一番になるのかの理由が不明。
交易の最適地が近江とかいう無理やりな理屈は聞き飽きたんで。
そもそも都が流通の最適地でなけりゃならん理由はないだろ?それは理解できる?
桜井茶臼山が最多なのはそうだが、なぜそれが証明になるの?
水銀朱を使用した古墳は全国各地にあるし、
まあ産地が近くて良く取れたから大量に使ったんだろうね。っていう解釈も可能だろうな。
水銀がメインじゃないって言うだけで、何でこんなにファビョるのか理解不能。
いろいろな要素が複合的に絡み合って、マキムクの地が選定された、ってのが普通の考え方。
単純な考えに、分かり易いからと飛びつくのは馬鹿。
神武とか枕詞を持ち出して水銀水銀言うのは非学問的。
マキムクから大規模な水銀朱の製造工場が出土するまで黙っとけ
>神武とか枕詞を持ち出して水銀水銀言うのは非学問的。
それは日本史に対する暴言ですよ。
534 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 16:22:32
>>531 水銀を否定しすぎるのもどうかと思うね。
もし、宇陀に水銀がなければ、そこに人は集まらない。
東国へのルートに宇陀が選ばれたか?たぶん、選ばれない。マキムクに人は訪れない。
交易の利便性なら、木津川の方面に行くんじゃないのかね?
あとは、よほど、マキムクに祭祀場としての集客力があったということだが、
これは三輪山信仰を第一に考えるべきで、「川の上流」とかがどれほど理由になるのか理解できないな。
>>525 おいおい。
>マキムクが開発された根拠は、東国への要衝でも水銀でもなく、
>「川の上流を聖地とした」という
なんでそうなるんだ?w 一要素として認めるって書いてるのに。
マキムクが選ばれた理由は宇陀の水銀でしか説明できない、という馬鹿に、
こういう考え方も出来るよね?
聖地として河内や東瀬戸内の勢力に選ばれた可能性があるという考えを述べただけだよ。
上流を押さえる軍事的優位さには反論ないようだけど、それは認めてくれた?
まあ、こんなのに根拠を求められても想像でしかないし、強弁する気はないんだが。
536 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 16:31:14
水銀を否定するなら、それでもかまわないが、
代わりとなるファクターは三輪山信仰しか考えられないだろ。
それも、近畿一帯で「三輪山詣で」がされるほど信仰の対象だったと考えるしかない。
「東国への要衝」「水銀」を抜きにして語るなら、
「三輪山信仰」を第一の要因としてマキムクが開拓されたというなら、理解できる。
そのへん、
>>531はどう考えているのですか?
水銀の需要って巻向以降で古墳がたくさん出来てからじゃないの?
>>534 いやまあ、水銀を否定し過ぎてる気はないんだが。
水銀で日本史の謎が解明できた!と喜んでる人に、それは単純過ぎやしないか?
と反論してるだけで。
>もし、宇陀に水銀がなければ、そこに人は集まらない。
>東国へのルートに宇陀が選ばれたか?たぶん、選ばれない。
水銀がなけりゃ、宇陀が東国へのルートに選ばれない?
さすがに無茶苦茶。水銀がないと人が集まらないとか気持ち悪過ぎるんだけど。
あとさ、唐古鍵はマキムクから近い、弥生時代を代表する環濠集落だけど、これも水銀と関係あるの?
>交易の利便性なら、木津川の方面に行くんじゃないのかね?
木津川水系には椿井大塚山の造墓集団がいるからな。無理だったんだろう。
>>535 俺は巻向が選ばれた要因が、宇陀の水銀しかないなんて
いってないつもりだけど。人の事をバカ呼ばわりするのに
意見の趣旨位汲んでほしいね。
あくまでこの時代、奈良東南部に豪族、
権力が集中するのは水銀鉱床が重要だと言ってるだけで。
信仰の対象の山の存在も勿論重要だと思ってるし。
>>537 求めた人達の古墳ともとれます。
540 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 16:40:57
水銀はやはり2次的な要素だろう。水銀が必要なら宇陀を支配下に置けばいい。同じ大和内に本拠を置くなら
運搬に時間がかかるわけでもない。三輪山祭祀は記紀にも出てくるし、それは重要だろう。
541 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 16:41:35
>>538 >水銀がなけりゃ、宇陀が東国へのルートに選ばれない?
>さすがに無茶苦茶。水銀がないと人が集まらないとか気持ち悪過ぎるんだけど。
それはよかった。
俺は昔、東国への要衝として宇陀を重要視したところ、この板でさんざん叩かれたんでね。
あのころ、君がいたら、俺の味方になってくれただろうな。
水銀がなくても、宇陀の重要性が変わらないというなら、
「東国への要衝」という理由だけでマキムク開発は説明できると思うが、
そのへんはどうですか?
542 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 16:49:59
東国に何を求めたか、だよな。これは鉄や大陸の文物ではないだろうし、米や食品というのも考えにくい。纏向
から出土する、東海土器には何が入っていたのだろう。まさかこの時代に天下統一の野望というのも考えにくい
しな。
>水銀がなけりゃ、宇陀が東国へのルートに選ばれない?
さすがに無茶苦茶。水銀がないと人が集まらないとか気持ち悪過ぎるんだけど。
あとさ、唐古鍵はマキムクから近い、弥生時代を代表する環濠集落だけど、これも水銀と関係あるの?
あまり主旨に賛同できないな、というより理解力不足でしょ。
鍵・唐古は土器に画を描いたものが売り物だったと思う。
水銀を売り物にはしてないね。
>>541 どっちかと言うと、対東海より対瀬戸内的意味合いが強いだろうと思います。
大和王権誕生の理由は。その理由は上に書いた。
>>543 >鍵・唐古は土器に画を描いたものが売り物だったと思う。
>水銀を売り物にはしてないね。
だからさ、水銀がなくてもマキムクに人が集まる可能性はあるでしょ?
>>545 だから巻向が出来てから衰退したでしょw
解りやすく言えば新商品に代わったんですよ。
547 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 17:10:04
これは議論が錯綜している気がするね。纏向は唐古・鍵からつながるかもしれない大和勢力の自生なのか、
それとも連合勢力による新都なのかで、話はだいぶ違ってくる。また、新都だとしたら初めから東海勢力が
加わっていたかもポイントだろうね。
548 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 17:13:20
>>544 対瀬戸内?というのもよくわからないな。
瀬戸内に向いてるなら、唐古・鍵を放棄する理由が無いだろ?
東海を相手にするか、三輪山信仰が全国的に知られるようになったかでないと、
マキムク開発の理由にならない気がするが。(水銀を軽視した場合)
>>546 そういう意味じゃなくてさ、
「マキムクの立地が水銀でしか説明できない」なんてことはないだろ?
っていうことだよ。
新たな価値観が入った事には間違いないでしょう。
ただ当時の中国の思想が入るのなら、水銀朱が重要になると
思うだけですよ。
鏡の産地や倭人伝の記述を重視するなら当然の事でしょう。
551 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 17:20:37
倭国乱の結果、瀬戸内はすでに連合勢力の一員だったのではないかな。やや遅れて東海も連合に加わった
という気がする。そうすると纏向は東西の交易の拠点。まさに大市として機能していた。むろん祭祀も重要だっ
た。でなければ前方後円墳の説明はつかないしな。
552 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 17:24:53
>>549 三輪山信仰について見解をまだ伺ってないけど、
三輪山信仰と、広域連合国同士の交易関係と、どっちが重要だったのか、
どちらが最初だったのか、複合的に発展したのか?
三輪山信仰が無かったという話にはならないよね?
>>551 そういう事だと思うんだけどね。
で、その古墳の石室には宇陀の水銀朱が
使われたんでしょう。
三輪山信仰はいつ頃あったかさっぱり分からない。
記紀ぐらいしか証拠がない。
祭祀施設が三輪山の方を向いていたってこともなかったし。
この前発掘された(推定)宮殿も三輪山の方は向いてなかった。
>>548 山手に移る理由は水害、って大体相場が決まってる。
あとまあ、既存勢力と軋轢を起こしそうな場所を避けて、
計画都市が造営できる広い場所を求めて、かもしれないし。
まあ色々説明できるわな。説明できないことはない。
対東海交易という意味合いもあるだろうし、否定はしてないよ。
ただ、初期古墳に見る阿波讃岐播磨の影響を見る限り、瀬戸内>東海と
判断せざるを得ないというか。
そもそも水銀を重視した場合、マキムクから佐紀盾列に王権が移る時期、水銀利権はどうなったんだ?
556 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 17:32:35
>>553 桜井茶臼山の水銀朱が地元産かどうかはわからない。成分分析などでわかるものかどうか?また、三輪山祭祀
と前方後円墳の関係も正直不明だな。ただ、宗教は重要だっただろう。単なる交易の利便というだけでは紛争の
危険を常にはらむだろう。連合をまとめるためのものがどうしても必要だったのではないかな。
そもそも宇陀に近接してないと水銀利権が得られないなんてことないだろ。
採掘してる現地の首長を脅すか懐柔するかすれば、少々離れてても大丈夫。
コントロールできる。
要はマキムクじゃなくても水銀利権は掌握できる。
こんな単純なことも分からんのか?
>>557 わかってないね、だから当初は宮を近い所にしたともとれるでしょ。
離れるのは内部事情が安定しなきゃダメだろ。
神武の記録で宇陀をまず最初に懐柔してから
即位してるのはそういう事でしょ。
そういえば名前もイワレビコだしな。
水銀がそんなに重要だとしたら、大和や吉備に比べて、
古墳時代から、阿波の重要性が低くなっているのはどうしてなんだ。
>>560 それは宇陀で水銀朱が採れたからですよ。
東が敵対なのか交易なのかで変わってくるのかな?
普通に考えれば利便性だよね
水銀も必要な選択肢であったという主張は否定しないけど
563 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 18:24:17
水銀なんて関係ねえよ。
>>559 何故負けになるのか理由をどうぞ。
記紀に書かれるという事は
何らかの伝承を元に書かれるはずだからな。
真偽はともかくそれを検証するのは大事ですよ。
水銀なんて関係無いって言ってる人もいるけど、
>>530の書き込みなんてどう解釈するの?
他でもない当時の中国の思想だけど。
「鬼」なんて卑弥呼の鬼道や鬼国、
紀伊半島にも関連深い重要な文字だよ。
566 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 18:41:18
>>565 真朱(水銀)、鉛丹各五十斤を魏から貰っている。
当時の水銀は輸入品だったんだよ。
567 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 18:58:04
568 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 18:59:21
>>566 それじゃ必然的に「その山に丹あり」という候補から外れますw
調査上は弥生〜古墳前期とされる出雲や丹波、畿内の古墳の
石室の水銀朱は、徳島、紀伊半島産とされているよ。
>>561 それでは宇陀の阿波に対する優位性がない。
瀬戸内海運云々だったら、その中枢はどんなに頑張っても浪速より東にはならないだろうよ。
瀬戸内志向で、大和盆地の、それもよりによって最奥部というのは、
たとえ河内湾の存在を前提にしても、やはり無理だ。
地理的関係でいえば、これは、どう考えても「東国との交通一択」だろう。
大和政権(皇室)というのは、実は意外に西国(瀬戸内沿岸)と縁が薄い。
湖南・湖東地域が中枢的地位を得られなかったのは、ここが鈴鹿傾動地塊の「緩斜面側」だから。
近畿の断層盆地地形と、文化的盛衰をみると、
不思議と「緩斜面側」は冴えず、なぜか「急斜面(断層崖)直下の扇状地が栄える」という
一貫した傾向がある。典型例は泉南丘陵だ。
奈良市でさえ、結局、生駒山塊の緩斜面側の西の京はさびれ、春日山の急斜面側の旧外京域が中心となった。
近畿の地形と交通路を丁寧に分析すると、
それだけで、すでに「大和盆地南部一択」になるような気がする。
水銀も主要産品だったろうが、これが理由で
主要交通路を「より不便な南に引きずり下ろした」とは言えないだろう。
阿波なんかは特に水銀朱で栄えたんだろうし異論はないんだが、
マキムクはそんな痕跡がないんだよな。
水銀厨にはまずそれを理解して欲しい。
神武とか記紀は取り扱いが危険で、自説に都合がいいように
幾らでも抜粋できてしまう。倭人伝よりたちが悪い。
あくまで考古学に軸足を置いた上で論じること。これが重要。
記紀にしろ倭人伝にしろ、すべてをそのまま信用は出来ない訳で。
全部鵜呑みにしてる人は、学者というより宗教家だ。
そこで、どの部分が真で、どの部分が偽かは、
その人の恣意性に大きく左右されてしまう。
3〜4世紀を語る上で、記紀を余り重要視しちゃダメ。
>>572 だから神仙思想に影響された連中なら
その「より不便な南の場所」が重要なんだと思うよ。
この事は4〜6世紀の文化等、様々な影響を及ぼしている
事でも証明されるので、合理的な地理的要因だけでは
理由が不十分だと思う。
>>572 >大和政権(皇室)というのは、実は意外に西国(瀬戸内沿岸)と縁が薄い。
八十嶋祭とかあるし、それはどうだろ?
>どう考えても「東国との交通一択」だろう。
極端なのが多いなあw
確かに昔は九州を重要視し過ぎて東海を軽視してた嫌いがあって、
伊賀越えルートは軽視されてたように思うが。
最近はマキムクの立地を考える上で東海は外せなくなってるのは確かだけど。
しかしまあ、古代の交通路、物流を考えるに、やはり河川流通が主で
陸路はそれほど整備されてなかったと考えるがいかに?
ところであなたは、阿讃播の初期古墳に与えた影響はどう考えてるの?
>>573 >マキムクはそんな痕跡がないんだよな。
水銀厨にはまずそれを理解して欲しい。
というか君の認識が変、
その後飛鳥〜奈良時代までこの地方は
阿波とは比較にならない程水銀朱で栄えますよw
それに何処か考古学から外れた事を言ってますか?
記紀の記述をそのまま信用しないのは当然でしょう。
しかし軽視は出来ません、貴重な文献資料ですから。
>>572 >瀬戸内志向で、大和盆地の、それもよりによって最奥部というのは、
初期大和王権を考えるに河内勢力の存在は外せないでしょ。
当時栄えてた筈の河内地域に初期古墳が見られないことをどう考えるます?
私は河内勢力が大和王権の一部だったからと考えてます。
いやもっと言えば、河内勢力が大和川を遡上してマキムクに都を造ったんではないか?と。
倭人伝に出てくる七万戸の邪馬台国とは、大和+河内のことで。
>>576 いや、別に「一択」というのはそういう意味じゃないんだよ。
近畿地方が、地形的に「西に開けている」ことは、大前提としてある。
近畿中央低地は、大きく見れば、伊吹・鈴鹿・布引山脈の「西斜面」ということになる。
東国それ自体を過大視しているわけではない。
もしそうだったとしたら、巻向なんて面倒なところではなく東国勢そのものが、
東国のどこかを中枢として全国の覇権を握っただろう。
その上で、大和盆地南部勢が覇権を握ったのは、
近畿全域でありふれた「西との交通」ではなく、
ここが、希少かつ巨大な「東国との最重要交通路のボトルネックの出口だったから」ということ。
これに、地場が栄えるための要件、つまり「断層崖直下の緩やかな扇状地」を考え合わせると、
それだけで、その理由が説明できるだろう、というのが俺の意見。
その意味で、近畿の中でも、大和政権は相対的に「西国と縁が薄い」ということ。
>>577 マキムクから水銀工場出てきてからにしろよ、まったく。
お前の言ってることは単なる推測、思い込み。
もうちょっと謙虚な態度になれないものか?
そもそも神武とかを無批判に史実であるかのように扱う態度がすでにダメ。
581 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 23:41:38
しかし水銀厨はずっと張り付いてるのか。ww いや、でも桜井茶臼山なんかは大和水銀鉱山産の可能性は
あると思うよ。
>>578 >倭人伝に出てくる七万戸の邪馬台国とは、大和+河内のことで。
まあそうだろうね。大和川水系一帯でしょう。
>>578 一応私と認識が同じですね。
でも1〜2世紀に九州から一部勢力の東征らしき物は
やはりあったとも思います。
流石に水銀と神武を絡めて言われるとチョッとなwwwwwww
身も蓋もない事を言えば、そもそもあの迂回行動自体がリアリティがないお話で
生駒あたりで防衛線に阻まれたから迂回すると言っても
何も紀伊半島の南端を回らずとも…って話でwww
それに先に水銀を押さえたと言うが、そりゃ余程の長期戦なら相手の財源?を我が物とし
徐々にボディブローみたいに効いてくるんだろうが…
>>580 >もうちょっと謙虚な態度になれないものか?
あんたに言われたくないね。
もう少し柔軟な思考が必要なんじゃないか?
>>581 今日は暇になったんですよw
585 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 23:49:33
>>579 ただ、纏向が西勢力の対東国拠点として、いったい東国に何を求めたんだろうな。むしろ求めたのは東国のほう
じゃないか?纏向出土の東海土器は、労働力移動か供献のためのものだと思うが。
>>579 おおむね同意。
たしかに東方への玄関口を押さえたというのは大きいだろう。
マキムクと東海の関係を考える時、どうしても東海系土器の割合が大きいから、
そこに目が行く気持ちはわかる。
しかし、逆に見れば畿内の土器は東海地域に余り入っていかない。
単純に土器が多いから最大の交易相手、と考えるのも危険な気が。
>>583 いや、絶対無理だから迂回なんかしないだろ、と言ってる訳です。
記述で宇陀を先に押さえてるのは、
水銀は別にしてもここを重視してたんでしょ、
と言いたいのですよ。
河内の纏向勃興に果たした役割について…
古代の話をする時、波の穏やかな瀬戸内海の海上交通の利は良く説かれる所だが
それが湖やもしくは潟(ラグーン)なら更に便利でしょうって話で
連合体のコアのコアは先ず河内湖周辺で形成されたんじゃないだろうか?
瀬戸内で高地性集落が頻繁に見える時代、河内湖周辺も同じような状況になったなら
そりゃ河内湖周辺の集落は、いつ目の前の湖を スイ〜 っと船でやってきた武装集団に強襲されるのか気が気でなかっただろうと思うwww
力ずくで近辺の集落を支配下に置くか、条約で相互の安全保障を取り付けるかw
何れにせよ湖と言う環境は連合体の形成に相当な追い風になったんジャマイカ?
名張、伊賀上野なんてまったく重視されてないし、
宇陀が東国の門だったって話はよく分からないな。
吉野や伊勢神宮がらみってことなら分かるが。
松坂周辺で弥生末期から古墳初期の遺跡が見つからないだろうか。
>>585 「人」と「穀物」、とりわけ「穀物(コメと言いたいが、雑穀かもしれない)」でいいんじゃないか?
アテネと黒海沿岸、ローマと属州などをみればわかるように、
広大な後進地域の最大の産品は穀物というのが、世界史的な常識に近い。
実は、東国太平洋側最大の地理的特徴は、山がちな日本列島では例外的に
かなり広大な海岸平野を擁することであることは、前にも書いたとおり。
まとまった平野の存在は、西国(とりわけ中国地方)に対して、
断層盆地を有する畿内の圧倒的優位の源泉である。
平野の欠乏こそが、とくに広島あたりの致命傷となっている。
しかし、畿内の断層盆地よりさらに広い平坦な地形が、東海以東の沿岸部には広がっている。
さすがに火山灰地でやませの吹く関東平野だと厳しいが、
三重・愛知・静岡あたりの海岸平野は、少々粗放的な後進的農業をおこなっても、
かなりの穀物生産量を稼げたはずで、これが最大の産品だったのだろうと思われる。
1世紀ごろ起きたとされる「遠賀川土器ラインの東方ブレイクスルー」以降は、
東国は穀倉地帯に変貌したのだろう。
考古学的裏付けの待たれるところ。
591 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 00:37:41
>>590 人と穀物は同意だが、それ以上に東国は鉄や大陸の文物がほしかったと思う。西上免遺跡の被葬者あたりが連合
に屈したんじゃないかな。w
穀物を差し出すのは属州だよな、普通。
東海はマキムクの属州だったのか?
593 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:03:46
対 狗奴国戦争の帰結かもね。
594 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:07:09
>>591 奈良で鉄器が増えだしたとき、
東海の鉄器は減ってたというデータがあるが?
>>590 穀物を土器に入れて、陸路で東海からマキムクまで運ぶのは流石に大変だと思うぞ。
むしろ逆で、東海が鉄を求めてマキムクまで来て、対価として食料品を置いて帰ったというのが真相だろう。
これでいくと畿内>東海の力関係になる。
畿内勢力が東海との交易を求めてマキムクを選んだ、というのはどうもしっくりこない。
596 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:11:35
>>594 >素より和せず これは反則か? wwwww
597 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:15:14
>>595 だから、東海の鉄器は増えてないんだって。
村上くらい読め。
>>595 運輸コストの問題だよな、確かに。
畿内、東海が対等の関係なら、陸路で来る高いコメを畿内は買わないだろう。
鉄やら大陸の文物や技術を求めて、東海の人々はマキムクに来て、安く買い叩かれる穀物やら
労働を対価として、それらを入手したんだろう。
むしろ労働力の提供の方が実態に近いように思う。
東海系土器にしたところで、東海の食料を詰めて運んできたというより、
東海の人々がマキムクで生活用品として東海系土器を作り、生活していたと考えた方がしっくりくる。
>>597 それじゃあさあ、畿内は穀物の対価として何を支払ったのさ?
水銀?
600 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:23:17
>>599 これは極端な話だが、狗奴国が東海なら敗戦で鉄も増えず、労働力の供給をしなくてはならなかった。
601 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:26:46
>>598 土器を作った土がどこの土かくらいは、わかる。
マキムクの東海土器が、奈良の土で作られてたという話は聞かない。
大和川水系、という言い方がすでに当時、水路>陸路だったという前提に基づいてるからね。
しかしまあ古代で王権が誕生してるのは、大体水系、河川流通を単位としてるし、
陸路を余り重要視するのは古代の実態に合ってないと思うんだけど。
少なくとも大和王権の存在基盤は、あくまで瀬戸内海に通じる大和川水系であって、
それを軽視はできないでしょう。
603 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:30:27
むろん搬入土器だよ。移動してきた人の食料が入ってたかもね。
>>601 胎土がどこのものか?なんて簡単には分からないぞ。
比較的分かり易い阿波系土器なんてものもあるが。
605 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:39:09
>>602 小阪合遺跡、船橋遺跡あたりが入り口かな。吉備形甕などはここを通って、纏向から西新町遺跡遺跡への
移動が見られるね。
>>602 だから、西との便なら、巻向なんて不便極まりない奥地よりも、
適地なんていくらでもあるんだよ。
ここの説明が、瀬戸内重視説ではどうしてもつかない。
大和川水系と言ったって、これが「主たる存立基盤」なのならば、
王権の礎の地は、八尾あたりになるはずで、
(断層山地の急斜面側の扇状地ということで、八尾はまさに適地となる)
大和盆地など、東との連携を考えないなら全く以て「どうでもいいところ」になるはず。
瀬戸内海海運を重視というのなら、もっと西にずれるのが道理。
最低でも浪速か住吉、実際には明石海峡より西、多少平野のある播磨か岡山こそが適地となる。
もはや「畿内王権」という話ではない。
やはり東を見ないかぎり、説明がつかないんだよ。
まあ東海からは労働力確保がメインでしょ。
対価は無し、ありがたい水でも飲ませたんじゃないのかな?
大陸の文物や鉄の対価が水銀だな。
>>606 うーん、どうなんだろ?
俺はどちらかと言うと河内>大和なんで、マキムクは大王の奥津城として
選ばれただけじゃないかと思ってるんだが。
それとマキムクの立地は別に対東海だけじゃなく、山辺の道で畿内北部、
山を越えて紀ノ川水系へとかもあるし、そもそも交通の要衝だったとも思ってるのだが。
奈良盆地中央部が低湿地で交通に不便だったからこそ山沿いの道が発展してたんだし、
マキムクを不便極まりない奥地とするのは筆がすべったなあ、という感じ。
本当はそこまで思ってないでしょ。
609 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:58:35
>>608 そうね、交通の利便というなら、東海だけでなく吉備や丹後も考慮したいところ。
>>606 ヨコからだが・・・
だから河内をワンクッション置けば良いんじゃないのか?
西から瀬戸内を通って運ばれてくる文物
大和川を使っての東との交易・交流
河内が先ずそのハブとして力を持って
しかる後に纏向の建設に取り掛かったと・・・
まあ政治の中心(宮)が河内にあり墓が纏向にあったなんて事になったら
5世紀の河内朝と逆パターンだろうが
3世紀に墓所が宮・集落から隔絶したところに造られたと言うのは
確かに受け入れられにくい話だとは自分でも思うwwwwwww
611 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 02:03:27
連合成立から、時間的にもワンクッションあって纏向ができたと考えれば、つじつまの合う部分が多いんだが・・・。
当時の土木技術からすると、初瀬川くらいの小さい河川の方が利用し易かったんだよ。
初瀬川の流域に多くの遺跡が見つかるのもそのため。
あとまあ、河内と大和の力関係は難しいところ。
結構拮抗してたように思う。
最終的に陸軍力で大和が主導権を握り、マキムクが誕生したんじゃないかな。
吉野の木材資源を押さえたというのも大きいだろうし。
河内は一時期洪水でやられたんでしょ。
鍵唐古が洪水でやられると、下流も当然やられる。
さらに竜田の地滑り地帯があるからな。
被害がでかかったのかもしれない。
こうして水銀厨と東海厨が排斥され、昔ながらの山辺の道が大和政権揺籃の地、って結論になるのか?
えっ、俺水銀厨だけどw
616 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 02:35:35
へー。
宇陀は交通の要衝じゃなかったと。そう結論付けたいわけね。どうしても。
617 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 02:37:13
>>616 そんな事はないでしょう、要衝には間違いないですから。
>>617 しかしこの地の重要な要素である事は、変わりないと思うけど。
大陸の文物や鉄の対価はどうするの?と考えたらね。
619 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 02:49:21
>>614 あと河内厨とか地政学厨とか?wwwwww
河内厨としては、河内に初期古墳が見られないことをどう考えるだと思うけどね。
1 大和から何らかの規制がかかり古墳が造れなかったのか?
2 それとも河内勢力が初期大和王権そのものだったからなのか?
621 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 03:01:22
>>620 3、河内は連合の一員だったが、首長連合が共同で開いた纏向の地に古墳を築くことが特別に許可された。
・・・自分で書いたものの、これは違う気がする。w
622 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 04:50:07
で、徳島厨は、どうして徳島に王権を築けなかったとしてるんだ?
>>620 おれは2番だろうと思うんだけどね。
そこに水害でやられてこっちへやってきたとか。
大和と河内の主従そのものを逆転させる
>>608のような考え方をとるなら、
それはそれだと思う。ただ、議論の前提が変わってしまうけどね。
そうしないかぎり、
なんで、わざわざ亀の瀬を必死でさかのぼったその奥地の、さらに山裾まで
舟を引っ張り上げたところが「唯一無二の中枢」になったのだ?
という疑問は、いろいろ提示されているけれど、どうも解消できないんだよなあ。
初期古墳の話も、傍論にしかならないように思える。
なぜなら、そんなに河内がよいのなら、
さっさと亀の背を下って
王権は仁徳朝とされる時期よりはるか以前に引っ越したはず。
小河川のほうが扱いやすいといっても、やはり河内の山裾で何の問題もない。
交通路に関しては、
A「そこに都市があるから、そこを結節点とする道ができた」つまり「都市が先。路は後」と、
B「交通の要衝だったから都市ができた」、つまり「路が先。都市は後」を
分ける必要がある。
東京中心の現在の交通網をみればよくわかるが、
どこに首都がおかれても、そこを中心とする交通網というのは、それなりにできてしまう(Aのこと)。
今の高速道路網をみて、「武蔵国江戸は交通の要衝だったから、首都となったのだ(つまりBだ)」
というのは、因果関係が逆転した話。
>>608後段は、BとAを混同しているように思える。
巻向からみて、「Aではない交通路」つまり、巻向だからこその「唯一の優位点(Bのこと)」は、
東に求めるしかないんじゃないか?
繰り返しになるが、西や北に向けての交通路としては、もっと便利な地域はやまほどある。
何故巻向に?という現代人からみて首を傾げるような事でも
当時の弥生人にはとても重要な事だったんだろう。
まあそれを説明出来るのは、水銀厨としては
宗教的要素だろうと思うけどね。
生活臭が薄いのはそういう事だろうと思うけど。
鍵・唐古があったわけだから、
大和は唐突に登場したわけではない。
湿地開拓が大きな富を生んだのではないだろうか。
この年末に何をやってんだ!? 自演厨w
629 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 10:34:04
ただ、河内はあくまでも連合の一員であったんだと思うけどね。このスレのテンプレにあるような、連合を主導した
勢力ではあるのかもしれないけれど。あまり河内を強調しすぎると、結局大和自生説と大差のない話になってしま
うのではないだろうか。
纏向出土の東海土器というのは、上では冗談めかして書いたけど、狗奴国=東海であったと考えればうまく説明
できる気がする。敗戦による労働力の移動。東海の人たちが初期古墳を作らされたのかもしれない。一宮市西上
免遺跡あたりを中心地とする木曽川流域というのはどうだろう。邪馬台国に服属したものの前方後方墳などの独自
性は残された。
630 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 10:53:17
あと、交通の利便というのは、関東在住で土地勘がないのでよくわからないが、対東国一辺倒ということはない
ような気がする。やはり吉備や丹後方面のルートも重要だろう。合同祭祀の際に、各連合の首長などもたびたび
纏向を訪れていたのだと想定すればね。
宗教に関しては、おそらく首長霊信仰と考えられる前方後円墳の祀りと、纏向の立地との関係はよくわからない。
三輪山祭祀は箸墓同時期のものとして記紀には出てくるし、研究者によっては縄文からともいわれる磐座もある
が、禁足地に祭祀の遺構が見られるのは4世紀以後のことだし。土坑からの出土品を見れば、農耕と共食に関
わる祭祀であり、太陽信仰というのではなさそう。
東向いた宮というのは太陽信仰だろう。
農耕重視ならこれは大事。
東海の土器というのは俺も労働力確保だろうと思う。
>>630-631 農耕には日照(太陽神)も大事ですが、治水(水神)も大事ですよね。
東向建物列は太陽信仰、土坑祭祀は水神信仰と言うことでしょうか。
ただ、「東」って四神の配置で言うと青龍、龍は水神のシンボルだそうですので、
太陽では無く龍神を祭る方向なのかもしれません。
龍神信仰は唐古時代から土器に刻まれていたりしますので、
纏向にも続いていたかと思われます。
>>629 庄内の開始を250年以降まで下げればその解釈も可能かもね。
龍は天に昇る
東から日が昇る
ってことで龍は東です。
635 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 12:19:06
竜の存在は、鏡などから知っていたかもね。
636 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 12:23:09
>>633 >素より和せず を信じれば小競り合いがずっとあったかもしれない。倭人伝に出てくるのは最終決戦?ww
>>624 唐古鍵は弥生時代を代表する畿内経済ブロックの拠点集落のひとつだよ。
マキムクと直線距離で10キロ、同じく山辺の道沿い。
まずこの事実を押さえといて欲しい。
秘境、奥地とかは事実誤認だよ。
もともと交通路の交錯する要地だったということ。
狗奴国が東国で倭国が瀬戸内より西。
それが奈良盆地まで倭が侵攻して
巻向に宮を造ったのが2〜3世紀なんでしょう。
>>624 >なんで、わざわざ亀の瀬を必死でさかのぼったその奥地の、さらに山裾まで
>舟を引っ張り上げたところが「唯一無二の中枢」になったのだ?
よく言われてるのは、大和川水系を遡って、陸路に切り替わる船着場かな。
あなたの言う東海交易も当然含まれるとは思うけど。
奈良盆地東部は縄文以来多くの集落が多くあって、その集落を結んだのが
山辺の道なんだよ。
>初期古墳の話も、傍論にしかならないように思える。
これ言われちゃうとどうにも議論できないが。
少なくとも初期古墳に東瀬戸内の影響が強く入っていて、ホケノ山なんて
ほとんど萩原みたいな感じで「阿波の人が被葬者?」とか言われてるし、
少なくとも瀬戸内の影響は強かったと思うよ、東海よりは。
>>624 >繰り返しになるが、西や北に向けての交通路としては、もっと便利な地域はやまほどある。
水銀厨と同じ台詞だけど、同一人物?
何に拘ってるのか分からないけど、都は必ずしも交通の一番便利な場所を
選ぶなんてことはないので、「もっと便利な場所があるから」とかは説明になってないよ。
特に重要なのものとしては、治水とか軍事的要素があると思う。
川の傍は便利だけど、常に水害に悩まされる危険がある。
あと海沿いなら、瀬戸内海の吉備やら熊野の水軍が襲ってくる可能性もあっただろうし、
高地性集落もそのために作られたんだよね。
いろいろな要素が複合的に絡み合って、マキムクの地が選ばれたということ。
水上交通では次点だったかもしれないが(唐古鍵が発展してるから、まあそれほど
不便てことはないでしょうが)、それ以外に色々な優位性があって(水銀や東海ルートも
含めて)、マキムクが選ばれたということでしょう。
641 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 13:14:08
河内主導・東遷説を採用した場合、大和王権の成立プロセスはどうなるの?
>>637 いや、話が拡散するから書かなかったんだが、
唐子・鍵という「都市」に対する、
>>624のAのパターンでの街道形成の結果が、
おそらくすでに巻向のころには既存の存在だった、大和盆地の交通網だったと思われる。
(その意味で、前史としての「唐子・鍵の形成過程」というのは、
巻向の解明のためには必須なのだろう。これは俺もよくわからない。)
ここに、B要素としての東国交通路の重要性が加わった時、
ぐっと東の交通路に寄った、
「大和盆地南東端山麓」という、巻向の地が選ばれたということ。
唐子・鍵から、もし河内や瀬戸内の交通要素に傾いたとするなら、
その時点で、拠点は東ではなく西に進み、最低でも法隆寺付近、
おそらくは、あの急流の亀の背をさっさと下って「八尾王朝」になるはず。
しかしこの時点での考古学的事実はそうではない。
なお、この話は、巻向勢力自体の「出自」とは必ずしも一致しない。
自生なのか外来なのか、西から来たのか東から来たのかとは、必ずしも関係がない。
>>640 水銀さんとは別人だよ。俺は水銀についてはかなり小さい評価しか与えていない。
対瀬戸内の交通要素に傾くとしたら、河内南部か信貴山周辺が栄えるよね。
少なくとも3世紀頃の時点でそうならなかったのは、
やはり水銀鉱脈の近くを押さえたかった一族がいたのではないか?と
水銀厨としては思う訳です。
あと可能性としては、奈良盆地〜河内平野が
大きな水害でやられたので、新たに土地を探して
移動したんじゃないかと。
鍵・唐古では大水害の形跡は何度か確認できるしね。
644 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 13:37:26
>>642 >ここに、B要素としての東国交通路の重要性が加わった時、
>ぐっと東の交通路に寄った、
うーん。もし本当に東海との交易を希求したのなら、むしろイワレの地に
都がつくられたと思うのだが。
最初、マキムクに王墓が築かれ、その後、磐余と柳本に王統が二分する。
最終的に柳本が勝つんだが、これをみても水銀や東海交易が優位性を
持ったと考えるのは違うように思う。
磐余の桜井茶臼山、メスリ山が築かれた頃は、一時的に東海との緊張関係が
高まって、対東海の玄関口に拠点を持つ造墓集団が権力を握った、ということなんだろう。
東海と緊張関係なんてなにも根拠がないじゃん。
もしかして倭人伝ですか?
>>644 柳本の天神山古墳からも水銀朱は確認できるけど。
茶臼山で確認出来るまでは国内最多だったし。
>>644 巻向遺跡の地理的全貌さえ明らかになっていない状態で、
そこまでミクロで見るのは危険だと思う。
俺の立論自体、「大和盆地南東部の扇状地の上」以上のことまでは、
絞り込むようなものとして組み立てていないし、
それ以上こまかい議論は遠慮するよ。
ただ、大和盆地南東部という、皇室の確実な揺籃の地が、
「西日本の東端(畿内)の、そのまた東端(大和盆地の東の端)」にあるという不思議は、
非常に重要なポイントだと思う。
これは、大和朝廷がなぜ全国制覇したのかという、根本的な疑問であって、
西の勢力を糾合するだけなら、こんな端っこが中枢となることもない。
もっと瀬戸内海沿岸の真ん中、交易路のど真ん中へへ出ていくだろう。
なお、筆致がやたらと似せられているが、
俺は水銀さんではない。俺は水銀にはほとんど意義を置いていない。
648 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 15:02:49
>>647 >これは、大和朝廷がなぜ全国制覇したのかという、根本的な疑問・・・
全国支配というのはいつのことをさしてるのかわからないが、3〜4世紀頃は各地のクニといっても面の支配は完成しておらず
記紀にある四道将軍のような形で、点となる拠点を叩いていった程度じゃないのかな。ただ、農業もそれほど発達していなかっ
たであろう東へ向かおうとする意欲は不可解な気もする。>祖彌躬ら甲冑を環き・・・か。本能なのかね?
649 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 15:13:07
えーと。
マキムクに祭祀場がついくられたのは、
三輪山信仰ではなく(3世紀に三輪山信仰は無かった?)
東国への交通に利便性が求められた、ということなのかな?
650 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 15:25:43
おい、ピラミッドって青銅で石切ってたって言ってるぞ。(吉村)
鉄いらねえじゃん。
ぎょうかい岩くらいなら問題ないですね
>>647 水銀厨だが別に似せてるつもりなんて全くないので
変な誤解はやめてね。
西日本の東の端は桑名だよ。
654 :
年末棚ざらえ、言いたい事を言って(ry:2009/12/30(水) 22:01:40
>>629 >結局大和自生説と大差のない話
このスレを見てて良く思うんだが…
恐らくある時期までややもすると過剰な「大和中心主義」みたいなものがあり
それに対する反動・反省から自生説といえば何やら「邪教」の如き扱いを受けると言うか…(苦笑
それこそクニレベルでの人口の移動、ヤマトへの入植も認められていないんだから
外部の文化を多分に受けたとは言えその主体はヤマトと言う認識はハズしちゃあいかんと思うんだw
『邪馬台国の候補地−纏向遺跡』 石野博信 新泉社 には外来系土器の占める割合として
纏向1類で10%未満
纏向2類で15%前後
纏向3類で30%位
…になっている。チト分かりにくいんだがこれを時代ごとの割合の推移と考えてよければ
今日「外来系土器の多さ」がウリの纏向遺跡とて段階を経て全国区の都市に成長したわけで
あまり最初から大風呂敷を広げすぎるのもアレかとw
まあ「自生説の復権を!」と言えば言い過ぎなんだろうがwwwwwwww
655 :
年末棚ざらえ、言いたい事を言って(ry:2009/12/30(水) 22:06:17
>>632 >ただ、「東」って四神の配置で言うと青龍、龍は水神のシンボルだそうですので、
まあ龍には常に「水」のイメージが付きまとうし間違いでもないと思うんだが…
念の為に突っ込んどくと四神と五行の対応で言うと青龍は「木」
本来「水」は玄武で方角は北。
まあおよそ役にも立たないような雑学だがwwwwwww
656 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 22:19:55
>>645-646 いやまあ、確かに根拠はないんだけどw
ただイワレの地を押さえた豪族が対東海に主導権を持ってて、
東海との関係悪化、緊張化でイワレのオウの権威が高まる、っていうのも考えられるかと。
東海系土器がマキムク時代を通じて常に一番多かった訳ではないらしいし、
当然、東海と畿内の関係が友好的になったり敵対的になったりはやっぱりあったんだろうと。
安易に狗奴国と結びつける気はないんだが。
あと、桜井茶臼山やメスリ山を大彦ゆかりの墓とするなら、阿倍氏は東国経営を
任された軍事氏族だしね。東海有事に周囲の豪族から推戴され、一時的に大王位に
就いていたとか。
純粋な自生説はちょっと無理なんじゃないかと思う。
>>657 勿論、ヤマトの人間が外部の影響無しにある日突然纏向をつくり
そこに前方後円墳を築いていった…なんて事は思ってないんで誤解なきようにw
659 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 23:06:15
>>654 唐古・鍵その他の元からのヤマト勢は纏向に移ったんだと思うし、首長霊信仰は吉備主導でいいとと思う。吉備は都
市計画的なことにも加わっていたかもしれない。あと、その石野の本は読んだが纏向1式段階から、外来系土器に占
める東海の割合が半分程度だったはず。これはおそらく物が欲しさに東海のほうから来ていたんではないかな。
660 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 23:19:25
>>654 マキムクは、大和川水系豪族が連合して奈良南東部を開発したのが最初で、
これが倭人伝のいうところの邪馬台国七万戸の正体。この頃の王の墓が
石塚・矢塚・勝山・東田大塚とかのいわゆるマキムク型前方後円墳。
その後、大和の女王を共立することで、吉備や木津川水系、丹波、阿波、
東海、筑紫あたりと倭国連合の結成。魏から倭王の承認をもらう。
女王は死後箸墓に埋葬。王たちの上の存在、大王のため一際大きな墓にした。
>>658 まあそりゃそうだろうね。同意する。
さらにいえば、俺は厨と言われながらも東国要素を力説し続けているが、
それでも、
巻向の少なくとも支配層自体が、時間的・空間的に巨視的に見れば西からやってきたことは否定しないし、
畿内が西南日本に属することは全く否定しない。
(だからこそ、西南日本の端っこにある巻向が覇権を握ったのはなぜ?という問題提起であるわけで)
このスレにもちらちら出てくる「狗奴国東海(尾張)説」には、実は俺は全く賛同しないし、
まして、神武「西遷」説(信じられないがごく一部の人が実際に唱えている)などは全く否定する。
要するに、畿内の遺跡で、これほどまでに東海要素がゴロゴロ出てくるのは、巻向だけなんじゃないか?
その意味で、東海要素は巻向の「オンリーワン」であって、
これが後世大和政権が「ナンバーワン」に上り詰める重要な秘密なんじゃないのか?
という素朴な立論が、その根底にあるだけなんだ。
ただ、相対的に見て、神話に引きずられていた時代に信じられていた筑紫要素はもちろんだが、
それ以外の西国要素、とくに中国地方(瀬戸内北岸)の要素は、畿内の中でも随分少ないなあという印象を持つ。
近畿は当時から南北に大きく分かれていて、
南近畿は、四国(とくに阿波など)の要素はかなりあるが、中国地方の要素は入ってきづらいのだろう。
>近畿は当時から南北に大きく分かれていて、
南近畿は、四国(とくに阿波など)の要素はかなりあるが、中国地方の要素は入ってきづらいのだろう。
但馬・丹波地方の要素は多いと思うけど。
663 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 23:56:41
>>655 「水」は風水上、水銀のことを指します。
龍と都を考察するうえで重要なポイントです。
意外と役に立つと思いますよ。
古代を理解する点で。
その風水で成り立つ地こそが都になると思う。
鎌倉時代以前では大宰府、京都、奈良でしょう。
ちなみにいずれも水銀鉱脈があるは空海の足跡をみれば明らか。
664 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 23:59:49
>>661 >これが後世大和政権が「ナンバーワン」に上り詰める重要な秘密なんじゃないのか?
東海といっても一枚岩だったというわけでもなさそう。おそらく連合に協力的な勢力とそうでない勢力がいたんだろう。
弥生終末に東海から関東に移住していった跡も残っているし。で、この重要な秘密というのはなんだろう。傭兵的に人
を使っていたとかなんだろうか?
665 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:00:09
水分という地名が各所にありますが、
これ、”川の分岐点”の意味ではありませn。
鉱脈の分岐です。
穴師なんて地名はもろに鉱脈の形跡だよな。
やはり宇陀だけではなく、この辺りも
水銀が採れたんじゃないかな?
667 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:10:25
>>666 空海は間違いなく、山師かつ穴師だと思います。
密教とはいいながら、巨万の富と絶大な信頼を得られた理由は
この辺にあるのでは。
668 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:24:08
>>661 >(だからこそ、西南日本の端っこにある巻向が覇権を握ったのはなぜ?という問題提起であるわけで)
>>660で書いたように、大和川水系だけで考えれば、マキムクの立地は不思議ではないと思うんだけど。
畿内経済ブロックの中心、唐古鍵の近くだし。
畿内が団結して7万戸という巨大な国になったから、覇権を握ったとも言えるのでは?
畿内がアドバンテージを持ったのは、東海ルートかな、やっぱり。
関東へどんどん進出できる余地を持った東海は、出資するにはもってこいの
新興ベンチャー企業みたいなもの。
東海が西と交易するには畿内を通さざるを得ず、畿内に頭を下げるしかない。
日本海ルートもあるにはあるけど、輸送コストの面から、やっぱり畿内か、という感じ。
畿内にとって東海は交易相手としてベストだっただろう。
鉱脈となると大国主=大穴牟遅=大穴持ちでしょう。
となると、スサノヲ=朱砂ノ王の意味というのも
考えられますね。
>>659 唐古・鍵からの移住・・・実際にはそれすらも証明は難しいんだろうな。
いわんや他地域からの入植なんてwww
確か北部九州でも須玖から比恵那珂への人の移住をといている学者がいるらしいが
これも考古学的な裏づけ・証明はできてないらしい。
てか一口に「環濠集落の解体」とか言うが実際最後はどうなんだろう?
数戸の爺さん婆さんだけになってフェイドアウトするのかな?www
671 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:38:41
>>670 いまちょうど「ドンと来い」に書いたところだが、この時期あたりにヤマトの14の母体集落も衰退、消滅している
という研究結果もあるらしい。HPで見ただけなんで不確かだが。
唐古・鍵に関してはこういう記事もあった。
>集落の衰退
大環濠の消滅。
環濠の一部再掘削。弥生時代を通しての環濠集落を放棄したにもかかわらず、古墳時代の初めに再度環濠集落
をも形成する。ここに唐古・鍵遺跡の特徴があると、考えられている。
弥生時代前期と同様に、三個所の地区(西・北・南)を中心に居住遺構が検出されている。次の時期には遺構数も
増加する傾向にある。
井戸などの遺構が減少していることから、居住域が規模が縮小していることがわかる。
>>668 で、紀伊半島の南回り航路で東海と交易できる紀伊は、大和と利害関係で対立する競争相手。
倭人伝でいうところの狗奴国は紀伊のことだろう。
外洋はねえよ。
江戸時代でも松坂湾まで陸送が結構あった。
>>668 そうなんだよ。3段目には100%同意する。まとめてくれてありがとう。
俺が繰り返している、「畿内の東国に対する100%の独占権」というのは、そういうことなんだ。
東日本の太平洋側というのは、西南日本からみれば、地理的に完全に孤立した地方で、
近畿を介するルート以外で、西日本(や大陸方面)と接触することはほぼ全く不可能。
(余談になるが、「信州諏訪に進出したのが(島根県の)出雲である」と伝承をそのまま読んだ結果、
「糸魚川方面から侵入したに違いない」という説を信じる神話研究家が結構いるが、あきらかに珍説だ。
諏訪の「出雲」は、間違いなく愛知県三河方面から入っている。)
そして、東海勢はこの東国に広く拡散する開拓者(時に残忍な征服者でもあったろう)であって、
彼らへの独占アクセス権を持っていたのが近畿ということになる。
越は、出雲と畿内の競合地域であって、出雲の独占にはなりえない。
九州島は鹿児島で果てるので、地理的に小さい。
ただ、2段目は留保するよ。唐子・鍵の成立過程こそが、巻向問題の真の肝だと俺も思うが、
これが「畿内ブロックの中心」とまで言えるかどうか、若干疑問がある。
奈良盆地の中心であったことは確実だけど。
それに、俺は邪馬台国についてはノータッチを貫いている。
実は畿内説をとらず、でも巻向の重要性は大きく認める(畿内王権の立ち上がりを早く認める)立場だから。
これも余談だが、邪馬台国なるものの記述は、
中華王朝が、自分に直接関係のある九州のローカル政権を描いたものである可能性が高いと踏んでいる。
要するに、のちの明朝が、倭寇対策として、直接対面する九州南朝を主な交渉相手としたようなもの。
675 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 04:23:48
>>674 >諏訪の「出雲」は、間違いなく愛知県三河方面から入っている。)
それは、天竜川のルートかな?
東海と交易って一体何を交易するんだ?
出雲国譲りは、卑弥呼擁立の倭国大乱とは無関係。
倭国大乱前に、倭国では男王の時代が数十年続いていたそうだが
その初代倭王が、出雲国譲りを実現させることによって
倭国統一を達成させた。
さて、今晩は初詣に三輪行ってこよ。
今年は九州説にとって悲しい年になったな。
除夜の鐘が鳴ってる間に畿内説に乗り換えれば素晴らしい新年になるかもよw
681 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 21:53:34
畿内説は本気で信じている学者がいないのが難点だな。
九州説には本気で信じてる素人すらいないのか致命傷だなw
683 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 22:21:15
機内説の立脚点は布留0が3世紀初頭の土器としていること、
しかし、炭素年代法も考古学者の間では疑問符がついてる
ことに目をつむったまま今回発見された大型建物跡を卑弥呼
の年代の建物跡だと暴走している、また同じ地層で発見された
馬具については説明らしい説明もない。
684 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 22:35:31
だいたい、それまで男が倭国の王だったのにいきなり
卑弥呼の共立で乱が収まったて言うのはどういうことよ。
そこにはそのt地域に巫女崇拝の文化的背景が存在しないと
あり得ない話だとおもうけど。
九州北部には伊都の平原遺跡、春日の弥生遺跡などいくつか
巫女的女性の墳墓が確認されているけど機内にそんな弥生時代
の遺跡が確認されてるんかな?
>>684 弥生中期ですが加美遺跡のY1号墓は大型方形周溝墓でその中心主体はの被葬者は女性です。
副葬物の質は平原には遠く及ばないのですが、弥生期の畿内にも女性指導者が居たことは間違いありません。
686 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 23:02:18
その加美遺跡では鏡は発見されましたか?
687 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 23:18:25
加美遺跡は集合墓で部族集団の支配者、あるいは有力者の家族の墓
であり巫女的性格を持った女性を被葬した例としては根拠薄弱。
第一何で鏡、出てないんだよ。
688 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 23:54:37
なんで鏡が巫女に必要なの?
>>687 大型方形周溝墓ですから、当然複合埋葬(多分家族墓)施設です。
しかし、同一墓域内での主墳とみなされる墳丘墓の中心主体の被葬者が女性であることは、
その集団において、女性の地位が如何ほどであったかを示していると思います。
逆にお聞きしたいのですが、鏡が出ると「巫女的女性」の墓だと「確認」できるのですか?
「鏡」と「巫女」の関係と言うのは「鏡」と「男性」の組み合わせとどう違うと言うのでしょうか?
皆目見当がつきませんですが・・・・
__f´  ̄、`ヽ
{`ァr===ヾ__,ノ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
く'/l!i从从リリ! | はわわ
ノ}メ(l゚ ヮ゚ノ'リ < ご主人様
(´( ´とj 'ハ'つ .| 年が明けちゃいましたぁ。
. `) し'/Wヽ \_____
.ル'じ'フ~´
692 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 00:06:37
三世紀初頭の玄界灘の制海権を握っていたのは九州北部、とりわけ
伊都国を中心にした国家連合に間違いない、近年発見された壱岐の
原の辻遺跡からは弥生時代の船付き場跡などその当時の壱岐の繁栄
ぶりを彷彿とさせるがそこから出土する土器は朝鮮系の土器と共に
伊都国系の土器が大量に発見されている、畿内系の土器など全然出て
こない、また鏡についても後漢鏡、北部九州製の鏡しかでてこず
畿内説論者の卑弥呼が配ったという三角縁神獣鏡などは一面も出て
こない、大陸と倭国本土をつなぐこれほど重要な拠点から畿内系土器
も三角縁神獣鏡もでてこないということはどう考えればいいのかな?
693 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 00:12:10
北九州は、完全に畿内の支配下にあったってことか。
694 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 00:22:44
>>689 記紀などの資料によればアマテラスの例を持ち出すまでもなく
巫女的性格には鏡は必須アイテムじゃないですか、ちなみに
北部九州の女性被葬者の墓には必ず鏡がともないます。
逆にお聞きしますが何故被葬者の女性の地位が高ければそれが即、
巫女的性格を持っていた女性だと断言できるのですか?
お聞かせ下さい。
このスレに乗り込んでくるクレーマーは相変わらず本当に頭が悪いな
鏡が被葬者が女性と思われるケースのみに副葬されているのなら
巫女との関係性も論じる事ができようが
そうでないのは明々白々。
邪馬台国スレは他にも腐るほどあるんだから馬鹿は他で書き込んで欲しい。
696 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 00:33:55
>>694 アマテラスは7世紀の創作なので、
古墳時代を通じて鏡と巫女は関係ありません。
697 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 01:09:52
天照大神は、女性でありながら高天原の主宰神。しかも、夫がいない。
こういう存在を後世に創作するのは無理があるな。
しかし、倭人伝に書かれた卑弥呼を見ればわかるように、三世紀には現実に
日本にそういう存在がいた。
ここの連中は、おみくじで遊ぶ心のゆとりもないのか。
699 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 01:17:31
>>696 確かにアマテラスは7世紀の創作ですが
そこに記されているアマテラスの属性は7世紀の創作ではなく
史実を含んでいます。特に平原で発見された大型内行花文鏡を始め
とする多数の鏡、メノウ製管玉、ガラス製勾玉、ガラス製玉のブレス
レット等、これらを総合すればアマテラスの属性とほとんど重なります
そして、平原は卑弥呼の直前の被葬者の墓です、なるほど男性の被葬者
の場合も鏡を副葬するでしょうがそれと巫女的性格の女性が鏡を副葬
しているのとは意味が違います、男性の副葬鏡の場合は伝世しますが
巫女的女性の副葬鏡は伝世しません。何より卑弥呼が鏡を欲したと
倭人伝に書かれているではありませんか、それはその当時の巫女が
鏡を必用としたということです。
ところであなたは私の質問にまだお答えになつていらっしゃらいようですが
どうしました?
>>694 >逆にお聞きしますが
貴方は他人に問うばかりで自分への問いには答える気は無いのですか?
あとで、もう一度訊きますので答えてください。
> 何故被葬者の女性の地位が高ければそれが即、
> 巫女的性格を持っていた女性だと断言できるのですか?
誰もそんなことは言っていませんがw
私が言ったのは
”同一墓域内での主墳とみなされる墳丘墓の中心主体の被葬者が女性であることは、
その集団において、女性の地位が如何ほどであったかを示している”
で、かなりニュアンスが違うと思いますが、
要するに弥生時代の畿内には巫女を葬った痕跡があるとか言切ってもらわないと困るみたいですね。
で、貴方がスルーしている問いを再度投げかけます。
”「鏡」と「巫女」の関係と言うのは「鏡」と「男性」の組み合わせとどう違うと言うのでしょうか?”
例えば、三雲南小路1号墓の被葬者は有名な鏡コレクターですが、
この方も「巫女的性格」をお持ちなのですね?
貴方の言ってることはそういうことですよ。
忙しくても今年中には御返事くださいなw
701 :
【大吉】 【1488円】 :2010/01/01(金) 01:21:01
一度だけ
>>699 >>696さんは私じゃないですよ。
行き違いで
>>700を入れてしまいましたが、
>アマテラスの属性は7世紀の創作ではなく
>史実を含んでいます
とか言い切られても、ちょっと対応しかねます。
一点、質問。
多分、私以外の人もツッコムかもしれませんが・・・
>男性の副葬鏡の場合は伝世しますが
>巫女的女性の副葬鏡は伝世しません。
これって、ちょっと常識では理解できない文章なんですが、訂正するところはありませんか?
訂正無しと言うことでしたら、もう何も申し上げるところはありません。
新年早々御苦労さまでした。
703 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 01:29:56
個々の遺跡から一般に敷衍したことを言うのは危険だし、慎むべき。
704 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 01:36:04
705 :
【大凶】 【293円】 :2010/01/01(金) 01:44:26
平原は、遺骨が出ていないので不明というのが正しいのじゃなかろうか。
何かで、武器類が出ておらず、装飾具が多いので女性ではないかというのを
見たことがある。
しかし、熊本県の向野田古墳(女性の遺骨が出ている)の副葬品を見たのだが、
ものすごい量の鉄刀、鉄剣、刀子などがあった。だから、女性だから
武器類がないというのはあたらないだろうな。
ともかく、平原については、鏡が人為的に割られていたというのに興味が
あるなあ。
>>692 原の辻ねえ・・・
古墳時代になって博多湾岸地域の遺跡群が交易の中心地となり相対的地位が低下したから。
三角も出なければそれまでのような中国鏡の副葬された墓も見つかっていない。
・・・と言う事らしいw(by武末純一)
とりあえずその話なら三角や畿内系土器の出るところは
ヤマト王権の勢力の及んだ地域と言う事になるだろうからw
福岡平野までは勢力下だったと言う事でおk?w
707 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 01:57:56
>>702 アマテラスの属性が史実を含んでいるという根拠につきましては
書いている通りです。
男性の副葬鏡の場合は伝世するが
巫女的女性の副葬鏡の場合は伝世しない
巫女的女性の所持している鏡は巫女的女性個人の所持鏡であり
伝世すべき性格のものではないという事です。
常識では理解できないとい言われても九州の巫女的女性の副葬鏡
は伝世鏡はありません。畿内には巫女的女性の被葬者の例がない
地位の高い女性の被葬者の例はありますでしょうが、それは即
巫女的女性とは言い切れないとは、あなたも認められている通り
ですよね。
三雲南小路1号墓の被葬者については多分ちがうと思います。
断っておきますけど女性が被葬者で鏡を副葬していれば全てが
巫女的性格をもった被葬者だといってるのではありませんよ。
すくなくともその当時の(いわゆる邪馬台国前後)の巫女的女性の被葬者
は鏡を副葬していると言っているのです。
遅ればせながら あけましておめでとうございます。
708 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 02:00:34
>>707 かなり思い込みを前提としてるから、
君の文章からは何も伝わってこない。
たとえば、どこの遺跡の被葬者が女性で、その鏡が伝世鏡ではないとか、
例をいくつか挙げること。
無理だろうけど。
>>707 うーーーーん。
仰ってることは、まだよく分からないですね。
男性墓に副葬されている鏡は伝世モノ・・・つまり前時代のもの、
巫女墓に副葬されている鏡は伝世しない? 同時代のもの、と言うような意味ですか?
伝世したか、一代限りかって、どこで見分けているのかな?
もしかして、舶載鏡は伝世、国産鏡は非伝世とか言う判定ですかね。
>アマテラスの属性が史実を含んでいるという根拠につきましては
>書いている通りです。
これもよくわからないのですが、副葬品のガラス製のブレスレット等のことですかね?
確かに天照は、素戔嗚との誓約のときに八坂瓊之五百箇御統と言うブレスレットを着けていたと紀にはありますね。
でも、これって天照だけの属性じゃない(後の段では素戔嗚も着けている)ですし、巫女の証でもない装飾品です。
だいたい、高天原神話における天照の性格は「巫女的」ですか?
天岩戸はヒステリックに御隠れになるだけだし、後半では自分の血統を孫に託し、日本を統治させようと「母性的」です。
高天原で鏡を使うのは天兒屋命(中臣)と太玉命(忌部)と言う男性祭祀者の家系の遠祖です。
年賀状を書きながらですので続きはまた・・・・
710 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 16:31:51
>>709 >日本を統治させようと「母性的」です。
日本を統治しようとしたのは、タカミムスビです。
アマテラスは、葦原中国平定に関与してません。
アマテラスは7世紀の創作です。
古事記ではスサノオの嫁も神大市比女なのか?
一体どんな存在なんだろう。
>683
C14年代法そのものは、熱ルミネッセンス法やラマン光など、田の理化学的年代法と整合性がある数値が出ると、
何十年も言われ続けてただろ。
考古学者の主張する年代だけが異端だったわけ。
理化学年代の拒絶が不可能になった結果として、年代引き上げという結果がもたらされただけ。
ちなみに、湖底堆積物などを用いた気候復元の研究とも整合性がある。
従来の年代法が非科学的だったってだけの話で、
C14年代法に不正確さが残っているとは言っても、従来の年代よりは圧倒的に妥当で適切な数値になるんだよ。
713 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 22:33:16
そもそも、昔は畿内説でも古墳時代は4世紀からってことだっただろ。
箸墓を卑弥呼の墓にするのは不敬だったからな。
単に文献史学の、崇神没年の干支解釈に惑わされてただけ。
715 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 23:44:25
そろそろ、新書か四六判で一般向けの纏向解説本が出ないかな。
716 :
【大吉】 【340円】 :2010/01/01(金) 23:46:22
>>712 それはお笑い種だな。
熱ルミネッセンス法でどんな具体的な結論が支持できるんだ??
そもそもあれは年代をピンポイントで決められる代物じゃないだろ。
歴博のC14の発表にしても、古い年代が出ることが分かっている土器付着物だけに
注目して我田引水に引用しているにすぎない。
歴博には、多方面からの批判の集中砲火が浴びせられている。
歴博はそれを無視しているだけ。
とりあえず、ホケノの桃核が4C半ば(これとても実際より古く出ている可能性がある)
という事実を直視すべきだな。
717 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 23:55:04
戦後もしばらくの間、文献史学の考古学に対する優越といったものがあったと思われる。小林行雄の1951年「日本考古学概説」では
古墳時代の開始について、3世紀半ばよりほど遠くない時に古墳時代が始まったという大まかな見通しが述べられている。
ところが、1976年の「古墳時代論考」においては、古墳時代は4世紀から7世紀と明確に書かれており、これは文献史学の崇神没年318
年説が強くなったことの影響だと思う。ここから伝世理論なども生まれた。だから、以前の年代観などといっても実際は大きな根拠のあ
るものではない。
また、712のいうように昔から理化学年代が古く出ていたのは確かなのだが、当時の信頼性を考えればどうだろうな?
718 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 00:52:27
>>717 それは違う。昔の学説も今日でも通用する根拠を持っていた。
・崇神天皇の没年干支を318年とする説も参考にはなっているが、それは補充的。
・仁徳天皇稜やその周囲の巨大古墳が5C前葉から半ばであろうということから、
その埴輪や須恵器をその頃のものと推定した。
・稲荷山古墳の須恵器が5C末葉として、須恵器をその頃のものと推定した。
この前提で@土器、埴輪、須恵器の変遷を後世と等間隔での変遷として遡る。
A古墳の数が前期、中期は各期間ごとにほぼ同じとして遡る。
そうすると、@須恵器の開始が5C初頭〜半ばになる(その後、新たな型の須恵器の発見で
須恵器の開始は400年頃とされたが、各須恵器の型と中期古墳の時代観は同じ)。
A古墳時代前期の古墳の数からは、当初から同じペースで古墳が作られたとすると4C半ばに
古墳築造が始まったことになる。当初はスローペースと推定しても4C初めの開始となる。
なので、
今年代遡上説によると@、須恵器の開始を白石のように4C半ばまで古くしていかないと、土器編年と
接合できない。しかし、仁徳稜やその周辺の古墳を4Cに繰り上げるのは無理だから、これは不可能。
A年代遡上の結果、初期の古墳があまりにもまばらすぎるという問題も未解決。
石野が各時代に振り分けているが、それでも中期に比べてあまりにも築造のペースが遅いという問題は
解決できない。地方の古墳群では行くとこの問題は深刻。
しかも、作られた時期ごとに古墳の形状が変化しているという基本を完全に無視することになるので、
大半の学者は様子見という状況。
要するに、年代遡上を捨てるしかない状況に追い込まれているのが、今の遡上説。
しかし、年代遡上を捨てれば、畿内説が成り立たず、本も売れない、発掘費も出ない。
719 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 00:58:49
>>718 >地方の古墳群では行くとこの問題は深刻。
訂正→地方の古墳群ではこの問題は深刻。
地方で、@畿内の古墳と相似形の古墳を同じ時期に遡らせる。A三角縁を
出土した古墳を3C末葉に遡らせる。という年代遡上を白石とかがやっているが、
これをやると、地方では初期の古墳だけ異常にまばらになってしまう。
ひどいのは古墳群が3C末に始まって2基目が5Cにずれ込んだりする。
地方だと代替古墳を間に入れてごまかすことができないので、スキマを埋められない。
720 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:02:03
>>718 しかし必死だな。円筒埴輪の形式による他古墳との比較から、大仙陵古墳が仁徳天皇陵ではない可能性が高い。
もう前提そのものが崩れている話を持ち出されてもな。また、稲荷山古墳の須恵器といったところで、幅をどう取る
かについての確たる正解などない。遡上は池上・曽根の年輪年代あたりから始まったのだろうが、もう何を言っても
この流れは止められない。そして恨み節が続く。
721 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:03:17
>>719 >ひどいのは古墳群が3C末に始まって2基目が5Cにずれ込んだりする。
そのひどい例というのは、どの古墳のことかね?
古墳群が3C末に始まっ2基目が5Cにずれてるという古墳はどこにあるの?
君の脳内でなければ、明記できるよね?
722 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:04:26
>>718 >A年代遡上の結果、初期の古墳があまりにもまばらすぎるという問題も未解決。
まばらすぎる? そんな話は聞いたことがないが。
「まばら」な初期の古墳とは、具体的には?
古墳名を全部挙げてみてくれよ。
723 :
!omikuji !dama:2010/01/02(土) 01:05:31
>>720 >大仙陵古墳が仁徳天皇陵ではない可能性が高い。
それも考慮に入れて書いてあるのだが、あの巨大古墳群が5C前葉〜半ばということは
誰も疑っていない。各古墳の被葬者をどの天皇に当てるかが問題となっているだけ。
もう少し、まともな反論はできないのかな?
724 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:09:29
>>721 むしろ逆に、地方の古墳で三角縁を出土したものを3Cに繰り上げて、後続の古墳と
接合できた例を挙げてもらいたい。
>>722 必死だな。上に書いた問題そのものだろ。
まばらの問題は畿内でも起きている。
石塚やホケノ山を220〜250年頃として、2、3個の古墳だけを突出して古くしたため、
畿内のなかでさえもまばらの問題が生じているのは明らか。
725 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:11:16
>>724 だから、例をあげなさいよ。
畿内説を追い詰めたいんだろ?
>>719 >ひどいのは古墳群が3C末に始まって2基目が5Cにずれ込んだりする。
そのひどい例というのは、どの古墳のことかね?
古墳群が3C末に始まっ2基目が5Cにずれてるという古墳はどこにあるの?
君の脳内でなければ、明記できるよね?
726 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:18:05
>>725 やれやれだな。
証明責任はお前の方にもあるんだよ。
年代遡上の根拠を遡上説の側から言ってみろよ。
このことを言われると、すぐに逃げ出すよな、お前は。
727 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:19:39
>>724 >地方の古墳で三角縁を出土したものを3Cに繰り上げて、
それはどの古墳の話?
存在しない例を挙げろといわれてもね。
728 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:22:30
>>726 年代遡上の結果、「まならになる」と指摘したおんは君なんだから、
どの古墳がまばらになるのか明記してくれないと、議論の出発点にもならないよ。
729 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:25:21
>>728 やっぱり自分のことになると逃げの一手だな。
これが悲しき年代遡上教徒の末路ww
730 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:27:29
>>717 >ところが、1976年の「古墳時代論考」においては、古墳時代は4世紀から7世紀と明確に書かれており、
>これは文献史学の崇神没年318年説が強くなったことの影響だと思う。
古墳時代の始まりに関し、小林の年代観は確かに「3世紀後半」から「4世紀」へと変化した。
しかし小林という人は記の崩年干支などに信を置くようなタイプではなかっただろうよ。
おそらく弟子の佐原の考えを取り入れたためと思われ。
そもそも、「文献史学の崇神没年318年説が強くなった」なんて、本当か?
今は崩年干支を信じる文献史学者なんてほとんどいないと思うが。
731 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:33:10
>ひどいのは古墳群が3C末に始まって2基目が5Cにずれ込んだりする。
なんていう古墳?
732 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:33:11
>>724で古墳が密集している大和でさえ、石塚とホケノが突出して
まばらの問題が生じていると書いたが、やっぱり反論できないみたいだな。
733 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:38:02
ところで、椿井大塚山古墳の年代はどうなっているのかな?
734 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:47:38
うーん、俺もその「畿内の古墳がまばらになる」と言う意味が分からない。
つうか、そもそも所謂「纏向型」なんて元々絶対数が少ないんだし…。
箸墓以後の定型化された巨大古墳がバンバン造られる時代のものと同じにしても意味が無いと思うが…
735 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:49:23
>>732 大和がまばら?
全然そんなことないだろ。
おおやまと古墳群(大和・柳本・纏向の各古墳群の総称)、プラス桜井茶臼山・メスリを含めると
盆地東南部にはいったいどれだけの前期古墳があるか、数えてみたかい?
736 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:54:37
737 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:57:09
>>734 それは初期の古墳は少量しか作られなかったという理屈で初期の古墳の期間を極端に
長くする理屈だよね。
738 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:58:32
>>736 意味不明。
下の例をあげなさいよ。
>>719 >ひどいのは古墳群が3C末に始まって2基目が5Cにずれ込んだりする。
そのひどい例というのは、どの古墳のことかね?
古墳群が3C末に始まっ2基目が5Cにずれてるという古墳はどこにあるの?
君の脳内でなければ、明記できるよね?
739 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:59:58
>>738 んで、遡上説の年代の根拠は?
日本語が分からないフリをしても、だめだよん。
740 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:01:59
>>724 >地方の古墳で三角縁を出土したものを3Cに繰り上げて、
それはどの古墳の話?
存在しない例を挙げろといわれてもね。
741 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:02:21
ごめんなさい。年代遡上の根拠なんてありません。
742 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:06:57
>>740 教えて坊やだな。
教えてあげないwww
743 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:07:09
>>724 >地方の古墳で三角縁を出土したものを3Cに繰り上げて、
それはどの古墳の話?
存在しない例を挙げろといわれてもね。
744 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:09:04
>>736 つうかリンク先貼る前にその内容読んでるか?w
>
http://www.ayabeyama.jp/kofuncun.htm >綾部山古墳群は5世紀(中期)〜7世紀(終末期)にかけての古墳群と言われており、
>発見された、これらの遺跡も 『5世紀頃の古墳である』と考えて本発掘調査に入りました。
>しかしそれは、とんでもない間違いで した。この道跡はもっと以前の3世紀代のもので
まあそれまでの通説のほうが正しかったと言うのなら
何をその論拠にするのか?説明してもらいたいな。
そもそも同じ古墳群で時代のあくものが存在するはずが無いという理屈が分からない。
明確に5Cと思われる域内の古墳と39号墳の類似性を挙げて
その二つの年代が1世紀以上も離れるのはあり得ないと言うのならともかく・・・
>>736 自分で引用したサイトに書かれている内容も理解できないのかw
綾部山39号墳の例は、後期古墳群の領域内に弥生墳丘墓が混じっていたと書いてあるようだがw
両者は全然別のモノ、別の時期の遺跡じゃないかW
マヌケw
746 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:13:51
747 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:16:51
>>746 ↓のコレに回答して欲しいんだけど。
ギャフンと言わせたいんだろ?
>>724 >地方の古墳で三角縁を出土したものを3Cに繰り上げて、
それはどの古墳の話?
748 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:17:22
根拠なく言ってから必死になって、ググったんだろう。まあ、この人の編年論も受け売りみたいだからしょうが
ないか。
>>730 これは、文献の考古学に対する力関係の優劣は確かにあった。
749 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:17:48
>>745 んで、自分の年代観の根拠を言う気になったか?
完全黙秘かな?
副葬品や古墳位置関係から見て、切り離しは無理だよ。
だから、「ホケノとの類似はいったん切り離して4Cにしようじゃないか」というのは
現時点で不都合を回避する最良の方法とされているんじゃないかな。
まあ、何とかの上塗りにならなきゃいいけどね。
750 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:21:24
>>736 綾部山はまだ未発掘が大半だろ。
で君は1〜38号までの全てが5世紀以降と断定できたのか?
その根拠は?
751 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:24:41
綾部の39号墳でピンと来てリンク先にも触れられているが
そこの画文って編年上ホケノのものよりは前だったよな?
だったら39号墳が5Cならホケノはどうやっても更にそれより新しい5C初頭以降
…本人は自分が何を言っているのか分かっているのか?w
752 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:25:07
>>750 それは逃げの弁解だな。逃亡までの時間稼ぎ。
綾部山だけを突出して古くすることはできない状況があるという事実から目を
そらすための理屈に過ぎないことは、自分でも分かっているよね。
だから、「あれだけ弥生の別物だ。(これは無理すぎww)」とか、それが無理でも
「ホケノとは違うのだよ」とかいう逃げも用意したんだし。
753 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:28:24
>>752 綾部山古墳群1号〜38号古墳は全て5世紀以降だという証明をしなさい。
754 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:30:35
>>751 それはあの画文帯が両方とも国産ということを認めるということかな?
舶載だとすると、日本に来る時期で前後逆転がありうるので、無意味だよね。
まあ、お前の自白したとおり国産だろうけど、作られてから埋められるまでの時間があるからね。
どこかの信者のように、あれは舶載で「中国で作られてすぐに日本に来て、すぐに埋められた」
とか言い出すんじゃないよね。
ところで、遡上説の根拠マダー
755 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:37:50
>>754 画文帯に話をそらそうとしてるみたいだが、はやいところ
↓のコレに回答して欲しいんだけど。
>>724 >地方の古墳で三角縁を出土したものを3Cに繰り上げて、
それはどの古墳の話?
756 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:37:55
しかしホケノが5C初頭なんて事になったらさあ大変。
「まばら」と言うのは何を妄想しているのか分からないが
この場合、「超過密」になるのは避けられない。
柳本、大和と言った奈良南部の古墳群と北部の佐紀
古市や百舌鳥と言った河内の古墳群がほぼ横並びで同時スタートと言う話しになりかねない。
…もう邪馬台国のお話飛び越えて日本の古代史の根底から変わるんじゃないのか?w
757 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:41:12
大王墓と考えられるものを取り上げて見ていけば、当然土器編年との整合性はあるんだよ。
>>746 自分だけの世界に浸るなw
言ってることの意味がわからんぞ。
> 39号墳が発見されて、これを3C半ばにしようとする勢力があった。
> しかし、次に続かない・・・・
「次に続かない」とはどういうことだろうか?
綾部山古墳群は典型的な後期古墳群だ。
弥生終末期とは、どう考えても200年近い開きがある。
何を根拠に両者が同一集団によって築かれたに違いないなどと思い込めるのか?
> そこで、39号墳はホケノとは違うという方向性が模索された。
>
http://kobunken.web.infoseek.co.jp/note/note2/note2.htm > なので、現時点で39号墳を3Cとかいうのは、時流に乗り遅れたバカとしか言いようがない。
綾部山39号>ホケノの山と言う見解は、綾部山39号=弥生終末、ホケノの山=古墳前期と言う時代観だろう。
他人の時代観の順番だけを流用して、自己判定の実年代をくっ付けられてもなあ?
> まあ、そういうことだな。
> 俺から見れば、全員バカに見えるが。
なので、それはキミのことだろう。
759 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 03:09:11
天理市のサイトでは市内の主だった古墳をガイドしてくれてる。
http://www.city.tenri.nara.jp/kanko/kohun_guide/kohun/index.html この中で「3世紀後半に築造された古墳時代前期前半の古墳と思われる」と解説してるのは
16.西殿塚古墳
17.東殿塚古墳
19.波多子塚古墳
20.馬口山古墳
21.中山大塚古墳
それと
24.天神山古墳も、「3世紀後半から4世紀前半に求められ、古墳時代前期前半の古墳である」
としてる。
ほぼ妥当と思うけどね。
これに桜井市側で3世紀と推定されてるのは
箸墓、ホケノ山、石塚、矢塚、勝山、東田大塚、・・・・(あと消滅古墳いくつか)
と結構あるから、決して「まばら」じゃないだろうよ。
あと、天理、桜井の残りの前期古墳を4世紀にして、それに佐紀の大古墳のいくつかも4世紀前期古墳に加えないといけないよ。
それでどうやらうまく中期(ほぼ5世紀)につなげられる。
古墳時代開始の3世紀説はおかしくないよ。
開始をヘタに繰り下げると前期がものすごく過密で、大和と河内ではとっても不自然なことになるよ。
>>752 > 綾部山だけを突出して古くすることはできない状況があるという事実
どんな事実か?
キミの勘違いから「目をそらすための理屈」か?
> だから、「あれだけ弥生の別物だ。(これは無理すぎww)」とか、それが無理でも
他の横穴式石室の古墳と同じ時期だと言い張る根拠は何かね?
761 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 03:26:29
そもそも数世紀にわたる複合遺跡なんて物自体が珍しくも無いと思うのだが…
>>752は結局逃げちまったのか?
己の無知を晒したいだけだったのかな?
何処ぞの東遷説のサイトの煽り文句かなんかだけを仕入れて来てたようだが、
商売人の話をうのみにするんじゃなくて、事実関係を検証するとかいう意識はないのかな。
まあ、通販とかセールスコールで要りもしないものを買わされるわけじゃないからいいのかな。
763 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 04:06:43
>>759 古墳の年代をどのように決めるのかは難しいな。
箸墓についても、混沌としているように見える。
白石太一郎氏は、「土器の実年代は、3世紀半すぎから後半とみられ、
卑弥呼の墓の可能性もある。」と言ったらしい。
桜井市教育委員会は、「土器が作られた時期に、古墳全体がまとめて築造
されたのは間違ないが、土器の年代自体が未確定」とし、古墳の築造年代に
ついて言及はなかった。
ということらしい。
つまり、土器で古墳の年代を測るようだが、その肝心の土器については年代が
定まっていない。箸墓の場合は、布留0だが、その時期についてはいろんな
説があるらしい。
菅谷文則氏は3世紀中頃、白石太一郎・石野博信氏は3世紀後半、田辺昭三・
関川・安本氏は4世紀中頃、斎藤忠・元東大教授は4世紀後半という具合で、
実に100年以上に開きがある。
こうなると、発表される古墳の年代は、都合の良いものを取っているとしか
思えなくなる。
764 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 04:09:02
765 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 04:11:34
>>758 >綾部山古墳群は典型的な後期古墳群だ。
>弥生終末期とは、どう考えても200年近い開きがある。
>何を根拠に両者が同一集団によって築かれたに違いないなどと思い込めるのか?
君は本当にバカだなあ。
39号だけ別集団の弥生墳丘墓とするわけには行かないから、みんな苦労しているのにねえ。
そんな逃げでごまかせるなら、そうしているだろうが、話はそんなに簡単にいかない。
日本語OK?
766 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 04:13:56
>>762 まあこれだけ煽っても、年代遡上の側からは遡上させる根拠が出てこなかったんだから、
年代遡上はデタラメ
ということが、再確認されましたなwwwww
悔しかったら、年代遡上の根拠を一度でも言ってみろwww
>>766 > まあこれだけ煽っても、
その「煽って」る内容が稚雑つーか、意味不明で話が進まないわけなんだが・・・・
768 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 04:20:50
>>765 >39号だけ別集団の弥生墳丘墓とするわけには行かないから、
キミがそう思う理由くらい書こうね。
ちゃんと書いてくれないと、他の人にはキミが何を勘違いしているのかもわからないんだよ。
770 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 04:23:15
>>766 吉野ヶ里遺跡の存在が大きい。
考古学的に邪馬台国九州説の存在が非常に大きくなった。
おまけに三角縁神獣鏡魏鏡説が破綻。
畿内説としては、箸墓を卑弥呼の墓にすることに方針を変えたみたいだった。
そのためには、纏向の開始をも繰り上げる必要がある。
うまい具合に、年輪年代で都合の良い結果が出たのでこれに乗じた。
これで、東遷説を阻止し、厄介な吉野ケ里を前の時代に追いやることが出来る。
一挙両得ということになった。
でも、かなり無理があるなあ。
>>768 いったい何が知りたいの?
中学一年レベルまで下げてあげるから訊いてごらん。
772 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 04:33:09
>>770 わかったから、
↓のコレに回答して欲しいんだけど。
>>724 >地方の古墳で三角縁を出土したものを3Cに繰り上げて、
それはどの古墳の話?
773 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 04:33:59
うーん、いつもの東遷厨(むじん君)の他にもサイキバ君が混ざってるような
それとも東遷厨がヤケになってサイキバ君化しているのかな?w
ホケノを5Cなんて年代観なら小林説どころじゃない。
それならホケノ以降の古墳からは須恵器が出てくるって話しだがwww
>>768 自分の無知が原因で話が相手に理解されていないことくらい自覚しようなw
>>773 無知なんるがゆえに同じことだけをひたすら叫び続けるスタイルはサイキバ系だね。
776 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 05:02:29
なんかもう可哀相になってきた。
けど、ボクは君が泣くまで君を殴るのを止めないっwww
畿内説の年代論の根拠は最後まで出なかったね。
まあそんなものは最初からないんだろうけどww
777 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 05:07:02
>>776 わかったから、
↓のコレに回答して欲しいんだけど。
>>724 >地方の古墳で三角縁を出土したものを3Cに繰り上げて、
それはどの古墳の話?
778 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 05:18:27
もう子供のけんかだね、確かに。年代論は様々な意見があって、どっちも確たる根拠は出せないだろ。
779 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 05:21:56
この話し
>>718 から始まっているんだろうが…
>須恵器の開始は400年頃とされたが
…これには別に反対する理由も無いが
>A古墳時代前期の古墳の数からは、当初から同じペースで古墳が作られたとすると4C半ばに
>古墳築造が始まったことになる。当初はスローペースと推定しても4C初めの開始となる。
…これについては、そもそも何を言っているのかさえ、さっぱり分からない(デムパ?w)
780 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 05:29:05
古墳築造のペースというのは、中期の時期を平行して造られたであろう、大王墓以外の古墳も含めてるんだろうか?
はてさて?
781 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 06:30:59
>>779 本当に分からないのなら君の知能の限界がそこにあるということだな。
782 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 06:35:27
>>781 まあ、あまり相手が馬鹿だと理解の範疇を超える。
知能の限界、その下限と言う事かな?wwwwww
783 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 06:40:53
>>779 古墳と言うのは、その時代の王の古墳、王の親族の古墳・・・など時代ごとに
一定の地域に集中する傾向がある。
時代ごとに古墳の形も少しずつ変化している。後方部の発達とか。
時代ごとに土器、埴輪、須恵器も変化している。
これらの要素から、古墳時代を前期、中期、後期に分けるのが一般的である。
その時代ごとのひとまとまりの古墳の数や墓の区域の推移を中期から遡ると
前期にはそれほど長い期間を割り当てられないということ。
ここまでは分かる?
遡上教徒は、マキムクで石塚1基だけで一つの時代、ホケノ1基だけで一つの時代、
箸墓1基だけで一つの時代と少数の古墳だけで一世代10〜20年ずつの期間を
割り当てている。このこと自体かなりのデンパといわざるを得ない。
陪塚もないのに一時代というのは、トンデモそのものだな。まさにカルトww
俺は、石塚、ホケノ、箸墓、崇神稜が20年以内の期間で作られたと考えるので、
全く問題はないけどね。
784 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 07:08:43
>>783 >その時代ごとのひとまとまりの古墳の数や墓の区域の推移を中期から遡ると
>前期にはそれほど長い期間を割り当てられないということ。
例によって誤魔化し一辺倒の中身の無いレスだなw
現在言われてるものでも前期4世紀頃には
柳本・箸中・大和(おおやまと)・鳥見山・佐紀
…と一体どれだけの古墳があると思ってるんだ?
これらを全て5世紀に持っていくのか?
正気の沙汰じゃないwww
そんな脳内イメージだけの話じゃ誰も納得しないと思うぞw
まあ神武東遷と欠史八代といわれる天皇の在位期間を
なんとかキープしなければならない東遷教のお家事情はあるんだろうがwwwwwwww
>>783 古墳の築造年代を決める要素の1つに石室の構造っていう
重要な事が抜けてるよ、規格君wwwwww
ホケノが5世紀なんてマジで言ってる奴本当にいるの?
どれだけデンパなんだよw
787 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 10:59:38
5世紀は、大古墳の造営は大阪府に移ってるよ。
古市古墳群と百舌鳥(もず)古墳群。
788 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 11:12:16
>>786 箸墓が古墳時代後期と主張する古墳マニアもいたよ。
特殊器台が出土しているのにねぇ。
個々の議論は当然だが、3〜4世紀に集中してるのはもう確定です。
790 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 12:33:57
>>785 その通りだ。
畿内の有力な前期・中期古墳は竪穴式石槨で
天井石何枚かでフタをするんだが、
それと違ってホケノ山の中心主体は石囲い木槨。
上部の板材が腐れると土が落ち込んでしまう構造だ。
こういう木づくり主体部の構造は、前期後半から後の古墳では
全く出てきていない。
似たようなものだと萩原、楯築、神郷亀塚、檍1号、それに西谷3号など
弥生後期〜古墳時代初頭の付近にしか現れない。
ホケノ山だけをを5世紀に繰り下げるのはものすごく不自然な話だ。
>>790 それ全部まとめて五世紀後半に下げてしまえばいいというだけでは?
土器編年など信用できない。考古学者が出す年代はでたらめだと
言っておけばいいのだから楽なものだ。
792 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 16:57:57
それ全部まとめて五世紀後半に下げてる考古学者なんて居ないじゃんw
そんな事言うからデンパ扱いされるんだよな。
794 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 22:25:13
と言うかね 馬具も須恵器も出土しない=5世紀よりは前 と目されている古墳群がある以上
全てを5世紀に持ってくるなんて事ができるはずが無いっちゅう話でねw
堂の後の時もそうだったが、もう纏向が邪馬台国の候補と言われる事で
頭に血が上って全体の整合性も脳味噌からすっ飛んでるって感じだなwww
795 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 22:42:02
>>790 >上部の板材が腐れると土が落ち込んでしまう構造だ。
昔から疑問なんだけど古代人にしても何れ板が朽ちれば
崩落を起こすことは予測できたはずで
ある程度の時間だけ空間を維持すると言うのはどのような発想からなんだろう?wwwww
まだ呪術とか信じている時代なんだから。
797 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 22:51:20
>>794 >馬具も須恵器も出土しない
馬具や須恵器を5C以降にするというのは賛成だが、盗掘された可能性もあるね。。
白石や石野などの年代観に合わせようとすると、馬具や須恵器を5C以降にすると、
それ以前の古墳だけで200年を埋めようとするのは無理があるね。
それ以前の古墳の数が少ないだけに、馬具や須恵器を4C初頭くらいまで持ってくるぞ、
というくらいの気持ちでやんないと、年代遡上は成り立たないよ。
798 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 23:00:08
>>797 >それ以前の古墳だけで200年を埋めようとするのは無理があるね。
>それ以前の古墳の数が少ないだけに
多分そんな感覚持っているのお前だけじゃないのか?
正直何を言っているのかサッパリだwww
桜井茶臼山、メスリ山、行灯山、渋谷向山、西殿塚、東殿塚、五社神、宝来山…
有名どころだけ挙げてですらキリが無い。
これに中・小型のものを挙げれば今でも過密気味だろうにwww
799 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 23:30:04
土器は古墳のために作られてるわけでもないだろうに。
800 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 06:58:35
常識とは思うけれど、古墳て一台限りで使用終了じゃないよ。
建造後も長く祭祀が執り行われるものだし、当初無かった構造が付け加えられる
事もあるよ。
そのとおり、それに巨大古墳なら相応の年月もかかるし。
802 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 14:02:43
しかしそのうち忘れ去られる
今じゃ誰が埋葬されているのかも定かには分からん
803 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 15:06:41
忘れるなよ
きっと墳慨してるぞ
だったら名前書いとけよ。
あれだけ巨大な大仙陵古墳でさえ被葬者が仁徳かどうか定かでない。
しかし最古級の神社の伊勢神宮や出雲は、いつ始まったかも分からない昔から
現在まで信仰の対象だ。この差は何なんだろうな。
先祖崇拝の信仰くらいあっただろうし古墳は大事にすべきものではなかったか。
そうならないってのは天皇の血脈が変わっているからじゃないのか。
806 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 19:34:17
天皇の血脈が変わったなら、そう書くだろ。
天皇の血脈に権威を求める思想があったほうが驚きだ。
世界的に見てもそんな例は日本だけ。
807 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 19:34:48
そもそも…
「庄内期を3世紀に求めるような年代観では地方はもとより
ヤマトですら古墳の数が追いつかず” まばら ”になる!」
なんて心配している学者いるのか?w
少なくとも俺は2ちゃんのこの板でしか見たこと無いんだけど?wwww
俺が知らないだけ?
808 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 19:44:30
俺は今でも謎なんだけど、
どうして戦国時代に天皇家が滅ぼされなかったのか?
豊臣は徳川は、どうして自分が天皇を名乗ることをしなかったのか?
普通、世界中の王朝は分裂衰退して他の家系の王朝が生まれていくものなのに、
日本では一時的に南北朝時代があっただけで、とにかく血脈を失わないように王朝が継がれていく。
天皇の血脈を尊重する伝統があるのは、古代においても王朝交代という前例が無く、
王朝交代など恐れ多いという思想があったとしか思えない。
血脈が問題なのではなく、そんなのが建前なのは皆分かりきっていて、
大事なのは、万世一系や男系相続のシステムだったから。
王朝交代が無かったと考えるほうがどうかしている。
それはあっただろうけども、万世一系の大きな建前を守ることが重要だったんだ。
それを維持することで反逆者の汚名を着ることなく、間接的に日本を統治できる。
藤原氏や秀吉、家康には実に都合の良いシステムだった。
810 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 20:04:42
>>809 >万世一系の大きな建前を守ることが重要。
>反逆者の汚名を着ることなく、間接的に日本を統治できる
その思想が、日本独自だろ?ってこと。
どうして日本では、そういう思想が求められたのか、その背景が知りたい。
最初の発現は邪馬台国時代からか?古墳時代からか?
卑弥呼には子がいなかったようだが。
元々がヤマトは共同統治で、その中でも名家だった天皇家の先祖がトップに担がれた。
戦乱で国が乱れた教訓があったから、そのような過程が取られたんじゃないのかな。
大王が強い支配力を発揮したというよりも、周りの要望が万世一系の天皇を必要とした。
天皇をお飾りにすることで、それに寄生し、子々孫々まで旨い汁が吸える。
何故日本でそれが可能だったかといえば地理的な要因だろう。
アメリカがズカズカ入ってくるまで天皇の地位は誰も弄らなかったじゃん。
812 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 20:12:55
天皇が飾りになったのは、南北朝時代以後じゃないの?
7世紀までは天皇が自ら政治をしてたはずだよね?
つまり、王朝交代は無かった、という結論になるわけだが。
邪馬台国の時代から女王は神事を担当し
実際の政治は別の人間がやっていたよ。
>>812 物部とか蘇我の役割ってなんだったの?
なんで彼らは争ったの?
推古の時代に誰が執政だった?
815 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 20:20:50
ええと、ここはあくまで「纏向遺跡」のスレだからw
まあ纏向遺跡の在り様からは「万世一系」と言う思想とは相性が悪いと言うのは言えるんじゃないのかな?
ホケノなんか阿波の有力者の墓…なんて推測もあるんだからwww
816 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 20:23:44
万世一系の価値観が定まったのは天武朝以後ではないかな。天皇がこの世を統べる根拠として、天照大神が
葦原中国を治めよという神勅を瓊瓊杵尊とその子孫に下したこと。つまり日本書紀成立以後といってもよい。
そして、天照大神は大嘗祭によって今上天皇と同一化する。ここで、どうしても瓊瓊杵尊から神武帝を経て血
統が今上天皇まで繋がっていなくてはならないわけだ。
817 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 20:28:43
>>814 それは、物部や蘇我が、古代では政治の実権を握ってたという意味だよね?
蘇我が出る前は、物部氏か。
すると、古墳時代初頭から、天皇はすでにお飾りだったということになる?
それだと天武朝以前から大王家が綿々と続いていた理由が説明出来ない。
819 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 20:36:39
>>818 もちろんこれ以前は王朝交替があった。蘇我馬子もおそらく天皇であったろう。で、それらを隠匿する目的で書かれた
のが、古事記、日本書紀。天皇記、国記が馬子とともに焼かれたのもこのため。
820 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 20:41:32
もし、継体のときに王朝交代があったとしたら、
なぜ、前の河内王朝と血縁であることを主張する必要があったのか?
継体の前は、ずいぶん、悪政だったらしいから、
まったく血筋の違う王が大和を征服したという話にしたほうが、(それが事実なら、なおさら)内政的にもいいはずだが。
>>819 馬子が天皇で、それを周りの臣下が認めていたなんてありえない。
そこから飛躍して万世一系を作り出したのならば、それに権威など認めるわけがない。
その後千数百年もシステムが続くわけが無く、蘇我を滅ぼして誰かが天皇を名乗り日本の歴史は
天皇の地位を巡る戦乱の歴史だったろう。しかしそうならなかったのは
万世一系が強制的に押しつけられたシロモノではないからだ。
822 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 20:47:48
中国や朝鮮半島では、何度も王朝が変わってる。
王朝が変わることに、外交的にも、なんの抵抗も無いはず。
むしろ、前の王朝を倒したということが権威になるのではなかったか?
日本の場合、「血族のものが王として迎えられた」という形式が重要だった様子はわかる。
この思想は日本独自のものだ。
だからこそ、王朝交代が事実としてあったのかどうか疑問。
王朝交代を求める勢力があったとしても、
現在の大王の血筋の人物を全国から探して擁立しようとしたのではないか?
それなら、事実上、万世一系というのはウソにならない。
>>819 馬子が天皇ならそれを隠蔽する理由がないじゃん。
天皇の中に組み入れて改変すればいいだけだ。
改ざんを周りが認めて何も言わないならばそれで通った筈だ。
それをしなかったのは馬子が天皇では無かったからだろ。
824 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 20:56:34
>>820 継体五世の祖である応神がすでに王朝交代者だ。
>>821 むろん認めない勢力がいたから乙巳の変が起きた。
すでに改竄された歴史書である、日本書紀の記述を根拠として話をしても始まらんよ。
>>824 蘇我の本流は滅んだが、傍流はその後も一定の権力を維持した。
政治の中心にいた彼らが、自分の先祖の馬子が天皇だったのに
それを格下げさせることを許すと思うか?
だから馬子が天皇だったのにそれを隠蔽した理由はなんなのか説明してよ。
826 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 21:04:16
>>824 天武が最終的に天照大神から続く万世一系という設定を作ったこということかな。
途中の天皇とは実際に血族ではなく、何度も王朝交代があったが、
無理やり系図をつないだだけと。
では、天武はなぜ祖神を天照大神に設定したのか?
他にも高皇産霊尊や、天御中主や、国常立尊など、神は多いのに。
天照大神信仰だけは、ずっと古代からあったのか、天武の好みで天照大神を作り上げたのか?
古墳から鏡が出るのは天照大神と関係するのか?偶然なのか?
天照大神が、鏡と関係あるとするなら、
古墳時代前から天照大神信仰だけはあったことになるのか?
>>824 記紀には事実も眉唾も書かれている。
馬子に関する記述は全面的に改ざんなんて信じられん。
その根拠を求む。
828 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 21:12:17
>>825 蘇我系石川氏などは、むろん口を閉じたから残された。
>>826 古墳の鏡は関係ない、単なる葬具。ただし三角縁などは、道教的意匠としてのつながりがあるとも言えるが
本来は無関係。そもそも皇室に太陽信仰はなかった。纏向にあるのは前方後円墳の祭祀、三輪山の祭祀。
皇祖はむろん高皇産霊神。天照大神は一地方神であったものを、天武が大々的に祀りあげた。伊勢神宮に
様々な道教的モチーフが見られるのは、道教好きだった天武の影響。
829 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 21:15:31
>>827 中臣鎌足の子が藤原不比等、記紀による史実捏造に大きく関わった。
どんなに記紀の信頼性を疑っても継体天皇以後の系譜は事実だろうと言われているのに
馬子が入り込む余地があるわけねえじゃん。馬子が天皇なら誰と誰の間に入って、
その背景はなんなのよ。そんな妄想を語られても真面目に相手に出来ねえよ。
831 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 21:21:15
>>830 隋使裴世清が会ったのはおそらく蘇我馬子、推古天皇ではない。
>>829 中臣鎌足の経歴なんてな〜んにも分かってないのに、
その子が記紀をねつ造するほど力があるなら、自分の父の業績をまず差し込むだろ。
順番がおかしいっての。
しかし石舞台がホントに馬子の墓なら、
あの様子をみたら尋常じゃない気はするけどな。
834 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 21:34:03
>>828 >皇祖はむろん高皇産霊神。天照大神は一地方神であったものを、天武が大々的に祀りあげた。
やっぱりな。
俺もそうだと思ってたんだ。同じ考えの人がいてうれしい。
835 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 21:34:31
蘇我馬子の良治面を消すために創作されたのが聖徳太子。ちなみに厩戸皇子は実在。
>>824がいうには記紀の記述はデタラメなんだから
石舞台が馬子の墓の訳もない。
837 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 21:42:50
なんで馬子を陥れるために聖人を作り上げなきゃならんのだ。
天皇を殺害した大逆人なんだから、引っ捕らえて磔にすりゃいいじゃん。
どうせ改ざんするならば。なぜそうしないんだよ。
>>832 > 中臣鎌足の経歴なんてな〜んにも分かってないのに、
> その子が記紀をねつ造するほど力があるなら、自分の父の業績をまず差し込むだろ。
> 順番がおかしいっての。
不比等は元明-文武朝では、実務派官僚のトップです。
また、鎌足の業績もちゃんと「差し込ん」であると思いますが。
もしかして書紀を読んだことが無いのですか?
>>837 流石に話の整合性に無理があったんじゃないの?
840 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 21:59:03
>>836 石舞台は暴かれた墓、蘇我馬子が後世の人から受けた憎しみの証しとして残された。あとは・・・不比等は天武
即位で微妙な立場になった。むろん天智系と目されていたから。そこで、天武系のために行ったのが記紀編纂
時における改竄・捏造。
841 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 22:02:10
鎌足が死んで大織冠を賜った事こそ改ざんだろ。
主流でもなんでもない話に良くここまで盛り上がれるな、お前ら。
正月早々暇だねえ。
843 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 22:07:11
844 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 22:13:32
しかし669年に死んだ鎌足の墓だとすれば、周辺から出土した須恵器が7世紀前半のものであることは矛盾する。
ほかにも、被葬者として鎌足の同時代人の蘇我倉山田石川麻呂や阿倍倉梯麻呂をあげる説もあり、
阿武山古墳が鎌足の墓所だとはいまだ断定できない。
そもそもwikiなんてソースとして引っ張り出すな
845 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 22:17:55
>>844 しかしね、これ戦前の話で資料ないのよ。あと須恵器の時代は長いので、プラスマイナス50年程度の幅は
考古学者の多くは許容するよ。そもそも上でやってるホケノ山古墳のレスが、100年遡上の話だろww
846 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 22:19:00
大織冠を賜る程の貴人が記紀に墓所さえ記されてないなんて。
しかも息子が編纂したのにpu
847 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 22:22:48
布留0にしたって考古学者によっては100年の幅がある。ただホケノは3世紀斗思うけどね。
>>674 畿内王権が最重要視したのが東海だとすると、その後の歴史の流れに反すると思うのだが。
王墓が造られるのは奈良盆地から河内に移るし、好太王碑からも分かるように、
当時の大和王権の権威基盤ってのは、あくまで大陸からの鉄、文物、新技術であって、
東海の穀物なんかじゃないだろう。
だからこそ、わざわざ渡海してまで南下する高句麗を迎え撃ったわけだ。
そうした対半島政策の中、大和政権内で台頭してきたのが吉備と葛城。
両国とも東国ではなく西国を向いている国。
849 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 00:22:56
>>848 もしかして吉備と葛城との「レンゴウ」ってことが言いたいの?
レンゴウがトンデモなカルト宗教なのは半島への出兵で明らかになるのだが。
仮に国内がレンゴウで対立、緊張関係にあったという仮定がなりたつなら、
朝鮮に大規模な兵力を投入するなんて不可能だよ。
記紀にはその時点で天皇は国内を統一したと記しているのを、「皇国史観による捏造だ」
という捏造史観で塗りつぶして、正反対のレンゴウなんていうカルト概念をでっち上げる。
レンゴウというカルト宗教の不都合はこの点でも明らかだよね。
>>849 お前のような記紀信者に向けて書いたんじゃないからw
横入りするなよ。
>>848 東を向いていたんじゃなくて、「東を独占的に従えて、西に向いていた」んだよ。
これが畿内王権全国制覇の秘密だと理解している。
その意味で、「東を 独 占 的 に 従える」ということが、地理的に畿内だけができることであり、
実際には、この時代にはおそらく巻向だけができたことだろうと思われる。
単純に、「みんな西(中華・朝鮮方面)を向いていた」とするなら、
「西にあるほうが有利」という、誰からみても当然の帰結が導かれてしまい、
畿内なんて「奥地」の勢力が全国制覇するなんて、夢のまた夢となる。
もちろん史実はそうではない。
吉備なんて、奥地の畿内なんて雑魚は、さっさと大阪湾の奥に封鎖して片づける
最高の位置にあるはずなのに、さっさと「奥地の畿内に参上して靴をなめた」わけで、
いかに、「畿内のさらに奥」にあるものが、畿内を西に押し出すうえで重要だったかということ。
そして、最も重要なことは、吉備にしても、出雲にしても、筑紫にしても、阿波にしても、
畿内以外の勢力が、地理的宿命として、
畿内の後方、東国太平洋側をまったく「後方撹乱」出来ないということ。
東国には、西国のだれも連絡できず、畿内への挟み撃ちがまったく不可能である以上、
畿内が横綱相撲で西に押し出してくるのを、誰も止められない。
のちの李氏朝鮮の「朝鮮王朝実録」に、畿内を指して「深処之倭」という表現があるが、
言いえて妙と思われる。
この、稚拙にさえみえる「陣取りゲーム」こそが、案外本質なのかと俺は思っているんだよ。
畿内以外の西南日本勢の中で、唯一「独占的後背地」を持てるのが筑紫(北部九州)で、
九州王朝なんてぶっとんだ説をとらなくても、
考古学と記紀(磐井の乱の記述など)の、ごく平凡な理解だけで、
畿内の「西への横綱相撲」に対して、筑紫だけがかなり後代まで、
それなりの抵抗を試みていたことが、明らかにわかる。
吉備なんて、お話にもならない。誰が見ても当然のように早々に畿内の軍門に下っている。
吉備に関して言えば、「わしが連合の主力じゃけん!」と力説する前に、
なぜ奥地の畿内の軍門に下って「連合」なんて組んだんだ?という疑問を、
もはや誰も抱かないところに、
実は、俺が言っていた「東国の重要性」が示されていると言えるだろう。
「大筑紫帝国ロマン」には、今でも在野にそれなりの支持があるが、
「大吉備帝国ロマン」なんて、抱く者さえ誰もいない。
西に向かう西南日本各勢力というのなら、地理的には当然に抱かれてしかるべきなんだけどね。
>>851 >「東を独占的に従えて、西に向いていた」
これはまったく同意なんで反論はない。
マキムクの立地が東海のせいなら、なぜ佐紀盾列や古市、百舌鳥に
移っていくのかの理由が分からない。東海が徐々に重要視されなくなったということ?
東国は鎌倉くらいまで、畿内王権にとって重要な兵員の補充基地だった。
壬申の乱も勝敗を決定づけたのは東国兵。
畿内王権の飛躍のひとつに「日本の東西交易の結節点だった」という理由があると俺も思うけど、
別にそのためにマキムクを選んだんじゃないと思うよ。
西日本全体で見ればマキムクは東の端だけど、大和川水系単体で考えれば、
都として妥当な場所。
こ初期大和王権の範囲を西日本全体と見るか、大和川水系とみるかの立脚点の違いで
議論がすれ違っているように思う。
俺は邪馬台7万戸=大和川水系、投馬5万戸=吉備(鞆)と考えているので、
吉備は別国だから、当然、都の場所としては選ばれないというだけ。
>>852 吉備は楯築の時に、一時西国の旗頭に担がれそうになったと思うが。
なぜかその大王権力は長くは続かず、阿讃播に古墳造りの思想は伝播。
大和で結実する。
東瀬戸内地域の海商小国家群が瀬戸内海航路の安全保障を求めて、
最初は吉備王を担ぎ失敗。その後大和王を担いだんだろうと。
>>852 >畿内が横綱相撲で西に押し出してくるのを、誰も止められない。
まあ確かにそういう面はあると思うよ。
西国に対しては東国から徴発したアズマエビスで威圧し、
東国に対しては大陸からの文明、鉄で懐柔、従属化。
それで莫大な富が畿内に集中、大和王権は飛躍的に強大化したと。
ただ、大陸との交易だけなら、確かに西であれば西の方が、という議論も成り立つが、
東西交易の中継で肥え太ったというなら、どちらかに偏るのは良くないと思う。
畿内は妥当な地勢となると思うのだが。
まあ、こんなことを言うと反発があるかもしれないが、初期大和王権だけで考えれば、
単に奈良盆地と河内平野が肥沃だっただけかも?とも思う。
東海を従属化といっても、実際東海はマキムクの頃、畿内とは違う前方後方墳だし、
初期の三角縁神獣鏡は余り出土しないし、「そこまで東海と畿内が親密な関係だったのか?」
というそもそもの疑問が鎌首をもたげてくるわけでw
856 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 01:59:40
「東国マーケットの独占・囲い込み」
…と言うのは話としては良くできていて、思わず首肯してしまうところも多いんだが
しかしそれは纏向の「発展」は説明できても「発生・誕生」は中々説明し辛いと思う。
まあ「地政学的な見地」と言うのかな?
確かに説得力がある部分も多いのだが、素朴な疑問として
「それらは今日我々が日本地図を広げ、日本の歴史も考慮して得られる視点であって
3世紀の日本で誰がそんな視座を持ちえて纏向を造ったのか?」
と言う疑問が出て来る。
個別的に言うと東国マーケットの独占の旨みを計算し「計画都市」と言われる纏向への初期投資も
十分にペイするものとしてその建設に取り掛かった奴は誰なのかと
あと、実際の話し、纏向は「交易都市」と言うには、それを髣髴させる
交易品目であったろう遺物の出土が少ない印象はあるwwwwwwwww
土器だけで考える危険性について言及するとw
東海は外部から土器は入らないが、逆に東海の土器は外部に出て行く。
北部九州は、東海とは反対に、外部から土器が入ってくるが、逆に北部九州の土器は外へ出て行かない。
畿内はその中間。畿内の土器は出て行くし、外部の土器は入ってくる。
たとえば東海の遺跡だけを見れば、畿内系土器はほとんど無いから、畿内と東海は交易がほとんど無かったと言えるのか?
そんなことは言えない、ってことでOK?
同じロジックで言えば、マキムクに北部九州の土器がないから、マキムクとツクシが
交易が無かった、九州の影響がほとんどない、とかにはならないよね。
マキムクで東海系土器が多いからと言って、過敏に反応することはないと。
北部九州は交易品が鉄だったから土器に入れて運ばなかったとも言える。
または、土器=人の動きと考えれば、北部九州へは大量の人が流入し、ほとんど出て行かない。
東海は大量の人が外部に出て行き、逆に外部からは人がほとんど入って来ない。
畿内はその両方、ということ。畿内の中継貿易の特性をよく表していると思う。
858 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 02:17:32
誰も読まないのに一人で連レスするバカ
860 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 02:36:03
吉備 について言うのなら造山古墳なんて全国でも五指に入る巨大古墳もあるんだし
普通に考えてある時期までは相当な力を持ったNo2だったんじゃねえの?
で5世紀頃中央集権的な国家を目指し変質していったヤマト王権にとって
最大の目の上のたんこぶだったとwww
星川皇子の乱で吉備はオワタ
863 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 18:47:16
>>863 そんな証拠はあるのか?
纏向の吉備の土器は、年代が下がるにしたがって減っている。
連合の形成には参画したが次第に疎遠になっていった。
王権をめぐって卑弥呼と対立したからではないのか?
3世紀ごろには瀬戸内海の吉備の両側に高地性集落が出現する。
吉備を警戒したからではないのか?
纏向に吉備の影響が復活するのは箸墓以後だ。
どう見ても卑弥呼後。
>>864 横失礼。
吉備は、纒向の建設には参加し、卑弥呼と対立して一時撤退。
その後復活して、箸墓での継承には主導権を握った(特殊器台が出ている)、というの?
どうしてそうなるのか? スンナリとは受け入れにくいが。
吉備という国の正確を考えるのは面白いよな、確かに。
吉備を海洋国家と見て、阿讃播への古墳文化の波及に注目するか。
もしくは日本海側、出雲と通じて鉄の入手ルートを確保することで強大化したのか?
どちらにしても庄内甕の誕生に吉備の壺職人が関与してるのは間違いなさそうだし、
古墳文化も、直接ではないかもしれないが、吉備楯築発の蓋然性が高い。
たしかに本格的に倭国連合に参画したのは布留0、箸墓以降だとは思う。
箸墓以前のマキムク型前方後円墳には、吉備からの直接の影響は少ないだろう。
逆に言えば、箸墓になって初めて、吉備の象徴、特殊器台が採用される。
箸墓の被葬者とされるヤマトトトヒモソ媛命が吉備と縁が深いのは興味深いところだ。
>>866 >箸墓以前のマキムク型前方後円墳には、吉備からの直接の影響は少ないだろう。
石塚の周濠から弧文円板が出ているが?
>>866 > 箸墓以前のマキムク型前方後円墳には、吉備からの直接の影響は少ないだろう。
> 逆に言えば、箸墓になって初めて、吉備の象徴、特殊器台が採用される。
石塚の崇神の 弧文円板。
と言うか遺物自体が少ないので比較もできない。
869 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 00:19:39
>>864 >>866 連合って、どこまで本気なんだww
普通に考えて、大和で即位した王の権力が大和だけのはずないだろ。
大和で王権が誕生したと同時に、日本全国に前方後円墳が広まったり、本州でも
鏡の副葬が一斉に広まったりしたのは、王の権力によって統一されたからだろ。
何が何でも記紀の記述を否定しないと気がすまない「捏造説」ってのは、しょせん
サヨクの陰謀史観だな。
>>865 土器は出てるから、完全に撤退というほどでもないが、
少しずつ距離を取っていった。それが卑弥呼晩年に暴発。
かな。
>その後復活して、箸墓での継承には主導権を握った(特殊器台が
主導権を握ったというより、勢力を維持したまま
形の上で服属した可能性の方が高いかなと思っている。
なぜなら、その後、吉備に前方後円墳が入り始めるから。
大和朝廷のその後の展開を見ても、それっぽい。
>どうしてそうなるのか? スンナリとは受け入れにくいが。
どうしてそう考えないかの方が不思議。
難点は方位だけ。それも伝聞と思われるから確度は低い。
>>867 >石塚の周濠から弧文円板が出ているが?
周濠から出た物は後からでも入り得る。
>>870 レスありがとう。
>難点は方位だけ。
どういうこと? 私見は、吉備が継続的に主導権を握っていたのでは、ということなのだが。
できれば
>吉備の土器は、年代が下がるにしたがって減っている。
というソースを教えてもらえればありがたい。
特殊器台の文様と同じ弧文を刻んだ土器のかけらや弧文板・弧文石は他にも見つかっている。
集落内の祭祀具の文様として普及していると言われているよ。
872 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 01:20:20
>>871 >どういうこと?
どういうことって、倭人伝は、女王の境界の尽きるところの
南と書いてあるように読める。
>>吉備の土器は、年代が下がるにしたがって減っている。
>というソースを教えてもらえればありがたい。
大和・纏向遺跡 p.333
初出は報告書「纏向」のはずだが、それは見ていない。
>特殊器台の文様と同じ弧文を刻んだ土器のかけらや弧文板・弧文
>石は他にも見つかっている。
>集落内の祭祀具の文様として普及していると言われているよ。
全部、布留0以降じゃないかね。
庄内と年代が特定されるものはあるの?
874 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 01:49:11
>>869 >何が何でも記紀の記述を否定しないと気がすまない「捏造説」ってのは、しょせん
>サヨクの陰謀史観だな。
てかだな…
「東遷説はそれを恐れた左翼どもによって不当に貶められている!」
と陰謀論をいつもぶちまけているお前が言っても笑い話にしかならんよw
そんなヒマがあったら「まばらになる古墳群」とか「無人都市」とかを電波じゃなくて
他人に理解してもらえるようなものにする事に努めなさいwww
875 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 01:55:13
ていうか、記紀を素直に読めば、神武東征は前方後円墳(箸墓伝説)のまるか以前の話なんだが。
東遷なんてものではなく、九州から一部の勢力が
畿内に入っただけでしょう。
主力は阿波、吉備辺りからの集団が奈良盆地に
押し寄せたんじゃないの?
877 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 18:58:34
しかし「吉備=狗奴国 説」と言うのは個人的には新鮮だ。
正直考えた事が無かったwwwwwwwww
吉備と対立したら瀬戸内を西に抜ける事もままなら無い訳で
「連合体」もあったもんじゃないかと思うが…
そこは本格的に対立したのは冊封後と言う事なのだろうが
親魏倭王となった卑弥呼に対立する事は即ち魏に楯突く事になるわけで
そう言う意味では吉備ってチャレンジャーだなw
まあ吉備の立ち回りを想像するぶんには面白いwwwww
卑弥呼共立前、吉備は瀬戸内の覇者として盟主の座を主張。
が、話はまとまらず結局、巫女(卑弥呼)の共立で妥協が計られた。
(吉備にとっては卑弥呼の存在自体が面白いものではない)
↓
魏に朝貢、が、既に老いた卑弥呼の後継「ポスト卑弥呼」を話し合いされるにおいて
またも吉備がゴネるw
↓
魏の仲介により吉備も大人しくならざるを得ない。
↓
卑弥呼死す。
(箸墓=卑弥呼の墓 説 をとるなら)卑弥呼の後継として内外に知らしめる為にも
箸墓造りに吉備も積極的に参加。
が、やっぱり話はもめて、結局、巫女(壱与)の共立と言う以前のパターンを踏襲する事で
妥協が計られる事になる。
…で、どうでせう?wwwwwwwwww
>>873 >大和・纏向遺跡 p.333
なんだ。そちらの方が詳しいじゃん。
石野さんによると、石塚は纒向1類の最終段階。で、
被葬者の葬送儀礼で弧文円板のついた木柱などの葬具が使われた、
というんじゃないの?
>女王の境界の尽きるところの南
ああ、南か。倭人伝が間違ってるんだろう。
伊都国が末盧国の東南て書いてあるんだから。
>>877 >…で、どうでせう?
いいセンだと思う。若干気になるとしたら、
卑弥呼死後、男王が立つ。これがもめて(壱与)擁立。だから、
箸墓築造を推進したのは、(壱与)政権だろう。
とすれば、それはやはり・・・
>>877 北部九州は、朝鮮半島との交易ルート。
畿内は、東国との交易ルート。
そして、吉備は九州と畿内の中継点を押さえていて、
それぞれ有力な地域だったのでしょう。
多分、利権を求めて、反目したり、協調したりし合ったことでしょう。
ただ、吉備は出雲と言うライバルがいたため、勢力争い上のハンデは大きかったのでは?
西と東で一体何を交易したと考えてるの?
奴隷市場にしたいのかね、君はw
そもそも3世紀の日本に、広範囲を直接統治する権力機構があったなんてのは夢想であってw
なんか、国盗り合戦のような議論がなされてるのには違和感があるな
885 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 00:18:33
そうだな。資料不足もいいところで、どこが主導権を取って纏向ができたか
などのことは想像の域を出ない。外来土器が出るところ、早期古墳が出現
する地域が纏向の建設に関わっていた、程度しか現状ではいえないな。
ただ、東海系土器が際だって多いことは異論がなく、この解釈はつけたい
ところ。
>>884 >直接統治する権力機構
そりゃ確かに夢想。だれもそんなこと議論してないと思うが。
887 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 00:48:46
>>884 そこで『 ゆるやか な首長連合 』ですよw
>>886 そうか?
吉備と阿波が大挙して、とかさ。
遠征して国ごと移動、みたいな議論が多いじゃん。
889 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 01:03:38
>>887 記紀的には、そのようなことはありえないな。
それに、その連合というのがどういう国々を指すのかも不明。
890 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 01:06:57
>>889 記紀的ねえ…
だったら崇神の代に四道将軍を派遣して一挙に全国統一。
『広範囲を直接統治する権力機構』がチョチョイのチョイで出来上がりって話しだなwww
>>877 >正直考えた事が無かったwwwwwwwww
まあ、それが普通だw
なぜ誰も考えないのかはなぞだが、たぶん、
狗奴国=熊襲=文化的に異質なバーバリアン
というイメージが強く刷り込まれているせいではないかと思う。
だけど、倭人伝に書いてある王と官の名が
ヒミコ と ヒミクコ
ヒク と クコチヒク
と明らかな類似性をもっていることからすると、
むしろ同質な文化を共有する国、
もっと言えば同盟内部の国と考える方が自然。
中でも強力な王権の存在が確認できるところと言えば、
吉備、出雲、丹後。
しかし、山陰北陸系の土器が纏向に来ていることからすると、
出雲丹後は考えにくく、やはり吉備。
人気の東海地方は、巻向に土器が継続して来ていることと、
東海地方全体を統べる王権の存在が確認できないことから、
これはないと思っている。
>…で、どうでせう?wwwwwwwwww
一つのストーリーとしてはいいんじゃない。
892 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 01:18:14
まあ、考えられるとしたら瀬戸内をまとめたのは吉備で、大和・河内は東国の
武力を背景にそれと対峙している状況も考えられなくはないかな。で、どうにも
ならなくなったところで卑弥呼の共立・・・・。
>>878 >石野さんによると、石塚は纒向1類の最終段階。で、
まずこれが問題で、学界の主流は庄内3ごろ。
主流が正しいとは限らないが、石野が正しいと言い切ってしまうのも問題がある。
で、つぎに、周濠は開いてる限り後からいくらでも入り得るから、
年代を特定するのは難しい。
894 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 01:21:13
>>890 崇神天皇の四道将軍の意味をどう考えるか。
吉備、東海、丹波、北陸といった近辺も敵だったと考えるべきだろうなあ。
景行天皇の代になって、日本武尊なども各地に派遣されている。
徐々に広がっているという感じかな。
895 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 01:39:24
>>894 >徐々に広がっているという感じかな。
ところが初期の前方後円墳の広がりを見ても
徐々に外に向かって支配領域を広げていった…という感じじゃないw
「ゆるやかな首長連合」…確かに曖昧な部分が多く、詰めなければならない項目も山積みだろうが
とりあえずは今はこのモデルが一番考古的に確認できる事実を上手く説明できるものだと言わざるを得ないwww
896 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 01:54:44
九州の早期前方後円墳がある地域というのは、ヤマト側から見れば拠点、
九州側から考えれば、いち早く前方後円墳祭祀に賛同した地域なんだよな。
ヤマト側から見た場合、非常に戦略的な位置に置かれている。
897 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 03:02:17
「ゆるやかな首長連合」というとイメージがどうしてもBundeslandみたいに解釈されがちなんだろうけど
どっちかというとEidgenossenschaftみたいなやつだろうな。
桜井茶臼山古墳から大量の銅鏡だって。
今の所推定81枚で、もっと多かった可能性もあるそうだ。
899 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 18:53:39
■国内最多81枚分の銅鏡破片
大半は大型、直径40センチも 桜井茶臼山古墳で
大和政権の大王級の墓とされる奈良県桜井市の前方後円墳「桜井茶臼山古墳」(3世紀末〜4世紀前半、全長約200メートル)を発掘調査している県立橿原考古学研究所は7日、これまで12種類、計81枚分の銅鏡の破片が確認できたと発表した。
1カ所の墳墓から出土した銅鏡としては、平原遺跡1号墓(福岡県糸島市)の40枚分を超え過去最多とみられる。
今後の調査でさらに増える可能性もあり、同研究所は
「不明点が多かった大王級の大型前方後円墳の副葬品の一端が明らかになった。古墳を研究する上で画期的な発見だ」
としている。
同研究所によると、見つかった銅鏡の破片は384点。分類したところ、少なくとも12種類、81枚分が確認できたという。
破片の大半は1〜2センチ程度で小さいが、復元すると直径20センチ以上の大型鏡が半数で、最も大きいのは直径40センチ程度。
国産と中国製が混在しているとみられ、中国の神人や獣形の文様を持つ三角縁神獣鏡が最も多く計26枚分あった。
うち一つには「是」の文字が刻まれており、調査の結果、蟹沢古墳(群馬県高崎市)など3カ所で出土している正始元年(240年)の銘がある鏡と同型と判明した。「是」は作者名の一部だという。
時事通信(2010/01/07-17:56)
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010010700758
>正始元年(240年)の銘がある鏡と同型と判明した。
これが大きいな。
901 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 19:09:13
>>899 これは、今日のニュースなの?
発掘調査されたのはずいぶん前だったけど、いままで発表無かったのかな?
902 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 19:25:52
三角縁はどうでもいいが
中国鏡が重要だな。
>>902 いやいや、これで茶臼山は240年以前までは遡らないことが確定した。
あほな年代上げ上げをしてるやつはこれで死亡だ。
904 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 19:33:12
>>903 ついでに鏡は伝世したことにすればいいよ。
あははは。
905 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 19:39:22
三角縁の記年鏡って、デザインとしてコピーしている節があるんだよね。
デザインのお手本になっているのが240年とすれば、それ以降なのは間違いない。
906 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 19:39:51
>>903 あほな年代上げ上げ?
桜井茶臼山が240年以前なんて言ってた学者は皆無と思うが。
907 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/07(木) 19:47:48
今朝春の七草を台所でじっと観察した。
そして古代のことを考えた。
太陽暦2月の上旬に春の七草を食べられるところは何処だろう。
京都盆地や奈良盆地では無理だ。
福岡平野でも難しい。
筑紫平野有明海沿岸部なら食すことは可能だ。
倭人伝の冬期野菜生食とはこのことを言っているのだろう。
学者にはね。
>>893 > 学界の主流は庄内3ごろ。
第四次調査で周濠下層から布留0式がまとまって出土したことを根拠に庄内3(寺澤)1989年第四次調査
墳丘の盛り土の中にあった土器は纏向1式、それ以降のものは全く含まれていない(石野)1997年調査
西側周濠の出土土器を評価する考え方(庄内0式期 3世紀初頭)、
盛土内出土土器を評価する考え方(庄内1式期 3世紀前半)と
導水溝出土土器を評価する考え方(庄内3式期 3世紀中頃)3説があります。
(第9次調査 2006年3月25日(土) 桜井市教育委員会)
>この古墳ほど年代に困る古墳はありません。(某サイト)
だってさ。
桜井茶臼山古墳の鏡の副葬が81枚と大量だったことで、平原との比較だけが
されているのは片手落ちだといえる。
九州に古墳ではないものの、大量に鏡が出土している一方の雄との
かかわりが究明されなければならない。
それは、沖ノ島である。50枚以上銅鏡が出土している。
沖ノ島は宗像大社のご本尊であり、桜井茶臼山古墳に隣接しているのも宗像神社である。
九州vs畿内ではなく、両者を鏡の故郷宗像が取り持っていることに注意されたい。
吉備や阿波勢力のように、2世紀後半に
北部九州から来た一族も奈良東南部に居たという事でしょう。
結局女王の都はヤマトだったという事です。
912 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 22:27:46
2世紀後半の北部九州の生活痕跡と共通の遺物が奈良には無いでしょ。
913 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 22:39:58
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
914 :
皿酷:2010/01/07(木) 22:53:24
2chにおける、天才縄文人の功績を数え上げてみよう。
@大和盆地湖説・・・・縄文海進の名残により、大和盆地一帯が弥生後期にあっても広大な湖状態であったと
する説。これは九州から来た神武らが、大陸の先進技術を用いて干拓工事を行い、人
の住める場所とした。
A畿内説批判・・・・・・畿内土器編年は100年程度古い方に恣意的にずらされているとする批判。年輪年代批
判、年輪年代は日本の気候には合わず、用いることができる場合も限られているとする説。
B伊都国非前原説・・いわゆる倭人伝を素直に読むことにより、伊都国を唐津東南の地に求めようとする説。
まだまだあるのだが、これらの偉大な言説により、氏は畿内説を打ち負かした
>>912 別に一族皆で移住した訳じゃないでしょ。
916 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 23:12:00
少数の移住者が鏡を持ってきたというのなら、
それは交易といったほうが正しい。
917 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 23:13:35
紀年鏡を出す古墳と言ったら従来はやや地方の(失礼w)さほど大きくも無い古墳から
…と言う印象だったと思うが、これでそれもガラリと変わるのかな?
まあ、今更なんだけど紀年鏡を出す古墳の築造の年代をその鏡の年号から
さほど離れていない(無論、被葬者が生前保有していた期間とかは考慮して)年代だとして
重大な齟齬をきたすとしたら分かりやすいところでナニ?
一度従来言われてきた古墳の年代を取っ払ってさあwwwwwwwww
918 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 23:36:44
景初三年の銘が刻まれた三角縁神獣鏡が出土した島根県・神原神社古墳。
南北方向27〜30m、東西方向22〜26m、周濠の底からの高さ6.0mの方墳。
石室の構造に、副葬品の組み合わせや出土土器の形式を勘案して、
この方墳の築造時期は4世紀中頃と推定されている。
この三角縁神獣鏡には、銘文が刻まれている。
京都産業大学の森博達教授は、中国詩文の韻律の研究から、魏朝特鋳説が
成り立たないことを発表している。
押韻の意識すら持たない拙劣な銘を刻んだ鏡は、皇帝自身の権威を傷つける
ものであり、こんな銘文の鏡を特鋳して賜わるはずがない、ということらしい。
http://bell.jp/pancho/travel/izumo/kanbara%20jinja.htm
919 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 23:51:25
>>918 3世紀の大和には、
すでに、稚拙ながらも詩文を創作できる優れた鏡作り集団が来訪していたわけか。
すごいことだ。
自演&自画自賛乙
921 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 23:59:43
922 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 00:10:57
>>906 むしろ240年までいっちゃったことが驚きなんだが
いいところ4世紀前葉とかいわれてたわけだし
923 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 00:18:21
>>921 4世紀では、実在しない年号を書く理由が無い。
924 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 00:28:13
>>923 逆だろう。年代が近ければわかるが、離れるとわかりづらくなり間違える。
例えば、昭和64年7月は存在したかどうかわかる?
では、大正15年7月は存在したかどうかわかる?
925 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 00:30:10
>>923 実在しない年号を書くことは、4Cでも5Cでも6Cでもできるだろ。
てゆうか、お前アホだろ。
今でもできるぞ!
昭和65年、明治55年、大正20年
ホレ! 書いたぞww この文字が読めるよなwww
できるかできないかを言ってるわけじゃないだろw
927 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 00:46:11
ようするに、邪馬台国は大和だったってことか。
三角縁が絡むとキチガイが湧いてくるな。よほど痛いらしい。
929 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 00:58:16
今回の発狂要因は三角縁だけじゃなく中国鏡まで出土したことだな
しかも複数種類
三角縁は日本でだけ何億枚出土しようが舶載だよ。反論は認めない。
いや、サイキバ君とか東遷厨の発狂するタイミングは、凡人には計り知れない大宇宙の神秘だからwwww
3世紀の日本は人や物が集まる場所が自然に栄え、その場所近くの首長が
調整役として権力を握っただけ。
筑紫から大和への権力移動にしても、東遷などのような大袈裟なものではなく、
人の集まる場所が東にシフトしただけだろう。
933 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:05:39
これから否定しなければいけない調査結果がまだまだ増えていくんだからな。さぞや精神衛生上悪かろう。
あと、相変わらず、土器が多い=親密、少ない=敵対、みたいな単純な議論が多いな。
ホケノの鉄鏃は吉備製らしいが、やじりを壺で運ぶのか?と逆に聞きたい。
935 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:07:32
普通なら現実にあわせて持論の修正を図るところだが
いかんせん宗教だから、ますますカラに閉じこもって排他的にならざるをえない
936 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:09:44
櫻井茶臼山古墳の銅鏡出土で、
邪馬台国=ヤマト王権=大和朝廷=奈良ってことが
確定したわけだね。
してねーだろwwww
938 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:11:52
畿内説の考古学者が三角縁神獣鏡についてちゃんとした見解を出すことだろうな。
あれだけ、畿内考古学の柱と言っていながら、やばくなったら知らんぷりでは
困る。
桜井からは発表が控えてると以前に言っただろ?
もういい加減九州説は詰んでる事を理解した方がいいぞ。
東遷至上主義
東海製土器依存症
鉄中毒
水銀中毒
942 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:16:13
>>936 畿内説は奈良から出たら、なんでも邪馬台国に結びつける。
木の仮面?が出たときもそうだった。
まあ、纏向そのものが、なんでも邪馬台国の代表なのだが。
>>942 そりゃヤマタイではなくヤマトだからな。
944 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:18:31
>>942 九州説が寝言をいうのは考古遺物が出てからにしてくれ
まあ一般的には…
箸墓→西殿塚→茶臼山 だろうが
これは三角の登場時期について絞込みの材料になるんかな?
恐らくここじゃあ東遷厨あたりが支持してそうだが
「紀年鏡は5世紀ごろ河内で日本にとって由緒のある年号をもって作られた…」
なんて話があったが、それをまに受けると茶臼山は5世紀以降って話だよなw
これまた豪快な話しwwwwwwwwww
946 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:20:49
>>944 それ以前に、邪馬台国の都と卑弥呼の墓を指定してくれ。
その通り。
遺跡が出たところで、都と卑弥呼の墓が見つからないんじゃ
意味が無いわな。
948 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:22:51
>>944 前から言っているだろう。例えば、吉野ヶ里遺跡からは倭人伝に書かれた
「宮室、樓觀、城柵」と見られる跡が出ている。
纏向からは、な〜んにも出ていない。
にもかかわらず、新聞発表ではいつもいつも「邪馬台国の最有力地」と宣伝し
素人を惑わせている。
吉野ヶ里なんて紀元前後の弥生時代の遺跡を持ってこられてもねえ…
六本木ヒルズを江戸時代の毛利藩の遺物と主張するようなもんだろ。
950 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:26:07
>>945 五世紀じゃなくて、四世紀だろう。布留1と書かれていたものもあったから、
多分、四世紀後半。
951 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:27:44
毛利藩?
東京に?
w
953 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:28:38
>>949 だから、倭人伝に書かれているものの出ている吉野ケ里が、卑弥呼の時代では
なくて、倭人伝に書かれているものが出ていない纏向が卑弥呼時代というのが
そもそもおかしい。
墳墓を指定して、そこから実際に卑弥呼が実在した証拠がでなきゃ。
当たり前でしょ。
955 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:31:08
>>939 発掘はかなり前だったのに、なぜ今発表になったんだろうか?
今回の発表を例のマキムクの建物より先にしたら、畿内説はさらに不利になったね。
1、三角縁がまた増えて舶載の可能性はさらに薄くなった。すでに舶載説は死滅状態だが。
2、黒塚、椿井大塚山も考慮すると、三角縁が一時期に大量に作られたことがさらに確実になる。
3、 すると三角縁の製造期間が短くなる。そうなると三角縁の末期(4C末〜5C初頭)からそれほど
遡らない時期(せいぜい4C半ば)に三角縁の製造が始まったことになる。
4、茶臼山の三角縁と他の鏡の構成からは、柳本天神山の時期には三角縁の製造が始まって
いなかったので柳本天神山からは出土しなかったとの結論に向かう。
5、柳本天神山は明らかに崇神稜の倍塚なので、崇神の治世より以後に三角縁の国産が始まった
との結論が導かれる。
6、以上より三角縁の製造開始は4C半ば以降との結論になる。
7、紀年鏡も4C半ば以降の国産との結論になる。
8、黒塚、椿井大塚山を3Cに遡上させることが絶対条件であった年代遡上が崩壊する。
9、畿内説終了。
10、なので、例のマキムクの建物の発表のあとの今になって発表した。
956 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:32:51
>>945 西殿塚と茶臼山の双方には矩形壇という箸墓にはみられない共通構造があるが、
結局今回の調査でも桜井茶臼山から特殊器台は出土してないはず。
かわりに二重口縁壺があるから讃岐系。
まさか吉備系の西殿塚と讃岐系の茶臼山に分立?
>>955 そうなるといいねw
まぁ無理だと思うけど。
まあ、ある意味畿内説と言うのは3世紀4世紀の日本の様子を探っていく上での
副産物と言うかオマケと言うかw
「え?3世紀に魏に朝貢したクニが日本の何処かにあった?だったらヤマトじゃね?」
…という蓋然性と言えば聞こえは良いが
ある意味においては”大抵いい加減”な説とも言えるw
ノーガードでリング上で棒立ちしているような状態だ。
素人でもワンパンチ入れれば即KO可能w
リングの外でギャアギャアわめいていないでさっさと倒したらどうだ?とwwww
お話だけならいくらでも作れる。
やはり核となるような考古資料の一つでも欲しいところ。
何も邪馬台国そのものの遺跡を出せなんて無茶は言わない。
威信財体系、埋葬文化…九州の何処かに卑弥呼を女王に戴いた連合体・ブロックが形成されたような跡とか
もしくは冊封された事による影響(恩恵)とか…
来る日も来る日もやる事と言ったら畿内説に対するイチャモンづけwwww
959 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:36:34
>>955 >10、なので、例のマキムクの建物の発表のあとの今になって発表した。
これは違うな。小出しにして、九州説厨を苦しめてるんだろう。www
歴史を感情で議論するとか、やはり
>>959はチョンだなw
>>955 >5、柳本天神山は明らかに崇神稜の倍塚
それは行燈山古墳を崇神陵とした場合の妄想だろ。
箸墓古墳に続く大王墓である西殿塚古墳を崇神陵と考えたら崩壊する。
崇神陵の陵守が衾田陵(西山塚古墳)の管理をしていたという記述もあるから。
963 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:42:15
>>955 に続けて
この結論は、新山古墳や佐味田宝塚古墳ですでに示唆されていた。
両者とも、三角縁と明白な国産鏡とが同時に大量出土した。
つまり、三角縁を複製する技術が日本に存在することを示す国産鏡と三角縁が同時に
出土したことは、日本でしか出土しない三角縁も国産と考えるべきということになる。
この2つの古墳の出土鏡は、黒塚や椿井大塚山に比べて、圧倒的に低い扱いなのだが、
それは三角縁舶載説にあまりにも不利なものであるから。
今回この2つに茶臼山が加わった。
964 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:42:20
>>961 おそらく桜井市教育委員会と橿原考古学研究所とかはこのスレ読んでて、これ発表したら東遷厨が
何というかで盛り上がってる。
965 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:43:19
>>955 >5、柳本天神山は明らかに崇神稜の倍塚なので、
[柳本天神山は明らかに崇神稜の倍塚]という根拠はなんなの?
もしかして記紀を信じてるとか?
966 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:44:18
もちろんだよ。彼は神武東遷を信じている。
967 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:44:41
>>963 いったい誰と戦ってるんだよ?
三角縁舶載説なんて亜流も亜流だろ。
さすがに、ここまで鏡が遍在(偏在ではない)すると、
鏡は何の論拠にもならないからなあ。
考古学と日本史の発展には何の関心もなく、
ひみこ!ひみこ!ひみこ!ひみこ!ひみこ!と事あるごとに絶叫して、
部数や視聴率を稼げればよいだけの、マスコミの文化部の中の人とはさすがに違って、
いわゆる「畿内説論者」がホルホルしておらず、
むしろ九州論者のほうが、妙に浮足立っているのが、
さすが専門板だと思ったよ。
このひどい鏡の遍在っぷりは、むしろ「倭人伝や卑弥呼なんて一旦忘れろ」ということなのかもしれない。
上のほう出ていた「邪馬台国がそもそもファンタジーだった説」の反論として、
鏡!鏡!と言っていたレスがあったが、
これは反論になっていないような気がする。
969 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:46:24
>>962 記紀の伝える陵墓の伝承の位置からは、西殿塚は論外ですな。
記紀が書かれた時代には、墓守が「○○の墓」という伝承を伝えていたので、正確に記紀に
反映されるので西殿塚である可能性は存在しない。
景行稜ならば、崇神稜と陵墓の位置の記載が区別できずに、取り違えの可能性もあるが、
西殿塚は無理。
脳みそついてる?
w
近畿支持者はネトウヨ。
まあ邪馬台国の位置論争には三角の製作地ではなくて制作年代が関ってくるはずだが…
日頃ボロカスに扱われている東遷厨としては
溜飲を下す数少ない材料だから舶載・倣製の論争に拘るんだろうwwwwwwwww
>>974 もはや邪馬台国の位置論争には三角縁はなんら意味を持たないよ
977 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:54:05
三角は国産でも4世紀でも、
畿内説には何の問題も無いと思うのだが、
何を騒いでるのかわからんなー。
978 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:56:46
>>977 そこ指摘しちゃだめだって!
もはや議論の俎上にのぼらない舶載とか過去の妄想を種にして
ひたすら虚空に呟くのだけが唯一の慰めなんだから・・・
自演厨、乙wwwwwwwwww
980 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:58:32
>>969 >記紀の伝える陵墓の伝承の位置からは、西殿塚は論外ですな。
そうでしょうか
私は962さんの意見も十分成り立ち得ると思いますが
ところで崇神陵の位置を、記紀はどう書いてます?
で、卑弥呼の墓は
近畿のどこにあるの?
何でさっさと発掘しないの??
982 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:59:41
茶臼山からは、画文帯は出てないのか。
やはり、画文帯→三角に主流が移ったということか。
で、卑弥呼の墓は
九州のどこにあるの?
何でさっさと発掘しないの??
オウム君、乙wwwwwwwww
>>982 鏡の配置等はこれからの発表なんじゃね?
一番メインに扱われていた鏡が何なのか…
>>978 「卑弥呼利権」を手放したくないマスコミと、卑弥呼利権が直接飯の種になる研究者たちは絶対に口にしないが、
だから、邪馬台国自体の存在の信ぴょう性に関わるんだよ>国産鏡の大量出土
上のほうの「ファンタジー説」への反論が「鏡の存在」だったことでわかるように、
鏡が国産の模造品ばかりとなれば、
国内の考古学・古文献(記紀など)と、中華王朝との紐帯が実は途切れかねないことになる。
卑弥呼の墓、山門にあるよ。
>>982 出てる。
---
2009年に同研究所は、石室がある墳丘頂上部の土中から鏡片331点を発掘。
大半が1〜2センチの細片で、度重なる盗掘で割られたらしい。
1949年の調査などで見つかった53点を含め精査した結果、三角縁神獣鏡26枚、内行花文鏡19枚、画文帯神獣鏡、方格規矩きく鏡など81枚分を確認。
多くが中国製とみられ、日本製の中には推定直径約40センチの大型の内行花文鏡もあった。
破片のうち180点はまだ分類できておらず、鏡の総数はさらに増える可能性があるという。
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201001070355.html
990 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 02:08:28
>>988 画文帯が、大事に扱われていたなら、卑弥呼の鏡で確定?
いや、間違いないって。
992 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 02:10:23
>>988 多くは中国製と見られ、と書かれているが、三角縁神獣鏡もそれに含まれている
ということなんだろうな。
方格規矩鏡も内行花文鏡も、怪しいものだと思うが。
993 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 02:11:24
三角縁は最初は中国鏡をお手本に作られたんだろう。
鏡を信仰に近いくらいあがめることにより
大量に鏡を持てば持つほど力があるという
権力の象徴のようになってしまった。
そのうちそこに書かれている文字が理解できる人間が増えてくる。
それで、この景初XX年は年代をあらわすということが理解できると
この数字を毎年増やすようになる。
で、ちょっとばかり中国情報が入るのが遅かったもんだから、
中国ではありえない年号をつい入れちゃった、という。
存在しない年号の記年鏡あったよね。
994 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 02:15:25
まあ個人的には三角だとかよりは
大王墓クラスから紀年鏡が出て来た点に注目したい。
今後にイロイロ期待wwwwwwwwwww
要するに、鏡なんて意味がないんだよ。
おそらく、中国でふつうの工芸品として大量に作られ、
宗教的に珍重された日本列島へかなり流入した。
そして、銅鐸くらい簡単に作れる西南日本各地で、どんどん模造された。
その銅鏡の海のなかに、
魏志の記す「下賜された鏡(本物)」とやらが、かすかに混じっているだろうということだ。
漢字は、文盲でも絵柄として認識可能なので、どんどんコピーされる。
これは、魏志の記す「酋長卑弥呼の使者の朝貢」の重みにも関わる。
つまり、さすがに、中国に渡航できるのだから、クニの酋長クラスであったろうが、
はたしてどこの馬の骨に下賜したのか、わかったもんじゃない。
「西南日本最大の王権が、栄えある中華に朝貢して、希少な鏡を下賜された」
という暗黙の前提が、すでにおかしいんだろう。
996 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 02:16:34
>>990 画文帯神獣鏡は、魏の鏡でなく、敵対していた呉の鏡といわれるのだが。
997 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 02:20:54
>>994 時事通信のほうには、「調査の結果、蟹沢古墳(群馬県高崎市)など3カ所で
出土している正始元年(240年)の銘がある鏡と同型と判明した」となって
いるので、紀年鏡かどうかは微妙なところ。
998 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 02:29:30
>>997 逆に言えば
「同型」と言うのならその紀年鏡を出した古墳は
茶臼とほぼ同年代と言う事になるのかな?
999 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 02:46:08
>>998 そういうことになるんだろうなあ。
蟹沢古墳(群馬県高崎市)、森尾古墳(兵庫県豊岡市)、竹島古墳(山口県)
の三つがそれらしい。みんな小さな古墳。
なお、年代的には、全部、4世紀前半となっている。まあ、これは鏡から
来る年代なのだろう。
ただ、森尾古墳のところに、気になることが書かれている。
遺物の内容からは古式な要素とやや下る要素がみられることが指摘されている。
というのがそれ。どうも、鏡からは前期古墳とされながら、他の部分では
もっと新しい要素もあるらしい。
1000 :
1000:2010/01/08(金) 02:50:16
纏向スレは九州説論者の呪いを受けつつも続くのであったwwwwwwwww
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。