♪邪馬台国 ドンと来い♪57

このエントリーをはてなブックマークに追加
11
           r'丁´ ̄ ̄ ̄ ̄`7¬‐,-、          
        r'| |          |  |/  >、   
        ! | |          |  |レ'´/|    
        | | |   /\   |  |l  /⊂う   
        | | |__∠∠ヽ_\ |  リ /  j    
        |´ ̄   O   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`!     
        l'"´ ̄ ̄ヾ'"´ ̄ ̄`ヾ::幵ー{    
        ⊥,,,,,_、    ___,,,,,ヾ| l::::::|
         lヾ´ f}`7   ヘ´fj ̄フ  | l::i'⌒i
         l ,.ゝ‐イ    `‐=ニ、  | l´ ( } 
         l     {           | l 、_ノ  
        l   / ̄  ''ヽ、   | l ヽ_  
           !  ハ´ ̄ ̄ ̄`ト、  |亅〃/\
        ,人 f ´ ̄ ̄ ̄``ヾ  j ,!// {_っ )、
      // `ト、__iiiii______,レ'‐'//  _,/ /スァ-、
    ,.イl{ { 々 !/´しllllト、 ̄`ヽ、 // /´,.-、 /彑ゝ-{スァ-、
  ,.イ彑l l > ゞ く l 〃 l|ハ.lヽ、 ハVゝヽ二ノ/ゝ-{、彑ゝ-{、彑ァ-、
,.イ彑ゝ-'l l ( (,) レシ′   !l `ソァ'´    _ノ7{、彑ゝ-{、彑ゝ-{、彑{
ュゝ-{、彑l l  ` -イヘ      !l // /⌒ヽヾ/_ゝ-{、彑ゝ-{、彑ゝ-{、
 {、彑ゝ-'l l f⌒Yハ ',    !l/ / ヽ_う ノ /-{、彑ゝ-{、彑ゝ-{、彑ゝ
彑ゝ-{、彑l l{ に!小 ヽ   /!l /   ,/ /彑ゝ-{、彑ゝ-{、彑ゝ-{、

九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー

■前スレ
♪邪馬台国 ドンと来い♪56
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1254810358/

■倭人伝
http://www.seisaku.bz/
2日本@名無史さん:2009/10/19(月) 09:43:11
ドン来いもどんどん進んで、ようやく日向説に勝る説はないということが明らかに
なってきたな。何と言っても、倭人伝の行程記事のままで、どこも改変しなくてよい。
周旋五千里、東渡海千里など諸条件も問題なし。
日向の弥生遺跡、多くの古墳などが日向こそ九州でもっとも栄えたところであること
を裏付けている。中国史書、記紀などが伝えるところとも合致する。
さあ、異論がある方はどうぞ。
3日本@名無史さん:2009/10/19(月) 10:08:27
>>2
日向説なんか誰も相手にしてないよ。
4日本@名無史さん:2009/10/19(月) 10:11:21
>>1

これは誰?
ずいぶん厳めしい顔のオッサンだがww
5日本@名無史さん:2009/10/19(月) 10:20:01
>>4
待て あわてるな それは孔明の罠だ
6日本@名無史さん:2009/10/19(月) 11:15:37
残り994レス有る。
数多あると言う日向の出現期古墳について具体的に語ろうではないかw
7日本@名無史さん:2009/10/19(月) 11:17:31
邪馬台国=都城説か?
8日本@名無史さん:2009/10/19(月) 11:40:56
>>6
日向に出現期の古墳が全くないので話しになりませんwwww
9日本@名無史さん:2009/10/19(月) 16:50:54
邪馬台国は伊都国や奴国などと傍の国々とで構成された北部九州の連合国です。
10日本@名無史さん:2009/10/19(月) 16:56:03
>>8
あなたの知識が古すぎるんでしょうね。日向には出現期の古墳がたくさんあるんですよ。
11日本@名無史さん:2009/10/19(月) 18:00:42
だから早く具体例を出せよ(怒
12縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/19(月) 18:14:36
前スレの>>998
保存食の出土の件について反論を受けていたので、私の書き込みを若干補足する。
南九州でも米や木の実などの炭化物が出土しているとの指摘であるが(私は別の人の魚などの塩漬
や干物などの保存食の話の流れでレスしたことを確認して貰いたいが)、魚や肉などの保存食は火災
などで焼けた場合、そのまま地中に埋もれることは少ないと考えられる。完全に炭になれば別だが、
部分的にでも未炭化の部分があれば獣が食べたり持ち去ったりするであろう。だから、炭化物で残り、
かつ後世に発掘される機会は極めて稀であろう。さらに、米や小型の堅果類と異なって大きな食品の
炭化物は脆く壊れ易いので発見が難しいとも考えられる。
13日本@名無史さん:2009/10/19(月) 18:52:59
南九州は、大陸と通行してたにしては遺物が少なすぎる。岡村編年は気にいらないだろうが、このデータを
どう見るかだな。
http://uproda.2ch-library.com/181414BQr/lib181414.jpg
http://uproda.2ch-library.com/181413o4N/lib181413.jpg
14日本@名無史さん:2009/10/19(月) 19:15:58
つまり、弥生でもかなり早い時代から鏡は南九州には入っていない。これは他の青銅器や鉄器も同様で、
九州内では北が南を圧倒している。邪馬台国九州説が鉄器量の圧倒的優位性から畿内説を攻撃するのは
論拠があるといえるだろうが、南九州がその範疇に入ると説く九州説はきわめて少ない。
15日本@名無史さん:2009/10/19(月) 19:23:32
>>13
そんなの初めっから共通認識だと思ってたが
日向は、弥生式墳墓(閉鎖的に地味に発展した土着の政権)→前方後円墳(畿内の傘下に入った後)
という、何処にでもある様な地方豪族の経緯だと思うが
16日本@名無史さん:2009/10/19(月) 19:37:09
>>15
もちろん基本的にその認識でよいのだが、2の人はそうではない。今にわかるよ。

ところで宮崎県といえば、まず西都原81号墳なんだが、これが3世紀中頃から末葉とされる。箸墓より古い
などとも報道されたが、実際のところこのあたりの年代観はあいまいであり、地元土器と畿内土器の編年の
すり合わせはできていない。
http://kofunnomori.web.fc2.com/miyazaki/saito/m81.htm

3世紀であるとしても、同時期の纏向古墳群と比べて大きさで勝るものではないし、西都原古墳群の古墳を
時代時代で比較しても、畿内の古墳を凌駕するものはない。まったく地方豪族の流れでOKなんだがね。
17日本@名無史さん:2009/10/19(月) 19:57:17
あとは生目1号墳(墳長136m)なども3世紀後半と見られ、箸墓古墳の半分の大きさに設計した相似形とい
われることもある 。しかし、南九州の目はないと考えるのが通常の認識。これらについては地元の宮崎大学
でも、柳沢一男教授が毎日新聞に

>大和政権と呼ばれているものは全国の豪族が広く連携したシステムと考えられ、南九州の勢力もいち早く、
  古墳を取り入れたと言えるのではないか。

との談話を述べている。
18日本@名無史さん:2009/10/19(月) 20:11:16
ところで俺は西都原などの勢力が早くにヤマト王権に帰属したのは、熊襲、あるいは日向隼人と呼ばれる
集団との対抗関係も原因の一つと考えてるんだが、このあたりはなかなか難しい。
19日本@名無史さん:2009/10/19(月) 20:38:55
>>18
「何処にでもある様な地方豪族の経緯」というのは、
大和の王族がその地に赴いて政権を継承したという意味なんだが
地方豪族が大和の墓制を取り入れた、或いは許可された、という事ではなく、
全国にある前方後円墳は大和の人の墓なんだよ
20日本@名無史さん:2009/10/19(月) 20:53:12
>>19
それはムチャではないかな。すべてが地元人でないとする論拠は?また、明らかに一族の後世代のものと
考えられる前方後円墳もあるのだが。
21日本@名無史さん:2009/10/19(月) 21:01:31
>>20
自分でも言い過ぎだと思うwww
でも墓制とか祭祀って氏族固有のものだろうしね
全国に前方後円墳が造られ始める頃をもって、地方豪族→大和 への政権委譲(国譲り)
地方豪族(王)→国造 への格下げ
律令時代になって、国造→郡司 への格下げ、と続く
2221:2009/10/19(月) 21:16:36
国造数
畿内 4
東海 33
東山 19
北陸 12
山陰 8
山陽 19
南海 13
西海 18
-------------
 計 126

日向は日向国造ひとりしか居ない

↓に載ってる
http://mononobe.nobody.jp/kujihonki/kokuzou.htm
23日本@名無史さん:2009/10/19(月) 21:32:08
ただまあ、南九州がずっと隼人等に悩まされてきたのは間違いないというか、そちらが本筋だったか。
700年覓国使の威嚇事件。702年唱更国の設置。713年大隅国設置.。721年大伴旅人による隼人の叛乱の
征討。そして、古事記の献上が712年。日本書紀の完成が720年。・・・このあたり実に興味深い。
24日本@名無史さん :2009/10/19(月) 21:42:06
関東の前方後円墳はほとんど、6世紀から7世紀の物ばかりで、
時代も100年余りの極短期間に集中している。
ということは近畿王朝の人々が関東以北に進出して国を作り初めて、
間もなく、古墳時代は終結していったということだ。
ということは、近畿王朝の力が関東以北に及んできたのが6世紀ころからだ。
稲荷山古墳の鉄剣に見られるワカタケルの銘文は471年が定説ではあるが、
干支からいうと、531年説も十分考えられ、こちらの方が有力だ。
ということは、近畿の大型古墳は関東、中国、四国、九州を勢力化に置いたからこそ、
大きな古墳が出来たと想像できるし、5世紀末から7世紀にかけてのもだと思われる。
3世紀からすでに全国に近畿勢力が蔓延していたなら、なぜ関東の前方後円墳があんなにも
時代が遅れたものであるかとの説明がつかない。
関東の100年余りで消えた前方後円墳のスピードから言って、近畿の大古墳は5世紀末〜7世紀のものと
見るのが極自然だ。
25日本@名無史さん:2009/10/19(月) 21:47:58
>>24

ハァ?
7世紀に前方後円墳って・・・・
日向を古くするのを諦めて、今度は全体を新しくしちまおうってか?
いやはや、何とも・・・
26日本@名無史さん:2009/10/19(月) 21:49:43
>>24
千葉の神門とか古いじゃん。
27日本@名無史さん :2009/10/19(月) 21:51:00
>>25
日向説だと思っている自点で終わってるw
想像力ないヤツ
28日本@名無史さん:2009/10/19(月) 21:51:40
ちょっと長くなるが、読売新聞から引用しよう。

>古墳の年代は周溝などから出土した土器や円筒埴輪の形式によって推定されるが、未発掘の古墳がほ
  とんどで、発掘されていても遺物が少ない南九州では、こうした手法が採用できない。このため柳沢一男
宮崎大教授は古墳の墳形に注目した。

「その結果、奈良県大和盆地東南部に分布する前期古墳をそのまま縮小したと思われる相似形の古墳が
存在することがわかってきたのです」

例えば宮崎市の生目古墳群1号墳(墳長139m)は箸墓古墳(墳長280m)の2分の1、鹿児島県高山町の
  塚崎古墳群10号墳(墳長40m)は行燈山古墳(崇神天皇陵、墳長240m)の6分の1の平面規格という。前
方部と後円部の長さの比や、古墳中央部のくびれ具合までぴったり相似することを偶然と見なすわけにはい
くまい。
29唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/19(月) 21:52:19
>>19
景行時代なら支持される。
3013:2009/10/19(月) 21:53:47
> 「これらは畿内の大型古墳の規格に従ったもので、築造時期はモデルの古墳とほぼ同時期と考えられ
  る。定型化した最古の前方後円墳とされる箸墓や、これより古いとされる纒向型古墳と同タイプのものも
  あり、古墳の出現は畿内とほぼ同時期といえる」

  前方後円墳という共通のシンボルを持つヤマト政権は、畿内勢力が武力で他を従えたというより、初期の
  古墳が分布する畿内、吉備、讃岐、豊前などの各勢力がヤマトの大王を盟主に抱いた連合政権と考えら
  れている。南九州に初期の古墳が存在する事実は、ヤマト政権成立当初から、日向がその構成員であっ
  たことを物語っている。
31唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/19(月) 21:55:11
>>24
関東地方の古墳は、稲荷山鉄剣の銘文により
他地方より約100年は、遅くなっている。
3213:2009/10/19(月) 21:57:20
>こうした勢力は古墳時代に突如出現したわけではなく弥生時代にその萌芽を見いだすことができる。南九
 州はこれまで弥生文化の僻遠の地とみられていたが、近年の発掘で宮崎市の檍遺跡、下郷遺跡など、北
 部九州や畿内同様に環濠集落が存在することが明らかになってきた。

 柳沢さんは日向のヤマト政権参画の目的を「朝鮮半島からの安定した鉄資源の確保にあった」とみる。農具
 や武器の素材として欠かせない鉄が国産となるのは5世紀末以降でそれまでは朝鮮半島南部(弁辰)からの
 輸入に頼っていた。「弥生時代まで半島との交渉を握っていた北部九州勢力に頼らず鉄資源を入手するため、
 瀬戸内海沿岸と日向の勢力が構築した首長ネットワークこそがヤマト政権ではないか」

 日向で当初最も有力だったと考えられるのが生目古墳群を造営した勢力だ。ここでは前述の1号墳を始め、日
 向の古墳群の中では突出した墳長120―140メートル級の前方後円墳3基が4世紀末まで継続して営まれた。
 ところが5世紀になると同古墳群の古墳は小型化し、代わって西都市の西都原古墳群に2基の巨大古墳が出現
 する。
33日本@名無史さん :2009/10/19(月) 22:01:31
それに王権が出来たばかりは大型古墳を作れる財力も人数もいない。
よって、近畿の大型古墳は在る程度、成立した時期がら経ったもので、
全国をその勢力化においたからこそ、出来たものだと思われる。
学者説のいう、近畿が先に大型前方後円墳を作り、それが全国に広がったのではなく、
全国に広がったからこそ造れた大型古墳だといえる。
34日本@名無史さん:2009/10/19(月) 22:07:33
関東を含めた東海・東国の古墳を論じるなら
前方後方墳を視野に入れなきゃ駄目だ。


前方後円墳+前方後方墳をひっくるめた正式な言い方が分からんので、
仮に「有前方部古墳」としておくが
そういう視点で関東の古墳時代を見たら、やはり前期からとても重要な地域だ。
3513:2009/10/19(月) 22:13:04
まあ、宮崎大学の柳沢氏の言がすべて正しいといってるわけではないが、南九州の古墳の年代といっても
土器編年すらあやふやであるのは引用のとおり。しかし、いくら初期から日向がヤマト政権に参画していた
といっても、古墳築造の時期は少しずつ遅れ、また規模も小さいのは間違いないだろうと考えるね。

あと、纏向の古墳なら、ゆるやかな連合が少しずつ人を出して造った可能性はあるだろう。各地からの搬入
土器もそうだが、各地葬制の習合から見ても、連合のメンバーにより共同祭祀を行うことが結びつきを強める
ためにどうしても必要だったろう。
36日本@名無史さん:2009/10/19(月) 22:17:22
邪馬台国は筑紫です。間違いありません。
37日本@名無史さん:2009/10/19(月) 22:24:29
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
38日本@名無史さん:2009/10/19(月) 22:26:00
>>33はサイキバ級
39日本@名無史さん :2009/10/19(月) 22:28:41
>>35
>纏向の古墳ならゆるやかな連合が少しずつ人を出して造った可能性はあるだろう。
いや、その可能性はない。
強力な連合が大量に人々を同員して造った。

>各地葬制の習合から見ても、
習合しただろうか?葬制が習合する前に、古墳時代は終息に向かったと思われる。
支石墓、円墳、方溝周墓や四隅突出方墳などの方墳、前方後円墳等、異なった民族の墓制と思われる。
40日本@名無史さん :2009/10/19(月) 22:30:23
>>38
ボンクラ マヌケ
41日本@名無史さん :2009/10/19(月) 22:47:08
地方の前方後円墳規模が小さいのは時代が下ったからではなく、
近畿がその宗主国であるなら、地方のは中央から封じられた諸侯であるからだ。
元そこにいた土地の豪族はいただろうけど、それとは別。
諸侯はそこ豪族を抑え、中央政府は各地を勢力下に置いていったと考えれられる。
とうぜん前方後円墳は近畿王朝から来た領主の古墳。
4213:2009/10/19(月) 22:50:06
>>39
まあ、大人数なのかもしれないが、そこは争わないよ。それより重要なのは、おそらく各首長が古墳上で共食
儀礼的な殯の儀式を行ったと考えられることだ。長い倭国乱を治めた後だから、共同体の結びつきを確認す
るような宗教儀礼はどうしても必要だろう。

あと葬制の習合というのは、吉備の特殊器台、葺石、副葬の習慣などのことだな。前に別スレに書いたんだが
ゆるやかな連合では、それぞれのクニに独自の宗教概念があっただろう。ただ、連合としてまとまるとなれば
それらと矛盾せず、なおかつ上位概念となるような宗教が必要だったのだと思う。もちろん連合ができた要因
としては、鉄輸入ルートの確保などの確保もあるだろう。


4313:2009/10/19(月) 22:54:53
あら、 42 ×確保などの確保もあるだろう。 ○確保などもあるだろう。
44日本@名無史さん :2009/10/19(月) 22:58:24
卑弥呼の死後、男王がたったが国中が服さずに内乱が起こるような国に箸墓のような
大規模な古墳が造れるわけがない。
45うましか:2009/10/19(月) 23:02:51
>>39

「支石墓」は、ちょっと何ですが、少数主体の墳丘墓であれば形状の違いはあっても同じような祭祀形態だと思います。
デザインによる差別化又は単なるトレンドの問題なのかなと。
方溝周墓や四隅突出には古墳とは違うのでしょうが、同じく少数埋葬型であれば共通するところも多いのでは。

後期古墳期の百済系墓制の影響は、大雑把に見れば九州北部>畿内>関東の流れがあるように思います。
また、仏教思想の受容によって古墳築造は終息するわけですが、これも九州北部>畿内>関東に時間差があるかと。
ただし、出現期〜中期については、そのような流れに見えない。
前方後円墳と漢鏡(5〜6期)副葬を中心に畿内>九州に流れているよう考えます。
4613:2009/10/19(月) 23:11:37
41レスに対して、日向ついでで、少し面白い話がある。

5世紀前半あたりの、男狭穂塚(約175m)、女狭穂塚(約180m)は、記紀に仁徳天皇の外戚として葛城襲
津彦とともに名前が登場する日向国の諸県君牛諸井という人物がいるが、牛諸井の娘 髪長媛は、仁徳天皇
との間に大草香皇子、幡梭皇女を生んでいる。

で、男狭穂塚、女狭穂塚の被葬者はそれぞれ牛諸井と髪長媛ではないかというもの。女狭穂塚の規格は測
量により、大阪府藤井寺市の仲津山古墳(286m)の5分の3の相似形であることが明らかになっている。こ
の古墳は応神天皇の皇后だった仲津姫命の陵墓と伝承される。

男狭穂塚と女狭穂塚は、2つの古墳がほぼ同時期に近接して営まれていることから、被葬者同士が極めて
近い関係だったと推定され、女狭穂塚はその規模だけでなく盾形の周堀を持っていることからも、被葬者は
大王妃である髪長媛にふさわしいとし、それに寄り添うように築かれた巨大な男狭穂塚は、その父親であり大
王の外戚である牛諸井と比定するものだ。

俺は、この説はかなりいい線をいってると思うし、牛諸井は天皇の外戚ではあるが地元の人物だ。
4713:2009/10/19(月) 23:18:39
で、応神紀では、髪長媛の輿入時に諸県君一族は角のついたシカの皮を着て海を渡ってきた異形の集団
して描かれている。これは、この一族が熊襲と呼ばれる集団の一員であったことを示唆しているかもしれない。
で、これらの集団と姻戚関係を結ばなければならない必然が当時の大和朝廷にはあったということが考えられ
る。・・・このように日向の歴史は、熊襲あるいは日向隼人と呼ばれる勢力との関係を常に意識して考察して
いく必要があるだろう。
48日本@名無史さん:2009/10/19(月) 23:23:45
名無史、sageの縦目は本気 モードだからな。ww
49縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/19(月) 23:32:44
3世紀の墓についての記録として倭人伝の風俗記事がある。有棺無槨封土作冢。これは九州の弥生時代
の王墓とされる多くの墓に当てはまる。
巻向のホケノ山古墳は箸墓と近い時期に築造されたと見られているが、これには石の室に木槨が作られ
其の中に棺が設置されており、明らかに倭人伝の記述とは異なる。卑弥呼の時代に比べると随分後世の
墓の作り方と見るのが自然だろう。
50日本@名無史さん :2009/10/19(月) 23:32:59

同じく前方後円墳の流れは近畿中心であるとは思うが、
大型古墳の築造はいくらなんでも3世紀に遡ることはない。
そんなに早ければ、関東に近畿勢力が及ぶのはもっともっと早かったはず。
大型古墳を造れるということは、それだけ既に強大政権だったってことだから。
ゆるやかな連合ならば、関東の古墳が6世紀以降の短期間で終わる説明がつかない。
関東の古墳はもっと長い期間のものであって良いはず。であるから、近畿が在る程度
勢力拡大してからの大型古墳と見るのが自然で、関東までに及ぶようになったからこそ
強大になったという証であり関東の古墳築造を考えて、近畿の大型古墳は古くても5世紀末位からと考えるのが普通だ。
七世紀の大化の改新あたりまで大型古墳が築造されていたならば、約150年間で一世代平均10年の在位としても
15個の大型古墳が作れるし、その近親者の大型古墳もその程度作れるだろう。
近畿地方の大型古墳の数とほぼ合っているのでは?その辺未確認だけど。
仏教が伝わったのは6世紀後半から。
これは隋書で確かめられる。仏教が九州から次第に近畿に伝わり、
古墳時代が終息したであろうことは同意。
51日本@名無史さん :2009/10/19(月) 23:37:38
>>46
勿論、近畿王権から封じられた諸侯が地方の豪族を勢力下におさめるため、
姻戚関係を結ぶのがその当時の常識だ。
52日本@名無史さん:2009/10/19(月) 23:42:06
>>49

>有棺無槨封土作冢。これは九州の弥生時代
の王墓とされる多くの墓に当てはまる。


俺も九州説だけど、全然当てはまるわけないだろう。
当時の有棺無槨なんてどうやったら調べ確認することができるの?
タイムマシーンでも作って調べるの?
53日本@名無史さん :2009/10/19(月) 23:48:15
>>50
失礼、×150年間 約200年余り
54改め ◆qexCkQtLcY :2009/10/19(月) 23:51:31
邪馬台国スレっていうより、考古学スレになってるよね(笑)
んで、邪馬台国=日向と考えてる人がどれだけいるんだい?
55日本@名無史さん:2009/10/19(月) 23:59:20
>>54
宮崎県民ぐらいだろ。
日向と言われている段階で、肥後に支配されてるんだから
せいぜい 邪馬台国>日向だろ
56縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/20(火) 00:04:35
>>52
例えば平原遺跡は木の棺を土に埋めたもの、須久・岡本遺跡は甕棺を土に埋めたもの。正に有棺無槨だ。
57うましか:2009/10/20(火) 00:07:41
>>50

> 同じく前方後円墳の流れは近畿中心であるとは思うが、
> 大型古墳の築造はいくらなんでも3世紀に遡ることはない。

年代観の違いですね。

> そんなに早ければ、関東に近畿勢力が及ぶのはもっともっと早かったはず。

そうですか?
交易ネットワークの形成は西日本が先行して、関東の参加が遅かっただけでは?

> 大型古墳を造れるということは、それだけ既に強大政権だったってことだから。
> ゆるやかな連合ならば、関東の古墳が6世紀以降の短期間で終わる説明がつかない。
> 関東の古墳はもっと長い期間のものであって良いはず。

これも年代観の違いですね。
関東と言っても一律ではないと思いますが「六世紀以降」と言うのには不同意。

58ローガン:2009/10/20(火) 00:07:53
>>47
>このように日向の歴史は、熊襲あるいは日向隼人と呼ばれる勢力との関係を常に意識して考察して いく必要があるだろう。

ん?明大の吉村氏の説っぽいが…違うかなあ?
59縦目仮面:2009/10/20(火) 00:15:12
>>58
被葬者の比定は、県立西都原考古博物館の北郷泰道氏ですね。ただ、隼人の動静は、>>23 で書いた
ように記紀の成立にもかかわってるでしょう。

60縦目仮面:2009/10/20(火) 00:22:11
あと、モケノ山古墳の石囲い木槨が倭人伝の記述に合わないというのは、ひと頃安本美典氏が新聞コメント
の度に述べてましたが、他の古墳がどうなってるかはなんともいえないと思いますがね。このあたりは葬制
も思考錯誤期じゃないですかね。
61縦目仮面:2009/10/20(火) 00:29:13
あら、60はホケノです。
62日本@名無史さん :2009/10/20(火) 00:41:58
>>57
年代観の違いの一言じゃかたずけられないよ。
なぜ、どうしてかを説明しなきゃ。
63改め ◆qexCkQtLcY :2009/10/20(火) 01:06:31
>>55
宮崎説 大野氏の本は面白かったな・・・
ここの人はどうゆう計算でソコとしたのか
聞いてみたいですよね。
64日本@名無史さん:2009/10/20(火) 01:10:15
岡山県の楯築墳丘墓や伊都国の井原ヤリミゾ遺跡には
木槨構造があるみたいだなあ。
65日本@名無史さん:2009/10/20(火) 06:01:23
日向の古墳については、「日向の古墳は新しいものだ」という長い誤解の歴史があったことを
知らんといかんね。大正時代にお偉い先生方が日向の古墳を調査したと称して「日向の古墳は
5世紀以降だ」なんて言ったんだな。それで、井上の「日本国家の起源」でも「日向の古墳は
前期古墳と認められるものはなく、中期以降である」などとされ、つい2、30年前まではそ
れが常識とされていた。
だから、古い古墳が確認されても、それは例外だ、一つ、二つだろうってな調子で相変わらず
軽視されがちだ。しかし、そうではないんだな。日向にはいわゆる纏向型古墳もあれば箸墓型
もいくつかある。また、いわゆる手鏡式という前方部が細長いやつも40近くある。そういっ
た古墳は、以前は形態に注目されることなく5世紀ごろの古墳だとか4世紀としても後半だろ
うとかされていたが、日向の古墳が3世紀から始まっていた(>>16 >>17)となれば、それらの
古式古墳はぞろぞろとその形態が示す本来の時期に修正されていくということなんだ。今はそ
の修正がなされつつあるという状態だよ。
そして、日向に初期古墳が多いとなれば、畿内勢力が日向に進出してそれらを造らせたなんて話
がおかしいことは明白だ。弥生の終末、畿内では銅鐸の消滅が示すように勢力の交替があったば
かりだ。しかも、倭国の乱を必死に戦っていたはずだろ?南の果ての日向に大軍を派遣してる余
裕なんてあるはずはない。となれば、畿内勢力が日向に進出したのではなく、日向から畿内に進
出したとみなけりゃいかん。
66日本@名無史さん:2009/10/20(火) 06:39:38
>、畿内勢力が日向に進出したのではなく、日向から畿内に進出したとみなけりゃいかん。

そう見るのはあなたぐらいだと思うけどねえ。
67日本@名無史さん:2009/10/20(火) 06:50:16
>>56
それは「棺」ではなく「柩」ですね
倭人伝に書かれているのは「柩」ではなく「棺」です。
68日本@名無史さん:2009/10/20(火) 07:20:19
縄〇〇の自演はうざいな
69縦目仮面:2009/10/20(火) 07:25:18
いや、九州説論者は纏向古墳の年代遡上を根拠がないというが、>>28で引用したように、南九州の古墳は
さらに年代推定の根拠があいまいだ。ただ、畿内古墳と比較して形状の類似が認められるものは、総じて
畿内古墳の1/○と規模を縮小されている。南九州は畿内から見れば遠隔地であり、また、上からずっと書
いているように「まつろわぬ隼人」とのからみで経営に特段の配慮がなされているのは間違いないとは思うけ
どね。
70日本@名無史さん:2009/10/20(火) 08:15:41
>>65

だから、講釈はいいから。
キミの言ってようなことは、何年も前から一部の論者で言われていること。
で、そう言う見方があると言うことは、ここの大概の論者には既知の事項だ。
そう言う意見もあるとだけ、念仏のように唱えられても議論にはならない。
新たに問題提起をしたいのなら具体例を出しなさい。
71日本@名無史さん:2009/10/20(火) 10:08:50
>>70
>そう言う見方があると言うことは、ここの大概の論者には既知の事項だ。
>>8 >>11などをみると、まったく知らないのかなと思ったので、書いたまでだ。
「そうゆう見方」があって、現実に発掘の結果我が国で最古クラスの古墳が確認
された、となれば、その見方が正しかったということになりそうだな。
なんか、それに対して異論があるのかな? 具体例って何のことかな?
72日本@名無史さん:2009/10/20(火) 11:06:05
古墳なんて所詮宗教上のもの、
当時の文化交流は推測できても
政治権力の広がりまでは分からない。
古墳の研究では邪馬台国が何処にあったかは解明出来ん。
73日本@名無史さん:2009/10/20(火) 11:49:34
>>69
>「まつろわぬ隼人」とのからみ
これには、どんな証拠があるのかな? 日向と畿内の交流は弥生時代から認められる
んだよ。しかも、古墳も初めの形式から共通したものを造っている。平和的な文化交
流と考えるべきだと思うが、考古学的に何か戦闘の証拠でもあるのかな?
どうして「まつろわぬ隼人」なんて話になるのか不思議だねえ。
74日本@名無史さん:2009/10/20(火) 12:20:52
俺も気になるなw

ハヤトとやらの土人ぶりを記録した朝廷中枢側の記録を見てみたい。
75日本@名無史さん:2009/10/20(火) 12:23:49
>>71

キミがたくさん有ると主張しながら、その比定先を明かそうとしない、出現期古墳の具体例だよ。
何度もおなじことを書かすなよ。
76縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/20(火) 12:46:11
>>67
棺も柩も同じだ。ともにひつぎ、棺桶のこと。
>>68
観察眼のない人だね。それにひとの悪口を言うときは堂々とハンドルネームを付け給え。君にはキ○タ○
は付いてないのか?
77日本@名無史さん:2009/10/20(火) 12:57:44
>>76
同じじゃないから違う文字。
柩の中には必ず遺体
棺は中に遺体がなくても棺桶。目的が遺体を入れると言う目的を持っているから(ひつぎ)の訓があてられている。
78縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/20(火) 13:47:47
>>77
倭人伝の有棺無槨封土作冢における有棺は遺体を納めるための器(木製、石製、焼物製と種類はいくつかあるが
それは問わない)があることを述べている。遺体を直接土に埋める土葬ではないということだ。無槨とはその柩
(あなたが言うとおり遺体を納めた器)を納める構造物(槨、外棺と言われることもある)が無いということだ。
つまり、墳丘に穴を掘り、そこに木棺なり甕棺を入れて土で覆うというやり方を倭人伝は書いているのだ。
あなたの言うように棺と柩では語の意味の違いはあるが、私が述べていることにはさして重要ではない。
79縦目仮面:2009/10/20(火) 14:00:44
おやおや「まつろわぬ隼人」が気に障ったか。しかし、俺は大和中心史観ではないんだがな。むろんこれは
記紀にある「「伏(まつろ)はず礼无(な)き人等」から採ったものだ。景行天皇や日本武尊の熊襲う討伐伝説
は有名だな。

考古学的には、この地域には特殊な墓制が発達していて、地下式横穴墓、地下式板石積石室墓がそうだ。
地下式横穴墓は竪穴を掘ってその底から横に遺体を埋葬する玄室をつくるもので、地下式板石積石室墓は
竪穴を掘って底部に石室を作り上部を板石を積み重ねて覆う。どちらも墳丘より地下の埋葬施設に重点を置く。

この両者の分布ははっきりわかれており、西都原、生目を含む南九州の東部は横穴墓、西部は板石積石室。
これに対しヤマト政権の象徴である前方後円墳の分布はほぼ沿岸平野部に限られており、考古学的には7世
紀末頃まで内陸部に勢力を拡大することはできなかったと見られている。
80縦目仮面:2009/10/20(火) 14:10:58
これはなにも俺が勝手に言っているのではなく、南九州の史学・考古学界はほぼこの見解だ。俺のレスも、
これは鹿児島国際大教授の上村俊雄氏の論から引いている。

で、宮崎平野や志布志湾沿岸などでは前方後円墳と地下式横穴墓が共存しており、双方の接触があった。
景行天皇紀に熊襲を「衆類甚だ多し。是を熊襲の八十梟帥と謂ふ。」とあるように、熊襲は多くの部族に分かれ
ており、その中で早くにヤマト政権と結んだ勢力が前方後円墳を築いた。

ただし、地下式横穴墓は前方後円墳より遅れて5世紀に出現するものであり、副葬品の甲冑や刀、馬具などは
明らかに畿内系であることから、上記の上村教授は「土着の勢力がヤマト政権への服属を契機に地下式横穴
墓という独自の墓制を発達させた」という見解を述べている。
81日本@名無史さん:2009/10/20(火) 14:16:24
>>78
重要です。
古墳などから出土されるものは、基本的に柩ですから倭人伝に書かれている棺とは
違います。
棺は中に死体を納めなくても棺ですから、出土物と文献をリンクさせるべきではありません。
82縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/20(火) 14:20:20
>>64
うっかり見過ごしていた。
井原鑓溝の王墓の出土物(鏡片など)と見られるものは江戸時代に発見され図として残されているが、
槨の存在については分らない。現在は水田地帯になっているようで、発掘調査はなされていない。あな
たは木槨構造があるみたいだと言われるが、その情報源は何ですか。教えて下さい。
岡山県の楯築墳丘墓は九州のものではありませんから違いはあるでしょう。これなんか後の前方後円墳
の前駆的墳墓かもしれませんね。
83日本@名無史さん:2009/10/20(火) 14:20:55
倭人伝に、遺体を納めた棺を地中に入れ
土で封じ塚を作ったと書かれているなら、古墳などの埋葬施設と比べる事は出来ますが
あそこはそうではありません。
84縦目仮面:2009/10/20(火) 14:21:19
地下式板石積石室墓も鹿児島県吉松町永山、大口市平田、焼山遺跡などで百基を超す墓群が確認され、
起源は弥生時代にさかのぼり、北部九州の墓制である支石墓の影響を受けたともいわれる。

西都原考古博物館の北郷泰道氏は「地下式横穴墓群の勢力は >>46で書いた諸県君を通じてヤマト政権と
結びついたのに対し、地下式板石積石室墓の勢力は、北部九州の勢力と結びついて、これに対抗したので
はないか」という。地下式板石積石室墓が6世紀に衰退するのは、おそらくを磐井戦争の影響があるのだろう。
しかしここから、熊襲、隼人の一部は反抗を強め、南西諸島を経由した中国大陸との交流なども活発化し、
8世紀の隼人の叛乱に繋がってゆくのだと思う。
85縦目仮面:2009/10/20(火) 14:33:53
7世紀代には、ヤマト政権(朝廷)は自らの勢力範囲に広く律令制を導入することを試みていたが、九州南部
においては隼人らの抵抗が強く、これは律令制が稲作を制度の中心に据えており、稲作に適さないシラス土壌
の広がる九州南部には適合しなかったためもあるだろう。

また、隼人支配のための方策としては、早くから畿内への移住が計画的に強制され、隼人は宮中で守護に当たる
ほか、芸能、相撲、竹細工などを行うようになった。特に山城国(京都府)南部に多く定住し、大隅隼人の住んだ現
在の京田辺市には「大住」の地名が残っている。「隼人舞」や逆S字文様の「隼人楯」も有名だな。

8世紀に入って、713年には大隅国が設置さ、当時律令制導入の先進地であった豊前国から5000人を移住させ指導
に当たらせるなど支配体制がさらに強化されている。律令制、特に班田収授法を推し進めようとする朝廷と、九州南部
において共同体的な土地利用形態を守ってきた隼人との間で緊張が高まり、720年大隅国国司が殺害され、隼人の乱
に至る。
86縦目仮面:2009/10/20(火) 14:41:11
>>73
ちゃんと読んでくれたかな。南九州の勢力はかなり細分化されていた。その中で早くにヤマト政権と結んだ
勢力があったということだな。俺は単に考古学や文献から歴史を述べているだけであり、隼人や熊襲を敵視
したり蛮族視したりしているわけではない。上のレスは、コピペや資料からの引用がほとんどだが、疑うのなら
宮崎大や鹿児島国際大、あるいは西都原考古博物館に問い合わせてみるとよい。
87日本@名無史さん:2009/10/20(火) 14:50:55
>南九州の東部は横穴墓、〜これに対しヤマト政権の象徴である前方後円墳の分布はほぼ沿岸平野部に限られており、
>考古学的には7世紀末頃まで内陸部に勢力を拡大することはできなかったと見られている。

>地下式横穴墓は〜副葬品の甲冑や刀、馬具などは明らかに畿内系であることから、
>上記の上村教授は「土着の勢力がヤマト政権への服属を契機に地下式横穴墓とい
>う独自の墓制を発達させた」という見解を述べている。

地下式横穴墓はまつろわなかった証拠なのか、服属してからの話か?
矛盾してないか?

88縦目仮面:2009/10/20(火) 14:59:27
生目、西都原を含む南九州東部の勢力が、徐々に影響力を広げていったということだろう。そに中で前方後円墳
を許されなかったものの墓制が、地下式横穴墓ということだと思う。この地下式横穴墓と地下式板石積石室墓の
圏界は、南九州中央部の島内、永山あたり(土地勘がないのでよくわからんが)で重なり合っており、そのあたりが
西都原などの勢力の影響が及んだ限界点かな。
89縦目仮面:2009/10/20(火) 15:12:58
棺と槨の問題は難しい。まず中国人のいう、棺や槨がどのようなものかをはっきりさせることが大切だろう。

魏志董卓伝には次のような記述がある。  >葬卓于眉?大風暴雨震卓墓水流入蔵,漂其棺槨

まあ訳すと、(董)卓を眉?(地名)に葬す,大風・暴雨が(董)卓の墓を震わし,水は蔵に流入し,其の棺槨
が漂う、といったところかな。

この記載から、董卓の墓は「蔵」の内部に「槨」を置き、その中に「棺」を収めているものと思われる。「槨」は
「蔵」の中に置かれているもので、「藏」の壁面との間には空間があり、だから「蔵」に水が入ると「槨」が水に
漂ったのだろう。とすればホケノ山古墳の木槨にしても、黒塚古墳などの礫槨にしても、動かないものであり、
董卓の墓に見るような「槨」ではなく「蔵」の壁に相当するように思わるのだが、どうだろうか。

まあ、このように薄葬が浸透した魏代においての、「槨」の概念はかなり検討を要するだろう。漢和辞典の字義
だけで考察できるものではないようだ。

90ローガン:2009/10/20(火) 15:29:50
>>89
又、棺槨ですか…
ホケノ山の木槨が「槨」だと云う人は当然、箱式石棺も槨だと云うのでしょうねえ。
91縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/20(火) 15:36:21
縦目仮面の考えにも一理あるが、土と棺(柩)を隔てる構造物(それが可動性であろうと固定されたもの
であろうと)を槨と言うのではないかと思う。始めの頃は家を模した木製の箱だったものが変化して固定
された壁になったのではないかと思う。もちろん、これは推測だ。
92縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/20(火) 15:38:39
>>90 <箱式石棺も槨だと云うのでしょうねえ。>
言わないよ。
93縦目仮面:2009/10/20(火) 15:42:15
俺は中国の博物館に何回か行ってますが、木槨墓は槨ごと取り出して、中の棺が見えるようにして展示し
ているものもあり、向こうでは槨=外棺と捉えられていることが多いようですよ。ただ用語としては混乱は
あるようです。
94ローガン:2009/10/20(火) 15:58:25
>>92
> 言わないよ。

何故?どうちがうのかなw
95日本@名無史さん:2009/10/20(火) 16:23:41
由紀夫の家族構成

曽祖父・鳩山和夫(衆議院議長)
曾祖母・春子(共立女子大学創立者) DV家庭で育ちトラウマを抱える。
祖父・一郎(内閣総理大臣) 祇園芸妓で某銀行頭取の愛人だった松室幸との間に2人の女の子をもうける。
祖母・薫子(共立女子大学学長)

父・威一郎(外務大臣)
 赤坂芸者の愛人・A子さんとの間に一人の男の子をもうける。おそらく威一郎が愛人の料亭の開店資金をだしたのだろう。
 威一郎の死後、客足が遠くなり閉店する。先見の明がない威一郎のせいで今、愛人の子は苦労している。

母・安子(ブリヂストン創業者石橋正二郎長女) 
 安子は、かつて威一郎氏に「(愛人に)もっといい家をもたせなさい」と叱ったという逸話を残すが
 現在は威一郎と愛人の間にできた子に救いの手を差し伸べることもせず、会うこともしていない。

由紀夫(内閣総理大臣・民主党代表) 異母弟と会うこともしていない。
姉・和子 
弟・邦夫(総務大臣) 兄の結婚式でなかった。異母弟と会うこともしていない。死神と呼ばれたことも。
●由紀夫と邦夫の異母弟 ビル清掃

妻・幸(宝塚歌劇団卒業生。宝塚歌劇団在団時の芸名・若みゆき)
長男・紀一郎(元東京大学大学院工学系研究科助教)

義妹・エミリー(元タレント、高見エミリー) 石橋家の親戚

●たしかエミリーの姉も石橋家に嫁いだはず
●エミリーはユダヤ人とのハーフなのか?

ファーストレディー】鳩山幸をウォッチするスレ 7
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1255494891/
96縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/20(火) 16:38:13
>>94
なんで分りきったことを聞くのかね。
箱式石棺は遺体の四方に平らな石を配置したもの(石が配置された後遺体を置いたのだろう)だが、これ
が棺の役目をしていると考えられる。だから(箱式)石棺と言われる。中に棺が無ければ槨とは呼べない。
97日本@名無史さん:2009/10/20(火) 16:48:44
>>96

石の囲いの中に遺体を埋葬するさい、柩から遺体を取り出し
遺体だけを石の囲いの中に直接納めたか、柩ごと納めたかによって違う。
98ローガン:2009/10/20(火) 17:02:24
>>96
> なんで分りきったことを聞くのかね。

おや、悪かったね。もう一つだけ質問だ。槨とは、なんの為にあるの?
99縦目仮面:2009/10/20(火) 17:08:44
http://uproda.2ch-library.com/181769jwm/lib181769.jpg

漢代の棺槨墓と墓坑です。ローガン先輩のコメントが聞きたいですね。
100日本@名無史さん :2009/10/20(火) 17:14:38
>>80
>熊襲は多くの部族に分かれ ており、その中で早くにヤマト政権と結んだ勢力が前方後円墳を築いた。

ヤマト政権と結んだからといってすなわち墓制まで変えるとは限らない。
前方後円墳は近畿から来た領主のものも必ずある。
近畿勢力があってこそ、地元勢力をおさえられるというもの。
監視者がいなくてその土地を支配下にはおけない。
そして地元有力者の娘を娶り、謀反を起こされないよう予防する。

>地下式横穴墓は前方後円墳より遅れて5世紀に出現するものであり、副葬品の甲冑や刀、馬具などは
明らかに畿内系であることから、
これは明らかに疑問だ。たとえ副葬品の甲冑や刀、馬具などが出土しても、
すなわち近畿系とはいえない。鉄と騎馬の文化を取り入れ吸収していたであろうことは容易に想像できる。
これが近畿に服属していたという証拠には全くならない。
反対に敵対する別の勢力であることも十分ありうる。

101日本@名無史さん:2009/10/20(火) 17:28:40
>>96
>中に棺が無ければ槨とは呼べない。

ここ文意がわかりにくいのでもう少し具体的に再説してほしい
102縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/20(火) 17:29:10
>>98
槨のある墓を作った人に聞いてくれ。古代人が人の死をどのように考えていたか君に分るのか?
103縦目仮面:2009/10/20(火) 17:40:14
いや、詳しくは俺もわかりませんが、地下式横穴墓を採用したのは前方後円墳は許可されなくても、隼人と
呼ばれる人々とは、むしろ相対する勢力だと思いますね。宮崎県のまとめた資料によれば、

国富町の六野腹古墳群8号、10号地下式横穴墓や、宮崎市の下北方古墳群5号地下式横穴墓などは、副
葬品としては剣や刀、鏃など鉄製の武器類が多く、鏡、玉類、馬具や須恵器、土師器なども出土していますが、
これはやはり大和系のものと考えられます。ただ俺はこの時代は専門外なので、宮崎県教育委員会等に問い
合わせてみるとよいでしょう。2chのレスよりは建設的です。

内陸部の特色としては、被葬者がイモガイやゴホウラなど、南海産の貝輪を装着している場合が多いことや、
高原町の旭台7号地下式横穴墓など、玄室壁画に朱による彩色が施されたものがあるなど、形態や副葬品に
地域性が認められることなどから、共通する墓制とはいってもやはり多くの部族に分かれていたのでしょう。

104縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/20(火) 17:42:40
>>101
槨とは直接遺体を納めるものでなく、遺体を納めた器(柩)を囲むように設置された構造物
だろう。外棺と呼ばれることもあるようだから。箱式石棺では石の囲いの中に直接遺体が置
かれているように見える。つまり、中に柩が無い(石の囲いそのものが柩である)。もし、
柩がありそれを取り囲んで石が配置されていればその石の囲いは槨と呼ばれるかも知れない。
105日本@名無史さん:2009/10/20(火) 17:52:55
>>96
魏書東夷伝に「有槨無棺」とあるよ。
106縦目仮面:2009/10/20(火) 17:53:27
これもよくはえわかりませんが、槨などは一種の権威づけではないでしょうか。薄葬以前は外槨があり内槨
があり、外棺があり内棺がありという具合に、格式を表すものでなかったでしょうかね。何の本か忘れました
が、ある人の葬儀で故人の母親が薄葬を重んじて、馬車に棺だけ積んで槨を載せなかったので皆が感心した
という話を読んだことがあります。
107ローガン:2009/10/20(火) 18:04:25
>>99
棺槨…
もう何年も前に河童さんと九州ですがさん、3人でワイワイやったヤツですが。
槨とは当然、棺の外箱。その存在意義は棺の保護、つまり土との縁切りだと思います。
よって、底板のない木槨等と呼ばれるものは槨とは認識されなかっただろうと思う。
さておき、箱式石棺と呼ばれるものには6面とも石で土と縁切りされているものが多い。
縦目さんは箱式石棺に残った人骨の写真見た事あるでしょう?骨がずれていない。
倭人伝の記述に従えば、短くともその埋葬は死後十数日たってから。 どれほど腐敗するかは疑問なれど、
きれいな形で見つかる以上、箱式石棺への埋葬以前、殯の段階で何かに包まれていたと思う。勿論、想像ですがね。
殯時の死体の容器が棺とすれば、底板のある箱式石棺は槨と認識されたのではないかと云う事です。
ただ余談ですが、ホケノ山を指して「槨があるではないか!」という九州派の意見は、ホケノ山がちょうど使者来倭時のものと認めている訳ですから、そう云う人は現在の年代観を支持しているという事ですね。
108日本@名無史さん:2009/10/20(火) 18:46:05
>>107
>ただ余談ですが・・・・・・・現在の年代観を支持しているという事ですね。

老眼やるなあ、感服。いいぞいいぞ!
109日本@名無史さん:2009/10/20(火) 18:48:59
>>107
>九州ですがさん

いたいた、www
110108とは別人:2009/10/20(火) 18:55:55
>>107ローガン氏へ拍手!
111唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/20(火) 20:28:39
その死するや棺有れども槨無く、

甕棺を直接土に埋める状態が棺有れども槨無く、になる。
槨とは、木又は石で部屋を作る、この部屋を「槨」という。
112日本@名無史さん:2009/10/20(火) 20:33:51
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
113日本@名無史さん :2009/10/20(火) 20:38:40
槨というのは外箱とあるけど、必ずしも厳密に外箱だけを指しているのか疑問。
墓室のようなものを指しているとも考えられる。
だから、倭人の墓制は棺をそのまま土に埋めて土を封じて塚を作る。
隋書には棺槨におさめるとある。また貴人の場合は外で3年間のかりもがりがある。
庶民は日を占って葬儀に及び 屍を船上に置いて陸地に牽引する。
この葬儀は何かの映画で見たような気がする。たしか日本海側の海辺で皆が白服を着て
船を牽引していたような。
今でもこの風習は残っているのだろうか。
114縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/20(火) 20:56:03
>>107 , >>109, >>110 <ホケノ山を指して「槨があるではないか!」という九州派の意見は、
ホケノ山がちょうど使者来倭時のものと認めている訳ですから、そう云う人は現在の年代観を支持して
いるという事ですね。>
何を勘違いして喜んでるの?「ホケノ山がちょうど使者来倭時のものと認めている訳」ないだろ。
おまえさんらの論理回路はどうなっとるんかね。
 
115縦目仮面:2009/10/20(火) 21:12:55
まあねえ。ホケノ山を倭人伝の時代とする畿内説への反論でしょうから、「もしこれがお前ら(畿内説)のいう
ような年代だったとしても」というのが最初についてるんでしょ。しかし早期古墳は開けてみないと中はどうな
ってるかわかりませんよ。まだ試行錯誤期ですから。

ただ、縄文人説では纏向の古墳群は4世紀以降だそうだから、「棺あって槨なし」はハナから否定に用いる
までもないってことですよね。
116縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/20(火) 21:27:20
>>115
君はさすがに頭が良いね。箸墓などの古墳の発掘調査が許されれば早く決着するのにな。天皇家の祖先
の墓だということであれば、他人が勝手に手をつけるわけにはゆかぬので、天皇家が発掘を指示される
のが望ましいがね。だが、いろんな考えや思惑が絡むので難しいね。
117縦目仮面:2009/10/20(火) 21:45:03
>>116
発掘は俺も望ましいと思ってます。天皇陵の比定はかなり実際とは違うんで、別人として祀られてる方々も
心穏やかではないでしょう。ただ、DNA鑑定などという話も出てるんで(古い骨から鑑定に耐えうるだけのD
NAが抽出できるかどうかは非常に難しいでしょうが)これはトンデモない話だと思いますね。
118日本@名無史さん:2009/10/20(火) 21:48:21
>>82
魏志倭人伝の考古学という本だったと思う。
平原遺跡も木槨構造があった可能性が高いとも書いてあった。

ネットちょっと調べたけど根拠は判らないな。
平原遺跡については柱の跡があるらしく、
槨の可能性が指摘されているみたいだ。

↓の平原遺跡のところに記述がある。
ttp://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm
119唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/20(火) 21:51:29
>>112
RM1-b遺伝子の稲が半島に無いのは、古墳時代の「鉄」の輸入に
対価として「籾」がなかったことを現す。では対価は何か?
任那が有れば対価は、いらない。
「米」の輸出も考えられるが、雨や水に濡れるとダメ。

どうする?
120日本@名無史さん:2009/10/20(火) 21:52:47
御所市の室宮山古墳、この古墳は被葬者は武内宿禰だといわれているがそんなことはない。
金剛山を望む「室」の地に作られているとから考えて、邪馬台国の女王卑弥呼の墓だった可能性が高い。
121縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/20(火) 22:28:09
>>118
昭和40年の原田大六氏を団長とする発掘調査の報告書にも1998年の再発掘調査中間報告にも割竹型
木棺を埋めた跡が見つかったとされているが、木槨の存在については何も触れられていない。木棺を
埋めたと見られる部分(土壙)の写真を見ても木槨があったようには見えない。
122縦目仮面:2009/10/20(火) 23:13:31
ああこれ、可能性はいわれてないことはないです。安本氏と石野氏の対談から。

>石野:平原は棺の廻りに大きな墓溝があって柱の痕跡がある。証拠はないが墓溝の端に板を建てると槨
  になる。発掘当時は墓に槨があるという意識で発掘していないので、槨があったとしても検出できなかった
可能性もある。
123縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/21(水) 00:02:22
>>122
うん、検出できなかった可能性もあると言われれば、いや絶対にないとは言えんが。発掘時の写真を
見るとこれが王墓かいなと思えるような小さな穴なんでね。大袈裟な槨があったようには思えんのだ。
124日本@名無史さん:2009/10/21(水) 00:04:48
>>75
>>65に書いてあるだろうが。所在ぐらい自分で調べろ。
125日本@名無史さん:2009/10/21(水) 00:37:46
>>79 >>80
>>79では地下式横穴墓をもってヤマト政権が7世紀末頃まで内陸部に勢力を拡大できな
かった証拠とし、>>80では地下式横穴墓は土着の勢力がヤマト政権への服属を契機につ
くったものだという。何を言ってるのか、まったく分からんな。
横穴墓が服属した勢力の造ったものならば、内陸部の奥深くまで服属した勢力がいたこ
とになるはずだ。南九州にまつろわぬ民がいたなんて話は崩壊するんだよ。
だいたい、日向においては、古墳時代の当初から平野部においては前方後円墳がつくら
れている。それなのに、7、8世紀までまつろわぬ民を征伐できないままに推移したな
んて話がおかしいと思わないか? 倭国は4世紀には朝鮮半島まで進出しているんだぜ。
日向平野部にがっちりと根を下ろしたヤマト政権がそれから先の反対勢力を討伐できな
かったなんてあまりにも非常識な見方だ。
126日本@名無史さん:2009/10/21(水) 03:06:22
>>124

つまりキミは、どこの誰かの受売りだけは垂れ流せるけど、自分では何も調べられないということだね。
127うましか:2009/10/21(水) 04:58:21
>>62

> 年代観の違いの一言じゃかたずけられないよ。

そうですね。
じゃ、二言にしましょう。
古代国家観と年代観の違いですね。

>大型古墳の築造はいくらなんでも3世紀に遡ることはない。
>そんなに早ければ、関東に近畿勢力が及ぶのはもっともっと早かったはず。
>大型古墳を造れるということは、それだけ既に強大政権だったってことだから。

国家間の違いですね。
大型古墳を作ったら、次は関東に進出しないといけないのですか?
それとも関東に進出しないと大型古墳は作れないとか?

>ゆるやかな連合ならば、関東の古墳が6世紀以降の短期間で終わる説明がつかない。

これは、両方かな?
「ゆるやかな連合」には関東が参加していないといけないのか?
有名な群馬の太田天神山が6世紀と言うことですか?

>近畿の大型古墳は古くても5世紀末位からと考えるのが普通だ。

例えば、大和の箸墓や西殿塚からは、吉備の宮山のものと同じ特殊器台が出ました。
では、宮山墳丘墓とは何時頃のものか、これは吉備では弥生終末期と考える人が多いようですよ。
128うましか:2009/10/21(水) 05:16:55
>>111

魏志沃沮伝の

其葬作大木槨、長十餘丈、開一頭作戸。
新死者皆假埋之、才使覆形、皮肉盡、乃取骨置槨中。
舉家皆共一槨、刻木如生形、隨死者爲數。

などは、明かに「墓室」タイプの「槨」の説明ですね。

また、夫餘では「有槨無棺」とも書かれていますから、
東夷伝では「槨」は「外棺(箱物)」というより、構築物ですね。
129日本@名無史さん :2009/10/21(水) 08:48:36
>>127
>じゃ、二言にしましょう。 古代国家観と年代観の違いですね。
他人の観念など、みんな少しずつ違うのだから、
そういう言い方だけで済ませるのは不誠実というもんだよ。
事実の例を上げてこうだから、こう考えるという意見を書かなければ。

>宮山墳丘墓とは何時頃のものか、これは吉備では弥生終末期と考える人が多いようですよ
これだって確かなものではないでしょう。
そもそも土器編年自体が間違っていれば、みな間違った時代にずれ込むわけですから。

その点稲荷山古墳の鉄剣などは干支があるので、通説では471年といわれている。
これが天下を治めたワカタケル大王の時なのだから、この時ヤマト政権は強大化して
巨大な古墳を近畿に造ったとみて極自然だと思う。
ただ干支は60年のズレも考えられるので531年説もある。
また関東の古墳年代もはっきりはしないが、しかしみな同じ形式で埴輪などを見ても
みな同じ時代を思わせる。ということは短期間で多くが造られ短期間で終息したということ。
ということはそのスピードからいってヤマト王権の地方支配はゆるやかな発達ではないよと
言いたいわけ。つまり巨大古墳は3世紀の昔から造られてはいないということ。

130日本@名無史さん :2009/10/21(水) 09:02:51
どんな政権もそうだけど、最初はゆるやかな発達で次第に力を付けて行き、
強大化したときに地方を異例なスピードで支配するものだ。
秦の始皇帝しかり、漢の武帝しかり。一代で広大な中国を統一させた。
チンギスハーンもそうだし。みな大王クラスは一代で大きな国をつくるもんだよ。
だからワカタケル大王も一代で大きくした可能性がある。
であるから、大昔から、巨大古墳を造れる様な力があれば、関東の支配など、
とっくの昔にしていたはずだと。ところが、関東のは6世紀ごろのものが多いのだ。
131日本@名無史さん:2009/10/21(水) 09:09:14
>>130
余りにも根拠の薄い想像。
お話にならん。
132日本@名無史さん :2009/10/21(水) 09:16:51
>>131
関東の古墳が殆ど同時代というのは本当だよ。
あと稲荷山の鉄剣の銘文も。
もっと根拠が欲しいならもっと集めるようにする。
近畿の人はそういう努力もしないで、人にケチつけてばかり。
133日本@名無史さん :2009/10/21(水) 09:19:02
その点北部九州の古墳は古い型から新しい型まで
その歴史の長さが伺える。
134日本@名無史さん:2009/10/21(水) 12:56:15
つまりは、古墳は近畿発祥だというのは、単なる思い込みだったということだ。
135神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/10/21(水) 16:05:12
つまり、邪馬台国が九州発祥だと言うのは、単なる思い込みだったということだ。
136ローガン:2009/10/21(水) 16:32:00
>>115

いや、だからそこは「余談」だって。
137日本@名無史さん:2009/10/21(水) 16:43:52
余談って言ったところで筋が通らない話であることには変わりない。
138ローガン:2009/10/21(水) 17:27:06
>>137
本題はスルー?
139日本@名無史さん:2009/10/21(水) 19:06:41
>>138
余談の方に力を入れてたんじゃないか〜www。本題は別に興味ある話じゃないからスル〜。
140日本@名無史さん:2009/10/21(水) 19:23:41
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
141うましか:2009/10/21(水) 21:18:05
>>129

不誠実と言われましてもねえ。
貴方の主張自体が、〜のはずだ、〜に間違いない、だけで構成されてますので、
具体的に突っ込みようがないのですね。
貴方がそう思うことと、私の認識がかけ離れているので、
婉曲に〜観の違いと申しあげている次第です。
基本的な部分で共通認識が無ければ議論は成立しません。
なお、古墳時代の関東には、浅間山、榛名山の噴火堆積物の分布かあり、
これを基本的な時間相の目盛りとして、
もう少し精微な編年が完成しつつ有ると思います。
142日本@名無史さん:2009/10/21(水) 21:34:07
>>132
>関東の古墳が殆ど同時代というのは本当だよ。

その同時代って西暦何年ごろの話?
143唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/21(水) 21:34:53
>>141 >もう少し精微な編年が完成しつつ有ると思います。

稲荷山鉄剣銘 471年がネックになっている。
この首に付けられた鈴を誰が外すか?

144:2009/10/21(水) 21:42:53
>榛名山

4,5年前に群馬県の榛名山辺りにある「榛名湖」へいった記憶がある。
古代史ではなく、バスフィッシングのほうで、ですが・・・w
145楯目仮面:2009/10/21(水) 21:51:48
これは前にオオヒコスレに貼ったものだが、唐松山さんはどう見るかな?
http://gunma.zamurai.jp/pub/2009/haruna495.pdf

まあ、群馬大学の論文も見たけど、俺には間違いは見つけられなかった。これのように、理化学畑か
らの参入は増えてきてる。彼らは基本的に邪馬台国に利害関係はないはずだから(同じ大学の史学科
とかには多少気を使うかな?)このような研究はどんどん出てきてほしい。俺は歴博発表はどちらかと
いえばアンチの立場だが、各地でこのような測定が増えるのは歓迎だな。
146日本@名無史さん :2009/10/21(水) 22:19:34
>>142
だいたい550年から6百数十年位までかな。
関東の古墳の特徴は埴輪が多いこと。形象埴輪類。武人の埴輪だったり
馬の埴輪だったり、家の埴輪だったり。
実戦の戦闘に使う武器類武具が殆ど無い。あっても貴人用の刀など。という特徴があり、
地方の隅々まで古墳が満遍なく一つだけ存在し、古墳のすぐそばに別の古墳があることは珍しい。
あっても少し離れた場所にある。であるので、一つの市町村には沢山古墳があるが、
みな一つ一つ独立している雰囲気がある。
147唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/21(水) 22:26:01
渋川噴火FA (495年+3/-6、1σ)
是より前に、稲荷山古墳は作られた。
そして鉄剣銘は、471年と考えられているが、
その為には、崇神戊寅年を318年?に持ってきてこれを是認しなければならない。
これでは初渡海神功元年が5世紀にしないと世継ぎに支障をきたす、
高句麗殿関係からこれは認められない。どうする?仕方ないので書紀を書き換える。
書紀を読み替えるならともかく書き換えてしまえば、崇神も消えてなくなる。
大彦からプラス七代の世継ぎを認めずに、雄略辛亥年のみ生き残ることは出来ない。
欠史8代の半分は認めないと、鉄剣銘は読めないいい加減な物となる。

私の計算では、大彦から7代目にいる「わかたける」は、日本武尊の子供になる、1代平均19年で
312年死亡、この数年後が、古事記の干支のラインの辛亥年。
312年は、神功39年太歳の年、この「太歳」の意味は?
「是年也」は、暦の確認です。
鉄剣の形から少し早すぎる時代かも。まだツメがあまい。
148唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/21(水) 22:32:45
めちゃくちゃ書いたけど、
「ワカタケ」は「ワカタケル」では無い。
大彦から雄略まで7代で繋ぐには、1代あたり35年程度の数字が必要となる。
35年の世継ぎは、今でも長すぎる、人生40年以下の時代の数字では無い。
149日本@名無史さん:2009/10/21(水) 22:38:00
>>147
俺は記紀の人物はすべて実在で、代数も正しいとする立場ではないんでそこらへんは何ともいえな
いですね。まあ、稲荷山古墳は、第一主体部は別にあるとか、また鉄剣の埋納状況にも諸説あって、
興味はつきないんですが。
150日本@名無史さん :2009/10/21(水) 22:58:26
一世代は統計的にみると親子の間隔は約20年です。
だから七代だと140年余りです。
ということは、471年ならばオオヒコの時代は330年位で、
531年ならば390年位になります。こちらは倭の五王の時代とほぼ同じ。
151日本@名無史さん:2009/10/21(水) 23:16:32
>>150
統計的に見たとする、そのもとになるデータを提示願いたい。
どんな資料のどのような解析だったかなど
152日本@名無史さん:2009/10/21(水) 23:21:16
安本あたりの本に出ているよ。
153縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/21(水) 23:58:13
>>147 <そして鉄剣銘は、471年と考えられているが、 その為には、崇神戊寅年を318年?に持って
きてこれを是認しなければならない。 これでは初渡海神功元年が5世紀にしないと世継ぎに支障をきたす、>

大丈夫。初渡海神功元年を4世紀半ばにしてもいいんじゃないの。あのころの天皇在位年数は1〜40年の幅の
どこかであろうが5代で25年だったかもしれないし100年だったかも知れない。どちらでもあり得るのではない
かな。崇神は4世紀の人物でいいのだよ。
154うましか:2009/10/22(木) 02:08:50
>>146

> だいたい550年から6百数十年位までかな。
何でそう言う実年代が出てくるのかな?
ある事象の説明をするために当然他の事象はそう言う年代である「はず」だと言うことなんでしょうかね?
>>145で提示されてるサイトのデータみたいなものもあるので、やはり「年代観」の違いと言っておくしかないような・・・

ま、それはそれとして本題は
> 地方の隅々まで古墳が満遍なく一つだけ存在し、古墳のすぐそばに別の古墳があることは珍しい。
> あっても少し離れた場所にある。であるので、一つの市町村には沢山古墳があるが、
> みな一つ一つ独立している雰囲気がある。

関東と言っても広く各地の地域性も違うので、そう言い切ってしまうのは極論だと思いますが、
群集墳を作らず孤立した古墳が多いと言うのは、そうかもしれませんね。
ただ、さきたまに代表されるような古墳群もけっして少なくはありません。
そう言った古墳群の多くは数世代に渡って同一集団が造営し続けたものと判断しておかしくないのでは?

では、孤立墳はどういう性格を持つのか?
私は、集落自体が一箇所に定着できず、造営集団が短期間で消滅してしまうような事例も考えています。

これとは別の理由として、数年前から孤立墳について北條芳隆さんが言い出したことですが、
 ・関東(特に北関東)では、古墳の造営が集落の造営と同時に開始されることが多い、
 ・DNA的に非血縁者と判断される組み合わせの複数埋葬も多い

上記の特徴から判断するに関東の後期古墳は、いわゆる「首長墓」ではなく、「人身御供墓」ではないかと。
どうも「人身御供」はオーバーな表現のようなのですが、新規に開拓された集落では、まず水路の掘削残土
などを利用して墳丘を作り、そこに適当な人物を埋葬し、以後集団の祖霊として祭祀の対象とすると言うもの。

「適当な人物」とは、墳丘完成時に死亡した首長でも構わないのですが、それ以外の開拓功労者とか、
もろもろの事情で「供養」の必要な人と言うことらしいです。
墳丘墓と言っても後世の鎮守さんみたいなものなのでしょうかね。
155日本@名無史さん :2009/10/22(木) 12:13:24
>>154
ジモティーなのでだいたい感です。
孤立墳という名があるんですか。
私もそんな風に感じていたので独立した雰囲気と言い表したんですが。
さきたま古墳群などもありますがせいぜい5.6代の長さでしょう。

>新規に開拓された集落では、まず水路の掘削残土
などを利用して墳丘を作り、そこに適当な人物を埋葬し、以後集団の祖霊として祭祀の対象とすると言うもの。
そうですか?関東の古墳は分家分家と領地を広げて行った結果、いろんな場所に孤立してあるんだと思いますけど。
だから100年くらいで分家は数多く出来る。
埴輪がみな服装やらなにやら顔形やら、みな大陸の北方系ですから。
それに菊地という九州系の名字やハタ氏に関係するような名字が結構田舎でもあります。
156日本@名無史さん:2009/10/22(木) 12:20:28
>>155
分家分家と、領地を広げていった記録は
いったい何処に?
157日本@名無史さん :2009/10/22(木) 12:45:55
>>156
それは極自然の現象ですよ。
土地の領主は農民がいなければ成り立たないわけですから、
農民を引き連れて新地を開拓ですよ。
その結果中世、江戸、現在へと繋がって満遍なく人口が広がっているわけですから。
なんやかやといっても円墳が圧倒的に多いですよ。
これは規模が小さいからであってけっして倭人系の墓ではないですよ。
中にはあるかと思いますが。
前方後円墳になぜ方形の塚が付いているかといえば、円墳に土を盛る時に
方形の土台を作ってそこを伝って円墳に土を盛るからだと何処かで読みましたよ。
規模の大きいものが前方後円墳が造れます。
神道関係の銅鐸が関東ではほとんど見られないような気がします。
まだ調べてはいませんが。近畿や中国地方には土に埋まっていたりして発見されるし、
九州北部にも銅鐸の鋳型などが発見されますけど。


158日本@名無史さん:2009/10/22(木) 12:53:23
>>157
では、その方形の土台はどのように造ったのですか?
159日本@名無史さん :2009/10/22(木) 13:00:10
>>158
知らないですよ。なんで?
160日本@名無史さん:2009/10/22(木) 13:02:10
>>159
知らない世界語っても仕方ないでしょ
161日本@名無史さん :2009/10/22(木) 13:17:52
>>160
そういわれればそうだけど。
関東のは円墳が圧倒的に多くて横穴式石室が多いですよ。
前方後円墳で小さいのは全長27メートルのもありました。
でも比較的前方後円墳は大きいです。大きいといってもせいぜい全長100級ですが。
円墳は小さいのは5メートルのもあります。

162日本@名無史さん:2009/10/22(木) 13:27:36
円墳が多いのはどこの地域で同じだと思う
163日本@名無史さん :2009/10/22(木) 13:41:50
>>162
それは知ってるけど。
一応知らない土地のことは話せないから、そう言ったまで。
みなさんも地元の古墳を説明してみたらいかが?
164日本@名無史さん:2009/10/22(木) 13:42:22
ノーパン喫茶の発祥でもない関東は、発祥地関西よりも過剰に反応した。
古墳の形なんかも似たような心理
165日本@名無史さん:2009/10/22(木) 13:55:48
>>163
どんなに説明したところで、何処まで行っても想像の世界を出る事はない。
古墳は何も語らず。
166日本@名無史さん:2009/10/22(木) 13:59:10
財が出来れば、墓を多少なりとも立派なものにしたいのが
人間の見栄。
低いコストで多少の見栄を張れるのが、小さな円墳
167日本@名無史さん :2009/10/22(木) 14:31:16
昔のは征服王朝といって、そこの住民を服させることによって領域を広げたわけですよ。
倭の五王にもあるでしょう、東は毛人を征すること、○国、西は衆夷を服すること○国・・・って。
衆夷の夷は他民族のことですから。この夷が邪馬台国関係の倭人の国々なのかなと思いますけど。
関東の古墳は近畿王朝の関係者が来て村々を服させていったという証が古墳だ。
稲荷山鉄剣にしろ、祖先は朝廷の杖刀人の首でワカタケル大王の時は天下を佐治していた人の子孫のものだから。
杖刀人というのは将軍だと思うけど。世世、将軍の首だから大王の次に高いぐらいの地位の臣下だよ。
そういう人の子孫が地方に来て地方を服させていたという証拠。

168うましか:2009/10/22(木) 20:25:22
>>155

> ジモティーなのでだいたい感です。

「だいたい感」ですかw

> 孤立墳という名があるんですか。

無いよ。貴方のイメージに合わせた造語です。

> さきたま古墳群などもありますがせいぜい5.6代の長さでしょう。

大きいのだけでも9つ在ったそうだから素直に9代で善いのでは?

> そうですか?関東の古墳は分家分家と領地を広げて行った結果、いろんな場所に孤立してあるんだと思いますけど。

まず、本村が在って、そこが飽和状態になると一部が新天地に移動するわけだから、まあ「分家」とも言えるね。

169日本@名無史さん :2009/10/22(木) 21:39:21
>>168
埴輪がほとんど同じようだから、時代の厚みを感じない、むしろ古墳の年代推測は素人より公式のもののほうがいい加減ですよ。
>大きいのだけでも9つ在ったそうだから素直に9代で善いのでは?
どうかな、妃の墓なども結構大型のを造りますから。
>無いよ。貴方のイメージに合わせた造語です。
なんだそうなんですか。造語がうまいですね。

170日本@名無史さん :2009/10/22(木) 22:00:59
さきたま古墳群には将軍山古墳というのがあるんですね。
まさに杖刀人の子孫が眠る稲荷山古墳がある場所にふさわしい。
杖刀人とはやはり将軍という意味でいいのかも。
さきたま古墳群は周囲の古墳とはレベルが違いそうだ。
杖刀人の首ですからね。それなりに大した勢力があったのでしょう。
171日本@名無史さん:2009/10/22(木) 22:35:16
水銀朱で魔よけ、桜井茶臼山古墳の石室公開 だってさ。
水銀朱を使ってるところをみると、これも九州勢力だな。

172日本@名無史さん:2009/10/22(木) 22:38:12
桜井茶臼山古墳の近くには宗像神社もありますしね。
九州の影響がないとはいえませんね。ただ、築造は
4世紀初頭?いつ畿内に移ってきたんでしょうかね。
173日本@名無史さん :2009/10/22(木) 22:40:00
群馬県太田市の天神山古墳をはじめ、太田市内には800もの大小古墳があるそうだ。
例えば、子供を四人平均でつくると、5代目には256人、6代目には1024人に膨れ上がる
8百の古墳が親類縁者のものなら、だいたい5.6代目でそのくらいの数になります。
やはり関東の古墳は100年間位の間に築造されたものだと思う。
174日本@名無史さん:2009/10/22(木) 22:44:52
>>172
今の考古学がでたらめでなければ3世紀前半かな。
175日本@名無史さん:2009/10/22(木) 22:59:09
>>174
3世紀前半に畿内に移ってきて、あの古墳を作った?
ちょっと、あの古墳の築造にどれだけの人手と期間
を要したのかについて推測する術を知らないのでわからない
のですが、3世紀前半として古墳のできた100年前ですね。
その段階でマキムクというか、もしかしたらイワレの地かもしれ
ませんが、その一体の統治を完了したという考えで良いのでしょうか?

そうでなければ、あのような大きな古墳を土地の住民が作る
だろうか?と思うので、そう質問するのですが。もし、そうだとすると
実際の九州からの遷移は、それよりも前に始まっているわけですね。
176日本@名無史さん:2009/10/22(木) 23:26:29
>>175
当然、そういうことだね。
177日本@名無史さん:2009/10/22(木) 23:44:28
東国の前方後円墳は層が薄いと思う
178日本@名無史さん:2009/10/23(金) 02:45:30
そう?
179日本@名無史さん:2009/10/23(金) 07:16:41
>>175
>あのような大きな古墳を土地の住民が作るだろうか?
九州勢力といっても、近畿へ来るまでには中国各地を従えてくる。その各地から兵を出させて
畿内に入るわけで、その連中が造ったということだろう。だから、纏向には各地の痕跡が残っ
ているんだ。もちろん、地元の住民も徴発されただろうが。
180日本@名無史さん:2009/10/23(金) 07:59:05
古墳時代の畿内は東国からの動員が強い印象
大和政権の人的物的原資として東国に基盤があったようだ
関東に大型前方後円墳が作られ始めるのと呼応している感じ
181日本@名無史さん:2009/10/23(金) 08:14:01
弥生時代の大和盆地はけして人口密集地ではない。九州勢力は、大和を
東への前進基地としたんだろう。そこを足がかりにして東へ勢力拡大を
図った。それが成功して、東国からの動員も増えたということだ。
182日本@名無史さん:2009/10/23(金) 11:43:26
桜井茶臼山古墳の被葬者だが、
後にも先にも一度たりとて宮内庁から陵墓もしくは参考地の指定を受けたことが無い
さらにその様な資料もどこにも存在しない…ということを考慮すると
おそらくは当時貴重品だった水銀朱の利権を牛耳り、権力を得た大王の外戚者
時代は下るが6世紀の蘇我氏のような立場の人物だったんでは
朱をふんだんに使い手間とお金をかけたデコラーティブな石室はおそらくはルーツが九州ではないかと妄想させる
183日本@名無史さん:2009/10/23(金) 11:56:02
水銀朱は九州起源とか大丈夫か?w
184日本@名無史さん:2009/10/23(金) 18:07:50
ところで、あれはホントに水銀朱なんですかね?
写真でみる限りは、限りなくベンガラ色に近い赤ですが。
185日本@名無史さん:2009/10/23(金) 22:36:59
鉄か水銀かくらい試薬を使えばすぐに判明する。専門家が間違えるはずはない。
やはり桜井茶臼山古墳の被葬者は丹波とのつながりが考えられます。
186日本@名無史さん:2009/10/23(金) 23:27:31
あの辺で、水銀朱というと、近くは吉野川上流や、伊勢などが
あるようですが、被葬者は、その辺の地域の人々に対して
政治/経済的な影響力を持った人物だったと考えてよいの
でしょうか。
187日本@名無史さん:2009/10/24(土) 01:03:16
色の悪い水銀朱だな。ベンガラ朱にしか見えない。
赤いから水銀朱との決め付けの様に思われる。
試薬チェックはしていないのでは?
3世紀にこれだけ大量の水銀朱を集められたのだろうか?
188九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/24(土) 09:57:10

桜井茶臼山古墳石室の赤顔料は水銀朱の赤に見えない。
赤顔料の化学分析をしないで水銀朱と決め付けているのでは?
橿原考古学研究所さん、現地説明会ではどんな説明をするのかな。
それともマスコミの誤報か?

4世紀前半に200kgもの水銀朱を集められたとは思えない。
桜井茶臼山古墳は5世紀の築造なのでは?
又、写真では赤顔料もベンガラの赤に見える。
189日本@名無史さん:2009/10/24(土) 11:23:12
しかし、密閉されていた墓を発掘したら空気が入って酸化した例は枚挙にいとまがない。
やっぱり宮内庁管轄の御陵のようにそのままもっと科学の進んだ次世代に残すべきだたのではないの?
190神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/10/24(土) 12:12:29
今回の桜井茶臼山古墳の再発掘は前回確認されてそのままだったコウヤマキの木棺を取り出すのが
目的です。年輪年代法で木棺の作られた年代を割り出します。3世紀中頃の年代が出るでしょう。
191日本@名無史さん :2009/10/24(土) 13:08:29
桜井茶臼山古墳の副葬品として鉄刀、鉄剣などの騎馬民族文化のものがあるので、
九州の倭国のように南方的風俗は感じられない。
魏志人伝では3世紀に鉄製品は鏃(やじり)位だ。
鉄の伝来は九州の方が早いはずだから、桜井茶臼山古墳は4世紀以降で正しい。
192日本@名無史さん:2009/10/24(土) 13:18:29
考古学的遺物と倭人伝を混ぜて語るんじゃねの。
193日本@名無史さん:2009/10/24(土) 13:20:34
という事は、
大和王権が3世紀には、これだけの水銀朱を集められる程の王権だった、という事になるんだろうね。結局は。
九州論者は驚いている場合じゃないと思うんですが……。
194日本@名無史さん :2009/10/24(土) 13:29:44
ヤマト王権は4世紀半ば頃に半島から渡ってきた騎馬系渡来人だよ。
時代を遡りすぎ。
195日本@名無史さん :2009/10/24(土) 13:53:14
王朝の交替
九州の倭人の国(江南系弥生人)→倭の五王(騎馬民族)→  藤原京。(民族はまだ不明)
2〜4世紀          4〜7世紀初め        7世紀中〜
八十神             大国主天君秦氏(蘇我氏)   (蘇我氏滅びる )藤原氏へ
九州北部            九州北部→5世紀末頃大阪大和へ遷る    奈良
円墳 かく無棺有 土封     棺かく有 前方後円墳      仏教の伝来により古墳造は衰える
196日本@名無史さん:2009/10/24(土) 14:51:36
確かに、藤原氏の出自は謎が多いですね。
中臣鎌足とは何者なのか?
元の姓だけでも知りたいものです。
197日本@名無史さん:2009/10/24(土) 15:07:40
普通は考古学的遺物と倭人伝を混ぜて語るよ。
198日本@名無史さん:2009/10/24(土) 15:23:39
>>196

確か、不比等のお父さんだったかと。
199日本@名無史さん:2009/10/24(土) 15:32:52
桜井なんて大和水銀の宇陀の足元だぞ?
普通水銀朱が大量に使われてもおかしくないと思うけど。

何にせよ三世紀に相応の権力者が三輪周辺にいた事は間違いないでしょ。
200日本@名無史さん:2009/10/24(土) 16:35:43
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
201うましか:2009/10/24(土) 17:39:58
>>199

3世紀前半に宇陀の水銀砿が採取されていたかどうか?
公表された写真を見るからには、あの赤はベンガラにしか見えません。
ただ、古墳のあるあの場所は宇陀と言うか、
松阪・伊勢湾へ抜ける対東海交易ルートの入口ですから、
当時の王墓級の古墳が築かれてもおかしくはないところです。

いったいどなたの墓なのでしょうかね?
無理に記紀の人物と結びつけるなら、
日本武尊の兄弟の誰かですかね。
武尊に殺された双子の片割れとかかな。
202日本@名無史さん:2009/10/24(土) 19:39:20
芦屋の高地性集落といい、近畿で発見が続いたな。
203九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/24(土) 21:52:23
木棺をC14で年代測定しないのか。
赤顔料の化学分析もしないのか。
橿原考古学研究所は立場上しないだろうな。
埋め戻して調査完了とするだろうな。

桜井茶臼山古墳は、5世紀築造、九州式横穴型装飾石室古墳と確定させることはできないな。


>>202
高地性集落とするには食料調達で無理がある。
長期間続いた見張り番所だよ。

僕も大阪湾を行き来する船や阪神高速神戸線を見下ろしながら日々暮している。
阿波の勢力の海陸からの侵入監視所だと思う。
阿波の勢力は現神戸市まで進出していた時期があった。
204:2009/10/24(土) 22:22:44
へえ〜奈良に住んでる人いいな・・・

桜井茶臼山古墳の記事は貴重な水銀朱を大量使ったとか書いてあったような。
どっちなんでしょうね。
205日本@名無史さん:2009/10/24(土) 22:39:03
>>202
逃げ城かも
206日本@名無史さん:2009/10/24(土) 22:50:00
>>201
ベンガラより辰砂の方が取れる土地ですよ?
207神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/10/24(土) 23:02:14
>>203
C14の年代測定?お笑いですね。50年・100年のズレは誤差の範囲なのがC14です。
桜井茶臼山古墳のコウヤマキの木棺は年輪年代法で調査されるでしょう。
顔料の水銀朱を低級なベンガラにしたいようだけど分析などとっくに終わってますよ。
疑うなら、あなたが辰砂を食べてみたら良い。今より頭が賢くなったら水銀朱です。
208うましか:2009/10/24(土) 23:02:30
>>203
> 木棺をC14で年代測定しないのか。

多分行うでしょう。

> 桜井茶臼山古墳は、5世紀築造、九州式横穴型装飾石室古墳と確定させることはできないな。

行の後半部分がちょっと意味不明ですが・・・
桜井茶臼山は>>201で3C前半とか書いてしまいましたが書き間違い、後半ですね。
椿井大塚山とかと近いのでは・・・

> 高地性集落とするには食料調達で無理がある。
> 長期間続いた見張り番所だよ。

「長期間続いた見張り番所」を「高地性集落」と呼んではいけないのでしょうか?

> 僕も大阪湾を行き来する船や阪神高速神戸線を見下ろしながら日々暮している。

景色のよろしいところにお住まいでうらやましいですね。
私はマンション街の2階住まいなので、自宅から見える景色はどこを見てもマンションばかりです。

209日本@名無史さん :2009/10/24(土) 23:09:10
桜井茶臼山古墳の公発表での築造年代4世紀初頭は少なくとも100年は遡ってます。
210:2009/10/24(土) 23:10:13
大和で取れるからといって
水銀朱が貴重なのは確かだろう
211:2009/10/24(土) 23:16:19
>「長期間続いた見張り番所」を「高地性集落」と呼んではいけないのでしょうか?

基本的には「弥生時代」の高地に営まれる集落をいいますよね。
明らかに古墳時代だろうという古墳には使わないかと・・・
212日本@名無史さん:2009/10/24(土) 23:23:50
>>211
芦屋市三条町の会下山(えげのやま)遺跡の話題かと・・・

ttp://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is91024b.htm?from=ichioshi
213:2009/10/24(土) 23:27:39
>208さん、すいません
何処の話をしてるのか確認してませんでした。
214:2009/10/24(土) 23:36:32
水銀朱の種類と言えば、三重、奈良、徳島、長崎とありますが(もっとある?)
どこのモノが上質(高価?)なんでしょうね。
また、外国産(中国)と比べてどっちが上質なんだろう。
215日本@名無史さん :2009/10/24(土) 23:46:27
>>214
九州中央山地にあります。
216:2009/10/24(土) 23:48:21
>九州中央山地にあります。

へえ、私は国内では、この四か所しか知りませんね。
九州中央山地というと熊本県?何ていう鉱山なんでしょうか。
217:2009/10/25(日) 00:04:43
・・・?
>>215さん、九州中央山地のどこなんですか?

ていうか他の人はどこへいったの??
218日本@名無史さん :2009/10/25(日) 00:06:04
>>216

「辰砂(水銀)九州中央山地 蛇紋岩岩脈中」
九州中央山地 辰砂で検索すると、鉱物と岩石とかいうサイトに写真付きで出てきます。

219日本@名無史さん:2009/10/25(日) 00:12:33
【岡田外相】 民主党が"天皇は植木職人になるべき"と言うのならば、そうなる

植木職人発言オフレコ(岡田外相・金曜夜プレ懇) デスクオンリー/オフレコテープ起こしママ/公表不可 納品 2009年10月24日 02:11:40

1/5 Q.「まず、今回の外相の発言の真意をお伺いしたい。ご発言は、天皇の国事行為を前提とした、という理解でいいんですよね?つまり、あくまで内閣の助言と承認…(カブリ。聞き取れず)」
岡田氏「(さえぎり。カブリ)内閣とか国事行為とは無関係だ。あくまで陛下の……(聞き取れず) ご自身のお考え…お声を知りたいということだ」

2/5 Q.「では、宮内庁というのは?」
岡田氏「宮内庁というのは方便…というかレトリック(聞き取れず)とでも…。  陛下自身のお考えが聞きたいという趣旨。もちろん、宮内庁が陛下のお考えを聞いて起案し、文章化するとか措辞を整え とかあるだろうが、陛下自身のご意見が問題だ」

3/5 Q.「ズバリ、大臣は、陛下にどのようなお言葉が…(カブリ)」
岡田氏「(カブリ)そりゃ…政権交代ですよもちろん。
"勝てば官軍"といえば言い過ぎでしょうけど(数名笑い声)、民主党がこうして 勝った訳ですから、陛下もそれに恭順…(…間…)というかその支持をご自身のお言葉で表明してほしいですよね? 
このままじゃ"自民党の皇室"のままだ」

4/5 Q.「大臣のそういうお考えは内閣としても憲法上問題である、という見解が…」
岡田氏「内閣といっても法制局でしょ。"官"ですよ。政権がかわれば、憲法解釈もかわります。我々は政治主導です。そういうくだらないことを言うんであれば、法制局長官
をクビにするだけです。それが政治主導です」

5/5 Q.「陛下の政治的中立を守らないと皇室の維持の将来にも問題が…」
岡田氏「政治的中立とか…(…間…)政治的中立って憲法に書いてあるんですか?マニフェストに書いてあります?皇室の将来より民意ですよ。民意は民主党支持なんです。
民意より皇室の維持が重要なんてあり得ない。民主主義です民意が"天皇は植木職人になるべき"というのならばそうなるんでしょ」(了)
220:2009/10/25(日) 00:17:59
ここかな・・・
辰砂(水銀)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~sirokaze/frame_rk.html

黒瀬川帯というのは熊本県、東陽村、泉村、五木地方らしいですね。
>>218さん、情報ありがとうです。
221日本@名無史さん:2009/10/25(日) 00:18:24
>>218
九州には弥生後期の採掘跡はないけどね。
222日本@名無史さん:2009/10/25(日) 00:19:38
朱といえば、卑弥呼が魏から鏡と共にもらったとされる「真珠50斤」、
本当は「真朱50斤」ではないかという人もいるな。

後に台与が「白珠5千孔」を魏に献上した記事があるように
真珠は倭の特産品であり、逆に魏から貰うのはおかしいこと、
単位が個数ではなく、重さで示されていること、
鉛丹とともに併記されていること、が理由のようだが。
223日本@名無史さん :2009/10/25(日) 00:24:50
>>221
近畿には弥生後期の採掘跡はないけどね。
224:2009/10/25(日) 00:26:14
>九州には弥生後期の採掘跡はないけどね。

九州説の肩を持つわけではないですが、
九州墳墓の埋葬者の顔に塗られた水銀朱は中国製ということが分かっています。

しかに、畿内はその痕というか、使われたであろう証拠は残ってるんですが、
九州の水銀鉱山に「採掘跡」があろうが、なかろうが関係ないのでは?と思いますが...
如何でしょう?
225:2009/10/25(日) 00:27:26
>>223
>近畿には弥生後期の採掘跡はないけどね。

「採掘跡」かどうかはしらんが、証拠はあるってwww
226うましか:2009/10/25(日) 00:28:40
>>207

> 顔料の水銀朱を低級なベンガラにしたいようだけど分析などとっくに終わってますよ。
> 疑うなら、あなたが辰砂を食べてみたら良い。今より頭が賢くなったら水銀朱です。

横からすいません。
200Kgの水銀朱って無茶苦茶な量だと思いますが。
他の古墳の量とは二ケタ違いますよ。
水銀朱は棺だけで壁面とかにはベンガラを使ったと言う例も有りますので「全部」とは信じがたいところですね。
227日本@名無史さん:2009/10/25(日) 00:31:21
>>221
となると、倭は九州内に収まらない
ということになるから、畿内説に有利か
228日本@名無史さん:2009/10/25(日) 00:32:06
>>223
採掘していた形跡ならあるよ。
229日本@名無史さん :2009/10/25(日) 00:33:53
>>228
>>225
時代が違うって話。
弥生後期は近畿はほとんど無人ですから。
230日本@名無史さん:2009/10/25(日) 00:36:46
>>226
二ケタは言い過ぎじゃ。
岡山の楯築丘墓、32.3キログラム、
大和天神山古墳、41キログラム。
231うましか:2009/10/25(日) 00:44:25
>>230

多い例も有るかと思いますけど、2〜3Kgの使用量が一般的では?
>>222氏が挙げている「真珠50斤」、ものが何であれ50斤って12〜3Kgでしょう。
もし「真朱」だとしたら、それくらいしか貰えなかった貴重品。
232神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/10/25(日) 00:45:51
>>222
白珠と言うのは水晶の加工品のことです。京都府丹後地方の奈具丘遺跡で製造してました。
ちなみに都路里の「白玉あんみつ」は美味しいですが白珠ではありません。
233日本@名無史さん :2009/10/25(日) 00:51:29
>>232
水晶で白濁のものってあるの?
透明なものばかりかと思っていたけど。
234:2009/10/25(日) 01:03:23
「真珠、鉛丹各五十斤」ですね、たしかに「真朱、鉛丹、各五十斤」のが納得できる。

232さんは水晶ですか、どうなんでしょうね。
235神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/10/25(日) 01:05:06
>>231
奈良の大仏の塗金に使用された水銀2・5トンの方が無茶苦茶な量に思えます。
水銀朱をさらに加工した水銀2・5トンを使用したわけですから。
古代の近畿地方では辰砂が露出していたのでしょう。今でも近畿地方では井戸水に
水銀が混入して飲用不適になる地方があります。
236:2009/10/25(日) 01:12:44
うーん、貢白珠五千の「白珠」を「水晶」と考えるのは少し無理があるのでは?
と思います。
「貢白珠五千」は倭の特産である「真珠」を送った。
問題は、「真珠、鉛丹各五十斤」ですね・・・

「真朱、鉛丹、各五十斤」の間違いなのか?
それとも貝の種類が違うだけかもしれないし・・・

237:2009/10/25(日) 01:15:21
たしかね、昔読んだ本によると
アカイ色をした真珠はあるにはあるんですよ。
ピンク色っぽいシャコガイだったかな・・・
南の海に生息するやつでして・・・
238日本@名無史さん:2009/10/25(日) 01:20:49
>>231
一般的には、とするとそんなものなのかも知れない。

今回の発掘については、俺は報道の通り受け取ってるけど。
過去にも荒神谷遺跡の銅剣のように、一つの遺跡で
それまでの発掘量を上回る事もあったことだし。
239うましか:2009/10/25(日) 01:21:07
>>235

> 水銀朱をさらに加工した水銀2・5トンを使用したわけですから。

まあ、上には上がいるということでw
240:2009/10/25(日) 01:22:14
出雲の銅鐸もそうですよね。
241うましか:2009/10/25(日) 01:23:25
>>238

つまり、水銀中毒な王さまの墓だったとw
242日本@名無史さん:2009/10/25(日) 01:23:33
>>235
大和水銀でも奈良時代には30m程掘り下げていたらしいからね。
それ以前は露出していたのでしょう。
243日本@名無史さん:2009/10/25(日) 01:26:26
まあ茶臼山古墳のすぐ近所が大和鉱山だ。
水銀を求めてきた権力者の墓には間違いないでしょ。
244:2009/10/25(日) 01:26:42
しかし、それだとな〜んで「真珠五十、鉛丹各五十斤」ではないの?て話になる。
うましか氏のいうとおりかもしれません。
245日本@名無史さん:2009/10/25(日) 01:29:29
>>241
水銀朱、すなわち硫化第二水銀は安定していて、
今でもプラスチックの着色なんかに使われているよ。
246:2009/10/25(日) 01:30:16
>>243
>まあ茶臼山古墳のすぐ近所が大和鉱山だ。
>水銀を求めてきた権力者の墓には間違いないでしょ。

しかし、国内の墳墓内で見つかる「水銀朱」は国内産のモノが少ない。
中国産、または中国産、国内産のブレンドが多いではないか。
もとめて来たっていうのは言いすぎ!
247日本@名無史さん:2009/10/25(日) 01:53:17
>>231
>多い例も有るかと思いますけど、2〜3Kgの使用量が一般的では?

大王墓と思われる畿内200m〜300m超級の大古墳は
その大部分が陵墓として宮内庁の管理下にあるので
内部の調査はまだ殆ど行われていない。

「一般的」なる概念を持ち出して云々するのは早計。
248九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/25(日) 11:12:19
>>207
>C14の年代測定?お笑いですね。50年・100年のズレは誤差の範囲なのがC14です。

何年前のC14分析技術レベルで論じているんだ。
現在のC14分析技術を学習してから論じてくださいよ。
単に現在のC14分析技術を認めたくないだけだよね。
それとも>>207は現代科学技術を評価できないのか?
昔からこの手の人間は法律家に多い。足利事件の様に。
交通違反裁判で、白バイの加速度が宇宙ロケットより大であるとの判決を思い出す。
白バイの加速度>9.8m/sec2


>桜井茶臼山古墳のコウヤマキの木棺は年輪年代法で調査されるでしょう。

3世紀の年輪年代法は未だ確立していない。
3世紀の年輪年代法を確立する為のデーター集積調査なら理解できる。
249日本@名無史さん:2009/10/25(日) 11:15:57
桜井、巻向周辺からはこれからも
色々発表が続くと言ったでしょ?

250神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/10/25(日) 12:16:05
>>248
辰砂・水銀朱は賢者の石と言われてます。あなたがこれを食べたら賢くなるかもね。
あなたの頭脳のズレが修正出来るかも知れません。それともC4爆薬でも食べますか?
ちなみにコウヤマキの年輪年代法での解析は西暦22年〜741年まで確立してます。
251日本@名無史さん:2009/10/25(日) 12:24:20
>>250
その人は九州王朝とかいってる時点でバカ決定だから、ムシしたほうがいいよ。ありえないものを主張して何が面白いのやらね。
252うましか:2009/10/25(日) 12:43:16
>>247

> 「一般的」なる概念を持ち出して云々するのは早計。

「云々」とか、よく意味がわかりませんが、何かお気に障るようなことがありましたか?
253九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/25(日) 12:57:31
>>208 うましかさん
>> 桜井茶臼山古墳は、5世紀築造、九州式横穴型装飾石室古墳と確定させることはできないな。
>行の後半部分がちょっと意味不明ですが・・・

僕の古墳分類概念です。
九州式とは菊池の墓形式の流れを指します。
@崖の横穴に遺体を入れ岩洞窟をベンガラ赤で装飾する。
A遺体を入れた棺にベンガラを入れ防臭処置をする。後に棺もベンガラ赤装飾となる。
B墓を平地に作る様になると、墳丘に石の横穴を作りその最奥部を石室とし、
 棺を置き、石室棺を赤色で装飾する。前方後円墳等の墳丘の形は別文化の墓制を取り入れたものです。
 なお、竪穴式石室の墳丘墓は九州式ではありません。
C装飾赤色顔料はベンガラ赤であったが、水銀朱も使われる様になった。 
D九州式墓制は遺体の阿蘇黄土防臭処置から発展したものです。

阿蘇黄土(リモナイト)は脱水酸化することによりベンガラとなります。
平地型の九州式古墳の原型はオブサン古墳やチブサン古墳の様なもので、
円墳とは別物の形です。
254日本@名無史さん :2009/10/25(日) 13:24:48
大陸の進んだ文化が入ってくる入り口は北部九州だ。
三国志の時代と同時代の魏志倭人伝の記述がいかに騎馬文化とは無縁であったかわかる。
その同じ時代に近畿に北部九州より高い文化があるはずがない。
それなのに、中国史書を無視して卑弥呼、邪馬台国だけは採用して
近畿に当てはめるとはどういう神経してるんだか。
255うましか:2009/10/25(日) 13:34:49
>>253

じゃ、那珂八幡古墳などは典型的な非九州タイプの存在ですね。
256九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/25(日) 14:27:33
>>255
倭奴國から繋がってくる墓制の古墳だとみています。
祭壇付き円墳であると理解しています。
邪馬台国とは関係ありません。
福岡平野沿岸部の倭奴國敗残勢力が神武の様に奈良盆地に侵入したのでしょう。
神武説話の一部はこの敗残勢力の難民移動話で構成しているのではと思います。

神武説話の最初の東侵はAD100年前後と言うことになります。
257日本@名無史さん:2009/10/25(日) 16:10:16
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
258うましか:2009/10/25(日) 17:02:30
>>256

その「敗残勢力」さん達は、三世紀半ば以降になっても
あんな一等地に古墳を築けるような勢力だったんですか?
そのころの西新辺りなんか絶頂期なんじゃないですか?
まあ、吉備も畿内も御先祖様は九州で繋がっていると言う
共通認識があって、神武東征譚のベースになっていると思ってはいますが。
259日本@名無史さん:2009/10/26(月) 01:21:25
畿内は九州よりも丹波、出雲の影響が大でしょ。
260日本@名無史さん:2009/10/26(月) 01:26:33
>>254
邪馬台国の時代だと北部九州の優位性は失せてるでしょ。
261日本@名無史さん:2009/10/26(月) 01:52:37
銅鐸期は畿内→出雲の流れ
出雲→畿内というのはその後も無い
262日本@名無史さん:2009/10/26(月) 10:02:11
>>256
>・・・福岡平野沿岸部の倭奴國敗残勢力・・・
この倭奴國敗残勢力ってのはなんですか? 
263日本@名無史さん:2009/10/26(月) 10:03:54
九州説じゃ丹波や出雲の説明が不十分だと思うね。
少なくとも三世紀には北部九州に匹敵する程の成長を遂げていて、
出土品や遺跡、伝承から半島や大陸との関連が深い事も確実なのに。

おまけに海部氏系図では天孫降臨が丹波にあったとまでされてるのにね。
264日本@名無史さん:2009/10/26(月) 10:39:07
>>263
それが何で九州説では説明できないことになるのかな。
九州説は、本州に国がなかったなどとは言ってないよ。本州が存在したことは
まちがいないのだから、本州にもそれなりに国はあったろうという見方だよ。
265日本@名無史さん:2009/10/26(月) 11:39:58
>>264
そうか?今まで大半の九州説では本州以東なんて倭種の国で
片付けていた気がするが。

それなりの国なら当然倭人伝でもそれなりの記述が
されると思うけどね。
少なくとも交流があった30国には含まれないと、
現状の出土状況ではもはや説明がつかないでしょう。
266日本@名無史さん:2009/10/26(月) 11:56:46
倭種の国にもそれなりの国があったということだよ。しかし、それは倭人伝が
書いている倭の地にある国ではない。30国には入らないね。
267日本@名無史さん:2009/10/26(月) 12:24:09
>>266
それを主張するにはもう無理があるって事ですね。

倭人伝の書かれた3世紀末には、北部九州は衰退期で
丹波や吉備、畿内に中心勢力が移行しているのは
もはや否定できないですから。
268日本@名無史さん:2009/10/26(月) 12:51:20
>>267
>倭人伝の書かれた3世紀末には、北部九州は衰退期で
>丹波や吉備、畿内に中心勢力が移行しているのは
>もはや否定できないですから。
そういいきれる根拠はなに ?
269日本@名無史さん :2009/10/26(月) 12:57:56
>>267
>倭人伝の書かれた3世紀末には、北部九州は衰退期
これから更に繁栄期だよ。
九州の装飾古墳の絵を見ればわかる。
3世紀までは馬がいなかったのに、壁画には馬や武器をもった兵士、舟のなどの
絵が書かれていてさらに文化が進んだようだ。
これの勢力が倭の五王でそれが5世紀後半に何百国を従える国に成長して
近畿に東遷したんだよ。だから近畿地方には大型の古墳が揃っているんだよ。
まずは大阪沿岸にうつりすんだからこそ、堺や羽曳野のなどに大王墓があるんだし。
しかしその大王墓の巨大のものは、後の時代に増成して整え直した可能性は考えられるけれど。
とにかく近畿説はまだ確定的とは言えない年代測定法を信じすぎて、文献を無視しすぎから
そういうことを言うんだよ。
270日本@名無史さん:2009/10/26(月) 13:21:57
>>269
四世紀北部九州から東遷、繁栄の形跡なんてないですよ。
中心は丹波〜畿内(葛城)の勢力ですね。
271日本@名無史さん :2009/10/26(月) 13:27:29
>>270
形跡はいくらもあるよ。
まずは出雲位までは九州勢力が開拓した地ですから。
その出雲から発展して瀬戸内側に行ったわけですから。
古事記の出雲神話はだからこそあるのだし。

木かくの年輪測定法だけど、中をくりぬいた割り竹式で外側も削ったと思うけど、
しかも朽ち果てていてボロボロ、
そんな木片だけで正確な年代が測れるものなのか、非常に疑問だ。
272日本@名無史さん:2009/10/26(月) 13:32:18
繁栄していたかどうかなんてのは、しょせん水掛け論だ。そんなことを論じても
仕方がないよ。3世紀に本州にそれなりに繁栄していた国があったにしろ、その
国が魏に通交するとは限らない。魏がいう倭の国はもともと中国と交渉があった
倭の地すなわち九州のことだよ。旧百余国とあるだろ。北九州だけで対馬国、一
大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国と6カ国もあるのに、本州全体を入れて百
余国では少なすぎる。
273日本@名無史さん:2009/10/26(月) 13:33:29
出雲勢力と九州勢力は別ですよw

大体出雲という範囲が結構曖昧だろ。
出雲神社なんて元々丹波の亀岡にあるだぜ?
他でもない大和こそ本来の出雲だという話もある。
ヤマタのオロチ神話は出雲の風土記になく、大和平野の各所に残ってるしな。

274日本@名無史さん :2009/10/26(月) 13:42:07
>>273
別なわけないよ。
近畿説の人は前から思っていたけど、物事をブツブツぶつ切りにして考えるよね。
だからトンでも説を唱えるわけだけど。笑ってる場合じゃないよ。
自分の常識間隔疑ったほうがいい。
だからこそ、倭の五王武のとき東、衆夷、海北と勢力を広げられたのだから。
倭の五王がまずは九州で邪馬台国などを服させその国名を冠して近畿に入植したんだよ。
275日本@名無史さん:2009/10/26(月) 13:46:25
>>272
全然少なすぎないよ。まず30国は国の総数ではなく魏と書を交わす国だし。
そうなると貸銭などの出土している西日本の国々も30国に含むのは当然の事ですな。

それに50000、70000という戸数の国々がある事を忘れてないかい?
276日本@名無史さん:2009/10/26(月) 13:50:33
>>274
逆に九州説の人は小さくまとめようとし過ぎでしょ。
新たな発見が出ても結局否定するだけで、自説に固執し過ぎだね。
277日本@名無史さん :2009/10/26(月) 13:54:24
>>273
因幡の白兎など出雲ではないけど隣の国だから同じようなものだけど、
大国主と八十神が出てくる。大国主は近畿王朝の祖だよ。後に王朝の交替はあるけど。
八十神は名前から推測できるとおり邪馬台国などの倭国連合だよ。
白兎が語ったことから推測できる。「ヤガミヒメは八十神でなくあなたを選ぶでしょう」と。
つまり新しい渡来系勢力は先住の倭国と縁組をしていったってことがわかる。
これもだたの神話ではなくその元になった出来事があったからこそ、昔話として
残るいい例だよ。
278日本@名無史さん :2009/10/26(月) 13:58:33
>>274
小さくまとめようとはしていない。
総合的に考えた結果だよ。
文献を無視しすぎて大きくとらえようとしすぎているのは近畿説。
だから文献ではまったく説明不能。
279日本@名無史さん:2009/10/26(月) 14:02:56
>>278
別に文献を無視してませんどね、それに説明もつきます。

文献と出土品や遺跡の発掘状況を考えて
畿内説を取ってるだけですよw
280日本@名無史さん :2009/10/26(月) 14:13:44
>>279
笑ってる場合じゃないよ。
文献を無視しているからこそ近畿説になるんだよ。
なんでも畿内を中心に考えているから、すべて都合の悪いものは頭から自然に
外へ出ていってしまうんだよ。
281日本@名無史さん:2009/10/26(月) 14:16:14
まあ九州説も文献無視してるしなw
282日本@名無史さん :2009/10/26(月) 14:21:54
>>281
九州説だっていろいろあるからね。
いろいろ無理に解釈したのが多いし。
その中で、九州の邪馬台国は何処であるかを検討するとなれば、今度は
遺跡、土地に伝わる伝説、土地名などが重要視されてくるんだよ。
283日本@名無史さん:2009/10/26(月) 15:30:57
>>275
旧百余国と今三十国が対応しているんだ。だから、今は魏と通交している国が
三十国でそれ以外には国はないということだよ。
それはともかく、旧百余国は魏時代よりも前のことだ。その当時に倭は全体で
百余国しかなかったんだよ。本州まで入れるならば、当然、九州全部、四国全部
も入れることになる。九州、四国、本州の全部でたった百余国なんてはずないだろ。
284日本@名無史さん:2009/10/26(月) 15:55:26
>九州、四国、本州の全部でたった百余国なんてはずないだろ。

そりゃわからんでしょ。
当時の国としての形態に達していたのはそれくらいかもしれない。
285日本@名無史さん:2009/10/26(月) 16:56:08
国としての形態に達していない空白地帯が延々と広がっていたとか?
そんな状態では、本州は中国から相手にされないだろうな。
286日本@名無史さん:2009/10/26(月) 17:11:02
倭人伝が間違っているわけがない、という根拠はインチキ商法と同じだと思うんだけど。
どうして、倭人伝が間違っているわけがない、といい切れるのか?
編纂者への尊敬からなのか?信仰からなのか?愛からなのか?
冷静になって下さい。
人は誰だって間違いを犯す。

古代での遠い国の事だしね。
間違わない方が珍しい。
編纂者への信頼を根拠にしてはいけません。それは邪道です。
確証のとれない事ですから。

いずれにせよ、倭人伝が間違っているわけがない、、という理屈は説の根拠にはならない。
絶対に覆させない誰もが認めるデータを根拠にしなければね。
287日本@名無史さん:2009/10/26(月) 17:13:44
まちがっているという絶対に覆させない誰もが認める根拠をだしてほしいな。
288日本@名無史さん:2009/10/26(月) 17:16:36
一歩=六尺の魏・晋での公式値と倭人伝記述距離が合っていない。
289日本@名無史さん:2009/10/26(月) 17:18:04
何故、そうなっているのかを考える事が必要。
290日本@名無史さん:2009/10/26(月) 17:20:11
>一歩=六尺の魏・晋での公式値
それが公式値だという立証は誰もできていないよ。
あなたはできるのかな?
291日本@名無史さん:2009/10/26(月) 17:20:28
倭人伝が間違っているから。
も選択肢の一つにされる。

倭人伝が曖昧な状況。
ゆえに現状では、倭人伝を根拠に出きない。
のである。
292日本@名無史さん:2009/10/26(月) 17:22:12
290へ。

出来ています。記録があります。
あがいても無駄です。
293日本@名無史さん:2009/10/26(月) 17:36:02
流れ読まずにごめん。質問していいかね

俺はヤマタイ国=大和朝廷の前身であり、九州で建国→一度滅ぼされ畿内へと移住した…という説の支持者なのだが

この説はこのスレ的にはあり?なし?
294日本@名無史さん:2009/10/26(月) 17:45:45
ご自由に、どうぞ
295日本@名無史さん:2009/10/26(月) 17:51:22
数以六為紀、符法冠皆六寸、而輿六尺、六尺為歩、乗六馬。 更名河曰徳、以為水徳之始。 剛毅戻深、事皆決於法、刻削毋仁恩和義、然後合五徳之数。 於是急法、久者不赦。{ 史記巻六秦始皇本紀第六}
296日本@名無史さん:2009/10/26(月) 17:51:22
>>291
>倭人伝が間違っているから。
>も選択肢の一つにされる。

そうだよね。倭人伝が間違ってないと機内につかないものね。
297日本@名無史さん:2009/10/26(月) 19:11:56
九州にも着かないじゃん。
298日本@名無史さん:2009/10/26(月) 19:37:20
九州を通りすぎます。
299日本@名無史さん:2009/10/26(月) 19:54:36
公里で正式に計算すると、インドネシア辺りじゃないか。

300日本@名無史さん:2009/10/26(月) 19:56:51
だから九州説でも、倭人伝は間違っている、としなければならないんだよ。
301日本@名無史さん:2009/10/26(月) 19:59:50
魏志倭人伝は公の記録ですよね。
そこを確認!
302日本@名無史さん:2009/10/26(月) 20:05:38
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
303日本@名無史さん:2009/10/26(月) 21:02:53
>>300
1万2千里。
304日本@名無史さん:2009/10/26(月) 21:33:34
>>301
別に皇帝の勅命で作られたわけじゃなし、
同時代の史書のなかで最も出来が良かった
だけじゃないのか?
305日本@名無史さん:2009/10/26(月) 21:45:40
【大分】 吉野ケ里で「邪馬台国」展開幕 フォーラム「なぜ邪馬台国は九州か」を開催
1 :かしわ餅ρ ★:2009/10/26(月) 12:03:47 ID:???0
吉野ケ里歴史公園(吉野ケ里町田手)で24日、特別企画展「よみがえる邪馬台国」が始まった。
県教委が所蔵する弥生人の男性の毛髪の実物が初めて一般公開され=写真=、弥生時代の
土器の破片に触れるコーナーも設けている。監修した佐賀女子短大の高島忠平学長は
「発掘成果だけでなく、レプリカ(複製)を多用した展示。邪馬台国の場所は九州説と近畿説があるが、
特定されていない。この展示をきっかけに論争を活発にできたら」と話している。

http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1256526227/
306日本@名無史さん:2009/10/26(月) 21:45:44
役人の記録だから、公のものだろう。
だから公里でかかなけりゃ駄目。
307九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/26(月) 22:10:10
>>286
>倭人伝が間違っているわけがない、という根拠はインチキ商法と同じだと思うんだけど。
>どうして、倭人伝が間違っているわけがない、といい切れるのか?
>編纂者への尊敬からなのか?信仰からなのか?愛からなのか?
>冷静になって下さい。
>人は誰だって間違いを犯す。

距離(里)と方向については間違っていません。
隋書までに書かれた(7世紀前半まで)すべての史書では、
何故か東夷部分については1里≒70mで書かれているのです。
308日本@名無史さん:2009/10/26(月) 22:18:26
その辺の史書は倭国については
三国志をコピペして書かれてるからなあ。
309日本@名無史さん:2009/10/26(月) 22:41:04
【歴史】邪馬台国の所在地は韓国だった。釜山市内で出土した2個の金印が決定的な証拠★3


http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/bread/1255403217/
310日本@名無史さん:2009/10/26(月) 22:49:32
魏志倭人伝から邪馬台国はどこかと読み解こうとするのは、馬鹿のする事だって歴史学者が言ってるよ
311九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/26(月) 23:47:45
>>310
>魏志倭人伝から邪馬台国はどこかと読み解こうとするのは、馬鹿のする事だって歴史学者が言ってるよ

そうだろうな。
歴史学者先生はバカだから、バカから見てのバカは賢いんだ。

「先生と言われるほどのバカじゃなし」


>>308
>その辺の史書は倭国については
>三国志をコピペして書かれてるからなあ。

隋書百濟傳タン牟羅國条を見てごらん、1里≒70mで書かれているから。
『其南海行三月 有tam[身冉]牟羅國 南北千餘里 東西數百里』
[身冉]牟羅國:済州島
南北千餘里:南北にある海と陸の境界線の長さは千餘里
東西數百里:東西にある海と陸の境界線の長さは数百餘里
312日本@名無史さん:2009/10/27(火) 01:36:27
済州島も南北に長く描写されているのか。
やはり、南を東を読み替えるのは正しいのか?
313日本@名無史さん:2009/10/27(火) 07:17:49
>隋書までに書かれた(7世紀前半まで)すべての史書では、
何故か東夷部分については1里≒70mで書かれているのです。

だから、公里で記録されていない、といっているんです。
そんなもの公では役に立ちません。


314日本@名無史さん:2009/10/27(火) 08:04:54
>隋書・・・済州島・・・南北千餘里 東西數百里

>>312
>済州島も南北に長く描写されているのか。
>やはり、南を東を読み替えるのは正しいのか?


おお! これは大事な指摘だ!

すると隋代、唐代でも、中国人は東夷に関して、
まだまだ正確な方位認識が出来ていなかった証拠なわけだな!
距離も過大に考えていた、と。

済州島の地図を貼っておくぞ。現代のだが。
http://www.i-wanna-travel.com/map-korea-all2.gif
315日本@名無史さん:2009/10/27(火) 09:01:58
>>312
確かにそうだね。

まあ大体この時代にまともな地図が無いことは明確だからな。
海を越えた東夷の倭なんて尚更正確に認識されてたとは思えない。
316日本@名無史さん:2009/10/27(火) 09:49:14
済州島の話だと思っているところが問題だな。
その島は、百済から三月かかるところだって書いてあるぜ。
済州島ならばせいぜい2、3日のはずだ。
317日本@名無史さん:2009/10/27(火) 10:00:03
>済州島も南北に長く描写されているのか。
>やはり、南を東を読み替えるのは正しいのか?
>おお! これは大事な指摘だ!

九州説諸君!
王手をかけられたよ。
どう説明するんだ。

318日本@名無史さん:2009/10/27(火) 10:00:11
>済州島も南北に長く描写されているのか。
>やはり、南を東を読み替えるのは正しいのか?
>おお! これは大事な指摘だ!

九州説諸君!
王手をかけられたよ。
どう説明するんだ。

319日本@名無史さん:2009/10/27(火) 10:21:38
>>316
じゃあ何島だよ?

それに当時の地理認識は
相当デタラメで、倭人伝の時代なんて
到底記述が当てにならない事になると思うが。
320日本@名無史さん:2009/10/27(火) 10:25:05
>じゃあ何島だよ?

答えられる筈ないよね。
九州説はこれで詰み。
321日本@名無史さん:2009/10/27(火) 10:25:17
>済州島も南北に長く描写されているのか。

沖縄の事じゃないの?
もしくは九州とかw

何にせよ滅茶苦茶だよね。
322日本@名無史さん:2009/10/27(火) 10:33:56
前の方を読むと、百済について、其國東西四百五十里、南北九百餘里、南接新羅、北拒高麗。
とあるぜ。百済の方が済州島よりも小さいか? そんなことはないだろう。
ということは、これは長里で書いているんだ。
となれば、南北千餘里 東西數百里 も当然長里のはずだ。済州島の大きさとは全く合わないな。
これは台湾のことが書かれているんだろう。
これを書いた人物は済州島を訪ねたわけではない。南の方に何ていう島があるのか、それぞれ
どの程度の大きさか、それを確かめるうちに、済州島と台湾を混同したんだろうな。
323日本@名無史さん:2009/10/27(火) 10:38:02
>>322
つまり東夷の土地認識なんてその程度という事ですよw

必死に里数や方角の検討をするのは
大して意味をなさないでしょう。
324日本@名無史さん:2009/10/27(火) 10:44:41
>>323
何とか倭人伝がまちがっていると言いたいみたいだけど、倭人伝の原資料は
倭国を訪ねた人が書いているということを忘れてはいかんよ。
済州島か台湾かという話とはまったくちがうんだ。
325日本@名無史さん:2009/10/27(火) 10:47:57
>隋書・・・済州島・・・南北千餘里 東西數百里

済州島と台湾を混同するくらいだ。
倭人伝での距離も方角も当てにはならない。
それでも倭人伝の記述をとことんまで信じている輩は、もはや陳寿への信仰の領域だ。
いや、陳寿へ捧げる愛の領域だ。
326日本@名無史さん:2009/10/27(火) 10:51:58
>何とか倭人伝がまちがっていると言いたいみたいだけど、

事実だから仕方ない。
間違いに目を瞑るわけにはいかないだろう。
貴方には厳しい意見かもしれないけど。

>済州島か台湾かという話とはまったくちがうんだ。

間違いを犯した前科もののいう事に説得力なし。
327日本@名無史さん:2009/10/27(火) 10:59:47
台湾なのか?
328日本@名無史さん:2009/10/27(火) 11:02:11
九州説諸君、いいかげんに目を覚ましなさい。
間違った事を追求する事に多くの時間を浪費して何の意味がある?
329日本@名無史さん:2009/10/27(火) 11:04:51
>いや、陳寿へ捧げる愛の領域だ。

なんだそれ?
330日本@名無史さん:2009/10/27(火) 11:51:54
>>329
畿内説の論理だよ。大和を愛しているのさ。ただ、それだけ・・・
331日本@名無史さん:2009/10/27(火) 13:17:43
宗教論争の戦いじゃないんだしw
無理矢理、畿内説論者へ勧誘しても意味ないだろ
それより、畿内説の脇を固めろや
332日本@名無史さん:2009/10/27(火) 13:27:55
少なくとも候補が乱立している九州説よりかは
畿内説の方が脇固めてるよな。
333日本@名無史さん:2009/10/27(火) 13:32:50
九州説を先ずは一つに固めろ、
といってもばらばらに分解されたままなんだろうなぁ、いつまでも……。
334日本@名無史さん:2009/10/27(火) 13:36:11
>台湾なのか?

いや、隋書・・・済州島・・・南北千餘里 東西數百里
の事でしょう。
、、
335日本@名無史さん:2009/10/27(火) 13:40:27
畿内説の脇はどうやったって固まらないよ。
南九州で前方後円墳がつくられ始めたのは3世紀前半〜中頃だろう。奈良県桜井市の箸墓がつくられるよりも少し前に
南九州に前方後円墳が登場したんだろうね。最初のものは纒向型と呼ばれる墳形の前方後円墳だろう。桜井市ホケノ山
や石塚古墳などが著名だが、これらとよく似た墳形の前方後円墳が南九州にもある。
宮崎県の西都原81号墳や新田原30号墳、檍1号墳、鹿児島県塚崎10号墳,端陵古墳などだ。これらはまだ未発掘のため
正確なことは分からんが,西都原や塚崎古墳群などでは、纒向型よりも新しい墳形の時期の前方後円墳(箸墓類型や西
殿塚類型)などが継続してつくられているから、纒向型が最古の前方後円墳となる可能性が高いと考えられる。
そうとすれば、古墳時代の幕開けとなる前方後円墳の出現時期に、南九州はすでに卑弥呼を盟主とする国家すなわち倭
国の中心として繁栄していたことが分かる。
336日本@名無史さん:2009/10/27(火) 13:42:13
話をそらさせないけど、
九州説には厳しい言い方ですが、
済州島が南北に長く記されている事実についてはお認めされるんでしょうね。
反論させない強制力を持った論法が続きますよ。
337日本@名無史さん:2009/10/27(火) 13:45:51
>>335
まず頭の中を整理しろよw
338日本@名無史さん:2009/10/27(火) 13:48:20
済州島が南北‥

確かに畿内説には有利な内容だね。
九州よりも近い島ですらこんな地理認識では。
339日本@名無史さん:2009/10/27(火) 13:54:27
仮に隋書が信用できんとしても、三国志も信用できんという理屈は成り立たない
340日本@名無史さん:2009/10/27(火) 13:57:04
仮に魏志倭人伝の方角が信用できなとしても、だから近畿説が正しいとはならない
341日本@名無史さん:2009/10/27(火) 14:04:04
>>340
方角間違い説の裏づけにはなるよ。
畿内説のネックはこの方角だったからね。
342日本@名無史さん:2009/10/27(火) 14:05:52
畿内説のネックは、方向だけじゃないだろ
弥生時代の出土物は?鉄や絹や
343日本@名無史さん:2009/10/27(火) 14:18:23
畿内説だと畿内に鉄や絹が出なくても大丈夫ですよ。

絹はともかく鉄なら丹波経由でも入るだろうし、
淡路島にも遺跡は発見されてるしな。

倭人の風土を紹介してるのだから、九州の人の様子を記述しただけの事。
344日本@名無史さん:2009/10/27(火) 14:33:31
>仮に隋書が信用できんとしても、三国志も信用できんという理屈は成り立たない

お気の毒ですが、成り立ちます。
隋書は魏志を参考にして記されています。
345日本@名無史さん:2009/10/27(火) 14:35:05
というか隋の時代でさえそれなのに、もっと遡ればますます地理が定かではなくなるじゃん。
346日本@名無史さん:2009/10/27(火) 14:40:18
>>344
どうゆう頭をしているんだ? 魏志を参考にした隋書にまちがいがあったとしても
魏志に間違いがあるなんてことにはならないよ。
魏志を読んだ人が間違った解説を書いてるからといって、魏志がまちがっていると
は言えないだろ。
347日本@名無史さん:2009/10/27(火) 15:43:43
魏志を参考にした隋書にまちがいがあったら、参考にされた魏志の方も間違っている場合があるだろう。
魏志を読んだ人が間違った解説を書いた場合、魏志が間違っていたからだ、ともいえる場合があるだろう。

要するに史書隋書で方角が間違っている所がある以上は、史書魏志も方角は信用出来ない。のだよ。
間違っている、間違っていない、というよりも信用問題をいっているのだよ。

それとも何か?
隋書の方角は信用出来ないけれども魏志の方角は信用できるというのか?
それは、わからない、が正解だろう。
わからない事を根拠には出きない、
348日本@名無史さん:2009/10/27(火) 15:46:25
九州説諸君!

隋書の方角は間違っている。でいいのですね。
349日本@名無史さん:2009/10/27(火) 15:48:52
348

隋書・・・済州島・・・南北千餘里 東西數百里

賛成多数100%で決まり!
350日本@名無史さん:2009/10/27(火) 15:55:04
正確には、隋書での方角記述では間違っている所もある、ですね。
全ての方角が間違っているわけではありません。
いずれにせよ、方角記述は絶対的な根拠にはなり得ません。
351日本@名無史さん:2009/10/27(火) 18:54:21
まあ少なくとも地理に関して倭人伝の記述が正確だとは
とても主張出来ないですね。
352日本@名無史さん:2009/10/27(火) 19:34:36
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
353日本@名無史さん:2009/10/27(火) 21:16:27
考古学は魏史倭人伝と無関係で独立した歴史を書いてみるべきではありませんか?頑張って発掘調査しても結局は史書に頼っている。史書には政治的な文章もたまに含まれます。そんな場合は事実学の考古学と対立すると思います。
354九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/27(火) 21:26:44
>>348
>九州説諸君!
>隋書の方角は間違っている。でいいのですね。

隋書の方角は間違っていません。
あなたの読み方が間違っているだけです。
現代と同じ読み方でないところがあります。
「南北千餘里東西數百里」
「境東西五月行南北三月行」
355日本@名無史さん:2009/10/27(火) 21:52:18
>>353
もちろん、書かれています。
きっとお読みでないのでは?
356九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/27(火) 22:14:03
>>316
>済州島の話だと思っているところが問題だな。
>その島は、百済から三月かかるところだって書いてあるぜ。

読み方が間違っています。
「行三月」は距離を表しています。
行一月≒70km≒千里
行三月≒210km


>>322
あなたも読み方が間違っています。
「其國東西四百五十里 南北九百餘里 南接新羅 北拒高麗」
百濟の東西にある国境の長さが四百五十里、南北にある国境の長さが九百餘里。
南の国境は新羅領と接している。百濟の南側は海(対馬海峡)ではないのです。
全羅北道は錦江沿いを除いて新羅領なのです。
北は百濟から離れて高麗がある。
百濟と高麗の間は隋の立場から見ると楽浪郡、即ちそれは旧百濟領、現在は高麗と新羅との紛争地。
百濟は東西方向に長く、南北方向に短いのです。
百濟の領域は錦江沿いの狭い地域なのです。
百濟領は済州島より少し狭いのです。
357日本@名無史さん:2009/10/27(火) 22:55:38
邪馬台国という国家が存在しないのに九州だ、畿内だって言ってる奴は馬鹿だって歴史学者が言ってるよ(笑)
358日本@名無史さん:2009/10/27(火) 22:58:48
>>353
とりあえず邪馬台国とか、話題になることを口走らねと弥生時代の発掘予算なんか出ないの。
359日本@名無史さん:2009/10/27(火) 23:07:58
急に隋書百済伝の部分がクローズアップされたようだが、
このドン来いには自説死守目的で、極端な解釈する輩多いから
ともかくみんなテキストをしっかりと読もうぞ。

さいわい日本語訳つき隋書百済伝のページがあるので、大いに利用しよう。
日本語訳は、まあ標準的だと思うぞ。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kudara-kanbun7-zuisho.htm

隋書で百済は

>其國東西四百五十里、南北九百餘里、南接新羅、北拒高麗。
(その国は、東西に四百五十里、南北に九百余里、南は新羅に接し、北に高句麗を拒む)

と記述されている。
ところが、百済伝の末尾に、問題の

>其南、海行三月有耽牟羅國、南北千餘里、東西數百里、土多?鹿、附庸於百濟。
 (その南、海行三カ月に耽牟羅国(済州島)があり、南北に千余里、東西に数百里、土地は?鹿(ヘラ鹿の一種)が多く、百済に従属している)

が出てくる。

方角の問題もあるが、大きさに関しても耽牟羅國は百済とそん色ない。(あるいは百済以上?)
まず、これが不思議だ。
360日本@名無史さん:2009/10/27(火) 23:09:06
宮内庁書館の御陵とか正倉院の宝物とか皇居とか伊勢神宮とか冷泉家とか・・
強制捜査権があればわかることも多いと思う。
しかし、GHQでさえ立ち入れなかったところにどうやって調査するかだな。
361日本@名無史さん:2009/10/28(水) 00:17:22
>>359
まあ常識的に考えて、
「三月」は「三日」の誤写、
南北と東西の距離は、転記ミスか又は計測ミス
じゃなかろか?
362日本@名無史さん:2009/10/28(水) 00:26:39
民主党が陵墓に関しても開示していきたいとコメントしてなかったか?
363日本@名無史さん:2009/10/28(水) 00:51:47
>>361
つまり地理に関してはその程度の信憑性という事でしょ。
364日本@名無史さん:2009/10/28(水) 01:44:06
>>356
>行一月≒70km≒千里
これはなにが根拠なの ?
365日本@名無史さん:2009/10/28(水) 07:37:27
>隋書の方角は間違っていません。
あなたの読み方が間違っているだけです。
現代と同じ読み方でないところがあります。
「南北千餘里東西數百里」
「境東西五月行南北三月行」

何がいいたいんだ。結局、距離だkが南北に長い記述になってるだろう。
そこが間違いだといっているんです。
往生際が悪いですよ。男らしくありませんよ。普通に読んで下さい。
どうして、苦しくなると、現代の読み方とは違っています、と変な理屈を考えるのですか?
366日本@名無史さん:2009/10/28(水) 07:44:17
何とか理由探さないと九州説詰んでしまうからね。
367日本@名無史さん:2009/10/28(水) 08:42:46
>>363
ただ一ヶ所のミス(?)で、全体を「その程度の信憑性」とは断ぜられない。
後代の書写時のミスもありうるし。

地理記述に関して「その多くがおかしい」ならば、「その程度の信憑性」と言ってもいいが。
むしろ、ただ一ヶ所のミス(?)だけなら、「非常に信憑性が高い」と言える。
368日本@名無史さん:2009/10/28(水) 09:15:15
>ただ一ヶ所のミス(?)で、全体を「その程度の信憑性」とは断ぜられない。
後代の書写時のミスもありうるし。

九州説諸君、
要するに一ヶ所のミスは認めるんだな。
369日本@名無史さん:2009/10/28(水) 09:46:19
なにこだわってるの?
370日本@名無史さん:2009/10/28(水) 09:56:49
間違いは間違いだとはっきりさせる。
371日本@名無史さん:2009/10/28(水) 10:00:07
ところで、

>現代と同じ読み方でないところがあります。

て何なのだ?
372日本@名無史さん:2009/10/28(水) 10:04:32
なぜ、現代と同じ読み方でないところがでてくるんだろう?
読みこなす上での使い分けのルールとかってあるんでしょうか?
混同しない為にもそのルールを説明して貰えませんでしょうか?
373日本@名無史さん:2009/10/28(水) 10:24:11
>隋書の方角は間違っていません。
あなたの読み方が間違っているだけです。
現代と同じ読み方でないところがあります。
「南北千餘里東西數百里」
「境東西五月行南北三月行」

君のような輩がいるから、九州説が変態扱いされてしまうんだよ。九州説には迷惑だよ。
ただ一ヶ所のミス(?)で、全体を「その程度の信憑性」とは断ぜられない。
後代の書写時のミスもありうるし、とした方がいいじゃないか。被害は最小限に押さえられる。
馬鹿が。
374日本@名無史さん:2009/10/28(水) 10:32:00
373↑

367とは別人です。念の為。
375日本@名無史さん:2009/10/28(水) 11:29:48
>>373
安易にミスとするのは簡単ですけど、その前に>356はどうしてそういう読み方をするのか、
解釈を聞きたいですね。
376日本@名無史さん:2009/10/28(水) 11:48:57
>隋書の方角は間違っていません。
あなたの読み方が間違っているだけです。
現代と同じ読み方でないところがあります。
「南北千餘里東西數百里」
「境東西五月行南北三月行」

是非にこちらの解釈も聞きたい。済州島が南北千餘里東西數百里と書いてるよな。
現状と合っていないけれどもどういう事なんだ?
377日本@名無史さん:2009/10/28(水) 11:54:32
耽牟羅國に関する記事については、いくつかの考え方かできると思う。
@ 台湾に関する情報が紛れ込んだ。
A 済州島に関する記事だ。3月は3日の誤り。距離は短里の伝承が書かれている。
 南北が長いのは、島の中央に山があるため、海岸線を東に回って最南端の岬まで
 歩いたから。なお、東西が数百里は、三四百とか六七百とか考えられるわけで、
 南北より若干短いという感覚だったのでは。
B 済州島に関する記事だが、伝聞であるため、東西、南北をまちがえた。

私はAの可能性が大きいように思う。
378日本@名無史さん:2009/10/28(水) 12:45:47
>>377
もう一つ考えられるのは、当時の海面は今より高かったので、そのため海岸線は記述どうりだった。
そんなところでしょうね。私はみつけられなかったので、誰か当時の予想地図を探してください。
379日本@名無史さん:2009/10/28(水) 14:14:25
何か想像の領域になって来たなぁ・・・。
380日本@名無史さん:2009/10/28(水) 14:56:06
耽牟羅國≒済州島でも

さらに従属する島があったのかも
381日本@名無史さん:2009/10/28(水) 15:13:00
地理を一変させるような大幅な海面の上昇云々があったのなら、
当時の文献の記録なんて全く役に立たないよ。
当時は現状の地理と合っていなくなるわけだから。
そしたら、地理の文献解釈なんて邪道。
382日本@名無史さん:2009/10/28(水) 15:35:26
まいずれにしても、隋書の耽牟羅國の記述を以て
「魏志倭人伝の地理的記述は信用できない」
と論証することは不可能。

このことが明確となった訳です、ハイ。
383日本@名無史さん:2009/10/28(水) 16:04:02
まいずれにしても、隋書の耽牟羅國の記述を以て
隋書の記事で間違っている所もある、
という事が明確となった訳です、ハイ。
384日本@名無史さん:2009/10/28(水) 16:13:28
>>383
もちろん、史書にも時に間違いがあることぐらい分かりきったことだろう。
邪馬壱国が邪馬台国だとか、一大国が一支国だってのは常識だろ。しかし、理由もなく
都合が悪いから間違いと見るってのはだめだね。
倭人伝の方角には間違いなどないね。距離もまちがいとみる要素はない。
だから素直に読むことが必要なんだよ。で、北九州とか畿内とかの可能性は消える。
385日本@名無史さん:2009/10/28(水) 17:46:26
>>381
>地理を一変させるような大幅な海面の上昇云々があったのなら、・・・
海面上昇は1m前後と考えております。海面上昇のため瀬戸内海に吉備の穴海と呼ばれる
ところがありました。
386日本@名無史さん:2009/10/28(水) 17:47:34
隋の時代、しかも日本よりずっと計測の容易なはずの
場所を間違えてるのに、
倭人伝の記述の信用性なんて‥

まあないですよw
387日本@名無史さん:2009/10/28(水) 18:24:17
>>386
・・・自郡至女王國萬二千餘里・・・

魏の時代の測量法は実測のほかには周髀算経(1里=75m位で短里と呼んでる)による
測量しかないので、(魏使がおとずれた)海を挟んだ倭国は周髀算経で距離や方角が測量
された結果ですね。それで倭人伝内は短里で統一されたと考えられます。つまり距離や
方角はほぼ正確だといえます。おそらく 帯方郡、狗邪韓国、末盧國、女王國の4カ所は
測量したはずだ。
388日本@名無史さん:2009/10/28(水) 18:50:51
>>387
せめてその時代の比較的正しい地図が無ければ実証は無理ですよ。

客観的にみれば倭人伝の時代より後年、しかも遥かに測量が容易な島でさえ
間違えてる訳です。しかも南北を間違えてる地図はこれだけじゃないでしょ?
地理的正確度について、心証的には非常に悪いです。
389日本@名無史さん:2009/10/28(水) 20:38:34
>>387
測量が間違えたとは断定できない。
南北と東西の数字が入れ替われば納得できる数字なんだから、
単なる転記ミスの可能性も大きい。

すぐに「心証が悪い」と短絡するのは、恣意的と言わざるを得ない。
390日本@名無史さん:2009/10/28(水) 21:32:20
>南北と東西の数字が入れ替われば納得できる数字なんだから、

アホー、そういうのを間違った、というんだよ。
信用できない、といわれるんだよ。
君はそれを認めてしまってどうするんだ。
相手の思うつぼ。詰みだろうが。おしまいだ。
いっとくけど、中国史書は一字一句とも間違えていない!
超賢人達の技がちりばめられている。
391九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/28(水) 22:08:13
>>376
「南北千餘里東西數百里」

@「境間南北千餘里境間東西數百里」

A「境長南北千餘里境長東西數百里」

@と読むのか?Aと読むのか?
僕はAであると思います。


「境東西五月行南北三月行」の場合

@「境間東西五月行境間南北三月行」

A「境長東西五月行境長南北三月行」
この大きさ形は九州島にピッタリ合う。


「其國東西四百五十里南北九百餘里」の場合
@「其國境間東西四百五十里境間南北九百餘里」
A「其國境長東西四百五十里境長南北九百餘里」

隋末の百濟の領域は、南は新羅に接し、北は高麗と新羅の紛争地に接し、
西は海に接し、東は山間部で新羅とは接していなかった。
その領域は、錦江の中流下流の流域のみの東西に長い狭い範囲であった。
錦江の河口は白村江の戦があったところ。
392日本@名無史さん:2009/10/28(水) 22:17:14

漢籍から似たような用例を引いて
コツコツと調べていくべきだな。
393日本@名無史さん:2009/10/28(水) 23:21:38
>>378
>おそらく 帯方郡、狗邪韓国、末盧國、女王國の4カ所は測量したはずだ。

釜山の緯度は35度08分。影1.654尺
唐津の緯度は33度28分。影1.413尺
従って、釜山〜唐津間は2410里になります。ちなみに。
394日本@名無史さん:2009/11/01(日) 01:47:51
倭人伝の記述はそこそこ信用できるからねえ。

帯方郡から、海路で狗邪韓国に行き、初めて一海を渡る。
対馬・壱岐と渡り、九州の末盧国に到着するまでは、きちんと地理を捉えているし、
距離はともかく方向もそんなに異論はない。
395日本@名無史さん:2009/11/01(日) 22:41:49
海を渡ってから急に方向音痴になるのはおかしいね
396日本@名無史さん:2009/11/03(火) 09:02:41
船から降りた海族なんて、少し歩くとくたびれるし、赤子同然。
右も左もわからなくなるものです。
397日本@名無史さん:2009/11/03(火) 21:43:26
大規模規制のせいで、主だったメンバーが去って行ったようですね。
岡田さんも酷いことをしたものです。まあ、これも時代の移り変わりによくあることですが・・
398日本@名無史さん:2009/11/04(水) 11:36:33
まあーだ?
399日本@名無史さん:2009/11/04(水) 13:41:58
>>396
使者や陳寿は畿内説論者みたいに方向音痴ではないよ。
400日本@名無史さん:2009/11/04(水) 15:59:41
そうかなー、陳寿は実際に言ってなくて、伝聞だけで書いたのだろう。
情報が多ければ多い程、聞き間違え、話の食い違いがあるんじゃないの。
普通はね。
401日本@名無史さん:2009/11/04(水) 16:19:29
熊本県玉名市の斉藤山貝塚(弥生前期とされる)から、発掘当時、日本最古と
された鉄斧が出土している。
有明海沿岸が非常に古くから発展していたのがわかる。

有明海を視野に入れると、倭人伝の里程・日程の記述も自然に解釈できる。
末盧国→(東南陸行五百里)→伊都国→(東南百里)→奴国→(東百里)→不弥国
→(水行二十日)→投馬国

不弥国からの水行は有明海だろう。南という方向も妥当になる。

一日という距離がどの程度かはわからないが、隋書に倭国は南北三ヶ月との
記述がある。これを九州の南北と考えれば、300kmなので一月で100km程度。
一日の距離は、3kmほどになる。

まあ、現在、想像するよりはかなり短い距離だったと考えることが出来る。

畿内説の場合は、不弥国から南水行をどのように説明するのだろうか。
402日本@名無史さん:2009/11/05(木) 11:23:07
有明海に目を向けたのは良いが、連続式にこだわっていてはだめだな。
北九州説論者ばかりでなく、畿内説論者も放射式の読み方を指示するように
なってきている。文章を丁寧に読むと、放射式であることを否定しがたいん
だよ。そのことを認めないとね。
403日本@名無史さん:2009/11/05(木) 12:23:27
>有明海に目を向けたのは良いが、連続式にこだわっていてはだめだな。

誰が人の話を素直に聞いてくれる?
世の中を舐めてはいけません。
404日本@名無史さん:2009/11/05(木) 21:41:30
対馬の最高峰「矢立山」、この山は古くは有明山と呼ばれていました。
これも、邪馬台国有明海沿岸の筑紫説の一つの証拠になります。
対馬と筑紫の関係については、いずれ言及できると思います。
405日本@名無史さん:2009/11/06(金) 01:09:05
畿内説の放射説は方向的に不自然。

邪馬台国は南と書かれているが、実は東とすれば、東南と書かれている
奴国はどちらの方角になるのか。
まさか北東ということはないだろう。

さらに、不弥国の方角は東と書かれているが、これは北になるのかな。
邪馬台国だけ方角は間違っているが、他は正しいのというのはおかしい。
406日本@名無史さん:2009/11/06(金) 08:14:10
遠方での伝聞情報なら方角の混乱は当然有り得るけどな。
何せ後年に済州島でさえ南北間違えてる位だからw
407日本@名無史さん:2009/11/06(金) 09:44:50
南北は間違えないだろう。頭の程度が知れるな。
408日本@名無史さん:2009/11/06(金) 10:04:07
>>391
>隋末の百濟の領域は、南は新羅に接し、北は高麗と新羅の紛争地に接し、
>西は海に接し、東は山間部で新羅とは接していなかった。
>その領域は、錦江の中流下流の流域のみの東西に長い狭い範囲であった。

周書百済伝には次のようにあるな。

百濟者、其先蓋馬韓之屬國、夫餘之別種。有仇台者、始國於帶方。故其地界東極新羅、
北接高句麗、西南倶限大海。東西四百五十里、南北九百餘里。治固麻城。其外更有五
方:中方曰古沙城、東方曰得安城、南方曰久知下城、西方曰刀先城、北方曰熊津城。

南は海に接しているんだ。百済の領域は、けして錦江の中流下流の流域のみの東西に
長い狭い範囲ではない。
409日本@名無史さん:2009/11/06(金) 11:15:10
>>407
まあ方角は現実に間違えてるけど。
410九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/07(土) 01:28:53
test
411九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/07(土) 01:33:01
>>408
>周書百済伝には次のようにあるな。

隋書を周書を以って反論する方がいますが、それは間違いです。

周書は散逸した為、その欠落部分は後世に北史によって補われてます。
周書百濟伝のこの部分も北史をほぼカーボンコピーしたものです。
周書と北史の原文を比較すれば、どちらがコピーされたものかは判ります。

唐代初期に言語が大きく変化し記述ルールも変わっています。
7世紀前半に成立した漢籍と後半に成立したものでは読み方が異なります。
隋書以前と南史以降では読み方が異なることに注意して読まなければなりません。

隋書では隋代の即ち7世紀初頭の百濟について述べられています。
しかし、周書については、上記に説明した様に北史代(5〜6世紀)の百濟について述べられているのです。
6世紀中盤から後半の百濟領域は、7世紀初頭に比べて広く、東は新羅に接し、南は対馬海峡に面しています。
後世の欠落部分を補った者が、百濟の領域が南北幅400km(900里)東西幅200km(450里)と見做したことについては大きな誤りではありません。
しかし、隋書による7世紀初頭の百濟の領域は南北幅35km(450里)東西幅70km(900里)です。

北史百濟伝:其國   東極新羅、北接高句麗 西南倶限大海 處小海南 東西四百五十里 南北九百餘里 其都曰居拔城 亦曰固麻城。
周書百濟伝:故其地界東極新羅、北接高句麗 西南倶限大海        東西四百五十里 南北九百餘里             治固麻城。

北史百濟伝:其外更有五方。中方曰古沙城、東方曰得安城、南方曰久知下城、西方曰刀先城、北方曰熊津城。
周書百濟伝:其外更有五方:中方曰古沙城、東方曰得安城、南方曰久知下城、西方曰刀先城、北方曰熊津城。

北史百濟伝:王姓  餘氏 號於羅瑕 百姓呼為鞬吉支 夏言並王也 王妻號於陸 夏言妃也 官有十六品
周書百濟伝:王姓夫餘氏 號於羅瑕   民呼為鞬吉支 夏言並王也   妻號於陸 夏言妃也 官有十六品
412九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/07(土) 01:41:48
魏志韓伝倭人伝に見られる倭の位置関連の記述

@『韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里』
  帯方郡はソウル付近  半島南部に倭がある。  半島の幅は4000里である。  傍証有り。
A『倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑』
  倭はソウルの東南の海の中の群島にある。半島南部の多島海の群島をも含む。
  倭が依山島爲國邑であるのは、杭州湾の蓋をする形にある舟山群島のイメージ。  傍証有り。
B『從郡至倭 循海岸水行・・・到其北岸狗邪韓國 七千餘里』
  狗邪韓國はソウルの東南5000里位にある巨済島付近。
  ソウルの南へ4000里、東へ3000里の三角形の斜辺は5000里。
C『始度一海 千餘里至對馬國・・・方可四百餘里・・・乘船南北市糴』
  對馬國は対馬。 魏使は南北方向に移動。
D『南渡一海千餘里・・・至一大國・・・方可三百里・・・亦南北市糴』
  一大國は壱岐。魏使は南北方向に移動。
E『又渡一海 千餘里至末盧國・・・濱山海居』
  末盧國は東唐津(中原遺跡)。  濱は虹の松原等。  山は領巾振山。  傍証有り。  
F『東南陸行五百里 到伊都國』
  伊都國は佐賀市大和(惣座遺跡)。  女王國入国前の待機地。  傍証有り。
G『東南至奴國百里』
  奴國は佐賀市中心部(佐賀城)。 
  魏使の枝脇道に奴國があるが、郡より12000里になる(女王國になる)ので記載されたと考えられる。
H『東行至不彌國百里』
  不彌國は吉野ヶ里町(吉野ヶ里遺跡)。 郡より12000里になるので女王國入国となる。
I『南至投馬國』
  投馬國は不彌國の南。  城郭は大川市中心部と推定される。  地形的な傍証有り。
413九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/07(土) 01:42:45
J『南至邪馬壹國 女王之所都』
  女王の居る邪馬壹國は不彌國の南。  都は久留米市南部。  不彌國の南側に邪馬壹國と投馬國が並んでいる。  傍証有り。
K『自郡至女王國萬二千餘里』
  郡より女王國まで12000里の距離は、GHの論拠。
L『夏后少康之子封於會稽 斷髮文身以避蛟龍之害』
  會稽付近で海人族が住める場所は舟山群島のみである。  傍証有り。
M『計其道里 當在會稽東冶之東』
  會稽東冶は、Lの海人族の住んでいる舟山群島の近くであり、女王國が帯方郡真南12000里と見ると同緯度となる。
N『所有無與儋耳朱崖同』
  九州では南方系風俗を示す出土物がある。
O『倭地温暖 冬夏食生菜』
  玄界灘沿岸でないことを示している。  背振山地北側の九州北部沿岸は降雪地域。
  又、有明海沿岸の筑紫平野は冬季温暖である。
414日本@名無史さん:2009/11/07(土) 08:46:49
>>413
九州王朝大好きさんの説にはJの『不彌國の南側に邪馬壹國と投馬國が並んでいる。』に致命的欠陥があるな。
七万戸と五万戸の邪馬壹國と投馬國が北部九州内の狭い範囲に並んで存在するのは不可能。
415日本@名無史さん:2009/11/07(土) 09:06:58
戸数だけは、間違いなく絶対的に正しいということですか?
416日本@名無史さん:2009/11/07(土) 09:23:39
九州王朝大好きさんは「倭人伝に誤りは無い」という
立場のようだから>>414氏の指摘で構わないだろ。
417日本@名無史さん:2009/11/07(土) 11:10:11
九州説の場合、邪馬壹國は七万戸の規模だから北部九州一帯の国邑の連合国と考えるしかないだろう。
同様に投馬國も国邑の連合国で北部九州以外の場所にあったことになる。
邪馬壹國は對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國と傍の国々からなる
国邑の連合国だな。
418日本@名無史さん:2009/11/07(土) 11:32:43
>>417続き
邪馬壹國を北部九州一帯の国邑の連合国と考得た場合
邪馬壹國の王都は「世有王」と記された伊都國であることは間違いない。
「皆統屬女王國」とは国邑が皆、女王國(邪馬壹國)に統屬するの意味で
邪馬壹國の王都である伊都國に「郡使往來常所駐」のは当然のことである。
419日本@名無史さん:2009/11/07(土) 11:36:33
畿内説のほうは、どんどん発掘が進んで邪馬台国の時代の建物跡や遺物を
掘り当てているというのに、九州説論者ときたら、いまだ倭人伝の中だからな・・
420九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/07(土) 11:58:53
>>414
>七万戸と五万戸の邪馬壹國と投馬國が北部九州内の狭い範囲に並んで存在するのは不可能。

三国志代のシナ人口は男女老幼で約5人/戸。
この基準での人口は、邪馬壹國では35万人、投馬國では25万人となる。
邪馬壹國にある都の位置は3件の傍証に従うと久留米市南部を動かせない。
その他数件の傍証を省略して結論だけ述べると、
邪馬壹國の領域は筑後平野東部内陸部筑後市八女市以北と北野地域、
投馬國の領域は筑後平野西部海岸部で南は大牟田市から北はみやき町南部神崎市南部の地域(筑後平野の大部分)、
35万人と25万人はそれぞれの地域に十分収容できます。

なお当時の地形を認識して下さい。
有明海は吉野ヶ里遺跡の南側まで北に入り込んでいます。
筑後川は久留米市北部を通りそのまま西進し吉野ヶ里の南で有明海に流れ込みます。
不彌國の領域は吉野ヶ里からみやき町中部にかけての地域で、筑後川の北岸になります。
筑後川の南岸の西より海岸部が投馬國領域で、東より内陸部は邪馬壹國の領域となります。
投馬國と邪馬壹國の境界は三潴郡から柳川市東部矢部川にかけての筑後平野中央低地の沼沢地帯となります。
その境界線はおおよそ西鉄天神大牟田線のあたりとなります。
421日本@名無史さん:2009/11/07(土) 12:00:15
>>419そんなことは有りませんよ、邪馬壹國の王都、伊都國の遺跡
http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/iseki/outomap.htm
422日本@名無史さん:2009/11/07(土) 12:21:21
>>420
江戸時代でも筑後の人口は26〜30万人ですよ。
423日本@名無史さん:2009/11/07(土) 12:43:19
>>422追加
明治初年の佐賀藩の人口は35万人。
424日本@名無史さん:2009/11/07(土) 12:44:57
>35万人と25万人はそれぞれの地域に十分収容できます。
考証して欲しい、何がどうだから、その人口が収容可能なのかを
425日本@名無史さん:2009/11/07(土) 12:54:26
>>420
>邪馬壹國の領域は筑後平野東部内陸部筑後市八女市以北と北野地域、
>投馬國の領域は筑後平野西部海岸部で南は大牟田市から北はみやき町南部神崎市南部の地域(筑後平野の大部分)、
邪馬壹國と投馬國がそんなに近いと次の記述「・・・南至投馬國水行二十日・・・」からして、おかしいでしょう。
水行二十日というのは、たぶん倭人からの伝聞と思われますので、それだけ遠いところにあるということ。
また、投馬國が近ければ、位置の説明は奴國から〜里とか、伊都國から〜里、もしくは邪馬壹國から〜里のように
記述されるとは思いませんか。
426日本@名無史さん:2009/11/07(土) 12:59:13
>>420
さすがに無理があるな。可能というだけなら他にも候補はいっぱいあるし。
427日本@名無史さん:2009/11/07(土) 13:06:42
倭人伝による畿内説の解釈は方向にネックがあるだけ。
しかも方角を間違えてる記述や地図なんて、
もっと後年ですら複数存在してるからね。

出土状況や他の文献、伝承等でも畿内説が有利な状況はもはや動かないですよ。
428九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/07(土) 13:26:29
>>422
>江戸時代でも筑後の人口は26〜30万人ですよ。

一桁違うだろ。
人口急増期の江戸時代の筑後の人口は260〜300万人ですよ。
ちなみに、室町時代でも100万人超。
429九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/07(土) 13:30:32
江戸時代の筑後の人口は日本の総人口の1割になるまでに急増した。
430日本@名無史さん:2009/11/07(土) 13:36:53
431日本@名無史さん:2009/11/07(土) 13:53:45
432日本@名無史さん:2009/11/07(土) 13:55:07
>>427
アホ、畿内説は既に死んでいる。
433九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/07(土) 13:57:34
>>425
>邪馬壹國と投馬國がそんなに近いと次の記述「・・・南至投馬國水行二十日・・・」からして、おかしいでしょう。
>水行二十日というのは、たぶん倭人からの伝聞と思われますので、それだけ遠いところにあるということ。

「・・・南至投馬國水行二十日・・・」は、郡より投馬國までの距離。
ルート:帯方郡(ソウル)→竹島(珍島)→済州島→対馬→壱岐→五島(平戸島)→長崎半島→天草灘→島原湾→有明海→投馬國(大川)


>また、投馬國が近ければ、位置の説明は奴國から〜里とか、伊都國から〜里、もしくは邪馬壹國から〜里のように
>記述されるとは思いませんか。

不彌國で女王國に入国(12000餘里)ですから、距離の里表記はここで終わり。
434日本@名無史さん:2009/11/07(土) 14:06:44
自分は基点は全て帯方郡と見てるよ

東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰謨柄渠 有千戸 世有王皆統続女王國 郡使往来常所駐
東南至奴國百里 官曰?馬 副曰奴母離 有二萬戸
東行至不彌國百里 官曰多模 副曰奴母離 有千家
 これらは半島内だと思ってる、郡から比較的近い国々の羅列

南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳? 可七萬戸
 これらも半島内だが、かなり南部なので船で行く

始度一海千里 至對海國・・・・又渡一海千里 至末盧國
 これらは対馬海峡の島々および九州島の北部

次有斯馬國・・・・・・・・・次有奴國 此女王境界所盡
 これらは半島東南部にある邪馬壹國(女王の都)から見て北部、辰韓12国を含む女王国配下の国々
 記述の最後に出てくる奴國は、郡より東南100里の奴國のこと、そこを以って女王国の境界という事

其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不属女王
 女王国の南と言っているから、半島内の最南部か、九州島にある伊都國より南

女王國東渡海千余里 復有國皆倭種
 これが日本列島の本州の事

有侏儒國 在其南人長三四尺去女王四千余里
又有裸國黒齒國 復在其東南船行一年可至
 これは本州の辛うじて消息の伝わってくる国々の事でしょう
435日本@名無史さん:2009/11/07(土) 14:16:52
>>434
誤記訂正
下から6行目、九州島にある伊都國より南 → 九州島にある末盧國より南
436九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/07(土) 14:27:41
>>431
>>428>>429冗談言ってるの?

ゴメン、表現方法をうっかりミスった。
僕の言う「筑後」は以下のつもりで書いた。
@筑後平野+北野地区+佐賀平野東部
A筑後国+筑前国南部+肥前国東部

ウィキペディアの筑後の人口推計はおかしいと思う。
新田開発による1700年以降の人口急増が無い。
1600年頃の人口のままで推移している。
437日本@名無史さん:2009/11/07(土) 14:36:30
>>436
江戸中期の新田開発がそれほど無かったんだよ
既に開発できるとこはされ尽くされていたから
438九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/07(土) 14:40:01
>>433の追加
不彌國で女王國に入国(12000餘里)ですから、距離の里表記はここで終わり。
投馬國と邪馬壹國は東西に流れる筑後川を挟んで不彌國に南接しているから、
距離表記不要。
又、女王國に南接している狗奴國にも距離表示がない。
439日本@名無史さん:2009/11/07(土) 15:47:07
>>436
江戸時代以前は推計によるものや漏れが多くて信頼度は低いが
江戸時代になると宗門人別改帳があり人口の把握率は高い。
ウィキペディアの筑後の人口も宗門人別改帳を元にしたものですよ。
九州王朝大好きさんちゃんと調べてね。
邪馬壹國九州説なら北部九州一帯を邪馬壹國と考えんといかん。
筑後は邪馬壹國の一部だが、傍の国々に含まれる。
440日本@名無史さん:2009/11/07(土) 15:59:41
つまり、遥か弥生時代の方が江戸時代より人口が多かったと論じない限り、
更にその証拠を示せない限り、
九州説は全く現実を見ていない空論と言われても仕方ないな
441日本@名無史さん:2009/11/07(土) 17:19:41
宗像大社、住吉大社、宇佐神宮の系統の神社の末社は九州北部を拠点として本州を東進している。
神社の東進の軌跡とともに人も移っていったので人口の多くも九州北部から本州に移動した。
442日本@名無史さん:2009/11/07(土) 17:23:18
>>441
妄想です。
443日本@名無史さん:2009/11/07(土) 17:24:53
こんな馬鹿がこの板に張り付いているとは思わなかった。
基本的な史実を押さえていない。
444日本@名無史さん:2009/11/07(土) 17:25:06
>>432
願望でしょ?
現実逃避しちゃダメだよw
445日本@名無史さん:2009/11/07(土) 17:37:20
九州説では出雲、丹波の説明が出来ないでしょ?

この地方は弥生後期の時点で北部九州と同程度、
もしくは以上に鉄を確保したとされてるのに。
446日本@名無史さん:2009/11/07(土) 17:45:18
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
447日本@名無史さん:2009/11/07(土) 18:15:53
>>445
魏志倭人伝では九州と本州西部(山口、瀬戸内海沿岸)程度のことしか
書かれていない、出雲、丹波には全く触れられていないな。

448九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/07(土) 18:21:09
>>439
>江戸時代になると宗門人別改帳があり人口の把握率は高い。
>ウィキペディアの筑後の人口も宗門人別改帳を元にしたものですよ。

wikiの筑後人口は、その田地面積に比べて多地域と相対的に余りにも少なすぎる。
これは宗門人別改帳の信頼性に疑問を感じさせる。
明治の筑後廃仏毀釈がその人口データに影響を与えているように思われる。
久留米市内だけで日吉神社が4社もあるように、筑後では明治の廃仏毀釈が特に過酷であった。
以前筑後の廃仏毀釈について少し調べたことを思い出した。
これは要調査事項である。wikiの数字を鵜呑みしてはならない。
449日本@名無史さん:2009/11/07(土) 18:53:56
>>447
>魏志倭人伝では九州と本州西部(山口、瀬戸内海沿岸)程度のことしか
>書かれていない、出雲、丹波には全く触れられていないな。


君の倭人伝解釈が正しいかどうかは、まあひとまず置いとくが、
出雲や丹波の鉄の材料は、いったいどんな流通をしてたと君は思うのかい?
それを聞かせてほしいね。

あ、それと、越前(福井)の鉄も、弥生の後期末にはグーンと増えるんだよ。
その点も頼む。
450日本@名無史さん:2009/11/07(土) 19:03:32
>>449
鉄は3世紀には大陸からの輸入に頼っていた、
大陸に近い九州を中心に鉄は流通していた。
451日本@名無史さん:2009/11/07(土) 19:07:23
>>447
触れられていないのは変と思うけどね?

投馬=出雲(丹波)説なら普通に説明つきます。
452日本@名無史さん:2009/11/07(土) 19:17:31
>>450
で、現時点では弥生後期に鉄が丹波地方からの出土が多いのは何故?
453日本@名無史さん:2009/11/07(土) 19:23:31
454日本@名無史さん:2009/11/07(土) 19:29:12
448
耕地面積(2007年)
福岡県 883ku
熊本県 1,191ku

天保5年(1834年)

筑前335,803人
筑後307,206人
豊前247,176人
今の福岡県は筑前+筑後+(豊前/2)=766597人くらい

肥後743,544人

肥後と比べても筑後307,206人が少なくはない。
wikiの筑後人口は信頼出来そうです。
455日本@名無史さん:2009/11/07(土) 19:32:28
>>452
弥生後期に鉄の出土が多いのは北部九州ですよ。
456日本@名無史さん:2009/11/07(土) 19:37:09
>>455
北部九州はもう少し早い時期だと思うけど。
丹波を調べてみたら?それに日本海側の出雲や丹波は、他地方に比べて
土地開発が極端にされてないので、今後も何が出土するか
わからない状態だからね。
457日本@名無史さん:2009/11/07(土) 19:39:44
先日、茶臼山古墳を見に行った。
大和八木駅からバスで数分、170円の距離を天気がいいので徒歩で行った。
茶臼山への道の要所ごとに係員が立って誘導してくれた。
ひと気のない長い商店街や、小さな滝がある川、民家などを通り過ぎた。
道の途中に立てかけてある案内板の地図を見たら、近くに宗像神社があるようだ。
駅から20分ほど歩いたら、ゆるやかな坂道にさしかかり右側に小さな寺があった。
そこからさらに5〜6分でやっと目的地に到着。

三輪山を背景にした茶臼山古墳の壁は、様々な大きさに切られたのし餅or千枚漬のような白い岩石が丹念に積み重ねられて、
所どころ水銀朱で薄い茜色に染まっていた。古墳内の土の茶色をベースに、水銀朱の茜色の濃淡が清楚で美しい。
元は真っ赤だったらしい。

そして、そこに葬られた人はこの世には存在してなかったかのように、
骨の欠片すら残ってはいない。古墳の中の人は残ってないのが普通なんだって。
たぶん、箸墓を調査しても中の人(卑弥呼?)はすでに跡形もなく消えてしまってるよ。

初めて見る古墳の中だが、古墳を造営した古代人の仕事の緻密さと見事さに感銘を受けた。
いい仕事をしていたんですね。
458日本@名無史さん:2009/11/07(土) 20:43:35
>>441
それも出典を明らかにして、東進の軌跡とやらを示せないとダメ
空論あつかい
459神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/11/07(土) 21:00:47
>>457
桜井茶臼山古墳の現地見学会で石室天井石のピンクの蛍光色の水銀朱にはビックリいたしました。
「ベンガラはどれですか?」と係員の人に尋ねたら被覆粘土のこげ茶色のがベンガラとの事。
「被葬者は?」と尋ねたら「わかりません」だって。その後、見学者の人達とマスコミの人達と
アアダ、こうだと議論。また、木棺は保存処理が終了したら年輪年代法で調べるそうです。
460日本@名無史さん:2009/11/07(土) 21:02:21
>>458
羽原又吉「古代漁業経済史」
461日本@名無史さん:2009/11/08(日) 02:11:46
>>454
自分もその値は信用できると思う
下記に、平安初期のデータと比較してみたが、
同じ様な比率をなしている

     天保5年     | 平安初期(AD900頃)
     人口       | 水田面積      人口
筑前  335,803  20.6% | 18,500  27.2%   153,000  34.2%
豊前  247,176  15.1% | 13,200  19.4%   64,500  14.4%
筑後  307,206  18.8% | 12,800  18.8%   81,000  18.1%
肥後  743,544  45.5% | 23,500  34.6%   148,500  33.2%
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
計   1,633,729人     | 68,000町歩     447,000人
462日本@名無史さん:2009/11/08(日) 02:18:44
>>461
平安初期 → 天保5年 の間に、
肥後の人口が5倍も増えていて発展が著しい地域だったとわかるね
九州北部の人口増加が2〜3倍なのに対して
463日本@名無史さん:2009/11/08(日) 09:23:03
つくづく人口とかの地味な数字論ってここじゃ受けないよな
夢をぶち壊すからか?
464日本@名無史さん:2009/11/08(日) 09:49:27
人口の推移について
壱岐の人口推移は
平成21年(2009年)29,516人
明治5年(1872年)33,010人
享保6年 (1721年)19,993人

魏志倭人伝によると一大國は「有三千許家」
一家を5人とすると15,000人

元寇で一度住民が死に絶えたのか
壱岐って古代から殆ど人口が増えていないのね。

465日本@名無史さん:2009/11/08(日) 10:46:36
>>464
島の産業とか住民の生活基盤は昔と様変わりしているだろう
農業が基盤だった時代はあまり変化しないものかも、耕地面積が人口を決めるからね
466日本@名無史さん:2009/11/08(日) 11:10:03
>>436
2009年の福岡県の筑後地方だけの人口は838,034人ですね。
天保5年(1834年) の307,206人は全然おかしくないですよ。
467日本@名無史さん:2009/11/08(日) 13:07:16
筑前の人口推移は
平成21年(2009年)3,403,467人
明治5年(1872年) 441,175人
享保6年(1721年) 302,160人
平安時代( 900年) 153,000人
魏志倭人伝(240年) 110,000人
※伊都國、奴國、不彌國の有千餘戸、有二萬餘戸、有千餘家を合計して二萬二千餘戸。
 一戸を5人として110,000人   
468日本@名無史さん:2009/11/08(日) 14:11:16
現在、会員制のネットカフェが組織を作り警察と連携して、日本中の、ネットカフェを会員制にしようとしている。
このままだと、日本中のネットカフェが会員制になってしまいます。
国民が自由に発言できなくなります。
戦争前のような言論統制の時代になってしまいます。
★★警察はきれいな言葉を使い国民の自由を奪い、権力者を守ろうとしてる★★
表向きの理由は非会員制のネットカフェが危険だから・・・という理由で。

しかし殺人犯が会員制のネットカフェを利用して逃亡してたwwwww
しかし殺人犯が会員制のネットカフェを利用して逃亡してたwwwww
しかし殺人犯が会員制のネットカフェを利用して逃亡してたwwwww
市橋容疑者、会員制ネットカフェ利用か 博多で10月中旬…偽名と同じ名前で、ネットカフェに会員登録。
http://www.47news.jp/CN/200911/CN2009110701000557.html

★★★★★★不買するネットカフェなどの一覧(会員制の店ばかりw)★★★★★★
楽天…(三木谷)
ゆう遊空間、TSUTAYA、カラオケ店「メガトン」「ワオキューブ」   
自遊空間
ワイプ(wip) 
TVゲームショップ桃太郎、モモオー ドットコム、桃太郎王国、ゲームセンター「アミ ューズメント桃太郎」
Airs Cafe(エアーズカフェ)
フリークス
コミックバスター
アプレシオ
CYBAC(サイバック)
複合カフェ「快活CLUB」、「快活フィットネスCLUB」
アイ・カフェ、古本市場

不買!→TSUTAYAゆう遊エアーズ自遊空間(ポルノ規制)
http://pc11.2ch.net/test/read.cgi/netspot/1256060489/
469日本@名無史さん:2009/11/08(日) 14:33:44
>>467
筑前の人口の魏志倭人伝(240年) 110,000人は
平安時代( 900年)の72%
筑後の魏志倭人伝(240年)も平安時代81,000人の72%とすると58,000人くらい。
同じ様に豊前と肥後を計算すると
46,000人と107,000人。
魏志倭人伝(240年)の筑前、筑後、豊前、肥後では合計が321,000人となる。
これに肥前(壱岐、対馬含む)を加えれば邪馬壹國の可七萬餘戸を十分に超える。
九州説なら邪馬壹國は北部九州一帯と考えるべきです。  
470日本@名無史さん:2009/11/08(日) 15:12:39
>>469享保6年(1721年)のデータで計算すると
筑前の人口の魏志倭人伝(240年) 110,000人は
享保6年(1721年)302,160人の36.4%。
筑後と豊前と肥後を同じ様に計算すると
970,000人、90,000人、223,000人になる。
これだと邪馬壹國は筑前、筑後、豊前と壱岐、対馬、松浦だけで十分だな。
471日本@名無史さん:2009/11/08(日) 18:06:54
>>469
奴国20000戸はどうすんだよw
472日本@名無史さん:2009/11/08(日) 18:56:38
>>471
>>467で筑前の人口を出すのに「※伊都國、奴國、不彌國の有千餘戸、有二萬餘戸、有千餘家を合計して二萬二千餘戸。
 一戸を5人として110,000人」と説明してます。 
473日本@名無史さん:2009/11/08(日) 20:08:55
>>471
邪馬壹國に奴国も含まれるという説なのだろう。
>>472の回答を見ると、他人が何を疑問に思っているか
分からないくらいに、どっぷり浸かっているようだ。
474二 ◆.L.MXSPOgc :2009/11/08(日) 20:28:05
とはいえ、当時の1國を現在の数県にまたがるような大域大国だという主張が、
果たして受け入れられうるものなのかどうかという疑問が付きまとう。

# これは畿内説でも九州説でも同じ。
475日本@名無史さん:2009/11/08(日) 21:01:30
>>473
説明を途中から見るて分からないヤツに丁寧に対応してやっているだけ。
>>474
投馬國や邪馬壹國は韓伝にある馬韓などのような種と同じようなもだろう
国邑の連合王国だな。

476日本@名無史さん:2009/11/08(日) 21:08:16
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
477日本@名無史さん:2009/11/08(日) 21:08:40
>>475
まずあんたの日本語がわからないよw
478日本@名無史さん:2009/11/08(日) 21:22:43
>邪馬壹國に奴国も含まれるという説なのだろう。

倭人伝にもそんな事書かれてないよな。
479日本@名無史さん:2009/11/08(日) 22:17:29
>>474
畿内というのは、大和・山城・摂津・河内・和泉の五カ国。
現在の京都・大阪・奈良ということになる。
畿内説を考えても、邪馬台国が大和朝廷の国である大和より大きいというのは
考えられない。

漢書地理誌には、西暦0年頃の倭は百カ国余りあったと書かれている。

また、5世紀に倭王・武が、宋に送った上表文には「東は毛人を征すること
五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげる
こと九十五国」と書かれているので、この頃の日本には少なくとも121カ国
以上あったと考えられる。

古代の日本の国はかなり狭かったと考えるべきだろう。

また、卑弥呼の時代の倭が30カ国。五世紀の日本が121カ国というのは
何か示唆するものがある。
つまり、邪馬台国連合はかなり限定的な地域になると思う。
480日本@名無史さん:2009/11/08(日) 23:18:26
>>477
馬鹿はだまってろ。
481日本@名無史さん:2009/11/08(日) 23:24:41
>>470
江戸時代の人口をベースにして比率で推測するのも、許される一つの方法だが、
より年代が近い平安初期のをベースにしてやってみてくれないか?
482日本@名無史さん:2009/11/08(日) 23:44:10
まとめ
魏志倭人伝の記述の伊都國、奴國、不彌國3国は筑前内にあったと通説でも考えられている。
伊都國、奴國、不彌國は有千餘戸、有二萬餘戸、有千餘家と記されているので
筑前内に3国の合計、二萬二千餘戸あったと考えられる。
二萬二千餘戸は一戸5人で計算すれば110,000人となる。
筑前の110,000人の人口を基に他の九州内の筑後などの人口を推定すると
筑後58,000〜970,000人
豊前46,000〜90,000人
肥後107,000〜223,000人
が得られた。
邪馬壹國の可七二萬餘戸も一戸5人として計算すると350,000人。
肥前、豊後、壱岐、対馬もあるので
北部九州に邪馬壹國は十分に存在することが出来る。

邪馬壹國は伊都國や奴國を中心とした国邑の連合国。
483日本@名無史さん:2009/11/08(日) 23:45:46
>>481
両方してます>>482の少ない方が平安初期ベース。
484日本@名無史さん:2009/11/09(月) 00:00:04
>>482
・壱岐や対馬まで含めるの?水行10日陸行1月が説明できません。
・伊都国の存在義務がありません。

これだけでも矛盾してますが。
485日本@名無史さん:2009/11/09(月) 00:08:53
詭弁じゃないか?
そりゃ、倭人伝から読みとった北部の人口を高くもって行くほど比率が高くなり、その比率を掛けて求める他国の推定人口も増える
だから、九州に十分飲み込めると結論がでて当たり前だわな
北九州に比定する国の戸数をもっと増やしたら、比例して南部に比定する国ももっと戸数を増やせるぜ
486日本@名無史さん:2009/11/09(月) 00:09:35
邪馬台国と女王国を混同してるバカがまだいるね。
487日本@名無史さん:2009/11/09(月) 10:26:18
相変わらず、トンデモ読みが横行しているな。
488日本@名無史さん:2009/11/09(月) 11:33:38
>>711
>7世紀前半に成立した漢籍と後半に成立したものでは読み方が異なります。
>隋書以前と南史以降では読み方が異なることに注意して読まなければなりません。
で、北史というのはいつ成立したのかな?
489九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/09(月) 12:03:17
>>488
>で、北史というのはいつ成立したのかな?

質問の意味不明。
北史が成立したのは、南史と同じ頃659年とされています。
490九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/09(月) 12:42:44

魏史倭人伝の人口と現代人口の比較

魏代人口:邪馬壹國+投馬國+不彌國=12.1万戸×5人/戸=605,000人
現代人口:筑後平野+北野地域+佐賀平野東端=1275,942人
参考事項:久留米市人口 303,233人

魏代人口:奴國+伊都國=2.1万戸×5人/戸=105,000人
現代人口:地域:佐賀平野の大部分+白石地域=284,312人
参考事項:佐賀市人口 238,966人

魏代人口:女王國(邪馬壹國・投馬國・不彌國・奴國)+伊都國=14.2万戸×5人/戸=710,000人
現代人口:筑紫平野=1560,253人

筑紫平野の人口は、壱岐の人口と同様に、大都市部を除くと、3世紀からそれほど増大していないと推定されます。
これは、福岡市・北九州市等の大都市を除く九州全体の現象かもしれません。
491日本@名無史さん:2009/11/09(月) 12:54:26
>>433>>438
>「・・・南至投馬國水行二十日・・・」は、郡より投馬國までの距離。
>ルート:帯方郡(ソウル)→竹島(珍島)→済州島→対馬→壱岐→五島(平戸島)→長崎・・・
わたしがいいたいのは邪馬壹國と投馬國が近接しているのがおかしいということ。
近接しているなら投馬國の位置説明が「郡より水行二十日」で表記する必要がない。奴國や不彌國
もしくは邪馬壹國からの里程記事もしくは、接している と書けばすむところなんだから。
492日本@名無史さん:2009/11/09(月) 12:57:06
弥生時代は農業立国だったわけだし、比較するなら農業人口が大部分を占めた戦前のデータを使って欲しい
田畑が開墾されて行った歴史的流れを追って行けば、弥生時代の姿も浮かび上がるかも知れない
そういう意味で私は以前、延喜式などをあげてみた訳だ
遡れるデータがそれくらいまでだったんで
493日本@名無史さん:2009/11/09(月) 15:21:03
>>491
そのとおりだね。北九州に上陸して伊都国、奴国、不彌国のことを書いているのだから
その近くに邪馬台国や投馬国があったのならば、その3国との距離、関係を一番に書く
はずだ。それを書かずに、郡からの日数などを書くはずはない。
つまりは、日数を郡からのものと読むのは、とんでもないトンデモ説ということだよ。
494日本@名無史さん:2009/11/09(月) 16:47:50
>>491
私も賛成だ。
邪馬台国と投馬国が、「東西に流れる筑後川を挟んで不彌國に南接している」(>>438)などとは
ものすごい牽強付会した読み方と思う。
とてもじゃないが、受け容れられるところではない。
邪馬台国と投馬国は、やはり北部九州からは遠く隔たっている・・・これが倭人伝のまともな読み方。
日数が「郡からの日数」などとする解釈も牽強付会だ。
495日本@名無史さん:2009/11/09(月) 17:44:21
流鬼在北海之北、北至夜叉国、余三面皆抵大海、南去莫設靺鞨船行十五日。
無城郭、依海 島散居、掘池深数尺、両辺斜竪木、構為屋。
人皆皮服、又狗毛、雑麻為布而衣之、 婦人冬衣豕鹿皮、夏衣魚皮、制与冒同。
多沮沢、有塩魚之利、地気沍寒、早霜雪、毎 堅氷之後、以木広六寸、長七尺施繋其上、以践層氷、逐及奔獣。
俗多狗、勝兵万余人、 無相敬之礼、官僚之法、不識四時節行。有他盗入境、乃相呼召、弓長四尺余、箭与中国同、以骨石為鏃。楽有歌舞、死解封樹、哭之三年、無余服制。
靺鞨有乗海至其国貨易、陳国家之盛業、於是、其君長孟蜂、遣其子可也余志、以唐貞観十四年、三訳而来朝貢。
初至靺羯、不解乗馬、上即顛墜。其長老人伝言、其国北一日行、有夜叉人、皆豕牙、翹出堯人、莫有渉其界、未嘗通聘。
496日本@名無史さん:2009/11/09(月) 18:59:42
>>484
「世有王」と記された伊都國が邪馬壹國(女王國)の王都。
帯方郡から水行20日で投馬國、そこから更に水行10日陸行1日で邪馬壹國。月は日の誤り。
郡使は帯方郡から船で旅をしてきたのであり、途中で船を降り1月も陸行する理由がない。
日本国内で海岸から陸行4〜5日以上かかる場所はない。
投馬國は朝鮮半島南部であろう。
壱岐や対馬と北部九州の国邑の連合国が邪馬壹國。
497九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/09(月) 20:03:45
>>491
>わたしがいいたいのは邪馬壹國と投馬國が近接しているのがおかしいということ。
>近接しているなら投馬國の位置説明が「郡より水行二十日」で表記する必要がない。奴國や不彌國
>もしくは邪馬壹國からの里程記事もしくは、接している と書けばすむところなんだから。

里程で表されているのは女王國迄の12000餘里に含まれるものだけである。
奴國及び不彌國で女王國にそれぞれ到達しているから、其の先は里程では表現されない。
卑彌呼が都する邪馬壹國は明らかに女王國に含まれる国である。
であるから投馬國も女王國に含まれる国である。
これら4ヶ国は女王國内の国々であるので互いに隣接しているとしなければならない。
女王國が飛び地国家群であると考えるのは不適切である。
もしそうであるなら陳寿はその事を指摘するであろう。

郡より女王國へは12,000餘里である。
それでは女王國内の二大国である投馬國と邪馬壹國の郡よりの距離はいか程か?
これは里数で表現すると混乱が起きる。そこで日数で表記した。
海岸沿いの投馬國は水路だけで郡と直結しているので、其の距離を水行20日と表した。
内陸国である邪馬壹國は陸行1月と海峡横断で水行10日と記した。
奴國と不彌國は海に面しており且つ投馬國と隣接しているので水行20日はダブることもあり省略されている。

以上陳寿の筆法に従って読み取ったものです。
498日本@名無史さん:2009/11/09(月) 20:03:46
>>496
そこまで回りくどい解釈する必要はない。
それなら素直に邪馬台国の王都=伊都国と書けば済む事だな。

北部九州が邪馬台国なんて、現在の各資料からもあり得ないですね。
499日本@名無史さん:2009/11/09(月) 20:06:44
>>497
読みとったのではなく勝手に脳内解釈してるだけでしょ。
500九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/09(月) 20:15:40
>>498
>それなら素直に邪馬台国の王都=伊都国と書けば済む事だな。

伊都國は倭國王帥升の国である倭面土國の形骸化した後継国です。
伊都國(イトコク)=倭都國(ヰトコク)

後漢から禅譲された魏の使者は取敢えず旧倭國王である伊都國王に敬意を表さなければなりません。
501九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/09(月) 20:20:20
>>499
>読みとったのではなく勝手に脳内解釈してるだけでしょ。

それはあなたの勝手な脳内解釈です。
502日本@名無史さん:2009/11/09(月) 20:51:54
帯方郡→九州北部→対馬→九州北部の順に行ったのは間違い無い。
その後は、瀬戸内海へ入っていったのだろう。
伊都国とは、福岡東部から大分辺り。
南へ水行20日とは、瀬戸内海の複雑な航路を南へ行ったり東へ行ったりしたということだろうな。
投馬国とは、人口規模からして多分、吉備。
邪馬台国は当然大和。
議論の余地はない。
503日本@名無史さん:2009/11/09(月) 20:56:58
誤った説を断定できるとは羨ましい
504日本@名無史さん:2009/11/09(月) 20:58:16
邪馬台国は吉備にあったのではないか?というのが最近の私の脳内トレンドです。
なぜ吉備かというと、特殊器台、これは吉備でしか作られていなかった。
つまり大和朝廷の司祭王は吉備だったことがうかがわれるにもかかわらず、
古事記や日本書紀には吉備に関する記述がほとんど現れない。
桃太郎は、実は、物部太郎だった。ということでいいんですよね?
505日本@名無史さん:2009/11/09(月) 21:01:09
九州北部を通ったのは間違いない。異論あるまい。
九州北部を出て、無理矢理、目的地邪馬台国を九州南部なんかにすると矛盾だらけになってしまう。
ただでさえ辺境の九州にあって、その南の端の鹿児島から全土を統治したのか?
畿内へ行ったとしか読みようがないではないか。
何故分かりきった事をグダグダ議論しているのか分からん。
506日本@名無史さん:2009/11/09(月) 21:01:12
>>498
「世有王」と明記し、「皆統屬女王國」と倭の国々を女王國が統屬すると書いてある。
更に「郡使往來常所駐」と旅の目的地が伊都國だとある。
何故に分からんのかのう?
507日本@名無史さん:2009/11/09(月) 21:09:37
畿内や吉備が目的地なら九州の松浦に上陸する必要はなかろ、
そのまま船に乗って畿内や吉備に向かえばよい。
松浦に上陸したのは松浦から遠くない所に目的地があったからだ。
伊都國こそが邪馬壹國(女王國)の王都だ。
>>500
倭奴國⇒倭都國⇒伊都國だが
「伊」とは霊力を持った聖人のことで卑弥呼のことを指しているのだよ。
508九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/09(月) 21:14:57
>>506
>「世有王」と明記し、「皆統屬女王國」と倭の国々を女王國が統屬すると書いてある。
>「郡使往來常所駐」と旅の目的地が伊都國だとある。

女王國が統屬が盗賊しているのは世有王皆でしょう。
郡使が女王國へ行き来するとき何時もとどまるのが伊都國ではないの。
509日本@名無史さん:2009/11/09(月) 21:26:44
瀬戸内海に入らず、日本海から上陸した可能性もあるけど、
九州はありえない。
510日本@名無史さん:2009/11/09(月) 21:59:59
 古代邪馬台国の末裔、マヤ文明の予言によると、もうすぐ人類は滅亡するという。Xデーは2012年12月21日だ。
511日本@名無史さん:2009/11/09(月) 22:05:47
>>510
1999年7月の教訓が生かされていないようだな。
512日本@名無史さん:2009/11/09(月) 22:07:40
今度はほんとうらしいです。
513日本@名無史さん:2009/11/09(月) 22:21:07
>>506
test
「A統属B」ってのは、「AがBにしたがう」ってことだよ。
王朝さんまでツラレて、しかも混乱しちゃってるじゃないか。
514日本@名無史さん:2009/11/09(月) 22:30:37
>>507
>畿内や吉備が目的地なら九州の松浦に上陸する必要はなかろ

そのとおりだね。
松浦に上陸したのは、(あなたの思ってる人じゃなくて)誰か別人だったんじゃない?
515日本@名無史さん:2009/11/09(月) 22:35:51
>>507
倭奴國ってナンて読むの?
516日本@名無史さん:2009/11/09(月) 22:37:58
>>508
魏略に「其国王皆屬王女也」とあり
魏略では伊都国の説明に「世有王」と無く伊都国王は単数であるので
「其国王皆」は「倭の国の王は皆」としか読めない。
従って魏志倭人伝の「皆統屬女王國」の「皆」も「倭の国々は皆」と読むべきである。

郡使が女王國へ行き来するとき何時もとどまるのは伊都國が女王國の都だから。
517日本@名無史さん:2009/11/09(月) 22:39:49
♪あ、ワナ、ワナ、ワナに落ちそう!!!!!
518日本@名無史さん:2009/11/09(月) 22:41:02
>>513
ジェトゥンゴ、ミィワンゴ で 「皆」が主語ですね
「ゴ」が、ちょっと韻を踏んだ言い回しです
519日本@名無史さん:2009/11/09(月) 22:46:29
>>507
対馬を訪れたのは何故?
520日本@名無史さん:2009/11/09(月) 23:04:57
>>507霊力って、馬鹿じゃないの?頭大丈夫か?
それよりも霊力って何だよ?ハァ?
お前、霊力と言うものを証明出来るのか?適当なよまい言タレてんじゃねえよ。
521日本@名無史さん:2009/11/09(月) 23:07:28
邪馬台国は大和、 ただし現在の奈良県を指すのではなく、
大阪南部から奈良にかけての範囲だな。

大半の人は現八尾、羽曳野、柏原市周辺に住んでいて、
巻向は東方進出と水銀確保の為に進出したんだよ。

女王国は大分辺りから伊勢までの瀬戸内海を中心とした共立エリア。
北部九州には伊都国に王がいるが女王国に従属している、
これが倭人伝に書かれた時点での状態でしょ。
522日本@名無史さん:2009/11/09(月) 23:09:17
>>519
日本の何処に行くにしても対馬は通らないけん。
畿内や吉備に行くなら、松浦で上陸して伊都国で休むのは凄い回り道だし
千戸しかない伊都国に行く意味がわからん。
畿内や吉備に行くなら、奴国に直接上陸し休んで、また船で向かえばよい。
523日本@名無史さん:2009/11/09(月) 23:11:39
>>520
京都大学の教授だった白川静氏の書かれた漢字の説明書の「伊」の字の説明にある。
524日本@名無史さん:2009/11/09(月) 23:14:47
>>522
伊都国が渉外、外交担当の為にあるからだろ。
邪馬台国が遠方にある理由の一つでしょ。
525日本@名無史さん:2009/11/09(月) 23:20:57
>>524
渉外、外交担当の為ならもっと交通の便のよいところに置く。
大陸と畿内とのルートから外れた場所の伊都国には置かないよ。
魏志倭人伝の何処にも伊都国が渉外、外交担当とは書かれていない。
伊都国が渉外、外交担当の為にあったとは畿内説の妄想。
526日本@名無史さん:2009/11/09(月) 23:24:19
>>523
>京都大学の教授だった白川静氏の書かれた漢字の説明書の「伊」の字の説明にある。

書いてあるものを理解できずに、ただコピペしただけってことだな
527日本@名無史さん:2009/11/09(月) 23:32:03
>>526
理解できんのは526だろ。
528日本@名無史さん:2009/11/09(月) 23:32:38
>>525
じゃ、どこに置くの?
別にルートを外れてはないだろ。
外交経験豊富な人間に担当させるのは当然だし。
529日本@名無史さん:2009/11/09(月) 23:32:50
>>525
え、伊都国は大陸との交通の便がよい北部九州で何の問題もないですが。
それに当時都を設けるなら攻められ憎い、貨幣の代わりとなる
水銀算出地の近くに求める事になると思うけどね。
530日本@名無史さん:2009/11/09(月) 23:36:41
>>527
自分で理解できないと答えたアンタだよ。
理解できているなら>>523みたいな人を頼った書き込みはしないものだよ
531日本@名無史さん:2009/11/09(月) 23:36:50
>それに当時都を設けるなら攻められ憎い、貨幣の代わりとなる
>水銀算出地の近くに求める事になると思うけどね。

佐賀の丹なら佐賀市大和町付近か吉野ヶ里?
大分の丹なら宇佐?
532日本@名無史さん:2009/11/09(月) 23:37:34
大宰府は、大昔から存在していたのかもしれんな
533日本@名無史さん:2009/11/09(月) 23:43:17
邪馬台国が九州にあったとしたら、北部にあったはず。
しかし、魏志倭人伝によると北部九州を通って更に遠方へ行った所が邪馬台国。
矛盾するね。
それ以上余計なことを考える必要は無い。
534日本@名無史さん:2009/11/09(月) 23:49:34
>>531
水銀の視点からみると、算出量や後の展開等、
結局突き詰めると畿内になる。
535日本@名無史さん:2009/11/09(月) 23:54:12
>>533
魏志倭人伝に書かれた里数と日数の行程は同じ道程を二通りの説明をしているだけ。
北部九州から外には出ていない。
536日本@名無史さん:2009/11/09(月) 23:56:14
>>353
>同じ道程を二通りの説明をしているだけ

してねえよタコ。とっととタコ壺にお帰り。
537日本@名無史さん:2009/11/10(火) 00:00:29
畿内付近の丹はどこから?
538日本@名無史さん:2009/11/10(火) 00:02:15
>>536
おまえは自分の家までの道を説明するのに
「南に1km次に東へ500mそこから南に20分」とか説明するんだろうな。
逝かれてますね。
539日本@名無史さん:2009/11/10(火) 00:03:50
北部九州じゃ中国銭が出土するから水銀とか必要ねえよ。
540日本@名無史さん:2009/11/10(火) 00:15:28
>>538
逝かれた頭には、なんでも逝かれたものにしか
写らないようだな。

ご愁傷さま。
アラスカで頭冷やして来て下さい。
541日本@名無史さん:2009/11/10(火) 00:18:46
>>537
徳島と宇陀、特に巻向は宇陀水銀のすぐ近くの場所。

542九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/10(火) 00:34:08
>>508の間違い訂正
×:女王國が統屬が盗賊しているのは世有王皆でしょう。
○:女王國が統屬しているのは皆(世有王)でしょう。
543日本@名無史さん:2009/11/10(火) 00:35:32
↓ここの>224は君達に言ってるのかもしれないから
貼り付けさせてもらうわ
http://www1.atchs.jp/most/
544日本@名無史さん:2009/11/10(火) 01:35:55
>>543
長文なだけで見飽きた内容だね。
545日本@名無史さん:2009/11/10(火) 02:56:24
邪馬台国は朝鮮半島に自由に行き来している。
畿内説を前提にすると、西側は、瀬戸内海を押さえ、北部九州を押さえ、
壱岐や対馬まで勢力を伸ばし、朝鮮半島にも足がかりを築いていることになる。

では、東はどうなるか。当然、東側もそれなりの支配をしていなくては
おかしい。こう考えると、邪馬台国は、後の大和朝廷にも匹敵する勢力を
もっていたことなる。ところが、邪馬台国の連合となる国は30カ国に過ぎない。

やはり、邪馬台国は九州にないと、つじつまが合わない。
崇神天皇の四道将軍などを考えると、畿内説では矛盾が頻発する。
546日本@名無史さん:2009/11/10(火) 03:03:40
>>545
九州の方がもっと辻褄あわないでしょ。
547日本@名無史さん:2009/11/10(火) 03:44:28
>>523
白川さんは立命館大。
548日本@名無史さん:2009/11/10(火) 07:15:21
>>546九州のほうがもっと辻褄あわないとおっしゃられますが、具体的にあげてみてください。
549日本@名無史さん:2009/11/10(火) 08:59:42
畿内説は全く辻褄が合いません。
具体的な例などあげられません。
畿内説の方々はお頭が逝かれた集団です。
550日本@名無史さん:2009/11/10(火) 09:40:27
>>548
具体例なんて散々過去スレでも出てたのにな。
30国といってもそれは魏と交易がある国の数で、国々の総数ではない。
倭人伝の記述でも中には万を越す戸数のある国がある。
九州では収まりきれないと考えるのが普通でしょ。

それに九州説では出雲、丹波といった、当時大陸との交流が
出土品からも実証されてる国の存在の説明が出来ない。
551日本@名無史さん:2009/11/10(火) 10:09:10
>>489
>北史が成立したのは、南史と同じ頃659年とされています。
それは奏上のときだろ。正史に採用される手続きがとられたときにすぎない。
書かれたのはそれよりは前だ。
編者李延寿について、Wikiには次のようにある。
延寿の父の大師は、隋末に竇建徳に仕えて礼部侍郎となり、竇建徳の滅亡後に甘粛に流されたが、
後に赦された。大師は編年体の南北朝通史の執筆を構想して、編纂を開始していたが、志半ばで
628年に死去した。延寿は父の未成の南北朝通史を引き継ぎ、16年かけて、『南史』80巻、『北
史』100巻を完成させた。659年に正史として公認された。
延寿は、唐の太宗に仕えて、太子典膳丞・崇文館学士を務めた。『隋書』や『晋書』の編纂に参
与して、御史台主簿となり、直国史を兼職した。最後は符璽郎に任ぜられ、修国史を兼任して、
まもなく死去した。

つまり、延寿は生没年がはっきりしないが、太宗(599年〜649年)に仕えた人物。
次の高宗に仕えた形跡はない。ということは、北史は7世紀前半に書かれたもの
にまちがいないんだよ。




552日本@名無史さん:2009/11/10(火) 10:38:01
553日本@名無史さん:2009/11/10(火) 10:56:24
>30国といってもそれは魏と交易がある国の数で、国々の総数ではない。
読み方がまちがっているな。旧百余国・・・今三十国と対応して書いているんだから
国々の総数なんだよ。今はその三十国が皆魏と通交があるというんだ。

>当時大陸との交流が出土品からも実証されてる国の存在の説明が出来ない。
大陸と直接交流しているのか、朝鮮を経て流入したにすぎないのか、分からないな。
大陸との交流は実証されていないよ。
それに東渡海千里にまた国があるってことは倭人伝が書いている。説明できてるだろ。

554ローガン:2009/11/10(火) 11:05:32
>>542

> ○:女王國が統屬しているのは皆(世有王)でしょう。

違いますよ。皆が女王国に統屬しているんです。
555九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/10(火) 11:21:25
>>551
何を屁理屈こねてる。
正式に公認され成立した時を書かれた時と区切るのがすじだ。

シナの言語は、旧言語呉方言から新言語漢方言へ、隋代から入れ替わっている。
その新旧言語との入れ替わり期が7世紀前半。
延寿は新旧言語双方を操れた時代の人と思われる。

又、北史と南史は最初旧言語で書かれたが、新言語への修正の為に両史書の成立が同時になったとも考えられる。
隋書は新言語への全面改修がされきれなかった史書かも知れない。
556九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/10(火) 11:27:26
>>555

その通りです
皆は女王國に統族しているのです。
557日本@名無史さん:2009/11/10(火) 11:39:03
>>555
>>551を良く読め。李延寿は隋書の編纂にも加わっているんだよ。
隋書と北史で言葉の使い方がちがう訳がない。
558日本@名無史さん:2009/11/10(火) 11:51:26
>>497
>里程で表されているのは女王國迄の12000餘里に含まれるものだけである。
>奴國及び不彌國で女王國にそれぞれ到達しているから、其の先は里程では表現されない。
邪馬壹國と投馬國が近接していれば という仮定の話ですので、この部分の議論は不要です。

>それでは女王國内の二大国である投馬國と邪馬壹國の郡よりの距離はいか程か?
>これは里数で表現すると混乱が起きる。そこで日数で表記した

投馬國は邪馬壹國の西に接する  この記述のほうが混乱しないし、距離もわかるでしょう。
だから、わざわざ「・・・南水行二十日・・」で表記される投馬國は近接していないと考えられる。

>女王國が飛び地国家群であると考えるのは不適切である。
>もしそうであるなら陳寿はその事を指摘するであろう。

飛び地にはならないでしょう。傍国がたくさんありますから。


559日本@名無史さん:2009/11/10(火) 11:55:50
>>555
> 正式に公認され成立した時を書かれた時と区切るのがすじだ。
三国志はいつ公認されたのか知ってるか?
560九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/10(火) 12:17:30
>>557
>>555を良く読め。隋書東夷伝は旧言語短里で書かれているんだよ。
隋書東夷伝と北史では言葉の使い方がちがうのだよ。
561日本@名無史さん:2009/11/10(火) 12:18:49
>>553
30国に統合されてるなら、当然一国の規模はそれなりですよ。
倭国伝ではなく倭人伝ですからね。九州についての話とはとても思えません。

それに当時ガラスや鉄を相当数確保出来ている丹波を、
大陸との関連性を無視なんて出来ませんね。
562日本@名無史さん:2009/11/10(火) 12:45:24
>>561
またしても「とても思えない」と言う、個人的な感情判断か?
個人的な感情なんて飽き飽きしたぞ。
563日本@名無史さん:2009/11/10(火) 12:48:46
>>553
九州からみて目の前にある本州は千里の位置ではない。
564日本@名無史さん:2009/11/10(火) 12:50:08
>>559
そんな思わせぶりな書き方しないで、何時何時に
公認されたんだと書きゃいいだろう。 書きゃ
さも自分が発見したような書き方しやがって。タコが
565日本@名無史さん:2009/11/10(火) 12:55:54
>>563
女王国からだよ。北九州市付近は女王国ではない。
566日本@名無史さん:2009/11/10(火) 13:01:03
>>561
倭人伝だけど、倭種の人が住む国の全部ではない。そんなことは、倭人伝に
書いてあるだろ。
30国のうち、大国は邪馬台国と投馬国、それに北九州の奴国、伊都国程度だ
よ。それも倭人伝に書いてある。
567日本@名無史さん:2009/11/10(火) 13:15:36
>>565
つまり女王国が紀伊半島までとしたら、現在の静岡より東がそれに辺りますね。

>>566
だから女王国が瀬戸内周辺国の連合で、邪馬台国が畿内、大和(河内含む)、
投馬が出雲(丹波)、狗奴国が九州南部で全て説明がつきます。
568九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/10(火) 13:15:53
>>564

>>559は既に自己崩壊を起している。
放置プレーがよいのでは?
569日本@名無史さん:2009/11/10(火) 14:02:27
>>568
564は自演か? 屁理屈もでなくなったようだな。
570日本@名無史さん:2009/11/10(火) 14:08:11
>>567
紀伊半島と静岡以東は陸続きだろ。渡海千里ってのは別の島なんだよ。

>邪馬台国が畿内、大和(河内含む)、投馬が出雲(丹波)、狗奴国が九州南部で全て説明がつきます。
九州中部はどうする? 四国は? 吉備は?

571日本@名無史さん:2009/11/10(火) 14:14:37
>>561
倭人伝には、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と書かれている。
邪馬台国を九州と考えれば、納得のいく記述だろう。
九州の東側にも倭種の国があったことになる。

また、後漢書には、
「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」とある。

これは、狗奴国(拘奴國)を本州に比定していることになる。
このことの妥当性については定かでないが、これからも、海を渡った東側に
それなりの倭種の国があったことがうかがえる。

しかも、女王に属していないわけで、いわゆる邪馬台国連合ではない。
572日本@名無史さん:2009/11/10(火) 14:33:44
北部九州の国邑の連合国が邪馬壹國と考えれば全て矛盾無く説明できる。
南九州に狗奴國が有り投馬國は朝鮮半島南岸。
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」は山口県あたり。
侏儒國は四国、裸國・黒齒國は吉備あたりだろう。
573日本@名無史さん:2009/11/10(火) 14:44:43
>>570
>紀伊半島と静岡以東は陸続きだろ。渡海千里ってのは別の島なんだよ。

別の島とも書かれてないし、ヤマトタケルの話でもわかるように
海を渡ってゆく点も問題ない。
吉備は勿論女王国の共立国だし、四国の瀬戸内に面した国もそうだよ。
モモソ姫の伝承はこの地方中心に残っている点とも一致する。

大分から瀬戸内周辺の、紀伊半島までの国々が女王国だ。
傍国の説明にも出てきてる国々の事です。

>>571
>また、後漢書には、
「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」とある。
この記述だと、女王国は四国までだったかもね。
どちらにしても九州ではない。
574日本@名無史さん:2009/11/10(火) 14:46:33
>>572
伊都国の存在する意味と行程がおかしいという
根本的な矛盾が残ってるけど。
575日本@名無史さん:2009/11/10(火) 15:02:43
>>572
吉備まで船で1年かかるのか?
576日本@名無史さん:2009/11/10(火) 15:07:06
>>573
>吉備は勿論女王国の共立国だし、四国の瀬戸内に面した国もそうだよ。
倭人伝が伝えるどの国になるって言うんだ?
旁国ってのは小さい国だよ。吉備に相当する国がないだろ。
577日本@名無史さん:2009/11/10(火) 15:26:54
>>576
小さい国なんて意味ではないですよ。

遠すぎて詳細が判らないとある国の説明中にあります。
播磨や吉備、讃岐、山城、近江、志摩等の国々が説明されていて
奴国がその境界と書かれてありますね。
578日本@名無史さん:2009/11/10(火) 15:37:53
>>573
陸地に沿って海を行くときは水行。
狗邪韓国から対馬に行くときのように陸地がないところを行くときに海を渡る。
倭人伝の記述はそのようになっている。

常識的に考えてもそれが妥当だろう。

従って、倭人伝の「女王國東渡海千餘里復有國」の「東に海を渡る」を
伊勢湾と考えるのはおかしい。
579ローガン:2009/11/10(火) 15:37:56
>>570
>渡海千里ってのは別の島なんだよ。

陸続きでも渡海とありますよ。
丙戌以遼東北豊縣民流?渡海規斉郡之西安…
遼東と斉は陸続き。
580日本@名無史さん:2009/11/10(火) 15:42:49
>>579
程度問題だよな。
581日本@名無史さん:2009/11/10(火) 15:46:33
>>577
旁らの国だろ。大国の旁らという意味だよ。当然、小国を意味する。

>播磨や吉備、讃岐、山城、近江、志摩等の国々が説明されていて
思い込みが激しいね。どこからそんなことが言えるの?
582日本@名無史さん:2009/11/10(火) 15:53:31
>>574
伊都國は北部九州邪馬壹國連合国の王都、卑弥呼の都。
行程は里数と日数が同じ道程を2度説明していると考えれば矛盾は無い。
583日本@名無史さん:2009/11/10(火) 15:56:05
あなたは、同じ行程を説明するのに倭人伝みたいな書き方をするのかね。
ひどい文章を書くね。
584サガミハラハラ:2009/11/10(火) 16:07:47
某家を説明するのに、ここをまっすぐ行って、コンビニのところを右折して線路沿いに歩き、踏切を渡って
駄菓子やの向かいの小路を入って5軒目ですよ。7分ぐらいですよ。
と説明すると、里数と時間(日数)が同じ道程を2度説明していることになります。
585日本@名無史さん:2009/11/10(火) 16:16:31
>>581
女王国を共立国と捉えると、小国とは解釈できませんね。

国名は傍国の説明で、それらの国の読みに近い記述が
並んで書かれている為です。これについては
大した根拠はないですよ。
まあ思いこみが激しいのはお互い様でしょw

私はモモソ姫=卑弥呼を元に、倭人伝他の文献等を
解釈してますから。

当然邪馬台国は畿内になりますし
(ちなみに巻向説でもない、現大阪南部を重視)
吉備や讃岐、丹波という土地を重視します。
586日本@名無史さん:2009/11/10(火) 16:40:47
>>577
>播磨や吉備、讃岐、山城、近江、志摩等の国々が説明されていて・・・
傍国のどれに対応した読みなのかおしえてください。まあ志摩はわかりますのでほかのを。
587日本@名無史さん:2009/11/10(火) 16:41:31
>女王国を共立国と捉えると
意味がよく分からないが、まあ、そこからすでに間違っているんだろう。
588日本@名無史さん:2009/11/10(火) 16:51:36
>>576
船で1年も行ったらアメリカに着いちゃう。
十二日が十二月に誤り1年となったのだろう。
「船行一年可至」は「去女王四千餘里」を時間で言い直したものだ。
12日なら1日あたり333里進めばよい。
12,000里を行十日、水行二十日、陸行一日の場合も1日あたり387里となり
計算も合う。
589日本@名無史さん:2009/11/10(火) 17:31:52
裸國・黒齒國っていうのは、南方の国々だよ。倭国ではない。
船行1年でそこに到達できるってことだ。裸國・黒齒國は音を写した
国名ではなく、裸の国、黒い歯の国という実態を表現した国名だ。

590日本@名無史さん:2009/11/10(火) 17:33:12
また始まりましたよ。よかったらカキコどーぞ。

【社会】九州?近畿?論戦熱く…邪馬台国めぐりシンポ - 九州国博
1 : ◆SCHearTCPU @胸のときめき▲φ ★:2009/11/10(火) 06:04:30 ID:???0 ?PLT(12556)
九州か、近畿か、それともまったく別の地か? 古来、さまざまな論議がなされてきた邪馬台国の
所在地をめぐるシンポジウム「邪馬台国はここにあった」(西日本新聞社主催)が8日、太宰府市の
九州国立博物館で行われた。九州国博で開催中の特別展「古代九州の国宝」(29日まで)の
関連イベントで、300人を超す古代史ファンなどが、専門家による邪馬台国研究の最前線や、
在野の4人の研究家たちの自説発表に耳を傾けた。

http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1257800670/
591日本@名無史さん:2009/11/10(火) 17:37:53
何? 300人を超えるキモヲタと死にぞこないが集まった
だって?
こりゃぶったまげた。
592日本@名無史さん:2009/11/10(火) 17:40:23
>>587
卑弥呼を共立した国々が女王国でしょう。
その中で邪馬台国は女王が都する国です。
593日本@名無史さん:2009/11/10(火) 17:56:20
3世紀前半、最大規模の建物跡=邪馬台国畿内説に弾み−卑弥呼の居館?−奈良

邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向遺跡で、
3世紀前半の大型建物遺構を確認したと、同市教育委員会が10日発表した。
女王卑弥呼が活躍していた時期と重なり、当時の建物としては国内最大規模という。
市教委は「遺跡中枢部の居館域で、中心的な人物がいた建物」と説明している。

邪馬台国の所在地は「畿内か」「九州か」で長年議論されてきた。
卑弥呼の居館とみる専門家もおり、今回の確認は畿内説に大きな弾みをつけそうだ。

市教委によると、大型建物は柱穴などから東西12.4メートル、南北19.2メートルと推定される。
高床式で、東西いずれかが正面とみられる。纒向遺跡で大型建物跡が見つかったのは初めてで、
出土した土器などから3世紀初頭から半ばごろまで存在した可能性が強いという。

これまでの調査で、西隣には小規模な建物跡が3棟確認され、
一部は柵で囲われていたことが分かっている。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091110-00000140-jij-soci
594日本@名無史さん:2009/11/10(火) 18:07:18
また九州説の涙目な反論が聴けるなw
まだまだ発表待ちの件はありますからね。
595日本@名無史さん:2009/11/10(火) 18:12:08
>>590

紹介乙。

ニュー速+板で邪馬台国の議論が始まると、
日本史板にはほとんどやって来ない連中(=ど素人?)の意見が聞けて面白い。

ざっと見てきたが、以前は九州説が圧倒してたが
最近はそうでもなくなった感じだな。
596日本@名無史さん:2009/11/10(火) 18:17:51
>>589
倭人伝に南方の国々ですか?
倭人は南方の国々にも住んでいたんですか?
南方の国々とは具体的に何処なんでしょう?
597日本@名無史さん:2009/11/10(火) 18:29:48
>>593別報

■卑弥呼の宮殿? 奈良で3世紀の大型建物跡出土

(2009年11月10日17時32分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20091110-OYT1T00860.htm

 邪馬台国畿内説で最有力地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、女王・卑弥呼が活躍した時代とされる3世紀前半〜中頃の大型建物跡が初めて出土し、市教委が10日、発表した。

 南北19・2メートルと当時、国内最大の規模で、市教委は 「飛鳥時代以前の大王や天皇の宮などの原形とみられ、日本の国家形成過程を探るうえで貴重な発見」としている。
時代や場所などから、「ここが邪馬台国の中心で、大型建物は卑弥呼の宮殿だった可能性がある」とする研究者もおり、市教委はさらに範囲を拡大して調査を進める。

 昨年度までに出土した建物群跡の東側を調査。南北19・2メートル、東西6・2メートル以上の掘立(ほったて)柱建物跡が見つかった。
調査区の西側は後世に溝が掘られて削られているが、建物のバランスや柱穴の形状などから東西は2倍の12・4メートルだったとみている。
柱の直径は約32センチで、南北の柱の間には、床を支えたとみられる細い柱穴も見つかり、高床式の建物だったらしい。一緒に出土した土器などから時期を判断した。

 これまでの調査から、今回の大型建物跡を含め、少なくとも4棟が、柵をはさんで中軸線をそろえて左右対称で建てられて東西一列に並び、綿密な計画性がうかがえる。
現場は小高い台地を大規模に造成しており、南北約100メートル、東西約150メートルの区画があったとみられる。市教委は「整然とした規格に基づいて構築された国内最古の建物群で、弥生時代の建物とは一線を画する」としている。

 現地説明会は14、15両日午前10時〜午後3時。雨天中止。駐車場はない。JR巻向駅下車すぐ。
598日本@名無史さん:2009/11/10(火) 18:29:50
お前らは重大な事実を忘れている。

お内裏様=一大率で、お雛様=卑奴母離であることを。
599日本@名無史さん:2009/11/10(火) 18:35:00
>>593写真

http://www.jiji.com/news/photos/photo_news/images/450/view8650422.jpg

邪馬台国の候補地といわれる纒向(まきむく)遺跡で確認された、3世紀前半の大型建物遺構(奈良県桜井市)。
女王卑弥呼が活躍していた時期と重なり、当時の建物としては国内最大規模という。市教委が10日発表した 【時事通信社】
http://www.jiji.com/jc/p?id=20091110173346-8650422&n=1
600日本@名無史さん:2009/11/10(火) 18:48:40
>>597

これで決まりだな、
九州説はしんだ、

安本もおわった、
散々でっち上げの本出してたんだな
601日本@名無史さん:2009/11/10(火) 18:51:03
どうせ、また畿内説お得意の捏造記事でしょ。
602日本@名無史さん:2009/11/10(火) 19:02:15
>>601
可哀想に‥
603日本@名無史さん:2009/11/10(火) 19:12:54
別報

■奈良・纒向遺跡:3世紀前半の大型建物跡 邪馬台国か 

毎日新聞 2009年11月10日 18時34分(最終更新 11月10日 18時39分)
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091111k0000m040025000c.html

 邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)と同時代の3世紀前半の大型建物跡が見つかり、桜井市教委が10日、発表した。
柱穴が南北19.2メートル、東西6.2メートルに整然と並び、同時代の建物では国内最大級。
過去の発掘調査で確認された3棟の建物や柵列と共に、東西方向の同一直線上で南北対称となるよう計画的に配置されており、卑弥呼の「宮室」(宮殿)の可能性がある。邪馬台国大和説を前進させる成果と言えそうだ。

 78年に柵と建物跡が確認された調査地点を、今年2月から区域を広げて再度調査。東西に計画的に並ぶ三つの建物群や柵を確認。大型建物跡は、その東側の区域で新たに見つかった。

 直径約30センチの柱跡が南北に4.8メートル、東西に3.1メートルの間隔で並んでおり、南北方向の柱の間には床を支える細い束柱の穴があった。

 市教委は、後世に柱穴が削られた西側も含め、東西幅は倍の12.4メートルだったと推定。復元図を作成した黒田龍二・神戸大准教授(建築史)は、地上約2メートルに床を設けた高床式・一層の入り母屋造りで、高さは約10メートルとみている。

 推定床面積は約238平方メートルあったとみられ、弥生時代最大規模の環濠(かんごう)集落とされる吉野ケ里遺跡(佐賀県)で最も大きい「主祭殿」(2〜3世紀)の約1.5倍になる。

 また、同一直線上で南北対称となる建物配置は、同時期までには例がない。飛鳥時代(7世紀)の宮殿と共通する特徴で、当時の王権中枢の一角であった可能性が高い。

 現地説明会は14、15日の午前10時〜午後3時。雨天中止。JR巻向駅の北100メートル。駐車場はない。【高島博之】

 【石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)の話】
 邪馬台国が纒向遺跡にあったという有力な根拠。建物は同時代には例のない大きさだ。住まいとしては大規模すぎ、祭祀(さいし)の場で、魏志倭人伝にある卑弥呼の「宮室」に相当するのではないか。
604日本@名無史さん:2009/11/10(火) 19:16:34
毎日新聞つづき

 【ことば】纒向遺跡

 奈良県桜井市の三輪山西側に広がる3〜4世紀の大規模集落遺跡。東西約2キロ、南北約1.5キロに、最古級の前方後円墳とされる纒向石塚古墳や、卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳がある。
各地の土器が持ち込まれ、邪馬台国の最有力候補地とされる。71年から発掘調査が始まり、今回で166回目だが、小規模な発掘が多く、全体像は分かっていない。


写真説明:

纒向遺跡で見つかった大型建物跡(右端)と、3月までに確認された3棟の建物跡が一直線に並ぶ=奈良県桜井市で2009年11月5日午後2時4分、本社ヘリから山本晋撮影
http://mainichi.jp/select/wadai/news/images/20091111k0000m040026000p_size5.jpg
605日本@名無史さん:2009/11/10(火) 19:20:43
もう決まりじゃないか。
606日本@名無史さん:2009/11/10(火) 19:30:16
倭人伝に対馬、壱岐の記述があるのは確定。
対馬と壱岐の間の距離が1000余里。

狗邪韓国から初めて海を渡って1000余里で対馬に至ったとある。
狗邪韓国が現在の韓国南端にあったとすると、対馬−壱岐の距離とも矛盾せず辻褄が合う。

そこから海を1000余里渡って至った末廬国は九州北部の何処か。肥前国松浦郡?
伊都国への距離と辻褄合うのは今の唐津市の辺り。

伊都国は、筑前国怡土郡。
奴国は、伊都国からの距離、人口の多さからすると、博多湾周辺か。
不弥国までは九州北部で確定。

そこから水行20日で至った投馬国とは、吉備か出雲しかない。人口は奴国の倍以上なら、吉備で確定か。
そこから更に水行10日で至った邪馬台国は大和で確定。
九州から吉備まで20日、吉備から10日で大和までの距離も辻褄合う。
607日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:05:53
何里って書けないから、水行二十日とか十日とか書いたんでしょ。

北部九州から遠いところにある、ということくらいしか読み取れないんじゃないか。
僻地で交通手段も発達してないから、行き着くまでとても時間がかかる場所にある
ことだけがはっきりしてるんで。
608日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:10:50
>>606
投馬国と邪馬台国の方向が全然違うじゃん。
609日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:13:21
遠方の地で候補となると畿内のヤマトという事でしょう。
大規模建物跡も見つかった事だし、もう決定ですね。
610日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:13:32
水行二十日とか十日とか書くのは、海の上では距離を測れないからでは?
何日も掛けて島影をよけながら、或いは半島を迂回しながら進むから、距離を実感できないんだと思います。
対馬海峡の島々は、肉眼で見えるし、昼間のうちに一気に横断する(海流が早いので投錨停泊はしないと思う)から距離感がつかめる。

611日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:15:29
宇美国まではまあ、畿内説では問題ないかも知れない。
だが、そこからの南への水行でどうやって北東の本州の方に行くのか。

伊都国佐賀説のほうがよっぽどつじつまが合っている。

自分的にが前原の伊都国も重要な遺跡と思っているから
どうやって前原伊都国を入れるか考え中。

前原伊都国、福岡奴国が関係国なら、素直に博多湾に入ると思う。
今宿あたりで前原伊都国の臨検を受けて。

佐賀伊都国ルートだと、むしろ前原伊都国や福岡奴国をわざわざ避けた可能性が高い。
612日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:16:02
投馬は、但馬だと思うね。私は
613日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:17:51
>>609
いやあ、南九州の可能性もあるとまだあると思うよ。

>>610
里は中国の距離の単位で、北九州は半島や大陸ともっとも交流が盛んだった
ところだから、里によって距離を測ることがはやくから行われたと考えればいい。
614日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:23:33
距離はうまくつかめなくても、方角についてはだいたい正確ではないかと思うね、当時の記録も。
615日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:29:08
現存する対馬、壱岐、怡土と並んで邪馬台国、すなわち大和が記述されていたということか
616日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:29:54
今回の発掘結果の報告で、畿内に決まったとか言うやつは馬鹿決定。ただし、倭人伝をちまちま読んで
里だとか歩だとか言ってるやつも馬鹿だけどね。
617日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:30:53
ヤマトってのは、ヤマト王権がそこを支配してからヤマトになったんだろ。
ヤマト王権が支配する以前は、ヤマトはヤマトという地名ではなかったんだよ。
618日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:35:28
対馬海流の流れに逆らいながら、船を南か東南に向けて日本海沿岸に着いたのかもしれんな
すると投馬は、日本海沿岸のどこかということになる。
日本海から上陸したのなら、陸行に時間が掛かったのも説明できる。
619日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:38:45
>>618
北九州から日本海に流れ着いたのなら、いくらなんでも「東」って書くだろw
海流にのって、遠い東に流されていったというわけだ。
620日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:46:44
邪馬台国は帯方郡から約5000q離れたところに
あるのに、畿内なわけなかんべ
621日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:49:47
>>590
>【社会】九州?近畿?論戦熱く…邪馬台国めぐりシンポ - 九州国博
>【http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1257800670/

ぜんぜん動いてないんだが、
ニュー速板はサーバーダウン?
622日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:50:49
>>252
まあ、倭人伝にも、イト国は皆女王に服属していると書いてあって、他の諸々の国もみな官を
たてているが、王をなのっているのは女王だけだしね。それで女王は邪馬台国に都していたと
いうから、数多くの弱小国を邪馬台国が支配していたことは間違い有るまい。
623日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:53:13
あれれ、N速+に書き込んだつもりだったのに…

>>621
さっきまでダウンしていたが、今は復帰してるようだね。
http://ch2.ath.cx/

でもうまく書き込めない。
624日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:55:17
共立をどう解釈するかによる。
625日本@名無史さん:2009/11/10(火) 21:02:54
投馬は丹波でしょう。但馬も本来は丹波国だし。
新羅と縁のある多婆奴国でもある。
626日本@名無史さん:2009/11/10(火) 21:13:43
>>617
>ヤマト王権が支配する以前は、ヤマトはヤマトという地名ではなかったんだよ。

日本では地名より採った家名は非常に多いが、家名が地名になったという例はほとんどない。
627日本@名無史さん:2009/11/10(火) 21:15:30
まずヤマトという土地があって、そこからそこに住む種族をヤマトと呼ぶようになったと見るべき。
628日本@名無史さん:2009/11/10(火) 21:17:02
丹波厨とタンボチェは似ている・
629日本@名無史さん:2009/11/10(火) 21:20:12
>>626
んじゃ、ヤマトを支配することになったら、他所からきた征服者たちもヤマトとなのることになるわけか。
まあ、そういうストーリーでもいいや。
630日本@名無史さん:2009/11/10(火) 21:22:54
日本海の沖から山陰沿岸へ向かう場合、船首を真南へ向けても、
実際の進路は対馬海流に流され東へずれる。
船に乗っている人には南進して見えた可能性はある。
船の速度が海流に比べて相当に遅かったら、船首を南へ向けながら
実際には流されながらほぼ東へ進んだということはあり得る。
631日本@名無史さん:2009/11/10(火) 21:27:50
>>630
船首のむきじゃなくて、出発地と目的地の位置関係から東とか南とかいってるんだと思うけどね。
潮の流れを計算に入れずに、東行とか南行とかいってるなら、ずいぶんと間の抜けた話で
そんなレベルの記述なら、まったく方角も距離もあてにならないと考えるべき。
632日本@名無史さん:2009/11/10(火) 21:40:07
錯覚で南へ進んでいるように見えたということは十分考えられる。
どうせ南という根拠は太陽の方角くらいしかない。
633日本@名無史さん:2009/11/10(火) 21:41:46
NHKの7時のニュースを見ていたら、「邪馬台国」という文字が見えた。
すぐに、纏向遺跡のことだと思ったなあ。
邪馬台国に絡めて報道するのは、纏向しかないから。

思ったとおり、石野さんが出てきて、これは卑弥呼の祭祀の場所に違いない
とか言っていた。

ただ、NHKは、発表を鵜呑みにするのは危ないとわかっているのか、
九州説の高島さんの意見も出していた。
纏向は四世紀であり、卑弥呼とは関係ない、と言っていた。
634日本@名無史さん:2009/11/10(火) 21:47:47
これはともかくとして、邪馬台国は畿内しか考えられん。
635日本@名無史さん:2009/11/10(火) 21:50:14
いまどき本気で畿内説を唱えているひとなんているのかな。
石野さんだった怪しいもんだ。
636日本@名無史さん:2009/11/10(火) 21:50:54
テレビで卑弥呼の宮殿?特集やってるぞ

637神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/11/10(火) 22:01:15
全てのテレビ局が纏向遺跡で見つかった建物跡を「卑弥呼の神殿」と断定したわけです。
これで邪馬台国九州説は滅亡しました。100年にもわたる議論お疲れさまでした。
638日本@名無史さん:2009/11/10(火) 22:02:25
なんか安田講堂で立てこもった連中の勝利宣言みたいだなww
639日本@名無史さん:2009/11/10(火) 22:05:07
九州は最初から論外
640日本@名無史さん:2009/11/10(火) 22:11:49
巻向は東西の機軸線と、そんな気がしてた
南北になる前の形だな
641日本@名無史さん:2009/11/10(火) 22:12:21
畿内はその頃から今に至るまで日本の中心。
江戸幕府続いて明治政府から江戸・東京に移り始めて、
戦後、阪神工業地帯は京浜工業地帯に抜かれたが、
長い歴史の中でそれらはごく近年のこと。
九州など一度もライバルだったことはない。
642日本@名無史さん:2009/11/10(火) 23:04:57
>>633
巻向は4世紀…九州説はもうそれしか主張出来ないからなw
643日本@名無史さん:2009/11/11(水) 00:27:09
おー
畿内は帯方郡から約5000qも離れていると公言したようなもんだな



馬鹿かオマエラ
644日本@名無史さん:2009/11/11(水) 00:51:35
>>642
マキムクが3世紀だというちゃんとした根拠を一度は聞いてみたいものだな。

まあ今の学者に思想の自由とかはないんだろうなあ。

戦前が一番自由だったよ。
645日本@名無史さん:2009/11/11(水) 01:16:34
三角縁神獣鏡が全部国産っていう当たり前のことさえ言えない世界だし、
常識とかそういったものが全然意味がない世界なんだろうね。
646日本@名無史さん:2009/11/11(水) 02:05:43
もう誰もいないよ 君、さみしい奴だな
647日本@名無史さん:2009/11/11(水) 02:21:34
九州説を唱えるなら九州説の根拠を唱えなければ説得力がないだろう。
畿内説を叩いても九州にあったと言う証明にはならない。
三角縁神獣鏡にしたって九州説の連中が言ってる内容は子供染みてて馬鹿馬鹿しい。
648日本@名無史さん:2009/11/11(水) 07:42:27
卑弥呼の都は伊都国です。
これで何の矛盾も有りません。
平原遺跡からは女王の墓も見つかってます。
畿内で何が見つかっても邪馬台国とは無関係です。
649日本@名無史さん:2009/11/11(水) 08:17:45
>>648
まぁ、頑張ってくれ。
650日本@名無史さん:2009/11/11(水) 09:05:26
また大先生の畿内説への罵詈雑言が聞けるな。
実はあれで九州説に見切りつけたんだけどね。
651日本@名無史さん:2009/11/11(水) 09:57:07
伊都平原の四神鏡は卑弥呼のもらった100枚の鏡をイメージさせるのにふさわしい。
卑弥呼ではないにせよ、属国となった国へ100枚の鏡を送るというのは
何度か行なわれていたのかも知れない。
652日本@名無史さん:2009/11/11(水) 11:29:50
畿内であろうと九州であろうと
帯方郡から5000q離れている位置に女王国があった事を
、完全に無視している所に間抜けさがある。

目糞、鼻糞を笑うが如く
お互い糞であることの現実を見ろ。


糞だから見れないか?
馬鹿の集まりだぜ、此処は。
653 [―{}@{}@{}-] 日本@名無史さん:2009/11/11(水) 11:39:56
ハンコ見つかっても
捏造だと主張しそうだな。
654日本@名無史さん:2009/11/11(水) 14:20:41
どう転んでも九州説は終了ですよ。
まだ巻向は調査に入ったばかりですからね。
655日本@名無史さん:2009/11/11(水) 14:35:44
九州説w
656日本@名無史さん:2009/11/11(水) 15:36:05
>>653
見つかる訳ないじゃん。
おまえらバカだろ。
657日本@名無史さん:2009/11/11(水) 17:03:47
九州説完全終了
658日本@名無史さん:2009/11/11(水) 17:20:30
巻向、箸墓
166回の発掘調査

一回当たりどのくらいの面積を調査しているのだろうか?
何を発掘しているのかよくわからない。

ニュースになっているから、何か出土してはいるのだろうが、
余り記憶に残っていない。
659日本@名無史さん:2009/11/11(水) 18:02:44
で、今回の調査で
女王国とか邪馬台国とか書かれた雑誌でもみつかったのか?
それともまた妄想僻の学者がいい加減な台詞吐いたのか?
さも遺跡が白状したかのように
660日本@名無史さん:2009/11/11(水) 18:07:13
本体が掘れるわけじゃないから、土器片だの木っ端だのです。
後は周辺土地利用の遺構、一番有名なのは鐙かなw
661日本@名無史さん:2009/11/11(水) 18:18:58
>>659

キミは気がつかないのか?
あの柱列の特定のポイントを紐で結ぶと「ヒミコ」と言う文字列が浮かび上がることに。
662日本@名無史さん:2009/11/11(水) 18:19:47
まあ今まで巻向には大規模な建造物が無いと言われ続けたからな。
少なくともこれはクリアされた訳だ。
しかも東西中心線がそろった物が。

畿内説を補強する点では間違いない。
663日本@名無史さん:2009/11/11(水) 19:09:45
本居宣長と白鳥庫吉が、今の中韓並みのナショナリスティックな歴史観で作り上げた嘘がここまで長引くとはね。

九州説をいうとるのは、もはや東大でも50代後半以上のイデオローグヒストリアンだけだべえ。
664日本@名無史さん:2009/11/11(水) 19:17:15
>>661
気がつかなかったわ
流石纏向、やることにぬかりはなさそうだ。
駄目押しには完璧過ぎるほどの気配りがちりばめられてるようで

アッパレと感動した。
665日本@名無史さん:2009/11/11(水) 20:56:01
セーガンのコンタクト思い出したw

誰か今週末の見学会行くやついる?天気は微妙だな
666日本@名無史さん:2009/11/11(水) 21:05:02
俺はすぐ近所だから行こうかな。
667日本@名無史さん:2009/11/11(水) 22:26:51
纏向が邪馬台国で決定、では、サガミ氏の精緻を極めた小城甘木説はどうなるのか。
668日本@名無史さん:2009/11/11(水) 22:59:30
例の遺跡だが、東北人のゴッドハンド藤村新一が一枚噛んでるってことはないだろうなw
669日本@名無史さん:2009/11/11(水) 23:14:54
纒向から大型建物が見つかったのに、
卑弥呼の名ばかりが出て、崇神、垂仁、景行の名が出ないのが釈然としない。

古事記・日本書紀の纒向の記事が無視され、
魏志倭人伝の旅程記事が無視されている。

なんだかなぁ。
670日本@名無史さん:2009/11/11(水) 23:18:53
>>668
関西には藤本以上の策士が沢山いるから
簡単には見破れない巧妙な細工が仕掛けられている
671日本@名無史さん:2009/11/11(水) 23:21:31
卑弥子の男弟王が崇神だろ。
672日本@名無史さん:2009/11/11(水) 23:28:52
>>671
男弟王って 男弟のこと? 男王のこと?
なんか混ざってる感じ
673二 ◆.L.MXSPOgc :2009/11/11(水) 23:32:57
>>669
確かにね。
それが今の考古学の現状だというのは言い過ぎかもしれないですが、
巻向はヤマト政権の縁の地であり、日本書紀にそれも書かれています。
それを単語だけをセンセーショナルに扱い、中身を見ようとはしないのですよね。

早く「卑弥呼の家」という看板が見つかると良いですね、と皮肉交じりに言っておきます♪
674日本@名無史さん:2009/11/12(木) 00:09:50
>>673
負け惜しみかよw
675日本@名無史さん:2009/11/12(木) 00:50:44
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
676日本@名無史さん:2009/11/12(木) 07:41:31
>>674
冷静に考えて、今回の発見でも邪馬台国につながるモノは何も見つかっていない。
677日本@名無史さん:2009/11/12(木) 08:43:22
>>676
巻向には大型の建物跡が無いと散々言われてたけど。
場所的に東に向いた大型の建造物があったと言うことは、
結構重要な事なんだけどね。
678日本@名無史さん:2009/11/12(木) 09:54:13
そうだね。畿内説としては、どんな話にもしがみつかないことにはね。
679日本@名無史さん:2009/11/12(木) 10:10:56
もはや九州説には大先生の罵詈雑言しか
しがみつくものないからな。
680日本@名無史さん:2009/11/12(木) 13:08:15
>>669
古事記・日本書紀なんぞ誰も信用していないってことだろう。
681日本@名無史さん:2009/11/12(木) 13:09:50
九州説の代表的存在って佐賀女子短期大学高島忠平だったんですね
682日本@名無史さん:2009/11/12(木) 13:40:19
門脇禎二もそうだってね。
683日本@名無史さん:2009/11/12(木) 13:48:44
テスト
684日本@名無史さん:2009/11/12(木) 14:21:27
三世紀の時点では、邪馬台国は畿内にあったが、それ以前の伝承がいろいろと
錯雑しているから、九州にあったかのように解釈できてしまう、ということだろうかね。
685日本@名無史さん:2009/11/12(木) 17:55:17
>>684
違うな。三世紀当時邪馬台国は九州にあった。
一方畿内や出雲・吉備では、日本の根幹となる文化が独自に花開いていた。
686日本@名無史さん:2009/11/12(木) 18:24:12
>>680
古事記は天皇家に代々仕える語り部の写し。
日本書記は伝承をまとめたもの。

文字がなく語り部にすべて覚えさせてた時代。
どこから来たか、代々の名前は何か、伝承するのは非常に重要なことで
内容からみても神代の非科学的な内容の除けば出生を偽る理由が全くなく
美化された話にしてはしょぼい。

まあつまり、本当だろうな。畿内説のやつらというのは、とにかく
畿内土着の豪族が天皇家だった、九州から来た神武じゃない!!ってことにしたいわけ。
687日本@名無史さん:2009/11/12(木) 18:58:22
>>686

>畿内土着の豪族が天皇家だった、九州から来た神武じゃない!!ってことにしたいわけ。

極端だね。
神武は、そういう事件があったかもしれない。
神武の子孫がヤマト王権=邪馬台国を作った。

しかし、
九州の邪馬台国の東遷は無いって言ってるだけだが。
688日本@名無史さん:2009/11/12(木) 20:23:50
なんかもう、九州説って宗教みたいだな
689日本@名無史さん:2009/11/12(木) 20:42:51
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
690日本@名無史さん:2009/11/12(木) 20:44:32
九州派の情熱は感じる
何にかこう、思い詰めたような愛情
691日本@名無史さん:2009/11/12(木) 21:55:58
畿内説は結果ありきだしね。まあどっかにあったかんごう集落の国々の総称を邪馬台と言ってるから邪馬台国はないんだけどね。
692日本@名無史さん:2009/11/12(木) 22:30:09
>>680
>古事記・日本書紀なんぞ誰も信用していないってことだろう。

そうかな。古事記・日本書紀はよくできた書物だと思うけど。
三輪から遺跡が出ることを知っていて、
その後に続く古墳群の年代もおおよそ把握できてるんだから。

卑弥呼と崇神がガッチャンしていることはふせておきたい。
魏志倭人伝の歴史と三輪王朝の歴史が合わないことはふせておきたい。
だから、古事記・日本書紀にはふれたくない、ってところでは。
まっ...本当に不勉強ってこともあるだろうけど。
693二 ◆.L.MXSPOgc :2009/11/12(木) 22:41:45
>>674
看板wでも見つかって、邪馬台国が畿内であると確定したならば、私はもうそれを否定しませんよ。
なぜ畿内への行程が倭人伝のように書かれてしまったのか、というところを考えるかも知れません。

でも私は、私の説に不思議にもおおよそ正しいだろうという確信を持っているので、箸墓やら巻向やらが
多少騒がれたとしても、むしろ冷静にそれらの話を聞くことができていると思っています。

巻向も天皇ゆかりの場所なので、当然そちらとの関連性をまず語られるべきではないかと思うのに、
同じ時代だというだけで、卑弥呼や邪馬台国といった単語ばかりが聞かれるのは、少し悲しいことでは
ないかと感じてしまうのです。
694日本@名無史さん:2009/11/12(木) 22:45:16
まだだ・・・まだ九州説は終わらない。
695日本@名無史さん:2009/11/12(木) 22:57:08
巻向ほど古文献と一致する場所はそうな無い
紀記はウソを言っていない、掘ればちゃんと遺跡が出てくる
邪馬台国? 倭人伝なんか矛盾だらけ
遺跡発掘による裏付けどころか、未だに場所も特定できない
696日本@名無史さん:2009/11/12(木) 23:16:49
そんなに記紀と一致するのなら
それに該当する天皇の墓であって
卑弥呼の墓ではないのでは?
697日本@名無史さん:2009/11/12(木) 23:42:48
卑弥呼って魏史倭人伝にしか登場しない、地理も不明瞭、その文献と遺跡との照合はどだい無理なんだよ
九州は吉野ヶ里みたいなのが出る度に、邪馬台国が引き合いに出されるだけで、永遠に証拠だては出来ないだろうな
巻向は発掘という既成事実を積んでいくので、そのうち巻向が邪馬台国と誰もが疑わなくなると思うよ
698日本@名無史さん:2009/11/12(木) 23:44:57
疑うも何も、大和が邪馬台国だって昔からみんな知ってたこと。

江戸時代の学者が九州説とかトンデモ発言するからおかしくなった。
699日本@名無史さん:2009/11/12(木) 23:48:03
近年、魏志倭人伝の解読も進んで来て
九州説の正しさが明らかになってきている。
バカの一つ覚えの様に巻向とか言っても無駄。
700日本@名無史さん:2009/11/13(金) 00:04:40
>>699
邪馬台国の場所が特定できて、実際その場所を掘って、遺跡を出さないと駄目
散発的に吉野ヶ里みたいなのが出る度に、ここが邪馬台国では?とか、関連の国では?とか言っているだけでは、永遠に答は出ないと言うこと
実際、吉野ヶ里レベルしか出てないだろ、あの程度が邪馬台国だったら、取るに足らない小国の昔話だったって事で終わるよ
夢が無さすぎる、そう言うものに人々は感心を示さない
そんなの歴史学界にとっても観光業界にとっても自治体にとっても、なんの価値もない結果だよ
701日本@名無史さん:2009/11/13(金) 00:16:51
>近年、魏志倭人伝の解読も進んで来て
>九州説の正しさが明らかになってきている。

kwsk
702日本@名無史さん:2009/11/13(金) 00:40:08
九州の遺跡は阿蘇の火山灰で埋まってしまってなかなか発見されない
703日本@名無史さん:2009/11/13(金) 00:45:18
中国大陸と日本の位置関係からして九州、もしくは中国地方を通らないと畿内に行けない。
中でも九州は中国大陸・朝鮮半島とも近く、最も早くから中国の文化が入って来てると普通は考えるよ。
704日本@名無史さん:2009/11/13(金) 00:48:21
>>703
だから栄えたのが早すぎて、記述された
邪馬台国の年代と合わないんだろw
705日本@名無史さん:2009/11/13(金) 02:12:36
>>703

関係ない。
九州は畿内の邪馬台国連合の一部。
706日本@名無史さん:2009/11/13(金) 02:24:06
>>702
朝鮮人みたいな言い訳だな
707日本@名無史さん:2009/11/13(金) 04:09:27
朝鮮王朝といえば関西ですよ。今も昔も。
708日本@名無史さん:2009/11/13(金) 10:36:34
>>707
もはやそんな事しか言えないのか。情けないねw
709日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:55:34
年輪年代法でわかったことは「卑弥呼の没年248年頃に近い年代に箸墓古墳が作られた」ということ。
これだけで邪馬台国の位置確定なんてありえない
710日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:59:18
年輪年代法・・・WW。
711日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:45:08

ただいまニュー速+板で、次の3スレが議論中!


【奈良】3世紀前半の大型建物跡、邪馬台国の中枢施設か
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1257844817/

【歴史】佐賀の考古学者「纒向遺跡は卑弥呼の時代よりは100年は新しいと見ている」邪馬台国はどこに…九州か畿内か研究者の議論は続く
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1257939991/

【社会】九州?近畿?論戦熱く…邪馬台国めぐりシンポ - 九州国博
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1257800670/
712日本@名無史さん:2009/11/13(金) 21:10:16
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
713日本@名無史さん:2009/11/13(金) 21:39:40
>>709
勿論確定なんてしてませんが、どの九州説よりも可能性が高いのは確定してます。
なんせ候補地は勿論、宮殿跡、卑弥呼比定者と
その墓まで存在してますからね。
714日本@名無史さん:2009/11/14(土) 00:08:25
具体的な候補地や、墓、人物が有るから、
否定する側も材料探しが楽なんだろうね。

九州説を否定しようにも、
そもそも候補地すら確定していない。
見えない敵と戦ってるようなもんだ。
715日本@名無史さん:2009/11/14(土) 00:40:37
甘木とか山門とか宇佐とか候補地を出してくるけど、
それらしい遺跡は何もないからなあ。
否定しようにも、遺跡すらないからかえって否定が難しい。
716日本@名無史さん:2009/11/14(土) 00:50:29
邪馬台国は筑紫、菊池川河口ということでいいですよね?
717日本@名無史さん:2009/11/14(土) 00:53:23
で、遺跡は?
718日本@名無史さん:2009/11/14(土) 01:00:34
九州説なんて最近悪口(論証なんてもんじゃない、ホントこのレベル)
しかする事ないんでしょ?
マジで性格歪んでくるぞ。
719日本@名無史さん:2009/11/14(土) 01:10:42
当時中国から認知できる範囲で、日本列等で最強の王家だったから倭王に認定したんだろ
九州から王都らしい遺跡が出たとしても、それが巻向よりでかくて立派でなければ可笑しい事になる
巻向の発掘成果は、九州説の今後に高い敷居を作った事になる
720九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/14(土) 01:29:26
平城京の建設で平城京の敷地となった奈良盆地北部の古墳群は完璧に破壊された様に、
(現在残っている古墳は平城京址周辺部のみ)
九州の主要な遺跡群は後世の再開発によって破壊され尽くしている。
現在九州で発見された遺跡は辺地辺境に残った特異な遺跡である。
久留米三潴の古墳群は大正時代に入っても農地改良の為その殆どが破壊され続けた。
721日本@名無史さん:2009/11/14(土) 02:22:29
>>703
>中でも九州は中国大陸・朝鮮半島とも近く、最も早くから中国の文化が入って来てると普通は考えるよ。

そのアドバンテージはあるだろうな。
例えば後世の瓦屋根を使った建造物も九州が一番早かっただろう。

が、そのアドバンテージをしばらくの間でも保持しようにも
関門海峡はあまりに狭すぎたw
加えて、そしてそこから先、瀬戸内海と言う絶好の海上ルートがあり

九州説論者の多くが思い浮かべているような状況は中々成立しなかったと言う話だなwww
722日本@名無史さん:2009/11/14(土) 07:03:35
>>720
開墾中に何か出土したなら、記録なり伝承があるはず
723日本@名無史さん:2009/11/14(土) 09:15:01
>>720
おまえも自ら言ってる通り、それは九州に限った事じゃ無い。
こっそり埋められた遺跡や古墳の話しなど、うちの周辺すらごろごろしている。
その中でも残った遺跡で判断しなきゃならないんだから、それを理由にしちゃいけない。

それに、>>722が言う様に、インパクトのある事柄は、案外地元の伝承で残ってる。
うちの近所には、あまり具体性の無い殆ど昔話みたいな伝承が残ってたんだが、
実際に掘ってみたら、その場所から奈良時代の遺跡が出てきた。

王朝と名乗るほどのものが有ったなら、
少なくとも、もっと派手な伝承が残ってても良いと思うが。
724九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/14(土) 18:10:19
>>722-723
>開墾中に何か出土したなら、記録なり伝承があるはず
>インパクトのある事柄は、案外地元の伝承で残ってる。

三潴には明治時代までは田圃の中に無数の古墳がありましたが、
大正時代にそれらを全部壊して田圃にしました。
と言う伝承です。

第四次筑後国庁跡の隣接地から曲水の宴の遺構が出てきました。
曲水の宴は貴族達が多数参加して宮殿の庭で催されるものです。
これは久留米に九州王朝の都があった証拠の一つです。

>王朝と名乗るほどのものが有ったなら、
>少なくとも、もっと派手な伝承が残ってても良いと思うが。
598年から畿内朝廷による九州王朝残党の粛清が始まりました。
密告を促し草の根からも燻り出す過酷な弾圧であったことが続日本紀からわかります。
725日本@名無史さん:2009/11/14(土) 18:42:08
曲水の宴か。
やはり、大和の貴族文化が九州まで及んでいたんだなあ。
726日本@名無史さん:2009/11/14(土) 18:51:39
弥生時代の伝承残ってる土地ってどこや?
727九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/14(土) 18:59:08
>>725
>曲水の宴か。
>やはり、大和の貴族文化が九州まで及んでいたんだなあ。

逆だ。
九州王朝の貴族文化が大和に伝わったのだ。
728日本@名無史さん:2009/11/14(土) 19:59:52
九州の土蜘蛛と熊襲が曲水の宴?そのような珍事は日本の歴史上存在しない。
729ローガン:2009/11/14(土) 20:08:34
曲水の宴ね。江都督ですね。
730日本@名無史さん:2009/11/14(土) 20:45:18
曲水の宴は、貴族の優雅な遊びだなんてとんでもない
あの元は龍神の落としと言って、旱魃の時に行う神事
神官が龍の口(上流)から尾(下流)にかけて並んで座って、龍の玉を流して運悪く流れ着いた人が毒を飲まされたんだよ
龍神の怒りをかった神官がいるとしてね
731日本@名無史さん:2009/11/14(土) 21:02:48
倭人伝では九州説は距離、畿内説は方位を修正する必要がある。
距離は簡単なミスとして方位をミスするのは不自然だ。
732九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/14(土) 21:29:34
>>731
>倭人伝では九州説は距離、畿内説は方位を修正する必要がある。
>距離は簡単なミスとして方位をミスするのは不自然だ。

距離も方向も修正しない九州説があります。
それが女王の都邪馬台国久留米説です。
733日本@名無史さん:2009/11/14(土) 21:45:40
久留米の遺跡は田んぼの開墾程度で埋もれてしまう墳墓だろ
734日本@名無史さん:2009/11/14(土) 21:49:22
畿内説の奴らはどうせ倭人伝は読み込んでないからな。
735日本@名無史さん:2009/11/14(土) 21:50:58
>>732
不弥国から久留米まで水行30日+陸行1月もかかるの?ビックリ!
古墳時代の人は「でんでん虫」より歩くスピードが遅いのですか?タマゲタ!
736日本@名無史さん:2009/11/14(土) 21:53:08
ほら、この程度だ。
737日本@名無史さん:2009/11/14(土) 21:55:11
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
738日本@名無史さん:2009/11/14(土) 22:08:38
>>735
速度を読み替えてるだけで、
距離も方向も修正しないよ!
739二 ◆.L.MXSPOgc :2009/11/14(土) 22:22:37
今回の巻向の騒動でここを見に来た新しい方も居られるかもしれませんので、私の説の宣伝をしておきます。

私の説は、末盧国から梯儁と張政のルートが別であり、それぞれ福岡平野ルートと佐賀平野ルートを通り、
筑後川下流域の邪馬台国に着いた、というものです。
このように考えると、今までいろいろと謎と言われてきた倭人伝の行程の記録が無理なく読め解けます。
あまりにも自然な行程解釈なため、もう畿内説など信じることができなくなるかも知れません。

詳しくは↓のブログをお読みくださると、より良く分かるのではないかと思います。
(当初と若干かわっている部分があります、最初に最後の「まとめ」を読まれたほうが良いかもしれません)
http://yamat-2007.blogspot.com/
740日本@名無史さん:2009/11/14(土) 22:54:44
>>724
伝承ってのは、特に専門知識も無く、歴史も知らない様な人の間でも語り継がれるんだよ。
むしろ、歴史を知らない人の方が、変なフィルターがかかって無くて良い位だ。
情報は曖昧で、時代も不鮮明。でも、案外しぶとく残るもんなんだ。

歴史に興味の無い人間は、普段はそうした話をしない。当然だよな。
でも、何かの機会に思い出して話してくれる事がある。

以前、ある地区の地元のおっちゃんと、全然関係の無い川の話をしていた時に、
「そう言えば、川の西側に平らな台地があるだろ?あそこは●●って言って、昔人が沢山住んでたんだとよ」
なんて話を聞かされた。もちろん文献なんかには載ってないし、歴史的になんの注目もされてない土地だ。
その近所の人に「●●って知ってますか?」と聞いても、地名すら知らなかった。

ところが、後になって、近くで道路工事を始めたところ、その台地では古墳が複数確認されて、
周辺からも、約1700年前から奈良、平安時代までに到る住居跡が大量に出てきた。

これは一例に過ぎない。こう言った話を、俺は沢山聞いている。
関係者を根絶やしにしたところで、伝承ってのは簡単には消えないもんだよ。
もし感覚的に信じられないなら、残念だが、これ以上言う事は無い。
741日本@名無史さん:2009/11/14(土) 23:31:23


  しかしま、今だに九州説に固執してる人はカルトっぽいな
742日本@名無史さん:2009/11/14(土) 23:39:31
日姫子って卑彌呼の事じゃないかな?
743日本@名無史さん:2009/11/15(日) 00:56:00
うちの先祖は宇佐族とされてるんだけど。
あのあたりは、女神さまとか女禰宜とか
やたらシャーマン系の話多いんだよ。

うちの家系でも、いわゆるシャーマン的な
ちょっと不思議な能力ある人が、隔世遺伝で必ずでる。
ヒミコ伝説と何か宇佐はつながってると思う。
744日本@名無史さん:2009/11/15(日) 01:09:23
>>741
バブル時代は九州祭りだったから鴨
745日本@名無史さん:2009/11/15(日) 01:35:07
あの当時の、邪馬台国=九州のスリ込みは凄かったな。
未だに歴史に興味の無い人は、平気で九州だと言い出す。
それなりに教育受けてる人間ですらその有様だから、
マスコミの影響は恐ろしいな。

そう言う意味では、今回の纒向の報道など可愛いもんだ。
過剰な報道だの、短絡的だのと言う反発も有る様だけど、
吉野ヶ里の時に比べれば静かなもの。

九州説論者に取っては辛いかも知れないが、
かつて相当美味い汁を味わったのだから、
この程度の苦渋など、まだまだ生ぬるい。
746日本@名無史さん:2009/11/15(日) 02:22:03
魏志倭人伝の訳を読めば、誰でも九州だと思うにきまっとる。
マスコミの纒向の報道は完全に当時の天皇の系譜の検証を無視している。

倭人伝などでなく記紀を正当な伝承と信じている天皇家とその周辺から
したら腹ワタ煮えくり返る思いだろううな。彼らの系譜には卑弥呼など
存在しないから。

江戸時代に作成された某国宝w偽系図を信じている人間側にしたら
巻向=卑弥呼の凹地なんだろうけどなあ
747日本@名無史さん:2009/11/15(日) 02:43:08
魏志倭人伝の訳を読めば、誰でも日本列島には該当する地点は無い事に気付く。
748日本@名無史さん:2009/11/15(日) 02:53:57
確か今年は松本清張の生誕百年だったっけな?

結局「邪馬台国ブーム」ってのは清張が仕掛けたもので
所詮はブームはブーム一過性だったと言う事だなwww

確かに知的遊戯としては面白かったんだろう。

なんせ基本的な資料は約二千文字の「魏志倭人伝」とっつきやすく
読みようによってはどうにでも読める。

で、史学の先生お歴々とかを敵に回し一泡も二泡もふかせる事ができるかもしれなかったんだから
そりゃ素人の歴史研究家にすりゃ遣り甲斐はあったんだろう。

が、それもこれも全ては昔の話。

九州説はいい夢見たと思って成仏してくれwww
749日本@名無史さん:2009/11/15(日) 02:54:49
巻向遺跡の宮殿、景行天皇か、日本武尊の住居発見か!?ってな具合
で色めきたつのが普通だと思うんだけどな。

記述される年代に違いはあるとせよ、日本行程して統一したと思われる記述が
あるのはこの2人ぐらい。神功皇后の朝鮮関連は百済書の日本が侵攻してきた
のと照らし合わせれば邪馬台国から百年ぐらい先になる。

神功が邪馬台国時代と照らし合わせれば台与かもう一代先ぐらいだな。
大体、神功が卑弥呼で日本が朝鮮に攻めてれば魏志伝に書かれてないわけがない。

そう考えると、卑弥呼の時代に大和に居た天皇は景行天皇前後と考えて益々間違いないはずなんだが。
大体、景行天皇の都の名前:纒向日代宮
750日本@名無史さん:2009/11/15(日) 02:56:39
>>747
どう考えても九州だが。

女王国へのあの行程を馬鹿みたいに正直に鵜呑みにすれば、倭人の思惑どおり
卑弥呼と女王国は一生見つけられないけどねw
751日本@名無史さん:2009/11/15(日) 02:57:06
>>746
>>誰でも九州だと思うにきまっとる

なんだか良く分からないが、とにかく凄い自信だなw
752日本@名無史さん:2009/11/15(日) 03:21:49
卑弥呼の時代、邪馬台国は激しい内乱の真っ只中にあったわけだよな?
近畿説で納得いかないのは、九州の吉野ヶ里みたいに当時の激しい戦乱を
思わせるような、首の無い人骨だの矢が何本も刺さったまま埋葬された人だの、
そういう痕跡が畿内に残ってないこと
九州からは、明らかに「倭国大乱」を裏付けるような痕跡が多く見つかってる
その辺り、畿内論者はどう説明するのか聞いてみたい
753日本@名無史さん:2009/11/15(日) 03:22:01
>>749
景行天皇の日代宮はちゃんと別にあるでしょw

754日本@名無史さん:2009/11/15(日) 03:37:13
>>752
うん、畿内はずっと平和だったね。

だから東遷説は否定されるんだよ。
755日本@名無史さん:2009/11/15(日) 04:39:44
>>753
馬鹿発見・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
756日本@名無史さん:2009/11/15(日) 04:40:54
>>754
記紀も読んだことないのか。
畿内説がくるとレベルが下がりすぎて疲れる。
757日本@名無史さん:2009/11/15(日) 04:56:59
大和朝廷の天皇の都の規模どう考えてるんだ
いつも的外れな突っ込みで自滅する畿内説wwww


馬鹿と話すと本当に疲れる。4流大学だから国語も悪いから
歴史なんかわからないか。偏差値37ぐらいだろ。考古学なんか言えるかっての。
758日本@名無史さん:2009/11/15(日) 07:22:47
大学を出ているとはとは思えない文を書く人に言われてもな。
759日本@名無史さん:2009/11/15(日) 07:35:28
自爆テロは九州説のお家芸
760日本@名無史さん:2009/11/15(日) 08:09:35
>>755
頭大丈夫か?
日代宮は勿論別にありますよ。
761日本@名無史さん:2009/11/15(日) 08:18:11
ニュースでやってましたね
九州から釜山へ実弾射ちに行って火だるまになったバカ
762日本@名無史さん:2009/11/15(日) 08:28:23
みなさん、日本書紀、古事記忘れてませんか?邪馬台国と一致するかどうかはわかりませんが、
天皇家のルーツは南九州。日向の国とは今の宮崎県から鹿児島県本土で大隅地方がその中心。
様々な遺跡や古墳があるが宮内庁の反対で表に出せないもの多し。
763日本@名無史さん:2009/11/15(日) 08:36:16
>>757
自己紹介乙
764日本@名無史さん:2009/11/15(日) 09:08:26
行程縦読みはバカのすること。
765日本@名無史さん:2009/11/15(日) 11:33:41
福山市 鞆の浦
ポニョの舞台になったことで有名ですが、その近くに卑弥呼の墓がありました。
瀬戸内海を支配していた吉備氏の女王にふさわしい墓です。

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/93/12e16cc8f0604aa3a332d35ce043aca9.jpg
766うましか:2009/11/15(日) 11:49:20
吉備は投馬國でしょう。
767日本@名無史さん:2009/11/15(日) 12:05:28
ふー。すごいことを発見してしまったぞ。
・歴代天皇から初代〜(欠史八代)9代までを削除
・これも実在が怪しい12代〜14代を削除
・21代雄略天皇以前は暦年法が違うという説があるので2分の1にして計算。
・雄略天皇は倭の五王の武に該当するとされているので武が宋に奏上した478年を即位年にする。
 (雄略天皇の在位は24年。武は25年間奏上している。多少は誤差があるとしてここにあてはめた)
以上で計算すると、初代天皇とされるのは崇神天皇で以下書くと
・崇神天皇(に該当する人物。以下同)(即位304年〜337年)
・垂仁天皇(338年〜386年)
・応神天皇(387年〜406年)391年に朝鮮出兵
・仁徳天皇(406年〜448年)恐らく倭王讃
・履中天皇(449年〜451年)
・反正天皇(452年〜455年)
・允恭天皇(456年〜476年)
・安康天皇(477年〜478年)
・雄略天皇(478年〜501年)倭王武
倭王とうまく一致しない箇所もあるがおおよそこんな感じと予想。
で、何が重要かというと初代天皇の崇神が恐らく300年台初期に即位。
卑弥呼(アマテラス)が死んだのが248年。台与(トヨアキツヒメ)が13歳だから25歳で子供産んだとして
260年。恐らくこの人物がニニギに該当する。そしてニニギが19歳、279年に
崇神(神武)天皇に当たる人物が生まれる。重要人物がすべて入りうまい具合につながる。
恐らくこんな感じでこれをベースにいろいろ脚色したと予想する。
768日本@名無史さん:2009/11/15(日) 13:25:55
>>762
そういう処に島津が居座ったんだw
事の本質を理解して無いだろw
769日本@名無史さん:2009/11/15(日) 16:31:24
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
770日本@名無史さん:2009/11/15(日) 16:38:49
>>766
吉備は女王国だろう。
モモソもこの辺で評判の姫だったし。
771日本@名無史さん:2009/11/15(日) 17:19:03
天の岩戸神話は卑弥呼の鬼道が背景にあるだろうかね。
772テンプレさん:2009/11/15(日) 20:27:02
魏志倭人伝、行程斜行式読み(分岐基点の伊都国への経路だけ「到」を使ってる)
   ┃渡一海千余里「至」
   ┃
┏━━━┓
┃末慮国┃
┗━━━┛
   ┃南東陸行 五百里「到」
   ┃        東行 百里「至」 ┏━━━┓
   ┃     ┏━━━┓━━━━┃不弥国┃
   ┗━━━┃伊都国┃      ┗━━━┛
         ┗━━━┛━━┓
     「至」  ┃  ┃     ┃東南 陸行百里「至」
   南 水行十日┃  ┃     ┃
     or    ┃  ┃  ┏━━┓
   南 陸行一月┃  ┃  ┃奴国┃
          ┃  ┃  ┗━━┛
     ┏━━━━┓┃
     ┃邪馬台国┃┃
     ┗━━━━┛┃
              ┃南 水行二十日「至」
          ┏━━━┓
          ┃投馬国┃
          ┗━━━┛
773日本@名無史さん:2009/11/15(日) 20:45:32
船でしか行けない投馬国って、どこに比定するん?
774日本@名無史さん:2009/11/15(日) 21:30:30
>>773
船で比較的容易に遡上できる河川周辺とか・・・かつ伊都国から見て、陸路が困難なくらい険しい山岳地に阻まれている所。



って南でどこだろ?
775日本@名無史さん:2009/11/15(日) 21:35:42

到は至+人であり至+刀ではない。
到の場合刂は刀ではない、人である。
象形文字では刀と人の形が似通っていたために
人が刂となったものである。
従って到に分岐基点の意味はない。
776日本@名無史さん:2009/11/15(日) 21:36:30
さすがに此処は冷静だな(・ω・)
倭人伝に邪馬台国から遠くにありすぎて名前しか解らない国名て書いてあるとこ見て
鬼国か鬼奴国が紀国で伊邪国が伊予国で巴利国が播磨国で…てなって
これらの国が遠過ぎるってんなら常識的に「畿内は無いだろよ」って思うはずだよな。
777日本@名無史さん:2009/11/15(日) 22:24:24
鬼奴国=鬼怒川
伊邪国=伊那谷
巴利国=静岡
だと思うが
778日本@名無史さん:2009/11/15(日) 22:29:29
なるほど、鬼奴国=毛国ってのがあったか。
考えた事なかった。
779日本@名無史さん:2009/11/15(日) 22:58:37
日本語での至と到の用法を考えたら、ニュアンスは微妙に
違う。

到着は至着じゃないよ。
780うましか:2009/11/15(日) 23:06:21
「到」は目的に達する行為を
「至」は目的が何であるかを示すんでしょう。
781日本@名無史さん:2009/11/15(日) 23:06:57
日本語ってか元は漢文だもんな。

投馬(つま)国は東周りに海岸伝って日向に妻町ってのがあるんだと。

いや、東大の先生方がさ。
782日本@名無史さん:2009/11/15(日) 23:15:40
あ、漢字や文体の違いはド素人な俺様がここでお喋りしながら
思い付いたさ。

至だと「ここから何里に〜がある」、到だと「〜へ何里で着く」みたいな
ニュアンス。
783日本@名無史さん:2009/11/15(日) 23:31:46
>>782
つまり、あくまで中国側の確認取れた(中国人が到達できる)最終地が伊都国で、後は倭人からの伝聞ですよってのを表してるとか?
784日本@名無史さん:2009/11/15(日) 23:36:46
倭人伝は地誌であって単なる道順を書いてあるんでないんだってば。
785日本@名無史さん:2009/11/15(日) 23:43:24
狗奴国と戦争になって巍の使者である政張が錦の旗を
邪馬台国に渡して檄を飛ばしたとか。

NHKの人形劇に丁度良い世界だな。奴らは畿内説で
やりたいだろうが。
786776:2009/11/15(日) 23:53:08
>>777
鬼奴国→毛国は納得した。で、鬼国は紀国でok?
787776:2009/11/15(日) 23:56:01
要するに畿内周辺の国が『邪馬台国から遠い国』として上げられてたら
それは俺が言いたかった事なわけよ。
788日本@名無史さん:2009/11/16(月) 00:09:36
漢字なんて河童に聞いて来いよ。
789日本@名無史さん:2009/11/16(月) 00:10:13
>>776
女王国は倭人伝に記述されてる傍国ですよ。
畿内説では播磨や伊予も女王国ですから。

女王国との境界線が奴国でという点でもピッタリです。
790九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/16(月) 00:13:37
「行到狗邪韓國」

「行到伊都國」
「至奴國」
「行至不彌國」

違いを説明してよ。
791日本@名無史さん:2009/11/16(月) 00:18:59
>>790
繰り返しを避けてるんだろ。
792テンプレさん:2009/11/16(月) 01:07:38
原文出せ。
793日本@名無史さん:2009/11/16(月) 07:16:36
冷戦が終わって国の歴史に自分探しをする風潮が強く
なったから、過剰な期待を歴史に押し付けたがる奴らが増えた。
794日本@名無史さん:2009/11/16(月) 10:49:08
>>792
>原文出せ。
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里・・・・・
・・東南陸行五百里到伊都國・・・・皆統屬女王國郡使往來常所駐 東南至奴國百里・・・
・・東行至不彌國百里・・・
795日本@名無史さん:2009/11/16(月) 11:05:43
>>786
おまえが勝手に言ってるだけだろ
796日本@名無史さん:2009/11/16(月) 12:57:40
辞書をみると、至は行き着くこと、到は、刀が曲がっているように、めぐりめぐって行き着くこと
とあるね。到は行程の区切りを示しているということだろう。
797日本@名無史さん:2009/11/16(月) 14:06:44
>>795
詳しそうなんで聞くけど
>>777の巴利が静岡ってなんで?
駿河・三河・遠江あたりが巴利国になる理由が解らない
798日本@名無史さん:2009/11/16(月) 14:20:08
>>797
>>777に聞けば?
799日本@名無史さん:2009/11/16(月) 15:13:14
>>796
どこの辞書でしょう?
「到は、刀が曲がっているように、めぐりめぐって行き着くこと」など
見たことがありませんが。
800日本@名無史さん:2009/11/16(月) 15:33:52
巴利は播磨だろ。
801日本@名無史さん:2009/11/16(月) 16:00:33
皆さん、魏志倭人伝を素直になって、読み返しましょう。
どう考えても、邪馬台国は九州です。
大和などは100%、絶対に有り得ないと断言できます。
九州だと方角距離行程、すべて何の矛盾も生じません。
しかし、大和では距離と方角で致命的な欠陥があります。

あと、遺跡などは今の現状では、可能性の問題にすぎませんので、
どこまで行っても水掛け論になりますから。
802日本@名無史さん:2009/11/16(月) 16:11:12
>>799
小林信明の新選漢和辞典
803日本@名無史さん:2009/11/16(月) 16:45:01
>>777
意味不明。伊邪国→伊那谷ってなんで?

伊那は古くは伊奈と表記されてた例もあんだから伊那は昔からイナだろう
804日本@名無史さん:2009/11/16(月) 17:00:32
>>801
素直に読めば日本にないだろに。
805日本@名無史さん:2009/11/16(月) 17:03:27
>>801
九州に邪馬台国があったなら
奈良の勢力の名称は何?
魏志倭人伝に乗ってるのかな?
806日本@名無史さん:2009/11/16(月) 17:09:02
>>805
名称なんていうものは、伝えられていなければ
誰もわからないよ。
邪馬台国だって、大陸で伝えられているにすぎない名称だし
807日本@名無史さん:2009/11/16(月) 17:51:14
九州説派だが魏志倭人伝を素直に読んだら九州越えてすんげー南になってしまう。
だが距離はミスだが方角としては何の疑いもない。
方角が間違ってる畿内説の方がおかしい。
808日本@名無史さん:2009/11/16(月) 17:57:39
で、九州の何処にあるの?

もう九州説なんてド素人か電波君しか支持してないよ。
809日本@名無史さん:2009/11/16(月) 18:00:10
帯方郡から不彌国の時点で既に反時計回りに45度程度方向が狂っている(末廬−伊都−奴)。
よって魏志の方角は基本的に信用できない。
810日本@名無史さん:2009/11/16(月) 18:52:40
伊都國が邪馬壹國の都で、邪馬壹國は北部九州全体と考えれば
方向も距離も人口も魏志倭人伝の記述に矛盾は無い。
伊都國には「世有王」代々王が居たとあるし
邪馬壹國には「女王之所都」女王の都する所とある。
811日本@名無史さん:2009/11/16(月) 18:53:43
クローズアップ現代
NHK総合TV 19:30〜
http://www.nhk.or.jp/gendai/

11月16日(月)放送予定
■謎の古代都市は邪馬台国か?

奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、今年、古代史の常識を覆す発掘が行われ注目を集めている。
見つかったのは東西方向に規則正しく並んだ4棟の建物の柱穴。周辺からは全国各地の土器が出土し、ここが当時の日本の中心地であったことを窺わせる。
これまで最古とされてきた藤原京から500年もさかのぼる3世紀前半、日本最古の都市が存在したことがほぼ明らかになったのだ。
さらに、最も大きな建物は政治や宗教行事に使われた可能性も指摘され、女王・卑弥呼がいた「邪馬台国」の中心だったのでは?との見方も出ている。
九州・吉野ヶ里などの環濠集落とは大きく異なる古代都市の姿をCGで再現。2月から続く発掘調査の密着ドキュメントを交え、謎に包まれてきた古代日本の姿を探る。
(NO.2817)

スタジオゲスト : 白石 太一郎さん
    (大阪府立近つ飛鳥博物館 館長)
812日本@名無史さん:2009/11/16(月) 18:58:19
方角を間違えるような使者とかいるのかよ
813日本@名無史さん:2009/11/16(月) 19:20:10
間違った地図なんていくらでもあるぞ
814日本@名無史さん:2009/11/16(月) 19:22:52
実況スレが立ってます。

クローズアップ現代 「邪馬台国か?謎の都市発見」
http://live23.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1258366059/
815日本@名無史さん:2009/11/16(月) 19:23:56
見方がまちがってるんだろ。北が上なんて概念はごく最近のもので江戸時代にはない。
”上”方は大阪・京都だったんだから。
816日本@名無史さん:2009/11/16(月) 19:27:52
>>804、807
なんで九州のはるか南になるの?
そんなことには、ならないよ。
水行、陸行の日数は、固定観念を捨てることだね。
あの日数は何日後に到着したのか、を示したにすぎない。
距離を表したものではないよ。
817日本@名無史さん:2009/11/16(月) 19:35:44
使者が東を南に間違えるなんてことは有り得ない。
仮に大和に向かって陸行、水行で2カ月かかって進むとしよう。
太陽はずっと東の方から上ってくるんだぜ。
それをずっと南の方向だと思い込んでいたなんて、バカでもわかる有り得ない話だ。

それに使者には帰りもあるんだからな。
東を南に間違えてるんだったら、魏の使者は、西を北に間違えることにもなる。
太陽は南から上って北に沈むと思っていた・・・。絶対有り得ん。
818日本@名無史さん:2009/11/16(月) 19:50:54
実際間違ってるし。間違えるべきではないというのと間違えるというのは別。
819日本@名無史さん:2009/11/16(月) 19:55:09
畿内説は短里を取るのかな。
短里を取るのなら、一里300歩で
100歩当たり25メートル程度のはず。

長里を取れば帯方群から日本にたどりつけない。
12000里を長里で計算すると5000キロ
日本である可能性はまず無い。

南に行けば東南アジアのどこか
北に行けばロシアのどこか
820日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:01:29
間違えてるのは、魏の使者じゃなくて、大和説を唱える連中の頭だよ。
自説に都合悪ければ、何の根拠もなく、勝手に全部資料の書き間違えにするなんざ、歴史学の基本的姿勢を
間違えてる。
821日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:02:27
>クローズアップ現代 「邪馬台国か?謎の都市発見」

「状況証拠の積み重ね」

白石先生の仰るとおりだなw

まあ邪馬台国の看板でも出れば物証なんだろうが
そりゃ無理に決まってるわけで

そこに九州説が存在しえる”ニッチ”が永遠にあり続けるとwwwww
822日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:04:33
あんなもの、状況証拠にすらなってないな。
つまり、あの規模の建物の集落がその当時そこに存在していた、ただそれだけ。
邪馬台国との関連などまったくない。
823日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:08:31
>>822

涙目だねnw
824日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:08:45
>>822
必死だなwww
825日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:12:06
九州説近況..... 

              (⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒  
              (  も、もうだめぼ..... 
             Ο(
         ⌒  ο  〜〜〜〜〜〜〜  
         ⌒ 。   
        ___
___/⌒   \__
    / |  |(    )   |
   |  |  | ∨ ∨ヽ │
__|  |  | \ | _|_|           
   ヽ、(_二二⌒)__) \          
____|  | \二 ⌒l.  \        
     |  | ̄ ̄ |  | ̄ ̄||         
     |  |    |  |   .||              
     |  |_   |  |_  .||      """::
     (__)  (__) .||
826日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:17:31
如何なる状況証拠を取り揃えてもそれらを全て無効化する最強の九州説がある。

言わずもがな『偽僭説』であるwww

「17世紀日本からの使節団がローマ法王に謁見した」

と言えば普通なら家康からの使節を想像するだろうが
事実はそれを派遣したのは伊達政宗だったりするわけで…
似たような事例は他にもある。

それが3世紀に起こらなかったと言う保障は無い…

まあその辺が九州説の最後の砦になるだろうが

なんせこの板の九州説の連中は
「贔屓の引き倒し」宜しく「大九州帝国」でないと気がすまない厨二病患者ばっかりだからなwwwwwww
827日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:21:42
しかし先の番組にも出てたが
素人目には高島先生孤軍奮闘の感があるなwwwwwww
828日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:24:01
関東はいつの時代も文化が無く
西日本に負けている
我々東日本人は劣等だorz
829日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:28:16
日本列島全体の考古学や歴史学の成果を見て、どうかと考える視点が必要だー
と答えたこおとがあります。いずれにしても、「九州説」は考古学の世界では非常に
不利な情況に置かれています。少数派です。
私なんかある先輩から「絶滅危惧種」といわれました。

     |┃三        / ̄\
     |┃         |     |
     |┃          \_/
 ガラッ. |┃            |
     |┃  ノ//   ./ ̄ ̄ ̄ \
     |┃三    /        \  
     |┃     /            \  
     |┃     |              |  もうダメかもしれない・・・
     |┃三   \           /
     |┃三   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \ トボトボ

顧  問  高島忠平
http://www.okunomasao.com/yosinogari.html
830日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:30:56
高島センセ カワイソス…
831二 ◆.L.MXSPOgc :2009/11/16(月) 20:32:15
クローズアップ現代、見て思いましたが、ちょっと新しすぎる感じがしました。
以前、縦目氏が柱跡が角柱なのは(新しくて)違和感がある、というようなことを言っていましたが、
当たっているのかもしれませんね。

巻向の年代は堀(でしたっけ?)から出てきた土器の庄内3式から語られていますが、
建物が建てられたのは本当に同時期だったのでしょうか、それとも200年くらい後だったのでしょうか。
この辺りの話ってどういうふうになっているのでしょう?
832日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:33:55
朝鮮半島の都市の発展具合を教えて下さい
833日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:34:06
何処から200年という数字が出るのかわからん。
834日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:34:53
>>828
まあ縄文時代は東日本の方が開けてたわけで

弥生時代にしても人口推定も資料によっては
関東や東海が関西や九州を凌駕しているものもあったと思うし

恐らく西日本だけで考えたら纏向の勃興の謎は解けない希ガスwwwwwww
835九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/16(月) 20:40:34
 一大国                    [従]郡        [従]郡
   ┃                       │           │
   ┃渡一海千余里「至」           │           │
┏━┻━┓                    │           │
┃末慮国┣━━━┓     南水行二十日│    南陸行一月│
┗━━━┛     ┃           「至」│   and水行十日│
      南東陸行┃              │        [至]│
    五百里「到」 ┃              │           │
         ┏━┻━┓東行 百里「至」 │┏━━━━┓  │
         ┃伊都国┣━━━━━━━┿┫不彌國  ┃  │ 
         ┗━━━┸─┐        │┗┳━━┳┛  │
         東南百里「至」│      ┏┷━┻┓┏┻━━┷┓
                  │      ┃投馬国┃┃邪馬壹国┃
               ┏━┷┓     ┗━━━┛┗━━━━┛
                ┃奴国┃
               ┗━━┛
836日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:42:08
嘘八百太郎はほんとどこでも居るなあ
837日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:42:29
でもまあ、普通に九州説はヤバい状況になったのは間違いない。

というとまた躍起になって否定するのは目に見えてるのだが、
宮殿のような大規模建造物が無いと言われてた弱点が
クリアされた事は認めなきゃな。

838日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:45:48
>>834
東北や四国が開けてた時代は?
839日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:48:21
>>831
桜井市のホムペに今回の現地説明会資料がうpされてて大まかな考え方を書いてる

つまり以前発掘してた遺構との切り合い関係から庄内3式以前と。

桜井市ホムペ
http://www.city.sakurai.nara.jp/
840839:2009/11/16(月) 20:54:41
自己レス

>庄内3式以前と

庄内3式期か、もしかするとそれより前か、の意味だからな
841日本@名無史さん:2009/11/16(月) 21:24:13
『卑弥呼の館だとするのはですね、これはちょっと先走りじゃないですかね。』
http://up3.viploader.net/pic/src/viploader1177530.jpg
842日本@名無史さん:2009/11/16(月) 21:29:59
このままでは纒向周辺は遺跡と土産物屋だけの、人の住めない街になってしまう。
843日本@名無史さん:2009/11/16(月) 22:04:59
test
844日本@名無史さん:2009/11/16(月) 22:10:45
(1) 魏志倭人伝によると、邪馬台国は九州北辺よりも南に存在。
(2) 日本書紀によると、女王国ではない三輪王権が纒向に存在。

これだけだと何の矛盾もない。

しかし、纒向の遺跡が邪馬台国だと仮定すると、
九州にあったとされる邪馬台国が纒向にあったから、
纒向にあったとされる三輪王権が誤りということになる。
摩訶不思議。
845日本@名無史さん:2009/11/16(月) 22:15:04
>>844
イマイチ意味不明だけど。
846日本@名無史さん:2009/11/16(月) 22:18:45
三輪王朝に都を発見!NHKでも大々的に報じてましたね。
847日本@名無史さん:2009/11/16(月) 22:26:17
>>844
最近、意味不明の文章書く分裂症気味の人いて、先日も播磨がどうたらこうたら
といってたけど君か?
848日本@名無史さん:2009/11/16(月) 22:52:49
土佐の高知の播磨や橋で坊さんかんざし買うを見た♪
土佐山田こそ山田国=邪馬台国に間違いありません。
邪馬台国とは物部王国。
物部氏は、蘇我氏に滅ぼされてしまったため記紀に記録が残っていないのです。
849日本@名無史さん:2009/11/16(月) 23:09:40
>>743
なんかズッコイことしたとされいじめられた恨み話は伝わってないすか
850日本@名無史さん:2009/11/16(月) 23:14:12
>>752
倭国中で内戦がおこっていたとでも言いたいのかな。
ちょっと想いを広げてみよう。
851日本@名無史さん:2009/11/16(月) 23:14:55
>>849
旅の坊様を殺して持ち物を奪ったとか、平家の落ち武者をはじめは歓待しておいて、やがて村の衆
皆で竹槍で突き殺したりとかだな。ww 宇佐なら壇ノ浦からも近いし、横溝正史が取材に来てたんじゃ
ないの。
852日本@名無史さん:2009/11/16(月) 23:15:53
>>835
九州王朝大好きさんの説は人口に問題がある。
>>821
畿内説の人は痘痕も笑窪に見えるのだろう
何を見ても畿内説の証拠見えるらしい
鰯の頭も信心ってとこ。
853日本@名無史さん:2009/11/16(月) 23:16:13
>>757
お前はいつもその書き方だな。気の毒になるぞ。
854日本@名無史さん:2009/11/16(月) 23:43:37
>>847
その人は違うよ〜。
>巴利国って播磨だよな
みたいに書いたのは俺だが、巴利が静岡って書いたのが君なら
巴利国がどうして静岡(駿府・三河・遠江)になるか分かり易く教えてくれ
855日本@名無史さん:2009/11/16(月) 23:56:37
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
856日本@名無史さん:2009/11/17(火) 00:01:40
>>854
どちらでもないが、尾張国という説はあるな。
857日本@名無史さん:2009/11/17(火) 00:02:28
文献無視の大和論者は、大和の遺跡を何でもかんでも邪馬台国と結び付けたがる症候群。
もう、これは病気だな。
それに、大学教授が「東は南の間違い」なんて平気で言ってるようだから、
いかに歴史の教授のレベルが低いかがわかるよな。
まるで、ど素人並み。



858日本@名無史さん:2009/11/17(火) 00:17:41
古代の地名と今残っている地名を繋ぎ合わせるのがまず見直すべきことだよね。何故地名が残ってると考えてつなぐのかね〜
859日本@名無史さん:2009/11/17(火) 00:37:55
畿内説は、三角縁神獣鏡が挫折し、吉野ケ里遺跡で打撃を受け、NHKの調査で
九州説の方がはるかに支持されていることを知り、やけになっているな。

こんな姑息な宣伝を必死にやらなければならないところに、畿内説の焦りが
見える。でも、必死の宣伝で、纏向が邪馬台国であるかのような先入観を
素人に与えてどうなるのだろう。

まあ、せめて素人だけでも味方に付けたいというところなのだろうか。
860日本@名無史さん:2009/11/17(火) 00:43:39
>>859
君も毎日大変だね。
861日本@名無史さん:2009/11/17(火) 00:48:27
>>860
残念でした。
ずっと書き込み規制が続いていて、今日やっと解除されたところだ。
862日本@名無史さん:2009/11/17(火) 00:55:34
九州説の方こそ、何でもかんでも邪馬台国に結び付け様としてないか?
九州の遺跡も、邪馬台国と違った視点で見たら、もっと他に気付く事が有るかも知れない。
吉野ヶ里だって、邪馬台国を抜きに考えても、その価値が下がるわけでは無いだろう。

今回の巻向も、別に卑弥呼の宮殿を探そうとしていたわけではない。
単に、長年の努力の積み重ねが生んだ成果であって、
結果的に、邪馬台国候補として名乗りをあげられる価値の有るものだった。
日本史の中で見たって、非常に重要な発見じゃないか。
素直に喜べない奴がいたら、そいつは自分の良識を疑うべきだ。
863日本@名無史さん:2009/11/17(火) 00:57:45
>>859
素人を馬鹿にしちゃいけねえ。
素人でも現地見学会に行くレベルの人間は畿内説なんて信じちゃいない。
畿内説がのたうちまわるドラマを見に行くんだよ。
864日本@名無史さん:2009/11/17(火) 00:59:19
だから隋書に倭は邪馬台国って書いてあるだろうが。
865日本@名無史さん:2009/11/17(火) 01:08:38
なるほどな、文献重視しろって言うなら、当然隋書の文言も無視しちゃいかんなw
866日本@名無史さん:2009/11/17(火) 01:09:22
捏造、捏造で何が何だかわからなくなるの狙ってたんだろ?

何を隠したいんだろーね
867日本@名無史さん:2009/11/17(火) 01:13:10
>>862
だったら、新聞やテレビのニュースなどで纏向を紹介するとき、「邪馬台国の
有力な候補地である纏向遺跡」などとは言わせないことだろうな。
868日本@名無史さん:2009/11/17(火) 01:15:05
今後は邪馬台国の宮殿のある纏向遺跡ということでしょう。めでたしめでたし。
869日本@名無史さん:2009/11/17(火) 01:18:15
>>867
お前は馬鹿か?
100人居れば100人の表現が有る。民主主義国家だぞ?
トンデモ学説はどうするんだ?粛清でもするのか?
吉野ヶ里の騒ぎの時はどうだった?
くだらん

870日本@名無史さん:2009/11/17(火) 01:25:08
>>869
吉野ケ里からは、倭人伝に書かれた「宮室・樓觀・城柵」と見られる跡が
出ている。それなりに根拠がある。
でも、纏向からは倭人伝に書かれた邪馬台国の状況をうかがわせるようなものは
出てない。
同じように論ずることは出来ないな。
871日本@名無史さん:2009/11/17(火) 01:30:41
とりあえず今日は全員「魏志倭人伝」をもう一度、落ち着いて一通り読んでみよう。
考古学に興味を持ったあの頃と同じワクワクした気持ちでさ。
872日本@名無史さん:2009/11/17(火) 01:33:59
>>870
俺のレスでその様に取らえたなら仕方ない。俺の言いたい主旨とは違うとだけ言っておく。
真剣にレスをしようと試みたが、どうも上手に伝えられないと思う。
すまない。
873日本@名無史さん:2009/11/17(火) 01:35:33
倭人伝を読み返して、
「ほら、やっぱり邪馬台国は九州じゃないかよぉ!」と、
涙に枕を濡らすわけですね。
874日本@名無史さん:2009/11/17(火) 01:39:22
倭人伝を読み返すと実は‥


土佐じゃないかという気がしてる。
まあ九州には間違ってもないですが。
875日本@名無史さん:2009/11/17(火) 01:41:11
うーん、纒向立派過ぎ。
こんな中央で起こった大乱とか女王とか
なんで記紀に明記されてないのか、そこが不思議です
876日本@名無史さん:2009/11/17(火) 01:42:15
モモソヒメのところに書いてあるだろ。
877日本@名無史さん:2009/11/17(火) 01:51:56
倭人伝の卑弥呼について書かれている部分を抜き出すと、

自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞

(卑弥呼は)王となって以来、見たものは少ない。婢千人を侍らせている。
ただ男子が一人いて、飲食を給し、言葉を伝えるために出入りしている。
居するところの宮室、樓觀、城柵を厳かに設け、常に人がいて兵器を持ち
守衛す。

これからわかるように、卑弥呼の住んでいるところには、宮室、樓觀、城柵が
必須ということになる。
決定的なのは、常に人がいて守っているような状況をうかがわせる城柵と
みられるものが纏向にはないことだろうな。
樓觀とみられるものも見つかっていないし。
878日本@名無史さん:2009/11/17(火) 02:02:32
つか冗談抜きで隋書に倭は邪馬台国で卑弥呼から倭の五王から今まで朝貢してる
って書いてあるだろうが。この倭って間違いなく大和朝廷だろ。
記紀との食い違いがあるのはたぶん記紀が捏造。邪馬台国の場所は謎でも
なんでもないだろ。
879日本@名無史さん:2009/11/17(火) 02:04:16
纒向遺跡中枢域は“水の宮殿” 3方に河川と人工水路
11月16日20時27分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091116-00000591-san-soci

邪馬台国の最有力候補地である纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で見つかった大型建物跡(3世紀前半)の一帯は、
河川と人工水路で3方を囲まれていた可能性があることが16日、桜井市教委などの分析で分かった。
“水の宮殿”を想起させる構造で、
約半世紀後の初期大和政権の大王ともされる崇神天皇の宮の「瑞籬宮(みずかきのみや、水垣宮)」とイメージが一致する。


日本書紀の記述と一致とかなんか感動するな
880日本@名無史さん:2009/11/17(火) 02:14:38
最終的に結構凄い発見になると思うよ。

鏡や剣が何百枚とか、そういう発掘では無いから
地味に映るかも知れないが。

しかも今はまだ本格調査が開始されたばかりだからね。
何年か後には期待していいと思う。
881日本@名無史さん:2009/11/17(火) 08:14:56
奈良が邪馬台国だって?ないないW
何年もかけて掘る気かね、うまいことやったじゃん、今回発掘された遺跡って、実は4世紀半以降だろうが
882日本@名無史さん:2009/11/17(火) 08:45:23
>>879
奈良盆地がどんな土地かよく知らんが
そんな構造で大雨が降ったら水びたしにならんのか?
883二 ◆.L.MXSPOgc :2009/11/17(火) 09:16:23
>>839
なるほど。
柱を抜いたあとを埋めた穴から、庄内3式の土器片が見つかった(それより後のものは見つかっていない)ため、
この建物がその時代のものだということなのですね。

しかし、書いてあるのを読んでて思ったけど、私は考古学にあまり興味を持っていないことが良く分かりましたw
考古学やってる人に、邪馬台国に関して「2つのルート説」の九州筑紫平野という、よく出来た説を唱えてるやつが居ると、
宴会の話題のタネにでもしてしてくれると嬉しいです♪
884日本@名無史さん:2009/11/17(火) 09:44:40
>>882
奈良は排水のあまり良くない土地ではあるな・・・。
ただ当時の川の規模が分らん。
筑紫平野はその点条件は整ってるだろうが、逆に陸行1ヶ月掛けて行く所ではない。
当時は内陸に優に10キロは海進してっから。比較的平坦な地形でもあるし。
885九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/17(火) 09:57:28
>>882
>奈良盆地がどんな土地かよく知らんが
>そんな構造で大雨が降ったら水びたしにならんのか?

明治時代まで洪水は日常茶飯事でした。

明治前半生まれの祖母の証言です。

人口水路は洪水時の排水を早める為の、
排水路として作られたものと思われます。
又、昭和20年代においても、どこを掘っても自噴井戸が作れました。
明治以降の河川改修と、戦後の工場進出で、
地下水位が下がり現在では自噴井戸は無理です。
886日本@名無史さん:2009/11/17(火) 10:02:43
>>879
日本書紀の記述って意外と正確なのかもな
887九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/17(火) 10:22:37
今回の一連の纒向騒動は、崇神朝の都跡が見つかったことにしか過ぎません。
邪馬台国とは無関係ですね。
邪馬台国を掲げることが、必殺仕掛け人に対する文科省の陽動作戦でしょう。
関係者は心の底では邪馬台国へのこじつけによるPR効果と思っているのではないでしょうか?
888日本@名無史さん:2009/11/17(火) 10:26:32
>>887
陰謀論は臭いからいいよw
889日本@名無史さん:2009/11/17(火) 10:44:16
>>878
隋書が書いているのは、隋使が訪ねた所が倭人伝が書いている邪馬台国と同じ所だってことだよ。
隋使が訪ねたのは南九州だ。だから、邪馬台国は南九州にあったのさ。
君は記紀を頼りに隋使が訪ねたのは大和だって言いたいんだろうが、記紀は隋使が来たとは一言も
書いていない。なんでか? 来ていないからだよ。
890日本@名無史さん:2009/11/17(火) 10:45:05
ニュー速+にあったレス。
意外とこんなもんかもしれないなw


968 名前: 名無しさん@十周年 投稿日: 2009/11/16(月) 12:58:39 ID:RxhC3LyQO

陳寿「え?ヤマタイコクがどこかだって?
なんだよ、ヤマタイコクって。俺そんなの知らねーし。
あ、俺が書いてんの?どれだよ?
これ?邪馬台国?これのこと?
これヤマタイコクじゃねーよ。
ヤマト国だよヤマト国!
なにヤマタイ国なんて読んでくれちゃってんの?
普通に読めばわかるっしょ!
俺ら中国人だしさ、ちょっとシャレで当て字しただけじゃん!

ヤマト国ならここだよ、ここ!
えーっと、今の地名で言うと…奈良?っつーの?
え?九州じゃないのかって?
いや九州も一応ヤマト国ではあるけどさ、あそこ田舎だよ?なーんもねーもん。
遺跡とかだってたいしたもん出てないんじゃない?
だって田舎だもん。

あー、東と南間違えたとか勘弁してくれよ。
だって俺がもらった地図がそうなってたんだからしょうがねーじゃん。
俺のせいじゃねーってばよ!

とりあえずこれくらいでいい?
まあそゆことでヤマト国は奈良ってとこだからさ。
だからお前らがもめてんの俺のせいじゃねーからな!
そこんとこだけはよろしく頼むよ!」
891日本@名無史さん:2009/11/17(火) 10:55:54
>>887
つまらん書き込みだな、
やっぱり九州王朝なんて口にする奴はこんなもんか。
まあ古田大先生があの調子だもんな。
892九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/17(火) 10:57:18
>>878
隋書が書いているのは、隋使が訪ねた所が倭人伝が書いている邪馬台国と同じ所だってことだよ。
隋使が訪ねたのは久留米だ。だから、邪馬台国は宮殿址がある久留米にあったのさ。
君は記紀を頼りに隋使が訪ねたのは大和だって言いたいんだろうが、記紀は隋使が来たとは一言も
書いていない。なんでか? 来ていないからだよ。
893日本@名無史さん:2009/11/17(火) 11:35:02
最近いろんな邪馬台国関連のスレを見るようになったけど、どこを見ても畿内説って
ボコボコにされてるね。古田の本あたりで徹底的に理論武装してる九州説の人達と
討論しても全く勝ち目がないって感じ。知識の量が違う。畿内説の人はもっと勉強した
方がいいと思う。
894日本@名無史さん:2009/11/17(火) 11:40:11
>>893
畿内説ボコボコって夢でも見てんのか?
妄想乙www
895日本@名無史さん:2009/11/17(火) 11:49:35
>>893

九州説は「討論で勝った」としても「史実では負け」だからw
896日本@名無史さん:2009/11/17(火) 11:53:47
>>889
遣隋使が尋ねたのは奈良。あと隋書は記紀より成立が早い。アホスギ
897日本@名無史さん:2009/11/17(火) 11:56:22
>>895
勝った負けたって、オマエさんガキだろう?
898日本@名無史さん:2009/11/17(火) 11:56:37
○遣隋使が尋ねたのは奈良から
899日本@名無史さん:2009/11/17(火) 11:59:19
畿内説のバカドモは、あんなホウケイ餓鬼囲っているのか?
情けない集団だ。
900日本@名無史さん:2009/11/17(火) 12:01:49
>>889
607年(推古15年) - 608年(推古16年)小野妹子(おののいもこ)らを遣わす。
「日出処の天子……」の国書を持参した。小野妹子、裴世清らとともに住吉津に着き、帰国する。
(『日本書紀』、『隋書』?國伝)
901日本@名無史さん:2009/11/17(火) 12:47:07
吉野ヶ里のHP
http://www.yoshinogari.jp/

必死すぎだろw
イベントで親魏倭王印レプリカ作り体験だとよ。
見つかってもないもんのレプリカってなんのこっちゃ?

もうオカルトの域だよ。
902日本@名無史さん:2009/11/17(火) 12:49:06
相当焦ってるんだろうなw
903日本@名無史さん:2009/11/17(火) 12:53:54
必死であればあるほど胡散臭く感じてしまうな。

今って九州説の人でも吉野ヶ里=邪馬台国説の人は絶滅危惧種じゃないの?
吉野ヶ里自体は貴重な遺跡なんだから、邪馬台国に固執せずに研究進めたらいいのに。
904日本@名無史さん:2009/11/17(火) 12:56:28
>>893
ちゃんと勉強したら畿内説なんて一人もいなくなるよ。
905日本@名無史さん:2009/11/17(火) 13:08:29
>>904
おまえより勉強してる専門家は違うようだなw
906日本@名無史さん:2009/11/17(火) 13:14:30
>>904
君が間違った勉強をずっとしてきたんだよ。
907日本@名無史さん:2009/11/17(火) 13:22:22
いまだに九州説って、
おまえの人生に九州説ってそんなに重要なのか?

九州説の本を売ってるやつらは、必死になるだろうが、
そういうやつらに貢いでるってだけのことだろ。
908日本@名無史さん:2009/11/17(火) 13:27:52
馬鹿な奴ばかり、吉野ヶ里が邪馬台国と考えているのは、畿内派だけだろう。あれが卑弥呼の宮殿のわけないだろう、掘りすぎて頭逝かれちまったんだろう

冷静にみても、まだまだ新しい遺跡だろうが、捏造してんじゃねーよ、糞畿内
909日本@名無史さん:2009/11/17(火) 13:33:49
>>900
『隋書』?國伝には小野妹子なんて出てこないよ
910日本@名無史さん:2009/11/17(火) 13:34:36
九州説がファビョってるのは見てて気持ちよいね。
911日本@名無史さん:2009/11/17(火) 13:34:55
虚しい遠吠えだなw

そんな暇あったらさっさと何処掘ってきたら?
候補地が沢山あって大変だね。
912日本@名無史さん:2009/11/17(火) 13:43:08
畿内説の人たちって口汚く罵るだけで、ぜんぜん理論的じゃないよね
もっと勉強して九州説の人たちと互角に戦えるぐらいの知識を身に付けるべきだと思う
今の段階ではとてもじゃないが、九州説のひとたちと同じ土俵では戦えないと思う
口汚く罵るだけで精一杯だから
913日本@名無史さん:2009/11/17(火) 13:49:25
みんな、今日は「魏志倭人伝」を読もうぜ。


914日本@名無史さん:2009/11/17(火) 13:55:18
大和説の人に聞きたいんだけど、魏志倭人伝の行程で、
九州説の欠点は、水行陸行の日数のことだけなの?
915日本@名無史さん:2009/11/17(火) 14:06:02
>>909
小野妹子は出てこなくても年代内容が一致してる。あれを九州王朝(笑)と疑うものはきちがいだけ
916日本@名無史さん:2009/11/17(火) 14:44:37
今回の発掘で邪馬台国とだと思われる、物証は一切出てきてません、こんだけ掘ってきて、やっと出たんだし、邪馬台国の卑弥呼で片付けようとする動きがあるのはたしかでしょう

後々、さむーい結果がまっている可能性は大ですけどね
917日本@名無史さん:2009/11/17(火) 14:53:12
>>914

3世紀の西日本で、
九州〜近畿〜東海の広範囲と交易してたのはマキムクだけ。
九州説では、邪馬台国の範囲は北九州だけ。
魏がどちらを倭国の主体として見たのか?ってことだよ。

九州説を主張するなら、
3世紀の畿内が大勢力を持っていたにも関わらず、
北九州だけで共立した卑弥呼を、”魏が、倭の女王と勘違いして”金印を贈ったと。
そう考えるしかないね。
918日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:05:21
>>917
なるほど!
金印のカラクリがわかったよw
点と点が繋がった。
近畿厨の皆さんご苦労ご苦労。

919日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:10:13
マキムクを3世紀と認めた上でなら、ご自由に九州説を唱えればいいんじゃないの?
九州は、魏を騙して金印もらったんだと。
920日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:13:25
>>919
お互いに別の国だと認識してた可能性はあるんじゃない?
魏も大和も邪馬台国もね。隷属の関係はあったかも知れんが、かなりゆるい隷属関係だったとか。

だとすると大和は大和で中国の文献に出てこないとおかしいけどね。
921日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:14:36
こっそり箸墓掘れよ、人骨100体で邪馬台国決定だろう、逆に出ない場合は畿内説は破綻、九州説で確定する
922日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:27:14
絶滅危惧種の九州厨はそのころまでになくなってるよw
923日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:33:59
もう〜坊ちゃんたら、畿内を支持している人の方が断然に少ないのよ。金の亡者、考古学者はこぞって畿内説派なだけなの。大和が邪馬台なんて、くだらない、こじつけしないと見通しが付かないのも事実なのね
924日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:36:21
>>915
>小野妹子は出てこなくても年代内容が一致してる
紀には 607年小野妹子を大唐に遣わす とあるが、本当に隋の時代のことかな。
唐の時代のことを隋書にあわせただけだろ。
925日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:38:36
>>924
隋のことを大唐国と呼んだだけだよ。
926日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:42:08
>>921
それをいういなら、まず宇佐の百体神社。国内最大級の前方後円墳、亀山の麓。
伝承で代々隼人や熊襲の兵の首を埋める凶首塚。

熊襲が卑弥呼と争っていた国なら周りに埋めた戦争奴隷100人が
もとに間違いないね。

纏向遺跡から、当時戦争をしていたような痕跡は皆無。倭人伝の邪馬台国と
全くどれもこれも一致しない。

大和朝廷の基礎、つまり当時の天皇の拠点だろ。
出雲大社と同じつくりだとか。そりゃ納得だわな。
927日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:50:03
なんか今日のこのスレは異常にレベルが低いね・・・。
928日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:50:22
前からいわれているように、纒向遺跡は景行天皇の開いたとされる
纒向日代宮だろ。当確。

記紀にはっきり書いている。ここで必死にそれを否定したい畿内説は
相撲神社をもってくるが、考古学的な証拠は?記紀では紀元前1世紀とか
書いてるが、ものすごい発見でもあったのかね?w
929日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:52:43
>>927
学問に弱い畿内説者はこういうのお手上げだからな。
いつも学問をだされると「レベル低い」「学会は畿内」「九州絶滅」
この繰り返し。

学問で語りたいなら学問で反論しな。
文献を読んだことがない4流大学の考古学部なんかで・・。
930日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:52:50
日本書紀
推古天皇十六年(六〇八)四月
即大唐使人裴世清 下客十二人 従妹子臣 至於筑紫 遣難波吉士雄成 召大唐客裴世清等 為唐客更造
新館於難波高麗館之上(中略)六月壬寅朔丙辰 客等泊于難波津 是日 以飾船三十艘 迎客等于江口
安置新館 於是 以中臣宮地連烏磨呂 大河?直糠手 船史王平為掌客 (中略)秋八月辛丑朔癸卯 唐客入
京是日 遣飾騎七十五匹 而迎唐客於海石榴世衢 額田部連比羅夫以告禮辭焉 壬子 召唐客於朝廷 令奏使
旨 時阿倍鳥臣 務部依網連抱 二人為客之導者也 於是大唐之國信物置於庭中 時使主裴世清親持書
兩度再拜 言上使旨而立之 其書曰 皇帝問倭皇 使人長吏大禮蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇
思弘コ化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境?安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢
丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別 時阿倍臣出進 以
受其書而進行 大伴囓連迎出承書 置於大門前机上而奏之 事畢而退焉 (中略)丙辰 饗唐客等於朝 九月
辛未朔乙亥 饗客等於難波大郡(中略)使主裴世清親持書 兩度再拝
言上使旨而立之(中略)辛巳 唐客裴世清罷帰

12人の一行は小野妹子とともに筑紫に着き、難波吉士雄成が招いた。難波高麗館の上に館を新しく建てた。
6月15日難波津に泊まった。船30艘で歓迎、新館に泊めた

隋書
 明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。
又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、
達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。

931日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:54:19
九州説信者ってアマチュアとキチガイしかいないのが現実だし。
932日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:55:59
>纏向遺跡から、当時戦争をしていたような痕跡は皆無。倭人伝の邪馬台国と
>全くどれもこれも一致しない。

そりゃそうだろう、大和朝廷と邪馬台国は別ものなんだから、常識ですよ
933日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:57:00
>>931
まさに、>>929の言ってるような「学問をだされると」の見本のような
畿内説者の返事www

馬鹿だから何やってるか気づいてないのが哀れなやつww
934日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:57:37
結局、人生の負け組みは、
主流派の畿内説を憎み、九州説という夢を追いかけるしか生きる望みがないんだよ。

死ぬまで九州説を信じてたところで、何の意味も無いのにな。

935日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:58:29
九州厨ってカルト信者そのまんまだなwwwwwwwww
936日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:00:05
>>934
九州派の頭の中の常識は世間の非常識だもんな
937日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:01:16
>>919
マキムクは3世紀で間違えない!
つか、どーでもいいw

火と石の文化が重要
コトバの変遷も重要
近畿はつじつま合わせの後付け文化w
938日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:01:48
>>929
あー、俺>>927だけど畿内説だから一緒にしないで。

あと具体的な論拠を示さず反論できねーじゃんwww言われてもどうしたもんだか。
何にどう反論していいんだかわかんない。
いない敵とどうやって戦えっていうんだ。

学問とやらで反論してあげるから

1)邪馬台国が九州であったとするならば、九州のどこか?(具体的に)
2)その根拠は?

まずはこれに答えて。
939日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:04:23
>>929
バカwwww
940日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:05:01
つーか、畿内説って説得力がないし、学者が奈良って言っているから、私もみたいな感じだろう。テレビでもそんな事を言ってた

キチンと説明が出来ない以上、畿内説は信憑性にかける
941日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:05:07
本当に学問の反論に学問で返せない・・・しかもカルトとか非常識とか
連投でな。

馬鹿にされながら本当に馬鹿のまま返してるし。

>>929
へ? >>928の続きを話してるんだが?

>>928で巻向が景行天皇のいう日代宮だといってるんだが。

942日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:05:31
>>930を見ると  官位、名前、国書の有無が違う。同じ事を記述してるとは思えないね。
日本書紀  
        鴻臚寺掌客 裴世清   国書あり
隋書
        文林郎 裴清      国書なし
943日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:08:17
畿内説のレベル低いって馬鹿にされてるのは、
巻向遺跡の話をしているのに、学問的に歴史てきにいろいろな
点で反証されると知識がないので反論できず

いきなり九州説に話がとぶ。「吉野ヶ里なわけねーよww」とか。
????

あのな・・・・・
邪馬台国はどこか、って題なんだよ。
944日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:10:19
>>941
畿内説論者はそれを認めたがらないからw
九州説叩きと年代を遡らせる事しかできないの。
これだけで畿内説は無いって事が判断できます。
945日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:10:54
>>942
「隋書」では編纂された時期が唐太宗の時期であったので、
太宗の諱・世民を避諱して裴清となっているだけ。 書いた時代背景の問題

あとは国書紛失問題が絡んでるから
946日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:12:21
やっぱり、九州説にとってマキムクは4世紀にしたいんだねえ。

それなら、4世紀だって証拠を出して欲しいものだ。
947日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:12:22
なんにもない なんにもない なんにもない 九州〜
948日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:13:40
つじつま合わせで結論出ずに藪の中w
ってオチでしょ?>畿内説
949日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:14:10
九州説がやばいことは間違いない。くそっ・・・
950日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:15:26
>>949
馬鹿か?
 「巻向は天皇の都だろ?」
「うるさい、お前の母ちゃんデベソ!」
こんなことにしかなってませんが。
951日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:16:08
大和朝廷≒邪馬台国
纏向遺跡に特定、発掘結果、邪馬台国の卑弥呼の宮殿

ないない、元から特定じゃなく、こじつけの為の布石にしかすぎない
952日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:16:28
ちゃんと暗号化されて受け継がれてるるよ?
当方九州だけど。
しかるべき時に公開されるよ。
953日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:19:29
>>950
ヤマトの三輪王朝あたりと邪馬台国とが関連してる可能性が出てきたと理解しているが・・・
954日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:19:50
畿内説派の人に聞きたいんだけど、
墳墓から何が出れば
卑弥呼の墓認定してくれる?
955日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:20:48
出迎えたと書いてある、小徳の阿輩臺、大礼の哥多って誰だよ。こんなの日本書紀には
出てこない。というか多利思比孤も出てこない。その妻の?彌って誰?
というか推古天皇って女だろ?レズかよ。

畿内説だと全く意味が分からない
956日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:21:59
>>955
九州には妄想しかないだろ?もっと意味わかんねw
957日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:22:00
もうね、テレビに出てくる九州説の学者って、高島だけでしょ?
吉野ヶ里を邪馬台国とか言って、恥かいたんだっけ?

他に誰も九州説を主張してる学者ってみたことないんだけど。
九州のローカルテレビじゃ、誰か九州説の学者が他にも出演してるの?
安本(笑)とか。

958日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:23:07
>>957
ゴッドハンドの古田(笑)もお忘れなく
959日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:27:04
何が何でも畿内じゃないと駄目な理由をどうぞ↓
960日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:27:55
畿内派は本当に知恵がないねー、学者とか関係ないし、高島とかの意見とかも関係ないし、相手にもされてない

吉野ヶ里?はぁ?あそこが邪馬台国だとか、今だに言っているのは、残念な事に畿内論者の方々ですけどね
961日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:30:43
いいから早く>>938の質問に答えてよ。

1)邪馬台国が九州であったとするならば、九州のどこか?(具体的に)
2)その根拠は?

君の言う学問で反論してあげるからさ。
962日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:31:46
だから俺は景行天皇の巻向日代宮だっていってんの。
はっきり記紀に巻向に都を建てたって書いてるじゃん。

年代的に、一番一致する。しかも日本中巡行した最初の天皇で
奈良で戦争などはしてない。
娘の代で朝鮮征伐=百済書とも年代が一致。

これに関して日代宮跡と称する相撲神社を挙げてくるやつがいるが、一体全体
どこに天皇の都などといえるような遺跡があるのか。違うだろ。
963日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:31:46
九州説の人間には学者とか専門家の言なんぞ関係ない。
ただ信仰あるのみ。
964日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:32:14
コトバを勉強すれば目から鱗なんだけどねw
あ、九州の方言とかも絡んでくるから畿内じゃ無理かwww
965日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:33:36
>>964

1)邪馬台国が九州であったとするならば、九州のどこか?(具体的に)
2)その根拠は?

だからまずはこれに答えて。
966日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:34:38
>>961
巻向が日代宮でない学問的反論は? できるわけないよな。
967日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:34:42
とりあえず、
マキムク日代宮を発見しちゃえば?
話はそれからだw
968ローガン:2009/11/17(火) 16:34:47
>>942

文林郎裴清と鴻臚寺掌客裴世清…
文林郎は階級を表す分散官。鴻臚寺掌客は担当の職事官。兼務していたとしておかしいものでは無いでしょう。
日本側では外交担当職としての鴻臚寺掌客が記録され、一方本国では自信の身分としては一品高位である、分散官としての文林郎と記録された。
又、名前は「世」を避けたってのが通説。もっとも、北史に「世清」と出ており、別人とする要素はありません。
又、奈良の元興寺丈六仏光背に「歳次戊辰大隋國使主鴻臚寺掌客裴世清尚書祠部主事遍光高等来奉之」(元興寺伽藍縁起流記資財帳)とあり、
裴清=裴世清は動かないでしょう。
969日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:35:34
>>961の畿内論者は、逃げごしで、能書きたれてないで>>962に答えてみろよ
970日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:35:48
だから俺は景行天皇の巻向日代宮だっていってんの。
はっきり記紀に巻向に都を建てたって書いてるじゃん。

年代的に、一番一致する。しかも日本中巡行した最初の天皇で
奈良で戦争などはしてない。
娘の代で朝鮮征伐=百済書とも年代が一致。

これに関して日代宮跡と称する相撲神社を挙げてくるやつがいるが、一体全体
どこに天皇の都などといえるような遺跡があるのか。違うだろ。
971日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:36:42
>>965
なに?その上から目線w
教えてほしいなら、それ相応の聞き方あるでしょ?
972日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:37:15
景行天皇っマキムクのあと志賀高穴穂宮に移していなかったっけ?
973日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:38:10
>>965
邪馬台国纏向説に反証するために他説を持ってくる
理由など何もないんだが。お前は中学生か?

974日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:38:28
なんか変なの沸いてるなwww

>>965
おまえもスルーしとけ。荒れるだけだ。
975日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:41:24
>>972
そうやってまたハードルをあげちゃうの?
馬鹿は馬鹿w
976日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:42:56
>>972
移してるね。
977日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:46:06
歴史を創造する考古学者を、全てにおいて信じる人は純粋ですしアホでもあります。
978日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:46:44
>>970 に結局、反論できる理由など何もないんだな。見苦しい畿内説者。

天皇の住処を掘り起こしては記紀との検証もせず
邪馬台国だ、卑弥呼だ、って言ってるわけでしょ。しかも
倭人伝などとあわせると一致しないんだが。
979日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:48:54
俺は崇神天皇の、さらにいえば倭迹迹日百襲媛命のかかわった遺跡だと思う。
笠縫邑の比定地として桜井市があるし。
そう考えれば、そのあとの垂仁も、景行もマキムク
980日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:49:26
>>978
それ以前に九州説ってなにもないだろw
981日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:52:06
>>970
たしか景行の前の垂仁もマキムク宮だったのでは?
982日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:54:25
>>979
結局、学問は何も語れず>>970には反証できず、触れられてもない他説
を持ってくることしかできない。

そうやって馬鹿って何度言われても、また同じ反応しかしない馬鹿w
本当に頭悪いんだね。
983日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:54:28
今回の遺跡が邪馬台国である卑弥呼の宮殿かどうかの話しなのに、なぜか九州説を絡ませてくるアホがいるが

畿内論者のアホでしょうか?それとも岐阜論者のキチガイでしょうか?
984日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:57:04
第十代 崇神天皇 磯城瑞籬宮 ← これが今回の巻向遺跡と似ているという話

第十一代 垂仁天皇 纏向珠城宮

第十二代 景行天皇 纏日向代宮 志賀高穴穂宮
985日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:58:54
第十二代 景行天皇  纏向日代宮 志賀高穴穂宮  
986日本@名無史さん:2009/11/17(火) 16:59:17
>>982
というか、>>981もいってるように景行の前の垂仁もマキムク。それに崇神も桜井だから
景行と決め付ける理由がない・
987日本@名無史さん:2009/11/17(火) 17:02:59
つまり景行と決め付けず三輪王朝という範囲内で考えればいいのではということ。
崇神天皇であれば、倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼とダブってくる。これからの発掘またなきゃならんが。
988日本@名無史さん:2009/11/17(火) 17:26:16
三輪山麓の西側で、水に囲まれている = 瑞籬宮
989日本@名無史さん:2009/11/17(火) 17:41:47
>>987
>倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼とダブってくる

巫女という以外には全然ダブらないんだが。
というより、邪馬台国巻向説で話をすすめるとモモソ卑弥呼説以外
ありえない。
つまり、モモソ=卑弥呼か?畿内説で卑弥呼を語るにはこれに尽きる。
990神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/11/17(火) 17:47:28
「もう一度学びたい、古事記と日本書紀」と言う本の地図には瑞垣宮、珠城宮、日代宮ともに
JR桜井線の東側となっています。今回の纏向遺跡の建物跡は微妙な位置ですね。
991日本@名無史さん:2009/11/17(火) 17:52:00
倭迹迹日百襲媛命
「命」がついちゃってるってどういう事かわかる?
卑弥呼に言わせれば
「誰?それ?プギャー」
こじつけもここまでくれば御家芸w
992日本@名無史さん:2009/11/17(火) 17:53:09
そもそも巫女さんじゃないしw
993日本@名無史さん:2009/11/17(火) 17:53:49
モモソは別名が日神だけど。
994日本@名無史さん:2009/11/17(火) 17:55:51
関係ないしw
995日本@名無史さん:2009/11/17(火) 17:56:35
普通の姫には神なんてまず付かないな。
996日本@名無史さん:2009/11/17(火) 17:57:57
神とか言ってる時点で見当違いだしw
997日本@名無史さん:2009/11/17(火) 17:59:46
まあ涙ふけよ、景行君w
998日本@名無史さん:2009/11/17(火) 18:03:53
観光地としてしばらくは使えそうだし、よかったねw
999日本@名無史さん:2009/11/17(火) 18:06:13
実際姫扱いだし
1000日本@名無史さん:2009/11/17(火) 18:06:31
1000なら畿内決定。
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。