1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:00:22
>>1 乙!
江戸三百諸侯の中に大彦命の末裔や大伴金村の子孫は居ますか?
チョンの血を引いている非国民は居ないよね?www
これは
>>1 乙じゃなくて
アッー!なだけなんだからね!
。
_..-¬'―¬'―-ー-、. ・ o っ o _____
-'" ヽ ̄`/〃/ , " ==- ____ ヽ
/ / ,、 ハ______________,.へ ____
/ / ) }.ミ::::::::::::::::::::::::::| |////////| ヽ ==−
/ ノ《〜〜〜〜〜| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ア / ──
/ ,,../ /,ミ` ────┘____ / /
! / // / ` 、ヾ・,. | ==- / /
! / / /ー'"! っ o / / |\
| ノ / / | 。 ゚| | { j ヽ
|/ / ノ | |__ ', `ー――‐" ノ
| / / ヽ、 ノ ` - ._,;ー 、 ` ----------‐´ ____
| | / `ーー- __ ( ヽ ==─
>>4は始末しておきました
/_⌒ヽ⌒ヽ
/` ゚` :.; "゚`ヽ
/ ::ヽ
( __ ,:::::)
〜 & | 亀 :::::|
~ | :::::|
| 頭 ::::::|
| ::::::|
| の :::::|
| :::::::|
| 墓 :::::::|
| :::::::::|
| ∬ ∬:::|
| ii ,,≦≧、 :ii :::::|
_ | 旦‖===‖旦::::::| _
-W-----┘二二二二二二二二二└--ff---\--
6 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 23:39:56
__,,,,、 .,、
/'゙´,_/'″ . `\
: ./ i./ ,,..、 ヽ
. / /. l, ,! `,
.| .,..‐.、│ .|
(´゛ ,/ llヽ | こ、これは
>>1乙じゃなくて
ヽ -./ ., lliヽ .| イチモツなんだから
/'",i" ゙;、 l'ii,''く .ヽ 変な勘違いしないでよね!
/ ...│ ゙l, l゙゙t, ''ii_ :.!
: /.._ / ヽ \\.`゙~''''''"./
.|-゙ノ/ : ゝ .、 ` .`''←┬゛
l゙ /.r ゛ .゙ヒ, .ヽ,  ゙̄|
. | ./ l ”'、 .゙ゝ........ん
l / ヽ .`' `、、 .,i゛
.l| ! ''''v, ゙''ー .l、
|l゙ .il、 .l .ヽ .¬---イ
.ll゙, ./ ! ,!
.!!...!! ,,゙''''ー .|
l.",! .リ |
l":| .〜''' ,. │
7 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 23:42:33
>>4は始末しておきました
,......,___
{ r-}"''; (,- ,_'',;
__ノYv"-ァ'=;} ,_、 Y' リ''ー
ヽー-ハ '、 / キ}、 {"ー {⌒
ト ハ } ,. -ー─-、__/_,.へノ`{ { こ、これは
>>1乙じゃなくて
! ! !__! ,-、_ ,,( ,  ̄ .ヽ'ー;ー'" 四つん這いなんだからね!
|___|! !ー-ニー、;、;'""ノ';{ i__ _ /ニ=),..- '" 変な勘違いしないでよね!
K \ヽ !`ーニ'-、{ (e 人 |  ̄ ̄/ / / /⌒
\ヽ !、ヽ, "")ー-'"| ! | / / .{,、 / /
\"'ヽ'ー-" _! || } / / |\ /
ニ=ー- `!!!' ''''ー'"{ | | { j ヽ /
ーーーー' _ | ./ ', `ー――‐" ノ !
三`'/. ` ----------‐´'""
>>1乙
下品なひとがいるなあ。
今なお衆道を実践する人だろうか?戦国武将の末裔?
>>2 この人も荒らし?っぽいが、
牛久藩山口家は大内氏の末裔と事なので、百済王の後裔ってことになりますか。
今の朝鮮半島人と血縁があるかはわかりませんが。
いつもの自演自演叫んでいるキチガイ荒らしが早速湧いたのか…
それだけこのスレに反感を持っているやつが多いってことだろ
12 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 21:10:20
吉川氏って参勤交代してたの?
13 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 21:52:12
していましたともさ
14 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 22:02:16
吉川は参府してないっぽいな
15 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:14:57
してをりましたともさ
16 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 01:30:31
越前の附家老の本多も、
幕府直々に江戸屋敷貰ってたな。
代替わりには将軍お目見えだったし。
17 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 01:30:33
参勤交代はしてましたよ、大阪までは海路で
江戸には赤坂に屋敷がありました
18 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 03:52:56
萩の松平毛利は四月参府だっけ?
岩国の吉川は何月参府?
19 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 07:47:20
天皇は韓国系らしいな。
ってことは自称天皇の子孫の源氏平氏も皆韓国系なわけだ。
藤原氏も韓国系か?
吉川は自身と将軍の代替わりの際の参府じゃないの?
越前の本多家は確かに陪臣の中では別格だけど、
大名に准ずる御三家附家老や吉川よりはずっと扱いが劣る。
22 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 02:20:24
いやいや、同等ですよ。
>>22 少なくと嘉永4年の幕府内部では、両家の格式の差を挙げた上で、
「(吉川は)自余の陪臣と異なり他の類家もない」、
「(本多家は)家格として吉川家に見合わない・取り扱いにも大きな差、一通りの陪臣」
といった認識みたいだよ。
24 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 20:13:31
吉川家の通字が広から経に変わっているのって血筋が輝元系になったのと関係あるの?
26 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 02:17:50
27 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 02:34:15
安藤・水野・成瀬>吉川>中山竹越
28 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 02:39:38
>>23 越前家本体をgdgdにされたからな
本多も落ちるわ
29 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 02:42:38
そもそも外様分家の1万石くらいの小大名と、成瀬なんかだと
どっちが格上なのかね
30 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 02:58:10
付家老の家は独立大名にも十分になれるぐらいの功績と家柄だと思うのだが
これは命じられたのが不運だったというべきなのだろうか?
>>31 尾張付け家老の平岩なんか12万石・・・
断絶したけど
独立大名どころか老中になってもおかしくないのもいるな。
成瀬正成とか安藤帯刀とか
どうだろうねえ?
尾張で成瀬家といえば重臣筆頭の家柄。
独立大名になれば田原藩三宅家のように極貧大名だったかもしれんし結果的には良かったんでは?
>独立大名になれば田原藩三宅家のように極貧大名だったかもしれんし
家老になる前から三万石以上もらってたよ
三宅を例に出したのはまずかったかもしれんけど、3万石くらいでは結局小大名だよ。
譜代だと転封もあるかもしれんし、資金援助してくれそうな大藩のあてもないし
結局石高に応じた家臣を抱えることになるので窮乏は免れんと思う。
とはいえ陪臣は陪臣だからなぁ。尾張の陪臣の独立運動を考えれば、
やっぱり大名がいいかと。
3000石くらいの旗本と成瀬・安藤だと
どっちが格上?
39 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 03:12:21
成瀬正成はもともと3万4千石の大名
そのうち2万石を持って尾張藩の付家老となり
次男の成瀬之成が加増分も合わせ1万6千石で下総栗原藩を継いだ
つまり本家が付家老、分家が大名になったわけで
3千石の旗本とでは格が違う
40 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 05:31:00
付家老は詰間がなくなってからは御目見えは受けられなくなってたのかな
長州力
42 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 07:06:10
>>40 大岡忠相なんか江戸城で詰間が無くて
「八代将軍吉宗」では滝田栄が
譜代大名たちから
「お前なんぞ廊下に座っとれ」と言われとった
43 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 07:32:49
寺社奉行のときに奏者番を兼帯しなかったために居場所かなかったって話か。
で弁当ひっくり返して嘲笑された
45 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 10:03:30
大岡さんはさぞや悲しかっただろうねえ。
晩年は褒め殺された人だから>忠相
47 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/07/03(金) 10:34:55
多くは食わねえ、たった一膳。
水戸斉昭は五家の独立運動に対して>36のように言ったそうですね。
独立すればただの小大名だぞ、と。
譜代大名なら3万石代後半の石高は平均レベルじゃないか?
譜代大名は石高少ないけど幕府の役職につけて
外様大名は石高凄いけど幕府の役職にはつけないって
子供のころ教わったよ?
でもそうすると外様大名で1万石や2万石の大名は
譜代大名並に石高少ないけど外様大名だから幕府の役職にもつけないという
なんだかかわいそうな状態になると思うんだけど。
成瀬正成は江戸初期で3万以上の禄高
老中にもなっているから譜代の中でもかなり格上、直参ならバッカクで活躍し加増されたかも知れない
木っ端譜代と一緒にするなよ
成瀬だったら堀田とか土屋とかより格上の譜代の重鎮になってたかもしれない。
52 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 15:30:21
外様大名でも幕府の役職につけるよ
山内とか上杉の分家
53 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 19:18:19
浅野もなってるか
54 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 19:22:50
番方なら大坂加番などになるけどね。
55 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 19:50:04
番方はいいな
56 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 20:41:35
実際の戦闘なんて起こらないしね。
57 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 20:43:17
9000石の旗本と一万石の大名ならどっちが裕福なんだろ?
58 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 20:49:12
9000石の旗本
三交代勤務しなくていい
だったら,定府の大名が裕福じゃん。
60 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 21:32:28
大名になると交際費の桁が違ってくるんじゃね
子会社の役員より、本社の課長の方が偉い。
62 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 23:23:31
63 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 00:02:22
島耕作の事言ってんじゃね?
島耕作ってホントご都合主義のマンガだと思う
男版スイーツだな
65 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 02:35:54
暴れん坊将軍って本当に、ご都合主義のry
66 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 02:54:05
暴んれ坊将軍とか水黄戸門は、見いてる人の誰もがご都主合義であこるとを
わっかて見いてるからいいのよ。
スーィツ雑誌や島コサークは、そとれは違い、
それがマジで自分の人生をあわらし、代弁しているかよのうに思てっしまう人が多いから、
始末におなえいわけだ。
67 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 05:37:02
>>66 水戸黄門を毎回ハラハラドキドキしながら見る老婆ってのも実在するらしいけどな。
68 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 09:13:19
無役の9000石の旗本ならしょっちゅう吉原に出かけて遊びくらせるのでしょうか?
69 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 09:48:07
無役なら、石高の大小にかかわらず江戸中期以降は借金なしで生活することさえ無理。
借金して次代以降にツケを回すことを行っていたから、幕末にはどこも首が回らなくなった。
70 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 09:53:15
毛利は200万両もの借金をどうしたのだろう
明治新政府に押し付けたのかな
島津は300万両を踏み倒したと
自ら公言している
71 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 10:32:55
日本政府は借金を踏み倒すのかな?
72 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 11:04:03
新政府は、天保期あたりから明治維新あたりまでの各藩の借金は背負った。それ以前は
古債として支払いを拒否し、以降は各藩当主の負債として処理した。
73 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 11:58:46
それだと借金完済していた上杉は
おおまぬけだということだな
74 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 12:17:15
勝海舟の親父の小吉は岡野とかいう大身旗本の敷地に借家していたが、
大家の岡野が領地からの借金で首がまわらなくなっていたため、
岡野の用人という触れ込みで大坂近郊の岡野の領地の村まで出かけていって、
借金の踏み倒しみたいなことをやったそうだ。
75 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 12:32:34
男谷影流の免許皆伝なら
ふつうビビるわな
76 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 13:21:28
コキチっていまでいうとタチの悪いチンピラみたいなものだろ
77 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 14:11:18
78 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 15:29:26
小千谷から流れてきたヤクザ座頭
が金で旗本になったんだろ
79 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 15:33:10
ヤクザが政治家になるなんて、珍しいことでもないだろ。
林家こん平みたいなもんだな
千早赤阪から出てきて
米一俵で根岸の大名席の後継者になった
>>78 マジで言ってるつもりか?間違ってるぞ、バカ よく調べてから書き込みなw
お前どんだけ頭悪いんだ?今のご時世そんな事考えてる奴なんていないぞ?これだから情弱はw
お前がマジレスするのは勝手かもしれないがお前にマジレスを求めてるやつなんていないんだよ
ほんと最悪・・これが今の日本史板ですか
もう一度言うぞ
頭湧いてるの?
>>81 まあ間違いだけどそこ迄ボロカスに言わんでもいいんでないかいw
84 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 20:10:01
関西人になろう
86 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 23:35:20
さいでんなー
ほーでんなー
大坂出身の大名家ってどこ
>>86 大坂出身って何?
摂津・河内・和泉出身てこと?
それも室町時代にってこと?それとも鎌倉から?
もっとさかのぼって蘇我氏とか物部氏とかの河内の豪族以来ってこと?
ほーでんなーとか言ってないで、そこらへんのところはっきりしてください!
88 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 10:02:28
佐賀藩の支藩は御三家って言われていたな
89 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 12:15:36
佐賀の支藩は幕府から認められていて藩主も官位を貰っていたけれど、本藩の石高に含まれて計算されているのはなぜ?
佐賀藩32万石みたいに
佐賀藩の鍋島って悪い奴らしいね。
謀反人の家系らしい。
91 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 13:25:40
摂津出身なら池田氏
池田知正の家が5000石
92 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 13:28:30
岡藩の中川氏とか、伊丹の荒木村重、高山右近も摂津の勢力。
93 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 13:28:30
毛利御三家…毛利(山口のち長府)、吉川、小早川(伊予のち筑前)
94 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 13:30:23
上杉御三家は畠山、武田、千坂でしょうか?
96 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 13:37:06
大坂の横掘を治めていた
一柳氏は大坂の農民やヤクザ者を士分に取り立て
大坂市中を警備させた
世間からは「えらいなんちゃって侍」と呼ばれたらしい
98 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 14:20:42
>>98 そうかも知れん
前に読んだ三百諸侯のエピソードが書いてある本に出ていて
おもしろいなと思った
100 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 14:35:06
司馬遼の短編?
新書で都道府県ごとに
代表的な城の造りや大名家の系図が書いてあるやつ
エピソードも満載
時代ごとの石高や藩士のランキング
出身地別の大名分布も載ってた
>100
読んだことないが
司馬先生の作品に
「にわか」とか「大坂侍」というのがあるから
もしかしたら
それがこのエピソードを描いた話しなのかも知れない
104 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 15:04:43
>>103 かえし乙
「もう天下をとった気でいやがる」だっけ
105 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 15:08:40
俄-浪華遊侠伝
106 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 15:26:39
107 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 15:31:34
♪訛りは桑名過ぎに西へとかわるだろう
さいでんなー
ほうでんなー
きっと君は関西人
ひとりきりのサンデーヌーン
大坂加番は広大な屋敷と狩場まで貰えたんだね
なんでここはこんなに自演がひどいの?
大阪出身っていったら河内源氏出身の武田とか細川とかかな
>>92 荒木村重も高山右近も江戸期の大名ではないだろ。
とは言え高山右近。スレ違い承知で書込むが、自分の信仰の為に領地を返上した領主って他にいたっけなぁ。特殊なんでない?上杉謙信がプッツンして一時的に高野山に逃げ込んだ例はあるが、高山右近の領地返上って…。
前田も禁教のキリシタンを貫く右近をよく匿ったもんだな。しかも1万石だっけ?1万5千石だっけ?大名並の禄までだしてさあ。
前田家としてはヤバイんでないの?まあ、ヤバイから右近自ら前田を離れ日本を出たのかもしれんが。
秀吉の禁教は、
「外国と組んだ組織的な布教活動の禁止」
「特に徒党化、組織化の禁止」
「将来的に、緩やかに信仰絶滅が目標」
がメインで、
個人レベルでの信仰には割と寛大。
113 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 02:15:51
領地返上といえば、
「あいつぶっ殺すためなら、返上してもいい!」
の加藤のバカとか、
「俺、出家するぜ!領地は旗本に配って!」
の松平親子がいるじゃん。
114 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 06:17:33
>>113 あいずの殿さん
松平親子は?
誰だろう?
松平定政
刈谷かどこかの殿様だね。
出家して息子と一緒に托鉢してたとか。
118 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 14:42:20
刈谷は大権現生母の実家なのに
二万石の貧乏藩
刈谷城あとは立派だったよ
水野家は力があったんだろな
119 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 14:44:58
刈谷にしろ岡崎にしろ
家康はあまりいい思い出がなかったのかもしれない
駿府にはかなり愛着があったらしいね
120 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 16:54:41
水野勝成家は冷遇されすぎ
水野はやっぱり徳川への帰順が遅かったからね。
石川家にしても冷遇されてる感じがするしねえ。
領地返上といえば佐倉の堀田正信も有名だね。
122 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 19:32:33
岐阜城や春日山城みたいな山城を
江戸時代も居城として使い続けた大名って居るの?
123 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 19:55:51
高取藩植村氏とか、岩村藩の諸氏とか、苗木藩遠山氏とか。
女城主の吟醸ワンカップは割といける。
125 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 21:49:11
清洲城鬼ごろしと
どっちがうまい?
>>125 比べるのがそれかよw
岩村女城主はほんのりとした甘みがあった口当たりがいい。
純米じゃないから安くても味が整ってるよ。
127 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 07:19:35
必殺鬼殺し
先手第三手が7七桂
中原“突撃します”永世十段を
絶句させた必殺技やな
128 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 07:30:14
岐阜城は堅固そうに見えるが
落城してばかりで全くの役立たず
江戸期には斎藤義龍、織田秀信ら
非業の死を遂げた歴代城主のお化けが出て
発狂する藩主が続出し廃城になった
129 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 08:59:06
江戸時代は岐阜ってどこの所領だったっけ。町自体は存続したんだろうけど。
大藩は置かなかったらしいね
ちょっと検索してみる
尾張藩みたいだね
大垣かと思っていた
加納藩じゃないかな。
133 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 10:10:33
>>128 >斎藤義龍、織田秀信
こいつら非業の死なんか遂げてないぞ。
少なくとも岐阜城で討ち死にしていない。
岐阜は尾張藩だったはず。
すぐ近くの加納に加納藩があるからなんか意外だけど。
135 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 10:42:44
元城主の信長が化けて出て困るんですよ。
元城主の池田輝政が化・・・
戦国時代にマムシ道三、織田信長の居城となり華やかな歴史の舞台に登場したと思ったら
江戸時代には一転して尾張藩領の誰も知らない町に転落か
138 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 12:53:59
安土よりは栄えた町だったんじゃないかなあ。秀次が近江八幡に城を作るってんで安土は町家もなくなったっぽいし
室町時代の畠山氏の居城だった高屋城は、本丸に安閑天皇陵があったため当主は
二の丸に居住していたという。
140 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 16:07:14
>>134 義龍は秀龍(道三)の調合した薬を飲み過ぎて頓死
秀信は篭城中に飲んだ疫痢の水がもとで高野山で悶死
(「国盗り物語」「織田家の人々」など)
愛知・岐阜・三重県の明治6年1月1日の主要都市人口
125,193 名古屋
22,473 山田
22,080 津
18,064 桑名
15,211 熱田
13,081 高山
12,969 岡崎
12,385 上野
10,800 岐阜・今泉
10,158 大垣
9,722 四日市
8,885 大浜
8,781 松坂
7,506 豊橋
7,399 一ノ宮
7,387 津島
7,095 西尾
確かに江戸時代が終わった直後の岐阜は地味な存在。
>>141 ド田舎でろくな産業もなくまともな街道もなく米も取れない高山が妙に人口多いね。
天領効果?
143 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 19:36:56
飛騨高山は金森氏統治時代は鉱山で裕福だったんだろ
144 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 20:15:26
3万石だが
10万石の高山陣屋
金森氏の高山城はどうなったのだろう
145 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 20:16:29
×10万石
○10万石格式
明治3年頃に岐阜県内に領地のあった藩と県の人口と草高
188,140人 笠松県 178,108石
97,162人 高山県 56,815石
78,711人 大垣藩 131,101石
54,850人 郡上藩 49,699石
37,146人 岩村藩 34,552石
29,475人 加納藩 35,856石
25,185人 苗木藩 14,780石
18,747人 今尾藩 20,000石
8,566人 野村藩 13,089石
6,712人 高富藩 10,380石
---以下は美濃に飛び地を持っていた藩---
918,143人 名古屋藩 874,725石
53,540人 犬山藩 42,704石
17,480人 岡田藩 15,555石
ttp://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40037170&VOL_NUM=00001&KOMA=48&ITYPE=0 明治8年、高山の物産は生綿、紬、一位木材工、一刀彫、批目諸細工、春慶窒陶器
>>123 高取城はさすがに不便で、藩主は実際には麓に屋敷を構え城には城代が居てたと聞いた事あるぞ。
苗木は知らんけど岩村は麓に屋敷があるね。
備中松山とかも。
備中松山とか、あんなとこに住めといわれたら殿様は江戸に行ったまま帰ってこないだろう・・・
150 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 23:46:19
>>142 天領を管轄する郡代役所が江戸・高山・笠松・日田にあった
151 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 02:09:27
高山城跡は山の上にあって、狭い。
観光客もほとんど来ません。
152 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 02:24:32
岐阜城も、あんなとこ登りたくねーよ、
というような山の上にあるよね。
当時、変態信長は山の上と下をしょっちゅう往復していて、
お付きの家臣は大変だったらしいけど。
そして変態大魔王さまは、どっちかっつーと、
「高いところから見下ろせてキャッホー!」
な、山の上が好きだったらしい。
しかし、さすがの信長もたまには登りたくない日もあったみたいで、麓の館にも
「天守閣風の、威張りが効いて見下ろせる建物」
建ててたらしいね。
そんな変態信長、
一旦登ったらなかなか降りてこなかったらしくて、
訪ねてきたお客が、
「殿様は山の上のお城からしばらく降りてこないので、麓で待っててください」
「えーと、いつ降りてくる?」
「あの、、、うちの殿様は気まぐれなので、、、」
と言われてしょんぼりしてたりしている。
そのあと信長、すっ飛んできて、
「来てたんなら遠慮しないでさー、
呼びに来てくれればいいのに!」
とか言ってる。
やだよ、あんな山の上まで、、、
キャッホー!の機嫌損ねたくないし。
鳥取も急勾配の山城だと思うんだが、藩主家ばかりか東館、西館までもが山の上に居たよなぁ。
あんまりよく知らんが、他の山城と比べて鳥取の標高は低かったのか?
鳥取城って麓に立派な屋敷があったんじゃなかった?
藩主たちは山上に住んでたの?
そうだよ。麓が江戸時代の中心。
そっかぁ、山城は砦としては機能しても、戦の無い時代には不便なだけだもんな。
もしかして江戸期には山城の場合、麓に屋敷を構える方が一般的だったんかな?
そうだよ。
むしろ山の上に住むのはかなり奇特。
そんな人が居たかどうか知らないけど。
>>157 江戸期どころか、戦国時代でもそんな感じのはあったので。
(例:甲斐武田氏の躑躅ヶ崎館+要害山城)
武田って山城なんて持ってたんだっけ?
>152
山科言継が公用の途次に訪問したときは、信長の方で「老体の上この暑さで
山の上まで来るのも大変だろうから、麓の屋敷で対面しよう」と言ってきたそう
ですね。
162 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 01:48:28
つまり信長(変態大魔王)は、
麓に館はあったけど、
好き好んでしょっちゅう山の上で遊んでた、ってことですな。
安土も結構な山の上だし。
で、
光秀「山の上までいくのめんどくせーし、
なるべく麓にいるときにやっちまおう!」
163 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 01:58:48
>>160 お館の裏山が、甲府武田の詰めの城。
最終決戦用だったらしいけど、麓のほうには居住もできたらしく、
信玄はお館ではなく、そっちで生まれた、と言われている。
でも、館も城もいま見ても手狭。
なので浅野や徳川は甲府に別に、近代的な城を作っている。
浅野や徳川が要害山の城をどうしていたのかは不明。
でも、
要害山城とか甲府の背後の山とかとられると、
甲府城が丸見えになっちゃうと思う。
っていうか武田館って石垣とか掘とかあるけど、
江戸時代もあのままだったの?
164 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 02:01:00
>>162 あいつ平野の生まれ育ちだから、
高いとこ珍しかったんだよ、きっと。
見下ろし気分サイコー!こっから見える範囲、俺のもの!って。
>>163 裏山っつーか、躑躅崎と要害山って結構離れてたような。
信玄が生まれるときは今川軍が甲斐に侵入してて、信玄母は
要害山城に避難してたはず。
で、今川に勝ったときに生まれて目出度いから、
信玄の幼名が「勝千代」になったとか。
166 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 13:43:11
前田は負けたので
負け犬の犬千代か
167 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 13:44:24
>>165 あいつだな、大河でテリー伊藤が演じた福島正成?だっけ
信虎の時代は館のすぐそばまで攻められるほど武田は弱かったんだな
168 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 19:42:41
福島と書いてくしまと読むのも謎だが、その後北条の家臣になったんだよ確か
江戸時代はどうしていたのかしら?
169 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 21:15:38
福島正成→北条綱成→上杉氏秀
氏秀は上杉景虎と別人説がある
扇谷上杉を継ぎ治部少輔を名乗る
御館の乱では景虎を支援した
Wikiとやらには
> 正成の福島氏(くしまし)の本姓は源氏であるが、平氏ともいわれはっきりせず。
> 源姓または藤原姓の福島正則(こちらの福島は「ふくしま」)とは別族であるとされるが、同族ともいわれる。
> 経歴や没年は以下の通り諸説あり。
ってあってわろたww
要するに俺には何もよくわからん、って言いたいんですね
171 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 01:49:30
氏秀の甥・氏勝の子孫は2000石の旗本
また女系子孫に大岡忠相がいるらしい
氏秀は北条綱成の孫
景虎は北条氏康の子
別人とみるのが定説
173 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 02:02:54
景虎は御館の乱でなくなったが
氏秀は生き延び景勝への対抗心から
扇谷上杉を名乗り
北条流の兵法で徳川直参になった
174 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 02:44:09
綱成の子供の(氏繁)系統が、一旦大名になってでも改易。
その子供が自力で(先祖の知名度もあるたろうけど)出世して、
大身旗本として続いています。
「北条氏長」でwikiあたりで見てくたさい。
綱成って北条を名乗ったぐらいだから
すぐれた武将だったんだろうな
176 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 11:15:51
大目付・扇谷氏成も
北条綱成の子孫
創価学会会長で公明党書記の
北条浩が北条家党首でOK?
>>177 北條氏恭┳謙吉=雋八=尚━伸作
┣堀田正路
┣釐三郎┳浩
┗雋八 ┗尚
であって、浩氏は当代の主・尚氏の実兄。
179 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 18:48:00
>>178 なぜこいつらは名前に通字の「氏」を入れないんだ?
180 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 02:17:53
北条のプライド捨てたんだろ。
歴史ミステリーだかでも、へ?という発言してたし。
つーか狭山北条はあくまで近世大名北条氏であって、
小田原北条氏は廃絶。
181 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 06:22:00
関東の盟主から河内一万石の極小大名。
理不尽な扱いをされて全く反抗意識を示さなかった人間は、上から重用される。
狭山藩北条氏の場合は、周辺の灌漑に古代から重要な位置を占めた狭山池の支配を任されている。
そもそも豊かで政治的に重要な上方に所領を設定されること自体が信頼を得ていることの証明だけど。
182 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 06:38:03
うーむ
183 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 07:05:24
譜代大名は関東に所領を持つ場合が多く、その他の地域の大名は各地域の軍事的押さえを
任されたから、幕閣に参与する機会は関東の諸大名が当然高かった。しかしそういう関東大名でも、
上方に飛地領を持つことを熱望した。正金銀を得て藩財政を好転させるには、大坂に近い立地、
商品作物の生産が盛んな土地、勝手向きに詳しい人材の確保の容易さなどから、上方所領は
垂涎の的だったからね。
京大坂の役職について一時的に飛地領を設定されることはごく当たり前の話だけど、諸藩・旗本は
役から離れてもその飛地が存続することを熱望した。
明和の上知と天保の上知(計画のみ)は、幕府がそれを明確に認識していたため。軍事を建前上の
理由にしていたりするけど。
ところで北条氏といえば北条氏直が生きてれば伯耆(だっけ?)を貰って
北条家再興予定だったという話を聞いたことがあるんですけど
これ本当だったら氏直がもっと長生きして貰っていたら大名として北条家は残れたのかな?
伯耆一国だと大体15〜20万石ぐらいですかね?
(中村氏の米子藩は17万石でしたっけ?)
北条氏直の奥さんはたしか徳川家の出身だし
もしこの奥さんとの間に子供ができてその子が北条家を継いだら徳川家康の孫だし
江戸時代は安泰で北条家は有力な国持ち大名だったかも・・・って思うのですが、
仮定のはなしだから実際のところはわかりませんね。
でも北条氏直が生きてたら奥さんが池田輝政と再婚はしなかっただろうから
それなりに江戸時代の大名の勢力図は変わる気はするんですけど。
185 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 07:48:35
小田原攻めのかなり前から徳川と北条は関係が深かったからね。
豊臣が存在しているうちは、徳川にとって姻戚である北条の軍団は利用価値が高かったことだろう。
北条家の野望など、卑弥呼の血を引く島津家2000年の遠謀深慮の前では赤子同然。
徳川幕府は島津家に乗っ取られ、そして崩壊していった。
破壊工作員篤姫はの野望は成し遂げられました。
187 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 09:15:33
>>184 鳥取藩池田家のポジションが北条家だったんだろうな。
位置的にもそうですかね。
徳川家とは姻戚だし氏直は家康に助命嘆願されたりとりなしされていた気がするので
たぶん関ヶ原の時も普通に考えれば東軍でしょうし・・・
氏直が早死にしすぎたのが不幸だったってことですかね?
189 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 11:41:12
質問ですけど
蜂須賀家の現在の当主は跡目がいない為
多分消滅するみたいですが、明治維新まで続いた大名家で
跡目不在の為消えた大名家って多いんでしょうか?
厳密にはまだ消えてないけれど
鳥取藩池田家が消滅予定
現当主は独身女性
養子を取る予定もなし
東京にあった墓もすべて鳥取に撤収した(東京では供養する人がいなくなるから)
同じ様なケースで有名なのが紀州藩徳川家
現当主は長年不明だったが、近年の徳川家の展覧会で現在建築士をしている女性が当主として紹介され
取りあえず存続していることが確認された
が、彼女も現在独身で子供もなく、数十年ほどで紀州徳川家も消滅だろう。
191 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 17:09:06
>現当主は長年不明だったが、近年の徳川家の展覧会で現在建築士をしている女性が当主として紹介され
>取りあえず存続していることが確認された
有栖川宮ナントカ殿下も当主として紹介されていたよ??
192 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 18:03:49
子孫も残せない弱いのは旧大名華族だろうが消えちまえばいいよ
193 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 19:13:57
岡山池田や西条松平から
養子を採ればいいのに
194 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 02:27:28
>>189 市橋の子孫が行方不明のはずwww
みんな、電話帳で探してくれ。
195 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 05:27:52
また無知な奴が懲りずに市橋を叩いてるよ。
196 :
189:2009/07/12(日) 06:55:55
皆さんありがとうございます
絶家になった大名家って少ないんですね
個人的には蜂須賀家がなくなるのが
なんか寂しいです。
>>190 紀州家の女性当主には妹さんがいたと思うけど
妹さんは結婚してないのかな?
戦前の紀州家は華族の中でも金持ちだったんだけどな
戦後跡継ぎに死なれたのが運のつきかな
198 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 08:41:47
紀州家の没落は、最後の殿様が豪遊して散財したのが最大の理由。
それでも、戦後しばらくは殿様が和歌山から参議院議員になったりしたが、
殿様が亡くなってから、未亡人が事業に手を出して失敗したのが痛かった。
その上、日系人を婿に取ったり、すぐに離縁したり、もうシッチャカメッチャカ。
田安か西条から養子でももらっとけばよかったのに。
199 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 08:47:34
>>190 紀州の当主の女性が建築家ってのは、前から知られていた。
80年代に出てた一般向けの華族本にもそんな記述があった。
長年行方不明だったのは蜂須賀家の女当主。
80年代の本によると渡米したまま行方知れずだったらしいが、
いつのまにか帰国して、数年前に徳島市に史料を寄贈したらしい。
没落しても史料はまだ持ってたんだな。
200 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 09:59:09
盗まれたりガラクタ屋経由で流出した古文書の類で詐欺を行う奴は少なくないけど。
201 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 11:07:38
202 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 11:12:07
蜂須賀家も紀州家も戦前は華族の中でもトップクラスの資産家だったのに・・・
どっちも徳川吉宗の子孫なのに金遣い荒いぞ
203 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 11:28:37
家斉とかも吉宗の子孫だろ。
吉宗は質素だったのに子孫は・・・
205 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 11:58:59
吉宗が突然変異だった訳だな
全く話の流れと異なる質問なんだが、
江戸期に限定して公家から大名や旗本になったのって、鷹司松平以外にあるの?
高家戸田家とか
209 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 02:14:42
>>207 高家前田家
なんでお前、前田やねん!?と突っ込みたくなる。
210 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 02:15:44
>>201 子孫が見つかったら、逮捕されっぞお前。
211 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 04:03:45
吉宗は4男坊で苦労してるからな
213 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 08:39:48
支藩の藩主だから、別に苦労はしていない。変に祭り上げられなかったおかげで、
支藩の家臣として意気揚々として移った人間を手足として扱えるほどに距離が
近かったという要素は大きいだろうけど。
何をもって苦労と言うかの定義の問題ではあるけど、少なくとも食うに困ったりはしてないけど
支藩の藩主といっても格式の問題であって実質は部屋住みと変わらない。
もらった藩も紀州から分知されたわけじゃなくて、宗家から特別にもらったもんだし
実高は数千石じゃなかったっけ?
庶出子でもあるし、ほとんど期待されてなかったんで、他の殿様に比べて庶民に近い感覚で
育ったのが良かったのかもね。
215 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 20:30:00
麦飯を食って脚気知らず
吉宗さんかっけぇー
で、吉宗のやったことは
・幕府財政の破綻促進
・自分の子孫の宗家支配
それだよね
鳩山家にしろ池田(麻生)家にしろ、やっていることはいつの時代も同じじゃないか?
そうじゃのー
ただ、吉宗さんはいかにも、
正義、清廉、実直、倹約、etcetc
みたいなイメージになってるからね
かなり露骨なことやってるし
経済政策は(仕方ないとは言え)致命的なミスだっただけにちょっとね
219 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 22:12:21
経済政策的には無能とかもいわれてるな吉宗
220 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 22:27:06
天一坊事件とかおもしろいよね
吉宗は大岡や稲生など能吏に恵まれたかも
玄米食で脚気が防げる、とか
鷹狩りで健康長生き、とか
医学の知識以前の生活の知恵があったんだろか。
222 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 00:26:07
吉宗の人材登用は評価に値する
223 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 01:27:20
暴れん坊
224 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 03:50:51
でも紀州徳川は近いうち
断絶するんだろ
>>207 鷹司の末裔はドキュソみたいやな
川中島でオセロやったり
227 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 12:04:10
オセロの白とやりたい
228 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 12:06:00
黒と白から選ぶなら、女は馬鹿なほうがモテやすいといえそうだな。
229 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 13:53:50
黒は谷原章介とも付き合ってたし
意外に良い女
230 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 14:00:06
いい女タイプは愛人にはなっても嫁にはならない。芸能人の結婚が長続きしないのは、
愛人タイプばかりが集まってくる世界のため。
>>225 武田信玄の現当主に
オセロで勝ったやつな
「白と黒のエクスタシー」だっけ
232 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 17:37:55
>>207 大名は鷹司だけだね
旗本というか、高家ならいるよ
有馬、中条、戸田、長沢、日野、六角と6家ある
233 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 18:12:10
公家から武家に養子に入った例なら、鷲尾→相良とか姉小路→谷田部細川とか、
高倉→角館佐竹(佐竹北家)とかがあるな。
234 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 21:00:10
飛騨守護だった姉小路氏は秀吉に滅ぼされた後、徳川の家臣になったらしいが何石くらいの旗本?
235 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 21:06:16
自己解決しますた
三木氏に名前戻して五百石ですね
236 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 23:27:46
秀吉に改易された
国持ちクラスの大名は
姉小路(飛騨)
宇都宮(下野)
波多(壱岐)
大友(豊後)
城井(豊前)
佐々(肥後)
羽柴秀保(大和)
で桶?
>214
頼職とは、元服も四位少将昇叙も同時のようだから、
「母親の身分が低いために軽く扱われた」というわけ
ではないようですね。
兄弟であっても同官というのは、紀伊家が尾張と同
格だと主張するときの最大の根拠だったわけだし。
238 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 00:26:48
波多氏は朝鮮出兵に反対するなど
改易後も勝手なふるまいが多く
江戸時代には落ちぶれて
ギター侍になった
239 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 03:19:34
吉宗って元服して将軍にお目見えした時、
ある意味気前がいい大将軍綱吉から、
「越前丹生に三万石」(兄弟も同時に越前に三万石)をぽーんと貰っていて、
まったく綱吉は豪快さんだよなぁ、と思っていたけど、
越前国内に、将軍の裁量だけで、
紀州の連枝藩が二つも、ある日突然誕生。
(代官任せで、城や陣屋はなかったらしいけど。)
これって「越前家への牽制」でもあるよね、きっと。
ドギー将軍、恐るべし。
頼職・頼方は3万石を与えられて大名になる前に
従五位下や従四位下少将になってるけど
御三家は並の大名と違って世子以外の庶子にも
官位を与えられたってこと?
241 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 14:29:08
綱吉の大盤振る舞い、じゃねーの?
あいつ、嫡子じゃないのに将軍になった、という負い目もあるし。
負い目と言うより藩屏確保だろ。
>>241 綱吉時代以外の御三家庶子は無位官位だったのかな?
大概、早世してるか他家養子に行ってるから生涯部屋住みだった
例は少なそうだけど・・・
ミスった
>無位官位
無位無官
245 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 22:31:16
吉宗の兄が綱吉の娘婿だからと思ってた>大盤振る舞い
御三家連枝で水戸系の官位極官は,尾張,紀伊の連枝より低いですね。
これはやはり水戸家の極位極官が,尾張,紀伊より低いからですか?
それとも水戸連枝には,イレギュラーな高松松平があるからバランスをとってですか?
水戸の極位極官が,尾張,紀伊より低いから。
もともと水戸は新設の家で、しかも御三家のうちに入らなかったし。
駿河家改易、御両典(甲府・館林)は本家に戻って消滅した結果、
綱吉のころから水戸が御三家の一つに扱われるようなったということもある。
248 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:09:20
250 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 21:25:21
>>227 白は生え抜きの賎民ですが宜しいでしょうか?
251 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 22:52:58
水戸連枝って定府って事もあるけど影が薄いよな
高松除いて
確かに高松以外は空気
弟筋の御三家はおろか、水戸連枝の高松松平と似たり寄ったりの
待遇になってしまった越前松平の転落ぶりといったらないな
高田藩が存続していれば、また違ったんだろうが・・・
254 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 01:41:10
でも、秀康の息子たちは、それぞれが大名となってそこそこの石高をもらってたりする。
頼房の息子たちの石高は、それと比較すれば劣るし、3000石とかで水戸家の家臣になった息子もいる。
で、息子の少ない義直と頼宣の石高は多い…。
娘が嫁いだ奥平、池田、浅野も男の子が増えたら分家させたりするも、トータルの石高はみんなそこそこ残る。
幕府的には案外バランスに配慮してたのかも。
255 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 03:55:29
>>253 そもそも要注意な取扱い注意な立場な上に、
なにかと不手際やらかしまして。
それでも越前福井藩は幕末まで存続しました。
これが″THE制外″なのです。
256 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 10:09:12
結城秀康の子孫が歴代有能で50万石持っていた方が
将軍家にも本人達にとっても危険かもな
信康の嫡男がいてもかなり問題だが
越前は春嶽が出たってだけで、もう十分やん。
258 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 16:30:45
でも春嶽は秀康の子孫ではないんだよな
259 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 19:51:57
越前は血統断絶、津山はたった五万石。
やっぱ秀康流の本家は松江藩でしょう
徳川御三家の紀伊、三河、水戸とは、徐福の渡来地との関連が伺えます。
神渟名川耳天皇(かみぬなかわみみのすめらのみこと)は神日本磐余彦
天皇(かむやまといわれひこのすめらのみこと)、その系統を継ぐ者こそが
大耳の徳川家康であり、伊達政宗だったのです。
和歌山・水戸・甲府・館林・駿府、みんな今はド田舎。
名古屋ぐらいだな、栄えているのは。
>247
> もともと水戸は新設の家で、しかも御三家のうちに入らなかったし。
そういう伝説は根強いけど、そもそも当初は「御三家」という考え方そのもの
がなかったし、くくられるようになった時期には駿河はなくなっていた。
もっとも、駿河家があったときでも三家側は「権現様の三人の御子」というく
くりで対抗しようとしていたそうだけど。
後、綱吉のときは甲府はまだありますね。「御三家」の初期の例としてよく
あげられる「定」も「御三家、甲府殿」だし。
263 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 23:30:11
尾張・紀伊の初代と家光が家康から見た三代将軍の有資格者で当初の三家
駿河忠長・秀康系・水戸は継承資格がなかった
だと思っていたが
264 :
日本@名無史さん:2009/07/18(土) 02:20:44
なんで尾張紀州と水戸の間には、
差がついちゃったんでしょうか?
黄門様が威張ってるけど、たかだか中納言なのになーといつも思う。
水戸黄門は「前副将軍」って設定だから・・・
>たかだか中納言
それでも武家官位としては相当高いけどね
268 :
日本@名無史さん:2009/07/18(土) 10:48:20
>>265 それは時代背景がそうさせたのであって
光國は家康の孫であり、綱吉よりも血筋的に家康に近い
しかも紀伊や尾張とは違い、藩主時代常に江戸に居る定府大名。
江戸に上る各諸大名が無視する事の出来ない存在であった事は道理だよ
つまり参勤で江戸に上る大名が、将軍の次に注目する存在が徳川光國
副将軍は、諸国の大名が作り出した象徴的な存在。
そうそう、「徳川一門の長老」になっていればね…
光圀の中納言昇進は父と比べても綱條に比べてもやたら遅いけど、何で?
乱暴者だったから
隠居したら中納言を貰えるっていうのが凄い嫌がらせだよな
273 :
日本@名無史さん:2009/07/18(土) 15:52:31
煙たい存在だったんだろう。
痩せても枯れても「徳川」だし、家康の孫だ
光圀だけじゃなく、同時期の尾紀も大納言昇進遅い気するけどな
( ノ,' ,,-―――――-、
ヽ( .i ,r´ `\
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.('´ |./ ', ',
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>>259 しかも津山は確堂が養子に入って血筋が絶えた。
277 :
日本@名無史さん:2009/07/18(土) 21:58:06
徳川綱條はたくさん子供いたのに全員夭折しちゃったんだね。
かわいそう
278 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 03:33:20
家斉は神レベルとして、
江戸時代中で公式で子沢山大名でランキング作ろうぜ。
綱條は何番目かなぁ?
279 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 06:02:43
家斉は妻妾16人以上で子が53人か?
岡山藩の池田綱政は、妻妾が「目に付く限り、手当たり次第」で子は70人以上。
妊婦母子を住まわせる長屋はいつも満杯だったそうだ。
280 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 08:28:50
徳川綱誠、島津重豪、鍋島斉正、酒井忠器あたり?
鍋島光茂も
前漢の中山王劉勝は酒好きかつ女好きであり、淫色に耽った王として有名だったが、
子は50人以上もおり、孫も併せて120人以上を儲けたという。
しかし、家斉の子供たちがそろって短命なのはどういうことでしょう?
他家に養子に出された兄弟たちは結構長生きしてますね。
283 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 09:20:28
乳首にまで白粉を塗ることによる鉛中毒。
284 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 09:49:17
あるいは、大事に育てすぎるために基礎体力すらつかずにひ弱に育つ。
砒素を盛られて毒殺っされたのか?間引き?
射精し過ぎてロクな精子ができなくなったからだろ
287 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 11:19:48
289 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 11:51:17
幕末に少年だった殿さま、若さまたち(嘉永・安政期に生まれた人たち)は、
明治初年に徴兵令が出されたとき、百姓町人の壮丁と一緒に徴兵検査を受けたの?
290 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 12:50:59
291 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 13:25:23
国民皆兵の原則に反するな
292 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 16:04:15
アホか
殿様,若様だったら,徴兵令の免除規定が何個か該当するだろ。
294 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 18:12:57
長男ってだけで免除されるからな。あと、華族の子弟なら学習院から京帝大東北帝大には
無試験で入れたから、それでも免除かな。
近衛文麿とか華族で京大行ってるやつ結構いたと思うけど、
あれって無試験だからなのか。
文麿はワザワザ試験うけて受かった
297 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:31:31
休憩は終わりだ
本題へ戻るぞ
298 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:33:03
文麿みたいな長袖流の話しは他所で
299 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 03:04:27
300 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 10:20:20
綱政も、80人の子がいたと言われる景行天皇や嵯峨天皇には及ばないな
しかし子沢山のエロ天皇・エロ殿って嵯峨天皇といい池田綱政といい、
案外治績には評判がいい
301 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 10:28:03
仕事が上手くいく条件として、DQN上司が口を挟まないという要素はなによりも大きいからな。
302 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 10:43:20
スレ違いだが嵯峨天皇は日本史上もっとも幸福な人じゃないかな
女とやりまくるという男のロマンを最大限に実現
歴史上の名君としての評判が高い
芸術家としても超有名
寂仙とかいう名僧の生れ変りと言われてたらしいが、どういうエロ坊主だよww
303 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 20:54:29
徳川光貞は男子4人中3人成長してるのに徳川綱誠は21人中4人。
こうしてみると同時代でも早世率に差があるね。
家慶と斉昭の差は環境か?
304 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 21:26:39
>>300今でも子だくさん橋下知事の例もあるし、スケベ東国原知事の例もある。
傑色を好むという言葉もあるし・・・
勢力と精力色は表裏一体。
光貞の息子は吉宗以外早死にじゃん
306 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 21:50:35
末っ子の吉宗が兄貴みんな殺したんだから光貞のせいじゃない
307 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 22:01:07
島津重豪は14男中6人、井伊直中は15男中9人成人となかなかの確立だ
308 :
日本@名無史さん:2009/07/21(火) 02:19:37
生き残り成人率なら、信長家康が。
戦国いい話・悪い話スレみたいな、江戸大名の逸話って
あんまり数がないものかな・・・
310 :
日本@名無史さん:2009/07/21(火) 12:52:47
蛸壺的にはまるファンが少ないだけだろ。
311 :
日本@名無史さん:2009/07/22(水) 20:24:26
家慶の子供は27人生まれたが成人したのは家定のみ。
家定は、ものすごい生命力を持った人間だったんだね。
312 :
日本@名無史さん:2009/07/22(水) 21:24:55
家康―頼宣―光貞―吉宗―宗尹―治済―家斉―家慶
と続いた血統が生命力が弱いわけがないだろ!
313 :
山内豊乳:2009/07/23(木) 02:30:31
とりわけ、将軍家、一橋家、田安家、紀州藩、尾張藩、越前藩、川越藩、
明石藩、阿波徳島藩などを次々と乗っ取るゴギブリ並生命力紀州党
314 :
日本@名無史さん:2009/07/23(木) 02:39:03
水戸も生命力強くないか?
315 :
日本@名無史さん:2009/07/23(木) 02:48:36
享保の改革で、武士でなくとも自由に電報が送れ、列車で旅行できるようになった。
洋書の輸入も許され、翻訳が写真製版によって全国に流布された。
科学技術の面で、全く見るべきものはなく、疫病や戦乱の記述は、多くの者に国外渡航の恐ろしさを
再認識させることとなった。一方で、まだ見ぬ高山や動植物の描写は、一部の者に強い刺激を与えた。
幕府は国外との人の自由な往来が日本の技術の流出につながり、西欧諸国の植民地争奪戦が
世界に著しい破壊をもたらすばかりでなく、自らの日本における地位をも危うくすることを恐れた。
ただし、各地で有力な資源が次々に発見される反面、消費量も爆発的に増加すると、地球の資源は
有限であることが認識され、また、衛生水準の向上と、技術の急速な進歩は、職業の変化から
取り残された貧困層の増加にもつながった。オランダからもたらされる、新しい島々の発見の情報に、
日本も住み良い土地を発見して殖民させるべき、との議論も高まった。
幕府はついに、他国の地表を通ることなく、地球上のどこにでも上空から到達できる手段の開発を決断した。
すなわち飛行機である。
繁殖率なら水戸もなかなか
317 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 03:45:13
尾張がいじけちゃうぞ。
綱誠も子だくさん
しかし紀州家は消滅予定…
320 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 19:28:13
本家はそうだけど
吉宗の血引いてる奴は腐るほどいるぞ
321 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 19:57:40
尾張宗勝は14男もいながら、二代後の藩主は他人だからな。
分からないものだ
俺、紀州家に養子に入ろうかなあ。園遊会とかにお呼ばれされちゃうのかな
323 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 23:52:50
早死じゃなかった?
325 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 02:24:37
製造量は多いんだけど、製品寿命が難ありなのか。
>>289 県の役人になってたら、兵役免除されるから受けてないと思う。
それに長男は徴兵対象外じゃなかったかな。だから当初は次男・三男だったと思う。
それに大勢の兵隊を徴兵しても、国の財政的に養えなかったんじゃないかな。
327 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 18:52:21
>>323 徳川宗勝の子供たち
長男 早世
次男 尾張藩相続(子早世)
三男 高須藩相続(子早世)
四男 早世
五男 高須藩相続(子無し)
六男 早世
七男 早世
八男 竹腰家相続(幕末まで尾張義直の血統を保つ)
九男 早世
十男 下総高岡藩相続(幕末まで尾張義直の血統を保つ)
十一男 高遠藩相続(子早世)
十二男 早世
十三男 早世
十四男 延岡藩相続(子無し)
328 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 21:28:59
徳川綱誠の子供たち
長男〜九男 早世
十男 尾張藩相続(男子は早世)
十一男 早世
十二男 尾張藩相続(男子なし)
十三男〜十六男 早世
十七男 高須藩相続(男子なし)
十八男〜十九男 早世
二十男 尾張藩相続(男子なし)
二十一男 早世
>八男 竹腰家相続
ここだけショボいな。可哀相に。
330 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 22:46:31
>八男 竹腰家相続
だが、この系統が尾張家を継ぐのが血筋の上では妥当だったろうな。
331 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 03:42:59
一旦、臣下になったからちょっとつらいかもね。
下総の藩主も、「御三家」を継ぐにはなぁ。
やっぱり御三家の格式は高いわ。
332 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 06:46:04
っていうかさ一級松平(御三家連枝)より下に墜ちて将軍家は勿論の事、御三家等を継いだ例は無いんじゃないの?
会津越前など2級松平筆頭でも連枝の養子になった事例すら無いだろう!
家康の男系以外の三級松平は論外ww
333 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 07:52:58
斬九郎は何級?
334 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 04:06:45
それでも「御三家の実子」だよ。
335 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 01:13:57
30万石の越前家と1万石の水戸連枝はどちらが格上?
>>335 官位石高なら越前、君臣の別なら水戸分家だろう
高松を例外として水戸だけは5位だった
>336
大学頭家(守山)は四位で侍従じゃなかった?頼貞は少将だった
と思うし。
後、播磨守家(府中)も四位で侍従だったと思う。
338 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 02:58:56
地味な三宅の話でもしようぜ。
水戸連技の宍戸松平って,家門扱いで良いのかな?それとも譜代扱い?
御三家連技のなのに,大広間詰めではなく,帝鑑之間詰めだし。
それに家の極位は従5位下みたいだし。
340 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 19:16:48
>>339 家門でいいんじゃない。
★宍戸松平の陣屋の門は、現在民家の一部になっていて、道路沿いにあるよ
結構しっかりとした長屋門風の構え。
★府中松平の陣屋門は、現在石岡小学館敷地内にあり
オーソドックスな四ツ足門。
@茨城近隣
大広間席じゃないのは四品以上に進まないからだろうし、
1万石で従五位下なのは府中・守山との兼ね合いなんじゃない?
342 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 02:54:19
343 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 07:48:32
>>332 一級とか二級とか三級、そんな区分があったんだね。
会津が御三家連枝より家格が下とは知らなかった。
344 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 07:50:19
親疎の別は詰間で表されるんじゃねーの
345 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 10:31:06
会津を連枝の引き合いに出すのは釣りだよ(笑)
346 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 17:34:37
会津は保科、越前は結城だよな
血統は徳川でも家としては別だよな
347 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 18:00:37
会津は保科というよりは松平じゃねーの。保科宗家としての家宝などは飯野藩保科家に
委譲する手続きまでしたようだし。
越前も結城なら、織田信雄の家は織田じゃなくて北畠といってるようなものじゃないのか。
頼朝の側近、武家の名族結城氏>>>>>(越えられない壁)>>>>>浮浪者の松平
349 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 19:58:35
征夷大将軍の一族の方が格上。幕府の秩序でも朝廷の秩序でも同様。
松平姓を貰わない名家の外様大名は内心鼻で笑っておったろう
マツダイラ(プ
351 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 21:15:49
やっぱ豊臣の両木下家はかっこいいな!
>>350 そんなことを言い出したら,武家(プ by公家
家の由緒だけなら,どんだけ名家な大名でも,御蔵米公家にさえ敵わないだろ。
354 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 05:16:33
松平姓もらわない外様大藩は細川だけ?伊達・佐竹もかな
松平姓貰ったら藤原氏も平氏出身の大名も叙任の時、源アソンになるの?
羽柴姓貰った大名は皆羽柴で官位貰っていたよね
藤堂はもらってもおかしくなかったと思うけど貰ってないんだよな
>>354 伊達は松平もらってるよ。
もらってないのは、上杉じゃない
細川って、大坂の陣の直前まで羽柴って名乗ってたんだね。
358 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 10:04:40
>>356 藤堂は譜代待遇だからもらっていないのでは?
松平姓はともかく殿上元服を許されてない家は、国持の中でも格が低い感じがするな
361 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 13:27:45
日出藩豊臣木下家は途中から宇都宮戸田氏に血統を奪われてしまった。
残るは足守藩のみ
木下家は小藩とはいえ、よく改易されずに生き残れたね
363 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 14:07:40
足守藩は妾2人を参勤交代の行列に入れているのが大目付にばれて、所領の大半を
東北の不毛の地に移されてしまいました。
バカばっか
>>363 公儀もそれぐらい大目に見てやりゃ良いのになw
幕府全体が、平和すぎて過度の儀礼主義に走ってるもんなー
>>362 カス過ぎて歯牙にも掛けられなかったと。
だいたいが、親類縁者で少しでも才有れば登用して貰えた秀吉時代からして
木下は出世した者がいない。
同じ正室の縁続きでも浅野と木下じゃ大違い。
出来損ないばっかの一族だったわけだ。
小早川家に養子入りした金吾が一応出世頭だが・・・大減封くらってるんだよな
可愛かったのは子供の内だけ、それが金吾ちゃん
早くから中納言に補されてるし、兄弟の中では別格だったのは
間違いないんだろうけどねー
西軍で奮闘してれば、三成の傀儡で関白の目だって・・・
浅野家にはさりげなく豊臣完子の血が流れている
371 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 11:05:14
木下兄弟には松の丸(京極竜子)と若狭武田の遺児が隠れているというのは本当だろうか?
372 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 11:12:19
立石木下氏は秀頼の子国松の末裔。
いろんなスレに「豊臣完子厨」が沸いている。
374 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 17:30:20
>>371 木下長嘯子がそうだというのは、出典は何なのでしょう
376 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 21:31:55
豊臣完子タソはエロかわいい(´д`;)ハァハァ
377 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 21:24:50
初期の岩城氏にも豊臣氏の血が入っていなかった?
豊臣秀次の孫娘が嫁いでたとか
379 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 01:40:44
真田です。
380 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 03:13:35
いいやわたしだ
381 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 21:12:38
豊臣秀勝‐完子‐九条道房‐待姫‐九条輔実‐徳川吉通室‐徳川五郎太
382 :
日本@名無史さん:2009/08/06(木) 01:08:49
よし、
そろそろ三宅の話をするか。
稲垣でも可。
五郎ちゃんか
領地が分散してる藩と違って、志摩の稲垣や壱岐の松浦は狭いながらも
一国一円領有だから良いよなー
特に松浦は、非国持ながら領地のある肥前守・壱岐守を称してるから、名ばかりの
受領名と違って優越感あったろうなw
そんなもんで優越感なんかあるわけないだろw
国持以外は基本的に自国の受領名を名乗るのを許されてないんだから当然
優越感は持っていたと思うけどな。些細な格式の差に大きくこだわった時代だし。
壱岐なんて極小国だろ。
そんなとこの受領名名乗ったところで何の自慢にもならないよ。
そんなの名乗ったところで格があがるわけでもなし。
規模の大小の問題じゃなくて、自分の所領のある国名を名乗れ、「受領名と実際の
領地の一致」ってところに意味があるんだよ。松浦のような例外を除けば、国持以外は
自国名は名乗れなかったんだから。それに松浦は平戸のある肥前守も名乗ってる。
同じように、柳間・五位の大名でも例外的に四位相当の官途名を名乗れてた大名は
それを誇りを持っていたと思う。
伊達と島津、両池田の猟官運動もそうだけど、些細な家格の差がすごい重要だった
時代だからちょっとでも他の大名と違う特権的なものがあれば、それを誇るのは自然かと。
幕末の前橋藩は何処に領地を持ってたの?
>>388 たまたま持っている小領地が小国と一致していた。ただそれだけのことではないか。
そんなん特権でもないし。田村とかが陸奥守世襲したりしてたらそれは特権なのかもしれないけど。
壱岐守なんてほしがる大名いないでしょ。
391 :
日本@名無史さん:2009/08/06(木) 21:35:06
壱岐の松浦って,対馬の宗をどう見てたんだろ?
同じ離島で支配で,一国一円支配でも,片や国主で,片や並の大名。
血統でも松浦は一応は嵯峨源氏で,卑賤の出ではない。
>>390 全然違う。江戸大名の名乗る受領名に関していえば、五位相当の肥前守も六位相当の
壱岐守もそこに格の差はない。基本的には自分で何を名乗るか決めるんだから。だから
松浦家の当主でも肥前守を名乗ったり、壱岐守を名乗ったり様々。
但し式部大輔や左京大夫など四位相当の官途名は例外あるも基本的に四品以上でないと不可。
陸奥守は伊達家の独占だから他家は例え陸奥以外の大名でも名乗れない。
ゆえに松浦家の場合、偶然一致していたんじゃなくて特例的に自国名を許されていたってこと。
現に、肥前平戸を領有する松浦家は肥前守を主に名乗ってる。これが国持大名以外の他の
大名だと、例えば讃岐丸亀藩主の京極家が所領のある讃岐守を名乗ることは出来ない。
>壱岐守なんてほしがる大名いないでしょ。
壱岐守を名乗った大名は多数いたけどね。平大名でも従五位下なんだから五位相当の守も
当然名乗れるのにだよ?
それは江戸大名の場合、受領名・官途名は所詮は通称的なもので、そこに肥前守>壱岐守
といった序列的な意味はないから。だから譜代の雄藩・鶴岡酒井家は従四位下侍従に進む家
なのに、左衛門尉を代々名乗ってる。上に書いたように、従五位下では式部大輔や左京大夫を
名乗れないということはあった(例えば、広瀬藩歴代の中で四品に昇叙された直寛だけが大輔を
称してる)けど、四位の大名が五位・六位相当のものを名乗っても格が下がることにはならない。
序列に意味があるのは、大納言>中納言>参議>中将>少将>侍従>四品>諸大夫
といった官職の方であって、従四位下少将に進む松山松平家が下国の隠岐守を代々名乗り、
松平信綱が伊豆守を名乗っても、下国の受領名だから上国の守より格下ということにはならない。
江戸大名の場合、受領名・官途名と官職、位階は峻別して考えるべきもの。
松浦家の場合、上国だとか下国だとかいう問題ではなく、本来国持大名にしか認められていない
自分の領国の肥前守・壱岐守を例外的に許されていたということに意味があるってこと。
これ以上は堂々巡りだからこれで最後にします。
>五位相当の肥前守も六位相当の壱岐守もそこに格の差はない。
分かりにくかったので補足しとくと、「従五位下肥前守」と「従五位下壱岐守」には格の差は
ない、同列って意味。同じように、「従四位下左衛門尉」と「従四位下式部大輔」も同列。
ただし、従五位下では通常は省の大輔や京職の大夫は名乗ることは出来なかったから、
従五位下で左京大夫など四位相当の官途名を許された家(例えば田村右京大夫
や本多中務大輔)は特例的な扱い。
広瀬藩は代々従五位下の家だから隼人正・佐渡守や式部少輔を称してるけど、
唯一、帝鑑間の取締だかを任されて従四位下に昇叙した8代藩主・直寛だけが位階
相応の宮内大輔を名乗ってるのが好例だと思う。
琉球守はおらんか
>>392 だから松浦が小身ながら壱岐を一円支配していたことによって擬似的な国持大名に見えたところで、
所詮小国持ちにすぎないってことでしょ。
壱岐って1万石あるの?
>>394 国民新党にいらっしゃいます。
>>395 そうだよ。所詮は国持大名ではないけど、並の大半の大名はそれすらも
許されてはいなかった。だから松浦当人は当然優越感があっただろうってこと。
壱岐・肥前の国主同然に壱岐守・肥前守を名乗れたわけだからね。
儀礼重視の江戸時代では、そういう重箱の隅のような些細な優劣が現代よりも
はるかに意味を持ったってこと。
行列の槍の本数とか、そういう些細な格式・違いの1つ1つが重要だった時代だからね。
398 :
日本@名無史さん:2009/08/07(金) 07:03:49
>>396 国持ちのはずなのに国持ちと認められていないわけだから、
むしろ劣等感持ってたんじゃないの?
国持大名ってのはあくまで「格式」上のことだから、一円領有=国持大名ではないから
劣等感は別に持ってないだろう。「国持ちのはず」という前提が当然のものではないよ。
大身だと伊達や上杉みたいに一国未満でも国持大名だし、井伊や小浜酒井のように
譜代なら大身や一円所有でも国持にはならない。松浦は壱岐の石高が少なすぎて壱岐
の領有というだけでは格式としての国持にならなくても当然だろう。朝鮮専任の宗が例外。
京極ももし若狭一円で十万石未満のままだったら、これも国持扱いを受けていたかは疑問ある。
国持・准国持というのは家格上の話だから、長府毛利のように家祖が正三位参議で将軍・幕閣と
入魂、五万石ながら准国持で従四位下侍従・殿上元服・賜諱の家格の家もあった反面、久留米
有馬のように二十万石超でも途中までは准国持扱いだった家もある。
400 :
日本@名無史さん:2009/08/07(金) 11:12:35
石高・親藩譜代外様・国持城持陣屋の別・官位
これらを複雑にかみ合わせて牽制させたり懐柔したりしていたのかな
松前だって,蝦夷島の島主扱いだが,交代寄合→大名格がやっとだったからな。
松前さんちは名より実
裕福ですんで
403 :
日本@名無史さん:2009/08/07(金) 12:40:23
絞れるだけ搾り取るて一体。甲斐か信濃あたりに国替えしたれば
蝦夷地の収益は少なく見積もっても10万石相当はあったから
どのくらい松前が抜いてたのかは知らんけど潤ってただろうなあw
松前藩は江戸後期の一時期陸奥に七千石で移されたじゃん
その時は窮乏したのかな?
407 :
日本@名無史さん:2009/08/07(金) 23:50:19
松前は後退寄合で陸奥伊達郡梁川に9千石だってさ
秋田家以上の嫌がらせだなwww
人吉の相良って御家騒動ばっかりしてるな
あれでよく改易にならなかったものだ・・・
北海道全域の支配者の格式、経済力に対する幕府の見識は万石以下ということだな
確か水戸斉昭が,北海道の開発を上申したらしいが(ソースは「風雲児たち」)
実際に開拓使による開発前の北海道なんて,米なんて採れなくて無高だろ。
米取れなくても家老で年収3000両以上と言われているぞ
少なくても1万石の大名以上の実収はあると思われ
商人ならとにかく実収入の多さが重要だろうけど、やはり武士の場合は知行地と領民への
こだわりが強かっただろうし、松前の方式では一般的な所領とそこの田畑から上がる年貢と
同様にはみなされなかったのかな?
蝦夷地がもっと評価されてたら、国持扱いでもおかしくないんだろうけど・・・
>412
なかなかそうもいかんでしょう。
長岡の牧野家が新潟を召し上げられたときは、600石ばかりの「新潟浜村」
を上地し、小地谷のあたりで同じくらい(石高はわずかに多い)の替地をもらっ
たそうだが、名目上は微小な加増になるといっても領主としては到底満足
できないでしょう。
>>408 wikiで見ただけだけど相良藩ひどいな
人吉の藩主暗殺に比べたら、主君押込がえらくまともな方法に思えるw
相良藩で思い出したけど、田沼家は意次失脚で没落したけど意次の四男・意正は
大番頭・若年寄を経て側用人(従四位下)にまで累進してるんだよな。
1万石のままとはいえ旧領の遠州相良に復帰できたし面目を施してるな。
416 :
日本@名無史さん:2009/08/09(日) 00:13:19
松前って老中になった当主が幕末にも移封されているよね
東北に4万石と下賜金を毎年18000両。
これだけ貰っても交易権を喪失したために藩財政は窮乏したとのことだから9000石なら火の車だろう
417 :
日本@名無史さん:2009/08/09(日) 01:51:32
>>415 父意次に似て役に立つ侍だったのであろう
幕末の田沼意尊も若年寄に就任してるな
田沼家に対する処遇は松平定信の私怨のようなものだからなー
三池藩主の立花種周は若年寄辞めさせられた上に改易までくらってしまったが
具体的にどんな失態をしたのだろうか
老中や側用人と比べたら、若年寄って地味な感じがするな
職制的にも老中の補佐というより幕臣の支配関係が中心で、所司代・大坂城代と違って
老中への通過点ということもなく実質1〜3万石の小大名の終着ポストになってるからかな
>419
政争で負けた側についたことじゃないかな。
出頭人の中では15万石を維持した柳沢吉保の一人勝ちか・・・
423 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 02:03:01
掘田は?
豊臣関係者からの出世だぞ。
仕方ないのかもしれないが
徳川幕府の功臣たちの子孫が冷遇されてるような気がする
425 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 10:06:29
大久保じいさんの嘆きか
徳川にほとんど功臣なんていないでしょ。
たいした戦もしてないのに運よく領土が増え続けたんだから。
427 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 12:54:38
三河平定 → 信長にこき使われ → 甲信平定で上杉北条と衝突 → 小牧長久手 → 関ヶ原 → 大坂の陣
三河平定→土豪同士の小競り合い。功があっても村一個もらえれば万々歳なレベル。
信長にこき使われ→ただのお手伝い。
甲信平定→火事場泥棒。たいした戦もなく外交で領地ゲット。
小牧長久手→事実上の敗戦。局地戦で申し訳程度に勝った程度で領地も増えず味方も切り崩される。むしろ大ピンチを招くことに。
関が原→武功があったのは井伊松平くらい。むしろ秀忠隊の諸将やあっさり蹴散らされて落馬逃走した本多平八などは改易もの。
大阪の陣→家康・秀忠とも本陣を蹴散らされて醜態をさらす。徳川武者の使えなさが白日の下に。
うまいこと立ち回った家康にはそれなりの功はあるが、徳川家の武者共には天下をとるに値するような武功はないな。
にもかかわらず分不相応な大封を与えられた井伊・本多・榊原・酒井・鳥居らはあまりにも恵まれすぎている。
たしかに徳川が領地拡大したのってドサクサ紛れが多いな。
武功でとったというより、棚から牡丹餅というのの方が多いようなw
徳川武者馬鹿にしすぎ
井伊が三十五万石も貰った理由がサッパリ分からぬ
譜代上限の相場十五万石を超えたのは他に鳥居くらいしか思い付かないが
それとも大差がある
432 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 20:07:46
よそは一族として高くなるから一家ずつを高く設定できないだけじゃないのか
>>431 直政・直孝が家康の寵童だったからじゃね?
井伊はぶっちゃけ過大評価だと思う
直孝が初期幕政に関与したことによる加増が大きいよな
そういう意味では榊原・本多より運が良かったとしか・・・
井伊,榊原は本家だけ,分家はあってもスペア用。
水野,酒井,本多は分家沢山で,一門繁栄のイメージがあるな,松平も。
437 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 22:24:15
もともと井伊は純粋な家臣ではなかったのだろ?
>>437 それ言ったら,土屋,堀田,稲葉,太田,そして水野も,純粋な徳川家臣ではないが・・・
水野は親戚みたいなもんだし、その他は主に幕府が確立してから政治で出世した連中だな。
井伊や本多酒井榊原といった武功派とは性質が大きく異なる。
大身譜代しか見てないからあんまり優遇されてるように見えないけど
譜代の一族とか、本来部屋住みで終わるような陪臣を取り立てたり、
もともと大した家じゃなかったとこでも大名になったりと、譜代大名は数で勝負。
名門どころの10〜15万石という表高は大体関東に入ったときの3倍増。
その後、全国を支配したとは言っても外様大名が有する石高や、幕府統治に必要な幕府領を
除くと、譜代大身に与えられる石高が3倍増ってのは妥当な水準でしょ。
15万石といったら国主クラスだしな。官位も従四位下侍従といえば公家相当だし。
榊原や本多は厚遇されてると思うが、その家格の高さゆえに老中では役不足なんだろうな。
442 :
日本@名無史さん:2009/08/12(水) 04:14:54
初期に分家を作ったところは、やっぱり「一門総合計」で35万くらいなんじゃない?
そう考えると、井伊は妥当。
多少スレチガイだが榊原家は石高から言うと伯爵ぐらいになっても良かったと思う
代わりと言っちゃ何だが高田にその名を冠した神社を建てて貰ったわい
一門総合計って?
本多といっても忠勝の家系と重次や正信の家系は別だし、
酒井でも左衛門尉と雅楽頭も別物。
446 :
日本@名無史さん:2009/08/12(水) 08:14:36
>高田にその名を冠した神社を建てて貰ったわい
城跡にはその種の藩主家祭祀の神社が建っているのが珍しくない。
447 :
日本@名無史さん:2009/08/12(水) 09:34:35
> 官位も従四位下侍従といえば公家相当だし。
堂上公家なら従三位以上じゃないの?
>447
豊臣時代で言えば五大老が清華家に准ずる家格で、たしか従四位下侍従以上が
公家に相当する家格(公家成り)じゃなかったかな。従五位下(四品もかな)は諸大夫。
449 :
日本@名無史さん:2009/08/13(木) 03:04:37
>>445 本多や戸田あたりはそうかもね。
でも、酒井両系統は結構密接。
450 :
日本@名無史さん:2009/08/13(木) 03:06:07
>>446 細川になっても熊本は清正公(せいしょこさん)
451 :
日本@名無史さん:2009/08/13(木) 11:09:32
酒井雅楽頭法子
452 :
日本@名無史さん:2009/08/13(木) 12:10:25
酒井典薬頭法子
453 :
日本@名無史さん:2009/08/13(木) 18:29:56
上杉家って、会津120万石から米沢30万石、さらに15万石に減封されても、
家臣を減らさなかったってことは、
120×250人(1万石あたりの家臣)=30000人
で、15万石の領地で、30000人の家臣がいたのか。
7000人弱だよ
米沢は15万石といっても米しか生産していなかったと勘違いしている人が多いみたいですね。
米以外にも綿花と絹糸、絹や綿織物、紙や木材、家具などの工芸品、紅花などの染料、化粧品、
錦鯉に至るまで、各御家人がそれぞれ何か事業を起こすことで米沢藩は成り立っていたのです。
上杉鷹山に関する本を読んだ方がいいよ。
>>455 アホ発見。
ちょっとヨウザン本読んだだけで知ったような口きいてんじゃねーよw
457 :
448:2009/08/13(木) 23:57:51
>>447 確証がなかったからネットで検索してたら、Googleブックスで「日本中世の法と経済」
という本のプレビューが見れた。そこの521頁以降の記述を見るに、公家成り=昇殿・侍従成り
が重要で、従五位下でも侍従であれば公家扱いだったみたい。
江戸時代の武家官位でも、高家は従五位下で侍従になるから「従四位下侍従以上」と
書いたのは正しくなかったかも。
幕府内での序列も従四位下侍従>従五位下侍従>従四位下>従五位下の順だし、
江戸時代の武家官位においては、国持大名・准国持・15万石前後の譜代家門・老中・
所司代・奥高家が公家に相当すると考えて良いんじゃないかと思う。
あと御三家連枝や吉井松平あたりもか。結構侍従成りする大名多いな。
459 :
日本@名無史さん:2009/08/14(金) 00:32:05
高家は知らんが従五位下の大名で侍従になったのはいないだろ
豊臣時代にはいるけど、江戸大名で従五位下侍従はいないかな。ごく初期に豊臣時代に
叙された連中が残ってたかもしれないけど。
上杉鷹山と蜂須賀重喜、似たような境遇で共に改革者なのに評価が大違いになったな・・・
462 :
日本@名無史さん:2009/08/14(金) 01:01:29
>>457 その場合の「公家」っていうのは、単に侍従っていうだけの意味だよね?
何が言いたいかというと、一般的に言う江戸時代の公家=堂上公家は基本、公卿になる家柄だから、
従四位下侍従の大名よりも上だよね? 念のため。
>>462 >堂上公家は基本、公卿になる家柄だから、従四位下侍従の大名よりも上だよね?
公家社会の序列では恐らくそうなるだろうね。半家の正二位非参議でも公卿は公卿だから。
豊家を摂家に見立てて、利家や輝元・隆景らの公卿が清華に准ずる家格としたところで
三位の大中納言止まりで実際の清華家の極位極官とは雲泥の差、半家とせいぜい
同等で位階だけなら半家の非参議よりも下だし、あくまで武家の家格としての話だと思う。
たぶん一応、公家成り=昇殿可能=堂上家に相当する家格で、地下相当の従五位下
・諸大夫との峻別って意味合いなんじゃないかと思うけど確証はない。
御三家・駿河家や前田家は公卿に相当する官位に昇るからか家老も従五位下に叙されるけど、
堂上家で諸大夫を置けたのは摂家・清華・大臣家あたりで羽林家・名家にはいなかったはず。
公家にそのまま対応させると従二位権大納言や従三位参議が極官の御三家や前田家では
置けないから、やはり武家官位は公家を真似てる部分も多いけどあくまで別物ってことだろうね。
江戸大名は全て員外官だから豊臣時代以上に別々の物になってるのかも。
訂正。
>半家とせいぜい同等で
羽林家とせいぜい同等で
467 :
日本@名無史さん:2009/08/14(金) 20:05:13
家臣に座敷牢に十年以上監禁されたのは大関氏だろ
大関の殿様なんて気楽そうに見えるけど、内実は厳しいんだなあ・・・
>>467 いやこの蜂須賀さんも確か実質押し込めだったような
470 :
日本@名無史さん:2009/08/14(金) 22:05:52
>>469 藩主在任中は名君だったみたいだけど、幕府に蟄居を命ぜられたのはなぜ?
その後かなりの放蕩三昧の暗君になってしまったらしいが
蜂須賀斉裕は,極位極官が正四位上参議まで昇っているんですが,参議は公卿の官ですよね。
だとすると,前田家のように,蜂須賀家臣も諸大夫に叙任されたのでしょうか?
四位で参議になれたのね
>>472 参議には官位相当はないということになってますから。
というか官位相当はないけど、もともと四位の官職だし。
殿上人が公卿になる取っ掛かり。
475 :
日本@名無史さん:2009/08/14(金) 23:31:24
>>467 大関増徳は1861〜1869の8年間監禁されていた。
20代の殆どを座敷牢で過ごしたわけだ
しかし父は老中、兄は尾張藩の付家老という出自からして幕府に悟られなかったのだろうか?
476 :
日本@名無史さん:2009/08/14(金) 23:54:57
>>475 タフガイだな
諏訪に流された吉良の孫は二年ももたなかったというのに
477 :
日本@名無史さん:2009/08/15(土) 00:12:49
>>476 座敷牢と言っても待遇はさまざま
吉良は飲食を供されただけで
病気をしても薬を与えられなかったから
478 :
日本@名無史さん:2009/08/15(土) 00:17:59
鳥居耀蔵の生命力に比べたらひよっこだよ
479 :
日本@名無史さん:2009/08/15(土) 02:21:12
>>470 幕府の方針と違ったから。
で、生き甲斐無くして、
あとの人生やぶれかぶれ、と。
尾張宗春みたいな。
480 :
日本@名無史さん:2009/08/15(土) 03:17:09
配流先で長生きしたチャンプは誰?
松平忠直は別格として。
忠輝?
>>470 是非はともかくかなりの切れ者だったらしいね
幕府の方針というか当時の武家運営の方式とは合わなかったから挫折
その後失意で放蕩三昧
483 :
日本@名無史さん:2009/08/16(日) 03:16:26
なんで二回おんなじこと書くん?
484 :
日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:34:00
蜂須賀重喜については童門さんが小説書いてるからそれ読みたいけど売ってないんだよな
主君押し込めの構造
とかいうがあったかと
確か講談社の学術文庫
488 :
日本@名無史さん:2009/08/16(日) 11:40:08
島流しならよかろう。
だが他家にお預けとなっていつまでも生きながらえている罪人なんて迷惑千万
それも権現様の息子となると迷惑の二乗だ
一伯殿の配流には旗本2名が豊後目付として派遣されてるな、厳重なことだ。
宇喜多厨うざい
492 :
日本@名無史さん:2009/08/16(日) 22:34:26
童門は何でもかんでも現在のビジネスのハウツー本まがいのような作風になるからだめだ・
同門の小説は基本的に小学生向けなんだよね。
少なくとも大人の読むようなもんじゃない。
>>494 ああよくわかる
小学生向けの戦国物とかあるよね
496 :
日本@名無史さん:2009/08/17(月) 02:46:19
>>490 の、割に奴は近所をぶらぶらしたり、
挙げ句に子供作ったり、自由だよな。
497 :
日本@名無史さん:2009/08/17(月) 12:27:19
忠輝は諏訪で60年くらい生きたんだよな。
外出することはできたのだろうか?
子供ができてないってことは女もあてがわれてなかったんだろ?
性欲処理はどうしてたの?オナニー?
499 :
日本@名無史さん:2009/08/17(月) 15:41:06
身分の高い人には若い小姓がついていてだな。
つまりはそういう事だ。
若い小姓にオナニーさせてたわけか。
お尻は柔らかいし、アナルの締まりも良いし・・・
変な女よりよっぽどいいのではないのか?
社会的抑圧がなければ、そういう趣味の人はもっと増えるはず。
キメェつうか、当時の価値観は否定しないが
現代に持ち込んで肯定するやつは馬鹿丸出し
>>477 諏訪藩の記録みるとそうでもないみたい。
おやつまで出してもらっている。
配流された時は、怪我が直ってなかったから、毎日医者にみてもらってたみたいだし。
忠輝のようにはいかなかったと思うけど、それなりの扱いされたんじゃない。
504 :
日本@名無史さん:2009/08/17(月) 21:38:07
∧_∧
( ・∀・)
⊂|、, つ きゅっ
☆((, |
| | ノ
(.(_)
505 :
日本@名無史さん:2009/08/17(月) 21:42:25
>>500 オナニー=自慰(自ら慰める)
小姓にさせたら自慰にならない
まあ、小姓をおかずにしたと言いたいなら
自慰になるのだろうが。
506 :
日本@名無史さん:2009/08/17(月) 22:27:51
吉良義周の幽閉されていた南丸って忠輝と同じとこじゃん。
義周はマラリアで死んだと言われているが忠輝は健康そのもの
なぜ?
507 :
日本@名無史さん:2009/08/17(月) 23:28:41
諏訪因幡守・藩主側衆賀野治郎左の記録によると松平忠輝はさすが大坂の陣で
出撃するほどの胆力があるからこそ長生きもされたが、吉良は弱いからすぐ
死ぬんだそうです
大坂の陣での出撃は義務であって、胆力は関係ないと思われ。
大坂の陣で加増された大名って少ないな
そりゃ分配原資がないから配当もないw
徳川が手に入れたのは大阪60万石だけだからねえ。
加増するには身銭を切らなきゃいけない。
それまでにチョロチョロ改易した分は原資になるけど、大身外様の改易ラッシュも大阪の陣後だし。
511 :
日本@名無史さん:2009/08/18(火) 19:56:21
松平忠輝の配流後の生活が知りたくて隆慶一郎の本読んだら、まったく触れてなかった。
ちょっとは書いてくれよ
>>510 そんな中、藤堂・有馬が大幅加増されているけど、目だった戦功は両者ともないんだよなぁ。
むしろ、戦功があった松平忠直は冷遇されたし、戦功により3万石から4.3万石に加増されたけど
切腹に追い込まれた坂崎直盛なんて例もあるし…
>>512 藤堂の場合は,直接の戦功よりも,調略とか牽制とかインサイドワークでの論功の予感
蜂須賀が棚からぼた餅、淡路一国を貰っちゃってる
おまえ塙団右衛門に夜討ちされただけじゃん、と当時の人も内心ツッコミを入れたはず
能登国は前田家の一円支配ではなく,能登下村藩,西谷藩その後の天領があったようですが。
これって,幕府が前田領内に置いた橋頭堡とか,キューバのグアンタナモ米軍基地みたいなものでしょうか?
参勤するためには,必然的に前田領内を通行して,監視できるし。
516 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 01:31:45
>>512 忠直は前日に大失敗をしており、
大坂城一番乗りは結局プラマイゼロ。
それも、叱咤嘲笑された上に、軍令無視、敵軍無視の全軍死ぬ気の大突撃の結果。
加えて、
「身内が一人くらい死んでくれないと格好つかない」
「越前家ってやっぱりうざいよなぁ」
と思ってた家康としては、目論見が、、、
ま、
これじゃ忠直じゃなくても、グレるわなwww
ってか、家康秀忠からして大失態してるしw
まあ家康はドケチだから仕方ないな
519 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 07:52:27
大盤振る舞いして政権を不安定にして戦乱の世に戻せということか。秀吉の例が目の前にあるというのに。
大大名ひしめく九州・中国に、なぜ徳川一族の大藩を配置しなかったのか不思議
>>520 譜代ならともかく、徳川一族の大藩だと、それを旗頭に外様が結集して
将軍家に対抗しかねないのでは?
足利将軍と関東公方のような関係。
むしろ、毛利を長州に残したのが不思議。
残すにしても国替えで東北に飛ばすとか、それが無茶なら故地の安芸に回すとか。
長州って大内以来の要地で中国と九州の接点なのに。
最初吉川に長門あげる予定じゃなかったっけ?
>>522 長門なんか田舎だよ。
僻地だからこそ毛利は領有を許されたんだよ。
長門・周防は田舎だが交通・海運の要衝だから僻地ではない。
三方が海でなけりゃ、長州征伐ももう少し上手いこといってただろうし。
526 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 09:43:29
>三方が海でなけりゃ、長州征伐ももう少し上手いこといってただろうし。
交通の要衝なら大軍を擁する攻め手有利だろうに。それでもヘボ幕府軍は負けたんだよ。
津和野どころか浜田小倉まで落城って、どこまでヘタレなのやら。
水軍を抱えていた毛利に与える土地として適切だったのかは疑問。
長州は実高が高いし、幕末には下関の金融・倉庫業で大もうけしてるしな。
山陰あたりの二国に封じとけば、幕末も違った形になってたんじゃないかと。
それにしても城下を放棄した小倉藩は悲惨すぎるw
528 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 10:30:16
>それにしても城下を放棄した小倉藩は悲惨すぎるw
浜田藩はその後、
松江藩・鳥取藩に居候
↓
停戦したため故地回復の望み断たれる
↓
美作の飛地で鶴田藩立藩
↓
幕府から補償で元の高になるも、新領の農民の反対運動で年貢入らず
↓
ようやく年貢が入り、御殿も完成したと思ったら直後に廃藩置県
>>527 昔は日本海沿岸はかなり海運が発達していた。
>>529 山陰は一方面しか海に面してないし、内高も長門・周防よりはずっと低いよ
関ヶ原後で50万石、幕末には諸々で100万石と言われる二国に封じたのは
失敗だったとしか思えない。幕府も実情をよく把握せずに封じたんだろうけど・・・
だからヨシカワ君が
532 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 16:44:27
吉川広元が長門・周防をもらっていたら毛利輝元はどうなるの?
534 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 16:51:37
三成や小西なみの扱いだろう。
関ヶ原での吉川内通の評価は難しいが、陪臣である以上やってはならないことだった
んだろうな、
でも逸話とかで知る限り輝元には到底120万石を統べる能力はなかったし、安国寺の口車に
乗せられて総大将に祭り上げられてる時点で・・・
536 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 17:32:52
>安国寺の口車に
>乗せられて総大将に祭り上げられてる時点で・・・
本人は西軍の大将、三本の矢の二本は戦局を決める形で裏切り。こんなダメダメな大名家も珍しいな。
秀秋の小早川は毛利一門というより完全に豊臣連枝だからな
広家も決して凡将ではないんだろうけど、陪臣の身の程ってもんがあるよな
どんなに主君が暗君でも、内密で内通、挙句に失敗というのはいかんよなー
元就・隆元・元春・隆景・元清・就辰・秀包・秀元と、毛利一族は皆優秀なんだが
隆景亡き後、輝元を操縦できる人間がいなかったのが決定打だったな
まあどっちが勝とうと、毛利の120万石は同じ石高でも前田一族のそれとは中身が
全然違うから大毛利をそのまま存続させる天下人はいないだろう
結果論だが防長36万石は良い線だったのかもな
薩摩をそのまま存続させた徳川は本当にダメダメだな。
改易とか言われたら絶対徹底抗戦しただろうからなあ。
故国防衛なら5万ぐらいまでなら動員出来ただろうしその戦いの最中、島津方につく大名が出ないとも限らない。
西南戦争の二の舞,いや前哨戦になるんじゃないの?
島津が本気で抵抗すると相当厄介だろうからなー
薩摩大隅に閉じ込められる以前の最盛期でも、秀吉に一蹴されているというのにか?
543 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 21:31:17
徳川勝利の暁には、徳川に与力した大名集団にどこの領地を恩賞として与えるのか、
輝元も少し頭を冷やしてみれば分かるはずではないか。
毛利氏関係者の吉川廣家と、永代家老福原廣俊が、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、福島正則
に翻弄された結果というほかあるまい。
>>542 一蹴とはいっても、中国四国の将兵もかき集めて九州半分を舞台にしたから。
でも家康の場合は敵のホームに飛び込む戦いになる。殲滅戦・焦土戦覚悟。
もし10万20万の軍で3年5年かけるのなら、誅伐も可能だったろう。
でも当時の家康にそんなこととてもできない。与力した大名達が耐えられない。
545 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 22:44:05
>>544 まともな城もない本拠地を荒らされまくるわけだ。
一月もあれば滅ぼせるな。
薩摩,大隅はまともに米が取れないんだろ。
持久戦になったら,島津がもたないから琉球に転進して亡命政権化。
547 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 23:16:06
|Д´)チェスト!
548 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 23:32:55
薩摩大隅だけでなく日向も大半を支配してるし
琉球も支配してるから実質4ヶ国の太守だよね
おまけに長崎へ向かうオランダ船拉致って坊津に荷物下ろさせてるし
関ヶ原が終った時点で家康はまだ名目上天下人ではなく、
豊臣氏の臣下だと思っていた人もたくさんいただろうから、
その不安定な状態で島津を滅ぼすのは無謀だね。
薩摩なんかで激戦してる間に中央で何が起きるかわからない。
っていうか島津討伐に手こずったら確実に何か起きる。
でもさ、何で薩摩から移封しなかったのかな?
40万石くらいでも与えて東北にでも移すくらいで、手を打てばよかったのに。
結局その詰めの甘さが徳川幕府を滅ぼすかもしれないって家康はずっと思ってたし、
実際そうなったのに。
250年も後のことなんか知ったこっちゃないでしょw
結局,徳川幕府が移封した土着の大々名は,佐竹くらいかな?
毛利も減封はあっても旧領国内だし。
552 :
日本@名無史さん:2009/08/20(木) 02:24:09
上杉は豊臣時代に越後から会津に移されているしなあ
越後佐渡にも領地残されてはいたけど家康から見たら毛利と同じ旧領内の移転じゃない?
554 :
日本@名無史さん:2009/08/20(木) 03:39:24
結城、、、
10万石じゃ大大名ではない罠。
556 :
日本@名無史さん:2009/08/20(木) 04:20:48
充分でかい&古典的名大名家だろ。
どんだけ贅沢なんだよ。
10万石が大大名?
ありえないね。ぎりぎり中大名くらいか。
しかも徳川にのっとられてるし。
>>555 >>557 まあ大大名として入れるには苦しいけれども
佐竹、上杉、次にあげるとしたら〜、
という流れだから出てくるのは構わないかと
譜代は結構転封が多いけど、
転封の際って、商人、寺社、武家奉公人などはどの程度付いて行ったんだろう?
菩提寺や特産品の商工業者とかは一緒に連れて行きたいんじゃないかと思うけど、そういうのは
ダメだったんだろうか
譜代は転勤が多いから国元に菩提寺がないことが多い
江戸に菩提寺をおく 参勤交代で江戸には妻子も置くし2年に1回は来るから
561 :
日本@名無史さん:2009/08/20(木) 17:51:19
>譜代は転勤が多いから国元に菩提寺がないことが多い
んなわきゃない。定府でもない限り国元に家族が住んでいるから、菩提寺なしではいられないし、
国元にほとんど立ち寄らない旗本でさえ、知行地があれば位牌を祀らせる菩提所くらいは
指定してあるものだ。
大名であれば、江戸期以前からの菩提寺を、転封のたびに引き連れていく場合もあるし、
転封のたびに在所の近くの寺院を菩提寺に指定する場合もある。
松平直矩みたいに生涯に5回も国替えがあると、ついて行く方も大変だなー
引越し費用でよく財政破綻しなかったものだw
563 :
日本@名無史さん:2009/08/20(木) 18:18:22
破綻したからこそ、子孫は無理な国替えをしようとしたわけだが
>>563 それって直矩時代から百五十年も後の話じゃないの?
単身赴任も多かったんじゃないの?
浜松とか川越とか山形のような頻繁に譜代の入れ替わりのある土地に
歴代藩主の菩提寺があるって聞いたこと無い
567 :
日本@名無史さん:2009/08/20(木) 22:27:39
>>562 五回が最高なんですか?
もっと多かったよ、という例はないのですか?
幕初期なら,御役に就いたまま,お国入りする間もなく加増に次ぐ加増で,転封なんてことありそう。
>>566 川越の喜多院には松平大和守家の墓所があるし、川越藩領だった平林寺には大河内松平家の墓所もありますが?
こんな超有名どころも聞いたことが無いなんて、耳がおかしいんじゃね?
耳鼻科行って来いよwwww
wikiで転封の多い藩主の墓地調べたらだいたい最期の国元にあるな
転封の際に後任の大名と大きなトラブルになった例とかってあるのかな?
すでに徴収した年貢の返還で揉めた例はあるようだけど・・・
転封は領民も困ったらしいね
旧領主から諸権利を得たのが無駄になる可能性があるから
573 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 18:21:08
>>569 そんなくそマイナー大名の墓所なんてまともな人間は知るわけないだろw
574 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 18:38:24
〉571
丹波笹山の青山と丹波亀山の松平の入れ替えがおもしろいぞ。
575 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 18:45:18
>>573 喜多院は寛永寺が出来る前の東叡山。
家光誕生の間が江戸城から移築され現存しているような寺。
平林寺は関東の名刹、大河内松平、つまりは知恵伊豆の墓がある。
知恵伊豆がマイナー大名とは恐れ入ったな。
喜多院も平林寺も御存じ無いとなると東京近郊の御出身ではなさそうだし、加えて知恵伊豆を知らない人間がまともとなるとは、随分と文化的レベルの低い僻地にお住まいなんですな。
御愁傷様です。
576 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:03:45
松平大和守家って結構有名じゃない?
庄内、長岡との三方領地替え未遂や、前橋城が利根川の流れに侵食されて川越に居城移転したり。
5回の転封で引越し大名として有名な松平直矩とかもいるし。
577 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:05:14
>>575 喜多院はもちろん平林寺なんてドマイナーなもんまともな人間が知るわけがないw
つうか東京人ならそんなの知ってるって??
すんげえ馬鹿w田舎者の妄想爆裂中w
松平大和守家はすごくメジャーだと思うけどな。
城が流されたエピソードと越前家焼け太りのお話にはいつも出てくるw
それ以前に喜多院は文化財として非常に有名じゃないか?
門外漢でも知ってるレベル。
大河内家は墓を平林寺に置いたままだったのにはちょっと驚いた。
まあ墓所が関東だからできる芸当だよね。
579 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:17:51
喜多院が有名だなんて永保寺が有名だと主張するレベルだな。
歴史ヲタの妄想爆裂。
580 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 22:25:40
>>579 ここでそんなこというなよ
あほなんですか
581 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 22:36:43
喜多院は関東の天台宗の総本山だったから、関西で言えば延暦寺を知らないって言ってるようなもんか。
582 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 22:55:16
田舎者が作ったなんちゃって総本山と延暦寺を同列に扱う馬鹿発見。
ほんと教養がないなあ。
あからさまな煽りのキチガイは放置しろよ…
584 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 03:49:56
>>582 今でこそ京都は一地方都市の田舎に落ちぶれてしまったけど、淳和天皇を田舎者扱いするのは無理があるな。
景行天皇は田舎豪族で、ヤマトタケルを熊襲征伐やら
東方遠征やらさせていつけれど、日本の天皇というには
あまりにも勢力範囲は狭かった。
北海道を含め実質的に全国統一したのは明治天皇だ。
586 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:22:38
府内藩松平家二万石。
城は立派だし松平一門だし魚もうまいし、このくらいの小藩の殿様が一番気楽だな
二万石には過ぎたる立派な城だよな
財政的に問題なければ、確かに気楽で良いかも
でも初めから財政基盤は弱かったんだよな>府内藩
兄・立花種次 三池藩1万石 三池陣屋
弟・立花忠茂(宗茂の養子) 柳川藩10万石 柳川城
気まずかっただろうなあ、27歳で亡くなってるし
>>589 種次が家督を継いだのが13才のときみたいだし、そのとき忠茂は5才、宗茂は50歳で
まだまだ元気。気まずかっただろうけどまだ双方納得できる範疇かも。
水戸と高松や仙台と宇和島のような状況は気まずいのを通り越してるだろうなw
591 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 19:53:11
よく病弱で廃嫡された方が家督を継いだ者より長生きする例がありますが、藩主ってそんなストレス溜まるものなのでしょうか?
多忙だからなあ
藩主ではないけど江戸の町奉行は過労死するくらいだから
593 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 21:38:38
鬼平も過労死だろ?
甲府勤番支配は不審死・・・
595 :
日本@名無史さん:2009/08/23(日) 08:36:20
>>559 江戸宝永年間に信濃国上田藩にあった仙石家は国替えで但馬国出石
に移封される。このとき、藩主政明は、蕎麦職人を出石に連れてき
たことにより出石蕎麦が始まった。
商人なども移動していた事実が認められる。
まあ基本、人を連れてくのは自由だったろうね。
封建領主というのは人ではなく、土地を支配するものだからね。
でも連れて行ったのはきっとごく一部の、
それこそお気に入りの職人とかだけだったんじゃないかな、想像だが
597 :
日本@名無史さん:2009/08/23(日) 09:22:15
>>595 >>596 転封での領地の引継ぎは厳格で不心得があれば潰されかねませんよ
それなりの手続きを踏めば連れて行けるけどね
598 :
日本@名無史さん:2009/08/23(日) 09:43:48
>>596 >封建領主というのは人ではなく、土地を支配するものだからね。
そんなことはない。例えば幕府領の村の一部が大名や旗本の知行地となった場合に、
枝村のように明確に線引きができる場合でなければ、普通は新領主と幕府代官などの
当事者同士で話し合いがもたれるが、話し合いの内容如何で土地と領民とをそれぞれ
くじ引きで振り分けた例もある。領民一人ひとりでなく、家の振り分けね。
599 :
日本@名無史さん:2009/08/23(日) 10:11:52
商人は移動が自由でも、領民は普請などでの人夫調達などで重要な経済的要素だから、
士分格か町人身分でなければなかなか引き連れにくかっただろう。
600 :
日本@名無史さん:2009/08/23(日) 10:25:42
家数を減らさないように人別から外して連れ行ったんだろうな
601 :
日本@名無史さん:2009/08/23(日) 10:52:46
蕎麦職人は町人だろうけどな。
602 :
日本@名無史さん:2009/08/23(日) 12:28:12
町人ではないと思うけどね
603 :
日本@名無史さん:2009/08/23(日) 13:39:36
伊達家が米沢から追い出されたとき領民を大量に連れていったよなぁ
まあネタだろうが、秋田に美人が多い?のは佐竹が美人を根こそぎ連れて行ったからだと
言われてるなw
転封の作法は幕府がちゃんと確立してから出来てきたものだろうし、それ以前は
結構自由だったんじゃないかな?
606 :
日本@名無史さん:2009/08/23(日) 15:03:51
>それ以前は
>結構自由だったんじゃないかな?
武力を持った相手に無理を強いる以上、無理が過ぎると自暴自棄を起こしかねない。
いわばDQNの意地の張り合いのようなもの。そして伊達政宗はその常習犯。
上杉の会津への転封の際、年貢は半分置いていくという慣例を破って
全部会津に持っていってしまったため、堀が困ったなんていう話もあるしなぁ。
608 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 03:52:45
>>595 それ、確証ある話ですか?
巷談じゃなくて?
出石の蕎麦と信州蕎麦、全然違うと思うし、
そもそも現在スタイルの
「打って、細切りにして、茹でる」蕎麦って、
江戸時代も結構進んでからできたんじゃない?
それも、江戸か上方発祥で。
栽培技術なら、
蕎麦の栽培自体は日本中どこでもやってたはずだし。
609 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 08:38:21
wikiでは、信州ではもっと早かったとしている。
蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわれる。
古くは、同じく蕎麦粉を練った食品である蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練りとも言う)と区別するため
蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。現在は、省略して単に蕎麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の
呼称が残る地域も存在する。
この蕎麦切りの存在が確認できる最も古い文献は、長野県木曽郡大桑村須原にある定勝寺の
寄進記録である。同寺での1574年(天正2年)初めの建物修復工事完成に際しての寄進物一覧の
中に「振舞ソハキリ 金永」というくだりが確認でき、少なくともこの時点で蕎麦切りが存在して
いたことが判明している。
毛利も関ヶ原後の減封の際、福島正則とかに年貢の返還を求められたがすぐには
ままならず、たしか領地の一部(三万石?)を担保に入れて待ってもらったんだっけ。
611 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 09:52:35
>>609 蕎麦切りと、蕎麦製麺は別だと思うな。
なんにせよ、出石の信州発祥は後付けの話じゃなかな、と。
612 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 10:01:34
で、その根拠は妄想か。
613 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 10:26:21
>>611 蕎麦屋が他国から来た客に古いやり方だと馬鹿にされて、なんの工夫もしないと思ってんのか。
ルーツが同じだろうと、客層が異なれば工夫の方向が変わって別物になるのは当たり前だろうに。
>>613 なんだ、その言い草は?
妄想で語ってたくせに態度がでかすぎだぞ。
615 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 10:45:28
>>614 こっちはwikiから根拠を引っ張ってきてる。自分の感性のみでものを言ってるのは
>>611のほうだ。
読み違えか? それとも妄想狂か??
612=614=おそらく609とは別人のただのキチガイ煽り。放置推奨。
617 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 12:14:24
蕎麦がどうとかどうでもいいよ
Wikipediaとかw
618 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 12:15:41
しかも幕藩体制下の諸候の話じゃないし
百姓だって天下人になれるんだから
蕎麦屋ならば諸侯予備軍みたいなもんだろ。
620 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 12:42:24
>>618 仙石氏の転封の時期すら知らんのか。馬鹿め。
621 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 12:45:02
>>617 wikiなら馬鹿にするというのも程度が低いとは思わんのか。
別に最新学説について議論しているわけじゃないぞ。
622 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 13:05:39
ていうか仙石氏時代の上田に蕎麦打ち専門の職人なんていたのか?
623 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 13:53:19
下級藩士が盛りそばかけそばの製造技術を習得していただけってのが実際のところかもな。
有力農民町人層との通婚によって、自然に技術は広まったことだろう。
625 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 14:18:49
626 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 15:28:16
夏の終わり・・・だね
>>615 >
>>614 > こっちはwikiから根拠を引っ張ってきてる。自分の感性のみでものを言ってるのは
>>611のほうだ。
> 読み違えか? それとも妄想狂か??
凄いな厨房ってw
628 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 17:06:15
この馬鹿はよほど悔しかったらしいな。
629 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 17:31:04
すごいな wiki ってソースになるのか
うまい蕎麦もそんなこと考えながら
食ってるとうまく感じないかもなw
631 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 18:44:54
まあ転封移封に際して領民を新領地に召し連れて行くのにはかなり制約があったってことだな
632 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 19:17:22
>>629 ググりすらせず寝言ほざくバカ相手なら、十分すぎるソースだろうな。
>>625 しばしばウィキペディアが「ウィキ」または「Wiki」と略されるが、「ウィキ」は以上の
ようなシステムの一般名であるため、厳密には混同が生ずる)。
ソースはWikipedia
634 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 20:23:28
地元では仙石氏が蕎麦職人を連れてきたって伝えられてるけど。
お家騒動と並ぶ仙石あるあるネタだな。
切り蕎麦の成立場所は信州とも考えられるし入封した時代からみても不自然ではない。
ただ皿蕎麦形式は明らかに最近だが。
あれは焼き物と蕎麦、二大地元名産を組み合わせた。
635 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 21:12:09
出石は観光地として成功してるよな。格下だった豊岡藩の陣屋町に併呑された格好なのに。
併呑といえば、村岡町は町名からさえ排除されて悲惨なことになってるけど。
あの直江とかいうやつ。
いかにも善人ぶっているけれど、本当は腹黒だったんだろう?
無意味に他人に突っかかったり、訴訟を捌くのがめんどくさくなったら訴人をぶち殺したり
638 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 22:22:34
会津移封って上杉にとっては良い事だったの?
80万石から120万位でしょ?
639 :
日本@名無史さん:2009/08/25(火) 00:31:32
Wiki厨の乱入にクソワロタ
640 :
日本@名無史さん:2009/08/25(火) 01:03:12
>>638 領国経営が軌道に乗る前に関ヶ原で負けてあぼん
結果的に失敗、ただ、越後で同じ行動を取ったとして勝てたかというと甚だ疑問
641 :
日本@名無史さん:2009/08/25(火) 02:32:03
もしも勝ってたとしたら大変だよな。
あの地域で120より大幅加増(越後をプラス?)、
しかし分家する子供もいない。
642 :
日本@名無史さん:2009/08/25(火) 08:38:24
上杉を国替えするより、宇喜多に駿・遠を与えたほうが良かったと思うが、
上杉も豊臣にとっては邪魔だったんだろうね。
>>642 宇喜多みたいな自分の家中も抑えられない無能を転封したら、
内乱やら一揆やらで改易せざるを得なくなると思うが?
644 :
日本@名無史さん:2009/08/25(火) 08:50:13
秀頼が成人するまでの防波堤にはなるでしょう。
むしろ火種になるだけだと思われ。
つうか秀頼が成人するまでもたんだろ。
むしろ小田原の陣後の仕置で上杉を関東に移封して
徳川の背後からすんごい嫌がらせを(ry
647 :
日本@名無史さん:2009/08/25(火) 14:40:11
上杉はもともと関東管領なんだからそれいいかもね
徳川=伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐
上杉=伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総
何で徳川をそんなに加増せにゃならんのだ。
しかも尾張伊勢ってw
幕末の裏切者、藤堂高猷の二男は黒田長知ですよね?
武鑑にも二男とあるのに三男としているところも多いのですが
どちらが正しいのでしょうか?
650 :
日本@名無史さん:2009/08/25(火) 17:50:34
東海道を二分しただけですけど(常陸は佐竹)
651 :
日本@名無史さん:2009/08/25(火) 22:01:04
>>649 ゴルゴ13の父親の陸軍特殊部隊の隊長が
そんな名前だったな。
653 :
日本@名無史さん:2009/08/25(火) 23:05:51
江戸藩400万石徳川家について語りましょう。
654 :
649:2009/08/25(火) 23:39:07
>>651 ご回答ありがとうございます。
三男だとしたら二男は誰なのでしょう?
655 :
日本@名無史さん:2009/08/26(水) 00:07:05
そもそも小田原で大幅加増された外様大大名って家康以外にいたか?
656 :
日本@名無史さん:2009/08/26(水) 00:08:51
そういえば100万石から家康の旧領150万石丸ごと貰える筈だった織田信雄がいたな
本拠地移転なら大幅加増なのか?
秀吉ってなんであんなに家康を加増したんかね
結局、それで家を滅ぼしたみたいなもんなのに。
旧織田系大名よりは信頼できるんじゃね
と思ったんじゃないか?
659 :
日本@名無史さん:2009/08/26(水) 00:52:02
この当時で旧織田系は秀吉の家臣
臣従したとは言っても徳川、毛利等の外様大大名は客将に近いんじゃない?
京阪に近いし地生えの三河においておくわけにはいかんかったからだろ。
僻地に飛ばしたいけど、左遷する理由もないから大封でもってカタチは「褒美」として追いやるというか。
秀吉は貿易と金山銀山で国庫を賄うつもりで、直轄領にもこだわってないみたいだし。
でもやりすぎだよな。
てゆーか、徳川、毛利を大老っていうのがね。
661 :
日本@名無史さん:2009/08/26(水) 08:43:26
大兵力を擁する勢力を政権の外に置けば反乱を起こす。秀吉は豊臣家の存続は望んでも
実質的権力の保持までは望まなかったんじゃないか。
アホなメカケが全てをぶち壊したけど。
>>636 小早川隆景や堀Qタローに比べると直江山城は逸話も少ないし過大評価な気がするな
それにしても大河は・・・
663 :
日本@名無史さん:2009/08/26(水) 15:46:03
NHKまで視聴率のために考証無視?
久太郎も小早川も過大評価だろ
直江よりはマシだろ
小早川は秀吉だけじゃなく黒田如水、鍋島直茂あたりも高く評価してるし逸話も多い
堀も人を使うことに長けてるし、そういった逸話が多い
直江は・・・愛?
いつまでスレ違いやってんだよ
堀は秀政と直政の関係が面白そうだね
あと人間的には直寄とか
松平忠輝って92歳まで70年近く幽閉されてたんだな
代替わりの際とかに恩赦とかあっても良さそうなもんだが・・・
669 :
日本@名無史さん:2009/08/27(木) 01:42:05
すっかりわすれてました
670 :
日本@名無史さん:2009/08/27(木) 02:43:58
>>668 没したときは、既に将軍綱吉の治世。
「エッそんな人まだ生きてたの!?」っていう反応だっただろうね。間違いなく。
>>670 ほとんど張学良だな
彼が21世紀まで生き延びたとは誰も思わなかったろう。
672 :
日本@名無史さん:2009/08/27(木) 11:47:08
>>668 高島藩はやっと忠輝が死んで肩の荷が下りたと思ったら今度は吉良だもんな。
大変だ
しかし幽閉の身でよくそんな長生きできたよな
毎日何をして過ごしてたんだろうか・・・読書ぐらい?
674 :
日本@名無史さん:2009/08/27(木) 12:19:29
>>655 里見なんか上総半国没収で安房9万石に押し込めだぞ・・・
それまで30万石はあっただろうに。
里見は大久保忠隣に連座で改易・・・不運としか言いようがない
直系・傍系の一族が連座するのはまだしも、縁戚関係というだけで改易は理不尽すぎる
しかも当の大久保家は小田原十万石に返り咲いてるという皮肉w
江戸湾の入り口を扼する要地にいる外様を始末する口実だったのだよ
館山と言えば先の大戦の集結直後、米軍が上陸して直接軍政を敷いた土地だ。
むろんその理由も同じ。東京湾の入り口の安全を確保するため。
10万石程度の大名、奥州でも九州でも適当に飛ばせば済んだものを。
まあ接近した幕閣が失脚した時点で運の尽き、営中での政治力の差か・・・
大久保失脚を画策した本多も結局潰されてるし、まあ外様が幕閣に近づくのは自殺行為w
大久保忠隣はもともと秀忠の直臣だし、本多正純は家康から送り込まれたって意識があるから
秀忠も機会があればって内心思ってたのかもなあ。
家康は関ヶ原の戦いの後毛利を潰して吉川を入れるつもりみたいだったけど
毛利の石高を完全に0にすることって可能だったのだろうか?
仮に実現したとしても吉川も追い出されて松平か誰かを入れるつもりなのだろうけれど
徳川的には吉川(と福原)が関ヶ原で個人的に内通というより、真田とかみたいに
毛利家として東西に割れたって認識だったのかもね
その後の毛利家への激甘な処分をみるとどうもそんな感じがする
毛利は越前松平の一門だし、幕閣の意向次第では越前家に連座改易の可能性もあったのかも
初期の毛利家は面従腹背で幕府に反抗しまくっていたのによく改易されなかったなー
考えてみりゃ、吉川広家が毛利を継いでも血統的にはさほど飛躍はないな。
683 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 02:42:29
684 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 03:28:23
毛利の場合、敬親まで吉川よりも家格の低い庶子筋が藩主やってたしな
685 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 03:35:38
毛利宗家は穂井田系だっけ?
小早川と吉川は毛利に戻れなかったのに数段劣る穂井田は何故復籍出来たのだろう?
686 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 11:15:55
吉川・小早川は独立大名扱い、家来でも庶子でもない
小早川はともかく、吉川も独立大名だったの?
688 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 16:14:57
吉川は陪臣だよな
小早川が独立したのは関ヶ原よりも前なのは解るが何時?
689 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 16:27:16
秀秋が家督継いだときだろJK
穂井田は元清の子の秀元が輝元の養子に入って毛利姓に復姓、秀就誕生で別家創設
吉川も元春の次男と広家の次男の2系統が長州藩の一門家老(ともに他家への養子を経て
毛利姓に復姓)として続いてる、吉川家2代・広正の正室は輝元の娘。
長州藩と長府藩・徳山藩は対立してたけど、長府の秀元系が長州藩を継いで一件落着。
ただし、そのゴタゴタのせいで長府藩は一度断絶して準国主の家格を喪失、6代目以降は平大名。
徳山藩は本家に楯突いてとうとう万役山事件で改易。元徳山藩士・奈古屋里人の奮闘で再興。
小早川は秀吉から伊予を与えられた時点で、もはや陪臣とは言えないんじゃないかな
>>690 だね。陪臣が五大老の一人になるわけがないのだし。
豊臣政権での直臣と陪臣の境は何かな?
もう名簿捧呈という時代ではなさそうだし,妻子を証人にするのも,大名の重臣でもしただろうし・・・
693 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 20:53:08
主君が豊臣が否かだろ
694 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 21:09:31
役満山事件って何?
695 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 22:04:13
秀吉は陪臣にでも直接領地や官位を与えているのでは?
696 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 22:32:32
美作勝山藩三浦氏は鎌倉幕府御家人以来の武士の家。
隣りの津山松平とか板倉とか関とか池田とかと同類に扱わないでもらいたい
697 :
面白大名:2009/08/28(金) 22:43:34
◇三つ葉葵紋の使用が許された外様大名
鳥取池田家…徳川家康の二女督姫の血が入っているため、準家門扱いか
◇陪臣で諸太夫(従5位下叙任)された藩
御三家・加賀前田家の家老職の一部の者など
◇一国一城の例外の城
尾張徳川家の犬山城、紀伊徳川家の田辺城・新宮城、仙台伊達家の白石城、熊本細川家の八代城など
◇小藩で伺候席が大廊下詰めの家
上野吉井藩松平(鷹司)家…鷹司信房の娘孝子が家光に輿入れした時に、弟の鷹司信平がついてきて幕臣となり、紀伊家の婿となった家筋のためか。
◇1万石未満で大名(諸侯)扱いの家
@喜連川家…五千石で十万石・国主格であり、御所の称を得ていました。
A松前家…蝦夷地で米の収納がなかったが、大名格として認められた。
◇御三家連枝は2-3万石の定府大名であった例外
讃岐松平家…12万石,親藩,溜間,城主であり、御三家連枝では飛び抜けている。
◇鍋島の3支藩
鍋島藩支藩の小城、蓮池、鹿島の各藩は、それぞれ本家の内高であるため、本来は本家 の陪臣であってもおかしくないが、幕初の徳川家に対する貢献があったためか。
薩摩の伊集院も,豊臣の直臣か,島津の家臣か微妙だったのかな。
>>694 わざとボケたんだと思うが一応、万役山(まんにゃくやま)事件な
忠臣蔵のような派手さはないけど、奈古屋里人を主役に映画にしたら結構面白そう
>>690 小早川が伊予を与えられた時って
直接受けるのを固辞したもんだから
小早川に与えることって条件付けて
毛利本家に加増したんじゃなかったっけ?
筑前への移封は直接受けてるみたいだけど
702 :
日本@名無史さん:2009/08/29(土) 02:13:37
そういう扱いや、羽柴乱発とかをスマートに改良しつつ、
制度に導入したのが徳川政権なんじゃね?
次に来るのは片倉小十郎ではないかな?
>>688 吉川は陪臣ではない
広家の出雲富田十四万二千石は別朱印だから
敗戦、息子の広正から毛利家の臣下となる
岩国吉川氏は参勤交代みたいに定期的に萩に赴いて藩侯に拝謁してたのかな?
津和野藩主の末裔は選挙で生き残れるだろうか?
707 :
日本@名無史さん:2009/08/29(土) 22:24:40
宇和島伊達家は、
幕府が完全な独立大名として扱ってたんだよな。
そりゃそうだ
709 :
日本@名無史さん:2009/08/30(日) 02:02:17
宇和島は伊達に百万石あたえなかった代わり?
710 :
日本@名無史さん:2009/08/30(日) 02:14:52
なんだかわからない、東北弁の支配者がやってきて、
宇和島の奴ら困っただろうな。
司馬遼みたいなこと言うなよ
宇和島は分知で実質7万石・高直し10万石なのに初官四品、30代で侍従、老年少将の
家柄なんだよな。立花や丹羽は家督五位、老年で侍従だから同じ准国持でも大差があるな
伊達は常に大広間席で柳間詰がないというのは大きい、もっとも立花・丹羽も五位のときは
大廊下末御杉戸際にいたらしいから実際には柳間には詰めてないんだろうけど…
それにしても宇和島と長府は優遇されすぎ、長府なんて内分のくせに支藩まで持ってるしw
713 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 10:54:09
宇和島の伊達秀宗は本来なら仙台ついでもおかしくなかったぐらいだからな
秀吉時代は政宗がにらまれて隠居させられそうになったりしてたからな。
でも所詮庶子。
715 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 11:38:02
結局、豊臣色の強い秀宗を政宗が本家から追い出したのだろうな
716 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 12:29:46
>>710 家中は東北弁、庶民は地言葉で通したのかな?
ウィキペディアの「吉敷毛利家」の項目に、越前松平家が萩毛利家を強引に乗っ取ろうと
画策していたという記述があるけどこれは事実なんだろうか?
「毛利元重」の項目の記述と矛盾している部分もあるけど、越前家が毛利元重(松平昌方)を
越前家の養子にした背景には、毛利家乗っ取りの野望があったってことなのかな。
松平吉品は昌方に越前家の家督を譲ろうとして家臣が反対し頓挫したともあるし・・・
そういう言葉の通じない者同士は、江戸弁を標準語として会話が成立したんじゃないか?
719 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 15:55:38
>>718 当時は江戸も出来立ての町で田舎同然だったという発想すらないのかね。
それ以前に、江戸弁なんてものを四国の庶民がどうやって覚えるというのか。
720 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 16:10:20
721 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 17:09:27
江戸城から一番遠くに上屋敷のあった大名ってどこんち?
722 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 17:09:50
723 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 17:32:39
まぁ侍なら江戸の言葉は学べるかもな。
普通はゆっくり覚えたんだろう。
村方見回りと庄屋がわかりあえばよいから最悪筆談かもね。
724 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 18:07:01
江戸や京大坂で武士が他藩の武士と話をするときは、能の言葉を以って用を足した。
漢文で筆談できるかも。
当時なら,明国,清国でも筆談で会話可能な気がする。
726 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 19:02:38
727 :
日本@名無史さん:2009/08/30(日) 23:18:06
安土桃山、秀吉政権の時、
田舎大名は急に「都会での社交」をしなきゃいけなくなって、
急遽、”上方での文化・作法に長けた人物”の登用を行ったりしている。
南部や津軽も例外ではなく、
津軽は上方出身の技術を持った家臣をどんどん新規登用して、
中央でなにかと目立とうと頑張った。
一方南部は旧来の体制から脱却できないでいて、
そんな家臣の登用も、伊達や津軽のような派手な振る舞いもできないでいた。
当時の南部の恨な手紙
「津軽が茶席で失敗したニダ。派手に振舞おうとして失敗したらしいニダ。
あいつらはいつでもそうニダ。津軽のくせに津軽のくせに・・・」
728 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 01:48:20
南部www
729 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 08:30:10
播州から最後は筑前に来た黒田武士はいつ頃九州弁になったんだろう。
殿さまは江戸言葉だよな?
黒田の殿様は鹿児島弁だったりします
731 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 09:41:46
黒田家は播磨の前は備前福岡。
>>706 比例復活もできなかったね。
母親は久留米有馬出身か。
733 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 15:07:23
公家の血筋も及びませんでしたな。
殿様候補は他になかったの?
家禄1万石以上の陪臣がいた表高が一番少ない藩ってどこだろう?
735 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 18:54:11
どこかな。家臣の知行の合計は藩の表高の半分くらいに設定するのが一般的らしいけど。
736 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 18:59:33
15万石の大和郡山藩の家老は数千石程度。二十数万石の高知藩は万石陪臣が数人。
十万石台あたりの藩のどこかだろうか。
737 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 19:05:32
昨日の天地人で、直江兼続が石田邸を訪問するシーンで、
島左近が直江に土下座し、直江が左近に「島左近か」と上から目線で声をかけてたんだが、
よく考えたら直江も大名の家老で陪臣なんだから、同格じゃないのか?
>>734 供連一万石なら
二本松丹羽家に丹羽氏が二家
宇和島伊達家に桜田氏
対馬宗家に平田氏古河氏
がいる。
実高万石以上なら
阿波蜂須賀家に稲田氏(淡路洲本一万四千五百石)と賀島氏(阿波のうち一万石)
万石格とかなら蜂須賀より低い石高とところにもいるね。
「供連」ってどういう意味?
配下の知行も込みでってこと?
740 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 19:29:43
一万石の格式の供を連れて行列できるってこと?
741 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 20:54:28
>>737 主君三成の盟友、もしくは従五位下という官位
742 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:39:11
>>737 直江の主君は五大老。
島の主君は五奉行。
この差があるのでは。
743 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:47:28
その関係を江戸時代に置き換えたら、
御三家や前田家あたりで諸大夫を許された万石以上の家老は、
一般の大名と同格ってことになるのかな?
744 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:49:29
昨日の天地人で秀吉が直江に30万石をやろうと言ったら断られたといったな。
欲がない奴どころか、三成と組んで天下を狙おうとしていたのではないか?
>>743 たとえ神君の御声掛かりの附け家老でも直臣である大名と直臣ではない付け家老は区別される
附家老や吉川ですら1万石の大名より明らかに格下、まさに身分違い。
実際の権力というか幕政への関与という意味では無役の1万石大名より
御三家附家老のほうが大きかっただろうけど。
いざとなりゃ御三家の威光を背負うこともあっただろうし。
748 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 23:43:21
豊臣時代は江戸時代よりは直臣と陪臣の区別が曖昧だろう
それに5大老や島津・伊達などは秀吉の家臣という意識は希薄
上位者・強者に従っただけ
749 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 23:52:20
750 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 00:18:23
豊臣政権下の小早川隆景は、
毛利に従属する立場であったか?→ Yes.
豊臣氏に臣従する立場であったか→ Yes.
二君に使える不義理者であったか?→ No.
という、江戸時代にはありえない、よくわからん存在。
秀吉自身がそういうけじめをつけることのできない人だったわけで、
それ一つとっても、要は政治体制として全くなっていなかったわけやね。
>という、江戸時代にはありえない、よくわからん存在。
つ 尾張藩の山村・千村
山村氏の場合は天明期に当主良由が尾張家の年寄になったばっかりに
それ以降は陪臣扱いになってるな
753 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 01:37:27
>>748 >上位者、強者に従っただけ
それこそ本来的な主従関係だね
754 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 02:44:06
そのわりには、春ごろの放送で「陪臣風情が!」みたいなせりふがあった。
755 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 03:34:08
徳川幕府だって、
政治体制はなぁなぁのグダグダじゃん。
細川家家臣で八代城代の松井家も,陪臣兼幕臣という存在みたいですね
相変わらずの自演スレ
下種の勘繰り
>>759 何の証拠も示さずに自演自演と前々から騒いでる荒らしだから相手するなよ
幕初の統治機構はかなりグダグダだと思うけどなあ。
ちゃんと整備されたのは家光治世後半あたりじゃね?
特に将軍が隠居した後の二元政治は酷い。
荒らしで無知とは救いようがないな
765 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 22:21:51
小早川はもちろん、安国寺も豊臣・毛利に両属だよな
それから秀忠は徳川当主ではないのに江戸中納言なのか?
766 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 22:40:50
人妻の乳繰りならよいのに
>>765 江戸の中納言は秀忠なんだから,秀忠が江戸中納言と呼ばれても良いんじゃないの?
この場合の“江戸”は,まだ家名とまでは言えないにしても,中納言の内で区別をつける記号みたいなものでしょ
秀元も安芸宰相だし、別におかしくはないと思うけど。
>>764 何を勘違いしてんだかw
しかし人違いで釣られるとは基地外だなw
771 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 01:52:36
国名で″安芸″中納言。
かたや、都市開発中の地名で″江戸″中納言。
772 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 02:57:47
実朝だって鎌倉右大臣だしね。
別に、相模右大臣だったら格が上がってたってわけじゃない。
773 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 09:45:11
江戸時代は当主・世子・庶子の官位の差は絶対的だけど
豊臣は当主でなくても中納言とか参議になっているな
774 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 10:26:37
当主の気分で官位を乱発して皇族公家による朝廷運営にすら支障が出る有様になったから、
江戸時代には明確な基準で秩序だった運営がなされるよう制度が定められた。
775 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 18:19:59
江戸内大臣
776 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 18:21:09
下衆の勘繰り
朝廷って一日中酒飲みながら詩読んで蹴鞠しているだけなのに、何を運営するの?
779 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 20:17:40
>>777 上下関係が官位によって明確でなければ、蹴鞠の死愛で手加減すべきかどうかが明確でないため
喧嘩になる恐れがある。
781 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 21:17:55
782 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 21:18:34
どこの馬の骨かわからない秀吉
源氏の血を引く家康。
どっちを選ぶか考えれば一目瞭然。
783 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 21:41:38
>江戸の中納言は秀忠なんだから,秀忠が江戸中納言と呼ばれても良いんじゃないの?
なぜ、武蔵中納言と呼ばれなかったんだろう。
784 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 22:49:04
内府
尾張大納言
水戸中納言
甲府宰相
会津中将
越後少将
侍従に叙された大名家は〇〇侍従と呼ばれたの?
それとも〇〇守のまま?
自演の癖にいちいち疑問形で書くな
786 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 23:23:13
仙台侍従
787 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 23:51:05
>>786 そんな呼ばれ方したの?
松平陸奥守とかじゃなくて?
788 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 07:24:06
格が全てのヤンキーのごとき武家の世界で格下の呼び方をされたら喧嘩になりかねないよ。
トオルくんや横山サンとかにさん付け君づけをまちがって使うと大変なことになる
普段サン付けで呼ばれてるのにある日突然君づけにかわったりするとまわりにもナメられる
790 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 08:07:37
上司の部長や課長を君付けで呼ぶようなものだから、普通は大変なことになる。特に生涯賃金額が。
工業シメてるの二こ上の吉田サン
工業シメてるの二こ上の吉田クン
たしかにちがうな
792 :
786:2009/09/03(木) 21:26:02
どうやら、勘違いのようでした。面目ない・・・
慶長16年4月12日の大名誓紙(前田尊経閣文庫蔵)に、
「美作侍従 忠政(花押)」
「加賀侍従 利光(花押)」
「周防侍従 秀就(花押)」
「丹後侍従 高知(花押)」
「若狭侍従 忠高(花押)」
「備前侍従 輝直(花押)」
なんてあったものですから・・・、大変失礼致しました。
793 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 21:32:32
金沢 松平加賀守(花押)
福井 松平越前守(花押)
仙台 松平陸奥守(花押)
津 松平和泉守(花押)
津山 松平三河守(花押)
鳥取 松平因幡守(花押)
萩 松平大膳大夫(花押)
高知 松平土佐守(花押)
隈本 細川越中守(花押)
名島 松平美濃守(花押)
佐賀 松平肥前守(花押)
岡山 松平大炊頭(花押)
松山 松平伊予守(花押)
彦根 井伊掃部頭(花押)
高松 松平讃岐守(花押)
会津 松平肥後守(花押)
米澤 上杉弾正大弼(花押)
>>792 毛利秀就(長門守)が長門侍従じゃなくて周防侍従というのは面白いな
慶長13年には指月城も出来てるし、普通、居城のある国名を称しそうなものだが・・・
>>793 こうして並ぶと松平姓より細川越中とか上杉弾正の方がよほど見栄えがするなw
795 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 22:23:27
>>793 ここでなぜ上杉氏だけが守ではなく、弾正だったのか?
その理由が理解できれば、中世日本の歴史がわかるようになる。
自慢できるほどの知識ではないが、
奈良時代まで歴史を学んだ証ではある。
798 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 00:04:03
>>794 毛利家は、関ヶ原後、周防の山口に藩庁を構えたかったが、
徳川の顔色をうかがいつつ、長門の萩に藩庁を置いた。
毛利家の念願が叶い、山口に藩主が移ったのは、幕末の末期
だから、薩長同盟はよいが、
明治政府は、薩長土肥ではなく薩防土肥が正しい。
799 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 00:12:17
細川や上杉は名門ゆえのプライドがあるな
800 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 00:22:33
長州藩が幕府に内緒で山口に藩庁を築いたのは文久3年だけど
正式に藩庁を移したのは戊辰戦争後の明治2年だよ
>>795 ばかだねーw
守に対応するのは弾正じゃなくて少弼だろ
細川は羽柴をもらっていたんだから、プライドというほどの
もんでもないと思うね。
>>801 そういう意味で言ってるのではない
揚げ足取ったつもりだろうが
804 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 01:29:25
805 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 02:03:13
謙信は少弼だろ。
弾正は司法検察機構だから
国司を取り締まる係
806 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 02:21:41
刑部では?
807 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 02:26:18
衛門府では?
808 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 02:42:50
>>798 幕府に
「三ヶ所、候補を挙げろ。俺が選んでやる」
って言われて、裏をかいたつもりで、
「一番候補、萩。二番、長府。三番、山口で。」
って申請したら、
裏の裏をかかれて
「へー、そうかー。じゃ、萩にしろよ。命令。」
と言われてしょんぼり、、、
じゃなかったっけ?
毛利が防府に城を作れなかった原因として萩に押し込める政策もあるけど
予定地の桑山が地盤の関係か何かで作れなかったって話を聞いたけど実際どうなんだろう?
別に城がどこにあろうとあんまり関係ない気がする
山口市あんまり発展しなかったし
811 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 10:28:13
山口市は県庁所在地では有数の過疎市
佐竹右京大夫
松浦壱岐守清
>別に城がどこにあろうとあんまり関係ない気がする
山陽>>山口盆地>>>山陰
萩はずっと山越えで辺鄙すぎる
815 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 19:27:13
すみません
防府か山口を城下町にしてれば今頃大都会だったろうなって続けようとしたけど
さすがにそれはないかと思って…
江戸時代、人口が一万あれば立派な都市ですんで。
817 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 20:15:25
>>811 有数どころか、圧倒的な大差をつけて
県庁所在地人口最小市ですがw
福岡や博多で風俗嬢になる少女の割合が凄まじくたかいが
股の緩い女と馬鹿な男しかいない郡部なみな市が山口市
818 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 20:28:00
wikiによれば「山口市はオーストラリアのキャンベラやブラジルのブラジリアのような政治・文化に特化した
日本において数少ない県庁所在地」なのだそうだ。虚勢と見るか負け惜しみと見るかは人それぞれ。
>虚勢と見るか負け惜しみと見るか
ちょwフォローしてやれよwww
現在の山口市のド田舎っぷりと江戸三百諸侯に何の関係があるんだよw
スレ違いもはなはだしい
一豊には子供がいなかったのに山内はよく改易にならなかったな
他の要因もあるけど田中は忠政に子がいなかったから改易になったのに
秀次の家老で生き残ったのは山内だけ
養子いたんだし改易にならない方が普通かと
823 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 02:09:30
江戸初期に、子供なくて改易って多過ぎだよね。
名目だけでも養子登録しておくとか、
そういう知恵なかったのか、と。
824 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 06:40:33
養子貰って家を継いでも男子直系の血が残らなくては意味がないじゃないか。
意味なくないから実子のいない大名たちは養子とってあと継がせたわけだが。
>>823 江戸初期の頃は無嗣断絶に関するシステムが整ってなかったから
仮養子ってわけにはいかなかった。
60代とかで子無しなら養子って手もあったけど、若いうちに養子もらって
実子が生まれたからといって縁組解消って社会常識が無かった。
それと嫡男がいても急逝とかも多かったし。
中期以降は仮養子が制度化され、末期養子も許可されたから急速に無嗣断絶が減る。
それでもリスクを負って主家の血を残すか、諦めて余所からもらうか、他にも色々な葛藤がある。
理想は息子が2人以上成人して、孫が17歳になったのを見届けて大往生だけどね。
福島正則が養嗣子を廃嫡にしたのは何でなの
養子と言えば松崎藩の有馬は不運だった
初期の幕府は無嗣改易で大名の数を整理したかったんだろ
大大名も無嗣でかなり減ったよなー
せめて1万石程度でも家名の継承を認めてやれば良かったのにw
>>820 その程度のひねりじゃ却って自演が際立つなw
830みたいな根拠のない妄想で手当たり次第に荒らす奴がいると、このスレももう終わりかもな
8月が終わると同時に再来したところをみると、恐らくリアル厨房・工房の愉快犯的アラシか
他の板でも似たようなアラシが常駐して良スレが潰されてたが、せめてコテ・トリつけてくれると
専ブラでNG登録だけでもできるんだが・・・
江戸期において武術の必要性、優先順位がどんどん下がっていく中で、武術の達人と言われる大名は居たのか?もし居たなら敢て将軍も含めて、それは誰だ?
また、柳生家当主は歴代強かったのか?
833 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 21:15:27
やっぱり男子直系以外は認めるべきではなかった。
それが幕府衰退の原因。
>>832 井伊直弼は新心流という居合の奥義を極め、新心新流という一派を創設、
山内容堂も英信流(山内家の御留流)という居合の達人で
宗家の谷村亀之丞に
『殿は居合で飯が食える』
と言われたそうな。
柳生については調べておくよ
835 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 21:22:37
>>832 確か将軍や諸侯の見守る中、柳生の当主と遣り合って互角の戦いを繰り広げた足守藩木下家の当主がいたよ。
あと、柳生の新陰流の本流は徳川義直が四世を継いでしまいますた。五世はまた尾張柳生家らしいけど。
>>834 井伊直弼の新心新流や山内容堂が英信流の達人だったとは知らなかった。
もし直弼が本当に達人だったなら、駕籠から出れずにその腕前を発揮出来ず桜田門外で散ったのは皮肉だな。
最初は銃で撃たれて、駕籠の外から槍か太刀で突かれたんだっけ?
直弼は茶道にも通じてたし、芸達者な人だったんだなぁ…。
>>835 地味であまりぱっとしない木下家にそんな当主が居たとは!驚いた。
柳生新影流の正当は尾張柳生家と尾張徳川家が順番に名乗ったって聞いた事はある。が、それは新影流を残す為に柳生家側の政治的(?)策略のような気がする。本当の意味で武術家として達人だったかは…。
井伊直弼はあんな時代でなければ、文化に通じた名君として名を残しただろうね。
松平不昧をもう一回り大きくした感じの。
838 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 00:19:04
文化に通じた大名は、後世に名を残すかもしれないが、
領民にとっては迷惑な存在なんだろうな。
839 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 00:25:43
大事起こしても潰されなかった大名は幕府の覚えが良かったんだろうか
いやしかし直弼かっこいいわ。
坐禅して茶道に没頭していたかっただろうものを、
いきなり180度転換して、あのドSの恐怖政治。まさに井伊の赤鬼。
実際のところ、あの時代の世界情勢の中で、攘夷なんて真面目に言ってたやつの方がアホだよね。
おまいらネタだかマジだかわからんこと言ってんじゃねえよ、ちょっとは考えて物を言えよ?
って毎日思ってたに違いないねきっと。
まあ結局井伊の路線が成功したら、幕府の古い体制が続いただけだから日本にとってどうだったかはわからんのだが。
いくら必死に自演しても弾左衛門には敵わないようだなwww
842 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 01:59:24
ナオスケは、若い頃はヒマだったしね。
それにお見合いや就職活動みたいなもので、
いい養子先と出会うために、
「文武両道の立派な部屋住み」
にならないといけなかっただろうし。
843 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 02:01:05
″一番地味な加藤″こと、加藤光泰の家も、
歴代が槍の達人じゃなかったかな。
844 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 03:10:17
初期はそんな奴もいたかもな。
悪い言い方すれば、リアル人殺しなわけだし。
数代過ぎた殿様たちは、
虫も殺したことないかもね、だけど。
845 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 03:30:01
>>843 >>835の足守藩主の木下利當は小野一刀流の免許で、
かつ、
槍の達人だった。
なぜお前は秀吉時代に活躍しなかったのか、と、
非常に残念なところですが。
その利當に槍を習って、
加藤流を編み出した(名乗った)のが大洲三代目の加藤泰興。
やっぱり江戸時代初期の話だね。
つか、大名が大名に槍を習う、とか、
まだどこかしら牧歌的というかおおらかさがあるるよね。
つーわけでやっぱり戦闘力としては、
隣家がムカつくから、という理由で鉄砲打ち込んだあのお方が、、、
>>835 新陰流はその後も尾張徳川の当主と尾張柳生の当主が交代で継承してる。
宗家の象徴である「柳生の大太刀」は幕末のどさくさで尾張徳川当主が持ってったまま、
現在徳川美術館にあるらしい。
京都所司代って室町幕府の侍所所司が職の根拠なのかな?
所司の代官として所司代が置かれて、所司は職制からなくなって代官だけが残ったって理解で合ってる?
むしろ鎌倉の六波羅探題じゃね?
850 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 10:06:33
木刀すらいや、竹刀すら握った事のない連中が、剣術の話ですか?ヤレヤレ
>>848 (所司は)なくなってはいないが、誰も任命されなくなっただけ。
対朝廷で、室町時代後期より所司代が当たっていたので、江戸幕府はそれを踏襲した。
念の為だが、「政所」「問注所」もなくなっていない。使われなくなっただけ。
江戸幕府は「三河仕立」なので、大老・老中・若年寄などの「家政・軍政」組織がそのまま政治組織となった。
>>849>>851 ありがとう。
レスもらって自分でも調べてみて、なんとなくイメージが掴めた。
板倉家の初期の苦労を見て所司代に興味を持った。
853 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 10:54:15
江戸幕府も御成敗式目の流れを踏襲?
幕府は朝廷の秩序では三位以上が持つ政所で、その中の組織までは三位以上の人間の家政の
問題だから好きに組織していいとかそういう話じゃないの?
室町幕府のシステムが存続しているというのはどういう法的根拠があるんだろうか。
六波羅探題とは、天武天皇13(684)年、
上毛野君・下毛野君・大野君・池田君・佐味君・車持君の6氏、
いわゆる東国六腹(あずまのむつはら)の朝臣(あそん)に由来
するものと思われる。
つまり、関東には、7世紀に既に大和朝廷を支える大きな重要な
勢力が存在しており、その勢力が後に鎌倉幕府を成立させ、
それを支えたのだった。
855 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 12:49:33
>>854 鎌倉御家人やそれ以降の大名などで、それらの子孫を称している家はあるのだろうか。
856 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 12:57:36
平家の基地が六波羅にあったんだろ?
857 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 13:32:34
>>855 何せ、4世紀の祟神天皇までさかのぼる古い家系ですので、
東国の六腹の直接の子孫が江戸時代まで大名家として残っていません。
関東には豊城入彦の後にもヤマトタケルなどの新しい時代の大和朝廷の
親王や、源氏・平家などの追われ貴族、秦氏などの渡来人などが次々と
入植してきて覇権を争ったわけですから、時代遅れの名門が勢力を維持
できるわけがないのです。
ただし、宇都宮氏の祖といわれる藤原宗円は、下毛野氏への入り婿だった
といわれているし、壬生氏も元は毛野氏の一族だったようです。
>>798 その割には山口の人口は増えていないんだよな。
明治6年の都市人口
1位 東京 595,905
2位 大阪 271,992
3位 京都 238,663
4位 名古屋 125,193
5位 金沢 109,685
6位 広島 74,305
7位 横浜 64,602
8位 和歌山 61,124
9位 仙台 51,998
10位 徳島 48,861
11位 萩 45,318
12位 首里 44,984
57位 赤間関 18,500
91位 岩国 11,684
126位 山口 9,279
萩も国内有数の大都市だったのに、結局衰退させた。
萩にも山口にもあまり愛着がなかったのかね。
>>858 萩なんて侍が集住して形成された不自然な都市だったから・・・か。
禄を無くした侍が離散しちゃったら後は過疎、と。
860 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 19:40:50
旗本が去った後の江戸も似たようなものだったそうだけどね。
佐賀城の天守見たかったなあ
しかし、三河の田舎侍ごときが天下人になれたのはなぜか?
その秘密を知りたいものだ。
>>862 最大のターニングポイントは小牧長久手での勝利だろうな
それに家康はドケチで慎重だし、家来の三河武士は骨の髄まで面倒くさい連中だからな(笑)
864 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 22:29:36
>>862 猿が天下盗った後だから誰も驚かなかった
>>862 信長の近くの領主だったという運が第一。
落穂拾いのように領土を拡大できた運が第二。
一向一揆以降、国内に不穏を起こさなかった力量が第三。
戦争の引け際を知り、状況を生かす政治力を持っていたのが第四。
許された状況の中で、常に上昇志向を持ち続けた貪欲さが第五。
866 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 00:23:10
>865
天海を迎え入れたのが第一因。
このことは家康自身が公言している。
第二因は「おね」の取り込みに成功したこと。
少なくても関ヶ原時点で、豊臣子飼いの有力大名、
前田、浅野、小早川を味方にできたのは、そのおかげ。
第三因は明智。自分の命が救われたのみならず、
信州等で、大領を手に入れたのは、その波及効果。
おねは関が原ではほとんど中立で東軍側のために動いた形跡はないみたいだぞ
868 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 00:48:57
石田と直江兼次を煽って関ヶ原の戦いまで持ち込んだからじゃね?
869 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 01:31:48
家康とおねが不倫関係にあったってのは本当か?
家康は後家好きだからあり得ると思うんだが
俗説にすぎんよ
結局「おね」より「ねね」の方が正しいんじゃなかったっけ
>>869-871 例えば、こんなやり取りみたいなレスが日曜〜月曜のこの時間帯にあったとして
これが自演でないと思う方が不思議じゃないか?
あんた以外にもこのスレで読み書きしていると思うからあえて書いておく。
それと過去レスを見ても同じパターン、同じ文体で延々繰り返している。
見ていて白々しいし、レス数を稼ごうとするいじましい姿が透けて見える。
もういい加減によさないか?
873 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 10:13:17
ねねがはっきり西軍に付けば家康は苦しくなる
淀がねねに頭を下げることが出来るかどうかだろうな
874 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 11:00:19
関ヶ原の時点で何故淀が頭を下げる必要が?
ねねは加藤や福島に影響力を行使はできなかったみたいだぞ
876 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 12:54:44
ねねは木下勝俊と利房の兄弟が父親の所領を継ぐ際に、家康の意向に逆らって兄にのみ与えたため
怒りに触れて所領を浅野家預りとされてしまった。所詮その程度の影響力しか持ってないよ。
おね
このスレのことだからいいとオモ
漏れも最近なんか鼻についてきた
881 :
日本@名無史さん:2009/09/08(火) 01:35:58
882 :
日本@名無史さん:2009/09/08(火) 02:05:39
剣豪大名の木下って、若狭武田の末裔かもしれないんですね。
萌えるwww
剣豪語るなら、最低剣道三段以上所持してから語ろうや。
チンポしか握ったことないお前らに妄想剣豪列伝語られると、語られた当人が余りにも惨めだ。
レスが余りにも生臭い。
>>883 その屁理屈だと
大名語るなら旧華族かその一族じゃないと語れないわな
似非剣士に用はない
>>883 今の剣道って名前だけで実際は竹刀道でしょ
自分は居合と長巻で三段だけど竹刀は握ったこともない
自分レベルじゃ剣豪の境地なんて想像もできないよ
>>884 同感ですね。政治家しか政治を語れないなら民主主義が崩壊する。
剣豪大名の話題は今までに無かったんだから、マンネリ気味のスレには新鮮でいいと思いますね。
887 :
日本@名無史さん:2009/09/08(火) 19:45:55
真の英雄は剣豪、酒豪、性豪と三拍子揃ってないとね!
剣豪大名柳生宗矩
889 :
日本@名無史さん:2009/09/08(火) 20:39:52
890 :
日本@名無史さん:2009/09/08(火) 20:41:47
剣豪、酒豪、性豪のうち2つまでクリアしてる有名大名は多いけど
3つともクリアしてる大名って誰がいるんだろ?
島津重豪は剣の方がよくわからんし。
剣豪、酒豪、性豪の中では剣豪が最もレアだよな。同じ男としては性豪もある意味スゴイとは思うが。
>>832は『剣』ではなく『武術』とレスしてるので槍や弓、柔術や砲術も含めて考えてみればどうだろ。
今のところ出てきた大名は伊井直弼、山内容堂、木下利當、徳川義直、加藤光泰、加藤泰興、柳生宗矩(レスに出てきた順)。
中山靖王・劉勝
50人とは言わずも10人ずつ子供を残していくだけで、
数千年の後には人類の半分は天子の赤子ってことに
なってもおかしくない。
今の中国の人口爆発の原因は彼の一族でしょう。
>>893 なかやまやすおう?それ何藩の藩主?
中国地方ということは備中、美作あたり?
895 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 02:57:44
>>892 弓の大島光義。子の代からは旗本だけど、、、
それと加藤光泰は本人じゃなくて、
″の、子孫の家が″じゃなかったっけ?
896 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 10:27:50
>>895 ウィキペディアみて光義の年齢に驚いた。
1508-1604年で、80代で小田原・名護屋在陣、大名になったのが1598年、90歳超!
弓一張りで大名まで上り詰めたんだから武人として本望だろうな。それにしても元気すぎw
898 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 22:32:49
でも1582年に信長に100石貰うまで何やってたんだと。
899 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 02:05:11
よそに仕えてたんでしょ。
もしくは、
本当にヒラの戦闘員だったか。
900 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 19:53:10
大洲藩加藤家は初代二代が槍の達人だったのにそれ以後は…
もし前田慶次が前田家を継いでたら武人大名の一人に数えられたろうに。
>>900 一応、代々も継いではいるんじゃない?形式的には。
茶道の家元みたいな感じで。
大島光義には養子がいて、そっちは槍の達人だったらしい。
どんだけ武辺者一家w
>>900 もう少し世代が早ければ大大名にもなれたろうにねぇ
武辺というか、武芸だけじゃ大大名にはなれないんじゃね?
大島光義がいい例じゃない。
>>901 あれは「○○流○術」とかの武芸ではなく、
単純にやたらと強かった!と言われてるだけだから、
「武人」とは違うでしょ。
強いて言うなら「かぶき道」。まるで「まんが道」のような。
城持ち六万石大洲藩の、何が不満なんだよ・・・
充分じゃねーか。
大洲藩の最悪の事件は、悪党詐欺師の坂本竜馬に騙された件。
幕末に大洲藩は、西洋式装備一式をぜひゲットしたいと思ってた。
そこへ現れたのが悪党詐欺師・坂本竜馬。
長崎にコネがある!との坂本&薩摩の五代友厚の甘言に乗せられ、
藩は大金を藩士に持たせて、坂本の案内で長崎へ派遣した。
と、こ、ろ、が、
詐欺師坂本は、そのカネで勝手に蒸気船を購入!代金4万5千両也。
「大丈夫!心配ない!
これで運送業をやって儲ければ、元手の何倍もの大金が入って、
予定の何倍もの西洋装備だって買えちゃうよ!
え、運転できない?そうでしょうそうでしょう!
ハイハイ!オレ、オレがやるから、船貸して」
とか言いながら、つまり自分のための船を勝手に購入。
将軍家剣術師範役なんていう武芸の最高峰の柳生で1万2500石だからねぇ。
しかも、分割相続したせいで一時旗本になっちゃうし。
つーかこの船「いろは丸」、
そもそも薩摩が買った船だけど、もういらないから仲のいい商人に売って、
でも海援隊が借りて使ってた、という中古船。
それを、坂本&薩摩の五代友厚が
「中古の、友達に売った船を」「大洲藩に売りつけて」「有利なレンタル料で借りて」「海援隊ウマー」
という話。
困ったのは大洲藩。幕府にもなんと説明していいやら。
責任者の藩士切腹。
蒸気船は藩内の商人の船として幕府に届け、
しかし長崎に係留したまま、誰も運転できなくてどうしていいかわからない蒸気船を、
翌年、しつこくごねる坂本にレンタルした。
4月19日、詐欺師坂本は鉄砲を大坂へ運搬するため、長崎を出航。
4月23日、紀州藩の大型蒸気船と衝突。のち沈没。坂本逃走。
のち坂本は「お前が悪いお前が悪い」と国際法とやらを盾にして紀州藩に抗議。
土佐藩や外国公使まで出てくる騒ぎに、紀州藩は坂本に7万両を渡して黙らせる。
これを元手に、坂本は商売を再開。しかし同年12月には殺されてやんの。
大洲藩「うちの船・・・ってーか、おカネ・・・」
弘前藩五代目藩主、津軽信寿。
小野派一刀流四代目・五代目の小野忠於・忠一より一刀流極意を相伝される。
その後、信寿は師である忠一の孫である忠方に一刀流を相伝し、小野家に正統を返した。
…と言われているがその辺りの真偽はハッキリしないらしい。
とは言え信寿により、津軽藩に伝わった津軽系小野派一刀流が脈々と今も残っているようだ。
信寿は剣豪大名と言って差支えないと思う。
訂正
『津軽藩に伝わった』→『弘前藩に伝わった』
南部家(10万石時代)って従四位下昇叙が晩年だから柳間席が長かった?
他の10万石の外様は国主格だったり数年で四品になったりと優遇されてるけど
同じ外様10万石でも、宇和島伊達>>立花・丹羽>>富山>大聖寺>>南部
思いのほかの官位昇進に差があるんだな
宇和島伊達 家督-四品、30代-侍従、極官-少将
立花、丹羽 家督-五位まもなく四品、四品より30年50歳侍従
富山前田 家督-五位・1〜2年後四品、四品より40年60歳侍従
大聖寺前田 家督-五位・数年後四品
南部(10万石) 家督-五位、五位より30年四品
南部カワイソスw
912 :
日本@名無しさん:2009/09/11(金) 10:08:27
ここはカワイソス藩を書くスレに変わりました
913 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 10:47:22
新庄藩・櫛羅藩永井氏。
永井氏は定府大名で、幕末に所領に入って櫛羅の地に陣屋を築くまでは、改易大名桑山氏の在所
新庄に陣屋を構えていたとされていた。実際、当時出版された武鑑にもそのように記載されている。
しかし、永井氏の所領に新庄村は含まれておらず、なぜ所領の外に陣屋が置かれていたのかは
謎とされていた。
近年の調査では桑山氏の陣屋跡は、御殿も武家屋敷もことごとく開墾されて田畑になっていたことが
年貢関係書類の調査で明らかにされ、新庄藩永井氏は一転して在所不明藩永井氏となってしまいますた。
実際には櫛羅村の隣村の松本村に役所があったらしいことは古文書類から明らかになっているようだけど。
914 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 10:57:33
高徳戸田家最高だよ
915 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 21:39:41
結局このスレは弾左衛門スレに勢いでもレス数でも勝てなかったなw
_,、 ,,,,g┓ im*┓
.ll''゚”'l, .'l, lll,.゙i、 _,,li、 《,,,,,,,,,,,、
'l, .゙i、 .《 lll,,,l .'l'''''“゚ ̄ l ,,,,,,,,、 .,wxi,
.,,,,,,,,,wwrト ゙━'゙゙!'゙┓ .l、 _、 .,,,,wnl ,,,,,,、 ll'''“゚l、 ,l゜ .゚l, ,″ .l"
.l l .lr━''''゚゚”,廴 .%,,,,,,,,,,,, ,l .l,,,,wxi, 'l 廴l′ 《.,l` .,「
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>>911 在着御礼の使者も、特例として老中に謁していたのを止められそうに
なったという話もありますね。
その上、二十万石に高直しだなんて、背伸びしすぎじゃないッスか?
918 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 02:37:23
だって、クソ津軽が10万石だから!
津軽のくせに津軽のくせに津軽のくせに津軽のくせに
と、
津軽に一方的粘着怨念を抱きまくって、
挙げ句なる悶死したとされる南部藩主がいますwww
919 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 03:42:17
結局、南部のクオリティ!の話になるわけやねwww
他に「悲惨な藩」ってないかな?
三日月藩除く。
920 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 06:46:38
足守藩木下氏。
参勤交代で妾2人に男装をさせていたのが大目付にばれて、謹慎のために本人は引退したものの、
新田開発で実高が表高よりかなり上だった所領の大部分を召し上げられ、替地として陸奥岩代の地を
与えられた。さぞや実高が減少したことだろう。
>>921 肥満気味とはいえ節制していた家康が酒豪だとは思えないなぁ。
もちろん、飲もうと思えば飲めたんだろうけど。
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924 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 23:53:16
>>919 三日月藩ってどんな悲劇が起こったの?
確か元の津山新田藩森氏だよね?
926 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 02:03:00
三日月藩より悲惨な藩があろうか、と。
表高一万八千石、
しかし、
実高9000石、その後ドンドン減り続け、
しまいには3000石。
特産品の和紙を専売にしていたらしいけど、
どうやって藩財政を維持していたのか謎過ぎる。
役目のない外様でよかったなwww
927 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 02:58:52
いやそれ新見藩だから。
三日月藩は家出アウトドアの殿様。
928 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 03:21:37
正式な実子がいるのに、
一時金と領地拡大と家格向上目的で、
家斉の子供を養子にした津山藩はサイテー。
929 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 03:27:28
ここまで喜多見藩の話題なし。
綱吉の愛人が成りあがって、東京唯一の藩になり、
城(陣屋)まで作り始めたところで、
痴情のもつれで突然配流。
三日月藩より石高が多いのに陣屋が跡形もなく消えている三池藩
間違えた
三日月藩の方が多い…
932 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 06:36:14
陣屋どころか城が市街地によって消えている藩もあるからな。
933 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 11:58:24
柳河城の古写真見たことあるけど、平野に建つ層塔式の天守が美しかった。
今の跡地はどうなってるか知らないけど
苗木藩、一万石なのに城なんか作るから…
>>933 熊本城を落とすのに三月かかるなら柳河城は三年かかるって言われてた。
平城だから跡形もなくなったのかね>柳河城
>>934 苗木城は昔からあった。
苗木藩も当初は1万5千石くらいじゃなかったか。
平地の城はすぐに市街地や農地になっちゃうからねい。
松代城も本丸はなんとか残ったけど、それ以外は明治中期の段階で
農地と化したはず。
松代城って現存遺構も小さいけど図で見てもやっぱり小さいな。
これで十万石の格式とはこれ如何に。
江戸城や大阪城ですら一部市街地になってます…。
>>939 信玄時代の海津城の縄張りをそのまんま使ったからという説が有力。
あと、支藩の沼田藩が石高不相応な五層天守建てた挙句に破綻して
改易されたのを反面教師にしたんじゃないかな。
942 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 22:36:28
沼田藩はナニヤッテンダってぐらい無茶したな
943 :
日本@名無史さん:2009/09/14(月) 02:43:10
請西藩の陣屋はでかいぞー。
古墳丸ごと内包してるぞー。
944 :
日本@名無史さん:2009/09/14(月) 06:47:19
請西藩の真武根陣屋じゃなくて飯野藩の飯野陣屋だろ。
城持ちじゃない、陣屋大名で一番大身なのはどこ?
本来城持ちなのに火災焼失で陣屋で良いやってなった家も何軒かあるよね。
御三卿も陣屋大名なんだろうか?
肥前国小城73,252石 鍋島家 無城最大
美濃国苗木10,021国 遠山家 城主最少
御三卿は大名じゃないね
苗木城と言ったら立派な石垣作りの山城だけれど、
貧乏大名の癖してどうやって造ったんだろ
>>948 その二家は伺候席が同じ柳之間だから
鍋島家は遠山家の下座で逆転することがないね
織田方のvs武田の最前線だったので、遠山氏の力だけで作ったわけではないんじゃないかと。
大広間は官職>位階>先任順だけど、柳間は城主>陣屋でそれぞれの中で石高順だから
小城藩は7万石なのにちょっと可哀想な感じがするな。鍋島の支藩は佐賀藩主の家来同然だしな
かといって支藩の力が強すぎると、毛利みたいに宗家に逆らうから始末に困るがw
鍋島家の分家は支藩で、禄は本藩の内高だもんね
954 :
日本@名無史さん:2009/09/14(月) 21:09:41
幕末に十万石になった大聖寺藩は陣屋大名の星!
大聖寺の前田家は城主だぞ。城郭ないけど。
956 :
日本@名無史さん:2009/09/14(月) 22:21:34
浅野家の後に赤穂に入った家って、
2,3万石の小身なんで、領地は縮小したのだろうけど、
塩田は残っていたのかな?
大聖寺城は城といえなくもないけれど・・・法制度上の「城」ではないんだよね。
無認可城?
>>957 955氏も言ってるが大聖寺の前田家の格式は城主
959 :
日本@名無史さん:2009/09/14(月) 23:06:47
960 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 02:03:11
破却した城の跡に隠居所を建てて、のち陣屋に転用。
しかし城主格。
いいんだか悪いんだかw
961 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 06:41:29
米津(よねきづ)家も地味な反の一つ
11000石で譜代 菊間詰め 陣屋
必死、必死♪
,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
(.___,,,... -ァァフ| あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
|i i| }! }} //|
|l、{ j} /,,ィ//| 『おれは城主格になって城を建てようと
i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ 思ったらいつのまにか明治になっていた』
|リ u' } ,ノ _,!V,ハ |
/´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人 な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
/' ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ おれも何をされたのかわからなかった…
,゙ / )ヽ iLレ u' | | ヾlトハ〉
|/_/ ハ !ニ⊇ '/:} V:::::ヽ 頭がどうにかなりそうだった…
// 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ
/'´r -―一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐ \ 財政難だとか尊皇攘夷だとか
/ // 广¨´ /' /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
ノ ' / ノ:::::`ー-、___/:::::// ヽ }
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::... イ もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…
>>949 織田信長の時代くらいだから資金はそのあたりから出てたんじゃないかな
百姓をただでこき使えばそんなに費用もかからないんじゃね?
苗木城って安普請で有名だし。
材料となる石や材木はその辺にいくらでもあっただろ。
日出城も2万5千石にしては過ぎたる城だな
細川が援助したからかな
967 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 20:37:05
赤穂藩の森侯にとっても塩田は貴重な財源となったのでしょうか?
苗木遠山家は国持でないのに美濃守が名乗れる
969 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 01:37:14
>>963 何スレか前に出てた、間部家かw
失脚して寒村の表高5万石に飛ばされたくせに、
再度重職やったコネで城の許可もらって、
古風な純和風城&天守閣たてようとして、
コネで幕府から資金援助引っ張り出して、
古風に軍学者とか呼んできて、
うきうきと縄張りまで終わったところで江戸時代終了www
970 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 05:35:37
>>695 百姓をただでは使えない
田作の影響も甚大
972 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 22:37:03
>>959 んじゃなくって、
領地になっていたのかどうか
収益性高ければ、幕府の直轄地になるかもしれないじゃん。
塩田もだけど石炭も重要な収入源になったのかな
974 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 02:20:02
鉱山周辺での精錬作業以外の用途あったか?
石炭なんか積極的に使ってないだろ。
975 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 03:12:26
豊後森久留島家は鉱山開発による硫黄・明晩で稼いでいた
976 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 03:18:10
>>973 福岡藩や小倉藩領に石炭掘りの実例があったが、藩自らの経営ではなく民間委託していたがその経営は低調だった
小倉藩は石炭より銅山と金山の鉱脈探しに注力した
977 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 05:56:07
>>973 塩田で塩を煮詰める燃料は、当初は木炭だったのがのちに江戸後期以降は石炭に代わった。
金になる特産品は藍玉、明礬、綿花、絹等の衣料品関係が多いね。
980 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 19:17:31
最後だから恥ずかしいけど疑問に思ってた質問をしてみる
なんで幕府は伊達氏の仙台藩、前田氏の金沢藩、島津氏の薩摩藩などの大藩を
取り潰さずにそのまま残しておいたの?
981 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 20:25:46
>>980 撮り潰したいのは山々だけど、撮り潰すに至らなかった。
982 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 20:34:14
前田家→親戚
伊達家→親戚
島津家→辺境の地
だからだろ
983 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 20:45:59
>>979肝心なものを忘れている
いくら良い綿、良い絹糸が取れてもそれだけでは商品価値は低い。
それを織上げたり染色して生地にする技術を持った土地が栄えたんだよ。
かかあ天下と空っ風で有名な群馬は、付加価値の高い絹織物の産地だった。
984 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 21:58:35
>>980 それらは家康から松平の名をもらっている。
それをこれと言った反逆、失政がないに潰すことは
幕府でもできないだろう。
特に前田家は御三家に準ずる家格をもらっているし、
伊達家は参勤交代のさい、銃の火縄に火をつけたまま
大名行列することを認められているほど、幕府から
特別扱いされている家。
985 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 23:06:38
マジか伊達。
しかし権利はあっても行使はしたくはないな。
貴重で質のいい綿火縄なら金がかかってしゃーない。
986 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 23:28:23
> 銃の火縄に火をつけたまま大名行列することを認められているほど
こういう今からみればどうでもいい、煩瑣な差異が格式を表していて、
当時の人にとってはそれがすごい重要事項だったんだよね。
よく朝廷の故実が煩瑣だったって思われるけど、実際には武家も同じくらい煩瑣。
逆にいえば今、我々が大事だと思っていることも大半は、
200年後の人からは全くどうでもいい、くだらないことだって見えるんだろうね。
>>984 伊達家の行列と鉄砲というと、江戸を出てすぐに狩をやって
怒られたという話しか知らなかったな。
まあ、狩をやった理由というのが、金が無くて宿に泊まれず
野宿→おかずを調達しなきゃならんからとりあえず…という
ことだったというのがなんとも、だけど。
988 :
日本@名無史さん:2009/09/18(金) 01:07:24
>>985 実際に金が掛かるから火をつけていたのは、江戸や大きな町に
入っている時だけと聞いたことがある。
989 :
日本@名無史さん:2009/09/18(金) 01:34:08
そりゃそうだよ。
990 :
日本@名無史さん:2009/09/18(金) 01:35:29
鉄砲持ち込みおk、ってのがすごいじゃね?
鉄砲おっけーは、他には越前の初期くらいだろ。
そもそも、首都に参勤交代で他国の軍隊を入れるのっておかしくない?
普通は逆に大名の領地に幕府軍の駐屯地を作るんじゃないの。
米軍だって東京近郊にいるけど、自衛隊はワシントンに駐屯してないでしょ?
将軍が死にそうだって聞いて、
「治安維持」を名目に、数千人を率いて乗り込んできた尾張。
島津も斉彬が病死しなきゃ万単位の軍勢引き連れて江戸に乗り込む予定だったみたいだが
そうなってたらやっぱり戦争になったかなあ。
>>993 小倉あたりで斉彬の切腹と改易を命ずる使者が来てザ・エンド。
調所笑左衛門が起死回生で建て直したのに
余剰金を湯水の如く使う斉彬
>>993 その話初めて聞いた。
何のために軍勢を率いていく必要があるんだろう?
文久の改革で久光上洛・江戸下向の際に
「斉彬のご遺志」みたいな論調を撒き散らしていたようだけど
前後の経緯から見てどうみてもウソなんだよな。
斉彬の生前は幕閣は以前圧倒的な実権と影響力を保持していて
外様と仲の良かった阿部老中は変わり者扱いされ主流じゃなかった。
春嶽にしても一門衆だけど職には付いていないし、大奥との伝手もない。
そんな状況で斉彬が兵を率いて江戸へ向かっても誰も味方に付かない。
第一兵を運ぶための船がないからどうやっても1,000人程度の軽装部隊でしか動けない。
998 :
日本@名無史さん:2009/09/18(金) 19:31:28
>>991 将軍は「征夷大将軍」で武家の棟梁。
各大名は将軍の家来であり、日本の武士はすべて将軍の軍隊。
999 :
日本@名無史さん:2009/09/18(金) 19:33:02
1000
各大名は将軍の家来
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Σ( ・ω・) エッ?
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