1 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :
※九州王朝はあったか?※の復活です。
九州王朝を肯定する人も否定する人も、立場の違いを超えて、思う存分語りましょう。
九州王朝に関心がある人は、おおいに語りましょう。
九州王朝に関心のない人や、九州王朝に関りの無い主張は、書き込まないでね。
2 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 00:01:41
善レス頑張れ
3 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 00:10:33
九州王朝
ニニギ→ホオリ→ウガヤフキアエズ→イワレビコ
先の三人はみんな南九州に埋葬されている。よってこれらは
九州の王朝に属するものたちである、となるわけだ。
4 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 22:22:34
寒いね
5 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 22:39:43
「九州王朝はなかったのか?」「なかった!」結論が出たので糞スレ終了。
6 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 22:45:54
倭の五王を九州王朝にしたがってる学者がかなりいるみたい
7 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/05(月) 22:47:05
諸葛亮の大陸天下三分の計の名言を想うべきで、当時の古代日本は
天下二分の系の時代だった。九州に卑弥呼の女王国、畿内に天皇の
男王国が日本立てで存在してたのだ。
8 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 23:36:39
関東にも大王がういたと思う。
9 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 23:47:11
10 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 23:48:28
11 :
のんびりひまじん:2009/10/06(火) 11:36:39
12 :
日本@名無史さん:2009/10/06(火) 14:47:08
>>6 >倭の五王を九州王朝にしたがってる学者がかなりいるみたい
>>9 >そんなのは学者とはいわない
五王と天皇の名前も親子・兄弟の関係も合わないのにもかかわらず、多少の違いには
目をつむる方がどうかとおもうが。
13 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/06(火) 15:04:59
五王と当時の各天皇がイコールなら、大陸古文献と紀との即位年等が
なんらかの適正な研究でピタイと一致しなければならないが、今の今
まで合理的な論説と観られるもので、それが一致したという奴は誰も
いないだろうぜ。
年代が合わないということは、両者それぞれが別人だということを
物語ることなのだ。それがしも倍暦計算で合わないことを確認して
おり、五王はそれらの天皇ではない。つまり九州の王なのである。
14 :
のんびりひまじん:2009/10/06(火) 16:53:14
倭の五王を日本書紀の天皇に比定する手法が許されるなら、歴代の新羅の王からでも
比定できそうなくらいひっどい手法。(まるで2ちゃんレベル)
韓国の学者から、そういう批判があるそうだ。
お恥ずかしくて最近は日本の学者で比定を主張するのを見かけない。
15 :
日本@名無史さん:2009/10/06(火) 20:49:25
>>14> 倭の五王を日本書紀の天皇に比定する手法が許されるなら
アホ。記紀にないから畿内じやないって云いたいのか。記録が無いのが否定の理由という訳だな。
じゃあ、九州だと云うなら国内古代文献のどこに九州だと書いてある?記録がなけりゃ否定しろよ。
16 :
日本@名無史さん:2009/10/06(火) 20:54:22
17 :
日本@名無史さん:2009/10/06(火) 20:54:49
18 :
のんびりひまじん:2009/10/06(火) 21:12:18
新撰姓氏録の研究報告では
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou29/kaihou29.html 仁徳(第16代)〜武列(第25代)の10名の天皇の子孫という氏族がありません。
架空の天皇と知っている有力氏族たちが先祖と主張する対象外とすると納得ですが、
相当に深刻な指摘でして、
のんびりと、比定などしている場合ではなさそうです。
これら10名の天皇全員が架空なのではありませんか?
それとも、武列が横暴だったので皆殺されたとでも言うのでしょうか?
〜九州王朝の積極的説明にはなっていませんが、それよりも、近畿の歴代天皇が
実在した前提で年代を縮める議論など危ういと思うのです。
19 :
日本@名無史さん:2009/10/06(火) 21:20:04
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
20 :
日本@名無史さん:2009/10/06(火) 21:35:26
一番実在性が薄いと考えられている天皇は欠史八代の天皇かと思うが、その八代の
天皇には、子孫の氏族がいるってわけか。なんなんだろうね。仁徳〜武烈が架空の
天皇とすると、それ以前の天皇も架空の存在である可能性は強いだろう。つまり姓氏禄には
架空の天皇の血をひいた氏族も書かれているということになる。ってことは、資料として
姓氏録といえど、根本資料として信用できないと考えるべきなのか。
あるいは、ある天皇が架空の存在であるとしても、それ以前の天皇が必ずしも
架空の存在とは限らないと考えることもできよう。
つまり、仁徳〜武烈が架空の存在としても、それ以前の天皇が架空であるとは
限らんと。 ニニギ〜ウガヤフキアエズがみな架空の存在としても、彼らがみな九州で
埋葬されたという記述は、なんらかの事実の反映とも考えられるね。
21 :
日本@名無史さん:2009/10/06(火) 21:49:27
>>14 倭の五王で当時の日本が朝鮮半島を支配する立場にあったことを証明したい
学者と、中国なんかに朝貢するはずがないだろうという学者の間で論争になってる
しかし古事記や日本書記にも記述がないんだし武とか中国人の名前を名乗ったなんて
恥ずかしくて証明してほしくないよ
たぶん倭の五王は新羅の王だと思う
22 :
日本@名無史さん:2009/10/06(火) 21:53:34
仁徳〜武烈に子孫の氏族がいないというのには、何か理由があるんだろうかねえ。
記紀の記述をみると、仁徳をついだ履中から清寧にいたるまで、兄弟殺し、同族殺しの
記事が非常に多い。他の皇位継承者をみな殺してしまえば、継承氏族がいないという
ことになる。同族殺しの記述と氏族がいないことの間に、何か関連性があるんだろうか。
>>15 近畿の場合単に該当者の記録が無いだけではなくで
該当者の記録が入る余地=空白が無い事が問題じゃないの?
比定するとしたら、当の記録に誤りがあると仮定するしかないんで
それがオカシイって話でしょ。コレは否定の一つの論拠足りうるでしょ。
近畿説の否定と九州説の肯定は別の話であって、
九州説の方には今のところ、否定も肯定も特に根拠が無いって
所じゃないの?新羅説と同様にね。
24 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/06(火) 23:41:44
大相撲の番付に力士の名が無けりゃぁ、それは両国国技館で大相撲
をとる髷を結った力士の人物ではないと観るべきもの。
まさか例外的、映画で役をやる仮の大相撲の番付と力士の特殊を持ち
出して、例外を大々的に肯定して存在例外的存在を誇張等して
も致し方あるまいが・・・。w
zzzzzzzzzzzz・・・・・・・
25 :
日本@名無史さん:2009/10/06(火) 23:48:22
>>23 >それがオカシイって話でしょ。コレは否定の一つの論拠足りうるでしょ。
お前もアホ。アホ2号だな。結局いいたいのは「記述がないから違う」だろうが。
記述がないのが否定の根拠なら九州王朝など即死だろうが。
> 近畿説の否定と九州説の肯定は別の話であって、九州説の方には今のところ、否定も肯定も特に根拠が無いって
> 所じゃないの?新羅説と同様にね。
アンカーつけるなら上を読め。アホ一号は近畿説の否定しか書いてないだろ?近畿じゃなければ九州だとしか読めんだろ。
たとえこんな糞スレでも議論したきゃもっと掲示板に慣れてからこいカス!
26 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 00:03:05
>>25 相変わらずの馬鹿がいるな。
日本国は倭国の別種なり。
>>25 とことん馬鹿か、間違いを認めるのがイヤで馬鹿で通そうと決心してるか
どっちかなのはオマエだろ、ついでに議論の能力0なのも。
14が否定してるのは、近畿説の比定の手法。
単に記紀に記録が無いのではなくて、記録する余地が無いって事。
一応アリバイがあるので近畿天皇家の人は犯人じゃない可能性が高いでしょって話。
九州の人はアリバイがないのでなんとも言えませんよ、って事。新羅の人もね。w
まあ馬鹿だからわからんだろうが。
28 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 00:15:58
>>26 相変わらず幼稚園がいるな。
故中國疑焉
よく読め!と言っても無理だな。
29 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 00:28:53
>>27 おい、アホ2号。ではきくが、お前の認識では、記紀などが全てを網羅し、正確な記録をしたものであると云う事だな。
そういう前提でなけりゃ 記述がないから違うとかいえんだろ? 誰に比定するとか比定した人物が間違いだとか俺はどうでもいいんだ。
>>29 記述が無いからって言ってる馬鹿は
実はオマエだけだ。お休み。
31 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 00:35:50
>>28 よう赤ん坊。
そこは、或云以下の末節でしかない。
日本國者倭國之別種也が主だ。
32 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 00:46:10
>>30 はぐらかして答えられないんならいいよ。とりあえず再掲しておく。
> おい、アホ2号。ではきくが、お前の認識では、記紀などが全てを網羅し、正確な記録をしたものであると云う事だな。
おやしゅみ。
まああれだ、中国は朝鮮が倭奴だ何打で煽ってるの知ってて何で
半島と歩調を合わせんのだろうな?そのほうが一体感生んで更に半島を利用しやすい
んじゃないか?
34 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 00:52:52
>>31 無理するな。まだ読めんお前に議論とか無理だ。
歴代史倭國一名日本在中國直東扶桑國復在倭國之東約去中國三萬里
おやしゅみ。
35 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 00:55:57
コピペを探している34必死すぎワロた
36 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 01:04:30
『通典』は正史でない。
よって依拠してはならない。
37 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 01:19:08
続日本紀に
(708年1月)『山沢に亡命して禁書を挾藏し、百日まで首せずんば、罪に復すること初の如くす』
とあって九州王朝の史書は焚書となったのよ。刀狩りみたく、歴史書狩りですわ。
大和朝にとって他の王朝の記録は消すべき存在だったわけ。
38 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 07:17:13
わが国の歴史は五千年、世界最古だ
証拠は?
日帝がすべて燃やした。
九州王朝こそ日本の正統な王朝
証拠は?
大和朝廷がすべて燃やした。
そうですか、よかったですね。
39 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 10:20:13
>>38 >九州王朝こそ日本の正統な王朝証拠は?
かくたる証拠があればこんな問題とっくに終わってる。
ということで証拠とまではいいませんが、以下のことは重大な問題点ですね。
日本には残ってないので、中国や朝鮮の史書を参考にするしかないですね。
それを見ると日本書紀には書かれていないことがなぜか書かれていますよね。
金印や倭の五王が大将軍等の称号をもらったことなど・・・。これは誇るべきところにも
かかわらず書かれていないことが他の国の出来事だったということ。
40 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 10:22:45
>>36 > 『通典』は正史でない。よって依拠してはならない。
なんで? 理由をどうぞ。
41 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/07(水) 11:27:08
>>37 >(708年1月)『山沢に亡命して禁書を挾藏し、百日まで首せずんば、罪に復すること初の如くす』
訳が違うよ。
特赦する「其犯八虐」の内の2つが「亡命山澤」と「挾藏禁書」である。
訳は、『禁書を挾藏するは、百日まで首せずんば、罪に復すること初の如くす』
九州王朝の史書を挾藏するものは、未發覺であっても今届出し提出すれば、免罪にする。
焚書したかどうかは判らない。
しかし、九州王朝の史書である禁書は焚書処分したものと思われる。
708年当時には未だ九州王朝の残党が山間部にこもってゲリラ的に抵抗していたようだ。
九州王朝残党の根強い抵抗をしたのは、九州の西と北の海洋民で、
畿内朝廷は彼等を取り締まることも出来ず、遣唐使の廃止に追い込まれた。
遣唐使船団としての帰還率は50%、船の帰還率は10〜20%位だ。
遣唐使団の多くは、九州王朝残党である海洋民によって西九州沿岸で殺されたのか、
東シナ海の海の藻屑となったのであろう。
42 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/07(水) 11:35:43
>>34 『扶桑(國)在大漢國東二萬餘里 地在中國之東 其土多扶桑木 故以爲名』
扶桑國は、499年当時に倭國(九州王朝)傘下にあった播磨國。
43 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 11:56:16
44 :
18:2009/10/07(水) 12:32:41
45 :
のんびりひまじん:2009/10/07(水) 13:16:04
>>37 >>41 禁書の一部解禁らしい記事
769(神護景雲3)年10月10日、太宰府が五経あるが三史正本がなく、各一本頂きたいと言う。
(称徳天皇は)史記・漢書・後漢書・三国志・晋書 各一部を賜う。
46 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 14:25:45
>>39 >以下のことは重大な問題点ですね。
全然。
>これは誇るべきところにもかかわらず書かれていないことが他の国の出来事だったということ。
歴史とか苦手そうだから、無理して書かなくていいよ。
祖先がお願いして将軍にしてもらったのが、記紀が書かれた当時、誇らしい訳ないだろ。
47 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/07(水) 14:33:42
当時畿内の天皇国と九州の王権、王朝の国とは他国関係だよ。
他国ということは交易で関わり強いとか逆に争ったとか以外、影響少なけりゃぁ
記載はあまりしない。記紀は自国のことを書くのが主体で、それに関わりが
出たときとか特記すべき時などにおいて他国の事を書くようだ。
48 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 18:10:51
>>46 それでは
『日出づる処の天子 書を日没する処・・・』が紀にかかれていないことについて
どう考えておりますか?
50 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 18:48:33
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
51 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 18:53:36
>>48 > 『日出づる処の天子 書を日没する処・・・』が紀にかかれていないことについて
相手の対応が帝覧之不悦謂鴻ろ卿蛮夷書有無禮者だから。
>>48 >>51 私は
『日本書紀』編纂に九州王朝の史官が参画し、九州王朝の痕跡を意図的に残したとする仮説
の一端と考えます。
また、別スレ引用ですが
>些末な違いはあるとはいえ
これが問題なんだな。例えば隋書の「二百余騎」と「飾馬七十五匹」。出迎えの
騎数など普通は記録に残すことではない。隋書が書いているのが珍しければ、同
じく日本書紀が書いているのも珍しい話だ。となれば、これは日本書紀が隋書の
「二百余騎」を見てわざと「七十五匹」と書いたということだな。一見、同じこ
とを書いているように見えるが、数を違えることで「実はちがうんだ」と明示し
ている。そこを読み取らんとアホだな。<
↑
私もほぼ同感!! (参考
>>49
53 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 21:04:54
古代王朝についての焚書や禁書の記録があると。しかし燃やす方も手抜かりだな。
焚書や禁書について記録をしなければ、後世にいろいろ勘ぐられることもなかったろうに。
完全な記録抹消というのは、すべての記録を抹消して、なおかつ抹消したという
こと自体の記録も残さないものなのだが、間抜けな手抜かりをやったもんだ。
それとも、わざわざ焚書の記録を後世に残すつもりだったのかねえ。
いったい何のために?
54 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 21:53:43
>>53 完全な自信がなかったんだろう。
一書なんていうのも、自分の歴史に無謬性の自信があればいらないだろう。
55 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 21:57:36
>>54 じゃあ、焚書なんて手段を執らず、一書に曰くというかたちで資料として
使ってもよかったろうに。 それでも焚書したというのは、よほど都合が
悪いことが書いてあったのか。あるいは何か焚書をおこなう他の理由でも
あったんだろうかねえ。
56 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:01:30
>>55 いやいや、自信がないので都合のいいところだけ権威として利用した。
57 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:03:27
>>56 過去の他の歴史を抹殺して、唯一正統な歴史を断固としてつくりだすのだ!
という強い意志がなけりゃ、焚書や禁書なんてできませんがな。 そんな
自身のないあやふやな信念しかなければ、禁書なんてできないよ。
58 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:04:58
59 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:06:29
>>58 後世にあったから、過去の歴史を取捨選択できたんじゃないのさ。
何あたりまえのこといってるのw
60 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:08:48
>>59 当たり前のこともわかっていないからだよ。
61 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:11:32
>>60 そうかね、そちらはわかってるつもりなのかねw
ずいぶん自信があるんだねえw
62 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:12:16
>>18 思いっきり古田なWEBページですね。
その筋の方々には、たいへんな労作なのかもしれませんが「精度」に疑問も。
例えば、派生氏族無し組に分類されている大友皇子(弘文天皇)の裔に著名な淡海三船がいる。
あの表では淡海真人は天智後裔に分類されているのであろうか?
64 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:14:15
>>62 ここは文系学門カテゴリーの板なんだから、文系くさすのは
板の意義をおとしめるもんだぜw
九州王朝は伝奇小説だよ。
66 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:15:59
>>64 しかたないだろう、お前のような低脳が張り付いている限りはな。
67 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:17:21
>>66 なんだ低知能丸出しの機知のかけらもないレスだなw つまらんやつw
68 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/07(水) 22:19:40
九州王朝説は古代史の地動説。
69 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:21:35
お前たち
70 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:32:45
67,64etc は層化の手先。
71 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:35:56
あーくだんないレッテルばりがきたわ。低レベルな煽りってのはワンパだなあ。
頭悪いから、バリエーションがないんだよね。
72 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:37:10
67,64etc はカルトの手先。
73 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:47:35
71,67,64etcは歴史学に対する正確な知識の欠如を悪口で誤魔化そうとしている恥ずかしい嘘つき。
74 :
のんびりひまじん:2009/10/07(水) 23:17:18
75 :
日本@名無史さん:2009/10/08(木) 08:27:17
76 :
日本@名無史さん:2009/10/08(木) 12:24:33
>>51 >> 『日出づる処の天子 書を日没する処・・・』が紀にかかれていないことについて
>相手の対応が帝覧之不悦謂鴻ろ卿蛮夷書有無禮者だから。
なるほど。皇帝を怒らせたからのせなかった。
その国書を出す時は、怒らせるとは思ってなかったわけだ。見通しが甘かったということだね。
77 :
ローガン:2009/10/08(木) 15:12:33
>>76横から失礼。
>その国書を出す時は、怒らせるとは思ってなかったわけだ。見通しが甘かったということだね。
というより相手の反応を見たかったんでしょう。 いずれにせよ、大業の外交は記述し開皇のはスルーしている事をみても、紀は記事を選んでいます。
所謂、倭の五王の記述も同様に考えて良いでしょう。
78 :
日本@名無史さん:2009/10/08(木) 16:07:31
>>77 >紀は記事を選んでいます。
>所謂、倭の五王の記述も同様に考えて良いでしょう。
大将軍等の記事も記述しない、五王の名前ものせないのは紀を編纂した当時では
恥ずべき行為だったと考えられていた ということですか。
79 :
のんびりひまじん:2009/10/08(木) 18:00:23
>>76 >>77 >>78 ここは九州王朝スレなので、議論が
九州王朝とどう関係するか説明して欲しいな。
ちなみに、我が見解は、
執筆者はそのとき、元正舎人不比等には見トガめられないように注意しながら、
参照する隋書と対応しないことを故意に書き込んで、
後世、真実を明らかにしてくれる期待を持っていた と、いうものです。
>>52 も参照
『日本書紀』編纂に九州王朝の史官が参画し、九州王朝の痕跡を意図的に残したとする仮説
の一端と考えます。
80 :
うましか:2009/10/08(木) 18:14:52
>>75 仁徳〜武烈の派生氏族が居ないのは、
継体擁立伝承との整合性を考えれば、
居ないことにした方が都合が好いからでは?
継体以前の派生組の大体は、建内宿彌、大彦、豊城入彦の系統に集中。
皆さま、ここら辺に押し込まれたと勘ぐることも出来るかと。
81 :
のんびりひまじん:2009/10/08(木) 18:33:43
>>77 >紀は記事を選んでいます。
どう選んでいるかと言いますと、チャイナとの外交記事については
・基本的にはあまり記載したがらない。(例 古事記にほとんで出ません)
・日本列島側から使者を派遣しただけなら記載しない。(倭の五王、開皇遣隋使)
・チャイナ側から使者が来たことへの対応は記述する。(卑弥呼壱與、ハイ世清、高表仁、郭務ソウ、劉徳高・・)
ほぼ、この分類でありましょう。
(※一連の途中で 近畿王朝へ実権が移動し、その後は全て記述されたでしょう。)
>>81 追加補正
(後漢金印、倭の五王、開皇遣隋使)←(倭の五王、開皇遣隋使)
83 :
日本@名無史さん:2009/10/08(木) 22:55:18
84 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 07:04:38
あった鴨
85 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 23:29:16
>81 :のんびりひまじん:2009/10/08(木) 18:33:43
>>77 >紀は記事を選んでいます。
何当たり前のことを言うてんねや。
白村江の敗戦を正当化するために書かれたのが書紀やぞ。
対外記事には捏造あり。決まってるやろ。
月が 出た 出た 月が出た ヨイヨイ
九州王朝の 上に 出た
あんまり 古田さんが 偉いので
さぞや 畿内説は 煙たかろ サノヨイヨイ
なかったに決まってるやん
>>52 >>79 >『日本書紀』編纂に九州王朝の史官が参画し、九州王朝の痕跡を意図的に残したとする仮説の一端
>>85 捏造とか偽装と言いましょうか 虚偽(ウソ)は二重だと考えます。
・大虚偽:九州王朝をかくす・・・元正舎人不比等が命じた
命令に従うかのように見せかけつつ、
・小虚偽:真相暴露の意図を込めて後世の読者がウソに気付くように・・・執筆担当者たち
・このような、二重の虚偽(ウソ)が存在する書物:日本書紀
(小虚偽はとくに頻発しています)
>『日本書紀』編纂に九州王朝の史官が参画し、九州王朝の痕跡を意図的に残したとする仮説の一端
・卑弥呼壱與:二人の女王 VS 神功:一人の皇后 という小虚偽
・ハイ清が使いした男王 VS ハイ世清がやってきた女帝 という小虚偽
真相(大虚偽)に気付いて発表した人は古田武彦さんですが、二重の虚偽まで気付くには
不十分というところでしょう。
91 :
のんびりひまじん:2009/10/10(土) 21:39:45
三国志(297年以前成立)
隋書(636年成立) を読みつつ、日本書紀執筆担当者たちは、故意に
日本書紀には、対応しない数々の記事を、720年に書き残した。
対応しないことで、後世の読者が、不審に思って真相(大虚偽:九州王朝抹殺))を
見破ってくれることを意図していた。
92 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/10(土) 22:10:20
>>18 仁徳から武烈の間の雄略(獲加多支鹵大王)の名が稲荷山から出てるのに、
そんなんで架空になるわけもなかろう。
おまけに隅田八幡鏡の銘文の「八月日十大王」も『日十』はヒトと読め、
八月十日とすべきを『日十』として逆書きで大王名としてるところを観ると、
この大王はヒトを逆さにした残酷さ(逆さづり)を隠して銘文としてもので、
武烈天皇ととれるから、あんたの架空というのはこれでも妄想だということが
分かる。
さらに梁書には乙祁(袁祁=顯宗天皇)のことを永元元年(=499年)に扶桑国
(日本)から帰った僧がその存在を伝えているから、顯宗も架空とは言えない。
これを考えたとき、あんたの架空の考えはあんたの考えすぎだということだよ。
確かに紀には間違いはあろうが、記と記述が合ってる個所はま〜ず真だよ。
93 :
87:2009/10/10(土) 22:31:05
94 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 00:38:42
>>93 > ごめんついナマテシマタw
いや、なかなか面白買った。
95 :
のんびりひまじん:2009/10/11(日) 00:54:44
>>92 なるほどと思います。されど、
新しく知る史料事実にも留意したいものです。
佐伯有清さんは、割合に地味な学者でした。
新撰姓氏録の研究(1984年完成)、三国史記倭人伝(1988年)のような
基礎史料のまとめなどもなさいました。
それらを後学の人びとが応用して新しい研究発表が出始めたのが昨今のことでしょう。
〜いったんここまで
96 :
のんびりひまじん:2009/10/11(日) 01:33:42
こりゃ1000年後には徳川家斉や家慶も架空の人物になってそうだな。。。
98 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 06:41:13
実在しない天皇という主張も見方を「実在しない=神だから」とちょっと変えれば
「日本の学者はこの現代になっても天皇について始祖から数代を神として扱いたいのだろう」
と曲解してみたり。
99 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 08:22:27
歴史資料の記述の不足部分を、取り上げ勝手に妄想を膨らませ
「書いて無いからおかしい」、とかなんとか。 では歴史資料に登場しない九州王朝なんかは初めから議論の俎上にあがらないものだ。
100 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 09:05:19
九州王朝なんてF氏の妄想の産物だしな。
101 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 09:28:00
>>96 だから記紀等を探偵小説の目で見たら、そんな見解になっちゃうんだよ。記紀は
探偵小説ではないぜ。子孫がなけりゃぁ欽明が架空だとかは、まるで風が吹けば
桶屋が儲かる式の跳びはね論理で、両者の間の接続が離間していて妄想だよ。
それに欽明天皇を架空とする動機があるまいが? だから津田病の残菌が再び
勢力を増したようなもので、そんな妄想に載るまでもなかろう。
>>100 これは妄想ではない。年号がうんとあることを偽作とかで葬ってはいかんよ。
これはかなり強力な証拠であり、君のほうが妄想だぜ。
当時は、諸葛亮の名言の天下三分の計の通り大陸は魏と呉と蜀の天下が鼎の足の
如き三極にあったようにだ〜日本側は畿内と九州との天下二分の系の情勢に
あったということだ。これは江戸時代江戸の徳川幕府と京の朝廷との二極で
あったように景初のころは大陸も日本も半島も一国支配ではなかったのだ。日本
だけ一国だと思っら大間違いだぜ。ただ九州王朝は朝廷よりも勢力が狭小で
文武の前後頃滅亡したのだ。
102 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 10:02:12
福岡県筑前町三輪。この三輪という地名が畿内の三輪山と同じなので気になっていたのだけれど、
筑前町南部の城山山麓、焼ノ峠古墳。3世紀頃の首長の墓といわれる。南北に全長約39.8mの前方後方墳で、前方部は一段、後方部は二段目の盛り土が残る。国の史跡。
ここに邪馬台国があったとしても不思議ではない。
103 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 10:12:04
>>102その説に賛成です。
九州王朝と畿内は同盟国。一時並立していたのだけれど、徐々に畿内勢力のほうが大きくなっていったのだと思われます。
>>103 >九州王朝と畿内は同盟国<
同盟よりも連邦と表現した方が適切ではなかろうか。
日本書紀に出てくる遣唐使の
659(斉明5)年、坂合部連石布たちは、日本列島連邦(九州王朝・近畿王朝・蝦夷)の
合同使節団だった様子が伊吉連博徳の文書報告引用として記述がある。
現地で、喧嘩したので処罰寸前、許された の後、結局は別々にだが同時に拘束(※)された。
唐・新羅連合VS高句麗・百済・日本列島連邦
唐側から、九州王朝近畿王朝どちらも、唐の同盟国新羅に敵対する両王朝として扱われた。
唐にとって味方の敵=唐の敵。
※この拘束中、列島連邦の同盟国:百済の首都が海陸からの奇襲攻撃で陥落した。
105 :
のんびりひまじん:2009/10/12(月) 08:41:50
>>104 日本書紀のこの箇所は
(九州王朝をかくす)大虚偽 が無いので、素直に理解できる。
だから事情がよく分かる。
伊吉連博徳の書の内容は九州王朝存在の証拠の一つ。そのため、
九州王朝説への理解を持つ(とは言っても既説の)学者は、この箇所を
反主流派のようなものがあったのではないか などと解釈を述べる。
ほとんどの既説学者は、この箇所について(恐らく意図的に)言及しない。
106 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/12(月) 10:54:30
倭は連邦国家のようなものですね。
主な構成國は、九州(俀)、畿内、毛野、蝦夷の4ヶ国。
三国志の時代、倭は九州から東北まで広い範囲の連邦国だったのですか?
そんなことはないんじゃないでしょうか?
畿内が開けたのは、九州から東遷した後だし、
関東が栄えたのは百済からの亡命者を移住させたことによるものだし、
蝦夷に至っては、阿倍氏や清原氏など、平安時代末期ころの話です。
それまでは、縄文人の子孫である土蜘蛛しか住まない未開の荒野でした。
108 :
のんびりひまじん:2009/10/12(月) 16:46:01
>>107 問題提起を含んでいて興味出るレス。
三国志の時代は
九州島北部が卑弥呼壱與の勢力圏。九州南部には別の男王。
東の海:関門海峡を渡ると倭種の諸国。その後
九州王朝倭国が九州南部も東国諸国も支配下におくように
なっていった。ただし朝鮮半島に対する指導的立場より少しは
グリップが強い程度の支配力らしい。
ところで、九州年号なるものの文献残存地を見ると・・・
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html 九州に多いのは確かですが、なんと
青森、秋田、宮城、福島、群馬・・・といった遠方からも
見付かる。
いったい九州王朝が直接的に支配していたのか? それとも、単に
文化面の指導力:カレンダーの発行元という程度なのか?
110 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/12(月) 18:26:41
>>107 >三国志の時代、倭は九州から東北まで広い範囲の連邦国だったのですか?
のんびりひまじんさんが的確に指摘していますが、下記にもう少し追加します。
4ヶ国揃うのは7世紀のことです。
3世紀では九州の北西部、福岡県西部南部と佐賀県東部と壱岐対馬だけです。
その他の地域の倭は、上記地域の倭とは別に個々に存在していました。
>>107 >畿内が開けたのは、九州から東遷した後< ←この部分は邪馬台国東遷説ですか?
狭い意味での邪馬台国東遷説は、ある程度、有力な主張が含まれています。
関西の大古墳を建造した勢力は、九州にあった邪馬台国が遷都したのだというのです。
九州王朝説というのは、九州にあった邪馬台国の勢力の根っこは九州に残ったというものです。
九州の勢力から枝別れした勢力が次々東へ東へ移動していったことも想定はしています。
112 :
のんびりひまじん:2009/10/12(月) 20:19:00
>>111 もう一言忘れてます。
最近、九州王朝説の中の、派生仮説ですが、ある種の
東遷に相当する仮説ーーーと言っても7世紀のことーーーが出ています。
7世紀、はじめ:首都・太宰府建設
7世紀なかば、:副都・難波宮建設(東国の統治部門)
その後 :首都を近江宮へ遷都(太宰府には防衛外交機能残る)
上記の新説主唱の方々も、近江宮遷都のとき、
九州王朝の天子が移住したのかどうかは、ハッキリしません。
(私は、このときから九州王朝の天子が移住したとすべきと思っています。)
113 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 20:45:38
「倭」の始まりは「弁韓」「馬韓」の小国の集まりが九州に移民をしたのが始まり。
その後、「馬韓」は「百済」となり、家族付き合いを続けており、
最終的に「百済」消滅後、「倭」と統合し、現在の「日本」となる。
「朱蒙(チュモン)」は日本の歴史番組でもある。 卑弥呼はプヨから派遣された巫女。
大和王朝 … 扶余系高句麗人の騎馬軍団(蘇我氏など)が日本に来て倭国に王朝を建てたのが始まり
第四代新羅王「脱解尼師今」の血筋が継体天皇。
つまり今の天皇は高句麗、百済、新羅の三国の王家の血を引く王様と言う事だろう。
蘇我氏の努力だろう。
「白村江の戦い」以降の武蔵(東京)での朝鮮半島からの移民の歴史
●666年(天智5年)……「百済人男女約2000人東国移住」
●684年(天武13年)……「百済人僧尼以下23人を武蔵國へ移す」
●687年(持統元年)……「高麗人56人を常陸國、新羅人14人を下野國へ移住」「高麗の僧侶を含む22人を武蔵國へ移住」
●716年(霊亀2年)……高麗郡の設置(駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七カ国の高麗人1779人を武蔵國に移す)
●733年(天平5年)……「埼玉郡の新羅人徳師ら53人に金姓を与える」
●758年(天平宝字2年)……新羅郡の設置(日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵國に移住)
●760年(天平宝字4年)……「新羅人131人を武蔵の地へ移り住む」
114 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 21:16:46
>>111 東遷とは、丸ごと移住してしまうというのではないのです。
たとえば祟神の長子である豊城入彦のほうを東国に使わしたように、
むしろできる子のほうを新しい領土の開拓に向かわせます。
それは危機に見舞われた時に一族が全滅してしまわないための知恵だと思われます。
115 :
日本@名無史さん:2009/10/14(水) 21:36:34
>>114反論する人もいないようですね。つまり、これが結論。
116 :
のんびりひまじん:2009/10/15(木) 00:55:46
>>112 >7世紀、はじめ:首都・太宰府建設 <
この仮説は従来からあった。
ただ、618年=九州年号の倭京元年と建都年代を限定したことは新しい仮説。
>7世紀なかば、:副都・難波宮建設(東国の統治部門) <
>その後 :首都を近江宮へ遷都(太宰府には防衛外交機能残る) <
これら二つともここ二年くらいの仮説。
☆注目しておきたいのは、考古学上の傍証が出るかどうか
117 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/15(木) 01:45:28
119 :
のんびりひまじん:2009/10/15(木) 09:24:24
>>117 なるほど、邪馬壱(台)国広域説 系の議論しています。
いき一郎)日中古代交流を探る 1989 葦書房 が先駆でしょうか。
邪馬壱国は戸数7万の広大な国であった。(←説得力あります。)
井沢元彦)誰が歴史を歪めたか 平成12 祥伝社黄金文庫 では、考古学者の
森浩一さんが、弥生の遺跡集中情況から有明海沿岸地域を有力としています。
なお、3世紀三国志について
蜀が魏に降伏したとき、戸数28万男女94万、
(呉が晋に降伏したとき、戸数52万男女老幼230万)を
参考にすると、邪馬壱国だけで蜀(四川盆地)の4分の一見当として参考意見です。
〜いったんここまで
120 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 10:27:35
山形あつみ温泉の方言
「け」・・食え
「こ」・・食う
博多弁といっしょですね。
江戸時代の北前船以前から渤海との交易で栄えた日本海ルートが存在しました。
青森の十三湖は渤海のナホトカと結ぶ貿易港として栄えました。
環日本海地域は、古代から一つの経済圏だった可能性があります。
この温海温泉、安曇に通ずる名称ですね。
>>120 >山形あつみ温泉の方言
>「け」・・食え
>「こ」・・食う
こは使かわ無いけど、けは北東北では一般的な言葉だろ。
青森は津軽弁でも使うし。
秋田では、けで(食べれ、痒い、こっちに来い)
123 :
のんびりひまじん:2009/10/25(日) 18:29:46
筑紫君サチヤマという人物が、九州王朝の天子だ と古田武彦氏が主張したのはむかしのことでした。
今も、そのように考えているのでしょうか?
(古田氏の主張は、後年にブレることがありました。)
(古田氏の主張のすべてを正しいとしないが基本的に九州王朝説そのものへの賛意は
持ち続ける人も目立ちました。)
古田氏の信念はぶれることはありません。秦氏の末裔、鳩山政権と一緒にしないでくださいね。
ブレるというよりも(小さな)修正というのが適当かも・・・例えば
神武実在主張の中で出発地の筑紫日向を
当初:九州南部の日向(宮崎県)
↓
修正(←当時のファンクラブ:市民の古代研究会メンバーたちの異論)
↓
現説:筑紫(福岡県)の日向(ひなた)
〜古田氏自身が助言による変説を納得というより自慢げに思えた(ナイスアドバイス)
前に読んだ本では、三韓征伐の際にわざわざ南九州に赴いて女酋長を殺したことが記録されているとか。
そこで殺された酋長が、本来中国と国交を交わしていた卑弥呼なんじゃないかと。
トヨ(神功皇后。豊受大神になっている)が卑弥呼の従者とされているのは、中国との国交に関する権益を得るため
現天皇家に繋がる畿内のヤマト政権が卑弥呼との関係の正当性を主張するためなんじゃないかと書かれていた。
結構面白い本だった。
風葬がカゴメカゴメの元とか。
127 :
唐松山:2009/10/27(火) 23:15:09
おどり
ちょこ、ぽっぴっぱ、ちょここ、ほっぺん、ぽっぺん。夏になああれば思いだすうう、ちょこここ、ぽっぴ。
石の地蔵さんのよ〜、ぽっぴっぱ。しょもらん、しょもらん、ちょもらんぱ。ぴっぽぱ。
しこししこしば。ででんこほぺら、にょにょにょにょにょ。マタハ〜リもちんだら、へこもこ、ぽっぽ。ぴー。
128 :
のんびりひまじん:2009/11/06(金) 11:13:34
129 :
日本@名無史さん:2009/11/06(金) 13:57:03
>>112 >7世紀なかば、:副都・難波宮建設(東国の統治部門)
>その後 :首都を近江宮へ遷都(太宰府には防衛外交機能残る)
7世紀なかば頃には大和王権が畿内に在ったので
九州王朝が副都・難波宮建設とか首都を近江宮へ遷都とかは不可能だろう、
上記の事が行われたことが事実なら記紀にもそのことが記されているはず、
隠す理由がない。
131 :
日本@名無史さん:2009/11/06(金) 22:27:08
大宰府跡:古代最大の建物跡 倉庫なら正倉院しのぐ
礎石群がある蔵司地区 九州歴史資料館(福岡県太宰府市)は21日、国の特別史跡大宰府跡(同市観世音寺)の蔵司(くらつかさ)地区に残る礎石群が、古代最大級の建物跡だったと発表した。
倉庫か役所とみられるが、倉庫なら奈良の正倉院をしのぐ規模。資料館は九州を統治した大宰府政庁の重要性を裏付けるもの、としている。
礎石群は大宰府政庁跡の西隣の丘にある。1933年に一度測量された後、詳しい調査はなかった。今年6月から調査を始め、花こう岩の礎石23基と土を固めた基壇を確認した。
礎石は4列で、間隔は南北が約3.3メートル、東西が約4.1メートル。中央だけ南北6.4メートルと間隔があいていた。
礎石の上に柱が建つ総柱建物だったとみられ、全体は南北13メートル、東西37メートル(481平方メートル)。正倉院(433平方メートル)や大宰府政庁正殿(378平方メートル)より大きい。
出土した瓦が大宰府政庁と同じ8世紀(奈良時代)のもので、同時期の建物とみられる。
鉄製の鏃(やじり)や甲冑(かっちゅう)の破片なども約100点見つかった。
地名に残る「蔵司(くらのつかさ)」は大宰府の財源を担当した役所で、税として九州から集めた絹や綿などを管理した。
このため、資料館の一瀬智・主任技師は「税を納めた倉庫か武器庫だったのではないか。
ただ、礎石の配列から倉庫でなく役所だった可能性もある」と話す。
資料館は24日午前9時半から、現地説明会を開く。【扇沢秀明】
◇蔵司の性格明確に
▽大宰府史跡調査研究指導委員会委員長の笹山晴生・東大名誉教授の話 蔵司は非常に重要な役所とされてきたが、その性格がはっきりしてきた。
大宰府の重要さを明らかにする建物だ。
132 :
日本@名無史さん:2009/11/06(金) 23:34:36
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
133 :
のんびりひまじん:2009/11/06(金) 23:55:17
太宰府市の大宰府跡・蔵司の礎石群 九州最大級の古代建物跡 九州歴史資料館が再確認
県教委の大宰府史跡調査研究指導委員会(委員長=笹山晴生・東大名誉教授)と九州歴史資料館(太宰府市)は21日、大宰府政庁跡(同市観世音寺4丁目)
の西側に位置する蔵司(くらつかさ)地区(同3丁目)の礎石群について、奈良・平安時代では九州最大級の建物跡であることを再確認したと発表した。
礎石群は1933年に発見され、測量だけが実施されたが、私有地だったため本格的調査はこれまでできなかった。3年前から同市が土地の買い取りを進め、
同館が6月、調査に着手した。
礎石は全部で40基とされ、調査で23基を確認。その配置から建物規模は南北13メートル、東西37メートルで、1933年の測量結果とほぼ同じだった
という。
建物規模は同時代の大宰府政庁正殿(南北13・3メートル、東西28・4メートル)や、東大寺(奈良市)の正倉院(同34・7メートル、同11・6メー
トル)よりも大きい。
小字名に残った「蔵司」は古代九州を統括した大宰府の役所の一つ。諸国から納められた絹や綿など大宰府の財源を管理していたとされる。同館では
「建物規模から倉庫の可能性が高い」としているが、役所建物や工房などの説もある。
調査は2011年度まで。笹山委員長は「蔵司の解明は大宰府の重要性をより明確にする」と話した。24日午前9時半から現地説明会がある。
同館=092(923)0404。 =2009/10/22付 西日本新聞朝刊=
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/129757 (礎石とは大きいものですな。写真で分かります。)
134 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 14:04:32
乙巳の変の舞台は大宰府だったそうな
135 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 14:41:29
おぬしの部屋はこっちだろw
136 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/07(土) 15:14:20
奈良の農地葦原では、乙巳の変の舞台に成りようがないからね。
137 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 17:46:45
138 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 18:18:35
古田氏は乙巳の変を白村江の戦いの直前の出来事だといってますね。
蘇我氏とは何者?
139 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/07(土) 18:45:09
曽我氏は曽我王朝と呼べるほどの権勢を揮った。
曽我氏の九州王朝内部での関わりにおいては、今のところ糸がうまく整理されなくて繋がらない。
簡単に言えば仮説ができないのだよ。
今更九州王朝説?お前等バカだろ。
141 :
のんびりひまじん:2009/11/07(土) 20:57:47
>>138 >>139 蘇我日向=伊勢王 という仮説を私は準備している。
日本書紀の孝徳大化5(649)年、石川麻呂の変ののち、蘇我日向は
筑紫太宰帥に「左遷」されたまま歴史から消える。(※)
入れ替わりに
伊勢王(※※)が活躍を始めるが、斉明7(661)年または天智6(667)年
に死ぬ。
※九州王朝が健在のタイミングでの太宰府に赴任は左遷であろうはずない。つまり栄転。
関西の豪族代表として九州王朝の首都へ乗り込んだと考えられる。
※※伊勢王は死後にも活躍している(天武紀)。天武紀の伊勢王記事は34年ズラされた記述と
いう仮説が出ている。
☆いずれにしろ、斉明紀・天智紀を通じて記事の重出が10件ほども指摘されているので
解きほぐすことは大切だ。
重大な事実が隠されたとしての数々の仮説が続発するであろう。
信じきらないで、検討を積み重ねることが重要と思います。
仮説の積み重ねは妄想に過ぎない事に
いい加減気付こうな。
143 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 22:02:31
>>141 蘇我日向=伊勢王ということは
蘇我氏は九州王朝の皇族?
でも「関西の豪族代表として九州王朝の首都へ乗り込んだと考えられる。」
だから大和の皇族?
144 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 00:25:54
>>139 ここでの斎藤忠氏の評価はどうなんだろ。
斎藤氏は、このころの日本を、連邦国家九州と連邦国家大和の対立と捉える。
蘇我馬子は大和の豪族でありながら崇峻を裏切り、
台頭してきた大和王朝の芽を摘む(この後、女帝が相次ぐ)。
この功績により九州王朝で重用される。
蝦夷の代になり、九州王朝で実権を奪う。
しかし、乙巳の変でその子入鹿とともに暗殺される。
なお、暗殺したのは九州王朝の末裔である中大兄。
いわゆる「天智」とは別人、としている。
>>142 >仮説の積み重ねは妄想に過ぎない
例えば日本書紀での伊勢王そのものは、重要人物なのに、
系譜不明、二度も死ぬ、死後にも活躍なのか同名の別人か・・・
→仮説を重ねて真相を読み取る努力を続けるべきでしょう。
また、仮説にこだわり過ぎることも留意していたいものです。
146 :
のんびりひまじん:2009/11/08(日) 08:51:31
>>144 >斎藤忠氏の評価はどうなんだろう
>連邦国家九州と連邦国家大和の対立と捉える
・連邦国家という言い方には注目します。豪族集団と考えても良いのではありませんか。
・対立だけと考えてしまうなら、いかがなものか。対抗しつつ同時に並存したのでしょう。
→教科書に採用されつつあるレベルの知見:天下立評を前提すべきでしょう。
評という統一的な地方統治制度が実施したのは九州王朝と仮説するのですが、
関西の豪族集団は積極的に関与したであろう。その中心に関西代表として
蘇我日向=伊勢王が存在したと私は考えます。
仮説を絡めるなら丹波の勢力を忘れちゃダメでしょ。
畿内の鉄はここから供給されていた可能性大なのに。
>>146 つうか、だったらなんで「評」が神奈川県まで広まっていたりするんだよ?
「筑紫王朝が、東日本の太平洋側を支配する」
というのは、地政学的に絶対に120%無理な話で、
現実にも北部九州に首都を置く勢力が、東海・関東を支配できたことは一度も無い。
ここが、九州王朝説の致命的ポイントでもある。
九州に自律的な首長勢力が存在したことは否定しないが、
「博多からでは、広義の東日本(関ヶ原より東)の太平洋側に、絶対に手を伸ばせない」
という致命的な点が足かせとなって、
本州島の全国支配権を握れなかったということは、明らかだろう。
これが、奈良盆地のそれも南部という、よくみると微妙な土地の首長が、
後の皇室となった最大の理由。
奈良盆地南部からは、伊勢回りで東日本を押さえることができる。
うん、別に九州王朝なんてモノがあった事は否定しない。
倭人伝にも伊都に代々王有りと書かれてるし。
でも九州王朝の歴史を後に大和朝廷が書き替えたとか、
はあり得ない。それじゃ皇室が九州から来たとされてる意味無いし。
記録から消されてるのは丹波の勢力でしょ。
>>149 丹波は重要かもしれないが、出雲と一緒で、脇役だよ。主役にはなれない。
(俺は、むしろ記紀の出雲神話が、著しく誇張されて執筆されたと考えている)
これは、実は地形がもたらすもので、
「どうして西南日本の統一王権は畿内が握ったのか」
「8世紀には、すでに国力が大和>>新羅であったのはなぜか」
ということに対する答えでもある。
西南日本の衛星写真を見れば分かるが、
西日本の基本は、微妙な山岳地帯と、それを縫うように流れる河川で、
これは朝鮮半島と基本的には同じ。これでは、高生産性を持つ農地を広く開拓できない。
ちょっと大雨が降るだけで、山裾まで洪水が及んでしまうことになるから。
大きな「平野」や「盆地」は、西日本では畿内にだけある。
この「断層地溝地形(片側だけの傾動地形も含む)」こそが、
畿内の圧倒的優位をもたらした源泉でもある。
(筑後も悪く無いが、なぜ全国支配権を握れないのかは、東国が関わる)
そして、日本最大の「断層地溝地形」は、濃尾&伊勢平野だったりする。
東日本の太平洋側というのは、比較的平野に恵まれた地形で、
関東以北の火山灰土の不利、やませの不利を考えても、
ここを押さえずには、全国覇権は握れなかったのだろうと思われる。
151 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 00:09:24
>>148 筑紫王朝が大和王朝を支配し、
九州の制度を大和王朝が取り入れた、
あるいは強制されたという考えはどうでしょう
>>151 根拠のない妄想です。
皇室は九州から来たと言ってるのに、
わざわざ歴史を改変して隠す必要もない。
>>151 無理大杉(キッパリ
記紀の「畿内中心主義」を貫くと、記紀解釈に無理が生じるというのが、
九州王朝説の出発点だったんじゃなかったのか?(笑)
偉大なる筑紫王朝が、畿内王朝を支配して、
1000kmかなたの関東まで「間接支配」を及ぼしたのかよ(大爆笑
この勢いだと、中華南朝くらい簡単に征服できそうだな>筑紫王朝
どうだい?「中国南朝は、実は九州王朝だった」
「呉の都南京は、実は大宰府だった」なんて
楽しい「大九州王朝説」なんていかがかな??
赤壁の戦いは、実は筑後川で行われたなんて話も面白いだろう。
154 :
のんびりひまじん:2009/11/09(月) 08:26:30
いまのところ、提示していることは、
固定観念からすれば、まさに無理スジの仮説です。
大和王朝が実在したに違いないというどうしようもない固定観念を指摘します。
一例あげておきましょう。
敏達13(584)年、やっと播磨の国に見付けた落第坊主を招いた蘇我馬子が石川に寺を立てた。
(これより仏法はじめておこれり。)
↑
この落差を見よう
↓
九州年号の金光年間(570年代)創建の寺院として、長野県善光寺、愛知県鳳来寺
>>151 は、ほぼ私のいうところ(=大和王朝はマボロシ)に、に近い。
>>154 補足
播磨の国は、大和王朝(実体は関西の地方豪族集団)にとって外国(支配地の外)だった!
>>150 の指摘
地理上の経済的な実力≒生産力≒人口 において関西地域、濃尾&伊勢平野の優位ということは
十分あり得る。それと
文化的、政治的な優位とは別の問題。(→のち、壬申の乱)
地理上の経済的な実力がある場所に普通権力が集中します。
水銀だって大半畿内圏に集中していたという点もあるしね。
九州は大陸、半島の文化が入りやすい土地だが、同時に
戦乱の前線基地でもあったのに、王権なんてのは維持出来ませんよ。
157 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/09(月) 13:00:24
>>156 >九州は大陸、半島の文化が入りやすい土地だが、同時に
>戦乱の前線基地でもあったのに、王権なんてのは維持出来ませんよ。
そうですね。
九州では、1世紀から7世紀まで、50年未満の短期政権の興亡が続きました。
>>154 こりゃひどい。壮大な自爆だよ。
あのな、一度、愛知県の鳳来寺と、長野県元善光寺(のほうがよい)の位置を、
日本地図でよーく見てみろ。
まさに、ずばり、「東日本の太平洋側」だ。関ヶ原のはるか彼方にして、
博多から日本海回りでは、どうやっても到達不可能なところ。
どう足掻いても、絶 対 に 筑 紫 勢 の 手 の 届 く と こ ろ で は な い 。
ここは、東国固有の地域体質のかなり強いところで、九州どころか、畿内勢でさえ、
古代には、支配におくためにかなり手間取ったところ。
三遠銅鐸の分布や、神社の分布が物語る。
それだけでなく、これはひどい自爆なんだよ。
三河国奥三河(鳳来寺)や、長野県南信(元善光寺)で、
「九州年号」なる記録があるということは、
つまり、これは「九州の年号ではあり得ない」という、有力な証拠になってしまう。
なにしろ、地理的に、筑紫の手が決して届かないところなのだから。
「九州年号なるもの」が、本当に九州のものなのか、実に疑わしくなる。
「
159 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 21:09:54
九州は朝鮮半島より、むしろ、中国の山東半島や福建省の影響が強かったと思いますね。
朝鮮半島からの漂流者は、潮流に流されて、出雲や越後に着くことが多かった。
やはり、筑紫の磐井は、斉い(岩井)だったとするのが妥当。
この考え方は、かなり明確な視点を提供する。
簡単な話だ。
「東日本の太平洋側(濃尾伊勢以東)に伝わっている要素は、筑紫勢力の要素ではあり得ない」
これだけで、かなりのものがそぎ落とされ、
九州王朝説なるものが、コーエー(ゲーム会社)もびっくりの
とんでもない妄想から、少しはマシな視点を得ることになるだろう。
ただ、「古代の偉大なる大筑紫帝国」の「産物」は、おそらく1/4程度になるだろうけどね。
>>145のような妄想は、なぜ起きるのかといえば、理由は実は簡単なんだ。
「九州王朝論者が、真正の畿内勢力の話のかなりの部分を、筑紫の話にパクっているから」
何のことは無い。剽窃していたのは、九州のほうだったのだ。
この剽窃を正当化しようとすれば、
筑紫を首都とする、偉大なる大九州王朝が、
1000km近く離れ、山を越え谷を越え、対立する諸勢力をいくつも乗り越えて、
東海やら関東に、帝国支配を及ぼすという話にならざるを得ない。
このためには、とてつもない強大な中央権力が必要だ。
こんな権力があれば、朝鮮南部どころか、遼東半島まで楽々支配できようし、
江南や山東半島も、「大筑紫帝国」の版図に楽々入るはずということになる。
嘘に嘘を重ねると、こういうひどいことになる。
実際、真正の「筑紫勢力」である倭寇は、江南から華北、朝鮮西岸全域を荒らし回っていた。
しかし、同時期、鳳来寺の近く、例えば愛知県の渥美半島に、
筑紫の海賊が襲ってきたなんて話は聞いたことが無い。
別に、九州にそれなりの首長制があったことは否定しないよ。
魏志倭人伝なるものは、おそらく九州のどっかの女酋長の話を、
極めて不正確に記述したものと思われる。
(が、あまりに不正確で粗雑すぎるので、どうみてもまともに扱うべき「文献」ではない。)
ただ、仮に九州を統合する勢力が生まれていたとしても、その支配圏は
精々、今の「福岡の政治・経済圏(=九州ブロック)」程度が関の山だろう。
南端を除く九州島と、精々、本州の西端部(山口県)くらい。
こういう勢力圏というのは、歴史を通じてあまり変わるものでは無い。
これ以上、何か支配を東に広げたというのは、明らかに妄想だ。
163 :
唐松山:2009/11/09(月) 21:34:26
いいじゃねの。九州王朝なんてオウムと同じで、新しい九州年号とかそれらしくこじつけるだけで、
教団内で地位が上がっていくんだよ。まさにカルトだし、怖ろしいね。おそらく実生活においては
敗残者の集団。
164 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/09(月) 21:35:38
>>160 6世紀初頭まで九州王朝(倭國)は1歩たりとも九州島より東に進出していません。
九州外の諸国を傘下のゆるい国家連合の一国に加えることはあったでしょうが。
それらの諸国は倭國とは別国です。
隋書には倭國は九州島の範囲であると明記されています。
『俀國在百濟 新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居・・・・・其國境東西五月行 南北三月行 各至於海』
165 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/09(月) 21:49:28
>>162 7世紀初頭までの状況についてはは同意。
九州王朝が九州以外の他地域に進出しようとした時が崩壊の始まり。
7世紀末には九州王朝の崩壊は完了。
166 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 21:57:11
九州北部勢力と日向宇佐勢力が繋がっているような感じがしない。
九州内でも遠いんだ。文化も違う。宇佐と宗像が繋がっているような
記述もあるが、北九州筑豊ルートで細々と繋がっていたのかも知れない。
日向→東遷(瀬戸内海ルートで畿内へ)→白村江で北部九州征服
なんて妄想持ってたりする。
倭の征服は7世紀から8世紀とかなり遅い形跡がある。
167 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/09(月) 22:50:40
>>164の間違いを修正
×:6世紀初頭まで九州王朝(倭國)は1歩たりとも九州島より東に進出していません。
○:7世紀初頭まで九州王朝(倭國)は1歩たりとも九州島より東に進出していません。
>>167 九州王朝氏は、通典などに見える659年の蝦夷國朝貢記事をどう考えますか?
>蝦夷國、海島中小國也。其使鬚長四尺、尤善弓矢。挿箭於首、令人戴而立、四十歩射之、無不中者。
>>108 再掲
>九州年号なるものの文献残存地を見ると・・・
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html 九州に多いのは確かですが、なんと
青森、秋田、宮城、福島、群馬・・・といった遠方からも
見付かる。
いったい九州王朝が直接的に支配していたのか? それとも、単に
文化面の指導力:カレンダーの発行元という程度なのか?<
まず、史料事実は、共有尊重したい。(解釈意見は分かれるとしても)
年号史料として、那須国造碑がある。なんと唐の年号で
永昌元年(=九州年号・朱鳥4=日本書紀・持統3=ad689)とある。
古代年号(九州年号)が全国的に検出できるとしても、文化面の指導性は言えても、
そのまま政治的支配であったかは別かも知れない。
170 :
のんびりひまじん:2009/11/10(火) 01:02:12
>>166 >宇佐と宗像が繋がっているような 記述もある<
どの文献のどこに、その記述があるのでしょうか?
>>164 >東西五月行 南北三月行<
距離で 東西方向 > 南北方向
これを九州島内と考えるのですか?
>>170 そんなことも知らんのか。
日本書紀だよ。
宗像三女神を宇佐嶋に降らせたとある。
172 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/10(火) 01:42:59
>>168 蝦夷国は、旧唐書の日本國(畿内王朝)と同列の日本列島内の独立政権です。
しかし倭國の影響下にありました。被支配下にあったのではありません。
倭國が唐に朝貢しないので、日本國と共に唐への朝貢の機会を得る為に遺使したのでしょう。
日本國の入朝者は、「多自矜大 不以實對」と唐側に思われて、この時には朝貢に失敗しましたが、
蝦夷国は朝貢に成功したのです。
蝦夷国は、旧唐書に言う「毛人之國」の一国で、仙台平野に都を置く北上川流域から福島県までを領域とする日高見國(東北王朝)です。
その都は、650年頃郡山遺跡に置き、7世紀末には多賀城に遷都しました。
又九州王朝倭國の衰退滅亡期にはその亡命者の受け入れもしました。
この亡命者の受け入れが福島県の浜通りの製鉄と共に、8世紀の畿内王朝の日高見國侵攻のきっかけとなったと思われます。
>>172 しかし、通典では「隨倭國使人入朝」、
蝦夷国は倭国の使者とともに朝貢したとされていますが。
174 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/10(火) 03:04:18
>>173 倭國の使者に日本國(畿内国)の使者と蝦夷國の使者がつれだったのです。
日本國と蝦夷國が一緒だったことは日本書紀にあります。
>>170 済州島は『其南海行三月 有[身冉]牟羅國 南北千餘里 東西數百里』(隋書百濟伝)ですから。
百濟の錦江河口から済州島までが「三月行」(約260km)の距離、
済州島の東西幅は千餘里(約75km)、南北幅は数百里(約50km)。
『其國境東西五月行 南北三月行 各至於海』
同様に、九州島の東西幅は三月行(約250km)、南北幅は五月行(約400km)
(其國境とあるから俀國は対馬を含む九州島となる。)
175 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 22:02:18
ところで、話題の纒向は邪馬台国でいいの?
176 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 22:06:13
un
177 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/11(水) 23:03:10
今大阪6chでしている纒向は崇神朝の宮殿址だと思う。
178 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 23:04:12
九州から来た神武が建てたものだろう。
179 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/11(水) 23:25:14
>>178 神武の建物はもっと南の奈良盆地湖の南岸だよ。
どちらも茅葺の掘っ立ての建造物だな。纒向も。
ところで、
神武は西暦何年頃の人と思う?
崇神は西暦何年頃の人と思う?
纒向は景行・成務の頃の遺跡の様に思える。
180 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 00:51:16
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
181 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 15:38:01
179 :神武の建物はもっと南の奈良盆地湖の南岸だよ。
これ、止めといた方がいい。以前あるスレで奈良湖のことを書いてえらい目に会った。
182 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/12(木) 16:55:27
>>181 >>179 :神武の建物はもっと南の奈良盆地湖の南岸だよ。
>これ、止めといた方がいい。以前あるスレで奈良湖のことを書いてえらい目に会った。
奈良盆地湖の消長を知らないので、えらい目にあったのでしょうね。
奈良盆地湖の流出口が4ヶ所あったことをご存知ないのでしょうね?
183 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 18:12:52
纒向の年代測定って14Cを使ってるのかな?
184 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 20:44:36
九州王朝はなかった
186 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/14(土) 00:38:31
>>181 >>179の修正
× 神武の建物はもっと南の奈良盆地湖の南岸だよ。
○ 神武の建物は纒向の南西方向の奈良盆地湖の南岸だよ。
神武の住居は、奈良盆地湖南岸の芦原の周辺。
187 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 02:39:34
奈良盆地湖っていうのは、邪馬台国の頃も水上交通が発達するような
大きな湖だったのか、それとも広大な湿地帯だったのか
今みたいな平野になったのはいつ頃?
この弥生時代から古墳時代の村は盆地にありました。
由布院盆地、その昔、由布湖があったところを由布岳の化身宇奈岐日女が堰を蹴破って盆地にした。
それが卑弥呼だったと考えられる。
189 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/14(土) 16:17:01
>>187 邪馬台国の時代、すなわち3世紀は崇神期になると見ています。
広瀬神社縁起によると、崇神6年に盆地湖最深部湖底は陸化しています。
崇神1年が3世紀の前半か後半であったかによりますが、
奈良盆地湖は沼沢池化しているか消失していたことになります。
どちらにせよ発達した水上交通の時代ではありません。
崇神期以降盆地湖が再度現れたことはありません。
以後盆地湖跡は大穀倉地になったようです。
なお、水上交通が発達していたのは、縄文期で、
湖水面が海抜80m位にあった頃のことです。
九州説のひとってなんで潔く負けを認められないの?
馬鹿なの?
191 :
のんびりひまじん:2009/11/22(日) 22:40:29
ただ今の新刊 榊原康彦「異論 壬申の乱」の中での九州王朝説理解の仕方に
大いに異論をもつのですが、読んだ人はおられますか?
>>190 貴殿は、これしきの書物はもうお読みのことでしょう。コメントありますか?
>>190まだ決まったわけではないのに、なんで負けを認める必要があるの?
というか、歴史研究に勝ち負けなんてない。
【日本国家の成立】
【日本民族の統一】
@神武朝(神話)
A崇神朝(ヤマト:マキムク)
B応神仁徳朝(筑紫朝)
C顕宗仁賢朝(播磨朝)
D継体欽明朝(越近江朝)
【天智天武】律令体制
【聖武】平城京
【桓武】平安京
*【幕府体制】*
【明治】維新近代化
【現在】125代今上
(各王朝内は「男系」で繋がり各王朝間は実質「女系」で維持。王朝内に女帝は置かれたが女系は認められなかった)
畿内説を支持する人たちって程度が低いから論争にならないんだよね
195 :
唐松山:2009/11/28(土) 16:10:36
hf
>>192 あるだろ。
公開土王の碑文改竄説なんて電波もあったけど今じゃプギャーじゃねえか。
197 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/02(水) 05:45:25
九州王朝の畿内進出は欽明長期政権もそのひとつ。
継体死亡後、安閑宣化を退位させたのは九州王朝系の欽明である。(血統ではなく政治勢力としての九州系)
推古等の阿蘇ピンク石を石棺に使った天皇も九州系。(血統ではなく政治勢力としての九州系)
継体等も最初は九州に順化していたが、九州の弱体化に乗じて反乱を起したのだが。
>>197 欽明と九州が、どうやったら結びつぐんだ?
欽明を持ち上げたのは、蘇我稲目だろ!
199 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 06:38:42
「九州王朝は、なかったのか?」「なかった!」
結論がでたので、このスレは終了しました。サヨウナラ。
200 :
のんびりひまじん:2009/12/02(水) 08:44:59
>>197 >継体等も最初は九州に順化していたが、九州の弱体化に乗じて反乱を起したのだが。
磐井の乱VS継体の乱 という論議とは別に提起されているものに関西は無関係とする
九州王朝内部での戦乱説があります。周辺状況からは説得力です。
近畿王朝(関西地方豪族集団)が、そのような九州王朝への挑戦を企画する状況は、
その時点ではまだ生まれていなかったというのです。
九州の古田学派(といってもアマチュアたちです)が、提唱しているとか。
参考)
敏達13(584)年、播磨から落第坊主を迎えた蘇我馬子が寺を建てた。
↑
ここより仏法はじめておこれり と関西地域の実情を述べています。
この時点で九州王朝はすでに各地に寺院を建設指導していました。
対比して、ひどい後進地域の関西が大それた反乱など企てることは有り得ない。
なお、欽明天皇にはその架空性が強く指摘されています。(例えば子孫氏族ゼロ)
一項目を追加します。
近畿王朝はあったのか?
近畿王朝は、いつごろから九州への発言をしはじめたのか?
202 :
サガミハラハラ:2009/12/02(水) 09:29:01
近畿王朝(大和王朝)の九州への発言はAD286年ごろであろうと考えられます。
203 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/02(水) 10:26:07
近畿王朝はなかった。
敢えてあったとするならば、それは8世紀から。
畿内の九州への発言はなかったが、唐への発言は7世紀から、蝦夷と同じ時期に開始。
204 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/02(水) 11:13:08
磐井の乱も継体の乱もなかった。
釣川流域(後の胸形)や遠賀川流域勢力の乱に継体が乗ったのだ。
実態は磐井の半島政策に耐えかねた上記勢力と継体との不戦協定程度か。
播磨國は扶桑國と呼ばれ畿内より先進地域。
畿内は播磨に避難した顕宗仁賢に手も足も出せなかった。
欽明は豊前の影響下にあった傀儡。欽明は豊前出身とも考えられる。
その意味で欽明は複数の人間を一人にまとめた架空天皇として書かれているようでもある。
205 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/02(水) 11:29:49
「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名
或曰 倭國自悪其名不雅 改爲日本 或云日本舊小國
併倭國之地 其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉」
上記は畿内政権が畿内勢力と九州勢力との混成政権であることを示している。
206 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 11:39:39
>>201 >近畿王朝は、いつごろから九州への発言をしはじめたのか?
この 発言 の意味はなんですか ?
207 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 19:29:26
「近畿王朝」はなかったが、邪馬台国である「大和朝廷」は大昔からあった。
派生氏族の有無を言うなら、逆に多すぎるところも怪しいかと。
>>201 畿内と九州との間に対立関係が生じたのは何時かと言うことでしょうか?
九州>畿内 が 九州≧畿内くらいの関係に変わったころと。
三世紀じゃ早すぎますか?
211 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 19:50:43
九州年号と大和朝廷の年号が入れ替わった時期
実勢力はもう少し前に入れ替わっただろうけど
212 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/02(水) 21:20:41
実勢力が逆転したので、文武が天皇を名乗れた。
逆転は697年
海ゆかば 水漬く屍
山ゆかば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ
216 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/03(木) 11:35:13
畿内と九州の実勢力が逆転した697年から何が起きたのか。
文武が天皇を称した。
畿内九州の2王朝の並立。
胸形氏等九州豪族(君と称した諸侯)の九州王朝に対する造反。
造反九州豪族による筑紫肥後の軍事的制圧。
畿内九州王朝派軍事拠点である高安城の軍事的制圧。
日向の軍事的制圧。699年
畿内の南方諸島(種子島・屋久島・奄美大島・徳之島)に対する懐柔。699年
薩摩に落ち延びた九州王朝を制圧。700年
対馬が大和朝廷に帰順表明。701年
以後肥前海岸部を中心に九州王朝の大和朝廷に対する抵抗が続く。
九州王朝の抵抗が終わり、古事記の文書化開始。
九州王朝残党壊滅完了により、日本書紀の編纂開始。615年頃
8世紀に入ると、九州西岸海域での九州王朝派の抵抗が続き、
大和朝廷の遣唐使は北部九州からの派遣が不可能となり、
遣唐使は薩摩からの出発帰着となるが、
海賊化した九州王朝派の為、遣唐使の成功率が20%以下に低下。
217 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 00:08:32
>>216 >胸形氏等九州豪族(君と称した諸侯)の九州王朝に対する造反。
おだやかでない表現だがkwsk。
胸形君徳善は天武天皇に娘を差し出したので697年から造反というのはよくわからない。
沖ノ島祭祀は明らかに胸形氏が関与したはずで、7世紀後半に造反したのであれば奉献物が
8世紀からしょぼくなった意味がよくわからない。むしろ豪華になるはずでは?
218 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/04(金) 06:59:18
>>217 >おだやかでない表現だがkwsk。
九州王朝は天武(九州派)の末期に畿内に遷都しています。
しかし、九州王朝の天皇は持統の時(695年)に畿内派(文武G)によって抹殺され、
九州で新たに新天皇(天武関係者か?)が擁立されます。
胸形君徳善の子はその新天皇に対して造反したのです。
我が身を守る為の造反ですから、文武に忠誠であったわけではありません。
胸形君は壱岐ルートの豪族を出し抜いて畿内への利権を得ていたのです。
胸形君徳善はその利権の為に天武に娘を差し出したのでは?
8世紀になると畿内の大和朝廷は、唐との直接交易の姿勢であった為、
胸形氏の存在価値はなかったのでしょう。
なお宗像氏は多利思北孤の出身母体です。
219 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 07:41:49
>>218 ソースが明記されていない。
どの文献のどういう文章から導きされた仮設なのかをkwsk
妄想だから相手にするのがおかしい
221 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 09:18:45
>>218 >九州王朝は天武(九州派)の末期に畿内に遷都しています
遷都したと仮定した場合
>九州で新たに新天皇(天武関係者か?)が擁立されます
遷都後に新たに九州で擁立されるのはおかしくないですか。
【日本国家成立史】
【日本民族の統一】
@神武朝(神話)
A崇神朝(ヤマトマキムク)
B応神仁徳朝(筑紫朝)
C顕宗仁賢朝(播磨朝)
D継体欽明朝(越近江朝)
【天智天武】律令体制
【文武聖武】平城京
【桓武】平安京
〜【幕府体制】〜
【明治大正昭和】近代日本
■■■■■■■■
【*】連合体としてのヤマトマキムク
【*】筑紫朝による畿内王権の制圧
【*】筑紫朝断絶、播磨朝による連合体の調整
【*】磐井と継体が「応神の子孫」を名乗って内乱
【*】継体の勝利、しかし畿内豪族のクーデターにより「欽明朝」成立!
■■■■■■■■
各王朝内は「男系」で繋がり各王朝間は実質「女系」で維持。女帝は置かれたが女系は認められなかった。
【現在125代】
223 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/04(金) 09:47:36
>>219 ソース文献その他を示してkwsk説明すると長文になるので時間的猶予を。
>>221 誤解してます。
九州王朝の天皇は持統の時(695年)に畿内派(文武G)によって抹殺されたので、
抹殺後に新たに九州で新天皇(女帝)が擁立された。
224 :
221:2009/12/04(金) 11:21:03
>>223 >誤解してます。
>九州王朝の天皇は持統の時(695年)に畿内派(文武G)によって抹殺されたので、
>抹殺後に新たに九州で新天皇(女帝)が擁立された。
遷都したが、まだ統一してるわけではないので、両方に天皇がいたということですか ?
225 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 22:54:38
>>218 >なお宗像氏は多利思北孤の出身母体です
九州王朝説論者の間では痛切なのかもしれないが文献の引用をしてよ。
宗像族は海人だからアメノの付く人物の祖先なの?
安曇氏や津守氏は違うの?
アメノタリシホコは宗像徳善の祖先なの?
226 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 01:49:10
>>203 「唐会要」「新唐書」にある、倭国の使者が、蝦夷を伴って、唐に入朝したという記録はどうなるのでしょうか。
九州王朝が、畿内を飛び越えて、東国から蝦夷を連れてきたということなのでしょうか。
倭の五王の記録もあり、不自然な気がするのですが。
227 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/05(土) 01:50:09
>>224 九州王朝兄王(天皇)の所在地
大宰府倭京
↓移動
難波京(副都)
↓遷都
飛鳥岡本京
↓
695年 飛鳥にて天皇死亡
695年 大宰府倭都にて女性天皇擁立
↓
↓697年 文武天皇即位於藤原京(大和朝廷初代天皇)
↓
700年 女性天皇退位於薩摩
↓
710年頃 九州王朝の滅亡
228 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/05(土) 02:17:15
>>225 何が通説なのかは知りません
文献によるものではありません。
宮地嶽古墳が宗像徳善の墓ではなく、
多利思北孤の墓であると現地調査からわかったからです。
僕の視点
多利思北孤は九州王朝の弟王である。
即ち、多利思北孤は九州王朝兄王である「天皇」ではなく、
仏法で治める「法皇」である。
229 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 02:23:11
>>228 宗像族はこてこての民族宗教である神社神道の使徒では?
仏教は九州にもいち早く入ったかもしれないが、宗像族を代表する人が仏法に通じているというのは理解しがたいな。
それと宮地嶽古墳が多利思北孤の墓?冠の話かい?
冠だけで人物の特定までできるとは思えないが。
すると宗像徳善の墓はどれになるの?
230 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/05(土) 02:32:36
>>226 倭國(俀國)は唐と正式の国交はありませんが、
倭國(俀國)の非公式な使節に伴って日本國と蝦夷國の使節が唐に渡ったのです。
倭國の使節は案内役の立場。
その訪問結果は、
日本國使節はその言動で唐の不信を買い交渉に失敗、
蝦夷國は外交交渉に成功し、唐への朝貢成立。
231 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/05(土) 03:33:38
>>229 6〜7世紀の仏教は宗教ではなく、仏法即ち思想です。
九州王朝の兄王は宗教(神道)で政治をし、
弟王は思想(仏法)で世俗政治をします。
多利思北孤は「法皇」であり、その元号は「法興」です。
多利思北孤は、現代と同様「法」に基づいた政治をしたのです。
石室の出土品に骨壷がありました。
埋葬は仏法者としてされたのです。
現在はその骨壷を容器に入れて展示しているようです。模造品だと思うが。
冠は近辺の宗形氏一族の墓から出てきたものです。
232 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/05(土) 03:36:49
>>229 宗像徳善の墓は王冠の出てきた古墳かもしれない。
>>231 > 6〜7世紀の仏教は宗教ではなく、仏法即ち思想です。
> 九州王朝の兄王は宗教(神道)で政治をし、
> 弟王は思想(仏法)で世俗政治をします。
> 多利思北孤は「法皇」であり、その元号は「法興」です。
> 多利思北孤は、現代と同様「法」に基づいた政治をしたのです。
基本的なところで、「多利思北孤」は「天子」とも自称しているので「天」側に分類するべきでは無いですか?
234 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 10:36:41
>>231 >九州王朝の兄王は宗教(神道)で政治をし、
>弟王は思想(仏法)で世俗政治をします
隋書をみると多利思北孤が兄のように読めますけど。
235 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 10:55:41
236 :
のんびりひまじん:2009/12/05(土) 11:34:04
>>227 異論します
618大宰府(九州年号:倭京)
↓
649蘇我日向を九州王朝内へ派遣(筑紫太宰卒)・・・両王朝和解・人事交流の第一歩
↓
651副都:難波京(首都はまだ太宰府)・・・・両王朝接近第二ステップ
↓ 倭人連合国として評:地方制度、冠位など全国統一制度化
↓
653 日向に続き中大兄、皇極上皇・間人皇后・皇弟ら、近畿の百官が倭京(太宰府)へ遷る
654倭人連合合同の遣唐使:近畿代表高向玄理がはじめて日本を名乗った
↓
↓この間、関西地方豪族集団が水表の軍政(倭人連合で蝦夷を帰服させるなど)の中心となる
↓ 尾張・上毛野などの他の地方豪族も順次倭人連合へ参加
↓
658 倭人連合内で多数派工作:守大石を上毛野へ、坂合部連薬を尾張へ派遣
659 蝦夷を含む連合遣唐使(伊吉博徳の書:使節たち長安・洛陽に分離抑留)
660 百済首都陥落。(使節たち釈放)
↓
661(または667九州王朝天子&中大兄たちが太宰府より)大津宮へ遷都
↓
663 白村江敗戦:実権を中大兄たち関西豪族集団が掌握
〜いったん、ここまで
237 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/05(土) 12:19:46
>>233 >>234 多利思北孤は私は天子であると云い、
一方、王(天子)には兄王(天子)と弟王(天子)が夜昼交代で政治をしていると使者が云う。
シナ側から見ればおかしな話だ。
現代日本人から見ても同様だ。
天子は2人で一役、外交等昼の世俗業務をする多利思北孤は弟天子(弟王)となる。
もうどうでもいいや・・
どうせ九州なんて・・
239 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/05(土) 14:35:25
>>235 昭和26年に宮地嶽古墳石室から出土した
宝冠と呼ばれているものは多利思北孤のものです。
二十年位前にお話した宮司さんは子供の頃遊んでいた石のトンネルから
いろんなものが出土したので驚いていました。
その時骨壷や飾り金具の話を聞きました。
240 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/05(土) 14:41:58
>>236 異論を続けてください。
特に680年以降に興味があります。異論を期待しています。
上記663年までのことは僕にとっては異論ではありません。
241 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 14:46:39
>>239 回答ありがとうございます。
ということは、やはり徳善の墓は宮地嶽古墳かもしれないが宮地嶽古墳からでてきた宝冠はタリシホコの
ものと考えているわけなのですね。
>なお宗像氏は多利思北孤の出身母体です。
これについてもう少し訊かせてください。
海人も何種類かの系統があります。
大きく分けると屋船のワタツミ系海人族、潜水漁法の宗像系海人族です。
ワタツミ系海人族は安曇氏をかしらとするワタツミ神、宗像系海人族は宗像氏もそうですし、
住吉神社を信奉する津守氏をかしらとするグループであったと思われます。
ややこしいので第3のグループとして住吉系を宗像系から分けてもいいです。
多利思北孤は宗像族とのみ関係があり、ワタツミ系や住吉系とは関係がなかったということでよいでしょうか?
その場合、ワタツミ系や住吉系は九州王朝あるいは近畿王朝とどのようにかかわったのでしょうか?
242 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/05(土) 15:20:35
>>241 宮地嶽古墳は多利思北孤の埋葬場所ですよ。
周辺の墳からも豪華な装飾品が出土していますから、
その一つが徳善の墓だと思います。
海人族のことはわかりません。
多利思北孤の墓は別のいろんな事象から推定し、
二十数年前に確認に行き、骨壷の話を聞き確信したしだいです。
243 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 19:52:07
244 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/06(日) 07:41:38
質問です。どなたか教えて下さい。
宮地嶽古墳が多利思北孤の墓であることについて、
古田武彦氏がその著書で述べていたことを思い出したのですが、
それはどの著書に書かれていたのでしょうか?
不動神社の宮司さんのことが書かれていたかを確認したくての質問です。
それにしても古墳が国指定史跡になって様変わりしていますね。
>九州王朝は、なかったのか?
ねーよww
247 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 14:06:50
248 :
倭奴国:2009/12/06(日) 19:48:19
249 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/07(月) 10:57:31
>>247 古賀達也氏の玉垂命についての会報(2編)は初めて読みました。
僕は彼の考察内容については基本的には支持できる立場にあります。
彼の論では玉垂命が2人おり、女性であることです。
讃の直前の玉垂命@と多利思北孤直前の玉垂命Aの2人です。
玉垂命@Aは、女性であり、神事に関わっていることから兄王であり、
讃と多利思北孤は弟王です。←昔からの僕の持論
玉垂命@と讃、玉垂命Aと多利思北孤は、それぞれ同時代の兄弟王と考えられます。
三潴にいた兄王玉垂命Aが弟王多利思北孤に成り代わって、宗像三女神を祭ったのです。
疑問点は、水沼君の様に「君」と呼ばれる人物は、弟王になりうる立場にある人物でことです。
また、倭王旨は弟王であり、玉垂命@は兄王で、同時代の別人と思われます。
もっと詳しく調べてみる必要がありますが。
九州王朝には都が2つあります。兄王の都と弟王の都です。
この2つは近隣にあることもあれば、遠くに離れてあることもあります。
特に兄王の都は点々と移転していたようです。
九州王朝の元号「定居」としても見られます。
250 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 23:46:04
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
あああ おじゃまかよ〜 おじゃまああかよ〜〜 さても東西、九州王朝の皆様方へ、はっふんぽこぺん
ぽこぺんぴ。へこきゲルゲがやってくる。はあ、やってくる。
252 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 20:29:51
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
253 :
のんびりひまじん:2009/12/10(木) 09:49:58
で、九州王朝説では四国はどういう扱いなんだ?
255 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 21:06:21
256 :
のんびりひまじん:2009/12/10(木) 21:56:27
257 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 11:32:43
>>242 >・・・骨壷の話を聞き確信したしだいです。
骨壺ってことは火葬されてたんですかね ?
殯(もがり)にして後で拾いに行ったにきまってるだろう?!
259 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/12(土) 10:10:59
>>257 火葬にしないとあの小さなガラス容器に骨を入れることはできない。
ポイントは、遺体を焼いて小さな骨壷に骨の破片入れる葬儀方法が
仏教のやりかたであると言うこと。
つまり宮地嶽古墳の被葬者は仏教を信奉している人物であることを示している。
一方宮地嶽周辺の古墳群は宗像氏一族のもので、仏葬をするとは考えられない。
又この時代には貴人の葬儀では、死後直に埋葬しないで遺体を棺に入れてしばらく置く(殯)。(隋書俀國伝より)
この大型石室古墳の被葬者は強烈な仏法信奉者であることがわかる。
この時代にいたその様な人物は、「菩薩天子」であり「法皇」であり
年号「法興」を持つ多利思北孤となる。
260 :
257:2009/12/12(土) 13:11:03
>>259 ありがとうございます。骨が残っていれば、簡単に確認できるんでしょうけど。
多利思北孤とするのは、楽しい想像ですが、なぜ、この地に埋葬されたのか、ちょっとひっかかりますね。
261 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/12(土) 14:43:48
>>260 楽しい想像ではありません、仮説の段階に入っています。
この地に埋葬されたのは、多利思北孤が宗像氏出身だからです。
これは磐井の乱が、九州内の内乱であったことに遡ります。
磐井に対して、北部九州沿岸の反乱した側の勢力のひとつが宗像氏と推察されるところです。
磐井は北部九州沿岸部の勢力と肥の勢力の挟み撃ちにあったのでしょう。
上記仮説にたいしては、未検証部分がまだあります。
邪馬台国、つまり山田国と天香香背男の関係について考えてみました。
そう、山田の中の一本足の案山子。
天香香背男とは田を守る神だったことがわかります。
日本書紀では甕星天香香背男は、景行天皇の東国遠征で最後まで抵抗した悪神として描かれていますが、
景行天皇の時代と魏志倭人伝の時代が重なること、日本書紀には邪馬台国のことが書かれていないこと
を考えると、邪馬台国は関東にあったと考えるのだ妥当です。
はあ、ぴいちくぱあちく ヒバリの子。
ミユキー、ミユキー服地はミユキー、紳士だったら知っている、服地はミユキと知っている。ミユキ、ミユキテックス。
ミユキ、ファンシーテックス、ミユキー、ミユキー服地はミユキー。
265 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 17:36:25
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
266 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 01:14:23
磐井とは、斉の国の九州における直轄地だったと見ればわかりやすい。
卑弥呼は斉国王の妹王。
しかし、その逆の可能性も否定できない。斉国は邪馬台国の直轄地だった。
それが魏王になって、卑弥呼は魏に祝いのための使節団を送った。
魏の廃帝は卑弥呼の弟王だったのだ。
基地がいキタ━(゚∀゚)━!!
枯葉舞う空に おなら放き出す 夕まずめ
270 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 22:14:13
きいいん らああん どおんすうう の 帯締めなああがら 花嫁ごおおりょおおは なあぜ泣くのおおだろお
271 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/21(月) 19:57:04
>>266 >あってると思う。
古田史学の会・東海 石田泉城氏のホームページを発見しました。
「磐井の乱は九州内乱」
僕の考え方とよく似ています。
彼が先人なのか、僕が先人なのか、同時期に良く似たことを考えていたのか?
彼は磐井の乱の流れを7世紀迄引っぱることをしているのかな?
272 :
のんびりひまじん:2009/12/22(火) 17:05:56
>>271 >古田史学の会・東海 石田泉城氏のホームページ<
↑
Urlを示していただきたい。
なお、>「磐井の乱は九州内乱」 < という意見は
http://www.d7.dion.ne.jp/~sekai/wiki.htm にも
以下のことから磐井の乱は九州内の反乱・王朝交代と考えられる。
継体とは「体制を引継ぎ維持する」を意味する諡号である。
「二中歴」によれば、九州年号は継体から始まっている。
☆このように書かれてあり、九州王朝説者なら、ほぼ常識のようです。
日本各地に王朝はあった!
九州筑紫王朝は、応神の時にヤマトの中央王朝になったが、磐井の反乱で滅ぼされた!
274 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/22(火) 18:47:50
275 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/22(火) 18:54:37
276 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/22(火) 19:11:00
>>272 「磐井の乱は九州内乱」は以下の事とリンクしています。
@久留米は卑彌呼の時代から多利思北孤の618年大宰府遷都まで倭の都であった。
A倭の五王、磐井、多利思北孤、薩夜麻は弟王である。
277 :
のんびりひまじん:2009/12/22(火) 21:45:10
>>276 には、九州と関西の対比として
>>200 も繋がるのです。
>敏達13(584)年、やっと播磨の国に見付けた落第坊主を招いた蘇我馬子が石川に寺を立てた。
(これより仏法はじめておこれり。)
↑
この落差を見よう
↓
九州年号の金光年間(570年代)創建の寺院として、長野県善光寺、愛知県鳳来寺 <
九州年号という時点でダメだわw
279 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/23(水) 00:59:44
>>277 播磨は先進地域、畿内とは違って、5世中庸の457年(大明二年)には
仏教がシナ(宋)から直接伝わっており、
499年(永元元年)に、播磨國(扶桑國)の僧慧深が
湖北省(荊州)に渡っていることが梁書に見られます。
280 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 17:33:00
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
281 :
のんびりひまじん:2009/12/24(木) 09:05:32
282 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 11:59:43
>>276 >@久留米は卑彌呼の時代から多利思北孤の618年大宰府遷都まで倭の都であった。
>A倭の五王、磐井、多利思北孤、薩夜麻は弟王である。
倭国が兄弟王統治の形式をとり続けている説には共感できます。
ただ、太宰府が都督府とよばれていることから、倭の五王の時代には弟王が、太宰府に
いて、兄王が久留米にいたほうが対半島政策にも都合がよさそうですけど。
どちらが都とよばれていたかはわかりませんが。
283 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 12:34:30
>>276 >@久留米は卑彌呼の時代から多利思北孤の618年大宰府遷都まで倭の都であった。
>A倭の五王、磐井、多利思北孤、薩夜麻は弟王である。
倭国が兄弟王統治の形式をとり続けている説には共感できます。
ただ、太宰府が都督府とよばれていることから、倭の五王の時代には弟王が、太宰府に
いて、兄王が久留米にいたほうが対半島政策にも都合がよさそうですけど。
どちらが都とよばれていたかはわかりませんが。
284 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/24(木) 23:04:18
>>238 大宰府が都(京)になったのは、年号が「倭京」となった618年です。
この年、都(京)が南方(久留米)から遷都(遷京)してきました。
久留米京は丁度100年続いた後遷京しました。
久留米京の成立は、丁度100年続いた後の遷京と言うことで、517年(九州年号継体元年)になります。
これは久留米都として100年余り続いた後遷都したことを意味します。
久留米都の成立は6世紀初頭(610年頃?)になります。
しかも久留米に都があったのは、6世紀から更に300年前の3世紀からです。
即ち卑彌呼の時代から久留米は倭の都であったのです。
この事は、倭國は卑彌呼の時代から継続していると言うシナ側歴代の認識と一致します。
以上、「聖徳太子伝暦」推古二五年条の解説より。
隋の侵入ルートとして予想されるのは隋使のルートです。
壱岐から九州西岸を南下、天草灘、島原湾を通り有明海に侵入。
三潴の西の海岸(神崎市千代田付近or久留米市城島)に上陸。
上陸海岸から久留米の都まで十数kmしかありません。
対シナ対策としては大宰府の方が危険度が少ないでしょう。
又大宰府は南北からの侵略を受けても筑豊方面への脱出ができます。
285 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/26(土) 20:44:48
286 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 20:46:56
南京さんの言葉はピイチクパアピイ。
287 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/26(土) 20:50:41
>>284のレス修正
レス先
×
>>238 ○
>>283 >>283 大宰府が都(京)になったのは、年号が「倭京」となった618年です。
この年、都(京)が南方(久留米)から遷都(遷京)してきました。
久留米京は丁度100年続いた後遷京しました。
久留米京の成立は、丁度100年続いた後の遷京と言うことで、517年(九州年号継体元年)になります。
これは久留米都として100年余り続いた後遷都したことを意味します。
久留米都の成立は6世紀初頭(610年頃?)になります。
しかも久留米に都があったのは、6世紀から更に300年前の3世紀からです。
即ち卑彌呼の時代から久留米は倭の都であったのです。
この事は、倭國は卑彌呼の時代から継続していると言うシナ側歴代の認識と一致します。
以上、「聖徳太子伝暦」推古二五年条の解説より。
隋の侵入ルートとして予想されるのは隋使のルートです。
壱岐から九州西岸を南下、天草灘、島原湾を通り有明海に侵入。
三潴の西の海岸(神崎市千代田付近or久留米市城島)に上陸。
上陸海岸から久留米の都まで十数kmしかありません。
対シナ対策としては大宰府の方が危険度が少ないでしょう。
又大宰府は南北からの侵略を受けても筑豊方面への脱出ができます。
288 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 21:08:21
ふくれた、ふくれた福田餅。
289 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 16:07:56
かっぱっぱうんぱっぱかっぱ黄桜うんっぱっぱ、
290 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 18:41:26
っb
291 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 00:03:26
マタ・ハリもちんだらかぬしゃまよー。
292 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 00:37:09
>>271 九州王朝王家・筑紫君家の傍流が、
近畿王家・天皇家にも入ってるような気がする。
対立の時代だけでなく、
そういった傍系血脈のやり取りの痕跡が解明されてほしいですね。
293 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 00:42:36
不敬だ。調査する。
294 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/28(月) 12:31:35
>>292 >九州王朝王家・筑紫君家の傍流が、近畿王家・天皇家にも入ってるような気がする。
入っているよ。
天智、天武の血統がそれだ。
295 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 11:16:16
どんべムーン どんべムーン
296 :
憂国:2009/12/29(火) 13:27:22
>>294 不敬だといっただろうが。 貴様らのような惰弱が神国を地に墜とした。
英霊に詫びよ。
朝だ夜明けだ潮の息吹き うんと吸い込むあかがね色の 胸に若さの漲る誇り 海の男の艦隊勤務
月月火水木金金
赤い太陽に流れる汗を 拭いてにっこり大砲手入れ 太平洋の波、波、波に 海の男の艦隊勤務
月月火水木金金
度胸ひとつに火のような錬磨 旗は鳴る鳴るラッパは響く 行くぞ日の丸日本の艦だ 海の男の艦隊勤務
月月火水木金金
どんとぶつかる怒濤の唄に ゆれる釣床今宵の夢は 明日の戦さのこの腕試し 海の男の艦隊勤務
月月火水木金金
299 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 14:35:04
九州王朝説では倭の五王も九州の王であるとしているので
ヤマト朝廷は倭の五王時代(5世紀頃)に関西方面支配に派遣された
九州王朝説の一族の子孫であるとなる。
300 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/02(土) 14:38:24
2010年も2日目になりましたが、
本年もどうぞ宜しく。
このスレも9年目になりました。
九州王朝と関わりのない話題は書き込まないでね。
九州王朝なんて存在しません。
302 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 23:01:51
「倭の五王」の系図が後の稲員・松延家に伝わっている。
九州王朝が実在したことを示す一次資料である。
アホらしw
304 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 23:07:32
>>303 素直に負けを認めることが分別のある大人のすべき行動だといえる。
306 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 00:23:18
>>305 と自分で自分を慰めている低脳な305がいるのであった。
古田紙学という時点でネタです。
308 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/07(木) 19:43:24
今朝春の七草を台所でじっと観察した。
そして古代のことを考えた。
太陽暦2月の上旬に春の七草を食べられるところは何処だろう。
京都盆地や奈良盆地では無理だ。
福岡平野でも難しい。
筑紫平野有明海沿岸部なら食すことは可能だ。
倭人伝の冬期野菜生食とはこのことを言っているのだろう。
君がため 春の野に出て若菜摘む わが衣手に雪は降りつつ
第五十八代の光孝天皇の歌ですね。
光孝天皇といえば、陽成天皇が藤原基経によって廃位されたのち55歳で即位。
『徒然草』には即位後も炊事を自分でしたとある。
第七子の宇多天皇は源氏の祖であるうえに、当人も大宰帥・常陸及び上野国太守も歴任しているので
実この人が武士社会を作った大元といえないこともありません。
桜井茶臼山古墳の鏡の副葬が81枚と大量だったことで、平原との比較だけが
されているのは片手落ちだといえる。
九州に古墳ではないものの、大量に鏡が出土している一方の雄との
かかわりが究明されなければならない。
それは、沖ノ島である。50枚以上銅鏡が出土している。
沖ノ島は宗像大社のご本尊であり、桜井茶臼山古墳に隣接しているのも宗像神社である。
九州vs畿内ではなく、両者を鏡の故郷宗像が取り持っていることに注意されたい。
311 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 22:41:45
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
312 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/07(木) 23:13:31
>>309 古代の2月上旬に七種類の野菜を取り揃えて手軽に入手できる地方は何処かと言う事。
七草粥は九州王朝の都である筑後平野で始まったのでは。
すなわち筑紫平野の女王の都である邪馬台国でも真冬に多種の生野菜を食していた。
せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ
313 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/08(金) 12:14:51
野辺の雑草 春の七草
芹 ペンペン草 母子草 ハコベ 田平子 蕪 大根
314 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 18:23:05
315 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 00:12:04
やはり、邪馬台国のあった当時は、瀬戸内海は海賊だらけで使えなかったために
日本海ルートで水行10日、若狭湾で上陸して陸行1月、東山道を抜けて
邪馬台国は埼玉県行田市稲荷山辺りにあったと思う。
316 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 00:21:02
古い銅鏡は、煎餅みたいに割れるものなのでしょうか?
本物を見たことがないので反論できませんが、・・
純度99・3%の象嵌太刀が造れる 先進国ヤマタイの技術? まさか魏王様のプレゼント!
318 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 19:26:47
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
319 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 20:24:31
屁臭いスレだな。
まあ、980ヘクトパスカルくらいの台風並みの荒れだな。
321 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 22:38:58
文化摂取先進地域の 不満は 神武兄系の 高千穂の権威 卑弥弓呼=日向王に 結集していた (神武兄以来 十数代の九州王朝) 奈良に引けをとらない血筋と権威だった →高千穂方面から、日田や宇佐などに 遷都していたかも。権威名は日向王 日=神武系に正しく向かう王
322 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 23:19:06
中国地方の中国って言い方は、ここで言われているヤマト九州二王朝並立と関係あんのかな。
324 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/17(日) 14:52:24
畿内から見て西国との中間にあるのが中国。
これは9世紀以降の概念。
又、ヤマト九州二王朝並立の時期は歴史上存在しない。
「中国」と言う言葉の発生時期は調べたことはないが。
325 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 15:11:33
中国とは葦原中国のことだし、もともと吉備あたりに邪馬台国があった証拠ではないかな?
326 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/17(日) 15:22:55
「葦原中国」は「あしはらのなかのくに」のこと。
「中」の意味は「中心」である。
「中国」は「ちゅうごく」のことで、西国(さいごく)に対応して作られた言葉。
「中」の意味は「中間」である。
中国地方は、なかつこく地方ではなかつたとおっしゃるのですか?
特殊器台の分布をみれば、大和朝廷が畿内に移るまでは
吉備が「なかつこく」だったことがわかるはずです。
ども。少なくともおれの思いつきはまったくの間違いだと。
>>327 700年より前の文献もしくはその引用と推測される文章で中国地方を
「中国」と呼んでいるものがあるなら、挙げてみてよ。
中ツ国があったという確証とは言えないが、
>>324の言う概念とは違う意味で「中国」という言葉を使っていた証拠になる。
「中国」って言葉は元々京都(近畿)と大宰府の間の地域って意味でしょ。
330 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 16:09:51
岡山県赤穂郡相生(あいおい)村というのがあって、古くは相生と書いて「おう」と読まれていた。
この辺りに姫氏の女王が住んでいて、相生への道を姫路と呼ばれるようになったことは明白。
中国という古名は記録に残っていないが、奈良盆地が中国と呼ばれていたというわけではないし、何の問題もない。
331 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/17(日) 16:18:03
>>327 「葦原中国」は、葦が繁茂する水稲に適した農業地域で繁栄した中心の国の意味。
この意味での「中」を示す地名が数多く残っている。
「ナカ」「ナカ津」「ナカ川」etc。
これらは其の地域の中心地にある。
吉備も「中国(なかつこく)」のひとつです。
一方、中国地方の「中国」は、地域範囲が広く、「西国」「畿内」「北国」「東国」に対応する言葉。
332 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 16:28:12
畿内と九州の中心という地理的条件を生かして、倭国大乱を仲裁し、
吉備の女王を卑弥呼としたと考えられませんか?
そして、その後、勢力を増していった畿内勢力に吉備も加担し、大和朝廷として全国を支配していった。
>>330 一つだけ訂正すると、赤穂も相生も兵庫県な。
いいえ、葦原中国にあったのです。
都道府県の間違いを指摘するということは、全否定に近いですね。
>>330は、地理すらわかっていない門外漢の可能性もあります。
さもなくば、釣り?
337 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 21:29:14
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
要するに、自民党幹事長が管理していた田中・金丸金脈の裏金を小沢が持ち逃げした。そういうことだ。
「おやじの遺産」のおやじとは田中角栄のことだと分かればすべての謎が解ける。
340 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/24(日) 23:27:33
341 :
のんびりひまじん:2010/01/25(月) 00:04:35
342 :
のんびりひまじん:2010/01/25(月) 00:16:32
343 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/25(月) 14:49:07
ご教示、感謝!
344 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 23:13:24
345 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 06:43:16
北九州「倭国」の残存勢力が、
継体大王の頃まで九州にいて、
大和とは微妙な関係にあった……
ぐらいならわからんでもない。
346 :
日本@名無史さん:2010/02/08(月) 15:35:13
古田武彦さんが東大で講演したのを聴きに行ったことがある。相当昔の話だ。
面白かったが会場の空気は冷ややかだった。質問すらほとんど出なかった。
招聘して講演してもらっておきながら東大は無礼だなと思った。
俺は奈良時代をやってたから古田説の真偽はわからなかったが、東大の無礼さだけはわかった。
さらしものにするために呼んだということだ。
これは東漢氏を起源とする大和朝廷の官僚の手口。
敵対する勢力は騙し空かして徹底的に叩き潰す。
そんなものに踊らされた古田も相当のお人よしだ。
348 :
日本@名無史さん:2010/02/11(木) 20:47:04
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
349 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 17:55:52
>>1 他のスレで下のカキコをみたので質問です。
>芦や柳の生い茂る湿地以前、弥生時代の東唐津には汽水湖(古松浦湖)が広がっていました。
とすると、このころの海面は今よりも高かったとお考えですか ?
350 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/17(水) 22:13:38
>>349 >このころの海面は今よりも高かったとお考えですか ?
弥生前期(BC3C〜BC2C頃)は現在と同じ位かやや低かった。
弥生後期(AD2C〜AD3C)は現在と同じかやや高かった。
虹の松原の砂洲は、縄文の海水位が高い頃、唐津湾の海中で形成されたもので、
縄文晩期に海面が下がり陸化したものです。
虹の松原が陸化した頃には、玉島川は直接唐津湾に流れ込まず、
唐津市浜玉まで東に伸びていた古松浦湖に流れ込んでいました。
筑肥線浜崎駅付近まで玉島川の土砂が溜り、
玉島川の水は、浜玉町浜崎で虹の松原を乗り越えて、
唐津湾に直接流れ込むようになりました。
これで玉島川は現在の流路となりました。
この時期は弥生期の初期の頃だと思われます。
351 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/18(木) 12:15:08
>>349 >>このころの海面は今よりも高かったとお考えですか ?
追加
弥生期の一時期現在よりも海水位が高かった時期があります。
それは、弥生中期(BC1C〜AD1C頃)と推定しています。
352 :
日本@名無史さん:2010/02/18(木) 17:09:29
353 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/19(金) 00:04:14
>>352 弥生後期(AD2C〜AD3C頃)の海水位は現在のそれより50cm位高かったように思えます。
なお、弥生中期(BC1C〜AD1C頃)の最高海水位は現在より2m位高かったようです。
弥生後期の筑後平野の海岸線は明治初期江戸時代とそれほど変わりません。
筑後川矢部川の排出土砂で海岸線が有明海に張り出したと推定されますが、
一方筑後平野が沈降しているので、弥生時代後期から1800年間海岸線は有明海に張り出さなかったと思われます。
弥生時代には矢部川河口部だけが、海岸湿地だったと思われます。
ですから、耕地可能面積は弥生時代と明治時代ではそれほど変ってはいません。
上記資料はそのあたりが誤っているようです。
弥生時代の筑紫平野で注目すべきは、有明海が大川市の西側を吉野ヶ里の南まで北に張り出していたことです。
そしてその北へ張り出した有明海の北端に、筑後川が西進して流れこんでいたことです。
弥生時代の筑紫平野は、北へ張り出した有明海の為、筑紫平野が筑後平野と佐賀平野に分断していたことです。
みやき町三根と神崎市千代田の東部は、佐賀平野ではなく、筑後平野だったのです。
(神崎市千代田西部は北に張り出した有明海の中)
354 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 16:47:14
355 :
352:2010/02/21(日) 15:22:25
>>353 >352の引用より
1. 地質学
1.9 海進海退現象と地層の形成−シーケンス層序学(1)(2)
ある平野が沈降性か隆起性かは海面変化曲線によって判断される。
沈降性平野では、似たような数多くの「地層のくさび」が累重している。
3. 軟弱粘土層における貝化石混入・非混入層の存在
3.1 ボーリング位置(●:貝化石混入○:非混入)
上記の考察をふまえたうえ、220カ所位のボーリングの結果と考えると、かなり信用できるのでは
ないでしょうか。やはり耕作面積は若干削られると思われます。
>>355 >220カ所位のボーリングの結果と考えると
ボーリングデータは縄文期の最高海水位を示すものです。
ボーリングデータは遺跡の存在場所データーと一致するものです。
弥生中後期の海岸線を示すデーターにはなりえません。
佐賀平野も筑後平野もその軟弱地盤の為、
地表面が海面より高くなるとその部分の自重のため沈降し続けています。
地表面が海面高まで下がると、その排水作用がなくなり、それ以上の沈降はとまります。
この時地表は、潟もしくは海岸湿地になって沈降は止まるのです。
現在の様に堤防により干拓された状態になると、土砂の自重のため排水が続き沈降は止まりません。
4.2 〜約1800年前の海岸線〜 で間違っていると思えるのは、
柳川市中心部と矢部川下流域が陸地になっていないことです。
柳川市中心部は完全な陸地、矢部川下流部は海岸低湿地であったように思います。
弥生時代の海岸線資料は佐賀大自身のものではなく、古い資料から引用してきたものです。
筑紫平野のトータル可耕地面積は、弥生時代末と江戸時代初めではそれほど増減していません。
(神崎市千代田西部は北に張り出した有明海が、弥生時代末以降に陸化した部分です)
357 :
352:2010/02/22(月) 15:38:46
>>356 >352資料は確かに柳川市の海岸線の間違い確認しました。
徳益八枝遺跡、磯鳥フケ遺跡があったのですね。失礼いたしました。
>>357 矢部川下流には、島貝塚もあります。
柳川市以南の筑後平野では、
西鉄天神大牟田線の1〜2km西側に弥生時代の海岸線があった様です。
矢部川以南では、有明海沿岸道路付近が海岸線と思われます。
>>358の追加
有明海の沿岸は干潮時に陸化する潟常態ですので、
時代と共に海岸線が消長していたと考えられます。
現代においては海であっても、弥生期には陸となっていた地域もあるでしょう。
河川の排出土砂によって潟が陸化しても、陸化すると沈降が大きくなり、又潟に戻ってしまうからです。
潟になると沈降が微少になり、また土砂が堆積して陸化するサイクルが繰り返されるからです。
将来、潟を掘り返すと貝塚や甕棺墓が出てくることもありえます。
360 :
日本@名無史さん:2010/02/22(月) 23:55:16
干潟が広がり大型船の入れない有明海が、直接、朝鮮半島との交易を行っていたわけではない。
朝鮮半島への玄関口は、やっぱり博多湾の志賀島。
金印が出たのは、この地が対立と繋がる聖地だったからだ。
361 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 00:05:58
干潟が広がる有明海でも大きい川なら干潮時でも入れますよ。
筑後川、矢部川、嘉瀬川など。
動力がない当時は、干満の差を利用して遡っていったのではないでしょうか。
ある程度上流になると、風なり人力なりの動力が必要でしょうけど。
ただ、直接交易をやっていたかどうかの判断材料は持っていませんので
大型船が入れないことはないとだけいっておきます。
362 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 16:14:51
干潮時と満潮時の差が6mもあったんだよw
363 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 16:28:03
いや、普通に、川の中央部は水の流れでえぐられてるから。
365 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 21:10:20
潮の満ち引きを利用すれば、動力がなくても湾内を自由に行き来できたということですね?
そしてその周期を知るには月読みが必要だったのです。
>>365 有明海では反時計回りの湾岸流がある。
これも湾内の行き来に利用したと考えられる。
参考事項
大阪湾にも同様に時計回りの湾岸流がある。
神武も日下攻めの時、この湾岸流を利用したのは明らかである。
367 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 23:39:23
筑後川の場合、しっかり久留米付近まで潮が上がってくるもんな。
大潮の時なんか、水位が河川敷ぎりぎりまで来る。
そんな時に大雨で増水すると河川敷まで浸かる。
たまに河川敷の駐車場に逃げ遅れた車があったりする。
あーあ
368 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 00:00:23
筑後川で上げ潮といっても逆流まではしないよ。
川幅が広く、流速が遅くなるので普通よりは川を遡りやすいということ。
また、深層は海水、浅層は真水になっているので
取水には工夫が必要だったらしい。
なにも考えずに農業用水を取水すると
海水が混じるので、浅い層の真水だけを
取水する施設があった。
筑後大堰なんかもそうしているはず。
369 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 16:10:54
370 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 16:28:23
アマゾン川のポロロッカは有名だけれど、筑後川も満月と新月の時は干満の差が大きく、大潮の時は、
およそ5m程の高さの波が筑後川の河口に押し寄せて、川の流れを飲み込んで逆流し、佐賀平野は水浸しになりました。
その境が、三日月、三田川、三根、水潴、三橋、三池という「三」の付く地名として残っています。
現在のような堤防が築かれる以前は、筑後川沿岸の低地は、毎月、湿地になったり乾いたりを繰り返して、
そこにできた干潟に住む微生物を求めてムツゴロウのような魚、カニ、貝が繁殖し、水鳥や小型動物があつまる食料の宝庫だったはずです。
372 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/28(日) 11:00:39
>>370 修正しておきますね。
× 水潴
○ 三潴
ポロロッカが発生するには現在の河口の形とは違っていたと思う。
373 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 14:41:12
子供のときに柳川に住んでたんだけどさ
大川(昇開橋のあたり)で、幾筋かの波が登っていくのを見たことあるんだ。
波自体はたぶん30センチ程度の小さな波。
それが、川の端から端に一筋となって遡っていく。
そんな波が、すこし間を置いて、何本か上がっていった。
今思えば、ボロロッカのミニ版だったのかもしれない。
実は小さい遡上波はどこの川でも多少はあることなのかもね。
そんな現象を見たひと、いない?
今、テレビで見ました。
375 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 18:13:52
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
>>373 新河岸川は,満潮時にはゆっくりだが、笹目あたりでも上流に向かう流れが確認できるぞ。
東京埼玉限定ローカルネタですまそ。
377 :
日本@名無史さん:2010/03/01(月) 09:42:14
波が遡上しても、
川水自体が逆流しているわけではないことに
注意。
浮いてるゴミなんかは、そのままゆっくり下流に流れているから。
378 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/03(水) 15:21:00
>>373 筑後川の河口がほんの僅かだけれどラッパ型をしており、
川筋が真っ直ぐなので、小さなポロロッカが発生するのだろう。
波高が30cmもあったのは5月の大潮の頃ではないでしょうか?
379 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 21:01:29
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
380 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 22:55:20
>台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました
台湾人と先祖がいっしょなら、
ほこらしいが?
半島人といっしょなら、死にたくなる。
381 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 23:04:02
>>379 6000年前に小麦作がもうあったからこその大発見なのが分からないかわいそうな人なんだな。
383 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 23:05:44
聞いてください、6000万年前にも小麦はありました。
384 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 21:36:13
だから彼は世間一般に知られていない小麦作6000年の歴史を
広く知ってもらおうと頑張ってるんじゃないかw
385 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 15:30:52
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
386 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 07:15:11
>長江江南人が渡来した
畿内人に関してはそんなに間違ってないだろう。
ただし、知識階級ではなかったかもな。
文字を知らない階層だと思う。
387 :
日本@名無史さん:2010/03/16(火) 02:36:18
ないし
388 :
日本@名無史さん:2010/03/16(火) 22:34:10
稲が栽培されるようになる以前にだって、野生の稲を採取して食ったりしたろうに。
390 :
日本@名無史さん:2010/03/19(金) 15:57:51
九州王朝?知らんな。
初代天皇が宮崎出身って事はわかるが。
391 :
サガミハラハラ:2010/03/19(金) 16:43:00
初代天皇の出身地は福岡市西区日向(ヒナタ)です。このあたりは山門荘の一角です。
392 :
日本@名無史さん:2010/03/19(金) 20:59:07
>>391それは間違い。
日向は「ひなた」ではなく、「(ひ)むかい」と発音した。
これは靺鞨・蒙古の古名「勿吉」Moorqie(ムークィ)である。
「勿吉」とは、つまり「蒙古」の最古の地名ということだ。
神武天皇が東征に出る前にいたところが「日向」、「むかい」だ。
393 :
日本@名無史さん:2010/03/19(金) 22:00:26
勿吉はツングース系の騎馬民族。
やはり、騎馬民族征服論こそが古代史を解きあかすカギでしょう。
394 :
日本@名無史さん:2010/03/19(金) 22:31:30
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
395 :
サガミハラハラ:2010/03/19(金) 22:38:41
京都の向日市(むかいし)のことですか?古田氏がおすまいのようです。
396 :
サガミハラハラ:2010/03/19(金) 22:44:29
失礼 向日市の読みはむこうしの間違いでした。お詫びして訂正いたします。
397 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 14:11:02
最近、九州王朝説や多元王朝説を知ったんですが、
これまでの漠然とした多くの疑問が一気に解決しました。
九州王朝はあったと思います。
しかし、同時に新たな疑問も沸いてきました。
今後の展開を楽しみにしてます。
398 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 17:06:09
国造磐井のクズがあれだけ大きな反乱できたから王朝はあったんでないかい?
399 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/14(水) 10:13:15
磐井は反乱を起したのではない。
倭王磐井は玄界灘沿岸部勢力の反乱に敗れたのだ。
400 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 10:21:00
磐井の乱を平定したのは
福岡平野を中心とする勢力ではないかと思う。
畿内から見れば、そんな遠いところの話
知ったことではないのではないかと。
逆に春日、太宰府政庁辺りの勢力にとっては
身に迫る危機だっただろう。
401 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/14(水) 11:32:01
>>398 >>400 磐井の反乱は九州王朝内の内乱です。
九州王朝の王である筑後磐井の横暴政治(半島政策)に対して、
反乱を起した主力は筑前玄界灘沿岸の勢力です。
反乱後兄王弟王による分権政治が復活しましたが、
磐井の乱終結半世紀後に新しく権力を握ったのは、
宗像出身の多利思北孤です。
乱後福岡平野の屯倉を勝取ったことから、
磐井への反乱を呼びかけたのは遠賀川近辺の勢力と思われる。
特に糟屋屯倉に隣接している宗像勢力が最有力。
海運力を持っている宗像勢力は、磐井の半島政策による負担が大きく、
その不満が蓄積していたのではないか。
筥崎宮は、もとは宗像神社で、神功皇后に乗っ取られて八幡宮になったのではないだろうか?
白村江の戦までは至極納得なのですが、
それ以降について、うまくイメージできません。
分かりやすい本またはサイトがありましたら御教授ください。
404 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/18(日) 21:37:02
>>403 旧唐書『日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名
或曰 倭國自悪其名不雅 改爲日本 或云日本舊小國 併倭國之地』の
この部分をどの様に把握するかですね。
シナ人もうまくイメージができなかったようだ。
日本列島の状況把握が困難な状況であった為、
又日本書紀も脚色編集が甚だしい為、諸説があります。
405 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 22:09:33
■大刀に竜の文様、大和政権と結びつき示唆 宮崎で出土
朝日新聞2010年4月21日
http://www.asahi.com/culture/update/0421/SEB201004210004.html 宮崎県えびの市の島内(しまうち)地下式横穴墓群で、刀身に竜の文様を象眼(ぞうがん)した6世紀前半の鉄製大刀(たち)が出土したと、同市教委が20日、発表した。
刀身に竜文がある象眼大刀は全国3例目で、大和政権との深い結びつきを示唆するという。
市教委によると、大刀は全長98.2センチ、幅3.6センチ。長さ78センチの刃の表面に溝を刻み、銀をはめ込む象眼の技法で、表に全長約9センチ、裏に約8センチの竜がひとつずつあった。
奈良県橿原(かしはら)市の新沢千塚(にいざわせんづか)327号墳(6世紀中ごろ)、奈良市の吉備塚(きびづか)古墳(6世紀前半)に次ぐという。
同墓群ではこれまで約120基が確認されており、大刀は送電線の鉄塔建て替え工事に伴う発掘調査で114号墓から出土。
遺体を安置する深さ約2メートル、広さ2畳ほどの玄室(げんしつ)に埋葬されていた熟年男性の人骨のかたわらに置かれていた。
さびてさやがこびりついていたため、昨年8月にエックス線調査を実施し、文様の存在が分かった。その後、文様部分のさやは除去したという。
エックス線調査で表裏に星か太陽とみられる図形も1個ずつ確認できた。
同市教委の中野和浩主任技師は
「竜文は新沢千塚のものより一回り大きく、この時期のものとしてはかなり質が高い。保存状況も極めて良い。現在のえびの市一帯を治めていた有力者の一人で、大和政権から分配されたのではないか」
と話している。
大刀は同市歴史民俗資料館で5月3日まで一般公開される。今月23日午前10時から資料館で市民向け説明会がある。問い合わせは市教委社会教育課(0984・35・2268)へ。(知覧哲郎)
・出土した竜文銀象眼大刀。鮮やかに浮かぶ竜文は10センチ足らずの長さ=宮崎県えびの市
http://www.asahicom.jp/culture/update/0421/images/SEB201004210005.jpg
しかし、たった2畳ほどしかない玄室に閉じ込められるなんて耐えられない。
縄文人なら、鳥になって空に羽ばたくことを望んだはず。
鳥葬、もがりこそ、最上の葬式だと知るべきだ。
407 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:57:19
■みやこ町呰見大塚古墳 石室に赤い彩色 太刀も出土、有力者埋葬か
=2010/04/24付 西日本新聞朝刊=
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/167515 みやこ町呰見(あざみ)の呰見大塚古墳を調査している県教委文化財保護課は23日、古墳時代後期(6世紀後半)のものとみられる赤い文様が描かれた石室を発見したと発表した。
京築地域で2例目となる彩色の装飾古墳。権威の象徴とされる金銅製の単鳳環頭太刀(たんほうかんとうたち)も出土しており、京築地域の有力者が埋葬されたとみられる。
同課によると、古墳は直径25メートルの円墳で、総面積は約2千平方メートル。
前室と後室がある横穴式石室(縦約7メートル、横約3メートル、高さ約1・8メートル)の内側の側壁など計14カ所に赤い彩色があった。
彩色は、太陽や竜のうろこなどを示すとされる円文や三角文など4種類あり、埋葬者を守る魔よけの役割を果たしているという。
同課の坂本真一主任技師は
「旧豊前地方は装飾古墳の空白地帯で価値ある発見。筑後や肥後の装飾古墳との共通性もみられる。国または県の史跡に指定される可能性も高い」
と話した。
発掘調査は東九州道の建設に伴うもの。同地域では、約40年前に上毛町の百留横穴墓群から彩色の装飾古墳が見つかっている。
一般向けの現地説明会が25日午前10時−正午に開かれる。場所は、同町呰見の祓郷(はらいごう)郵便局から町道を南西方向に約400メートルの地点。
【写真】赤色の彩色が施された呰見大塚古墳
test
409 :
日本@名無史さん:2010/05/22(土) 17:39:41
卑弥呼が男王に代わって共立されたのは、渡来してきた騎馬民族系の男王達に
対する稲作農耕民の倭人達の反撃だった。
騎馬民族は男尊女卑で、女性が王になることはない。ところが、稲作農耕民
はシャーミニズムに見られるように、女性が祭=政を司る。
卑弥呼は稲作農耕民である倭人系の女王だった。卑弥呼が死んだ後、男王が立
ったがやはり治まらず、壹與が共立されて再び治まった。
天皇家には騎馬民族の血がかなり流れているが、九州での統治に大失敗して、
近畿に逃げて行かざるを得なかった弥生時代の経験に鑑みて、自らの先祖神
である天照大神を倭人達の女性神と同じだととしたのだ。
つまり倭人達が崇める女神の総元締めが天照大神だと説明することによって、
倭人達の反抗心をなだめたのだ。
イヨタン・・・・・・・・・・
411 :
日本@名無史さん:2010/05/25(火) 21:57:12
(
>>409続き)
その壹與だが、魏のバックアップが得られなくなると、狗奴国との戦いに敗れて、
近畿に移動していったと考えられる。
というのは、三角縁神獣鏡を作って全国に配りまくってるが、これは魏の皇帝
から銅鏡百枚をもらったという事実をパックにして、全国の豪族に配った、
豪族も卑弥呼・壹與を担いだ勢力と知っているから受け取ったのであろうと
考えられるからだ。
モチロン、文献上や考古学上の根拠は全くない。単なる仮説だが、そう考える
と、三角縁神獣鏡の出土状況を理解しやすい。
この場合、邪馬壹国と敵対した狗奴国が九州、少なくとも九州の北半分を統一
したということになる。その後継者が、景行天皇として記されている人物であ
ろう。これも仮説だが、そう考えると理解しやすい。
なお、近畿勢力つまり壹與の子孫が九州王朝に征服されたのは、応神天皇の時
と考えられる。応神天皇は九州王朝の血を引く傍系王族であり、この時から、
近畿勢力は、九州王朝と血縁関係を持つに至った。これも仮説だが、そう考え
ると理解しやすい。
412 :
日本@名無史さん:2010/05/30(日) 20:03:55
413 :
日本@名無史さん:2010/05/30(日) 23:47:16
>404
旧唐書『日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名
或曰 倭國自悪其名不雅 改爲日本 或云日本舊小國 併倭國之地』
だから白村江で負けて、格好悪いから、看板を倭から日本に変えたんだよ。
白々しいから、ほら吹いて誤魔化したんだ。
大日本帝国が日本国になったようなもん。
看板変えた連中も、まさか後世、こんな説が出ようとは思いもしなかったんだ。
九州王朝はこれでおしまい。
414 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 23:22:23
415 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 05:20:45
皇室の祖先は九州人だろ
西都原古墳群辺りの有力者が船で近畿に行って大和の連中を従えたんだろ
記紀の神話はこれをなぞってるんだと思う
何でニニギノミコトは高千穂峰に天降ったのか?
最初から大和に降りりゃ済むだろ
何故神話で天皇の先祖と隼人の先祖は兄弟となってるのか?
416 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 07:45:14
>>415 >何故神話で天皇の先祖と隼人の先祖は兄弟となってるのか?
来たー
それなんだよね、九州説がしつこい理由
ハヤトは天皇の先祖(夫余系?)が連れてきた傭兵なんだよ
その出自は、ワイ族。つまり朝鮮人。
九州説は、朝鮮の希望の星なのだった。
417 :
日本@名無史さん:2010/06/04(金) 01:43:45
418 :
日本@名無史さん:2010/06/04(金) 12:20:10
>>416 朝鮮は分子生物学も民俗学も言語学も無いな。
まあ、アフォがハヤトの正体を掴む事とは無いだろな。
419 :
日本@名無史さん:2010/06/05(土) 07:49:56
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA C3の分布を見ると
アイヌ13、青森0、東京2、静岡2、徳島3、九州8、北琉球0、南琉球0
この九州で8%というのは一見、単独の県で8%よりも「うすい」ように見える。
でもとんでもない、統計のワナ。
九州7県全てが等しく8%ということはあり得ない。
偏りがあると考えた方が自然。
広域的に分布しているなら、徳島3%は少ない。
仮に、7県の人口が全て等しいとする。
6県が7%と仮定した場合、残り1県が14%
6県が6%と仮定した場合、残り1県は20%
6県が5%と仮定した場合、残り1県は26%
6県が4%と仮定した場合、残り1県は32%
6県が、徳島と同じ3%と仮定した場合、残り1県は38%に上る。
九州で他の地域とはちがう民族が住んでいたとされる場所、それは鹿児島に他ならない。
C3がハヤトです。
420 :
日本@名無史さん:2010/06/06(日) 04:37:37
>>401 なるほど。宮地嶽古墳の北東奴山に縫殿神社がある。
縫殿寮の原型は縫殿神社にあるのではないかと睨んでいたが、
そうすると、大嘗祭の原型は多利思北弧にあるのではないかとも想定できそうだ。
421 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 11:38:31
>>409 >天皇家には騎馬民族の血がかなり流れているが、九州での統治に大失敗して、
近畿に逃げて行かざるを得なかった弥生時代の経験に鑑みて、自らの先祖神
である天照大神を倭人達の女性神と同じだととしたのだ。
騎馬民族っていうけど、馬に関連する馬具などの考古物はでているの ?
ちなみに大陸から馬を運ぶのは、弥生時代では無理と思われます。
422 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 20:55:27
今年の2月くらいから邪馬台国の興味を持ち出して、あれこれ読んで考えてきたんですが、
どの説もスッキリせず、モヤモヤして精神的に良くないですね。
「邪馬台国のことは忘れよう」と思っているんですが、しばらくすると頭をもたげてきて、
他のことが手につきません。
最大のネックは隋書ですね。
そこに「邪靡堆(邪馬臺)」の文字がなければ、自分的には九州説でスッキリしたんですよ。
今は、隋書の「邪靡堆」と「邪馬台国」は別国だと思うようにしてます。
しかし、別の疑問が頭をもたげています。それは、「多利思北孤は誰?」ということ。
これは、邪馬台国とは別の問題だと考えるようにしていますが、自分がタリシホコを知ったのは
邪馬台国がきっかけでしたので、どうしても関連付けてしまって、モヤモヤが晴れないんですよね。
九州王朝説に答えを見出そうとしたのですが、ますます泥沼にはまっていく感じです。
聖徳太子、蘇我氏、白村江の戦い、天武天皇など、次々と疑問が湧いて、
しまいには、日本人や日本語の起源にまで広がっていく始末です
ホントモウ(´;ω;`)タスケテー
>>423 以下の2冊をお勧めする。
『失われた日本古代皇帝の謎』
『倭国と日本古代史の謎』 どちらも 斎藤忠著(学研M文庫)
425 :
日本@名無史さん:
九州は今日も暑いな。