決して失ってはいけない、伝統あるスレッドの後継版です。
出来る限りsage進行で
ここでの
考古ネタ、記紀ネタはできうる限りご遠慮下されば幸です。
『倭人在帯方東南大海之中』
この文を読んで、倭人は島に住んでいる事を認識しながら読んでる読者は
今一体何人いるのだろうか?
私の見たところ
ほんの僅かかと………悲しい話しです。
ではおさらいの意味で、島には書かせない『水行』とは何か。
『水行』は、空行が無い当時、その対に陸行がある為の区分け
世の中に陸行がなければ、水行と言う表現は生まれない。
『行』に具体的な環境を設定したものが 『水=水域』
しかし水域と言っても(海、川、河、湖…)と、様々な環境があり
それらを特定する為に、倭人伝には
「大海之中」や「海岸」と言う記載をし、その水域を『海』と指定している。
これで、倭人伝に書かれた『水』が“海域”だと断定出来る。
『水行』が“海域”行と分かっても、海域は川のように(水路に従いと、渡る)とは違い、様々なコース選択がある。
陸地から遠なのか?近なのか?渡なのか?
だから「循海岸水行」と最初から設定した。
★水行は、海岸の地形に沿って移動する。
これが倭人伝の基本的な必要条件の一つだ。
だから途中、川を行く場合は、川行の文言が必要になってくる。
「依山島爲國邑」
倭人は島に、しかも狭い海岸沿いを山肌にそうように営む。
つまり、倭人の主な居住環境は海岸沿いであり
そこに邑が形成され、内陸を意識した書き込みは見られないと言う事です。
『循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里』
休まず海岸の地形(乍南乍東)に沿い七千餘里
循海岸水行から別の海域行為の地点にたどり着く。
その地点は、北に狗邪韓国の岸が(狗邪韓国の岸の南海域)。
倭の大まかの位置は、韓伝にこう書かれている。
「韓在帯方之南東西以海爲限…」
「南與倭接」 と
つまり、帯方郡の南に在る韓の南だと
郡から韓の東西海域は、海岸を沿うように南下し、韓の海岸から逸れる頃、乍南乍東コースをとる。
郡から七千里の距離でいよいよ 循海岸水行とはお別れの地点に。
「南渡一海」とは
この場合の南は、目的地の方角でも、進む方角でもない。
“舳さきが南を向いている”だ。
舳さきを南に向けて一海を渡と、目的地に至る。
「始度一海千餘里至對海國」
「又南渡一海千餘里至一大國」
「又渡一海千餘里至末廬國」
郡より韓の沿岸を七千里、循海岸水行とは一先ずお別れ、いよいよ倭人が住んでるとする
海に差し掛かる。
今度は海岸を沿う行動とは違い、舟の舳さきを南に向けて
海に舟を委ねる。
そうしないと對海國には至れない。
「始度一海」とは
始めて渡るではなく
「又南」渡一海
「又」渡一海
という、
舳先を「南」に向け移動する行為を “三度繰り返す最初”
と言う意味。
この海域は、後に梁書倭伝にても「闊海・瀚海」と言われるくらい潮流の速い海域。
舳先を南に向け、潮流に流され目的の至場所に着く。
これら
梁書倭伝が言う闊海や瀚海に挟まれた、方可四百餘里、方可三百里の對海國、一大國は
韓の南に位置する倭人の居住する所。
特に最初に登場する對海は、文中にて「居所絶島」と紹介されるように
“倭人の居が絶える所”の島。 倭人の北西限界地
海の北側は韓域
倭と大陸を繋ぐ最重要中継地だ。
一大國から「又渡一海千餘里至末廬國」は
今まで二つの海とは違い比較的潮流の緩やかな海、南に舳先を向け舟を進ませると
末廬國の港に至る。
やはり此処も、海を渡った倭人の住む島域。
此処までの舟で移動した計一万餘里は、陸地の測量とは異なり全て時間換算による値。
倭人伝はもとより地理記事は往来行程記録などではなく、
文章にて対象地域を地図化した『文章地図』
倭人伝は、郡を基点に緯度的に南、経度的に東の面の範囲に存在する地域を文章地図化したもの
基本的には、南に東に、東に南に
文章構成も、郡より遠くなればなるほと後に記載される
対象地域の政治環境さえ変わらなければ、何時の時代でも適応出来る文章地図。
郡使の旅行エッセイ等では決してない。
東夷伝の中に位置する韓伝も倭人伝も、基本的な構図は同じ
郡(あるいは洛陽)から一番遠い位置にある地域を最後に記載する。
だから韓伝も、郡の南に位置する馬韓を最初に記事にし、東の弁韓、その南の弁辰韓へと以降
一番最後に記載されたトクロ国は弁辰韓に所属し、郡より遠く、別域倭地と近い位置にあることがわかる。実にシンプルにわかりやすく書かれた文章構成だ。
南に舳先を向け潮流に流されれば
行き着く先は舳先進路の東側。
対馬から壱岐の実際の方角は東南、この瀚海の海を渡には、南に進路をとり西から東の潮流に乗る方法しかない。
こういう行為を三度繰り返したから
「始度一海」
「又南渡一海」
「又渡一海」
最初の「度」は渡るじゃない。(たび)
さて、末廬國
三度の海を越えた末廬もやはり大海之中にある倭人の住む島。
「…有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人…」
・四千餘戸は場所問わず散在し、草木は生い茂り前人も見えない地。
「東南陸行五百里到伊都國」
しかし、そんな環境であるにもかかわらず、五百里ジャストと言うこれまで餘里を用いた表現とは違う
表示の仕方。
つまり、悪環境の土地柄であるにもかかわらず、末廬の港から五百里と測量出来る道は確保されていると言う事です。
末廬は島ではあるが、先の二島とは違い東南の方位に広がる陸地が存在し、
港かそれに沿う地形と道が存在していた。
その確保された道は末廬國域だけでも、歩測量五百里。その先に伊都國域が続く。
かなり大きな島のようだ
末廬國は四千餘戸も散在しているにもかかわらず、草木生い茂り、不見前人と
全く生活道路の影もない。住人がいれば必ず往来の為の道路は出来、不見前人と言う状態にはならない筈、伊都に延びる道だけは測量
可能なほどの状況。
ここにどうやら政治的な匂いを感じる。
つまり、末廬には伊都に延びる一本の幹線しか設けず、住人に道路を作る事を許可しない 特殊環境な地域ではないか?
つまり、末廬の港に着いた入国者は
なにがなんでもこの道を通らなければならないシステムを感じる。
飛行機を降りた入国者は、矢印に従い入国審査を受ける通路が
末廬の港から伊都に通じる道。 周りの草木は通路の壁。
だから末廬には官が存在しない。
存在させる必要のない
自然を生かした伊都までの通路。 他国の者が一歩道を逸れれば
草木が生い茂る迷路。
道に従い進めば自然と伊都のイミグレへと
すごいな、何かRPGのゲームを一人で作ってるようだ。仮想世界の構築と言えば怒られるかな?
>>19 これを仮想と言えるのは、自分の頭の中には既に、私のこれまでのレス内容とは別の世界を描いて
私のレスを見たからにすぎない。
だから貴方に仮想と言われても…………
貴方にとったら仮想以外なにものでもないよ
21 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 10:00:33
意外に穴場かも。
プラムは福助。
23 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 19:33:07
プラムは福沢諭吉。
24 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 19:39:16
プラムは福神漬。
>>22-24 プラムさんは黙って見ているようだけど、アクセス禁止にでもなったらバカバカしいから止した方がいいと思う。
驚いた。
河童虫 ◆EY2wfgakAQ 氏と殆ど同じ見解だ。
河童虫氏も解りやすく説明することができるのだ。
今までの説明下手の彼は何だったのか?
『末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之』
上記は3世紀の唐津の地形をよく表している。
松浦川の河口、虹の松原の南、鏡山の北側と西側には汽水湖(湾)があった。
その汽水湖の南端、松浦川が汽水湖に流入口するところである松浦川右岸に中原遺跡がある。
その中原遺跡が上陸地点だ。
唐津に4千戸が存在するとすれば、西唐津、東唐津、浜玉へと散在せざるを得ない。
海岸と汽水湖沿いに人家が散在していたのだ。
特に上陸地点の中原は、南側以外は汽水湖、松浦川と湿地に囲まれた狭い地域だ。
中原は小集落の上陸地点だ。
伊都國への街道以外は藪漕ぎしないと行けなかったのだ。
蛇足
ここで伊都國への東南方向ルートは、観音峠越えの嘉瀬川下り以外では存在しない。
このルートで唐津から500里先にあるのは惣座遺跡。
即ち佐賀市大和肥前國庁跡に伊都國の城郭があったのだ。
>>27王朝さん
>上記は3世紀の唐津の地形をよく表している。
松浦川の河口、虹の松原の南、鏡山の北側と西側には汽水湖(湾)があった。
その汽水湖の南端、松浦川が汽水湖に流入口するところである松浦川右岸に中原遺跡がある。
その中原遺跡が上陸地点だ。
それじゃまるでグーニーズのお宝探しゲームですよ
末盧の港なんて何処でもいいじゃありませんか
「松浦川の河口、虹の松原の南、鏡山の北側と西側」なんて倭人伝には登場しないし、必要ありませんよ
いったい当時の読者は洛陽にて、どうやって松浦川の河口、虹の松原の南、鏡山の北側と西側を見つけ探し出すんです?
>>28 河童虫さん
倭人伝の記述内容がいかに正確で緻密なものであったかを説明しただけです。
洛陽の読者は簡潔で正確な情報を得ていたのです。
洛陽の読者が望まない細かすぎる情報は書かれなかったのです。
30 :
日本@名無史さん:2009/08/27(木) 20:12:16
プラムは腹筋なし
今年は天気悪かったから、一反あたり八俵チョイか?
さて、かあちゃん軽トラ田んぼにまわせや。
32 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 20:02:54
プラムはふんころがし。
33 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 21:41:58
プラムはフラボノ・ガム。
34 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/16(水) 22:59:06
>>34 コシヒカリです。
家の田んぼは少し山際だから八俵そこそこだけど、西日が長くあたる場所なら10俵弱はとれますよ。
36 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/17(木) 12:23:33
>>35 収穫時期が関西より早いので銘柄米にしては収量が多いので質問しました。
銘柄米なら東北並みの収量かなと思っていました。
収穫時期が早くても、収量は茨城も畿内とそれほど変わりませんね。
でも、山背がある時は違うでしょう?
それとも、茨城では実際に山背の影響はほとんどないのでしょうか?
>>36 山背は仙台以北で主に影響し、関東では殆どみられません。
関東で一番心配なのは、夜に全く気温が下がらない熱帯夜による乳白です。
今年はその心配が殆ど無かったけど、昨年は若干出ました。
毎年米価は下がる一方で、茨城米の今年の農協予約買い取りは、60s、13000〜14000円で、タダ同然の価格です。
38 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/17(木) 17:28:34
へぇ
乳白米ね。
内陸部は確か夏の高温地域でしたね。
昼間に夜のように暗くなって、ピンポン玉位の雹にあったことがあります。
畿内の暑さは高湿度によるもので気温はさほど高くなりません。
39 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/17(木) 17:47:30
>>38 品質のいい美味い米は、水捌けがよく栄養分がある土壌で(砂混じりの土壌)、昼間30度以上の高温、夜真っ暗で、気温が20度位まで下がれば
最高です。
稲は夜眠るから、不夜城の市街地側は最悪です。
『計其道里』とは、倭水人の南端は沖縄だと
41 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 00:11:44
ここで倭人伝の読み方を教えてくれるって本当?
いきなりなんだが倭人って何?
>>41 いきなり難しい質問だね
では簡単に言うと
倭人とは、帯方郡と言う魏王朝の出先機関を基点に、東南(方角ではない方位)方面にある、海の中に浮かぶ倭と言われている島に住む者
こう言う事かな?
でも、これだけでは片付けられない要素を含んだ「倭人」という表現だよ。
>>42 サンキューですついでに、その片付けられない部分も聞きたいけど
いいかな?なんも知らない者でして。
44 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/10/06(火) 12:12:48
何を知りたいのか分からないというより、知っているのにわざと聞いている風ですね。
45 :
サガミハラハラ:2009/10/15(木) 12:26:29
倭人は朝鮮海峡の両岸を中心に日本がわに拡大している民族です。
46 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/15(木) 14:29:58
>>45 倭人は大海之中
島に住んでいます。
大陸と地続きの場所には住んでいないと設定されています。
47 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 14:30:36
サガミハラハラさんは邪馬台国に取り付かれたような
お方ですな。まるでカルト宗教にでもはまったかのような。
48 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 16:11:49
河童虫さんへ質問ですが
・・・南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月・・・
ここの水行十日陸行一月をどのように解釈しているのか知りたい。
>>48 >ここの水行十日陸行一月をどのように解釈しているのか知りたい。
距離を時間で表示しただけと考えています。直線的に測量できない場所の表示には
最適な表示方法ですから
速度と稼働時間を一定にすれば、里数で表示しようが時間で表示しようが同じ理屈です。
まして時間で表示することによって、表示された地域が直線的でないことも記せますから
そしてこの水行十日陸行一月は循海岸 海岸に沿って移動することです。
「倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑」と書かれた倭人の住む島は
水行であろうと陸行であろうと、海岸に沿って移動する事が必須です。
投馬国は奴国の南に位置し、島の海岸を沿うように水行二十日の距離
投馬の南は邪馬壹国で、女王の住む都は投馬からやはり島の海岸を沿うように
水行十日陸行一月の距離
島の海岸を沿うように進めば何時かは必ずもとの出発地点に戻るのも常識
そんなことは昔の人だって知っていた道理です。
投馬から、水行十日陸行一月の距離を経た女王の都の先には
海岸沿いに 斯馬国があって・・・・烏奴国があり、そして出発地である 奴国へと戻ります。
これが 女王の都がある島の一周
末盧国のある島は 海岸沿いに
末盧国→ 伊都国→ 奴国→ 烏奴国→・・・・・→斯馬国→ 女王の都→→(・・国)→→投馬国→ 末盧国
一周の距離は 水行三十日+陸行一月+1500余里 の規模です。
52 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 17:53:50
>>49、50
>・・投馬の南は邪馬壹国で、女王の住む都は投馬からやはり島の海岸を沿うように
>水行十日陸行一月の距離
>島の海岸を沿うように進めば何時かは必ずもとの出発地点に戻るのも常識
>そんなことは昔の人だって知っていた道理です。
ご返答 ありがとうございます。
九州を一周するってことですか ? なかなか独創的ですね。
53 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/15(木) 18:10:47
>>52 >九州を一周
結果そう言う事ですが、ようは上陸した島を一周し、規模を明記する。
方可四百餘里
方可三百里
と書かれた事と同じです。
54 :
ヒマジン:2009/10/15(木) 18:33:40
想像してごらん 河童なんていないんだと
ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん みんなが
ただ今を生きているって...
想像してごらん 邪馬台国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって...
55 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 18:36:18
>>51 >一周の距離は 水行三十日+陸行一月+1500余里 の規模です
この説には賛同できません。水行二十日はやはり投馬国までの距離を表していると思います。
なぜ、日数であらわしているのかは、倭人からの伝聞だからです。なにせ倭人は計をしらないで日をもって
あらわすって のちの史書に書いてましたよね。すいません。よく覚えてなくて。
1500里は古田氏の島巡りでよいとかんがえます。
56 :
青い河童:2009/10/15(木) 18:51:18
河童は言った「理由なんて無いよ。
“真実”は明白さ。」
だが僕はトランプをしながらぶらついた
河童を海岸に向けて発っていった16人のヴェスタの処女の一人の
ようにさせるわけにはいかない
目は開いているのに
半分寝ているみたいな感じがしていた
>>55 私の意見は一つの意見ですので、賛同する必要はありません。
頑張って下さい。
58 :
カパタフ:2009/10/15(木) 18:57:52
友達が去ってゆく 去り際にこう云った
「おまえは理想ばかりを追い求めすぎてる。」
彼女が去ってゆく 「愛するより愛されていたい。」
けれど日々に漕ぎだすより他に道はない
シャラララ 河童の墓に
シャラララ いつか刻まれる言葉
シャラララ 彼のエピタフ
「ママ、俺は血を流し続けてる。」
今からちょっと時間が経っても
もしまだ気がくさくさしてたら
一つこうしてやろうと自分に約束してある。
近くの塔へ行って
てっぺんまで登って
身投げしてやるぞって。
みんなに教えてやろうという気があるんだ
カラダがバラバラになるってどんなのかをね。
でも今は教会で誰にも相手にされずボツンとしている。
こんな声が聞こえる―
「お気の毒に」
「彼女に待ちぼうけ食わされたんでしょう。」
「私たちここにいてもしょうがないですね。」
「家に帰りましょうか。」
昔もそうだったように
また一人になってしまった 河童だから当たり前だ。
>>54 懐かしいね〜 ジョンレノンのImagine
他は知ってるかい?
ケセラセラにエピタフ
ここは老人ホームか?
63 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 19:56:45
エピタフは合ってるけど、他はプロコルハルムの「青い影」とギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」
でないかな。
65 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 20:02:59
いや、横からなんだが、「青い影」の歌詞は凄い。ググって見るといいよ。
「青い影」の歌詞は、船の中で知り合った女の子の顔が麻薬の影響で、白っぽくなっていくとか、当時
ありがちなぶっ飛んだ内容だな。
高句麗=扶余系=満州系なんだわな。
高句麗の発祥地は中国の東北地方で、高句麗の数百年の歴史のうちの最初からの半分以上が中国東北地方にしか版図がなく、朝鮮半島には存在はしてなかった。
そして、彼らが滅亡した後は、ほとんど満州の部族に移行している。つまり、どう考えても、高句麗は中国東北系の国なんだわな。
高句麗と朝鮮の関係って大日本帝国の朝鮮と似たようなもんでしょ。
朝鮮に日本家屋があることを理由に、朝鮮人が江戸文明を作ったとかぬかすくらいあつかましい主張でしょ。
何しろ、文明が継承されてないんだもの。
満州人はきっちり高句麗文明を継承してるけど朝鮮は100年前は土人文明だもの。
高句麗はシナと新羅(朝鮮)が連合して消滅させた異民族の古代国家にすぎない。
百済も、高句麗の後継国家、渤海も同じ。
韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、 いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方(日本海沿岸地方)に 住んでいたワイ族。
百済人、高句麗人は古代の満州地方に住んでいた遊牧民族=フヨ族。
ウィキペディア-朝鮮民族
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E6%97%8F 歴史
朝鮮半島では4世紀頃までに高句麗、新羅、百済の三国が興り三国時代と呼ばれるが、7世紀に中国の唐が新羅と結んで高句麗、百済を相次いで滅ぼし、さらに新羅が唐の勢力を追放して朝鮮半島を統一した。
高句麗や百済の支配層は扶余系とみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。
一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる。
ウィキペディア-新羅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85 脚註
^ なお韓国では、高句麗の滅亡後にその遺民が靺鞨族と共同して満州に建国した渤海を高句麗の後継国家と見なし、新羅・渤海をあわせて南北国時代と呼び、朝鮮民族史の及ぶ地理的範囲を朝鮮半島から満洲・沿海州を含めた領域としている。
しかしながら、言語的観点から現代の韓国・北朝鮮の祖とされる新羅と、高句麗・渤海とでは、民族的・言語的に隔たりがあり(金芳漢著・大林直樹訳『韓国語の系統』)、
高句麗・渤海を現在の韓国・北朝鮮へ連続する国家と見なす十全な根拠がないため、高句麗・渤海の故地を領土に含み、また高句麗・渤海と民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国との間に軋轢が生じている(→東北工程)。
朝鮮人(高麗族、コリョ族)は中国東北部起源の北の蛮族
「楽浪半島、もしくは東シナ半島」の歴史(中国と日本の歴史)
前1000年頃 殷の廷臣、箕氏(中国人)が周の武王から楽浪(半島北部)に封じられる?(周の属国)その後、周の凋落で王を称す?
戦国期 編纂されはじめていた地理書「山海経」に「楽浪の南に、燕に朝貢する倭がある」旨、記される。 辰国(半島南部、百越人の国)は倭そのものか? 百越人(弥生人)とは、失われた長江文明の担い手。現在そのDNAは半島、日本、ベトナム以南にしか残されていない。
前195年 秦に滅ぼされた燕からの亡命武将、衛満(中国人)が箕氏楽浪を乗っ取る。 このころから辰国は三韓に分かれはじめる。 馬韓(後の百済)は百越人の国。秦韓(辰韓、後の新羅)は始皇帝から逃れてきた秦民の国。弁韓(後の任那)も秦韓に似る。
前108年 中国皇帝の武帝が衛氏を滅ぼし楽浪郡を設置、植民地とする。
前37年 東胡を祖とするコリョ族(高麗族)が中国東北部に高句麗(前高麗)を建国。
2世紀 遼東太守、公孫度が扶余族(穢族からコリョ族と分岐)の王、尉仇台に嫁を与え馬韓(後の百済) の王とする。先から三韓の王族は全て扶余族となっていた? 倭王も同族? 新羅三王家のふたつに倭出自伝説が残されている。
3世紀初 公孫康 、曹操の許可を得て楽浪郡南部を帯方郡(後の百済)として設置。
4世紀 晋の八王の乱の混乱に乗じて、高句麗が楽浪郡を不当占拠。百済、新羅が建国。日本を大国と崇め、人質を送る。任那も併せ三韓は日本の勢力下にあった。
7世紀 任那、百済と順に滅亡、遣隋使と合わせて日本は半島から手を引く。新羅、高句麗を征伐。統一新羅は中国の属国となり、独自の名前と年号を捨て、中国式の名前と年号を使い出す。
918年 新羅滅亡、高麗(後高麗)建国。新羅内に雌伏していたコリョ族が国を乗っ取った。
ここまでは、朝鮮人の歴史ではない。
朝鮮人とは朝鮮半島の南側に住んでた原住民で、三韓(馬韓、弁韓、辰韓)人
それに対して高句麗(※)も百済も朝鮮人を支配してた扶余(ツングース)民族だな
※
広辞苑より
【扶余】前一世紀から五世紀まで、中国東北地方北部に活動した民族。
また、その建てた国。ツングース族の一。一〜三世紀中頃が全盛期、もと百済の別称。
【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙(東明王)の建国という。
中国東北地方の南東部から朝鮮北部にわたり、四世紀広開土王の時に全盛。
都は二○九年より丸都城、四二七年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。高麗(コマ)。
【渤海】八〜一○世紀、中国東北地方の東部および朝鮮半島北部のあたりに起った国。
靺鞨(マツカツ)族の首長大祚栄が建国。唐の文化を模倣し高句麗(コウクリ)の旧領地を
併せて栄え、七二七年以来しばしばわが国と通交。一五代で契丹に滅ぼされた。
【靺鞨】(マツカツ)ツングース族の一。有力な部族が七部あり、その一である
粟末(ゾクマツ)靺鞨の首長大祚栄は渤海国を起し、また黒水靺鞨は後に女真と称した。
【女真】中国東北地方の東北部から沿海州方面に住したツングース系の民族。
五代の頃より女真と称し1115年完顔(ワンヤン)部の首長阿骨打(アクダ)が金を
建国し宋に対抗。後に清朝を興した満州族も同一民族である。
一方朝鮮人は、朝鮮半島の原住民の事です。
馬韓、弁韓、辰韓の民族ですね。
なので
百済≒高句麗≒渤海 ≠ 三韓=朝鮮民族
【質問】『「我々韓国人は高句麗人(フヨ族)の子孫だ。高句麗は韓国人が建国した国だ」と主張していますが、 これは事実でしょうか?』
【回答】 完全なウソです。韓国人の作り話です。韓国人と高句麗人はまったく別種の民族です。高句麗人は
古代の満州地方に住んでいた 遊牧民族=フヨ族の一派ですが、韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、
いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方(日本海沿岸地方)に 住んでいたユウロウ族です。狩猟民族=ユウロウ族の子孫が
現在の韓国人です。このユウロウ族はシベリア奥地の山岳部から半島東北部に移住してきた民族です。
満州地方に住んでいた遊牧民である高句麗人(フヨ族)とは何の関係もありません。強いて関連付けるならば、
一時期、フヨ族がワイ族を 支配化に置いていたこと、くらいです。
では、高句麗人の子孫にあたる民族とはどのような民族なのか。それは女真族(満州族)です。
高句麗が唐によって滅ぼされた後、高句麗人(フヨ族)は彼らの故郷である『満州』に逃げました。
高句麗人はこの地において契丹族や鮮卑族、モンゴル族と混血しました。それによって誕生したのが
女真族(満州族)なのです。 この女真族が、1115年に満州地方から中国北部にまで版図を有する
『金国』を建国しました。金国が滅びた後、1616年に、 同じく女真族の国である第2次金国=後金国が建てられ、
この『後金国』が清国へと発展していきます。
高句麗人(フヨ族)の歴史を図にすると、下記のような流れになります。
〔フヨ国→ 高句麗→ 金国→ 後金国=清国 (高句麗滅亡後に建国された渤海国も『高句麗人の国』という説がある) 〕
見ての通り、高句麗と韓国人は何の関係もありません。高句麗人の末裔と呼ぶべき民族は満州族であり、
韓国人=朝鮮人ではないのです。 韓国人は高句麗人の子孫ではないだけでなく、高句麗人の歴史を受け継ぐ
満州族(女真族)のことを『オランケ』と呼び、蔑んでいました。 オランケとは韓国語で「野蛮人」の意味です。
韓国人は、「我々は高句麗人の子孫だ」と自称する一方で、本物の『高句麗人の子孫』である満州族のことを、
野蛮人呼ばわりして 見下しているのです。
ところが最近の韓国人は、時と場所によって「満州族と韓国人は兄弟民族だ」と言ったり、「満州族はオランケであり、
韓国人と違う民族だ」と、 言ったりしています。まさに『ご都合主義』です。自分たちの都合により、歴史を捏造し
歪曲しているのです。 日本人は倭人の子孫である。一方、朝鮮人はユウロウ族の子孫である。この2つの民族は
最初から別種なのだ。
百済→王族は扶余族、倭人と混血 、民衆は長江文明の遺臣の弥生人(百越人ともいう)
新羅→王族は扶余族、三王家のふたつに倭人出自説あり、民衆は弥生人と、始皇帝から逃げてきた秦人(漢族)
高句麗→ツングース系女真人
高麗→ツングース系女真人
渤海→ツングース系女真人
渤海と高句麗の民族的人種的なつながりははっきりとはわからないが、
新羅に滅ぼされた高句麗の遺民が建国した国ではないか、とは言われている。
何度も日本に朝貢している。
渤海が滅んだのち、今度はその遺民が高麗を建国した、というのがだいたいの流れ。
中国東北部にいた人々が一時期朝鮮半島に国を作ったとも言えるし、それが朝鮮人であるとも言える。
朝鮮半島は漢族、倭人、中国東北部族、モンゴル人等々、種々雑多な人種が入り乱れている。
日本と違って、半島というのはどこでもそういうもの。いわば人種民族の通り道的な存在。
高句麗は、夫餘から出た別種である。(『旧唐書』高麗伝 :「高麗者、出自扶餘之別種也。」)
高句麗は本来夫餘の別種である。(『新唐書』高麗伝 :「高麗、本夫餘別種也。」)
という記述にもあるように、高句麗族はその起源伝説の類似点から、ツングース系と考えられる
扶余と同じ民族と見られることが多い[2]。史上でも扶余の流民を受け容れていることが記されているが、
民族を同一とするにたる明証はなく、墓制の違いを見る限りは扶余と高句麗との差は歴然としている[3]。
但し、『魏書』百済伝の百済王蓋鹵王の上表文には、「臣と高句麗は源は夫余より出る」
(臣與高句麗源出夫餘)とあり、当時の百済人は高句麗人を同種の夫余とみていたことになる。
なお、扶余族は他に、沃沮(東沃沮・北沃沮)・?・百済(王族)など朝鮮半島に広く分布していた。
wiki より
上記からも、高句麗はツングース系と確定している。当然、朝鮮民族ではない。
中央日報 2004.09.27 スペイン紙「韓国4228年間、中国の属国」
スペインの有力紙「エル・ムンド」のウェブ版(www.elmundo.es)が
「韓国は4228年間にわたって中国の植民地だった」と紹介した。
「エル・ムンド」は「韓半島は長い歴史のなかで数多くの侵略を受けてきた。中国に1895年まで属していた(略)
「▽韓国が元々中国植民地だったと伝えた米CNNテレビ▽平壌を中国植民地だと紹介したヒストリーチャンネル−−などのケースと同じ脈絡のもの」(略)
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=56213 http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/0b306f901f4daf3e42a18ba5e2664129 世界の教科書
◎ ドイツの教科書
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀の事だった。その後300年、
日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」
◎ フィリピンの教科書
「朝鮮は、その歴史の大部分中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。
日本は自由な新しい秩序を樹立する事によって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」
◎ インドネシアの教科書
朝鮮を中国の属国として記した。
「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」
「朝鮮は言論・宗教の自由が制約を受ける国」
「北部はロシアが、南部はアメリカが占領している」
◎ タイの教科書
「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」
◎ ポーランドの教科書
「AD1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」
◎ アメリカの教科書
「朝鮮は中国の従属国」
◎ カナダの教科書
「朝鮮は、数百年間中国の属国」
「日本は<中略>朝鮮に鉄道・道路・港を建設し、産業を発達させて教育の機会を拡大させようと努力した」
◎ イギリスの教科書
「西暦366年から562年まで、日本が朝鮮半島を支配した」
朝鮮の歴史は半万年ではなく千百年弱
「朝鮮、属国史」の始まり
918年 高麗建国
10世紀 宋に朝貢、契丹(東胡の末)に朝貢。
12世紀 金(女真族、東胡の末)に朝貢。
13世紀 高麗はモンゴルの属国となる。劣等感から、一然という僧が檀君神話を捏造し、忠烈王がモンゴルに日本侵略を唆す。
14世紀 高麗滅亡、李朝建国。李朝は最初から明の冊封国で、国名も中国に決めてもらった。
17世紀 清(女真満州族)に服属、三跪九叩頭の礼に甘んじる。
19世紀 日本が日清戦争で中国を破り、属国の李朝は独立させてもらう。(日本の保護国)
1910年 李完用の要請により日本に併合してもらう。李氏朝鮮(大韓帝国)滅亡。
1948年 戦後アメリカ軍政庁の統治下にあったが、アメリカの後押しで大韓民国が成立。
1950年 アメリカとソ連の代理戦争である朝鮮戦争が起き分断国家となる。
1991年 ようやく国連加盟、史上初めて世界から独立国家として認められる。
1993年 韓国、軍事独裁制を脱し、史上初めて独立民主政体となる。
現在 いまだ言論、学問の自由もなく民主主義とは程遠い国である。北は論外。
======== 偉大な韓国の歴史 ==========
10世紀 長白山が過去2000年間で世界最大級とも言われる巨大噴火を起こす(リセット)
1010年 「契丹」に侵略される。首都開城が陥落。(キタン人化)
1013年から1019年まで継続して侵略される。 (キタン人化)
12世紀 「女真」の侵入。侵略。「金」に朝貢。 (満洲人化)
1231年 「蒙古」に侵略される。首都開城が陥落。国王江華島に逃亡
長い間、無抵抗の半島はモンゴル軍に蹂躙される。(モンゴル人化)
1247年 「蒙古」に再侵略される。しばらく蹂躙が続く。 (モンゴル人化)
1258年 雙城総管府を置かれる。翌年、王子を人質に降伏。(モンゴル人化)
国内には多くの蒙古軍人が駐留。 (モンゴル人化)
1270年 東寧府を置かれる。 (モンゴル人化)
反対派が済州島に移って徹底抗戦。1273年に鎮圧 (モンゴル人化)
1274年と1281年「元寇」(半島人主力で日本侵略。が、全滅(モンゴル人化)
1356年から1362年までの紅巾賊侵入により首都開京が陥落 (シナ人化)
1419年 「応永の外寇」 17000人で対馬を襲撃。船、家を焼き、住民を虐殺する。
しかし、少数の対馬軍に撃退される。
1592年 と1598年秀吉の「唐入り」 首都漢城が陥落(短期でヤマト化は無理)
1627年 「後金」に侵略される。平壌を超え、侵略されるが漢城までは来なかった。
しかし、国王は江華島に逃亡(満洲人化)
1636年 「清」に侵略される。首都漢城が陥落。清軍が、す早く江華島への道を遮断。
泥濘の中、朝鮮王仁祖は清の太宗に降伏、大清国属国となる。(満洲人化)
「屈辱の象徴」三田渡碑の移転決定
http://tosi.iza.ne.jp/blog/entry/610163/ 韓国マイナー観光
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kikyo/1239/w-18.htm
宗主国をかさに、高麗や朝鮮国王にゆすりたかりを働き、一族の利益を図るのが、
朝鮮 半島の鉄則のようなものだ。千余年来、たいてい同じようなことを繰り返したのであった。
だから千年進入され、千回とも敵を撃退したのではなく、属国になると誓ってから宗主国が
兵を引いたという歴史事実が繰り返されている。
ではなぜ戦後になると韓国知識人の歴史歪曲が、日を追ってますます神話まがいのものまでに
変化していったかというと、それはどの民族も自存自衛のために欠かせない民族の自尊心にある。
韓国は壬辰倭乱(豊臣秀吉公の朝鮮征伐のこと)で焦土と化した。だから三百年もへても立ち
直れなかった。いやがうえにも倭乱のひどさを強調した いという気持ちはわからないでもない。
しかし、考えてもみると、一回の大乱だけで三百年も立ち直れない民族は、世界中のどこにいるのか。
もしあるとす れば、もっと恥を知るべきであろう。戦後、焦土化した日本は半世紀もたたずに
再び経済大国になったではないか。千回も侵略され、すべての侵略者を撃退 したという自慢話と、
三百年も立ち直れないでいるという論理を矛盾することもなく主張することに自己撞着はないのであろうか。
韓国知識人はつねにこのような歴史歪曲で「反日」を正当化する。
韓国人の反日台湾人の親日 黄文雄 光文社
日本人 = 日本書紀に「391年に神宮皇后が百済と新羅を征服したと書いてある。」
韓国人 = 捏造だ。
日本人 = 三国史記「新羅本記」にも慶州を倭兵に包囲されたと言う記録がある。
新羅は何回も王子を人質に差し出している。百済の武寧王は人質の子として日本で生まれた。
韓国人 = 捏造だ。
中国人 = 満州にある碑文にも倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてある。
韓国人 = 捏造だ。
中国人 = 中国の歴史書の宋書にも倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がある。
韓国人 = 捏造だ。
中国人 = 中国の歴史書の魏志倭人伝には既に3世紀から倭国では鉄の鏃を使ったと書いてある。
韓国人 = 捏造だ。
中国人 = 中国の歴史書の随書にも倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。
百済と新羅は倭国を大国として敬ったと書いてある。
日本人 = 日本や中国の歴史書や発掘品は全て捏造なのか?
韓国人 = そうだ!韓国に都合の悪い歴史書は全て捏造だ。
中国人 = 中国の歴史書まで捏造か?
韓国人 = そうだ。歴史書が本物だとしても,日本という名前は7世紀まで無かった。倭と日本は違う。
日本人 = 三国史記に「670年の十二月に、倭国が国号を日本と改名した。
日の出る所に近いから、これをもって「日本国」としたとの事である。」とあるが?
中国人 = 中国政府も外交部のホームページ(www.fmprc.gov.cn)で
「5世紀はじめ、大和国が隆盛した時期に、日本の支配が朝鮮半島の南部にまで拡大した。」と公式に認めている。
日本人 = イギリスのオックスフォード大学の出版社(www.oup.com/ca)の教科書が、
「5世紀の日本の勢力は朝鮮半島南部まで支配した。」 書いている。それを世界50か国の学校に発行している。
日本人 = アメリカのコロンビア大学やアメリカ議会図書館が「5世紀の朝鮮半島南部は日本の大和政権の支配下にあった。」と記載している。
韓国人 = 世界中が朝鮮半島を捏造している!!
韓国人以外の一同「ではそれらの捏造を裏付ける証拠は?」
韓国人「・・・・・・韓国に対する愛はないのか!!ー!!」
■『三田渡碑』、またの名を『大清皇帝功徳碑』、韓国人には『恥辱碑』
『三田渡碑』丙子胡乱で朝鮮が負けた時に、朝鮮王が清国皇帝に9回地面に頭を擦り付けて服従を誓った記念碑。
それに刻まれている文章を要約すると
★『大馬鹿な朝鮮王は愚かにも、偉大な清国皇帝に逆らった』
★『清国皇帝は愚かな朝鮮王を窘め、己の大罪を諭してやった』
★『良心に目覚めた朝鮮王は自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った』
★『我が朝鮮はこの清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆らった愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする』
★『大馬鹿な朝鮮王は愚かにも、偉大な清国皇帝に逆らった』
★『清国皇帝は愚かな朝鮮王を窘め、己の大罪を諭してやった』
★『良心に目覚めた朝鮮王は自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った』
★『我が朝鮮はこの清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆らった愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする』
さらに1637年1月30日に朝鮮が清国に結ばされた和約の内容は、
★朝鮮は清国に対し、臣としての礼を尽くすこと
★朝鮮は明の元号を廃し、明との交易を禁じ、明から送られた誥命と明から与えられた朝鮮王の印璽を清へ引き渡すこと
★王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること
★清が明を征服する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること
★内外(清)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること
★城郭の増築や修理については、清に事前に承諾を得ること
★清に対して黄金100両・白銀1000両と二十余種の物品を毎年上納すること
★清国皇帝の誕生日である聖節・正朔である正月一日・冬至と慶弔の使者は、明との旧例に従って送ること
★清が鴨緑江の河口にある?島を攻撃する時に、兵船五十隻を送ること
★清からの逃亡者を隠してはいけない
★日本との交流を許すこと
『二十余種の物品』の具体的には、清国に毎年美女3000名、牛馬各々3000を献上等々。
▼なお、「この和約は下関条約で無効となる」 ← ここ重要
東北工程:百済・新羅の歴史も「中国史の一部」=中国社科院 『朝鮮日報2007年6月4日』
http://www.chosunonline.com/article/20070604000018 公式研究書に百済と新羅の歴史も「中国史の一部」と記述していたことが3日、分かった。
百済に対しては「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」とし、
新羅については「唐は(百済が滅亡した)660年以前には羈縻政策を、それ以降には直接統治を行った」と記述した。
また、新羅は「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」とした。
東北工程・高麗も中国が建てた国『朝鮮日報2007年6月6日』
http://www.chosunonline.com/article/20070606000006 高麗について、「箕子朝鮮、高句麗に続き、中国が朝鮮半島に打ち建てた3番目の政権」と主張したところの、
吉林省社会科学院が隔月刊で発行する歴史雑誌『東北史地』の2007年第3号に掲載された「後唐の明宗が、高麗を建国した太祖・王建の族籍を明らかにした」と題する論文の存在が確認された。
この論文は、「王建は決して朝鮮半島の新羅人の子孫ではなく、中国・淮河流域から来た漢人の末裔」と主張し、
933年に後唐の2代目の明宗が太祖・王建に送った冊封詔書などをその根拠として提示した。冊封詔書には太祖・王建を「長淮の茂族」と呼んでいる部分があり、この論文は「長淮は淮河流域を意味する言葉で、太祖・王建の本籍地が中国であるため、高麗は中国人が建国した国
87 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 18:32:44
過疎sage
「水行と船行」
倭人伝では水行と船行は、「行」の意味で明確に使い分けされている。
「水行」は対義である「陸行」と区分けであり この二つでワンセット
水行も陸行も、起点から着点までの移動が
水行は船、陸行は徒歩であり
水行の前後どちらかには必ず陸行があったと言う事です
つまり、「水行」と書かれていれば、「陸行→水行」または「水行→陸行」と言うセットだと言う事です。
では「船行」とは
倭人伝内での船行とは水行との区分け。
「水行」は起点から着点までを船で移動する。対して「船行」は、起点から終点まで全て船にての移動という事です。
つまり 着点と終点の違いが水行と船行の違いです。
>>88 従郡至倭循海岸水行
なぜ「自」ではなく「従」なの?
>>89 >「水行」は起点から着点までを船で移動する。
起点はどこなのか?
帯方郡治はソウルか? 沙里院か?
乍南乍東
?
到其北岸狗邪韓國
其北岸=(海の)北側の岸
狗邪韓國=(韓の)狗邪國=(弁辰の)狗邪國
末盧国に官の記載がないのはなぜ?
魏使が会っていないから。
東南陸行五百里到伊都國
東南陸行なら伊都国は佐賀か?
前原が伊都国なら方位は間違いか?
なぜ陸行か?
一大國から伊都国までの記述には一貫性が見られ、奴国以降と書き方が異なる。
ここで参照した一次資料が変わっているのだ。
(魏使は邪馬台国まで行き、邪馬台国までは官の情報があるので、ここまでは)
末盧に官の記載がないことから、魏使以外の情報をもとに書かれたと思われる。
末盧から伊都まで、魏使が陸行したとは書いてない。
魏使は市糴ルートで末盧まで渡航し、そのまま船で伊都(前原)へ向かった。
有千餘戸
魏略では「戸万余」
世有王皆統屬女王國
帥升以来の北九州連合の王。
>>90 >なぜ「自」ではなく「従」なの?
「従」でもありません。 「郡至倭・・・」
そしてこの従は 前の 三十国に付き 三十国従です。
>>91 >起点はどこなのか?
三か所あるけど何処の起点をおさがしですか?
>>94 >末盧国に官の記載がないのはなぜ?
>>4-18 を参照してください。
>>95 >>4-18を参照ください
>>97 >有千餘戸
魏略では「戸万余」
戸万餘と万餘戸の違いがわかれば、そう書かれた意味がわかるよ
>>98 >世有王皆統屬女王國
帥升以来の北九州連合の王。
ぜんぜん違うよ
「世有王皆統屬女王國」とは 伊都国の中の限られた範囲(特定の場所)に有る王は皆、
女王国の管理下で治める。
>>100 世=伊都国の中の限られた範囲(特定の場所)、ですか?
統屬とは?
>>99 今、使訳通ずるところの三十国に従い、郡は倭に至る、か。
>>99 循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國
の水行の起点。
南至投馬國水行二十日(中略)南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
九州を通り過ぎてしまう。
水行十日陸行一月
どこを陸行?
自女王國以北其戸數道里可得略載
この場合の、自女王國以北、は女王国を含む。
其餘旁國遠絶不可得詳
中国から遠絶。
>>99 従の用例
光武定天下,遣伏波將軍馬援將三千騎,從五原關出塞征之,
乃分其地爲中東西三部。
從右北平以東至遼,(遼)接夫餘、貊爲東部,
從右北平以西至上穀爲中部,
從上谷以西至敦煌,西接烏孫爲西部,
又說得一布衣,從海中浮出,
郡即以鑡爲譯,從芩中乘大船入辰韓,
>>101 >統屬とは?
属し治める
>>102 >今、使訳通ずるところの三十国に従い、郡は倭に至る、か。
三十国を従え、郡を基点に倭の範囲は(地理志だからね)
>>103 帯方郡
>>104 >九州を通り過ぎてしまう。
通り過ぎてしまわないよ。九州は島、水行きは循海岸水行なんだから、海岸に沿って進むわけだから
陸行も当然海岸に沿って だから一周することはあっても、絶対に飛び出すことはない。
>>105 >この場合の、自女王國以北、は女王国を含む。
ここは「自」って書いてあるんだから、対象は女王国じゃなくて
女王国の中心的な都が起点で、それよりも緯度的に北
>>106 >其餘旁國遠絶不可得詳
「旁國」って書いてあるのだから、傍らに国 つまり、自女王国以北に位置する諸国20国の更に北に位置する国の事
「遠絶」=位置的な遠近ではなくて 遠い親戚とか 時間的に遠いとかいう意味
>>107 >従の用例
ただ「従」を使用しているだけじゃだめだよ。
「従」を使用している前後の文が、倭人伝の「従」の使用と同じものを使わないと
漢文には句読点がないんだから、前後の文で判断しなくちゃ。
だから
>>108も同じね
ここでの「世」は時間的な意味じゃありませんよ。時間的な意味は「女王国」という語句で使用されているので、ここで時間を使用することはありません。
この文章での時間は、女王が在任している期間という縛りがあるので(女王が在任しているから女王国)、「世有王」は ○○に王有りと訳し、○○には王が有る「場所」が入ります。
>>90 「自」と「従」の違いは、 日本語で説明すると
「自」というには、日本語で(みずから)
「従」は、(したがう)という 日本語の訓が付けられているよね?
つまり、「自」の視点は(みずから)というように、自分の範囲から見た内側への視点
一方「従」は、(したがう)というように、外に視点が向けられた表現(あるいは、外からの視点)
だから「自女王国」と書いてあったら
女王国という内側の中心的な女王国の都
>>100 >戸万餘と万餘戸の違いがわかれば、そう書かれた意味がわかるよ
わかりません。
夫餘在長城之北(中略)戶八萬
高句麗在遼東之東千里(中略)戶三萬
東沃沮在高句麗蓋馬大山之東(中略)戶五千
濊南與辰韓(中略) 戶二萬
韓在帶方之南(中略)總十餘萬戶
時民隨出居者二千餘戶
>>109 統属
留護軍陳到駐永安皆統属厳
衡弟為京兆虎牙都尉秩比二千石而統属郡
及曹公克荊州假行裨将軍仍就任統属長沙守韓玄
>>109 >三十国を従え
今使譯所通三十國従郡至倭
読み下して見て。
>>109 >一周することはあっても
方角が変わってしまうよ。
>>109 自單單大山領以西屬樂浪,自領以東七縣,都尉主之
この場合、中心はどこ?
>>114 なんで?
>>115 なんで? 投馬の南も邪馬壹國 と、書いてあるだけじゃん。
で、女王の都は、投馬から水行十日、陸行一月
>>116 >自單單大山領以西屬樂浪,自領以東七縣,都尉主之
この場合、中心はどこ?
中心じゃないよ「中心的」
それに、そんな見当はずれな用例出して 何か意味があるの?
>>110 >倭人伝の「従」の使用と同じものを使わないと
同じでしょ。
從右北平以東至遼
從右北平以西至上穀
從上谷以西至敦煌
だから
>>108も同じだよ。
>>118 中心と中心的はどうちがうの?
>>118 見当はずれ?
自單單大山領以西屬樂浪
單單大山領という内側(?)の中心的なとこから以西が楽浪に属すの?
自領以東七縣,都尉主之
領の中心的なとこってどこ?
>何か意味があるの?
うん。納得できない理由がわかってもらえるでしょ。
>>119 >同じでしょ。
何処が同じなの?
>>120 >訳すためですよ。
なぜ自分でしないの?
>一周するんでしょ? 向きは?
島なんて時計回りか、反時計回りのどちらかしかないし。奴国から奴国 洛陽に近い西側から東側へ
>>121 >中心と中心的はどうちがうの?
自分で調べたら そこまで世話はやかないよ
>單單大山領という内側(?)の中心的なとこから以西が楽浪に属すの?
太白山脈という範囲が終了するところ。つまり、單單大山領の西と表現できる基準地
ごめんね ここは質問boxじゃないから、後は自分で考えてね
>>122 >何処が同じなの?
構文。
>なぜ自分でしないの?
>「従」でもありません。 「郡至倭・・・」
>そしてこの従は 前の 三十国に付き 三十国従です。
あなたの解釈だから。
>時計回りか、反時計回り
南至ですよ。
>自分で調べたら
解答はあなたの頭の中ですから。
>太白山脈という範囲が終了するところ。つまり、單單大山領の西と表現できる基準地
中心的じゃありませんね。
>自分で考えてね
倭人伝は自分で考えてますよ。あなたの考えは訊かないとわかりませんよ。
>>123 貴方は構文が同じと言いますが、提示された用例は
編纂者が檀石槐の目線に立って、檀石槐が統治する三分割された領土を三部構成で紹介しています。
しかし倭人伝は、編纂者が皇帝あるいは郡の役人の目線にて、郡を視点に異国の地を紹介しているという 檀石槐の領土紹介とは違ったものとなっています。
だから私は、「何処が同じなの?」と言ったのです。
文の内容が変われば、そこに使用される文字の意味は違ってきますよ
>.>123
>あなたの解釈だから。
自分の解釈はどうなんです?
>南至ですよ。
南に邪馬壹国があればクリアーする問題でしょ
>中心的じゃありませんね。
太白山脈の範囲のなかで唯一説明できる地点ですから、太白山脈の中にあって代表的なポイントです。
>倭人伝は自分で考えてますよ。あなたの考えは訊かないとわかりませんよ。
貴方の質問が余りにも断片すぎるから
質問するのであれば、私はこう考えているが貴方は?とすべきではないでしょうか。
>>124>>125 >自分の解釈はどうなんです?
従A至B。AよりBに至る。
「従郡至倭」 郡より倭に至る
「從右北平以東至遼」 右北平以東より遼に至る
>文の内容が変われば、そこに使用される文字の意味は違ってきますよ
それはそうですね。ここは、従う、ではないと思います。
>>125 南至投馬國水行二十日(中略)南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
(南に二月行ったら)九州を通り過ぎてしまう。
>通り過ぎてしまわないよ。一周する
(行く)方角が変わってしまう
>なんで? 投馬の南も邪馬壹國 と、書いてあるだけじゃん。
一周するんでしょ? 向きは?
>時計回りか、反時計回り
南至ですよ。
>南に邪馬壹国があればクリアーする問題でしょ
私は、南に(まっすぐ二月)行くと九州を通り過ぎてしまう、と思ってます。
河童さんは、海岸に沿って一周する、ということですね。
で、投馬国・邪馬壹國は、行く者の向きとは関係なく南にある、と。
>>125 自女王國以北其戸數道里可得略載
この場合の、自女王國以北、は女王国を含む。(追記) → 戸數道里が略載されているいるから含む。
>「自」って書いてあるんだから、対象は女王国じゃなくて女王国の中心的な都が起点
自單單大山領以西屬樂浪
>太白山脈という範囲が終了するところ。つまり、單單大山領の西と表現できる基準地
それはそうでしょうね。基準地=中心(的)とならない場合もある、ということではないでしょうか。
地理の表記は点から点で書かれているとは思っています。少し先になりますが、
自女王國以北特置一大率
の場合は、自女王國以北、は女王国を含まない。→一大率が置かれていない(だろう)から。
ということが気になっているんです。
>>126 文法はひとまず置いといて、本文の内容から
>>127-128 貴方はこの行程文を郡使が往来する記録と考えているのでしょうか?
でしたら今後私との会話は絶対に交わることがありません。
私は郡がかかわり合った大海の中に位置する日本列島の地勢紹介と考えており
ここに書かれている行程文は、文章にて表現した「文章地図」と考えていますから
私の返信は、それを前提に貴方への返答としますので
>>129 >郡使が往来する記録
いいえ。
>>96を再掲します。
>一大國から伊都国までの記述には一貫性が見られ、奴国以降と書き方が異なる。
>ここで参照した一次資料が変わっているのだ。
>(魏使は邪馬台国まで行き、邪馬台国までは官の情報があるので、ここまでは)
>末盧に官の記載がないことから、魏使以外の情報をもとに書かれたと思われる。
>末盧から伊都まで、魏使が陸行したとは書いてない。
>魏使は市糴ルートで末盧まで渡航し、そのまま船で伊都(前原)へ向かった。
資料をもとに書かれた、倭国の地勢を紹介する文章だと考えています。
>>130 >一大國から伊都国までの記述には一貫性が見られ、奴国以降と書き方が異なる。
ここで参照した一次資料が変わっているのだ。
書き方や資料が変わったのではなく、書かれている内容がガラリと変わったから
そう感じるだけです。
先ず、郡から九州島までの間隔を書き、
その後は、その九州島の規模を記載しているので
書き方や資料が変わったと感じるだけです。
基点から目的までの距離を書いて、そこの規模を書く事は、何も特別な事ではなく当然の事ですね。
だから 對海も一大も、距離の次には、島の規模を書いています。
だったら、九州島に到達したら九州島の規模を記載するのは必須です。
>>128 >自女王國以北特置一大率
の場合は、自女王國以北、は女王国を含まない。→一大率が置かれていない(だろう)から。
ということが気になっているんです。
女王国というだけで、その地域の形や大きさもわからないものを基に以北なんて表現は
それこそグローバルな視野でない限り使用しない
だから編纂者は「自」女王国以北と記載しポイントを設けたという内容になっています。
そして女王国の都の以北には、斯馬国〜烏奴国、が海岸に沿い並び(九州は島だから)
「自女王國以北特置一大率」と書かれているように、斯馬国〜烏奴国には一大率が特置された。
これで「奴国」から始まった九州島一周の様子は、「奴国」で無事紹介が終わります。
>>131>>132 そう感じるだけ、ではなく、書き方は「奴国」から変わっています。
その理由についての考えが(あなたと私では)違うのです。
>書かれている内容がガラリと変わったから
>對海も一大も、距離の次には、島の規模を書いています。
>九州島に到達したら九州島の規模を記載する
九州島に到達しても、末盧と伊都は、對海と一大と内容変わっていませんよ。
>女王国の都の以北には、斯馬国〜烏奴国、が海岸に沿い並び
遠絶不可得詳、ですが、以北とする理由は?
>「奴国」から始まった九州島一周
(末盧からでなく) 奴国からなのはなぜ?
ここから書き方が違っているからですか?
>>133 >(末盧からでなく) 奴国からなのはなぜ? ここから書き方が違っているからですか?
本来なら末盧国に到達した港を基点に規模を書くべきでしょうが、倭人伝には地理志だけではなく、後半に外交志を備えているため、外交の窓口である伊都国までは
外交志の説明の意味で地理志と重複説明となっていますし、
これは先の話ですが、九州島の地勢を記載するうえで、奴国を基点にする事が
編纂の上で重要な位置にあるからです。
一般に魏使の往来記事と間違えられてしまうのは、この重複が故のことです。
位置や地形と言うのは、政治変化があっても、地殻変動が無い限りはいつの時代でも参考になりますから、後世に伝えるには最適な掲載内容です。
倭人伝は、初めて倭地の内部を紹介した文章なので、一時代の使節を紹介するような記事にはなりずらいという性質を伴う歴史書です。
>>133 >遠絶不可得詳、ですが、以北とする理由は?
たぶん「旁国」の意味を理解していないが為かと思います。
斯馬国〜烏奴国は自女王国以北とあるように、女王国の其餘旁國ではなく「隣国」
つまり、女王国と(斯馬国〜烏奴国)の間には何も介在しない関係の国、だから
其餘旁國には当てはまりません。
「旁国」とは、日本語で表現すると(かたわらに国)
「旁」とは、隣ではなく
表現視点から一方向に隣の隣という意味です。 だから「旁」の文字には「方」という文字が含まれているのです。
(表現視点)→→(隣)→→(旁。かたわら)
ようするに、遠絶不可得詳とは其餘旁國のことで
自女王国以北→→(斯馬国〜烏奴国)→→其餘旁國
其餘旁國は、自女王国の北の北 という意味です。
>>135 自女王国以北(對馬國から投馬國までの七国)
↓
隣国( 斯馬国〜烏奴国)= 自女王国以北(對馬國から投馬國までの七国)の北
↓
其餘旁國= 隣国( 斯馬国〜烏奴国)の北
ということですね。
>>136 >自女王国以北(對馬國から投馬國までの七国)
對馬國から投馬國までの七国は既に紹介されたものですので、関係ありません。
ここはあくまでも文章にての地図
文章内にての自女王国以北とは、(斯馬国〜烏奴国)の事です。
[北]
(旁国)
↑
↑
(斯馬国〜烏奴国)(一大率特置)
↑
↑
女王国の都(表現基点)
[南]
對海國
↓
↓ 其余旁國
↓
↓ ・・・・・・・・・・・・・・・・
一大國 (以北)
↓
↓ (烏奴國〜斯馬國)
↓ 伊都國 ↑ (以北)
↓ 奴國 不彌國 女王の都
末盧國
投馬國
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
狗奴國
(狗奴國も邪馬壹國の内)
既に奴國の西には伊都國と末盧國が有ることは掲載されているので
奴國の東には不彌國、奴國の南には投馬國、その南に狗奴國、狗奴國の北、不彌國の東には女王に都
、女王の都の北には(斯馬国〜烏奴國)その西には奴國が
これが末盧國がある九州島の地勢です。
>>137 >自女王国以北とは、(斯馬国〜烏奴国)の事です。
そのためにはどのように読むんですか。読み下してみて。
>不彌國の東には女王に都
そのためにはどこをどう読むんですか。
あと、
>>135 >斯馬国〜烏奴国は(中略)女王国の其餘旁國ではなく「隣国」
そのためにはどう読むんですか?
再度
>>138 >これが末盧國がある九州島の地勢です。
やっぱり、其余旁國は海の中?
>>139 >そのためにはどのように読むんですか。読み下してみて。
「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國・・」
自女王国以北は、その戸数・道里・規模を略載し得るも、その余の旁国は遠絶にして詳らかにするを得ず。次に斯馬國あり・・・
>そのためにはどこをどう読むんですか。
「東南至奴國百里・・・・有二萬餘戸(東行)至不彌國百里・・」
ここに書かれている(東行)と「不彌國」の漢語に取り扱いで十分読めます。
>そのためにはどう読むんですか?
>やっぱり、其余旁國は海の中?
自女王國以北と旁国の間には「其戸數道里可得略載」と書いてありますから、ここでの「其」は「以北」を指し、対象となる国は、国名だけ記載された(斯馬〜烏奴)となります。
つまり、自女王国の次に(斯馬國〜烏奴国)有りとなり、その(斯馬國〜烏奴国)は戸數道里可得略載だといってます。
そして、旁国は「国」と書かれているので、決して海の中ではありません。
自女王国の緯度的に北に(斯馬〜烏奴)、その北に(旁国)があります。
旁国は「大倭」と書かれた本州のことです。
この旁国は、魏王朝とは正式な国交がないので詳細を記載することが出来ないと書かれています。それが 其餘旁國遠絶 の記載です。 ここでの「其」は(斯馬〜烏奴)を指します。
>>139 ここの「自女王国以北・・・・」の場所は、奴国紹介〜不彌国紹介の中に書かれた
「東行」の意味と「南至邪馬壹國」の内容を把握できなければ、100%理解できない場所です。
ここは陳寿が天才といわれた技が施されている場所、だから後世いろんな解釈が出て惑わされているのです。
倭人伝と言わず東夷伝の地理記事は、基本的に
洛陽に近い西から東 北から南 という基本的な流れが存在しそのように書かれています。つまり、
記事の対象となる国の東南(洛陽から一番遠い)部分が一番最後に記載される流れとなっています。
>>140-141 詳しいレスありがとうございます。
>ここに書かれている(東行)と「不彌國」の漢語に取り扱いで十分読めます。
(東行)と「不彌國」の漢語に取り扱い、とはどういうことかよくわかりません。
できれば詳しく説明をお願いします。
>ここでの「其」は(中略)、対象となる国は、国名だけ記載された(斯馬〜烏奴)となります。
「其」の対象となる国が、 国名だけ記載された(斯馬〜烏奴)になる理由がわかりません。
>旁国は「国」と書かれているので、決して海の中ではありません。
「国」と書かれてい ますが、
不彌國の東にある女王の都の北にある烏奴國〜斯馬國の北にあるならば、
海に中にあると思えます。
あなたの地図を見ても、海の中にあるように見えます。
>>140-141 >旁国は「大倭」と書かれた本州のことです。
その理由は? その南にある女王の都も本州?
>「東行」の意味と「南至邪馬壹國」の内容を把握できなければ、
(自分は)できていないのでしょう。理解できていませんから。
説明してもらえますか?
>基本的に洛陽に近い西から東 北から南 という基本的な流れが存在しそのように書かれています。
確認してみますね。この報告は後日。
>>142-143 では先ず、東行から解決いたしましょう。
あなたはこの「東行」をどう解釈するのでしょうか?
普通、この東行という文字が登場すると、出発地点から東の方角にある目的地に移動すると捉えるのではないでしょうか?
倭人伝で言うところの「奴国」から東にある「不彌国」へと
しかし、実際にはこの「東行」という文字にはそれだけの意味にとどまらず、続きがまだ存在するのです。
(会社に行く)(学校に行く) という日本語の文章を作ってみました。
これらは「東(不彌国)に行く」という文章と、構文は同じですね?
これらの(○○に行く)という文の視点は、勿論○○であり、○○から表現しているものですね?
「学校へ行く」と表現した者は、目的の学校へ到達しても、必ず表現地点に戻るという
性質がありませんか?学校へ行った者は必ず帰宅する。これは会社も同じです。
これは
表現者はここではまだ○○に留まっており、目的には到達していない視線だけの願望表現という形になっているからです。
だからここの不彌国へは、移動方法も記載されていない。普通なら、奴国→不彌国間は陸(徒歩)移動するのか?水域(船)を移動するのか記載してそれを知らせますよね?
つまり、不彌国は奴国から見て東にあるという視線的な位置設定に過ぎないという事です。
よって、投馬国への水行二十日の起点は不彌国ではなく、奴国からの水行二十日であることがここで確認できるという事です。
そして、「奴国」から見て東に「不彌国」(彌ではない)と打ち消した語句の地域があるということは、その対的には(彌だ)と断言した国「彌国」が存在するという事を暗示しているのではないでしょうか?
ま、この「不彌国」と「彌国」の関係はおいおい時間があったらご説明いたしましょう。
>>142 >「其」の対象となる国が、 国名だけ記載された(斯馬〜烏奴)になる理由がわかりません。
本文には「自女王國以北(其)戸數道里可得略載」
女王国の都の北にある「其」は、略載されたと書かれています。
つまり、戸数や道里などはここで記載しなくとも分かるので、必要な事だけ記載掲載したと述べています。
ようするに、ここでは国名だけを記載するということ
「略」というのは、略した結果だけではなく、略す前の(省かれるもの、省かれなかったもの)の両方が確認でき、初めて(略)という文字がつかわれます。
例えば「学」という文字は、「學」という文字を簡素化した略字と言われています。
しかし、この「学」という文字しか存在が知れていなければ
この「学」という文字は略字とは言われることはなかったでしょう。
学という字が略字とされているのは、簡素化される前の文字である「學」という文字が存在認識されているからです。
つまり
略字「学」は「學」という文字が存在し簡素化された過程が存在するから「略」なのです。
>>143 >その理由は? その南にある女王の都も本州?
「大倭」は一先ず置いといて
一大国から渡海し、上陸した末盧國が九州島ならば、それから一度も渡海していないので
自ずと女王国は九州島の島内となります。
倭人は大海之中と書かれているように、大海に浮かぶ島国であることは、最初にせっていされているので、島から別の島に移動しているのであれば、それは先にも紹介された
對海國から一大國、一大國から末盧國の島から島と言う事で、必ず「渡海」と記載されます。
水行はやはり最初に設定されているように、「循海岸」(海岸に沿って)
>確認してみますね
韓伝なんかはその特徴がよく反映されています。
147 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/12/30(水) 21:30:00
つくづく屁理屈しか言えない人だな。
↑お前も相当嫌味な奴だなwww ageるとわ。
>>148 こいつも河童の人気に以上に嫉妬する一人だから
150 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 23:15:51
何故「南至投馬國、水行二十日」から行程が距離の里から時間の日に変わるんですか?
陳寿は頭が変だったんですか?
普通に伝聞情報ですよね。
>陳寿は頭が変だったんですか?
なんでこんな高い所にこのスレ持ち上げた?
>>150-151 変だと思うか?
>伝聞
そう考えるか?
ならしょうがないわな、これ以上あんたらに何を言っても釈迦に説法やろう。
153 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 11:35:43
>>152 頭が変だとは思わないが
伝聞情報だとは思う。
倭人は里数知らないで日数で計ると書かれてるじゃないか。
>>154 >倭人は里数知らないで日数で計ると書かれてるじゃないか。
倭人伝の何処に書かれているのですか? 倭人伝の内容は、倭人伝を読む人にわからなければ、何の意味もない書になりますよ
>>144 >あなたはこの「東行」をどう解釈するのでしょうか?
東に行く・進む。ただし、「行」は動詞「行く」ではなく、それだけでは意味を限定できない。
「東行」で意味を伝えることができます。
>(○○に行く)という文の視点は、勿論○○であり、○○から表現しているものですね?
>「学校へ行く」と表現した者は、(中略)
>表現者はここではまだ○○に留まっており、
「○○」の中には「学校」が入るのね。すると、わけわかんないです。
>不彌国は奴国から見て東にあるという視線的な位置設定に過ぎない
「至」は「〜まで』
「東行至不彌國」は、「東行して不彌國まで」です。
>>145 >「其」は、略載されたと書かれています。
>つまり、戸数や道里などはここで記載しなくとも分かる
「略」は省略ではなく、ほぼ・だいたい、の意。
「可得略載」は、「ほぼ記すことができる」
>>146 >それから一度も渡海していないので
関門海峡から、 循海岸水行、したのでしょう。
東夷伝、
最初は鮮卑から東の夫余。次に夫余から南の高句麗。
高句麗から東の沃沮。沃沮から北の挹婁。挹婁からとんで南の濊。
濊から南の韓。韓は西の馬韓から東の辰韓、そして南の弁辰。
その南の倭へと。
挹婁だけ例外でしたね。おもしろかったです。
>>157 >「略」は省略ではなく、ほぼ・だいたい、の意。
「可得略載」は、「ほぼ記すことができる」
例えば、「物価が昨年の(ほぼ)二倍になる。」という文があったとする。
この場合、ほぼ二倍に相当するであろう数値だけではなく、昨年の数値を書き記し
今年は物価がほぼ二倍の数値になることを示さないかい?
或いは、昨年の数値を掲載しなくても容易にその数値がわかるような環境を設定してから
今年の物価が昨年の数値と比較して(ほぼ)二倍と記するのでは?
では貴方の言う、倭人伝の「ほぼ」は、一体どの文章が基準となり「ほぼ」と記載されたのか?
その基準がなければ「ほぼ・だいたい」などという日本語をあてることは好ましくないのではなかろうか?
>関門海峡から、 循海岸水行、したのでしょう。
末盧国が
関門海峡を渡った下関とかに相当するなら、ありえる話だけど
末盧国を九州島内にもってきたら絶対にない話しだよ
>>158 あけましておめでとうこざいます。ことしもよろしくおねがいします。
略載すると
あけおめ。ことよろ。
>どの文章が基準となり「ほぼ」と記載されたのか?
なんだろう? 省略されてるんじゃない? 前略ってくらいだから。
細かいところを略するから「ほぼ・だいたい」なんですよ。
末盧国から循海岸水行し、関門海峡からは対岸に循い水行し・・・ありえる話。
>>159 はい、よろしくです。
>なんだろう? 省略されてるんじゃない? 前略ってくらいだから。
細かいところを略するから「ほぼ・だいたい」なんですよ。
前略って、誰でも知り得ている時候を省いているわけだから、略す事が可能なんじゃないの。
しかし倭人伝ではその細かな情報が何もない。何もない細かな情報の部分を略すなんて
神のみぞ知るという状況になっちゃうじゃん。
だからこういう状況では「ほぼ・だいたい」なんて言葉は使わないんだよ
そうだろう?書かれている情報こそが、知り得る最大の情報なんだから
>末盧国から循海岸水行し、関門海峡からは対岸に循い水行し・・・ありえる話。
そりゃあ個人的な頭の中ではあり得る話なのかも知れないけど、末盧国が九州島だったら、関門海峡を越えた本州は九州からの「渡海」だよ
>>160 中国語の文法的として
>>157さんのいう通りに「可得略載は、ほぼ記すことができる」という意味であるなら、
その通りの意味しかありえない。
「中国語文」ではない「漢字の羅列」として好き勝手に嘘読みして、本来は存在しない奇妙な「意味もどき」
を捏造しないように。
> しかし倭人伝ではその細かな情報が何もない。何もない細かな情報の部分を略すなんて
> 神のみぞ知るという状況になっちゃうじゃん。
「ほぼ記す」ことにしたのが「誰」なのか分かっているなら、そういう奇妙な勘違いは発生し得ないはずだが、
分かってないわけ? 「書いた人がそうすると書いた」という話だよ?
「神が、自分だけが知っていることを、書かずに略した」? 何それ?
162 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 21:31:03
あそれ、河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!
河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!
河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!
河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!
河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!
河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!
河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!
河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!
河童!河童!河童!河童!河童!河童! 僕らは河童を待っている
>>161 >中国語の文法的として
>>157さんのいう通りに「可得略載は、ほぼ記すことができる」という意味であるなら、
その通りの意味しかありえない。
何故中国語の文法と言いながら、いきなり「可得略載は、ほぼ記すことができる」
なんて日本語が飛び出す絵本の如き登場するわけ?
つまり、中国語の文法って魔法使いサリーちゃんなの?
中国語の文法というのであれば、先ずは中国語の文法説明でもされたらどうですか?
そしてその中国語を日本語に翻訳した時に、何故その日本語を充当したのかの説明もヨロです。
>>161 君の場合、ここではっきり言っといてあげよう。
君は中国語文法などと外国語を語る前に、「ほぼ記すことができる」という日本語を十分に理解していないんだよ。
つまり、「ほぼ記すことができる」なんて日本語を掲載しても、「ほぼ記すことができる」
という日本語の意味が理解できていないという
大変お粗末な状況なのよ。
そういう状況なのにもかかわらず、他人には平気で「嘘読み」「捏造」なんて語っちゃうから初笑い
いいかい、何度も言うけど
「嘘」とは、真実を知りながら真実とは違えることを述べることを「嘘」というんだよ
文法なんて持ち出すんだったら、簡単な説明ぐらいは欲しいところだわな
「自女王國以北其戸數道里可得略載」だったら
>>161はこう言いたかったのかな?
「自女王國以北其戸數道里」が(主語)で
「可得」が(述語)で
「略載」が(目的語) なのかな?
でも、私は違う。
「自女王國以北其戸數道里可」が(主語)で
「得」が(述語)で
「略載」が(目的語)
166 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 22:43:53
河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!
さあみんな、手を叩いて河童コールだ!河童!河童!僕ら河童!スーパースターのお出ましだ!
>>160 >個人的な頭の中ではあり得る話
頭の中で作り上げられた地勢の紹介ですよ。
資料をもとに組み立てた陳寿はもちろん、行った魏使も
実際の列島の地形を知らなかったのです。
というか、陸続きでも「渡海」と書かれた例はありますから、
陸続きかそうでないかが「渡海」の基準ではないのです。
>>165も含めて
私的には
「自女王國以北其戸數道里」が主語で
「可得略載」が述語ですね。
可得(助動詞:=can) 略(副詞:ほぼ) 載(動詞:記録する)
>>167 >頭の中で作り上げられた地勢の紹介ですよ。
資料をもとに組み立てた陳寿はもちろん、行った魏使も
実際の列島の地形を知らなかったのです。
そんなこと、この書には何ら関係のない話ですよ
行ったとか行かなかったとか、知っていたとか知らなかったとか
>というか、陸続きでも「渡海」と書かれた例はありますから、
陸続きかそうでないかが「渡海」の基準ではないのです。
よくそういう疑問をいだく人を見かけます。
伊勢湾は地続きなのに「渡海」だとか。
それはですね、書かれている書物の視点に大きく関わり合う事なんですよ
倭人伝は海外を、しかも大海之中という設定の中で書かれた書物
しかも循海岸水行と渡海を最初から明確に区分してある書物なんですよ。
つまり、同じ「渡海」という漢字の意味も、文章環境が違えば当然同じ文字でも意味が違ってくるというものです。
>>168 >陸続きかそうでないかが「渡海」の基準ではないのです。
ではどんな基準なんですか?
169はアンカーミスです。 168は間違いで
>>167へです。
>>167 「可得略載」としたとして、その「可得略載」されたものは何処に掲載されていますか?
後漢書などの用例を見ると、「可得略記」されたものは、後文にてその内容が記載されているのですが、
「可得略載」されたものも、用例と同じように後文にて掲載されていますよね?
>>168-169 文字通り、海を渡るのか、岸に沿って進むのか、の違いだと思います。
>文章環境が違えば当然同じ文字でも意味が違ってくるというものです。
それはそうですが、そう言われると、どう答えたらいいんでしょうか。
とりあえず次の二例を挙げておきますので。
以遼東東沓縣吏民渡海居齊郡界,以故縱城為新沓縣以居徙民。
以遼東汶、北豐縣民流徙渡海,規齊郡之西安、臨菑、昌國縣界為新汶、南豐縣,以居流民。
(魏書 三少帝記)
>>170 >而使驛不絕,故國俗風土,可得略記。
而れども使訳は絶えず、故に国の俗・風土は、略記できる。
>用例と同じように後文にて掲載されていますよね?
うしろじゃなきゃダメ?
>>171 >以遼東東沓縣吏民渡海居齊郡界,以故縱城為新沓縣以居徙民。
以遼東汶、北豐縣民流徙渡海,規齊郡之西安、臨菑、昌國縣界為新汶、南豐縣,以居流民。
遼東は大海之中ですか? 倭人は四方を海に囲まれた大海の中という設定です。
四方を海に囲まれた倭人の地は「渡海」せねば行けない地ということです。
「渡海」という文字も、設定環境で意味が異なりますよ
倭人伝の「渡海」は倭人伝バージョンの意味です。(起点となる地から海に囲まれた地点への移動)
>>172 >倭人伝の「渡海」は倭人伝バージョンの意味です。
そう言われると話になりませんね。
海を渡るのが「渡海」。陸続きの場所へも「渡海」する。
という根拠は示しましたよ。
>>172 半島西岸を、 循海岸水行、する場合、
半島の海岸ではなく、沖合を迂回して島嶼の岸沿いに水行、
補給や休息のために島嶼にした可能性も考えられます。
>>174 >補給や休息のために島嶼にした可能性も考えられます。
可能性は、まだ見ぬ未来に求めてください。 過去は既に終了した結果だけです。
話は過去に戻りますが、
>>171 >うしろじゃなきゃダメ?
ダメだと考えます。
・・・・略記・・・ や ・・・・略載・・・ は、訓では表現することの出来ない音読みの世界です。何故かと言うと
略記を日本語読みにすると「略し記す(載す)」ではなく、「略し、そして記す(載す)」というように、略と記(載)の間には、日本語でこれを表現すると(そして)という接続語を挟み略と記(載)を繋いでいるからです。
つまり、
略という前文に対し記(載)とする後文で、一つの文章となっているからです。
○○を略し、そして○○を記(載)す という
だから後漢書東夷伝であのような文章の形になっています。
余段ですが、「ほぼ」という日本語をあてはめるなら、「略」ではなく「粗」ではありませんか?
たまには人の土俵で相撲を取るのも面白い。
「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國・・・」
「可得」=(エて〜すべし)
(えて)=得るものは「自女王國以北其戸數道里」
(〜すべし)=すべしものは「略」
「自女王國以北其戸數道里」えて「略」すべし、そして「載」す。
「載」=可得略載の後文にて書かれた「次有斯馬國・・・」
つまり、
「自女王國以北其戸數道里」は略し、そして国名のみ載せた。 と、なるわな
>>176 >可能性は、まだ見ぬ未来に
言葉尻をとらえるのはつまらないですよ。
>だから後漢書東夷伝であのような文章の形になっています。
だからうしろ? ぜんぜん理由がわかりません。
>「略」ではなく「粗」
唯有伍員粗述大略,其言復禹之績,不失舊物,祖述聖業,舊章不愆,
自非大雅兼才,孰能與於此,
向令墳、典具存,行事詳備,亦豈有異同之論哉?
(魏書 三少帝紀 高貴郷公紀 魏氏春秋)
粗述大略、ですね。まあ、それはともかく、
書くことのできること全てを書いたけど100%ではなく80%ぐらい、の場合「略=ほぼ」で、
もっと書くことができるけれど80%ぐらいに止めておいた、場合「粗=ほぼ」なのではないかな。
>>177 >と、なるわな
なりまへん。
「遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,可得詳紀。」
得るものは「 遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,」
すべしものは「詳」
「 遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,」えて「詳」すべし、そして「紀」す。
「紀」=可得詳紀の前文にて書かれた「法俗,小大區別,各有名號」
つまり、
「 遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,」は詳し、そして(後ろで)紀した。 で、どうでっか。
>>179 いいえ違います。
「詳」すべし たのは 楽浪帯方郡を置き収め、東夷が屈服したために
「遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,」えて「詳」らかに
そして
その屈服した「夫余」「高句麗」・・・「韓」「倭」などの「采其法俗,小大區別,各有名號」の詳らかさを後文にて「紀」した。
>>178 >書くことのできること全てを書いたけど100%ではなく80%ぐらい、の場合「略=ほぼ」で、
もっと書くことができるけれど80%ぐらいに止めておいた、場合「粗=ほぼ」なのではないかな。
それは逆じゃないですか?
>書くことのできること全てを書いたけど100%ではなく80%ぐらい
だから「粗」いと言われるし
>もっと書くことができるけれど80%ぐらいに止めておいた、
だから「略」すなと叱られる。
静かに潜水
河童さんが懐かしい。
今は何処に?
185 :
日本@名無史さん:2010/05/08(土) 11:38:32
荒川アンダーザブリッジに出演中
主にCM
河童は遠野に帰りました。
これからはみんなで、河童無視。
522 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2010/05/11(火) 00:49:01
呉が滅亡したのが280年。
陳寿によって魏志倭人伝が書かれたのは280年-290年間。
結局は、呉史と魏史(旧)を編纂したものが晋書なんじゃないかな?
そうなると、呉史由来の部分と魏史(旧)由来の部分をきちんと見分けることが大切になってくると思うんだ。
ちなみに魏史(新)は東魏の正史で、魏の正史とは別物だからややこしい話しになる。
188 :
サガミハラハラ:2010/05/25(火) 21:07:32
ふとおもったのであるが、次の文、
「女王国より以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て
詳かにすべからず。」
女王国より北の国々については戸数・道里は略載できるといっているが、女王国の南や東や西には
国はないのであろうか。隣国なら遠絶ではないのであるから、戸数・道里?ははっきりとわかっているのではないだろうか。
それなのに略載もできないということは、女王国の南は広大な海であるとのことであろうか。
いかがでしょうか?
189 :
日本@名無史さん:2010/05/25(火) 21:12:05
上げ
191 :
サガミハラハラ:2010/05/26(水) 11:25:41
もし女王国以南(以北意外)に隣国が存在したら、隣国の詳細はわかるだろう。
だとしたら女王国の以北のみが略載できるというのはおかしくはないかということです。
河童虫さんの漢字の解釈が懐かしいのう。
193 :
サガミハラハラ:2010/05/26(水) 21:28:42
河童様、どのような解釈しておりましたでしょうか?
194 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/05/28(金) 13:19:31
遠絶と思ったのが誰か、が問題な気がする。
梯儁や張政が、行ってもないところを遠絶と表現するか、
第三者が、梯儁や張政が行っていないから遠絶と表現したか。
後者なら遠絶の持つ意味は低い。
そしてその可能性は高い。
南は狗奴国でしょう。戸数も道里も書かれていない。不可得詳。
195 :
日本@名無史さん:2010/05/28(金) 14:39:51
投馬国は戸数や官名があるから女王国の以北の国だな。
「其餘旁國遠絶不可得詳」
>>188 >隣国なら遠絶ではないのであるから、
>>194 >遠絶と思ったのが誰か、が問題な気がする。
実際に遺跡がありますから、地理情報に記載してあるクニの隣にだって、クニがあったのは間違いない。
(中国から)遠絶なので、情報のないことは書けませんよ、と言ってるのでしょう。
197 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 20:54:46
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
>>193 遠絶=「絶」が動詞なので「遠」を形容詞として(遠い)と釈す事はなく
「遠」は動詞で(疎遠になる)と訳す
つまり遠絶とは、疎遠になりやがて絶える。
これが河童式解釈
199 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 23:19:35
200 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 17:33:05
ここの主人はまだ戻らぬのかい?
卑弥呼さんに何か用か?
202 :
日本@名無史さん:
主人が留守って淋しいのう