660年百済、668年高句麗が唐と新羅の連合軍に相次いで滅亡し 百済や高句麗の一部の王侯貴族や臣民が当時倭と呼ばれていた 日本に多数避難してきましたが、その後彼らはどのような運命 を辿ったのでしょうか?彼らの行方を中心に語って見ましょう。
百済や高句麗の亡命貴族の一部は当時の大和朝廷に改めて貴族として 丁重に扱われたみたいです。 そして臣民は関西だけでなく関東にも移住し、関東に移住した百済人や 高句麗人はその先住民と婚姻し、坂東武士を出現させるに至りました。 関西には百済神社が数多くあり、埼玉の入間郡には高麗神社があります。
3 :
日本@名無史さん :2009/05/21(木) 01:28:25
坂東武士を出現てのは無理があるな。 開拓民みたいに関東や東北に行ったのは事実だが。 百済王敬福が陸奥守として金発見の功績で従三位にいっとるが それ以前は従五位上 とても大切にされたとは言いがたい。 はっきりいって下級貴族。
キャンディとテリィのように愛し合ってるのに別れなければならなかった 高句麗建租の朱蒙と百済建租の召西奴は互いに両王国末期に生まれ変わり 亡命して再び日本でめぐり合いついに結ばれたのであった。めでたしめでたし。
5 :
日本@名無史さん :2009/05/21(木) 02:50:34
百済や高句麗の一部の王侯貴族や臣民が当時倭と呼ばれていた 日本に多数避難してきましたが、 ・・・多数といっても数千人程度で当時の日本人口の1%以下だろう。
6 :
日本@名無史さん :2009/05/21(木) 03:09:03
王侯貴族、職能者は亡命。 つまり半島に残ったのはゴミ。 そして、 現代の北朝鮮、韓国、在日とはなんの関係もない。
7 :
日本@名無史さん :2009/05/21(木) 03:33:44
>>5 本当に数千人程度だったの?その時の渡来人は。
8 :
GON :2009/05/21(木) 14:23:34
中臣鎌足は藤原1000年の祖なのにその経歴が明らかではない。 曽我氏を打つときに、皇太子が刀で襲いかかるとき彼は遠巻きに弓を持っている。 彼が身分の低いものなら危険な行為は彼がとるべきでは? 彼が百済の王子であったとの噂も、もしかしたら、、、 朝鮮半島、九州、本州今とは違う国境があったはず。 宋の書物では朝鮮半島で和(あえてこの字)の言語がつかわれていたというし かなりの関係があったと思われる。 同一国家ともかんがえられないのかな? 今の韓国と日本と思うのと少し違うのかも 九州人が本州にくるような意味合いだったのかも。
9 :
日本@名無史さん :2009/05/21(木) 15:29:16
>>8 そりゃ半島南部は倭人が支配していたから、倭国の一部だっただろう。
百済の支配層(王族)も今の朝鮮人ではない。新羅王族にも倭人がいたようだ。
新羅が倭人を排斥したために神功皇后が三韓征伐を起こしたのだ。
10 :
日本@名無史さん :2009/05/21(木) 17:08:49
昔の日本人は半島に拠点をもっており記紀をみても高句麗、百済、新羅人を丁重に扱っている 白村江のすぐあとでもこれらの国との交流はいままでどおりであり 水城を作ったというのも不思議なくらいである 民族を裏切って唐に擦り寄った新羅に対しても普通に対処している 思うに日本人の半島人にたいする蔑視感はやはり近代に生じたものと思われる さらにいうならば民族的火事場泥棒をした1945年で決定的となったと思う
11 :
日本@名無史さん :2009/05/21(木) 17:41:42
>>10 そうは思わない。確か古事記だか日本書紀だかに、天皇の祖先が一時滞在した朝鮮半島
の風土を嫌って海を渡ったとの記述があったが、伊沢元彦的な言い方をすれば、蔑視感情は
公式記録として残しにくいので、我々はなかったと勘違いしやすい。
半島から避難してきた貴族たちは、嫌悪感情を持っていたとするのが自然だな。
>>1 この系統のスレって、発言の史料的根拠を明記するなり、
先行研究を踏まえるなり、なんらかの条件を課さないと
タダの電波ホイホイスレになるよ。板住民の質が低いから。
ま、それでいいなら構わないけどさ。
13 :
日本@名無史さん :2009/05/21(木) 20:35:14
>>12 えせ評論家でなければ、まずあんたが根拠明示して「質の高い」書き込みしてみろ。
14 :
日本@名無史さん :2009/05/22(金) 01:37:45
>>8 「妄想を前提としたファンタジー」が暴走してますよ。
そういうの、朝鮮半島の新聞が大好きですよね。
いずれにせよ、
根拠ない妄想でしかなく、板違いですよ?
俺ファンタジーはメモ帳に書いて、デスクトップに保存しておけ。
15 :
日本@名無史さん :2009/05/22(金) 11:59:31
百済小錦
16 :
日本@名無史さん :2009/05/23(土) 09:18:14
百済氏や高麗氏など、改めて日本の貴族になったり、 その百済氏や高麗氏のように貴族になったものの召使になったりした。 そして古代日本人と同化。
18 :
日本@名無史さん :2009/05/28(木) 02:22:22
そして現代コリア人とはなんの関係もない。
多数の渡来人は今で言うなら見目麗しいハリウッド・スタア 米軍基地の周りに群れをなして米兵とのアバンチュールを期待する淫乱なビッチの如く 文化の立ち遅れた日蛮のメスどもは渡来系の美男に股を開いたことだろう 21世紀になった今も韓流ブームで同様の現象が起きている、自らの体にも脈々と 受け継がれている韓の血筋にも気づかず反韓運動に精を出す哀れなネット右翼 真実を知らない、哀れな劣等民族
20 :
日本@名無史さん :2009/05/30(土) 19:54:27
朝鮮発の統一王朝新羅第一王朝の禅譲を受け王となった4代脱解から 昔氏王統最後の16代までは新羅は倭人王統です 倭人(昔氏)新羅王 第4代脱解(だっかい)尼師今(にしきん)在位年数24年 第09代伐休(ばっきゅう)尼師今在位年数13年 第10代奈解(なかい)尼師今在位年数35年 第11代助賁(じょふん)尼師今在位年数18年 第12代沾解(てんかい)尼師今在位年数15年 第14代儒礼(じゅれい)尼師今在位年数15年 第15代基臨(きりん)尼師今在位年数13年 第16代訖解(きっかい)尼師今在位年数47年 新羅第三王朝金氏王統の始めの王 (金閼智7世孫) 新羅13代尼師今 味鄒尼師今(みすう にしきん)の王妃は 倭人王第11代助賁尼師今の娘の光明夫人で 新羅滅亡まで15代が倭人の王妃の子孫です 桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫である事で 天皇家のルーツが朝鮮半島となると言うのであれば 新羅第三王朝金氏2世以降のルーツは日系王朝 新羅は禅譲を受けた倭王の国 先史時代以降古朝鮮は中国人の建てた箕子・衛氏朝鮮と ツングース系北方騎馬遊牧民族系の檀君朝鮮で 完全なる異民族王朝から始まり 以降ずっと中国と日本へ朝貢し冊封された それが朝鮮民族なのです 新羅系在日韓国人の金さんの祖先は新羅倭王昔氏の娘です 昔氏の方は日本人の子孫です
21 :
日本@名無史さん :2009/05/30(土) 21:14:34
>>8 入鹿の身分の高さを考えろよ。
鎌足がやったら反逆者として周りの者が殺しにかかるだろ。
王子がやったならこれは天皇はじめ全ての人間が一瞬でクーデターと理解する。
大義を認めやすい。
大体、クーデターを起こし、朝鮮に軍をおくるようなマッチョ野郎がこんな重大事を他人には任せないだろう。
すげー正論、超納得。
23 :
日本@名無史さん :2009/06/05(金) 11:54:20
>>21 すげー馬鹿
そもそも実行犯は佐伯子麻呂が予定されてたわけだが
24 :
日本@名無史さん :2009/07/01(水) 11:18:34
入植地をみれば、厄介者扱いだったんだろうなあ。 蝦夷どもとの国境沿いの荒地に入植だなんて、屯田兵扱いもいいところ。
25 :
日本@名無史さん :2009/07/01(水) 15:56:17
百済の亡命王族、貴族が数十万人も居るわけないだろう。せいぜい数千人だろうな。 舟一艘に数十人乗れるとして1万艘も作れるわけがない。
26 :
日本@名無史さん :2009/07/01(水) 16:19:01
関東の西部に散在する地名に間がつくものがあるが、これらは亡命渡来人の居住地なのだろうか・
>>25 庶民まで船に乗せる必要はない。
泳がせればよい。
28 :
日本@名無史さん :2009/07/01(水) 17:55:50
30 :
日本@名無史さん :2009/07/21(火) 20:34:52
それまでの銅鐸やら銅矛などの青銅器はみんな 海外から輸入した銅で作ってたってこと?
32 :
日本@名無史さん :2009/07/25(土) 14:36:21
将門に襲われた国司に百済皇族いたよね。あれがどうなったの
33 :
日本@名無史さん :2009/07/26(日) 14:52:42
>>26 沖縄にも池間とかケラマなどマの付く地名が散見するな。
34 :
日本@名無史さん :2009/07/30(木) 16:29:55
>>26 兵庫県にもハリマ、タジマ、アリマやタンバ、イナバがある。
'歴史戦争'に200億ウォン支援…「北東アジア財団」来年予算策定 ...2007年6月18日 「北東アジア歴史財団」は、中国の高句麗(コグリョ)史編入と日本の歴史教科書歪曲に 対抗するための対策を用意しろという盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の指示で昨年4月 から準備を進めてきた。 今月末に50人余の組織(研究員は20人余) ... japanese.joins.com/article/article.php?aid...200... - キャッシュ - 類似ページ
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-2/takeshima05-b.html 「東北アジア歴史財団」の愚挙―樹木があったはずだとして岩場に植林。 植林したら竹島か?
>竹島には樹木があったはずだとして岩場の僅かな土地に植林し、今も竹島の自然体系を破壊し続けている。
これは、学問的客観性の意識など毛頭ない気違い政治団体ですね・・・
>東北アジア歴史財団研究委員…イ・ジェソク工作員がNHK出演とは終わってる。
ETV特集 日本と朝鮮半島2000年 - Yahoo!テレビ.Gガイド [テレビ番組表]
【ゲスト】東洋大学教授…森公章,東北アジア歴史財団研究委員…イ・ジェソク,
【…… ... 森公章,東北アジア歴史財団研究委員…イ・ジェソク,【リポーター】
大桃美代子,【語り】高橋美鈴; スタッフ; 属性情報 HD 16:9 ステレオ コピー1
tv.yahoo.co.jp/program/122300/?date...ch... - キャッシュ - 類似ページ
37 :
日本@名無史さん :2009/07/31(金) 22:13:09
表5 O・プロコプ,W・ゲーラー著.石山c夫訳:『遺伝血清学』(学会出版センター)より 民族 被検査数 頻度(%) 頻度(%) O A B AB σm p q r 日本 301千 30.5 38.2 21.9 9.4 0.1 27.6 17.1 55.2 朝鮮 9,434 27.7 31.5 30.7 10.0 0.5 23.9 23.4 52.6 アイヌ 509 17.0 31.8 32.4 18.4 2.2 29.7 30.1 41.2 蒙古 32.1 23.4 36.3 8.2 東胡 30.1 28.3 32.7 8.9 広東 1,000 45.5 22.6 25.0 6.1 1.6 16.0 17.4 67.4 日本人はA 38% B 22% O 30% AB 9% とA型が多くB型が少ない。 朝鮮、モンゴル、ツングースはA型よりB型の方が多い、またはほぼ同じ比率。 日本人のようにA型が多い民族は東亜にはいない。 渡来人が来たのなら西日本にB型が多いはずだが、実際は東日本の方が多い。 ・・・これから見ると日本に大量の渡来人が来たとは考えられない、という説がある。(水野祐「王朝はひとつだったか」)
38 :
日本@名無史さん :2009/08/01(土) 06:02:12
>>16 もっとずっと多い。
日本の人口が60万人位から短期間に3百数十万人になったという。
亡命はある期間をもって行なわれたと思う。
船がそうないからな。
百済自身と中大兄皇子の日本が誘導したようだ。
朝鮮部落を場所云々に決めて認めたようだ。
奈良時代後期で飛鳥村は10人の内8,9人は渡来系だという秦書が残っている。
39 :
日本@名無史さん :2009/08/01(土) 11:29:22
>>38 有史以来の日本の人口の変化
歴史人口学の研究者である鬼頭宏氏の「人口から読む日本の歴史」によれば、
わが国の人口は単調に増加し続けたのではなく、増加と停滞、あるいは減少を何度か繰り返しながら、
大きな波を描くように変化してきた。人口増加には、弥生時代から10世紀以降にかけてみられる
稲作農耕とその普及による人口増加と、19世紀から現代にいたる工業化に支えられた人口増加
という2つの大きな流れがあるという。
鬼頭氏が江戸時代までの人口について様々な資料から推計したところ、
縄文時代には約10万人〜約26万人であり、弥生時代には約60万人であった。
奈良時代には約450万人、平安時代(900年)には約550万人となり、慶長時代
(1600年)には約1,220万人となった。江戸時代には17世紀に人口が増加し、
18世紀には停滞して、おおむね3,100万人から3,300万人台で推移した。
・・・奈良時代には約450万人、平安時代(900年)には約550万人
渡来人が来ても言語が全然変わっていないということは、渡来人人口が
少数派で日本語を使用せざるをえなかったということだ。
文化が進んでいたというのなら、どういう文化用語(シナ語を除く)を日本へ持ち込んだのか
具体例をあげろ。
■朝鮮半島南部にある前方後円墳群 現在までに全羅南道に11基、 全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている。 朝鮮半島の前方後円墳はいずれも 5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したものであり、 百済の国境に沿った伽耶の地のみに存在し、 円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室 といった大和系遺物を伴うことが知られている。 そのため、大和朝廷から派遣された官吏や軍人、 大和朝廷に臣従した在地豪族などのものと見られており、 大和朝廷による直轄的な経営の根拠とされる。
41 :
日本@名無史さん :2009/08/01(土) 12:34:13
あるいは百済系の有力氏族が日本に渡って 前方後円墳を作ったとも考えられる。
43 :
日本@名無史さん :2009/08/01(土) 23:24:07
>>38 百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む「数千」の百済人が倭国に亡命し一部が朝廷に仕えた。
豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。
百済王氏は8世紀に敬福(きょうふく)が黄金を発見し東大寺大仏造立に貢献するなど
日本の貴族として活躍した。また兵庫県神戸市には扶余系にちなんで唐柩の地名が残る。
・・・wikipediaより
44 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 01:59:31
45 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 07:54:27
優秀な奴らは日本に渡来して日本人になったってことだ
46 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 08:40:31
農民は危険な海を越えて逃げる船も必要もない。 逃げる必要があるのは支配階級。
47 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 11:05:56
プッ 知ったか
48 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 11:51:34
49 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 11:52:18
50 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 12:23:37
>>48 その鬼のようなメークはどうみてもシナやインドネシア系の面で
朝鮮系には見えないな。
シナの孫悟空に似ている。
51 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 13:08:14
どうせ凶徒の五目の目に住み着く訳のわからん奴か 滋賀作か・・・・・・北摂あたりの工作員だろうな(笑)
52 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 13:26:45
日本人と同化しちゃ駄目だろ ちょうせんの高貴な血を持ってるんだったら。 何故だ?
53 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 18:41:14
日本人はみんな高貴な連中の子孫だから同化しても問題ない
54 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 09:39:37
>>52 魏志東夷伝 邑婁
穴居生活、豚の飼育、住民は不潔で家の真ん中に便所を作りそれを囲むように暮らしている。
・・・、これは明治時代の日本人の朝鮮観察とほとんど同じだ。
射撃が上手・・・これも同じだ。
漢の時代から夫余の家来となっていた。夫余が重い税を課したので黄初年間(220年〜226年)には反乱を起こした。
掟や習わしにはもっともルールが欠けている民族である。
・・・これが「朝鮮人の高貴な血」だ。
55 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 10:12:25
百済王家の末裔を探しています。 日本にいると聞いたのですが。
淵蓋蘇文は天武天皇になりました
57 :
日本@名無史さん :2009/08/11(火) 00:17:35
前々から気になっていたんだが渡来人でも高句麗系は身分低いような気がする。 資料とか調べた訳ではないし、何の証拠もないが自分が見てきた印象でそう感じる。
58 :
日本@名無史さん :2009/08/11(火) 00:39:15
帰化系は総じて身分が低い 帰化系最大勢力で秦の始皇帝の子孫を名乗る秦氏がときの朝廷に莫大な財産を寄進してようやく得た身分が従五位上 これでせいぜい下級貴族クラス
59 :
日本@名無史さん :2009/08/11(火) 01:38:43
>>41 「まんが日本史」では「から」の国からやっ来た指導者に倭人がこき使われて
前方後円墳を作ってたなw
確か仁徳天皇稜だった
倭国独特の「前方後円墳」とか言ってるけど外国人の指導者が測量やったり
倭人達を指示して作らせてる時点で日本独自ではないな
ま、あくまで「まんが日本史」の話だけどw
60 :
日本@名無史さん :2009/08/11(火) 03:30:19
雇われ外国人だし日本に帰化してるし 結局日本人の祖先となってるわけで
秦氏はあとからきた帰化人に押されていまいちな存在になったって説を聞いたことがある
62 :
日本@名無史さん :2009/08/11(火) 04:27:43
>>56 淵蓋蘇文(?-665)
朝鮮、高句麗(こうくり)末期の政治家。朝鮮、中国の諸文献では泉蓋(せんがい)蘇文といい、
『日本書紀』では伊梨柯須弥(イリカスミ)という。父の後を継いで東部(あるいは西部)の大人となり、
大対盧(だいたいろ)となった。彼は豪気果断な武人的性格で、敵対する栄留王をはじめ宮廷貴族たち
100余人を殺害し、宝蔵王を擁立して戦時体制を確立した(642)。
彼はこの国内体制を背景に、積極的な対外活動を展開した。643年には道教を受容するなど文化活動も積極的に行ったが、
百済(くだら)と結んで新羅(しらぎ)を攻撃し、旧領を奪回するなど領土の拡張にも努めた。
このとき唐は新羅の依頼により調停に乗り出したが、これに応ぜず、唐の使者を幽閉した。
そこで唐の太宗は644年に高句麗を討伐に踏み切ったが、失敗し、その後も高句麗との戦闘が続いた。
彼は優れた統率力と戦略とをもって唐軍の侵入を防いだが、「彼の死後」、国内が分裂したためついに唐軍に敗れ、
668年高句麗は滅びた。
[執筆者:井上秀雄]
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63 :
日本@名無史さん :2009/08/14(金) 18:55:09
>>55 【韓国】 日本に号令した最高の名門、大内家は百済王の子孫だった[06/15]
http://www.allthatnews.co.kr/news/photo/200906/16031_15144_5151.jpg 「1400年の歴史の中で両親から受け継いだ家系図を通じ、歳をへてますます韓国が懐かしくなりまし
た。このような感情から、ご先祖様に必ずお墓まいりをしなければならないと考えるようになりました。」
去る8日KBS「歴史追跡」は自らを百済王の子孫だと主張する日本人夫婦の韓国訪問の話を扱った。
4月17日、昔の百済だった益山市(イクサンシ)を訪問したこの日本人夫婦は大内公夫(69、夫)と大内
タカコ(65、夫人)氏。彼らは1400年前、日本に渡ったという百済王族、琳聖(イムソン)太子が正に自
分たちのルーツだと紹介した。
64 :
日本@名無史さん :2009/08/14(金) 20:39:10
>>63 韓国人は滅亡させた百済王族の子孫が百済故地を訪問することに警戒心を持たないのか?
それとも百済人を朝鮮人と勘違いしているのか。
66 :
日本@名無史さん :2009/08/14(金) 20:57:34
つまり、日本と朝鮮はほぼ同族であるから 日韓併合後、朝鮮総督府を中心として唱えていた 「日鮮同祖論」は極めて史実に乗っ取った主張であり よって、日韓併合とは、朝鮮の侵略では無く 分断された同族の「統一」って理論は正当だったって事だろ。
しかし、半島に残った連中って・・・なんていうのかな 残りカス?とでも言ったらいいのだろうか、その後の日本の 文化・経済の発展度と凄まじい差が生じてるよなw 先日の長寿企業のニュースを見てもそう思ったよ。
>>66 答えは明らかに違う。
ユダヤ民族とパレスチナ民族や
漢民族と蒙古(モンゴル)民族が明らか違うようにね。
66は古代から連綿と続く朝鮮の血が、
そう都合よく思い込むようになってしまってんるんだろう。
69 :
日本@名無史さん :2009/08/14(金) 23:03:09
>>66 「日鮮同祖論」
・・・これは百済、新羅王族に倭人が混じっていたということを根拠にしているだけで
現地人と同族とは言っていないだろう。
同族なら言語がもっと似ているはずだしな。
70 :
日本@名無史さん :2009/08/15(土) 18:07:58
■天皇家の起源は韓国 朝鮮が本家で日本は分家
海音寺 「魏志倭人伝」の記述を真正直に読めば、倭の境は朝鮮半島にありますね。
つまり、三国志の頃の中国人は南朝鮮から日本列島にかけての地域全体を倭・日本と考えていたのですね。
ですからおそらく南朝鮮の人間と日本人とは同種族でしょう。
司馬 同じだと思いますね。 「古事記」だったか「日本書紀」だったかにも、スサノオ尊は朝鮮南部とさかんに
ゆききして、晩年はソシモリというところに隠棲したということになっておりますね。
その子のなんとかの命も、日韓を往復し、朝鮮の植物をうんと持って来て日本に植えた、ということになっていますね。
海音寺 辞林の著者の金沢庄三郎博士・あの人は言語学上から日韓同祖説を唱えていますね。
同祖説の最初の人ですね。
今日の日本の学者の中にもそういう人がいないではない。
騎馬民族説の江上博士なぞは、向うの方から、征服民族ですが、渡って来ているといってるんですね。
古代の一時期、朝鮮南端は日本の天皇家及び天皇家をとりまいている貴族らの根拠地であったという風に、江上博士は言ってますね。
最近の朝鮮の学者たちにもその説の人が多く、こっちが本家で、日本が分家だという説なんですね。
http://www1.megaegg.ne.jp/~myfriend/higeki.htm つまり朝鮮半島南部の百済人や新羅人が日本列島に移住して大和朝廷を作ったということで決まりだね
実は天皇家も百済王家の分家だったということで子孫は韓国人だったわけだ
71 :
日本@名無史さん :2009/08/15(土) 19:34:41
>>70 海音寺 「魏志倭人伝」の記述を真正直に読めば、倭の境は朝鮮半島にありますね。
つまり、三国志の頃の中国人は南朝鮮から日本列島にかけての地域全体を倭・日本と考えていたのですね。
ですからおそらく南朝鮮の人間と日本人とは同種族でしょう。
・・・倭人が南鮮にいたのは確かだが、他にも漢人、韓人、ワイ、ハク、その他多数の種族もいたと書いてある。
今の朝鮮人はそれらの雑種だ。
72 :
日本@名無史さん :2009/08/15(土) 19:36:29
>>70 今の朝鮮人にはモンゴル人、ツングースの血も大量に混じっているしな。
>>70 魏書に君達の先祖が書いてあるだろ。
『三国志魏書』婁伝
婁在夫餘東北千餘里、濱大海、南與北沃沮接、未知其北所極。其土地多山險。
其人形似夫餘、言語不與夫餘、句麗同。有五穀、牛、馬、麻布。人多勇力。
無大君長、邑落各有大人。處山林之間、常穴居、大家深九梯、以多為好。土氣寒、劇於夫餘。
其俗好養豬、食其肉、衣其皮。
冬以豬膏塗身、厚數分、以禦風寒。夏則裸袒、以尺布隱其前後、以蔽形體。
其人不 、作溷在中央、人圍其表居。其弓長四尺、力如弩、矢用、長尺八寸、青石為鏃、古之肅慎氏之國也。善射、射人皆入目。
矢施毒、人中皆死。出赤玉、好貂、今所謂婁貂是也。
自漢已來、臣屬夫餘、夫餘責其租賦重、以初中叛之。
夫餘數伐之、其人衆雖少、所在山險、鄰國人畏其弓矢、卒不能服也。
其國便乘船寇盜、鄰國患之。東夷飲食類皆用俎豆、唯婁不、法俗最無綱紀也。
74 :
日本@名無史さん :2009/08/16(日) 16:28:24
>>71 >>72 しかし現実はこう
■朝鮮日報に書かれてる百済および韓民族の日本観
・「現存する世界最大の木造建築物である東大寺大仏殿は、8世紀中盤に百済からの移住民が建てた寺です。」
・高松塚古墳、法隆寺、東大寺、広隆寺、大宰府、船山古墳、石舞台古墳…。日本が誇るこれらの遺跡の共通点は何か。
それは韓民族、すなわち大韓民国の祖先の霊と魂、汗が染み込んだ代表的な場所だということだ。」
・「檀国大の鄭永鎬教授は「大宰府の建造と水城の築城には、百済の先進技術が活用されたことが立証されている」
・「日本が誇る遺跡が韓国の先祖の魂と汗で作られていることをこの目で確認でき、民族的自負心を持つようになった」と語った。
・「石舞台古墳は7世紀ごろ百済系の蘇我氏が作った大規模な墓として推定されている」
・江原大の孫承赴ウ授は「わが韓民族が古代日本の領土に文明と文化をもたらしたという
華麗な過去の歴史を振り返り、自己陶酔に陥ってはならない。」
・釜山中央女子中のキム・ウンスン教諭(45)は「これまでは、われわれが文化を伝えたという自負心を
抱くだけだったが、文化が一方からもう一方へ伝わった上で、それが受け入れた側によって発展していったという
事実についても知ることができた」と語った。
・飛鳥地方の百済遺跡である石舞台古墳を訪問したときは、「飛鳥の漢字表示は“飛鳥”だったのではなく、
元は百済人が渡来して心安らかに定着したという意味の“安宿”(発音はアンスク)だったが、後に変わった」と説明した。
・韓国が日本よりも進んでいる」という内向的な自負心ではなく、「隣国・日本の歴史をもっと知ることができた」
という未来志向的な関心に基づくものだといえる。
・旅行会社のガイドは「韓国を訪れる日本人たちが、円高の恩恵にあずかり、ただソウルで金を使うだけ使い、大衆文化に関心を寄せているわけではない。
日本文化の源流を学ぶため、扶余や公州を訪れるケースも多い」と話した。
75 :
日本@名無史さん :2009/08/16(日) 18:14:24
日本文化の源流を学ぶために朝鮮に行ってもなんも残っちゃいねえわけだが
>>74 こうか
旧唐書 東夷伝 百済伝
仁願、仁軌等既還,隆懼新羅,尋歸京師。儀鳳二年,拜光祿大夫、太常員外卿兼熊津都督、
帶方郡王,令歸本蕃,安輯餘衆。時百濟本地荒毀,漸為新羅所據,隆竟不敢還舊國而卒。
其孫敬,則天朝襲封帶方郡王、授衛尉卿。其地自此為新羅及渤海靺鞨所分,百濟之種遂絶。
>百濟之種遂絶
>百濟之種遂絶
>百濟之種遂絶
77 :
日本@名無史さん :2009/08/17(月) 19:08:06
78 :
日本@名無史さん :2009/08/17(月) 21:14:56
>>77 韓国の歴史は学者ですら根拠が無いもんね(笑)
79 :
日本@名無史さん :2009/08/18(火) 00:24:30
百濟之種遂絶…って、韓国の人は、自分達が皆殺しにした人々の業績を自分の手柄みたいに、言いふらしているの?
これは決して李氏朝鮮の風俗、習慣を書き残した物ではない。 だが李氏朝鮮より1500年前に彼らとそっくりな風俗、習慣をもった者達がいた。 『後漢書』婁伝 婁、古肅慎之國也。在夫餘東北千餘里、東濱大海、南與北沃沮接、不知其北所極。土地多山險。 人形似夫餘、而言語各異。有五穀、麻布、出赤玉、好貂。 無君長、其邑落各有大人。 處於山林之 、土氣極寒、常為穴居、以深為貴、大家至接九梯。 好養豕、食其肉、衣其皮。冬以豕膏塗身、厚數分、以禦風寒。夏則裸袒、以尺布蔽其前後。 其人臭穢不 、作廁於中、圜之而居。 自漢興已後、臣屬夫餘。種衆雖少、而多勇力、處山險、又善射、發能入人目。 弓長四尺、力如弩。矢用、長一尺八寸、青石為鏃、鏃皆施毒、中人即死。 便乘船、好寇盜、鄰國畏患、而卒不能服。東夷夫餘飲食類(此)皆用俎豆、唯婁獨無、法俗最無綱紀者也。
(百済)近肖古王ー(9代略)−聖明王ー恵王季ー法王宣ー武王ショウ(王に章)−義慈王 ー百済王(くだらのこにきし)善光ー昌成ー(4代略)−百済王教俊ー ー百済王慶命 藤原師輔 ├───源定──源唱──源周子 ├──── 嵯峨天皇 ├──雅子内親王 醍醐天皇 ──愛宮 源師房 ├──源明子 ├──久我(源)顕房──藤原賢子 源高明 ├───藤原尊子 ├──堀河天皇… 藤原道長 白河天皇
旧唐書 東夷伝 百済伝 仁願、仁軌等既還,隆懼新羅,尋歸京師。儀鳳二年,拜光祿大夫、太常員外卿兼熊津都督、 帶方郡王,令歸本蕃,安輯餘衆。時百濟本地荒毀,漸為新羅所據,隆竟不敢還舊國而卒。 其孫敬,則天朝襲封帶方郡王、授衛尉卿。其地自此為新羅及渤海靺鞨所分,百濟之種遂絶。 >百濟之種遂絶 >百濟之種遂絶 >百濟之種遂絶
83 :
日本@名無史さん :2009/08/22(土) 22:23:59
奈良百済
>>王仁は中国人ですよ韓国人じゃ無い。!!! 『続日本紀』によると、子孫である左大史・正六位上の文忌寸(ふみのいみき)最弟(もおと)らが 先祖の王仁は漢の皇帝の末裔と桓武天皇に奏上したという記述がある。このことから王仁は 楽浪郡出身で百済にやってきた漢人の家系に連なり、漢高帝の末裔であるとされる。この記述が 真実であれば、王仁は313年の楽浪郡滅亡の際に百済へと亡命した楽浪王氏の一員ではないかと考えられる。 楽浪の時代を通じて強力な勢力をもった楽浪王氏は斉(中国山東省)の出自といわれ、前一七〇年代に 斉の内乱を逃れて楽浪の山中に入植したものという。おそらく、3世紀前半の楽浪郡の滅亡後に百済へ亡命、 その後、3世紀後半には日本へ移民したのであろう。 朝鮮半島の人間が中国風の一字姓を名乗りはじめるのは統一新羅以降の風習で、当時の百済の人間が 王姓を名乗っているとは考えにくく、この点から考えても楽浪王氏であるという説は説得力を持っている。
85 :
日本@名無史さん :2009/08/23(日) 03:06:51
なんにせよ、「韓国人」とは関係ありません。
86 :
日本@名無史さん :2009/08/23(日) 10:13:51
邪馬台国はどこにあったのか‐畿内説と北九州説を中心に幾つかの推論があり、決着はついていない。
ことほどさように古代史はミステリアスであり、重点を置く資料や切り口によって異なった推論が成り立つ。
「四世紀前半、南朝鮮の加羅から北部九州に渡来した加羅系渡来集団は、邪馬台国を滅ぼし、
北部九州に前進基地をつくりました。彼ら渡来集団は瀬戸内海を東進して……」。このような記述から、
著者の立場ははっきりしているが、それはともかく、仁徳陵と次に大きい応神陵の被葬者がともに百済・
蓋鹵王(即位455〜没475年)の弟であり、前者が余紀、後者が昆支だと特定し、
倭王武=ヤマトタケル=八幡神=大国主命=スサノヲがすべて昆支と同一人物だと主張する。
日本最大級の古墳になぜ百済から渡来した二人の王子が埋葬されているのか、をキーワードに、
江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」を継承しつつ、「その説を乗り越えた」在野の古代史研究者の
石渡信一郎氏の説を受けて、韓半島南端の加羅と、百済から渡来した新旧二つの集団による古代
日本国家建国の史実に迫ろうとしたものだ。
古代史の大事件が百済系と新羅系(加羅を含む)の相克であったと解釈する人が少なくない。これを
補強する緻密な研究と言っていいだろう。
(林順治著、河出書房新社、1800円+税)
(2009.6.17 民団新聞)
http://www.mindan.org/shinbun/news_bk_view.php?page=1&subpage=2054&corner=6
88 :
日本@名無史さん :2009/08/24(月) 02:00:52
■韓国での王仁
元来、朝鮮には王仁伝承は存在しなかった。現在は彼の地でも知られているが、これは近代になって
流入した知識によるものである。韓国で王仁は日本に文化を伝えた『韓国人』として扱われており、中学生用の
国定歴史教科書には「王仁は日本に進んだ文化を伝えた」と記述されている。
また、近年、全羅南道の霊岩郡では、毎年王仁博士祭りを開き、日本に文化を伝えた王仁を記念している(現在全羅南道には
王仁関連の遺跡も存在しているが、1970年代以降に創作されたものである)。
しかし、王仁は日本書紀、古事記、続日本紀にのみ記述され、韓国に残る歴史書である三国史記、三国遺事などの書籍には
王仁、あるいは王仁に比定される人物の記述は存在しない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E4%BB%81
89 :
日本@名無史さん :2009/08/24(月) 11:04:47
90 :
日本@名無史さん :2009/08/24(月) 15:55:17
◆錦の御旗はなぜ尊いか◆ 「にしき」とは「こにきし」のことだ。 つまり、百済や新羅王の呼称「こにきし」の「こ」が消えて「王」=「にしき」になったからである。 「にしきの御旗」とは本来半島の王の旗のことなのだ。 半島の王の旗は尊い、解るかな?
なるへそ。納得です。
92 :
日本@名無史さん :2009/08/24(月) 21:32:08
しかし韓国人は古代朝鮮半島に住んでいたすべての人や文化を 自分達のモノにするな
93 :
日本@名無史さん :2009/08/24(月) 21:48:59
94 :
日本@名無史さん :2009/08/24(月) 22:38:11
95 :
日本@名無史さん :2009/08/24(月) 22:43:09
日本人がこんなひどい事をしてたなんて・・・
97 :
日本@名無史さん :2009/08/25(火) 06:31:00
だじゃれレベルのネタだから控えめに書いたんだよ。 この小松格って男は馬鹿じゃないのか 本当に言語学やってんの?
99 :
日本@名無史さん :2009/08/25(火) 11:55:26
>>97 小松氏は「イデシ(出し)」のシをスルの連用形と言っているが、
過去の助詞キを知らないのだろうか?
シはキの連連体だ。「出づる(イドゥル)」も「居出る」ではない。
100 :
日本@名無史さん :2009/08/25(火) 15:31:20
>98 >本当に言語学やってんの? 昔、韓国人が居て日本に帰化しました。彼は、或企業の役員にまで上り詰めました。が、悪い男に 騙されました。その男は韓国人で、現代朝鮮語と古代日本語の表記に関連がると言う妄想に取り付か れまして、困った事にそれを本にする事を持ちかけました。それに驚いて、本にしてしまったのです けど、現代朝鮮語と、古代朝鮮語には、関連が無い為に、其の古代朝鮮語ともっともっと古い古代日 本語を比較併記することができませんでしたので、徒労と終わってしました。
101 :
日本@名無史さん :2009/08/25(火) 18:16:01
NHKの朝ドラ「ちりとてちん」でやってた小浜弁。 イントネーションが韓国語とそっくりだった。 小浜弁て、京都弁に近いんだろ?
茨城の古方言が韓国語ににてるそうな。 白村江の戦いで敗れたあと、翌年唐の百済鎮将の使・郭務?が訪問するが、皇帝の親書以外は受け 付けないとして、拒否、その間に防人を配置したり、城を作ったり、狼煙台を作ったりと情勢は緊張する。 ↓ その翌年、唐使劉徳高ら正使がやってきて停戦交渉。新羅も弔問使を送ってくる(まだ新羅は日本へ朝貢している) ↓ その翌年666年から帰化・渡来人大移動が始まる。百済人2000余人を東国に移す。で、668年、高句麗が 唐・新羅連合軍に滅ぼされると、唐のが唐人600人・百済遺民1,400人を47隻の船で送ってくる。 この年、百済人700余人を近江国蒲生に移す。新羅王子が使節を送ってきて、それまでの朝貢関係を是正 して対等の関係を求めてくる。日本はその要求を拒否をして更に緊張が高まり、国内でも壬申の乱やらで、きなくさい。 そんな流れの中で遺民移住政策が本格的に行われる。 684年 帰化、渡来の百済人を武蔵国に移す。 687年、新羅の渡来人を武蔵と下毛野国(栃木)に移す。 高句麗の渡来人を常陸(茨城)の国に移す。 (この間蝦夷の反乱) 716年、駿河等17国の高麗人1,799人を武蔵に移し、高麗郡(今の高麗)を置く。 新羅とは征討作戦も持ち上がるほどの緊張だが、民間人との交易は行われていて主に九州に滞在してた そんな中 758年、新羅人を武蔵に移し、新羅郡(今の新座志木付近)を置く。 760年、新羅人131人追加で武蔵国へ移す。 814年、新羅人6人美濃国に移す。 820年、遠江・駿河へ送った新羅人700人乱を起こす。 824年、 新羅人54人を陸奥国に移す。 以上
>日本最大級の古墳になぜ百済から渡来した二人の王子が埋葬されているのか 百済王の婚姻は倭によって定められていた。王子は人質として倭に差し出していた。 三国史記(百済本紀) 397年 夏五月 王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質として倭に送った。 403年 春二月 倭国の使者が来たので、王は彼を迎えて慰労し、特に厚く遇した。 405年 腆支太子は倭国において訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。倭王は、兵士百名を伴わせて、護送した。
新羅は倭と高句麗に朝貢。 三国史記(新羅本紀) 402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。 418年 高句麗と倭国への人質が逃げ帰った。
105 :
日本@名無史さん :2009/08/25(火) 19:53:38
>>101 朝鮮語に関西弁みたいな複雑なアクセントがあるのか?
106 :
日本@名無史さん :2009/08/25(火) 20:10:20
「○○で〜え。」 とか 「○○よ〜お。」 とか。 最近、韓国時代劇見ていると日本語と似ている所がいっぱい出てくる。 「わかった」と言う女の言葉が「あら そ」と聞こえたりして面白い。 日本語で「○○だ!」と云うのもやはり「○○だ!」と言っているように聞こえる。 「誰それ が〜」と云うのも「○○が」とか、人を呼ぶときに「○○や〜」と言っている。 それから て、に、を、は の使い方 全くよく似ている。
107 :
日本@名無史さん :2009/08/25(火) 21:58:13
>>106 それは半島南部にいた倭人の影響と考えられる。
朝鮮語に有気音、無気音という他のアルタイ系に無い発音があるのも
シナ語の影響だろう。
助詞なら日本語「を」「より」とツングース語 wa,duriも似ている。
朝鮮語の「が」は日本語の「が」とは用法が異なる。
109 :
韓国人が直視すべき真実の歴史「千年属国」 :2009/08/26(水) 05:18:13
韓国人の歴史歪曲捏造は余りにも酷く、目に余るものがある。 これが日韓の感情的なもつれの根本的な要因であり、双方に摩擦を生み出す元となっているのだ。 韓国人はよく日本の歴史歪曲を指摘するが、実際は韓国で教えられる歴史こそが、そもそも歪曲と捏造に満ちたものだから話にならないのである。 近代史からの因縁の日韓の歴史の齟齬は「日本は朝鮮の独立を奪ったのか?」という点から始まる。 結論から言うが、奪ったも何も、元々朝鮮は中国歴代王朝の千年属国であり、主権さえ認められていなかった国なのだ。 日本が下関条約の第一条で初めて朝鮮の中国からの独立を明記するまで、千年の長きに渡り朝鮮は、中国の属国となっていた事実を、韓国人達は決して認めたがらない。 今回はその千年属国の真実を示すことで韓国人の歴史認識がいかに歪曲されたものであるかを証明したい。 朝鮮の歴史を紐解くと、初期の高麗朝を除きほぼ全てに渡って中国歴代王朝の属国としての地位に甘んじてきた。 その有様は、事大主義(小国が大国に媚びへつらって生きていく主義)に代表されるように千年属国朝鮮の悲惨な姿を現している。 しかしながら当の朝鮮は事大主義に生きることを選択し、それを誇りとしているのだから何をかいわんやである。 朝鮮のこの事大主義は、時には何と朝貢を受ける中国王朝の方が、迷惑がる事もあった。
110 :
韓国人が直視すべき真実の歴史「千年属国」 :2009/08/26(水) 05:18:58
例えば、宋の時代に、宋王朝は北方の契丹人や女真人に国境を脅かされており、その為莫大な貢ぎ物を契丹人の遼王朝、女真人の金王朝へ送ることにより国境の安定を図っていた。 ところが、こんな時代でも当時の朝鮮高麗王朝は、宋に対し朝貢と册封を要請したきたのである。自分から宋に朝貢させて欲しい、册封して欲しいと頼んでくるなど、これぞまさに筋金入りの属国根性である。 宋王朝は先の北方の強国から誤解を受けかねないと、この朝鮮の朝貢に難色を示したことが当時の史書に記されている。 さらに朝鮮の事大主義は益々エスカレートしていく。高麗王朝から王位を簒奪し、李氏朝鮮初代の王となった李成桂は、王位につくやすぐさま、当時誕生したばかりの明王朝に伺いを立て国号を決めて貰っている。 この時、李成桂は、箕氏朝鮮の旧号「朝鮮」と李成桂の生地「和寧」の二つの名前を持ち出し、明の太祖の朱元璋から「朝鮮」の国号を使うことを許されている。 世界史の中で様々な国が存在するが、他国に自国の国号を決めて貰った国など、後にも先にも朝鮮ただ一カ国である。 本来ならこの一時を持って、朝鮮が中国の属国であった事を、何よりも物語っているのだが、韓国人はこれでもまだ朝鮮が中国の属国であったことを認めないのである。
111 :
韓国人が直視すべき真実の歴史「千年属国」 :2009/08/26(水) 05:19:41
さて、韓国人が誇るものの中に「東方礼儀の国(邦)」とういう朝鮮を指し示す言葉がある。 この言葉の本当の意味を知っている韓国人は少ないのだが、これは中国王朝から朝鮮へ贈られた言葉である。 即ち、中華の天子へ忠実に諸侯の礼を尽くしてきた朝鮮へ中国が上記の「東方礼儀の国」という言葉を贈ったのである。 直訳すれば「中国の属国として礼節を尽くした国」という意味なのだが、この意味を韓国人は全く理解していないのが、皮肉である。 中国王朝の属国における歴代国王は、原則皇帝の臣下と見なされる。朝鮮国王は中国皇帝によって任命され、中国の朝廷は朝鮮の王妃や王太子の廃立に至るまで、その権限を振るうことが出来たのである。 ちなみにこの当時、朝鮮を実質的に指揮監督していたのは、中国王朝の北洋大臣や直隷総督などである。 つまり国王というのは形ばかりのものであって、決して主権国家の元首として扱われていたのではないのである。 さらに朝鮮国王の中国王朝からの使節の出迎えは余りにも屈辱的である。 満州人の使節が来ると、朝鮮国王は自ら高官を引き連れて迎恩門まで歓迎に赴いて、地面にひざまずいて使節に敬意を表し、宴会を催し、芸を披露して接待しなければならなかった。 王太子は慕華館(迎賓館)で使節に酌の礼をするのが最大の役目だった。
112 :
韓国人が直視すべき真実の歴史「千年属国」 :2009/08/26(水) 05:20:27
ここまでくればこれ以上の説明は必要ないだろう。誰がどう見ても朝鮮は、中国の属国若しくはそれ以下の扱いを受けていたのである。 現実に韓国以外の各国では歴史の教科書で、朝鮮関連の記述(これ自体殆ど記述されていないのだが)において、全て例外なく「朝鮮は中国の属国であった」と記している。 韓国が敬う中国でさえ朝鮮が中国歴代王朝の属国であったと明示している。 韓国よく引き合いに出す亜細亜のみならず世界各国が朝鮮は中国の属国であると認めているだ。 確かに、他国の属国であったという歴史は不快なものであろう。だがそれは決して恥じることではない。 現に、日本の殆どの歴史学者の言によれば「もし、日本海という壁がなければ日本も朝鮮のような中国の属国となっていただろう」と明言している。 これはまともな教育を受けた日本人なら誰もが認めるところだ。 運悪く海という壁がなかった朝鮮は、中国の属国として生きるしかなかっただけであり、それを認めることは何の恥でもない。いや、真実の歴史を覆い隠そうとすることこそが恥なのである。 千年属国として余りにも歪みきった朝鮮民族の精神は、日本によって独立を得られた100年では矯正出来ないかも知れない。 だが、事大主義・属国根性に染まった現代の韓国人の精神を健全なものとするには、まず最初の一歩として歴史の事実を認めることから始めなければならないのである。 韓国人よ、千年属国の忌まわしいコンプレックスから今こそ立ち直るときである。
113 :
日本@名無史さん :2009/08/26(水) 05:24:20
http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/0b306f901f4daf3e42a18ba5e2664129 世界の教科書
中央日報 2004.09.27 スペイン紙「韓国4228年間、中国の属国」
スペインの有力紙「エル・ムンド」のウェブ版(www.elmundo.es)が
「韓国は4228年間にわたって中国の植民地だった」と紹介した。
「エル・ムンド」は「韓半島は長い歴史のなかで数多くの侵略を受けてきた。中国に1895年まで属していた(略)
「▽韓国が元々中国植民地だったと伝えた米CNNテレビ▽平壌を中国植民地だと紹介したヒストリーチャンネル−−などのケースと同じ脈絡のもの」(略)
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=56213 ◎ ドイツの教科書
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀の事だった。その後300年、
日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」
◎ フィリピンの教科書
「朝鮮は、その歴史の大部分中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。
日本は自由な新しい秩序を樹立する事によって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」
◎ インドネシアの教科書
朝鮮を中国の属国として記した。
「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」
「朝鮮は言論・宗教の自由が制約を受ける国」
「北部はロシアが、南部はアメリカが占領している」
◎ タイの教科書
「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」
114 :
日本@名無史さん :2009/08/26(水) 05:25:14
◎ ポーランドの教科書 「AD1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」 ◎ アメリカの教科書 「朝鮮は中国の従属国」 ◎ カナダの教科書 「朝鮮は、数百年間中国の属国」 「日本は<中略>朝鮮に鉄道・道路・港を建設し、産業を発達させて教育の機会を拡大させようと努力した」 ◎ イギリスの教科書 「西暦366年から562年まで、日本が朝鮮半島を支配した」
・・・というか、日本が清を破って下関条約で独立させるまで 朝鮮半島は中華王朝の所有領土だからな。 朝鮮が古代から独立している、独自のアイデンティティがある、 的な感覚を持ってるのは韓国系、朝鮮系の人間だけだと思う。
116 :
日本@名無史さん :2009/08/27(木) 17:55:54
狛犬をどうして狛犬と言うか判っているか? 高麗から来たんだよ。 全ての神社のルーツは高麗にある。
117 :
日本@名無史さん :2009/08/27(木) 23:19:53
高麗に神社があるのかよー
119 :
日本@名無史さん :2009/08/28(金) 02:49:38
120 :
日本@名無史さん :2009/08/28(金) 03:47:43
日本には新羅神社も沢山あるね。 日本に沢山ある八幡様の白旗も新羅由来のような気もするし。 天皇家は韓神を祀っているし。
121 :
日本@名無史さん :2009/08/28(金) 03:56:19
>>116 狛犬みたいなものはシナにもあるから、コマとはカラ(唐)と同じで単に大陸を指す単語だったんだろう。
狛犬の起源はエジプトのスフィンクスと言われているしな。
122 :
日本@名無史さん :2009/08/28(金) 04:20:50
>>120 >日本には新羅神社も沢山あるね。
→中国の文献では新羅と百済は倭の領土だったそうです。
その証拠と考えた方がよいと思います。
>天皇家は韓神を祀っているし。
→知りませでした。
天皇陛下は韓国併合以降は韓国の皇帝も兼任なされているので、韓国の神も祀られているのでしょう。
123 :
日本@名無史さん :2009/08/28(金) 05:00:20
>>113 しかしヒストリーチャンネルの「古代からの発見」では秀吉の朝鮮征伐で
朝鮮軍の秘密兵器ロケット砲(火車)で日本軍4万人を殺害と報じていた
ありえないのに・・・w
124 :
日本@名無史さん :2009/08/28(金) 10:39:38
>>122 少なくとも平安時代から祀られていたよ。
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page263.html からのかみ (朝鮮から渡来した神の意) 守護神として宮内省に祀られていた神。
大己貴(おおむなち)・少彦名(すくなぴこな)二神をさすという。
皇室の守護神だからね。
>天皇陛下は韓国併合以降は韓国の皇帝も兼任なされているので、韓国の神も祀られているのでしょう。
なんて理屈は通らん。
桓武天皇が京都に遷都した時、すでにそこには新羅系の渡来人(スサノオの末裔)が沢山住んでいて、
彼らを無視できなかったから守護神にしたという話もある。
秦氏は新羅と言うか、辰韓出身だろう。
125 :
日本@名無史さん :2009/08/28(金) 10:58:13
>>120 >日本に沢山ある八幡様の白旗も新羅由来のような気もするし。
気もするしって、あんたw
あんたにはインチキ在日小説家キム・タルスが憑依してるんじゃないの?
126 :
日本@名無史さん :2009/08/28(金) 12:00:54
平安京の地でも「ミニ国譲り」があったんだろうね。百済系新羅系の 「先住民」を滅ぼして、和人の豪族と彼等に推戴された天皇家はそこを 都にした。つまり、和人は百済人でも新羅人でもなかった明白な証拠、と。
127 :
日本@名無史さん :2009/08/28(金) 12:30:15
>>124 申し訳ありません。
現在韓国の神様を天皇陛下がお祀りなされていると思いました。
訂正します。
>>120 >日本には新羅神社も沢山あるね。
天皇家は韓神を祀っているし。
→中国の文献では新羅と百済は倭の領土だったそうです。
その証拠と考えた方がよいと思います。
128 :
日本@名無史さん :2009/08/28(金) 12:48:51
秦氏の一族は、日本に来る途中、新羅領土を通してもらえず、日本が兵を送って連れて来たとされています。 新羅の民では無く、新羅より遠くから来た事が確実です。
>>531 アクセス不良なのでコチラへ
*下記のアクセス先も潰されました。
*余程都合の悪い情報なんだな?民潭工作隊!必死さが目に浮かぶぜ。
**これは縄文なのか弥生なのか分から無く成ってきたぞ。
桜町遺跡と河姆渡遺跡・・「高床の道は米の道、河姆渡遺跡と桜町遺跡はつながっている」
縄文中期末葉から後期初頭(約4.000年前)の「高床建物」の柱材が100本以上も出てきた。
貫穴(ぬきあな)や桟穴(えつりあい)、ほぞ穴などといつた二つの部材を組み合わせる
加工技術があり、「渡腮(わたりあご)仕口」(木材を凹凸に削って組み合わせる)といった
高度な技法も見られた。渡腮仕口は、法隆寺の金堂(7世紀後半)に使われていたのが最古と
されていた。その加工技術が約4.000年前の桜町で既に存在していることが明らかとなった。
http://siyasin.ninja-x.jp/sisou-2/kodaisi/hokuriku/sakurahukugen/hukugen.html
130 :
日本@名無史さん :2009/08/28(金) 13:13:40
>>121 コマ=高麗、つまり高句麗でしょ。コマが付く地名はどこも
高句麗からの亡命人が朝廷から住むのを許された場所。
狛犬は百済か高句麗の亡命人たちが持ち込んで定着したものでは?
131 :
日本@名無史さん :2009/08/28(金) 13:39:59
狛犬は、時代的にもっと新しいようです。
高麗川って駅が埼玉の飯能市にありますね。 あそこも渡来人の集落だったのか。 こういうスレって日本史を選択しなかった自分には勉強になります。 で、昔からの疑問。 天皇家のルーツって何処なんですか。神武さんって本当にいたの?
高麗川のあたりは高麗郡が置かれたところ。帰化した高句麗王族らに移住先として 与えられた。天皇のルーツとかの議論はスレ違いだろ。
134 :
日本@名無史さん :2009/08/28(金) 17:50:45
山梨の北巨摩郡も中巨摩郡も高麗=コマだよ。 当時の甲斐国の支配層は八代郡(東京寄り)に集まっていたので、 北風が強く、川の氾濫がひどいコマ地域をあたえられたのだと思う。
135 :
日本@名無史さん :2009/08/28(金) 17:51:30
山梨の北巨摩郡も中巨摩郡も高麗=コマだよ。 当時の甲斐国の支配層は八代郡(東京寄り)に集まっていたので、 北風が強く、川の氾濫がひどいコマ地域をあたえられたのだと思う。
>>世紀の大発見!!縄文時代土器の常識が覆すかも。櫛目文土器より曽畑式土器の方が可なり古い<< この遺跡では10層・11層から櫛目文土器が現れ、さらに深い(さらに古い)13層から曽畑式土器。 発掘調査が待たれる茂の脇遺跡 案内板のある茂の脇遺跡は、八幡神社の周辺一帯をさすらしいが、縄文前期から古墳時代に至る 複合遺跡で、本によっては夫婦石遺跡とも呼ばれている。韓国新石器時代の土器、縄文前期・中期 の土器、石鏃、石斧、古墳時代の須恵器などが出土。考古学的には非常に重要な遺跡らしい。 今までは朝鮮半島の櫛目文土器に影響されて、九州の曽畑式土器が生まれたというのが学会の常識 であったが、この遺跡では10層・11層から櫛目文土器が現れ、さらに深い(さらに古い)13層から 曽畑式土器が見つかった。つまり、曽畑式が櫛目文に影響を与えたのかも知れないということに なってしまう。
巨摩郡は現在の南アルプス市か。たしかに一帯は釜無川の氾濫原のようだな。 ただ国衙のある御坂のあたりも笛吹川付近にあって危ないんじゃないか。
神社には、自分たちの先祖を祀ったものと、自分たちが滅ぼした人(人々)を 祀ったものがあるよね。
139 :
日本@名無史さん :2009/08/28(金) 19:52:11
沖縄では神社ではないが、家の守り神として屋根の上にある。 シーサーと言うな。 これは中国から直に来たからだ。 本島では高麗から来たのだろう。 獅子は見た事が無いから、高麗から来た四足の動物と言う事で「こま犬」になった。
140 :
日本@名無史さん :2009/08/28(金) 20:22:04
>>137 御坂から大善寺のある勝沼にかけては小高い丘が多いので笛吹川の
氾濫から容易に非難できて、気候もおだやかで活断層もなく、
しかも地盤が堅牢な花崗岩なので、1400年前に国府が置かれた条件
は整っている。それに比べると巨摩地域は、かなり条件が悪いので、
朝廷は、その機会に開拓者を多く入れて本格的に整備させたかったのだろうとも思う。
詳しく有難う。 釜無川の堤防が出来たのはだいぶ後代のようだから、 開拓といっても田畑を作るのはきっと難しかったろうな。 馬牧が多かったのもそのへんと関係があるのかも。
埼玉県人がダサいのはそのせいか。
143 :
日本@名無史さん :2009/08/29(土) 06:28:07
>>133 >高麗川のあたりは高麗郡が置かれたところ帰化した高句麗王族らに移住先として 与えられた。
当時の「高麗」って呼び方は必ずしも高句麗を指す言葉ではなく
外国の事を一くくりに「カラ」と呼んでたのと同じに朝鮮半島三国すべての
総称としても使われていたらしいと何かで読んだことがある
つまり「百済」のことを「高麗」と書いてたこともあるとか
だから埼玉の高麗神社も高句麗人ではなく百済人の可能性もあるんじゃないかな
高麗神社では高句麗人が移民して来たと書かれてる古い巻物でもあるの?
源義家の兄弟名で、 八幡太郎義家、加茂二郎義綱、新羅三郎義光。 それぞれ通称の前に諱ですかね、神社で祀られる神の名称が付いてますが、 外来神だとも聞いたこと有りますが、半島に関係有るのでしょうかね?
そういえば神奈川県の大磯にも「高麗山」があるな。
146 :
日本@名無史さん :2009/08/29(土) 07:33:43
>>144 源義光は新羅明神(京都?)で元服したので新羅三郎義光。
>>141 詳しい人がいたら訂正してほしいけど、山梨には高句麗起源の氏姓は
伝わってないと思う。多いのは古代豪族の三枝性と鎌倉以降の源性。
郷土史でも高句麗からの移民のその後についての研究など見たことがない。
コマ地域が鎌倉以降に繁殖した甲斐源氏の居住地域と重なるのは気になる。
司馬遼太郎が高句麗の連中が東国の武士の起源になったのではと空想
したのは面白い話ではあるとは思いましたけど。
>>143 >当時の「高麗」って呼び方は必ずしも高句麗を指す言葉ではなく
半島諸国の総称としての用例は王氏高麗以前にはまず見たことがありませんね。
言うまでもないでしょうが、5世紀以降の中国史料では高句麗はほぼ「高麗」と
記されるようになっており、この時期に漢風に国号を整えた可能性があります。
>つまり「百済」のことを「高麗」と書いてたこともあるとか
それもちょっと疑問ですね。出典などあればぜひ見たいものですが。
ただ、百済は夫余を称していたのは確かで、王姓も余あるいは夫余を称し、
王家の始祖も高句麗と同じく鄒牟(朱蒙、都慕)に求めていますね。
>高麗神社では高句麗人が移民して来たと書かれてる古い巻物でもあるの?
まず『続日本紀』霊亀2年(716)5月条に、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・
下野七国の高麗人1799人が武蔵国に移され、高麗郡が置かれたとあります。
また、東大の史料編纂所に所蔵される「高麗氏古系図」によると、武蔵国高麗氏の
始祖は高麗若光であり、没後高麗明神として崇められたといいます。高麗若光は
『続日本紀』大宝3年(703)4月条に従五位下の官位を帯び、王(きみ)のカバネを
賜ったとあり、また『日本書紀』天智5年(666)10月条に高麗国副使としてみえる
「二位玄武若光」と同一人物とされます。時期からみて、この高麗王若光が立郡に
関わった可能性は十分ありますね。
148 :
日本@名無史さん :2009/08/29(土) 09:15:17
そもそも源氏制度は北魏が起源だと。 【太武帝(424〜452在位)托跋トウの時代には、皇帝の子孫は臣籍降下させて「源氏」の姓を 与え、その親衛隊を組織する皇室制度を創設している(『親書』源賀伝)。】 この制度を真似たのが日本の源氏制だろ。 日本書紀にも中国の史書にも記されていないが、白鳳、天平時代以降は北魏の影響がすごく大きい。 平城京という名前も北魏の最初の首都の名前だ。 聖武天皇の「聖武」という言葉は北親の始祖・神元皇帝托跋力徴の父、聖武皇帝托跋詰汾の「聖武」 と同じだ。( 『馬の文化と船の文化』福永光司 著) これらの制度、影響が日本へ来たについては半島の国家高句麗、新羅、を介して来た。 あるいは渡来人によって齎されたと考えるべきだろう。 八幡神については間違いなく渡来神だ。 宇佐八幡大神は 「いにしえ。吾は震旦国の霊神であった。今は日域鎮守の大神なるぞ」 と宣告している。 震旦国とは中国をさす。源氏制度は北魏から来たし、八幡も中国だ。 そしてそれは半島を介して伝わった。
>>143 高句麗と日本の関係はそれほど悪かったわけではない。4,5世紀は悪かったが、6世紀になって
百済と高句麗の関係が改善される。それに従って日本との交流が盛んになる
516年には百済使節が高句麗使節といっしょにきてるし、550年には百済の使節と高句麗の使節が
奴を倭に献上している。百済と高句麗を分けていることからも百済=高句麗ではない。
さらには、570年には北陸に高句麗人が「烏羽之表」を携えて来日入京、これが正式な国書であると
解読された。
特に新羅が唐と組んだころからは
しきりに高句麗は日本との接近をはかるようになる。白村江のあと666年に高句麗の使節が来てるし
高句麗が唐・新羅に滅ぼされた668にもきてる
>>144 まず八幡神は、飯沼賢司氏の『八幡神とは何か』によると、境界の神であり、
幡(軍旗)に天降った戦神であるとのことです。
飯沼氏は『八幡宇佐宮御託宣集』や「弥勒寺建立縁起」などから、八幡神は
豊前から大隈へ移された渡来系入植民と現地の隼人との軋轢と戦争に際して
出現した軍神であると考察しています。ただ、渡来系の民と関わりが深いと
いっても、特定の共同体や氏族の神ではなく、律令国家の政策の中で出現した
特異な神と位置づけられていますね。
新羅明神については、山本ひろ子さんの『異神』に詳しく述べられています。
上下二冊の大部なのでとっつきにくいけれど、非常にユニークな研究です。
それによると、新羅明神は三井寺園城寺に請来された外来神で、恐るべき験力
をもつとされます。面白いことに、園城寺のライバルである比叡山延暦寺には
赤山明神(泰山府君)が祀られており、これも在唐新羅人に関係するそうです。
>>146 >山梨には高句麗起源の氏姓は伝わってないと思う。
『続日本紀』天平勝宝6年4月条に、判官巨萬朝臣大山に従五位下が授けられた
とあり、「巨萬」の用字から巨摩郡との関わりを想像できないこともありませんが、
それ以上は何とも言い難いところですね。巨萬朝臣大山はもと肖奈大山といい、
天平19年に肖奈福信らとともに肖奈王の姓を賜っています。「巨萬朝臣」は
天平勝宝2年に肖奈福信らが高麗朝臣を賜姓された際に同時に賜ったものと
考えられますが、「巨萬」とするのは上の記事のみで、武蔵介、遣高麗大使
任官記事では福信と同じ高麗朝臣となっていますね。やっぱり、巨摩郡とは
関係ないのかなあ。
>>148 『親書』源賀伝の話は、南涼の王族だった禿髪破羌が北魏に降った際、
禿髪氏と北魏王室の拓跋氏(元氏)が同源の氏族であるのに因んで、
太武帝が破羌に源姓を与えたということだったと記憶しますが。
北魏における「源氏制度」というのは初耳ですね…
ありゃ、『親書』って何だ、『魏書』でした。
153 :
日本@名無史さん :2009/08/29(土) 18:09:12
そう言えばテレ東の「新説日本ミステリー」って番組でも 埼玉の古墳群の石棺が高句麗の高麗尺っで作られているとか言ってたな つまり渡来してきた外国人の墓なんだと 「関東日本王国」なんて言ってたけどいつのまにか消えたなw
154 :
日本@名無史さん :2009/08/29(土) 18:26:38
明日香時代の巨石文明はペルシアが起源です。 テレビでやってました。
外人墓地か
156 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2009/08/30(日) 07:55:38
>>150 ウィキイの「巨摩郡」より。
高句麗形渡来氏族大狛連(狛造)の本貫地である河内国大県郡巨麻郷や
若江郡巨麻郡に「巨麻」が当てられている事から、巨麻は高句麗(高麗)
を意味すると考えられている。
「巨麻郷」があるので、普通に苗字で巨麻と名乗った家もあったかもしれないですね。
157 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2009/08/30(日) 12:15:36
朝鮮人とは朝鮮半島の南側に住んでた原住民で、三韓(馬韓、弁韓、辰韓)人 それに対して高句麗(※)も百済も朝鮮人を支配してた扶余(ツングース)民族 ※ 広辞苑より 【扶余】前一世紀から五世紀まで、中国東北地方北部に活動した民族。 また、その建てた国。ツングース族の一。一〜三世紀中頃が全盛期、もと百済の別称。 【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙(東明王)の建国という。 中国東北地方の南東部から朝鮮北部にわたり、四世紀広開土王の時に全盛。 都は二○九年より丸都城、四二七年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。高麗(コマ)。 【渤海】八〜一○世紀、中国東北地方の東部および朝鮮半島北部のあたりに起った国。 靺鞨(マツカツ)族の首長大祚栄が建国。唐の文化を模倣し高句麗(コウクリ)の旧領地を 併せて栄え、七二七年以来しばしばわが国と通交。一五代で契丹に滅ぼされた。 【靺鞨】(マツカツ)ツングース族の一。有力な部族が七部あり、その一である 粟末(ゾクマツ)靺鞨の首長大祚栄は渤海国を起し、また黒水靺鞨は後に女真と称した。 【女真】中国東北地方の東北部から沿海州方面に住したツングース系の民族。 五代の頃より女真と称し1115年完顔(ワンヤン)部の首長阿骨打(アクダ)が金を 建国し宋に対抗。後に清朝を興した満州族も同一民族である。 一方朝鮮人は、朝鮮半島の原住民の事です。 馬韓、弁韓、辰韓の民族ですね。 なので 百済≒高句麗≒渤海 ≠ 三韓=朝鮮民族
158 :
日本@名無史さん :2009/09/01(火) 00:43:47
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/09/post_5.html ■極東ブログ
なお新羅系とか百済系の移民とかって話ですけど、僕は古代日本人の中にそういう
「移民」がいたかどうか…って次元ではなく、古代日本人(弥生人)ぜんたいが
イコール古代朝鮮人だと考えます。
そうでなければ、弥生人は、いったいどこからわいて出たというのでしょう?
中国渡来という声もあるが、それなら中国→南韓→西日本のルートを取ったはずで、結局は
朝鮮から来たことになるではありませんか。
クシフル岳のもとは韓国のクジボン岳で、天孫説話は扶余族ルーツであることは明白です。
ナラ・ハカタ・イズモ・ノト・ヒダなどはみな古朝鮮語で、とりわけイズモのような貧しい辺境
(失礼!)が古代に栄えていたわけは、朝鮮人の流入口だったからとしか、考えられない。
キム・ダルスは『続日本紀』中に「飛鳥人口の九割は秦氏系(朝鮮人)」の記事があることを指摘しています。
後世−現代のナショナリズムを拭い去って、日本史を冷静に見つめるなら、我々のルーツが
朝鮮半島にあることは明白ではないでしょうか?
>>158 ボコボコにたたかれてるじゃん
新羅人とも百済人とも通訳を要したことが日本書紀に書かれているわけで
シラギたクダラを和語で無理やり解釈しようとするのは単なるこじつけでしょう。
新羅や百済という漢字をどう考えても日本側の読みではシラギやクダラとならないあたりがそれを表してると思います。
さらにシルラだのぺクジェは今の朝鮮人の使う語の読みなのでまた無意味。
古代クダラやシラギ人の言語での自称こそがクダラやシラギだと思うわけで
つまり現代朝鮮人と別系統の民族で
また日本人とも違う民族と考えるのが自然かと思います。
統一新羅の過程で被支配者となって民族性を失って現代朝鮮人の祖に同化していったと考えるべきかと思います。
山の事を○○仙(ぜん)呼ぶ場所もあるけどこれは日本語ではなく 渡来人が住み付き名付けた物と聞きました 日本語だと○○山(やま、さん)岳(たけ、だけ)となるって本当?
>>160 山は呉音では「セン」乱暴な言い方で良ければ「やま」との違いは音読みか訓読みか
サンとの違いは漢音か呉音か。
いやそうではなくて山に「仙」と言う文字を日本人は使わないって話ですが
>>162 使ってるじゃないですか?それを言い出したら山だってそうです
朝鮮半島の山の名前も『日本書紀』や『三国史記』などでみると ○○山、○○岳だけどね。「仙」がつくとこなんてそんなにあったっけ。
165 :
日本@名無史さん :2009/09/01(火) 11:40:52
日本国産文献で、人偏をつけるのは、同盟国の土地だということか。
166 :
日本@名無史さん :2009/09/01(火) 11:41:04
確かに古代日本人全体イコール古代朝鮮人なら、現代日本人も イルボヌとかシルラとかコレアとか発音して、蚕のさなぎやら犬など食するのが ごく一般的になってたでしょうね。
>>162 渡来人が多く移ってきたと言われる土地にしか○○仙と名称が付く山が無いのですよ
サン、セン、は仏教伝来以後、寺などは山号を必ず付ける。例「成田山新勝寺」 倭人達は高い所を山ヤマ、根ネ、岳嶽タケと云った 奈良盆地では八割方がヤマ、三輪山ミワヤマ、香具山カグヤマ、畝傍山ウネビヤマ 邪馬台国の影響か? 春日山カスガヤマ、笠置山カサギヤマ、生駒山イコマヤマ 根は縄文頃からの発音と見られ、屋根ヤネ、尾根オネ、峰ミネ、箱根ハコネ、 神話の(根の国)も地下じゃなく山頂の事。天の鳥船も死者を山上に送る話。 岳はペルシャ、アーリアンの崖、急傾斜地をダカンと発音するのと倭人語の 高いからと思われる。インドのデカン高原も同意と思われる。
>>168 じゃ関東に多いはず。。つーか偶然でしょ?そう結びつけるには決定的なものが必要ですよ。
それともそれがあなたの願望?
>>171 学生時代教授に聞いた話思い出しただけよ
174 :
日本@名無史さん :2009/09/01(火) 23:00:25
■ 大朝鮮帝国史
・我が民族が住む全世界を朝鮮(チュシン)という。
・我々の先祖は既に紀元前3898年に倍達国を建て、農耕民族である中華族を制圧し、大帝国を建設していた。
・高句麗建国の功臣 陜父が日本地域に逃げ、最初の国、多婆羅国を日本地域に建てた。
・伽耶の日本進出以後、倭列島に対する関心が高まるにつれて、百済,高句麗,新羅が争ってその地域に進出したのだが、
伽耶系統であるカラ,アラ、新羅系統であるムラ,百済系統であるコム(熊),タムロ(担魯)などに関連がある
地名は、皆この時期に開拓された所だ。
・ 沸流百済の日本地域の統治過程で、百済皇統の継承のために全ての担魯を制圧して建てたのが、まさに天皇国家の始まりである。
この時の討伐将軍であるキョン・ジンジュは百済の大将軍であったし、天皇ソン・ソンジョも百済から派遣された百済皇族だった。
・ 神武天皇は、現地妻を取っていたソン・ソンジョ皇子の代わりに百済から送られた新しい天皇で、倭列島の東部征伐の任務を忠実に遂行した。
・ 新羅王子 天日槍の倭列島攻略以後、本州地方をめぐる百済,新羅の間の争いが激化したのだが、高句麗もコンボルを根拠地に勢力争いに
飛び込み、倭列島は戦火に包まれ、これを解決するために百済は景行王を派遣した。
・三国遺事の延烏郎・細烏女の説話は、新羅に滅ぼされた馬韓遺民の倭列島移住を示し、この細烏女がまさに卑弥呼であり、その娘が神功皇后である。
海上帝国を成していた沸流百済は、高句麗の広開土大王の侵攻によって本国の熊津(コムナル)を奪われて日本地域へ避難したのだが、この人が応神天皇である。
応神は奈良百済を建て、そこを中心に本国の古莫那羅(コムナル)百済を支配した。
・古莫那羅百済の混乱に乗じて、新羅は倭列島における勢力挽回を試みた。
この時、新羅の主導でなされた日本の改革がいわゆる大化の改新である。
・朝鮮(チュシン)の伝統を継承していた高句麗は、この時に我が民族関連の記録を民族保護次元で全て焼却したのだが、このためにその後の国史が歪曲された。
http://koreawatcher.at.infoseek.co.jp/docs/jushin.htm http://upload.jpn.ph/upload/img/u46342.jpg 奈良百済
175 :
日本@名無史さん :2009/09/02(水) 02:22:25
新羅は倭人の国、朝鮮人の国じゃない ・『三国史記』に、三王家のふたつに倭起源伝説がある旨、記されている。 ・新羅と出雲に残された四隅突出型古墳、スサノオの新羅天下り伝説。 ・『新撰姓氏録』に新羅初代王は神武天皇の兄、稲飯命(イナヒノミコト)とある。 ・『隋書東夷伝』に、王は百済人、とある。百済の王族は扶余族、倭王族とは親戚であるという。 ・『山海経』に、楽浪の南に燕に朝貢する倭がある旨、記されている。当時のそこは三韓に別れる前の辰国であった。 ・辰国は倭人の国? DNA研究により辰国の倭人と思しき民族が長江文明人の末裔(弥生人、百越人とも)であることがわかっている。 ・失われた長江文明人の血は、現代ではベトナム以南、朝鮮、日本にしか残されていない。山東省から、日本から、海路で半島に渡ったと考えられている。 ・その弥生人と共に、長江原産ジャポニカ水稲が日本から半島に伝わったこともDNA研究により判明している。 ・中国史料によると、先住民の穢族が高句麗、扶余、沃沮の四族に別れたとある。穢族は東胡の末といわれている。 ・東胡はツングース系? テュルクが混血しているとも言われる。BC209年に匈奴に敗れ四散、鮮卑や蒙古に別れた。女真もその末。 ・同様にその後、遼東太守の公孫度が扶余王、尉仇台に嫁を与え、後の百済の地の王とした旨、記されている。 ・倭、百済、任那、新羅の支配層は全て扶余族と見るべきか。ただし、全て民衆とは別民族。(扶余が天皇家とは限らない、蘇我氏説もあり) ・中国史料によると、秦韓(辰韓)の民衆は先住の倭人と始皇帝から逃げてきた秦人(漢族)、とある。 ・『隋書』、記紀からも、任那、百済、新羅がその当初、日本を宗主国として仰ぎ、往来していた旨、明らかである。 ・現朝鮮民族にも、ツングース系(高句麗、扶余、蒙古、女真)の血(一割)、漢族の血(四割)、倭人の血(五割)が残っている。 ・先住民たる倭人の五割にも及ぶ血だが、それでも大幅に粛清された結果だろう。(倭人は奴隷階級に落とされていたから。日本人に似た済州島民の例もある) これらを総合するに新羅も百済、任那同様、日本の親戚国と見るのが正しい。民衆の血筋は現在の朝鮮と近い点もあるが、その支配層の歴史的出自が全く違うということだ。 すると、朝鮮のルーツは新羅ではなく、高麗からということになる。
おっと渤海と協力して新羅を攻めようとしていた藤原さんも忘れないで と言うか渤海抜けてる
177 :
日本@名無史さん :2009/09/02(水) 05:03:57
>>169 >>岳はペルシャ、アーリアンの崖、急傾斜地をダカンと発音するのと倭人語の
高いからと思われる。
・・・岳はトルコ語でdag(山)、固有名詞では dagiになる。
山ヤマは八重山語でダマ、モンゴル語のdawa(峠)だろう。
178 :
日本@名無史さん :2009/09/02(水) 15:15:48
>>177 >「ヤマ」とは数段の盛り土をした高い所に有る祭壇の様で、元々インドのヤマ、ヤミ神の事
光明を放つヤマ神と暗闇の支配者ヤミ神の事で、卑弥呼の宗教もこれでは無いかと思われる。
日本では閻魔様として、使者の罪を裁く恐ろしい形相の神として知られる存在である「ヤマ(Yama)」。
もともとは、インドの古代文献である「リグ・ベーダー」では、太陽神ヴィヴァスヴァト(Vivasvat)
の息子として、妹ヤミと共に、この世に最初に生を受けた人間として描かれています。
http://plaza.rakuten.co.jp/abundantia/13001 そしてヤマは旅の途中で、冥界への道を発見し、最初の死者となりました。
そして、この地上に生きる人間が死んだ時には、その魂を死後の世界へと導き、その
死後の世界を統治する王となったとされています。
言葉遊びはどうでもいいよ。どんな言葉でも起源にできるw アホだろおまえら
180 :
日本@名無史さん :2009/09/02(水) 21:27:51
高句麗語で「山」の表記は「陽」と「達」と表され、それぞれ「やま」と「だけ」になったと推測される。 「谷」は「旦」と表記されている。「tan」が「tani」になったと思われる。
181 :
日本@名無史さん :2009/09/02(水) 21:56:59
夜明けには山ヤマから太陽の光線、光明が眩しく射すんだよ。 光明、ひかりを発する処をヤマと言った、 ヤマ神に通づる。 高低はあまり関係ない。
182 :
日本@名無史さん :2009/09/02(水) 22:22:58
>>180 高句麗語で「山」の表記は「陽」
・・・それは見たことがないし、yang>yamaの変化は考えにくい。
達 tat,dat,tal,dal>take も語尾が違う。
183 :
日本@名無史さん :2009/09/03(木) 05:59:21
>>182 漢【陽】郡ハ、本高句麗ノ北漢【山】郡ナリ。
中国では河川の北岸を「陽」、南岸を「陰」というそうだけど、 漢陽ってのはそれに倣った名称じゃないの。
185 :
日本@名無史さん :2009/09/03(木) 17:11:21
古語の研究というか文系左脳型知識自慢のスレになってきたな。 渡来人の痕跡とか行方の話じゃないなら別スレ立てれば?
186 :
日本@名無史さん :2009/09/03(木) 22:26:36
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/ootu_002.htm >多くが盗掘されていたが、状態の良いものからはミニチュア炊飯セット(カマド、カメ、コシキ、ナベ)が出てきている。
これらはこの地域に特徴的なもので渡来人系の古墳とされている。
穴太野添古墳群は6世紀から7世紀初めにかけて作られたとされるが、
このような古墳はこの周囲に1000基以上築かれたとされ、今でも百穴古墳群、日吉古墳群などで見ることが出来る。
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/ootu_004.htm >全国の日吉(日枝)神社の総本宮、日吉大社の一帯も、
穴太野添古墳群や百穴古墳群同様、渡来系の特徴を持つ古墳が多く見られる。
全体で68基あるとされる。境内にも古墳の石材でないかと思われる石が多く見られ、
中には祇園石のように信仰の対象になっているものある。
日吉大社のある坂本一帯は古くから渡来系の多く住む地域であった。
>大山咋神はスサノオ命の孫に当たる。スサノオは出雲に降りてきたとされるが、
日本書紀の「一書曰く」で新羅のソシモリ(ソ=牛、モリ=頭とされる)に降りてきたともいう。
孫の大山咋神の兄弟には韓神、曾富理神(ソホリ=ソウル)など渡来系の神がいる。大山咋神もその系譜である。
西本宮前の「祇園石」の神、牛頭天皇もスサノオを表している。
>渡来人の多かった坂本、坂本の人々に篤く信仰された日吉大社(古代神道としての)、
坂本の渡来系出身で日吉大社によって比叡山を起こした最澄。この三者は関連するかもしれないが、よく分からない。
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/tikatuasuka_004.htm >この地域のおよそ東西・南北1.5kmの間に250基近い古墳が群集している。
6世紀後半を中心に作られた、小円墳でが中心で、尾根ごとにいくつかのグループに分けられる。
現在は大阪府立近つ飛鳥博物館を中心とした「近つ飛鳥風土記の丘」の中にある。
>古墳群のある谷の入り口にあたる南河内地方は渡来人の集住地帯で知られる。
様々な渡来系氏族の寺院や神社が残されている。
渡来人が日本に来る波は数回に分かれるが、5世紀前後にも波がある。
結論、古墳とは渡来人の墓である。
高麗郡出身の肖奈公福信(のちに肖奈王、高麗朝臣、高倉朝臣の姓を賜る) の「肖奈」は高句麗の王権を構成していた五部のひとつ「消奴部」に由来する といいます。『梁書』高句麗伝には、消奴部はもと王族であり、これが弱まって 王族は桂婁部に代わったとあります。 この王系交替はいつのことなのか不明ですが、もしかしたら、『三国史記』に みえる、流離の末クーデターで即位した美川王(広開土王の曽祖父)の伝承が それっぽい感じもします。肖奈=消奴を称していた福信の系統は肖奈「王」姓 を与えられていますが、あるいはこのあたりの経緯をふまえて王姓賜与を 願ったのかもしれませんね。
188 :
日本@名無史さん :2009/09/04(金) 17:27:05
>>187 三世紀後半に書かれた魏志東夷伝に既にその事が書いてあるから、美川王の話ではないと思うよ。
「本涓奴部爲王、稍微弱、今桂婁部代之。」
たぶん二世紀くらいの事。
太祖の「宮」の時ではないか?
189 :
日本@名無史さん :2009/09/04(金) 17:45:19
朝鮮起源説っていつも都合の良い資料しか取り上げないよね。
190 :
日本@名無史さん :2009/09/04(金) 18:45:23
>>186 日本固有の前方後円墳も「マンガ日本史」で渡来人の技術指導者に
倭人がコキ使われて作ってたからねw
191 :
日本@名無史さん :2009/09/04(金) 19:09:54
>渡来人の技術指導者 その上に日本人支配層がいた事を忘れんなよ。
>渡来人の技術指導者 まず漢民族の技術指導があってこそ海を渡っても食ってけた事を忘れるなよw
>>188 ご教示大変有難うございます。たしかに『魏志』にもその記述がありますね。
太祖大王(宮)のときの王統交替はそれっぽく感じます。ただ、『魏志』を
見ていたら、別の可能性もあるんじゃないかと思えてきました。
史料A
「王之宗族、其大加皆稱古雛加。涓奴部本國主、今雖不為王、適統大人、
得稱古雛加。亦得立宗廟、祠靈星、社稷。」
王の宗族、その大加(大官か)はみな古雛加を称する。涓奴部(消奴部)は
もと国主であり、今は王にならないが、大人を統べることに適い、古雛加の
称を得る。また宗廟を立てることや霊星と社稷を祀ることができる。
史料B
「伯固死、有二子、長子拔奇、小子伊夷模、拔奇不肖、國人便共立
伊夷模為王。自伯固時、數寇遼東、又受亡胡五百餘家。建安中、
公孫康出軍撃之、破其國、焚燒邑落。拔奇怨為兄而不得立、
與涓奴加各將下、三萬餘口詣康降、還住沸流水。降胡亦叛伊夷模、
伊夷模更作新國、今日所在是也。拔奇遂往遼東、有子留句麗國、
今古雛加駮位居是也。」
高句麗王の伯固が死んで、子に拔奇と伊夷模の兄弟がいたが、
拔奇は不肖なので、国人は弟の伊夷模(山上王)を王に共立した。
──中略──拔奇は兄である自分が王に立てられなかったことを怨み、
涓奴部三万余の将兵とともに遼東の公孫康に降り、(その援助を得て)
沸流水(高句麗の本拠)に還住した。すでに投降していた胡族は伊夷模に
叛き、伊夷模はあらためて新たな国を作った。それが今日所在するところ
(丸都城)である。拔奇は遂には遼東へ往き、子を高句麗にとどめた。
それが今の古雛加の駮位居である。
AもBも『魏志』東夷伝高句麗条のものですが、両者は関連する記事なんじゃ ないでしょうか。とりあえず、当時の王が父子一系とか血統によって即位する のではなく、五部のうちから有力候補が「共立」されていた(おそらく涓奴部は 最有力の部で王を輩出していたのでしょう)と考えた場合、拔奇と伊夷模は 兄弟というより、それぞれ涓奴部(消奴部)、桂婁部を支持母体としていた 王位継承候補どうしであったと想像されます。 伊夷模は国人の支持を得て共立されたものの、拔奇と涓奴部はそれを認めず 争いとなった結果、伊夷模が高句麗の故地を捨てて遷都してしまったのでしょう。 結局王位を得られないとさとった拔奇は遼東へ逃れ、その子駮位居と涓奴部は おそらく伊夷模に降り、準王族として古雛加の称号を得たのだと思われます。 そのことが「涓奴部本國主、今雖不為王、適統大人、得稱古雛加」の記述に 反映されているのではないでしょうか。推測に推測を重ねたもので恐縮ですが。
195 :
日本@名無史さん :2009/09/05(土) 21:13:40
前方後円墳を作ったのは倭人ではなく渡来人ってことでOK?
196 :
日本@名無史さん :2009/09/05(土) 21:50:46
190 名前:日本@名無史さん :2009/09/04(金) 18:45:23
>>186 日本固有の前方後円墳も「マンガ日本史」で渡来人の技術指導者に
倭人がコキ使われて作ってたからねw
191 名前:日本@名無史さん :2009/09/04(金) 19:09:54
>渡来人の技術指導者
その上に日本人支配層がいた事を忘れんなよ。
192 名前:日本@名無史さん :2009/09/04(金) 19:29:09
>渡来人の技術指導者
まず漢民族の技術指導があってこそ海を渡っても食ってけた事を忘れるなよw
197 :
日本@名無史さん :2009/09/06(日) 03:29:47
■百済人の容姿とは? 百済の歴史について、百済人は韓国人の先祖なのかについての議論は ひとまず置いといて百済人の容姿について考察してみよう 百済人の容姿はどんなふうだったかは歴史好きでも興味があるところだろ まず、身長はどれくらいだったのか?(倭人より高い?) 東アジア系の中でも中国、日本、韓国のどの特徴を多く持っていたのだろうか? 顔の輪郭が韓国人みたいなぺヤングだったのか?日本人みたいに卵型だったのか? 目の大きさや鼻の高さ、さらに歯並びや脚の長さなどを百済人の人骨から調べ その容姿の平均値を出したいものだが・・ 今現在、中国大陸も朝鮮半島も日本も様々な地域からやって来た民族との 混血が多く、古代朝鮮がまだ混血してなかった頃の百済人の容姿的特徴には 大変興味をそそられる(百済人は後期に倭人と混血してたという説もあるそうだが) 百済人の人骨からあくまで平均的な容姿を復元できないものだろうか? しかし百済人は全滅してしまって朝鮮半島にも武寧王の墓ぐらいしか特定できないと思われる 日本で百済人が多く住みついた土地に住んでる人の容姿の平均値を出すのは難しいと思う 日本は1500年の間に国替えや人の移動などで混ざってしまったので 百済人的な容姿の特徴を特定するのは困難だろろう しかしながら奈良や飛鳥にたくさん住みついたそうで、どうしても奈良や飛鳥地方の人達を 見ると「ん、百済人の容姿か?」と無意識に疑似比較してしまうw 奈良出身の芸能人明石さんまのようだったのか、それとも加藤雅也のようだったのか? 謎は深まるばかりだw
結局考察してねーじゃん、あほか
199 :
日本@名無史さん :2009/09/08(火) 14:35:58
高句麗には前方後円墳に似た積石塚があると言うし、モンゴルにもある。 いずれも紀元前のものだ。 日本より古いのだからルーツである可能性はあるだろう。 そして高句麗雲坪里遺跡の古墳の形態は讃岐の積石塚古墳群の形態とよく似ている。
松鶴洞一号墳が、前方後円墳ではなかったこと、 および、全羅南道の前方後円墳も、 すでに、日本の古墳よりも新しい時期のものであることが判明しているので、 「前方後円墳の源流が朝鮮半島にある」とする根拠は消滅してしまった。 南朝鮮は古代から倭人の支配地
202 :
日本@名無史さん :2009/09/09(水) 11:29:46
203 :
日本@名無史さん :2009/09/09(水) 13:22:58
周辺諸国の史書だけでなく、自国の史書も無視して 「朝鮮は古代から大国だった」 とか 「我々が漢民族に文化を伝えた」 とか そりゃ中華思想全開の中国でなくとも怒るわ。
204 :
日本@名無史さん :2009/09/09(水) 16:06:16
「続日本紀」に戦勝国であるはずの新羅からも移民が来ている。 もっとも戦勝国と言っても、唐から侵略を受け、 いつ同じように国が滅ぶかわからない、というのが実情。 なんとか唐を追い払ったものの、ほとんど属国。 名前まで変えてしまったほどの隷属状態だから、 民も逃げ出すのは当然だが。
205 :
日本@名無史さん :2009/09/09(水) 17:01:43
>>204 今はシナ式の名前をさらにLEE,PARK,MOONと英語風に綴るという
二重属国状態だな。
206 :
日本@名無史さん :2009/09/09(水) 18:49:44
>>204 その頃の新羅の王は倭人血統の王じゃないよね?
207 :
日本@名無史さん :2009/09/09(水) 23:35:25
まあ、国営放送が、堂々と「日帝が打ち込んだ毒杭」とか放送する国だから。 なんかの基礎だかの杭を「毒をまき散らし、 我が国から英才が出るのを遮った」とか言ってる。 21世紀なのに。
ファーストレディの情報がないんだけど。中国や北朝鮮なみですねw
鳩山幸さんはサイエントロジーというカルトと関係があるという噂があります。
http://an ★tikimchi.see★saa.net/art★icle/127578850.html
↑ 日本アンチキムチ団
鳩山幸さんの旧姓が不明だそうですよ。
764 名前:可愛い奥様[] 投稿日:2009/09/06(日) 01:04:07 ID:/WrcABwtO
北海道苫小牧在住の者ですが、老人ホームで暮らす朝鮮人のお婆ちゃんから聞いた話です。
幸夫人のごお父様は中国人ではなく、キム・ジョンウォン(漢字不明)という朝鮮北部出身の貿易商だったようです。
戦後は日本に渡り、幸さんが渡米するまでは神戸の商社に勤めていたようです。
キムさんは幸さんが渡米した直後、北海道室蘭に引っ越し、貿易商を営みながら総連支部の設立に尽力されたと話しておりました。
中国語・英語・ロシア語がお上手だったようですね。
【ファーストレディー】鳩山幸をウォッチするスレ 2
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1252279762/
百済人は日本人との結婚を禁止されてたらしいな
210 :
日本@名無史さん :2009/09/10(木) 03:48:38
普通に結婚してたよ。 むしろ、王様なんか日本人とばかり結婚してたみたい。
日本人と百済人は切り離されてた記録が残ってるけど
212 :
日本@名無史さん :2009/09/10(木) 12:51:15
■朝鮮に初めて国を建てたのは中国人です 【衛氏朝鮮 紀元前195年? - 紀元前108年)】 燕の亡命者、衛満が今の朝鮮半島北部に立てた国である。 前漢の高祖の時代、燕王廬綰が漢に背き、匈奴に亡命すると衛満も燕から亡命し、 千人余りの徒党と共に朝鮮に入った。そこで、朝鮮の集落や戦国時代の燕や斉の亡命者などを取り込み、 王険(平壌)を首都として王位についた。 【楽浪郡】 前漢の武帝が紀元前108年に衛氏朝鮮を滅ぼしたときに、朝鮮半島に置いた四郡の一つ。 今の鴨緑江から平壌付近を中心とした一帯の地域であり、中国の朝鮮半島支配の拠点になっていた。 ■日本人の国もありました 【任那 369年 - 562年】 三韓の中の弁辰、弁韓の地に相当する。かつては倭の任那日本府の支配下にあったとされている。 三国時代の「弁辰」に替わって、 宋代にはすでに成立しており、 450年頃、加羅が任那から分立した。 任那は、梁代に、特に525年以前に新羅に滅ばされた。 任那の故地に関する記憶は唐の高宗の時代まで残っていた。
214 :
日本@名無史さん :2009/09/11(金) 05:37:29
>>209 元々あった百済は高句麗に亡ぼされ、記録が残っている百済は、人質として日本にいたので生き延びた王子が日本から領土を割譲してもらって、新しく作った国
百済人のほとんどは日本の領土時代からの日本人
日本人同士の結婚を止める理由は無い
そういや前から疑問だったんだが、新羅はどうしてあの痩せた土地で、日本の勢力を押し返すだけの軍事力を構築できたんだろ? しかもあの後、唐とも戦争してなかったっけ?
ヒント:製鉄技術
217 :
日本@名無史さん :2009/09/12(土) 19:04:55
製鉄技術をもった朝鮮人が、出雲に侵入、 武蔵に侵攻したから、武蔵国造は出雲族
【隋書 百済伝】 >其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。 そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる
219 :
九州王朝大好き :2009/09/12(土) 21:35:50
>>215 新羅は強力な毒矢をもって戦争技術に長けていた。
これは、新羅の前身である挹婁の後漢以来の伝統。
新羅は任那地区を制圧してから、その人材を活用して急激に力をつけた。
220 :
日本@名無史さん :2009/09/12(土) 21:56:32
>>217 ■渡来人
●移住氏族について(上) 朴春日
古代朝鮮と日本列島との関わりは、いまから約5000年前にさかのぼると考えられている
わが民族の始祖王・檀君王倹が樹立した古朝鮮を初め、扶餘・句麗・辰国などの古代国家は、青銅器・鉄器文化と
農耕文化を発展させ、領土の拡大をめざした。
そして紀元前3世紀頃から高句麗・百済・新羅・伽耶などの封建国家が成立し、高度な金属・稲作文化を擁して海外へも積極的に進出した。
とくに、わが国の移住者集団は日本列島へ積極的に進出し、未開地を開拓してマウル(村)、コウル(郡)、ナラ(小国)を
築き、弥生時代の到来をもたらした。
彼らの渡海のピークは、@弥生時代前期A4世紀後半〜5世紀前半B5世紀後半〜6世紀初期C7世紀中葉――と見られるが、
その数「百万人規模説」(埴原和郎氏)は注目に価しよう。
神話の世界はさておき、それを伝承や説話から見ると、わが国では「三国遺事」所収の「延烏郎(ヨン・オラン)と細烏女(セ・オニョ)」が挙げられる。
すなわち、新羅の阿達羅王4(157)年、東海岸(迎日湾)に住む延烏郎が出雲へ渡って王に推され、後を追った妻の細烏女も王妃になったという話である。
この説話は、出雲地方で王権を握った新羅人集団の存在を物語るが、延氏については、高句麗の始祖王・高朱蒙の義父が延陀勃(ヨン・タバル)であったことを想起されたい。
一方、「古事記」や「日本書紀」など、日本の古文献には古代朝鮮からの移住者関連の記事が頻出する。
まず新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)は垂仁3(紀元前27)年に渡来し、但馬に定住して豪族・出石一族の始祖になったという。
天(あめ)が朝鮮を意味したことは周知のとおりだ。
221 :
日本@名無史さん :2009/09/12(土) 21:57:23
続き
また集団的な進出・移住の代表例は、応神14(283)年、「百済から夕月君(ゆつきのきみ)が百二十県の民を率いて渡来した」という記事である。
夕月君は豪族・秦(はた)氏の祖とされるが、共和国の学者はこれを6世紀頃、北九州の百済人勢力が畿内大和へ進出したもの、とみなしている。
その6年後、同じく東漢(やまとのあや)氏の祖・阿知使主(あちのおみ)が「十七県のともがらを率いて渡来した」が、これも西から東への進出であったろう。
また、日本で「文学の始祖」と讃えられた王仁(わに)の渡来も、ちょうどこの頃である。
こうして倭国王権の2大門閥−秦氏と漢氏が登場したわけだが、その数は「各々数万名を数えた」(「古語拾遺」)という。
(パク・チュンイル 歴史評論家)
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2002/7/0701/62.htm
>>217 出雲からいきなり武蔵ってのは無理があり過ぎないか?
大和や飛鳥、近江をワープしちゃうってのはいくら何でもムチャすぎるよ。
>>220 紀元前3000年・・・あまりに根拠が薄弱すぎる。
あと、奈良時代ですら日本の人口は30万人程度だとか。半島から100万人も移住して来て、ほとんど全滅したってのかよ。
無茶苦茶だよ。学問を何だと思ってるんだこの人・・・。
224 :
日本@名無史さん :2009/09/13(日) 02:27:58
バッグに女性詰め込み拉致、自宅で乱暴 42歳男を逮捕
≪「生活に困り、性欲も満たしたかった」≫
女性をキャリーバッグに詰め込んで拉致、自宅で2日間にわたり乱暴し現金などを奪ったとして、
大阪府警捜査1課は30日、強盗強姦(ごうかん)やわいせつ目的略取、監禁の疑いで大阪市浪速区、韓国籍、金平和容疑者(42)を逮捕した。
調べでは、金容疑者は4月中旬の夜、大阪市内のマンションで、一人暮らしの20代女性の部屋にベランダから侵入。
帰宅した女性をひものようなもので縛って持参したバッグに詰め、車に乗せて数キロ離れた自宅に連れ込み、
2日後の朝まで監禁して繰り返し乱暴した疑い。
また女性から現金6万円とキャッシュカードを奪い、銀行の現金自動預払機から22万円を引き出した疑い。
容疑を認め「経営する会社が倒産して生活に困り、性欲も満たしたかった」と供述したという。
金容疑者は5月上旬にも別の女性宅に侵入、スタンガンでショックを与え、目隠しして自宅に連れ込み、
6日間にわたって乱暴を繰り返した上、現金約20万円を奪った疑いが持たれている。
読売新聞一部抜粋
女性を旅行かばんに押し込んで拉致、42歳無職男逮捕
ニュース映像
http://www.youtube.com/watch?v=8qss-PCWjs4
朝鮮人は、鉄器を駆使して出雲や越から関東に侵入した
関東の朝鮮人については渡来人の集団定住説が有力。詳しくは過去レス嫁。
227 :
日本@名無史さん :2009/09/13(日) 13:33:40
関東やら奥州に朝鮮系統がいるのは開拓民でしょうな。 奴隷とはいわないが、ソ連のシベリア送り組みたいなもんだろ。
228 :
日本@名無史さん :2009/09/13(日) 13:57:48
えっ…と、 糞スレはここかな…、と ∧∧ ∧∧ ∩゚Д゚≡゚Д゚)| ̄| `ヽ /)ニニニコ |_ i〜 |_| ∪ ∪
>>227 そういう色合いも可能性として考えても良いけど、灌漑などに優れた土木技術者集団だったというのが妥当なとこじゃないだろうか。
機内は開発し尽くしたし(当時の感覚)、少ない日本人技術者でまかなえる。じゃあ、新規開拓は技術者集団を送り込もうという。
実際、シベリアみたいなひどい環境ではなく、結構悠々と暮らしてるし。
230 :
日本@名無史さん :2009/09/13(日) 14:53:01
渡来人は土着して同化して完全に痕跡をなくしたということかな。
231 :
日本@名無史さん :2009/09/13(日) 18:04:33
日本人は渡来人
朝鮮人は倭人+中国人
「加羅」は「金官伽耶(金海市)」を指し、魏志倭人伝で言う「狗邪韓国」のことである。 魏志倭人伝と魏志韓伝を採用して考察すると、結局「狗邪韓國」の国数は20カ国許となります。 したがって、狗邪韓國とはいわゆる「伽耶」であり、狗邪韓国は韓伝の中の国数に含まれていませんから、 倭国の領域であったことになります。 単純な数字の計算から行くと他の結論はありません。 日本→半島ですね
在日=奴隷の子孫
>>232 あのな、そんなことは前提とした上でみんな話してるんだよ。おまえは本の前に空気を読め。
238 :
日本@名無史さん :2009/09/14(月) 15:05:06
239 :
日本@名無史さん :2009/09/14(月) 15:49:05
朝鮮マンセーじゃ!これでもくらえー!!!!!!
240 :
日本@名無史さん :2009/09/16(水) 06:26:38
亡命した連中って蘇我氏や藤原氏だろw
241 :
日本@名無史さん :2009/09/16(水) 13:52:38
畿内、関東、九州北部に定住したよ。 ただし、和人同様にその後何百年も同じ地域に居住していた わけじゃないから、行方はわからん。 和人同様にというか和人に融合したというか、 民族としては消滅したからなぁ。
244 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 01:37:19
朝鮮半島 日本 新羅 百済 倭 | | | | | | 4世紀 .| | ̄ ̄ ̄| | × 大和 | | | 蒙古 | 13世紀 | | |  ̄| | | | | | | | 2009年 韓国人 天皇家
245 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 02:47:11
韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、 いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方(日本海沿岸地方)に 住んでいたワイ族。
百済人、高句麗人は古代の満州地方に住んでいた遊牧民族=フヨ族。
ウィキペディア-朝鮮民族
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E6%97%8F 歴史
朝鮮半島では4世紀頃までに高句麗、新羅、百済の三国が興り三国時代と呼ばれるが、7世紀に中国の唐が新羅と結んで高句麗、百済を相次いで滅ぼし、さらに新羅が唐の勢力を追放して朝鮮半島を統一した。
高句麗や百済の支配層は扶余系とみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。
一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる。
ウィキペディア-新羅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85 脚註
^ なお韓国では、高句麗の滅亡後にその遺民が靺鞨族と共同して満州に建国した渤海を高句麗の後継国家と見なし、新羅・渤海をあわせて南北国時代と呼び、朝鮮民族史の及ぶ地理的範囲を朝鮮半島から満洲・沿海州を含めた領域としている。
しかしながら、言語的観点から現代の韓国・北朝鮮の祖とされる新羅と、高句麗・渤海とでは、民族的・言語的に隔たりがあり(金芳漢著・大林直樹訳『韓国語の系統』)、
高句麗・渤海を現在の韓国・北朝鮮へ連続する国家と見なす十全な根拠がないため、高句麗・渤海の故地を領土に含み、また高句麗・渤海と民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国との間に軋轢が生じている(→東北工程)。
246 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:08:32
高句麗=扶余系=満州系なんだわな。 高句麗の発祥地は中国の東北地方で、高句麗の数百年の歴史のうちの最初からの半分以上が中国東北地方にしか版図がなく、朝鮮半島には存在はしてなかった。 そして、彼らが滅亡した後は、ほとんど満州の部族に移行している。つまり、どう考えても、高句麗は中国東北系の国なんだわな。 高句麗と朝鮮の関係って大日本帝国の朝鮮と似たようなもんでしょ。 朝鮮に日本家屋があることを理由に、朝鮮人が江戸文明を作ったとかぬかすくらいあつかましい主張でしょ。 何しろ、文明が継承されてないんだもの。 満州人はきっちり高句麗文明を継承してるけど朝鮮は100年前は土人文明だもの。 高句麗はシナと新羅(朝鮮)が連合して消滅させた異民族の古代国家にすぎない。 百済も、高句麗の後継国家、渤海も同じ。
247 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:09:17
248 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:12:49
朝鮮人(高麗族、コリョ族)は中国東北部起源の北の蛮族 「楽浪半島、もしくは東シナ半島」の歴史(中国と日本の歴史) 前1000年頃 殷の廷臣、箕氏(中国人)が周の武王から楽浪(半島北部)に封じられる?(周の属国)その後、周の凋落で王を称す? 戦国期 編纂されはじめていた地理書「山海経」に「楽浪の南に、燕に朝貢する倭がある」旨、記される。 辰国(半島南部、百越人の国)は倭そのものか? 百越人(弥生人)とは、失われた長江文明の担い手。現在そのDNAは半島、日本、ベトナム以南にしか残されていない。 前195年 秦に滅ぼされた燕からの亡命武将、衛満(中国人)が箕氏楽浪を乗っ取る。 このころから辰国は三韓に分かれはじめる。 馬韓(後の百済)は百越人の国。秦韓(辰韓、後の新羅)は始皇帝から逃れてきた秦民の国。弁韓(後の任那)も秦韓に似る。 前108年 中国皇帝の武帝が衛氏を滅ぼし楽浪郡を設置、植民地とする。 前37年 東胡を祖とするコリョ族(高麗族)が中国東北部に高句麗(前高麗)を建国。 2世紀 遼東太守、公孫度が扶余族(穢族からコリョ族と分岐)の王、尉仇台に嫁を与え馬韓(後の百済) の王とする。先から三韓の王族は全て扶余族となっていた? 倭王も同族? 新羅三王家のふたつに倭出自伝説が残されている。 3世紀初 公孫康 、曹操の許可を得て楽浪郡南部を帯方郡(後の百済)として設置。 4世紀 晋の八王の乱の混乱に乗じて、高句麗が楽浪郡を不当占拠。百済、新羅が建国。日本を大国と崇め、人質を送る。任那も併せ三韓は日本の勢力下にあった。 7世紀 任那、百済と順に滅亡、遣隋使と合わせて日本は半島から手を引く。新羅、高句麗を征伐。統一新羅は中国の属国となり、独自の名前と年号を捨て、中国式の名前と年号を使い出す。 918年 新羅滅亡、高麗(後高麗)建国。新羅内に雌伏していたコリョ族が国を乗っ取った。 ここまでは、朝鮮人の歴史ではない。
249 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:13:44
朝鮮人とは朝鮮半島の南側に住んでた原住民で、三韓(馬韓、弁韓、辰韓)人 それに対して高句麗(※)も百済も朝鮮人を支配してた扶余(ツングース)民族だな ※ 広辞苑より 【扶余】前一世紀から五世紀まで、中国東北地方北部に活動した民族。 また、その建てた国。ツングース族の一。一〜三世紀中頃が全盛期、もと百済の別称。 【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙(東明王)の建国という。 中国東北地方の南東部から朝鮮北部にわたり、四世紀広開土王の時に全盛。 都は二○九年より丸都城、四二七年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。高麗(コマ)。 【渤海】八〜一○世紀、中国東北地方の東部および朝鮮半島北部のあたりに起った国。 靺鞨(マツカツ)族の首長大祚栄が建国。唐の文化を模倣し高句麗(コウクリ)の旧領地を 併せて栄え、七二七年以来しばしばわが国と通交。一五代で契丹に滅ぼされた。 【靺鞨】(マツカツ)ツングース族の一。有力な部族が七部あり、その一である 粟末(ゾクマツ)靺鞨の首長大祚栄は渤海国を起し、また黒水靺鞨は後に女真と称した。 【女真】中国東北地方の東北部から沿海州方面に住したツングース系の民族。 五代の頃より女真と称し1115年完顔(ワンヤン)部の首長阿骨打(アクダ)が金を 建国し宋に対抗。後に清朝を興した満州族も同一民族である。 一方朝鮮人は、朝鮮半島の原住民の事です。 馬韓、弁韓、辰韓の民族ですね。 なので 百済≒高句麗≒渤海 ≠ 三韓=朝鮮民族
250 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:15:04
251 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:17:34
>>223 このサイトの人口推移推計によると律令がしかれて細かい戸籍をとるようになった8世紀には450万人ほどいたであろうとなってる。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1150.html 紀元前後は59万人だと(推計なのに60万っていう概数にならず59万ってとこまで出してるのはすごい)。
だからといって100万人移民説はちょっとぶっ飛び過ぎだと思うけどね。もしそうならサイトにあるような緩やかな増加にはならないだろう。
253 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:19:11
【質問】『「我々韓国人は高句麗人(フヨ族)の子孫だ。高句麗は韓国人が建国した国だ」と主張していますが、 これは事実でしょうか?』 【回答】 完全なウソです。韓国人の作り話です。韓国人と高句麗人はまったく別種の民族です。高句麗人は 古代の満州地方に住んでいた 遊牧民族=フヨ族の一派ですが、韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、 いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方(日本海沿岸地方)に 住んでいたユウロウ族です。狩猟民族=ユウロウ族の子孫が 現在の韓国人です。このユウロウ族はシベリア奥地の山岳部から半島東北部に移住してきた民族です。 満州地方に住んでいた遊牧民である高句麗人(フヨ族)とは何の関係もありません。強いて関連付けるならば、 一時期、フヨ族がワイ族を 支配化に置いていたこと、くらいです。 では、高句麗人の子孫にあたる民族とはどのような民族なのか。それは女真族(満州族)です。 高句麗が唐によって滅ぼされた後、高句麗人(フヨ族)は彼らの故郷である『満州』に逃げました。 高句麗人はこの地において契丹族や鮮卑族、モンゴル族と混血しました。それによって誕生したのが 女真族(満州族)なのです。 この女真族が、1115年に満州地方から中国北部にまで版図を有する 『金国』を建国しました。金国が滅びた後、1616年に、 同じく女真族の国である第2次金国=後金国が建てられ、 この『後金国』が清国へと発展していきます。
254 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:21:03
高句麗人(フヨ族)の歴史を図にすると、下記のような流れになります。 〔フヨ国→ 高句麗→ 金国→ 後金国=清国 (高句麗滅亡後に建国された渤海国も『高句麗人の国』という説がある) 〕 見ての通り、高句麗と韓国人は何の関係もありません。高句麗人の末裔と呼ぶべき民族は満州族であり、 韓国人=朝鮮人ではないのです。 韓国人は高句麗人の子孫ではないだけでなく、高句麗人の歴史を受け継ぐ 満州族(女真族)のことを『オランケ』と呼び、蔑んでいました。 オランケとは韓国語で「野蛮人」の意味です。 韓国人は、「我々は高句麗人の子孫だ」と自称する一方で、本物の『高句麗人の子孫』である満州族のことを、 野蛮人呼ばわりして 見下しているのです。 ところが最近の韓国人は、時と場所によって「満州族と韓国人は兄弟民族だ」と言ったり、「満州族はオランケであり、 韓国人と違う民族だ」と、 言ったりしています。まさに『ご都合主義』です。自分たちの都合により、歴史を捏造し 歪曲しているのです。 日本人は倭人の子孫である。一方、朝鮮人はユウロウ族の子孫である。この2つの民族は 最初から別種なのだ。
255 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:22:05
256 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:23:26
中央日報 2004.09.27 スペイン紙「韓国4228年間、中国の属国」
スペインの有力紙「エル・ムンド」のウェブ版(www.elmundo.es)が
「韓国は4228年間にわたって中国の植民地だった」と紹介した。
「エル・ムンド」は「韓半島は長い歴史のなかで数多くの侵略を受けてきた。中国に1895年まで属していた(略)
「▽韓国が元々中国植民地だったと伝えた米CNNテレビ▽平壌を中国植民地だと紹介したヒストリーチャンネル−−などのケースと同じ脈絡のもの」(略)
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=56213 http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/0b306f901f4daf3e42a18ba5e2664129 世界の教科書
◎ ドイツの教科書
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀の事だった。その後300年、
日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」
◎ フィリピンの教科書
「朝鮮は、その歴史の大部分中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。
日本は自由な新しい秩序を樹立する事によって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」
◎ インドネシアの教科書
朝鮮を中国の属国として記した。
「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」
「朝鮮は言論・宗教の自由が制約を受ける国」
「北部はロシアが、南部はアメリカが占領している」
◎ タイの教科書
「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」
◎ ポーランドの教科書
「AD1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」
◎ アメリカの教科書
「朝鮮は中国の従属国」
◎ カナダの教科書
「朝鮮は、数百年間中国の属国」
「日本は<中略>朝鮮に鉄道・道路・港を建設し、産業を発達させて教育の機会を拡大させようと努力した」
◎ イギリスの教科書
「西暦366年から562年まで、日本が朝鮮半島を支配した」
257 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:24:07
朝鮮の歴史は半万年ではなく千百年弱 「朝鮮、属国史」の始まり 918年 高麗建国 10世紀 宋に朝貢、契丹(東胡の末)に朝貢。 12世紀 金(女真族、東胡の末)に朝貢。 13世紀 高麗はモンゴルの属国となる。劣等感から、一然という僧が檀君神話を捏造し、忠烈王がモンゴルに日本侵略を唆す。 14世紀 高麗滅亡、李朝建国。李朝は最初から明の冊封国で、国名も中国に決めてもらった。 17世紀 清(女真満州族)に服属、三跪九叩頭の礼に甘んじる。 19世紀 日本が日清戦争で中国を破り、属国の李朝は独立させてもらう。(日本の保護国) 1910年 李完用の要請により日本に併合してもらう。李氏朝鮮(大韓帝国)滅亡。 1948年 戦後アメリカ軍政庁の統治下にあったが、アメリカの後押しで大韓民国が成立。 1950年 アメリカとソ連の代理戦争である朝鮮戦争が起き分断国家となる。 1991年 ようやく国連加盟、史上初めて世界から独立国家として認められる。 1993年 韓国、軍事独裁制を脱し、史上初めて独立民主政体となる。 現在 いまだ言論、学問の自由もなく民主主義とは程遠い国である。北は論外。
258 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:24:57
百済→王族は扶余族、倭人と混血 、民衆は長江文明の遺臣の弥生人(百越人ともいう) 新羅→王族は扶余族、三王家のふたつに倭人出自説あり、民衆は弥生人と、始皇帝から逃げてきた秦人(漢族) 高句麗→ツングース系女真人 高麗→ツングース系女真人 渤海→ツングース系女真人 渤海と高句麗の民族的人種的なつながりははっきりとはわからないが、 新羅に滅ぼされた高句麗の遺民が建国した国ではないか、とは言われている。 何度も日本に朝貢している。 渤海が滅んだのち、今度はその遺民が高麗を建国した、というのがだいたいの流れ。 中国東北部にいた人々が一時期朝鮮半島に国を作ったとも言えるし、それが朝鮮人であるとも言える。 朝鮮半島は漢族、倭人、中国東北部族、モンゴル人等々、種々雑多な人種が入り乱れている。 日本と違って、半島というのはどこでもそういうもの。いわば人種民族の通り道的な存在。
259 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:25:52
高句麗は、夫餘から出た別種である。(『旧唐書』高麗伝 :「高麗者、出自扶餘之別種也。」) 高句麗は本来夫餘の別種である。(『新唐書』高麗伝 :「高麗、本夫餘別種也。」) という記述にもあるように、高句麗族はその起源伝説の類似点から、ツングース系と考えられる 扶余と同じ民族と見られることが多い[2]。史上でも扶余の流民を受け容れていることが記されているが、 民族を同一とするにたる明証はなく、墓制の違いを見る限りは扶余と高句麗との差は歴然としている[3]。 但し、『魏書』百済伝の百済王蓋鹵王の上表文には、「臣と高句麗は源は夫余より出る」 (臣與高句麗源出夫餘)とあり、当時の百済人は高句麗人を同種の夫余とみていたことになる。 なお、扶余族は他に、沃沮(東沃沮・北沃沮)・?・百済(王族)など朝鮮半島に広く分布していた。 wiki より 上記からも、高句麗はツングース系と確定している。当然、朝鮮民族ではない。
260 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:27:43
======== 偉大な韓国の歴史 ==========
10世紀 長白山が過去2000年間で世界最大級とも言われる巨大噴火を起こす(リセット)
1010年 「契丹」に侵略される。首都開城が陥落。(キタン人化)
1013年から1019年まで継続して侵略される。 (キタン人化)
12世紀 「女真」の侵入。侵略。「金」に朝貢。 (満洲人化)
1231年 「蒙古」に侵略される。首都開城が陥落。国王江華島に逃亡
長い間、無抵抗の半島はモンゴル軍に蹂躙される。(モンゴル人化)
1247年 「蒙古」に再侵略される。しばらく蹂躙が続く。 (モンゴル人化)
1258年 雙城総管府を置かれる。翌年、王子を人質に降伏。(モンゴル人化)
国内には多くの蒙古軍人が駐留。 (モンゴル人化)
1270年 東寧府を置かれる。 (モンゴル人化)
反対派が済州島に移って徹底抗戦。1273年に鎮圧 (モンゴル人化)
1274年と1281年「元寇」(半島人主力で日本侵略。が、全滅(モンゴル人化)
1356年から1362年までの紅巾賊侵入により首都開京が陥落 (シナ人化)
1419年 「応永の外寇」 17000人で対馬を襲撃。船、家を焼き、住民を虐殺する。
しかし、少数の対馬軍に撃退される。
1592年 と1598年秀吉の「唐入り」 首都漢城が陥落(短期でヤマト化は無理)
1627年 「後金」に侵略される。平壌を超え、侵略されるが漢城までは来なかった。
しかし、国王は江華島に逃亡(満洲人化)
1636年 「清」に侵略される。首都漢城が陥落。清軍が、す早く江華島への道を遮断。
泥濘の中、朝鮮王仁祖は清の太宗に降伏、大清国属国となる。(満洲人化)
「屈辱の象徴」三田渡碑の移転決定
http://tosi.iza.ne.jp/blog/entry/610163/ 韓国マイナー観光
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kikyo/1239/w-18.htm
261 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:29:10
宗主国をかさに、高麗や朝鮮国王にゆすりたかりを働き、一族の利益を図るのが、 朝鮮 半島の鉄則のようなものだ。千余年来、たいてい同じようなことを繰り返したのであった。 だから千年進入され、千回とも敵を撃退したのではなく、属国になると誓ってから宗主国が 兵を引いたという歴史事実が繰り返されている。 ではなぜ戦後になると韓国知識人の歴史歪曲が、日を追ってますます神話まがいのものまでに 変化していったかというと、それはどの民族も自存自衛のために欠かせない民族の自尊心にある。 韓国は壬辰倭乱(豊臣秀吉公の朝鮮征伐のこと)で焦土と化した。だから三百年もへても立ち 直れなかった。いやがうえにも倭乱のひどさを強調した いという気持ちはわからないでもない。 しかし、考えてもみると、一回の大乱だけで三百年も立ち直れない民族は、世界中のどこにいるのか。 もしあるとす れば、もっと恥を知るべきであろう。戦後、焦土化した日本は半世紀もたたずに 再び経済大国になったではないか。千回も侵略され、すべての侵略者を撃退 したという自慢話と、 三百年も立ち直れないでいるという論理を矛盾することもなく主張することに自己撞着はないのであろうか。 韓国知識人はつねにこのような歴史歪曲で「反日」を正当化する。 韓国人の反日台湾人の親日 黄文雄 光文社
262 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:30:36
日本人「日本書紀に『391年に神宮皇后が百済と新羅を征服したと書いてある。』」 韓国人「捏造だ。」 日本人「三国史記「新羅本記」にも慶州を倭兵に包囲されたと言う記録がある。」 「新羅は何回も王子を人質に差し出している。百済の武寧王は人質の子として日本で生まれた。」 韓国人「捏造だ。」 中国人「満州にある碑文にも倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてある。」 韓国人「捏造だ。」 中国人「中国の歴史書の宋書にも倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がある。」 韓国人「捏造だ。」 中国人「中国の歴史書の魏志倭人伝には既に3世紀から倭国では鉄の鏃を使ったと書いてある。」 韓国人「捏造だ。」 中国人「中国の歴史書の随書にも倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。百済と新羅は倭国を大国として敬ったと書いてある。」 韓国人「捏造だ。」 日本人「日本や中国の歴史書や発掘品は全て捏造なのか?」 韓国人「そうだ!韓国に都合の悪い歴史書は全て捏造だ。」 中国人「中国の歴史書まで捏造か?」 韓国人「捏造だ!」 日本人「三国史記に「670年の十二月に、倭国が国号を日本と改名した。日の出る 所に近いから、これをもって「日本国」としたとの事である。」とあるが?」 韓国人「捏造だ! 中国人「中国政府も外交部のホームページ(www.fmprc.gov.cn)で「5世紀はじめ、大和国が隆盛した時期に、日本の支配が朝鮮半島の南部にまで拡大した。」 と公式に認めている。」 韓国人「中国人の捏造だ!!」 英国人「イギリスのオックスフォード大学の出版社(www.oup.com/ca)の教科書が、「5世紀の日本の勢力は朝鮮半島南部まで支配した。」と書いている。それを世界50か国の学校に発行している。」 韓国人「オックスフォード大学の捏造だ!!」 韓国人以外の一同「ではそれらの捏造を裏付ける証拠は?」 韓国人「・・・・・・韓国に対する愛はないのか!!ー!!」
263 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:31:42
わが国の中・高等学校教科書を見ると、百済・高句麗・新羅三国の文化が日本に 伝えられた話が出てきますが、その内容は日本古代史書である 「日本書紀」を 土台にしているもので、わが国の史書にはありません。(そもそも韓国に古代の 文献はほとんどない)ところが、日本の学者が 「日本書紀」を土台にして、古代日本が 二百年余り朝鮮半島南部の伽耶(日本名任那)地域を支配したという「任那日本府説」を 主張すると、 韓国の学界ではそれは信じることができないと主張しています。 これは明白な矛盾であり、こうした姿勢ゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く見るのでは ありませんか、という身の程を知らぬ質問をした。そしたらL教授は黙り込んで答えず、 横に居られたC教授が「自信がないんだよ」とおっしゃった。「日本書紀」 には日本が 「任那日本府」という機構を置いて朝鮮半島南部を支配しつつ、三国文化を運んでいった ようになっている。しかし、韓国の中・高等学校 では三国文化が日本に伝播される国際 関係に関しては何の説明もされず、ただ高句麗・新羅・百済の三国が日本に文化を伝えた 事実だけを教えている。 そこで学生達は日本を客観的に理解できずに、無条件、対日優越意識だけを 助長する結果を もたらせた。外国に出かけたわが国の学生が「任那日本説」に接して戸惑うのも無理はない。 高麗大学教授 金鉉球 鄭大均 「日本のイメージ」より
264 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:32:35
朝鮮半島 日本 新羅 百済 倭 | | | | | | 4世紀 .| | ̄ ̄ ̄| | × 大和 | | | 蒙古 | 13世紀 | | |  ̄| | | | | | | | 2009年 韓国人 天皇家
265 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:34:04
朝鮮人は、シベリアから南下してきた原始的狩猟民族の子孫だよ。 少なくとも新羅とは赤の他人。高麗とも、なぜか縁が薄い。 だから、新羅や高麗の言葉が、朝鮮語では全く解読できない。 この「全く」というのがミソ。 少しつながりがあるのなら、民族の混交や変化があっても、少しは解読できる。 また、山野の木々の乱伐、灌漑の知識・技術の欠如、車輪や水車・染色など基礎的な テクノロジーの欠如は、朝鮮人がまだ定住民として完成されていない証拠。 もしかすると、 古代末期に起きた長白山の大噴火というより、高麗王朝の末期に何か半島で自然災害(疫病、旱魃、洪水他)が起こり、 民族の絶滅(もしくは大幅減少)が起こり、シベリア狩猟民族の南下を招いたのでは? 新羅や高麗の時代までは高かった女性の地位が、李氏朝鮮の時代に入ると異様に低くなる。 家族制度という人間の基本的部分で、こんな急激な変化が起こるのは奇怪すぎる。 10世紀の有史2000年来の最大の噴火を起こした白頭山・中国名長伯山の大噴火(M7.4)で 古代在住朝鮮人は絶滅か僅少残っても後に南下在住した新朝鮮人に飲み込まれて消滅 しただろう。文献的、実証的記録すら絶無で、日本や中国は文献的、実証的記録を持ってる。
266 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:35:08
日本海をはさんで10世紀に相次いで起こった二つの大噴火
http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/paper/946/ 火山爆発指数(英:Volcanic Explosivity Index, VEI)とは1982年にアメリカ地質調査所の
クリス・ニューホール (Christopher G. Newhall) とハワイ大学マノア校 (University of Hawaiiat Manoa) の
ステフェン・セルフ (Steve Self) が提案した火山の爆発の大きさを示す区分。
火山そのものの大きさではなく、その時々の爆発の大きさの指標である。区分は、噴出物の量で
なされる[1]。0から8に区分され、8が最大規模である。VEI=0はテフラの量が104立方メートル未満の
状況を指す。VEI=8はテフラの量が1012立方メートル以上の爆発を指す。
それぞれの区分には噴火の状況を示す名称(「小規模(gentle)」など)が付けられている。
5 ヴェスヴィオ (ポンペイ eruption) 79年 セント・ヘレンズ山 (1980年の噴火) 1980年
樽前山 1739年
6 白頭山 (Tianchi eruption) 969 ± 20 年
7 Kurile 紀元前6440 ± 25 年
8 トバ湖 73,000 BP
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E5%B1%B1%E7%88%86%E7%99%BA%E6%8C%87%E6%95%B0
267 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:35:52
268 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 03:37:13
269 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 09:30:00
■日本は百済の属国だった 1
http://www.youtube.com/watch?v=aYDUa764YDY&NR=1 ●百済と日本の差異. そして七支刀の秘密
・百済の使臣は靴を履いていたのに対し日本の使臣は汚らしい服装でしかも裸足(笑)
百済の近肖古王が日本に伝えた七支刀、日本の学者達は隠しています
日本の子供たちにこの事実を知らせなければなりません、歴史歪曲はダメです
七支刀に刻まれた文として日本書紀を根拠で日本の大和政権が4世紀から6世紀まで200年間
百済・伽揶の支配にあったという記録があります
>大和政権が4世紀から6世紀まで200年間百済・伽揶の支配にあったという記録があります
>大和政権が4世紀から6世紀まで200年間百済・伽揶の支配にあったという記録があります
http://www.youtube.com/watch?v=gqEplun4YnI&NR=1 ●倭王に下賜した百済の刀
「伝示後世」も純然たる命令形。
百済の側から倭王=侯王と見なしていた(百済から見た属国・朝貢国)
>百済の側から倭王=侯王と見なしていた(百済から見た属国・朝貢国)
>百済の側から倭王=侯王と見なしていた(百済から見た属国・朝貢国)
◎倭王に下賜した七支刀
http://jpn.korean.net/wcms/list.jsp?pageID=04025257&bID=22534&byid=2 内容は「泰化4年9月16日丙午正陽日に白蓮鋼鉄で七支刀を作った。この剣は多くの敵兵を退けることができるものなので
諸侯国の王たちに分けてやることのが当然だ。OOOが製作する。」となっている。 七支刀の裏にはその製作動機が記されてある。
百済の王が倭王に七支刀を下賜したことは百済の王が豪族たちを中央権力体系の中に服属させるための一環で、東晉制の青磁と
鐎斗を下賜した事があるがこれと同じ時期だったと考えられる。
歴史的に見て斧鉞や刀剣の下賜は下位者に対する上級者の信頼の表示としての性格が強く、刀物は受け取る人が与える人より身分が低かった。
270 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 09:31:20
コピペ君は飽きもせず頑張るねえw
まあ、仏教や陶磁器、金属加工、土木なんかの技術は半島から渡ってきたんだろう。
ただ、そのことやファッションを楽しむということと、国家同士の関係がどちらが上位であったかはまた別の話であってね。
>>263 の指摘が一番正鵠を射てるんじゃないかな。
だって、韓国の学会って言論の自由無いし。
統計に基づいて「日本統治時代は半島に発展をもたらした」って学説発表したら社会的に抹殺されちゃうような国で生み出された学説は、どうしたって信憑性失っちゃう。
だから韓国の学者は理工系しか国際舞台では評価対象にならない。世界中知ってるんだよ。
韓国人はその辺、恥ずかしいと思わないのかな・・・
273 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 12:44:06
■「韓人(からひと)」とは誰か? ●乙巳の変(いっしのへん)●中臣鎌足(藤原氏)は百済人? 645年6月12日、上の絵に示したように、蘇我入鹿は中大兄皇子と中臣鎌足によって惨殺されます。 最近の調査で、この事件は皇極天皇の内裏(住居)の庭で起きたことが分かっています。 この事件の後で、現場に居合わせた古人大兄皇子は人に語って言います。「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。 吾が心痛し」つまり、「韓人が入鹿を殺してしまった。ああ、なんと痛ましいことか」 しかし、「韓人」とは一体誰をさして言ったのか、ということでこの事件に関する研究者の間では、いろいろな説が出ています。 入鹿を殺したのは、中大兄皇子です。その計画を立てたのが中臣鎌足。それに手を貸したのが佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田です。 ところが、この中には従来の古代史研究者の間で「韓人」と信じられている人は居ません。 「韓人」とは、もちろん韓(から)からやって来た人のことです。 この当時で言えば百済か新羅からやって来た人のことです。 実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。 中臣という姓は日本古来の古い家系のものですが、この御食子は婚姻を通じて中臣の姓を名乗るようになったようです。 藤原不比等は当然自分の祖父が百済からやってきたことを知っています。しかし、「よそ者」が政権を担当するとなると、いろいろと 問題が出てきます。従って、『古事記』と『日本書紀』の中で、自分たちが日本古来から存在する中臣氏の出身であることを、 もうくどい程に何度となく書かせています。 ここに中臣栗原連の先祖として中臣伊賀都臣が顔を出します。そして、その人を説明して言います。この伊賀都臣(いかつのおみ) は、中臣の遠祖にあたる天御中主命20世の孫,意美佐夜麻(おみさやま)の子であると。要するに、神代の天御中主命を持ち出してきて、 ここに、中臣氏が、古来から、日本に土着した氏族であることを印象付けています。 しかもいかに天皇家と並ぶほど古い家系であるかまで書き記しています。ほとんど、くどいくらいに繰り返されています。
274 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 12:45:41
[続き] でも、具体的にどのようなことをしたかと言うことは、書いてありません。書きたくても書けなかったと言うのが真相でしょう。 変なことを書くと嘘がばれますから。それでも、小出しに、日本古来の氏族であることを執拗に述べています。 それが、『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』の編集に携わってきた藤原氏の狙いです。 「ここまで書けば、もう大丈夫だろう。我われが日本古来から連綿と続いている氏族であると認めてくれるだろう。 そろそろ本当のことを書いても、我われが、百済からやってきたとは、もう誰も思うまい」 そういう作為が感じ取れます。 「伊賀都臣、神功皇后の御世に、百済に使いして、その土地で現地の女と結ばれて、子供を作った。その子供たちがやがて成長して日本にやってきた。 その者たちがやがて中臣栗原連と名乗るようになった」と。さらりと述べています。 藤原氏が政治の舞台に踊り出てきたのは、なんと言っても、大化の改新からです。 しかし藤原氏の、本当の狙いは、このことよりも、その後に行われる新羅征伐にあったと私は信じています。 つまり“祖国”を救うことです。 中臣氏というのは、天皇と、臣下の間に立って命令を伝達したり、臣下からの言葉を取り次いだりする立場にありました。 つまり、天皇の側近であり、したがって、天皇に対して、強い影響力を持つことができます。 事実、神功皇后が、住吉の神の教えによって新羅征伐を決意した時の、取り次ぎ役が中臣烏賊津連です。 しかも、実際に、百済へ援助の手を差し伸べ、日本軍が、新羅と唐の連合軍と戦うために、指揮を執ったのは、天智天皇でした。 この天智天皇の知恵袋が、大化の改新を一緒にやった中臣鎌足、後の藤原鎌足です。 ここで忘れてはならないことがあります。中臣鎌足の二男である藤原不比等の以前の名前は、史(ふひと)なのです。 不比等は、これ以外にも百済流の名前を持っていたはずです。いずれにしても、この史(ふひと)という名前は、普通の名ではなく、 むしろ彼の若い頃の役職名を表すものだったでしょう。(渡来人専用の文筆担当役所を「史於」=フヒトと言う) つまり歴史編纂に携わっている者という意味です。 新しい古代日本史より
275 :
日本@名無史さん :2009/09/18(金) 12:54:53
新 し い 古 代 日 本 史
http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/menu.html 「古代日本は韓国の植民地だった!?」
「天智天皇は暗殺された!?」
「蘇我氏の祖先は半島からやってきた!?」
「マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは!?」
「飛鳥と中南米は海でつながっていた!!」
「聖徳太子の母親はペルシャ人だった?」
「飛鳥とペルシャ(波斯)石人男女像の謎!!」
「エンタシス史観!!」
「桂小五郎と恋!!」
金達寿もビックリのトンデモ学説満載ですww
276 :
日本@名無史さん :2009/09/19(土) 03:15:16
日本人「日本書紀に『391年に神宮皇后が百済と新羅を征服したと書いてある。』」 韓国人「捏造だ。」 日本人「三国史記「新羅本記」にも慶州を倭兵に包囲されたと言う記録がある。」 「新羅は何回も王子を人質に差し出している。百済の武寧王は人質の子として日本で生まれた。」 韓国人「捏造だ。」 中国人「満州にある碑文にも倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてある。」 韓国人「捏造だ。」 中国人「中国の歴史書の宋書にも倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がある。」 韓国人「捏造だ。」 中国人「中国の歴史書の魏志倭人伝には既に3世紀から倭国では鉄の鏃を使ったと書いてある。」 韓国人「捏造だ。」 中国人「中国の歴史書の随書にも倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。百済と新羅は倭国を大国として敬ったと書いてある。」 韓国人「捏造だ。」 日本人「日本や中国の歴史書や発掘品は全て捏造なのか?」 韓国人「そうだ!韓国に都合の悪い歴史書は全て捏造だ。」 中国人「中国の歴史書まで捏造か?」 韓国人「捏造だ!」 日本人「三国史記に「670年の十二月に、倭国が国号を日本と改名した。日の出る 所に近いから、これをもって「日本国」としたとの事である。」とあるが?」 韓国人「捏造だ! 中国人「中国政府も外交部のホームページ(www.fmprc.gov.cn)で「5世紀はじめ、大和国が隆盛した時期に、日本の支配が朝鮮半島の南部にまで拡大した。」 と公式に認めている。」 韓国人「中国人の捏造だ!!」 英国人「イギリスのオックスフォード大学の出版社(www.oup.com/ca)の教科書が、「5世紀の日本の勢力は朝鮮半島南部まで支配した。」と書いている。それを世界50か国の学校に発行している。」 韓国人「オックスフォード大学の捏造だ!!」 韓国人以外の一同「ではそれらの捏造を裏付ける証拠は?」 韓国人「・・・・・・韓国に対する愛はないのか!!ー!!」
277 :
日本@名無史さん :2009/09/19(土) 03:17:29
宋書倭国伝・・・・・・・・・・・・朝鮮半島は倭の支配が及んでるとも書いてる 満州にある広開土王碑・・・倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてある。 三国史記「新羅本記」・・・・慶州を倭兵に包囲されたと言う記録がある。 新羅は何回も王子を人質に差し出している。百済の武寧王は人質の子として日本で生まれた。 日本書紀・・・・・・・・・・・・・「391年に神宮皇后が百済と新羅を征服したと書いてある。」 宋書・・・・・・・・・・・・・・・・・倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がある。 随書・・・・・・・・・・・・・・・倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。百済と新羅は倭国を大国として敬ったと書いてある。 特に随書ね。 ↓ 百済と新羅は倭国を大国として敬ったと書いてある。
278 :
日本@名無史さん :2009/09/19(土) 03:18:14
346年 倭の軍隊が突然に風島を襲い、さらに進軍して金城(新羅首都)を包囲して激しく攻めた。【三国史記・新羅本紀】 364年 倭兵大いに至る。 新羅王はこれを聞き、とても敵わないと恐れる。【三国史記・新羅本紀】 391年 倭が海を渡り、百残(百済)、□□新羅を破り、これを臣民とする【広開土王碑】 393年 倭人が侵入し、金城を包囲して5日間も解かなかった。【三国史記・新羅本紀】 397年 百済、倭国と国交を結び王子の腆支(テンシ)を人質に送る。【三国史記・百済本紀】 399年 倭が新羅の国境に満ち城池を潰破し民を奴客とし、百済は誓いを違えて倭に通じた。【広開土王碑】 400年 倭が、新羅城の内に満ちる。新羅救援の高句麗軍が接近すると倭賊は任那・加羅に退いた。【広開土王碑】 402年 新羅、倭国と国交を結び奈忽王の子の未斯欣(ミシキン)を人質に送る。【三国史記・新羅本紀】 404年 倭、不軌にも帯方界に侵入し、高句麗軍と戦う。【広開土王碑】 405年 倭国に人質となっていた百済王子の腆支、倭国の護衛により海中の島にて待機してのち百済王として即位。【三国史記・百済本紀】 405年 倭兵が侵入し、明活城(慶州市普門里)を攻撃。【三国史記・新羅本紀】 407年 倭人が東部と南部へ侵入。【三国史記・新羅本紀】 407年 万を超える倭が進出。【広開土王碑】 425〜443年の間 倭国王珍が、自ら使持節都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す。【『宋書』倭国伝】 451年 宋が倭国王済を、使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東将軍・倭国王に任ず。【『宋書』倭国伝】 462〜478年の間 倭国王武が、自ら使持節都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す。【『宋書』倭国伝】 478年 宋が倭国王武を、使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任ず。【『宋書』倭国伝】
279 :
日本@名無史さん :2009/09/19(土) 03:31:36
休みになったのでイギリスの国際英語学校へ行った。 フランス人、ロシア人、ドイツ人、中国人、イタリア人、エジプト人、日本人、多くの外国人々が皆集った。 こんにちは〜お互いにこのようなあいさつをして友達になり誰かが突然自国の自慢を始めたので皆順番に祖国の自慢を始めた。 ドイツ人は私たちは創造力がすぐれて大部分の発明品を作ったし世界の人々が全部ドイツの製品を真似している。 (中略) 中国人は私たちは世界の3大発明品を全部作った。大部分の間、強大国の時代だったことも多くてアジアの国々に文化を与えて朝貢を受けていた。 (中略) イギリスはいつも支配をした。ヒトラーの侵略、ナポレオンの侵略も防御した。 日の光が消えない帝国を建設した!イギリスの金融はアメリカと対等な状態で日本も追い越している。 と、皆あれこれ自慢をするのです。 日本人の誇る順番が来たんですが、日本人は謙遜して日本には誇ることがないです。こう言いました。 そうしたら世界各国の人々は日本は世界 2位の経済大国だ! 任天堂!侍!武士道!忍者!相撲!着物!ゲーム!アニメーション!大好き。 世界中の人々は全部日本のアニメーションとゲームをしながら成長する! 自動車はトヨタが好き、日本の家電製品を使っている。日本文化は神秘でファンタスティック!皆日本の自慢をしていました。 私は学校、メディア、政府で学んだ世界で優秀な人種の韓国人について誇ろうと思ったが、 日本人が謙遜してみんなが日本の自慢をしていることを見て私も日本人の真似をしました。 それで韓国には誇ることはないと言いました。すると各国の人々は悲しい表情を作って言いました。 「哀れですね。誇ることができることが一つもないですか?」 他の人々が小さな声でひそひそ話す声が思わず聞こえてしまいました。 「韓国は誇ることがないのか?」
280 :
日本@名無史さん :2009/09/19(土) 03:32:57
OTL...................私は慌てました。 日本人が誇ることがないと言えば多くの人々は日本の物を次々と誇ったが私が誇ることがないと言えば人々は皆悲しい表情をする。 私は直ちに学校とメディアで学んだ内容を言いました。 韓国は世界4大文明と似ている5000年の歴史でもしかしたらその2倍壮大な9000年の歴史かも知れない。 韓国が日本に色々教えた。 韓国がなければ日本は今も土器の国家だ。三星、LGがある。 南北統一すれば世界で最も優秀な人種の朝鮮人が世界を支配する。 そう言うと、世界各国の人はみんな大爆笑しました。 「ハハハッ!!」「本当に韓国はすごい国家ですよね」「世界4大文明より壮大な国家」 「日本に教えたんですか?」「ヨーロッパでもイタリアとギリシアから文明を受けたがそんなことを誇るイタリア・ギリシア人はいないです」 「それならば韓国は中国から文化を受けなかったの?」 「三星LGを誇る理由は何ですか?三星LGは有名ですね。製品も持っています。しかしそれは日本の企業ではないの?」 私は三星LGは韓国の企業だと死に物狂いで説明したが皆日本の企業と間違えていると言います。 横の日本人も大爆笑していました。 皆、日本のせいだ!悪いことは全部日本だ! 私は挫折しました。
281 :
日本@名無史さん :2009/09/20(日) 01:53:15
■日本を作ったのは百済人 これは常識だ
ほとんどの日本人は,日本人あるいは日本国のルーツをキチンと言えない.自分たちのルーツが分からない…,世界でも珍しい現象だ
この原因は,日本には歴史書がないことだ.
『日本書紀』『古事記』.これらは日本に渡来した百済人によって書かれたものだ.両書とも,台本は『百済本紀』等々,百済國の歴史書だ
ではいったい,どうしたら日本のルーツが分かるのか?
中国は文字の国,そして歴史の国で,膨大な量の歴史書が残っている.韓国にも古い歴史書が沢山ある
もちろん『日本書紀』も重要な資料だ.
この日中韓の歴史書を読み抜き,徹底的に読み比べるのだ、すると,ルーツが辿(たど)れ,謎が解け,見えてくるのだ
いったい,我々の先祖はどこから来たのか?
……結論を急ごう.
7世紀,日本国は百済人がつくった.これは常識だ.では,百済のルーツは?
百済のルーツは,いくつもの中国史書に明確に書いてある.たとえば,『旧唐書』百済伝には「百濟國,本亦扶餘之別種」とある
これは,百済のルーツは「扶余」である,という意味だ.そう書いてある
つまり,「扶余」→「百済」→「日本」.日本のルーツ,それは「扶余」である
「扶余」とはツングース語の鹿(ブヨ)の漢字表記.「扶余」は鹿(ブヨ)なのだ
http://www.geocities.jp/o1180/more3.html#TG0417
282 :
日本@名無史さん :2009/09/20(日) 02:33:43
■日本は,百済の継承国家である! 2009/02/11(水)
世界中,どの国の国民も自国の「建国の歴史」を明確に理解している
ただし,一国だけ例外がある. わが日本国である、日本だけは「建国の歴史」が
曖昧模糊(あいまいもこ)としている
日本という国がどのようにつくられてきたのか? ほとんどの国民が知らない、
日本にも「建国の日」があるが,神話(つくり話)上の日なので 出鱈目である
だから 「建国の日」が,賛成・反対,右派vs左派,「分裂の日」になっている
国民こぞって皆が祝える 「建国の日」 にするには,どうしたらいいのか?
それには,先ず “建国の歴史” をより明確・明瞭にする作業が必要だ
難問は,日本には “歴史のタブー” があることだ
タブーとは 「日本国は外国人(渡来人)がつくった」 ということだ
このことを,過去1400年間,日本国の支配者層はタブーにしてきた
日本古代唯一の歴史書 『日本書紀』 も,渡来人が天皇になって日本国をつくった
ことを隠すために書かれている
ところが,ご聡明な平成天皇は…,
「桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫である…」
と,先祖に百済人がいることを明確にされた.さらに天皇陛下は…,
「宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります」
と,現在においても “渡来人の子孫” が宮内庁にいることを明らかにしておられる
平成天皇は,御自ら 「歴史のタブー」 を解き放たれたのである
http://www.geocities.jp/o1180/more7.html#ws0211 >タブーとは 「日本国は外国人(渡来人)がつくった」 ということだ
>タブーとは 「日本国は外国人(渡来人)がつくった」 ということだ
283 :
日本@名無史さん :2009/09/20(日) 03:09:23
■天武天皇から和田アキ子まで,みな同じ… 2008/08/09(土)
いま,私は鹿児島県の志布志にいる.豚ふん尿を乳酸菌で発酵させて肥料をつくる仕事をしている
養豚業者と農家が協力しあって,肥料代ゼロの農業! を実現しようという画期的な仕事だ
困ったことは,乳酸菌を培養する特殊ポリエステル・タンクが鹿児島にないのだ
あちこち照会したが,そんなタンクは九州には無い,という返事ばかり
そこで,韓国の友人に相談したら,アッという間に要望のタンクを船便で志布志の港に届けてくれた
こういうことは,今回が初めてではない.昨年は,済州島のヨモギの葉を漬物にして大阪の新阪急ホテルの地下まで,ヒョイと届けてくれた
(このヨモギ漬物の乳酸菌を拡大培養して,私は,新阪急ホテルの汚水処理施設の悪臭を消した.)
こういう経験をとおして私が知ったことは,多くの韓国人にとって,日本は「外国」ではない,ということだ.
ちょっと隣町に行ってきます! という感覚で,韓国人はヒョイと日本にやってくる
「小田原から小田急で新松田駅で降り,バスで延沢まで来てください」とだけ言うと,私の友人,
ソウルの金(キム)氏は,ヒョイとやってくる
現代.たとえば和田アキ子の一族も,ヒョイと大阪にやってきている
そして,その道,その道で,社会の頂点にのぼりつめる
池田大作氏などは,創価学会の頂点どころか,日本の頂上にいて,君臨している
日本という国は,韓国人の存在抜きには語れないのである
http://www.geocities.jp/o1180/html/16kodaisi.html#hismall >和田アキ子の一族も,ヒョイと大阪にやってきているw
>和田アキ子の一族も,ヒョイと大阪にやってきているw
>池田大作氏などは,創価学会の頂点どころか,日本の頂上にいて,君臨している(笑)
>池田大作氏などは,創価学会の頂点どころか,日本の頂上にいて,君臨している(笑)
韓国にも古い歴史書がたくさんあるのに、なんでルーツが中国の歴史書でしかたどれないのか、真剣に考えたことないのかこのオッさんはww 頭の中も菌で発酵してるようだなwww
>>283 チョw
和田アキコって韓国内で虐殺されたこともある済州島系じゃん
まぁ大阪の在日の半数は済州島系だし。
歴史詳しいようでキメが荒いね
286 :
日本@名無史さん :2009/09/20(日) 04:57:06
■日本民族の歴史はない
http://www2s.biglobe.ne.jp/~takao-3/h36.htm http://www2s.biglobe.ne.jp/~takao-3/h37.htm 我が国に、とくに我々日本民族の歴史というものは厳密に言って存在いたしません。
一般に言われているように「日本書紀・古事記」をもって日本の史書として いますが、これらの中の
「神代の巻」という伝承神話は、旧満州及び今日の韓 半島方面における史実の断片の神話伝承化であります。
高天原(こま)= 後の高句麗の蓋馬(こま)大山(大古馬嶺山)
蒼みが原 = 黄海(古名が蒼海、前漢が滄海郡をおいた所の南海に
存在する海)
スサノウノミコトの大蛇退治の伝承
= 鴨緑江流域に於ける檀君王倹の邑樓(おろ・うむる)
八部族の平定が日本に伝えられ、スサノウノミコトの
ヤマタノオロチ退治と寓話化されたもの
数えあげたらきりがない程、満州及び韓半島との係わりあいが多く、書記・古事記を全て今日の日本列島に位置づけて語ることには無理が出てきます。
なお、日本書紀そのものが百済本紀の引き写しとも言われる故、或いは、神武東遷の伝承そのものが
百済の始祖・尉仇台の遼西方面からの東遷の史実が色 濃く投影されている可能性があります。
又、我が天武朝が楽浪朝鮮(馬韓)の後身であったこと、先の天智朝とは何の繋がりもないことなども、日本の歴史家達は口をつぐんでいます。
何とぞ先生におかれましては現地の歴史にお詳しいことと存じますので、これらの史実の実証の程をお願い申し上げます。
かつて、日本がその偏見と独善的な歴史解釈から誤った指導理念を生み出し、近隣アジア諸国なかんずく御国・韓国に対し、いかなる
結果をもたらしたか、小生は、過去の歴史が雄弁に物語っていることを知る一人の日本人であります。
山形 明郷 拝上
>>286 仮説を通り越して妄想に入ってるね、この人・・・
>> 何とぞ先生におかれましては現地の歴史にお詳しいことと存じますので、
>>これらの史実の実証の程をお願い申し上げます。
____
/_ノ ヽ、_\
ミ ミ ミ o゚((●)) ((●))゚o ミ ミ ミ
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\ /⌒)⌒)⌒)
| / / / |r┬-| | (⌒)/ / / //
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| ノ | | | \ / ) /
ヽ / `ー'´ ヽ / /
| | l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l バ
ヽ -一''''''"〜〜``'ー--、 -一'''''''ー-、 ン
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒)) バ
ン
おのれの妄想を実証しろってかwwwwww
288 :
日本@名無史さん :2009/09/21(月) 10:59:58
■藤原鎌足を考える
http://www2.plala.or.jp/cygnus/s5.html この姓を天皇が賜った理由を考えていただきたい。「藤原」には重要な意味が込められているのである。
鎌足」は「乙巳の変」(大化改新)の直前に、彗星の如く歴史に登場し、最高冠位・大織と大臣の位を授けられ亡くなっているが、
私見による「鎌足」は百済王家の出自である。
「藤原」とは「百ホ・済ゼ・倭ワ・国ラ」の当て字であった。
滅亡後の「百済」と「倭国」が日本列島で合体し、「日本」という国を成立させたことはおわかりになられるだろう。
289 :
日本@名無史さん :2009/09/21(月) 12:36:05
藤原の仮名はフヂハラなんだが、そんなツッコミをものともせずに突き進む んだろうなこういう人は。
>>289 我々としては、渡来人が技術を持ってきた事は確かだし、ただ真実を知りたいだけ何だが、ウリナラ起源を唱える人たちは、なんだか従軍慰安婦を叫ぶ人たちと同じ執念を感じるよな・・・
291 :
日本@名無史さん :2009/09/21(月) 17:35:17
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
292 :
日本@名無史さん :2009/09/22(火) 00:30:14
鎌足が百済人なのは事実だと思うよ
>>290 どうも2chにはカルト,レス隊が居る見たいだな。
だから議論,論理より先に結論有りきで、プロパガンダ誘導が目的じゃな。
百済人の帰化人は、皆それを隠さず、百済の王の帰化人は「百済王(くだらのこにきし)」 という姓も名乗っていた。 百済人であることは倭と共に戦った仲間であるから、 それを名乗ることは有利だからだ。 もともと王族であるし。 それ以外の百済人は「東漢氏」を名乗っていた。中国皇帝の子孫だと自称。 秦氏も始皇帝の・・・。 ようするに、帰化人はみんな王や皇帝の子孫を自称してたわけだ。 しかし、 藤原氏はアメノコヤネ、中臣氏という神話の時代から家臣に甘んじている。 それが事実だからだろう。
むしろステータスだったろうしねえ>>百済渡来人
296 :
日本@名無史さん :2009/09/22(火) 18:49:19
確実に言えるのは落ちぶれてるだろうな百済系朝鮮人は 所詮、古代の一時的な●鮮パワー
298 :
日本@名無史さん :2009/09/23(水) 02:18:33
>>294 蘇我氏の配下にいた東漢氏や秦氏なら名乗っても問題ないが
大王(天武天皇、天智天皇)やそのNO2である中臣鎌足が百済人だと
名乗るのはいかがなものか?
渡来系だけでなく大伴や葛城のような日本土着豪族の反発を買わないためにも
百済人を自ら自称するのは得策ではないように思えるが
>>298 煽りとかじゃなく、私はただ真実はどうだったかが知りたいのであって、中臣氏が百済直系であろうが日本古来だろうがどちらでもよいと考えてる事を始めにことわっておくが、
なんで名乗ったらダメなのかの合理的理由になってない。
「いかがなものか」「得策では無いように思える」
これのみで歴史を語ろうとするのはまずくないかい?
もっと合理的な理由を出してもらわないといけない。
「なぜ得策ではないのか」説明が不足してる。
今のところ事実として認識されてるのは
「渡来系の一族は堂々と百済系である事を自称していた」
「中臣は日本古来の氏族とされている」
「それを文字にした古事記&日本書紀がまとめられたのは大化の改新より後世(『勝てば官軍編纂』がなされているかも)」
「古人大兄王の『朝鮮人がイルカを殺しちゃったよ。おいらつらくてつらくて』」
以下コピペ。 蘇我氏の祖は、三韓征伐を提案した建内宿禰。渡来人を率いて韓人池などを つくったり、帰化人を使いこなしたが故に帰化人とかいう説があるが、帰化人が出路をかえるのは もっと後の時代であるなど、史料上の問題がある。藤原氏のは遡って天押雲根命天児屋根命、兵主神 で、鎌子以前は常陸方面で活躍していた。いずれも渡来人の証拠などもない。 朝鮮半島の人間は、根拠によく日本書紀などを出してくるが、日本書紀に従えばそれこそ渡来人ではなく むしろ渡来人を征服した方。 また、天皇が「ゆかり発言」で言及したのは桓武天皇の母、高野新笠のこと。光仁天皇の側妾、後に大夫人 で、百済王族の子孫である帰化氏族のため身分がひくく皇后にもなれなかった。天皇の血筋はそれ以前から続いているため、 天皇の起源は百済なんぞというのはおかしい。 また百済人として最高位にあったのは亡命してきた百済最後の王の血筋、王子、禅光王で、その子の昌成 が従四位下、最高位になったのが、その直系である百済王敬福で従三位。それも黄金を献上するまでは 従五位下 もし百済が上国であるなら、もっと上の位が与えられていたはず。 あと関東などの東国武士団とか、乱暴な言い方だが、頼朝は国司として派遣された河内源氏な 河内源氏は清和源氏。嵯峨天皇の子孫な。
はいはい百済人百済人
302 :
日本@名無史さん :2009/09/24(木) 19:48:10
高句麗(こまった) 新羅(しらけた) 百済(くだらない)
百済王聖徳太子
304 :
日本@名無史さん :2009/09/25(金) 14:01:23
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-64.htm ●日本人および日本の誕生
高松塚古墳およびキトラ古墳についてだ。玄室にはともに道教方位四神像が描かれており、七世紀末から八世紀初めに
作られたとされている。高松塚古墳内の女性像は高句麗の古墳壁画に酷似し、キトラ古墳に描かれた星辰図は高句麗で観測された天空である。
二つの古墳は藤原京中央のほぼ真南ラインにあり、天武・持統・文武帝陵もここにある。これらは天武帝の皇子たち
(大津と草壁か)の墓であり、天武朝は新羅経由の高句麗文化で満たされていたことを証している。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
百済系だの新羅系だの高句麗系だの
天皇の先祖は加羅系だのと一体日本人ってなんなの?
305 :
日本@名無史さん :2009/09/25(金) 15:58:39
306 :
日本@名無史さん :2009/09/25(金) 19:33:27
渡来人の地位はよくてせいぜい中級官僚並。 終戦直跡から冷戦期までの停滞した妄想古代学は終わった。 今は実証的な古代学の時代。 実証的になればなるほど、帰化人の力などなにほどのもではない、 ということがはっきりしてきている、
まぁ仏教とか日本に元々ないものには渡来人の影響あるな。 あとは工人か。建築やら冶金技術者だな。 金発見したり金剛組が未だに建築会社としてあるし 政治的影響となるとほぼなさそうだよな。 政治的影響があったなら天皇の妃が一人だけというのはあり得ないし そもそも基本的に位が低いし
308 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 01:33:55
小滝透著「反日嫌韓の謎88」に書いてあったけど、 清朝末期に清国は朝鮮半島が外国の植民地になったら安全保障上危険だから、 朝鮮半島を直轄領にして併合する計画があったんだって。 そうしてたら今頃韓国・北朝鮮はウイグル自治区やチベット自治区や内モンゴル自治区の様に朝鮮自治区になってたかも。 そして前12世紀〜前2世紀の箕子朝鮮、そしてその箕子朝鮮を滅ぼした前2世紀〜前1世紀の衛氏朝鮮、そして衛氏朝鮮を滅ぼした前1世紀〜後3世紀の中国植民地の楽浪郡の計1500年は朝鮮は中国の一部だった事で、 朝鮮は中国人の造った国家でもともとは中国の一部だったという認識が中国人にはあるらしい。 中嶋嶺雄著「日中対決がなぜ必要か」によると、毛沢東は、朝鮮・台湾・琉球・ベトナムは中国領という論文を書いたらしい。
309 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 03:18:17
■大国主(オオクニヌシ)、素盞嗚(スサノオ)、天照(アマテラス)について
◎(神道)神社信仰は新羅人、加羅人、百済人が日本に持ち込んだ
日本各地には、古代朝鮮国の国名をもった神社が存在している。新羅(加羅)神社、百済神社、高麗神社である。
これらの神社の存在ははるか古代の朝鮮半島から渡来してきた人々が自分たちの国邑をそこに作っていたことを示している。
この三国の中で新羅の神を祀る神社は群を抜いて多くかつ古いものが多い。これは新羅国が古代日本の創世期に主役を演じていたことをうかがわせる。
新羅国を経由して渡来したスサノオが古代日本の形成の主役であったことを示している。
百済系神社が少なくかつ比較的新しいことは、アマテラスは日本の創世期には関与が少なく、日本神話を作るときに作り出され、
付け足されたものと見える。
九州南部にも新羅神社は多い。新羅(加羅)渡来の人々が居住していた。この新羅(加羅)の人の畿内大和への
移住があったかもしれない。神武東征神話は南部九州の新羅(加羅)の人の畿内への移動を借用したのかも知れない。
古代日本の創世の神は新羅からのスサノオであることは「記紀」からも読み取れる。
記紀に初出のスサノオは新羅のソシモリから渡来した。
記紀の中での渡来神ではスサノオが最も古い。もちろん、ニニギの降臨よりも古い。記紀の中の神はスサノオに集約される。
日本の正史「記紀」も、古代日本の創世神はスサノオでありアマテラスではないことを認めていることになる。
http://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/test230.htm
310 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 03:22:06
●中国の歴史教科書に書かれた日本 新羅の時代に公認した仏教も李氏朝鮮時代に仏教弾圧が起きたことや、漢字を捨て去ったことからも分かる通り、情勢と 共に自ら文化を破壊する朝鮮が、「三国は大陸から中国文化を受け入れて独自の文化を作り上げ」とは、理解しがたい。 また、大和朝廷と中国の文化交流の玄関である「任那」の存在を教科書ではひた隠しにして「三国」と表記し、文化交流の 単なる通り道であった朝鮮が、教えてくれたことになっているようである。 その一方で、大和朝廷からの高い技術導入の存在を微塵も感じられないのが、韓国の教科書の特徴と言えよう。 このような国が日本の歴史教科書に口を挟んでくることに対して、毅然と断るべきである。 また、日本の各教科書出版社が、任那の存在をひた隠しにする韓国の主張に同調していることに対して、もっと抗議するべきである。
>>310 激しくワロタww
日本の教育業界は一体、どうなってるんだ?
312 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 18:42:08
スサノオって朝鮮人だろw
314 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 05:34:34
渡来人に乗っ取られたのは事実 日本は渡来人が作った国
315 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 06:12:47
単に長弓の方が豪弓だからでしょ。 北方騎馬民族はRun&Gun。パワーよりも機動力を誇る。 一方の和人源鎮西八郎は五人張りの強弓。
316 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 12:54:02
>源鎮西八郎は そんな特殊な例外を持ち出しても無意味
317 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 14:50:28
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
>>314 ていうか俺らが渡来人の子孫なんで
お前は違うけど
つい最近まで、竪穴式住宅に住んでいた土蜘蛛の子孫の俺が言うんだから間違いない。
321 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 03:31:15
韓国人は韓国は中国の属国だったけど、日本は属国ではなかった、と正しく認識してるみたい。
【韓中】韓国人教授ら:「中国の反韓感情の根は嫉妬。属国の筈の我が国が経済大国・スポーツ大国になったから妬んでいる」[08/22]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1219446028/ >平沢大学の中国学科長である池世樺教授は通話取材に対して、
>「中国人の考えの中には、韓国は過去『属国』だったという概念が定着しているのに、北京五輪などで韓国が上手くやっているので、
>こうした部分に対するコンプレックス的な思考の発露が起きたものだ」と指摘した。
>池教授は、「これは中国国民の日本人に対する態度を見ればよく分かる。日本人が上手くやっても容易に受け入れられるが、
>私たちが上手くやることは容易には受け入れられない。このような中国人の(韓国に対する)根本的な情緒が底辺にあり、
>最近の一連の事件が現実に(反韓感情表出に)火を点けたわけだ」と語った。
322 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 05:41:04
>>321 こういうのが韓国人の思考法なんだなー。
我が国の国会議員の白真勲も似たようなロジックでモノを考えるんだよねー。
>>322 韓国は軍事大国ではあるんだけどね。
あなどってると苦戦するよ>>シナ人さん
アメリカのバックアップもあるし。
324 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 12:00:06
325 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 13:17:56
アホか、 中国じゃ朝鮮戦争のことを抗米援朝っつって アメリカごと倒した勝利戦争ってことになってるんだよ。 中国の歴史観じゃ土を付けたのは日本と英国だけ。 そして英国の方は革命で撃退したことになっている。 お前ら本当に中国がどういう国かわかってねえな。 この知らなさがバレたら終わりだよ。 日本が竹島で本気で韓国とライバルやってるなんてバレたら、 2秒でナメられること請け合い。
326 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 13:20:26
>>323 兵隊が多いだけの国を軍事大国とは言わないが。
327 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 13:34:34
中国は下手すりゃ自分を世界最強だと思っている。 日本以外のアジアのどの国に対しても あんなどころじゃない態度だよ。 日本で見る中国人は一番マシな中国人。
実際、中国のエリート層の中には、 「日本は中国に比べて人口も少なく、歴史的文化的に後進国だったはずなのになぜ圧倒的先進国になったのか?」 という疑問から、苦学して学位を取り、現地日系企業に就職して 「日本人は休まずに朝から晩まで働きまくる。この努力こそが彼らの力の源だった」 という結論に至り、日本流の良さや日本の恐ろしさを熱く語るものもいる。 こういうヤツこそオレらは気をつけなきゃいけないし、ゆとり教育だのうつだのワークシェアだの温い事言うようになったらあっというまにイタリアやフランスみたいに没落必死。 資源の無い我が国が、何によって世界トップに這い上がったのかをマジメに考え無いとな。 民族的にどうのとか愛国心がどうのとか関係ない。真面目にコツコツ、猛烈に働き続けた先輩たちがいたからこそ今があるんだと肝に銘じないとな。
329 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 15:55:00
>>328 正論だと思うけど、中国人って日本人に対して変なイメージ持ってるよな。
明治維新は江戸時代の諸要素が素地にあるってのに。
330 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 16:32:42
中国は中国で拭い切れないコンプレックスを抱えているから。 異民族に負けること自体は中国史ではよくあることだが、 あくまで個人的勘だけど、自力で日本を追放出来てないところに 自尊心を傷付けられているのでは。心情的には負けたまんま。 また彼らの最初の革命は日本の援助で行ってるから、 良い意味悪い意味両方で借りが返せてない。自力感が薄い半端な状態、なのでは。
少しはスレタイにそった話をしろよ
貴種琉璃譚(きしゅるりたん)の世界だよな。
333 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 19:38:50
334 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 00:26:24
秦からの亡命中国人が建国したのが辰韓(前2世紀〜4世紀)で、 それが12カ国に分裂して、その一つの斯蘆国が新羅になった。 そして、朝鮮人の母体は新羅人。 と言う事は朝鮮人はルーツを辿ると亡命中国人なの?
とりあえず『魏志』の記述をみると、「其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國」 とあって、土地の古老が自称するには秦が苦役から逃れて韓へやってきた、という ことだったようです。ただ、「耆老」が「自言」したなんて書き方は、史書の撰述者が 不確かな内容のことを述べるときの常套手段なので、あまり当てにはなりません。 実際のちに新羅は百済に付き従って梁に入朝するのですが、新羅人は文字をもたず、 言葉も百済の通訳を介さなければ通じないと認識されるありさまでした。仮に秦から 渡来したという伝説が本当だったとしてもこれじゃ意味がないですよね。
2行目訂正 ×秦 ○秦人 失敬。
337 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 01:23:46
>>325 中国の歴史で漢民族の王朝は以外にも少ない
殷も東夷族が建てた国だし秦の始皇帝もペルシャ系なんて説もあるぐらい
元はモンゴル、金、清は満州族
歴史的に多民族に王朝を乗っ取られる歴史でしかない
338 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 23:57:06
●青銅鏡の秘密(日本古代王朝の起源は百済)
http://www.searchnavi.com/~hp/rekishi/youyaku/06-1.htm エジプトのピラミッドよりも巨大な世界最大の古墳と言われる仁徳天皇陵は、大阪湾に隣接している。
そしてその側には、仁徳天皇と鷹狩りにも一緒に行っていたとされる百済王族の酒君塚がある。
またその近くには南百済小学校、百済大橋、百済という苗字を持つ人々など、1400年が経った今でも日本古代王朝の
発祥の地である百済の痕跡を感じさせる様々な様子が残っている。
こういった様子は、仁徳天皇の父である応神天皇陵の周辺からも見ることができる。応神天皇は百済から王仁など多くの博士らを
招き、論語、千字文を教えさせていて、当時その周辺には船氏、飛鳥部(戸)氏などの百済系の勢力が居住していた。
なぜ百済系の氏族らは日本天皇陵の周辺に居住していたのだろうか。これは歴史の謎ともいえるが、日本人の心のふるさととも
言われる飛鳥地域で、当時百済勢力の蘇我馬子のお墓として知られる石舞台古墳を含めた百済人の古墳群(飛鳥千塚、新沢千塚など)は、
そこに大規模な百済人が渡来し、言わば「新百済」または「リトル百済」を形成、居住していたことを証明する。
また「続日本紀」でも当時飛鳥地域の10人中9人が移住民であると記録しているほど、現在の奈良県にあたる飛鳥地域は、百済の文化が日本に入る前哨地でもあったと考えられる。
341 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 02:44:13
●任那日本府の真実
広開土大王碑文には百済を服属させたのは、倭つまり日本でなく高句麗であったと言える。当時倭は倭寇等で呼ばれていた
少数分散的略奪集団で、百済と新羅を審問にする程の大規模な軍事集団を持っていなかった。
従って広開土大王碑には新羅を侵略した倭を高句麗が退けたという内容がいくつも出てくるのである。
日本初期に日本府は"大和の御事持"であると記録していることから、日本府は総督府のような軍事統治の支配組織ではなく、
王の使臣を称するものであったことが確認できた。
日本が伽耶出身で、主に吉備、河内地域にいた伽耶系日本人を外交使節として安羅に派遣し、鉄器や土器の輸入を
担当させていたと考えられる部分である。
大阪にある辛国神社は、伽耶人たちが交流の多かった日本に移住したした6世紀頃、故郷を偲びながら祖先を祀っていたのが
始まりであると伝えられている。特に安羅国が滅亡する6世紀末、多くの伽耶人が日本に移住し定着していたという。
従って日本が伽耶の鉄器文化に影響されたのは、北九州博物館や奈良の橿原博物館に展示されている鉄製の鎧や兜から
確認できるが、これらは大抵5世紀頃作られたもので、伽耶のものより100年も後れて伽耶の鉄と技術で作られたものである。
この他にも伽耶の鉄と先進文物が、日本の古代国家形成に決定的な役割をしたということは、様々なところから推定することが出来るであろう。
また日本で伽耶土器と知られている須恵器の大量出土は、伽耶の須恵器製造集団の日本移民を意味するものであろう。
こういう関係から考えて古代日本が古代韓国を支配したということは、考えにくいのではないだろうか。
http://www.searchnavi.com/~hp/rekishi/youyaku/24-1.htm
342 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 03:49:11
●日本最高の新羅商品、新羅産毛氈(もうせん)
◎正倉院の宝物の意味
正倉院に保存されているものは、主に8世紀前後世界各地から入ったものである。日本の古代国家の完成期であったこの時期に、日本文化を
一段階高めたということで、日本ではこの正倉院の遺産に対する自負心がとても強い。そしてこの正倉院の宝物で象徴される8世紀の日本文化を、
聖武天皇のころの年号をとって天平文化と呼んでいる。
一方この時期中国も唐の文化が花を咲かせていて、首都長安は世界各地から様々な文物が集まる交易の中心地だった。
それで新羅もこの時期長安に使臣を派遣し、輸入してきた唐の先進文化を日本にまた輸出していたのである。
しかし日本はなぜこのような文化を中国から直接受容しなかったのだろうか。それは島国であった日本が外部の文物を受容するには
遠くの国まで行ける船が必要であったが、それまでの日本にはまだそのような造船術が発達していなかったのであった。
そこでこういった事情の日本に、中国の品までも入れるにしたのが、当時東アジア一帯で造船術と航海術の達人として活躍をしていた新羅商人の存在であったのだ。
日本皇室の宝物倉庫正倉院に眠っている新羅からの文物は、このような新羅の力量と日本と盛んに行われていた当時の貿易関係の様子を今日も静かにもの語っている。
http://www.searchnavi.com/~hp/rekishi/youyaku/04-1.htm >日本にはまだそのような造船術が発達していなかったのであった
>日本にはまだそのような造船術が発達していなかったのであった
>>342 ひどいな・・・韓国の歴史学者は遣隋使すら知らんのか・・・
これこそ随唐演技
345 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 19:33:43
【10月の臨時国会で民主・公明が外国人参政権法案提出へ】
_,‐/.| ヽ.,лi'\,‐i
ノ .| ,ノ (´・ω・`)´i
/ `'‐´`'-,_,‐'v'‐-ー,__,、,-、_`'!_ _
_ __ノ‐-ー' ,‐^'‐‐,iー,,l´ ~ ,}
‐‐=''‐'`フ 中国 ,‐´ `\ 朝鮮 /"
.t_ . i`ヽ_/ < `∀´ > ~j `i、
.л) .`j ___,,,--、 '‐! ζ
__| . jヽ‐'´~ /'' `ヽ ヽ, ,,---'´´~
`フ `i ノ ヽ, /
`'''ーt´ ,‐,/~ .i /
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韓国人の民度
ttp://www.kjclub.com/jp/exchange/theme/read.php?uid=98279&fid=98279&thread=1000000&idx=1&page=1&tname=exc_board_59&number=83664 貸し出しと返却を自由に市民たちの良心に任せる良心本棚がオープン !
…3ヶ月後, 3千冊全部 紛失&未返却 orz
346 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 19:40:35
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
347 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 23:26:21
●NHKスペシャル日本人はるかなる旅 この番組で日本人のルーツを科学的に解明していました およそ1万種類を越えるタイプに分かれるヒト白血球抗原(HLA)で日本人に一番多いタイプ は中国北京北部から遼東半島一体に分布するB52ーDR2という抗原だそうです B52−DR2 (日本人に最も多いタイプで北京北部から遼東半島付近と現在の韓国と西日本一帯) B46−DR9 (中国中部長江流域) B54−DR4 (中国南部) B44−DR13 (現在の北朝鮮、古代の高句麗領土付近) これだけのタイプが日本列島にさまざまな時代に入り込んできて現在の日本人を形成したそうです 一番多いB52−DR2タイプは北京北部、遼東半島、現在の韓国全域、そして九州北部から山口、広島などの 西日本のほとんどがこのタイプだそうです 意外だったのは韓国と北朝鮮ではタイプが違うということです 韓国は日本人と同じDR52−DR2ですが北朝鮮はB44−DR13というタイプです このB44−DR13も日本に渡来しています、地図では日本海側の新潟あたりをさしていたように思います
>>347 B44−DR13は高句麗というより渤海人の渡来と関係あるかもね。
渤海は日本に朝貢していたし、交易もしていたらしいし、半島から日本
にくるより距離はあるが海流的には安全だったみたいだし。
古代史的にはロシアの極東地域は重要かもね。
それと、調査するサンプリングが現在の日本人だと、明治以降に
半島から西日本に流入した数も考慮しないとね。
349 :
日本@名無史さん :2009/10/07(水) 06:38:45
>>347 ところがねGm遺伝子で分析すると
1、Gm遺伝子の分布によって、蒙古系民族は、南方型と北方型とに大別されるが、日本民族は、あきらかに北方型である。南方型蒙古系民族との混血率は、せいぜい7〜8パーセントであって、それほど高いものではない。
2、日本民族は、北海道から沖縄にいたるまで、ことGm遺伝子に関するかぎり、おどろくほど均質(遺伝的に同じ)である。
日本民族は、北方型蒙古民族に属し、そのおおもとの起源はシベリアのバイカル湖畔と推測できる。
つまり「日本人については、北方型蒙古民族が中核をなしていたことは、原初以来一貫としており、異民族の血を、それほど大きくはうけていない、ということになるであろう。」と結論になるそうです。
350 :
日本@名無史さん :2009/10/07(水) 19:35:36
■蘇我氏は渡来系氏族か
飛鳥時代の筆頭豪族である蘇我氏一門は、その実在が記録上ではっきりするのは蘇我満智からです。
その満智が渡来人だとしたら、その影響は大きいものがあります。
まず、皇族では崇峻天皇や推古天皇、用明天皇などが渡来人の5代目子孫、聖徳太子は6代目子孫
ということになり、天皇の祖先は意外な側面をみせることになります。
さらに、これまでの「帰化人史観」では、百済や新羅などから来た「帰化人」が倭に文化や技術を伝えたと
理解していたのですが、それが一転して渡来系氏族もヤマト政権の一翼をになったということになります。
このように右翼を仰天させるような大胆な説が門脇禎二氏により提唱されましたが、この説は地元の
明日香(あすか)村教育委員会でもまともに信じられているようです。
職員のキタムラ氏は蘇我馬子の墓と伝えられる飛鳥の石舞台を前にテレビでこう語りました
「この古墳に葬られている方はどなたかというと、蘇我馬子といわれている。
その当時、今から1400年前に勢力を持っていた方で、この方の先祖、正しくはひいおじいさんは
韓国の百済からお越しになった方で、韓国のお名前を木羅満致(もくらまち)、そして日本では
蘇我満智(まち)という方」門脇説は意外なところでも信じられているようですが、はたして満智=満
致という門脇説はどの程度の信憑性があるのか興味あるところです。
http://www.han.org/a/half-moon/hm081.html#No.551 >韓国の百済からお越しになった方で、韓国のお名前を木羅満致(もくらまち)、そして日本では蘇我満智(まち)という方」
>韓国の百済からお越しになった方で、韓国のお名前を木羅満致(もくらまち)、そして日本では蘇我満智(まち)という方」
351 :
日本@名無史さん :2009/10/07(水) 19:36:48
<蘇我氏と百済の木氏とのかかわりを示すものは、ほかにもある。のちの蘇我本宗家のひとりとして名高い
蘇我鞍作(入鹿)は、林太郎鞍作ともいわれたのであるが、その林氏は「百済国人、木貴の後なり」との
所伝(『新撰姓氏録』摂津国諸蕃)をもちつづけた。これもその傍証となろう>
(蘇我石河宿禰)−満智(まち)−韓子(からこ)−高麗(こま)−稲目(いなめ)−馬子(うまこ)
−蝦夷(えみし)−入鹿(いるか)
このなかで、蘇我石河宿禰だけはその存在が疑問視されています。
蘇我氏が勢力を伸ばした背景の一因にはITならぬ新技術の導入があったようでした。
配下に阿知使主(あちのおみ)を祖とする東漢(やまとのあや)や、のちに今来漢人(いまきのあやひと)など
渡来人をつぎつぎに吸収し、時代の先端技術を存分に活用したようでした。
また、必要とあれば飛鳥寺建設のように百済から技術者をおおぜい招きました。
こうした技術力、政治力により新興勢力の蘇我氏はどんどん勢力を伸ばし、宣化天皇期には勢力圏内に王宮を招致するほどになりました。
蘇我氏は渡来氏族であったとすると多くのことがすっきり理解できるのもたしかです。
たとえば、馬子にまつわるエピソードもその一例です。馬子は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺で仏舎利、すなわち
釈迦の骨を塔の芯礎におさめる儀式に百済服を着用したことが仏教関係の史書である『扶桑略記』に記されました。
このような個々のエピソードに対しては個別にそれなりの反論が可能なのかもしれませんが、全体的に概観すると
蘇我氏は渡来系氏族と考えたほうが自然なように思われます。
http://www.han.org/a/half-moon/hm081.html#No.551 >先祖から5代目にもかかわらず馬子は百済服を着用した
>先祖から5代目にもかかわらず馬子は百済服を着用した
唐代に成立した『隋書』卷八十一・列傳第四十六・東夷の百済条に 「其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人」 (そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。) とあり、百済が多民族国家であったことが分かる。 同様に新羅条には「其人雜有華夏、高麗、百濟之屬」 (そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居しており) とあり、新羅もまた他民族国家である。
『隋書』に中国人wwwwwwwww
■朝鮮語 上が文字の読めない韓国(朝鮮)の人達の教育に使いだして、 1913年、日本統治下の韓国(朝鮮)において本格的に小倉昇平、金沢昇一郎博士によるハングル教育が始まりました。 韓国(朝鮮)のハングルの普及は、日本人言語学者と教育学者を中心とする専門家の努力によるものです。 そもそも、朝鮮語は、東北、西北、中都、西南、東方、済州島の六つの大方言区分に分かれ、 李朝時代には、言語的にはけっして統一されてはいなかったものを、日本の朝鮮総督府が体系化したものなのです。 オンモン(朝鮮文字)はパスパ文字、契丹小字をもとにしたものであり、 しかもカナより600年遅れて作られたものである しかも韓国語は日本統治時代の影響で全く別物になりました・・・
355 :
日本@名無史さん :2009/10/07(水) 21:56:40
>>350 5世孫だと百済の血はたった3.125パーセントなのよ
いまでも2世孫、クオーターくらいなら、プロフィールで言う人も多いけれど普通、それ以上だと遠い先祖にって位しか言わないよね
日本人なら、例えば5代前にアメリカ人の父親がいても、自分はアメリカ人って言わないよ。
その辺、半島系の人の感覚が理解できないのよ
移民の国、アメリカとかイスラエルだったらあるていどわかるけれど。
ほとんどの人が移民だから。
でも、ほとんどが移民じゃないここは、日本よ。
百済人自体が他民族国家だからね
■前史■ 紀元前から4世紀頃まで朝鮮半島南部は漢人・夫余人・倭人・韓人の雑居地帯だった。 ・300年頃 ヤマト朝廷発足 ・313年 中国植民都市=楽浪郡、高句麗によって滅ぶ=半島大混乱 ・346/356年 百済・新羅建国。ミマナ含む伽耶諸国は倭の後援を得て小国分立。 ■戦争前夜■ ・360年頃 百済・高句麗国境地帯に鉄鉱山発見される=紛争の火種 ・367-371年 百済、倭に遣使。軍事援助を要請 ・372年 百済倭軍事同盟締結。百済、誓約の証として倭に七支刀を贈る この頃、軍事介入に反対した仲哀天皇は暗殺される。(363年) 代わりに未亡人の神功皇后が司令官、武内宿禰が副官に就任。 七支刀は石上神宮に現存。この神社は服属部族の神宝保管庫なので百済が臣従したことがわかる。 武内宿禰は蘇我氏の先祖。 ■第1次百済高句麗戦争■ ・369/372年 百済高句麗戦争勃発。→倭が軍事介入。 ・392年 倭百済連合が勝利。そのまま倭は新羅を占領、百済・新羅を服属させる。 これによって朝鮮半島は、南北に分断される。(北=高句麗、南=倭+百済・新羅・伽耶連合) 凱旋司令官神功皇后、後任司令官の息子の応神天皇は神格化され、軍神八幡神とされる。 この辺の事跡は広開土王碑にバッチリ記述有り。(ただし、倭が高句麗まで服属させたというのは疑わしい。)
358 :
日本@名無史さん :2009/10/07(水) 22:26:49
非常に解りやすい半島紛争史ダイジェスト、ありがとうございました。 ご存じの通り広開土王碑、どこかの国では日帝の改竄だとさんざん言っていたのに、中国から古い拓本出てきたら今度は誤読だって言ってます。 漢文の本家が解釈してもです。 本当に頭、狂っている人っているんですね。
359 :
日本@名無史さん :2009/10/07(水) 23:53:24
だいたい、酒匂大尉が拓本を持ち帰ったのは明治17年、西郷の役が片づいてわずか6年後だろう。 改竄なんか、考えれるような時代じゃないよ。 子供の時から、改竄説はペテンだって思ってた。 一昔前の国史学会って、半島に媚びることしか考えてなかったからな。
351の、礼服として百済服を着ていたから渡来人の子孫ニダ、という説がまかり通るなら、 維新直後の日本で洋服を着ていた元勲たちや夏目漱石なんかはヨーロッパ人の子孫ってことになるね。
361 :
日本@名無史さん :2009/10/08(木) 07:17:45
>>355 蘇我満智から5代目にあたる蘇我馬子
もう百済人ではなく十分日本人としてのアイディンティティーがあると思いきや
釈迦の骨を塔の芯礎におさめる儀式に百済服を着用したそうだよw
日本に居ながらも日本で倭人を支配し政権を掌握していながらもこの百済に
対する思い、故郷に対する思い、韓民族にたいするこの思い
泣かせるじゃないかw
362 :
日本@名無史さん :2009/10/08(木) 08:36:47
そう史書に書いてあるってことは、普通に「百済かぶれの倭人」だったことの 証明にしかならないと思うが。
363 :
日本@名無史さん :2009/10/08(木) 12:38:15
・当時倭は百済とは明白に異なる「正装」があった ・百済人や百済系の人間が百済の服を着ていたところで、それを異とする人はいない
>>362 だよな。百済人(系)が百済服を着たところでニュースになるわけがない
韓民族って戦国七雄の韓が移民した国って意味だったな 朝鮮人ではないね
366 :
日本@名無史さん :2009/10/08(木) 21:56:56
>>364 百済人(百済系)だということを隠していればニュースになるだろ
だって周りは倭人としか思ってないから
367 :
日本@名無史さん :2009/10/08(木) 22:19:52
同時代に隠す必要があったなら、バレるようなことをするはずないだろ。
368 :
日本@名無史さん :2009/10/08(木) 22:26:28
都合の悪い時は、「百済人は、現在の半島人ではない。」 都合の良い時は、「百済人が、日本の政治を牛耳っていた。我々の祖先は偉い。」 都合の悪い時は、「日本書紀に書いてある事みんな嘘である。」 都合の良い時は、「日本書紀に書いていあるので間違いない。」 不思議な思考回路を持つかわいそうな民族。 これまた失礼。 はなから思考なんて、できないか。
369 :
日本@名無史さん :2009/10/08(木) 22:34:52
いやいや、 辰韓は中国人移民の国、衛氏朝鮮は燕人の国、 漢の4郡は漢人の国、新羅百済は倭国の臣民、 こういった史実にはっきり書いてることから推測しないと
ま、ひとつ言えることは、ほとんどの今の日本人は、 あれだけ本枝繁栄した藤原北家の血を引いているだろうから、 蘇我馬子―倉麻呂―連子―媼子(藤原不比等妻)―房前……(以下藤原北家本枝) の系譜から、蘇我馬子の血を引いていることになる。 いっぽう、今の半島人は、ほとんど蘇我馬子の血を引いていないと思われる。
そりゃそうだ そいつら半島と関係ないからな
ほとんどが自称藤原北家なわけだが
373 :
日本@名無史さん :2009/10/08(木) 22:54:05
近年、炭素14年代測定法という最新の年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より 日本の方がかなり古いことが分かってきています。 日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明しています。 これに対し朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない点、 九州北部と栽培法が酷似していることや 遺伝子学的に日本の古代米に中国北東部からの入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、 水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は中国北東部経由で朝鮮半島へ伝わったと考えられます。 このことは中国政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ています。
農学、植物学、生態学の分野では米の伝来ルートについては中国南部から直接伝来したという説が定説でしたが、 考古学、歴史学の分野では朝鮮半島経由という考え方が有力でした。 しかし、7,8年前からまず考古学の分野から変化が起き、次第に中国南部から直接伝来した説が有力になって、 現在ではほぼすべての学界で定説になっています。 また中国の稲作研究界ではむしろ水稲種は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっています。 この流れが加速したのは主に2つの理由があります。 遺伝子工学の分野からの研究の成果、もう1つは中国政府機関が20年以上かけて中国北東部で行った品種の調査です。 この2つが決定打になり朝鮮半島経由で米が伝来した可能性がなくなりました。
>>49 遅レスだが、この温羅伝説ってかなり適当な伝説だなぁ……
四道将軍が派遣されたのは崇神天皇の時代だから
温羅が百済の王子も何も、まだ伯済の時代じゃないのかな。
しかも鬼ノ城は7世紀築城らしいから、
鬼ノ城が温羅の本拠地ってのは絶対にありえないし。
それなら、温羅伝説は7世紀の出来事かと聞かれたら
確かに、その時期なら百済の王子が日本に居ただろうけど
その百済の王子は大和でのんびりしてるか、百済復興の準備をしてるか
百済王氏として日本の貴族になってるだろうしなぁ……
近代、清朝時代に鵜飼いがあったから古代にも、「あったかもしれません」記録はありませんが! 近代、沿海州には高床式倉庫があったから古代にも、「あったかもしれません」遺跡はありませんが! 近代、沿海州には自動車があったから古代にも、「あったかもしれません」遺物は発見されてませんが! 近代、古代日本には納豆、なれ寿司があったから古代朝鮮にも「あったかもしれません」古代朝鮮の記録にはありませんが! 近代、古代日本には歌垣があったから古代朝鮮にも「あったかもしれません」古代朝鮮の記録にはありませんが!
378 :
日本@名無史さん :2009/10/11(日) 22:02:42
■ペルシャの石工がやって来た 蘇我氏が飛鳥寺を建立するために、百済から招いた寺工、鑪盤(ろばん)博士、瓦博士、画工らはペルシア系の人々であったと言われています。 また、仏師の司馬達等(しばのたつと)親子はペルシャ人であったらしいのです。 ちなみに、司馬達等は鞍作止利(くらつくりのとり)のおじいさんです。 天平八年(736年)、遣唐使に従ってきた李密翳(りみつえい)もペルシャ人でした。 天平勝宝六年(754年)、鑑真和上に随行して来日した安如宝もペルシア人であったと伝えられています。 このように古代日本には、ペルシア人は案外多く来訪して、その文化を伝えていたようです。
379 :
日本@名無史さん :2009/10/11(日) 22:15:39
380 :
日本@名無史さん :2009/10/11(日) 22:18:15
381 :
日本@名無史さん :2009/10/11(日) 22:19:33
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
http://www.tmd.ac.jp/med/mtec/wakamatsu/emperor/historybackground.pdf#search
382 :
日本@名無史さん :2009/10/11(日) 23:07:44
最近2chでやたらと歌垣のコピペする奴が居るなと思ったら タイミング良くテレビのCMで女の子10人ほどが手をつなぎ踊ってる 「かごめかごめ」「はないちもんめ」のロック調音楽で。 あれこそが本当の歌垣だよ。 電通社員の仕込みか?2chは!
383 :
日本@名無史さん :2009/10/11(日) 23:32:45
おまえが一々反応するから貼られるんだろ。
384 :
日本@名無史さん :2009/10/11(日) 23:49:51
まあ韓国人と司馬遼太郎は歌垣を理解してないね!!
>>378 時々、ハーフでもクォーターでもないのに鼻が高く彫りの深いきれいな顔の日本人がいるが、ペルシャ系入ってたのか?
386 :
日本@名無史さん :2009/10/12(月) 00:08:01
>>385 テレビコマーシャルで流れてた若い頃の三国連太郎、髭面の顔は正しくアルカイダの顔だよ
大きな古時計の平井堅はアルカイダ。
387 :
日本@名無史さん :2009/10/12(月) 00:18:08
それはつまり縄文人は中央アジアから来たって事だよ。
388 :
日本@名無史さん :2009/10/12(月) 01:57:50
モンゴルの排泄物である朝鮮人には ほとんどいない顔ですよね。
389 :
日本@名無史さん :2009/10/12(月) 06:20:15
イラクのフセイン大統領も日本人かアイヌ人といっても通じるような容貌だったな。 何故イラクに黄色人種がいるんだ?と思うほどだった。
390 :
日本@名無史さん :2009/10/12(月) 08:53:32
391 :
日本@名無史さん :2009/10/12(月) 15:46:55
オバマさんってブッシュマンのニカウさんに似てるよな。
392 :
日本@名無史さん :2009/10/12(月) 18:30:04
聖徳太子の時代よりだいぶ以前からペルシャ人は中国大陸や朝鮮半島に 住んでたらしいよ、大部分がシルクロードを通ってやって来た商人達 それから日本列島に渡来してきた平井賢みたいなタイプのペルシャ人w 秦氏もその中の一派でありユダヤ系とも言われている
394 :
日本@名無史さん :2009/10/12(月) 23:04:11
■天孫降臨神話は朝鮮の檀君神話そのもの
日本の古代神話の中の「天孫降臨神話」についての研究は、過去多くの研究者達によって解明が進められてきた。
松村武雄、三品彰英、大林太良、西郷信綱、松前健、吉田敦彦などの学者たちが考察を重ね、現在、日本の天孫降
臨神話が朝鮮半島から内陸アジアにかけてひろく分布する「天降り神話」に起源を持っていることは定説化している。
天孫降臨神話には多くの型があるが、「古事記」に現れる神話は、「大国主命の国譲りがあって、天照大神と高木神は
日つぎの御子の天押穂耳命に降臨を命じた。そのとき天押穂耳命と高木神の娘、豊秋津子媛のあいだに子が生まれたので
、その子、穂邇邇伎命をかわって天下りさせて瑞穂国を統治させることになった。
そのとき猿田彦が八衢(やちまた)にあらわれて道案内をした。
五つの族長が供につき、三種の神器があたえられたのち、天照大神は、「この鏡を我が魂としてまつれ」と命じた。
準備が整い、穂邇邇祇命は筑紫の日向の高千穂の久士布流岳に天降った。」
この部分は、「日本書紀」では高御巣神が穂邇邇祇命をマドコオウフスマにくるんで降臨させた」とあり、しかも神器はあらわれない。
また、「日向国風土記逸文」には穂邇邇祇命が稲穂を散布しながら高千穂峰にくだる話になっている。
これは以下に見るように、朝鮮神話の「檀君神話」(三国遺事)とそっくりである。
http://inoues.net/shoki/kojiki_shoki10.html
395 :
日本@名無史さん :2009/10/12(月) 23:21:32
396 :
日本@名無史さん :2009/10/12(月) 23:22:22
397 :
日本@名無史さん :2009/10/12(月) 23:23:19
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
http://www.tmd.ac.jp/med/mtec/wakamatsu/emperor/historybackground.pdf#search
[偽書とされる書における檀君] <清の嘉慶5年(1800年)に命名された地名「長春」が見え> <20世紀に入ってから作られた男女平等、父権などの用語が使用されている> 『桓檀古記』に含まれる「檀君世紀」上編[2]によれば、檀君朝鮮は始祖王倹より古列加まで47代続いた王朝であったという。 しかし、同書や同じく『桓檀古記』にある「太白逸史」には清の嘉慶5年(1800年)に命名された地名「長春」が見え、 「太白逸史」の引用書「朝代記」に至っては男女平等、父権などの近代になって登場した用語が使用されている。 このことから、20世紀に入ってから作られた新しい偽書であることが確実視されている。
高句麗=扶余系=満州系なんだわな。 高句麗の発祥地は中国の東北地方で、高句麗の数百年の歴史のうちの最初からの半分以上が中国東北地方にしか版図がなく、朝鮮半島には存在はしてなかった。 そして、彼らが滅亡した後は、ほとんど満州の部族に移行している。つまり、どう考えても、高句麗は中国東北系の国なんだわな。 高句麗と朝鮮の関係って大日本帝国の朝鮮と似たようなもんでしょ。 朝鮮に日本家屋があることを理由に、朝鮮人が江戸文明を作ったとかぬかすくらいあつかましい主張でしょ。 何しろ、文明が継承されてないんだもの。 満州人はきっちり高句麗文明を継承してるけど朝鮮は100年前は土人文明だもの。 高句麗はシナと新羅(朝鮮)が連合して消滅させた異民族の古代国家にすぎない。 百済も、高句麗の後継国家、渤海も同じ。
韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、 いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方(日本海沿岸地方)に 住んでいたワイ族。
百済人、高句麗人は古代の満州地方に住んでいた遊牧民族=フヨ族。
ウィキペディア-朝鮮民族
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E6%97%8F 歴史
朝鮮半島では4世紀頃までに高句麗、新羅、百済の三国が興り三国時代と呼ばれるが、7世紀に中国の唐が新羅と結んで高句麗、百済を相次いで滅ぼし、さらに新羅が唐の勢力を追放して朝鮮半島を統一した。
高句麗や百済の支配層は扶余系とみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。
一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる。
ウィキペディア-新羅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85 脚註
^ なお韓国では、高句麗の滅亡後にその遺民が靺鞨族と共同して満州に建国した渤海を高句麗の後継国家と見なし、新羅・渤海をあわせて南北国時代と呼び、朝鮮民族史の及ぶ地理的範囲を朝鮮半島から満洲・沿海州を含めた領域としている。
しかしながら、言語的観点から現代の韓国・北朝鮮の祖とされる新羅と、高句麗・渤海とでは、民族的・言語的に隔たりがあり(金芳漢著・大林直樹訳『韓国語の系統』)、
高句麗・渤海を現在の韓国・北朝鮮へ連続する国家と見なす十全な根拠がないため、高句麗・渤海の故地を領土に含み、また高句麗・渤海と民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国との間に軋轢が生じている(→東北工程)。
朝鮮人(高麗族、コリョ族)は中国東北部起源の北の蛮族 「楽浪半島、もしくは東シナ半島」の歴史(中国と日本の歴史) 前1000年頃 殷の廷臣、箕氏(中国人)が周の武王から楽浪(半島北部)に封じられる?(周の属国)その後、周の凋落で王を称す? 戦国期 編纂されはじめていた地理書「山海経」に「楽浪の南に、燕に朝貢する倭がある」旨、記される。 辰国(半島南部、百越人の国)は倭そのものか? 百越人(弥生人)とは、失われた長江文明の担い手。現在そのDNAは半島、日本、ベトナム以南にしか残されていない。 前195年 秦に滅ぼされた燕からの亡命武将、衛満(中国人)が箕氏楽浪を乗っ取る。 このころから辰国は三韓に分かれはじめる。 馬韓(後の百済)は百越人の国。秦韓(辰韓、後の新羅)は始皇帝から逃れてきた秦民の国。弁韓(後の任那)も秦韓に似る。 前108年 中国皇帝の武帝が衛氏を滅ぼし楽浪郡を設置、植民地とする。 前37年 東胡を祖とするコリョ族(高麗族)が中国東北部に高句麗(前高麗)を建国。 2世紀 遼東太守、公孫度が扶余族(穢族からコリョ族と分岐)の王、尉仇台に嫁を与え馬韓(後の百済) の王とする。先から三韓の王族は全て扶余族となっていた? 倭王も同族? 新羅三王家のふたつに倭出自伝説が残されている。 3世紀初 公孫康 、曹操の許可を得て楽浪郡南部を帯方郡(後の百済)として設置。 4世紀 晋の八王の乱の混乱に乗じて、高句麗が楽浪郡を不当占拠。百済、新羅が建国。日本を大国と崇め、人質を送る。任那も併せ三韓は日本の勢力下にあった。 7世紀 任那、百済と順に滅亡、遣隋使と合わせて日本は半島から手を引く。新羅、高句麗を征伐。統一新羅は中国の属国となり、独自の名前と年号を捨て、中国式の名前と年号を使い出す。 918年 新羅滅亡、高麗(後高麗)建国。新羅内に雌伏していたコリョ族が国を乗っ取った。 ここまでは、朝鮮人の歴史ではない。
朝鮮人とは朝鮮半島の南側に住んでた原住民で、三韓(馬韓、弁韓、辰韓)人 それに対して高句麗(※)も百済も朝鮮人を支配してた扶余(ツングース)民族だな ※ 広辞苑より 【扶余】前一世紀から五世紀まで、中国東北地方北部に活動した民族。 また、その建てた国。ツングース族の一。一〜三世紀中頃が全盛期、もと百済の別称。 【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙(東明王)の建国という。 中国東北地方の南東部から朝鮮北部にわたり、四世紀広開土王の時に全盛。 都は二○九年より丸都城、四二七年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。高麗(コマ)。 【渤海】八〜一○世紀、中国東北地方の東部および朝鮮半島北部のあたりに起った国。 靺鞨(マツカツ)族の首長大祚栄が建国。唐の文化を模倣し高句麗(コウクリ)の旧領地を 併せて栄え、七二七年以来しばしばわが国と通交。一五代で契丹に滅ぼされた。 【靺鞨】(マツカツ)ツングース族の一。有力な部族が七部あり、その一である 粟末(ゾクマツ)靺鞨の首長大祚栄は渤海国を起し、また黒水靺鞨は後に女真と称した。 【女真】中国東北地方の東北部から沿海州方面に住したツングース系の民族。 五代の頃より女真と称し1115年完顔(ワンヤン)部の首長阿骨打(アクダ)が金を 建国し宋に対抗。後に清朝を興した満州族も同一民族である。 一方朝鮮人は、朝鮮半島の原住民の事です。 馬韓、弁韓、辰韓の民族ですね。 なので 百済≒高句麗≒渤海 ≠ 三韓=朝鮮民族
【質問】『「我々韓国人は高句麗人(フヨ族)の子孫だ。高句麗は韓国人が建国した国だ」と主張していますが、 これは事実でしょうか?』 【回答】 完全なウソです。韓国人の作り話です。韓国人と高句麗人はまったく別種の民族です。高句麗人は 古代の満州地方に住んでいた 遊牧民族=フヨ族の一派ですが、韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、 いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方(日本海沿岸地方)に 住んでいたユウロウ族です。狩猟民族=ユウロウ族の子孫が 現在の韓国人です。このユウロウ族はシベリア奥地の山岳部から半島東北部に移住してきた民族です。 満州地方に住んでいた遊牧民である高句麗人(フヨ族)とは何の関係もありません。強いて関連付けるならば、 一時期、フヨ族がワイ族を 支配化に置いていたこと、くらいです。 では、高句麗人の子孫にあたる民族とはどのような民族なのか。それは女真族(満州族)です。 高句麗が唐によって滅ぼされた後、高句麗人(フヨ族)は彼らの故郷である『満州』に逃げました。 高句麗人はこの地において契丹族や鮮卑族、モンゴル族と混血しました。それによって誕生したのが 女真族(満州族)なのです。 この女真族が、1115年に満州地方から中国北部にまで版図を有する 『金国』を建国しました。金国が滅びた後、1616年に、 同じく女真族の国である第2次金国=後金国が建てられ、 この『後金国』が清国へと発展していきます。
高句麗人(フヨ族)の歴史を図にすると、下記のような流れになります。 〔フヨ国→ 高句麗→ 金国→ 後金国=清国 (高句麗滅亡後に建国された渤海国も『高句麗人の国』という説がある) 〕 見ての通り、高句麗と韓国人は何の関係もありません。高句麗人の末裔と呼ぶべき民族は満州族であり、 韓国人=朝鮮人ではないのです。 韓国人は高句麗人の子孫ではないだけでなく、高句麗人の歴史を受け継ぐ 満州族(女真族)のことを『オランケ』と呼び、蔑んでいました。 オランケとは韓国語で「野蛮人」の意味です。 韓国人は、「我々は高句麗人の子孫だ」と自称する一方で、本物の『高句麗人の子孫』である満州族のことを、 野蛮人呼ばわりして 見下しているのです。 ところが最近の韓国人は、時と場所によって「満州族と韓国人は兄弟民族だ」と言ったり、「満州族はオランケであり、 韓国人と違う民族だ」と、 言ったりしています。まさに『ご都合主義』です。自分たちの都合により、歴史を捏造し 歪曲しているのです。 日本人は倭人の子孫である。一方、朝鮮人はユウロウ族の子孫である。この2つの民族は 最初から別種なのだ。
百済→王族は扶余族、倭人と混血 、民衆は長江文明の遺臣の弥生人(百越人ともいう) 新羅→王族は扶余族、三王家のふたつに倭人出自説あり、民衆は弥生人と、始皇帝から逃げてきた秦人(漢族) 高句麗→ツングース系女真人 高麗→ツングース系女真人 渤海→ツングース系女真人 渤海と高句麗の民族的人種的なつながりははっきりとはわからないが、 新羅に滅ぼされた高句麗の遺民が建国した国ではないか、とは言われている。 何度も日本に朝貢している。 渤海が滅んだのち、今度はその遺民が高麗を建国した、というのがだいたいの流れ。 中国東北部にいた人々が一時期朝鮮半島に国を作ったとも言えるし、それが朝鮮人であるとも言える。 朝鮮半島は漢族、倭人、中国東北部族、モンゴル人等々、種々雑多な人種が入り乱れている。 日本と違って、半島というのはどこでもそういうもの。いわば人種民族の通り道的な存在。
高句麗は、夫餘から出た別種である。(『旧唐書』高麗伝 :「高麗者、出自扶餘之別種也。」) 高句麗は本来夫餘の別種である。(『新唐書』高麗伝 :「高麗、本夫餘別種也。」) という記述にもあるように、高句麗族はその起源伝説の類似点から、ツングース系と考えられる 扶余と同じ民族と見られることが多い[2]。史上でも扶余の流民を受け容れていることが記されているが、 民族を同一とするにたる明証はなく、墓制の違いを見る限りは扶余と高句麗との差は歴然としている[3]。 但し、『魏書』百済伝の百済王蓋鹵王の上表文には、「臣と高句麗は源は夫余より出る」 (臣與高句麗源出夫餘)とあり、当時の百済人は高句麗人を同種の夫余とみていたことになる。 なお、扶余族は他に、沃沮(東沃沮・北沃沮)・?・百済(王族)など朝鮮半島に広く分布していた。 wiki より 上記からも、高句麗はツングース系と確定している。当然、朝鮮民族ではない。
中央日報 2004.09.27 スペイン紙「韓国4228年間、中国の属国」
スペインの有力紙「エル・ムンド」のウェブ版(www.elmundo.es)が
「韓国は4228年間にわたって中国の植民地だった」と紹介した。
「エル・ムンド」は「韓半島は長い歴史のなかで数多くの侵略を受けてきた。中国に1895年まで属していた(略)
「▽韓国が元々中国植民地だったと伝えた米CNNテレビ▽平壌を中国植民地だと紹介したヒストリーチャンネル−−などのケースと同じ脈絡のもの」(略)
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=56213 http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/0b306f901f4daf3e42a18ba5e2664129 世界の教科書
◎ ドイツの教科書
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀の事だった。その後300年、
日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」
◎ フィリピンの教科書
「朝鮮は、その歴史の大部分中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。
日本は自由な新しい秩序を樹立する事によって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」
◎ インドネシアの教科書
朝鮮を中国の属国として記した。
「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」
「朝鮮は言論・宗教の自由が制約を受ける国」
「北部はロシアが、南部はアメリカが占領している」
◎ タイの教科書
「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」
◎ ポーランドの教科書
「AD1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」
◎ アメリカの教科書
「朝鮮は中国の従属国」
◎ カナダの教科書
「朝鮮は、数百年間中国の属国」
「日本は<中略>朝鮮に鉄道・道路・港を建設し、産業を発達させて教育の機会を拡大させようと努力した」
◎ イギリスの教科書
「西暦366年から562年まで、日本が朝鮮半島を支配した」
朝鮮の歴史は半万年ではなく千百年弱 「朝鮮、属国史」の始まり 918年 高麗建国 10世紀 宋に朝貢、契丹(東胡の末)に朝貢。 12世紀 金(女真族、東胡の末)に朝貢。 13世紀 高麗はモンゴルの属国となる。劣等感から、一然という僧が檀君神話を捏造し、忠烈王がモンゴルに日本侵略を唆す。 14世紀 高麗滅亡、李朝建国。李朝は最初から明の冊封国で、国名も中国に決めてもらった。 17世紀 清(女真満州族)に服属、三跪九叩頭の礼に甘んじる。 19世紀 日本が日清戦争で中国を破り、属国の李朝は独立させてもらう。(日本の保護国) 1910年 李完用の要請により日本に併合してもらう。李氏朝鮮(大韓帝国)滅亡。 1948年 戦後アメリカ軍政庁の統治下にあったが、アメリカの後押しで大韓民国が成立。 1950年 アメリカとソ連の代理戦争である朝鮮戦争が起き分断国家となる。 1991年 ようやく国連加盟、史上初めて世界から独立国家として認められる。 1993年 韓国、軍事独裁制を脱し、史上初めて独立民主政体となる。 現在 いまだ言論、学問の自由もなく民主主義とは程遠い国である。北は論外。
======== 偉大な韓国の歴史 ==========
10世紀 長白山が過去2000年間で世界最大級とも言われる巨大噴火を起こす(リセット)
1010年 「契丹」に侵略される。首都開城が陥落。(キタン人化)
1013年から1019年まで継続して侵略される。 (キタン人化)
12世紀 「女真」の侵入。侵略。「金」に朝貢。 (満洲人化)
1231年 「蒙古」に侵略される。首都開城が陥落。国王江華島に逃亡
長い間、無抵抗の半島はモンゴル軍に蹂躙される。(モンゴル人化)
1247年 「蒙古」に再侵略される。しばらく蹂躙が続く。 (モンゴル人化)
1258年 雙城総管府を置かれる。翌年、王子を人質に降伏。(モンゴル人化)
国内には多くの蒙古軍人が駐留。 (モンゴル人化)
1270年 東寧府を置かれる。 (モンゴル人化)
反対派が済州島に移って徹底抗戦。1273年に鎮圧 (モンゴル人化)
1274年と1281年「元寇」(半島人主力で日本侵略。が、全滅(モンゴル人化)
1356年から1362年までの紅巾賊侵入により首都開京が陥落 (シナ人化)
1419年 「応永の外寇」 17000人で対馬を襲撃。船、家を焼き、住民を虐殺する。
しかし、少数の対馬軍に撃退される。
1592年 と1598年秀吉の「唐入り」 首都漢城が陥落(短期でヤマト化は無理)
1627年 「後金」に侵略される。平壌を超え、侵略されるが漢城までは来なかった。
しかし、国王は江華島に逃亡(満洲人化)
1636年 「清」に侵略される。首都漢城が陥落。清軍が、す早く江華島への道を遮断。
泥濘の中、朝鮮王仁祖は清の太宗に降伏、大清国属国となる。(満洲人化)
「屈辱の象徴」三田渡碑の移転決定
http://tosi.iza.ne.jp/blog/entry/610163/ 韓国マイナー観光
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kikyo/1239/w-18.htm
宗主国をかさに、高麗や朝鮮国王にゆすりたかりを働き、一族の利益を図るのが、 朝鮮 半島の鉄則のようなものだ。千余年来、たいてい同じようなことを繰り返したのであった。 だから千年進入され、千回とも敵を撃退したのではなく、属国になると誓ってから宗主国が 兵を引いたという歴史事実が繰り返されている。 ではなぜ戦後になると韓国知識人の歴史歪曲が、日を追ってますます神話まがいのものまでに 変化していったかというと、それはどの民族も自存自衛のために欠かせない民族の自尊心にある。 韓国は壬辰倭乱(豊臣秀吉公の朝鮮征伐のこと)で焦土と化した。だから三百年もへても立ち 直れなかった。いやがうえにも倭乱のひどさを強調した いという気持ちはわからないでもない。 しかし、考えてもみると、一回の大乱だけで三百年も立ち直れない民族は、世界中のどこにいるのか。 もしあるとす れば、もっと恥を知るべきであろう。戦後、焦土化した日本は半世紀もたたずに 再び経済大国になったではないか。千回も侵略され、すべての侵略者を撃退 したという自慢話と、 三百年も立ち直れないでいるという論理を矛盾することもなく主張することに自己撞着はないのであろうか。 韓国知識人はつねにこのような歴史歪曲で「反日」を正当化する。 韓国人の反日台湾人の親日 黄文雄 光文社
日本人「日本書紀に『391年に神宮皇后が百済と新羅を征服したと書いてある。』」 韓国人「捏造だ。」 日本人「三国史記「新羅本記」にも慶州を倭兵に包囲されたと言う記録がある。」 「新羅は何回も王子を人質に差し出している。百済の武寧王は人質の子として日本で生まれた。」 韓国人「捏造だ。」 中国人「満州にある碑文にも倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてある。」 韓国人「捏造だ。」 中国人「中国の歴史書の宋書にも倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がある。」 韓国人「捏造だ。」 中国人「中国の歴史書の魏志倭人伝には既に3世紀から倭国では鉄の鏃を使ったと書いてある。」 韓国人「捏造だ。」 中国人「中国の歴史書の随書にも倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。百済と新羅は倭国を大国として敬ったと書いてある。」 韓国人「捏造だ。」 日本人「日本や中国の歴史書や発掘品は全て捏造なのか?」 韓国人「そうだ!韓国に都合の悪い歴史書は全て捏造だ。」 中国人「中国の歴史書まで捏造か?」 韓国人「捏造だ!」 日本人「三国史記に「670年の十二月に、倭国が国号を日本と改名した。日の出る 所に近いから、これをもって「日本国」としたとの事である。」とあるが?」 韓国人「捏造だ! 中国人「中国政府も外交部のホームページ(www.fmprc.gov.cn)で「5世紀はじめ、大和国が隆盛した時期に、日本の支配が朝鮮半島の南部にまで拡大した。」 と公式に認めている。」 韓国人「中国人の捏造だ!!」 英国人「イギリスのオックスフォード大学の出版社(www.oup.com/ca)の教科書が、「5世紀の日本の勢力は朝鮮半島南部まで支配した。」と書いている。それを世界50か国の学校に発行している。」 韓国人「オックスフォード大学の捏造だ!!」 韓国人以外の一同「ではそれらの捏造を裏付ける証拠は?」 韓国人「・・・・・・韓国に対する愛はないのか!!ー!!」
■『三田渡碑』、またの名を『大清皇帝功徳碑』、韓国人には『恥辱碑』 『三田渡碑』丙子胡乱で朝鮮が負けた時に、朝鮮王が清国皇帝に9回地面に頭を擦り付けて服従を誓った記念碑。 それに刻まれている文章を要約すると ★『大馬鹿な朝鮮王は愚かにも、偉大な清国皇帝に逆らった』 ★『清国皇帝は愚かな朝鮮王を窘め、己の大罪を諭してやった』 ★『良心に目覚めた朝鮮王は自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った』 ★『我が朝鮮はこの清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆らった愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする』 ★『大馬鹿な朝鮮王は愚かにも、偉大な清国皇帝に逆らった』 ★『清国皇帝は愚かな朝鮮王を窘め、己の大罪を諭してやった』 ★『良心に目覚めた朝鮮王は自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った』 ★『我が朝鮮はこの清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆らった愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする』 さらに1637年1月30日に朝鮮が清国に結ばされた和約の内容は、 ★朝鮮は清国に対し、臣としての礼を尽くすこと ★朝鮮は明の元号を廃し、明との交易を禁じ、明から送られた誥命と明から与えられた朝鮮王の印璽を清へ引き渡すこと ★王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること ★清が明を征服する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること ★内外(清)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること ★城郭の増築や修理については、清に事前に承諾を得ること ★清に対して黄金100両・白銀1000両と二十余種の物品を毎年上納すること ★清国皇帝の誕生日である聖節・正朔である正月一日・冬至と慶弔の使者は、明との旧例に従って送ること ★清が鴨緑江の河口にある?島を攻撃する時に、兵船五十隻を送ること ★清からの逃亡者を隠してはいけない ★日本との交流を許すこと 『二十余種の物品』の具体的には、清国に毎年美女3000名、牛馬各々3000を献上等々。 ▼なお、「この和約は下関条約で無効となる」 ← ここ重要
419 :
日本@名無史さん :2009/10/13(火) 21:58:40
420 :
日本@名無史さん :2009/10/13(火) 21:59:25
421 :
日本@名無史さん :2009/10/13(火) 22:00:07
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
http://www.tmd.ac.jp/med/mtec/wakamatsu/emperor/historybackground.pdf#search
422 :
日本@名無史さん :2009/10/13(火) 22:39:17
邪馬台国は、大村です。琴平岳に卑弥呼が住んでいた。 諫早市にも金毘羅だけがありますね。
423 :
日本@名無史さん :2009/10/13(火) 22:52:00
日本は百済人の国。 蘇我氏も藤原氏も百済からの帰化人。 百済が滅んでいなければ、日本はもっとのどかな国だったはず。
425 :
日本@名無史さん :2009/10/14(水) 00:56:34
朝鮮半島は中国固有の領土であるby毛沢東
[偽書とされる書における檀君] <清の嘉慶5年(1800年)に命名された地名「長春」が見え> <20世紀に入ってから作られた男女平等、父権などの用語が使用されている> 『桓檀古記』に含まれる「檀君世紀」上編[2]によれば、檀君朝鮮は始祖王倹より古列加まで47代続いた王朝であったという。 しかし、同書や同じく『桓檀古記』にある「太白逸史」には清の嘉慶5年(1800年)に命名された地名「長春」が見え、 「太白逸史」の引用書「朝代記」に至っては男女平等、父権などの近代になって登場した用語が使用されている。 このことから、20世紀に入ってから作られた新しい偽書であることが確実視されている。
427 :
日本@名無史さん :2009/10/14(水) 05:37:39
東北工程:百済・新羅の歴史も「中国史の一部」=中国社科院
http://www.chosunonline.com/article/20070604000018 公式研究書に百済と新羅の歴史も「中国史の一部」と記述していたことが3日、分かった。
百済に対しては「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」
とし、新羅については「唐は(百済が滅亡した)660年以前には羈縻政策を、それ以降には直接統治を行った」
と記述した。また、新羅は「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、
「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」とした。
「王建は決して<朝鮮>半島の新羅人の子孫ではなく、
中国・淮河流域から来た漢人の末裔・・」と主張し、933年に後唐の明宗が
太祖・王建に送った冊封詔書などをその根拠として提示した。
冊封詔書には太祖・王建を「長淮の茂族」と呼んでいる部分があり、
この論文は「長淮は淮河流域を意味する言葉で、
太祖・王建の本籍地が中国であるため、高麗は中国人が建国した国」と主張している。
428 :
日本@名無史さん :2009/10/14(水) 20:18:23
●百済王系と日本天皇系
今までの調べによると、銅鏡には当時の時代相と王の統治理念が刻まれているということがわかる。
つまり、武寧王陵での宜子孫獣滞鏡と、仁徳天皇陵での銅鏡が類似であったという事実は、百済と日本、両国の
統治理念が同じであったことを表している。
この両銅鏡にあった四神図は中国でもみられるが、中国の銅鏡では発見できない両国だけの共有とみられているのが八咫烏である。
太陽の中心に住んでいるといわれていたこの伝統的な烏が、神武天皇の大和征伐に道案内をしたことで有名な三足カラスなのだ。
しかし武寧王陵の銅鏡は大変腐食しており、こういった細かい模様が確認できなかったため、武寧王利用から発掘された他の遺物を通じて
その模様を確認してみた結果、宜子孫獣滞鏡の下で発見された黄金製髪飾にはもちろん、黄金製靴などからも仁徳天皇陵と同様、八咫烏の
模様が確認された。
そしてさらに、百済と日本天皇系の関連性を表わす遺跡として、百済系の於美阿志神社がある。
その神社の後ろには9層の石塔がたっているが、その作りは百済の様式そのものであるという。
特に碑石にはここが宣化天皇の宮地であったことを示している。また舒明天皇は百済川沿いの百済宮に住み、亡くなってからは
百済大寺に安置されるなど、つまり百済系の勢力の本拠地に、日本天皇の宮寺があったということがわかる。
それにもう一つ、日本の古代国名である「倭」が最初は天皇系を称していたが、その後大和地方の豪族を称し、後には
百済の渡来人を示す言葉になったことからも、日本天皇系と百済との関係を推測することができる。
http://www.searchnavi.com/~hp/rekishi/youyaku/06-1.htm
429 :
日本@名無史さん :2009/10/15(木) 10:08:57
>>424 百済が日本のものだったんだね。
当時の百済には様々な民族が住んでいて、支配者層は扶余族と倭族、または
その混血だったね。秦漢人には高い技術や教養があった。
だから百済が滅びた時、日本は我が国にゆかりのある支配者層や秦漢人を引き取って
朝廷の臣下にしたんだね。
朝鮮人の先祖は百済が滅びた後に入ってきて、さも古代からかの地に住んでいた
かのような顔をして他の民族の歴史を奪おうとしてるんだよね。
朝鮮人以外は認めない歴史なんて恥ずかしいね。
韓国から密入国で来た在日も自分らが百済人の子孫であると信じたいのね。
倭人の故地百済を滅ぼしておいてぬけぬけとよく言えるな。
百済人はお前らと無関係なのよ。
まぁ新羅と百済は日本に人質送っていたヤマト国の臣民だよ 記念碑にがっつり書かれてるから言い逃れできない真実
431 :
日本@名無史さん :2009/10/15(木) 18:10:50
>>429 ■日本は,百済の継承国家である! 2009/02/11(水)
世界中,どの国の国民も自国の「建国の歴史」を明確に理解している
ただし,一国だけ例外がある. わが日本国である、日本だけは「建国の歴史」が
曖昧模糊(あいまいもこ)としている
日本という国がどのようにつくられてきたのか? ほとんどの国民が知らない、
日本にも「建国の日」があるが,神話(つくり話)上の日なので 出鱈目である
だから 「建国の日」が,賛成・反対,右派vs左派,「分裂の日」になっている
国民こぞって皆が祝える 「建国の日」 にするには,どうしたらいいのか?
それには,先ず “建国の歴史” をより明確・明瞭にする作業が必要だ
難問は,日本には “歴史のタブー” があることだ
タブーとは 「日本国は外国人(渡来人)がつくった」 ということだ
このことを,過去1400年間,日本国の支配者層はタブーにしてきた
日本古代唯一の歴史書 『日本書紀』 も,渡来人が天皇になって日本国をつくった
ことを隠すために書かれている
ところが,ご聡明な平成天皇は…,
「桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫である…」
と,先祖に百済人がいることを明確にされた.さらに天皇陛下は…,
「宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります」
と,現在においても “渡来人の子孫” が宮内庁にいることを明らかにしておられる
平成天皇は,御自ら 「歴史のタブー」 を解き放たれたのである
http://www.geocities.jp/o1180/more7.html#ws0211 >タブーとは 「日本国は外国人(渡来人)がつくった」 ということだ
>タブーとは 「日本国は外国人(渡来人)がつくった」 ということだ
432 :
日本@名無史さん :2009/10/15(木) 18:29:23
そもそも百済の住人は倭国人です しかも倭国に王子を人質を送っているような格下の国でした 新羅百済は倭国を大国と敬い仰ぎ、日本の糸魚川周辺で作られた ヒスイ勾玉を王冠に使っていましたね 【隋書 百済伝】 >其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。 「そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。」 【三国史記】 >397年。王與倭國結好。以太子腆支爲質 「397年 夏五月 王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質として倭に送った。」 【隋書】 >新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來 「新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。」
433 :
日本@名無史さん :2009/10/15(木) 19:53:35
>>431 その渡来人とやらは朝鮮に住んでいた倭人じゃん。
朝鮮族の先祖ではないじゃん。
おめーらは渡来人ではないよ。
密入国者だよ。外国人だよ。
扶余人や倭人に交じって朝鮮族がたくさん移ってきた大阪はガラが悪いです。 日本の恥ですね。
渡来人で結構殺されてたし、ガラが悪いとこだから大昔に渡来人は全滅したかもね
436 :
日本@名無史さん :2009/10/15(木) 23:45:43
437 :
日本@名無史さん :2009/10/15(木) 23:47:09
438 :
日本@名無史さん :2009/10/15(木) 23:47:54
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
http://www.tmd.ac.jp/med/mtec/wakamatsu/emperor/historybackground.pdf#search
百済の住人の多くは倭人でしたからね
440 :
日本@名無史さん :2009/10/16(金) 18:21:41
>>439 そう思いたいのか?w
百済人は扶余族だ
日本は渡来人のおかげで発展したんだよ
事実は事実だろ、いい加減素直になれ
442 :
日本@名無史さん :2009/10/17(土) 00:57:23
百済は扶余族の国家で朝鮮半島を領土にしていただけで、朝鮮民族とは無関係。
443 :
日本@名無史さん :2009/10/17(土) 01:18:46
扶余人は山東半島呉の棄民 百済は扶余人が造った国 日本は百済人が造った国 結局、日本は殷王朝の末裔
444 :
日本@名無史さん :2009/10/17(土) 02:23:24
扶余は南に高句麗、東に挹婁、西に鮮卑族と接し、 北に弱水(アムール川)のある場所、つまり満州にいた集団だろが。 何で山東半島呉の棄民になるんだよ脳障害w
445 :
日本@名無史さん :2009/10/17(土) 02:34:07
東北工程:百済・新羅の歴史も「中国史の一部」=中国社科院 『朝鮮日報2007年6月4日』
http://www.chosunonline.com/article/20070604000018 公式研究書に百済と新羅の歴史も「中国史の一部」と記述していたことが3日、分かった。
百済に対しては「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」とし、
新羅については「唐は(百済が滅亡した)660年以前には羈縻政策を、それ以降には直接統治を行った」と記述した。
また、新羅は「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」とした。
東北工程・高麗も中国が建てた国『朝鮮日報2007年6月6日』
http://www.chosunonline.com/article/20070606000006 高麗について、「箕子朝鮮、高句麗に続き、中国が朝鮮半島に打ち建てた3番目の政権」と主張したところの、
吉林省社会科学院が隔月刊で発行する歴史雑誌『東北史地』の2007年第3号に掲載された「後唐の明宗が、高麗を建国した太祖・王建の族籍を明らかにした」と題する論文の存在が確認された。
この論文は、「王建は決して朝鮮半島の新羅人の子孫ではなく、中国・淮河流域から来た漢人の末裔」と主張し、
933年に後唐の2代目の明宗が太祖・王建に送った冊封詔書などをその根拠として提示した。冊封詔書には太祖・王建を「長淮の茂族」と呼んでいる部分があり、この論文は「長淮は淮河流域を意味する言葉で、太祖・王建の本籍地が中国であるため、高麗は中国人が建国した国
446 :
日本@名無史さん :2009/10/17(土) 04:12:46
>>444 この話のことじゃないか!!>>この関連性はなんだ?
國有故城名濊城、蓋本濊貊之地、而夫餘王其中、自謂「亡人」、抑有(似)〔以〕也。
国内に濊城という名の古城がある。濊貊の故地で、扶余王は濊城にいると、まるで亡命者のようだと言った。そもそも有りえる話である。
歴代君主―(春秋.呉クレ、句麗に音が近い)司馬遷の史記「呉太伯世家」
1,寿夢――(第19代、寿夢じゅぼう王、扶余系、高句麗、始祖,朱蒙に音が近い)
2,諸樊
3,余祭――(百済の王姓余と関連か?王子.余豊璋)
4,余昧――(百済の王姓余と関連か?)
5,僚
6,闔閭――(コウリョ、高麗、句麗、に音が近い)
闔閭の弟、夫概の後裔夫余を氏の説有り
風俗通に[呉公子夫概奔楚、余子在呉者、因以為氏焉]
7,夫差――(夫概、夫余氏と関連か?)
447 :
日本@名無史さん :2009/10/17(土) 04:14:42
>>444 司馬遷の史記「呉太伯世家」(紀元前585年頃 − 紀元前473年)【天皇紀2600年に近い?】
[魏略]の逸文注1)の【その旧語を聞くに、自ら太伯のすえという】
晋朝注2)の史書[晋書][梁書]の倭人伝中の【自ら太伯の後と謂う】
呉は西暦前473年に滅亡。越は呉の後を追い都を山東半島の根本の琅邪(徐福の出地)
に移します。しかしこの越も西暦前334年に楚に滅ぼされます。
*この頃より九州北部「吉武高木遺跡」に三種の神器を持った王が現る。
*始皇帝本紀には「楚国、越国を滅ぼす」、始皇帝の『越絶書』には
「外越と内越がある」と書いてある。内越とは中国大陸にいる越で、
外越は会稽の東海の彼方にいる越で、交流を絶つべしと命ずる。
448 :
日本@名無史さん :2009/10/17(土) 04:48:24
>>447 「南閭とは穢君の名」この南閭と闔閭 関係あるかも。
元朔元年秋,東夷の薉君南閭らが二十八万人を率いて降伏した。その地を蒼海郡となす。
服虔が言うには「穢貊は辰韓の北、高句麗と沃沮の南に在り、東は大海に尽きる」
晉灼が言うには「薉は昔の穢の字である」 師古が言うには「南閭とは薉君の名」
自作自演ってやつ?
450 :
日本@名無史さん :2009/10/17(土) 17:33:26
451 :
日本@名無史さん :2009/10/17(土) 17:34:19
452 :
日本@名無史さん :2009/10/17(土) 17:35:02
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
http://www.tmd.ac.jp/med/mtec/wakamatsu/emperor/historybackground.pdf#search
453 :
日本@名無史さん :2009/10/17(土) 22:26:15
百済の住人の多くは倭人でしたからね 【隋書 百済伝】 >其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。 「そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。」
454 :
日本@名無史さん :2009/10/17(土) 22:51:16
当時の朝廷は渡来人を受け入れていたが、全地域に住まわせるのではなく、 一カ所に集中的に住まわせていたことが、奈良県で発掘された遺跡から分かっています。 さらに、その場所は岩や石ころがごろごろしていて、水もうまく流れなかったので、 当時の渡来人は堤を作り、それが土木へと発展していったとのこと。 第一、大和朝廷の頃(4世紀〜5世紀)、半島の任那や百済を植民地化していたのは、どう説明する。 また、朝廷は、日本人の貴族の妻となっていた渡来人の女性でも、 一定期間が来ると容赦なく別の場所に連れていったようです。
455 :
日本@名無史さん :2009/10/18(日) 00:16:46
>>453 百済人の基本ベースは扶余族
南下してきた百済の地にも扶余と言う地名がある
倭人が多く住んでたのは伽耶
456 :
日本@名無史さん :2009/10/18(日) 01:15:50
>>455 [梁書,百済伝] >その国は倭に近く、身体に刺青を施している者がとても多い。
其國有二十二檐魯、皆以子弟宗族分據之。其人形長、衣服淨潔。其國近倭、頗有文身者。
今言語服章略與高驪同、行不張拱、拜不申足則異。呼帽曰冠、襦曰複衫、○曰褌。其言參諸夏、亦秦、韓之遺俗云。
その国には二十二の檐魯があり、いずれも子弟や宗族にこれを分与している。人の姿形は身長があり、衣服は清潔に洗っている。
その国は倭に近く、身体に刺青を施している者がとても多い。今も言語、服装、規約などはほぼ高句麗と同じだが、道では大仰な拱手はせず、
拝礼は述べずとも足りる則りが異なる。呼称では冠を帽、複衫を襦、褌を○という。その言葉には中華諸国や秦(の方言)が加わっており、韓に遺された習俗だという。
九州は7割が縄文系ですよ
458 :
日本@名無史さん :2009/10/18(日) 04:21:43
■日本を作ったのは百済人 これは常識だ
ほとんどの日本人は,日本人あるいは日本国のルーツをキチンと言えない.自分たちのルーツが分からない…,世界でも珍しい現象だ
この原因は,日本には歴史書がないことだ.
『日本書紀』『古事記』.これらは日本に渡来した百済人によって書かれたものだ.両書とも,台本は『百済本紀』等々,百済國の歴史書だ
ではいったい,どうしたら日本のルーツが分かるのか?
中国は文字の国,そして歴史の国で,膨大な量の歴史書が残っている.韓国にも古い歴史書が沢山ある
もちろん『日本書紀』も重要な資料だ.
この日中韓の歴史書を読み抜き,徹底的に読み比べるのだ、すると,ルーツが辿(たど)れ,謎が解け,見えてくるのだ
いったい,我々の先祖はどこから来たのか?
……結論を急ごう.
7世紀,日本国は百済人がつくった.これは常識だ.では,百済のルーツは?
百済のルーツは,いくつもの中国史書に明確に書いてある.たとえば,『旧唐書』百済伝には「百濟國,本亦扶餘之別種」とある
これは,百済のルーツは「扶余」である,という意味だ.そう書いてある
つまり,「扶余」→「百済」→「日本」.日本のルーツ,それは「扶余」である
「扶余」とはツングース語の鹿(ブヨ)の漢字表記.「扶余」は鹿(ブヨ)なのだ
http://www.geocities.jp/o1180/more3.html#TG0417
>>74 民族的自負心と言うのは国の振興の妨げになることは世界の歴史を見ても明らかです
倭国が日本となり現代まであるのは民族的自負心とやらを笑った(まさに「和」)努力の
たまものでしょう。唯一、民族的自負心とやらを冒険して国を潰した先の大戦を除いては・・・
よって、ミンジョクミンジョクと声高くうるさい朝鮮の人が、いかに日本を理解していないかは
明白。日本の歴史を理解出来ていないことも明白。日本が歴史を通じて天災期を除いては
豊かであったことの理由は当然国土の問題ではなく社会思念(まさに「和」)が朝鮮とは別の
次元にあったからだということを、朝鮮人は理解すべき。
460 :
日本@名無史さん :2009/10/18(日) 07:12:11
先祖が中国人、と言われるとまあ納得する。 しかし僅かでも××人の血がまじっていると言われると 身の毛がよだつなあ、やっぱり。
日本人が成立したころ朝鮮人なんていなかったからなぁ 百済の住人も倭人だし
462 :
日本@名無史さん :2009/10/18(日) 13:57:58
>458 ■日本を作ったのは百済人 これは常識だ そう言えば、国が滅びて大量に逃げてきたな。 まあ、第2次大戦後南朝鮮から大量の人間が逃げてきて、黒社会を作って日本の足を引っ張ってるけど、 それと似たようなもんか?
463 :
日本@名無史さん :2009/10/18(日) 14:49:22
百済の住人の多くは倭人でしたからね 【隋書 百済伝】 >其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。 「そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。」
465 :
日本@名無史さん :2009/10/18(日) 16:30:30
>>462 百済から逃げてきたのは王族・貴族中心だったが、朝鮮戦争から逃げてきたのは済州島の共産ゲリラという大きな違いがある。
466 :
日本@名無史さん :2009/10/18(日) 16:33:18
>>462 そして百済王族と済州島ゲリラには血のつながりなど何もない。
467 :
日本@名無史さん :2009/10/18(日) 17:32:14
■天武天皇から和田アキ子まで,みな同じ… 2008/08/09(土)
いま,私は鹿児島県の志布志にいる.豚ふん尿を乳酸菌で発酵させて肥料をつくる仕事をしている
養豚業者と農家が協力しあって,肥料代ゼロの農業! を実現しようという画期的な仕事だ
困ったことは,乳酸菌を培養する特殊ポリエステル・タンクが鹿児島にないのだ
あちこち照会したが,そんなタンクは九州には無い,という返事ばかり
そこで,韓国の友人に相談したら,アッという間に要望のタンクを船便で志布志の港に届けてくれた
こういうことは,今回が初めてではない.昨年は,済州島のヨモギの葉を漬物にして大阪の新阪急ホテルの地下まで,ヒョイと届けてくれた
(このヨモギ漬物の乳酸菌を拡大培養して,私は,新阪急ホテルの汚水処理施設の悪臭を消した.)
こういう経験をとおして私が知ったことは,多くの韓国人にとって,日本は「外国」ではない,ということだ.
ちょっと隣町に行ってきます! という感覚で,韓国人はヒョイと日本にやってくる
「小田原から小田急で新松田駅で降り,バスで延沢まで来てください」とだけ言うと,私の友人,
ソウルの金(キム)氏は,ヒョイとやってくる
現代.たとえば和田アキ子の一族も,ヒョイと大阪にやってきている
そして,その道,その道で,社会の頂点にのぼりつめる
池田大作氏などは,創価学会の頂点どころか,日本の頂上にいて,君臨している
日本という国は,韓国人の存在抜きには語れないのである
http://www.geocities.jp/o1180/html/16kodaisi.html#hismall >和田アキ子の一族も,ヒョイと大阪にやってきているw
>和田アキ子の一族も,ヒョイと大阪にやってきているw
>池田大作氏などは,創価学会の頂点どころか,日本の頂上にいて,君臨している(笑)
>池田大作氏などは,創価学会の頂点どころか,日本の頂上にいて,君臨している(笑)
468 :
日本@名無史さん :2009/10/18(日) 19:48:41
半島になんで 独自文化がないか。 最近まで、ずーっと侵略され続けたから。 独自文化が醸成される暇が無かったのさ。 おしまい。
469 :
日本@名無史さん :2009/10/18(日) 20:38:11
だいたい百済の首都はクマナリという日本語だから、倭の属国と言っているようなものだ。
470 :
日本@名無史さん :2009/10/18(日) 21:25:03
●蘇我氏(そがうじ)日本大百科全書
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%98%87%E6%88%91%E6%B0%8F/ 大和(やまと)国家から飛鳥(あすか)時代にわたる有力氏族。姓(かばね)は臣(おみ)。
後世の系図では、孝元(こうげん)天皇の孫(または曽孫(そうそん))の武内宿禰(たけしうちのすくね)を、波多(はた)
・巨勢(こせ)・平群(へぐり)・紀・葛城(かずらき)氏とともに祖先とし、武内宿禰の子の石川宿禰に始まるとする。
その起源は、奈良県橿原(かしはら)市曽我(そが)または大阪府南河内(かわち)郡の石川流域とする両説があったが、
百済(くだら)の高級官人木満致(もくまち)が5世紀末に渡来し、大和の曽我に定着したのに発したとの説も有力である。
氏名の蘇我は、曽我、宗賀、巷宜、巷哥などとも記される。
当時の朝廷は渡来人を受け入れていたが、全地域に住まわせるのではなく、 一カ所に集中的に住まわせていたことが、奈良県で発掘された遺跡から分かっています。 さらに、その場所は岩や石ころがごろごろしていて、水もうまく流れなかったので、 当時の渡来人は堤を作り、それが土木へと発展していったとのこと。 第一、大和朝廷の頃(4世紀〜5世紀)、半島の任那や百済を植民地化していたのは、どう説明する。 また、朝廷は、日本人の貴族の妻となっていた渡来人の女性でも、 一定期間が来ると容赦なく別の場所に連れていったようです。
>>471 「渡来人というからには・・・」という受け入れ側の計算が働いてますね。
なにせ当初は只で飯を食わせてやらなければならない。国内の土豪からの反発は強いでしょう。
そこで、「渡来人なんだから」石に強い筈なので石でゴロゴロしている地域に住まわして「なんとかしてみんかい」
、東国に植民させて「どうにか喰っていかんかい、報告せいよ」、成果を残したら「誰のおかげで今生きてるとおもってんじゃい」
と、身分の絶対的違いを強調させる。もう技術のタダ食いに近い有利な立場だった訳です。
その強気の根源は、日本がユーラシア大陸の戦乱や民族移動の惨禍から海で守られていたこと、
その海のおかげで強大中華からも情報面含めて守られていたこと。
(魏志倭人伝含め、少なくとも古代では誰が自分の都の所在地を簡単に教えるかバーカという姿勢が見られるよ)
何より、木資源豊富で、顕熱利用を元にした技術がちょいとでももたらせれば多大な生産を可能としているプラントであり、
今になっては考えられない資源国家として外交上有利に立っていたことが挙げられます。
この頃の政治が一番、日本にとって外交上有利に立っていたと思われます。
その資産を使い、日本は東洋では絶対視に近い地位を得るんですが、19世紀には世界の波に
飲みこまれたということですね・・・
473 :
日本@名無史さん :2009/10/18(日) 23:22:08
外国人労働者なんていつの時代も安価な労働力でしかありません。 しかし時代の変わり目では下克上で支配者層になることもある。
474 :
472 :2009/10/18(日) 23:30:25
労働者である以上時代によっては外国人は無償の奴隷であり、その報酬はマイナスから 始まります。 注目すべきところは、外国人技術者であり、それが技術中枢に近い地点に所在していた者 である点ですね。 現代、東アジアでは逆転現象がおこり、その恩恵を加速的に増幅している大国と小国とが ありますね。身柄の為には技術者は安易にその技術の解読方法を売ります。 良い悪いではなく事実ですね。 スレ的には少なくとも外国人とは労働者の次元ではないです。古代労働市場については別スレで 勉強し合いましょう。
475 :
日本@名無史さん :2009/10/20(火) 12:02:44
476 :
日本@名無史さん :2009/10/20(火) 12:07:38
477 :
日本@名無史さん :2009/10/20(火) 12:09:47
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
http://www.tmd.ac.jp/med/mtec/wakamatsu/emperor/historybackground.pdf#search
福岡・板付遺跡や山口・土井ヶ浜遺跡などの発掘調査から、 渡来してきた人の数は、多く見積もっても数百年で数千人。一年にならすと、 せいぜい数十人程度に過ぎず、二家族とか三家族とか、ごく少数の人々が、長い期間の間に、 ぱらぱらとやってきたと言うのが実態ではないか、と指摘されています。 さらに、縄文系の土器が、西日本の遺跡で出土していたり、 同じ地方で争いもなく混交していった形跡が見られることから、渡来文化=弥生文化ではなく、 縄文文化+渡来文化=弥生文化、というのが事実であろうと述べられています。
479 :
日本@名無史さん :2009/10/21(水) 18:29:23
■韓国人は東洋のユダヤ人(笑)
ユダヤ人のノーベル賞受賞について、ユダヤ人情報というサイトで調べたところ、1901年から今年までに179人を輩出している。
これは、国境なき記者団といった組織や団体を除き、受賞者全体の22%に当たる。
そのうち経済学賞は41%、医学賞は27%、物理学賞は25%を占めた。しかも同サイトによると、家系の2分の1以上がユダヤ人の
場合に限定しているという。後日、ポーランド系ユダヤ人ということが分かった今年のノーベル医学賞の受賞者
ジャック・W・ショスタク(米国)のように、「隠れユダヤ人」を含めると、3分の1を超えるといわれている。
本国の人口が13億人の中国人の場合、受賞者はこれまで6人。15億人のイスラム系の場合は9人。
それからすると、世界の人口の0.25%(1330万人)に過ぎないユダヤ人のノーベル賞受賞は奇跡に近い。
人口730万人のイスラエルも、建国後61年で9人を輩出している。人口比率から換算すると、韓国は60人ほど
受賞しなければならない。
このようにユダヤ人の受賞者が多いとはいえ、ユダヤ人の知能指数(IQ)が際立って高いというわけではない。
ヘルシンキ大が2002年に世界185カ国のIQを調べたところ、イスラエルのIQは平均95で、同106の韓国や米国の98より低かった。
教育熱心とバイタリティーで、「東洋のユダヤ人」といわれている韓国はどうか。
家庭での子どもの教育は学習塾や予備校などに任せきりで、学校では創造性や想像力とはかけ離れた詰め込み式の
学習に熱を上げている始末だ。「ノーベル賞大国」の夢が少しずつ遠ざかっているのではないかと心配だ。
産業部=宋義達(ソン・ウィダル)次長待遇
http://www.chosunonline.com/news/20091021000069 【コラム】ユダヤ人と韓国人(上)
http://www.chosunonline.com/news/20091021000070 【コラム】ユダヤ人と韓国人(下)
480 :
日本@名無史さん :2009/10/21(水) 19:24:34
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
481 :
日本@名無史さん :2009/10/22(木) 23:51:40
>>460 先祖が中国人ではないよ。
古代に中国に住んでいた人々、古代の中国人だよ。
日本人が中国語しゃべってた事なんてないからな
483 :
日本@名無史さん :2009/10/23(金) 00:37:55
埼玉にある半島人の末裔の里は、いつ頃渡来した人の子孫ですか?
484 :
日本@名無史さん :2009/10/23(金) 01:46:18
埼玉は高句麗滅亡の7世紀後半ぐらいに高句麗人達が移住した土地
485 :
日本@名無史さん :2009/10/23(金) 02:34:00
高句麗人が、日本人に命令されて移住させられた。 あくまでも、自由意志ではなく日本人の管理下のもとで。 ここんとこ大事。
486 :
日本@名無史さん :2009/10/23(金) 07:02:19
高麗神社・・高龍(実際はもっと複雑な字=たかお)神社が北関東にたくさんありますね。 香取の神も渡来人だし、関東は渡来人の国です。
487 :
日本@名無史さん :2009/10/23(金) 08:28:48
帰化人たちは、そのほとんど全部が奈良盆地、大阪平野、京都盆地と、 その周辺地域である播磨平野、紀ノ川流域、近江盆地あたりに根をおろしたといってよい。 この点はこののちずっと古代を通じてたいしてかわらない。 大化改新(六四五)以降には、未墾原野の開拓のために、計画的に帰化人の集団を東国各地に移植した例も少なくないが、 それでもめぼしいものはたいてい中央に置かれた。 したがって、近畿地方と古代の帰化人というものは、最初から最後まで、深い関係をもっていたのである。 関晃『古代の帰化人』(吉川弘文館)
続日本紀によると、7C、百済滅亡で日本に来た百済人が3100人くらい。 高句麗滅亡で来た高句麗人が1800人くらい。 それらとは関係なく自主的に来た百済人や新羅人が数百人。 帰化人の最もピーク時だった7Cでも全部合せて5000人くらい。 それ以前の帰化人が始まる4C、続く5〜6Cに来た半島帰化人が合せて2〜3000人くらい。 古墳時代の日本人口が400万人くらいの時に半島帰化人の総数は7〜8000人くらい。 帰化人は、現在人口の10%が外国人移民であるドイツや欧州諸国よりも全然少ない。 ショボイ集団であったことがわかりますね
帰化人がやったことって何なのかが重要だよな 皿を焼きました、織物を作りました、剣を作りました、程度? 重要な法体系の作成や流通システムの骨子作り、軍政の土台作りなどに 参加してないとちょっとな・・・
>帰化人がやったことって何なのかが重要だよな 重要なことは帰化人なんかにはやらせないから。 皿も織物も剣も・・・・・・wwwww。
んなこたーないだろさすがに。 欲しいものは絶対欲しいのは今も変わらないだろ。 それも安くつーか当たり前にタダで。
帰化人がやったことなんだから大目に見てやれよ。
不安と期待で胸が一杯になりながら両親の後ろを付いていくしかできない女の子 ある日、夏祭り。そこには同年代と思わしき倭人の男の子がいた・・・こっちを見てる すると両親はわざと視線を上に向ける まるで、行って来いと即しているようだ 事実、女の子もまた、倭人の男の子に目が釘付けになっていた・・・
■縄文人は海洋系狩猟民族。 ■ 最初の弥生人として中国揚子江の河口付近から越に滅ぼされた 呉の倭人が九州に流入。(天孫降臨神話) 呉人は敵の越との同盟時代に越より航海技術を得ていた。呉越同舟。 越国の航海技術は発達しており、越は南インドと交易をするほどの技術があった。 その為、中国南岸から日本列島の航海は容易だった。 北九州で東南アジア稲作民族の特徴である高床式住居を作り、稲作を始め、銅矛を祭る。 信仰は農耕民族の特徴である稲・太陽(アマテラス)信仰。(ニニギ族、蛇トーテム) 土着の縄文人と混血していく。(山幸海幸神話) ■次の弥生人として揚子江の南、越国の倭人(呉国の倭人と同じ百越人種)が楚に 滅ぼされ流入。呉の倭人がいる為九州に上陸できず淡路島に到達。(天地開闢神話) 稲作と銅鐸祭祀を、近畿を中心に広げる。(イザナギ族、蛇トーテム) 最も初期型の銅鐸が淡路島から出土し、その後の伝播も淡路島を中心としている。 越国の貴族の墓から淡路島で出土した銅鐸と同じ形の物が発見されている。 ■スサノウ(徐福)は秦より新羅の曽尸茂梨経由で出雲へ渡来。(国引き神話) 越族を失った秦は拙い航海技術しか持たず朝鮮半島を経由する必要があった。 蛇をトーテムとする出雲先住イザナギ族を征服する。(ヤマタノオロチ神話) この時一部のイザナギ族は福井から新潟にかけ逃げ越前、中越、上越を作る。 蚕、五穀、鉄器を持ち込む。養蚕の北限は現代でも山形県。スサノウが南から 来た事を意味する。農耕に必要な暦をえる為、ツクヨミ(月読み)を行う 百工(師匠)と呼ばれる技術者が技術伝播しながら全国に勢力を伸ばしていく。 その時に徐福伝説が全国に残る。 出雲で日本海沿岸にかけて大王国を作る。 神社を全国に作ることで支配。祭神はスサノウ、ニギハヤヒ、オオクニヌシ。 現在、ほとんどの神社の祭神にはスサノウ・ニギハヤヒ・オオクニヌシが入っている。 スサノウ族のトーテムは牛。徐福のトーテムも牛。牛頭大王を奉った神社も多い。 後の藤原氏の謀略によって物部氏のトーテムは鹿のように見せかけられたが 物部氏の神社である石上神宮には鹿はいなく牛像があり牛の祭りがある。
■神生み神話でイザナミが黄泉(夜見)の国(出雲)へ行ったと言う事はイザナギ族が 出雲まで到達していた事を表わす。スサノウ族の渡来時にイザナミは殺される。 イザナミの墓は出雲山中にある。これはイザナギ族の敗北を意味する。 鉄器を持つスサノウ族に銅器しか持たないイザナギ族はかなわなかった。 黄泉からイザナギが逃げる記述はイザナギ族がスサノウ族の追撃を受けた事を 意味している。 ■誓約と岩戸隠れ神話は順序が入れ替わっている。岩戸隠れが先で、出雲スサノウ族 が北九州ニニギ・アマテラス族を攻め、アマテラス族が広島に逃げた事を表わす。 呉と言う地名が現在に残る。 その後スサノウ族とアマテラス族の婚姻による和解という誓約神話につながる。 ■スサノウの子孫ニギハヤヒ(物部氏)が大和まで到達。邪馬壱国(ヤマト国)建国 スサノウ族は関東地方まで支配を広げる。 全国支配の為大和に出雲政権を移動。オオクニヌシの国譲り神話。 ニギハヤヒの9世代後が卑弥呼(モモソヒメ)。(籠神社より系図発見・国宝) 魏志倭人伝の倭国大乱は大和出雲連合と筑紫連合国との戦争。 卑弥呼時代に筑紫と和解。筑紫の円墳と大和の方墳が合わさり前方後円墳発生。 大王に貢献した部族には前方後円墳を作る権利と技術をあたえた。 貢献により土器など全国各地の生産品が大和より出土し、前方後円墳が全国に残る。 大和と筑紫が人質交換(神武天皇東征伝説)。神武は物部に婿入り大王家となる。 大和朝廷成立。大和とは大連立の事。ヤマト読みは前の地名(邪馬壱)のなごり。 三つ巴の印は大和、筑紫、出雲の大連立を表わす。 大王家は祭祀のみ、政治は物部と大伴(筑紫系)。
■漢末の戦乱から逃れ弁韓に留まっていた西漢氏(神功皇后) が筑紫に渡来(天孫降臨)。馬を持ち込む。その子供として筑紫にて応神出生。 応神東征、騎馬の威力により香坂王・忍熊王を倒し即位、 応神天皇河内王朝成立。応神の神は住吉神社。(海運・交通の神) 半島より東漢氏、秦氏他渡来人を呼び寄せ高度な土木技術で巨大古墳、神社を作る。 ■筑紫勢力に政権を奪われた大和勢力は越前、剣神社(祭神・忍熊王) にいた忍熊王の5世代後子孫、男大迹王(継体)を擁し反逆する。 20年間の戦に勝利し継体天皇が大和入りする。 翌年、継体は半島との外交ルート確保の為、筑紫の磐井の乱とされている戦い を起こし、物部麁鹿火が筑紫王・磐井を平定する。
■滅亡した葛城氏(ナガスネヒコ族)の傍系である蘇我氏は渡来人・東漢氏と 婚姻する事で勢力をのばす。強力な東漢氏の軍事力を背景に仏教の 拝仏主義を押し進める。更に天皇家と婚姻する事で力を強める。 蘇我馬子が従来の祭祀にこだわる物部守屋と対立し、物部守屋を滅亡させる。 ■唐・新羅に攻められている百済より救済を求め、人質の形で渡来してきた 百済王子・扶余豊璋(中臣鎌足)は中大兄皇子と組み、 百済救済に動こうとしなかった蘇我入鹿を殺し蘇我氏を滅亡させる。 扶余豊璋は後に記紀の編纂をする太安万侶一族の娘を娶る。 天智天皇即位後、唐・新羅軍と倭・百済軍が白村江の戦いをするが倭軍は敗北する。 フヨ系百済族(フヨ族と倭人の混血・鹿トーテム)が大量に渡来する。 扶余豊璋は帰国後、中臣鎌足を名乗り、大化の改新で勢力を着け藤原氏の祖となる。 死後、藤原姓をもらう。藤原氏、太安万侶との人脈で記紀の編纂に影響力を持ち、 フヨ国系百済王族の伝承である天高ヶ原(モンゴル東部)伝説を古事記、日本書紀に 入れる。 ■ 隋より渡来した高向王(聖徳太子、道教伝来者)と皇極皇后の子供・漢皇子(天武天皇) は天智天皇の子供・大友皇子と継承権をめぐり戦い攻め滅ぼす。天武天皇即位。 大王という名を止め、初めて天皇(道教の北極星の事)という名を採用し それまでの心御柱信仰(北極星信仰)をやめさせる。 以後、心御柱は伊勢神宮の秘密となる。 天皇自らが宇宙の中心である北極星でありアマテラス(太陽)とツクヨミ(月)を従える 立場をとる。(伊勢神宮の天皇家の祭祀方法は現在に残っている。天武が建立した 薬師寺も薬師如来の両脇に日光菩薩と月光菩薩を配し道教四神が支えている。) (天皇が星である為、記紀の編纂時に星の話は全て外され、日本神話は星の話の登場 しない世界的に見て珍しい神話となっている。) 国号を倭から日本に改める。 天武、記紀編纂を指示する。
まあそれもちゃんとした文献が残されてるからなんだけどね。 文献残ってないの? プギャーwww
誤爆が多い時間帯
神社伝承学???
501 :
日本@名無史さん :2009/10/24(土) 18:52:30
502 :
日本@名無史さん :2009/10/24(土) 18:53:57
503 :
日本@名無史さん :2009/10/24(土) 18:54:45
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
http://www.tmd.ac.jp/med/mtec/wakamatsu/emperor/historybackground.pdf#search
百済の住人は倭人だったからね
505 :
日本@名無史さん :2009/10/25(日) 00:19:18
【岡田外相 「民主党が"天皇は植木職人になるべき"と言うのならば、そうなる」】 植木職人発言オフレコ(岡田外相・金曜夜プレ懇) デスクオンリー/オフレコテープ起こしママ/公表不可 納品 2009年10月24日 02:11:40 1/5 Q.「まず、今回の外相の発言の真意をお伺いしたい。ご発言は、天皇の国事行為を前提とした、という理解でいいんですよね?つまり、あくまで内閣の助言と承認…(カブリ。聞き取れず)」 岡田氏「(さえぎり。カブリ)内閣とか国事行為とは無関係だ。あくまで陛下の……(聞き取れず) ご自身のお考え…お声を知りたいということだ」 2/5 Q.「では、宮内庁というのは?」 岡田氏「宮内庁というのは方便…というかレトリック(聞き取れず)とでも…。 陛下自身のお考えが聞きたいという趣旨。もちろん、宮内庁が陛下のお考えを聞いて起案し、文章化するとか措辞を整え とかあるだろうが、陛下自身のご意見が問題だ」 3/5 Q.「ズバリ、大臣は、陛下にどのようなお言葉が…(カブリ)」 岡田氏「(カブリ)そりゃ…政権交代ですよもちろん。 "勝てば官軍"といえば言い過ぎでしょうけど(数名笑い声)、民主党がこうして 勝った訳ですから、陛下もそれに恭順…(…間…)というかその支持をご自身のお言葉で表明してほしいですよね? このままじゃ"自民党の皇室"のままだ」 4/5 Q.「大臣のそういうお考えは内閣としても憲法上問題である、という見解が…」 岡田氏「内閣といっても法制局でしょ。"官"ですよ。政権がかわれば、憲法解釈もかわります。我々は政治主導です。そういうくだらないことを言うんであれば、法制局長官 をクビにするだけです。それが政治主導です」 5/5 Q.「陛下の政治的中立を守らないと皇室の維持の将来にも問題が…」 岡田氏「政治的中立とか…(…間…)政治的中立って憲法に書いてあるんですか?マニフェストに書いてあります?皇室の将来より民意ですよ。民意は民主党支持なんです。 民意より皇室の維持が重要なんてあり得ない。民主主義です民意が"天皇は植木職人になるべき"というのならばそうなるんでしょ」(了)
>>505 この手のデマにいちいち振り回されるような頭の弱いヤツは今時おらん。
>>506 こういうデマは日本人から出たものではないな。
508 :
日本@名無史さん :2009/10/25(日) 02:02:23
:日本@名無史さん:2009/10/25(日) 02:01:19 前12世紀〜前2世紀の箕子朝鮮は中国人の箕子が建国した中国人国家。 箕子朝鮮を滅ぼして前2世紀〜前1世紀の衛氏朝鮮は中国人の衛氏が建国した中国人国家。 衛氏朝鮮を滅ぼして前1世紀〜後3世紀の漢四郡は中国植民地。 百済と高句麗はツングース系民族の夫余族の国家。夫余族は満州族の母体。 秦からの亡命中国人が朝鮮半島南部に建国したのが辰韓(秦韓、前2世紀〜4世紀)で、後に12カ国に分裂して、その一つの斯蘆国が新羅。
>>507 いや、むしろ民主党を毛嫌いしてる人たちの仕業だろう。民主党の失墜を狙ったデマだからね。
国士様の可能性が高いな。
510 :
日本@名無史さん :2009/10/25(日) 08:00:24
>>507 いや、むしろシナには優しいが北鮮に厳しい岡田を排除したい連中の仕業だろう。岡田の失墜を狙ったデマだからね。
朝鮮総連筋の可能性が高いな。
512 :
日本@名無史さん :2009/10/25(日) 10:02:51
>>508 昔からそうだった。
韓は最初に秦に滅ぼされた。
しかし秦も項羽や劉邦に滅ぼされる。
秦氏とかの秦人も半島の韓人地方に逃げることになる。
南朝鮮に逃げたのが秦氏で、北朝鮮に逃げたのが韓。
だから、鳩山首相は、実は秦山だということはよく知られているが、
ジャスコの岡田のほうも元は呉服屋だったことでもわかるように
岡田氏も実は呉からの亡命者だったのだ。
この中国亡命者が日本の外交のかじ取りをするのですから・・笑う
>>512 2000年もたつと中国人の血なんてほとんど残ってねーだろアホか
514 :
日本@名無史さん :2009/10/26(月) 20:27:21
515 :
日本@名無史さん :2009/10/26(月) 20:28:04
516 :
日本@名無史さん :2009/10/26(月) 20:28:53
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
http://www.tmd.ac.jp/med/mtec/wakamatsu/emperor/historybackground.pdf#search
まぁ百済の住人は倭人だったからね 【隋書 百済伝】 >其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。 「そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。」
518 :
日本@名無史さん :2009/10/29(木) 01:49:35
統一新羅
http://www.memomsg.com/dictionary/D1096/390.html 統一新羅は、676年の朝鮮半島の統一から935年に滅亡するまでの新羅の事を差す。
この統一新羅、いわゆる新羅は、現在の韓国、朝鮮両国の共通の先祖の国家の初代といえる。
それ以前の国家は民族・言語・文化的につながりが薄い。当然、統一新羅の前身である新羅と統一新羅は連続している。
統一の過程で滅んだ、高句麗、百済は現在の韓国及び朝鮮とは連続性があまりない。
高句麗は実質的に後継国家として渤海があり、現在の中国東北部に小さく民族移動して国家を再建設している。
>>517 ああ、逆逆。
新羅人・高句麗人・倭人・中国人ももともと百済人だということだ。
百済に住んでいたそれぞれの部族が、国外に進出してそれぞれの国家を建てた。
つまり倭人とはもともと百済人。
520 :
日本@名無史さん :2009/10/29(木) 21:06:42
日本人は様々な民族の集合体。 百済人なりなんなりと紋切り型に決めつけるのは自分は馬鹿ですと大声で叫ぶようなもんやで
521 :
日本@名無史さん :2009/11/04(水) 15:02:58
522 :
日本@名無史さん :2009/11/04(水) 15:03:46
523 :
日本@名無史さん :2009/11/04(水) 15:04:34
前12世紀〜前2世紀の箕子朝鮮は中国人の箕子が建国した中国人国家。 箕子朝鮮を滅ぼして前2世紀〜前1世紀の衛氏朝鮮は中国人の衛満が建国した中国人国家。 前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして朝鮮半島北部に前1世紀〜後3世紀に設置した漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)は中国植民地。 百済と高句麗はツングース系民族の夫余族の国家。渤海は夫余族と靺鞨の国家。夫余族と靺鞨は中国・満州族の母体。 秦からの亡命中国人が前2世紀〜4世紀に朝鮮半島南部に建国したのが辰韓(秦韓)で、後に12カ国に分裂して、その一つの斯蘆国が新羅。
524 :
日本@名無史さん :2009/11/04(水) 15:05:21
525 :
日本@名無史さん :2009/11/04(水) 15:06:06
東北工程:百済・新羅の歴史も「中国史の一部」=中国社科院 『朝鮮日報2007年6月4日』
http://www.chosunonline.com/article/20070604000018 公式研究書に百済と新羅の歴史も「中国史の一部」と記述していたことが3日、分かった。
百済に対しては「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」とし、
新羅については「唐は(百済が滅亡した)660年以前には羈縻政策を、それ以降には直接統治を行った」と記述した。
また、新羅は「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」とした。
東北工程・高麗も中国が建てた国『朝鮮日報2007年6月6日』
http://www.chosunonline.com/article/20070606000006 高麗について、「箕子朝鮮、高句麗に続き、中国が朝鮮半島に打ち建てた3番目の政権」と主張したところの、
吉林省社会科学院が隔月刊で発行する歴史雑誌『東北史地』の2007年第3号に掲載された「後唐の明宗が、高麗を建国した太祖・王建の族籍を明らかにした」と題する論文の存在が確認された。
この論文は、「王建は決して朝鮮半島の新羅人の子孫ではなく、中国・淮河流域から来た漢人の末裔」と主張し、
933年に後唐の2代目の明宗が太祖・王建に送った冊封詔書などをその根拠として提示した。冊封詔書には太祖・王建を「長淮の茂族」と呼んでいる部分があり、この論文は「長淮は淮河流域を意味する言葉で、太祖・王建の本籍地が中国であるため、高麗は中国人が建国した国
526 :
日本@名無史さん :2009/11/04(水) 15:13:17
1882年、壬午事変において、清国の監督長官馬建忠は、朝鮮国王の実父にして時の執権大院君を引っこ抜くように拉致して清国に幽閉した。 それに対して朝鮮国王は「朝鮮国王李熙陳情表」を清国皇帝に提出し、 「皇帝陛下の臣下であります私の心は震えています。実父は悪くありません。罪はみな臣であります私にあります。 天下に善政をされる人倫の聖なる極みの皇帝陛下に伏して願います。実父を許してくださるなら、小国の私たちは感激して皇恩を永遠に称えます。」 と大院君の赦免を陳情した。 うんうん。属国というのはホント辛いねえw
まあ、真面目な話、立地的に常に中国大陸の超大国の圧迫を受け続けなくちゃならなかったからな。 同情すら覚えるよ。 彼らがやたらと起源を主張したり盛大なハッタリかましたり(ハッタリは中国人もスゴいが)せずにいられないのは、そういう歴史的背景により形成された社会が生み出す病理なのかも。 マケドニアのアレックスやローマ帝国みたいに覇権国家になるほどの人材や技術力にも無縁であり続けたのは仕方ないとして(我が国も海外領土を獲得できるほどの国力は持ちえなかったわけだから)、 逆に中国王朝が楽浪郡を例外として一度も半島を領有したがらなかったのはなぜだろう? 統治コストの問題だろうけど、西方や南方に割と積極的に領土を獲得していた王朝も、半島は犬扱いして距離を置きたがった・・・ 金などは、兵力調達のプールとして領有を考えても良かったような気がするんだけど・・・。
528 :
日本@名無史さん :2009/11/04(水) 20:26:23
痩せた土地だったし、あんまり魅力なかったんだろ。
>>528 でもね、南蛮とか西域とかも大して魅力ある土地じゃなかったわけで・・・
農耕国家だった中華からすれば、草原よりは朝鮮の方が、まだ統治しやすかったはずなんだけど・・・
>>529 日清戦争までは、1000年もシナに統治されていたじゃないか。
なにを寝ぼけたこといってんだ。
>>530 あれは属国だっただろ?朝貢だったはずだ。
直接統治じゃないじゃん。
寝ぼけてるのはきみの方だよ・・・。
536 :
日本@名無史さん :2009/11/06(金) 17:29:29
コレ↓本当? 142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/29(土) 07:15:46 ID:bQli9TMU0 始皇帝が七国を統一したとき最後まで抵抗したのが山東半島の斉。 そのとき大量の斉人が山東半島から海へ逃げ出し対岸の朝鮮半島に逃げ延びた。 楽浪帯方郡が滅んだ後この地にいた斉人が中心となって築いたのが馬韓後の百済だ。 馬韓弁韓辰韓は当時の中国の呼び名で当事者が名乗ったのではない。倭も同じ。 自らはもろもろの斉人の国と名乗り後に中国で百済と記載された。 百済の生活文化が斉のそれと一致しているのはこのため。
537 :
日本@名無史さん :2009/11/06(金) 22:31:15
斉藤さん、磐井さん、石川さん、石井さん乙。
>>527 簡単な話だよ。漢族の連中が、居住テリトリーとして
山海関(万里の長城の東端)を完全に越えたのは、
実は20世紀初頭のことだから。
華北平原の政権から見て、万里の長城を越えて、
ツングース系が跋扈する遼東をぐるりと回って
朝鮮半島を支配するなんて、めんどくさい上に実入りが無い。
西域と違って、朝鮮半島は通商路でもない。
日本からの文物は、とっくの昔に江南の寧波へ直通となっている。
逆に言えば、皮肉にも「漢族の満州定着」を大きく後押しした満州国時代を経て、
満州を完全に漢族居住地として組み込んだ共産党北京政権成立後は、
朝鮮半島の地政学は、それ以前とは全く異なっている。
540 :
日本@名無史さん :2009/11/06(金) 23:29:16
>>536 その昔、百越と呼ばれた民族集団が、秦の始皇帝に滅ぼされて、その一部が日本に渡来したように、
山東省付近で「斎」と呼ばれる国を形成していた百にも及ぶ民族集団が呉に滅ぼされ海を渡って
百斉=百済という国を造ったという説があります。
541 :
日本@名無史さん :2009/11/07(土) 00:08:22
542 :
日本@名無史さん :2009/11/07(土) 00:09:07
543 :
日本@名無史さん :2009/11/07(土) 00:09:48
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
http://www.tmd.ac.jp/med/mtec/wakamatsu/emperor/historybackground.pdf#search
544 :
日本@名無史さん :2009/11/07(土) 01:13:19
まだその学説は定説にはなってないの? 百済は夫余族の国家だけど、という事は斉の住民は夫余族?
545 :
日本@名無史さん :2009/11/07(土) 02:28:25
>>540 それウィキペディアの百済の項目に書いてないけど、ソースとかありますか?
546 :
日本@名無史さん :2009/11/07(土) 10:20:14
百斉の文献なんて無いから考証の仕様がありません。
鳥越憲三郎先生の「古代朝鮮と倭族」(中央公論新社刊)に詳しいですが、 揚子江流域の大小湖沼や戸畔で水田稲作を営んでいた揚子江文明の担い手、 それが倭人のルーツだとしています。 倭人の国は、秦の始皇帝や前漢の武帝の征伐を受けて滅ぼされますが、 逃げ延びて各地に散っていった倭人も多いのです。 その一つが山東半島にあった斉の国、済州島。筑紫の磐井(斉い=いわい)などです。 文書はなくても風俗や文化、その他の手がかりをもとに絡んだ糸をほどいていくのも 古代史の楽しみ方の一つといえます。
韓国は2201年の歴史のうち1936年独立していた 衛満は紀元前195年、衛満朝鮮を建てました。 それから現在までの韓国の歴史は2201年間です。 楽浪郡は紀元前108年からAD30年までの137年間、韓国を支配しました。 モンゴルは1273年から1356年までの83年間、高麗を支配しました。 後金は1637年から1644年までの7年間、朝鮮王朝を支配しました。 日本は1910年から1945年までの35年間、韓国を支配しました。 アメリカ・ソビエトは1945年から1948年までの3年間、韓国・北朝鮮を支配しました。 合計で265年間、韓国は外国に支配されました。 衛満が燕出身であったことについて、衛満朝鮮が朝鮮の国家ではないという意見があります。 西フランク王国の初代国王シャルル2世は、フランクフルト・アム・マインで生まれましたが、西フランク王国はドイツの国家ではなく、フランスの国家です。 衛満は燕王盧綰が匈奴に亡命したとき、自分も朝鮮に亡命したのであって、衛満の孫の右渠の代、紀元前109年に武帝は衛満朝鮮に遠征し、右渠は防衛に成功しています。 ガリアをフランク族が征服したからフランク王国になった。 高句麗の建国者、東明聖王は扶余王、解慕漱の子とも、金蛙王の庶子とも言われています。 しかし、だからと言って高句麗は扶余の属国ではありません。初代ルーマニア国王、カロル1世はホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯、カール・アントンの二男ですが、 ルーマニアはホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯国の属国ではありません。
549 :
日本@名無史さん :2009/11/08(日) 09:57:44
>>540 おまえ1人の脳内説だろがこのタコw
百越が日本に渡来してだ、何で百越の文物が何一つ伝わってねえんだ?
斉が百済になってだ、何で斉の文物が百済に伝承されてねえんだ?
風説流布はやめろよ台湾ゴキブリ。
>>547 鳥越でむぱなんかとっくに破綻しとるだろうが。
台湾人は土人だから恥というものが無いのか?w
>>520 唐代に成立した『隋書』卷八十一・列傳第四十六・東夷の百済条に
「其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人」
(そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。)
とあり、百済が多民族国家であったことが分かる。
同様に新羅条には「其人雜有華夏、高麗、百濟之屬」
(そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居しており)
とあり、新羅もまた他民族国家である。
>>549 百越の文物なんて実はほとんど分からないんだよ。(日本のような高度
な考古学が彼の地にもあるわけではない。)だからむしろ日本に呉越の
痕跡があるだろうと中国人は考えている。「レッドクリフと」いう映画では
日本人俳優を起用したり衣装も日本の古代衣装を時代考証の参考に
しているようだ。詳しい人がいれば、教えて欲しい。
現在のように高句麗、渤海、百済、任那、新羅まで韓国の国民国家の
意識(ナショナリズム)の枠組みで論じるような状況下では東アジアの
真実の歴史解明は当分の間お預けか、困難を極めるだろうな。
553 :
日本@名無史さん :2009/11/12(木) 23:20:38
>>552 分からねえのに何で百越が渡来したと勝手に認定してんだよ?
おまえ頭おかしいんじゃねえのか?
この糞ワンが。
呉越の痕跡どころか古代中国の痕跡など日本に一切ない。
おまえら台湾ゴキブリの98%までがベトナム顔した醜悪な江南土人が祖先だからって、
極悪台湾人は日本人の祖先のようなふりをしないように。
越の貴族の墓から出土した銅鐸と淡路島から出土した最も初期の銅鐸は同じ物。
銅鐸に描かれている双胴船(現代のカヤマランヨットに通じる高度な技術) は呉の船。
556 :
日本@名無史さん :2009/11/13(金) 09:01:32
>>554 チンクランドに銅鐸なんて聞いた事ねえぞ馬鹿ワン。
>越の貴族の墓から出土した銅鐸
これのソースは?
558 :
日本@名無史さん :2009/11/13(金) 11:10:13
台湾人は先祖が日本人同じだとしても、それをよろこぶメンタリティーは無い。 歴史的事実を捻じ曲げてでも日本人の先祖になりたい朝鮮人のキチガイとは違う。 日本人は歴史の真実を知りたいだけ。
559 :
日本@名無史さん :2009/11/13(金) 11:58:23
>>557 で、それのどこに、
“越の貴族の墓から出土した『銅鐸』”
と書いてあるの?書いてあるだよ?
え?ウソツキ台湾ベトナム顔ゴリラくん。
>>558 そのセン人の1万倍ウソコキの湾人は日本から出ていけ!
侵略者で有害害国人の頂点、ワン人はセン人とともにとっとと日本から出ていけ!
560 :
日本@名無史さん :2009/11/13(金) 12:23:34
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の悪辣で卑怯で卑劣な工作の仕方■■■ @まず日本人のふりをしながら最初から自ら叩くのが目的の朝鮮煙幕を 炊き付け、予定通りそれを自ら叩いて自家発電で正義の味方を装う。 (この時点でバカ落ちる) Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上てきた それはそれは高度な高度な誘導用の創作を使って勝手に江南人が渡来したと認定。 (バカ、ダマサれ信じ込む) Bバレかけたら@に戻り、A、@、A、@、を無限に繰り返す。 Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
出土物の歴史的意味も理解できず論点をずらしているだけ。
台湾人工作員はこのスレの名物だけど、 どうにも他スレ、板、には進出してないみたいだね もういいからさ、過疎板に張り付いてないで東亜板とかでクルクル病院専門家にでもなれよ、 ツングースwwwwwwww
563 :
日本@名無史さん :2009/11/13(金) 23:01:59
>>557 おえい!
で、それのどこに、
“越の貴族の墓から出土した『銅鐸』”
と書いてあるんだよおお?
え?ウソツキ台湾ベトナム顔ゴリラくん。
早く説明しろよこのハッカクくせえ褐色土人。
関先生の本を読んだら、 藤原氏こそ百済人の末裔だったことが理解できました。 藤原(中臣)鎌足、藤原不比等は百済王の子孫。 佐藤さん、斉藤さん、遠藤さんに工藤さん、伊藤さんに兵藤さん、武藤さんに新藤さん・・・ みんな百済(新羅、任那を含む)渡来人の子孫だったのですね? 今まで日本人のような顔をして、よく騙し通せたものです。プンプン 早く国へ帰ってほしいです。
百済人ってどこからきたの? 半島の地面から生えてでたの?
百済や高句麗の建国神話には、卵生神話というものが共通してあって、 この国の王は卵から生まれたことになっています。 卵に入った赤ん坊が流れてきて、あやしいので捨てたのだけれどまた戻ってきたので しょうがないので育てたら優秀な子供で、のちに王になったという話です。 それは、呉や越の棄民が黄海を渡ってやってきたという話が伝説になったのだと思われます。 桃太郎の話にも似てますね。なぜなら、吉備はも呉からの渡来人の国だからなのです。
吉備は越。銅矛文化が呉。銅鐸文化が越。分布を見れば解かりやすい。
568 :
日本@名無史さん :2009/11/14(土) 22:01:53
◆戰國時代陶質編鐘在吳文化發源地無錫出土
http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.js.xinhua.org/htm4/2041622.htm >陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示
>鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等
>各種陶器共五十多件。這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。
>有乳釘紋、水波紋、方格紋、圓圈紋等。
編鐘?????鐃?????磬?????缸?????壇?????
鼎?????原始瓷?????印紋硬釉陶?????乳釘紋?????
水波紋?????方格紋?????圓圈紋?????
いやあ、弥生時代と同時期の江南の江蘇省無錫にある呉の遺址からは日本の弥生遺物では
さーっぱりお見受けできない摩訶不思議な物や文様ばかり出るんですねえ(嘲笑)
569 :
日本@名無史さん :2009/11/14(土) 22:02:29
◆鴻山越國貴族墓地發掘情況介紹
http://www.cuhk.edu.hk/ics/ccaa/talk9.htm いやあ、弥生時代と同時期の江南の江蘇省無錫にある越の土トン墓からは、
楽器やら、玉器やら、酒器やら、原始青磁やら、印紋硬陶やら、鈕やら、
甬鍾やら、磬やら、ロ于やら、丁寧やら、勾やら、鈴形器やら、具座やら、
佩玉やら、龍形佩やら、雙龍佩やら、龍鳳佩やら、龍首珩やら、龍形珩やら、
琉璃釉盤やら、蛇玲瓏球形器やら、羊角器やら、璧やら、越式鼎やら、
筒形鉢やら、盅やら、器蓋やら、鎛やら、
もうさーっぱり見た事も聞いた事もない代物まで、もうありとあらゆる
摩訶不思議な物や文様が、出るわ、出るわ、出るわ、出るわ・・・
何でこんなイイモン、日本の弥生遺物にさっぱり伝わっとらんのやろ?(ウルトラ嘲笑)
>>564 たぶんあなたもどこかで佐藤さん、斉藤さん、遠藤さんに工藤さん、伊藤さんに兵藤さん、武藤さんに新藤さん・・・の血を引いてるよ
一緒に国へ帰ろうぜ!
>>570 いやあ、それが、半島は新朝鮮人に乗っ取られて、もう帰る場所はないのです。
ていうか、百済や新羅や任那が滅んだので、しからなく日本に亡命したのです。
朝鮮半島に来る前も、斎の国が滅ぼされたし、その前にいた国は秦の始皇帝に滅ぼされたし、
日本に来た後も大和朝廷に追われて関東管領になって越後から会津、米沢と逃げ回ってます。
自分より強い相手には絶対逆らわない。義と愛だけで生きていくのも大変ですよ。もう・・・
572 :
日本@名無史さん :2009/11/16(月) 06:22:31
百済と新羅は多民族国家。 百済王は夫余族。しかも后は倭人。だから混血を繰り返しているから後期百済王は実質は倭人。 高麗王がモンゴル帝国に征服されて以降、后や王族をモンゴル人から受け入れてモンゴル化した様に。 新羅王は3つの王家の内二つが倭人。 ■百済(隋書 百済伝) >「百済百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。」 (百済の先祖は高句麗国より出る。そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。) ■新羅(梁書 新羅伝) >「新羅者、其先本辰韓種也。其人雜有華夏、高麗、百濟之屬」 (新羅、その先祖は元の辰韓(秦の逃亡者)の苗裔である。 そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居している)
573 :
日本@名無史さん :2009/11/16(月) 06:46:46
三国志東夷伝には「辰王不得自立為王」、辰王は自ら王となることができない、という奇妙な一節があります。
王族ではあるが外来者のために、その地では先住者の賛同がなければ王にはなれなかった・・という意味と解釈しておきます。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/kf09.html 百済辰王家≠韓民族
百済王家は中国亡国の民の建国だ、百済八姓はいずれも中国亡国の民、百済王家の姓は余氏、百済扶餘氏ともいう。
もともとは夫慨の子が名乗った。呉人である。呉王家の姫氏、百済の木氏、倭の紀氏はいずれも同族。
いまの朝鮮人のルーツである新羅の土着人は半島から出ていないだろう。
574 :
日本@名無史さん :2009/11/16(月) 06:50:04
現朝鮮人の祖先、すなわち穢族は、半島の新参者だよ。 大陸北方から流れ込み、倭人が開拓、文明化した新羅を簒奪した新入りの蛮族なんだよ。 唐に事大して半島を乗っ取った、卑劣な敵の穢族。 朝鮮人は半島に住んでいた古代人の子孫ではないし、その文化も継承していない。 異民族(倭人系)に対する蔑視と虐殺、文化破壊については、済州島の歴史を見ると良くわかる。 現朝鮮人が日本へ大量流入するようになったのは、近代に入ってから……特に昭和時代。 古代に日本へ渡来し、帰化した半島人は、現朝鮮人と赤の他人。別の民族だ。 弥生人は半島から来たわけじゃない。 古代の半島人≠朝鮮人 朝鮮人は半島の新参者。 朝鮮人の祖先は、大陸北方から流れてきた、エベンキ族などと近しい穢族であり、 日本と縁の深かった新羅を簒奪、百済を滅ぼし、唐に事大して日本人を半島から追い出した。 彼らは農耕や牧畜をしてたわけじゃない。日本に文化も伝えていない。 当時、穢族は半島で一番未開の後進的部族だった。 半島が立ち遅れ、支那や日本に追いつけないのは、この穢族の末裔だから。 現在、朝鮮半島にすんでいる朝鮮民族(ワイ族)は4世紀ころ半島北部から南下してきたワイ人の末裔である。 この事実を司馬遼太郎が作家・金寿達との対談で述べたとき、金は真っ赤になって怒り 「朝鮮人は半万年官庁船半島に住み民族移動なんかデタラメダ」とさけんだ。 司馬は「朝鮮人はリアエイズム(事実)の尊重を学ばないといけない」といった。
575 :
日本@名無史さん :2009/11/16(月) 06:50:53
576 :
日本@名無史さん :2009/11/16(月) 06:52:16
577 :
日本@名無史さん :2009/11/16(月) 06:59:26
ウィキペディアの百済のページ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88 百済の中期には、高句麗の軍事的圧力に対抗するために和通したと記録されている、『日本書紀』の中には、領土を奪われた百済に任那の一部を割譲した記録や援軍を供出した記録、さらには倭朝廷に朝貢したり、王族を人質として差し出した記録などが数多く残っている。
また中国の『隋書』にも、新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。(新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來)という記述があり朝貢関係があったことをうかがわせる。
さらに、広開土王碑でも倭について、百済■■新羅を破り以って臣民と為す(「倭ロ<耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民」)という部分があり百済が辛卯年(391年)に倭によって支配を受けていたことも明らかとなっており主従関係が存在しており、
倭の重臣と百済との間で家臣上下に関わる席順の取り合いのエピソードも残されている。
これらのような記述が史実であるのかに関しては異論も多いが、友好的であったのは確かであろう。
また王族については、百済の王族は倭によってその婚姻が決められており中国ーツングース系と倭人との混血が繰り返された。基本的に百済王の后が倭人の中から選ばれ、その王子が王位に付くまでの間、倭が王子を人質として扱った。
イワユルジサクジエン
580 :
日本@名無史さん :2009/11/17(火) 12:17:32
台湾式自家発電
581 :
日本@名無史さん :2009/11/19(木) 05:53:13
朝鮮乃箕子封國漢唐皆中國郡邑 今爲朝貢屬國之首古有 三韓穢貊渤海悉直駕洛扶餘新羅百濟耽羅等國今皆併入 読み下し 朝鮮すなわち箕子の封国にして漢唐皆中国の郡邑なり。 今朝貢属国の首たり。古(いにしえ)より 三韓穢貊渤海悉直駕洛扶余新羅百済耽羅等の国あり。今皆併入す。 訳 朝鮮は箕子の封国(箕子朝鮮、箕子は殷の王族)であり漢代も唐代も皆中国の郡邑であった。 (中国の郡県であった、の意。漢代は楽浪郡・帯方郡、唐代は百済と高句麗の滅亡後に唐が旧高句麗領を安東都護府、 旧百済領を熊津都督府、新羅を鶏林大都督府として半島全域を藩属国から羈縻(きび)州=中国国内扱いにした事を指す、 このため一時的に朝鮮に「国」はなくなった) 今は朝貢属国の筆頭である(中国に最も臣従している藩属国である、の意)。古くは 三韓・穢貊・渤海・悉直・駕洛・扶余・新羅・百済・耽羅等の国があった。今は皆朝鮮に含まれる。
素朴に言うけど、コピペだけのレスは嫌い。クズい。
583 :
日本@名無史さん :2009/11/20(金) 07:21:25
とてつもなく日本 : 民団メンバー御用達ID変換機能付き荒らしツール2009年9月16日 ... 民団メンバー御用達荒らしツール 1253084434711
http://triple-aaa.org/home/up/asia/src/1253084434711.jpg ...
懐かしいツールだな結構不具合があると聞くが、バージョンあがったのかな? ◆雑談スレ99◆今日をどう生きる ...
awfuljapan.livedoor.biz/archives/51276969.html - キャッシュ
【民潭工作員のツール】プロパ切り替え自由 ネット荒らしツール2009年9月26日 ... 2chの民潭工作員のツールを・・。 民潭の人が、あるウィルスにひっかかってくれて、写真を暴露してくれました。 ...
正直、吃驚しちゃいました。 参考写真:ネトウヨ/阿呆太郎・連呼厨愛用 民潭謹製 ネット荒らしツール ...
namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1253966293/ - キャッシュ
少数精鋭のクソスレ製造機「ネトサヨ」 - 2009年10月26日
【民団】ネトウヨ連呼厨はやはり朝鮮人【自白】 - 2009年9月3日
民団が応援した民主をニヤニヤ見るスレ - 2009年8月31日namidame.2ch.net からの検索結果 »
585 :
日本@名無史さん :2009/11/20(金) 13:31:46
満州全域って、満州がどれだけ広大か分かっているの? 今のように道路が整備されて鉄道が通っちたわけではないんだよ。
587 :
日本@名無史さん :2009/11/22(日) 04:48:03
百済第17代のアシン王のとき(紀元397年)に、「夏五月、王は倭国と好を結び、太子の腆支を人質とした。」とあり、また、この王が死んだとき「倭王は百人の兵士を(腆支の)護衛につけて送り国境まで来た。」などとある。
韓国人が高句麗にこだわるのは版図を自慢したいからではなく、自らのルーツだからだと思うが。 本貫といって、祖先の出生地がいまだに一族の団結の源になってる国民性だからな。 自分たちの本貫がじつは外国だった、というのはアイデンティティ否定につながりかねない。
589 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 07:39:42
「朝鮮民族の起源は、満州族の支流ということがDNA研究からわかってきた」 と書いてある。これは本当だろうか?という投稿があった。
正確に言うと、「朝鮮民族の元になる民族は、満州族の元になる民族の一派(分派)であろうと推測されている」ということだ。
女真族・満州族とされ、後の清朝を立てた民族の一派が、朝鮮民族になったという意味ではない。
もともと、ツングース系民族は大きく3つに分けられ、満州系、モンゴル系、トルコ系に分けられる。
そのうち満州系の民族がいろいろあるが、そのうちの支流の支流が流れなれて、朝鮮半島南部に住みついたと考えられている、ということだ。
このことは、朝鮮民族のもつ、かつて遊牧民族であった風習が残っていることから、指摘されていたが、DNAからも裏付けられてきた、ということである。
また、朝鮮民族とツングース系の代表民族であるエベンキ族との共通風習、信仰、親和などから、エベンキ族の支流が朝鮮民族の起源であると指摘する人も多い。
おそらく、エベンキ族より分派した支流が南下し、朝鮮半島南部に入りこみ、古くはワイ族と呼ばれ、その後、新羅を作ったものと思われる。
その頃の朝鮮半島は、新羅、と任那、百済と呼ばれる地域に分かれていた、と伝えられている。
任那は倭人の国、百済は、倭人とシナ系人が支配階級の国 (国というほどのものかは疑問があるが) そして、新羅はワイ族の国として、存続していたのではないだろうか。
そして、新羅が唐と組んで、百済・日本連合を破り、倭人を追い払い、百済の被支配階級(おそらくこれもワイ族)を吸収したのが、朝鮮民族の起源であろう。
後に、朝鮮民族はモンゴル族に、もっと後には女真族に支配されているので、相当に混血が進んだと考えられ、この結果、現在の朝鮮民族になったと考えるのが、自然である。
ゆえに、朝鮮民族は、ツングース系エベンキ族の分流が朝鮮半島南部に住み着き、モンゴル族と混血が相当進んだのち、満州族とも混血がされた民族と思われる。
http://hinomaru.iza.ne.jp/blog/entry/470582/allcmt/
590 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 16:39:14
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の仕方■■■ @まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて 自家発電でもって正義の味方を装う。 (朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる) Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、 長江江南人が渡来したと狂言しまくる。 (バカ、ダマサれ信じ込む) Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を 働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@、を無限に繰り返す。 Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
591 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 16:40:21
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の仕方■■■ @まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて 自家発電でもって正義の味方を装う。 (朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる) Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、 長江江南人が渡来したと狂言しまくる。 (バカ、ダマサれ信じ込む) Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を 働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@、を無限に繰り返す。 Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
朝鮮人が日本人のふりして台湾人たたいて日本人の矛先かわそうとしてるだけ。 日本人から見てわけわからん。
593 :
日本@名無史さん :2009/11/30(月) 14:48:58
なぜ朝鮮人は嘘をつくのか Why does the Korean tell a lie?
http://www.youtube.com/watch?v=9ATZG6pyY88 http://www.youtube.com/watch?v=jbgbbXk0n1k http://www.youtube.com/watch?v=KR7z_-jagCE ■朝鮮人が認められない歴史的事実一覧
・弥生人が長江流域からやってきた百越系民族であること
・半島南部の先住民が倭人(=弥生人=百越系民族)であること
・新羅の建国時の宰相が倭人であり、王家の二つが倭人系統であること、また始祖の朴赫居世についても倭人説があること
・百済、新羅が大和朝廷に対し従属的地位にあったこと
・大和朝廷による伽耶地域の支配(半島南部における多数の前方後円墳の存在)
・半島における文化的独自性の欠落(あらゆる分野での古典の不在)
・常に某かの国の属国として歩んできた歴史
・姓が中国文化の影響を受け、みずから改名し、中国語氏名であること
・朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと(李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている)
・朝鮮通信使が実質的に朝貢使節であったこと(琉球の江戸上りと同じ)
・オンモン(朝鮮文字)がパスパ文字、契丹小字をもとにしたものであり、しかもカナより600年遅れて作られたものであること
・焼肉はモンゴルのパクリ!焼肉メニューはモンゴル語ばかり
・キムチは秀吉が朝鮮出兵の時に落とした唐辛子の種が増殖したのが起源
・テコンドーは日本空手をパクリ!そのままだとまずいのでキック特化にした
・中国の太極図案と五行八卦の中の四卦と陰陽魚が韓国国旗であること
・大韓民国の国名の民国は中華民国の民国の借用であること
・大韓民国憲法は、全て1948年に南京で制定された中華民国憲法を剽窃したものであること
・韓国の法律は、台湾の六法全書、「憲法、刑法、民法、商法、刑事訴訟法、民事訴訟法」と全く同じであること
・中国原産の木槿(むくげ)の花を、勝手に改名し、無窮花として韓国の国花にしたこと
・朝鮮という国号は明の永楽帝が下賜したこと
・古代高句麗人と現代の韓国人は全く違う民族で高句麗は古扶余人で東胡の一部であること
594 :
日本@名無史さん :2009/11/30(月) 19:29:27
>>590-591 歴史スレはあたま良いのが多いから直ぐ見破られるよ。
自分で考えて書き込むより明らかに間違っているスレやレスを探して反論した方が勝率高いよ。
『証拠を出せ』『ネタ元を出せ』『話をそらすな』『質問に答えろ』『スルーは負けと見なす』などなど
勝ち誇った様に言えるよ。
595 :
日本@名無史さん :2009/11/30(月) 22:04:30
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■ @まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて 自家発電でもって正義の味方を装う。 (朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる) Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、 長江江南人が渡来したと狂言しまくる。 (バカ、ダマサれ信じ込む) Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を 働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@、を無限に繰り返す。 Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
596 :
日本@名無史さん :2009/12/01(火) 07:16:28
>>595 こう言うのって何で連続投稿で書き込み禁止にならないんだろう?
オレは連続5回でストップがかかるんだが
597 :
日本@名無史さん :2009/12/01(火) 17:32:29
>>595 よく書けてるけど、肝心のネタ元が書いてないのでむしろ逆効果な件について何か言ってちょ
朝鮮起源ニダとかいう捏造が説得力を失ったことへの腹いせで 適当なこと言いふらして 無関係な台湾人に八つ当たりしているだけにしか聞こえないよねー おおかた同じ職場に台湾人がいる在日かなにかが 「チョッパリは台湾人には優しいのにウリにはよそよそしいニダ!不公平ニダ! 」とか根拠のない嫉妬でもしているんだろう
599 :
日本@名無史さん :2009/12/01(火) 20:05:19
暴れ狂うワン豚を愉しむw
600 :
日本@名無史さん :2009/12/01(火) 21:23:51
>>599 もういいよ、第三者から見ればあんたの負けは明らかだし、目的は達した。
後は一人はぼっちで負け惜しみ言ってなさい。
もう寝ます。明日仕事だ。
601 :
日本@名無史さん :2009/12/02(水) 18:36:25
>>536 >>540 >>549 宮脇淳子著「世界史のなかの満州帝国(PHP新書)」に、
「燕人の満が1000余人の仲間とともに先住民の服装をして朝鮮に亡命し、
真番、朝鮮の先住民と燕や斉(山東)からの亡命者を従えて王となり、
王険(平壌)に都を置いた。これが朝鮮半島におけるはじめての政権「朝鮮王国」である。」
って書いてある。
602 :
日本@名無史さん :2009/12/03(木) 00:06:29
妄想、乙。
603 :
日本@名無史さん :2009/12/03(木) 17:10:28
本当に百済なんて国あったのかな 百済語で書かれた文書が一切残ってないんでしょ?
魏志倭人伝に書かれているように文字がなかったんだよ。 百済とは倭人の国だったのだ。
605 :
日本@名無史さん :2009/12/05(土) 12:19:47
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■ @まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて 自家発電でもって正義の味方を装う。 (朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる) Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、 長江江南人が渡来したと狂言しまくる。 (バカ、ダマサれ信じ込む) Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を 働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@、を無限に繰り返す。 Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
608 :
日本@名無史さん :2009/12/05(土) 23:37:52
蒙古襞が覆っている寒地適応した北方系モンゴロイド。 朝鮮人はシベリア、バイカル湖経由で入植したから寒さには強いです。
朝鮮起源ニダとかいう捏造が説得力を失ったことへの腹いせで 適当なこと言いふらして 無関係な台湾人に八つ当たりしているだけにしか聞こえないよねー おおかた同じ職場に台湾人がいる在日かなにかが 「チョッパリは台湾人には優しいのにウリにはよそよそしいニダ!不公平ニダ! 」とか根拠のない嫉妬でもしているんだろう
あっ! 石川県の方の発音と、韓国語の発音ってすっごく似ていたよっ だから、すっごく、親近感を感じたのだっ そう! 森喜朗先生がね、マメ知識を教えてくれたよ・・・?? 日本語の「ウロチョロ」はね、韓国語の「右路(ウロ)左路(チャロ)」 から来たコトバなんだって!!
すべての準備が整った西暦202年10月、 この勇猛な女王は肥前の海岸から出航し、無事に新羅の海岸に上陸した。 新羅王はこの東国から来た精強な軍隊と巨大な船団を見て大いに驚愕した。 恐れおののいた新羅王は、直ちに服従の意を示した。 彼は自分の手を縛って女王に拝謁し、自分は日本の奴隷であると宣言した。 神功皇后は自分の矛を王宮の門に立て、新羅王の服従のしるしとした。 彼女は門に「新羅国の大王は日本の犬なり」と書いたとさえ言われている。 ウィリアム・グリフィス『隠者の国・朝鮮』
612 :
日本@名無史さん :2009/12/06(日) 16:55:50
高句麗の主要民族は満州族の一種であって、漢族とは縁もゆかりもない。 韓国・朝鮮人はこんにちでも高句麗の末裔を以って任じている。 さらに、現在の東北地方に住む朝鮮族たちはみずから渤海の後裔を任じ、朝鮮・韓国との関係のほうを重く見ている。 〜(略)〜 高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である。 〜(略)〜 渤海は、唐の高宗の代に高句麗が唐・新羅の連合軍に討滅された後、唐の玄宗から渤海郡王に封ぜられた大祚栄氏がつくったツングース系の国であった。 黄文雄『満州国は日本の植民地ではなかった』
613 :
日本@名無史さん :2009/12/07(月) 17:53:50
高句麗と韓国(朝鮮)の関係って例えるなら、 モンゴル人の元朝や満州人の清朝は中国史の国家だけど中国人(漢人)の国家ではないってのと同じ感じ? 高句麗は朝鮮史の国家だけど朝鮮人の国家ではないっていう。
昔流行ったコックリさん占い、あれは高句麗の風習ですよね?
616 :
日本@名無史さん :2009/12/13(日) 05:11:16
凄いなぁ、最早「半万年」どころか、数万年前から韓国は存在したニダ!になったのかw
キリストは朝鮮半島で生まれて、青森で死んだ。 修行のため放浪の旅を続けている途中エルサレムに立ち寄ったのが事の始まり。 二千年の時を経て、韓国でキリスト教が普及するとは本人も思わなかったでしょう。 キリストの母マリアに夫がいなかったのも通い婚の風習のある朝鮮と同じじゃありませんか。
619 :
日本@名無史さん :2009/12/13(日) 13:36:19
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=123896&servcode=A00 §code=A00
【小沢氏来韓】「在日韓国人ら外国人地方参政権を現実化させる」
上波夫教授から直接聞いた「騎馬民族日本征服説」を紹介した。
「韓半島南部の地域権力者が海を渡って来て今の奈良県に政権を樹立したという」と語った。
「この話をもっと強調すれば日本に帰れないから、これ以上強く話すことはできない」と話すと、聴衆から笑いが起こった。
「天皇も8世紀、日本の桓武天皇の生母は百済(ペクチェ)の武寧(ムリョン)王の子孫だと言われた」と
>韓半島南部の地域権力者が海を渡って来て今の奈良県に政権を樹立した
>韓半島南部の地域権力者が海を渡って来て今の奈良県に政権を樹立した
やっぱ小沢だなwwwww
620 :
日本@名無史さん :2009/12/13(日) 20:31:35
俺百済人の子孫かもしれない 半島人に立ち退きを要求するwww
621 :
日本@名無史さん :2009/12/14(月) 03:30:10
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E8%B5%B7%E6%BA%90%E8%AA%AC 例えば、小学校の社会の教科書には
「百済の文化を日本に伝えてあげた王仁」
「(三国時代)わが先祖は発達したわが文化をとなりの日本にも教えてあげた」
「高句麗の文化を日本に伝えてあげた」
「今も日本人は、王仁を日本文化の先生として崇めている」
のように他にも書かれている。ただし王仁は日本側の資料にのみ登場する人物であり、朝鮮側の資料には一切登場しない。ちなみに、朝鮮における王仁の漢字伝承説は比較的最近になってから注目されるようになったものである。
また、高校の歴史教科書には
「優秀な朝鮮民族と劣等な日本民族」
「東アジアの文化的後進国であった日本」
「朝鮮半島の先進文化を未開な日本に教えてあげた」
「近代化以前の日本の文化はすべて偉大な先進文化を持つ朝鮮半島から由来したもの」
「野卑な日本はいつも朝鮮半島を侵略して財物を奪っていった」
の様に他にも書かれている。
一方で現実には、例えば日本を訪れた朝鮮通信使の日記の例がある。そこには日本での貨幣経済の発達に受けた感銘や
先進文化への嫉妬等が率直に書かれており、韓国の公教育で展開されている説とはかなり相違が見受けられる。
National Defense Journalも日本の侍は文字も知らぬ野蛮人であり必死になって日本に来た朝鮮通信使から教えを
請うて知識を吸収しようとしたと書いているが、実際は室町時代に来日した通信使が日本の全体的な識字率の高さに
驚いた事を書き残しており、これまた事実とは相当異なるのではないかと思われる(特に江戸時代に入ってから
文官化した侍の識字率は相当なものだったと言われている→江戸の識字率)。
過去の渡来人も同化していったな 鉄の資源を発見したのが最大の功績か
623 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 00:30:46
●渡来人第二の波・・・・・・
4世紀〜5世紀半ば頃、百済人によって漢字の音読み、訓読みがもたらされる。これは、、高句麗の広開土王(こうかいどおう)が
百済に大きな打撃を与えたため、百済の王族・高官・学者・将軍たち知識階級・技術者をつれて、大挙して大和地方を中心とした列島に
逃避・亡命したからである。このような渡来人は、後世「古来(ふるき)」と呼ばれた。
475年、百済が高句麗の圧力によって都を南の公州(こうしゅう)に遷都させたときも、百済系の人々は列島に渡来した。
その後、7世紀に百済と高句麗が滅亡するまで戦乱は絶えなかった三国時代の半島から、多くの避難・亡命者が続いている。
こうした状況は日本に限ったことではなく、中国で戦乱があると、多くの人々が高句麗に亡命した。だが半島でも
百済・高句麗・新羅・伽耶の争乱が続き、伽耶同盟が、6世紀半ばにして、新羅の併合・吸収された政治的混乱もあり、多くの
伽耶人が日本列島を目指した。
個人的な意見であるが、わが国は優れた人材がいる国だと思う。自分はそれほどの人間ではないが、歴史に名を残す人達、たとえば
信長の時代にしても、幕末の時代にしても、わが国は非常に欧米にたいしてうまく対処で来る人材を輩出したと思う。
それは、わが国には半島から優れた人材が渡来し日本人になったからではないかと思うのだ。
現在の日本をつくったのはもともと列島にいた人達ではなく半島から渡来した帰化人(もちろん中国とか西アジアからの人もいただろう。
天皇家はシュメールがルーツという見解もある<スメラミコトがそうなんだが?>)、渡来人が作った国だからである。
そういことでいうなら、わが国は、渡来人が、原住民(アイヌ民族・縄文人?)を駆逐して作った国ではないか。
その最たる家系が「天皇家」であるが、その天皇家を押し立てて今日我が日本があることは、それはそれなりに誇りに思えることでもあるのだが。
http://www2m.biglobe.ne.jp/~shotaro/no479.html
624 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 01:58:27
古代朝鮮は中国の一部だったらしい。 「中国がまだ統一される前、都市国家から発展した諸国が各地で覇権を争っていた時代の紀元前三三四年、「燕は東に朝鮮、遼東がある」と司馬遷著『史記』は記した。 つまり、戦国七雄の一つで、いまの北京を中心とした燕国が、遼河下流域から朝鮮半島北部までを、このとき独占的商業圏に入れたのである。 これより百年ほどあとの前三世紀、全盛時代の燕国は朝鮮半島の大同江から漢江にかけての先住民「朝鮮」と、洛東江渓谷の先住民「真番」を支配下に入れ、要地には砦を築いて官吏を駐在させ、商人の権益を保護していた。 (略) 秦の始皇帝は、燕国をほろぼし中国を統一したあと天下を三六郡に分けた。『史記』「朝鮮列伝」によると、朝鮮と真番は「遼東の外徼に属した」。 つまり、朝鮮半島は三六郡の一つの遼東郡の、直接統治ではなく保護下にあった。 (略) このとき燕人の満(衛満)が、1000余人の仲間とともに先住民の服装をして朝鮮に亡命し、真番、朝鮮の先住民と、燕や斉(山東)加羅の亡命者を従えて王となり、王険(平壌)に都を置いた。 これが朝鮮半島におけるはじめての政権「朝鮮王国」である。漢にはこれを討伐する力がなかったため、遼東太守は満と契約を結んで外臣とし、皇帝の許可を得た。 宮脇淳子著「世界史のなかの満州帝国(PHP新書)」
625 :
日本@名無史さん :2010/01/05(火) 10:49:29
ウィキペディア-百済
民族と言語 [編集]
民族については、百済王・高句麗王(夫余)等に代表されるツングース系中国人の国家であったと言う説、
また現在の朝鮮で提唱されるツングース系中国人の支配層(王族・臣・一部土民)と被支配層(土民中心)の朝鮮人であったとの2説がある。
中国政府のシンクタンクである中国社会科学院は、公式研究書で百済に対して「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」と主張している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88
626 :
日本@名無史さん :2010/01/05(火) 18:41:51
627 :
日本@名無史さん :2010/01/05(火) 23:27:04
>>549 鳥越憲三郎ってデンパなの?
学術的な評価ってどうなの?
628 :
日本@名無史さん :2010/01/05(火) 23:40:11
>>621 他人の評価など気にする必要はない。自分の信じry道をまっすぐ進め。
629 :
日本@名無史さん :2010/01/06(水) 13:45:31
帰化人がその後どうなったかは実は意外にわかっていないよ。 日本人と混血して消滅したなんて書いてある本もあるけど、そういう史料はほとんどないんだ。 だから今も帰化人はいるんじゃないのかな。
この正月、渡来人の子孫の神主と話してきたよ。
631 :
日本@名無史さん :2010/01/06(水) 20:22:52
っうか100年前の新聞に日本の悪口を掲載してたのを発見したからと 言って「我々は誇らしい!!」とか言ってる時点でアホとしかいいようがない 当時の朝鮮人の9割以上は日本の韓国併合を望んでいた人達であり 一部の抵抗勢力が日本軍の植民地支配にたいして(抵抗というよりデモに近い) ことや悪口を言ってたことが誇らしいのか?w 誇らしいとは外敵を駆逐してこそ真に誇らしいと言えるんじゃないのか? こんな悪口程度で誇らしいと思わなければコンプレックスを埋めれない韓国人 が可哀そう
終了
633 :
日本@名無史さん :2010/01/25(月) 14:21:22
日本の責任は重いよ。支那も朝鮮も到底自国の歴史を書ける水準の国じゃない。 それは先進国の責任だ。だから日本が全部やらなきゃいけない。 彼らとの交渉や論争は無用だよ。それは全く不毛だ。 犬のことを研究するとき、犬に何かを聞く人はいないだろ。
634 :
日本@名無史さん :2010/01/28(木) 12:19:47
新羅 = 今の北朝鮮人 伽耶 = 今の韓国人 高句麗 = 今の中国満州人 その後の高麗 = 新羅が高句麗を占領して出来た新羅系の国家 百済 = 満州人と縄文人(東南アジア起源民族)の混血 とすると、今の南北朝鮮対立は新羅民族と伽耶民族の対立にならないでしょうか? これで全てが納得出来ますね
在日も3世くらいになると本人は全く知らされずに日本人として公立小学校に入学して、 ある日、偶然聞いてしまった友達の母親同士の会話から、その事実を知ってしまう。 そしてぐれる・・というくらいで、4世になるともうほとんど気付かない。 同じモンゴロイドの朝鮮人の帰化なんて、長い歴史で見れば屁みたいなものですよ。
636 :
日本@名無史さん :2010/01/30(土) 23:37:47
>>1 >新羅が倭人を排斥したために神功皇后が三韓征伐を起こしたのだ。
そもそも神功皇后が生きていた時代に新羅なんていう国は無い。
まあ神功皇后が実在の人物だってことにしてね。
スサノウの時代にも新羅なんていう国は無い。
637 :
日本@名無史さん :2010/02/11(木) 17:06:57
帰化人は概ね奈良時代で終わっていたと思うのだが、そのあと彼らはどうなったのだろう。 詳しい人に教えてほしいのだが、彼らは本当に日本人と混淆して消滅したのだろうか。 そういう史料はあるのだろうか。彼らは本当に日本人と交わって消えていったのだろうか。 俺は古代史の男だ。その後のことは知らぬ。詳しい人、教えてくれ。
638 :
日本@名無史さん :2010/02/11(木) 20:24:27
韓寇とかで反乱起こして鎮圧された事は知ってる。 客家並みに閉鎖社会作ってんなら別だけど、大体同化されたんじゃないの?
639 :
日本@名無史さん :2010/02/11(木) 20:47:54
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■ @まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、 それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。 (朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる) Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、 長江江南人が渡来したと狂言しまくる。 (バカ、ダマサれ信じ込む) Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を 働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。 Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
641 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 15:45:36
642 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 15:51:02
だいたいは歴史に残らない職人とか農民だったんだろうし 同郷の人間と結婚して混じり合って・・・ってかたちで 消えてしまったのではないだろうか。 江戸時代鎖国する前にマニラに日本人街があったらしいけど やっぱり3、4世代で消滅(同化)しているみたいだし。
我が家は大蔵姓○○氏 大蔵姓を調べたらなんと渡来人だった と、云うことは俺の先祖は日本人じゃないのか
日本人をどう定義するかだけれど、ニニギに先立って日本に降臨したニギハヤヒ(物部)も 渡来人といえば渡来人だけれど、それなら、それ以前にどんな日本人が住んでいたのか? という話になると何一つわかっていないのが現状。 物部は縄文人なのだろうか?熊襲や佐伯や土蜘蛛や蝦夷は縄文人なのだろうか? 出雲はどうなんだ?誰か教えてくれ。
その渡来人が云々ってのもなぁ。 新撰姓氏録編纂へと至る背景を考えると(日本後紀の大同四年条に面白い記述あり)、 326の諸蕃のうち、一体どれだけ「ナンチャッテ諸蕃」が混じっていることやら^^;
>>643 皇別、天孫、天神、地祇、諸蛮
などの分類からして諸蛮の大蔵氏は、
明らかに在留外国人だろう。
647 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 01:17:30
渡来人なんて日本の人口が500万人の時に2万人程度が来たぐらいだよ
>>648 おいおいそりゃ大杉だろw
比率としたら、現代のなんちゃって特別永住者とそんなに変わらんじゃんw
神社が残っているぐらいだから、崇められたんだろうな。
>>649 多すぎか?
それなら外国人率が日本よりも多い韓国どうなるのでしょう
>>547 その本がいつ出版されたかは知らないけれど、30年近く前に受けた鳥越先生の
授業では、日本人のルーツはタイとミャンマー北部の少数民族のミャオ族だかワ族
ではないかとおっしゃっていたと記憶。いや、雲南省の民族だったっかも?
全く興味のない話なので、あんまり覚えてませんが、一応鳥越先生の日本史の授業
では成績は優をいただきました。(私の学年では、優をもらえたのは恐らく私だけ)
ただ鳥越先生はイデオロギー的には、親韓派でもなく左翼でもなかったです。
美智子妃がお好きだったようなので、親皇室の方のようでした。
また自慢好きで自信家で何を言っているか意味不明というのが学生たちの評価
でしたが、それでもユニークで憎めない先生でしたよ。
でも口の悪い某女学生は「頭髪が焼きソバみたいで、顔がタコヤキみたい」なんて言って
いましたが。
先生は1970年代に朝日新聞社から出版された本がベストセラーになったのが
自慢でしたが、1980年代の段階ではユニークな学説で世間では耳目を引く反面、
学術的には一匹狼的な異端派学者だったらしいです。
ところで鳥越先生が、数年前に亡くなられているのを本日知りました。
健康に気をつけていらっしゃっただけに、長生きをされたのも納得しました。
遅まきながらご冥福をお祈りします。
654 :
日本@名無史さん :2010/03/06(土) 18:35:57
815年(弘仁6年)に万多親王らの手によって編纂された「新撰姓氏録」によれば、 左京、右京、山城、大和、河内、摂津、和泉日本籍をもつ氏族は、 天皇の子孫=皇別が335氏、諸神の子孫である神別が404氏、秦、菅など中国系、 百済、新羅、任那、高句麗などの王族を祖とする諸藩が326氏、その他未定雑姓が117氏で 渡来人が3割近くを占めていたことがわかります。 しかし、姓をもった氏族は人口の一握りに過ぎず、奴婢はその10倍はいたことになり、 渡来人は奴婢を伴って帰化したと考えられることから、奴婢を含めた渡来人の割合も3割近かったと推定できます。
655 :
日本@名無史さん :2010/03/06(土) 20:42:35
>渡来人は奴婢を伴って帰化したと考えられることから、 それは初耳。 渡来人が奴婢を連れてきたという根拠kwsk
656 :
日本@名無史さん :2010/03/06(土) 21:19:09
半島から帰化した王族は、奴婢なしには自分の穴の拭けない高貴な人たちです。 着の身着のままでやってくるボーとピーブルは漂蕩、流来といいます。
657 :
日本@名無史さん :2010/03/07(日) 00:50:14
「皇別」と「神別」も弥生時代くらいまで遡れば渡来系?
>>657 そもそも「諸蕃」自体、いい加減だから(苦笑)
津連真道(菅野朝臣真道)筆頭に、多分、ちょいと前の桓武朝廷からこの方、
政治的意図もあってそういう風紀紊乱を招いたのを糊塗する、そんな隠蔽策の
名残が「神別」「皇別」「諸蕃」って括りで残ったんだろうね(笑
「皇別」「神別」「諸蕃」を盲信する以前に「六国史」(特に続日本紀、日本後紀)を
熟読しろw
659 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 21:04:12
ほー
660 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 17:12:23
日蓮はいかにも朝鮮から渡ってきて、迷える高句麗の奴婢を折伏して信者を増やしていったという感じがする。
662 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 22:44:54
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
663 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 16:50:30
付け焼刃の知識でまとめてみましたよ〜。 秦氏系 中国以西から来た、端正なくっきり顔の人達。 東北は比率高そう。出雲、京都、秋田とかの「美人の産地」も。 百済系 関西人。特に大阪・奈良・滋賀。へらへら系あっさり顔。 あと、宮崎とか。山形あたりの東北にも? 高句麗系 関東人。静岡とか。大味な顔。バンカラ系。 広島にも多そうな気が。「〜じゃん」「〜じゃ」って語尾も似てる。 新羅系 岐阜・愛知あたりに多そう。あと岡山。
664 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 16:56:19
百済系が多いらしい滋賀県に住む自分が思うには、 典型的な百済顔は、細面、まぶたが薄いかんじの一重or奥二重。八重歯。 滋賀県南部は、そんな感じの顔多い。UVERWORLDとか。 井原正巳、山崎まさよし、テツ&トモのテツ、野性爆弾ロッシー、とか。 女性だと、モデルのSHIHOとか。 あと、韓国の光州って所に、百済の血を引く人が多いらしい。 東方神起のユンホ、BIGBANGのスンリとか。
665 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 17:36:24
八重歯と言うより出っ歯だろ
でも実際、滋賀辺りは出っ歯よりしゃくれ八重歯の方が多いよ? 京都は美形とあごなし出っ歯の差が激しい(チュートリアルがいい見本)
ティーエムレボリューションとかガクトは? 成形?
ガクトは土着の人じゃないらしいし。 西川さんも百済顔っぽくないから除外。 たしか親が彦根とかだった気が。あの辺はがっつりした顔の人が多い。 田原総一郎とか。井伊家について東から移住した組かなーとか思う。 ラルクのギターとベースも滋賀だけど、北の方だしよくわからん。 でも滋賀なのに、こんなにミュージシャン輩出してるのは、 きっと百済人がたくさん住み着いた土地だから。
669 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 21:14:38
hydeはチビだし土着の倭人かな? 韓国系や中国系はもっと立派な体格だよね?
670 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 21:44:18
671 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 15:47:30
和田アキ子の容姿は在日韓国・朝鮮人にしちゃ足なげーし、 顔だって随分と彫が深い。ひょっとしたら統一新羅以前の半島に住んでいた 系統不明の民族の血を強く引いてるんじゃねーの?
672 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 16:24:23
673 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 17:40:14
>>671 彫りは深くないでしょ、、
まあ、ソニンとか井川はるかみたいな済州島っぽい丸顔とも
安田成美とか石田ゆりこ・ひかりみたいな北の喜び組系とも違うね
でも朝鮮っぽい顔って言うと和田アキコを連想してしまうのはナゼなんだ
実は、韓国人の顔は名古屋人の顔と似てると思う。
名古屋人も隣県の名物ぱくるしなあ、、コネ社会なとこも、、
そう思うと両方憎めないなあと思えてこないか?こないか。
明らかに大陸からの流民は開拓団として、大量に関東平野へ送り込まれている。 口減らしと、自ら食料を作らせるために。 江戸っ子気質の暴力的なキレやすさは、まさに大陸気質。
高句麗気質だね
677 :
日本@名無史さん :2010/05/03(月) 12:38:53
どんな気質?
678 :
日本@名無史さん :2010/05/03(月) 22:21:07
>>1 しかし、百済人や高句麗人が多少でも百済語、高句麗語を残してくれたら日本語との関係が推定できたのに一語も残していないのが残念だな。
これは亡命渡来人が極少数しかいなかったことの証明だろう。多かったら残ったはずだ。
全国百万人の渡辺さんはご存知なのでしょうか? 自分たちが渡来人だということを。 渡辺とは、渡来人を統括した蘇我氏に仕えた部民だったのです。 物部、田辺、刑部、忌部・・・ ただし、部民制は律令制のもと廃止されているので、縄文人や弥生人より後の時代に渡来したのだと言いたいだけで、 差別しようという意図は一切ありませんので誤解のないようにお願いします。
680 :
日本@名無史さん :2010/05/03(月) 23:45:43
>>678 たぶん早い時期に周辺の日本人と混交したんだろうね。
で2世3世ともなると完全に日本語しか話せなくなったとか。
681 :
日本@名無史さん :2010/05/04(火) 00:10:05
関東とか東北の訛りというのは、 百済や高句麗の住民が一生懸命日本語を学んだ苦労の証なのです。 たとえば、アグネス・チャンやデープ・スペンサーといった日本人以上に日本語が使える外人でも、 やはり自国語訛りが出てしまうものです。 それに比べると、朝青龍や白鳳の日本語に違和感がないのは、モンゴル語と日本語の起源がいっしょだからではないでしょうか?
682 :
日本@名無史さん :2010/05/04(火) 00:43:25
>>681 同感。
ちなみに百済国があった全羅道出身の韓流タレントの日本語は、
関西弁のイントネーションに聞こえることがあるw
高句麗人というのは、かなり満州人に近そうだと思います。
中華思想の「東夷」の原型は満州人でしょうし。
で、満州人って恵比寿顔じゃないですか?
関東人が「あずまえびす」と呼ばれてたことと繋がるような。
683 :
日本@名無史さん :2010/05/04(火) 01:59:57
>>681 沖縄に百済、高句麗人を配置したという話はきかないが、琉球語はどうなんだ?
684 :
日本@名無史さん :2010/05/04(火) 11:30:40
>>681 モンゴル人の日本語にはくせがないが、やはりアクセントが平板なままだと感じるな。
しかし、シナ人、朝鮮人のようにすぐ分かるような特徴がない。
>>684 飲み屋で働いているモンゴル人の女の子を知っているが、彼女の日本語もほぼ完璧だったな。
顔は韓国人に近いが、韓国人よりは鼻筋が通っている。スタイルはいいけど筋肉質な体つき。
中国と中国人が嫌いみたいだったな。
やはり、日本語と文法が近いのと、日本語の発問でモンゴル人に出来ない発音はないとのことだ。
そりゃモンゴル語も日本語と同じく韓国語の亜種だからな
687 :
日本@名無史さん :2010/05/08(土) 00:27:49
>>686 朝鮮語は同じアリランを歌うエベンキ語の亜種だろう。
688 :
日本@名無史さん :2010/05/08(土) 12:26:07
>>685 日本語の発音は世界でも単純なほうらしいから、だれでも発音はできるんだろう。
しかし、シナ人、朝鮮人だけは清音と濁音の区別がおかしい。
上野樹里主演の木10ドラマ「素直になれなくて」のなかで 東方神起のジェジュンという韓国人がいるのだけれど、 濁る言葉ができないんでスカスカした日本語に聞こえるんだ。 アクセントも不自然。
690 :
日本@名無史さん :2010/05/10(月) 22:43:34
李氏朝鮮って満州人国家なんだね
ウィキペディア- 李成桂
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%88%90%E6%A1%82 女真人説 [編集]
池内宏[8]や山内弘一[4]らは李成桂が女真人或いは女真人の血を引いている可能性を指摘している。
状況証拠としては次のことが挙げられる。
李一族の出身地の咸鏡道は15世紀までは女真人の地だったこと。
李一族は女真人の配下を多数抱え李一族が頭角を現したのはかれらの助けが大きかったこと。
のちに15世紀になって編纂された王朝創建の偉業を称えた『龍飛御天歌』によると、李一族は全羅道の全州出身で古くは新羅に仕えたがやがて咸鏡道に移住した、と書かれているが、後世に潤色されて書かれているため信憑性が疑わしいこと。
モンゴル語で書かれた李家の家系図から、李一族の女直名は完全に記載されているが朝鮮名は不完全にしか書かれいないこと。
ダルガチは原則としてモンゴル人であり、稀に女真人や色目人が任命される事があるが、被支配民族の漢人、ましてや漢人の子分の高麗人が任命されることは非常に不自然であること。
千戸として女真人の統治を行っていたこと。
姓を李氏と言ってはいるが、祖先が元朝の家来で、元の開元路出身であることは明らかであり、モンゴル名を持っていること。(ただし、当時は高麗人貴族もモンゴル名を持っているから、これだけでは女真人とはいえない)
691 :
日本@名無史さん :2010/05/10(月) 22:47:36
岡田英弘と宮脇淳子は13世紀モンゴル時代の朝鮮半島と大陸の関係と李氏朝鮮勃興を概説し、 朝鮮の太祖李成桂女真人説について次のように論証している[9]。 その上で史料証拠として『李朝実録』の冒頭『太祖実録』の内容[10]を用いて次のことを挙げている[9]。 『李朝太祖実録』冒頭には「太祖康獻至仁啓運聖文神武大王、姓李氏、諱旦、字君晋、古諱成桂、號松軒、全州大姓也」とあり、本貫が全州李氏であること、新羅の司空李翰を始祖として、以下21代を経て李成桂に至ったとするが、 第16代まではほとんど名だけが知られるにすぎず、第17代(李成桂4代の祖)からやや詳しい伝記がある。その第17代以後の祖先の活動舞台と居住地を通観すると、 前16代につなげるために全羅北道全州(完山)を出発点として、東海岸の三陟から豆満江畔にわたり、 そのほぼ中央に位置する咸興をもって活動の根拠地としたように書いてある。すなわち、全州李氏の出身だというのは後世の捏造で、その証拠に、李氏朝鮮王室で、全州李氏の誰一人として祖先として祀られた人はいない[9]。 『李朝太祖実録』巻一、九頁下、には次のような記事がある。「初三海陽(今吉州)達魯花赤金方卦、娶度祖女、生三善三介、於太祖、為外兄弟也。生長女真、膂力過人、善騎射、聚悪少、横行北邊、畏太祖、不敢肆。」 これを訳すると、「三海陽(咸鏡北道の吉州)にいた元のダルガチだった金方卦(女真人と思われる)が、度祖(モンゴル名ブヤンテムル、三頁下、李子春の父)の娘を娶って生まれたのが三善三介で、太祖の外兄弟(姓が違う兄弟)である。 彼は女真で育ち(女真の族長になった)、腕の力が人並み外れて強く、騎射をよくし、悪い奴らを集めて、北辺に横行したが、太祖を畏れて、敢えてほしいままにしなかった」というのである。 これによると、太祖も女真族としか考えられない。なぜなら、遊牧民や狩猟民は族外婚制をとり、姓の違う集団と結婚関係を結ぶのを習慣とする。 女真族の族長である三善三介が太祖李成桂の外兄弟であるというならば、太祖自身も女真族であったと考えるのが自然である。 『李朝実録』は、朝鮮時代になってからの正史であるから、朝鮮王の家系について、なるべく高麗との関係を重んじるような書き方をしているが、どうしても書き残さざるを得なかったのが、この「三善三介」についての記事である[9]。
692 :
日本@名無史さん :2010/05/26(水) 05:22:09
百済人(の貴族層)や高句麗人(の貴族層)は日本に逃れて 倭人と混血したよ。
693 :
日本@名無史さん :2010/05/26(水) 12:03:44
>>692 満州貴族が大多数派のシナ人に同化されたようなものだな。
694 :
日本@名無史さん :2010/05/26(水) 21:51:40
同化したというのは嘘で、 結局、入植地の住民とは同化できず、数少ない親族同士で婚姻を繰り返したあげく、 一族を統率出来るだけの資質をもった跡取りができなくなって、容姿を貰ってしのいだけれど衰えていった。 そして、時代の変わり目に政変で失脚し滅んだ外来種は多いのではないかと思います。
695 :
日本@名無史さん :2010/05/26(水) 22:07:44
頭蓋で見た縄文人からの形態距離(山口、1999) 朝鮮15.8 畿内10.2 九州・中国 9.7 関東 7.6 東北 6.1 沖縄 3.7 北海道アイヌ 2.8
うちの父方は亡命してきた高句麗の王族だと聞いてる。 亡命して来た時に神奈川辺りに領地を貰って、周囲を開墾していって 時代がさがるとともに帰農したらしい。 ちなみに江戸時代は庄屋さん。 いまは残り火で生き残ってる感じ。 関東地方にはそういう家割と有るらしいよ。 それにしてもご先祖は良い判断をした。 半島に残ったって碌な事はなかったろうし。
1983-01-27-木 夜 7:30 日テレ 木曜スペシャル
「幻の古墳・横穴墓の謎を探る! 歴史から消された謎の武人たち」
出土する馬具・刀・鉄器が語る壮大な歴史ロマン/
謎の武人軍団・古代日本に騎馬民族がいた!!
http://www.t3.rim.or.jp/~yoshimi-/fukiya/info/198301.html <読売新聞テレビ評>
古墳時代の後期にあたる五世紀から六世紀にかけて、中央豪族や地方豪族たちが巨大な前方後円墳を
つくっていたころ、それとはまったく形を異にする墓が日本全国につくられていた。横穴墓がそれで、
がけなど天然の岩盤を真横にくり抜き使者を葬った。この横穴墓のなぞを通して、日本に渡来した異民族の
文化と古代日本の歴史のロマンを探る。
横穴墓は、これまで庶民の墓として注目されていなかったが、最近の調査で、この横穴墓が渡来系の
豪族の墓であることが判明してきた。
(写真)島根県安来市の横穴墓から出土した環頭(刀のにぎりの部分)
双竜(単竜・獅噛)環頭太刀・双魚佩出土地
http://www.wakokugaku.org/izumo/sub103.htm ※ 「双竜環頭太刀の存在が日本海側に偏ることを指摘、この太刀が高句麗系で
その氏族が製作や配布に関与していた可能性が高い」 (森 浩一氏)
※ 「双竜環頭太刀を高句麗系と考え、蘇我氏との結び付きを指摘した。」 (清水みき氏)
※ 「双竜環頭太刀の配布地は出雲であると考える」 「古墳時代の研究」雄山閣
この双竜環頭太刀の配布地が出雲という学説はその配布が7世紀代まで続くことを考えるとき、
いささか疑問に思える。 (高句麗氏族と出雲の関係は繰り返し説明していますが・・・・)
■1997年11月6日(木)■
金銅装環頭大刀(かわらけ谷横穴墓出土)
銅鐸出土状況模型(加茂岩倉遺跡)
2点を追加展示
展覧会総仕上げ 完成度高い展示に
古代出雲文化展大阪会場
18日から開幕
http://www.web-sanin.co.jp/orig/news/7-1106a.htm 出雲の文化遺産を一堂に公開する古代出雲文化展大阪会場が11月18日から、
大阪市天王寺区の大阪市立美術館で開幕する。同会場では新たに、
かわらけ谷横穴墓(安来市植田町)から出土した重要文化財の金銅装環頭大刀(こんどうそうかんとうたち)
と加茂岩倉遺跡(島根県加茂町)の銅鐸(どうたく)の出土状況模型を追加展示する。
同県古代文化センターは「東京、島根会場の経験を生かし、展覧会の最後を飾るにふさわしい完成度の高い
展示になる」としている。
>>700 それは唐と戦争に負けた後に作られた城で
西暦660年ごろに作られたんじゃ
702 :
日本@名無史さん :2010/08/16(月) 01:04:13
箕子朝鮮は中国の殷の中国人箕子の国で、衛氏朝鮮は中国の燕の中国人衛満の国で、 箕子朝鮮の準王が馬韓で韓王となり馬韓を支配し、 その後は楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡が設置され朝鮮半島中北部は400年間中国の植民地で、 高句麗と渤海はツングース民族で同じツングース民族の満州族と同系で、 新羅は『後漢書』『三国志』『晋書』『北史』によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国で、 その後、唐が旧高句麗領を安東都護府、旧百済領を熊津都督府、新羅を鶏林大都督府として朝鮮半島全域を支配して、 高麗王朝時代には朝鮮半島北西部は東寧府、双城総管府の植民地となり、忠烈王以後のの高麗王はモンゴル人で、 李氏朝鮮の創始者で朝鮮王の李成桂は女真族とされる。
703 :
日本@名無史さん :2010/08/18(水) 19:07:06
将門に襲われた末裔はどうなった
704 :
日本@名無史さん :2010/08/19(木) 04:22:06
>>702 百済は?
553:犯罪する :2010/08/19(木) 01:30:43 ID:7YuptFrf [テロする]
アフリカの黒猿は迷惑なストーカー全部殺す:2010/08/19(木) 00:22:06 ID:eFB1qaB40 [チャンコロにテロする]
柔道の山下殺す、柔道のメダル、柔道世界選手権、柔道最強
元寇、日清、日露、日独戦争、テロする、奪う、破壊する、殺す
インドネシアの糞猿、インドネシアで好き勝手に暴れまくるw ヒトラーはユダヤ人、メルケルはヒトラーの娘 、戦争する
山口組の男全部殺す、アフリカの黒猿はゴキブリ
醜い女は抱けるように整形しろ、乗っとられた飛鳥朝廷 戦国時代から奴隷の倭猿女ww
百済、新羅、高句麗の庶民は部落民にされた、王族達は天皇家藤原氏になった 藤原氏の正体 成長するため、正しい地図を手にしよう やたがらすの系譜で検索[日本人総源氏化計画で検索]
cia男全部殺す時代精神、日本を騙した悪魔、ハルノート、abc包囲網。バーニング、ジャニーズの男全部殺す
総連、民潭、チョン学校男全部殺す
電通のチョン成田殺す 文鮮明殺す イルミナティ殺す
細木数子、詐欺師殺す、江原啓介、詐欺師殺す、美和明宏、詐欺師殺す 俺以外の男全て殺す
ザイン リチャードコシミズ、輿水正 これほど醜い日本人女性
エラ通信 金福子殺す 萩原舞犯して殺す
ゴイム呼ばわりの調子こいてるデーブスペクター殺す
異国の豚男全部殺す 小泉売国レイプ殺人チョン一郎殺す 竹中平蔵インサイダー取引韓国人殺す 倭犬で検索 、倭猿で検索
ソーゾー君 さてはてメモ帳
オルタナティブ通信書いてるチョン殺す 独立党w ベンジャミンフルホード殺す 2ちゃんねるから子供たちを守ろう
2ちゃんねる裏の歴史 黄金の金玉、総理、大統領、王族、皇族の男全部殺す、喧嘩買う、喧嘩売る、侵略する
お笑いみのもんた劇場 鳥肌実殺す 東アジア人
人間の屑ジャニーズの裏の全て 日米欧三極委員会
フリーメーソン殺す、喧嘩売る、喧嘩買う
政教分離違反ソンテチャク殺す コイルミョンきもい殺す
汚職、腐敗、賄賂、パチンコ天下りチンピラ警察官男全部殺す 百式のブログ アイヌのウィキぺディア、密入国マルハンチョン社長殺す、枕営業
705 :
日本@名無史さん :2010/08/19(木) 17:18:23
>>700 その隼人の紋章はタツノオトシゴを象ったものなんだろうな。
706 :
日本@名無史さん :2010/08/20(金) 06:03:37
【“朝鮮半島の2000年史”の歴史は朝鮮人の歴史ではなかった!!】 1 檀君朝鮮はまったくの神話、中国のどの歴史書にも登場しない 2 箕子朝鮮は伝説上の国、中国人の箕子が建国した中国人の国家。『史記』巻38宋微子世家「武王既克殷、 訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮」 3 衛氏朝鮮は考古学的に証明できる朝鮮の最初の国家で、燕王盧綰の部将であった、衛満が朝鮮に亡命し建てた亡命政権 4 もちろん衛氏朝鮮の王も朝鮮人ではない『史記』朝鮮列伝「朝鮮王滿者、故燕人也(朝鮮王、満は燕国人である)」 5 衛氏朝鮮もBC108年に前漢の武帝に滅ぼされ、故地に楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡が設置され朝鮮半島中北部は400年間中国の植民地 6 『後漢書』に「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。」とあり、 箕子朝鮮の最後の王、準王が馬韓で韓王となり馬韓を支配し、その馬韓が百済になった 7 百済は扶余系民族だから言語的にも民族的にも今の韓国人は殆ど関係ない 8 高句麗と渤海はツングース民族で、同じツングース民族の満州族系 「高句麗→金国→後金国=清国(女真族のご先祖)」
707 :
日本@名無史さん :2010/08/20(金) 06:05:07
9 濱田耕策「夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族(Yahoo!百科事典)」、黄文雄「遼東や北満の地は、か つて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である(黄文雄著『韓国は日本人がつくった』)」 「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数 民族の一つ、満州族の祖先である(黄文雄著『満州国は日本の植民地ではなかった』)」、鳥越憲三郎「高句麗は紀元前1世 紀末、ツングース系の?族によって建国(鳥越憲三郎著『古代朝鮮と倭族』)」、山川出版社『世界史用語集』「【高句麗】 中国東北地方東部のツングース系貊族の夫余族の国」、護雅夫「高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族であり、 4世紀から6世紀の初めにかけての最盛期には朝鮮半島の大半と南満州とを勢力圏に収めた(Yahoo!百科事典)」、森安孝夫 「【渤海】現在の中国東北地方、ロシア連邦の沿海州、北朝鮮の北部にまたがる広い範囲を領有して栄えた満州ツングース系 の民族国家(Yahoo!百科事典)」、藤本和貴夫「7〜10世紀には極東地方から満州、朝鮮北部にツングース系の渤海国が建て られた(Yahoo!百科事典)」、広辞苑「【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙の建国という」、 大辞泉「【高句麗】紀元前後にツングース系の扶余族の朱蒙が建国」「【渤海】698年、ツングース系靺鞨族の首長大祚栄が建国」 10 新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国 11 『北史』新羅伝「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、 馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。」「新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地 は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来 した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている」
708 :
日本@名無史さん :2010/08/20(金) 06:05:58
12 『後漢書』辰韓伝 「辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。其名國為邦、弓為弧、賊為寇、 行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。」「辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界 の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と 呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。」 13 唐が高句麗・百済を滅ぼし、旧高句麗領を安東都護府、旧百済領を熊津都督府、新羅を鶏林大都督府とした為、朝鮮半島全域が一時期中国領となった 14 結論として朝鮮民族は新羅が直接のご先祖。でも・・・悲しいことに 15 その新羅も王は朝鮮人ではありません、日本人でした。 金氏王統の始祖瓠公は日本人 (瓠公は新羅の3王統の始祖の全てに関わる、新羅の建国時代の重要人物) 『三国史記』新羅本紀 「瓠公者、未詳其族姓。本倭人。初以瓠繋腰、度海而来。故称瓠公。」 (瓠公は、その族と姓は未詳。本は倭人。 初めは腰に瓢箪をぶらさげて海を渡って来たことから、瓠公と称される。) 昔氏初代の昔脱解(第4代脱解尼師今)は日本人 『三国史記』新羅本紀 「脱解本多婆那國所生也。其國在倭國東北一千里。」 (脱解、本来は多婆那国で生まれた。その国は倭国の東北一千里に在る。)
709 :
日本@名無史さん :2010/08/20(金) 06:07:21
16 それもそのはず古代において半島南部は日本の属国でした 『隋書倭人伝』 新羅 百濟皆以倭為大國 多珎物 並敬仰之 恒通使往來 (新羅と百済は倭国を大国で珍しい物が多い国だとしており、ともに倭国を大国として 敬い仰ぎ、つねに使いを送り、往来している。) 広開土王碑文 百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民 そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。 しかし、倭が辛卯の年(391年)に海を渡り、百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。 17 ちなみに弥生人は朝鮮人ではない1999年3月18日に、すでに江南人骨日中共同調査団が 「長江下流域の古人骨と北部九州・山口の渡来系弥生人骨のミトコンドリアDNAが一致した」と発表している。 18 高麗を征服した元は朝鮮半島北西部に東寧府、双城総管府の植民地を設置 19 1259年、高麗の太子(のちの元宗王)がフビライに降り、その息子忠烈王は、1260年に大ハーンに即位したフビライ の娘婿となった。これ以来、代々の高麗王の世子(世継ぎの太子)はモンゴル皇族の婿となって元朝の宮廷で暮らし、 父の死後、高麗王の位を継ぐのが習慣となった。高麗王の母は、みなモンゴル人になったの 20 李氏朝鮮も実は、朝鮮人王朝では無く、女真族王朝だったの。なのに女真族ををオランケと呼び差別していた 21 15世紀の李氏朝鮮の世宗の時代に侵略して併合し、朝鮮の領土に組み込むまでは、李成桂の出身地の咸鏡道を含む 朝鮮半島北部(咸鏡道、平安道)は女真族居住地域であり、女真族の領土だったの 22 李成桂は女真族の酋長の李之蘭と義兄弟の契りを結ぶなど、李一族は女真族の配下を多数抱えていたの
710 :
日本@名無史さん :2010/08/20(金) 06:08:09
23 女真族はモンゴル名を持っており、父李子春は吾魯思不花というモンゴル名を持っており、さらに祖父李椿は孛顔帖木兒、 李子春の同母兄李子興は塔思不花、李子春の兄弟も完者不花、那海などモンゴル名を持っており、モンゴル語で書かれた 一族の家系図から、李一族のモンゴル名は完全に記載されているが朝鮮名は不完全にしか書かれていないの 24 元に仕える行政長官ダルガチは、原則としてモンゴル人か色目人が任用されたが、元初期には一部の南人や契丹人、 女真族が、モンゴル名を持つことでモンゴル人とみなされ任用されたが、李成桂の四代前の高祖父李安社はダルガチだったの 25 千戸長として女真族の統治を行っていたの 26 『李朝太祖実録』巻一、九頁下、には「初三海陽(今吉州)達魯花赤金方卦、娶度祖女、生三善三介、於太祖、為外兄弟也。 生長女真、膂力過人、善騎射、聚悪少、横行北邊、畏太祖、不敢肆。(三海陽にいた元のダルガチだった金方卦(女真人と思われる)が、 度祖(李子春の父)の娘を娶って生まれたのが三善三介で、太祖の外兄弟である。彼は女真で育ち(女真の族長になった)、 腕の力が人並み外れて強く、騎射をよくし、悪い奴らを集めて、北辺に横行したが、太祖を畏れて、敢えてほしいままにしなかった)」 という記事があり、女真族の族長である三善三介が太祖李成桂の外兄弟であるならば、太祖自身も女真族であったと考えるのが自然なの ※朝鮮民族が建てた朝鮮民族による朝鮮民族の為の国家は有史以来存在しません。 箕子朝鮮は中国の殷の中国人箕子の国で、衛氏朝鮮は中国の燕の中国人衛満の国で、 箕子朝鮮の準王が馬韓で韓王となり馬韓を支配し、馬韓が百済となり、その後は楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡が設置され、 朝鮮半島中北部は400年間中国の植民地で、高句麗と渤海はツングース民族で同じツングース民族の満州族と同系で、 新羅は『後漢書』『三国志』『晋書』『北史』によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国で、 その後、唐が旧高句麗領を安東都護府、旧百済領を熊津都督府、新羅を鶏林大都督府として朝鮮半島全域を支配して、 高麗王朝時代には朝鮮半島北西部は東寧府、双城総管府の植民地となり、忠烈王以後のの高麗王はモンゴル人で、 李氏朝鮮の創始者で朝鮮王の李成桂は女真族。
>>1 思ってるほど、沢山来てないし、
文化的な影響もあまり受けて無いのが正解。
色々な意味で過大評価し過ぎ。
712 :
日本@名無史さん :2010/08/20(金) 11:49:52
>>711 大勢来たのなら百済語、高句麗語の一部でも記録が残るはずだしな。
全く一語も残していないとは、どういうことなんだろう。日本語との関係について多少でもヒントになっただろうに。
7世紀なら亡命渡来人だからな、あんまり影響力はないだろうな 百済語、高句麗語は地名や職名としてほんの一部残っているだけで どんな言語か全貌がわかっていない
714 :
日本@名無史さん :2010/08/21(土) 02:30:44
715 :
日本@名無史さん :2010/08/21(土) 02:44:16
1478年から現在まで、アメリカをはじめ、日本、カナダ、中国など世界約50か国で教科書を出版しているオックスフォード大学の 出版社が制作している中学校課程教科書は、古代中国の領土を表記した「古代の世界」の1ページで、朝鮮半島全体を中国領 土に含ませている。 外国教育機関、百科事典、博物館、図書館などで中国の漢、元、清などの歴史を紹介する世界地図が朝鮮半島全体を中国領 と表記している。例えば、中国の国営放送CCTVのサイトは元の時期の世界地図に朝鮮半島全体を中国の土地として紹介し、 米国のミネアポリス美術館のサイトも元の時代の朝鮮半島を中国の領土と表記している。また百科事典「グロリア」と歴史サイト 「ハウ・ツー・フットワーク」、図書館サイト「アイビブリオ」は清の時代に朝鮮半島を中国の土地と同じ色で塗り、百科事典「ニュ ー・ワールド・エンサイクロペディア」をはじめとして学術機関「カルチャー・チャイナ」「ピッツバーグ大学」「ミネソタ州立大学」等 のサイトは漢江北側を、中国紹介サイト「スーパートレース」と「NEN」などは全羅北道北側地域まで中国領としている。 中国の有力紙「鳳凰資迅」は「韓国は1636年、朝鮮が清の属国になって以来、1895年日本の保護国、1910年日本の統治下 に置かれたし、1948年からはアメリカによって過去の清朝からの位置をそのまま持って行っている」とし、「韓国はまだ徹底的な独 立を成すことができなかった国」とし、「真正な独立ができない国家と国民の自己恥辱感が歴史的に伝わって受け継がれてお り、とても根が深い」という評論を掲載した。 2010年5月27日中国社会科学院と韓国の慶熙大学が「韓国人から見た中国人のイメージ」に関して共同で調査を行った結果、 韓国人は中国に強いマイナスイメージを持っており、中国に対する好感度も日本や米国よりかなり低いことが分かった。この調 査結果に対して中国社会科学院アジア太平洋研究所の董向栄副研究員は、「中国が急激に台頭したことで、『昔のように属国 にされるのでは』と脅威に感じている。中国に追い抜かれたことを認めたくないし、快く思っていないのだろう」「回答者は口に出 して『羨ましい』とは言わなかったが、言葉の端々から中国に対する劣等感が伝わってきた」と分析した。
716 :
日本@名無史さん :2010/08/21(土) 02:48:13
世界の1億人を対象にした教科書を出版しているピアソン・エデュケーションは、韓国を中国の属国に定義付ける世界史の試験 問題を出題している。 アメリカの世界史教科書では万里の長城が鴨緑江近隣までのびている地図が掲載され、「1640年代に韓国は中国・清王朝の 属国になった」と記述されている。 アルゼンチンの教科書には「韓国は中国語使用地域」と書かれている。 「朝鮮は近代に至るまで、その国内での抵抗にかかわらず、中国と日本の属国だった」(オーストラリアの教科書) 「朝鮮は、その歴史の大部分で中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。日本は自由な新しい秩序を樹 立することによって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」(フィリピンの教科書) 「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」(タイの教科書) 「朝鮮は中国の従属国」(アメリカの教科書) 「朝鮮は、数百年間中国の属国」(カナダの教科書) 「朝鮮は永らく中国の属国だった」(インドの教科書) 「紀元1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」(ポーランドの教科書) 「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀のことだった。その後300年、日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、 唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」 (ドイツの教科書) 「朝鮮を中国の属国」と記し、「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」「朝鮮は言論・宗教の自由が制 約を受ける国」「北部はロシアが、南部はアメリカが占領している」(インドネシアの教科書) 「(日清戦争で)日本の勝利となり、下関条約が結ばれ朝鮮の独立が認められた」(『中等世界史』 韓国・英志文化社 1959年) 「朝鮮は清の半属国だった(『高等世界史』 韓国・教友社 1962年)」
717 :
日本@名無史さん :2010/08/21(土) 02:51:36
北京オリンピックにおける反韓感情について中国専門家らは、中国国民の反韓感情を、「中国国民の歴史的観点」に求め、平 沢大学校の中国学科長である池世樺教授は、「中国国民の反韓感情の根底にあるものを考えて見れば、中国人が韓国を見る 根本的観点の問題だ」としたうえで、「中国人の考えの中には、韓国は過去『属国』だったという概念が定着しているのに、北京 五輪などで韓国が上手くやっているので、こうした部分に対するコンプレックス的な思考の発露が起きたものだ」「これは中国国 民の日本人に対する態度を見ればよく分かる。日本人が上手くやっても容易に受け入れられるが、私たち(韓国人)が上手くや ることは容易には受け入れられない。このような中国人の(韓国に対する)根本的な情緒が底辺にあり、最近の一連の事件が 現実に(反韓感情表出に)火を点けたわけだ」と分析した。 韓国の翰林大学校の李三星教授は、韓国で中国脅威論が広がる理由について、中国が強大化した東アジア世界は韓国が属 国だった過去と重なるため強い抵抗を感じるから、と分析した。 世界銀行、イギリス公共放送局チャンネル4を含めた外国教育機関、教科書出版社、ポータルサイト、百科事典など34の機関 の世界地図で韓国を中国領として表記している。例えば世界的なファーストフード会社のバーガーキングは自社のホームペー ジで朝鮮半島を中国領として表記している他、アメリカの有名旅行情報サイトのゲート1トラベルは北朝鮮を中国領として表記し ている。また、ニュージーランドの茶販売会社ベル・ティー・カンパニーは、自社サイトで韓国を中国領としている。 勝谷誠彦は自らのブログで韓国を「(中国の属国である)愛人国家」と発言している。この発言に対し、在日本大韓民国民団東 京地方本部は、本人と所属事務所の吉本興業に抗議を行った。 バロンズ社が発行しているアメリカの大学進学適性試験の教材は、新羅を朝鮮半島で初の国家と表記している。 Yahoo!シンガポールはアジア地図で韓国を中国の領土と表記していた。 2006年にCIAが国家情報報告において、「韓国は1000年間独立国家だったが、日露戦争により日本が占領した」と紹介した。 これに対してVANKは、「これは西暦1000年以前は独立国家ではなかったという意味だ」と批判している。
718 :
日本@名無史さん :2010/08/21(土) 02:55:45
黄文雄は、著書で「これまで清国の伝統的な属国であったベトナムはフランスに横取されてしまったが、残る伝統的属国の朝 鮮は、もう誰にも渡すわけにはいかない。(略)そこで、新疆や台湾のように、朝鮮も中国の属領から正式な領土にするため「朝 鮮省」を設立し、郡県制とする断行案を検討した。そうすることで、列強諸国に対して朝鮮は清国の絶対不可分で永久割譲の固 有領土だとアピールした。(略)呉長慶は、この反乱をうまく鎮圧できれば、「遼東三省と左堤右挈し、実に東方の一大塀障」、つ まり中国の遼東三省と朝鮮半島で守りを固めれば怖いものなし、と考えていたのである。(略)なかでも有名なのは、科挙状元 出身のエリートで、呉長慶の幕下に身を投じて積極的な対外政策を論じてきた張謇の『朝鮮善後六策』である。それについて は、田保橋潔氏(京城帝国大学教授)が大要をまとめているので、ここで引用したい。『1.漢四郡建置の例に従ひ、朝鮮国王を 廃し、其地を清の一省とする。2.朝鮮国王を存置するとしても、周の例に従ひ、監国を置く。3.有力なる軍隊を派遣して。其海港 を清の監理の下に置く。4.朝鮮の内政革新を断行する』これ以外にも、張謇は『六策』で次のようなことを言っている。「あるいは 内政の自己改革と新軍の訓練を、我が東三省とつらねて、一気と為す」。清国の東三省から朝鮮省をも含めて「東四省」とし、 (略)張謇が提案した、清国が李朝国王を廃して監国にする、つまり、属藩扱いにするという政策は、清朝以前の早い時期にも あった。明の太祖朱元璋が、李氏朝鮮をつくった李成桂に対して監国の地位だけを下賜あい、国王の地位を与えなかったのも そのためだ。中国人からすれば、朝鮮は漢の時代から中国の一部なのだ。中国の歴代王朝の封国といえば、漢時代の「呉楚 七国の乱」で知られる呉や楚が挙げられるが、それよりもさらに一段下の外藩、つまり外様大名ていどしか見なされていなかっ た。そもそも、朝鮮をつくったのは中国の箕子だと、中国人は主張するほどなのだから。そのため、張謇の『朝鮮善後六策』のよ うな考え方は、中国人の一般的な伝統的朝鮮属国観なのだ。中国が中華民国になった近現代でも、この中国人の朝鮮版図観
719 :
日本@名無史さん :
2010/08/21(土) 02:58:32 はたいして変わっていない。たとえば、蒋介石は、太平洋戦争後の対日処理を協議した1943年11月のカイロ会談に出席した当 時、船上にてルーズベルト大統領に高麗の返還を要求している。もちろん、ルーズベルト大統領は、このとんでもない要求を拒 んでいる。朝鮮人も属国であることにマヒしているため、「朝鮮省」の設置をむしろ、「小中華」から「大中華」への昇格だと喜び、 中国を恨むどころか、恩恵と謝恩を感じるべきだと思っていた。とくに、これまで大中国人やら大中華人になりたくてもなれなか った支那人かぶれの両班にとっては、願ってもない恩寵なのである」「モンゴル人が明によって万里の長城の外まで追われ ると、朝鮮朝の太祖である李成桂は高麗朝から政権を奪い、モンゴル人を叩いて事大の対象を元から明へと鞍替えした。明が 遼東半島に進出していたころ、朝鮮人は明の先頭を切って満州人を征伐したため満州人から恨まれた。そのため、満州人の朝 鮮人に対する大規模な逆襲である丁卯胡乱と丙子胡乱が起こり、朝鮮は清の属国となった。明から清に主人を替えた後の朝 鮮人はじつにおとなしく、清の軍隊召集に馳せ参じ、2回の羅禅遠征と明の征伐に従軍した。父として明を敬っていたはずなの に、新しい父を迎えた途端、明に対して残酷無情な態度を取った。(略)満州八旗軍はかなり軍紀正しい軍隊であったが、盟友 のモンゴル八旗軍の朝鮮蹂躙には、かなり悩まされていた。しかし、朝鮮軍が満州人の軍門に下り清軍に召集されると、今度 は朝鮮軍が旧宗主国の明征伐を通して漢人への凄まじい虐殺と略奪を行ったのだ。(略)明は300年近く朝鮮を保護し、李氏朝 鮮は宗主国である明から国号を下賜された。しかし、いざ明が弱勢になると、朝鮮はすぐさま清に乗り換えて逆に明を逆襲し、 明人を虐殺した」「長城外の夷狄だけでなく、西南のチベット系民族吐蕃でさえ中華世界を一度は征服するか、都を占領し 脅威を与えているのに、朝鮮だけは中華の脅威になったことすらありません。朝鮮は大中華に君臣の礼、君父に忠のみだった のです。『四夷八蛮が皆中原に入ったのにただただ朝鮮だけできずにいる。こんな情けない国に長生きしていてもどうにもなら ない』と嘆きつつ亡くなった林白湖という儒者がいるほどです」と書いている。