77 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 21:25:44
別に頼朝のもとに馳せ参じたからといって、二家とも源氏を称したりはしていないでしょ。
↑俺が変なこと言うとたしなめてくれる優しいヒト
よく部活の先輩にいるタイプ
79 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 22:11:33
むさ上→相模
むさ下→武蔵
「ムサ」とは何ぞや
81 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 19:16:25
ムサ・ジャパンの事。以前はゼロ・ハリバートンつう
アタッシュの代理店だったが現在は山下町で花屋を展開。
鶴が丘八幡宮に参拝してきた・・・
階段で歴史を感じて小町通りで失せた
100 いかず修了・・・
84 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 12:11:54
ここまで波多野党の話題無し
85 :
日本@名無史さん:2010/01/30(土) 11:19:37
>>82 俺は初詣は武蔵総社の大國魂神社に行ってきた。
武州多摩者なので。
けど、今度クロスバイク買うので、境川サイクリングロードかっとばして鶴ヶ丘八幡宮にも参拝してくるぜ!
86 :
日本@名無史さん:2010/02/03(水) 14:56:58
梶原から鎌倉駅まで歩いたときに源氏山公園付近で武士がでてきたぜ
87 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 12:10:20
『海道記』
抑相模国鎌倉郡ハ、下界ノ鹿渋苑、天朝ノ築塩洲也。
武将ノ林ヲナス、万栄ノ花万ニヒラケ、勇士ノ道ニ昌ヘタリ、
百歩ノ柳百タヒ中ル。
弓ハ暁ノ月ニ似タリ、一張ソハタチテ胸ヲ照ラシ、
剣ハ秋ノ霜ノ如シ、三尺タレテ腰ススシ。
勝闘ノ一陣ニハ爪ヲ楯ニシテ寇ヲ此ニ伏ス。
猛蒙ノ三兵ハ手ニシタカへテ互ニ雄称ス。
干戈威厳シテ梟鳥敢テカケラス。
誅戮罪キヒシクシテ虎狼永ク絶タリ。
此故ニ一朝の春ノ梢ハ東風ニアフカレテ恵ヲマシ、
四海ノ潮ノ音ハ東日ニ照サレテ波ヲ澄セリ。
貴賤臣妾ノ往還スル多駅ノ道隣ヲシメ、
朝儀国務ノ理乱ハ万諸ノ機カタカタニ織ナス。
89 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 02:12:22
>>82 小町通りで売ってる酒饅頭は上手いよ。
あとは、近為の漬物。
近為は八幡様つながりで門前仲町にもあるけど。
でもとうとう2年連続で食えなかったなあ。
>>87 やっぱり景時には遺恨があるんだろうかねw
91 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 06:16:50
>>84 波多野党は調べると結構面白い。
ただ、三浦党や鎌倉党に比べて、資料が少ないのが難点。
資料が少ないから、
当然、研究者などによって書かれた書物なんかも少ないものになってしまう、
それが残念。
強風でクグョウ隠れるとこなくなったね
93 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 09:01:00
94 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 00:12:14
村岡忠通は二人居るで!
95 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 00:29:39
寒川はもとは「サガ」と読んでいたの?
96 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 13:31:45
さがみの国府ってどこよ?
97 :
日本@名無史さん:2010/05/04(火) 15:25:38
せまい路地、坂道、ジメジメ
鎌倉は車で観光でけまへんでぇ〜
歩きなはれ
>>96 大磯に国府本郷って地名がある。
たぶんそのあたりなのでは。
三浦一族は衣笠城から逃げて安房国猟島(千葉県安房郡)へ撤退
ここに頼朝合流テカ
100 :
日本@名無史さん:2010/05/17(月) 13:26:22
100get!
三浦義村がもっと野心があったら三浦半島がお江戸になってたでしょう
いやむしろ器が小さい割りに野心があリ過ぎたから身内を裏切ったんだよ
おそらく身の程を知って和田に従属してたら・・・それは正しい
>>99 三浦は房総から海を渡って来た一族なのかね?
104 :
日本@名無史さん:2010/06/04(金) 10:39:43
>>91 秦野氏の領域は元々、相模でも最も早くに栄えた地域とむかし何かで読んだことある
たしか旧東海道の主要道筋に当たるんだっけ?
105 :
日本@名無史さん:2010/06/04(金) 10:45:58
秦野→波多野
106 :
日本@名無史さん:2010/06/04(金) 19:04:58
>>103 三浦義明の娘が、安房の豪族に嫁いでいたからじゃないか。
それに当時の交通事情で、江戸湾の海上交通が栄えていたからね。
>>104 そう。
ただし、街道が変わってしまったらしい。
もともと波多野は、在庁官人の有力者だったそうだが。
107 :
日本@名無史さん:2010/06/04(金) 22:12:09
>>104 ざっくり言うと、波多野党の成り立ちは、
秦氏がベースになって開発した(11世紀初頭位までか?)土地に、
目代として中央から相模に赴任してきた佐伯宿祢が(11世紀前半。源頼信の斡旋によるもの)、在地豪族であった秦氏と姻戚関係を結んで波多野荘の荘官となっていったもの。
更にその後、受領として赴任してきた藤原氏秀郷流の佐藤氏と姻戚関係を結んで(11世紀後半〜12世紀初頭ころか?)、秀郷流藤原氏を称する一族になっていったものと思われる。
108 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 17:11:33
浜降祭行った人いる?
109 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 14:17:42
秦氏の婿の佐伯氏に佐藤氏が婿入りし、それを吉見氏の外孫が継承した?
>吉見氏の外孫
て誰?
丹波波多野氏?
111 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 18:51:20
継承の意味が惣領家を継いだという意味なら、
鎌倉期に六波羅評定衆をつとめ、
室町期には室町幕府評定衆をつとめた越前波多野氏だろ。
また、勢力的な意味で言うなら大友氏、近世なら立花氏かな?
112 :
日本@名無史さん:2010/08/01(日) 00:01:37
鎌倉権五郎景政の生母・正室って一切不明なの?
113 :
日本@名無史さん:2010/08/06(金) 20:18:25
114 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 14:39:13
>>112 鎌倉郡の在地豪族に平氏が婿入りしたんじゃね?
あの辺だったら、相模国造とか、足鏡別の後裔・鎌倉別氏とか。
115 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 21:42:37
古代氏族の末裔である
女系の
アンチ宝賀
116 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 00:15:06
宝賀にも困ったもんだなー
氏姓制度、律令制度、王朝国家制度の各時代に地方に下向した中下級貴族が、
例え任期が切れたからといって、せっかく数年間腐心して勤め上げた土地に、何ら己が勢力を築き上げることも無しに、
ただすごすごと都に帰って、唯々諾々と元のウダツの上がらないポストに就くことに甘んじるとでも思ってんのかねー。
太田亮のような大正〜昭和初期の時代に活躍した世代ならばそう考えるのも仕方がないが、
今現在では、中央貴族が地方に赴任した場合、
貴族、在地豪族それぞれの思惑の一致から、互いの繋がりを強固にしてきたことが分かってきているのに。
中世末期に貴族の職掌の分業化が起こってきてからは尚更のこと。
特に兵の家(中央軍事貴族)は日本各地の地方豪族から歓待を受けるようになっていったのだ。
117 :
116:2010/08/16(月) 00:34:57
中世末期に(×)
↓
古代末期に(○)
118 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 22:06:37
やっぱ梶原氏が最強でしょ?
119 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 22:53:43
宝賀のこと客観的に評価しているサイトないものか
彼の信者の所は初期上杉氏すら仮帽にしている
120 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 23:17:01
宝賀の論調
・招婿婚の無視
・系図混乱の要因が「仮冒」一択
・地方下向貴族(源平藤橘他)の末裔の行方を無視
・尊卑分脈の軽視
・すこしでも矛盾があれば「古代豪族の末裔であろう」
宝賀スレでも建ててやってくれ
ここはオマエの御託の披露宴じゃない
122 :
日本@名無史さん:2010/08/17(火) 15:33:36
は?別に構わんだろ?
スレタイに挙がってる豪族はいずれも宝賀から仮冒呼ばわりされてるんだから、テーマから外れてるわけでもない。
それこそ
>>121よ
>ここはオマエの御託の披露宴
でも無いんだよ。
123 :
日本@名無史さん:2010/08/17(火) 23:07:52
丸子公景って何者?
124 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 01:19:06
>>123 平章名の岳父。
丸子連氏は大伴氏族とも和爾氏族とも、また物部氏族とも言われる。
坂東や陸奥ではまま聞くことのある氏族。
坂東は古代には対蝦夷戦の最前線(兵站基地)と位置付けられていたから、軍事氏族である大伴氏や物部氏の一族が相模に土着していたことは十分に考えられること。
因みに陸奥の道嶋宿禰氏も丸子一族。
125 :
日本@名無史さん:2010/08/20(金) 01:25:21
上杉謙信の祖先だね
126 :
日本@名無史さん:
山内首藤氏はいつ頃まで本貫地である鎌倉郡山内庄を領有出来ていたのか知ってる人いますか?
経俊の失脚と同時に失ったんでしょうか?