4 :
日本@名無史さん :2009/03/27(金) 00:23:49
>>1 乙。
しかし継続スレなんだから、老教授氏の例の意見(課題提起)は書いておくべきだな。
5 :
日本@名無史さん :2009/03/27(金) 01:37:37
学者の世界はタブーが多すぎなんだよ。不自然過ぎて逆に目立つぞ。 (現在最大のタブー) A 年代遡上を批判してはいけない。 B マキムクと同時期の九州が古墳時代かどうかは後日決まるまで空白にする。 (伝統的タブー) C 神武東征を認めてはいけない。文化の東遷もできるだけ否定する。 →畿内の後進性への言及はできるだけ避ける。 D 欠史8代の実在性を認めてはならない。 E 成務天皇、仲哀天皇、神功皇后の実在性は認めてはいけない。 →先代旧事本紀の国造本紀の扱いに注意する(成務の代の設置が大半)。 F 古代の大阪〜奈良の盆地湖はできるだけ言及しない(自生説への配慮)。 G 王権の成立はできるだけ遅らせて、初期は連合政権とする。 (個別論点タブー) H 稲荷山古墳の鉄剣の「オオヒコ」が誰か詮索してはいけない。 (四道将軍までの系譜の史実性が欠史8代〜神功皇后の史実性に関連する)。 J 中平年刀が国産である可能性に言及しない(環頭が国産でほぼ確定も言及しない)。 K 三角縁神獣鏡舶載説を追い詰めてはいけない。 L 古墳が寿陵(生前に作られた)であることの言及は避ける。 M 古墳の設計が時代ごとに変わっていることは、はっきり言ってはならない。 N 貨泉が中国では4世紀まで作られていたことは言及しない。
6 :
日本@名無史さん :2009/03/27(金) 01:42:56
>>5 全部のタブーを認めても、東遷説は成立しないよ?
あきらめろ。
>>5 い加減にしろ東遷説のキチ○イ
どれもこれも過去に反論されている物ばかり
そうやって何度も何度もコピペ貼って多少の気晴らしするしか能が無いのかアホ。
8 :
テンプレ用に… :2009/03/27(金) 02:21:58
996 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 21:08:02
>>994 >>995 纏向遺跡、纏向古墳群から出ているもので議論するのがこのスレの眼目だろ。
みんなどうして纏向スレなのに、纏向以外のものを議論したがる?www
997 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 22:33:49
纏向の話をしてほしくないんでしょ。要は実質的な嵐。
998 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:17:49
もう魏志倭人伝、邪馬台国、卑弥呼とか
記紀のアマテラスあたりの神代の話を絡めるのとか
神武東征とか欠史八代とかあたりの話は禁止にしてほしい
10 :
日本@名無史さん :2009/03/27(金) 02:32:01
>>6 あれを畿内説に対する批判と考える前提からしてダメだろ。
学界に対する批判だろ。
11 :
日本@名無史さん :2009/03/27(金) 02:44:24
>>8 >2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
>それが王権の礎になったってことです。
この意味がどうもわからん。日本史あるいは世界史でもいいが、似たような
例としてどんなものがある???
12 :
日本@名無史さん :2009/03/27(金) 03:04:40
古墳の形は築造年代を決めるときの要素の一つなんだが。 それだけで決定されるわけではないが。
大阪の盆地湖って言うのもよくわからんな。 大阪の盆地ってどこだよ。 河内潟や巨椋池の存在を考えるのは当たり前だし。
15 :
日本@名無史さん :2009/03/27(金) 08:32:15
>>11 「文化の集合体」の意味は確かに分からない。前方後円墳のことかな?
広域政治連合という意味合いなら、初期の鎌倉幕府とか。
卑弥呼が頼朝で、のちに大和=北条が権力を独占する。
寺沢は昔明治維新を例に出してたな
寺沢は東田の古墳群はあまり古くないと思っているようだね。
おおむね布留0やや庄内3くらいで。
>>2 の本の座談での纒向石塚古墳についての見解。
石野=纒向1(庄内0)、橋本=纒向2、
寺沢=庄内3、萩原=ほぼ沈黙
これは
>>3 の「唐古・鍵遺跡の消長」に合わせて考えると、
纒向が始まったのが、最初の環壕の消失の時なのか、
それとも一度失われて(庄内の間)から、再び復活した時なのかという違い。
唐古・鍵の環壕は戦争用なので、
消失はオオヤマトに平和が訪れたことを意味する。
この後オオヤマトに唐古・鍵級の集落がまったく現れないのは、
城塞に閉じこもる必要がなくなり、人家が拡散したからだと思われる。
環壕維持の負担がなくなったことと、平和による農業の拡大による富で、
周構墓から古墳を作るようになったのではないか。
纒向大溝も環壕→水路の転換をしたと考えられる。
そういう意味では古墳の開始が庄内期まで遡るのは納得できる。
また戦争を開始した頃に求めるのはちょっと無理があると思う。
寺沢はクラッシックな畿内説で、庄内1で卑弥呼共立→平和、
布留0で死後再び乱れる、台与→平和と考え、
卑弥呼が死ぬ前後から纒向式前方後円墳が始まる、
もっと言えば纒向の古墳が始まると考えている。
トヨタン・・・・・・・・・・
石野が纏向の箸墓以外の古墳にかなり古いものがあると 言い始めた時はキチガイ扱いされたそうだ。 主に小林理論を信奉していた人たちに。 発掘調査に基づいていたのに。 今でも箸墓が一番古いと思っている人いるしね。
>>5 神功皇后の実在うんぬんはともかく、
息長帯比売の「息長」は山城の普賢寺がある息長山(同志社の裏)、
つまり山城の辺りだという意見も多い。木津川を制していた氏族じゃないか、
以前言われていた近江は間違いじゃないかと。
先祖の彦坐王(開花天皇の第3皇子)の妃の一人が息長水依比売。
塚口義信は彦坐王が椿井大塚山古墳の被葬者じゃないかと言っている。
南山城の椿井大塚山古墳は三角縁で有名な古墳だけど、
棺内から庄内式が出ている。箸中山(伝箸墓)と同じくらい古い可能性がある。
周濠から庄内式が出ている中山大塚古墳も同様。
20 :
日本@名無史さん :2009/03/27(金) 23:08:35
椿井大塚山は木津川水系豪族のリーダーで間違いないでしょう。 大和川水系豪族が連合してマキムク、箸墓を造った、のようなプロセスがこの地域でもあったということ。 初期大和王権内には複数の王統があって、大王位の持ち回りがあったということ。 イワレ地域にも桜井茶臼山などの王族、造墓集団がいた。 最終的に山の辺の道を押さえた柳本の造墓集団が勝ったみたいだが。
>>19 塚口の「ヤマト王権の謎をとく」ですな。あれは良書。
あの説は神宮皇后の実在性を支持する方向に向かうのでは?
椿井大塚山は庄内ではなく、布留1〜2ですね。
4C後半〜末葉でしょう。
最近は布留1〜2を布留0と変更しようとする勢力もあるようですが、
庄内というのはさすがに無理がある。
22 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 00:07:35
>>5 一昔前なら関東が九州、関西が畿内支持だったのが、
関東も天皇制の一極保守イデオロギーと連合して、
どちらも畿内支持だな。
部分的には昔のスタンスを継承してるみたいだが。
>>21 前方部に布留1、2と一緒に庄内式出てるでしょ。
利用する様式として残れば、下った年代でも古いのは使われるから、
無視するってのは考え方としては分かるけど、
布留0が抜けるというは河内辺りと同じだから、
庄内3、布留1、2というのはあり得ない考えではないはず。
(庄内IV、布留I、IIというべきなのかな)
木津川のずっと下流にある芝ヶ原12号古墳も庄内式出てるし。
これは調査当時最古の古墳と言われた。
庄内なんか出てたっけ?フル0じゃない?
冷戦が終わって国際社会の枠組みが揺らいで、バブルも崩壊して 右肩上がりの経済成長の幻想が壊れてから、心理的に萎縮して 視野が内向きなってしまったからな。 国際的な視野を以て国家の歴史を考察するなら国家については 対外的な意識に注目するから、統一王朝の成立過程が重要に なるわけだが。
26 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 09:37:13
神武東征神話の背景に何らの史実も読まずに作り話だと断定して しまうのは津田左右吉以来かな。 ここだけを黙殺する合理的な根拠がないなら九州説は打ち消せ ないだろ。
28 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 09:57:42
>>20 >初期大和王権内には複数の王統があって、大王位の持ち回りがあったということ。
>イワレ地域にも桜井茶臼山などの王族、造墓集団がいた。
>最終的に山の辺の道を押さえた柳本の造墓集団が勝ったみたいだが。
その後、河内から進入してきた崇神集団が大和を制圧した。
29 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 10:01:13
>>20 最終的に山の辺の道を押さえた柳本の造墓集団が崇神集団とも考えられる。
>>28 オオヤマト内での北への移動、木津や河内への移動は、
基本的に稲作による富の移動と考えていいのではないだろうか。
古墳時代に湿地帯の治水技術が発達して、
稲作の主な場所が扇状地から湿地帯に変った。
これは発掘された鋤の形態変化によって分かる。
纏向川一帯は井戸を掘れば水が湧く扇状地で、
土木技術が発達してない時代にも灌漑しやすかった。
琵琶湖南部西岸なども同様。
しかし広さで考えると湿地帯の方が大きな富を得ることができる。
灌漑治水技術が発達すれば、平らなところでも米作できる。
その痕跡が纏向大溝なのだろう。
その後より広い湿地帯の残る北へ段々移動していった。
しかし奈良湖の縮退、湿地帯の消滅に伴い下流へ移動し、
最終的には河内湖に出た。河内湖も縮退しながら、
新たな大湿地帯を出現させ続けた。
畿内は弥生から奈良時代にかけて、
湖の縮退に合わせて、大湿地帯が出現し続けた特異な地域。
この特殊性から富を増し、強力な王権を作っていったのだろう。
31 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 11:28:42
>>27 九州説と神武東征となんの関係が?
むしろ、九州説が神武東征を否定しないと、
邪馬台国時代に大和王権があったことになるよ?
32 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 12:36:59
>>30 >オオヤマト内での北への移動、木津や河内への移動は、
>基本的に稲作による富の移動と考えていいのではないだろうか。
いち早く奈良盆地湖跡地で冨を蓄積した崇神集団の
盆地外に冨を求めてのこの時期が垂仁期である。
33 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 13:15:37
やっぱりレベルが下がってきたね。
>>28 日本書紀を読んだら崇神の曽祖父の代ぐらいから
確実にヤマトにいるよ、あれは。
35 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 14:08:23
天皇家の御先祖は磯城県主葉江です。
36 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 14:11:20
>>27 神武伝承の前半は、単に宮崎から大和へ至る航行記事。昔の歴史書にはこういった百科事典的役割も期待されてたとか。
神武一行が畿内に入る後半あたりから、内容が急に詳細になる。
複数の神話学者が言うように、神武伝承とはそもそもあくまで大和地方統一のプロセスを語る、ローカルな口碑だった可能性が高い。
西から来た偉大な大王が大和盆地を制圧、初代天皇として即位したという言い伝えが、
おそらく征服された側の大和の民衆に根強く残っていたのではないかと思う。
神武のモデルが弥生終末期の河内なのか?吉備なのか?
それとも後世の応神のことなのか?
少なくとも九州説は関係ないだろう。
私個人的には、イワレ地域に宮があった頃の雄略あたりが、自分の曾祖父を顕彰してハツクニシラスとしたのが真相ではないかと思うが。
37 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 14:17:03
>>33 そもそも考古学者が記紀を知らな過ぎるんだよ。
せめて門脇禎二くらいは読め。
>>36 雄略の頃に中国で倭の五王の最後に当たる武が征東将軍の
号を受けた点などは畿内説には問題にならないような些細な
ことですよね。
>>31 それで良いじゃんw
神武も東征してきたら、ニギハヤヒ系の天孫と出くわしてるし。
40 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 20:11:39
>>27 ここは「纏向は王権の礎の地か」を考えるスレです。
41 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 22:24:54
前ズレで太陽信仰のことが話題になっていたが、 マキムクにそれがあったかどうか、考古学的には相当難題で、 確証を得るのはなかなか難しいと思う。 発掘している辻地区の建物群の方位が正確に東西だから太陽信仰だ!、なんて レスもあったようだったが、そんな簡単に言っていいのかねと思う。 ただ銅鏡と太陽信仰を結びつける考えがあるのは俺もちょっと気になっていて、 確かに今アマテラスを祀る伊勢神宮は、どうも鏡が御神体らしいと言われているし、 岩戸神話を読めばアマテラスに太陽神の性格があるのは、全くその通りだとも思う。 しかし弥生や古墳時代の鏡というと、多くが墓の副葬品として出てくるわけだ。 纏向遺跡も今のところはホケノ山古墳出土の銅鏡しかなく、 いったい被葬者はこの銅鏡を信仰やマツリの場でどう使用していたのか・・・。 古代人が銅鏡に愛着というか、相当執着していたのは分かるのだが、 銅鏡が本当に太陽光とリンクされるような使い方、行為があったのかどうかが気になる。 そしてそういうことは銅鏡の墓への副葬だけ見ていても、なかなか掴めないと思うのだ。 というわけで、ある一覧表を、頑張って作ってみた。 墓の副葬品ではなく、おそらく祭祀の場で銅鏡が使われたと見られる遺跡の一覧だ。 もちろん網羅なんかできないし、不備もあるだろうが、たぶん何かの参考になると思う。 次レス以降に2回に分けて書く。感想や意見があったらぜひよろしく頼む。
42 :
41 :2009/03/28(土) 22:26:58
43 :
41 :2009/03/28(土) 22:29:03
44 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 22:42:10
門脇が言ってるのは、大和王権は比較的後代まで連合政体だっただろうということ。 国造が置かれたことから分かるように、葛城はそもそも大和とは別国。完全に滅んだのは 雄略に円大臣が焼き殺された時だろう。 淀川や木津川水系豪族の反乱記事も多く(崇神の時のタケハニヤスヒコや 応神の時のカゴサカ、オシクマなど)畿内が一枚岩だったというような記述ではない。 このスレで考古学好きを標榜する輩の方が、箸墓以降、下手をすれば庄内マキムク開始時に、 筑紫から大和までを包摂するような超古代王権ができたみたいに思ってるのが痛い。 東遷説の連中なんか大真面目に神武東征が根拠だって言うし、根本的に勉強不足。 記紀を読むかぎり初期大和王権は勢力拡大に四苦八苦してるし、反乱も頻発してる。
日食や季節の移り変りを経験することで、 太陽に関心が芽生えるのは自然なことなので、 太陽信仰が全く見つからない地域を探す方が難しいと思うが、 特定の地域、特定の時代にあるかどうか議論するのであれば、 それなりの根拠が必要になると思う。
>>44 オオヤマトで時代につれて中心地が移るといっても、
別々のエリアで並行して古墳が作られているのだから、
大王がオオヤマト全域を統治していたと考えるのは無理があると思う。
文献的にも考古学的にも、婚姻関係はかなり濃いと思われるが。
47 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 22:57:51
鏡は太陽神信仰なんだと普通に考えてましたが違いました? 昔の銅鏡は乱反射するので、それを利用して民衆の前でキラキラ、我こそは太陽神の子=ヒコ・ヒメだ!とかやってたのかなと。 ただ鏡がそうした大衆支配の道具から古墳の副葬品に変わった時期があって、 それがヒラバルからなんでしょうか。 破鏡の風習は何なんでしょうね。土器を破砕するのは、今もかわらけ投げとして残ってますが、 神に捧げる=壊して使えなくするということなんでしょうか? 一説には、慢性的な鏡不足を補うために細かく割って数を増やしたとか。なんか違うような気がします。
破鏡は北部九州が多い。 1/3以上半分以下。 東に行くほど少ない。 時代的にも先行しているようだ。 ぶら下げたのか穴をあけていたり、 破断面を研磨したものが結構ある。 出るのは首長墓に限らない。 三角縁神獣鏡の破鏡は少ない。 三角縁神獣鏡の完成鏡は首長墓に多い。
49 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 23:24:59
伊勢神宮の秘伝にアマテラスに鱗があるというのがあり、 鏡=カガメ=蛇の目という説もある。 また能の演目だったっけ?はっきり三輪大神=伊勢大神と書いてる。 また他には特定の日にアマテラスが蛇体で五十鈴川を昇ってくるという伝承も。 伊勢の大神が古来太陽神であったのかは怪しい。本来は蛇神だったのではないか。 伊勢の御神体が鏡だからといって即「鏡=太陽崇拝」とはならないだろう。
50 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 23:36:45
>>47 >一説には、慢性的な鏡不足を補うために細かく割って数を増やしたとか。なんか違うような気がします。
そうだと思うよ。
>>50 なるほど、破鏡の風習が廃れたのは、舶載鏡が大量に入ってきたからか
鏡の国産化により、一定数確保できるようになったから、という説でしょうか?
私個人的には、鏡は大きさを重視していたようなので、
細かくしてまで数を増やしたというのはちょっと違うような気がします。
やはり破砕祭祀、「数を増やす」ことではなく「壊す」こと自体に意味があったのではないでしょうか?
穴を空けてペンダントにしてたのは、壊れた鏡の再利用といった意味合いでしょう。
アクセサリー化していたのがはっきりしているのがあるからね。
53 :
ローガン :2009/03/28(土) 23:47:20
>>48 > 破鏡は北部九州が多い。1/3以上半分以下。 東に行くほど少ない。
> 時代的にも先行しているようだ。 ぶら下げたのか穴をあけていたり、 破断面を研磨したものが結構ある。
ん〜 それを破鏡と言うんでしょうか? 完鏡を割って分有した例ってありましたっけ?
欠片になった状態で入荷していたのでは?
>>42-43 乙
祭祀遺跡での鏡は鏡だけ単独で出土するのではない。
玉や刀剣など特有の他のマツリ道具が一緒に出るのが普通である。
また祭祀遺跡においては多量の供献土器類も伴うのが一般的だが
前期古墳の場合は棺や石槨内には土器は持ち込まないのが普通である。
本物の鏡を使わず滑石や土製の模造品で鏡の代わりとする祭祀も
古墳時代が進むにつれ増えてくる。
古墳時代が終わって火葬が普及し鏡副葬の観念が薄れても
鏡を使う祭祀は続く。
奈良・平安時代で鏡が出土する祭祀遺跡は「水」に関係している場合が多い。
破鏡の根拠 A、割って増やす説(ポケットのビスケット説) ←少なくとも割って破片1個だけのこして、残りを配ったわけではない。 ←配られた側の破片だけの遺跡がたくさんあるというわけでもない。 B、壊す宗教説 B1 壊すことによって、鏡に封じ込めた魂の再生を防ぐ。 B2 (太陽)神にささげるため壊した。 C、所有説 生前の所有者と命運を共にさせる。他の人に所有させないために壊した。 D、盗掘防止説 壊してから埋めれば、盗む価値が低下する。 E、その他
57 :
ローガン :2009/03/29(日) 08:26:04
>>56 きっと私の勉強不足でしょう。 同一鏡片が別々の遺跡、墳墓で見つかる事が普遍的であれば、分有目的の「破鏡」と云えるかもしれませんが、生憎その事例を知りません。
破鏡とはやはり平原一号のような感じかなと思います。
鏡片が接合した例はなかったっけ? なんかあったような気がするけど思い出せない。気のせいかな。
>>57 それは「粉砕鏡」って言って分ける人もいるね。
60 :
日本@名無史さん :2009/03/31(火) 00:29:54
極々初歩的な疑問なんだが… いわゆる「纏向型」は全長が大きくて100mを少し。 無論造営当時は十分巨大といっていいんんだろうが… それが箸墓に至り200mをゆうに超え300mに迫らんとする大きさになると言うのは チョット不自然なのでは? その間の中間的なサイズのものとか無いのかな? いわば「ミッシング・リンク」って感じでw
代を重ねるごとに10mづつ大きくなる方が不自然。 富と時間があれば好きなだけ大きくしていい。
>>44 門脇の考え方って、歴史学の中でも亜流だよ。
しかも、彼は自説が覆るのをおそれて
邪馬台国九州説に転向したw
もう、死んでしまったから、どうでもよいが、
結局、彼の出した説というのは、どれもこれもトンデモだったということ。
>>37 :日本@名無史さん:2009/03/28(土) 14:17:03
>
>>33 >そもそも考古学者が記紀を知らな過ぎるんだよ。
>せめて門脇禎二くらいは読め。
門脇禎二は、もろ戦後のマルクス主義史観の申し子だろう?
蘇我氏のことを渡来系とか言ったり(年代からして、あわない)
邪馬台国畿内説が確定しだして、日本に早い時代から
統一連合体が誕生していたのがわかって
自分が主張していた地方独立王権説がつじつまが合わなくて
死ぬ直前に邪馬台国九州説に転向したりw
結局、彼は歴史学者ではなく、イデオロギーが大事な
思想家だったわけで。
64 :
日本@名無史さん :2009/03/31(火) 19:30:01
門脇の邪馬台国絡みは確かにおかしいな。 しかしまあ門脇の研究のキモは、記紀や氏族の系譜とかの研究だろう。 ただし個人的に九州説の可能性は十分残されてると思う。 ヒラバルの女王がマキムクに反発して大陸に遣いを送ったところ、 たまたま魏に厚遇されたという。
65 :
日本@名無史さん :2009/03/31(火) 20:04:53
偽僭説だね。 でもそれは検証不可能。
66 :
日本@名無史さん :2009/03/31(火) 20:23:11
いやまあ、検証不能なのは邪馬台国全般で言えることで。 考古学で否定できるのは東遷説くらい
外に敵がいなくなると中が揉めるっていうのはよくある話だと思うけど。
まだ邪馬台国畿内説と地方独立王権説は 両立する可能性があると思います。 門脇の主張していた地方独立王権説は いろいろ齟齬のあるところも見つかってますが。 少なくとも倭人伝には統一王権の成立なんてことは 全く書いてないのですから。 あくまで共立の祭祀的な女王です。
門脇の説はあの時代ではありふれたものだろ。 王権が初期から統一されていたとするのは記紀史観(=皇国史観)だから 今でも、継体あたりまでは「連合」と言い張る学者もいる。 門脇はそれを推し進めて、「地域王国」の「連合」とはっきり言った。 たしかに、国内統一もできていないのに、朝鮮に出兵したなんてありえないが、 三韓征伐も出兵自体が捏造という考えも強い時代だった。 「ワカタケル」の刀が九州や東国で発見されてからは考古学的にはその頃には 「連合」は否定されることにはなろうが、いまでも「連合」と書く学者もいるわけだから、 彼を見下せるほど学説も進歩していない。
丹後王国最盛期が四世紀から五世紀って説だったと思うが、 まあ昔は考古学の推定もかなり時代が下っていたから、 仕方ない面もあるね。今の年代観で批判するのは酷かも。
71 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 08:37:25
連合から統一王権に切り替わったのはいつ頃なんでしょうか? わたしは百舌鳥古墳群の頃にその萌芽が始まり、雄略の頃にある程度完成したのではないかと。 高句麗と挙国一致で戦う必要性から倭国統一の指向が方向づけられ、 対半島での利潤の配分権がさらに大王の権威を高めたというフィードバック
文献と考古資料で確認できることだと、 廃評建郡を行った後に筑前や越後では郡を使っていて、 薩摩は評督という役職が残っている。 ただし薩摩姫と評督が朝廷の使いを脅かして成敗されている。 建郡の時代は木簡でも確認されているので、 この頃九州を含めた地方の政治制度を左右できる存在であったことは動かない。 日本書紀の武蔵国国造を任命(534年)の話、 稲荷山古墳の鉄剣の銘、稲荷山古墳が突如現れた大型古墳であり、 大仙陵古墳と墳形が類似していることなど、 あまりにも合致することが多いので、 稲荷山古墳の作られた五世紀後半には、 ワカタケルの名前が地方を制する豪族の 権威づけをするに充分の名声を関東でも持っていたことがわかる。 大和周辺ともなると時代がかなり遡るからよくわからない。 特に継体天皇のことをどう考えればいいかわからない。 ただ上の埼玉古墳のことを考えると、朝廷中枢内での一悶着であって、 大和朝廷そのものが揺らいだわけではないのかと思う。 磐井の乱はそういう悶着に乗じて行われたのではないか。 乱を鎮めることによってますます朝廷の力が強くなったはず。 ただ調停内部の主権争いは相当過酷なものであったことを思わせる。 そういう状況が壬申の乱まで続いたのではないか。
73 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 12:37:03
前スレで、マキムク廃都の理由から、逆にマキムクが造られた理由が分かるのでは? みたいな議論があったが。 結局マキムクは大和連合のための都であって、河内の大王権力の誕生という政変がマキムク廃棄の理由なんだろうと思う。
74 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 13:06:48
>>73 いや、その前に佐紀古墳群がある。
佐紀の西群で少なくとも4基の大型前方後円墳が、オオタマト→古市・百舌鳥の移行時期に前後して作られている。
半世紀かもう少し長く、佐紀の被葬者たちの覇権の時代があったように思うが。
だがまあ古市の最初と思われる津堂城山は、オオヤマトの櫛山や佐紀4基とそれほど離れてなくて
一部重なっているのかもしれないとも思うが。
南北朝合一では国衙領と長講堂領を両統で分けることになってるよね。 南朝は吉野だけじゃなくて摂津住吉も本拠地の一つだし。 荘園を中心とした自治がかなり強かったから、 南朝も戦争状態の中、親王を北陸や九州に派遣できたのだろうし。 十四世紀でさえこんな様子だから、古墳時代は、 王権分立と言っても差支えない状態、 ただし盟主国とみなされる国がある状態ではないだろうか。 実際大和政権の正当性を最大限に主張したい記紀でさえ、 「戦い」があったことを書いているのだから。
>>74 佐紀のほうに王墓群が移動した時期には
まだ纒向は廃都されてなかった?
佐紀の頃は木津川の勢力強い時期でもう全然だめなんじゃ。 天理の柳本、萱生の頃、既に併存から移行の時代だから。
78 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 15:04:57
>>76 この設問自身が纒向に対するある種の先入観があるようで気になる。
纒向の古墳やメスリ・桜井茶臼山を含めた、広義のオオヤマト古墳群が造営される古墳時代前期の
宮都と見られる遺跡が、果たして纒向遺跡だけだったかどうか。
天理の布留遺跡も(堂垣内地区アラケ地区)、古墳前期の集落・祭祀の遺構があるが、全貌は判っていない。
同市の乙木・佐保庄遺跡はさらに南側で、西殿塚がある萱生に近く、増墓集団がいただろうと言われている。
いまJR長柄駅、柳本駅付近の家屋が密集している付近も、当該期の土器など遺物散布地があるようだ。
そもそも記紀では、天皇が代わるごとに、宮も遷っている。そう記録されている。
畿内王権の古代宮都は、まだその多くが地下に眠っていると考えていた方が、ロマンがあっていいと思うが。
先入観ていうか、 石野さんの本に、纒向遺跡は180年から350年にかけて 現れ、突然消滅したって書いてあったもんだから。
80 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 16:00:51
古代天皇が一代ごとに宮を建て替えたというのと、 マキムクみたいな大規模集落?では少し意味合いが違うように思うが。 宮がどんな扱いだったかはよく分からないが、基本、オホキミの居館程度の意味合いなんかと思う。
>>80 >大規模集落?
たにかに居住の痕跡が少なすぎますねww
考古学的には「マキムク村」というレベル。
ここに「都市」があったというのは現状ではトンでものたぐいですね。
女王を共立といっても、 今の天皇くらいの立場かもしれないしねえ。
今村仁司がいってた第三項排除の論理ってやつじゃないの。 卑弥呼の共立は。
84 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 16:41:15
>>82 話題を倭人伝にもっていくな。マキムクの話をしろ。ここはそういうスレだ。
でないと荒らしを呼び込む・・・・・あ、遅かったか、チッ・・・
85 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 17:11:24
倭人伝は、大和王権の成立の頃の日本を知る有効な手段だろ、普通に考えて。 記紀編者も倭人伝を読んで、卑弥呼=神功皇后、男弟=武内スクネ、先代の男王=仲哀天皇、狗奴国=熊襲と解釈した。 神功の頃には九州を制してる必要があったので、作られたのが景行西征伝承。
86 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 17:55:47
87 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 18:18:26
>>71 統一王権を志向しだすその萌芽を
半島での高句麗の戦いの時期に求めるのは良いとしても
権威を高めるのに躍起になった時期と言うと
もう少し後にずれるのではないか?
(今日の考古学が弾き出している古墳の年代等から・・・)
畿内の大王の権威向上に躍起になったのは
むしろ5世紀前半、高句麗に破れ半島での権益を無くしてからでは?
権威向上というよりは権威回復と言うべきか?www
外交では五王の朝貢、国内では古市・百舌鳥の巨大古墳の造営と・・・
ちなみに外交=戦争に敗れて中央集権の強化を急ぐと言うのは
後世の白村江でボロ負けしての後の事と重なって見えたりwwwww
88 :
ヨコからだが :2009/04/01(水) 18:21:18
>>86 一番上の人物って天地逆になっているわけだから
一番下と言った方がいいんでないかい?
西のおっかさんの事だと思うが・・・
そもそもこの質問が何を意味しているのか分からないのだがwwwww
>>85 神功皇后を卑弥呼と解釈したんじゃなくて、
卑弥呼の役割を割り当てたと考えておかないと。
年代は意図があって引き延ばしているから。
>>85 記紀の編纂者ではなくて、日本書紀の編纂者がな。
日本書紀の場合は、古事記と違って、編年体で書かれているから
外国の史書(とくに倭人伝などの中国史書)との整合性が取れないと
「あれ、おかしいぞ」ってなるから問題だった。
でも、古来の日本の暦の数え方は、中国とは違っていたので
当然、同時代に卑弥呼に外交する人物がいなかった。
そこで、神功皇后という人物を、無理して、卑弥呼とトヨにあわせるために
年代を改ざんしたわけで。
一方、古事記のほうは、編年体では書かれていない。
天皇の干支没年と、天皇の死亡年齢という、大雑把な数字しかないので
無理に中国史書とあわせなくても「あれ?」とはならないわけで。
そんなわけで、神功皇后のところは
古事記の記載のほうを参考にしたほうが良いと思う。
じゃ、あの倭人伝の西暦239〜250年ぐらいの記載は 記紀で言うどのあたりなのか? それは、おそらく、崇神天皇の前期のあたりだろう。 おそらく、狗奴国の乱は、武埴安彦命の乱であろう。 ただ、記紀は所詮、数百年後に書かれたものであるということを 注意しないといけない。 あと、記紀を読んだり、倭人伝を呼んで思ったのは 倭国の歴史の流れは一様ではなかったということ。 よく、倭国がいつ統一したのか?というのを学者らが凄く問題にするが、 あの記紀や倭人伝の話を読んだら たえず、統一、内紛、分裂、内紛...と、何度も同じことを繰り返している。 一度、統一したから、それで終わりなのではなく、 またまた、内紛や分裂と、そういうことを何度も繰り返していたと思われ。 これは、中世の足利時代などと同じだ。
>>90 マキムクの時代から中央集権的で、
マキムクが都市だって言っている人は、
かなり特殊な脳みその構造なんだと思う。
前方後円墳以外に突出した遺構があるわけじゃないのに。
96 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 19:52:40
なんか『都市』って語句に過剰に反応しちゃってる奴がいるみたいだがw 所謂「弥生都市論」と言うものでも常に問題なのはその定義だろうに… 一々クレームつけている奴の定義ってなんだ? 人口の絶対数?密度? もしその都市の定義を 「生活必要物資(ぶっちゃけいの一番には穀物w)の供給を外部に頼る」 とするなら纏向こそそれに合致する事になるw 工業の比重が極めて高い集落なら北九州他にもあろうが 纏向ぐらい一次産業の従事者の居住跡がない遺跡も他に無いだろうwww
97 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 19:55:18
大溝はすごいねえ。 あんなに綺麗に護岸された溝の遺跡は、九州はもちろん、律令時代まで存在しないのでは?
他に水路の大きな遺構は田能遺跡や東神吉遺跡。 水路の発達は弥生時代には珍しいことではなくて、 石野も幅は広いもののそれほど「隔絶したものとは言えない」と書いている。 支路の発達はまだ見つかってないので、用水路じゃなくて、 運河じゃないかと。これはおれも前々スレくらいで書いた。 当時は江戸時代でもやっていたように両脇の道から紐で引っ張ってるはず。 途中で段差があるとまずいんだけど、奈良は昔大湿地だったから、 水運はかなり発達していたはず。 新田開拓も。農業王国だったんじゃないのかね。農耕祭祀だしね。
あと纏向大溝って名前の付け方はうまいねえ。 なんか特別なものだって雰囲気を漂わせてる。 調査発掘を進めるためにはこういう才能も必要だね。
100 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 20:27:27
外圧があると中央集権化が進むのが歴史の法則。 聖徳太子や天智天武が中央集権を目指したのも隋唐の圧力が原因。 明治維新が起きたのも外圧。 ヨーロッパの絶対王政も、植民地の過当競争から引き起こされたとみる向きもある。 外圧が無いと地方分権の方向に進む。武士の台頭など日本の中世はそんな感じだ。
101 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 21:09:16
>>89 紀の編纂者は天皇家の正当性を阻害しない範囲で、歴史家として客観的に記述してると思うよ。
でないとあんに「一書によると」なんてやらない。
卑弥呼の記述も本文じゃなく、あくまで注釈だし。
そういう意味では日本書紀の編者が最初の畿内説を唱えたということ
>>101 そんな曖昧な「範囲」とやらを主張されても。
しかも歴史家として客観的ですか。
103 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 21:34:44
いやまあ、日本書記、編纂には結構な年数使ってるし、捏造ばかりという訳じゃないでしょ。 逆に言うと、捏造ばかりじゃ正当性が主張できないというか。 天皇家に都合のいいような史料の取捨選択は当然あったと思うが。 たとえば、神武をあんな昔にもっていったために、古代天皇は異常な長命になった。 本当に捏造できるなら代数を増やす筈。紀の編纂者も歴史の改竄には慎重だったということ
104 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 21:52:19
>>86 >>88 >西のおっかさんの事だと思うが・・・
西王母?
西王母だったら鈕の左だ。東王父(東王公)が鈕の右。
>★課題1
課題の鈕の上の人物は伯牙(はくが)。琴を弾いている「伯牙弾琴」の図像だ。
人物というより神仙だが。
鈕の下は黄帝。
>★課題2
>そういう図柄の意味を、ホケノ山の被葬者は理解していたのか?
ワケ分からぬ文様をありがたがって後生大事にする筈はない。
被葬者は図柄の意味を当然理解していただろう。
今日はこのスレ、わりと当たりの日だな。 見苦しい言い争いもないし。
>メスリ・桜井茶臼山を含めた、広義のオオヤマト古墳群 どうなんだろ? イワレの大王墓は柳本のそれと並存関係にあったという説もあるし。 あのドデカい埴輪とか、その後の前方後円墳の流れとは異質な感じがする。 個人的には、東海との緊張関係が訪れた時代があって、 対東海を担う軍事氏族が一時期力を持ったのだろうと。
107 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 23:54:11
>69 近代皇国史観の原型、大枠は、江戸時代に国学者や新興宗教関係者、思想家などが曲解したものが元になっているから、 それをイコールで結ぶのは間違いだよ。 それと、邪馬台国九州説を最初に唱えたのも、それら国学者。 近代皇国史観と邪馬台国九州説は兄弟で、相対的には、こちらがイコールで結ばれるべき。 記紀の編纂者たちの歴史観は邪馬台国畿内説で、皇国史観の原型となった江戸期の国学の史観では邪馬台国九州説なんだ。 >たしかに、国内統一もできていないのに、朝鮮に出兵したなんてありえないが、 戦国期の大名と家臣たちの関係も、戦国時代半ばまでは、強い支配関係ではなかったが、 彼ら戦国大名たちは近隣諸国へたびたび出兵しているぐらいだから、 条件さえ整えば、国内統一ができていなくても海外出兵は可能だと思う。
ホケノの画文帯同向式神獣鏡は、 徳島で同型と思われるものが出ているのに、 邪馬台国とか好きな人は完全に無視していてワロス
何が言いたいのかわからん。
神武東征はヤマトから伊勢に向っている様に解釈できるけど?
111 :
日本@名無史さん :2009/04/02(木) 07:35:09
あ
>>111 ど、どうした?
マキムク遺跡に秘められた歴史の真実が判ったのか?
意外に、ここの人って、 纏向遺跡の関連のスレだから 古事記や日本書紀の記述内容について、知らない人が多いよね。 日本神話の時系列が無茶苦茶に理解している人が多い。 畿内王朝がはじめて日本全国を統一したのは 神武東征からではないよ。 神武東征よりも、ずっと前に出雲国譲りがある。 そこで、畿内王朝が出雲を併合し、全国統一を成し遂げている。 でも、そのことを理解しない人が多いのは 高天原がどこなのか記紀では詳しく記載されず、天上の地とされている。 (しかしながら、朝廷では、長い間、高天=葛城とされていて 明治天皇が東京へ行かれる前にも、わざわざ、この地にある 高天彦神社に御報告して、行かれている) また、神武〜天武まで、中国風の名前で「天皇」とされているから なんとなく、最初の天皇は、神武天皇からなので、 そこから畿内王朝が始まったように誤解してしまう。 これは、後世につけられた名前であり、神武天皇は生前は 若御毛沼命が本名であり、磐余の領主になったので、通称では 磐余彦を名乗っていた可能性が高い。 この名前からは、彼が畿内王朝の初代の人物という連想はわかない。
>>107 豊臣秀吉なんかは、朝鮮出兵する
わずか数年前に、全国統一を成し遂げたばかりだからね。
>>113 まあこのスレの大概の人間はスルーしちゃうんだろうが
あえて俺が言ってやるけど…
お前が得意げに語っているそんな内容だったら
このスレの人間は百も承知だと思うなw
このスレで記紀の内容が敬遠されがち
もしくはかなり慎重姿勢が見られるのは
先ずスレ違いの内容に辟易しているのと
纏向遺跡と記紀の内容ごちゃ混ぜにして
脳内ストーリー語られるのはそれ以上に辟易しているんだと思うぞwww
116 :
日本@名無史さん :2009/04/02(木) 22:03:47
個人的には葛城山中腹の台地が高天ヶ原というのは納得してるのだが、 まあ検証不能な解釈の話だからな。 考古学的な発見があれば変わるんだろうが
117 :
日本@名無史さん :2009/04/02(木) 23:04:28
葛城とか、高天原とか、尾張氏の話は重要だが まあ、その前に纏向遺跡の研究が先だね。 日本の創世記は、邪馬台国問題を解決しないかぎりは 永遠に進まないから。 桜井市も以前にないくらい本気みたいだから期待したいな。
118 :
日本@名無史さん :2009/04/02(木) 23:14:48
小説家の間では、九州説のほうが人気があるというが 内田康夫さんは、浅見光彦シリーズの「箸墓幻想」で 邪馬台国畿内説で小説を書いているよ。
119 :
日本@名無史さん :2009/04/02(木) 23:18:17
>>106 メスリ山出土の、あの化け物みたいにでかい円筒埴輪はまったくメスリ独自の特色で、
一代限りで終わってしまい、後には続かなかったようだ。
ただ宮内庁管理下の大古墳はあまり調査が及んでないから、「今のところは」、だな。
気づいてるかどうか知らんが、ホケノ山と桜井古墳茶臼山には、見過ごせない共通点がある。
それは、「壺」。
ホケノも茶臼山も墳丘に円筒形の器台や埴輪(特殊器台〜円筒埴輪・朝顔形埴輪)を立てず、なぜか壺だけ使っているのだ。
これは東海の弥生墳墓に淵源があると見られ、東海では前期の古墳に強い影響が窺える。
犬山市の青塚古墳、松阪市の前田町屋1号墳や深長古墳など。
ただこうした壺だけを埴輪的意義で使っている古墳は、少数ではあるがもっと広範囲に各地に及んでいる。
九州にもある。
小郡市の三国の鼻1号墳、佐賀市の金立銚子塚など。
どなたが言ってたか忘れたが、ふつう畿内から各地に波及したと考えられる古墳文化は
円筒埴輪をずらりと墳丘に並べる風習もまた一緒に波及したと思われがちだが、
実はそうじゃないんだぞ、と。
地域によって、また首長によって、まあ古墳はなんとか真似して立派なのをつくるんだが、円筒埴輪を並べる点は
そいつだけは勘弁願う、我々は壺だjけでいい、と、ひどく嫌がった連中もいたらしいんだよ、と。
120 :
日本@名無史さん :2009/04/02(木) 23:20:47
尾張臣は確かに重要。あと吉備臣も。 筑紫君も大事だが、カバネの違いが気になる。出雲は連だったっけ? 臣系は皇別氏族とされるが、実際は大王家の末裔というより、 昔大王を輩出した有力豪族だったというのが真相に近いんだろうと思う。
121 :
日本@名無史さん :2009/04/02(木) 23:22:58
>>119 訂正。スマソ。
桜井古墳茶臼山 ×
↓ ↓
桜井茶臼山古墳 〇
122 :
日本@名無史さん :2009/04/02(木) 23:32:36
>>119 ホケノは大和古墳群でもかなり異質というか、
阿波出身者を埋葬したんじゃないかと思うのだが。
柳本で定型化する前には、いろんな古墳祭祀の可能性が残されていたんだろう。
地域によって古墳様式が違うのはそうで、
結構その土地の弥生以来の墓制の影響があるらしい。
円筒埴輪を拒否したんじゃなくて、別に円筒埴輪は重要と思われてなかったということではと思う
123 :
日本@名無史さん :2009/04/02(木) 23:48:03
器台に乗せられた壷と、直置き(w)された壷ではその役割に何か違いがあるんだろうか?
>>124 それ木槨構造が似てる萩原の二号墳だよね。
一号墳はホケノと同型の画文帯が出てる。
この二つは少し違うけど、
一号墳のは楽浪郡で出た鏡の踏み返し鏡。
しかも一号墳はホケノと同じ時期の前方後円墳。
阿波は、鳴門という海運上重要な拠点を持ち、
しかも吉野川の超巨大扇状地を抱える豊かな土地。
石室構造も土地柄があるでしょ。> 前方後円墳 ホケノが出たことで、纏向型の前方後円墳が、 纏向で独自に発展してきたとは言えなくなったわけだけれど。
西条52号墓→ホケノ山古墳→桜井茶臼山古墳→メスリ山・・・播磨系? 箸墓古墳→西殿塚古墳→渋谷行燈山古墳→渋谷向山古墳・・・吉備系?
>>124 丸石で石室作ると構造を保てないから、木槨が必要になるんだよね。
130 :
日本@名無史さん :2009/04/03(金) 17:05:42
木槨は弥生末期の福岡でも見つかってるね。
132 :
日本@名無史さん :2009/04/03(金) 20:48:53
>>128 青塚古墳の画像を見て、壺を等間隔に並べる意味って何なんだろう?と思いました。
円筒埴輪なら土留めとかなんかな?とも思いますが。
聖域との境界明示なのか、現代人には分からない呪術的意味合いがあるのか。
円筒埴輪を作る技術もしくは権利がなかったのか?
133 :
日本@名無史さん :2009/04/03(金) 21:05:22
134 :
日本@名無史さん :2009/04/03(金) 21:07:25
古墳の被葬者は基本的に穀物神、稲魂みたいなんで、なんらかの豊穣を願う意図で、 壺が置かれたんだろうと思う。 壺なんで酒とかナマモノ系の贄かと。ヤマタノオロチとか蛇神は酒好きだし。 もしくはやっぱり人肉かなあ
丸底は基本的に煮沸用 製塩土器は尖ってるが
136 :
日本@名無史さん :2009/04/04(土) 00:33:05
>>135 この種の墓に供献する壺は、みんな底に穴があいてるんだよ、
たしかこれは全国共通だったと思う、
そんな多くないでしょ。 2002年に天理の埋蔵古墳で見つかったのが大和では二例目。 底部に穿孔のある広口壷は。 墓壙内に埋葬されている例もあるから、 一種の殉葬と考える人がいる。
楯築弥生墳丘墓も木槨だよね。 良く分からない形の「古墳。」
139 :
日本@名無史さん :2009/04/04(土) 01:07:56
みんな、勝手な想像ばかり膨らませず いっぺん、日本書紀や古事記を読んでみろや。 せっかく、纏向遺跡が邪馬台国の首都 箸墓が卑弥呼の墓の可能性が出てきたんだから、 魏志倭人伝などの中国の史書と 日本書紀などの日本の史書の 記述を照らし合わせてみること。
よそでやれよ
九州説がいなくなると込んでは記紀柱か。
寺沢画伯の絵か。 都市というには建物が少ないような。
この頃は戦いの時代が過ぎて、 環壕集落も必要なくなって、 どっちかというと人が分散してた頃だよね。
147 :
日本@名無史さん :2009/04/04(土) 22:57:13
環濠が無くなったのと人が分散してたのは同一の事象ではないのでは? 寒冷化が進み、今までのやり方が立ち行かなくなり、人の動きが活発になったのは確かだが、 環濠消滅は広範囲に一斉に起きており、政治的手打ちの色合いが強い。 つまりは鉄を希求する国々が大同団結して女王を共立したということ
環壕の頃は一カ所に集まって有事に備えたんでしょ。 田畑は環壕の外にもっと広範囲に広がってるよ。 戦いがなくなれば、環壕の中に閉じこもる必要はない。 日本は城塞都市の発達しなかった国で、 弥生の環壕集落はかなり特殊なケース。
分散してたなら都市じゃないのに。宮ではあるかもしれないが。
都市を思わせるものはまだ何一つ見つかってないから。 墓と祭祀跡と大溝が突出。 大溝は上にも書いたが用水路じゃなくて運河なのかもしれない。 祭祀用かも知れないが。この時代は喪船あるしね。
151 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 00:30:25
>>150 >都市を思わせるものはまだ何一つ見つかってないから。
で、お前の言う「都市」の定義づけは?
にしても、大林組による箸墓造築の試算では、造営の作業のために動員された人数を、古代 工法で一日8時間、月25日作業したとすると、毎日五百人働いた場合は12年、毎日千人 働くとその半分の6年かかり、のべ170万人が必要としている。これらの人は、どうしていた んだろう?
153 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 01:09:57
昼は人が作り、夜は神が作った 最低でも昼夜二交代制です
154 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 02:18:05
155 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 02:46:35
■垣内遺跡取り壊さず保存
淡路市教委、県や地元の理解得る
弥生時代後期(1世紀中頃〜3世紀初め)の国内最大の鍛冶(かじ)工房跡であることが分かった淡路市黒谷・垣内(かいと)遺跡を、埋め戻した上で保存することが決まった。
同遺跡はほ場整備の過程で発見され、本来なら調査終了後に取り壊す計画だったが、歴史的価値が高いことから、市教委が県や地元の理解を得て計画変更をまとめた。風化を防ぐために、早ければ今月末頃から作業を始め、将来の史跡指定を目指す。
同遺跡は標高約200メートルの丘陵にあり、市教委が今年1月発表した時点での調査区域は約1・8ヘクタール。2007年度からの調査で見つかった竪穴建物跡計17棟のうち、10棟が工房跡(最大で直径10・5メートル)と判明。
弥生時代最大規模の鉄器生産工房で、鉄器生産の技術が朝鮮半島から九州北部、瀬戸内を経て東に伝わる〈鉄の道〉の一端が明らかになったとして、関係者の注目を集めた。
価値の高さから、事業者である県や、地元の五斗長(ごっさ)土地改良区も保存していくことでまとまった。
県洲本土地改良事務所によると、同地区でのほ場整備面積は27・7ヘクタール(受益戸数51戸)で、2006年度から6か年かけて実施。総事業費は約9億9800万円。
保存区域は調整中だが、直径10・5メートルの円形工房と、大型鉄板(縦約5センチ、横約20センチ、厚さ約3センチ)の見つかった同9・7メートルの円形工房がある付近などを想定。ほ場整備区域は外さず、工事をしない区域として残すことになるという。
土地改良区の植野喬雄理事長(67)は
「垣内遺跡は地元の誇り。地域としては公園にしてもらい、全国の人に喜んで来てもらえるよう整備してほしい」
と話し、市教委の伊藤宏幸・社会教育課長補佐は
「現地を訪れる人にも本物があれば感動してもらえる。歴史的に重要な遺跡を後世に残せることはありがたい」
と話している。
同遺跡では1月の発表後、さらに建物跡6棟が見つかり、うち1棟が鍛冶工房跡であることが分かっている。
(2009年4月4日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hyogo/news/20090403-OYT8T01087.htm
GOOD JOB!!
>>151 むしろ、人が分散して住んでいたといいつつ、
建物が少ない場所を都市といいはる人の定義を聞いてみたい。
158 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 10:19:14
>>157 質問に質問をもって返すなよ馬鹿。
まあいいw
一つの考え方としては一次産業(ぶっちゃけて言えばお百姓さんだなw)
の従事者と工業や祭祀・政治の専従者らとの比率。
実際人により「都市」とも言われる遺跡は工業の比率が高いものが多く
単純に人口の多寡でそれを言っている人間を俺は知らない。
纏向は前者が殆どいないと言うのだからその意味ではこれほど都市と言うに
相応しい遺跡は無い。
無論この基準はあくまでも一つの考え方だろうし
固執するつもりも無いし実際所謂「弥生都市論」でもこれといって定まっていないのが現状だろう。
で、お前の基準は何なんだ?
人口及びその密度か?
もしそうならどれぐらいがムラでどれぐらいが都市なのか?
おおよそでもいいから基準はあるのか?
このスレで「都市」と言う文言が出るたび噛み付いてきてるようだが
自前の基準は持っているんだろうな?www
159 :
158 :2009/04/05(日) 10:39:11
そもそも「都市」なる言葉は何の為に使われるのか? …と考えた場合、農村・ムラとの対比・差別化という考えもできるだろう。 そうなれば農業の比重が相当低いものを都市と言うのは至極普通の理屈。
どう見ても「都市」という言葉を使わないほうがいい定義だな。 必死すぎワロス。
>>159 安直すぎるのでは?
・宮殿と中央官庁
・人口の集中
・条坊制など都市計画
・物資輸送、市場
・人民の階層制度
・宗教設備
・一次産業従事者の欠如
日本語の都市の意味 とし 【都市】 (1)繁華な都会。人口が集中する地域。 人口の集中は都市であることの必要条件だな。 でもそれだけじゃあ、人さえいればスラムでもいいのかってことになるから、 さらに何か条件が追加されるだろう。 で、この追加された条件だけ取り出して必要条件の「人口の集中」を満たさない 場所を都市呼ばわりとは笑止千万。
164 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 11:44:13
「都市」 都→行政 市→流通 だろ。
165 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 12:14:44
都市牛利
考古学者がマキムクは都市では?と言ってるのは 弥生の農村集落とは違う、って意味だろ マキムクからは田んぼの跡や穂摘み道具や農耕の道具が出て来ないから
寺澤薫、かく語りき 「よくいわれるように都市を形成する条件は幾つかあるんですが、たとえば前提となるものは 集住であり、人口であり、ともかく大きさだと。」
>>166 そんないい加減なこと言っている考古学者はいない。
>>166 都市都市うるさい寺沢もそんな単純な基準では言ってない。
169 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 14:33:15
都市かそうじゃないかは、都市の定義が曖昧だから議論がすれ違う訳で。 少なくとも外来の土器の割合が著しく高い、古墳や運河など大土木工事を継続的に行っていることからも、 マキムクかなりの人や物が流れ込んでいたのは確か。
>>161 の基準は、藤原京が日本最初の都市って言われているけど、
じゃあその根拠は何かってのを寺沢がまとめたもの。
彼は少しくらい合わなくても都市でいいじゃないかと言っているけど、
俺にはかなり合わないように思える。確定的なのは下の三つだけだ。
> ・一次産業従事者の欠如 ちなみにこの基準は寺沢の言葉を正確に書くと 「一次産業従事者が欠如していること」だけど、 この基準の文言はかなり恣意的で纏向よりだと思う。 というのは、中学生でも知っていることだけど、 藤原京、平安京、平城京の内部あるいは外部には、 農地があって多くの農業従事者が条坊内に住んでいたのだから。 敢えて纏向よりの表現を使っていると言わざるをえない。
>161 横レスですが、 >・条坊制など都市計画 を都市の要件に入れてしまうと、著名な中世都市の多くが「都市」の要件を満たさなくなってしまいます。 ヨーロッパ中世都市(都市国家の首都)には、整然とした区画など作られていません。 >170 >藤原京が日本最初の都市って言われているけど、 いや、「最初の、条坊制を持った都市」であって、「最初の都市」ではない。
中世欧羅巴の都市は都市計画はあるんじゃないの? 条坊制じゃないだけで。城塞、門、水管理。 ローマ時代から上下水道整備してるくらいだから。
>>168 >都市都市うるさい寺沢もそんな単純な基準では言ってない。
だから前提と書いてるじゃないか。
人口の集中という最低条件をクリアした上で、
さらにいくつかの条件を満足すると都市になるんだろ。
人口の集中が見られない巻向は都市ではないって事だ。
なんでそう無理に都市という言葉にこだわる。
無理なものは捨てた方が楽になるぞ。
>>172 > いや、「最初の、条坊制を持った都市」であって、「最初の都市」ではない。
寺沢「古代史のほとんどの方は藤原京こそが
日本最初の都市だと言っていますよね。
それを認めない人もいるけれど、少ない。」
少ない中の一人みたいですね。
>>169 そうだな。
たとえ推定人口が100人に過ぎないとしても、あの水路の土木工事や多数の
掘建て建物跡があり、多数の土器も出土していることからは、まぎれもなく
都市であると、言い切って構わない。
177 :
158 :2009/04/05(日) 20:03:19
…で、結局
>>157 はトンズラかな?
別に自前の定義があって
「纏向なんか都市に当たらない」
と言うのならともかく
単にイチャモンつけているだけかよw
178 :
158 :2009/04/05(日) 20:09:49
個人的には「都市」と言う言葉にはこだわらない。 ただ纏向の特異性を表すのに今のところほかに適当な言葉が挙がっていないに過ぎないw それに今後の発掘で都市の前に何らかの文字が付くんじゃないのかな? 「宗教都市」とか「宗教と政治に特化した都市」とか… まあ「都市」以外の言葉にしたところで 今噛み付いてきている奴はやっぱり噛み付きにくるんだろうなと予測しているがwww
179 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 22:05:15
マキムクに多くの人と物資が集まっていたことには流石に異論がないだろう。 で、大土木工事を長期間行ってることから、マキムクに多数の労働者がいたことは確実。 マキムクに人がいないとか、気は確かか?と言いたい。まだ発掘されてないだけと考えるのが普通の考え方。
180 :
158 :2009/04/05(日) 22:21:12
そもそも纏向の人口ってどれくらいに推定されているのかな?
>>180 人の居住していた痕跡は数件だけで、居住用ではなさそうな建物ばかり。
石野でさえ「市場」の可能性に言及している。
182 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 22:43:00
>>180 発掘済の既調査面積が、遺跡推定全域の5%にも達していないようでは
人口推定なんて無理。
そんな纏向の人口を問題にするような論考は、今のところ誰にもないはず。
183 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 22:48:53
>>181 河内の製塩土器が大量に持ち込まれたり、阿波の土器は朱を入れて売りに商人が来てたと言うし、
まずマキムクにそうした生活物資の需要が発生していたということ。
それが単に古墳作りに来ていた労働者を当て込んだものなのか、
単に交易の結節点としてマキムクの地が選ばれたのか。
どちらにしても交易の結節点には多数の人間が住むものだし、マキムク閑散説は机上の空論ていうか、常軌を逸してる。
都市というものの定義自体学者によってばらばらだし、そもそも考古学者が都市文化論を 得意なわけでもないだろう。俺はこの議論はあまり意味がないと思うが。 比べるわけではないが、現在の東京都心だって、そこで生活してる人はほとんどいない。 まあ発掘は、麻雀で言えば東3局が終わったあたり、気長に待つしかないんでないの。
185 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 22:54:06
>>181 その引用の趣旨が分からないなw
「市場」があって人がいないとでも言いたいのかな?
纏向は人のいない巨大フリーマーケットかよwwww
(現地で営業が終わったら即解散直帰w)
そもそも石野はかなり纏向に対し都市の性格を与えていると思うが…
以下石野の著述より
>私は、纏向遺跡は三・四世紀の都市と考えている。
>政治都市であるとともに宗教都市でもあったろう。
>”都市”の執政官は王であり
>”王の中の王”である大王と成長する。
186 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 23:10:47
マキムクに人が住んでないとか、九州説の人がやっかみ半分で書いてる暴論だからな
187 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 23:14:21
前方後円墳とか、民衆に大王の偉大さを分からせる装置だから。 誰もいない閑散な場所に造っても意味が無い。 そのあたり分かってるのか?
>>182 巻向の論考ではないが「(いろいろな遺跡から推定すると)弥生後期の奈良盆地で
一万戸、五万人程になります。だから七万戸なんていうのは近畿地方全部ぐらい、
いやそれ以上の規模じゃないか」と
邪馬台国の範囲はオオヤマトの領域と考えている寺沢曰く。
>>184 俺も都市か都市でないかという議論は有益ではないと思う。
巻向を発掘している人たちが、都市だの宮殿だのいうのは、
ばかばかしいとは思うが、予算を集めるためなので仕方ない面がある。
金がないと発掘調査は出来ない。
150回近くも掘って居住地はまだ出て来ない。
それはなぜだろうと考えることには意味があると思う。
・偶然(笑)
・区画化されていて、まだ掘ってないところにたくさんある。
じゃあどこ→珠城山付近(埋文の人)
・人は元々いない
掘る度に日常生活に無関係なものが出てくる(by石野)
>>186 > マキムクに人が住んでないとか、九州説の人がやっかみ半分で書いてる暴論だからな
そうでもないよ。畿内説の人もやはりこの話題には触れるからね。
発掘やってる人は、次あそこ掘ったら出てくるかもって思考になりがちなんだけど。
これまでの弥生環濠集落は、交易はあっても基本的に社会は環濠内で完結している。 たとえそこが連合の一翼だったとしてもだ。ところがマキ向はそうではなく、外に向かって 開かれている。都市かどうかはともかく、そんな印象だな。
そのものズバリ「都市」と言ってよいかどうか知らんが、壱岐の原の辻遺跡や、 伊都国の遺跡ではないかと言われてる今津湾に面した今宿五郎江遺跡、 それから博多湾に面した西新町遺跡、比恵・那珂遺跡群などは、 少なくとも「都市的」な性格を備えている遺跡と言ってよいのではなかろうか。 あの吉野ヶ里遺跡さえ森浩一ほか「都市的」という人は多いぞ。
環濠集落は外敵から身を守るために、 一ヶ所に集中するからね。 しかもかなり長期に渡って狭い地域で集団を維持するから、 社会システムも発展しやすいだろうね。 けどいろいろあって平和が持たされて、 湿地大開発が始まったんだと思う。 環濠集落で育まれた社会システムをフルに使って。
193 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 23:51:58
>>189 俺は素人なんで良く分からないんだが…
「都市」だの「王宮」だの喧伝すれば予算が降り易くなるのかな?w
もし仮に遺跡規模に対し住んでいた人間の数が極端に少ない
九州説のクレーマーの言うように殆ど無人(w)だったとしても
それは纏向の特異性を浮かび上がらせるだけで遺跡の価値に何ら関係ないし
むしろ価値が上がるだろうにw
加えて言えば王の住んでいた宮は大和の何処かあるいは大和川水系の何処か?
と言う事になり邪馬台国畿内説が下火になる事は無いと思う。
むしろ宗教に特化した纏向なんて物を作れる程に権力を持った勢力があったって事だから…
194 :
日本@名無史さん :2009/04/06(月) 01:33:21
>>189 >居住地はまだ出て来ない。
それは言い過ぎだろう。
古い時代にさかのぼる可能性のある竪穴式住居が2個くらい出ている。
まあ遡らない可能性の方が高いだろうが。
あの時代のマキムクは盆地湖が堆積していく過程だから、少し掘っただけで地下水が
多く出てきただろうから竪穴式住居がつくれるのは、点在した高台だけだろう。
田の痕跡もないが、そんな場所に住居などあるわけもない。
「無人都市マキムク」でいいんだよ。
東京の都心でも住んでいる人なんてわずか。会社と商店と学校だけだろ。
東京ってのは交通網が発達してるから中心部に人がいなくても問題ないのだ 当時は馬さえいないんだよ。人が住まない建物などすぐに寂れて荒廃する。 掘立柱建物跡はあるから身分の高い人間は居住していただろうな。
「無人都市マキムク」
197 :
日本@名無史さん :2009/04/06(月) 04:52:55
纏向は周りの集落から9時に間に合うように出勤してきて、 夕方の5時か6時には家に帰っていったそうな
198 :
日本@名無史さん :2009/04/06(月) 08:01:49
計画都市だから、居住区は厳密に分けられてたんだよ。 残りの95パーセントにあるというだけ。
199 :
日本@名無史さん :2009/04/06(月) 08:20:56
マキムクを無人にするのは余りに非効率的だ。 古墳造りにしろ交易拠点だとしても。 それを覆すにはそれなりの理由が必要。 そんなものが提示出来ればの話だが。
>>194 > 会社と商店と学校だけだろ。
そういう類のものも出てないけどね。
墓と祭祀場には人は集まらない。
墓作る時くらいだけど、その作った人たちの生活痕跡もまだない。
使った土器くらい出てきても良さそうなもんだが。
聖域と言うのが正しいのかもしれない。
>>144 の図(by寺沢)には造営キャンプが書いてあるけど、
まだ見つかってない。
>>200 いいね、聖域。ぴったりだと思うな。
都市なんていう下世話なものよりはるかにいい。
皇居や神社なんかを見ても分かる通り、
広大な面積に建物がぽつぽつ。これですよ。
この間の発掘された建物だって、建て替えのあとがない。
大体耐用年数は30年ぐらいと言うから、
150年なら5回は立て直していないと。
これが立て直してないということは、土地が有り余っていて、
耐用年数がくるたびにその場所は捨て置いて次々とお引っ越しって事だからな。
大神神社が三輪山の広大な土地を持ってるんだよね。 だからあの辺は発掘調査が地味。
203 :
日本@名無史さん :2009/04/06(月) 17:28:37
聖域ならば放棄されるのはおかしい 出雲大社をみても分るが、信仰ってのは根深くて、簡単に廃れるようなもんじゃない 纏向王朝を滅ぼした勢力がいて、戦乱の末に放棄されたというなら分るが、そんな痕跡もないし 大王クラスが住んでいたのは明かだろうし、そこから人がいなくなったのは遷都があったからだ
まあ同じ豪族支配だったかどうかも分かってないからね。> 四世紀 王朝というほどではなくても、支配者の血縁系列は かなり変わっていたとするのが一般的じゃないですか。
205 :
日本@名無史さん :2009/04/06(月) 18:43:30
>>200 エジプトのワークマンズヴィレッジみたいなのが見つかるだろ、普通に考えて。
たとえば唐古鍵なら、わざわざ往復二十キロかけてマキムクに墓造りに行かせる意味が全く無い。
労働者を徒労させるだけ。
また管理する側も大変だ。出勤簿を付けて、毎朝ちゃんと来てるか確認しないといけない。
マキムク近くにまとめて住ませる方がどう考えても効率的だろう。
かなり後代になるが、壬申の乱の時の記述に、大友が天智陵を造るとして各地から労働者を徴発して、
それが軍事行動として大海人を刺激した、というのがあるが、
おそらく古墳時代から、大王のミササギを造る時は各地から労働者を徴発して一ヶ所に集めていただろうと思う。
206 :
日本@名無史さん :2009/04/06(月) 18:52:00
うーん、マキムクを皇居のような聖域とした場合、 マキムクを支えたであろう豪族層の根拠地はどこなんだろう?という疑問が残る。 環濠一斉埋め立てで弥生以来の拠点集落は解体、計画都市マキムク誕生という流れが素直な解釈ではと思うのだが? 中国古代の都市国家のように、複数の集落による分業体制が構築され、 その中心がマキムクであったということ。
マキ向は、実は完全な墓地というか聖域であり、連合国の諸王はここに運ばれて埋葬された。 各地の葬制の習合が見られるのはこのためである。王たちは亡くなった仲間の石室内で 共に食事をとり、儀式を執りおこなってまたわかれた。墳墓の造営と服喪の期間中、作業員 と王たちの随員のために市が開かれた。 ・・・もちろんこれは冗談だが、こんな馬鹿話でも現在の状況を説明することはできるような・・・
208 :
日本@名無史さん :2009/04/06(月) 21:35:58
>>207 細かい突っ込みでアレだが、横穴式石室じゃないと無理な話では?あとまあ腐臭もひどいだろうし。
あと箸墓みたいに巨大な古墳では完成までに何年もかかっただろうし、
寿陵なんで代替り毎に築造開始だろうから、かなり継続的に古墳造りはされていただろうと思われる。
その間だけの居住と言っても実際は定住みたいなもんだよな
209 :
日本@名無史さん :2009/04/06(月) 21:50:41
考古学の限界を考えないと、おかしいことになるよ。 考古学的に分かってることは現時点で見つかっている部分だけ。マキムクの場合は5パーセント。 もっと謙虚な態度にならんと。 たとえば昔の三角縁論争で、大和で見つからないことから、大和王権が三角を配布したことに疑義が呈されていたことがあった。 前方後円墳が大和で誕生してることや、大和を中心に分布してることから、今に大和からも見つかるという説もあった。 結果はどうか? 黒塚の発見ですべてがはっきりした訳だよ。 マキムクのわずか5パーセントの発掘状況で、人の住まない聖地だったとか言ってたら後世の人に笑われるよ
210 :
日本@名無史さん :2009/04/06(月) 22:08:33
たとえばマキムク以外の出現期の前方後円墳が、 はたして人のまったく住まない場所に造られていたのか? 椿井大塚とか那珂八幡、赤塚とか西都原など。 大体が集落の近く、人々の目に入るあたりにある。 そもそも前方後円墳とは文字を知らない民衆に 大王の偉大さを問答無用に分からせる装置なんであって、 首長霊祭祀とは、共通の祖先を持つ(と信じる)人々が特定個人を崇拝するという形式。 今も集落に残る神社に通じる信仰で、大体の神社は集落の中心や見下ろす場所にあって、 けっして人知れない場所にひっそりと建っているというわけではない。 結論としてはマキムク無人の奧津城説は暴論。
211 :
日本@名無史さん :2009/04/06(月) 22:18:16
戸籍の無い時代なんで、古墳造りとして人を徴発する場合、 それぞれの豪族に「お前は何人、お前は何人」と割り当てる形式だったのだろう。 箸墓は千人で三年だっけ?果たしてマキムク周辺地域だけの日帰り労働で賄えたかどうか。 おそらく東海や越からの労働者がかなり来ていたと思うのだが。 外来土器の多さから。
212 :
日本@名無史さん :2009/04/06(月) 22:19:58
>>132 愛知県埋文Cの赤塚次郎氏による次の文が参考になると思う。
>●「埴輪」でもないもう一つの「はにわ」 壺をもって古墳を囲む
> 青塚古墳には墳丘の各段に赤く塗られた壺が約2m問隔で配置されていた。「壺をもって古墳を
>囲む」そうした伝統は、実は遡っていくと三世紀初頭段階の、濃尾平野の前方後方墳にたどり着く。
>赤く塗られ、奇麗な文様を付けた壺、それが墳丘に据え置かれる。そうした事例は弥生時代の墳丘
>墓からの伝統性に起因していると思われる。
>円筒埴輪をもって墳丘を取り囲むことが、四世紀初頭段階で、畿内地域で生み出される。一方で、
>壺をもって古墳を囲むことは、三世紀後半から四世紀にかけて、東海から東日本に広く認められる。
>古墳という聖なる領域を画する道具には、円筒埴輪以外にも「壼」という道具が存在した。底部に孔を
>あけ機能を捨てた仮の器、それが壺形埴輪であり、その伝統は東海地域に淵源をもつと考えたい。
http://www.inuyama.gr.jp/ssinfo/contents/aotsuka/shinpo/shinpo8.html これは青塚が復元整備され史跡公園となったときのシンポジウムで述べられたものだが、
もっと詳しく壺形埴輪の起源や特性について知りたければ、
発掘調査報告書に付けられている同氏の論文を参照されたい。
■赤塚次郎「壷形埴輪の復権」、 『(犬山市埋蔵文化財調査報告書第1集) 史跡 青塚古墳発掘調査報告書』 2001 犬山市教育委員会 44頁-52頁
幸い全冊ウエブ上にアップされているのでリンクしておく。
全80頁あり表示に少々時間がかかる。PDFファイル9.16MB。
http://higashinomiya.com/download/aotsuka-kohun.pdf 論文の小見出しも引いておこう。
◇壺をもって古墳を囲む ◇墳丘墓に使用する壺 ◇壺形埴輪の分類 ◇壺形埴輪の拡散(3世紀後半)と円筒埴輪への飛躍(四世紀前半) ◇壺形埴輪の変遷 ◇壺形埴輪の多様性 ◇まとめにかえて
なお、誤解するといけないので書いておくが、青塚古墳からは円筒埴輪も出土している。(朝顔形埴輪も)
但しこれらは、後の埋葬施設とみられる前方部上の方形壇状遺構だけに伴っていた。(22頁)
複数埋葬の被葬者像や時期差等に関連する重要なポイントであり、
こうした点も、詳しくは報告書を読んでいただきたい。
213 :
日本@名無史さん :2009/04/06(月) 22:20:04
質問。 どうして、高床式建物に人が住んでたとは考えないの?
214 :
日本@名無史さん :2009/04/06(月) 22:28:51
>>212 非常に丁寧な解説ありがとうございます。だいぶ前の書き込みなのに申し訳ないです。
教えて頂いたのを読んでみます
>>212 赤塚さんが青塚を研究してるんだな〜、www
>>213 柱が細いから。
三世紀後半にはオオヤマト全域に人が分散していたのでは。
大型古墳もマキムクに限定されているわけではないので。
217 :
日本@名無史さん :2009/04/06(月) 23:52:39
>>216 柱が細い=加重に耐えられないってこと?
だったら、倉庫でもありえないんじゃないの?
218 :
日本@名無史さん :2009/04/06(月) 23:53:09
今回の発掘の柱坑径は15cmと出ていた。まず「神殿」wとは考えがたい。
住居より倉庫の方が、中身は遥かに重たいのでは? 中身とは、住居の場合、住む家族の体重合計、プラス家財道具の重さ。
221 :
日本@名無史さん :2009/04/07(火) 00:08:22
普通に考えればマキムクの大王に直接仕えるために、 各地の首長たちは一族郎党を引き連れてマキムクに居住してたんだろうと思うがな。 大和王権が諸国の連合政権だったとするなら、それらのオウが集まって居住した場所が必要。 そんな場所は今のところマキムクしか考えられない訳で。
>>219 柱が15cmあれば、立派に住居として使えるのでは?
俺とこの実家は純木造の平屋だけど
どの柱も一辺10cmぐらいだよ、とても15cmはないと思う。昭和38年築。
223 :
日本@名無史さん :2009/04/07(火) 00:17:50
そもそも水路は生活用でしょ? 高床式住居として、1棟に4,5人は住めたと思うけどなあ。
柱跡に重いものを支えた痕跡がない。 だから人も住んでなければ、倉庫にもしてない、 そう考古学者たちは考えている。 祭祀施設といわれる根拠の一つ。
石野編「大和・纏向遺跡」も読んでない人多いんだね。 高いからかな? 最寄り図書館に購入させて読んだら? その辺は発掘調査に基づいて書いてあるよ。
226 :
日本@名無史さん :2009/04/07(火) 15:38:07
つまり、「重いものを支えた痕跡がない」 だから、住居や倉庫ではなく、祭祀用建物だった、ということですか?
>>224 >重いものを支えた痕跡
具体的にどんな痕跡が不可欠なのだろうか?
この手の認定って結構イイカゲンだよね。
捏造石器からナウマン像の脂肪を確認した人もいるくらいだし。
228 :
日本@名無史さん :2009/04/07(火) 22:48:22
人間が住むのも祭祀用にそれなりに豪華な建築物を建てるのも重量に変わりがあるとは到底思えん そういう主張をするならば論拠と出典くらい明らかにしたらどうだ
229 :
日本@名無史さん :2009/04/07(火) 23:26:12
古代日本の祭祀用の高床建築は高くて多層のものが作られている 埴輪や土器にも記されているし、そんな簡素なものではなかった 柱跡がめり込んでいるか否かの話をしているのだと思うが 重い建物ならば住居、軽ければ祭祀用って発想自体が分らん つうか、本当にそんな主張をしている学者がいるのか?
柱跡があって高床式でなければ土間で生活した掘立柱建物なんじゃないの。 この形式の建物は縄文から建てられているが、そうじゃないとする理由が何かあるの? 床を作らずに壁と屋根だけだから軽いだろうなあ。無論人が住んでいただろう。
南飛塚から出土した建築部材は簡易的な移動住居の壁材らしい。 今で言うならプレハブだな。 古墳の周りには当然人足が居住していたはずだが、 それはおそらくこういう古代のプレハブだろう。 だから古墳の周りには多数のプレハブが並ぶ飯場だったことが予想されるが、 いくら多人数が居住していても飯場は都市じゃないだろ。 古墳の周りにはプレハブ仕立ての飯場があり、 東の山すそにはサンクチュアリが広がっていた。これだぜ。
232 :
日本@名無史さん :2009/04/08(水) 00:01:41
掘立柱建物だと、地面に炊事の後(カマドとか)が発見されるはずじゃないのかな?
>>231 俺もそう思う。墳墓を造った人足はたぶん、連合の各地から集められたもので、食料持参で
(米)百人程度ずつ来ていたんではないかな。そして現代のブルーシートの住居?のような
所に住んでいた。まあ、数ヶ月交代といったところかな。後代の「庸」なんかも似たようなものでは。
>>232 炊事の痕跡がないことから、以下の選択肢になる。
A 祭祀用の建物
B 倉庫
C 寝泊り専用の労働者宿舎
D その他
Aは、建物の構造、配置、数などが祭祀用として説明困難。
Bは、ありうる。とくに否定する理由はない。
Cは、労働者の宿舎なら竪穴式の方が簡単に作れそうではある。
Dとして、古墳に陳列する埴輪などの保管場所などとしての用途が考えられる。
別に住んでる人間が煮炊きする必要はないだろう。 庶民が竪穴式住居に住んでいた時代。 堀立柱建物には特別な、たとえば貴族が住んでいたと考えられないか。 炊事するのは下僕がして運んだんだ。 纏向は普通の集落じゃない。大王を共立した部族が出張してきた場所。 参勤交代みたいなイメージ、強制かどうかはしらんが。 庶民が土木工事をしたとして、それを監督する役目も相当人数いなければならない。 それらの貴族が庶民と一緒に住むことはないだろう。
あんな小さい建物に貴族はないだろ
土坑の中身からも、あちゃこちゃで祭祀をしてたんは間違いないと思うけどね。
>>236 当時の貴族は一寸法師並の大きさ。
この事実は闇に葬られてる。
>>237 ありゃ埋物層構造も一致しているし、
小規模で大量だから、
毎年米作りの祭祀していたんだろうね。
持衰みたいな人が篭っていたのかも。
土木作業員がいたと主張するヤツが、それを監督する役割がいたと思わない方がおかしい 数百人の農民が測量から何まで好き勝手にやったのか? んなわきゃーない。 監督目的の貴族、またその上の王族も常駐していたはずだ。 そしてそれ等は家族を引き連れてはこなかっただろう、纏向の性格からしてな。 そして「聖域」にしたかったのだろうが、それに成りきれなかった場所だ。 聖域として崇められていたら急速に衰退するわけがない。 用無しになり、忘れ去られたから人がいなくなったのだ。 信仰の対象ならそうはならない。
241 :
日本@名無史さん :2009/04/09(木) 21:38:58
もともと日本に聖域を造るなんていう思想はないだろ。 そもそもマキムクを大王たちの墓域とするには大規模過ぎる。
そうかな。 環濠集落の中に内郭を作るなんていうのは聖域を作り始めた萌芽じゃないか?
243 :
日本@名無史さん :2009/04/09(木) 22:44:01
そもそも古墳ってのは政治目的だよね 先祖代々の神々を祭るために作られるのではない ある程度古墳を作ってしまえば纏向は用無しになったって事でしょう
244 :
日本@名無史さん :2009/04/09(木) 23:00:18
聖域を造るというより、神南備山など自然物を祭るというのが日本古代の宗教感。 由緒のある大神神社は本殿がなく、直接三輪山を仰ぐという形。 前方後円墳はあくまで集落内にあって、後にはその地域の神社になったりしている。 前方後円墳の被葬者とはあくまで人里にありその地域の人々を守ってくれる首長霊なんであって、 後には産土神と呼ばれるようになる。 古代日本人が無人で広域の聖地を平地に造ってたなんて聞いたことないぞ。 適当に思い付きで書くのはやめた方がいい。
それまで集落ごとに墓域を作っていたのを集落より大きい国というものが出来て 作られたのが纏向と考えてはどうだろう?
246 :
日本@名無史さん :2009/04/09(木) 23:22:29
>>245 そんな大規模な無人の聖域を造ったんだとして、
日本の歴史上かなり特殊というか、少しでも類似した事例を挙げてもらえれば。
当時の主要道、山辺の道が脇に走ってるのに無人の聖地ですか?
山之辺の道が3世紀にあったという証拠は何?
248 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 13:12:32
奈良盆地がまだ湿地帯で東側の山沿いの道が使われていたってのは常識と思っていたが。 事実、初期古墳は山辺の道沿いに造られてる
>>248 >事実、初期古墳は山辺の道沿いに造られてる
東海自然歩道が古墳を縫うようにつくられただけだろ。
つーか、山辺の道がどこを通ってるかしらないだろ。
巻向のわきを通ってるのは上ツ道だぞ。
250 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 20:34:35
ふーん。 奈良盆地の中央が湿地帯で、山沿いの道が交通路だったっていうのは否定するわけ?
つまり纏向遺跡ができたころには纏向は水の中だったと。
252 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 22:08:14
水中都市纏向…そりゃ人も住めないわなw
253 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 22:50:17
関係ないが、 阿蘇も湿地帯だったといわれている。 でも、古墳はある。 阿蘇って言うのは、外輪山に囲まれた直径20kmくらいの円形の土地で、 真ん中にドンと阿蘇山が居座っている。 山がなかったら、奈良盆地と同じくらいの広さかな。
254 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 23:44:22
大和湖が干上がる過程で広域の湿地帯ができ、そこを開墾することで大和王権は飛躍できたんだけど
>>248 あのね。調べれば簡単に分かることは押えて話してください。
唐子・鍵遺跡、これは弥生時代の環壕集落だけど標高50m弱。
纏向は大体標高70m台前半。微高地と呼ばれるところは、
線路付近でも標高77mの三角点ありますよ。
もちろんこれは現在の標高であって、
古代はもう少し低いでしょうけどね。
それでも調査発掘で10m掘ったって話は聴いたことがありませんよ。
大水による氾濫で浸水することがあっても、
普段から湿地で人が通れなかったということはあり得ない。
あちこちに湿地が残って開拓に好都合な場所ではあったろうけども。
ちなみにそんなに離れてないのに20m以上も標高差があるって事は、
奈良盆地南東部がかなりの傾斜地だって事を意味します。
つまり大雨が振っても氾濫しにくいのです。
関東の埼玉古墳群は標高20mありません。
256 :
日本@名無史さん :2009/04/11(土) 00:15:39
>>255 ごめん。まったく意味が分からない。
それが山辺の道は三世紀になかったことの根拠になるの?
>>248 > 奈良盆地がまだ湿地帯で東側の山沿いの道が使われていた
ということはないと言っているだけで、山沿いの道がないとは言ってない。
意味が分からなければ「論理トレーニング」でも読んで
論理式について勉強してください。
>>257 ないと言ってないならそれでいいよ。
一体何が言いたいのやら
山之辺の道があった証拠に > 奈良盆地がまだ湿地帯で東側の山沿いの道が使われていた というのはおかしい。無知だ。
260 :
日本@名無史さん :2009/04/11(土) 01:23:24
>>258 湿地帯とは盆地湖のことだろ?
盆地湖は無いって言ってるんだよ。
だいたい、どこから仕入れたネタだ?
261 :
日本@名無史さん :2009/04/11(土) 02:05:10
ある、無いの話はどっちかがソースでも貼らなきゃ終わらない 本の何ページとか出典を明らかにすればええやん
262 :
日本@名無史さん :2009/04/11(土) 02:28:10
>>255 >奈良盆地南東部がかなりの傾斜地だって事
これは重要
四方を山に囲まれた状況で1点に水が流れ込むから河川の氾濫は日常的に
よく起きていただろうね。実際にも、遺跡の全く出土しない地域が存在する。
それが盆地湖なのか湿地帯なのかは良く分からぬが、雨季には盆地湖で乾季には
湿地帯だったのかも知れない。
といっても唐子・鍵遺跡は、 > 雨季には盆地湖で乾季には湿地帯だったのかも知れない。 ということはなかったはずだから、 弥生時代は標高50m前後のところは、棲むに十分だったことが分かる。 唐子・鍵遺跡は、初瀬川と寺川の間の 微高地にあり、 この二つの河川の合流点より5mほど高い。(ただし現在の標高) 当時の河川は今のように河道が狭くなかったから、 5mも水位が上がることはなかっただろう。 物流センターとよく言われるのは、戦乱の時代にも高地に作られず、 大和川を水運に使うと東西南北自由に行き来できる場所にあるから。 ちなみに盆地内JR桜井線周辺で標高77mってのはかなり高い部類です。 天理ICの辺りも高瀬川の扇状地で同じくらいあります。他はぐっと低いです。
>>249 「古墳を縫うように道が出来た」っていうのが馬鹿馬鹿しい。
人と物の往来が道の本義であり、わざわざ古墳参拝のために道が出来たとか
無理やりな意見だろ。
まったく逆で、山の辺の道を往来する人々に巨大古墳を見せ付けるのが意図。
大仙古墳が海上の船から見えるような場所に造られたのと同じで、大王の偉大さを
分からせるのが古墳の役割。
盆地東部の集落を南北に結ぶ山の辺の道が、大和王権にとって重要な道だったのは
間違いない。伊勢に行くにしろ、山背に行くにしろ。
上つ道はほぼ直線であり、盆地の湿地が干上がっていく過程で
山の辺の道の代替道路として後に作られた道だろう。
マキムクの頃にはまだ曲がりくねった山の辺の道を使うしかなかった。
山の辺の道はちょっと上過ぎるでしょ。 標高100m越えているところあるし。道として険しすぎる。 上に上がってもせいぜい標高80mくらいじゃない? 縄文後期の下明寺遺跡のある辺りは 古墳時代の纏向より低いよ。(今の標高が)
>>265 いやだから、盆地中央部が湿地帯で通り難かったんだって
標高80mだとJR桜井線のちょい東辺りだよ。 上つ道のちょい東辺り。だから盆地中央部じゃない。
>>267 なんだその細かい突っ込みは
標高の低い低湿地が通りにくかったってことだろ
その辺りは認めるの?
古墳時代の標高の低い低湿地ってのは 一体どの辺りだと思っているかによる。
>>264 だから今の山辺の道は東海自然歩道で昔の道とは関係ないの。
観光用に作られた道なんだよ。
それを元に古墳のそばを通ってるとか、馬鹿じゃないの。
>>270 崇神陵も景行陵も山の辺の道近くにあるって記紀に書かれてるだろ。
ばかか
>>271 その古墳が崇神陵であり景行陵であることすらわかってないだろ。
後付で江戸時代に割り振っただけのものだ。
崇神陵、景行陵は、(一応伝としておきますか) 大体標高100mです。どちらも標高100m線が横切っています。 茅原大墓古墳も同じくらいです。 ホケノは標高85mくらい、箸墓は標高80mくらいですね。 普段利用する道は標高80mくらいだったんではないでしょうか。 今の吉野川分水がちょうと標高80mです。 だからこのくらいの高さならなんとかアップダウンも少なく、 あまりグネグネ曲がらないで進める地形になってるんです。 ただホケノの東は暗渠になってるんですよね、分水は。 金屋の辺りから一気に下ってきてますから。 それから珠城山古墳群も大体標高100mを少し下るくらいで、 古墳時代の山の辺の道は、大体今の東海自然歩道辺り、 つまり標高100m付近だったと思いますよ。 もちろん推定で自然道を作っているわけですが、 三輪山周辺ではそれほど違ってはいないのではないでしょうか。 珠城山古墳群の東なだらかな傾斜地に 豪族屋敷があると推定している人もいますね。
願望を真実だと思ってしまうのは悪い癖だな。
推定のところは推定と分かるように書いているつもりなので、 おかしい部分は指摘してくれれば直しますよ。
じゃあこれの証拠を >つまり標高100m付近だったと思いますよ。
まず、記録に現れる「山辺の道」ですが、
>>271 の人が書いている陵墓について
現在可能性があるのが、行燈山古墳、西殿塚古墳、
渋谷向山古墳ですよね。どれも標高100m程度ですね。
比定の根拠に使われているから当たり前なのですが。
ところで記録から離れて考えてみると、
もし古墳時代に山辺に道があれば、
一番頻繁に使われるのはやはり人が住んでいたところになると思います。
纏向の調査発掘は平地の開発に伴うものが多いので、
山の方はあまり進んでないですが、
珠城山古墳群の北でV字溝が見つかってるんですよね。
たしかにこの辺は纏向川の右岸で地形的にも
纏向川の氾濫にも強くて棲みやすい土地です。
左岸だと茅原大墓古墳や慶運寺のあたりですよね。
台地状のなだらかな傾斜地。どちらも標高100mです。
ただ私は7世紀に整備された上ツ道のもとになった道が、
当時の南北の往来を担っていたと思いますけどね。
山の方はアップダウンが激しすぎるので。
280 :
日本@名無史さん :2009/04/12(日) 02:18:25
■ふるさと納税は「畿内説」に軍配 邪馬台国の有力候補地、纒向(まきむく)遺跡のある奈良県桜井市が、ふるさと納税制度を利用して同遺跡調査向けの寄付金を募ったところ、3月末までに全国から約600万円が寄せられたことが分かった。 邪馬台国九州説の拠点・吉野ヶ里遺跡のある佐賀県神埼市と吉野ヶ里町では、吉野ヶ里遺跡関連の寄付金は両市町で約55万円にとどまった。 畿内か九州かで二分される邪馬台国論争。全国からの纒向への寄付金も九州からだけはゼロとライバル意識も見え隠れするなか、ふるさと納税では畿内に“軍配”が上がった。 ふるさと納税制度は、出身地や応援したい自治体に寄付した場合、税金の一部が控除される仕組み。 桜井市は昨年8月から、「卑弥呼の里・桜井ふるさと寄付金」として、纒向遺跡の調査研究▽産業や観光振興▽医療・福祉充実−など7項目の使い道を示し、市民らが希望の項目を選んで1口1000円で寄付をする。 全体では3月31日現在で172件、1162万7000円が寄せられ、そのうち纒向遺跡関連は109件、596万2000円で半分以上を占めた。 特に、1月末に同遺跡の発掘計画が新聞などで報じられたのを機に急増、2、3月だけで63件、計559万3000円に上った。 3月に行われた発掘調査では、3棟が規則正しく並ぶ宮殿構造の建物群跡が出土。 「卑弥呼の神殿か」と話題を集め、同月22日の一般向け現地説明会には全国から約2500人が参加し、市が説明会会場でふるさと納税を呼びかけたところ、20人の歴史ファンが計3万7000円を寄付した。 遺跡関連の寄付はほとんどが個人で、数十万円単位の大口もあったが、5000〜1万円が大半。 遺跡の散策の途中で市役所窓口を訪れ、数千円を寄付するリュックサック姿のハイカーもいるほか、東京や北海道など遠方からの寄付も多く、邪馬台国ロマンが全国に広がっている状況も浮き彫りに。(つづく)
281 :
日本@名無史さん :2009/04/12(日) 02:19:19
>>280 つづき
一方で、畿内説への肩入れを拒んでか九州からの寄付は皆無。2月に福岡県内の男性から寄付金の問い合わせがあったが、同市税務課担当者は「邪馬台国九州説の人が探りを入れてきたのかも」と余裕の笑みを浮かべる。
谷奥昭弘市長は「寄付金を通じて、邪馬台国解明に結びついてほしいという熱い思いを感じた。九州の人たちは、地元こそ邪馬台国と思っているだろうが、吉野ヶ里遺跡は50〜100年も時代がずれている」と強気の姿勢。
同市は寄付金のうち125万円を21年度当初予算に組み込み、調査などに活用する。
一方、吉野ヶ里遺跡のある佐賀県神埼市と吉野ヶ里町では、「吉野ヶ里歴史公園活用や観光振興」などを名目にふるさと寄付金を募集。
神埼市では、昨年7月から今年3月末までで同遺跡関連は53万円(4件)、吉野ヶ里町も同期間でわずか1万5000円(2件)にとどまった。
両市町では遺跡公園周辺の植栽や観光パンフレット発行などにあてることにしているが、地元出身者からの寄付が大半で、全国的な広がりはみられないという。
吉野ヶ里町企画課担当者は「大規模な発掘が行われた平成元年には年間200万人が訪れたが、すでに主な調査も終わった。吉野ヶ里ブームのころに寄付金を募ったらもっと集まったのではないか」と悔しそうに話していた。
4月10日 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090410-00000661-san-soci
纏向で縄文時代の遺物が出ているのは太田字南飛塚でした。
>>281 >一方で、畿内説への肩入れを拒んでか九州からの寄付は皆無。
ここは笑うとこかw
大和王権の権力基盤のひとつとして、南北の集落を結ぶ山の辺の道を軽視してはならない。 最近は東海とか中河内・大和川水系を重要視し過ぎ。 半々ぐらいで考えるのが適当
邪馬台国畿内説は、考古学者のほうが強かったけど いまや歴史学者のほうも、あとおいだな。 まあ、邪馬台国畿内説が確定したら 卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命で確定だしな。 記紀の研究にはずみがつく。
下の三行は無茶な話だぜ。
288 :
サガミハラハラ :2009/04/13(月) 08:27:11
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛では、記紀がヒッチャカメッチャカになってしまうでしょう。
289 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 09:19:02
でも、卑弥呼とモモソヒメが同時代の巫女ということは認めるよな?
モモにすると矛盾がありすぎて畿内説は崩壊する。 だからモモは触れないほうが無難
291 :
サガミハラハラ :2009/04/13(月) 14:09:55
卑弥呼が巫女であったかどうかはともかく、同時代というのはみとめます。
292 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 14:24:00
ハシハカ古墳の年代はまだ定まっていない
293 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 14:54:35
>>292 箸墓古墳が4世紀なんて、九州の考古学者も考えておらんよ。
294 :
サガミハラハラ :2009/04/13(月) 18:08:55
現箸墓がヤマトトソヒモモソ姫の墓で、日本書紀にいう崇神天皇の10年につくられたとするならば、 西暦273年のこととなります。
295 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 18:57:24
面白そうな本を見つけた。歴史群像シリーズ「最新古代史論」学研だって。
296 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 19:11:59
露骨にグサっとやるなよ。 崇神天皇は第10代天皇だろうよ。そこが西暦273年だったら、 すでに邪馬台国研究第一人者安本教授のいう初代神武天皇東遷説はありえないって事じゃん。 誰か安本教授に言ってきなよ! 嘘八百は迷惑だ!って もう教授生命は終わっているな。 つーか、いい大人が恥かしくないのか?って。
297 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 19:21:04
>モモにすると矛盾がありすぎて畿内説は崩壊する。 だからモモは触れないほうが無難 でも、モモに触れたがっている畿内論者しか見たことないよ。
298 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 19:34:18
299 :
サガミハラハラ :2009/04/13(月) 19:40:33
真実とは苛酷なものです。 新しい葉が伸びて広がると、古い葉はその陰になって枯れ落ちていくのです。
300 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 19:52:33
くだらない煽りあいしても意味がないから、きちんと討論せえや、お前ら
301 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 20:03:42
>真実とは苛酷なものです。 新しい葉が伸びて広がると、古い葉はその陰になって枯れ落ちていくのです。 サガミハラハラの葉が 古い葉を枯れ落としてしまった。 崇神天皇の10年が西暦273年のこととなります、はもう動かす事は不可能なのか?
302 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 20:06:07
>くだらない煽りあいしても意味がないから、きちんと討論せえや、お前ら だって、潰せるものは潰す。 効率いいっじゃん。 崇神天皇の10年が西暦273年のこととなります、
303 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 20:17:09
>崩壊するのは、東遷説のほうですが。 いわれてみりゃー、そうだよなぁー。 東征した神武天皇は273年の崇神天皇の9代も前に生きていたんだから。
304 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 20:17:26
306 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 22:09:05
>面白そうな本を見つけた。歴史群像シリーズ「最新古代史論」学研だって。 明日、買ってみるよ。 情報ありがとう。
307 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 22:40:49
ああ・・お前らなんて低レベルなんだw 結局人生ってさ「経験」が物を言うんだよな いい大学行こうがいい成績取ろうが「経験」が無いと世間に出たときに何も役に立たない まぁお前らみたいなオタクにはわかんねーかもしんないけどな 俺は高卒で世間的には低学歴かもしれないが、フランスに渡米した経験を活かして 今は充実した仕事してるよ お前らも壁作って自分の世界に閉じ込もって無いで 今しかできない「経験」しといて経験値積んどけ
308 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 22:56:50
釣りコピペか。馬鹿馬鹿しい。 しかしまあ、箸墓が紀で妙に存在感たっぷりに書かれてて、 その被葬者が神妻でシャーマンとくると、すわ卑弥呼かと思いたくなる気持ちもわかる。 箸墓の実年代が3世紀半ばと判明すれば、卑弥呼の墓の可能性は高まると思うが。
309 :
ローガン :2009/04/13(月) 23:24:44
>>307 > ああ・・お前らなんて低レベルなんだw
> 結局人生ってさ「経験」が物を言うんだよな
> いい大学行こうがいい成績取ろうが「経験」が無いと世間に出たときに何も役に立たない
ん〜言わんとする事はわかりますが、どうでしょうね。
貴方より人生経験豊富な方、近くにいませんか?
その人からみれば貴方のお尻にも「卵の殻」がみえるのかもしれませんよ。
310 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 23:30:26
■特別展 弥生建築 ─卑弥呼のすまい─
・大阪府立弥生文化博物館
・平成21年4月25日(土)〜6月7日(日)
・休館日 毎週月曜日(ただし5月4日[月祝]は開館し、7日[木]休館)
・入館料 一般600円/65歳以上・高大生400円
これまで、弥生時代の建物は、その全容がわかる状態でみつかった例はありません。そのため、弥生時代の建物を知るには、遺跡の調査でみつかる掘立柱建物や竪穴住居など建物の跡をもとに、建物の構造や柱の並び方、大きさなどを考えます。
そして、その上にあったはずの建物については、鏡や大刀の飾り、土器や土製品に表現された建物を参考にして考えてきました。
ところが近年、鳥取県青谷上寺地[あおやかみじち]遺跡(鳥取市)で弥生時代の建築部材がまとまってみつかり、建物の姿をより具体的に考えることができるようになりました。
ここでは、溝のなかから柱や壁、床などの板材、角材のほか、屋根材がまとまってみつかり、建物を復元することが可能になったのです。
こうして青谷上寺地遺跡で出土した建築材をもとに、掘立柱建物や竪穴住居の跡がまとまってみつかった鳥取県妻木晩田[むきばんだ]遺跡(西伯郡大山町)では建物が復元されています。
また、みつかった柱や桁、床板などには、材をつなぐために加工した孔やくり込みや、材の表面を平らに削ったあとが見られます。
弥生時代の工具は石斧や石鑿など石製のものが主ですが、青谷上寺地遺跡では鉄斧、鉄鑿など鉄製の工具が数多くみつかっており、建築部材の加工には、こうした鉄製のさまざまな工具も使用されたと考えられます。
竪穴住居を建てるには、まず、穴を掘ることで床と壁ができあがるため、あとは柱を立て、桁と梁を組み、屋根をかけることでできあがります。一方、掘立柱建物は、柱を立てて床を貼り、あるいは壁を立ち上げ、屋根をかけることでできあがります。
床を貼るためには、柱に穴をあけ、材を組み、床材が必要となり、壁を立ち上げるためには柱に穴をあけ、くり込みを入れ、壁材が必要となります。
つまり、掘立柱建物を建てるには、材に細かな加工を施すことができるさまざまな工具が必要であり、鉄製の工具はこうした加工に威力を発揮したと考えられます。(以下略)
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/tokubetsu/h21_haru.html
311 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 23:35:51
>>307 「フランスに渡米した経験を活かして」って、どう言う意味?これ、日本語?
312 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 23:54:30
大阪府立近つ飛鳥博物館 開館15周年記念
■春季特別展 「卑弥呼死す、大いに冢をつくる─前方後円墳の成立─」
・大阪府立近つ飛鳥博物館 (大阪府南河内郡河南町東山299)
・4月25日(土)〜 6月28日(日)
・休館日 毎週月曜日(ただし、5月3日の月曜日は開館します)
・入館料 一般600円[480円]、 65歳以上・高校・大学生400円中学生以下・障がい者手帳をお持ちの方(介助者を含む)は無料
大阪府立近つ飛鳥博物館は、平成6年に「日本古代国家の形成過程と国際交流をさぐる」をメインテ−マにかかげ、おもに古墳と古墳時代の専門博物館として誕生し、今年で開館15周年をむかえました。
日本列島では、3世紀中頃から6世紀まで、およそ350年間で数十万基ともいわれる古墳がつくられました。そのはじまりと考えられる3世紀中頃は日本列島において弥生時代から古墳時代へと時代が移り行く変革期にあたります。
巨大な墓を築くことでそれぞれの存在を示し、その巨大な墓が媒体となり各地の権力者が結びつく。ひとつの墓が様々な意味を表す時代が到来したのです。
このたびの特別展では、各地につくられた3世紀の墳墓の副葬品と埋葬施設から弥生時代の終わり頃にみられる各地の首長墓の特色を描き出し、巨大な前方後円墳の成立を考えてみたいと思います。
・内行花文鏡(福岡県平原方形周溝墓)[国宝]
・ガラス釧(島根県西谷2号墓)
・銅釧(京都府芝ケ原古墳)[重要文化財]
・二重口縁壺形埴輪(奈良県箸墓古墳)
・画文帯神獣鏡(奈良県黒塚古墳)
ほか
http://www.mediajoy.com/chikatsu/2009_spring/index.html
313 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 00:37:22
相変わらず白石さんは突っ走っているな。 叩かれるのが分かっててあえて卑弥呼の話題を出す。 他の考古学者も見習って欲しいものだ。 実年代が無茶苦茶の紀は別にしても、倭人伝に関しては実年代さえ確定すれば ある程度の援用は可能。
>>294 >現箸墓がヤマトトソヒモモソ姫の墓で、日本書紀にいう崇神天皇の10年につくられたとするならば、
>西暦273年のこととなります。
卑弥呼の没年は248年頃とされてるみたいだけど、それから年代が経ち過ぎてるような。
箸墓は夜は鬼が作ったと噂されるほど迅速に造られたみたいだし。
あと崇神の没年を318年とするか?258年にするか?だが。
318年にすると卑弥呼と同年代の人物とするには無理があるし、
やはり258年が適切か。
まああくまで卑弥呼=モモソ媛とした場合だけど。
モモソ媛を卑弥呼、崇神を男弟と見るのがいいように思う。
台与は豊鋤入媛。
316 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 05:11:03
>大阪府立近つ飛鳥博物館 今のご時世財政的に厳しい面もあるんじゃなかろうか? 橋下知事につぶされる公共機関のリストに入っていたりしてw
317 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 07:17:26
>ああ・・お前らなんて低レベルなんだw 結局人生ってさ「経験」が物を言うんだよな いい大学行こうがいい成績取ろうが「経験」が無いと世間に出たときに何も役に立たない まぁお前らみたいなオタクにはわかんねーかもしんないけどな 俺は高卒で世間的には低学歴かもしれないが、フランスに渡米した経験を活かして 今は充実した仕事してるよ お前らも壁作って自分の世界に閉じ込もって無いで 今しかできない「経験」しといて経験値積んどけ 有効な反論を語れ。 サガミハラ一派に堂々と邪馬台国論を言われっぱなしで恥かしくないのか? 降参発言してどうするんだよ。
318 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 07:52:52
【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】 【サガ】吉野ヶ里は王権の礎の地か【ヨシノガリ】
319 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 08:12:22
吉野ヶ里って古くない? 遺跡の実年代を議論すれば、簡単に破綻させる事が可能だと思いますが……。 しかし、80年代は巻向なんかより、吉野ヶ里の方が一方的に有利だった事もあるし、圧勝の世論だったし。 サガミハラも棄てたもんじゃないかな……。
320 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 08:20:22
今はサガミハラを潰せ! 日本中で盛り上げて行きましょう。
321 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 08:42:51
>>319 吉野ヶ里遺跡が大々的に発表されたのは、平成元年一月だった。
ちょうど、昭和天皇が崩御された頃じゃなかったかな。
で、ちまたでは、吉野ヶ里が邪馬台国だ、みたいな言われ方をした。
それを受けて?弥生中期が100年遡ったのは、1996年(平成8年)4月27日。
新聞は、池上・曽根遺跡で出土した弥生時代中期後半の建物の柱の一つが、
年輪年代測定によって紀元前52年に伐採されたものであることを一斉に報じた。
以来、考古学によって築き上げてきた弥生時代中期の年代観が100年遡ったと、
マスコミや一般向け書籍などでキャンペーンが貼られた。
多くの考古学者が長年に渡って築き上げてきた年代観が、たった一人の
年輪年代研究者によって覆され、しかも、考古学者は、何の疑いもなく
それを受け入れてしまったのである。
さらに、庄内期まで100年遡った。これにより、吉野ヶ里も100年古くなり、
卑弥呼時代より古いとされるに至った。
322 :
サガミハラハラ :2009/04/14(火) 09:09:46
池上・曽根は畿内の遺跡 吉野ヶ里は北部九州の遺跡 この時代には相互の交流は微々たるものだと思います。
323 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 09:22:56
>>322 吉野ヶ里遺跡は、倭人伝に書かれた邪馬台国時代の様子をはっきり残して
いるので、畿内説にとっては厄介者。
吉野ヶ里より邪馬台国にふさわしい遺跡が畿内から出る保証はない。
だから、年代観が変わるのは、畿内説にとっては渡りに船だったわけです。
と言うよりも、何かきっかけがあれば、そういう年代観にしたいと言う
気持ちがあったと考えるべきかな。
324 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 09:35:44
年代に文句があるなら、 九州の考古学者が文句つけるだろ。 実際に文句言ってるのは、エセ歴史学者だけのようだが。
325 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 09:38:37
>>324 吉野ヶ里が邪馬台国だと言うような会ができたらしいが、あれは
年代観に文句を言っているのと同じだろう。
326 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 12:32:00
>>321 実年代を今までは考古学者がいい加減に決めてたのが、
理化学年代によって是正されてきてるだけでは?
327 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 12:35:55
328 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 13:06:35
九州説論者は可哀想... 商売で邪馬台国論争に参加してきた人も多そうだし。 でも、まあ、がんばれやw
329 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 13:09:17
>>326 そのとおり。
ただ、九州説論者は、それを認めたがらない。
これまで長年、構築してきた考古学者の年代間も
実は、少数の学者の曖昧な推測に依存してきただけなのに。
そもそも、土器編年では、絶対年代はどうみても推測できない。
330 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 14:46:15
他九州論者と一緒にするな。 巻向派と議論する権利は、佐賀にしか持ち合わせていない! 九州説でも他は殆どが妄想に基付くトンデモだ。 九州説でも佐賀だけが正しく、巻向派と同等に議論ができる。 遺跡の乏しい他九州説は現に巻向遺跡派の猛攻に耐えられていないじゃないか!
331 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 15:54:05
九州説は九州説同士話してもらって 畿内説は畿内説同士話せば良い、九州と比べるのではない
332 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 17:15:01
でも、佐賀以外の妄想九州説と語り合っていたって第一線に出れないよ。 残念だけど。
333 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 17:22:37
今、邪馬台国論争が巻向を中心に動いている事に問題があるんだよ。 弊害ですね。
334 :
ローガン :2009/04/14(火) 17:57:40
ここは九州説云々を書くスレとは違うでしょう。
335 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 21:26:12
しかしまあ、径百余歩の古墳がマキムクの出現期の古墳のどれかになるのは論を待たないだろう。 箸墓か?それ以前のマキムク型のどれかか? その程度の議論はあるだろうが
邪馬台国の話は井戸端会議みたいなつまんねえのばかりだな。
337 :
ローガン :2009/04/14(火) 23:46:58
前から思ってた素朴な疑問なんですが… 黒塚の鏡の中の8号鏡なんですが。皆さんはこの画像鏡、どう考えられますか? 見た目、他の32面の鏡より鋳あがりがよいこの鏡、これこそ卑弥呼の鏡か?なんて考えたり… 詳しい方ご教示ください。
黒塚はスレ違いです。
339 :
ローガン :2009/04/15(水) 10:11:14
え〜黒塚くらいいいでしょう?纏向から車で10分でOK
340 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 22:31:41
>>337 枕元から出てきた画文帯神獣鏡のことでしょうか?
確かに三角縁神獣鏡よりは大事にされてたようですね。
時代的に画文帯は遼東の公孫氏からもらった物で、卑弥呼の鏡は三角縁と考えてますが、
それならなぜ扱いが画文>三角になるのかの説明がつき難いのが現実です。
341 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 22:42:20
..--‐‐‐‐‐‐‐‐---.., (;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::::::\ // ヽ::::::::::| .// ..... ........ /::::::::::::| /) || .) ( \::::::::| ///)-=・‐. ‐=・=- |;;/⌒i /,.=゙''"/ | 'ー .ノ 'ー-‐' ).| / i f ,.r='"-‐'つ ノ(、_,、_)\ ノ こまけぇこたぁいいんだよ!! / / _,.-‐'~ |. ___ \ |_ / ,i ,二ニ⊃ | くェェュュゝ /|:\_ / ノ il゙フ ヽ ー--‐ //::::::::::::: ,イ「ト、 ,!,! /\___ / /::::::::::::::: / iトヾヽ_/ィ" /::::::::|\ / /:::::::::::::::::
342 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 22:53:13
鏡の話になると纏向と関係ないスレ違いレスが多発するのは過去実証済み。 とくに「卑弥呼の鏡」なんていう話題の振り方は禁物。絶対に荒れる。 ローガンは話題を取り下げるべき。 鏡一般を扱うスレが必要なら俺が立ててやってもいい。
343 :
ローガン :2009/04/15(水) 23:08:07
△か画紋か畿内説の同士の話題になってもよいように思う(オレは画紋だが)
345 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 23:46:41
箸墓が布留0で、三角が布留以降にしか出ないというのが非常に意味深だと思うのだが。 箸墓が古墳時代草創期の画期であったことは間違いなく、 おそらく箸墓が造られた頃に大きな政治変動があって、それ以降にしか三角縁が出ない。 三角縁に魏の年号のものがあるなどからも、導き出される答えは一つ。
346 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 23:50:49
東遷したんですか? そうなんですか?
△は白菜の方が居なくなるまで議論してはいけないのでは?
348 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 12:13:30
三角は舶載だろ。舶載だからこそ珍重された。 ヤマト王権が偽作した鏡では有り難みがなく効果薄
349 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 14:00:57
鏡に魏の年号が書いてあるでしょう。間違いなく卑弥呼に贈られた魏の鏡です。
350 :
サガミハラハラ :2009/04/16(木) 17:20:31
三角縁は棺の外などにたてかけられた状態が多いのは、偽作した鏡なので有り難みがないからです。
351 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 18:29:10
棺や遺骸の周りに立てかけたのは、邪が近づかないようにする辟邪のためと 考えるのが最も素直でしょう。
>>350 ニセモノとわかってるなら、そもそも副葬品にする筈がない。
それどころか、時の権力者に贋物を掴ませた贋作関係者は、みな打ち首獄門だろう。
偽物じゃなくてコピーでしょ。 生花と造花の違いみたいなものだと思いますが。
354 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 22:06:14
三角が過剰にあった地域では有り難みがなかっただけだろう。辺縁地域での三角は大事に扱われてたと思うが。 そもそもヤマト王権が各地の首長層と結びつきを強めるために政治的に配布したのが三角。 三角が国産の鏡では誰も欲しがらんだろう。 何百枚も出土するほど三角は列島で一斉風靡し、古墳に副葬されてることからもレガリアとして機能していた可能性さえある。 だから偽造したという意見もあるだろうが、 それは後に三角が足りずヤマト王権が複製したということであって。 そもそもの最初は、魏の皇帝がくれた鏡を皆が争って欲しがったという熱狂状況を想定した方が分かり易い。
熱狂的に棺の外に置いたわけですか。 すごい熱狂ぶりですね。
356 :
日本@名無史さん :2009/04/18(土) 08:28:05
ヤマト政権の中枢にいた連中なら魏の有り難みもわかるだろうが 地方の首長辺りが海を越えた大陸の皇帝の意味が分るかね?
>>355 「地方では」有り難みがあったと書いてんだから。ちゃんと読んで。
みんなこれ↓をよく読んでからレスしましょう。
>>1 >纏向遺跡を語るスレです。
359 :
日本@名無史さん :2009/04/18(土) 09:12:10
お前が有り難みがあったと書いたからって、事実がその通りとは限らないだろうよw つうか、それに否をとなえてるんだってーの 鏡自体はもちろんお宝だっただろうよ、神秘的でもあっただろうし だからといって、それの権威を高めるためによその皇帝なんか持ち出したら ヤマトの大王は自分の上の存在を認めることになるだろうが
>>359 > 鏡自体はもちろんお宝だっただろうよ、神秘的でもあっただろうし
> だからといって、それの権威を高めるためによその皇帝なんか持ち出したら
> ヤマトの大王は自分の上の存在を認めることになるだろうが
「ヤマトの大王」は「自分の上の存在」を認めちゃいけないのか!
貴方は何故そう思うのですか?
>>342 >鏡一般を扱うスレが必要なら俺が立ててやってもいい。
是非おねがいします。
このままではせっかくの纏向スレが、纏向遺跡を語らないスレになってしまいます。
以前はあったな鏡スレ。 鏡一般よりも隔離スレと割り切って三角縁神獣鏡に絞ったほうが 馬鹿を上手く隔離できるような気がする。
>>362 確かに有ったね、△鏡スレ。
「御大」が、まだ橿考研の所長だったころだ。
既に舶載説は下火の時代にもかかわらず、中の人が出張って来て、当に「必死だな」状態だった。
アレはアレで面白かった。
あの時の彼も今は偉くなってしまっただろうから、もう2chなんかやってるヒマも無いだろうな。
彼は今でも「舶載」論者なのだろうか・・・
364 :
日本@名無史さん :2009/04/18(土) 13:40:27
>>359 卑弥呼は親魏倭王だし、倭の五王も南朝に朝貢してる。天皇号も中国皇帝に気を遣ってつけた。
古代の東アジアで中国無視の政治体制なんてあり得ない。
自分の勉強不足を口汚い言葉で誤魔化さないように
>>364 > 卑弥呼は親魏倭王だし、倭の五王も南朝に朝貢してる。天皇号も中国皇帝に気を遣ってつけた。
> 古代の東アジアで中国無視の政治体制なんてあり得ない。
> 自分の勉強不足を口汚い言葉で誤魔化さないように
>>359 は単なる皇国史観。
つまり、ヤマトの大王家が、その上の存在を認めてるはずはないと。
366 :
日本@名無史さん :2009/04/18(土) 14:18:55
このスレはそもそも大和王権の成立プロセスを議論する場だと思っていたが。 単にマキムク遺跡の話をするだけなら、考古学板が相応しいように思う。
367 :
日本@名無史さん :2009/04/18(土) 16:32:19
親魏倭王ってのはハク付けであり、なおかつ朝貢貿易が目的だ 鏡を首長に配る際に「これは魏の皇帝から頂いて云々」などと言うと思うか? オレはあり得ないと思うね。ヤマトの王が大王として君臨するためには 絶対的存在でなければ無かったはずだ そうでなければ何時反乱を起されるかもわからない 魏からの情報が中央を通さず、地方にまで広まっていただろうか? 一切のマスメディアが無い時代にだ。
>>367 >親魏倭王ってのはハク付けであり、なおかつ朝貢貿易が目的だ
鏡を首長に配る際に「これは魏の皇帝から頂いて云々」などと言うと思うか?
じゃ、「ハク付け」って何のために?
>俺はあり得ないと思うね。ヤマトの王が大王として君臨するためには
絶対的存在でなければ無かったはずだ
地方の豪族が、ヤマトから国造とかに任命されて、貰った銅鍵を見せびらかす。
相対的存在だから他の権威を支配のために利用するんですよね。
>そうでなければ何時反乱を起されるかもわからない
何で?
中ボスの後ろに大ボスが控えている方が、抑止力がある場合が多いのでは?
権力はピラミッド型になるのが普通です。
貴方はヤマト王権がその頂点にいなければならないと思い込んでるようですが。
>魏からの情報が中央を通さず、地方にまで広まっていただろうか?
一切のマスメディアが無い時代にだ。
これはわからない。
でも渡来系職人などが地方にも行っていれば、
支配層には情報は流れていたのでは?
369 :
日本@名無史さん :2009/04/18(土) 22:10:39
マキムクの性格を考えることは、とりも直さず、大和王権成立時の状況を推測することに他ならない。 鏡やら他地域の古墳、銅鐸やら記紀、倭人伝など総合的に解釈する必要があるだろう。 排除するんではなく、具体的に反論するか、無視するかのどっちかでお願いしたいものだ
倭人伝は排除していい
371 :
日本@名無史さん :2009/04/18(土) 22:36:52
倭の五王は朝鮮半島経営で有利に進めるために 中華皇帝の権威を必要としたのだろう しかし、まだ朝鮮半島にはほとんど進出しておらず 国内では西日本を統一して圧倒的な力を持ってるはずの大和朝廷が 中華皇帝の権威を必要としたのだろうか?
372 :
日本@名無史さん :2009/04/18(土) 22:46:19
三角縁に先立つ画文帯は、初めて畿内を中心に出土する舶載品。 つまりこの時点で、鏡を一括輸入、各地へ配布するシステム、政治権力が畿内に誕生している。 画文帯を卑弥呼の鏡とした場合、箸墓以前のマキムク型のうちのどれかが卑弥呼の墓になる。 三角縁が卑弥呼の鏡なら、箸墓が卑弥呼の墓となるだろう。 後の問題は、理化学的にどこまで実年代を絞れるか?にかかっている。 径百余歩で考えれば箸墓になるだろうか。
373 :
日本@名無史さん :2009/04/18(土) 22:50:01
>>369 >鏡やら他地域の古墳、銅鐸やら記紀、倭人伝など総合的に解釈する必要があるだろう。
>排除するんではなく、具体的に反論するか、無視するかのどっちかでお願いしたいものだ
そういうと聞こえはいいけど、レスの大半が当のマキムクを無視して排除してるだろ。
それじゃ2ちゃんのルール違反だから駄目ってことなんだよ。
たとえば
>>371 も。
こんなのは荒らしなんだよ。
374 :
日本@名無史さん :2009/04/18(土) 22:50:30
>>371 だから、圧倒的な力なんか持ってなかったんだって。
共立された王を御輿にした連合国家が大和王権の実相。
そうじゃなきゃ、わざわざ中国まで遣使したりしない。なんか論点ズレてるね
375 :
日本@名無史さん :2009/04/18(土) 22:57:07
この時期に遣使はしてなかったんじゃないの? 大和王権は
376 :
日本@名無史さん :2009/04/18(土) 23:00:23
大和王権の礎の地であることは確定的に明らか これから纏向遺跡周辺を調べれば判明するでしょう
377 :
日本@名無史さん :2009/04/18(土) 23:21:58
378 :
日本@名無史さん :2009/04/19(日) 01:52:44
大和王権が邪馬台国ならね。
379 :
日本@名無史さん :2009/04/19(日) 20:30:28
マキムクから大和王権誕生時期の様子が読み取れればと思うのですが。 マキムクが急造された計画都市で、運河や古墳の大土木工事を繰り返す王権。 普通であれば、国中怨嗟の声で満ちていた筈ですよね。
380 :
日本@名無史さん :2009/04/19(日) 21:46:50
>>379 >普通であれば、国中怨嗟の声で満ちていた筈ですよね。
そうはならず、初期ヤマト王権から急速に本格的ヤマト大王権が確立されていったところに
マキムクの歴史的重要性があるのだと思う。
おそらく人を惹きつけたのはマキムクで行われたマツリゴトであろう。
人はパンのみに生くるに非ず、
マキムクの祭祀は深く人々の心の中に安心立命の気持ちをもたらし、重労働への怨嗟とはならなかったのであろう。
いや、人々が労働力を束ねることによってこれまでには見たこともなかった人工的な景観が眼前に現れたこと、
その事実そのものが、人々にとっての大いなる驚愕であったろうし、言わば魔法を見せられたようなものではなかったか。
そして、マキムクの祭祀を司ったであろう最初のオウたちへの賛仰となっていったのではなかろうか。
庄内期には辻地区の土坑群において盛んにマツリゴトが行われている。
また布留期では巻ノ内地区で導水施設が発掘されているが
導水施設は5世紀代の各地さまざまな遺物・遺構から、権力者が行うきわめて重要なマツリゴトの場であった蓋然性が高い。
マキムクの祭祀をさらに追究することが、今後のマキムク研究の大きな課題だと小生は思っている。
>>379 実際に三輪の王権は長続きしてないしね。
>>380 纏向はパンの供給源だから栄えたのでは?
正確に言うと纏向の経営主体が栄えていたから人々を集めた、なのかとも思いますが。
対東海交易の拠点として経済的に潤ったことが、纏向の原点なのではと。
383 :
日本@名無史さん :2009/04/19(日) 22:29:33
>>381 マキムク以降古墳は全国に拡散しながら四百年近く造られ続けるわけだし、
三輪から河内に移って更に古墳規模が拡大してることからも、
古墳造りが必ずしも無駄だったとも思えない、ていうか政治上至極大事だったんだろう。
384 :
日本@名無史さん :2009/04/20(月) 06:39:39
>>371 朝鮮半島の権益だろう。宋書には、
倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王
と書かれている。
武は、安東大将軍の地位を得て、朝鮮半島南部までの支配を正当化された
というわけかな。
朝鮮半島では、高句麗と対立していたのだろう。
385 :
日本@名無史さん :2009/04/20(月) 22:24:47
>>380 一見無駄に見える古墳造りが継続した理由は、各地から集められた労働者に仕事を与えるという意味合いがあったからではないか。
ピラミッド公共事業説みたいなもの。あと江戸幕府初期の天下普請とも近い。
386 :
日本@名無史さん :2009/04/20(月) 22:28:49
各地の首長は、鉄などの舶来品や技術をマキムクの大王から貰う対価として、労働力を提供した。 労働者のマキムク滞在費は基本的に自弁が原則とされたが、御陵造りなどに参加すれば一定の駄賃が貰えたと妄想
可能性レベルで言えば、 ・冬期/農閑期に作業に従事させて、日当/食糧配給。 >385のいう「公共事業みたいなもの」そのもの ・用水路や堤防を作る土木工事のノウハウ伝授 あたりが有りそうな感じだな。 三國志で、銅雀台をはじめ多くの建築工事が出てくるのも、 飢饉時の公共工事の役割があって、不作・飢饉時に工事が頻出するんだとか。 (そういう公共工事的な意義を認めない価値観が併存していて、 こんな大変なときに造営工事なんかしてケシカラン、という形で史料に残ることが多いという特徴もある)
そういえば、蕭何が未央宮を造営したのも莫大な戦費が必要なときだったな。 関係ある・・・・のかな?
389 :
日本@名無史さん :2009/04/21(火) 00:22:14
古代エジプトは中央集権国家だったから富の再配分が出来たが 当時のヤマトは地方の部族の共立だった時代 江戸幕府が地方の大名に公共事業を押しつけてたのと似たような感じだろう
390 :
日本@名無史さん :2009/04/22(水) 02:42:04
391 :
日本@名無史さん :2009/04/22(水) 08:43:29
地方分権のマキムクでは富の再分配が出来ない、ていうのはその通りだが、 マキムクが倭の代表として対外的窓口になっていたのなら、 舶来品や技術を地方に分配することは出来たと思う。 そういった遠隔地交易を主導できる権力、外国からの富をもたらしてくれる存在として、大王権力は尊崇されたんだと思う。
外交窓口になっていたという考古学的証拠がない。
393 :
日本@名無史さん :2009/04/22(水) 20:38:32
■垣内遺跡:保存へ、淡路市教委が関係機関と調整 /兵庫
◇弥生時代後期の鉄器鍛冶工房跡──学術的価値高い、国の史跡指定を
淡路市教委は、弥生時代後期の国内最大級の鉄器鍛冶工房とみられる竪穴建物跡などが見つかった「垣内(かいと)遺跡」(同市黒谷)の保存に向け、関係機関と調整を始めた。
発掘調査報告書がまとまり次第、文部科学省へ国指定史跡を申請する。
ほ場整備に伴い、07年度から2年がかりで発掘調査を実施。竪穴建物跡が計23棟見つかり、炉のある工房跡11棟が確認された。工房跡からは鉄の鏃(やじり)や鉄片、中国から輸入されたとみられる大型の鉄製品が70点以上出土した。
遺跡保存を巡っては、弥生時代の鉄製品の生産・流通を解明する上で重要なことから、考古学者や県教委、文化庁関係者は「学術的評価が高く、保存する価値がある」との立場。
地権者も保存に前向きなことから、08年度に発掘調査した7776平方メートルを含む遺跡を保存する方向で調整を始めた。
これに伴い、県洲本土地改良事務所は、ほ場整備工事区域(約27・7ヘクタール)から除外。市教委は、風化しないよう土を盛って埋め戻し、恒久的な保存方法を検討する。
出土遺物が多く調査報告書作成には1年以上かかる見込み。
淡路市教委の伊藤宏幸・社会教育課長補佐は
「来月にも遺跡の埋め戻し工事に着手し、国史跡の指定を受けて公園整備し、観光客誘致など地域活性化につなげたい」
と話している。
毎日新聞4月22日朝刊〔淡路版〕
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090422-00000196-mailo-l28
394 :
日本@名無史さん :2009/04/23(木) 20:38:11
>>380 大古墳の築造に携わった労働者の意識ですが、
確かに初期の頃は物珍しさがあったでしょうね。
百年か二百年経って古墳がありふれてくると、
ちぇっ、またかと思うようになるんじゃないでしょうか
395 :
日本@名無史さん :2009/04/23(木) 21:35:49
何回か書いたが、纏向が聖域として認知されるほど人々に信仰されていたら放棄なんかされないよ 後々も数千年にわたって信仰の対象になったはずだ、本当にその価値があると思われればね。 出雲一つ例に挙げたって分るじゃん、本当に神だと崇められたら粗末に扱われることはない 纏向は為政者が力を示すために古墳を築造した場所 用が無くなれば大王でさえ躊躇せず遷都した
396 :
日本@名無史さん :2009/04/23(木) 22:51:21
マキムク聖地説はマキムクに人が住んでいないという仮定で言われてた話であって。 誰も本気にしてないと思うが。 マキムクの古墳造りが祭りと不可分なのはそうだが、やはり人々に見せつける為のデカさだし、 人が住んでない場所に御陵を造ったとか妄想だよ
>>395 まあ三輪山信仰が大きくなったのは後世のことだしね。
他の地域との古墳の編年もはっきりしない。
あまり持ち上げすぎるのもどうかと。
398 :
日本@名無史さん :2009/04/24(金) 16:36:30
マキムクは急に造られた計画都市で、役目が終わったから廃棄された。 役目とは東西交易の結節点として。 大和王権の勢力拡大に伴い、中心点が西に移動したということ。 信長が本拠地を岐阜から安土に移したようなもの
纏向は卑弥呼共立から卑弥呼死去まで
400 :
日本@名無史さん :2009/04/24(金) 19:48:32
倭王の権力は古墳造営そのものではなく、各地豪族に古墳造営を認許する(あるいは箸墓 1/2などの設計を付与する)ことと考えているが。
401 :
日本@名無史さん :2009/04/24(金) 20:24:50
古墳を造ることがどれだけ大事だったかは、現代人には理解できないのかもしれませんね。 しかしまあ、時代が降っても古墳には地方の特色が出てますし、それほど中央からの規制が働いていたとも思えないのですが。 中央にあやかってとかはあるかもしれません。
古墳の機能の一つに祭祀(さいし)、 共同体への帰属を示すための、 象徴的行為としての祖霊祭祀(それいさいし)が認められるなら、 その築造への参集も、帰属意識の為せることではないかな?
403 :
日本@名無史さん :2009/04/25(土) 22:38:44
環濠集落の環濠も、共同体の帰属意識を高めるために掘られたという説もあるし。 御陵造りに参加できることは光栄なことみたいな意識は確かにあっただろう。 あとは、そういった権威がどういったプロセスで生まれたかの解明にあると
妄想スレかよ。 小林行雄の時代に逆戻りだな。
>>404 >小林行雄の時代に逆戻りだな。
どこがさ?
406 :
日本@名無史さん :2009/04/26(日) 22:26:54
>>392 西新町にはマキムクの影響があったと思うが。
この辺り、畿内説と九州説で意見が分かれるところだよね
407 :
日本@名無史さん :2009/04/30(木) 04:55:20
★埴輪の旗
横布たなびく姿表現
東殿塚古墳の埴輪に線刻された船。旗が風にたなびいている =天理市教委提供
http://mytown.asahi.com/nara/k_img_render.php?k_id=30000140904170001&o_id=6241&type=kiji 弥生時代から古墳時代にかけて、日本列島の住人は船の絵をいくつか残しています。そのうちに、不思議な旗をひるがえす絵があります。
奈良県天理市の東殿塚古墳から出土した埴輪(はにわ)の絵が、そうです。古墳時代前期前半に属していて、一つの埴輪に合計3隻の船をヘラで描いています。
船中央にはそれぞれ、旗がひるがえっています。それも国旗のような長方形の旗ではなくて、何条もの細い布からなっているようです。
詳しく見ていきましょう。旗竿(はたざお)は、船尾の方にたわんでいます。単線で表現しました。旗竿上部には、竿に沿った細長い帯を表現しています。これは、旗の一部ですから、縦布のはずです。
この縦布から、水平に細布がひるがえっています。この横布は、すこし間隔をおいて縦布に接続しています。先端がバラバラですから、横布を縦布に縫いつけて、端はバラけていたことがわかります。
3隻のうちで大きい船ので横布は9枚、中型ので少なくとも3枚、小型ので4枚描いてありました。どうでしょうか、めったにない旗でしょう。
この船には、この他に蓋(きぬがさ)があり、屋形のようなものがのり、櫂(かい)が水面に下り、舵(かじ)が船尾にあって、船首に鳥を描いたものさえあります。このように細部まで丁寧に描いているのです。
旗は、岐阜県の荒尾南遺跡で弥生時代後期末に属する土器に、また千葉県の天神台遺跡で古墳時代前期に属する土器にも描いてありました。しかもこれらの船に描かれた旗は、すべて同じ形式の旗です。
<続く>
408 :
日本@名無史さん :2009/04/30(木) 04:59:21
<承前>
この旗は中国にもあって、決して日本列島独自ではありません。
魏の曹植の作『洛神賦』を、顧ト之(344年ごろ〜405年ごろ)が絵画化したと伝える『洛神賦図』の模本がいくつか伝わっています。そして洛神という女神の乗り物に、東殿塚古墳の絵と細部までうり二つの旗が取りついて、風になびいているのです。
では色は、どうだったでしょうか。
日本列島の旗は、すべて土器や埴輪に線で彫り込んであって、色がついていません。だから色は想像するしかないのです。
考古学者の故佐原真さんは、この絵画の旗に、
「舟を連ね筏(いかだ)を編みて、雲の蓋を飛(ひるが)へし、虹の旌(はた)を張る」(『常陸風土記』行方郡板来村)、
また
「赤籏青幡(あかはたあおはた)、交雑(まじ)り飄(ひるがえ)りけり。雲飛び虹張りて」(常陸国逸文・信太郡由縁)
という風土記の記事を結びつけました。
そして「細長いきれか紐(ひも)を何本も並べた旗だからこそ生まれた文章表現ではないか」と、考えました。旗に、虹の色彩を与えたのです。しかもこの時代、高度な染色技術のあったこともわかっています。
様々な色からなる細布たなびく旗が、どんなに美しかったか現実に見てみようと思うなら、熊本県天草市河浦町の河浦一町田八幡宮で毎年7月の第3日曜日にある虫追い祭を訪ねることです。
一町田川に沿って進む色とりどりの旗は、私たちを一瞬のうちに弥生時代・古墳時代の色彩世界に導いてくれることでしょう。
(奈良文化財研究所都城発掘調査部副部長・深澤芳樹)
朝日新聞 奈良 2009年04月17日
http://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000140904170001 河浦一町田八幡宮の虫追い祭では、赤、黄、緑、青などさまざまな色の布がはためく =熊本県天草市、小林健浩さん撮影、『天草潮風紀行』(弦書房)から
http://mytown.asahi.com/nara/k_img_render.php?k_id=30000140904170001&o_id=6240&type=kiji
409 :
日本@名無史さん :2009/04/30(木) 05:00:39
410 :
日本@名無史さん :2009/04/30(木) 05:01:53
411 :
日本@名無史さん :2009/04/30(木) 08:13:16
412 :
日本@名無史さん :2009/04/30(木) 22:23:59
>>411 マキムクが突然という意見はまさにそうなんですが、他地域も突然と言えば突然な訳で。
マキムクが後発なのはそうですが、石塚と比べればそれらの古墳も然程年代は変わらない。
当時の倭国全体でパラレルに古墳という様式が誕生し、それらを集約したのがマキムクということなんでしょう。
>>411 楯築は明らかにマキムク開始後だろ、畿内では特殊器台は
布留0で始まり布留0で終わる。
楯築もこれと同時期とするのが合理的。
ああ無知とは恐ろしいものだ
>>413 >楯築もこれと同時期とするのが合理的。
「これ」って「布留0」を指して言ってるの?
マウンドを造るという発想の最初が楯築で、それが阿波讃岐の東瀬戸内を経由して 大和に伝わったとされてますが。 この説に異論がある人はいるんでしょうか?
>マウンドを造るという発想の最初が楯築で 異論というか、誰がこんなことを言ってるんだ?
418 :
日本@名無史さん :2009/05/02(土) 00:59:05
>>416 つうか単なる墳丘墓なら九州にだってあるやん?
419 :
日本@名無史さん :2009/05/02(土) 02:03:10
四隅突出型墳墓は墳丘墓じゃないの?
おもしろいソースを発見
↓
邪馬臺國と狗奴國は戦争していた ??
http://www.asahi-net.or.jp/~yw8a-kndu/html/inuyama_1_yamatai_kunakoku.html 自分は、邪馬台国(ヤマト国)と狗奴国(コノ国)の戦いは
あったと思う。
この戦いは、日本書紀で言う武埴安彦命の乱だと思う。
ただ、このソースにもあるように、
西暦240年代の倭国と中国との関係は
難升米(梨津臣命)が、中国の軍事的官位に任命されたように
中国による倭国軍の出兵の要請という見方が正しいと思う。
西暦240年代、帯方郡の太守が、三韓人の反乱で殺害される事件が起こった。
そこで、中国(魏)が、わざわざ倭国の大夫に軍事的官位をさずけ
出征を要請したが
同時期に、倭国で武埴安彦命の乱が発生し、出兵できなかった。
そのうちに、帯方郡での反乱は鎮圧され、そこで、
中国側は、なぜ倭国は援軍として出兵できなかったのか、聞いてきたので
倭国側が、いいわけしたんだろう?
で、中国側は、張政を派遣して、確かめにいったところ、
卑弥呼の墓を目撃したと。
421 :
日本@名無史さん :2009/05/03(日) 22:34:38
ていうか後の古墳に繋がる源流が楯築ということで。 たしかに四隅も墳丘墓で、吉備は出雲との交流の中で楯築を造ったのかもしれないが。
供伴土器や墳丘構造なんかの違いを全く無視して 「特殊器台」という用語の共通から「楯築は古墳時代のもんだ!」 って主張してたお馬鹿さんが前にもいたけど ひょっとして同一人物?
>>413 なんか煽ってもスレが荒れるだけで何も出てこないぞ。b
考古学的に真っ赤なうそをカキコして 突っ込まれると何も答えられず逃亡する常連インチキ野郎=413
425 :
日本@名無史さん :2009/05/04(月) 22:28:41
まあ、楯築が古墳の源流てことにはみなさん異論がないようで。 楯築の後、マキムクで石塚が造られるまでの間、どのようなストーリーが描けるのか?
426 :
日本@名無史さん :2009/05/05(火) 00:16:19
×どのようなストーリーが描けるのか? ○どのような妄想を描けるのか?
427 :
日本@名無史さん :2009/05/05(火) 08:00:41
いやしかし、妄想でもいいからそれなりに解釈出来ないものだろうか? この期間が大和王権成立プロセスを語る上で一番大事なんだろうし
428 :
日本@名無史さん :2009/05/05(火) 10:00:41
それなりに解釈していいなら、 邪馬台国の場所みたいに、何パターンも解釈できる。 それに何の意味が?
429 :
日本@名無史さん :2009/05/05(火) 13:40:24
うーん。どうなんだろう? 邪馬台国の議論も意味がなかったとは思わないが。 少なくとも不弥国=宇美、投馬=鞆と解釈できるし
430 :
ローガン :2009/05/05(火) 15:53:23
>>427 > いやしかし、妄想でもいいからそれなりに解釈出来ないものだろうか?
妄想でよければ…
石塚やホケノ山から特殊壺、器台は見つかっていません。葬制についての吉備の直接的な影響は箸墓、西殿塚、中山大塚からだと思います。
弧文板が石塚のものとだとしても、器台の蕨手の様なデザインとは似て無いような気が…。
431 :
日本@名無史さん :2009/05/05(火) 16:20:09
いずれにしても、解釈である以上、砂上の楼閣になるだけ。
432 :
日本@名無史さん :2009/05/05(火) 20:55:54
テレビで南米の高床式住居をみたんだけど、 かなり柱が細かった。 太さ10センチくらい。 で、自炊も高床の上でしていた。 これなら、マキムクも高床式住居群と見ていいんじゃないかな?
433 :
日本@名無史さん :2009/05/05(火) 20:57:29
吉備の直接の影響が布留0以降だとすれば、庄内期のマキムク型築造には吉備は直接関与してなかったということ。 近藤の言うような吉備東遷の線は消える。 古墳は楯築からマキムクに直接伝わったんではなくて、どこかでワンクッション置いていると考えれば、 その場所は阿讃播地域になるだろう
434 :
ローガン :2009/05/06(水) 00:34:12
>>433 > 吉備の直接の影響が布留0以降だとすれば、庄内期のマキムク型築造には吉備は直接関与してなかったということ。
> 近藤の言うような吉備東遷の線は消える。
仰る通りかと。近藤説では、石塚ホケノが箸墓より古いと困る。(本人談)
> 古墳は楯築からマキムクに直接伝わったんではなくて、どこかでワンクッション置いていると考えれば、
> その場所は阿讃播地域になるだろう
ん〜やはり、古墳の祖型は楯築だと… 詳しい方に教えて頂きたいんですが、「段築」の始まりを弥生墳丘墓に求めていいんでしょうか?
楯築は法面勾配が変わるラインに列石がありますがこれは段築とは関係ないでしょう。
萩原も去年見てきましたが、段を積んではなかった。
楯築みたいな双方中円墳なら、 石清尾山の猫塚古墳、鏡塚古墳がある。 石清尾山はマキムクと同じように時代が遡る可能性がある。
同じ高床式の建築物でも、 床面を支える柱が碁盤の目状/格子状に林立してたら倉庫、 壁面部分と屋根を支える柱だけしかなかったら神殿または住居 という感じで区別してるらしい。 床下にも柱がある=積載量を考慮した構造 という考え/解釈らしい。
今のところ、入り口の階段跡が見つかってないんでしょ?
438 :
日本@名無史さん :2009/05/06(水) 11:52:32
階段ってまだ無いだろ。 丸木を削った梯子はあっても。
439 :
日本@名無史さん :2009/05/06(水) 22:39:16
梯子は取り外し自由で、固定してなかったと思う ネズミの被害に気をつけないといけないし、 夜は泥棒や強盗もこわいし だから梯子の痕跡は地面に残りにくいんだと思う もちろん梯子そのものも腐るし、 あるいは古くなれば転用したり焚き木にされたり
高床式だってわかれば、梯子は出土しなくてもいゝだろう。 かなり立派な階段であったなら、それなりの痕跡は遺ってると思われ。 それらしい跡が無ければ、何らかの梯子だろう、って――簡易な階状梯子だとは思うが。
出てきているのは宮殿ってレベルじゃないから、 簡易梯子で問題ないな。
442 :
日本@名無史さん :2009/05/08(金) 17:48:34
手長足長が住んでたんで、梯子なんかいらんのだよ。
443 :
日本@名無史さん :2009/05/08(金) 22:00:34
貴族だからって高床式に住んでたわけじゃないんだよな 万葉集には皇族が竪穴式住居の扉を上に上げて出てくる歌とかあるし
444 :
日本@名無史さん :2009/05/14(木) 19:18:52
先日ふと、マンコの数が気になったので数えてみることにした。 1マンコ2マンコ3マンコと私は順調にマンコを数えていった。 そしてそれがある数に達したとき突然異変は起こった。 それは、9997マンコ…9998マンコ…9999マンコ…と数えた後である。 9999マンコのあと、次の数を数えようとしたところ、なんと1マンコに戻ってしまったではないか! 不思議に思い、また最初から数えなおしたのだがまたしても9999マンコの次で最初に戻ってしまった。 その後数回繰り返し実験してみたが、結果は同様であった。 試しにチンポを1から数えてみたところ、そのような現象は起こらなかった。 この発見を次の学会で発表するつもりである。
445 :
日本@名無史さん :2009/05/14(木) 19:46:51
その現象はセンズリでも起きるよ。奇怪だな。
446 :
日本@名無史さん :2009/05/14(木) 21:12:30
マジレスでもないと思うが・・・
448 :
日本@名無史さん :2009/05/15(金) 00:44:49
449 :
日本@名無史さん :2009/05/19(火) 18:28:45
450 :
日本@名無史さん :2009/05/19(火) 23:53:29
5月末の白石の講演会は興味がある。またガチガチの畿内説として飛ばしてくれるんだろうw ただまあ個人的には理化学的年代測定には期待してるので、 歴博には頑張ってほしい。考古学者は従来の年代観に引きずられ過ぎだろ
考古学の年代間は曖昧だからね。 絶対に確実なことは分からない。 ただ、卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命のせんは強くなっているよね。
考古学の年代間は曖昧だからね。 絶対に確実なことは分からない。 ただ、卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命のせんは強くなっているよね。 これが、はじめての大まかな年代感の一歩だな。
453 :
日本@名無史さん :2009/05/20(水) 12:21:46
卑弥呼がモモソヒメなのはかなり可能性が高い。 しかしトヨスキイリヒメの墓がホケノだったり、伝承に若干の混乱が見られるから、 マキムク伝承に出てくる女性祭司のどれか一人が卑弥呼と言った方が無難。
>>450 > ただまあ個人的には理化学的年代測定には期待してるので、
> 歴博には頑張ってほしい。考古学者は従来の年代観に引きずられ過ぎだろ
前前スレだったかに書いたが、
年輪年代法に基づいた年代の発表は
「従来の年代観」で100年くらい修正したものだぞ。
455 :
日本@名無史さん :2009/05/20(水) 22:08:11
そうそう。精度が低いという理由で「従来の年代観」で修正をかけている。 考古学者の反発もあるのだろうが
もう、学者の間では、ほぼ、邪馬台国=大和国で決着している。 あとは、卑弥呼の時代が 大和王朝でいう、どの天皇ぐらいの時代かということだけ。 で、一番、可能性が高いのは、崇神天皇あたりの時代。
457 :
日本@名無史さん :2009/05/22(金) 18:49:57
■大阪府立弥生文化博物館 講演会
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/lecturer/index.html 大阪・滋賀博物館連携企画特別講演会
5月23日(土)
◆「卑弥呼の居処[すみか]とその周辺」
奈良県立橿原考古学研究所総務企画部長 寺沢 薫 氏
◆「鼎談 卑弥呼の居処[すみか]とその周辺」
奈良県立橿原考古学研究所総務企画部長 寺沢 薫 氏
滋賀県立安土城考古博物館学芸課長 大橋信弥氏
当館館長 金関 恕
時 間:午後2時〜4時 ※午後0時30分から整理券配布・午後1時30分から受付
場 所:当館1階ホール
定 員:170名(当日先着順)
聴講料:無料(要入館料)
大阪府立弥生文化博物館 大阪府和泉市池上町4丁目8-27(JR阪和線信太山駅から西へ約600m)
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/ ◇新型インフルエンザ対応について
大阪府立弥生文化博物館は、現段階では博物館所在地(和泉市)が、患者所在地および患者が発生した学校等の所在地となっていない段階のため、通常どおり営業しています。
23日(土)講演会、24日(日)ミュージアムコンサートも現時点では開催する予定です。
なお、感染拡大防止のため、当館職員はマスクを着用させていただきます。また、ご来館者の皆さまにおかれましても、マスク着用等にご協力くださいますよう、お願いいたします。
今後博物館所在地が患者所在地および患者が発生した学校等の所在地となった場合は、臨時休館する場合があります。
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/infuru.html
458 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/22(金) 20:35:42
>>456 だったら親魏倭王の金印は卑弥呼でなく天皇がもらってるよ。
だから畿内説は成立しない。
459 :
日本@名無史さん :2009/05/23(土) 08:15:54
卑弥呼を推戴して世の中が収まったとするなら、太田田根子の方がモモソヒメより卑弥呼らしいな。
460 :
日本@名無史さん :2009/05/23(土) 16:56:07
461 :
日本@名無史さん :2009/05/25(月) 23:03:52
このスレも閑散としているなあ。 しかしまあ、ある程度コンセンサスが得られた事項については、 まとめて頂けると助かるのだが。 邪馬台国関連はスレが荒れるのでおいとくとしてw
ある程度コンセンサスが得られた事項としては、 ある程度コンセンサスを取ろうとするともめるってことかな。
463 :
日本@名無史さん :2009/05/26(火) 00:32:00
マキムクとは2世紀半ばから3世紀初頭の期間のいずれかに造営された新興都市である。 それまでの大和地域に首長墓の発展が見られないことから、マキムク造営については永らく外部勢力の関与が強調されてきた (筑紫東遷説、吉備東遷説など)。 しかし考古学的資料からは内外の軍事的緊張を示すものは少なく、むしろ平和裡に建設されたのではないか(倭国大連合) という主張が近年多くなされてきている。
464 :
日本@名無史さん :2009/05/26(火) 00:34:01
筑紫や吉備東遷の根拠とされた鏡信仰や古墳祭祀についても、鏡は大和に直接ではなくまず播磨を経由しており、 古墳についても阿波や讃岐を経由している。直接大和に入っていない。 北條が主張しているように、マキムク型前方後円墳の誕生には、吉備や筑紫よりむしろ、阿讃播の東瀬戸内地域が直接関与しているように思われる。 初期ヤマト王権の成立を考えるにあたり、東瀬戸内の役割は再検討しなければならないであろう。
465 :
日本@名無史さん :2009/05/26(火) 00:35:18
また大和の古墳だけが突然発生したわけではない。吉備の楯築も突然であり、椿井大塚山もそう、東海の前方後円墳の誕生も突然である。 そもそもが楯築や出雲の西谷、筑紫の平原と比べて、マキムクの石塚が特別に新しいとは言えない。 弥生後期を通じた首長権力の高まりは倭国全体の事象であって、大和や吉備、東海は後進であったというに過ぎない。 その先進はおそらく大陸と接触する機会の多かった筑紫と出雲であったと思われる。 吉備や畿内、東海は大陸文化と関わることが少なく縄文由来の族長制が強く残り、首長権力の発展に一定の歯止めをしていたのだろう。
466 :
日本@名無史さん :2009/05/26(火) 00:38:32
倭国大連合の契機が一体何であるのかは議論の分かれるところであるが、 弥生後期以降、地球的規模の寒冷化により、それまでの弥生由来の政治体制、生産システムが立ち行かなくなったからというのが妥当ではないか。 弥生後期を通じた首長権力の高まりも同じく世界規模の寒冷化で説明できる。
467 :
日本@名無史さん :2009/05/26(火) 00:41:00
一部の声として、マキムクには人が住んでいなかったというのがあるが、 各地から集めたであろう労働者をわざわざ遠方からマキムクに集めるというのは余りに非合理であり、 無視してよいだろうと思う。 マキムクの3割近くを占める外来土器は、搬入土器とみるより、各地から集まった労働者がマキムクで生活するにあたり各々製作したと見る方が自然であろう。 計画都市であったマキムクは労働者は分散することなく決められたスペースに集住していたであろうし(その方が管理し易い)、 その場所が見つかっていないに過ぎない。 いずれ発掘が進むにつれエジプトのワークマンズ・ヴィレッジのようなものが見つかるであろう。
弥生時代終焉のしくみ 寒冷化による凶作・飢餓の頻発 →隣国同士で食糧備蓄を奪い合う弥生戦国時代に突入(例:倭国大乱) →自衛のための武器の生産が盛んになる →防衛&略奪上手な武人が、稲作上手な酋長に取って代わり、大王になる(王権の発生) →武人的開拓王の生前の業績を称えて、その後継者のやる気を高めるために古墳が盛んに作られるようになる →マキムクを王都とする古墳時代に突入。っていう理解でオケ?
環壕都市内の密集状態が社会システムの構築を加速させたね。 武断政治だったかどうかは分からない。 派手な英雄譚が少ないから宗教色が強かったのかも知れない。 中華化していた記紀編纂の時代には否定したくなるような。
470 :
日本@名無史さん :2009/05/27(水) 08:57:23
古墳の副葬品の変遷 前期(銅鏡)→中期(鉄剣・鉄鎧)→後期(金装飾品) (銅)鏡は太陽祭祀のシンボルで、農業王を示す。武器は軍人王、金の装飾品は交易(商工業)王をしめす。 まさに「衣食足りて礼節を知る」人類発展の縮図であるマキムクは王都に相応しい。実に素晴らしい。 ニギハヤヒ(布留・大歳・大物主)万歳!
金は様々なシンボルに兼用されるから、その意味では若干の微妙さはあるな。 太陽を示すシンボルになることもあるし、王権のシンボルのこともある。(いずれも古代エジプトの例) 仏を示すシンボルのこともある。(日本に伝来するまでの仏教で特に顕著だが、日本でも、古代には仏像は金色と決まっていた。) まあ、古墳時代の日本列島で仏教の影響は、きわめて考えがたいわけではあるが。
472 :
日本@名無史さん :2009/05/27(水) 23:10:22
実際のところ大和王権の成り立ちは、三輪山の祭祀王家(女系)が徐々に軍事的指導者(男系)に取って代わられる過程。 世界的にみても古代日本は女系的要素が強く残っている国なんだけどね。。 ウケイ説話でアマテラスが勝ったりスサノヲが勝ったり混乱が見られるのはその所為なんだろう
473 :
日本@名無史さん :2009/05/27(水) 23:23:57
奈良県磯城郡三宅町の伴堂東(ともんどひがし)遺跡に注目!
御所市の南郷遺跡群の方が注目では?
475 :
日本@名無史さん :2009/05/28(木) 00:34:41
■三河遺跡:ヤマト王権の直轄地「屯倉」、調査成果を展示──橿考研 /奈良
県立橿原考古学研究所(橿原市畝傍町)1階アトリウムで、古墳時代のヤマト王権の直轄地「屯倉(みやけ)」があったとされる三宅町の三河遺跡の調査成果を展示している。
三宅町の町名の由来になったという「屯倉」について知ることができる。6月30日まで。
同遺跡は、京奈和道建設に伴い、1995年10月から00年7月まで断続的に発掘調査が行われ、弥生時代から中世までの遺構が確認された。
県内唯一とされる二重周濠を巡らせた円墳(6世紀前半)が見つかり、屯倉を管理した有力者の古墳と推定されている。
また、近くの伴堂東(ともんどひがし)遺跡では、愛知県・東三河地方の土器が大量に出土。
坂靖総括研究員は「古墳時代前期から、東三河地方などから技術を持った人々が移り住み、周辺の屯倉開発が始められた可能性がある」と話している。
会場では、藤ノ木古墳の金銅製馬具の分析などを行った同研究所指導研究員の久野雄一郎さん=4月25日に79歳で死去=の業績をしのぶ展示も同時開催されている。
両展示とも、平日午前9時から午後5時まで。6月7日は午後1時から公開。入場無料。【高島博之】
毎日新聞 2009年5月26日 地方版
http://mainichi.jp/area/nara/news/20090526ddlk29040743000c.html
>>472 > 三輪山の祭祀王家(女系)
今はこういうものがあったかどうかも分からない状態だけどね。
477 :
日本@名無史さん :2009/05/29(金) 08:25:13
>>476 まあそんなことが分かることは永遠にないと思うが。
あくまで文献から推測するだけで。
>>471 >古墳時代の日本列島で仏教の影響は、きわめて考えがたいわけではあるが。
古墳は道教の影響だと聞いたことがあります。
道教は中国古来の神仙思想で、世界の中心に中国皇帝、
西端(白虎)の崑崙山に西王母、東端(青龍)の蓬莱山に東王父が住んでいて、
巻向王権の王者は、死後、蓬莱山の東王父(仙人)となるべく、神獣鏡を伴って埋葬されたそうです。
ちなみに中国では始皇帝を初め歴代皇帝が、蓬莱山を探させたため、黄金ラッシュならぬ蓬莱山ブームが巻き起こったそうです。
徐福はその特使として蓬莱山を日本列島に求めて来日し、王となって、帰らぬ人となったそうです。
479 :
日本@名無史さん :2009/05/29(金) 10:12:01
■奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定
古墳時代の始まりとされる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が築造されたのは240〜260年という研究を国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)がまとめた。
放射性炭素年代測定によるもので、250年ごろとされる卑弥呼の死亡時期と重なる。畿内説と九州説とが対立している邪馬台国の所在地論争にも一石を投じることになりそうだ。
「魏志倭人伝」など中国の史書によると、卑弥呼は2世紀末〜3世紀初め、それまで戦乱を繰り返していた倭国(わこく)(現在の日本)の国々が共通の女王として擁立。
邪馬台国に都を構え、239年には中国・魏王朝に使者を送って皇帝から「銅鏡百枚」など多くの品々を贈られたとされる。
全長280メートルの前方後円墳である箸墓は、最大でも110メートルだったそれ以前の墳丘墓とは規模が大きく違う。強大な政治権力が誕生したことを物語り、時代の画期を示すものと考えられている。
魏志倭人伝にある卑弥呼の墓と、箸墓の後円部の大きさが近いことなどから、古くから箸墓を卑弥呼の墓とする考えがあった。
考古学では、少し前までは4世紀の築造と考えるのが主流だった。宮内庁指定の陵墓で本体の調査はできない。
周囲で出土した土器や他の古墳で見つかった鏡などを手がかりに研究が進み、3世紀後半と見る研究者が増え、卑弥呼との関連が注目されるようになっていた。
歴博は全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定。その結果、箸墓の堀や堤からも出土し、箸墓が築造された時期の土器と考えられている「布留(ふる)0式」が使われた期間を240〜260年に絞り込んだ。
31日にハワイで始まる放射性炭素国際会議と、同日に早稲田大である日本考古学協会の研究発表会で報告される。
歴博研究グループ代表の西本豊弘教授(考古学)は
「慎重に進めた5年間の研究の総まとめで結果には自信を持っている。どのようにしてこの年代を求めたのか、だれでも検証できるように測定データも含めてきちんと公表するようにしたい」
と話している。(渡辺延志)
朝日新聞2009年5月29日
http://www.asahi.com/culture/update/0528/TKY200905280355.html
480 :
日本@名無史さん :2009/05/29(金) 10:30:07
481 :
サガミハラハラ :2009/05/29(金) 12:53:15
箸墓はヒモモソ媛の墓といわれ、書紀の崇神10年の記事にでてくる。 これは復元日本書紀紀年法では273年のことである。今回の考古の結果とはかなり近いがまだ13年の開きがある、
482 :
日本@名無史さん :2009/05/29(金) 14:20:51
483 :
日本@名無史さん :2009/05/29(金) 16:38:46
産経新聞 別報(関西版)
2009年5月29日
■邪馬台国 ナゾ解き続く 化学分析、畿内説に"軍配" 箸墓古墳
「昼は人が造り、夜は神が造った」と日本書紀に記された箸墓古墳(奈良県桜井市)。邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説もあり、大和か九州かで揺れる邪馬台国の所在地論争もからんで、被葬者は古代史最大の謎ともされる。
その築造年代を「放射性炭素年代測定」は西暦240〜260年とはじき出した。これは、中国の歴史書に記された卑弥呼の没年とほぼ合致。科学分析は邪馬台国畿内説に“軍配”をあげた形になった。
しかし、測定法の精度を疑問視する見方もあり“謎解き”はまだ続きそうだ。
「卑弥呼が魏に朝貢(239年)。2代目女王・壱与(いよ)朝貢(266年ごろ)」。中国の歴史書「魏志倭人伝」は、3世紀の日本について年代順に細かく記述している。
年代測定を行った国立歴史民俗博物館の研究チームは、箸墓古墳や他の遺跡出土の土器など数千点の放射性炭素年代を調査。
箸墓古墳の周(しゅうごう)から見つかった「布留0(ふるゼロ)式」とよばれる土器は、西暦200〜300年代の測定結果が出されたが、
これより少し新しいとされる形式の土器「布留1式」では270年ごろと割り出したことなどから、「布留0式」を240〜260年に絞り込むことができたという。
研究チームの小林謙一・中央大学准教授は「かなり精度の高いデータが得られた」と強調する。
一方で、考古学者を中心に慎重な見方が多いのも事実だ。
かつて箸墓古墳を発掘した奈良県立橿原考古学研究所の寺沢薫・総務企画部長は
「研究途上の炭素年代測定によって、10年単位まで絞り込むことができるのか疑問がある。これで箸墓古墳の築造時期が決まったとはとても思えない」
と指摘する。
箸墓古墳を270年ごろの築造とみる兵庫県立考古博物館の石野博信・館長も
「科学的な炭素年代を頼りにしたいが、まだまだデータが不足している」
と慎重な立場だ。被葬者像については
「箸墓のような巨大古墳は、戦乱をおさめ、卑弥呼の後に女王になったとされる臺与(とよ)(=壱与)こそふさわしい」
と話した。
http://www.sankei-kansai.com/2009/05/29/20090529-010451.php
トヨタン・・・・・・・・・・
485 :
日本@名無史さん :2009/05/29(金) 17:45:11
486 :
日本@名無史さん :2009/05/29(金) 18:12:50
>>482 ニュー速でも畿内説支持で圧勝だな。
去年くらいまでは、それなりに九州説が論陣を張ってて拮抗してたものだが。
さすがに、九州説も卒業ということか。
487 :
日本@名無史さん :2009/05/29(金) 19:42:28
読売新聞 別報(関西発)
■「箸墓古墳の築造は240〜260年」…歴博 卑弥呼死亡時期と一致
土器年代測定…「誤差ある」反論も
「卑弥呼の墓」との説がある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)の築造時期について、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループが240〜260年とする調査結果をまとめた。31日開かれる日本考古学協会の総会で発表する。
この年代は、魏志倭人伝に「卑弥呼以て死す、大いに冢(ちょう)を作る」と記載された247年頃と時期が一致し、倭の女王・卑弥呼がいた邪馬台国の所在地論争にも影響を与えそうだ。
同グループの春成秀爾(はるなりひでじ)・同博物館名誉教授は
「これで箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは間違いなくなった。生前から墓をつくり始めていたのだろう」
と話している。
*
年代は、同古墳から出土した「布留(ふる)0式」と呼ばれる土器に付着した炭化物など約20点を放射性炭素(C14)年代測定した結果、導き出された。
箸墓古墳は全長280メートルで、最初に築かれた巨大前方後円墳。邪馬台国論争の鍵を握る古墳として注目されている。
今回の成果は、木の年輪が1年ごとに幅が違うことを利用した年輪年代測定法で補正していることなどから、慎重な見方もある。寺沢薫・奈良県立橿原考古学研究所部長は
「今回測定された土器の試料のうち、築造時のものは少なく、誤差を考慮すれば、まだ結論を出すわけにはいかない」
と主張する。
邪馬台国論争を巡って、畿内説をとる白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は
「分析の精度は極めて高いと認められ、造営年代に科学的な裏付けが与えられた」
と指摘。
一方、九州説の高島忠平・佐賀女子短大学長(同)は
「今回の測定法で築造年代が決められるのか疑問。邪馬台国の所在地を決めるにはさらに議論をすべきだ」
と語る。
(2009年05月29日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is90529a.htm
このあたりの時期って、箱根埋没林の結果から、 C14が少なくとも30年は古く出ることがわかってるところじゃん。 これで浮かれてるやつって、馬鹿なの?死ぬの?
489 :
日本@名無史さん :2009/05/29(金) 22:52:36
>>488 それも考慮しての240〜260ではないでしょうか。
490 :
日本@名無史さん :2009/05/29(金) 22:53:31
彼らには「恥知らず」という言葉がお似合いですな。
なわけないだろ。いつ日本国内の較正曲線ができたんだよ。
>487 記事中の説明、 >今回の成果は、木の年輪が1年ごとに幅が違うことを利用した年輪年代測定法で補正していることなどから、慎重な見方もある。 ちゃんと勉強してから記事書けよ... ウィグルマッチングと年輪年代法は完全に別物だぞ。 こんな記事だと、記事では反論を言ったとされている寺沢薫さんの発言だって、 本人の言った内容と全然違う内容で載ってるかもしれん。 正しく意味の通った反論だったのがデタラメで間違った反論にすり替わってるおそれがあるな。 (元の発表だって、デタラメな内容にすり替わって紹介されてるかもしれんし。) これだから新聞記事は信用できないんだよな。
それは単に較正曲線のことを言ってるだけだろ。
495 :
日本@名無史さん :2009/05/30(土) 00:31:42
放送でも較正曲線とマッチングさせてたもんな
496 :
日本@名無史さん :2009/05/30(土) 00:36:35
>>480 ニュー速+で盛り上がっているのは、
これまで通りの邪馬台国所在論で、
この年代測定に関してはほぼスルーだな。
>>488 そもそもこれまではC14年代測定だと、
二世紀頃という結果になっていたわけだしね。
三世紀初頭が辛うじて入るくらい。
誤差も資料によって違うが、50年から150年ある。
>>492 そもそも年輪と較正曲線があるなら、
C14年代測定なんて使う必要ないよね。
498 :
日本@名無史さん :2009/05/30(土) 02:49:50
土器に付いたススをサンプルにした
年輪は、片材まで残っていてしかもある程度の年輪幅がないと正確に年代を測定することができない。 すなわち遺物の残り方の偶然性にずいぶんと左右されるのが難点。 その点、AMS法C14年代測定はテレビ報道でもあったように、微量のススでも測定できるから相当有用。 あとは補正がちゃんとできるかどうかだな。もっともっとやってデータを増やせばいいのでは?
片材じゃなく辺材だったな、スマソ。
>>499 データ増やせばとはいっても、較正曲線が作れるような
年輪とC14が同時に測定できる良好なサンプルが出土するのは、かなり難しい。
あわてず騒がず、長期戦を覚悟すべし。数十年のスパンで。
光谷が伝泥始めたときに同時にC14もやってれば、と思うけど、
資料が保存液付けになってしまった今ではもう遅いしな。
502 :
日本@名無史さん :2009/05/30(土) 13:00:08
昨日の夜九時のニュース映像じゃマッチングさせてただろ あれが較正曲線だろ 違うのか?
>>501 >資料が保存液付けになってしまった今ではもう遅いしな。
意味不明、というより埋蔵文化財の保存科学に全く無知と思われ
>>503 馬鹿(言葉が悪ければ素人)ばかり書いてた、年輪年代スレから来たんだろう。
505 :
日本@名無史さん :2009/05/30(土) 14:07:28
>>503 光谷氏のところには標準パターン作成した時の木材の資料が残ってるんだよ。当然だが。
普通なら、それを使えば日本国内用の校正曲線が作れそうだろ。
しかし、それらの資料は長期保存のために保存液が染み込んだ状態になってるから、
もはや、C14の資料としては使えないんだと。しらんのかいな。
樹脂含浸置換法でもフリーズドライ法でももう少し勉強したら?年輪ならデータとして記録 しとけばいいし、C14なら少量のサンプルで十分。
508 :
日本@名無史さん :2009/05/30(土) 16:28:28
>>506 そうですね。
それ故、光谷氏の測定結果の検証は誰もできない。
というよりも測定結果そのものが非公表である。
なので測定したことそれ自体の確認もできない。
依頼で持ち込まれた資料を、奈文研は返却しないとでも?
510 :
日本@名無史さん :2009/05/30(土) 16:37:17
じゃあ、いままで第三者による測定値の検証がされたことがあるんかい。 本来なら「全て」が検証されないと意味がないことくらい理解できる知能はあるよね。 検証もれが1個でもあれば普通なら大問題。 この問題では逆に検証された例がないという低レベルなことが問題にされている。
独立した研究機関が独自に検証した例が本当にないのであれば、 かなり大きなスキャンダルでは?
>>506 確かにPEGが残った割合に依存して測定される14C年代は見かけ上古くなるんで、除去
処理が必要だが、技術的にはまだ難しい点が多いね。
検証に関しては、光谷氏のデータを用いても意味がないと思うんで、他の研究所なりで
標準年輪曲線を作り直すことが必要だろう。サンプルはなんとかなるだろうし、多人数で
やればそんなに時間もかからないだろうが、問題は金かな?
金、欲しいっすよ(T_T)
515 :
日本@名無史さん :2009/05/30(土) 17:36:31
>>513 >光谷氏のデータを用いても意味がないと思うんで、
これは光谷の全否定か?
光谷の測定値そのものから検証をしないと光谷の検証にはなならいのだが。
>>515 光谷氏のデータを用いて検証すれば、意図的なあるいはミスによる錯誤があるかどうかは
わかるだろう。しかし、年輪曲線自体の信頼度については何ともいえない。
新たな標準年輪曲線をつくって、光谷氏のものと合致するか調べるのが最も確実な検証で
あると思う。そのほうが学問も進むだろうし。これは、データを出す、出さないとかとは別次元
の話。
517 :
日本@名無史さん :2009/05/30(土) 18:15:57
結局、持ち込まれる場所が一カ所というのが光谷氏にとっても不幸であるのだろう。A・B・C ・・・など複数の機関で実年代が割り出せるなら、いつも他と違った年代になる所は信頼の おけないものとして廃れるしかない。まあ、いずれそうなると思うがね。 あと、俺は光谷氏を個人的に攻撃も援護もする立場にはないよ。
519 :
日本@名無史さん :2009/05/30(土) 18:40:47
>>513 >サンプルはなんとかなるだろうし、多人数で
なんとかならないから、今だに光谷氏の独擅場なんだろ。
比較的新しければともかく、古代となるとかなり難しいのでは?
光谷氏が成功したのも奈文研には平城宮址から出土した木材が豊富にあったからだとも言うし。
時代が新しければやってる人は確か複数いるのではなかったっけ?
古代まで延ばせないだけで。
>検証に関しては、光谷氏のデータを用いても意味がないと思うんで、
少なくともINTCAL04との比較でとてつもなく外れているのか、
そうでないかぐらいの検証はできる。
一部がのたまうような数百年規模の標準パターンの接続ミスが
あるかどうかぐらいははっきりするだろ。
521 :
日本@名無史さん :2009/05/30(土) 19:13:35
理化学年代がまだ進歩途上なのは確かとしても、それは仕方ないでしょ。 歴博が発表した実年代、具体的にどのあたりに不都合があるんだろ? マキムクが邪馬台国になってしまうから?馬鹿馬鹿しい
522 :
日本@名無史さん :2009/05/30(土) 21:18:21
都合の良いデータと主張だけをいくら集めても、仮説の強化にならない。 反証や批判に真摯に向き合う姿勢が求められている。 自分が学者という自覚があるのであれば、都合の悪いことから目を逸らす ことだけは絶対にしてはいけない。
523 :
日本@名無史さん :2009/05/30(土) 21:51:33
わざわざ卑弥呼の死んだ時期と一致するなんて言わなきゃよかったのにな
20年に絞り込めるなんていうのが無茶すぎるんだよ。 素人だましもたいがいにせいってことだよな。
>501,503,506,513 別の研究で、 年代不詳の切り株を破壊して数年分ずつの単位でセルロースだけ単離精製して、 それのC14年代を測るって研究があったはず。どこの人だっただろうか... セルロースだけを精製するという方法でかなり汚染物を除去できるんじゃないの。 それ以外の研究でも、AMSでの測定前にはアセトンとかで洗浄してるし。 無機化合物(炭素化合物を含む)を除去して、有機物の炭素だけにしてからAMSの測定に使うのが常套だから、 保存液に入ってても問題はないと思うんだけど。
>>526 を読んで意見のすれ違いが分かったww
>>501 はたぶん保存処理をすると年輪幅が変わるから、年輪の再測定が不可能に
なるとの意味だろう。つまり、光谷の測定値の検証は困難だから前提が確定しない
状況でC14を調べても意味がないということ。
>>503 は保存処理をしてもC14は破壊されないという意味で述べている。
C14が破壊されないとしても保存処理後に不純物の除去ができるのか疑問はあるが。
PEGはバリバリの有機物だが。 アセトンは揮発性がものすごく高いから除去は簡単なんだろう。
いくら除去しにくい成分でも、セルロースだけ単離されたら、 木材に最初から含まれてた有機物もあとから入り込んだ汚染物も一緒に除去されるだろ リグニンとかと一緒に除去されてしまうんじゃないの。 セルロース単離の際にはセルロースを可溶化したり沈殿させたりするんだから、溶けにくい分子は除去されるはず。
>削り取った試料を蒸留水に浸して沈水させたあと超音波洗浄し、汚れを取りのぞく。 試料に付着しているPEGは融点が約60度で水に可溶であるため、まず数グラムの削り 状の試料を、ビーカーに蒸留水と共に入れて90度で加熱処理する。加熱すると泡の ようなものが液面に浮かんでくるため、この操作を10回以上繰り返す。。次に、1.2規 定塩酸で90度で2時間の処理を2回行い炭酸塩等を溶解除去する。さらに、1.2規定 水酸化ナトリウム水溶液を用いて90度で2時間処理してフミン酸などを溶解除去する。 このアルカリ処理は、水溶液がほとんど着色しなくなるまで繰り返した。さらに、1.2規 定塩酸で90度で2時間の処理を2回行い、蒸留水でよく洗浄して塩酸分を完全に取り 除いたあと乾燥する。最終的に得た乾燥試料はごく少量であった。 文部科学省HP
>>530 どこまで間抜けなんだ、
>>530 は。
URL書かなければ、ばれないとでも思ったの?
>杭材(SK12)試料の14C年代は、1725プラスマイナス20yr BPと得られた。
(中略)
>今回の測定結果は、土器編年から予想される年代である平安時代に比較して
>300年以上古い年代を示した。
(中略)
>しかし一方では、PEG含浸処理で試料に付加された石油起源の炭素が完全に除去出来ないために、
>見かけ上古い年代が測定された可能性も考えられる。
>板材(SK105)についても14C年代は、2445プラスマイナス20yr BPと得られ
(中略)
>SK105試料と同様に14C年代測定からは推定年代よりも200〜500年古い年代が示される。
(中略)
>木製品の作成に、わざわざ大木の中心部を使う可能性は低いとすれば、
>含浸処理のために注入されたPEGの効果である可能性が高い。
ようは失敗しましたという報告じゃないか。
大体、こういうことを確認しようと思えば、同じ試料(まったく同一か、同じ試料の別の部位)をつかって、
一方は保存処理前、他方は保存処理+PEG除去の条件でC14測定をし、
PEG除去後も未保存処理の場合と同じ数値が得られることを示さないとまったく無意味だろ。
あほか。
■箸墓古墳:歴博が「卑弥呼の墓」説 築造時期などから
──考古学協会理事、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請──
──データの信頼度など会場から質問続出──
国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)の研究グループは31日、古墳時代の始まりを示す箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)は240〜260年に築造されたと、東京・早稲田大であった日本考古学協会の研究発表会で報告した。
247年ごろとされる邪馬台国の女王・卑弥呼の死亡時期と重なるため、邪馬台国所在地論争の点で注目される。しかし、この測定結果によって箸墓を卑弥呼の墓とするには問題が残り、数値が独り歩きすることへの懸念がある。
発表後、司会者の同協会理事が「(発表内容が)協会の共通認識になっているわけではありません」と、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請を行った。
歴博グループは、放射線炭素年代法によって全国で出土する土器に付着した炭化物を中心に年代を測定。
箸墓でも、築造時の土器とされる「布留(ふる)0式」など16点を測り、この前後につくられた他の墳墓や遺跡の出土品の測定結果も総合して240〜260年を導いた。
発表者の春成秀爾(ひでじ)・歴博名誉教授は
「この時代、他に有力者はおらず、卑弥呼の墓が確定的になった」
と述べた。
しかし、土器付着炭化物は同じ地点から出た他の資料に比べ、古い年代が出る傾向がある。
中国の史書「魏志倭人伝」では、卑弥呼の墓は円形とあって前方後円墳の箸墓とは異なるなど、文献上からも問題があり、会場からはデータの信頼度などに関し、質問が続出した。【伊藤和史】
毎日新聞 2009年5月31日
http://mainichi.jp/select/today/news/20090601k0000m040042000c.html?link_id=RSH02
纒向遺跡の古墳群、卑弥呼側近を埋葬か 「畿内説」の根拠に
5月31日22時26分配信 産経新聞
早稲田大学で同日開かれた日本考古学協会総会で報告された。
纒向石塚古墳については出土した炭化物の残存炭素量を測定した結果、西暦200年
ごろの築造と推定。土器の形式変化から年代を割り出す考古学的手法では2世紀末〜
3世紀前半で、約50年間の幅があったが、今回の分析結果によって年代がさらに絞り
込まれることになった。
また、約200メートル西にある矢塚古墳(同、全長96メートル)は220〜260年ごろ、
矢塚古墳の南約300メートルに築かれた東田大塚古墳(同、全長120メートル)は
220〜240年ごろの築造の可能性が高いという。
研究グループは、卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳(同、全長280メートル)について、
卑弥呼の没年(248年ごろ)と合致する240〜260年築造との見解を出しており、
纒向遺跡内の最古級の前方後円墳は(1)纒向石塚古墳(2)矢塚古墳、東田大塚古墳
(3)箸墓古墳−の順に築造された可能性が高いとしている。
炭素年代測定法は数十年単位の誤差が出やすいとの批判もあるが、研究グループの
春成秀爾・国立歴史民俗博物館名誉教授(考古学)は「多くの資料を分析することで
年代を絞り込むことができた」と精度の高さを強調。纒向石塚古墳などの被葬者に
ついては「卑弥呼はまだ生きていた時代なので、彼女を支えた有力者の墓ではないか」と
している。
邪馬台国について中国の史書「魏志倭人伝」などによると、2世紀後半に卑弥呼が
擁立され、239年に中国に朝貢するなど3世紀前半を中心に隆盛したとされている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090531-00000575-san-soci
箸墓古墳、卑弥呼の生前に築造開始か 歴博が研究発表2009年5月31日20時36分
奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳の築造年代が西暦240〜260年ごろとする
国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究成果が31日、東京・早稲田大で開かれた
日本考古学協会の研究発表会で報告された。春成秀爾(はるなり・ひでじ)・同館名誉
教授は「箸墓古墳は卑弥呼が生前に築造した墓の可能性が強まった」との見解を示した。
同館は箸墓古墳やその周辺で出土した土器の付着物の放射性炭素年代を測定し、
築造時期を絞り込んだ。春成名誉教授は中国の史書「魏志倭人伝」の記述から、
卑弥呼が247年に死去したと推定。「全長280メートルの古墳を築造するには10年前後
かかったとみられ、今回分かった年代から、卑弥呼が生前に自分の墓の築造を始め、
死亡時に大部分は完成していたとも考えられる。卑弥呼自身が箸墓古墳を築造していた
可能性が高い」と報告した。
会場となった教室は400人の聴衆で満員に。「付着物の年代が土器より古い可能性も
あるのでは」という質問も出たが、春成名誉教授は「同時に出土した植物の種も測定
したが、ほぼ同様の年代が出ている」と応じていた。
http://www.asahi.com/culture/update/0531/OSK200905310039.html
535 :
日本@名無史さん :2009/06/01(月) 12:35:02
>>534 >「同時に出土した植物の種も測定したが、ほぼ同様の年代が出ている」と応じていた。
桃の種と比較したのかな?
桃の種と土器付着物との間には格段の違いがすでに確認されているのだが・・・
この人のやっていることは、確証バイアスそのものだよね。
自説に都合の良い事実だけを捜し求めて、自説への確証を高めていく。
これは宗教に見られる方向性では?
遺跡も特定できない、塚も特定できない九州説はこれで終了〜!!
桃の実のが少し新しく出たりしてることがある 東田大塚でもよく見ると、種子や木製品が少し新しい値が出ているみたいだ ほぼ同じ、と言っても、こういう歴史事象への比定では少しの違いが大問題 たとえそれが10年でもだ 発表者の一人の小林謙一氏は縄文が専門だから50年以内の誤差は「ほぼ」同じという感覚なのかもだが、この問題ではマズいだろう 依然として、煤の測定値は実際よりやや古く出ている可能性があるだろ 燃料に少しでも古い材が混じっていればあれば古くなりうるはずだが まだまだ問題は多いはずだ
538 :
日本@名無史さん :2009/06/01(月) 22:52:27
桃の実は10年どころではなく、数十年〜百年ほど古く出ているのだが・・・ 5〜7Cの比較的年代の信頼できる遺跡から出た試料の計測値と比較すれば 少しは信頼度が増すだろうに。逆に言えばそれさえもせずに・・・
539 :
日本@名無史さん :2009/06/01(月) 23:06:21
桃の実の方が煤より「古く」? 「新しく」じゃなかった?
540 :
日本@名無史さん :2009/06/01(月) 23:07:43
>>536 九州説では遺跡は佐賀県小城市甘木で塚(墳丘)は小城公園内桜ケ岡(サクラオカ)となっていますよ。
このことはかなり前からいわれていますよ。
541 :
日本@名無史さん :2009/06/01(月) 23:10:00
サガミハラ登場(笑)
542 :
日本@名無史さん :2009/06/01(月) 23:10:22
正直、誤差はあるだろうし、今後の研究成果を待つしかない。 今回の発表は暫定的なものだろう。 それにしても九州東遷説の発狂振りは凄いなw 必死に否定しようとしている。自分たちの実年代観の根拠を示せよと
会場でも安本氏の仲間が空気の読めない質問してた 発表終わった後も春成氏を捕まえて大変なごとくになっていた訳だが
544 :
日本@名無史さん :2009/06/01(月) 23:20:07
あぁーあ、見たかったなぁ 議事録だか講演録だか、そんなのねぇーの?
545 :
日本@名無史さん :2009/06/01(月) 23:22:43
>>543 もっと詳しく聞かせて欲しいっす。
本人らにしてみれば死刑宣告受けたも同然だし
そりゃ必死になるわなw
>>543 暴言?難詰?糾弾?吊るし上げ?・・・・はたまた暴力?傷害?銃撃?
も、もっとkwsk!!・・・・ (;´Д`)ハァハァ
547 :
日本@名無史さん :2009/06/01(月) 23:34:57
同じ方法で、よその地域の古墳も調べたらいいんじゃないかな。 たとえば、宮崎あたりの古墳とか。
548 :
日本@名無史さん :2009/06/01(月) 23:36:32
何処を掘ったらいいか誰も解らないのにw
549 :
日本@名無史さん :2009/06/01(月) 23:56:45
空気よめないって、そうだね、春成さんにしたら最大級の人生ここ一番の大舞台なのにね。 みんなで「春成さんすごい、日本一、来年の宇佐での全日本邪馬台国論争大会でも発表してもらおう」 っておだてなきゃ。
550 :
田5作 :2009/06/02(火) 00:17:05
推定では古墳のほとんどは発見されてないか消滅しちゃったんだよね?
551 :
日本@名無史さん :2009/06/02(火) 00:42:42
まあ報告書が出るのを待つしかないか。 弥生時代が前10世紀に遡るという発表のときは、報告書が1年以上あとに出て、 そのこと自体を批判する論文まで書かれていたね。 しかも報告書は「これを前提にしても前8〜9世紀では?」という内容だった。 きりの良い数字に切り上げただけかもしれないが、なんとかならんかな。
反論にも物証のあるものとないものがあるし、 心証を述べただけってレベルのも、難癖レベルのもあるから、 反論が出たってだけじゃ意味ないな。 反論の内容を読んで、意味のある反論だったかどうかも紹介しなきゃ無意味。 せめて論者とかタイトルとか書いてくれたら調べる余地もあるが...
554 :
日本@名無史さん :2009/06/02(火) 20:04:50
弥生開始年代だが、考古学研究の宮地氏の論文は歴博年代の痛いところをついているよ
自分は絶対に正しいので奴らの言うことなど 反 論 す る 価 値 も な い 。
歴博年代も宗教じみて来たが>555みたいな狂信的なのもなぁ
557 :
日本@名無史さん :2009/06/02(火) 21:17:24
あの人たちは、畿内説の人間がデータを捏造してるみたいな陰謀史観なんで。 まあ、何というか可哀相な人ていうか
558 :
日本@名無史さん :2009/06/02(火) 21:23:55
どうなんだろ? 実年代がどうとか関係なく、安本の神武説話を拠り所にした単純な筑紫東遷は考古学的に否定されてるように思うのだが
559 :
日本@名無史さん :2009/06/02(火) 21:51:55
考古学的に否定されているという言い方はあるテイドはあたっているが、考古学的に証明されていないのほうがよく体を表していると思う。
560 :
日本@名無史さん :2009/06/02(火) 22:15:19
安本はともかく、考古学者の畿内説の人にも今回の歴博の発表は疑問視する人が多い訳だが
561 :
日本@名無史さん :2009/06/02(火) 22:28:43
ローガンさんが邪馬台国ドンと来いの747で、31日の講演のあと歴研発表の件について 説明があり、「炭素年代法の歴史とは考え出されて以来、修正の歴史であることを理解し ておかねばならない」そして、寿陵と思わせる記述が何もないのにもかかわらず 「箸墓はヒミコが生前から作りはじめた」といった春成さんを揶揄していましたね」 とあります。 内部でも春成さんの勇み足とみているようですね。
562 :
日本@名無史さん :2009/06/02(火) 22:35:02
邪馬台国の話は実年代が確定しないとどうしようもない話だからな。今後の理化学年代の進歩に期待というか。 現状、邪馬台国の話は学問的でないというか、今や倭人伝に頼らなくても、ある程度大和王権の成立プロセスは解明されてきている。 畿内説とか九州説とかは時代遅れというか、実年代確定後の議論だろう
進歩に期待するからこそ現在の限界を踏み外した歴博の悪行には心底腹が立つ。 こういうふざけたことをやっていると、正しい理化学年代の進歩を阻害する。
564 :
日本@名無史さん :2009/06/02(火) 22:53:46
悪行とか香ばしいなあ。 君が正しいと思う実年代はどうやって割り出したの?
土器による相対編年と舶載品の共伴関係の組み合わせでしょ。 それがなにか?
567 :
日本@名無史さん :2009/06/02(火) 23:36:53
大和王権の成立プロセスに倭人伝をもってくるのが間違いなのさ。イエーイ!
>>566 基本は甕棺の編年。それと前漢鏡、後漢鏡の出現時期ですか。
で、それがどうした?
>>568 たしかに、甕棺の編年からは、弥生前期、中期を長くする春成への批判がありますね。
前期をあそこまで長くできるような、甕棺編年は不可能であると。
前漢鏡についても、前漢が始まる前に前漢鏡が出土することになるとか。
後漢鏡については、その批判は言い切れないはず。
貨泉についても古くしすぎて若干危ないが、これもはっきりしない。
570 :
日本@名無史さん :2009/06/03(水) 00:33:45
これを言い出すと、中国より先に鉄器の普及が始まるという批判もある。 春成は、あれは中期のものが落ち込んだとして反論するが、発掘担当者が その可能性を否定してることへの再反論はないはず。
なんか樋口さんのスプリング8なみにデリケートな分野になりそうですな。
三角縁神獣鏡のデリケートさに比べればry)
573 :
日本@名無史さん :2009/06/03(水) 08:25:30
大雑把な書き方なんでよく分からないが、弥生後期の始まりを1世紀に持ってくるのは、 九州北部の中国鏡の出土状況とも合っていると思うが。 土器編年で古代の実年代を声高に主張するのはどうかと思うが。 ていうか編年の意味わかってる?
574 :
日本@名無史さん :2009/06/03(水) 08:32:20
庄内の巾をどれくらいに見るかだなあ… 実際どれくらいが落としどころ?
575 :
日本@名無史さん :2009/06/03(水) 09:00:12
春成さんもうダメぼ。全てスルーすべきね。
>>573 九州北部と合うのは実年代の根拠にならんだろ。
いずれにせよ、C14で20年の幅に絞った根拠を知りたいよ。
たぶん編年その他によって修正につぐ修正を行い、
初歩的な誤差処理もおろそかなんだろうけれども。
C14単独じゃ最低でも50年の年代推定の幅があるのに、
一体どうやって20年に絞ったのか。
畿内説が有力になればなるほど、
結論ありきの憶測を行うお調子者の研究者が増えてくるんだろうね。
577 :
日本@名無史さん :2009/06/03(水) 12:37:41
学界で論文を発表する前に、マスコミに「これで確定だ」とか 「教科書が変わる」とか自信満々で言うのは止めて欲しい。 一体何様なんだ。 他の学者の批判など無意味ということか?
土器編年では、 「○○という文物が中国から波及して△△までくるのに■年ぐらいかかって...」 などという、誤差を考えるのも無理なほどおおざっぱな仮定が加わってて、 数値に精度を導入する余地すらないからなあ。 誤差とか精度という概念を導入する以前ってレベル。
579 :
日本@名無史さん :2009/06/03(水) 18:46:35
高校日本史の用語集に拠ると、まきむくは畿内説の正当性を示す有力な遺跡、みたいにかかれてる
580 :
日本@名無史さん :2009/06/03(水) 19:13:17
>>579 教科書と言えば…
今の教科書は古墳時代の始まりはいつってなってる?
それと銅矛文化圏、銅鐸文化圏と言う二つの円を列島に重ねた図っていまだに載せてるのかな?www
581 :
日本@名無史さん :2009/06/03(水) 21:44:44
邪馬台国はどうでもいいから、 はじめて前方後円墳を設計したのは誰か(大和王権の大王は誰か)という話をしたいな。 めんどくさいから、邪馬台国は九州でいいよもう。 ホケノ山が最初ということでいいのかな? モモソヒメの父の孝霊天皇の墓だと時代的に合いそう。 四国にも前方後円墳の原型があるという話だけど、学会ではどうなの?
582 :
日本@名無史さん :2009/06/03(水) 21:52:05
>>580 古墳時代は前期中期後期の三段階型で各々4世紀5世紀6世紀に当たるとの記述があったような。
583 :
日本@名無史さん :2009/06/03(水) 22:13:25
584 :
日本@名無史さん :2009/06/03(水) 22:27:35
前方後円墳の起源は、そもそもは吉備の楯築墳丘墓で、それが阿讃播地域に波及、大和に伝播という流れ。 東瀬戸内沿岸の海商小国家群、いわゆる海人たちが大和王権誕生に大きく関わったことは間違いないだろう
585 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 00:29:13
>>584 宗教上の起源が吉備にあったということでしょうか?
それとも、墳墓造成上の様式のみ受け継ぎ、
宗教の発生は阿讃播地域の海人から、ということは考えられますか?
というのも、国生み神話は淡路島から始まってますからね。
586 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 00:47:43
>>584 前方後円墳の原形は日本海側によく見られる方形貼石墓だと聞いたが。
587 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 00:57:36
楯築墳丘墓も、大量の朱、鉄剣、玉類ということで、墓の様子は九州の系統 に思える。吉備で、こういうタイプの墓はそれ以前にあったのかな。
588 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 01:08:58
古墳ってのは立場によって形や規模が決まるのであって宗教観なんて関係ない 神話に前方後円墳の形に関する話があるか?ないよ
590 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 09:23:22
>>587 副葬品は無視していいレベル。
どの地域の設計者に墓を作らせたか(祀らせたか)が重要。
前方後円墳の原型は、吉備の楯築墳丘墓か徳島の萩原2号墓
葺石は日本海側の貼石ってことでいい?
吉備・徳島は同じ文化圏だろうから、やはりそのあたりに、
大和王権の宗教的起源をもつ民族がいたと思う。
国がたくさんあって、 侵略より婚姻で合併したようだから、 どこが本家かはまだ不明という所。
592 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 12:27:41
婚姻で合併って、一つでいいから例をあげてほしい。古代のだよ。
出雲大社の歴史(現在島根大学が解読中)では 鉄の精製に成功した出雲の王が、港を持ってる倭の女王と結婚した という記述がある。 倭の女王はとよ。
594 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 14:00:39
出雲の王が大国主命で倭の女王はイチキシマ媛ですね。とよではないですよ。 「出雲大社の歴史」正確そうですね。
トヨタン・・・・・・・・・・
596 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 14:30:55
イチキシマ媛は奈良の媛だったわけか。
597 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 14:44:39
598 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 16:52:01
>>597 しかし、ニュー速なんかだと、まだ九州説が幅を利かせてるが、
あいつらはみんな30代以上だったりするんだろうか?
考古学が進みすぎて、皆ついていけない人達。 遺跡はでてくるは、文献はでてくるは、 受験に奈良より前が出せない状態になっている。 どんどん歴史が変わるから、テストに出せない。 縄文時代に米をってたことも認められない人もいる。 反対に郷土歴史家は名を上げるチャンスなんだけどね。 聖徳太子ですら教科書からもいなくなった。
600 :
580 :2009/06/04(木) 19:01:38
>>597 御教示サンクス。
勿論”あの図”はもう使われていないだろうとは思ってたがw
でもやっぱり大人になって読む100冊より子供の時に読む1冊がインパクト大と言うか
”刷り込み”の効果が大きいんだろうなあ…
まあ中学高校で子供と言うのもこの場合あたらないかもしれないが
そのジャンルではじめて読む本となるとその影響は絶大www
601 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 19:31:18
>>597 >NHK高校講座 日本史
番組アシスタントやってる桐島里菜チャン♪
超カワイイ〜!!!
602 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 20:14:19
『 ヤマト纏向 緩衝地帯説 』 wwwwww よくこの板の邪馬台国九州説の馬鹿が 「”畿内”は鉄も銅鏡も無い、人も住んでいない未開の地」 なんて事をほざいているんだが 見る範囲を大和からきちんと”畿内”全体に移せば、大和から近い 河内、摂津、山代の範囲でも結構な遺物の出土がある。 三角や画文の分布を見れば 三角を大量に出した椿井大塚山遺跡は木津川市山城町だし ホケノより古いとされ画文を出している墳墓が兵庫県綾部にあったりで ヤマト纏向と言うのは連合体の初期の初期、立ち上げ時に 各勢力が納得できるように、勾配がきつい扇状地で、チョッと掘れば湧水層にあたり 人が常時住み一次産業従事者を基盤にした集落を形成するには 不便な土地をあえて選択したのかな?と思っているのだが、どうでせう?w
603 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 20:16:32
>>602 >勾配がきつい扇状地で、チョッと掘れば湧水層にあたり
稲作には適してるんじゃないの?
604 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 20:17:20
水田跡は無かったっけ? 野生の稲が自生してたとか。
605 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 20:18:28
イチキシマ媛ですか?宗像の北の沖の島にいたとのことです。
606 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 20:40:23
アリサタン・・・・・・・・・・
611 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 21:56:44
もうみんなヤマト王権と纏向の関係について真面目に語ることに疲れちゃったんだなwwww
と言うか発掘中の遺跡のものの公開が無いと。 出雲から出てきた古文書もまだ1部しか公開されてない。 三内丸山みたいに定説をすべてくつ返すかも知れない。 聖徳太子が否定されたことも確かだが、それを確定した資料も 一般には公開されてない。
613 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 22:07:19
>>610 ほう、里菜はロリ君の好みではないと?
では・・・・
桐島里菜は、この俺様のものだああああああああああ!!
おまいらカエレエエエエ!みーんな氏ねええええええ!!
リナタン・・・・・・・・・・、リナタン・・・・・・・・・・、リナタン・・・・・・・・・・
なにこのスケベオヤジスレww
616 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 23:03:05
あやまれ! お前ら全員モニターの前で土下座して老教授氏にあやまれ!!
617 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 23:49:21
618 :
日本@名無史さん :2009/06/05(金) 00:00:19
>>611 畿内説/九州説を語り始めている馬鹿がいるからスルー中
620 :
日本@名無史さん :2009/06/05(金) 00:15:07
>>593 興味があるので、情報が公開されている先とか教えてください。
解読しているという新聞社のニュースでも構いません。
622 :
日本@名無史さん :2009/06/05(金) 07:21:13
ねつ造ニュース
暦年校正前でも±40年ぐらい幅があるはずなのに、どうやって20年に絞り込んだんだ?
他人の仕事を自由に批判できる環境にないんだよ。 それぞれが自分の蛸壺のなかでやりたい放題。
625 :
日本@名無史さん :2009/06/05(金) 23:28:07
筑紫東遷説の連中が自説を保全したいが為、理化学年代を意図的におとしめてるだけだろ。
理化学年代とは到底言いがたい恣意的な推定を嘆いているだけだよ。 九州とかヤマトとか関係ない。
627 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 08:40:38
畿内説の考古学者でも、今回の歴博のやり方はおかしいだろ、という人が結構いるよ
628 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 09:34:19
確かに春成さんの発表は箸墓は卑弥呼の墓に間違いないという前提のもとに卑弥呼の没年(247ないし248年)に 出土品の年代をもっていこうという意図がありありである。 本来なら、240〜260年間に箸墓が築造された可能性が高いと発表すべきである。 卑弥呼云々は考古学としては余計なことである。
629 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 09:35:38
だれか、これ(
>>623 )教えてよ。
発表聴いてきた人もいるんでしょ。
周濠の布留0に伴ったいくつかの桃の実は土器ね煤より新しい年代が出てるのにね 東田大塚でも種子や木器の測定値が少し新しい 会場からの質問にもそういう指摘があったが、「ほぼ同じ値です」と言い張ってたなw しかし、縄文ならともかく、20年違ったら歴史解釈が変わるこの時代では少しの違いが大問題な訳だが 土器付着炭化物の値が古く出る傾向にあることは、新聞報道でもあったけどな
631 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 09:52:31
しかし布留0=240〜260と言う年代が仮に今後の基準みたいになった場合 現在言われている古墳の築造年代とかどうなるんだろう? 特に紀年鏡を出している古墳。 今はどれも時代が違いすぎるとされていると思うが… 一世代ぐらいの伝世をはさんだら何とか年代合わないのかな?www
安本一派のように大幅に年代を下げるのは根拠薄弱だが、歴博のはあまりに突っ込みどころが多くて、そう簡単に基準にはならないだろう 箸墓=卑弥呼説の人でも、歴博の説明で大丈夫かぁ?と思った人はいたのでは?
紀年鏡もあてにならんからなあ。
そんなことより
>>617 が聴きたかったなあ。
634 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 12:21:52
エジプトの吉村さんの事をここの人は評価してないが、 あの人のグループが発明した空間探査機のおかげで、 新発見が続いているんだ。 遺跡等が見つかるのはそのため。
636 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 13:07:20
スレ違い 岩と砂漠のエジプトなら使えても、遺跡のある表層地質が複雑な日本ではなあ
>627 オレも歴博発表の数値が絶対に正しいと思ってはいないが、 従来の年代測定法よりは「理化学的」な方法になっているとは思ってるよ。 従来の「理化学的」と自称する手法がムチャクチャすぎだったからな。
638 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 18:15:23
>>637 科学どころか「退行」だろ。最低限の「比較」検証は必要。
それさえもせずに狭い視野のなかで自己を肥大化させ「確定した」とか
「教科書が書き換えられる」という言葉をいて周囲を強く威嚇する。
そのやり方自体が問題だな。
639 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 19:40:51
>>638 おまえみたいなやつが教科書から聖徳太子を消したんだよ。
さぞ、満足だろうな。
641 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 22:43:22
いやさ、発表して反論があって、というのは普通の学問の流れだろ。 個人を中傷するような発言やヒステリーを起こすのはどうかと思う。 具体的に反証を出せばいいんだし。
>641 そうそう。 具体的な反論を出せないのに誹謗中傷だけするやつが、 九州王朝信者には多いよな。 >638 従来の理化学年代モドキ法は、えられたC14年代のうち、もっとも新しい年だけを抜き出して、 「〜年ごろと出た」と決めつけるデタラメぶりだったからな。 たとえば、「150〜250年頃」などの幅のある数字が出たら(かなり幅があるのが常識)、 「250年頃という結果が出た」と標榜する。 こんな恣意に満ちた測定を理化学的と呼べるはずがないことは、マトモな人間なら分かるはず。 分からないマトモじゃないヤツが九州王朝説の信者には特に多いんだろ。
643 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 22:52:46
実年代の話はすぐにひっくり返る可能性が高いから、普通の学者は土器編年で語ってる。 慌ててるのは、神武から平均在位年数で実年代が割り出せるとかアホなことを書いてた周辺だろ。 彼らにとっては、平均在位年数>年輪・C14なんだよ。
644 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 22:55:52
だいたい記紀の天皇の代数(人数)が真実だってこと自体ありえないだろう。
>>642 「弥生時代の開始はが前10C」とマスコミに発表したのは03.5.19。
その概要の公表が、04年の4月。正式報告はなんと05年になってから。
これじゃあ、批判しようにもその対象は不明である。
具体的な反論ができない状況でマスコミ先行で既成事実を積み重ねるという
やり方そのものが批判にさらされている。
正式報告のあとで多数の批判があったのは周知の事実だが、その一部のみに
反論して、「反論できない批判は徹底無視」という姿勢も批判の対象となっている。
その反省もなく、今回もマスコミ先行で既成事実作りですか?
646 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 23:01:41
ありえない証明をしてくれ 常識的に考えてとか言うのは無しだぞ
>>641 その前に20年間に絞り込んだ根拠を明らかにしてくれんか?
先に根拠を明らかにしてもらわないと反論も反証もないぞ。
どう考えてもC14だけじゃ無理だぞっていう、常識的な否定になるだけ。
>>645 発掘なんかでも正式な報告書がでないことはたまにある。
椿井大塚山古墳も正式な報告書が出るまでに30年以上を要した。
その間に情報をほぼ独占した小林の独壇場であった。
東大寺古墳の報告書は半世紀以上出ていない。
中平刀の報告書だけ最近出た。
全部の報告を出せば、中平刀を国産とせざるを得ないという事情がある。
649 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 23:16:32
証明をしてくれって、ここで言われてもな。 マスコミ先行で既成事実を作るって、情報戦じゃあるまいし、畿内説陰謀論の人? 学問なんだから、捏造してもいずれ分かる。真実はひとつ。
650 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 23:22:26
マスコミ先行だろうが、いつかは根拠を示さないとダメっていうのはあるな。 椿井大塚山のように何十年もたってからでは困るが。 そう考えるとデータを出していない年輪年代は無敵だな。 批判のしようがない。
651 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 23:24:28
>>649 ありえないって断言するからどんな証明資料を持ってるのかと思ってね
マスコミ先行で既成事実を作って情報戦仕掛けてるのは記紀の天皇を何の資料もなしに架空だと断じてる人々だと思うんだが
>>648 安本なら「中平刀は国産」というテーマで『季刊邪馬台国』を1冊費やしそうだな。
誰もが分かっていても言えないことを言うだけで、後世の史家からは絶賛される。
>>651 神武とか欠史八代とかを無根拠に信じる方が問題だろ。
さらには人代だけでなく神代まで平均在位年数で計算して、
アマテラスが卑弥呼とか。似非科学の典型
654 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 23:43:21
天石屋事件以降は史実とみてよいようです。 天孫降臨は西暦40年でニニギノ命0歳です。 神武天皇橿原即位は西暦131年です。
655 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 23:48:01
656 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 23:48:16
稲荷山の鉄剣からは系譜に大彦命の名前がある 大彦は孝元の皇子であり、皇子が存在したいうことは父親もいたということだろ 孝元が実在したかどうかはともかく、少なくとも5世紀には認知されていた人物だった 彼らは決して記紀の創作ではない
657 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 23:54:13
>>653 無根拠に実在を信じてるわけじゃないよ
たとえば欠史八代でいえば東征の英雄イワレビコの子にヌナカワミミがいて兄を殺して大王位に就いたという話が
記紀編纂当時にあったであろうと記紀を根拠に確信している
あくまで「実在した」じゃなく「伝説が存在した」という資料でしかないと考えてるがね
それで欠史八代が存在しないと断言できる証明資料は?
658 :
日本@名無史さん :2009/06/06(土) 23:54:44
考古学者は、邪馬台国問題から中立であって欲しいね。 どちらかに肩入れすると、都合の良い物を都合よく解釈して世に出し、 都合の悪いものは出さないで済ます危険性がある。
659 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 00:30:34
>>656 それならばなぜ鉄剣銘文に大彦以前の系譜を書かない?
大彦はその父が孝元天皇で、もうちょっとさかのぼれば初代神武天皇に行き着く。
ヲワケという稲荷山の被葬者の一族が自分達が名門の出であると誇りたいなら
そこまでやる筈だ、
それにあと数代さかのぼりさえすりゃ皇祖神のアマテラスじゃないか、
単にワカタケル大王に仕えていたと書くより、ずっとずっとハクがつく。
しかし稲荷山鉄剣銘文は大彦止まりだった
それゆえこの5世紀段階の銘文は、人々が記紀のような天皇家系譜をまだ全然
考えもしてはいなかったことを明瞭に示している、
神々ー神武ー欠史八代のタテ系譜は、6世紀以降8世紀までのある段階から
生まれたと見る。
660 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 00:35:01
オオヒコといえば当時の人には誰のことか通じたのになぜ初代から刻まないといけないのか
まあいいんでねえの? 今後実年代の「叩き台」になると言うことでw 元々小林説は椿井大塚より古い鏡で構成されている古墳が出てきた時点で 見直されるべきだったんだから暫定基準にすら怪しいんだからw 三角舶載を前提にしたその年代観を何故か邪馬台国九州説論者が支持すると言う 奇妙奇天烈な現象もいい加減やめるべきwwww
662 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 00:41:55
>>660 その疑問の解答をおれはレスしたのだ、もう一度読んでみろ。
それからひとつ訂正だが、というか、書き加えだが
6世紀以降8世紀までの → 6世紀以降8世紀初頭までの
663 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 00:43:47
なぜ大彦の名を記したのか? 大彦は8代「孝元天皇」の長男で、9代「開化天皇」の実兄、 10代「崇神天皇」の叔父であり義父でもあり、11代「垂仁天皇」の祖父 そして四道将軍の英雄、つまりとびきりの貴種だからだ。 あの系譜はハク付けだろうと思う しかし始祖を大彦にしたのはそれだけ認知度が高い英雄だからだ どこの誰かも分からない、育ちの不明な男を自分たちの始祖に選ぶだろうか? んなわきゃーない、自分の使える大王の高貴な皇子だから始祖に選んだのだ 鉄剣に書き込める文字数は制限があるのだ だらだらと系譜を書き込むわけにはいかない すでに四道将軍の伝説や大彦の血統は5世紀に知れ渡っていたのだ そうでなければ自分たちの王を奉る装飾品に名前を書き込むわけがない 以上、八代が8世紀の創作ではない根拠の一部を記したのだが >神々ー神武ー欠史八代のタテ系譜は、6世紀以降8世紀までのある段階から >生まれたと見る。 これの根拠を示して貰おうかな 証明をしてくれって、ここで言われてもな。←こんな逃げはなしな
664 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 00:49:01
またスレ違いと言うか他の邪馬台国関連スレと同じく単なる「古代史全般」スレとなりつつあるがw 欠史八代で言えば神武が樫原に入って纏向までの連続をどう見るんだ東遷厨は? 「大和自生説」を否定するのは宜しい。 でも、纏向に繋がる欠史八代の痕跡を何に、どんな考古学資料に見る? 現在指定されている欠史八代の墓なんて年代は合わないし(9代開化の前方後円墳等) そもそも墓としての実態があるかどうかも危ぶまれている物もある始末www
665 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 00:52:27
>それゆえこの5世紀段階の銘文は、人々が記紀のような天皇家系譜をまだ全然 >考えもしてはいなかったことを明瞭に示している、 これは全く逆だな 大彦というだけで当時の人々には知れた人物だったのだ それこそ天皇の息子だなんて事は周知だった 当たり前のことを書かなかっただけだ 記紀の創作ということにすると、5世紀の有名人を無理矢理に作り出した天皇の息子に加えたことになる 8世紀は記紀以前の文字資料だって残っていたし、当時は口承の文化も併存していた ムリクリに過去の英雄を創作にはめ込むような愚は犯さないだろ
666 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 00:53:33
九州説東遷厨(安本流)の矛盾と言うのは 「纏向はそれまでの大和の文化とは連続性が無く突然現れた」 …と言いつつ 纏向出現の前に存在していたであろう欠史八代の存在を何の根拠も無く言い張るところだな ・・・アホか?(ゲラゲラ
667 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 00:58:23
>神々ー神武ー欠史八代のタテ系譜は、6世紀以降8世紀までのある段階から >生まれたと見る。 これの根拠まだーー? 根拠もなしに見ちゃったのー?
669 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 00:59:57
>>663 勘違いしてもらっては困る。
おれは大彦の実在は信じるのだ、
この鉄剣は貴重すぎるほどの金石文、同時代資料だ、鉄剣の系譜の伝承も作り物ではなく本物だ。
大彦が崇神天皇のもとで関東支配に功績があった人物であることも認める。
5世紀稲荷山古墳の頃にはもう昔の四大将軍の一人と思われていただろう。
しかし、孝元天皇と大彦を父子として結ぶ系図のタテの線は5世紀段階では
当時まだ誰も思ってもいなかったということなのだ。
670 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:03:56
>>669 だから
>しかし、孝元天皇と大彦を父子として結ぶ系図のタテの線は5世紀段階では
>当時まだ誰も思ってもいなかったということなのだ。
こう思う理由を書けよ
>それゆえこの5世紀段階の銘文は、人々が記紀のような天皇家系譜をまだ全然
>考えもしてはいなかったことを明瞭に示している、
こんなの理由にならないだろ
天皇の息子でないのになぜ四代将軍の一人に選ばれたんだよ?
大彦が天皇の系譜でないならば逆にその血筋の正当性を主張するために
どこかの王や有力豪族の息子だと記すんじゃないの?
671 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:06:11
四道将軍は全て天皇の血筋だ 稲荷山の鉄剣に大彦の名が記されたのは 「天皇」の血筋で書き込めば箔が付くと当時の人々が思ったからだろうな。
672 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:07:20
>>665 上に書いたから
>>669 もう一度読んでよく考えてみろ
稲荷山鉄拳銘文は過去最大級の貴重な発見だ、おれはそう考える
673 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:08:13
>>669 だからこんなの説明になってねえってんだよ
674 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:10:54
>神々ー神武ー欠史八代のタテ系譜は、6世紀以降8世紀までのある段階から >生まれたと見る。 >しかし、孝元天皇と大彦を父子として結ぶ系図のタテの線は5世紀段階では >当時まだ誰も思ってもいなかったということなのだ。 お前結論しか書いてないじゃん。 結論へと至る道筋を「よく考えてみろ」なんて言われてもそちゃ無理だよねプゲラ
675 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:12:22
>>670 >こう思う理由を書けよ
わからんやつだな、
>>659 をもう一度読め。
大彦より前の系譜が鉄剣銘文に書いてない、これに尽きる。
676 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:15:27
>>675 鉄剣ってのは書ける文字に制限があるんだよ
それくらい分かるよな?長々と記してる余裕はないの
神武の頃から名を記したら他のことが書けないだろ
それに大彦といえば当時はすでに英雄で知れ渡っていたのだ
だからこそ始祖なのだし、なぜ英雄かといえば天皇の血筋だからだ
はい、このレスへの反論をどうぞ
677 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:16:58
>>675 じゃあ大彦って何者なの?
どこの誰かも分からないのに鉄剣の系譜に名を記したの?
そうじゃなくて誰もが血統を知っていたからその以前を書かなかっただけだろうと思うよ。
678 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:17:14
>>674 何度も同じことを言わせるな。
いいか、稲荷山鉄剣は間違いなく5世紀に書かれたものだ、彫られたというべきかもしれんが。
記紀はいつだ?それをよく考えてみろと言っているのだ
679 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:17:37
>>659 たとえば源氏の一族の系譜で清和天皇から書いた系譜が出てくれば
それ以前の天皇が存在しなかった証明になるのかな?
680 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:20:06
>>678 はいはい、8世紀の記紀に登場する名が5世紀の遺物に記されているのですね
しかも存在しないという説のある天皇の息子にw
つまり創作ではないという証明であるのですね
681 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:21:14
>>678 考えろ、考えろじゃなく自分の考えを記さんか!
いつまで経っても終わらねえよ、いい加減にしろ
682 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:22:41
>>668 それが理由になると本気で考えているのか?本物のバカだな!
小林は報告書のコピーを配るくらいのことはできた。
それもせずに独壇場で論文を出し続けたが、他の学者は批判しようにも
その材料がなかった。
小林の述べる「文様の変遷」をほかに誰が確認できたというのか??
所有権とやらの問題で他の学者が見れなかったはずの鏡をなぜか日本に
来た王仲殊は見せてもらえたってこともあるよな。
そもそも小林だけはそれを見放題だったってのもある。
んで、報告書が出されたのは、小林の没年。
小林説の批判は生前には物理的に不可能であった。
報告書を出せない理由がどこにあったのかを普通に考えてみろ。
こんなことがこれからも許されるなんてことがあってはならない。
683 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:23:49
>>676 わからずやだな、一晩頭を冷やして、明日記紀を引っ張り出して冷静に読んでみろ、
>>677 大彦はヤマトの初期王権に加担した当時の関東の雄と見る
684 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:26:07
>大彦はヤマトの初期王権に加担した当時の関東の雄と見る でこの根拠を尋ねると「考えろ」ってか?w アホだろ、お前
>>683 >大彦はヤマトの初期王権に加担した当時の関東の雄と見る
大彦の実在を認めながら、都合の悪いところだけは、「後世の捏造」かよ。
そうやって都合の悪いものは全部「後世の創作」とやらにするのか?
686 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:29:06
>>683 大彦が天皇家と血縁関係のない関東の雄である証明資料は?
687 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:29:14
大彦は東国の統治に派遣されたのだから、現地では絶大な権力者だったわけだ。 現地からみればその父親が天皇だろうが、知ったことではない。 常陸国風土記ではヤマトタケルがスメラミコトに神格化されているが、それと同じことだろ。
688 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:30:23
大彦が孝元の長男だってのが創作だというけどその根拠も一切示してないもんな。 根拠を聞いたら記紀を読め!だもんな。まじめに討論をする態度じゃないでしょ、それ
689 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:32:58
>>684 >>685 おまえたちが孝元ー大彦の系譜を信じ込んで疑いもしないのは
先に記紀を読んでしまったからだ、その記紀は8世紀の編纂だ
690 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:34:26
>>687 そんなわけねえよw
どこかの下っ端が派遣されてきて従う気になるか?
そんな理屈じゃ通じないから記紀にも四道将軍は全員天皇の血筋とされているのだ
血統確かな軍人が来るから相手も恐れおののいて平伏するのだろうよ
691 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:35:16
>>689 編纂なんだから過去の資料(事実ではなく資料)に基づいてるんだろ
あと君の場合は「記紀は八世紀の編纂」じゃなく「記紀は八世紀の創作」と書くべきでは?
692 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:35:44
>>687 そのレスは大彦が天皇の皇子でない根拠に一切なっていないぞ。
お前こそ自分のレスを良く読め・
後世にできた歴史書は創作というなら、新約聖書も三国史記も中国歴代王朝の史書も 全て創作ということになる
694 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:38:33
>>687 ヤマトタケルは景行の息子だって分かってて書いてるのか?w
695 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:38:50
わからんな。 記紀は一応、孝元ー大彦がつながる根拠となる。しかし稲荷山鉄剣に大彦 以前が記されていないのは、つながらない根拠とはならない。そういう議論でないの?
696 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:39:21
稲荷山鉄剣の銘文はそれ以外にも、他の資料との整合性がある。 オオヒコ →大彦 タカリスクネ →@彦屋主田心命(ヒコヤヌシタコリノミコト) テヨカリワケ →A豊韓別(トヨカラワケ) @、Aは『本朝皇胤紹運録』での大彦の子孫であり、別の伝承との整合性もある。 しかし、大彦も彦屋主田心命も豊韓別にも触れずに、稲荷山鉄剣の講釈をたれるクズもいる。
697 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:39:59
>>689 だからお前が信じないのは構わないから、せめてその根拠を示しなさいって
698 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:41:43
>>688 >根拠を聞いたら記紀を読め!だもんな。まじめに討論をする態度じゃないでしょ、それ
うん、これは舌足らずだった、謝ろう、
記紀と、日本古代史の超重大資料であるところの稲荷山鉄剣銘文を比較して
吟味して冷静に読め、と言うつもりだった。
もう遅いからまた後日
纏向とは無縁の話なんだが、ヒミコとかオオヒコとか、 個人名だかどうだかはっきりしたことは不明の名前を 重要視しすぎるのはどうかと思うよ。
700 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:46:45
>>682 >小林は報告書のコピーを配るくらいのことはできた。
いいえ、小林にはできません
リンク先を読めば分かるように、
報告書の本当の執筆者は樋口隆康
樋口の原稿に手を入れて自分名義で刊行したのが梅原末治
小林は椿井の調査にも報告書にも関わっていない
(調査費用の一部を提供したとはいわれる)
そして梅原を告発する文章を書いて結果的に報告書をお蔵入りにしてしまったのが誰あろう小林だ
それに報告書の発行は京大ではなく、京都府
仮に小林が報告書のコピーを配ったりしたら
自身が関わっておらず
加えて自身で問題があると告発したものを配ることになる
小林はそんなアホではなかったということだ
ついでに教えてあげると
椿井の遺物が長らく公開されなかったのは
所有権が確定していなかったからだ
701 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:46:49
この大彦の件に関しては欠史を主張する学者でもハッキリ反論できた人はいないからね。 だいたい避けて知らないふりをしているか、全く別な話に有耶無耶にするかどちらか。 >大彦はヤマトの初期王権に加担した当時の関東の雄と見る 彼はこうやって断言するだけまだ良心的かもしれない (根拠は何もないのだろうがw)
702 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:48:04
>>698 お前が欠史八代創作説の色眼鏡を外して冷静に読むべきでは?
できれば欠史八代を創作とする根拠も示してほしい
八世紀の編纂だからという理由だけなら同時代でない後の時代に書かれた歴史資料は無条件で創作だと言ってるようなものだぞ
703 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:48:30
>>699 何を言ってるんだ、お前
時代の違う一級資料に出てくる名前じゃないかよ
個人名じゃなければ王の始祖に熊でも記したのか?
それじゃどっかの国になるw
704 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:51:13
>>700 じゃあ、その非公開の報告書を自分だけが論文に引用してOKなのか?
所有権が確定していない非公開の鏡を自分だけが確認して論文に引用してOKなのか?
普通に考えて、小林はこれらを論文に書くべきではなかった、といえるだろう。
学者が共有できない資料を引用して論文に書くことが、許されるってことがダメなんだよ。
それを引用したかったら、学者の共有財産にするために奔走してからやれ、ってことだ。
それもせずに独壇場で活躍したら、「なんだそりゃ?」ってことになるわな。
705 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:52:32
ヨコからだが・・・ (1)5世紀の鉄剣銘文に「大彦」を祖とする系譜が見られる。 (2)8世紀の記紀に孝元天皇→大彦と言う系譜があり 及び祟神の代に大彦が四道将軍の一人として北陸を平定したとある。 これで言えるのは5世紀に大彦なる人物を祖と仰ぐ者がいたと言うことであって 孝元の実在を証明するモンじゃないだろう?www
706 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:54:24
>>705 それを言い出したら徳川家康の実在を否定することにもなるわな。
『影武者徳川家康』を本気で主張する学者ってレベルだわな。
707 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:54:36
708 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:55:04
>>648 東大寺山の報告書は今作成中
その報告書でも中平年銘鉄剣が国産品になることはないね
とりあえずこの前出た修理報告書を熟読してみたら?
709 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 01:57:15
>>708 また白石さんか?
「安本がアップを始めました」って状況だなww
>>708 この前の報告書からも国産の可能性にも触れないであろうことは、
誰でも予想できる。
711 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 02:01:15
>>704 うふふ、あんた小林の論文読んでないでしょ?
小林は椿井の報告書を引用してないよ
小林が論文を世に出したのは報告書問題が起きる前
当然、正式な報告書が出なくなるなんて予測不能
712 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 02:03:10
ぶっちゃけ「大彦」なる人物が怪しいのは日本書紀だと安倍臣以下七族の祖となっているところw 「ホンマかいな?」と言うのが正直なところ。 半ば伝説的な人物がいて多くの氏族が自分達の祖にその名を挙げた。 で記紀の編纂時にその有名な人物を皇統に繋げた。 ・・・と言うのはなるほどしっくりくるwww
713 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 02:07:29
>>711 あれま小林だけが鏡の現物を確認できたことはスルーですか?
あえて言おう、クズであると!
714 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 02:09:47
オオヒコの父親は誰だって話だろ。 初期天皇がいないという、結論ありきの目で見るから 伝説上のオオヒコを結びつけたと考える。 普通に考えれば、7世紀の資料の系図に名前がある人物の名前が 300年前の資料からも見つかったとするならば 資料全体の信憑性が高まった、と考えるのが正常だろう これ、4年前に俺が別スレに書いたレスね
715 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 02:11:01
>>712 そんなことを言ったら成務天皇の子だくさんはどうする。
織田信長にも50人以上の子供がいたし、徳川家斉には200人以上の
子供がいたといわれるが、高々10人か20人の子供がいて、不合理なんて
ことをいうのはおかしいよね。
716 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 02:15:51
>>712 昔は中央の人間が地方に行くと競って娘を差し出したわけ
どんな拍子に自分の娘がとんでもない高貴な子供を(例えば天皇)を産むかわからないから
そんな身元不詳に近いような天皇が何人もいるでしょ
717 :
711 :2009/06/07(日) 02:17:23
>>713 事実関係も確認しないで憶測で誹謗中傷してるあんたもクズだが
さっき書いたのをもう一度よく読んでね
小林が論文書いたのは椿井の問題が噴出する前なの
小林自身、報告書がどうなるかとか所有権がどうなるかなんて予想できない頃のこと
718 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 02:17:44
要するに
>>656 から始まったお話は鉄剣に「大彦」の文字が見える以上
記紀にその父親としている孝元も実在した・・・と言いたいわけだろ?
でも現在その墓として指定されている前方後円墳
(
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/008/index.html )
本当に年代合うのか?w
それともそんな有名人の父親の墓なのに正確な場所もロストしてしまった?
まあ逆に言えば祟神の代に生きていた人間だったら前方後円墳に葬られていても不思議ではないが・・・
欠史八代の実在を証明するには大和に纏向以前からの連続性を見なければならないと言うのは東遷厨にとっても矛盾だなwww
719 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 02:17:46
>>711 椿井大塚山古墳、発掘1953年
梅原末治の報告書1964年
これ以降の小林の論文。
1971年「三角縁神獣鏡の研究」
1976年「古墳文化論考」
1979年「三角縁波文帯神獣鏡の研究」
1982年「『倭人伝』と三角縁神獣鏡」
720 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 02:20:12
>>718 年代にはピッタリ合うよ
それについて詳しく記している本を持っているんだが実家に置いてある
早ければ今日にも持ってくるからちょっと待ってて
C14で都合が悪くなった歴博工作員がすれ違いの話題を投下、 自演を混ぜてスレ流しに必死だな。
722 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 02:22:13
>>717 答えになっていない件
まあ小林が亡くなった年に報告書が出るまで、誰も彼の論文の
批判ができない状況にあったことは事実だろうね。
723 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 02:22:29
>>718 うん?天皇陵が実際の天皇と時代的に合うかと言っているのか?
君って仁徳天皇陵を仁徳の墓だと思っちゃってる人?
724 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 02:24:20
>>720 マジかよ!?
きちんと考古学上の見地に基づいてのお話だろうな?
725 :
711 :2009/06/07(日) 02:31:07
>>719 どうせならキチンとと書いてね
椿井の成果を受けた論文は
1958「同ハン鏡論再考」
それを別の論文とあわせて再編したのが収録されてるのが
1961『古墳時代の研究』
つまり椿井問題発生以前に小林は椿井の鏡を自身の資料としての蓄積を終えてるわけだが
過去に蓄積しておきた資料で論文書いてはいかんのか?
726 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 02:34:12
>>725 お前はアホか?当然ダメだろ!
他の学者と共有できない資料は論文に書くべきではない。
727 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 02:34:49
マキムクは記紀でいうと崇神〜景行に当たる時代 これらの天皇がいないのだとすれば、じゃあマキムクは住人が統治してたのかって話 巨大な古墳が築造されているのだから大王はいたのだ、間違いなく いたのになんで記紀には別な創作を書き込まなきゃならんのだ
728 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 02:37:12
>>727 ↑ああ、これ間違い
いろいろ勘違いして書いた
無視して、ごめん
>>725 正規の報告書が出る前に論文で書くってのも、現実にはよくあるわな。
原田もそうだったし。
この点拙速主義で報告書を書いたことだけで、石野は評価できる。
730 :
711 :2009/06/07(日) 02:57:52
椿井の鏡についてはちゃんと写真図版を付けてるし 同ハン鏡番号が明示されているので実際にどんな鏡かを検討したければ別の鏡で代用できるように書いてある こうした点を含め、小林は椿井の資料を独占することなど考えておらず、 むしろ自由な利用が不可能となってしまった椿井の鏡を 何とかして研究者が利用できるように積極的に情報を紹介していこうという配慮すら感じさせるのだが
731 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 03:03:53
>>730 そりゃ言いすぎ。
表現の変遷なんて、椿井が分からなければ意味がない。
732 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 03:10:52
>>720 奈良に庄内期の前方後円墳が纏向以外にあったのか?
733 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 05:59:51
>>732 >奈良に庄内期の前方後円墳が纏向以外にあったのか?
横レスさせてもらう。
孝元陵は兆域内に複数の小古墳があるらしいが、例によって宮内庁管理下で、詳細不明。
庄内期の古墳という話は聞いたことがない。
纏向遺跡地以外で庄内期に遡る可能性がある古墳は
◆マバカ古墳 (前方後円墳、全長74m) 天理市成願寺町
◆見田・大沢4号墳 (方墳、一辺17m) 宇陀市菟田野区平井
と言われている。
更に遡ってX様式期(弥生後期)の土器を出した土盛り墳墓は
◆黒石10号墓 (方形台状墓、10.4m×9.8m) 北葛城郡広陵町みささぎ台
で、陸橋状の突部があった可能性あり(宅地開発で消滅)。
ただ畿内の遺跡はどこでも庄内式土器が出るわけでなく、むしろ出さない方も多い。
つまり複合遺跡であっても X→庄内→布留 でなく、X→布留 と庄内期をすっ飛ばすわけで
そう見ると黒石10号墓は庄内期併行の可能性もある(あるいは布留期併行の可能性も。理由陳述省略)。
所在地は馬見古墳群中最古の新山古墳(前方後方墳、137m)のすぐ近くである。
734 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 06:26:48
>>361 じゃあ鏡専用スレを立てよう。
考古学板よりもこの日本史板の方がいいわけだな?
少し待ってくれ。前振りの文章を考えるから。
735 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 06:57:47
>>413 >楯築は明らかにマキムク開始後だろ、畿内では特殊器台は
>布留0で始まり布留0で終わる。
>楯築もこれと同時期とするのが合理的。
これはひどい間違いだよ。
特殊器台は吉備でおそらく半世紀以上の変遷があって、その最後の型式のときにヤマトへやって来る。
それが布留0というのは正しいが(今の出土状況ではだが)、
楯築遺跡出土の特殊器台は全特殊器台中でも最も古い型式である。
ちょうど畿内の庄内期の全期間を間に挟んで、楯築弥生墳丘墓はX様式→庄内という変わり目の直前、
箸中山古墳(箸墓)は庄内→布留の変わり目の直後になる。
楯築はマキムク開始と同時頃と言っても悪くはないのかもしれないが、やはりマキムク開始の直前と見たい。
736 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 07:09:10
椿井大塚山古墳と武埴安彦命との関係が問題ですね。卑弥呼の次に擁立されて 争乱を起こした男王が武埴安彦命だと思います。
737 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 07:33:54
>>735 自己レスだが。
>特殊器台は吉備でおそらく半世紀以上の変遷があって、その最後の型式のときにヤマトへやって来る。
こう書いたが、表現的に問題があると思ったので、
「その最後の型式のとき、またはその一つ前の型式が終わった直後に、ヤマトへやって来る。」
と訂正。
要するに箸中山古墳(箸墓)、中山大塚と、吉備の宮山古墳の先後関係がまだ自分的にはハッキリしないので。
>645 「現在、こういう研究をしています」レベルの現状発表がマスコミに出るのは、学会発表より前のレベル。 日進月歩の先端科学の分野でも学会発表より月単位で早くリークされたりする。 で、学会発表(概要報告の一種。ほかに、科研費で行った研究なら、その定期報告とか、 あとは学部内の定期報告など、年度ごとの報告ぐらい? >概要報告) それから論文を投稿して、審査→修正して論文発表までに、半年以上かかったりするのが日常。 学会発表のあとに論文書いてたら、正式報告(学術論文)まで1年ぐらいかかってもおかしくない。 よほど論文を量産して書き慣れてるならともかく、普通は結構な時間がかかると思う。 (まあ、理系の場合は英語で論文書くから余計に時間が... という側面はあるかもしれんが) 645が言うような時間差は、別に不思議なことではないと思うがな。 再生医学の中間/リーク情報が出てから正式に論文が出るまでの時差も、かなり長かっただろ?
椿井の鏡だが、 小林行雄に直接的責任は無かったとしても、京大内の問題で(梅原末治が一番悪いが)、結果として外部に公開できなった訳だろ。 でも小林行雄を含む京大内の人だけは自分たちだけが見ることができて、それを論文にして業績としていた訳だ。 その論文を見て、その資料を見たいと外部の人が言っても、いろいろ理由つけてなかなか見せなかった時期があったのも事実。これは鏡以外にも聞く話だ。アンフェアだと言われても仕方ないな。 もっとも、似たような話は他の大学の未報告資料にもあるけどな
740 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 12:02:13
>>659 >しかし稲荷山鉄剣銘文は大彦止まりだった
>それゆえこの5世紀段階の銘文は、人々が記紀のような天皇家系譜をまだ全然
>考えもしてはいなかったことを明瞭に示している
自分にはこちらの方が説得力あるように思う。
後に皇統譜と言われるような大王の系譜が合ってそれに繋がる事を言いたいのであれば
「孝元→大彦」の部分は必須だろうw
「大王の系譜」と言う言わば「幹」の部分に自分の系譜を繋ぐ肝心要の部分じゃないか?
「そんな事は言わなくても周知の事だった」と言うのは如何にも無理があると思う。
稲荷山鉄剣銘文から言えるのは
「5世紀には大彦と言う存在(実在か伝説化は分からないが)が認知されていた」
「大彦は8世紀の記紀の創作ではない」
と言う事に留めるべきだろ?
これを欠史の中に挙げられている孝元実在の証とするのは如何にも牽強付会w
741 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/07(日) 13:41:31
>>659 稲荷山鉄剣の銘文の系譜は7人系の七の数字に拘ったもので、倍暦計算から
471年(辛亥)=雄略元年
を指示してるが、七支刀はその3年前の
468年=安康元年=泰始4年
をその銘文としていると観ている。だからこの刀の「七」に因んで7人と
したもので、この4年前の
465年=泰始元年=景和元年
でもあり、七支刀の銘文の■は
景 泰
/
和 始
の七目(斜め)読みを示唆して書きこまれたものであろう。ここで「泰」は当時
「太」の漢字の代用ができたそうで「太」と「和」となるので、その銘文と合致
する。
志賀島の出土の金印には「常根津日子」の文字が側面にあることが池田仁三氏
からの写真によって分かっており、この人物は孝元よりも古く、八代の安寧天皇
の皇子であるから、八代の存在は疑う必要もなかろう。
742 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 13:55:08
金印の側面に文字などない その写真解析はただのねつ造w それを信じる太国ってw
現在の考古学で、大和においてマキムク以前の王権(欠史八代)を思わせる遺跡・古墳は皆無。 欠史八代が筑紫時代の話とか強弁するなら別だけど。 神武東遷自体が考古学的に否定されている。神武即位の地と考えられるカシハラやイワレに 初期古墳が見当たらない。 大和王権がマキムク以降って考えるのが妥当だろ。考古学的に考えると。 欠史八代が本当とか言ってる奴は電波。 稲荷山鉄剣だけかよ、拠り所は。2〜3百年も後の遺物ひとつでお目出度いというかw
744 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/07(日) 14:01:33
>>742 根津造としたのは、オマエの捏造の主張だよ。
それでも言いはるなら、具体的に捏造の論拠を述べな。脳内即興の
捏造糊塗だから何の研究もないだろう?
捏造とか言う奴に限って1行で捨て去る。これが真物だから臥海も
見て見ぬ不利をしてるらしく、それにオマエの論もこれがあると都合
が悪いわけだ。つまりオマエの即興の捏造二字の糊塗。
金印は57年で倍暦計算からもこの人物の生存時期と適合してるのだ。
745 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/07(日) 14:04:12
>>742 >>743 オマエとオマエの津田病の潜伏期が終り、オマエ達の盲象が金印
からよろしく判明する。pp pp
そもそも、大彦とか四道将軍の存在を信じている自体が痛い。 当時の大和王権にそれほどの中心性は無かったよ。 後世、雄略やら聖徳太子、天智・天武が血の出るような思いで中央集権国家を 作り上げたんだし。 安本系の馬鹿は、3世紀の倭国に超強大な大和政権が誕生していたように思っているらしい。 馬鹿馬鹿しいというか、考古学では完全に否定されている。 古墳にしても地方色が強い。 倭人伝でも女王共立だしな。
747 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 14:12:28
まあ祟神にあたる人物を奈良盆地の外から持ってきてポンッと王に据えた …なんて事でもなければ祟神の先祖に当たる人物の墓が奈良盆地にあっても良い訳だがw もし祟神を3世紀半ばの人物とし四道将軍のような平定劇があったとするのなら 今回の歴博の年代の方が都合いいんじゃないのか?w 東遷説なら四道将軍の派遣も4世紀と言うことになるんだろうが 世代を遡った場合チト苦しくならないのかな?
大彦の普通の解釈は、後世大彦系後裔を称する阿倍氏や膳氏が北陸・東海に 侵食。地方豪族たちを同族化していったという歴史事実を踏まえて創られたのが 四道将軍説話。 3世紀の四道将軍派遣とか本気で信じるなよw
749 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/07(日) 14:15:19
池田仁三氏によれば、桜井茶臼山古墳の墓標に 大毘古 丙戌年5/26 の没年干支があるそうだ。
750 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 14:17:30
アマテラスは西王母。 葦原中津国は中華。
751 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 14:17:59
>>738 じゃあ、正式論文を出すまで、マスコミにリークするべきじゃあないな。
他の学者が反論できない状況で「これで確定!」とかマスコミに発表して
2年後に報告書をだすなんてことが良いわけはない。
ちなみに韓国でES細胞を捏造した学者でさえ、サイエンスに発表してからマスコミに
流していた。普通はこれが最低限のマナー。
752 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 14:31:06
白石とかがマスコミ受けを意識して勇み足なのは認めるが、 ヒステリックに反応するのはどうだろう。とりあえず静観するのが理性的態度だろう
753 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 14:38:53
>>747 大和は首長権力が縄文以来の族長制に阻害され、進展しなかっただけだよ
754 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 15:56:57
>749 アホかw
>>748 この手の「後世の創作」というか「後世の捏造」を叫ぶ連中は左翼に多いね。
「天皇の権力は弱かったので四道将軍の派遣などありえない。」とか、
「この頃は王権は存在せず、連合だった。」とか。
直木さんみたく「神武東遷を認めるのは皇国史観だ。」と言い切る方が潔い。
ついでに9条の会に入って反戦運動に熱を上げるのも良い。
756 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/07(日) 17:06:48
大彦の子建沼河別命は東海道12道に遠征したという。これは武蔵、 上総、下総、常陸、陸奥あたり。 続日本紀 神護景雲3年の条、陸奥国の丈部(はせつかべ)への賜姓。 阿部陸奥臣。 新撰姓氏録 右京皇別条 杖部造は(はせつかべ)は孝元天皇の皇子大彦の後裔.
757 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 17:47:50
稲荷山鉄剣について。 銘文を書いた人物は、 1.オオヒコの父親が誰かは知らなかった、でオオヒコから系譜を書いた。 2.オオヒコの父親が誰なのか知ってた、でも系譜には省略して書かなかった。 のどっちかだよね。 でもどっちかに決めれるのかな? これものすごく難しいと思うよ。
758 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 17:55:22
8世紀の資料でしか知られていなかった人物が5世紀の遺物からも存在が知られたとする 普通は・・・時代を遡る一級資料が発見されれば8世紀の資料の信憑性が増した、となるわけだ なぜそこで5世紀は正しいけどそれでも8世紀は嘘っぱちなのだ、とうがった見方が出るのかといえば 最初に欠史八代という前提ありきだから
759 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 18:06:40
>>755 やっぱり「いつものそこ」に納まるのかw
じゃあ四道将軍や神武東征を言ってる連中は右翼って事でヨロw
>>758 >8世紀の資料の信憑性が増した
それはこの場合「大彦」についてだろう?
大彦と孝元をセットにする時点で話の持って行き方に問題があるって話で
最初に東遷説ありき、神武からの皇統ありきの前提に立つからだよwww
結局
>>753 のどっちかって話なんだが…
自分の血筋を大王に繋がる事を自負していたならそれは絶対書くだろうって見方はできると思うね。
(自分は雄略に仕えた事を書いておきながら…と言うのは不自然)
言わばそれこそ「キモの部分」じゃないかwww
760 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 18:08:38
wwの意味が分らん 頭悪くみえるから止めた方がいい
761 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 18:09:52
でも正直言って纏向の印象からは 「祟神の代に全国を平定した」 と言うストーリーは中々思い浮かばないんだよなあ・・・ 外に向かって侵攻したと言うより 外から寄り集まってきたと言う感じwww
762 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/07(日) 18:14:13
崇神の代に全国を平定はしていないだろう。早すぎる。 四道将軍のは外界への斥候だな。 畿内の政権が固まった時代だな。それまでは畿内の豪族クラスの勢力 だろうね。平定できたのは九州王朝が滅んだ直後の元明の代ころだ。
763 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 18:15:46
>>759 それには大彦が皇子ではないとする根拠を示さないといかんわなあ
しかし四道将軍を裏付けるかのように大彦は関東の豪族の始祖になっている
さらに大彦からオワケまでの世代は八、一方大彦が活躍した崇神から
オワケが仕えた雄略までの世代は九、世代的にもズレはなく
鉄剣の系譜の信用性、記紀の信憑性の高さを示している
さて、もう思い込みのようなレスはいいから
>大彦はヤマトの初期王権に加担した当時の関東の雄と見る
これの根拠を一つくらいはあげて貰おうかな、いい加減にな
764 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 18:23:13
>>763 >それには大彦が皇子ではないとする根拠を示さないといかんわなあ
はあ?
何それ?
大彦が皇子が皇子である事の根拠をお前が出さなきゃならんだろうって話で
例えば件の鉄剣に「孝元→大彦」の系譜が見られたのならそりゃ
「5世紀にも大彦が大王に繋がる系譜であったと言う認識があった」
・・・って話でw
じゃあ例えばどんな物を出せば「大彦が皇子ではないとする根拠」になるんだ?
史料による考証手続きが無茶苦茶になってないか?w
765 :
764訂正 :2009/06/07(日) 18:25:48
(誤)大彦が皇子が皇子である事の根拠をお前が出さなきゃならんだろうって話で (正)大彦が皇子である事の根拠をお前が出さなきゃならんだろうって話で
766 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 18:26:17
>>764 だから一級資料として記紀に書いてあるじゃないかw
それを補足するように2行目以降に記紀を正しいと見る理由も書いた
後はお前が記紀を正しくないとする理由を挙げれば良いだけだ
お前が正しくないと言っているのだからそれを証明するのはお前の役割だろうが
>史料による考証手続きが無茶苦茶になってないか?w
↑なんじゃこれ?
767 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 18:32:24
そもそも鉄剣が発見されなければ大彦の存在も嘘っぱちということにされていただろう (欠史の立場から見れば)しかしその存在を示す資料が発見されたのである ではなぜ皇子ではないと言い切れるのか?記紀にそう書いてあるのに それが嘘だというのだから記紀が間違っている根拠を示さなければ話は進まないのである
768 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 18:34:35
>>766 ぶっちゃけて言えばだ・・・
8世紀の記紀は5世紀の鉄剣の銘文に見られる内容を丸ごとパクることのできる立場にあるからなあw
お前は時系列での前後も無視して「記紀は一級資料だから」として信じちゃうのかよwww
769 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 18:35:41
770 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 18:41:07
>>768 お前ねえ、記紀には創作や間違いがたくさんある
それを一つ一つ検証するから学問になりうるのだ
欠史に関して書いてあることは全て創作です、なんてのは破綻している
なにしろ「大彦」の存在が明るみに出たのだから
その血統が皇子でないとするならばお前が根拠を上げろと言っているのだ
オレにはそんなことは出来ん、悪魔の証明になるからな
どうせぶっちゃけるなら「すんません、わかりません」とでも言えばまだ潔いのだがな
772 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 18:49:25
>>768 土の中に埋もれているのにどうやって鉄剣を見るんだよ、馬鹿
大彦がただ単に地方の豪族の始祖でしかないなら(記紀を創作したとして)
系図を書くのに格下の豪族なんか皇子にするわけがないだろ、皇統の格が下がるじゃねえか
大彦は皇子だから系図に書き込まれてるんだよ
773 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 18:49:53
5世紀の鉄剣の銘文で保障されるのは大彦なる人物が
8世紀の記紀の創作ではなかったということ
確実に言えるのはこここまで
・・・と極めて当たり前のことを言っているだけだが?www
>>770 >その血統が皇子でないとするならばお前が根拠を上げろと言っているのだ
>オレにはそんなことは出来ん、悪魔の証明になるからな
それが「悪魔の証明」である事が分かっていて俺にそれをやれと言うのか?
お前アホだろ?w
774 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 18:52:32
>>773 悪魔の証明の意味でもぐぐれ・・・
お前に言えるのはそれだけだ
だって記紀が正しくないと主張しているのはお前なんだよなあ?
・・・はあ・・・
775 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 18:54:04
要するに鉄剣の所有者は自分が大王の系譜に繋がる事を強調したかったわけだ。 だったらその一番肝心な部分を何故、銘にしなかったのか?って言うのがそもそもの疑問なわけで
776 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 18:57:19
古代日本では実際に即位していた大王より即位しなかった王族の方が有名なこともある たとえば景行天皇下の日本武尊、推古天皇下の聖徳太子、即位前に死んでいれば皇極・孝徳・斉明天皇下の中大兄皇子もこの系譜に入っただろう 当時の関東では伝説的英雄だったことが疑いないオオヒコもこの系譜上にあると考えてよいと思うが 鉄剣は欠史八代の実在を証明するものではない。記紀の欠史八代の記事の信憑性を高めたとしか言えないと考えてる だが欠史八代が八世紀の創作で五世紀時点では皇族と見なされていないと推測、ではなく断言できる根拠資料はいったい何なんだ? オオヒコが関東で生まれ育ったことを伝える資料あるいはオオヒコは皇族ではないと伝える資料でもあるのか? そういったオオヒコ関東独自勢力説あるいはオオヒコ非皇族説の根拠とする資料を出してくれ
777 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:01:09
大彦は四道将軍の英雄であり、いちいち皇統を書かなくても当時の人間はその血統を理解していた オレは大彦が実際に実在したかは疑問もあると思う、ハク付けの為に英雄の名を鉄剣に刻んだとも考えられるからだ それはともかく記紀に書いてある内容が創作だらけなんかではなく、過去数百年にわたる 記憶を記されていることだけはハッキリと証明されている ならば欠史とするならば、欠史だと思う根拠を上げろと言っているだけだ お前誰かの論文なり本も読まずに、なんとなく雰囲気で欠史だも〜んとか思っちゃってるのか? そうじゃなく何かしらの根拠があるんだろ、それをとっとと書けや
778 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:02:43
>>776 別に断言はしていないが、何か?
鉄剣の銘文に大彦の文字を見てそれを直ちに「欠史八代の実在の証明」に結び付るかのごとき
無茶な論法を批判しているだけだwww
779 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:08:49
>>777 なわけない。
当時は血筋で社会的地位が決まる時代であったので、10世代前までの
自分の祖先をそらんじることなど当たり前のこと。
となると、鉄剣に書いた「オオヒコ」が架空とすれば、実在した祖先の名前を
知っているにも関わらず、あえて、その祖先の名前を書かずに架空の人物を
捏造して、自分の墓にまで持ち込んだことになる。
これはかなりグロテスクな創造だよなあ。
自分の祖先の名前を書いたものを墓に入れたと考えるのが、普通だわな。
780 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:14:04
>>779 はいはい、それが「当たり前」ならばその根拠を示してな(笑)
そんな文字資料が一つとして存在するとは思えんが
なにか?お前が疑う記紀にそう書いてあるのか?w
5世紀の人間が10世代前の先祖の名前を諳んじられる根拠、だぞ
あまり長くは待たん、早くしろ
781 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:14:12
>>778 無茶だと断言できる根拠は?
「大彦の兄や父についての記紀の記述も信用できる」と仮説を立てるのはそれほど無茶な主張だとは思えないが
782 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:16:16
鉄剣に大彦以前の名がないのは、臣下に与えられた王賜刀であるため、王統系譜と同じ になる孝元以前は遠慮して書かなかったのでないかな。臣籍に下ってからのことだけ、 記入したと。
783 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:16:53
大彦が無から発生したと考える御仁がいるようだが
784 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:19:27
>>779 血統が大事だからこそ大彦の名を記したんだろ
その名が高貴だからだろうよ、馬鹿かお前
785 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:25:48
血統が大事な世界ではその血統を誤魔化そうとするのが常w 日本の戦国時代を見るまでもなく、隣の国では未だにそうだわな きっちり当たり前に先祖を覚えて公言していたら出世も出来なくなってしまう すると「大彦」という血筋の正しい英雄がいたんですな
786 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:28:03
その大彦さんは昔中央から派遣されてきた皇子さまだという話 勇猛果敢で男前だったので、ちょっと我々どもの王様のご先祖様に拝借してしまいまして、へえ
787 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:28:14
「鉄剣銘文に何故ヤマト王家に繋がる系譜部分(孝元→大彦)が無かったのか?」 この問いに対し ・そう言う系譜(孝元→大彦)が当時無かったから ・言わなくともその系譜(孝元→大彦)は当時自明であったから さてどっちが蓋然性が高いか、ハードルが低いかだなw 俺は前者の方が断然、蓋然性が高く、ハードルが低い・・・と見るがwwwwwww
788 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:32:02
789 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:32:45
790 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:34:47
>>787 大彦で十分ヤマト王家に繋がってるじゃん
日本武尊の子孫や聖徳太子の子孫を称することは皇統に繋がる系統だと称してるのと一緒だろう
791 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:38:29
>>790 「大彦なる人物が果たしてヤマト王家に繋がる人物だったのか?」
と言う疑問からスタートした話に
「大彦はヤマト王家に繋がる人物として有名だった」と言う前提で語られてもなw
10代諳んじられるならもう1代ぐらいなんとかならんかのう。 「・・・・上祖の名はオオヤマトネコヒコクニクル大王(孝元天皇)、其の児の名はオオヒコ、其の児の名は・・・・」 こう書き始めておけば一族みな天皇家の子孫とわかり、いやが上にも箔が増したろうに。
793 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:41:18
>>791 ↑この馬鹿は言いっぱなしで全く答える気がないから話にならねえ
794 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:43:18
ちなみに、鉄剣の銘文はちょっとなまりがある。
>>696 に書いた、テヨカリワケ →A豊韓別(トヨカラワケ) のどっちが元の名前に
忠実かと考えると、「トヨ」や「カラ」のある後者。
タカリスクネ →@彦屋主田心命(ヒコヤヌシタコリノミコト)も、「タコリ」という
頻度の高い名前の方が元の名前に忠実だろう。
となると、稲荷山の鉄剣は、東国なまりの呼び名をそのまま銘文に書かせたと言える。
その東国なまりの先祖系譜を覚えていたのは、剣の所持者その人である可能性が最も高い。
となると、「オオヒコ」だけが架空という考えは、ちょっと無理筋だよね。
まあそうしたい思想がある人には何を言っても無駄かもしれんが。
795 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:46:13
>>787 「徳川義直を祖とする尾張藩」
これって「義直は将軍になってないんだから将軍になった家康からではなく義直から系譜を書いては将軍家の血を引くことを主張できない」とでも言うの?
江戸時代ならいちいち家康から書かなくても徳川義直の末裔を称すれば十分将軍家の血を引くと見なされただろう
796 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:47:18
まあ確実に言えるのは 「大彦なる人物をヤマト王家に繋げるような系譜は記紀以前の史料には無い」 って事でw
797 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 19:50:22
>>792 ヒコクニクル大王の裔というなら大王の庶子の裔にもできる
それより大王の子で伝説的英雄のオオヒコの裔と称する方が箔が付くじゃないか
798 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 20:05:22
>>795 もうその手の話は良いよもう少し考えてくれウンザリだ
徳川の系譜は今日我々にも認識されているが
大彦の系譜なんて分からないだろう?
常識になっている物と想像で言っているものを並べて
さも両者が同じ物であるかのごとき言う・・・自分でも言ってる事が分からなくなったるんだろう?w
799 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 20:22:13
>>798 稲荷山鉄剣にオオヒコの名を刻んだのは今日我々ではなく五世紀の人間だ
五世紀の人間とは大彦から数えて七代目にあたるから大彦の系譜は当然知ってるものと考えられる
だとすれば「五世紀に大彦から系図を書くこと」と「江戸時代に徳川義直から系図を書くこと」との差はそれほど差はないはずだが
それとも君は「七代も過ぎれば大彦がいくら伝説的人物でもその父が誰かちゃんと書かなければ大彦が何者か理解されない」とでも言うのか?
あの鉄剣は大彦の実在さえ疑ってしまう二十一世紀の我々に向けて書かれたものではなく大彦が何者か知っている人に向けて書かれたものなんだぞ
800 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 20:22:17
>>798 だから大彦の系譜は記紀に書いてあるだろ、低脳
801 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 20:29:44
大議論になってるオオヒコ問題─。 一見マキムクと関係ないみたいで、最初はみんなウザイやつらだなあと思った。 しかしこれ、実はマキムクの初期ヤマト王権の問題と深く関係する…。 いまようやくそのことに気づいた。
802 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 20:43:10
803 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 21:02:09
ところで・・・
>>720 の孝元の前方後円墳が年代が合うと言うお話はどうなったんだ?
欠史八代がやっぱり非実在だと言う印象を受けるのは個人的には
その墳墓・宮がどうも、かすりもしてなさそうってのが大きいのだがwww
考古学的に神武東遷も欠史八代も考古学的に否定されてる のをいい加減に認めた方が。 記紀とか抜きにしても、マキムクの王権誕生のプロセスが解明されてきていて、 とてもそういった状況じゃなかっただろうと。 稲荷山鉄剣だけが拠り所で、全部本当とか破綻してるよ。
805 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 21:25:19
オホヒコ実在とか、記紀は全部正しいとか、馬鹿の相手にスレを消費するのは無駄だと思うが。 比較神話学とか文献史学とか、学問的に記紀を研究してる本があるからまずそれを読め。
そう言えば記紀の系譜で言えば大彦の弟にあたる開化天皇の墓とされている 奈良市内の前方後円墳も時代が合わないって話だっけ? (周辺から出てきた土器等)
四道将軍・・・ 朝鮮半島に似たような話しなかったか?
809 :
日本@名無史さん :2009/06/07(日) 23:17:53
天皇陵の比定なんかいい加減なのが分かりきってるんだから、そんなもんを論じても意味がないんだよ。
810 :
日本@名無史さん :2009/06/08(月) 00:23:00
>>804 ほほう、面白いことをいうねえw
考古学的に欠史八代が否定された論拠とはなんぞや?
否定派が上げているのは事績的記事が無いから云々、ネコがどうのタラシがどうのと、
いくらでも反論が出来るような曖昧な根拠ばかりなのが現実だろうよ。
考古学的に言うならば
8世紀の系譜に記された皇子の名が、5世紀の遺物からも見ることが出来る
時代の違う資料で確認できるので記紀の記事の信憑性が高まった
↑こういうのを考古学的に裏打ちされたというのだ
「考古学」の意味も分からないで良くこの板にいるな、お前
否定はされてないだろうよ。信憑性が薄いだけ。 それを「否定されている」というのは、用語の問題かもしれないが。 だがな、それを言ったら、邪馬台国のほうがよほど 「考古学的に否定され尽くしている」んだよ。 一応、地名の比定はそれなりに出来る欠史八代と比べ、 邪馬台国の地名は、入り口の2つ以外、ほぼ全く定められない。 今の所、 「邪馬台国アルゼンチン説」「邪馬台国ノルウェー説」「邪馬台国ムーミン谷説」 「邪馬台国冥王星説」「邪馬台国イスカンダル星説」 これらが「邪馬台国畿内説」やら「邪馬台国九州説」やらと 全く同じ精度で成立してしまうwww
812 :
日本@名無史さん :2009/06/08(月) 00:53:48
813 :
日本@名無史さん :2009/06/08(月) 00:54:56
>>811 「邪馬台国シャルバート星説」と「邪馬台国ヒミコ座説」も忘れるな
814 :
日本@名無史さん :2009/06/08(月) 00:58:40
>>809 ただ現実問題、欠史八代の墓は年代は合わないは
中には墓としての実体が無いのでは?とまで言われている物もあったりで
そこら辺も記紀の記述の希薄な点と合せて実在を疑うに十分だと思うんだがなあw
それにこのスレの本来の趣旨に合せて言えばw
俺なんかの素人から見れば
「なんで記紀は纏向遺跡の箸墓以前の前方後円墳はスルーなの?」
・・・ってのがあるw
普通に考えて築造当時は国内最大級だったわけで場所も無視できるようなところじゃない。
考えられるのは神武から開化までは鳴かず飛ばずの奈良盆地の隅っこの弱小勢力だった物が
祟神の代に、王位簒奪でもしたか、それとも婿入りでもしたか、如何なるドラマがあったか分からないが
ヤマト王家の中心に躍り出たとwww
815 :
日本@名無史さん :2009/06/08(月) 01:01:22
さてオオヒコスレにいこうっと お前はアホだから来るなよ
816 :
日本@名無史さん :2009/06/08(月) 10:08:01
>>814 >「なんで記紀は纏向遺跡の箸墓以前の前方後円墳はスルーなの?」
ホケノ山のこと?
817 :
日本@名無史さん :2009/06/08(月) 13:32:21
纏向勝山古墳でしょう。出土したヒノキの年輪鑑定で199年プラス12年以内の築造と 判定された。これで邪馬台国九州説が撃沈されました。
818 :
日本@名無史さん :2009/06/08(月) 22:32:57
オホヒコ信者に邪魔された観があるがw 理化学年代の信憑性は今後の推移を見守るとして、今回の発表で明らかに考古学におかしい点とかあるのだろうか? 実年代の落とし所としてはどのあたりなんだろう? 個人的には弥生後期の始まりが1世紀、庄内開始が2世紀半ばで、布留開始を3世紀前半くらいに考えてるのだけれど。
819 :
日本@名無史さん :2009/06/09(火) 00:19:35
弥生後期が150年頃〜 古墳時代が350年〜 庄内式は320年〜 布留0は350年〜
馬鹿ばっかり
822 :
日本@名無史さん :2009/06/09(火) 10:43:01
823 :
日本@名無史さん :2009/06/09(火) 18:53:30
九州に邪馬台国なんかないよ。ないところにあったと考えるから、候補地もバラバラなんだ。 彼らは畿内説を中傷するばっかりじゃないか。畿内にたいして潜在的な劣等感を持っているんだ。 何かある度に日本を中傷するどこかの国によく似ていると思わないか。
824 :
日本@名無史さん :2009/06/09(火) 19:00:40
>>823 >九州に邪馬台国なんかないよ。ないところにあったと考えるから、候補地もバラバラなんだ。
貴殿の炯眼に感服した
九州説なるものの本質を突く名レスである
825 :
日本@名無史さん :2009/06/09(火) 19:04:54
ヤマトだって古代の都はあちこちに転々と存在したんだろ 固定した都が置かれるのは藤原京以降だ
826 :
日本@名無史さん :2009/06/09(火) 19:20:36
827 :
日本@名無史さん :2009/06/09(火) 21:15:09
歴博のああいう発表があって、しかも春成教授の例の卑弥呼発言もあったから
みんなマキムクに対して冷静ではおれなくなったんじゃないか・・・
最近のここのレスを見ていくと、つくづくそんな感じがする。
みんな揃いも揃って、浮き足立ってしまった感じだ。
しかし、このスレが何でもありのグチャクチャ状態になってしまうのは実に惜しい。
邪馬台国も卑弥呼も、他にちゃんと専用スレがあるのだから
やはりここはマキムク遺跡から推定される初期ヤマト王権の成り立ちや
その発展、消長といった課題に特化したスレであってほしいと思う。
みんなもっと冷静に、スレの原点に立ち返って、マキムクを論じようじゃないか。
例の老教授氏による最初の問題提起を、今一度引いておく。
みんなもう一度、よく読んでくれないか。
各人それぞれ賛否はあるだろうが・・・・
>>8 >「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
>それが王権の礎になったってことです。
>その母体は、参加時期や規模の差はあるが
>北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
>いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
>後の大和朝廷だと考えられています。
>そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
>問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
>それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
>そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
>伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
>ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」
邪馬台国九州論て、如何に九州の人間がしっかりしてないかだろ! 九州にあったなら、遺跡とか伝聞を大事にしろよ! 結局何も残っていないのに騒ぐだけ!
829 :
日本@名無史さん :2009/06/13(土) 04:34:54
830 :
日本@名無史さん :2009/06/13(土) 04:48:41
831 :
日本@名無史さん :2009/06/13(土) 05:00:43
■【桜井茶臼山古墳】 熱い視線送る60年前の発掘関係者
桜井茶臼山古墳に初めて発掘調査が入ったのは昭和24年。発掘現場では、第二次大戦からの帰還兵が軍服姿で作業員として土運びをするなど、戦後の混乱期ならではの光景もあった。
当時の関係者は、60年ぶりの再発掘を感慨深げに見守った。
戦時中、天皇陵クラスの大型古墳は皇族の墓の可能性があるとして、発掘が困難だったが、終戦を機に調査の機運が高まった。
半面、食糧増産に向けた開墾による墳丘破壊や盗掘が続出。同古墳も盗掘を受けたため急遽(きゅうきょ)調査が実施された。
学生として調査現場に通った北野耕平・神戸商船大(現神戸大)名誉教授(78)は、当時の発掘現場について
「作業員は軍服の階級章こそ外していたが、銃弾の下をくぐり抜けた人ばかり。戦争のような雰囲気だった」
と振り返る。
当時は「学閥意識」も強く、発掘現場は一部の関係者しか見ることができず、北野さんが石室に入ったのは一度だけ。
「写真は撮るな。見たことは口外しないように」とくぎを刺された。「それでも、この経験が研究の原点になった」
大塚初重・明治大名誉教授(82)も、明治大大学院生だった昭和27年に現地を訪れた。
「石室の中は真っ暗だったが、外に出るとワイシャツのあちこちが赤く汚れていた。石室内が、被葬者のために朱色に塗られていたことがこれで分かった」
と当時の興奮ぶりを語った。今回の調査については「掘れば掘るほど新発見がある」と感嘆の声を上げた。
MSN産経ニュース2009.6.12 20:49
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090612/acd0906122050005-n1.htm
832 :
日本@名無史さん :2009/06/13(土) 05:20:49
■【桜井茶臼山古墳】 度肝抜く発見…被葬者は誰? MSN産経ニュース2009.6.12 石室を囲む「玉垣跡」が全国で初めて見つかった桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市)。大王クラスの大型古墳の発掘例は極めて少なく、60年ぶりの再調査は研究者の度肝を抜く発見に結びついた。 「被葬者の魂を守る施設」「たたりを恐れて権力者の霊を封じ込めた」。前代未聞の発掘成果に、研究者も興奮を隠さない。聖なる白木に囲まれて眠りについた被葬者へ、ロマンは尽きない。 「垣の内側には、被葬者の魂が住むための木製のミニチュアの家などが並んでいたのではないか」と推測するのは和田晴吾・立命館大教授(考古学)。外部世界と隔絶するための玉垣説を唱える。 「玉垣ではなく、建物跡だ」 と主張するのは石野博信・香芝市二上山博物館長(考古学)。古代中国の皇帝陵の墳丘上に建物が設けられた例を挙げ、 「被葬者の魂が宿るための建物を設け、中国の制度を積極的に取り入れたのだろう」。 一方、平安時代の法律注釈書「令集解(りょうのしゅうげ)」には 『倭の五王の一人、雄略天皇が亡くなった際、魂が暴れ出したため儀式を行って鎮(しず)めた』 との記載があることを指摘する和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)は 「柱列には、死者の魂が暴れ出さないよう鎮める役割があったかもしれない」 と指摘する。 調査担当の岡林孝作総括学芸員も 「柱をすき間なく立てたのは、被葬者の魂を内部に封じ込めようとした証し。当時の人たちが、亡き首長の霊力に対し、いかに恐れおののいていたかが見えてくる」 と話す。 <つづく>
833 :
日本@名無史さん :2009/06/13(土) 05:27:53
834 :
日本@名無史さん :2009/06/13(土) 05:40:56
>>828 いっぱい残ってるし怪しい所も沢山あるけど予算もないから
できない。全国的に見ても飛鳥周辺にかける金は異常で
バランスが悪いと思うけどね
ちょっとでも何か出てきたらすぐ決め付け報道が出るでしょ。マスゴミも含めて気持ち悪いよ
博多は古代から条坊制があった! と言って掘って探しても、出てきたのは鎌倉〜室町期に成立した新しい条坊だけだった、 古代の条坊は影も形もなし。 みたいな前例もあっただろ?
837 :
日本@名無史さん :2009/06/13(土) 19:12:05
838 :
日本@名無史さん :2009/06/13(土) 19:19:54
>>829 > 石室の神聖さを守る「結界」の役割や、死者を弔う祭礼の館の可能性があるという。
柱穴跡の詳細を公開する前から、
こんなこと言っている奴は馬鹿じゃないの?
解釈は報告の後だろ。
840 :
日本@名無史さん :2009/06/16(火) 23:15:48
欽明紀に大柱直という話があったが、関係あるのか?
841 :
日本@名無史さん :2009/06/17(水) 09:54:45
842 :
日本@名無史さん :2009/06/17(水) 17:35:25
そうだった
843 :
日本@名無史さん :2009/06/17(水) 22:04:59
古墳に大柱を立てる風習があったことが確認されたわけだよね。 神様のことを柱と数えるのも、柱が墓のシンボルだったからかも。
844 :
日本@名無史さん :2009/06/20(土) 22:45:38
845 :
日本@名無史さん :2009/06/26(金) 21:16:23
オオヒコスレで「無人都市マキムク」とかのネタをふっている奴がいるが 纏向なら、こっちだろうと言う事で、ここにレスしておくが・・・ 「無人都市マキムク」 ・・・定期的にでてくるネタだがこれも何を言いたいのか良く分からないw 一次産業従事者(平たく言えば”お百姓さん”)用の住居が殆ど見られないとて それは纏向の特異性を強調する物以外の何物でも無いと思うが・・・ 一体何が言いたいんだろう? 生活必要物資(いの一番には食料)を外部にほぼ100%依存しなければならなかったのなら それこそ『都市』の名を冠するに一番相応しいと思うが?
846 :
日本@名無史さん :2009/06/26(金) 21:35:50
>>845 これもデリケートな問題だな。
すでに森浩一は期待先行で発掘が続く異常な状況を20年前に指摘した。
住居跡は極めて少ない。
田の跡もない。
建物は簡易の掘っ立てばかり。
建物跡から出土した鉄器は皆無。
それでもカラ元気で「外来土器は多いぞ!!!すごいだろ!」
「護岸工事なんてすごいじゃないか!!!」とあおるも、むなしく響くのみ。
最近は勢い良く吠えているようにみえても、よく読むと後ずさりしながら
吠えているのもいるね。
847 :
日本@名無史さん :2009/06/26(金) 21:47:03
>>846 ・・・で?
外来土器は勝手に空を飛んできたのかな?
大溝は夜中に不思議な妖精さんが現れて作ってくれたのかな?www
もうチョッと中身のある書き込みをしてくれ。
今のままじゃあ纏向が話題になること自体が気に入らない馬鹿が
ヒステリックにイチャモンつけているとしか思えんわwww
墓地だね。
849 :
日本@名無史さん :2009/06/26(金) 22:55:14
「甕」は河内を考える上でとても重要ポコペン。
850 :
日本@名無史さん :2009/06/26(金) 23:04:46
期待発掘は唐古・鍵もそうだった。 考えてみれば、畿内説は期待→破綻の繰り返しだな。
851 :
日本@名無史さん :2009/06/26(金) 23:22:54
>>850 おい馬鹿このスレ邪馬台国スレじゃないぞ。
ホントに何処でも噛み付いてくるのなw
大体じゃあ邪馬台国九州説にしろ古くは神籠石だの江田船山だのから言われて
吉野ヶ里まで邪馬台国関連と目された遺跡が現れては消え…の連続で
しかも吉野ヶ里を最後に候補すらあがっていないのが現状w
もう少し考えて書きこめ馬鹿w
で、「無人都市纏向」でどんなお話を展開してくれるのかな?w
852 :
日本@名無史さん :2009/06/26(金) 23:36:17
今「無人都市纏向」のネタあげている奴はこのスレでおなじみの東遷厨かな? で「無人都市纏向」で何が言いたいのか? もしそれが 「纏向なんて人っ子一人いない場所、大きな権力のあった事を示す物でもなんでもない」 と言うのなら、欠史八代の関連遺跡・遺構が無い上に今度は祟神朝の勢力を示す物も無いって事にならないのかな?w もう 「とにかく畿内説の言う事には反対してやれ!」 と脊髄反射でものを言っているとしか思えんwww
853 :
日本@名無史さん :2009/06/26(金) 23:54:39
日本語でおk
854 :
日本@名無史さん :2009/06/27(土) 00:20:14
けどまあ石野さんも「シリーズ遺跡を学ぶ」のマキムク遺跡で「市場」の可能性に 言及しちゃったね(p26)。アリバイって重要だよね。 全体的に威勢の良い「新年代論による畿内説」という感じではあるけど、 微妙な気遣いが各所にあるね。 石塚は墳丘の土器だけを書いたり、ホケノの土器をぼかしたりとか。 箸墓の馬具を「新しく見ても布留1」としたけど、彼が石塚で使った理屈で言えば、 その馬具はマキムク2類の時期かもしれないよね。ダブスタじゃないかな?
855 :
日本@名無史さん :2009/06/27(土) 00:31:32
>>854 >「市場」
このネタも「纏向=無人都市」の時に必ず出てくるネタなんだが・・・
人が集まるところに市ができる・・・別に不思議でもなんでもないと思うのだが
市があったことで纏向遺跡の性格づけがどのように変わるのか?
具体的に言ってもらえないかな?
はっきり言って話が全然見えてこないんだが?www
856 :
日本@名無史さん :2009/06/27(土) 01:02:56
>>855 ・・・は自演じゃないからね。
マキムクは大量の土器の出土と外来土器の多さが特色の地域である。
それゆえに「マキムク王権」とか、さらには「マキムク都市論」まで出てしまった。
しかし、「大市」すなわち「大きい市場」であったとなれば、広く物々交換が
行われたに過ぎないことになる。
王宮が市場の中から出土しないのも当然ということになる。
市場のなかに「マキムク王権」があるわけないということにもなる。
住居跡が極少なのも当然ということになる。
土器が大量出土しても、そこでの生活の長さにつながらない・・・・・
つまり、「市場」というのは、石野さんの立場からは最大級のNGワードであった。
しかし、それをあえて書かざるを得ない状況が、今そこにある。
857 :
日本@名無史さん :2009/06/27(土) 01:37:22
>>856 >855で「話が見えない」とは言ったが正直のところ、まあ予測どおりの答えだな・・・
簡単に言ってしまえば政治・権力と商業・経済は別と言う 『 政経分離論 』 とでも言うか?wwwwwwww
先ず纏向に商業都市の性格を与えて石野が窮すると言うのが良く分からないw
今机の上にある本の引用で悪いが石野の記したもので・・・
>外来系土器の多い集落、言い換えれば外来者の多い集落は、端的に言えば都市である。
>そして都市には様々な性格がある。
>政治都市、宗教都市、商業都市、工業都市、港湾都市…。
>都市纏向には、後に述べるように、政治と宗教と商業の要素を兼ね備えているようだ。
「古代を考える 邪馬台国」 吉川弘文館
商業都市の性格と王権が相容れないと言う理屈がそもそも根拠なし。
じゃあ古墳や大溝は誰が何の為に作ったんだ?
市場で儲けさせてもらっている商人が利益還元よろしく
「いやあ日頃儲けさせて貰ってますんで市場のオーナーさんのお墓造りに参加させてもらいます」
とか?www
あと祭祀土坑から出てくる祭器等は
あれは売りモンの売れ残りの廃棄品か?wwwwww
858 :
日本@名無史さん :2009/06/27(土) 01:43:37
>>857 ・・・は自演じゃないからねww
都市というなら相応の人が居住していないといけないよね。
んで、住居跡は出たのか、って話。
これからも住居密集地域なんて出土しないであろうことは、もう分かっている。
だいたい都城制以前に「都市」とか言い出してどないするちゅうねん。
なんかもう疲れたよパトラッシュ。
859 :
日本@名無史さん :2009/06/27(土) 01:56:31
>>858 だったら最初から「都市」と言う語の定義に関して文句つけるべきだなw
王権があったかどうかとは別の話www
まあ外来系土器に関して言えば、もし同時代の遺跡に遺跡規模や
出土する外来系の占有率が同じような物があれば
それはある時期に全国的に流通が盛んになった結果となり
>>856 の望むように王権云々とは関係の無い話になると思うが・・・
人や物が集中し大型の墳墓や大規模な土木工事もなされている
これで、そこに権力を見なけりゃ何処で見るんだよって話だと思うのだが?wwwwwwww
860 :
日本@名無史さん :2009/06/27(土) 14:16:55
>>858 おや、天使が迎えにきたようだぞ。ネロ。
マキムク無人論は無視の方向でいいと思うぞ 本人自体考えがまとまっていない
そうだそうだ。 景気良く「10万都市、マキムク」と行こうや! 結果は後からついてくる。
一千万にしとけ
河内・大和で巨大地震→大和古代湖出現→マキムク都市消滅・埋没→ →大和川・関西本線ライン開削→大和盆地出現→天孫降臨
865 :
日本@名無史さん :2009/06/27(土) 20:51:14
マキムク無人論とか大分前に否定されてるのだが。 大和川水運と山辺の道が交差する。 南に行けば伊勢街道、吉野に通じる交通至便の地。 そういった交通路の交錯する場所に人が集まり市場が出来て、市場を差配する者にやがて権力が集中していった。 非常に分かり易い
バンコックやホンコンみたいに水上生活が主体とかw
867 :
日本@名無史さん :2009/06/27(土) 20:57:19
そもそも 「 竪穴式住居跡が殆ど無い=無人都市 」と言う事に何の根拠も無い。 つうか学者でそんな事言ってる奴いるのか?w 要するにそれまでの時代の集落とは 人口の構成 が著しく異なっていると言う話だな。 所謂「弥生都市」にその名が挙がる集落は工業従事者や支配階級の人口が多くなるようだが それでも一次産業(農業)の割合がゼロなんて事は無い。 (吉野ヶ里も外濠の内側には畑の跡があったと思うが・・・) そりゃ従来の人口構成のピラミッドで考えれば底辺を支えている部分が限りなくゼロなんだから ピラミッド全体もゼロにならざるを得ないわなw 結局この恐らくはいつもの東遷厨だろうが集落のモデルを自分の脳内の物に限定して語っているだけのように見える 恐らく王権のモデルにしても同じ事なんだろうがwww
868 :
日本@名無史さん :2009/06/27(土) 21:07:15
庶民の住居はたて穴だけじゃなかったと言われてきてるよね。 考古学は残ったものを見る学問だから、残り易さ・難さを冷静に判断しないといけない。 マキムク無人論とか奇天烈な説は勘弁してもらいたい
869 :
日本@名無史さん :2009/06/27(土) 21:36:36
>>867 いつもの、都合の良い物語を作り上げる連合君か。
870 :
日本@名無史さん :2009/06/27(土) 22:04:36
>>869 ん?
俺は物語を紡ぎあげた覚えは無いぞ?w
まあ、ストーリーテーラーとしての腕前は
「連合」の二文字に近現代的・民主主義的な投票手続きによる
王の選出なんて事まで妄想する馬鹿にはとてもじゃないが敵わないわwww
かし今日、どんなに遅くとも(纏向の古墳は全て布留以後と言う説を受け入れてもw) 三輪祟神朝の頃にはヤマト王権は実態として姿を現し それが纏向遺跡・・・と言うのが常識だと思うが 纏向は無人の市場(巨大フリーマーケット?www)で権力・王権とは関係ないというのなら 欠史八代に続いて祟神もその実在が危ぶまれる羽目になると思うのだが・・・ それでいいのか?東遷厨wwwww とにかく畿内説の連中の言う事には脊髄反射的に反対する ”パブロフの犬”状態になってしまって 自分の中でも整合性がつかない状態になってしまってないかな? まあ本気で心配してるわけじゃないけどwwww
872 :
日本@名無史さん :2009/06/27(土) 22:21:01
ピラミッドも無人でUFOが作りました
873 :
日本@名無史さん :2009/06/27(土) 22:47:33
875 :
日本@名無史さん :2009/06/27(土) 23:26:41
>>857 このなかに「集落」という言葉が出てくるけど、集落の痕跡なんて出ていない。
ましてや「政治」を行った宮殿なんて出そうにない。
当初は、住居跡がワンサカ出土するはずだったし、宮殿も何回も建て直した跡が
出土して、鉄器や青銅器なんかも出まくるはずだった。
そうでなければならなかった・・・・・・・・彼らの「カラ元気」ももう限界なんだよ。
見果てぬ「地上の楽園」を捜し求めて、行き着いた先はこの世の地獄だった・・・
それが今の「マキムク」なんだよ。
もう目を覚ませよ。
>>875 で?
お前らが言っている事を総合すると・・・
「自然発生的に各地から人間が集まり纏向に市を立てるようになった」
って事だが・・・w
で、そこには商売にはおよそ必要のない古墳やらが何故か造られたとw
まあ大溝は商人が舟運に使った運河としても寄り集まった商人がワリカンの共同出資で造ったのかな?www
寝言は寝て言えと言うかそんなトンデモを吼えられるのはネットならではだろうが
リアルじゃあ一端の学者なら恥ずかしくて口にも出せない理屈だろうなwwww
それとも「纏向=無人都市」なんて事を言った奴が過去にいたのかい?
いたと言うのなら是非教えてくれ!
877 :
日本@名無史さん :2009/06/27(土) 23:48:51
>>876 「マキムク」に意見するなんて匿名のネットでしかできないよ。
やっている本人だって困っているだろうけど、周りも関わりたくないんだよ。
878 :
日本@名無史さん :2009/06/27(土) 23:49:05
纏向の範囲が狭いというなら、そのはるか外郭まで「都市」の範囲が広がってるんだろう。 つまりそれだけ大規模なクニができていたということ。実際、西殿塚や桜井茶臼山方面まで 「都市」の一部だったとして何か不都合があるのかな。その中で、纏向は宗教祭祀域であり、 交易も行われていたと考えるべきだろう。
この世界はそこらじゅうに地雷がある。 だからみんな自分のテリトリーにこもっているんだよ。 言論の自由というローラー車で地雷を一網打尽にできれば良いが、 戦前のような自由な気風は今はない。
>言論の自由というローラー車で地雷を一網打尽にできれば良いが、 >戦前のような自由な気風は今はない。 何時の時代のことですか、貴方が懐かしんでいるのは。 イラク戦争前? ベトナム戦争前? まさか第二次世界大戦前とか・・・
881 :
日本@名無史さん :2009/06/28(日) 00:12:38
そう言えば… 巨大フリーマーケット纏向に、何故、古墳やら大溝やらがあるのか? これについての答え聞いた事が無いな。 まあ、何らかの答えは用意していると思うが 是非、見解を開陳してみないか? 繰り返し同じ事をわめくだけじゃあお前らも飽きるだろ?wwww
882 :
日本@名無史さん :2009/06/28(日) 00:24:24
だいたい、>唐古・鍵遺跡の約10倍の規模を持ち、藤原宮に匹敵する巨大な遺跡(Wiki) という言い方が誤解を招いている。環濠があるわけでなく、後代のような条坊制が敷かれて いるわけでもない。単に近代にあった磯城郡纏向村をおおよその範囲として恣意的に限定 されたものだろう。この後も集落跡が発見されないのなら、政治の中心地あるいは庶民の 居住区は他にあったんだろう。例えば、大和川中、下流域から大阪湾に至るまでがクニの 西方面で、そちらに稲作地帯などがあったと考えて何か不都合があるかね。
883 :
日本@名無史さん :2009/06/28(日) 00:38:18
まあ纏向に王宮が見られず 結局、巨大祭祀センターだとすれば纏向を含むクニがそれだけ 大きな物になるだけなんだよなwww 後世、墳墓と宮が大和と河内に分かれたように… ただ現時点そこまで行くのはフライングだろうとある意味皆自重しているだけでwww
>>878 > 纏向の範囲が狭いというなら、そのはるか外郭まで「都市」の範囲が広がってるんだろう。
無暗に広げるのもどうかと思いますが。
古墳前期末まで継続する遺構群なので、時代によって範囲も変わっているでしょう。
とりあえず、畿内V様式が出る大溝、石塚周辺はi、当初から活用されていた地域と言えますが、
桜井線の東側はどうなんでしょうねえ。
885 :
日本@名無史さん :2009/06/28(日) 01:02:22
wwwwをつける奴に このスレもだいぶ荒らされたね
886 :
日本@名無史さん :2009/06/28(日) 01:05:21
東遷厨なる見えない敵と戦って 延々とスレ違いの話題ばかりをする 困ったものだ これからこいつを東遷くんと呼ぼう
887 :
日本@名無史さん :2009/06/28(日) 01:13:20
さてさて「無人都市纏向」の次はどのネタかな?
>>5 の東遷厨持ちネタのうち稲荷鉄剣は別スレになったがw
888 :
日本@名無史さん :2009/06/28(日) 01:21:54
最近面白い文章を読んだ。「考古学研究」54−3に次山 淳氏が発表したもので、それに よると、弥生時代終末から古墳時代(布留0〜布留1)にかけて、吉備形甕の分布は博多湾 沿岸から、周防灘を通り、松山平野、今治平野を経て備後東南部、吉備、播磨、摂津沿岸から 大阪湾、河内湖、大和川、大和という道筋。分布の両端にあたる「西新町遺跡」と大和への出 入り口「船橋遺跡」そし「纏向遺跡」で突出した出土がある。一番多く出土しているのが河内 小阪合遺跡で45点。 吉備形甕はボウフラなどとも呼ばれ、側面の厚さが数ミリで熱効率の高い、当時最先端の 技術と考えられるものだが、何か示唆的ではないか。
889 :
日本@名無史さん :2009/06/28(日) 01:54:39
特に888の、大阪湾、河内湖、大和川、大和(纏向遺跡)部分に注目したい。よく搬入土器 についてのレスがあるが、海路によるならこのルートは必然。つまり、大阪湾までを纏向を 含む一つのクニ、あるいは特に関係の緊密な連合国とは考えられないだろうかということ。 大和川流域には、東郷・中田遺跡群、加美・久宝寺遺跡群など纏向遺跡と同時代を含む ものが多く存在する。 まあ、庄内式甕は河内型・大和型に分かれる系統もあるが、形式的な違いはわずかであるし、 庄内式後半以降には、大和・河内両技法の特徴をほぼ忠実に受け継いだ庄内式甕の生産が、 播磨や北部九州などの地域でも行われるようになっている。
890 :
日本@名無史さん :2009/06/28(日) 03:38:33
まあちょっと箸休めのネタとして…w 関西ローカルで深夜テレビ番組に「探偵ナイトスクープ」ってのがあって 「大和川を使って斑鳩から堺へ通勤できんのか?」 …と言う実験をしてたんだが。 まあゴムボートが浸水したり色々トラブルもあったが朝一に出て 何とか勤務先が閉まる前の夕方には着いていたみたいだったwwwww 無論、古代と今じゃあ「付け替え」によって川のコース自体が変わっているし 水深や途中船ではいけない所等々違いもあるだろうが 下りなら1日の内に河内にまで行けそうだ・・・。 しかし「遡上」となったらどれくらいの時間を要したんだろう? …と言うのが昔からの疑問なんだが・・・
892 :
日本@名無史さん :2009/06/28(日) 21:25:49
難所は岸上から縄で引っ張るといった手もあったかも。ま、わからないが。
というか、川を荷揚げのために遡上する時は縄で引っ張るのが基本ですよ。 そのために川岸整備してるんです。
894 :
日本@名無史さん :2009/06/28(日) 22:25:33
初期大和王権が大和中河内の大和川流域連合なのは自明だと思っていたのだが
それをわからない奴が多いんだよ。
俺は東瀬戸連合だと思うけど
じゃあ、俺は住吉連合で
>>895 三世紀後半から四世紀前半に
木津川周辺も支配していたと思っている人が多いようですよ。
899 :
日本@名無史さん :2009/06/29(月) 21:57:23
川を遡上するのに、両岸から綱で舟を引っ張る必要がある訳だから、 川の流域の豪族たちの了解なくしてマキムクはなかったと考えていいだろう。 東瀬戸内まで拡大できるか否だが、吉備は布留0、箸墓以降なんで遅れての参加として、 阿波讃岐播磨は早くから大和王に忠誠を誓っていたように思う。 神武東征伝承は彼ら海商小国家群、要するに海人たちがもたらした伝説なんだろう。 西の筑紫島から偉大な王がやって来たと
>>899 > 阿波讃岐播磨は大和王に忠誠を誓っていたように思う。
逆だろ。奴等の鉄の豊富さを見ろ。
>>900 お互い忠誠というより利害関係が一致したのだろう。
大和は航海や薬としても重宝する丹(水銀鉱山)を持っていたからね。
さらに紀伊半島は豊富な木材資源も魅力だしな。
902 :
日本@名無史さん :2009/06/30(火) 13:50:02
忠誠云々は確かに間違った。筆がすべったというか。 しかし阿讃播も加わった利害共同体、経済ブロックみたいなものの旗頭として大和王が共立され、 その大王にある程度は従っていたとは思うが
903 :
日本@名無史さん :2009/06/30(火) 14:48:32
>>900 前線基地みたいなものだったんじゃないか
904 :
日本@名無史さん :2009/06/30(火) 15:53:28
神武が東征で征服した大和国家=邪馬台国が、 河内、和泉、紀ノ川のディフェンスが極めて強固で、 わざわざ熊野まで迂回してまで山中を行軍せざるを得なかった事からも分かるように、 武力の及ぶ範囲に大きな広がりを持った国として成立していた事が分かる。
>>904 そういう事だと思うのだけどね。人口70000戸というのは
それくらいの規模ではないかと思うし。
で、人口集積地は河内南部、まさに「山の戸」=ヤマトの位置でしょ。
906 :
日本@名無史さん :2009/06/30(火) 21:16:06
大和は山処でしょう。 東=大和、西=河内という認識は昔からあって、東漢氏をヤマトノアヤウジと呼んだり、西文氏をカワチノフミウジと呼んだりする。 世界観の認識の仕方として、大和川が中心としてあったのだろう。 権力基盤、勢力範囲の基本に大和川があったように思う。
東漢の本拠地は河内だったのでは? 邪馬壱国のイチは、実は古市(布留市?)や高市といった 地名とも関連してるんじゃないのかな?と思ってる。 (箸墓は大市だし)
907は説明不足だったかも。 つまり東漢氏は元々河内が本拠地の時点で ヤマトのアヤを名乗っていたのではないかと。
909 :
日本@名無史さん :2009/06/30(火) 22:03:41
>899 川を遡上するのに、両岸から綱で舟を引っ張る必要がある訳だから、 大和川を両岸から縄で引っ張って遡上するのは無理。 特に亀の瀬あたりは、生駒山地と金剛山地が接する地すべり帯で、河岸道路ができたのはごく最近。 古代は、北岸の立田越えがメインルートだった。 東京の方のやつは、頭の中で考えたことしか分からない。実地を見てきな。
910 :
日本@名無史さん :2009/06/30(火) 22:05:18
今はね。
911 :
日本@名無史さん :2009/06/30(火) 22:18:27
しかし河口付近から上流纏向まで延々「両岸から綱で舟を引っ張った」って事か? 幾らなんでもそれだったら徒歩の方が余程楽で早いと思うんだが…w 余程の水深でなければ櫓で漕ぐより竿で川底を突いて進んだ方が効率が良さそうにも思うが…
古代の河内〜奈良の交通は大坂(穴虫)〜丹比(竹内)越えだろ。
亀の瀬渓谷は度重なる地滑りで現在とは地形が異なるでしょう。 ひょっとしたら今より船を上げ易かったのかも知れないな。
914 :
ローガン :2009/06/30(火) 23:23:28
>>911 まあ、船を戻す必要が有るので、それを兼ねた遡りの便はあったでしょう。仁徳紀の歌謡に…
難波人鈴船取らせ腰煩みその船取らせ大御船取れ と。
遡る船は手で引いたのでしょう。
915 :
日本@名無史さん :2009/06/30(火) 23:32:54
ま、岸を延々藪を払って土を固めて、というのは考えにくいだろう。縄を用いたとしても難所 だけでは。
916 :
日本@名無史さん :2009/06/30(火) 23:41:36
岸が歩きにくいときは、河の中にはいって浅瀬をさがしてあるいてひっぱっていきます。 陸をあるくほうが楽と言いますが、それは荷物のないときの話です。
917 :
日本@名無史さん :2009/07/01(水) 00:20:23
船なんてアホか。 そのつど上流で筏を組むんだよ。 下流で解体して木材として使う。 船を上流に上げるなんて事は有り得ない。
>>917 それは山で切り倒した木材を川を使って運ぶ時の方法だろ?w
じゃあ動力船が登場するまで川の遡上は無かったと?
今の日本の山々を見る限り圧倒的に 新たに木を切り筏にするコスト<下流から人力で木船を引っ張り上げるコスト だね。 ただし、当時の植生が今のように豊かだったのどうか、それがわからない。 古代史上、農業革命が起きて人口爆発が起きた地域は、どこも植生が著しく疲弊し、 中東のように砂漠化してしまった地域が多い。 直接の食料生産以外の、食料加熱のためのリソースの費消も大きい。 家屋建設のために木材を焼くというやり方は日本では幸いにも普及しなかったが。 スサオノミコトの唯一の生産的事業が植林だった、という記紀の言をみると、 当時の日本はそれなりに植生がやばい状況に陥っていたと思われる。
荷を川下に送る場合はそうかもね。 人は大坂越で行き来しただろうし。 箸墓の石は亀の瀬近くの芝山の物らしいが、 逸話じゃ巻向まで梯子リレーしてるしな。
921 :
日本@名無史さん :2009/07/01(水) 01:16:56
物資を運ぶなら舟に載せて遡上の方が断然楽。
普通に考えたら分かると思うが、 上ることを前提に”船”で下るなんていうのは圧倒的に少ない。 物流の基本は網場で筏を組んで下る為の川だ。 ”船”で川を上下するなんて発想がもう逝かれてる。
>”船”で川を上下するなんて発想がもう逝かれてる。 て、高瀬舟を知らないの?
924 :
日本@名無史さん :2009/07/01(水) 06:52:08
大和川の船運は江戸時代まで健在だったんだがな・・・ モノを知らないと言うのは気楽でいいなw
大和川の水運は亀の瀬を越えるのが困難だったので、 荷を積みかえてたはずだが。 距離は短いが、その間は人足でしょう。
>>926 松岳山古墳群はその船入を押えていた王族のものでしょう。
亀の瀬で荷の確認を兼ねて積み替えとかしてたのだろうね。
931 :
日本@名無史さん :2009/07/01(水) 16:36:33
亀の瀬での正確な情報おねがいします。
亀の瀬は地滑りが何度も繰り返されたから 地形自体が相当変化してしまったんだよ。 昭和6年の地滑りでは土砂で埋まった川底を掘り返してるし。 ただ昔は1〜2m程の段差が川の途中にあったと 聞いてるので、河内湖〜大和へ直通での運航は無理でしょうね。
933 :
日本@名無史さん :2009/07/01(水) 17:33:17
■亀の瀬を物流拠点に舟が行き交った大和川 〜大阪と奈良を結んだ舟運の歴史〜 大阪と奈良の府県境にある亀の瀬は、大和川の川幅が狭く、ごつごつした岩が点在する渓谷で、地すべり地区としてよく知られています。 川の南側には国道25号とJR大和路線があり、大阪と奈良を結ぶ交通の大動脈でもありますが、江戸時代にもここは交通の要衝でした。 大和川で盛んに行われていた舟運。当時、この亀の瀬周辺は、ある重要なポイントになっていたようです。 ──亀の瀬橋から400mほど上流。ここは大和川の舟運にとって、どんな場所だったのでしょう。王寺町教育委員会の岡島永昌さんにお話を伺いました。 【岡島】 大和川の舟運は江戸時代初期から始まり、大阪の城下町からここまで大和川をさかのぼって荷物を運んでいました。 ここから上流は、運ぶ方法が舟と陸路に分かれ、舟で運ぶ場合は陸上を少し上っていき、そこでまた舟に積み込みました。陸路を使う場合は、ここから牛や馬で運びました。 ──舟で運ぶのに、一度積み替えたのは何故でしょう。 【岡島】 昔、この辺りには「銚子口」という滝があり、舟で行けなかったからです。滝の落差は1〜2m程度だったと思われ、明治時代には堰(せき)で滝の落差をなくして通す装置が造られました。 ただ、今は全く形跡が残っていません。昭和7年の大きな地すべりか、その復旧工事でなくなったものと思われます。 ──大阪からここまで、何を運んできたのでしょう。 【岡島】 イワシを干して作る干鰯(ほしか)や、なたね油を搾った後の油かすなど、奈良の農家が使う肥料がほとんどです。 運んだのは「剣先船」という底が平らで先がとがっている舟で、大きさは長さ約17・5m、幅約1・9mでした。 民間業者がお上の許しを得て運航していて、古剣先船と新剣先船の二つのグループがあり、計311隻が行き来していました。
934 :
日本@名無史さん :2009/07/01(水) 17:35:26
──ここから上流は、どんな舟を使っていたのでしょう。
【岡島】 「魚梁(やな)船」という剣先船より一回り小さな、9枚のむしろを帆に使う舟です。
魚梁船は、今の三郷町にいた安村喜右衛門という人だけが幕府より権利を与えられ、「問屋」を置いてそこを中心に荷物を運んでいました。
問屋と言っても、物を仕入れて卸す問屋ではなく、荷物の運賃だけでもうける「荷継問屋」です。
魚梁船は、ここから1〜2kmほど上流にある大正橋下流の浜から出て、今の天理市の嘉幡(かばた)や田原本町の今里、大和郡山市の筒井の辺りまで行っていましたが、今里が一番栄えていました。
──陸路で運ぶ業者についても伺いました。
【岡島】 今の王寺町にあった藤井村の庄兵衛が、「藤井問屋」を営んでいました。
「仲仕(なかし)」と呼ばれる人が荷物を揚げ降ろしし、「駄賃取り」と呼ばれる人が陸路で運びましたが、駄賃取りは従業員ではなく、農家が農業の合間に副収入を得るため行っていました。
今の柏原市の青谷、峠、国分にも問屋があり、荷物の運び先に応じて使い分けられていたようです。全部で1200人ほどの駄賃取りがいました。
──剣先船はいつごろから始まったのでしょう。
【岡島】 古剣先船は江戸時代の初めから、新剣先船は延宝3(1675)年からです。
大和川の付け替え前は、今の柏原市から北西方向に行って淀川方面に出られましたが、付け替え後はいったん大阪湾に出てから、木津川を上って大阪に荷物を運びました。その分、何日か余分にかかるようになったようです。
──大和川の舟運は、時代とともに変化したようです。
【岡島】 江戸時代は荷物だけを運んでいましたが、明治になると人も乗せました。奈良県から大阪の心斎橋辺りまで、13時間ぐらいかかったようです。
大和川は交通の大動脈として重要で、舟運は陸路で運ぶより一度にたくさんの荷物が運べるため便利で、誰もが慣れ親しんだものだったのでしょう。
しかし、明治25年に湊町(現JR難波駅)〜奈良間に鉄道が開通すると、舟運は衰えていきました。
ラジオ大阪
http://www.yamatogawa.org/2008/081220/index.htm
飛鳥時代に飛鳥近くまで船で上がったという記録なかった?
936 :
日本@名無史さん :2009/07/01(水) 17:45:33
937 :
日本@名無史さん :2009/07/01(水) 18:17:46
938 :
日本@名無史さん :2009/07/01(水) 18:24:17
939 :
日本@名無史さん :2009/07/01(水) 18:55:54
・魚梁船
奈良盆地の水を集めて流れる大和川は、江戸時代から水運が発達し、下流の河内側は剣先船が、亀の瀬から上流の大和側には魚梁船が通っていた。
魚梁船は小型で底が浅く、9枚のむしろで帆を立てていた。
初瀬川筋は山辺郡嘉幡村、
寺川筋は式下郡今里村、
曽我川筋は十市郡松本村、
佐保川筋は添上郡筒井村
までのぼった。そのためあちこちに舟着き場や問屋ができた。
もともと、これは江戸時代のはじめ、片桐且元が自領の年貢米を大阪へ運ぶため亀の瀬の難所を開き、平群郡立野村の安村家に物資の輸送にあたらせたことにはじまるといわれる。
盆地内の川は夏は農業用水にまわされ、冬は渇水のため利用できなかったが、春には肥料や塩などが上流へ、秋には米や木綿などがくだり荷として運ばれた。
しかしこの水運も大阪鉄道の開通とともに衰えていった。
http://www.kamarin.com/special_edition/index_5.htm
やっぱり江戸時代からの記録は割と残ってるんだよね。
941 :
日本@名無史さん :2009/07/01(水) 20:30:31
次スレでは「無人都市マキムク」の本質に切り込もう。
邪馬壱国とは大和〜葛城〜河内の事ですよね。
943 :
日本@名無史さん :2009/07/01(水) 21:18:04
邪馬壱国は邪馬八国の聞き間違い
川の水運を公園のボートみたいにお気楽に考えているやつがいるな。 昔の2km/日の行程を見て、何で4km/時間じゃないのか?と本気で思っているアホウの類。
>>941 【無人都市】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その7
スレ立てしようかwwwwwww
946 :
日本@名無史さん :2009/07/02(木) 19:33:22
初瀬川って、「はせがわ」って読むらしいね。 いわゆる長谷川の語源なのかな?
947 :
日本@名無史さん :2009/07/02(木) 21:05:22
うーん、「長谷(そのまんまの長い谷の意)の初瀬(泊瀬)川」が語源とする説もあるね。つまり 「長谷」は 「飛ぶ鳥の明日香」のような枕詞的なもの?大和川を川舟でさかのぼって泊(は) てるところと言う意味で”はつせ”という地名が生まれたともいわれてる。
(河内の)飛鳥川は安川だったそうだね。 安宿(あすか)に注ぐ川という事で。 つまり天の安河という事です。
949 :
日本@名無史さん :2009/07/02(木) 21:58:58
ところで、纏向に東海系土器の出土が多いのは周知の事実だが、それは海路によるもの? 陸路はなかっただろうか?(と、ネタ撒き)
松阪側の櫛田川も古来からの水運ルートだから、遠回りの「海路」はないでしょう。
951 :
日本@名無史さん :2009/07/02(木) 23:47:51
>>949 倭国大乱で名古屋辺り(熱田神宮周辺)まで勢力拡大していたってことじゃないかな
952 :
日本@名無史さん :2009/07/03(金) 00:04:39
そもそも考えてみれば纏向の市・商業都市としての機能は 大和川水系を上り下りする舟運あってのお話だよなwww
953 :
日本@名無史さん :2009/07/03(金) 01:30:57
「はつせ」だけど、 これって、「つ」は「国ツ神」とかの「ツ」と同じ助詞の意味だよね? ということは、古代語の「はつせ」は現代語の「はせ」と同じ意味なんだよね。 「泊つ瀬」とは、「行き止まりの所」=「交易の最終地点」という意味だね。 「はせ」がそういう意味なら「箸墓」の「ハシ」も、語源は「はせ」だったんじゃないかな?
語感が似てるからってすぐに語呂合わせに飛びつくなって
箸墓は土師という説が殆んど定説だったと思うが。
956 :
日本@名無史さん :2009/07/03(金) 11:21:36
箸墓のハシが土器の意味なら、 前方後円墳は、土器をイメージした設計なのかな?
ハシは土器の意味ではなく、造営に関わった土師氏から 由来していると思うけど。 つまり後に畿内で大規模な古墳造営や、葬儀を取り仕切る事になる 土師氏の最初の大仕事が箸墓だったのでしょう。
>>952 まあ大和古代湖の配送センターだろう。
浪速の港から仕入れてボートで大和各地に宅配。
>>958 送信してからミスに気づいたが、奈良県桜井市に配送センターを誘致する意図がわからん。
万博跡地みたいなもんか、もしくは宅地造成前のポート六甲アイランド。
960 :
日本@名無史さん :2009/07/03(金) 11:51:22
特殊器台とか土師器を並べた異様さから、土師の墓と俗称されたんだろ。 吉備の葬送儀礼が当時の大和の人々の目には奇異に映ったということ
>>959 商いするには財が必要でしょ?
桜井は水銀の産出地の入り口です。
それに東への入り口でもあるから
当時としては便利な位置でしょう。
>>961 そうですね、征夷征東モードなら絶好の立地ですがね。
木曽三川は桑名あたりから熱田まで船便が基本ですから、東国との最短接続の立地かも。
巻向は攻められ難い場所だしね。 神武の東征神話でも相当苦労してるし。 やっぱり亀の瀬の存在は色んな意味で大きいでしょう。
むしろ交通の要所としての側面が大きいんじゃないの? 大乱終わった後に栄えてるしね。
それとやっぱり水銀でしょう。外国からはこれ目当てで来てるしな。
966 :
日本@名無史さん :2009/07/04(土) 22:02:46
辰砂ならこの当時は阿波だろう。壺に入れて各地に売り歩いてる
阿波のは採掘をはじめた時期が早かったので、 次第に採掘量が少なくなっていったんだよ。 だから紀伊半島に主力が移っていったという事です。
968 :
日本@名無史さん :2009/07/05(日) 01:16:41
マキムクの頃にはすでに阿波のが少なくなってた? どーなんだろうね。 マキムクの立地に辰砂はあまり関係ないような
>>968 宮を維持するには財が必要ですよ。
倭人伝に「その山に丹あり」と書かれてる事や、
卑弥呼の特に求めてる物として、鉛丹等が
送られてる事は無視出来ないと思うけど。
970 :
日本@名無史さん :2009/07/05(日) 02:49:07
奈良の周囲からは丹が取れるからな。
「丹」なんて字は鳥居そのものですね。 しかし面白いのは土着民の別称が「土蜘蛛」なこと。 蜘蛛は「朱を知る虫」ですよ。土蜘蛛は穴を掘って暮らす人々。 神武神話で葛城山周辺で土蜘蛛退治の逸話があるけど、 まさしく丹を巡る戦いでしょう。
丹て国字だっけ? じゃなきゃ、字形を作ったのは中国人なんだが。
鳥居の形を合わせたのかもね。
魏志倭人伝に出てくる漢字なのに国字であろうはずがない。
鳥居を赤くぬるのはその為でしょう。
977 :
日本@名無史さん :2009/07/05(日) 16:13:21
鳥居の形が成立したのは八世紀だ なんでも結びつけるな
978 :
日本@名無史さん :2009/07/05(日) 16:20:30
辞書引けばいいじゃないか。丹ー丹砂を採掘する井=穴に象り、一(中の点)は丹砂に象る。
>>977 だから鳥居の形は「丹」から由来してるという事ですよ。
980 :
日本@名無史さん :2009/07/05(日) 16:54:25
残念ながらそれは現在の定説でもなんでもないな 由来は分らないってのが本当のところ
>>980 結局現状でははっきりわからないって事でしょ?
だったら説の一つとして鳥居の形は「丹」の文字から
由来してるというのは有りでしょ。
982 :
日本@名無史さん :2009/07/05(日) 18:34:34
983 :
日本@名無史さん :2009/07/05(日) 18:51:09
>>981 愚説は君がアホであることの証明にしかなってない。
まあ神社が丹に関係深いのは紛れもない事実だけどな。
>>979 そこまでぶっ飛んだ話とは思わなかった。
現実はいつも予想の斜め上にいる。そういうことか!
>>986 斜め上でも正面から見ても鳥居は「丹」だよw
989 :
日本@名無史さん :2009/07/05(日) 22:18:05
鳥居にも色々あるんだよ、まあ大きく分ければ二つだが 赤色が塗られているのもあれば白木や石造りもある お前は最初期の鳥居の形状を検証した上で言ってるのか?
>>989 ふとみて似てるなと思っただけなんだけどね。
朱塗りになったり、初期のシンプルな形から
現在の形になる時点で意識していたのかも知れないだろうな。
991 :
日本@名無史さん :2009/07/05(日) 23:26:54
鳥居の起源 ま、どれでもお好きなものをどうぞ。 ・天照大御神を天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥」から神前に鳥の止ま り木を作った・・・・鶏居。 ・インドの塔をかこむ垣の門を「トラーナ」といい形や音が似ているところから。 ・中国の「華表」(宮殿や陵墓へ続く参道の入り口両側に置かれる、神道柱、石望柱)から。 「華表」と書いて「トリイ」と訓ずる古文献は多く見られる。 ・朝鮮の「紅箭門」(朝鮮半島の廟や村の入り口に建てられた赤い門)から。 ・タイの「高門」(ソム・プラト)が日本に伝わった。 ・古代の竪穴式住居で家を守るために入り口に二本の柱を立てて防御柵としたことから。 ・右の柱が女柱で、左の柱が男柱で陰と陽を表すという陰陽道的な起源説。 ・二本の神木にしめ縄を張った形から・・・・神の「通り居る門」。 ・804年に建てられた「於不葺御門」が、文献に屋根のない門とあり、これが起源と考える。 ・その他、殷時代の門、ボルネオの門など多数。
これだけあっても結局結論は「不明」なんだよな。
994 :
日本@名無史さん :
2009/07/06(月) 00:05:00 >・二本の神木にしめ縄を張った形から・・・・神の「通り居る門」。 これは確実にある。