■豊臣秀頼は大野治長と淀殿の子供■

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566日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:40:06
>>565
両親で考えると
明らかに淀>三の丸だと思う

父親だけだと三の丸>淀だが
567日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:44:41
淀さんって子が授かるように神仏に願掛けしてたみたいだから
自分が嫡子を産めば豊臣家での権威が上がり、
浅井の縁者を助ける事にもなると考えてはいたろうね

でもなぁ秀吉が秀頼を溺愛してたのは、
自分の子であると確信してたからだと思うんだよね
もし他の種でも良いって思うなら淀の方と他の男の子供より
秀次の方がよっぽど血縁的には濃くなるわけで、あんな虐殺をしなくても良かったんじゃないか
568日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:54:16
三の丸殿は秀頼誕生後に側室になったような
569日本@名無史さん:2010/06/09(水) 00:59:51
>>567
実子なら、当然のように強大な権力と莫大な資産を相続できるわけで、
認知が安易に通るようなルーズな体制とは考えにくいということもあるし。
570日本@名無史さん:2010/06/09(水) 06:43:10
>>565
ちょっと待って。
>>564のレスは「後継者を得るためにあえて淀に他人の子を生ませた」
という説を受けての問いだよ。
一旦秀次に関白を譲ってから淀に身ごもらせて、
赤の他人の子のために実の甥を妻妾もろとも虐殺したのか?ってこと。

淀懐妊の知らせを聞いた秀吉がねねにあてた手紙を見ると
「かすかな希望にすがりたい」というようなものは感じられないなあ。
571日本@名無史さん:2010/06/09(水) 07:43:54
>>569
奥の管理が厳重な事は、
秀頼が実子だという確信を支える根拠になっただろうね

572日本@名無史さん:2010/06/09(水) 19:46:56
>>559
私は「本当に侍女送り込んでたかは知らないが」と断りを入れてるんだが・・・
そこまで史料で確認できないし。
秀吉が小田原に淀殿と松の丸殿を呼ぶ際、複数の武将を派遣して順繰りに警備させてるし、
名護屋へは淀殿を連れての出陣で「途中で安芸の宮島・厳島を参詣する
観光旅行でもあった」(小和田哲男著『豊臣秀次』)そうだから別にわざわざ
北政所が侍女を送り込む必要はなかったんでないの、これらの場合は。

密通は侍女をグルにしたら分からないと言うけど
じゃあ、淀殿の場合、鶴松も不義の子と言うことになるよね。
少なくとも2回(じゃすまないはずだが)侍女と共謀して男と密会をし秀吉や北政所や周囲を生涯だまし通したの?
>>562のような事件を起こす秀吉のもとで?
573日本@名無史さん:2010/06/09(水) 21:12:26
淀殿を抱いた武将って結構いそうだな。秀吉死後に。
574日本@名無史さん:2010/06/09(水) 23:47:22
鶴松逝去〜秀頼出産までの淀の方の豊臣家での立場って
どんなもんだったんだろね

嫡子御袋様から一転、その他大勢って感じだったのか
それとも一定の権威を保っていたのか
浅井縁者を大切にした淀の方だから、もし権威を失ったとしたら辛かったろう

その辺大坂に限らずこの当時の奥ってどんな感じかな
575日本@名無史さん:2010/06/09(水) 23:49:37
あ、でも秀頼生まれた時は秀次がいたから
そんなに脚光を浴びる存在でも無いか
576日本@名無史さん:2010/06/10(木) 16:59:38
577日本@名無史さん:2010/06/12(土) 13:20:44
大野修理はかなりのイケメンで茶道をたしなみ、
庭の造園に熱心に取り組んだり色事を好む人物だったようなので良く言えば粋な趣味人、悪く言えば遊び人だったんだろう

淀殿は女だてらに城を持ち、女性を多数召し抱えたり(寡婦の保護らしい)養源院を建てたり、
浅井や織田の縁者を助けたりと
やりたい事は割とやった人なので
そんな2人が乳兄妹とはいえ親密にしてたら
さぞ目立って噂を立てられたのは
分かるような気がするな
578日本@名無史さん:2010/06/12(土) 18:05:20
けっこう激しそうだな
579日本@名無史さん:2010/06/12(土) 21:26:55
>>572
部下には規律を守らせるために厳しい処分をした秀吉だって
愛妾には優しいだろ。

淀殿の配下には近江時代から慕う部下や武将達が多くいた。
そんなもんいちいち北政所の侍女の監視のもとでしか会えなかったりするかよ。
何しろ尾張派近江派で秀吉存命中から対立があり
北政所に聞かれてはいけないような話もしてただろうし。
それにこの時代の女性は表へもいけたからね。
厳重に鍵で管理された牢獄生活で
秀吉以外の男との対面は一切許されなかったわけでもなし。
580日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:47:28

高台院と淀殿って一緒に藤の花見をしたり、淀殿の一周忌法要に参列したりと
関係は悪くなさそうだ
高台院も淀殿が豊臣によく尽くしてくれたと評価してたからじゃないかなぁ

実際の淀殿に近い人より、離れた立場の人が
面白おかしく噂を立ててただけでは
581日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:59:25
テレビや小説ではいまだに北政所・淀殿の確執とか
関が原は女の代理戦争とかやってるから真に受ける人が多いんだよ。
『大奥』人気からわかるように世間は「女の対立」ってのが大好きだからね。
582日本@名無史さん:2010/06/13(日) 02:06:13
日本人は馬鹿だからね
583日本@名無史さん:2010/06/13(日) 03:50:18
>>581
じゃあなんで豊臣は2派に分かれ戦ったんだよ。
何でねねは三成を支持しなかったんだよ?
何でねねは淀が大嫌いな、家康に近ずいたんだよ?

>>582
馬鹿は妄想で満ちてるお前の脳みそ
584日本@名無史さん:2010/06/13(日) 03:56:12
>>581
ねねは秀忠の将軍就任のとき秀頼に出席をうながす仲介者として
大阪城に出向いたのに淀に拒絶されたんだぞ。

正室のねねの面子を潰すようなことをして
仲が良かったとか言うのはありえないから。
585日本@名無史さん:2010/06/13(日) 04:33:16
>>583
淀が家康を嫌ってた根拠は?
586日本@名無史さん:2010/06/13(日) 08:25:02
>>577
実際に秀吉の死後、大野治長との密通の「噂」はあったのは確かなんだよね。
(『看羊録』『萩藩閥閲録』)
ただスルーされがちなんだけど、ほぼ同時期に家康、前田利長との再婚の「噂」があったこと、
さらにその数ヶ月前に家康暗殺未遂事件があって治長が実行者の一人として流罪にされたこと、
(ちなみに治長の母・大蔵卿局が連座して蟄居になったがのちに北政所のとりなしで淀のもとに復帰している)
これらを考えると>>580さんが言うように世間が面白おかしく無責任に尾ひれをつけたんじゃないかとも思う。
若い未亡人というのはとかく好奇の眼で見られやすいし・・・。
当の治長も最期まで他の武将から排斥されてないし、家臣からも裏切られていない。
すくなくとも治長との密通はなかったと見ていいんじゃないかなあ。

>>579
その淀殿を慕う近江方の武将とやらは具体的に誰?
587日本@名無史さん:2010/06/13(日) 08:32:07
看羊録によると大野の子を妊娠していたから家康を拒絶したそうな。
家康は怒って大野を殺そうとした→追放
前田利長との再婚の噂と合わさると((((;゜Д゜)))ガクガクブルブル
588日本@名無史さん:2010/06/13(日) 08:32:58
あ。書き忘れたので補足。
北政所のとりなしは淀の嘆願によるもの。
治長に対してはとくに行動はおこしてないみたい。
589日本@名無史さん:2010/06/13(日) 08:42:53
>>587
看羊録の記述は家康怒って追放→殺害じゃなかったけな。
ま、どっちにしろ噂だが。史実と食い違ってるし。
590日本@名無史さん:2010/06/13(日) 12:10:58
浅井三姉妹間はもちろんだけど
それぞれ女同士が連携してるのは素敵だね
大坂の陣あと、悪しように言われた淀殿(と大野)って
別にそんな悪いひとでもないのだろうね
591日本@名無史さん:2010/06/13(日) 20:27:50
>>583
三成の三女はねねの養女
ねねの甥の木下利房は三成の西軍についているし
養女の豪姫の夫も宇喜多秀家も西軍
側近の東殿は西軍の大谷吉継の母
三成を嫌っているどころか西軍寄りっぽいんだが・・・
592日本@名無史さん:2010/06/13(日) 20:48:02
子供の仲良しごっこじゃあるまいし普通にどっちとも仲良くしてたでしょ。
三成ら文官?は大坂に所領が近いからよく会ってただけかもよ。
前田のまつや宇喜多秀家は個人的にも仲良かったみたいだけど。
593日本@名無史さん:2010/06/13(日) 21:07:29
一言多いって言われない?
594日本@名無史さん:2010/06/14(月) 23:58:01
>>591
対立を表向き鎮めるために意図的にやったことでしょう。
養子養女なら北政所の意図どおりに動いたなんてはずもない。
この時代の政略結婚なんて、いまにも戦争しそうなところが和睦のしるしにするんだよ。
政略結婚した家同士は仲良し同士なんてことないでしょう?
父兄が夫を攻めただの夫が実家を攻めただの普通に会ったんだから。
養子、養女でも同じ。
秀吉は徳川家康の次男を養子にしてたけど、
豊臣家と徳川家が仲良すぎて養子にしてたんじゃなくて全く逆だから。
595日本@名無史さん:2010/06/14(月) 23:59:14
>>591
対立を表向き鎮めるために意図的にやったことでしょう。
養子養女なら北政所の意図どおりに動いたなんてはずもない。
この時代の政略結婚なんて、いまにも戦争しそうなところが和睦のしるしにするんだよ。
政略結婚した家同士は仲良し同士なんてことないでしょう?
父兄が夫を攻めただの夫が実家を攻めただの普通に会ったんだから。
養子、養女でも同じ。
秀吉は徳川家康の次男を養子にしてたけど、
豊臣家と徳川家が仲良すぎて養子にしてたんじゃなくて全く逆だから。
596日本@名無史さん:2010/06/15(火) 01:36:34
治長ではなく、道犬だと思う
597日本@名無史さん:2010/06/16(水) 00:39:23
尾張派近江派の対立なんてフィクションでしょ。

淀殿は浅井の姫さま。
石田三成の出自は京極系。
大谷吉継の出自は六角系。
598日本@名無史さん:2010/06/16(水) 00:49:35
>>597
正直、分からないんだよな

石田は京極だから浅井を恨むのか?
はたまた、京極を滅ぼすわけではなく保護した浅井にもありがたみ(?)を感じているのか?

龍子と淀は仲が良かったという説がかなり言われているから
京極を介して関ヶ原の頃まで恨んでいることは、ないんじゃないかと思うけどね


実際、何も感じていなかった可能性だってあるし
単に自分の出身地の姫(当時、京極領は浅井領だったから)ってことで京極浅井関係なく
敬っていたかもしれないし
石田が淀をどう思っていたかに関しては本当に分からない
599日本@名無史さん:2010/06/16(水) 10:52:26
石田や大谷が淀殿をうらんでいたとは思わないけれど
豊臣の武将が近江派尾張派で対立していて
近江派が淀殿をかついでいたなんて話はマユツバでしょ。
秀吉の世継ぎを生んでくれた御母堂さまということ以上の思い入れを
石田や大谷が淀殿に持っていたかとなると何の根拠もない。

そもそもねねや淀殿が積極的に関ヶ原合戦に加担したというのも怪しいけれどね。
上の方でも指摘されているように
西軍の中心メンバーはみんなねねに近かった連中だし。
600日本@名無史さん:2010/06/20(日) 17:58:52
>>599
淀やねねが積極的に合戦に参加はしなかっただろう。
特に淀は、最後まで秀頼出陣を拒んだらしいから、
戦には特に消極的だったと思う。
最初から最後まで徳川家康に踊らされたのだろう。
この後、家康は征夷大将軍になる。

しかし、武官派と文官派の争いがあったのは事実だ。
東軍派の者も三成憎しで家康に組した。
しかし、ねねが西軍派と親しかったとも思わない。
東軍に組した加藤清正や福島正則は秀吉の血縁者で、
ねねとも古くから親戚づきあいがあったとみられる武将だからだ。
家康も、これらの武将たちの反感を買わないようにねねに多額の投資をした。
ねねが最晩年に住んだ高台寺の規模の大きさとその豪華絢爛さをみれば
家康が東軍武将の心を失わないためにいかに秀吉未亡人にみついだかが分かる。
ねねもこれらの家康の好意を快く受け入れている。
里の浅野家と徳川家の婚姻を積極的に受け入れ、
もはや自分が徳川家に庇護されていることを世間に一切隠しもしていない。
西軍方の武将たちが悲惨な最期を遂げているのに、
ねねが西軍よりだったりしたらこれほどの厚遇はありえないだろうから。
601日本@名無史さん:2010/06/20(日) 18:16:24
ねねは家康の愛人で秀吉には昔から恨みがあったから家康の豊臣根絶やしに積極的に協力したんだろう
家康も秀吉大嫌いだから利害の一致もある
秀吉ほどどの大名にも嫌われていた人物は他にはいないど思う
602日本@名無史さん:2010/06/23(水) 03:26:03
>>597
たたき上げの武闘派と官僚派、という分け方なら何も不審はないじゃない。
603日本@名無史さん:2010/06/23(水) 21:07:06
武闘派と官僚派なら
疑問の余地はないけれどね。

むりやり高台院と淀殿の対立へにこじつけようとするから
出身地が同じだから
石田も大谷も淀殿シンパでアンチねね
みたいな超解釈になるんだ。
604日本@名無史さん:2010/06/23(水) 22:19:54
淀と高台院の対立は普通にあったでしょ


家康に手厚く保護される高台院と
家康に殺される淀+秀頼

側室の京極竜子あたりが国松の遺骸を引き取っているのに比べ
豊臣家の正室がなんとも冷たいこと

高台寺に自分と秀吉の木像を並べて自分が死んだら葬るように言い
今もねねは秀吉の木像とともに高台寺霊屋眠っている
豊臣家は自分と秀吉のものであって
側室や側室の産んだ子のものではないという執念だ
605日本@名無史さん:2010/06/27(日) 02:48:05
秀頼と淀殿が自刃、「山里丸」の遺構見つかる
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100626-00000581-yom-soci
606日本@名無史さん:2010/07/18(日) 21:13:55
こんなのみつけた


406 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/07/01 02:29
名前なんだったか忘れたが、愛知県の郷土史家が地元の言い伝えを集めた本の中に
利家と秀吉は夜中に入れ替わってスワッピングしたってのがあったなあ(藁
まつもおねも気がついたんだけど、騒ぎたてるのも恥だってんで、そのまま
続けたとか。
あの頃は江戸時代ほど貞節とか道徳にうるさくなくて、夜這いや不倫も
あたり前だったし、田舎じゃ旅人に自分の妻や娘を抱かすって風習がある
地方もあったぐらいだから、そういうことがあってもおかしくはないが
羨ましい・・・ノリピーと松嶋ナナ子犯れるなんて!
607日本@名無史さん:2010/07/19(月) 08:07:53
>>606
8年も前のコピペ元にマジレスするのもなんだが
武士階級の嫁入り婚と一般庶民の婿入り婚を混同しているような
つか、あちこちの淀・お江関連のスレで変なコピペしまくってる人?

>>604 遅レスだが
そういうのを歴史の結果からの憶測って言うんだよ。
茶々が仇の秀吉の側室になったのは行く行くは豊臣家を滅ぼすためとかいう論法と同じ。
だいたい後継者が側室の子だから認めなかったなんて北政所を馬鹿にしすぎだよ。
608日本@名無史さん:2010/07/20(火) 07:08:25
>>596
大野道犬(道犬斎)治胤は若い頃は京の商人の家に養子に行ったりで
淀殿とはあまり接点がないし、そもそも密通相手として聞いたことがないが・・・。
もしかして司馬の『城塞』に出てくる治長の従兄弟とかいう道犬老人のこと?
だとしたらそれ多分司馬の創作じゃないかな。
609日本@名無史さん:2010/07/21(水) 20:34:24
関西(あくまでも、名古屋〜三重〜奈良〜京都〜大阪〜兵庫までを示す。岡山はセーフ。和歌山はアウト、残念!)

自己顕示欲が強すぎて嫌い!
あのイントネーションが大嫌い!
関ヶ原の戦いで負けたんだから、
東京弁で話してほしい
(・ω・)
関西は犯罪と貧乏な地域だから、日本から
きり離してほしい。
唯一、日本の汚点。言わばゴミ。
関西人は書き込まないでほしい!
関西人からパソコンを取り上げてほしい!!
もはや生きる価値無し!
とりかく関西は犯罪者の巣窟。
(゜Д゜;;)
オソロシイ

610日本@名無史さん:2010/07/23(金) 05:02:27
淀殿の貝がぁぁ
611日本@名無史さん:2010/07/23(金) 05:50:53
まあ、秀吉は「戦国のあしながおじさん」だからな。
側室いっぱいかかえたのも、姫たちを扶養するためだし。

秀吉、何気にいいヤツだよな。
612日本@名無史さん:2010/07/23(金) 23:26:18
>>611
ホストに貢ぐオバチャンもなにげにいい人なのか?
613日本@名無史さん:2010/07/24(土) 00:05:34
淀殿は騎乗位が好きだったらしい
614日本@名無史さん:2010/09/01(水) 10:31:09
ねねが家康と懇意になったのは戦国時代の天下は強き者の回り物をちゃんと解ってたからだろ。
下手に対立して滅ぼされるより従順にしとけば少録でも親族衆別格大名として豊臣家は生き残れる
615日本@名無史さん
ま、半島出兵みたいな馬鹿をやった時点で、利用して得しようという手合いを除いて、
ねねさんのみならず、豊臣は先がないと愛想を尽かしてるわな。