【高句麗】亡命渡来人の行方【百済】

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144日本@名無史さん
源義家の兄弟名で、
八幡太郎義家、加茂二郎義綱、新羅三郎義光。
それぞれ通称の前に諱ですかね、神社で祀られる神の名称が付いてますが、
外来神だとも聞いたこと有りますが、半島に関係有るのでしょうかね?
145日本@名無史さん:2009/08/29(土) 07:25:49
そういえば神奈川県の大磯にも「高麗山」があるな。
146日本@名無史さん:2009/08/29(土) 07:33:43
>>144
源義光は新羅明神(京都?)で元服したので新羅三郎義光。

>>141
詳しい人がいたら訂正してほしいけど、山梨には高句麗起源の氏姓は
伝わってないと思う。多いのは古代豪族の三枝性と鎌倉以降の源性。
郷土史でも高句麗からの移民のその後についての研究など見たことがない。
コマ地域が鎌倉以降に繁殖した甲斐源氏の居住地域と重なるのは気になる。
司馬遼太郎が高句麗の連中が東国の武士の起源になったのではと空想
したのは面白い話ではあるとは思いましたけど。
147日本@名無史さん:2009/08/29(土) 07:55:04
>>143
>当時の「高麗」って呼び方は必ずしも高句麗を指す言葉ではなく

半島諸国の総称としての用例は王氏高麗以前にはまず見たことがありませんね。
言うまでもないでしょうが、5世紀以降の中国史料では高句麗はほぼ「高麗」と
記されるようになっており、この時期に漢風に国号を整えた可能性があります。

>つまり「百済」のことを「高麗」と書いてたこともあるとか

それもちょっと疑問ですね。出典などあればぜひ見たいものですが。
ただ、百済は夫余を称していたのは確かで、王姓も余あるいは夫余を称し、
王家の始祖も高句麗と同じく鄒牟(朱蒙、都慕)に求めていますね。

>高麗神社では高句麗人が移民して来たと書かれてる古い巻物でもあるの?

まず『続日本紀』霊亀2年(716)5月条に、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・
下野七国の高麗人1799人が武蔵国に移され、高麗郡が置かれたとあります。
また、東大の史料編纂所に所蔵される「高麗氏古系図」によると、武蔵国高麗氏の
始祖は高麗若光であり、没後高麗明神として崇められたといいます。高麗若光は
『続日本紀』大宝3年(703)4月条に従五位下の官位を帯び、王(きみ)のカバネを
賜ったとあり、また『日本書紀』天智5年(666)10月条に高麗国副使としてみえる
「二位玄武若光」と同一人物とされます。時期からみて、この高麗王若光が立郡に
関わった可能性は十分ありますね。
148日本@名無史さん:2009/08/29(土) 09:15:17
そもそも源氏制度は北魏が起源だと。

【太武帝(424〜452在位)托跋トウの時代には、皇帝の子孫は臣籍降下させて「源氏」の姓を
与え、その親衛隊を組織する皇室制度を創設している(『親書』源賀伝)。】
この制度を真似たのが日本の源氏制だろ。
日本書紀にも中国の史書にも記されていないが、白鳳、天平時代以降は北魏の影響がすごく大きい。
平城京という名前も北魏の最初の首都の名前だ。
聖武天皇の「聖武」という言葉は北親の始祖・神元皇帝托跋力徴の父、聖武皇帝托跋詰汾の「聖武」
と同じだ。( 『馬の文化と船の文化』福永光司 著)

これらの制度、影響が日本へ来たについては半島の国家高句麗、新羅、を介して来た。
あるいは渡来人によって齎されたと考えるべきだろう。

八幡神については間違いなく渡来神だ。
宇佐八幡大神は
「いにしえ。吾は震旦国の霊神であった。今は日域鎮守の大神なるぞ」
と宣告している。
震旦国とは中国をさす。源氏制度は北魏から来たし、八幡も中国だ。
そしてそれは半島を介して伝わった。
149日本@名無史さん:2009/08/29(土) 10:05:41
>>143
高句麗と日本の関係はそれほど悪かったわけではない。4,5世紀は悪かったが、6世紀になって
百済と高句麗の関係が改善される。それに従って日本との交流が盛んになる
516年には百済使節が高句麗使節といっしょにきてるし、550年には百済の使節と高句麗の使節が
奴を倭に献上している。百済と高句麗を分けていることからも百済=高句麗ではない。
さらには、570年には北陸に高句麗人が「烏羽之表」を携えて来日入京、これが正式な国書であると
解読された。

特に新羅が唐と組んだころからは
しきりに高句麗は日本との接近をはかるようになる。白村江のあと666年に高句麗の使節が来てるし
高句麗が唐・新羅に滅ぼされた668にもきてる
150日本@名無史さん:2009/08/29(土) 10:12:07
>>144
まず八幡神は、飯沼賢司氏の『八幡神とは何か』によると、境界の神であり、
幡(軍旗)に天降った戦神であるとのことです。

飯沼氏は『八幡宇佐宮御託宣集』や「弥勒寺建立縁起」などから、八幡神は
豊前から大隈へ移された渡来系入植民と現地の隼人との軋轢と戦争に際して
出現した軍神であると考察しています。ただ、渡来系の民と関わりが深いと
いっても、特定の共同体や氏族の神ではなく、律令国家の政策の中で出現した
特異な神と位置づけられていますね。

新羅明神については、山本ひろ子さんの『異神』に詳しく述べられています。
上下二冊の大部なのでとっつきにくいけれど、非常にユニークな研究です。
それによると、新羅明神は三井寺園城寺に請来された外来神で、恐るべき験力
をもつとされます。面白いことに、園城寺のライバルである比叡山延暦寺には
赤山明神(泰山府君)が祀られており、これも在唐新羅人に関係するそうです。

>>146
>山梨には高句麗起源の氏姓は伝わってないと思う。

『続日本紀』天平勝宝6年4月条に、判官巨萬朝臣大山に従五位下が授けられた
とあり、「巨萬」の用字から巨摩郡との関わりを想像できないこともありませんが、
それ以上は何とも言い難いところですね。巨萬朝臣大山はもと肖奈大山といい、
天平19年に肖奈福信らとともに肖奈王の姓を賜っています。「巨萬朝臣」は
天平勝宝2年に肖奈福信らが高麗朝臣を賜姓された際に同時に賜ったものと
考えられますが、「巨萬」とするのは上の記事のみで、武蔵介、遣高麗大使
任官記事では福信と同じ高麗朝臣となっていますね。やっぱり、巨摩郡とは
関係ないのかなあ。