2 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 02:14:14
幕府の撒兵組とはなんなの?
3 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 03:01:47
撒兵隊でしょ
造築兵(工兵)だよ
4 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 07:33:36
黒鍬組?
5 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 14:35:58
へええ
6 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 18:06:08
幕末のヘタレぶりのせいでイメージが悪い。
旗本、御家人共に惰弱過ぎる。
一部を除いて二本差しの資格すらない。
7 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 20:53:05
なんとまあ
8 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 23:24:32
末期の旗本と満州八旗どっちがヘタレ?
9 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 00:41:08
旗本にも旗人にも優秀な人とヘタレと両方いる
勝海舟を初め旗本出身で歴史に残る人は結構いたけど満州で有名な人っていたの?
12 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 11:30:38
火盗改 森山孝盛
13 :
sage:2009/07/04(土) 12:49:05
>>11 その勝海舟も、ほんとうのご先祖が大金持ちで、(勝家という)
ご家人の身分を分割相続財産として父の小吉が買ってもらった。
勝海舟と同様事情の親族に剣豪男谷信友がいる。
維新で活躍した下級武士には、三代前の先祖が上記類似もそうとう存在。
14 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 12:49:57
>>11 太平天国軍を撃破しまくって恐れられた人がいなかったっけ
結局最後は戦死したけど
幕末の旗本だと、小栗はよく知られた名門の出だね。
徳川氏の本宗家である松平本家の分家。
山岡鉄舟も、勝みたいな成り上り旗本ではないよね確か。
あと大久保一翁とかもいる。
旗本男谷家の株を買ったのは小吉の祖父米山検校
小吉の父は勘定組頭を務めた男谷平蔵
小吉は勝家の婿養子
17 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 13:47:38
勝家の相続は怪しいんだよね
末期養子は認められないと思うんだが
小吉の養父甚三郎は縁組の時点でもう死んでたっぽい
旗本なのに拝領屋敷持ってなかったの?
20 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 18:25:46
幕府神道方の吉川氏も旗本ですか?
宣雄
30才 西ノ丸書院番
40才 小十人頭 →布衣
47才 先手頭
54才 京都町奉行 →備中守
55才 没
宣以
29才 西ノ丸書院番
39才 西ノ丸徒頭 →布衣
41才 先手頭
42才 火付盗賊改
50才 没
宣義
26才 書院番
27才 小納戸 →布衣
岡村寧次閣下も旗本の子孫
男子をは八歳以降は常袴 行儀作法を教え育てよ
手習と読書の道を急ぐべし 無筆無学はならぬ役人
十五歳前の武術は無益なり 腕かよはくて術もかなはず
部屋住に五倫の道を守りつつ 弓馬のほかに槍と剣術
御小姓組 御書院 新御番 大番 小十人 これ五番方
御奉公願の内は稽古する 御番入りして止る不届
布衣以上役々の子は芸術を 若年寄衆御見分あり
布衣以下の子は番頭立合に 弓馬改め書上をする
跡継の小普請組は御奉公 願書とて支配衆へ出す
指で穴 さぐりながら 口寄せて
なめて吹きだす 尺八の笛
御小姓組は元来御近所の 流を汲みて至り気の在
御書院は先祖奉行の子孫にて 何れ気体も律に在
新御番御代治りて出来御番 何共なしに物静なり
大御番昔諸国の召出し どこともなしに気体たくまし
小十人大御番士の末子より 召出だされて気体こまやか
28 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 18:51:07
>>13 榎本の先祖もそうだよな?
家康時代からの旗本で活躍したのは小栗ぐらいか
29 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 21:44:40
備中福山藩の庄屋の三男に生まれた箱田良介真与は神童の誉れ高く
江戸に出て高橋景保や伊能忠敬に師事して伊能の九州測量にも同行
榎本武兵衛武由の娘とみの婿になって榎本円兵衛武規と名乗り天文方に出仕
とみが娘らくを残して早世したため林代次郎正利の娘ことを後妻に入れ
長男鍋太郎武与、次男釜次郎武揚を得た
従って武揚には本来の榎本家の血は流れていない
武規は小録の御家人だったが伊能没後日本地図を完成させたり
目付を歴任、また紅葉山御霊屋敷の修繕に従事するなどしてたびたび
褒賞を下され、武揚8歳の時に御目見となって旗本に列した
幕臣になったのは御家人株を買ったからだが出世は本人の才覚による
家督を継いだのは兄なので武揚もまた本人の才により取り立てられた
31 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 00:11:06
32 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 01:57:13
33 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 22:53:51
江戸時代に詳しそうなみなさんに質問させてください。
幕臣というのは江戸のどの辺に住んでるものなんですか?
産まれるのは自宅ですか?
34 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 08:43:00
>>33 神田とかあのへんじゃない?
高家今川家の屋敷もあったとか。
36 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 09:06:52
37 :
33:2009/08/01(土) 17:30:40
みなさんありがとうございます!
今ファンタジーの江戸が舞台のお話を書いてて、実際の江戸とまったく同じじゃなくて
いいんだけどある程度は本物の江戸っぽくしたかったんです。
地図も教えていただいてありがとうございました。
すごい助かります。
38 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 03:41:19
39 :
日本@名無史さん:2009/08/26(水) 06:27:36
質問
低家禄の旗本Aさんが勤め優秀で足高を受けて布衣役⇒諸太夫の高職についた
場合、鈴木○○守×× などと○○守と名乗ることができたが、その者が役を
降りて隠居した場合、その者は死ぬまでその○○守を名乗ることができたので
しょうか。
低家禄の高職者が役を降りた場合は、属人的に小普請入りせず、寄合入り
(役寄合)したらしいですが・・・
隠居したものは、○翁など隠居号を名乗る例だから(≒出家も同然)
官名とかは無関係になるよ
でも墓石には、前×州太守○翁居士とか書くよ
42 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 06:09:05
43 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 07:32:58
>>39>>40 武家が隠居後に号を名乗るのはケース・バイ・ケースで、
隠居後も守名乗りを続けている場合もある。
守は官名とはいいつつ、江戸時代の武家では名前みたいな扱いだし。
44 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 15:41:21
質問なんだけど旗本が別の旗本の領地に住むってありえる?
45 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 17:34:56
旗本は原則、江戸居住を義務づけられてるから、それはない。
ただし、別の旗本の屋敷の中に住んでるやつはいた。
>>41 モノホンの旗本がこんな自伝を書いたのか それも勝海舟のオヤジで江戸弁
あと御家人とか旗本とか実名でワンサカ出てきてこのスレにピッタシ
47 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 21:39:19
>>41 意外だな
末期養子が認められなかったのは大名だけの話か
48 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 21:57:16
それと系図を見て思ったんだが男谷家の
新次郎と平蔵は兄弟で平蔵の息子彦四朗と新次郎の娘遊が結婚(いとこ同士)
その2人の間に生まれた娘の鶴はかなり血が濃いと思うが
鶴は新次郎の息子忠之丞の息子である精一郎と結婚(これもいとこ同士)
それでちゃんと4人の男子が生まれてるんだねえ
49 :
日本@名無史さん:2009/08/29(土) 00:48:14
百人町鉄炮祭り行くやついる?
>>48 精一郎って男谷下総守信友のことですよね。
Wikiなんかには男谷新次郎信連の子って書いてあるけど違うの?
見た系図ってどこにありますか、教えてください。
51 :
日本@名無史さん:2009/08/29(土) 10:48:52
52 :
日本@名無史さん:2009/08/29(土) 14:35:08
53 :
日本@名無史さん:2009/08/29(土) 22:28:38
御家人斬九郎って西尾松平氏の家系らしいのに
旗本じゃなく御家人なんだ?
フィクションだけどさ
フィクションはさておき,松平姓の御家人っていなかったのかな?
江戸時代の旗本や御家人が役に就くには、現代日本の公務員みたいに採用試験をしていたのですか?
57 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 10:42:02
旗本は何故幕末に幕府を守れなかったのですか?
旗本=幕府警備員は、今で言う自宅警備員と共通する無駄飯し食い最終消耗品だったのでしょうか。
58 :
50です:2009/08/30(日) 18:47:39
>>52 41の
>>17だったんですね。
>>53 ありがとう。この系図すごい細かいので、男谷下総守信友は忠之丞の息子が正しそう。
Wikiの新次郎息子説は間違いなんでしょうね、多分。
59 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 20:17:58
御家人って 徳川家康が石田三成と、関が原の戦いで天下を争った時には
弓、槍、鉄砲を扱って実際に戦闘していた、足軽でしょ。
その後、徳川が天下を取って、しだいに戦闘がなくなっていったので
身分としては御家人と名称を変え、職名としては与力、同心になったのでは
ないだろうか。
( 足軽の小頭が与力、足軽が同心 )
60 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 20:21:29
61 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 20:37:30
>>60 足軽は諸藩が率いてましたよ
徳川家には、足軽はいなかったの?
関が原の時は、江戸幕府はまだなかったから、形の上では徳川は豊臣家の
家臣で、「 諸藩 」の一つ。
62 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 20:37:41
>>60 だから〜
関ヶ原の時点の徳川家は諸侯だろがw
64 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 20:46:37
親玉が出世すれば下賎な身分の者共も分不相応に処遇される。
65 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 20:53:51
四天王、譜代藩は家老・侍大将クラスで旗本は馬廻衆か侍衆クラスで与力・同心は徒士以下の足軽クラスでしょ?
66 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:00:52
実際、毛利家・上杉家の家老クラスは諸侯並の実力を持ってた訳だし。
67 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:19:06
関が原当時の徳川家の軍役はそのまま幕府の軍役になってるよ
69 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 22:09:24
>>57 よく言われるように、清朝の旗人同様に貴族化・高等遊民化してたのが大きいな。
「貴族」と言ったらオーバーかもしれんが、江戸のような大消費都市で遊惰な生活送ってたら、
いまさら戦国時代の三河武士みたいな心境や生活にはもどれんだろ。
70 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 22:21:36
>>57 岡っ引き は 町人だよ
岡っ引き=警備員は非武士だから
刀を持つことができない。
従って 十手と先又などしかもてない。
現代の警備員もサービス業会だし
町人ですから
71 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 23:10:18
御家人斬九郎みたいな人ってほんとにいたの? 親類なのに御目見え以下って…
この話に出てくる大久保本家って御家人なのかな?
江戸時代の中頃に、三河から出てきた大久保氏という武士が三百戸以上あった。
その中には小田原の殿様烏山の殿様など、大名になった大久保家も数家あって、
其本家はたつた二百石取りの、大久保新八郎とかいう御家人であったが、
しかもこの一門は珍しく律儀で、始終交際して本家を敬つて居た。
たとえば大名の大久保で代替りの跡目相を立てるにも、
必ず本家に申し出て承認を受けた上でないと、外部には披露しなかったと伝えられる。
柳田邦男 家閑談
訂正 国男
74 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 00:16:52
200石あるのに知行ないのか。
75 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 00:34:32
すまん勘違いした
76 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 01:34:56
目見以上・目見以下すべての幕士の総称として御家人と呼ぶ場合多いよ
77 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 12:15:37
>>67 足軽は徳川家中の陪臣だよ
ソースはあるの? それとも、自分の思い込みなのかな。
陪臣というと例えばどっかの旗本の家臣なのかな。
なにか、足軽と 中間や小者をいっしょくたにしてないかな?
旗本は軍役に応じた人数の押し足軽、鉄炮足軽などを抱えているからね
もちろん中間小者も雇ってるし侍、徒士や若党もいるけど
79 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 16:16:57
伊賀やら甲賀の鉄砲組やら同心あたりが幕府の足軽なんかねぇ
80 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 19:56:53
鉄炮組同心とかは将軍家の直参だから足軽とは違うね
幕府の御家人に足軽はいないし、足軽といえば大名や旗本が抱えてるその名も足軽だよ
なんか映画やドラマの合戦シーンでよくある足軽主体の集団戦のイメージが強いのかな?
呼称こそ同心だが実際に足軽扱いだったのは八王子千人同心くらいだね
八王子千人同心は御家人じゃないけどな
81 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 20:54:27
>>80 幕府の御家人に足軽はいないし
徳川家康が抱えていた足軽は、関ヶ原で石田三成方と戦った以後
つまり、幕府を開いた以後はどうなったの?
82 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 21:01:38
徳川家康って直接足軽を召抱えていたの?
83 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 22:45:52
>>80八王子千人同心はいわゆる郷士みたいなもんだろ。
同心あたりはまさに足軽じゃないのか。
84 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 23:52:43
足軽スレでなく旗本、御家人スレに戻してくれ。
親馬鹿小泉のおかげで年収がとんでもない事になったが、
旗本、御家人で最低家禄だった貧乏幕臣チャンプは誰?
さあ、みんなで探してみよう。
85 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 01:44:17
>>81 徴兵されてた農民は、農民に戻り、
専業戦闘員だった人員は武士階級の下のほうへ。
86 :
ねこ:2009/09/02(水) 01:44:44
87 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 07:07:32
元紀州藩士
御庭番家筋17家(のち22家)について
村垣、梶野、川村など幕末の優秀な官僚(諸太夫役など)が輩出されたが
あくまで、御庭番家筋の家として維新にいたった・・・
88 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 07:14:25
『大坂町奉行所異聞』では、与力は200石の家来を常備する義務を持った侍身分で、一人でなく一騎と数えられたとある。
ただし、出身は旗本常備軍に編成される足軽。
与力という名前は、直臣であることを示しているけど。地方支配が進むに従って、例えば小泉藩片桐氏についていた与力
同心が問題を起こして懲罰的に陪臣にされたなどのケースがあり、足軽にも直臣のものがいたことがわかる。
90 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 08:20:14
>>89 与力の出身は足軽で、江戸幕府ができたことでそれまで陪臣だった家臣が譜代大名になったのと
同じように騎馬の侍身分になった。
91 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 10:50:34
92 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 11:11:14
>>91 こっちは一応論文に提示されている具体例を述べているんで、反論するなら
もう少し客観的な話をしてくれたまえ。
93 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 11:43:33
その論文の与力が足軽出身である事を示した箇所の抜粋とその根拠になる史料を書いてくれ〜
94 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 12:04:43
大阪町奉行所与力といえば大塩だけど大塩家は小田原合戦当時すでに足軽じゃないよね
95 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 13:17:28
江戸期以後の足軽
安土桃山から慶長の末にかけて爆発的に増加した足軽組織は、平和な時代の到来と
ともに再編成への道をたどった。
軍夫・夫丸などの戦闘補助員は、もともと徴用された百姓身分であったからスムー
ズに帰農するケースが多かったが、問題は純戦闘員であり鉄砲・長柄・弓といった専
門職の足軽だった。
徳川家では彼らを「御先手」などと称し、各種の役職の下に附属させた。平時の行
政機関に組み入れて、その雑用をまかせたのである。
彼らは組頭・小頭・組下という名称から、与力・同心といった役名に変化した。こ
れは古く武田家や後北条氏でも行われていた呼び名で、与力は「与騎」と書く場合も
ある。室町期の「寄親・寄子」制の名残りとも言うべきものだった。
96 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 13:37:25
寄親である与力が騎乗を許され、配下の同心が徒歩であるところも似ている。彼ら
は、武具の各奉行、江戸城や駿府・大坂の定番、船手や町奉行所、留守居など約五十
近くの役所に詰めて、その下役と化したのである。
幕府では通常、将軍に御目見できる者を旗本。それ以下の者は御家人として、百石
以下の蔵米を俸給にしていた。各役所の与力は通常八十石(御切米約二百俵から百三
十俵)、同心は三十俵二人扶持から十五俵二人扶持を貰うので、まさにこの中にあて
はまる。しかし何事にも例外はあり、将軍直属の足軽である「御徒士」の一部と「御
小十人組」は、最下級の御目見格を有していた。
97 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 14:03:38
彼らは軍陣に揃いの軍装で出陣する。それらは自弁ではなく、普段は武具専門の奉
行が保管している。御徒士は派手な金箔押軍配団扇の合印をつけた緋羅紗陣羽織に朱
の具足。御小十人組も金の輪貫の前立をつけた兜に、朱の胴をつけ、袖と脛当だけ装
着しない。合戦が始まると、将軍の近辺を警護し、時には命じられて物見にも出るか
ら、腕自慢の者も多く、前者は七十俵五人扶持、後者は平均百俵の切米を貰っていた。
士分としてはぎりぎりの収入で、しかも、御小十人組の場合、この下に足軽である
与力・同心が附属する。
なお、御徒士でも、先祖代々仕えた御譜代席の者以外は、「御抱え席」と言い、
一代限りの臨時抱えが決まりであった。もっとも、この制度は一人が役職を離れる時、
その子か縁者が跡目推挙を受けるので、事実上は世襲と変わりがない。しかし、表
向き一代限りの臨時職というあたり、下級の与力・同心は、戦国期のお雇い雑兵と
まるで同じ扱いであった。
雑兵足軽たちの戦い 東郷 隆 講談社文庫
98 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 20:29:10
>>96>>97 突っ込みどころ満載だなw
Wikipediaとか一般刊行書籍を疑いもなく検証もなしに真に受けて鵜呑みにするというのは恐ろしいことだね。
まあ検証するほどの知恵も知識もないんだろうな。
100 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 21:22:42
旗本の最高職は御側御用取次と大留守居のどっちですか?
101 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 06:23:09
大概順では
1高家 職禄1500石高 雁間詰め
2御側衆 職禄5000石高 −
3駿府御城代 持高,御役地2000石 雁間詰め
4伏見奉行 持高,御役料3000俵 芙蓉間詰め
5御留守居 職禄5000石高 芙蓉間詰め
6大御番頭
7御書院番頭
8御小姓組番頭
9林大学頭
10田安殿家老
・
・
・
102 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 06:45:04
>>99おみゃーの頭の中にはCPという発想は無いのか?ネットっていうのはCPを突き詰めた結果信頼性が等閑にされてる
当時の記録が重要なんじゃないか?
105 :
58:2009/09/04(金) 19:33:16
>>98 ありがとう。幕末の剣聖といわれた男谷下総守に興味あったので、教えてもらったサイトで
忠之丞の子と判明しスッキリした。
"男谷" "精一郎" "忠之丞" で検索すると20件強しか出ないが、「忠之丞の子」と正しい。
"男谷" "精一郎" "新次郎" で検索すると100件以上出るが、「新次郎の子」としていて、
明治19年の人名辞書の誤記を120年以上も引きずってるんだ。
ネットとか検索とかうんざりだわ
一次史料っていうので語れよ
107 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 21:25:30
失せろブヨ。
108 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 21:35:29
与力が足軽とは飛躍しすぎだわな
>>106素人が一次資料に当たれる沸けないだろうに。本字点で2次3次でまたまた編纂側の勘違い誤植等キリがない
で、結局徳川家の足軽はどうなったの
111 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 14:42:25
明治になってキリスト教伝道者となった原胤昭という人は若い時、南町奉行所与力で
あった頃の事を振り返り、こう語っている。
「与力は南北(奉行所)互いに二十五人ずつ。その下に同心百三十人ずつ。(中略)
何しろ江戸八百八街をわずかこれだけの人間で取り鎮めて行くのだからえらい権力が
あった。『与力、相撲に火消しの頭』と江戸三男の筆頭に唄われた。」(『戊辰物語』)
こうした治安担当の下級役人にも軍役がちゃんと割り振られている。
「俗にいう『八丁堀の旦那衆』の勢いは大したものだが(中略)いざ戦争という時に
は馬へのって出陣する役向きでありながら、幕末にはもう満足に馬へ乗れる与力さえ
少なくなって、具足を着て馬へのったら一歩も出ぬ中にすべり落ちたなどという話が
残っている。」(同右)
これがその昔、多くの敵を震えあがらせた太田道灌以来の騎馬足軽の系譜につながる
人々とは思えぬ、堕落ぶりであった。普段、町で威張り返っている与力がこんな
風だから、同心も似たようなものだ。
112 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 15:06:43
幕府が長州征伐に出陣した折、町奉行所にも動員がかかった。ある女性が、顔馴染みの
同心も出陣すると聞き、見送りに出たが、行列の中に一向その姿が見つからない。
よく観察していると、同心はみすぼらしい足軽の姿で従っている。その時になって
彼女は、日頃、旦那と呼ばれ羽織に着流し、粋でかためた御役人の本当の身分を
知って、がっかりしたという。
『新東鑑』等の軍器詳細図には、奉行所与力は兜付の御貸具足に二幅の背旗。
同心は陣笠に足軽胴、帯の背へ一幅巾の腰旗を斜めに差し、槍または銃器を持っている。
前述の原胤昭が記念に撮った写真の中にも、奉行所の旗印が写っていて、ひとつは
乳の付いた「ぎぼし」の旗。もうひとつは縫含で、「南」の一字を書いた、
ともに大型の四半旗であることがわかる。
雑兵足軽たちの戦い 東郷 隆 講談社文庫
113 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 07:21:50
>>101 4伏見奉行
と
6大御番頭
は譜代大名からも選任された重職ですね。
114 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 08:33:04
秋葉原周辺を歩いていたら茶坊主の屋敷跡みたいな標識があったが茶坊主は旗本?御家人?軍役はあるの?
115 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 11:38:36
旗本用水奉行小泉次大夫吉次の子孫は東京都北区西ヶ原に住んでいます。
千葉市花見川区検見川町の小泉さんも。
116 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 15:42:01
交代寄合ですが田舎の豪族が多いと聞きますがどの程度の豪族から採用なんでしょうか?
某中部地方ですが郡下一の名門家は天領であったため只の庄屋へ。隣の国では在地代官へ
118 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 18:01:51
交代寄合でも表御礼衆は織豊政権時代の大名や江戸幕府の大名の分家などが主だから、四衆のことを言ってるんだろうな。
那須・美濃・伊那・三河の4箇所で、家康が特別の格式を認めたそれぞれ数家ずつだけが選ばれている。小笠原一族の中でも
名族とされる伊豆木小笠原氏とか、美濃の水行奉行を仰せつかった高木氏の三家とか。
郡下一程度なら、庄屋か惣代庄屋程度が相応だろう。
旗本と村方役人の庄屋は待遇に天と地ほどの開きがある。とは言っても、家康が幕府を開いた段階で知行をニ、三百石ほども
認められていれば旗本、どれだけ知行があろうと帰農して領主を頂くほうを選択すれば庄屋だった。大庄屋は天領にもあったが
のち廃止されて惣代庄屋が置かれている。在地代官は天領では皆無、というか幕初に旗本として取り立てられて代官業務を
行っている。旗本知行地では在地代官の実例が多い。
119 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 20:39:06
庄屋そのまま先祖も農民です。
役人ではなく農村の町内会会長ぐらい
120 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 06:09:05
◇交代寄合表御礼衆20家
松平家の一門・譜代
○三河新城7000石 菅沼家
○下総飯笹6000石 松平(久松)家
○三河西郡4500石 松平(竹谷)家
○駿河久能1800石 榊原家
○遠江気賀3459石 近藤家
旧織田・豊臣系
○出羽矢島8000石 生駒家
○備中撫川5000石 戸川家
○美濃岩手5000石 竹中家
○大和田原本5000石 平野家
中世以来の豪族
○常陸志筑8000石 本堂家
○近江朽木4770石 朽木家
旧守護大名系
○但馬村岡6700石 山名家
○近江大森5000石 最上家
大名の分家・一族
○越前白崎3000石 金森家
○陸奥横田5000石 溝口家
○豊後立石5000石 木下家
○備中成羽5000石 山崎家
○肥前富江3000石 五島家
○日向飫肥2000石 伊東家
○播磨福本6000石 松平(池田)家
121 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 09:12:02
>>119 庄屋は村方役人。帰農した武士がかつての家臣団を従えたまま土着するケースも多い。
江戸期には基本的に村方の自治を領主が村方役人に一任する傾向が強いために、
もと在地土豪の館は堀を巡らし、蔵や塀などで堀べりを固めた重厚なつくりであることも
珍しくない。屋敷のつくりは領主が命じた格式に則るが、比較的高い格式が認められることも
ままある。
武士ではないから藩政機構には組み入れられず、江戸後期以降には財政改革などの際に
下士から中士程度の待遇で召抱えられてことに当たる場合があった。
大庄屋は領主の方針にもよるが置いていた領主も多い。天領では中途で廃止。10か村から
数十か村程度を束ねる立場で、あくまで村方役人ながら村方における権勢は最上級。
領主によっては、旗本領や藩飛地領などの領主在所からの遠隔地域の場合には、大庄屋や
有力庄屋を在地代官に任命して藩政機構に組み込み年貢取立てなどを行うことがあった。
関西系は庄屋はずーと庄屋で分家が武士になるパターンが多い気が(ソースは無い)この場合は大規模農家って感じ
関東系は農家自体が武装化傾向が強い(江戸期も含めて)、まあ鎌倉幕府成立の傾向のごとく武士でしょ(侍ではない)
中部系東海系九州系は土地持ちはほぼ武士。戦国期戦の多い地域だったから当然。ただ東海系は商人のイメージも
異論は多いと思う
江戸期の武士なんてほとんど三河美濃の農民上がりだろ?
123 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 13:45:21
畿内でも帰農した武士は多い。土豪クラスの小競り合いで大勢力が出来にくいから柳生程度の勢力が乱立していた。
奈良県域なら大和武士と呼ばれているけどね。また、機内では商品経済の浸透のために経済的影響で旧家は
他地域と比べて零落しやすかった。近畿で江戸初期と中期以降で村方役人層が大幅に入れ替わっているのはこのため。
>>123なるほど、そういうのって地元じゃないと分かりにくいからね。畿内の人ですか?
長野だと武田旧臣(人によっては小さな同盟者と言う人もいるが)が元禄にかけて新田開発をして名主になっている。田舎だからほぼ固定
≫117にあるけど。長野にも信濃源氏の血統を確実に持った家があるけど名主だね。旗本になるってのはよっぽどの格式が無いとだめなのか?
125 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 16:10:02
格式でなく徳川家との縁。徳川が家臣に取り立てたかどうかが大きい。
126 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 17:17:49
信州の場合は、家康と度重なる攻防を繰り広げた地域だから、敵対の度合いが低く、
家臣として取り立ててメリットのある軍事力を持っていたかどうかが分かれ目だろう。
127 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 17:56:14
>>118 あなたは詳しそうですね。
私が調べている某村は幕府と旗本領の相給で、名主が数人いる状態だった。
それで天領を管理する人は名主ではなく旗本だった?みたいで、在地領主的旗本のようなものだとか。
最初聞いたときは本当かよとおもいましたが、なんかありえそうな感じですね・・
こういうことはありえますか?
128 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 18:44:31
世襲在地代官が自家の知行地とは別に代官業務で近隣の天領のいくつかの村を支配していたのであれば
そのケースに近い。近江国の多羅尾氏や、京代官の小堀氏、角倉氏、木村氏、韮山代官江川氏などが
これに相当する。幕初に多かった世襲代官も、幕政改革で腐敗を追及されて多数が処分されて一部のみが
残った。
ただし、村は領主と村方役人の二重支配構造になっているため、名主の代わりに旗本ということは、異なる
階層のため考えられない。たとえば旗本知行地に地方役人を昇格させて在地代官として取り立てる場合で
さえ、別途庄屋・名主が指定されて業務分担を行った。ましてや幕藩体制では幕府代官は旗本、旗本領の
在地代官はようやく士分として認められている陪臣だから、格が違う。
「天領を管理」の実際が不明瞭のため、この程度の一般論でしか返答不能。
129 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 19:00:08
補足。
領主:幕府、大名、旗本、天皇・皇族・公家、寺院・神社など
村方役人:庄屋(名主)・年寄・百姓代の村方三役。地域や領主により大庄屋・中庄屋が置かれるケースあり。各役の呼称は
地域性の影響が強い。
領主が幕府の場合、地方支配は代官所の代官が行う場合と、預かり地として大名に支配を任せる場合があった。また、多くの藩や
旗本知行地では、代官(大藩では通常郡奉行などの指揮に従い、手代数人を指揮下に置く)が派遣されるか、村方有力者から
抜擢されて、大庄屋や庄屋に対して直接の命令を下す。数百石程度の小領の場合には代官が数か村を束ねる必要がないため、
村方役人に直接年貢献納等の業務をさせる場合も多かった。
>>121庄屋屋敷の格式ってのはどういうもんですか?土地の広さや長屋門?
旗本屋敷ってのも細かく規定されてたの?
131 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 20:24:46
庄屋て町人です。
132 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 20:29:49
>>131 町に住んでいないのに町人のわけがない。町方と在方は江戸時代には区別されていた。
133 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 20:45:14
>>130 領主によって違うし、領主からどの程度の格式を認められた庄屋かによっても違う。
実例を色々と見てきたところでは、長屋門がある場合も多いようだ。門構えが格式の一番の要素だとはよく聞くね。
旗本屋敷は江戸の拝領屋敷だから広さは決まっているけど、大名以下、やはり門構えなども細かく決まっていた。
ただ、格式というのも厄介なもので、百姓個人の家を支配する領主からの格式と、他領や幕府から与えられた
格式が食い違う場合がある。百姓個人は場合場合でそれぞれの格式にふさわしい服装や振る舞いをしなくてはならない。
幕府からは士分待遇を受け、領主である藩からは大庄屋(すなわち百姓身分、ただし苗字帯刀)筆頭の待遇を受けた
家という実例もある。
134 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 21:03:37
庄屋は豪勢に農村部地区に住んでいた。
庄屋農民だよ
大本の身分の括りでは,庄屋も百姓身分。
人別帳で管理される被支配階級。
格式云々って言っても,所詮は被支配階級内での序列。
それも支配する側が,懐柔するための手段として与えたもの。
136 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 23:49:09
大都市だが近所に史跡に指定されている長屋門がある
母屋は古民家を保存展示してる施設に移築された
この家は名主だったそうで当主は県会議員(衆議院2度立候補)
近くの古刹の副住職が経営する不動産屋が傾いて寺地の一部を売った時
寄進した寺地は檀家のものだと裁判を起こして勝訴した
137 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:50:15
寺地は檀家のものだろ。
住職個人のもののわけがない。
居住分だけが主張できる。
寺は村落の公共地だよ。
宗教法人には檀家総代が役員として名を連ねているはず。
ちなみに宗教法人は寺の数だけ存在する。本山だけではない。
繋がりとしては檀家の方が強い。
知人の、やはり裕福な寺の奥さんだけど
一応は「寺はお預かりしているもの」って言ってるもんなー。
139 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 02:46:46
歴史が好きで九州のそれなりの由緒ある神社に行った時
宮司が不在で奥さんと少し話したけど
東京から来たと言ったら大喜びで昔話とかしてくれたな
大神社の宮司家ってやっぱりそれなりの格同士で結婚するみたいで
そこの奥さんは東京から仕方なく九州の田舎に行ったような
今レスを見て話をぶり返してしまうが、徳川幕府の与力の
先祖が足軽というのはトンデモ話だよ。
その家によっては先祖が足軽だったところもあっただろうが、
大半の先祖は徒以上。徒は最下級とはいえ足軽と違い侍だったから、
その末裔たる与力は更に騎乗身分になれたわけ。
同心の先祖は先手組だったかもしれんが、それは俺にはわからん。
火付け盗賊改め方長官って御先手組頭って聞いたけどそう?
142 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 08:41:12
御先手組の出役だよ
>>140 町奉行所与力だと小田原北条氏の遺臣や那須衆が多い
もちろん足軽などではない
144 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 13:51:29
北条の遺臣は領知を取り上げられている以上、再仕官で元の待遇を受けられるはずがない。
恐らく、与力が足軽か否かという話は、例えば足軽組頭を士分と見るか、カシラといえど足軽の代表に
過ぎないと見るかといった、主観的判断で人によって分類が異なる事例を水掛け論的に応酬しているに
過ぎないのではないか。
145 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 14:41:55
元の待遇?何言ってんだ?
足軽は足軽で与力は与力だよ
146 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 14:43:57
147 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 14:53:21
大坂町奉行所与力なら200石高。軍役一騎五人。
つーかスレで語られたことすら把握せずに突っ込んできてる奴がいるんじゃないのか。
148 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 15:06:21
もしかして、織田信長など戦国大名が行っていた与力・寄騎と混同して「柴田勝家の寄騎の前田利家や
佐々成政が足軽って常識以前のアホだろ」とか思ってるようなアホまで混じってたりはしないかね。
>>143 サンクス。
>>144 後北条旧臣たちは分相応に召し抱えられた者が多いと聞くよ?
特に小田原よりも多かった江戸城詰めの江戸衆。
150 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 15:24:40
一騎二騎と騎で数えられる足軽がいるかよw
町奉行所には同心とは別に足軽がいるんだし
152 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 21:21:01
153 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 21:29:16
足軽小頭がのちの与力。その上の足軽大将までいけば明らかに士分なんだけどね。
グレーゾーンだから、時代の遷移を無視して無造作に語るのも齟齬が生じる元になるだろう。
154 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 21:47:51
ちなみに小十人番士は旗本ながら騎乗は許されず、禄高も低い。御家人の与力同心などとともに
グレーゾーンに位置した直臣が、時代の変化とともに御目見得と知行禄高との待遇でそれぞれ
倒錯してしまった例だ。
騎乗すれば足軽でないという基準なら、与力は与力として扱われている時点で足軽ではないのだろう。
与力が出自そのままの待遇でないことは、上で、もと徒士だったと言っている人もいるから異論はないの
だろう。だからこそ、その線引きがどの程度一般性を持つかは一筋縄では行かない問題なんだけどね。
『大坂町奉行所異聞』では、下のように書いている。この箇所に引用文献はついてないけど。
与力は騎馬同心とも称されるが、知行高二〇〇石の家来を常に常備しなければならない
侍身分である。出身は旗本常備軍に編成される歩兵・足軽であった。(以下略)
>>153 >足軽小頭がのちの与力
これのソースあります?徳川氏関係の史料で見たこと無いんだが?
157 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 22:47:20
>>139 宮司とか元武家とか貴族とか縁者多いよな。元武家子孫とか住職とか多いし。
豊臣秀吉のブレイン黒田勘兵衛後々出家し黒田如水と名乗り関ヶ原で抜けた間に九州攻めてたし島津氏の領地行く寸前に家康から書状が届き九州攻め失敗。徳川家康のブレイン住職だったしな。
関ヶ原でも家康の横に甲冑をきて武装した住職が座って采配していたよな。
家康の親戚や縁者住職多い。
会津藩主の松平容保は日光東照宮の宮司になったし
158 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 22:51:31
江戸時代以前から公家やら武家やら身分なら政略結婚多い。
幕末以前から朝廷やら公家やら武家やら婚儀されていたからな。
身分高い人達は縁者が多いよ。
160 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:00:34
山内一豊と千代か
菩提寺が妙心寺だよ〜ん
161 :
豚松 ◆4FfyOtW0fiF5 :2009/09/10(木) 23:01:27
>>150 読んだけど幕府の御徒組って足軽なの?
普通の藩では徒は足軽より上で明確に区別されていたのだが。
小十人組にしても他藩の扈従組(小姓組)に該当するはずで
他藩では上士下位ないし中士のはずなのだが、幕府のそれらは
身分と職制が(少なくとも俺の頭ん中で)こんがらがって
複雑・・・
キモオタ系の危険な方向へと迷走中の鷲宮神社だが
ここの旧神主家は旗本との姻戚関係が深い
163 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:03:03
住職wwwww
土佐藩の武士身分序列
家老
中老
馬廻
扈従組
留守居組(職制の留守居役とは全く別で他藩の中扈従組に相当)
白札
郷士御用人
郷士
用人
徒
足軽
大庄屋
庄屋
地下浪人
土佐の事情から大庄屋や庄屋も山内家来・藩士という点は
特殊だが、他はいたってシンプル。
彦根藩や加賀藩の身分制度もシンプル。
長州藩はかなり複雑。
165 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:24:18
長州って複雑なの?
毛利家臣団の基本格ってこんな感じだよな?
一門六家
永代家老二家
寄組
大組
船手組
遠近附
寺社組
鷹匠・鵜匠
無給通
船頭
膳夫
江戸徒士
地徒士
三十人通
陣僧
大坂船頭
士雇
足軽
166 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:29:17
各地 藩体制によって身分は様々だよね。
土佐藩は身分に1番厳しい藩だったからね。
何故かって
よそ者の山内家配下になり
身分が厳しいさを増した。
167 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:34:48
>
土佐藩は身分に1番厳しい藩だったからね。
168 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:35:34
>土佐藩は身分に1番厳しい藩だったからね。
一番?どこも似たり寄ったりだと思うけど?
169 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:37:06
一番厳しかったのは薩摩じゃない?
鎌倉以降ずっと島津だけど、薩摩ほど侍が威張り散らしていた藩もない。
侍の中でも城下士と郷士の間の階級差別は凄まじかったらしい。
170 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:39:51
各藩体制だよ地方分権とかわらない。
序列や身分様々です。学位とか世襲とか藩により
171 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:40:13
今の高校生に、昔 日本とアメリカは戦争したことが有った というと
え うそ! それで どっちが勝ったんですか と
とてもビックリする人が 結構居ると聞いたことがある。
64年前のことでこれだから、141年前のことでは、判らなくても 当然か。
それぞれが 自分の思い込み 刷り込みで色々なことを言っている。
断片的な知識ではなくて、いま少し系統だった史実を語ってくれる、
神の降臨を 待ち望んでいます。
172 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:42:41
土佐藩は城近くに住む上士や郷士
と土佐は身分差が厳しいよ。
今の高校生にとってこの前の戦争というと、イラク戦争か湾岸戦争のことです。
ただ、京都では応仁の乱らしいです。
174 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 00:38:52
175 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 00:58:16
>>173 大津では「この前の戦争」って壬申の乱のことだって知ってた?
>>172 事実、土佐の郷士は高知城下町にも多く住んでいたよ。
ただし、郷士御用人から下は酷い差別を受けていたのは事実。
薩摩も相当酷かったらしいが。
まっ、それを言えば、長州も会津も阿波も差別が厳しかったけど。
だけど、俺は差別のことを言っているわけじゃなくて、
身分が長州藩みたいに細かかったり、(少なくとも俺の頭では)
幕臣身分みたいに他藩のそれと比較し難いとややっこしい。
事実、土佐の郷士は高知城下にもって言い方は間違い。
実際は、だな。
>>165 うん、そんなところだし、それでも俺には十分細かく思えるが、
俺が萩・山口で調べた時には更に細かく分類されていた。
時代にもよるのだろうけどね。
細かさよりかも見慣れぬ名称が多くて驚いた。
さらに驚いたのは会津。
中士(寄合)身分がやたらと多いのだけど、それがまた細かいは、
聞いたこともない名称だはでわけがわからんかったよ。
179 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 02:34:25
なんで下級武士論的な話題になると決まって土佐山内家の話になるんだろう
ここは旗本御家人だのに
>>179 済まん。少なくとも今回は俺が(自分ではわかりやすいと
思っている)土佐藩の身分制度を持ち出したことが原因。
ヒント
司馬遼太郎の悪影響
182 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 06:26:18
>>169 劇画の薩摩義士伝は必読だな。冒頭のひえもんとりは薩摩武士の残忍さを遺憾なく表現しきっている。
中途打ち切りなのが残念でならない。
183 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 06:48:14
>>161 幕府は急速に膨張した組織だから、逆に圧縮を受けた大藩と比較しても意味がない。
だから時期による変化が重要だと言ってる。
幕府の扈従組は、大身旗本でさえ襖の開け閉め程度の仕事だったりするからな。側用人も
小姓のようなものだし。
小十人は扈従人の文字を変えただけの言葉だけど、将軍親衛隊の歩兵、すなわち足軽。
ただし御目見得資格がないと側についていられないから旗本ということらしい。
184 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 06:55:47
尿筒を扱う公人朝夕人やらは御家人だったとかいう小説を見たことがあるけど、wikiでは中間とある。
襖の開け閉めとそれほど違いがあるのやら。御殿に上がって業務を行うか否かが分かれ目か?
185 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 07:55:42
歩兵=足軽?
なんでこうなるんだろ?
186 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 08:06:58
グレーゾーンだから、各個で実態にあたらなきゃならない。
wikiには徳川家で徒士組を編成したのは慶長八年とあるけど、それ以前はどうだったのやら。
187 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 09:07:17
なんでWikipedia?
徒士と足軽は明確に違うだろ
徳川氏の足軽は大名や旗本の家来なんだから
189 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 10:18:35
>>188 どうかお願いだから引っ掻き回さないで欲しい。
多分ここでは、同心が足軽ってことに今のところ異論が出てなさそうだし。
190 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 11:00:29
徒士は同心じゃないよ
同心と足軽も違うよ
騎馬ではない徒武者や歩行を足軽だと思ってるの?
192 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 18:46:30
徒士は仮に足軽ではないとしても、武士(侍)とは言えないのは確かだな。
193 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 19:25:41
この種の問題は、時代による扱いの変化やら組織による違いやらを抜きにしては話ができないのに。
195 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 21:56:36
>>192 どこの家中でも徒士と諸足軽は別物
戦国時代だって徒士と足軽はちがう
戦国大名の家中では騎乗ではない小侍も給人として着到の義務などの軍役を課せられていた
徒士立ちの家来に宛てた「早く馬を飼えるだけの分限になれ」と励ます北条氏邦の書状は有名
江戸期の庄屋っ戦国期武士だった家多いといわれてるが、地侍は一応騎乗身分なの?
戦国期に足軽大将から感状貰ってるけど・・・
戦国時代なら、なおさら徒士は武士ではなかっただろ。
199 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 23:03:13
地侍のような武士の最下位でも「騎乗身分」。
地侍に雇われていた歩卒は武士ではないよ。
200 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 23:07:00
地侍幻想w
給地を与えられない地侍は大名の家臣ではない
ところで騎馬足軽ってなんだよw?
202 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 01:33:42
江戸では「ばかやろう」の上をいく罵倒語がある。「タコ」である。(中略)
子どもは辛辣だ。旗本の子どもたちは御家人の子どもたちをからかって「以下」という。
「お前たちは上様に謁見を許されない、御目見得以下の身分だ」ということだ。
御家人の子どもたちも黙っていない。学問所や剣術の道場の行き帰りに待ち伏せして、旗本の
子どもを「このタコ」と言い返すのである。「イカ」と言われれば「タコ」と言い返すしか
ないではないか。
それが転じて、身分の上の人をあざけって「タコ」「タコ野郎」というように
なり、江戸一般の罵倒語になっていったのである。
知って合点 江戸言葉 大野 敏明 文春新書
幕初から幕末まで累代ずっと無役・小普請だった家ってあるのかな?
代々御役に就いた家は結構多そうだけど・・・
204 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 06:42:59
>>203 寛政期の文書に、
御番入りに14−15年かかるようになって、一度御番入りに漏れると次回
には多年の年数がかかるようになった。芸術(武術)格別の人や、父の格別
の勤労のある倅は、4−5年くらいで御番入りできるようにする。
とあります。よほどの病弱者や問題のある人でない限り、中年までには番入り
するので、幕末まで病弱者や問題ある人が相続で続いていない限り、そのよう
な家はなかったのでは。
曖昧な答えですが・・
205 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 08:31:57
お役に就きたければ甲府勤番支配があるからな。
206 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 17:29:10
>>205 意味がわからないが甲府勤番支配は諸太夫(従五位下)の重職者
甲府勤番支配に擦り寄っても、御番入りは不可
小普請組支配(布衣)に賄賂等贈って懇願すれば推薦により御番入りも
かなったかもしれない。
1高家 職禄1500石高 雁間詰め
2御側衆 職禄5000石高 −
3駿府御城代 持高,御役地2000石 雁間詰め
4伏見奉行 持高,御役料3000俵 芙蓉間詰め
5御留守居 職禄5000石高 芙蓉間詰め
6大御番頭
7御書院番頭
8御小姓組番頭
9林大学頭
10田安殿家老
11一橋殿家老
12清水殿家老
13大目付
14(江戸)町奉行
15御勘定奉行
16御旗奉行
17御作事奉行
18御普請奉行
19小普請奉行
20甲府勤番支配 持高,御役地1000石 芙蓉間詰め
・
・
・
37小普請組支配 職禄3000石高 中之間詰め
207 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 19:11:37
すまん。甲府勤番の間違い。マムシの飼育係じゃなくてマムシのほう。
208 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 20:28:45
質問です。
江戸時代の武士もオナニーしてたのでしょうか。
それとも夢精の繰り返しだったのでしょうか。
池波正太郎「男振」で20歳になる主人公(童貞)が女の夢見てモンモンしてたんで気になりました。
もっとも遊び歩いてる武士もいたわけで、
自分でするより手頃な店か相手を捜す方が多いのでしょうが、
真面目な人やそれなりの家の次男三男は女を知らずに死ぬ場合もあるかと思います。
209 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 07:05:17
>>206 1高家・9林大学頭は世襲の家
別に他意はないけど
高家は世襲ではないだろ
家格としての高家と職制としての高家が別にあるということ?
非役の表高家のまま一生を終えた高家もたくさんいたからね
高家は林大学頭や半井・今大路の典薬頭のような世襲とは違うよ
旗本とかに仕えてる若衆って町人?
214 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 23:06:21
武家です
若党って一本差しじゃなかったっけ?
217 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 21:25:06
御家人の最下層は、帯刀不可の御六尺や御下男でしょうか。
若党でも二本指し
219 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 08:13:01
>>217 御家人と呼ばれていれば武士だろ。
似た業務でも、帯刀不可なら御家人扱いされないだろうに。
220 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 08:28:18
観世大夫や金春大夫のような能役者のトップは、御目見えを当然許されていただろうけど、
身分はどうなっていたのだろう。旗本ではなかったようだけど。
医師は旗本になっている家もあるのに役者は違ったのか。金春家なんて、柳生の新陰流
武術や宝蔵院流槍術の印可を受けた人間やら、将軍の家康秀忠に知行を受けたあとに
大坂方について城に入ってのち許された人もいるくらいなのに。
221 :
日本@名無史さん:2009/09/18(金) 17:56:43
176 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/08/03(月) 22:40:19
高禄の旗本の家の娘でも「お姫さま」とよぶこともあるのだが。
何でも画一的には断じられないよな。
177 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/08/04(火) 18:56:07
kwsk
>>176
>>221 大身旗本の娘だね<お姫様
他にはおひい様、お嬢様
店の商家の娘もお嬢様と呼んだ
223 :
日本@名無史さん:2009/09/19(土) 06:10:25
>>219 大概順の御目身以下(所謂御家人)の部の最後に「御六尺」「御下男」があり
将軍家の家臣ではあるものの、すべてが武士(姓名と帯刀?)とは限らない。
224 :
日本@名無史さん:2009/09/19(土) 07:18:11
そのような細部の話をするのに、当時の「御目身以下」の用例と現在の「御家人」の用例とを
同一とみなしてよいものだろうか。
225 :
日本@名無史さん:2009/09/19(土) 08:11:53
>>224 当時の「御目見以下」の用例とは?
現在の「御家人」の用例とは?
同一かどうか以前に意味がわからない
226 :
日本@名無史さん:2009/09/19(土) 08:17:14
用語の定義上の問題。今「御家人」と呼んでいる対象は、当時「御目見以下」と呼ばれていた対象と
そっくり一致するか否かという話。
227 :
日本@名無史さん:2009/09/19(土) 08:38:58
自己解決しますた。
228 :
日本@名無史さん:2009/09/19(土) 08:54:27
>>226 それを言っちゃうと旗本の定義も広義、狭義とあるしぃ
御家人もそうかもしれない。
このスレタイトルの説明での、「幕臣」も 将軍家の家臣のこと?
と、いろいろ解釈がありそう。
まっ、2chなんだから、ざぁーといきませう
229 :
日本@名無史さん:2009/09/19(土) 12:38:14
連歌衆は?
230 :
日本@名無史さん:2009/09/19(土) 13:30:50
河原者扱いとか?
やっぱ能役者とかもかな。旗本のリストには観世も金春その他も入っていない。金春には
知行も与えられているのに。
231 :
日本@名無史さん:2009/09/19(土) 13:46:52
連歌師筆頭は京都の里村氏百石二十人扶持(武鑑)や
下谷五條天神別当瀬川氏
根岸の住人阪氏
亀戸天神神主大鳥居氏
他に近国在住の神官僧侶らを連衆と呼び基本的に無禄
幕府主催の学問吟味で好成績を納めた武士は役人として採用されると聞いたのですが、この制度を利用すれば旗本・御家人の次男以下や浪人でも役に就けたのでしょうか?
それとも、役職に就けるのはあくまで幕臣の当主と嫡男だったのでしょうか?
233 :
日本@名無史さん:2009/09/19(土) 18:23:30
間宮林蔵
234 :
日本@名無史さん:2009/09/19(土) 19:05:00
福澤諭吉は旗本になったの?お雇いみたいなもの?
235 :
日本@名無史さん:2009/09/19(土) 22:28:44
御雇いだよ
236 :
日本@名無史さん:2009/09/20(日) 13:18:48
塙保次郎は旗本?
237 :
日本@名無史さん:2009/09/21(月) 22:48:21
松平(徳川)家の代々の附属の直参家臣のうち一部の有能な者は重臣の附属与力
として江戸期以降は陪臣化した例もある。また、豊臣系の外様大名にも目付け
役として派遣されそのまま、何代も経た後には他の家臣同様に陪臣化していっ
た者も多かったらしい。あの大久保彦左衛門も同属の本家の家臣として扱われ
ていたが本家の改易時に減封のうえ直参化が確定した。
御三家の附属家老と同様、苦渋をなめた家が多く存在していたのだろう。
聖子最強
928 名前:昔の名無しで出ています[sage] 投稿日:2009/09/21(月) 17:06:07 ID:???
岩崎家は東京で輸入材の社長やってる裕福な家庭
九州の片田舎の中流家庭を捨て娘の稼ぎ目立てにホイホイ出てきた爺婆とちがいます(娘のデビューに反対してたくせにね)
944 名前:昔の名無しで出ています[sage] 投稿日:2009/09/21(月) 18:06:06 ID:???
>>928 ああ、身分不要の成り上がり商人の家庭だから言動が卑しいのかw
952 名前:昔の名無しで出ています[age] 投稿日:2009/09/21(月) 20:22:01 ID:???
>>946 江戸どころか鎌倉時代まで遡る筑後屈指の大名の血筋。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E6%B1%A0%E6%B0%8F 世が世なら本物の聖子姫(^^)
で、聖子はそれをただの一度も自慢したことがない。←ココ大事
973 名前:昔の名無しで出ています[sage] 投稿日:2009/09/21(月) 23:05:13 ID:???
聖子ガマはコンプの塊だからねw
974 名前:昔の名無しで出ています[age] 投稿日:2009/09/21(月) 23:18:28 ID:???
>>972-3 アンチが自分のコンプを隠すのにガマだのレッテル貼って必死だなw
日本人なら出身や家系にはそれなりの敬意を払うよ。
アンチのおまいらって、本当に日本人なの?www
239 :
日本@名無史さん:2009/09/22(火) 07:50:55
≪旗本に成りきれなかった者達≫
桶狭間の戦いも終わり武田信玄との対立が始まった1570年頃に、家康直臣
武功の士90家が、徳川20将の一人である大須賀康高に与力として附属され、
徳川軍団を強固なものとして編成されていった。
その後、同じく古参の安藤直次に36家余りが附属替えとなり関が原を終え
江戸期に至っても附属のままで家臣化してしまう。
安藤家も徳川古参の家臣であり、通常では譜代大名となり幕政にかかわる家柄
にあったが、紀州徳川家の附家老として陪臣の家となってしまう。
ましてや、その安藤家の附属与力となった、36家は他の安藤家の家臣とは別格
を主張し「横須賀組与力」と名乗り尊大で威張った存在であったものの、陪々
臣であった。(幕末に運動をおこし紀州徳川家の家臣(陪臣)となる。)
241 :
日本@名無史さん:2009/09/23(水) 18:49:54
>>239 榊原家にも旗本に成りきれなかった家があった。「原田」「中根」「村上」がそれ
であり、幕初以前から附属与力として付けられ、いつの間にか陪臣化してしまった
が、特にこの三家は幕府より1000石、別途榊原家から2000石が給されていて、1月3日
には御目見が許された特殊な家でした。
242 :
日本@名無史さん:2009/09/26(土) 21:23:00
幕政に深く関与(文官)した重職(旗本役)とは
評定所の構成員となっていた、(老中・寺社奉行)「江戸町奉行」「勘定奉行」
「大目付」「目付」など
あと、武官の重職者としては、「駿府御城代」「三番頭」などがあった。
奥向きの御側御用取次や御側が旗本役では最重要ポストだと思うけどな
奥祐筆組頭、奥祐筆あたりの影響力も絶大だったと聞く
244 :
日本@名無史さん:2009/09/26(土) 22:32:26
245 :
日本@名無史さん:2009/09/27(日) 00:15:32
何が最重要かは時々の政策で変化する
>>239 千葉氏ってすごいよな。千葉六党のうち三つが江戸期まで大名で存続してるし、旗本・御三家臣になってるのもたくさん。
大須賀は幕初断絶しちゃったけど。
普通に大概順的にも、職務内容・待遇的にも御側衆が旗本役では最重要ポストだけどな。
幕政に深く関与という意味では、御側御用取次は未決案件について直接将軍に自分の意見も具申できる
わけだから、その影響力の大きさは計り知れない。時々の政策とは関係なく、将軍第一の側近という点が大きい。
駿府城代や大目付のような名誉職を挙げて、奥を取り仕切る御側衆を挙げないのは不自然。
248 :
日本@名無史さん:2009/09/27(日) 07:19:17
101 :日本@名無史さん:2009/09/04(金) 06:23:09
大概順では
1高家 職禄1500石高 雁間詰め
2御側衆 職禄5000石高 −
3駿府御城代 持高,御役地2000石 雁間詰め
4伏見奉行 持高,御役料3000俵 芙蓉間詰め
5御留守居 職禄5000石高 芙蓉間詰め
6大御番頭
7御書院番頭
8御小姓組番頭
9林大学頭
10田安殿家老
・
・
・
249 :
日本@名無史さん:2009/09/27(日) 10:26:03
格式は低いかもしれないが、祐筆や茶坊主に対する諸大名からの付け届けはかなりの額になった。
祐筆は内閣官房秘書官団みたいな集団だから、手伝い普請を逃れたい諸大名の留守居役から
すれば、老中に音物を贈るよりも、機密書類を毎日扱う祐筆や、噂を直ぐに聞きつける御坊主
から情報収集したほうが、早いし安上がりであった。
250 :
日本@名無史さん:2009/09/27(日) 12:59:39
>>249 奥右筆や表坊主の他に、長崎奉行は別として、「町与力」「町同心」「広敷(大奥)」
「賄」「細工」「台所」「納戸」が付け届けや役得のあった職のようだった。
251 :
日本@名無史さん:2009/09/27(日) 13:15:14
一番の役得ある職は浜御殿奉行だろう
広い御殿内で薬草栽培し放題、魚は獲り放題
千両箱がうなるほどある大金持ちで
咸臨丸も木村摂津守のポケットマネーで渡航したようなもの
252 :
日本@名無史さん:2009/09/27(日) 16:51:07
なるほど、そういうことか。
木村は咸臨丸渡米を軍役・合戦と同じと考え、
ならば代々の御禄から出すのが当然と私財を投げ打ったという美談として語るむきもあるが。
253 :
日本@名無史さん:2009/09/27(日) 19:41:53
役に立つことにお金を使う人がいるのは良いことだ。
254 :
日本@名無史さん:2009/09/27(日) 20:28:07
木村摂津守は福澤諭吉も私的な従者として連れていったんだな。
これものちの世のためになった。
なるほど、福沢諭吉は福翁自伝を読んでも木村摂津守に頼み込んで咸臨丸に乗せてもらい
帰国後は中津藩士から幕府召抱えになったという。
257 :
日本@名無史さん:2009/09/27(日) 20:43:21
川路左衛門尉聖
258 :
日本@名無史さん:2009/09/27(日) 22:06:49
誰か幕臣日下数馬について御教授願います。
小栗家から養子に入ったくらいしかわからないんですが
>>254 その前段として、将軍家慶のお声がかりで、芥舟の姉が桂川甫周に嫁いだ
という話があるね。
桂川家は当時貧乏で有名で、「あそこに娘をやる奴はおらん」と言われていた
そうだけれども、浜御殿で将軍家から「そちの娘を嫁がせよ。余が仲立ちじゃ」
と言われれば、木村家としても平伏して「有難き幸せ」と言う外ないし。
260 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 18:34:21
伊勢伊勢守って室町幕府に仕えていた家の系統?
261 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 18:54:06
>>259 そのお嬢様は片手で碁盤を持ち上げるほどの力持ち
しかも二段の腕前と書かれてるね
当時はプロとアマの違いなんかないし九段のインフレもなくて
八段以上がいない時もあったし家元で四段なんてこともあった時代
二段は今ならプロ六段、アマ名人級と言ってもいいだろう
262 :
日本@名無史さん:2009/09/30(水) 06:47:11
旗本屋敷は江戸府内の武家地全域に配されていたが、麹町・牛込・小石川・巣鴨・駒込・本所あたりに密集していたらしい。
大名小路といわれた大手前の一角にも林大学頭家の屋敷があった。
263 :
日本@名無史さん:2009/10/03(土) 06:42:08
>>250 奥右筆の職務には、「勝手掛」「仕置掛」「隠居家督掛」「縁組官位補任掛」「寺社掛」「証文掛」「外国掛」などに分かれていたらしく、特に「隠居家督掛」「縁組官位補任掛」なんかは、諸大名や旗本などから相当付け届けがあったそうな。
八丁堀の七不思議に「奥様あって殿様無し」というのがある。
町奉行所の与力は旗本のように殿様とは呼ばれず、御家人並みに旦那と呼ばれる。
一方、与力の妻は旗本並みに奥様と呼ばれる。
町奉行所与力の微妙な身分を表してるね。
旗本でも大身になると呼び方も違ってくるらしい
御前、御前様、殿様
>>222興味深い
266 :
日本@名無史さん:2009/10/03(土) 19:53:41
旗本は殿様じゃないの?
御前ってのは殿様よりも上?
交代寄合の最上氏は御屋形様だっけ。
旗本は殿様
大名は御前と呼ばれたそうだが
旗本も大身になると『御前様』と呼ぶ事もあるらしい
268 :
日本@名無史さん:2009/10/03(土) 20:36:48
福翁自伝の中にも、福沢諭吉が幕府の外国方に雇われて幕臣になったとき、
家の人間が福沢を「殿様」と呼ぼうとしたので、やめさせたという話があったな。
269 :
日本@名無史さん:2009/10/03(土) 21:02:19
270 :
日本@名無史さん:2009/10/03(土) 21:21:06
殿さまといいましょうかと女房いい
殿様と呼ばれたかった大田南畝
272 :
日本@名無史さん:2009/10/03(土) 22:24:52
南畝は徒組から脱した後も普通以上に勤功がありやがて旗本になると噂されながらも支配勘定百俵五十人扶持(本高 七拾俵五人扶持 御足高 三拾俵)のままだったから
甥の吉見儀助や門人の井上作左衛門は同じ神尾市左衛門組の御徒から支配勘定となり評定所留役御勘定高百五十俵廿人扶持になってるのにね
274 :
日本@名無史さん:2009/10/03(土) 22:55:50
>>272 学問吟味主席で白銀拾枚賜たのに
坂銅座や長崎出役勤めても支配勘定のままはかわいそうだな
評定所留役御勘定ってどんな仕事?
276 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 00:05:22
最高裁判所書記官兼財務事務官?
3千石以上の大身旗本が就いた御役の(上限は御側衆や駿府御城代、大番頭だとして)下限は
どのあたりの職なのかな?
3千石未満と違って寄合は御番入りはしないんだよね?
278 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 10:57:18
中川船番所の「中川番」が寄合の無役の役職。
>>278 レスありがとう。中川番や駿府加番は寄合クラスの旗本が任されてたみたいだね。
3千石以上の旗本は、普通の御役(目付け、奉行とか)ではどのあたりの役職からスタートして
どういう昇進ルートをたどったんだろう?
280 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 17:58:19
>>280 レスありがとう。
書院番は千石、2千石台の旗本も多いけど、寄合クラスの3千石以上も平の番衆で御番入りしてたの?
書院番頭とかじゃなくて?
寄合⇒中奥小姓のコースは
283 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 21:09:20
見目美しき若衆のみ辿れるコース。
284 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 22:01:18
三千石以上の旗本なんて幕臣中のほんの一握りだったと思うけど
旗本全体に三千石以上知行って何パーセントいたの?
奥で仕えたのは御小姓・御小納戸で、中奥御小姓の「中奥」は表の黒書院あたり
のことを指すらしいね。
>>284 2%くらいじゃね?
>>285 中奥小姓は近習にあらずっていうね
典儀要員かな
当初は万石以上の嫡子や駿府城代、伏見奉行、大番頭の如き大官の嫡子を奉仕せしと
287 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 06:36:35
3000石以上の所謂、「高の人」と尊称される高禄旗本は約250家、旗本全体をおよそ5200家
とすると約5%ということでしょうか。
また、3000石以上の非役家は小普請ではなく原則寄合にはいり、江戸城門番・火事場見廻・
駿府加番・中川御番などのお役を勤め、小普請組支配、三番頭、留守居、御側衆や駿府城代
などの重職への就職に備えていました。
定火消とかもだっけ
門番で3000石ってすげーな
290 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 12:20:34
家士を多数出さなきゃならない
あぁぁなるほど
警備隊長みたいなもんなんですか
小普請ったって殿様自身がドカタや左官をやるわけじゃないし
293 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 18:20:51
小普請組って賃金と材料費を出すだけで現場監督しないんだろ。
294 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 18:27:35
殿中坊主は武士なのか?軍役はあるのかい?
295 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 18:37:56
奥のほうは軍役なしだろ。
296 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 20:25:03
諸門警備の大名旗本は徒、足軽、中間を出した
そりゃ大番の宿直のようなことはないよなw
5千石の旗本が自ら門番してたら笑える
298 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 20:37:38
ももだち取った麻裃姿で六尺棒もった大身旗本w
でも何日かに一度ふすまを開け閉めするだけで何百石か貰ってるのもいたんでしょ
>>293 駿府城の番士には、当初は大御番士が1年間の交代で派遣されていたが、1639年からは
書院番士が派遣されることとなり、1790年まで約150年間も続き、駿府城下も人・物
金の流動がなされ一定の繁栄がみられたが、1790年以降は常駐の駿府勤番士が派遣
され駿府城下の経済にも陰りが見え始めてきた。
その駿府勤番士には、かの有名な甲府勤番士からと小普請組から選抜され派遣された。
第二の甲府勤番(山流し)のごとしであった。
ふすまの開け閉めにも同役がいて交代勤務
交代寄合1800石の久能榊原家って久能山東照宮の守りを世襲してたみたいだけど、
何か実務はあったんだろうか?実質無役と同じ?
303 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 06:40:16
>>289 江戸城門番・火事場見廻・駿府加番・中川御番などは、旗本寄合(3000石以上の無役待命組)
がノルマで課せられたお勤めの一つ
このボランティアを上手く勤めて認めてもらえれば、小普請組支配、三番頭、留守居、
御側衆や駿府城代などの重職につくことができたということです。
304 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 07:19:13
松平総本家と言う旗本がいる。徳川宗家より偉いのか?
305 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:49:54
公方総本舗とくがわと、元祖公方郷まつだいらの不毛な戦い
今でも本家OOとかあると何か揉めてるのだろうなと・・・基本的に長子相続だが墓守とかしてると色気が出てくるらしい
307 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 01:34:40
>>302 久能山の管理しているだけで1800石。
これは安泰で美味しいなぁ。出世もないけどさ。
ドキドキしたのって、
由比正雪の乱の時と、
忠長が猿を乱獲した時くらいじゃね?
308 :
嵯峨源氏の後裔:2009/10/09(金) 01:52:24
松平総本家って筆頭のことかなぁ...
松平 春嶽...?上から4番目くらい
1、将軍家
2、尾張家、紀州家...ここまでが、御三家
4、松平家筆頭(越前)、松平津山家、前田家、島津家、他2〜3家
いずれも、1800年初、中期
>>308 そういう話じゃなくて、
家康を出した松平氏の「本家」に当る、松平郷松平氏のことだr
>>304の言ってるのは
310 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 06:42:48
>>309 そういう話じゃなくて、・・のことだr
⇒304本人としての会話内容
なのに
>>304の言ってるのは
⇒304とは別人のような他人事の会話内容
この短い文章のなかで、304本人と304別人28号が同居している
311 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 07:29:05
なんだこいつ?
312 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 08:16:40
松平本家の分家が家康の実家。だから松平本家は旗本とは言え特別の格式があったらしいよ。
313 :
嵯峨源氏の後裔:2009/10/09(金) 11:14:15
この時代に家門筆頭以外にも本家を名乗れたのか?
それとも、名乗れないが優遇されたってこと?
教えてください...
314 :
久松勝俊:2009/10/09(金) 11:27:55
要は、奥三河の豪族連合・松平党の中で一つ頭抜けたのが家康の家系であったが、
松平家内では本家ではなかった。血筋から言えば、家康よりも筋目の高い松平家はあったのである。
しかし、力はないため、名誉だけ保有させ、松平党顧問のような形で迎えていたのだうろ。
これは、藤原鎌足の中臣氏や、足利尊氏の源氏との関係、織田信長と他の尾張領内の織田氏との関係にも該当する。
その後、松平党のリーダー格である松平家康は徳川家康と名乗り、源氏の関係者だ自称し始めたので
今度は源氏の総本家・喜連川分譲住宅を厚遇する必要があったのです。
315 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 12:02:48
徳川将軍家は氏の長者だからね
316 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 13:58:33
松平郷松平家。交代寄合。参勤交代の義務あり。
松平太郎左衛門
たった440石で遠路三河より江戸参府か・・・よく財政持ったなw
319 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 17:18:32
徳川、得川の遠祖新田の後裔岩松家は250石。この薄給では格式の見栄も張れない。慰めは明治維新で南朝忠臣と顕彰され華族に列せられたくらいか。
320 :
嵯峨源氏の後裔:2009/10/09(金) 18:00:07
はぁ〜久松、その他の方々忝のうございました...
本家は別にあって、分家が源氏の長者、
その内、御三家と水戸藩が徳川姓で松平姓(分家の)の筆頭が
越前っことですかね
>>318 それをいうなら無石の交代寄合・米良氏はどうやって肥後・日向国境の山深い所から江戸まで・・・
どこでもドアでも使ったんじゃないか?w
まあ実際は無高といっても米が取れないだけで、収入源は他にあったんだろうけど・・・
それにしても米良家は特殊な家だよな
323 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 18:56:24
岩松は120石だろ
猫絵の殿様として絵の頒布収入があったはず
岩松は平堂上の生活に近い気がするな
格は高いが御家人並みの家禄で内職に励んだあたり
325 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 19:03:06
米良は十万石相等の収入とか言われてたからな。実際にはそこまではいかないようだけど。
今はダムが出来て道路も出来ているけど、大変な田舎だった。
米良氏の場合、土地柄木材収入があったのではないかと推測。
肥後人吉の相良氏に従属のような関係だったようで、
道中も相良氏の船に便乗、行列に同行、江戸屋敷に逗留だったのか。
327 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 19:39:29
米良は収入源として茶・楮・椎茸などが並んでいたけど、木材はなかったな。
将軍家の鷹巣山に指定されていたというけど、木材は手をつけられなかったのかもしれない。
相良には一族が家臣となっていたりして密接な関係だったようだ。
幕末には米良が勤皇の活動を盛んに行って、七卿落ちでは当主が連座して相良に幽閉されたり、
薩英戦争では薩摩に援軍に出ようとして進軍する途中に戦闘が終わって引き返したり。
やたらと詳しいな
ビビったw
329 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 19:49:37
あくまで本に載ってたレベルの話しか知らないけどね。バスを乗り継いで館跡には行ったことがあるけど。
330 :
嵯峨源氏の後裔:2009/10/09(金) 20:43:13
ここって皆こんな研究者レベルなのか...
今日は詳しいのが二人いるぜw
332 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 21:11:33
どこが研究者レベルなんだかな?
自演じゃなけりゃいいけど
333 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 22:01:56
御三卿って石高は蔵米支給?家来も旗本、御家人の出向。大名より徳川家臣だね。
>>318 松平郷を出るときは行列を仕立てていたけど、途中は数人で
普通の旅をしていたらしいね。
で、江戸の手前で人を雇って体裁を整えた上で江戸に入った
と。
335 :
日本@名無史さん:2009/10/10(土) 03:05:16
尾張家の行列に混じっていったんじゃなかった?
336 :
日本@名無史さん:2009/10/10(土) 03:15:57
うちの殿様の城中での御役が襖の開け閉めだけだと知ったら家臣はショック受けるだろうなw
337 :
日本@名無史さん:2009/10/10(土) 03:18:26
>>335 それはないでしょう
江戸では大給松平家に寄宿していたので
338 :
日本@名無史さん:2009/10/10(土) 07:38:39
岩松なんて架空の系図つながりで無関係なんだろうが血縁の松平郷松平家の待遇のひどさには驚くな。徳川のルーツが卑しい土豪だと言う事実を隠すために目立たなくさせてたのか?
十八松平は譜代扱いだからね、血縁とか関係ないっぽい
しかし200石とかって
その位の極小領主から松平氏が始まって、
家康が出るまでには三河一円に勢力をもつまでに進展していた
っていう歴史がよくわかるね。
342 :
嵯峨源氏の後裔:2009/10/10(土) 15:42:00
じゃあ、三河統一前は?松平、大窪、石川、とか細かくわかれてた?
わかる人、教えてください...
343 :
日本@名無史さん:2009/10/10(土) 16:44:13
つーか徳川含め十八松平の系統は岩津あたりの土豪で
曲がりなりにも貴種に結びつけるために松平の名を利用したんでしょ
松平郷松平家と血縁はないと思う
344 :
日本@名無史さん:2009/10/10(土) 23:05:35
「親藩」ってのは、清康広康家康に近しい一族のこと。
345 :
嵯峨源氏の後裔:2009/10/11(日) 02:18:06
つまり、松平家は清康が統一、それ以前は、みんな万石どころか、何百石程度の地侍ばかり?
346 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 02:49:22
譜代筆頭は井伊家
御三家筆頭は尾張家
旗本筆頭って無かったんですかね?
旗本筆頭って大名になれない残念賞だから相撲の東十両筆頭みたいに有難みが少ないとか
田沼の側近であった「横田筑後守準松」は御側御用取次として権勢を振るい、
飛ぶ鳥も落ちると言われ3000石の加増をうけ家禄計9500石となり、禄高と権勢
では正に旗本筆頭であった。しかし、松平定信が老中首座に就くや即罷免され
たが・・
でも旗本筆頭ってそんなに羨ましくないな、井伊家みたいに他とは格が違うわけでもないし。
5千石でも9500石でもそこに家格の差があるわけじゃないから、どうせならあと500石加増して
大名にしてくれよ、とw
旗本筆頭
◇大概順では
高家
◇家禄では
横田筑後守準松9500石
◇官位官職では
大沢基宿(高家)の官位官職は正四位下左近衛中将
◇権勢では
御側御用取次
351 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 08:12:21
田沼「そろそろ大名にしてやるけど、どうよ」
横田「大名なったら参勤交代しないといけないし、家臣も増やさないといけないしな・・・」
田沼「じゃあ、500石足りない9500石で旗本筆頭ってことでいいな」
352 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 08:57:17
>>349 だけど経済的には9500石の方が全然楽。
どの身分でもぎりぎり最低限の家は格式だけ高くて苦しい。
加増なしで身分だけ旗本になった家とかで、さらに小普請とか最悪。
他人には絶対に言えないだろうけど内心はどうだろうね。
おそらくうっかり旗本になってしまった先祖を恨む子孫もいただろう。
プライドとはまた別の問題でね。
まあ経済力ではそうだろうけど、大名と旗本では身分違いだから雲泥の差だと思うけどね
大岡越前が同輩から虐められたって話もあがってるけど、当時は今と違って金よりそういう格の
差異の方が遥かに重要な意味を持った時代なわけだし・・・
人間って金よりはプライドで生きてるものだからね。
特に江戸時代の武士なんて、今よりももっとそうだっただろう。
9500か10000かって言われたら大抵はやはり10000を選びそうだ
維新後は10000石なら子爵、9500石なら士族
但し実高で
357 :
嵯峨源氏の後裔:2009/10/11(日) 14:52:16
346さんの所で、出た御三家ですが...
将軍家、尾張家、紀州家、
水戸家は、入らない説は本当ですか?
358 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 15:24:55
横田なんか新田開発で1万石超えていても良さそうだけどな
大沢なんか5000石で1万石申請して華族になったんだから
359 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 16:04:37
華族になれたらハッピーかどうかわからないし
基本的に華族になれたらハッピー。
学習院→官庁・大企業→貴族院というエリートコースに乗れる。
361 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 17:03:19
しかも戦前の貴族院は公選制じゃないから、
一般大衆の田舎のジジババ相手に泣き落とししたり土下座する必要もないし。
いまのクソみたいな土下座選挙に時間と労力を無駄に使わされる議員とちがって、
余裕を持って本来の政務に専念できる。
大身旗本の場合、並みの御役じゃ役不足で番頭とか駿府城代とか、名誉だけど宿直とか
地方勤番があって大変な御役が多いからな。御側衆になれれば最高だけど。
中川番や駿府加番とかは持ち出しも多かっただろうし定火消や甲府勤番支配は大変そうだし・・・
足利氏(喜連川)とか菊池氏(米良)とか、10000石未満から華族になった人って
じみちにキャリアを積んで頑張っている人がおおいね。
それに大して「華族の体面が保てない」という理由で爵位返上した人って
一代では使い切れないほど財産があるわけでないのに働かなかった。
364 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 18:19:29
>>363 確かに菊池武夫は陸軍中将まで出世したから、地道に頑張った人なんだろうが、
貴族院議員になってからの活動は美濃部達吉を非難したりして・・・
昭和の国難の一因だしなぁ・・・。
366 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 18:48:34
>>358 大沢は過大申告がバレて禁固刑、士族に格下げ
>>361 伯爵・子爵・男爵議員は同爵者で互選
勅撰議員は実質その時の政府に忠実な高級官僚
>>357 尾張あたりが言い出した負け惜しみ。
そもそも、「御三家」という呼び方は綱吉のころからなんで、将軍家と他の
二家が同等というような主張を許すはずが無い。
男爵がやたらと多すぎるんだよな
高家や大身旗本、万石の家老、地下の若江・摂家諸大夫・出納平田、勲功男爵あたりは
特権を伴わない准華族(准男爵・勲功爵)にでもすればスッキリしたのにw
奈良華族や神職あたりも准華族で十分だろ
>>364 美濃部亮吉を非難したのなら大いに評価するが達吉の時代まだ生まれてなかったので知らん。
お目見え以上というけど、どういうときに将軍への謁見が許されるの?
371 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 02:00:12
元服や相続、代々の役職就任。
372 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 02:03:51
373 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 02:29:58
俺の先祖は長崎奉行だが、毎晩とっかえひっかえ色んな女と寝てたそうだ。
色々と問題も出たので、それ以降うちの家訓に「女遊びは控える」が追加された。
俺のじいちゃんの口癖は「武士は女遊びするからダメ」であった。
凄い決め付けだ。そんなじいちゃんは堅物で女はもちろん酒ギャンブル等も
一切やらない人だったが、こういう人生もつまらないと思う。
374 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 06:38:16
ばあちゃんは処女でオヤジは養子か。
375 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 11:20:59
岡村寧次って御家人出身?
376 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 12:18:22
王政復古の大号令のあと、京都町奉行所の与力・同心などの役人はどうなったの?
岡村家は旗本じゃない?
378 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 13:40:15
御家人だと
海軍中将小倉鋲一(黒鍬)
海軍中将諸岡頼之(町奉行同心)
海軍機関少将横山正恭(町奉行与力)
海軍少将安原金次(小人)
警視総監岡喜七郎(火盗改同心)
海軍中将尾本知道(作事方)
陸軍少将深谷又三郎(作事方)
海軍少将山田英之助(坊主)
379 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 13:44:06
山田英之助は海軍機関中将か
幕府の役に就いている人はそのまま明治政府・地方の役人になった人が多いのかな
381 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 13:58:44
遠国奉行や郡代代官所の下僚はそうだろうね
382 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 14:21:31
ていうことは、公方様や老中、所司代、町奉行が大挙して大坂に退去していっても、
京都町奉行所の与力・同心は何事もなかったかのようにそのまま市中の行政を行ってたと?
公方様が家臣を見捨てて遁走したあとの大坂でも、町方役人はそのまま市政を担当したと?
383 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 15:04:16
>>382 そうだよ
京都府の役人になった者が多い
384 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 15:12:11
町奉行与力同心も市政裁判所赦帳撰要下役とか東京府貫属卒として東京府権少属を拝命したりしている
大政奉還によって幕府本体は無くなり、江戸城内などの役の者は失業
町奉行等の役ならはそのまま市役所、警察などに移行ということか。
長崎奉行は一部外務省かもしれん。
386 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 16:52:57
小さな政府だったから実際に使える奴がのこされたみたいだな。
387 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 19:39:07
旗本が勤めていたような上級職は藩閥や公家らに取って変わられた
残りは駿府へ行って茶畑の開墾か
または北海道
390 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 20:26:17
実は江戸に残って人力車夫というのもけっこういた。
391 :
ごりら:2009/10/12(月) 20:37:52
392 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 21:02:21
明治維新で新政府にスライド式に奉職がかなったのは
町奉行所与力同心
郡代代官手付手代
御勘定支配勘定
牢屋同心
このあたりか?
いきなり徴兵制になったわけではわけではないので、
当座は東京府付属の士族になった人もかなりいたはず。
予備役みたいなもんかな?
394 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 23:05:55
ためらいなく内職を本職にした者も多数いた
>>394 だろうな。
その後、再開発や関東大震災で散り散りになりましたとさ。
396 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 23:10:21
ためらいもなく妻や娘を妾や女郎に売った者も多数いた。
>>396 娘はともかく妻は売れるのか?
実家が黙ってないんじゃないか
年増だし
399 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 23:36:59
樋口一葉の「にごり絵」に客が銘酒屋の女に「士族か?」と聞く場面があるから
困窮士族の娘がそういうところにいるのも珍しいことではなかったのだろう
400 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 23:42:56
娘は吉原へ
妻は岡場所へ
401 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 23:47:35
維新前だけど娘を売った御家人が切腹させられてる
青山百人町の組屋敷では材料を一括で仕入れて分業で傘を作る
内職をしていたから、明治になっても職人で暮らせただろうな
組屋敷は立ち退きだろうけど、そのまま上野か下谷の長屋に集団移転して傘作りか
404 :
日本@名無史さん:2009/10/13(火) 04:24:20
伊賀の鉄砲組とかは園芸で食ってそうだな。
405 :
日本@名無史さん:2009/10/13(火) 12:16:34
ふと思ったんだが、こういう明治になって職人専業になった元御家人って、
ふだんの服装も袴とかやめて、仕事人の秀みたいな町人の職人スタイルになったのかね?
言葉使いも完全に町人風にしたのかね?
鉄道の車掌は士族が多くて頭ごなしに怒鳴りつける偉そうなのが多かったって
学研の漫画に描いてあったの思い出した
車掌は制服着て権限もある。
職人は原則制服なし、権限もなし
元御家人でも同化するのは早かったと推測。
408 :
日本@名無史さん:2009/10/13(火) 13:29:58
警官も士族が多かったけど
警官の代名詞になってた「オイコラ」ってのは
「もしもしあなた」くらいの意味らしいね
409 :
日本@名無史さん:2009/10/13(火) 16:10:30
士族でも羽織袴にヒゲなんぞのばして、ステッキ片手に威張ってるような奴はいたのかな?
410 :
日本@名無史さん:2009/10/13(火) 16:58:27
廃刀令以後も断髪せず帯刀し続けたのもいた
411 :
日本@名無史さん:2009/10/13(火) 18:37:57
警察官を意味する俗語「まっぽ」
は薩摩っぽからきたんだっけ。
抜刀隊は警視庁のお巡りの選抜隊だったし
警察官はかなり士族多いみたいだな。
まっぽはマッドポリスの略では?
413 :
日本@名無史さん:2009/10/14(水) 02:24:51
抜刀隊って会津とか幕臣とかの、
旧幕府方の武士じゃない?
414 :
日本@名無史さん:2009/10/14(水) 05:56:47
西南戦争では会津士族の報復やら薩摩士族の同士討ちやらが各地で繰り広げられた。
415 :
花:2009/10/14(水) 07:06:26
416 :
日本@名無史さん:2009/10/14(水) 09:44:42
>>413 軍中からポリスになってた士族を選抜して作った
皇國の風と武士の 其身を護る霊の
維新このかた廃れたる 日本刀の今更に
又世に出ずる身の譽 敵も身方も諸共に
刃の下に死ぬべきぞ 大和魂ある者の
死ぬべき時は今なるぞ 人に後れて恥かくな
敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜き聯れて 死ぬる覺悟で進むべし
>>413 抜刀隊の主力は他藩よりも再就職有利だった薩摩下級藩士だよ
会津や幕臣もいるにはいたと思うけど
418 :
日本@名無史さん:2009/10/14(水) 12:51:22
主力は徴兵制から成る兵隊だけどな
御小姓や御小納戸は将軍近侍の御役の割に、そんなに大幅加増されたりはしてない?
中野碩翁みたいなのは別だけど。
420 :
日本@名無史さん:2009/10/14(水) 18:35:33
西ノ丸御小性 田沼龍助
421 :
日本@名無史さん:2009/10/14(水) 21:43:41
家斉の近臣だった林忠英は3000石旗本から累進して15000石の大名に取り立てられましたが何か
そういう有名どころは分かるんだけど、
小姓・小納戸の人数の多さの割りには少なそうな気がするな
多少の加増の例は結構あったんだろうか
例えば五百石の近臣が百石とか二百石加増されるような
423 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 01:29:05
中野って、なんで出世したの?
マイナー人物だよね。
424 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 07:46:55
娘だろ
425 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 09:30:49
江戸時代の御家人百科みたいなのないの?
426 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 10:03:46
林の家は忠臣だな。戊辰の役では最期まで戦い抜いて昭和初期まで生きて最後の殿様と言われた人物まで出たぞ。
>>425 江戸幕府旗本人名事典 第1巻
著者名 小川 恭一/編著
著者名ヨミ オガワ キョウイチ
出版者 原書房
出版年月 1989.6
ページ数 685p
大きさ 27cm
ISBN 4-562-02038-5
他全5巻
かなりの大著
すまん、旗本だった
>>399 一葉の父は元百姓の同心、それも同心株を維新の年に買ってギリギリで武士になったから士族を凄く意識してたようだな。
小説のなかにまでそれが現れている。
慶應4年ごろの同心株っていくらぐらいなんだろう
>>426 すげぇな。うちの祖父さんが22の頃ってまだ大名がいたのか…
>>426 「小大名だから逆に張り切っちゃって」
「若気の至り」
とも言う。
それと、”最後まで戦った”のは榎本や大鳥たちであり、林の殿様は仙台で投降。
なぜならその頃、徳川家存続が決まったらしく、「お家存続」という大儀は達成したので。
なのに静岡徳川家ったら、その後の林になんの支援もしてくれないんでやんの。
カワイソス。
434 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 14:16:48
仙台から蝦夷地へは4隻の軍艦で渡ったわけで
どの船もギューギュー詰め
旧幕府軍もかなりの人数を仙台で脱落させてる
つーか御家存続がなったのにまだ戦おうって基地外じゃね?
その基地害要素をほんのりとでも260年保ったってのはすごい話だと思うわ
437 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 15:05:35
吉良は断絶したかと思ったら義央の弟の東条が吉宗に復姓を許され旗本吉良氏は復活したんだな。浅野大学も許されて旗本の列に復したから仇の弟同士殿中で行き会ったらどうしたのかね?
438 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 19:57:09
浅野大学は500石だっけ
百分の一でも御家再興と言えるのかね
その500石って浅野大学家(三千石だっけ)の再興ではなくて、赤穂浅野家の再興だったの?
441 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 21:40:06
442 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 22:49:53
>>430 南町同心浅井竹蔵跡式と関係筋への礼金を合わせて100両
同時に浅井竹蔵の負債300両も継承
>>442 幕末とはいえ400両といえば大金、すぐ江戸幕府瓦解じゃ大損だけど
なまじ下級職の南町奉行同心だったからそのまま東京府の役人か。
>>426 子孫はともかく、取り立てられた林忠英はむしろ佞臣の部類だと
そしられていなかったかな?
445 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 23:49:50
>>443 実際に樋口一葉の父親は東京府の役人を経て警視庁の役人になっている
しかも副業で高利貸しまでやっていて十分な実入りがあったため一度退官したが外聞のために復職したという
同心ごときが士族になれるの?
447 :
日本@名無史さん:2009/10/16(金) 01:36:27
同心は卒族とされたが卒族を廃止するとき
世襲の者は士族に、抱席の者は平民にされたというが
事実上世襲だった家は士族になってる
最後の当主が初めて抱えられた場合は平民
448 :
若年寄格陸軍奉行竹中丹後守重固:2009/10/16(金) 01:45:28
あげ
>>441 確かに基地だ。大義のためだろうが人殺しなんかできねえよ。
450 :
日本@名無史さん:2009/10/16(金) 01:49:05
>>434 お家がただ存続すればいい、のではなく、
事業縮小により路頭に迷う予定の、旧幕府勤め側の人間の
「生活保証」
が榎本らの目的。
「旧幕臣有志で、屯田兵として蝦夷を開拓守備するから許可して」と。
>>450 政府はなんで許可しなかったの?
榎本らが武器を持っていたから?
>>447幕軍側なのにずいぶん温情に厚いな。普通は平民だろ
453 :
日本@名無史さん:2009/10/16(金) 07:25:26
新撰組って旗本、御家人に取り立てられたとテレビで見た事あるけど正式になったのですか?それとも話だけで実質は何もなくて終わったとか?
454 :
日本@名無史さん:2009/10/16(金) 08:00:36
町同心も全員東京府貫属士族
>>453 慶應三年に幕臣に取り立てられている。
近藤勇 見廻組与頭格 300俵(御目見え)
土方歳三 見廻組肝煎格 70俵5人扶持
沖田総司ら 見廻組70俵5人扶持
他 見廻組並 40俵
近藤の月の手当てが50両って聞いたことあるんだけどそれは別なのですか?
局長ですら平の両番衆と同じ程度なのか・・・
458 :
日本@名無史さん:2009/10/16(金) 21:51:08
最後の大名取立てが判明した。それは播磨福本藩の池田喜通の模様
農民の子からいきなり御目見得だから悪くはないだろう。実際当人は大喜びだ。
同格となった佐々木只三郎も元々は御目見得以下とはいえ幕臣の後継ぎだし。
460 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 03:13:00
>>451 蝦夷島に幕府軍が徳川将軍を担いだ上に、
駐屯自営してたら、自然と半独立になっちゃうし、
そもそも薩長のDQNたちは
「ヒャッハー!幕府の連中全潰しぃ!」
しか考えてなかった。
長期的に大局を見るような発想のある奴はいなかった。
461 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 04:55:26
>>459 佐々木は会津藩の手代木家の出じゃなかった?
462 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 05:48:19
幕府陸軍の歩兵の身分は御家人?雇人?
只三郎が養子に入った佐々木家は五十俵三人扶持の御家人
しかし江戸に帰ると近藤は若年寄格、土方歳三が寄合席格。
甲州100万石は切り取り次第で実際近藤は小大名並の格式で行列を整えたという。
近藤にとっては最後の晴れ舞台だったろう。
>>456 それは文久3年の家茂上京に応じた処遇。
近藤は大御番組の頭取扱いで50両、土方40両、副長助勤の沖田らに30両が支給。
たぶんお雇い。
466 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 07:27:44
甲州切り取りなんて本気でやる気あったんか?近藤一行は各地で接待、宴会を繰り広げながら遊興三昧でゆっくり行軍。甲府城には既に官軍が入城していたよ。
>>462 そのザクっとした質問はなんだよ。
幕府陸軍(従来の組とは別に新規編成)の歩兵には新徴募の庶民浪人部隊と御家人の部隊があった。
いずれも士官は旗本。
468 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 08:55:31
真夏の夜の淫夢
469 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 11:03:30
上様御進発で隠居届続出。部屋住みの舎弟や幼少嫡子が家督相続。これが神君以来の旗本八万騎の末路。
470 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 13:10:28
そしてご一新後は、人力車夫になったり、娘や嫁を女郎に売る者が続出。
471 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 13:12:28
甲府近辺に100万石なんか存在しないだろ?
どれだけ切り取れば良いんだよ?
福沢諭吉が遣欧使節・翻訳方の手当てが400両と書いてあるから(福翁自伝)
中級役人でそのくらいの人は少なくなかったかも。
役料1000石・俵とか100両という場合、実際に現米で1000石・俵とか百両支給された?
それとも知行の表記みたいに、実際手元に届くのはその3分の程度?
474 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 14:24:34
>>473原則まんまくれる
実際は手数料や小普請でショバ代引かれる
>>474 サンクス!
ということは長崎奉行の手当ては役料だけで1万石の大名家の総収入より多かったわけか・・・
476 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 14:36:04
江戸中期あたりから御家人株が販売されてたんだろ。生活苦で先祖伝来の身分、家系を売り払うなんて信じられないが勝の実家男谷家も勝の祖父にあたる盲人の金貸しが買ったそうだが。
勝海舟の祖父は男谷平蔵
男谷平蔵の父が米山検校
478 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 16:15:31
旗本株は売買されてたの?
旗本株なんでありません。
480 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 20:17:59
男谷平蔵は三男なんだね
西丸与力だったが自力で出世して旗本になった
すぐ上の兄が水戸藩士の男谷家に入ってる
精一郎はそっちの家系の妾腹の子で
旗本男谷家の婿養子になった
山岡鉄舟の山岡家は家禄いくら位ですかいな?
482 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 22:30:26
483 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 23:21:27
御家人株にも株券なんてないぞw
484 :
↑:2009/10/17(土) 23:26:45
482が引用してるサイトをよく読めば。
485 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 23:53:48
旗本の家督は株として売買できない
持参金付き養子は株とは言えない
486 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 23:59:52
株として売買できたのは抱え席御家人の場合だろうね
資格のないもの(浪人等)が旗本の養子になったのがばれると死刑になるよ
『よしの冊子』参照
遠国奉行とかになって諸大夫成したら、官途・受領名を名乗れるのが一番の特典なのかな?
他にも従五位下に叙せられると何か良いことあった?
489 :
日本@名無史さん:2009/10/18(日) 11:36:13
単なるステイタス
『よしの冊子』によると、
家斉の姫君誕生を祝して178歳の夫と137歳のその妻が長寿の白髪を献上したそうだよw
491 :
日本@名無史さん:2009/10/18(日) 13:14:09
どの姫君だよw
492 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 02:49:13
それ、旗本と関係あんの?
名ばかりの典薬頭だった半井、今大路って世襲だし旗本の中ではかなり美味しい地位だよな。
494 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 17:16:26
伊勢伊勢守って何する旗本?
495 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 22:20:51
神道方の吉川氏も
496 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 07:32:39
旗本榊原氏も東照宮専門の神主らしい。
神主じゃないし。過去レス読まないし。
498 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 17:43:19
大工棟梁の中井、甲良は旗本の身分のようだが軍役はあったのだろうか?手下の大工が道具じゃなくて槍、鉄砲を担ぐのは絵にならないな。
大工頭の中井って旗本なの?
知行を与えられたり初代が従四位下に叙されたりはしてるようだけど
旗本身分ってことは代々将軍にお目見えしてたのかな。
500 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 19:38:04
最近女性にセクハラして捕まった学校経営者が茶屋四郎次郎の直系子孫らしいのですがこの御用商人の身分は何なんですかね?
501 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 19:46:23
今井宗久とか角倉了以の家は代官に任じられた流れで旗本になっているけど、茶屋はあくまで
京の豪商として江戸初期には幕府御用商人としての関わりだった。その後は鎖国のあおりを受けて
衰退して行ったらしい。
それでも元禄期には藩札の発行に関わるなど紀州藩の財政に深く関わっていたようだ。
502 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 07:50:52
茶屋は武士の装束着て二本差しで勤務してたのかね。それとも町人の格好かね?
503 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 08:59:16
茶屋は苗字を名乗っていなかったようだから、町人の格好だろう。紀州藩でも苗字でなく茶屋と名乗っていたようだ。
商人は苗字帯刀を許されても帯刀はしなかったそうだよ。
505 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 12:08:40
金座の後藤は町人?旗本?
506 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 12:56:29
町人だよ
農民の庄屋は苗字帯刀してるのにね
508 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 14:58:01
金座の後藤は勘定組頭への登用運動が成功していれば旗本になれたのに
磔刑はかわいそうだな
>>507 庄屋はふだんから帯刀しているの?士分なの?
510 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 21:13:35
庄屋は中世以来の小領主が多い。元来武士なのだ。
511 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 23:58:07
甲州なんかはそれが酷すぎて並みの大名では統治不能だとかで甲府勤番でわ(;^_^A。
庄屋さんの分家が幕閣とかって不味いだろうなあ。
出羽の本間家とかもすごいよな
513 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 02:12:57
>>511 松平郷の庄屋みたいなもんの分家が、
最終的に将軍になりましたがw
514 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 03:00:16
>>512 本間は商人
高利貸で担保の土地を集積した
本間様には及びもせぬが せめてなりたや大名に♪
516 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 09:34:59
庄屋は武士じゃないんだけどね
517 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 15:11:13
郷士が多かったね。加賀の時国家なんか身分は庄屋でも壇ノ浦で生き残った平家の末裔。もちろん純粋な農夫上がりの庄屋もいたけど主家を失い農民化した武士もいたわけだ。
519 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 07:50:55
中井は大和守を名乗っているから大工でありながら士分となったようだ。
520 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 23:21:39
大工頭だから
521 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 08:39:16
普請作事も立派な軍事行動ってな。
522 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 01:30:46
刀鍛冶の名乗りみたいなもんじゃないの?
523 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 09:25:46
黒鍬者ですか
>>521 合戦場には普請作事は必須だよね。
土木の職能人たちも合戦に動員されたわけだし。
今ふっと疑問になったんだけど、
肝心の合戦のさいにはそういう職能者はどこに控えていたんだろう?
初代・中井正清に関しては従四位下大和守・知行1000石だから、刀工や菓子司の大掾とは別物だよ
コトバンクで「中井正清」で検索したら結構詳しく載ってる
526 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 09:59:16
>>524 兵糧攻めにあったときには真っ先に食ry
527 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 10:01:12
中井って高家なみの官位? と思ったら幕初か。
528 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 10:53:21
>>524 今ふっと疑問になったんだけど、現代の自衛隊工兵科はどうするんだろう?
529 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 12:03:42
工兵でも武装工兵はエリートで危険な部隊だろ。
マッカーサーは武装工兵出身だよな。
530 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 13:27:00
中井は工兵じゃないけど?
531 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 18:21:44
江戸城は火災の度に天守、櫓、多聞等再建中止になる建物ばかり。中井も甲良も江戸中期以降は御殿作事以外は仕事がなかっただろうな。
>529
セントローセンス川やミシシッピ川の堤防の管理人もアメリカ工兵隊だお。
四品といったら10万石の大名の官位に相当するからな
大工としては空前絶後の大出世だろう
534 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 23:28:12
作事方の大工頭や大棟梁とは別に小普請方の大棟梁もいたんですか?
535 :
日本@名無史さん:2009/10/29(木) 18:18:48
小普請って既存の建物の屋根、壁、土塀の補修でしょ。大工棟梁と言うより職人の親方って言うレベルでしょ。
536 :
日本@名無史さん:2009/10/29(木) 21:02:55
それって大事やん
537 :
日本@名無史さん:2009/10/29(木) 22:36:41
小普請にも大工棟梁がいる
松村淡路、柏木土佐、柏木周防、溝口備中、大谷出雲、依田伊予、小林阿波
清水豊吉が慶應元年の武鑑に載っている
初めは作事方からの交代出役だったらしい
538 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 05:44:22
中井にしろ甲良にしろ旗本として知行を与えられているのに作事の際に工事代金は受け取るのかね?
539 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 23:35:58
工事代金と世禄はべつだよ
たかだか千石では普請の準備すらままならない
540 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 13:29:07
呉服師は旗本?御家人?屋敷は江戸城にかなり近い場所にあったようだが。
541 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 14:05:42
用達
>>537 幕臣(諸大夫未満の旗本)は諸般の重臣(国司信濃や原田甲斐とか)と違って受領名の
国名は名乗れなかったらしいけど、大工棟梁は名乗れたのかな?
淡路「守」の淡路じゃなくて、菓子司や職人・芸人みたいな淡路「掾」の淡路ってことなんだろうか…
543 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 22:56:55
帯刀とか掃部はオッケー?因獄石出帯刀とか
544 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 22:59:34
本因坊は旗本?御家人?
旗本の場合、官途名の名称(采女、帯刀、監物)はOK、受領名の国名(安芸、大和)はダメ
546 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 12:30:18
中井大和守、吉良上野介(親王任国は介が最高官。)、伊勢伊勢守等々これは何で?
中井や吉良は諸大夫(従五位下)以上に叙されている正規の官位だからだろ
548 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 14:51:34
たまに受領名が変わるのはなんでだろ?
大岡能登守忠相→大岡越前守忠相
とか
老中に能登守の受領名を持つ者が就任したら五位の大名旗本は
受領名を変えるのが江戸幕府のならわし
550 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 16:47:46
当時能登守の老中いたかなー
551 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 17:01:57
官位って朝廷に一々書類送って承認貰うの?金払うの?それとも幕府が勝ってに決めて与えてるの?
552 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 18:46:05
>>551 幕府が決めて与える
ただし定員外とはいえ正式な官位なので
高家が朝廷に伺候したとき任官者に与える口宣案と位記を貰ってくる
大岡は先任の町奉行(中町奉行)が能登守だったから越前守に遷任したんだろ
554 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 19:56:04
坪内能登守定鑑かな?
555 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 22:37:43
このスレが適切なのかわかりませんが、頭がよさそうなレスが多いのでちと質問を。
ある村で天領の名主でもない人が名字を名乗っているケースを発見して不審におもっていました。
某文書にかいてあるのですが、他村の名主も名字を書いていないのに、その人だけ名字がある。
その村には名主は別にいて、別の名字を持っている。。。
農村で武士がいないはずなのにこれは一体なんだろう。で、最近思ったのですが、この人はひょっとして郷士ってやつなのかなと。
天領で郷士というのは八王子や十津川のそれが有名ですが、他の土地にも割合的に結構いたものなんでしょうか。
556 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 01:43:03
律令的に、能登はランクが低い。越前は大国。
ってのは関係ない?
それは関係ない、能登守=越前守。
558 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 03:05:03
先任の同役に坪内能登守がいたからなんだろうな
>>555 それが本当なら、苗字を許されているのだろう
郷士・浪人とか、神官・医師のたぐいとか
560 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 12:33:11
>>555 その某文書とはなんの文書?
それがわからないと答えられないよ
庶民は公式には苗字を名乗れないだけで
たいてい屋号と別に苗字を持っていた
562 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 16:12:16
>>555 レスありがとう。神官は別にいるのでありえませんね。医師も違うみたいで。
なんだろうなこれは と不思議に思っていたのですが、郷士ってことならすんなりいくかな、と。
ただ天領にそんな郷士っているものなのかというのが疑問ですが。
>>560 すいませんが、その文書は私が持っているわけではないのでなんとも断定できないのです。
残念ですが。
>>561 この例では他の庶民(?)は名字を書いてないのに、その某は名字がかいてあったケースですね。
563 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 17:23:11
天領にも刀御免、苗字御免の百姓はいるよ
565 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 19:36:34
八王子同心みたいなのもおるし
566 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 19:43:03
八王子千人同心の苗字名乗りは火の番等の公務中限定だったと思う
つまり八王子千人同心は百姓が臨時雇用の兵賦を兼帯してるわけだな
御家人じゃないのに百姓やりながらわずかな俸禄で九州の戦地にまで駆り出されてる八王子千人同心は可哀想
569 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 23:08:15
元は武田の槍中間?
御家人身分から旗本に成り上がった人物の寛政譜記載に”斑をすすめる”と
いうのが在りますけど、これはこの時に旗本に為ったと云う事でしょうが、
具体的にはどのような意味なのでしょうか。
571 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 21:42:33
御免とは?
572 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 22:13:38
徳川の親戚なのに、御家人斬九郎みたいな待遇の人ってほんとにいたのかな?
>>570 「斑」じゃなくて「班」だよ。いくら2ちゃんでも
学問板なのだから、用語は正確にww
>>573 2chとはいえ無駄に草をはやすべきではない。ここは学問板なのだから。
575 :
日本@名無史さん:2009/11/05(木) 01:59:28
学問板だってよw
おまえ2ちゃんで勉強してるの?
>>572 十八松平ってほど、松平性は多くあったのだよ。
代々(凡そ3代)御目見以上の家格を得られた場合は、旗本として位置づ
けられたということでしょう。
その身一代限りで、旗本役の職に就いても子供・孫の代では、また御家人
に戻ってしまう。
旗本・御家人も初期には無嗣改易が多かったのかな?
579 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 15:00:54
こいつらしっかりしてたら会津も苦労せずにすんだのにな。見廻なんとかみたいな
少しは骨のある奴もいたが。義を彰かにするっても手遅れなんだよ。
580 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 19:28:54
>>581 あんまり、信用できないけど、フリー百科事典『ウィキペディア』には。
『・・・旗本の資格がない者(御目身以下の御家人)が旗本になる場合は、
旗本の役職に3代続けて就任することが原則であったが、将軍に謁見が許
されれば御目見得の士として直ちに旗本として認められた。』とある。
>>577は原則を書いていて例外を書いていないってこと。
>>580さんは逆に例外しか言ってないようですね。
佐々木顕発みたいなケース?
佐々木顕発も川路聖謨も一代で御家人から五位諸大夫になった人物であり、
文句なしの例外だったんでしょうね。
たとえしっかりしていても、会津藩みたいに常時2千人を動員できる
体制なんて無理でしょ。まじめな奴ほど損をする。
維新後は静岡で貧窮するか、帰農、武士の商法で苦労したので後でツケを支払わ
されたんだが。
ところで新政府に帰順したのは1000石以上の家が多かったんだってな。
高碌なだけで実務には疎かったろうに。
587 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 08:42:37
関東以外に知行地があれば、代官所役人や在地代官などが鎮撫使に使いを出して
帰順する機会ができるからな。西日本に知行地を持つ旗本は大抵このパターン。
旗本は明治になって一挙に庶民化したな。もともと幕府があった時点でも町民以下の
生活してた奴が多かったみたいだが。
地方の武士は、結構、しばらくは士族の風儀を維持してた家が多かったようだが。
>>582 『ウィキペディア』にはこう書いてある、だけが根拠だなんて
恥ずかしくない?
>>589 まあまあ、落ち着いて。
582は >あまり信用できないけれど とか一応の前置きはしている。
それにwikiを持ち出して書き込むなんて、まだお若い人なんでしょう。
でも582さん、こういう2ちゃんで意見を書き込むにおいても
みんながみんな、(知識はあっても)一から十まで書き込む必要もないし、
数々の例外をいちいちとり上げるなんて無理な話だと思うよ。
研究者が書籍を書いてるわけじゃないんだもの。
だから、レス最後の2行は余分なんじゃないのかな。
しかし、何ひとつソースも出さないよりは、たとえWikiであっても
ソースがあるほうが信用できるね。
と言うより、
>>580の『妄想で嘘を撒き散らさないように』
や
>>589の『恥ずかしくない?』
のコメントは建設的なものではないので、最初に戻って、彼らにも
御目見以上と以下の身分格差や班を進むについて、深いコメント
を貰いたい
593 :
日本@名無史さん:2009/11/17(火) 20:31:39
三浦按人とかヤンヨーステン等の白人の子孫はどうなったんですか?
後は、一代で旗本役を三つ(?)以上勤めるか、布衣以上の役に
付くというのもあったんじゃないかな?
595 :
日本@名無史さん:2009/11/19(木) 12:07:29
wikiをソースなんてこんな奴が増えるから困るんだよ。
どうせ大学へ出すレポートもwikiのコピーだろ?
勉強しろ! ゆとり君!
596 :
日本@名無史さん:2009/11/19(木) 13:20:47
後学の為にお伺いしておきたいのだか信頼するにたりるソースとは如何な物に相成りまするか?
県史・市史の史料編に載ってれば一応はソースとして可かと。
間違いもあるけどな
598 :
日本@名無史さん:2009/11/19(木) 16:26:51
実例を挙げれば済む話だな
江戸幕府は正式文書を多く出していない。
慣例・実例で処理していたものが多い。
ソースが出しにくい
一応、著者・出典が明らかなものはレスする上でのソースにしても良いんじゃね?真偽はともかく。
旗本の定義もあいまいだが、『江戸の旗本辞典 著者:小川恭一』では、一応、
■家禄万石以下で代々、家として将軍家への御目見を許される家格を持つ家
と定義されています。寛政譜(寛政10年末)では、旗本総数が5158名とされ
うち、50俵以下の微禄の家が100家程度もあったと掲載されている。家禄の大小
では定義できないのだろう。それと、旗本の役職を代々(3代程度)勤めた家で
「班を進め」のお墨付きがなければ、子・孫の代でまた、御目見以下に落ちて
しまう。しかし、これも原則であって、一代で以下から以上に進む者(家)も
いた。
その本持ってる、というかその文庫本をきかっけに柳営に興味持ったわ
氏の「江戸幕府旗本人名事典」、前々からほしいんだが
絶版だし古書もかなり良い値段するんだよな
最も少禄の旗本は誰さん?
江戸幕府旗本人名事典には掲載してるんだろうが、もってないので「江戸の旗本辞典」から
そこには、30俵以下の旗本が20名(家)あったとされている。
だから、その者がもし、御目見以下から旗本役の御勘定に抜擢されれば、同職の職禄が
150俵なんで、高150俵内足高130俵本高30俵○×勘定奉行支配△△△△となるのでしょう。
御家人 金と能力(運・コネ含む)があれば誰でもなれた
旗本 御家人で能力(運・コネ含む)がずば抜けていたら誰でもなれた
でおけ?
結構融通のきいた「身分がちがち制度」ではないじゃないか。
30俵かぁ
へたうつと嫁ももらえんなぁ
どこぞの藩の下士は収入が少ないので嫁が貰えず
養子を取って家を存続させたとか聞いたなぁ
>>606 野菜を自家栽培出来るくらいの庭はあったんだろうか・・・
>>605 運・金・コネで庶民⇒御家人だったけど、御家人⇒旗本は養子入りも不可なんで
やはり、運・コネとともに、これらのベースには一定の実績は必要だったかも
あと、町奉行所の与力・同心も同じ以下の御家人だが、同心から与力にあがる
ことはほとんどなかったらしい。ある意味、以下の役職の多くは世襲職かと
よしの冊子などに掲載されている、特昇した人物などは特例・例外の紹介で
あり、以上と以下の別もふくめて、身分はやはりガチガチだったと思う。
旧事諮問録で質問者が「成り上がり」という言葉を使う。
庶民〜御家人〜旗本 にあがった者 という意味。
「目付には成り上がりはいませんでしたか?」
「成り上がりが勘定の実権を持ってましたか?」的な。
寛政時に勘定や広敷の大部分が「成り上がり」の家らしいから、
役方の一部は多かったのでは?
勝が川路を「成り上がり」といってらしいが、
「成り上がり」がそんなに悪い言葉ではなかったのではないだろうか。
そうだろうね、むしろ褒め言葉に聞こえる
でも勝も川路も似たようなもんだと言ったら勝は怒るかなw
・御目見以下よりの昇進家の目標は勘定吟味役
・先祖からの由緒家の目標は目付が一定の目標
あと、御家人が御目見以上の旗本役職に一代に限り着任する場合は「拝謁を許さる」
となるが「班をすすめ」とはならない。
「班をすすめ」が与えられて初めて、旗本としての家が確定する。
現在の国家公務員の数は超荒で約90万人
であるならば、下級旗本であっても、家数が約5200人なんで
その限りでは相当なエリートともいえたんだろう。
能力に関係なく世襲だからエリートというより特権階級って感じがするな
614 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 15:12:48
現在と比較するのは無理があるのは承知の上で
旗本 公務員中、上級職
御家人 国家公務員三種採用
藩士 地方公務員でオッケー?
少なくても人口の5%が武家なのだから特権階級とまで行くかな?
615 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 15:59:33
川路左衛門尉は自らを「成り上がり」と書き残している
616 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 17:21:30
川路もだけど
男谷平蔵も御家人に養子入りしてから
自力で出世して旗本になってる
榎本武揚の親父もそうだな
耳嚢の根岸なんて知行1000石の大台に乗せてるもんな
長期間三奉行の顕職にあったし、(幕末や寵臣を除けば)下級幕臣の一代記としては
これ以上はのぞめないだろう
大名になった大岡もすごいが、元々大身の名門旗本だからなー
>>617 親子孫の三代が同時に役についたという事でも、周囲にうらやまれたらしいですね。
田沼の失脚が痛かったな
621 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 18:14:22
>>609 勝が川路を評して言ったのは「取立者」だと前スレにある
「川路は取立者だから人が悪くてね。こすくてね」
その話、勝自身の評価を下げてるよな
取立者だから人が悪い、こすいってのは流石にちょっと無理がある
書院番筋の旗本が言うならまだわかるが、勝も川路に毛が生えたようなもんジャマイカとw
623 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 19:25:03
>>622 勝自身も周りから「成り上がり」扱いされて拗ねてるしね。
>>623 上の写真はどこだろう。何となく芝の薩摩屋敷かなという気がする。
626 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 01:34:17
>>622 葉隠も取立者は信用できないと書いている
自力で出世する奴は最終的には自分が可愛いから裏切るってことかな
「成り上がり」が信用できないって・・・
おれは明治以降の勝は一応評価してる。
なんのかんのいっても旧幕臣のみそもかすも面倒見てる。
その立場からの放言は許されるかも。
幕末に限れば、
徹底抗戦したのは「成り上がり」やまだ「成り上が」っていないやつが多い。
川路:旗本←御家人養子〜〈親〉新規抱入御家人←日田代官手代(百姓身分?)
勝:旗本〜〈親〉不良旗本〜〈父方祖父〉旗本←御家人〜〈父方曽祖父〉検校←按摩
でも母方では勝は立派な旗本(下級だけど)
629 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 03:56:42
川路の母方は遠祖は豊後大友氏の流である日田代官所元締の高橋氏
630 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 04:01:16
川路は幕府三兄弟の一人
幕府の頭脳でまさにエースであり徳川幕府に殉じた
勝は幕府瓦解時にその才能を最大に発揮した俗人
列強がいかに強いといっても、当時の蒸気船の輸送能力はたかがしれていて、
アヘン戦争やアロー戦争で動員できた兵力は、英仏合わせても
二万に及ばないわけですよ。
ですから、旗本八万騎というのは物凄い兵力なわけですよ。
しかも、騎馬武者というのは、一人で戦うわけではなくて、
馬引きや供の徒歩武者が付き従いますからね、実際は数十万の大兵力になるわけです。
兵器や艦船では優性であっても、肝心の陸上兵力では、列強といえども日本には
全く太刀打ちできないわけです。
632 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 18:55:32
そんな欧米の一部兵力ごときに惨敗を喫した大藩毛利。
633 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 20:48:51
そもそも八万騎なんていない。
せいぜい二万ってとこだ。
供をあわせてもしかしたら八万にいくかいかないかくらい
供と言っても譜代の家臣は大名家に比べると少ないしな、大身はともかく。
>631
イタリア相手じゃまいぞ。
英仏だぞ、相手は。
おまけにアメリカまでいるんだぞ。
636 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 22:21:11
100石につき2人
400万石÷0.02=8万騎
637 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 22:23:43
単純に徴発可能な人数だね
下級幕臣は式日だけ人手を雇ったりしてたわけだしな
雇う金がなくて上司に挨拶にいけず、小普請から抜け出せない悪循環にもなってたらしいな
一応、侍が外出する際には、は中間とか草履取りなどの供揃えをする義務有り
たしか町奉行所の同心でも
640 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 23:11:29
基本的に最下級である抱席御家人は役付きだから中間小者の一人は雇ってたろうな
>>636 大都市江戸で馬1頭を飼育するには
年12両程度必要
642 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 00:57:38
馬必須な格式は400石くらいかね。
>>635 当時アメリカは極東に拠点を持っていないので、
日本に派遣できた兵力はペリー艦隊でおそらくいっぱいいっぱい。
数千人規模でしかない。
できることは、沿岸から大砲で恫喝するのがせいぜいで、軍事拠点の占拠などは不可能。
これは英仏も同様で、中国大陸にまとまった兵力があるとはいえ、
それをおいそれと日本にもってこれるものではない。
(大陸の兵力は大陸の権益を守るために置いているのであって、
日本に移動させては意味がない、これは艦隊も同じ)
644 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 02:38:16
脅しと透かしの交渉術だよ
>>643 >軍事拠点の占拠などは不可能。
下関砲台はノーカウントかな?
>>645 一時占拠であって、占拠しつづけることはできないっしょ。
つまり、交渉(恫喝)材料として、一時的に占拠はできても、
そこを自らの軍事拠点として保持する力はない。
647 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 06:56:31
占拠は一時占領のニュアンスで使われることが多い。永続占拠なら普通は占領と呼ぶだろう。
軍事力に関する認識の違いというよりは、用語の認識の違いだな。
つまり、
× >軍事拠点の占拠などは不可能。
○ >軍事拠点の占領などは不可能。
でFA
649 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 10:04:39
何故奇兵隊等庶民から兵を募ったのか?それは武士の世襲による弊害で常備性が崩壊していたからだ。ある番士は60歳、同役15歳、8歳。これで戦争ができるか。幕府も同じで浪士や鳶職等の傭兵に頼った。
650 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 10:07:33
8歳では見習いにすらなれんだろ。
651 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 10:10:29
何でもかんでも旗本のせいにしているが、黒船が来てから十数年の年月があったのに、
旗本に対してまともな軍制改革に着手しなかった幕府の責任そのものだろ。
652 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 12:59:42
今さら幕府の批判してるやつなんなの?幕府もうないのに・・・
??┻┳?一
千石の旗本で、家臣・使用人は何人ぐらい召抱えてたのかな?
手元のメモに、
「用人2人・給人1人・小姓3人・足軽2人・中間8人・女中7人」
って自分で書いてあった(出典不明。たぶんネットで見つけてメモった)けど、
千石でこの人数は多すぎるよな、どう考えても。
655 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 17:43:59
軍役は1万石で250人程度。千石なら二十数人だから、平時なら相応。
平時なら相応か、千石でも結構な人数抱えてたんだな
女中7人は多い気がするけど、半分ぐらいは殿様のお手つきかなw
657 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 19:02:09
千石の旗本なら屋敷も広いからな。炊事と掃除だけでも大仕事だ。家族がいるから、
奥方のお付きの女中も必要だしな。
>>649 なるほどな、常備性の崩壊か。
元気な老人はなかなか家督を譲らなかった元気な老人も結構いたようだし
定年がないというのも痛し痒しかもな。
根岸肥前守も79歳で死ぬまで町奉行に在任してるみたいだな。
いくら有能でも、そういう老人が多いとポスト空き待ちの連中はたまったもんじゃないなw
659 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 21:07:38
19世紀前半だと、留守居とか旗奉行、槍奉行なんかには80代、90代の大ベテランまでいたそうな。
>>642 馬を持つのは五百石からじゃなかったかな?
五百国扶持のことを馬一頭のお家柄と呼んでいた。
ちなみに、「槍一筋」の家といえば、二百石扶持の家。
661 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 00:51:23
>>660 ああそうなんだ。
確か前田が400石くらいだったから幕府もそうかなと。
>>658 >元気な老人はなかなか家督を譲らなかったそうだし
氏家幹人氏の著書に、そういうご老人たちを書いた章がある。
早死にも多かった時代だけど、長寿で元気な人は意外に多かったようす。
平均寿命を下げたのは乳児死亡率の高さだからね
664 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 07:39:18
>>660 騎馬は200石で当主に加えて一騎。
200石高の町与力の軍制もこの通り。
665 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 10:54:09
第二次長州征伐で大阪城本丸御殿に幾人もの七、八歳の童子が旗本の当主として詰めていた。先代の当主達が命惜しさに俄か隠居したためである。これを見た慶喜は幕府の命運はもはや尽きたと落胆したと言う。
直参旗本の名が泣くな
あの世で鬼作左に叱られてることだろうw
667 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 16:56:04
幕府が鳥羽伏見で敗れても大身の旗本の殿様の関心事は朝顔の品評会にあったと言う。
668 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 17:08:16
江戸時代の朝顔の多種多様なことには驚くし
どういう交配からこの種が生まれるなんてこともわかってたのに
遺伝の法則を見つけられなかったのは不思議なことだ
669 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 17:20:08
>>667 今だって、民主党が温室効果ガス25%削減とか言って日本を滅ぼそうとしてても
マスコミや大衆の関心事は、芸能人だとかスポーツ選手だとかの話ばかりだしね。
670 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 17:23:00
子が親の形質を受け継ぐことはどの民族だろうと常識。それを一般化する必要性を感じたか否かの問題だろう。
少なくとも、品種改良という目的には大した意味がない。メンデルの法則も、それ単独の知見としては大したことを
言ってないから数十年顧みられることがなかった。ダーウィンの進化論や分子生物学と並べてはじめて価値が
生じるものだからね。
>>669 んな間接的な話でなくても、小泉純一郎が以前「日本を叩き売りしまーす」
と叫んだ時に、馬鹿が大勢票を投げ捨てていたのを見ればわかるだろうに。
>>671 で、株価と雇用の上昇はスルーかなw
小泉を全否定したがる奴って経済・外交分野は自力では理解出来てないしw
公的資金強制注入による不良債権処理
数字上の好景気と新卒売り手市場
すら無かったことにしたがるしw
新自由主義なぁ・・・
>>672 前の成果がやっと出てきた、という果実をむしっただけだろうに。
今の景気後退が「小泉式叩き売り」完了後だったらえらいこと
だったよ。
で、世界に向けて「日本は強面で迫られればいくらでも下がります」
と公言してきた小泉の「外交分野の成果」ってなんだね?
>>665 隠居を言い出しても認めなければいいはずなんだけどね。
10年以上運動してないだろう文官のおじいちゃんを動員するより、まだマシじゃね?
>>661 前田は家によって四分役と二分役があって(100石に付き四人か二人かの違い)
400石で騎馬というのは二分役の家じゃないかな?
678 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 07:31:24
彰義隊が戦っているのに殆んどの旗本、御家人は知らん顔。都市生活者と言う者が腐敗堕落して他人に無関心になるのは今も昔も同じ。
679 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 07:59:00
高家や交代寄合という、いわば新参者のみならず、
三河以来の家柄の高禄の大身旗本にも早々と新政府に帰順して朝臣になった者は多い。
静岡に無禄移住したり、箱館に脱走したり、帰農した連中より賢明だな。
武士の賓雷のあり方は「一所懸命」なんだから、所領の安堵を最優先するのは当然だ。
680 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 08:17:28
>>679 >武士の賓雷のあり方
× 賓雷
○ 本来
>>671>>674 具体的に書いて見なさいな
在任中の指標や指数でも貼ってみなさい
是々非々を論ぜられない盲目的なお人に分析は無理
682 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 09:14:26
小泉がどうの新自由主義がどうのって時事ネタはスレ違い、板違い。
ダラダラ長くやると完全に脱線だから、どっかよそでやれよ。
旗本について語る意思がないのなら、ただの荒らしだろ。
歴史は繰り返す。旗本・御家人の堕落で徳川幕府瓦解
清朝の堕落で日清戦争の清の敗北、辛亥革命
民国政府の堕落で中国革命
日本はというと平成以降長い堕落のトンネルで
以下略
>>679 帰順した人の活躍ってあんまり聞かないんだけど、その後どうなったの?
685 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 09:55:35
所詮、官僚だからなぁ。
そういや、秋山好古の嫁さんの実家の佐久間家て幕府以来の屋敷みたいだけど明治になってからは何していたんだろう。
番方といっても、平時は特に何もすることないからな
687 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 15:44:45
若く体力があり訓練で練達されてないと軍隊にならない。一部の新進気鋭の者を除いて大部分の旗本は本来の将校、将軍の役回りができなくなり歩兵を雇う資金の分担のみで時代から取り残された。
688 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 20:04:01
帰順した旗本も、廃藩置県以前に知行は新政府に収公されてはした金貰って終わり。
その後は、お寺で憤死したり、旧知行の農民から金を借りて行方知れずとか、帰農して身の回りの世話を
自分の娘にさせ、そのまま2人とも死んで旧知行内の菩提寺に葬られたり。
689 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 21:33:57
>秋山好古の嫁さんの実家の佐久間家て幕府以来の屋敷みたいだけど
確かに、明治も十五、六年になっても、旧幕時代とかわらぬ生活を維持できてるのは、
尋常ではないな。
690 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 21:48:40
うまく旧知行地で地主になれたんじゃないか。我が家も昭和初期まで旧知行地に私有地を持っていて村役人の地位を確保していたよ。
691 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 21:59:05
旧旗本が旧知行所で地主?
実例あるのか?
692 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 22:12:36
遠山の金さんの子孫が維新後、千葉県の旧知行所に帰農してたという例はある。
明治の中頃には東京に戻ったそうだが。
693 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 22:18:06
金さえあれば地主になれるから、実例はある。知行所の在地代官や村役人とは直近まで主従関係だから、
土地売買の仲介役には事欠かないし。
新政府から貰った金を陪臣に配って共倒れ同様に元手を失ってしまうか、陪臣を小作人にでもして土地を
買うか、どっちが家中にとって幸せだっただろうか。
しかし、旗本当主に才覚がなければ、才覚のある陪臣はとっとと主君を見限り、ない陪臣は右往左往するうちに
共倒れ同様になってその家中は終わりだったわけだけどね。
694 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 22:21:57
米良氏とか長澤松平氏、岩手竹中氏など、交代寄合でも旧知行地で明治以後も屋敷を構えていた家は多いね。
>>682 自分で始めて都合が悪いと自治で収束を計るかね
新自由主義wとかさ
基本は雑談はオートマチックにスルーされる
過疎板だって大前提すら忘れてないかい
まぁ基本、近世経済が趣味な史学は素人で無頼漢なだけど
せめてIPくらいは変えてこい
逃げるくらいなら絡むな
696 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 00:23:17
まだやってるのか、この板違い野郎は。
>>689 自分もあの屋敷構えを見て、あの家は駿河に下らなかった組なのか?とか
上手く新政府の高級官僚となり潤っているのだろうか?とか、
色々と考えながら見ていたよ。
原作を読んだことのある人いますか?
その中に佐久間家についての記述は何かあるのだろうか。
698 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 07:19:43
大身旗本といいこと以外には特に書いてなかった
699 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 12:56:48
佐久間家から好古に嫁いでるから没落したんだろ
しかし、あのエピソードは SNE だな。
佐久間の屋敷、立派な門構えだったね
702 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 20:17:41
>>699 帝国軍人の好古は、いわば「天朝様の御旗本」だから、別に没落にはならんだろ。
旗本の佐久間家は1300石が最高?
704 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 22:14:56
>>702 司馬の原作にも天朝様の旗本と書いてあるよね
でも事実として佐久間家は没落旗本だったんだよな
原作には書いてないけどドラマでは好古と民のお見合いシーンがあるみたいだしその辺りの事情も描かれてるかもね
705 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 22:17:18
>>702 最下級の伍長でも法的にれっきとした「帝国軍人」で天皇陛下の官吏だから、「天朝様の御旗本」かな?
※からかってるわけではありません
千石台って大身なのかな
3千石以上じゃなくて?
大身旗本にしては屋敷狭くない?
708 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 23:21:56
千石は相当でかいやろ。
709 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 23:31:29
幕臣中でも知行千石以上はごく少数のエリート中エリート
そりゃ、何千石の旗本も少数いるわけだけど、
幕臣階層石高ピラミッドの下のほうの家が圧倒的に多いわけで、
千石どりだったら「大身」って言われるんじゃないのかな。
正岡子規の家って、お馬廻りだったんだ。
確かに、秋山家と比すと「低くはない」家筋ではあるね。
711 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 13:30:18
正岡姓は四国で名族だよ。久松の殿様が三河から連れてきた移住組ではなく元来四国にいた豪族の系統だよ。
小十人筋、大番筋、書院番筋、寄合の典型的な出世ルートはそれぞれどんな感じだろう?
書院番は番衆→使番・徒頭・小十人頭→組頭・目付→遠国奉行→三奉行→大目付って感じかな
役方の下級旗本だと勘定→評定所留役→組頭→勘定吟味役→とか・・・
713 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 19:42:08
小説やドラマの中の佐久間家は、羽振りがよさそうだったけど、
史実の佐久間家はやっぱり維新で零落して窮迫してたのかねえ。
でも、漱石の「坊ちゃん」の主人公(多田?)の生家は、
坊ちゃんの親父が生きてるうちは、そこそこゆとりのある暮らしぶりだったが。
714 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 20:09:42
「坊ちゃん」の主人公一家から明治の旧旗本の具体的な姿を見てみる。
作中の年代は、モデルとなった漱石の松山赴任時期と同じなら1890年代中頃、
作品の執筆時期と同じなら1900年代中頃だが、その頃の旧旗本一家の一例。
父親・・・「何もせぬ男」、すなわち無職。先祖代々の屋敷で何もせず自適。
兄・・・高等商業(現在の一橋大)を卒業して、会社員となり九州支店に赴任。
本人・・・物理学校(現在の東京理科大)を卒業して、数学教師として松山の中学に赴任。のち街鉄の技手。
こうして見ると、人力車夫や女郎に落ちぶれた旗本が多い中、坊ちゃん一家はかなり恵まれている。
息子たちは中学から専門学校(現在の大学)まで進学し、会社員や教員になっている。
士族、旧旗本としての品位を落とさず、明治の代でそれなりの職業についている。
しかし、このような境遇の旧旗本は実際にどれだけいたのだろうか?
理科大は凄いが、一橋って聞いたこと無い。随分落ちぶれたな。
釣りか?
現在の一橋大学は言うに及ばず東大・京大に次ぐ一流大学だが。
理系でいうと東工大のポジション。
尤も当時と今を単純に比べることには意味ないけど。
717 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 20:41:16
職業でなく大学名に今の感覚で反応するアホな厨房を相手になに遊んでんだか。
718 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 21:02:39
高等商業といっても、どういう学校かわからんだろうから、
現在の校名を書いただけなのに、何を過剰反応してるのやら。
「坊ちゃん」の主人公の家は、父親の存命中は売り食いか家作の収入でもあったのかな。
父親の死後、家督を継いだ兄が家屋敷を処分してるくらいだから、家作はなかったかもしれん。
それでも無職の主人が、妻子を養い、二人の息子に高等教育を受けさせたのだから、
旧旗本としてはそこそこ裕福だったことは疑いを得ない。
可能性としては、明治初年に朝臣になって、新政府の官吏にでもなってたのだろうか。
新政府の中下級官吏の大半は旧幕臣だったというし。
そんなところかもね。
新政府の中下級官吏ってかなり待遇良かったらしいね。
「武士の家計簿」の旧加賀藩士・猪山家も、中央の官吏になって叙位されてたっけ。
旗本でも数万両溜め込んでた家も中にはあったみたいだけど、
そういう家が明治以後どうなったことやら・・・
>>712 寄合⇒江戸城門番・駿府加番・中川御番などのボランティア勤めで実績⇒
大目付、小普請組支配、甲府勤番支配、駿府城代、御側衆などの重職勤め
高家をやってた畠山家(政長系)は、維新後に分家からとった養子に
家督を譲った、という話が論文(畠山家の子孫から大学に寄贈された文書の
調査に関するもの)に掲載されてたけど、こういう高家や一般の旗本って維新後の
話ってほとんど聞かないよな・・・
御側衆以外、あまり実権やうまみのない御役だよなぁ
そりゃ城代や番頭、支配役は名誉の御役なんだろうけど大変そうだな
大目付は風紀委員みたいに重箱の隅をつつくのが仕事だし・・・
案外「人力車夫や女郎に落ちぶれた旗本が多い」てのが珍しいからネタ話に残っただけで
堅実で震災か空襲まではいちおう体裁保ってたのがほとんどで珍しくもなんともなかったので
話そのものが残っていないとか・・。
官僚は薩摩、長州やけど、ノンキャリ公務員程度ならなんとかみたいなもので。
寄合なんで基本は3千石以上の御大身
従五位下諸大夫役の名誉職でOKだったんでしょう
725 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 23:07:59
旗本の大多数が没落した
有名な話だが2500石稲葉家は債務者に追われ
かつて屋敷に使えた乳母がいる元町同心の家に債務家者の対応をしてもらったが
最後には夜逃げした
元町同心は樋口一葉の家
726 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 23:50:29
夜逃げ後は身分を隠して、裏長屋で都市細民として社会の底辺に埋没したんだろうな。
その日の糧を得るため、人力車夫や日雇い労務者。下手をすれば嫁や娘は女郎。
子どもは教育を受ける機会もないので階級上昇の機会もなく、士族らしい風儀も忘れ、
社会の底辺に這いずる貧しい労働者となり、結婚相手も士族でもなんでもない貧民窟の人間と・・・
727 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 23:51:28
秋山の大家の佐久間殿なら大学南校でドイツ語の先生つーか文部省の役人してたような。
>>723 まあ、明治期の知識階層って士族系の連中が多いからなあ。
>>725 樋口一葉が窮乏生活してたってのは、
父親が亡くなったということのほうが大きいんじゃないの。
あの頃は父親が死亡して没落・・・という家が多いからね。
>>729 蜷川新のように父親が死んだ後、親戚を頼った(母方が大名だった)ケースもあるようだけど、
蜷川家の場合も家財を売っている(蜷川家文書も蜷川新から国が購入している)し、やはり
父親の死亡=収入の途絶=没落というケースは多かったんだろうな
731 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 00:44:48
>>726 維新後、アメリカに移民した元会津藩士の中には黒人と結婚したやつもいたらしい。
明治維新、恐るべし。
732 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 02:00:09
>>729 樋口一葉が貧乏とかじゃなくて二千五百石の稲葉家のことだろ?
一葉の父は稲葉の元家来にも金貸してたみたいだな
733 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 02:35:06
樋口一葉の母滝子が安政四年六月に旗本稲葉家の乳母として屋敷に上がった時の給金は三両、外に仕着料一両、里扶持一分一朱、小遣い二百文だった。
当時、夫の樋口則義は甲斐から出奔したばかりで同郷の幕臣真下専之丞の元で求職中で、
翌月に蕃書取調所の小使いになりさらに翌年に大阪城番与力田辺太郎の従者になり大阪に単身赴任した。
後年則義が町同心株を買い御家人になる時、稲葉家の知行地採用の家来を親類だと偽装して分限小札に記し幕府に提出した関係もあった。
734 :
花:2009/12/02(水) 06:47:46
735 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 08:03:00
乳母ってけっこう金もらえるんだな
>>735 いやいや、多分月給じゃなくて年給
住み込み食事つきじゃないとやっていけない
737 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 18:09:33
漱石や子規と同い年の幸田露伴の生家は茶坊主をつとめる御家人の家柄だった。
実兄は千島探検で有名な郡司成忠大尉。
露伴自身は電信技師になるための学校を出て、北海道に技師として赴任したが、
極寒の僻地での生活に嫌気がさして、職場放棄して東京に逃げ帰った。
「坂の上〜」で秋山兄が佐久間家の老女中に陪臣と見下されてたけど、
同じ直参の旗本と御家人の間(御役の上下関係のない小普請同士で)でも、
どこかで同席した場合のとかの身分差は大きかったのかな?
地方藩だと、上士と下士の差でいろいろ過酷な話も多いけど・・・
739 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 19:27:48
植村 正久(1858年1月15日〔安政4年12月1日〕 - 1925年1月8日)
思想家・キリスト教の伝道者・牧師・神学者。
号は「謙堂」あるいは「桔梗生」など。
1,500石どりの旗本の長男に生まれるが、幕府の瓦解とともに生家は没落する。
横浜へ出て薪炭商などを営むなかで、J・H・バラの学塾に通ってキリスト教に接し、
横浜日本基督公会で1873年5月にバラから洗礼を受ける。
740 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 19:39:17
>>731 >黒人と結婚したやつもいたらしい
ワカマツ・コロニーの入植者はほとんどが黒人女性と結婚し
子孫は日系人社会ではなく黒人社会に溶け込んだんだよ
741 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 20:01:35
悲惨だな、それ。
劇画の「荒野の少年イサム」。
アメリカに渡った父親は元会津藩士だという設定w
黒人女性ではなくネイティブの女性と結婚したことになってる。
743 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 00:02:28
陪臣の話はスレ違いだろ
陪臣関係のスレってそういえばないよな
大名スレ・家老スレはあるのに三百藩スレがないという不思議
745 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 07:30:38
旗本、御家人の家来は諸藩の陪臣と同格となるわけだな。
>>738 陪臣ってのもおかしいよな。
秋山兄は帝国陸軍将校だから天皇の直参中の直参。
747 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 08:29:57
天皇の陪臣っているの?
明治憲法以前は、位階のついてない将軍や大名の家来は陪臣じゃね。
749 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 08:50:46
朝臣の家人とか。
750 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 09:43:07
公家侍は何にあたるんですか?
751 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 10:04:23
大名なみの官位があったりするから天皇の直臣。
752 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 10:49:55
位階もってないのは天皇の陪臣は?
明治以降に天皇の直臣なんて言うか?
じゃあ天皇の陪臣っているの?
重臣ならわかるが
明治憲法だと国民全員等しく天皇の臣下ってことになってるから、
日本国民は全員言ってみれば直臣、ということで、
直臣陪臣って言葉に意味がなくなって使われなくなったんでしょう。
755 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 17:01:31
明治の初めなら江戸時代の身分秩序を振り回す奴らが多かった。田舎には今もいるようだけど。
旗本知行地などで聞き込み調査とかしていると「○○さんの家は陣屋詰だったけど、士族じゃなくて卒だ」とか
馬鹿にしたように言う郷土史研究家に何人か会った。
756 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 17:44:59
その郷土史家自身は百姓の出のくせになw
757 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 17:50:11
↑そういうお前はいまだに封建秩序を振り回す田舎者の癖にな。
758 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 18:11:04
郷土史家って中学や高校の歴史の先生だった人が多いよな。
で、地方や農村部の場合、農家の息子が学校の先生になってるケースが多い。
寺の住職や神主の場合も多いが。
759 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 18:17:27
農村部にはそもそも士族がほとんどいないから高率で農民なのは当然といえるけど。
760 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 18:44:16
郷土史家の志とは明治維新以後に旧藩の事績を忘れないで欲しいと言うような旧体制側の事情、哀惜にある。昭和の軍人が大東亜戦争肯定論的な戦記を書きまくっているのに似ている。
盗人にも・・・と言うと語弊があるが、どんな立場の人にも、
多かれ少なかれ、それなりに尤もな事情があるものだ。
挑戦とか外地は陪臣じゃね?
763 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:15:46
旗本知行所に卒なんかいるのか?
>>762 植民地ではなく、併合である以上、実態はともかく、建前上は内地の人間と同じはず。
というか、「陪臣」って言葉の意味理解できてるか?
765 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:30:24
のび太は陪臣だな
天皇―ジャイアン―のび太
766 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:35:52
自演病が紛れ込んでるな
自演どうこう以前に意味不明すぎるw
町奉行所には御目見以下の「与力(職禄120-230俵)」「同心(職禄30俵2人扶持)」が
いたが、同心⇒与力への昇格は皆無であったらしい。
これに比べ勘定系は、支配勘定(以下)⇒勘定(以上)⇒勘定組頭⇒勘定吟味役(布衣)
⇒勘定奉行(諸大夫)と 立身出世の少ないながらも残されていた。
769 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 08:36:30
>>763 代官所を構えていれば現地採用の下役人がいるし、明治初頭の身分制では、それらの多くは卒族になった。
のちに代々の取立てなら士族、一代二代程度なら平民になったそうだ。
770 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 12:13:14
駿府にいた同心は正式な幕臣でなかったらしく家達の静岡藩が成立するとお役御免で追い払われている。
771 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 12:26:18
正式でないというより、下っ端だからリストラされただけじゃないのか。
同心って足軽(卒分)のことだからなぁ
773 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 15:02:00
町奉行所には同心とは別に足軽がいるよ
隠密同心はあっても隠密足軽ってのはない(?)
775 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 16:28:51
NINJAと言えYO!
776 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 17:35:50
>>739 >植村 正久
徳川の1500石の旗本の家に生まれた。
大政奉還で没落し、立身出世を目指して英学を学ぶ。
そこで、ブラウン宣教師、バラ宣教師に師事した。
16歳のときにバラより洗礼を受け、日本基督教会の教会員となる。
上流階級、中流階級、ホワイトカラー層中心の教会を形成した植村正久は
「我輩の教会に車夫、職工の類はいらない」
と言って下層階級、ブルーカラー、肉体労働者層を排除した。
>「我輩の教会に車夫、職工の類はいらない」
旗本の大多数は「車夫、職工の類」になったというのに・・・
777 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 20:36:19
天野八郎は自称旗本?
778 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 20:57:45
>>778 やっぱり1500石の大身旗本の若様だからな。
779 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 21:59:11
しかも大名の分家
780 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 23:07:17
代官所の手代は現地採用の一代抱え、手附は御家人かね?
手代から世襲の手附に出世して転勤する例もみられるよう。
手代は管内では士装二本差しだが、江戸や他の代官所への出張のときは脇差のみとかややこしい決まりがあったらしいね?
781 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 23:40:34
手附は御家人だが手附職は世襲ではない
天野は幕臣ですら、ないのでわ?
783 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 00:23:33
上野国甘楽郡磐戸村の名主の息子。
1865年、江戸町火消し与力の広浜喜之進の養子となったが、翌1866年に離縁し、
自ら旗本天野氏を称して天野八郎と名乗る。
自称旗本?
784 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 00:49:51
彰義隊をどう考えるかだろうけど、一応幕府の命で市中取締に任じたわけだから。
新撰組→浪士結社→京都守護職支配下→全員幕臣
彰義隊→任意団体?→幕臣、浪士のごっちゃ→公認?
天野は副頭取だけど、お雇いぐらいの感じか・・・
785 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 08:04:21
南の妖怪・鳥居ヨウ蔵について、こんな記述が・・・
>鳥居は養父鳥居一学の長女を妻としたが、その妊娠中に二階から突き落として死なせた。
>その次女を妻としたがこれもまた一朝の怒りに狂して妊身に踏台を投げ付けて即死させた。
>鳥居の骨格相貌は一見して奸悪な人間とわかる険相だった。
>なぜ温和な父述斎の息子にこんなものが生まれたかと思わせるほどだった。
786 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 09:05:06
一見して奸悪って単なる誹謗中傷じやね
話全てが嘘臭くなる。
787 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 09:47:55
大名、端本の当主てのは一種ね公職だから変な事していたら縁座の対象の一族、親戚、上司部下同僚よってたかって隠居か養子離縁だわさ。
788 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 10:44:56
鳥居は明治維新後も生き抜いて「俺を処罰するから幕府は滅んだ」とうそぶいたと言う事だ。
はたもとの子孫
三省堂書店創業者一族・・姻戚がソニーの盛田
790 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 13:04:36
松平定知なんて桑名の末裔かと思ったら久松の分家の旗本なんだね。
791 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 23:55:44
それでもNHK好みの家系だね
事件おこしても復活してるし
あだ名が殿様、旗本でも殿様は殿様だろう
792 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 07:28:49
分家旗本が本家の養子に入って大名になった例は姫路榊原、小田原大久保、宇和島伊達か?他には?
793 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 07:49:20
幕末の姫路酒井。
兄弟2人が続けて相続した上、兄は大老、弟は老中。
794 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 07:50:18
あと幕末の白河藩阿部氏も。
これまた町奉行から一気に老中就任。
795 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 08:37:57
昔は二十、三十でポックリ死んだからな。遠山の金さんも跡目が回って来たんだよ。
796 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 11:35:09
遠山金四郎ってかっこいいよな
遠山景織子って子孫なの?
景がついてるけど、偶然か
798 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 14:12:29
遠山景織子の姉妹はみんな景の字がついているそうだが
後北条系遠山氏で金さんの末裔ではない
799 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 15:33:36
>>793 佐幕派だったんで維新後は謹慎させられたが
後に許されて分家して2人とも男爵
幕臣の身からは思いも寄らない出世だね
姫路酒井は7代で直系が絶えた後
初代重忠の父正親から分かれた系統へ行って15代忠顕まで続き
やっと初代重忠の十代孫忠績へ家督が帰ってきたんだな
そういう意味ではもっと早くから大名になっててもよかった
800 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 17:52:52
>>799 明治になってから男爵になったことよりも、
旗本の息子が15万石の譜代名門を相続した上、すぐに大老や老中になったこと自体が、
一介の幕臣の身からは思いも寄らない出世だと思う。
大老や老中をつとめた身からすれば、男爵ていどは出世とは思えないのでは?
(たとえ「朝敵」として官位剥奪された身とはいえ)
801 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 18:48:19
養子大名連中は幕末凄い活躍してるよ
802 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 18:56:08
剣豪将軍義輝なみの活躍をか。
旗本の維新後の没落は自業自得だよな
804 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 19:42:36
>>802 酒豪大名なら約1名、土佐のほうにいるけど。
805 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 20:34:18
酔侯も養子、容保も養子、将軍も養子
806 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 00:13:34
もともと、養子の多い時代だからね
807 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 00:40:48
旗本から大名への養子の代表は宇和島伊達の賢侯だろうね
未決事案を扱う御側御用取次と既決事案を扱う平御側では権勢が段違いだったのかな
老中の取次を拒否するケースって結構あったんだろうか・・・
809 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 02:57:38
ない
810 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 03:21:05
慶応4年段階で、旧幕府系何とか隊、がいっぱいできた。
そのなかで彰義隊が一番敷居が低くて、いぱーい集まった。
実質、愚連隊に近かったようだな。
彰義隊に「御旗本」が何人いたのか??
>>810 そんなん、資料本を読めばすぐにわかることなのだが。
それに、愚連隊に近いような隊といったら彰義隊より他に
そのものズバリみたいな集団もいるよ。
812 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 12:59:28
黒門の戦いの戦死者でも相当数の直参の若様達がいる
情夫(色)に持つなら彰義隊
814 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 07:32:10
全て慶喜のせいだ。己の保身と後世に朝敵の汚名を避けるために権現様以来の旗本、御家人を見棄てた。彰義隊は徳川二百年七十年の栄光に殉じた立派な存在である。
武士道の頂点の人間が敵前逃亡ってのがな・・。
しかも維新後貴族にまでなって。
恥さらし
武士道の在り方に多論があるのは、赤穂藩の取りつぶしで明白。
風聞を根拠に老人を夜襲に掛け惨殺したことが褒め称えられたが、家名存続のため
謀議に加わらなかったことが、武士道に恥じる物なのか不明だ。
武家は家臣と言っても、隷属したわけではない。
何を大切に考え、どのように名を残すのかは人それぞれ。
物事の解釈は多角的なので、武士道の在り方も一つではない。
唯一、一致するのは「己の信じる道を突き進む」ことくらい。
貴族じゃないよ華族だよ
818 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 18:05:32
帝国憲法時代の法律では華族は日本人で貴族は朝鮮人(李王朝の遺臣で日本の爵位を受けた者)と区別されていた。
819 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 18:14:38
貴族院という言葉があるのだから、「貴族」というのは皇族や華族の総称であり、
漠然と華族などの特権階級をさした言葉だろう。
のちに「朝鮮貴族」が創設されたから、紛らわしいが。
820 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 18:42:09
>全て慶喜のせいだ。
その慶喜に継戦を諦めさせたのが子供だらけの旗本部隊。
821 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 19:59:37
>>819 貴族院には華族議員の他に勅撰議員や多額納税者議員もいた
だから華族院じゃなくて貴族院と範囲を広く取ってるわけ
822 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 20:51:34
いずれにせよ、貴族=朝鮮人という解釈はまちがいだよな。
818みたいな勘違いな薀蓄って、一体どこから仕入れてくるんだろうか・・・
824 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 06:41:03
日本に法制上貴族と言う身分は朝鮮人有爵者のみを指す。日韓併合条約に附帯する朝鮮貴族令による。最上位は侯爵。日本の華族制度とは法制上別立。貴族院議員にはなれないなど差別されていた。つまり帝国憲法下には華族制度と貴族制度があった事になる。
825 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 07:44:05
屁理屈こねるな。
帝国憲法制定時点での「貴族院」の名称は、朝鮮貴族なんぞを想定してたわけじゃないだろ。
なあにが貴族=朝鮮人だ。木を見て山を見ずってのは、おまえみたいな視野狭窄な重箱の隅ほじくり野郎のことなんだよ。
826 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 07:50:35
頭が悪い。歴史オタクは法律面では無知だな。
双方とも落ち着けよ
828 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 18:42:22
明治時代は天皇を皇帝(対外呼称だけでなく国内向けでも)と言ったり、
国号も大日本帝国と大日本国と日本国と日本帝国を混用してたり、
けっこう名称にはアバウトなんだよね。
貴族と華族も、当初はそんなに厳密に区別してたわけじゃないだろ。
旗本と旗本奴は同等か?
>>826 法律の話をするなら、朝鮮貴族は「朝鮮貴族」という身分だね。
君らいいかげんスレチだということに気づいてな
832 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 23:26:41
勝、榎本、山岡以外で、華族になった幕臣って誰がいたかな。
大久保一翁くらいか。
渋沢とか益田孝とか郷純造とかは、純粋な幕臣じゃないし。
833 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 23:47:38
松本良順
林董
養子だから「純粋」じゃないかな
>>811,812
すまぬ。資料さがす。
大佛がそういうので、書いてみた。
835 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 00:14:44
最上徳内の本読んでるんだけど御譜代士になったって書いてあった
これって御譜代席の事なんですかね?
「坂雲」を見ていて、好古が戦場に向かう場面で
身重妻の多美が「帰ってきて下さい」という台詞、
かなーり苦情が出るだろうなと思ってたら、某板でやはりヤリ玉にw
いえ、自分も「ご武運を」くらいにしとけばいいのに・・・とは思ったけど。
「武家の娘のくせに」と、多くの人が非難してたけど
旧旗本の家とて維新を生き抜くのに大変な時代、
「武家の娘たるもの、夫が戦場にむかう場合の心得」なんて厳しい躾を
皆がみな受けているわけでは無いだろうに、とふと思ってしまった。
もしも直参旗本の多くに、逞しい武家魂や気構えがあったら、
あんなに易々と官軍が江戸にはいれたわけないだろうに。
多美の家は官軍に抗うことがなかったからこそ、
あの家屋敷を保持できて到っているのだと思えば、尚さら。
好古は生きて立身してこその職業軍人なのだし。
自分の考えも少し天邪鬼が入ってるのは認識しています。けど、
明治のあの時代に「お国のために死んでこそ軍人の誉れ」的な風潮は無いよね?
839 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 18:59:13
少なくとも、村田蔵六先生が生きてたら、そんな発想はしなかったろうな。
840 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 20:45:47
俺の祖父は昭和18年に出征したが、駅で「絶対に死なないでくれ」って母(俺の曾祖母)さんに泣かれたらしい
曾祖母は仙台藩の下級士族の娘
祖父は、お国の為に死にに行こうという時になんて事を言うんだと憤慨したらしいが
こういう婆さんがいたから日本は負けたんだ。
太平洋戦争の頃の昭和は、そういう風潮が最高潮な時代だったのでは。
843 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 21:42:12
昭和18年で「死ぬな」は大した勇気だな
さすがお武家のお嬢さんだなw
仙台藩は賊軍だから
>>841 むしろ、お前さんみたいな言い草のやつばかりになって、過剰な精神論に走った結果がアレだろう。
小野田寛郎少尉の母上はお国のために立派に死んでこいと
小野田少尉を送り出したけど、それは時代が言わせた言葉
どこの世界に息子や夫に名誉の戦死を望むものがいようかと言ってたな。
847 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 23:14:34
村田蔵六みたいな、精神論とは対極のリアリストが建軍の父なのになあ。
848 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 23:40:28
君死にたもうことなかれ
849 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 23:44:04
蔵六は花神だからね
与謝野晶子の弟は職業軍人じゃないし。
851 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 01:57:45
この場合職業軍人じゃなくてもいいだろ
将軍に日常的に接する御小姓・御小納戸って意外と定数多いんだね
奥医師もね
どこへ外出するにも付いて行くし
854 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 21:48:32
御小納戸なんて数十名もいたから、将軍とそんなに親しく接する機会なかったんじゃないか?
侍従や秘書というより召使いや従僕って感じかな。
例えは悪いけど、御側衆は執事長、御小姓は執事、御小納戸頭取はメイド長、
御小納戸はメイドさんのイメージがあるんだがw
奥儒者=家庭教師の先生
奥医師=侍医、主治医
図面とかみると将軍の居住空間(奥部分)って意外と狭いのな
昔の日本家屋って、一番重要で広いスペースはプライベート空間じゃなくて
仏間ですから。
なるほど、当時の仏間の重要性は今とはぜんぜん違ったんでしょうね。
860 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 19:48:43
861 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 01:22:09
862 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 12:43:32
茶坊主は中奥で将軍の世話は焼かなかったの?
863 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 12:52:30
無理に近代にあてはめると
側用人は内大臣
御側御用取次とか御側衆は侍従長
小姓は平の侍従
御小納戸は内舎人のような側使いの召使い
茶坊主は宮中晩餐会とかでのボーイみたいな人たち
近現代の侍従はもっと地位が高い気がする
>>862 既出だけど御休息之間とか将軍の居住空間は「中奥」じゃなくて「奥」だよ
奥には奥坊主がいた
中奥は「表」の黒書院あたりのことらしい
866 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 13:51:54
茶坊主って格好だけ?何処かの宗派に属した正式な坊さんなの?
867 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 19:22:46
格好だけ。
身分が低くても高貴な人のお側で奉仕できるように、法体にしている。
室町時代の○阿弥や御典医なんかと同じ。
868 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 19:24:00
ちなみに幕府の茶坊主の家系からは、幸田露伴と芥川龍之介が出ている。
御典医は身分低くないだろ
870 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 19:55:53
まあ、そうなんだが、幕府の奥医師が坊主頭なのはそういう理由かららしい。
ちなみに綱吉時代以前の林家当主が坊主頭だったのも同様の理由から。
871 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 03:59:10
茶坊主には軍役はあるの?
872 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 07:48:25
873 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 08:31:22
室町時代、同朋衆が将軍について従軍したりしてなかったかな?
874 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 08:49:55
個人としての従軍と石高に基づく配下を引き連れた軍役との区別について。
875 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 10:01:43
茶坊主って御家人だろ。軍役がなければ石高はもらい得だな。
876 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 10:18:38
ニートや寄合・小普請旗本などと違って、ちゃんと仕事してるし、禄も足りないくらい
衣装その他の出費はかさんだだろうけどな。
出入りの大名衆からのいろいろ貰ってるから豊かな暮らしではあったようだ
878 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 11:41:26
御庭番の元締って茶坊主じゃなかった?時代劇の見過ぎかな。
>>878 本職では小納戸頭取や奥之番、隠密御用では側用取次だね。
小納戸頭取
881 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 13:55:41
小納戸ってのは、やっぱり将軍の男性版メイドなんだなw
各藩の御典医って上士扱い?
医者でも法体だから官位の叙位じゃなくて法印・法眼なのか・・・
でも儒者は諸大夫だよね?
>>882 幕府でも諸藩でも医者は「御目見以上の末席」という感じだよ。
その医者たちのごく一部、直接殿様(あるいは将軍)とその家族の
脈をとる人だけが足高をもらったりして、上士に準ずる扱いになる。
幕府の医者でも法印・法眼になるのはほんの少数者のみ
>>883 ありがとう!
なるほど、藩お抱えの医者全体を御典医っていうんだね
藩主と家族の主治医の役職だけを指すのかと思ってたよ
「ごてんい」って最初、「御殿医」って書くと思ってた。
御典医の家って立派な屋敷が多い気がするけど
専門職だから御一新の後もあまり没落しなかったのかもな
887 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 07:00:18
多紀楽院?
>>886 江戸時代以来医者をやってきた者と、その弟子で
明治15年6月現在満25歳以上の者は無試験で開業できた
889 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 15:39:27
age
890 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 17:46:42
891 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 17:47:45
7 :氷上の名無しさん@実況厳禁:2009/09/01(火) 11:29:30 ID:kWPuDRiK0
〜 織田信長の子孫に関する小ネタ 〜
●金スマ出演時に用意した家系図は某家系図業者共通の装丁で、
安住アナの指摘どおり「昨日作ったばかりのよう」な代物。
代々受け継いだものでないことは明らかで、歴史学的な検証には耐え得ない。
歴史ヲタにはおなじみの業者で、日本史板では落胆と失笑の声が上がった。
●織田母がTV番組出演時に語ったエピソード
「嫁に来て間もない頃に桔梗の花を飾ったところ姑に叱られた。」
「桔梗は明智の家紋だから、織田家では桔梗をいけるのはご法度ご法度なのです」
⇒旧丹波柏原藩織田家(元大名家)の当主である
織田孝一氏(本名は織田信孝、フリージャーナリスト)によるコメント抜粋。
「家には(桔梗ご法度の)習慣はないです」 「彼は誰なのでしょうね」
■■織田信成が織田信長の子孫って本当?■■
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1251535688/
892 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 17:48:46
【織田選手、名誉城主に 五輪年に清洲城から天下取り】
2009年12月27日 朝刊
愛知県清須市にある織田信長ゆかりの清洲城の名誉城主に、信長の子孫として知られるバンクーバー五輪のフィギュア男子代表、織田信成選手が就任することになった。
清洲城下が城ごと名古屋へ移った清須越(きよすごし)から400年となる2010年に、清須市が実施する清須越400年事業のシンボル的存在となる。
就任は10年1月から1年間。織田選手は「清須の文化と魅力の発信にお役に立てれば、信長公を先祖とする私としてもうれしい」とコメント。
メダルの期待がかかる来年2月の五輪に向け「清洲公園の信長公の銅像に戦勝報告したい」と誓った。
清須市は、五輪で市を挙げて織田選手を応援することを検討。来春には、織田選手を迎えた就任イベントの開催を計画している。
織田選手は大阪府高槻市出身。今年のグランプリ(GP)シリーズで2連勝し、世界の強豪が競うGPファイナルでも2位に入り、五輪代表を決めた。
現在の清洲城は1989年、旧清洲町(現清須市)が町制100周年記念事業で再建した。
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2009122702000122.html 税金の無駄いと家系捏造支援をする清須市への御意見&抗議はココから出せますwww
http://www.city.kiyosu.aichi.jp/shimin/index.html
893 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 19:39:52
市の観光宣伝なんだから、税金の無駄遣いという話にはならんだろ。
マスコミが宣伝しているのに乗っかってるだけだから、家系捏造が明るみにでても被害者面をはじめて
それで終わりだ。マスコミもグルなんだから。
895 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 13:53:11
家系そのものが「不明」という時点でおかしいと思う。
婚姻関係、養子縁組があったらあったで、そのまま記載すればいいのではないか
しかも、最後の御当主が「行方不明」だし。
896 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 14:44:51
高級幕臣だったら、戦前から明治にかけての除籍簿を遡ったら
幕末か19世紀前半頃の先祖まで遡れるだろう。
それと寛政重修諸家譜とか幕末期の幕府の記録とかを照合すれば、
空白の部分とか簡単につながるだろうに。
ていうか、曾祖父の名前なんて戦前の除籍簿で簡単にわかるだろw
897 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 14:51:32
弁護士なら他人の除籍謄本でも取れるから、損害賠償で訴えるなら簡単に嘘と証明できる。
>>895 ま、新田とこじつけた徳川家の系図と同じだわな
>>895 写真師をやってたらしいけど、いつ頃亡くなったのかは不明だそうな。
祖父は戦前に大学行ってるらしいが、それくらいの裕福な家庭で
親の名前判らんてことは無いと思うが
900 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:27:20
「なりすまし」
の可能性が出てきましたね。
Kの国の人が大好きなアレ、ですね。
そういえば織田家というと、ちょっと前に「宗家」を名乗って、武田家の子孫の方と
和睦してた人がおったけど、一応ページに家系図は出てたけど、到底「宗家」とは
言えんもんだしあれは何だったの?
902 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 08:16:28
戦前に京都帝大出てるなら、向こうの人ってことも考えにくいな。織田信長人気は戦後の産物だし、
一体なんだろうな。祖父の経歴全てが怪しいのか?
903 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 14:50:53
>>896 高級幕臣じゃなくても普通の日本人なら檀那寺の過去帳でそんくらい遡れるだろ?
うちなんか寺の分家だから、百姓なのに室町まで遡れるw
百姓になった8代前から当代(伯父)まで全部きちんとわかるし。
曾祖父の名前が不明とか、ありえんよ。
うちの本家には写真まであるし、百姓なのにw
904 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 01:45:48
>>902 ″戦前″ならそれ、普通にあり得るだろ。
逆に「このまま日本で暮らしたい」となるパターン。
905 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 05:14:34
京城帝大ならともかく、京都帝大って向こうの人に門戸が開かれていたのか?
>>905 台湾人だけど、李登輝は京都帝大の出身。
明治時代の神田神保町は東京の中華街と呼ばれていた
留学生が多かった
908 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 22:52:05
朴正煕、全斗煥、盧泰愚らは陸士。
韓国の大統領って陸士出身が多いな・・・
909 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 01:26:50
織田の話に戻ろうぜ。
本土以外の奴にも、旧帝大の門戸は開かれておった。
つまり、
旧帝大という話は、「日本人かつ元旗本」の裏付けにはならない。
そういえば、秀信(三法師)は信忠と武田の松姫との間にできた子で、
自分ちは秀信の子孫だって主張して妙な文書を露出させてた家があったな。
911 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 20:36:49
912 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 20:49:03
>>909 話を戻すも何も、公表されている家系図が、途中4代が不明とか言ってる時点で、信成自身が織田信長とは繋がってませんと言ってようなものじゃないかwww
913 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 20:52:50
、-‐'" __ ヽー- 、}ヽ
,/´/ / , _,. _/ ノ レi
_,// / /{ i ー' ノ
/ // / / .i l l! ー<
/ / //!/ ヽ ヾ l 〉ヾ,
!/! イ === ==ヾ、 }
|」l ! ,:==:、 , ,:==:、 l /
f r| !| ´ ' ヽ ` | l/
.l ヾハ ( ,-、_,-、) l/l!
\ _j _,, -―-ー-、_ l /
l l ヽ =エエエ=7 /´ 御先祖の声が聞こえた(本能寺にて)
`l丶 `ー---‐'´ イ┐
l \ / 」、 _ ,,.
「ヾ、__,>ー‐- ′_/ r―-- `ゝ
l イ /  ̄ ̄ ヽ
!_ _,.. i | / ヽ
/ !.| ,/
>>903 一般論だが、寺の過去帳に関しては廃寺や戦災、住職の断絶等でたどれなくなる
ケースは珍しくない。
大名家の菩提寺ならともかく、旗本の場合家そのものが没落して寺を支えるどこ
ろでなくなっていたケースも多いだろうしね。
「真田幸村の子孫」
と新聞などが大々的に書き立てて、
でも日本史ちょっとかじった奴らならすぐにわかる偽系図っぷりで、
そのうち誰もそれを言わなくなった。
そんな巨人軍の選手がいましたね。
916 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 22:45:01
>>914 曽祖父の代なんだから戸籍辿れるはず。空襲で焼けたところもあるけど、再製する場合に、既に帝大出てる祖父が
「自分の父親の名前は不明」では役所も処理しようがないだろう。
917 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 23:52:53
いや、まて・・・。
本当に京都帝大出ているのか?
何もかも、嘘のように思えてきたぞ。
918 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 23:57:11
何でこんなに必死に、織田信成厨が張り切るのか判らないwww
芸人のネタと一緒でしょ? アハハと笑い飛ばせは良いだけ。
また伊達公子が政宗の子孫であろうがなかろうが
織田信成が信長の子孫であろうがなかろうが、選手としての成績に
何の関係も影響もないのにwww
東京の場合、関東大震災と空襲で過去帳が焼けてしまったという例は多々あり。
921 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 01:47:48
欠史4代の謎
なんか皇統みたいじゃのwww
織田信成の祖父・重治(15代)は大正6年(1917年)の生れ。
直系の祖先とされる幕末の高家・織田信真(10代)は天保13年(1842年)の生れ。
間に4代居たというが、兄弟間や養子縁組の相続を考えないと年代的に不自然。
抑も系譜が不明なのにどうして代数を知ることができるのだろう。
>>922 わが家は俺で19代目ということは分かるが(なぜなら過去帳に明記されてるし、
菩提寺に墓も揃ってる)系図が無いので系譜関係は分からない。
養子・実子の区別も分からない。はっきり分かるのは戒名と代数だけ。
代数だけが口伝で伝わるということは有り得る
924 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 09:10:38
過去帳過去帳と繰り返している奴がいるが、今議論になっているのは明治以後のいまだに当時の
戸籍が廃棄されずに残っている時代の話だぞ?
925 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 10:35:40
>戸籍が廃棄されずに残っている時代の話だぞ?
たしかにな。
明治末まで10代目はいたんだし、親の名前が分からん・・・だけでなく4代も抜けて14代目はおかしすぎる。
ただ、信成の家系ネタをすると、どこからともなく、子孫を肯定する内容の書き込みが現れる。
スケート板とヤフー知恵袋なんかすごいからね。
飢渇も困窮も知らぬ厨坊の書くことは面白いね
禄を失った旗本は車夫になったり娘を売ったり
累代の墓石を売ったものまでいるんだよ
白無垢を着た乞食の話は有名だろ?
2〜3代没落・流浪していて、やっと家運を盛り
返すということもある
その間に家伝を失ったり、本籍地・菩提寺すら
あいまいになってしまうケースだってある
身分だの何のと言ってられない時期もあるんだよ
織田信成厨の方へ
憶測の上に憶測を重ねるのは、30年前のババアの井戸端会議と同じ
です。そんなに気になるなら、国立公文書館等の古文書にあたって
みるとか、(資格のある)人を雇ってお調べなさい
自腹を切って調べて、黒白いずれにせよ信成サンに教えてやりなされwww
928 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 12:21:53
>>926 子孫であることを証明するものがないことを疑問視しているんじゃなくて、今生きている祖父の
父親の名前すら不明としていることを不審視しているんで、あんまりバカな主張をしないでね。
>>927 そんな手間や費用をかけるより、誰が見ても不自然であるという情報をネットで共有して、本人が
説明責任を果たさなくてはならない方向に持っていく方が簡単だろ。
929 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 12:49:47
>累代の墓石を売ったものまでいるんだよ
まさか、某外交官の家の・・・・・・。
やばいでっせ、それの話はwww
930 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 12:54:49
>>928 まぁまぁ、本気に相手しないことだよ。
不思議なことに、必ず、出てくんだよ、
>>926=
>>927みたいに、信成きゅんを擁護する奴が。
ほとんど、話をすり替えて誤魔化してるだけなんだけどね。
>>929 某外交官なんて知らんよ
雑誌『掃苔』をみてごらん。そんな記事は珍しくもない
932 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 12:58:01
戸籍の事を言ってるのに、墓石だの菩提寺だのと言ってる時点で話をすり替えているwww
まさか、信成スレで叩かれた人?
>>928 赤の他人のことでなぜが必死になってる、あるいは
自分だけの正義感に酔ってるのが理解できないからねwww
934 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 13:00:56
>某外交官なんて知らんよ
有名な話じゃんwww
935 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 13:06:18
>>933 有名人のスキャンダルは庶民のいい暇つぶしになるからな。
正義感? バカジャネーノ?
936 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 13:54:33
おまいらそろそろ旗本の話に戻しましょうぜ。
939 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 23:51:01
940 :
939:2010/01/05(火) 23:53:26
くぐったら、全然関係ないソープランドの名前ばっか出てきた。
941 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 01:16:42
信長末裔のスケート・織田信成選手が京都・本能寺を訪れる
http://sankei.jp.msn.com/sports/other/090601/oth0906012233025-n1.htm ::::::::::::::::::::::::::::: ,.-ヽ
:::::::::::::::::::::: ____,;' ,;- i
:::::::::::::::::: ,;;'" i i ・i;
::::::::::::::: ,;'":;;,,,,,, ;!, `'''i; / ̄ ̄ ̄ ̄\,,
::::::::::: ,/'" '''',,,,''''--i / __ヽ
::::::::: ;/ .,,,,,,,,,,,,,,,,, ;i'⌒i; | | |、
::::::: i;" ___,,,,,,, `i". | ∩─| | 『本能寺の変の時には、そこに本能寺なかったって知ってる?』(笑)
::::::: i; ,,;'""" `';,,, "`i; | ∪ `l
::::::: | ''''''i ,,,,,,,,,, `'--''''" ヽ __/ _.ノ
::::::: |. i'" "; |――― 、"
::::::: |; `-、.,;''" /  ̄ ̄ ̄ ̄^ヽ
:::::::: i; `'-----j | | | |
信成 旧子爵・織田家
田谷力三
三省堂創業家
旧旗本
【織田選手、名誉城主に 五輪年に清洲城から天下取り】
2009年12月27日 朝刊
愛知県清須市にある織田信長ゆかりの清洲城の名誉城主に、信長の子孫として知られるバンクーバー五輪のフィギュア男子代表、織田信成選手が就任することになった。
清洲城下が城ごと名古屋へ移った清須越(きよすごし)から400年となる2010年に、清須市が実施する清須越400年事業のシンボル的存在となる。
就任は10年1月から1年間。織田選手は「清須の文化と魅力の発信にお役に立てれば、信長公を先祖とする私としてもうれしい」とコメント。
メダルの期待がかかる来年2月の五輪に向け「清洲公園の信長公の銅像に戦勝報告したい」と誓った。
清須市は、五輪で市を挙げて織田選手を応援することを検討。来春には、織田選手を迎えた就任イベントの開催を計画している。
織田選手は大阪府高槻市出身。今年のグランプリ(GP)シリーズで2連勝し、世界の強豪が競うGPファイナルでも2位に入り、五輪代表を決めた。
現在の清洲城は1989年、旧清洲町(現清須市)が町制100周年記念事業で再建した。
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2009122702000122.html タダじゃ、ないんだろうな。
税金の無駄いと史実捏造をする清須市への御意見&抗議はココから出せますwww
http://www.city.kiyosu.aichi.jp/shimin/index.html
944 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 17:00:29
テスト
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946 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 15:01:14
皇太子妃の実家はえた・ひにんの家系
囲碁家元4家と将棋家元3家は御家人なの?
948 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 05:28:40
寺社奉行支配の御家人ですね
法体だから茶坊主みたいなものでは
949 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 08:20:15
>>948 当時の儒者、医者などは坊主頭だよ。
文化人としての一種の「印」みたいなもの。
少し前のベレー帽の感じかな。
950 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 15:20:57
951 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 19:37:44
>>950 ワロタwwwwwwwww
総統閣下のお怒りもごもっともだ
新潮新書の「武士の家計簿」が映画化されるんだな。
歴史・学術系の新書を原作に映画化ってかなり珍しいような・・・
旗本だと佐々木信濃守か根岸肥前守あたりの一代記を映画化すると面白そうw
954 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 00:32:28
>>947 御一新後は平民だったらしいから御用達町人だと思われ
三浦按針の直系や傍系の子孫はどこまで続いたのだろうか?
wikiには息子のジョゼフが、旗本三浦家を相続したまではあるが・・・
寛永伝に三浦按針って載ってないよね?
逸見(横須賀市)の領主だったから市史に載ってないかな
しかし家康はケチだな、慰留しておいてたったの250石…
秀吉なら数千石で遇してるところだろう
959 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 10:22:40
足利幕府の体たらくが常識の時代に、秀吉の大盤振る舞いを反面教師に出来なければただの馬鹿だけどね。
960 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 19:19:57
962 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 19:46:39
☠水野十郎左衛門成之
963 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 22:17:45
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誤字までコピペで増殖するのはいかがなものか。
>>959 それも分かるけど、外様にも大盤振る舞いするのと旗本に禄を与えるのじゃ話が違うよ。
この時期は他の旗本も大幅加増されている時期だし、帰国したい三浦を慰留しておいて
250石は少ないと思う。ケチな家康とはいえ、せめて村の領主相当の500石〜ぐらいは・・・
>>965 領地の収入だけじゃなくて、
朱印状という特権もあるんじゃないかな。
967 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 21:02:04
>>955 家禄があったんだから御家人でしょ
血縁による世襲じゃないから一代抱えの連続だとすると
卒族→平民コースかも
968 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 17:48:17
>>965 戦国の空気が濃厚に残っている時期に、軍事的な手柄のない人間に大禄を与えるのはまず無理。
そんなことをすれば家臣の不満が爆発する。
>>968 どちらかというと天海や羅山とかの顧問みたいな部類なんじゃない?
あと軍功なくても大工の中井(従四位下で千石だっけ?)とか・・・
>>969 だろうね。軍役を果たす武人領主ではないでしょ。
封建領主といっても寺社や公家などさまざまだったわけで。
971 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 09:00:23
外交内政顧問がなぜ石高が少ないかが話題だったのに、流れの読めない奴が話題をすり変えてるし。
中井の場合は、普請作事も軍事行動だから武ばったDQN家臣の理解も得やすかっただろうよ。
>>971 大工の頭が並の大名・旗本より上の官位で理解得られやすいか?
まだ家格の定まってない初期に四品とか相当だし
974 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 09:37:17
>>972 石高から官位の話に流れを変えるのか。あんまり学問に関するトレーニングをしていないようだから仕方ないか。
中井の官位は、御所や寺社の建築を手がけている以上は応対する相手が相応の官位を持っているから当然。
国でも会社でも、外交や渉外担当で肩書きが立派な人間ばかり集めている場合があるが、交渉相手が格上の
人間相手ではまとまりにくいための措置。それと同じだ。高家並みに朝廷との交流が生じうる立場だからな。
その理屈からすると、じゃあ中井正清の後に御所や寺社の建築を手がけた大工頭も
従四位下クラスの官位を賜っていたわけだな。てっきり正清一代限りの叙位だと思ってたよ。
977 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 10:45:43
政権が不安定な時期と安定した後を同一に語ってどうするよ。
979 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 10:55:08
「家格の定まってない初期に四品」である理由が話題なんだから、「政権が不安定な時期と安定した後」とが
重要な問題になるのは当たり前だろ。
974は御所や寺社など格式の高い建築を手がける以上、相手の担当官も無位無官ではないから
大工頭も官位を持っていて当然だと言ってけど、
>>979をいうなら別に四品という高位に叙されるのが
当然ということには全くならないよな。
幕府の家格が定まった後は普通に無位無官とされたわけだから、大工の四品叙位は当然でも
なんでもないわけだ。他の高家や所司代にように家格が定まった後も朝廷と交流するにも
かかわらずな。
例外的に家康が中井個人の功労を賞して四品を与えた話を、相手が朝廷・寺社で
高家並みに交流する立場だから四品が当然というからおかしなことになる。
982 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 11:11:03
早く社会に出て社会経験を積め。
はじめの折衝では双方とも上役が出て細部を詰め、前例に従うだけで業務が遂行できるようになれば
下役が細部を詰めるだけで仕事ができるようになる。国でも会社でもな。
幕府と朝廷の関係が安定した時期には、幕府側では折衝役の高家と実務役の大工頭との分業が進み、
朝廷側でも高家接待役と大工頭に応対する下役担当者との分業が進んだだけの話だ
あのねぇ…正清が功労で四品に昇叙したのはずっと後だから。
でも四品の官位が当然に必要だったとは思わないけど、
>>982は一理あるだろうな。
改めて言われて勉強になりました。
「幕臣」の方がスッキリして良いな、なんかリンクも充実してるし。
でもフィギュア選手はスレチすぎるw
古地図とか見てると、旗本・御家人屋敷は細長い長方形で示されてるけど、
実際の区分けもあんな分譲地みたいな細長く画一的な感じだったのかな?
梅
次スレいきなり荒らされてるし