纏向遺跡、箸墓古墳の研究で、
邪馬台国女王の卑弥呼の正体ではないのか?といわれている
倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)。
(古事記では、夜麻登登母母曾毘売命)
彼女について、いろいろ語ろう♪
【家系】
孝霊天皇の皇女。
『日本書紀』では、母は、倭国香媛(やまとのくにかひめ)。
同母兄弟に、倭迹迹稚屋姫命、彦五十狭芹彦命らが、
異母兄弟に孝元天皇がいる。
『古事記』では夜麻登登母母曾毘売命。
同母兄弟に日子刺肩別命、比古佐勢理毘古命、
倭飛羽矢若屋比売がいる。
【巫女としての神話】
巫女的な性格をもつ。紀元前92年に崇神天皇に頼まれて、
災害がつづく理由を占うと、三輪山の大物主神が神懸かりして、
我を祀れば国は治まるといった。そこで崇神は、
神の娘大田田根子を大神神社の神主にすると、平和になったという。
紀元前88年には、四道将軍の一人、
大彦命がきいた童歌から武埴安彦命の反乱を予言したうえ、
彼の妻吾田媛と二手に分かれて攻めてくるとも予言し、
的中させている。
【箸墓伝説】
崇神紀十年の条に有名な箸墓伝説が記されている。
倭迹迹日百襲媛命大物主神の妻となるが、
大物主の本体が蛇であることを知って驚き、
倒れこみ、箸が陰部に刺さって死んだ。箸墓古墳は、彼女の墓と伝わる。
5 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 20:36:29
3世紀半ばすぎにデカイ墓に葬られた事と、霊能力を駆使した事が、魏志倭人伝の卑弥呼の記事と似ているのは偶然なのでしょうか?
気にする程の事ではないのですか?
良きライバル?の天照大御神の記事と魏志倭人伝の卑弥呼の記事とは全然似ていないと思うのですが。
良く言われる事ですが、魏志倭人伝の卑弥呼の記事に、日食の話なんてないです。
7 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 21:09:35
>>3 >そこで崇神は、神の娘大田田根子を大神神社の神主にすると、平和になったという。
いつから大田田根子は女性になったんだ?
大田田根子も小野妹子も男性だぞ
8 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 22:03:51
古事記には、箸墓伝説は無い
9 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 22:41:18
「海部氏勘注系図」によると9世孫、日女命は倭迹迹日百襲姫命です。
もちろん邪馬台国の卑弥呼で天照大神です。
ちなみに11世孫、日女命は卑弥呼の後継者の台与で豊受大神です。
10 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 23:16:31
11 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 23:28:05
■特別展 弥生建築 ─卑弥呼のすまい─
・大阪府立弥生文化博物館
・平成21年4月25日(土)〜6月7日(日)
・休館日 毎週月曜日(ただし5月4日[月祝]は開館し、7日[木]休館)
・入館料 一般600円/65歳以上・高大生400円
これまで、弥生時代の建物は、その全容がわかる状態でみつかった例はありません。そのため、弥生時代の建物を知るには、遺跡の調査でみつかる掘立柱建物や竪穴住居など建物の跡をもとに、建物の構造や柱の並び方、大きさなどを考えます。
そして、その上にあったはずの建物については、鏡や大刀の飾り、土器や土製品に表現された建物を参考にして考えてきました。
ところが近年、鳥取県青谷上寺地[あおやかみじち]遺跡(鳥取市)で弥生時代の建築部材がまとまってみつかり、建物の姿をより具体的に考えることができるようになりました。
ここでは、溝のなかから柱や壁、床などの板材、角材のほか、屋根材がまとまってみつかり、建物を復元することが可能になったのです。
こうして青谷上寺地遺跡で出土した建築材をもとに、掘立柱建物や竪穴住居の跡がまとまってみつかった鳥取県妻木晩田[むきばんだ]遺跡(西伯郡大山町)では建物が復元されています。
また、みつかった柱や桁、床板などには、材をつなぐために加工した孔やくり込みや、材の表面を平らに削ったあとが見られます。
弥生時代の工具は石斧や石鑿など石製のものが主ですが、青谷上寺地遺跡では鉄斧、鉄鑿など鉄製の工具が数多くみつかっており、建築部材の加工には、こうした鉄製のさまざまな工具も使用されたと考えられます。
竪穴住居を建てるには、まず、穴を掘ることで床と壁ができあがるため、あとは柱を立て、桁と梁を組み、屋根をかけることでできあがります。一方、掘立柱建物は、柱を立てて床を貼り、あるいは壁を立ち上げ、屋根をかけることでできあがります。
床を貼るためには、柱に穴をあけ、材を組み、床材が必要となり、壁を立ち上げるためには柱に穴をあけ、くり込みを入れ、壁材が必要となります。
つまり、掘立柱建物を建てるには、材に細かな加工を施すことができるさまざまな工具が必要であり、鉄製の工具はこうした加工に威力を発揮したと考えられます。(以下略)
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/tokubetsu/h21_haru.html
12 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 23:37:52
13 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 23:53:47
大阪府立近つ飛鳥博物館 開館15周年記念
■春季特別展 「卑弥呼死す、大いに冢をつくる─前方後円墳の成立─」
・大阪府立近つ飛鳥博物館 (大阪府南河内郡河南町東山299)
・4月25日(土)〜 6月28日(日)
・休館日 毎週月曜日(ただし、5月3日の月曜日は開館します)
・入館料 一般600円[480円]、 65歳以上・高校・大学生400円中学生以下・障がい者手帳をお持ちの方(介助者を含む)は無料
大阪府立近つ飛鳥博物館は、平成6年に「日本古代国家の形成過程と国際交流をさぐる」をメインテ−マにかかげ、おもに古墳と古墳時代の専門博物館として誕生し、今年で開館15周年をむかえました。
日本列島では、3世紀中頃から6世紀まで、およそ350年間で数十万基ともいわれる古墳がつくられました。そのはじまりと考えられる3世紀中頃は日本列島において弥生時代から古墳時代へと時代が移り行く変革期にあたります。
巨大な墓を築くことでそれぞれの存在を示し、その巨大な墓が媒体となり各地の権力者が結びつく。ひとつの墓が様々な意味を表す時代が到来したのです。
このたびの特別展では、各地につくられた3世紀の墳墓の副葬品と埋葬施設から弥生時代の終わり頃にみられる各地の首長墓の特色を描き出し、巨大な前方後円墳の成立を考えてみたいと思います。
・内行花文鏡(福岡県平原方形周溝墓)[国宝]
・ガラス釧(島根県西谷2号墓)
・銅釧(京都府芝ケ原古墳)[重要文化財]
・二重口縁壺形埴輪(奈良県箸墓古墳)
・画文帯神獣鏡(奈良県黒塚古墳)
ほか
http://www.mediajoy.com/chikatsu/2009_spring/index.html
14 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 23:55:11
>>7 日本書紀では、大田田根子は女ということになっている。
15 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 00:33:59
>>13 ●近つ飛鳥博物館特別展 「卑弥呼死す、大いに冢をつくる−前方後円墳の成立−」 関連事業
講演会・発掘調査報告会
今季特別展の半券または年間パスポ−トが必要です。
※12時より1階ロビ−で入場整理券を配布します。
○講演会
5月17日(日) 鈴木靖民氏(國學院大學教授) 「3・4世紀の倭国と東アジア」
5月31日(日) 白石太一郎(大阪府立近つ飛鳥博物館長) 「卑弥呼の死と前方後円墳の誕生」
6月14日(日) 岡村秀典氏(京都大学人文科学研究所教授) 「中国における3世紀の鏡と墳墓」
6月21日(日) 水野正好氏((財)大阪府文化財センタ−理事長) 「倭国がつくりだした大王墓の形象 ?前方後円墳?」
時間: 午後2時〜3時30分
会場: 地階ホール
定員: 200名
○発掘調査報告会
6月6日(土) 『3世紀の墳墓の最新情報』
時間: 午後1時30分〜午後4時
会場: 地階ホール
定員: 200名
http://www.mediajoy.com/chikatsu/2009_spring/index.html 大阪府立近つ飛鳥博物館
http://www.mediajoy.com/chikatsu/index_j.html
16 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 01:29:18
17 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 02:53:33
18 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 11:38:53
父曰大物主大神。母曰活玉依媛。陶津耳之女。
亦云。奇日方天日方。武茅渟祇之女也。
父は大物主
母は陶津耳の娘の活玉依媛
奇日方天日方の末裔、武茅渟祇の娘とも言う
*奇日方天日方 父事代主 母活玉依姫
19 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 19:23:09
20 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 03:06:06
>>17 勘違いだな。
大田田根子命は男だ。
平和になったというのは、四道将軍の平定の後だから
台与(豊鍬入姫命)擁立。
トヨタン・・・・・・・・・・
22 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 03:26:14
あげとくよ
23 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 05:53:18
桃太郎の姉
24 :
縦目仮面:2009/05/13(水) 21:52:47
このスレも伸びんな。人がいないのをいいことに自説をカキコ。俺は崇神陵=柳本行燈山
古墳説はとらない。
まず、崇神帝の比定としては、倭迹迹日百襲媛命=卑弥呼の観点から、>更に男王を立
てしも、國中服せず の男王にあてる。古事記では崇神天皇の没年を干支により戊寅とし
ており、266年の倭女王の朝貢を台与の事績と見て、これを258年とする。
俺の見るところでは、行燈山古墳は4世紀にかかるものであり、この没年とは合わない。
25 :
縦目仮面:2009/05/13(水) 22:15:04
続き
崇神帝は古事記によれば、山邊道勾(まがり)之岡上に葬られたとある。また、かなり後代
になるが、延喜諸陵墓式に、手白髪皇女(継体天皇后)の衾田陵について、
>守戸なし、山邊道勾之岡上の陵戸をして兼守せしむ。 とあるように、崇神陵と近接して
存在していると考えられる。
衾田陵については東殿塚古墳説もあったが、近年、真の継体陵とされる今城塚古墳と同じ
新池埴輪窯で焼成された埴輪の出土が見られた、西山塚古墳に比定することがほぼ定説
となりつつある。
26 :
縦目仮面:2009/05/13(水) 22:26:30
続き
つまり、西山塚古墳に近い大型古墳として、西殿塚古墳=崇神陵であると考えるのが俺
的には正しい。
手白髪皇女が継体帝の后となった理由については、よく言われるように、応神帝五世の
子孫といわれる継体帝に古くからの血筋を繋ぐためのものであったろう。そして、崇神帝
からの血をひく最後の女性である手白髪皇女は、大阪高槻にある継体陵の近くではなく
その一族発祥の地である崇神陵の近在に葬られたと考える。
台与が240年頃の生まれであるとするなら、現在の崇神陵、行燈山古墳が実は台与の
墓である可能性もかなりあるのではないだろうか。
27 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 06:39:04
>>11 >>13 畿内説が何の根拠もないのに、卑弥呼と関係があるように見せかけるのは
問題じゃないかな。詐欺的商法だ。
28 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 10:44:28
>>27 吉野ヶ里はどうなのさ?
ヒミカってなんだよ?
29 :
サガミハラハラ:2009/05/15(金) 12:02:28
ヤマトトトヒモモソ媛の出典は崇神天皇の10年であるが、これは復元日本書紀紀年法によれば、西暦273年秋年の前年のことととなります。
墓は橋墓とよばれたとあり、これは現在の箸墓と同一であるとみられます。
邪馬台国は九州佐賀県小城市甘木であるから、媛は卑弥呼ではありません。
卑弥呼は上古音ではヒミカと発音していました。
卑弥呼は在任中の230年代に遷都して小城に移住しました。それ以前は吉野ヶ里の北内郭の荘厳な建物の中にいました。
30 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/15(金) 12:28:22
サガミハラハラさん
神武即位が131年では以下の在位期間がすこし狭小すぎないかという
疑念を持たないかね?
31 :
サガミハラハラ:2009/05/15(金) 12:31:00
ヒミカとはアイヌ語のピリカに通ずるもので、ピカピカ、ピカ一、ヒカリとも同義語であり、
光り輝く様とかとても素晴らしいものとかの讃美の言葉です。
よって卑弥呼は個人名ではなく職名、称号みたいなものです。
32 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 13:22:37
33 :
縦目仮面:2009/05/15(金) 20:38:28
神武帝からの皇紀2600年というのは、全く無根拠なものではない。
橿原遺跡・・・橿原神宮外苑、縄文時代晩期中心の西日本を代表する大集落跡として知ら
れる。皇紀2600年記念事業として、外苑の整備工事に先立ち、昭和13年から約2年半、
面積約10万m2の当時としては類例のない大規模発掘調査。縄文時代後期後半の宮滝式
土器から晩期後半の凸帯文土器までほぼ継続した形で出土。中には稲の種籾が入ったもの
も。
注目点としては、、イチイガシ(檪樫)の大樹根が多数出土したこと。東北地方中心に分布す
る大洞式系土器も含まれ、後に「橿原式土器」と呼ばれるものは、この東北系土器の強い影
響下に成立したと考えられること。
34 :
縦目仮面:2009/05/15(金) 20:54:35
続き
さらに、戦後、鹿沼景揚氏が、これらの遺物に米ミシガン大学においてC14による年代測定を
実施したところ、前600年±200年の結果が出たとされている。また、この遺跡だけでなく神武
帝の事績が伝承される地には縄文晩期の遺跡が見られることが多い。
ただ、戦前の調査に関しては国威発揚などの観点から割り引いて考える必要があるだろうし、
発掘や年代測定のの技術水準の問題もある。
しかし、俺的には、神武伝説縄文晩期の物語であり、なんらかの史実が反映されていると
考えざるを得ないデータと見る。さらに、そこには九州からの東遷どころか、東北地方の強い
影響が感じられる。
35 :
横やり:2009/05/15(金) 21:05:15
モモぴーは、卑弥呼じゃないよ
だって古事記で粗スルーされてるじゃん
36 :
縦目仮面:2009/05/15(金) 21:28:01
37 :
サガミハラハラ:2009/05/15(金) 22:48:36
>>30 初期天皇の治世年代について、当年称元法によると
神武即位131年没年150年で在位20年 スイゼイ即位150年没年158年で在位9年
安寧即位158年没年168年で在位11年 イトク即位168年没年176年で在位9年
孝昭即位176年没年197年で在位22年 孝安即位197年没年222年で在位26年
孝霊即位223年没年241年で在位19年 孝元即位242年没年256年で在位15年
開化即位256年没年271年で在位16年 崇神即位271年没年288年で在位18年
となります。神武即位131年から崇神崩御288年までは157年10代となり、1代平均15.7年となります。
さてこの15.7年はどうでしょう。安本美典氏は始めのころの天皇は10年ぐらいといっております。
怪しいとすれば2代から3代にかけてでしょうか。
ちなみに神武は101年生まれで150年死亡ですから50歳となります。
書紀の垂仁までは4倍年で記載されています。
38 :
日本@名無史さん:2009/05/16(土) 00:16:50
神武天皇と崇神天皇は同一人物で欠史八代の天皇など日本の歴史上存在しない。
天皇家の祖先は五月蝿の語源である磯城県主葉江で初代天皇の崇神天皇は
古代大和政権の祭祀権を掌握していた海人族の入り婿に過ぎない。
神武もその父親も鮫から生まれた鮫太郎だとしつこく書いてるしね。
40 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/16(土) 10:35:13
>>38 記紀は探偵小説ではない。まるでA、Bとか云う人物が架空の人物
だったなどとは、よく探偵小説で使われる筋だろうが。ww
まるで 明智小五郎=二十面相 のような主張であり、津田病に罹患
した古代史論では妄想の典型だ。ww
そういうのは探偵小説を読むときやってくれればいい。ww
41 :
サガミハラハラ:2009/05/16(土) 10:59:16
>>37この中で神武の年齢については計算が特殊なので以下にしめします。
生年の101年から即位の131年の前年までは、2倍年暦で計算します。30×2+1(タケリノ宮に7年、高島の宮に8年合計15年よって2倍年暦なので7.5年となるがこの0.5年は2倍年暦になおすと1年となる)、よって61歳、それに
即位131年から没年の150年までは4倍年であり、在位76年とあるので61+76は137歳となる。
これは古事記の神武の年齢137歳と同じである。
神武だけは年齢においては2倍年暦と4倍年をくみあわせるという特殊なものである。
42 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/16(土) 11:03:53
2倍と4倍をどうして当時の朝廷がやったのかという根拠は、
いったいどのようなものなの?
外出なのでいずれ。
43 :
日本@名無史さん:2009/05/16(土) 12:52:52
古代日本では倍暦・倍干などの愚かで恥ずかしい暦・干支は使用していない。
古墳時代の天皇が長寿なのは古事記・日本書紀の作者が辛酉革命説によって
天皇家の起源を紀元前660年に設定したによる。これによって天皇を長寿に
捏造しなければならなくなり偽者の天皇である神武天皇と欠史八代の天皇を
偽装して記・紀に書き加え年代を合わせた。
44 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/16(土) 13:59:39
>>43 日本には辛酉革命なんて毛先ほども起こったという記録はな〜い。
これは伴信友と那珂博士の中途半端な研究からの即断による妄想
なのであ〜る。従って太安万侶、舎人親王らが偽装したものでは
なく、当時日本側が大陸と異なり倍暦を行使していたために、大陸
と後世日本の記録編纂者が双方の年代の照合をやっても合わせられ
なくなり、その照合の失敗が神武即位を紀元前660年にまで行かせ
ることとなったものである。断じて偽装ではない。
だいたい偽装したのなら、お上にばれるのが必定であり、遅かれ
早かれ彼らは公文書偽造で打ち首、軽くて島流しは免れないが、
そうなったという話は聞いたこともない。つまり偽装というのは
妄想たる那珂博士らの論を用心もせず脳内に進入させたオマエさんの
二次的増幅妄想結果の哀れな思考なのである。
倍暦の干支は勘注系図の成務の記述にも記録があり、それがしの倍暦
が正確であったことを裏付けている。系図の乙亥がそれである。
45 :
縦目仮面:2009/05/16(土) 16:50:44
ま、普通言われるのは那珂通世の説で、
日本書紀はその紀年を立てるにあたって中国の前漢から後漢に流行した讖緯説(しんい
せつ)を採用しており、推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から逆算して12
60年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年として起点設定した
とのもの。
これは隋の煬帝により禁圧されて散逸した讖緯説の書の逸文である「易緯」の鄭玄注に、
干支が一周する60年を1元(げん)といい、21元を1蔀(ぼう)として算出される1260年(60
×21)の辛酉(しんゆう)年に、国家的革命(王朝交代)が行われる(辛酉革命)という事に
ちなんでいる。
これ自体は大きな間違いはないと思われるが、俺的には上記のように考古資料から、神武
帝の事績を思わせる縄文晩期〜弥生初期の何らかの史実が橿原周辺にあり、少なくとも
記紀編纂時まで伝承されていた、と見る。ま、それに近い年代ということで、讖緯説の前660
年を当てはめたと考えることもできる。
46 :
縦目仮面:2009/05/16(土) 17:20:08
青森の三内丸山遺跡は、前20〜30世紀(今から4・5千年前といったほうがわかりやす
いか)の縄文遺跡だが、大型掘立柱跡、大人と子供の墓域が分かれていること、クリの栽培?
北海道や越との交易・・・などからある程度の部族リーダーは存在しただろうと思われる。
縄文時代は全体的に戦乱とは遠いイメージであるが、現在では前660年あたり(この数字
にこだわってるわけではない)は弥生前期とされるが、そのあたりに大和三山近辺をまとめ
た一人のリーダーの伝承が残っていても不思議とは思わない。
上記橿原遺跡から出土する「橿原式土器」は、瀬戸内東部〜関東地方からの出土もあり、
幅広い交易の様子もうかがえるが、全体としては東北地方の土器の強い影響下に成立
したことが特筆される。
47 :
日本@名無史さん:2009/05/16(土) 17:33:13
>>44 古事記・日本書紀の作者は推古天皇9年(601年)辛酉の年を起点にして
辛酉の年である紀元前660年に辛酉革命が起こったことを捏造したのである。
歴史偽装の首謀者は天武天皇で実行犯は舎人親王・太安万侶などである。
これが天皇記・国記を作った推古天皇・聖徳太子の時代だったら偽装犯達は
市中引き回しの上で打ち首獄門だったであろう。
海部氏勘注系図に「稚足彦天皇御宇、乙亥年秋九月、令諸國被立長矣、」
とあるが、これが愚かな倍暦・倍干のあった証拠になるのか?恥ずかしい。
48 :
縦目仮面:2009/05/16(土) 17:45:25
>>47 俺も恥ずかしいと思うが、太国氏には何を言ってもムダだろう。過去の議論でよくわかった。ww
ま、倍暦を否定されることは、2ch上の存在意義の否定だと思ってるんだろう。
49 :
日本@名無史さん:2009/05/16(土) 18:10:30
倍暦は話にならんけれど、それ以外では時にいいことも言うよ。
まあ、我慢してやろうよ。
50 :
縦目仮面:2009/05/16(土) 18:34:53
まあ、でも太国氏のレスは妄言なりに意味がたどれるんでまだマシだな。過去の美濃もん太
氏との戦いwwでは、突然予測もつかない例が引き合いに出されるんでまいった。姿を見なく
なって久しいが・・・。
51 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/16(土) 18:45:51
>>47 それはあんたの妄想だよ。那珂博士に騙されたのさ。辛酉革命
なんか日本に起きてはいないよ。後の辛酉の年代には革命なんか
起こってはいない。
真相は当時大陸は通常の暦法を使ってたが日本側が倍暦法を行使して
いたため、むこうとこっちの年代が百年以上も大幅に段差が生じて
いたことを気付けなかったむこうとこちらの舎人親王らが苦心惨たん
して年代の調整照合を試みたが倍暦を知らないので成功するわけも
なく、紀では神武即位がB.C.660年になってしまったということ
である。そのためそのしわ寄せが来たのがとりわけ欠史八代であり、
外国記事と全然年代が合わないから困ってしまい、そこの部分の記事
を挿入できなかったものだ。だから欠史になっている。
干支は漢字がいかめしいため1年違えば大違いに見えるのが現代人の
使っているアラビア数字との相違であり、このため神功を卑弥呼に
当てたのは前者が後者だと思っていたんだろうが、干支の倍数たる
120年の移動は干支二巡で辻褄が合うようなので神功紀に卑弥呼の
記事を載せたものだ。
だいたい仲哀、神功の代ころから120年に近接することから、この
あたりから紀に大陸半島関係の記事が載ってるのはそのためであり、
それ以前は120年から遠のくとかで外国記事を割愛して来たのが
真相なのだ。仲哀、神功より古い時代にはこれで大陸半島の記事が
殆ど見られないのはその事由によるのだ。
52 :
日本@名無史さん:2009/05/16(土) 21:32:32
初代天皇は崇神。卑弥呼=倭迹迹日百襲姫の前は大物主の時代。
最高の権威は三輪山にあった。意富多々泥古は禰子、つまり神の子である。
53 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/16(土) 21:36:56
崇神天皇は10代目の天皇。正月も旧正月とともに2回ある。
54 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 20:37:38
ヤマトのトビのモモソ姫
ヤマトとは奈良盆地東部
トビは茶臼山古墳のある辺り
モモソ姫だわ。
オオの土地より南側の山だな。
オオはオオビコとかオオサギとかよく出てくるよな。
忍坂オオ中姫とか
ヤマトにはオオ族とトビ族それにイソ族なんかがいたようだな。
ちなみに箸墓あたりはオオとイソの中間だな。
55 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 22:00:43
オオモノヌシやオオタタネコもオオ族じゃね?
「海部氏勘注系図」によると9世孫、日女命は倭迹迹日百襲姫命です。
もちろん邪馬台国の卑弥呼で天照大神です。
ちなみに11世孫、日女命は卑弥呼の後継者の台与で豊受大神です。
トヨタン・・・・・・・・・・
58 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 22:59:31
オオとは桜井市の地名に現在も名残がある。とオオドノ、オオバラとかね!
トビはトビそのもので残っている。
イソはイソノカミ、イサガワなど名残がある。
イザホワケなどもそうだろう。
イソ+アナホ+ワケだな。オオ+シロ+ワケはオシロワケだな。
59 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 23:03:27
台は台与の場合はトヨと読むのに、邪馬台国だったら、ヤマタイと読むんだ。
台をトヨと読むんだったらヤマトと読まないと変だろ?
60 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 23:07:26
白髪大王の時に名代を定めたとあるけど、人の名前から地名を名付けただけ。
地名からは人名につけるケースがそれまでは一般的だったから、特異な例として業績とされたんだろ?
61 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 18:27:57
62 :
横やり:2009/05/19(火) 21:38:55
>>43 二倍暦は、あったと思うよ
二倍暦で逆算していくと、倭の五王の記事と書記の年代記がぴったりと
一致するから
63 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/19(火) 21:48:39
合わないと思いますがね。合うなら論述を・・・。
64 :
横やり:2009/05/19(火) 22:27:33
昔、一度説明したけど
まず、古事記の崩年のデータと書記の年代記を比較すると
書記の方は、
在位60年以上の天皇には干支を一巡繰り入れているのが判る
これを修正すると允恭以外は両者は近いデータになる
開化、景行、成務は在位0年
更に
垂仁の即位年を倭王讃の遣使の年だと仮定すると
65 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/19(火) 22:31:51
在位0年じゃぁ天皇に即位しないよ。wwwww
66 :
横やり:2009/05/19(火) 22:40:14
つづき
二倍暦により書記の年代記を半分して当てはめていくと
414 垂仁即位
407〜418 安帝の時、倭王賛あり(梁書)
421 倭王讃朝貢し、徐授を賜う(宋書)
425 倭王讃、貢献(宋書)
430 倭王讃、方物を献ず。
434 景行、成務、仲哀即位
438 讃死す。弟珍立つ。遣使貢献す。神功皇后即位
443 倭国王済、遣使貢献す。応神即位
451 倭国王済に六国諸軍事を加う。
460 倭国遣使、方物を献す。
461 応神崩御
462 倭国王済死、世子、興遣使。
463 仁徳即位
477 倭国遣使、方物を献す。履中即位
478 倭国王興死。弟武立つ
479 倭王武を鎮東大将軍とする。
480 反正即位
482 允恭即位
502 倭王武を征東大将軍とす。
503 安康即位
67 :
横やり:2009/05/19(火) 22:41:43
つづき
よって
讃=垂仁
珍=仲哀or神功
済=応神
興=仁徳
武=履中+允恭
となる
68 :
サガミハラハラ:2009/05/19(火) 22:44:32
倭の五王の武は雄略のことで、かれの在位年間は普通暦です。安康以前は2倍年暦ですが、履中は五王の中に入っていません。
貢献しなかったものでしょう。讃は仁徳ですが22年(2倍年暦では44年)の虚構年がふくまれております。
これは神功皇后を卑弥呼の時代にあわせるための工作であるとかんがえられます。
69 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/19(火) 22:55:38
>>66 いいかい。梁書には 永元元年=499年 に、乙祁(袁祁=顯宗天皇)
の情報が大陸に行った僧慧深によっての記載がある。だから允恭の
代が502年武王将軍号は不成立だよ。
それがしの倍暦計算にて
永元元年=499年=顯宗即位元年
で顯宗年代でピタリと時代が合っている。さらに同計算で
502年=仁賢即位元年
だ。502年に武王が将軍号をもらったとなると、畿内の天皇ならば
この仁賢しかありえない。この年、顯宗もこの世にいないしね。
そうすると済王あたり以前は、五王が天皇なら安康、雄略、清寧、
顯宗、仁賢となるから、済王前の年代は安康前の允恭以前になり、
六王七王とせねばならなくなるから、五王は畿内の天皇ではないこと
が確認できる。そうなると結局、五王は九州の王だというのが真
だと解かってくるのだ。
70 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/19(火) 23:03:08
系譜を分断して考えるのはまぁ間違いだな。
71 :
横やり:2009/05/19(火) 23:16:48
乙祁は、倭王の呼び名だろ
72 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/19(火) 23:25:39
>>71 そうだとすると、さっき書きこんだように、顯宗(乙祁)は仁賢では
ないんだから、仁賢即位=502年から顯宗は武王の前の興王としな
ければならないが、これだと天皇の年代と五王の年代の他の突合せが
不合になってくる。だから五王は天皇ではない。はっきりしてる。
73 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/19(火) 23:53:13
>>66 この表だと、景行が434年即位で、景行の時代なったばかりで武内宿禰
が生まれており、だとなると武内は440年前後の誕生だ。さらに仁徳
は463年即位で477年手前で崩御だとしてるから、武内宿禰は470年頃
没となる。ところが仁徳は武内を知る限り日本一の長寿者と言って
るわけで、あんたの編年からは武内大臣は30歳ばかりで死んだこと
になる。おかしくはないかね?w
さらに三帝が同年即位などとは妄想すぎだと想わないかい?
74 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 09:59:57
倭と日本は別の国です。倭王武とかはヤマトの天皇とは関係ありません。倭は日本に滅ぼされた九州の王朝です。
75 :
ローガン:2009/05/20(水) 10:43:29
>>74 > 倭と日本は別の国です。
ほう、根拠ありますか?
>倭王武とかはヤマトの天皇とは関係ありません。倭は日本に滅ぼされた九州の王朝です。
指し示す史料を提示してください。
76 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 10:43:46
むちゃな計算方法だな。
倭の五王に血縁関係があると考え過ぎ。
77 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/20(水) 10:48:52
>>72のとおり、五王は天皇にあらず。梁書から明確だな。
78 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 10:53:10
この時代に天皇がいた?
はぁ?
79 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/20(水) 11:09:35
五王の時代、天皇は畿内にいたよ。五王は九州の王だ。
諸葛亮の言ったごとく、卑弥呼のころは、大陸は天下三分の計の内容
だったが、日本は天下二分の系だったということだ。ただし五王が
九州王朝の王系でなければ、この時代に限って日本は天下三分の系の
時代だったということになる。
80 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 11:17:53
全くはぁ?
天皇の王権なんか天智天武まで確立されてないはず。
それまでの脆弱な王権もひとつの家系には属していない。
複数の家系により交代している。
商やスパルタみたいにな。
81 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 11:57:53
>>74 >倭と日本は別の国です。倭王武とかはヤマトの天皇とは関係ありません。
>倭は日本に滅ぼされた九州の王朝です。
これは古田武彦の九州王朝説そのままの主張だが、
九州王朝説なるものは直截に九州における王朝の実在を記す一次史料が無い。
歴代王の名前を掲載するような同時代資料も一切無い。
ずべては古田の想像・妄想から来ているのであり、古田の著作をもって根拠とするわけにはいかない。
九州でも3世紀後半以降、7世紀まで各地で古墳がつくられ、
中には規模の大きい前方後円墳もあって各時代に有力者の存在したことが窺えるが
これらは地域の大豪族の墓とは言えても、王権を次々と継承していった「王朝」のものと言える何らの根拠も無い。
最大規模級のものが筑後、日向、大隅と分散しているもの「九州王朝」なるものの実態とはほど遠い。
また筑前・豊前・肥前の前方後円墳は畿内のそれより遥かに小さく、九州の中でも最大とは言えず、
畿内に全国分布の中心がある三角縁神獣鏡の同型鏡があったりするなど
どう考えても畿内政権の勢力下にあって地方支配の一翼を担った首長層のものとしか見なし得ない。
82 :
ローガン:2009/05/20(水) 12:46:23
83 :
縦目仮面:2009/05/20(水) 13:37:19
84 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 13:42:41
箸墓は5世紀の築造。
なにしろ馬具が出土しているのだから。
倭人伝に寄れば倭国には「牛馬なし」だから、三世紀の築造ではありえない。
鐙の発明は中国で三世紀末〜4世紀と言うのが定説。
馬のいない倭国に鐙だけが飛んで来たなんて噴飯物。
畿内説の橿原考古学研究所でも既に箸墓は卑弥呼の時代より後に築造されたと見ている。
85 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/20(水) 13:57:53
>>80 五王の時代とは神武以後は堅いから、天皇がいたことは疑うあんたが
おかしいわけだよ。www
86 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 13:58:54
>>84 箸墓の堀から見つかった馬具は遺跡の撹乱であると言うのが定説です。
87 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/20(水) 14:05:54
当時の日本は天下二分の系だったのだよ。日本だけ一国なんて言っ
たって、記紀に独立した記事のない卑弥呼とか、記紀に記載がなろう
五王が畿内の女王、王であるwaけもあるまい。wwwa!→
大陸も半島も一国ではない。倭人伝にも小国らしい国々の記事が
あるところから、当然抜きいでた国が九州を支配してたのさ。
それが浮沈を重ね、次第に王朝化して行ったということだな。
→なると畿内以外に女王国が日本にあったのさ。ならばそこは九州
だということが冷静な頭脳の考えなわけね。ww
88 :
縦目仮面:2009/05/20(水) 14:09:04
>>84 5世紀はムチャクチャ。じゃ大仙陵古墳は7世紀になるのか?話にならん。俺だってこの
間、行燈山古墳の周濠から歯ブラシを発掘した。www
89 :
ローガン:2009/05/20(水) 14:11:54
>>84 > 鐙の発明は中国で三世紀末〜4世紀と言うのが定説。
ほう、そんな「定説」聞いたことがない。そのソース、書けますか?
> 畿内説の橿原考古学研究所でも既に箸墓は卑弥呼の時代より後に築造されたと見ている。
え、それって本当に「橿考研」の見解ですか? うふふ。
90 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/20(水) 14:14:51
>>87 訂正
× 記紀に記載がなろう五王
○ 記紀に記載がなかろう五王
91 :
縦目仮面:2009/05/20(水) 14:30:20
中国での鐙の発掘例は4世紀頃からなのは確か。初期のものは片側だけなので、馬に乗る
ための足がかりとして用いられていたと考えられる。三国志の映画や漫画のように馬上で
切り結ぶシーンがあったかどうかは大いに疑問視される。日本での鐙の使用は5世紀から
でよいと思うが、それと84レスの真偽はまったく別次元の話。
92 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 14:45:53
鐙の起源が3世紀の日本だと主張したって別にかまわんのだけどね。
鐙とは、もともと、乗馬になれない人用の道具だからな。
日本人は、道具の改良には天才的だから。
93 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 15:09:30
太国の文章キモい
太国はもうだめぼ…
95 :
縦目仮面:2009/05/20(水) 19:48:32
他スレで太国氏のレスを読んだが、赤壁で諸葛亮が方術で風を呼んだと信じているらしい。
まあ、俺の知ってる範囲では、食生態学者にして登山家の西丸震哉氏が、自分は雨やみの
術を心得ていると書いたのを著作で読んだ。どこかに出かけるときなど、その地域に降るはず
の雨を1日程度延ばすことができる術で、インドでヨーガの修行者から習ったという。
あまりスレ違いのことを書いてもしょうがないんで、邪馬台国関連では西丸氏がニューギニア
探検をしたとき、原住民は、山がちの道なき道をマラソンランナーのようなスピードで走り、つい
ていくのに大変だったという記述があり、行程距離・日数の考察の参考に引かれることがあるね。
この「山とオバケと自然界」俺は面白かった。↓
http://nishidam1.web.infoseek.co.jp/author_1.htm#yamatoobake
96 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/20(水) 19:57:15
信じてる信じてないというよりも、風が某方角から吹いて〜曹操は
負けたんだよ。そっちのほうが重点なのさ。それを揚げ足を取りたく
て、また奴が自分を間抜けを言われてると思いこんだらしく、祈り
のほうに話をそらして突いてきたわけさ。
だから諸葛亮の方術もいいが、そんなことより魏の連中はその方角
からの風でコテンコテンにやられたんだから、その30年余前の苦渋の
思い出を鮮明に覚えているはずだし、方角を間違える間抜けなザマ
は2回も繰り返さんだろうと言いたいわけよ。
だから伝の南が東になるなんて、どうころんでも許容はありえっこ
ないということだ。
97 :
横やり:2009/05/20(水) 20:01:33
なんか皆、箸墓が3世紀中期にしか存在しなかったと思っているみたいだな
なんであんな巨大な塚が造られたと思う?
箸墓は、共同墓地だよ
98 :
縦目仮面:2009/05/20(水) 20:27:29
>>97 また、面白い人が出てきたな。どうぞその説をもそっと詳しく。
99 :
ローガン:2009/05/20(水) 21:18:15
どうした?84さん。返事がないぞw
100 :
横やり:2009/05/20(水) 21:39:41
>>98 なんか生意気そうな奴だな
釣られてやるか
前世紀までは、考古学者達は箸墓を4世紀の建造物と断言していたんだよ
これは形状や出土品から想定したものだ
しかし今世紀になると炭素測定法により3世紀中期に変更された
前世紀息巻いていた連中の研究成果はなんだったのか?
」
正解は、どちらも間違いではない
箸墓は、3世紀中期に造られ5世紀初頭まで奉られていた、という事だ
ローガンさんが腕あげとる・・・
102 :
縦目仮面:2009/05/20(水) 22:17:33
形状や出土品から実年代を割り出すのは実は容易ではない。前後関係は、まあ正確に
たどれるんだが。
>前世紀息巻いていた連中の研究成果はなんだったのか?
これは、学会内のパワーポリティックスも大きく影響している。残念なことだが、息巻くた
めには追従することが必要だったというか・・・。
>5世紀初頭まで奉られていた
これは追葬があったということかな?
103 :
横やり:2009/05/20(水) 22:54:09
最後に埋葬されたのはモモタンだろうな
104 :
縦目仮面:2009/05/20(水) 23:47:49
しかし、奉られていたというならあのあたりの巨大古墳はみな祀られていたんでないかな?
箸墓の正式名は「倭迹迹日百襲媛命大市墓」なんで、「大市」というからには賑わっていた?
ただ、「大市」には「大斎(おおいつき)」、つまり大いなる巫女という説もあるね。
105 :
ローガン:2009/05/21(木) 00:07:28
未調査ゆえ、他の調査済の古墳からの想像ですが、箸墓は墳頂(5段目)に盛土した段階でマツリは完了でしょう。
106 :
縦目仮面:2009/05/21(木) 00:19:38
今とは違ってピカピカの葺石と特殊器台・円筒埴輪・・・完成時は偉容だったろうな。
107 :
日本@名無史さん:2009/05/21(木) 10:57:57
>>104 >箸墓の正式名は「倭迹迹日百襲媛命大市墓」
誰がつけた正式名?
108 :
縦目仮面:2009/05/21(木) 20:05:41
109 :
日本@名無史さん:2009/05/21(木) 21:01:00
>>97 >>100 横やり
>箸墓は、共同墓地だよ
は?
>>102も聞いているがそれは追葬があったと言う事なのか?
そもそも追葬なんて横穴式石室が登場して可能になった物…ってのが一般的に言われている物なんじゃないのか?
無論、箸墓の構造なんて現時点は分からないのだろうが…
110 :
横やり:2009/05/21(木) 22:19:26
垂仁は、殉葬を禁止している
神功は、合葬を禁止している
それ以前の古墳は、先祖代々の墓みたいなものじゃないのか
そうじゃないと奈良盆地は古墳で埋め尽くされるだろ
少なくとも西都原よりは人口が多かっただろうから
111 :
日本@名無史さん:2009/05/21(木) 22:48:33
卑弥呼の墓=箸墓古墳なら
卑弥呼=百襲媛でいいのかな?
卑弥弓呼=埴安彦
男弟=大彦ってとこかな?
大田田根子=卑弥呼死後立った男王で
崇神天皇は幼かったと
112 :
日本@名無史さん:2009/05/21(木) 23:21:42
>>111 >男弟=大彦ってとこかな?
吉備津彦かもね。
113 :
109:2009/05/21(木) 23:30:17
>>110 横やり
はあ?
じゃあ古墳を「先祖代々の墓」として
折り重なるように出てきた木棺とか人骨とかの発掘例があったのか?w
古墳を何かそれこそ現代の「一家に一つのお墓」として考えていないか?
古墳と言うのは大型首長墓だぞ?分かってる?
多少なりともマジレスした俺が馬鹿だった・・・orz
114 :
日本@名無史さん:2009/05/21(木) 23:59:30
卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命=9世孫、日女命(海部氏勘注系図)=天照大神。
台与=11世孫、日女命(海部氏勘注系図)=豊受大神。
男弟=崇神天皇=9世孫、葛木高千名姫(9世孫、日女命の実妹)の婿殿。
卑弥呼と台与の間に擁立された男王=武埴安彦命。
109
先祖代々の墓と言ったのは例えばの話だ
俺が言っているのは共同墓地
垂仁紀から察するに付近の住民も埋葬されていたのだろう
初期の古墳の埋葬方法では人骨が出てきた例はまれだろ
お前が馬鹿なのは認める
109
先祖代々の墓と言ったのは例えばの話だ
俺が言っているのは共同墓地
垂仁紀から察するに付近の住民も埋葬されていたのだろう
埴輪は、墓石のような目印だったのではと推測する
初期の古墳の埋葬方法では人骨が出てきた例はまれだろ
お前が馬鹿なのは認める
古墳は農地開発の残土。
炭坑のぼたやまの類だよ。
118 :
日本@名無史さん:2009/05/22(金) 00:20:31
>>116 共同墓地ねえ…w
まあ根拠の無い妄想としか言いようが無いなwww
別に人骨でなくとも先に挙げた木棺や副葬品の類でも良い
何か根拠があって言ってるのか?アホw
埴輪が墓石?
そこに戒名でも彫ってあるのか?wwwww
もうアホは消えてくれwwwwwww
119 :
縦目仮面:2009/05/22(金) 00:27:16
なんか、田舎の裏山の斜面が墓地になってるようなイメージだな。
120 :
日本@名無史さん:2009/05/22(金) 00:33:07
この 横やり と言うのが救いようが無いほど馬鹿なのは
古墳を一般的な墓制の延長上として考えているところだなw
まして垂仁の埴輪起源のお話をマジで受けちゃうと
当然埴輪の配置と同じような形で殉葬の跡が見つからなければならないんだが
そんな話は聞いたことも無いwww
言って置くが前方後円墳の全てが宮内庁に管理されているわけでもない。
調査された物もあれば、宅地その他で削られた物
中には道路や鉄道が横切っている物まであるwww
でもその様な殉葬跡と見られるような物が出てきたなんて聞いたことが無いwww
つうか コイツ 文章はやや長いもののサイキバ君?www
121 :
ローガン:2009/05/22(金) 00:42:08
呉志魯肅伝「子敬孤持鞍下馬相迎…云々」と。
帰還した魯肅を迎えた孫権は「私が、子敬(魯肅)の下馬の際、鞍を持って迎えたら、卿の顕彰に足りるか」(でいいのかな)
馬を下りる際、鞍を押さえる必要があるのは片側の鐙に体重がかかって鞍がズレ、下馬する人のバランスが崩れるからではないでしょうか?
孫権の呉に既に鐙はあった事を示す記述ではないかなあと思います。
122 :
日本@名無史さん:2009/05/22(金) 01:01:22
どうなんだろう?
映画やコミックの三国志では関羽や張飛といった豪傑が馬上で
敵将と得物で丁々発止とやりあっているが
当時は鐙も鞍も未発達(鐙の方は無い?)でとてもじゃないが
そんな華々しい打ち合いは無理だったと聞くが・・・
鐙があって降りるときに鞍が一々ずれる構造だったとしたら
馬に乗る時にも鐙に足をかけた時点で鞍がずれ
一々介添えが必要ってことにならないのかな?
123 :
ローガン:2009/05/22(金) 01:26:46
>>122 > 馬に乗る時にも鐙に足をかけた時点で鞍がずれ
> 一々介添えが必要ってことにならないのかな?
ですからそういう役割の下僕がいたと考えられませんか?
その役目を孫権自らが魯肅にしようとする…
自ら下僕をかってでる行為が戦勝し凱旋した魯肅への顕彰かなあと。
124 :
日本@名無史さん:2009/05/22(金) 18:49:15
■大阪府立弥生文化博物館 講演会
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/lecturer/index.html 大阪・滋賀博物館連携企画特別講演会
5月23日(土)
◆「卑弥呼の居処[すみか]とその周辺」
奈良県立橿原考古学研究所総務企画部長 寺沢 薫 氏
◆「鼎談 卑弥呼の居処[すみか]とその周辺」
奈良県立橿原考古学研究所総務企画部長 寺沢 薫 氏
滋賀県立安土城考古博物館学芸課長 大橋信弥氏
当館館長 金関 恕
時 間:午後2時〜4時 ※午後0時30分から整理券配布・午後1時30分から受付
場 所:当館1階ホール
定 員:170名(当日先着順)
聴講料:無料(要入館料)
大阪府立弥生文化博物館 大阪府和泉市池上町4丁目8-27(JR阪和線信太山駅から西へ約600m)
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/ ◇新型インフルエンザ対応について
大阪府立弥生文化博物館は、現段階では博物館所在地(和泉市)が、患者所在地および患者が発生した学校等の所在地となっていない段階のため、通常どおり営業しています。
23日(土)講演会、24日(日)ミュージアムコンサートも現時点では開催する予定です。
なお、感染拡大防止のため、当館職員はマスクを着用させていただきます。また、ご来館者の皆さまにおかれましても、マスク着用等にご協力くださいますよう、お願いいたします。
今後博物館所在地が患者所在地および患者が発生した学校等の所在地となった場合は、臨時休館する場合があります。
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/infuru.html
125 :
日本@名無史さん:2009/05/23(土) 16:56:51
126 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 11:56:26
槨の問題も重要じゃないのかな?
127 :
ローガン:2009/05/25(月) 14:22:56
>>126 > 槨の問題も重要じゃないのかな?
「有棺無槨」ですか。何が問題?
128 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 19:45:04
129 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 06:46:06
AGE
130 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 10:13:38
■奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定
古墳時代の始まりとされる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が築造されたのは240〜260年という研究を国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)がまとめた。
放射性炭素年代測定によるもので、250年ごろとされる卑弥呼の死亡時期と重なる。畿内説と九州説とが対立している邪馬台国の所在地論争にも一石を投じることになりそうだ。
「魏志倭人伝」など中国の史書によると、卑弥呼は2世紀末〜3世紀初め、それまで戦乱を繰り返していた倭国(わこく)(現在の日本)の国々が共通の女王として擁立。
邪馬台国に都を構え、239年には中国・魏王朝に使者を送って皇帝から「銅鏡百枚」など多くの品々を贈られたとされる。
全長280メートルの前方後円墳である箸墓は、最大でも110メートルだったそれ以前の墳丘墓とは規模が大きく違う。強大な政治権力が誕生したことを物語り、時代の画期を示すものと考えられている。
魏志倭人伝にある卑弥呼の墓と、箸墓の後円部の大きさが近いことなどから、古くから箸墓を卑弥呼の墓とする考えがあった。
考古学では、少し前までは4世紀の築造と考えるのが主流だった。宮内庁指定の陵墓で本体の調査はできない。
周囲で出土した土器や他の古墳で見つかった鏡などを手がかりに研究が進み、3世紀後半と見る研究者が増え、卑弥呼との関連が注目されるようになっていた。
歴博は全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定。その結果、箸墓の堀や堤からも出土し、箸墓が築造された時期の土器と考えられている「布留(ふる)0式」が使われた期間を240〜260年に絞り込んだ。
31日にハワイで始まる放射性炭素国際会議と、同日に早稲田大である日本考古学協会の研究発表会で報告される。
歴博研究グループ代表の西本豊弘教授(考古学)は
「慎重に進めた5年間の研究の総まとめで結果には自信を持っている。どのようにしてこの年代を求めたのか、だれでも検証できるように測定データも含めてきちんと公表するようにしたい」
と話している。(渡辺延志)
朝日新聞2009年5月29日
http://www.asahi.com/culture/update/0528/TKY200905280355.html
131 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 10:28:24
132 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 14:21:35
133 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 16:37:45
産経新聞 別報(関西版)
2009年5月29日
■邪馬台国 ナゾ解き続く 化学分析、畿内説に"軍配" 箸墓古墳
「昼は人が造り、夜は神が造った」と日本書紀に記された箸墓古墳(奈良県桜井市)。邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説もあり、大和か九州かで揺れる邪馬台国の所在地論争もからんで、被葬者は古代史最大の謎ともされる。
その築造年代を「放射性炭素年代測定」は西暦240〜260年とはじき出した。これは、中国の歴史書に記された卑弥呼の没年とほぼ合致。科学分析は邪馬台国畿内説に“軍配”をあげた形になった。
しかし、測定法の精度を疑問視する見方もあり“謎解き”はまだ続きそうだ。
「卑弥呼が魏に朝貢(239年)。2代目女王・壱与(いよ)朝貢(266年ごろ)」。中国の歴史書「魏志倭人伝」は、3世紀の日本について年代順に細かく記述している。
年代測定を行った国立歴史民俗博物館の研究チームは、箸墓古墳や他の遺跡出土の土器など数千点の放射性炭素年代を調査。
箸墓古墳の周(しゅうごう)から見つかった「布留0(ふるゼロ)式」とよばれる土器は、西暦200〜300年代の測定結果が出されたが、
これより少し新しいとされる形式の土器「布留1式」では270年ごろと割り出したことなどから、「布留0式」を240〜260年に絞り込むことができたという。
研究チームの小林謙一・中央大学准教授は「かなり精度の高いデータが得られた」と強調する。
一方で、考古学者を中心に慎重な見方が多いのも事実だ。
かつて箸墓古墳を発掘した奈良県立橿原考古学研究所の寺沢薫・総務企画部長は
「研究途上の炭素年代測定によって、10年単位まで絞り込むことができるのか疑問がある。これで箸墓古墳の築造時期が決まったとはとても思えない」
と指摘する。
箸墓古墳を270年ごろの築造とみる兵庫県立考古博物館の石野博信・館長も
「科学的な炭素年代を頼りにしたいが、まだまだデータが不足している」
と慎重な立場だ。被葬者像については
「箸墓のような巨大古墳は、戦乱をおさめ、卑弥呼の後に女王になったとされる臺与(とよ)(=壱与)こそふさわしい」
と話した。
http://www.sankei-kansai.com/2009/05/29/20090529-010451.php
トヨタン・・・・・・・・・・
135 :
サガミハラハラ:2009/05/29(金) 20:18:48
ヒモモソ媛の墓といわれる箸墓は書紀の崇神天皇の10年にでてくる。
崇神10年は復元日本書紀紀年法では273年である。考古とはあと13年の開きがある。
ヒモモソ媛は卑弥呼と同時代ではあるが卑弥呼ではない。卑弥呼は北部九州である。
136 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 22:33:40
纏向をそれ以上調査しないで欲しいと願う九州勢
好い加減にして欲しい!これ以上の調査は国策調査ではないか!?
小沢ミンスかよww
139 :
縦目仮面:2009/05/29(金) 23:33:00
サガミハラハラさんは、いつか言ってた九州の なんたら公園(スマソ失念しました)はどうなり
ましたかね?
140 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 00:37:47
141 :
サガミハラハラ:2009/05/30(土) 08:22:27
桜ヶ岡ですか。
依然として身じろぎもせず卑弥呼の墓として小城公園に鎮座しております。
桃蘇妃が卑弥呼じゃないとしたら、一体誰なんだ?
ホケノ山がニギハヤヒだとしたら、その御子ウマシマジの生母にしてニギハヤヒ妃のミカちゃん(三炊屋媛)なのか?
143 :
縦目仮面:2009/05/30(土) 13:56:50
>>141 今、ググってみましたが、美しい庭園公園ですね。墳墓はどれですか?茶筅塚とか呼ばれ
てるものなんでしょうか?
http://www.sagasubanta.com/sagayoyo/yokatoko/ogi/ogi_park/ ぜひご教示ください。しかしここは、確かに文化財でしょうが、市(県?)の土地であるなら
私有地や産業用地よりは、調査許可は取りやすいでしょう。全面発掘でなくとも、ちょっと
したトレンチが掘れれば、遺跡かどうかはわかると思います。
さあ、サガミハラハラさん。マウスを捨てて立ち上がりましょう。now the time ! 御自説に自
信があるなら、論文を添えて発掘許可の申請を!次期 佐賀女子短期大学学長(現 学長
高島忠平氏)の座が待っているかもしれません。人生最大のチャンスではないですか。
144 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 13:59:26
145 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 18:17:45
146 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 18:38:41
147 :
サガミハラハラ:2009/05/30(土) 19:55:35
桜ヶ岡(サクラオカ)全体が卑弥呼の墓です。
南北137歩東西110歩の大きさです。
茶筅塚古墳は後世築かれた前方後円墳です。
公共の土地のほうが許可をとるのが難しいと思いますが。私は考古学者ではないので。
148 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 21:52:18
149 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 13:10:31
卑弥呼 :毒女
倭迹迹日百襲媛命:大物主の妻
全然違うじゃん。
考古ネタが伸びないニュー速なのに、
なぜか卑弥呼ネタだけは伸びる伸びるw
卑弥呼は小学生でも知ってるからな
今日 NHK教育TV
22:00 ETV特集 日本と朝鮮半島2千年(2)“任那日本府”の謎▽
古代史最大の謎に迫る▽太王四神記の真実▽鉄を求めたヤマト政権▽
海を越えた軍事支援?▽韓国で続々と発見された前方後円墳の秘密▽
天皇と百済との関係▽最新の発掘が古代史を書き換える
前回放送と、今回の内容紹介からして、
百済王を処刑した事なんかは放送せずに、上下関係を並列関係として放送するんだろう
154 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 18:30:06
奈良から丹は出るん?
>奈良から丹は出るん?
当たり前だろ 馬鹿w
畿内くんてこんなのばかり?ww
156 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 18:44:19
誰か優しいひと、女の子にも分かるように説明して
157 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 19:07:33
>>154-156 ◆奈良県内の鉱山一覧◆
1 (露頭) 桜井市 針道 大峠 黒辰砂,辰砂,輝安鉱,・・・
2 多武峰鉱山 桜井市 針道 黒辰砂,辰砂,輝安鉱,・・・
〜〜(中略)〜〜
54 大和水銀鉱山 宇陀郡菟田野町 大沢 自然水銀,黒辰砂,辰砂,・・・
55 新羅貴水銀鉱山 宇陀郡菟田野町 向崎 辰砂,白・絹雲母
56 神生水銀鉱山 宇陀郡菟田野町 駒帰 自然水銀,黒辰砂,辰砂,・・・
57 神戸鉱山 宇陀郡大宇陀町 本郷 閃亜鉛鉱,辰砂,輝安鉱,・・・
58 奈良水銀鉱山 宇陀郡大宇陀町 藤井 辰砂,白・絹雲母
59 黒木水銀鉱山 宇陀郡大宇陀町 黒木 辰砂,白・絹雲母
60 大蔵鉱山 宇陀郡大宇陀町 粟野 辰砂,輝安鉱
http://www.ne.jp/asahi/nar/nos/santi/santi.htm
158 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 19:13:38
159 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 20:51:00
見田・大沢古墳群 (国史跡)
◆見田大沢第4号墳
時代 古墳
所在地 奈良県宇陀市菟田野区平井
遺構概要
古墳(方墳)。径17m。歴博報56、古墳前期-古墳(方墳、割竹形木棺(木棺直葬))、方墳辺17.0m。
遺物概要
四獣鏡+硬玉+管玉+剣+土師器+ヤリガンナ。歴博報56、四獣形鏡(銘文なし、完形9.5cm、1980年発掘、橿考研蔵)、伴出、勾玉+管玉+土師器(壺)。
その他概要
旧、宇陀郡菟田野町。 <25000分の1地形図>NI-53-14-4-4。亀田博「見田・大沢古墳群」(『奈良県史跡名勝天然記念物調査報告』44、1982)。歴博報56(1994)。
http://www.isekiwalker.com/iseki/189772/ 奈良盆地内ではありませんが、実はもう一つ、弥生墳丘墓ではないかと言われた墓がありました。
一九八〇年に発掘調査された見田・大沢古墳群で、宇陀郡菟田野町見田と大沢にまたがる標高三七〇メートルほどの舌状の尾根上で、四基の方墳と一基の前方後円墳が確認されました。
一時、弥生墳丘墓の可能性があるかも知れない、と言われたこともありましたが、
前方後円墳である一号墳からは須恵器が見つかっており、もっとも古いとされる四号墳からは「纏向一〜三式」(庄内式)とされる土師器が、また二・三号墳からは「纏向四式」(布留一式)の土師器が出土しており、
そのほか棺の形態、副葬品の内容、墳丘の形態などから、現在確認されている古墳の中では最古の部類のものとされているものの、弥生墳丘墓ではないとされています。
神武が来た道 6 伊東義彰
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jimukita/jimkita7.html
>>154 丹があるから桜井辺りが栄えたとも言えるんだよ。
161 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 00:17:14
■箸墓古墳:歴博が「卑弥呼の墓」説 築造時期などから
──考古学協会理事、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請──
──データの信頼度など会場から質問続出──
国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)の研究グループは31日、古墳時代の始まりを示す箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)は240〜260年に築造されたと、東京・早稲田大であった日本考古学協会の研究発表会で報告した。
247年ごろとされる邪馬台国の女王・卑弥呼の死亡時期と重なるため、邪馬台国所在地論争の点で注目される。しかし、この測定結果によって箸墓を卑弥呼の墓とするには問題が残り、数値が独り歩きすることへの懸念がある。
発表後、司会者の同協会理事が「(発表内容が)協会の共通認識になっているわけではありません」と、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請を行った。
歴博グループは、放射線炭素年代法によって全国で出土する土器に付着した炭化物を中心に年代を測定。
箸墓でも、築造時の土器とされる「布留(ふる)0式」など16点を測り、この前後につくられた他の墳墓や遺跡の出土品の測定結果も総合して240〜260年を導いた。
発表者の春成秀爾(ひでじ)・歴博名誉教授は
「この時代、他に有力者はおらず、卑弥呼の墓が確定的になった」
と述べた。
しかし、土器付着炭化物は同じ地点から出た他の資料に比べ、古い年代が出る傾向がある。
中国の史書「魏志倭人伝」では、卑弥呼の墓は円形とあって前方後円墳の箸墓とは異なるなど、文献上からも問題があり、会場からはデータの信頼度などに関し、質問が続出した。【伊藤和史】
毎日新聞 2009年5月31日
http://mainichi.jp/select/today/news/20090601k0000m040042000c.html?link_id=RSH02
162 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 00:35:24
163 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 03:18:58
164 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 11:19:04
箸墓が卑弥呼の墓というには発掘して親魏倭王という金印が出なければ証明にならんな。
165 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 18:17:25
なぜ発掘は許可されないのですか!
やはり奴隷1000人が生埋めになった可能性があるからですか?
↑ヒトケタちがうのでは?
167 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 18:33:08
あ!
ニュー速のほうに1000人って書いてあったので鵜呑みにしてしまいました(・_*)\ペチ
168 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 00:00:03
>>164 箸墓から親魏倭王の金印は出土しないでしょう。台与が使用していたと思われます。
親魏倭王の金印が出土するとしたら台与の古墳である西殿塚古墳からでしょう。
169 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 12:41:47
倭迹迹日百襲媛命=卑弥呼というなら、
日本書紀に魏に朝貢したとか狗奴国との対立が記されていないのはなぜ?
170 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 12:55:18
九州説のやつは石ころが出てきても、邪馬台国の石ころとか言いそうだな。
171 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 13:00:03
九州でやっている、ミス卑弥呼とかはもうやめたらどう?赤っ恥かくだけ。
172 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 13:23:59
今まで畿内説はオカルトの類だったから、ここにきて、どうだ!と言う気持ちもわかる
しかし今回の放射性炭素年代測定は実はまったく意味をなさない、なぜなら全国の古墳やらしき山等も測定する必要があるからだ
これは明らかにゴットハンドの類だと言っていいだろう、なぜそこまでして結論を出そうとしたか
推測だが九州説が確定するなにかを発見したのでは?! そこで勝負にでたと考えられる
畿内説はこじつけであり、無理がある。
173 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 13:48:51
見えない敵と戦うのが好きだな
九州説は
174 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 14:24:33
魏志倭人伝によれば九州
ゴットハンドを使えば畿内
考古学とか形質人類学は科学じゃないから
形質人類学者が唱える多地域進化説の根拠
北京原人とモンゴロイドの歯の特徴が似ている
ジャワ原人とアボリジニの頭骨の特徴が似ている
ネアンデルタール人とコーカソイドの頭骨の特徴が似ている
アフリカ単一起源説
mtDNA、Y染色体のどちらも14〜20万年前に共通の祖先を持つ
>>171 九州説を支持するの連中なんて所詮そのレベルという事なんだろう。
学術とかじゃないんだ、あくまでイベントの一環。
177 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 15:10:30
>>169 >日本書紀に魏に朝貢したとか狗奴国との対立が記されていないのはなぜ?
卑弥呼=モモソの場合、対立した側が政権をとって
大和朝廷となり、後に書記編纂に関わったからでは?
当然敗者の功績となるような事はあまりかかないだろう。
しかし魏史には邪馬台国に関する記述があるので、
注釈程度の記述で済ましたとかね。
>>177 場所も墓も特定出来ない時点で
各自お祭り騒ぎしてるのはダメでしょ。
まず九州説だけでも統一見解位だせなきゃ。
少なくとも畿内説だと場所自体はほぼ意見統一出来てるよ。
180 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 15:43:02
九州説は詐欺師の巣窟だからなw
ビッグマウスでも特定できないんだよね、九州内では。
183 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 15:56:48
巫女の墓が残ってると前提してるわけだな、魏志倭人伝を信じて(笑)
魏志倭人伝を読めば九州ってわかるじゃん、墓のだけ魏志倭人伝から頂いてる畿内説はこじつけ
魏志倭人伝を信じて、九州と断定する詐欺師(笑)
185 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 16:03:40
>>184 はぁ?魏志倭人伝のいいとこ取りして畿内説にこじつけしてるのバレバレじゃん
つーか、論破できないからって嫌味しか言えない程度なら消えてくんない?
>魏志倭人伝を読めば九州ってわかるじゃん
そりゃ九州地方に滞在してるからだろw
でも邪馬台国に行って卑弥呼に会ったとは何処にも書いてないよ。
はぁ?遺跡の場所も特定できないなら消えてくんない?
188 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 16:10:17
>>187 特定した?こじつけやゴットハンドが特定に当たるん?もしかして君は新一なのか?
つまり九州説は毛利小五郎だったという事だな。
191 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 16:51:02
九州説ボコボコ状態
結局、九州説は邪馬台国の場所を比定できないんだねw
193 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 17:02:17
研究が進んで次第に巻向という一点に絞り込まれてきたな。真実は自らを語り始めた。九州は石ころでも発掘してろ。
194 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 17:03:24
古代史を勉強しようと思っていましたが、この様子では図書館で済ませるのが一番賢いようですね。
特に遺跡はともかく、位置すら特定できない九州論者の本は自腹切って買うほどはないように思いました。
196 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 17:58:51
邪馬台国=九州
放射性炭素年代測定で卑弥呼の時期と一致してる古墳がありすぎて特定出来ないんだよね
畿内って楽だよね、こじつけ特定だから(笑)
197 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 18:27:21
九州には邪馬台国の年代と一致する古墳が1個もない。しかし、人食い人種熊襲の墳墓はたくさんある。
九州の邪馬台国所在地はどこなんだよ!!!
吉野ヶ里なら吉野ヶ里の事をもっと研究しろよ、古墳はどこだ??
199 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 18:40:13
>>197 はい、残念。あるんだけど発掘が許されてないんですよ。
そんなのあちらこちらにありますよ、畿内説派と違って九州説派は余裕があるんですね。
放射性炭素年代測定程度で確定なんてゴットハンドもいいとこでしょう
200 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 18:46:12
九州厨はさっさと放射性炭素年代測定で九州の古墳の年代調べたらw
元々大きさから巻向の箸墓が卑弥呼の墓なんじゃないかと言われたたけど、
「新し過ぎて時代が全然違う」といわれて否定されてたからね。
それが検証が進んで、むしろ古すぎると言われる位になってしまった。
巫女でもあり日神でもあるモモソ姫なんて卑弥呼とダブる話も多いもんな。
天照の孫で元伊勢籠神社のお墨付きだぜ?
オマケに弟は桃太郎のモデルとも言われる人物だ。
正直九州とか畿内とか言ってるレベルじゃないんだけどな。
202 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 19:06:28
九州説においての邪馬台国及び卑弥呼の墓については、佐賀県小城市甘木が確定的です。
卑弥呼の墓は小城公園内桜ヶ岡(サクラオカ)です。
南北137歩(192m)東西110歩(154m)の円形の丘です。
203 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 19:19:13
墓があるからといって、そこに住んでたとは言えない
204 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 20:13:25
小城甘木は唐津から東南33km多久市中小路に、そこから東に6.8kmで(東南の奴国は行程上にないので省く。行の字がない)
小城市不二町、その南が甘木でアマとは天子つまり王のこと、キは所(拠点)という意味で、王の居住するところの意味です。
その王宮の北にある丘が卑弥呼の墓です。吉野ヶ里でも北内郭といわれる王の居住地があり、その北に墳丘墓があります。
配置が共通してますね。
206 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 20:35:59
水行十日陸行一月は郡からの総日数であると古田某がいっておりました。
207 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 20:38:26
国を一周した一ヶ月じゃダメ?
208 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 20:55:45
陸行1月の大部分は韓国内陸行だそうです。ちなみに、太閤秀吉の軍は釜山に上陸してから丁度1月でソウルに達しています。
209 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 22:12:48
210 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 22:31:32
韓国内陸行1か月で、唐津から東南にいくなら佐賀平野であろうね。
211 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 22:37:41
>>210 だよね〜福岡の朝倉市も捨てがたいんだよね
212 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 22:42:45
だからさ、距離を1/10にして考えるのが常識だろ。
そうすれば畿内にぴったしカンカンなんだよ。
で、北部九州で丹が採れる場所は何処なの?
214 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 23:11:38
知り合いのプロの研究者に聞いたら畿内で間違いないとのこと。
215 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:07:05
知り合いのプロの研究者に聞いたら九州で間違いないとのこと。
知り合いのプロ野球の選手に聞いたら九州の球団は嫌いだって。
217 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 05:18:22
>>178 大和朝廷以前は出雲族の統治でしょうね。
出雲族の三輪山に巫女として仕えたモモソ姫〜崇神へと権力が移って行った。
日本書紀の最後辺りで三輪氏の失脚が語られる。
その時点で「国譲り」が完了し、過去は都合よく書き換えられた。
218 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 08:16:10
219 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 09:04:33
青年団ぐらいではつくれる規模ではありません。
>>217 魏に朝貢して「卑」や「邪」なんて文字使われてれば
尚更書物には残さないだろうしな。
221 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 12:31:27
>>219 古代の青年団です。時代は卑弥呼の時代と証明できますか?
222 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 14:25:46
サガミハラハラ氏が匿名でカキコ
223 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 15:12:12
古代の青年団って一青率ですか。
224 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 15:50:38
>>205 魏の郡使が船を使って日本まで来たとしたら
日本国内もそのまま乗ってきた船で旅をしたと考えるのが常識
郡使の船は外洋を航海出来るほどの安全なものだから
日本に付いても上陸しはないで楽な船旅をなるべくして目的地に最も近い海岸から上陸する
日本国内で海岸線から陸行一月も掛かる場所は無いので
陸行一月は陸行一日の誤りだ。
陸行で一月かかる場所なんていくらでもあると思うけど。
南九州沿岸から内陸部へ行くのもそうだし、
紀伊半島南部からも同様。
出雲方面から大和へも勿論それくらいは掛かる。
226 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 17:00:25
岩手県出身の鈴木善幸元首相が若いころ(昭和の話だが)、県庁所在地の盛岡に行くのには1週間かかったという。
弥生時代だったら1ヶ月かかっただろう。
227 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 17:37:41
>>224 >日本国内もそのまま乗ってきた船で旅をしたと考えるのが常識
だね。伊都国が前原ならば船で行ったはずだ。末廬国で上陸したということは船
でいけないところなのだよ。
228 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 18:48:09
>>226いえ、弥生時代でも1週間でしょう。
同じ方法(おそらく徒歩)なら時代がちがってもかわりないですよ。
229 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 20:43:31
不正解。鈴木善行が使ったのは、主に公共交通機関。
どんな公共交通だよ。
231 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 22:38:46
はあ?船・バス・鉄道だが何か?
232 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 23:01:14
船、バス、鉄道をつかったら、岩手県のどこからでも盛岡まで1週間もかからないですよ。
いってみたら。
ひとつ聞きたいんだけど、
畿内派って、基本的に東遷説は受け入れてるのが前提なの?
んで九州派って、箸墓の被葬者にはまったく興味がないの?
どっちかに立って固執すること自体に違和感ありすぎちゃって・・・
234 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 23:13:00
こういうのも、史学の研究方法に、大いに関わる問題なんだ。
「1週間もかかるか!」、「かかったはずだ!」と
第三者がお互い言い合ったところで仕方が無い。何も解明されない。
で、こう訊く。
>>226氏へ
>岩手県出身の鈴木善幸元首相が若いころ(昭和の話だが)、
>県庁所在地の盛岡に行くのには1週間かかったという
ソースを出してくれ。
>畿内派って、基本的に東遷説は受け入れてるのが前提なの?
?? 何が東遷するんだ?
いや別に東征っていってもいいけど。
237 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 23:24:52
>>234 司馬遼太郎の書に載っている。
まあ調べてみてくれ。
239 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 23:58:51
>>233 九州説というのは、邪馬台国が九州にあるという立場だから、邪馬台国の女王
である卑弥呼の墓が近畿地方にあるということはありえないね。
240 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 00:04:31
>>228 万歩計でもつけて歩いてみたら。一か月も歩いたら、1日にどの程度歩けるか
理解できるだろう。
>>239 それは思考停止じゃないの?
少なくともモモソ姫については調べてみた方が良いとは思うが…
242 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 01:46:17
東遷説w
そもそも言い出しっぺは誰だったの?w
>>80 その通りでしょうね!
そこを押さえてないとファンタジアになってしまう。
天智天武以前を天皇で呼びだすと呪縛に陥り、抜け出せなくなるからね。
舎人親王は天才だわ!
東遷でなくて最初から畿内なら、なんで鉄器ほか先進文明で劣り
交易も不利な山奥の国が九州連合(ほか)を従えることができたの?
んで、記紀は基本的にフィクションだと考えてるの?
逆に九州派の人は「箸墓の被葬者は誰それだ、だから卑弥呼じゃない」
って論法を思いつきもしないの??そこをこそ考えればいいのに。
あれだけ画期的な王墓の被葬者が誰なのか、気にならないの?
どっち派でもない初心者の素朴な疑問。
246 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 09:32:31
>>245 >交易も不利な山奥の国
大和のことなら、交易に不利なんてことは無いよ。
事実、首都が置かれたわけだし。
弥生時代末には、近畿地方で活発に交流してたよ。経済圏は九州よりはるかに広い。
東遷説の人は、大和が遅れてると決め付けつつ、
遅れた土地に首都を移したという矛盾を抱えている。
247 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 09:37:27
箸墓の被葬者はヒモモソ媛でいいじゃないですか。なんであえて他の誰かにしたがるの?
大阪を押さえてたらしいから、貿易もやってたよ。
249 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 10:12:57
>>245 半島にどんどん進出していった九州王国。
その徴兵を逃れて交易も不利な山奥の国にまとまったのが畿内王国。
なお、古墳のほとんどは造営後2〜3百年で埋葬者が不明になっているのがふつう。
だから箸墓も普通の古墳どおり不明。
250 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 10:47:42
箸墓はほとんどの中にはいっておりません。
民家に隣接して他の巨大古墳からはなれ、あれほどめだつ墳がだれのかわからなくなることなどありません。
>>245 巻向は宗教&政治都市、それは丹の産地の入り口という点で証明できる。
>>249 真剣に言ってるなら単なる電波な人だよ。
籠神社の資料にも記載されてる事を否定するという訳だな。
252 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 13:55:53
埋葬者が明確なのは、岩戸山古墳ぐらいだろう
253 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 14:02:20
イワイの遺体は埋葬されているのでしょうか。
なにか行方不明になったように記憶していますが。
254 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 15:58:09
>>245 古墳には被葬者の名前が書いてないので、誰の墓かは不明。
文献の記述だけが頼りなのだが、それもあいまいなところがある。
継体天皇陵でもわかるように、宮内庁の指定もアテにならない。
纏向のあの大きな古墳を箸墓というのも適切ではない。
箸墓は、日本書紀によると倭迹迹日百襲姫の墓なのだが、あの古墳が
倭迹迹日百襲姫の墓、つまり箸墓だという証拠はない。
仁徳天皇陵なども最近は大仙古墳と呼ばれるわけだから、いわゆる箸墓も
被葬者が特定されているかのような名前は付けないほうがいいと思う。
だいたい倭迹迹日百襲姫は皇女、つまり天皇の娘なので、あんな大王クラス
とも思える大きな古墳が作られたとも思えない。
255 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 16:07:47
倭王だから当然
256 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 16:12:05
>>254 ついでに、
箸墓は、全長が282mとなっている。同じ頃の天皇陵とされる古墳は、
第9代開化天皇陵 105m 第10代崇神天皇陵 242m 第11代垂仁天皇陵 227m
天皇でも皇后でもない皇女の墓としては違和感がある。
257 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 16:18:10
モモソ姫は天皇以上の存在だった大物主の妻であり後継者ですよ。
258 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 16:54:26
箸墓がモモソヒメの墓ではない、という理屈が通るなら、
箸墓が卑弥呼の墓である、という理屈も通るわけだが。
259 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/04(木) 16:57:20
>>254 古墳自体かその近隣に埋葬者の文字がかなり多数分かっているということだ。
それは池田仁三氏のサイトにあるがね。
出雲の国王と結婚した倭の女王は
出雲までも自分の支配下にしたようだが、出雲文書では。
261 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 17:28:36
出雲文書なんてない
あるよ。現在島根大学で解読中。
出雲大社の歴史を書いた古文書。
ご神体になっていた。
263 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 17:46:00
出雲文書はいつ頃書かれたん?
264 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 17:52:29
去年
投馬(ツマ)が出雲なら魏史倭人伝での記述も整合性はでるよね。
水行10日で丹後の宮津へ、そこから陸行1月で巻向。
瀬戸内海の水路が対抗勢力の妨害があったのかもしれないし。
266 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 19:44:52
>>265 なるほどね。
気がつかなかった。
サンキュです!
267 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 19:50:28
しかし、もし今後、畿内説で魏使のルートを日本海とする説が有力になり
箸墓が卑弥呼の墓の候補の筆頭の地位を不動のものにしたら
笠井新也 先生大勝利だなwwwwwwwww
>>265 都合のいいかいしゃくだな。
水行と陸行で方向が90°変わってる。
記述がおかしい。
おまけに上陸した港街は記述するはず。
トウマコク、ヤマタイコクの行程は伝聞であると解釈するのが妥当。
269 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 20:19:02
>>268 もういいよ。九州説なんて過去のものなんだし。
270 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 20:24:53
271 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 20:25:30
九州に決定したから、もはや説ではなくなったね。
272 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 20:27:09
まあ出雲が九州から見て南と言うのは中国人の認識で
若狭丹後あたりから南へと言うのは倭人(出雲の人間)からの情報だとすれば問題ないw
よく畿内説で
「東は南の事で90度ずれている」
と言うのがあるがそれほど機械的な単純な物では無いと思う
情報ソースとして
1)実際に邪馬台国卑弥呼の下に言った魏使によるもの
2)伊都国あたりに常駐していた郡使及び帯方郡の人間の知見
3)倭国にも郡にも行った事の無い中国内陸の人間の脳内地図wによるもの…
以上の三つがかなり混ざっていると思っているwwww
273 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 20:27:16
九州厨涙拭けよwww
274 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 20:39:35
畿内派が可哀相なんで、どうにか無理してでも援護したいと思ってます。
275 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 20:43:22
若狭丹後が、邪馬台国の時代に隆盛してたのは確かだしねえ。
魏の使者がそれを知らないわけが無いわけで。
276 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 20:48:06
丹後のことは知ってただろうね、対馬、壱岐、呼子。糸島半島(伊都国)は大陸交流の歴史の地だから、そこの住人にくわしく聞いた可能性はあるよ。
277 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 21:16:35
まあ半島からは山陰系の土器が出てるからな
そこから考えて山陰〜九州〜半島の人や物の行き来は想定できるわけで…
九州にいた中国の人間にとっては日本海側の情報が集まり易かったのかもしれないwww
278 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 21:18:15
伊都に滞在中に大和朝廷の卑弥呼の話を聞いた、そこで聞いた大国の話を魏志倭人伝に記した。
279 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 21:35:44
>>277 >まあ半島からは山陰系の土器が出てるからな
この事実だけで九州説死亡。
なんというか、九州説の人は、
山口県ですら邪馬台国と無関係の隔絶した東の倭種の土地だと思ってるからな。
280 :
277:2009/06/04(木) 21:54:54
>>279 ただし、その山陰系の土器を山陰の人間が直接半島に持ち込んだかどうかまでは分からない。
ただ九州〜山陰の人や物の往来は活発であったろうに留めておくが吉wwwwwww
281 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 22:02:59
伊都から大和朝廷に行くなら瀬戸内海経由を考えてしまう。
282 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 22:05:50
>>276 丹後知ってたなら倭人伝に記述するよね
何国?
283 :
縦目仮面:2009/06/04(木) 22:06:47
だから、縄文期から列島内の人の移動はきわめて活発だったんだよ。土器の移動(そのもの
ではなく形式の移動)の状況が近年の研究で明らかになりつつあるが、俺はこれを勉強して、
九州説はないと考えた。とても倭国の範囲が九州島内に収まりきるものではない。
284 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 22:14:31
九州王国の影響範囲は、福島県ぐらいまで行ってるでしょ
むしろ畿内文化の伝播範囲が狭い
>>284 >九州王国の影響範囲は、福島県ぐらいまで行ってるでしょ
そんなの知らんが、具体的にはなんだ?
286 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 22:20:15
>>283 >だから、縄文期から列島内の人の移動はきわめて活発だったんだよ・・・
>とても倭国の範囲が九州島内に収まりきるものではない。
あなたの言うとおり。
九州〜越、濃尾まで明らかに倭国ですよ。もしかして関東までも。
海の道などは韓半島から日本海沿岸の多数の地域に延びていたのに違いなく、
対馬から博多への一路線しか無かったはずがない。
魏志倭人伝に九州の地名しか出てこないのは大和朝廷が情報を制限したからでしょう。
>>286 >魏志倭人伝に九州の地名しか出てこないのは大和朝廷が情報を制限したからでしょう。
サッパリ意味がわからん。
弥生後期には商いを専門にする人達もいたんだろ。
階級社会で富の集中が出来てたから当然。
各地から使役で人があつまってたというのもあるだろうけど市もあったんじゃないのかな。
とすると、やはり畿内のほうが有力だな。
289 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 22:28:21
>>287 防衛的見地からの情報制限ですよ。
それができるくらい大和は力があったのではないでしょうか。
290 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 22:29:41
あえて制限しなくても魏人は辺境の倭なんかにほとんど興味なかったんじゃないか
陳寿は歴史家として一生懸命調べただろうけどそれでもあの程度しか調べきれなかったんじゃないかと
>>289 そしたら魏帝の卑弥呼への贈り物は最終的に何処へいくのだ?
親魏倭王金印はどうなるのだ?
292 :
縦目仮面:2009/06/04(木) 22:36:51
「長野県中野市の柳沢遺跡は、東日本で唯一、銅鐸(5)と銅戈(8)がともに出土したことで知ら
れているが、この銅戈も畿内型と九州型が混在しており、複雑な文化背景があることが伺える。
つい最近この遺跡から、前1世紀と推定される、シカを描いた絵画土器が出土し、話題になった。
シカは豊作をもたらす霊力を持つという説があり、西日本型の農耕祭祀といえる。従来のシカ
絵土器の分布の東端は石川県であったが、おそらく北陸経由でこの地に伝わったものではな
いか。」
これは、俺が他スレに書いたもので弥生時代の話だが、このような複雑な状況は各地で
見られるんだ。
293 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 22:51:41
仲哀天皇や神功皇后が熊襲・新羅征伐にあたったときの都はどこか?
斉明天皇が新羅との戦争にあたって筑紫行幸したときの都はどこか?
明治天皇が東京に行幸した時の日本の都はどこか?
戦争で戦線の近くに仮宮を置いたときなどは首長のいる場所と本国の都は別のところにあり
そんなとき外国の使者は留守の都には行かず首長のいる仮宮に行けば全て用が済むんだよ
考えてみれば、瀬戸内というのは当時の造船技術を考えれば、最高のルートだな。
>>283 >とても倭国の範囲が九州島内に収まりきるものではない。
まあ九州説側からの反論としては
「如何に九州と本州の交流が活発であっても
中国側の倭国の範囲の認識が九州であったならしかたがない」
…だろうなw
>>286 >大和朝廷が情報を制限したからでしょう。
いや、そんな陰謀論もどきのややこしい話作らなくても
単に郡使が常駐していたのは伊都国とか北部九州であって
当然その近辺の情報が詳しく載っているに過ぎないでおkwwwwwww
はっきり言って広範な首長連合を想定する畿内説にとって
九州のクニが多く出る、またはその風俗が仮に九州のそれだとしても何ら問題ないwwwww
296 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 23:24:14
>>295に全面的に同意。
それでも九州説では、九州より東の国は、よくわからん倭種で片付けるつもりなんだろうな。
出雲から古文書がでてきたということは、
宇佐にもあるということだ。
だから探すのもいいかも。
文字があったらしい(文字がなければ使者は送れず)から、
九州説を推進させたければ、宇佐の古文書を探した方が。
今は空間探査機みたいなものがあるから、
それで見つかるらしいよ。
298 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 23:48:35
299 :
縦目仮面:2009/06/04(木) 23:56:11
俺は、景初三年(二年?)以前も、倭国ー公孫氏の交流があったと考えてるんだが、後漢書
の倭国王帥升時、すでに160人もの生口を渡海させることができるほどの航海技術がある
のに、波静かな瀬戸内海を大阪湾まで来れないはずはないだろう。
むしろ、1〜2世紀の瀬戸内に見られる高地性集落の分布ををどうとらえるかが、俺的には
興味深いところ。
300 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 23:58:05
301 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 00:07:30
宇佐神宮の地下は何も入ってないパンドラの箱、
開けてしまうと九州説はとどめをさされるぞw
302 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 00:14:19
>>295 そうだよね、これだけ通信が発達した現在でも、
日本の風土を中国と混同したり、未だに侍がいるような
教育をしている例は沢山あったしな。
別に倭人の風土紹介で九州を連想させるような
文章なんてのは、邪馬台国=九州なんて事にはならんでしょ。
単に往来の多かった伊都出張所近辺の様子や集まる伝聞が、
色々混ざったと考えても不思議ではない、というか極めて自然。
>>303 いや寧ろ、位置情報民俗学的な描写を含むルーツ的なほのめかしにこそ重要
な意味が隠されてたんじゃないか?
要するに、ハッタリ噛してでっち上げなならん理由があったんだろ。チンポコ先生にはw
305 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 11:03:01
馬鹿の一つ覚え・・・「広範な首長連合を想定する畿内説」
考古学的に、広範な首長連合の証拠がさっぱりないのだ。
むしろ銅鐸文化圏のなかにありながら銅鐸がない、
全国的にも孤立していたのが畿内。
連合がいちばん見られない地域が、3世紀の畿内といえる。
306 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 11:50:45
全国的に三輪山信仰を集めてたのは間違いない。
三輪山信仰と銅鐸は無関係とみてよい。
さて東征厨は、4世紀に東征して畿内を支配したとしてるが、
それでも三輪山信仰が残るほど、その影響力は近畿中心に強大だった証拠なわけだが、
なにか反論でもあるなら聞いてあげるよ。ヒマだし。
>>305 馬鹿の一つ覚えはお前のようなコピペ厨だよw
308 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 13:21:15
ゴッドハンド依存体質の畿内説
落ちたものだな
正直つまらん悪口言ってる場合では無いのが九州説だよね。
畿内説叩きに忙しく、まともに研究する時間なんかないんだろうw
311 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 15:48:34
叩くに値する根拠がないからなあ → 畿内説(ヤマトと邪馬台の語呂合わせ)
312 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 16:32:58
東征してきたんなら、どうして三輪山信仰をやめさせられなかったのかね?
313 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 16:41:40
横レスだけどそりゃタタったからだろ
314 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:17:47
>>313 つまり、もともと近畿の勢力が強大だったってことだよ。
315 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:38:30
神の崇りに地元勢力の強さは関係ないだろ
疫病が流行った→神託を求めた→三輪山を祀れと出たから言われるままに祀った
現代人からすれば馬鹿馬鹿しくても古代日本人は本気で神の崇りを信じてたからね
316 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:23:02
卑弥呼の時代の日本の文化の中心は大和。発掘成果のベクトルがすべて同じ方向を向いているではないか。
九州説はもう説でもなんでもなく、はっきり間違っていたんだ。真実は自ら明らかになっている。
317 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:26:34
>>315 「神の祟りじゃー」と、地元住民が騒いだから、祀ったわけだろ。
それはつまり、地元勢力が強かったという証拠。
権力を掌握してたなら、「うるさい黙れ」で粛清しておしまい。
そのほうが王の権威になる。
地元勢力に迎合し、地元の神を畏れていたなら、
畿内の勢力が強かったという証拠だよ。
318 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:32:52
× 卑弥呼の時代の日本の文化の中心は大和。
○ 卑弥呼の時代の日本の文化の空白地は大和。
319 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:43:34
巻向遺跡から新しい建物跡が出土。近日中に発表があります!
320 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:45:22
>>318 だから、三輪山信仰があるから、空白地ってことは無いわけ。
バカだねえ。
322 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:51:52
323 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:58:29
九州説のセンセイ方はそろそろ自説の訂正を始めているよ。学者生命がかかっているからね。
正面切って九州説唱えている学者は、もう一流どころにはいないよ。
324 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 20:00:51
325 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 20:08:24
畿内説って、戦前から頑迷に意見変えない耄碌学者とか、
学閥などで意見を縛られている御用学者だけなんだよね。
つまり畿内説って、あのテポドンの国の学問みたいな印象。
九州説は若手でも優秀な学者ガ多い。学閥に縛られていないから、
一般国民も大体、九州説。
>>325 >九州説は若手でも優秀な学者ガ多い。
ほう、それは知らなんだが心強い限りじゃの。
ぜひその若手の先生方のお名前をお教えくださらぬか。
伏してお願い申し上げる。m( _ _ )m
327 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 20:47:49
どれだけ優秀だろうが若手だろうが素人だろうがW
見つけた者のが正しいのだ。ケケケ
328 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 20:52:06
これ以上調査できない畿内説は終わったわけだ
九州説に期待大
>>325 >九州説は若手でも優秀な学者ガ多い。学閥に縛られていないから、
俺もその若手のホープと言うのに誰がいるのか具体的に名を聞いておきたいwww
またまたまた(以下ほぼエンドレスに続く)
一発ネタの書き逃げじゃないよな?w
330 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 21:14:00
>>325 誰だよ、それが言えないなら、その若手の学者は邪馬台国をどこだと予想してるよ。
参考まで聞かせてくれ、横取りしたいと思ってるからWWW
331 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 21:41:23
>>325 オタクは、大和朝廷も九州なんて言い出すんじゃないの?新説大歓迎だよ。
332 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 21:50:28
333 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 22:01:09
334 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 22:05:22
>>333 発掘許可の問題ではない。何が真実かということ。
335 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 22:09:39
宮内庁が押さえ込みたいのは、南九州の方だろw
337 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 22:20:51
>>323 畿内説は最初から一流どころは居ないな。
338 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 22:24:27
もう畿内説には、似非学者やゴッドハンド学者しか残っていない
で…
>>325 >九州説は若手でも優秀な学者ガ多い。学閥に縛られていないから
九州説の若手の優秀な学者って誰よ?
このいい加減さはサイキバ君かな?w
いつもの一発ネタ書き逃げピンポンダッシュかな?wwwwww
340 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 22:52:00
たぶん太国じゃないか?
341 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 23:04:26
しかし現在進行形で今日のニュースも
日中半島ゴタゴタしてますなぁ
もうそろそろ歴史を遡るようにひとつひとつの陵墓を公開検証していいゃな?
平時戦乱とわず盗掘はあったらしいけど?
342 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 23:10:57
畿内説のマトモな学者などいない件
343 :
縦目仮面:2009/06/05(金) 23:48:21
まあねえ。纒向の発掘だって、主体が人口6万程度の桜井市教育委員会である場合、きわ
めて厳しいものがあるんだ。 「纒向小学校トイレ等改修約480万」(市予算案より)ww
などの実生活に結びついた事業が当然優先されるわけだし。
344 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 23:54:47
そもそも畿内説だろうと九州説だろうと邪馬台国論争に関わっている人間なんて大抵年寄りだろ?w
九州説で一番若いつったら関裕二かな?(確か50歳?)まあ学者ではなくライターだが・・・
本当に若い学者にとっては邪馬台国論争なんてもう既に(畿内説で)終わったものって思ってんじゃないのか?
345 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 00:05:18
畿内説なんて言っている時代ではなくなった。大和桜井が卑弥呼の住まった場所。大和國の姫皇女。
九州説なんて今時誰が支持するんだよ?
引っ込みのつかなくなった自治体位じゃないかw
347 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 00:18:41
畿内説で結論が出て終わったのは、オカルト考古学。
348 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 00:19:51
いまや全国的に、九州説でまとまりつつある。
ゴッドハンド派だけは、畿内説だが。
九州説だと、邪馬台国は倭国の中で最も栄えていた国ではなかったって事だよね?
出土品を見る限り、九州と近畿は、人の交流も物流も頻繁だった。
それなのに最も栄えた国を差し置いて、長らく倭国の王として認められたのは何故?
何らかの特別な事情が、邪馬台国と大陸側にあったとするの?
350 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 01:38:45
ももそは今なら桃子、百恵あたりだろうね。
351 :
縦目仮面:2009/06/06(土) 01:42:57
そうかな? 百襲(ももそ)は100人殺し(徇葬)という怖い説もある。トンデモと思うが。
九州の出土品 鉄の刀 巨大鏡 ブレスレッド
畿内の出土品 木の鍬 木仮面 花粉
353 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 02:11:04
>>349 基本的な認識がなってないな。九州説では、倭国は九州のみなんだよ。だから
当然邪馬台国は倭国でもっとも栄えていた国ってことだ。
当時の大和は独立した国があったかどうかすら不明、あったとしても単なる倭
種の国々の一つ。そこは倭国ではない。
>>351 ん?
そ、それだったら先に殉死者が百襲ヒメタンに襲われて絶命、
で100人殺してようやく百襲ヒメタンも自害、ってこと?
・・・・・・・・・・・・以下妄想・・・・・・・・・・・・
「来るのじゃ〜〜!!、一緒に死ぬのじゃ〜〜〜〜〜ッ!!!」
「や、やめてくだされ!、モモソヒメさま〜ッ! ヒエ〜〜ッ!だ、だれか、助けてくれ〜〜〜!!」
「え〜いッ!!」(グサリッ!)
「ぎゃあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・・・・・ ・ ・ ・ ・ 」
「よし。・・・次は・・・・・・・おまえじゃ〜〜〜〜ッ!!!!」
「ヒエ〜〜ッ!だ、だれか、助けてくれ〜〜〜!!」
「え〜いッ!!」(グサリッ!)
「ぎゃあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・・・・・ ・ ・ ・ ・ 」
(・・・以下98回繰り返す・・・)
「ハアハア、ハアハア・・・・・・、も、も、もはや、これまでえええ〜〜〜ッ、え〜いッ!!」(ブスッ!)
・・・・・・・・・・・・妄想、以上・・・・・・・・・・・・
ぶ、ぶきみ〜〜、こ、怖いよ〜〜
355 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 02:23:00
九州地方を中心とした百余国全体が棲み分けしていて、
この全体を倭国と称していると思う。
その国々の中から代表国を決めるしきたりがあった。
かつては漢から金印をもらった委奴国が代表をしていた。
その後一時ゴタゴタしたが、卑弥呼を長とする邪馬壱国が
代表になった。邪馬壱国は、魏が厳しい戦いの最中に
いち早く加勢を申し出たため、親魏倭王という金印をもらった。
百襲姫の「襲」は、地位などを継ぐという意味もあるらしい
日を継ぐという意味で、100日間お篭りをした姫という意味だろうか
358 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 07:31:13
359 :
縦目仮面:2009/06/06(土) 07:35:21
「襲」は「重ね着をする」という字義があり、百襲は魏からもらった答礼品の織物類を何重にも
着ていたとする説、「継承する」という字義から、卑弥呼は一人ではなく「卑弥呼職」が何代も
続いたとする説などがあるようだが、どちらもいただけない感じ。あと「迹迹日」の部分は、
(10×10・・とう と とう)で百にかかる枕詞のようなものとする説もあるね。奈良時代には
九九はあったようだが(万葉集に出ている)・・・これもちょっと考えにくい。
HPを見ればいろんな人がいろんなことを書いているが、まあ、名前の意味からしてよくわ
からんのだからね。
360 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 08:04:09
未だに九州なんて騒いでいるのは、地元の町おこし連中だけじゃないか。
邪馬台国焼酎とか、ミス卑弥呼とかやめてくれよ。
対馬を韓国領だと騒いでいるのと同じ。
361 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 08:06:51
362 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 10:28:35
倭迹速神浅茅原目妙姫
倭迹迹日百襲姫
迹迹 迹速 偶然にているだけ?誤字?
倭迹迹日百襲媛命 ヤマト+(トト) 日有り 日本書紀
夜麻登登母母曾毘売命 ヤマト+(ト) 日無し 古事記
倭速日百襲姫 これがオリジナル?
363 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 13:11:22
この時代このようなヤマトトソのようななをもったひとがけっこういたようなのです。
よって、名前が錯綜し、ヒモモソ媛じたいが皇女なのかどうかもわからなくなってしまったようなのです。
364 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 13:28:52
>>360 産業のない奈良県に、畿内説で観光客を誘致したいんですね、わかります
365 :
縦目仮面:2009/06/06(土) 14:19:48
まあ、よくある説では、崇神天皇の和風諡号、御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエ)
の、「御間城」の部分が、倭人伝に出てくる邪馬台国の官名「彌馬獲支」(ミマカキ?)に似て
いるとか、「五十瓊殖」(イニエ)の部分が、「百襲」と50:100で対比関係(なんのこっちゃ?)
にあるとか。五十と百は関係ありそうだが、これはいくら調べても確証がでるとは思えないた
ぐいのことなんだな。
366 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 15:10:17
産業のない九州の村に、邪馬台国で観光客を誘致したいんですね、わかります 。
↑
これぴったしカンカンだね>
五十瓊殖
五十狭茅
五十瓊敷
五十狭城
368 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 15:18:28
善光寺と草津温泉以外に新しい観光の目玉がほしい長野県にも
邪馬台国説はぜひほしいです。
>晋率善羌中郎将
周の国を支えた羌族が移り住んだのが善光寺で
邪馬台国=山田国だったという説をぜひ広めたいです。
369 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 19:21:39
工業団地をやめて吉野ヶ里遺跡を保存した九州と違って、
畿内の観光客から、お金を巻き上げるための畿内説ですね、わかります。
370 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 20:13:47
>>369 邪馬台国なんて、魏志倭人伝に載っているから注目されるだけであって、日本の歴史の一断面にしか過ぎない。
たとえばそれが大和であったとしても、奈良にとってはそれほど大きな事件ではない。それ以上に大和朝廷や飛鳥の
遺跡、国宝や重文など文化遺産が掃いて捨てるほどある。巻向なんて奈良県民にとってはただのド田舎ですよ。
まぁJR九州なんて社歌にまで卑弥呼を入れてる時点で…
何を言っても恥ずかしいだけだぞw
372 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 20:56:57
>>371 そう言えば『 幻の邪馬台国 』の宮崎康平って島原鉄道の元役員だっけ?
373 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 21:10:57
>>372 島原鉄道乗務取締役だね。
しかし決定もしてないのにここにあったと
吹聴する自治体や会社は大半九州だな。
俺が昔行った九州への修学旅行でのバスガイドも
「邪馬台国はここ九州にありました」と断言してたw
375 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 21:25:04
>>373 確かに歌詞の中に「卑弥呼」が出てくるなw
しかし観光資源の有効利用と言うことなら奈良より九州に邪馬台国があったほうが良いんだろうな…
そもそも奈良にあった場合あくまでヤマト王権(の前身?)が中国史書に邪馬台国と記されていたと言う事で
どうしても「ここが邪馬台国」とストレートに言い難いんジャマイカ?
その点、九州なら
「やがてヤマト王権が始まるその前の時代、滅び去った夢とロマンに満ち溢れたクニ!」
としてアピールし易さそうwww
376 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 21:46:51
ここまでをまとめると九州必死だなwwwwwwwwwww
ってことですね。
377 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 22:20:32
>>373 感動した!
なんという素晴らしい曲が生まれたことか!
これこそ女王卑弥呼様のおかげだ!
理由は要らん、もう邪馬台国は九州でいい!
378 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/06(土) 22:25:58
まぼたいで、何故吉永さんが歌わずにセリーヌ・ディオンさんに歌わ
せたのかねぇ〜? 吉永さんは昔いつでもなんとか♪とか歌手もやっ
てたのに?? 歳がいってしまったからかな?
379 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 22:27:12
>>377 よし!決まりだ、邪馬台国は九州で確定だぜ。
380 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 22:31:58
そうです、邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。
381 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 22:49:11
>>369 工業団地作れば良かったのに。判断を過ったな・・・。
382 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 23:04:31
MR・BRAIN氏が「邪馬台国は奈良県桜井市にあった!」と言った。
383 :
373:2009/06/06(土) 23:32:15
しかしこれで九州に邪馬台国が無かったとしたら、
幻の名曲として記憶されるなw
石碑を探すことだ。火山灰に埋もれた石碑が必ずある。
それしか九州邪馬台国説を決定付ける方法はない。
石碑(プ
387 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 00:29:49
>>385 九州説ですが、そんなことない。
同じ九州説として恥ずかしいのでこれ以上しゃべるなw
388 :
縦目仮面:2009/06/07(日) 00:31:21
石碑ねえ、どんな文字が書かれてるんですかね。漢文ですか、それとも古代文字?
邪馬台国って自称じゃないだろ
390 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 01:08:58
391 :
縦目仮面:2009/06/07(日) 01:17:28
ルーン文字すか。俺はそれ系はけっこう好きなんすが、フサルクの最初のFが「財産・家畜」
を表す時点で、すでにかなり厳しい感じがしますね。
百襲姫=日女命(ヒメノミコト)=卑弥呼でいいんじゃないかい?
大市というのもイチの国=邪馬壱国という事でさ。
箸墓は大市だからな。
何時から地名かはわからないが、モモソ=大市からの由来かも知れない。
邪馬壱国=ヤマト、イチの国なのかも?
394 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 13:16:04
壱国は壱岐
対馬国は対馬
伊都国は糸島半島
なんですけど
筋では東遷がいちばんしっくりくると思うんだけどなあ。
土器と鉄器の問題がなあ。
396 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 15:48:16
箸墓から見つかった石碑には、藤村新一作と刻印があったから心配するな。
三国志に「邪馬壹國」または「邪馬一國」という表現があるからな。
その場合ヤマイチ国とも読めるのでは?
そうなると箸墓のある場所が大市というのがね‥
>>395 やっぱり争いの最中でもあるからな。
単純には進まなかったという事でしょ。
398 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 19:30:55
>>396 もう少し考古学的素養のあるジョークをどうぞ。
>>392 百襲姫は処女じゃないぞ。
しかも、夫の正体を見たために箸で性器を突いて死んでしまうという
恥さらしな亡くなり方をしている。
なんでこれが長年邪馬台国を治めた卑弥呼なんだ。
邪馬台国は畿内でもどっちでもいいが
百襲姫のモデルが卑弥呼だというのはありえない。
>>399 現代人が夕刊フジ読む感覚で神話を読むなよw
>>400 古代には夕刊フジ記者みたいな語り部がいて
毎夕どっかのムラの集会場に呼ばれて
面白おかしくムラビトにしゃべっていたのでは?
>>401 筒井康隆にそんな話あったな。でもこの話と関係ないけどな。
403 :
縦目仮面:2009/06/08(月) 21:02:03
>人類最古の職業といえば「売春婦」というものが、そのNO.1の栄誉に輝く。
本当にそれより古い職業はないのか? あった!
証明しろ! といわれたら「できません」と謝るけど、きっと古いぞッ!
それは恐怖の物語を聞かせてくれる「語りべ」である。 by 荒木 飛呂彦
>>399 卑弥呼の対抗勢力が政権をとって、後に辱しめる話を作っただけだろ。
日本書記に邪馬台国や卑弥呼の話が消されてる理由にもなる。
405 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 21:24:56
>>401 民俗学者の宮本常一は日本中隅々まで民俗探訪をやった人だが、行商人のもつ情報収集と伝達も能力に注目している。同世代の赤松啓介もそうだ。
中世史家の網野善彦は、宮本常一から大きな影響を受けている。
棚田国男民俗学で「常民」と呼ばれる定着農民重視の視点ばかりでなく、「非常民」という生き方をする人々の働きも、社会的に無視できないとの立場だ。
各地を旅する下級の宗教者、乞食、船乗り、旅芸人、遊女(遊郭に固定されるまでの)…など、こうした非常民的人々は中世以前の古代においても、社会へ情報を伝達するきわめて大きな働きがあっただろう。
箸で性器を突いて死んでしまう=恥さらしな亡くなり方
ってのが現代人のワイドショーレベルの理解だって話じゃないの?w
>>406 でも「お前も恥をかかせてやる」といって
大物主命は三輪に帰ったという伝説だろ?
やっぱり後々辱めの為に創った気がしないでもない。
『市民の古代』第8集 1986年 市民の古代研究会編
●研究論文 講演
多賀城碑について
古田武彦
金石文について
ご存知のように、七世紀から八世紀にかけて、日本における古い金石文、石碑ですね、
これが六つある。関東に四つ、群馬県に三(山之上碑、金井沢碑、多胡碑)、栃木県に
那須国造碑、京都に宇治橋碑(破損して一部しか残ってないようです)、それに、仙台に
ある多賀城碑がございます。これ等が日本の古い金石文の代表とされております。
考えてみると面自い話です。東北、関東にかけて圧倒的に多い。わずかに近畿は一つ
だけ、九州はない。これは一体なぜだろうというのが面白い問題になるのですが、今日は
そういう問題にたちいりません。
------------------------以下略、引用終わり--------------------------------
わたしは、九州や畿内では石碑が造られていなかったとは考えていません。多賀城は
国分寺がおかれると廃城となったために、比較的良い状態で残ったのだと考えます。
邪馬台国碑が作られた可能性も十分あると思います。ただ、それは、埋もれてしまった
か、他の石碑や墓石、城の石垣などに転用されているのかもしれません。
まずは掘ってみる。大きな石はひっくり返してみる。裏側を見る。あとは運ですね。
>>407 その見方自体は仮に前提としてもいいとおれも思うけど、ただ、
「箸でまんこ突いて死ぬ」とか「情夫がヘビだった」って話が全然現実的じゃない以上、
なんらかの比喩と考えるのが普通でしょ?
首が8つある竜の実在をそのまま信じるやつはいないのと一緒。
ふと思ったのだが、よく都市伝説にある
「かごめかごめ」の歌に卑弥呼(モモソ姫)の逸話に
ぴったりはまるのでは?
かごめかごめ(籠女‥籠神社の巫女)
かごのなかのとりは(モモソ姫)
いついつでやる(いつでてくる?)
よあけのばんに(日食の事?夜明けに蛇の姿を見た事?)
つるとかめがすべった(鶴=巫女、亀=占‥卑弥呼がこけた?)
うしろのしょうめんだあれ?(これは意味不明だw)
当然元歌は違うと思うが、案外卑弥呼の
ネガティブキャンペーンソング的に広められてたりして。
>>410 無邪気な謎解きだけど、楽しいねw
その流れで最後の1行を解釈するなら、「で、誰がこの国治めるの?」で決まり!
確かに背後の正面という事なら
次は誰が治めるのととれるなw
カゴメはイスラエル国旗と同じ。
伊勢神宮の灯篭のカゴメ紋は、天皇がユダヤの失われた十支族の子孫だったことを示す証拠
籠神社も元伊勢だからな。
百済の人がペルシャ系住民で、
アラブ人の顔立ち。
この人達が失われた部族だったという説があるよ。
羊を飼う民族だったらしい。
当時の日本人より背も高い。
416 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 17:46:48
>>410 ばかだなあ。その歌が古墳時代から伝わってると思ってるのか?
「しょうめん」って和語じゃないだろ。
>>416 当然歌詞は変わってるだろ。
しかし公式には江戸時代からの童謡とは言われてるが、
実際いつ何処から広まったかは全く不明だよ。
籠の中に入ってた姫というと、かぐや姫もそうだし、
他でもない籠神社の伝承にもある。豊受大神がそうだ。
418 :
縦目仮面:2009/06/09(火) 21:15:32
419 :
縦目仮面:2009/06/09(火) 21:48:38
籠目には僻邪の意味合いがあるとする民俗学の研究もあるらしい。いわく、魔は目が多い
ものを嫌う、魔はついつい目の数を数えてしまいその間に逃げ切ることができる、など。
これは密教の九字護身法でもいわれてて、「退魔の早九字」(刀印)では、線で囲まれた目
は12できる。俺も妖怪に会ったらやってみようと思ってるんだが、いまだ機会がない。
http://blogs.yahoo.co.jp/kazu_0053/12329734.html あと、カゴメ歌と庚申講、青面金剛などの関連をいろいろ調べてる人もいるようだが、俺には
HPを見てもよくわからんかった。
420 :
縦目仮面:2009/06/09(火) 22:12:01
伊勢神宮の灯籠については、参道ではなく国道にあるもので神宮側はノーコメントを通して
る。以前機会があっていろいろ調べたが、この説が本当っぽくて面白かった。
>あの灯篭は“伊勢三宮奉賛献灯会”によって昭和30年に建立されたものである。そして
ダビデ紋の依頼主は、当時の日光東照宮宮司の二荒芳徳元伯爵と神宮奉賛会会長で.
大阪タクシー株式会社社長の森岡善輝の二人であり、 実際に彫刻したのは木藤昌宏が
社長をつとめる兵庫県西宮市の木藤石材工業であった。神宮自体はまったく関知してい
ない。
なぜそのようなものをつくったのかは諸説あるが、二荒芳徳伯爵がボーイスカウト日本連
盟顧問で、フリーメーソン人脈に近かったことから、その組織から何らかの働きかけがあ
ったのではないか、と云う説が一番信憑性が高いように思う。
>>420フリーメーソンて、
鳩山兄弟を使って自民党転覆を企てる組織のことですか?
あの二人は、お笑い兄弟みたいな感じがしますが・・
深読みすると、日本の品性を下げる、それが狙いなので
はないでしょうか?
422 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 22:29:49
ボーイスカウトはフリーメーソンの下位組織だからな
423 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 22:46:20
しかし変体仮面は何気にオカルトへの傾倒が垣間見えるなw
さてそろそろイルミナティとかローゼンクロイツとか出てくるのかな?wwwww
円筒埴輪の丸や三角の穴も、魔除けの“目”だろうな
籠目を埴輪であらわした物だろう
425 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 22:56:47
カゴメというのは、最小限の素材で効率よく強度を上げるための編み方。
イスラエルとは全く関係ない。こじつけもいいところだ。
426 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 23:00:17
ボーイスカウトの宗教章は神社本庁が他の国内の宗教団体に先駆けて承認した
427 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 23:01:10
御前等はフリーメーソンがなんなのか解ってない
只のオカルト愛好団体か?違うね
428 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 23:11:46
429 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 00:22:20
「伏見稲荷大社の稲荷をローマ字で書くと「INARI」、これより「A」を抜くと
「I・N・R・I」で「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」となります。
伏見稲荷大社を造った秦氏は大秦(ローマ帝国)出身でネストリウス派キリスト教徒
でした。秦氏の造った広隆寺もキリスト教の聖堂です。また伏見稲荷大社の裏手は
栗栖(クルス)と言う地名です。」MR・BRAIN氏
431 :
縦目仮面:2009/06/10(水) 06:36:38
>>423 オカルトへの傾倒?・・・ヨーロッパの錬金術、占星術、黒魔術は好きで昔から調べている。
まあ、趣味かな。学業とは別なんだが。
今時陰謀史観かよ
現代版「ノアの方舟建設計画」
2009年5月5日、ニューヨークはマンハッタンにあるロックフェラー大学の学長でノーベル化学賞の受賞者ポール・ナース博士の
邸宅に世界の大富豪とヘッジファンドの帝王たちが集まった。この会に名前はついていないが、
参加者たちは「グッドクラブ」(善意の集まり)と呼んでいる。
主な顔触れはデービッド・ロックフェラーJr、ウォーレン・バフェット、ジョージ・ソロス、マイケル・ブルムバーグ、
テッド・ターナー、オプラ・ウィンフレーと言った超豪華メンバー。この集まりを呼び掛けた人物はパソコンソフトの
標準化を通じて寡占状態を築き上げ、個人資産5兆円を超すビル・ゲイツである。
これほどの大富豪たちが一堂に会し、密かに議論したテーマは何であったのか。実は世界の人口増大をいかに食止めるか、
そのために彼らが所有する巨万の富をいかに有効に活用すべきか、ということであった。
議長役としてこの会を取り仕切ったビル・ゲイツによれば、「人類の未来に立ちふさがる課題は多いが、最も急を要する問題は
人口爆発である。現在67億人が住む地球であるが、今世紀半ばには100億人の可能性もありうる」
「このままの状況を放置すれば、環境・社会・産業への負荷が過大となり地球環境を圧迫することは目に見えている。なんとしても
人口爆発の流れを食い止め、83億人までにとどめる必要がある。各国政府の対応はあまりにスローで当てにはできない。
潤沢な資金を持ち寄り、我々が責任をもって地球の未来を救うために独自の対策を協力して推し進める必要がある」とのことであった。
続き
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/business/n_bill_gates__20090606_1/story/moneyzine_155855/
434 :
縦目仮面:2009/06/10(水) 21:35:47
フリーメイソンは、友愛・慈善団体で世界的な陰謀を企む秘密結社ではないよ。念のため。ww
最近、坂本龍馬フリーメイソン説が話題になったが、その関連でいろいろ調べたけど、どうも
根拠はないようだった。まあ、スレ違いもいいとこなんでもうやめる。
435 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 21:56:22
>>424 >円筒埴輪の丸や三角の穴も、魔除けの“目”だろうな
円筒埴輪の穴の形は、ほかに長方形や半円形や巴形もあるんだが。
三角形、半円形は、上向きも下向きも両方あるんだが。
自ら政権を取るのではなく、陰で主要国を牛耳ることで世界を支配する。それがフリーメイソンの真の姿。
437 :
縦目仮面:2009/06/10(水) 23:05:28
籠目=魔除けの概念は、平安時代の陰陽道あるいは密教以降のものではないかな。柳田國男が
笊や目籠を魔除けに使う風習について書いてたから、近代にまで続いているようだ。有名な晴明桔
梗印は五芒星であるし。
フリーメイソンについては、カリオストロ伯爵の存在が、うさんくささを発生させる原因の一つかな?
この18世紀のイタリア人は、フランマソン(フリーメイソン)の一員で、不老長寿を称して幾多の
オカルト詐欺事件を展開した。「首飾り事件」により失脚、最期は獄死したとされるが・・・。この事件
をフランス革命の一因となったする見方もある。まあ、当時のヨーロッパ社会全体に神秘主義の
影響が強かったようだが。
いかんな、またこの手のことを書いてしまった。
箸墓古墳を掘れば、石碑やペトログラフが大量に発見されることはほぼ間違いありません。
宮内庁がこの古墳を第7代孝霊天皇の皇女の墓として研究者や国民の墳丘への自由な
立ち入りが禁止されているのがその最たる証拠。
宮内庁は、それ以外にも重大な証拠を意図的に隠しているような気がする。天皇家の歴史、
日本の歴史どころか世界史を書き換える必要があるほど重大な秘密を宮内庁、天皇家は
握っていると思われる。だから、あのマッカーサーさえ手をつけることは不可能だった。
いい加減本道に戻れよw
440 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 18:38:52
>>438 宮内庁は陵墓が調査された結果いろいろ報道されるのがいやなだけでしょ
事なかれ主義なだけ 役人にありがちなこと
ただ実際調査されれば記紀のたしかさが証明されるとおもうけど
441 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 19:57:24
明治維新以前には陵墓なんてあばき放題だったらしいよ
田んぼの真ん中の丘にしか見えなかった雑木林が
急に天子さまの御墓だということで明治時代以降
柵を張り巡らされて鳥居が建てられたりしたもんだ
陵墓の中には江戸時代に描かれた内部の絵が残っているものもある
しかし当時はどれだけ考古学的価値があるかなんて誰も考えなかったし
昔の天皇がどこに埋められようがどうでもよかったのだろう
442 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 20:10:30
>>441そうとまでは言えない。
田んぼの中の土饅頭のでかいのが千年以上も潰されずに
残ったのは、古代から村人にとって禁忌の場所だったから
であって、だれも畑にしたり家を建てたりしようとはしなかった
からだと思いますがね。
443 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 20:16:44
>>442 陵墓はたいてい、盛土されていますからね。
平地ではありませんので開墾されないんです。
まあ、陵墓もだいたいが削られてもとの形をとどめていませんがね。
現在はこんな形だが、もとは前方後円墳だったなんていうのが
いくらでもあります。
すぐそばまで民家や田んぼが迫っている。
禁忌の場所だったならば、当時のままの形で残っているはずですがね。
家の近所に古墳ないですか?
結構石棺むき出しになってたりしますよ。
>>443元の村人が追い出されて新たな住民が住み着いた土地はいくらでもある。
そういうところでは、禁忌には簡単に破られるものだ。
畿内は、他の地域に比べ古代から長く住み続ける村が多かったということです。
445 :
縦目仮面:2009/06/12(金) 20:39:47
まあ、箸墓でも箸中の集落の人がショートカットに使ってた陵上の道があったな。
446 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 20:44:31
最近見つかった推古天皇と竹田皇子の合葬陵なんて
陵墓比定から完全に外れた場所から見つかったもんだから
一般公開してたよね(見に行ったよ)。
普通に狭い山道上っていくといきなり発掘現場があって石室がある。
地元住民が禁忌をしいていたのならば、
近畿の陵墓は全部確実に見つかってるよね。
近畿圏内の誰も知らない意外なところから陵墓が見つかるのはなぜ?
現在の陵墓比定もいい加減なのも多いけどね。
限界集落。
人が住まなくなった廃村は多いです。
448 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 20:55:00
横穴式と竪穴式で、盗掘がやり易い、やりにくいの違いありそう。
横穴式は開口部が古墳の裾に近く、探り当てやすい。
入口の閉塞石さえどければ中に入れる。
それに比べ、竪穴式は上から盛り土をさんざん掘り出す必要がある。
桜井茶臼山、黒塚など、竪穴式の前期古墳は、未盗掘だった例が案外ある。
箸墓は、後円部のそばに歴史的メイン街道の上ツ道(長谷寺参詣やお伊勢参りの伊勢街道)が通り、
箸中村の集落もすぐそこあるので人通りが多く、人の目が絶えずある。
戦国時代以前はともかく、近世以降の盗掘は考えにくい・・・・・・と、勝手にいい方に期待。w
449 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 21:20:13
>>446 そんな場所から見つかってるんじゃないんだが。
というか、陵墓がどこにあるか知りもしないでしょ。
京都なんか、民家が建てこんだ真ん中に急に鳥居と石碑があって
「なんとか天皇陵」。
専門家の話でもどっかこの辺というだけではっきりしないらしい。
思いっきり民家建ちまくり。
450 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 21:21:34
>>448 まあ木槨の場合、築造後数百年の後にはグシャッと潰れて全て土の中って事で
一種のタイムカプセルみたいになるんじゃないの?
ホケノがそう言う条件だったと思うが…
それでも大概は掘り返されているんじゃないのか?
銅鏡の副葬があったとしても完全な形を残している物はもとより
大きな破片は持ち去られているんじゃないのかな?
地形図を見れば
>>445の言う道が斜め横断しちゃっているのが分かるしwww
平安時代の天皇陵も、実は真陵として確実なのものは4分の1も無いんだよね。
452 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 21:24:22
>>449 京都なら「陵」と名があっても実際には仏式の墓が殆どなんじゃないのか?
454 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 21:45:28
>>452 ほぼ寺の中に陵が作られるようになったのは江戸時代以降
それまではばらばら
初期の例では醍醐寺管轄内に陵墓を持つ醍醐天皇がいるが
それ以降も寺内に陵を持たない天皇も多い
明治時代の神仏分離令により寺と陵墓は切り離され
現在寺が管理しているものはひとつもないけどね。
>>446 いやむしろ植山古墳のあたりが「大野岡」であった蓋然性は高いんじゃない?
456 :
縦目仮面:2009/06/12(金) 22:18:19
457 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 22:40:59
>>456宮内庁って、神武天皇まで実在していたことにしてたのですか?
なんだか笑った。
>>457 それどころか、宮内庁は日向三代の陵墓も管理してるよ。
俺は別に笑わないけどね。
そのへんはさっさと発掘してほしいな。
ガセネタのために土地を遊ばせておく必要はない。
460 :
縦目仮面:2009/06/12(金) 23:01:22
461 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/12(金) 23:06:41
ハァ? 津田病の潜伏期が終わったのか〜? bb
462 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/12(金) 23:12:09
>>461 これは縦目仮面氏へのことではない。よって中止。
なんだかPC画面に混線があったのか? 交錯があったみたいだ?
何故かねぇ? 変だな〜?
463 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 23:12:40
>>459 いや、近世史は近世史で大事にしないと。
明治政府がどんなむちゃくちゃやったかは歴史として認識しておかないとね。
464 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 00:02:20
実は、水戸黄門がすでに発掘している。宇都宮藩もあやしいな。戸田氏だっけ?
水戸藩の所蔵品を探せ。
465 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 02:37:24
畿内説の人に質問
・女王国の東、海を渡ること1,000里に国があり皆倭種。
・南に狗奴国。(女王国の境界尽きる奴国の南にある)
・南4,000里には朱儒国。
・東南に一年で、裸国・黒歯国。
・土地は温暖で、冬でも生野菜を食べる。生活環境は中国海南島と同じ。
・倭の地を参問するに〜周旋5,000余里
↑
なんか奈良っぽくないんだけど・・・。
説明して下さい。
466 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 02:39:25
琵琶湖
八丈島
468 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 02:53:39
確かに奈良の「北東」方向に琵琶湖があるけど、
「南は東の間違い」なんでしょ? だったら東=本当は北ってこと?
だったら東南に一年=裸国・黒歯国は、本当は北東になるわけ?
北東に一年行くと裸国・黒歯国があるってことは東北か北海道のこと?
ハダカじゃ寒くないの?
469 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 02:58:24
近畿を中心に西日本一帯が邪馬台国だから別にいいんだよ。
伊勢湾
471 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 03:02:00
西日本一帯の東北に一年で、裸国・黒歯国があるんだよね。
(南は東の誤りだから)
東北や北海道で素っ裸じゃ寒くない?
伊戸国で倭人から聞いた事柄なんだからそうなるんだろ。
実際の邪馬台国も畿内なんだけどね。
ペルー、コロンビア
474 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 03:19:20
船で1年なら太平洋横断してるかもな。
475 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 03:22:54
でもさ、西日本一帯だったら周旋5,000余里じゃ足らないでしょ。
狗韓国→対馬、対馬→一大国、一大国→末盧国がそれぞれ1,000余里
なんだから。
476 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 03:49:48
狗邪韓国の邪がぬけた
>>465 悪魔で故人的な見怪だが・・・
極端に言えばそんな物考えるだけ時間の無駄
「ガリバー旅行記」と変わらない内容の物を真に受けて実際に地理に当て嵌めるなんてナンセンスつうかw
例えば「東南の裸国・黒歯国」と言うのは、それこそ海南島とゴッチャになっていて
海南島から東南と言うのは現在のフィリピンかインドネシアあたりの話じゃないのか?w
結局それらを読み解くと言うのは古代の中国人の脳内地図のイメージを読むと言う事で
畿内だ九州だとかいう以前の問題だろうとwwwww
ちなみに方角の問題にしても「南は東の間違い」と言う単純な話ではないだろうと思っている。
情報のソースとして
・九州に常駐あるいは頻繁に訪れていた中国人の実際の見聞に基づく物
・倭人からの情報
・大陸の中国人の脳内地図
・実際に卑弥呼の下に行った魏使の報告による物
これらがゴッチャになっていると思っているw
まあ流石にここまでやっちまったらこの板の畿内説の連中からも叩かれるだろうがwwwwwwww
478 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 05:25:47
479 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 11:24:36
>>477 ふ〜ん、三国志ってガリバー旅行記みたいな童話なの?
それにしちゃ、行程の対馬→一大国→末盧国・・・云々とか、当時の風習とか、
卑弥呼の朝貢とか、戸数とか、、真に迫ってない?
結局畿内説では、魏志倭人伝の記述との食い違いの説明は出来ないってことなんでしょ。
480 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 11:40:15
陳寿はそもそも始度一海千餘里などの里を魏里(約400m)と考えていた
だから水行二十日に水行十日陸行一月と書いても何の疑問も感じなかったし
計算するとまさに会稽東冶之東にあるべしだったのだろう
魏志倭人伝の信憑性なんてそんなもの
481 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 11:58:58
>>479 朝貢記事や北部九州でガチな部分とかと海南島あたりの風俗・地理と混同してしまっているのか?と言う指摘もある部分と
情報精度を一緒くたにしてしまうのはねえ…
この板の九州説はそういった論調が多いよな。
「信用できないというのなら邪馬台国の存在そのものも信用できない」
と言う理屈でそれこそ倭人伝の隅から隅まで一言一句真としなければならないようなwww
まあ
>>477はこの板では極端な意見だろうから
妄言と言うのなら言って貰ってもかまわないからwwwwwwww
まー、「ここの記述はこうカン違いしたんじゃないか」なんて
恣意的な解釈がまかり通る世界だからなあ。学問じゃねえよなあ。
この時代中国の書物で一萬二千里を越える距離表現ってあるの?
無いから一番遠い距離という表現なんだろう。
484 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 14:23:00
東に1万2千里、南に1万2千里、地球の裏側で逢えるね。
485 :
縦目仮面:2009/06/13(土) 17:54:02
まあ、俺は中国国内記事(魏帝詔書等)以外は疑って・・・いやいや資料批判しながら読んでる
けど。まあ、読み方に関しては人それぞれでいいと思うが、むしろ自説を立てた後のバッキング
のしかたに問題が多い気がするな。
486 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 18:16:20
食は万里を越える…by 餃子の王将
487 :
ローガン:2009/06/13(土) 18:26:02
行程の構文が変わっているのは、単純に複数の資料を参照したためではないかなあって思います。
488 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 18:53:34
>>480 >陳寿はそもそも始度一海千餘里などの里を魏里(約400m)と考えていた
帯方郡は山東半島の東だ。陳寿は、当然そのことは知っていただろう。
山東半島から南へ万二千里、魏里(約400m)で計算すれば、赤道付近のはずだ。
なにしろ、中国の南北は六千里とか言われていたからね。陳寿が魏里の万二千里が
どのくらいか知らぬはずはない。何でその陳寿が、会稽東冶の東なんて言葉をその
まま書くんだ? 魏里と考えていたにしてはおかしいじゃないか?
実際行った訳ではないので、日数も距離も遠いと表現しただけ。
490 :
縦目仮面:2009/06/13(土) 20:33:48
陳寿が倭国に関心があったという話は聞いたことがないんで、Wikiもない時代にわずかな
資料を頼りに、俺らがウルグアイやニカラグアの地誌を書くような感じだったんでないの?
(上記2国を出したことに他意はないです。俺は地理は不得意なんで、全然イメージがわか
ない国の例え)
491 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 22:30:52
百襲媛が卑弥呼なら男弟が崇神?
応神天皇が四世紀末在位なら
応神は崇神五世の孫だから年代的には記紀の系譜は合ってるということなのかな?
492 :
縦目仮面:2009/06/14(日) 00:14:12
493 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 00:27:31
>俺らがウルグアイやニカラグアの地誌を書くような感じだったんでないの?
会稽東冶は中国内の話だよ。頭は大丈夫か?
モモソが卑弥呼だとしたら、年代的には日食を経験してる可能性大だよね。
つまり「天の岩戸」もモモソがモデルなのか?
天の香久山は勿論奈良にあるし、堅い石のとれる天の安川だって近くにある。
(南河内郡太子町の現飛鳥川が安川という)
おまけに飛鳥川の上流は二上山の石切場で岩屋峠!
更にすぐ近くに鉱山としては信貴山の山中に金山媛神社があって、
弥生時代から鉱工業が栄た場所でもある。
今の伝説候補地より状況としては相当一致すると思うのだが。
日食なんてそんなに珍しい現象じゃないし、数分の出来事。
何日も台風だったとか、火山の噴火の方が余程に与える影響が大きい。
あれは、計算が出来るらしいから、予言者の術として有効なだけで、もちろん卑弥呼が天文学的知識で持って予言したとは思えない。
卑弥呼は別に日食なんか予言してないと思うけど。
しかし日食後、その数年後に死去してるのだから
それをきっかけに政情不安になるのは充分有り得る話だ。
>>496 だから、日食なんてのは予言するからビックリするだけの話。
曇り空でも日は隠れるんですよ。
日食より、火山噴火で数カ月に渡って太陽が隠れる方が天変地異。
いくらなんでも古代における信仰ってもんを軽視し過ぎだろう。
シャーマンが牛耳ってた古代国家の話によく首つっこめるな。
崇神天皇
3年 9月 三輪山西麓の瑞籬宮に遷都
5年 疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた
6年 疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。
7年 2月 大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。
11月 大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(三輪山を御神体とする現在の大神神社)、
市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。
10年 9月 大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、
従わないものを討伐させた(四道将軍)。
しかし、大彦命だけは異変を察知して和珥坂(奈良県天理市)から引き返し、
倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(孝元天皇の皇子)の叛意を知ることとなる。
武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとしたが、
天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、
大彦命と彦国葺(和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。
倭迹迹日百襲媛命大物主神の妻となるが、大物主の本体が蛇であることを知って驚き、倒れこみ、箸が陰部に刺さって死んだ。
箸墓古墳は、彼女の墓と伝わる。
11年 4月 四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その様を奏上した。
12年 9月 戸口を調査し、課役を科す。天下平穏となり、天皇は御肇国天皇と褒め称えられる。
48年 1月 豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼び、どちらを皇太子にするかについて熟慮決断した。
4月 弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。
60年 7月 飯入根が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺される。
65年 7月 任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。
68年12月 120歳で崩御(『古事記』は、戊寅年12月崩御、168歳とする)。
しかし天の岩戸伝説が大和の地で起きた、
日食騒動だとすると、舞台としてはぴったりだな。
モモソ媛=卑弥呼
天香具山=香具山
天の安河=飛鳥川=旧安川
天の安河原=安宿郡(あすかべ)周辺の河原
天の安河上流の石=二上山の石
天の金山=信貴山周辺の金山媛神社、周辺にいたとされる出雲系鉱工業集団
更にいうとこの一帯は物部氏の本拠地でもあるしな。
安川(現飛鳥川)の上流を上って行くと岩屋峠もあり、
そのまま葛城山麓を南へゆくとまさしく「高天原」だw
まあ結論をいってしまうと、「天の岩戸」とは洞窟でもなんでもなく
箸墓そのものの事を指すと解釈しよう。
石の棺は二上山のものだし、鏡や鉄云々は様々な副葬品の記述だ。
その箸墓は現土師ノ里周辺に住んでいた者によって作られているので
土師の墓=箸墓。土師ノ里とは安川(飛鳥川)下流、大和川合流付近で
おそらくこの辺りが「天の安河原」でしょう。
そして「天の岩戸」前でのどんちゃん騒ぎというのは、墓の前での
卑弥呼復活の騒ぎだよ。そのために前方後円墳のカタチになった。
‥まあ仮にモモソ媛が卑弥呼だとすると、こんな感じで
話はまとまるんじゃないの?
503 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 22:09:23
日食って見れたのかな
504 :
縦目仮面:2009/06/15(月) 22:18:55
505 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 22:23:00
岩戸に隠れるというのは、貴人の死を意味すると岩波文庫の古事記に
書かれている。万葉集などにも、皇太子がなくなったとき、岩戸にお隠れに
なったという表現があるという。
日食が朝方だとすると、
当然見れたんじゃないの。
というより卑弥呼はこの頃死んでたんじゃないか?
507 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 22:26:19
イエスキリストも復活した事だし卑弥呼の一人や二人復活しても可笑しくない
天の安川で飛鳥か。二上山西側(太子町)の飛鳥に
天皇陵が多いのもなんとなく納得。
そういえば天の岩戸伝説に名前のある鍛師、
天津麻羅は物部造等の祖でもあるからな。
おまけに陰部を傷つける所まで被ってる。
>>505 確かに「お隠れになる」という表現が使われてます。
やはり天の岩戸は女王が崩御する時の描写じゃないかな。
それが皆既日食の時期とも合したため、
こういった表現で伝承されていたのだろう。
それが大和、河内を舞台に起きていたとなると、
モモソ媛=卑弥呼を裏付ける事にもなる。
安本センセにも伝えなきゃな。
畿内にも「天の香具山」「天の安川」どころか
「天の安川上流の堅い石」「天の金山」まで揃ってるってw
天の岩戸とは、単に日没
朝、太陽が東の山陰から生まれて、夜、西の山陰に消える
東には太陽の生まれる山があって、その麓が日の本
九州を基点とすれば畿内方面だし、奈良盆地で言えば三輪山とかその東に連なる山々
そして三輪山の真東に伊勢の神宮が置かれている
>>511 「天の岩戸」は古代史の上では相当重要なエピソードだと思うが。
東の伊勢神宮より少し北の斎宮跡〜三輪山、
奈良盆内では桧原神社〜箸墓〜須賀神社〜菅原神社〜日大御神社
そして二上山(穴虫峠)、淡路島の伊勢久留間神社〜石上遺跡まで
見事に一直線に並ぶからな。
ここまで太陽にこだわる者達にとって
太陽が隠れる事は相当大事だと思うけど。
>512
太陽が毎日生まれて日没には死ぬから、翌日も再び生まれます様にと魂振り神事をするわけだろ
それがアメノウズメの踊り、鏡など
512のそれらは、単に一直線に並べたのではなくて、西から東へと祭る場所を移した軌跡だろう
日が昇る東に太陽が生まれる場所を求めて、ある時期には「淡路島の伊勢久留間神社」付近がその場所と見なされ祭られた、
そして次の時期にはさらに東に本州に入って、二上山がそれとなり、さらに次の時期には石上と、
勢力地が拡大するにしたがって、東に祭る場所が移されたと見てはどう?
>>513 ん?だから皆既日食なんて大事だったはずと言いたいだけだが。
>514
日食なんて、人類は大昔から見て来て知ってるだろ
太陽が一瞬陰っても、人間の生活に何の影響も無い事は自ら知っている
まあ大事な太陽がなぜ陰るんだろう?という疑問は残るから、
いろいろ想像を逞しく理屈を考えるんだろうが
稲作民族にとって、大事なのは年間を通しての天候や天災であって、
日食みたいな一瞬で終わる事よりも、1年と言うスパンでの太陽や風や雨の安定性だろう
古事記・日本書紀の最初の主人公は神武天皇であり神武東征がメインストーリー
その中で天照の子孫が東征先で天照によって追放されたスサノヲの子孫の助けによって大和で即位する、というストーリー上
天照サイドの話とスサノヲとその子大物主の話も語られているがあくまで天照の弟スサノヲの子孫が天照の子孫を助けることへの伏線であって
こっちがメインストーリーじゃないし天照はメインストーリーの主人公ではない
>>515 卑弥呼の存在を根本から否定するなよw
後々使われる「お隠れになる」の意味を考えろ。
>>516 ここは誰についてのスレか知ってる?
まあ「天の岩戸伝説」が実際の出来事を現してると
安本先生も言ってますからね。
それを詳しく調べれば調べるほど、モモソ媛の箸墓建設話に
状況としては一致してしまうのは事実です。
では、邪馬台国のころに他に日食は無かったのだろうか?
日食があったなら、他にも「天の岩戸隠れ」に相当する事は書かれていますか?
皆既日食は158年7月13日と248年9月5日
特に248年のは朝6時位と計算されていて、
この年に卑弥呼が死んだとされてるね。
この次が454年8月10日だな。
朝6時の皆既日食となると、まさに夜明けの晩だな。
皆既日食はやはり説得力に欠ける。
記紀が編纂されるまでに何回日本は皆既日食を経験してるのか?っていう問題もある。
しかも、数分で太陽が復活再生してるわけで、卑弥呼の影響力低下に繋がるとは全く思えない。
倭人伝にも、そんな奇妙な理由で誅殺されたのなら書かれてると思うし、後継者も男王が否定され卑弥呼の系流が王位についてるってことは卑弥呼が当時においても否定されてないという確かな証拠なんだ。
>>522 シャーマンの存在理由を理解してないなw
気象予報士じゃないんだけど。
太陽が本来あるべき行動を取らないという事は
当然禍々しい事の前兆と捉えられけどな。
また貴人が亡くなる事が「お隠れになる」という意味を
どう解釈してるのか?
それに皆既日食自体は数分じゃないだろw
かけ始めからだと最大3時間位だぞ、勿論場所にもよるが。
158年7月13日の皆既日食により
太陽神である天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊の権威が失墜し内乱へ
『後漢書』桓帝・霊帝の治世の間(146年〜189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も王がいなかった。
一人の女子が現れた、名を卑弥呼と言い、年長になっても嫁かず、鬼道を用いてよく衆を惑わしたので、ここに於いて王に共立した。
248年9月5日の皆既日食により卑弥呼が殺される
>>522 高齢でもある卑弥呼が日食に驚いてショック死、もしくは
自殺してしまったとも考えられるでしょ?
それがモモソ媛の話では陰部に箸を突き刺した(転けて刺さった)
という伝承に変えらたのかもしれない。
526 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 16:16:29
想像するだけならばいくらでも想像できるが、それに伴う証拠はまったくないと
いうことだな。
まあ証拠を言い出したら、この年代の物には確たる物は何もないからな。
倭人伝、日本書記、古事記全て?だらけだ。
528 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 17:40:29
安本先生はいまだ日食説を唱えておられるのでしょうか?
しばらく邪馬台国の会にいっていないのですが、いかがでしょうか?
日食説だったら畿内説の方が有利になるしな。
530 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 19:02:49
畿内で日食見れたの?
248年のは仙台〜能登を横断なので見れる。
532 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 20:42:38
つまり奄美大島が邪馬台国なんですね
533 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 22:09:33
あのねえ。日食なんてわりと結構見られる自然現象なんだよ。
月食も含めれば、普通に生きてても10年に一回は見られるはず。
自分はまだ見たこと無くても、古老に聞けばたいてい知ってるはず。
で、日食が起きたから、災いがおきたなんてこともないわけ。
世界中見ても、日食が不吉とされたことはない。彗星と違って。
神道の神事でも日食にまつわるものなんて無いよ。
日食で騒ぎすぎなんだよ。
卑弥呼は太陽信仰のシャーマンじゃないんだけどw
道教のシャーマンで倭国を導いた
太陽信仰は天皇家の信仰(つまり倭国全部とはちがう)
月食や部分日食と皆既日食は暗くなる度合いがぜんぜん別物
それに暦があれば日食なんて自然現象と理解できるが日本で暦が採用されたのは5世紀
>>534 ここでの日食説の前提は
アマテラス=卑弥呼(モモソ媛)だよ。
思いっきり太陽信仰だと思うがw
538 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:27:16
なんか論点がずれてるんだよな
皆既日食と卑弥呼の死を結びつける根拠に乏しいと言ってるわけですよ
それが原因で誅殺されるんであれば、なぜに卑弥呼の一族であるトヨが再び王位に就くんだよw
しかも、生活に影響を及ぼすほどの災いを日食が及ぼしたのかよ
本当に皆既日食だったのかよ
畿内で日食が見られたのかよ
モモソ姫だったら何故に言い伝えが残ってないのかよ
その日が晴れだった可能性100%じゃねぇし
日食現象が飛び抜けて驚くような現象かよ
それより火山噴火とかのほうが農作物に影響与えるだろ
あまりにも突飛
つまりそういうこと
百襲媛スレなのになんか天照スレになってるよww
百襲媛たんカワイソス
日食の話題はここじゃスレ違いだよ
>535
皆既日食でも、夜みたいに暗くならないんだよ
せいぜい曇りの日程度、地平線付近は青空だし
暦がなくても農耕はやってるだろ
>>538 ガキが「お前が見たのか?」と言ってるようなもんだな。
大物主が蛇になる方がよっぽど突飛だろw
>>539 吉本センセイが悪いw
>>538 >日食現象が飛び抜けて驚くような現象かよ
当然だろ、卑弥呼の死が関係するかは兎も角、
「お隠れになる」の意味位いい加減に理解しろよな。
>>542 だから何故、卑弥呼に結び付けるんだ、日食を
同じ年に起こったというだけでは
日食が起こったのをシャーマンのせいにされて殺されたなら、なぜ大塚を作るんだ?
>>543 天災で王族が殺される例は百済にもあるけどな。
飢饉が発生してシャーマンである麻余王が殺され、
後に子が擁立されてる。
それに塚を造るのは別だろ、対立する敵を殺すのと訳が違う。
まあ偶然とはいえ卑弥呼が亡くなったとされる年に
皆既日食があったのは、計算できる事実にはかわりない。
日の巫女でもある者に関連つけるのはある意味当然なのだが。
546 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 10:08:39
卑弥呼の死んだ日と日食が近いといっても、
不確定な前提が多すぎる。
1、卑弥呼が日巫女というのは事実なのか?
2、日食の日に空が晴れてたのか?
3、日食は、日本から観測されたのか?(NASAの計算ではぎりぎり不可だったはず)
4、日食が、日の巫女の死とどのような関連性を持たせ得るのか?それは事実か?
5、日食が大事件なら、どうしてその後の日食の記録が記紀に少ないのか?
6、日食が大事件なら、どうして日食を祀る神事が神社に残っていないのか?
547 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 10:13:13
日食なんてトンデモのネタにすぎんだろ。
>>546 大体この時代で確定してる前提なんてあるのw
1‥存在の詳細がわからないのにw
まあ少なくとも卑弥呼=モモソ媛の仮定なら
日女命、または日神という記述からそう判断できる。
2‥どう証明しろとw
3‥NASAの計算のソースある?
4‥太陽が予期しない行動する時点で、
起こりうる様々な負な事柄の責任を
負わされるでしょ。事実交戦中じゃなかった?
逆に偶然卑弥呼が老齢による死去でも、
日食のせいとされるんじゃないの?そのため死後に
日巫女とされた可能性もある。
5‥少ないか?「お隠れになる」と後世語られる事象だと思うが。
6‥天の岩戸という伝承は?
158年の皆既日食を利用して天皇家がニギハヤヒ(天照)の系統から権力を簒奪
248年の日食でニギハヤヒの系統が巻き返すもあえなく撃沈
卑弥呼個人に責任を取らせ、台与を擁立
>>546 日食と天皇を関連つける記述なんて多いぞ。
日食自体だと日本書記だと11回だ。
一番最古の具体的記録だと628年の4月だが、
やはり日食を契機に推古天皇が亡くなったとされてるんだけどね。
551 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 13:37:02
>>550 推古天皇の件は太陽=天皇という印象操作なのであり
日食があったから天皇を殺しても良いという発想とは真逆なんですよ
そんな思想が記紀に見られるのなら是非紹介してくれ
>>548 毎晩太陽は隠れるし、日中でも曇り空や雨の日は隠れる
天岩戸は風神が暴れまくって(すなわち台風)で太陽が隠れるのであって
そんなちゃんとした前後関係の基で語られてる
日食ではなく、台風が長く居座り甚大なる被害を及ぼした事件だと見る方が妥当
>>551 日食についての記録がないから、なんていう質問に答えたまで。
(この質問がでる自体俺には理解不能ですが)
何処に天皇を殺してよいなんて発想がでるのか??
太陽の運行はそれだけ重要なんですよ、と単純に理解したら?
日食で推古天皇の死んだと印象操作したというなら、
アマテラスは日食で死んだと
言ってるようなもんじゃないかw
554 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 19:32:21
>>550 日本書紀に11回も日食記事があったっけ?
ソースよろしく。
>>550じゃないけど、
628年3月戊申
636年正月壬辰
637年3月丙戌
680年11月壬申朔
681年10月丙寅朔
691年10月戊戌朔
693年3月庚寅朔
693年9月丁亥朔
694年3月甲申朔
694年9月壬午朔
696年7月辛丑朔
556 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 21:14:05
全部、7世紀になってからじゃん。
日食が注目されたのって。
558 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 21:28:27
>>557 なにが?
日食の記録が7世紀以後に集中してるってことは、
それ以前は日食に関心が無かった証拠だろ。
少なくとも、5世紀くらいになったら日食の記録があっていい。
それが無いってことは、倭人は日食に関心が無かったってことだろ。
天岩戸神話が日食を意味するものなら、それこそ7世紀の創作ってことも十分ありうる。
559 :
ツクヨミ:2009/06/18(木) 21:30:57
日蝕日蝕って…月蝕も忘れないで欲しいとです。。
560 :
縦目仮面:2009/06/18(木) 21:49:51
>>558 正直釣りとしか思えないのだが。
神話と史実が混じって、もっとも改変が多いとされてる時期だぞ。
王の名前すら特定出来てないのにw
それに編纂している時期の記述が多いのは当然だろ。
562 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 23:28:37
>>552 太陽の運行が大事であるから何?
それが日食によって卑弥呼が殺されたという根拠?
何を言いたいのかよくわからない
しかも、畿内、九州で248年の日食が見られたか確定してないんですよ
天岩戸伝説もあれは台風による被害が前段にあるから日食のことを書いたとは到底思えない
つまりは何故太陽が隠れたかを前のスサノオの登場によって説明がなされている
議論の余地がないほど明快なストーリーです
漫画の様な連想ゲームみたいなもんです
卑弥呼=アマテラスなんてのは
しかも卑弥呼は誰にも会わずに夜に鬼道を行っていた
むしろ月読の神に近い
少なくとも文明国の魏は、日食で王が殺されるような蕃民族と国交しない
>>562 俺もあんたが何を言いたいのかよくわからん。
「天の岩戸」が日食を表してる伝説だとしたら困る事でもあるのか?
少なくとも一応世間には認めれてる説の一つだと思うけどね。
それにスサノウが風神で田畑を荒らしまわるという解釈は当然だが、
それなら特に岩戸に隠れる必要ないでしょ。
即座にスサノウに罰を与える話を加えリャすむだけよ。
アマテラスが台風で死んだとでも言いたいのかなw
566 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 00:46:15
台風のときは普通中心部意外は太陽出てないだろ
567 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 01:13:29
で、何故岩戸なのか?ってことだけど
僕は宮崎の高千穂の天岩戸見たことあるけど
そのときピンと来たね
ここで祈祷をしたんだとね
大雨とか台風とかで祈祷するときに、この洞穴に籠って祈祷してたんだよ
その時、どうしようもなく足が震えてた思い出がある
霊力はあるよ、あそこは
天の岩戸というのは墓の事だよ。
569 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 11:28:07
で、天の岩戸伝説が7世紀の創作でないという根拠は何?
>>567 大雨や台風の時に、あの場所で祈祷出来ると思うかい?
>>569 色んな豪族の話をまとめた7世紀の創作伝説だと思うけど。
572 :
豊前説:2009/07/22(水) 21:45:51
今日は日食でしたね。
以前,日食の議論があったようなので。
247年の日食では,九州では,皆既日食になりつつ日没となったようですね。
一方,近畿では部分日食。
太陽がなくなりつつ沈んでいくということは,次の日に太陽が昇るかどうか
つまり,このまま夜が明けないのではないかと,当時の人々は,
不安でたまらなかったのではないかと思われます。
本気で,国を挙げての踊りを急遽舞ったのかもしれませんね。
天の岩戸伝説のように。
248年は日の出とともに見えたようで,かけた太陽がだんだん満ちつつ
昇るのでさほど恐怖感はなかったでしょう。
九州も近畿もこの時は部分日食だったそうですね。
実際は地球の自転速度や傾きが現在と異なることから微妙な誤差はあるとも
いわれているようですが,大きな差はなさそうですしね。
やはり247年の日食のインパクトは大きかったのでは。
更に248年に卑弥呼(日巫女)が死去がしたとすれば,それを予言する出来事
として二重のショックを与えたかもしれませんね。
573 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 12:54:58
卑弥呼様、卑弥呼様!
574 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 16:04:36
>>572 >九州では,皆既日食になりつつ日没となったようですね
皆既日食は九州のどこ?
575 :
日本@名無史さん:2009/08/15(土) 00:12:56
皆既日食なんて15分位だろ。
今日は日没早いなあという程度では?
齋宮様でしょ。卑弥ちゃんは。
よって女王ではない。
577 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 06:13:48
>>576 斎宮の前身でしょうね
魏側では倭の政治事情がよくわからないから女王と勘違いしたのかもね
モモソ姫=神大市、日女命だからね。
卑弥呼と呼ばれてた可能性は大でしょ。
579 :
日本@名無史さん:2009/09/08(火) 00:09:12
鹿男あをによしで、綾瀬はるかが
ヤマトトトヒモモソヒメを連呼してたなw
箸墓と伊勢斎宮跡、三輪山が殆んど同じ緯度に並ぶんだよね。
安本の宝島社新書の新刊を読むと、箸墓=卑弥呼の墓説は、ガラガラと崩れ去る。
箸墓が3世紀という根拠は捏造に近いな。
読んでみ。
582 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 09:58:50
一方、東遷説は、まったく成立する余地が無いけどな。
584 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 17:59:32
箸墓は4世紀。
つまり卑弥呼の墓ではない。
586 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 19:52:27
でも、東遷したわけじゃない。
587 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 20:18:13
てか卑弥呼じゃなくても箸墓は調査して欲しい。
百襲姫と大物主一族との関わりは重要でしょ。
589 :
日本@名無史さん:2009/09/23(水) 01:08:26
このスレ、俺が立てたんだけど
意外に長く存在しているよな。
かりに、卑弥呼=百襲媛命ならば、
倭国大乱は、欠史八代の中ごろにあったことになるな。
倭国大乱は三輪と葛城の連合国家の主導権争いだと思う。
三輪の背後には尾張、
葛城の背後は出雲・吉備
因みに相撲の発祥は
葛城領内出身の当麻ケハヤ、三輪方は尾張出身の野見スクネ。
結果は野見スクネが勝っている。
591 :
日本@名無史さん:2009/09/23(水) 05:12:46
>>590 三輪姓の3分の1が尾張〜美濃に集中してます。
三輪の勢力は昔から尾張方面と関わりがあったようですね。
592 :
日本@名無史さん:2009/09/23(水) 18:41:42
593 :
サガミハラハラ:2009/10/15(木) 22:18:23
週刊文春みました?歴博の年代のことでてますね。
考古学者を殺した文春は信用ならん
文春記事のネタ元は安物心理学者
内容は失笑もの
596 :
日本@名無史さん:2009/10/16(金) 18:55:31
>>585 箸墓古墳は3世紀後半。古墳の発生・発達時期は卑弥呼の時代と重なります。
箸墓古墳が卑弥呼または臺與の墓である可能性は高いと思われています。
箸墓古墳も含め、天皇陵(もっとも天武・持統天皇陵以前の○○天皇陵と
宮内庁が指定しているものは天武・持統天皇陵を除いて、科学的根拠がなく
いいかげんである。)は宮内庁が管理していて、発掘はおろか立ち入りさえ
禁止されている。箸墓古墳が卑弥呼または臺與の墓であることの立証は、難
しいと思われる。
イヨタン・・・・・・・・・・
598 :
日本@名無史さん:2009/10/16(金) 21:33:19
>>591 濃尾平野にクナ国があって征服されただけでしょ。九州に物部が多いのと一緒あれも磐井の乱
の後押さえ込むために入植したものだろ
599 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 14:46:06
神の威光で地方を従わせる為に、あちこちに派遣されたのが物部氏と三輪氏。
九州に広がった大神(おおが)氏も三輪氏。
600 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/17(土) 17:10:01
>あちこちに派遣されたのが物部氏と三輪氏。
そして各地に「屯倉」を賜る。
601 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 18:49:45
古墳を開けまくって、文字資料を探せばいいのに。
盗掘されてても残ってるのもあるかもしれんし・・・
「国記」「天皇記」がでればなあ・・・
クナ国が「毛野」って可能性は考古学上ないの?
602 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 23:49:51
完全皆既日食が当時の人々に影響を与えないというのはないんじゃ
外国でも皆既日食に驚いて戦争をやめたとかあるよね
603 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 00:50:12
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
604 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 18:09:07
>>602 皆既日食と百襲姫&卑弥呼なんて100%関係ないし
605 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 15:15:19
皆既日食って、空の色がまず尋常じゃないんだよ。
空気も空も深い紫になるかんじ。
ものすご〜い畏怖。ただ急に暗くなるってのとは違う!!
古代の人鋭い感覚の人なら、
何か大きな力だとピンときただろうね。
606 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:32:56
>>605 そのわりに、記紀には「日食で驚いた」という記録はないよね。
607 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 20:08:58
古事記のモモソ姫の箇所読め。どっかの名もない少女になってるから。
文献学なら成立の古い方を重視するのは常識だろ。
608 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 21:11:37
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
609 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 13:15:51
「骨太の方針」で学問が曲学阿世になっちまったからな。
610 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 23:08:21
>>605 皆既日食なんぞ九州では見られなかったはず。
部分日食
>>606 日食の記録は多いと思うけど。
大体天皇崩御の事を「お隠れになる」という位なのに。
612 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 18:02:45
原田大六の「邪馬台国論争」と「卑弥呼の墓」読め
別スレの中盤以降で倭人伝への審議が出てからの流れが楽しかった。
続きはここでいいですか?
614 :
日本@名無史さん:2009/11/17(火) 01:47:43
>>611 日食の記録がどれくらいあるか、
調べてもないくせに、想像で言うな。
616 :
日本@名無史さん:2009/11/17(火) 02:56:23
>>550 >一番最古の具体的記録だと628年の4月だが
7世紀じゃないか。
>>616 記紀の記録だよ?何も間違った話ではないけど。
天文学として考えると卑弥呼の時代には皆既日食は2回。
247年と248年
247年では皆既日食が見られたのは東シナ海まで。日本では九州も含めて
部分日食
248年で皆既日食が見られたのは能登から奥州にかけて。他は部分日食。
日食というのは金環食でも真っ暗にならない。皆既日食でないと日食の効果はほとんど無い。
半分かけても明るさは変わらず裸眼で太陽を見ることさえできない
619 :
日本@名無史さん:2009/11/17(火) 13:15:19
日食が、卑弥呼の時代にしか起き無かったとでも思ってるとしたら、大バカとしか言いようが無いな。
620 :
日本@名無史さん:2009/11/17(火) 19:51:05
つかさ、都市部の人間なら日食で慌てふためく奴ばっかじゃないだろうしな
622 :
日本@名無史さん:2009/11/17(火) 20:35:28
卑弥呼は日食が起こったせいで殺されたんじゃねえの?
倭人伝にあった話のなかでなんか話があったよな
倭人は中国にいく船に一人決めておいて
嵐が遭ったらそいつのせいにして殺すとかwww
>>622 卑弥呼の時代に2回あったが、1回目は九州では皆既日食ではなく部分日食でしかも6時以降に食が始まった。
翌年起こるが能登半島以北しか皆既日食は見られない
624 :
サガミハラハラ:2009/11/17(火) 20:46:46
皆既にしろ日食の起こっている時間は短いですよ。
日食に気づくのは太陽が相当かけてからです。
1時間ぐらいの短い間に、女王のせいだなどといって相談して殺しているほどの時間ではないでしょう。
>>20 布告天下求大田田根子。即於茅渟縣陶邑得大田田根子而貢之。天皇即親臨于神淺茅原。
會諸王卿及八十諸部。而問大田田根子曰。
汝其誰子。對曰。父曰大物主大神。母曰活玉依媛。陶津耳之女。亦云。奇日方天日方。武茅渟祇之女也。
天皇曰。朕當榮樂。乃卜使物部連祖伊香色雄爲神班物者。吉之。又卜便祭他神。不吉
『日本書紀』巻五崇神天皇七年(庚寅前九一)八月己酉七
>母曰活玉依媛。陶津耳之女
>>625 父曰大物主大神。母曰活玉依媛。陶津耳之女。
亦云。奇日方天日方。武茅渟祇之女也。
父は大物主
母は陶津耳の娘の活玉依媛
奇日方天日方の末裔、武茅渟祇の娘とも言う
*奇日方天日方 父事代主 母活玉依姫
627 :
日本@名無史さん:2009/11/17(火) 21:47:22
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
628 :
サガミハラハラ:2009/11/19(木) 18:26:02
フレーザーの金枝編とやらに日食で酋長が殺されたとかが載ってているらしいが
本当にあったことをかいているのでしょうか。
大体わたしはこの手の書名の本は著者の思い入れでかかれていると思うのだが。
>>629 殺人→交代説は根強くあるけど、日蝕と結びつけるのはたしかに白けた旧来的なはっそうかも
631 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 07:32:05
纒向遺跡発掘5%で、はい九州説沈没!!
本物には勝てないんだよ。わかったか。
>>632 皆既日食が見られたのは能登から奥州にかけてだけでしょ?
あえて九州と書いているのは国営吉野ヶ里公園の整備を進めた加藤真司とか高島忠平とかの
大御所が完全皆既日食とか電波飛ばしてるからじゃないの?
日食と天岩戸とかかけてるのはまさに電波ということ
634 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 19:54:13
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
635 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 16:26:23
2009/11/21 21:00 世界・ふしぎ発見!『卑弥呼殺人事件 謎を解く鍵は皆既日食!』
今年7月に起こった皆既日食。太陽が隠れ、昼間が突然夜になってしまう自然現象です。
古くから世界中で‘神の怒り’と恐れられ、また崇められてきました。そんな恐ろしい現象が今から1760年前に起こっていたのです。
それは日本最初の女王、卑弥呼が死んだ年!そこには一体どんな謎があったのか!?近年、邪馬台国の最有力候補地と言われている、
奈良県の纏向(まきむく)遺跡を訪ね、最新情報をお届けします。
636 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 16:40:10
世間的にはまだまだ日食=卑弥呼の死なんだろうか。
そういうミスリードをいつまでも許していいものだろうか?
日食みたいな電波は九州オウム教にまかせとけ
>>633 二回目は能登から奥州で奈良は無いけど、
一回目はどうだったの?
>>638 一回目は東シナ海で皆既日食はおわってる。
>>639 あらら。。
今日のふしぎ発見どうするつもりだろう 汗
641 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 19:14:15
古代の日食がどう見えたのかは、Δtの取り方次第で全く計算が異なる。
天文計算ソフトの結果を鵜呑みにするのは禁物。
七世紀の日食で、皆既にならないと計算された例でも、日食を精度良く計算する新しい
方法では、従来疑問視されていた7世紀の日食についての日本書紀の記録が正しいこと
が証明されている。
三世紀の日食の計算も、地球の自転が単調に遅くなるのではなく、ときに早くなったり
遅くなったりしているから、誤差が大きくて正確な食分は計算できない。
642 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 19:18:07
というより、どの地点で見えたか、見えなかったかも正確にはわからない。
>>640 皆既日食ではないし、皆既日食でないと90%かけていても曇り程度で暗くならない
関西だけどこの間のは冬の曇り空ぐらいだった。
一回目は夕暮れで九州の方が欠ける。2回目は能登では皆既日食で近畿の方が欠ける。
俺の予想では、番組のシナリオは九州にあった邪馬台国が「沈み」大和に移動して「甦る」
てな筋の事を天の岩戸にかけてみる
ってな感じかな。
いずれにしてもアホだが、それだけにアホが喜びそうな内容になる予感
>>645 なるほど。
卑弥呼が高千穂で台与が奈良とか。
九州説の葬式会場はこちらですか?
648 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 13:34:11
世界不思議発見では九州説、吉野ヶ里は完全無視だったね。
649 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 14:28:55
吉野ヶ里は無視していいただの集落だものね
まーだ、吉野ヶ里を出して比較しているアホがいるんだな、特に畿内論者
651 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 18:05:09
>>648 ロケ地として吉野ヶ里を使ってたから完全無視とはいえまい。
伊勢ではなく、高千穂や九州の神楽も映してたんだから、結構気をつかってたほう。
652 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 19:32:42
>>649吉野ケ里がただの集落?あなた程度がしれますよ。
遺跡として大変貴重でしょ。
でも栄えていた時代が邪馬台国の時代と全く合わない。
それだけの事です。
654 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 20:50:10
女王様という響きがいい。
655 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 08:01:56
纒向発掘5%で九州説が吹っ飛びました。
纒向の発掘をみんなで見守りましょうね。
656 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 08:10:32
>>650 畿内説なんて言葉はもうない。もはや説じゃなくて事実なの。
やっぱりモモソは丹波というか、出雲の姫だったんだろう。
どっからでてくるねん。むしろ出雲の大国主の嫁にモモソがなったから、モモソは
大和でしょう?つまり合体したと。
659 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 13:18:32
ここもすごいスレだな
日食とか
アマテルのことか?
アマテルは父イザナギによって天界(高天原)に送られた神(太陽神)だろ
660 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 16:28:54
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
661 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 18:15:55
そのコピペ見るたびに、どこが爆笑なのかと思う。
このニュースは、もう十年も前のもので、現在では常識だし、
陸稲の栽培は、水稲稲作とは全く違うのに、
そんなことも、知らないやつが、何人もいて、コピペ張りまくっているのが
爆笑なんだろうか?
662 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 20:06:43
縄文時代からヒスイが交易されてたくらいだから、
農業だって伝わるだろう。
モノと技術は違うべ
664 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 20:17:53
野生種は種まけば育つだろ。
665 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 20:18:48
666 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 20:21:38
>>665 なーんだ君だったのか?
人種板から出張してきてるの?
667 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 20:34:30
>>666 やっぱりおまえか、この台湾褐色広鼻豚が(爆笑
668 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 20:46:24
99年4月22日 山陽新聞
最古の稲細胞化石発見 岡山・朝寝鼻貝塚
6000年前の縄文前期初め 稲作起源論争に波紋
岡山理科大発掘チーム(代表・小林博昭同大教授)は二十一日、岡山市津島東の
朝寝鼻(あさねばな)貝塚から採取していた縄文時代前期初め(約六千年前)の
地層から、稲の栽培を示す細胞化石・プラントオパールを検出したと発表した。
稲作を行っていたとみられる資料としては、岡山県美甘村・姫笹原遺跡など
縄文時代中期の例を千五百年近くさかのぼり、日本最古の発見。
稲作起源論争に大きな波紋を広げそうだ。
同貝塚の調査は、同大の通学路建設に伴い、九、十年度に約百六十平方メー
トルを発掘した。地表から約三メートルの地層で採取した土壌を顕微鏡で調べ
たところ、栽培種の稲に固有の「イチョウの葉」形のプラントオパール
(長さ約〇・〇四ミリ)約五十個が検出された。
同チームによると、1同じ層から縄文時代前期の型式とされる羽島下層式
土器が出土2プラントオパールの形が栽培種の特徴を示す3同層のすぐ上が
何も遺物が含まれない間層で覆われ、後世のものがまじり込んだ可能性がない
―ことから、縄文時代前期に稲の栽培が行われていたことを実証する資料と
断定した。
同チームの調べでは、これまで稲作の起源を示す日本で最も古い資料は、
いずれも縄文時代中期(約四千五百年前)とみられる姫笹原遺跡、倉敷市・
福田貝塚など県内四カ所、鹿児島大学構内遺跡など県外二カ所。
今回が日本最古の検出例となる。
また土壌分析の過程で、同じ地層からこれまでの検出例を約二千年さかの
ぼる小麦のプラントオパール一個と、ハトムギとみられるプラントオパール百
個以上が検出された。
669 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 20:52:22
>>665 ごめんね。6000年前と小麦のプラントオパール というキーポイントは、
99年の記事と変わらないから。
670 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 21:00:40
>>669 そうか、じゃあ6000年前に小麦作があったが常識になるまで
貼り続けてみるか(爆笑
671 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 21:06:17
縄文農耕を真面目に調べてみると良いよ。
おかぼの稲作と同じで、種まきゃ、雑草と一緒に育って、
ともに収穫するのさ。これは常識だよ。
672 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 21:43:36
>>671 縄文稲作も長江江南稲作も調べ貫いてるよ。
おそらくおまえよりなw
厳文明先生は嫌いなチンクだが、おまえら同じ元チンクのワン人と違って
尊敬に値する学者だな。
日本稲作は朝鮮経由で伝わっているとバッサリ切り捨てれる真の学者。
673 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 21:55:46
相手にした私が馬鹿でした。ごめんなさい。
674 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 21:58:17
これからも楽しく愉快に稲作論議戦争しようぜw
675 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 22:03:39
人類板の名無し住人です。
なぜか、台湾人を攻撃してますw
676 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 22:21:45
【日本国家の成立】
【日本民族の統一】
@神武朝(神話)
A崇神朝(ヤマト:マキムク)
B応神仁徳朝(筑紫朝)
C顕宗仁賢朝(播磨朝)
D継体欽明朝(越近江朝)
【天智天武】律令体制
【聖武】平城京
【桓武】平安京
【幕府体制】
【明治維新近代化
【現在】125代今上
(各王朝内は「男系」で繋がり各王朝間は実質「女系」で維持。王朝内に女帝は置かれたが女系は認められなかった)
678 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 00:49:40
びっくりだね。
在日って、縄文の稲を水田稲作だと思って火病おこすんだ。
679 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 01:04:24
680 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 01:57:11
で、倭迹迹日百襲姫と大田田根子の関係はどんなものなんでしょうか?
「ももそひめ」ってなんだか萌えるな
682 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 08:52:29
>>678 在日って、おまえのような
悪徳在日台湾ベトナム顔ウンコ色ウンコ鼻ゴキブリのことか?w
この在日くんは何を焦ってるんだ?
684 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 15:12:04
焦ってるのはおまえだろw
汚らしい台湾褐色広鼻ゴキブリがw
685 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 15:36:22
まあ、なんだかんだ言っても
環濠は巻向にはないんだな。
畿内説なら畿内説でいいが
環濠がある別の集落なんだろう。
686 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 16:28:31
唐古・鍵遺跡がありますが。
>>685 環濠あるぜ。つうか水の都だ。5mの幅の堀と川で囲まれている
688 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 23:40:05
古代道の番組、苅谷さん良かった。
689 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 22:25:49
河童が来たから、みんなこっちに避難して。
690 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 16:01:50
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
691 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 16:25:20
てか、朝鮮半島でも四世紀からの遺跡からしか出てこないくつわが
巻向からでたってのはどうして?たしか魏志倭人伝によると
当時の倭国には馬はいなかったんじゃないの?
布留0ってほんとに卑弥呼の時代の土器なんですか?
だから、その馬具は張政の愛馬のものなんだよ。梯儁の異国での苦労話を聞いた張政が、周到に
愛馬を船に積んできた。だからこの馬具は、現時点では纏向が邪馬台国である最大の証拠といえる
ものだよ。
693 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 16:55:34
>>692 でも、それが木製だというのも笑えるけどな^
それより布留0が確定的に卑弥呼の時代の土器だと言えるのかを
証明してください。
言えません。私的には280年を中心に、30年の前後幅があると考えます。
695 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 17:53:18
後幅を考えると4世紀に入ってしまいますよね、だとすると
今回発見された巨大建造物が卑弥呼の時代だと大騒ぎする
根拠が崩れませんか?
各スレで出てくるように、土器形式編年で実年代は言えません。纏向の大型堀立柱建物跡の年代観は、
考古学的な総合判断でしょう。卑弥呼の宮殿云々は、つまり白石太一郎氏がいうところの状況証拠。た
だし、マスコミ向けのコメントは割り引いて聞いておくべきでしょう。正式な報告書が出たら読んでみること
をお勧めします。
697 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:34:08
だから、そこなんですよねその総合判断に馬具は反映されてるのかどうか?
いいとこ取りの報告書なら読んでも意味ないかも
698 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:37:40
たとえ、いいとこ取りでも報告書は読まなければ反則。
699 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 06:04:33
卑弥呼の後、王が変わっても暫く遷都しなかったという事でしょうかね。
馬具。
昔の人たちは、かなり活発に海外交流していますからね。
700 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 06:19:37
ところで、卑弥呼の時代には、王が亡くなる度に都うつりを繰り返していたんですか?
遷都って天皇家でも初期の頃は即位の度にしてなかった?
702 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 20:06:10
違う王家に政権が移れば都も当然変わりますよ。
703 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 20:20:43
じゃあ、王家が変わらなかったんですね。
704 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 20:26:37
それでOK
705 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 20:19:15
これは無理じゃないの
モモは女王じゃないし、卑弥呼は3世紀と伝えられている
706 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 20:35:28
女王ってのは魏の主観だろ。
中国語にシャーマン・巫女に対応する語句がなかったんだろ。
707 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 20:39:59
桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。『後漢書』
光和年間(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める。『梁書』
倭を治め始める
倭を治め始める
倭を治め始める
708 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 20:50:11
そして卑弥呼などよりもっと謎なのは
13歳トヨ女王誕生
13歳
13歳
709 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 20:58:51
アメタリシヒコって誰だって?ことにもなるだろ。
710 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 21:58:13
>>706 男王の認識があるのに、実際に存在した天皇の認識がなく
王を無視して、巫女を女王と間違えた?
できの悪い小学生の推理、みたいなレベルだなwwww
しかも頭のいい小学生に論破されるようなwww
実際に外交を何度もしているのは文章からわかるだろうが。
一国の王の名前、女王の名前は死んでも間違わないぞ。アフォかってのw
モモソは巫女であって女王ではない。
しかし記紀には女王の記述があるな。天皇家でいえば神功皇后。
他の筋でいえば、宇佐に女王の記述がある。景行記。
巫女でなく、女王。
記紀によれば、景行天皇時代に宇佐に女王が存在したのは間違いない。
つまり、畿内に景行天皇ー宇佐に土着の女王。
じゃ、畿内に崇神天皇ー宇佐に土着の・・・誰?
とりあえず、崇神天皇時代には九州に大和朝廷と関係ない国があって
王とか女王ってのが居たんだろうよ。当然な。
711 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 22:28:39
女王ってのは魏の主観で書いたんだと思うよ。
中国語にシャーマン・巫女に対応する語句がなかったんだな。
>>710 九州説かw話にならん
すでに畿内で決着がついてる上に日本側の記録にはその時代に女の天皇はいない
象徴的な存在の巫女である卑弥呼を魏が女王と理解したに決まってるだろw
>>710 九州説かw話にならん
すでに畿内で決着がついてる上に日本側の記録にはその時代に女の天皇はいない
象徴的な存在の巫女である卑弥呼を魏が女王と理解したに決まってるだろw
714 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 22:47:37
>>711 13歳のトヨは誰だ
倭国大乱は何を指す
倭国大乱は崇神天皇が収めた事績だな
台与は倭姫命かな
716 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 00:13:26
トヨつながりなら
トヨスキイリヒメだろ。
717 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 00:25:43
>>712 決着など全くついてないから必死だな。そんな解釈しかできないから
畿内説か・・
>日本側の記録にはその時代に女の天皇はいない
記紀って言えないのなw 神功皇后は過去にずっと女の天皇扱いだったぞ。
しかも記紀では神功を卑弥呼に比定した注釈があるんだがww
>象徴的な存在の巫女である卑弥呼を魏が女王と理解したに
畿内説者の浅はかな希望的観測。
王と巫女を取り違えて、金印を巫女宛に贈ったんだな・・・
天皇じゃなく、巫女を女王と勘違いしちゃった・・・
アフォか。外交の観念がなさすぎ。他国の王の名前、役人の名前
支配下の30数国をこれだけ羅列しておきながら
一番大切な女王国だけ巫女と王様取り違えちゃって・・ついでに
台与も取り違えちゃった・・・もう、ドジなんだからあ!
↑畿内説です
718 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 00:26:57
>>716 そいつも女王でなく、巫女。
巫女を必死で女王に格上げするのが畿内説のすべてだから仕方ないな。
719 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 00:32:16
遺跡など掘るにも値しないような底辺の詭弁集団が
3世紀の都の跡を荒らしている
↑宮内庁の見解
>>717 とりあえず君はちょっと落ち着け
で、君は神功皇后が卑弥呼だと言いたいの?
721 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 01:48:15
722 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 05:36:28
モモソヒメは大物主亡き後の混乱を治めた女王でしょう。
崇神は実際は天皇ではなかったのではないかと思う。
記でもわざわざ墳造営の事に書かれてるのは箸墓のモモソ姫でしょ。
こんな例は珍しく、暗に倭人伝の卑弥呼の記述に合わせてるとしか思えない。
724 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 14:40:52
モモソヒメは大物主神を祀る巫女であって政治には積極的に関与はしていない。
それに倭国大乱に当たる時期の人骨が畿内からは見つかっていない。
畿内派は考古学的資料と文献を都合よく解釈しすぎ。
>>722 モモソヒメ=女王
崇神≠天皇と考える根拠は?
>>724 人骨が見つかったら、逆に「都」としては都合悪いですよ。
戦乱跡なら、瀬戸内海の高地性集落と淡路島の垣内遺跡がある。
倭国大乱はここを舞台にした物でしょう。
726 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 16:27:29
>>725 いや、倭国大乱の主戦場は陸でしょう。
それに人骨も麦晩田遺跡とかのように溝から発見ないしは
遺体を遺体を納めた甕が大量に見つからないと
邪馬台国=マキムク
箸墓=卑弥呼の墓
は難しいかと。
もちろん人骨には鉄器・青銅器による殺傷痕が認められないといけないですが。
都の周囲で戦乱が起きてなければかえって不自然。
瀬戸内の高地性集落は防衛より交易のためと考えた方がいいと思います。
まあ大変には大変なんじゃねーの?わかんねーけど
728 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 16:45:39
まあでもイインジャネ知らネス湖だけど
729 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 16:50:38
>>726 >いや、倭国大乱の主戦場は陸でしょう。
根拠もなく決め付けるの?
730 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 16:52:42
もりはたいへん重要なうちゅうを含んでいるそういう
門だぜだって伊達政宗
邪馬台国は攻めて勝った側なんだから人骨が出なくとも不自然ではない
戦地や敵地で戦死した人間を自国まで持ち帰ることなんてしないからな
逆に人骨が大量に出る遺跡ってのは攻められて負けた側だよ
>>726 何を根拠に言ってるのかさっぱり?だが。
まず高地性集落が何故交易に有利で、ごく一時期にしか
存在が確認出来ないかの理由がない。大体港整備するのに不便だろW
733 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 18:11:56
都の死体はちゃんと集めて処理するんじゃないの?
国産み神話はまず淡路島から。
瀬戸内海東部が最終的な倭国大乱の場で、結果
畿内河内南部辺りに邪馬台国の基盤が形成されたんだろう。
で、更に東へ進出して巻向に都を定めたのが倭人伝のいう女王の都する国の状態。
纏向が戦場になることはなかったろうから人骨なんかでんだろ
邪馬台国がやったのは防衛戦じゃなく征服戦なんだから
そうだよね、宗教都市なら尚更でしょう。
>>724 > モモソヒメは大物主神を祀る巫女であって政治には積極的に関与はしていない。
祭
「まつり」という言葉は「祀る」の名詞形で、本来は神を祀ること、またはその儀式を指すものである。
この意味では、個人がそういった儀式に参加することも「まつり」であり、現在でも地鎮祭、祈願祭などの祭がそれにあたる。
日本は古代において、祭祀を司る者と政治を司る者が一致した祭政一致の体制であったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼ぶ。
「まつり」や「まつる」という古語が先であり、その後、漢字の流入により「祭り」・「奉り」・「祀り」・「政り」・「纏り」などの文字が充てられた。
現在は「祭りと祀り」が同義で「祀りと奉り」が同義ともいわれるが、漢字の由来とともに意味も分かれているので下記に記す。
「政り」については、日本は古代からの信仰や社会である、いわゆる古神道おいて、祭祀を司る者(まつり)と政治を司る者(まつり)は、同じ意味であり、
この二つの「まつり」が一致した祭政一致といわれるものであったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼んだ。
古くは卑弥呼なども祭礼を司る巫女や祈祷師であり、祈祷や占いによって執政したといわれ、
平安時代には神職が道教の陰陽五行思想を取り込み陰陽道と陰陽師という思想と役職を得て官僚として大きな勢力を持ち執政した。
またこうした政と祭りに一致は中央政府に限らず、地方や町や集落でも、その年の吉凶を占う祭りや、普請としての祭りが行われ、
「自治としての政」に対し資金調達や、吉凶の結果による社会基盤の実施の時期の決定や執政の指針とした。
739 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:19:06
大和には複数の国があり、モモソヒメは政略結婚で大物主の国へ嫁いでいた。
それ以前に、いわゆる天皇家は、物部一族に婿入りして国を横取りしていた。
大物主が死去して、モモソヒメはその国の最高権力を手中に収める。
つまり、大物主の死により、国の統合が可能となったのである。
問題はどの国がイニシアチブを握るか?だが、一番の格上は大物主国だった。
故に、大物主の権力を継承したモモソヒメがトップに立つことになったのだ。
その後、小国の力関係が変わり、天皇家が圧倒的な力を得ることになる。
そして、大和首長国連邦が徐々に統合されて行ったのである。
740 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:32:49
「物部一族」ってなんだ?
物部氏の成立は垂仁以後だろ。
741 :
日本@名無史さん :2009/12/05(土) 00:44:33
征服戦にしろ防衛戦にしろ動きにくい海上を選ぶ理由が分からない。
夫が死んだら妻に権力が移ることはない。普通は子供に移る。いない場合は
別の親族に移る。妻だからでは理由にならない。
それにモモソヒメは大物主神を怒らせて死んでます。
纏向が戦場にならなかったらそもそも纏向=邪馬台国が成立しない。
倭国大乱は邪馬台国あるいはその周囲でおこってます。
>>734 それなら天孫降臨が南九州(隼人の本拠地)が舞台である理由を教えてほしい。
742 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:54:37
古墳時代になって、日向と同盟するようになったときに、
日向の天孫降臨神話を組み入れただけだよ。
743 :
日本@名無史さん :2009/12/05(土) 01:09:43
日向と同盟したなんて何に拠るの?
太田田根子のこと?
744 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 01:25:43
西都原古墳のことだよ。
745 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 08:40:13
光和年間(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める。『梁書』
卑弥呼が共立され
共立され
共立
746 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 20:32:34
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
747 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 22:20:11
景行天皇の皇后が眠る、「日岡山古墳」が卑弥呼の墓ではないでしょうか?
当時の倭国の首都がどの辺りか解りませんが・・?
当時は中国を親と仰ぐ勢力と朝鮮からの勢力などが、まだまだ色々交差していたのではないでしょうか・・?
それで、全ての勢力が落ち着いてきた位置が大和地方ではないかと思います。
で、成務天皇が国造りの形を始めるが若干弱く、後に神功皇后が宇佐から畿内に入り、三韓征伐で内部勢力の引き締めと統一を図り、子の応神・仁徳が巨大陵墓建築で王のカリスマ性を高めた?
748 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 23:08:13
魏志倭人伝は倭国の位置を曖昧にして、中国から倭国の独立を図る(人物は複数)ための文章だったのではないでしょうか?
749 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 13:54:02
当時は大和朝廷系の天皇一族だってただの豪族に過ぎない。
その豪族たちの上に祭り上げられたのが卑弥呼だろう。
卑弥呼、台与のあとで権力を把握したのが天皇家の一族だったに過ぎない。
記紀では、はじめから天皇家が権力を保持しているように
書いているが、その程度の捏造は記紀の設立意図からして
当然のこと。祖先が本当に神様だったと信じているものは
居ないのと同じ。
>>749 そこまでの事を確信させる材料なんてあの中にはないけど。
751 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 18:38:04
皇統が成立したのがいつの時代かには興味がある。
日本書紀編纂の時代にはまず間違いなく固まっていただろうが
それ以前のどの段階で成立したのかな
752 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 21:05:24
753 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 22:11:59
日本列島に国らしい形状を作ったのは成務天皇の頃だと思います。
“王としてのカリスマ性”を付けたのが神功皇后、応神・仁徳天皇の頃で、王のルックスとして認められたのが継体天皇ではないでしょうか?
武内宿禰があれこれ整えていった頃、皇統が出来てきたのはこの頃ではないでしょうか?
なぜなのか解りませんが、宇佐八幡宮の巫女の神託も重要だったと思います。
754 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 22:38:50
宇佐八幡宮が信奉されたのは、仏教が伝来したからだろ。
3世紀の話と絡めるのはアホとしか言いようが無い。
>>754 卑弥呼の時代よりずっと後なのは明らかだよね。
756 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 19:49:53
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
757 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 22:18:41
>754
神功皇后は仏教伝来以前ですよね?
考古学の面で九州地方を馬鹿にする感じは良くないと思います。
中国の周の国が日本列島を見つけた時代から中国大陸との関係は始まっていた可能性はあります。
邪馬台国より遥か以前の時代の面で九州地方は考古学上、重要地域の様に思われます。
758 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 22:37:06
世界四大文明の一つ、中国文明発祥から日本列島との関係って感じの考古学発展にも期待しています。
759 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 23:02:15
武内宿禰が整えた部分を、綿密に調査する事も考古学だと思います。
760 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 23:29:57
歴代皇后陛下や秋篠宮紀子様は宇佐八幡宮にも参拝して欲しいです。
>>754 宇佐八幡宮と仏教とどういう関係があるのか教えてくれ。八幡様は仏教系じゃないだろ。
工工工エエェェ(´д`)ェェエエ工工工
南無八幡大菩薩
764 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 00:38:48
>>761 ほらみろ。九州説のレベルはこんなもの。
ちょっとまて!!それは神仏習合以降の事だろう。八幡様のご祭神はwikipediaに『主祭神は八幡三神と
呼ばれ、祭られている神殿の順に応神天皇(一の御殿)、比売大神(ひめのおおかみ/二の御殿)、神功
皇后(三の御殿)の三柱の神が上宮・下宮に祭られている。比売大神は宗像三神のこととされる。』とある
通り、神社だぞ。
766 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 02:29:12
信託を聞きに行った天皇は仏教徒だろ?
>>766 大仏建立の件か、道鏡事件の件か?どっちでもいいけど、『仏教が伝来したから』ではないな。
伝来したのはとっくの昔だ。
仏教云々以前にご先祖様の応神天皇と神功皇后の名の元に朝廷に接近を図ってる訳だが?
768 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 12:13:56
だったら卑弥呼は関係ないし。
>>768 俺は卑弥呼がどうとか一言も書いてないぞ。
770 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 14:05:42
>764
僕は邪馬台国九州派ではありませんよ。
邪馬台国という集合体は畿内だけでもなく九州も含めて結構大きかったのではないかと思っています。
邪馬台国の首都はわかりませんが、卑弥呼の墓は播磨、日岡山古墳ではないかと考えています。
邪馬台国のような集合体を強化したのが、武内宿禰や神功皇后だと考えています。
宇佐八幡宮と仏教の関係なんて考えた事もありません。神社と仏教は別物でしょう・・。
どちらにしても神功皇后を排出した宇佐八幡宮を、現在でも軽視する感じは慎むべきでしょう。
ただ、宇佐八幡宮が重要神社として平安京に移転してからも、皇族や貴族の方々が宇佐八幡宮の代わりに石清水八幡宮を崇拝されていた理由について知りたいと思ったからです。
771 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 14:27:46
考古学者の方達は、宇佐八幡宮の威厳についての由来を調べてほしいなと思います。
772 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 15:11:53
宇佐八幡宮が威厳を持つようになったのは仏教が浸透してからだろ。
773 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 18:09:25
宇佐八幡宮と仏教など関係ない。
宇佐八幡宮が出雲大社や伊勢神宮を押しのける形で、皇室が崇拝した点(特に宇佐八幡宮神託事件)に関心があるからです。
774 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 18:34:20
それは、皇室が仏教を崇拝するようになったからです。
>>773 道鏡事件の頃なら、勝ち目ないから神仏習合の勉強でもしたら。ちなみに現在ある宇佐神宮創建は隼人の乱
鎮魂の意味が大きい。
776 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 20:11:49
>>749 >当時は大和朝廷系の天皇一族だってただの豪族に過ぎない。
>その豪族たちの上に祭り上げられたのが卑弥呼だろう。
そのように考えるのが妥当だろうけど
>卑弥呼、台与のあとで権力を把握したのが天皇家の一族だったに過ぎない
卑弥呼と台与が同族だったと考えるとその宗族が皇室で実権を握っていたのも
その宗族の当主だったので 記紀では百襲媛が女王と認識されなかったのかも
777 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 20:30:36
>775
神仏習合以前、道鏡事件の頃に宇佐八幡宮が日本全国の神社の最上位にされた理由・・?
勉強ではなく、考古学で宇佐八幡宮が一番にされた理由を明らかにしてほしいなと言う事です。
778 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 21:20:16
景行天皇の前皇后、播磨稲日大郎姫が卑弥呼で、魏志倭人伝の記述にある様な原始人的な邪馬台国。
景行天皇の後皇后、八坂入媛命からが大和朝廷の始まりだと思います。
魏志倭人伝による日本列島の紹介は位置を曖昧にする事で中国王朝からの騎馬軍団の進出を牽制するための記載であったと思います。
景行・成務・仲哀天皇の頃の政策は中国王朝から倭国の独立を図り、「日本」の夜明けの様に思われます。
>>777 それはおそらく重要な神託をもたらす神だからなので、考古学では判らない。道鏡事件の時は正にそう。
俺の考えでは元々応神天皇や神功皇后とは何の関係も無いんだけど、朝廷に接近するために名を借
りたと思う。その場合本来の祭神は正体不明の比売大神という事になる。これが実は卑弥呼の事であ
る、と言えば九州説になるな。(まぁ違うだろう。)
宇佐は胡散臭い井沢が何かの番組で主張していた
邪馬台国連合の国の一つが古代中国の発音でハカタと読めるから九州にあった
と主張したわけだが、古代ハカタといえば普通は伯方だから九州ではない。
781 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 22:36:06
>>777 「宇佐八幡宮が一番にされた」という根拠はなんだ?
道鏡事件だけなら、道鏡個人の問題だ。
しかも仏教徒だし。
782 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 23:26:33
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
783 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 23:26:35
道鏡は糞坊主・・。
784 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 13:18:05
景行天皇の頃の日本民族を現在に例えるならば、邪馬台国の住人が水嶋ヒロという感じで、大和朝廷の住人が小栗旬という感じではないでしょうか?
785 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 18:02:48
“TV Japan 12月号”の表紙を見ていると、日本の夜明けという感じかな・・?
786 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 22:24:52
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
787 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 10:53:40
かつて日本列島は大陸と陸続きだったからな。
北京原人かもしれないぞ。
それとも、明石原人か・・!?
788 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 11:49:40
卑弥呼は播磨稲日大郎姫で、箸墓古墳の倭迹迹日百襲媛命とは違うと思います。
789 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 21:39:17
卑弥呼といえば親魏倭王の金印を授かり、倭国の奴隷貿易を推進していた女王・・。
倭国主権から見れば、嫌な女王という感じだと思います。
播磨稲日大郎姫が卑弥呼ならば、遺体を手厚く埋葬するより川に流してしまった感じもわかる感じがします。
播磨稲日大郎姫の妹、伊那毘若郎女の墓も見当たらないです・・。
伊那毘若郎女が佐賀県の風土記に出てくる中国使節が帰国する際に海に飛び込んだ姫ならば、墓はないかも知れないとも感じます。
もし、中国の使節が張政で海に飛び込んだ姫が壱与ならば、所詮張政あっての壱与だったかもしれないと思います。
魏志倭人伝に“壱を与えるで壱与”なんて偉そうに書き込んでいても、倭国からいなくなれば壱与の権力が乱れる事も予想出来るかな・・。
で、武内宿禰の出番という感じでしょうか?
それと徐福伝説が青森県に達している面で日本列島のどこに何があるのか解らないし、中国の周王朝が日本列島を発見した頃くらいまでの詳しい考古学にも興味があります。
思い込みが激しいのでは?
791 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 21:58:18
wikipediaで、たくさん検索して考えてみました・・。
792 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 22:55:29
サンプルで10か?
793 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 11:47:56
難しく考えるな。
箸墓が卑弥呼の墓ならば
>>1で正解だよ。
このほうが、魏志倭人伝と記紀の間にも
かなりの整合性がとれるんだよ。
795 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 12:17:59
もしかすると奇異な風習をおもしろおかしく書いたんじゃないの?
魏志倭人伝って
女王とかやってらっしゃったんでしょうか
姫巫女タンハァハァでそればっか追いかけてあれ?よく考えたら
ヒミコタン以外にあんま調べてねーや…女王ってことにしとこうぜ
…て具合だったりしてね
東海はるかにある蛮族島のことなんか基本どうでもいいだろうし
そんなこと言ってたら何も話が進まん
実は桜井茶臼山古墳がモモソ姫の墓です。
798 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 19:15:02
桜井茶臼山古墳は、景行天皇あたりだと思う。
ヤマト・ト・トビ(外山)・モモソ姫だったりしてな。
推古天皇は卑弥呼がモデルにされてるな。
茶臼山から大量の鏡出たってさ。
神武テンノウ3男 の兄たちの15代くらい子孫…神武兄朝の 卑弥弓呼(姫旧皇) 対 大和(ヤマタイ)の卑弥呼(姫皇=神功さま) の 南北朝もどき 兄弟朝決戦wwwwwwwに 平成の決着が...
やまたい上げ
804 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:24:51
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
>>789 数十人の生口の記述から、奴隷貿易推進というふうに拡大解釈させているのか?
あほうかよ。
ヤマトトトヒモモソ媛命
山処(ヤマト) と 登美(トビ) 桃そ(モモソ)日女(ヒメ)御言(ミコト)
807 :
日本@名無史さん:2010/02/01(月) 20:32:53
モモソ姫を卑弥呼に否定しているのはそう多くないと思うが
記紀がそれらしいことを臭わせていると言うことは
記紀編纂者が魏志を知っていると言うことである。
魏志以上の情報をどのくらい加えているかで
どのくらい記紀編纂者に卑弥呼の伝説が残されていたかが
読み取れる。
808 :
水銀厨 :2010/02/01(月) 21:25:19
>>806 桃は呪術的な物だから巫女という事を言ってるのだろう。
809 :
日本@名無史さん:2010/02/01(月) 21:26:07
記紀は卑弥呼は神功皇后だとはっきり言っているよ。
実際に魏志倭人伝をそのまんま引いてここに出てくる卑弥呼とは
皇后のことだと書いてるじゃん。
卑弥呼伝説が残っていたなら人を間違えるかよ。
810 :
水銀厨 :2010/02/01(月) 21:36:10
>記紀は卑弥呼は神功皇后だとはっきり言っているよ。
つまらん釣りは辞めような。
811 :
日本@名無史さん:2010/02/02(火) 09:38:04
>>809 つまりそれはどの部分のことか引用してくれないか?
スレタイに誤りがある。
「魏志」倭人伝には卑弥呼は「倭国」の女王とあって
「邪馬台国」の女王とはない。
ついでに言うと卑弥呼は個人名ではなく地位や身分と
考えるべき。
>ついでに言うと卑弥呼は個人名ではなく地位や身分と
考えるべき。
却下、イヨが卑弥呼と書かれないとダメ。
814 :
日本@名無史さん:2010/02/02(火) 19:41:16
>>810>>811 君ら、日本書紀も読まずに書きこんでるの?
以下、日本書紀の神功称政紀から引用。
三十九年是年也。大歳己未。
魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等。
詣郡、求詣天子朝献。太守夏遣使将送詣京都也。
四十年。魏志云。正始元年。遣建忠校尉梯携等、奉詔書・印綬。詣倭国也。
四十三年。魏志云。正始四年倭王復遣使大夫伊声者・掖耶約等八人上献。
>>813 だから2代目卑弥呼がイヨなんだよ
初代は名前不詳
>>814 何処にも卑弥呼なんて書いてないけど。
それに古事記には無いの?
>>815 何の根拠もないだろ。
817 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/02(火) 21:27:02
明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等。
詣郡、求詣天子朝献。太守夏遣使将送詣京都也。
四十年。魏志云。正始元年。遣建忠校尉梯携等、奉詔書・印綬。詣倭国也。
四十三年。魏志云。正始四年倭王復遣使大夫伊声者・掖耶約等八人上献。
倭女王は、大夫難斗米(なとべ)等を使わし郡に詣でる6月、そこで天子に朝貢を願う。
太守夏は、倭朝貢団と将を以て京都に送り届ける。
ここからが問題なんだ
倭朝貢団は、朝貢後帰国するんだが、この時魏の使い(建忠校尉梯携等)も都市牛利(田道間守)
に同行して大和を訪れる。これが3月。
そこで垂仁の死亡とホケノ山古墳を見る事になる。田道間守の殉死もある。
正始四年倭王(景行)復遣使大夫伊声者・掖耶約(伊勢のベテラン磐鹿)等八人
倭女王は、倭王にあらず、男王と共に語られるべき存在であり、壹與が女王と呼ばれることも無い。
卑弥呼の墳墓のサイズはホケノ山古墳のサイズで語られる。
卑弥呼の死は景行12年。もう少し後になる。
一度だけしか言わないからよく聞け
卑弥呼は松田聖子みたいな女だったんだろな
間違いない
819 :
日本@名無史さん:2010/02/03(水) 00:34:29
>>816 古事記にもあるよ。神功記に宇美(不弥)、伊斗(伊都)、末羅(末盧)が出てくる。
これは神功が卑弥呼であることを意味している。
神功は架空ですよ、卑弥呼に思わせるカモフラージュ。
大体記紀なんて作為だらけじゃねーか。
822 :
日本@名無史さん:2010/02/03(水) 06:37:20
>>820 >卑弥呼に思わせるカモフラージュ。
そのとおり。卑弥呼に思わせるように書かれているんだ。ということは、記紀は
魏志倭人伝を見ながら書いた物語だってことだよ。
だから、記紀を良く読めば邪馬台国がどこにあったかも分かるってことだな。
823 :
日本@名無史さん:2010/02/03(水) 07:27:20
>>822 何でそうなんだよ。その理屈じゃ倭人伝を見ながら書いた数多くの邪馬台国本と大して違わないだろ。
>>822 >卑弥呼に思わせるように書かれているんだ。
架空の人物をそう思わせたいだけだから。
825 :
日本@名無史さん:2010/02/03(水) 09:42:01
>>823 >倭人伝を見ながら書いた数多くの邪馬台国本と大して違わないだろ。
そうも言えるが、記紀を書いた人々は、後世の人とちがって邪馬台国がどこに
あったか知ってて書いているということだ。そこが後の邪馬台国本とは違う。
>>824 そうだよ。物語。つまり史実とは別に卑弥呼像を作り上げたんだ。
826 :
水銀厨 :2010/02/03(水) 09:49:13
>>825 つまり神功は聖徳太子のような存在でしょう。
魏に朝貢するような存在は困るという事で。
卑弥呼はヤマトトビモモソ媛です。
827 :
日本@名無史さん:2010/02/03(水) 10:37:12
>>826 朝貢したなんてことは困ることではないよ。それに朝貢を隠そうったって
隠せるものではない。隠すつもりならば、倭人伝を引用するはずもないよ。
>卑弥呼はヤマトトビモモソ媛です。
妄想だね。女ならばいいってもんじゃない。モモソ媛も架空の人物だ。
>>825 > 記紀を書いた人々は、後世の人とちがって邪馬台国がどこに
> あったか知ってて書いているということだ。
それはどうかね?
少し前の銅鐸のこともコロっと忘れていた奴等だぜ。
829 :
水銀厨 :2010/02/03(水) 11:14:15
>>827 問題なけりゃ堂々と神功とは卑弥呼であると書きます。
それに卑弥呼の跡をついたはずのトヨの存在も?ですね。
男装をする逸話を持つのは大抵矛盾隠しです。
それに記紀上で日本は中国と対等でなけりゃダメなんですよ。
朝貢や碑なんて文言はNGです。
モモソ媛は少なくとも他の系図でも確認できますからね。
邪馬台国も500年前も前だから、
実際良く知らなかったんだろう。
832 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/04(木) 19:31:17
実は、神功皇后と言われている息長帶比賣命は宮簀姫命と同一人物です。これは内緒の話しで極秘だよ〜ん。
それは無いな。
834 :
日本@名無史さん:2010/02/05(金) 22:39:22
>>828 銅鐸は500年前、しかし、邪馬台国がどこにあったのかはたかだか数十年前の
話だ。
835 :
日本@名無史さん:2010/02/05(金) 22:47:41
>>834 日本書紀の完成が720年。古事記が712年。
その数十年前なのか?(計算が合わんな。)
836 :
日本@名無史さん:2010/02/05(金) 23:28:42
合わないことはないよ。邪馬台国は3世紀の国だと思い込んでるのが
まちがいだ。
837 :
日本@名無史さん:2010/02/05(金) 23:46:15
何だ?怪電波が飛び交ってるぞ。
838 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 00:49:31
邪馬台国ってのは、五王の時代を経て隋書が伝える時代までまちがいなく
続いているんだよ。消えたのは記紀時代のせいぜい数十年前だろう。
電波が強すぎですw
840 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 01:30:37
宋書、隋書、旧唐書を読んでないな。
それに、記紀にもなかったとは書いてないな。
841 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 02:25:27
邪馬台国はスサノオが作ったと何かの本で読んだことが有る
なんとなく説得力が有った
842 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 07:28:11
>>840 調べても何が言いたいのか判らん。ちゃんとまとめてみろ。
843 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 08:38:10
>>842 困った奴だな。
宋書は、「倭国は・・世々貢職を修む」と書いている。これは倭人伝が伝える邪馬台国
と連続していることを示す。上表文によれば「平らげること海北九十五国」ともある。
これは当然朝鮮半島のこと。南にあるのは九州島だ。
隋書は「魏の時中国に通じるもの三十余国・・、魏志にいう邪馬台なる者なり」という。
そして、倭王は男王であったことを書いている。この当時、記紀によれば大和の天皇は
推古女帝のはずだ。ということは、隋書が書くのも大和ではない。
旧唐書が倭国とその東の日本国とを並べて書いているのは知ってるだろ?
唐の初めごろにも倭国(九州)と日本国(大和)とは存在する位置が異なって
認識されていたということだ。
それからいつの間にか、倭国が消えて日本国のみになっていることが認識された。
ということは、倭国が消えたのは記紀が作られた時からせいぜい数十年前の話。
記紀の編者らは当然、その倭国のことを知っているんだよ。だから、五王の話には
触れないし、隋使についても明記しない。倭国の存在を否定する書き方はしないんだ。
>平らげること海北九十五国
西の六十六国はどうした?海中にあったのかw
845 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 10:22:57
>>844 九州の西にあったんだよ。邪馬台国はもともと東にあった。
だから、百余国→30国の差はそのほとんどを邪馬台国が
征服したって計算だな。
百余国が九州にあったというのは既にトンデモ論でしょう。
弥生中期の時点で出雲・丹後・畿内に大陸勢力との
交流形跡があります。
847 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 11:12:33
邪馬台国は出雲のスサノオが西日本一帯を制圧して出来た
卑弥呼はスサノオに敗北したイザナギ一族の出身で、スサノオの死後邪馬台国を乗っ取っただけ
大和朝廷はスサノオの息子のニギハヤギが建国した
848 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 11:18:22
日本書紀でスサノオとニギハヤギのことが抹殺されてるのは
イザナギ一族出身の藤原一族が政権の主導権を握った為
849 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 11:33:27
元々日本建国の様子は神話ではなくかなり詳細に分かっていた
日本を建国したのは出雲勢力だ
残念な事に日本書紀はイザナギ一族が自分たちが日本を建国した事にするため改ざんされた
蘇我(葛城)系が消されたのだな。
851 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 13:51:53
>>850 消されたのは物部氏
物部系は日本建国の大王ニギハヤギの直系
852 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 14:23:54
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
853 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 14:41:19
ホゥラ、電波飛ばすから・・・。
854 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 15:12:28
米というのは基本的に暖かい所から寒い所へ伝播したと考えるのが普通
稲作は日本から朝鮮に伝わったと考えるのが妥当
855 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 16:20:05
長江江南の中国稲作が伝わってないからダメなんだろうが。
長江江南の中国稲作が伝わっているのなら農耕具は石鋤で
炊飯器は鼎が最初に伝わるハズだろ。
ところが最古水田に伝わっている最初の農耕具は長江江南にない木鍬。
炊飯器は甕。
農耕具とセットで伝わっている磨製石器や土器を見ても
中国文物に特徴的な要素が何一つとしてない。
日本稲作は1000%朝鮮から導入している。
経路は、山東半島→甕津半島→九州北部だろう。
856 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 16:34:25
在日って証拠を一切示さずに空想だけで物言うから困る
別に在日に限らず、自分有利に物事をねじ曲げるのは朝鮮人の民族的特徴だろうよ。
しかし、長い目で見れば結局世界から憎まれ、疎んじられ、信用されないんだ。
858 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 16:38:08
日本人だが。
帰化でもないぞ。
どうせおまえはいつもの悪性台湾人だろうがな(嘲笑
859 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 16:58:29
>>857 邪魔な日本人の俺に向かって勝手に朝鮮人認定、朝鮮人呼ばわりの
卑劣な「狂言」をして潰しに入る妨害工作をしている訳だが、
それが事実ならともかく、俺のような朝鮮とは何も関係ない日本人が
そうされたらどう思うか、おまえら台湾人工作部隊は考えた事ないのか?
怒りと憎しみとそれに対する復讐心だけだ。
なぜ怒りと憎しみとそれに対する復讐心が涌くのか分かるか?
それが事実と反するからだ。
俺は気が済むまで必ずその卑劣な行為に対する復讐を成し遂げる。
>>859 どんどんやれば。朝鮮も台湾もどっちもアホだけどね。かかか。
861 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 17:07:00
日本人だと言ってるだろが馬鹿!
この卑劣極まりない嘘の塊の台湾ゴキブリめ。
必ずや、おまえらの息の根を止めてやる。
>>851 記紀の矛盾の多さでみても、蘇我の系統は
明らかに作為されてるでしょ。
864 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 18:56:18
朝鮮人は日本の歴史に何の関わりもないよ
無理やり朝鮮人が日本の歴史に関与した事にしないで貰いたい
朝鮮は20世紀に入るまで文化後進国で、20世紀初頭の朝鮮人の大部分は縦穴式住居みたいなボロ小屋に住んでいた
文化後進国の朝鮮に14世紀以前の歴史的資料が残っていない。これは事実
彼らの歴史認識は彼らの妄想でしかない。
とりあえず、百済はガチで日本人の祖先だよな。
百済文化を引き合いに出してあれこれ言うのだけはやめてほしいな。
んな訳ないw
867 :
日本@名無史さん:2010/02/07(日) 11:08:17
昔の人間達はみんな祖先だと思い、そして僕達がいるのだと思い、敬い感謝する事だ!!
868 :
日本@名無史さん:2010/02/07(日) 13:44:20
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
869 :
日本@名無史さん:2010/02/07(日) 18:05:23
>>846 交流形跡なんぞ何の意味もないよ。
あなたは、計算できないんだねえ。
何の計算だよw
871 :
日本@名無史さん:2010/02/07(日) 23:22:52
>>870 まず、人口だな。対馬国、一大国で計四千戸だ。戸数十五万戸ぐらい九州で
十分だよ。九州本土が対馬や壱岐より人口密度が低いなんてことはありえんぞ。
それから、国の数。倭国は旧百余国、魏時代には30国だ。
しかし、倭王武の上表文によれば、東に征すること五十五国、西を服すること
六十六国だ。魏時代に倭国の版図を本州までとみたら、とてもじゃないが数が
合わんな。
>魏時代には30国だ。
魏と何かしら交流があるのが30国だが。
九州だけでみたら全然会わんだろw
873 :
日本@名無史さん:2010/02/08(月) 21:00:10
>>872 >九州だけでみたら全然会わんだろw
何が合わないのかな?
>魏と何かしら交流があるのが30国だが。
旧百余国だ。今はいくつあるんだ?
874 :
日本@名無史さん:2010/02/08(月) 21:11:44
>>871 中国との往路に当たる対馬国や一大国は貿易業や往来する人々への
宿の提供や物資の提供をする人々が集まり、豊かで人口密度が高かったんだよ。
主食の米があまり育たない南九州でそんな大勢の人数が維持できるかよ。
九州本土の人口密度は相当低かったはずだよ。
875 :
日本@名無史さん:2010/02/08(月) 21:23:51
日本書紀には、そもそも事実が書かれていない
日本の本当の歴史を知りたければ、仏教伝来以前の日本の宗教である氏神信仰、すなわち神社を調べればよい
西日本一帯から近畿、中部地方には卑弥呼など祭られていない
祭られれているのは、卑弥呼と同時代に活躍していたスサノオとその息子のニギヤハギだ
邪馬台国を建国したのは出雲出身のスサノオで、卑弥呼はスサノオに敗北したイザナギ一族の出身で、人質としてスサノオの側室になったにすぎない
ただ卑弥呼は権謀術に優れていた上に長生きし、スサノオの死後邪馬台国を乗っ取ったにすぎない
日本書紀はイザナギ一族出身の藤原家によって編纂されたため、日本の歴史から出雲勢力が抹殺されてしまった
>>873 30国でそ?
丹波とかに大陸との交流の形跡あるんだから
当然含めます。当たり前だろ。
877 :
日本@名無史さん:2010/02/08(月) 21:40:14
>>874 良い田がないようなところが豊かで人口密度が高かった?いいかげんにしろ。
筑後川流域や熊本平野、宮崎平野の方がずっと良田が多かったんだ。
南島との交流も盛ん。九州は南の方がずっと人口密度が高かったんだよ。
>>876 意味不明だな。今が30国だというのかね。それが九州に入らないと
でも思っているのか?
>>877 意味不明はキミ。
九州という器の問題じゃないでしょ、
大体九州と本州なんて区別する程離れてないし。
879 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 07:24:42
>>878 三十国しかない倭国でどうして東五十五国、西六十六国が征服できるんだ?
880 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 22:07:43
>>877 南九州に良田が多く人口密集地だったとは初耳だな。
古代から阿蘇山や桜島のような活火山が多く、
火山灰の降り積もった地形では水はけがよすぎて
長時間水をためておくことが必要な水田はむかない。
そのために藩政改革までして薩摩芋植えたりしてただろ。
九州説論者ってこんなことまで言うんだな。
881 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 23:16:58
>>880 君の勉強が足りないだけだよ。県別の米生産量でも見てみたらいい。
福岡なんぞより熊本や宮崎の方が上だ。火山灰土ばかりじゃないんだよ。
それに今は、対馬、壱岐との比較での話だ、そこを忘れるなよ。
882 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 23:30:08
鬼頭氏による人口調査でも、南九州>北九州となっている。
西暦200年。
南九州(熊本・宮崎・鹿児島) 約6万5千人。
北九州(福岡・佐賀・長崎・大分) 約4万人。
これはかなり意外な数字で、福岡や佐賀が先進地だったというイメージを覆す
ものがある。熊本の人口が多いのはそれなりに納得できるが、宮崎が多いと
言うのはこれまた意外。
883 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 23:32:28
a
>>882 稲作の開始が北九州から始まっていて米の収穫が人口を爆発的に増加させた。
鉄器はその米の収穫量を更に飛躍的に増大させる。
・・・と言うイメージ先入観だろうなwwwwwww
更に言うと北部九州より東海・東山・南関東・・・が上回っているw
885 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 23:57:26
で、奈良はどうかな?
886 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 23:58:06
887 :
日本@名無史さん:2010/02/10(水) 00:28:16
888 :
日本@名無史さん:2010/02/10(水) 07:32:49
女王国に至る万二千余里。これを女王国の都までの距離と勘違いしている奴が
多い。しかし、これは都までの距離ではない。
倭人伝は、行程を記述するときには、都など一点を示すが、その国の説明をす
るときときには、どのあたりから国が始まるかを示す方法をとっている。その
ことは東夷伝を通読すれば簡単に理解できる。高句麗は遼東の東千里とあるが、
遼東郡から高句麗の都の丸都城までが千里などいった距離でないことは明白だ。
万二千余里で至る女王国もこれと同じ。女王国の領土に入るのが万二千余りだ
ということで、その女王国の都がどこにあるかはまったく別問題なんだ。
>>871 倭国大乱が影響しているんだろう?
魏志倭人伝の記述を見たら、その邪馬台国連合30国以外にも
倭種の国があったと書いてあるわけだし。
890 :
日本@名無史さん:2010/02/10(水) 18:57:56
桃太郎伝説のある岡山県の上流は出雲の事でしょうか?
891 :
日本@名無史さん:2010/02/10(水) 20:54:24
892 :
日本@名無史さん:2010/02/10(水) 23:01:05
>>889 >邪馬台国連合30国以外にも倭種の国があった
それは倭の地の外にあった国々だ。
893 :
日本@名無史さん:2010/02/11(木) 10:14:02
>>888 後漢書は次のように書く。
其大倭王居邪馬臺國樂浪郡徼去其國萬二千里
これは邪馬台国の国境から万二千里ということだ。けして邪馬台国の
都からということではない。
894 :
日本@名無史さん:2010/02/11(木) 20:44:58
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
保守
896 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 00:02:45
まじかよ
897 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 22:06:11
この荒らしよくこれだけ続けてるな。
朝鮮脳はやっぱ理解不能だわ。
900 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 03:39:01
901 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 08:04:40
明治政府に三国人が紛れ込んでいたと告白してる人がいるスレはここですか?
石ノ森の漫画で随分若々しいけどもっと年食ってるよな?
903 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 15:50:19
いや、近世史は近世史で大事にしないと。
明治政府がどんなむちゃくちゃやったかは歴史として認識しておかないとね。
うむ、そして今もひつこく会津叩きを(ry
おいおいここは百襲媛に萌えるスレだろ
明治政府の悪行や会津のむさい話をする所じゃないぜ
モモタン……
907 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 21:03:35
908 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 00:01:09
>>905 石ノ森濡れ場があるからって美人に描きすぎだろ
909 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 00:02:07
●ネトウヨ(ネット右翼)がみっともない12の理由
1.威勢が良いのはネット上だけで現実の行動は何もしない
2.2ちゃんねる発の噂を裏も取らずに事実と断定する
3.愛着を持っている日本文化が伝統文化ではなく漫画・アニメ・ゲーム程度
4.国防重視を説くくせに現実に自衛隊には入らないし入っても役に立たない
5.都合の悪いことはすべて反日勢力の自作自演ということにする
6.特亜・在日・創価・左翼以外の社会悪は平気で見過ごして批判しない
7.戦前戦中・終戦直後の今よりひどい貧困を味わった世代に敬意を表さない
8.自分は何もしてなくても過去の日本人の手柄を自分の手柄のように誇る
9.反中国のくせに高い国産商品より安い中国製品を買うことを恥じない
10.何の話題でも嫌特亜、反左翼に結びつけないと気が済まない
11.たまたま日本人に生まれただけで努力して何かになったわけではない
12.この文章を読んで「これを書いた奴はチョン」と証拠もなく勝手に断定
910 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 00:11:45
912 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 23:26:06
誠実に歴史を検証しようとしない朝鮮人。
それ以下の存在であるネトウヨ。
このどちらかが出て来た時点で、どんな良スレでも崩壊してしまう。
なんとかならんもんかね〜!
913 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 23:48:29
>>912 そのとうりです
ネトウヨは朝鮮人以下のゴミクズなのです
ネトウヨを抹殺するためにこれkらもがんばっていきましょう
914 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 01:15:32
>>912 つまり、卑弥呼も天皇も朝鮮人にしたいわけですね?
わかります。
てす
tes
917 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 13:50:27
0年〜250年の1年単位で降水量の変化
http://www.yomiuri.co.jp/zoom/20100813-OYT9I01297.htm 気候変動・社会不安・そして卑弥呼台頭?
2世紀から3世紀にかけ、日本では、干ばつと大雨の時期を数十年ごとに繰り返すなど降水量が大きく変動していたことが明らかになった。
名古屋大学の中塚武教授(地球化学)らが木の年輪を分析して突き止めたもので、列島はかつてない豪雨にも襲われていた。
邪馬台国の卑弥呼は、その直後に台頭しており、中塚教授は、降水量の変動による社会の不安定化が背景にあったと指摘している。
中塚教授らは、長野県で発掘され、紀元前1世紀から紀元3世紀のものと判明している木曽ヒノキについて、
年輪一つ一つに含まれる酸素を詳しく調べた。
酸素には、軽い酸素と少し重い酸素があり、軽い酸素を含む水の方が葉から蒸散しやすい。
重い酸素が年輪に含まれる割合は、降水量が少なく、乾燥していた年ほど多くなる。
これを利用し、1年単位で降水量の変化を再現した。観測記録のない時代の細かい降水量変化がわかったのは初めて。
その結果、日本の降水量は、1世紀半ばから短い周期で変動を繰り返すようになり、2世紀になると40〜50年周期で大きく変動。
これまでにない大雨が発生したこともわかった。
中塚教授は「降水量が長い周期で変化すると、小雨期に開発した水田が多雨期の洪水で壊されるなど、
社会に大きな被害を与える危険性がある」と強調する。
卑弥呼の登場前、国内で大きな争いが続いたことは、中国の歴史書「魏志倭人伝」に記述されている。
内乱の背景として鉄製武器の普及や天変地異が指摘されているが、詳細は不明だった。
◆魏志倭人伝=日本の古代史に関する最古級の史料で、中国で3世紀にまとめられた魏の史書「魏志」に収められている。
卑弥呼が女王になった経緯が「倭国乱れ相攻伐すること歴年、乃(すなわ)ち共に、一女子を立てて王となす」と記述されている。
(2010年8月14日03時03分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100813-OYT1T01311.htm
918 :
ローガン:
テスト