日本は第2次世界大戦中、アジアの女性を強制的に従軍“慰安婦”にしました。歴史学者は、
日本軍の迫害により“慰安婦”にされた女性は20万人以上に達すると認めています。
しかし知る人はまれですが、日本が投降して敗戦した直後、米国占領当局黙認のもとに、日
本政府は数万人の日本人“慰安婦”を募集して、もっぱら米軍兵士のためにサービスさせ
た。この国営慰安所は1946年、ダグラス・マッカーサー占領軍司令官が閉鎖命令を出すま
で続きました。
AP通信はいくつかの英文の歴史文書を調査して、26日にこの“不安な真相”を暴き出しました。
目的 一般の良家の婦女を保護するため
茨城県の警察署の記録書類によると、米国占領軍が日本に到着する前夜、日本政府は米軍兵士
の“慰安所”を準備し始めました。
1945年8月18日、警察署は政府よりつぎの命令を受け取りました。
1.占領軍のために奉仕する慰安所を設立する。
2.‘慰安婦’の特殊奉仕で、その他の女性と幼女が占領軍兵士に辱められるのを防ぐ。
警官局はすぐ警察の独身寮を妓楼に改装し、室内に海軍の提供したベッドを置きました。
この妓楼は9月20日に開業しました。 (つづく)
(
>>113 からのつづき)
米軍兵士は長い行列をつくりました。
日本政府が出資援助して、娯楽協会が設立されました。1945年8月28日、占領軍の先遣部隊が東京
の厚木に到着しました。彼らを迎えたのは娯楽協会開業の第1号“慰安所”でした。 目撃者によ
ると、5,6百人の米軍兵士が街頭で1本の長い行列をつくりました。米軍の憲兵が責任をもって整列
させましたので、“隊列”が乱れることははありませんでた。 目撃者によると、日本政府直営
の“慰安所”は、かって日本軍が外地で設立した“慰安所”とそっくりだったそうです。
第1号“慰安所”は開業時、38人の“慰安婦”がいましたが、お客の米軍兵士が多すぎるため、
間もなく100人に増員しました。すべての“慰安婦”は一日15〜60人の客をとりました。
良家の婦女は生き地獄に追いやられました。
日本に進駐した占領軍は1945年末までに35万人に達しました。娯楽協会は長期にわたって“慰安婦”
を募集し、最多時で7万人を抱えました。
広島平和学院教授田中敏氏(歴史学)は 「慰安婦の人数は正確には把握されていない」 と言います。
日本政府設立の“慰安所”以外に、多数の私設妓楼があり、妓女の数は“慰安婦”を超えると
推定しています。 (つづく)
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>>114 からのつづき)
マッカーサーの命令
鳴矢清一氏は、「慰安婦をどんどん募集するため、娯楽協会は仕事の提供を釣り文句に良家の婦女
をだまして、生き地獄に陥れた」 と告発します。
滝田夏江という19歳の少女は 「事務員募集」 の広告を見て応募しました。ところが、“慰安婦”の
仕事しかないと告げられました。仕方なくこの仕事を受け入れ、うら若き身を“慰安所”に沈めて
間もなくて、彼女は線路で自殺しました。鳴矢清一氏は 「良家の婦女が深い傷を受けた」と激怒
します
1946年3月25日、米国占領軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥は命令を下して、米軍兵士が妓楼、
“慰安所”、その他すべての売春の場所に足を踏み入れることを禁止しました。間もなくて、
娯楽協会は破産しました。
田中敏氏は、「マッカーサーは米軍兵士の健康を危惧したでのあって、それ以外の懸念は念頭にな
かった」 と言います。当時占領軍兵士は四分の一が性病に感染していました。田中氏は 「マッカ
ーサーの禁止令が発令されて、たちまち15万人の日本女性が失業した」 と付け加えます。
http://peacehall.com/forum/lishi/6861.shtml
>>115 パンパン事件
終戦当時、生活の為に多くの女性は米兵相手に体を売って生活する人達が目立ち始めました。
その人達の事を「パンパン」と言っていましたが幼い私には意味が分からず米兵と腕を組ん
でいる女性に向かって「パンパン」と言ってしまい家に怒鳴り込まれ、米兵に殺されるので
は思いました。
近所の友達の姉さんもいつのまにかパンパンになっていました。昼間から奥の部屋に布団が
ひかれていて米兵がきていました。
高校生の頃まで家の裏の家はいわゆる「パンパン宿」があり毎晩米兵が数人きて騒いでいました。
経営者は戦争未亡人で、夫は軍人で相当偉かった人だったそうです。当時は生きるためにはやむ
得なかった事でした。
http://hmika.fc2web.com/hige_omoide_syounen.htm
>>116 パンパン宿の隣で、父に「よく人間を観察しておけ」と
[赤塚] 昭和21年に入ってからだと思いますが、米兵相手の売春婦、いわゆるパンパン・ガールが
横浜に集まってくるんです。私の家の隣は、戦争中は海軍少佐夫妻が住んでいたのですが、
終戦後、引っ越してしまった。 その家は、地元の土建業者が家主で、その娘が、30歳ぐ
らいで夫をなくし、空家にしておくのはもったいないと、パンパン宿の姐御になって、
7、8人の女性を連れて、そこに引っ越してきたんです。 中には地方の人も女学校を出た人
もいましたね。 一番上は45歳ぐらいの和服のおばさんで、一番下が、小学校で私の一級下
だった、大工の娘でした。
[松信] 1軒だけですか。
[赤塚] そうなんです。 それも住宅地のど真ん中にです。 GI同士や女性同士の喧嘩もあって、
夜遅くまで騒いでいる。 それで父に「うるさくて勉強できない。」と言うと、私の父は
新聞記者でしたが、すかさず「何を言ってるんだ。 千載一遇のチャンスではないか。 人
間というものを、この際よく観察しておけ。」と言われた(笑)。 反抗期でしたが、この
言葉には参りましたね。 その通りだと思いました。 それでパンパン宿の隣の少年はじっ
と見ていた。
あのころの小説家や随筆家たちは、こうした女性たちのことを「生活に困って」と大抵書
いている。 当時の新聞や雑誌にも「多くは家を焼かれ、食うに職なく、生活に困って仕方
なく」と書いてある。たしかに多くの人はそうだったんでしょうが、必ずしもそれだけじゃ
ないと思ったんです。 性的好奇心、あるいは異国人への好奇心なども含めて、新しい時代
の中で、解放感にひたりながら「新しく生きている」と感じていた人もいたのではないで
しょうか。 堂々としている女の人も少なくなかったですからね。
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_440/yurin3.html
>>113-117 『星の流れに』 菊池章子 昭和22年(1947年)12月
星の流れに 身をうらなって
どこをねぐらの 今日の宿
荒む心で いるのじゃないが
泣けて涙も かれ果てた
こんな女に誰がした
煙草ふかして 口笛ふいて
あてもない夜の さすらいに
人は見返る わが身は細る
町の灯影の 侘びしさよ
こんな女に誰がした
飢えて今頃 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
ルージュ哀しや 唇かめば
闇の夜風も 泣いて吹く
こんな女に誰がした
作詞・清水みのる 作曲・利根一郎
http://www.youtube.com/watch?v=auHjP8BAis4