1 :
日本@名無史さん:
超ド素人の妄想・ファンタジーの世界へようこそ!
ズバリ!「投馬国は、時代を下った對馬国である。」
理由:呉音が似ている。投(ヅ・ズ)・對(ヅイ)←辞書で調べた。
古代に、ある未知の特定の場所を求める時、(時間=日数・距離=里・方位)で考えたと考える。
それだけ・・・orz・・・
投馬国を、時代が下った對馬国とするとこんな利点が!!!
→帯方郡から邪馬台国までの距離・日数・方位がわかる!
→放射説を採用しなくても、北九州説やその他の九州説が使える!
投馬国を、時代が下った對馬国とするとこんな不幸が!!!
→近畿説の人にボッコにされる。
→「ご都合主義の妄想!」と言われる。
2 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 23:32:39
>>1のつづき
予期される質問とファンタジーな回答@
Q、なぜ、對馬国を投馬国と記述したと考えるの?
→支那王朝や支配民族が交替したことにより、読みが不便になった。
支那王朝が交替した際、「對」の発音が変わり、元の「對」と発音が似ている「投」を日数記述の方に当てはめた。
やがてまた、王朝が交替し時代も経ったことで「對」と「投」の違いがわからなくなった。
現在残っているものは、「投馬」を「出雲」や「但馬」などの大和王朝の有力地域に当てはまるように更に改編したもの。
ちなみに、固有名詞や数詞など名詞は、あまりイジってないと考える。
Q、投馬国と對馬国の記述の違う点は、どう説明するの?
人口→改編時に「出雲」や「但馬」などの大和政権下の有力地域をあてはめた。
もしくは、
銀の採掘や白村江の戦い以降の西国防衛で、對馬国の人口増加を書き加えた。
官名→卑弥呼が死んだあと、内紛を抑えるために当時の支那王朝の力を借りる事を考え、外交の重要性から對馬国の官の格上げをした。
對馬=古代のまま記述。
投馬=途中まで歴史にあわせながら記述。
3 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 23:34:21
>>2のつづき
Q、邪馬台国は、何処?理由は?
→北九州の筑後地方。
理由:山門・八女(たくさんの女=千人侍らす。)・矢部川などの地名が複数あるから。
瀬戸内気候で冬でも割と暖かい。
農業と漁業で安定した食料調達ができる。などなど・・・
Q、北九州説なら放射線説を採用するの?
→採用しません。
行程:對馬→一大(支)→末盧→伊都→奴→不彌→邪馬台国(不彌→邪馬台国=1300里)
日数:帯方郡→投馬(對馬)→邪馬台国(計:水行=30日・陸行=一ヶ月)
方位:帯方郡―(南)→投馬(對馬)―(南)→邪馬台国(南=南南東、黒潮の影響?)
ちなみに、元寇の時、對馬→平戸にかけての元の侵攻速度は、確か9日だったと思う。
軍事行動がない代わりに、食料不足気味の対馬での水や食糧の補給・舟の点検・天候や方位の確認のため、對馬→一大(支)→末盧の水行日数は、約10日かかると予想。
帯方郡〜對馬までの8000里=水行20日と短いのは、水や食糧の補給・舟の点検・天候や方位の確認が、半島に接して水行しているため、比較的容易なのでは?と考えられる。
4 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 23:35:13
>>3のつづき
Q、箸墓遺跡をどう考えるの?
Q、狗国との関係は?
Q、名前が列せられている他の国は何処?
Q、卑弥呼の墓は何処?
Q、大和政権と邪馬台国の関係性は?
→わかりません。
Q、証拠は?
→ありません。 妄想・ファンタジーです。
Q、おまえ、検索しやすいように題名に「邪馬台国」つけただろ!
Q、おまえ、ド素人だろ!
Q、投馬国の記述が、当時の他の文献にあったらアウトだよね?
Q、10円どこで拾ったの?
→はい、そのとおりです。
Q、くそスレ立てんな!
→ごめんなさい・・・・orz・・ペコッ
5 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 09:57:16
●
ヽ(・∀・)ノ ウンコー♪
6 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 10:09:35
>>5 1-4です。
● orz <アリガタキ、シアワセ…
7 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 11:55:44
凸
ヽ(・∀・)ノ 真偽輪王の金淫アゲユー♪
8 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 12:00:52
>>1 言語学的解析ですでに「投馬」は「出雲」ってことになってるんだよ。
9 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 12:31:47
>>7 1-4です。
凸 orz <アリガタキ、シアワセ…
10 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 12:37:12
>>8 1-4です。
すみませんが、「言語学的解析ですでに「投馬」は「出雲」ってことになってる」の
わかりやすい資料を提示していただけるとありがたいです。
11 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 13:25:19
●
ヽ(・∀・)ノ 宋版の太平御覧で出雲のことを「エ投馬」と書いてルン
出雲地方の年配者はイズモのことを今でもエズモと言う〜
紀元前後の出雲方面と半島の関係を考えると
投馬は出雲(丹波)と比定するしか無いでしょ。
脱解王なんて倭国の東北千里の多婆那国(どう考えても橘=丹波)から
新羅の王になったという伝承が、他ならぬ半島にあるからな。
籠神社にも太古丹波から海を渡って王になった人物の伝承もあり、
奇しくも半島、日本において一致しているのです。
更に半島から来たという新羅の王子、アメノヒボコは
渡来人にも関わらず「アメ」がつく異例の扱い、
記紀にも記述されている国が認定している事実です。
その墓が丹波の但馬にある事からも解るように、
弥生末期の丹波、実は相当な鍵を握ってますよ。
14 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 14:41:31
>>11 1-4です。
フムフム…勉強になります。orz<ペコッ
こう言えば、ああ言うになりますが、
宋版の太平御覧で出雲のことを「エ投馬」と記している元ネタが、
「宋代以前に、對馬を投馬に改編された魏志倭人伝などから」
とは考えられないのでしょうか?
例
宋代以前に、對馬を投馬に改編された魏志倭人伝(損失)
↑
(参考)
宋版の太平御覧:出雲のことを「エ投馬」
↑
(参考)
現存する最古の魏志倭人伝
>>11↓ ● 凸
ヽ(・∀・)ノ orz ● <ソレモ、モラエルノ?
改編する必要性が何もありません。
良田もない對馬に五萬戸もあったら(ry
17 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 15:03:10
>>11-12 1-4です。
投馬を「出雲」などの鳥取〜京都の日本海側地域と
仮定すると一番不可解な点は、(九州説などでも言えることですが、)
水行20日の間の水・食料の補給は、どうしていたのでしょうか?
途中にどこか港のある集落に寄らなかったのでしょうか?
またその行程をなぜ記さなかったのでしょうか?(←削除されたのかな?)
そのあたりのお考えをお聞かせください。
>>14 ずれた・・・訂正・・・
>>11↓ ● 凸
ヽ(・∀・)ノ orz ● <ソレモ、モラエルノ?
18 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 15:28:59
なんだネタスレかと思ってたらマジなのか
ハイ糸冬了
>>17 対馬から海流に乗って本州西部に接岸、それから海岸沿いに進めばいいでしょ。
大体海人なら容易な事です。
>>1 がんばれよ、このままじゃ本当にネタスレになっちゃうぞw
終了です。
22 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 23:56:46
ただいま〜。1-4です。
>>19 >対馬から海流に乗って本州西部に接岸、それから海岸沿いに進めばいいでしょ。
大体海人なら容易な事です。
補給の点はどうお考えですか?ということなのですが…
海人なら、海上補給もしくは、補給ナシというご意見ですか?
>>20 ●
凸
orz ● <モウ、クジケソウ…ナンカ、チョウダイ…
23 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 11:38:35
キーポイントは伊都国や一大卒。
邪馬台国が北九州の筑後地方なら一大卒の存在が説明できるのか?
邪馬台国が阿蘇近辺のほうがまだ合理的なのだ。
24 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 14:18:39
>>23 1-4です。どうもっ!
当時の感覚でいくと、安全な通行ルートは、こんな感じだったんじゃないかなと思う。
伊都→奴→不彌→
山・山・山・山・山・山・↓
山岳・山岳・山岳・山岳・↓ 山・山岳
山・山・山・山・山・山 ↓
邪馬台国←←←←←←←←←
現在の地図を見ると確かに福岡方面〜筑後平野は、短く感じられるが、
当時は安全のためには迂回ルートを選ぶしかなかった、つまり、かなりの距離があったと思う。
伊都国に一大卒を置いた理由は、
@危険を冒して、山岳越えルートでも伊都国〜邪馬台国の間で密使を送る事ができる。
A北方の港を確保できる。
B仮に大国の奴国が反乱をおこしても、伊都国との連絡が絶える事なく、
伊都→←奴→←←
↑(支援) ↑
邪馬台国→→→↑
このように、挟撃できる。
C朝鮮半島との交易を海路・陸路の両方から監視できる。
などがあげられると思う。
例え、伊都国〜邪馬台国の距離が、短くてもそれなりの重要拠点だったと思う。
だから、一大卒を置いたのだと考えます。
>邪馬台国が阿蘇近辺のほうがまだ合理的なのだ。
→阿蘇近辺にまで勢力が拡がっていたと考えると解かるんだけど、
阿蘇近辺だと、農業・狩猟ぐらいしか食料を得られない、
つまり、海に面した平野部より食糧自給の安定性が悪いと思う。
25 :
日本@名無史さん:2009/09/14(月) 21:52:12
邪馬台国は大宰府より南の筑後川流域から熊本北部だろ。
阿蘇山があるらしいし。
投馬国は出雲国の前だな。。
26 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 16:53:08
熊本北部では水行10日陸行1月はかからない。もっとずうっと遠い所のはずだ。
それに、邪馬台国と投馬国は同じ方向にあるはずだな。倭人伝はどちらも南に
している。
半島に阿珍浦伝説というのがあるが、
そこには「倭国」の東北に多婆那国(丹波国)があって
その国王は「女王国」の女を王妃としたとある。
つまりこの時代、はっきり倭国と女王国は別として
捉えられているのがわかる。
距離が離れている投馬国(丹波)〜邪馬台国が
倭人伝においてセットで語られてるのは
密接な関係があった事からも推測できます。
28 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 18:16:54
wikiを見たら
>丹波ははじめ「たには」と呼び、古くは田庭・谷端・旦波とも書いた。5世紀ころ四道将軍の遠征により大和朝廷に服属したとされる。
とある。投馬≠たには、これはどう見ても違う地名。
>>28 由来はもっと古い話だと思うよ。
丹の波が云々という話もあるが、俺としてはこれも没。
タウ・パの転化説をとる。三重の鳥羽の語源の一つとされてる。
これだとマオリ語源で船を留め置く場所で、
水運の要所の意味だから。
京都の水運の要所だった丹波や鳥羽が
隣接している事からも推測できる事です。
卑弥呼は大和朝廷とつながってないから
熊襲の女酋長だよ
本居先生を信じなさい
33 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 01:08:11
>>29 投馬は三国志に書かれた地名(国名)で3世紀ころのもの。
「たには」は「たんば」に遡る地名として日本の文献に出てくるもので、5世紀以前あたりと考えられるもの。
タウパ→たには→たんば、という転化は考えられにくい。
たには→たんば、か。タウパ→たんば。前者は文献が根拠、後者の根拠は??
まず日本語にマオリ語源の単語があるのかどうか不明。
さらに、たんばがタウバの転化かどうか疑問。
「投馬=タウバ」先にありきの説にしか思えません。
>>33 >「投馬=タウバ」先にありきの説にしか思えません。
というより「投馬=但馬、丹波」が先にありきの説ですね。
当初は投馬=出雲で推測してたのだが、
半島の新羅とこの丹波地方の関係の深さは、両国の様々な伝承を
調べる限り無視する事は出来ないという点からの結論です。
その伝承の中で倭国の東北千里に多婆那国があり、
女王国から王妃が出てるとまで書かれてる以上
これは大国だと判断できます。
倭人伝に記述される投馬国の可能性は充分にあると思いますね。
多婆那国=田庭(タ二ハではなくタバ)、丹波国である事は
まず間違いないと思いますしね。
本来からタバが正しく、タニハ読みは後付けだと推測してます。
35 :
名無し募集中。。。:2009/09/16(水) 02:49:00
中国人に発音して貰うのが早道
36 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 08:56:47
>>34 「たんば」・「たば」、に田庭という漢字を充てることはありません。
×:たば・たんば → 田庭
○:田庭(たには) → たば・たんば
丹波と新羅に交流があったことを否定するつもりはありませんが、
「女王国から王妃」というのは女王が王妃になったということではないでしょう?
女王国だけのつながりなら19世紀イギリスが邪馬台国といってるのと同程度の話です。
それに投馬国は女王国ではありません。
ちなみに3世紀に新羅はまだ存在していません。
>>36 >「たんば」・「たば」、に田庭という漢字を充てることはありません。
それを証明する文献がない、あくまで推論。
>「女王国から王妃」というのは女王が王妃になったということではないでしょう?
勿論そうですが。女王国出身の王妃がいるという事でしょう。
>女王国だけのつながりなら19世紀イギリスが邪馬台国といってるのと同程度の話です。
それに投馬国は女王国ではありません。
意味不明ですね。勿論投馬国は女王国ではありません。
但し女王国と関連がある、女王を共立する一員ではあると思いますが。
>ちなみに3世紀に新羅はまだ存在していません。
伝承上の新羅国というのは、当然後に新羅を建国する
主要民族、一国だと解釈してます。
>>36 3世紀の時点では「たば国」になっていただけじゃないの?
40 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 10:17:49
>>38 「あて”ない”」ことを証明することはできない。証明すべきは「あて”た”」とするあなたの方。
「ば」の音に「庭」という漢字をあてる例を探せばよい。「にわ」が後に「ば」になったものはダメですよ。
それができたら次に、「たば」に「田場」「田馬」でなく「た庭」という漢字をあてるに十分な理由でもこしらえてください。
丹波の伝承に女王国が出てきたから、単純に女王卑弥呼の邪馬台国と関連ずけた発想なのでしょう。
伝承をよく知らないのですが「女王国から王妃」というのが、女王の血縁なのか、
単に生まれが”女性が王であった国の人”という程度のことなのか。後者なら女王国と丹波国との関係は薄くなる。
その女王国がどこの国のことなのかという問題もある。古墳などから女王国は結構な数があったと考えられているが、
丹波近くの女王国ではなく、これが邪馬台国のことであるとする理由が弱い。
それに新羅の伝承なら新羅の話として解釈すべき。それを勝手に新羅の前身の国の話などとするのは、
文献の信憑性にかかわる話になるのでは? 新羅の前の国名は、その文献には登場しないのでしょうか。
>>40 まず伝承に関する記述は,基本的に「三国史記」等の半島関連のもの。
複数確認出来るが、基本的に同一の話とも推測できますね。
それらから確実なのは「多婆那国」というの国が「倭国」の東北千里に
存在して、その国の王妃は「女王国」からの女性だという事。
その土地関係から「多婆那国」は本州西部、日本海側なのは
ほぼ間違いないでしょう。
その多婆那国から来た人物が、新羅建国の祖である王家や
重臣となっている事が、半島の文献上では間違いなく
記述されている事ですから。
まあ韓国では認めたくない事でしょうけどねw
何故かこれまで日本でもあまり語られなかった事は
不思議な点ですけど。
日本でも宮津籠神社の伝承に、太古に海を渡って
新羅王になった伝承があり、一致している話です。
丹後の大風呂南遺跡とかの出土品をみた限りでも
弥生後期に大陸と交流があって、
王国と呼べる国が存在したのは確実でしょう。
年代を限って言えば鉄の量も相当な物ですから。
大体加悦(カヤ)なんて地名まであるし。
43 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 06:25:02
44 :
サガミハラハラ:2009/10/16(金) 14:00:22
単に音が似ているからと比定してはいけません。音はヒントの一部なのです。
倭人伝の馬は間(マ)のことで、客間、居間、土間等とおなじような使い方で、
当時の九州をいくつかに地域にわけて、その地域名に間(マ)をつけたのです。
中心の地域なので屋間(邪馬=邪馬台国ただしぼう国の邪馬国ではない)糸島に斯馬、遠賀川に嘉麻、熊本に球磨
対馬は対になっているので対間、そして宮崎は遠いところなので遠間で投馬となりました。
投馬国は、日向、大隅にあった国です。
45 :
日本@名無史さん:2009/10/16(金) 21:34:35
だいたい、漢字で投馬とか邪馬台国とか書いていてもしょうがない。
最低限、当時の発音をローマ字で書いてくれ。
46 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 09:38:07
>宮崎は遠いところなので遠間で投馬となりました。
アホなことを考えるもんだ。国の名前はその国の人が決めるんだよ。
遠い国なんてあるものか。自分たちの国は「ここ」だ。
47 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 17:33:08
48 :
サガミハラハラ:2009/10/17(土) 23:02:20
そこの人が決めた名は日向です。トウマは北部九州の人たちが、九州東南部を呼ぶときにつかいました。
尚、後世になると、新しい国の国名はかなりの数、中央の人がきめるようになります。
陸奥などというのがそれです。
49 :
日本@名無史さん:2009/10/18(日) 07:34:54
中央が奴国を二つもつくるわけはない。
50 :
サガミハラハラ:2009/10/18(日) 08:16:58
奴とはトと発音し、国という意味の他に戸口の意味をもあらわします。よって奴国とはある主要国または地域の
入口にあたる国であるわけです。つまり、ある中央の国がその境界の国に戸口をあらわす国名をつけたわけです。
戸口は数か所あるから奴国も数か所存在するわけです。
ちなみに、西の戸口国家が肥前山口で、砥川、土元の地名が残っています。
狗奴国との境界の国が八女の近くの山門です。
51 :
日本@名無史さん:2009/10/18(日) 18:55:48
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
52 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 13:26:39
53 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 11:27:49
倭人伝どおりに進めば投馬国は薩摩、邪馬台国は日向だろう。
狗奴国が存在出来ませんので無理
55 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 17:38:25
>>50 >奴とはトと発音し・・・
奴 の読みの ト は呉音なんですか ?
>>53 「倭人伝どおり」に進む場合、投馬国が不弥国の南でありながら水行20日とだけ書かれて、陸行に触れられてない点について、どう考えるかが問題となると思う。
じつは投馬国は、不弥国の南に陸上で隣接しているのではないか、と考えると、投馬国=吉野ヶ里、で何ら矛盾がなくなるんだが。
あの吉野ヶ里の副葬品から考えて、いくら近道だからって陸上は危険すぎて通れないだろうから、水行せざるをえない。
その場合のルートは博多湾→松浦沖→佐世保沖→長崎沖→島原半島周回→有明海北上→筑後川遡上、となる。
手漕ぎの船でいくならちょうど20日ぐらいで着くはず。
そこから南に邪馬台国を取れば、人吉から川内あたりになって、さらにその南に狗奴国をとれる。
57 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 08:58:14
>>56 水行10日で人吉から川内あたりだね。そこから陸行1月だから、鹿児島市あたりに邪馬台国があったことになる。
>>57 起点を伊都国として放射状によむならまだしも、郡からって無理ありすぎやしない?
もしそうなら最後だけ「自郡至女王国」としてることの説明がつかない。
それはそうと、そのリンクにある「日向神話の謎」は参考になると思う。
「韓国に向かい、笠沙の御前(みさき)にまっすぐに通じている」にいう「韓国」が邪馬台国で、現在の鹿児島市付近だと考えれば、すべての話に辻褄が合う。
実際、地図を見れば、高千穂の峰から「韓国」つまり鹿児島に向かえば、笠沙の岬にまっすぐに通じている。
天孫たちが、笠沙の岬の勢力と協力して「韓国」を挟み撃ちにした様子が目に浮かぶようだ。
ちなみに「韓国」とは「からくに」と読むもので、現代の韓国とは無関係で、「からっぽの国」という意味だという説もあるようだ。
魏と通じているというので万全を期して攻めてみたら簡単に落ちた、とでも言いたいのかもしれない。
59 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 12:05:32
>>58 >「韓国に向かい、笠沙の御前(みさき)にまっすぐに通じている」にいう「韓国」が邪馬台国で、現在の鹿児島市付近だと考えれば、すべての話に辻褄が合う。
>実際、地図を見れば、高千穂の峰から「韓国」つまり鹿児島に向かえば、笠沙の岬にまっすぐに通じている。
>天孫たちが、笠沙の岬の勢力と協力して「韓国」を挟み撃ちにした様子が目に浮かぶようだ。
天孫降臨の地『筑紫の日向の高千穂のクシフル峯』
天孫降臨は福岡県の日向(ひなた)です。この日向峠は糸島(福岡市と前原市の境くらい)にあります。
「筑紫の日向」というのは 九州島の日向 と訳すのは間違い。そもそもこの頃 日向国はまだでてこない
ので宮ア県の日向をあらわすなら「熊曾国の日向」と書くはずである。
筑紫と書かれている他の記述の部分は福岡県をあらわしているのに、ここだけ九州島と訳すのは恣意的である。
日向峠(ひなたとうげ)の北に連なる高祖(たかす)山連峰には日向山があったことが黒田長政書状に記録あり。
また、高祖山連峰の中の最高峰が クシフル山(怡土志摩郡地理全誌(大正2年発行)に記録あり)で
今はなぜか名無しの山になってます。
60 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 21:44:40
熊本県の三加和町です
狗奴国は菊池市です
熊襲は球磨川から南側です
61 :
日本@名無史さん:2009/11/17(火) 08:21:16
九州説の言い分だと
倭=九州で
その他は倭の範疇に入らないのか
62 :
サガミハラハラ:2009/11/17(火) 08:59:25
>>55トは漢音です。匈奴奴隷のドまたはトです。御恩ではヌです。
古来ナという読みはありませんでした。戦後の邪馬台国研究のなかで奴国を
那の津にするために、ナとよんでいたとしたものです。
奴を魏の時代なんと読んでいたかは中国でも不明であったことにつけこんだものです。
63 :
日本@名無史さん:2009/11/17(火) 10:34:51
邪馬台国も倭も卑弥呼も日本ではありません
後世の中国人や日本人が誤解しているだけです
64 :
日本@名無史さん:2009/11/17(火) 11:22:51
ちなみに魏と大和朝廷は交流がありました
65 :
日本@名無史さん:2009/11/17(火) 11:28:19
耶馬台国は火と水と石の文化です
ちなみに暦はありませんでした
66 :
日本@名無史さん:2009/11/17(火) 15:53:59
>>62 >トは漢音です。匈奴奴隷のドまたはトです。御恩ではヌです。
>古来ナという読みはありませんでした。戦後の邪馬台国研究のなかで奴国を
>那の津にするために、ナとよんでいたとしたものです。
基本的には呉音なんでしょうけど・・・、とりあえず ナ ではないということですかね。
>>62を見ての思いつきw
狗奴国を「狗ぬ国」とつまり意味的には「狗(犬)の国」読んでみる。
その上で海幸・山幸の話を思い出すと、負けた海幸は山幸に「子々孫々に至るまで狗のように仕える」と言い
これが隼人の祖。と書いてある。
海幸山幸が邪馬台国時代の九州中南部での紛争の記憶で
狗奴国が薩摩で、九州制覇して東征が始まった。
チラ裏スマン
68 :
67:2009/11/17(火) 20:49:24
嬉々として書いたのに魏書にちゃんと
『(奴国は)これ女王の境界の尽くる所なり、その南に狗奴国がある』
て書いてあるわけねorz
69 :
67・68:2009/11/17(火) 21:20:37
妄想ついでに、狗奴国を薩摩(九州南端)にするなら、
それより北に奴国がないと魏書に合わない。と思って薩摩を検索してたら
『多国』てのが絶妙な位置にあった。
>>62の言う「奴」の読みに合致した音じゃないか?
ただし、調べる中で大宝2年に日向国を分けて唱更(ハヤト)国を作った。て見つけたけど…
それ以前から隼人がいてこそのハヤトの国だよな?w
70 :
日本@名無史さん:2009/11/17(火) 21:44:05
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
71 :
日本@名無史さん:2009/11/17(火) 22:07:40
奴国は那珂郡、その南で神功が夜須でクマソ征伐してるんだから
どうみても奴国は筑後地方。
奴国は江戸時代まで那珂郡という巨大な行政単位として残っていたんだよ。
本州・四国の人が知るよしもないがw
高天原は大和にずっと江戸時代以前からあるぜw
73 :
日本@名無史さん:2009/11/18(水) 11:24:41
>>67 >狗奴国を「狗ぬ国」とつまり意味的には「狗(犬)の国」読んでみる。
>その上で海幸・山幸の話を思い出すと、負けた海幸は山幸に「子々孫々に至るまで狗のように仕える」と言い
>これが隼人の祖。と書いてある。
この説いいですね。狗の字が使われてる国は狗奴国だけですものね。
>薩摩で、九州制覇して東征が始まった。
これはないでしょう。
七〇〇〇里 帯方郡治〜狗邪韓国
一〇〇〇里 狗邪韓国〜対海国《対馬》
一〇〇〇里 対海国〜一大国【壱岐・魏の直接支配地】
一〇〇〇里 一大国〜末盧国《唐津湾界隈》
五〇〇里 末盧国《唐津湾》(東南陸行)〜★伊都国(いづら)《佐賀県小城市牛津町・港でもある・魏使常駐》
《万五百里》=「伊都国(いづら)」。
《不彌国、奴国、投馬(国)、卑弥呼の都などは、伊都国(牛津)からの★放射状説を採る》
一五〇〇里 伊都国(牛津)〜水行十日《有明海を倭人が小舟で南下・「接女王国(女王国の国境)」の現八代市まで
《計・万二千里》……【八代市以北(「奴国・なら」の南・玉名市か熊本市以南)は、……
…… …… …… ……通行不可の、不仲の卑弥弓呼の狗奴国(旧奴国→百済)ゆえの「水行十日」】
「余(国内)」……「接女王国(国境)」の八代市から球磨川沿いを遡り、山越えして南下、
卑弥呼の直接統治国「壹国(薩摩)」の都、隼人町姫城までが「余=陸行一ヶ月」=倭人の歩み。
以下・卑弥呼の直接統治国「壹国(薩摩)」の都は、現鹿児島県姶良郡隼人町姫城。
《加治木 義博説》を支持。
「55m/倭人里」を使用。卑弥呼の「邪馬壹(やまい)(連合国)」は、【筑紫平野】。
【八代市以北(「奴国・なら」の南・玉名市か熊本市以南)は、……
…… 通行不可の、不仲の卑弥弓呼の狗奴国(旧奴国→百済)ゆえの「水行十日」】
76 :
くろくろ:2009/11/18(水) 14:57:15
77 :
日本@名無史さん:2009/11/18(水) 16:29:24
>71
那珂郡は筑前です。
78 :
日本@名無史さん:2009/11/18(水) 17:05:29
>>75 宇土半島(不知火地区)から八代まで水行という訳ですか?
なんか有り得そう。
もとは同じところの人たちが開拓していって日本中に広がったんだろうな。
魏志倭人伝の時点で2つあったわけだから、起源は相当古そうだ。
83 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 07:33:57
纒向遺跡発掘5%で、はい九州説終了!!
本物には勝てないんだよ。わかったか。
「那珂」は「中」の意味で国府の在った所に多い郡名。
>>83 邪馬台国は、たかだか30ヶ国ぐらいの勢力だから、大規模な遺跡であればあるほど、そこは邪馬台国ではありえないんだよ。
漢の時代に分かれて百余国、倭王武の時代に121ヶ国あったという日本のうちの、たかだか4分の1を治めていたにすぎない地方政権だ。
残念ながら、纒向遺跡の地は邪馬台国30ヶ国ではなく、残りの91ヶ国の中心地だったようだ。
>>84 「中」の意味を表すのにいろいろ可能性があるなかで、まったく同じ組み合わせを採用したのが偶然だったとでもいうんですかい?
86 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 07:53:00
>>85 それが5世紀後半までに、大和政権に降服したのか?
598 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 11:20:09
倭の五王武(=雄略)の宋に宛てた上表文(5世紀)
「我が封じられた領土は遠く、外に藩を作ってきた。先祖より武力闘争し、山川を越え、休まなかった。
東は毛人五十國を征し、西は衆夷六十六國を服し、渡り、北の九十五國を平定した。道は百済を経て,船も使い、ゆくも高句麗に難渋した云々。」
599 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 11:24:38
4世紀ごろの倭は
畿内と九州の諸国で対立してたとか?
それを大和政権が服して後に宋に上表文を出したのか
>>86 そうだろうね。
邪馬台国といえども複数の国をまとめるために卑弥呼や台与を立てていたわけで、その後大和政権に降伏するときには30ヶ国バラバラにやられたんだろう。
となると、西の衆夷66ヶ国のうちの半分ぐらいが邪馬台国だったことになり、近畿から西のうちのさらに半分ぐらい、となれば、ほぼ九州で決まりだと思う。
>>85 倭人伝の記述は、邪馬台国まででとまっており、邪馬台国の先は狗奴国しかない。
対して倭王武の上奏文は倭王領土を中心としており、
纒向を邪馬台国→ヤマト王権に比定し倭王武をヤマト王権の王とした場合、
倭人伝の記述に適合するのは西の66国だけとなる。
倭人伝の位置の分からない国が21国、記述のある国が7国、そして邪馬台国であり、
半分はうまることになる。
そして女王国に臣従しなかった九州中部以南や不明の四国を考えると、
十分に理解可能な数字になる。
分析しないで数字を鵜呑みにするのは危険である。
>>88 > 倭人伝の記述は、邪馬台国まででとまっており、邪馬台国の先は狗奴国しかない。
この時点で間違いだね。女王国の南にあるのが狗奴国しかないだけであって、海を渡った東には「黒歯国」「裸国」など様々な国があってみな倭種だと書いてある。
そもそも邪馬台国を畿内だとするなら、20余りの傍国の中に吉備や出雲といったメジャーな国があるはずなのに、それに類する名前が見当たらない時点でアウトだね。
>>89 なぜ「訓読み」する吉備や出雲の字が中国の史書にそのまま出てくると思うのか。
まったく理解しがたい。
また漢〜晋における倭種とはまだ越・粤系諸族との混濁もあり、
一概にすべて倭国の倭人と理解するのは到底出来ないことである。
>>89 例えば女王国の傍国の比定でこんな例がある。
出為吾国=伊賀地方
鬼奴国=内貴〜貴生川〜現水口
邪馬国=山背〜京都
巴利国=播磨
支惟国=吉備
烏奴国=穴戸
奴国=福岡
出雲は投馬だし、女王国の境界線が奴国で
倭人伝の記述と一致しますよ。
少し訂正、説明にも順番があるだろうから
ある程度地域が固まっている順番に比定してある。
空白の候補地は一応あるのだが、その辺がまだあやふやなんで
未定にしている。
斯馬國=志摩
已百支國=亀山
伊邪國=伊勢、伊予?
都支國=岐阜、土佐?
弥奴國=美濃
好古都國=
不呼國=
姐奴國
對蘇國=
蘇奴國=
呼邑國=
華奴蘇奴國=石川?
鬼國=紀伊
爲吾國=伊賀
鬼奴國=貴生川〜水口
邪馬國=山背〜山城
近江=躬臣國
93 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 10:06:18
>>89 オレは九州論者だが、出雲や吉備が出てこないことは、近畿説を否定する根拠にはならんと思うよ。
魏にしてみれば、交易していない国、無関心な国には興味がなく、記載しなかっただけだろ。
魏が、倭国の中でちょっとぐらい規模が大きいからと言うぐらいで、いちいち関心を示すとは思えんからね。
>>93 確かにそうだが、近畿説にたてば不弥国から投馬国、邪馬台国に至る途中にそれらの大国がありながら無視してることになる。
不弥国に至るまでは壱岐とか松浦とかどうでもいい小国をも詳細に書いていることと比べて、明らかにバランスを失しているんじゃないかな。
まぁ近畿説で出雲=投馬説なら当然投馬重視、
吉備は女王国の範疇だから
>>91で問題ないはず。
近畿説をとった場合、海を渡った東にあるという「黒歯国」や「裸国」をどこに比定するのか問題だと思う。
近畿説によれば「南」イコール実際の東だから、「東」イコール実際の北ってことで、佐渡あたりになりそうだけど、ちょっと裸で暮らすには寒すぎだと思う。
斯馬國、……志摩
已百支國、……伯岐→伯耆
伊邪國、……伊予?
都支國、……
弥奴國、……美濃
好古都國、
不呼國、
姐奴國、……讃岐
對蘇國、
蘇奴國、……蘇の国、熊本?
呼邑國、
華奴蘇奴國、……火の蘇の国、長崎?
鬼國、……紀、紀伊
爲吾國、……伊賀
鬼奴國、……貴生川〜水口
邪馬國、……山背→山城
躬臣國、
巴利國、……針間→播磨
支惟國、……吉備
烏奴國、……穴門→長門
奴國。……博多市内陸
>>97 普通にフィリピンのほうだと思うけどね。
陳寿は沖縄よりずっと南の方に延びてると思ってたわけだし。
だから風の噂に聞いたそういう太平洋の国の話を書いたんでしょう。
今のようにきっちりとした方角、土地感覚は無いでしょ。
その国の中ではあると思うが、山越えや海を渡る時点でまず誤差はでる。
現在でも山中なんてコンパスなければ方向感覚無くなるよ。
海だって海流に流されれば相当怪しい。いくら星を目当てと言ってもね。
101 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 12:33:48
>>99 >普通にフィリピンのほうだと思うけどね。
>陳寿は沖縄よりずっと南の方に延びてると思ってたわけだし。
>だから風の噂に聞いたそういう太平洋の国の話を書いたんでしょう
昔の地図の九州が倭国で、倭国の位置さえあっていれば、それ以外はどうでもよかったんだよ。
九州が倭国?オウムの麻原もよく似たこといってたな。九州信者=オウム信者だったか
103 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 13:13:39
>>99 それは完全に間違っている。
明代の地図から出た解釈なんだろうけどね。
チンジュは倭国をそんな風には絶対に思っていなかったよ。
104 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 13:16:47
>>100 それはまったく違う。
方角を間違えるような方向音痴では、絶対に戦争の勝者にはなれないね。
単純に考えてみてくれ。
太陽が東から昇って西に沈む、このことさえ頭に入っていれば、少なくとも
90度も方角を間違えるなんてことがあり得るはずがない。
>>104 現実に間違ってる例は沢山あるのはどう説明します?
>>103 南にずーっと12000里進んだ後に船で1ヶ月いったら、
大陸基準ならフィリピンぐらいまで行ってしまう。
実際に邪馬台国に行った使いが乗ったのは川船だったが、
中国の江は当時まだ幅数千メートルの川ばっかだから海船で遡行するしね。
107 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 14:12:15
>>98 華奴蘇奴国は上総国と妄想
他スレで鬼奴国は鬼怒川を引き合いにだして、毛の国じゃないか?と言ってる人がいたよ
都支国は土佐国じゃダメ?
何で読んだか忘れたが、魏に対抗しようと倭を目指した呉の船団は台湾に着いたんだったよな?
で、とりあえず「ここが倭ってことで良いんじゃね?w」ってことにして
現地人を攫って帰ったんじゃなかったかな〜
109 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 15:28:24
>>105 何を読んでそう言ってるのか知らんが、
たとえば、当時の中国の正史で間違っている具体例をひとつでも挙げてくれんかな。
>>109 例えば隋の時代でさえ済州島の形を間違えたりしてるが。
111 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 16:39:49
>>109 いくらでもある。つうか中国の史書はすべて日本を朝鮮の南西と書いてるが、
実際は東北東だ
112 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 16:48:40
>>111 >朝鮮半島の南西
それ、支那にとっての倭=邪馬台国が九州ってことの証拠じゃないか?
>>107 まだ律令制じゃないし、分国前だから上総はないとおもう
まだ越とか総とか蘇とかの時代だから。
土佐は記紀に都左氏の名前があるが、このとおりあきらかに「トサ」なので難しいと思う。
>>114 都支の読みだけど
記紀を書いたのは日本人だし、魏志倭人伝書いたのは倭人に話を聞いた大陸人だろ?
英語をカタカナで書く時みたいな音の変化や、九州のどっかの訛りだと
先生を「しぇんしぇい」と言う感じに「サ行」の発音が苦手なのも考慮に入れて欲しい
きしゃん、くらすぞ。
118 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 19:16:52
朝鮮から南西にむけて船出する→船は南西に向けて進み続けてるが
実際には対馬海流で船は東に移動してる。
地球は丸いなんて認識もない時代=緯度や経度なんてないし
実際に南西に船を出したら倭に着けるんだから、南西に倭がある地図で問題ないし実用的。
その上で大陸から南西を見ると渤海がある。
という筋書きですかな?
119 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 19:37:22
>>111 あんたの話が信用できんことはよくわかつた。
>つうか中国の史書はすべて日本を朝鮮の南西と書いてるが
何が、すべてだ?
魏志倭人伝には「倭人は帯方の東南」って書いてるじゃねえか。
これはどういうことだ!。
他の史書、言ってみろ。
120 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 19:51:44
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
123 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 20:48:21
>>121の1番目の画像のURL削って元ページに行ってみたらこんなん書いてあった
(1)方向のまぎらわしさ
方向を示す場合、通常は四分法または八分法が使用されます。現代のような測量技術がなかった古代では
四分法で言う場合が多く三国志』での方向記事2、237ヶ所中で八分法で記載されているのは、わずか40ヶ所にとどまります。
従って、倭人伝の 「東南、伊都国に至る」「東南、奴国に至る」「東南、裸国・黒歯国に至る」、との八分法は『三国志』でも珍しいと言えます。
拙著では、倭人伝の17ヶ所の方向記事のそれぞれが、四分法または八分法のどちらで記載されているかを検討しました。
四分法の方角は90度の幅を持ち、現実の「東南」は東と記すこともあるし、南と記すこともあります。
一方、太陽の昇る方角を「東」として基準にすると夏至と冬至では約60度違うので、四分法での「東」は実に150度(90+60度)の幅を持ちます。
太陽が昇る方向を基準として「東]を決める場合のもう一つの落とし穴は、午前中でも6時と11時ごろでは太陽の位置がかなり違うということです。
古代人が正確な時刻を把握していたとも考えられず、方向を決める際に一日の中で今何時ごろかを正確に認識していなければ、とんでもない方向誤認を起こす可能性があります。
太陽が昇る方向を 「東」 とすれば方向誤認は起こすはずがない、という学者はざらにいますが、これは間違いです。
季節により、また一日の中でも時刻により太陽の位置は大幅に変化します。
もともと方向というのは間違い易いものの一つで、方向音痴という言葉があるぐらいです。
邪馬台国=畿内大和説者が、「後世にいたるまでまぎらわしい方角よりも、距離・日程、ことに日程が信用できる」と主張しているのは理由があるのです。
もちろん、内藤虎次郎氏の 「中国の古書では東と南、西と北は相兼ねるのが常例である」というのは言い過ぎですが、状況次第では東と南の90度近い誤認は有り得るのです。
124 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 21:00:44
>>123 抜粋、どうもお疲れさん。
でも、これ読んでも納得できんのよね
「季節により、また一日の中でも時刻により太陽の位置は大幅に変化します。」
方向図る人は、そんなことぐらい解りきった上で方向修正するばずだと思うけどね。
第一、仮に大和説だと、九州から奈良へ2カ月かかつているのよ。
一日とか2日とかそんなんじゃないの。
2か月もずっと、太陽が出る方向を南だと思い続けていたなんて、
そっちの方がよっぽど信じられんわ。
>>124 >方向図る人は、そんなことぐらい解りきった上で方向修正するばずだと思うけどね。
そういう保証はないと思うよ。実際東夷とか西方の地形はいいかげんなんだから
>第一、仮に大和説だと、九州から奈良へ2カ月かかつているのよ。
くわしく。
あのさぁ、魏って北方の国なんだから、日本以上に季節による太陽の位置は変動しているわけで、
彼等はそういう環境の中、周囲の敵と戦争しつつ生き延びてきてるんだよ。
その彼等が方角をそう簡単に間違えるとはとても思えないがね。
127 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 21:20:30
>九州から奈良へ2カ月
大王の船かな?
>>126 あまり説得力ないな。必要なのは戦争のところだけだろ?
戦争してる→方角は大切→間違えるはずはない→彼らの方角は絶対正確。
この変な思考の中には宗教的な信仰要素が感じられる
130 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 21:27:35
銘帯<文字>「青同作竟明大好長生宜子孫」
鈕座<文字>「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」
の方格規矩鏡って九州以外で出土してるのかな?
131 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 21:27:47
周囲になんの目印もない大平原で戦争してる
→方角間違えると戦局を誤り、滅びるしかない
→その中で生き残った彼らの方角は絶対正確
どこが変なんだ?
133 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 21:30:28
>>129 あのね、魏の使者は朝鮮半島を南へ東へ、
それから、対馬、壱岐を南へ南へととほぼ正しく書いてるのよ。
なんで、九州上陸後から方角がわけわからん・・・なんて話になるのよ?
>>126 >>121と
>>122の地図見ろよ。中国・朝鮮・日本・インドみてみ?それぞれの国の方向
めちゃくちゃだよ?
日本の方角が九州が上になってる。九州論者は1枚の地図がやや正確な位置に張り替えている
やつを正しい地図で、そのほかのやつが間違いだといってるが、古いほうの地図が九州を北
に描いており、それもそのような地図がたくさんある。
>>132 変だと思うのが普通。ヨーロッパでも日本でも戦争してたが地および方向・距離は近世のほうが正確。
測量技術が発達するから←これが常識
あと日本と戦争してたの?
136 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 21:33:29
>>125 魏志倭人伝、水行陸行日数合計したら2カ月になるでしょ。
まあ、そんなことはどうでもいいのよ。
要は、何日も東に向い続けているのに、そっちを南と勘違いするはずがないと言いたいわけ。
>>136 いやごまかさないでよ。ちゃんと説明してくれ。2ヶ月かかるような行程知らない。
確かに、同じ進行方向向いてて60回も日の出、日没を繰り返しながらまだ間違えに気付かないとはちょっと信じられないな。
>>137 不弥国→投馬国 「南」へ水行20日
投馬国→邪馬台国 「南」へ水行10日+陸行1月
計2ヶ月、ひたすら「南」だと思って向かってた方角がじつは東だったって、あほすぎ。
太陽が昇るのが一年通して東だと思ってるの?
>>140 なぜ昇る方角だけ見て判断したと決めつける?
ふつうは、昇る方角と沈む方角との関連で判断するものだろ。
144 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 21:41:42
>>134 ちょっと聞きたいんだけど、あれをチンジュが見ていたはずないでしょ。
地図はもっと後代の王朝の物なのに。
>>142 沈む方向も真西と違うんだけど?そう小学校の理科で習った。でないと日が短くならないよね?
>なぜ昇る方角だけ見て判断したと決めつける?
いや決め付けていない。可能性が大いにあるということ。
4方位だけでいいかげんだし、正確に測れるほうがおかしいから。後の時代でもだめなのに。
あと決め付けて「絶対ない」といってるのはそちらでしょ?
146 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 21:46:06
>>144 後の時代の方がもっと交流が盛んだし、技術も進んでるんだからあとの時代のほうがましに
きまってるでしょ?※その時代も戦争してたよ(笑)
おまけに4方位だし。
148 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 21:54:49
>>147 倭人伝には、ちゃんと東南って方向、書いてるよ。8方位だろ。
基本的なこと、間違ってるよ。
>>148 8方位と4方位でしょ?大体対馬から壱岐まで南ってまちがってるじゃん。
夏、北東から日が昇るときは、北西に日が沈む。
冬、南東から日が昇るときは、南西に日が沈む。
結局、日の出と日没とを線で結べば、季節に関係なく正確に東西の線になる。
魏志倭人伝の方位はグーグルアースなみに正確です!魏はどの時代よりも
日本の方位と距離を知っていました(キリッ!)
152 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 21:58:09
>>149 屁理屈言うんじゃない!。いい加減にしないと、先生にチクるぞ。
オレたちだつて、沖縄は九州の南にあるっていうだろ。
それと一緒だ!。
154 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 22:00:07
155 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 22:05:21
>>135
四国って羅利って呼ばれてたんだ。
まあ方角が正確と主張したいになら
「〜のはず、だから正確」とかではなく、
せめて東アジアの正しい地理関係の示された
地図(少なくとも4世紀頃の)を、
ソースとして出せてから主張しろよな。
方角間違い説は少なくとも例を何個もあげてるよ。
157 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 22:39:34
>>156 あのね、これは魏志倭人伝の話をしてるのよ。
他の書物が間違っているかどうかの話をしているんじゃないの。
他に間違いがあると言うなら、他に正しいのもある・・・、そんな話になっちゃうのよ。
それとも、他も全部すべて間違っているとでも主張したいの?
>>157 あんたらが魏志倭人伝が地理的に絶対正しいといってるから、その証明をしろと
>>156はいってるんだろ?
ごまかすなよ
方角を知るのに、日の出を見てでも日没を見てでも良いけどさ
(俺が古代人なら日没後に北極星を見とくがなw)
最初に方角を決めてから、正確にそっちにそっちに移動できるものかな…?とw
実際には山も川も有るんだぞ
おおざっぱに東なら東に向けて1日歩き続けて、たどり着いた場所ってのは(確認できないほど離れた)出発点から見ると
現実には南北にズレが生じてて当然だし、それが蓄積するから
方角を必要以上に議論するのは無駄じゃね?
>>159 出発点で東向いてる道あって「あっちの方向です」といわれてそっち進んでも東だしな。
も山がちの日本では途中で曲がるもんな。道が曲がっていたら意味がない。
つまり方角なんてあてにならない。
161 :
159:2009/11/20(金) 23:21:25
>>160 分かってくれて嬉しいw
しかも道がわかりにくいくらいに曲がったりしてると特にそうなるよな
日常生活でも意識してみると、誰しも普通に経験してるはず。
東向きの道を真っ直ぐ移動してたのに気づいたら、南にあったはずの景色の方を向いてた。
とかね
143の「混一疆理歴代国都之図」は、15世紀の初頭に、李氏朝鮮の廷臣である権近が、西を上方
にして描かれた日本を具体的に書き表した最古の地図「行基図」を、不用意に挿入してしまったため
というのが定説になってる。つまりは間違いということ。
しかしこの図を抜きにしても、中国古代からの倭国地理観は、九州が北になった逆転日本列島である
ことは、室賀信夫氏が完璧に証明してると思うけどね。
http://pub.ne.jp/luckfield/?entry_id=2501546 このリンクの下の図に見るような、北から 「倭奴」ー「毛人」ー「蝦夷」というのが中国の基本的倭国
地理観。
>>157 じゃあ倭人伝の時代に書かれた正確な地図を出してくれ。
今まで証拠として挙げられた地図は、それよりも後年の物が多いよ。
それでも間違えるのだから、より古くなるとハードル上がると思うけどw
>>162 それ定説なんかじゃないよ。不用意でもない。そう考えていたんだよ。さもあやしいように
書いている人間があるが、全く根拠がない
>>162 そのHPの中に
>随書倭国伝には「倭国は東西五月行、南北三月行で各々海に至る」と記述されていて、
日本列島は東西に長いと認識されていたことがわかります
とあるが、隋書倭国伝は地理を正確に表していると確かにいわれる。
でその中でなんと書いているか?
其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、
「倭国は東西五月行、南北三月行で各々海に至る。その地形は東高西低。都は邪靡堆、すなわち魏志
にあるところの邪馬臺である。
隋の時代の首都は飛鳥です。
166 :
165:2009/11/20(金) 23:42:22
隋の時代の日本の首都は飛鳥=大和です
167 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 10:19:04
>>159-161 あのね、これは一日だけ方向を間違えている話じゃないのよ。
何日間、いやもっと長い期間、ずっと方向を勘違いするかどうかの話なのよ。
そこのとこ、ちゃんと理解してね。
しかも、自説に都合が悪いところだけ、方角違いを主張するなんて最低の態度よ。
168 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 10:22:17
>>158 だから何度も言ってるだろ。
壱岐までは正しい方角を書いてるんだからな。
だから、なぜ、九州上陸後に方角がデタラメになるのか、その説明をしろと言ってるんだよ。
169 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 10:28:39
>>162 いつもその地図を持ち出す奴がいるが、その明の地図は邪馬台国の議論には何の関係もないよ。
その地図、どう見ても日本は朝鮮半島の真南にあるじゃねえか。
そんなもの、チンジュが信じているはずなかろう。
「邪馬台国と狗奴国が戦争」って言ってた人は消えちゃったのかね?
倭人伝理解能力ゼロな人!
>>168 だから何度も言ってるだろ、さっさと正しい地理認識の4世紀頃の地図を出せと。
話しはそれからでしょ。
174 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 15:10:40
175 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 16:24:13
176 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 16:50:14
紀元前2600年
古代中国の黄帝が『指南車』を作る
指南車とは磁石が南北を指示す性質を応用した道具で、
黄帝が紀元前2600年頃に作らせたとされています。
黄帝は戦の時に敵の蚩尤(しゆう)が起こした濃い霧によって、
自軍の進行方向が分からなくなり苦戦を強いられました。
そこで南北の方向が分かる道具を作らせて、
霧の中でも方向を誤らずに兵を動かし勝利を収めたということです。
177 :
176:2009/11/21(土) 16:51:47
「方向は間違えてなかった」で決着と相成りました
蚩尤(笑)
179 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 17:22:19
>>178 ヒントに気づけない馬鹿w
日本の神話は鵜呑みにするけど
他国の神話は馬鹿にするタイプですね、わかります。
181 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 17:55:35
「指南車」から何も連想できない馬鹿
実機を無視して妄想を膨らませるのを連想ていうの?
183 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/21(土) 19:13:46
>>165 >>随書倭国伝には「倭国は東西五月行、南北三月行で各々海に至る」と記述されていて、
>日本列島は東西に長いと認識されていたことがわかります
隋書俀國伝
原文『其國境東西五月行南北三月行各至於海』
訳文「「倭国は南北五月行、東西三月行で各々海に至る」
九州群島は南北に長いと認識されていたことがわかります
南北五月行は約400km。東西三月行は約250km。
隋書百濟伝に百濟と済州島の海上距離が行三月とあり、これは約260kmです。
原文『其南海行三月 有耽牟羅國 南北千餘里 東西數百里』
訳文「百濟の南の海の三月行に耽牟羅國がある。その国は東西千餘里(80km)南北数百里(40km)である」
其:百濟、耽牟羅國:済州島、行三月:三月行。
184 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 19:17:05
恥ずかしくねえのか、クソ電波。
185 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/21(土) 19:17:17
九州群島の範囲
北:対馬、南:屋久島、東:豊後水道、西:五島福江島
186 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 19:28:11
>>174 海は風がある。海流がある。
帆船でまっすぐ進むのは難しい。
187 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 19:32:16
よし、この方角問題は、魏の使者は方位を間違っていなかったということで
決着した。
双方の論者は御苦労であった。
方位を間違っていないと言う識者の論は見事というほかはない。
これに対して、方位が間違っていると主張する論者は、その説明がまったく不合理である。
これでは、到底第三者の理解を得ることは出来ない。
もう、このスレでは、この問題について論じる必要はない。
以上。
188 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 19:39:25
>>174 あのね、まっすぐ進めるかどうかと、方角がわかるかどうかは全然別問題ね。
そんなことぐらい、解ってちょうだい。
>>188 お前さんは日の出に例えば西に方角きめて日没まで歩き続けて、出発点からきっちり真西にたどり着けるか?
道中で腕時計と太陽の位置やコンパスで方角を確かめるのは当然不可。
東西はともかく南北にはズレが生じて当然だろ?
それを1月蓄積したら西に真っ直ぐ進んだつもりが、実際に出発点からみたら北西や南西の位置になるんじゃないか?と言ってる。
夜に北極星を見ながら歩くんなら別だがなw
仮に使者が正確な報告書を書こうとして、夜に方角を確かめて
翌朝に目的方向に見える目印になる場所を探して、その日の行程は其処まで。
と決めたなら、方角は正確になるだろうが日数はあてにならんぐらい長くなるだろうな〜
192 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 21:59:36
なんかもう九州説は右翼さんが必死になって発狂しちゃってる説な気が。
中国の臣下だったのがゆるせん!
神聖なる天皇様の血筋が否定される等。 もう議論にならん
193 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 23:21:27
>>192 なにをいまさら
これで解決じゃないか
其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、
本居が日本が中国に臣下の礼をとるなんてケシカランというイデオロギーを発表し
それを300年引き摺っただけだろ
>>193 これで解決に見えるとしたら、自説に不都合な部分をあえて無視して強弁してることに気づいてないようだな。
「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海」だとしたら、奈良まで陸行1月どころか2月半もかかることになるんだが。
それと、「去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里」の前に「古云」がなぜ付いてるのか問題じゃないか?
伊都国までで帯方郡から10500里なのにそこから先が1500里よりもはるかに遠いことに疑問を持ったからこそ「古云」12000里、としたのじゃないのか?
とすると、「則魏志所謂邪馬臺者也」の「則」は「すなわち」ではなく、「推測される」の「測」と解釈すべきところだろう。
>>194 >「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海」だとしたら、奈良まで陸行1月どころか2月半もかかることになるんだが。
どこからそんな数字が出てくるんだいおいw おまえ文盲か?
>>194 >「則」は「すなわち」ではなく、「推測される」の「測」と解釈すべきところだろう。
捏造するな。犯罪者なみだなおまえ
>>194 首都は国のど真ん中になきゃいけないと思ってるバカ
198 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 14:24:36
>>190 その感覚は一般論としてはそうだろうな。
しかし、魏の使者には当てはまらんよ。
使者が邪馬台国に道案内なしで行けるわけないだろ。
使者は、邪馬台国の道案内人に従って道程を歩くなり船で進んだのだからな。
もし、大和に行くんなら、道案内が東の方向であることを知らんはずないし、ウソを言わなきゃならない理由もないぞ。
で、なんで南、南になってるの?、というお話なのよ。
それ、説明できる?
200 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 14:39:01
>>199 どういう意味なのか全然わからんのだけど。
オレはなぜ倭人伝に、邪馬台国は南へとなっているわけを聞いているのよ。
それが正しいかどうかは別にしてね。
とりあえず「南」とはっきり記載があるからには、そう思った理由があるわけでしょ。
201 :
nano:2009/11/22(日) 15:01:28
この地図のアフリカ北部にあるのって、地中海じゃなかろうか。
>>200 俺は昔の中国の地図がどうしてあんなに方向も距離も無茶苦茶なカタチしているのか
・・・という理由は悩まないね。「南」といってもかなりいいかげんでOKだったのでは?
対馬から壱岐まで「南」ってはっきり書いてるけど実際南じゃないしね。おもいっきり南西だ。
技術がなかったから・・・だ。
あとその理由については
>>190の人が書いた理由で納得できるね
結局ぐるぐるまわる訳よ
日がさせば陰も出るがめんどくさかったんだろ。
まあ、大陸人気質ってやつだな。
そうか。畿内説だと、わざわざ「古云」と断ってるのもべつに筆者が疑問に感じた云々ではなく、単に、大陸人気質ってことで片付けられるのか。
当時は超貴重品だった紙を使って、ずいぶん気前のいいことですね^^
205 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 18:09:00
>>190 『周髀算経』の太陽を使う方法について大意を紹介すると、まずノーモン(八尺の棒)を垂直に立てて
それを中心に、水平な地面に円を描きます。 日の出と日の入の時に、円と太陽が落とす影が交わる
ところに印をして、2つの印を通る直線を引くと、それが東西線になります。
この頃直角は認識されていたので東西南北はこれでわかります。
歩き始めるときには方角の目標を決めることと、ノーモンの影の測定で、90゜もずれるということは
ないでしょう。
>>205 普通に使者が連れて行ってくれるのにそんな子とする必要ないよ
207 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 18:23:38
>>202 >対馬から壱岐まで「南」ってはっきり書いてるけど実際南じゃないしね。おもいっきり南西だ。
地図でみるとそうだが、当時はそんなものないから、とりあえず、出発する進行方向を書いたんだな。
対馬海流があるので南に向かってこいでいくと、南東に流されてちょうど壱岐の方向へいくって
ことだな。
対馬海流が暖流でオホーツク海方向への流れであることについて。
つーか海なんかもっとしっかり書かなきゃならんだろうに。
209 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 18:49:53
>>208 対馬から壱岐についての話ですよ。対馬海流でいいでしょ。
>>207 舳を南に向けて千餘里
そうしないと東南に位置する場所にたどり着く事が出来ない。
だから
「南渡一海」南は一海を渡る為の方法で、結果が「至一大國」
211 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 10:22:31
>>207 目的地の方向を書くのが普通だよ。
たとえば、陸地で考えたらわかるが、最初の一歩の方角を書くなんてことがあるか?
212 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 11:24:50
>>211 目的地の方向を書くのではなく、目的の方向を書く。
その目的は、或時は地だったり、星だったり、建物だったりと様々
南至投馬國の場合の、南の目的は投馬國の方向
南渡一海の場合の、南の目的は渡一海の為の手段
投馬の南は帯方郡からの行程だろ。
記述では連続して書かれてしまったから誤解を招いただけ。
投馬は出雲、邪馬台国はヤマト。
日数で書かれている国は本来別資料で別枠なんだろう。
214 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 12:00:18
215 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 12:39:52
伝統文化ニュース
◆奴国の拠点・那珂遺跡群 巴形銅器の鋳型出土 伊都国王墓副葬品に類似
2009年11月22日
216 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 15:34:31
>>205の方法をシミュレーションで試してみた。
結果は惨憺たるものだった。
まずスタートする前に方角を測り1日を要した。それで南がわかった。
次に南にむかって直進していたが、真に南を維持するため、ときおり測りなおした。そのたび1日を要した。
そして正確を期すために繰り返し、100里=7200メートル移動するのに六十余日かけた。
しかし結果は真南ではなかった。
なぜなら私が歩くのに私は右利きであり、結果歩み自体が右にそれていき、
真南から12度もずれていたのである。
ほぼ100メートルで1度測りなおしたが、この結果であるから、
測る回数を減らせば真っさらで障害のない土地であっても、
さらに歪みが大きくなることは間違いない。
つまりは測れても意味がないのである。
217 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 15:39:47
友人にもためしに歩いてもらったが、友人は右利きだが左にずれていった。
友人は10里に1度はかり、結果42度ずれた。
ずれる左右のちがいは背骨の曲がり方にかかわるようだが、
方位磁針のない昔に方角さえ測れれば直進できる、などというのは実に下らない妄言だと判明した。
218 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 16:18:16
>>217 あのね、ど素人の君たちがそうだったからと言って、誰でもそんなるなんて思いこまないでね。
219 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 16:21:48
フィールドオリエンテーリングの仕手人ですが、それでもド素人と言えるくらい、
九州説の学生諸君は訓練され直進歩行ができるよう矯正された強化済みの人間なのですね。
ぜひとも『正しいレポート』を実験して出していただきたい。
220 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 16:42:10
普通そういう専門家って
進行方向にある何かしらを目印と決めて移動していくもんだって自衛隊の人が言ってたお
221 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 16:58:16
直進歩行の練習するより、方位の目標を景色に求めたほうが簡単だと思いますよ。
222 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 17:39:20
大丈夫だ。
当時の人は道具を用いて、南の方位を手軽に知る事を知っているから。
224 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 18:45:46
バカもあそこまで極めれば、匠の世界だな。
225 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 19:46:34
>>217 そんな実験は、魏志倭人伝の解釈に何の役にも立たないことだけは、よくわかるよ。
226 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 20:55:15
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
227 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 21:03:48
>>220-221 確かに方角を測ってから目標物を指示し進めばよいが、
日本には遠路を見渡せるような大平原は希有であるし、九州は特にそうである。
また海上には目標物がない。陸地を目標にするならそって進むほうが容易である。
森や山間を歩く場合はなおさらである。
>>222 その道具とやらをつかって実験したのだが。
他に魏の時代に方角を知る道具があるなら知らせてくれ。
すぐに試してみよう。
>>223-225 君たちが魏志倭人伝の記事の方角には誤謬はないと言い、道具をもちいれば直進できると知らされた。
それにもとづき実験したが直進できなかった。
ならばそれ以外の方法を提示するか、もしくは正確に進む方法はないと認めるべき。
この中で、実際に対馬や壱岐に行ったことのあるやつはどのくらいいるのだろうか?
俺は壱岐に海水浴に行ったことあるが、対岸の松浦の景色は手に取るようにはっきり見えるぞ。
229 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 21:46:42
壱岐には2度行ったことがある。
対馬はないが福岡から釜山へ高速艇で行ったこともある。
近いもんだな。
230 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 23:06:52
俺はハワイ・ロス・上海・香港
232 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 11:00:58
>>227 正確に直進とか、そういうことではないんだよ。
当時の道がまっすぐに整備されていた訳がないんだからな。
陸を進むには、どっちみち、道に沿って歩くしか方法がないわけだろ。
こっちが言いたいのは、おおよその方角として東に進みたい人間が、
それをずっとずっと南だと勘違いするようなことがあるのか、ということなんだよ。
大体、そんな方向音痴が目的地にたどり着くはずがないんだからな。
233 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 11:05:41
>>232 勘違い等ありません。
書として文字に刻まれるまでには
何度も検証のちに記録として書き残すので、心配ありません。
>>232 最初の道の方向がそうであれば勘違いするだろう。高い山越えなければならないところに
直線方向など意味がない
235 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 13:50:22
>>234 最初の一歩でその後の方角をすべて勘違いするなんて、まったくもって意味不明の理屈。
使者の行程は一日だけじゃないんだぞ。
あんたらと議論しても無駄なことはよくわかったよ。
どうしても、魏の使者を方向音痴にしないと気が済まないみたいだから。
そこまでして、邪馬台国を大和にしたいって魂胆が、全然理解できん。
>>235 方向音痴とかじゃなくて、どの道を通るかが大事。九州にしても阿蘇山越えていくルートなんぞ本当の
方角教えてもどうしようもない。 中原のまっすぐな道じゃない
237 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 19:02:21
>>236 使者の目的は、決して東の方向、南の方向に行くこと、そのこと自体が目的ではない。
あくまでも、邪馬台国に行くことなんだよ。
結果として、そこが東にあったか、南にあったかに過ぎない。
道案内も使者も、行きも帰りも、最初から最後まで、ずっとずっと東を南に勘違いし続けるか?、っていう話。
そういえば、帯方郡からの最初の水行で狗邪韓国に行くときは、出だしが南でそのあと海岸線沿いに徐々に東へ曲がっていくわけだけど、
「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」ってちゃんと書かれてるな。
だとしたら、投馬国から邪馬台国への行程だって、同じように書かれてしかるべきだな。
たとえ出だしが南であっても、その後東に向きが変わるなら、それは「乍南乍東」であって、「南至」ではないはず。
240 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 20:41:33
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
241 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 01:03:39
ほー
242 :
日本@名無史さん:2010/02/25(木) 13:32:40
>>238 あなたの言うとおりだ。だから、南に水行するだけで投馬国に到達するし、南に
水行、陸行するだけで邪馬台国に到達するんだね。
243 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 18:19:07
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
>>242 つまり、不弥国から南に水行できるような水路があったと。
不弥国は糟屋郡宇美町だと言われてるけど、その領土は筑後川あたりまで広がってたのかもしれないね。
245 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 11:35:25
河ならば河と書くだろう。それに、河を下るならば南に下る河はない。
最初が間違っているんだよ。末盧国から東南五百里、佐賀市付近が伊都国だとみれば
すべてがすっきりと解釈できる。
河ならば河と書くし、海ならば海と書く。
水行としか書けなかったわけだから、河も海も通ったと考えるべきだろう。
247 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 21:02:36
248 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 21:15:06
>>246 水行としか書けなかったというわけではあるまい。水行と書くだけでいいと
思ったんだろう。河ならばそれを書いた方が読者に分かりやすいけど、海な
らば別に海と断る必要もない。
>>248 しかし現に、初めて海峡を渡って対馬に行く行程では海と明記してるんだけどな。
250 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 07:39:38
251 :
サガミハラハラ:2010/03/20(土) 08:17:58
始めて一海を渡る。ですが、それまでの半島沿岸水行は海を渡るにははいらないのです。
海を和tるとは、沿岸行ではないということです。
末盧国から東南五百里で伊都国
これは船では行けない行程だったのだろう。
別の(倭の)船に乗り換えたが、自国の船と違い航行速度がわからないから水行〜日って表記に変わったんだろ
253 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 09:18:02
>>252 伊都国への陸行は、船で行かなかっただけで、行けなかったかどうかまでは分かりません。
1万里も自分達の船に乗ってやってきたことを考えると、途中で倭の船に乗り換えたとするのは、ありえません。
2千里どころか、あと1万里でも自分たちの船に乗っていけばよいわけですから。
あと、陸行1月を勝手に”東”に読むような説ではないかと愚考しますが、そのような記述は倭人伝にはありません。
投馬国は、吉備国の貿易港であった高梁川河口部。
その名称の名残は、万葉集で"玉の浦”とも読まれた玉島という地名に残っている。
257 :
日本@名無史さん:2010/07/22(木) 11:03:48
>>253 >伊都国への陸行は、船で行かなかっただけで、行けなかったかどうかまでは分かりません。
>1万里も自分達の船に乗ってやってきたことを考えると、途中で倭の船に乗り換えたとす
>るのは、ありえません。
あなたの意見は、矛盾しているようだね。
行けるところならば、途中で倭の船に乗り換えることはありえない。これは結構だ。
となれば、船で行かなかったというのは、行けないところだから船で行かなかったと
考えるべきだろうな。
258 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/07/23(金) 00:45:09
>>257 もっと簡単な話なんだけどね。
佐賀平野に抜けるのなら陸行が正しい。水行するなら長崎から南島原市を通ってぐるっと大回りするしかない。
しかし、佐賀平野からまた水行するというのならば、長崎から南島原市を通って水行するだろう。
ヒムカ厨には考えたくない話なのかな。
松浦から邪馬台国に至る道筋は、交通網が整備されていて、安全確実なこのルート以外考えられなかったはずです。