1 :
日本@名無史さん:
※九州王朝はあったか?※の復活です。
九州王朝を肯定する人も否定する人も、立場の違いを超えて、思う存分語りましょう。
九州王朝に関心がある人は、おおいに語りましょう。
九州王朝に関心のない人や、九州王朝に関りの無い主張は、書き込まないでね。
2 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 12:08:20
※ 九州王朝はなかったのか? ※ 14 スレが終ってから使いましょう。
3 :
日本@名無史さん:2009/01/10(土) 14:33:27
あげ
4 :
新スレにいらっしゃいませ:2009/01/13(火) 14:44:18
※ 九州王朝はなかったのか? ※ 14 は終わりました
5 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 18:27:24
九州王朝はなかったのか?「なかった!」以上、最終結論が出たので
このスレは完全に終了しました。
6 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 18:49:47
無かったのは畿内王朝の誤りでした。以下復活。
7 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 19:00:52
>>5 ない、証拠を挙げてくれ
そうしないとみんな納得しないと思う
8 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 20:37:55
九州王朝が壬申の乱で畿内王権を樹立する以前に、
畿内には王朝の定義に当てはまる国体がなかったね。
9 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 20:41:02
>>7 九州王朝がなかった証拠。
1、北九州には地面に穴を掘って住んでる土蜘蛛がいた。
2、南九州には人食い人種の熊襲がいた。
3、九州には都と呼べる大規模な都市が存在しない。
4、九州年号と称するものは生臭坊主が考えた私年号である。
5、九州には大規模な古墳が存在しない。
6、九州には年号鏡・年号刀が存在しない。
7、九州には製鉄コンビナート・玉造り工房が存在しない。
8、九州には倭文(しどり)と呼ばれる国産の絹織物が存在しない。
9、魏志倭人伝の距離を考えると邪馬台国は九州に存在しない。
10、九州には卑弥呼・台与と特定できる人物は存在しない。
11、物資補給を考えると東遷説は成り立たない。民族大移動の証拠は皆無。
12、古墳時代の皇后に九州出身者は存在しない。
結論として九州王朝説を語る人は、アホ・馬鹿・間抜け・愚か者である。
10 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 20:52:36
漢籍に見る絹と鉄器は北部九州が日本一。木器の畿内は後進地帯。
壬申の乱で九州王朝の天武が畿内を再度征服して畿内国家は滅亡。
11 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 21:07:49
>>10 ( ´д )ヒソ(´д`)ヒソ( д` )やだー変態の妄想・妄言よ〜。
12 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 21:14:34
13 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 22:18:53
でもさ、稲作が始まったのは、九州が先だよね
これは疑いようがないよね
まず、この話題から、話し合おう。
14 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 22:19:25
15 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/13(火) 22:21:51
>>9 ほとんどが〜
結論を早めたオマエの盲象。とりわけ卑弥呼がいないなら畿内に
いたと言うんだろうが、そうなると天皇と卑弥呼のベッタリ盲象の
ウッウッ〜〜ン!wwwwww 歓喜天〜〜〜www〜〜〜
の畿内接着二王朝並立を黙認したことになる。2w2w2w2ww
16 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 22:29:34
>>9同意
九州にあったのはせいぜいムラ。国家と呼べる代物ではなかった。
17 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 22:31:26
畿内にあったのは、サヌカイトか木器しかない土人村。ひどい未開地でした。
18 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/13(火) 22:43:45
卑弥呼の女王国は九州にあったのだ。彼女が九州王朝の始祖的人物
だな。女王国は国家だよ。
倭人伝の女王国以外にも伊都国とか不彌国とかわんさと国名が
あったわけで、当時の九州はうんと国家があったと言ってよい。
その中で頭角を顕したのが卑弥呼の統治であり、それが盛衰を幾度
もくぐりぬけて年号を持つ国ができる時代に至って行った。つまり
九州王朝なのであ〜る。私年号は奴の説の矛盾、間違いを蓋するため
の妄説。それよりも歓喜天盲象だな。wwwwwwww
大陸に王朝があり半島に王朝があり畿内に皇朝があるのに、九州のみ
王朝がないなどとは盲象の集合だな。古代中国は他国に分立して
おり、古代半島も他国に分立しておるわけで、古代日本のみが一国
統治などとは盲象→酔象の考え方だねぇ。wwwwwwww
古代日本も多国があって然りである。実際倭人伝には女王国以外多国
が存在した記載がある。当たり前だな。
19 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:02:20
>>18 ( ´д )ヒソ(´д`)ヒソ( д` )やだーまた変態の妄想・妄言よ〜。
20 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:23:21
19は、畿内土人
21 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:24:30
九州王朝はあった!占いでわかる。みんな占いは好きだよね。
学問とかじゃないんだよ。感覚というかフィーリングというか・・・ とにかく九州王朝はあったのが正解だよ
ここは畿内人と九州人との合戦場なのかね?
23 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:28:50
いいや、纏向でメシ食ってるだけの似非学者と、真実を追究してる一般人との戦いです。
ここは纏向でメシ食ってるだけのプロ畿内人と、真実を追究してるプロ九州人との合戦場なのだね。
25 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:40:24
畿内とか関係ないね。九州なんだよ。日本の中心は 九州王朝こそが日本だー!
26 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:45:33
九州王朝がなかった証拠は出ているのに九州王朝があった証拠は出ていない。
王朝の定義は?
将門は、王朝を築いたと言っていいと思う。
そう言った意味では、筑紫の君の磐井は、九州王朝。
なんか違う?なんか違う?
こりゃ又お呼びでなかった。
28 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 09:40:41
≪6世紀7世紀の考古学的証拠≫
九州王朝があった証拠は出ているのに
九州王朝がなかった証拠は出ていない。
畿内朝廷があった証拠は出ていないのに
畿内朝廷がなかった証拠は出ている。
29 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 14:03:55
「ない証明は存在しない」ことを知らないまま
「なかった証拠」を大言壮語する馬鹿=
>>26に失笑しました。
30 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 16:22:58
>>18 朝鮮半島でも馬韓、辰韓、弁韓の邑落国家の連合国時代で
百済や新羅等の地域的統一国家もまだ成立していない頃
日本だけが統一国家であったとはかんがえられない。
日本が朝鮮半島より進んで統一国家であったなら
当時の記録も豊富に残っているはずだかそれも無い。
卑弥呼は日本は未統一だったのは確実。
31 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 16:36:40
高句麗好太王碑に、半島の南半分が倭に占領されてる様子が出てるだろ。
金石文を無視して、妄想を語るなよ。
32 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 19:31:05
日本が統一国家になったのは10世紀。(津軽を除く)
7世紀の日本はまだまだ連合国家
その中で最大の国家が九州王朝
7世紀の初頭では、その九州王朝の直接支配地は九州だけ(随書俀國傳)
しかし5世紀の九州倭の最大支配地は、九州だけでなく、既に半島中部まで及んでいた
(その九州倭が6世紀に九州王朝となった)
33 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 21:13:02
金印さえ太宰府から出れば・・・
金印が畿内からも出れば決定的だけれど、
畑の中に埋まっていた金印を警察に届ける関西人がいるかどうか…w
35 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/14(水) 21:30:42
太宰府からは金印は出ません。
36 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 22:19:10
金印よりは、卑弥呼時代の中国錦・倭錦の出土量・出土分布を見れば一目瞭然。
37 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 22:54:50
宇佐氏
宗像氏
阿蘇氏
これらは、末裔ですか?
38 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/14(水) 22:55:13
太宰府が都であったのは、最長でも618年〜698年の71年間。
唐が倭に金印を出すことはありえない。
39 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/15(木) 00:32:26
>>37 兄王系か弟王系かは別にして、
宗像氏は末裔ですね。
宇佐氏と阿蘇氏については知りません。調べていません。
古田氏が末裔について言っていましたね。伊氏とか?
筑紫:菊池王朝、吉備:児島王朝、倭:三輪王朝、丹波:出石王朝
河内王朝とか言うレベルで九州王朝とか言っているのであれば、
社会科学に対してセンスなさ過ぎ。
41 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 02:10:17
極東の筆頭国で、連続した政体をもち、代々為政者の継承がなされ、
連続した元号を制定し、税制や官僚体制が確立している九州の国だから
九州王朝と呼んでいるんだけど、7世紀までの古代日本には
九州以外に王朝などないでしょ。
民主・輿石氏、日教組にエール? 「教育の政治的中立ありえぬ」
民主党の輿石東参院議員会長は14日、おひざ元の日本教職員組合(日教組)が都内で開いた新春の会合であいさつし、
「教育の政治的中立はありえない」と述べ、「反日偏向教育」の根源ともいわれる日教組へのエールと受け取れる発言をした。
教育や教員の政治的中立は教育基本法や教育公務員特例法で定められており、日教組に肩入れする同党の“危うさ”がまたぞろ浮き彫りになった。
輿石氏は日教組傘下の山梨県教組(山教組)の元委員長。現在は日教組の政治団体、日本民主教育政治連盟(日政連)の会長でもあり、
会合では「私も日教組とともに戦っていく。永遠に日教組の組合員であるという自負を持っている」と宣言し、政権交代に向け協力を求める場面もあった。
平成16年の参院選の前には、山教組などで構成する事実上の輿石氏の政治団体が教員から選挙資金を集め、
山教組幹部らが政治資金規正法違反(虚偽記載)の罪で罰金命令を受けるなどした。自民党の有志議員による
日教組問題究明議員連盟(会長・森山真弓元文相)は、次期衆院選に向け日教組の偏向性を調査する構えで、議連から「輿石氏は標的になる」との声も出ている。
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090114/stt0901142151011-n1.htm
43 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 14:52:35
>>38 「漢委奴国王」印は建武中元二年(57年)、「親魏倭王」印は正治元年(240年)、
以後、王印は受けていない。
漢から魏、晋へと禅譲されてきた最後の王朝の陳が589年に滅亡し
隋書とは対等外交で冊封は受けていない、
「親魏倭王」印の有効期限は精一杯589年までだな。
44 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 20:06:02
>>38 最初の金印から、200年!!も時間が経っているのか・・・
結構な時間だよね、200年
45 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 21:33:15
建武中元二年(57年)に「漢委奴国王」印を貰って次の「親魏倭王」印を正治元年(240年)に貰うまでの
183年間 は「漢委奴国王」印が倭の国印だったことになる。
「漢委奴国王」印が不要になったのは次の「親魏倭王」印を貰った正治元年(240年)。
「漢委奴国王」印が博多の近くで見つかっているから邪馬台国も博多の近くにあったと考えられる。
46 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 21:44:18
邪馬臺はどう考えても「やまと」と読むだろ・・・。
47 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 21:52:02
「漢委奴国王」は、「漢伊都国王」でしょうね
それを183年間使ってきたけど・・・滅んだんで、
新たにもらいにいったんでしょうね
48 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:02:06
220年に漢から魏に王朝が変わってますから遅れ馳せながら正治元年(240年)に
次の印貰ったんでしょうね。
永初元年(107年)の倭国王の帥升は倭国王なのに王印を貰ってないから、
「漢委奴国王」印を引き継いで持っていたんでしょうね。
49 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:13:58
>>47 残念ながら、どう頑張っても
「奴」は「ト」とは読めないよ。
50 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:31:42
つまり、九州の部落国家は大和朝廷に撃破されて博多湾の志賀島で滅んだわけだね。
51 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:54:47
つまり、九州王朝の天武天皇が畿内の土人を平定して、日本を建国しました。
52 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 23:34:06
53 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/16(金) 19:40:17
>>47 「伊都國」は、「倭(イ)の都だった国」とシナ人が意味付けして名づけたなんてどうだろう。
『世有王 皆統屬女王國』と伊都國王は今は実権を失った旧体制の倭王に思える。
『王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王』と
伊都國で外交交易の実務をおこなっていたのは、伊都國には過去に倭王としてその豊富な経験があったからと思える。
女王は、一大率を使って伊都國を常に伊都國を治めながら、伊都國の外交交易の実務能力を活用していたのだ。
このスレは危険だな。古田病の脳内が多い。「東日流外三郡誌」はいつ出てくるんだろう。
日本史板から犯罪者が出なければよいのだが・・・。
55 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 22:13:04
スレ違いだな。外三郡誌が見たけれりゃもう出てるから、さっさと見て来いよ。
十三湊(とさみなと)は世界の貿易港。
邪馬台国は、延喜まで、渤海との交易で繁栄していました。
そして、その中心は、十和田湖畔。
外三郡誌は偽書だけれど、当時、津軽地方に日本最大の
文明が栄えていたことは事実です。
57 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 22:40:46
伊都国は、相当に重要な国であると認識しています。
58 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 23:04:07
3世紀の発音は漢音ではあり得ないわけで
呉音読みするのが妥当だと思うが
それだと奴はドではなくヌ
都はトではなくツになる
イヌ国にせよイツ国にせよ直ちに糸島と結びつけるのは危険
59 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 23:06:17
「伊都國」は伊の都。
漢字の伊の意味は霊能力を持った聖人。
霊能力を持った聖人の伊とは卑弥呼のこと。
「伊都國」とは卑弥呼の都。
イヌ国は、栃木県の犬飼郡が比定地。
都の字がつく国はもう一つあったと思うが、あれも都か?
鬼国というのもあったな。あれはオニだらけの国か?
労災隠しこわい労災隠しこわい隠ぺい口封じ殺される隠ぺい口封じ殺される隠ぺい口封じ殺されるパワハラこわいパワハラこわいパワハラこわい殺される殺される殺される殺される死にたい死にたい死にたい死にたい死にたいごめんねごめんねごめんねごめんね死にたい
九州王朝はもちろん存在した。倭王武とは、古武彦命(ふるたけひのみこと)といい、ヤマイチ
国から続く九州王国の長であった。そしてその末裔は、古文書のねつ造問題にかかわり祖先
の偉業を穢した。
64 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 09:16:46
つまり、九州の部落国家の国王はアホの古田武彦だったわけだね。
古田氏は、倭武(ヤマトタケル)と神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレヒコノスメラミコト)
の生まれ変わりでございます。
>>63 >倭王武とは、古武彦命(ふるたけひのみこと)といい
バロスwwwwwww
貴方と(もう、こう呼ばせてほしい。)はじめて会ったのは、石塔山だった。貴方はいつもの
くせで、あぐらを組み、斜めにわたしを見上げるようにしながら、言った。
「絶対に---裏切るなよ。」 あれから十余年、今日まで、わたしは一回も貴方を裏切らなかった。」
古田武彦{和田喜八郎氏に捧ぐ」より・・・・キモ過ぎる文章例
68 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 13:09:14
>>61 都の字がつく国はもう一つあったと思うが、あれも都か?
実際に訪れた伊都国と違い「其餘旁國遠絶 不可得詳」の国の中に都支國や好古都國はありますから
単に発音に漢字を当てただけでしょう。
>鬼国というのもあったな。あれはオニだらけの国か?
あるはずが無いでしょう。
しかしこのスレは、スレ立て人の思ったとおりに進んでるな。よいことだ。
よき・こと・きく
71 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 14:09:38
纏向信者が爆弾いっぱい落としてるな。
九州王朝説に追われて、もう学者としてメシを食っていけなくなってるんだろう。
72 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 14:27:41
八幡神の「ヤハタ」とは、ヤハ・タであり、これはカラ(韓=半島南部)の異称である。
ヤハとは柔す(ヤハス)のことであり、「柔らかくする」「おとなしくさせる」「平定する」の意味。
タとは処(ト)の意味であり、「土地」「場所」「領地」「国」の意味だ。
つまり、ヤハタ=ミマナである。
ヤハタ神は任那全土の鎮守神だったのだ。しかし、新羅(ケリン)や高句麗との戦争が
長引くにつれて、やがて、任那を守る守護神、軍神として信仰されるようになった。
任那滅亡後、北九州に移住した任那人たちが、八幡神信仰を北九州に持ち込み、
九州人の間でも信仰されるようになったのである。
ちなみに「韓神」(カラ神)とは、この八幡神の別名である。
ヤハタ神のことを、八幡神と呼ぶ帰化人グループと、韓神と呼ぶ帰化人グループが
いたのだろう。
あえて古田氏の功績をあげるとすれば、多元的歴史観、権威主義の否定等であろうが
(中略)氏の自説に疑義を呈する者に対する、徹底的かつ狡猾な証明要求は、結局は氏の
交友範囲を狭め、学会の信頼を得るところとならなかった。(中略)氏が真伝として自説に採
用した「東日流外三郡誌」は、オウム真理教教祖がTV番組で激賞し、その日本の皇統が唯
一絶対でないとする史観に触発され、地下鉄サリン事件等の無差別殺傷事件を引き起こした
のは有名な事実である。
75 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 17:05:26
纏向至上主義より、はるかにマシなわけだが
76 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 17:18:01
>>72 >つまり、ヤハタ=ミマナである。
柔した領土という意味ですか。なるほど、たしかにそうかもしれません。
カラは大和朝廷が柔した土地ですからね。
八幡神を信仰していた任那人が北九州に移住し、移住後も八幡神信仰を続けていた・・。
これは説得力あります。
>特に氏がかかわった不正として大きな疑義が持たれているのが、いわゆる「宝剣額偽造事件」である。
これについてはあらゆる学術調査により、ねつ造であるという結論が出ているものの古代史という特殊
な世界ゆえに詐欺事件等に発展しなかったのは、氏にとって幸いとするところであった。
三枝充当著「ここに偽作王朝ありき」P247
78 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 20:59:50
纏向の遺跡や箸墓の年代を、無理やり偽装して古く古く判定し、
何が何でも邪馬台国は畿内だと捏造したい学者連中のほうが、罪深いと思うぞ
「小便だよ、一ヶ月もおいた小便を使って紙を古く見せるんだ。」この言葉を聞いて、私は
全身からサッと血の気が引いていくのがわかった。もう後もどりはできない。
三枝充当著「ここに偽作王朝ありき」P17
80 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 21:10:44
橿原考古学研究所が、古代史偽装の巣窟になっているという、
前近代的な風土が、考古学を駄目にしている。
纏向教という宗教に成り下がった日本の考古学を改め、
いい加減、マトモな学問にならないとヤバイんじゃないのか?
81 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 21:27:26
僕は金印の出た、「志賀海神社」が鍵を握っているのでは?と思ってます。
君が代も残ってますし。
ワタツミ3神
安曇氏が代々祭祀をつかさどってますし(1500年以上!!)
でも、宗像神社のように交通安全のご利益はあまり浸透してないように
感じてます。
>>78 邪馬台国が何所にあったか等という事は、古代史の本題ではない。
本題でない事を、色々面白可笑しく伝えて、
自分を売り込み、糊口を凌ぐのが、今の考古学者のあり方ではないのか?
83 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 21:41:55
本題ではない邪馬台国の比定地問題を、邪馬台国は纏向だという呼び込みで
学者が国民にアピールしているのは、まさに問題じゃないのか?
昨年(引用者注2007年)氏による「東日流外三郡誌」の寛政原本発見の報を聞いても、
もはや私には何の感慨もなかった。むしろ「ついにくるものがきた」というあきらめの気持ち
が強かった。かつて古田史学にあこがれ、同じ志を持って研究にあたろうと心を燃え上がら
せた境地からは、あまりに遠いところに来てしまっていた。一人の老古代史家をここまで
狂わせる、歴史とは、そして九州王朝とは・・・。私は発表会にいかなかった。案の定、発表
されたそれは、「和田喜八郎の祖父である末吉による写本」とまったく同一の筆跡であったという。
三枝充当著「ここに偽作王朝ありき」P411
85 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:30:43
最近思っていて論証する力を俺は持たないのだが、神武の東征事跡は別の人物によるものでないかということ。カムヤマトノイワレビコ命が、西から東に移住した説話と東征説話が一体化していて、東征征服自体も近畿への東征と別の戦記が一体化しているのではないだろうか。
86 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:36:28
神武東征説話〔他王朝による畿内王朝侵略説話+(他王朝による他地域侵略説話+神武移住もしくは神武戦闘参加説話)〕
88 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:40:44
89 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:43:05
親鸞研究だけをしていればよかったものを
出来心で芸域を広げようとしたばっかりに
本業が先細りと見て多角化経営に走ったばっかりに
年甲斐もなく年已長大無夫婿の女に手を出したばっかりに
晩節を汚してしまったんですね。某氏。
91 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:53:44
神武自信は九州から出たことないんじゃないかと思ってしまう。神武東征説話は、九州内統一戦のひとつじゃないかと。
92 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:54:49
また誤植か。自信は自身。
93 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 23:00:44
橿原考古学研究所は、未だに纏向=邪馬台国信仰の布教活動で、
馬鹿を増産してるから、90みたいな脳の溶けた奴まで出てくる。
95 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 23:36:40
「あなた方は、三国志をすべて読み尽くしたんですか。」「三国志のどの部分にそれが書か
れているのか。」氏の対抗者への反論は、時に高圧的に、時に恫喝的に、常に声高にセン
セーショナルであった。「原文をみだりに改変してはならない。」多くのものの心をつかんだ
氏の言葉が今はむなしい。「東日流外三郡誌」という、触れてはならないパンドラの箱に手を
かけたとき、悲劇の幕が上がりはじめた。
三枝充当著「ここに偽作王朝ありき」P159
自身番の前は書庫番だったから、しょこしょこの本は全て精読してます。
98 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 00:40:44
発掘するものまで偽装しちゃったのが、日本の考古学。
橿原考古学研究所は、邪馬台国を纏向に偽装しても問題にならないのはダメだな。
まあ、古田がいるから暴走を止められているわけだが。
和田氏が亡くなった。古代史会の一代のトリック・スターともいえる同氏の、ひとりぼっちの
孤独な死であった。氏は「和田喜八郎氏に捧ぐ」という文章の中でこのように書いている。
「貴方と(もう、こう呼ばせてほしい。)はじめて会ったのは、石塔山だった。貴方はいつも
のくせで、あぐらを組み、斜めにわたしを見上げるようにしながら、言った。 「絶対に---
裏切るなよ。」 と。あれから十余年、今日まで、わたしは一回も貴方を裏切らなかった。」
これを見ても、氏の後半生のすべてが、和田氏によって取り込まれていたといっても過言
ではないだろう。まるで魔力だった。
三枝充当著「ここに偽作王朝ありき」P372
100 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 15:32:48
いまどきトリック・スターという語を使っている、時代感覚のなさ。
これが、纏向至上主義を良く露呈していて笑えます。
だ・か・ら、九州王朝は倭国。
卑弥呼は九州王朝祭王家出身。
何らかの事情で畿内に招かれて建国されたのが、邪馬台国(邪馬壹国)。
卑弥呼死後の後継者時代に何らかの巨大な陰謀があり、大和朝廷が邪馬台国を乗っ取った。
これが真相なんだってば。
102 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 16:46:13
つまり、九州王朝説は下痢便の音くらいの価値だったわけだね。
103 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 16:48:30
畿内が九州王朝の分国とするには、木器しかないような野蛮国すぎるな。
アメリカに白人が移住したときも、銃は持っていったからな。
104 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 16:49:36
まあ畿内は、未開人がウハウハ土いじりしてただけだろ。
上で 三枝充当著「ここに偽作王朝ありき」という嘘の本を書いてる者だが、九州王朝の
ちゃんとした議論はいつ始まるんだ??今のままでは文句もつけられん。
106 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 22:04:46
九州王朝がなかったとすれば古代史が説明できない以上、もう証明するだけ無駄だろ。
いやいや、あることを証明するのは簡単。確実な実例を一つあげればよい。
「アメリカ大統領は宇宙人と密約がある」のような馬鹿げたことでも、絶対ないと証明する
のは不可能に近い。ぜひ、困難に挑戦したい。
108 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 22:49:43
いやだから、証明が終わってるんだよ。
証明されたことに気づかないか無視してる奴がいるだけ。
ぜひ九州王朝について話してくれ。ハフハフ。話してくらないと突っ込みようがない。
ハフハフ。ただ古田とまったく同じだってんならいい。読んだから。
110 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/19(月) 01:04:05
>>109 >ぜひ九州王朝について話してくれ。ハフハフ。話してくらないと突っ込みようがない。
>ハフハフ。ただ古田とまったく同じだってんならいい。
九州王朝について古田説と大きく異なるところを2つ書く。
@ 薩夜麻、多利思北孤と磐井は九州王朝の弟王である。
A 女王国と俀國の都は久留米にあった。
111 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 16:20:10
>>109 古田説のどこが気に食わないのか、自分から切り出さないでどうする?
112 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 17:31:43
纏向至上主義がどうの、と言ってる人間を見て思うのは、
ものみの塔ではカトリックを「サタンの勢力」と教えている、
と言う事である。
倭の5王の説明のつかなさ
大化の改新の訳のわからなさは
九州王朝以外できちんと説明した人いないだろ
>>110 どおちて「邪馬壹国」ってゆわないの??出世作なのに??
115 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 20:09:59
>>114 どおちて三行中に「邪馬壹国」の語を入れなきゃいけないの??たった三行なのに??
>>110 この人はよいことをいうね、目のつけ所が違う。歴史の天才だな。「魏志倭人伝」に出てくる
壹与が朝貢した「異文雑錦」って、実は「久留米絣」のことなんだよな。ま、「絣」は木綿だけど。
イヨタン・・・・・・・・・・
118 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 21:59:32
九州王朝では、
土に根を下ろし
風と共に生きよう
種と共に冬を越し
鳥と共に春を歌おうと言われていました。
120 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 00:13:36
>>120 何この人、どこにでも同じもの貼って。象印とかの人??
122 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 21:26:56
出雲王朝はあったよね
>>121 ルール、マナーとか、節度とか一切無視する人間のクズ
124 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 22:19:27
かまうと図に乗るから、放置がベスト
出雲は安曇、日本全土に広がる海洋民族。
会津、伊豆、宇治、泉、和泉等の漢字を当てている場合も同族の可能性が高い。
古田説の、全部を 何から何まで肯定しないけど、
倭の五王は、天皇家とはまた別の家系と考えたほうが解りやすいよね。
万世1系が崩れると、都合の悪い人が多いので、学会で認められないのでは?
と思う。
127 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 14:03:43
>>126 別に倭の五王が九州の王でなくとも
それだけでは万世一系の否定にはならないよ。
九州の王は九州の王、天皇は天皇で万世一系、
で済まされるから。
ま、現実は
万世一系=×
倭の五王=畿内の王
だけどね。
>>127 僕は、九州に王朝があったかどうかは知らんが
倭の五王=天皇家 ではないと思う。
129 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 20:28:57
五王=天皇家=九州王朝の為政者≠畿内天皇家
130 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 20:36:32
つまり、大和朝廷が正しい日本の歴史で九州王朝説は怪奇小説だったわけだね。
131 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 21:05:04
畿内の土人を九州王朝が支配して大和朝廷を作ったわけだね。
万世一系というものには
どんな価値があるのだろう
私などは天皇家が一系でなくてもちっとも構わないのですが
天皇家が万世一系でなくてはならないと考える人の
その理由が聞きたいものです
>>132 神は自分に似せて人を作った。
全ての人類の祖先は、アフリカで生まれたミトコンドリア アダムとイブといわれているけれど、
実は、アダムのほうは複数いて、それがニグロイド、コーカソイド、モンゴロイドといった人種の
違いになったのではないかと考えられている。実は、人種はもっと多種多様にわたるのです。
初めてアフリカを出て人類初の文明をもたらしたのは古モンゴロイドで、その中で一番神に似て
いるのが天孫族。その直系の子孫こそが人類の直接の祖先と考えていい。
だから天皇は直系の男子でなければならないのです。
ご理解いただけたでしょうか?
>>133 要するに宗教で実在しない神様を信じるようなものですね
それで事実ではない万世一系も信じてしまえると
俺は畿内説だが、万世一系を言ってる学者なんてほとんどないぞ。少なくとも仲哀、雄略後
はきわめて怪しい。「仲哀ー中に挟まれてあわれ」 ほどの意味。これらの漢風諡号は奈良時代
淡海三船が一括してつけたものだが、何か事情を知っている節がある。
>>135 >仲哀ー中に挟まれてあわれ
wwwww
まあ、ふつうに見たら万世一系は幻ですわね
137は邪道に墜ちているな。そのうち天照大神の神威に、ひれ伏すことになるだろう。
>>135 つけ足し 継体、持統というのはどちらも「国体を受け継ぐ」という意味。中国には「継体持統」
という四字熟語がある。持統帝については、「壬申の乱」のことを言っているのだろうが、継体に
ついては単に「磐井の乱」を指しているだけとは思えない。武烈ー継体間は皇統の断絶があっ
ただろうことは、定説といってもよい。
継体帝は応神帝の五世の子孫で地方豪族。大和入りするまで何十年もかかっている。
当時の大和朝廷内に、天皇家の血筋をひくものが一人もいないとはとうてい考えられなく、
継体をわざわざ近江から呼ぶ理由が不明である。また「三国史記」には天皇(継体)及び太子、
皇子が同時に死んだとの記載があり、継体ー欽明もきわめて怪しいものがある。
このスレは変なやつの出入りが多いな。畿内説の俺がやってるんだから、九州王朝の人も
どんどん自説を語ってくれよ。
どこが変なんだよ。陰口ばっかり。人間のクズ。
>>139
141 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:18:47
>>139 継体は、九州王朝の元号=継体時代の人だから、継体天皇
142 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:22:29
なんか本居宣長が邪馬台国は九州だと主張していると聞きました
これは力強い応援団ですね
143 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 01:24:33
偶然に結論だけ同じだとしても、論理の道筋が違う。
本居宣長は九州王朝説ではない。
144 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 09:29:42
本居宣長は、邪馬台国は九州のどこだと主張されてるいるのですか?
145 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 16:19:52
>>144 彼は熊襲偽僭説だよ。
それを発展させたのが鶴峰戌伸。
鶴峰の説は
「九州には大和朝廷とは別の独立した王朝があった」
「それは独自に年号を持っていた」
「卑弥呼も倭の五王もそこの王」
と、九州王朝説の骨子が揃ってる。
146 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 19:08:05
本居宣長
大和朝廷より格下の九州国があるとしただけで、
九州王朝の存在も、畿内の格上の九州国も認めていないから、
九州王朝説とは真っ向から対立する説ですが何か?
本居宣長こそ上に出てた、万世一系、尊皇思想のかたまりだからしかたあるまい。
本居宣長より、平田篤胤のほうが歴史学者としては上です。
149 :
日本@名無史さん:2009/01/24(土) 19:07:54
>>148 どういうことでしょうか?
詳しくお願いします
150 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 11:50:15
道州制で、「九州州」が実現しそうです
これは1300年の月日を越えて、「九州王朝の復活」を意味しますね
151 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 12:58:54
畿内を配下に置いた九州王朝とは、異質だと思うが
畿内は畿内、九州は九州、吉備は吉備、出雲は出雲、東国は東国
それぞれ王朝があったと見た方が自然じゃないですか?
153 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 13:42:59
王朝の定義を低くすればそのとおりだが、
しっかりした王位継承があり、連続した統治機構を持ち、連続した元号の制定をし、
税制を定めているような国家体制を王朝と呼ぶとすれば、8世紀以前には
九州だけに王朝があったといってよい。
154 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 17:09:06
>>153 @王位継承
A統治機構
B元号
C税制
D裁判
中国から学んだんですね
155 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 17:46:34
156 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 23:23:40
>>135 古事記や日本書紀は暗号で邪馬台国のことを書いているという説があったな。
157 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 23:52:34
トラ、トラ、トラ・・・
158 :
日本@名無史さん:2009/01/27(火) 18:36:34
もっと白熱した議論してるスレってない?
159 :
日本@名無史さん:2009/01/27(火) 19:09:19
自分で立てろ。
160 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 11:29:25
名前が出るだけで姿を見せない八女津姫は卑弥呼みたいだな。
阿蘇津彦と阿蘇津姫などは二人揃って姿を見せるのに。
161 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 15:35:06
>>152 それが本来の多元的史観。
でも、名無しの自称古田説支持者は
皆九州一元史観の虜になってる。
>>154基準を決めても、現在残されている資料だけでは線引きは困難。
九州王朝があったとするなら、吉備にも出雲にも東国にも王朝があったとしたほうが自然。
さらに、溶岩や火山灰に埋もれた富士王朝や十和田王朝があったのかもしれない。
163 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 19:51:20
王朝の定義による。
164 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 22:19:03
7世紀までは、日本で最も高度に発達発展した王権は九州にあった。
6〜7世紀のそれを九州王朝と言う。
であるから、全国各地にも発展した王権があったことを否定するものではない。
それらを王朝とするかどうかは、王朝の定義によって決められる。
165 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 23:44:38
つまり、日本で最も高度に発達発展した妄想・妄言は九州王朝説だったわけだね。
166 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/29(木) 00:00:47
>165
ないとするのが盲象なんだよ。つまり天皇と卑弥呼のチチクリアイ
歓喜天盲象を遠回しに肯定することになる。w
167 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:58:04
少なくとも8世紀以前は、畿内王権より九州王朝のほうが格が上。
C3系統
13% アイヌ
0% 青森
2% 東京
2% 静岡
3% 徳島
8% 九州
0% 沖縄
91% オロチョン(ツングース)
68% エヴェンキ(ツングース)
27% 満州(ツングース)
84% ブリアート(モンゴル)
52% ハルハ・モンゴル(モンゴル)
50% ユカギル(古アジア)
33% コリヤーク(古アジア)
25% チュクチ(古アジア)
74% カザフ(テュルク)
18% ウイグル(テュルク)
12% 朝鮮
5% 漢族(華北)
3% チベット
5% 漢族(華南)
4% ミャオ
4% ベトナム
11% マレー
42% タナナ(ナ・デネ系)
16% シャイアン(アメリンド系)
D2系統
88% アイヌ
39% 青森
48% 新潟
40% 東京
33% 静岡
26% 徳島
28% 九州
39% 沖縄(北琉球)
4% 八重山(南琉球)
0% アジア
D1系統
16% チベット
1% 東京
16% イー
3% トゥチャ
7% ミャオ
2% ヤオ
3% ベトナム
3% マレー
D3系統
33% チベット
0% 東京
6% ホイ
1% モンゴル
それはない
O2a系統
1% 東京
0% 朝鮮
2% 漢族(華北)
0% チベット
30% 漢族(華南)
11% ミャオ
68% チワン(タイ・カダイ系)
36% ベトナム
28% マレー
47% タイ
O2b系統
0% アイヌ
26% 東京
30% 沖縄(北琉球)
67% 八重山(南琉球)
0% 漢族(華北)
0% チベット
51% 朝鮮
4% 満州
0% 漢族(華南)
0% ミャオ
0% チワン(タイ・カダイ系)
0% マレー
1% フィリピン
6% タイ
14% ベトナム
20% インドネシア
O3系統
0% アイヌ
15% 青森
14% 東京
20% 静岡
21% 徳島
26% 九州
16% 沖縄(北琉球)
66% 漢族(華北)
33% チベット
38% 朝鮮
38% 満州
0% オロチョン
2% ブリアート
23% ハルハ・モンゴル(モンゴル)
33% 漢族(華南)
71% ミャオ
52% ヤオ
16% チワン(タイ・カダイ系)
31% マレー
41% ベトナム
174 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 03:45:31
175 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 19:48:04
吉備王朝について、教えてくれ
176 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 23:12:48
177 :
日本@名無史:2009/01/30(金) 01:52:33
178 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 11:38:39
>>167 何が「少なくとも」だw
遅くても3世紀中頃には主権は畿内に移ったんだよ。
もうちょっと勉強しような。
歴史カルトの教義の勉強じゃなくて。
179 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 16:56:31
>>178 >遅くても3世紀中頃には主権は畿内に移ったんだよ。
↑
狂人の戯言、精神科に診てもらえ。
180 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 17:27:11
× 遅くても3世紀中頃には主権は畿内に移ったんだよ。
○ 遅くても8世紀末には九州王朝の天武が都を畿内に移したんだよ。
181 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 20:20:54
ついに、箸墓古墳大規模発掘調査らしい
ついに、長かった論争が終わると思うとそれもそれで寂しいね
182 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 20:31:43
むりやり箸墓の年代判定を古く古く持っていき、卑弥呼の墓でなければならないとした、
言語道断の学者連中が、論理に行き詰って、新たなトンでも理論を振りかざすヨカン。
183 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 21:19:18
>>182 こういう連中の息の根が止まるんだろうな。
古い年代感にしがみついたり、考古学の成果を無視して新しいほうへ新しいほうへと
定めていた連中の息の根が。
184 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/31(土) 21:31:34
箸墓とすると、4回もネジ曲げる。つまり妄想。
@ 「壹」→「臺」
A 「南」→「東」
B 「女王」→「祭主」
C 「円墳」→「前方後円墳」
どこが捻じ曲げなんでしょう?
ほとんど同義語かちょっとした錯誤にしか感じませんが。
186 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 11:56:38
276 : すずめちゃん(長屋):2009/02/01(日) 10:20:52.79 ID:BLeYqFsE
100〜180年頃 九州地方に大規模な王朝が成立
107年 帥升が倭国王を名乗り後漢に朝貢
150〜180年頃 九州地方を中心に「倭国大乱」
180年頃 日向の豪族だった神武天皇が戦乱の九州から逃れ大和の豪族に
180年頃 九州の諸豪族に卑弥呼が共立され、大乱が収まる
239年 卑弥呼が魏に朝貢
247〜248年頃 卑弥呼が死亡し、台与が即位
266年 台与による邪馬台国最後の朝貢
280年頃 崇神天皇が近畿地方を統一し纏向遺跡に遷都
290年頃 崇神天皇が四道将軍を派遣し日本の大部分を統一、邪馬台国は滅亡
280〜350年頃 崇神・垂仁・景行の三代の都として纏向遺跡が最盛期を迎える
391年 神功皇后の三韓征伐
たぶんこんな感じ
そこに葦原中国こと出雲王朝はどう絡んでくるの
188 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 15:25:07
>>184 @については、現存する倭人伝の写本よりも古く成立した書物のほとんどが
「邪馬臺国」で一致してる。
なので、そっちの方がオリジナルの可能性が高い。
大体、「邪馬嘉国」と言うバージョンもあるのに、「邪馬壱国」論者が
それについて何も語らないのは何故?
Aについては、今の畿内説は「東」に書き換えなくてもOK.
実際に、当時の中国人にとっては倭は南に伸びる国だった。
元々江南に住む人間を「倭人」と言ったところからその価値観が生まれた。
Bについては、必ずしも記紀を絶対視する必要はない。
実際には百襲姫が天皇だったとしても、記紀にそれを正直に残すと思うか?
Cについて。
別に倭人伝には「円墳」とも「前方後円墳」とも書いてないんだけど。
189 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 16:17:18
原典批判をやったことのない人だけが、
>>188のような破綻論理にはまります。
百万言を費やして詭弁を弄しても、魏志倭人伝に出てくるのは、異体字を含めて「邪馬壱国」だけ。
190 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/01(日) 16:48:03
>>185 ちょっとではな〜い。大きな差だ。
>>186 神武は帥升より年代が古いよ。
崇神即位元年=237年=景初元年 だよ。
>>188 卑弥呼は九州所在だよ。畿内がヤマト国(=邪馬臺国)とするなら、
九州は朝廷のその国と国名が同じだとは考えにくい。確かに1字の
国名ならば、当時の大陸の例から観て同国名があるにはあるが、
3文字で朝廷と同時代ならば、国名は朝廷のほうのヤマト国と一緒
の同名とは考えるべきではない。ところが倭人伝を読めばヤマト国
とはならない邪馬壹国と書かれてあり、同名ではなく別名である。
当たり前だよ。畿内と別の国だから別名の邪馬壹国なのだ。
当然これで正解だよ。まだ別名で邪馬国っていうのが伝にあるのが、
なおもそれが正解なのを物語っており、拍車をかけている。
191 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 21:04:14
>>189 だぁ〜かぁ〜らぁ〜、
現存してる最古の「魏志倭人伝」の写本は何時頃のものだと思ってるの?
192 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 21:05:16
それとも何?
原本と断言できるものが中国で発見されて
それにも「邪馬壱国」と書かれてた、とでも言うの?
質問です。
イリ王朝、ワケ王朝を祖とする豊城入彦や彦狭島王、御諸別王と
武甕槌や経津主の時代はどちらが先なのでしょうか?
194 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 23:05:29
>>191 最低、原典批判について10分でも調べてから発言しろよ。
>>194 それはおかしい。
確からしさを確保するために方法論は存在するのであって逆ではない。
どうしても自分のフィールドに限定して議論を進めたいなら
原典批判による考察に限定したスレを立てるべき。
196 :
のんびりひまじん ◆sSMETOzuG2 :2009/02/02(月) 10:37:14
197 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 13:41:01
198 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 16:38:06
まあ邪馬台だろうが邪馬壱だろうが邪馬嘉だろうが
それだけで急に場所が変わったりはしないんだけどな。
199 :
のんびりひまじん ◆sSMETOzuG2 :2009/02/02(月) 17:45:10
>>186(考古系中のレスらしいからそこへ出すべきだが)
問題点A
280〜350年頃 崇神・垂仁・景行の三代の都として纏向遺跡が最盛期を迎える
↑
日本書紀の)第16代天皇 仁徳以後、第25代武烈まで10人の天皇は、実在性を大きく疑う。
理由:新撰姓氏録によると、皇別氏族は335氏族もある中に、その10代の天皇の子孫を主張する
一つの氏族も存在しない。
出典・三宅利喜男「新撰姓氏録の証言」〜古代に真実を求めて第3集(2000年版)
かつては、この10人の天皇から、倭の五王を 何人か比定した文献史学者があったが、
天皇としての実在性が極めて疑わしい。
(ちかごろ、倭の五王の比定を我々シロト向けに言う若手学者を見かけない。)
200 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 09:40:21
オレは、旧唐書にある倭が九州王朝にあたるもんだったんだろうなってなんとなく思ってるけど。
ここのやつらってなんで自信満々に言いきれてんの?
当時のこととかわからんし、遺物も史跡も確定的なものなんてないだろ。
少なくとも確定できる証拠はない。
かといって完全に否定できない。
オマエら不毛以外のなにものでもないように見える。
千数百年前のどうだったのかは見たことないが、今ここの状況はオレには理解できる。
201が学問に向かない人間だと、良く理解できた。
いや、仮説を立てんのはいいだけどよ。
おめーらの自信はどっからくんのよ。
おめーらって誰?
マーク・オメーラ、アメリカ・ノースカロライナ州出身のプロゴルファー。
マスターズと全英オープンで優勝。その自信の裏には類まれなテクニックがある。
聞きかじった話を知ったかぶってえらそうに言い張る人>おめーら
思い込みを長年かけて定着させてきた古代史学会。
いわく、古代の最高権力といえば畿内の天皇以外ありえない。
いわく、日本の古代は天皇家を中心とする大和朝廷だけが本流である。
いわく、漢籍にみる倭や日本の記述はすべて大和朝廷の反映である。
これらの思い込みが、九州王朝説でいっぺんにひっくり返ってしまった。
このことをもってしても、自信を持たずにおられるはずがあろうか?
>>207 まあ、カルトに騙された人は確かに妙な自身に満ち溢れてるがな。
大和朝廷絶対史観って、江戸時代からのカルトだから、たちが悪いな。
発足以来、学問じゃなくて宗教だし。
円天だって、出資額と同じ額が毎年使えるとか、普通に考えたらすぐ詐欺だとわかるのに
気づかないふりをしてのめり込んでしまう。これはもう、被害者というより共犯者に近いです。
九州王朝信者にも通ずるところがあります。
というネガキャンで、大和朝廷絶対史観信仰を無理やり支える努力って、虚しいなあ。
212 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 04:23:33
ったく
>>207 のようなレスを見るとこの板の九州王朝説論者が
如何にアホでバカでカスでサイキバ君なのか良く分かるwwwwwwwwwww
そもそも邪馬台国九州説が皇国史観の賜物であったことは誰もが知るところで
学術的邪馬台国畿内説の開祖とも言うべき内藤湖南は絶えず「本国中心主義」を批判してきた。
ぶっちゃけ2チャン流に
「邪馬台国畿内説を唱え、皇統に絶えず否定的見解を出す学者はサヨ!」
と言う方がまだマシだわwwww
確かに戦後、マルクス史観が流行ったのは間違いないんだしwww
まあ、視点の転換のヒントと言うか、歴史を違った角度から見る面白さの提示・普及
…みたいなものにある程度の功績を認めたとしても(大盤振る舞いw)
九州王調説なんてものはもはやその役割はとっくに終えている。
近い将来教科書には「聖徳太子」と言う文字そのものが消えると言う話もあり
大化の改新を単純な勧善懲悪劇と言うのも通じなくなってきている。
大和朝廷絶対史観?はあ?何言ってんだおめーwww
皇国史観なんて今じゃあ九州王朝説の九州版皇国史観しかねえだろ。
ミイラ取りがミイラになったってのがこの珍説のオチでしたとwwwwwwwwwwww
古代王朝の流れを汲む暦は日本各地で作られていが、
九州暦というものはその痕跡すら残されていない。
そんなものがあったと信じるに足りない。
伊勢暦(いせごよみ)
鹿島暦(かしまごよみ)
南都暦(なんとごよみ)
泉州暦(せんしゅうごよみ)
大坂暦(おおざかごよみ)
三島暦(みしまごよみ)
大宮暦(おおみやごよみ)
仙台暦(せんだいごよみ)
会津暦(あいづごよみ)
薩摩暦(さつまごよみ)
江戸暦(えどごよみ)
弘前暦(ひろさきごよみ)
秋田暦(あきたごよみ)
月頭暦(つきがしらごよみ)
京暦(きょうごよみ)
214 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 11:20:55
畿内以外にも各地に王権があった!と言うことなら
古田の妄説を待たずとも門脇禎二の地域王権論があるわけだが
古田信者がそれについて評価することは無い。
やっぱ倭の主権が九州にないと嫌なのかな。
本当に「多元的」なら別段九州に拘る必要は無いじゃん。
やっぱ「九州がよければあとはどうでも」って事なのかね。
215 :
のんびりひまじん ◆sSMETOzuG2 :2009/02/07(土) 12:23:38
門脇禎二さんの 地域王権論(=多元史観と解釈) は
古田武彦さんの 失われた九州王朝(1973)出版に先行した と記憶する。
(稲荷山鉄剣の銘文についての古田説明「関東に大王あり」(1979)で
古田さんも多元史観へ傾いていった。)
ただし民間には戦前すでにそのような多元説を主張をする人がいたのだそうで、
上記の人びとが純粋にオリジナルとはいえないようだ。
また、井上秀雄さんの古代朝鮮(および古代外交)についての説明を読むと
九州王朝説(By古田武彦)も決してカルトのような普通じゃない学説だと
切り捨てるようなものでないと分かる。
>>214 「九州がよければあとはどうでも」って事 と解されるような主張をする
九州王朝ならば、別の誤りに落ちる可能性を考えといたほうが良さそうだ。
分かっていないことが多すぎるのが日本古代史
216 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 15:45:44
日本書記が糞だからこんな論争がおきるんだよね。
九州王朝と大和との決戦を必死にごまかした藤原不比等の罪は重い。
いや、日本書紀にしかない内容が裏づけられたことあるっしょ。
武寧王陵だっけ。
九州王朝説を本当に日本社会で認めてもらいたいのなら、
自由民主党の山崎先生とか森先生とか、しかるべき人に間に入ってもらって
学会のお偉いさんや文部科学省のお役人にリベートを渡したり、
東国原知事を巻き込んでテレビ局とタイアップして九州王朝キャンペーンを張るとか、
地道な裏仕事を重ねて下地作りからはじめないとだめですよ。
九州王朝説の人は、大和朝廷以降の日本の伝統である根回しが下手だから
損をしているのではないでしょうか?
219 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/07(土) 20:01:34
そんなことはする必要はなかろう。裏金を渡すと歴史になるでは
極端にうまくない。
うまくないかどうかは知らないけれど、
歴史の教科書を変えるにはそういう裏工作も必要なのです。
現状では、九州王朝説を裏付ける決定的な証拠でも出ない限り、
九州王朝を社会で認めてもらうのは無理。しかし、教科書に、
「大和朝廷の成立と前後して、九州王朝をはじめ日本各地にそれぞれ
独立した文化を持った王朝が出現した。」と書いてくれれば、それで済む。
221 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 21:31:31
222 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/07(土) 21:53:01
>>220 時間をかけてやればいいよ。裏工作まで不要。
ただ闇雲に時間をかければいいというものではない。
このままでは今世紀中に九州王朝を認めてもらうことは不可能。
九州王朝を世間で認められれば九州のどれだけの観光収入が
増えると思っているのだ?
やっぱり、歴史の世界も銭ズラ。
っていうか、今の九州王朝説を見て見ぬフリをしている御用学者どもを、
社保庁なみにバッサリと斬るために、裏工作など一切やらないのが吉。
225 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/07(土) 23:16:11
九州の観光目的のための九州王朝論ではないよ。とにかく臥海の
ボス連が死ねば下は次第に言いやすくなるだろう?w
226 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 23:34:44
言いやすくなってからでは、誰も聞いてくれない。
時が熟した今がチャンスなのに・・・
少しばかりの金を惜しんだために
このままずっと九州王朝が日の目を見なくなってもいいのか?
227 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 23:37:10
九州王朝が正しければ、そのうちに日の目を見るよ。
228 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 23:38:27
考えが甘いな。九州のおぼっちゃまは。
229 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 23:48:17
つまり、九州王朝説は不正な裏金で成り立っているわけだね。
230 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/07(土) 23:49:15
臥海の力は馬鹿にはならない。だから確かに時間はかかろう。
それでいいよ。切迫した実害でもあるまい。盲象はその間長く
はびこることは確かだが、それでいいよ。早く改まるほうがいい
がね。w
犬国さんが御存命の間には無理でしょうね。
御安らかに・・・・
社保庁のように暴かれる従来説。
因習と利権にまみれた御用学者が死ねば、九州王朝説の天下だ。
233 :
のんびりひまじん ◆sSMETOzuG2 :2009/02/08(日) 00:07:22
古代史そのものが世間の注目を失ったように感じている。
若手の古代学者が出てこない。
知る限りで、山尾幸久さんなどももういいトシだ。
山尾さんばかりか森公章さんんなども書いたものを読むと
日本書紀のいい加減さは認めていることが分かる。
どうも学者たちは一線を超えることを恐ろしがっているように感じてしまう。
学会という場が得点よりも失点で評価しようというのが主流のようだ。
九州大学伊都キャンパスって良いネーミングだな。
邪馬台国とは倭の伊国、その首都が伊都だったのだ。
236 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 10:47:15
>>232 御用学者が死ななくたって近畿説は崩壊しているよ。
学問的な根拠を出せる学者は1人もいない。単にみんな近畿大好きってだけだ。
阪神ファン対ソフトバンクファンみたいなものだ。
238 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 22:23:05
>>235 そうゆうくだらないことを言ってるから、九州王朝説はだめなんだよ。
239 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 22:33:06
240 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 23:20:14
九州説なんて、単なるお国自慢や観光史観。
崩壊しちゃった畿内説の断末魔観察って楽しいねw
242 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 23:39:26
>>239 誰の本? まともな畿内説の本ってあったか?
243 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 23:49:00
244 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 17:23:51
ものみの塔に騙された人々がカトリックをカルトと見るように
強行的九州説の人間は畿内説に関する全てを罵倒する。
245 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 17:24:47
従って、
>>242の質問に答える事は愚かな事である。
何を見せようとも、彼はそれを認められないからだ。
246 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 17:48:07
つまり、九州王朝説を証明する本は1冊も発行されていないわけだね。
247 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 18:09:51
現在通説と呼ばれる説についても証明する本は1冊も発行されていないんですけど。
248 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 21:06:00
邪馬台国は出雲だったという説が有力です。
249 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 23:28:34
残念!出雲は投馬国です。邪馬台国は纏向にありました。
250 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 01:50:57
>>249 解説した本は一つもありませんが、ってわけかな。
251 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 01:53:22
>>247 >現在通説と呼ばれる説
何説のこと? 北九州説?
252 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 02:25:43
薩摩の語源って何なの?薩摩が当て字だとしても、サツマの意味って何なの?
253 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 02:30:42
薩摩郡の薩摩までわかるんですけど、一体サツマってどういう語源なんだろうか?ササレ石のササと同義で、平地が細々とした土地という意味なんだろうか?ササマがサツマになったのかな?
自称明治天皇の孫娘気取ってるババァ(中丸薫)が、九州王朝は伽耶の分国(属国/植民地)って言ってるけど、ホントなの?
255 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 12:21:01
源九州王朝(邪馬台国)の分国が源伽耶(投馬国)です。
>>255の補足
源氏とは源九州王朝の末裔だった!
関東は九州から移り住んだ九州王朝だった!
(実は、源氏とは九州の出雲だったのだ)
伊豆の出雲(北条氏)氏が頼朝を助けて挙兵したのは必然だった。
これで全てのなぞが解けた!
257 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 00:42:40
258 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 15:37:10
259 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 18:49:01
そう? 笠井が纏向に注目してたとは知らなかったな。
>>259 例え九州説論者であろうがモグリと言われても仕方がないレベルだなw
笠井つったら 箸墓=卑弥呼の墓 説で必ず出てくる名前だろうがwww
261 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 19:38:09
九州王朝否定派の人って感情だけで九州王朝説を否定しているだけで
それに代わる対案すらだしてきてはいないのです。
そもそも邪馬壱国がどこにあったかさえ特定出来ないんですよ彼らは。
262 :
九州王朝説派:2009/02/11(水) 20:56:29
邪馬壹國の都であり、俀國の都である邪靡堆が、何処にあったのかは特定できません。
263 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 21:16:30
つまり、九州王朝説を語る人は漢字が読めないわけだね。
纏向に列島の都などなかったことだけは明白。
九州にはあったけどね。
265 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 23:52:58
>>262 北九州で探そうとするから分からんのだよ。南九州だったら簡単に見当がつく。
隋書だって、北九州から「後十日」って言ってるだろ。
266 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 23:54:39
267 :
九州王朝説派:2009/02/12(木) 01:43:09
>>265 都や京の存在した範囲はわかる。
ピンポイントの場所が特定できないのだ。
都や京の存在した範囲は、高良川、上津荒木川と広川に挟まれた地域、
三潴の北東方向に数km程度の範囲。
多利思北孤の京は、高良川と上津荒木川に挟まれた地域、
古い筑後国庁跡のどちらかの可能性がある。
高良川の北東、高良大社の麓には卑彌呼の墓と思われる祇園山古墳がある。
卑彌呼の都(城郭)が台地部にあったとすれば、上津荒木川と広川に挟まれた地域。
広川南岸の台地には岩戸山から丸山塚古墳まで古墳が並んでいる。
268 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 01:52:11
法隆寺も畿内に移設したぐらいだから、九州の都の痕跡は相当奪われたのだろう。
九州から畿内に移設しなきゃならないほど、畿内は後進地域なわけでしょう。
269 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 09:24:15
九州王朝が好きな畿内の掘っ立て小屋でも跡が残ってるのに、
痕跡まで移設されちゃったの?
270 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 11:21:14
住吉神社や八幡神社、伊勢神宮も九州発祥。
271 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 12:00:56
イエス・キリストも九州人だった
272 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 12:03:25
>268
墓石や礎石まで運んでるだろ。石工もいなかった畿内ってどれだけ野蛮なんだw
273 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 12:14:50
礎石の跡は残るんだけど?
274 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 13:09:26
場所が特定できないのに、礎石の跡をどうやって見つける?
275 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 13:56:44
通説の大化元年(645年)に皇位にあった皇極天皇も
九州年号の大化元年(695年)に皇位にあった持統天皇も女帝であった。
両女帝の次にはともに軽皇子が即位している。
645年即位とされ葬儀記事がない孝徳天皇も軽皇子、
696年即位とされる文武天皇も軽皇子と名乗っていた。
皇極天皇=持統天皇、孝徳天皇=文武天皇ではなかろうか。
中臣鎌足=藤原不比等。
日本書紀では695年の出来事を645年と50年遡ってして記しているようだ。
276 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 14:14:35
九州王朝はなかったのか?「あるわけないでしょ!馬〜〜〜鹿!」
277 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 15:27:48
『日本書紀』は「大化の改新」の時に「郡」が成立したと記すが、
「郡」と言う用語が用いられるのは、大宝律令制定以降であり、
それ以前は「評」を使っていた文書(木簡類)が見つかっている。
名古屋市博物館の常設展示の藤原宮出土木簡には
「庚子年(700年)四月/若狭国小丹生評/木ツ里秦人申二斗」
「尾治国知多郡/大宝二年(702年)」などの記載がある。
大化の改新の詔は文体が奈良時代のものと酷似している。
646年正月の改新の詔の第一条で公地公民(私地私民の廃止)をうたっていながら
646年から後も伴造、国造が所有する部曲や田荘の領有権が認められていた。
改新の詔において「初めて戸籍・計帳・班田収授法をつくれ」とあるが、
戸籍・計帳・班田収授は大宝律令で初めて見られる用語であり、
それ以前の文書には出てこない。
このように「大化の改新」は7世紀末の出来事であると考えられる。
278 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 20:30:26
ひよこは九州発祥
どうやら、大和朝廷成立のころには、九州王朝は衰退していてほとんど
力がなかったということのようです。かつて、九州王朝は日本の中心
だったけれど、火山の噴火や気候などの天変地異で勢力を失ってしまった。
そのころ日本に上陸して急速に力をつけたニニギの子孫である大和朝廷は、
国を統治するためには、九州王朝の末裔を呼んで祭神とするしかないと
して、神武を大和に呼び寄せたということだと思う。
したがって、その時期、九州王朝は名ばかりの王朝だったため、大きな遺跡も
発見されないということではないでしょうか?
280 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 21:26:56
そりゃ、大和朝廷が出来たのは早く見積もっても8世紀以降だからね。
281 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 21:28:51
282 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/12(木) 21:46:04
古史古伝にはウガヤフキアヘズ朝70数代とか記述あり。こういう書
には粗雑なところあるが、看過できない。
283 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 21:47:19
その通り!
>>280 神武、欠史八代と大和朝廷には血のつながりはなかったのだ!
284 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 22:30:07
欠史八代の天皇は存在しなかった。神武天皇と崇神天皇は同一人物だった。
大和朝廷の天皇は卑弥呼一族の婿殿で現在の天皇家は最初から女系だった。
285 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/12(木) 22:31:12
神武天皇≠崇神天皇
286 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 22:58:06
>>283 そのとおりはいいが、神武や欠史八代は架空だろう。
287 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 08:34:31
>場所が特定できないのに、礎石の跡をどうやって見つける?
移設した事がわかってるんじゃないの?w
288 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 14:24:34
観世音寺だけはね。
289 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 15:20:16
ほぉ、草加学会の寺か。
290 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 18:44:48
289の自己紹介など不要
東表国って九州王朝じゃないの?
292 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 22:04:36
時代が違う。
2世紀半のズレがある。
293 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 23:52:21
九州王朝は2世紀には既に衰退していたと見る。
しかし、九州王朝の末裔は、東海や関東で生き延びていた
と思われます。
関東を支配していた星宮神社の天香香背男命は、もともと
九州の王だったのではないでしょうか?
九州は東夷国だwww
295 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:09:11
2世紀に衰退したのは、漢による帯方・楽浪郡支配でしょ。
九州王朝はますます元気になっている。
高句麗好太王碑をみればわかるでしょ。
九州王朝は、もともと日本だけではなく、
世界の中心だったわけですから、
2世紀の状況は往時から見れば、
衰退も衰退、虫の息だったようです。
297 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:52:13
衰退したのは纏向。
298 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 02:06:10
大和は弥生末期に他の勢力に征服されたのさ。だから、征服勢力は大和の民を使って
大古墳を造ることができたんだ。
そうでもなきゃ、大勢の民を狩り出して墓造りばっかりするわけにはいかんよ。
299 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 02:18:22
だから今でも奴隷根性が抜けないのか・・・
300 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 06:22:55
つまり、九州の土踟蛛部落国家は大和朝廷の奴隷だったわけだね。
301 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 08:08:57
302 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 09:14:38
303 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 14:45:01
『三国志魏書』倭人伝には伊都国が卑弥呼の都であると明快に書かれている。
伊都国には「丗有王 皆統屬女王國」と書かれている。
和訳すると「(伊都国には)当時、王(卑弥呼)がいて、皆(倭の国々)は女王国(伊都国+奴国)に統属した」となる。
「丗有王」の世は魏の使者が倭を訪れた当時を指す。
魏志倭人伝中、紹介されている王は、女王卑弥呼と狗奴国王だけであり、
狗奴国王は「丗有王」の王とは考えられないので、この王は女王卑弥呼のことを指している。
皆とは「今使譯所通三十國」の倭の国々のことを指している。
従来の「代々王がおり、皆、女王国の統治下に属している」は重大な誤訳だな。
304 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 21:03:24
帯方郡庁から奴国までは下記のように丁度12,000里となるり伊都国と奴国が女王国とされる邪馬臺国の中心地であった。
7,000里+1,000里+(400里×2)+1,000里+(300里×2)+1,000里+500里+100里=12,000里
※方可とあるので、対馬南島と壱岐をそれぞれ半周したとした(400百里×2)(300里×2)
「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
始度一海千餘里至對馬國其大官曰卑狗福曰卑奴母離所居絶方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北糴
又渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耗田猶不足食亦南北市糴
又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之
東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐」
305 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 21:15:38
『魏志倭人伝』は正確を期するため同じ行程を距離と所要日数とで二重に表記しているのであり、
狗邪韓國が投馬國の中心都市であり
伊都國が邪馬壹國の中心都市である。
狗邪韓國と伊都國にだけ至ではなく到が使われているのはそのため。
投馬國、邪馬壹國の戸数が可五萬餘戸、可七萬餘戸と大きいのは
投馬國、邪馬壹國は単一の國邑ではなく連合体であるから。
実数を表す「有」ではなく推測を表す「可」が使われているのは
投馬國、邪馬壹國の全体を見ておらず狗邪韓國や伊都國などからの推測だから。
ただし、陸行一月は陸行一日の誤りである。
306 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 22:03:08
307 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 22:27:01
308 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 09:56:51
>>307 反論しても理解力はなさそうだしいWW。
309 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 10:48:04
>>308 理解力の無いのは308だよ。
反論する能力も無のの言い訳にすぎんねww。
310 :
九州王朝大好き:2009/02/15(日) 16:05:37
>>304-305 1/3位は同意。
1/3は同意ではないがカスっている。
残り1/3は全くの不同意。
狗邪韓國が投馬國の一部であるとのことは全く頂けない。
狗邪韓國は倭人の国である。
「從郡至倭」において、最初の倭人の国である狗邪韓國に着いたので「到」を使ったのである。
311 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 17:10:48
>>310 『「從郡至倭」において、最初の倭人の国である狗邪韓國に着いたので「到」を使ったのである。』
この意見は正しい。
でも「到」は伊都國にも使われています、
狗邪韓國と伊都國が特別な場所だったからです。
「到」は「至」に「刂」が付いたもの、
「刂」は通常は「刀」ですが「到」の場合は「人」です(白川静氏による)。
狗邪韓國と伊都國が旅の目的地だったのです。
『狗邪韓國は倭人の国である。』その通りだと考えます。
朝鮮半島の南部の倭人の国の有る地域全体を投馬國と呼んでいるのです。
312 :
九州王朝大好き:2009/02/15(日) 17:41:21
>>311 投馬國と邪馬壹國は不彌國に南接しています。
投馬國から帯方郡までは海路のみで水行20日の道程。
倭人の国々の宗主国である邪馬壹國から帯方郡までは、
対馬海峡は海路で狗耶韓國からは陸路で、水行10日陸行1月の道程。
語順から見て、これらの道程は倭人が帯方郡に行くときのもので、
魏使にとっては倭人からの伝聞、と推定されます。
313 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 17:57:01
314 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 18:01:34
>>312 >投馬國と邪馬壹國は不彌國に南接しています。
これは違います。
>投馬國から帯方郡までは海路のみで水行20日の道程。
帯方郡から投馬國までは海路のみで水行20日の道程ですね。
>倭人の国々の宗主国である邪馬壹國から帯方郡までは、
>対馬海峡は海路で狗耶韓國からは陸路で、水行10日陸行1月の道程。
語順から見て、投馬國から邪馬壹國は水行10日陸行1月(日)の道程。
推測や伝聞を表す表現が使われていないので
魏使が邪馬壹國(伊都國)まで何度も通った道程です。
315 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 00:04:59
倭人伝は真面目に書かれた歴史書。読み方は漢文としてまともな読み方でなければ
なりません。ということで、郡から狗邪韓国、そして対馬国、一支国、末盧国まで
は水行。郡から末盧国までは丁度一万里。
末盧国は唐津でしょう。その先が問題。従来、一般に伊都国は怡土と思い込まれて
いますが、怡土では方角、距離が合いません。上陸したとたんに東南と東北をまち
がえるなどということは到底理解できませんね。それに、怡土では唐津で上陸する
必要もない。船で怡土か博多湾に入った方がずっと楽です。また、怡土では南水行
もできない。となれば、倭人伝に素直に従って、唐津から東南五百里、伊都国は佐
賀市付近と考えるべきです。
これが正当な読み方。そして、そう読めば、あとは何ら問題はありません。邪馬台
国の所在は明白です。正常な思考力をもった人は以上を元に考えましょう。
つまり、邪馬台国は阿蘇ということですね、わかります。
317 :
九州王朝大好き:2009/02/16(月) 03:36:44
倭人伝は真面目に書かれた歴史書。読み方は漢文としてまともな読み方でなければ
なりません。ということで、郡から狗邪韓国、そして対馬国、一支国、末盧国まで
は水行。郡から末盧国までは一万里一千四百餘里。
末盧国は唐津でしょう。その先が問題。従来、一般に伊都国は怡土と思い込まれて
いますが、怡土では方角、距離が合いません。上陸したとたんに東南と東北をまち
がえるなどということは到底理解できませんね。それに、怡土では唐津で上陸する
必要もない。船で怡土か博多湾に入った方がずっと楽です。また、怡土では南水行
もできない。となれば、倭人伝に素直に従って、唐津から東南五百里、伊都国は佐
賀市付近と考えるべきです。 ここで郡から一万一千九百餘里、女王國まであと百里。
これが正当な読み方。そして、そう読めば、あとは何ら問題はありません。女王國内の
邪馬台国の所在は明白です。正常な思考力をもった人は以上を元に考えましょう。
つまり、邪馬台国は筑後平野ということですね、わかりますね。
318 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 07:05:37
>>317 315に書いたところはご同意いただけたわけですね。はい、反論ある方は
今のうちにどうぞ。
319 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 07:09:12
あ、少々改ざんされていたわけね。1400を加えるのは根拠なし。
そんな数字はどこからも出てきません。
320 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 12:05:08
伊都国が何処に在ったかは不確定だが、
伊都国には「丗有王 皆統屬女王國」と書かれている。
和訳すると「(伊都国には)当時、王(卑弥呼)がいて、皆(倭の国々)は女王国(伊都国+奴国)に統属した」となる。
伊都国が邪馬壹國の中心をなす女王國の構成国で女王の都。
321 :
九州王朝大好き:2009/02/16(月) 12:59:43
>>319 >>320 対馬島と壱岐島の2辺の和400×2+300×2=1400里を加えねばなりません。
又、奴國と不彌國でそれぞれ丁度1200餘里になるので、奴國と不彌國は女王國の構成国となります。
女王國に到着したので郡よりの道程の里数表示は不彌國で終わっているのです。
だから、郡より11900餘里の伊都國は女王國を構成する国ではありません。
奴國が、「行至奴國」ではなく「至奴國」と(放射説)餘旁國扱いで記載されています。
これは女王國の構成国だからです。
投馬國も同様です。
322 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 15:17:39
>対馬島と壱岐島の2辺の和400×2+300×2=1400里を加えねばなりません。
「方四百餘里」「方三百里」なら広さが四百里四方、三百里四方の意味と一辺が四百里、三百里の土地の意味のどちらか、
「方可四百餘里」「方可三百里」なら四方が四百里ほどの土地、四方が三百里ほどの土地の意味。
1400里を加えるべきですね。
放射説は無いですよ。
帯方郡から不彌國までは直列に表現されています。
女王國の構成国は伊都國、奴國、?不彌國?です。
女王國の端である伊都國に着いたから「到伊都國」と「到」が使われている。
12,000里は女王國の中心の奴國までの距離。
投馬國は邪馬壹國と同じような広域な地域の呼び名です、
距離での説明を日数で再説明したように国名も別の名前で再度説明しているのです。
323 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 18:33:04
伊都國に「世有王」「当時、王(卑弥呼)がいた」の説明があり
邪馬壹國に「女王之所都」「女王の都がある」の説明がある
邪馬壹國に女王の都の伊都國があり、卑弥呼が居たのである。
324 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 20:28:35
九州に土蜘蛛はいたが卑弥呼はいなかった。
325 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 20:56:11
>>322 一部訂正
「方四百餘里」「方三百里」なら
広さが四百里四方の土地、三百里四方の土地の意味と
一辺が四百里の土地、一辺が三百里の土地の二通りの意味が考えられるが、
「方可四百餘里」「方可三百里」なら一辺が四百里ほどの土地、三百里ほどの土地の意味。
「可方四百餘里」「可方三百里」なら広さが四百里四方ほどの土地、三百里四方ほどの土地意味。
推測する事が可能であるを意味する「可」の位置で方○○里は変わってくる、
「方可○○里」なら長さが○○里はどの意味、「可方○○里」なら面積が○○里四方ほどの意味。
倭人伝の場合「方可四百餘里」「方可三百里」なので一辺の長さの事を説明したもの。
当然1400里を加えるべきですね。
326 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 21:04:30
327 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 00:21:17
>>321 >対馬島と壱岐島の2辺の和400×2+300×2=1400里を加えねばなりません。
加えるべき理由は、まったくない。
@ 方可四百余里、方可三百里は、いずれも面積の表示。一辺が必ずしも四百余里、
三百里ということではない。対馬について言えば、八百余里×二百余里かも知れ
ないわけで、2辺の和はどのような数字になるか不明。
>325が方可四百余里は四百里ほどの土地の意味だとするのは誤り。
方可・・里という表示は、扶余伝、高句麗伝でも用いられている。扶余、高句麗
対馬、いずれも正方形のところではないことをみれば、単なる面積表示にすぎない
ことは明白であろう。
A 魏使は、それぞれの島の北端に着いて南端まで島を巡るわけではない。
B 国の始まりと終わりを考えるべきだというなら、末盧国の始まり、終わりを考え
るべきことになる。それが不自然であることは明らか。
328 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 10:32:27
>>327 >@ 方可四百余里、方可三百里は、いずれも面積の表示。
方可四百余里、方可三百里は、325で説明したように面積の表示ではなく島の一辺が四百里ほど、三百里ほどの意味。
この場合の方は正方形の意味ではない、方向の意味で大きさの表現△でも☆でも◇よい。
可は可○○で、○○と推測が可能であるの意味。
>A 魏使は、それぞれの島の北端に着いて南端まで島を巡るわけではない。
「渡一海」となっており北端に着いて、南端からの行程が含まれていないので島を巡る行程を加える必要がある。
>B 国の始まりと終わりを考えるべきだというなら、末盧国の始まり、終わりを考え
るべきことになる。それが不自然であることは明らか。
末盧国以降は陸路であり「渡一海」はないし島でもない。
329 :
九州王朝大好き:2009/02/17(火) 10:40:18
>>327の見当違いの反論に対して。
@「方可○○里」は、その土地の概形に対して正方形と見做して表現する方法です。
もちろん面積も近似したものにします。
對馬國は実際の形は200里×800里であるので、正方形に換算して400里×400里の方400里としているのです。
正方形から極端にかけ離れた形状の場合は、魏志東夷伝の東沃沮のように3角形表現をしています。
『其地形東北狹 西南長 可千里』魏志東沃沮伝
A地図を見ながら魏使の実際のルートについて考えてみてください。
狗耶韓國を出発→一海を度り對馬國の北端に着く(1000里)→對馬西岸沿いを南に800里進む(400里)→
→對馬南岸沿いを東に200里進む(400里)→南に瀚海を渡り壱岐の北端に着く(1000里)→
→壱岐の北岸沿いを東に進む(300里)→壱岐の東岸沿いを南に進む(300里)→一海を(南に)渡り末盧國に着く(1000里)→
B国の始まりと終わりを考えるのは国の形状を示している場合のみ。
国の形状が示されていない場合は、国々の城郭間の距離を示している。
末盧國の場合も末盧國の城郭の位置を距離の基準点としている。
330 :
九州王朝大好き:2009/02/17(火) 11:21:29
從郡至倭
@行到狗耶韓國 7000餘里 目的地倭の最初の国に着いたので「到」を使っている。
A度至對馬國 1000餘里
A' 對馬國内 800餘里(400餘里+400餘里)
B渡至一大國 1000餘里
B' 一大國内 600里(300里+300里)
C渡至末盧國 1000餘里
D行到伊都國 500里 倭の目的地(逗留地・女王國の門前國)に着いたので「到」を使っている
以下の国々は女王國に属す。
E 至奴國 (100里) [枝分かれ道程] 合計道程12000餘里
F行至不彌國 100里 [道程終点] 合計道程12000餘里
G 至投馬國 水行20日 投馬國は不彌國に南接している故、郡より倭までの所用日数。
既に倭女王國に到着しているので道程の再説明。
H 至邪馬壹國 水行10日陸行1月 邪馬壹國は不彌國に南接している故、郡より倭までの所用日数。
既に倭女王國に到着しているので道程の再説明。
自郡至女王國 12000餘里
備考 : @CDEFGHでは、それら国々の城郭の位置が距離の基準点である。
ABについては、国の形状が示されているので、その国の端が距離の基準点である。
331 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 11:35:03
>>329 「渡一海」は一つ海を渡るの意味だから、島を巡る行程は含まれていません。
方可○○里で島を巡り次の目標に向かう。
對馬國や一大國が島国で国の範囲が明確に把握出来たのですね。
332 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 11:41:47
>E 至奴國 (100里) [枝分かれ道程] 合計道程12000餘里
枝分かれ道程???何処から枝分かれ道が導き出されたのでしょう?
>H 至邪馬壹國 水行10日陸行1月 邪馬壹國は不彌國に南接している故、郡より倭までの所用日数。
既に倭女王國に到着しているので道程の再説明。
水行10日は何処から何処まで?陸行1月は何処から何処まで?
伊都国には「丗有王 皆統屬女王國」と書かれている。
和訳すると「(伊都国には)当時、王(卑弥呼)がいて、皆(倭の国々)は女王国(伊都国+奴国)に統属した」となる。
伊都国が邪馬壹國の中心をなす女王國の構成国で女王の都でしょ。
333 :
九州王朝大好き:2009/02/17(火) 15:03:08
>>332 枝分かれの理由
『行至不彌國』には動詞「行」があり、郡より女王國への道程に含まれることを示している。
一方、『東南至奴國』には動詞がなく、東南方向の奴國の存在を示しているに過ぎない。
水行10日陸行1月について
まず、投馬國
投馬國人は有明海沿岸から船で直接帯方郡に行った。
邪馬壹國人は、対馬海峡を10日で船を渡り、
邪馬壹國は倭人の宗主国でもあるので、倭人国である狗耶韓國を窓口として、
狗耶韓國から帯方郡までは陸路1月のコースを取った。
伊都国には「丗有王 皆統屬女王國」と書かれている。
和訳すると「(伊都国には)当時、王(弱体化した倭國王帥升の系列)がいて、
皆(代々の伊都國王・代々の旧倭国王)は女王國(邪馬壹國・投馬國・奴国・不彌國)に統属されていた」となる。
『邪馬壹國 女王之所都』 女王の都(宮室樓觀城柵のある所)は邪馬壹國です。
参考 : 帥升の城郭は吉野ヶ里。帥升のいた國は「倭面土國」と和漢の古籍に伝えられている。
吉野ヶ里近辺には、「米多」「目達原」の地名も残っている。
334 :
九州王朝大好き:2009/02/17(火) 15:18:29
解説
倭面土 : 倭メト
米多 : メタ
目達原 : メタの地
335 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 07:01:47
>>329 200+800=800? 算数もできないのか?
>>331 明確に確認できたら目的の港に直接はいるだろ。島の北端に着く必要はないな。
336 :
九州王朝大好き:2009/02/18(水) 11:57:19
>>335 >200+800=800? 算数もできないのか?
>>329の@を読んで下さい。
>@「方可○○里」は、その土地の概形に対して正方形と見做して表現する方法です。
> もちろん面積も近似したものにします。
> 對馬國は実際の形は200里×800里であるので、
> 正方形に換算して400里×400里の方400里としているのです。
> 正方形から極端にかけ離れた形状の場合は、
> 魏志東夷伝の東沃沮のように3角形表現をしています。
> 『其地形東北狹 西南長 可千里』魏志東沃沮伝
>明確に確認できたら目的の港に直接はいるだろ。島の北端に着く必要はないな。
壱岐島は弥生期から島の西北端に湊があるのです。
なお、對馬から壱岐経由で唐津に行く場合、
壱岐の何処の湊に立ち寄っても、壱岐島を半周せざるを得ません。
地図で確認して下さい。
337 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 16:19:24
>>333 「投馬國人は有明海沿岸から船で直接帯方郡に行った。」のに
「邪馬壹國は狗耶韓國から帯方郡までは陸路1月のコースを取った。」のは変。
「 邪馬壹國は倭人の宗主国でもあるので、倭人国である狗耶韓國を窓口として、」この意味が分からん。
「丗有王」を代々の王とせず「(伊都国には)当時」と訳して「皆(代々の伊都國王・代々の旧倭国王)」と代々を入れるのは変。
>>335 >明確に確認できたら目的の港に直接はいるだろ。島の北端に着く必要はないな。
「渡一海」は一つ海を渡るの意味、港に直接入いったかどうかは問題外。
338 :
九州王朝大好き:2009/02/18(水) 17:40:48
>>337 >「丗有王」を代々の王とせず「(伊都国には)当時」と訳して「皆(代々の伊都國王・代々の旧倭国王)」と代々を入れるのは変。
「世有王」は「(伊都国には)当時、代々続いている王(弱体化した倭國王帥升の系列)がいて、」です。
「代々続いている」が抜けています。
後半にまた「代々」と出てくるので、判りきったこととして省略しました。
>「 邪馬壹國は倭人の宗主国でもあるので、倭人国である狗耶韓國を窓口として、」この意味が分からん。
説明が下手糞なので、後で書き直します。
339 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 07:26:29
>>336 >對馬國は実際の形は200里×800里であるので、正方形に換算して400里×400里の方400里
200里×800里は2辺の和は千里だ。八百里というのはやっぱり算数が分からないんだな。
>壱岐島は弥生期から島の西北端に湊があるのです。
対馬はどうする? 壱岐だって港を出たところから千里の計算が始まるんだよ。
でなければ、千里に足りないだろ。
>>337 >「渡一海」は一つ海を渡るの意味、港に直接入いったかどうかは問題外。
港に入らなくても同じだ。海を渡ったときに島の南端に着くことも考えられる。
340 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 15:34:06
>>339 >海を渡ったときに島の南端に着くことも考えられる。
「度一海」は海を渡るだから島の南端に着くはない、
海峡を渡るだから対岸に着くまでの意味、
島の大きさを考慮しないと「循海岸水行」のような文がまた必要となる。
341 :
九州王朝大好き:2009/02/19(木) 17:42:10
>>339 以下は地図をよく見て考え理解しようね。君がアホでなければ。
>200里×800里は2辺の和は千里だ。八百里というのはやっぱり算数が分からないんだな。
對馬國は実際の形は200里×800里ではあるが、
文献上は正方形に見做しているから400里×400里の方可400里。
であるから、文献を読み解く場合には、400里+400里=800里となる。
>対馬はどうする? 壱岐だって港を出たところから千里の計算が始まるんだよ。
>でなければ、千里に足りないだろ。
狗耶韓国から對馬に渡る場合、對馬の到着点は島の北西端の沿岸しか存在しない。
對馬から壱岐に渡る場合も、出発点は對馬の南西端の沿岸、到着点は壱岐の西北端の沿岸しか存在しない。
壱岐から唐津に渡る場合も、出発点は壱岐の南西端の沿岸しか存在しない。
ここで、文献は島の正形が方形と見做しているから、
魏使の船がそれぞれ島の湊に寄ろうが寄らまいが、
魏志の船は、それぞれの島の北岸東岸2辺若しくは西岸南岸2辺を通らるを得ない。
ゆえに、魏使の道程には各島の2辺の和(400+400)+(300+300)=1400里を加えなければならない。
342 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 18:53:42
>>303修正
『三国志魏書』倭人伝には伊都国が卑弥呼の都であると明快に書かれている。
伊都国には「丗有王 皆統屬女王國」と書かれている。
和訳すると「(伊都国には)魏の治世、王(卑彌呼、壹與)がいて、皆(倭の国々)は女王国(伊都国+奴国)に統属した」となる。
世は世世より短い期間を指す。
魏志の文中で「丗有王」なので、この世は魏の使者が倭を訪れた魏の治世(45年間)を指す。
魏志倭人伝中、紹介されている王は、女王卑弥呼と狗奴国王だけであり、
狗奴国王が「丗有王」の王とは考えられないので、この王は女王卑弥呼と其の後継者壹與を指している。
皆とは「今使譯所通三十國」の倭の国々のことを指している。
従来の訳では、
邪馬壹國と伊都国にだけ王の説明が有り他の国々には王の説明が無い理由の説明が付かないが、
上記のように邪馬壹國(女王國)の王都が伊都国訳すと問題が解決する。
343 :
九州王朝大好き:2009/02/19(木) 20:57:19
間違い修正
× 對馬から壱岐に渡る場合も、出発点は對馬の南西端の沿岸、到着点は壱岐の西北端の沿岸しか存在しない。
○ 對馬から壱岐に渡る場合も、出発点は對馬の南東端の沿岸、到着点は壱岐の西北端の沿岸しか存在しない。
× 壱岐から唐津に渡る場合も、出発点は壱岐の南西端の沿岸しか存在しない。
○ 壱岐から唐津に渡る場合も、出発点は壱岐の南東端の沿岸しか存在しない。
344 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 03:22:16
>>343 何でそんなこと間違えたんだ? あまりにも現実ばなれした話をしてるからでは?
345 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 08:58:11
>>344 九州王朝大好きさんは説明が複雑すぎ
「度一海」は、
海峡を渡るだから対岸に着くまでの意味(倭人伝だと陸の南端から次の陸の北端まで)
本来は島の横を通過する「循海岸水行○○里」のような文が必要だが、
代わりに島の大きさを示す方可○○里で距離も表現。
346 :
九州王朝大好き:2009/02/20(金) 11:45:14
>>344 ケアレスミスね。
同じような簡単なことを繰り返し書くので、コピペで書いて、最初の間違いがコピペされただけ。
>>342 倭には王が3人いたのだ。
邪馬壹國と狗奴國と伊都國。
邪馬壹國と狗奴國には卑彌呼と卑彌弓呼の初代王が各国に一人だけ。
伊都國は歴代の王がいた。
「世有王」は魏代に入ってから複数の王によって引き継がれていたことを表している。
伊都國歴代王の初代王は「帥升」だと推定している。
推定理由は、後漢書倭國伝諸版の記事である。これは説明が長くなるので省略。
347 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 12:06:05
やっぱり畿内大和王朝は九州王朝の傍流地方政権だった可能性が強いね。
九州王朝の弱体化に乗じて本流を簒奪した。
349 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 18:30:08
>>346 邪馬壹國の時代に倭には邪馬壹國の卑彌呼と狗奴國の卑彌弓呼の二人だけ。
伊都國の王は邪馬壹國の卑彌呼。
350 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 19:52:07
>>346 >「世有王」は魏代に入ってから複数の王によって引き継がれていたことを表している。
世は世世とは違って短い期間のことで魏代のことで、複数の王とは卑彌呼と壹與の二人ですね。
魏は45年しかない、この間に伊都國で大勢の王が次から次へ即位したのは変でしょ。
皆は伊都國の王ではなく、倭の国々のことですね。
倭の国々は女王國(伊都國、奴國)に統属されていたんですね。
イヨタン・・・・・・・・・・
伊都国と書いてイトコクと読んだのかどうか、まず、はっきりしません。
伊豆国と書いてイトコクと読んでいた可能性もあるし、伊都国は当時
日本の広い範囲を支配していた安曇氏(≒出雲)で、その女王が卑弥呼
だったとすれば、その中心都市である邪馬台国は、東へ西へ遷宮を繰り
返していたとしたほうが理にかなっている。
353 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 01:40:35
>>350 >皆は伊都國の王ではなく、倭の国々のことですね。
倭の国々全部では話がおかしくなります。これまでに出てきた国々ということですね。
すなわち、対馬国から伊都国までを指します。
354 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 08:34:20
>>341 >狗耶韓国から對馬に渡る場合、對馬の到着点は島の北西端の沿岸しか存在しない。
狗邪韓国から巨済島、そして巨済島の南端から直接浅茅湾だろう。対馬の北の端に
対馬の首都があったとは思えないな。
355 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 09:13:11
>>353 >対馬国から伊都国までを指します。
皆は「今使譯所通三十國」の倭の国々のことです。
倭の国々は皆、女王國(伊都國、奴國)に統属されていたんです。
356 :
九州王朝大好き:2009/02/21(土) 21:20:15
>>354 >狗邪韓国から巨済島、そして巨済島の南端から直接浅茅湾だろう。対馬の北の端に
>対馬の首都があったとは思えないな。
狗耶韓國は島ではありません。
釜山近辺の半島側にありました。
魏志韓伝をよく読んで下さい。
對馬の城郭が島の北西端にある必要はありません。
島の何処にあってもよろしい。
357 :
九州王朝大好き:2009/02/21(土) 21:27:38
>>355 >倭の国々は皆、女王國(伊都國、奴國)に統属されていたんです。
伊都國は女王國に含まれません。
帯方郡より伊都國までの道程は11900餘里で、12000餘里に100里足りません。
358 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 22:43:24
>>357 >帯方郡より伊都國までの道程は11900餘里で、12000餘里に100里足りません。
帯方郡より奴國までの道程が12000餘里ですね。
女王國には伊都國だけでなく奴國も含まれるのです。
『丗有王 皆統屬女王國』の従来の直訳「代々王がおり、皆、女王国の統治下に属す」は正しいが意訳を誤っていた、
正しい意訳は「伊都国には代々王(魏の治世の伊都国の王、卑彌呼、壹與)がおり、皆(『今使譯所通三十國』の倭の国々)を女王国(伊都国を中心とする女王を共立した国)が統屬する」である。
従来の意訳は世を単なる伊都国の代々の王とし、皆も伊都国の代々の王としてしまったのが誤りの原因。
魏志倭人伝に書かれた倭の王は邪馬壹国の王と狗奴国の王しかいない、更に歴代の王名まで書かれているのは邪馬壹国だけ、つまり伊都国の歴代の王とは邪馬壹国の王の卑彌呼と壹與のこと。
皆が代々の王のことを指しているなら『丗有王 皆統屬女王』だけで「代々の王は皆、女王に統屬する」と十分に意味が通じる、国が無い方が『丗有王 皆統屬女王國』の「代々の王は皆、女王国に統屬する」より簡潔で分かりやすい。
態々、女王と書かず女王国と書いたのは皆が王ではなく国(『今使譯所通三十國』の倭の国々)のことを指しているので合わせて女王にも国を付けたのである。
359 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:14:20
>>353 >>皆は伊都國の王ではなく、倭の国々のことですね。
>倭の国々全部では話がおかしくなります。これまでに出てきた国々ということですね。
>すなわち、対馬国から伊都国までを指します。
伊都国の説明に出てくる皆ですから、伊都国と対馬国などの他の国を同列には扱いません。
皆は伊都国(女王国)を含まない倭の国々のことです。
だだし女王は伊都国+奴国。
360 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 23:10:56
それは誰の説ですか?
361 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 23:39:53
そもそも、伊都国を糸島に比定してしまったことに問題があるんじゃないのか?
362 :
九州王朝大好き:2009/02/24(火) 00:04:56
>>360 >>580-581は、580-581氏の自説だ。
説としては僕に近いところもあるが、自己矛盾をきたして論として明らかに間違っているところがある。
間違いは伊都國が女王國の中の一国であると主張していること。
帯方郡より女王國への道程は12000餘里である。
一方、帯方郡より伊都國への道程は11900餘里である。
又、帯方郡より奴國への道程は12000餘里である。
ゆえに、伊都國は女王國に含まれないが、奴國は女王國に含まれる。
伊都國は女王に面会する為の待機場所である。
シナでは皇帝や王に面会する場合には、
その居城の1日から数日の距離の所で面会許可を待つ習慣があった。
女王の居る邪馬壹國も伊都國から1〜数日の距離にあるのだ。
363 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 00:08:04
>>356 >狗耶韓國は島ではありません。釜山近辺の半島側にありました。
>魏志韓伝をよく読んで下さい。
魏志韓伝に狗邪韓国の位置など書いてあったか?
364 :
九州王朝大好き:2009/02/24(火) 12:04:50
>>363 (弁辰)狗耶(韓)國として、およその位置がわかる様にかいてありますよ。
島部でないこともわかりますよ。
記述内容の論理的帰結として巨済島は倭人地域であることも推定されます。
365 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 12:10:24
>>362 >帯方郡より女王國への道程は12000餘里である。
>一方、帯方郡より伊都國への道程は11900餘里である。
>又、帯方郡より奴國への道程は12000餘里である。
>ゆえに、伊都國は女王國に含まれないが、奴國は女王國に含まれる。
『奴國は女王國に含まれる。』は問題ない。
何故『伊都國は女王國に含まれない』と言えるのか?
奴國は「有二萬餘戸」と女王国(邪馬壹國)「可七萬餘戸」の中では最大級の国、
『帯方郡より女王國への道程は12000餘里である』の場合は、
帯方郡庁より女王國の中心地、奴國までが12000餘里であり
女王國は周辺の伊都國やその他の国々を含んでいてもおかしくない。
366 :
九州王朝大好き:2009/02/24(火) 15:54:29
>>365 >奴國は「有二萬餘戸」と女王国(邪馬壹國)「可七萬餘戸」の中では最大級の国、
女王國≠邪馬壹國
なぜなら、
邪馬壹國は女王がいる都がある国。『邪馬壹國女王之所都』原文
邪馬壹國も女王國の中の一国である。
帯方郡より12,000餘里の国として、奴國以外に不彌國がある。
ゆえに不彌國も女王國の中の一国と見做せる。
女王國を構成する国は、奴國、不彌國と邪馬壹國である。
投馬國も女王國を構成する国であるが、この説明は今は省略する。
よって女王國を構成する国と云えるのは、奴國・不彌國・投馬國・邪馬壹國の4ヶ国である。
367 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 16:35:23
>>366 >女王國≠邪馬壹國
>なぜなら、
>邪馬壹國は女王がいる都がある国。『邪馬壹國女王之所都』原文
>邪馬壹國も女王國の中の一国である。
原文『南至邪馬壹國 女王之所都』の直訳は「南に邪馬壹国に至る、女王の都することろ」
つまり邪馬壹国が女王の都の有る国だと言っている。
邪馬壹國が女王國である。
>帯方郡より12,000餘里の国として、奴國以外に不彌國がある。
>ゆえに不彌國も女王國の中の一国と見做せる。
奴國も不彌國も女王國の中の一国です。
12,000餘里は原文『自郡至女王國萬二千餘里』です
『自A至B』とはAの中心地からBの中心地までの意味です。
『自郡至女王國』では郡の中心地(郡庁)から女王國の中心地(奴國)までの意味です。
>女王國を構成する国は、奴國、不彌國と邪馬壹國である。
>投馬國も女王國を構成する国であるが、この説明は今は省略する。
>よって女王國を構成する国と云えるのは、奴國・不彌國・投馬國・邪馬壹國の4ヶ国である。
女王國=邪馬壹國と考えてよいでしょう。
邪馬壹國は北部九州にあり
對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、為吾國、鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國
の国々で構成された国です。
368 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 23:02:02
やはり、伊都國が問題らしい。
邪馬台国はフィリピンではないだろうか?
369 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/24(火) 23:08:20
PuPuPu!ww
370 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 23:33:04
>>368同意。伊都國とは沖縄の糸満市付近ではないでしょうか?
海底に消えた幻の古代沖縄王朝こそ邪馬台国だったのです。
沖縄の儀式は、神道の原型だろ!
372 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 21:41:47
373 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 00:29:30
イスラエル
375 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 11:32:38
>>373 天照大神信仰の発祥と言うことか?
発祥と言っても色々な意味がある。
具体的には三貴神神話の成立をもって語るべきだと思うが、
アマテラス=日神と言うことなら世界中にある。
伊勢神宮の遷宮の歴史を調べれば、
アマテラス=卑弥呼説に無理があることがわかる。
377 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 19:00:13
伊勢神宮は始め熊本県の八代にあったらしい。
八代の前はどこにあったのですか?
朝鮮半島?それとも中国揚子江沿岸?
379 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 21:38:01
現在でも鹿児島県伊唐島では、八代海のことを伊勢海と呼ぶそうです。
古代から八代は「やつしろ」と発音されていたのだろうか?
もしかしたら、「はちだい」だったのではないだろうか?
では、八代(はちだい)とは何か?そう、欠史八代です。
欠史八代とは八代(やつしろ)にあった九州王朝のことだったのだ?!
381 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 23:28:53
「八代」の地名の由来は天照大神を祀る社(やしろ)です。
382 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 00:23:32
>>367 >つまり邪馬壹国が女王の都の有る国だと言っている。
>邪馬壹國が女王國である。
邪馬台国が女王の都のある国だというのならば、邪馬台国=女王国ではなく、
邪馬台国は女王国の一部にすぎないとみるべきだろ。
>『自郡至女王國』では郡の中心地(郡庁)から女王國の中心地(奴國)までの意味です。
女王国の中心地は邪馬台国であり、奴国ではない。女王の都するところが邪馬台国である
以上、それは当然のことだ。
それに、伊都国、奴国、不弥国などは、一大率の検察を受ける「女王国以北」の国だ。
女王国に入るわけがない。
女王国というのは、邪馬台国を中心として、そのまわりの旁国を含んだ概念だ。投馬
国も女王国に入る。つまり、邪馬台国+投馬国+旁国21国、これが女王国だ。
383 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 06:37:57
384 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 12:53:23
「やつしろ」じゃないのか・・・
欠史やつしろ?東遷したんじゃなかったの?
いずれにせよ、欠史八代と、八代は深い繋がりがありそうです。
後の世の話になりますが、防人は、なぜ東国だけから徴兵したのか考えてみました。
防人とは、自衛隊と同じで、戦闘時以外は訓練以外にやることがなくて暇なのです。
それで、若い防人を集めて、大和の習慣や読み書きを教えていたのではないかと思
うのです。3年間の兵役を終えて帰国するころには、読み書きもできる立派な大和人
になっていた。万葉集の東人の歌を読めば精進の様子が伺えます。
387 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 22:08:28
「欠史八代」という語を初めて使用したのは津田左右吉。
だから古くても明治時代だ。
綏靖〜開化の八代や熊本県八代市と、九州王朝とは無関係。
388 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 22:14:16
>>387 津田左右吉は欠史八代が八代にあった九州王朝のことだと気づいた。
しかし、当時の時代背景ではそれを言い出せなかった。それで、隠語
として欠史八代という言葉を考え出し、後世に伝えたということですね?
さすが津田先生。改めて尊敬します。
389 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 00:37:06
390 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 14:26:23
391 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 14:37:31
地名由来説話はあてにならないものが多いわけだが
佐賀県佐賀市大和町大字久留間
ここが邪馬台国の難升米(奴の将 久留間)の本拠地だったことは間違いないと思われます。
ここには、伊弉諾尊・伊弉冉尊を祭る男女神社があり、この二人は実は卑弥呼と弟王だった
のです。
393 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 21:45:54
球磨川の中流の人吉には伊勢大神宮なる神社がある。
何故、伊勢大神宮なのか地元の人も知らない。
伊勢その1
天皇家の二所宗廟は宇佐と伊勢
(二箇所とも九州ならば、近畿ならば自然なのに、、、随分離れてますね)
伊勢その2
伊勢神宮の参拝者は二見が浦で禊を行わなければならない
(有名な夫婦岩がある所ですね、、、何故かひっそりと対馬の神を祭ってますね)
伊勢その3
実は夫婦岩は九州にも存在した
(場所は福岡の志摩の二見が浦、、、「福岡」の「志摩」の「二見が浦」ですね)
どちらが元祖?どちらがモニュメント?その答
二箇所の夫婦岩の前に立てば分かります
(一目瞭然らしいですね、、、)
僻遠の地である九州の地方勢力を統合する際、
地元の信仰を取り入れて、それをヤマトの神話に施入した。
んで、それの代品を伊勢周辺で探した。それだけだろ。
記紀成立より以前の古代社会じゃ、ごく普通のありふれた現象。
被支配側、服属側の神話を、支配側の神話の中の、わりと重要な部分に挿入するのは、
神話時代には日常茶飯事だった。
中国の神話的時代のことも同様だ。三皇五帝には、南方的要素や非支配地の要素も多く入ってる。
396 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 22:42:04
397 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 23:09:18
阿蘇 ASO 宇佐 USA
伊勢 ISE 忍坂 OSI
398 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 06:56:03
USA!USA!
IYO・・・・・・tan・・・・・・
400 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 10:36:22
Aha
401 :
九州王朝大好き:2009/03/10(火) 11:30:56
402 :
九州王朝大好き:2009/03/10(火) 13:38:30
403 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 17:35:16
あちこちにある二見浦と伊勢神宮は関係がありそうだ。
伊勢神宮の遷宮の跡かもしれない。
404 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/03/13(金) 09:41:46
405 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 09:58:42
406 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 21:14:33
>>405あんたが出てくると、スレが止まるんだよな。もうやめろ。
まあ、多分それが目的の、いわゆるコピペ荒しの一種
なのだろうけれど・・・
407 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 20:40:43
>394
伊勢はともかく、宇佐が皇室の宗廟病になったのは、大仏建立の時。
大量の銅と一緒に経済援助をしたおかげ。
伊勢もたぶん同じ時じゃないかな。書記では神宮なのが、続日本紀では、大神宮になってる。
伊勢の援助物資は水銀。
どちらも宗廟になったのはずっと後で、九州王朝とは無関係だろ。
408 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 16:42:20
宗廟ってご先祖様の墓であって自ら家系の歴史だろう。
それを大仏建立の協力程度で名乗らせるとは思えないな。
むしろ、皇室そのものか、後に皇室につながる誰かの
係累であると考えた方が良い。
もし、宗廟がこのときに接地されたのなら、本当の
宗廟は消去されたことになる。それはいくら何でも考えにくい。
409 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 19:25:23
USA!USA!
わしもお金持ちとは親戚付き合いがしたいズラ。
そういえば、死んだ爺さまは宇佐家から養子で、
婆さまは伊勢の類縁だと聞いたことがあるズラ。
お金持ちはみんな親戚になるズラ。
411 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:18:54
>408
それ以前の躁病って何処にあったの? 教えてくれ。
聞いたことない。
躁病って、儒教の概念だから、儒教の入ってない時代には躁病はなかっただろ。
ま、躁病って、当時はその程度のモン。
412 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 15:25:19
伊勢神宮が国家神になったのは文武10年って説があるぞ。「アマテラスの誕生」
延々古墳を作ってきた連中に躁病が必要だったとも思えんし、
ま、みんな思ったよりずっと時代が下ると考えたほうがいいんじゃない。
大仏建立がどれほどのものだったかは、続日本紀でも読んでみな。
九州王朝はなかった。しかし、神武以前に日本には世界統一王朝があったようだ。
阿蘇山の噴火とそれに続く地殻変動で阿蘇王朝が滅んだ後は、富士山にわずかに
その子孫が残って王朝を維持したのではないかと思われます。
414 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 00:44:44
突然、ランクの違うこと言うな。
ムウでも読んでろ。
真実から目をそらしてはいけない。
416 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 07:06:20
総合運動公園や中央公園、〇〇緑地といった大きな公共施設の隣に小さな神社が
残っていることがよくあります。
現在は、その縁起も不明になり、小さな祠が地元の人によってお稲荷さんや八幡さま
として細々と維持されている場合が多いようです。
大昔は、大きな神社があったけれど、その地域を支配する権力者が変わったために
衰退してしまったと想像できます。
これは、つまり、昔はその一帯が神社の神域だったと考えられます。
人吉伊勢大神宮もそういう一例かもしれません。
「お伊勢講」の人たちが江戸時代に勧進した末社ですね
419 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 23:05:05
>>418 相良氏の支配下の記録は残っているので、
縁起が不明な人吉伊勢大神宮は相良氏が人吉に来る鎌倉時代以前にはすでに存在し、
平安時代には人吉に既に有ったと考えられる。
420 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 12:40:55
マップーで人吉伊勢大神宮を検索したら、
以下の様になっていた。
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人吉伊勢神宮、球磨川の氾濫で村ごと川底に沈んでしまった。
そのなごりとして人吉伊勢神宮という小さな祠を祭った。
そんな感じじゃないかな?
422 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 21:11:06
まぁ「九州王朝」がこんな笑い話になるなんて、
いい時代だなあ。
424 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 23:18:38
>423
どっちの意味で?
425 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 23:27:48
こんな笑い話って、なんのこと?
426 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 01:22:50
風前の灯
九州説?そういや昔そんなのがあったな。
もしかして、お前もガチガチの九州説信者じゃなかった?プッ
こんな感じかな。
428 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 10:22:45
そもそも邪馬台国九州説が風前の灯火であるのに
九州王朝説も何もあったもんじゃないと思うのだがwww
429 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/05(日) 10:34:09
当時の古代、大陸は諸葛孔明の天下三分の計のとおり、魏蜀呉の三国の局面に
あった。半島も一国ではなく他国に分立していたのだ。
同様に当時の日本も畿内朝廷の一国ではなく、天下が二分の局面にあったという
ことが真なのである。つまり日本は当時天下二分の系であったということを覚知
する日本人が、古代史の諸葛亮級たる賢人なのであ〜る。
日本がそのころ一国だと考えてる奴は妄想のお脳なのだ。ww
レッドクリフを見てくるといいと思う。>諸葛孔明太国さん
当時の造船技術は、蒸気機関が発明される以前の近世の
造船技術と変わらないどころか、それ以上のものがあった。
当然、大陸からも大型船が渡ってきたし、日本も九州から
津軽海峡まで、すでに一つの勢力圏であったと考えた方がよい。
もちろん、内陸部には小国が多数あったであろうけれど、
倭大乱というのは、九州の局地的な戦いではなく、
九州と吉備、出雲と東国、蝦夷に及ぶ大きな戦いであったとする
べきではないかと思う。
431 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/05(日) 11:08:40
今夜PM8時、東京MXTV 9ch で三国志をやる。諸葛亮が登場寸前からずっと
見て来たが、なかなか面白い。孔明も相当年をとってきて、張飛が寝首を取られ
た場面が終わったところだ。以前は火水曜にやってたが、いまは不定期放映だな。
五丈原までやるだろう。諸葛亮の俳優はなかなかよい。
432 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/05(日) 11:18:59
孝靈天皇山陰行幸も大乱のころだな。その視察収拾の目的とかで行ったんだろう?
433 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 22:44:52
古代史面白くて数10冊読んだけれど、どうしてもわからないことがあります。
九州王朝があったとして、どうして奈良盆地まで東征したのでしょう、なんの
魅力があって?
伊勢に上陸したとして2,30年もかかっても侵攻するほどの魅力が奈良盆地の
どこにあったのでしょう、本拠地を捨ててまで?
筑紫平野で十分米は取れたろうし、こっちの方が先進地域だからなにもわざわざ
辺地に大挙して大苦労してまで押しかける理由はないと思うのですよ。
434 :
九州王朝大好き:2009/04/07(火) 13:01:26
>>433 九州王朝の直轄支配地は九州島だけです。
伊予・周防は強い影響力を持った地域で直轄支配地ではありません。
435 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 17:29:04
畿内は2世紀までは銅鐸文化圏だし
銅鉾・銅戈の分布からするといわゆる九州王朝の中心が博多なら
九州島というより福岡・大分・山口・愛媛・高知って感じ
436 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 22:34:02
>>433 東征は九州王朝内ではうだつの上がらない一部の勢力が、
新天地を求めて移住したもので
本拠地の九州王朝は本拠地を捨ててなどおらず、
8世紀のはじめまで存在した。
辺地に大挙して大苦労してまで押しかけたは誤り。
437 :
433:2009/04/07(火) 22:55:12
>>436 もしそうなら中国や四国の瀬戸内沿岸を狙うでしょう。
なぜまたはるばる奈良盆地になるのでしょう?
奈良盆地の豪族も強大だったから簡単には征服できなかったわけで。
あぶれ集団でなんとかなるようなところではないし、とてつもなく
遠隔の地ですから。
438 :
433:2009/04/08(水) 11:32:33
>>434>>435 瀬戸内沿岸は九州王権地だったとすれば、すでに出雲王権地があり、大和王権
地があり、尾張王権地があり、関東王権地があったと言うことなのでしょう。
いわゆる征服欲とか権力欲で九州王権が大和王権を乗っ取ろうと押し寄せてき
たのでしょう。
この征服欲の旺盛な九州王権だったからこそ倭の国全域支配を達成したのでしょう。
そしてやはり大和が地理的にも倭の国の中心だったからなのでは?
ここで奈良盆地の地理的優位性の大きな要素のひとつは、昔も今も資源はロク
な物がないがそこそこの平野があって大集落地に向き、米がとれ、支配地からの
物資集積に便利な河がある。
そしてなにより韓くにから遠く、しかも海から遠く、かの地の影響を直接受けなく
て済むからでしょう。
439 :
433:2009/04/08(水) 11:39:40
魏志倭人伝を読んですぐに気がつくことは、中国の使者が邪馬台国の
すぐ傍まで来ていたらそこを訪問しないわけがないと言うことです。
しかし記述のどこにも訪問の記録がない。
つまりそれは北九州からよほど遠い遠隔地だったし、無理して行くに
しても治安の保障がなかったからでしょう。
440 :
サガミハラハラ:2009/04/08(水) 12:18:53
訪問の記録って、卑弥呼以て死すと墓の造作と葬式の様子がかいてありますが。
441 :
日本@名無史さん:2009/04/08(水) 13:00:16
>>439 伊都国が邪馬台国の王都だったのです。
中国の使者が倭に来たのに邪馬台国の王都を訪問しないはずがない。
442 :
日本@名無史さん:2009/04/08(水) 13:06:49
>>437 中国や四国の瀬戸内沿岸にも別の連中が次々と押し寄せ、
たまたま奈良盆地を占領したのが神武。
遅れて西国から奈良盆地に来た方が新しい武器や技術を持ち、
在地の豪族を攻め滅ぼしてしまったのだ。
443 :
日本@名無史さん:2009/04/08(水) 20:19:14
伊都國は伊豆(いと)国で、邪馬台国とは富士王朝が西遷して作った都です。
富士王朝は、もともと水戸から三河、三重(伊勢)付近までの海岸線や河川
を勢力圏としていました。
九州王朝が集団で海を渡って畿内に移り住んだというのは誤りです。
九州から呼び寄せたのは女王卑弥呼だけだったのです。
倭人伝の解釈だけなら、なんとでもできるという証拠のような議論ではないか。やはり九州
説も遺跡・遺物ををもって語らないと客観的判断は得られんと思うよ。
445 :
サガミハラハラ:2009/04/09(木) 21:18:45
九州説も遺跡・遺物をもってとおっしゃられるが、畿内説ではどのような遺跡・遺物が存在するのでしょうか?
具体的にあげてみてください。
畿内にも、めぼしい遺跡がありませんね。確かに・・・
447 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 23:26:48
遺跡、遺物では邪馬台国の所在など分からない。
まず、倭人伝の正しい解釈だよ。
448 :
サガミハラハラ:2009/04/10(金) 00:09:01
もし、倭人伝が正しく解釈され、邪馬台国の都とおぼしき所が比定されたとして、
そこに、倭人伝の記述どおりの大きさの丘があったら、それは卑弥呼の墓であると
みてよろしいでしょうか。
449 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 00:39:34
どうもわからないなぁ。
神武東征はその年代は多分紀元100年頃の歴史的事実でしょう。
めでたく奈良盆地を征服してそこの王朝をのっとった。
わざわざ北九州の豪族が大苦労して奈良盆地まで行ったのはそこが倭国
の中心地だったからでしょう。
一方卑弥呼の邪馬台国は紀元200年頃ですね。
とすれば倭国の中心国邪馬台国は奈良盆地にあったとしか考えられない
のでは?
>>447 倭人伝の正しい解釈よりも、まず倭人伝が正しいかどうかの証明が先だよ
451 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 01:00:26
算数じゃないんだから、正しいレベルが無数にあって、正しい証明ができたといっても、何も決まらない。
452 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 01:48:22
この問題の鍵は壬申の乱にあるんだよ
日本書紀に記された天武天皇の吉野から不破までの行程
あれが全く不可能なんだ
東アジアの古代文化って雑誌に30年も前に発表されてる
壬申の乱が創作だとするとそれ以前は何か
仁賢以前は古事記の記事もあるので大和の地域史として認められるが
武烈以後天武までは日本書紀編者による作文である可能性が高い
453 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 10:34:59
>>450 正しい解釈をしなければ、倭人伝が正しいかどうかもわからないよ。
454 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 12:32:05
奈良に耳成山(ミミナシ)という小山があるが、これは倭人伝にあるミミナリではないか?
455 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 12:41:45
>>443 奈良盆地のような田舎が倭国の中心地のはずがない。
倭国の中心地は北部九州。
奈良盆地を征服してそこの王朝をのっとったのは北部九州から追い出された勢力。
行き場がなかったから奈良盆地を征服した。
456 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 13:18:02
つまり、九州王朝は大和朝廷に九州北部を追い出されて滅亡したわけだね。
457 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 13:43:24
8世紀初めに九州王朝は分家の大和朝廷に九州北部を追い出されて滅亡したわけです。
458 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 16:50:49
>>455 新説ですか?
途中10年も瀬戸内沿岸に駐留するではないですか.
大阪湾から攻め入ったが撃退されて,伊勢に廻ってさんざん苦労して,
ようやく勝つ.
そこまでして奈良盆地に執着したのは,そこが権力の中心地だったか
らとしか考えられません.
神武天皇の意識は「中原を征す」つまり天下取り以外にはなかったでしょう.
他にもっともらしい説明が作れますか?
459 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 18:13:21
>>455 もし北九州が倭国の中心であったとすれば,神武天皇時代(卑弥呼より
百年は前)に奈良盆地に遠征する理由が無い.
あぶれ集団ならもっと手近で占領するのに容易な平野を狙うでしょう.
岡山辺りは7年も占領出来たわけですから.
なにが悲しくて兄弟を何人も死なせてまで奈良盆地まで行くのですか?
こういう歴史的大事件をその動機を常識で考えもせずに説を立てるのは
どうしてなんでしょう?
460 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 18:21:35
>>455 現在でもそうですが,兵站線が遠いと莫大なコストがかかります.
USAにしてベトナムに勝てなかったのはそう言う理由です.
当時の北九州から奈良盆地に進撃なんて,よほど本国のバックアップ
がなければ不可能です.
結局途中10年以上もかかって兵士の補給,武器や兵糧の充実を図って
ようやく成功するわけです.
いわば北九州全土が渾身の資源をつぎ込んだのに違いないはずです.
なぜそんなことをしたのか?
今まで誰も詳しく論じていないのが不思議でしかたがない.
461 :
ローガン:2009/04/10(金) 21:01:28
462 :
444:2009/04/10(金) 21:27:21
444だけどさ。畿内説は置いとくとして、例えば不彌国は○○だ、といったとして、そこに
遺跡も遺物もなければ、議論はそれで終わり、先へ進まねんじゃねえの。「甘いな!」とか
いわれて。倭人伝の解釈はプロが百年以上やってて結論出てないんで、2chなら、それ
以外のアプローチをやるべきと思うんだがな〜。
463 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 21:32:28
>>459 >>460 奈良盆地は権力の中心だったなんて思っているのが大きなまちがい。
遺跡、遺物からすれば、京都周辺の方が中心だったはず。奈良盆地は大したところ
ではなかったから、割り込めたんだって考えるべきなんだよ。
464 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 01:15:44
奈良盆地とは天然の要塞。まほろばの里です。
465 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 08:37:24
神武東征神話は、実際には神武一人の業績ではないと考えている。
数代、百年くらい掛けて九州北部を出た勢力が
瀬戸内沿岸などに入植し徐々に東方に移って行き奈良盆地にまで達したもので
後に神話が創られた時に神武の業績として纏められたものだろう。
466 :
九州王朝大好き:2009/04/11(土) 10:38:35
>>465 同意。
それも消えてしまった無数の失敗例の中の唯一の消えなかった成功例。
468 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 11:52:45
こしき ふきたてず!!!
470 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 16:38:25
471 :
458,459:2009/04/12(日) 03:45:30
>>470 全然答えになっていないなぁ。
神武が一人か数代に渡っているのか、そんなことはどうでも良いのです。
東征の動機が何かがなぜ議論されないのか、と言うことなんですよ。
>>471 >東征の動機が何かがなぜ議論されないのか
「東征」と言うのは日本書紀上の用語・概念だ。
そして、その「動機」は日本書紀に明記されている。
議論の余地は無いだろう。
また、歴史学としての話であれば、九州で定着した稲作農業が、
新たな耕作適応地を求めて、人的・技術的に東進したことも事実。
今更、何を語りたいのか?
エデンの東、カナンの地を求めて東遷を繰り返すのは人間に備わった本能なのです。
日の出ところの王子こそ常にその国の支配者なのです。
474 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 15:48:41
東征ではなく、東への都落ちだ。
近海戦専門部隊=神武ら数十名の退役軍人が、喰いっぱぐれて放浪し、
挙句の果てに奈良で暴力的に小領主になった、なさけない話。
475 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 15:52:44
つまり奈良の原住民はヘタレの神武に征服されるほど無力だったわけだ。
476 :
九州王朝大好き:2009/04/12(日) 16:55:33
>>471 >東征の動機が何かがなぜ議論されないのか、と言うことなんですよ。
食いぱぐれた敗残者が海賊になり下がり瀬戸内海を東へと漂浪した。
最後の上陸戦にも破れ手痛い打撃を受け敗残す。
壊滅した海賊団は野盗となり、だまし討ちにより一村落を攻め落とす。
野盗団はそこに居座り、その頭領は後に神武と呼ばれこととなった。
477 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 00:32:11
神武はへタレではありませんよ。
強力な武器を装備した極めて凶暴な集団でした。
478 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 00:59:11
周辺の豪族に仲よくしましょうと酒宴を呼びかけて
来たらいきなり後ろから斬りかかるとかスゴイ戦術
スサノオが倭のオロチョン族(ヤマタノオロチ)と退治したときもその手を使いました。
しかし、そんな手に引っかかるのはバカというより、1万2千年もの間、ずっと平和に
暮らしてきた日本列島の先住民をだまして住みついた渡来系の民族のほうが悪い
と思いませんか?
倭の王、浦島太郎もきれいどころの接待攻撃で骨抜きになりました。
480 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 00:06:08
>476
8万年前、人類はアフリカを旅立ち、ユーラシアから新大陸へと数万年の旅を続けた。
旅立った理由は全く分かりません。
481 :
九州王朝大好き:2009/04/15(水) 10:45:10
>>480 食料不足 食料確保
それ以外の理由はない。
482 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 12:03:33
483 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 12:48:41
>>480 太陽の登る方向にあるというエデンの東へ行ってみたいという衝動に駆られて旅立ったのです。
あなただって、いつまでも同じ場所にずっと住んでいたいとは思わないでしょう?
それとも、ただの腰抜け?
485 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 21:11:08
>>483 その点についてもいろいろ調べました。その結果わかったこともあるけれど、
日本人は混血が進んでいる上、養子縁組で血統が途切れることもよくある
ので、私の祖先が先住民であるという確証は得られませんでした。
しかし、天孫族が天下る前から日本列島に住んでいた部族集団に属してい
たことはほぼ間違いないようです。
486 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 21:51:09
武陽陰士の文学板でのあだ名は「芋姉ちゃん」です。
>>480 アフリカが乾燥したため、大型獣が北方へ移動し、人類の多くがアフリカから出てしまった。
>>475 一般的に言って、どこにも嫌われ者がいる。
奈良に居た嫌われ領主は、周囲の領主から
「誰かあいつを駆逐してくれないかなぁ」と思われていたところに、
神武らがやってきて、「俺が退治して進ぜよう」と言い出したのでは?
先史時代の人口推計とかやってる人いるよね。
縄文時代は、東日本の方が西日本より圧倒的に人口密度が高かった、とか。
人口密度の高さは、当該地域の生産力の高さと安定性と≒だから、
より強力な権力が存在する代理指標になるはず。
件の時代、九州〜近畿までの食料生産方式は似たり寄ったりだよね。
採集が主体の経済段階では、人口を規制するのは、「もっとも食糧が不足する季節の食の量」だろう。
要するに、冬期の食料だ。
照葉樹林は保存の効く堅果類が乏しかったのと、
東日本では、うまく保存すればそれなりの期間にわたって保存が効く鮭・鱒の漁獲が多かったのが効いたんだろ。
強烈な匂いのする鮒寿司を食べたことがありますか?
あれがうまいと思えるようになればビタミンが豊富な携帯食
といて長距離移動が可能になる。
古モンゴロイドの一派縄文人が世界を制したのは、カヌーと
この保存食のおかげです。
縄文人は米を食えなかったと思うんだけど(入手できなかった)、
その点をどう思うのかな?
493 :
九州王朝大好き:2009/04/23(木) 19:30:57
鮒寿司は初めて食べたときから臭いは気にならなかった。
美味いと思っただけ。
穀類澱粉と麹カビがあれば鮒寿司は作れる。
米ほど美味くはないかもしれんが。
クサヤは臭いな。
臭いに慣れるまでは美味さも吹っ飛ぶ。
腐った小便の臭いに思えるのは僕だけ?
ところで九州王朝はいつから始まったと思う?
517年からだ。
それ以前はプレ九州王朝だ。
494 :
717:2009/04/24(金) 00:37:56
九州王朝とプレ九州王朝って何がちがうんだ?
495 :
九州王朝大好き:2009/04/24(金) 01:19:43
>>494 >九州王朝とプレ九州王朝って何がちがうんだ?
九州王朝 :元号律令を持った九州の政治体制
プレ九州王朝:元号律令を揃って持つ前の九州の政治体制
517年は最初の元号「継体」が始まった年。
516年以前には元号が欠けていたからプレ王朝。
ウガヤ・フキアエズ朝と、自然災害で衰えた後の
よれよれ九州王朝の違いです。
497 :
九州王朝大好き:2009/05/11(月) 11:34:59
九州王朝の宮殿は618年から大宰府(倭京)に置かれたが、
517年から617年までの100年間、九州王朝の宮殿は何処にあったのでしょう?
498 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 13:28:21
>>497 九州王朝大好きさんの説では、熊本県菊池市じゃなかったんですか?
>>498 菊池の語源は、狗口、すなわち狗奴国の入り口だったのだ。
500 :
九州王朝大好き:2009/05/11(月) 22:17:40
>>498 いいえ。
宮殿があったのは久留米市第三次筑後国庁跡付近、と言うのが僕の説。
3年ほど前に確定しました。それ以降変えたことはありません。
>>499 僕は、狗奴國の城郭は山鹿市保田東原遺跡説です。
菊池川流域と言う意味で、狗奴國は菊池。
そこに居た官が狗古智卑狗。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
筑紫平野の情景が眼に浮かぶようです。
翹首望東天,
神馳奈良邊。
三笠山頂上,
想又皓月圓。
503 :
九州王朝大好き:2009/05/17(日) 23:51:16
>>501 >天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
> 筑紫平野の情景が眼に浮かぶようです。
見えるのは、壱岐島と玄界灘と福岡平野東部の山並だよ。
天の原:壱岐島北部
春日:福岡平野
三笠の山:福岡平野東部の山。
504 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 19:42:07
畿内には騎馬民族が入ったんだ。
6世紀の事だ。
505 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 23:07:35
× 畿内には騎馬民族が入ったんだ。
○ 畿内より早く九州には騎馬が入ったんだ。
九州には、縄文水田があります。
>506
それ、「草創期弥生時代」と改名されたんじゃなかったっけ?
んで、弥生草創期はBC1000近辺とか言われるようになった。
草創期って、「水田以外の諸文化は縄文」とされてるから、
縄文水田って言い方にも妥当性があるだろうな。
508 :
九州王朝大好き:2009/05/22(金) 18:53:07
>>507 >弥生草創期はBC1000近辺とか言われるようになった。
北部九州以外は、まだ縄文時代そのものだから、
従来通り縄文晩期で良いと思うが。
509 :
九州王朝大好き:2009/05/22(金) 19:05:29
下記疑問リストは九州王朝成立に大きく関わる事項もあると思われる。
どなたか、アドバイスをいただけませんか?
僕の調査もはかどるのではないかと思い、お願いの次第です。
九州の海についての疑問
玄界灘:玄界の海、北方の海、都の北の海
角力灘:「角力」の由来は?
天草灘:天草の海
島原湾:島原の湾、「灘」や「海」ではなく「湾」なのか? 「有明海」ではなく何故「島原湾」なのか?
有明海:「有明」の由来は? 「湾」や「灘」ではなく、なぜ「海」なのか?
八代海:八代の海、「灘」や「湾」でなく「海」なのか?
日向灘:日向の海
伊予灘:伊予への海
周防灘:周防への海
響灘:響の由来は?
510 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 10:36:04
箸墓と卑弥呼を無理から結びつけて、日本の考古学は五十年後退した。
511 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 12:02:34
邪馬台国九州説・九州王朝説は行程を放射説にして池沼になった。
512 :
サガミハラハラ:2009/05/29(金) 12:45:18
ヒモモソ媛の話は書紀の崇神10年にでています。復元日本書紀紀年法によると
237年ということになります。考古の年代とはまだ13年の開きがあります。考古学者さんあと一息です。
がんばってね。
倭国(九州王朝)イメージ図
→
┌@北半径国(水行十日)┐
邪馬台国(博多)―――――姐奴国(大分)
└A南半径国(陸行一月)┘.|
狗奴国(熊本) ← ↑|↓B(水行十日)
投馬国(宮崎)┘
投馬国まで「水行二十日」=@+B…(北半径国=九州北岸を水行十日)+(九州東岸を水行十日)
投馬国から「水行十日陸行一月」=B+A…(九州東岸を水行十日)+(南半径国=九州内陸を陸行一月)で解決。
邪馬台国イメージ図
狗邪韓国
対馬
一大(壱岐)
末盧→伊都→【不弥】→斯馬・己百支・伊邪・都・彌奴・好古都・不呼
/(博多)【邪馬台国】 \
奴 支惟・巴利・躬臣 爲吾・鬼 姐奴(大分)
鳥奴 邪馬・鬼奴 華奴蘇奴・呼邑・蘇奴・対蘇/
王朝さんへ
今日をもってパート1から参加してた「卑弥呼スレ」「ドンコイスレ」から引退しますね
悪禁巻き添えくってから、正直携帯からの投稿は疲れたし
今後は自分が立てた倭人伝スレだけに集約します。
暇があったらたまに カキコしてくださいな。
では
♪ナイナイナイ。ほら、ドドンコドン!九州説はナイナイナイ。邪馬台国は畿内なんだよ。
あほれ、九州王朝はナイナイナイ。こーんな下らんくず学説を、信じたまんまで死んで
いくのは、おまえの人生なんなのよ。あほれ、九州説はナイナイナイ。九州王朝はナイ
ナイナイ。やれドンドコドンドコ、ウホッホ、ウッホホ。
汚辱にまみれて死んでいく、古田の人生なんなのよ。あほれ、九州王朝はナイナイナイ。
517 :
九州王朝大好き:2009/06/03(水) 20:09:57
>>515 河童虫さん
引退しても、書き人知らずでたまには書き込んでくださいな。
僕も全2chで悪禁巻き添えくっているので、時間の空いたときに書くのが億劫になっています。
接続回線の切り替えが面倒なもので。
この1ヶ月、市況1にも殆ど書き込みしていません。
僕のディーリングルームにはPC3台の6画面があるので、
書きこがなくても2chを見るだけは見ています。
市況が忙しい時は全く見ないこともあるが。
519 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 21:27:41
九州説が正しいなら、畿内の大和はなぜ倭人伝に出てこないのだろう。
当時すでに日本最大勢力だったろうに。
九州が優越していたとは到底考えられないよね。
魏に朝貢=邪馬台国
濁に朝貢=畿内勢力
祟神は、秦の始皇帝の子孫だから、魏に朝貢することは無い。
521 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 21:38:19
エブリバデイ、エーブリバデイ!!今朝私は、黎明の曙光の中で、一つの小さな星が流れるのを
見た。おおお、そうだ、私は見た。ロード ハブ マーシー!!それはかつて、九州王朝と
呼ばれたかそけき星屑だ。イエス、星屑だ!!そうだ、九州王朝はもうない。神の恩寵の
中で、古田とともにその生命を閉じたのだよ。エイメン、エーイメン!!そうだ、ルックイット、
神の福音はあなたたちの背中に、夜盗のように忍び寄るのだ!!!エ〜〜〜〜イメン。
522 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 19:24:03
ねぇーよw
523 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 22:25:10
>>519 銅鐸国が九州勢力にやられる前後だろう? 大和は使者の注意をひくほどのことは
なかったんだろう。
524 :
古田和讃:2009/06/05(金) 00:15:57
帰命頂礼地蔵尊 無仏世界の能化なり
これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる
九州王朝の物語 聞くにつけても哀れなり
この世に生まれし甲斐もなく 虚妄の説を盲信し
諸事の哀れをとどめたり チリーン
四十や五十や六・七十歳 分別あろう高齢者が
九州王朝に集まりて 苦患を受くるぞ悲しけれ
世間と違いて爺たちの 脳内妄想 雲のごと湧くのを
見れば涙の絶え間無し 九州王朝に明け暮れて
いつか人生敗残者 チリーン
西に向いて古田恋し 東に向いて古田恋し
恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり
悲しさ骨身を通すなり 南無古田地蔵和讃 チリーン (以下略)
525 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 03:20:27
>>524 地蔵和讃かw
元ネタ分かる奴あんまりいないんじゃないのか?wwwwwwww
526 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 07:28:49
もうそうだろうね。古田氏環はすっかり過去のものとなっているね。
結局、何の考古学的立証もできなかったからねぇ〜。
小金持ってるおじいちゃんが鴨になっただけのことでしょう。
528 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 00:01:06
>>525 古田王朝説のじじいたちなら確実にわかるだろ。こんな九州王朝説など、うさんくさい新興
宗教となんもかわらん。古田大好きじじいだって、一つ間違えればヨーガ瞑想とかしてた口
だろ。
九州王朝があるっていうのは、教祖が空中浮揚できるっていうのとなんもかわらんと思うね。
巻向の年代鑑定なんて足利事件のDNA鑑定より精度が低い。
冤罪を作り出した犯人が許せません。
>>529 おまえの言ってることはわけわからん。冤罪を作り出したのは、裁判所と検察と警察だろ。
>529-530
あのDNA鑑定は、
「同じDNA型を持つ人間が7〜800人に一人はいる」程度の精度があった。
絞り込みに使う程度の役に立つ程度であって、
「他の人間とは考えられない」という判決文の根拠とするのが無理な程度。
データを解釈する人間が解釈を間違えたから結論がおかしくなったってだけだな。
「犯人の血液型がB型のRhマイナスだと判明した、被告はB型でRhマイナスだから血液型が一致する、だから他の人間が犯人だとは考えられない」
などという推測もどきでは判決理由として通用しないのと同レベルの話に過ぎない。
なかには、「だいたい同じ」とかいう奇妙な理屈も出てくるというが、そこまでいけば、
「AもBも、アルファベットで前後する位置にあるから似たようなものだ」と言い放つにもひとしい蛮行だな。
(塩基配列はデジタルなデータであって、アナログ値じゃないから、「似てる」という情報には意味がない)
炭素14濃度はアナログ値であり、精度とかコンタミ(異物混入)とか誤差の問題が入るし、一定程度の誤差は許容される。
誤差を小さくする技術としての「ウィグルマッチング」を行えば、測定精度より以上の正確な年代を出す余地はある。
532 :
sage:2009/06/06(土) 20:02:14
科学の目で見えてきた日本の古代(メルマガ)最新号より
最近「箸墓」の年代が上がると言う研究が発表され、「卑弥呼」の墓はこれで決まりだという論調も
目立ちますので、そのことに触れておきたいと思います。
従来放射性炭素による年代判定は不確かであるとして陰に陽に抵抗してきた学会が、有利なデータが
出るや掌を返したような反応を示していることは興味深い現象であります。
が、これによって放射性炭素による年代判定が今後とも受入れられ重視されるようになるのであれば、
意義あることだと思います。
(中略)
今回分かったことは「箸墓」の時代が卑弥呼の時代に重なるというだけのことで、それ以外の条件は
依然として満たしておりません。そのような中で多くの疑問に目をつぶって(あえて無視して)
決め手であるかのような発表の仕方は混乱に一層の拍車を掛けるだけであるように思われます。
このような議論の進め方を見ていると、専門家による日本の古代研究が一般に通用するのは未だ
先のことだと言う感じを深くせざるを得ません。
また、取り上げる大手メディアのほうももう少し勉強して、ただ言われるとおりに記事にする
(たれ流す)だけでなく、疑問点に対する突込みを期待したいのですが、所詮叶わぬ願いなのでしょう。
(以下略)
引用者の意見:古代史が分かりにくいという以前に、
事実の共有ができないまま結論だけ振り回したがる人が多すぎる。
533 :
炭坑節:2009/06/07(日) 00:44:47
月が出た出た 月が出た ヨイヨイ
九州王朝の 上に出た
あんまり古田さんが 偉いので
さぞや畿内説は けむたかろ サノヨイヨイ
一山 二山 三山 堀り ヨイヨイ
マキ向 邪馬台国というけれど
なんぼ色よく ねつ造しても
古田さんが認めにゃ 仇の花 サノヨイヨイ
あなたが畿内説を 云うのなら ヨイヨイ
思い切ります 別れます
邪馬壱国を 読む前に
返してくれたら よいけれど サノヨイヨイ
今、書店に並んでいる、古代に真実を求めて 第十二集 を読むと、古田ファンである
古田史学の会メンバーと古田さん本人とで、いくつかの意見の相違点が見える。
例えば
難波宮というと、
@大阪・・・・・・・・・通説だが、古田史学の会メンバーたちもこれ
A九州の香椎あたり・・・古田さん本人が、かなり固執している
古田さんが「まるきり衰えた」とは言わないが、「やはりトシだ。衰えつつある」点は、理解できよう。
ちなみに、東日流外三郡誌 に言及しているのは、古田さん本人(P20)くらい、
他の人には取り上げようとする気配すらない。
535 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 14:00:23
536 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 14:07:44
九州王朝説の持つイメージ
・紅茶キノコ ・開運印鑑 ・霊障つぼ ・義経=ジンギスカン説 ・モンゴリアン=デスワーム
・加齢臭 ・リック=フレアー ・ポリデント ・高速道路逆走 ・ジャコウネズミさん
・ポラポラのマルコじいさん ・天井桟敷の人々 ・筒井 順慶 ・ばば ザ バビィ
・失禁 ・西條八十 ・小金による株個人売買 ・バルサン
537 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 16:42:57
続き
・自転車泥棒(伊映画) ・放屁臭 ・ドンタコス ・ジャンピング-ネックブリーカー-ドロップ
・泣いた赤鬼 ・ナイト-オブ-リビングデット ・ホレイショ=ホーンブロアー ・かにかまぼこ
・おお、ブレネリ! ・カンダタ(蜘蛛の糸) ・腹芸 ・ボヘミアン-ラプソディ ・もんもんじい
・カルビクッパ ・死ね死ね団 ・コンガラ童子 ・左門豊作 ・耳垢栓腔
東日流外三郡誌(笑)
昔、呉の流れをひく者たちが、わが国の西辺に逃げて来て、その子孫が強大になり、
錦のぬいとりのある絹織物を身につけ、
城郭を築き、
古くから漢字を用い、
みずから王を称し、国号をたて、中国と通じ、あるいは
新羅と通婚し、もし、意に会わぬときはふれ文をまわして侵略を行ない、
暦をつくり、年ごとの歴史を記し、
寺を建て、
銭貨を鋳造し、 すべて中国のまねをして異ならなかった。
(出題:以上が書いてある本の名前は?)
東日流外三郡誌(笑)
あ、スッコスッコとまま食わはって!スッコスッコと飯食わはって!!
542 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 23:08:14
私の名はホラッチョさんだよ。ホゲエッ、シルブプレ、ホゲエッ、オエエエエエ〜〜〜〜〜
543 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 21:05:29
>>542 ホラッチョさん、あなたのことはよく存じ上げておりますよ。ウペペの国からソグネフィヨルド
を越えて狂気の山脈にやって来たお方でしょう。
544 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 21:06:51
狂気の山脈?イア クトゥルー、フタグン
では、九州王朝はないので、ここはクトゥルー神話を語るスレにしましょう。
夜ともなれば星屑光り・・・
547 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 20:17:22
BEST1はやはり「インスマスを覆う影」か
548 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 20:26:54
しかし「クトゥルー神話」と「九州王朝説」ってある意味良く似ていると言うか・・・
基本的なところを押さえておけば作家が自由にストーリーを作れる
「シェア・ワールド」方式と言う点が同じwww
まあ違いを言えば
クトゥルーの方は元祖のラヴクラフトが、あくまでネタであると言っているのに対し
王朝説の古田氏はマジモンだったと言うところか?www
549 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 20:36:36
クトゥルー神話によくある設定といえば、とある学者がふとしたことから禁断の書物に触れ、
狂気に陥っていくといったものだが ・・・この現実版が某氏だよな。この後、異次元への謎
の失踪を遂げるのだろうか?
550 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 20:50:41
>>549 東日流外三郡誌=ネクロノミコン ってことかよ。
ダゴンの眷属のディープワンズというのは、河童のことだよ。
552 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 21:44:11
「超時間の影」に一票。
553 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 19:37:42
「死体蘇生者ハーバート・ウエスト」
554 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 19:42:27
>>551 河童は河に棲むから「深き者ども」ではないだろ。
555 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 19:51:40
556 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 18:52:38
>>553 映画「ゾンバイオ」の原作だな。ばかばかしいしキモかった。ラブクラフト作品を誤解させる
ものの一つだな。
557 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 23:13:00
怪奇小説は、短編ならウオルター・デ・ラメア、ジョン・コリアなどが好きだな。最近では、
ジョー・ヒルの短編集「20世紀の幽霊たち」の表題作には感動した。
ジョー = ヒル作品については、名前が先行してた「黒電話」は確かにストーリーテリングの
妙はありましたが、そんなにイマジネーションのふくらむ作品ではないですね。
>>536に続いてスレする人たちへ、我が意見を表明する。
東北王朝は、九州王朝と関係ない。
関連付けさせたい者は、別スレ立てたら良さそうなのに・・・・
(ここは学術の板なのに、推理小説の板行き適切人種がはびこる)
560 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 17:13:13
>>559 なんかひどいことになってるね。かってにスレタイが変わってる。最近は王朝さんも姿を見せ
ないし、嫌気がさしたのかな。
>>560 阿呆が来れば、放置プレーです。
>>559 古田説東北王朝には賛同しかねるが、
東北王朝は7〜8世紀の一時期に存在していた。
古田説の根拠についてはともかく、古田氏の視点は間違っていない。
王朝と言うか、統一した政治体制があったとも思えませんが。
各地の勢力が、個々の事情に則した政治体制を持ち、
各々、勝手に交易していたように思います。
東北には西日本の瀬戸内海のように諸勢力が交錯し、
それを統治する必要があるとか言う自生的条件がありません。
ヤマト王権の北進に対抗すると言う外的条件だけでは、
直接圧力を受ける地域にしか連帯意識も生まれませんし、
王権化への社会的条件が熟成する前にヤマトへ飲み込まれていった、
そういう地域だったかと思います。
中世の奥州藤原氏だって東北の入口を押さえていただけで、
北部地域は自立してたんじゃないのかとか思えますし、
8世紀ではまだ地域単位の豪族支配が行われていたかと。
倭の五王と言うのは買いかぶった言い方で、実は倭の五村長というのが現実だったと思われます。
564 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:49:53
実は神武も村長。
北部九州なんて単なる通過点
北西部九州こそ終着点
「のぞみ」のだろ?
>>562 多元史観ですね(以下参考まで)
自説を多元的国家成立論と称する門脇禎二氏や古田武彦氏が新機軸をもって自認しているが、満
州事変前の起こる前の昭和4年頃、千葉県私立成田中学に西村芳雄という歴史担任の教諭がいた。
彼は弥生時代の日本列島の各地に卵国家とも呼ぶべき多くの小国家が発生し、それが次第に統合さ
れ、生々発展して大和朝廷となり、これが日本国成立の歴史であると説いていたが、間もなく成田
中学校を追われ、その後の消息を聞いていない。
↑
山田武雄「日本古代史研究整理」の32ページ 千秋社 1992初版
>>562 >王朝と言うか、統一した政治体制があったとも思えませんが。
東北王朝と言える王権が、仙台平野・北上川流域・阿武隈川流域に、
7世紀には成立していました。
@郡山遺跡 官衛跡とされている遺跡は7世紀の東北王朝の宮跡です。
A多賀城遺跡 曲水の宴の跡は7世紀末の宮殿跡であることを物語っています。
B横穴式装飾石室古墳 7世紀の九州王朝の一部勢力を受け入れことのできる独立王権の存在を示している。
C倭國使に随行して、蝦夷が唐に入朝している。この蝦夷は東北王朝のことである。
D阿弖流爲 724年以降に仙台平野から北上川流域に北退した東北王朝のリーダー
妄想
東北王朝=日高見國
常陸(ひたち)←日高見路(ひたかみみち)
北上川←日高見川
>>569東北の歴史については素人みたいですね。
郡山遺跡は、大和朝廷が派遣した制夷軍が作った城。多賀城も同じ。
まあ、関東の六腹、池田朝臣や大野東人もヤマトタケルの東方遠征で
支配下に入ったのかもしれませんが・・・
571 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/06/26(金) 01:43:56
>>570 >東北の歴史については素人みたいですね。
@郡山遺跡 官衛跡とされるものは7世紀中期の凡そ400m×560mの
木塀で囲まれた土地。軍事的な城ではない。
A多賀城遺跡 曲水の宴の遺構があることは天皇の様な貴族がいた
宮殿であったことを示す。軍人がいたところではありえない。
遺跡の最も古いものは7世紀末頃の建設と思われる。
大和朝廷が進駐し多賀柵としたのは724年。
B横穴式装飾石室古墳(装飾古墳) 従来説の大和朝廷論では装飾古墳存在理由の説明が出来ない。
C659年倭國使に随行して唐に入朝したのは、蝦夷と大和である。
D阿弖流爲 8世紀末の話 724年は東北王朝が大和朝廷郡に破れ、多賀の都から敗退した年。
>>568 西村芳雄さんのことは存じ上げませんでしたが、
昭和初期と言う時代背景を考えれば、やはり皇国史観との衝突は避けられない結果でしょうね。
今なら、どんなアナクロ思想の論者でも、そーっと自説に取り入れざるを得ない、至極常識的な社会発達理論です。
>>569 「王朝」と言うコトバのイメージが九州王朝さんと私では異なるのでしょうが、
>>569で挙げられた「状況証拠」から、私は「東北王朝」の存在は感知できません。
せいぜい、「豪族」レベルの痕跡に見えてしまいます。
>>571 仙台平野の古墳についてですが、雷電山古墳や遠見塚古墳は東北最大級の
古墳だけれど、これらは3世紀末から4世紀にかけて作られたとしている。
しかし、なぜ、狩猟民族である東北の豪族が大和朝廷風の古墳を作る必要が
あったのでしょう?結局は、関東方面から入植した豪族が、自らの力を誇示
するために古墳技術者を呼び寄せて作らせたのであって、東北由来の王朝
とはいえない。
575 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/06/27(土) 12:00:40
>>573 誇大に言わなければ、地方王権レベルですね。
東北王朝ではなく東北王権です。
516年以前の九州王朝、700年以前の大和朝廷と同じレベルですね。
7世紀には東北王朝(蝦夷=日高見國)は大和朝廷(日本國)と同程度の独立性を
九州王朝(倭國)に対して持っていた。
律令と年号が整ってはいない東北王権は、未だ王朝のレベルには達していません。
>>574 もっと勉強してください。反論できるレベルに達したら反論いたします。
このスレはレベルが低いですね。確かに。
577 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 14:02:27
>>575 >もっと勉強してください。反論できるレベルに達したら反論いたします
バカじゃねえのかwww 九州王朝などと学会では誰も認めないたわごとを
ほざいておいて勉強ときたもんだwww
お前は勉強ができているというのかww ふざけるなよwwww
本気で勉強したのなら
とうの昔に九州王調説など捨ててるだろうwww
寝言も休み休みいえよw ああ腹の皮が捩れるわwwwwwwwwwwwww
578 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/06/27(土) 14:31:17
>>577 レベルに達していないとしたのは下記の件
「雷電山古墳」は関東の古墳。雷神山古墳では?
「これらは3世紀末から4世紀にかけて作られた」 4世紀末から5世紀では?
「狩猟民族である東北の豪族」 仙台平野には3〜4世紀に狩猟民族が未だいたのですか?
579 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 15:53:09
>>578 東北王朝って、あなたにとっては関東から移り住んだ豪族の国だったというのですか?
アテルイも伊治呰麻呂も蝦夷、狩猟民族だったことを知らないのでしょうか?
580 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 16:17:07
>>578 いくら他人のレスの細部の間違いを指摘したとして
おまえ自身がありえない説を唱えていることの罪はきえないだろう
581 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 16:43:01
>>578 坂上田村麻呂の活躍する8世紀までは、大和朝廷の東北支配は、
いわば点の支配にすぎなかった。一歩山に入れば狩猟民族
の蝦夷が住んでおり、栗原以北は朝廷の支配が全く及んでいなかった
ことくらい知っているだろう?
582 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 16:52:20
古田は現実社会において、罪名が付くようなことはしていないだろうが、歴史の真実という
ものに対して、大きな罪を犯し続けた。日本における言論の自由を逆手に取った行為といえ
よう。その実態は、単に一学説の主張ということではなく、ゴット・ハンド事件となんら変わる
ことのないものだった。つまり欺瞞と捏造である。何度も言う。日本では脅迫や名誉毀損に
ならない限り、ネット上で何を言うのも自由であるが、中学生も見るであろうこの2CHの学問
板で、延々と欺瞞の情報を垂れ流し続けることの愚かさ、醜さ。あなたも年配者であることを
自覚するのなら、歴史の真実に対する尊重の念をもっと持つべきだ。一言忠告しておく。
恥を知れ。
583 :
サガミハラハラ:2009/06/27(土) 18:05:40
584 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 18:13:59
恥を知れかwwww まあ2チャンなど暇つぶしの遊び場であるのは
大方の人間にとってそうだろうwww だから厳密に調べてレスしてる人間など少ないだろうww
しかし九州王朝の場合どれだけ細部にこだわろうとも根幹の歴史認識が
間違っているわけなんだなwww
だからそれを正さずしてどれだけもっともらしいことを入っても所詮はアダ花www
しかし582は杞憂にすぎるw このスレに入り込んでくるのは
初めからねじ曲がった資質を持ったものがほとんどだろうw
だからこのスレの影響力など微々たるものだろうよwwwwwww
まあ、古田氏は、さも見てきたかのような口調だから問題なのであって
正直なところ、北部九州に封建領主的なものがあったかもしれない。
その封建領主がいつごろ消えたのか?663年以降ちゅうのは電波だなw
北部九州に豪族が居たとして三韓征伐前か?
筑紫クンは小物臭が漂う雑魚だ。せめて関門海峡を封鎖しろよと。
586 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/06/27(土) 19:21:40
>>579 東北王朝は在地の勢力が徐々に連合して成立していったものです。
蝦夷=狩猟民族はあなたの思い込み。時代によって蝦夷を指すものは変わります。
>>580 あり得ないと思うのは、あなたの思い込み。
>>581 「栗原以北は朝廷の支配が全く及んでいなかった」は其の通り。
>一歩山に入れば狩猟民族の蝦夷が住んでおり
一関から盛岡までの北上川流域の平野には誰が住んでいたのですか?
無人地帯ではないでしょう?
>>582 それはあなたの考え方です。
歴史の真実に近いのは古田氏だと思うよ。
>>585 「北部九州に封建領主的なものがあったかもしれない」は全くのあなたの空想事項です。
ところであなたが何を書いているのか読み取れません。
587 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 23:07:36
九州大好き氏、見識の底が見えたな。その程度の歴史認識だったのか・・・
九州王朝はなかったかもしれないけれど、
東北王朝(=日高見国)は確実にあった。
589 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 00:57:18
国家的なものは九州にも東北にもねーよ
日本列島で、700年以前に王朝があったのは九州だけ。
591 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/06/28(日) 15:40:00
>>581 >坂上田村麻呂の活躍する8世紀までは、大和朝廷の東北支配は、
>いわば点の支配にすぎなかった。一歩山に入れば狩猟民族
>の蝦夷が住んでおり、栗原以北は朝廷の支配が全く及んでいなかった
>ことくらい知っているだろう?
上記認識について調べ直したほうが良いかと思います。
点の支配ではないですよ。
畿内朝廷をどの様に進めたかを簡単に書きましょう。
常陸方面から北侵した畿内朝廷軍は、
618年福島県浜通りと阿武隈川流域中通りを支配下に入れた。
浜通りの製鉄(馬も?)を得たことによって、
東北王朝の南部中枢部である仙台平野への進入はスムーズに、
722年から始まり724年には多賀城(東北王朝の都)を占領。
724年仙台平野最北端に多賀柵を設置。
多賀柵は東北王朝侵略の北端最前線となる。
以降、広大で豊かな土地である仙北平野への畿内朝廷の侵略は進展せず、
大きく動くのは胆沢城設置の802年まで待つことになる。
多賀柵以北の仙北平野の東北王朝の抵抗は強く、
畿内朝廷がとったのは地域首長への強行策と分断懐柔策。
多賀の都占領半世紀後には朝廷側の役人になるものを現れた。
阿弖流爲は、畿内朝廷側の仙北平野占領完了後の
この流れの中に現れた東北王朝の有力首長と思われる。
>>591 うん、その辺の認識が大きくずれているみたいですね。
大和朝廷が東北へ進出したのは8世紀前半になってからですが、
それ以前にすでに景行天皇の時世のいわゆるヤマトタケルの東方遠征
(この場合、1人の人物を指すのではなく一連の東国征伐を指す)によって
蝦夷と呼ばれる東北の先住民は山に追われ、東北南部の平野部は弥生系
の豪族の支配地域となっていたのです。仙台平野の古墳を作ったのも彼らです。
要するに、大和朝廷が東北遠征して征伐したのは、元を質せば大和系の
豪族ということなのです。
593 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 07:10:45
>景行天皇の時世のいわゆるヤマトタケルの東方遠征
こんなことを言ってるようじゃ駄目だな。景行もヤマトタケルも実在の人物では
ない。
594 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 12:46:05
最近は景行天皇やヤマトタケルは実在であるとの説が有力となってきています。
>>594 書名(論文雑誌)、論文名、著者名を教えてください。
ここは学術板です。
596 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 21:56:01
>>593景行天皇やヤマトタケルという人物は実在しないかったのかもしれません。
しかし、景行天皇が在位したとされる時代に、いわゆるイリ王朝、ワケ王朝
の部隊が東北征伐に乗り出したまでことは否定できません。
597 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:15:40
>>596 平定事業を仮託された存在、言わば「シンボル」としての存在と言うのなら
個人が実在したと言うのとは別のお話だよwww
そんなものはそれぞれの人物に関して「実在説」なんて言わないし
むしろ否定する時に用いられるロジックだなwwwww
例:「ヤマトタケルの話は各地の平定、ヤマト王権の勢力の伸長を
言わば擬人化したものであって実在する人物ではない」
とかw
598 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:56:15
架空の話しはいいからさ 誰ぞや真実を語って栗や
↓ ここでサガミハラハラ氏のご登場
600 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 20:36:01
サガミハラ氏は逃げたようですね。
景行天皇とヤマトタケルという個人の実在はともかく、
その時代に東北南部を支配し、巨大古墳を築いたのは、
イリ王朝(崇神・垂仁)やタラシ王朝(景行・成務・仲哀・応神)の天皇、
ほとんど百済や新羅からの渡来王だったのだ。
これで全ての謎が解けた!
601 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 20:37:17
キムチ悪いことをいうな。
602 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 20:44:54
>>601キムチを持ち込んだのは、後から朝鮮半島に侵入した朝鮮族。
日本に渡来したのは、半島に一時的に住んでいた倭人。
そこのところを誤解すると、歴史の見方を間違うよ。
603 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 20:47:58
なるほど
604 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 23:07:20
670年、新羅が半島を統一するまでこの世に存在しなかった朝鮮民族。
新羅統一後に同姓の結婚を禁じたり、中国風氏名に創氏改名させたりして、
混血をすすめ族譜を創作させたりして、強引に作られていった朝鮮民族。
この民族がキムチを発明したきっかけは、日本人が唐辛子を半島へもたらしたため。
唐辛子はさつまいもとともに、日本人が朝鮮民族ができたあとに、
朝鮮半島に伝えた農作物です。
605 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/02(木) 01:30:37
唐辛子は半島に2ルートで伝わっている。
日本からとシナからと。
日本から伝わった唐辛子は辛味の強い倭種と呼ばれるもの。
シナからは甘く辛味の少ない唐辛子。
薩摩芋についてはシナルートがあったかどうか知らない。
>>605 日本で唐辛子というのは、半島から江戸へ伝来したので
このような名詞になって普及したのだそうです。
(新大陸原産でザビエルルートで伝来していた)九州から伝来した半島では
唐辛子でなく倭辛子というそうです。
で、半島へシナから伝来したものは、半島で別の
名詞(例えば唐辛子とでも)呼ぶものでしょうか?
(九州王朝と直接関係ないテーマみたい。どうも半島側では
九州のことだけ特に「倭」と呼ぶらしい傍証のつもりで・・)
607 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 20:16:15
フランシスコ・ザビエルが河童の起源であるのは民俗学的に有名な事実。
608 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 21:24:01
遠野物語はザビエル説話集か?
609 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 22:15:58
あのザビエルの肖像画は死後しばらくたって描かれたもので、本人はトンスラ(中剃り)は
してなかったはずだよ。イエズス会にはトンスラの習慣はなかったと思う。ま、ザビエル=
河童 は誰でも笑える楽しい説だけどね。
610 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 22:32:16
アルシンドになっちゃうよ。
唐突に見えるけれど、縄文人は、西アフリカから
やってきた古モンゴロイドの子孫。
スペイン南部やポルトガル、西アジアの元住民も
もともと縄文人とは同族なのです。
友達ならあたりまえ〜。
611 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 23:01:28
トンスラとモンゴルの辮髪。インディアンのモヒカンと武士の髷・・・
古モンゴロイドの髪型は、形を変えて世界中で生き残っていますね。
ヤマトタケルについてですが・・・
日本書紀においては、当時小碓命と名乗ったヤマトタケルが、女装しクマソタケル兄弟の寝所に忍び込み、
これらを討ち、その際に「タケル」の名を弟タケルより献上されたという神話で有名である。
女装といえば、後の牛若丸こと源義経の伝説が有名ですが、他にも武田信玄や天草四郎といった
ヤマトタケルの子孫に引き継がれ、今でも新宿4丁目でその命脈を保っている。
>>612 新宿4丁目〜四谷三丁目は、新宿通りを徒歩15分ほど。
出来損ない変体の産地ですか?
614 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 22:31:09
テレビで裕次郎の「富士山頂」を見て考えた。
古事記や日本書紀は東国や富士山を意図的に無視している。
それは日本書紀の時代の少しあとに編纂された万葉集に富士
山を詠んだ歌が数多く残されていることでもわかる。
古事記や日本書紀に邪馬台国に関する記述がないのは、邪
馬台国が東国にあったからではないだろうか?
615 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 06:53:16
九州王朝説も今は昔。
ついにネタスレになったな。
もう歴史ファンを楽しませる役割は終わったのか
617 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 07:46:29
きゅーしゅーおーちょー
つうより
Q州O朝
のほうがカコイイ。
618 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 08:24:45
今更九州王朝説はないよな。
それが国営放送の影響力というものです。
まあ充分楽しませてもらったからいいけどね。
ていうか、すでに九州王朝説が定着しているので、畿内説涙目
625 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 12:14:19
奴国なんて名前まで消え失せてるのに九州王朝もないだろうてw
626 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 13:44:19
よしのがり遺跡が九州王朝です
628 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 14:06:53
九州王朝説はじょじょに広まりつつあるね。
630 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 22:16:54
きゅーしゅー王朝は
みんなの心の中にある。
それでいいじゃないか。
法隆寺も九州王朝下の建物を移転したもの。
632 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 23:11:57
住吉神社は博多から大阪へ681年に移築
伊勢神社は八代から三重へ690年遷宮
633 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 23:14:08
>>632訂正
住吉神社は博多から大阪へ691年に移築
伊勢神社は八代から三重へ690年遷宮
八代のどこに旧伊勢神社があるの?
>>634 >>632の頭の中の何処かだろ。
しかし「博多」って地名だって
畿内の方が先だって知ってた?
636 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 23:21:59
18世紀後半に編纂された『肥後國史』によると「八代」の地名の由来は天照大神を祀る社(やしろ)である。
万葉集に現れる「淡海」は、鯨や魚を取りに船出して行くといった歌等があるので、湖でなく海である。
「淡海」は、「塩味の淡い海」の意。古代の球磨川河口(現在の八代市高田〜金剛)は浅い海に伏流水が噴きあげ海水が薄まっていたと考えられる。
『倭姫命世記』には淡海浦の西に7個の嶋があったと記されている、しかし、琵琶湖には竹生島・沖島・多景島・沖の白石の4島しかない。八代市内には大島・高島・白島・大鼠蔵・小鼠蔵・水島・加賀島など7つの島がある。
現在でも鹿児島県伊唐島では、八代海のことを伊勢海と呼ぶ。
淡海の枕詞「石走」は、「石の上を流れる水」の意。急流「球磨川」にこそ相応しい。
八代市には「倭姫命世記」に現れる「二見」という地名が遺存し、熊本県には「御船」と地名も遺存する。
古来、球磨川の河口には、球磨地域と海外を結ぶ中心地として中世には「徳渕の津」と呼ばれた港があた。中世には5万の人口があり、平氏や北条氏、豊臣氏が直轄地にするなど博多と並ぶ九州の中心地であった。
637 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 23:23:41
以下のことから安濃津(阿漕(アコギ)ヶ浦)は、八代市にあったと考えられる。
阿漕ヶ浦は、伊勢神宮に供える神様専用の漁場であったとされる。しかし、津市から伊勢市までは約50kmもあり、倭姫命の命令どおり朝夕鮮魚を運ぶには離れすぎている。
阿漕(アコギ)←阿漕(アコウ)←アコウ→安濃(アコウ)→安濃(アノウ)となったとされており、阿漕ヶ浦(安濃津)とは、アコウの木の生える場所の意。
津市を含む伊勢湾のような北国ではアコウの木は自生しないが、八代を含む有明海・不知火海沿岸にはアコウの木が自生する。
安濃津は、明代の中国の歴史書(「籌海図編」(1561年)、「日本風土記」(1591年)、「武備志」(1621年))では博多津(福岡県福岡市)、 坊津(鹿児島県坊津)とならんで日本三津に数えられている。
しかし、津市には外国貿易港だった痕跡はないし、博多津・坊津は九州内にあり中国人に知られた貿易港が三重県にあったとは考えられない。
また、前記のように八代は中世九州で博多と並ぶ貿易港であり、坊津の記述があるのに八代の記述が無いことは考えられない。
638 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 23:29:20
『日本書紀』巻六垂仁天皇二五年(丙申前五)三月丁亥十や『倭姫命世記』には、伊勢國は『傍國可怜國(かたくにのうまし国) 』との表現があり、
これは「その海岸には干潟が出来て、それがだんだん陸地となるというまことに結構な国である」との意である(喜田貞吉「伊勢人考」)。
八代平野の大部分は球磨川からの堆積物による自然陸化と干潟の干拓によるものである。
上天草市姫戸町姫戸の由来は、この地に辿り着いた謎のお姫様であり、町内の「姫石神社(姫石さん)」でこの謎のお姫様を祭っている。
奈良県にも「姫石明神(姫石さん)」があり倭姫命に関係する神社であり、この謎のお姫様は倭姫命であると考えられる。
姫戸は元伊勢神宮の一つということになる。
懐良親王(かねながしんのう)が亡くなったのは八女郡矢部であり、その御陵は星野村「大円寺」にあるものと考えられるが、八代市にも懐良親王の御陵とされる聖域がある。
第1回神宮式年遷宮は、九州王権滅亡直前の690年である。
639 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 23:29:22
アコウ→安濃(アコウ)→安濃(アノウ)→阿呆(アホウ)
640 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 23:32:00
>>638 文章はどうでも良いから、goole mapか何かで示してくれ。
で、八代の何処が元伊勢なの?
643 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 23:42:40
八代を含む有明海・不知火海沿岸にはアホウの人が自生する。
644 :
ローガン:2009/07/06(月) 23:51:13
八代って良いとこですね。昔、出張でよく行きました。
球磨川の鮎は巨大。今頃は浜でシャクが捕れる季節では?干潟で穴に筆を突っ込んで捕まえるんでしたよね。
あと、豆腐の味噌漬けで白岳のお湯割りとか…
博多の地名が畿内(御所に博多山、石川の旧名が博多川)の方が
先に現れるという事は、九州と大和の地名の重複が指摘される件についても、
畿内、大和の地名が移設された可能性が高いという事ですね。
646 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 01:15:47
>>646 九州の博多は「続日本記」で759年が初見とされてるけど、
奈良の博多は「古事記」に第五代考昭天皇の記述で
掖上の博多山に御陵ありと記述がある。
編纂時期だけで見ても、古事記の方が古いのは確実でしょ。
博多は恐らく伯太だよな、やっぱり出雲の伯太川が一番古いでしょ。
つまり出雲勢力が葛城周辺にやってきた証拠でもある。
そして河内の博多川も伯太川という。しかしいつ石川に変わったのかは知らないが、
相当古い事には変わりがない。石川をもう少し下流に進むと、
別系統の博多川もあったはず。歌にも詠まれたのはこっち。
ピラミッドも九州王朝からの移築。
コロセウムもそう。
富士山、666年に阿蘇から移築。
650 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 08:02:05
>>647 「古事記」の第五代考昭天皇の記述が九州でのことだろ。
>>650 それを証明するなら少なくとも6世紀以前九州に博多の地名を探さなきゃな。
652 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 13:13:31
掖上とされる御所市に博多なんて無い。
653 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 13:14:48
>>651 記紀以外の文献は大和朝廷によって焚書されてないの。
>>652 博多山があるけど。国分玉手山には伯太彦神社もあるよ。
>>653 大体博多は元々奴国、奴の津と全然違う名で記録もはっきりしてるじゃん。
他からもって来たのは明白でしょ。おまけに福岡は岡山からだしな。
655 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 14:14:51
伯太と似た地名があったので、
後世に古事記に合わせて適当な山に博多山と名付けたんでしょ。
九州王朝説は新興宗教だからな。何言っても無駄だよw
>>653 文献はなくてもそれらしい痕跡は地名とかに残るはずだが。
現に奈良なんて吉備や出雲の地名は沢山残ってる。
筑紫に沢山奈良の地名があると言うが、それは奈良から
移植された可能性の方が高いという事だ。
>>655 仮に百歩譲ってそうだと仮定しよう(勿論あり得ないが)
古事記編纂時より以前、九州に博多なんて土地が無いのは文献上では確実。
あるというなら教えて欲しいね。
唯我独尊大和信仰は古典邪教だからな。何言っても無駄だなw
俺は出雲信仰だけどw
出雲とは、海洋民族である安曇氏の集落のことだから、山陰だけではなく全国各地にあった。
畿内の泉佐野も出雲だし、伊豆半島も出雲だった。東北地方にも泉の名のつく地域は数多い。
国譲りとは、単に山陰地方を譲るという意味ではなく、ポツダム宣言を受諾して無条件降伏を
飲むといった意味合いだったと思われます。
渡来人は、圧倒的な武力をもって全面攻撃を仕掛けてきた。武力の違い、経済力の差を目の
当たりにして、出雲の首長は国譲りを決意した。
出雲の関東移住も彼らの指示による。
その、日本を変えた渡来人は、後に祟神天皇と呼ばれるようになる。
全面攻撃は何時?
高地性集落の事?
662 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 06:10:30
九州王朝は遺跡も資料もたくさんあった。
しかし日帝によって完全に破壊、消滅させられた。
これほど徹底的に証拠を消されたことこそ、
いかに強力な九州王朝があったかを示している。
九州王朝を否定するヤツは
皇国史観に洗脳された負け犬。
逆子でデベソでキンタマの裏がかぶれているハルヒオタ!!
663 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 10:37:15
九州王朝とチョンの歴史を一緒に語るなよ。
朝鮮民族は、670年の新羅統一以降の混血によって生まれた民族。
九州王朝は700年ごろに滅亡している。だから663は勘違いである。
665 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:12:35
そうじゃなくて言い方というか論調がチョン風ってこってろ
666 :
カミハミテイル:2009/07/08(水) 22:18:59
九州王朝の滅亡は3世紀末ですよ。それ以後は邪馬台国の支配下にはいりました。
7世紀ごろまで続いていたということはありません。
和田ナントカってやつのおかげで、
九州王朝がネタ化したな。
まあ、日本版檀君神話みたいなモンか。
668 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 10:31:45
>>654 時代だ全く違う例を上げても意味無くないか?
そもそも博多表記の以前は伯潟だぞ。
669 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 10:47:05
>>667 和田ナントカってやつのおかげで、九州王朝がネタ化したな。
関係ないね。元からだから。
670 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 11:25:41
安濃津は平家(忠盛、清盛)の根拠地で房総などの南関東の平家の出張所ということ知っていた?
>>668 >そもそも博多表記の以前は伯潟だぞ。
どの文献にあるかソースください。
元々「博多」の文字が文献上では畿内の方で
先に確認出来る点が疑問なのですよ。
和田で思い出したのは、十和田湖畔にあったといわれる古代王朝。
十和田とは、10の和田氏の連合国家だったとすれば説明がつく。
鎌倉時代に伊豆半島を支配していたのも和田氏。
十和田王朝の支配は、日本全国に及んでいたとみたほうがいい。
673 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 23:07:48
九州王朝か。
むか〜し多少信じたこともあった。
まあサンタや妖精信じるみたいなもんだ。
674 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 00:05:09
>>671 >元々「博多」の文字が文献上では畿内の方で
>先に確認出来る点が疑問なのですよ。
「博多」が畿内で作られて、九州の「はかた」に当てはめた。
疑問を感じる必要はなにもない。
同様のケースとして
「つくし(筑紫)」・・・元は「ちくし(筑紫)」。今でも九州では「ちくし」
「太宰府」・・・元は「大宰府」。大宰府市が太宰府市になったのは最近では?
現在現地では「大宰府」も併用されている。
675 :
九州王朝:2009/07/10(金) 01:19:07
みなさんの想像は楽しいね。
ぼくも、ちょっと想像の手を加えてみる。
那珂川の河口湖が「泊潟」。
那珂川の東岸にあるのが「好古都國」。
那珂川の西岸にあるのが倭人伝ラストの「奴國」。
倭奴國は上記「奴國」で、その王が都する所は「好古都國」。
好古都國は須久岡本遺跡。
倭奴國に吉野ヶ里から進軍してきた帥升は、
倭奴國王を志賀島まで追い詰め、金印と共に海に追い落とした。
その時倭奴國王は金印を海岸に埋め入水したのだ。
676 :
カミハミテイル:2009/07/10(金) 08:08:57
>>666重大な誤記がありました。「邪馬台国の支配下に」は「大和朝廷の支配下に」の
まちがいでした。どうもすみません。
>>674 >「博多」が畿内で作られて、九州の「はかた」に当てはめた。
疑問を感じる必要はなにもない。
古代に「はかた」の文字が現九州の博多の位置で
確認出来ないから疑問な訳ですけど。
>>675 倭人伝の国名説明では「好古都国」は
遠方でなければ辻褄が合わないですよw
678 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 09:52:24
遠方でなければ辻褄があわない理由を教えてください。
679 :
カミハミテイル:2009/07/10(金) 10:25:34
和田(ワダ)というのは山奥の水場(湖沼も含む)をあらわします。
青森県西部および渡島半島部はその昔、ト(トウ)の国といっていたようです。
渡島半島はじのごとくト(渡)半島。
現在の十三湖(ジュウサンコ)は以前トサ潟。
近くに問標(トウヒョウ)がある。
津軽は東日流とも書き、もとはトウカルといった。十日流と書いたほうが理解しやすいであろうがなぜか東をつかった。
トウカルがトカルと転訛し、都日流と書いた。都はツとも発音するのでツカルとよむようになり、いいやすいようにカがガとにごりツガルとなり、
津軽とかくようになった。
いじょうからみて、十和田の十はこの地をトゥと称していたことに起因するものである。
つまり、トウの国の山奥の湖ということである。
680 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 10:33:06
>>677 >古代に「はかた」の文字が現九州の博多の位置で
>確認出来ないから疑問な訳ですけど。
2世紀以前の「はかた」の位置は那珂川の河口湖(河口潟)の真ん中。
「はかた」は「泊潟」だったとか。
>倭人伝の国名説明では「好古都国」は
>遠方でなければ辻褄が合わないですよw
「好古都国」も上記「奴国」も何処から遠方でなければならないのですか?
好古都国は女王のいる邪馬台国からは北方向に十分に遠方だと思います。
邪馬台国は博多湾沿岸にあるのではなく、有明海沿岸だと思います。
>>680 二世紀以前に伯潟と呼ばれていたとするソースは?
奴の津はとの整合性も疑問点だな。
>>678 倭人伝とは明確に辻褄が合わないでしょ、奴国は詳細があるのに。
それに伊都国の存在する意味もない。
また現在の博多の位置が、遠くで詳細がわからないとする
位置とはとても思えないけど。
682 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 21:03:29
博多とは塩田のこと。つまり白田。
伯方の塩で有名な愛媛県伯方島。
博多というのは一般名詞ですから、
どこにあってもおかしくないのです。
卑弥呼という職名も同じですよ。
塩ね…古事記編纂時点で河内には博多川、大和には博多山がなかった?。
これはやっぱり秦から来てると思うが。
赤穂の塩もそうだけれど、塩を握るものが支配権を握ること。
敵に塩をおくった上杉謙信は偉大です。
その上杉氏とは、室町時代の関東管領職、
桓武平氏の血を引く、秦人の子孫です。
>>680 「はかた」が「泊潟」であったのなら重箱読み(音+訓)になりますよね。
少なくとも漢字普及以前に登場するような地名では無さそうですが。
「はかた」が3世紀に遡る言葉だとした「泊潟」や「白潟」ではなく、
「端潟」あたりが語源かなと思います。
686 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 20:08:25
「はかた」の語源は「墓多」。
687 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 21:19:57
博多とは白田、つまり塩田のことだ。
人が生きていく上で水と塩が大事。
稲作以前の芋や木の実を主食とし
ていた時代でも塩は貴重品だった。
塩の生産や流通を握ることで、
邪馬台国は周辺の邑を支配していたのだ。
これでまた古代史の謎が解けた!
688 :
九州王朝大好き:2009/07/14(火) 12:06:11
「はかた」の語源が「は潟」であるなら。
>>685うましか説「端潟」が適切。
類例 大阪府の「枚方」(ひらかた)
「枚方」←「平潟」←「ひら潟」
白い田は畠だと思うが。
「博多」の文字が確認出来るのは、古事記の中の
孝昭天皇陵の説明で「博多山」とあるのが一番古いはず。
だから潟はともかく塩はおかしいでしょ。
山の命名や、山信仰は、しばしば慣海民がやることだから、おかしくもない。
691 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 22:40:10
>>689博多は漢字が日本に導入される以前からの塩田で、
縄文以降、徐々に海岸線が遠のき、塩作は衰退してしまった
けれど、その名前だけが残ったとを考えられます。
太宰府は相当奥まったところにあるような印象ですが、
当時は、港の見える高台に作られたのだと思います。
693 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 18:34:28
>>691 漢字が伝わる以前から、「白」を「ハク」と読んでたのですか。
字が入る前に音(ことば)だけ入ったということもある。
695 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 04:57:25
九州王朝は、はかった。
696 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 10:54:11
倭国には男女とも入れ墨をするものが多いとされているが、なぜ大和には入れ墨が少ないの?
倭国の刑罰には入れ墨は入っていないけど、大和では入れ墨が刑罰になっているけどどうして?
倭国では金銀を珍宝とせずだけど、なぜ大和には金銀が多いの?
697 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 21:22:16
殿様がちょん髷を結えば家臣もちょん髷を結うし、
明治政府が断髪令を出せば、みんな散切り頭に
するし、日本人は本当にお上の言いなりだった。
その柔軟性が日本の強みでもあり弱みでもある
わけで、次の選挙でいったん民主党政権が誕生
しても、やがては自民党政権に戻るかも。
首都は、また東遷して、いずれ銚子辺りになる。
そんなもん、戻ろうが戻るまいが、中身に違いは無かろうに。
699 :
日本@名無史さん:2009/07/18(土) 00:28:48
妄想はチラ裏にどうぞ
根拠もなく思います思いますって小学生の感想文じゃあるまいに
700 :
日本@名無史さん:2009/07/18(土) 03:17:39
>>693 そういう事例が他にもあるなら別ですがないですね。
記紀に出てくる古代の神や地名は大和言葉ばかりです。
>>693 実は漢字が伝わる以前から、九州と半島の間では広く交易が行われていました。
海を渡ってやってくる半島の住民(現在の朝鮮人とは別物)は、もともと越や呉の
出身だから漢字は使える。倭人は漢字は使えないけれど、記号としての漢字と
音としての漢字は知っていたし、鏡、絹、塩といった固有名詞は半島人と交易を行う
上で必要な商用語として広く用いられるようになったと思われます。
たとえば、長崎出島で使われていたカステラ、ドンタグなどの外来語が母国語に化けて
広くつかわれるようになったように、「ハカタ」で塩と作る技術も、塩田に適した遠浅の
海岸の少ない半島南部の商人によって、伝えられた言葉だと思います。
>>701 >鏡、絹、塩といった固有名詞は半島人と交易を
でも、漢字「白」も漢字音「ハク」も塩を表す言葉じゃないですよね。
そして、「タ」は和語では田んぼを表しますが、漢字音では・・・・
和製英語、和製呉語・・日本人は昔からそういうのが得意だったのでしょうね。
大リーグみたいな使い方ですよ。
>>703 「白」にも「ハク」にも「塩」と言う意味は無いでしょうと言われてるんですよ。
精製塩が古代からあったと思ってはいけません。
岩塩ならともかく、昔の海塩は、煮詰めるときに不純物を除去しないので、あまり白くはならないんですよ。
揚浜式の塩田も、普通の浜砂と色は変わりません。
>>705 その写真は典型的な「天日干式」塩田のものだね。
天日製塩とは、浜辺に水路を構築して濃縮区画へ海水を導き、そこでそのまま乾燥塩を作る方法。
雨の多い日本では難しい製法だ。
ただし、天日濃縮で高濃度のかん水を作り、それを釜炊きする入浜系の半天日干製塩なら日本でも可能だ。
実際に昭和20年代ごろまでは瀬戸内を中心に行われていた方法だが、
これとて純粋な結晶塩が表面に浮き出すわけではないので、
>>705の写真みたいに白くはならない。。
だが、その方法でさえ、日本では9世紀ごろまでしか文献で遡れない。
それ以前は、海岸に打ち上げられたホンダワラなどの海藻に海水をぶっ掛け、
それを焼いてできた灰塩を煮詰める、「藻塩炊き」が主流だ。
「天日干式塩田」が3世紀の博多湾には、存在し得なかったと言い切ること出来ないが、
有ったとしたら、一雨ごとに流されてしまう、はなはだ非効率な存在だったろう。
そんなものが「地名」なるとなど、誰も思わないでしょう。
707 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 12:08:59
>>705 それ、日本じゃなくて台湾の写真だね。
しかも、その塩田ができたのは17世紀のことだよ。
偏狭な知識だけでものごとを考えるからも、その程度のイメージしか湧かないんだろうが、
もともと固執するほどの思いつきでもなかっただろうにw
>>707その通り。邪馬台国は日本ではなく台湾だったのだ。
というのは嘘で、博多の砂浜は元々白いのです。
709 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 12:41:23
いわゆる陸稲の山田、水稲の青田に対して、
稲のない白い田という対比の問題ではないのか?
そのくらい誰でもわかるだろう。
黒い塩でもなめてろ。カス。
砂糖も古代〜近世まで黒だな。
713 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 14:43:32
>>712 なになに?近世まで黒い塩を食べてたって?
すごい説を思いつきましたね。
それを聞いたら、武田信玄に塩を送った
上杉謙信公も大笑いでございましょう。
いいネタだ。
>>713 反論できないから、わざとトンチンカンなレスして混ぜっ返しか、ゴミ野郎。
715 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 16:21:05
「ハク田」→「博多」は苦しい。
博多とは「泊潟」。
河口付近にある船の停泊に適した潟(湿地帯)だった。
日本海側の松江や鳥取に雪が降ると博多にも雪が降ること
でもわかるように、博多は日本海式気候で雨量も多いため、
塩田があったとする説には無理がある。
ただし、塩が黒かったというのはウソ。黒い塩など、古代人も買わない。
717 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 05:18:02
たとえば、吐く田→ハクタ→ハカタ→泊潟→博多のように、まず語源となった
単語が大和言葉として存在し、それが後に漢字が入ってきてから漢字の音を
借りて泊潟と表記したと主張するなら分かる。
だが、大和言葉で通じない停泊するという字義に当てはめて泊潟となったのだ
という説明はおかしい。
倭人が中国人で中国語を喋っていたのでない限りそれは変だ。
揉めているみたいですね。
博多の語源なのですが、実は、アイヌ語で読み解けます。
ハカタとは、「ハ」(上)+「カタ」(方)、つまり「上の方」という意味です。
では、どこから見て上の方かといえば、伊都国のあった糸島半島から
見て上(東=日の出る方)の方だということです。
因みに伊都国もアイヌ語で読み解くことができます。
伊都国とは、「イ」(私、われわれ)の「ト」(湖・沼)、「我らの湖」という
意味です。
720 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 14:00:28
九州王朝がなかったとすると朝鮮式山城の存在が説明できないね。
日本書紀にはごく一部の築城記録しかない。
ところが九州には沢山ある。
これらの山城は筑後平野を取り囲むように作られている。
朝鮮式山城は本来逃げ込城で平野部に有る平城が攻められて危険になった時、逃げ込んで籠城する為に作られている。
筑後川のどこかに九州王朝の都があって、そこが危なくなった時に山にこもる為の城で、
どちらの方角から攻められても好いように周りにたくさん作られたと考えると、判りやすい。
もちろん北方の海から攻められたときに対する備えの城も別にあっただろうが。
山城は5世紀に作られた可能性のあるものもある。
唐の侵略に備えて、などと言うのはインチキだ。
721 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 14:26:05
>唐の侵略に備えて、などと言うのはインチキだ。
どう考えても侵略対策ですが、そして
そんな戦争の多い場所では長期の王朝なんて成立しないから。
半島を見ればわかるでしょ。
723 :
日本@名無史さん:2009/07/21(火) 15:10:52
>そんな戦争の多い場所では長期の王朝なんて成立しないから。
半島を見ればわかるでしょ。
高句麗は戦争しながら700年続いた。
日本だって内紛しながら天皇さまは最低でも1200年は続いている。
侵略対策なら大宰府付近だけではなく、瀬戸内海沿岸に沢山作っておかなくちゃ。
大阪にもね。
>>723 海を渡る事を忘れてないか?
その為の大宰府でしょ。
>>723 ビビリまくって、瀬戸内にも大阪にも山城を築いてるぞ。
726 :
日本@名無史さん:2009/07/21(火) 19:44:51
白村江で大敗を喫して後の朝鮮式山城についても
九州王朝説のミエミエのペテンが良く使われるよなw
曰く・・・
「九州北岸部に多く築かれており首都でもない一地方都市を守るために
これほどの防衛設備を敷くのは不自然!」
・・・みたいなのw
無論瀬戸内を通って畿内まで築かれており、飛鳥が城塞化していたのは今日知られているところ。
つうか、そりゃ水際で防ごうとするのが当たり前で
いきなり本土首都決戦に持ち込むなんて何処のキ○ガイの所業ですか?って話でwwwwwwwwww
先ずは、白村江以前に遡れる朝鮮式山城が幾つあるか、
築年の推定については諸説ありますね。
中には山城でもなさそうなのもあるし、確定的なことが言えるものは少ないようですが。
九州王朝説はどう考えても矛盾だらけだしな。
長く続いた王朝ほど、遺跡が少ないものです。
同じ場所に、元の建物の基礎を使って建て替えるから
遺跡といったものは残らない。
むしろ一代限りで滅んで再開発されなかった土地の方が
古墳として残りやすいというのは皮肉な話です。
邪馬台国とは大宰府にあった。
そう考えれば、すべてが解決する。
これで全ての謎が解けた!
× 九州王朝説はどう考えても矛盾だらけだしな。
○ 九州王朝説抜きでは、どう考えても矛盾だらけだしな。
九州王朝なんて未だに信じてる人いるの?
732 :
日本@名無史さん:2009/07/22(水) 02:25:33
九州と畿内と出雲にそれぞれ何らかの大勢力があったと考えた方が
記紀の内容はしっくりくるんだが。
皆既日食と言えば、出雲だろ!
天照大神と八百万の神々
もち素戔嗚尊と大国主命と出雲タケル
>>732 それらが戦ったのが倭国大乱で、結果ヤマトで
卑弥呼を共立したと考えた方がしっくりくるでしょう。
735 :
日本@名無史さん:2009/07/22(水) 09:04:38
>>735 国はあっても邪馬台国ではないでしょ。もっと古い話。
大和は天然の要塞だよ、河内湖に入れば周囲から囲まれるし、
生駒や竜田を越えるのも困難だからな。
神武東征でも苦労してるじゃないか。
737 :
日本@名無史さん:2009/07/22(水) 19:10:50
>>729同意。
大宰府の遺跡の下をさらに数メートル掘って調査したことはあるのだろうか?
738 :
日本@名無史さん:2009/07/22(水) 19:59:17
掘っ立て柱を立てた跡が出てきたんだよ。
それこそ邪馬台国の跡ではないのですか?
>>739 そこに70000戸も人が住んでたのか??
741 :
日本@名無史さん:2009/07/23(木) 20:47:48
福岡平野なら7万どころか10万人以上の人口があったとしてもおかしくないし、
その奥の院として太宰府に邪馬台国があったとすれば何の問題もありませんね。
742 :
日本@名無史さん:2009/07/23(木) 20:58:12
七万人じゃなくて七万戸
743 :
日本@名無史さん:2009/07/23(木) 21:36:30
>>742その戸数×10人=70万人の食糧自給が可能だったのは、
関東平野しかない。関東こそ邪馬台国であり、日光大権現とは卑弥呼のことだった。
これで、またひとつ謎が解けた。
744 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/23(木) 21:37:46
>>741 邪馬台国は大宰府だけではなかった。
邪馬台国の領域は北野地域と筑後平野である。
筑紫平野に15万戸(>80万人)は収容できる。(邪馬台国+投馬國+奴國)
筑紫平野=北野地区(筑後川流域)
+筑後平野(矢部川流域+筑後川下流域)
+佐賀平野(嘉瀬川流域+筑後川下流域)
+白石平野(六角川流域)
どうやって食料調達するんだよ。
首都圏2000万人の胃袋を満たすだけの食糧需給力が、関東および、その周辺にはあります。
まあ、この場合、中国もオーストラリアもアメリカも周辺国ですが。
水運に必要な河川と船着場である河岸が発達していました。
関東周辺には津や湊や河岸が無数にありました。
747 :
日本@名無史さん:2009/07/23(木) 23:18:28
7万戸は法螺だろう。
大月氏国と数合わせした結果だろう。
748 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 00:42:33
>>741 筑前の国は18世紀の江戸時代でも人口は26万人。
749 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/24(金) 00:52:43
>>745 食料の主な調達源
カロリー(米):河川下流域湿地帯が弥生後期には水田化、2世紀より。
2世紀から始まった気温低下により、集中豪雨と旱魃の減少をもたらし、
田植え期の降水が安定化し耕地面積の拡大と単位面積収量の増大を促す。
保存食である米の収穫量の増大は飢饉のリスクを減少させる。
倭國乱は食料の争奪戦。
タンパク質(魚介):全ての平野が遠浅の有明海に面しており魚介が豊富に獲れやすい。
低湿地の水田化により、そこに居住することが池沼水路の淡水魚を得やすくした。
750 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 01:01:09
トビハゼを喰ってたのか??かわいそうに。
752 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/24(金) 11:05:18
トビハゼより大型のムツゴロウの干物は貴重な蛋白源。
良質の動物性蛋白源が安定して供給される有明海沿岸が、
女王國の人口の増大と活動性に果した役割は大きい。
筑紫平野は日本では稀に見る特殊地域なのだ。
狗奴國が女王國に匹敵する強大さなのは、
ムツゴロウ等の安定した動物性タンパク質の供給を
有明海と八代海から受けていたからと推測できる。
>>751 >多分禁断のアレだろw
「禁断のアレ」は、ムツゴロウのことか?
それなら、何故禁断なのか?
今までの歴史家と言われる人間は大きな過ちをしている。
人口を食料で論じる場合、その総カロリーだけで規定してきた。
人の肉体を支える動物性タンパク質の量も重要なファクターである。
低動物性タンパク質で育った人間は、体力もなく低い知能になる。
そのような活動性の低い人間の居る地域では強大な国が育たない。
禁断といえば共食いじゃないの?
754 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 11:31:09
なるほど、九州に強大な国のない理由が良く分かりました。
755 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 18:02:09
黒田52万石(=52万人)とは言うが、福岡平野なら
せいぜい20万人程度かな。
筑紫平野で30万人くらいか。
下流の湿地帯は当時は海で使えなさそうなので。
ググルアースで筑後川流域を見てみると、
今でも人口集中域が飛び飛びになっている。
当時のクニってこんなものじゃないかと思うんですよ。
さすがに福岡平野は人口が多くなりすぎで
わからなくなっています。
糸島平野はまだ集落が何となくわかります。
九大伊都キャンパスの南側は当時は海です。
756 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/24(金) 20:53:17
>>755 >筑紫平野で30万人くらいか。
筑紫平野>>福岡平野
筑紫平野=白石平野+佐賀平野+筑後平野+北野地域をご存知?
>下流の湿地帯は当時は海で使えなさそうなので。
弥生後期に現在の陸地が海であったのは吉野ヶ里の南側だけです。
有明海が大川市の西を吉野ヶ里のふもとまで北に入り込んでいました。
(隋使が到着した海岸は、佐賀平野の東を北に入り込んだ有明海の北部海岸線であったと推定されます。)
筑後川は吉野ヶ里の南側の海に西向きに流れ込んでいました。
現在の佐賀平野東部は、筑後川の南側に広がる低湿地で、筑後平野に含まれる状況でした。
筑後平野は沈降しているので、弥生後期の海岸線は現在とほぼ変わりありません。
佐賀平野の海岸線は現在より少し北側です。弥生期の遺跡から判断できます。
弥生後期の白石平野六角川河口部海岸線は、現在より西にあったと推定されますが、
正確にはよくわかりません。
7万戸となると、やはり大阪平野ということになりましかね?
758 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 21:16:34
>756
>筑紫平野>>福岡平野
>筑紫平野=白石平野+佐賀平野+筑後平野+北野地域をご存知?
了解です。
白石地区と佐賀平野は考慮の対象外としておりました。
江戸時代の石高から計算したことはあります。
そうするとプラス20万石と言うことになります。
さらにプラス5万石くらいは行けるかな
福岡平野20万人
筑紫平野(佐賀方面も含む)55万人
熊本平野(未計算ただし面積は相当ある)
伊都が千戸というのは相当過小評価だと考えます。
遺跡などの出土状況からみても、5千戸〜1万戸程度あっても
問題ないと思います(2万人程度?)
現在の前原市で7万人弱、これに志摩町、二丈町が入ると思いますので。
ただ、あくまでも食料生産力からの算出で、
実際の人口と一致すると断言するつもりはありません。
759 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 21:48:42
これは妄想ですが、邪馬台国が九州勢力をある程度統一する前には、
鳥栖から久留米、基山辺りは激戦区になるような気がするのですね。
日田のように守りやすく攻めにくい地形は、多人数の戦闘が起こりにくいため
長い間膠着状態になります。
福岡方面の勢力
久留米八女、筑後付近の勢力
佐賀の勢力
甘木朝倉の勢力
これらがどのように連合合掌しているかはわかりませんが、
久留米から基山、鳥栖辺りは広大な平野であり、
それぞれの勢力の侵攻を押しとどめるものがありません。
そのため多数の兵の衝突になりやすいものと考えます。
それらの拠点となるのが高良大社や基山、三養基では無いかと思います。
そこにほど近い吉野ヶ里では戦死の跡が残る甕棺が出ていますね。
大刀洗とか、宮の陣なんていう地名もありますし。
もっともこれらは後世に出来た地名だそうですけど。
いろいろと血なまぐさい感じがします。
基山も高良大社も実際に見ると、実戦を意識したものとだと感じます。
760 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/25(土) 18:18:43
>>759 その視点は妄想ではないと思うよ。
魏使のルート、
卑彌呼死後の抗争、
磐井の乱、
隋使のルート、
倭京へ遷都、
壬申の乱、
698年の畿内軍の侵攻、
畿内による太宰府の軍事的価値
上記をよく理解でき納得できる。
761 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 18:47:27
>>752 九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y
>人口を食料で論じる場合、その総カロリーだけで規定してきた。
人口に関して述べる時、このコテが好んで語るネタだが・・・
従来の人口推計の欠陥を見つけたつもりなのか?
たんぱく質だのビタミンミネラルだの
言わば「おかず」も同時に採っていたであろう事は前提だろうに・・・w
良く博物館や歴史の本の図版に載っているような「古代人の食事」を再現した物でも
何も穀物オンリーでも無いw
じゃあ縄文時代の人口推計なんかどうするんだって話で
無論今日縄文時代を原始的な採取狩猟生活とは見ないが
それでも栗やどんぐり、季節によっては鮭などのタンパク源も考慮して
食生活を再現する。
何とか(まったく桁が違うw)自説と従来の説に決定的な差異を見つけてたくて
飛びついた先が「タンパク質」ってネタだったって話なんじゃないのか?wwwwwwwwww
762 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 19:25:18
>>760 ありがとうございます。
もうひとつ、妄想を書かせていただいてよろしいでしょうか。
有明海沿岸のいずれかに邪馬台国があったとして
もし、福岡勢力と筑後勢力が戦っていたら
博多から筑紫野のほうは通れないような気がするのです。
まさに敵国を通ることになりますから、邪馬台国側からみれば
張政が福岡側に説得されて、籠絡されてしまう危険があると思うのです。
だから、もし邪馬台国側が張政を呼んだとすれば福岡を通らない
ルートを使う可能性があります。
そうなると、唐津、伊万里あたりから、多久、武雄、白石方面に
抜けるルートを通ることもあるのではないかと思うのです。
サガミハラハラ氏の説に近いのですが、小城であるかどうかは分かりません。
自分はどちらかといえば、山門郡説のイメージに近いです。
通常の戦がないときであれば、福岡ルートを通ることができるでしょう
時代、または目的によってルートが違うという可能性はないでしょうか。
クナ国と邪馬台国との戦は、福岡―筑後戦ということになり
それが崩れれば、すべて無意味にはなりますが。
763 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/25(土) 19:26:42
>>761 縄文時代の食生活については従来説を概ね支持しています。
蛋白質説は、弥生中後期の低湿地水田が出現してから以降の食生活を論じているのです。
弥生中期までの山裾や扇状地の水田の時代についての食生活を論じているのではありません。
蛋白質論を始めて2chに書いたのは、
数年前(5年以上前?)の※九州王朝はあったのか?※スレだったと思います。
古墳期以降平安期頃の畿内の食生活について論じた時です。
764 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/25(土) 22:34:33
>>762 その通りです。
魏使のルートは、唐津松浦川河口から観音峠越えで佐賀平野に出ます。
伊都國の城郭は肥前国庁跡の惣座遺跡です。
奴國城郭は佐賀城、不彌國城郭は吉野ヶ里遺跡、
卑彌呼の都は不彌國の東南の久留米市南部となります。
その城郭の場所は今のところ特定できていません。
隋使も同じルートで、多利思北孤の都も卑彌呼の都と同場所もしくは近辺です。
邪馬壹國の領域は北野地域から八女までの筑後平野の東部山側です。
ちなみに投馬國は筑後平野の西部海岸側みやき町三根から大牟田までです。
狗奴國とは矢部谷峠(国道3号線)と荒尾市近辺(投馬國と狗奴國の対立)で対立していました。
この対立の接点は地形から判断したものです。
4世紀には狗奴國は、邪馬壹國の後継勢力に勝ち(邪馬壹國の自滅もありうる、福岡平野勢力との対立で)、
横穴式石室装飾墓を引っ下げて、八女市筑後市付近まで進出して来ました。
この福岡平野勢力とは倭奴國の後継勢力です。
倭國(倭面土國)王帥升は吉野ヶ里に拠点を持つ勢力で、倭奴國を滅ぼしたのです。
吉野ヶ里の近くには、面土(メタ)を表す「米多」「目達」の地名が残っています。
(旧事本紀の築志米多國も)
米多には、倭面土國の湊「米多の津」のあったところかと思われます。
倭面土國は、帥升の後、倭國乱で勢力を落とし(福岡平野倭奴國後継勢力の復権)、
又、新興邪馬壹國に攻められ、都を吉野ヶ里から西方100里の惣座遺跡に移します。
惣座遺跡は、「倭都(イト)」となり、「伊都」と倭人伝に書かれるようになったのです。
以上、僕の3年前に組みあがった視点です。
766 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 22:50:23
>757
大阪は無理だな。
大阪は元来内海に上町台地が半島として突き出した地形。
上町台地の西側は、江戸以後の埋立地。台地の東側は、淀川と大和川が土砂を運んで造った泥地。
6世紀に大川を掘削して排水する前は、潟だからなあ。7万戸もすめないよ。
邪馬台国大阪説って、誰も言わないだろう。そういうこと。
767 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/28(火) 16:47:00
>>757 大阪平野は平安時代でも未だ湖(河内湖)だ。
長居公園あたりを帆掛け舟が航行していた。
>>766 南河内は結構広いよ。
>>767 大阪平野の範囲を何処で
想定してるかしらんが勉強不足です。
>>765凄いです。驚きました。
ササン朝ペルシャが、邪馬台国のルーツだったんですね?!
770 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/28(火) 20:44:26
>>768 君は勉強不足と言うより無知だ。
3世紀の大阪平野範囲は、
淀川以南、現大和川以北、現大和川以南の石川西除川流域は含む(南河内)、だ。
淀川以北は銅鐸文化の土地、ここで言う大阪平野から除外される。
石川西除川流域を除く現大和川以南は丘陵地帯。
ため池等の土木技術が出てくるまで水田には不向き。
3世紀の現大和川以北のほとんどの地域は未だ河内湾。
現大和川の1kmほど北の長居公園あたりでは(西除川河口部)、
10世紀になっても帆掛け舟が走る河内湖だった。
771 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 21:09:37
まあ、大阪は無理だということで...
そう言えば、奈良盆地は弥生時代には大きな湖で、桜井あたりに大溝を掘って湖の水を初瀬川に流し、干拓したって話だ。
その最後に残った泥湿地を埋め立てて藤原京を造った。こっちも大阪と同じく干拓地。
772 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 21:18:19
>764
細かい解説ありがとうございます。
肥前国庁後が伊都国という説なのですね。肥前国庁跡は嘉瀬川沿いにあり、
太宰府政庁跡は御笠川、筑後国府跡は筑後川と川沿いにありますね。
ちなみに、旧来の説での伊都国庁に相当するものも瑞梅寺川沿いにあるものだと考えています。
平原遺跡の南側の集落、三雲、井原遺跡付近ですね。いまでもこの辺りには
平野の中央部に集落が固まっていまして、普通は山筋に添って集落が出来て
くるものですが、ちょっと異様な感じがしたことを覚えています。
そのあたりが、伊都国の都(貧相ですが)であり、そのまま集落として続いてきたのかもしれません。
そのため、名前は伊都なのかは別として、何らかの重要なクニだと考えています。
これらの遺跡は、川と庁舎、古い神社で構成されています。面白いのはこれらの神社の祭神が
、天皇一族を入れるのは当然として、追加される神がかなり古そうなことです。
肥前国庁跡の若干上流に位置する與止日女(よどひめ)神社、與止日女(よどひめ)命 神功皇后の妹、
また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様で、神武天皇の御祖母)
伊都国の三雲だと、高祖神社の高礒比売神(高祖姫の神)ですね。
これも神功皇后が絡んできます。女神だと神功皇后が必ず絡んできますのであとから付け足したのでしょうか。
筑後国府だと、あの辺りはいっぱいありすぎてわかりませんが、
久留米市北野町に豊比刀iとよひめ)神社なんてのがあります。高良大社は軍事基地ですね。
あと、福岡勢力と佐賀の三養基、三根勢力がつながっているという説は
福岡で有名な櫛田神社の元社が神崎櫛田神社であることから、可能性を伺うことが出来ます。
勧請したのは8世紀だそうですが、それ以前から信仰があった形跡があります。
ついでに主神は櫛稲田姫命です。あとスサノオとヤマトタケルです。えらく神話してますね。
福岡三根勢力がつながると、久留米筑後勢力は、筑後川南東側に追い詰められてしまいますね。
豊の時代にはやはり降伏してしまったのでしょうか。
>>770 無知は君だな、三世紀で現大和側以北が河内湾?無茶苦茶言うなよw
八尾周辺まで弥生遺跡、亀井遺跡なんて縄文期の集落まであるけど。
775 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 21:42:36
久留米市大善寺に、御塚権現塚古墳があります。
これが卑弥呼の墓である可能性はそう高いとは言えませんが
外堀まで含めると、直径が150メートルあります。
卑弥呼の墓が径百余歩とありまして、十数メートルから140メートルと
各説がありますが、少なくとも九州でも大型古墳が存在する傍証にはなりますね。
ちなみに円墳です。御塚古墳はバチ型の可能性もあるそうです。
776 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 22:40:15
>774
まあまあ。
梶山彦太郎・市原実著「大阪平野のおいたち」青木書店
でも読んでくれ。地図付。
>773
奈良盆地の湖の話は、れっきとした成書に載ってる話だよ。
確か「奈良県の歴史」だったと思う。
出版社は今ちょっと分からない。本を仕事場に置いてるから。
>>776 当然それらの書物は目を通してますよ。
勿論それ以外にもね、何せ地元だし。
奈良湖なんてのは大半縄文紀に滅亡してるというのが結論ですね。
古い遺跡が出る以上、湖とみなすのは無理ですよ。
弥生時代までも奈良盆地が湖だったら
田原本周辺の遺跡はどうなるんだよw
中には縄文時代からの遺跡もあるのに無知にも程があるぞ。
779 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 04:44:27
>>770 >3世紀の大阪平野範囲は、
淀川以南、現大和川以北、現大和川以南の石川西除川流域は含む(南河内)、だ。
それは河内平野。
>石川西除川流域を除く現大和川以南は丘陵地帯。
ため池等の土木技術が出てくるまで水田には不向き。
池上・曽根遺跡はそれより南の和泉平野にあるのだが。
大阪の場合、環状線の内側辺りは、今でも水っぽいでしょう。
大和川の付け替え前は、さらに水っぽい。
淀川、大和川河口部は、かなり広い水面が有ったかと。
なんせ、葦原の中ッ国ですから。
まあ、日本全国、そんな感じのところが多かったことでしょう。
781 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/29(水) 11:19:53
>>779 >それは河内平野。
現在の河内平野の3世紀は半分以上が河内湾と沼地であった。
水田化と居住が可能な低湿地は現在の八尾市南部以南と松原市以南。
>池上・曽根遺跡はそれより南の和泉平野にあるのだが。
現在の堺市から泉佐野市までの、JR阪和線以西南海本線以東は、
小河川沿いに小平野が並んでいる地域。
3世紀の南海本線以西の地域は海。
>>781 畿内にそれだけ居住区があれば3世紀末に七万戸なんて余裕ですよ。
河内湖周囲に住んでいたのなら、倭人の生活が
海人を彷彿させる点とも一致するしな。
784 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/29(水) 19:08:05
>>783 河内湾(河内湖)の周囲には倭人が住めるスペースがありません。
北岸は銅鐸人国家。西岸は上町台地半島でスペースが狭く、且つ水がありません。
東岸は生駒山信貴山と河内湾に挟まれた幅1km程の地峡。
南岸には沼地地帯があり、その南の南河内にしか倭人は住めません。
河内湾の周囲は大きな勢力を持つ海人が住めるような場所ではないのです。
遺跡は沢山あるけどな。
786 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 21:12:42
九州王朝なんて古田氏がマスコミに乗ったために
本を書き続けるためにひねり出したデムパだろ(本人もどれだけ信じてたか?)
ただ5世紀迄の日本の歴史を考えるに北部九州は極めて重要な地域
>>784 やはりあまり畿内の事はよく知らないみたいだね。
788 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 21:19:57
>>788 湖の中に遺跡があるのかww
地図まで捏造するなよ。
しかもあの地図より更に低地に
縄文末期の遺跡が発見されてるよ。
790 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/29(水) 21:45:21
>>778 >弥生時代までも奈良盆地が湖だったら
>田原本周辺の遺跡はどうなるんだよw
弥生時代の大和湖の範囲
標高47m〜50mのラインが湖岸ライン。
東岸:近鉄橿原線以西
南岸:近鉄田原本線以北
西岸:曽我川及び高田川
大和湖を作り出した堰堤:三室山を南北に通る尾根筋(地質学的には平野の中の山脈)
大和湖ダムの流出口:王寺町船戸3丁目と斑鳩町神南1丁目に挟まれた大和川水路部
大和湖の流出口が上記場所であることを示す傍証。
「船戸」←船門 水路において船の門に当る場所(湖と川の境目の意)
川合町「大輪田」←おおわだ 船戸の上流側地名 大きく水面が広がる場所の地名(大和湖の水面が大きく広がる場所)
広瀬神社縁起「一夜で水が引いた」 船戸の大和川底を200m長ほど掘削するだけで大和湖の水位は下がり、湖は消失する。
川底の土砂の運搬作業が不要な簡単な工事(土砂を水流で流すだけでよい)
何か勘違いしてる奴が居るようだが、
大和湖は地すべりなどで口元が塞き止められて出来る湖で、
消えたり、拡大したり繰り返す湖だぞ。
792 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/29(水) 21:57:46
過剰な自己顕示欲っていうのは、暴走を引き起こす原因になりますね。
>>791 そういう事です。常時水を貯めてる大和湖なんて
縄文以前に消滅してます。
地滑りや多雨で土砂決壊を繰り返して
河内平野が形成されていったという事です。
795 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/29(水) 23:14:22
反論が自己顕示欲と暴走か。
地質学でも勉強してから反論したら?
亀瀬崩落による大和湖の消失出現説は成り立たないだよ。
大和湖を太古、人為的に消滅させたのなら伝承か記録に残る。
河内や大和にはそんな話はなくて、何故かヤマタノオロチ伝承か、
龍が河を暴れると言った話ばかりだね。
杵築神社が河内と大和の低地川添に多い事からも解る事だ。
湖水が亀の瀬以外から流失?それこそ弥生縄文どころの話じゃ無いw
大阪平野すら誤認識してた奴に地質学を語られてもなあ…
798 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 23:47:47
>>790 >地質学的には平野の中の山脈
これが地質学???バカじじい。
799 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 00:07:28
古奈良湖と呼ばれるものは、300万年〜100万年前に存在していた。かつて琵琶湖は今の
位置ではなく、伊賀盆地近辺にあり、(今も尚、年に3cm北に動いている)その水は今の淀川
でなく奈良盆地を抜けて、大阪湾に注いでいた。それが、生駒山地の隆起にしたがって自由に
流れることが出来なくなり、盆地内に水がたまり、湖になっていった。
さらに、約200万年前、生駒山地南の、金剛山地の北端の二上山が大規模な地滑りを起こし、
今の亀が瀬と呼ばれるごく狭い部分を除いて水が流れなくなり、水位は上昇した。
それが、150万年前〜100万年前くらいにかけての大規模な地殻変動で、それまで奈良盆地
に流れ込んでいた水が、より北の今の京都、大阪側の方へと流れるようになり淀川の原型とな
る。そして少しずつ亀が瀬から水は抜けて行き、「古奈良湖」は消滅した。
その後、縄文時代から弥生時代にかけて古奈良湖跡は湿地帯であり、洪水が起こりやすかっ
たが、集落ができる場所もあった。現在でもこの地域の表層地盤は、極めて軟弱であり、地震動の
増幅度は高く、地盤液状化の危険度は高い。
これは地質学では常識だ。
湿地帯は初期稲作の最適地ですよね。
801 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/30(木) 00:22:26
803 :
798、799:2009/07/30(木) 00:35:48
ではあるが、浸水を原因としてのムラの放棄は頻繁にあったと考えられる。唐古、鍵遺跡も
おそらくそうだと思う。弥生時代になっても、古奈良湖跡は洪水による滞水期があっただろう。
791,794は正しく、九州じじいは地質学の地の字もわかってはいない。なんなら京大理学部
同志社大学工学部に問い合わせてみな。
唐古・鍵遺跡には数回大きな水害の形跡があり、
その都度灌漑設備を再構築している形跡もあるしね。
あと標高40mの位置にある箸尾遺跡には、
縄文末期の遺跡も発見されてるので
一応現状ではこのラインが生活可能境界線。
805 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 02:30:22
>>770,781
いちいち反論するのも馬鹿馬鹿しくなってくる。
まず、大前提として大阪平野=河内平野ではない。
淀川以北は銅鐸文化だから大阪平野から除外される、という説も意味不明。
銅鐸文化と大阪平野との間に必然性も因果関係も見いだせないので。
>石川西除川流域を除く現大和川以南は丘陵地帯。
>ため池等の土木技術が出てくるまで水田には不向き。
そんなこと言っても、池上・曽根遺跡は現実に存在するのであり無意味。
泉南地区に対しては丘陵地帯だから水田には不向きだと言い、大和盆地や
河内平野に対しては湿地帯だから農耕に不向きなのだと言ってみたりと
九州説は、その場その場で言ってることが矛盾してる。
湿地帯だから不向きだというのなら有明海も同じだろうに。
むしろ、あの延々と続く遠浅の干潟を見ながら、有明海に巨大な人口が
あったと主張することの方が不思議だ。
九州説では木製農具で筑紫平野一面を開墾できる
807 :
803:2009/07/30(木) 08:12:21
しかし、ただ地図を見て適当なことをいってるやつが「地質学」とはあきれるね。
808 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/30(木) 11:25:08
>>805 >淀川以北は銅鐸文化だから大阪平野から除外される、
そんな事誰が書いている。君の曲解と妄想だ。
淀川以北は、銅鐸人国家だから(3世紀の倭人の居住範囲から)除外される。
と、()内を端折って書いたのだ。
809 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/30(木) 12:07:28
>>804 >あと標高40mの位置にある箸尾遺跡には、
>縄文末期の遺跡も発見されてるので
>一応現状ではこのラインが生活可能境界線。
上記の発言は傾聴に値する。
もし本当なら、僕の船戸放水口説は成立しない。
縄文人の生活痕跡を残すものが標高40m(地下2m)の位置あったのか?
縄文人の舟が嵐で転覆し、たまたま箸尾遺跡の位置に生活用具が沈んだのではないのか?
箸尾遺跡が縄文人の生活痕跡を示す遺跡であれば、(発掘報告書未読)
弥生の大和湖の船戸放水口説は成立しない。
亀瀬崩落説は天香具山の南にある「南浦」の様な標高の高い位置にある地名を巧く説明できる。
奈良盆地には湖であったことを示す地名が散在していることに、以前から不思議に思っていた。
僕は九州の爺ではないぞ、奈良の爺だ。
勿論大阪湾沿岸の事については詳しい。
六甲山麓の横穴式石室墓についても独自の見解を思っている。
現在六甲山麓に居住。
縄文〜弥生紀の奈良湖は神出鬼没なんだよな。
でも普段は湿地帯なのは間違いないでしょ、標高40m位までは。
箸尾遺跡については比較的最近の発掘調査でわかったもの。
中世の遺跡の下に発見されたものだから、詳細な調査はまだのはず。
日本人の民族性が、フォッサマグナを境に大きく異なっているのは、
もともと、中国大陸の別々の半島だったものが地殻変動で合体し
一つの島になったからだというではないか。
それもそれほど昔のことではなく、1万年か2万年前の話だし、
年に数メートルくらいの大規模な地殻変動があって、多くの島が消え、
新しい島ができたと考えられます。
812 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 00:17:46
ここ、以前の亀の瀬でもそうだったけど、地政学的話になると、俄然盛り上がってくるね。
奈良湖の件では勉強になりました。(亀の瀬の件も言い出しっぺは私でしたが)
悪口が無ければ、程度の高いスレと思いますよ。
813 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 00:36:47
>811
太一夷を折り、息襄連山を為す(諸星大二郎)
814 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 04:50:48
>>808 >淀川以北は、銅鐸人国家だから(3世紀の倭人の居住範囲から)除外される。
ますます意味が分からん。
銅鐸を祀ってた集団が倭人でないのなら何人なのだ。
騎馬民族か?朝鮮人か?
それとも、それが九州王朝なのだとでも?
言っておくが、銅鐸の最盛期は2世紀までで、3世紀は廃れていってたとかは根拠にならん。
紀元前から銅鐸を祀ってたのは九州王朝でなく畿内の倭人なのだから。
815 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 05:15:13
>>787 そのようだ。
>>784は電波学者の受け売りで語ってるだけ。
河内湾は3世紀頃にはすでに淡水化し河内湖となってており、湖周辺は稲作に適していたと思う。
むしろ、同じ湿地帯でも、有明海周辺部は干潟を干拓してできた土地であり
今でも塩害が問題になってる。
銅鐸の中の人は斉人
817 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 11:52:30
>815
庄内式土器が出てきた場所そのものが、当時の海岸線だからね。
海岸線で行った八十島祭の発掘場所は、確か吹田の街中だったし。
ただ、7万戸はどうかんがえても法螺だろう。
818 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/31(金) 14:51:39
魏書の倭人と銅鐸人はどちらも弥生人であるが異文化。
畿内では銅鐸人が先住民。
倭人は畿内に何次にも分かれて侵入してきた。
倭人はまず淀川水系以南に侵入。淀川水系は銅鐸人の地域。
次いで倭人は神戸方面から侵入、順次東へと銅鐸人を制圧。
銅鐸文化が最後まで生き残こったのは滋賀地域。
銅鐸の消滅時期についての過去の研究を見れば上記がわかる。
先ず、神戸に侵入したのは淡路(阿波路)を経由した阿波の勢力。
彼等は神武の日下の楯津侵入の手引きもしている。
常に時計回りである大阪湾湾岸流に乗り、淡路島東岸を北上し、
神戸を東に進み河内湾入り口部である南方(南潟)を通過して河内湾奥深く侵入している。
神武等は日下で敗戦し、南方(南潟)を通って敗走する。
河内湾入口である南方では、銅鐸人の待ち伏せに遭うが、
なんとか突破し、大阪湾の時計回りの湾岸流に乗り泉南方面に遁走した。
これで神武の時代には未だ河内湾で、河内湖にはなっていなかったことがわかる。
河内湖(汽水湖)となったことがわかるのは仁徳期。
倭人が淀川水系に進出し銅鐸人(武埴安彦)と争い始めたの崇神期。
倭人が本格的に摂津の銅鐸人を滅ぼしたのは垂仁期。
その時垂仁に強力したのは前述の阿波の勢力。神戸は阿波の支配下になる。
819 :
ローガン:2009/07/31(金) 15:50:39
>>818 > これで神武の時代には未だ河内湾で、河内湖にはなっていなかったことがわかる。
> 河内湖(汽水湖)となったことがわかるのは仁徳期。
もっと前ですよ。森ノ宮の弥生貝塚でセタシジミが大漁です。w
820 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 18:29:59
821 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/31(金) 18:48:49
>>819 >もっと前ですよ。森ノ宮の弥生貝塚でセタシジミが大漁です
弥生中期と見做されるタコ壺は塩水の海であったことを示しています。
もう少し詳しく考察すると、森の宮付近の河内湾は以下の様な経緯をたどったものでしょう。
@縄文後期迄:河内湾 カキ貝塚
A縄文晩期:河内潟 シジミ貝塚
B弥生前期:河内湖 セタシジミ貝塚 米作可能化
C弥生中期:河内湾 タコ壺出土
D弥生後期:河内湾 上町台地半島(北部砂州化の為)の人口減少 土器出土減少
E古墳期:河内潟から河内湖へ
何故上記の様な変化があるのか?
淀川の流路が変化するからである。
淀川の流路は、最も東は枚方で南下し河内湾に流れ込み、
最も西は現神崎川のルートを取り大阪湾に流れ込む。
淀川はそれらの中間域も含めて流路が大きく変動し続けたのある。
淀川の流路が、東のルートを取ると河内湾となり、
西のルートを取ると、淀川を流れて来た土砂は大阪湾に直接流れ込み、
その土砂は大阪湾湾岸流に乗って南に流され上町半島の北に砂州を形成する。
砂州が出来ると河内湾の大阪湾への開口部が細く閉鎖され(大和川水系の水のみに水量が減少する為)、
河内潟もしくは河内湖となる。
神武の時代は、淀川河口の島、中島の南側にある南潟(南方)を通って河内湾へ出入りできた。
神武は河内湾侵入の時、大阪湾から直接枚方(平潟)まで入っているので、
中島の北側現神崎川ルート(北潟)で河内湾に入っていたのかも知れない。
神武が河内湾へ侵入したのは弥生中期後期の時代であったことを裏付けるものである。
南方(南潟)のルートは現新淀川のルートではなく、
大阪府立北野高校のグランドを通る旧河川(川の名前は忘れた)のルートである。
822 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/31(金) 19:20:25
823 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 19:26:33
>>821 >タコ壺
ヨコだが・・・
それは海中に設置された物が放置されたままになったと確認されているのかな?
まあ造る時は数まとめて作るだろうから窯跡から出土するのが一番確率高い気もするが…
824 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 20:35:24
>>821 バカじじい。お前がどんなにつけ焼き刃でググろうと、まず、
>神武が河内湾へ侵入したのは弥生中期後期の時代
こっちの証拠をちゃんと書き込めよ。当時の地形がどうとかは神武東征の何の証拠にもなら
ないだろう。家族に迷惑かける前に、はよセント・ジェームスに行け。
>>716宮本常一先生の研究によると、
博多湾にも塩田があったらしい。
826 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/31(金) 23:56:04
>>823 タコ壺は森之宮遺跡の出土品です。
タコ壺の現物をさわったことがありますか?
誰があんな物をわざわざ他所から持ち込むでしょうか?
森之宮遺跡の東の海辺でタコ漁に使っていたものです。
827 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 03:04:00
>>818 蛸壺とか関係ない話はどうでもいいから、妄想は自分の友達にでも語ってなさい。
この板はあまり来ないが、たまに来てみても九州説はこんなのばっかり。
828 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 03:22:07
>神武の時代は、淀川河口の島、中島の南側にある南潟(南方)を通って河内湾へ出入りできた。
神武の話も邪馬台国と関係ないが、ついでに言っておくと、船で淀川を遡り
枚方→京都へと至る航路は明治までは一般的なルートだった。
これが九州説では、神武が船で枚方に至ったという記述は、記紀が編まれた
8世紀には想像できない記述だっただろう、従って神武東征説は事実なのだ
などと言ってるが、それは20世紀の九州人の見方でしかない。
8世紀はおろか19世紀末頃まで、近畿の一般庶民にとってそのルートは
ごく自然なことに思えたことだろう。
829 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 03:41:02
神武東征説話は九州内での九州王朝統一説話流用に思えてならない。なんの根拠もないが。
830 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/01(土) 09:20:22
昨夜の投稿忘れ。寝てしまった。
>>824 >>神武が河内湾へ侵入したのは弥生中期後期の時代
>こっちの証拠をちゃんと書き込めよ。
>>818の神武時代の地形を示すのが、
>>821の弥生中期後期の河内湾の地形。
証拠はちゃんと書き込んでますよ。
831 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/01(土) 09:41:59
>>892 神武東征説話は九州内での九州王朝統一説話流用ではないだろう。
内容、特に大阪湾岸の地形と結びつく部分が余りにも詳細でリアルだ。
神武と称された数人(幾つかの集団)の九州からの移住説話が神武東征説話としてまとめられた様に思える。
832 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/01(土) 09:44:10
無人の原野に佇む神武天皇。俺は、とうとう大和を統一した。
それじゃなんか神武を隊長とする探検隊がついに秘境、大和に到達しました、て感じだな
835 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 11:22:34
縄文人は盆地が好きだったのです。
今の大和川の湿地帯を抜けさらに遡上していくと、羽曳野を越えたあたりで
朝靄にかすむまほろばの里、奈良盆地が広がっていた。
これぞ、高天が原だ!俺たちはやった、ついに発見した!と思ったでしょうね。
836 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/01(土) 11:41:02
>>833 >無人の原野に佇む神武天皇
無人の原野の発想は何処から来ているの?
神武説話では原住民との戦いの繰り返しになっているが。
縄文期だと羽曳野周辺は集落が多いからな。
石器時代から二上山周辺は各地への石の供給地だよ。
そりゃー、蛇みたいな大和のオロチョン族とかいろいろ敵はいましたが、
酒を飲ませて眠ったすきに退治したりと大変でしたよ。
それも古事記に書いてあります。
読めばわかるが神武は実際には敗走してるからな、
必死に遠回りして策略を繰り返しながら何とかヤマトへ入ってる。
しかも先住者は結局は身内だったとわかるし。
840 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 12:37:20
弥生時代のタコ壷は池上曽根など和泉地方の遺跡が有名だが、森ノ宮遺跡からタコ壷が出てきたという話は聞かないなあ。
841 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 13:18:58
842 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 14:55:16
>>831 長年疑問に思っているのですが、
河内潟・河内国の『河内』の読みは、『かわち』なんでしょうか?
『かわち』でなく『ごち』と発音する地名もあるようなのです。
843 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/01(土) 18:52:38
『かわち』
祟神の第一子である豊城入彦を祭る二荒山神社のある宇都宮市付近は、
元は河内(かわち)郡池辺郷と呼ばれていました。河内という地名は他にも
ありますが、いずれもワケ王朝とのつながりの深い地域のような気がします。
豊城入彦といえば、祟神と荒河戸畔の娘(紀氏)。神武からワケ王朝までは、
系統的につながっており、有力豪族の女に産ませた皇子を地方の大王
として送り姻戚関係を結ぶことで力をつけてきたんですね。
ワケ王朝とは、血を別けるという意味だったのです。
845 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 21:41:08
>>839 >しかも先住者は結局は身内だったとわかるし。
その通りだと思います。
大和に天下った神武は、人質として九州王に嫁がされた大和の王の娘に
産ませた九州王朝の皇子だった。
だから、いくら自分たちの一族と血を別けた皇子が帰って来たからと言って、
大和の豪族は、おいそれと新しい王と認めることができなかったのは当然
です。
846 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 22:38:54
京都府与謝郡野田川町『三河内』
847 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 23:40:42
>828
おいおい、枚方と東大阪の日下は、相当離れているぞ。
それに日下は今は中環沿いの陸地の只中。
こじつけも相当だな。
枚方には近世までいけたが、東大阪の日下は8世紀には内陸だったという事だろ
実際、古河内潟の最後の名残は現在の鶴見緑地、低湿地をゴミ捨て場として使っていたが埋まったので公園に改修した
1700年代に上町台地を掘削して大和川の流れが変えられるまでは、北西に流れ(現長瀬川)、大阪城の東で旧淀川に合流していたし、
今も寝屋川をはじめいくつもの川が大阪城の東側(鶴見緑地を含む)に一旦集まってから旧淀川に合流している
849 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/02(日) 01:18:11
>>847 >おいおい、枚方と東大阪の日下は、相当離れているぞ。
>それに日下は今は中環沿いの陸地の只中。
今の日下は外環状の東側、生駒山のふもとの傾斜のある土地、石切神社の北 。
日下は中央環状から生駒山裾の広い範囲の水陸地域名称であったものと見做せる。
盾津は日下の津、外環状の西側、盾津の南は水走(みずはい)。
外環状あたりが海岸線だったようだ。
「日下」は、縄文からの霊山生駒山の太陽が昇る山の下の意味と思われる。
平潟(枚方)は盾津の北6〜8km、現在の寝屋川市と高槻市と枚方市にまたがる地域と推定される。
金剛山といえば、北朝鮮の金剛山(クムガンさん)の方が有名だし、
半島からの移民が故郷を偲んで名付けたのでしょう。
851 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/02(日) 19:27:33
>>850 金剛山は半島からの移民が故郷とするようなところではありません。
風光明媚な辺境です。
日本人が観光開発してから半島人にも広く知られるようになったところです。
大阪の金剛山と北朝鮮の金剛山には何の関係もないことを書きたかっただけ。
金剛山も本来葛城山だったからな。というより和泉葛城山を
含めての葛城山脈だったのだろう。
853 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 17:43:17
>>841 タコは汽水域でも獲れる。
代表的なところでは浜名湖。
また宍道湖でも獲れ、タコ島と呼ばれた島にはタコ神社がある。
弥生時代の河内湖ではセタシジミが漁れてたので、当時そこが海だったということはない。
854 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/03(月) 23:31:07
>>853 >タコは汽水域でも獲れる。
弥生前期にはセタシジミが層状になった貝塚があった。
セタシジミは淡水シジミだから、河内湖は淡水であって汽水ではありえない。
弥生中期のタコ壺は、河内湖が汽水であったことを示すことになる。
弥生前期には淡水の河内湖が、弥生後期には汽水の河内湖になったことになる。
あなたの説:淡水→汽水
僕の説:淡水→塩水
僕の説と殆ど同じですね。
違いは、大阪湾と河内湖(湾)を結ぶ水路の幅が広いか狭いかの差ですね。
水路が広いと塩水、狭いと汽水になります。
「南方」は中島の南潟で「潟」ですから水路の幅が広いことを示しています。
又もし水路の幅が狭いと、神武は大阪湾へ脱出できなかったと思います。
855 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 02:19:51
竜宮ってね、
天皇(大君)が亡くなった宮を指すんじゃないかと思うんです。
鹿児島開聞岳大宮姫伝説の近辺にも竜宮神社があるらしいです。
まあそんなわけで九州王朝の存在は確定的なわけや
京大出身のワシでも認めんわけにはいかん罠
畿内説の私でも九州王朝の存在を認めてますよ。
ただし2世紀末位までね。
858 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/04(火) 12:20:21
859 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/04(火) 12:45:12
>>855 大宮姫=薩末比売で九州王朝最後の兄王(宗教王)だと思うのだが、
彼女は700年に薩摩で処刑されないで、8世紀まで生きたと思う。
860 :
蛸国:2009/08/04(火) 14:33:23
pppppここはタコの生態スレか?
蛸も塩漬けや酢漬けにすることで、ある程度、日持ちがした。
イカもスルメにすれば一年中食べられたし、鮭も塩漬けにして
内陸部まで運んでいた。
やはり問題は塩ですよ。博多とは伯方のこと、塩を瀬戸内海に
依存せず、自前で生産することができかどうかが、九州王朝
存亡の鍵を握っていたことは、ほぼ間違えありません。
862 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 22:59:09
瀬戸内海には、同じ地名がいっぱい。
なにわ、たちばな、はかた、あしや、くさか、等等。
特に、「たちばな」は多い。北九州、松山市、尼崎市、東大阪、それとどっかの島にも有ったな。
有名な東大阪の日下のすぐ南にもある。いざなぎが禊したところとされているが・・・
誰か、この地名の相似性を系統的に説明してくれないか?
863 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 23:01:24
個人的には、同じ海人種族が移動しながら居住した場所ではないかと思っている。
>>861 九州での塩の量産は他の地域より遅いだろがw
よって
>>752で九州王朝大好きの言ってる事は否定できる
弥生時代、大量に塩を作っていたのは吉備と東海、その間にある畿内は
圧倒的に有利。
865 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/05(水) 16:51:03
>>861 >>864 弥生期の海洋民と沿岸民にとってミネラルの意識的摂取は不要。
魚介の塩干物として蛋白質を摂取するので、必要なミネラルは十分摂取できる。
必要なミネラルを塩として摂取しなければならないのは内陸民である。
弥生期に海岸民が塩を生産する必要があるのは内陸民を抱える地域だけである。
海岸民にとって重要な交易品であるからである。
吉備と東海は内陸後背地を抱えているので塩の生産をしても不合理ではない。
後世の権力者は内陸民には必要不可欠な塩に目をつけ、
塩を支配することにより収入源とした。
イカだけでなくタコも干物にするよ。
干物の主力はジャコだよ。
>>865ちょっと誤解があるようですね。
塩が必要なのは、主に内陸山間部に住む住民です。
近世になると瀬戸内海の入浜式の塩田で作られた塩
が日本各地に送られるようになったけれど、
卑弥呼の時代では、自前で火を焚いて土器に入れた
海水から塩を取るしかなかったです。
古く縄文時代に、特産品として黒曜石が取れたので繁栄して、
都市が出来たのが長野県の諏訪地方。
(もともと、どんぐりなどの採集果実が主食だったでしょう。)
そのような内陸へ、塩分を多く含む”つくだに”風に調理された貝類が
海岸から運ばれた。当時、海岸低地に住む人は少なかっただろうが、
つくだに製造だけは、確実な需要があって繁盛した。
(貝塚というものは、数千年続いた、縄文時代のつくだに産業の
廃棄物遺跡なのだ。)
塩は生理的に人類にとって必要なので、塩分の濃い貝類は
山奥の人たちのあこがれの食品だった。
参考までに、いつごろからか分からないくらい古くから、
山梨県の名物が、「煮貝」。あわびの干物の濃い味付けだ。
やがて、塩を海水から直接取り出す時代(恐らく弥生)になって、
貝塚は廃れた。
>>859 >大宮姫=薩末比売で九州王朝最後の兄王(宗教王)だと思うのだが、
>彼女は700年に薩摩で処刑されないで、8世紀まで生きたと思う。
慶雲元(704)年11、20 始めて藤原宮の地を定む。宅、宮中に
入る百姓1505世帯に布を賜う。(続日本紀)
↑
この記事は不審(とっくに日本書紀で持統8年12、16に藤原宮に遷った上、
あいさつ品対象の百姓数多過ぎ)
・通説:別の宮殿説(にしては 百姓多い)、藤原京の再都市計画説(百姓保証)など
・古田史学会報(2009、6,15)に出た九州王朝派の新説:このときまで、
藤原宮にいた、九州王朝の天子が去った。新たに藤原宮に住むようになった
近畿王朝(の文武)にとって始めて藤原宮に宮地を定めた。
〜いったん、ここまで
>>869九州王朝説派の新設の続き
(以下は開聞古事縁起;
藤原宮から去った九州王朝の天子を、伝説の大宮姫が薩摩で迎えた。
九州年号の大長元年(*)12月3日、長らく外朝にあった天皇が還御した。
その後、二人は(慶雲3・706年と和銅元・708年に)次々死んだ。
*さきごろの研究で、大長は、704年から始まっていたとされる。
九州年号についての、地道かつまじめな研究から成果が出たと見えてくる。
871 :
日本@名無史さん:2009/08/06(木) 15:48:16
旧唐書、倭の五王、第一回目の遣隋使、倭国伝と日本国伝 多利思比孤は、誰なのか?
このあたりの説明は、文献に関していうと、九州論者の説明のほうが整合性があるよね。
隋書、旧唐書と、日本書紀との食い違い。 天皇家と違った豪族が存在して、中国に遣使したと考えたほうが、話が通じるよね。
宮内庁は、天王家の陵墓と言われる古墳の調査許可もしないし、
この問題は歴史の問題では無く、政治的な意味合いのほうが大きい。
戦前の不敬罪の思想が根底にあって、いまだにタブーだという事が尾をひいてるように思う。
872 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/06(木) 16:02:26
>>868-870 >藻塩の会が復活させた藻塩を口に含んだ瞬間、「こんなおいしいお塩が古代にあったのか・・・」と誰もがそう感じていました。
おいしく感じたのは、塩のミネラル分構成が重要かと言うことですね。
ホンダワラ以外にも、ワカメ等他の海草も使っていたと思います。
品質的にミネラル成分では劣りますが、生産効率を更に上げる為、
ホンダワラの代わりに稲藁も使ったのではないでしょうか。
有明海沿岸ではホンダワラや大型の海草が手に入りにくいので、
隣接する水田の稲藁を代用したと思います。
>九州王朝派の新説:
>このときまで、藤原宮にいた、九州王朝の天子が去った。
>新たに藤原宮に住むようになった近畿王朝(の文武)にとって
>始めて藤原宮に宮地を定めた。
>藤原宮から去った九州王朝の天子を、伝説の大宮姫が薩摩で迎えた。
>九州年号の大長元年(*)12月3日、長らく外朝にあった天皇が還御した。
>その後、二人は(慶雲3・706年と和銅元・708年に)次々死んだ。
この九州王朝の天子は、兄王ではなく弟王のことだと思われます。
弟王にしろ天子が薩摩で死んでいるので、薩摩に龍宮ですね。
兄王天子の場合は龍宮のイメージと合いませんし。
古田史学会報(2009,6,15)で原文を読んでみたいのですが、どうすれば?
ググっても出てきません。
戦前には、
倭国と日本国が別の国だとか、
九州に独立国があったとか、
むしろ右寄りの国学者たちが言ってたのになあ。
どうしてこうなっちまったのかなあ。
専売公社ができるまでは、博多でも塩を作っていたのです。
877 :
日本@名無史さん:2009/08/08(土) 01:17:51
近頃思うのですか、
天平勝寳四年四月九日の東大寺大仏開眼供養会は、
九州王朝への弔いだったような気がしてならないのです。
ひょっとしたら、天照大御神天の岩戸伝説にも、そのような意味があったように思えてなりません。
意味不明だろ。
879 :
日本@名無史さん:2009/08/08(土) 04:32:11
確かに、奈良の大仏は一体何を祭ったのかといった疑問が残る。
全国の国分寺の総本山というだけでは説明がつかない。
単なる大日如来信仰
朝廷が己が権力を祭っただけ
883 :
日本@名無史さん:2009/08/08(土) 17:36:58
大和王朝には年号が無かった。
韓半島の新羅や高句麗にも独自年号があった事は判っている。
百済にも独自の年号があったらしい。
なぜ半島国家が独自の年号を持っていて大和にないのか。
独自年号こそ独立した国の証だった。
新羅は百済・高句麗連合に押されて唐に助けを求めた時に、独自年号
など持っているとは生意気だ、と言われて年号を廃止した。
所が九州には逸年号といって年号があったらしい。
百済や新羅が独自年号を建元して独立を主張している時に、
日本の朝廷が独自の年号を持っていないのは何ともおかしな話だ。
九州に独自年号があったのなら、九州こそが倭国全体の盟主であって、
独自年号を持たない大和王朝は九州朝廷の下にいた事になる。
>>883 九州には逸年号といって年号があったらしい、とはいつ頃の話ですか?
独自年号こそ独立した国の証だった、と言うのは中国およびその文化圏の話でしょ
朝廷には、「○○天皇何年」という年代表記法がありましたよね
中国風の年号を持たないからと言って、倭国の宗主ではないと言えないのでは?
古代インドもそうだよね>年号を持たない
マウリヤ朝なんかはチャンドラグプタがギリシアの記録に残ってなければ、
いつの話だかまったくわからない。
九州年号が終わったのとほぼ同時期に
大和朝廷の初の年号、大化が始まるのは
興味深い
そして、鎌足や中大兄皇子の蘇我氏打倒の計画に加担した蘇我倉山田石川麻呂こそ、
山田国、つまり邪馬台国の流れを引く、九州王朝の子孫だったのだ。
これで、また一つ謎が解けた!
888 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/10(月) 19:08:53
弥生期の奈良湖
890 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 13:43:24
>>889 この人たちに何を言ってもムダだよ。ただの歴史ごっこ、趣味のお遊びなんだから。
891 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 16:15:31
日本史板の古代史(邪馬台国〜ヤマト政権あたり)でコテハンで自説開陳してる連中って、
昔の原田大六を彷彿とさせる天上天下唯我独尊キャラが多い。
某コテとか、自説に同調するものと批判的なものとでは態度・口調をガラッと変えるしw
まあ、よく勉強してるとは思うけど、はじめに結論ありきで固定観念に凝り固まってて、
記紀の年代を恣意的にいじくって机上の空論弄んでるようにしか見えないんだよな。
892 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 17:42:48
九州王朝はないことなんだよ。本当に自信があるなら自分の孫に歴史のテストでそう書かせれば
いい。
まあ宗教みたいなもんでしょ。
古代史なんて宗教みたいなものですよ。
信ずる者は救われる。
九州王朝説なんて宗教そのものだよ。
896 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/12(水) 00:36:43
>>889 sageさんのレスには、畿内天皇朝廷派は慌てふためくだけのようだね。
897 :
日本@名無史さん:2009/08/14(金) 08:57:12
旧國名の原型って、
(仮に)出雲王朝ぐらいまで遡るんですかね?
898 :
日本@名無史さん:2009/08/17(月) 10:43:14
藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱もなんとかしてほしいよ。
孝謙上皇によるクーデターにしか見えないんだが…
>>897 出雲王朝が何時のことは分かりませんが、
倭人伝を見れば壱岐や対馬は三世紀に遡りますね。
邪馬台が大和のことならこれもそう。
鬼=紀とか言い出すとキリがないですが。
901 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 23:53:56
>>897 >旧國名の原型って、
>(仮に)出雲王朝ぐらいまで遡るんですかね?
出雲王朝は知らない。
出雲に律令と年号を持った政権が存在したことがあったの?
うましか氏と同じことだが、
壱岐や対馬は魏志倭人伝で確認できるので、
旧國名の原型は3世紀まで遡れる。
903 :
日本@名無史さん:2009/08/23(日) 10:20:30
ヨシノガリが九州王朝です
地域限定の狭い王朝だなw
吉野ヶ里は九州王朝の前身であって未だ王朝とは呼べない。
吉野ヶ里は、2世紀までは倭面土國(倭國王)帥升の王統の城郭であったと見ている。
確証なし、傍証の積み重ねの状況証拠。
906 :
唐松山:2009/09/03(木) 12:58:21
ほーげら、すこすこ、すっこすこ。甘い花林糖もふっとばせ〜。ほーげら、すこすこ、すっこすこ。
いやっと、はっはっ、すこすこ、すっこすこ。やっ!
儂は、ホツマの申し子じゃ、ホツマは叙事詩、偉大なり、はっ!太国倍暦ないないない。はっ!
あそれ、甘い花林糖もふっとばせ、雨はざあざあ、風どうどう、はっ!ついでに九州王朝も
デタラメだ。あそれ、ホツマ、ホツマ、ホツマ〜や、ホツマ〜や。あそれ、ずんずんずん、あそれ、
ずんずんずずんこ、すっこすこ!!
ギルガメッシュ抒情詩はホツマのパクリ。
ギルガメッシュ抒情詩 の検索結果 約 860 件中 1 - 10 件目 (0.19 秒)
ギルガメッシュ叙事詩 の検索結果 約 25,000 件中 1 - 10 件目 (0.24 秒)
909 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 20:41:13
俺もペーパードライバーのままゴールドになりそうな勢いだよ・・・
911 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 20:35:51
月が出た出た 月が出た ヨイヨイ
九州王朝の 上に出た
あんまり古田さんが 偉いので
さぞや畿内説は けむたかろ サノヨイヨイ
一山 二山 三山 堀り ヨイヨイ
マキ向 邪馬台国というけれど
なんぼ色よく ねつ造しても
古田さんが認めにゃ 仇の花 サノヨイヨイ
あなたが畿内説を 云うのなら ヨイヨイ
思い切ります 別れます
邪馬壱国を 読む前に
返してくれたら よいけれど サノヨイヨイ
賛美歌か、おつかれさん。
諸人(もろびと)こぞりて 迎えまつれ
久しく待ちにし 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり
悪魔のひとやを 打ち砕きて
捕虜(とりこ)をはなつと 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり
この世の闇路(やみじ)を 照らしたもう
妙なる光の 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり
萎(しぼ)める心の 花を咲かせ
恵みの露(つゆ)置く 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり
平和の君なる 御子を迎え
救いの主とぞ 誉め称えよ
誉め称えよ 誉め、誉め称えよ
まるで卑弥呼のために作った歌のようですね
914 :
のんびりひまじん:2009/09/23(水) 19:42:50
915 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/24(木) 12:56:20
>>914 古賀達也氏の「なにわ宮大倭副都仮説」は2年前で最近のことだったのですね。
でも、副都になったのは白村江敗戦後ですよ。
倭の大宰府倭都へ遷都後、建設された地方都は、
難波都他、蝦夷(日高見)郡山都、毛野大里都等、
地方政権の都として計6都あると思います。(3都は場所不明)
917 :
日本@名無史さん:2009/09/24(木) 19:04:45
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
九州王朝なんてものが存在したら
堂々と記紀に記述しますよ。
天皇家が九州から来た事にする意味ないじゃん。
920 :
のんびりひまじん:2009/09/26(土) 00:58:44
史学雑誌の記事は確認しました。
2009年5月号の全体が
2008年の歴史学界ー回顧と展望 の中の35ページ。
寺井誠「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』83)は、
前期難波宮の整地層から出土した須恵器について、タタキ・当て具痕の比較をもとに、
北部九州から運ばれたとする。
整地層がどの深さかは↓
http://uncle-sam.mo-blog.jp/walk/2006/09/post_822f.html 〜前期難波宮から新羅の土器が出ていることは知られていたようですが、
九州の土器となると、ううっぅウーーーーーむ。
☆ここで、もう一つの仮説も早めにご披露しておきましょう。
近江大津宮は、九州王朝が九州から首都を遷都したものというのです。
つまり、難波宮のほうは九州王朝の副都でしたが、近江宮は首都が移転したという仮説。
九州の土器が出たら九州から首都を遷都?
その理屈が通るなら、いろんな王朝が存在すると思うけど。
九州王朝説は、時代を下る毎に信憑性が暴落していくからなあ。
「天孫降臨博多湾岸説」程度なら、結構な同意を得られると思うんだけどね。
(確かに、通説の日向=宮崎説にはかなりの無理がある)
7世紀には踏み込まないほうがいいと思うがね。
それから、関東の帝都「大里京」やら奥州の帝都も、やめておけよと思う。
どんどん時代を下ったものを、ひたすら九州王朝説で説明する滑稽さは、
「源氏物語の九州執筆説」という、現実に存在する珍説で、
パロディーとして証明されてしまった。
おそらく、
「19世紀に成立した明治政府の首都「東京」は福岡のことであった!」
という説だって、古田説なら論証可能だろう。
薩長土肥の勢力が新しく革命を起こしたのなら、首都は福岡が妥当である。
西欧の進出を前に、自己の位置を正しく認識した革新的な明治政府は、
ヨーロッパからみてまさに「東の都」である、福岡を「東京」と名付けたのだ。
20世紀末の文献に頻出する「お台場の湾岸開発」とは百道のことである。
中国の台頭を前に、軍事的意義を持つ「お台場」という名称を、
わざわざつけるとするなら、博多湾岸以外にあり得ない。間違いなく百道である。
923 :
のんびりひまじん:2009/09/26(土) 09:26:52
>>922 >「19世紀に成立した明治政府の首都「東京」は福岡のことであった!」
という説だって、古田説なら論証可能だろう。<
↑
いま、提示された仮説は 東京は西から東遷してきたに相当します。すなわち
>>914 提示された仮説は 難波宮は太宰府と別に副都(九州から一部東遷)
>>920 提示された仮説は 近江宮は本格的に首都移転(九州の天子が東遷か)
↑
曹操が漢の献帝を許昌に迎えたと同様 という仮説です(別表現すれば)。
(なお、古田氏自身は、この仮説に対し懐疑的です。)
確定しました。やっぱり来るみたい。今回は10月1日までは警戒が必要。
千葉神奈川静岡東京茨城や他の関東が危険
(重要事項につき会員同時公開) 2009/09/25
(5) なお、HAARPに誘引されて、関東地方ではM5前後の中規模地震が発生するだろう。
(3) HAARPの影響は大気イオンのみならず、気象現象や通信、動物の狂乱状況をも生み出し、
疑似宏観異常現象を発現させる。いわば環境テロである。
(2) HAARPは電磁波を宇宙に向けて放出、電離層を刺激し、反射して地表付近の大気イオンに影響を与えるものと聞いている。
HAARPの運用状況と大気イオン濃度変動を見比べると、明らかに同期しているとの指摘を多数頂戴した
大気イオン地震予測研究会e-PISCO
理事長 弘原海 清 大阪市立大学名誉教授
http://www.e-★pi★sco.jp/r_i★on/at★tention/090925weekly_z.html
http://s01.megalodon.jp/2009-0925-1414-33/www.e-★pisco.jp/r_i★on/attention/090925weekly_z.html
http://s02.megalodon.jp/2009-0926-0102-46/www.e-★pisco.jp/r_i★on/attention/090924weekly_e.html
HAARPの動きを四川地震のパターンに今回に当てはめると9月27日が危険
http://gol★den★tamat★ama.bl★og8★4.fc2.com/blo★g-date-20090922.html
http://s03.megalodon.jp/2009-0926-0114-47/goldentamatama.bl★og8★4.fc2.com/bl★og-date-20090922.html
世界的科学者がハープは地球の気候や人の脳を損傷させる兵器の疑いがあると
http://www.yo★utube.com/wat★ch?v=8A★MlqRsHUXI&feature=player_embe★dded#t=51★1
2ちゃんねる地震情報
http://li★ve2★4.2ch.net/eq/
9.11事件、破壊されたWTCで働くユダヤ人は1名も死んでいませんでした。
http://da★mhantaikanuma.we★b.infoseek.co.jp/Sonota/91★1dead.html
地震来たら権力者達が犯人。・・・ユダヤ人は大量に人を殺しています。
925 :
のんびりひまじん:2009/09/26(土) 12:46:00
>>924 陰謀論を言うらしい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E8%AC%80%E8%AB%96 ↑
九州王朝説というのは、日本書紀こそ陰謀論であると主張する仮説。
天皇王朝が、はじまった事情説明の伝承を偽装捏造した陰謀書物が日本書紀。
(陰謀は天皇皇族藤原不比等たち少数で大勢は真相を知りつつ黙って従った
と思いきや、日本書紀執筆者の多くは虚偽の歴史を残すことにレジスタンスした。
例えば、隋書:(アメタリシヒコ)男王 VS 日本書紀:(推古)女帝
↑
日本書紀執筆担当者は、故意に 虚偽(ウソ)が見破られるように記述した。
藤原不比等は、モーロクしていて見破られる記述に気付かぬまま死んだ。
見破る説明に、こだわることができるのは、よほどのひまじん・・・冷静でないと見破れない
926 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/26(土) 13:59:10
>>920 副都令34年遡上説は、未だ矛盾するところがあるので同意できません。
副都令は684年より遡るものである点においては同意できます。
近江宮は副都で首都になってはいないと思います。
移転先首都は高安城からさほど遠くないところ(大阪or奈良)にあったと推定されます。
大宰府倭都の傍に大野城があった様に。
近江宮が移転首都ならば、大津の南又は西の山に朝鮮式山城遺跡が見つかるでしょう。
927 :
日本@名無史さん:2009/09/26(土) 15:35:26
928 :
日本@名無史さん:2009/09/26(土) 22:20:31
西都原古墳群って何なの?
929 :
日本@名無史さん:2009/09/26(土) 22:34:39
930 :
日本@名無史さん:2009/09/28(月) 06:01:09
日本最大級の古墳群であり三世紀まで遡れる西都原古墳群を無視する理由がわからない
西の都と付く位だから、都はそれより東にあったという事ですね。
932 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/29(火) 01:12:56
>>930 >日本最大級の古墳群であり三世紀まで遡れる西都原古墳群を無視する理由がわからない
西都原古墳群を無視しているのではない。
西都原古墳群の九州王朝や畿内朝廷との関わりの位置づけが出来ないのだ。
想像力(創造力)逞しくしても論証できる仮説が成立しない。
933 :
日本@名無史さん:2009/09/30(水) 17:59:50
>>931 西都原は元々斉殿原と表記した
西都原になったのは江戸時代
つまり都でもなんでもないって事か。
935 :
日本@名無史さん:2009/09/30(水) 18:20:38
【10月の臨時国会で民主・公明が外国人参政権法案提出へ】
_,‐/.| ヽ.,лi'\,‐i
ノ .| ,ノ (´・ω・`)´i
/ `'‐´`'-,_,‐'v'‐-ー,__,、,-、_`'!_ _
_ __ノ‐-ー' ,‐^'‐‐,iー,,l´ ~ ,}
‐‐=''‐'`フ 中国 ,‐´ `\ 韓国 /"
.t_ . i`ヽ_/ < `∀´ > ~j `i、
.л) .`j ___,,,--、 '‐! ζ
__| . jヽ‐'´~ /'' `ヽ ヽ, ,,---'´´~
`フ `i ノ ヽ, /
`'''ーt´ ,‐,/~ .i /
< _j
936 :
日本@名無史さん:2009/10/01(木) 09:35:24
937 :
日本@名無史さん:2009/10/03(土) 20:42:00
ブラジルの「勝ち組」と似たようなもんで、
九州王朝論者の八割以上は
古田御大も含めてもう信じてないだろ。
今更引くにひけないんだ。
信じているふりをしているだけ。
哀れな。
さもなければ、ガイキチだ。
938 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/03(土) 21:00:15
年号がうんと出てる限り看過できない。畿内の号でなければ九州の年号と観て
間違いはない。君は年号を無視した時点で沈没だぞ。
939 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 02:50:31
邪馬台国九州説「お笑い!」九州王朝説「大笑い!」倍暦・倍干・九州年号「大爆笑!」
940 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 06:59:57
>畿内の号でなければ九州の年号と観て 間違いはない。
一体何を根拠に・・・?
後世の捏造の可能性もあり得るだろ
942 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 09:29:07
もう九州論者って、UFO信者や
フリーメーソン世界征服論者みたいな、
ヤバい存在なのかも知れないなあ。
九州王朝の直接資料がないのは、
エイリアンに操られたフリーメーソンが、
徹底的に隠蔽したから……とか。
そろそろどっかに隔離したほうがよくね。会社の上司や学校の担任が九州王朝だったら
どうする?
944 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 09:52:21
>>943 いやいや、すでに彼らは生きながら地獄に堕ちているのです。亡者の群れなんですよ。
945 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/04(日) 09:53:28
>>940 ならば記紀も倭人伝も後世の捏造だという説があっても道理。まるでダニを温存
するごとくそういう説が横行する。年号を捏造だとか言う奴は大方が言う奴の
自説に抵触するから、捏造を糊塗するわけだよ。捏造だというのは他の古文書
でもいくらでも、記紀から以下そういう説をデッチあげられる。捏造ならばその
根拠を具体的に資料等を挙げて言わねば、棄却以外の何物でもない。根拠を
上げるのは捏造だと言う奴のほうだよ。それに古代史は刑事裁判ではない。とく
に2ちゃんは合理性があれば、単に否定するよりも聞く耳を持ったほうがいい。
畿内でなければ、当然言えるのは九州だろうよ。なにも九州王朝が南米だとか
火星だとか言える訳もあるまいが。w 吉備だというなら王朝の情報が畿内に入り
やすいから、近い点で記紀に別国ありとの情報記事が少しでも載るはずだ。
他に候補地があるとはまず言えないだろう? まさか東北、北海道の年号だとか
四国の年号だとか積極的に君は可能性を主張するのかね?w
いい加減にしろよ。w
まず観る視点として、そいつの自説が九州王朝があるとほとんど成り立たなく
なるならば、自説擁護のための否定だと観てまず間違いはないね。全然自説に
不利でない奴の否定説は聞く耳を持って然りだな。それは場合場合でよく判別
するべきだぜ。
・三国志魏志倭人伝以来の中国の史書は、倭国として明らかに九州の描写しかしていない。
・旧唐書で倭国と日本国が別種であると書いている。
九州王朝説の基本論拠はこの事実による。
従来説はこれを反論できないのであえて無視しているだけ。
上記を論理的に否定しない限り、九州王朝説は続くことになる。
>三国志魏志倭人伝以来の中国の史書は、倭国として明らかに九州の描写しかしていない。
単にお前らがそうこじつけて読んでいるだけ。
>・旧唐書で倭国と日本国が別種であると書いている。
単なる一説のうちの一つ。
ほんとにあったのならどうして学校の教科書に載らないのかな。ぜーんぶ、陰謀・ねつ造の
せいだよね。おお、怖い怖い。
948 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/04(日) 10:33:01
年号は充分な証拠だね。これを捏造だというなら、分かりやすく具体的に資料等
を掲げてそれを説明しなければ、年号の証拠が先行優先だね。証拠には厳粛で
なければならない。単に脳内で勝手に無いと決めこんでても、こういうブツが
多数残っているということは、その脳内の無いとの決めこみが単に経験がなか
ろうから〜あるわけがないとの考えが間違いであることを物語っている。
否定するのは同王朝説がまかり通るとその否定者の自説が間違いだということと
なることからの利害関係からの否定であり、それにケチを大量に糊塗していか
にも通る論説のように否定論をぶちまけてうっちゃりをやってる訳で、そういう
輩が勢力関係で抑圧してるから、否定がまかり通ってるだけのこと。年号が
うんと出てるということは、それだけ連中は危機感を覚えているから、何として
も否定して葬りさろうと、大々的に行動して盲象の自説を保全しているだけの
事だな。奴らの説が間違いだと、ま〜だ奴らが覚醒してないわけさ。ww
949 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 10:56:47
おまいらは冥府魔道に墜ちているな。現代史の闇に蠢く陰獣、あるいは反社会主義者とい
ってよいくらいだ。
950 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/04(日) 11:03:25
おまいらって誰のことだろう?
学校で習っている古代史の内容が全部真ですとの考え固着は、特殊な
一種の〜カルト化しやすい類のものだね。習っている内容に盲象が
あるのではないのか?との冷静沈着な頭脳の持ち合わせはないの
かねぇ??w
政権も交代したから以前の反社会主義者はいまや保守論者となった。
952 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 11:12:56
949みたいな馬鹿だけが従来論者じゃないだろうよ。
論理的な批判をきいてみたいものだ。
953 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 12:15:01
くかかか、政権交代は関係ない。自民も民主も反社会的な政党ではないからね。おまいらのような弱脳電波は、
家に古田様の神像をしつらえて、九州王朝経をナムナム唱えてればいんだよ。
954 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 12:19:30
>>953 のような低脳はさておいて、論理的な反論を期待。
955 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 12:23:30
>そろそろどっかに隔離したほうがよくね
そこまでせずとも、
社会的に「問題のある人」って認識が広まればいい。
>>954 > 論理的な反論を期待。
論理的な説明が無いので、論理的な反論も無い。
957 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 12:35:31
このスレって、結構見ている人いるのね。
958 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 12:43:11
>>956 まあ、馬鹿をからかってストレス解消するにはもってこいのスレだからね。カカカ、論理的な反論だってよ。ガチャピンは着ぐ
るみではなく実在の生物だ、というようなことに反論するのと同じだよ。無意味。一般に定説とは反する説を唱えるなら、主張
するほうが証明すべきだね。やってるつもりなんだろうが、がんばって高校の歴史教科書に載るくらいにしてみろや。
政権交代の話は釣りだろw
960 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/04(日) 13:41:16
年号は堅いね。こんなことで、まず捏造する動機はあるまい。
九州王朝がなけりゃぁ、こんな年号なんぞうんと出てきやしない。
当時の古代日本は、大陸の諸葛亮の鼎の天下三分の計の名言通りの
魏蜀呉の三極支配に似た畿内と九州との天下二分の系の時代で
あったのだ。これは江戸時代には京都の朝廷と江戸幕府の2極であっ
たように、江戸時代と相違点はあって徳川に牛耳られてた状況だが
〜そういう点は相違してるも、景初の頃の日本は天下二分の系の時代
だったのだ。この江戸幕府の頃の状況が当時にても、二分で畿内と
九州とで起こっていたのだ。つまり畿内と九州とは別国だったという
ことなのであり、畿内は男王たる天皇の統治が続き、九州は女王国が
その全部ではないものの支配をしていたということである。当時の
日本が畿内1極というのは大間違いの盲象なのさ。してみろ〜なんぞ
真とは全然関係ないね。w
961 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 13:55:44
考古学上の観点からは、神籠石の分布図をみれば一目瞭然だ。
神籠石以外の朝鮮式山城遺構を見ても一目瞭然です。
大和朝廷及びその支配下の勢力が作った軍事拠点と言うことがわかります。
ちなみに半島系遺民集団向けの失対事業でもあります。
963 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/04(日) 15:52:58
>>962 神籠石以外の朝鮮式山城遺構を見ても一目瞭然です。
九州王朝が対唐戦に備えて作った軍事拠点と言うことがわかります。
九州に基盤を持つ勢力が作ったのかもしれませんが、
その勢力が大和の配下にあったかもしれません。
つまりは、軍事拠点であることが分かっても、
それが、即、九州王朝存在の証明にはならないと言うこと。
結局、誰が作ったかは分からないわけですしね。
965 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 16:36:16
966 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 16:38:25
>>964 名前の通りの馬鹿と見たが、九州に基盤を持つ勢力が大和の配下にあったという根拠は?
967 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/04(日) 16:53:25
いずれ分かるときが来るだろう。大陸も半島も当時多国に分かれていたのだ。
なにも日本だけ一国だけとは言えないんだよ。当時の日本は畿内と九州との2極
の世界だったということだな。年号は証拠になりうる。まさか年号を作った国が
南米やマドリードや金星のはずがない。もっともっと限定される。ならばこれを
使用したのは九州の王朝だということが極めて蓋然性が高い。当時の日本が
一国のみだったとは盲象であり、畿内と九州とは別国だったということが真
なのである。
>>966 そんなこと、とっくにご存知のことでしょう。
969 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 18:32:15
やっぱり馬鹿は馬鹿だな。
全く回答になっていない。
ヤマトは女王が都する国、女王国は西日本を中心とした連合国。
北部九州には伊都国に王がいると倭人伝に書いてあるでしょ。
でも九州王朝なんて4世紀には実質的に実態ないな。
971 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 19:44:26
>>970 馬鹿がここにも現れた。
三国志魏志倭人伝には、ヤマトなんざ一切出てこない。
従来説は馬鹿ばかり。
従来説?に対して新説を証明するのは勿論新説を問う側です。
皆さんを説得出来るよう、どうぞ頑張ってくださいねw
973 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 19:57:18
クイズ、元ネタは何?
@ 陰毛痒痒、粗珍ですぐ漏らす A 下腹部は縄の痣だらけ
974 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 20:05:16
とうとう逃げたか。
大体九州王朝説なんて所詮妄想。
天皇家は九州から来たと書かれてある記紀に、
九州王朝の記述が無い時点で有り得ない話しだ。
976 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/04(日) 20:20:30
それは国が違う。記紀に卑弥呼の女王国の記事がない一つの事由も、彼女の国が
海を離れた他国であり、しかも北九州からいささか離れて畿内へ行く交通の道
から外れた地域に存在したからだ。記紀は基本的に自国と自国と交易が多いとか
外国の特別情報ある記事しかほぼ手を染めてない。九州奥地当たりは畿内との
関係はないわけではないが、交易せず、関係は非常に薄かったということだね。
977 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 20:23:34
天皇家が九州出身というのであれば、それ以上に正当な王朝が故郷の九州にあることを
書くわけはないだろう。
どこまで馬鹿が現れ続けるのか。
978 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 20:31:58
973答え
@天網恢々疎にして漏らさず A禍福はあざなえる縄のごとし wwwww
>>977 バカはお前だろw
仮に正当な王朝が九州にあっても隠す理由が?でしょ。
そんなもの最初から無いと考えるのが普通です。
北部九州は二世紀には衰退、丹波や吉備に勢力が移ってるのは
今や否定する方が相当困難ですから。
980 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 20:34:20
馬鹿がここにもいたな。
981 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 20:34:31
九州王朝? 日向三代のことでしょ?
つまり ニニギ→ホオリ→ウガヤフキアエズ→イワレビコ
が九州王朝の系譜だ。
982 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 20:36:39
中国の史書は、倭国(九州王朝)が日本国(近畿王朝)とは異なると証言している。
そんなこともわからない馬鹿だから馬鹿にされている。
>>539 >昔、呉の流れをひく者たちが、わが国の西辺に逃げて来て、その子孫が強大になり、
>錦のぬいとりのある絹織物を身につけ、
>城郭を築き、
>古くから漢字を用い、
>みずから王を称し、国号をたて、中国と通じ、あるいは
>新羅と通婚し、もし、意に会わぬときはふれ文をまわして侵略を行ない、
>暦をつくり、年ごとの歴史を記し、
>寺を建て、
>銭貨を鋳造し、 すべて中国のまねをして異ならなかった。
>(出題:以上が書いてある本の名前は?) <
答えは、
その国偽僭考(鶴峰戊申)の記述内容現代語訳解。
その訳解は、虚妄(まぼろし)の九州王朝(安本美典)に書いてありました。
984 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 20:41:18
ならどうしていつまでも定説にならない。古田はもう高齢だし、おまいらでどれだけ続けることができる?www
おまいらだってほとんどジジイだろ。カカカ、安い本代で楽しい夢が見られてよかったな。古田様々じゃねえか。
985 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/04(日) 20:47:31
定説にならないと言ったところで、学者連は生活、名誉がかかって
いる。上に逆らえばもう出世はだめだし、ひどけりゃぁ葬られ
ちゃうよ。古代史の臥海というところはそういう身分の危険があると
いうことだ。滅多なことは言えないわけさ。腹では表と違う顔を
持ってる仮面学者にならざるを得ないということだ。
都知事ではないが、そういう目に見えない力学があるんだと思うぜ。
986 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 20:52:28
>>985 だから、おまいらで決定的証拠を見つけてひっくりかえしゃいいじゃねえか。さぞや爽快だろうよ。嘘つき
学者様は一網打尽だ。陰謀で葬り去られる、とかいうんだろうが反体制的な出版社とかいくらでもある。
必要なのは、世間が瞠目する決定的証拠。九州年号などどうとでも解釈できるものでなくな。
987 :
SAGEない:2009/10/04(日) 20:55:34
>>983 の意義
古田武彦という人が、九州王朝説のはじまりのようなことを言う。だが、
大分臼杵で天明8年(1788年)に生まれ、江戸で安政6年(1859年)に死んだという江戸後期の
学者:鶴峰戊申という人が、(否定的に であるが)、九州王朝説がすでに存在することを、
書き残したという。
買えば5K円もするし、解説もないだろうという、その書物の内容を、現代語訳解してくれている
安本美典氏に感謝しよう。
988 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 20:58:31
日向三代は、葦原中国平定を平定すべし、というアマテラスの命を受けていた
わけだが、このあたりヤマタイコクはヒミコという女性が支配していたという
倭人伝の記述と一致するな。 そうすると倭国大乱というのは、天の岩戸説話の
ことを指しているのかなw
989 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 21:05:06
>>986 >そういう目に見えない力学
そうかなあ、大東亜戦争(太平洋戦争の用語は好かん)後、騎馬民族征服王朝説が出たあたりなら何をいってもよい
雰囲気があったろう。九州王朝説を温めてた人がいたとしたら、そのあたりで江上に倣って出てきてもおかしくはない
はずだが。
990 :
989:2009/10/04(日) 21:06:27
991 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 21:22:05
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
992 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 21:30:36
>>989 戦争の直後は、戦前の皇国史観の反動で、記紀に資料的価値を認めるなんて
とんでもない!という逆のバイアスがかかったからねえ。まったく自由な研究が
可能だったかというと、やっぱりバイアスはかかっていたのさw
993 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 21:34:47
>>992 あれ?九州王朝h記紀は大和朝廷のねつ造とみてるんじゃなかったの?
994 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 21:36:55
>>993 え、九州王朝説ってそうなの? でも近畿説だって、記紀は大和朝廷の政治的
作文と考えるのが大多数なんじゃないの? それならどっちも大してかわらんな。
996 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 21:43:22
>992 :バイアスはかかっていたのさw
どころじゃない。マルクス史観にあらざる者は、史観にあらずって時代が長いこと続いた。
左翼にあらざる者は、インテリにあらずってね。特に教師はひどかった。
今だってそうだよ。灯台の教授連中見てごらん。完全にずれてる。
997 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 21:51:44
特に驚いたのが、日本の国家は、百済や新羅の分国だって言うやつが出てきて、
それを日本国内の専門家と称する連中が素晴らしい説だって提灯持ちしてやがった。
おもしろいのは、韓国の古代史の第1人者であった○○さんが呆れて、
新羅の始まりは考古学的には4世紀を遡ることはないんですって言い切ったことだ。
あの「分国説」と、その提灯持ちはどうなったんだろう。
まあ、戦後国史学会は、日本の悪口言った方が受けたのさ。
998 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 21:54:47
>>992 だから、九州王朝は皇国史観といってよい素地があるものだから、歓迎されたんじゃあねえのか。
999 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/04(日) 21:55:15
>>986 年号は極めて堅いね。それもう決まりだよ。ww 大体卑弥呼の女王国も九州
王朝の始まりだね。これを認めると畿内説が死に至るから、厳しい指摘をして
難癖をつけて、臥海なら畿内派親分が葬る算段は当選確実だろうな。ww
年号のことにイカサマ、捏造をやる動機もあるまい。仮にもっと証拠が出たっ
て、面子を保ちたい臥海がそう簡単に認めるかね? それは大いに疑問だろう?
オマエだって認めたくないハラがあるからだろうが?ww
昔地動説を言った男が葬り去られようとしたのと変わりわないよ。臥海の学者
なら、こんなことのように葬られるね。君も葬り去りたいハラなんだろうが?pp
1000 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 21:55:31
×皇国史観 ○反皇国史観
1001 :
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