1 :
日本@名無史さん:
清和源氏の系図を作成している者です。
つくづく思うのは、なぜ清和源氏は異常繁殖したのかと言うことです。
後醍醐天皇の皇子たちは諸国に派遣されたのに、その子孫はほとんど繁栄しておりません。
いったいなぜなのか?
藤原氏(北家)の陰謀
>>1 単に「たまたま優秀な人が出て、武士として大きな力をもったから」に決まってると思うが。
上流階級は側室たくさんもってやりまくるから、子孫がどんどん増える。
庶民レベルまで転落すると、途端に子孫が増えなくなる。
平安時代以降、藤原氏は繁殖しまくったが、大伴氏や蘇我氏は衰退した。それと同じ。
ってことでこのスレは終わりではないかな?
5 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 14:56:11
板垣征四郎も清和源氏の子孫
繁殖とか…ゴキブリみたいに言うなw
7 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 18:41:12
安土桃山〜江戸時代期に成り上がった大名でも
浅野や板倉などは清和源氏を名乗っているが嘘。
8 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 21:23:31
なぜ清和源氏は爆発的に繁殖したのかは、
なぜ「鈴木さん」の苗字が多いのかと同じで、
誰もこれに正確に答えることはできないだろう。
9 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 21:32:04
経基の男子は7,8人いるから、経基も一夫多妻ができるほど財力があったんだろうか。
五位で終わった人間は普通「絵師草紙」に出てくるようなしがない暮らしをしてそうだが、
いったいその財力はどこから出てきたのか不思議だ。
いかに二世源氏だって、中世の「宮家」だってほとんど子孫なんか残せていないはずだが。
10 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:22:24
「姓は源氏」ということでよろしいですね?
11 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:33:00
>>9経基は正一位
死んだ後、貰ったものだけど
天皇の孫だし一応、官職もあったから
今のサラリーマンより
いい暮らししてたと思うよ
12 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:35:04
家系図ロンダリング
> 今のサラリーマンより
> いい暮らししてたと思うよ
当たり前だww 正真正銘の、れっきとした貴族だぞ。
俺らがもし平安時代に生まれてたとしたら、殆どの人間は農民とか漁民とかで
官位もっている貴族なんていうのは、見ることもできない雲の上の存在だろ
14 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 00:07:47
いまだつはもののみちにねれず
15 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 00:16:40
>>9 源家の財力は前9年後3年は公金、源平合戦以降は権力回復と維持に腐心する摂関家(藤原北家)=パトロン大貴族(ほとんど一の人)
ていうかさ、
>>3の言う通り、
強い権力をもてば必然的に子孫は増えるんだよ。
清和源氏はっていうが、藤原氏のほうが明らかにもっとすごい。
平家も壇ノ浦で滅びるまでは異常に繁栄した。
北条氏も、赤橋だの金沢だの分家を沢山作って権力を独占した。
徳川家もそう。唯一例外なのは豊臣家だが、これは秀吉が種なし?だったせい。
別に「清和源氏」だけに限った話では全然ないので、
>>1が何を疑問にしてるのかが不明。
不思議な事に,未だに清和源氏の末裔を自慢する馬鹿が居るくらいだからな
逆に、藤原氏末裔とか、他の天皇家末裔(関西の商人や農民には多い)を
誇る奴はあまりいない
これは、周りが、フ〜ン程度にしか反応しないせいだな
19 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 04:38:56
血統的価値は、藤原北家嫡流の分家>清和源氏なんだがな。
20 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 04:59:59
>>9 >五位で終わった人間は普通「絵師草紙」に出てくるようなしがない暮らしをしてそうだが、
いったいその財力はどこから出てきたのか不思議だ。
五位で各地の受領を歴任すれば、その財力は下手な三位クラスなんて優に凌ぐだろ。
21 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 21:59:19
通貴といわれる五位でも受領を歴任しなければ絵師草紙並の暮らしだったんですかね。
あれは一夫一婦だし、屋根も穴が開いてるし。
23 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 22:58:27
累代に渡って
「告げ口の功」
によって出世した家だよなw
ここはw。
24 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 23:17:26
関東の源氏は朝鮮人
25 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 23:29:00
26 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 00:15:15
大体、関東の源氏なんて思いの外少ないしな。
新田、足利、佐竹くらいのもんだろ。
あとは周辺含めても甲斐の武田に、信濃の泉や小笠原ぐらいか。
>>23 誰につげ口したの? 摂政ふじわら実頼さんなら まんちゅう(源満仲)主役のアンナの変。 須磨に流された光る源氏みたいに(清和源氏VS醍醐源氏、村上源氏ものちのちW)
28 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 01:35:53
>>27 初代・経基自身がそうじゃん!
武蔵介に赴任早々、郡司・武蔵武芝と揉め事起こして、そこに平将門が両者の朝廷に乗り出してくるとビビりまくって都に逃げ帰り、
朝廷に
「あ、あのねー、む、武蔵武芝と た、た、平将門がつるんでね―、ぼ、ぼ、僕ちゃんをヌッ殺そうとね〜、企んでるの〜!
こ、怖いよー、ひーっ!」
っとつげ口ww。
この一件によって
坂東中の武者達から「や〜いこの意気地無し〜(笑)」と大笑いされてしまいましたとさw。
めでたし、めでたし!!
29 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 11:32:43
経基王の兄弟、親類などの子孫が出てこないほうが不思議。
>>29 ! 意図的に別格あつかいされた 藤原氏(と皇室)の番兵
藤原とか橘、大江、菅原 等々の姓を持つ人は山ほどいるけど、源さんは極めて少数だな。
これは平姓にも同じ事が言える。
藤原さんなんて極めて庶民的な名字だが、源さんとか平さんとか言うと、何か高貴あるいは逆に
いかがわしい響きがあるな
訓読みの一字姓が平安時代も含め,日本には珍しかったんだろうな
音読みの一字姓は、結構いるが、多くは渡来人の子孫である事を自称している
32 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 23:38:37
オートバイの平忠彦は格好良かったよな。
福島県相馬の出身というから平将門と関係あったりして。
源姓では10年くらい前の女子水泳選手に、源選手っていたような気がする。
そういうのはみんな苗字じゃん…
藤原、平、源→姓
近衛、三浦、武田→家名(ただし傍系で藤原、平、源もあるが主流じゃない超亜流、女系など。各一族内では)
36 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 02:41:30
>>33 レスの流れちゃんと嫁まっか(σ・∀・)σ ?
>>34 家名を名乗れる程メジャー(由緒正しい)じゃない。 でも繋がりはあるから 平 とか 源とか 特別に許されて名乗れた
38 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 20:29:30
じゃあなぜ後醍醐天皇の皇子は繁殖しなかったんですか?
藤原摂関家が放置したから 足利(清和源氏)を利用して 鎌倉幕府(最高権力者北條家)を潰滅させ 政治権力の比重を鎌倉から京都(のちの室町幕府)にシフトさせる 方向
あと南北朝一統化は、3代義満(清和源氏なのに合一の功績てま太上天皇に擬せられる)のパワーで成されたので それまで当然 各天皇側に過剰に肩入れなど摂関家(藤原北)がするはずもない
>>38 南朝が衰退したからに決まってるだろ?
何か疑問でも?
日本語でおk
しずかちゃんに決まってるだろ
45 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 08:27:55
46 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 09:58:24
意味不明w
>>37 高棟王流や桓武天皇系でも仁明・文徳・光孝彼の各天皇からの賜姓平氏が許された人々の子孫、また源氏は清和天皇系以外に、多くの天皇からの賜姓源氏許可の子孫は甚大に居る。
多くは姓(源家、平家)と家名を分離していったが 清和源氏系と桓武平氏系「以外は…ここが大切」 みなもと源 たいら平 をそのまま残し続けた(各天皇からの賜姓だから)家も 少ないがあっただろう。
(その場合、その各家は家系図・寺院過去帳等で、各天皇からの賜姓にさかのぼる痕跡をある程度証明できる。)→桓武平氏子孫と清和源氏子孫は 2大源平なので証明が豊富。(また代々、伝統意識が高い)
なにが言いたいのやらさっぱり
49 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 13:18:18
50 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 13:35:38
結局 平さん 源さんも 由緒ある賜姓 が元になってる 苗字だけど どちらも清和源氏や桓武平氏じゃないてこと。
52 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 14:16:34
ほとんどは農民が明治新姓で付けたことによる「繁殖」だろw!
>>31 >源さんとか平さんとか言うと、何か高貴あるいは逆に
いかがわしい響きがあるな
いかがわしさは多いにあるが、
>何か高貴
それはない!
単に数の多寡の違いだけで、現代の「藤原さん」同様に素性の知れない者であることに変わりは無い。
>>54 文徳天皇−惟彦親王(清和天皇の兄)−惟世王−平・寧幹(能登国司)の子孫は平(たいら)さん。
仁明天皇−本康親王(清和天皇の伯父)−雅望王(宮中左馬寮の頭)−平希世(右馬寮の頭)…地方下向しなければ京都などで平(たいら)さん。
同じく本康親王−行忠王(山城国司・従四位上)−平佐幹(三河国司・正五位下)と平佐忠(安芸国司・正五位下)の兄弟の子孫の平さん。
同じく本康親王−平惟時(大舎人の頭)−平在覚(右京の大夫・従四位下)
光孝天皇−是忠親王(清和天皇の甥)−興我王(京都山城の国司)−平・篤行(筑前国司・従四位上)と平・階行(山城国司・従四位下)と平・方正(越中副国司・従五位上)の子孫の平(たいら)さんたち。
同じく是忠親王−式膽王(図書寮の副長官・従四位下)−平季明(民部省の大輔・従五位上)の子孫の一部。
たいらさんは、スタートは全員平安時代前期なので、源さんよりずっと少なめなはずです。
今で言うなら知事や副知事の子孫が、千年も後までそれを誇りに思って言い伝えるかどうかと これらの平たいらさんたちの 後、桓武平氏が全盛になり、清和源氏に主流が滅ぼされたので 間違えられたくもなく、 控えめに子孫の方々は平を名乗られたのでは。
ウチは嵯峨源氏だけれど源平合戦で平家方について壇ノ浦で敗走して九州で
帰農土着化、以降、20世紀までずっと百姓だれだった。
という人もいるくらい 源平合戦、鎌倉時代以降の日本歴史は 上級実力者のみの すさまじい権力獲得競争(平成も?)で 中下級貴族(とくに皇族出は無力、家柄だけ)は中流化(または下層まで)…これが現実(多分現代も未来も?)。
>>56 源(みなもと、ゲン)さん候補は続々なので、とりあえず(子孫がいらっしゃるかどうかは神のみぞ知る?)…清和源氏は入ってませんので、ら
仁明天皇の皇子たちの子孫の傍系… 源寛(宮内省長官・正四位下)、源澄(位無し)、源安(備中国司・従四位上)、源啓(越前国司・従四位上)、源賢(位無し)の 子孫。
清和天皇の皇子の傍系。源本有(治部省長官・正四位下)、源定有(大蔵省長官・正四位下)、源載有(官職不明・正四位下)、源行有(太宰府副長官・従四位上)、源富有(官職位不明)の子孫 。
陽成天皇系の源氏子孫。陽成天皇(清和天皇の子)−元良親王(兵部省長官)−源佐芸(官職不明・従四位上)と源佐平(刑部省長官)と源佐親(官位不明か早世)の兄弟の子孫。
同じく陽成天皇−元平親王(弾正台副長官)−源兼名(官職不明・従四位下)、陽成天皇−元利親王(弾正台副長官)−源忠時(中務省の大輔・従四位上)、
陽成天皇−源清蔭(大納言)−源兼房(上総の副国司・従五位下)と源忘江(周防の副国司・従五位上)と源兼材(右馬寮の名目長官、従五位下)と源兼基(左衛門の副長官・従五位上)の兄弟、
陽成天皇−源清金(刑部省長官)と源清遠(刑部省長官)の兄弟。
清和天皇−貞固親王(太宰府長官)−源国淵(宮内省長官・従四位上)、清和天皇−貞元親王(官職無し)−源兼忠(治部省長官・正四位下)と源兼信(侍従・従五位下)の兄弟、
清和天皇−貞保親王(式部省長官)−源国忠(官職不明・従五位下)と源国珍(東宮大進・従四位上)の兄弟、清和天皇−貞数親王(官職無し)−源為善(大舎人の筆頭・従四位下)、
清和天皇−貞真親王(兵部省長官)−源藩基(土佐の名目国司・従五位下)と源藩平(大信膳大夫・従五位下)と源藩固(加賀の名目国司・従五位下)と源元亮(官職不明・従五位下)の兄弟、
清和天皇−源長献(刑部省長官)−源嘉種(美作国司・正五位下)と源嘉生(阿波国司・従五位上)と源嘉宝(木工寮の名目長官・従五位上)の兄弟、清和天皇−源長淵(官職不明・従四位上)と源長金(官職不明・従三位)と源長頼(長門の名目国司・正四位下)の兄弟。
ちょっと待て。長レスご苦労さんだけど、
そうした貴族やら受領の誰々の子孫というだけじゃ
なんちゃって平家or源氏と変わらないじゃん。
そもそも土着(留住)した貴族の子孫とかは
在庁や荘官になって、その土地の名を苗字にするのが
普通というか、むしろ由緒があるっていうんじゃないの。
土着するのは室町幕府以降 それまでは朝廷や鎌倉幕府の許可なく何にも出来ないのと 平安時代は毎年1回のみ転勤辞令があるので ずっと同じ国司は無理 ふつうの貴族なら子孫はどんどん没落(中央実力層と結び付かない限りは)
→清和源氏「だけは」がっちり結び付いていた だから領地も収益も家名も鎌倉→室町→江戸と 他に比較してかなり安泰もしくは有利な状況を継続してきた
62 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 04:00:59
>>61 >「清和源氏『だけ』」
が他の平・藤・橘等の諸氏に比して 圧倒的に有利だったという根拠、及びその具体例をヨロシク!
>>61 >土着するのは室町幕府以降 それまでは朝廷や鎌倉幕府の許可なく何にも出来ないのと 平安時代は毎年1回のみ転勤辞令があるので ずっと同じ国司は無理
なんじゃ、こりゃww?!
>>62 まず、源(馬場家)仲政が1095年今から910年くらい前)に、兄の馬場明国と二人共に堀河天皇の六位蔵人(付きびと、秘書官)になった。右大臣の藤原宗忠は兄弟を優遇し過ぎだと、日記に書いているくらいの異例な権力近接になった。
馬場明国は多田荘の継承権利を獲得して摂関家(藤原北)に御奉仕した。馬場仲政は、下野や下総の国司で従五位上だった。清和源氏源仲政の嫡男馬場頼政は、中納言藤原家成や鳥羽太上天皇に御奉仕し従五位下蔵人(秘書官)になった。
桓武平家が朝廷で多数派になり清和源氏はほぼ没落した中で頼政だけは安泰で、清和源氏一族の長老格になっていた。74歳で馬場頼政は、太政大臣平清盛の力で従三位(清和源氏はじめての上級貴族)になった。
源平合戦がスタートしたとき77歳にて討ち死にされた(戒名は蓮華寺建法澤山頼圓だそうです)。10円玉の平等院に墓所があるそうです。子の馬場頼兼と広綱は、遠縁の
征夷大将軍源頼朝(名目大納言、正二位…この時点で清和源氏最高位)に奉仕し、石見国司(治五位上)と駿河国司(従五位下)になった。
>>61 大宝律令の規定で(ウィキペディア参照)30の位階があって、
位階によって就くことのできる官職が定まり、位階に応じて衣類などにも制限が加えられる。また、五位以上の者には位田が支給される規定となっていた。
蔭位オンイ資格者の範囲は狭く、与えられる位階は高い。 皇族・諸王 親王の子 → 従四位下、 諸王の子 → 従五位下、五世王の嫡子 → 正六位上。
諸臣 一位の嫡子 → 従五位下、以下逓減して 従五位の嫡子 → 従八位上
(庶子は一階を降し、孫はまた一階を降す。)
のように位で領地が引き継がれるかに大影響した。
平安貴族の収入 - 霧の彼方 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/marbrstick/23284648.htmlも参考になるよ
67 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 17:28:43
>>65 いや、だからそれくらいだと『清和源氏だけが』他の諸氏と比べて圧倒的な地歩を築いていたとする根拠になっていないから。
それと
>ふつうの貴族なら子孫はどんどん没落(中央実力層と結び付かない限りは)
→清和源氏「だけは」がっちり結び付いていた だから領地も収益も家名も鎌倉→室町→江戸と 他に比較してかなり安泰もしくは有利な状況を継続してきた(
>>61)
ここの部分の後追い説明にもなっていない。
明国・仲政の隆盛(
>>65)にしたって、
同時代に受領を歴任していた桓武平氏や藤原氏秀郷流等、他の軍事貴族と比べても特に突出していたという程でもなく、多少はそうであったとしてもそれは誤差の範囲内程度のものでしかない。
源三位頼政に至っては、完全に先行された平家によるおこぼれではないか。
繰り返しになるが
『清和源氏だけが』(というよりあなたの文脈だと、摂津源氏という一系統の家だけが、ともとれてしまうが)
>鎌倉→室町→江戸
の各時代を、「没落」することも無しに「中央の実力層とがっちり結び付いて」(他の諸氏よりも)突出した地位を固め続けていた、
という主張のより説得力ある説明が欲しい。
たしか、源氏や平氏の中でも非主流の系統が
源や平という苗字を名乗って現在に至るっつう話をしてなかった?
まだ具体的な事例が全然出ていないけど。
69 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 18:33:33
過去ログで能登の方だかにそんな家が存在しているとあったね。
ただ怪しいがw
清和源氏だらけになったのは、徳川家康が政権を盗撮ったあたりからだろう
戦国時代は、血筋が良くて武功の無い家は軽蔑の対象だし,事実、血筋の良い所
ほど没落してしまっている。
事実、小田信長や秀吉が、清和源氏の血筋を尊重するような気配は全く無い。あくまで、
本人の功だけが評価の対象
家康が、うちは実は源氏の家柄なんです、って言い出したときは、他の大名達は内心吹き出してるか、
あるいはポカ〜ンの状態
家康公は、統治の上で、旧秩序体系を利用したかっただけなんだろうな
71 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 20:05:26
武田家は清和源氏?
72 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 20:12:17
>>8 亀レス済まんが
鈴木姓が多いのは熊野信仰によるもの
あんたが知らないだけ
73 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 20:17:04
仮冒が多いから
250年続いたので嘘も方便
あと関東に家康を飛ばした秀吉のバカさ加減。
>>70 >清和源氏だらけになったのは、徳川家康が政権を盗撮ったあたりからだろう
より厳密にいえば、寛永十八(1641)年に幕府が諸大名に家系図の提出を命じた時だろう。
その時はみんな大慌てで自家をいにしえの名族に繋げるために奔走したっていうからw。
林大学なんて諸大名各氏から系図『作成』を頼まれて大いそがしww!
77 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 12:57:03
満仲は皇孫経基の血筋なんかじゃねーなw。
コイツの事跡を辿ると背筋にゾクゾクしたものを感じるわw!
78 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 13:27:29
CIAの満仲
79 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 17:18:41
某古武術に関わりのある者だが、その流派では皆伝した者に源氏を名乗らせる。
武家として源氏を継ぐと言うことだらう。血筋以外の要素もあるんじゃないか?
手乞い? or、大東流?
81 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 21:31:12
>>79 源氏はどうだか知らないが、同じ武家でも秀郷流藤原氏では
他氏の者が猶子になってる例があるらしい。
首藤や波多野といった家がそうなんだとか。
単に高名な武家に列なるだけでも立身には有利に働くはずだろうけど、
もしかしたら、武芸を継承するという意味合いもあったのかもしれない
(鎌倉初期にはすでに武芸の秀郷流故実が成立していたという)。
学問の家なんかでは技能を重視するためか
他姓養子はよく行われていたようだ。
83 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 01:03:53
84 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 02:21:41
>>82 >首藤や波多野といった家がそうなんだとか
相模の豪族・波多野(佐伯)氏の場合、
秀郷流佐藤氏が2〜3代続けて相模国司に赴任しているんだけど、その家と佐伯氏が姻戚関係を結んでいる。
これは当時まだ一般的だった招婿婚制度によるもの。
中央から赴任してきた中下級貴族と地生えの豪族が姻戚関係を結び、
貴族側は、都に残っていたならば到底手に入れることは出来なかったであろう程の物資を貢がれて富裕化し、
地元豪族側は中央貴族の血統に連なることによって御家存続の担保を得る。
つまり、一種の双務条約みたいなものだな。
ぶっちゃけて言うと、
源平藤橘に関係なく、
(てかそのはるか以前から)日本国中でそれは行われてきている。
首藤氏の場合はたしか、
美濃の豪族・守部氏と秀郷流藤原氏が同様の理由により、姻戚関係を結んだものだったと思う。
85 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 03:12:08
>>84 そのとおりだと思う。
源平藤橘なんて氏族ですから、ゆるーい血縁の象徴でしかないよ。
でも武士が一騎討ちの名乗りで、わざわざ古い先祖を持ち出すのは何ででしょう。
実力主義の戦国を勝ち抜いた武将達が、系図を詐称したのは何ででしょう。
>> 85
古い家系を誇るのは洋の東西を問わず良く見られる現象。
家系を誇る心理は,単に王侯貴族だけではなく、傍から見ると、そんな事どうでも好いじゃないかと
思われる一般人にも非常によく見られる。また文化圏によっては、先祖,家系に無頓着な民族もある。
これは、歴史学,特に日本史だけを議論しても視野が狭まるだけ。むしろ人類学の課題。
日本史固有の問題として、なぜ清和源氏がやたら多いのか? を究明する事で、逆に人類学に貢献できると思う。
87 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 10:35:17
ヨーロッパならさしずめ、ハプスブルク家あたりが清和源氏に該当するかな。
88 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 12:34:18
身元の保証と言う意味で必要だっただけでは?乱波なんかが跋扈するなかでやはり身元は大切。
そうした中で一番清和源氏が名乗り易かったとか。
>>84 自分が読んだのは野口実氏の説。
首藤家の祖、主馬首藤原資清(助清)の出自は、『山内首藤氏系図』に
左大臣藤原師尹の子孫とあるが、検討してみると不合理な点が多いので、
本姓守部氏の助清が秀郷裔嫡流の佐藤公清の猶子になったとする『尊卑分脈』
の説に従うべきとする。
波多野家の祖は『尊卑分脈』によると、秀郷裔嫡流の藤原公光(上記佐藤公清の父)
の子経範であり、その傍注に「母佐伯氏」とあることから、この経範は『陸奥話記』
に源頼義の従兵として登場する「散位佐伯経範」に同定される。しかしながら、
兄弟になる公清の活動年代、祖父公行の卒去年からして、世代的に問題があるという。
この点について、別の系図に経範が源頼信に仕えた佐伯経資の子で、相模守藤原公光
の婿となって藤原姓に改めたとあることに紹介した湯山学氏の説を取り上げている
(ただ、その別の系図というのが史料的にかなり問題があるシロモノらしく、
正直波多野については上述の説が成り立つのか微妙)。
清和源氏の家系のブランド力が確立したのは、江戸時代からじゃないの?
豊臣政権が続いていたら、詐称する家系も異なっていたんじゃないのかなと。
>>85 >でも武士が一騎討ちの名乗りで、わざわざ古い先祖を持ち出すのは何ででしょう。
武勲輝かしい英雄的先祖をもつことが
武者である彼らの誇りであり、
アイデンティティだったから。
武士はその帯びている官職ゆえに武士なのではなく、
英雄的戦士の血を引き継いでいるからこそ武士であるとされる。
平安後期あたりでは、承平天慶の乱の鎮圧功労者の子孫が
正統な武士の家筋として認められていたという。
92 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 05:51:27
>>91 >承平天慶の乱の鎮圧功労者の子孫が
正統な武士の家筋として認められていたという
それを「中央軍事貴族」という。
もっとも、どこまでを軍事貴族の範囲とするかには議論もあるらしいが。
某コテによると、軍事貴族とは
清和源氏、桓武平氏、秀郷流藤原氏の3氏のみ。
これがいちばん狭義の解釈。
同じ承平天慶勲功者でも、
たとえば、為憲流藤原氏や、遠保流橘氏、公頼流橘氏なんかは軍事貴族には入らないらしい。
それと、
「承平天慶勲功者のみ」となると、それ以前の時代に活躍した人物であり、秀郷と並ぶ武門藤原氏の双璧でもある利仁流藤原氏も軍事貴族には含まれないことになってしまう。
更に厳密に見ると上の「狭義の3氏」にもおかしい部分がある。
清和源氏と秀郷流藤原氏については、まさに「初代」が勲功者なのでそれで良いとしても、
「桓武平氏」
これがおかしい。
あくまでも承平天慶勲功者のみを軍事貴族とするならば、桓武平氏全体ではなく、「貞盛流平氏のみ」としなければ、他氏との兼ね合いで見ても辻褄が合わない。
ところがかつて某コテ氏にその返のところを尋ねても曖昧な返答しかよこしてこなかったという経緯がある。
93 :
名も無き大阪人 ◆c68ywQ2shI :2009/03/09(月) 08:59:54
>>74 笹竜胆の紋って実は村上源氏がよく使った意匠で
清和源氏は使っていなかったらしい、でもいつからか
源氏イコール笹竜胆というイメージが広がり、当時一番有名だった
清和源氏も笹竜胆だろうと、清和源氏を仮冒した家が次々と家紋に採用した
と言う話があるらしい、
村上源氏が笹竜胆を好んだ理由は、天皇家の象徴は今は菊だが
昔は桐竹だった、そこで竹葉と桐紋両方に似ている笹竜胆を使うことで
天皇家との縁を表したらしい、今でも陛下の御装束は桐竹鳳凰をお使いになってる
と言う話を聞いた、裏取ってないけど
94 :
86:2009/03/09(月) 17:08:10
>86
根源的には、血脈、肉体的継承に対する信仰だと思う。
西欧の王家も血脈を非常に重要視している。有名なイギリス王家でも、数百人を超える王位
継承者がいるが、すべて血脈でつながっている。この順位は、養子とか結婚とか言った人工的な
家族化では影響を受けない。例えば、エリザベス2世の夫君も王位継承権を持っているが、遠縁で
結婚後も、継承順位は低いまま。
中国も,基本的に血脈を持って一族としている。(奥さんは,基本的に多姓のまま)
血脈とはちょっと異なるが、未開民族でも、戦士の勇気を引き継ぐ意味で、亡くなった勇者の遺体の一部を食べる習慣があった。
日本の特徴は、古代の時点で早々と、養子等の人工的な縁組みで血脈の擬制を行なっている点だ。
女系でも男系でもつながっていない養子縁組も珍しくなく、家制度と言う、血脈の擬制が受け入れられており、肉親の感情を超えて
受け入れられている。
今かろうじて、擬制を受け入れず血脈を守り続けているのは天皇家とか一部の社家ぐらいだろう。
武士は特に家制度に重きを置く傾向が強く、中世以降は血脈よりも家の方を重視するようになって来た(本末転倒的だが)。
これは、
95 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 17:32:20
〉血脈の擬制
そういう例も無くはないということで、完全に血が繋がらずに家を継承する例は日本だって少数例だろw
97 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 18:15:10
>>96 「山のように」とかそんな言い方したってしょうが無いよw
山のようだろうが海のようだろうが、
実数としては血の繋がった継承の方がずっと多かっただろうということ。
98 :
86:2009/03/09(月) 18:43:09
現実的に男系だけで繋ごうとすると、(相続可能な)一族の範囲をかなり広く取っておかないと困難。
徳川家だって、大奥と言う立派な再生産設備を持っていたにもかかわらず僅か7代で直系が絶え、
傍系の男子を跡取りにむかえている。
これは、かなり豊かな一族だったから可能であったのであり、普通の家では7代も離れると完全に亜科の他人になってしまう。
遠くの親戚より近くの他人と言うロジックが働き、血脈より関係者の都合の方が優先されて行く。
血脈のロジックを維持しようとすると、ヨーロッパのように敵対する国の領主が継承権を主張して来たりするし、家制度を設けて
他姓の婿を取る方便の方を選んだと思う。
江戸時代の大名も、途中で婿養子を取った家の方が圧倒的に多い。
これは、日本の田舎の家系を見ても一目瞭然。昔は家の富貴に関係なく乳幼児の死亡率がものすごく高くて、家を継続しようとすると
血脈は保てない。(ユーラシア大陸全体に言える事だが、昔は女性に血脈を継ぐ能力は無いと見なされていた。)
99 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 19:12:03
>>94>>98 「家制度」「家制度」と何の説明や前提も無しにこの言葉を使うけど、そもそもそれどういう意味?
101 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 19:40:43
>>100 ん?なんだ!とうとう我慢出来なくなって狂ったか・・・
もうちょい我慢してみろよwwwwwwwwwwww!
102 :
86:2009/03/09(月) 19:41:07
今、清和源氏の後裔を自称する家系は多いけど、
周りの人間は誰も生物学的な先祖が清和天皇だとは信じてない。(その可能性を完全に
否定するわけではないが)
結局は、何代にも渡って家系が判明し公言出来る事を宣伝してるだけである。
実は,オレの母方の田舎の家も源氏の末裔を称しているんだけど、結局、ある程度信憑性をもってたどれるのは、
戦国時代末期までで、それ以前は言伝えでしかない。
また、現在に至るまでの間、男系では2回切れている。
そして、分家があるにもかかわらず、他家から婿を取っている。
これは,分家が本家の家来みたいになってしまっていて、家格が低いと見なされたのかも知れないし、
単に、適当な男子がいなかっただけなのかも知れない。(昔の事なので,良くわからない)
現在,大方の源氏の末裔もこんな感じじゃないのか、実際問題として。
103 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 19:58:27
だから2代目がすでに怪しいと(ry
104 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 20:14:50
やたら文面に矢印を使ってくる奴がいるなw
文体は分かりにくくなるが
ある意味分かりやすいとも言えるww
105 :
名も無き大阪人 ◆c68ywQ2shI :2009/03/09(月) 20:31:32
>>102 うちも2回、直近は明治に養子が入ってるから
源氏(清和じゃないけど)の血はつながっていないと思う
明治に来た爺さんの家は、江戸時代の上司?の家らしくて
そこは藤原氏と言うことらしく家紋も藤系の紋だった
その前に家の先祖なんだが、系図上は源氏なのだが、
名字とか家紋なんかをしらべるとどうも藤原氏くさいのはどういう事だろうwww、
さては、やりやがったか家のご先祖
106 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 20:40:21
やりやがったんでしょう、きっと(・∀・)!
107 :
名も無き大阪人 ◆c68ywQ2shI :2009/03/09(月) 20:50:28
>>106 多分そうだろうなw
きっとあれだ、武家だと藤原より源氏の方が聞こえが良いから
しかし、それならどうしてメジャーな清和源氏にせずに
マイナーな宇多源氏なんかにしたんだろ
どっちにしろ、たいそうな身分でもないくせにww
..... あれ?仏壇が開いたみたい
108 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 20:56:46
うちは日本神道ですよ
109 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 21:35:56
Y染色体を調べれば
110 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 22:23:57
>>105 結城氏や大友氏のような名門藤氏(武家としての)ですら、清和源氏に変えてたことがあったくらいだからな。
時代によって詐称する家系も異なっていた。
朝鮮の役以前は、大陸系を名乗る場合もあった。
平氏なのに源氏に改めた奴ってのはさすがにいないか
>>110 その両家のばあいは、「変えてた」んじゃなくて将軍足利家から正式に賜っていたんだよ。
だから仮冒というのとは全然違う。
のちの江戸時代で言えば、主だった外様大名に松平姓を賜姓していたことと同じようなもんだ。
ほへー、それって結城家が小山家本宗の滅亡後に名跡を襲ったときのこと?
115 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 15:30:45
現在残ってる家で嫡流は足利?佐竹?
>>110 賜姓ってなんなんだ。
大大名でも、松平を名乗っているのはなぜ?
以外と、家系に対する拘りはなかったのか?
前田、島津、伊達…などの大名が松平の称号を許されているのは
将軍家との姻戚関係によるもの。
徳川の藩屏として位置づける意味もあったろうね。
118 :
名も無き大阪人 ◆c68ywQ2shI :2009/03/10(火) 19:44:28
>>116 氏は先祖と同じじゃなきゃならない決まりなんてないし、そもそも天皇から与えられるものだから、
天皇には剥奪権もあってしかるべきだし、自発的に設定出来る物じゃないから固執しようが無いとも言える。
古くからの氏は複数回変わってるのが当たり前なくらい。
藤原氏の人物が源氏を貰ったところで「大功有り公方より源氏を賜る」
とでも書いて系図は今まで通り藤原氏に繋げればいい。
家康は豊臣氏を貰っていたけど、系図を秀吉に繋げるのはむしろ許されないだろうし、
(自称だが)表向きはれっきとした源氏後裔。
だから仮に豊臣政権が滅びずに豊臣氏を捨てられない状態が続いたら徳川家の家系図は
清和天皇━貞純親王━(中略)━源義家━(中略)━源義貞━(中略)━源清康━源広忠┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗豊臣家康(功績有り太閤より豊臣氏を賜る)┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣━━━┳━━━━━━━━━━━━━━┓
源信康 豊臣秀康(結城家の養子となる) 豊臣秀忠
こんな感じになるわけだよ。
つまり氏の変更と家系の持続は両立出来る、と。
家名は自発的に設定する物だから本人の気持ち次第。
大友が足利から源氏を貰ったのは豊臣氏や徳川発行の源氏に比べてさぞや名誉な事だっただろうね。
明治維新後は、さすがに家系詐称ブームは無かったような気も…
どうだろう。
121 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 02:10:06
122 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 08:28:04
>>120 維新以前は武家が偽家系図作っていたけど、明治以後は一般庶民もやり始めた。
士族じゃなくても、ヲレは〜の末裔で…という感じ。
124 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 23:15:46
残念ながら徳川将軍家(正一位大政大臣源氏長者宣下…15代のみ従一位)子孫
足利将軍家は3代義満のみ正一位、あとは全員従一位大政大臣(または左大臣)15代義昭のみ従三位。
126 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 00:21:05
>>95 日本は江戸期に末期養子禁止だったから、お家断絶で財産を没収されないために養子縁組の制度が発達したと言う話もある。
127 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 02:57:06
だから
そういう「話があ」った=実際として養子の方が多かった
ということにはならないだろ。
128 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 17:51:37
だねえ。
旧士族がいると、血は繋がってないだろとか先祖は株買って武士になっただけだろとか言いたがる輩がここには多いな。
でも実系のみで何百年も家を保っていくってのははっきり言って無理だよ。
130 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 03:48:07
=赤の他人を養子
とはならないよね。
名門だと、実際はどれくらい養子率かな。
面白そうな話だね。
江戸時代限定で。
徳川家自体も15代で5回
天皇家だと7回ぐらい?
近衛家は1回か
一番条件のいい(側室が多い)徳川家でこの有様だからなあ。
132 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:05:42
話がごっちゃになってるぞ?
特定の家系が継続するのが難しいということは一般論としてはいえるし
それゆえに特定社会の「姓」の数が減る傾向にあることもその通りだけど
人口の絶対数が増加傾向(もしくは少なくても一定)にある場合、
最低一つ(あるいは数少ない特定)の氏だけは増えることになる。
(韓国の金海金氏も清和源氏も同じ理由で増えたとみるのが妥当)
>>132 設問が面白かったので計算してみた
前提の建て方によって計算方法は、全く変わってしまうが、どのやり方をとっても、
一つの傾向だけははっきり示せるので、例示してみる。
仮に平安時代から現在まで1200年、40世代(一世代=30年で計算)で、
平安時代の人口を500万人、今の人口を1億として、20倍の人口になったとする。
そして、清和天皇の子孫の繁殖力が極端に強くないとすると、
男ー男ー男ー・・・と凡て、男系で繋がった子孫は、せいぜい数十人で最大でも百の単位だろう。
それに対して、男ー男ー女ー女ー男ー・・という感じで、男系女系関係なく清和天皇の子孫の数は、
と算出すると、もし一族内で通婚が無いとすると22世代目ぐらいで(室町時代)すべての日本人に
清和天皇の遺伝子が行き渡ってしまう計算になる。
もちろん、同じ清和天皇の子孫同士の結婚はかなりあると思うし、通婚圏は日本津々浦々に平等に広がっている
訳ではないが、少なくとも数十万人から百万人単位の人間が、清和天皇のDNAを継承していることになる。
男系のみに限定すると、子孫は数十人〜数百人のオーダー
男系女系構わずとすると、子孫は数十万人〜数百万人のオーダー
清和源氏の繁殖力が強いとしても、男系、女系両方が多くなるので、人数比の変動はそれほど変わらないだろう。
>>133 こういうの見る度にいつも思うんだけど、
同じ計算やったら、庶民の子孫はもっと比較にならないほど爆発的に増えやしないかw?
>>134 いや、計算してみると分かるが、子孫が増えると言うのは必ずしも人口が増えるとは限らない。
平安時代と現代で、人口が同じだったとしても子孫は増える。
つまり、清和天皇の子孫の遺伝子が拡散して行く訳で、清和天皇の子孫は、当時の庶民の子孫でもあるから。
136 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 20:47:34
>>135 そりゃそうだろ。
ここにいるオマイらだって、継体天皇の遺伝子を持っている可能性は極めて高いし、
継体天皇と同時代の奴隷の遺伝子を持っている可能性も極めて高い。
137 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 20:54:32
>>72 そんなの知ってるよw
だけどさあ、民間に流布した信仰って熊野信仰だけじゃないぜw
お稲荷さんでもいいし、祇園信仰でも良い。
なんで熊野信仰だけが、「鈴木」の広がりとつながったかは、やっぱりはっきりとはわからない。
じゃ「佐藤」や「高橋」は何の信仰とつながるんだねw
こういうことに疑問を持つのが、学問でいい仕事をする人と、ただの知識があるだけの歴史オタとの違いなんだよw
138 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 21:32:11
>>134 過去から下っていくとわかりずらいだろうけどこれならどうかな。
一代前の先祖は父親と母親が一人づつで二人
二代前の先祖は祖父母が二人づつで四人
三代前の先祖は曾祖父母が四人づつで八人
こんな感じで辿っていくと26代前の先祖は67108864人で、
手元の電卓で表示出来る限界だからこれ以上は知らないけど、
40代前の先祖ならざっと1兆人以上はいる計算になる。
なので、40代前の日本の総人口が仮に1000万人でそれら全員の血を均等にひいているとすると、
同一の人物の血が10万人分流れてる計算になる。
もちろん渡来人もいるだろうし妥当な平均値が出せないけど、
同一の人物の血が数千から数万単位で重複してるのがむしろ普通なわけだよ。
こう考えると、子孫を残せた人物であれば身分関係無く、現代の日本人に血が流れていない方が不自然。
139 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 00:19:39
>>79 おれも其れが真相ではないかと思っている。
肥後の菊池氏のように主従関係を親子関係に擬制した系図もあるし。
落語家が林家や三遊亭ばかりを名乗るのと同じ。
>137
鈴木姓だが、分布が非常に特徴的。鈴木姓が最も多い県は、次の8県だが、
静岡県 1 42353
愛知県 1 32759
東京都 1 28295
神奈川県1 27859
千葉県 1 23766
埼玉県 1 19705
茨城県 1 16603
栃木県 1 8746
県民に対する割合(密度)トップ8では、
静岡県 1 42353 793837 5.34%
福島県 2 18978 444899 4.27%
山形県 3 10353 294539 3.51%
宮城県 3 12663 402475 3.15%
愛知県 1 32759 1186142 2.76%
茨城県 1 16603 619703 2.68%
千葉県 1 23766 895288 2.65%
秋田県 5 7146 305448 2.34%
となる。 東京、神奈川は人口そのものが多いので、絶対人数ではランクインするが、人口密度では圏外に落ちる。
極めて特徴的なのが静岡県で、絶対人数でも他の大都市圏を押さえトップで、人口比の割合でもトップ。意外なのが、鈴木姓発祥の地と言われる和歌山で、絶対数、割合とも全国平均レベル。オレも、考察してみたが、もう眠いので今日は終わり。 そのうち、気が向いたら書く。
141 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 03:38:49
142 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 19:57:39
領主になれない 社会の一部分になっていたからでは? 漁労 運輸 とう
143 :
140:2009/03/22(日) 05:54:46
鈴木姓は、やたら静岡県に多いと書いたが、その静岡県内の鈴木姓の分布も特徴的だ。
磐田市 4058 35879 11.31%
周智郡森町 565 5030 11.23%
袋井市 1708 15818 10.80%
浜松市浜北区 1764 18587 9.49%
なぜか静岡県内でも磐田市近辺に集中し10人に1人以上が鈴木姓で、次に集中するのが伊豆半島の先端の地域。
他府県も調べてみたが、この鈴木姓の偏在傾向は東海から東北の太平洋岸に多く、例えば、神奈川の三浦半島、千葉の館山から茨城の太平洋岸までは比較的連続して鈴木姓が多く、
宮城県では塩竈付近と、港町を転々と北上して行く。
面白いのが岩手県で、鈴木姓の分布の中心が2つあり、一つが太平洋沿岸の大船渡市で、もう一つが内陸の平泉一帯だ。
鈴木姓は、熊野の神官が信者に神姓である鈴木姓を授けて広まったと言われているが、全国に広がる熊野神社周辺に特に鈴木姓が多いと言うわけではなかった。西日本でも、鈴木姓はまばらに分布するが、
特に偏在もしておらず、他の多姓(田中とか渡辺)と比べるとむしろ少ない。
結論として、オレは、鈴木姓は次の3つのパターンで広がって行ったと推測する。
古いものから順に;
1. 古代からある姓であり、熊の信仰の広まりとともに全国に薄く広がった。
2. そして、東北では、義経人気から、平泉をコアにして、佐藤姓と共に鈴木姓が広まる。
3. 最後に、近世になって、東海以北の太平洋岸の港町を拠点に広まった。
(続く)
144 :
140:2009/03/22(日) 06:05:34
そして、何が一番決定的、つまり規模が大きかったかと言うと、最後の港町ブルース攻撃だ。
面白い事に、同じ港町でも、三重県以西の太平洋岸の港には、鈴木姓は特に多くない。
また、分布状態が極端に狭い地域に集中しており、通常、通婚などで姓は広がって行くもんだが、
港町系鈴木姓は、名乗り始めてからの時間が短く、それほど拡散していない事を窺わせる。
そして、太平洋岸の鈴木姓の分布の発祥の地は、愛知県の幡豆郡幡豆町付近を想定する。
この付近は、鈴木姓の濃度が極めて高く、なおかつ、此処より西側には鈴木姓の集積地が見られない。
恐らく、太平洋沿いに鈴木姓を広めたものと思われる。
ところで鈴木って姓だっけ、苗字だっけ?
146 :
132:2009/03/24(火) 20:17:31
>>133-136 いや俺がいいたかったのはちょっと違うことなんだ。
仮に「茂名山」という姓があったとする。
茂名山さんが三児の父だとすると、子供三人とも男子である確率は8分の1。
子供が二人の時に、二人とも男子である確率は4分の1。
子供が一人もいない時に、男子である確率はゼロ(確率じゃなくて必然だけど)。
いずれは茂名山という姓を継いでくれる男子がいなくなる可能性は非常に高い。
ジョージア大学の遺伝学者ジョン・アバイズによると百姓があったとした場合
20世代後には十姓しか残らない計算になるとのこと。
しかし人口が増加傾向(もしくは一定)にある場合、姓の数は減っても
総人口は減らないのだから、膨張した姓と衰退した姓があることになる。
中国では歴史上存在した姓は3000くらいあるのに
現在残ってる姓は500前後。
韓国ではその半分の250前後しかないのに、占領時代から現在まで
国勢調査の度に稀姓・珍姓が消えて総数が減っていく傾向がある。
(下に続く)
147 :
132:2009/03/24(火) 20:18:37
(
>>146から続き)
しかもそれらの姓が均等でなく、どちらも五大姓といって
中国では「李王張趙劉」が人口の三分の一、
韓国では「金李朴崔鄭」が人口の過半数を占める。
(中国では四大姓、韓国では九大姓という数え方もある)
仮に新しく姓が作り出されるようなことがなく、このままいけば
遠い将来には中国人は全員が李か張になり、韓国人は全員が金になる。
1790年のバウンティン号の反乱で、
6人の英国兵士が13人のタヒチ女性とともに太平洋ピトケアン島に住み着いた。
その7世代後には姓が半分に減ってしまった。
つまり、姓には「消えてゆく多数の姓」と「増え続ける少数の姓」があることになる。
日本で、多種多様な姓が衰退していって「源・平・藤原」の
三大姓がやたら増えたのは別に不思議でもなんでもないので
「血筋の上で関係ないやつが清和源氏を名乗ったから」
という理屈は不要だということ。
遠い将来には日本人は全員清和源氏になるところだったのだが
明治になって姓の名乗り方が苗字になったので
いろいろごっちゃになってすべてチャラになった。
148 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 20:22:03
五大姓で揃えるなら
中国「李張王趙劉」
韓国「金李朴崔鄭」
日本「源平藤菅橘」
149 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 20:23:51
>>147 まあ。そだね。韓国で、なぜ「金海金氏」は多いのかと言ったって答えられないし。
仮に日本国民が韓国並みに(笑)族譜を造ったら、やっぱり清和源氏が国民の数%をしめることになるのかも。
>>146-147 言っていることはよくわかるつもりだし非常に面白いと思うが、
日本史上たとえば藤原氏が多く残り、蘇我氏や大伴氏が消えて行ったのは
そのアバイズの法則(と、仮に名付けてみる)のせいっていうよりは寧ろ、
単に蘇我氏や大伴氏が藤原氏との政争で負けたからだと思うぞ。
151 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 05:41:35
>>150 うむ。その通り。
アバイズの法則(と、仮に名付けてみる)では
「消えてゆく多数の姓と増え続ける少数の姓がある」と言えるだけで
具体的にどの姓が前者でどの姓が後者になる、ということまで特定しているわけではない。
だから藤原姓が増えたのも清和源氏桓武平氏が増えたのも
政争で勝ったとか何かしら生存競争に有利な事情があったんだろうけど
それについてはアバイズの法則が説明してるわけではないです。
アバイズの法則は
「姓とはすべてが断絶するのではなく必ずどれかは増える」
といってるだけなんで。
153 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 22:20:45
>>151 上位5位まで採るとしたら
紀氏は橘や菅原よりも繁殖したといえるかな?
154 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 09:20:50
>>153 色々な藩士名簿を見た上で自分はそう感じている。
っていうか橘菅紀は一纏めで四番手グループだから五大でくくるの自体が無理かと。
その次の七位争いは在原、物部、大江、中原で大江と中原が抜け出てる感じ。
あと
>>148で源平藤橘菅とせずに橘を最後にしているのは繁栄した順で並べてるから?
それなら上三つは藤源平が適切だと思う。
155 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 15:22:35
ちょっと関係ない質問ですみません、
清和源氏と桓武平氏を足し合わせたら、藤原と比べてどっちが繁殖してますか?
156 :
155:2009/03/27(金) 15:52:53
>>155は勘違い。
撤回するので答えないでいいです。
特定の姓が増え続けると言う現象は、必ずしも権力にアンバランスが無くても発生する。
例えば、人口が一定として(明治以前の日本の人口は極めてフラットな伸びしか示していない)
仮に1万人の男が別々の姓を名乗っていたとしたら、次の世代の姓の数は75%に減ってしまう。
(単純に一人の男が次世代に2人の子孫を生むとして計算。次世代の1万人のうち5千人は男兄弟で
2人が同じ姓を共有し、残りの5千人は単独の姓となる。)
従って、世代を追ってどんどん姓の数が減って行くが、最後まで行って全員が同じ姓を名乗るようになるかと
言うとそうでもない。
姓が一つの場合、次の世代で姓が消滅する確率は25%だが、同姓が2人いたら絶滅確率は6%,
4人いたら絶滅確率は0.4%と、幾何級数的に絶滅しにくくなる。
そして、同姓が数十人程度になると極めて安定的になり急に減りもしないかわりに増えもしなくなってしまう。
このような現象は、あくまで人口が一定の場合であり、人口が急膨張するような時代(例えば日本の明治以降)では、数が多い
姓が加速的に増殖しやすい。
貴族は号、武家は苗字、商人百姓は屋号で同姓ばかりになるのを何とかしてきたね。
159 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 00:14:32
結局は、強い男の子孫が繁栄するってだけのことなんだよね
そうやって遺伝子が淘汰されていくわけだ
160 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 10:21:10
時代が必要とするから。
清和源氏を名乗った方が都合が良かったから。
それだけじゃね?
162 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 17:03:53
環境に適応できない種は激減します。
平安時代だったら源氏より藤原さんのほうが多かったんだろうな。
カマタリすごい。
164 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 21:07:56
まるで藤原のカタマリ
165 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 22:02:51
ホモの塊
166 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 08:49:04
161が正しいと思う。
家康もはじめ藤原だった?
ちなみに清和源氏系のシトは、三ツ矢サイダー飲むの?
167 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 18:11:22
「朝鮮半島の情勢変化」というのが、武蔵の国にひびくのである。
このころの大和から西日本一帯は、瀬戸内海があるため船には長じていた(白村江の海戦で敗れたも
のの)。しかし馬にはきわめて不熟練であり、第一馬そのものがあまりいなかった。
そういう日本列島にあって、その東の辺陬に突如馬文化が成立するというのは、百済人二千の入植とい
う事実をはずしては考えられない。
開墾地主が、簇生した。その開墾地主が、つまりは武士である。これが荘園制度とからんでいわゆる坂
東武士団がつくられてゆく。
かれらは自分の開墾地の擁護をたのむために京都朝廷に口きき役として源氏や平家などといった筋目
の京都人を棟梁に押したて、みずからの家系をも源平籐橘に系譜にあわせて創ってゆき、つまりは系譜
の上からいえばたれもが桓武天皇や清和天皇の子孫になりおおせて、たれもが百済人と土着人の子孫
といわなくなる
168 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 17:10:43
確かに不思議
藤原も凄いぜ
その時から中国人支配が始まり、今もまだ続いている。
170 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 20:23:41
保守
清和源氏にヤラレチャッタ農民の子供は
清和源氏に入りますか?
172 :
日本@名無史さん:2009/08/06(木) 01:28:24
【岩松頼有こそ、田島経政?】
暦応2年から伊予国守護、その後備後国守護として活躍する岩松頼有その人を岩松・田島経政の出家した姿か、後継者である可能性が高いという。
新田義貞の鎌倉攻めにおいて、岩松経家と並ぶ岩松軍団の大将として、新田遠江(田島)又五郎経政がその人であろうという。
『新田町史』
平家物語を読んだのですが、
木曾義仲って、ちょっとだけ登場して
すぐに消えてしまうのですが、義仲の
人生って、いったんなんだったの?
174 :
日本@名無史さん:2009/08/12(水) 07:42:27
義仲の歴史的意義は何かってこと?
平家を京都から追い払ったこととか、
東国武士による武家政権の先駆的存在(というか反面教師?)
になったことかな。
175 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 17:21:32
【常楽寺と田島氏】
岩松氏関連と推定される寺院に上田島の常楽寺がある。この寺は真言宗寺院で明治25年(1892)に円通寺、
蓮蔵寺と合併し、寺地を円通寺の太田市上田島に移した。(:現在上田島は、太田市と新田町に分属)。
しかし旧寺跡と墓所が新田町分の上田島にある。この常楽寺跡には、表のような五輪塔、宝キョウ院塔があり
、ここから板碑も出土している。鎌倉末〜南北朝期の銘文が記されている。・・・・・中略・・・・・
旧暦の8月8日(彼岸)に、常楽時の大檀那のしゃみ仏と結衆(信仰で結ばれた人々)6人と僧12人で
千部経供養のために宝きょう院等を造立し、納経しているのである。・・・・・
(この寺を)、岩松氏関連の寺と考えた場合、岩松氏の有力庶家田島氏関係の寺院ではないだろうか。
田島氏は、岩松時兼の子又太郎国に始まる(新田岩松系図)それ以後の系統は系図上では不明であるが、
鎌倉末期嘉暦3年(1328)に、新田荘東田島村内在家2宇、田2町5反畑3丁9反を売却した
新田遠江五郎妙西(長楽寺文書13)が田島氏と推定される。常楽寺宝きょう院塔銘文の『妙仏』との酷似に注目しておきたい。
【岩松頼有こそ、田島経政?】
暦応2年から伊予国守護、その後備後国守護として活躍する岩松頼有その人を岩松・田島経政の出家した姿か、
後継者である可能性が高いという。新田義貞の鎌倉攻めにおいて、
岩松経家と並ぶ岩松軍団の大将として、新田遠江(田島)又五郎経政がその人であろうという。
ソース『新田町史』
そうか
178 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 16:01:05
保守
179 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 01:09:11
詐称がほとんどだろ?
180 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 03:02:56
うちはもろに詐称だとじいちゃんが言ってたよ。
ちなみに足利。六代さかのぼった親戚に楠木がいるし。
ネタじゃないよw
181 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 07:14:59
>>90 そう考えると秀吉がかわいそうだな
豊臣氏を創設した秀吉からしたら、
家康とか家臣に豊臣氏を授け、
清和源氏みたいに子々孫々に繁栄していって、
明朝や天竺や祇園精舎を豊臣氏の勢力下に起き、
第二のチンギスハンみたいに大陸を豊臣氏で埋めたかったはず
まさか家康が豊臣氏捨て豊臣氏廃れるとは・・
182 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 23:24:20
秀吉なんてどうでもいい
183 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 23:49:08
>>179 本物、縁組、詐称の中で詐称が一番多いということですか??
興味があるので解説をお願いします。
詐称ができた時期や条件、縁組についてもご存知のことがありましたら。
184 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 01:22:33
源八幡太郎義家が偉大すぎたから
185 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 17:45:29
浩宮様が臣籍に下がると平成源氏に?
186 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 16:24:17
>>19 清和源氏の方が藤原摂関よりも上じゃね?清和天皇の末裔なんだからそれより前も
ずっと天皇の代なわけだし
うちの郷土史には、鎌倉幕府成立後、源某が突然赴任してきて、小城から出撃、
荘園にいた土着の武士と争った形跡があります。
つまり、源氏的には、平氏貴族追い払い、空白地っぽくなったとこを「切り取り
次第」でやるから、行ってこい、だったのでしょう。ささやかな抵抗と、残った
貴族の権利主張で、何となく落ち着いたのでしょう。
こういったことは、西日本各地でおきてた、と思います。のち、太平記の世が来
て、伝承がうっすらとしか残ってないのも、西日本共通だとおもう。
188 :
日本@名無史さん:
田島又五郎経政
新田義貞の鎌倉幕府倒幕軍に岩松軍団の大将として、
新田遠江又五郎経政が居る (元弘3年8月熊谷直経軍忠状・熊谷家文書)。
彦五郎・又五郎は田島氏の諱名であろう。
この経政は、南北朝内乱初期に、陸奥南部で親類の相馬氏と共に活動する
新田左馬亮経政である(相馬文書)。また「新田左馬亮経政代田島小四郎」
(相馬文書)という記述から、経政の代官として田島小四郎なる人物が
派遣されている。代官には普通一族の者がなる場合が多いから、
この史料は経政か田島氏であることを裏書するものである。
ところがこの経政は、史料上では建武2年(1336)に姿を消し、
暦応元年から岩松頼有が伊予国守護、その後備後国守護として活躍する。
岩松氏惣領家は岩松経家が建武2年に中先代(北条時行)の乱で戦死してから、岩松三郎直(正木文書22)国が跡を継いで活躍する。そのように考えると、この岩松頼有は岩松経政(田島系)の出家した姿か、あるいはその後継者である可能性が強い