1 :
日本@名無史さん:
江戸時代の以前の東京(武蔵)の歴史について語りましょう
江戸時代の以前の東京(武蔵、下総)だぞ。
3 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 13:46:27
23区か東京都かはっきりしろ
答え:
>東京都 by イナカモン
ああそれはダメ
三多摩と江戸は別だから
4 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 14:16:01
23区多摩より、埼京線以東と以西で異なってくる。
5 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 14:18:30
埼京線以西
山の手
隅田川以西の湿地帯
隅田川以東(下総)
で分ければいい。
6 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 14:38:33
なんかややこしいことを言っとるが
江戸市域が拡大していってるんだから
江戸とその他でいいんだぜ?
下総についてだけは別扱いにしたいならそれでもいいが。
7 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 23:25:44
身か命だったのか
荒れ地
10 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 23:51:47
今は田舎の八王子だが、当時は北条氏照の本拠地だ。
八王子城址から輸入品と思われるガラス製品が発掘されたよな。
12 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 10:02:27
朝鮮人隔離地区
13 :
↓:2009/09/13(日) 16:56:53
の大阪河内平野
14 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 17:08:56
荒野
15 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 17:10:35
戦国時代は
相模国上野国武蔵国下野国の北条氏
常陸国の佐竹氏
下総国の結城氏
上総国の里美氏
といったところか
16 :
日本@名無史さん:2009/09/14(月) 04:39:25
北関東の植民地
17 :
豚松 ◆4FfyOtW0fiF5 :2009/09/14(月) 07:03:09
ややっこしいから後の大江戸地域か、
せいぜい拡大して現在の23区にしろよ>
>>1 下総だった隅田川以東は含み、武蔵でも23区域外は除外でO.K.?
江戸城は小田原北条氏の拠点の一つ。
江戸は小田原よりも武士(北条家来)の数が多かった、らしい。
18 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 16:43:00
江戸近郊の大河は多摩河、隅田河、利根河、太日河
木下川、小松川も木毛河、小松河と記してあったようですが
これらも大河なのでしょうか。
問題はですよ、その関東内での方言の違いがいつごろ形成されたかなのです。
経津主神、香取神社の勢力範囲と、茨木弁の影響の強う地域が重なるような
気がするのです。
江戸城はもともとは江戸氏の城
香取も鹿島神宮も対蝦夷前衛基地だろ
21 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 20:57:32
亀戸香取神社って結構でかいけど、対武蔵の前線基地かね。
一方で隅田川東岸の神社がスサノオ系だったりするが、
かつての下総との国境って実際は押上・横十間川なのかもね。
江戸の連中が両国付近を勝手に国境って思ってただけで。
浅草=武蔵
牛島(ウンコ、国技館)=武蔵
柳島(錦糸町)、押上、請地=武蔵?
亀島(亀戸)、小村井、寺島=下総
23 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 21:27:30
24 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 21:41:42
武蔵の国、池袋に世界一高い電波塔ができますね。
新旧東京タワーや都庁といった展望塔が
いずれも豊島郡と他郡の境に位置している事が興味深い。
26 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 14:05:54
27 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 15:47:33
【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文人か弥生人か
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080825/acd0808250756005-n2.htm 旧ソ連の人類学者、レヴィンの研究
レヴィンは、第二次大戦直後、シベリアに抑留された元日本兵約1万300人を調査。
朝鮮半島では、一重まぶたに伴い涙丘がまぶたで覆われる「蒙古ひだ」が多いが、
日本では近畿に最も多く、東西へ向かうにしたがって少なくなることを指摘した。
レヴィンは頭の形態や身長、ひげの濃さなども調べた結果、
「日本人には、蒙古ひだが小さくひげが濃いアイヌ系要素と、蒙古ひだが大きくひげが薄い朝鮮系要素という二大要素がある」と分析。
「アイヌ系」は縄文人の古い特徴を受け継ぎ、近畿に多い「朝鮮系」は弥生以降の渡来人の新しい特徴を持つという。
(産経ニュース2008.8.25)
28 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 16:53:07
荒川は江戸以前は利根川の支流で入間川は東京湾に注いでいた
>>11 地元出身だが、江戸以前の東京地域という括りだと八王子は外側じゃないか?
初めから東京府だったのは立川までで、初めは神奈川県南多摩郡だったので。
途中で東京府に編入されて現在に至っているがね。
まあだからといって何か困ることがあるわけじゃないけど。
一つ言える事は、市街地の腐りっぷりは酷いってこった。
昔はあんなに栄えていたのに…大丸、西武、丸井、FAM、ダイエー(百貨店時代の)皆潰れてもうた。
…いや、潰れるだけならまだしも、パチンコ、ゲーセン、カラオケとかねーだろ…DQNホイホイとしか…
30 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 18:06:42
戦国時代に有名な武将とかいたかな?
北条氏照とか、普通に浮かぶじゃん・・・
32 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 23:44:40
>>30 江戸一族とか、葛西とか、太田道灌とか。
あと舎人氏とか、世田谷吉良氏とか。
33 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 00:54:13
基本的に北条氏。
戦国初期から関東を牛耳ってたのがこいつだから。
地域によって順序は違うが
伊豆相模房総武蔵は早くから一貫して北条版図。
他の成り上がり地区と違って
関東はきっちりした政権が存在した。
34 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 01:07:55
いやいや、武蔵は上杉や江戸や豊島ですよ。
世田谷吉良も勢力財力あったし。
上杉あたりをやっと駆逐して、吉良を取り込んで、
里見を追い返して、
そこで蓋が外れた北条が急激に膨張したんだよ。
鎌倉末期からずっと続いていた、と言ってもいい長い長い関東戦国時代、
街道の要所だった多摩地域、生産地帯だった埼玉地域、物流集積地点だった沿岸部、
そんな武蔵国において、
むしろぽっと出なのが北条。
ぽっと出て大膨張して、なんとか統治したと思ったら秀吉に敗北。
35 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 01:19:06
ポッと出なわけないでしょ。
江戸豊島なんて室町前期までだしなにより一土豪でしょ。
享徳の乱が終わってすぐ堀越茶々丸が乱心して早雲に討ち取られる。
そこから扇谷上杉追放までが武蔵の戦国時代だけど、
相模平定の時点で鎌倉は取っちゃってるから江戸は単なる僻地戦なんですよ。
戦国はほとんど北条。
36 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 01:35:16
小田原付近なら”松田惣領”とか地名でそのままあるから分かりやすいんだけどね。
もっとも北条臣下の松田氏は別の領地だけど。由来は同じ地元の土豪。
「松田庶子」って地名もある。
房総常陸なら結城氏とか千葉氏とかいるんだけど、
武蔵ねえ。
室町初期なら新田義貞の古戦場が分倍河原だけど。
37 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 01:41:32
ちなみに34さんは一応だけどひょっとすると関東じゃない人かな。
上杉とかって全部鎌倉だからね。
扇谷も山内も鎌倉府内の地名。
太田道灌も豊島氏も全部鎌倉配下だよ。
38 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 01:43:18
小田原鎌倉間は相模湾沿いだからね。すぐそこだし。
そんな凄い奴が支配していたわけでもないし。
相模でも江戸湾沿岸は苦労している。
里見なんかが出てくるし。
相模内陸を支配下にして、そこから出てくるのに武蔵の上杉ら旧勢力と激闘して、
相手の内部を混乱させて勢力を弱めて、
対里見ではやっと体力勝ちをもぎ取って、
世田谷吉良氏をどうにか取り込み、
ようやっと武蔵へ出て来れたんですよ。
そいつらをやっと駆逐した時、
体力で対抗できる奴はいなくなり、関東の仮チャンピオン扱いになっただけ。
ただし、佐竹がその先に待っていたよ、と。
裏山の武田もうざいし、
越後のバカは山越えてくるし。
北条五代、
そんな簡単な過程じゃないんだよ。
>>37 なにか?足利幕府は下野足利の支配下にあったのか
面白い人www
40 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 01:50:03
扇谷上杉はずっと扇谷に住んでたのか?
>>35 川越も忍も松山も武蔵だぞ?
なにが言いたいかわかるよな?
41 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 01:51:49
>>38-39 いやw
東京江戸だけが全ての人ってむしろ地方に案外多いから。
江戸は近畿でいうなら和歌山あたり、九州でいうなら大分あたりくらいのところで、
そんなにメインな歴史はないんですよ。
同じ武蔵国ならむしろ多摩地区。
上杉氏は鎌倉の武将ですから。
鎌倉府内の勢力争いが扇谷上杉と山内上杉。
堀越公方と古河公方は伊豆と常陸。
江戸は出て来ませんからw
歴史勝手に変えないで。関東の中心は相模鎌倉。
42 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 01:55:48
>>38 この人に言っても無駄かと。
神奈川県以外知らないらしい。
>>41 ネタならネタらしく、
釣りなら釣りらしく、メール欄に三平と。
44 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 01:59:42
なに言ってんだか。
北条氏が玉縄城を作った時点で残りの関東は抵抗勢力になってしまったわけ。
で古河に残る結城氏と上州に亡命した山内上杉が最後まで残る。
45 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 02:01:38
大体、上杉を一個で表してる時点でダメダメだろ。
二種類ありますから上杉はw
46 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 02:09:51
>>39-40 >>42-43 わかるわかるよ〜
きっと江戸東京にだけ知識があるからそこからミクロ的に調べて
カオス乱戦の歴史を描いてるんでしょ。
関東には政権があって覇権争いがありますから。
その関東丸ごと僻地扱いの発想は西の人しかあり得んもんw
一応歴史追求の視点取ってくれてるみたいだけど、
アフリカにも歴史がある、みたいな主張聞いてる感じで根っ子に軽視が出てるよ。
それにしてもむごいよな。
近畿に例えるなら、
和歌山の無名な武将の歴史にだけ詳しくて
楠木正成や南北朝政争を知らないみたいなモンだ。
なにに影響されての混乱なのかが抜けてるとは。
イナカの人は東国の歴史は東京から始まると思ってるから
鎌倉取ったどー!で残りは雑魚、ってw
信ヤボ厨やバサラーでもそこまで酷くないぞ。
で、
なんか東京様にコンプレックスや恨みでもあるのか?
都民様の俺が話だけは聞いてやるぞ。
聞くだけな。
50 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 13:03:27
はあ?
雑魚とは言ってねえっての。
鎌倉取ったどー
取り返しに来たどー
だろ。
謙信だって鎌倉、じゃなくて小田原取り返しに来たじゃねえか。
鎌倉には力任せに入った。
ただ武蔵というか江戸が雑魚なのはしょうがないだろ。
雑魚なんだから。
太田道灌という扇谷の名宰相が来て初めて浮上しただけで。
51 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 13:25:12
そもそもなんで太田が江戸に来たかというと
鎌倉公方と関東管領という権力争い。
関東管領は地元勢力、鎌倉公方は足利。
で鎌倉公方が古河に逃れて分断したので
中間の江戸に拠点を構えた。
で古河ってのは足利至近の土地だから、
足利幕府は下野足利の支配下にあったのかって
まあそんなに外れてない。
足利幕府とは鎌倉公方のことだからね。
室町はなんだろうね。あれは別荘では。
随分賑わってるなあw
それにしても武蔵、多摩あたりの歴史を評価してくれる人がいるってのは何か嬉しいなw
実家の近所の城址なんかは規模も小さいし、何より北条氏の印象が薄いから
一般の人には馴染み薄いしね。
滝山城を巡る企画なんて毎回大人気だけどね。
54 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 00:16:35
>足利幕府とは鎌倉公方のことだからね。
電波系の板で大発表してくださいwwwwwwww
何で日本最大の平野なのに、江戸時代まで人口希薄な荒れ野だったの?
56 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 01:25:33
水が無かったからです。
水? 多摩川も荒川も江戸川もあるでしょ?
58 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 01:52:46
平野じゃないから。
それと、人口も少なくなかった。
東京は現代でも山あり谷あり。
当時は川(谷)が幾筋も巡り、山(丘)が半島のように沢山あった。
その河口部に、上流からの物資が蓄積交易される、
一大物流拠点があった。
東北道や東山道、鎌倉街道が通り、江戸や近郊、そして関東各地に交易拠点都市ができていた。
ただ、
戦乱が続いたこともあって、
上方のような華やかな文化が生まれるほどのものはなかったし、
大陸や南蛮との直接交易は難しかった。
江戸を見た家康が「これはヒドス」って思ったのは、
小田原の北条が、江戸などの武蔵国在地勢力を潰して交易拠点を移したから、
江戸の街も城も荒廃していた上に、
そもそも古江戸城は「周辺諸国を支配する規模」ではなかったし、
「石垣とか天守閣とか、当時流行のカッコいい城」ではなかったから。
家康の街作りプランも、元々の江戸を発展利用させたもの。
街道をより集約し、水運物流を拡張再整備し、
ただ平野の少なさを補うために、埋め立てや地ならしをしている。
ただ平たい土地がよければ、もっと多摩や埼玉。内陸でもよかったんだけど、
物流を考えて、河口や街道という地の利を選んだ。
家康入府前の江戸は湿地帯で、そのぐらいの時代まで日本の土木技術では
開発できなかったと聞いたのですが、間違いですか?
61 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 04:13:18
>>54 なーに言ってんだよ。
足利ってのは鎌倉が本当の赴任地で
京に行ったきり戻って来ない、という位置付けだよ。マジだよ。
だから将軍の代理人として鎌倉公方を置かれたわけ。
でもそのまま放っぽらかしたので、
代を重ねるごとに揉めていった。
赴任地に赴任しようとしないで京に留まり続けたのが足利将軍。
62 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 10:25:18
500年前の東京
は名著と思う。
63 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 18:15:57
64 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 23:28:51
東京はいなかもんとおのぼりさん
京や大阪と違って歴史はたかだか400年
チョン並に歴史の捏造でもしなけりゃ非主流なのが関東圏
まぁ頭狂人が大阪や近畿を妬むのは、この辺が原因だろうね
65 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 01:16:16
>>61 「本当の首都は京都どす!
天皇陛下はちょっと江戸に行っているだけどすぇ!」
という基地外と変わりないですあなたw
66 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 20:51:43
渋谷は深い谷であり、渋谷川渓谷が形成されていた。
今では渓谷が完全に消え失せているが…。
67 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 00:00:45
渋谷は地下鉄駅が2階にありますね。
68 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 01:16:21
>>66 分かり難いだけで、谷戸地形自体は健在だよ。
宇田川も河骨川も。
その地形のおかげで渋谷の街は、主要なターミナル駅の中で一番疲れる街だ、、、
69 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 01:38:25
>>68 道玄坂や宮益坂の地形やら暗渠化された宇田川の面影も有るけれども
深い「渓谷」が今の大繁華街に成ったのは凄さと共に切なさも感じられるじゃん。
だって、今現在「渓谷」と呼ばれてる谷と川が、数百年後に完全に都会化されてたら
何とも言えない感じに成る。
考えてみりゃー新橋〜品川間は明治初期は海岸の先の海を埋め立てて
線路を敷設したじゃんか?
つまり、東海道線の線路の東側は完全に海だったって事だが
それが百数十年後の今や東海道線の線路は完全に「内陸」を走ってるしな。
70 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 01:40:19
目黒から海は遠くなった。
さんまの水揚げなんぞ無理です。
江戸時代には目黒に海岸があったと信じている人、乙
>>58 一大物流拠点というのは、「ローカル史」の内輪の外で語るにはちょっと恥ずかしいとも思う。
同じ東日本でも、十三湊あたりをみてしまうとね。
関東地方というのは、本質的に「日本列島の南東のどん詰まり」なので、
日本経済史上、交易が「開国的」な時代を迎えるたびに、
東北と比べても「僻地」に転落してしまう。
鎖国すると浮上し、開国的になると転落することの繰り返しが、2000年続く。
関東が貿易の利を得るためには、結局、アメリカ合衆国の勃興を待つしかなかった。
>>59 地の利と言う点でも、江戸は所与の条件としては微妙なんだよなあ。
内水運としても河川網から微妙に外れていて(浅草などのほうがよほどよい)
海運を牛耳るには、大河川の河口が近すぎて湊が不安定だ(これも品川に劣る)
江戸を語る上では、1590年8月30日(家康の江戸城入り)以前と以降では、
どこまでも決定的に違うのだと思う。
既存のもので存在したのは、江戸城以外には、
「江戸前島」という、東京湾岸でも三流レベルの小さな町場だけだ。
「移転した大名が、既存の都市をどれだけ使えたか」という点では、
東日本で言えば、小田原はもちろん、
佐竹の水戸や、上杉の黒川(会津若松)にも及ばず、
せいぜい、伊達の仙台辺りのポジションではないか。
俺は、鈴木理生説から、買いかぶり分を削ったくらいが、
穏当なラインではないかと思うけどね。
逆に言えば、徳川家康は、武蔵国内でさえ微妙な立地の江戸を、
交通網を徹底整備することにより、
人為的に「日本の中心」に育て上げたということになる。
73 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 18:46:42
諸大名に土木工事押し付けるには絶好の環境だったんだろ
ああ、、、例のスレ立てたキチガイか
75 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 21:02:03
『拾芥抄』記載の田積
旧国 拾芥抄
武蔵 51,540 町
陸奥 45,077
常陸 42,038
出羽 38,628
近江 33,450
下総 33,000
信濃 30,520
上野 28,453
下野 27,460
越後 23,738
越前 23,576
肥後 23,462
上総 22,666
越中 21,399
播磨 21,236
筑前 19,765
伊勢 19,024
讃岐 17,943
大和 17,005
美濃 15,304
平安末期〜鎌倉時代の武蔵は、面積を考慮したとしてもかなり豊か。
76 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 12:37:53
源頼朝が石橋山合戦で敗北して房総半島へ落ち延びて再起を図った時に
下総と武蔵の国境の隅田川を渡河出来無くて足止めを食らい
武蔵の支配者・秩父平氏へ向けて対岸から昇旗を掲げたって話有ったよね?
あれは何の旗だったんだっけ?
旗にどんな意味が有ったんだっけ?
確か、それを見た秩父平氏が過去の恩義を思い出して
武蔵国入境を許可し、隅田川渡河を手助けしたとかって聞いた事有るのだが…
イマイチ思い出せんのだ…
77 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 01:14:13
二十歳の春ははかなくて、生きてることは哀しい詩だ。
15行目から恋をして、20行目で終わったよ。
武蔵
79 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 20:22:34
武州って荒れ地だったのか。百万石くらいあったと聞いたが。
令制でも大国の扱いになってたんじゃなかったか。
80 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 20:41:56
江戸氏の末裔が喜多見若狭守だって最近始めて知った
81 :
日本@名無史さん:2010/02/10(水) 20:53:26
江戸一族は、喜多見氏のほかに
六郷・蒲田・飯倉・目黒・渋谷・中野・阿佐谷・桜田・芝崎・小日向・石浜・牛島
などがいたそうだ。
82 :
日本@名無史さん:2010/02/10(水) 21:30:09
日高見国の大王の末裔、喜多見氏
毛野氏の支配地関東と利根川をはさんで存在した古代国家。
豊城入彦とその子孫が関東を支配するまでは、
東京湾周辺も日高見国の支配地だったのかもしれません。
83 :
日本@名無史さん:2010/02/11(木) 05:13:39
縄文時代→続縄文時代→新縄文時代→戦国時代→江戸→東京。
84 :
日本@名無史さん:2010/02/11(木) 09:02:53
昔、会田雄次氏の本で、
「戦国時代以前の関東はほとんど石器時代の延長のようなものです」
と説く専門家もいるくらいだ
と関東の後進性について書いてあったのを思い出したw
85 :
日本@名無史さん:2010/02/11(木) 13:52:40
>>55 人口はあったんじゃないの?縄文時代はむしろ多かったみたいだし。
ただ、都市や文化としての洗練がなかったのかなと。
江戸氏→都心部から南部・西部・本所にかけて庶流が支配
豊島氏→豊島区・板橋区・練馬区・北区・荒川区に庶流が支配
足立氏→足立区から埼玉にかけて統治
葛西氏→下総国葛西御厨を管理
足立氏だけ源氏で他は秩父平氏
87 :
日本@名無史さん:2010/02/18(木) 15:46:22
江戸時代以前は江戸より品川の方が発展してたんじゃないの。
88 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 19:17:28
品川には江戸一門とは別の豪族がいたようだな。
品川氏、大井氏は江戸氏とは別系統だという。
89 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 21:33:52
武蔵国の結界、東京都庁の2つの塔に注連縄を張ることをお勧めします。
東京タワーと東京スカイツリーの間には、電波の縄がかかるようです。
利根川は江戸以前は東京湾にだけ流れていて酷い氾濫があったって知らないの?
人工的に茨城に流したんだよ。
北条氏所領役帳なんて見ると
この頃は足立とか葛飾は本当に仲間はずれだったんだな
23区は概ね「江戸○○」なのに。
その時代から23区近辺は江戸が中心と見られていたんだな。
江戸氏も23区の多摩川・隅田川・神田川・善通寺川沿いに勢力を伸ばしてたからな。
石神井川は豊島氏、中川は葛西氏か。
95 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 20:44:19
ほほー
96 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 07:35:56
鎌倉幕府崩壊後、家康入府前まで、
武蔵って原住勢力の別天地だった気がする。
97 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 00:19:19
豊島氏
98 :
日本@名無史さん:2010/06/05(土) 14:45:38
がどうした?
台東区と墨田区は、今は隅田川で隔てられてるが、
戦国末期までどちらも中央部の水域が広くて
隅田川東西のエリアのほうが近接してたようだ。
100 :
日本@名無史さん:2010/06/05(土) 22:47:19
古代〜中世の武蔵野は大森林地帯。
樹齢数千年もの巨木が何千万本も生い茂っていた原生林。
その肥沃な森林地帯の富によって栄えたのが縄文時代。
奈良・平安時代には須恵器や国府や国分寺用の瓦を焼く窯業が盛んになったのも
森林から得られる無尽蔵な木材資源が原動力だった。
鎌倉幕府が造営した鎌倉大仏も、元は荘厳な宋様式の大仏殿に納められていたが
その柱や梁は奈良の大仏殿のような集成材などではなく、無垢の巨材がふんだんに使用されていた。
武蔵野の大森林が枯渇し始めたのは江戸時代になって、江戸の町を作る膨大な用材を得るために
原生林を切り開いて木材を集めたり、煮炊きに使う薪炭として乱伐し始めたからだった。
その上、江戸の町は50年〜100年置きに甚大な大火に見舞われ、その度に従来の原生林や植樹され補完された森が
次々に乱伐され続け、更に100万人もの大人口を養う必要性から発案された新田開発の名の下に、伐採後の森に
植樹されることがなくなり、次々に新たな農地への転換されてしまった。
現在、武蔵野の田畑の真ん中にぽつんと点在する神社を囲む鎮守の森はかつての鬱蒼と茂っていた
武蔵野大原生林の名残であり、注連縄で囲まれた大きな御神木は伐採を免れた貴重な天然記念物。
101 :
日本@名無史さん:2010/06/05(土) 22:56:37
武蔵野は月の入るべき山もなし
草よりいでて草にこそ入れ
102 :
日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:15:52
紫の ひともとゆゑに 武蔵野の
草はみながら あはれとぞ見る
103 :
日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:44:24
>>101-102 それは元々海に近い湿地帯だった所に葦が茂った風景で詠まれた歌。
中世の旅人は相模から現在の東京湾沿いの深い葦原の湿地帯を通って武蔵国に入った。
名にし負はば いざこと問はむ 都鳥
わが思ふ人は ありやなしやと
在原業平も東国に旅した折に隅田川から北上して行き
現在の墨田区付近でこの歌を詠んだ。
そもそも、中世以前の武蔵野中央部は鬱蒼とした原生林の生い茂る密林地帯で
うぶな都人などが重武装の護衛隊も無しに通過できるほど安全地帯ではなかった。
何しろ平安中期まで竪穴住居で暮らす原住民が普通にいたのが中世武蔵野の真の姿。
104 :
日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:46:28
家康が江戸入府したころに葦原を干拓したけど
古地図を見た限り区画整理しなかったところが点在してるよね。
そこはもうかなり農漁民がいたのだろう。
>何しろ平安中期まで竪穴住居で暮らす原住民が普通にいたのが中世武蔵野の真の姿。
戦国時代ぐらいまで、アイヌ語の通じる村が残ってたかもしんない。
106 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 00:10:21
アイヌ語由来らしき地名ならいっぱい残っている。
風布(ふっぷ)
越辺(おっぺ)
秩父(ちちぶ)
宝土(ほど)
奔内(ぼんない)
日暮里(にっぽり)
107 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 21:39:00
江戸こそアイヌ語
江戸氏は徳川家康の側近として、今も下町経済を支えています。
108 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 21:51:55
>>106 日暮里は元は新堀(にいほり)だそうだが。日暮里と呼ばれるようになったのは享保年間だそうだ。
日暮里周辺は三川ヶ島(三河島)が洲としてあったぐらいの寂しいところだから
アイヌが住むどころか人が住めるところではない。
110 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:50:22
関東に住んでいる時点でアイヌじゃないんじゃないの?
111 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:16:04
生粋の江戸っ子っていうのはアイヌじゃないの?
江戸っ子というのは蝦夷っ子と同じだからね。
怪しい電波が飛んでるなぁ。江戸時代以前に江戸っ子なんて居よう筈が無いんだが。
ていうか平安時代や鎌倉時代にアイヌ?
頭おかしいんじゃねーの?
平安〜鎌倉期と言ったら江戸氏とか浅草寺が富豪だったんじゃね。
やっぱり江戸以前は浅草辺りが一番発展していたのかな
浅草弾左衛門は、江戸の原住民。
弾左衛門の協力なしに、徳川家康が天下を取れたとでも思っているのでしょうか?
墨田区の「中之郷」は、浅草周辺の大規模農漁民集落だったのかもしれん。
江戸時代以降の地勢で考えるとこの地名は訳がわからないが、
背後(南東側)が広大な干潟、葦原だった時代なら限られた居住区間ということで説明はつく。
徳川があえてここだけ区画整理しなかった(碁盤目になったのは震災後)のは相応の理由があるのだろう。
でも弾左衛門の話ってどこまで本当だかよくわからんよね。
江戸浅草ローカルでは支配層だったのかもしれんけど。