1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 20:28:03
3 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 22:53:18
4 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 23:33:24
16代もいたの??
5 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 23:45:55
7 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 00:06:10
もしも執権北条氏が従三位以上になっていたら、どうなったと思う?
8 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 00:18:05
歴代執権・得宗
1 北条時政(得宗1)
2 北条義時(得宗2)
3 北条泰時(得宗3)
4 北条経時(得宗4)
9 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 00:18:53
5 北条時頼(得宗5)
6 北条長時
7 北条政村
8 北条時宗(得宗6)
10 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 00:19:49
9 北条貞時(得宗7)
10 北条師時
11 北条宗宣
12 北条煕時
11 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 00:20:55
13 北条基時
14 北条高時(得宗8)
15 北条貞顕
16 北条守時
>>7 あのまま鎌倉幕府が続けばそうなってたかも
御内人が蔵人やら五位で検非違使に任ぜられてるし
13 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 19:48:20
同族政権の創業者が追放されるのって珍しいよね。
14 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 20:27:22
北条義政のこと?
息子が親父を追放するのは珍しくないけど。
武田信玄とかもやってるし。
執権がやったってことが珍しいのか。
しかし北条家内部は最後まで暗殺とか
変なの多かったしな〜
追放ぐらいと思ってしまう。
15 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 21:46:25
>>12もし北条家が公卿格になってたら、北条氏も貴種になってたのかな?実際の歴史で北条氏に貴種性があれば、もうちょっと長持ちできたような気がするんだよね。そのうち、全御家人を御内人化したりとかもできそうだし
16 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 22:03:37
>>14 源義朝なんか追放どころか実父を処刑してるしな
17 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 22:03:55
>>15 北条家も都の公家から正室をめとればよかったのにな。
男系は変えられなくとも女系で公家に近づくことはできる。
足利将軍家なんかはそうしている。
だけど北条家の正室が御家人の安達あたりから出ていた時点で
貴種になりようもないような。
足利なんかのほうが都から来た公家の末裔を側室にしたりしてる。
18 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 22:08:09
>>13 たしかにカリスマ創業者は生きてるうちは現代でも失脚させづらいね
でも北条氏にとっての創業者は時政というより政子なのではないかな?
19 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 22:54:04
>>17やっぱ北条は、朝廷に近づいて滅んだ源家の二の舞にはなるまい、と思ってたのかなー。
>>18政子&義時ペアでしょ
20 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 00:38:16
テレビの歴史ミステリーで知ったけど、北条氏って平家だったんだな。
こんな驚愕な話がなぜ教科書にも載らないんだ?
21 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 07:55:20
平家といっても時政の父親のこともよくわからないような家系。
>20
つか、平安末期ごろの関東の豪族・武士の過半が平家支流だろ
将門の乱と平忠常の乱で平家の関東における利権が失われて撤退し、伊勢に根拠をおくことになったんだ。
高校の日本史Bなら載ってるだろうけど、中学の教科書とかには載らないよな。
24 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 11:34:50
>>20 北条は平家方の武士だったことで頼朝の監視役でもあったわけだけどさ。
実際に平氏の血を引いていたかというと疑問だよね。
俗にいう平家落人が平氏となんら血縁関係のない平家家臣であるみたいにさ。
北条が平氏を自称したことは事実だけども。
北条政子は平政子で叙位されている。
25 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 13:50:52
北条が平家の子孫というのは、信長が平家の子孫と言うのと似たくらい微妙な話やね。
26 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 14:41:37
北条氏は平直方の子孫だよ。平家ってのは平清盛一族に限定してるいい方だから、厳密には平家の子孫じゃないよ。
>>20 ×平家
○平氏
一般に平家という場合は清盛一門を指します
28 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 16:57:12
>>26 その系図自体が限りなくあやしいけどね・・・
29 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 17:54:16
>>17 いっそ豊臣みたいに新しい姓を貰えばよかったかも
30 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 22:49:38
まあ平氏の子孫だって名乗ったところで大して利益ないし、(むしろ損?)本当だと思うけどね。
だって血統で正統性アピールしてないからね。アピッてるのは頼朝の奥方の家だっていうことと、義時が朝廷の支配から幕府を守ったってことだけ。
あとは泰時とか時頼が公平な政治をしたっていうぐらいで。
北条氏ねや
こいつらの子孫は皆独裁者
義経頼朝は一代で華々しく散っていき子孫も独裁的権力を
誇示したわけではない
32 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 02:19:30
>>30 平氏の子孫イコール皇孫。
地方で権威を得るためには、とても重要なことなんですよ。
特に東国では。
33 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 11:31:34
>>32 実際、平氏一族と名乗って地方で権威を得たか?
頼朝外戚という事実のほうがよっぽど得になってる
34 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 12:18:32
北条氏が当時の平氏本流である平家一門と家系図上、かなり男系で近いのが不自然すぎる。
かえってインチキくさい。
信長が平家嫡流の子孫とかいうのと同じくらい怪しい、というか捏造。
さすがにそれはレベルが違う
織田は藤姓か忌部か だろ
36 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 12:50:53
平氏は源氏の家来だろ。そりゃ源氏の方が血統が皇室に近いからだろ。
37 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 15:31:04
>>34 まあ、あの北条の系図見たら、普通はウソくせえ〜って思うよな。
38 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 15:58:13
畠山や安達のほうが名門だよな。
比企氏討滅&頼家暗殺
和田合戦、宝治合戦、霜月騒動・・・
北条ほどケンカの仕掛け方がうまい氏族はないんじゃないのか・・・
各個撃破は見事と言うほかない。汚いともいえるけど・・・^^;
三浦も安達も、味方する側を間違えたし仕掛け時を見誤ったな。
40 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 01:14:18
41 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 01:23:32
直方の子孫、つまり
「そこらのゲスなゴミではなく、皇孫である。」
「将門だって身内である」
という主張により、お前らとは違うんじゃ!的威張りが効き、
「本来の鎌倉の領主の子孫である」
「源頼義の舅の子孫である」
「源義家の祖父の子孫である」
「つまり源氏棟梁を補佐するのは我が家である」
という主張ができ、政権運営の正当性が生まれる。
あくまで自己申告だし、
熊谷だって直方子孫を自称してんだけどなwww
関東武士の半数以上が平氏もしくは藤原なのだが。
43 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 07:35:27
>「本来の鎌倉の領主の子孫である」
>「源頼義の舅の子孫である」
>「源義家の祖父の子孫である」
>「つまり源氏棟梁を補佐するのは我が家である」
平家本流との系図上の近さもだが、こういういかにもできすぎた設定が、
胡散臭さというかインチキくささを増幅してるよな。
44 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 11:50:04
得宗家の権力が同じ北条一族でも突出している理由はなぜ?
執権・連署は赤橋だって輩出している、血統は名越の方がいい
新補地頭と御内人が泰時系にだけ忠誠を誓っているから?
領地が多く、経済力が優っていたから?
長命で無能ではなかった重時・政村が短命な得宗家を超えられなかった
または超えようとしなかったのは不思議だ
泰時が執権に就任する際の伊賀氏とのイザコザや
時頼の執権後に起こった名越光時の変。
重時・政村もそういうのを目の当たりにしてきてるから、危ない橋を渡らなかったとか・・・?w
特に政村は追放寸前で泰時に助けられた訳だし。
まぁ泰時の頃はまだ得宗独裁って感じでは無かったとは思うけど。
46 :
45 :2009/06/15(月) 12:35:20
ミスタイプ
> 時頼の執権後
時頼の執権就任直後、ね。
三浦が勝つチャンスってどれくらいあったんだろな
和田合戦で思い切って義盛につくか、あるいは足利みたいに
じっと我慢の子で、滅亡直前に寝返るくらいかな
48 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 13:04:05
和田+三浦の連合だけでも、数の上では北条の勢力を上回ってたんだよな、確か。
その後30年そこそこで三浦氏が滅びるのを、あの世で義村が見ていたらどう思ったんだろうな。
あとチャンスといえば、もし公暁の黒幕が一説で言われるように本当に義村だったんだとして、
実朝だけじゃなくて義時暗殺も成功していれば或いは・・・ってあたりか。
>>48 動員兵力にもよると思うんだよ
鎌倉での戦ってそんなに大軍動員してるように思えないんだよね
戦っていうよりクーデターみたいな感じかな
宝治合戦でも500人が最後に腹切って死んだのからすると
双方数千人くらいだろう
もし小兵力の殴り合いで決着がつくのなら、大将のいきなりの暗殺ってのは
結構なインパクトになるから、三浦が勝ってたかもって所かなあ
50 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 00:05:21
あーあーマイクのテスト中
51 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 00:16:04
三浦、安達、名越と不穏分子が多すぎるな。
結局有力御家人の足利に潰されてるし。
義経頼朝は好きだが北条って好きじゃないんだよね
>>52 その理由は?後世のフィクションの印象を真に受けすぎなんじゃないの?
天皇から政治の実権を奪って、徳川慶喜が大政奉還するまで「幕府」という
政体が「権威のみの天皇」と併設される構造を決定的に確立したのが北条氏
であって、この「権威は実力を持たず、実力は権威を持たない」という構造に
よって結果的に政治に監査が機能した事は、政治の近代化の祖とも言える
功績があるのではないかと思うのだが。
>権威は実力を持たず、実力は権威を持たない
これは天皇と幕府というよりは、将軍と執権との関係によくあてはまるのでは
鎌倉時代の朝廷はまだ政治上の実権持ってたし
実権を全部手放すのは、室町に入ってから
55 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 14:05:08
>>40鎌倉以前に北条が東国に君臨したとでもいう気か?
56 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 14:06:51
北条は100年以上統治者として君臨したんだから、もっと権威をアピールすればよかったのにな。
そうすればあんなにあっけなくは滅んでいなかったろうに
57 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 15:32:04
後醍醐天皇を中心とした大覚寺統
楠木正成等の悪党勢力
足利、新田等の反北条御家人
これら反北条三大勢力の結集により、鎌倉幕府は一瞬で倒された。
北条って
他氏を排斥し続けて権力を独占したが
支持基盤の御家人を窮乏させて、北条だけが栄える結果となって
(他氏排斥、各地の守護など独占)
皆の怨みをかって滅んだイメージがある
裏切り者が出るとやっぱり弱いよな
承久の乱では朝廷に裏切り者出て負けたし
60 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 17:46:38
やっぱり元寇がなければ、全国規模での北条の守護独占もなかったのかね。
それ以前の段階で、得宗独裁体制は時頼時代には既に出来上がりつつあったけど。
北条=独裁者みたいなイメージ強いな
義経頼朝は革命家
革命の成果を奪う陰謀家ってか?w
各個撃破で政敵潰して独裁といい、スターリンに似てるかも
63 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 00:37:51
北条は安達泰盛の改革路線でいってたら頼朝のような権威者になれたかも
64 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 01:09:28
北条の独裁体制を語るのに頼朝を比較対象にあげるのは、時期的に少し違和感を感じるな。
いわゆる得宗の独裁体制は時頼時代から始まったんじゃないの。
時頼以前の鎌倉幕府は北条が独裁したと言うより、
力ある者が支配権を勝ち取る為に闘争していた様なイメージがあるなぁ。
結果的に政治的、武力的闘争で北条が他を上回ったって感じで。
執権が交代すると、決まってそれまでの力関係をひっくり返そうと言う動きが出てきていたくらいだし。
なんかそれって、まるでどこかの部族の族長の代替わりの際に行われる、
過激な通過儀礼みたいな感じすらする^^;
それを通り抜けることで、初めて力あるリーダーとして認められる(認めざるを得ない)みたいなw
>60
とはいえ、鎌倉時代の守護は権限が小さくて旨味が少なかったからなあ...
北条氏としては、鎮西探題の設置などによる九州への勢力拡大とか、
元への対策のために非御家人の武士や全国の寺社に対しても指揮権を行使しうる体制を作れたことの方が大きかったんじゃないのかな。
それと、守護独占に対して特に効いたのは、元寇より承久の乱のほうじゃないか。
少なからぬ数の守護たちが上皇側についたことで、彼らを更迭して北条一門が守護になったわけだから。
元寇では、守護の更迭・交代は多くなかったんじゃないかって気がする。
むしろ、従来は守護不設置だった国にも守護を設置するようになったんじゃないか?
と思ったが、元寇の頃より前の守護が確認できないのって、肥後と壱岐ぐらいか?
大和は元寇よりあとも守護が設置されないままだし。
まあ大和は室町時代ですら、守護不設置みたいなもんだしな
68 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 22:06:20
大和に武家の支配が及んだのは松永弾正や豊臣秀長の時代からかな
筒井順慶ももともと寺侍のボスだし
>68
応仁の乱の前後の段階でも、
寺侍の二大派閥、筒井の一派と越智の一派の争いが幕府内の派閥争いと絡みあってたな
寺の人事への幕府や大名の介入もあった。
そうして乱が始まると東軍西軍それぞれと連携した。
どちらの派閥も、独力で相手を倒すことができる状態にない(負けそうになった方が武家頼みで逆転をねらったから)から、
それなりには武家の力が及びつつあったと思って良いだろう。
ただ、大和に力を及ぼしうるような武家が解体されていったことで、
それ以上の浸透を避けることができたんだろうな。
三好政権の末期、大和方面担当となってから急速に台頭した松永が大きかったのかも。
しかも興福寺が守護やってたのは大和北部で、南部には権限が及んでないと聞いたんだが
南部は南朝の地盤だし
京都の隣国がそんな体たらくだから、宮中に殴りこみ掛けて三種の神器奪い取るような事件が起こっても不思議じゃないなあ
支配体制の強固さから言えば、室町は鎌倉より明らかに劣っている印象を受けるね
71 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 00:21:27
結局鎌倉幕府というのは初期は源家中心の秩序でできていたけど、宝治合戦以降は北条得宗家が中心の秩序に変わってしまったから、北条と縁の遠い武士たちには不満がたまっていったってことだな。
72 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 01:32:26
おまけに、
「正統皇孫源氏」で「大将軍」ではなく、
「自称平氏」の「幕府執権」だからねぇ。
権力の神聖さというか、権威があやふやで低い。
「先祖も頼義の補佐してたんだぜ!」
では、天下政治を補佐する裏付けにはなっても、
結局そこ止まりなんだよね。
弱い弱い。
73 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 12:52:13
>>55 古記録から時政の四代から二代くらい前にかけて北條介が見られる。時代的に二人はいた模様。
父親の時方が北条介だったというのは正直微妙だが、或いは時方も含めて三人の伊豆介を輩出してる可能性有り。
調べたのはだいぶ前だから古記録がなんだったかは忘れたが戦前の静岡県関係の史書に出典があるはず。
宝賀だったかは阿多美禅師聖範からは妥当としてるが、俺はこいつまでが仮冒と見てる。
ただ他の伊豆及び関東の豪族とは同族性が見られないし、他所(おそらく西)から移動してきたのは間違いないと思う。
具体的には都から国司に随行して来た雑姓乃至古い神別の下級官人じゃないかと思う。
鱗紋繋がりで緒方ってのもいい線じゃないかな。
74 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 18:04:40
72>>
なんとか北条が正統な権威を得ることはできなかったのかねえ?
実力的に普通に大納言とか左近衛中将とかくらいはもらえる気がするよね
どうしても得宗家と徳川将軍家を比べてしまう
どちらももともとの家柄は低いのに、かたや摂関家に並ぶ家格になって、
一方はせいぜい従4位程度しかないという
江戸時代と比べるのはちょい無理があるのでは?
150年の戦国時代を経て、武家の名門なんてのはほとんど没落したし
血筋の呪縛みたいなのも消滅したように思える
>>66 大和は信長の差出検地の時点でさえ、
興福寺の和尚が、こんなあさましいことを見聞きしようとは、みたいな感想を日記に書いていたくらいだしなぁ。
独立独歩の土地柄なんだろうね。
77 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/06/24(水) 21:22:43
78 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:48:24
80 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 03:17:20
>>72 >>74 その辺のあやふやさが、
「実力」以外の部分、
つまり「絶対的権威」の無さに繋がり、
地位や権力の「裏付け」が弱い政権になり、
その他諸勢力との段差が低いままで、
源氏足利なんかを温存させる遠因になったんだと思う。
せめてどこかの段階で、
将軍位を奪い取るべきだったんじゃないかなー。
ただ、将軍位を奪い取るにしても、それに値するタイミングが案外少ないような気もする。
実朝暗殺直後という訳にも行かないだろうし、
承久の乱直後は朝廷に対しては優位に立ったけど、
あくまでその勝利は、義時が朝敵になるというシチュエーションにもかかわらず、有力な御家人が手を貸してくれたお陰だし、
鎌倉後期になると得宗家より御内人の力のほうが強くなっちゃってるし。
そうすると、
名越光時の乱、摂家将軍の廃立、宝治合戦を経て圧倒的権力を手中にした時頼が、皇族将軍を迎えずに自ら将軍の座を望むか、
もしくは元寇を討つという名目で、弘安の役の前後あたりのタイミングで時宗が将軍就任するか・・・
82 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 07:00:36
執権は北条一族、自ら任命する職。
将軍位は形式的とはいえ、天皇が任命する職。
北条氏は、それを嫌った感じがする。
北条が将軍位を奪うタイミングってのは面白い話題だな
IF話をして恐縮だが、もうちょっと鎌倉幕府が続いたら勝手に転がり込んで来たのでは、って気もする
両統鼎立で抗争に明け暮れる朝廷が、幕府の気を引くために将軍位を進呈ってのは有り得たんじゃないかな
摂関家か皇族のお姫さんが降嫁するのと込みで
84 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 00:28:28
しかし何で北条はわざわざ京から将軍を招聘し続けたんだろね。
実朝暗殺直後はともかく、その後もずっと。
京から連れ来たは良いが、結局不平分子の旗頭に担ぎだされて政権にとっての不安要素になってるし。
朝廷との融和政策のためなんだろうか?
だとしても、九条将軍にせよ親王将軍にせよ、途中で解任して京に送り返すことを続ける位ならば、
それこそ
>>83さんが書いた仮定の様に、北条が自ら将軍になって、京から嫁を貰った方が良いような気はするよね。
あと、北条の将軍のっとりのベストなタイミングとしては、
>>81と
>>83の意見をあわせて考えると、
両統迭立に幕府が介入し始めた時期と、蒙古来襲の時期が同じくらいだから、
絶好のタイミングは時宗時代ということになるかw
たまに言われ、賛否両論あるみたいだが
家の 「家格」「家職」 というものがあって
北条が政争を勝ち抜き、突出した権勢を持ったとしても、建前では2止まり
前例がない・古式・・・その他の要因で自他共に将軍位は望めなかったのかな
86 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 01:55:59
将軍になるためには平氏の家系を仮冒しただけじゃ足りないのか・・・
87 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 02:20:39
北条が将軍に就こうとしたら反発する勢力が出てくる事を考えてじゃないかな。
88 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 02:46:05
>>72なんだよね。
血統として、一般諸勢力よりは権威がある。
でもそれはあくまで
「皇孫源氏将軍の補佐家」
でしかないわけで。
北条氏自体には、実権以外のなにかしらの
「聖なる権威」が足りないんだよね。
89 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 02:54:08
もしかすると、将軍になれないのが当たり前って、当の北条家自身が思ってたのかもね。
そんなの常識中の常識すぎて検討するまでも無い、的な感覚だったのかもw
90 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 14:18:36
>>89 そもそも執権に就任する正統性が
>>88の言う「皇孫源氏将軍の補佐家」だけで、
梶原やら三浦を滅ぼしちゃってるし平氏の棟梁になるには難しいし、
>>87の理由もあって
>>89の結論だろうね。
91 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 17:10:22
朝廷や官位の危険性については清盛・頼朝・義経などを見て学んだのかな?
義時や泰時は最高権力者なのに官位は公卿でさえない
執権より高位の御家人がいる場合も多々ある
鎌倉時代で兵衛尉・馬允あたりのポストは関東御家人の独占ポスト
金沢貞顕なんかも陸奥守任官に向けて運動してるし、鎌倉時代でも官位が重視されたのは変わらないよ
つか、鎌倉時代も後半になると、普通の御家人より御内人の方が官位が高かったりするんだよね
鎌倉後期の御内人の専横と御家人の軽視の構造って、
今で言うと、党や内閣を軽視して、官邸だけで政治を進めるみたいな感じだったのかな。
しかも総理大臣は飾り物扱いで。
94 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 01:55:38
御内人の経済基盤ってどのくらいのもの?
給料制?
経済基盤の大きさそのものに限っては、
一般の御家人と御内人は似たようなものだろ?
庇護者が幕府か得宗か、という点が違う程度と思う。
任命された初代が、御内人の方が新しいことも、か。
治承寿永の乱・和田合戦・承久の乱・宝治合戦etcetc
こういう乱・政変で没収された土地の、全てとは言わないがかなりの部分が
得宗家の領地となったわけで、それは膨大なものになるだろう
尤もそれだけ人の恨み買ってるとも言えるけど
98 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 02:58:51
でも「代官」でしょ?
手間賃と帳簿ごまかしとピンハネしかない。
直接領地持っている御家人より、
実入りは少ないんじゃないの?
99 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 11:14:32
頼家がもうちょっと政治力があって健康だったら
比企氏が北条のようになっていたのかな?
100 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 17:12:16
>>99 比企を使って北条を押さえ、
有力御家人を互いに牽制させて将軍の地位を高める
>>100 それだと足利将軍の先駈けになっちゃうよ。
102 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 18:42:26
>>101 北条 比企 三浦で 三管みたいになってたかも
103 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 22:01:37
和田・畠山・安達などが四職かな
こういうケースで、武田とか足利とか、将軍の同族の名前が挙がってこないところが、
後の足利氏族との違いのひとつなのかもな。
105 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 01:28:49
頼朝が潰しちゃったからなぁ、その辺は。
つか他源氏を重用しないってのは、
暗黒将軍頼朝の指図なのか、
自分の地位を高めておきたい北条の指図なのか、
どっちなんだぜ?
106 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 05:28:21
頼朝在世中は北条の影響力はそんなにないでしょう
北条が御家人中頭ひとつ抜け出るのは比企氏を滅ぼし
頼家を追放してからでしょう
源氏は北条と違って、源氏であること自体が求心力になるから、
後顧の憂いを経つためにも、同族のライバルを駆逐せざるを得なかったんじゃないの。
頼朝の時代は特に。
頼家も叔父さんの阿野全成を殺してる位だしね。
まぁ阿野全成討滅のケースは北条と婚姻関係があったわけで
どちらかというと、棚上げされつつあった頼家(&比企)の、北条に対する先制攻撃の意味合いもあったんだろうけど。
108 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 17:11:38
時政&義時派だった阿野全成が、あの時点で殺されてなければ、
史実どおり実朝が殺されたとしても、北条執権体制の下、源氏将軍が続いていた可能性があったのかなぁ・・・
でもまぁ、実朝暗殺後に全成の嫡男が粛清されてる位だし、
その時点まで全成が生きていたとしても、結局は北条に難癖つけれられて追放or暗殺されたのかもな。
109 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 02:17:52
全成があと十人くらい子供作っている可能性も、、、
110 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 10:01:54
全成は義経の同母兄なのに頼朝に粛正されなかったのが不思議
武勲がないことが幸いしたのか?
も一人の兄弟は行家軍に参加して戦死している
行家は生きた不幸の手紙
卑弥呼
↓
大君(おおきみ)
↓
縄文
↓
弥生
↓
蘇我、もののべ
↓
聖徳太子
↓
北条氏
↓
鎌倉幕府
これであってる?
>>111 卑弥呼(大君との繋がりが不詳)、大君(現皇室)、縄文、弥生(縄文、弥生共に卑弥呼、大君との関係性が不明瞭)
↓
蘇我、もののべ
↓
聖徳太子
↓
鎌倉幕府
↓
鎌倉幕府(北条氏が専横)
言いたい事は色々あるが、まあこんなもんでいいだろう。
>>112 鎌倉幕府が先にできて、
それから北条がのっとったのか。
そんで元寇がきて、鎌倉幕府がほろんで、
悪党の時代になって、
南北朝になって、
室町幕府。
そんで室町幕府がほろんで、
信長がでてきて、
秀吉、
家康、
江戸時代、
これであってる?
114 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 21:36:14
>>110 全成は生き延びるためにもし将軍の話が来ても断っていそう
そうやって兄頼朝からの攻撃を防いでいたのだろうし
実子のみに幕府権力を委ねたい頼朝にとって
息子のライバルになりかねない自分の兄弟は幕府を開いてからはただうっとおしいだけ
政子も亡き頼朝の意思は自分の兄弟にだけは将軍を継がせないことにあったとか言って
結局摂家将軍になりそう。
頼朝の兄弟はすべて異母で卑母が多かったが
摂家将軍の外祖母だけは頼朝と同母で正室腹の妹の血を引いている。
>>93 強いて言えば、
御内人=与党の主流派閥議員
得宗家=党幹部
将軍=お飾り総理
という感じなのかな?
官邸と言うよりも「党内幹部の密室会議で全部決まる」みたいなイメージをもっと強権
にしたような。表向きの権限は無いけど実質的には握っている感じで。
小泉内閣のような「首相のリーダーシップで政治を動かす」というのを、党内抵抗勢力
が嫌ったように、言わば「小泉将軍」のような将軍が出てきて「執権をぶっ壊す!」とか
言い出さないように芽を摘むために幼少の将軍が成長すると差し替えたりしてたのでは
ないかと。
足利尊氏とかって、悪党出身だよね。
かんがえてみればすごくない?
118 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 10:38:06
>>117 悪党とは非御家人の武士集団だから足利は違う、楠・赤松・名和など
やってることは悪党そのものだけどなw
北条裏切って後醍醐に付き、後醍醐裏切って北朝に付き、その北朝裏切ってまた南朝に降伏
120 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 21:51:10
>116
>「党内幹部の密室会議で全部決まる」
それ、どちらかというと社会主義国の共産党じゃないか。
現代日本は概して、党より省庁の方が強いぞ。
うまく扱わないと、省庁から提出された議案が審議期限終了になったり拒否されたりするかもしれんから
それなりには大事にされてるし、省庁の幹部も多くの場合は党の有力者の顔色をうかがうが、
ほとんどの事例は省庁の言いなり。一部の事例に限って異を唱えるのが関の山。
>118
楠だって、御家人じゃないけど御内人だろ。
名和や赤松も含めて、皇室領の荘園を領地にしていたことから天皇とつながりを持っただけじゃん?
ある時は悪党、ある時は御家人、またある時は御内人
色んな説があるけれど、本当はなんだったんだろうな<楠木
123 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 04:07:49
畿内在地の古代豪族説もあるよ。
124 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 02:06:19
あれだけ一族親戚いっぱいだったのに、
まっとうに子孫が残ってないのが不思議。
125 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 20:52:30
幕府滅亡のときに一族郎党みな自害したでしょ
北条はなんだかんだ言って血族結束はものすごかった
北条高時はいろいろ言われるけど高時とともに自害した人の数は
いろんな氏族滅亡を見ても群を抜いている
源氏はたいてい身内に裏切り者が出て
弟の子とか甥の子とかで子孫が残るんだけどね
126 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 23:54:06
>>125 泰家(高時の弟)時行(高時次男)は自害せずに中先代の乱を起こしている
もちろん裏切り者ではない
127 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 00:27:20
鎌倉陥落の際、信濃あたりに転進して体制を整えるという、選択肢は無かったのかな。
それとも事態が予想以上のスピードで進行しちゃって逃げること自体ムリだったんだろうか。
128 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 01:05:47
>>126 鎌倉時代を回顧して乱をおこしている時点で同類だろう。
まっとうに子孫を残したいのならば、
室町幕府に正々堂々寝返って、幕府官僚としてとりたててもらわないと。
そうしてない時点で子孫を確実に残しえていない。
武家源氏は正々堂々寝返ってるぞ。
そして正々堂々と子孫を残している。
129 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 03:00:58
一族全員が律儀に鎌倉で集合滅亡したわけじゃないよ。
北条一族、もうわけわかんないくらい
末広がりの大人数なんだぜ!
あんまり語られないけど、
鎌倉陥落、建武のその後も、
名越一味なんかを主戦力に、あちこちでお家再興?の兵を挙げている。
惜しいのは、一番大規模な京都作戦に失敗していること、
残りの企てが局所的で、連携に欠けていたこと、
(期日は合わせているっぽいんだけど)
中先代が成人するまで待ちきれなかったこと、
建武新政ノリノリだったので、
その他勢力を味方にできなかったこと、
(鎌倉時代ずっと一族独占で威張ってたから、嫌われるわなそりゃ。)
そしてやっぱり感じるのは、カリスマというか大義名分のなさ。
建武は天皇親政、足利は源氏直系、
しかし北条それも得宗家じゃないなんて、
ちょっと弱いよね、、、
でも、
九州長門、四国、北陸、奥州、そして京都の各作戦が、
もっとしっかり連携して、
それも建武のグダグダを待って、
さらに中先代を立てて、全部一斉に起きていればなぁ。
なんなら、尊氏に乗る(担ぐ)とかね。
130 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 03:05:12
>>127 中先代が落ちて、かくまわれて、養われたのが、
その信濃国の諏訪じゃないすか。
あと、塩田平には一族の根拠地があったし。
てーか、
むしろそんな近くで大丈夫だったのか、と。
安心できないだろ?
陸奥とかに逃げるだろ普通。
131 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 09:43:55
泰家が後醍醐暗殺に成功していれば歴史は変わったと思うぞ
北条の天下が復活したかどうかはわからないが
不景罪
133 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 03:19:27
>>131 北条に味方する勢力がないんじゃないかと。
北条に恨みを持つ奴らの集団行動、
それが建武政権だから。
134 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 13:50:09
北条時行の人生は波瀾万丈だな、最後は南朝側で新田軍にいた
135 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 02:28:43
忠実に従った家臣もいたんだろうね
中先代の乱で鎌倉まで占拠できたくらいなんだから、
新田が攻め込んできたときにタイミング良く鎌倉を放棄できてたら、
北条はいくらでも再起できてたんじゃないのかなぁ。
137 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 22:44:25
鎌倉陥落までは難攻不落の要塞都市だと思われていた
戦国時代の小田原城みたいなもの、どちらも北条だな
138 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 03:52:17
鎌倉が陥落したってことがすなわち、
「北条は他の勢力から嫌われていた」
「北条にはカリスマが足りない」
ということでして。
むしろ北条一族が相当な力を持って生き残り、抵抗運動を散発的に続けていてくれたら、
建武政権ももう少し結束が続いたのかもしれんね。
共通の敵があるうちは協力せざるを得ないもんね。
140 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 16:48:38
はあ?
北条政権がぐらついてきたから
後醍醐天皇が討幕する気になったんだろう?
141 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 17:00:42
後醍醐は泰時や時頼がいても倒幕を計画するだろう
もちろん島流しになって終わりだが
徹頭徹尾主観的で周囲の状況を見るキャラではないだろう
宗教の教祖みたいな人物
142 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 17:24:45
いや、そもそも反北条を唱える輩が登場する時点で、
北条政権がぐらぐらしているためで、
その北条にもっとねばれ、っていう話はおかしくない?
中先代の乱と連携した泰家の後醍醐暗殺が成功→元関東申次の西園寺公宗主導の下、持明院統政権に。
こうなりゃ北条の生きる目はあったんじゃないの。
以前のような支配的勢力に返り咲けるかどうかは別として。
・・・公宗の弟がチクらなければなw
144 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 21:20:37
北条高時が後醍醐天皇を殺すような、そんな辛辣な男かね?
>>144 鎌倉幕府崩壊後におきそうになった、西園寺公宗&北条泰家の後醍醐暗殺計画の史実を知らんの?
146 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 23:23:30
>>145 あれの首謀者は西園寺公宗だろ。
後醍醐天皇を北山殿に招いて暗殺しようとした、
実行犯(未遂だけど)は公宗。
この件で西園寺公宗は処刑された。
泰家は行方不明だけどね。
どーでもいいけど、なんで急に高時が出てくるんだ。
もしかしたら、後醍醐帝暗殺の話題で高時の名前が出てきたのは
>>144さんが、実は幕府が滅んでから中先代の乱辺りまでの経緯にあんまり詳しくなくて、
時系列がごっちゃごちゃになってるせいなんじゃないだろうか。
そう考えれば、
それ以前から書き込みの内容が、妙に周囲と噛み合ってなかった事にも納得がいくんだが.......
・・・違ってたらごめんねw
ただのタイプミスというか勘違いという可能性だってあるもんな。
149 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 03:58:04
うん、キミはすごいね!
だからさ、
妄想の中の敵と戦うのはやめなよ。
いやまぁ、泰家と西園寺公宗の後醍醐暗殺未遂事件の話題のところで、
その時には既に死んでる北条高時の話が出てきたら、そりゃ誰だって「?」って思うだろ
西園寺公宗の後醍醐暗殺って確実な話なの?
親幕派と見なされて、でっち上げの容疑掛けられた可能性はないの?
なんか唐突過ぎるんだよなあ
公宗以外で、一臣下が天皇暗殺なんて企んだ例は
蘇我馬子の崇峻天皇暗殺くらいしか思いつかないし
152 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 12:30:34
153 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 19:15:43
>>151 親幕派と『見なされ』るも何も、関東申次として北条とべったりだったことが、
鎌倉幕府健在なりし頃の西園寺公宗の権力の源泉だったわけじゃん。
その鎌倉幕府が滅んで権力の源泉を失ってしまった公宗の権威失墜、
逃亡中の北条泰家との交流、そして持明院統という後醍醐に対抗する皇統がある事とを合わせて考えると、
落ち目の公宗が人生の再逆転の賭けに出たとしても、個人的には全く唐突には感じないけどなあ。
ただまあ、後醍醐天皇は元弘の乱を起こす前に、計画に反対した近臣の中原章房を口封じするため、
悪党を金で雇って殺させたと言う説もある位だし、
でっちあげの一つや二つは平気でやりかねないイメージはあるわなw
154 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 23:35:07
泰家をかくまっていたのだし、直後に中先代の乱が起こっていることからも
何らかの陰謀はあったのだろう
そういや、中先代と言えば三浦時継は子供たちと袂を分かって時行側についたんだよな
北条にはご先祖様の恨みがあるはずなのにさ。
156 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/07/17(金) 23:50:51
>>155 恨みなどない。むしろ北条に対しては恩義があるということだっていえる。
北条によって嫡流が滅ぼされ、傍流がとってかわったのだから。
君に限らずこのスレを今、散見したのだが、まともなレスがほとんどない。
ネット上で切り貼りしたようないいかげんな知見(ですらないが)ばかりだ。
157 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/07/17(金) 23:55:28
>>154 やっとそれがでてきたけど、そういう推論はさんざん言われてるんだよ。
あの暗殺計画を独立したものじゃなく、全国的か反乱のひとつのきっかけという見方すら、今までここのスレの人間たちはしていないのはなぜなんだろうか?
それから研究者の書いた一般向けの書物なりにあたれば、そんな推論は簡単に目にすることが可能なのに
それすらしていないんだろうか?
あほくさ
さ〜て、糞コテ湧いてきたからあぼーんするか
159 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/07/18(土) 00:21:03
>>158 まあそれがいいと思うよ
私、中世でいいかげんな認識示す奴、生身でもイラつくたちだからさ。
たぶんくだらないレスには手ひどい罵倒を交えちゃうと思うんだ。
自信がある奴だけ書けばいいよ。
馬鹿は消えるがいいです
122 名前:吾輩は名無しである[sage] 投稿日:2009/02/21(土) 10:23:42
おそらく誰もが武陽隠士に対して反感を抱くと思うんだけど
この人はかわいそうな人だよ
他人を否定することでしか自分を肯定できないなんて
こんなに他人に対して攻撃的でいることなんて
本人からしても、決して楽な生き方じゃあるまいし
こういう人こそ救われて欲しいと心底おもうよ
キリスト教の信仰がいつかこの人の頑なな心を溶かして欲しいと本当に願うよ
世の中悲しいことがおおすぎる
124 名前:武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s [sage] 投稿日:2009/02/25(水) 00:12:00
>>122 「否定」じゃなくて「批判」ね。
他人もなにも匿名の掲示板上での学問的な事柄上でのことじゃん(君の言い方は人間関係が2ちゃんしかないみたいな感じがして妙な印象を受ける)。
生身ではどんなに正しいことであってもできない批判を
ここでやってるだけだよ。
批判はそれが正当であっても目上の人間はもちろん、同輩後輩にすら
角が立つのでできない。実際したらいづらくなるんだよね。
まあ学問的な現場では部分的にオブラートに包んでみんなやってるけど
本当の意味での忌憚なき批判は出来ない(目上とか仲間にはね)。
ここでの私は不断の自分のアンチテーゼなんだよ。
愛想よく振る舞って人から好かれることに汲々としてる生身の自分とは
180度違う自分になりたいんだよね。
仲良くすることに本当気疲れしてるんだよな。
まあその前に脳内の過剰知識を排出したいってのもあるけど。
12 名前:最低人類0号[] 投稿日:2009/03/17(火) 02:25:49 ID:jZRL+X1e0
こいつがいる限り文学板は糞板。話の妨害をしてスレをつまらなくする。「文学板をハイブラウにする」と意気込むのだけど、
彼女のレスが深い議論を起こすことはまずない。これは一方的な知識の披瀝のみではなから対話を拒否しているからだ。
2chにどのような書き込みをしても自由だが、もう少し人との駆け引きを勉強されてはいかん? 人との対話の力関係を無視し続けるならば
どのような知識をご開帳下さっても反発を招くだけであろう。
13 名前:最低人類0号[] 投稿日:2009/05/05(火) 02:41:55 ID:bWgeW0ouO
今日も文学板でルサンチマン全開で蛸踊りしてましたよ。
162 :
日本@名無史さん:2009/07/18(土) 02:18:38
「他人の否定」「異常な自己顕示」
文脈から判断されるこれらは、
人格障害の症状ですね。
自己愛、もしくは境界例あたりが疑われます。
コテハンとか顕示してないで、
まずは医者へ!
163 :
日本@名無史さん:2009/07/18(土) 02:24:29
うわ!スレ潰しの糞尿屁土が湧いたのかよ、、、
半島に帰れよ。
164 :
日本@名無史さん:2009/07/18(土) 02:26:32
うわ!スレ潰しの糞尿屁土が湧いたのかよ、、、
半島に帰れよ。
ブヨって確か男女兼用コテだろ
夫婦か恋人そろって人格障害なんだな
基地外は基地外同士、惹かれあうものがあるんだろうな
166 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 03:36:54
良スレがコテハン荒らしに蹂躙された
日本史ってよくわからないんだよね。
ヨーロッパ史とくらべると。
168 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 03:06:11
ヨーロッパなんて、ローマのあとは空白で、
近中世以降しかないじゃん。
ここまで北条沙都子の話題無し
170 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 03:04:51
はじっこのほうの北条って、クサってたのかな。
「どうせ俺、得宗家から遠いもんなー。
連署とか執権とかなれねーしなー。」
171 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 03:22:56
>>170 かなり傍流でも連署・執権になれます
真の嫡流である名越が一人もなっていないが
引き付け頭人とか評定衆とか格の高い役職もいろいろあります
御内人に成り果てた傍流家もあるけどな
173 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 07:37:31
子孫っているの?
174 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 11:54:54
175 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 17:20:20
北条家の序列はこうかな?
得宗>>赤橋>大仏・金沢・政村家
名越は仮想敵国扱い
176 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 02:58:14
でも、北条残党の主戦力は名越一族なんだな。
177 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 10:38:15
極楽寺流(重時系)は要職にあった者が多いので滅亡したのかな
守時の弟、英時は九州探題だったが戦死している
六波羅探題の二人は赤橋の分家と政村の子孫
御内人に成り果てた佐介北条氏のことも思い出してあげて下さい
179 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 11:18:18
なぜ時房の子孫でも大仏は執権・連署が出て、佐介は御内人なの?
>>179 時国が六波羅探題クビになり、その後処刑されて没落
181 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 02:04:40
「俺、どうせ連署とかなれねーし」
182 :
あ:2009/08/08(土) 00:24:59
fつy
183 :
日本@名無史さん:2009/08/08(土) 00:27:12
結局北条氏はなにを目指したのだろうか?また彼らが滅んだ原因は?またなぜ彼ら
は裏切り者を出さずにみんな1333年にほろんだのだろうか?
184 :
日本@名無史さん:2009/08/08(土) 13:00:12
185 :
日本@名無史さん:2009/08/09(日) 03:12:24
幕末には得宗家中心の独占体制ができてたから、
裏切るような不穏分子が残っていなかったんだよ。
一族意識が強い、平氏系の家だから。
187 :
日本@名無史さん:2009/08/09(日) 11:09:11
>>186 平氏系で一族内紛してる例たくさんあるんですがwおバカさんですか?
うるせーぞカス
189 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 02:04:07
そうだよカスだよ。
どうせ俺、執権とかなれねーんだよ。
190 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 02:07:57
そーだよ俺以外みんなバカでカス
てめえらその事に早く気づけ
192 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 04:36:30
>>191 平氏系の豪族で一族内紛してる例って、たくさんあるんですがw
バカ(笑)?
お頭のよろしい方が多く、深い感銘を受けますた。
>>192 平氏の織田家があるだろ
信長は弟を殺してるの知らんのか
私、中世でいいかげんな認識示す奴、生身でもイラつくたちだからさ
馬鹿は消えるがいいです
195 :
日本@名無史さん:2009/08/12(水) 16:41:43
結局幕末御家人の家格順位は
得宗家→赤橋家→大仏家→金沢家→常葉家→安達氏→足利氏→他有力北条一門
→武田→佐竹→小山→千葉・・・って感じですか?
千葉氏は、高望王の流れをくむ桓武平氏の中では名門中の名門。
妙見信仰で知られるように、上杉氏とのつながりも深い、東国の
覇者.。将門が首を取られていなければ、関東の新帝として、日本を
分割統治していたかもしれない名門。
鎌倉幕府も徳川幕府も将門なくして成り立たなかったのです。
197 :
日本@名無史さん:2009/08/12(水) 23:51:43
>>194 よく文嫁アホ
一族内紛の例ありと俺は書いてる おまいは日本語読めないないのか?バカ
198 :
日本@名無史さん:2009/08/13(木) 02:55:42
199 :
日本@名無史さん:2009/08/13(木) 12:19:07
>>196 千葉氏は将門の子孫ではない。将門研究の川尻氏を嫁。
阿呆めが!
>>199将門の子孫だなんてどこにも書いていないが・・・
高望王の子孫だと言っているだけです。
201 :
日本@名無史さん:2009/08/13(木) 21:41:15
>>200 ん?
ならばなぜ将門が首を取られなかったら云々などとレスしたのか?後づけのいいわけと見たぞ阿呆w
202 :
日本@名無史さん:2009/08/13(木) 21:44:46
北条氏とは平良文の子孫だろう?
将門とは親戚じゃないか。
直方流だから貞盛の子孫でしょ。当人らはそう称してる。
205 :
日本@名無史さん:2009/08/16(日) 18:51:50
まあ親戚っちゃ親戚
直系でないとすぐれた遺伝子が継承されないというわけではない。
同じ両親から生まれた兄弟なら、能力が開花したかどうかはともかく、
同じ遺伝子を有しているわけで、甥や姪が偉大な叔父を越えるという
例もある。むしろ、偉大な父をもつことは子どもにとってプレッシャーに
なるのです。
207 :
日本@名無史さん:2009/08/18(火) 21:50:29
常陸江間氏、飛騨江間氏、伊豆岡野氏、尾張横井氏、尾張平野氏、種子島氏は仮冒?
王朝支配に楔を打ち、七百年に及ぶ武家政権を確立させ、モンゴルの侵略から日本を守る為、歴史上に現れた一族。
鎌倉末期に、ほぼ日本国全体を手中に収めるも瞬時に滅亡,子孫に栄える者無し。
織田信長、徳川家康の末裔が四百年後の今も、そこそこ活躍してるのとは対照的。
209 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 23:57:43
北条氏の系図一通り集めましたが、
レアな北条系図知ってる人がいたら教えて下さい。
210 :
↑:2009/08/22(土) 09:10:41
個人では限界があるから、宮内庁に系図や子孫の調査依頼したら。
211 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:17:27
江間さん、名越さん、赤橋さん、大仏さん、佐介さん・・・・マイナーだな
212 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:51:41
天皇に対して当今御謀反なんて言っちゃうのは歴史上北条氏位だよな
213 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 20:20:26
>>210 インチキ系図の調査なんか宮内庁がやるかよwバカ
214 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 22:29:32
>>212 朝廷に対して直接軍事的勝者の立場に立った武家は北条だけだからな
占領軍のような感覚があったのかな
衆院選、民主勝利後の最悪シナリオ
民主が国政第一党になる
↓
公明「外国人参政権などの党としての本懐で民主党と一致した」
民主、公明の連立政権成立
↓
国政での外国人参政権が成立
国政選挙で民主、公明、社民更なる躍進
↓
人権擁護法が与党の賛成多数により成立
行政、在日朝鮮人、中国人、宗教法人を批判すると罰せられる様になる
↓
国籍法の更なる緩和
日本国籍と生活保護資格だけ持つ、日本人の血が一滴も入ってない中国人が急増
↓
在日朝鮮系、中国人系の国会議員も出現
親中国の自民議員が民主に寝返る
自民党完全無力化、または解散消滅
↓
日本乗っ取り完了
「民主党の正体」 「ミコスマ」 「韓国は“なぜ”反日か?」で検索
216 :
日本@名無史さん:2009/08/25(火) 23:25:24
北条氏系譜人名辞典って大変参考になりますね。
でも、結構掲載漏れがあるようですね。
気がついた人いますか?
>>215 構造改革の名の下に、年間3万人を越える自殺が10年以上続いている。
「自民党をブッ壊す!」
小泉の策は効を奏し、政権交替は確実になっている。
宮内庁発表
小泉純一郎は北条氏の末裔
218 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 02:02:23
>>217 まあ、鎌倉末期と現代は似ているかもな。
元弘元年の笠置城攻めでは幕府の圧倒的な強さを見せながら二年足らずで北条政権滅亡。
小泉自民の圧倒的強さから四年足らずで自民政権滅亡目前・・・。
ソ連や東欧諸国の共産党政権の崩壊も雪崩のごとく速かったし。
時代の流れは速く、誰にも止められない。まさしく諸行無常、盛者必衰。
219 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 02:35:24
問題は、自民時代はじっさいはさほど悪い時代ではなく、
政権交代が韓国人の工作で行われていること。
220 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 11:26:39
鎌倉幕府・・・自民党政権
政権交代・・・建武の新政
後醍醐(民主)に農協や医師会が次々寝返っているな
官僚支配の否定、政治主導というのは後醍醐の綸旨がすべてを決定するということか
やりすぎるととんでもない混乱が起きるぞ
だとすると誰が尊氏になるんだ?w
その前に追放される護良親王が誰なのかも気になるw
222 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 14:15:56
後醍醐天皇→鳩山由紀夫
足利尊氏→小沢一郎
護良親王→長妻昭
223 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 14:26:17
後醍醐天皇→鳩山由紀夫 (自民打倒に奮迅の働きをするが時代を見る目がない)
足利尊氏→小沢一郎(必ず裏切る)
護良親王→岡田克也(自己主張が強く融通がきかない)
新田義貞→菅直人(華やかな人物だが政治家としては落第点)
224 :
ドリラー:2009/08/28(金) 15:01:43
どりり!
225 :
ゆw:2009/08/28(金) 20:03:02
*^^*
226 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 23:32:17
後醍醐→鳩山
尊氏→前原+外添
新田→菅直人
護良→岡田
227 :
日本@名無史さん:2009/08/29(土) 06:27:03
舛添は中先代だろう
与謝野は金沢
森や古賀が長崎円喜
228 :
日本@名無史さん:2009/08/29(土) 08:26:24
お前ら民主が長期政権になるわけないだろ
財源ないのに国民に現金ばらまきを約束して
一時的に政権交代するだけだから
229 :
日本@名無史さん:2009/08/29(土) 10:44:15
論功行賞(閣僚ポスト)に不満で政権離脱する赤松円心がでるかな?
国民新党や社民党はそうなりそうだな
小泉は民主の鳩山とズブズブで、自民党や日本を目茶苦茶にする為の民主党のスパイで、金正日の遠縁という話を聞いた。
231 :
日本@名無史さん:2009/08/29(土) 14:22:05
赤松円心は民主党選対委員長の赤松広隆でいいだろう。w
で、楠木正成は誰かな?ちょっと見当たらないのだが。
232 :
日本@名無史さん:2009/08/29(土) 14:48:07
麻生太郎は北条高時で異論はないだろう。
233 :
日本@名無史さん:2009/08/29(土) 17:27:30
民主・・・建武の新政のごとき短期政権
その後・・・日本全国が民主系(南朝)と自民系(北朝、幕府)に分かれて混乱の
時代に突入
234 :
日本@名無史さん:2009/08/29(土) 21:58:36
楠正成・・・長妻昭
坊門はだれだろうな?
北条泰家・・舛添、時行・・石原伸晃だと思っている
235 :
日本@名無史さん:2009/08/30(日) 02:21:32
っつーか、建武は外国の工作資金で成り立っていたわけじゃないし、
そもそも選挙期間だから手出しできないだけで、
選挙終了直後に
鳩山は故人献金で、小沢は西松で、
そして各議員が選挙違反で大量逮捕予定。
これと建武政権を比較するのは、
さすがに失礼だろ。
236 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 10:52:05
237 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 15:18:52
北条氏最後の得宗の高時は、やはり愚か者だったと思う。
長崎父子追討の失敗や執権辞任で後継者争いが生じるなど政治力が無かった。
歴代の得宗の時頼・時宗・貞時は政敵を果敢に滅ぼし、後任の執権も自分の意志で決めていた。
トップが馬鹿だと組織はガタガタになって崩壊するんだな。
特異な才能が必要な分野で、世襲によりトップを決めようとしても、優れた遺伝子が
引き継がれる確率は、2代目で2分の1、3代目で4分の1、乗数的に劣化していって
ついには、一族中を探しても初代の残した組織を担う資質を持った人物は見当たら
なくなる。
徳川幕府のように御三家の中から世継ぎを選ぶといった対策をとっても、結局は人
材がついえてしまったことが崩壊の原因になった。
その点、天皇家は、男子1系といいながら巧みに血のつながりのない天皇を立てて
うまくやってきた。それ以上に、君臨すれども統治しないシステムが功を成したことは
言うまでもない。
239 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 17:26:31
天皇家も平安・鎌倉時代は、時期によって程度の差はあっても、
バリバリ実権握ってて君臨も統治もやってたわけだが。
摂関政治は天皇と一心同体だし、院政は天皇家の家長による専制政治だし、
天皇王朝による支配システムだ。
鎌倉時代は統治領域が西国に限定されたり、軍事的に武家に圧倒されたといっても、
まだまだ院=治天の君は西国政権の実権ある君主だ。
本当に統治しない存在になるのは南北朝期の北朝天皇から。
240 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 19:29:58
>>238 組織を担う資質を持った人物は見当たらなくなる。
でも、鎌倉末期でも北条一族で金沢貞顕とか赤橋守時とか優秀な人間がいたと思う。
昔は家職があって、小さいときから教育されたからね。
北条重時や実時の家訓が残っているし。
241 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 10:57:30
組織がダメになると優秀な人間がいても滅びる
徳川だって慶喜・勝海舟・小栗上野・川路・榎本武揚・・・
トップが政権つぶしちゃったのは後醍醐ぐらいかな
242 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 12:38:23
江戸幕府があんなに早く崩壊したのは
徳川慶喜の敵前逃亡が原因だろ
243 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 16:24:55
麻生が昨年末に解散して自公220、民主その他260で負けていれば
負けっぷりが良かったのにな
慶喜の負け方はそれに近いだろう
244 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/08/31(月) 22:44:46
>>240 君が守時を優秀と決めつける理由は何なの?
滅亡時の武将としての戦いぶりが凄いから優秀だといってるわけ?
(おそらくそんな理由なんだろうなwそういうところが2ちゃんねらーっぽいんだよねw)
武陽さんのレスっていつも短いね。
246 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 02:34:41
247 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 00:29:10
「武陽隠士」って反論されると必ず逃げるのな。
248 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 01:41:02
スレ荒らしのコテハンはスルーして
ぶよ〜ん
250 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 11:00:26
足利尊氏は誰になるのだろうか?俺は前原氏だと思う
新政に一郎なし
252 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 17:10:33
前原は赤松円心か護良親王では?
253 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 21:17:20
251>>
確かに
254 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 23:18:56
「分倍河原の話を聞いて」
私達は早や疲れた体を若い小笹や柔かい青艸の上にした。
視野は広く分倍河原の緑の海の様な其の向うには、うつさうとした森があつて、
遥か彼方には山脈の様なものが長々と横たはつて居た。
白く細く見えるのは鎌倉街道である。
遠く黄色い建物は明治天皇の御遺徳を偲ぶ為の記念館であると、小池中佐はお話下さつた。
腰を下して、分倍河原の合戦のお話をお聴きする。
元弘三年、此処は血の海が、清き流れ多摩川に流れ込んだのだ。
今でこそ此の分倍河原は、虫の音や水の流れに包まれてゐるが、六百年前には静寂がなくて
其の代りに陣太鼓の音や骨肉相食む戦闘が繰り返へされたのだ。
《勝つて兜の緒を締めよ》この戦ひは如実に之を教へてゐる。
見よ。六百年の歴史の流れは、遂に此の古戦場を和かな河原に変化せしめたのだ。
其の時、足下の草の中から、小さな飛蝗が飛び出し、虫の音は愈々盛になつて居たのである。
益々空は青い。
平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
255 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 00:02:16
分倍河原の戦は一旦、北条軍が新田軍を破ったが、とどめを刺さずに義貞を逃走させた。
三浦の加勢を得た新田軍は、勝利を得て油断していた北条軍を不意打ち、鎌倉に敗走させた。
義貞討伐の指揮官が北条泰家でなく、笠置攻めの実戦経験があり、極楽寺方面での勇猛な奮戦、往年の和田義盛を彷彿させる、当時の北条一門切って猛将、大仏貞直なら、とどめを刺す迄義貞を追撃したと思われる。
歴史が変わってたかも。
257 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 02:14:18
深追いで突出しすぎて死んでたかもよ。
大平記には、義貞は稲村ヶ崎から鎌倉入りとある。
実際は、極楽寺坂からの進入で、義貞・太刀祈願は作者演出と思われ。
いくつかの切り通しを歩いたが勾配もきつく、岩肌が両面から迫り、大軍で攻め込んでも一列縦隊になる。崖上には、北条軍が万全の態勢で待ち構えている。
切り通しからの鎌倉進撃は無理、義貞鎌倉攻撃時に超常現象が起こり、潮が引いて海から侵入したかも。
と、ふと思いますた。
259 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 11:15:44
>>256 とどめを刺すまで追撃すると時間がかかるぞ
でも泰家は目の前の新田より鎌倉の高時や円喜の方を気にしていただろう
今度こそ執権になれるぞッッw!
260 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 18:44:26
>>251 今回の政権交代見てると本当に建武の中興に似てるよね
長妻が年金問題騒いだのと楠木正成の赤坂千早
政権中枢にいた小沢一郎の参院選と総選挙指揮 尊氏の六波羅攻め
小沢の影響力拡大をおそれる民主党の面々と尊氏の影響力拡大をおそれる後醍醐天皇
こうかんがえると
あと一二年もして西松事件の片が付けば小沢首相かな?
261 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 20:26:39
今、職業:ニートの俺だが
北条時宗が拒否してなければ、もしくは負けていたら、今頃俺は・・・
職業:モンゴル相撲。
262 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 21:41:55
>>260 うん。反幕府に立ち上がった連中は反北条で一致していたが政権構想はバラバラ。
御醍醐は天皇親政、尊氏達は武士政権。分裂するのは必然だった。
民主党も反自民で党内は結束していたが、自民を滅亡させた後はどうなることやら。
尊氏ら武士は北条を倒したあとでも当然幕府みたいな政権が続くと考えていたんだよね
264 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 22:16:42
民主党がゴタゴタしていると地方選挙か参院選で自民が勝つ中先代の乱とか
民主党が分裂して交互に自民党と連立する観応の擾乱がありそうだな
自民党政権が決めたことをひっくり返すのも後醍醐に似ている
民主党の綸旨がない公共事業はすべて中止
265 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 22:31:51
>>264 民主党の綸旨がない公共事業はすべて中止
まさにその通り。これから民主の政治主導だから、
民主の綸旨がなければ何も動かんよ。
266 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 00:03:50
っつーか、建武は外国の工作資金で成り立っていたわけじゃないし。
そもそも選挙期間だから手出しできないだけで、
選挙終了直後に
鳩山は故人献金で、小沢は西松で、
そして各議員が選挙違反で大量逮捕予定。
これと建武政権を比較するのは、 さすがに失礼だろ。
後醍醐天皇の資金源は昭慶門院領辺り?
民主党はさておきw、後醍醐天皇も折角の遺領を離散させたなんて
勿体無い話w、政治的にも天皇家領の経営にも不向きなんだなと思うわ。
鳩山も元はといえば自民党だし、小沢もそう。
大化の改新でも中大兄皇子は 蘇我氏の血を引く倉山田石川麻呂女
を嫁にしているわけだし、あれも改新と呼べるほどのものではなかった。
まあ、なんていうか、安倍氏、阿蘇九州王朝から、秦氏の子孫鳩山氏
に政権が移っただけの話。羽田元首相も秦氏だし、派閥の中の争い
にすぎないのではないかな?
269 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 22:03:17
まだ衆院の首班指名も終わっていいないのに
自分たちのことを与党と呼んでいる民主党はいずれ崩壊すると見た
この世おばわが世とぞ思う望月の藤原氏も
天皇の子孫源氏も、
徳川幕府でさえ滅んだわけだし、
遅かれ早かれ権力は崩壊するのが常。
まあ、小沢幹事長のスキャンダルで半年も持たないなんてことはないことを願うのみです。
271 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 23:41:11
おまえら、はじまる前からきびしすぎだろw
北条て平家?小沢て平家
273 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 10:46:55
鳩山って頼りなさそうだなあ。
尊氏も頼りない男だったらしいけど。
弟の直義のほうがしっかりしていた。
274 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 11:41:30
275 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 18:34:00
>>270 小沢は西松の件あっても幹事長だからな
スキャンダルくらいじゃつぶれんだろ
鳩山のほうがあぶないとおもうぞ
ところで
鳩山・小沢体制って
鳩山=鎌倉殿
小沢=得宗って感じだな
276 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 20:01:49
民主政権を鎌倉幕府にたとえると。
鳩山首相 将軍実朝
小沢幹事長 執権義時
実朝は義時にそそのかされた公暁に暗殺されて・・・。
277 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 21:43:09
アルカイダの友達の友達と奥州藤原氏の友達の友達・・同じようなものだ
278 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 02:04:46
いやだから、
鎌倉幕府も「外国資金工作」は入ってないだろ?
比較するのは鎌倉幕府に失礼です。
279 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 11:02:58
外国資金工作が入っているのは大化の改新や壬申の乱と明治政府かな
戦後の日本は資金だけじゃなく外国軍隊も入っているが
280 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:14:22
もし元寇がなければ鎌倉幕府はどうなっていただろうか?
281 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 10:09:11
小沢=得宗家
鳩山=非得宗出身の執権(政村・長時・守時など)
282 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 10:24:31
もしも元寇がなければ・・・
鎌倉幕府は平安京化して優雅に堕落
長期安定政権となる
明朝成立後はその庇護化に置かれ全てのしきたりは漢風に。
のちのポルトガル・スペイン・オランダ船来襲時には
何事も明に伺いを立てるせいで回答を待つ間にあえなく占領。
日本人はその後オランダ人として余生を送る
もしも元寇がなければ・・・
鎌倉幕府は黒船襲来迄存続、北条氏は華族となり、見せかけの四民平等で実権を握り日本国を運営する。
284 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 13:02:37
>>281 旧経世会を北条氏に例えれば小沢が得宗だね。
鳩山・岡田なんかは旧経世だから北条一門
菅や旧社会党系なんかは外様の長井とか安達。
小沢チルドレンは得宗御内ってとこかな。
285 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 23:42:06
前原や長妻は?
286 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 02:11:18
キモい話題が続いてるな。
287 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 10:35:04
鎌倉空襲日に米軍機や搭乗員の不調が相次ぎ、攻撃中止、被害を免れた鎌倉。
北条一族の守護霊が、米軍の空襲計画を妨害したと思い、常楽寺の北条泰時の墓をお礼に参拝。
帰りに買ったナンバーズ3ストレートが当選。ますます北条氏マニアに磨きがかかりますた。
これも鎌倉の大仏(阿弥陀如来)の御加護のおかげ。
鎌倉も奈良に劣らない文化遺産を持った歴史的な都市ですからね。
文化は一度壊したら再生することができないことを理解していた
米軍の有識者によって中止勧告が出たのでしょう。
290 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 15:14:21
今でも観光客という人間爆弾が鎌倉の文化を破壊していますが。
ごみを散らかし落書きをし・・・
昭和30年代の鎌倉は駅から10分も歩くと、閑静なヒバリのさえずりも聞ける緑豊かな町だった。
高度成長期に不動産会社による開発が進み、緑は失われ、ガイドブックの掲載で観光客が押し寄せ、騒々しい喧騒な町となった。
静かな頃の鎌倉も味わいがあって良かったが、北条氏滅亡直前の鎌倉も、今の様な賑わいだったなと思った。
292 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 17:35:16
>>282 北条氏執権は短命が多い
一族内粉で毒殺が多かったためとも言われる
どうせ長続きしないよ
毒をあおられた遺伝子では子孫も短命
293 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 18:48:59
北条一族でいちばん政治的能力のあったやつ誰か?
オレは義時だと思ふ。
294 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 21:46:11
時頼かねえ
義時、泰時、時頼
この3人は順番はつけづらいな。
やっぱり、蒙古襲来を防いだ時宗が一番偉い。
西国の豪族は自国のことしか考えていないから東国から
防人するしかなく、それが財政の悪化、幕府の衰退につ
ながったと思われます。
297 :
日本@名無史さん:2009/09/14(月) 00:47:39
>>296 >財政の悪化、幕府の衰退
でも、時宗は元寇の危機を口実にして北条氏の権力を拡大した面もある。
時宗って正義感のある青年執権というより、案外タヌキかもよ。父親の時頼みたいに。
298 :
日本@名無史さん:2009/09/14(月) 02:32:33
過労死としか思えない。
>>292 北条時政のように娘が沢山いれば有力御家人の妻として送れるけれど、
得宗家嫡流の姫君が代を重ねるほど少なくなったことや、
北条氏は族内結婚が相次いだことで、
北条氏と有力御家人を結ぶ楔が減ったこともあるかも、と感じる。
300 :
日本@名無史さん:2009/09/14(月) 11:06:57
江戸時代、幼少で家督を継いだ大名は早死にする傾向があったらしい。
北条氏も幼少で家督を継ぐ得宗が多かったから早死したんじゃないか。
301 :
日本@名無史さん:2009/09/14(月) 17:07:16
処刑されかかった政村が長命で子供多し
泰時の嫡子は短命、うまくいかないモノだな
義時の4人の子供は病弱や無能者はいないな
302 :
日本@名無史さん:2009/09/14(月) 21:26:59
義時さんちの子供さんは・・・
泰時ちゃん・朝時ちゃん・重時ちゃん・政村ちゃん・実泰ちゃん・有時ちゃん(政村より年上)・時尚ちゃん・時経ちゃん・景時ちゃん(時尚ちゃんと時経ちゃんと景時ちゃんは同一人物かも)
時房さんちの子供さんは・・・
明月記に時房の子供は皆出来が悪いって書いてあるね。
特に朝直は本妻の伊賀光宗の娘を愛していて、両親(時房)が本妻と離婚させて
泰時女と結婚させようとしたが、朝直は嫌がって離婚するくらいなら出家すると
言って大騒ぎになったそうだ。
303 :
日本@名無史さん:2009/09/14(月) 22:25:57
ちゃんとかキモ
時房の場合は、兄・義時一族に従順でいようとする姿勢が見えるわ。
一族だろうが、油断すると粛清対象になるのが北条氏。
>304
時盛の六波羅辞任は、関東下向後に幕閣につかぬまま出家させられているから事実上の更迭だろう。
朝直は時房が死去したとき嫡男で評定衆で年も35歳という好条件にもかかわらず連署になれなかった。
時直は幕閣にさえ入れず、資時は幕閣に入ったが今ひとつさえない。
泰時は時房流を嫌っていたのかも。
306 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 22:06:43
泰時と時房は仲が良かったはずだがな
弟の重時だって連署になったのはずっと後、政村はもっと後
真の嫡流である名越に比べれば優遇されている
>306
頼家時代に時房は頼家と蹴鞠に夢中、泰時は蹴鞠を批判してる。
実朝時代の初めに泰時は政所別当の時房の沙汰にいちゃもんつけてる。
時房の連署就任は泰時の決定でなく政子が勝手に決めたこと。
時房は馬鹿息子を3人も評定衆や六波羅の重職に押し込んじゃう。
これって、泰時政権内では最大派閥だよ。
泰時は時房と肌合わないんじゃないの?
時房の死を良い機会に時房流をつぶしてやろうと・・・。
吾妻鏡はことさらに「二人は仲良し」みたいに書いてるけど、何かとってつけたみたいでクサイ。
鏡の編纂時期が大仏氏全盛期だから配慮してると違う?
308 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 20:24:05
頼時から泰時に名前を変えた時期と理由が知りたい
時期は頼家時代の正治2.2.26と建仁1.9.22の間(吾妻鏡)それ以上は不明。
理由は頼家がナンカ言ったんだろ。時房(時連)も名前を変えさせられているから。(鏡建仁2.6.25)
政子が頼家に「北条一族を実名で呼ぶな」と叱ってるけど二人の名前変更と何か関係あるかもね。(鏡正治1.8.20)
泰時の「泰」は義兄となる三浦泰村の「泰」だろう。父義時の「義」は三浦義明か義澄の「義」だろうから。
義時母と義村母は姉妹(伊東入道女)なのでイトコ同士。つまり泰時と泰村はマタイトコだから一字もらうのにちょうど良くない?
960 :名無しさん@十周年:2009/09/18(金) 23:38:11 ID:lhZgpSM8O
歴史上の悪党どもも今の日本の女に比べれば遥かに良心的な人物だったな。
今の日本の女はまさに巨悪としか言い様が無い。
観光気分で立ち寄れば、体調異変をきたす、鎌倉の禁忌地
高時・腹切やぐら
常楽寺、北条泰時墳墓
JR東日本大船工場敷地内、陣出の泣塔
312 :
日本@名無史さん:2009/09/26(土) 13:31:27
常楽寺、北条泰時墳墓 がなんで体調異変きたすんや?
313 :
↑:2009/09/26(土) 14:46:02
泰時は聖徳太子、和気清麿呂と並ぶ聖人君子で、ヤンキーやチャラ男が嫌いだから。
314 :
日本@名無史さん:2009/09/26(土) 15:04:20
泰時は聖人君主ではなく北条氏の専制体制にちゃくちゃく布石を打った謀略家だという話を聞いたことがある。
聖人君主顔をする政治家には気をつけた方がいい。
315 :
日本@名無史さん:2009/09/27(日) 11:19:00
>>314 泰時は徳で北条専制体制を作った
時政・義時は流血で独裁体制を作った
三国一のあげまん女房、北条政子。
この女性なしには頼朝が政権を樹立することはできなかったし、
実朝亡き後、鎌倉幕府が政権を維持することも不可能だった。
卑弥呼や推古天皇と並ぶ歴史上の女性。
317 :
日本@名無史さん:2009/09/27(日) 13:05:29
>315
泰時が徳って・・・?
強引に若い孫の経時を後継者にしたから幕府に混乱が起きた。
惜しむべし嘆くべし。
末世にたぐひなき賢者として、国家の棟梁、政務の亀鏡、
その仁恵はひろく四海に蒙り、そのれ廉情はあまねく一天に渉りて、
徳をおさめ道をおこなひ、靡かぬ草木もなかりける。
なかなか同時代以外でここまで絶賛される人物も珍しい。
正直ちょっとひくけどw
319 :
日本@名無史さん:2009/09/28(月) 06:49:22
1557年に新田景純によって滅ぼされた北条政時って何者だ。
名前からしたら北条一族だろうが時代が...
320 :
日本@名無史さん:2009/09/28(月) 14:50:05
>319 北条政時
北条政時の系譜については、鎌倉幕府滅亡以後の信頼できる北条氏系図が存在しないから不明。
政時は上野国碓氷郡の領主だったらしいけど碓氷郡に北条氏所領の存在を示す史料は皆無。
政時は北条氏の通字「時」を使ってるけど鎌倉の北条氏と関係有るか不明。
蛇足ながら、天文20年(1551年)に上野国厩橋城に侵攻した小田原北条氏とか、関東管領上杉氏
の家臣で上野国厩橋城城主だった北条氏とかのほうが関係有りそうに思う。
もっとも、オレは戦国時代は無知だから良くわからんが。
321 :
日本@名無史さん:2009/09/28(月) 16:26:08
きたじょうの一族では?
碓氷峠というか、群馬県高崎市の倉賀野。
ここには、奈良時代から朝廷の直轄地屯倉があって、利根川の一番上流の河岸として栄えていた。
ここで船から荷を降ろし、この先は牛や人手に頼った輸送になった。
東山道から西国に繋がる交通の要諦を支配していたのがいったい誰なのか?
実はいまだにはっきりしない。
323 :
日本@名無史さん:2009/09/28(月) 21:50:37
時政公の御名前を逆さにするやつなど逆に鎌倉北条氏じゃないと思う。
324 :
日本@名無史さん:2009/09/28(月) 22:29:51
>>323 藤堂高虎なんかは自分の父親(虎高)の名前を逆さにしているから別に悪いことではないと思う
>>258 泉区の横浜市立中和田南小学校前の道が新田 鎌倉攻めの道
326 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 13:21:59
>>318 それ江戸初期の浅井了意の一節だろ。賛成できないなあ。
泰時は幕府の北条支配を強行し、北条氏の一族統制も強化した剛腕の政治家だと思う。
寛元・宝治の乱で時頼が強硬策をとれたのは泰時の政治的遺産があったからだと思う。
327 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 21:01:28
三浦、名越から権力保持の為、他の北条一門の支持を得る必要があった。
義時遺領配分で最少。執権職を争った政村は処分無し。経時・時頼に難儀有れば好学博識な実時を頼れと絶賛。
泰時の思慮は効を奏し、宮騒動で名越光時を処分、光時の背後にいた三浦氏も、後の宝治合戦で滅亡、北条氏専制が確立した。
以後幕府滅亡迄、北条氏が日本国を動かした。
328 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 21:30:55
実時の父の実泰はメンヘルで引退したんだっけ。
別に現代に限らずいつの時代にもいたんだな。
329 :
日本@名無史さん:2009/09/30(水) 01:21:55
命がけの権力争奪戦で生きてるだもんな。
俺やお前ではとても無理。
壊れても、そこまでよく持った、と誉めてやろうよ。
330 :
日本@名無史さん:2009/09/30(水) 03:58:18
対元政策融和派の代表、六波羅探題南方・北条時輔を、北方・北条義宗が襲撃して、これを討滅。
又、時輔と結び時宗排斥を企てた名越教時も、大蔵頼季に誅殺される。
この二月騒動で仙波盛直等の融和派は一掃され、泰時以来、最後に残存した政敵名越も時章を残すのみで全滅、これ以降、得宗家の脅威でなくなった。
反得宗と元融和派を排除した幕府は、時宗の指揮の下、一丸となって元との決戦に挑んだ。
>>328 頼朝と政子の孫と伝わる竹御所。
28歳で13歳の第4代将軍藤原頼経に嫁ぐ。夫婦仲は円満であったと伝えられる。その4年後に妊り、
頼朝の血を引く将軍後継者誕生の期待を周囲に抱かせるが、難産の末、男子を死産、竹御所本人も
悩乱のうちに33歳で世を去るとある。
この悩乱というのは、産後の肥立ちが悪かったこともあろうが、死産が精神障害の引き金になったと見るべき。
源氏と平氏(北条氏)の血はうまく混じらないことがよくわかるエピソードです。
332 :
日本@名無史さん:2009/09/30(水) 21:20:34
>>331 死産が精神障害の引き金なんてありえないが。
この時代、死産・流産はよくあるが、そのあと健康な子を生んでいる例は多い。
素直に竹御所は産で死んだんだろう。
難産の後遺症に苦しむ例はよくある。
そうではない。実朝の死も、また覚悟の死であった。
公暁に襲われることを予想していながら特別は措置はとらなかった。
それはなぜか?
それは源氏とは何か?という答えと同じなのです。
334 :
日本@名無史さん:2009/09/30(水) 22:00:31
源氏とは、天皇の直接の子孫、常人にはない特殊な能力の持ち主。
卑弥呼と同じシャーマンの血を引くいわゆる予知能力者だったのです。
網野先生も、そういうニュアンスのことを書いていますね。
竹御所も男子も、頼朝の血統絶滅を謀る北条氏に殺害されたと推測。
あの一族なら、やりかねない。
337 :
日本@名無史さん:2009/10/01(木) 02:00:16
>>335 じゃあ在原も氷上も、近衛も、ですか?
つか平氏の北条もおっけーですね?
338 :
日本@名無史さん:2009/10/02(金) 17:53:11
近衛は違う
北条平氏説は限りなく根拠に乏しい
歴史というのは不思議な学問で、
科学なら証拠に乏しいといえば、あり得ないことのたとえなのだけれど、
こと歴史に関しては、証拠がないだけで実はそうなんじゃないか?という意味にとれる。
341 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 00:01:06
>>339 でもそれ以外の説が、平氏説以上に信用できないからなぁw
342 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 01:17:06
そういうあたりも、カリスマ性のなさ。
343 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 17:59:41
13代基時って執権職を退いてからも存命していたよね?
中公の「日本の歴史」読んでたら黒田俊夫って学者が、
高時へ禅譲してから一年ほどで死んだと書いてあったので
わけが分からなくなちゃった。
344 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 21:22:08
基時って六波羅探題仲時の父親だよな。 引退15年後の1333年に自害してる
息子・仲時が自害した話を聞き、鎌倉攻防戦の前に覚悟を決めたかのような
辞世の句が残されているね>基時
待てしばし 死出の山辺の旅の道 同じく超えて憂き世語らん
346 :
日本@名無史さん:2009/10/13(火) 14:41:58
以前、米原にある蓮華寺の仲時主従のお墓参りにいったことがある
真夏で汗だくになりながら米原駅から蓮華寺まで歩いていったw
お寺の背後の山麓にある仲時以下の墓石群の前にたつと鎌倉時代にタイムスリップした感じがした
堂内に主従の過去帳のレプリカが展示してあった・・・と思う
347 :
日本@名無史さん:2009/10/13(火) 17:48:54
>>345 基時は化粧坂で敗退し、自分が建立した普恩寺に入り、その柱にその句を書き込んで自害したんだよね。
ふと思ったんだが、基時の屋敷は化粧坂のすぐ近くの亀ケ谷にあったらしいから、普恩寺も彼の屋敷のそばにあったのかも。
それなら、化粧坂からすぐ戻れるものな。
348 :
日本@名無史さん:2009/10/14(水) 05:25:18
北条なんて潰されていい気味だよ
楠木新田の最大の業績は北条を潰したこと
349 :
↑:2009/10/14(水) 13:35:23
後醍醐に忠勤を励んで憎き朝敵北条一族を滅ぼした忠臣楠木・新田を
賞賛するとは、お前はネットウヨだな
新田氏に皇后正田家を
むりやり系図をつなげた宮内庁
>>349 俺思想的には新保守に近いけれど、北条は好きだよん。
別に極度に民族主義的な書き込みをしてるわけでもないのに、他板ではなぜかネトウヨ扱いされるけどw
>>350 そういや無理矢理でいいなら、徳川だって新田系なんだよなw
352 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 19:29:28
むかしは北条氏って左翼に人気あったよな。
承久の変なんか「皇族や貴族などの支配階級に対し、被支配階級で
ある武士が北条義時に率いられて敢然と戦いを挑んで勝利した革命的な戦いであった。
まさしくこれは輝かしい英雄的な階級闘争の歴史的勝利である。」みたいな感じ。w
あっ、それから蒙古襲来は「北条時宗はアジア人民と連帯し侵略主義者である蒙古に勝利したのであった。」みたいなのもあったな。w
353 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 22:49:59
左翼は天皇嫌いだから北条が好きだった、平将門も
日本の思想は幼稚なので天皇が好きか嫌いかで右翼か左翼かに分かれている
天皇を敬えば私有財産否定で原始共産制を賛美しても右翼
ネオコンでも天皇制を否定すれば左翼
354 :
日本@名無史さん:2009/10/19(月) 15:55:04
北条政時って岡野一族なんじゃないか。
355 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 11:20:15
鎌倉初期の権力闘争がすさまじいと思うんだけど
356 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 13:45:14
>>352 紋切り型の左翼用語並べた論文書いてれば飯が食えたんだから
昔の学者はのどかでいいよな。
357 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 00:39:37
自分が知っている室町時代の北条一族
常陸江馬氏、後閑政時
相模岡野氏→板部岡氏
飛騨江間氏
尾張横井氏→平野氏
伊勢阿曾氏
薩摩名越氏、種子島氏
他にいる?
358 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 02:13:06
薩摩の二者は怪しくね?
359 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 00:39:02
みんな怪しい
360 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 01:56:08
小田原の北条って、
名乗る時、なにかしら由来とか引っ張ってきたの?
旧北条と血縁が、とか
361 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 04:44:47
伊勢新九郎が鎌倉北条氏の末裔の後家の婿になったというのは俗説だよね。
系図じゃ早雲の室は幕臣の小笠原氏だし。
362 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 12:56:36
阿多美聖範
363 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 19:48:26
鎌倉幕府初期の御家人同士の殺しあいは凄まじい。それで鎌倉を要塞都市にした理由が理解できる。
364 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 23:11:59
熱海禅師
365 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 02:14:05
366 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 12:01:09
出自不明な氏綱室が岡野(板部岡)氏あたりだったんじゃね
367 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 01:19:56
赤橋守時の弟で時宝て僧侶が1338年に東大寺寺務代に就任したらしいが、尊氏の赤橋家に対する罪滅ぼしかな
368 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 21:26:32
尊氏が九州落ちしたとき味方した諸将は
守時の弟の英時(九州探題)を討った連中
369 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 23:19:41
美味しいとこ独占する北条潰したヤッター!
↓
なんだよー!思ったより天皇は優しくないじゃん!
↓
次の神輿が来たぞー!担げー!!
ということですかね。
370 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 00:30:56
1338年って尊氏が北畠顕家・新田義貞を殺し征夷大将軍になって一息ついて急に仏教心が出てきて全国に安国寺を建立した年だろ。
そんな時代背景と関係あるかも。時宝は伝法灌頂が正和4年で、それ以後しばしば史料に出てくる。
元弘1年に寺務代になり、元弘3年幕府崩壊で失脚。そのご暦応1年に寺務代に復権。
尊氏の妻登子の兄だから復権できたんだろう。もっとも、中納言僧都とか少納言僧都と呼ばれているから実兄ではなく
久時が六波羅探題のときに中納言某の子供を養子にしたのだろうけど。
371 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 10:49:55
>>369 九州で宮方の菊池を攻撃していたら六波羅陥落の知らせが入り
ほとんどの武将が寝返り、逆に赤橋英時が負けて戦死したんだろ?
372 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 19:50:14
源行家を殺害した北条時定って執権北条氏の血縁ですか?
373 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 23:00:22
374 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 03:21:27
鎌倉攻防戦で新田に寝返って攻撃に参加する北条の輩はいなかったのか?
376 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 15:53:40
>>375 そのわりには時政のパシリみたいな仕事が多く
子孫もはっきりしないな
時政の兄が早死にしたのかな?
377 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 17:39:33
時政は分家筋かもしれないけど、挙兵の時はすでに本家を凌駕してたんじゃないの?
時政館は北条のど真ん中の一等地だし、発掘調査では高価な物品が出土してるらしい。
それに娘の政子を目代に嫁がせようとしてるしな。
泰時に嫡流を奪われた、名越一族とどっちがかわいそうだろう
379 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 22:08:04
>>378 名越は子孫を残しているしそれなりの地位の奴もいる
時定流は消息不明
380 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 23:17:34
承久の変のとき泰時と一緒に出陣した「北条五郎」は時定の息子かも。
その戦いで討ち死にした「武蔵守殿御手」の中に「五郎殿」という名前があるけど、
たぶんその北条五郎だろうから、時定の息子は承久の変で討ち死にして子孫が絶えたのかも。
381 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 09:53:14
義時が江間四郎、時房が五郎、でも討ち死にしたのは明らかに別人
時房の子供に時定という同名がいる、偶然とは思えない
時定流の家名を継いだのかも
北条時宗が宗時ではないのは義時の兄が宗時だからかな?
382 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 13:31:58
>>378 本来は名越が嫡流だなんて誰が言ったんだ?
やっぱ本来の嫡流は「相州鍾愛の若公」の政村だろう・・・。
いや待てよ、重時かもな。義時の推挙で22歳で小侍所別当、26歳で駿河守と兄の朝時を追い抜いてる。
>>382 朝時は一度勘気を被っているからな。ただ、義時の子息では、泰時はともかくとしても、
正室の子にあたる朝時と重時の扱いは、ほかの兄弟よりも重んじられていると思う。
384 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 13:57:35
元弘の乱で幕府方にいた御家人てだれがいたの?
六角時信や河野通盛、佐々木清高は有名だけど他は一門や御内人と文官だけ?
385 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 13:58:27
義時が息子を評価すると・・・
1位、政村→ともかくかわいい
2位、重時→冷静沈着で能吏タイプ、自分の長所を受け継いでいる
3位、泰時→政治家としての能力はあるが、正義漢ぶるのが気に入らない
(中略)
最下位、朝時→腕力だけはめっぽう強いが、粗野で勘当した不肖の息子(自分にまるで似ていない)
386 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 14:36:17
>>838 名越氏の独立性の強さは父親から可愛がられたとかいう問題じゃなく、
承久の変で大将として活躍し、幕府から直接もらった恩賞が沢山あるからだろう。
「兄の泰時から遺産を分けていただいた」という負い目がないんだよ。
387 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 14:45:48
388 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 15:50:22
義時より政子の方が先に死んでいたら政村が執権になったかもしれないよ
時房・泰時VS政村・三浦義村で内乱かも
389 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 18:46:35
>388
というか、義時が政村を後継者に指名する前に死んでしまったという見方も出来る。
兄の泰時・朝時・重時はみな政治的な実績があるが政村にはない。
政村は父のバックアップ無しではNO4の存在にすぎない。
下手すれば兄の家来にされてしまう。
そこで乾坤一擲の大勝負に出たのが伊賀氏の陰謀・・・。
390 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 22:33:25
北条ほどクズで馬鹿の集まりは珍しいね
これ程の馬鹿どもがよく日本の政権与党を独占してきたか不思議だよ
130年も民を生かさず殺さずで苦しめてきたサディスト政権
桜のように命を散らしていった源平の武士達は潔くてかっこいい
130年の独裁に日本中がうんざりしていた
391 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 23:12:16
日本中の皆が嫌がるような政権を運営していた北条
は罰を受けて当然なんだよ
倒幕されて罰を受けろ!おとなしくな
392 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 23:18:50
>390
また日本はそうなるぜ
首相をロボットにした小沢専制体制
歴史は繰り返すって良く言ったもんだ
393 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 23:28:23
>391
で、鎌倉幕府を倒した足利幕府はどうよ?
前半は南北朝の内乱。中期は応仁の乱。後半は戦国時代。平和な鎌倉時代とは正反対に戦争ばっかじゃないか。
悪人を倒したヤツが善人だとは限らないんだぜ。悪人を倒したヤツが極悪人ということもあるんだぜ。
今の民主党みたいにな。
くだらねー流れになってんなぁ。
395 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 23:37:19
北条の話になんで民主党がでてくるw
396 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 23:59:30
いつも仲のいいお二人様登場
397 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 00:04:02
鎌倉幕府を倒したのは後醍醐だろ
今の民主党は建武政権に近い
398 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 00:24:23
鎌倉幕府に最後まで味方した中で有名なのは
信濃島津忠秀
安芸武田信武
河越貞重
伊予宇都宮貞宗
芦名盛員
毛利時親
小早川貞平
和田中條氏?
長井氏
って所じゃない
399 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 06:00:11
諏訪氏は?
400 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 11:42:13
401 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 17:16:23
諏訪氏は御内人でもある。
鎌倉幕府が滅びた時、御家人が全員反旗を翻した訳じゃなくて増援軍中心。
宇都宮公綱などの大物の大部分は千早白に釘付けだった
火災から書籍保護目的で建立した金沢文庫
403 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 20:41:16
金沢文庫所蔵の古文書を全部ネットで公開しろ
よせよせムダムダ。どうせ読めんだろw
戦いに向く人間と、政権を長く維持するのに向く人間はおのずと違うから、
頼朝の子孫が政権を維持していたとしたら、鎌倉時代は3代で終わっていたろう。
406 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 21:47:52
金沢実時の画像を見たのですが、なかなか男前ですな。
北条時政の木造があまりに不気味だったので、余計にそう思いました。
朝比奈切り通しに
まだ掘削のノミ跡がリアルに残ってるのには感動する
408 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 23:13:39
>>404 鎌倉時代の古文書なんてちょっと勉強すれば高校生だって読めるよ
409 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 23:53:19
金沢実村について
410 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:01:40
411 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:09:35
>>404 そりゃあ、お前みたいな馬鹿には読めないだろうよw
火事と喧嘩は江戸の華と言われる程、江戸は火災に見舞われる町だったけど、鎌倉は町全体が焼失する火災に遭った事、あるのかね?
413 :
↑:2009/12/05(土) 00:18:02
変な聞き方だな
414 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 01:40:27
415 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 09:31:51
北条時政の木像なんか実在するのか?
北条政子は知ってるが。
416 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 11:25:28
願成就院にある江戸時代に作ったヤツだろ
三鱗紋のはいった鳥帽子かぶってる
>>414 まだお前読める読めないレベルの話ししてるのかよw
東大史料編纂所はじめ各研究機関が続々所蔵古文書のネット公開始めてるぞ。
翻刻でさえ半世紀前に出した不完全な「金沢文庫古文書」だけ。
もし、アップできないならせめて訂正増補版くらい出せよ。
金沢文庫は怠け過ぎ。
和様漢文体なんて、英語を学習できる程度の知能指数があれば読めるようになる
419 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 12:56:44
>>418 ということは、いまだ読めてないということかwwwIFの話は止めましょうねw
420 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 12:57:49
>>417 あれらは研究者向けです。君たちのようなゴミちゃねらーは眼中にありませんw
だよな。石川県に行って読んで来い。w
422 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 13:09:30
>>421 ワロタワロタワロタ
ばかまるだしw金沢文庫を石川県の金沢と勘違いしてやがるぜw
金沢文庫は横浜市だ。田舎もん乙ですw
423 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 13:13:14
425 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 13:25:40
横浜に住んでれば金沢八景くらい知ってるよ。
引っかかった振りをしただけさ。
しかし、金沢文庫は秀吉の小田原攻めで徹底的に焼かれたから大した資料は残っていない。
>>426 > しかし、金沢文庫は秀吉の小田原攻めで徹底的に焼かれたから大した資料は残っていない。
そんなことは聞いたこともない。
428 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 18:18:05
>>426 なにをいう石川県wこの田舎もんめがーww
ああそれから金沢文庫は最寄り駅、金沢八景駅じゃないよ。最寄り駅は金沢文庫駅。
田舎もん知ったか乙w
>>422 でも、神奈川出身です。と言ったのに、金沢出身に間違えられたことがあるね
酒の席だったんで、ろれつが怪しかったのかもしれんけど
430 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 20:26:21
>>429 はいはい田舎もんw金沢文庫が石川県にあるとか言ってる時点でオシマイw
432 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 20:34:11
>>431 そうだね。
あとこいつ、横浜市民じゃないよ。
433 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 20:36:12
>>429 金沢区の住人は金沢在住もしくは金沢出身などとは言わない。
横浜市在住もしくは出身というんだよ。田舎もんがw
434 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 20:37:02
島津忠秀て誰?
435 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 20:41:19
レベル低すぎなレスのオンパレード
こんな体たらくで中世文書なぞ読めるはずもないなw
436 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 20:46:54
>>435 喧嘩は売るなよ
そんなことどうでもいいから、みんなで仲良くレスしようぜ!
文庫は小田原攻めとは無関係
新潮文庫、講談社文庫、角川文庫、講談社文庫、青春文庫・・・
そういえば、金沢文子ちゃんにもお世話になりました(*´Д`)ハァハァ
これはしたり、金沢など横浜市になければ、小田原や相模大野、横須賀、平塚にも劣る田舎であろうぞ
というか・・・本気でアレな理解力しか持ち合わせてないのは、ギャグなんでしょうか
でも実際問題、全国レベルじゃ石川県の方が有名じゃないかしら?金沢
荒らしはスルーで。
442 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 22:52:28
小田原だって、今では提灯とかまぼこくらいしか名物がない。
444 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 23:33:37
北条氏と天台宗、根木衆との関係について調べた人はいるの?
445 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 23:47:08
>>442 ういろう、アジの開き、梅干し
てか田舎もんのおまいは小田原行ったことねーだろww
金沢文庫もろくに知らないなんて
最近の新聞記者はレベルが下がった
幕府は
金沢区は譜代だから金沢藩
石川は外様だから加賀藩とした
でも金沢といえば石川だよな
漏れは横浜市民だが
どこ区に住んでる?と同じ市民に聞くと
金沢区在の人は、たいてい
金沢区とは言わずに、釜利谷とか能見台とか応える
448 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 10:51:24
6代執権長時の最後は暗殺?病死?
449 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 18:29:14
大河ドラマの見すぎ↑
450 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 18:35:57
>>447 しつこいぞ田舎もん 金沢文庫を石川県にあるなどと抜かす痴れ者が生いうなw
おまいは石川県民でも神奈川県民でもない。どこぞの僻地のヒッキーとみた。馬鹿常駐のスレにはつくづくうんざりだ、中世文書を読めるレベルなど千年経っても無理だろうなw
金沢文庫・横浜開港150年展示での記帳ノート。
脅迫されて嫌々開港。
バーカ
ワロタ。
2ちゃんで「ワロタ」と書いてあるもので、面白かったものは一つもない‥‥‥
453 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 19:33:15
>>377 目代に嫁がせようとしたのって創作だろう
山木が伊豆に流されたのが挙兵の前年で既に大姫は3歳だろう
454 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 22:07:25
伊豆を知行国にしていた頼政挙兵→頼政敗死→平家が山木判官を伊豆に派遣→
→危機感を持った頼朝派の豪族が山木を襲撃して殺した
山木が北条に要求したのは頼朝と政子の離縁だろう
頼朝の首と政子の身柄も要求したのかもしれないが
なんで平家はあんな一気に滅んでいったの?
456 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 10:36:13
457 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 11:11:45
江戸時代の金沢(六浦)は米倉氏の城下町。
458 :
↑:2009/12/08(火) 11:44:54
金沢に粘着し過ぎ
459 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 11:49:05
金沢(六浦)から浦賀水道を渡って房総半島に抜ける道は、
古くはヤマトタケルが東国平定に出向いた時もこのコースを使っていていたのではないのか?
そうだよ
古東海道
日本で世代が変わっても権威を持てた代表は藤原、北条って所か
北条っていうのは、「方丈」、つまり天台宗の寺院の住職。
大和朝廷は、国衙による政治的な支配に加え、天台宗密教によって思想的に坂東を支配しようとした。
その拠点が、関東の古道沿いに造られた草堂。
そのとりまとめをしていたのが方丈で、中央の権力の移行に伴い後ろ盾を失い、
俗化して土豪になったのが北条氏だったと考えられます。
464 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 22:30:30
東条・南条・西条・中条・上条・下条・・・普通名詞じゃないのか?
465 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 22:30:33
467 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 23:17:44
条里制の跡だろ
常識です
469 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 23:30:00
>>468 それはそうなのですが、天台宗の寺院との関連を指摘した珍説はなんなのですw
470 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 23:42:18
逗子って鎌倉のミニチュア版都市だよな〜。
亀岡八幡宮と直線で海まで続く中央の通り
三方が山で海に面し、真ん中に川が流れてるし。
471 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 21:21:55
鎌倉の若宮大路は、まっすぐ鶴岡八幡宮へと続いていますが、
その直線を延長すると筑波さんに辿り着くことはあまり知られていないようですね。
グーグルマップで追うと、寸分違わずに辿り着けます。
ただの偶然か?
>>472 単なる偶然だと言い張るのは個人の自由ですが、
鶴岡八幡宮と筑波山を結ぶ直線上には重要な建物が並びます。
もちろん、地形の制約で多少のズレはありますが・・・
@江戸城・・家康は頼朝と同じ源氏を標ぼうしています
A横浜ランドマークタワー、東京タワー、東京スカイツリー
源氏の末裔が狙って建てたとしか考えられません。
474 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 19:59:45
雪の鎌倉と何か関連があるのでしょうか
日本史上一番優秀な君主は泰時
今こそ彼のような人物が日本に必要なのに
476 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 12:35:09
>>473 鶴岡八幡宮と平安神宮を直線で結んでもいろいろあるよw
477 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 15:39:36
両統定立って、もっと巧い立回りは出来なかったの?
あれが元で後醍醐を幕府の敵にしてしまったし。
鎌倉幕府は皇位継承問題にノータッチというわけにはいかなかったのかな?
途中から面倒見切れなくなったんじゃないのw
もういちいち構ってられないから、後は順番にやってくれよ、とw
479 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 11:16:01
>>477 ノータッチにすると紛争がおさまらないので介入した
>>473 世界地図の中でもありそうですが?
恒星間など如何でしょうか?
481 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 17:59:18
482 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 10:08:41
シリウスと太陽が一直線で結べるらしいぞ
483 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 12:08:40
__,. -,‐ ─ ‐- 、
//. : /. : : : : : : . :ヽ_,、
__/ .:, '. : : : : : : : . : : :/ Y!
</ !:./. . . : : . . : : : : :`ーヘ
/_,」;':. : .: :. :/ヽ:, ._ : .:.:.:.:.:.:.: .!
「: .:!::..: ..: ハ.| 、_j_`ヽ:.:/ヽ:.: |
もうやだこの板 |:. |::..:..;ムィ'リ __. V,.イ.:.:. !
|.: :.|:: ,イ,.-‐ '´ ィ'.ノイ:.:.:!
j: : :ヽ,.-'、ヽj,)` _,.、 , '´¨`丶、j
/ヘ:,ハ/ ,.-‐'¨ー .二-′ ヽ
/ / j/ く不ゝ ,' , |
,' j´ヽ ! ノ ! 「 / / _ _」
{ , ィ,.イ `¨`′ くフ¨´T,ノ
`ー'´ゝ' / , | |
__/¨´丶. / .! |
,.-‐'´ - 、 ̄>─ '一' :! |
_.. -‐ァ、, -ァ…-、,. ‐ ¨ ``ー、,. -<´二 ‐-、 ハ |
/´ く「 / / ,. -─- ニュ__ - 、 {. | _j
ゝ._.. -‐'¨`ーゝ、_ __,.. -┤ }  ̄¨ ‐'ヾヘ`丶、
 ̄ ヽ.._____,j.. -─- 、(_( \
`ヽ._ ノノ
484 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 13:58:23
485 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/12/27(日) 01:45:52
>>246 守時がなぜ優秀なのか理由がわからない。
そもそも優秀とするような業績も根拠もないもん。
最後の決戦で勇敢に戦ったとかが優秀な理由とかなの?
だとしたら君は馬鹿だよ。
マンガだかドラマだか小説だかが根拠なんだろーねwバーカ
これはぶよたんの意見を肯んじるよりない(笑)
>>485 しゃぶってよ、怒ってんの?(棒読み)
まあ、赤橋守時の評判が高くなるってのは、太平記の
守時の最期の様子が主なんでしょうね。
>>485 245 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 23:11:46
武陽さんのレスっていつも短いね。
246 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 02:34:41
>>244 じゃあ、優秀じゃない理由は?
247 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 00:29:10
「武陽隠士」って反論されると必ず逃げるのな。
248 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 01:41:02
スレ荒らしのコテハンはスルーして
489 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 11:01:53
金沢が執権になって怒っていた泰家が守時なら納得したのはなぜなのだろう
家格が赤橋>金沢だからか金沢が長崎円喜の傀儡だからかな?
泰家ももう内輪もめどころじゃないと思い始めていたんじゃないの。
491 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:01:28
時頼以降は将軍になろうと思えばなれたんじゃなかろうか?
492 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:14:17
「武家の棟梁たるあの伝説の義家の子孫だから、
武士をまとめる資格があるのだ!」
という前提が鎌倉幕府なので、
かつ、
そんな源家の代行者、後見人としての″執権″でしかない北条さんは、
おまけに平氏(それもなりすまし平氏疑惑)だからダメー。
493 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 11:06:40
武家の棟梁の子孫ではないので将軍にはなれない
京にいないのでその他の高位にもつけない
陸奥の守とか武蔵・相模の守が限界
>>491源氏以外が征夷大将軍になれないのは、坂上田村麻呂以来の伝統。
徳川家康でさえ源氏を仮某して、やっと征夷大将軍の地位を得た。
頼朝の血を引かない北条(=平氏)が征夷大将軍になることは不可能。
>>494 田村麻呂以降、征夷大将軍に補任された人物の一部。
・文屋綿麻呂
・藤原忠文
・九条頼経
・九条頼嗣
・宗尊親王
・惟康親王
・久明親王
・守邦親王
尚、勧修寺晴豊の日記断簡等(天正十年夏記等)によれば、当時朝廷が平姓を仮冒していた
織田信長に「征夷大将軍か太政大臣か関白」いずれか随意の職に補任しようとしていたらしい
動きさえ浮かび上がってくる。
496 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 02:06:39
でも鎌倉は″源家将軍家政権″なんだから、
平氏の北条が成り代わるのは無理じゃね?
正式に養子縁組でもしてしまわないと。
さもなきゃ一旦、源家将軍政権を実力終了させないと。
で、
北条の当主の実力と大義名分とは結局、
「源家将軍の権力執行の代行」「それも副長(連署)付き」「そんな、合議制の議長」「に推してくれる北条氏族連合内の仮リーダー」
でしかないわけで、、、
>>496 それは飽くまで「現代の歴史認識」で概括したに過ぎない話。
後世の人間がどう歴史区分をつけようと、同時代人の認識は、
認知する、しないにせよ、また受け容れるか否かに関わらず、
おそらく異なるものになるだろうと思われる。
>>496 そうだね幹事長が総理に成り代わって政権運営するなんて無理だよね
499 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 02:39:12
>>497 逆だよ。
現代から見たら「北条、将軍になればよかったのに。」と見える。
だけど当時の認識は、そんな簡単じゃなかったよ、
という話。
500 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 22:02:13
藤原道長も天皇にはなれなかった
501 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 22:21:22
成れなかったのではなく成らなかったのではないだろうか?
小沢一郎が幹事長になっても首相には成りたがらなかったように・・・
「北条高時と金沢貞顕」は読むべきですか? ライトな本で良いですものね。
北条高時と金沢貞顕―やさしさがもたらした鎌倉幕府滅亡 (日本史リブレット 人)(単行本)
永井 晋 (著)
北条氏一門最後の得宗北条高時。『太平記』が伝える彼の人物像は果たして本当なのであろうか。また、北条高時政権とは本当に無能で無策な乱政であったのであろうか。
明治時代以来長く語り継がれてきた『太平記』依存の北条高時像に対し、執権北条高時とともに鎌倉幕府を主導した連署金沢貞顕の書状を数多く含む『金沢文庫古文書』
をはじめとした鎌倉幕府側の資料と突きあわせることで、北条高時の人物像と北条高時の時代を再検証する。
永井晋と言えば「金沢貞顕」がおもしろかった
505 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 00:41:10
「鎌倉擾乱」という小説は面白かった。
あれで鎌倉幕府に興味が出た。
506 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 10:48:54
>>501 小沢一郎本人は首相になりたいが古傷も多く、汚れ役もやりすぎた、イメージも悪い
そこで首相になりそうになるとつぶされるか身をひく
金丸さんは本当に首相になる気がなかった最高実力者
507 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 07:32:48
脇町丸岡家の家系は、桓武天皇の血筋につながり、
初代の北条越前守(かみ)勝時から数え、現当主で14代目である。
(4代目から「丸岡」に改める)。
初代の北條勝時は脇城の東にあたる西上野に上野城を構えたが、
天正年代(1573年〜1593年)に長曽我部に追われて大谷川で討死した。
その末えいが数代庄屋を勤め、古くから現在地に邸宅があり、
家屋には300年余の歴史の跡が伺がわれ、そして歴代が使用し、
うけついで来た諸道具、古文書など、数多くの物がのこされている
丸岡いずみ? こっちの北条氏でいいのか?
508 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 01:10:53
鎌倉幕府は源氏将軍家の家政機関だから北条が将軍になれなかったと?
しかし、現実には源家は3代で滅んでいるじゃないか
その後の確かに源家と同等以上の家格を持つ者が将軍になっていったが、
そんなものはしょせん結果論でしかないんじゃないのか
頼朝の家だって、権力を握る以前は従五位がやっとだった。
ならば、北条氏にだって可能性はあるじゃないか。家柄としても、
将軍家の家臣というより外戚という色合いの方が強い。身分としても、
他の御家人と違い、侍層ではなく名家となっているし、准門葉扱い
もされている。
さらにいえば、義家公の子孫だから云々、ってのも結果論に過ぎない。
それは結局のところ、頼朝が自分の家を権威づけるために強調したイメージ
に過ぎないのであって、現実に平治の乱後、代々の源氏嫡流家の家人たちは
離反している。
頼朝が挙兵した時集まったのも、頼朝のカリスマ性や血統などではなく、
平家に対する不満が爆発していたからだ。彼らにしてみれば、別に頼朝
ではなくて良かった。「たまたま」頼朝だっただけの話だ。
509 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 01:11:54
結局御家人たちにとっては、自分たちの所領を保証し、公平な裁きを
してくれる存在がほしかっただけなのだ。
ならば、将軍職に、頼朝がなれて北条家がなれない理屈はないだろう。
結局、将軍にならなかった原因は、北条氏自身がなろうとしなかっただけなのだろう。
では、なぜ?
恐らく、三浦氏のような、有力御家人の存在を恐れていたのだろう。
確かに、北条氏が将軍になっても、そのこと自体にはさして不満は表れない
と思われる。名目はともかく、実質は北条氏がトップなのだから。
しかし、自分たちが将軍になってしまうと、いざという時、「将軍」という
都合のいい大義名分を手に入れられなくなるからではないか?北条自身の
「将軍」では、やはり公平性に欠けるのだ。反北条派は、北条氏が将軍
となっても、その命令に従うとは思えないからである。
つまり、北条氏があえて将軍にならなかったのは、日本史上における「天皇」
の役割(つまり、基本的には無力で、大義名分を有力者に与えてくれる存在)
を、「将軍」に求めたからではないだろうか?確かに、京に幕府を開けば、
傀儡の将軍など必要ないに違いないが、鎌倉では、非常に不都合だろう。
しかしながら、北条家は、そのせいで武士を支配する正当性を、ついに得る
ことができなかった。そのため、全ての武士を主従制的に支配下におさめるには、
すべての武士を御内人化するしかなかった。そのため、得宗家へ、領地・権力
を極度に集中することになり、結局それが武士たちの反感を買い、
倒されてしまう。こうして考えると、安達氏を滅ぼして、北条家に比肩しうる
存在が消えた後、貞時が将軍職について、主従制的支配権を握れば良かったの
ではないか、と思う。
510 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 15:58:00
京の朝廷で天皇家が神聖血統なのと同じように
板東武者には八幡太郎義家の子孫が神聖血統
幕府の初期には新田でも敬意をはらわれていた
北条は天皇と摂関家の関係を将軍と執権に再現したのだろう
511 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 17:20:26
>ならば、将軍職に、頼朝がなれて北条家がなれない理屈はないだろう。
なんで「血統の問題」という簡単な解答を認めないの?
不思議ちゃん?
>>511 むしろ、なんで「血統」なんて言葉使うの?
不思議ちゃん?
「貴種かどうかの問題」とでも指摘しておけば、多少なりとも説得力は出てくるのにw
前九年・後三年の役で手柄を立てていないとだめなのです。
>>514 九条頼経、頼嗣父子と宗尊〜守邦親王ら歴代の藤氏将軍、
宮将軍が架空の存在なら泣いちゃおうかな(テヘッ
516 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 23:54:09
518 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 10:53:31
>>513 なら奥州藤原氏は武家の棟梁になる資格はあったの?
519 :
高田信弘 ◆nkYmMk8X4SRn :2010/01/21(木) 15:45:18
【結論】
源平藤までは武家の棟梁になることができる可能性が高い。
北条得宗は現在に続く織田某家なみの稚拙な偽装で
平家ですらない馬の骨だから朝廷での拒否反応が強かった。
520 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 16:33:29
でも義時・泰時は京を軍事占領して朝廷を征服していたんだぞ
朝廷より他の武士団の拒否反応の方が障害になるだろう
天皇や関白になるのではなく将軍か総追補使でいいんだろ
八幡太郎か俵藤太の子孫か清盛の親族なら棟梁に成れたかな
521 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 17:13:42
北条を将軍に据えることへの躊躇いは、京方、鎌倉方の御家人いずれにもあったと思う。
京方からすれば、北条は血筋も怪しい、まさに「何処の馬の骨」かも分からない存在だし、
また将軍の下で鎌倉方の政所等を執権する「陪臣」に過ぎないしね。ただし経済基盤や
武力によって圧迫する存在だから、仮に北条から圧力がかかったなら、従五位以上の
位階相当である将軍に補任することは決して不可能ではなかったとは思う。
また御家人らからすれば、北条は元々、共に頼朝の下に参集した朋輩に過ぎないという、
そんな意識は拭えなかったと思うから、将軍補任の動きが仮に生じたとするなら、やはり
頑強な抵抗は巻き起こったろうね。
武士はそもそも開発領主らから発生した存在であるし、自らの権利(利権)保障を求めて、
古くは摂関家、そして院、また下って平家そして頼朝を庇護者と仰いできたわけだし。
摂関家と繋がる義家が特別な存在だったのも、また平治の乱後に多くの武士が平家に
靡いたのも、その時点で割を食った千葉介一族らが頼朝を支持したのも、彼らのそうした
性格ゆえと。権威を背景とする代弁者であれば、最初のうちは誰でもよかったろうね。
ただ、北条がいくら実質的に支配者として御家人らの上に君臨していたとしても、御家人の
権利の源泉は頼朝にあるわけで北条は元朋輩に過ぎないから、権威は見出せないと。
結果として摂関家の九条家や皇室から将軍を迎えるのが、権威的側面からベターとの
空気が生じたんだろうね。そう考えると、秀郷流を名乗る連中は一目置かれる大族とはいえ
朋輩だし、ポスト頼朝で体制が完成した鎌倉では、清盛の門葉はちと難しいと思う。
522 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 22:23:46
そりゃ俺が藤原秀郷とか源八幡太郎義家の直系子孫だったら
北条(東北の羽柴秀吉みたいな運の良いおっさん)みたいな奴が棟梁だったら
執権ぐらいなら許せるけど将軍となると信仰しきれないわな
523 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 22:40:04
東北の羽柴秀吉=トラック運転手の羽柴誠三秀吉のことだよ。
結局、「血統がダメでした」という話がループし続けてるわけで。
そろそろ大仏一族の話でもしようぜ。
長崎ファミリーでもいいよ。
525 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 23:27:55
血統云々というなら、内管領長崎氏は平家の嫡流だすよ?
北条氏は平直方の子孫。源義家の母方の親族。
ならば、その正統な血統を、少なくとも将軍家の代々の御外戚家である、
という血統をアピールしなかったのはなぜ?
現在でも平直方の子孫かどうか分からない、少なくとも可能性があると
思われているなら、権力を握っていた当時なら、そう思い込ませることは
容易だったはず
将軍は無理でも、代々の執権としての正統性をアピールすることは十分
に可能だった
しかし、現実には将軍家の外戚であることを、宗尊将軍以降はやめてしまう。
それはなぜなのか?
話の進展を妨げてごめんよww
>>521 「血統」という認識が上方貴族達にはあったとしても、
果たして「力」を重視する武士の内にあったかどうか?
>>525 問題提起1
吾妻鏡は北条時政や義時には敬称が使用(編纂者の意図か)されているが、
平直方に対する敬称・顕彰は一切無し。居館内に持仏堂をもつ当時の武士の認識で、
果たして祖先の喧伝をしないのは不思議な感じがしませんか?
528 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 00:09:54
>>526 同意。武士たちにとって、権威などは副次的な要素に過ぎなかったと思う。
少なくとも鎌倉期までは。
自分たちの領土争いを裁ける、双方から
同意を得られる公平さ、そしてその公平な裁きをするための実力、及び所領
を中央の手先から守ってくれる公的資格、を持つ存在に自分たちのリーダー
になって欲しいと思っていたはず。
権威はないに越したことはないが。
>>527 北条氏は自分たちの祖先は平直方であるとは思っていなかったのですか?
それとも吾妻鏡に載せる必要性がないと感じていたのでしょうか?
529 :
521:2010/01/22(金) 00:17:23
血統絡みの話題がループするのもどうかとは思うが、一応レスってことで^^;
>>526 武士内というか、鎌倉草創期の御家人にとって「血統」よりもむしろ「権威」が
重要だったと思う。その権威は、つまり御家人らが開発し、そして諸権利を有する
経済基盤=俗に「一所懸命の地」と揶揄されるそれらの保有を、守り保障してくれる
存在と。血統そのものは「義家の後胤」云々だからと有り難がられる局面って、
そんなにないと思う。実際、頼朝没後など、頼家によって既得権益を危機に晒された
武士も少なくないし、外戚という絡みからすれば、頼家外戚たる比企の台頭は
北条にとっても存立基盤の危機をもたらす懸念もあるわけだし……当時はまだ
支配体制というか、隠然たる影響力を及ぼせる立場じゃなかったからねぇ、北条も。
そうした状況を顧みても、血統ではなく権威=自らの立場を守り保障する存在こそ、
彼らが欲していたのは間違いでないと思う。
それらを敷衍すると、血統ではなく一定の権威こそポイントなんだと思う。少なくとも
幕府草創期に関して言えば。だからこそ北条は源氏将軍滅亡後も、また承久の乱に
勝利して後も、征夷大将軍とか右近衞大将とか、そんなシンボリックなポストを求めず、
九条家から、やがては皇室から将軍を迎えたんだろうなと。御輿だよね。
義時の深謀とか、泰時の慧眼もあったんだと思うが、権威を頭に頂いて、自らは徐々に
「実権」を固めるのが得策と踏んだんだろうと思う。
530 :
521:2010/01/22(金) 00:26:49
>>526 つけたし^^;
無論、彼らの意識を推し量れば、血統よりは権威、そして権威よりは実力だったんだろうとと思う。
だからこそ、治承寿永内乱期の関東では、平家方にあっても、やがて頼朝へと鞍替えした武士が
続出したんだろうし。
何しろ
>>528が言及した通りだろうと思う。
平賀朝雅が4代将軍になってたら、将軍の血統も安売りされて、
北條氏が将軍になっても違和感無かったんじゃね?
まあ、平賀や大内じゃ、一定の権威何か大して無いから、義時
や政子に消されたんだろうけど。
532 :
526:2010/01/22(金) 01:33:28
>>530 平家方にあった、というよりも鎌倉にいた義朝期までは源氏の家人であった点は
考慮しなければならないのでは?それを考えると治承寿永内乱期の頼朝は「実力」だけ
(もといあったかどうかも疑問ですが)に支えられていた訳ではなく、血統の面が皆無で
あったとも考えにくい。現に頼朝の鎌倉入りは吾妻鏡だと千葉常胤の進言(先祖ゆかり
の地であり、要害の地である)に基づいたものであったことが妙実に示していると思う。
>>528 思っていなかったかどうかは分からないけど、平直方の領地であった鎌倉一帯は、義家に
伝来された以後は河内源氏の本拠地として機能していたと考えられている。しかし、義朝、
義平亡き後、頼朝が入府するまでの間、鎌倉を実質的に支配していたのは三浦・大庭両氏で
あったことは注目すべきでは?
それに、平直方流であるなら寿福寺近辺に屋敷があって然るべきだけど、時政期にあったと
される屋敷地は名越。。個人的には北条=直方流とはちょっと考えにくいな。
なんで同じ文体の人が連投してんの?
534 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 19:07:14
北条が直方流とはとらえられなくても、北条がその気になれば直方流
(源家の外戚家)である、という「事実」を作り上げることはできたはず。
なぜ北条氏がそれをしなかったのかが気になる。
源家が滅びた以上、意味がないと感じたのか、それとも外戚家に代わる
新しい名目を手に入れ(ようとし)たからなのか、あるいは実力の充実
により、名分など必要ないと感じるようになったのか
>>534 直方流でなかったことを知っている氏族がいた、というのは?
そう考えると、三浦・和田などの諸勢力を目の敵のしたこともしっくりくる感じがするww
>>535 憶測の域を出ないが、関東の御家人ら多くは、北条を平直方の後裔とは看做して
いなかったんじゃないかと思われる。ただ、少なくとも時政からすれば、自らの家を
「直方よりこの方」という具合に仮冒し喧伝する意味はあったと思う。
つまり「頼義とその舅たる直方」に、自らの位置すなわち「頼朝とその舅たる時政」を
擬制的に重ね合わせ、それを政治的に利用するという具合に。
弱小な在庁官人に過ぎない時政からすれば、そうした構図は効果としては僅かであれ、
鎌倉における自らのスタンスとかモティヴェイションを明確にする材料にはなり得ると
思うね。仮に仮冒にせよ、また血統より権威、権威より実力の世界であると仮定するに
せよ、独自の強大な武力を持たない段階では、直方流を仮冒しかつ喧伝するというのは、
ある程度の意味を見出せよう方法論と思う。
まあ、吾妻鏡が編纂された時期を思えば、取り立てて直方を称え顕彰する必要性は
薄れているし、逆に自らの父祖として時政、義時に敬意を表しまた称えているにも拘らず、
直方については印象を残さないかの体裁なのは、北条が平直方を父祖として意識して
いない=仮冒の可能性を裏付ける傍証とか根拠にすらなるようにも思える。
そういう観点からだと、梶原景時なんかを鎌倉権五郎とかとダブらせてライバル視とかしてたのかな
景時がどう思っていたかはさておき
538 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 02:37:47
「直方家」であること。
イコール「″源家(将軍家)″の″補佐″家」という存在証明。そんな血統。
でもそれはあくまで「補佐代行する正当性が認められた家」であって、
源家(将軍家)に成り替わることはできないね。
だからこそ、
阿野あたりの「将軍になれる血統の家」は潰しつつ、
でも京から将軍招いて「″将軍家″の補佐で代行執政。それが俺達、直方流」という形式維持をしないといけなかったわけで。
539 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 22:31:43
鎌倉時代の権力闘争が武家政権700年の中で一番血生臭く感じる
540 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 23:47:25
武家の総帥、源氏の棟梁源頼朝が関東に軍事政権を打ち立てたが伊豆の土豪
北条氏の計略により3代で絶えてしまった。
卑しい土豪上がりの北条氏が武家の棟梁では御家人もなびかないことから
朝廷から公家・親王をお迎えして将軍職に奉り自らは執権職として権勢を誇る。
その執権職もやがて形骸化し権力は得宗家へと移り、政権末期は得宗家の家令が
権力を牛耳ることになる。
今の日本の企業・組織・家族に見られる特徴が既に鎌倉時代にもあったことが面白い
541 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 03:07:10
>>539 聖なる最高権力が不在で、
かつ、
法令が未整備で「処分イコール生命」、って時代だからね。
542 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 11:26:53
ところで得宗家の祖である泰時の母親だれなの?
祖父の代から権力者で母親不明はありえないだろう
少なくても本人と兄弟は知っていただろう、重時や政村は記録を残していないのかな?
>祖父の代から権力者
え?
544 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 16:37:24
もし、時頼あたりの段階で、足利や新田、武田、佐竹、小笠原といった源氏諸族
をつぶしていたら、どうなっていたか?全部が無理なら足利だけでもいい
545 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 20:40:54
>>542 泰時の母は義時の側室で「阿波の局」という家女房。出自は不明。
正室ならともかく坂東の田舎でその側室なんて大した家の出でないことは多いよ。
源平合戦の朝日将軍で知られる木曽義仲の母は遊女なんだぜ?
源義経の恋人として知られる静御前も白拍子と呼ばれた遊女。
大した出なら記録に残るだろ、記録に残せないような出自だったんだよ。
546 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 22:04:36
蒲の冠者 源範頼・・・母は遊女
尊氏の子 足利直冬・・母は遊女?
義時の正室は確か比企の出、実家が滅ぼされたんだなかわいそうに・・・
下賤の出でも泰時母の方が幸せだな、そういえば後妻伊賀氏も不幸な結末
名越・赤橋が比企、政村・金沢が伊賀だったかな
江戸時代は当主の生母の家がそこそこの武士に取り立てられたりしてたけど、鎌倉時代は遊女の実家でもどっかの地頭になれたりとかはしなかったの?
家が良ければわざわざ遊女になる必要はないんじゃないか?
549 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 02:51:15
金沢流北条時直は領地安堵されたのに子孫残らなかったの?
550 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 20:31:54
領地が安堵されたってどの史料に出ていたの?
>>548 良い家ならなおさら締め付けがきついし、
親の決めた許嫁と結婚して嫁ぎ先の家のしきたりに縛られて生きてゆくしかない。
そういう社会のしがらみから離れて女一人生きてゆくには体を売るしかなかったのです。
商売だと割り切れば、辛いというわけではないと思います。
>>551 うーん、この時代、
>親の決めた許嫁と結婚して嫁ぎ先の家のしきたりに縛られて生きてゆくしかない。
って感覚からは、未だ遠いぞ。まあそろそろ、そういう政争の具に女子供が利される
時代にはなりつつあるが。それと異なる身分や職掌の家から、漂泊民たる遊女や
白拍子の類へ移動する女もいたとは思うが。
553 :
日本@名無史さん:2010/02/18(木) 01:00:49
>>549 金沢時直の子供は建武2年正月に長門で反乱を起こしたが失敗した。
それで時直一族は滅亡したんだと思う。
554 :
日本@名無史さん:2010/02/18(木) 02:20:59
555 :
日本@名無史さん:2010/02/18(木) 02:37:24
とき嫉妬のつながりがわからん
556 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 22:22:28
清国皇帝の認可なしでは、即位不可だった朝鮮王。
北条一門の認可なしでは、即位不可だった天皇。
うふっ。
日本の総理大臣も天皇の国璽を受けて認証式をえないと、国民は正式なものとは認めない。
天皇家と宮内庁を支配して、認証を拒むことは憲法上はではできないことになっているけれど、
絶対できないわけではない。
国民が支持しない内閣が国会を牛耳って首相を決めた場合、
皇室を巻き込んだ対抗勢力がクーデターを起こせば、天皇による認証式をえない不完全な内閣が誕生することもありうる。
浩宮派と秋篠宮派が対立して南北朝に分かれることも起こりうる。
天皇は、いつの時代も政治に利用されるづけたのです。
558 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 23:29:02
中世の権力者
○白河院〜後鳥羽院…院政。名実ともに日本の国主。
○平家…軍事力と外戚の立場による支配。一時は
独裁権力を握ったが、清盛の死とともに
西国の一地方政権に落ちる。
○源頼朝…朝廷外政権として、一種の独立国の君主に近い
立場を築く。東国の軍事力を統合し、平家を滅ぼし
その軍事権門としての地位を継承。
○北条氏…一種の独立国幕府政権の実質的主宰者であると
ともに、元寇以後は日本国全土の実質的主宰者
として、公武の上に君臨。
しかし末期には、内管領に権力を奪われ、
天皇→将軍→得宗(執権)→内管領
という、形式的な支配者が3段階にも渡って
生まれるという、特殊な政治状況を生み出した。
○足利義満…3代将軍として、また太政大臣として位人身を
極めたが、その後公的立場から離れ、准三后として
院に近い立場になり、公武の上に君臨した。
こうしてみると、元寇以後の北条氏得宗家の立場は、非常に院政に近い。
559 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 22:03:59
北条が将軍になったら執権は安達?源氏は西日本でいうと葛城とか三輪だな
源氏出ない北条氏が征夷大将軍になることはあり得ない。
それでは御家人が納得するわけがない。
前提条件が間違っているのです。
561 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 00:25:52
天皇だって何回も戦いを重ね、富を蓄えて他の豪族を超越した地位を手に入れたんだろ。北条はその過程の途中だったんだよ。
562 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 01:32:25
権威を創出する最大の機会は征服戦争だな。北条氏主催のネオ前九年後三年が必要だ。
563 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 09:44:43
歴代天皇の宮妃・宮女が皇位継承という大事業を支えるため、いかに奮闘したかがおわかりになろう。
例えば52代嵯峨天皇の後宮にいた31人の后妃は32人の皇子女をもうけ、58代光孝天皇の后妃19人は49人の皇子女を、
90代亀山天皇の后妃21人は27人の、96代後醍醐天皇の后妃33人は40人の、112代霊元天皇の后妃15人は31人の皇子女をもうけた。
生まれすぎた皇子たちは世継ぎ問題で揉め事がおこらぬよう門跡寺院に送り込んで僧籍をとらせている。
このように歴代皇室は皇統の安泰をはかったのだが、大正天皇以後は一夫一婦制を採ったため皇位の継承はいちじるしく不安定になっている。
一族繁栄には何にもましてたくさんの子をもつことである。
天皇の系統がこれほど長い間、日本の王として栄えたのも、ひとえにその子孫が日本の人口比で相当高い割合を占めているからに他ならない。
神武天皇以来の王族や源氏の血を引かない日本人はそれほど多くない。
日本人は天皇の赤子という言い方もあながち嘘とは言い切れないほどの割合なのだ。
564 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 20:56:55
源氏将軍駄目で→藤原将軍も駄目で→宮将軍に落ち着いたわけだし、、、
北条氏が出る幕ないじゃないか。w
要は、いまだ強力な存在である朝廷とやり合うには宮将軍が必要だったのさ。
それが中世前期の悲しい宿命。
565 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 11:50:03
もしも源家将軍が実朝以降も続いていたら、北条氏はきっと藤原氏と同様
の立場となり、その立場はいずれ不動のものとなっていただろう。恐らく、幕府
が衰退していっても、「幕府を倒せ!」という勢力は生まれなかったに
違いない。
悪党が次第に勢力を高めていって、1500年代ごろに
悪党がかつての武士勢力と同様に天下争いを始めて、その勝利者が
朝廷とも幕府とも違う、新たな政権を築くことになったのではないか
と思われる。
すなわち…
天皇家
摂関家
将軍家
執権家
という4家を中心に、実権のない朝廷・幕府の名家が立ち並び、
その権威のもとで悪党勢力が勢力争いを繰り広げる、と
そのような社会になったのではないかと推測される。
566 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 12:03:15
北条氏が、将軍を解任して、幕府を廃止し、その得宗としての権力にふさわしい公的地位(執権等の幕府内での公的地位でなく、朝廷から直接認められたポスト)を得ていたら、
どうなていたか。
たぶん、北条氏にいまひとつ権威が足りなかったのは、出自が卑しいからというのが主な原因じゃないと思う。それよりも、幕府という組織を自分の手で築いておらず、中から簒奪していった
のが原因だと思う。
豊臣政権の政治的&軍事的トップというだけで、
将軍職についていない立場の徳川氏みたいなもんか
>>566 その場合、どういうポストがあるのかな?
鎌倉幕府滅亡後の状況を見ると、
(倒幕主導者が征夷大将軍になってやはり幕府を開いたこと。鎌倉にも似た組織を置いたこと)
当時の武士を束ねるには征夷大将軍になって幕府を開くしかなかったような気もする。
しかし北条氏は将軍になれる家柄じゃない
困った
奥州藤原氏みたいに、鎮守府将軍とかじゃ駄目かな?
570 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 21:04:00
すでに幕府は実朝時代に皇族を将軍にしようとしていた。
幕府にとってそれが最上の選択だったんだ。
北条氏も源氏も将軍になれる可能性はなかった。
571 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 21:52:20
娘を入内させて皇室の外戚になって太政大臣
その場合六波羅に本拠を移して
一門の誰かを参議兼左兵衛督ぐらいで鎌倉に遣わす
572 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 22:06:33
573 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 01:14:00
平家でも征夷大将軍にはなれる(織田信長の三職推任)
しかし家来筋の北条氏が将軍になったら
他の御家人や世論がどう考えるか心配で躊躇したんだと思う
だから執権に甘んじることでリスク回避を図った
室町時代でも足利将軍の屋敷は
家来筋の細川や佐々木や高や仁木に包囲されたことがあるが
取って代わられたことはない
徳川の場合はもともと徳川家が独立大名であり
豊臣家の天下が短かったことによると考えられる
574 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 15:47:24
やはり、和田や比企、三浦といった連中を各個撃破してしまったのがマイナスに
なってしまったんだと思う。
彼らをまとめて、逆賊として一斉に撃破していれば、あるいは
関ヶ原後の徳川氏のように、独立政権をたてることも可能だったのかもしれない。
しかし、現実には各個撃破するしかなかった。また、それがもっとも
すぐれた方法だった。
つまり、北条氏は完ぺきすぎた。あまりにも完全無欠すぎたゆえに、
滅びるのもまた早かった。
足利まで潰しとけば、確かに完璧と言えたんだが
576 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 18:04:01
北条が直方流っていうのは仮冒かね〜?
平氏でも傍系中の傍系なんだろうけれども、案外、本当かもよ?って感じがしないでも無い。
直方-維方-盛方と続いたが、盛方が違勅で殺され直方嫡流が断絶し
この時点で鎌倉とは縁が切れた、また京へも行き来していたが、
行き辛くなってしまったのかもしれない。
そんなこんなで維方の弟で熱海走湯山権現の住職になっていた聖範の子
時方が、急遽、平直方流の家督を継ぎ、伊豆介に任命された事や実父が
熱海に居る事も有って国衙に近い北条に館を建て居を定めた。
したがって、時方が伊豆北条氏の始祖ともいえる。時方の次男の北条時兼が
伊豆介に補任されたのもそういう背景が有ったのかも知れない。
時政以前の北条一族が、関東や伊豆にあんまり分流していないのは、おそらく
京から下って来てからそれほど世代が経過していないからでは?
それに北条一族がまったく近辺に居ない訳でもない。
時政の叔父の時兼は伊豆介だし、その子時定は山木攻めや京都大番に指揮官として参加、
別名も“平六左衛門尉”となっている。
むしろ本来はコッチの時兼-時定流が、北条本家の可能性があるくらい。
それと武士としては小さいが武蔵の熊谷氏も北条の親類。
しかし系図に異同が多すぎる点がねえ。『系図纂要』やら『群書類従』やら何やら。
平六時定の父にしても、時兼とするものあり時家とするものあり、時綱としている
のもあるようだし。何しろこの辺りの混乱が尋常じゃないからなあ。
伊豆介にしても、奥富氏は時兼の北條介が伊豆介なのかどうか、さらなる検討が
必要みたいに指摘していたし。時兼が平六の父として、伊豆介にいつ補任されたかも
気になるところ。工藤茂光が1150年代頃に伊豆介だったらしいが、血縁や地縁の
ネットワークからして、国衙やらの在庁官人への影響とか、遥任から派遣された
目代との関係なんぞは、彼ら工藤の一族らの方が濃かったように思うしなあ。
578 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 22:59:36
>>575 足利を潰してもちょっと延命するぐらいで鎌倉幕府(北条)は滅んだね
新田、佐竹、佐々木、小山、武田辺りが取って代わる
579 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 23:48:02
でも北条一門や御内人たちが最後まで忠誠を
誓って戦い抜いたのは見事。
裏切る人間が出なかったのは、それだけ北条氏に
徳があったと思うんだが。
580 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 02:29:47
581 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 00:23:59
北条氏は平氏だからな
伊東氏は源氏
結果は違ったが清盛からすれば伊東氏のほうを警戒しただろう
北条が在庁官人だったのは通説だと思ってた
>>581 伊東氏が源氏と?う〜ん初耳w
寡聞にして知らないわけだが、無教養な某にその典拠などご教示を。
(工藤氏の一族だし、為憲の子孫だから藤原ではと考えているのだが、それとも
祐継の父が祐隆でなく源氏の誰かとか?いずれ祐親の系統は藤姓だわな)
北条=在庁官人ってのは普通に通説と思われるです。それに真っ向から強く
反論する説は取り敢えず聞いたことはない。
583 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 20:46:16
>伊東氏が源氏と?う〜ん初耳w・・・・いずれ祐親の系統は藤姓だわな)
確かに工藤氏を含む伊豆伊東氏は、藤原南家系のはず、
頼朝蜂起時で伊豆最大の武士団です。
頼朝が山木攻めに成功した後に、わざわざ北条館を放棄し相模東部の三浦氏
の軍勢と合流しようとしたのも平氏方に付いた伊東勢に攻撃される心配があったから、
大庭勢(三千騎)と伊東勢(三百騎)が頼朝勢を挟み撃ちにする。
>北条=在庁官人ってのは普通に通説と思われるです。
>それに真っ向から強く反論する説は取り敢えず聞いたことはない。
奥富氏が、北条氏=在庁官人を強く否定している。
奥富氏の意見を引用している
>>577も時兼の伊豆介任官に?のようだし、
奥富氏は、北条氏をかなり小さな田舎侍としてしか見ていない。
最近になり細川重男氏あたりがその見解に異を唱えている。
北条時政は、初妻が伊東祐親の娘であった事もあり伊東氏に飲み込まれそうになってはいたものの、
一応当時の中央政界には、伊豆の武士として知られていた存在としている。
時政が平氏政権末期に色んな動きをしていたのも、このままでは
伊東系武士団に飲み込まれるかも知れなかったから、頼朝を担いだり、
武蔵の足立(安達)氏や相模の三浦氏、駿河の牧氏と関係を深め様としていた
と言われている。
伊豆介に任官した北条(平)時方の素性を直方流の仮冒という人もかなり多い。
漏れは、時方は京下りだとは思うけど、一応直方流の傍系だと思う。
伊豆介任官も父聖範が熱海走湯山権現の住職になっていたから本人が希望したのかもしれないし、
逆に父聖範のロビー活動で時方の伊豆介任官が成功した可能性もある。
平(北条)時方が、伊豆国府庁舎のすぐ近くに土着出来たのもこの伊豆介の職件が有ったからこそだと思う。
国衙のすぐ近くに館と領地を得られれば、時方が伊豆介を辞めた後も伊豆の地方行政に影響力を残せると考えたのかも知れない。
幕府の時の権力者が見ていた大銀杏がぶっ倒れたね。
585 :
連続投稿失礼:2010/03/12(金) 21:02:31
a
586 :
連続投稿失礼:2010/03/12(金) 21:03:12
結局、鎌倉時代には一貫して、頼義・義家流の子孫嫡流家による、
「源氏将軍」の権威が残っていたのだと思う。
しかし、実朝滅亡後の武家社会には、現実として「源氏将軍」という
存在が消滅してしまった。
藤原将軍・親王将軍・北条得宗家等、「源氏将軍」の権威もしくは実力に匹敵あるいは
凌駕するものは存在したが、権威・実力を兼ね備えた存在は消滅してしまった。
しかし、「源氏将軍」を求める勢力は、消えうせたわけではなかった。
東国武士諸家の家格の基準は、ほとんどが頼義・義家流源氏(源家と
仮に呼ばせてもらう)との関わりの中で形成されたものだったためである。
一方、北条氏の権力確立後、幕府内における家格の基準は、源家との
関わりとは関係なく、幕府内の職(執権職以下)に対応する形で、階級付けが
なされた。例えば、赤橋流北条氏であれば、最高職が執権、佐介流北条氏
であれば、最高職が引付衆である、といった具合である。(これはあくまで
例であり、実際にこの両家がその職を最高職としているかどうかは不明)
587 :
連続投稿失礼:2010/03/12(金) 21:03:49
そのため、北条氏による家格体系では、得宗家が将軍家に次ぐ最高家格であり、
それに準じて赤橋家、金沢家、大仏家、宗政流、政村流、等の北条一族内
名門諸家が並ぶこと になった。
しかしながら、依然として源家との関わり方による家格基準も、人々の脳裏
に焼き付いていた。
その源家との関わりによる家格体系では、当然ながら、頼朝流源家が頂点である。
もちろんその家は消滅してしまっているので、そこに近い順に家格が並んでいく
ことになる。
そうすると、この家格体系においては、頼朝系消滅後最も義家流嫡流に近い
家柄であった新田、足利や、頼義の子孫である武田、佐竹等の家が上位に
並ぶことになる。その中でも、北条氏との関係が良く、勢力も大きい足利氏が
最も上位に あったであろうことは、周知である。
つまり、この家格体系でいけば、北条氏は、それらの家々より下位に立つ
ことになるのである。(北条氏は、義家の外祖父平直方を祖と称しており、
また頼朝の外戚でもあり、その意味ではこの家格体系においても高い方に
位置するが、直方の子孫ということが信憑性に欠ける上、外戚といっても
臣下に違いはなく、自然源家一族よりは下位に位置づけられると考えられるので)
588 :
連続投稿失礼:2010/03/12(金) 21:05:34
結局、北条氏としては、この源家との関係による家格秩序を、消滅もしくは
忘却させる必要があったのである。
そのため、源家よりもはるかに家格の高い存在を将軍に招き、
その権威をもとに幕府職による家格体系を築き上げた。
だから、北条氏としては、自らが将軍になることは、自らが築きあげた
この家格体系を破壊することにつながるので、それは不可能であった。
また、北条氏にとって危険な存在になりかねない飾り物の将軍も、この
家格体系を維持するために必要不可欠な存在だったのである。
しかし、その努力にもかかわらず、やはり人々は、「源氏将軍」の復活
を望んでいた。また、元寇による混乱に対処するには、「源氏将軍」的存在
が不可欠だった。
時の実力者安達泰盛は、現実の将軍にも得宗にも「源氏将軍」を見出す
ことができず、挙句自分の息子を「源氏将軍」に仕立てようとして滅びた。
その後一旦「源氏将軍」を求める声は陰に隠れたが、やはり根底には依然
として流れており、最終的に足利高氏の挙兵によって一気に爆発したのであった。
ねこ大好き、まで読んだ(笑)
590 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 21:36:57
つーか、九条頼経が将軍に迎えられたのは、
頼経が鎌倉幕府初代将軍源頼朝の同母妹の曾孫だったからだよね?
この血縁を無視するのはどうなのさ。
しかも頼経の正室は2代将軍源頼家の娘竹御所だった。
591 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 21:39:52
>>587 >直方の子孫ということが信憑性に欠ける上
やっぱり伊豆北条家って直方流は仮冒なんですかね?
時方が直方流を仮冒したって言う人が多いんですけど・・・・
奥富氏も仮冒っぽいので残念ですね。
私は、伊豆北条家って直方流って案外マジなんじゃないかな?
と思っていますし、時方、時兼の伊豆介任官もマジなんじゃないかなと。
しかも遙任じゃなくて、伊豆国衙庁舎で政務を行ったのではないかなと。
当時伊豆で5〜60騎を動員できる武士は、それなりの規模ですし、
ポットでの地元田舎武士では不可能だと思います。
北条館も国衙のすぐ近くですし・・・・・
>>583 奥富氏が疑問視しているのは、時兼の「北條介」がイコール「伊豆介」になる点
なんじゃないかな?在庁官人であることまで否定してなかった希ガス。それと、
奥富氏は北条=直方流の庶流って感じで看做してるね、確か。
嫡流が「方」の字を諱の下字に用いつつ通字化した一方、庶流は時方の「時」を
通字化したと説明していた記憶あり(過去レスにあった「惟時」の時は、誰か唱えて
いるのかな?不勉強でよく知らないんだが、ちょっと眉唾な感じもなくなく)。
結果的に直方の嫡流が盛方誅殺で没落した後、伊豆で実務に当たっていた
庶流がその衣鉢を継ぐ恰好になったような……で、時方の伊豆介補任も含め、
>>583の指摘は結構「的を射ている」と思う。多分、時方も都にあって、何らかの
ルートを中央に持ってたのかもね。
それにしても細川重男氏、この人の個人サイトを覗いたんだけど、なかなか
面白い人だねww
「鎌倉政権得宗専制論」って恥ずかしながら未読なんだが、読んでみたいなと
思った、うん。
593 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 21:57:31
それに山木攻めの直前に時政の親類の時?が伊豆介に任命されます。
山木と時政の関係が政子の脱出劇で上手く行かなくなったので、
山木の意向でそうなったとあります。
そうなると頼朝蜂起以前の伊豆北条家、特に伊豆北条本家は、伊豆介任官の家柄だった可能性も出てきます。
594 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 22:13:10
>>583の指摘は結構「的を射ている」と思う。
↑
583の書き込みは私です。ありがとうございます。
>奥富氏が疑問視しているのは、時兼の「北條介」がイコール「伊豆介」になる点
そうなると「北條介」って言うポストは、どういうポスト何でしょうかね?
伊豆国田方郡北条の地域を徴税するだけのポストでしょうかね?
「伊豆介」なら今で言うところの、副知事?助役クラス?でしょうか。
>それにしても細川重男氏、この人の個人サイトを覗いたんだけど、なかなか面白い人だねww
釈由美子の大ファンだそうで、面白い人ですね。
日本史にのめり込むだけではなく、他の事にも興味があるようです。
「鎌倉政権得宗専制論」は今図書館で読んでいる最中ですが、意外と判り易く素人にも大変面白く読めます。
ただ借りれなくて、アマゾンで購入しようとしたのですが、40,000円!
っと言う超高価格でしたので、とても買えず、図書館に通わないと読めません。
595 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 22:19:11
鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れたのは、
なにか時代が大きく変革する予兆じゃないかと思います。
天皇の子孫源氏の時代から、武家の時代に変わっていく。
自民党清和会の時代から、帥升米の子孫枡添、つまり、
邪馬台国の復活があるんじゃないかと思うのです。
>>593 というより、平兼隆(山木兼隆)が懲罰的に伊豆へと下向させられた年or前年には、
頼朝と政子の最初の子・大姫がすでに生まれている。となると、兼隆と政子とのケコーソ話は、
どんな経緯で進められたん?ちなみに中世史家の石井進は「兼隆の伊豆配流は1179年
(治承三)のことであり、前後の事情に合わないから」ケコーソ話には疑問と主張しているらしい。
597 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 22:28:29
>鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れたのは、
>なにか時代が大きく変革する予兆じゃないかと思います。
ほんまでんな。
>>594 えっ!?よ、40.000円!?……('A`)
近隣の幾つかの図書館(市とか県とか)覗いてみる(苦笑)
>そうなると「北條介」って言うポストは、どういうポスト何でしょうかね?
介八郎広常の例が、あるいは判断する上で先蹤になるかも?かも?w
よく上総介広常と言われるけれど、時期的には「正式に補任」されてないと
考えられているよね。頼朝が仮に認知したとしても、それは将門の先例同様、
私称僭称の域は出ないしねえ(そういえば、藤原忠清の後は、誰が上総介に
補任されてたっけ?後日確認してみる)。
ただ、広常の例と似たものと考えると、時兼以前の北条から伊豆介が
出ているのは確かって話になるとは思うし、時方が伊豆介に補任されたのは
多分間違いないとは思っている。仮冒か否かは別にして、そういう意識が
あったとするなら、時政以前から北条が直方流を称していたのは充分に
あり得るよね。そういえば、古い話(1970年代)だけど、石井進氏も時政は
「在庁官人ながら下級クラス」みたいな言及をしてたねえ。嫡流が時兼の
方なら、確かに時政よりは上のポストにってのはなくもない話だけどね。
599 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 22:47:37
>兼隆と政子とのケコーソ話は、どんな経緯で進められたん?
後白河法皇との関係がやばくなり、頼政や以仁王の反乱が発生していたとはいえ、
平家の力は、この時点ではまだまだ強大だったと思う。
だから時政が頼朝監視役の手前まずいから、ちょうど伊豆に下ってくる山木と結婚させたのだろう。
伊東祐親が、頼朝と八重姫の子千鶴丸を殺害して八重姫を無理やり江間小四郎と結婚させたのと同じ事。
紛らわしいが、江間小四郎って時政の次男の北条義時の通称と同名だが別人、この時に義時は4歳ほど。
何でも、江間小四郎が討ち死にした後に北条時政がその跡を賜ったので、義時に江間名跡を継がせたらしい。
ちなみに江間氏の始祖は平清盛の弟の経盛だとか?壇の浦で経盛が討死した時に美貌の愛妾には二歳になる男の子供がいたが,
頼朝の妻の政子の親父の北条時政が上洛した時,愛妾は我が物となし,子は自分の次子の江間小四郎義時に預けた。
その後,子供は順調に育ち元服して江間小四郎輝経と名乗った。後に彼は後に讒言にあい飛騨に流された。
↑
本当か?
600 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 22:59:31
>嫡流が時兼の方なら、確かに時政よりは上のポストにってのはなくもない話だけどね。
案外、時兼-時定流=伊豆北条家嫡流説は正しいのかも・・・・・
だから時政は、政子の駆け落ちを黙認して源頼朝に賭けたのかも知れませんね。
601 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 02:45:28
大銀杏、
金曜日段階でもういきなりチェーンソー解体始まってたぞ。
これだから基地外嫌煙神奈川は、、、
602 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 03:47:06
>>598 >時兼以前の北条から伊豆介が出ているのは確かって話になるとは思うし、
>時方が伊豆介に補任されたのは多分間違いないとは思っている。
時政の父の時家もまた伊豆介ですね、そうなると伊豆北条家は伊豆介を
代々務める家業的な感じもします。工藤家や伊東家も同じかもしれませんが・・・・
そうなると時政が伊豆介に任官出来なかったのは単に時間的に頼朝蜂起に
間に合わなかったからなのか?それとも政子の駆落ちで山木兼隆と時政の
間が上手く行かなくなったからなのか?
何となく後者の感じもします、時政と不仲になった兼隆が、本来時政を
伊豆介に任命すべきなのに時兼を無理やり伊豆介に任命した可能性が有
ると思います。
そうなると山木攻めの背景もまた、別の一面が有るのかも知れません。
>仮冒か否かは別にして、そういう意識があったとするなら、時政以前から
>北条が直方流を称していたのは充分にあり得るよね。
頼朝へ提出する公文書の署名は、時政も時定も平時政・平時定の署名で
提出していますね、別にこれで頼朝に怒られていないのですから、政権内部
では北条氏が直方流という了解が有ったのかも知れません。
また兼隆が伊豆に下ってくる直前に時政は京に呼び出されています。
これも同じ平氏なんだから時政は兼隆をサポートするようにとの平氏政権
からの要請かも知れません。
>>602 うーんなるほど……。
概ね肯んじること適う感じなんだけど、いわゆる「時家」とされる人物が、
伊豆介に補任されたことを、傍証でも構わないから挙証出来る?
挙証出来るか否かがネックになるように思う、うん。
とまれ、為憲の子孫(伊東などの庶流含む工藤一族)と、仮に直方の子孫
(仮に北条)との関係を逞しくすると……、
>代々務める家業的な感じもします。工藤家や伊東家も同じかもしれませんが・・・・
って状況は、まあ相対的にあり得るよね、当時の状況では。
ただ、そこに伊豆の場合、為憲の子孫以外に誰が絡んできたかは、時代時代で
(当時は既に、知行国主――オーナーが結構幅も利かせているし、その絡みも含めて
眺めないと)変わるしねえ、平兼隆のケースを見ても。そういえば、当時の「伊豆守」
平時兼(時忠の養子。出身は確か藤原氏?)が北条時兼と混同されている可能性は
果たしてどうなのかな?
604 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 00:23:59
>いわゆる「時家」とされる人物が、伊豆介に補任されたことを、
>傍証でも構わないから挙証出来る?
傾向としては、
北条氏直方流肯定派=伊豆介家筋肯定派vs北条氏直方流仮冒派=伊豆介僭称派
単純化していますが、見たいな色分けできます。
★奥富氏の著作の“鎌倉北条一族”には、「伊豆守時方というのまであって」と記
し、「北条時政は、伊豆の在庁官人であったとする見方が一般的だが、確実な
微証に欠ける」とある。
★“裏方将軍 北条時政”には、時方は伊豆守になっています。遙任ではなく在
国の伊豆守です。時家・時兼も伊豆介に任官となっていますが、系図の時兼の
欄には「北条介の注釈があるが、伊豆介であったらしい」との書き方。
★“戦争の日本史6源平の争乱”では、時政は直方の子孫と記し、「北条介という
肩書きが記された時兼(時政の叔父)とその子である時定が、北条主流にあたる
のであろう」と推測する書き方。
★東京大学史料編纂所研究紀要第11号2001年3月の“北条得宗家成立試論”という
細川重男氏と本郷和人の連名の論文で、本郷氏の作成部分の“北条時政と牧の方”
という項では、「北条氏が一介の田舎土豪であるとは到底考えられない」とし
「ともかくも何らかの形で図抜けた勢力有する家」としている。
また“鎌倉開府以前の北条氏”という項で@北条氏の根拠地は三島国府近隣
A祖先に介を称する者が認められるB京都と通交していたと推定などから、
伊豆内では有力な武士団の一つ、ただし伊東氏と比べるとはるかに小さな
武士団との事。
>時代時代で(当時は既に、知行国主――オーナーが結構幅も利かせているし、
>その絡みも含めて眺めないと)変わるしねえ、
工藤氏を含めた伊東家の方が北条より領地も兵力もはるかにデカイでしょうから
伊豆介任官の機会や任期は北条氏より伊東氏の方が多かったり長いでしょう。
遙任であれ在国であれ国司や介は、現地有力者は誰なのか。かなり慎重に見定めるでしょうね。
>当時の「伊豆守」平時兼(時忠の養子。出身は確か藤原氏?)が北条時兼と
>混同されている可能性は果たしてどうなのかな?
平時兼って当然遙任で在京ですよね、姓も場所も全然違うし北条時兼と間違えるかな〜?
>>604 北条時兼がもし直方流なら平姓なんだし一緒じゃね?
それはおいて、伊豆守時兼の目代って名目で山木兼隆が下向してるから、
時忠養子の平時兼はまず遥任だよね。そうなると、意図するところがなければ
伊豆守時兼と北条時兼は取り違えようがないって感じだろうな。
そういや牧宗親って、頼盛と関係が深かったんだよね? 平家内ではちょっぴり
浮いた感じのポジションって頼盛だけれど、それなりの存在感はあったろうから、
彼と関係を持つ牧氏とのコネって大きいよね。それも婚姻関係だし。ということは
時政の力って当初から侮れないものがありそうだし、そこから手繰ってみても、
嫡流の方はもともと、ステイタスも高かったかもしれない……ステイタスとか、
時政自身の実力もハンパないだろうけれど、そこから推すと奥富氏の言及とか
小野眞一氏?の指摘にもあるように、時方伊豆守説さえ一笑に付せる話では
決して終わらないのかもね。
606 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 05:06:08
>北条時兼がもし直方流なら平姓なんだし一緒じゃね?
全然違う人でしょう、いくらなんでも。
>時政自身の実力もハンパないだろうけれど、
奥富氏の様に、北条氏が直方流仮冒の田舎土豪と言う事は無いと思います。
ただ時政には、このままでは伊東氏に飲み込まれるという危機感は有ったのかも知れません。
>時方伊豆守説さえ一笑に付せる話では決して終わらないのかもね。
誤解して欲しくないのですが・・・・
奥富氏の「伊豆守時方というのまであって」という書き方は、伊豆時代の北条氏
の史料の信憑性は疑わしいという意味で、奥富氏は必ずしも伊豆守時方説を信
用している訳ではなさそうです。
小野眞一氏は、時方伊豆守説の可能性を考えている様です。
私もそうであれば良いと思いますが、もしそうなら、何故時家・時兼は伊豆介
になってしまったのでしょうか?伊豆に下ったので、家格が落ちたのでしょうか?
>>606 ちゃうちゃうw意味が通じてなかったねww>姓が一緒
勿論、まったくの別人ってことは前提にしてるさ。いわゆる同姓同名って
程度のニュアンスね。姓も場所も違うし〜って部分への、軽いノリの
突っ込みみたいなもんw
じゃないと、それはおいて以降と言ってることが矛盾しちゃうから。真面目に
取るとさ。
一笑に付せる話では〜にかかる件も、誤解してないから安心してくだされ。
(奥富氏絡みに言及という品詞を使ったのはそのため。肯定的に扱う立場、
奥富氏のように否定的な立場双方が、時方伊豆守説もあると紹介したり
触れたりしている事実そのものに意味があると思ってみて、それで「一笑には
付せない」と考えてみたってことだね。)
仮に時方が伊豆守で、しかし仮に時家、時兼らが伊豆介に止まったのは、
逆に時方そして父とされる走湯権現別当・聖範の運動能力の高さってのは
どうかな……それにしても、確かに家格ってのは留意しないといけない
点ではあるよね。それと知行国主の変遷を含めての中央との関係とか。
金曜日の昼から発熱、なかなか引かない…。
木戸孝允45歳、平重盛42歳、北条時宗34歳、高杉晋作29歳、そして私41歳。
どうやら、そう長くは生きられそうにない orz
これで日本も少しは平和になるね。
610 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 23:19:21
鎌倉期の武家の官位に関して、何かルールなどあったのでしょうか?
得宗家とその家臣である飯沼資宗がどちらも五位である、というのは
なぜそんなことがあり得たのですか?
611 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 21:53:39
大銀杏の再生可能性90%だそうな
612 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 21:57:45
銀杏の若木を植え直せば、1000年後に大木になる。
歴史とはそういうものだ。
613 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 22:52:44
鎌倉時代は執権より官位高い武家が多数いる
室町時代は若い将軍と年配の守護なら官位の逆転ある
江戸時代は将軍>将軍世子・御三家>前田という官位はほぼ絶対的
614 :
日本@名無史さん:2010/03/16(火) 03:25:48
伊豆時代の北条氏の史料がほとんど無いので、良く判らない。
しかし伊東祐親の三女の八重姫と頼朝が最初に千鶴丸という子供を作っている
所を見ると、頼朝は本当は北条ではなく伊東氏の方を当てにしていた感じがする。
やはり北条よりも伊東氏の方が規模がでかく、伊豆最大の武士団と言っても
良い位だからな〜
615 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 10:55:42
北条貞時から高時までの間に、5人も傍系の執権はさんだのはなぜ?
どうせ執権職なんてその頃はもはや飾りみたいなもんなんだし、幼児にすぐ執権
継がせてもいいじゃあないか?
616 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 11:08:01
>執権職なんてその頃はもはや飾り
はあ?
617 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 15:03:09
細川氏の鎌倉政権得宗専制論によると、
得宗家に全ての権限が集中していた当時、
得宗はもはや「北条家の嫡流」を指す概念ではなくして、将軍権力を代行
する存在であり、分かりやすくいえば、得宗=副将軍職という概念が誕生
していて、たまたまその「得宗」を北条嫡流家が世襲していただけである。
ここからは自分の個人的考えだが、
つまり、得宗家はもはや執権職に就任する必要性はまったくない。ついた
としても、得宗権力のすべてを説明できる役職ではもはやない。
問い1
それなのになぜ得宗家は執権職に就任し続けたか。
問い2
幕府組織と得宗家家政機関(得宗公文所)が一体化しつつあった鎌倉末期、
幕政(≒得宗家家政)を主導していたのは、執権・連署・内管領・一部有力
者による「寄合」であり、執権職と内管領の権限は重なっていたのではないか?
618 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 15:20:32
>執権職と内管領の権限は重なっていたのではないか?
春〜が来たあ〜 春〜が来たあ〜 ♪♪
やっぱ春のせいだろうw
結局、北条家自身も傀儡政権に過ぎず、関東御家人が鎌倉幕府を取り仕切っていたということです。
620 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 22:21:40
得宗家はオーナー、執権は社長
オーナー一族が常に社長とは限らない
621 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 23:18:05
執権って猛烈に忙しいっす 重責も半端じゃねぇす
あまり軽く見んといてね
可哀想だから
622 :
日本@名無史さん:2010/03/19(金) 09:47:29
末期は寄合会議が幕政の中心に位置していて、
寄合が実質的最高機関だった。
その他の幕末の役割…
執権…評定会議の主催者。形骸化したとはいえ幕政の中心に位置する
存在であり、日常業務を主導的にこなしていた。
連署…執権の補佐
評定衆…幕政の話し合い。しかし、末期には相当、低年齢化が進んでおり、
実質的権能を果たしえたかは疑問。
執事(内管領)…得宗公文所のトップ。得宗家の家政の最高部に位置し、
また得宗の権力を実質的に代行することが多く、末期には実質的な最高
権力者と化していた。
よって、執事と執権の地位が重なることは、末期においてはない。
623 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 13:27:31
時政は政子を伊豆目代の山木兼隆と結婚させようとしたんだよね?
>>623 以前はよくそう言われていたが、少なくない学者、研究者は
疑問視しているね。何しろ、兼隆が伊豆に下向してきた時期には、
とっくに大姫も生まれているし。
625 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 18:13:10
>>624 >兼隆が伊豆に下向してきた時期には、
>とっくに大姫も生まれている
その根拠となる史料は?
1.山木兼隆の伊豆配流の正確な時期は?
2.大姫の生年は?
確かにこの二つの答えが明確にならないと
>>624の説は認められないなあ。
627 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 19:33:53
得宗と呼ばれたい。
629 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 19:46:20
「毒素」と呼んでやるw
630 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 19:58:40
朝廷(院政) 上皇(法皇)−天皇
幕府 得宗−執権
は、幕府版院政のようなものだと思う。
『玉葉』(九条兼実の日記)の記述から、治承元年(1177)五月頃まで、兼隆は
検非違使として都にあったらしいですな。また、その一年ほど前の時点では
右衛門尉に任官していて、しかも後白河院に近侍していたらしい様子が『吉記』
(吉田経房の日記)に記録されているようです。時期とか院との関係からすると、
伊豆配流は鹿ケ谷事件の影響か?とも思われそうですが、『吾妻鏡』治承四年
八月条では、父・平信兼の訴えにより伊豆へ配流されたと説明していますな。
とまれ早くても77年8月以降に「流人」として送られてきたと見るのが妥当かなと
思うです。目代就任は、源頼政が敗死し、伊豆の知行国主が平時忠へ代わり、
その息・時兼が伊豆守となった頃だろうとする見方が多いような気がするです。
つまり治承四年(1180)五月頃に目代を委任されたと。
大姫については、生年に関する記録は今のところ確認されてはいないようで、
没年についても『愚管抄』が言及するものしか現時点では確認されていないですが、
吾妻鏡には邸宅の建設、清水冠者との関係等が結構残されているです。おそらく
それらから、多くの学者は1178or1179年までには生まれていたと推定しているようです。
>>627 寧ろ過去レスにある石井進氏の見解を念頭に置いていたのでは?wwwww
632 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 20:14:38
「得宗」の元の字は「徳崇」らしい。
天皇で「徳」や「崇」がつくのは不吉な天皇が多い。
「徳」では、毒殺とも言われる「文徳天皇」、入水した「安徳天皇」・・・。
「祟」では暗殺された「崇峻天皇」、南朝に拉致されて幽閉され退位させられた「崇光天皇」・・・。
そして極めつけは「崇」と「徳」の両方ついた「崇徳天皇」で保元の乱敗北で配流させられ天皇家を呪って死んだ。
「得宗」なんて呼ばれない方がいいぞ。
633 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 22:06:35
>>631 >>626の答えになってないぜw
大姫が「とっくに生まれている」(苦笑)というなら何年に
生まれているのか知ってるんだろがw
「以前はよくそう言われていたが」(失笑)
石井の本だって1965年頃書かれたもので、だいぶ以前なんですけどw
634 :
631:2010/03/22(月) 23:40:03
つーか
>>633みたいな茶々は馬鹿でも入れられるよなw
それより、時政が政子を山木兼隆の嫁に入れようとあくせくしたって話の典拠は
曾我物語だけ?吾妻鏡の記述だけだと無理ありそうな気がするんだが・・・
635 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 00:15:18
ここって伊東祐親=源氏とか断定的に書くのがいるくらい程度低いスレだからしょーがねーだろw
精々、ヴァカなチャチャ入れるくらいしかしと(失笑)
636 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 00:24:10
>>634 源平盛衰記くらい読めよ。レベル低いなあ〜
源平盛衰記()笑
638 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 00:34:10
源平盛衰記だって…源平闘諍録ならまだしも(*´・ω・)(・ω・`*)ネー
史料と軍記物の区別を巧くつけられない人達が集まるスレはここですか?
てか盛衰記馬鹿にすんなよ?()笑
640 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 00:54:33
んなこと言ったら、曽我物語の立場は?w
641 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 02:02:04
>>638 つ
源平闘諍録読んでないのバレたな。
闘諍録に「娘を取り還し、目代兼隆が許へ渡す」と出てるぜ。
それから延慶本平家にも出てる。
まあ、闘諍録も盛衰記も延慶本も内容は似たり依ったりだが。
あと曽我も。
642 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 02:16:57
>>641付けたり
「内容は寄ったりだが」
異議ありぃ〜。「源平闘諍録」はぁ〜、妙見信仰が濃厚でぇ〜
史料的価値が高いぃ〜っっっっっっっっ という批判を期待してるんだがwwwww
っつか
>>642はぶよたんレイープしてこいよ(笑)
645 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 03:42:11
どうだ?
まともな反論できないだろ?
で、勝利宣言。
646 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 03:48:08
↑キモオタ()笑
647 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 11:09:39
>>626 で、この二つの質問に答えられねーのかよと。。。
結局
>>624の答えはハッタリだったと決定wwwww
648 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 11:19:16
649 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 12:25:35
643 名前:日本@名無史さん :2010/03/23(火) 02:35:58
>>642 サニー餅付けwwwwwwwwwwww
644 名前:日本@名無史さん :2010/03/23(火) 02:45:16
っつか
>>642はぶよたんレイープしてこいよ(笑)
650 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 13:40:05
()笑 wwwwwwwwwwww
651 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 14:16:49
わかる範囲で山木兼隆の史料を集めてみました。
1.吉記 安元2年(1176年)4月27日条 後白河法皇比叡山御幸供奉「別当時忠・・・次廷尉二人、左大史尉大江遠業、右尉平兼隆」
2.玉葉 安元3年(1177年)5月15日条 山門強訴で「一昨日より検非違使兼隆、守護のため加へられこれを遣わす。その譴責の体切り焼くがごとしと云々。」
3.吾妻鏡 治承4年(1180年)8月4日条 「散位平兼隆〔前廷尉。号山木判官。〕者。伊豆國流人也。依父和泉守信兼之訴。 配于當國山木郷。
漸歴年序之後。假平相國禪閤之權。輝威於郡郷。」
3.に山木兼隆が「前廷尉」とあるので1. の「右尉平兼隆」2.の「検非違使兼隆」が山木兼隆であるのは間違いなさそうですね。
1.の「別当時忠」は検非違使別当で行幸の「出御事を奉行」した平時忠。清盛の義兄で「平家にあらずんば人にあらず」と豪語したことで有名な人。
時忠と兼隆は検非違使の別当と尉という関係にあり、それで時忠が伊豆国の知行国主になると流人でありながら兼隆が目代に任命されたんですかね?
兼隆は清盛と同じ維衡流で3.に「假平相國禪閤之權」とあるけど、実は平時忠の方に近い人物だったのかもしれませんね。
2.は有名な安元の山門強訴の大騒動。兼隆が、逮捕した明雲座主を「体切り焼く」(拷問?)ような譴責をしていて、
検非違使の中心的な人物だったことが分かります。(時忠は前年末に別当を辞任)
京都での山木兼隆は平時忠の下で検非違使を勤め、かなりやり手の人物だったようですね。
652 :
↑:2010/03/23(火) 15:27:26
これも
>>626の答えになってねぇ―だろが
話をはぐらかすなよと
653 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 15:52:09
>>651「体切り焼く」
読み方違うぜよ
原文は「其譴責之体、如切焼云々。」だよ
「体を切り焼く」じゃなくて「譴責の様子が切り焼くようだった」という意味。
これだから素人は・・・
654 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 17:57:40
>>624 >兼隆が伊豆に下向してきた時期には、
>とっくに大姫も生まれている
詳しいんですね
じゃあ、いつ生まれたんですか?
655 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 18:38:15
>>651 兼隆が検非違使の主要人物なら他の史料にも出てるかも。
「検非違使補任」あたりに載ってないかな?
656 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 01:28:04
田端泰子氏の「北条政子」(2003年刊)と関幸彦氏の日本評伝「北条政子」(2004年刊)
の両方とも政子が兼隆との結婚を強いられたという逸話を肯定的に書いている。
少し古いが渡辺保氏の人物叢書「北条政子」(1961年刊)も同様。
しかし、石井進氏の日本の歴史7「鎌倉幕府」(1965年刊)では「信ずべき記録のよれば、
兼隆の伊豆配流は1179(治承3年)のことであり、前後の事情に合わないから、
わたくしはこの説をとらない。」と否定している。
この「信ずべき記録」がどのような史料なのか?それがわかれば謎は解けるのだが・・・。
657 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 01:58:43
兼隆の話は秋田
北条氏の話を城
658 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 02:19:12
夢窓疎石の母親は北条政村の娘らしいけど出家の原因となった1279(弘安2)の母方の争いって何?
元寇は空白期だし、霜月騒動もまだだ
659 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 09:35:31
>>622 執権と内管領の職権は重ならないけど、近い事は事実。
執権=政所別当 兼 侍所別当の事
内管領=政所所司代 兼 侍所所司代の事
それと北条家公文所は幕府後期には日本全国300箇所の荘園を集中管理する
一種のホールディングカンパニー化している。
660 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 16:18:29
>>659 >内管領=政所所司代 兼 侍所所司代の事
鎌倉幕府に所司代という職制あったっけ?
661 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 17:35:53
>>659 >北条家公文所は幕府後期には日本全国300箇所の荘園を集中管理する
>一種のホールディングカンパニー化している。
北条家公文所といっても得宗だけでなく大仏氏や金沢氏も公文所あったし
名越や政村流なども家政機関を持っていた。
それら北条一族の家政機関を得宗公文所が統制していたという史料をオレは知らない。
また北条一族の400弱ある所領(オレが知ってる範囲だが)を得宗が集中管理していた
という史料も見たことがない。
あなたの言ってることは脳内妄想ではあるまいか?
662 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 17:52:45
>執権=政所別当 兼 侍所別当の事
これは教科書にも書いてあり間違いではないが正しくもない。
執権を「将軍御後見役」とも呼ばれるが、こちらのほうが適切だと思う。
つまり将軍職務の代行者であるわけだ。将軍との緊張関係が続いた理由もここにある。
663 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 20:39:19
>>658夢窓疎石の母親は北条政村の娘らしい
夢窓疎石年譜(天竜開山夢牕正覚心宗普済国師年譜)には「母平氏」とだけ書かれている。
「母親は北条政村娘」の根拠となる原史料を知ってるなら教えてほしい。
北条氏側の系図や史料には該当する女性は存在しない。
皆さんは、得宗家の執事と足利家の執事、どちらを務めたいですか?
665 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 01:39:29
で、政子と兼隆の件はどうなったんよ?
666 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 11:38:30
>>665 双方の主張が出そろい結審しますた。
今から裁判長が判決文を読み上げます。
「時政が政子を兼隆に嫁がせようとした話を
否定する証拠は見つからなかった。よって
この話は事実と認められ
>>623の主張を認めます。
623を批判した人は名誉棄損で一億円を623に支払いなさい。」
>>666 >「時政が政子を兼隆に嫁がせようとした
その根拠となる史料は?
668 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 13:07:04
669 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 14:08:20
源平盛衰記や平家物語などが吾妻鏡編纂に取り入れられている件
670 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 17:31:59
否定できないのなら勝利宣言確定でOKだろう
671 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 17:35:30
>>624 >兼隆が伊豆に下向してきた時期には、
>とっくに大姫も生まれている
>とっくに生まれているw
>とっくに生まれているww
>とっくに生まれているwww
>とっくに生まれているwwww
672 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 17:38:45
>とっくに大姫も生まれている
典拠はウィキだろ?
白状しちゃえよ。誰にも言わないからさあ〜wwwwww―
春休みすなーw
674 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 18:29:58
ウィキを鵜呑みにしている馬鹿がいると聞いて飛んできました
足利尊氏が篠村八幡宮で挙兵したのは、
1333年4月27日か29日か、どちらですの?
676 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 22:16:15
てかWikipediaを馬鹿にすんなよ?()笑
677 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 06:49:56
678 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 13:51:37
679 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 23:45:38
鎌倉以前から、最高権力者の推移
天皇→藤原摂関→天皇家家長→平家→天皇家家長・鎌倉殿→天皇家家長・準鎌倉殿(執権・政子)
→(承久の乱)→最高権力者不在期(合議政治発展)→執権→得宗→得宗家執事
となろう。
680 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 21:16:10
「最高権力者不在期」はありえない。
戦国時代は別だけど
681 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 22:49:52
歴代得宗の中で最も偉大な功績を残したのは誰だろう。
義時か、泰時か、それとも時宗か?
682 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 22:54:16
東国武士に対しては義時、
武家政権に対しては泰時、
得宗家に対しては時頼、
日本国に対しては時宗
が最も偉大な功績を残していると思う。
683 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 23:10:53
偉大なる経時様が抜けている
684 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 23:27:08
貞時は御内人に対してか
685 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 15:38:11
ほとんどの研究書の北条氏所領一覧に「信濃国四宮庄北条、円明跡」(天竜寺重書目録)が「金沢時顕」の所領だと書いてあるが
南北朝遺文関東編2巻NO963に「四宮庄内、四宮右衛門太郎入道円明跡」と載ってるから金沢時顕所領ではなく四宮円明所領だろう。
そもそも、なんで「円名」=「金沢時顕」になんだ?「金沢時顕」の法名が「円明」だなんて史料見た事ないぞ。
もちろん(天竜寺重書目録)にも「円明跡」だけで「金沢時顕跡」なんて書いてない。
何を書いてるかわからない人がいたら御免w
686 :
↑:2010/03/28(日) 16:11:10
2ちゃんにマジレスする人ってどんな人種?
687 :
日本@名無史さん:2010/03/29(月) 02:01:07
四宮円明って何者だ。代官じゃないか?
688 :
日本@名無史さん:2010/03/29(月) 14:52:58
>>687 四宮氏は「六条八幡新宮用途支配」によれば、5貫で信濃の平均的な御家人。
北条氏の被官や代官になった記録はない。
ただ、中先代の乱に参加してるから北条氏に近い御家人だったんだろう。
乱に参加したのは「四宮左衛門太郎」で「四宮右衛門太郎入道円明」と同一人物かもしれない。
それはともかく「円名」=「金沢時顕」の根拠がわからない。
早くは湯本軍一氏「北条氏と信濃国」の論文に書いてあるが典拠が明記されていない。
それ以降の研究書にも典拠が書いてない。どうしてなんだ?
後続の北条氏研究者は湯本軍一氏の研究を丸写してるだけなのか?
689 :
日本@名無史さん:2010/03/29(月) 15:12:22
>>679 >最高権力者の推移
>得宗家執事
得宗家執事がすべてが「最高権力者」になったわけじゃないぜ。
数ある得宗家執事の中で平頼綱(及びその息)と長崎高綱(及びその息)の
二人だけが巨大な権力を握った事に注目すべきだ。
二人とも貞時及び高時の乳夫だよ。執事の権力の強弱は得宗個人に対する影響力いかんによるんだろう。
だから、得宗に敵視されれば頼綱のようにあっさり滅ぼされてしまう。高時は馬鹿だからしくじったけど。
御内の発給文書を見ると、執事(内管領)に権力を集中させないシステムになっていた気がするんだが。
690 :
日本@名無史さん:2010/03/30(火) 15:20:09
>>507 宇都宮国綱の家老に北条勝時って名前がでてくるな。
同一人物かわからん。
それと、北条高時の末裔にも北条勝時(田中勝時)てのがいる。
同一人物か同じ系統に同名が何人もいるのかよくわからん。
691 :
日本@名無史さん:2010/03/31(水) 02:47:08
>>688 信濃武士は旧義仲党が多いからな。
鎌倉で地位の低い彼らは北条氏に保護を求め一部はその後家臣化
諏訪氏が代表格だが真田幸村の真田氏や保科正之が継いだ保科氏もそんな方々の末裔
692 :
日本@名無史さん:2010/03/31(水) 23:13:31
玉葉にまた山木(平)兼隆が出ていました。安元2.3.4と翌日の3.5です。
後白河法皇五十歳の祝宴の警備を検非違使の兼隆が勤めていたとき、
関白の前駆が兼隆の制止を無視したため喧嘩になり、それを兼隆が
上司である検非違使別当の平時忠(平清盛の妻の兄)にいいつけたようで、
平時忠が関白に猛抗議していることが書かれてします。
やはり山木兼隆は検非違使の仕事を通して平時忠と親密だったんですね。
兼隆は平氏政権の中枢に太いパイプを持っていたわけです。
時政が政子を兼隆に嫁がせたいと思っても不思議ではないですよね。
693 :
日本@名無史さん:2010/04/01(木) 01:14:31
>>685・688ですが謎が解けた。
北条時顕は安達時顕(法名延明)のことのようだ。
天竜寺重書目録の「(四宮)円明跡」を同音の「延明跡」と解し、
安達時顕(法名延明)に比定し、さらに安達時顕を北条時顕と錯覚した。
つまり円明→安達延明→安達時顕→北条時顕と言う具合に間違いを繰り返した。
鎌倉末期の金沢一族の顕実の子に時顕という人物がいるからややこしい。やれやれ・・・。
で、結論は
>>685にあるように四宮庄は北条氏所領ではなく四宮円明の所領が正解。
694 :
日本@名無史さん:2010/04/01(木) 20:49:28
>>658 >夢窓疎石の母親は北条政村の娘らしいけど
その話の出所は相国寺にあるニセの佐々木系図に書かれてあることらしい。
史料的に正確にわかっているのは「伊勢国の宇多源氏出身で母は平氏」
ということだけだという。
どうやら後世の佐々木一族あたりが相国寺住持と共謀?して
作ったらしいという研究者もいる。
そのニセ系図は次のようなもの。
(経泰)―朝綱(右衛門尉・北伊勢之領主)―疎石(天竜寺開山夢牕国師、建治元年十一月朔日生、
母平政村女、観応二年九月晦日化、七十七)
695 :
日本@名無史さん:2010/04/02(金) 01:37:03
時政は政子を伊豆目代の山木兼隆と結婚させようとしたんだよね?
696 :
日本@名無史さん:2010/04/05(月) 11:33:32
末期鎌倉政権においては、将軍というのはどのような存在だったの?
統治権も主従制的支配権も得宗に握られていたんだから、存在意義がなくない?
697 :
日本@名無史さん:2010/04/05(月) 17:33:30
>>695 違います
>>696 将軍がいなければ幕府つくれません
総理大臣がいてこそ官房長官がいるのです
698 :
日本@名無史さん:2010/04/05(月) 19:49:37
>>697 どれくらいの力があったんですか?
なんか北条氏の差し出す書類に無条件に署名したり、
儀式に出たりするくらいのイメージしかない。
頼朝が挙兵する直前も、伊豆の国司は源頼政の縁者だっけ?単純に、山木が平家の有力者とコネがあるから
北条がそれになびいたとも言えないのかね
700 :
日本@名無史さん:2010/04/06(火) 21:01:47
得宗の地位は、後期においては完全なる将軍権力の代行者としてのそれ。
と考えると、確かに後期政権においては、得宗のみが存在していればよいようにも
思える。
しかし、あくまでその地位は「将軍権力代行者」なのであって、「将軍」
そのものではない。ということは、すなわち代行する元の存在が必ず必要
なわけであり、結局後期の将軍の存在意義としては、
・権威ある存在として、「将軍権力代行者」得宗に権威を付随する。
・権力を代行する得宗に、本来の権力者として権力の基盤を与える。
の2点であったと思われる。
>>698 現代日本の天皇も、日本国政府の言うなりに御璽を押すご公務に従事する
ばかりで「政治的実権」は皆無だが、日本国の成立からの歴史を背負う天皇
という存在は、日本国の主権の根拠を支える象徴として必要な権威であって、
天皇個人に政治的実権が無いからといって存在に意味が無い訳ではなく、
むしろ存在することに重要な役割がある。
鎌倉幕府と将軍職も、将軍個人の実権は乏しくても、幕府という政体の権限
の根拠として「象徴の存在」が必要だったとすると、現在の政府と天皇の関係
と構造がよく似ているね。
702 :
日本@名無史さん:2010/04/07(水) 22:32:35
>>699 山木は源三位頼政の後の平時忠つながりだろう
新八
僕達の国が、侍の国と言われたのは昔の話。
でも実際は今でも、侍の末裔が権力を握ってる。
銀時
新八〜!鋭いじゃねえか。
天皇・貴族から権力を奪取して、侍の国にした北条氏カムバァック。
704 :
日本@名無史さん:2010/04/08(木) 22:24:35
>>656 「治承三年正月十九日 解官右衛門尉平兼隆、
廷尉也、不和其故父信兼申行云々。」(山槐記同日条)
山木兼隆が流罪になったのは治承3年1月19日
705 :
日本@名無史さん:2010/04/08(木) 22:34:55
>>698 >北条氏の差し出す書類に無条件に署名
鎌倉後期の親王将軍は公的文書にはいっさい署名(花押)しない。
706 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 12:24:47
>>697 >総理大臣がいてこそ官房長官がいるのです
鎌倉後期の将軍は総理大臣とは違います
・将軍は幕閣の任免権を持っていない
・将軍は行政各部の指揮監督権を持っていない
・将軍は軍事・警察の指揮監督権を持っていない
・将軍は閣議を主宰する権限を持っていない
いま大河見てて頼朝没後の政変を読み直したけど
・梶原景時の変→城氏の反乱
・比企能員の変→頼家幽閉
・畠山重忠の誅罰→牧氏事件
・和田合戦
・承久の乱
・伊賀氏の変…
・宝治合戦…
この中で執権北条氏最大の危機と言うと承久の乱かと漠然と思ってたけど、
実は比企氏の政変かも知れないと思った。
頼家・比企氏と政子・北条氏じゃ浮動票の帰趨によっては危なかったかも。
708 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 21:42:24
北条氏の危機と言えば嘉元の乱の内ゲバも酷いな。
二月騒動のように上手くいかなかったんだろうか。
自分は一番の危機は和田合戦だと思うかな。
三浦が和田についてたら、普通に義時は殺されてたと思う。
実朝は助かったかもしれんが。
比企のときはあぶないといえばあぶないが、実は比企はそんなに支持は
得てないように思う。だから、比企は北条をおさえつけられなかった。
承久は義時は結構事前から準備おこたりない感じするから
初動さえ間違わなければ普通に勝利しそうだ。
普通に殺されるような合戦を仕掛けたと言うことは
@三浦の去就について確信があった
A和田との対立が不可避だった
どっち
公的文書に署名するなら将軍の名において・・・と権威としての役割がある
と思えるが署名はしない。
指揮権や任命権等もない。
じゃ何の必要があって京から迎えたんだろ?
政治にはまったくいらんけどさ
祭事をやってもらうにはよい存在なんでないか
と言うか権限の行使を正当化してもらう存在が必要なんでは?
>>711 著名という形を残さなくても、ただ「将軍が鎌倉に存在すること」だけで、鎌倉幕府の執権政治
がやること全ての前提に「将軍も承認しているはず」という事実上の名目を得られるのでは?
715 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 23:47:55
先例重視主義でしょ。
たぶん、鎌倉末期の鎌倉政権にはもはや将軍の存在意義はほぼ0に
等しかったと思うけど、先例を重んじて将軍を招いていたんだと思う。
もちろん、北条と疎遠な豪族を幕府につなぎとめるための働きもあったと
思うけどね。
執権北条氏は権力の正統性の曖昧さが最後まで響いたね。
あれで後醍醐なんて天皇が出てこなかったら反乱にも求心力もなかったのに
結果的に、後醍醐の出現は朝廷にとっても鎌倉にとっても迷惑な話でした。
717 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 13:23:52
>>716 >あれで後醍醐なんて天皇が出てこなかったら反乱にも求心力もなかったのに
? 日本語で頼む
かりに得宗専制に対する不満があったとしても、
後醍醐と言う、明確な親政構想を持った天皇と言う「核」がなければ
各地方・階層ごとの反抗を「倒幕」と言う潮流に一本化できなかったんではないかと。
体制への不満が幕府打倒と言うドラスティックな展開に発展したのは、
歴史の必然もさることながら、天皇である後醍醐の個性が大きかったと思う。
719 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 17:44:19
『龍が如く』のプロデューサー今更ながら名越なんだな。
よみは「なごし」だけど途中で変わったりしないものなの?
>>715 御成敗式目なんかも頼朝の裁可を基準にして整備したのなら、はんこ押し係としてでも皇族将軍みたいなのでも必要だったのかな
721 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 00:12:04
日本歴代政権担当者中、最も質素だった北条氏。
酒池肉林の大奥なんか、なかったよ〜ん。
722 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 02:02:01
>最も質素だった北条氏
?
723 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 02:46:54
↑天皇 藤原氏 平氏 源氏 建武政権 足利氏 戦国大名 織田・豊臣 徳川
以上に比較すると、一番つつましく贅沢を控えた権力者。
724 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 06:57:41
北条氏は、「坂東武者」というイメージはありますね!
725 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 09:26:03
北条氏は、方丈。つまり真言宗系の寺の住職だろう?
永井晋さんがリブレットで書いてるけど、
高時政権の失敗は正中の変のあと後醍醐更迭に動かなかったことじゃないの
比較的、融和を重んじた政権が逆につけ込まれるって、皮肉だね
727 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 11:53:26
>融和を重んじた政権が逆につけ込まれるって、皮肉だね
皮肉でもなんでもない。融和を重んじたから付け込まれたのだ。
権力者は常に権力闘争をし、敵対勢力を排除し続けなければ権力を維持できない。
これは古今東西変わらない。現在の日本も同じ。
時政から貞時まで歴代の得宗もみな敵を打倒してきた。
高時は権力の「いろは」を知らないバカ殿様。
高時はやさしかったんだろうな
それでも、後醍醐みたいな狂気というか妄執が必要でしかも
敗者復活みたいに2度やらなきゃならんかったが
他の得宗はこわーーい人がそろってるから、反乱すらおきん
後鳥羽ぐらいか
>>727 泰時は?
単に後醍醐なんて朝幕関係を根本から破壊するような
基地外が出てくると思わなかっただけでしょ
730 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 14:05:19
>>723 鎌倉に旅行に来た京都の高貴な女房が
貞時の屋敷の豪華さにぶったまげたらしい。
731 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 14:33:47
>>729 泰時は武断的な面がある。
承久の変の時、激流の宇治川で敵前渡河作戦を強行し、おびただしい犠牲者を出しながらも
官軍を壊滅させて短期決戦で幕府を完勝させた。
もし京都制圧が遅れ、後鳥羽上皇が吉野の奥にでも逃げ込んで持久戦になったら、
相当面倒な事になっていただろう。
政子が「承久の乱鎮圧の功績は泰時にある」といったのも当然だろう。
政子の泰時評はあてにできんw
宇治だけでなくて瀬田も普通に渡河戦に勝ってたからどっちにしろ
あれは幕府軍が勝ってたよ。
でも、泰時は必要がなかったから融和してただけで、やるときには
やる人なのは同意。天皇家への態度でもそうだし。
733 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 15:15:01
泰時ってかなり豪腕だぜ。
伊賀氏の事件でも、伊賀氏は伊豆に幽閉された直後、急死しているから
泰時に殺されたんだろう。政村には義時の遺産を少ししか与えなかったし。
自分が死ぬ直前には朝時・時盛を出家させているし。
それから暦仁に頼経と上洛したときは孫経時を九条道家と面会させて
執権後継の下地を作っているし。泰時のやることかなり強引だわな。
そうしなければ得宗の権力は確立できなかっただろう。
>>730 時頼くらいまでは味噌の残りで酒を飲むくらいに質素だったのに、貞時のころには裕福になってたという話もあるね
735 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 15:26:44
時頼・時宗の代に建長寺・円覚寺などの大寺院を建立できるんだから
時頼・時宗時代から裕福だろう。
736 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 17:11:45
>>730 まあ、貞時は有力な御家人や御内人を誅殺して歴代中、一番権勢を誇った得宗だし。
それでも、江戸城と京都御所位の差はあったと思われ。
また高時の闘犬も、生類憐令で中野区にあった犬屋敷に比較すると、最高権力者の細やかな趣味程度。
明治以降の国策・皇国史観主義の為、厳しく批判された。
>>731 それを武勇と捉えるかテンパリやすいと捉えるかは研究者間で分かれるんじゃない?
それに高時だってやる時はやったよ。失敗したけど
738 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 18:06:39
>>737 失敗したら普通に駄目だろう。
承久の乱の泰時の果敢な猛攻は、武勇とかテンパリとかとは違うと思う。
幕府にとって、早急に京方主力を壊滅させ一日も早く上皇の身柄を確保するのが至上命令だった。
下手をしたら源平の戦いや南北朝の動乱のように長期戦になっていたかもしれない。
宇治川の渡河作戦を常軌を逸してるという研究者もいるがそれは軍事的な面だけの見方。
政治的には被害が多くとも短期決戦を選ばざるを得なかった。
自分も河にとびこもうとしたからテンパリやすいといわれるんじゃね
朝時が敵に囲まれた噂聞いたときもとびだしていったな
そういう体質があるのかもしれんw
740 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 18:33:46
>自分も河にとびこもうとしたから
そのくらいの気迫見せねば御家人が命がけで戦わないのだろう。
宇治川の戦いで「武蔵守殿御手」(泰時の御内人)が10人も戦死している。
彼らは泰時の命令で攻撃の最前線に出て奮戦して死んだんだろう。
まず泰時や御内が奮戦しないと他の御家人はついてこない。
741 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 18:42:55
>朝時が敵に囲まれた噂聞いたときもとびだしていったな
これは得宗家と名越氏との微妙な関係を考慮しなければならないだろう。
泰時は朝時との兄弟関係が良好であることをアピールする必要があったんだと思う。
時房の方が泰時よりすべてにおいて落ち着いてる印象はあるな
やぱ経験か
743 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 19:15:54
>>742 >落ち着いてる印象
落ち着きすぎてるかも。
囲碁に夢中で上洛の出発に遅れてしまったり。
744 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 20:34:40
宇治川の戦いで泰時の渡河を制止した春日貞幸。
泰時が戦死すれば、朝廷に弓引く事に恐怖していた御家人達は、京都方に寝返りした可能性もあった。
その場合、幕府は敗北し朝廷に忠実な一組織になっていた。
承久の乱の幕府勝利の最大の功労者、《春日貞幸》
>>735 必要な時のために奮発するために、日常生活を切り詰めるってのは、裕福なのかしら?
746 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 22:40:35
鎌倉中期の味噌は決して粗末な食べ物ではなかったそうだ
当時の人が質素といってんだから質素なんだろう
748 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 23:37:41
>当時の人が質素といってんだから
徒然草215段の「平宣時朝臣老の後」の話ですよね。
その話しには時頼が質素だとか倹約家だとかは一切書いてありません。
ある夜、大仏宣時が時頼から「一人で酒を飲むのはつまらないから一緒に飲もう」と招待されたが、
急なことで、宣時が「ちゃんとした服が無い」というと「夜だからどんな身なりでもかまわない」というので、よれよれの服で時頼邸に行った。
二人でさあ飲もうとしたが肴が無いのに気づき、時頼が「家来が寝てしまったから、キミが台所で適当なのを探してくれ」
と言うので、宣時が探したところ味噌があったので、それを肴に飲み交わした。というだけの話しです。
質素といってるじゃないかw
わざわざのせるというのは、当時いろいろ語られてたんだろうね
750 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 01:12:43
読みが甘いなあ。質素とかいう話じゃないんだよ。
宣時は「時頼の代は得宗と一族が親密だった」という事を話しているの。
宣時は泰時末期の仁治3年(1240)生れで幕府滅亡10年前の元亨3年(1323)に84歳とい長寿で亡くなった。
時頼・時宗・貞時・高時の四代の得宗の治世に生きたわけだ。
幕府末期になると得宗を頂点に北条各家の家格が確立し、堅苦しい世の中になっていた。
それを歎いて昔は良かったと言っているんだよ。
ちなみに時頼に呼ばれたのは宣時が二十歳前後の時と思われ、まだ父朝直や兄朝房が健在で(或は次兄の時仲も存命だったかもしれない)、
大仏家の三男坊で無位無官の宣時を得宗の時頼が気軽に酒に呼んでくれて二人で酒を飲み明かしたという心温まる時代を回顧してるわけ。
なんで、質素倹約の話になるんだかわからん。
751 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 01:24:04
>>749 別にあなたを批判しているわけではありませんよ。
恐らく室町江戸時代にすでに質素倹約の手本みたいに思われていたんでしょう。
しかし、時代背景や宣時の立場を考えると質素倹約の話ではないと思います。
大仏流ってその後も執権や連署出したり、そんな悪い家柄じゃないでしょ。
古老の回顧談って昔を美化して今を暗に批判する文脈もあるから、
質素と言うニュアンスも込めてると思ったほうが良いんじゃないの?
「昔はものはないけど愛情があってよかったよ」と言うようなもので
「昔はバブりまくってたよ!今は愛情はあるがカネはないね!」なんて古老はいない
わざわざ家来を起こさないで自分たちで調達したってのと、酒の肴が一品しかないけどそれでも家来を起こして
準備させたりはしなかったっていう、気遣いの話も含まれてるのかな
754 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 11:49:52
泰時の合戦の時の逸話って、和田合戦の禁酒の件といい、
承久の乱の渡河止めた話といい、笑い話なのか褒め称えてるのか分からない話が多いなw
755 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 12:26:32
>>752 >質素と言うニュアンスも込めてると思ったほうが良いんじゃないの?
この話には道徳的な意味合いは薄いと思う。
・夜中に人を呼びつけるのは迷惑な話だろう。宣時もあわてている。
・酒宴も、「平諌草文」という貞時への換言の文案に「頻繁に酒宴をやるのは良くない」と書かれてある。
当時の身分制や道徳観から言うとこの話は道徳的でないとさえ言える。
著者の兼好は金沢氏と親しかったらしい。又宣時も金沢貞顕と親しかったから、
宣時が貞顕に話し、それを貞顕が兼好に話したのかもしれない。
この話は宣時本人が言ったことをかなり正確に伝えていると言っていいだろう。
すでに鎌倉末期には時頼は理想的君主と見られていたらしいから、宣時が
「オレ、時頼様とこんなに仲良かったんだぜ」と自慢したかったのかもしれない。
「質素倹約について書いてある」という先入観を持たずに読めば
「親密な人間関係」という筋が浮かんでくると思うんだが・・・。
756 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 18:04:07
天皇・将軍は何をしても許されると思う輩は、北条に処分される。
この国は善政を行っても、天皇を蔑ろにすれば非難され、悪政でも勤王にはげめば賞賛される。
日本人の知能・道徳観念
天皇≫≫≫民衆
まっ、当たり前だわな。
徒然草が何の意味も込めずにこの逸話を記したとは思えないなあ。
それに平政連諌草に言う「酒宴」って、徳治三年(貞時が政治に倦んだ晩年)のことだから、
徒然草にあるような質朴なそれの対照にあるものでしょ。
質素倹約でなければ
>>750の言うように得宗専制への揶揄の意味合いも込めてたか。
いずれにせよ単なる回顧録とは読めないなあ
758 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 18:50:45
>>757 私は兼好が著述した意図より、宣時が発言した意図に興味がありますね。
「平宣時朝臣、老ののち、昔語りに・・・」とあるから宣時晩年の高時期あたりの話しでしょう。
当時連署だった金沢貞顕でさえ得宗高時との人情味のある親密さ思わせる史料はみあたらいから、
得宗専制が生み出した権威主義の弊害が出てきたのかもしれない。
また病弱な高時には、幕府要人や北条一族との良好な人間関係を築くことができなかったのかもしれない
宣時は、それを憂いてこの「昔語り」を貞顕に話したとも考えられる。
このままでいくと幕府の人間的な主従関係が希薄になり危険だと。
ともかくこの話は、鎌倉末期の政治情勢を考え併せて読むと、含蓄のある話ですよね。
質素奨励じゃないにしても、酒宴をやたらと開くのが良くないという前提で言うなら、頼時の時代には家来にも黙って
夜中にこっそり飲んでた酒も、最近じゃやたらと酒宴を開いていていかんという老人の愚痴もあるかな?
760 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 20:36:12
平宣時朝臣、老の後、昔語に「最明寺入道、或宵の間に呼ばるゝ事ありしに、『やがて』と申しながら、直垂のなくてとかくせしほどに、
また、使来りて、『直垂などの候はぬにや。夜なれば、異様なりとも、疾く』とありしかば、萎えたる直垂、うちうちのまゝにて罷
りたりしに、銚子に土器取り添へて持て出でて、『この酒を独りたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。肴こそなけれ、人は静まり
ぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ』とありしかば、紙燭さして、隈々を求めし程に、台所の棚に、小土器に味噌の少し
附きたるを見出でて、『これぞ求め得て候ふ』と申ししかば、『事 足りなん』とて、心よく数献 に及びて、興に入られ侍りき。
その世には、かくこそ侍りし か」と申されき。
761 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 21:21:00
兼好の歌の詞書に「平貞直朝臣の家にて歌よみしに旅宿の心を」というのがある。
兼好は鎌倉に来て大仏貞直の家に宿泊していたらしい。
貞直は宣時の孫だから大仏家と兼好は繋がりがあったようだ。
だから宣時の昔語りは貞直から聞いた可能性が高いな。
とすれば、この話は世間の噂を聞いて徒然に書き止めたものではなく
しっかりしたソースがあったわけだ。
もしかしたら、兼好は宣時本人に直接会っているかもしれない。
宣時は孫の貞直が評定衆やってるときまだ生きていたからな。
しかし、文書のニュアンスからして、この話を直接宣時から聞いたようでもなさそうだし。
そのへんの所はよくわからん。
スレ違いかもしれませんが、関連性は皆無ではない筈なので
ここに書き込ませていただきますが
あの、凄い初歩的な事が気になったんですが
鎌倉時代の、無足御家人というのは自前の所領を全て失った御家人のことをいうそうですが
「無足『御家人』」と肩書きに『御家人』の三文字があるからには、無足になったとしても
理屈的には幕府に役人として勤務し続ける資格を持っていたんですかね?
また、もっと初歩的かもしれませんが
鎌倉幕府には江戸幕府みたいに「蔵米取り」なんてのは一切なかったんでしょうか?
得宗になります。
764 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 01:17:51
北条氏は、時政以前の出自が不明で、鎌倉幕府滅亡時に族滅してしまった幻の氏族だな
得宗家の位階が従五位で、日本史上最も控えめな独裁者達だった
無足の連中は得宗被官になったってこと?
得宗被官って、しかし結構な有力武士もなってるんだよね
766 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 01:24:54
>>764 義時 従四位下
泰時 正四位下
経時 正五位下
時頼 正五位下
時宗 正五位下
貞時 従四位上
高時 正五位下
だと思ったが?
官位は京からもらうものだから、官位を重視すると京にへりくだらなきゃならん
執権が低いことで、他の御家人も京に媚びることも遠慮しなければならんし
武家政権が確立して以降は、そんなことはどうでもよかったかもしれん
最高権力者の執権は北条が決める、他の官位だの役職だの京の動きだのは関係ない
というのはすげーと思うw
徒然草は質素倹約の話に普通によめる
時頼時代は過差の禁止というか、贅沢禁止令がよくあったし
かわらけにわずかについたミソで二人で普通に酒飲んだなら質素だろうw
769 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 10:23:51
質素なら酒も飲むなよw
今日の仕事は辛かったあとは焼酎煽るだけ♪
鎌倉時代の奴婢の暮らしも昭和の山谷暮らしと同じようだったんですね。
771 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:04:05
味噌をあてに酒を飲んだ話を質素と結びつけるのは、酒飲みの心理を知らないからだろうな
俺の知り合いの酒飲みは、昼食をとった後は水の一滴すら口にしない。
そして半日、のどが渇くのも我慢して、夜になって日本酒を何のつまみもなくキューッとやる事を無上の喜びとしている。
もちろん晩飯なんかは食わない。夜は酒しか口にしない。(塩ぐらいはなめるかも知れないが)
断っておくが、これは金がないからこんなことしてるわけではない。酒を
それほど愛しているからである。
晩飯のおかずが味噌だけというのは確かに質素だが、酒のあてが味噌だけというのは、
質素とは別の概念、ただの飲ん兵衛を意味する。
文科省はちゃんと教科書を修正させるべきだな。
ミソをだしてきたんでなくて、台所にかわらけに残ったミソしかなかったんだよ
773 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:07:50
たしかに
774 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:25:36
たまたま肴がなかったから残り物のミソですませただけで
普段は立派な肴だったんだよ
>>767 >最高権力者の執権は北条が決める、他の官位だの役職だの京の動きだのは関係ない
>というのはすげーと思うw
平家が官位を求めたのと対照的ではあるな。
でも弱点もある、朝廷・公家衆を実力で遠隔操作している形で、
王朝国家秩序から見ると執権であっても公卿になれない存在なので滅びる時は一瞬
むしろ弱点のほうが大きいかも知れない
御成敗式目も、従来の法とはまったく関係ない、と断言してるし
そういう発想がなければ日本にこれまでなかった新たな体制なんて生み出せないだろう
平家も滅びるときは一瞬だったから官職はあんま関係ないだろう
779 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 02:13:04
>>776 朝廷・公家衆を遠隔操作
北条氏は、それを親王将軍に期待したんだ。
親王将軍の役目はまさしくそれなんだよ。
幕府内の主従的支配権や統治権的支配権は北条氏の役目。
平家が滅びる時は、内乱の発端から追討の院宣が出たわけではないじゃん。
京の支配者が軍事的に敗北して交代する局面で追討対象になってるわけだし
(逆に頼朝は後白河の対立勢力打倒の唯一のパートナーになってから反乱軍から脱却)
足利将軍家、平家、豊臣家と、相応の軍事力を持って公武一体化して近場で掌握していれば
少なくとも、ある日とつぜん逆賊とか言う事態はありえないしね
781 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2010/04/24(土) 21:43:39
このスレめちゃくちゃな議論ばっかだな
多すぎて反駁書く気が失せるね
782 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 21:51:06
武陽隠士頑張れ
783 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:00:32
>>781 全部じゃなくてひとつでいいから反駁しなよお。
ウィキで調べてないでさあwwwww
早くぅ〜wwwww
784 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2010/04/25(日) 00:18:09
>>783 日本史に限らず人文系の知見でウィキなんかみないし見たことない。
ウィキはメチャクチャ。ここの住人に毛が生えたようなレベル(自分の専門や特別詳しい事柄を試しにチェックしたことがある)。
785 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:21:56
>>769 酒飲むなっていうけど、残り物の酒は早く飲まないと劣化してしまうの
酢になっちゃうのよ、この時代のお酒はね
宴会があると事前に酒を仕込むんだけど、すぐに悪くなってしまうの
だから残った酒を見つけた時頼は今夜のうちに飲んでおかないと、って思ったの
でも夜中に呼び出して・・・となると気の張る相手はいやでしょ
だから若い部屋住み?の宣時を呼びだしたんでしょ
786 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:37:19
787 :
785:2010/04/25(日) 00:49:57
>>786 違うよん
私は2ちゃんで「。」なんかつけないもの
ウィキも見るし
図書館で前に借りた本、安西篤子「北条時宗と蒙古襲来」だったかな
それに書いてあったっから、目から鱗だったよ
鎌倉時代の酒がすぐに悪くなってしまう、酒屋なんかもないから
宴会を開く時は、自宅で酒を作らないといけなかったんだってーのが
宗尊将軍が前触れもなく政村の家にやってきて、もてなしの準備もないのに・・・
って話が出てて、その日は政村の娘と時宗の弟の結婚式だったから
その婚礼用の支度を宗尊将軍の一行に流用したのだそうな
婚礼に呼ばれた客はいい迷惑だ
なんですぐ酢になってしまうのさw
酒として飲めるのが一瞬だけだと思ってるのかw
789 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:56:39
「酒屋なんかもない」というのは鎌倉幕府の沽酒禁制令のためだろう。
政村娘と宗政の婚儀の話しは吾妻鏡文永2年7月16日に出ている。
しかし、酒がすぐに悪くなるというソースが分からない。
790 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:56:48
>785
一晩で、酒から酢にはならない。
冷暗所においとけば、しばらくはもつよ。
鎌倉時代の最高級酒といえば諸白です。
江戸時代まで諸白といえば高級酒の代名詞。
792 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 11:25:39
>787 :785:2010/04/25(日) 00:49:57
>>786 >違うよん
>私は2ちゃんで「。」なんかつけないもの
>ウィキも見るし
バレバレじゃん
どうやら武陽隠士は自説に自身が無いと名前を隠すらしい
それからウィキも見るらしい
793 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 15:20:57
ブヨーは逃げたw
ブヨ―が読む本は安西篤子らしい
ブヨ―の家の酒は一日で悪くなるらしい
ブヨ―は本を買わず図書館で借りるらしい
味醂みたいなものでしょ、この時代の酒って
放置しておくと酢になる??いつも冷蔵庫に入れてるから分からないけど
796 :
日本@名無史さん:2010/04/30(金) 19:27:26
元弘の時に裏切ろうとした物はいなかったのですか?
交渉したけれど後醍醐側から北条は皆殺しよと言われたのだろうか?
逃げた者、幕府滅亡を聞いて投降した者はいても、裏切った者はいないでしょ。
強いて言えば代々縁戚関係を結んでるのに、現地で劣勢と見てひよった足利…
しかも逃げた者(泰家、時行)は親政後、南北朝期に入っても足利に抵抗を続けてるし、
投降した大仏は足利に預けられてたが、そのあおりで斬られてる
他人を裏切っても自分たちが息の頃ことを最優先にするのは、なんといっても上杉氏ですよ。
天地人を見てあんなに身勝手な氏族がいるのかと呆れました。
中央貴族を裏切って関東に移住、信長も秀吉も家康も裏切って自国最優先。
古代ユダヤの失われた10氏族の一つユダ族の末裔は、また自分たちのために生きる。
自己保存本能の強い氏族が生き残るのが今の世の中なのです。
>>798 裏切りなんか当たり前の時代ですよ。
なにも上杉に限った話じゃないですな。枚挙に暇が無いでしょ。
毛利元就なんかもっとあくどいし、伊達政宗は実の母に毒殺されそうになった。
そんな例はいくらでもある。
そもそも革命で前王朝を倒した創業者なんかで、裏切りと無縁の者の方が稀でしょ。
そんな中でわざわざ上杉氏だけを名指しで非難する意図がわからん。
ユダヤ云々はカテ違い。
歴史じゃありませんな。小説のたぐい。
>>800 北斗信仰がユダヤの棄民だった動かぬ証拠。
その正体を隠すには、宗教も捨てて八幡かお稲荷さんに乗り換えるべきだったな。
貞俊は5月になってからでしょ
既に名越戦死、足利挙兵後だから内応というより逃亡に分類されると思うな
>>801 動かぬ証拠?
なんの証拠にもなってないがね。
北斗信仰はユダヤ由来じゃないんだぜ。
いずれにしてもカテ違い。
一門ではないが、高時の嫡男を預けられたものが裏切って
邦時をさしだしてる
その裏切り者はみんなに憎まれて、誰も食い物をめぐんでくれなかったから
飢え死にしたという伝承がなかったっけ
と言うか、直前まであれだけがたがたやってたら普通は内応者が出そうなんだけど、
上洛軍敗北→一族自刃の流れが1ヵ月くらいで裏切ってる暇もなかったのかも知れないな。
日本史上で直前まで崩壊を予知できなかった政権じゃないの?
鎌倉武士だからなあ。
素朴で純粋だったんじゃねぇの?
直前まで崩壊を予知できなかったって点では、恵美押勝なんかもそうだよな。
信長はちょっと事情が違うな。
鎌倉政権はかなり強力で安定した政権のイメージあるよ
だから、北条氏というのもかなり強烈なブランドだったから
その中で裏切るのも難しい感じはする
無名な家の方が裏切りも簡単な感じする
北条早雲の息子たちがまた北条を名乗るぐらいだからな
808 :
日本@名無史さん:2010/05/07(金) 17:22:31
地味に自称北条末裔もいるんだな。
尾張横井氏(平野氏)
伊豆岡野氏(板部岡氏)
飛騨江馬氏(佐介氏?)
常陸江間氏
伊勢阿曽氏
宇都宮氏家臣北条勝時
809 :
日本@名無史さん:2010/05/08(土) 14:15:08
武士の台頭と言うのは、歴史的に言うと国家権力の衰退に伴って、各地域の暴力団が
のさばりだしたようなもんだろうな。
そして、そのなかで広域暴力団ミナモト組が鎌倉時代に頂点に立った。
しのぎは、主に強請りタカリで、北条組は有力な直参。
初代組長頼朝から三代目までは血縁が続いたが、4代目以降は、北条組が跡目を継いだ。
山口組で例えると、和田合戦は、内部抗争の山一戦争のようなもの。
武士の台頭というのは、大和朝廷の東北征伐で、まつろわぬ蝦夷の俘囚を移住させたことが影響している。
初めは、安い労働力として使っていたのだけれど、朝廷の力が衰えると武力をもった傭兵として力をつけ、
元の主人ともども葬り去って支配地域を広げていったのです。
彼らの出自は、沿海州から渡ってきたツングース系の首狩り族ですから、みやびやかな貴人が立ち向かうことはできません。
その結果、関東は、蝦夷の子孫の支配するところとなった。のです。
軒を貸して母屋を取られたということでしょう。
>>810 武士の使用した武術(弓馬の術)が蝦夷由来のものだろうとは思うけど
有力武士団の主要メンバーは蝦夷ではないだろ
和田合戦って、和田もかなり図々しいだろ。
そもそも上総国司任官を重ねて要望してる時点で警戒されても仕方ないよ。
上総国って親王任国でしょ?
武士なんかが国司になれるわけないじゃん。
814 :
日本@名無史さん:2010/05/16(日) 14:04:50
上総介のことだろ
以前足利義兼が補任されたことがある
親王国と言うと朝廷直轄ということで、朝廷の支配が及んでいたかのように見えるけれど、
実際は、中央で政権交代があるたびに、なくても数年おきに太守や介は変わったから、
大きな勢力は育たなかった。
平将門の乱で懲りたのだろう。
網野善彦だったか、和田が武蔵の六浦だか山内に加えて上総介を兼ねたら、
江戸湾の水上交通を完全に支配することになると指摘してたことがあったな。
817 :
日本@名無史さん:2010/05/18(火) 17:27:43
頼朝は江戸湾を逃げて、安房国に上陸しましたが、なにか?
↑全然意味違うってwww
819 :
日本@名無史さん:2010/05/19(水) 10:20:34
>>816 そういえば、六浦の領主だった金沢氏に上総介が多いなあ
江戸湾のような僻地を支配して意味あるのか?
江戸湾が僻地!?関八州の大福長者がいるのに
822 :
日本@名無史さん:2010/05/21(金) 01:29:12
今、セイコーでお家騒動が起きてるんだけど
名誉会長解任クーデターの展開が、時政&牧の方追放事件の顛末とそっくり
この手の内紛て時代の今昔を問わないのね
解任クーデタの例がイトマンじゃなくてセイコーというあたりに
時代の流れを感じるな。でも、ほぼ同意
>>823 時代の流れっつーか、現在進行形で起きてるからね、セイコーの話は
イトマンの解任クーデターの話は知らないけど
セイコー
解任された名誉会長=時政、側近のU女子=牧の方、
新社長になった名誉会長の養子(血縁的には甥)=義時
↑ビジネス板の人的にはボンボンみたいだが
役回り的にぴったりなんだわこれが
ワンマンをあやつる「女帝」が出てくるとこまで
東国の六腹と呼ばれる上毛野朝臣、下毛野朝臣、佐味朝臣、池田朝臣、車持朝臣、大野朝臣、
彼らの子孫が京守護職として六波羅の地を治めていた。
北条氏の男系子孫って生きているのいるの?
中先代の乱後に消息しれずになった遺児の子孫あたり自称している人が
いるかどうかは知らないけど、そんなんじゃなくてちゃんとした人でね。
ああ、もちろん平成の世に生き残っている人がイルカという意味です。
自称とちゃんとしたの区別がつかないんだが
追補の手をのがれる中でどうやてちゃんとした家系が残れるのか
とりあえず伊豆の願成就院は末裔とかいってないけ
あと自称で有名な家があれこれあるな
829 :
日本@名無史さん:2010/05/30(日) 21:46:06
生物学的な男系子孫は結構いると思うけど、歴史的に家系血統の両方を維持した家は皆無。
自称で有名な家って誰も明治以降誰も華族認定されてないんでは。
つまり、「言ってるだけ」ってことだよね。
>>830 本物だとしても北条の場合、華族認定されるかは微妙じゃないかと
「将軍家」ならともかく
室町幕府の「管領家」で、江戸時代に大名にならなくて没落した家筋はどうなってる?
832 :
日本@名無史さん:2010/06/01(火) 16:10:54
>>831 陪臣になった斯波や細川京兆家ならともかく高家として存続した畠山尾州家すら士族だから。
ちなみに「水野出て 元の田沼と なりにけり」の悪評、
かつ水野忠邦を登用した水野忠成は旗本岡野氏は板部岡江雪斎の子孫だから一応北条氏の末裔
>>832 加賀前田家に仕えた陪臣の斯波(江戸時代には津田を名乗る)は、男爵もらったみたい
陪臣でも一万石以上の家老クラスは男爵になれたようなので
家格が評価されたのかっていうと微妙、佐賀鍋島の家老、諫早氏とか
高家だった平野(七本槍の一人)は一応、北条末裔って説があるみたい
明治維新後、高直しで立藩して一万石認定されて、男爵もらったみたい
ただし江戸期にすでに養子が入ってる
華族認定は徳川家以外は家格はあまり考慮されず、基本は石高のみが認定基準みたい
時代劇専門チャンネルで
「北条時宗」始まってるね。
さっき第2話の放送してた。
835 :
日本@名無史さん:2010/06/04(金) 13:45:17
北条氏が存在しなければ、
鎌倉幕府は成立しなかったであろう。
朝廷は有名無実に、ならなかったであろう。
元寇は防げなかったであろう。
西武レッドアロー
朝鮮人にとっては時宗はわが民族の倭支配を妨げた憎い敵
837 :
日本@名無史さん:2010/06/05(土) 15:31:01
元寇で日本が敗北してたら、元皇帝は高麗王に日本を委任統治させてたかも。
838 :
日本@名無史さん:2010/06/05(土) 15:42:33
天皇には代わりに関東と東北与えるから無問題。
839 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 16:33:46
元寇で日本攻撃の兵站・前線基地だった高麗。
明治以降、ロシアに朝鮮を占有されると、元寇の二の舞になると清・露と開戦、韓国を併合。
太平洋戦争で朝鮮半島からのソ連軍でなく、東から島づたいに侵攻してきた米軍に降伏。
日清・日露戦争で死んだ日本人、約12万人は犬死に。(T_T)
>明治以降、ロシアに朝鮮を占有されると、元寇の二の舞になると清・露と開戦、
>韓国を併合。
露との戦争はともかく、半島を併合するのは余計だったわぬ
日本海海戦でロシアの海軍力は壊滅してたんだから
いくら陸戦力が膨大でも、泳いで日本海渡ってくるわけでなし
あの後、軍備に対する予算を軽減して民政にもっと振り向けるべきだったんだな
アメリカと戦争するつもりがないなら、過剰軍備になるんだし
官僚組織の自己防衛本能、自己増殖本能のせいで、いったんできた既得権益を離したくない
って論理が、日本の陸海軍に働いたせいで軍縮も進まず
存在意義を求めてアメと開戦することになった面もある
政党政治にも腐敗があったが、「統帥権干犯」問題を野党が持ちだして
それに軍部が乗ったのもよくない
極東のこの戦争(日清戦争・日露戦争)を取り巻く状況には注目すべきことが多い。
中でもとりわけ目立つのは、ミカドの軍隊の勇気と戦いぶりである。
我々は不本意ながら、日本のすべての人間の行動を支配し動かす精神力の存在を認めざるを得ない。
この力はいったい何なのか。
その存在を感じると、妬ましく、落ち着かず、腹立たしくさえある。
勇気は西洋にとっても珍しいことではない。
が、これは単なる勇気ではない。
その背後にもっと違う何かがある。
もし、西洋の軍隊がそれをもっていたら、
西洋のすべての国の軍旗は絶対に汚されることはなかったであろう。
そういう何かである。
これは何か。これは何か。これは何か。・・・・・
韓国は多年、その自主独立の政治ができなくて、過去数世紀の間、支那の宗主権を承認していた。
日本がこれを、その境遇から救った後は、日露の係争の地であった。
次いで、日本は又々、これをロシアの圧迫から脱けさせるや、
財政に行政に日本の忠言指導を受けることになり、
外交の事は、挙げてこれを日本に委せた。
それ以来韓国は少なくとも、露、仏、英諸国が、その付属国民に対すると同様の恩恵に浴するにいたった。
けれども近来、韓国は徒らに名を無実の独立国に借りて、
陰謀、奸計を弄し、隣国の激怒を招き、威圧、否戦火を蒙った。
これが実に日清・日露の二大戦役を実現したゆえんである。
ここでこそ韓国の地位に、根本的な改革を加え、
それによって禍根を除去するより以外ない。
ゆえに我々は、日本保護下における韓国に対し、
そのいわゆる 韓国の独立に永遠の離別を告ぐるものである。
アメリカ・ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙
843 :
日本@名無史さん:2010/06/14(月) 23:09:06
>>693で研究者が北条氏所領だと勘違いしてるのを指摘したがもう一つあった。
「出羽国平賀郡総地頭職」の「肥前守忠時跡」を北条忠時だと考えてるが
これは平賀忠時が正しい。(南北朝遺文関東編NO1358)
もしかしたら一般に考えられてるほど北条氏領(得宗領)は多くないんじゃないか?
844 :
日本@名無史さん:2010/07/08(木) 16:42:07
平賀忠時
誰?
845 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 17:08:26
得宗家領が一般に考えられてるほど多くない
と言うのは本当かも知れないな。後世の印象が混じってる気がする
質問です。
北条氏と十三塚の関係を調べた方はいらっしゃいませんか?
宮城県名取市・・北条氏の領地だったと伝えられている
東京都稲城市・・小沢郷は、稲毛重成の妻が北条政子の妹であった縁で北条氏の支配下に入ったと考えられている
千葉県千葉市中央区 七天王塚・・生実城・小弓城、後北条氏との関係が伺えます」
千葉県柏市・・ 千葉氏が北条氏に属するようになると、この匝瑳氏も北条氏の支配化におかれるようになった
千葉県館山市・・ ここも安房里見氏との関係が深いです
神奈川県横浜市栄区・・大船といえば迷わず北条氏ですね
愛知県岡崎市・・愛知県岡崎市にある山中城は小田原の西の防衛の重要拠点
良県生駒郡平群町 - 十三塚 (平群町) を参照
福岡県八女郡広川町・・元寇の時は蒲池諸久が松浦党の一族として出陣し、執権北条時宗からの感状を受けた
大仏流北条家の次男坊は大仏次郎と呼ばれてたのですか?
> 元寇で日本攻撃の兵站・前線基地だった高麗。
> 明治以降、ロシアに朝鮮を占有されると、元寇の二の舞になると清・露と開戦、韓国を併合。
これも理由の一つだが、第一の理由は資源豊富な満州・シベリア侵略の為、陸続きの韓国を大陸侵攻の前線基地化すべく、併合したと思われる。
豊臣秀吉が明征服の為、通過道の李朝に侵攻したのと同じ。
日清・日露戦争で兵士達を奮戦させる為、元寇を利用したと推測。
849 :
日本@名無史さん:2010/08/11(水) 14:05:36
ロシアが朝鮮半島に進出しようと目論んでいてアジア全体の平和を脅かす大きな脅威である、
特に日本にとっては存亡を脅かすほど深刻な脅威となりかねない
という話を日本の上層部に吹き込んだイギリスの存在も忘れないで。
で、いざ戦争してみると、各国がそれぞれの思惑で横から利益をかっさらっていって、
戦勝国のハズの日本が手にした果実はほとんど無かったという...
850 :
日本@名無史さん:2010/08/11(水) 15:15:14
ロシアの脅威を日本に吹き込み、自国の高価な軍艦を購入させ、日英同盟で日露を開戦させたイギリス
自国の兵士は一滴の血を流す事無くロシアの南下を阻止、日本からの莫大な軍艦購入金の収受。
東洋の猿共をおだて扇動し、代理戦争をさせ武器販売すれば、栄光ある孤立を棄て黄色人種との同盟締結など、英国にとっては安いもの。
スレ違いですただ。
851 :
日本@名無史さん:2010/08/11(水) 15:45:38
1902年日英同盟締結
当時の世界最強国家との対等同盟に、日本人は狂喜乱舞。
第一次大戦で同盟国としてドイツに対し共闘。
第二次大戦でかっての敵国ドイツと同盟、かっての同盟国イギリス対し共闘、鬼畜生呼ばわり。
う〜ん。時の流れをかんじる。
北条氏を考えた時、その寿命の短さに驚かされる。
経時、時頼、時宗、貞時、高時
どれも40前に死んでるんじゃない?一服盛られたのかな。
北条氏は後漢王朝と被って見える。さすがに10歳未満の幼主はいないけど、
権力者が短命という点で。そういう遺伝なのかな。
853 :
日本@名無史さん:2010/08/11(水) 23:59:02
戦乱の時代に生まれなきゃ、高時は長生きしたと思われ。
854 :
日本@名無史さん:2010/08/12(木) 00:47:10
>>852 義時、泰時は割と長生きしてるよ
泰時の息子、時氏の代から短命種に??
時氏の母三浦氏の遺伝子?それとも突然変異?
855 :
日本@名無史さん:2010/08/12(木) 01:10:09
隠岐で火葬人に骨格晒した、後鳥羽上皇の祟りかも…
プッ
856 :
日本@名無史さん:2010/08/12(木) 13:03:03
江戸時代の大名の話だが、父親が早死にし幼少で家督を継いだ大名は
寿命が短かったという統計がある。
幼少で重責を担うから心労で寿命を縮めるらしい。
北条氏も壮年になってから幕府の重職についた人物は長生きしている。
857 :
日本@名無史さん:2010/08/12(木) 13:32:42
織田信長→14歳で家督を継ぐ→49歳で討死
徳川家康→8際で家督を継ぐ→死んだの70過ぎ
一概にそうとも言えん
858 :
日本@名無史さん:2010/08/12(木) 13:50:08
>一概にそうとも言えん
だから「統計」の話しだぉ
権力者が短命だとその下で悪さをするのが出るからね。
子供だと言われることを一方的に信用しちゃうし。
貞時が平頼綱にそそのかされて安達泰盛を討ったように。
貞時以降はいい話は聞かないね。
もうどうしようもないとあきらめたのだろうか?
貞時も高時も執権就任は14歳だったような・・・。
幼主は国の滅ぶ元ですね。
860 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 09:24:43
鎌倉攻めで新田方に寝返った一族はいなかったかな?
861 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 19:34:38
記録になく寝返りは無かったと思われ。
千早攻めに出陣してた、名越・阿蘇・大仏の北条一門は幕府滅亡後、処刑された。
862 :
日本@名無史さん:
太平記のみでは長門探題金沢時直が降伏後、流刑坊主の気まぐれで所領安堵されたらしいがその年のうちに病死。
息子は反乱起こして討たれた