1 :
日本@名無史さん:
♪九州説 ドンと来い♪1
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2 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 16:49:26
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福岡も佐賀も長崎も、大分も熊本も宮崎も、鹿児島も沖縄も、ドンと来い!
邪馬台国九州説論者が集うスレです。
■元スレ
♪邪馬台国 ドンと来い♪59
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1258673045/
3 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 16:51:46
1おつ
おもしろいレスがあるので、コピペってくる。
4 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 17:00:35
古田武彦の博多説は成り立たない。
まずこれを確認しておきたい。
5 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 17:06:16
179:山本イルカ :2009/11/22(日) 15:26:23 ID:WurXis0XO
凄いの見つけたよー!
「鉱物氏族」
でググると、見慣れた地図がでてきた。
火の君っていう熊本の氏族を、ここ2、3日ずーっと調べてたんだけど
出てくる出てくるすんげー面白いwww
またのちノシ
6 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 17:09:02
7 :
3:2009/11/22(日) 17:10:53
8 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 17:13:12
このスレタイだと邪馬台国以外もおk?
9 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 17:17:55
どんと来い って言ったら邪馬台国だから他は駄目
10 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 17:19:32
11 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 17:27:48
>>8 べつにいいと思うぞ、邪馬台国九州説なら
他の国にも触れないわけにはいかないからな
長崎ちゃんぽんとか、博多ラーメンの話題もダメ?
このスレは伸びない
邪馬台国論争というのは畿内説の矛盾や嘘を暴くのが面白いのであって
九州説のスレが立っても特に語ることはないね。当たり前すぎて、面白みが無い。
16 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 17:42:15
タイトルに(笑)も加えたほうがいいとおもふ。
17 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 17:53:57
>>4 「可七萬餘戸」ですから博多説には無理ですね、
博多は奴國で「有二萬餘戸」でしょう。
「可七萬餘戸」には「可」が付いているから推測値、
規模から考えて奴國を含む北部九州一帯でしょう。
18 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 18:00:14
19 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 18:01:50
>博多は奴國
その通り
九州説だけって盛り上がらないんだようなぁ。
生暖かく見守っとくけど。
21 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 19:19:47
『三国志魏書』倭人伝によると3世紀には、筑前に伊都國、奴國、不彌國があった、
有千餘戸+有二萬餘戸+有千餘家=二萬二千戸。
「可七萬餘戸」とは筑前+筑後+肥前+αの北部九州。
また、一戸=5人とすると110,000人。
3世紀の筑前の人口110,000人と推測できる。
22 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 19:35:35
気になってレスしちゃう人がやっぱりいるんだねー
スレ分けされて、正直シラけた
24 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 19:52:01
>>22 とりあえず、九州説は早く一本化してほしいかなら。
ものすごく気になる。
確かにこうして分けられてしまうと、九州説内部には有力な比定地が無い事が判ってしまう。
明確な対立軸が無くてはイマイチ盛り上がらんね。
畿内説はトムとジェリーのトムっだったんだな、と改めて思うよ。
九州説同士で比定地の優劣を論じ合えばいいんじゃないのかな。
まずは九州での候補地を出し合っていこう、、はい、甘木
29 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 20:08:50
卑弥呼の墓候補も、求む。
30 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 20:10:58
甘木は卑弥呼の墓が否定できないからな
31 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 20:11:53
否定 −> 比定
32 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 20:12:45
ドンコイでええやん。
大和朝廷と切り離せないなら、このスレの意味がなさすぎ君
甘木は大和との類縁地名があるだけで考古学的な面はまったく弱い。
畿内説否定することは九州説肯定とは限らないからね。
九州説の中で比定地を見つけないと。
じゃあ、どこだよ
卑弥呼と台与、もしくはどちらかは、九州出身である事は間違いないはず、そこから絞りだして行くかだ
倭人伝を基本に置いてやればいいんじゃねの。俺は末盧国までは定説どおり。伊都は前原。ここで、
東南に行って佐賀方面とする人が出てくるんじゃないの?
やっぱり可能性があるのは宮崎じゃないかな。
伊都はガチで前原だろう、宮崎のどこさ?韓国岳の隣が高千穂だな
41 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 20:34:31
とりあえず九州の上から下まで全部掘り返してみろよ。
それででなけりゃあきらめろ。
42 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 20:35:15
九州の上から下ってどこだよ。
北から南ならわかるが
とりあえず西都原周辺は何かあるだろう。
44 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 20:37:46
畿内論者とかは小出しに捏造してくるからな、気をつけろよ
45 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 20:43:20
吉野ヶ里
耶馬渓でも探査しててくれ>九州信者
47 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 20:46:30
県民性から卑弥呼を推測しようや。卑弥呼の政治的行動は…いったい全体、奈良人か?福岡人か?どちらの気質に近いもんが有る?
福島みずほ
49 :
か:2009/11/22(日) 20:53:03
倭人伝
50 :
か:2009/11/22(日) 20:53:48
倭人伝
>>47 だったら鹿児島県は有り得ない。
あの県はものすごい男尊女卑。
全国的にも際立っている。
ま、別の言い方すると、男性天国なんだが。w
福島みずほって性格が九州人ぽいよな
>>46 耶馬溪はないぞ、自然薯なら盛り沢山じゃねぇ
55 :
列伝:2009/11/22(日) 21:00:44
実際、まきむくがどうして卑弥呼の時代の遺跡といえるんだろ?
布留式土器と4世紀の乗馬の道具であるあぶみの出土はどう説明できるんだろ?
仁が始まった
現在の九州説はこんな感じかな。
@筑後・山門郡説(提唱者;新井白石)
単なる語呂あわせか。有力遺跡なし?九州説でも死にかけの様子。
A筑後・甘木、朝倉説(提唱者;安本美典先生)
有力遺跡:平塚遺跡群。三角縁神獣鏡も出土。
九州王朝説の古田武彦先生とは鋭く対立。
B筑後・久留米・八女説(提唱者:高島忠平先生)
有力遺跡なし。テレビで拝見する限り、高島先生自体やや弱腰。
C肥前・吉野ヶ里説(提唱者;七田忠昭先生)
言わずと知れた吉野ヶ里遺跡。
ただ、吉野ヶ里については弥奴国である、との主張も強い。
D九州王朝説(提唱者:古田武彦先生)
福岡平野の奴国を邪馬台国とする。一里を76mとする「短里」を強力に主張。
58 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 21:08:12
高市早苗なんか実弟が居るのに代議士やってるよ。たぶん弟だと倭人伝みたいに地域的“大乱”になるんじゃ…
59 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 21:11:34
>>55 纏向を卑弥呼の時代にしなかったら、畿内説は全く成立しなくなる。
逆に言えば、そうすることによって、かろうじて首の皮一枚繋がっていると
言うことかな。
60 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 21:18:29
>>57続き
D小城甘木説(提唱者;後藤幸彦先生)
倭人伝の行程記事にぴったり合う。卑弥呼の墓とおもわれる倭人伝の記述とおなじ大きさの岡もある。
ここで間違いない。
61 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 21:20:05
宇佐説はかなり根強いし論者も多いが。。。?
63 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 21:24:43
64 :
のんびりひまじん:2009/11/22(日) 21:31:32
>>57 E筑紫広域説(提唱者:いき一郎・・・早期の古田説批判者・九州王朝説は正しいとする)
有明海沿岸。久留米に注目している。
戸数7万はピンポイントではないというもの。
なお、考古学者の森浩一先生もこれに近そう。
65 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 21:42:22
とにかく卑弥呼の墓を見つけることだよ。墓はさすがに開発で掘り返しちゃった
とかはないと思うし。怪しい箇所があるなら掘ればいいのに。
66 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 21:51:50
卑弥呼の証明はできないよ?!
仁、面白いわ。
掘るしかないだろう、九州発掘連合を作るしかないわ、来年には高速道路が無料になる、ロマン求めてやるかどうかだ
69 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 22:02:48
築造年代が3世紀中盤。直径百余里。男女百人近い人骨。
これが見つかればとりあえず有力だろうな。つか最低条件だ。
70 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 22:03:27
>>64 >E筑紫広域説
>なお、考古学者の森浩一先生もこれに近そう。
どうだろう
近年の森先生は、どうも畿内説に鞍替えした気配だが・・・
まず候補地を絞って、そこの自治体にみんなで「ふるさと納税」。これはどうせ払うもんだから損にはならない。
で、○○を発掘してほしいって、使い方をお願いする。
72 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 22:09:16
>>70 年取って、冷たい仕打ちが身に応えるようになったんだろうなあ。
穏やかな余生を過ごすためには仕方がないのかもしれない。
畿内論者なんて学者まかせの糞しかいねーぞ、舐められて、はい、そうですかなんて言えるかよ。
一泡ふかしてやるぐらいの気持ちもとうぜ
74 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/11/22(日) 22:14:46
私の説はどれになるのだろう・・
75 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 22:15:35
九州派は負け犬ですから、期待するだけムリ
76 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 22:18:48
>>57 筑後の人口は1700年代でも26万人しかない。
1500年前に七万戸(35万人?)は無理。
筑前、筑後、肥前などを含めた広域の国が邪馬台(壱)国である。
邪馬台(壱)国の都は伊都国である。
九州説なんてカスしかいない、相手にならない。潔く負けを認めろカスがwww
インチキ九州論者、隔離スレで吠えてろよ(笑)
79 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 22:29:28
末盧国とは松浦半島ではなく、若松半島だったのではないだろうか?
九州上陸の起点を変えれば、行き着く先もおのずと変わる。
邪馬台国が畿内なら、末盧国が松浦半島だったはずがない。
最近、自称「天才」という人が、いくつかの掲示板を荒らしているのを見るね。
畿内説を批判するだけならまだしも、他の九州説を激しく論難する時の言葉使いや態度が見てられない。人の意見に聞く耳持たないし、人格否定までしてたりするのはいただけない。
で、邪馬台国はどこかってその人のサイトを見たら、熊本の鞠智城だって。ちょっとがっかり。
鞠智城は全然時代が違うのだが、一度思いこんだら考古学的所見は気にしないらしい。
もっとも、九州説にはそういう論者が多いけど。
考古学に触れても、都合のいい引用のみや、時代を都合よく新しくしたりとか、逆に勝手に古くしたりとかそんなのばっかし。
考古学的にも満足できるまともな九州説って無理なんだろうか?
81 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 22:31:58
だ・か・ら…掘っても誰か分からないだろ?卑弥呼の文字がないと!
82 :
サガミハラハラ:2009/11/22(日) 23:14:58
83 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 23:19:36
>>80 あんまり声大きくいえないけど、
九州説は、●●●●ばかり。
85 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 23:39:09
>>85 ここまでおばかが畿内説にいるとは思いがたい。
何とか畿内説対九州説にもっていきたい九州説側の誰かの釣りだな、これは。
87 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 23:47:16
88 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 23:50:19
アホがいっぱい、たくさん、わらわら湧いてくるスレですね。
サガミハラハラが「人骨は溶けちゃってて消え去っています」
と言うと嘘っぽく聞こえるけど、これホント。
もし残っていたら奇跡。人は消えて空気となる。
遺跡で人骨が残るのは条件が良かった僅かな確率。溶けてなくなったとか、別にだからどうした、という感じ。
それより、桜ヶ岡から出たという土器や刀が3世紀のものという証拠は全くない。だいたい、何が出たかというコト自体怪しい話。
このことだろ。サガミは考古学わからんから。土師器だってよ。ww ちなみに佐賀はこれで最古級。
> 茶筅塚古墳(ちゃせんづかこふん) 桜の名所として知られる小城公園内の桜岡と呼ばれる標
高36mの独立丘陵頂部に築かれた前方後円墳である。平成3年に行われた小城町教育委員会
の調査で古墳であることが最終的に確認された。全長46m、後円部径約26m、前方部の長さ約
20m、前方部の幅約18m、後円部の高さ約5m、前方部の高さ約2m である。葺石や埴輪等は確
認できていない。内部主体も不明であるが墳丘くびれ部付近から出土した土師器より4世紀後半
に造営されたものと推定される。県内の前方後円墳としては最古級に位置づけられる。
91 :
サガミハラハラ:2009/11/23(月) 08:37:34
茶筅塚古墳の南十mのところに、大正時代に松田男爵(?)の記念碑を作る工事の際に、
でてきた大量の土器と鉄刀です。時代が時代なだけに土器の形式や刀剣の保存などはおかなわれておらず、
でてきたとの記録のみですが、その周りに掘り残したものがのこっている可能性があります。
あれ?江戸時代に出てきたとか言ってなかったっけ?
仮に出ていたとしても、弥生時代、しかも終末のものという証拠は何もない。
弥生時代では刀はあるにはあるが、そんなにまとまって出ない。多分、違う時代だろうな。
93 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 09:24:59
>>85 >この航路地図を見れば一目瞭然。
邪馬台国が畿内なら末盧国に上陸する必要はない
末盧国から伊都国へと陸路をとっていることからも
魏使の目的地が九州であったことは明白である。
94 :
サガミハラハラ:2009/11/23(月) 09:44:18
たしかに、海路できて上陸してさらに海路となるにはそれ相当の理由がなければなりません。
支倉常長がヨーロッパに行くとき、メキシコに上陸しましたが、あれは、海路をとるとかなりの遠回りになるからですね。
末蘆の国に上陸する合理的な考えは、そこから先は陸路の未であるか、陸地を横断して、別の海に出るかだけです。
よって、おなじ海路で進める前原に陸地をつかってという必要はありません。
95 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 09:56:30
>>94 政治と探険をいっしょにしてはいけません。
政治はランダムではなくコースと言う決まりに沿った流れがあります。
そこには合理性など全く入り込む余地のない世界です。
倭人伝を冒険小説レベルで見るのは止しましょう。
ともかく上陸して、後は倭人の道案内で違和感無いけどな。
抽象論はいいから、具体的な検証に入れよ。
98 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 11:26:42
>>96 魏使は中国船で末盧国まで来て
奴国からまた倭人の道案内で、倭人の舟で畿内へ向かった
凄く違和感あるな。
普通、倭人の道案内が付いたとしても
末盧国から奴国へ中国船で向かい
そのまま中国船で畿内へ向かうでしょう。
魏志倭人伝の記述で目的地を畿内と考えるのは難しいな。
99 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 11:30:38
人骨が溶けてなくなるという非科学的な説明しかできないからダメなんですよ。
骨はカルシウムやタンパク質でできているのだから地中のバクテリアによって分解されます。
日本のように温暖湿潤な気候では土に埋もれた骨はまず残らない。甕や石室に収められて
いる場合でも完全に密閉されていない限りやはり残りにくい。
それに比べて、砂漠地帯には恐竜の骨まで残っていますね。
日本の古代を骨で推測するというのは、土台無理な話なのです。
100 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 12:35:02
しかし、卑弥呼が送った使者にしろ、帯方郡の使いにしろ、遣唐使にしろ、小さな船で数人で来たわけではない。
50隻、100隻という大船団を率いて、貢物プレゼントを山積みにして国の威信をかけて使者を送ったり送ってきたりしたのです。
だから、船を乗り換えるなんてことはない。
そのような大船団を迎えるには、大きな湊や津、上陸してくる使者やその随行人数100人を迎えるための迎賓館や宿泊施設も必要。
国家的な大事業だったのです。
101 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 12:37:45
日本書紀によれば、隋のハイ世清の来日時の使者数は12人だな。
104 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 13:09:40
>>100 実際、遣唐使の頃には那の津に迎賓館があったしね。
先日のオバマさんのときは何人?
106 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 13:13:08
>>104 那の津じゃなくて大濠じゃない?
それともあの辺も那の津っていう?
107 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 13:16:19
>>105 オバマさんは使者じゃなく
国家元首そのものの来訪だよw
108 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 13:23:13
小浜大統領来日での一番の課題は基地問題。
米軍基地というのは、日本府・倭人館みたいなもので、
日本に基地があるからと言って日本が米国の属国でないのと同じように、
任那も日本の属国でなかったことが分かる。
109 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 13:44:34
>>103 「ハイ世清+下客で12名」には送ってきた船の船員や護衛の兵士は数に入っていない。
下客に護衛も入っていそうだけど。
小野妹子と一緒なので船は隋の船では無いかもしれないな。
あくまで使者なんだから軍隊送るような事はしないだろうさ。
時代が大分下って、伊達政宗がスペインに送った慶長遺欧使節だと
支倉常長一行の使節は68名で、総勢では200名だったそうだよ。
111 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 14:47:30
>>106 大差ないと思うw
あの辺りで一、二泊したんじゃね?w
112 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 15:25:49
「その国に丹あり」
これから糸口みつからないかな?
丹生都比売大神が卑弥呼と何か関係があるのではないか。
海人族は日神の祭祀と共に鉄生産に深くかかわった。
太古の姿を現代に伝えているのが祭祀である。
丹とは水銀
丹生都比売大神を祭る神社を辿ると中央構造線と重なる。
四国遍路道の札所とも重なる。
113 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 15:40:51
「丹」は朱砂(辰砂−朱色の硫化水銀)のことであり、
その鉱脈のある所のことを「丹生」という。
朱砂はそのまま朱色の顔料となり、
精製すると水銀がとれる。
丹生都比売大神は、朱砂を採掘する一族が祀る神であると考えられている。
114 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 15:53:03
天野大社(丹生都姫神社)の丹生良広氏の「丹生神社と丹生氏」によれば、
丹生氏の第一歩は筑前の伊都の地とされている。
この地は邪馬台国の伊都国であるがここには水銀鉱床は出ていない。
しかし紀の国の主な水銀産地は伊都郡内にあり、
伊都国から人と共に地名が運ばれたとの想定である。
伊都国王の後裔が紀州丹生氏や怡土県主の五十ト手につながり、
大分豊後丹生氏になっていったとの見解を開示されておられる。
115 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 16:00:22
>>99 縄文時代人や弥生時代の土井が浜人の人骨が見つかりましたが
甕棺や石室をバクテリアが侵入できないほど完全に密閉する技術を
古代人が持っていたのもすごいですね。
116 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 16:06:55
条件が揃えば ウリ だって残りますから
117 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 16:28:09
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
118 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 16:35:28
伊都国される前原遺跡からは女王のものと見られる古墳が見つかっておいる
伊都国が女王国(邪馬台国)の都であるのは間違いない。
119 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 16:57:54
前原遺跡?
120 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 17:14:06
>>118 前原遺跡は奈良時代の”道の駅”ときいてますが、
近くで古墳が見つかったのですか?
121 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 17:16:45
天孫系と国造系は別けて考えるのが近道かもね。
別けて考えるべきだけど、後世のすり替えで皆天孫になっています。
124 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 17:56:45
なに怒ってる?九州説は全部ねつ造じゃないのかw
やれやれ。平原の墳丘墓、だよ。
126 :
縦目仮面:2009/11/23(月) 18:10:01
九州説の奥野正男氏は、卑弥呼の冢の可能性があるものとして次の5つをあげています。
@平原王墓 A福岡市早良区 宮の前C墳墓 B祇園山古墳 C佐賀県神埼郡 西一本杉古墳
D宇佐市の古稲荷古墳・・・この他まだあるんでしょうが、検討してみたらどうでしょうかね。
他スレで見たんですが、九州王朝大好きさんはBの祇園山古墳説のようです。これは確か方墳で
周りに60いくつの小型埋葬施設があったはず。周囲の竪穴式石室には複数葬もあるようだから、
案外 徇葬百人の可能性もあるかもね?
祇園山の土器は布留1式平行なんだけど
128 :
縦目仮面:2009/11/23(月) 18:26:12
うん。俺は4世紀初め頃かと思うけど、ま、話が進むかと思って。他の遺跡も面白いよ。
>>100 遣唐使ですら3〜10隻である件について。
130 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 18:46:24
132 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 19:38:25
ズバリ邪馬台国は筑後川
邪馬台国が鞠智城という説を見たが、どんなもんか?
134 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 19:57:29
くなこく温泉があるから
狗奴国は七城町でぉk?
135 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 20:04:42
ビックリしたんだけど、九州って、すごい暖かいんだな。
136 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 20:06:19
137 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 20:33:29
宮崎です、争いではなく、食糧の支援により奈良を支配した可能性があると思った。
九州人の顔を良く眺めるといいさ。
140 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 20:37:23
>>137 あなたみたいな人が九州説だったらいいんだが、
ここは歪んだ人が多いから・・
141 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 20:41:21
九州って、なんか平均的に男女問わず顔がいいよな、ムカつくよ。
>>140 アンタが一番歪んでる。
歪んでる人が多いと嘆きながら、そんな歪んだ掲示板に書き込んでいる。
どんだけ目出鯛人なんだ?
鏡を納めた箱についていた封泥が発見されればビンゴだ。
144 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 20:48:59
日本ではカルトと言われて毛嫌いされる宗教団体でも、アフリカあたりに学校建てたり食料を支援してたりしたら、崇められたりするし、奈良でもそんな事があったような感じがするよ
145 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 20:59:48
太陽(暖かい)の国から食料を支援してくれた女王=アマテラス、そんな妄想をしているよ。
146 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 21:53:04
なぞは解けたよ、間違いなく邪馬台国は奈良、ただ卑弥呼や台与は九州の人だ。道中共にする人数を叩きだせる事が出来れば真実に近付ける
毎度の展開になっててワロタ。
九州説スレの典型的展開
A「俺は○○だと思う。」
B「いや、△△だよ。」
C「絶対□□。」
D「畿内説なんて成り立たないようねぇ」
一同「そうだそうだ」
E「おれも△△だな。」
F「□□も捨てがたい」
G「何言ってんだ。××を忘れるなよ。」
H「こうしてみると、畿内説なんてやっぱり駄目ダメダな。」
一同「そうだそうだ」
〜〜以下しばらく繰り返し〜〜
具体的な検討なしに一くさり候補地の列挙と畿内説への怨みつらみが終わると
はなすことがなくなってそのままFO。
148 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 22:11:16
>>147 自慢げに分析して語るのも毎度の展開ですね、ちょ、腹イテェ〜、もっとくれ〜
カンタンナヒッコシトカンガエテルヒトガイル。
ていうか、このスレ九州説の隔離スレになっているよ。
本スレでたたかわないと畿内説の奴らがのさばるだけだよ。
宗像を表に出して本スレで戦っている人を見習ったら?
>>150 タタカワナケレバナラナイリユウナンテナイシ、ノサバッテモナンラエイキョウハナイ。
タタカイタイヤツハタタカエバイイ
オレハコノオダヤカナバショガスキナンダ
【日本国家の成立】
【日本民族の統一】
@神武朝(神話)
A崇神朝(ヤマト:マキムク)
B応神仁徳朝(筑紫朝)
C顕宗仁賢朝(播磨朝)
D継体欽明朝(越近江朝)
【天智天武】律令体制
【聖武】平城京
【桓武】平安京
*【幕府体制】
【明治】維新近代化
【現在】125代今上
(各王朝内は「男系」で繋がり各王朝間は実質「女系」で維持。王朝内に女帝は置かれたが女系は認められなかった)
>>151 ナゼオレヲニートトイチヅケタリ、シネトブッソウナヒョウゲンニテオドスノデスカ?
オレハオダヤカサガスキダトイッタマデデハアリマセンカ
オダヤカナジョウキョウヲノゾムト
ココデハシネトイワレルノカ マッタクヘンナヨノナカニナッタモンダトカンジルイチニチデス
アナタハモシカシタラ、オサナイトキニナニカサゲスマレタカコヲオモチデショウカ?
ブラクブラクトサベツサレタリ、ザイニチザイニチトノノシラレタリ
155 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 23:51:50
カタカナの羅列は読む気がせぇへん。
スルーでOk
156 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/11/23(月) 23:57:03
>>94 >>たしかに、海路できて上陸してさらに海路となるにはそれ相当の理由がなければなりません。
文化国である中華人が、非文化国である倭の船に乗るはずが無い。
沈んだり難破したりした時、どうするつもりだと考えますか。
倭の船に乗るくらいなら、自分達の船でずっと行きますよ。
そうでないなら、わざわざ自分達の船をもってきて韓半島をまわって倭に渡海することはせず、
韓半島の南端から倭か韓の船に乗ってます。
157 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 00:02:25
>各王朝内は「男系」で繋がり各王朝間は実質「女系」で維持。
水銀採掘業者は娘に養子を迎え家をつがし、息子は外に出すのが慣例であった。
中毒から実子を守り、血の繋がりは娘に託した。*朱の伝説(邦光史郎)。
女系は「海」の文化である。
158 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 00:03:35
>>157は逆になってしまうけど、
なんか関係が無いでしょうか?
159 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 00:12:53
>>150 あほくさ。
負け戦だよ。焚きつけてどうする。
勝負はとっくについたんだよ。
160 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 00:31:15
皆さん
>>159 の意見をどう思いますか?
九州説はとっくに負けだとおっしゃっていますが。
161 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 00:35:00
>>160 別にいいんじゃないの
言論の自由は憲法でうたわれてるし
反論してどうなるもんでもないわな
162 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 00:44:49
何言ってるんすか、そんなの制限ありますよ。
仮に法に触れないでも道義的に。
163 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 00:49:13
こっちはこっちで論議すればいいだけの話。
近畿説が気になるならあっちで論議すればいい。
ウザイのが一匹チョロチョロしてるなw
164 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 00:54:47
>>162 なんだよその道義的って
一部のマニアの発言に、道義的も糞もないわな
165 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 00:56:54
巣にお帰り
166 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 01:00:49
>>162 あなたのほうが道義に反してないですか?
確かに、この間のテレビでも九州は神話のイメージにしか登場しなかったし、
倭王にふさわしいのは大和っぽい感じになってきたな。
168 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 01:31:15
>>163 だよな。まずはえらそうなお前からネタふれや。
170 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 03:16:59
じゃあ、ちょっと疑問点。
近畿の人は
大和=おおやまと
って読めるのは知ってるのに
そこには絶対触れないよね
何でだろw
大和神社はいいとこだよね
172 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 03:39:07
それで、
倭迹迹日百襲媛命=卑弥呼
って比定しちゃうと
崇神天皇は当然
卑弥呼よりも後の時代って事になるよね?
173 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 10:27:47
>>156 魏使が末盧国から奴国へ海路で向かわず
末盧国から伊都国へ陸路で向かったのは
伊都国が邪馬台(壱)国の都だからであり
魏使は伊都国に留まって卑弥呼と会談したのである。
水行二十日とは郡治から狗邪韓国までのことであり
水行十日陸一日(月)とは狗邪韓国から伊都国までのことである。
投馬国とは狗邪韓国を中心とした朝鮮半島南部にあり
邪馬壹国とは伊都国、奴国を中心とした北部九州にあったのである。
すみません、
皆さんの地域の
「赤鳥居」の神社をピックアップしてもらえませんか?
末社であれば本社を書き添えていただければ助かります。
白地図を用意して待ってます。
よろしくお願いいたします。
175 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 12:58:45
九州は近畿に比べて住宅地やら開発がされてないからなかなか遺跡が見つかりずらいからね。
古墳や遺跡を開墾して後でわかった場合もあるからまだ見つかってない場所かもしれないよね。
吉野ヶ里は昔から土器とか出てきていたけどたまたま工場用地にするために大規模に掘って見つかったくらいだからどっかに眠ってるかもしれない。
177 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 13:39:16
>>175 遺跡の調査では
福岡都市圏だけで300万人を超える九州と
奈良県全体でも140万しかいない近畿では
宅地やら開発がされてない近畿のほうが調査しやすいよ。
178 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 13:53:41
>>177 現代でもこれだけ差があるんだから
奈良県に邪馬台国が在ったとか到底考えられないな。
>>177 福岡都市圏に限ってはそうですが、他の九州では調べられるとこもありそうですけどね。
180 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 14:01:03
>>179 伊都国(邪馬壱(台)国の都)=前原市付近、奴国=福岡市付近
邪馬壱(台)国=北部九州一帯
が私の考えですから。
>>176 ありがとうございます。
石壁神社の水鏡と岩本社に着目しました。
岩陰人骨埋納遺跡の名称はおわかりになりませんでしょうか?
182 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 14:35:01
>>179 奈良県の人口密度は吉野ヶ里のある佐賀県と変わらないな。
184 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 14:47:30
>>182 そうですか地図の写真画像を見たら大阪寄りはかなり住宅が多いように感じたんですが、佐賀と奈良は盆地と平野で居住範囲が違うからでしょうかね
>>180 そうすると厳しいですね。今までの開発だけでも何も見つかってないんでしょうかね?
アメリカに爆撃されたんでしたね。北九州も爆撃されてますし北部九州の都市周辺は遺跡発見は厳しいですね。
188 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 15:13:04
>>175 >九州は近畿に比べて住宅地やら開発がされてないからなかなか遺跡が見つかりずらいからね。
大きな遺跡はしらないけど、九州説の場合は古代からかなり人が住んでるから、住む場所というのは
けっこう限られてくるとおもうんだよね。つまり、同じような場所でなんども立て替えられてると
古代の遺跡はすでに壊されてしまい、でても中世くらいのものとか多くなるのではないかな。
実際、民家の敷地内なんかで発見されてるけど
祟りがあるからって埋め戻されて祠になってたりするよ。
これは全国共通。
地元の者しか知らない事だって沢山ある訳だし。
罵りあいが一番見苦しいわ。
赤鳥居情報お待ちしてます。
190 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 16:44:34
いま文化財保護法があるから試掘調査すれば出てくるよ。
市役所もバカじゃないんだからどの位掘れば出てくる位の
計算はしてるだろ。
>>190 福岡は財政赤字でいつ破綻してもおかしくない状況です
>>170 大(オホ)
@単に形や規模の大きいさまを表す(大石、大雨等)
A転じて偉大であるものに対する美称(大海原、大江戸等)
B或る集合の中で最上位のものに対する美称(大神、大兄等)
大和の場合、単に地名として使われるなら、B数多あるヤマトと言う土地の中で一番、
天皇の諡号などに含まれるものはAの事例でしょう。
で、それが何か?
発掘現場の地面や石室に書いてあったなら触れることもあるでしょうが、
あまりに当たり前過ぎてわざわざ触れる機会もないことですが。
193 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 18:51:51
奈良と比べて福岡は田舎みたいなことを言う人、畿内説派でたまに見かけるよな
九州の古墳や遺跡も炭素年代測定や年輪年代測定で調べたら新発見があるんじゃないかと思うのですが、土器や副葬品で年代を決めてるから今までの常識が覆えるんじゃないかと思います。
まともな学者さんだと
>>180の見解だと思うんですけどね
九州じゃ都合が悪いんですかねwww
196 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 20:39:09
>>191 ちゃんとやってるじゃんw
735:日本@名無史さん :2009/11/24(火) 20:36:39
伝統文化ニュース
◆奴国の拠点・那珂遺跡群 巴形銅器の鋳型出土 伊都国王墓副葬品に類似
2009年11月22日
出土した巴形銅器鋳型の石片。
下に描かれているのは銅器の復元予想図
福岡市教委は、古代中国の史書「魏志倭人伝」に記された
奴国(なこく)の拠点と言われる那珂遺跡群の一部(博多区竹下5丁目)から、
弥生時代後期(紀元前後−200年ごろ)のものと推定される石製の巴形(ともえがた)銅器鋳型が出土した、と発表した。
吉野ケ里遺跡(佐賀県)、九州大春日キャンパス内遺跡に次いで、全国3例目。
出土した鋳型が、伊都国王墓の一つと考えられる
井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡(前原市)から出土した銅器と極めて似ていることから、
市教委は「奴国で製造された銅器が、伊都国王墓に副葬された可能性が高く、貴重な発見」としている。
福岡都市圏って福岡市、久留米市を筆頭に、埋蔵文化財の事前審査体制が全国的に見ても充実してる地区なんだけどな。
漏れ的にはうらやましいぐらいだが。
198 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 20:41:13
鋳型だw
埋蔵文化財予算は、自治体の本予算でする部分もあるが、大部分の調査は、個人住宅や一部の零細事業を原因とするのは国庫補助金、大部分の緊急調査は民間公共問わず原因者負担だから、一般財政とは別枠だったりする。
福岡はもうあらかた調査したろ。
奴国でいいじゃん。金印貰った国だぜ。
予算削減の圧力は、違法交付税の削減や公共工事の削減を通して、
地方自治体にも波及しそうですね。
自治体予算の仕分け作業が始まれば、文化財保存や遺跡発掘も
凍結されるかもしれません。
蓮航議員とか、日本文化に理解のない議員が多いようです。
東九州道の建設で福岡の東部から遺跡が見つかるかもね。新富の遺跡付近はまだ開発とかされてないですしね。
新富→吉富でした
204 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 22:13:04
倭迹迹日百襲媛命、こいつが卑弥呼だから奈良は邪馬台国だとされているわけだか
お前はどう考えてるよ
206 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 13:34:19
207 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 14:02:37
208 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 14:08:02
>>205 その説は日本神話崩壊に繋がらない?
どっちでもいいけどw
209 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 14:14:53
>>205 倭迹迹日百襲姫は、第七代孝霊天皇の娘となっている。
天皇がちゃんといるのに、よその国が王と認めることはないだろう。
畿内説としては、それくらいしか卑弥呼に比定出来る人物がいないと言うこと
だろうな。
210 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 14:18:28
アマテラスが卑弥呼と断定するなら、皇族である倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼である
211 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 14:22:01
箸墓が倭迹迹日百襲姫の墓とされているのが影響しているのかもしれない。
しかし、みんなが箸墓と呼んでいる古墳が、箸墓(倭迹迹日百襲姫の墓)である
証拠はない。
宮内庁が指定している天皇陵は、けっこう異論が多い。
例えば、仁徳天皇陵も仁徳天皇の墓である証拠がないということで、今は
大仙古墳とか呼ばれることが多い。
212 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 14:22:13
皇族でないと王にはなれん、だから倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼
畿内をからめないと話ができないのか、おまいら。
九州説の話しろや。
>>209 でも倭迹迹日百襲姫は「日神」だからね。
ただの姫では無いのは明白だろう。
九州の遺跡がちゃんと年代測定される日はくるのかな?今のところは奈良と出土品を比較して何年前とか決めてるしね
偽造されたものをさも事実かのように語るなよ。天皇に都合の悪いことは書いてないしな。中国の王朝に朝貢したなら記述がないのはなんでかな?外交上重要なことがらを載せてないのは何故なんでしょう?
場所の比定は畿内説の完全勝利で終わったせいか、
議論の場は人物の比定にを移ってしまったな。
今だにおむつがとれない畿内論者を信じることが出来ない、奈良在住
邪馬台国は宮崎だったけど国主が変わるたびに倭国の首都は移り変わっていったんやないかな?
220 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 19:42:59
太宰府って名前も宰相の宰を使ってることを考えると辺境の地というより国の主要な場所だったと思うんです。
222 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 20:24:02
>>217 場所の比定については邪馬台国は北部九州一帯。
邪馬台国の都は伊都国で決まりです。
223 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 20:30:39
あんたら何言ってるんだよ。邪馬台国は筑紫君磐井。
そういう前提で、九州説を統一しないと狡猾な畿内説論者には勝てません。
九州説の人は足並みが揃ってませんね。
>>223 倭国の最後の国主ですね。
九州の邪馬台国が統一出来ないのは遷都を繰り返してるからじゃないかと思ってます。
225 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 20:33:00
筑紫君磐井は時代が違うよ。
226 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 20:34:03
「坂の上の池沼」とは邪馬台国九州説のことである。
227 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 20:53:26
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
228 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 21:25:10
まず、九州説の人どうして邪馬台国の位置を確定する必要がある。
そうでないと、巻向中心に進んでいる畿内説の人に対抗することはできない。
邪馬台国が、筑紫君磐井でないとするなら、いったいどこなのでしょう?
230 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 22:01:31
特定をしていながら、可能性しか期待出来ない畿内。だからゴッドハンドしかないんだよね。
畿内説は記紀があるからある程度の想像で場所を決められるけど九州の場合は記述が残っているものが皆無だから難しいと思います。
でも魏に使いを送ったのは大分南部から宮崎周辺の国でその後政治の中心が筑紫や太宰府に変わっていったと思うよ
232 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 22:04:24
マキムクで、これ以上の成果がなければ畿内説は終了ですよ、まぁ、これ以上はないですけどね。
まきむくは倭国が最初に畿内に作った国府かもしれないね。
234 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 22:07:40
1300年前にパックされたウリの果肉と、政権交代で銅鐸を叩き割りましたが、邪馬台国説の奈良に、これ以上期待するのが可哀相。
235 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 22:10:47
九州にも皇族がいた可能性をスルーする畿内派はウンコですよ、胡散臭い俳優も絡んでいるあたりがゴッドハンドですよ。
236 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 22:18:16
>>233巻向が国府にすぎないとすると、巻向より大きな都が見つからないと納まらなくなる
やはり、巻向は、邪馬台国ではない別の勢力の国と見たほうがいい。
237 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 22:19:46
『宋史』日本伝の中に「王年代記」というのが出てくる。それに、
およそ二十三世、並びに筑紫の日向に都す。
彦瀲の第四子を神武天皇と号す、筑紫の宮より入りて大和州の橿原の宮に入る。
とある。
238 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 22:30:19
書き込み見てても九州説哀れという感想しかもてねぇw
239 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 22:30:24
>>229 九州説だが、邪馬台国=ヤマト国=日本=九州なんだな。
そのヤマト国の首都が奴国→伊都国→吉野ヶ里(卑弥呼=アマテラス)→平塚川添(トヨ)→
日向(西都原、神武)と移って、神武東征で橿原に移ったというのが、考古学と文献学からみて正しい。
ヤマト国=邪馬台国という名称は最初は九州だけを指したのが、神武東征で本州まで含むようになった。
240 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 22:31:19
べちゅに九州じゃなくていいお九州だけど東北東九州だろうけど
242 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 22:52:51
九州説の人、レベル低すぎ。
これでは、邪馬台国が九州だったとしても、自らそれを証明するのは無理だろう。
畿内説の人が自分の誤りを認め、悔い改めるのを待つしかありません。
他力本願ですね。w
243 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 23:18:23
>>238 笑えるのよねぇ。
このスレを見ると、どうしても頬がゆるんでしまう。
また覗きに来てしまった。。。
九州説?ほとんど実体がない。プッ
245 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 23:38:32
九州説は所詮ファンタジー小説レベルだし。
247 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 23:41:06
248 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 23:51:09
最近、邪馬台国関係スレ全体おかしくないか?
質がかなり落ちて幼稚な臭いがする。
それに、夜になるとやったら九州説煽っているのが若干一名いるし
見当は付くけどな
250 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 00:16:55
251 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 00:18:38
記紀には、九州に女王が居たとか関連づけられそうな記述はあるのかな。あるいは、邪馬台国に比定されるような
国がかつて九州にあったとか、確認できるのだろうか。
神功皇后とか
モデルは九州の女王だろう
神功皇后は九州以外の痕跡も多いよ。
大体畿内生まれだし。
255 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 01:30:05
結局どっちにするんだろーね
神功皇后やらモモソ姫やらw
256 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 09:27:25
あー眠い
既にまきむくが見つかったために畿内に邪馬台国はまだなかったとわかったけど記紀が事実を織り交ぜた偽造書なだけに記紀を持ちだしてくると話しがややこしくなる。
早急に土器による年代分類を改めるべきだね。いままでどれだけあてにならない年代分類をしてたわかたもんじゃないね。
259 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 16:05:20
地元の人いたら詳しく教えて下さい。
157:11/26(木) 13:33
九州の白藤遺跡の裏話知ってる人いる?w
260 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 20:47:14
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
261 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 21:40:31
もう終わり?
こちらは終了。
本スレにみな戻りました。
263 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 22:15:52
て言うか、いずれこっちが本スレになると思う。
畿内説の反論が記紀にあてはまらないから間違いとか畿内説で説明つかないから偽造とか多くて困ります。
>>263 っていうか、
もうなんでも有りなんだなw
畿内説って。
結果(大和=邪馬台国)から導かれることにしか目がいかないからね。
あのさぁ、
卑弥呼の墓って、とっくの昔にかなりデカイ神社になってる
(掘りかえされて見つからないようにあえて神社にした)
って話聞いたんだけど、
これについてどう思う?
該当する神社といえばどこがある?
地元ではないから詳しくはないけど臼杵神社でググったら面白いこと書いてあったよ
270 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 13:21:13
271 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 17:25:19
>>267 細石神社のことだろう、
「天正15年(1587)太閤に神領没収せられ、昔祭日にありし流鏑馬も中絶し・・・。」とあるので往古はかなりの社であったと思わる。
ホント妄想好きだね、ここはw
273 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 17:41:40
やっぱり気になっちゃう感じぃ?
いつもの人でしょ?w
274 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 18:17:17
古田氏の調査だと「漢委奴國王」の印は細石神社に伝わっていたものが
売りに出されたものらしい。
卑弥呼は新たに「親魏倭王」の印を貰っているので
不要となった「漢委奴國王」の印は卑弥呼の墓に埋葬された可能性がある。
宇佐ってUSAのことだろ?結構新しいじゃん。
276 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 18:57:38
間違っても畿内でない事は、よく理解できたが、ところで九州にはどのくらいの候補地があるんだい?
277 :
サガミハラハラ:2009/11/27(金) 19:12:15
まず第一の候補として小城市桜ケ岡ですね。
279 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 21:17:08
>>276 どうして畿内説を引き合いに出してから
内容に入るのですか?
280 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 21:21:22
281 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 21:33:38
>>274 志賀島を海の中まで調査しても金印が出土したと見られる遺跡の形跡は発見出来なかったそうだ。
一方、細石神社では「漢委奴國王」の金印は昔は細石神社に伝わる宝物であったとの伝承があるそうだ。
282 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 21:34:35
細石神社が卑弥呼の墓の跡じゃなかろか。
283 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/27(金) 21:46:41
卑彌呼の墓は久留米市御井町祇園山古墳
卑彌呼の都(城郭)は久留米市御井町南西部丘陵台地
284 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 21:46:56
>>282 それはあるな、誰か現地に行ってうPしてほしい
285 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 21:51:09
九州は候補地がありすぎて大変そう
286 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 21:53:35
邪馬台国は筑紫ですよ、筑紫。それ以外に考えられない。
287 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/27(金) 21:56:08
卑彌呼の都(城郭)の中心は久留米サイクルファミリーパークの北側。
あぁ、丘を削って宅地化してしまっている。
>>281 昔しって、いつのころだよ?
どうせ金印が発見されてからつくられた話しだろう よくあるパターンだ
289 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/27(金) 22:15:01
3世紀から617年まで、歴代の倭都は久留米大学から野菜試験場の場所にあった。
290 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 22:51:32
291 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/11/27(金) 22:59:48
>>289 次回、あなたは「ハウステンボスにあった!」とか言うでしょう。恥ずかしい、思わず赤面。
久留米市の埋蔵文化財事前審査は網が細かいんだけどな
そんな遺跡があったら調査してるって。大規模開発なら余計に試掘が入るはず。
また、別スレにあった通り、祇園山古墳は三角縁がかつて出土した可能性が高く、土器は布留1式平行だよ。古く見ても3世紀末
293 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/27(金) 23:08:58
久留米市御井町は、平城京址や大宰府の様に、土地の境界線が東西南北に並んでいる。
これは、400年にわたる歴代倭都の痕跡の様に見える。
御井町に対応する高良山の関係は大宰府に対応する大野城の様に見える。
しかし、高良大社と天満宮の位置関係は異なる。
>>292 >そんな遺跡があったら調査してるって。大規模開発なら余計に試掘が入るはず。
文化財保護開始以前の開発。
>祇園山古墳は三角縁がかつて出土した可能性が高く
祇園山古墳から後漢鏡が出土しています。
>土器は布留1式平行だよ。古く見ても3世紀末
4世紀以降と見られる箱式石棺もある。
6世紀のものと思われる墓もある。
なお九州の土器形式年代観は異なる様ですので、この点については深追いしません。
>>293 >久留米市御井町は、平城京址や大宰府の様に、土地の境界線が東西南北に並んでいる。
今、久留米の地図みてる、確かにそうなってる。
俺もきになってはいた。
御井町の「井」は、「倭」「倭王」を指すのではと他愛無く想像中。
倭は、壹與、倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武、倭ワイ(磐井)の「イ」
297 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 23:56:00
>>296 整然と並んでるとこみた、単なる農業試験場だったwwww
>>297 >整然と並んでるとこみた、単なる農業試験場だったwwww
農業試験場の東と南。川にも注目すること。
久留米の「高良大社(筑後国一の宮 福岡県久留米市御井町)」は、
【高(句)麗】が語源。
朝倉には、倭国・皇極太上天皇の都があった。
高句麗の大臣・泉蓋蘇文(いり・かすみ)は、のちに、天武天皇。
(復活倭国の)天武天皇は、母親、倭国・皇極太上天皇(同時に、高句麗王)を殺している。
末子相続の孝徳天皇(大国主命)の皇太弟。
301 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 00:42:11
中国、易県出土の復古型方格規四神鏡の紐孔の形状について教えてください
やっぱ、表方形なんですかね?
302 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 00:42:52
中国、易県出土の復古型方格規四神鏡の紐孔の形状について教えてください
やっぱ、表方形なんですかね?
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フ` .〔::'゙`了 { 「 iil^
305 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 01:15:10
electromagnetic wave を感じる。
>>299 一時的に浮羽に遷都した王もいましたね。前君だったかな?
前君とは誰のことだろうか。
307 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 05:02:40
>>233 >そういう前提で、九州説を統一しないと狡猾な畿内説論者には勝てません。
九州説は滑稽だけどなw
308 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 07:41:22
向野田古墳は、朝顔形II式の埴輪を見ても、まあ4世紀なのは間違いないよな。俺の記憶では確か
被葬者に妊娠説があるんじゃなかったっけか?
309 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 07:42:13
308は誤爆、謝。
310 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 07:49:55
311 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 08:34:36
312 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 08:42:29
卑彌呼の時代の邪馬壹國は「可七萬餘戸」。
規模から考えても邪馬壹國は北部九州一帯(筑前、筑後、肥前、その他肥後、豊前も入るかも)。
都は「世有王」と記された伊都國。
「皆統屬女王國」とは倭の国は皆、女王國(伊都國)に統屬すの意味。
卑彌呼の時代の邪馬壹國は「可七萬餘戸」。
規模から考えて邪馬壹國は、東北部筑後平野と筑前筑後の北野地域。
都は久留米市御井。
「世有王」と記された伊都國は、倭面土國王帥升王統の倭都。
「皆統屬女王國」とは、帥升王統の王は皆、卑彌呼時代になってから女王國に統屬すの意味。
314 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 11:41:05
>>313 太宰府に都督府があった時代があると思われますが、その時にはこちらが王都であったのでは ?
>>294 >
>>292 > >そんな遺跡があったら調査してるって。大規模開発なら余計に試掘が入るはず。
> 文化財保護開始以前の開発。
いつの開発?ていうか、「もう壊されて今はありません。でも都がありました」という論理が通用したら、何でもあり、だよねw根拠ありません、って言うに等しい。
>
> >祇園山古墳は三角縁がかつて出土した可能性が高く
> 祇園山古墳から後漢鏡が出土しています。
半円方形帯神獣鏡のこと?あれは墳裾の甕棺。しかも半分の鏡片。甕棺だが最も新しい型式。古墳の周りから出る二重口縁壺や精製土器が布留1平行なのと同時期。
三角縁は高良大社所蔵で、盗掘されていた祇園山古墳石棺出土と伝えられている。土器の時期と矛盾しない。
>
> >土器は布留1式平行だよ。古く見ても3世紀末
> 4世紀以降と見られる箱式石棺もある。
> 6世紀のものと思われる墓もある。
だったらなおさら周りの墓は「殉葬百人」と無関係。
> なお九州の土器形式年代観は異なる様ですので、この点については深追いしません。
多くの共伴関係に基づいた畿内と九州の平行関係を無視して、同一様式の土器について畿内より九州が古いとかいう議論はやめてくれw
C14年代も都合のいい資料だけつまみ食いはしないように
>295
それ、7世紀後半以降の筑後国府の街区の名残ですから。時代が合わないですね。筑後国府初期の遺構の土器は、678年の筑後大地震の痕跡との関係からも時代が確定しています。九州王朝説が根拠としている「曲水の亭」遺構も7世紀末から8世紀前半です。筑後国府の遺構です。
316 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 15:51:01
>>313 帥升の倭面土は、邪馬台に繋がるのじゃなかろうか。
当時の倭人の発した言葉が、一方で倭面土と表記され、一方で邪馬台と
なるのは許容範囲だと思う。
そう考えることで、倭人伝の記述も理解できるというもの。
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、
名曰卑彌呼
(その国もとまた男子を以って王と為す。住すること7、80年、倭国乱れ
相攻伐すること歴年、すなわち一女子を共に立て王と為す。名を卑弥呼という)
帥升の存在が大陸に知られるのは、西暦107年の朝貢なので年代も合う。
317 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 16:47:31
帥升王=スサノオウ・・・伝承化
318 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 17:11:43
最新情報
11月28日、九州の甘木で150m扱の円墳が発見される。
畿内説一辺倒だった考古学会が激震。
この報を受け、安本教授は邪馬台国論争再燃の可能性を示唆。
劇的な逆転が起きる!
319 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 17:15:37
>>318 kwsk とか書きそうになったけど、デマは止せよ。
320 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 17:20:43
この古墳は安本教授により「おっぱい山古墳」と名付けられた。
321 :
サガミハラハラ:2009/11/28(土) 17:36:48
なんでそんな大きなもの今まで発見されなかったの?
322 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 18:57:05
九州説は目と心が不自由だから。
323 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 19:13:57
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
324 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 20:56:44
325 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 21:18:31
受けたよ。痛快だ。
もっとおもろい事いえよ。
甘木の円墳からの出土品のC14測定といこうよ。
326 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 22:49:51
>>322 もう、こんな形でしか反論できないというw
惨めだねぇ。
327 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 08:14:26
いやいや、九州の甘木で親魏倭王の金印が見付かったそうだ。
川べりで掘削中のユンボが掘り当てたとの事。
昨日の150m級の円墳の発見に続き、考古学界にさらなる激震。ダメ押しに近い。
九州説がほぼ確実の情勢。
慎重な言い回しに終始していた安本教授が、
ようやく安本説に基いた具体的なコメントを始める。
畿内説の学者はショックを隠せない模様!
328 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 08:29:25
後は八女市付近で大規模な建物跡が見つかればいいのだけれど、
あの辺りはあまり開発などしないから、工事中に偶然発見されるのを待つのは、砂漠でダイヤを拾うようなものだ。
いつの間にかネタスレと化しているなw
330 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 09:01:16
九州説に鞍替えする考古学者急増!
甘木ショック以降、考古学会は揺れに揺れる状況。
いつの間にか白日夢スレに・・・・
哀れすぎる
332 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 10:02:01
やすもとさんあさからごくろうさまです。
他のスレで、確か魏志倭人伝を距離も方角も変えずによめば鹿児島だってレスがあったと思うけど、
誰か詳細知る人いる?
334 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 11:12:05
335 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 11:13:36
畿内説の急先鋒と知られる白石太一郎氏が、
「金印が甘木で見付かった以上、最早、仕方のない事、何もいうべき事はない」
とコメント。他の言説も歯切れが悪く、詰め掛けた報道陣に終始落胆の表情をみせる。
安本美典が邪馬台国論争を制した形に。
地元福岡では多くのマスコミでこの事件が取り上げられる。
梓書院発行の次号『季刊邪馬台国』の売り上げは10万部を超える見通し。
336 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 11:24:28
>>335 ソースプリーズ。
でなきゃまずいだろ、実名出してないこと書いたら。
337 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 11:25:38
>地元福岡では多くのマスコミでこの事件が取り上げられる。
わろた。金印がでたら福岡のマスコミどこの騒ぎじゃないよ。
338 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 12:11:26
>>335 何これ、まーた畿内厨の隠蔽工作かよ!本当に畿内厨って、ゴッドハンドや隠蔽が好きだよな〜
339 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 12:18:14
ここは畿内説撃沈スレだよ。
九州説全員集合!
340 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/29(日) 12:28:26
>>316 >帥升の倭面土は、邪馬台に繋がるのじゃなかろうか。
直接的には繋がりません。
倭奴國から帥升の倭面土國に政権交代があった。
漢も新政権をしぶしぶ認めたから、倭國王帥升としながら安帝は帥升への請見を拒否した。
ここで倭國は倭奴國から倭面土國に換わったのです。
倭面土國の本拠地はどこか?
倭面土國は倭米多國(倭目達國)で、吉野ヶ里にその城郭があったのです。
(倭面土國は後世の筑紫米多國)
帥升は有明海沿い地から福岡平野の倭奴國を玄界灘に追い落としたのです。
2世紀には倭國の乱があり、倭面土國は其の勢力を低下させました。
その基盤のある佐賀平野は奴國に侵略され、
その城郭のある吉野ヶ里は不彌國に譲らなければならなくなり、
倭面土國は、その城郭を吉野ヶ里の西方7kmの惣座(佐賀市大和)に遷都したのである。
それでも半島へのルートは末盧國経由で確保し(倭面土國直轄地故官がいない)、
その統治検察組織一大率をも曲りなりに維持していた。
だからこそ魏使は倭面土國の都である総座を「伊都(倭都)國」としたのである。
新興邪馬壹國は、女王國国内国である奴國を伊都國の監視に、不彌國を軍事的要衝に置き、
倭全体の統治には伊都國の作った一大率組織を利用した。
341 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/29(日) 12:36:39
>>315 反論を書くには、バカらしくて面倒だ。
曲水の宴を催す場所は都。
国府で曲水の宴をするのかね?
そんな例があるなら教えてね。
342 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 13:03:29
九州八女で大物建物跡を発見!
未だ丘の斜面での掘削途中なのではっきりしていないが、
先頃発見された巻向の大物建物跡を凌ぐ規模である事は確実視されている。
再び、九州説を補強する材料になりそうだ。
343 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 13:04:45
こういう姑息な手法しか使えないってのがもうね
学問を馬鹿にしている輩自信がが不信感を煽っていると気がつかないんだよね
345 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 13:20:04
ニュース板も隠蔽や嘘が乱発、その大半が畿内論者つーから、ホンマは必死なんやね。
>>333 確か、投馬国→邪馬台国の「水行十日、陸行一月」が「水行十日、または陸行一月」ならば、
不弥国→投馬国の「水行二十日」は「水行二十日、または陸行ゼロ日」だから、
陸上で南に隣接していて、なおかつ水行するのに20日かかる場所、てことで、
投馬国は吉野ヶ里に比定されるんだとか。
(卑弥呼の使いが帯方郡から洛陽までの2400kmに6ヶ月かけていて、水行二十日は260kmになるらしい)
で、そこから「水行十日、陸行一月」ってことは、吉野ヶ里の南130km地点が邪馬台国だから、
ちょうど鹿児島と熊本との県境近くになるらしい。
近畿説の俺がいうのもなんだが、支離滅裂な北九州説よりは、こっちのほうがまだまともだと思う。
ただ難点は、そこに7万余戸の人口が収まるのか、という点と、果たしてどれだけの遺跡がそこにあるのか、という点だろう。
>>346 つまり不弥国で水行と陸行の2班に分かれて邪馬台国に向かい、両方ともちょうど1ヶ月で到着、現地で合流したわけか。
めちゃくちゃスッキリするなw
348 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 14:00:42
三種の神器の一つ天叢雲剣とは、須佐之男命が出雲国で倒した八岐大蛇の尾から出てきた太刀とされているが、
この鉄の剣、実はダマスカス鋼を使用した剣だったと考えられます。だからさびない、他国の鉄器の剣のように折れたりしない。
つまり神剣だったのです。
349 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 14:11:24
九州博多〜熊本方面だとすごい狭い世界だけでやってたことになるけど、
東の海とは瀬戸内海のことになるわけ?それならそんなとこまでどうやって
知ったんだと疑問になるわけだが。
350 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 14:16:59
>>347 そんなこと今時小学生でも言わないから
忘れて良いよ。
351 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 14:27:59
>>340 倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見
この文章から、拒否されたというのは読み取れないと思うけど。
生口160人を献上し、それをもらったというのなら、もう受け入れたと解釈
すべきだと思う。
帥升に関して最も重要なのは、中国の書物に倭国王というのが始めて登場
したということ。卑弥呼の倭王と地位的に同じだと思う。
いわゆる倭の五王についても、倭国王と倭王が共に使われている。
倭人伝には、
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王
名曰卑彌呼
と書かれている。
倭国の乱の7,80年前に男王がいた。一般的に言われているように大乱の時期を
西暦180年頃とすると、帥升の朝貢した安帝永初元年(西暦107年)が
よく当てはまる。
つまり、帥升の系統の上に卑弥呼がいる。大乱も倭国王の地位をめぐる争いと
考えれば一女子が共立される意味もある。
卑弥呼の死後、少女の台与が王になった経緯と一致するから。
そういう理由で、倭面土国と邪馬台国の同一性の可能性は高い。
倭奴国は、帥升に滅ぼされた国ではないかと思う。
後漢の皇帝から金印をもらった倭奴国を滅ぼしたのも、帥升が後漢に朝貢した
理由の一つではないかと。
352 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 14:56:22
其国本亦以男子為王住七八十年なら一世紀後半から二世紀半前半までに
この男王が即位した事になるよね。
353 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 15:17:23
世は今や、九州説一色。
354 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 15:18:21
355 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 15:23:12
アンチ九州は去れ!
騒音だ、不愉快だ。
356 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 15:43:05
二世紀までの倭国王は九州北部の勢力に決まってる。
金印でてるし、井原鑓溝、平原遺跡の出土物は近畿とは比べもの
にならん。よって帥升は北部九州に存在したことになる。
井原鑓溝、平原から出てくる方格規矩鏡は陰陽思想を表現した鏡で
骨占とはちがう卑弥呼の使った鬼道につながるぞ。
また、半島までの航海ノウハウと制海権を握っていたのは、福岡県
糟屋郡新宮町から志賀島あたりを拠点とした安曇連だとおもわれ
その安曇連を九州から遠い近畿の勢力が制御していたとは考えられん
が本当のところどうでしょう?
357 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 15:49:42
358 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 15:51:35
>半島までの航海ノウハウと制海権を握っていた
安曇族は対外交易というより国内での地盤ではないか。九州から諏訪湖の安曇野に勢力を送り込んだなど。
むしろ北部九州で半島までの航海ノウハウと制海権を握っていたといえば宗像族だろう。
中世まで対外交渉をしている様子が海外の記録に多く残っている。
また魏と交易のあった倭人の鯨面文身の風俗も宗像海人のそれであることは金関丈夫が指摘している。
>>340 だから吉野ヶ里の近くに目達原って地名が残ってるのでしょうね。
360 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 15:55:33
九州説は不滅です。
邪馬台国は甘木です。
361 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 15:55:59
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
362 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 15:58:38
甘木って朝倉市だよね、卑弥呼の湯ってのがあるけど、邪馬台国が奈良で確定したら、いい笑いもんだよね。
363 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 16:01:02
>>361 毎回毎回コピペを貼り続けるお前が爆笑だよ(笑)何を伝えたいんだよ、自分の言葉で話してみろよ(笑)
364 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 16:03:36
宗像族が三世紀までの倭国を代表する海人族だというけど
それにしては宗像周辺の弥生時代の遺跡がすくなすぎるぞ、
奴山は五世紀ころだし、これについてはどうよ。
伊都では貨泉なんかもでてるしその当時の港市だった可能性が大きい
糸島半島から志賀島は目と鼻の先。
365 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 16:05:50
月(九州説)とスッポン(畿内説)
366 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 16:10:30
367 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 16:21:16
ここは九州説オナニー会場か。
ニュー速に邪馬台国のスレが立ってたけど、案の定、畿内説がボコボコにされてて笑った
九州説の人はよく勉強してると思ったな
畿内説の人はもっと勉強したほうがいいと思うね
369 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 16:26:01
九州説バンザイ!!
370 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 16:30:32
だから、ぜんぜん出てないとは言ってない少ないと言ってるんだけど。
第一、鏡すら一面もでてないじゃないかここんとこどうよ。
371 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 16:34:40
>>362 その心配はいらんとよ。
なぜなら、そう簡単に確定的な場所なんて見つからんからな。
372 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 16:37:07
>>362 だいたい纏向なんてたいしたもん出とらん。
年代測定だって完璧じゃないんだぜ。
373 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 16:41:30
>>370 鏡なら沖ノ島で何十枚も出ているがそれがなにか?
374 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 16:43:25
>>368 畿内論者は嘘つきが多いから信用が出来ない、その点、九州論者は筋が通っている、そこは認めよう。
だが、卑弥呼は奈良が頂く。
375 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 16:46:20
>>352 即位したというよりも、支配したという言葉の方が当てはまるかも。
帥升は、生口160人を献上したとある。
当時の人口からすれば、とんでもない数の人間を献上したことになる。
普通の状態で、自分の国の人間を無駄にすることは出来ないから、戦争に
よって得たものだと考えられる。
帥升は、多くの国を武力で支配した王ではなかろうか。
だから、倭国王とも言われると思う。
>>356 邪馬台国が1世紀の終わりかあるいは2世紀初頭に誕生したとすれば、
畿内説はありえない。
でも、邪馬台国はもっと南の可能性もあると思う。
376 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 16:50:52
沖の島は四世紀以降でしょう。
四世紀以降に近畿の軍門に取り入って独自の航海ルートを築いたのが
宗像族だという認識なんだけど、このこと自体が三世紀は伊都国周辺
が当時の倭国の主体に近いという証明の一つにならんかなどやろ。
377 :
ローガン:2009/11/29(日) 16:59:33
>>341 >曲水の宴を催す場所は都。国府で曲水の宴をするのかね? そんな例があるなら教えてね。
横から失礼。大江匡房。
378 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:00:30
>>376 >四世紀以降に近畿の軍門に取り入って独自の航海ルートを築いた
よくわからないがこの文章だと近畿が玄界灘を3世紀あるいはそれ以前から掌握していたというのかね?
だったら邪馬台国は大和では?
379 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:07:45
>>376 安曇は綿津見の後裔だろう。綿津見の海人は家船で生活しているスタイルだった。
宗像の海人は潜水型で、鯨面文身もそうだし海に潜ってハマグリを捉えというスタイルとも合致している。
また伊都国・末露国を糸島郡ではなく宗像に比定する説もある。
381 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:16:24
そうじゃなくてさ、三世紀までは安曇連を統べた伊都国周辺が倭国の主体
だった当然玄界灘を掌握していたのは安曇連、が、四世紀以降倭国を統一した
近畿の勢力は半島までの独自のルートを持ってなくて宗像族をとりこんだというのが私の解釈ですけど先生。
382 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:23:05
>>381 宗像海人は宗像だけではない。住吉神社の系列も宗像系海人族だという人類学者もいる。対馬にもいた。
住吉は博多湾岸に本拠があるから、領域として博多以西が安曇、古賀付近以東が宗像のなわばりともいえない。
383 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:26:53
久留米はあやしいよ。祇園山古墳は高速道で削られてるし、近くには
曲水の宴をやってた高良川、斎宮から続くと思われる味水神社、巨大な国府
建造物あとなんてのもある。もちろん時代考察がバラバラですが。
だいたい久留米という地名の意味をだれかおしえてくれないか。
邪馬台国と同じくらい意味不明。
千歳川沿いに高崎山のさるもおこしになるくらいだから
それくらいの範囲に邪馬台国があったのでは。
英彦山とかほんと怪しいかんじがする。どうですか九州説のかた。
どなたかえらいひと教えて。
384 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:30:05
鯨面文身は宗像族だけの専売特許じゃありません、伊都からも顔に刺青
をした人物を描いた木製遺物がでとります、又潜水型の海人は遠距離
航海に向いてなかったんじゃないかと心配しとりました。
>341
曲水の宴、とされる遺構は九州王朝説自身が九州王朝が滅んだとする7世紀末以降だよ
曲水の宴をするような苑池遺構自体、畿内飛鳥のがより古く大きく、たくさんある
国府で中央の都を模倣した儀礼などをしたという説明で何の問題もない
386 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:35:16
>>384 鯨面は顔だよ。
文身は身体へのいれずみ。
この文身は安曇族の風習としては、金関が指摘するとおり確認されていないね。
387 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:38:18
うーん、そちらの方はあまり知りませんけど、住吉ってたしか筒を祭った
神ですよね、筒は対馬、一支、にありますよね、その昔、伊都にも
筒があったらしいです、しかもそれが地図上に一直線に交わるらしいですよ先生。
388 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:39:34
甘木は神功由来の地だからな、
神功が結構古い人なので比較的
近畿とも繋がりあったと思われる。
羽白熊鷹征伐だね。
389 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:41:37
曲水の宴など、後代だが藤原氏などで私的に行われていたと推測される遺構や文献はいくつもある。
こんなものを王都の証などというのは、古田の歴史センスがいかによくないかを端的に示すものでし
かない。
390 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:44:03
九州説、
盛り上がれ。
391 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:46:44
最強九州説の方
名乗り出て下さい。
392 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:47:18
畿内説だが九州で有力な場所っていったら
宇佐ぐらいじゃね?
宇佐でもかなり無理があるけどな。
他は歴史考察がむちゃくちゃデタラメ。
393 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:47:19
金関さんが確認されていないだけで、魏志倭人伝にはこうあります。
諸国文身各異、或左或右、或大或小尊卑有差と
諸国という以上宗像族だけに限定されないと思いますよ。
394 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:48:28
>>387 一直線だったら宗像のほうが有名。
沖津宮・中津宮・辺津宮は一直線だし、それどころか、天孫降臨地であるくしふる岳に比定されている六ガ岳、さらには
玄界灘とその真逆の位置にあるクジ山(韓国版天孫降臨神話の里)とも一直線になっているというものすごいものだ。
395 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:49:18
>>393 だから住吉もそうだといっているじゃん。
396 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:51:15
諸国文身各異、つまり地域ごとに異なるイレズミをしていたということ。ちなみに宗像は胸部のイレズミ
をしていたと推定される。(冗談)
398 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:58:24
>>396 宗像は胸だけかどうかは知らんが胸の刺青もあったでしょう。
文身だけでは狭く絞り込めないね。潜水型漁業の記述で判断するほうが妥当でしょう。
399 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:00:56
ラピュタ風にいえば、
英彦山、雲海→ラピュタ
谷→筑豊
ひこう石→金、銀、銅特に水銀
王族→海人族、天皇家、古代の王族
海→有明海
少なくとも占いで水銀でも飲んでたら、骨は溶けますね。
確実に。英彦山は現在でも各諸国(地域)から寄付?がありそうですが、
そんな感じで国を祭り上げていたのかも。
しかも祭ってあるのは一応女神だし。昔は女人禁制。
中国につながりがあって、占いとか長寿にこだわるんだったら
水銀は外せません。丹生という地名は大分や糸島に多いはず。九州では。
その点が奈良では???。和歌山だったらわかりますけど。
文身は何を使って描いたんでしょうかね。えらいひとだったら水銀だったん
ではとも思いますが。
400 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:03:18
そう言うことかも知れんですね、だから宗像族は4世紀以降に近畿勢力
に加担した海人族だということが証明されたようなもんです。
天孫降臨伝説なんて各地にありますからね記紀以降の伝承を取り入れてる
ところが何とも乙ですな。
>>399 何言ってるの?奈良の水銀は宇陀。
それも巻向のすぐ近所なんだが。
402 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:09:37
>>400 いやいや話を意図的に曲げては小学生に笑われるぞ。
安曇族は潜水型漁業ではないから倭人の主流とは認識されていなかったということ。
よって糸島近辺が倭国の中心としても安曇族は中国から見て認識すらされていなかった人々と思われる。
403 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:12:42
最強九州説は河童説だろう。
俺も知らなかったけれども、世には言意学?というものがあるそうだ。
そして、現国語教育は間違いだらけ。公に出回っている辞書の方が間違っている。
とにかくも、河童が正しい!
日本は国語改革をしなくてはならない!
正しい言意を理解すれば、邪馬台国はいとも容易く解明する。
甘木の追加続報はないのか?
405 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:14:32
>>401 失礼いたしました。
でもこの時代はとくに水銀が重宝されていたとは思いませんか?
水銀の歴史を追えば、何かわからないかと思いレスしました。
406 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:16:51
甘木に期待すんなよ、掘る金なんかないだろう
407 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:16:57
また邪馬台国のトップが卑弥呼・台与という女性であることからみて倭国が女性中心社会であったことが
考えられる。南方系の海人の血を引いている宗像系海人族(宗像氏だけではない。
住吉や対馬など九州北岸全域に広がっていた)も女性尊重の傾向があり事実宗像の三女神を斎き祭っている。
>>405 水銀を重視するなら、畿内説のほうがやはり有利だと思います。
現在弥生時代に採掘跡が確認できるのは、
紀伊半島と徳島だけですからね。
409 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:20:36
畿内説はモモソ姫に賭けてんだよ、ここを崩さない限り、墓を特定できていない九州派には勝ち目がないのだ
410 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:21:54
411 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:26:52
それこそ論理の飛躍かも、潜水型漁法は末濾國のところにも記述されてますからね
むしろそれが中国の目から見てめずらしかったというだけでしょう
漁法は航海法とはことなりますからね、むしろ、南北に市てきの方が
説得力がないですか?安曇連との関連する記述はありませんが、それは別に
記述するまでもなかったということです、むしろ志賀島に昭和初期(4年)
ころまで営まれていた持衰によくにた葬送儀式に注目しています。
412 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:30:44
魏志倭人伝では対馬国が四方に四百里だったっけ?
では、残り1500里なら畿内って事になるのか?
413 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:30:55
ああ、オナニーは気持ちいいなあ。
414 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:31:09
ダイヤモンドや金を重視するなら、日本は南アフリカにある事になる。
鉄ならオーストラリアだし、リチウムなら中国にある事になる
415 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:34:54
>甘木の追加続報はないのか?
安本教授は得意の絶頂らしい。氏に溜り続けた鬱憤が、前日の甘木ショックで一気に晴れたのだから。
今や各報道番組に招かれ、九州説勝利宣言をしている。飛ぶ鳥を落とす勢いだ。
数日前からすれば、全くにあり得なかった事だ。
世の中何が起こるかわからない。
416 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:39:38
417 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:42:48
>>415 畿内と騒いでいた奴らの戦犯処理しようぜ
A級は勿論、BC級も容赦なく。
418 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:43:58
>>408 遺跡の確認となると九州はそんなに発掘がさかんではないですもんね。
これからに期待したいです。
しかし、水銀鉱脈となるとそのライン上にはなりませんか?
時代は違いますが、空海の足跡はあやしいですよね。
それだけ高貴な場所には違いないと思います。
>>414 中国の紫禁城は丹で賄いきれないから、ブタの生き血で城壁等々を塗った
とのことですが、邪馬台国の時代ならそれくらい神聖な意味合いがある鉱石
ということを指したつもりです。量の多さを競っているわけではありません。
もっともこの時代にこうした国でこれらの鉱石を重要視していたかどうかですが、
現代でも日本はこうした鉱石のあるところに進出してますよね。
(中国もですが)
419 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:45:09
420 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:47:01
>>411 記述するまでもないから書かないと、知らないから書かないとの混同はいけないのう。
なにをそんなにあせっているのかわからんが、持衰によくにた葬送儀式ってなんだ?
航海がうまくいかなければ人を殺したのか?
安曇族が女性神を祭っていたのか?
421 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:48:17
甘木・・・なんにもない。
422 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:49:26
甘木うんこ
423 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:51:41
それと末盧國のみに潜水漁業が書いてあるなどという虚偽だか無知だかわからんけどやめようや、同士よ。
別に末盧國のところじゃない記述もあるだろ、「今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う」と。
424 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:51:51
425 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:56:00
426 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 19:03:02
>>418 空海の足跡が怪しいなんて言い出したら、徳川埋蔵金のパターンだぞ
プロデュースするには面白そうだが、飽くまでもエンターテイメントの域だ。
427 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 19:04:33
>>424 こ、これは、、、マキムクのゴッドハンドじゃねーかよ、こんちきしょう
428 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 19:06:35
>>425 お、おまえ、ま、まさか、、知らないのか?あそこは日本一ケチな県だぞ
429 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 19:07:08
畿内説が九州説になりすましてる模様。
楽しそう!!!
430 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 19:10:42
甘木は野菜が豊富なんだぞ、魏志倭人伝にも書いてあるだろうがwww
431 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 19:11:33
>>426 危うく糸井重里になるところでしたか。
川口探検隊と言われなかっただけよかったです。
埋蔵金というより、採掘場もないようなところで国の営みがあると
いわれてもそれは太古からあり得ない話だなと理解しているだけです。
CMプランナーではありません。あしからず。
432 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 19:14:22
>>426 危く糸井重里になるところでしたか。
川口探検隊と言われなかっただけよかった。
水銀を重宝していないようなところに都といわれても?
と思っているだけです。
433 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 19:16:13
434 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 19:24:29
>>433 やっぱり甘木でも発掘が進んでたんだな。
おかしいと思ったんだよ。
435 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 19:28:08
>>433 見た感じ邪馬台国ってよりも、新しい感じがするね、甘木はないわ。
436 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 19:30:34
>>433の遺跡は邪馬台国の時代のものだと、安本先生も説明してるでしょ?
オマイラ・・・・・・
438 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 19:36:32
439 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 19:48:43
亀田は負けるwww
亀田勝ったがw
441 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 22:03:58
亀田の勝ちに行った試合。
計算ずくしのせこい闘い方だった。
相手を殴り倒す気は全く無かった。
結局、相手にポイントを与えない構えを続けた事が決め手となった。
442 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 22:07:36
ポイントを確実に稼いでくる亀田の闘い方に
チャンピョンは冷静さを失っていた。
東九州道の建設で遺跡が続々と発掘されて宮崎にかなりの人口がいた可能性が出てきました。
444 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 22:21:50
>>439 はい、はずれ。残念だったな、畿内説派さん(笑)
445 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 22:46:13
>>443 古代の九州では、熊本と宮崎が一番の人口の多い地域だろう。
安本氏も、なんかそんなようなことを書いていた記憶がある。
なのに、甘木というのが面白いが。
というか、いまさら、甘木から離れられないだろうな。
447 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 23:22:42
>>401 奈良って言っても
もともと鉱脈を掘ってた血筋と
大和朝廷の血筋は別ものって理解してる?
完全にネタスレ化しておりますw
449 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 00:47:10
安本説なんて崩壊してるだろ、
あのでっち上げめ
450 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 01:17:46
地名は奈良の官吏が太宰府に赴任した時につけたのかね。
オオナムチ神社っていう地元では全く無名な奴も
奈良の官吏がもってきたんだろうな。。
でも高島さんは職業でやってるから憎めなくない?
彼自分で絶滅危惧種ゆってるしw
吉野ヶ里を運輸省(だったかな?とにかく文部じゃない)に嘘八百並べて
国立公園にしちゃった責任もあるしね。
国司が赴任してまず最初にする事、それは国幣社への参拝だ
現地の神様に挨拶するのが最初の仕事なわけで、
その意味は国司が一歩引き現地の神を立てるという事だ
神を持って行ったりはしない
というか、神って、氏族神なわけで、他人が祭る義理はないし、勝手に祭る訳にも行かない
国司が現地の神を祭るというのは、つまり元々その土地を支配していた氏族に成り代わって祭るという事だ
これは朝廷による祭祀権の継承を意味する
だから、その地に元々いる神を祭るのに意味があるんであって、他所から新たに持ち込んだりしないよ
また、神社が移転したり、勧請されて各地に広がるという現象があるが、
それは、それを祭る氏族が移住または拡散したという事を表している事に他ならない
454 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 02:29:26
>>453 全国に同じ名前の神社が山のようにあるが。
455 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 02:43:23
456 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 02:48:28
>すくなくとも「東遷説」は完全死亡だな。
そりゃ普通考えればね。
高島さんて常識人だと思う。
高島さんもむしろ畿内説の暴走を止める逆の意味の
畿内説の支援者のように思えてきた。
458 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 03:02:20
東遷説さえ唱えなければ、九州に邪馬台国があっても別にかまわないんだけどね。
同時期の大和に大和王権が生まれたってだけで。
459 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 03:07:21
邪馬台国九州説かつ東遷説が
一番の異端で。
邪馬台国九州説と畿内説は共存できる可能性があるってこった。
東遷は中央史観と言ってるがその通りだと思う。
>>458 つまり九州王朝説なら別にかまわないってことか。
461 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 03:14:04
久留米大善寺の鬼を退治した時にはまだ九州中部は
大和に完全に統一されてなかったと
考えられる。
463 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 07:51:03
先日の甘木ショックの波紋が予想以上に広がっている。
各大学内で、畿内説捏造批判が起こり、責任論が浮上!
最近見られた巻向遺跡での行き過ぎた報道にも批判の目が。
世論に抗する術はなく、畿内派の大学教授は、
あいついて教授職辞職の意向を示している。
464 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 08:06:42
>>443 掘ってた連中は代わらないよ。支配層がAからBに代わるだけ。
結局大和朝廷内での内部抗争だろう。
俺は魏へ使者を送ったのは九州で、その後大和勢力の支配下になったと考えてるが、
そういう九州畿内共存説って、考古学や文献から証明できるんだろうか?
九州王朝説が一番信憑性高そう。
熊襲に滅ぼされた九州王朝の生き残り一族が畿内に亡命して、畿内の
有力大王と血縁関係を結んで九州を奪還したんじゃないだろうか。
【日本国家成立史】
@神武朝(神話)
A崇神朝(ヤマトマキムク)
B応神仁徳朝(筑紫朝)
C顕宗仁賢朝(播磨朝)
D継体欽明朝(越近江朝)
【天智天武】律令体制
【文武聖武】平城京
【桓武】平安京
〜【幕府体制】〜
【明治大正昭和】近代化
■■■■■■■■■
【*】連合体としてのヤマトマキムク王権
【*】筑紫朝による畿内王権の制圧
【*】筑紫朝断絶により播磨朝で連合体を調整
【*】磐井と継体が応神の子孫を名乗って権力戦争
【*】継体の勝利、しかし畿内豪族のクーデターにより「欽明朝」が成立!
>>470 出雲勢力が抜けてるのがね。
歴史から消されてるのは多分この系統だと思うけど。
>>471 国譲りとあの出雲大社の高さ・御神体の位置を、どう理解するかが鍵だと思っている。銅鐸と銅剣の出土の割合も!
473 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 14:42:51
出雲というものについて、誤解が多いので整理しておく。
まず、今の島根県にある出雲大社は近代になるまで杵築大社だった、
出雲大神宮といえば、丹波の出雲大神宮のこと。
大国主も、丹波から杵築大社に移されたものだ。
つまり、大国主というのは、島根県のカミではなく、丹波を含む近畿一帯のカミであり、
それが近畿から追い出されて、出雲や諏訪に散らばったのだ。
これが国譲り神話の実態。国譲りは近畿が舞台だった。
大国主の後に近畿を支配したのがニギハヤヒだ。
ニギハヤヒの後に、神武が東征してきて、国を譲ることになる。
大和では、何回も王権の交代があった。1度や2度ではなく、それこそ数百回もあっただろう。
大きな変化は、銅鐸のマツリと終焉だが、それが神話上の何を意味するかは論じられない。
記紀神話にも銅鐸が出てこないからだ。
474 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 14:54:38
邪馬台国説の評価
畿内説 20点
九州説放射状説 30点
古田筑紫説 60点
476 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 15:34:15
古田筑紫説 60点
って何???
そんなもん、もう駄目だよ。
邪馬台国は大和朝廷につながる政権。
古田なんぞ、俺が相手する以前に、畿内説の猛攻に堪えられなくなって撃沈だろうなぁ……。
論外!
477 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 15:41:01
古田はいらない。
九州説は安本が中心だ。
古田紙学が60点もある訳ねーだろw
マイナスだよ、マイナス。
479 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 16:43:56
480 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 17:22:40
>>479 >銅鐸が記紀に全く登場しないのは、記紀の舞台が銅鐸の文化圏(宗教的な意味)
>ではないからだろう。
無意味な論考。
記紀が書かれた時代に、銅鐸の記憶がなければ記述しようがない。
記紀に巨大銅矛を祀ってた記述があるのか?
481 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 17:42:33
出雲国一宮が熊野大社(スサノヲ)てのはどんな意味があるんだろう?
大国主伝説以前から出雲勢力が存在した証明?
483 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 18:40:10
484 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 18:46:56
>>482 大国主の前にスサノオがいたんだから、当然だろう。
出雲勢力とか、安易に使うな。
現・島根の古代の勢力がスサノオを祭っていた。
現・近畿の古代の勢力が大国主を祭っていた。
近畿にニギハヤヒが降臨して、大国主を祭っていた勢力が、島根と諏訪の東西に霧散したんだよ。
スサノオの娘に婿入りしたのが大国主だ。
最初、スサノオは大国主を拒んだが、大国主はスサノオを屈服させた、というのが神話。
485 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 18:49:54
出雲勢力などというと、神武以前ということで、
大国主とニギハヤヒを混同する輩が出てくる。
島根の勢力が近畿を支配していたのでも無い。
近畿に勢力を持っていた大国主を祭る集団がいたということだ。
後に、島根においやられて、島根のスサノオと合祀されるようになったということ。
大国主を祭る集団が、葦原中国を作ったってこと?
それが別の集団に追いやられて全国へ散った、と。
その一部が島根方面へ、、、
じゃあ大和と島根方面はその当時仲が悪かった?
そもそも葦原中国ってどこなんだろ?
大和地方でいいの?
?ばっかでスマン
487 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 20:34:03
近畿に大国主がいたころ、
島根のスサノオと仲が悪かったというような考古学上の証拠はないですね。
ただ、四隅突出型墳墓は、島根にはあっても畿内には無い。
スサノオの娘を大国主が娶るのに苦労したことや、
大国主が他のカミにいじめられて紀伊に逃げたとか、
仲がよかったという伝承もありません。
>454
大事なのは元々祭っていた神
後の勧請または合祀の結果、主祭神が変わってしまっている神社もある
東遷があるとすれば、かつて原田大六が主張した2世紀後半だろうな。
それも苦しいが、安本などのように3世紀後半に固執するよりはまだマシ。
>>489 お前は人の考えを比較評価出来るほど優秀なのか?
二人よりも考え方が勝っているとでもいうのか?
記紀が大和政権の歴史書で、山陰地方制圧の歴史が大国主物語であるなら、
九州制圧の歴史はどの物語なんだろうな
東征の物語を逆回し??
492 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 21:32:41
>>491 >九州制圧の歴史
葛城の高天原から日向に天孫降臨してるじゃない?
493 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 21:33:34
問題は方向ですよ。
東征とはっきり言っているくせに、伊都国の南というのはやめてほしいものです。
494 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 21:34:31
495 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 21:43:26
496 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 21:44:56
天孫降臨が九州制圧の物語なら、南部九州と大和地方が繋がってて
やっぱり北部九州は大和地方とは一線を画してた?
497 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 21:57:37
>>480 記紀には、剣も矛も鏡も登場する。しかし、銅鐸は出てこない。
倭人伝にも矛は登場する。しかし、銅鐸は出てこない。
「兵用矛、楯、木弓」
兵は、矛、楯、木弓を用いる。
498 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 22:39:46
>>497 スサノオも大国主も銅鐸をどうしたとか書いてない。
君の論法なら、スサノオも大国主も銅鐸消滅以後ってことだな?
もちろん、そんなバカなことはないわけで、
銅鐸の記述のあるなしは、なんの根拠にもならない。
499 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 23:20:34
500 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 23:21:35
九州説は宗教だな。
501 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 23:29:54
>>500 毎回そればかりですね。ボキャブラ少なすぎます。
明日からは違った台詞で登場してください。
503 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 23:31:25
東遷ではなく東征とも違う、二都並立というのが最もふさわしい言いかたかな。
九州説は2つに分けると東遷説と九州王朝説らしいが、俺みたいに
邪馬台国は九州にあったが、その後すぐに畿内の王朝(三輪王朝?)に吸収された
という説は何説に分類されるんだ?
九州から一歩も動いてないなら東遷説ではないし、邪馬台国が九州王朝になり、
倭の5王も九州にいたなんてことは思わないし。
505 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 23:38:26
506 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 23:57:54
このころ都が畿内にあったとして、その後なぜ大宰府などを
はるばる九州に作らないといけなかったのか?
戦と考えたら、なおさら不自然。
そんな前線基地にわざわざ遷都しないと思うんだけど。
危機的状況にあった朝鮮半島から多くの倭人や貴族が避難して、
より安全で平和に暮らせそうな奈良の地に都をこしらえたと
考えたほうがすっきりしそうだが。
507 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 00:07:35
東遷説は、有力な説で、多くの人に支持されている。
例えば、和辻哲郎はこう言っている。
栄えていた邪馬台国が征服されたような伝説は存在せず、邪馬台国の名は
突如として消え、代わりに大和朝廷が全国統一の勢力を急に拡大する。
ヤマトという名称は九州に起源を持ち、国家を統一した勢力は九州の
邪馬台国から来た事を窺わせる。弥生時代の、近畿圏での祭祀に用いられた
と思われる銅鐸は、大和朝廷成立後我が国の歴史に一切現れず、代わって
九州地方の祭器・神器であった銅矛・銅剣・銅斧などが神話に登場している。
剣は、天皇家の三種の神器の一つにまでなっている。もし天皇家が近畿圏で
発生し、邪馬台国から大和朝廷へ発展したのならどうして銅鐸の記憶が
人々の頭から消えてしまったのか。
邪馬台国が九州から来て大和朝廷を樹立し日本を統一した、と考えるのが
妥当である。
508 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 00:12:47
朝倉宮や平家の西国逃避行など朝廷を新たに建てる時に
向かうところが、江戸時代を除けば京都、奈良以外でなぜか九州
過去に本当に朝廷につながるような国あるいは都市国家なりが、
あって、宇佐の道教の話や道真公の遠流にしても九州でわざわざ
という印象があるね。畿内が邪馬台国の頃、東国と交易があるとは
思うけど、それが支配を意味するとは限らないのでは。
その点は九州と並列では。ただし、九州が東国を支配したとは思いません
が。ただ方言は意外と九州の一部の地域と沖縄、東北あたりは近いもの
があるね。
509 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 00:23:51
>>507 でももしそうだったら九州では多数ある三種の神器を一箇所に集めた遺跡が畿内にはないのか?
また日本書紀の本文に三種の神器が出現しないのか?
なぜ卑弥呼・台与が記紀に出てこないのか?
俺も邪馬台国は九州で、畿内と並立してた説だが、
山陰地方勢力の話とかを考えると倭国大乱を経て
各地方で小国が結集していった時期なのかな、と思う
最終的に前方後円墳が各地へ拡がる時期頃に畿内勢力によるゆるやかな統一が進んだかと。
九州は婚姻のような平和的征圧をされたので、三種神器が皇室にもたらされたのかも。
511 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 00:39:15
>>509 卑弥呼と台与というのは、中国の書物に出てくる名前だから、それが記紀に
そのまま出てくることはないんじゃないかな。
でも、違う名前で出てくる可能性はある。
東遷説では、天照大神という人が多い。
512 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 00:41:09
513 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 00:43:04
>511
帯方郡の下級官吏には韓人を使っていたと思う
その官吏が倭人の発音を吏読字(の原型?)で筆記したのが「卑弥呼」や「邪馬台国」や「台与」
倭人の言葉→漢人の聞き取った音または意味→吏読字(の原型?)で筆記→魏の官吏が公文書で使用
515 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 00:56:39
>>513 高島忠平さんは、もともと東遷説じゃなかった。
それにしても、「東遷説」は中央史観から逆算された説、というのは
どうもわかりにくい。
>>510 そう考えればぴったりなんだよな
九州が畿内の勢力に吸収されたというより、畿内の連合国家に平和的に加わったと
考えたら征服された後がなくても説明がつく。まあ今で言う国連加入みたいなものかなと。
517 :
514:2009/12/01(火) 00:57:25
誤記
× 漢人
○ 韓人
518 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 01:01:44
>>514 それに、卑弥呼に相当する人物が、日本でどういう風に伝わっていたかも
謎かな。多分、表記はなかったろうから「音」で伝わっていたとは思うが。
519 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 01:03:14
邪馬台国の沖縄説は九州説の一種?
後の世の大和政権も、外交を行うには九州が最適、という事で大宰府を設けた訳で。
3世紀から畿内〜大陸への外交ルートが確立していたのであれば、300年程後世、大宰府に「遠の朝廷」と言われる程の権力は与えないのでは。
九州が古来外交上の先進・独立地域だったからこそ、その権限を畿内で掌握すべく那津宮家や大宰府が出来たのかと。
521 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 02:03:45
>>520 ”遠”であっても朝廷ですからね。
もし、3世紀以降ずっと畿内に天皇家が脈々と続いていたなら、
朝廷なんて呼ばせないですよね。こんな地域は古今東西あれど似たような
ところといったら、自分はバチカン市国ぐらいしか思い当たりません。
やはりそれくらい外交と祭りごとに関しては重要だったということでしょう。
外交を強調しても畿内が中心なら、舞鶴あたりに大きな外交施設置くほうが
よほど便利だし、アピールもできるものですが。
邪馬台国もバチカン市国みたいなものと考えたくなりますが。
522 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 02:33:56
なぜか現代でも隼人の血を引くものが宮城をお守りしていますが、
バチカン市国でいうとこのスイス兵に何となく似てますよね。
邪馬台国のころには戦を交えたりはしたものの、その武勇を知るだけに
その後併合か和睦かわかりませんが、かつて争った側の人々が逆に
傭兵として重用されていても不思議ではないですよね。
その名残では?
邪馬台国のころから国境警備の意味合いで北部九州に前線基地があると考えても
合点はいくんですが、そんな重要な地にすぐ警備できたであろう隼人族がその後
さらに海外からの侵略を念頭に置かないといけない時期ですら、宮城警備について
いたのか不思議ですね。
523 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 06:13:01
>>477 その通り。
いずれ真実は安本先生が暴いてくれるたい。
524 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 06:19:07
>512
それがどうした。
今でも輝いているではないか。
>>507 実に説得力がある。
525 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 07:22:39
ヤマトというのは山の門、つまり山の入り口という意味で、水の門、つまり海の入り口がミナト(港)。
ヤマトは奈良地方に限定された地名ではないと思う。ちなみに私は機内説ですが・・。
>525
どう考えても、山のとって奈良の地形な気がするが
527 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 07:59:17
>>526 明らかに九州じゃん、隠蔽すんなよ、バカ
>521
遠の朝廷(とおのみかど)って、陸奥の守もそう称して民政に当たっていたが
辺境領の総督って感じの意味合いがある?
>>525 208 名前: 指錠(dion軍)[sage] 投稿日:2009/11/30(月) 17:47:37.84 ID:Ky4LBBDE
>203
めんどくせぇ。。。
日本風土記 大和〈野馬多(ヤマト)
★野馬多
和名類聚抄 大和〈於保 夜萬止〉
★夜萬止
『日本書紀』巻一第四段本文
及至産時。先以淡路洲爲胞。意所不快。故名之曰淡路洲。廼生大日本日本。
此云耶麻騰。下皆效此。豐秋津洲。次生伊豫二名洲。次生筑紫洲。次雙生億岐
洲與佐度洲。世人或有雙生者象此也。次生越洲。次生大洲。次生吉備子洲。由
是始起大八洲國之號焉。即對馬嶋。壹岐嶋。及處々小嶋。
(国生み神話 日本これを耶麻騰と読む。九州は筑紫洲)
★耶麻騰
日本書紀巻第一 神代上
大己貴神曰。唯然。廼知汝是吾之幸魂奇魂。今欲何處住耶對曰。
吾欲住於日本國之三諸山。故即營宮彼處使就而居。此大三輪之神也
★耶對(大国主が)大和三山がある耶對の三輪山に住みたい)
日本書紀』巻三神武天皇即位前紀戊午年
時弟猾又奏曰。倭國磯城邑有磯城八十梟帥。又高尾張邑或本云。葛城邑也。有赤銅八十梟帥。
(倭國の磯城邑、磯城の八十梟帥有り。又、高尾張邑 【或本云 葛城邑也】赤銅の八十梟帥有す。)
★倭國
古事記〈中景行)
夜麻登波 久爾能麻本呂婆
多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流
夜麻登志宇流波斯
★夜麻登
言語学的には耶馬台のトはト乙類=大和の読みは全てト乙類
山門は日本書紀の山門県(やまとのあがた)として出てくるが、あがたとは大和につかえる
西国の1国の単位。たくさんある。さらに山門のtoは甲類to のちに律令では筑後の国の一郡に。
つまり山門はありえない。
>>521 畿内って意味分かってる?
王城の周辺地域に設定された特別の行政範囲。畿内制は中国の『周礼(しゅらい)』にみえ、
古代の北魏(ほくぎ)や東魏などで採用され、日本でもこれに倣って設定された。大化改新
の詔(みことのり)(646)では、東は名墾(なばり)の横河(よこかわ)、南は紀伊(き)の兄山
(せのやま)、西は赤石(あかし)の櫛淵(くしふち)、北は近江(おうみ)の狭狭波(ささなみ)の
合坂山(おうさかやま)に画された範囲を畿内国(うちつくに)としている。692年(持統天皇6)
には大倭(やまと)(大和)、河内(かわち)、摂津(せっつ)、山背(やましろ)(山城)の4か国を
「四畿内」とし、河内に設置された和泉監(いずみのげん)がいったん廃止ののち757
(天平宝字1)に和泉国となってからは五畿内となった。畿内制が実質的に成立したとみられる7
世紀後半の天武(てんむ)朝では、畿内は畿外から軍事的に防衛され、官人を任用する地域
であった。大宝令(たいほうりょう)でも畿内では調(ちょう)の半分と庸(よう)が免除されており、
天皇側近の地として優遇されていた。
日本の畿内システムは北魏が洛陽に遷都する前の平城が都であったころのシステム
を採用している。名前を平城(なら)とあらためたのもそれをならったもの。もちろん早々の建てたものとは
違うが、魏と北魏の間は130年しかない。
よくわからんが、畿内って言葉が使われ始めたのが大化改新からって事でしょ?
北魏時代からはじまった畿内制度を7世紀に取り入れた事と邪馬台国がどう関係あるんだ?。
532 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 14:12:33
>>531 畿内という言葉には、都というような意味もあるらしいから、古代の都である
邪馬台国はここに決まっている、というような先入観を与えるために
使われているんじゃないかとも言われる。
でも、いつしか陳腐になってしまい、単なる地名としか考えていない人が
多いのだろうが。
533 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 15:20:04
>>503 >東遷ではなく東征とも違う、二都並立というのが最もふさわしい言いかたかな。
九州の本体ではなく、神武一族の東征だね。並立といえるのは、力をつけてきた崇神の頃からだな。
534 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 15:28:20
535 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 16:16:36
>>531 そりゃあんたはよくわかってないだろうな。
九州王朝なんて教科書にない名前でいうからヘンに聞こえるのでは?
倭国vs日本国とすれば教科書どおりの名称だしわかりやすい。
537 :
のんびりひまじん:2009/12/01(火) 23:37:46
>>530 その詔は
九州年号の大化年間(695〜)に、九州王朝の天子を藤原京に迎えつつ実権を掌握した
近畿王朝のほうが出した詔を大化という年号付きで50年ズラして日本書紀に記載したものです。
つまり藤原京中心の畿内範囲の設定です。
ちなみに、森公章博士が不思議がっているように近江京遷都のときには畿内の設定が
書かれていません。
九州王朝説者たちの中で、近江京遷都は九州の天子が太宰府から遷都してきたことを
捻じ曲げて日本書紀に記載しているという説明が有力化しつつあります。
つまり九州王朝(倭国)VS近畿王朝(日本国)と単純に敵対していたのでなくて、
二つの王朝の合体化が進行していた。(ついでに毛人国も少しずつ参加しつつあった。)
〜これ以上は九州王朝スレにしよう
538 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 00:09:43
福岡県甘木に違いない。
539 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 00:53:44
いまだに東遷説を信じてるバカがいたとは。
540 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 01:49:00
そうだそうだ!!
神武東征を認めたら戦前に逆戻りですぐに戦争が起きるぞ!!
神武東征を否定するためなら歴史的事実なんかクソ食らえだ!!!
>>534 1世紀前だとなんなの?
たとえば、ルクソールが古代エジプトの都テーベだったなんてのは
4000年以上前から言われているけど?
古い話だと信憑性がなくなるのか?
542 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 20:46:57
神武の東征は紀元前660年ですよね?
邪馬台国の時代と同時代に畿内にも大きな国があったことを示す遺跡が発見されようですね。
倭の五王のの時代以前にも、日本には複数の国が並立していたことを証明する重要な発見です。
発見された方に、おめでとうと言いたい。
544 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 21:27:59
神武天皇の東征は紀元前660年という事になっています。
1世紀とか2世紀とかというのは、その人の解釈であって正式な記録に基ずく算定結果ではありません。
信じる、信じないは別問題であり、ここでは触れません。
545 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 23:59:12
皇室はけっこう宮崎に愛着を持っていると思う。
昭和天皇は、よく宮崎に来ていた。
今の皇太子も綾とかに行っていたらしい。雅子妃が、私も綾川のなんてろに
行っていたことがあり、縁を感じるとか言っていたから。
546 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 00:23:38
卑弥呼は鏡を使っていた。朱色の社に住まい、朱で化粧を施した。
鬼道を使い、人身を惑わしていた。赤い色した液体の水銀を
飲むか体に塗るくらいのことは日常的にやっていたと考えたい。
後の世の空海などはその水銀で財を成したといっても言い過ぎでは
ないように思います。その鉱脈は阿蘇ー九重に始まり、四国の山中、
そして高野山へと続きます。お遍路さんもその道程にあるわけで。
つまり水銀を重用していた。邪馬台国では水銀ほど重要視されたものは
ないのでは、金メッキも青銅も、いずれもアマルガムは欠かせません。
もっとも卑弥呼自身が水銀でやんでいたから、山の奥で匿われて
極端に秀でた霊力が示せても、実務能力に乏しいため、弟君が代行した
とも考えられませんか。少なくとも人身は惑いそうですね。
547 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 12:21:21
>>537 >九州王朝説者たちの中で、近江京遷都は九州の天子が太宰府から遷都してきたことを
>捻じ曲げて日本書紀に記載しているという説明が有力化しつつあります。
もし、そうだとすると旧唐書で
其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉 のように、
ほんまかいな と疑われるのも、おかしな話だと思いますが。
548 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 20:35:18
.>九州王朝説者たちの中で、近江京遷都は九州の天子が太宰府から遷都してきたことを
捻じ曲げて日本書紀に記載しているという説明が有力化しつつあります。
これはつまり、
○○教の中で、教祖は実は大日如来の生まれ変わりであるとする説明が有力化しつつあります。
のようなもんだろ。おー怖。
549 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 22:12:57
近江の王とは、淡海の王。
邪馬台国は徳島県にあったことが、また裏付けられました。
550 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 23:57:43
宇土黒門のピンク石は不知火海からはるばる近畿の墓のためだけに
輸送されているのだが、なんでピンクなんでしょうね。
しかももっと近場でよさそうですが。難儀ですね。
551 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 00:20:53
552 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 00:36:24
>>551 おっしゃる通り。
ちなみに成分は磁鉄鉱ですが、この時代に丹と酸化鉄の
違いがそこまでわからなかったのでは。
つまりこの地方の水銀もしくは朱色の鉱石がそれだけ重要だった。
少なくとも霊的には。ちょっと熊本との北県境には玖珠地方なんてのも
ありますよね。おうへんをとったら意味深ですね。
とりあえず、資料に書かれていることすべてが真実だと仮定して矛盾が出なければ、それでいいんじゃないかと思う。
邪馬台国畿内説は、神宮皇后・百襲媛いずれに比定するにしても、日本書紀に書かれている年代が誤りであると考えなければ時代が合わない。
九州説の中でも、東遷説をとるならやはり日本書紀の年代が誤りでなければ年代が合わない。
しかし、九州王朝説なら日本書紀と無関係だから、そういう問題は出てこない。
魏志倭人伝の記述についても全部正しいと仮定してみる。
不弥国までは問題ない。ここから投馬国は南にあって、水行20日。陸行について何も書かれてないからゼロ日と考えると吉野ヶ里で決まり。
そこから水行なら10日、陸行なら1月の位置が邪馬台国。南九州だと考えれば、魏志倭人伝の記述のどこもいじらずに邪馬台国まで比定できたことになる。
てことで、邪馬台国は鹿児島にあった独自王朝だと思う。
邪馬台国は魏に生口を10人献上したと記されている。倭国王帥升が160人の生口を献上したことと比べていかにも少ないのは、やはり邪馬台国が、鹿児島の小さな地方政権だったことによるのではないか。
554 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 02:01:53
邪馬台国では鬼道を使い、中国から丹を輸入してたわけだから
道教の影響はあると思う。
その上で玖珠地方を中心にその周辺の地名を勘案すると
北に天ケ瀬、天道、大行事、寿命、出雲云々
西に千歳川(今では筑後川という)、星野村、日田
などなんとなく風水を匂わす地名が多いことと関連性はないかな。
ちなみに卑弥呼という名称もそのままの解釈でよさそうに思う。
つまり弟が日中政務をつかさどり、夜も夜更けになっても眠らない
女王が金縛りや呻きを継続しながら、ずっと鏡の前でわめいていたこと
をいい表していると考え見てもいいのでは。
また北部九州は江戸時代ぐらいまでは結構河川や有明海を通じた運搬
が盛んだったことは以外に知られていない。宅急便ではないので
水行10日は距離にして短いと思います。乗り継ぎもしたでしょうから。
伊都国にはそれなりの街があって、そこからの移動になり、しかも陸行
できるということがポイントでは。電気も車もなく、馬すら怪しい当時に
移動できる距離は短いのでは。ましてや九州の山地となると大変ですよね。
555 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 02:50:36
中国から丹を輸入?
奈良から丹が取れますが?
556 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 09:25:18
その山に丹があるんだから紀伊半島だろ、この時代は。
巻向なんてまさに水銀鉱山の麓にあるからな。
558 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 00:26:05
伊都国や邪馬台国の”輸出入品”に丹があげられています。
御指摘のようになぜ輸入しているのか?です。取れるのにですよ。
金印と同様、権威付けや霊力が重宝されているのでは。
また九州でも水銀鉱床が豊富なことも意外と知られていない。
またこうした地域では横穴が豊富にあるのだが、なんのためのものか
わからないまま物置になっていたりする。少なくとも長い歴史の間
存在し続けており、一部は墓ということになっている。
そうしたところから金属類が発掘なんてこともある。
事実として畿内より保全と発掘がかなり九州ではぜい弱ですね。
また、畿内がどういう意味かは理解できますが、なぜ九州という地名が
成立するのか全く不明です(ちなみに九州には9つも州はありません)。
>>558 @筑前、A筑後、B肥前、C肥後、D豊前、E豊後、F日向、G薩摩、H大隅
560 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 00:43:02
魏志倭人伝の記載の限り、壱岐・対馬の内容は方角、距離含め
かなり正確です。それなのに邪馬台国の方角だけ”おもいっきり”
間違えるとは考えにくいですよね。南ですよ。また後の遣唐使などを考える
と坊津に寄港することが無駄にも思えますが、もともと有明海の海運は
すごいものがありますよ。
南に投馬国と唐突に出てきて、狗奴国と争いがあったとありますが、これらは
すべて邪馬台国の南なのでは。また狗奴国とはずっと反目してたとも
書いていないわけで、一時期の争いごとでは。つまり邪馬台国のころや
その後はむしろ同盟関係にあったのでは。また九州でも特に球磨地方
は村単位的な生活単位であり、地域連合的な色彩が薄く、その点でも狗奴国
の特徴に他の地域よりも近いと思います。投馬と邪馬台はむしろ親国関係
にあり、寄港地としても成立していた。しかし有明海の地勢上球磨地方の
権力者がその地を抑えようとしたと考えれば、争う理由にもなると思い
ます。伊都国からの道程として伊都国から御笠川ー宝満川ー千歳川ー有明海ー
天草ー薩摩川内とかんがえれば舟での移動ならこの当時水行20日は
実際かかると思いますよ。ちなみに壱岐・対馬間ならフェリーで2,3
時間ですが。ましてや狗奴国の領域を避けての航行となると天草地方で
寄港しながらということもかんがえられませんか。そうしたことから邪馬台国
は玖珠地方近隣と推定するほうが、すっきりします。四国のお遍路さん
では1カ月程度は移動にかかると思いますが、伊都国から畿内だと
それよりはるかに遠いですよね。また遠方にも国々があるという記載も
それは当時の畿内も含めた有力国を指しているとも思いますが。
561 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 00:44:39
>>558 それは後の世の話。九州という名称はその前から使用されているのでは。
>>558 それは国であって、州ではない。
州の数となると、1.筑州 2.肥州 3.豊州 4.薩州 5.隅州 6.向州 の6つになると思う。
564 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 01:11:32
筑前・筑後とか、前・後が付く国って、律令制の成立の後くらいに2国に分かたれたものだよ
当初より人口と生産力が増えた国は、行政区分の均一化の為か2国に分けられている
九州では北部に多い
566 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 01:21:35
狗奴国と邪馬台国の関係は
九州の2つの高千穂で説明できそうにも思っています。
”高千穂”とは文字通りとれば、穂のような形をした高い峰と思います。
そんな山は意外と少ないですが、不思議と英彦山はつくしんぼの様な峰です。
その英彦山から延岡の上の高千穂までが本来の邪馬台国の地で、後の世に
狗奴国にその高千穂の地を移殖したのが、霧島・球磨地方ということでは。
川や山の関係も似てますよ。ちなみに近畿の地名と先の北部九州の高千穂周辺
の地名は似てますよ(三重、九重、熊野、那智等々)
567 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 01:31:51
>>565 九州の国の”前後”は千歳川〜英彦山のラインを境に成立しています。
でも今でも地域的にはむしろ分かれている方が不自然な感じです。
具体的には荒尾市や日田市を福岡と間違えている方が今でもいます。
中国にも「九州」と言う言葉はあるが、「九国」という言葉もある。
戦国時代の列国の意味だったり、皇帝配下の領域を示すものであったり、
それぞれいろいろな事象に使われ言葉であるが、どちらの言葉も使われていたようだ。
日本でも同じ、西海道諸国を称して9国2島とか、9州2島などと表現し同じ意味で使われている。
文献で遡れる「九州」は室町幕府が設置した「九州探題」が最古。
残念ながらいつ頃から西海道を「九州」と呼ぶようになったかは分からない。
>>567 国を2国に分けるのは、全国的に行われた事だから
不自然なラインと言っても、人口とか生産力が同じくらいになる様に、真っ二つに分けただけだろうし
>>568 文治元年(1185)十一月二日に後白河法皇は、義経に「九国地頭」、行家に「四国地頭」の職をあたえている。
当然、この頃は九州は9箇国からなっていたので、自然な呼び方だろう
九州って、9国になってからの呼び名で、そう古い呼称ではないと思うが
>558-559,561
「九州」という名称自体は漢書地理志などに見られる古称から盗用したものでは?
原義では「中国全土」のような意味だった模様だが、漢代には既に中国全土の範囲が「九州」より多い13州に広がっていた。
日本列島内において「九州」なる地名が見られる最古の事例は室町時代なんじゃないか?
「畿内」という呼称も中国で古くから使われた言葉の援用だろう。
「京畿を含む首都圏」のような意味だったはずだ。
日本列島内で「畿内」の語が使われた最古の例は、おそらく律令の導入時期だろう。
いずれの語句も、邪馬台国時代の地名ではないと思う。
国が前後に分けられてても、たとえば上野(上州)と下野(野州)のように、州としても別の呼び名にしている場合もある。
でも九州の場合、州としてみると前後の区別はなくなってしまうので、やはり州の数は6つだというべきだろう。
それを六州や九国ではなく九州と呼んだのはかなり無理な呼び方。これはやはり、古代中国の「九州」の語になぞらえたんだと思う。
>>571 > 国が前後に分けられてても、たとえば上野(上州)と下野(野州)のように、州としても別の呼び名にしている場合もある。
> でも九州の場合、州としてみると前後の区別はなくなってしまうので、やはり州の数は6つだというべきだろう。
> それを六州や九国ではなく九州と呼んだのはかなり無理な呼び方。これはやはり、古代中国の「九州」の語になぞらえたんだと思う。
最初の一行目で自爆してるぞ。
武蔵国は武州だし、甲斐国は甲州、相模国は相州、キミの例示によっても「国」と「州」は対応する。
自分で「州」と「国」を同義に扱っておいて、何故そういう結論になるのw
筑前、筑後とかは適当な略し方が無かったからそう呼ばれなかっただけで、制度的には他国とかわらない一国だよ。
あと、別々の略称で呼ばれなかったのは九州だけでは無い。
吉備にも越にも総にも略称は無いだろう。
つーか、上州・野州の言分けが例外なだけでしょう。
>>572 「対応」って言葉の意味を知らずに書いちゃったのかw
「同義」ではないからこそ対応関係が問題になるんだがな。
古田信者には何を言っても無駄だな。
よってこの項終了。
575 :
九州王朝応援歌:2009/12/06(日) 10:57:43
月が 出た出た 月が 出た
九州王朝の 上に出た ヨイヨイ
あんまり 古田さんが 偉いので
さぞや 畿内説は 煙たかろ サノヨイヨイ
576 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 11:16:45
自分の無知による偏見を延々と書き連ねる
間違いを指摘されても理解できない
コミュニケーション能力が低い
こんな感じ
無知なるが故に古田の霊感商法みたいなものに引っかかるんだよな。
578 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 11:23:55
会の中で、王朝に関するちょっとした発見(こじつけ)とかあれば、もてはやされて集団内での地位が
高まる。新興宗教と同じ構図。
新発見は簡単だからな。
一つの思いつきに対して99の矛盾が生じても全て大和朝廷による改竄とかで済ませられるから。
580 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 12:12:06
>間違いを指摘
人に間違いを指摘できるほどあなたは完璧なんですか?あなたの質問は間違っていませんか?
間違いを指摘した事に関する答を、あなたは用意出来ていますか?
用意した答に関して、どのような質問が反ってきても、あなたはきちんと説明出来る準備をしていますか?
581 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 12:26:01
九州王朝ー王朝の逸年号が○○に記されているのを発見しました。 おおーつ。
新興宗教ー瞑想によってチャクラのステージが一段階あがりました。 おおーつ。
582 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 14:05:57
583 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 15:17:04
>>580 キミの知識が拙過ぎるだけだろ。
既に批判のコメントと再反論できないだけの「正解」が詰め込まれている。
それを読み取れない以上議論の相手にはならない。
どうせ最後は、そう言う情緒的反応しか出来ないわけだろう。
九州はもと4地域で構成されており、
飛鳥時代末くらいまでに以下の様に分割されて9国になった
筑紫→筑前、筑後
豊→豊前、豊後
肥→肥前、肥後
日向→日向、大隅、薩摩
>584 追記
国郡制が敷かれて国司が天下るまでは、地元の有力者(おそらく古代でいう所の王)を国造に任命していた
各国の分布から、弥生時代のクニの分布を推し量れないかな
筑紫:筑志国造
豊:豊国造、宇佐国造、国前国造、比多国造
肥:筑志米多国造、末羅国造、葛津立国造、松津国造、阿蘇国造、葦分国造、天草国造、火国造
日向:日向国造、大隈国造、薩摩国造
>>585 恐らく、もっとたくさんの国に分かれていたはずだよ。
筑紫には少なくとも伊都国、奴国、不弥国があったはずだからね。
587 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 23:56:38
魏志倭人伝を読む限りにおいて伊都国では邪馬台国成立前に
代々王があり、倭国の管理を行っているとある。その倭国で戦があり、
最終的に邪馬台国が束ねたとの内容。畿内説をとれば、なおさらだが
前提として九州伊都の地に先代、倭国を統治した王がいたこと自体、
認めざるおえないのでは。伊都国までの場所ははっきりと比定されて
いるのだから。
588 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 00:03:00
対馬以南で日本列島に入る場合、壱岐を海を渡って経由する場合
少なくとも日がどちらから上るかぐらいは古代人であれば、
認識できます。確実に体感的にも南は南。それから、九州の地は南に向かって
開けており、それ以外の方角への移動は結構難儀。
また仮に邪馬台国を畿内と設定しても壱岐や伊都からどのルートで移動したか
ですが、まさか関門海峡を経由してとか考えているとしたら、結構現実的で
ないことは昨今の海難事故を見れば、周知のことと思います。
地元のひとでもあそこを通過するのは勇気が必要です。地図上だけでは
わかりません。
ここはカスしかいないな・・・
590 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 00:04:55
伊都国の比定地については、現代前原説多久説小城説佐賀説があるようでまだかたまっていないとおもわれますが?
591 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 00:14:59
>>586 延喜式などに出てくる郡だったら、九州に全部で100くらいある。
例えば、筑前だったら、怡土郡 志摩郡 早良郡 那珂郡 席田郡 糟屋郡 宗像郡
遠賀郡 鞍手郡 嘉麻郡 穗浪郡 夜須郡 下座郡 上座郡 御笠郡
筑後は、御原郡 生葉郡 竹野郡 山本郡 御井郡 三瀦郡 上妻郡 下妻郡
山門郡 三毛郡
今でも、けっこう残っているのがすごい。
特に、筑後の地名はやっぱりちょっと気になるかなあ。
592 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 00:17:46
「人口から読む日本の歴史」の鬼頭宏氏によれば弥生時代の
日本の人口は約60万人、奈良時代で約450万人だったらしい。
九州説のように魏志倭人伝に出てくるほぼすべての国が九州にあるとしたら
最低でも100万人程度の人口が九州に存在したことになる。
従って、卑弥呼の時代にこれだけの人が九州にいたとは考えにくい。
593 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 00:39:11
>>590 失礼。伊都国が九州にあるという意味です。
>>586 >>もっとたくさんの国に分かれていた
突っ込み過ぎかもしれんが、「分かれていた」という表現は、
モザイクタイルの様に隙間なく小国が連なっていたような印象に伝わる
私は、小国はもっとまばらに斑紋の様に分布していたイメージで捉えている
吉野ヶ里のようなコロニー都市は、環濠集落を中心核として、その周りに田畑、
さらにその周りに山菜や薪を取りに入る共同入会地、その外は未開の森か山だったと思っているから
奈良時代の郷の分布も、まばらだった
595 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 09:31:15
>>592が述べる、最低100万人と言う数字には
なんら意味を持たない。
倭人伝に人口が刻まれているわけでもなく
ただ戸や家から想像したに過ぎないものだから
書かれていないものを想像しても、そこからは何も生まれない。
まだこの世に生まれもいない子供の将来を語っているようなものだ
597 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 12:09:44
>>595 お前が言っているのは単なる屁理屈だろう。
100万人の根拠は魏志倭人伝の戸数と
当時の家族構成で計算したものだからな。
ちゃんと根拠はあるんだよ。
598 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 12:38:18
>>597 当時の家族構成って、何夢みたいな事
語ってんだよ。
顔洗ってこいよう
599 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 13:01:13
>>598 お前九州論者なのか?
反論したければ否定する根拠を出せよ。
単に他人を中傷するだけならバカでもできるからな。
それとも暇だから相手になってほしいのか?
600 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 13:27:46
>>599 王朝史書に、「戸」と書かれていれば
人口云々ではなく
〇〇戸為里とあるように、その国のシステムや規模を単位で把握するものだろう?
ん!違うか?
何処に〇〇人為戸や、それに結び付く換算表が出ていると言うんだね?
601 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 13:49:03
具体的に言えば
奴国二万戸は、百戸為里の場合
二百里であら、王朝制度で言う長官にあたる身分の者を二百人確認出来れば
二万戸という記載が出来るのよ
こんな当たり前の事で、一々根拠だなんて提示できるかよ。たくー
602 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 13:50:37
六尺為歩
603 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 14:00:27
604 :
九州説の王:2009/12/07(月) 15:00:43
私は九州説の王。倭国の比定地は北部九州をのぞく九州全土である。当時の九州は大陸文化を吸収
した先進地であり倭国そのものである。この他の四国、本州は未開地であり、土人居住地であり、生口
の入手先であり植民地、被支配地、蹂躙地であったことはいうまでもない。当時はそれでも倭種の国と
は呼ばれていた。九州の人口?300万くらいだろうな。都である邪馬台国に、7万戸×10人で、70万人
程度。各平野部に20万から30万人。これで300万の数値は軽くクリアできるだろう。
こういえば根拠を出せとか言い出す、うざい蚊のような低脳がいるが、そんなものは全く必要ない。馬鹿が!
馬鹿が!馬鹿がっ!!!くだらない西洋論理学にかぶれた馬鹿が!!空にお天道様があることに、証明
するための論拠が必要か?九州に邪馬台国があったことは少しでも頭のよいものなら、自明として瞬時に
把握せねばならんのだ。この下民どもが!!
また、倭人伝は一字一句にいたるまですべからく正しく、陳寿が心血を注いで書いた精緻な歴史書だ。そ
してこれを素直に読めば、倭国の中心地は熊本になる。まあ、細部についてはおいおいレクチュアーして
やろう。あとは考古学はすべて間違っており、畿内説の全ては捏造である。信じてはならない。九州は偉大
なり。.I got it !
縄文人参上か?ヤレヤレ
606 :
九州説の王:2009/12/07(月) 15:39:35
>>605 What do you say? 縄文人は畏友であり偉大な論客だがもちろん別人だ。彼の論はおおむね正しい
のだが、遠慮がちな性格のためか数字を内輪、内輪にみつもる習性があるようだ。縄文人説では九州の
弥生末人口100万。しかしありえん!!!300万だ。当時は、本州四国で合わせて40万程度かな。鉄器
がどうのとか言う前に、人口で九州は本州を圧しておったのだよ。戦いにはなるまい、ああ。
何から話そうか。まず、倭人伝にある伊都国に留まる一大率というのは、むろん九州内での異端分子、北部
九州の古い王達を監視するための、女王卑弥呼直属の機関だ。伊都国・奴国は対馬海流を利用して、山陰
勢力と結ぼうとする動きがあったため、懲罰を受け常に監視される体制におかれていたのだ。当時の倭国中心
部である熊本から見れば、貿易港ではあっても辺境の地、伊都国以外には卑奴母離(夷守)の官が置かれ厳し
く支配された。
>>606縄文人。直ぐ反応するなよ!わかりやすい奴やなぁ
>何から話そうかな
話さなくていいから、巣に帰れよ。
608 :
九州説の王:2009/12/07(月) 16:18:37
>>607 Shurrup! Go back home. little boy.
私は縄文人ではないといっておるだろうが。このようなことを信用できないのであれば、掲示板から去る
ことだな。私は王であり大元帥、縄文人はせいぜいいって佐官程度の存在だ。器が違う、器量が違うのだ
よこの低脳!!
九州以外の人口40万というのは、むろん調査された数値ではなく、鬼頭宏氏による弥生時代の人口推計
に基づく。これは、鬼頭氏が弥生時代部分を国立民族学博物館の小山修三氏に依頼して作成されたもの
で、当時の遺跡分布数に基づいて試算されたものだ。私の分析によればこの、本州・四国部分はそれなり
に正確であるのだが、吉野ヶ里以前の推計であり九州の遺跡数をあまりに低く見積もりすぎている。九州の
中部、南部の現時点での遺跡を総点検し、再計算したところによる人口はおよそ300万である。これは人口
増加率として他の時代と比べて不自然に高いが、大量の渡来人が流入したと考えれば全く不思議でjはない。
九州の先進性は、この渡来人達によっても支えられていたのだよ。
609 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 16:23:27
>>604 マキムクが発見されているのに本州が未開の地はないだろう。
610 :
九州説の王:2009/12/07(月) 16:32:53
>>609 だから、馬鹿だといっておるのだ。纏向で大陸との通交を表す遺物の何が出ておるのだ??瓦質系土器の
かけらか????この低脳。お前こそ低脳人というコテ名でも名乗るがよい。まあ、纏向の技術は、古墳
にしても、木加工にしても大陸の技術を必要としない稚拙なもの。人海戦術でできるものばかりだ。
なんなら、纏向の大陸交流を示す遺物をあげてみるがよい。
612 :
九州説の王:2009/12/07(月) 16:47:28
>>611 あほうが。私は引退者であり働く必要のない身分だ。高等遊民といわれる存在といってよい。
上記の、纏向jから出土した瓦質土器片は布留0式平行に位置づけられるが、この土器の胎土分析の
結果は、国内に類例のない成分組成であった。そもそも瓦質土器は、この時期の倭国では作られてお
らず大陸性と判断されたが、、三韓式でも楽浪式でもない。まして、洛陽でもない。
おそらく私の判断では高句麗式。畿内説が、纏向の大陸系遺物として持ち出すこれでさえ、魏とは何の
かかわりもないものであるのだ。
どうかな、私は考古学は少しはわかる。畿内説考古学はほとんどデタラメというか、文部科学省指揮下
の捏造であるのだが、敵を知る必要があるからの。
614 :
九州説の王:2009/12/07(月) 16:51:14
>>613 wwww74歳に働けというのか?億単位の資産もあるのに。
>>614 なんだボケ老人がネットにへばりついて妄想言ってるのか。
それなら仕方ないな。
その資産でいい病院にいくといいよ。
616 :
九州説の王:2009/12/07(月) 17:03:06
>>615 アホウが。レス内容に対して反論しろよ。知識がなくてできないならひっこっでな。Little boy,
wwwwww
その資産で掘れよ
618 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 17:20:30
>>616 ではレス内容に私が反論します。
あなたの書かれた数字には、想像あるいは推測と言う二文字しか浮かび上がらない事は事実ですよね?
>>618 やめやめ。これたぶんある畿内説のコテがふざけてやってるんだと思うよ。
どうみても縄文人じゃんw
622 :
九州説の王:2009/12/07(月) 19:41:04
くかかか。
>>618 もちろん推測だ。では聞くが、畿内説で推測以外の証拠が何かあるのか?今回出た建物跡から「ここ
が邪馬台国です。」など書かれた看板でも出たというのか??畿内説急先鋒とでもいうべき白石でも
「状況証拠しかないが」という言葉を吐いておったぞ。推測を述べてはならんというなら、このスレはコピ
ペだらけになってしまうだろうが、ああ。
>>620 畿内説?? この私がか?? 何という痴れ者だ。おのれのようなやつは塩の柱にでもなるがよいわ。
>>621 縄文人ではない。彼とは罵倒のセンスが違うし、考古学も含めた広範囲な学問の知識が違いすぎる。
何度もいうが、私は王、王なのだよ。縄文人は宮廷道化師がせいぜいのところだろう。wwwww
>>622 邪馬台国煎餅に卑弥呼サブレ。箸墓饅頭
魏鏡スッラップに邪馬台国と書かれたキティーシャーペン&ボールペン
まだまだ物的証拠はあるぞ
624 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 19:51:44
>>622 いいからもう2chに貼り付いてないで外いけよ。
家庭内だけで王のように振舞う一人っ子ニートかおまえは。
626 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 20:26:37
能書きはいいから掘れよ
論より証拠
627 :
九州説の王:2009/12/07(月) 20:27:48
>>624 くかかか、真実を語るのはそれは楽しい。上レスで考古学はすべて信用がならんと書いたがこれは
少し言い過ぎだったようだ。信用できないのは、邪馬台国にかかわる考古学であって、それ以外には
良質な研究も多い。
例えば、対馬、壱岐、北九州からは長期間にわたって楽浪土器が出土するが、弥生後期を取り上げ
れば、この3地域からは、楽浪土器の中でも特に質の高い、日用品ではない瓦質土器が出土する。こ
れはおそらく漢末、そして公孫氏時代にこれらの地域の朝貢品に対する答礼の品を入れたものであろ
うと推定できる。そして、畿内ではこの時期の楽浪土器はほぼまったくといってよいほど見られない。
畿内の弥生後期としては、三韓瓦質土器と三韓軟質土器が多いのだが、これとて数的には北部九州が
圧倒している。おそらく畿内にはおこぼれとしてまわっていったのだろう。
>>625 ここは九州説を語るスレだろう。語って何が悪い。王が気にいらんのか?ならば次からは帝と名乗ろう。
wwwwwwwww
628 :
九州説の帝z:2009/12/07(月) 20:44:36
続いて少し畿内説の否定でもしてやろうかいの。まず箸墓は卑弥呼の墓ではない。これはやはりこのスレ
でよく出てくる鐙の問題から入ろう。箸墓が布留Oであることはもはや共通認識といってよかろう。布留0の
年代観には諸説あるのだが、研究者によって幅があるのは土器片年の宿命。歴博のように誤差幅の大きい
c14などで、箸墓の年代を20年単位のピンポイントで絞り込めるなどということは絶対ありえん。それが証
拠に従来からの畿内説の考古学者で、この数字を積極的に利用しているものは少ない。これには関東ー関
西の反目もあるだろうがの。で、問題の輪鐙は周濠の堆積土から布留1の土器とともに出土したのじゃが、
調査に当たった橿原考古学研究所自体が、遺跡の擾乱ではないと認めておる。この堆積土はおよそ30年
程度分と見られており、つまり築造後30年以内に埋まったということじゃ。布留0−1の年代幅もむろん諸説
ある現状だが、30年1世代は妥当であり、研究者の多くは布留1を3世紀最末ー4世紀代にとってある現状
から照らして、箸墓の年代は3世紀半ばにかかるほど古くないことになる。
鐙の発達史にはここでは触れないが、これを4世紀初めと見ても、本邦ではオーパーツ的に古い発掘例である
のは間違いない。しかも、この鐙は使い込まれ、破損したために遺棄されたとも見られるのだ。wwwwwww
629 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 21:00:15
>>628 本スレにコピペしておきました。
ぼこぼこにやられると思う。
630 :
九州説の帝z:2009/12/07(月) 21:13:10
続いて人口問題をやろうかいのう。まあ、上レスの300万は言い過ぎかもしれんな。しかしYからの移籍で
少し驚かす必要があったからの。上記608の小山氏は近年、弥生末の人口を60万から100万オーバーに
改めたのだが、これは1980年代の推計以来、新しく発見された九州の遺跡を加味した分が大きい。
畿内説は吉野ヶ里の例を取り上げて、やれ弥生末は衰退期だとぬかしおるが、それは環濠内部が衰退して
おるだけで、人口自体は大きく増えているはずだ。これは九州に限ったことではないだろうが、九州が特に
大きいのは、やはり渡来人のことを考慮しないわけにはいかんのだ。環濠解体の要因は卑弥呼の共立によ
り戦乱が終結したからに他ならない。環濠の解体は全国規模で見られるものだが、これは先進地である九州
に倣ったものだと今は説明しておこう。実際はそう簡単な話ではないだろうがな。
で、渡来人だが弥生時代全般を含んだ人口増加率は約0.4%を越え、これは近代以前の社会でも類例を
見ない高さであり、これは内的要因によるものではなく、日本列島外からの移住によっておこったと考えるし
かないのだ。そしてこれらの人々が九州邪馬台国の牽引車となった。どうだ縄文人でないことは理解しても
らえたかな?縄文人にこの一連のレスはできん。wwwwwww
631 :
九州説の帝z:2009/12/07(月) 21:16:48
>>629 Oh, Lord have mercy, ぜんぜんかまわんよ。しかし何故ぼくちんが反論せん?
これってたぶん縦目さんの高等戦術かなんかだよ。
のぼせあがるとまずいから少しこらしめてやるか。
>>633 スルーでいこうよ。このスレが変に思われるよ。
635 :
九州説の帝z:2009/12/07(月) 21:44:38
>>632 何だその縦目というのは?全然知らん。アホか?
>>635 レス見てたら、おまえ昼の3時から今までずっと貼り付いてるんだな。
この伸びの遅い板で。ずっとF5かブラウザの更新押してるのかと思うとなんだかかわいそうになってきた。
悪いことは言わん。もうちょい2ch自重しろ。外もいいもんだぞ。
今もん太砲が、エネルギーじゅうてん120%で、ターゲットスコープの照準を合わせ
耐ショック耐閃光防御 発射10秒前だ
照準をこのスレに向け直すか?
638 :
九州説の帝z:2009/12/07(月) 21:54:23
>>636 wwww私は引退者だから、毎日12時間書き込もうと思えばできる。反論がないのは残念。www
>>638 >wwww私は引退者だから、毎日12時間書き込もうと思えばできる。
だからそこが問題だって言ってんだろww別に自慢するとこじゃねえwwwむしろ逆に考えろ
俺も早く引退して悠々自適な生活をしたい。
そしたら邪馬台国の使者の辿ったコースを追って、
成都まで行ってみたい。
そのためには、邪馬台国の位置を確定しないと。
641 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 23:42:48
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
642 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 00:25:41
>>628 あくまで推測だが、鐙はもともと乗馬が得意でなかった農耕民の漢民族が三世紀ごろ、
馬にまたがる際の足がかりとして発明したとされる。
つまり箸墓で発見されたのは、邪馬台国が漢民族と関係する集団に征服された時期の物ではないか。
それは空白の4世紀とされた時代の出来事とは考えられないか?
もっと具体的に言えば、高句麗の南下に伴って難民となった帯方郡の役人が九州に渡航
この大陸の漢民族と九州の勢力が合流し、近畿の邪馬台国を滅ぼし大和政権を誕生させた。
その輪鐙は4世紀初頭の邪馬台国滅亡時に、箸墓古墳の周濠に破損したため捨てられた。
恐らく馬に乗り完全武装した騎兵には、邪馬台国の兵士も逃げ出したのではないか?
大戦の形跡が無いのは、スペインのインカ征服のように小規模の部隊による制圧だったかもしれない。
643 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 02:58:05
俺 の カ ウ パ ー
644 :
ローガン:2009/12/08(火) 15:31:48
>>628 > 鐙の発達史にはここでは触れないが、これを4世紀初めと見ても、本邦ではオーパーツ的に古い発掘例である
湖南省長沙で出た陶器の騎馬像。永寧二年五月十日作の紀年銘を持つセンから、4世紀の頭とわかる。
故人を偲んだ像、生前をうつしたものとすれば、遅くとも3世紀末に、鐙は一般化していたと言える。
オーパーツな訳がないでしょ。
645 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 18:43:14
日本人はどうして鐙が3世紀から使われていたとか主張しないんだろう?
韓国人なら絶対に「鐙の起源は朝鮮」を主張するはずなのにな。
魏志倭人伝に日本に馬がいないと明記してあるわけだから、
日本にくる外交官は自分用の馬を連れてくるはず(鐙付き)。
外交官が自分の足でてくてく歩いてくるわけないだろうと。
646 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 19:01:43
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
648 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 00:52:09
>585-586
国造は国司の前身ではなく、むしろ郡司の前身と言うべきだろう。
ほとんどの地域では、もとの国造の勢力範囲そのままかせいぜい半減(2分割)程度で評造・郡造になってるはずだ。
649 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 01:19:13
久留米玉垂宮には鬼夜という祭りがある。4世紀ごろの土蜘蛛成敗のこと。
肥前の水上にいた土蜘蛛。この水とは丹を指していないか?実際その地域では
水銀、銀の鉱脈がある。
鉾取った、面取った、そら脱いだが祭りの掛け声である。鉾を土蜘蛛が
作っていたことの傍証では。また肥州では佐賀、天草、八代と丹は豊富。
邪馬台国の亡き100年後に成敗された土蜘蛛はその末裔とも考えられる。
これらの地域が肥州とひとくくりだったことも丹との関連から意味づけできないかな。
この辺の海辺では一昔前までは”夜に青白い光”が見られたこともあるとのこと。
電気のない時代には驚きの現象ですよね。しかし土蜘蛛はなんで手足が長かったん
ですかね。少なくとも一般的な日本人ではなさそう。
650 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 20:28:01
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
651 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 22:37:51
後の世のこととはいえ
万葉集の蜘蛛の枕詞が示す内容は
”蜘蛛”がただの卑しい存在だったのか
もっと別の意味があったのか
何かを表しているように思うが
652 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 00:14:04
>>651 昆虫のクモ
空に浮かぶクモ
その二つを眺めているとイメージ湧くよ。
653 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 00:22:06
とらえどころが無い、うざったい。
654 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/10(木) 09:45:14
>>649 >久留米玉垂宮には鬼夜という祭りがある。4世紀ごろの土蜘蛛成敗のこと。
何故4世紀頃と見做せるのですか?kwsk説明を乞う。
655 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 12:46:13
7世紀以前の日本の伝承は全部根拠が無いというわけですね。
656 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 13:40:23
久留米の玉垂宮には
鬼夜のある大善寺玉垂宮と
高良玉垂宮(高良大社)がある。
大善寺玉垂宮の由緒はすぐには見つからなかった。
高良玉垂宮の由緒はwikipediaによると
仁徳天皇55年(367年)または78年(390年)鎮座、履中天皇元年(400年)創建と伝えられる。
延喜式神名帳には「高良玉垂命神社」と記載され、名神大社に列している。筑後国一の宮。
また、ご祭神の高良玉垂命は国内最古の神名帳とされる『筑後国神名帳』によると、
朝廷から正一位を授けられたとされる。
さらに高良玉垂宮は神籠石があることから
前身はもっとさかのぼりそうだ。
また、大善寺玉垂宮のすぐ横に、かなり巨大な円墳の御塚、権現塚古墳がある。
657 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 13:52:35
国内最古と付けると
イメージ的に物凄く古く感じるが
記紀編纂から200年後の十世紀前半じゃなかったかな?
記紀を見ながら編纂出来る代物だな。
658 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/10(木) 13:55:27
>>655 >7世紀以前の日本の伝承は全部根拠が無いというわけですね。
鬼夜が大善寺玉垂宮の4世紀から続く伝承であれば十分な根拠となります。
それ以外の根拠があれば教えて下さい。
僕の「卑彌呼の都と九州王朝の都は久留米南部説」を裏付ける重要な根拠のひとつになるものです。
659 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/10(木) 14:04:48
660 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 14:26:41
鬼夜でぐぐると、1600年を越える歴史があると書いてありますね。
その元になった資料が何なのかよく分かりませんが。
調べられたら調べてみます。
661 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 19:38:38
ささがねの蜘蛛
蜘蛛の糸は頑丈で光沢あり。水銀もしかり。
実際の手足が長いのではなく、銀細工や金属加工品を身につけていた。
もしくは銅剣や金属でできた轡を履いていたのでは。
662 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 19:50:39
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
663 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 12:37:35
【日韓】 日本古代史の秘密と百済文化世界化〜日本は千三百年間歴史を歪曲捏造と米国学者[12/11]
1 :蚯蚓φ ★:2009/12/12(土) 10:37:50 ID:???
◆日本皇室は扶余族と百済系が支配
コベルの著述の中で最も注目をあびたのは「扶余騎馬族と倭」と「韓国文化の根を探して」だ。過
去1300年間、日本が隠してきた日本文化の根はまさに韓国だと力説する。さらに扶余騎馬族が
倭を征伐して日本を建てたが日本は過去1300年間、歴史を歪曲、ねつ造していると主張する。特
に驚くべき大きな課題は古代天皇から30代天皇まで扶余人と百済人が天皇であり、結局、日本
の皇室は純粋韓国人の血統によって支配されたと話す。
彼女は日本最大の古墳である仁徳王陵に注目する。仁徳王陵は全長486mで日本の古墳の中で
最も大きい。仁徳天皇の王子時代の師匠は王仁博士だ。王仁博士は仁徳王子に漢文と詩歌を教
えた。一部の歴史学者らは仁徳王子の天皇登極にも王仁博士の影響が絶対的だったと主張する。
日本の歴史学者の中で「仁徳天皇は百済人だ」と主張する人もいる。コベルは仁徳天皇が葬られ
た王陵の発掘が中断されたのは彼が百済の血統だったためだと疑う。以後、日本政府は王陵の
発掘を厳格に禁止しているとコベルは説明する。
日本の百済系遺跡や遺物をじっくり見ればコベルの主張は定説としての共感を呼び起こす。日本
の数多い国宝級遺物が百済系という点は十分知られた事実だ。韓日古代史研究で最も貴重な考
古学的価値を持った七支刀と日本の国宝の人物画像鏡、百済第25代武王が倭王室に送った百
済観音、百済人建築家が建てた世界最大金銅仏像「毘盧遮那大仏」等枚挙にいとまがない。
イ・ヨン政治部忠南道チーム長
ソース:大田日報(韓国語) 日本古代史の秘密と百済文化世界化
http://www.daejonilbo.com/news/newsitem.asp?pk_no=856397
664 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 12:39:40
>>663 おい、九州説。おまえらがやってきたことの結果がこれだ。責任取れよ。
665 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 12:44:09
>>664 責任を求めるなら、先ずは裁判所に提訴願います。
そのくらい気合い入れてキバラんかい!
666 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 13:08:36
チョーセンはもともとこの程度のもの。
667 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 17:37:07
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
668 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 23:16:26
いよいよネタが尽きたな、九州説。
あわれじゃのう。
蜘蛛は朱を知る虫だよな。つまり旧出雲族でしょ。
670 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 01:39:25
>>669 そうだよね。
少なくとも土蜘蛛は佐賀に300年台にはいたということ。
そして貴金属の扱いに長けていたということ
倭人=土蜘蛛はOK?
土蜘蛛は倭人より前でしょ。
672 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 20:11:23
土蜘蛛はかっこいいですよね。
弥生人が攻めてきても屈しない悪神香香背男(あくしんかかせお)。
大河ドラマにするといいです。
674 :
海人不知:2009/12/20(日) 19:07:56
記紀で最も代表的な神海は綿津見、墨之江(筒之男)、宗像神だけど
この内、綿津見と筒之男はイザナギが黄泉国から筑紫の日向の橘の小戸(福岡市西区小戸
ヨットハーバー)の阿波岐原で禊ぎ祓いをした時に出生した神、その部分
を書き出すとこうなる。
次に水底でそそぎたまう時に成りませる神の名は底津綿津見神、次に底筒之男命。
中にそそぎたまう時に、成りませる神の名は中津綿津見神、次に中筒之男命。
次に水の上でそそぎたまう時に成りませる神の名は上津綿津見神、次に上筒之男命。
此の三柱の綿津見は阿曇連が租神といつく神なり、故阿曇連等はこの綿津見神
の子、宇都志日金斥の子孫なり、その底筒之男、中筒之男、上筒之男三柱の
神は墨江の三前の大神なりと。
このペアで成った綿津見、筒之男が、綿津見を神、筒之男を命としているとこをみるとつつ
筒之男は綿津見の傍系と見ることができないだろうか?
綿津見を祀る海人族とその傍系である筒之男を祀る海人族の二系統の海人族
の存在を読み取ることができる。
675 :
海人不知:2009/12/20(日) 19:26:16
さて、綿津見といえばその本流は対馬だけど阿曇連は対馬の海人が
九州北岸の阿曇郷(福岡県糟屋郡新宮町付近)に拠点を求めて移ってきた
集団ではないか(磯良など共通の伝説を持つ)そして綿津見の子、阿曇連の租とされる宇都志日金
とは(諸説あることは知っているけれども)この日本に最初に鏡をもたらした人物
(あるいは集団)だと推測する
676 :
海人不知:2009/12/20(日) 19:39:29
福岡県春日市の奴国王墓、須久岡本D地点墓から出土した草葉文鏡などは前漢時代
紀元前2世紀中頃の日本で出土した最も古い銅鏡であると確認されている
おそらくこういう銅鏡を最初に日本にもたらした人物あるいは集団が
阿曇連の租とされる宇都志日金である。
677 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 20:21:06
次に筒之男だけれどもこれを古事記は墨江の三前の大神といっているけど
この三前って一体何だという事だよね。三前と書いてみまえと読ませ
それは三つの神殿に鎮まる筒之男三神(住吉大神)だというけど、
どうも釈然としない。古事記を全て精読したわけでないので確かなことは言えないけど
しかしここで思い浮かぶのは三つの筒の地名、対馬の豆酸、壱岐の筒城、
伊都の雷山の麓の筒城、(伊都の雷山のそばには日本最大の内行花文鏡
を出しアマテラスのモデルとなる被葬者を埋葬した有名な平原遺跡がある)
この三地点こそ筒之男を鎮めた場所であるということにすれば三前の意味
も腑に落ちるのであるそしてこの三地点を自在に往来する海人族がいたのである。。
678 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 20:40:31
わたつみ=竜宮=沖縄・・ってことです。ちなみに竜宮とは琉球のこと。
浦島太郎は海で遭難して琉球に流されている間に、
九州で政変がおこって、筑紫君磐井の村はすべて焼く払われて消えていたという伝説でしょう。
679 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 22:09:29
浦島=占島=対馬、壱岐の事
ちなみに琉球は筑紫磐井の乱の時流れ玉が飛んで来た島の事。
680 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 10:28:44
昨年の金印騒動・甘木ショックの余波の勢いは今年に入っても止まない。
昨日のビートたけしの番組で、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの邪馬台国研究第一人者・安本美典教授が熱弁を披露。
安本教授にとっては今年も忙しい年になりそうだ。
卑弥呼=アマテラス=日食ネタは当番組でも多いに盛り上がった模様。
pu!
倭人伝って旅行ブログみたいなものではなく、まっぷるみたいな地域の解説書じゃないの?
683 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 12:29:23
邪馬台国はどう考えても甘木だろうよ。
甘木で決着。
今後も安本教授はテレビに引っ張りだこ。
まさに、甘木ショック、ショック、ショック、バージンショック♪
684 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 15:34:23
安本教授も、今後は韮澤みたいな立ち位置になっていくんだろうな。
超常現象スペシャルみたいに、
畿内説VS九州説バトルすればいいのに。
そうすれば・・・結果は・・・
685 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 21:21:31
687 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 21:17:13
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
688 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 22:59:26
邪馬台国って畿内説で決まりなんだろ?
689 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 23:17:23
* *
* + そうです
n ∧_∧ n
+ (ヨ(* ´∀`)E)
Y Y *
考古学者が読む魏志倭人伝ほど、当てにならないものはない。
692 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 23:24:56
うん。OCRで取り込みながら4まで読んだけど、頭痛くなってきた。
694 :
のんびりひまじん:2010/01/24(日) 12:49:32
>>689 森浩一流の
九州説 ドンと来い と言うべきです。(なんと森さんは、ここまで九州説を明らかにするようになったのだ。)
森浩、一流の
か
『森浩一」流の
か。それが問題だ。
697 :
日本@名無史さん:2010/01/24(日) 22:51:55
>>696 Thanks、全部、画像で保存した。
ところで、八代の人?
699 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 00:23:02
安本?
邪馬台国時代の、出雲・吉備・丹後の関係性を論じもしないで、
九州ですの一点張りじゃあねえ。
30年前より、読者の知恵もついたんだから。
いまさら、ムー大陸がどうのアトランティス大陸がどうのと言ってるようなもの。
>>698 彼が指摘していることの真偽を教示願う。
701 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/01/25(月) 01:13:39
邪馬台国九州説の人へ、早く大人になりなさい。あなたの、お母様が泣いてますよ。
しんら
しらけ
707 :
日本@名無史さん:2010/02/04(木) 19:50:12
708 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 14:50:28
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
709 :
日本@名無史さん:2010/02/08(月) 17:27:11
このスレ閑古鳥が鳴いてますね
どうやら自らの九州説をここで堂々と
開陳する気力がなくなってるみたいですね
九州説ももう終わりかな・・・・・
九州はもうだめぼ…
>>709 携帯とPCでかなり大規模な規制かかっているので、誰も書き込めないんだよ
やっぱり九州じゃなかったんだ・・・
邪馬台国は近江だったという本をちらっと見て来たのだけれど、
結構魅力的でした。
714 :
日本@名無史さん:2010/02/08(月) 22:48:14
715 :
日本@名無史さん:2010/02/10(水) 20:58:19
716 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 13:00:02
717 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 13:31:15
先日、宇土市の天神山古墳を見ようと出かけたてみた。100m超の古墳で未発掘。
近くには、女王の眠る古墳として有名な向野田古墳もある。
しかし、どこか良くわからなかった。宇土市の古墳は、向野田古墳もそうだが、
山と一体化しているように見えて、一見して古墳とわからない。
近くの人に尋ねたら、「鶴じいの墓」と言っていた。昔はあそこから登って
いたのだが、と言ったわりには道のようなものがない。
出直すことにして、宇土市立図書館に行って見た。ここには向野田古墳の
出土品が展示されている。誰に会うこともなく、倉庫のようなところに
すんなりと入れ、そこに展示されていた。
内行花文鏡、方格規矩四神鏡それに鳥獣鏡があった。鳥獣鏡は小さい。
どれも良くできた鏡のように思えた。車輪石の腕輪などもあった。
鉄製品がすごく多かった。1mを超えるような剣や刀が数本あり、ほかに刀子
などが数十本、斧などもあり、おびただしいと言ってもいいような量だった。
宇土市付近の古墳はかなり初期の古墳と言われる。山を利用して作られて
いるようなところにもそれがうかがえる。
>>714 魏の帯方郡より監察官(一大率)を派遣され、ガチガチの冊封国といつたイメージだな
九州説の人は、邪馬台国が傀儡国家でいいのか?
719 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 14:49:06
>>718 一大率は、魏や帯方郡が派遣したものではないだろう。もしそうなら、倭人伝に
一大率がいつやってきて、いつ帰ったとか、あるいは名前くらいは書いてあっても
いいと思う。しかし、そういう説明は一切ない。
また、一大率が魏などから派遣されたものなら、狗奴国との争いで調整役くらいは
勤めてもいいと思うが、ここでも一大率は全く出てこない。
720 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 14:59:24
>>719 そうですね、一大率は邪馬台国が交易路を監視する為に置いたのでしょう。
伊都国が邪馬台国の都なら対馬〜伊都間の国監視機関が伊都国に在ってもいいだろう。
「郡使の常に留まる所」とは、常駐という事?
あるいは、定期的に頻々と行き来していたイメージ
これは、監察官とは言えなくても公使の様なものでは?
つまり魏の目と耳が常駐しているんだよな
まして、伊都国が女王の都なら、政治は魏に筒抜け
不平等待遇よのう
722 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 21:54:46
>>721 魏に支援を求めていたんだからし方無かろう。
723 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 23:09:33
>713
近江には、伊勢遺跡というかなり凄い遺跡があります。
倭王権のいわゆる畿内自生説が否定されつつあるためか、あまり注目
されませんが、後期の銅鐸の流通の中心が近江であることとあいまって、
興味深い遺跡ですね。
倭の京に帰義軍節度府を置いた
725 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 07:12:58
伊勢遺跡は、弥生後期の紀元1世紀末頃に突如出現し、邪馬台国の女王・卑弥呼とほぼ同時代の2世紀末に最も栄えた。
九州説終了。
伊勢遺跡は単に弥生期の集落遺跡の一つだよ、東西の中継点。
727 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 08:25:03
邪馬台国の女王・卑弥呼とほぼ同時代の2世紀末に最も栄えた。
ってことは、卑弥呼の時代に繁栄したのは九州だけじゃない=九州だけで邪馬台国は語れないってことだよアホ。
730 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 17:09:58
731 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 17:11:31
>>725 そのあと、どうなった?
ひょっとして外来の勢力に滅ぼされた?
732 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 17:31:39
3月13日の甘木での安本美典先生の講演を聴きに行こう!
ニュー即のスレ伸びねぇな。
734 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 22:41:03
>727
>馬台国の女王・卑弥呼とほぼ同時代の2世紀末に最も栄えた。
>ってことは、卑弥呼の時代に繁栄したのは九州だけじゃない=九州だけで邪馬台国は語れないってことだよアホ。
伊勢遺跡は畿内としては、とくに畿内の大型建物がなぜか廃絶する後期においては、
特筆すべき存在ですが、伊都国や奴国地域のように都市的様相を示しているわけで
ないでし、特定個人墓や集団墓があるわけでないです。
後期の畿内にしては凄いというだけのことです。
735 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 23:55:24
畿内では巻向だけが候補ではないというよい例だね
736 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 07:11:21
>>734 九州に邪馬台国があったと仮定した場合、その頃の畿内に繁栄した集落があったということは、
九州と畿内は断絶していたわけじゃないということだよ。
つまり、九州説終了。
わかる?
737 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 09:40:35
>>736 九州に邪馬台国があった時代に畿内で繁栄していた集落は魏志倭人伝に記された裸國かK齒國あたりでしょう。
朝鮮人らしい考え方だ。
739 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 10:21:01
安本美典先生や森浩一先生も朝鮮人ですかWW。
740 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 11:23:09
日本書紀より魏志倭人伝を信奉してるかぎり
日本人じゃないわな。
741 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 11:32:03
実際に日本を訪れた魏使の報告を基に同時に書かれた
魏志倭人伝の方を重視するのは当然でしょ。
500年後の8世紀に書かれた日本書紀では・・?
>>740 日本書紀を信奉するなら、箸墓はヒミコの墓じゃないわな。
日本書紀にはヒミコは登場しないんだし
743 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 21:57:47
>>742 そうだな。
聖徳太子も存在しないし。
7世紀まで九州王朝があったんだよな。
744 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 22:42:09
聖徳太子は九州の王だった。
これですべての謎が解けた!
745 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 23:15:48
746 :
日本@名無史さん:2010/02/16(火) 01:04:51
■邪馬台国徹底検証第3弾!シンポジウム「邪馬台国は九州だ!!」
邪馬台国はいったいどこにあったのか?
なかなか結論が出ないこの問題。皆さんはどのようにお考えですか?
「あなたが決める邪馬台国比定地投票」の結果を大発表! 皆さんと一緒に邪馬台国について考えます。
日時 平成22年3月22日(月曜日) 12時30分から16時45分
場所 クローバープラザ 大ホール(春日市原町3−1−7)
内容
基調講演 「古代国家の成立と邪馬台国」(仮) 原 秀三郎氏(静岡大学名誉教授)
投票結果発表・討論
コーディネーター 西谷 正氏(九州歴史資料館館長)
パネリスト
常松幹雄氏(福岡市教育委員会)、七田忠昭氏(佐賀県教育委員会)
安楽 勉氏(長崎県埋蔵文化財センター)、高橋 徹氏(大分県立歴史博物館)
中村幸史郎氏(熊本県山鹿市教育委員会)、北郷泰道氏(宮崎県立西都原考古博物館)
東 和幸氏(鹿児島県歴史資料センター黎明館)
定員 1,100名
若干の余裕がございます。興味がおありの方は、お早めにお申込下さい。
申込み方法・・・(以下省略)
http://www.pref.fukuoka.lg.jp/e04/yamataikoku-shinpo.html ※特設ホームページ あなたが決める邪馬台国
http://www.yamataikoku-roman.jp/
747 :
日本@名無史さん:2010/02/25(木) 05:14:57
748 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 18:17:00
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
749 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 22:09:17
肥後菊池氏って守護大名で最強とうたわれていたんですか?
菊池十八外城
菊池千本槍
についてもおしえて!
750 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 23:07:34
>>749 菊池氏は、1000年くらい前からこの地方にいた武家。
有名なのは、鎌倉時代の終わり頃の菊池武時と言う人で、天皇の側に立って
当時の鎌倉幕府を倒そうとしたけど、負けて殺されてしまった。
でも、天皇のために戦った忠臣ということで、明治時代になって評価され
神社まで建てられた。今もその菊池神社に祭られている。
また、その息子の菊池武重は、そのおかげで肥後の守に任じられた。
「菊池千本槍」というのは、この武重が用いた戦法で、竹の先に短刀を
つけた武器を使い、鎌倉幕府の足利尊氏の弟の大軍を背走させた。
これが、戦争で槍が使われ始めた最初らしい。
「菊池十八外城 」は、菊池氏の居城である菊池城を、十八の城で囲んで
守るということで、実際にあったらしい。
明治時代になって、天皇中心の時代になったので、昔天皇のために活躍した
菊池氏が脚光を浴びたんじゃないかな。
でも、菊池氏のことはここではスレ違い。
菊池氏の土着性は最強
一人一党といわれるほど国人衆の強い肥後で守護が務まっただけでも偉い
752 :
日本@名無史さん:2010/03/01(月) 12:52:38
高麗からきた渡来人の日置氏に滅ぼされたんじゃないの?
753 :
日本@名無史さん:2010/03/02(火) 21:12:22
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
754 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 14:32:16
高麗からきた渡来人の日置氏に滅ぼされたんじゃないの?>菊池氏
スレチながら、
戦国時代に大友氏との長い抗争の果てに殲滅されたんじゃなかったっけ?
戦国時代前半には活発に活動してる模様。
国を追われて隣国にいたりもするようだが。(おなじく大友氏と争っていた少弐氏などと連合してたんだっけ)
日置氏のような小族だけが敵なら負けることはない。程度には強かったらしい。
756 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 00:10:44
757 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 21:03:28
>>756 六世紀と言われている古墳から倭人伝時代の鏡が出てきた・・・
って、じゃあその古墳も倭人伝時代なんじゃないの
そっからもう一度考証し直して欲しいもんですな
759 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/03/04(木) 23:58:14
>>756 読んでみた・・なんとなく残念な人ですね。
760 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 09:15:24
761 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 09:30:17
http://kumamoto.cool.ne.jp/yatsushiro_ys/yominaos/yominao28.gif >卑弥呼を死に至らしめたのも、台与を王に立てたのも張政だった。
なんだろう?証拠もなしに考古学者が発言することだろうか?
在野の歴史小説家と同レベルになっちゃってるんだな。
人というのは、歳をとると、主体性の無い左翼思想に染まってしまうんだろうか?
森さんは、魏の役人が指導して、邪馬台国の女王を立てたり、東遷させたり、大和王権を作ったと言っていて、
倭人だけでは日本建国できなかったというわけだ。
というか、森さんは48年前から東遷説論者だったのかよ。あらあら。
ずっと「邪馬台国東遷」という色眼鏡で人生を引きずってきたんだな。
哀れすぎる。
いや、特定に人物に限らない話だが、ありがちな話。
大家とされるような人が高齢になると、常に周囲から持ち上げられる。
その結果→学者として堕落→トンデモ論議を始める
周囲は「何を言われても許容しよう。先は短いんだし・・・」
764 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 21:32:39
765 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 23:10:11
ありがとう
767 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 02:14:56
其の南、四千余里に小人国有り、身長三、四尺。
最近発見されたとニュースになってた小人の国を示してるんだろうか?
信じがたいが、そうとしか思えない。
南米の縄文土器ももしや、、。
768 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 08:49:39
>>最近発見されたとニュースになってた小人の国
ニュースソースは何処?
769 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 15:32:02
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
770 :
サガミハラハラ:2010/03/07(日) 20:30:38
梁書諸夷伝倭にでている有獣如牛名山鼠とあるけれど、これは、牛の如しであるから角が二本あり、ひずめは二つにわれている動物であろう。
よってこれは日本カモシカである。
「有獣如牛名山鼠」の続きは「又有大蛇呑此獣」
なので、日本カモシカを飲み込む大蛇がいたのですね!
772 :
サガミハラハラ:2010/03/07(日) 21:49:08
大蛇ありですが、やまたのおろち退治が変形して伝わったのでしょ。
大蛇が日本カモシカを飲み込むかですが、山鼠と誰か(中国人)が記述したことから、
別の人(中国人)が鼠ならへびにのみこまれても不思議でないと誤った解釈をしたのでしょ。
773 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 21:56:59
本当の話は二つの王朝が並立したということ
それを統一したのが神武天皇です
3世紀後半には、統一しなかったのではないのか?
7世紀になってやっと国の形ができて来たので、
辻褄合わせのために神武が統一をしたことにしたかったのだと思う。
祟神も地方豪族の域を出なかった。
そもそも祟神と7世紀の天智天武朝が同じ系列かどうかわからない
776 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 19:10:28
やまたのおろち が 実在したのか。さすがにするどいヨミですね。
777 :
サガミハラハラ:2010/03/12(金) 20:41:58
いえ、ヤマタの大蛇の伝承、つまりお話を聞いてです。
実在の話ではないのですが、人気第壱位ですからね。
778 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 22:23:34
記紀の八岐大蛇は、娘を飲み込んでいたんだけどね。
八人姉妹の最後の娘が飲み込まれそうなのを助けたのが、高天原を追われた
素戔鳴尊。素戔鳴尊はこの娘と結婚する。
779 :
サガミハラハラ:2010/03/12(金) 22:38:26
そうですね、けど、頭が八つあるのに娘が一人では、食べれなかった七つの頭部は不満だったのでは。
それとも八つ裂きにしてそれぞれをのみこんだとか。
それだと、部分について不満がでますね。腕をのみこんだ頭部と尻を飲み込んだ頭部では。
年によって飲み込む部分をかえるのでしょうか。
胃はひとつと思われ
782 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 23:27:46
いつもハラハラしてんだろうなぁ
>>782 いやそれは一面的な見方で、この人はギーコギーコもする。
784 :
サガミハラハラ:2010/03/12(金) 23:42:59
あれ!どうしてわかったの?
785 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 00:14:42
九州説に見切りをつけるのが遅すぎたな。
どうするんだ?これから・・・
>>784 www おまいはストーキングされてるらしい。小学校教師を辞めた理由も広まってるよ。
787 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 00:29:47
いやいやこれからだ
788 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 06:07:14
森もここまでやって今更引っ込み付かないんだろう
御迎えも近いし
789 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 09:24:15
ミンチにしてハンバーグを8つ作れば不満も出なかろう。
そのくらいのことは容易に思いつく。
790 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 09:27:25
>>779 胃袋は同じなんだから、どこから飲みこんでもいいんでね。
問題は、胃袋をどの蛇が支配していたかですよ。
胃の満腹感をつかさどる交感神経が8本あったら困ったことになるし、
身体を動かす神経も8本あると、それぞれ違い指令を出して、蛇行してしまう。w
792 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 17:47:15
それで、一人の司令塔として卑弥呼が共立されたんだな。
793 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 17:58:15
私の好きな国語の時間にこの話するなら学校行ってもいいよ。
794 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 19:04:39
795 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 22:31:58
八岐大蛇と言うのは、その地方の豪族の象徴なのだろう。
素戔鳴尊が八岐大蛇を切ったときに出てきたのが草薙の剣。これは製鉄の
象徴のように思える。簸の川の砂鉄を使って剣を作るみたいな。
素戔鳴尊が、八岐大蛇から救った奇稲田姫と結婚して生まれたのが大己貴神。
大己貴神は、その後いろんな場面で出てくる。
まず、高天原からいろんな神様が刺客として出雲に派遣される。これを
迎え撃ったのが大己貴神。結局、大己貴神は敗れ、高天原に国を譲ることを
約束して姿を消す。これが出雲の国譲り。
また、神武天皇が大和で娶った五十鈴媛は、大己貴神の子の事代主神の子、
つまり大己貴神の孫になっている。
796 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 23:29:45
草薙の剣は銅剣だって話もあるんだけどね。
八岐大蛇とは、八幡のオロチョン、つまりツングース系の首狩り族。
戦えば強いけれど、お人よしですぐ騙される。
酒をたらふく飲ませて酔いつぶれたところを討ち取ったスサノオの作戦勝ち。
ヒッタイトの鉄文化を継承していた。
798 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 01:38:32
最初の頃のgif消えてるね
799 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 09:04:13
1-9までがないみたい。どうすればいいのかな?国会図書館でコピーできる
けどな。まあ、違法なんだろうなupは。
800 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 09:23:04
1-9の内容
「魏志倭人伝を読み直すと、九州の風俗にしか思えないから、邪馬台国は九州なんだなあ。」
801 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 13:52:28
30によると風俗について書かなかったので、あわせ秋に本にするって
あったけど。
802 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 14:19:25
私が簡単にまとめてあげよう。その1。
纏向で、建物の跡が見つかったが、まるで卑弥呼の宮殿のような印象を与える
報道の姿勢はおかしいのではなかろうか。
纏向の地は、むしろ日本書紀などにあるように崇神・垂仁・景行天皇の宮と
関連付けるのが妥当だろう。
太平洋戦争後、記紀を読むのさえ非科学的とする風潮が学会を覆い尽くした。
しかし、その後、稲荷山鉄剣等の発掘があり、記紀も史実を伝えている部分
があることが認識された。今、記紀否定の呪縛から解放されていると思う。
考古学における年代は、ある程度の幅を持たせるのが普通であり、特定の
年代を強弁するのは異常である。
803 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 14:34:39
その2 倭人伝を読み直す。
倭人伝を書いた陳寿は、西暦233年生まれ、ほぼ卑弥呼と同時代を生きた人で
あり、これは後世の後漢書に対して優位な位置にあるものと思われる。
倭人伝は、三国志東夷伝の一部であり、扶余・高句麗・韓伝などと合わせて
読むことが必要。しかし、倭人伝はその中でも1998文字と最も多く、詳しく
書かれている。また、人名が10名も登場する。
陳寿にとってかなり関心があったものと思われる。
(信頼性はかなり高いと言うことだろう)
804 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 18:44:27
森さんがガッカリなところは、
文献を重視してる姿勢を見せつつ、
邪馬台国は九州だとし、
マキムクは崇神の宮だとし、
かつ
どの文献にも書いてない、台与の東遷なんてことを考えてるところだ。
記紀に繰り返し出てくる大和による九州平定の記述をなぜ無視するのか徹底的に問い詰めたい。
805 :
サガミハラハラ:2010/03/14(日) 23:48:17
森さんのいいところは、文献を重視している姿勢を見せていること、邪馬台国は九州だとしていること、
マキムクは崇神の宮(本当は宮下集落。宮は山手にあります。)としていることです。
台与の東征はいただけませんね。
大和による九州平定は邪馬台国凋落衰退後のことです。垂仁天皇のころです。
森さんは戦後の学者らしく、記紀を受け入れがたいのでしょうね。
これからは、記紀をもとにした日本史が再構築されるのですが。
>台与の東征はいただけませんね。
森さんの年代観からだとそうなるんだろうね。
あの人は古墳時代の開始を3C末頃とする。
森さんは没年干支を重視して、崇神を2C末から3C初頭とするので、古墳時代は
崇神の直前頃に始まり、2C末頃となる。
トヨの寿命がその頃までとすると、トヨはヤマトに移って亡くなったことになる。
というような発想かな。
807 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 11:04:45
>>804 >記紀に繰り返し出てくる大和による九州平定の記述をなぜ無視するのか徹底的に問い詰めたい。
記紀を無視しているのではなく
>>803にあるように500年後に書かれた記紀より、
同時代の魏志倭人伝を重視しているのでしょう。
>>806 邪馬台国とヤマト王権を無理に結びつけようとするから
台与の東征なんて考えになる。
邪馬台国は邪馬台国、ヤマト王権はヤマト王権と別物でしょう。
これからは、中国資料などを参考に記紀の内容を再構築し日本史に反映すべきでしょう。
808 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 22:31:36
809 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 23:53:13
■邪馬台国は九州だ!=第3弾シンポジウム盛況
【PJニュース 2010年3月24日】
http://www.pjnews.net/news/390/20100323_4 福岡歴史ロマン発信事業実行委員会主催の三年連続開催の邪馬台国シンポが最終回を迎えた。「邪馬台国徹底検証第3弾!シンポジウム:邪馬台国は九州だ!!」である。
3月22日、福岡県春日市のクローバープラザ大ホールで開催。500名の県民で満席であった。進行は次の通り。
第1部:基調講演は「大和王権と邪馬台国―崇神天皇とヒミコは同じ時代に生きていた―」と題して、原秀三郎氏(静岡大学名誉教授)。
第2部:「あなたが決める邪馬台国」投票結果発表と討論。
原秀三郎氏の講演は文献史学の立場から九州説を支持するものだが、斬新な内容で聴衆を圧倒した。原氏は魏志倭人伝の解釈と古事記、日本書紀の記述を総合的に検討する必要性を強調し、つぎのように結論付けた。
「大和王権の創立者崇神天皇は、248年に没したとされる邪馬台国の女王ヒミコと同じ時代に生き、その治世が女王ヒミコと重なることが明らか」である。
「三世紀の日本には北九州に邪馬台国のヒミコの統治する女王国があり、一方、女王国の東、海を渡る一千余里の地には、大和を中心に大和王権が存在した」のである。
このように、原氏の立場は、従来の論争の視点の転換を迫るもので、邪馬台国は九州か畿内かというものではない。邪馬台国は明らかに九州で、それと並存した大和の王権の存在を主張するものであった。
第2部では、「あなたが決める邪馬台国」集計結果の発表があった。
2009年10月1日?12月23日に市民が協力した邪馬台国比定地投票(約1000名)の結果である。トップは甘木・朝倉が131票、2位は博多湾沿岸で102票、3位は吉野ヶ里で86票であった(以下略)。
討論は、西谷正氏(九州歴史資料館長)をコーディネーターに九州各県の教育委員会・博物館の専門家が参加する討論会であった。
この三年間参加した私は、一般市民の関心を惹き付けたポピュラーな企画で、回を追うごとに邪馬台国論争の視点が明確に転換して深まったシンポジウムであったと感じている。【了】
しかし、九州の古代史ファンも畿内の古代史ファンも民度が低いな。
もう邪馬台国そっちのけ。ご当地マンセーで
ホークス頑張れ、阪神優勝・・とか言っているだけなんだから。
もう見てられねえよ。
まあ、お祭りだから
自分は関東だけど九州支持だよ
813 :
日本@名無史さん:2010/03/29(月) 00:15:07
おれは阪神ファンだが九州説だw
814 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/29(月) 00:24:22
ぼくは奈良だけれど九州説だ
おれは、九州、畿内、四国、出雲、若狭、富山、関東、津軽十三湊・・
沖縄、台湾、フィリピン、オーストラリア、メキシコ・・あらゆる可能性を切り捨てていない。
俺日本人だけどエジプト説支持。
817 :
日本@名無史さん:2010/03/29(月) 01:10:18
佐賀県民だが畿内大和説を断固支持する。
吉野ヶ里遺跡近くのJR神崎駅前にある卑弥呼像は撤去してほしい。恥ずかしい。><
818 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/29(月) 01:43:53
吉野ヶ里は邪馬臺國ではないのだから、ご愛嬌。
町興しに卑彌呼の夢を抱くのもいいのじゃない?
ゆるキャラせんと君よりましだよ。
819 :
サガミハラハラ:2010/03/29(月) 09:10:46
いいえ、卑弥呼が邪馬台国の都を小城甘木に移すまでは、吉野ケ里は邪馬台国および倭国のみやこであったのであります。
吉野ケ里の北内郭は卑弥呼のためにたてられたのであり、卑弥呼はそこに183年の即位いらい
230年代後半までお住まいになっておられたのです。
820 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/29(月) 10:50:28
>>819 吉野ケ里の北内郭は倭面土國帥升のためにたてられたのです。
その後倭國乱とともに、倭面土國は衰退し、
新興投馬國と邪馬壹國の圧力で、西方の惣座に遷都したのです。
後漢及びその後継者魏にとって、惣座は倭都と認識されていたのです。
しかし、卑彌呼女王の台頭により、魏は「倭都」の音を採って
「伊都」即ち「伊都國」と表現したのです。
伊都國の歴代の王は帥升からの系統であり、
その実権を失った旧王に敬意を評し、
魏使(郡使)は伊都國に着いたことをもって倭國の中心に到着したとして
「到伊都國」とし、「往來常所駐」したのです。
帥升に滅ぼされた倭奴國を引き継ぐ勢力は、
玄界灘沿岸から伊都國の東南100里(佐賀平野中南部)に、
帥升系統旧王監視の為に分国したと思われます。
餘旁國ラストの奴國は上記奴國の母国と思われます。
大川投馬國と有明海北岸の吉野ヶ里倭面土國は有明海北部で対立。
久留米邪馬壹國が占領した吉野ヶ里倭面土國の跡に置いたのが不彌國。
帯方郡より不彌國で丁度1200餘里。不彌國は邪馬壹國と共に女王國を構成する国なのです。
821 :
日本@名無史さん:2010/03/29(月) 12:25:09
安易に具体的な個人名とすぐ結びつけるのは、一歩まちがえると妄想になる。
822 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/29(月) 21:27:02
>>821 >安易に具体的な個人名とすぐ結びつけるのは、一歩まちがえると妄想になる。
そうですね。
北内郭が帥升の為に立てられたと決定できる証拠がありませんからね。
823 :
サガミハラハラ:2010/03/30(火) 07:51:16
そうですね。帥升の登場は107年。吉野ケ里北内郭は2世紀後半から3世紀とみられていますから時代があいませんね。
824 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/30(火) 23:51:55
吉野ケ里北内郭を2世紀後半から3世紀としているのは、
卑彌呼の館にしたいからでしょう。
実際のところ2〜3世紀のいつ頃なのかはわかっていません。
帥升が住んだのか、魏使の接待所だったのか、それ以外の用途なのか、わかりません。
張政が長期滞在していたところかも。←妄想
825 :
サガミハラハラ:2010/03/31(水) 07:32:25
卑弥呼の館にしたいから、いやそんなことはありません。列記とした考古学をもとに科学的に決定しております。
事実あそこは卑弥呼の館であったのですから、上記の年代判定で正解なのです。
北内郭からの出土物が少ないのは、小城甘木への遷都のさいに、きれいにかたずけていったからなのです。
帥升の居住地は博多湾沿岸地方です。吉野ケ里は彼に敵対する勢力、邪馬台国の都なのです。
張政は長期滞在しておりません。邪馬台国の王位継承の混乱が終わった後’(1年以内)狗奴国との決着もみずに
帰還しております。
826 :
日本@名無史さん:2010/03/31(水) 09:49:40
で、サガミの本は何部売れたんだい?
827 :
サガミハラハラ:2010/03/31(水) 13:43:17
本屋で各百部です。
世界のハリーポッターや日本のワンピースと売り上げを競ってます。
アジア一は間違いないのですが・・・
829 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/01(木) 16:13:51
>>825 >張政は長期滞在しておりません。
張政の女王國滞在期間について
正始8年(248年)に張政は倭に派遣されています。
実際に倭に到着したのは249年かもしれないが。
張政が倭使(遣晋使)に送られて帰国したのは265年です。
実際に倭を出発したのは、魏から晋に替わった264年かも知れない。
張政の女王國滞在期間は16〜17年間となります。
>(吉野ケ里北内郭の存続期間は2世紀末から3世紀であると)
>考古学をもとに科学的に決定しております。
2世紀末と決め付けたところに恣意的なものがある。
北内郭が2世紀初頭に建設されていたとしても否定材料はない。
北内郭が最初は帥升の館として建てられた可能性もあります。←妄想
830 :
サガミハラハラ:2010/04/01(木) 18:22:00
不勉強ですみませんが、張政が倭使に送られて帰国したのは265年だとのことですが、
そう書いてあるのはなんという書でしょうか。
831 :
日本@名無史さん:2010/04/01(木) 21:02:29
古田武彦の著書じゃあなかったかな。
832 :
日本@名無史さん:2010/04/01(木) 22:21:43
卑弥呼は斉王(曹芳)の叔母。斉とは「斉い(いわい)=磐井」。山東半島の斉の分国であった。
238年(景初2年)に邪馬台国の卑弥呼が魏に朝貢。同年、甥の斉王曹芳が太子となる
239年(景初3年)明帝は死去。司馬懿と皇族の曹爽に曹芳の後見を託す。
司馬懿、斉王が倭と共謀じることを恐れ、張政を倭に送っての卑弥呼を殺す。
こういう筋書きだ。
833 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/01(木) 23:08:08
>>830 >張政が倭使に送られて帰国したのは265年だとのことですが、
>そう書いてあるのはなんという書でしょうか。
「張政が倭使に送られて帰国したのは265年」と書かれた書はありませんが、
魏志倭人伝と晋書倭人伝をあわせ読むと張政帰国は265年との結論になります。
『壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺
獻上男女生口三十人 貢白珠五千 孔青大句珠二枚 異文雜錦二十匹』<魏志倭人伝>
上記は魏が晋に替わったので、用無し張政を送り返すのと同時に朝貢団派遣の記事となります。
『宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相 又數至
泰始初 遣使重譯入貢』<晋書倭人伝>
265年倭の遣晋使が重譯して入貢しています。重譯したのは張政でしょう。
張政は卑弥呼を討って役目を果たし凱旋帰国ですね。
835 :
サガミハラハラ:2010/04/01(木) 23:52:33
魏志倭人伝の記事は、卑弥呼死後の騒乱がおさまって壱与が王位について、張政は壱与に告喩告喩し、
用もすんだので帰ったということです。その時倭の使いがついていって、魏の都までいったということです。
これは魏志ですので、魏の時代のことがかかれているのです。
晋書の壱与?のことはそれからかなりあとのことです。
イヨタン・・・・・・・・・・
837 :
日本@名無史さん:2010/04/02(金) 00:12:40
王頎が帯方郡の太守として赴任したのが正始八年(西暦247年)。
そのあと、倭は、使者を派遣して、狗奴国と戦争状態にあることを説明した。
使者は援軍を要請し、王頎は、その伺いを立てるために都に赴いたと言われる
ので、張政がやってきたのは、正始九年か十年というところか。
卑弥呼の死んだ時期がいまひとつ不明だが、詔書・黄幢を難升米に拜假、と
いうところを見ると、すでに死んでいたか、少なくとも会える状態では
なかったと思われる。
そのあと、男王が立ち、国中不服で戦乱状態。台与が王になり収まる。
ここまでは張政は倭国にいたものと思われる。
しかし、その後の記述が全くない。いきなり張政の帰還となる。
このことから、張政は台与が王になってすぐに帰ったのではなかろうか。
もし、もっと長くいたら、梁書などにある「其後復立男王」の経緯くらいは
書かれていたものと思われる。
トヨタン・・・・・・・・・・
まいずれにしても推測の域を出ないな。
ただ、倭人伝には「途中帰っていた」と書いてないのは事実。
840 :
サガミハラハラ:2010/04/02(金) 00:33:25
いえ張政を送って一書に義の都までいったとかいてありますよ。
義の都に咲く任侠の花
842 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/02(金) 11:16:42
>>840 >いえ張政を送って一書に義の都までいったとかいてありますよ。
その一書とは何ですか?
魏志倭人伝にも晋の都に行ったたことを上記引用文にも間接的に書いてありますよ。
魏書なので晋のことは書けない為、『詣臺』都に詣でると曖昧に表現しています。
もし「臺」が魏の臺であるなら、はっきりと魏の皇帝(曹芳or曹奐)に朝貢したと書かれます。
ですから、この『詣臺』は「晋の都に詣でた」との意味になります。
張政の来倭目的は女王國と狗奴國との戦争で女王國を応援する為です。
衰弱していた卑彌呼死亡後の女王國内内乱を予想して、
それを仲裁に来たのではありません。
卑彌呼が衰弱して指導力がなくなってきたので、
烏越等が狗奴國との戦争についての指揮を頼みに郡に行ったのです。
『政等以檄告喩壹與』は、張政が壹與に何を告喩したのでしょう?
告喩の内容は、狗奴國との戦争を避けなさい、其の為にも内紛を避けなさい、とのことです。
張政は来倭の目的を達することもなく、魏の滅亡(264年)を聞くに及んで帰国せざるを得なくなったのです。
843 :
サガミハラハラ:2010/04/02(金) 12:22:35
一書とは魏志倭人伝です。
晋の時代のことなら晋書にかくのです。
あいまいではなくて、魏の時代のことをかいているのですから、単に詣台では当然
魏の都のことですよ。
最新考古学で畿内と分ったのに
まだ九州だと言い張るん?
845 :
日本@名無史さん:2010/04/02(金) 17:17:55
>>844 うそも100回言えばホントになります。
846 :
日本@名無史さん:2010/04/02(金) 19:36:46
最新考古学で畿内と分ったのに
最新考古学で畿内と分ったのに
最新考古学で畿内と分ったのに
最新考古学で畿内と分ったのに
最新考古学で畿内と分ったのに
最新考古学で畿内と分ったのに
最新考古学で畿内と分ったのに
最新考古学で畿内と分ったのに
最新考古学で畿内と分ったのに
最新考古学で畿内と分ったのに
最新考古学で畿内と分ったのに
最新考古学で畿内と分ったのに
最新考古学で畿内と分ったのに
最新考古学で畿内と分ったのに
最新考古学で畿内と分ったのに
最新考古学で畿内と分ったのに
最新考古学で畿内と分ったのに
最新考古学で畿内と分ったのに
なかなかホントにならないな。
ホントだ!
848 :
サガミハラハラ:2010/04/03(土) 23:11:53
最近の考古学ではなにもわかっていませんよ。わかったことは3世紀中ごろのマキムクに
集落や神社用の建造物があったということだけで、それを邪馬台国にむすびつけるにはもっと直接的な物証が
ひつようです。
849 :
日本@名無史さん:2010/04/04(日) 17:19:04
wikiの高天原のページによると、
壱岐市=天ヶ原、高野原等の地名が残り、九州王朝説では天国領域とされている。
三国志・魏志倭人伝によると、
壱岐は一大国と書いてあるんだけど、これを縦書きにすると、天国と読める。
なんか、すごい大発見した気分なんだけど、既出ですか?
850 :
日本@名無史さん:2010/04/05(月) 15:54:26
>>849 残念ながら
一大 = 天 というのは諸橋にでてる というのを聞いた事あります。
ちなみに 玄海灘の 玄 には 天の色 という意味もあります。
851 :
日本@名無史さん:2010/04/05(月) 19:38:13
玄海灘の玄は玄武の玄で北を示す、
玄海はすなわち北海の意味だ。
853 :
日本@名無史さん:2010/04/06(火) 15:14:31
>>851 >玄海灘の玄は玄武の玄で北を示す、 玄海はすなわち北海の意味だ。
玄 の一字で北をあらわすとは知らんかったな。
辞書にのってるのか ?
わたしの辞書の字義では
1.黒。青黒い色。天の色。2.天の別名。あめ(天)。そら。3.・・4・・5・・ とある。
854 :
日本@名無史さん:2010/04/06(火) 18:36:21
青龍、白虎、朱雀…何れも色を示す。
ちなみに玄人(くろうと)と言う読み方もする。
玄武が北を示すと言うのはあくまでも四神を四方に配した場合で
じゃあ、青海、白海、朱海があるのかって話しだなwww
玄界灘の由来について調べたら2つあったのだが、そのうち
「黄海と比べると黒く見えたので黒い海と言う意味で玄海とした説」がもっともらしいかな。
いつから「玄界灘」と呼ばれているのかはわからなかった。
誰が命名したのか、黒灘とか黒海とせず、さらに玄海ではなく玄界灘としたところが、
絶妙だね。
test
857 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/07(水) 11:20:27
>>843 サガミハラハラさん
『壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人・・・・・』
壹與の朝貢時に生口三十人の献上があります。
これは倭側かシナ側のどちらかが新政権で初回の朝貢であることを示しています。
卑彌呼から壹與への政権移行に断絶があれば、この朝貢は250年頃となります。
卑彌呼から壹與への政権移行が継続したものであれば、
この朝貢は魏から晋への政権移行時265年となります。
朝貢記事に魏の年号も魏帝の名前も無いのは、晋帝に詣臺したからです。
もし魏への朝貢であるなら嘉平二年(250年とした場合)とか具体的な年号が記入されていなければなりません。
魏と関わりのある記事では、正始元年、四年、六年、八年と記入があるのに、
この朝貢が、魏と関わりのある記事とするならば、何故か突然年号が消えています。
この朝貢は魏代の記事ではないのです。
このような表現方法は、219年以前の魏書の記事や、後漢が統治能力を失った
189年以降の後漢書の記事においても見ることが出来ます。
悪禁の為レスできませんでした。
イヨタン・・・・・・・・・・
859 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/07(水) 12:10:06
>>857の あとがきへ補足説明。
僕は複数の書き込みチャンネルを持っていますが、
何処かのスレで、畿内説に本質的なダメージを与えるレスをする度に、
その時のアクセスチャンネルが悪禁になります。
これはいつものことです。
今回はそれらのチャンネルが順次悪禁になって、
一時的に全チャンネルが悪禁になりました。
上記なようなことを書くと、今使用のチャンネルも再度悪禁になるかもしれませんが。
昔他の掲示板で、マザーボードIPに対しての悪禁になったことはありますが、
2ちゃんねるではその様なことはしていないようです。
マザーボードIPによる悪禁はPCの切り替えだけで対処できるので無問題ですね。
860 :
サガミハラハラ:2010/04/07(水) 13:32:37
>>859 たいへんよくわかりました。丁寧なお返事ありがとうございます。
861 :
日本@名無史さん:2010/04/07(水) 16:14:24
マザーボードIPって、ポートのことかしらん
ネットワークハードウェアに割り付けられている固有の番号はなんていったっけ
862 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/07(水) 17:18:37
>>861 >マザーボードIPって、ポートのことかしらん
違う
PCUが取り付けられている、PCUの入出力を司る部品。
この部品にIPが割りふられている。
PC全体を下支えする母親の様な部品。
PCUやメモリー等の他の部品を交換しても、
そのPCのIPは変らない。
>ネットワークハードウェアに割り付けられている固有の番号はなんていったっけ
ホストIP?
ん?w
何か表現がおかしくてワロタ
記念カキコw
864 :
日本@名無史さん:2010/04/07(水) 18:13:26
ネットワークハードウェアに割り付けられているのは
MACアドレスだった。
昔は、職場のPCをLAN接続するのを許可するために
MACアドレスを登録して、登録外のPCは接続を受け付けないように
したりしたもんだ。SUNをブリッジやルータにして、よくやったなあ。
もう記憶も怪しくなってる。痴呆が進んできたかな。
>>862 アドレスが切り替えられる = 複数のアドレスをもらってる
ような業種と言うことですな。 クラスC? クラスB?
ネットワーク機器でPCUっていう機器はよく知らないので
略称じゃなくて、フルネームで提示していただけると助かります。
おいおい、古代史の板だぞ
866 :
日本@名無史さん:2010/04/07(水) 18:34:05
自重
>>864 たぶんCPUじゃないかw
チャンネルとかもただ単にカッコつけかと
>>九州王朝大好き
とっても素晴らしい造語と表現を使うなwww
868 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/07(水) 19:48:15
間違いだらけの書きこだった。
× PCU
○ CPU
端末PC個々の
Central Processing Unit
中央演算処理装置
× IP
○ ID
マザーボードのID
ネットワークID、ホストID、MACアドレス、IPアドレスの違いは忘れてしまった。
マザーボードのID(=ホストID?)でMACアドレスが決まるのかな、それとも同じもの?よくわからん。
記憶が曖昧になってしまって、めちゃくちゃな造語しているね。
これを老人ボケと云うのかな。
869 :
日本@名無史さん:2010/04/07(水) 20:18:32
MACアドレスはネットワーク接続デバイスのチップに始めから書き込まれている。
メーカーごとに割り振られているので、それを調べると、どのメーカーの
どういう機器かだいたい分かる。機器ごとに割り振られて、番号が重なることはない(はず)
ホストIP、クライアントIPは、IPアドレスの相対的な呼び名。
接続される機器のアドレスがホストIP、接続しに行く機器のアドレスがクライアントIP
接続される側、接続しに行く側で決まるから、状況によっては逆になることもある。
おそらくは、MACアドレスをマザーボードのIDとみているのかも知れないが
MACアドレスはそう簡単に切り替えられるものではない。
870 :
日本@名無史さん:2010/04/07(水) 20:22:12
日本永远是美国人的走狗.
これだけの文章を書けるのに、CPUを間違えるとは。
872 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/07(水) 20:53:29
>>871 >これだけの文章を書けるのに、CPUを間違えるとは。
株式の銘柄コードの4桁数字の順番が時々ひっくり返るミスをよくやらかします。
それで実際の取り引きの時は、コード数字手入力を絶対にしません。
だから登録銘柄コードをクリックして選択します。
日本史スレでも同じ間違いをよくしています。
>>869 >MACアドレスはそう簡単に切り替えられるものではない。
だから、昔のことですが接続PCを切り替えました。
2チャンネルの悪禁規制はMACアドレスによるものではありません。
個別規制の時は、ネットワークIDで行っているようです。
まあ、日本史板ですから、PC関連には疎いんでしょうな
874 :
日本@名無史さん:2010/04/07(水) 21:01:53
えー、ちなみに、ネットワークIDはIPアドレスの
一部の領域を指します。
また、MACアドレスはルータを越えるとホストからは見えません。
従って、規制はIPアドレスを規制することしかできません。
2chではIPアドレスかドメイン規制しか出来ないものと思われます。
ドメイン規制もIPアドレスの規制ですが。
875 :
日本@名無史さん:2010/04/07(水) 21:51:39
876 :
日本@名無史さん:2010/04/07(水) 22:04:17
■県内最大の土塁跡発見 方保田東原遺跡 溝に沿って100メートル 山鹿市/ 熊本
西日本新聞 2010年4月5日
山鹿市教育委員会は、同市方保田の国指定史跡「方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡」で、弥生時代に防御のために築かれたとされる土塁跡が見つかったと発表した。
土塁跡は約100メートル続き、同市教委は「これほど大規模な土塁跡が見つかったのは県内で初めて」としている。
市教委によると、土塁は溝に沿ってつくられるのが一般的。昨年10月に始まった調査では、遺跡を南北300メートル以上にわたって横断していたとみられる大きな溝(幅約7メートル、深さ約1・2メートル)も見つかった。
この大きな溝と並行して掘られた小さな溝の一部も発見され、土塁は二つの溝の間に土を盛り上げて築かれた可能性が高いという。
同遺跡は、1900年近く前の弥生時代後期から古墳時代前期の集落跡。調査担当者は「土塁や巨大な溝をつくるには多くの労力が必要。防御を厳重にしていたことも考えると、当時は一帯が大変栄えていたと考えられる」と説明している。
山鹿市出土文化財管理センター=0968(46)5512。
【写真】方保田東原遺跡で見つかった大きな溝の一部(右手前)。土塁は溝の左側にあったと推定される
877 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/08(木) 01:35:24
やはり、
方保田東原遺跡は女王國14万餘戸に敵対する狗奴國の城郭だ。
878 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 02:13:09
■九州VS畿内 本格議論開始100年 邪馬台国は一体どこ? 宇佐市で5月「論争大会」
西日本新聞2010年4月6日
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/163449 宇佐市で昨年、23年ぶりに復活した「全日本邪馬台国(やまたいこく)論争大会」が今年も5月30日に同市南宇佐の宇佐神宮参集殿で開かれる。
日本古代史最大の謎の一つ、邪馬台国の所在地についてアマチュア論者が議論を戦わせる。
大会は、同市のパロディー国家「新邪馬台国」の呼び掛けで1981年に始まり6回目。
昨年は全国から約320人が集い、立ち見も出るなど盛況だった。論者5人が中津、朝倉、吉野ケ里、宇佐などの自説を紹介した。
実行委によると、今年は九州説と畿内説の本格的な論争が始まり、100年の節目の年という。
大会実行委員長の西太一郎さん(72)や同市のキャンペーンレディー「ミス卑弥呼」佐藤博美さん(23)、「ミス壱与」行時未加さん(22)らが3月25日に是永修治市長を訪問。
西さんが「今年も熱い議論で、沈滞した経済をぶち破りたい」と抱負を述べた。是永市長は「最近は畿内説が有力といわれるが、宇佐説で決着を」と応じた。
実行委はアマチュア研究家の論者を募集中。2千字以内の論文で選考、応募は4月30日必着。
大会当日は午前9時半から初心者向けの講演を行い、同10時に論争を始める。参加は事前予約による先着300人。参加費は2千円(昼食代含む)。同市観光協会=0978(37)0202。
【写真】大会をPRするミス卑弥呼の佐藤博美さん(右)とミス壱与の行時未加さん
>>876 この土塁の発掘跡を見ると小石混じりの土砂に埋まっており、菊池川の川筋が変わるような大規模な洪水が起こり、
邪馬台国は滅んだと見るべきなのではないでしょうか。
つまり、この辺りを掘れば邪馬台国があった具体的な邪馬台国の証拠、(例えば、邪馬台国の文字が刻まれた粘土版や石碑)
が発掘されるかもしれませんね。
機はまさに熟したり。あとは発掘費用を誰が出すかです。
東・西・南・北・中央に五色を配当する場合、東=青 南=赤 西=白 北=玄もしくは黒 中央=黄 になる。
北を黒とするか玄とするかは文献によって違う。
東・西・南・北・天・地の六方に六色を配当する場合、東=青 南=赤 西=白 北=黒 天=玄 地=黄 になる。
この場合、玄と黒は別の色。
881 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 15:04:57
882 :
日本@名無史さん:2010/04/30(金) 22:34:43
■吉野ヶ里遺跡 発掘調査を一般公開 (動画あり)
NHKニュース 4月30日
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20100430/k10014188261000.html 弥生時代の墓地としては国内で最大規模の佐賀県の吉野ヶ里遺跡で、墓の発掘調査が一般に公開され、訪れた小学生などでにぎわいました。
通常、発掘調査は土日や祝日は行っていませんが、多くの観光客が訪れる大型連休は、発掘調査が来月2日まで、土器の復元作業は来月5日まで行われ、一般に公開されます。
公開されているのは、吉野ヶ里遺跡の北部にある弥生時代の墓、甕棺(かめかん)墓地の発掘現場です。発掘現場にはおよそ2100年前に作られた、直径およそ60センチの土器の棺、甕棺4基が残されています。
この甕棺墓地では、1500基余りの甕棺がおよそ600メートルにわたって列状に配置されているのが確認され、弥生時代の墓地としては国内で最大規模です。
30日は社会科の授業の一環で小学生などが大勢訪れ、県の担当者から説明を聞いていました。
また吉野ヶ里歴史公園の「弥生くらし館」では、出土した土器の復元作業も公開され、担当者が破片の形を確認しながら、ていねいに組み合わせていました。
通常、発掘調査は土日や祝日は行っていませんが、多くの観光客が訪れる大型連休は発掘調査が来月2日まで、土器の復元作業は来月5日まで行われ、一般に公開されます。
883 :
日本@名無史さん:2010/05/01(土) 22:37:25
■邪馬台国論争大会:邪馬台国どこに アマ研究者集まれ−−30日、再び宇佐で /大分
毎日新聞 2010年5月1日
http://mainichi.jp/area/oita/news/20100501ddlk44040610000c.html 日本古代史最大の謎に迫る「第6回全日本邪馬台国論争大会」(宇佐市観光協会など主催)が5月30日、宇佐市の宇佐神宮参集殿である。
大会は昨年、23年ぶりに復活し、好評で全国から約300人が集まり、熱い論争を戦わした。
最近、奈良県桜井市の「桜井茶臼山古墳」から全国最多の銅鏡が見つかったり、同市の纒向(まきむく)遺跡から3世紀最大級の大型建物が発掘され、卑弥呼の宮殿の可能性も出てきて、邪馬台国・大和説研究者は活気づいている。
九州説の研究者は「纒向には、吉野ケ里のように宮室・楼閣・城柵の3点セットがまだそろっていない」と静観の構え。
論者は、アマチュアの研究者に限定。2000字以内の論文を郵送か電子メールで提出。アマらしく専門過ぎず、面白いものが選考基準。選ばれた論者が自説を披露した後、会場の参加者から“挑戦”を受ける。
論文締め切りは6日必着。一般参加料は2000円(昼食付き)。申し込み・問い合わせは同市南宇佐2179の3、宇佐市観光協会(0978・37・0202)。【大漉実知朗】
※参考サイト
宇佐市観光協会
http://www.usa-kanko.jp/news/1005-yamataikoku.html (見出しのみ引用)
・第6回全日本邪馬台国論争大会開催要項
・論文募集
・一般参加
・論争大会参加歓迎レセプションと邪馬台国宇佐説の史跡ツアー
・論文応募先・参加の申込先・お問い合わせ先
884 :
日本@名無史さん:2010/05/02(日) 21:25:15
885 :
日本@名無史さん:2010/05/02(日) 23:26:46
>>884 小学6年生から古代史に興味がある女の子なんて、
親御さんは、その子の将来が心配ではないのだろうか?
俺だったらもっと女の子らしい物に興味を持つよう、強く言い聞かせるが。
886 :
日本@名無史さん:2010/05/02(日) 23:31:40
>>885 幼稚園児の頃には古代史好きな女ですけど何か?
887 :
日本@名無史さん:2010/05/02(日) 23:54:29
明日娘を連れて、吉野ケ里に行くつもりなんだが
なにか問題あるか?
将来は 女古田 と呼ばれて。
889 :
日本@名無史さん:2010/05/03(月) 10:58:22
>>888古田氏は、元々古代史研究家ではなかった。
ひょんなことから古代史に嵌った中年デビューですよ。
>>886 自分も〜
低学年の頃天体と恐竜と土器の本を買ってもらったんだけど
親はかなり心配していたよ・・・。自分の中では宝物だった
小学校高学年の時に太陽はそのうち収縮を繰り返して小さく冷たい星になって爆発するって知ってたよw
ニュートン買ってたし・・・
891 :
日本@名無史さん:2010/05/09(日) 00:01:50
■花の邪馬台国まつり(動画あり)/福岡県朝倉市
http://news.rkb.ne.jp/rkb_news/archives/015366.html RKB毎日放送 05/08
絶好の行楽日和となったきょう、福岡県朝倉市では「花の邪馬台国まつり」が開かれていて、多くの人でにぎわっています。
朝倉市民祭『花の邪馬台国まつり』は、朝倉市の甘木公園で開かれています。
朝倉市の平塚川遺跡は弥生時代の大規模な環濠集落の跡地で、「かつての邪馬台国は朝倉地区にあった」との説もあることから、邪馬台国の名をとった祭りとなっています。
会場では、さまざまなイベントが行われていて、朝から多くの家族連れなどが詰め掛けています。
また、午後には邪馬台国にちなんだ「女王卑弥呼コンテスト」も実施されることになっています。
絶好の行楽日和に恵まれたこともあり、主催者側は祭り期間中の明日までの2日間で2万人の人出を見込んでいます。
※参考: 朝倉市サイト
・第5回朝倉市民祭『花の邪馬台国まつり』
http://www.city.asakura.lg.jp/topic/2010/shoko_kanko/citizen_festival.html ■第28代女王卑弥呼選出(8日)■卑弥呼よさこい踊り(9日)■ステージ披露(8日・9日)
■邪馬台国物産展(8日・9日)■NHKふれあい放送体験(8日・9日)■オリエンテーリング
(9日/無料)■勾玉づくり・こま回し体験(有料)■竹細工体験(無料■ベイブレード邪
馬台国選手権■古代五種競技選手権(8日)■津屋崎漁連直売(9日)■足湯コーナー(8日
・9日)■葛きりぜんざい試食(8日)■花壁画(8日・9日■花壁画の花販売
九州王朝は、鬼界カルデラの噴火で滅んでしまったし、九州王朝の息の頃は瀬戸内海に移り住んだ。
噴火一つで滅んだ王朝が史上一つもない件
894 :
日本@名無史さん:2010/05/17(月) 01:33:33
■30日「邪馬台国論争大会」 出場の論者5人発表 ミス卑弥呼らの新衣装も 宇佐市
西日本新聞 2010年5月16日
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/171896 宇佐市南宇佐の宇佐神宮で30日に開く「第6回全日本邪馬台国論争大会‐アマチュア研究者大集合」(西日本新聞社など後援)の実行委は15日、大会に出場する5人の論者を発表した。
今回は邪馬台国の場所について福岡説、佐賀説の熱い議論が期待される。キャンペーンレディーのミス卑弥呼やミス壱与などの新しい衣装も披露された。
大会は昨年、23年ぶりに同市のパロディー国家「新邪馬台国」などが再開した。今年は、全国から寄せられた17人の論文から面白さを基準に5人を選んだ。
前中津市長の鈴木一郎さん(75)は邪馬台国を「邪馬壹国(いちこく)」と呼び、福岡県飯塚市の地名の由来に近いと考える「飯塚説」、同県久留米市の建築士福島雅彦さん(70)は邪馬台国と語尾に「−たい」とつける筑後弁を結び付け「久留米説」を唱える。
このほか、茨城県土浦市の獣医師、伊東伸浩さん(48)が「佐賀平野説」、山口県光市の郷土史家、古野秀夫さん(87)が「甘木説」、横浜市の広告代理店勤務、菊池秀夫さん(51)は「筑後山門説」を主張する。
大会は午前10時開始。参加費は昼食付きで2千円で、事前申し込みが必要。29日午後6時半には論者を囲む飲食付きの前夜祭(参加費3千円)を同市別府のリバーサイドホテルで開く。
15日午後1時からは初心者向けの講演会、29日同2時半からは史跡ツアーがある。いずれも無料。同市観光協会=0978(37)0202。
・新調された衣装を披露するミス卑弥呼の佐藤博美さん(中央)やミス壱与の行時未加さん(左)たち
※参考サイト 宇佐市観光協会
http://www.usa-kanko.jp/news/1005-yamataikoku.html
895 :
日本@名無史さん:2010/05/17(月) 05:17:30
>>982 鬼界カルデラの噴火ってのは縄文時代(7300年前)だから。
九州の縄文文化が壊滅的な打撃を受けたことは確かだが。
集落が滅んだ話と、文明が滅んだ話を、同一視している件について
897 :
日本@名無史さん:2010/05/17(月) 22:51:48
渤海も白頭山の噴火で滅んでいるし、火山の噴火と降灰、生態系への影響は長期間に及んで文明を滅ぼす要因になります。
渤海の衰退に歩調を合わせるように、倭の五王安東将軍の子孫、津軽十三湊の安東氏も衰退している。
渤海と文明を同列にして語る過ちについて
アイスランドの火山噴火による異常気象から食糧不足が起きて、
それがフランス革命の大きな原因の一つになったんだって。
富士山の噴火で富士王朝は衰退し、大和朝廷の支配をうけるようになった。
藤原氏は富士王朝の末裔です。
東北地方には、中臣鎌足が藤原姓を賜姓される前に東北に逃れた富士原姓の人が結構います。
「藤原」が賜姓だと言われてるけど、「中臣」(なかつおみ)が大和朝廷における称号だよな
「藤原」は元から持っていた名前であって、鎌足の子孫が開いた都が藤原京(ふじわらのみやこ)
平安京は「たいらのみやこ」と読んで、平家の開いた都
902 :
日本@名無史さん:2010/05/24(月) 21:50:35
■前中津市長らが自説披露 邪馬台国論争大会−−30日、宇佐市 /大分
毎日新聞 2010年5月18日
http://mainichi.jp/area/oita/news/20100518ddlk44040724000c.html ◇多彩な5人の論者決まる
アマチュア研究家が古代史最大の謎に迫る「第6回全日本邪馬台国論争大会」(宇佐市観光協会など主催)を前に15日、宇佐神宮上宮本殿前広場で、ミニ独立国「新邪馬台国」の高橋宜宏(よしひろ)総裁(同市議)らが会見し、弁論者を発表した。
会見にはミス卑弥呼の銀行員、佐藤博美さん(23)とミス壱与の信金職員、行時未加さん(22)=ともに市内在住=が邪馬台国の礼装で姿を見せ、花を添えた。
大会は神宮参集殿で30日午前10時から。コーディネーターは「新・武士道」などの著書がある作家・評論家の岬龍一郎さん。
中津市長を4期務め、「卑弥呼の使い」など著書があり、邪馬台国に造詣が深い鈴木一郎さん(75)が「福岡県飯塚市」を主張する。鈴木さんは「自信を持って16年間の研究を披露したい。意見交換が楽しみだ」と話した。
他に「佐賀平野」の茨城県土浦市の獣医ら4人が自説を披露する。応募17件のうち1件だけ畿内説があったが、論理的ではないとして採用されなかった。
新邪馬台国は、故高木彬光さんが「邪馬台国は宇佐」を推理した小説「邪馬台国の秘密」から着想したパロディー国家。国旗、国歌も制定した。先進国サミットならぬ「後進国サミット」を開催したこともある。
89年に鎖国をしたが、昨年開国し、23年ぶりに論争大会を復活させた。参加料は昼食付き2000円。問い合わせは同観光協会(0978・37・0202)。【大漉実知朗】
※宇佐市観光協会 イベント情報・全日本邪馬台国論争大会
http://www.usa-kanko.jp/news/1005-yamataikoku.html
903 :
日本@名無史さん:2010/05/26(水) 23:14:54
■「邪馬台国宇佐説」 年内にも漫画出版へ
大分合同新聞2010年05月26日
http://www.oita-press.co.jp/localNews/2010_127483506313.html 「邪馬台国宇佐説」を唱える古代史研究家の山上智さん(61)=横浜市=と漫画家の小林裕美子さん(36)=東京都=が宇佐説をモチーフにした漫画の出版に向け、宇佐市や豊後高田市を取材で訪れた。
山上さんは以前から宇佐神宮を中心とした地が邪馬台国の所在地で、頂上にストーンサークル(環状列石)がある豊後高田市の猪群山(いのむれやま)が卑弥呼の墓―と主張。宇佐説を題材にした山上さんの構想を原作に、小林さんが漫画を描くという。
タイトルは「古代史探偵タケル」。
中学生3人組が主人公で、所在地を突き止める旅をしながら、魏志倭人伝などのさまざまな謎解きに挑む―という内容。
今回の取材では宇佐神宮、猪群山、宇佐風土記の丘などを4日間かけて巡り、「引き込まれるものがあり、パワースポットのような印象を受けた。漫画で分かりやすく魅力を伝えたい」と小林さん。
2人は30日の全日本邪馬台国論争大会にも参加し、漫画は年内をめどに出版する予定。山上さんは「できれば大分の出版社から出したい。宇佐・国東半島を邪馬台国の所在地として有名にしたい」と話している。
・邪馬台国宇佐説を題材にした漫画の出版に向け、宇佐神宮を取材する古代史研究家の山上さん(左)と漫画化の小林さん
http://www.oita-press.co.jp/mobile/data/local_news/2010/05/2010_127483506142.jpg
904 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 20:57:34
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
905 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 21:35:21
■邪馬台国いったいどこ? アマ研究家の珍説に爆笑 宇佐市で論争大会
西日本新聞 2010/05/31
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/175181 古代史最大の謎、邪馬台国の所在地について素人研究家が議論を交わす「第6回全日本邪馬台国論争大会」が30日、宇佐市南宇佐の宇佐神宮で開かれた。会場では論者の珍説に爆笑が起き、自説を繰り出す一般参加者も出て熱気に包まれた。
大会は昨年、23年ぶりに復活。今回は全国から約200人が参加した。
論者5人のうち、福岡県久留米市の福島雅彦さん(70)は同市説を紹介。卑弥呼の居場所を聞かれた倭人(わじん)が筑後弁で「天(あま)たい」と答えた際、魏の書記官は「やまたい」と聞こえた上、国名と勘違いしたという。
元中津市長の鈴木一郎さん(75)は、邪馬台国を邪馬壹(いち)国と呼び、銅鏡や甕棺(かめかん)が多数出土し、地名の由来に近いという同県飯塚市が卑弥呼の墓だと訴えた。
3回目の参加という日田市若宮町の藤井章照さん(57)は「素人の発想は専門家にない面白さがある」。
討論の進行を務めた岬龍一郎さんは「歴史は国民の共有財産。皆さんの知的好奇心を次世代につなげていこう」と大会を締めくくった。
会場には宇佐説を主張する横浜市の古代史研究家、山上智さん(61)と、東京都の漫画家、小林裕美子さん(36)が来場。邪馬台国の所在地を探して旅する中学生を題材にした「古代史探偵タケル」を年内に出版するという。
豊後高田市の猪群山のストーンサークルが卑弥呼の墓だとする仮説DVDも作成した。
【写真】邪馬台国など古代史を題材にした漫画をつくる漫画家、小林裕美子さん(左)と古代史研究家、山上智さん
906 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 23:17:59
14 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/11/22(日) 17:37:21
このスレは伸びない
♪ドンと撲滅しよう 畿内詐欺説♪ なら伸びる
909 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 02:10:07
910 :
阿蘇山は移動した:2010/08/04(水) 12:08:51
911 :
阿蘇山は移動した:2010/08/04(水) 12:14:47
奴国を福岡として、そこから東の海岸を不彌国とすると水行は、
南と瀬戸内海の東しかいけない。季節による日の出の30度の
ズレたとこは陸があるから。当時は、陸の地形見ながらの航海。
地形は季節により変わるのだろうか?東と南の地形は間違える
くらい似てるのだろうか?
912 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/08/05(木) 11:40:35
以前、メルマガのサンプル号だけ拝見させてもらったことがありましたが、
まぁ新しいことは何もなさそうな感じでしょうか。
例えば、奴國を福岡平野に比定されていますが、
末廬國から奴國までの方位と里程が合わないことは、
何の説明もされていないように思えます。
不彌國の比定地がどこなのか不明ですが、南や東といわれるのは、
有明海沿岸か宇佐あたりを考えられているのでしょうか。
行程の日数表記と、これと1万2千里との関係なども
どう考えておられるのか分かりませんが、どうなのでしょう。
日の出の30度のズレ、などというのは、失礼ながら貴方の頭が悪いだけであって、
当時の中国人が貴方と同様に頭の悪い者だったなどとは、考えないほうがよいと
私は思うのですがどうでしょうか。
徒然思うままに書いてみました。
913 :
阿蘇山は移動した:2010/08/05(木) 18:29:51
奴国までは従来の研究結果でいいと思ってます。ここまで定説と考えて
ます。不彌国から、南水行なので、方位の東を使い、距離を無視して
行橋市付近としてます。距離と水行どちらをとるかです。
日数表記の距離は次のメルマガでかきます。13日のは邪馬台国
論争が起きた原因についてかいてあります。1月は無料です。
読んでみては。
12000里は、郡から狗邪韓国までが7000里。倭の端から端まで
が5000里。郡から邪馬台国までが12000里と考えてます。
つまり、邪馬台国は倭の端にあると考えてます。
日の出の30度のズレはおっしゃるとおり私がバカなのです。失礼では
ありませんよ。日の出方位は季節により、夏では北に30度ズレます。
しかし、日没も北に30度ズレますので南は季節により1度もズレません。
まして、地形を見ながらの航海なら方位はあまり関係ないのかも?
徒然思うままにお返事いたしました。今後もよろしくご指導ください。
914 :
日本@名無史さん:2010/08/05(木) 23:48:21
もう頑張らなくていいんだ。
夢は終わったんだよ。
915 :
阿蘇山は移動した:2010/08/06(金) 00:51:30
>>912 伊作さんではないですか。あなたは天才です。あなたはすべてただしいです。
だから私にコメントしないでください。
916 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/08/08(日) 08:15:04
>>913 時間がなくてレス遅れてます、すみません。
>>1月は無料です。
どうすれば読めるのか、分かりませんでした。
917 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/08/11(水) 01:09:34
>>913 少し間が空きました。今回も疑問が多いですが、よろしくお願いします。
奴國まで定説で、不彌國が定説の宇美町を採らない理由がよくわかりません。
行橋は福岡のほぼ東ですが、そもそも30度のズレというのは何故持ち出したのでしょうか。
唐津市から前原は東南という記述と90度ほどのズレですが、こちらは説明不足でしょうか。
行橋まで陸行でその後水行という理由はあるのでしょうか。
また間にある飯塚、田川、あるいは宗像、遠賀、北九州が行程に書かれていない理由はどうでしょう。
5000里は「周旋可五千餘里」から来ている数値でしょうが、これは12000里−7000里で算出したものでしょう。
「今使譯所通三十國」「當在會稽東冶之東」と並んで同一の第三者の、感想のような記述です。
この人物は狗邪韓國を倭の國の1つと思っていたことが分かりますが、これはもちろん梯儁でも張政でも陳寿でもない人物です。
918 :
日本@名無史さん:2010/08/11(水) 09:59:57
記述の通りに移動したら佐賀
でも前原も捨てがたい。
平和時の公式ルートは、前原を経由して奴国から鳥栖へ
戦闘時の回避ルートは、佐賀へ
それがごっちゃになった。
それくらいしか思いつかん。
919 :
日本@名無史さん:2010/08/11(水) 22:59:11
高校野球のスレ見ていたら、福岡代表の西日本短大付属高校は八女市にあるらしい。
その八女の人が、八女は明太子文化圏ではなく、高菜文化圏だと言っていた。
福岡よりも熊本寄りの文化圏という意味だろうか。
岩戸山古墳などの石人・石馬は、ここが発祥とも言われるが、逆に熊本の方の
影響を受けていると言えるかもしれない。
熊本には石人がかなり広く分布しているし。
となると、筑後川の南側は、熊本まで同じ文化圏だった可能性がある。
邪馬台国は九州である。
921 :
日本@名無史さん:2010/09/04(土) 12:49:15
九州以外は考えられないね♪
九州はもうだめぼ…
923 :
日本@名無史さん:2010/09/04(土) 12:53:09
何でさー
924 :
日本@名無史さん:2010/09/04(土) 15:35:27
高菜、食べてしまったんですかー!?
925 :
阿蘇山は移動した:2010/09/05(日) 18:02:03
放射式は誤り。邪馬台国へ行くまでの記事です。放射式では投馬国の説明
がいらなくなる。不彌国も。連続式が正しい。
投馬国は児島半島のことです
927 :
阿蘇山は移動した:2010/09/05(日) 20:10:15
928 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 22:49:41
■海を渡った黄と紫色のガラス玉 福岡・糸島市の「伊都国」で出土
西日本新聞 2010年9月5日
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/195412 古代「伊都国」の王都があったとされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で出土したガラス小玉(弥生時代後期)に、国内では極めて珍しい黄色と紫色の小玉が含まれていたことが4日、分かった。
同市教委によると、ガラス小玉は黄色が2004年度、紫色が06年度の発掘調査で確認された。黄色は直径約5ミリで、甕棺(かめかん)の中から青、緑色のガラス玉と一緒に4個が出土した。
紫色は二つの木棺からそれぞれ中国製の銅鏡とともに見つかり、直径約1ミリの小玉が計185個。いずれも穴があり、ひもを通して首飾りなどに使ったとみられる。
同市教委は、黄色と紫色の小玉の成分について、それぞれ福岡市埋蔵文化財センターと奈良文化財研究所(奈良市)に分析を依頼。
黄色はソーダ石灰ガラスで西アジアから北アフリカ、欧州に分布、紫色はカリウムを多く含むカリガラスで、インドから東アジアにかけて分布していることが分かった。
糸島市教委文化課の江崎靖隆主任は
「当時、国内では着色できない色で、一緒に出土した中国製の銅鏡などと大陸から入ってきたとみられる。伊都国が大陸と交流する中心地だったことを示している」
と話している。
929 :
阿蘇山は移動した:
南端の北に南端は存在する。
これが邪馬台国問題解決の鍵だと思う。
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