1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 21:54:12
お疲れ
>>1乙
そ し て 1行目のリンクに仕込まれたファビコンテラワロスw
4 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 22:38:54
いちょつ
上屋敷と下屋敷って何が違うん?
5 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 01:45:10
設備、規模、江戸城への距離。
上屋敷には江戸での政務の中心があり、
殿様も中心的家臣もそこにほぼいる。
正室もいて、世子もいる。
逆に中屋敷や下屋敷には側室だったり、重要じゃない子供や隠居。
使用頻度や重要度から、
中下の敷地内の一部は倉庫的利用や畑になってたりもする。
上屋敷:公邸,大使館
下屋敷:私邸
大名がくつろぐのは下屋敷
島津藩下屋敷=芝高輪
加賀藩下屋敷=小石川
尾張藩下屋敷=大久保
堀田藩下屋敷=渋谷
8 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 17:36:34
上杉の下屋敷は高輪
泉岳寺の近くでくつろげないやん
9 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 17:52:43
10 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 19:22:16
上屋敷は大名と妻子の住居であり江戸における政庁でもある
中屋敷は小規模で隠居や世子の住居になっていることが多い
下屋敷は大規模で広い庭園があったり物資の貯蔵所であったり
新宿御苑、明治神宮、有栖川宮記念公園などは下屋敷の跡
11 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 22:16:01
結局当主は江戸滞在中に主に上屋敷にいて、世子や側室に会うために下屋敷で一夜を過ごすこともあったておΚ?
12 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 22:44:13
へ〜
みんなさんきゅう
あれ,大名も旗本も,外泊は公式にはNGじゃなかったっけ?
だから,下屋敷での一夜もNGでは・・・・・
14 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 01:27:50
下屋敷も「俺んち」だろ。
15 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 02:25:19
>>14 建前として大名は征夷大将軍配下の武将で常在戦場だから
どこにいるのか幕府が把握していなければならない
それが国許に在っては居城または陣屋、江戸では上屋敷
16 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 02:59:15
上か中か下か、どこでもいいから自分ちに居ればいいんだよ。
吉原でお泊まりしてたり、郊外でキャンプはったりしてたらダメ。
「基本的に」だけどな。
17 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 08:34:59
大名は吉原ではドライブスルーでテイクアウトが基本。
「下り酒に尾頭付き、あと君も」だな。
18 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 15:47:39
江戸城から一番遠い上屋敷を拝領していた大名家って、
何処の大名家だったんだろうか?
また、その上屋敷はどの辺りにあったんだろうか?
六義園は柳沢藩の上、中、並どれですか?
下屋敷だったと思う。
21 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 22:00:18
弘前の津軽は侍従でもないのに上げ輿を使って登城を試みたことがバレて上屋敷を鈴ヶ森近くに変えられたとかいう話はあるがな
24 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 23:06:17
>>18 <南西外れ>
播磨三日月藩1万石 外様,柳間,陣屋の森家の上屋敷は
JR目黒駅南側の コロンビア大使館あたりにあった
<北東外れ>
出羽本荘藩2万石 外様,柳間,城主の六郷家の上屋敷は
台東区の浅草寺東側の浅草警察署あたりにあった
25 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 03:54:13
>22-24
津軽さまが懲罰で移転させられたのは、
本所じゃないっけ?
当時は全然賑やかじゃない上に、
川を渡らないと登城できないところに上屋敷。
普通はあっても中か下屋敷があるようなところの、それもはじっこ。
松浦静山の屋敷も本所でしたけど。
津軽屋敷は、現在で言うと錦糸町駅とその北側あたり。
現在でも津軽稲荷神社があります。
で、
そんな所に飛ばされても逆に、
新興繁華街に集まる芸術家のパトロンやったり、
太鼓打ちならして「本所七不思議」とか言われてみたり。
津軽、自重しろw
26 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 03:56:32
地味大名決定戦でも健闘した三日月藩だけど、
「悲惨な藩決定戦」なら勝てるかも。
時の北町奉行榊原主計頭忠之と、鈴ヶ森で処刑されたはずのねずみ小僧次郎吉である
28 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 09:07:29
>>26 何が悲惨なものか。特産品の大豆は同族の赤穂藩の塩とともに龍野藩に送られて淡口醤油になり、
領内の三日月宿本陣はかつての主君である織田氏なのを、外聞が悪いからと宇田氏に改姓させ、
満州の主役級の河本大作を輩出している。忠実に復元されている陣屋の一部もまた見事だ。
それより隣の安志藩小笠原氏は、確か本家筋だったはずだが小倉藩の支藩扱い。所領は
山陽道沿いにもあるのに、なぜわざわざ山奥の安志なんかに陣屋を築いたのやら。
29 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 13:46:33
三日月の丸くなるまで
森まん丸
30 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 13:52:58
同族の赤穂藩は藩史に
内匠頭が死んで領民が歓喜したとか
内蔵助の子孫は野垂れ死んだとか
浅野大学は梅毒になったとか書いている
三日月藩の殿様は風流大名だが
赤穂藩の殿様は今のマスゴミみたいです
旦那が梅毒と言うことは妻妾も梅毒だろ?
正室の実家は怒んないの?
嫁も浅野だろ
33 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 15:12:50
鼻が欠けてようやく一人前の色好みの風流人。
34 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 19:21:56
次の藩主(森)が前の藩主(浅野)を悪く書くのは歴史の常
ただ、誇張はあるものの
浅野兄弟の評判はお芝居と異なり良くなかったし
大石家が広島藩で素行悪で絶家になったのは事実
三日月藩主は庭にカエルやせみを放して
鳴き声を楽しむのが好き
という日本の風情を愛する粋な大名
能に凝って大金を使ったり、
火事になると興奮して
火消しの格好で町に飛び出す大名より
金のかからない良い趣味の持ち主
36 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 21:28:35
>>35 能にのめり込むってのはよくありそうだけど、火事の時にハッスルする大名って誰のこと?
37 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 21:53:01
大名どころか将軍様あたりがこっそりめ組に入って大暴れしそうだな。
しかして、め組の頭は毛利藩御落胤
39 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 23:26:59
森「ぽまい、宿屋のくせに
織田とは生意気だぞ
改姓しれ」
亭主「わてはおりた言いまんねん
おだちゃいまっせ」
森「やかましい」
42 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 02:51:21
>>28 いいことなんにもないな、三日月はん、、、
新見藩の関と森家って苗字が違うだけの家族って感じがするぐらい血の交わりが濃い。
明治以降も相変わらず養子縁組で関係続いてるみたいだし。
山階鳥類研名誉所長・黒田長久さん死去
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090227-OYT1T00913.htm 黒田長久氏(くろだ・ながひさ=山階鳥類研究所名誉所長)26日、急性腎不全で死去。92
歳。
告別式は3月2日午前10時30分、東京都港区南青山2の33の20青山葬儀所。喪主は次
男、長高(ながたか)氏。
黒田長政から続く黒田家の第15代当主。海鳥の分類などで世界的な業績も多い。1989年か
ら2002年まで山階鳥類研究所の所長を務め、当時、研究員だった黒田清子さん(紀宮さま)の指
導も行った。90年から01年まで日本野鳥の会会長も務めた。
(2009年2月27日21時04分 読売新聞)
45 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 16:14:09
>>43 もともと兄弟だからじゃない?
肥後細川とどっか茨城の細川みたいな関係
ま、森忠政の息子が全滅した時点でもう名前だけなのかもしれん。
むしろ可政の家系がいっぱい残ってる。
47 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/02/28(土) 16:48:41
森と毛利って似てるね、の一言で改姓させられたのもいるね
大名の通称・守名乗りについてだけど、
極位が従五位下の柳間の大名が、四位・正五位相当の弾正大弼や左京大夫・大膳大夫・
○○大輔、極位極官が従四位下少将の国主が○○卿を名乗ることは原則不可だったのかな?
従四位下少将の国主なら四位相当のでも自由に名乗れた?
49 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 17:05:04
自由
>>49 赤穂浅野が浅野民部大輔を、土佐山内が松平民部卿を名乗ろうと思えば可能だったってこと?
51 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 18:32:23
>>44 今の黒田家の血筋は島津重豪の子孫でおΚ?
男系でみると津藩藤堂系。
お亡くなりになられた長久氏の祖母は島津忠義の娘。
玄祖父(曾祖母の父)も島津家からの養子・長溥で
かなり島津の血が濃くなってるね。
親しく親戚づきあいをされているという話は余り聞かないが。
53 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 21:28:28
>>52 サンクス。
黒田家も一橋やら島津やら藤堂やらで血統がめちゃくちゃだね。
秋月藩も確か女系さえ途絶えていた気がするし如水哀れ
54 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 21:38:55
血統よりも家名存続が第一なんで
いや外様大藩はそれなりに血統も重視するぞ。
ただ黒田はそれもどうしようもなかったわけで。
56 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 22:11:09
だから島津から来た藩主が公武合体支持を決めた時に城の大広間に居並ぶ家臣の前にわざわざ如水公と長政公の肖像を掲げたんだよな
57 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 22:38:54
そして筑前勤王党の弾圧か
加藤は切腹月形は斬首
58 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 22:58:44
家臣筋に主家の血筋の者が少しはいるのが普通だが、黒田はいなかったのか?
それができないなら、如水公以前の黒田ゆかりの者を探して連れてきても
良かったと思うが。
59 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 23:41:14
◇徳川四天王の子孫の領地替え
≪本多忠勝≫
上総大多喜藩10万石→伊勢桑名藩10万石→播磨姫路藩15万石→大和郡山藩9万石→奥羽福島藩15万石→播磨姫路藩15万石→越後村上藩5万石→三河刈谷藩5万石→下総古河藩5万石→石見浜田藩6万石→三河岡崎藩5万石
≪酒井忠勝≫
上野高崎藩5万石→越後高田藩10万石→信濃松代藩10万石→出羽庄内藩17万石
≪榊原康政≫
上野館林藩10万石→陸奥白河藩14万石→播磨姫路藩15万石→越後村上藩15万石→播磨姫路藩15万石→越後高田藩15万石
≪井伊直政≫
近江彦根藩35万石
本多忠勝家の転落が目立つな。
数年前に高野山に行ったが、他藩の墓が整備されているのに対し
本多家のはぼろぼろだった・・・小田原北条氏の墓より廃れていた・・・
61 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 01:21:24
62 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 01:33:53
>59
井伊は幕末にダウン!
63 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 05:14:02
熊本藩が気になる
64 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 10:23:29
65 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 16:01:02
福岡藩は薩摩・長州とのつながりや勤王党弾圧や藩内抗争があった割りには維新での活躍に乏しいな
66 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 16:16:47
水戸藩は薩摩・長州とのつながりや勤王党弾圧や藩内抗争があった割りには維新での活躍に乏しいな
67 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 19:00:28
七卿を太宰府に抱えてたり佐幕派も強かったから思いきった動きとれなかったんだろうね
>>66 水戸は藩内抗争があまりにも凄まじすぎて、尊王派の主要な人間が
軒並み死んでいるじゃねーか…
69 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:33:36
70 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:57:48
しかも将軍の生家で公辺の人が多くいた
71 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:58:52
水戸の藩内抗争は長州ほど激烈ではないけど
72 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 21:15:21
長州と比べたらどこもそうなる
水戸は烈公の強烈なキャラクターと特集な御家の事情が色濃く影響
福岡は勤王派に下手に強く出た公武合体論者の養子藩主の影響
74 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:03:11
強烈な公武合体論者で酔っぱらい隠居の容堂がいた土佐はそこそこ活躍できたな
ちょっと1スレ目を見ていないため、しっている方がいれば教えていただきたいのだが、
地味大名選手権で摂津麻田藩青木氏はどれぐらいの扱いでした?
大阪まで半日以内で行ける凄い立地条件かつ一万石強の底辺石高、大事件も無いけど別段良いこともせず。
阪急電車で家一軒のためだけの踏み切りがあるけど、噂だとそこが元殿様の家だとか。
76 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 01:30:27
市橋の「誰?」
三日月藩の「そんなマンガみたいな名前ねーよwwwえ、あるの?」
新見藩の「実高3000石カワイソス」
この御三家にはかなわない。
77 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 01:32:04
水戸藩は藩内どころか、
幕府や他藩を巻き込んで迷走した「天狗党」を忘れちゃいかん。
78 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 01:50:48
>>75 青木一重の子孫、ってだけで充分立派だろ。
岡藩の抗争もなかなかだよ
80 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 06:23:11
三日月藩は実際には陣屋が三日月宿のある三日月村でなく隣村の乃井野村にあるため、
実際には乃井野藩と呼ぶのが正しい。まあ、当時の武鑑の類にも陣屋三日月とあるから、
三日月藩で間違いというわけでもないけど。
麻田藩の陣屋は阪急電車の蛍池駅前にある。駅ができた当時は麻田の集落のための駅
だったのに、社長の小林一三は、もっと夢のある名前をということで駅名を蛍池にしてしまい、
そのために地名も蛍池となってしまった。小林山梨の商家の生まれらしいが、武士が嫌い
だったんだろうか。
備中国では、内陸部は備中松山藩水谷氏が無嗣改易後の検地で実高が表高より極端に
下がってしまい、松山城にその後入った板倉氏は表高5万石実高2万石の罰ゲーム状態
だったが、沿岸部は物凄い勢いで干拓され、成羽藩山崎氏などは、内陸部の陣屋付き
所領はもとのまま5千石に近い数字だけど、津出し港としてあてがわれた小村の連島村
西之浦地区が新田5千石オーバーを干拓して、明治に高直しで藩になった。新見藩関氏は
その連島村の山崎氏領隣接地域を領有してたんだけど、一体何をやってたのやら。備中の
沿岸地域は空前の干拓ブームだったというのに。
82 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 06:27:17
悲惨な藩ナンバーワンは、戊辰戦争で唯一取り潰しに遭った請西藩でガチだろ。
藩主自ら脱走の上に陣屋炎上じゃあな…
前木更津市民に請西藩聞いたら知らなかったorz
84 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 06:53:12
>>75 森川、市橋、内田が「日本三大地味大名」とかいう話になってたけどね。
なんか少数人が市橋市橋と騒いでいたような印象だったけど、あれって
東日本の人間が、馴染みのない土地の藩を主観的に地味だと思ってる
だけじゃないのか? 現にでてくる藩は、今の悲惨な藩の話題でも
西日本のばっかりだし。
悲惨な藩であれば、棚倉藩とかのように懲罰的意味合いで飛ばされる
ところとか、会津藩改め斗南藩とか色々あるね。近畿や中国地方あたりの
藩や旗本は、問題を起こしたり政治的に叩かれたりすると、領地を削られるか、
そこまでいかない場合は領地の一部を東北に替えられる。東北は冷害
などによって、天保以降、実高通りの収穫が得られた年は数年しかなかったと
いうしね。
85 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 07:01:40
市橋家は、大坂の陣で大坂方が焦土作戦により村々を焼くことを予測し、
家康の本陣として手ごろな村を守備して焼かれるのを防いだため、覚え
めでたく幕初は譜代なみの扱いを受けていた。享保期に大番頭も出して
いるしね。
斗南藩はある意味自業自得でもある。
近所の猪苗代か土地勘のない斗南かどっちがいい?といわれて
斗南を選んだのは会津藩自身の決定。
明治政府「おんなじ東北じゃん」
>>80 甲府勤番のお陰でダメ武士が多かったのかな?
89 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 01:38:02
甲府勝手は山流し
90 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 02:11:11
>>84 江戸幕府開始から終了まで存続しているのに、
市橋は出自から藩の存在、歴代藩主、全てが無名。
なにがどう、と語る内容が全くない。
地味すぐる。
市橋の初代がわかんね。
門番内田も大概地味だけどな
>>90 市橋長政だっけ?
長政界でもかなり地味なほうだな、残念ながら・・・・
子孫も、最後の藩主の孫にあたる市橋虎雄氏の消息すら不明らしい。
まあ、戦後には銭湯で泥棒やってつかまって、その後は不明なんていう
石川重之のような人もいるが。
内田・森川は今川旧臣の家系だったような・・・・
一橋って美濃出身だっけ?
関ヶ原の時出てくるな。
内田森川なんてのは聞いたことないが。
94 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 06:39:59
>>84 ほかにも以下の2藩も相当に地味かと
山家藩≪谷家≫
禄高は1万石で柳間、陣屋の外様大名
谷家は織田家、豊臣家に地道に仕え丹波山家に所領を得ていて、関ヶ原では地理的な関係
から止む無く西軍についたが不戦を貫き本領を安堵されそのまま明治まで大過なく一家支配
となった。
森藩≪久留島家≫
禄高は1万2千石で柳間、陣屋の外様大名
久留島家も伊予来島の河野水軍の一翼を担った来島家であって、関ヶ原では西軍について
しまうが、豊後森に移されて海を失うが大名としては生き残る。
95 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 07:49:39
谷家は初代が有名ということであっさり却下されたな。
久留島は有名。もと海賊なのに参勤交代で、よりによって古巣の瀬戸内海で
暴風雨により遭難、藩主の弟や家臣多数を失ったことは、知らないほうがモグリだ。
96 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 07:53:05
結局、市橋が飛び抜けて地味なのではなく、内田森川を含めた
3家の優劣は付けがたいということでおk?
97 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 17:42:48
江戸時代の市橋家の父系の祖である林右衛門ってどこの誰なんだ?
98 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 17:59:14
>>97 出典は?
つーか、出自の分からん大名が多いから、初代より数代遡ったら、
よほどの有名どころでもない限り誰も知らない場合の方が多そうだけど。
99 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 18:40:31
100 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 20:05:20
>>99 よく分からんが、『寛政重修諸家譜』くらい知ってろよとでも言いたいのか?
大名の祖なんて、その種の定番文献か、自治体史、旧家臣や地元史家が編纂したものを当たれば、
判明していることの大部分は書いてあるだろ。それで無ければこんなとこで聞いてないで、藩の文献の
ありかを当たるとこからはじめろよってこったろ。
101 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 20:52:21
森川氏って何藩?
102 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 20:58:36
下総国生実藩森川家 譜代・菊間 1万石 幕末まで転封も無くひっそりと12代まで続いた。
103 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 21:13:22
>>102 ありがとう。
上総、下総、常陸あたりはマイナーな小藩の宝庫だね。
福岡藩と関係ない黒田家とか
104 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 22:46:58
市橋下総守長政は豊臣家臣の林右衛門左衛門の三男
ネットではこれ以上のことはわからないな
105 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 00:30:37
誰だよ林ってwwwwwwwwwww
107 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 01:27:49
108 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 01:55:50
内田と森川には、この笑いの要素が欲しいところ。
109 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 06:24:28
>>108 市橋市橋とずっと言ってる人か。
大名が成り上がり者集団だった時代に、近世初期の大名の父、それも養子に入った人間の実父が
有名でないところが笑えるというのは、むしろ物を知らない人間の感性じゃないか?
110 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 15:05:41
昨日池袋行ったら市橋ハッテンしたら百万円のポスターばかりで
驚いた。
111 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 15:56:31
あんな独特の顔でつかまらないんだから、富士の樹海とかで白骨化してんじゃね?
112 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 20:26:45
増山河内はなぜ松平姓を貰えなかったの?
>>109 >市橋市橋とずっと言ってる人か。
妄想は他板で。
114 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 03:52:17
森川、若年寄を二回も出してるし、
初代はおケツ蛍大名だし、充分立派じゃねーかw
これで地味とか言ったら一柳に失礼だろ。
115 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 08:03:16
>>113 違ったか。それは失礼。訂正するよ。
>>108 大名が成り上がり者集団だった時代に、近世初期の大名の父、それも養子に入った人間の実父が
有名でないところが笑えるというのは、むしろ物を知らない人間の感性じゃないか?
116 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 12:39:57
大名のの市橋とこの市橋は何か関係があるんだろうか?
117 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 16:06:46
名古屋大学法学部名誉教授市橋克也(行政法)は大名家市橋家の関係論的リーダーシップ
118 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 18:25:12
千葉大の市橋は人殺しの容疑者。
120 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 19:05:31
無知で必死な厨晒し上げ。
生駒親正、気の毒で泣けてくる…。頑張って高松藩17万石国持ちゲットしたのに、子孫が情けない。
ひ孫の高俊が男色に耽り暗愚の為に生駒騒動になり、矢島1万石に飛ばされ、その後分知して8000石の旗本。
旗本になってからも江戸詰で領地に目が届かず延宝騒動…。
明治に入って官軍に荷担したのはいいが、自ら陣屋を燃やす。
まあ、その頑張り(?)が認められ1万石なんとか超えたと思ったら版籍奉還で矢島藩なくなっちゃった。で、男爵。
なんで分知して大名からわざわざ旗本に自らなったんだろ?分知してなければ子爵だったんだろうなあ。
親正、気の毒だ…。
連続ですまんが、ついでにもうひとつ。
延宝騒動の時、生駒家の家臣として市橋彦兵衛ってのが出てくるが、こいつは例の市橋とは関係あるんかな?
生駒は元を辿ると美濃の土田氏と関係があるから同郷の市橋の縁者を召抱えててもおかしくはない・・・
あくまで推測な。
>>121 生駒家って国持大名だったの?
wikiを見た限りでは、生駒や堀尾って侍従になってないみたいだけど、
家督後すぐに侍従にならない家格の国持もいたのかな。
有馬も途中まで準国持だったし、石高や官位だけでは決まらないっぽいけど
途中で断絶したり家格が下がった家はいまいち不明な点も多いね。
125 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 01:18:41
森川もそうだけど、
内田も蛍大名だろ、家光の。
126 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 06:44:10
>>124 国持は家督で侍従以上(伊達島津は少将、前田は中将)だが、このルールも安定
するのは幕府も中期以降じゃないだろうか?
まだ、幕初期は定まってなかったんだろう
127 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 17:42:42
江戸中期以降、国持ち14家と言われるようになり
有馬などが加わり18家で定着
その後は国持ちみたいな大名がでても
追加されることはなかった
(南部20、前橋松平17など)
128 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 19:53:50
南部領の面積は四国より広い
これまめちしきな
129 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 20:10:27
しかし陸奥国の4分の1だな
生駒の本家は確か尾張の家老だったような記憶があるんだが…。
大名になったのは女系の生駒家で、戦国期に生駒から土田に嫁いだ娘がいてその息子だったか孫だったか、生駒に養子に入った後に分家したはず。
その分家生駒から信長の母、土田御前が出た。
織田豊臣期に生駒が頑張れたのは信長の母の実家っ要素が影響してるよな。親正が能力的に優れてたかどうかは何とも言えんと思う。
131 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 02:34:31
南部は広くても全土で大飢饉です。
南部は北部にあっても南部です。
133 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 10:40:54
エミシの居住地の南部だからな。
134 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 16:14:52
南部は甲斐の山ざる
津軽は近衛一族の名門
135 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 16:30:16
国持ちで別格
尾張、紀伊
別格だが国持ちでない
水戸、三卿、井伊、会津
元国持ち
森(美作)、生駒(たぬき)、掘(越後)など
改易または減封による降格
田中(筑後)、福島(安芸)、堀尾(出雲)など
国主クラスで名流の出といえば、佐竹・最上・京極あたり?
137 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 18:14:04
細川、伊達、島津も
荒れそうだが南部も名門だろう。
じゃあ毛利も大江広元以来の名門だな。
名門の基準は何だ?少なくとも俺も含め、このスレの住人と比べたら大名旗本全て名門になるぞ。
141 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 19:17:53
名流の定義は旧守護大名系で良いんじゃないか?
織豊徳川時代に成り上がった三河、尾張系の大名は名流とは言えないだろう。
よって幕末まで残った15万石以上の大名なら
伊達、上杉、佐竹、島津あたりか?
神代まで系譜が繋がらないと駄目。
藤原なんて大化の改新以来の成り上がりだしな。
144 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 19:36:14
徳川斉朝と徳川重好はガチホモだったらしいね
安徳源氏嫡流の俺は名門。
越前松平家とかは、徳川姓を名乗れたのならともかく、
希少価値のない松平を名乗るぐらいなら結城姓で
通した方が普通に良かった気もするけどなw
147 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 21:46:24
>>145 畏れ多くもみかどに手をつけたショタは誰だよ
148 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 01:33:45
>>146 一応、息子に「結城」行ってんだけどな。
150 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 03:05:11
名門を継承している大名の案外おもしろいよな。
羽前天童藩の織田家は、織田信雄の家系で、伊勢の名族北畠を継承している。
天童には、北畠の氏神を祀った神社があるとどこかで読んだ。
ヨーロッパでは、男系断絶で女系に家産だけが相続されることはよくある。
日本だと、婿養子という形でお家を絶対存続させる。
戦国時代の毛利両川みたいなことも、単なる戦国大名の戦略だけでなく、先祖供養のために断絶だけは絶対に避けたいという意思が働いているように感じる。
151 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 10:31:31
織田家は踏んだり蹴ったりだな
準国主から城主そして陣屋大名に転落
藩士は住むところに困り
上杉家臣の屋敷に居候
高畠では鷹山の後で
流石に評判が悪く領民からブーイング
天童に移るも城は持てず
戊辰の役では怨みこそあれ
恩など無い徳川に嫌々味方し減封される
152 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 10:46:25
>>148 結城家は又また松平に
複姓しちゃったけどね
又また三匹が斬る
154 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 17:43:57
久慈も吉良もタコも名門
155 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 19:08:55
>>152 すると結城の名跡や墓の祭祀はどうなったのよ
越前松平の分家が引き継いでなかったっけ?
秀康五男松平直基の子孫、だそうな
158 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 19:54:44
暗愚な諸侯日本一を決めようぜ。
女・男・酒などの遊興に耽り藩政を顧みなかった藩主をあげてくれ。
159 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 20:01:18
浅野内匠頭長矩
160 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 20:10:11
>>158 やはり津軽信順だろう。
女・酒・遊興の限りを尽くし、諫めるため切腹までした家老を無視して贅沢三昧。
挙げ句の果てには強制隠居。改易されなかったのが不思議なくらい。
161 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 20:20:16
足守藩主の木下利彪は、参勤交代で愛妾二人を連れているのが大目付にバレて
領地の大半を豊かな備中から不毛な陸奥に替えられた。
162 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 20:21:15
徳川家斉でいいじゃん。大名どころか将軍だし。
163 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 20:21:22
松江藩松平斉貴は相撲と鷹狩りで金を使ったために隠居させられたのに、不昧公は明君扱い。
島津重豪とかも散々無駄金使ったのに、趣味によっては評価されるんだよな
164 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 20:28:36
よく病弱で廃嫡されたりするが、意外に英明な弟より長生きしたりする。
165 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 21:13:36
10年くらい前までは、大名の子孫のスペシャル番組をやってて
それを観るのが好きだった。やってくれないかな。
166 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 01:59:25
なりすましが多い上に、
「そっとしといてくれ」という子孫が多いんですよ。
伊達や南部が変なんだよ。
167 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 02:50:04
大名の末裔は、旧城下町のお祭りに呼ばれてたりするのは見たことある。
そういうのはほのぼのして好きだけどなぁ
168 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 02:57:14
相馬は呼ばなくなったんじゃなかったっけ?
169 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 03:06:54
相馬馬追い、て相馬の当主がでてなかった?
170 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 03:21:13
大名の子孫には興味ないし意味がない
相馬は若殿が出てなかったっけ?
最近は知らんけど。
会津秋祭りで松平容保に扮するのはひ孫にあたる松平保久さん。
173 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 13:21:40
>>158 英邁で知られる池田光政の息子が、キングオブ馬鹿殿というこの面白さ。
174 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 13:44:30
土芥寇讎記では、陶器藩の小出氏もボロクソに書かれているな。
175 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 16:34:45
>>173 池田綱政は暗愚じゃないよ。
ちょっとお公家趣味が度を過ぎただけで
176 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 16:39:06
なんだ、平清盛や今川義元と同類か。
178 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 18:12:58
高家の今川家は断絶だっけ?武田や小早川は明治大正に華族に列するとお沙汰があったのに今川にはなかったのか?
肥後細川の今の当主をテレビで見たことある。なんか政治家だったらしい。
遂にそういう香具師が書き込む時代になったか・・・
今を去ること15年前、バブル崩壊期のころに颯爽と登場した「日本新党」という梁山泊があってな
それがなんやかんやあって今の民主党になるわけだが、
実は日本新党をかき回した一人が小沢一郎という・・・
182 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 21:15:59
池田綱政って子供が70人いたって本当かな?
そんだけセックスすんのも大変そうだな。
70人の子供とセックスするのかと一瞬考えた俺はダメ人間・・・
185 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 22:05:53
参勤交代で風光明媚な所をお抱え絵師にスケッチさせたり、歌を詠んだり蹴鞠したり。
国元では藩政改革をする一方、手当たり次第に女を犯す。
岡山城では一時期妊婦で溢れ返ったという。
そんな綱政の跡を継いだ継政は綱政の60代半ばにできた子供。
綱政が子作りに励んだのも相次ぐ後継ぎの早世が原因だったのかもしれない
186 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 22:25:09
家康‐信康‐熊姫‐勝子‐綱政
なんという華麗なる血筋!
187 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 02:12:09
重倫がアップをはじめましたよ
元禄の紳士録、土芥寇讎記に「生まれつきの馬鹿」と書かれている人
それが池田綱政
189 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 13:39:53
上で話題になった市橋が気になって武鑑で調べてみたら
小藩なのに江戸の上・下屋敷だけでなく京や大津にも屋敷があった
藩士の数は知らないがかなり倹約しないとやっていけない希ガス
そういえば、武鑑って幕末期には、国家機密として外国人には売っちゃいけなかったんだよな。
191 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 17:12:05
>>189 近江の藩にとって大津の屋敷は大坂蔵屋敷のような位置づけ。大旗本でさえ
大坂に屋敷を持っていたりするから、別に過分というわけでもない。
京や伏見も、けっこう小藩でも屋敷を構えているしな。
小藩の京屋敷ってどういう規模。
実質的に商人に管理を委託してるような感じ?
193 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 17:46:44
当時の街の地図に屋敷の位置が明記されるくらいの規模ではある。
今の京都の町中のやや大きめの寺くらいの規模はあったのだろう。
194 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 17:51:25
京は朝廷政治の中心地だから、屋敷を構えるなら藩の重役を常駐させてナンボの世界。
京屋敷の家老・留守居は何をしてたの?
朝廷との接触は、幕府に警戒されたはずでしょ。
朝廷政治って何か良くわからんけど、大名には関係ないものじゃないの?
197 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 19:28:45
平時であれば、幕府の重職である京都所司代がいるし京都町奉行所の管轄が
山城・大和・丹波・近江だから、特にこの地域の藩は京都に屋敷を置くのが何かと
折衝の上で都合がよかっただろう。
番方で朝廷や二条城のの勤番につくことが多い藩なら、屋敷を置くのが例になって
いるだろうし。
しかし、実際には東北から九州まで、多くの藩が平時に京都屋敷を持っている。
いわば見栄の張り合いのようなもので、家格にかかわるものとして置いたのかも。
叙任の礼ためとか、外交サロンとしての空間として京・大坂のような大都市が
本来の目的とは別に利用されていたのかもね。屋敷を置けば消費が生まれ、
京雀のご機嫌取りにもなっただろうし。
従四位下侍従や少将だと、長門侍従とか安芸少将とか呼んだみたいだけど、
ただの従四位下(四品)にはそうった毛利とか浅野といった苗字で呼ばない方法はなかった?
199 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 20:51:58
東北の小藩が京都に屋敷を構えるなんて浪費以外の何物でもない
何のために京都に屋敷つくるの?
201 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 22:00:35
202 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 22:13:44
俺が偉い昔に読んだ何かで
「幕府は京に大名が近づくのをダメとした。京にはいるのもダメだった。
幕末に幕府の威信がさがりそんなもの皆無視し出したので京にも藩邸ができ始めた」
というようなことがあった気がするのだがその前からあったんですか?
いや別に小学生ぐらいの時に見た気がするので
専門書とかではないはずなんで資料でみたのではないはずなんだけど。
204 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 22:23:03
205 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 22:31:57
206 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 22:51:42
>>203 文化武鑑や文政武鑑が活字化されてて
公立図書館によく置いてあると思うよ
207 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 23:09:19
>>198 藩名+通称
例)最上義俊
→大森源五郎
208 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 23:24:06
領地名に官名の唐名
霜台、典厩、金吾など
水戸黄門、みたいな感じってことかな。
210 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 16:26:57
那珂黄三郎
またの名を
越後屋梅里
211 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 16:34:50
国持ちでない有馬は
久留米玄蕃
国持ちに入れられてからは
久留米侍従
(筑後侍従は田中吉政)
212 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 18:04:24
米府候
極位が従四位下(四品・無官)の大名家って少ない?
214 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 22:23:12
準国主の次くらいの大名たちだな
真田、溝口、松前、戸田
イナバウアー
大番頭には頻繁に大名も就任してるけど、上方在番や夜勤もあるし、
番方は武士の本文・名誉とはいえ温室育ちの殿様には過酷な御役だなw
訂正。
>武士の本分
>>213 どういう基準なんだろう?
城持ちで10万石前後?ってこと?
大身の旗本が加増されて大名になると生活がガラッと変わるのかな?
家臣は多少増やすのかな?
219 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 07:11:48
>>213 だいたいその通り
織豊系の二流と
譜代の中堅
半国以上(15万石程度)ないと
準国主の四位侍従は難しい
220 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 07:21:10
あと地方旧族の小身と
その家臣だったものが独立した家
伊達と島津の家格ってどっちが上なのかな?官位の昇進速度とか
ネットで見る限り、津藤堂家って従四位下無官どまりの当主も多いけど、
国持なのに家督で侍従にならなかったってことだろうか?
223 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 16:12:45
>>221 伊達が上
島津は琉球王の使節を連れてくると
中将になれる
224 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 16:30:13
藤堂家の家訓はおもろい
「あまりしみったれたことをするな」
「嫌われてもよいが、
笑われないようにしろ」
「世間がほめる人に似せるようにしろ」
「博打や酒盛りは家臣や領民が真似するからやめろ」
「突飛なやり方は騒動のもとなので
穏便な手段をとれ 」
>>222 津藤堂は,家督時に従四位下侍従,極位極官が従四位下少将みたいですね。
非侍従の従四位下は,早くして死亡したケースや,藩主在任期間が短いとかではないでしょうか。
>>225 ウィキペディアの津藩の項目をみると、在勤期間が長い場合でも従四位下だったりするみたい。
3代までは少将なのいに、4代目以降はほぼ歴代侍従になってないっぽい。
ネットの情報だから間違ってる可能性もあるけど、複数(3つ)のサイトを見たけど、いずれも
津は侍従になっていない・・・何故だろう?
227 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 01:09:10
高吉系の藤堂は任官しないの?
228 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 07:29:31
福島正則、加藤清正の子孫は旗本として残ったの?本多正純の子孫はどうなったの?
福島はたしか3千石ぐらいで残ってた気がする
加藤は出羽で庄屋になったとかならないとかいう話じゃなかったっけ
230 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 11:13:23
福島氏
安芸備後49→高井野4.5→2
→(旗本)0.4→0.3
231 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 11:25:25
加藤氏
熊本52→丸岡1→断絶
女系子孫は1989年まで存続
>>230 福島はとり潰されたけど、3000石の旗本ってかなり大身だよな。
今で言うと超巨大企業の執行役員クラスじゃねえか。
でも改易後に旗本になった家ってまともな役につけたのだろうか?
権力ある役についたらヤバくない?
234 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 22:10:09
本多正純はかわいそうだな。
赦免されることなく、嫡男は若死にで血筋はなんとか旗本身分を保つ程度。
榊原氏が冷遇されてるなんて言う奴もいるが正純系に比べれば幸せな方だ
やつはやりすぎた
福島氏は3千石なら旗本寄合席の格式だし,豊臣恩顧大名の末裔なら良いほうじゃない
加藤,堀尾,中村の子孫に比べれば・・・
無嗣は仕方ないし中村は自業自得だろ
>>234 たって、大久保長安事件で大久保忠隣をはめたのは正信・正純親子だから
加納御前(家康娘)にも多くの恨みを持たれていたし
(奥平嫁)
無嗣改易っていうのも相当アコギな手法だと思うけどね
大概、庶子や弟がいる訳だし、簡単に人が亡くなるあの時代に
末期養子を認めないのは理不尽としか思えない
弟を世子にして、後から子が生まれたらそれこそ御家騒動の火種だし…
うん
242 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 04:00:22
>>240 「天下」は徳川のもの、ちょっと貸してやっているだけ。
そういう認識というか、権力構造だからなぁ。
後々には弊害のほうが多いから、規約変更に、、、
>>234 本多正純はお父さんの功積に免じてかなんかで数万石貰えるってのを拒否したという話をどこかで聞いたことがある・・・
で、捨て扶持を貰ったとかなんとかなんとかなんだけど
捨て扶持ってのは継ぐことができないのでしょうか?
継げれば旗本で残れたと思うのだけど正純の子孫がどうなったか知らないのでよくわかりません。
堪忍料ってのや化粧料ってのは相続できるんだよね?
生駒氏の出羽での所領なんて堪忍料だと聞いたことがあるし。
ただ堪忍料も捨て扶持もどういうものなのかなんだかよくわからないので・・・
堪忍料で万石越えとか数千石の旗本なのとそうじゃないのは扱い違ったのかな?
化粧料ってのは女性が与えられるものなんだろうなぁってばく然と思ってるんだけど。
>>236 福島氏は福島正則が火葬したせいで改易といわれているけど
あれはそういうことしなかったら信濃で2万石ぐらいで存続できたんじゃないかなぁ?
おなじ豊臣系の加藤嘉明のほうの加藤氏が2万石ぐらいの大名で残っているんだし・・・
244 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 09:30:00
豊臣系なら、より関係の深い浅野・小出・木下がきっちり大名で残ってるじゃん。
245 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 10:05:29
豊臣恩顧といいだすなら徳川家なんか大幅に加増転封されてるし、恩顧を
うけていない大名なんてほとんどないのでは?
まあ徳川は時代の価値観だったとはいえ、その恩をあだで返した訳だが。
墓暴きまでやってね。
墓暴きはひどいよな
家光は暗君にもほどがある
戦国ちょっと悪い話5
500 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2009/01/17(土) 02:42:01 ID:mectA3CS
で政権末期に多くの人に迷惑を掛けた殿下が死後逆に酷いことをされたお話
大坂の陣で豊臣家が滅び、徳川の天下が確立した後、
新時代の覇者家康は旧政権の創始者秀吉を祀った豊国廟を取り壊し、
「豊国大明神」の神号も停止する沙汰を下した
しかし豊国神社の社僧梵舜や高台院の必死の働きかけもあり、
社殿は崩れ次第とされながらも、一応秀吉を祀るための祭祀は続けられることになった
更にそれとは別に家康は豊国神社の麓の妙法院に別途に1000石を寄進し、
天台宗の儀式で定期的に秀吉を弔うことを命じたという
家康が生きていた間は大人しくしていた妙法院だが、彼が死んだ後は
朽ち果てていく豊国神社に残った梵舜を立ち退かせるため、
神社にまで至る山道を封鎖したり、社領に立ち入って樹木を勝手に切り倒すなど
狼藉の限りを尽くした妙法院の僧侶たち
耐えかねた梵舜が幕府に妙法院の非道を訴えるが、
既に妙法院から根回しを受けた幕閣から逆に豊国神社からの退去まで命じられる始末
哀れにも梵舜は豊国神社から追い出され、豊国廟と方広寺の広大な敷地が丸々妙法院のものになったとさ
501 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2009/01/17(土) 02:43:39 ID:mectA3CS
それで妙法院が家康の命令どおり、きちんと秀吉を祀るための
祭祀を継続してればまだ秀吉や梵舜も浮かばれたかもしれない
しかし妙法院が秀吉をきちんと弔ったのは、記録に残ってる限り秀吉の五十回忌が最初、
その後五十年後の百回忌は一応行われたものの、次の百五十回忌は何故か取りやめになるという始末
元から秀吉のことを真面目に祀る気など更々なかった妙法院が興味を示したのは、
豊国神社の広大な社領とそこに保管された秀吉の遺産だったというわけ
当時は1000品を超えたとされる秀吉の遺品も、明治の世になって新政府が数えた際に
残っていたのはわずか数十品、殆ど全てがその時々の門主によって売りさばかれていたのだった
その中に国宝ポルトガル国印度副王親書が有ったことを考えれば、
妙法院から流出した秀吉の遺宝がどれほどの価値が有ったか想像もつかないほど
明治時代になって妙法院が横領した豊国神社の社領は神仏分離令に従い、
再建された豊国神社に数百年ぶりに返還されることになった
だが遺品は現在でも妙法院の財産とされ、妙法院が管理している
ちなみに妙法院がその違宝を見に来た観光客向けに発行している小冊子には、
「太閤秀吉の死後、彼の遺宝の一切が妙法院に 寄 託 された」と書いてある
反面明治政府による廃仏毀釈では全く非のない妙法院が政府の非道により土地を奪われたみたいな書き方
廃仏毀釈は多くの寺院に損害を与えたが、殊妙法院に限っては余り同情できないと思う
503 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2009/01/17(土) 02:46:52 ID:zxy5hOHw
それで家光が「もう反乱もないだろうし豊国神社再建しようか」って言ったとき、反対したのか!
249 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 12:55:48
春日局が根回ししたんじゃないか?
>245
地生えの大名にとって、本拠地を追われての加増転封なんて嫌がらせ
ではあっても「恩寵」にはならんでしょう。
嫌がらせを好機に変えるのが器量とは言え、恩をありがたがる義理は無
い。
251 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 16:32:44
本多正純は由利5万石で残る目もあった
佐竹に「関ヶ原後、大御所が
佐竹は30万石くらいに削るかと言ったのを
それがしが秋田で十万石もやれば充分と言って減らしたのだ」
と言って笑ったのを
忍びに聞かれたのが不運だった
大名と話す際は家老クラスでも平伏とかして、直答できなかったんだろうか?
雑談とか無理だったのかな。
120万石を30万石に大減封などとよく言われるが
30万石ってのは藤堂氏とかが必死に稼ぎだした石高と同じぐらいと考えると
それほど低くはない気がする
牛久藩の山口氏はなんで譜代大名じゃないんでしょうか?
譜代大名でしたっけ?だったらすいません
255 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 06:55:52
牛久藩山口家は菊間詰譜代大名。
256 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 09:58:34
でれすけやろ
>>253 それまで120万石で養っていた家臣などを30万石で養っていかなくなるんだぞ
大変だぞ
30万石というのは表高だからそれを比べることにあまり意味はないかも
実高でみると、毛利や上杉は表高の倍、藤堂はほぼ表高ぐらいと歴然の差がある
国持大名グループ(例外多数あるも20万石以上の外様)の中では、石高の上下はあまり関係なく
位階・官職や先任順、家固有の家格の方が重要。(備前少将・池田30万石>筑前侍従・黒田47万石)
毛利・上杉は殿上元服・偏諱・屋形号を許されてるけど、藤堂は許されなく同じ30万石の国主といっても
家々によって内実・格式はいろいろと違う
120万石から30万石の減らされ、最初から火の車、早晩の改革を迫られた毛利・上杉と
着実に積み上げ、伊賀まで加増された藤堂とでは自ずからおかれた状況はかなり違うと思う
だかこそ、財政破綻同然の極限の中で上杉からは鷹山という名君が生まれ、毛利は改革に成功し
幕末にさんざん使ってさらに100万両もの蓄財があったのだろうけど。(うち70万両を明治政府に献上)
>>258 上杉は倍もあったか?
置賜・伊達・信夫郡は江戸後期でも40万石くらいじゃないの?
大名の実高一覧が載ってるサイトをみたら、表高15万石に対して実高は34万石となってた。
30万石時代には単純にその倍あったんだろうと思ったんだが。
毛利は当初でも50万石余の申請(福島に並ぶのは却下されてその7がけで36万石)だったかと。
>>260 東北地方の開拓が進むのは、30万石から末期養子で15万石に大減封喰らった後からでそ。
とはいえ、30万石時代も実高50万石程度といわれてはいるけど。
>>261 なるほど。
津軽も新田開発のおかげで実高数十万石っていうし、東北は伸びがすごいよね。
しかし、同じ旧毛利領120万石のうち、防長だけが突出して幕末の実高が高いけど、広島藩や松江藩
あたりも、毛利家が新田開発や産業促進していれば、同程度に達したってことなんだろうか?
山口(周防・長門)が広島(安芸・備後)より恵まれた土地だとは特に思えないけど・・・
>>264 さすがに農作物かけで100万両は貯まらないからそれも非常に大きいけど、
米や他の農作物の収穫量だけ比べてもかなり差がついてるという意味で。
訂正。
>農作物かけで
農作物だけで
越荷方じゃなくて撫育方の面を比較しても、防長の収益体質の改善はすごいものがある。
267 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 15:21:21
新田もそうだけど、商品作物をつくって現金をえていたんでないの?
そうそう。米・紙・塩・蝋の四白ね。
ただ米の実高だけも長州の方が芸州より多い。
270 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/03/15(日) 17:31:37
産出量知らんけど鉱山あるよ
はあ?
>>262 ただ、北に行けば行くほど米作に適していないのに無理に米作しているせいで、
ちょっと天候が悪くなるだけで飢饉発生するような脆弱な石高だけどね。
藩政がそのリスクヘッジをしているのならいいのだけど、往々にしてダメだからなぁ。
特に最北部できちんとリスクヘッジをしなければならないはずの津軽・南部といった
ところがダメダメ筆頭格なのが悲劇…
273 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 21:16:50
津軽には三味線とねぷた、南部には鉄器という名産品があるがな
鉄器はともかく、ねぷたと三味線は当時現金収入になったの?
275 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 02:15:04
>>272 津軽は制度改革、数度の家臣リストラ、
経済通の家臣の登用、
希望者の帰農、殖産興業を行って、なんとか。
南部は、、、
一族政治と身分制度を改めることができず、
鉱山に頼った経営のまま、鉱山産出量が減少しても
有効な手段や財政改革をなにも導入できなかった。
そのしわ寄せが領民を圧迫し、
「日本一の一揆発生件数」と「日本一の規模の百姓一揆」のダブルタイトルゲット!
製鉄はあくまで民間経営。
茶道好きの殿様が民間発注した道具が、南部鉄器の始まり。
民間の高度な金属加工技術は、主要産業としての
「偽金」作りを盛んにさせ、
周辺諸藩が迷惑している。
津軽も南部に比べればマシってだけで、全国的に見ればひどい藩政としか
言いようがない。
信寿がボロボロにした財政をずっと引きずり、信寧の代にはまるで南部のように
重臣が藩内の米を買占めなんてことをやらかし、そこに天明の大飢饉が到来して
最悪の餓死者を出した。
信明が藩政改革して立ち直りかけたと思ったら、寧親の代でパー。信順のような
夜鷹殿様まで出す始末。
277 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 04:53:47
>>276 津軽藩ってそんなに酷かったのか・・・。
むかし、弘前に住んでたけど、そんな印象は受けなかった。
他に仙台・盛岡・山形にも住んだが、弘前ほど藩政時代の面影が残る町はなかった。
津軽の飢餓は特に有名だろ
津軽氏だか松前氏だかの殿さまが老中になてたきがするんですが
外様大名なのになんでなれたのですか?
願い譜代?というやつでもないですよね?
連レスしません
281 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 05:13:21
考えてみると、外様小藩の殿様は哀れだよな。
江戸期を通して、数百年仕えているのに、未だに外様扱い。
282 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 10:52:58
親藩や外様が幕府の住職に就けない
というのは間違い
283 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 10:59:19
毛利は実高が高く幸せそうに思えるが
年貢は七割だし、一族間の対立はあるし、
借金は増え続け幕末まで返せなかったし、
地味で目立たず広島でも
無視されてるホールインワン浅野の方が幸せだったのかも
284 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 12:05:54
幕軍の前線基地にされた浅野が幸せかな〜
285 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 12:28:19
上杉は年貢一割(たったの3万石/年)だったので
天明の大飢饉の時は
東北の諸大名の領民が流れ込んできて閉口した
おまけに「1人の餓死者も出さない上杉」という
噂がながれて迷惑した
286 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 13:03:02
津軽の殿様はプライドが高く
南部候を「甲斐の山猿」と悪口を言ったり
「哀れなり あずまの果てに すむ身とて
人のひとたる 道をしらねば」
と馬鹿にした和歌を詠んだりしてる
>>285 一割?!
そんなんで上杉クラスの格式高い大大名がやってけんのかねえ?
天領ですら五公(四公かも?戦国時代の北条とゴッチャになってるかも)だというのに。
関東八州の天領は年貢が多少安いので余裕があったのかな?
天然理心流の例のように剣術習ったり、よその農民よりプライド高かったそうだが。
288 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:06:58
>>284 やる気のない幕府軍の矢面に立って返り討ちにあい、城を焼いて撤退し、
飛地周辺に新藩を立ち上げたものの岡山藩の攪乱で領民から一揆を
起こされて年貢貢納を拒否された浜田藩改メ鶴田藩よりはよほど幸せ
だと思うなあ。
他人の不幸は蜜の味だからなw
289 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:55:05
小倉藩も同様の目に遭いますた
290 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 17:18:58
津軽は途中から血統が入れ代わってるでしょ
幕末の名君と呼ばれたのは松平だし
最後の藩主で伯爵になったのは細川だし
跡を継いで皇室に娘を入れたのは近衛だし
もともとの津軽氏も近衛庶流を仮冒してたしね
南部は田舎者と蔑む気風があった
291 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 18:02:24
あの偉そうな酒乱の松平定知って徳川家康の血統は流れているのですか?
292 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 20:49:33
>>285 米沢藩の場合、鉱工業や商業などの税金が
農民が納める米とは別に年に3万両ほど入る
293 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:13:42
米沢藩には税金ではない
藩(上杉家)としての
収入がある
@専売品の売却益
A大坂での米の転売による利益
(重臣竹股氏などによる先物売買益含む)
B江戸の物産を地元の豪農などに売る
これらは後に天童藩織田氏にも
収入アップの方法として勧めている
294 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:21:52
>>291 流れていません
そもそも久松松平は家康の家系ではない
さらに定知氏の家系と思われる家には旗本坪内氏から養子が入ってる
295 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:29:17
>>291 家康の弟
坊ちゃんに「子規が十万石の城下かな
と詠んだ」と出てくる
伊予松山藩久松家の末裔
296 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:33:04
腹違いじゃなくて種違いの弟だから
本来は松平じゃないんだよね
松平の名乗りを許された久松氏
俺は何でか知らんけど桑名藩主家の縁者と勘違いしとった。
298 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 22:13:47
漱石に
「ど田舎の伊予松山より
もっと辺鄙な」と書かれた日向延岡カワウソ
>>293 前に,「う」とか「え」とか言う名前の人が,“武士は金儲けはしない”とか言っていたような・・・
300 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 22:23:20
301 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 22:23:13
他スレより
松平源太夫家 (下野国安蘇郡内1,000石知行)
松平定寛─定隆─定為─定岡─定堅─勝文─定振─定尭─定知
松平定寛は伊予松山藩主松平定行の甥
定寛〜定堅迄は『新訂寛政重修諸家譜第一』より
定堅─勝文は『寛政譜以降旗本家百科事典』より
勝文〜定知まではぐぐった。
ホンマかこれ?
>>300 桑名家の場合は血筋としては幕末時点で紀州系だから一応家康の血が入ってるかなと思った。
まあそもそも間違ってるので言い訳にもならんけどw
>>302 幕末って,定敬のこと?
定敬なら血筋は,水戸系だよ。
>>303 定敬の後、先代の実子が藩主になってる。
305 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 23:57:20
実家がどこだろうと久松松平は久松松平
306 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:06:29
たとえ将軍の孫であってもか・・・
307 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:23:03
家の当主あるいは跡継ぎとして入ってきている以上、実家よりも継いだ家の
論理が優先される。だから、血のつながりが薄くとも先祖は先祖。子孫は子孫。
実家の先祖はもはや先祖ではない。
308 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:29:41
実家に帰らせていただきます
309 :
佐野支那そばや:2009/03/17(火) 00:50:51
お前、もう帰っていいよ
310 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 01:18:14
>>307 お前の子供が天皇家に養子に入っても、
はたしてそれを「万世一系」と言えるかな?
家の祭祀や系統継承も重要だけど、血統も大事。
311 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 01:20:41
>>290 盛岡南部こそがなりすまし源氏だし、
津軽は正統南部の一族出身ですよ?
つかつまり佐竹最強、と。
312 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 01:21:48
天皇家は大名ではない
313 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 08:07:31
で、御三卿だな
無嗣改易の場合も、国主クラスは1万石の定府大名(幕府から蔵米支給)、
城主クラスは1千石、陣屋クラスは5百石の寄合旗本で名跡だけでも残せば
良いのにな。
>>283 毛利は廃藩置県の段階で100万両の蓄財があり、うち70万両を明治政府に献上してるけど、
金はあっても借金を返さずに増えてたの?
重就の撫育方設置、清風の改革後は、幕末までには借金も片付いたのかと思ってたけど。
上田宗箇が広島藩に1万2千石で召抱えられてるけど、
他にも元大名が他家に家臣として使えた例はあった?
317 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 11:50:28
>>315 重就が藩主になったとき
3万貫だった負債は
敬親の代には9万貫を超えている
銀が過大評価だったことを考え、1両=20貫で換算しても
180万両の借入が残っている
明治に入って両→円の切り替えの際
何らかのマジックがあったのかもしれない
318 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 12:19:05
米沢少将「ただ同然の物を拾ってきて
付加価値を付けて高く売ればよい
倹約だけじゃ借金は返せないよ」
織田兵部「成る程、捨ててある木を削って将棋駒にしようか」
319 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 12:23:26
>ただ同然の物を拾ってきて
>付加価値を付けて高く売ればよい
どこにでもいそうなルックスの子にシリコン入れて
巨乳娘として売り出すようなものだな。
320 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 12:30:34
>>316 立花宗茂
1603年まで熊本藩加藤家の家臣(無役の客分)
321 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 12:35:44
実際には織田信浮らは
上杉の真似をしたが
江戸の浮世絵を出羽で高く売るのも
大坂の米相場も失敗した
将棋駒だけは米沢から優れた職人を派遣してもらい
今日でも天童市の特産品になっている
322 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 12:46:31
>>314 長宗我部、里見くらいは残して欲しかったね
323 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 12:55:36
>>320 客分は家臣ではないのでは?
お家再興を目指す元大名なら、陣借りをして手柄を立てようとするだろうから、
同様の例は多くないだろうか。
立花は家臣になるのを断った上での客分だった気がする
やはり元大名は上田宗箇ぐらいなのかな。
大名からは転落したものの、大藩の世襲家老、知行は万石、代々茶道を継承、維新後男爵・・・
下手に1万石程度の大名やってるより、結果論としては良かったのかも知れんw
大名だと同じ1万石でも、参勤など出費ばかりで茶道どころではないだろうし・・・
片桐は家綱の茶道指南役の看板で余収もあったのでは?
小堀は公金横領の疑惑が・・・
岡山と鳥取の池田ってあまり仲が良くなかった?
328 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 17:03:04
格を競い合うライバルではあったけど、分家の存亡の危機では力を合わせたりも
してたようなんで、犬猿の仲ではなさそうだ。
鳥取藩といえば幕末がすごいよね。
台場の築造防衛から近代砲の製造まで民間に丸投げw
もう武士連中は使い物にならなくなってたのかな?
>>326 片桐家は茶道指南役を世襲してない。石州の後は茶道の継承すら積極的ではなかった。
石州流が家元制度になり、片桐家が家元に就いたのは昭和に入ってから。当時の当主(子爵)が家元に就任。
よって、江戸期における片桐家では茶道にさほど金かけてないんでは?
殿中での諸侯の呼び名は,「○△の守(頭)殿」という官名+殿で良んですよね?
御三家,御三卿も,官名+殿(大納言殿とか)で良いのでしょうか?
でも,大廊下上ノ部屋では,当主や世子で,ほんとんどが中納言という状態のような気もするのですが・・・
それとも,御三家御三卿は,特例で時代劇のように地名+殿(水戸殿とか)だったのでしょうか?
>331
三家三卿の場合、宰相以上の官名では例えば「尾張宰相」「水戸中納言」と
称し、各省の卿やなにかの場合には「徳川宮内卿」「徳川常陸介」というよう
に称して「紀伊」「清水」とは称えないということだそうです。
当主に対しては、「尾張殿」「田安殿」ですね。これも、幕初は様付だったの
に対して家光が不快感を示し、殿付に落としたといういわれだとか。
>>332 れすサンクス。
そういえば,御三家,御三卿の世子や世子候補の初任官位はどれくらいですかね。
官位特格家で四位(やっぱり,従かつ下かな)ですよね。
御三家,御三卿だと正四位クラスですか。
>>304 その先代の実子には男子がなく、結局定敬の子が養子に入った。
335 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 01:48:56
ロッテちょーせん歌のアルバム
337 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 08:13:25
>>333 ・尾張・紀伊両家
従三位近衛中将(初叙) → 参議(宰相) → 権中納言 → 従二位権大納言。
・水戸家
正四位下近衛少将(初叙) → 従三位近衛中将 → 参議(宰相) → 権中納言。
・御三卿
従三位近衛中将(初叙) → 参議(宰相) → 権中納言。
だったと思う。
…違っていたら、すみません。
338 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 08:34:06
大名の呼び方ってのは混乱が多いんだよな。
丹波亀山藩の形原松平家は紀伊守に叙任されることが多かったため、飛地があった
備中国玉島では、「紀州様」と呼ばれていたらしい。
そこにある歴史関係施設の管理人は地元出身のおばちゃんだったが、この「紀州様」を
紀州藩主と勘違いして、「紀州藩主の松平」なんて言葉を連発する。紀州は御三家の
徳川の領知だと子供でも知ってるレベルの突っ込みをしても、「有名な話ですよ」などと
見下すような口調で切り返す。後で調べてこのおばちゃんの勘違いがどういうものかが
分かったが、仕事でやってるなら最低限の知識ぐらい入れておけよといいたいな。
こっちは「付家老は松平じゃないし、紀州に他藩や旗本の所領はないはずだし、家老
クラスで松平がいたとしても飛地領を持つわけがないしなあ」などと考えながら頭の中が
「???」で埋まってたんだが、おばちゃんは明確な反論がこないのを自分の主張が
正しいという思い込みの根拠にしていたらしい。
なにしろ、「備中松山藩板倉家はわずか4万石(注:表高5万石だっつーに)だが老中筆頭に
なれたのは、将軍家一族を養子にしたからだ」とか言うんで、(誰もが役職に就くのを嫌がって
いた幕末期では)老中に就くにはそれくらいが程よい格だと教えてやったら、今度は大老と
老中筆頭を混同して「井伊家の彦根藩は小藩だ」とか自信満々に言い出すし。
「御三家の所領くらい知っとけよババア! それ知ってりゃてめえの勘違いに気付くだろうがよ!」
なお、ネットで検索してたら、どうも同じ被害にあったと思しき人がいるw
>>334 ワラタ
明治維新までしか追跡してなかった。
結局高須藩の血筋に戻ってるんだね。
尾州紀州が従二位権大納言
甲府館林が正三位宰相→権中納言
水戸が従三位宰相→権中納言
高田が従三位中将
前田が正四位下中将(後に准御三家に家格上昇、参議・従三位に)
高田騒動や加賀の家格上昇の以前だと、
尾州紀州>甲府館林>水戸>越前(高田)>加賀
おぼろげながらこういった序列になってたっぽいのは気のせい?
341 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 17:56:53
3卿の民部卿とかは百官名なの?
正式な官位は中将、宰相、中納言だけ?
342 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 18:11:56
低いのを選ぶと
水戸の初叙は従五位上采女正
紀伊は従四位下・常陸介
尾張は従四位下右兵衛督
御三家は、家督を継ぐまでは常陸介とか采女正とか名乗るのに、
なんで家督後は名乗らないんだろう?
相続済みと相続準備中とを区別するためじゃねかに
家督前は常陸介、家督後は紀伊守でも良いけど、御三家は家督後は守名乗り
してないよね・・・なんでだろう?
346 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 20:06:41
そんなの、関係ねぇ。
旗本・御家人は無役小普請の割合がかなり高かったようだけど、
諸藩でも御役に就けない藩士は多かったんだろうか?
348 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 15:28:29
当たり前だろ。つーか、立藩までの家中の経歴によって、石高あたりの藩士数に
ばらつきが大きすぎるからな。多すぎるところは、おいそれとリストラできないから
その状態にあるわけで、ワークシェアリングにも限度がある。
役があっても1勤2休くらいだし、生活に困ってなければ武士ほどおいしい商売は無い。
350 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 19:15:56
暇で借金まみれっておいしい生活なのか?
>>345 家督後に守名乗りをしないって。
では,字(通称)は何と名乗っていたのでしょうか?
352 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 19:41:46
守名乗り?
>>349 芸を磨くために道場通いとかがほぼ義務化されちゃっていたり、
なにかと窮屈じゃないか?
355 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 20:01:40
ていうか名乗り?
356 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 20:16:36
越後屋光エ衛門
357 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 20:23:51
>>342 まじで?
水戸って国持ちの初叙の
正五位下より低いじゃん
守名乗りでも官職名でも百官名でも通称でも何でも良いけど、
御三家や駿河大納言とかは家督後は名乗ってないよね。徳川○○守とか。
加賀宰相や高田中将は、加賀守とか越後守を名乗ってるみたいだから
位階(三位)の高さとかの問題でもないようだけど・・・
>>354 地方は藩によっては学問熱心だったりするけど、旗本・御家人は想像するよりも無学だったみたい
ね、中期あたり。義務的には勉強・武芸は一通りしたんだろうけど、向学心・学究心のある旗本は
あまり多数派ではなかったと聞く。
360 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 23:22:59
>>359 >>旗本・御家人は想像するよりも無学だった
そのあたりのことは、勝海舟が述べていたような。
主税、掃部守なんかすら読めないものもいたそうな。
しゅぜい、そうぶしゅ
日本軍、元帥で最初は従三位くらい。
それ以上は凄いよ。
363 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 00:06:38
掃部守ってw
掃部頭だろw
364 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 00:17:59
>>360 たしかに。ミスったわ。いたた。
外務省知事みたいなもんだw
>>359 家でどこまで出世できるのかが、ほぼ決まっちゃっているからねぇ
366 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 01:15:46
>>366 よければ誰の家系か教えてください。
特に豊臣時代に大名だった万石取りの家臣をおねがいします。
>>367 大名で前田の家臣になったというと、まず高山右近を思い浮かべるけどダメなの?
あーごめん、幕末までとは言わないけど、上田家みたいにそれなりに何代か
続いた家のことを念頭に置いてたかも。書き方が悪かったかな、すみません。
ううむ。加賀八家の長家の祖の長連龍は、信長時代の前田の与力大名が
本能寺の変後に前田の家臣化なので、豊臣政権での独立大名とは
みなせないしなぁ。
371 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 02:19:15
一番の大物は、本多政重じゃないか?
本多正信の子で、5万石を領したとwikiにあるが。
>>371 でも、独立した大名の時期が皆無だからなぁ。
373 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 02:53:25
>>372 たしかに・・・。意外といないのかも。
本多政重は好きなんだけどな。安土桃山時代の武将らしい経歴が。
374 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 07:10:32
>>363 かもあたま
鴨のように三歩歩くと忘れる脳みそ
375 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 10:36:29
かもんのかみ
字面からすればいわゆる内閣そうじ大臣。
吉川は?
>>316 越後春日山45万石の堀忠俊の子孫は,改易後に加賀前田家に仕えたらしい(千石→百五十石)。
毛利系だと隆景・恵瓊・秀元・秀包は大名だろうけど吉川はどうなんだろう?直江みたいに陪臣?
青木一矩→前田
青山宗勝→丹羽
赤座直保→前田
芦名義広→佐竹
石川貞通→南部
伊藤盛正→前田
上田重安→浅野
氏家行継→細川
宇都宮国綱→水戸徳川
織田信重→細川
小野寺義道→亀井
垣屋恒総→紀伊徳川
岸田忠氏→南部
斎村政広→池田
多賀谷重経→越前松平
寺西是成→丹羽
寺西信乗→前田
富田信高→水戸徳川
服部一忠→紀伊徳川
尾藤知宣→細川
堀忠俊→前田
その他、除封後、高級旗本のコースが多いね
まれに大名復帰もあるけど
ぞくに300諸侯っていうわけで
大名300人いるとすると
戦国時代の人口よくしらないけど
1500万〜3000万ぐらい?とすると
大名になれたのは5万から10万人に1人ってことで
どんな地味な小大名でも藩祖はやはりそれぐらいの確率でしか
出てこない実力者だったんだろうなぁとおもうと
みんな凄い人だったんだろうね
慶長年間で、現在の10分の1の人口だから、1200万人ほどらしい。
300諸侯と考えると、4万人に1人。
もちろん任期があるなど全然違うけれど、
現在の日本の国会議員は、衆参併せて、700人強だから、
17万人に1人。
現在の市町村数は、合併でだいぶ減って、1800弱。
国民6万8千人あたりに1人、市町村長がいるということになる。
富田信高の二男は館林宰相綱吉の家臣になったところから
将軍家の旗本になれた。後に七千石の大身に。
幕末の雄藩になれたのって石高以外にも
比較的まとまっていて飛び地が少なく
わりと2方面以上の海岸線がある(ある意味その地域のはじっこともいえるような)のが多い気がする
やはり飛び地だらけや内陸はいろいろと不利だったのかな?
385 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 01:50:53
単純に欧米や大陸に近い「西国」だったからだと思う。
伊達と島津が入れ替わっていたら、
果たして島津は倒幕の最先鋒になっていただろうか、と。
>>382 それは速見の推定値で、最近は1500万人に上方修正する傾向がある。
それはさておき、明治16年編纂の『日本帝国形勢総覧』にこんな数字があった。
寛永元年(1624年)改全国兵数
(徳川昭武所蔵修史館写本による)
兵数 馬上 鑓 旗 鉄砲 弓
大名 25万2219人 1万1770騎 4万2036本 2522本 1万6814挺 8407張
一門 15万2997人 7149騎 2万5495本 1530本 1万0199挺 5099張
旗本 14万1300人 6609騎 2万3464本 1395本 9300挺 4650張
合計 54万6516人 2万5519騎 9万0995本 5447本 3万6313挺 1万8156張
高家の場合、五位でも侍従になるようだけど、
従五位下侍従の高家と四品(従四位下無官)の大名とでは、
官位の優劣の点ではどっちが上(位階が優先?官職が優先?)なんだろう?
位階優先だとすると、正四位下少将>従四位上参議、なんて
極端なケースもあり得るけど・・・
389 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 12:47:15
公家では位階や官職がいくら高くても家格が低ければ堂上には上がれないそうだから、
位階よりも高家としての家格の方が朝廷の秩序としては優先されるような気もする。
>>390 表高家は家格としての高家で無役ってことでしょ?
何か変なことを書いてたなら質問を変えます。
趣旨は、位階と官職はどちらが優先か?、です。
従三位中将と正四位下宰相、
正四位上中将と正四位下宰相、
正四位下少将と従四位上宰相、
こういった場合はどちらが武家官位の点では上なのか?、という意味です。
>>390 で、表高家と奥高家の違いが
>>388にどう関係するんでしょうか。
ぜひ教えていただけますか?
393 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 19:16:16
表高家は無位無官でっしゃろ
>>393 ですね。非役だと京や日光に代参することもなく、高い官職は実務上でも特典的にも必要ないからでしょうね。
>>388では当然ですが、表高家ではなくて高家の御役についている奥高家の事を想定してました。
395 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 23:35:16
関ヶ原の戦いでは西軍についたのに改易を免れ、
さらに大坂の陣では豊臣軍についたのに、またしても改易されることなく存続できた大名家は存在しますか?
大坂の陣で豊臣軍についた大名家は存在しないだろ。
一族に大坂城に入った武将がいる大名家ならあるけどさ。
397 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 00:21:08
片桐東市正は?
398 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 00:29:39
399 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 00:48:37
2万8000石の片桐家(片桐且元)を除けば、秀頼の七手組で
1万2000石の大名だった青木家(青木一重)
1万300石の大名だった伊東家(伊藤長実)
これらの大名は大坂の陣で豊臣方に付いたにも関わらず、許されて
領地を安堵され、明治まで至っている。
伊東長実は岳父の怨みで、家康に内通してたのかな
>>391 官職が優先です。
従三位中将<正四位下宰相
正四位上中将<正四位下宰相
正四位下少将<従四位上宰相
従五位下侍従>四品(従四位下無官)
402 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 08:59:39
>>399 夏の陣に参加しなかった青木を含めるなら、冬の陣で盟主に担ぎ上げられた
織田有楽の系譜を引く芝村藩・柳本藩、片桐且元の弟が藩祖の小泉藩とか。
夏の陣にも参加した岡田藩伊東家が最強か?
403 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 09:21:44
>>402 伊東は関ケ原で東軍に内通してたのに、夏の陣では内通してなかったの?
404 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 09:33:43
そりゃしてた可能性は高いだろう。だから何だ?
>>401 官職が優先ですか。
となると、甲府宰相(正三位参議)よりも、従三位中納言の水戸の方が上ってことですね。
406 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 14:13:40
武家の官職も位階より上? 朝廷での実権にすらつながりそうもないのに。
>405
三家は「御三家」としてセットでの格式でしょう。秀忠の時にも、行列を先官順に
しようとしたのに異議を唱えて、三家−駿河家の順にさせていますし。
越後騒動親裁の時は、三家の次に甲府殿という席次で着座したとのことです。
408 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 17:59:03
三家>家門・三卿>加賀
>会津・彦根>国持ち上位
>連枝・国持ち中位>譜代上位・親藩中位
>国持ち下位>準国主
>城主>城主並>無城
>新田大名>無席
409 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 19:38:22
吉川とか喜連川は登城した時どこに詰めていたの?
>>408 国持下位・準国主の後に、侍従に進む譜代(榊原・柳沢など)が入るかな。
四品の譜代(稲葉・戸田・水戸など)も朝散大夫の城主とは区別すべきかも。
>>409 吉川は柳間
>>四品の譜代(稲葉・戸田・水戸など)も
水戸は書き間違いw
412 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 20:23:11
>>409 喜連川は無席だったようだ。
徳川の家来筋じゃないから、江戸城に入る機会があったとしても、朝廷からの
使者などと同様に客人扱いで、白書院とかに通されたのではなかろうか。
413 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 22:05:15
>>412 御所様は一人ぽつねんと白書院ですか。
かわいそう
414 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 22:31:31
朝廷の使者は白書院に入る前に大廊下上之間に控えるよ
415 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 23:00:56
「八代将軍吉宗」では
大岡家(滝田栄?)が無席で
「廊下に座っとれ」と言われてた
>415
それはイジメの世界ですね。
寺社奉行になった大岡越前が寺社奉行の部屋に行ったら、「ここは奏者番の部屋だ」
と追い出されたとかいう話だったと思います。
417 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 00:16:14
>>412 それを言い出せば、親藩と譜代大名以外は全て家来筋じゃないのにさ。
特に木下家は豊臣姓で、別の名乗りが羽柴だからモロに主筋なのに。
交代寄合なんかも伺候席では末席で肩身狭かっただろうな。
城中では格式が全て、みたいなところあるっぽいし・・・
江戸城内では大名たちはなにしてるのかなぁ
役職についてないと暇そうだ
420 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 02:31:02
幕府はなんといっても格より権力だけどね
江戸時代の武家は上から下まで格式に規律されてた面が大きい。
422 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 03:25:33
外様の大大名も喜連川なんかも幕政に関わりないからな
423 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 04:42:55
>>417 >それを言い出せば、親藩と譜代大名以外は全て家来筋じゃないのにさ。
なに言ってんだ?
幕初に臣従した者の子孫なら家来筋。喜連川は江戸時代を通してその扱いに
なっていない。
424 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 04:45:03
>>422 外様大大名は軍役に準ずるものとして治水工事などの普請を命じられる。
木曽三川の薩摩義士の話は有名だろう。
425 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 13:07:59
426 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 13:17:53
幕政に関わってるじゃん。
427 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 17:50:38
428 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 18:21:09
流れを踏まえずにレスつけてるだろ。
>>417あたりの「外様は徳川の家来か」という
話題を踏まえたレスだぞ。
便所も家格別に別れてたのか?
奥州伊達は家督後何年ぐらいで中将に任じられたんだろう?
431 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 20:25:26
30年
30年・・・長いね。
433 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 21:18:43
鍋島と黒田は少将になるまで30年
若狭,壱岐,志摩をそれぞれ一円所領した酒井家、松浦,稲垣家は,何故,国持の扱いを受けなかったのでしょうか?
小さいから
細川とか池田・浅野は何年ぐらいで少将になってたの?
官位が高いとなんか実際にその大名にとって得なことがあったの?
438 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 15:59:53
>>436 毛利は歴代13人のうち
少将になったのは
秀就と斉元のみ
(13代敬親は明治維新の功績で大納言になっている)
439 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 16:04:07
>>436 浅野、池田、細川らは
10年から15年くらいで少将
440 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 18:39:20
喜連川が無席というのは将軍の家来じゃなくて
客分扱いということなんだろう
>>438 毛利は仕方ない。幕府にしてみたら初期の印象が悪すぎる。
それに在位30年以上の当主もほとんどいない。
7代重就も少将になってたと思う。
>>439 10年〜15年だと、他家に比べたら相当早いね。
浅野・池田はわかるけど、細川が黒田とか他家より早いのはなんでだろう?
442 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 20:13:03
室町期を踏まえて家格を考えたら、むしろ低いくらいじゃん。名家で大大名なんだから。
>>438 島津久光なんざ当主ですらないというに左大臣貰っとる
ごろつきのゴネ得
細川が早いのは室町時代を踏まえてのことだったの?
445 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 20:48:12
尊重されるべきそれ以上の理由なぞなかろ
446 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 21:06:24
久光が左大臣になったのは廃藩から数年後なんだから、家格は関係ない。
維新後の旧大名の官位は江戸時代に比べて、全般的に上昇している。
しかも、大臣とか参議は単なる官位ではなく実質的な役職になっているので、
下級武士だった連中がウジャウジャ参議になっている。
細川なんて時の権力者の間を巧みに泳いで肥え太った日和見野郎だというに
風流人だかなんだか知らないが他人から尊敬されちゃうポジションをキープし続けた
まことにいけ好かない野郎だ
448 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 21:12:22
芸は身を助くってことだろ。
有職故実の伝承者の価値がどれほどのものかが分からないなら、
とりあえずDQN扱いされても仕方なかろ
少将は大老の官職に相当するんだから、少将に短期間で就ける
細川は決して低すぎるというということはないと思うけどね。
個人的には、豊前宰相忠興が徳川の覚えめでたかったことが大きいと思う。
>>449 俺もそれに一票。
細川も名門とは言っても京兆家じゃないし、そんなに珍重されるものでもなかろ。
451 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 22:43:30
御家門、伊達、鹿児島の次に官位昇進の早い大藩ってどこ?
452 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 22:49:42
職豊大身と鎌倉室町の名家
越後・越前系親藩
453 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 22:51:41
誤)職豊
正)織豊
454 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 07:03:07
少将昇進が遅いのは
有馬、藤堂、山内、蜂須賀など
宇和島伊達氏は準国主なのに少将になってるな。
家督で四品・30代で侍従とか立花・丹羽とは別格の扱いなのな。
ねーだから官位がたかいとなにか大名にいいことがあったんですか?
教えてくださいお願いします
>>456 現代風の現世利益みたいな話で言えば、実利主義な現代人には理解できないと思う。一番大きいのは気持ちの問題だから。
書いてる自分でもいったん江戸時代の武士になったつもりになって気持ちを切り替えてからでないと理解できない。
あえて現代で似てる例を挙げると、経済的に功成り名遂げた人が勲章を欲しがって、さらにその勲章の格で一喜一憂するようなものか。
今の勲章は戦前の金鵄勲章みたいに年金が付いてくるようなものじゃないから直接的な実利とはあまり関係ないし。
あ、もちろんこれは外様大名あたりの話ね。
旗本とか譜代大名は肩書きのランクと幕府内での役職とかが多少リンクしてる。
旗本で守名乗りができるってのはそれなりのランクに昇進してることだし、大名で侍従・少将に叙任されるってことは家格が上昇するか老中
くらいにはなってるという証だから。
>>457>>458 ありがとうございました
なるほど、外様大名の場合ゲームとかで称号あつめするような感覚なのかな?
>>459 あと、近現代の話だと隣の蔵より大きいのを建てたいとか隣の車より大きいのを買いたいとかそういうお隣への見栄に類する話かな。
昔のカローラのキャッチコピーにもそんなのがあった記憶がある。
同じ詰め所の大名の中で、とか同じような出自の大名の中で、とか近国の大名の中で、とか。
>>459 拝謁の順(侍従より少将が先)とか、呼び方(立花左近将監→柳河侍従)とか
いろいろ影響はあるよ。
武鑑にも御三家以外は敬称なしの中、宰相には「殿」づけ(長門宰相殿・阿波宰相殿)で
記載されてたりするし、ゲームで称号を集めるような感覚とはちょっと違うと思う。
家格によって着られる服や使える道具も定められていたりもする。
462 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 19:17:04
無位無官の大物(大藩藩主の実父とか)と小藩藩主が江戸城中で同席するときでも
官位持ちの小藩藩主が上席になるの?
463 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 19:31:00
幕末の島津久光とかは例外。
無位無官の陪臣(藩主の実父)が江戸城に登城して大名と同席するようなことは、
幕府の全盛時代にはありえないだろう。
前田世子は無位無官でも伊達島津より上座じゃなかったっけ?
天皇って無位無冠?
466 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 20:16:15
天皇は即位するものだから、無位と表現するものでもなさそうだ。
>>447 室町幕府に殉じて滅んでおけば、ちっとは尊敬してやっても良かったのになw
468 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 20:37:26
>>467 あの乱世を泳ぎきった英雄である以上は、飽食の時代の腑抜けに
言われたかねえだろうなw
室町末・織豊期最悪の風見鶏野郎・細川幽斎
470 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 21:07:53
DQNは教養のあるタイプを目の敵にするよなw
471 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 21:19:05
三淵?長岡?
472 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 21:42:33
織田や豊臣はともかく足利をあっさり見限るとはな
473 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 21:55:23
裏切らないのはむしろ上杉謙信のような少数派
474 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 22:09:12
高家って成り上がり大名よりずっと格好いいな
たとえ1万石でも大名の方がいいなぁ。
>>474 でも高家って朝廷に行けば,公家連中に家柄が低い成り上がりと馬鹿にされてそう。
477 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 22:50:56
>>475 同意。
高家旗本畠山氏五千石より、美濃岩村城主遠山氏一万石じゃ
苗木城主じゃね?
綱吉って何で取り立てては潰し、を繰り返したんだろう・・・
下馬将軍が反対したように、将軍の器ではなかったのかな?
将軍の威光を世に知らしめるための一番手っ取り早い方法だからかな?
大名達は牙抜かれてて謀反するほどの気概持った奴もいなかっただろうし
10万石時代の南部家は城主?準国主?
482 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 12:16:01
四品にはなってるみたいだけど・・・
484 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 21:05:46
南部は日本最大の大名
国持の山内、準国主の伊達、
連枝の松平、久松
みんな合わせたよりも
さらにでかい
白アリ最低の大名
三河田原1万石の三宅
陣屋最大の大名
糸魚川5万石の有馬
これで桶?
>>476 流石に裏では言われるかもしれないが、自分達と幕府との窓口だしなあ…
487 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 22:57:44
>>485 城持ち最少は美濃苗木藩遠山氏一万石。
陣屋最大は大聖寺藩前田家七万石、幕末十万石。
488 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:11:45
南部、浅野、毛利は
百姓一揆御三家やな
他の国持大名の倍くらい(60〜90件)起きとる
489 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:13:42
490 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:27:30
江戸期一揆件数が約3000件
三百諸侯300年
平均すると一つの藩で10件か
多いのはよく聞くんだけど逆に300年間一揆がなかったところってあるのかな?
492 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:40:47
>>491 諏訪高島藩と庄内藩
ただし庄内藩は
殿様の国替えに反対する
前代未聞の一揆が起きている
493 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:43:06
>>491 菰野藩。
土方氏は地味だが善政したのだろう
494 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:47:10
みんな大好き三日月藩
三日月の丸くなるどこかの藩と
えらい違いだ
495 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 00:50:22
大聖寺藩、前だけの場合は陣屋とはいっても、事実上は城だがな。
497 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 13:32:22
庄内藩の農民一揆は
後釜の川越松平が
ケチで有名な殿様な上に
川越藩は借金漬けなので
領民が一揆を起こして反対した
江戸に上って幕府に直訴したり
様子を探りに来た川越藩士を捕まえたり
本間家や上杉家にも協力してもらったりして
転封を阻止した
498 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 13:54:30
庄内の隣の高畠でも
上杉から織田に統治者が替わる際に
領民が激しい抵抗をみせている
出羽の農民は世間知らずではなく
意外と中央の政治動向や情報に明るかったようだ
499 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 14:00:12
>>479-480 ゲバ将軍の思惑のように
五代様が宮様だったら
どうなったんやろか
徳川は一大名となって
尾張が徳川宗家
酒井が執権かいな
鍋島の三支藩は城主格に昇進する運動をしたが却下されている
一万石代の城主より下座席なのが腹立たしかったと見える
鍋島は「太閤が認めた天下のまつりごとができる三人」のひとり
本当は掘なのに藩史の中でちゃっかり書き換えてしまった
502 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 00:03:23
なんだかんだいって外様は
徳川へ取り入るのがうまかった
いわば媚まくった大名が生き残ったのかな?
島津とか毛利以外は
特に織豊系大名
風見鶏細川
505 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 06:56:19
上杉は失敗ばかりで
他大名なら三回死んでた(取り潰し)
ただ徳川の名家好みで救われ
(鎌倉6代将軍の側近だった
というのは成り上がりには萌えだろう)
あと領民や他大名家のウケがよかったのが幸いしてる
506 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 07:08:28
上杉は隣藩の揉め事や苦難にも
積極的に支援しているのがプラスポイント
(かつては自分の領土だったから当たり前なのだが)
黒田や藤堂はあれだけ徳川に尽くした割には
評価が低いのは隣藩との仲が悪いせいもある
507 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 07:20:56
>>502 徳川一門と親戚になるのがベスト
しかし長州藩毛利家みたく
越前家の威光をかざして無理難題を押しつけると逆効果
浅野、池田の両家は大成功
外様で織豊系は結構改易になったものの
旧族大名で断絶したのは安房の里見のみ
509 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 10:53:55
里見は旗本などとして存続してるし、大名として断絶した家という話なら
下野の佐野氏とかも改易になってる。
510 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 11:02:33
紀伊新宮の堀内、陸奥の芦名とかも?
普通なら取り潰されていたであろうのに大丈夫だったことが一番多いのって上杉なの?
譜代はわりと「先祖の功によって」とかで石高減らされたり転封されたりで助かってる家が多いとおもうけど・・・
>>508 最上は?
512 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 13:16:02
池田も分家は結構取り潰されてるな
家割られてるし
浅野が1番の勝ち組かな
赤穂は潰れたけど本家は安泰
513 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 14:52:47
>>512 外孫としての池田=鳥取
孫婿としての池田=岡山
どっちも陪臣にはしたくなかったんだろ。それに鳥取は池田輝政の
領地ではなく振姫の領地だろ。
浅野
お母さん出産時に死んじゃった外孫の光晃ちゃんかわいそ で、
幕末まで光晃系は御家安泰。
赤穂は光晃の血引いてないから
>>497 > 後釜の川越松平が
> ケチで有名な殿様な上に
> 川越藩は借金漬けなので
まあ、それもこれも幕府が無駄に引越しさせてた挙句、水害で城が壊れかけてる前橋に移したりしたのが原因だからな。
で、川越が今さびれてるのはそのせいかw
俺全く知識無いからわからないんだけど
川越藩=前橋藩ってことなの?
それともどっちも川越にいたけど前橋藩と川越藩ってのは別モノなの??
516 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 18:20:11
>>511 上杉は
@関ヶ原
A世継なく綱勝の急死
B忠臣蔵事件
C重定の領地返上未遂
あたりが危なかった
最上は57万石から1万石
さらに5千石の交代寄合だね
巷間では「大名に復帰出来ないのは
最上騒動で非業の死をとげたものたちの呪いだ」などと雀たちが噂したとか
518 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 18:37:22
川越→前橋(越前系)
準国主で少将になれる
棚倉→川越(松井家)
城主
室町幕府の名門だと
細川氏→熊本藩
斯波氏→最上氏が残る(5千石)
畠山氏→?
山名氏→交代寄合6700石→村岡藩立藩
赤松氏→?
京極氏→丸亀藩他複数
一色氏→潰れた?
ってかんじかな?
実は京極氏が一番勝ち組なきがする
521 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 18:43:15
もうひとつ知恵伊豆の
長沢・大河内松平がある
川越→古河
畠山氏→高家5000石
赤松氏→5000石ぐらいの旗本。(傍流に久留米藩21万石の有馬氏)
523 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 18:58:01
畠山は
陸奥畠山→佐竹家臣
河内紀伊畠山→高家
能登畠山
→上杉家臣、高家
忠臣蔵の畠山義寧は
吉良義央のはとこ甥
524 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 19:01:07
池田は鳥取も岡山も新田藩2家ずつ。鳥取藩分家はほかにのちに福本藩になる家と
その分家の屋形池田家、吉冨池田家。岡山藩は鵤藩改め新宮藩改め旗本新宮
池田家(下間家)、備中井原池田家及びその分家。旗本を含めたらけっこうある。
あと一族に池田甲斐守家がいるけど、系図はどこでつながるのか分からん。
一色は黒衣の宰相・崇伝
大坂の役での「国家安康」が有名
526 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 19:20:10
>>141 足利や新田も廃れた中じゃ、幕末まで清和源氏を800年大身で繋いだ佐竹だろ。
527 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 20:21:16
今年の2月まで秋田の殿様だったしな
528 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 20:28:27
秋田市な。
現在、秋田全土領土獲得戦中。
本人は、佐竹北家。
今度は県知事狙ってんの?
相馬氏や相良氏も鎌倉時代ぐらいからずっと大体同じ場所にいるし凄いとおもう
他にもいそうだけど思いつかない
531 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 21:17:35
>>530 島津、宗、大関、大田原、南部あたりは古いような気がする。
五島や松浦も結構古い
後北条氏の宗家ってのは無いの?
>>534 細川宗家が滅亡したように後北条宗家も滅亡で良いんじゃない?
北条氏直がもう少し長生きしてたら許されて
どこか一国貰えたかもしれないという話は聞いたことがある。
どこで聞いた(見た?)かは覚えてないけど・・・
北条は河内狭山藩で幕末まで残ってるけど、あれが宗家でなかったの?
熊本細川家は宗家では無い、同様に河内北条家も宗家では無いという認識。
血筋としては嫡流でないのは解ってるんだけど、氏直の死後に叔父の氏規が正式に家を、宗家として継いだんだと思ってた。
連続ですまん。ちょっとググってみたら間違ってた。
氏規でなく、氏規の子で氏盛だった。氏盛は氏直の養子に入ってるみたいだから、血筋はともかく家としては宗家でいいんでは?
>>518 松江藩は親藩ながら国主って言うけど、川越松平家も準国主(国持に差継候表大名)
の家格だったの?
542 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 07:10:29
>>541 その通り
>>536 伯耆一国15万石
氏直が長生きしてたら
北条も酒井、稲垣、松浦と同じ扱いだろう
543 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 12:51:36
武田、上杉、毛利でさえ120万石なのに北条250万石は凄すぎ。
関東は後進地域と言われているけど生産力は凄かったのね。
544 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 12:53:18
佐竹なんか漏れの多い太閤検地ですら常陸一国だけで50万石だから、関東の農業生産力はかなりのものだよ。
伊達に最大の平野を抱えていないw
545 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 14:04:33
譜代大名の酒井家は、数が結構多そうだが、
酒井家の一族総ての勢力を結集したら、
どのくらいの勢力になるんな?
酒井と言っても、左衛門尉系と雅楽頭系は別の家同然だからな。
>>542 前田分家みたいに大広間城主かと思ってた。
なんだかんだ騒動は多いけど、やはり越前系は厚遇されてるんだねー
>>543 関東はマジすごいね。
ただ毛利の120万石は低く見積もりすぎだから比較としては当てにならないかも。
太閤検地も免除じゃなかったっけ?
548 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 18:44:05
分家、別家含めて一番多い大名家ってどこだろう?
酒井、本多、内藤、堀、水野、井上、阿部…
だれか統計とってくれ
松平だろ
戸田がアップを始めました。
551 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 23:21:00
越後、信濃あたりには堀が多いな。
本多・内藤・酒井は全国に分散してる感じ。
数で言えば本多かな?
552 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 00:07:22
井伊の家格石高が別格なのは分家が少ないから一カ所集中された結果?
553 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 00:16:12
松平(維新後改姓しなかった家限定)26家、本多8家、酒井、池田、徳川 7家 、内藤、戸田6家、水野、小笠原5家
554 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 00:22:28
>>553 自己レス
明治維新時に諸侯として残った藩で5家以上の家限定でウプしてみた
>>515 川越藩は主に譜代大名の「社宅」みたいなものなので、薩長や加賀・仙台などと違って大名が次々変わっている。
また、大和守家時代には災害の関係で前橋は一時川越藩の分領として吸収されていたので、この時代だけは川越藩=前橋藩だ。
酒井雅樂頭家(「下馬将軍」忠清で有名。前橋を経て姫路へ)
↓
酒井雅樂頭家分家(オバマ大統領でお馴染みの小浜へ)
↓
堀田家(松本を経て佐倉へ。二代正信の時代に佐倉惣五郎事件。乱心改易で子孫は近江宮川)
↓
松平伊豆守家(知恵伊豆こと信綱で有名。孫の代に古河へ移り。最後は三河吉田)
↓
松平美濃守家(柳沢保明。綱吉から松平姓と吉保の名を賜る。甲府へ移り、子の代に大和郡山へ)
↓
秋元但馬守家(四代いて山形へ、その後館林へ)
↓
松平大和守家(「引越し大名」。酒井雅樂頭家と交代で前橋に来たが、前橋城が川の浸食で崩壊してきたので本拠を空いていた川越
に移す。前橋城は解体して出張陣屋が置かれる。領地がまとまってないために冗費が多いため庄内への転封を策したが
庄内一揆に阻まれる。幕末に領民の献金もあって前橋城を再建して移り、川越城を幕府に返す。なお、あまり知られて
いないが、幕末の当主直克は松平春嶽に続いて二代目の政治総裁職に就いている)
↓
松平周防守家(本姓松井。当主康英は分家旗本からの養子だが、旗本時代遣欧使節団の副使として渡欧経験あり。四代前の康爵が
密貿易の罪で譜代大名の左遷地棚倉に移されていたが、川越に移される。)
556 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 06:57:22
密貿易と言えば島津
水野や久松の繁栄ぶりはお大様様だねw
柳沢吉保の系統だけど、1万石の新田藩主になった四男・経隆、五男・時睦も幼少のうちから
松平姓をゆるされてるみたいだね。
しかもわずか1万石の陣屋大名なのに伺候席は名門ぞろいの帝鑑間だし・・・綱吉半端ないw
558 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 07:44:22
帝鑑間詰で石高最少は1800石の交代寄合の久能榊原家かな。
外様で松平姓を与えられた家で最少は、同じく交代寄合の福本
池田家あたりだろうか。
池田は鳥取池田の分家だから分かるけど、柳沢の分家は綱吉の寵愛からなのかな・・・
帝鑑間の万石未満の交代寄合も三河以来の家柄・元大名筋だし、柳沢のような出頭人の
分家の新田藩主が列するのは奇異に感じるかも
560 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 09:00:41
伊勢神戸藩一万五千石の城主本多氏、播磨山崎藩一万石の無城本多氏、
播磨安志藩一万石無城の小笠原氏なども帝鑑間詰め。むしろ、帝鑑間詰めの
分家も同じく帝鑑間に入ってる例が多いように思えるが。
他にも帝鑑間譜代の分家は帝鑑間に列してるみたいね
甲府柳沢家の分家だから帝鑑間ってことなのか・・・
分家が本家と同じ席になるのは表大名と詰衆の違いとかも関係あるのかな
でも、そもそも土井や稲葉は雁間で、吉保は帝鑑間だったりと、
席が決まる基準がよく分からないw
562 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 12:58:12
大雑把に分ければ、帝鑑間はやや大藩領と戦略拠点防衛の大名が入る詰間で、
雁間は役方につくことの多い中程度の藩は入る詰間。
土井や稲葉は大加増で10万石前後になった家で、その加増理由も役方での功績に
よるものだから、家格の前例を曲げてまで詰間を変える必要を感じず、また以後も
役方での活躍を期待されていたということじゃないだろうか。
563 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 13:34:39
稲葉の淀城はいかにも戦略的要衝に見えるけど、所領はあまり戦略的に
意味があるとは思えない配置の飛地ばかりで、むしろ政略のエキスパートを
置く拠点として位置づけられているように感じる。あの位置に軍事的に大きな
パワーを置くと、危なっかしくてしょうがないしね。
柳沢の大和郡山藩は、明確に京大坂の軍事的な押さえと位置づけられていた。
大坂での有事では、尼崎や岸和田とともに大坂城代の命令が出る前に出兵できる
権限が与えられていたし、大和郡山藩の所領は城付き地のほかに近江の湖北
及び南部の平野部。明らかに京都防衛を意識している。丹波亀山、膳所、高槻と
ともに京都防衛の強力なガードを形成していた。
なるほど、甲府や郡山に配置された柳沢は軍事的な押さえだったんだね。
565 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 18:09:10
甲府に山流しにされる
極悪旗本とか時代劇にでてくるけど
柳沢は苦労しなかったのかな
566 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 18:40:05
甲府藩のときに甲府勤番支配の旗本がいるわけないじゃん
山流しというのは後に不良旗本の左遷地とされて付いたイメージで、甲斐国は普通に良い土地だよ。
高速度交通機関のない時代だから、江戸のすぐ側にある大国という重要性は今より大きいだろうし、
山国で不便とかよりも、甲府勤番の場合、勝手に江戸に戻れなかった点が大きそう。
柳沢本人は幕閣顕職在任中はほとんど甲府入りしはないんじゃないかな。家臣も江戸詰めの方が多そう?
>>567 そうなのか。
甲斐というと山間の農地が少ないイメージで,あまり豊かな国ではないと思っていた。
それに甲州街道も,甲斐と武蔵の国境の峠が難所と聞いたので,大消費地江戸を支える生産地というイメージもなかったし・・・
あ、ごめん。地政学的な意味を含めて、大名の封ぜられる領地として普通に良い土地って書いた。
けして肥沃な土地ではないだろうけど、面積を考えたら実高30万石超はそう悪くはないのかも。
尾張家は山林も重要な収入源だったようだけど、甲州の山林はどうだったんだろう。
>実高30万石超
甲府柳沢藩だけじゃなくて甲斐一円の実高という意味です
レベルの低い質問で悪いんだが、水戸黄門では柳沢は黄門さんと敵対してるけど、実際はどうだったんだろ?
572 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 21:00:24
みつくにさんは犬の毛皮を綱吉に送りつけたくらいだから、
綱吉の腹心と仲がいいわけがないよな
柳沢さんは空気を読むセンスを心得てるね。
どう考えても敵の多い立場だろうに、不思議と誰かと犬猿の仲って話が出てこない。
前代未聞の成り上がりをやらかしたのに、子孫まで減封もなしで藩を維持したのはすごい。
吉里公のお父上はどなたでござる?まさか・・・
575 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 03:06:48
そのお方が公方様の種ならば
秀頼公も太閤殿下のお子で間違いなく
綱吉の代は改易・減封が特に多いな。しかも理由が暴君さながらに理不尽なものも多い。
あの綱吉の寵愛をここまで受けて、かつ見限られもせず、晩節を汚すこともなく15万石を維持
・・・吉保すごすぎw
>>573 同じように微禄から立身した間部だの田沼だの中野だのの末路合と比べると、吉保の身の引きっぷりの良さが際立つ。
新田藩の立家の認可基準ってあったのかな?
簡単に認めると雨後の筍のように乱立だろうし、事実そんなに数ないよね・・・
どんな場合に認められたんだろう
579 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 22:42:49
岡部藩の安部って、ほんとに大名なのか?
ずっと、代官だと思っていた。
子孫が、近くにたくさん住んでいるんだけど。
うちの市の初代市長も殿様の孫の阿部だった。
ちなみに「アベ」ではなく「アンベ」です。
580 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 01:41:20
安部家は明治維新に際して陣屋を三河半原に移したから
末期の岡部は代官所の支配だよ
581 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 02:14:33
米沢上杉家の官位だけど、初官が従四位下・部屋住中侍従なしで、侍従より30年64・5歳で
少将になる家筋(松江松平や藤堂より劣り、鍋島・蜂須賀・山内と同等、有馬・宗より優る)だった
みたいだけど、これは15万石に半減したときに国持のままながら官位の昇叙の点では家格低下
したってことなのかな。
黒田・毛利・岡山あたりのように、初官従四位下のちに部屋住中侍従、侍従より30年又は50才
で少将になる家筋の方が妥当な感じがするんだけど、元々の30万石時代はどうだったんだろう?
583 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 23:27:47
岡部藩の安部(アンベ)はもともとは駿河の名族。
「アンベ」は「アンバラ」の転化といええば、
わかる人もいるはず。
584 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 00:16:45
>>582 上杉定勝の場合
1604生まれ
1623将軍に接見
従四位下侍従(19)
1626少将に昇進(22)
585 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 00:36:12
上杉斉定の場合
1788生まれ
1812家督
従四位下侍従(22)
1820少将に昇進(32)
586 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 00:44:11
30万石時代の綱勝、
寛文減知の綱憲
15万石時代の宗憲、宗房など
早く亡くなって少将になれなかった藩主がいて
判断できないな
587 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 00:56:31
従三位権中納言の景勝と
正二位の茂憲は特別として
30万石の時が定勝と
若くして急死した綱勝だけではデータ不足で困る
定勝は毛利秀就なんかと一緒でごく初期の家格が定まる前だからだろうし、
斉定はウィキペディアによると善行を賞されての少将任官みたいだから
これも家の家格によるものとは言えないのかな。
確かにデータ不足で分からないね。
幕府の見解として
「上杉を降格した」
という明確な公式記録はないのでは?
南部の昇格や織田の降格みたいな
はっきりした扱いの変化は無いような気が
だよね。元が分からないから降格かどうかは分からないよね。
寛保3年の官位覚の記載の基準では、15万石時の上杉は64・5才で
少将の家ということみたいだけど、個人的には上杉家が元々は毛利あたり
よりそんなに劣った待遇だったとはどうも思えないから聞いてみた。
591 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 01:15:13
外様の官位などどうでもいい
592 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 01:30:31
せやったら
親藩で官位が降格した家といえば
結城(越前松平)家やな
593 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 07:41:16
>>591 お前の趣味ごときなど、更にどうでもいいっつーに
594 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 10:15:54
福井松平と池田は
初期こそ官位高かったけれど
相次ぐ減封や分割で
極官が左近衛権少将がデフォとなった
>>594 本当の初期じゃん。
でも福井の場合、石高の他に御家紋筆頭という家格もあるけど、官位は他の国持ちと変わらないよね
しかも弟分?の合図よりも官位低いカワイソス
596 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 13:04:41
家光公への正之候の忠誠と、弟とはいえ秀忠公への秀康候親子の在り方は全く天と地
大名家からの時献上って原則国許の名産であるはずなのに、
運賃と手間が面倒だから江戸で買い求めたりもしてたみたいねw
山内は土佐節を小網町の商人から買い、桑名侯も房州産の蛤を・・・
幕閣への献残品でも、喜ばれた品と迷惑だった品があったらしく、
不要なものは「献残屋」に引き取られたらしいけど。それが再献上に
使い回されるケースもあったとなると、もはや何がなんだか・・・
井伊直弼が近江牛の味噌漬(薬用w)の献上を中止したことが原因で、
とても楽しみにしてた水戸と井伊が険悪になったとかならないとかw
598 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 22:45:48
徳山藩主毛利広鎮の六男で永代家老家を継いだ福原越後は
蛤御門の変の責任を取らされ切腹し首を幕府に差し出された
毛利元徳は広鎮十男で福原越後の実弟だが長州藩を継ぎ
維新後は参議や貴族院議員を歴任、死後は国葬
小早川三郎や西園寺八郎の父でもある
兄弟で運命違い過ぎ
599 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 23:49:53
元徳より福原越後の方が有名だけどな
600 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 23:52:14
国司信濃、益田右衛門介、福原越後は有名
幕末の長州藩などの幹部藩士として出てくる名前と
おなじ苗字の戦国や江戸初期の武将ってのはやはり子孫と先祖の関係なんですかね?
福原とか佐世とか?
八十郎
604 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 14:40:58
一万石の大名って、どのぐらいの贅沢が出来たのかな?
酒池肉林
大名の官位や殿中での儀礼関係は武家官位スレに書き込んだ方がいいのかな?
607 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 20:40:47
>>604 五公五民で5千石
うち家来の取り分が3千石
残りのうち藩の運営に1500石
藩主の生活費用に500石
これを売って銀100貫
現在の金で年収1000万円
608 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 20:59:02
召使のように使える使用人や妾は数十人単位で確保できるけどね。
609 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 21:39:02
しかし自由はなく、
派手なことをすればお家断絶。
中級以上の大名だと明治維新後どうなったのか大体想像がつくけど、
幕末に大名に昇格した家とかだとどんな感じで明治時代を過ごしたのか、
想像しにくいな。他にも、なんとか新田藩とか。
まあいろいろ。
決して贅沢な暮らしではなかったけど、普通に生活できるくらいの収入は配当で確保できる。
一応子爵だから信用を利用して団体理事とかに収まったり、公務員になったり。
贅沢しようとして投資に失敗して借金作ったり。
新田藩なんかだと本家との関わりも大きいから、本家から援助してもらったり。
一万石前後でも、古い家だと地元に密着してたりするだろうけど、
本陣が幕末になんかの功績でにわかに藩になったような家だと、
生活もたいへんそうだな・・・・・・
613 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 02:05:24
本陣?
614 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 02:22:32
養う家来が少ないから、
一時金を総取りできてラッキーだったんでは?
615 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 06:27:04
大名は基本的に世間知らずだから、譜代の臣がいない大名は詐欺に遭いやすく、
爵位を返上しなくてはならないほど家産を無茶苦茶にされる例は少なくなかった。
616 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 07:26:29
もと大名はまだマシで、旗本は寄合クラスでも新政府に出仕できなかったら
大抵バッドエンドだからな。
かわいそう
618 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 07:50:19
庶民は食い詰めて村を出たら大抵バッドエンドだったからな
619 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 08:16:05
>>616 たいてい人力車夫や荷車引きになってます。
620 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 08:45:57
早死にする職業だな。教養のある人間が不足していた業種もあったのにな。
小学校の教員なんて、上級生の優秀なやつを実質的に教員にしていたくらい
なのに。
621 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 11:36:34
現代日本も民主党が政権についたら、官僚みんなクビでタクシー運転手か。
楽しみ。
624 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 14:08:59
>>621 一石(150kg)=2〜3万円
(多摩どまんなか)
米中心経済だった江戸時代と現代とでは、米の価値は雲泥の相違だろ
626 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 14:26:27
京都こしひかり(今日の宮御前)
1キロ千円だから
一石で15万円(宮午前)
じゃあ金でいくか
628 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 14:29:39
×今日の宮午前
○京の宮御前
629 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 14:30:58
一両=10万円がでふぉ
630 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 14:31:08
江戸や大阪みたいな大都会はともかく、地方に行ったら、
一石=「一人の一年分の米」 っていうのは、ほぼ
「一人が一年間生活できる」っていうのに等しかったわけだろ。
少なく見積もっても一石=数十万以上にはなるだろ
1石20万円として、
>>607で
小藩の藩主が生活費以外に自由に使えるお金は年間1億円くらい、て考えると
大体オーダーは合っている気がする。
気がするだけかもしらんけどw
人はパンのみにて生くるにあらず
633 :
631:2009/04/04(土) 14:43:42
ごめん生活費以外じゃないや、生活費含む か
634 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 14:49:01
その手取りから、執事・メイド代は引かれないことにも注目すべきだな。
女を囲ったらそいつの生活費は全部負担だけどね
636 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 15:01:09
昔、親父やじっちゃんが囲っていた大勢の婆どもまで、死ぬまで雇用でそ
ヘンリー8世式リストラ
638 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 15:17:41
メイドとメカケの区別くらいはつけたらどうかね。
それに、出自が家臣や領民なら暇を出すこともできた。
639 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 15:19:45
婆になって暇を出された側室はどうなるの?
野垂れ死に?
640 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 15:24:12
人心が離れないように、天涯孤独になった婆さんには暇を出さんだろ。
出すのは、奥に入って数年経っても子供ができなかった場合とかだな。
じっちゃんが死ぬ前に囲っていた現在40歳とか50歳とかの側室なんて
気持ち悪くて、顔をあわせる気にもなれなかっただろうな
642 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 15:34:21
一石って大人が1年に食べる米の量でしょう
勿論全部食べるわけにはいかないし
米だけでは食っても暮らしてもいけないし
やっぱり女はメイドに限る
644 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 15:40:44
藩主家に女中として入る娘の多くは、領知の庄屋の娘とかで、藩主と顔を合わせることも
ないような炊事洗濯などに従事する行儀見習だったりしたんだけどな。
昔は人が老けやすく死にやすかったから、前藩主が好色とかで遊郭から身請けしまくった
とかでなければ、家臣の娘などが側室の出自になるから、そうそう人も残らなかっただろう
けどね。いわば腹違いの兄弟の母親ばかりが残るから、部屋住みの兄弟ごと養って
いたわけで。
>>642 農村の貧民なんかは米以外はほぼ自給自足してたんじゃないのかな
だから貧民の年間の生活費は、1石+αくらいだっただろう
今だって年間20万円じゃ、餓える寸前レベルの食費にしかならないでしょ
646 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 15:55:18
結局、仮に
>>631が正しかったとしても、
後宮維持費用で半分くらいは飛び、あと公的な出費も色々あっただろうから、
小藩程度だとそれほど贅沢な生活はできなかっただろうね
日本刀あるんだし100人斬り競争くらい出来る
648 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 16:40:20
大名の負債は無視かい
649 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 17:20:42
副食の少ない当時では、1人1石ではカロリーが足りないから2石食ったとか言われてるけどね。
米がとれない場所では米を生涯食わない人間も珍しくなかったろうし、都市部の人足は米を食ってた。
酒や安女郎買いや博打で破滅的な生活を送るために長生きできなかったようだけど。
650 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 17:52:32
新田藩は基本的に版籍奉還時に廃藩して藩主は本藩の厄介になり
華族としての身分は保ったが叙爵されなかった
651 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 18:05:54
どこの新田藩だ?
万石陪臣でさえ男爵になってるのに。
叙爵されなかったのは広島新田藩くらいしか思いつかないな。
島津が手伝普請を命じられた木曽川での宝暦治水事件は,もう将軍家重の治世なんですけど。
江戸中期以降で,一藩の財政が傾くような大がかりな手伝普請は他にもあったのでしょうか?
654 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 23:41:07
手伝い普請がそんなに嫌なら弓矢で決すればいいのに
655 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 23:54:07
新田藩は維新後、本藩に統合されなかったところ以外は、
領地にちなんだ藩名に改称して、独立した藩になってる。
656 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 09:35:11
>>653 庄内もかなりきつかったみたいだよね
印旛沼
三方換えのとき
657 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 10:35:47
どぼじで譜代なのに虐められるのおおお!!!!?
658 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 19:31:48
生意気だから。
>>657 虐められたんじゃなくて金持ってるように見えたんだろw
普請ってもともと譜代、外様はそれほど関係ないんじゃないの?
ただ無役で金持ってそうな藩が当たる。
密貿易と奄美大島収奪の利益がまずあって、身ぐるみ剥がれたわけだよ
悪いことは出来ないもんだ。
661 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 21:37:10
当初の計画では、総工費を石高で割ると、
他の御手伝い普請に比べて極端に過酷ではなかったのにね。
日本の治水事業の見積の甘さは、もう伝統ですね。
662 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 23:08:32
>>648 1万石の大名なら
負債は5万両くらいだな
663 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 07:06:53
島津は300万両
毛利は200万両
664 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 07:09:07
伊達と前田は金持ちなのか
貧乏なのかよう分からん
665 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 07:51:51
金持ちってのは負債の額ではなく生活水準によって評価される。
666 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 23:05:10
「鰻なんか30年喰ってねえよ」
と日記に書いた本多候
は金持ちじゃないな
667 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 01:00:07
前田は前田でも、関東分家のほうは貧乏で、
本家からの援助で凌いでいたとか。
その代わり、参勤交代の際はいろいろ手伝ったらしい。
ところで、
高家の前田は、なんで「前田」なんだぜ?
668 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 07:49:51
なんでって
それが当り前田からだろ
669 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 08:06:50
田原藩1万石の家老であった画家の渡辺崋山(家禄は100石だが、財政難その他のために実収入は12石程度と言われている)
は日記を残しているが、画業で名を成す以前の若い頃は酷い貧乏だった。
彼の妹も商家に嫁いでいる(地方の裕福な商家だったので、なまじ貧乏侍の家に嫁ぐよりはよっぽど幸せだと思うが)。
大名本人は外聞もあるから、そんなに酷い格好は出来ないが、家臣団は相当な貧乏を余儀なくされていたようである。
大名も、家来達は必要以上に沢山いるから、人的サービスには事欠かなかっただろうけど、藩の外に出て行く金銭的贅沢は極めて限定的だと思われる。
670 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 08:31:16
>>666 当時のウナギはそこまで上等な食材だったとも思えんが。ウナギくらい当時なら
小川にも棲んでいたわけだから、領内に水田がある以上、いくらでも手に入った
だろう。むしろ、部屋住みから藩主になった大名が、行動に制限が入りすぎることを
嘆いていただけじゃないのか。
サンマすら食ったことがなかった殿様が目黒のサンマに感激したって落語もあるだろ。
サンマってそんなに高価だったのか。
>>669 下総古河藩の家老、鷹見泉石の肖像画が有名ですね。
藩主の土井利位とコンビで雪の結晶の研究をしたという。
イメージとしては小藩でも家老とかの上級藩士ならば
たとえ石高が数百石とか数十石でも
それなりに裕福なイメージがあったんだけど
実情は違うのかな・・・
となると下っぱは本当に大変だっただろうな・・・
上級武士扱いの地方大名藩士が100石とかで、幕府のちょっとこましな同心クラスなのは悲しい。
675 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 13:18:06
そもそも渡辺崋山が画業を志したのは内職のためだしね
676 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 17:24:07
>>671 油っこい下魚だから大名の食卓には出なかった
677 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 18:22:01
30俵2人扶持の町方同心と、
よく上級武士と言われる高杉晋作(150石)や桂小五郎(90石)は、
実質的には大差ないのか?
誰かチェックしておくれ
100石の実収入は四公六民で40石≒100俵
2人扶持(一日5合×355日)というのは≒9俵
30俵2人扶持は≒40俵でいいのかな
知行取りや蔵米取りでよくわからんのだが
>2人扶持(一日5合×355日)
1人扶持が一日5合×355日(旧暦)で1石7斗7升5合で4.4俵
680 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 19:39:43
200−300石くらいの旗本がほぼ一律で禄米支給になったときは、
1石あたり1俵で置き換えられた。
まあ大勢に影響ないので
>>677は正解ってことか。
実質的には町方同心の収入は異常なんで大差で町方同心のほうが裕福。
>670
いつごろの話かはわからないけど、少なくとも幕末期には店によっては結構な値段
のようだね。
「江戸城御庭番(深井雅海)」に、任務を終えた御庭番二人が御庭番家筋の長老達
に贈った謝礼が出ている。時期は万延元年(1860)で、その中に
・川村壱岐守 鰻蒲焼一折(田所町和田半、代金三分位)
というのがある。
(一番高額なのは村垣淡路守に贈った「料理折詰(佐久間町中村屋、代金1両2分2朱)。
川村壱岐守がほぼ半額で額も「位」になっているのは、贈元の一人で記録者が川村壱
岐守の息子だから。)
貨幣価値の下落もあるかもしれないけど、一折で3/4両というのはかなりのご馳走で
しょう。
鈴木越後掾の菓子とかもかなりの高額だったらしいね。
このスレにはコミック・乱の愛読者が潜んでいるようじゃな。
685 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 21:36:44
岡藩中川氏って七万石ぽっちなのに何で伯爵になれたの?
686 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 22:06:22
現高5万石以上は伯爵
687 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 23:08:32
対馬の宗家なんか収納高5万も無いだろw
でも何故伯爵?
宗は特別扱い
689 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 23:56:24
伊達なんか表高60万実高100万石と言われていて戊辰戦争で28万石に領地半減した訳だが、それでも実高100万石が正しければ50万石程度あったはず、
にも関わらず伯爵って事は収納高15万石無かった=実高40万石以下って事か?表高20万、実高40万の秋田佐竹は侯爵なんだがね。
それとも実高を28万石にされた=実質7割引処分って事?
>689
基準は、所定の時期の実高の申告値だから、
実際の収納が少なかったという事だろうね。
691 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 01:29:06
明治3年9月10日の太政官布告によって政府費用分担の基準として
各藩に元治元年から明治元年まで5年間の物成(租税収入=現高)の
平均額を提出させ、15万石以上を大藩、5万石以上を中藩、その他
を小藩とした。叙爵に当たっては特別の功労がない限り旧大藩知事を
侯爵、旧中藩知事を伯爵、旧小藩知事を子爵とした。
取調べでは明治3年現在の支配地域の現高平均を提出させたので
維新に際して領地が変更された藩にあっては自身の旧領は関係なく
その地の過去の租税収入の平均額を計算させた。
従って仙台伊達家の場合は維新後に減らされた領地の分だけを申告
したので現高67,740石で中藩とされた。江戸時代の格付けによる
表高は59万5千石、減封後も28万石あったが収入は少なかった。
ちなみに盛岡南部家は江戸時代の表高19万5千石、減封で13万石、
現高は68,580石で同じく伯爵。
宇和島伊達家は江戸時代の表高10万石、現高52,420石で伯爵。
後に維新の功により侯爵に昇った。
実高100万石と言われてたところが終わってみると表高10万石の分家に逆転されたのはそういう事か
693 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 01:57:24
新政府の覚えが悪かったからだろ
694 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 02:00:15
宇和島って仙台の分家なんだ?
長男ではあるんだけどね
696 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 03:02:16
宇和島や秋田は新政府方。
秋田は総督府もあった。
仙台は大藩だけど列藩同盟の一応盟主。
南部は仙台の下っ端にして、総督府秋田と津軽を攻撃。
これが戦後待遇の違い。
697 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 03:14:19
南部は当初、仙台が没収された白石へ3万石で
移動させられる予定だったが、
ロビー活動嘆願により、現在地での減封と罰金刑で済むこととなった。
だがそこは南部クォリティ。
貧乏なので罰金を払えず、結果的に踏み倒し。
挙げ句に「貧乏で経営できない」として新政府に自主的に領地返上。
いわゆる自己破産の会社解散。
これが、全国的な廃藩置県の引き金となった。
南部はその終わり方まで期待を裏切らないwww
つーか、
日常的に飢餓飢饉だった南部領より、
白石三万石のほうが、マトモな暮らしできたんじゃね?と思う。
698 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 08:12:11
さすが新政府軍の軍監をも斬った奥羽越列藩同盟の盟主仙台藩
699 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 10:24:22
28万(米所なんで実高はもっと高いだろうが)で収納7万無いって事は伊達の年貢は安かったんだね。
逆に南部は13万(20万に嵩直しした上での減俸だから実高もたかが知れている)で伊達並の収入、百姓は大変だったんでは?
700 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 12:57:33
大洲藩は六万石で勤皇の家だったのに子爵だ
701 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 17:06:52
>>687 対馬の宗家は朝鮮人参の貿易を独占していたから実質10万石格だった。
702 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 18:32:41
実質格
対馬の格が高かったのは、朝鮮が皇室の故地だから、そことの通商役なので
重視されたと聞いたけど。
704 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 19:07:20
事実十万石格なわけで
705 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 20:00:59
対馬一国1万石に
肥前のうち1万石で
実高は2万石
>>703 そんな歴史は存在しません。
皇室の発祥地は、高天原=葛城地方。
707 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 20:20:04
対馬藩は肥前の田代領がデカかったんだよ
狭い所で米も大して穫れないけど薬屋が集まってて上納金がスゴかった
今はサロンパスしか残ってないけど江戸時代は富山と並ぶ大勢力
708 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 21:42:39
今日の死神幻十郎では悪役で田沼意正と一橋治済が出ていたね。
ところで仙石騒動で遠島になった仙石小太郎はどこの島に流されたの?
709 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 23:03:07
蟹ヶ島
710 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 23:05:45
鬼ヶ島
711 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 23:41:42
仙石小太郎は松平水野の争いの犠牲になり
蟹が島から三宅島、からに八丈島に流罪になる予定だったが
盗賊一味に荷物や路銀を奪われ
八丈島を見ることなく休止した
八丈といえば宇喜多秀家
福島正則の酒の話とか泣けるw
713 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 01:52:36
しばらくしたら、加賀藩引き取るとかできなかったものかね。
714 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 01:57:21
>>700 軍事的に実労してたっけ?
その辺の貢献度が低いんじゃない?
715 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 07:05:06
716 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 12:43:03
717 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 13:45:35
摂津国尼崎の船着き場
巡見視様の宿舎や船宿などがあったらしい
仙石騒動は浜田の密貿易を暴くための
水野一派のでっち上げ
御為方も乗っ取り方も
口封じで消された
719 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 14:22:20
一藩の家老が獄門なんてすごいな
川路はひどいやつだよね
こいつも獄門になればよかったのに逃げやがって
721 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 18:42:03
>>717 尼崎か。
しかしかわいそうだね、小次郎さんも
でも八丈島って食糧難らしいから却って幸せか?
722 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 21:02:01
吉村昭の小説に島抜けってやつがあって、それによると種子島は豊かで楽だったらしい。
御蔵島も豊かだったらしいが三宅・新島はどうだったのかな?
723 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 21:12:21
クサヤを売って大儲け。
724 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 21:39:23
八丈島で50年以上流人生活を送った近藤重蔵と青ヶ島で30年の佐々木卯之助ではどっちがタフかな?
>>724 重蔵の子、富蔵かと
赦免後に帰島した富蔵がタフだと思いたい
というか、佐々木卯之助は初めて知りました
726 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 23:09:09
種子島氏は島津家老で
明治に至り男爵
727 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 23:22:40
種子島は実権のない家老だね
728 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 07:49:41
種子島も幕末に血筋が島津に入れ替わってるんだな
729 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 07:55:16
>>725 食料や物資を八丈島からの輸送に頼ってる青ヶ島は相当貧しいぞ。
よくあんなところで生き延びたと思う
730 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 10:49:45
仙石左京の祖は本来、藩主嫡男の血筋だよ。
ただ、盲目だった為に捨て扶持を与えられて家督を嗣げなかった。
731 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 10:53:20
連投ですが、対立する仙石主計は左京家から更に別れた血筋だね。
732 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 11:12:44
731:仙石造酒の間違えでした。
734 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 13:49:42
>>732 仙石主計は造酒の子だから意味がとおり、OK。
735 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 14:37:29
なんか千石造酒と言うと
造り酒屋の老舗か
酔うほど強くなる酔剣の達人みたいだ
736 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 17:44:58
殿中では将軍、御三家、御三卿以外は座布団を敷くことができなかった
御用部屋の老中の席は畳表の下に綿を詰めたクッション畳になっていたが
上等な畳とはいえその他の諸大名はさぞ窮屈だったろうと思われる
もしかして勅使にも座布団が出なかったのだろうか 坊主に聞いてみたい
737 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 18:14:10
勅使は朝廷の代表で天皇の名代なんだから、将軍本人どころかその一族より
格下に置かれるなんてありえないだろ。
座布団ないと足が痺れていかんねw
豊臣時代や江戸初期に比べたら、中期以降は儀礼にうるさすぎる感じがするね
一国一城を統べる大名に対し、やれ手順を間違えただの、口上を間違えただのと細かすぎ
逆に言うと、そういう重箱の隅をつつくぐらいしか
することがない・・・
740 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 19:12:00
>>737 秀忠や家光が上洛したとき、将軍は天皇と対等の席次。
その後、幕末の家茂の代に朝幕の力関係が逆転するまで、
勅使は下座で将軍が上座だった。
741 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 20:11:38
大名なら家来、勅使なら客。
客に座布団くらい出さなければ主人の恥だろう。
742 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 21:51:26
>>740 征夷大将軍は天皇から任命されるものだから対等はあり得ないだろ。
徳川将軍の官位は正二位くらいだから関白などよりも下のはずだし。
744 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 22:31:23
>742
前、他所に書いたののコピーだが、
>「幕末の宮廷」によると、秀忠が天皇と対面したときは、関白や諸公卿たちよりも上座で、
>「天子様と御同間で天子と向かい同士にした。全く太上天皇のお取扱い」となっています。
将軍や関白は、ある意味で官位序列の例外だから、どちらが上になるかというのは「力関係
による」としかいえないと思う。
少なくとも足利義満以降は将軍が摂関を下においていた時期が長く、幕末までは盛り返せ
ていない。(義持など、関白に裾を取らせて公家たちを呆然とさせているし。)
>>745 そうなの? 次の和歌からはそんな雰囲気が感じ取れないもんで。
くれたけの 万代までと ちぎるかな 仰ぐにあかぬ 君が御幸を 秀忠
御幸する 我大きみは 千代ふべき 千尋の竹の ためしとぞ思ふ 家光
もろこしの 鳥もすむべき 呉竹の すぐなる世こそ かぎりしられね 後水尾
748 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 00:07:42
徳川将軍と天皇の関係は、官位の授与がどうとかいったタテマエだけ見てたら、
その本質を見失う。
749 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 09:40:25
2人は義兄弟で家光が一応義兄だから席次や待遇の構成要素。
750 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 12:31:51
確かに将軍と天皇の関係は位階だけの問題ではないね。
徳川将軍はおそらく足利義満と同じ上皇に準ずる扱いを受けていただろう
751 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 21:29:45
浅野吉長はカカア天下で側室を持てなかったってどんだけヘタレだよ。
将軍の娘ならいざ知らず前田の娘だよ
752 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 21:45:20
嫁が北条政子みたいに愛人の家を叩き壊すようなキャラクターだったんじゃないのか
753 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 21:53:46
二代将軍ですら側室を置かなかったんだから、鬼嫁恐るべし。
やっぱ正室はおとなしい公家の娘が一番ということか。
754 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 06:56:28
てか浅野吉長の正室は、吉長なが側室つくろうとしたら自害したんだろ?
ヒステリーかな
将軍は食事を各膳から数箸づつぐらいしか食べなかったというけど
(なんで?量が足りなくてお腹すくのでは?)
大名もそんな感じだったのですか?
食欲が旺盛だったり好き嫌いの激しい殿さまとかいなかったんでしょうか?
お酒好きな殿さまとかはお酒の肴に好きな料理とか何か食べたりしてたの?
756 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 10:29:44
>>755 大名の食い気が日本の歴史の流れを変えたエピソード
http://oumi-usi.co.jp/modules/information0/index.php?id=19 >愚仏庵主の『牛肉通』によれば、近江の国は、昔から大津牛と称され、牛の発達したところであった。
>彦根藩主の井伊家では、毎年、赤斑牛の肉の鞍下を、毛がついたまま味噌漬にして、将軍家と水戸・
>尾張・紀州の御三家へ、薬用として献上していたのだった。ところが、幕末になって、時の大老、彦根
>藩主の井伊直弼は、もともと熱心な仏教崇拝者であったので、屠牛を嫌い、養生肉の献上を怠っていた。
>ことのほか、牛肉の好きな水戸烈公の斉昭は、殿中において、直弼に献上を催促したところ、直弼は、
>「それがしは、殺生は大嫌いでござる」と、すげなく、養生肉の献上を断ったのである。
>そのことがあってから、 斉昭は、直弼を憎み、彼の政策に、ことごとく反発するようになった。と記している。
757 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 15:49:25
>>755 去年「篤姫」で解説してたけど、将軍家や御台所が数箸おかずに手をつけたら、次のおかず(焼き魚なら同じ焼き魚)に取り替えられたそうだよ。
数箸手をつけたおかずは侍女のおかずとして下げ渡されたそうだ。
基本的に大名は出された物に好き嫌いいっちゃだめ。
”最後の殿様”として知られた浅野長勲がお殿様のきゅーくつな食生活について
孫たちにいろいろ話していて、
『公家・将軍・大名』とか『女聞き書き 徳川慶喜残照』などでその様子はうかがえる。
>>757が説明してくれたような「将軍様のおかわり」のようなことは浅野クラスの大大名ですら
やってなかったみたい。
759 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 16:34:32
戦後すぐくらいに、皇族か元皇族かの屋敷の近くに住んでいた政治家だか財界人だかが、
そのやんごとない人の家からおすそ分けだと言って料理を持ってきたので受け取ったら、
鯛の尾頭付きか何かの食い残しだったという話があるな。
時代によっても違うと思うけどね。
江戸初期の頃には格式ばった習慣なんて無かっただろうし
吉宗がそんな間の抜けた食生活を送ってたとは思えない。
毛利秀元の持ってきた弁当の鮭の珍しさに諸侯がお裾分けしてもらったという話もあるね
1切れの鮭を大名衆がちょっとずつ分け合ってる姿を想像するとなんだか微笑ましいw
762 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 19:57:06
三日月藩森の持ってきた
蛙を皆がお裾分けしてもらったという話はないのか
>>761 この毛利秀元の弁当の鮭の話は,たまに見かけるけど,実話なのだろうか?
殿中詰席での飲食は×で,基本,茶もでない。
で,弁当は御坊主部屋へ行って食べるのだが,大名が一同に詰席を離れて良いはずもなく(登城,出仕中)。
だとすると,この話のように大名が会食するような場面はないと思うのだが。
>>763 出典は雨窓閑話で御伽衆の夜食と明記してある
詰席ではないかと
765 :
ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2009/04/14(火) 22:42:23
尾張はおかわりするときは自分でごはんよそってたらしい
766 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 06:01:49
尾張の当主といえば、義直が柳生家の新陰流の正統を継いじゃったらしいけど、
この人そんなに強かったのか?
767 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 08:51:30
秀元は意外と智勇兼備の武将なのに、空弁当・吉川の内通のせいでイメージ損してるなw
輝元ではなく秀元が当主だったら、果たしてどうなったことやら・・・
769 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 13:45:46
関ヶ原では長束・暗黒寺の使者から
「ずいぶんと時間のかかる
弁当でござるな
ヽ(*`Д´)ノ 」と皮肉られ
江戸城では
「ずいぶんと金のかかる弁当でござるな」
>>769 暗黒寺ワラタw
たしかに恵瓊にはあまり良いイメージないかも
771 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 21:44:52
結局大名たちは詰席で何をしていたの?
年令もバラバラの諸侯達は話題にも困ったろう
772 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 22:08:48
>>770 なんか文脈がというか流れがというか読み込みが変だと思う
773 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 23:06:06
武陽陰士の文学板でのあだ名は「芋姉ちゃん」です。
>>771 小川恭一先生の本によれば,殿中ではしくじりをしないように,大名は大変だったらしですよ。
座る畳の位置を間違えるだけで,不調法差控の伺いを出したりしなければいけなかったみたいで・・・
登城していた大名旗本衆は,儀式の手順,想定問答のアンチョコを読んだりしていたそうです。
まあ今でも,千代田の御殿に正式に昇れば,作法の手順に神経を使わなければいけないので,同じですね。
江戸城に登城って大名は江戸にいる間は毎日しないといけないの?
776 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 09:32:32
大名にならなくてよかった
777 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 11:52:13
幕府の役職に就いている大名や、
式日や御礼登城の日以外に、一定の登城日が定められている溜間詰大名、雁之間詰大名(詰衆)、菊之間詰大名(詰衆並)以外の大名は、
正月や五節句、八朔等の式日と、毎月朔日、十五日、晦日前後の毎月三回の御礼登城をすれば済んだのではないかな?
…少なくとも、一般の大名が毎日登城しなくてはならない事は無いと思う。
各藩の主権者を集めてただ座らせておくだけなんだから
幕府ってのは変な体制だよな
779 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 13:57:27
外様大名も城番や普請に散々駆り出してる。
780 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/04/16(木) 14:42:10
海鼠が目立つな。将軍はゲテモノ好きか。
781 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 14:53:58
>>778 ある意味、今の小選挙区制の衆議院議員に似ていると思う。
782 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 17:52:09
今の議員様のほうが気楽だよなw
国会で漫画読んでても居眠りしてても何も言われないし。
大名が殿中で居眠りしようもんなら、最悪下手すりゃ改易だってありうる。
784 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 19:35:13
俺は大名になりたくないな
785 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 19:43:46
普通の大名は長袴だろうけど、老中や側用人も長袴?
それとも半袴?
786 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 19:46:47
半ズボン
知識がとくにない俺からすると江戸城内ではなんも役職についてない大名は
そばの大名とあたりさわりない世間話ぐらいしかすることがないイメージなので
実際どうやって時間をつぶしていたのか気になるね
おそらくだけど登城して数十分ぐらいで勝手に帰ったりしたらダメなんでしょ?
居眠りもできないとなるとすることもなしにずっと座っているだけだったら結構きついと思う。
柳営はある意味儀礼主義の極致だよなぁ・・・現代の官僚も顔負けw
素直にしたがった大名も大名だけどwその点前田利常はさすがだな。
789 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 21:03:11
以前読んだ本に、老中の勤務時間が基本10時〜14時とあった。
大名の登城下城も似たような時間じゃないのかな?
弁当時間1時間として、3時間くらいなら我慢できるんじゃない。
城内も門から控えの間まで、想像を超えた広さだろう。
移動時間とか考慮して正味2時間30分くらいが拘束時間だったんじゃないのかと想像する。
大名も公家と同じ道を辿ったんだよね。
戦乱が収まり戦を忘れた大名が貴族化し,儀式が仕事になってゆくんだよな。
公家が,政から離れて貴族化して学問や儀式が仕事になったように。
791 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 22:00:23
>>787 親族でない他の大名とあまり懇意になると幕府からあらぬ疑いを掛けられかねない。
同席の大名が数名よって、下屋敷で昼食会など宴席を設けるときなどは、懇意の
旗本(御先手役など)も同席させるなど、相当な気使いがあったらしい。
792 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 22:12:18
江戸城は大企業みたいなものか
いろんな課があって社員がそれぞれのフロアにいて
廊下で吉良さんを見つけたからちょっと打ち合せしようかみたいな
定例の登城日には大手門付近はさぞや、行列の見物客と藩主の下城を待つ
藩士であふれてたんだろう。
屋敷が遠い外様大名などは、一旦引き上げることもできないし。
>783
大名の場合、部下に対しては「殿様」なのにお城では「一介の下っ端」という
ギャップがある分だけ大変かもしれないね。
下っ端じゃあないだろ
>>794 ところで大名が登城する時は何人位の藩士が同行したんかな?これも家格によって決められてたんだろうか?
桜田門外の変の時には井伊家は15〜20人位だったと聞いたような記憶があるんだが。曖昧ですまん。
一万石につき一人
するってぇと一万石の小名はお供がたった一人かぃ
>>798 えっ、じゃあ1万石の小大名は1人しか同行してないの?警護としては不安だなぁ。
駕籠担ぐ人はともかく、それじゃあ行列にならんね。
1万石につき1人なら旗本はお供無し?
外出するための供がない
高家も?じゃあ赤穂浪士は吉良邸に討入りするより、移動中を狙う方が楽だったのでは…
と思ってしまう素人な俺。
公務の妨害しちゃあ感情最悪だろ
藩邸(上屋敷)から下馬所・下乗所までは50-100名程度の藩士の供奉があったろうが
それ以降は、15名弱(藩士、草履取、挟箱持、駕籠者、傘持など)となり、まさに
殿中に入ると、ひとりぼっち
だから、懇意の表坊主が必要となってくる。
806 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 14:54:10
直江山城が江戸城で伊達政宗に挨拶しなかった話があるけど
家老は殿様と別の部屋にいたの?
用や話があれば殿様の控えの部屋に行けたんだろうか
毛利秀元の弁当の鮭の例からもわかるように、江戸初期は形式がまったく定まっていないから、
よくわからんね。
808 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 16:24:16
直江ぐらいの大身なら上杉家老でも大名待遇ではないのか?
豊臣時代は身分が固定していない
>>806 その二人めっちゃ仲悪いよなw
直江がよく政宗をばこばかにしてたけどw
エピソードいっぱいあっておもしろすww
810 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 20:17:06
直江、あんまり友達にはなりたくない。
伊達と上杉は仲が悪いですよアピールしといた方が、
幕府が安心するってのはないの?
妙にちゃんとオチのある話ばっかつーか、かみ合った口げんかっつーか。
ほんとーに仲が悪いってのは、もっと話のベクトル自体がすれ違う気がする。
812 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 23:06:46
上杉・相馬は東北のお目付け役福島藩板倉家と姻戚関係を結んだが伊達は結んでない
眼中に無かったんだろうな
813 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 23:15:04
軍配の話はおもしろいね。
嘘か実話かは知らんけど。
家紋の時点から仇敵ですから。
直江兼続の場合は、江戸初期だしかなり特殊なケースなので、席次云々の
話の参考にはならんだろうね。嫡子の妻は譜代の戸田氏の出だし。
直江と言うと、安藤直次や土井利勝などを呼び捨てで呼んでいたという
逸話があったりするけど、ちょっと信じ難いよね。
816 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 05:20:25
>>794 物売りが出て非常に賑やかだったらしい
小競り合いもあって中間小者の喧嘩もよくあったとか
彼らは真剣ではなく木刀を差していたが『幕末百話』によると
真剣以外の刀を木刀と呼んだようで「真鍮の木刀」で斬り合って
大怪我をすることもあった
817 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 09:58:59
おいっ!帯刀
酒と肴もってこいや
818 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 16:54:32
正室の子なのに国元で生まれた嫡子とかいるけど、正室・嫡子は基本江戸住みじゃないの?
次男以降の庶子が嫡子の死亡などで後から嫡子になることだってある
嫡子じゃない時に正室をもらったんでしょ
で、御三卿だが
821 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 19:12:53
>>819 庶子の正妻の子、庶子の嫡子って意味なのか?
納得
822 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 19:25:51
江戸時代は町人のほうが金持ちで豊だったらしい
>>822 そりゃあまりにも今さらw
銭屋五兵衛あたりでも没収された資産は200万両あったらしいから。
大名で200万両なんて借金の額でしか見たことないだろw
>>812 上杉家は会津松平家と姻戚関係結んでるけど、伊達とは結んでないね。
826 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 22:02:42
827 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 17:27:34
スレスト乙
俺の中では江戸期の大豪商と言えば鴻池が真っ先に思い浮かぶ。
幕府は鴻池に言い掛かりを付けて財産没収を画策しなかったんだろうか。財政難の幕府にしたら巨額の臨時収入になる上に、もし幕府が鴻池から借金してたなら踏倒せれて一石二鳥。幕府が鴻池から借金してたかどうかは知らんけど。
大名達に新たな恩が売れたかも。
かなり乱暴な発想だが、細かい事考えてのレスではなく単なる思い付きだが。
>>828 鴻池は山中鹿之助の子孫だからなー、そんなことされたらわし泣いちゃう
なんで?
832 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 15:09:30
有馬頼貴は犬大好きだったらしいね。
綱吉の時代だったらうまがあったろう
井伊直孝はネコ大好き。
834 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 18:41:37
ウズラが好きな老中がいたらしい、卵じゃなくて飼うのが
836 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 21:19:46
鳥類の辞典を作った堀田正敦と鳩好きの徳川斉温は交流があったのだろうか?
837 :
日本@名無史さん:2009/04/21(火) 20:39:03
>>836 学術的な業績を残した堀田様と、ただ藩の財政を悪化させただけの尾張殿。
838 :
日本@名無史さん:2009/04/21(火) 20:41:37
まともに関が原で戦わなかった武将の中で
毛利、島津、上杉は存続を許され
安国寺、長宗部は完全処断。
この違いは?
毛利氏は120万石もあったので削っても結果的に30万石残ったんじゃないの?本戦では動いてないし
きくところによると最初は毛利氏は改易で吉川広家に与えようとしたら広家がそれなら毛利本家に与えてくださいと頼んだみたいだし。
島津氏は義久、義弘がまだ健在で兵は強いといわれているので必死に抵抗されたら面倒なことになると思う。
義久は積極的には派兵してないというしなら無理に潰すよりは・・・っておもったのでは?
その点長曾我部氏はすでに土佐一国しかないので戦国の雄の家とはいえすでに国力が・・・元親ももういないし・・・
あと安国寺恵瓊って西軍の中心人物な気がする。これをな許すわけにはいかなかったんじゃないかな?
私は知識があるわけではないので完全に個人的なイメージなんだけどこんな感じだったのでは?
個人的には小西行長がなぜ斬られたのかもよくわからないんだよね。
あとの2人と違ってそれほど西軍中枢でもない気がするんだけど・・・
宇喜多秀家が流罪ですんでいるのだから。
江戸時代のことのスレだからこのスレ的には関ヶ原の話題はスレ違いかもしれないけどね。
840 :
839:2009/04/21(火) 22:14:35
>>839に関してはむかしこんな感じの話を
昔によんだかきいたかしたことがある気がするので・・・
841 :
日本@名無史さん:2009/04/21(火) 22:57:45
毛利は関ヶ原前は
一族合わせて170万石
豊臣200万石につぐ大勢力
輝元は天下の副将軍
842 :
日本@名無史さん:2009/04/21(火) 23:01:27
土佐は一国とはいえ10万石未満
掛川5万石の山内が加増されて
感謝感激する程度の所領
843 :
日本@名無史さん:2009/04/21(火) 23:21:50
小西は朝鮮の役で三成と並んで尾張派の連中から嫌われてたからな。
おそらく家康もその辺りを計算したんだろう。
846 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 10:52:46
秀吉は百姓の子孫
信長は神主の子孫
家康は乞食坊主の子孫
利家は天神サマの子孫(笑)
こいつら部門とは見なせないね
847 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 11:19:40
八幡太郎の祖先も元皇族である
848 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 12:36:08
武家化した鎌倉御家人の大江氏が武門でないのなら、
ヘボ皇族のなり下がりの足利や武田だって武門じゃねーだろうが。
>>848 っていうか、根からの武門なんているのか?
物部氏がおったらそうなんだろうけど・・・
>>838-839 毛利輝元を西軍に引っ張ってきたのは、まぎれもなくこの安国寺恵瓊だもんねー
三成に近かったという以上の、危険人物だわ。
851 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 16:05:41
先祖に有名な武将が出たら名門武家だよ
852 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 16:30:36
大江広元は武将といえるのかな?
853 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 18:13:58
>>852 そうだよね。
そもそも大江氏は文の名門だろう。先祖は
大江匡衡。そして大学者匡房の孫なんだし。
>>766 義理許しの側面が強かったと思うけど、かなり武芸熱心だったのは確からしい。
これ以降、尾張柳生の道統は柳生家と尾張徳川家が交互に継いでいった。
自流派の保護のための措置だろうね。
毛利には元就がいるじゃないかw
>>853 大江広元が先祖にいたからなんだっつーんだ。
広元の息子である毛利初代季光からして堂々たる武人だろうが。
頭大丈夫か?
武門の名門は、
清和源氏義家流
坂東平氏諸流
藤原秀郷流
嵯峨源氏渡辺氏
つまり武人じゃない
859 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 19:54:09
大江の末裔毛利はそのことを分かっていたから
中国制覇してもそれ以上は考えなかった。
天下を取るには武門の棟梁としての権威が必要
で、御三卿だが
>>859 天下を取るには武門の棟梁としての権威が必要と言うなら,喜連川か平島が天下を取ったはずでは・・・
で,御三卿だが
そんなものは仮冒や養子でどうとでもなる時代だろ
権威だけじゃどうしようもない天皇じゃあるまいし
863 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 20:11:25
武門の棟梁に必須は武力
864 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 20:31:08
本庄松平氏とか出自が卑しい家は他の松平氏からバカにされていたとかあるのかな?
松平自体が----
>本庄松平氏 ってそんなに?
>>864 本庄松平がバカにされるとしたら,出自と言うよりも,蛍大名だからだと思う
で,御三卿だが
で,御三卿だが(笑)
868 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 21:45:21
>>866 本庄松平って初代は桂昌院の弟でしょ
綱吉の蛍だったの?
本庄のほうが越智より石高が高いというのもなんだかなぁ・・・
綱吉は将軍の器じゃないというか、私を公に優先しすぎてる感じがどうも好きになれん
870 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 22:20:26
ヘマして綱吉を激怒させちゃって改易とかいう大名家ってあるの?
赤穂浅野家?
ヘマつーか、ぶち切れたらしいが
>870
喜多見家とかはそうじゃなかったかな?取り立てられてすぐ改易だったと思う。
若年寄に抜擢された山内の分家もね。
874 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 23:03:20
>>870 佐久間勝親は綱吉がキライで仮病使ったらバレて改易。
>>873の山内も同じような理由だろ。
綱吉はよっぽど癖のある人物だったのだろう
柳沢はよく生き残ったな。
>>869-870 ヘマというか、怒りを買って潰された大名は数知れず…
というほどではありませんが、結構います。
領地争いの処理に失敗した加々爪直清、
やはり刃傷沙汰で潰された稲葉正休、
側小姓の命を断って改易された佐久間勝茲、
若年寄辞職を願って怒りを買った山内豊明、
親子二代で罰せられた西郷寿員…
877 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 23:29:49
柳沢はよっぽど綱吉の心に深く食い込めたんだろうね。
だから諸大名も柳沢がいないと困ったと思う。
姦臣扱いされているが実際は周囲から頼られていたんだろう。
大政治家ではないが有能な執事なんだと思う。
綱吉のフリーダムな改易にも苦言を呈したりしてるし、まともな人だよね。
でも自分の子を取り巻きの藤堂家の養子に押し込もうとしてなかったっけ。
880 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 23:42:46
綱吉が浅野切腹を命令した時も、まず評定所の審判を仰ぐべきと
苦言を呈したんだっけ?
881 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 23:56:36
将軍が評定所の審判を仰ぐ?
882 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 01:21:03
>>834 ウズラの飼育は、江戸の、特に武士に流行した趣味。
鳴き声や姿を競っていた。
鶉絵も人気があったのです。
本庄松平氏と増山氏は
知識があまりない俺からすると条件は結構似ている気がするんだが
石高とか松平であるとかないとかの差はなんでだろう?
884 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 09:47:15
当事者の趣味や希望の違いに過ぎないんじゃねーの
885 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 10:08:54
ウズラなんか飼うなよ
メジロ飼えよ
増山家とかは成立時に家臣はどこから集めたんでしょう?
浪人している人たちを集めたのかな?
それとも幕府が与えてくれたのかな?
これに限らず立身出世して大名になった人たちは家臣はどこから・・・
そりゃ元からの家臣も多少いただろうけどそれ以外は
やっぱり親戚筋のすでに大名やってる人とかの
家臣の子供のうち家を継げない部屋住みのひとたちあたりから選んだのかな?
887 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 16:32:19
江戸期は人材は完全に買い手市場だし、上様の覚えめでたき大名にお近づきになろうと
優秀な人材を斡旋する大名は引きもきらなかっただろう。
888 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 01:19:56
>>885 派手さがないところなどが武士にウケたんだよ。
土佐派なんかも鶉絵を描いているよね。
889 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 10:27:03
鶉は茶色いヒヨコみたいだが実は雉の仲間
鳴き声もいいらしい
戦国武将・・・趣味は鷹狩り 江戸時代の武士・・・鶉の品評会
890 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 14:11:37
檜町公園は長州藩毛利家下屋敷の庭園だよね。
新宿御苑は高遠藩内藤家下屋敷の庭園だったらしいが、小藩のくせになんであんな広大な土地を所有できたの?
貧乏御家人も屋敷は大きかったよ
892 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 14:23:37
ウズラはピヨピヨ鳴いて
人の後ついてくるだけだろ
百舌鳥とかの方が強くてカッコイイのに
お大名の好みは変わってるな
893 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 16:06:12
鷹を飼うのが趣味の大名も多いだろ。交代寄合の米良氏は将軍家に
鷹を献上するのが縁で旗本になったくらいだし。
しかし、鷹の餌には犬の肉を使っていたらしいけど、綱吉の時代には
どうしていたんだろう。犬も鷹もおろそかにはできないはずだよな??
894 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 16:11:59
死んだ犬の肉でおΚ
895 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 16:18:59
鷹って死んで冷たくなった肉でも食べるのか?
検索かけたところでは冷凍ものの小鳥を餌にやるそうだから生餌である必要は
ないみたいだけど、冷凍ものである以上は直前に必ず温めるだろうからな。
麻布龍土屋敷
898 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 16:54:12
>>890 内藤清成が家康から拝領した土地の一部だから
>>699 28万石ってのは、奥州分の実高98万石に対する新領地の石高だそうな。
表高62万石(奥州分は60万石)との比較で言えば、わずか18万石にしか相当しない。
石高の大きい郡(栗原・加美郡などいわゆる大崎耕土地域や岩手県南の東西磐井・胆沢郡など)は土浦藩など新政府側についた家の
預け地にされてしまい、新仙台藩は主に宮城・名取・柴田など仙台周辺のさほど石高の大きくない郡だけになっている。
まあそういう意味では表高なら7割引だし、実高ベースで言えば新領地は7割2分引になる。バーゲンセールもびっくりの割引率だw
前スレの時だったかな、喜連川が何故足利を名乗らなかったのか、久留島が何故改姓したのか、等のレスがあったが同じく名乗りについて質問。
鷹司松平家は松平姓貰った後は松平を、幕末からは吉井を名乗ってるが鷹司では都合悪かったのか?
松平はともかく、幕末からの吉井名乗りの時に鷹司に復姓する事は考えなかったんだろうか?
901 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 18:21:21
家光の義弟が公家鷹司の系図を捨てて、武家松平になった時点で公家鷹司とは無関係になったからじゃないのかな
よほどの政治力がない限り武家が公家にはなれないでしょう
>>900 幕末では公家のほうが圧倒的に立場が上なんだから、無理でそ。
鷹司松平家が公家鷹司家の系統である事は皆知ってたんだから、名乗るのは問題無いと思ったんだけどなぁ…。鷹司は公家でないと名乗れないという決まりでもあったのならともかく。
904 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 19:44:27
新政府側につく意図を明確にするため松平姓を捨て、代々関白を務める鷹司を名乗ることは憚られたので吉井にしたんじゃね?
905 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 19:53:27
>>903 公家の頂点である五摂家の姓など近親者でも簡単に名乗れませんよ。
ましてや二百年も前に公家から武家になった(正四位下中将か参議くらい?)の家格に鷹司姓はありえません。
ルール以前のことでしょう。
>>904が総括しました通りです。
従四位下侍従
侍従といえば入江相政
908 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 22:11:44
吉井子爵子孫の上杉知事がテレビにようでるな
専門の金属の発明特許やのうて
武田vs上杉の企画とかで
909 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 22:21:56
鷹司松平長七郎
「俺の名前は引導代わりだ」
鷹司松平の名乗りについてのご返答、皆さん有り難うございます。
そっかぁ、と何となく納得。
911 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 22:40:57
×上杉知事
○上杉知彦
912 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 23:08:40
>>893 恥ずかしいけどマジレスすると、幕府の鷹は全部放した。
913 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 01:48:46
>>892 ウズラはあんなにかわいくても、立派に野生生物。
ちゃんと大自然の野山で自給自足で生きていける。
俺やお前より逞しい。
あと、姿を愛でるのはさておき、
うずらの鳴き声を愛でるのは、中国から渡来した高尚な趣味。
禅文化とも関わりがある。
フクロウ飼ってたけど、
市販のパック豚肉でも普通に食べるよ。
915 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 09:15:31
さぁ休憩はここまで。
三百諸侯に戻ろう。
916 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 13:47:17
>>899 伊達28万石(実高18万石)年貢公収高6万石
ってこと?
上杉14万7千石(実高28万石)年貢公収高5万石
南部13万石(実高20万石)年貢公収高6万石
と比べて
列藩同盟処分が表高だったり
実高だったり統一されてないね
>>916 南部の白石13万石ってのも、内訳がよくわからないんだ。
旧仙台藩領から刈田・伊具・亘理・柴田・宇多が割り当てられたみたいだが、これも表高だと10万石にも満たない。
実際には転封未遂だったので、内高込みの実高で13万石を与えられたのかどこかに飛び地を添えられて表高で13万石とされたのかは
不明であると言うしかない。
ちなみに、打ち出し(新田開発などにより表高より増えてる分)と年貢率が大名領によってピンキリだから同じ10万石の大名でも公収高は
同じにならないんだ。家臣の俸禄が蔵米制に完全に移行しているかどうかとか、領地の一円化率が高い(飛び地が多いと行政効率が悪
い)とか色々要因が多くて。
ちなみに、天領なんかは比較的低率で幕末は実高ベースだと二公八民くらいになっている。
逆に、薩摩とか肥前あたりは高率の課税がされている。
仙台藩の場合は、領内総検地が寛永総検地を最後に、家臣団の反対でできなかったからやはり実高ベースの課税率は低かっただろう。
これは、「地方知行・家中手作」と言って小身の家臣や陪臣も耕作していた(検地を厭うという点で、家臣団と農民の利害が一致する)と
いう実態があったのが理由だ。
918 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 18:42:18
Wikiに、御茶壷道中には御三家も乗物から降りて道を譲ったとあるけど
尾州紀州の大納言が行列に連なる身分の低い者の前に顔を晒して、
道を譲るのはあまり良い気分じゃなかったろうね・・・
○○藩の領地は現在の○○市の○○あたりになります、って説明されると
なんか狭いなぁって子供の頃は感じていたときがあった。
現在の市より狭いんだ、って思うと。
別に文句があるわけじゃないけど
大名のイメージが一国一城の主って感じだったから
現在の市とかにすっぽり入っちゃうとなんかね。
昔は大名って○○国を領有とか○○郡を〜とかのイメージがあったんだよね。
単に私の個人的なイメージの問題なんだがw
ここはお前の日記帳じゃないんだよ
922 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 21:04:42
狭くても一国丸々俺のモノって気持ちいいだろうな。
五島とか宗とか
>>920 摂河泉みたいに石高は高いけど面積はヤケに小さいとか
陸奥の奥地みたいに面積はメチャ広いけど石高はえらく小さいとか
生産高で計るとそんなのもありますし
五島?
925 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 21:51:35
自分の領国内を自由に鷹狩りし、地酒を浴びるように呑み、地女を好きなだけ抱き、うまい特産物をたらふく喰う。
そんな藩主に私はなりたい
926 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 22:03:09
それはむしろヨーロッパの貴族だな。
927 :
植えすぎ越前守:2009/04/26(日) 22:03:57
藩主は領民の為にあるのであって
藩も領民も藩主が私しするものじゃないお
928 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 23:41:56
石高低くても、広大な領地のほうがいいな。
開発の余力があるって事だし、山が多ければ、鉱山の開発もあり得る。
表高15万石、実高100万石とかなら裕福だろうし、家臣にもたくさんの
俸禄を与えられる。
>>928 ただ、天候によって収穫高が全然違ってくるという大事なことを忘れないように。
そうじゃないと、南部のようにちょっと冷害になっただけで一揆が続発する。
930 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 03:46:08
>>928 開発にも幕府の許可と莫大な金がかかるのよ
931 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 07:19:22
南部、浅野、尾張は一揆天国
932 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 07:48:08
南部は特別。
もともと、10万石。分家させて、8万石になるはずなのに、新田開発したとして10万石。幕末に津軽より席順を上にしたいと20万石に・・・。
領民はたまらないよね。
黒石藩主家には一応、津軽の血が残ってたのね。
934 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 14:09:52
鷹司吉井は陣屋を襲った一揆を
許したばかりか言い分を聞いてやった
935 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 14:13:51
水戸も15万石から24万石
さらに35万石に高直し
領民にしてみれば
「何が越後屋光ヱ門だよ
」という気分
儀礼に煩い江戸大名の暮らしはそう良いもんでもないでしょ
今の中流階級の方がよほど幸せになり得る余地が多いと思うけどなー
>>917 それは、全てあなたの思い込みです。
>>918 騙されるな。こいつは多分仙台ネタになると出てくるいつもの嘘つきだ。
もし江戸時代の大名に生まれたならば30代ぐらいでさっさとなんか病弱なんですとか適当に理由つけて
隠居してその後の余生は寿命が尽きるまで楽隠居で送りたい。
家が改易されない限り衣食住や生活費は保証されているだろうし
わずらわしい儀礼やしきたりや藩政などの責任からも解放されるし
当主時代よりは結構自由に動けそうだし贅沢しなければ貧乏でもないだろうし
普通の生活送る分にはこのコースの人生が一番楽しそう。
元大名だったら名士との交友関係も趣味仲間として維持できそうだしね。
まぁあまりせっせといろんな人に会うと幕府にいらん警戒されて目をつけられそうだけど。
940 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 23:04:07
>>936 まあ、人生に何を求めるかの問題だね。
何だかんだ言って江戸時代の大名は、学問にも精出せるし、
仏道や茶道や芸術に凝りたければ、それもできる。
今の中流階級じゃあ、生活して妻子養うのでいっぱいいっぱいでしょ。
あと大名は年取って死ぬまで、女を抱き放題ってのもあるね。
現代はイケメンなら若いころは女抱き放題だが、
結婚して齢とってもそんなことしてたらただのキモいおやじでしょ。
>>938 甘い。
第一に最低でも嫡子が17歳になるまでは隠居できない。
理想は嫡出孫が17歳になるまで現役でいてもらいたい。
そうすれば家がとりあえず安泰になるからね。
隠居すると爺、藩主、嗣子3代の生活費が必要になって藩の財政を圧迫するから
必要もなく勝手に隠居されると周囲が迷惑する。
>>940 1億円以上の金融資産を持つ者(中流上位層?)が百数十万人いるらしいし、
公務員や大企業に勤める中流層の家庭は生活におわれ四苦八苦ということはないでしょ
自由だから選択肢が多すぎるのが悩みだけど、学問・宗教・芸術はやる気次第かも
確かに女関係は現代では無理だよねw
>>900 徳川からの賜姓、松平を捨て地名を名乗るのは武家として普通。
そして真っ先に版籍奉還。ようは工作員的役割。
944 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 01:30:45
外様大藩はいつ頃松平を捨てたの?
毛利は一次長州征伐の時だったな
945 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 12:44:16
推測ですまんが、外様に限らず譜代も松平をポイとしたのは、捨てる大義名分が成り立つ大政奉還後じゃないかな
946 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 13:37:35
久松松平みたいに名字が松平になっちゃったのと、
毛利みたいに名目だけの松平
何か違いはあるの?
譜代で松平貰っていたのは柳沢と大河内、本庄、吉井・・・・結構沢山あるな・・・
久松松平は、桑名藩主家のみが明治以降も松平を称してる。
桑名って高須の過激派の家?
別に高須は過激派じゃないだろw
尾張藩主も出してるんだし・・・
951 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 19:26:37
>>941 幕末薩摩藩て隠居二人、藩主、世子が別々の江戸の屋敷に住んでいたんだろ?
そりゃ金かかるわ
当主がさまざまな理由で次々亡くなって
もう元当主の隠居しか生き残りがいない場合
隠居がもう一回当主やるとかできるの?
それとも後継ぎなしで改易されちゃうの?
953 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:23:29
>>952 津山藩森家がそうじゃなかった?
改易の後、復活したけど
954 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:31:51
西江原藩のち赤穂藩の森家はそうだね。
955 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:44:27
井伊も直興の時危なかった。
何があるか分からないから子供は多く作っておくのが正解って家訓が後の直弼を生むのだ。
>>952 できたりできなかったり、幕府のさじ加減。
改易後、隠居の前藩主に多少封土を付けて家を継がせたり(麻生藩新庄、ちょっと違うけど森、福井松平)
何のペナルティもなく旧藩主が再任することもある。(井伊)
957 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 21:19:07
>>939 松浦静山もお気楽だけの老後じゃなかったよ。
持病の痔疾が辛かったし、年若い侍妾に先立たれたり、
長生きが幸福だけとも限らなかったからね。
>>953-956 ありがとう
なるほど幕府の気分次第か・・・
お気に入りの大名だとOKなんかなw
959 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:17:56
関ヶ原後の上杉は危ないな
四十代半ばで子供なし
家臣はよく平気だったな
景勝自身、謙信の没年(49歳)に近づいてたのにな。
自分の時と違って、明確な後継候補たる養子もなしか。
なんかどっか浮世離れした家なんかね。
961 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:43:54
景勝はそれだけ正室を愛していたのか衆道かどったかだな
刃傷沙汰を起こしてもなお家名存続できたのは信州松本水野氏ぐらい?
963 :
武田信清:2009/04/28(火) 23:23:19
喜平次に一服もって
義弟のわしが次の藩主ずら
964 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:30:08
965 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:40:54
浅野大学は
赤穂藩を一万石でもいいから存続したいとの願いを却下され
自身も3千石から500石に
大減封のうえ泡に飛ばされた
浅野大学は改易前の分家で赤穂藩浅野家としては絶家だし、水野家の場合とは違うのでは?
967 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 00:09:45
あぐり実家の三次浅野も
吉宗のときに断絶
968 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 00:46:12
松平信謹は吉井に改名したあと
上杉信謹にまた復してる
どうせなら鷹司にすればよかったね。
970 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 02:05:01
家名は存続してるが?
>>961 武田の菊姫はわりと早く逝去されたのでは?
定勝を側室が産んで発狂死したという記述を見た気もするが・・・・
973 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 07:31:55
毛利の四支藩みたく
上杉も支藩作っときゃよかった
福島7万石と伊達5万石
本多政重や畠山義真あたりを封じとけば
寛文削封は回避できた
でもって毛利同様に幕府に談判して
米沢本藩を51万石に高直しする
その代わり毛利は支藩が公然と萩宗家に反抗して大変なことになってたけどね
分家の秀元の方が萩の秀就よりも幕閣に強いコネがあるんだからお手上げだw
支藩・分家と書くと、分家じゃなくて末家だと指摘が入りそうだから併記しておこう
毛利に関しては、分家(末家)は諸刃の刃で微妙な存在かもね
大人しく従ってるうちはいいけど、独立騒動や公然と逆らわれると手に負えないw
鍋島みたいに統制できれば良いけど。鍋島ですらいろいろと分家との騒動あるか・・・
976 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 10:49:29
そうだな。
徳川御三家なんぞは、その最たる例ではなかろうか。
977 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 11:51:50
おまいらどんなネクタイ締めて出勤してる?
978 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 12:35:52
三つ葉葵に決まってろうがw
979 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 16:17:15
自衛官なので官給品のネクタイ締めてます
支藩の石高は本藩に含まれているの?
例えば本藩30万石で5万石の支藩があったら
実質本藩は25万石なのか
それとも別のもので本藩支藩を合計すると35万石になる感じなのかどっちですか?
981 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 17:51:01
鍋島も毛利も支藩の石高は
本藩の石高に含む
尾張徳川も犬山藩の石高を含む
前田や南部や伊達は分家ができたら
本藩の石高はその分減る(ただし盛岡も宇和島もいつのまにか
元の10万石に戻してしまった)
982 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 18:05:18
鍋島領内は三支藩の他に
タコとイカの竜造寺領もあった
外様大藩は,支藩の統制に気を使ったようですが(名張藤堂の独立騒動も根は同じか)。
譜代でも,同姓の大名家や旗本家が複数ありますね。
松平,酒井,本多,柳沢等複数の大名・旗本がある家では,本家・分家の関係はどうだったのでしょうか?
質問の意味が分からんが学生だからネクタイなんて滅多にしないな
安いのを2本持ってるがwあと礼服用のもあるか
985 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 19:25:36
礼服といえば烏帽子大紋
直垂:従四位下侍従以上
狩衣:四品
大紋:諸大夫
布衣:布衣役
素襖:旗本・御家人
合ってる?
987 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 19:48:40
やはり紫の直垂(袴は切り放)が一番?
988 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 20:20:03 BE:154140274-PLT(16000)
989 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 21:20:55
990 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 22:37:56
含まないと思います。黒田52万石は分知して43万石になったって、教えられましたので、僕もそう教えてます。
991 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 22:46:26
黒田の分家大名って秋月、直方、三池?
992 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 22:48:05
狩衣は老中と高家だけだったかな?
儀礼の色々な仕事があるから動きにくい長袴の直垂は不都合なんだろう。
993 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 22:53:15
そういう問題じゃなくて有職古実的に狩衣が上だからでしょ
994 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 23:04:45
>>991 秋月&東蓮寺(直方)です。
三池は筑後
梅
996 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 23:10:12
誰か982のナイツはなわ
にツッコんでくれや
せっかくヤホーで調べたんやから
997 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 23:14:40
竜宮か!
998 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 23:16:20
多久と諫早な
999 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 23:41:46
レナ
1000 :
1:2009/04/29(水) 23:45:54 BE:99090263-PLT(16000)
1000
1001 :
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