1 :
徳川家綱:
2 :
徳川家綱:2008/12/24(水) 21:57:04
代々、このスレの新スレを立てるスレ主は
その代数の将軍名を名乗る、というのを
このスレ独特の習慣としたいです。
つまり次の五代目スレを立てる人は綱吉を名乗り、
六代目は家宣を名乗る、というように…。
そして願わくば最後の十五代目まで到達するように…。
3 :
家光:2008/12/24(水) 22:07:47
3だから家光
4 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 21:12:15
御三家、御三卿、前田家とか大廊下詰めの連中って何で控え室もらえなかったの?
外様の小藩ですら柳間もらえたのに・・・・
まるで悪いことして正座されられてる小学生みたいじゃん。
>>4 御三家、前田等は石高官位とも非常に高く控え室もらっている大名と比べて明らかに優遇されていました。
優遇されているので諸大名から嫉妬を買う事も多かったそうです。
そこで幕府は控え室を与えず、廊下に座らせ諸大名の晒し者にしました。
また、国持ちなど大藩の大名は個室を与えられず、大広間という大部屋に控えさせられました。
幕府の身分統制の一つですね。
一般大名が大廊下を通って謁見の間へ行くときには彼ら御三家に一礼したと云います。
一礼された御三家当主は返礼はしなくても良いという不文律もありました。
>>5 そういう冷遇に耐えかねて水戸では水戸学が発達し、尊皇思想が産まれ倒幕への遠因になったのは言うまでもない。
尾張も宗家に対して非常に対抗心があったらしい。
大広間大名の薩摩は官位が上がると同時に大広間から大廊下に移された。
また、長州を初め、西南雄藩も大広間で冷遇された。
その時の屈辱が維新の原動力になったという。
7 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 23:04:11
反対に微禄の高家とかは優遇されたんだよね。
日本史やるものにとって民明書房の歴史書は必須だし聞くまでも無い事項じゃんw
「領地が大きいから本来なら優遇されるべき」というのは
当時の発想ではないと思う
なぜなら幕府諸制度を運営したのは
譜代の小大名どもだから
当時の幕府官僚の視点として、
将軍家以外の大大名は
牽制の対象でしかなかったはず
領地の大きな外様や連枝が廊下に座らされるのは当然
「尾張さま」「紀伊さま」「水戸さま」
から
「尾張どの」「紀伊どの」「水戸どの」
となった時点で彼らの命運は定まりました
10 :
家光:2008/12/26(金) 00:03:19
「尾張どの」「紀伊どの」「水戸どの」
から
「尾張くん」「紀伊ちゃん」「水戸たん♪」
となった時点で彼らの学年は小学3年生
11 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 01:40:03
12 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 02:13:16
天下の副将軍、水戸光圀公も廊下で正座させられていたんですか?
諸大名や上級旗本の晒し者になっていたんですか?
13 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 02:19:21
大身大名への差別はそれだけではない。
服制でも良い晒し者になった。
例えば微禄の高家は公家装束たる狩衣を着る事が許され、下級大名、上級旗本は家紋をあしらった大紋を着る事が許された。
しかし、御三家、御三卿、国持は大紋から家紋を入れる事も許されない直垂、これは鎌倉時代の下級武士の普段着である。
狩衣や大紋を着た諸大名は彼らを哀れみの目で見ていたらしいね。
14 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 02:49:34
その癖、他の大名は数人で将軍に挨拶してさっさと終わりなのに、上級大名は一対一で対面させられて屈辱的な面倒臭い挨拶までさせられていたらしい。
また、元服の折りには島津なら久、前田なら利、尾張なら義、紀伊、水戸なら頼等、由緒ある通字を名乗る事も禁止され将軍のイミナの下の字を強制的に上の字に
付けさせられた。
かなり屈辱的な出来事だったのは想像に難くない。
16 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 03:38:12
17 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 03:41:38
>>12 大廊下で正座させられている姿を諸大名に見られ屈辱で人格が曲がってしまったそうです。
隠居後、その恨みを晴らすべく、諸国漫遊の旅に出て、家老をやっつけてこれ見よがしに大名を叱りつけていたのは
ドラマの世界だけの出来事では無く、史実の様です。
>>13 その書き方おかしくない?
そんな差別を国持や三家に加えたとは考えづらい。
もっとほかの合理的な理由があったのでは?
19 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 06:57:53
>>13 しかし、御三家、御三卿、国持は大紋から家紋を入れる事も許されない直垂、これは鎌倉時代の下級武士の普段着である。
狩衣や大紋を着た諸大名は彼らを哀れみの目で見ていたらしいね。
逆に当時の価値観では、直垂>大紋 ってことでしょ
そんなに、歪んだ発想は見苦しいかと
20 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 07:07:01
>>4 別に大廊下に座らされて諸侯達の晒し者になっていた訳では無い!。
大廊下に面した部屋が二つあって、
上部屋が御三家の控え部屋、
下部屋が越前松平家や加賀前田家等の控え部屋になっている。
ただ、大廊下に面した所に御三家や越前松平家・加賀前田家等の控え部屋があったから、
大廊下詰めといわれている。
21 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 09:27:31
>>20 ついでに、御三卿は江戸城中奥に御控座敷があったそうです。
御三卿は、将軍の家族扱いだったそうだから、
年始の拝賀でも、中奥の御座之間で将軍と対面していたようだ。
ちなみに、登城の場合は御三家は、諸大名と同じく大手門から登城して
表玄関を経て大廊下席に控えていたのに対して、
御三卿は、平河門より登城して、中奥にある御風呂屋玄関を経て中奥の御控座敷で控えていた。
22 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 15:37:47
廊下で弁当を食っているときに他の大名が通りがかると御三家当主はバツが悪かったらしく、
一般の大名に下賜と称してお裾分けしていたらしい。
お裾分けといっても大名同士のお裾分けだから庶民とは質量共に全然スケールが違う。
その為、御三家、御三卿、前田等、廊下に詰めた大名の弁当は山海の幸で彩られ、重箱数段分
になったという。
また、ういろう、水戸納豆、海老フライ(当時は天麩羅)、紀州ミカンなどがお裾分けしてもらった大名を
通じて全国に広まったのは歴史の裏話。
西国の大名には納豆は口に合わなかったらしく、水戸は納豆臭いと陰口を叩く者もいたという。
また、これらの弁当を作る経費が膨大で大藩の財政を歪めてしまった事は言うまでもない。
23 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 18:15:30
>>22 水戸は倹約のためにわざと納豆持ったと聞いたが違うの?
延々とageながらキチガイ妄想を垂れ流し続けるなぁ、こいつ。
こら! 前スレ使えよ〜〜!
>>4>>22はこの本でオベンキョしてから書き込んでね。見てて痛い
【徳川】御三家・御三卿・親藩スレ【三代目】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1217952005/ 968 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 15:49:02
林董一さんの名著『将軍の座』復刊。古い著作ですが、教養書で御三家をここまで詳細に書いたも
のはないでしょう。林さんの経歴上やや尾張中心ですが。
私はこの本から沢山学びました。
969 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 23:33:54
>>968 文春文庫の本を持っているけど、他の本で書いたからって
かなり割愛されている感じが残念だったなあ。
970 :968:2008/12/24(水) 00:46:16
私も文春文庫なんですが、今回は別のトコですね。まだ買ってないんですが、巻末に三家三卿系図
と年表、城山さんへの追悼文が掲載されてました。
本文の方も加筆(?)されてるみたいなので購入すべきか迷ってます。
973 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 10:29:55
>>970 出版社のHPには大幅加筆と書いてありますね。
都内の大書店ならあるかな。
手に取らないと買うべきか否か判断できない。
結構楽しんで読んでしまったw
27 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 20:44:07
>>22 体面を重んずる尾張の弁当は豪華で大名達は進んで声をかけていたらしいね。
一橋の豚肉も地味に有名だけど肉食がタブーだったので鶏、兎肉と称していたらしい。
反対に、水戸は納豆ばかり、よこすので皆避けて通ったという。
29 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 22:09:11
マジレスしている奴には悪いが軽く面白いw
>29
面白いか?
少なくとも、マルチで貼りまくるほど面白いネタだとは全く思わないけどね。
>>30 どうせネタ切れ、同じ話題の無限ループだし、好きにつかえって感じかな?
民明書房の本は為になるお。
33 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 00:38:30
幕末の御三家はヘタレだった訳だが御三卿は何をしてた?
>>33 一橋慶喜は将軍後見として大活躍、将軍没後は最後の将軍として歴史の花道を飾ったよw
昭武とか他はしらん。
35 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 02:43:55
昭武は徳川家初の欧州遠征軍を率いましたがな。
スフィンクスを見た、初の徳川一門。
36 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 09:04:30
御三卿の当主は、暇そうなポジションそう…。
万一、徳川将軍家に何かあった時の将軍継承権はあるが、
といって将軍の家族扱いだから、幕政に関与出来る訳では無いし、
御三家と違って、領国経営や家政等も、幕府からの出向役人が取り仕切ってるから、
特に何もしなくても良さそうに思う。
…さぞかし御三卿の当主は、暇だったろうな…。
だから宗武みたいに
「役に立たないことに御熱心」などと
他の大名の日記に書かれてしまうような人柄が成立
38 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 12:05:00
>>37 …なるほどなぁ。
御三卿の当主が暇つぶし?にやる事といえば、
田安宗武のように(役に立たん?)教養を身につけるか、
一橋治済のように徳川宗家乗っ取り?の陰謀を企むぐらいか…。
39 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 00:31:53
前橋松平の話をするぜ!
40 :
日本@名無史さん:2008/12/30(火) 07:30:37
>>28 一橋の豚肉って、慶喜1人だけのことだろうが
41 :
日本@名無史さん:2008/12/30(火) 11:28:39
田安宗武の和歌は正岡子規に絶賛されてるよね。
江戸時代の最も優れた歌人っていう感じで。
つーか古今集以降、紀貫之だの藤原定家だの下らん歌を詠む奴は沢山出ているが
そんな奴らとは違って、源実朝と田安宗武だけは真に優れた作品を残した歌人だっていう評価のされよう。
さすがにちと褒めすぎかとは思うがw
42 :
日本@名無史さん:2008/12/30(火) 13:32:00
御三家は臣下では無いという事で良いんだよね?
館林、甲府、連枝は微妙。
越前は臣下?
御三家は明らかに家臣の扱いだろう?
最上位とはいえ家臣にかわりはない。
治済、家斉、斉匡の血筋で尾張、紀伊、御三卿、越前、池田、蜂須賀、福岡、明石、津山を乗っ取るゴキブリ並生命力一橋懇談会
45 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 01:21:21
>>43 御三家の場合代替わり毎に朱印状いらない。
他は前田、越前でも代替わりには特別の手続き必要。
臣下では無い扱い。
46 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 02:39:36
>>41 子規はバカなので、
「単純で分かりやすい歌」が好きで、
そういう単純歌しか評価しないできないDQN。
雅ってことはついぞ理解不能だった。
>>46 > 「単純で分かりやすい歌」が好き
それが、いわゆる「写生主義」ってやつだろ?
まあいくら病気で先がないとは言えあの攻撃も大人気ないとは思うが、さりとて行った事もない歌枕の土地を妄想で歌い込む中世以降の
歌風もあまり感心しないな。それとも雅ってのは妄想とか捏造のことか?
だったら、日本で一番雅なのは近世に捏造文化の伊達家、近代には観光史学の大家星亮一先生とゴッドハンド藤村先生を出した宮城
県ということになってしまうではないかw
まあ、どっちも一般庶民とは関係ないようなところで勝手に泥仕合やってれば?という感想が強いな。
水戸家も参勤交代をしていた。
49 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 12:36:53
将軍家の親戚も兄弟も、皆臣下でしょう。
朱印状云々は、特別に遇されていた事の証左であったも、
臣下でないということを意味しない。
家康がそう位置づけているのだから・・・
雲州蔵帳の復刻版を出して欲しい
51 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 02:29:38
まあ子規や47氏が半島人かどうかは知らぬが、少なくとも
>>46が雅な文章でないことは確かだな。
55 :
sage:2009/01/01(木) 16:08:59
ところで、
御三家が将軍家の臣下かどうか?って話題、
結論はどうなったの?
56 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 21:53:03
>>52 子規は三国人じゃなく四国人 伊予松山藩(連枝)の家臣
57 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 00:19:22
そもそも三卿って家なの?
将軍継承権ありの部屋住の3つ限定の席なの?
明治以降は伯爵家として家扱いされていたが。
58 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 00:22:52
将軍家の家族だから家ではないだろう。
別に世襲でもなかったし。
59 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 00:38:35
それは解るが三郷ってさ、直ぐに断絶しちまって、一橋系、水戸系に乗っ取られているんだよね。
宗タダ、重好がきちんと後継残していたら家になった気がするんだよ。
江戸時代は無闇に家をつくろうとすると
嫌がられたんだよな
吉宗が遠慮したのは当然
吉宗が御三家へ将軍家を渡すまいとして
御三卿をつくったというが
たんに新規の大名をつくるのを憚って
大名にしなかっただけ
それが結果的に血のプールに映るだけ
実際には、吉宗が尾張に遠慮して
家光の前例(次男・三男を甲府・館林で大名にした)を
避けただけ
61 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 10:44:36
ふと思いついて「血のプール」で画像検索してみたけど
あんまり面白くなかった
62 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 11:01:44
八代将軍吉宗の御三卿創設の真の目的は、
ズバリ、尾張系の将軍継承権の締め出しと、
紀州系での将軍継承権の独占。
63 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 16:17:36
天皇家で言うと
御三卿=皇族の○○宮家
御三家は公爵家(家臣だが日本とは違って皇位継承権もある)
というところ?
64 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 20:00:56
>>63 違うよ。
皇室には天皇家と宮家があり、宮家は天皇家から独立した家。
正式には内廷皇族と宮家皇族に分かれる。(天皇は内廷皇族の世帯主で
あるが皇族ではない)
だから宮家は将軍家の家族である御三卿にあてはまらない。
皇太子は別にして御三卿にあたるのは、独立前で内廷皇族であった
礼宮(現秋篠宮)とかになる。
65 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 20:02:42
皇室と天皇家は違うからね。
皇室=天皇の一族。
天皇家=天皇の家族。
66 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 21:19:23
>>62 八代吉宗の思惑は、十四代家茂まではうまく行ったが、
水戸血筋の慶喜が一橋家経由で徳川宗家を継承して、徳川幕府を潰してしまうとは、
流石の吉宗も、夢にも思わなかったろうて。
67 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 14:15:20
それは家慶が水戸の七郎麿なんかを「聖地」一橋家の養子に迎えたりしたから。
┌━┐ ┌━┐
┃┌╋──╋┐┃
└╋┘ └╋┘
┃ ・ ・ ┃ ┌━━┐
●━╋┐ ┌╂━━━━╂┐ ┃
└━┷┴━━╂┘ └╋━┘ 馬鹿にはできないコピペです
┌╋┐ ┌╋┐
┃└╋╋━━╋╋┘┃ コピペしてみやがれ
┃ ┃┃ ┃┃ ┃
└━┘┘ └└━┘
69 :
一橋治国:2009/01/03(土) 20:58:36
水戸から一橋に養子が入らなくても幕府は崩壊したであろう
70 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 00:58:30
吉宗もまさか自分の血筋から家斉みたいな低堕落な将軍が出るとは
夢にも思わなかっただろう。
>>56 じゃあ、何で四国人の子規を擁護すると半島に帰れ呼ばわりされにゃならんのさw
せいぜい「松山人乙」「清乙」「秉公乙」くらいで済むんじゃなかろうか。まあ、松山人ではないが先祖には伊予に住んでた人物もいるので
あながち所縁なしとはしないが。
72 :
日本@名無史さん:2009/01/06(火) 12:01:05
>>70 良し胸も自分の血脈大事と言う点では相当の堕落もんだと思うけどね
まあオクタビアヌスもそうだし仕方ないわね
73 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 01:22:25
子規って中二病っぽいよね。
>>72 血脈を大切にした方が争いごとが減るだろ?
宗家相続で一番もめたのは紀伊系の慶福と水戸系の慶喜なわけだ。
76 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 20:31:33
江戸時代後期ともなると、有力な親藩等は、徳川将軍家(一橋系)と水戸徳川家(水戸系)の
乗っ取り合戦の様相が濃くなってきたような気がするが…。
77 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 23:50:56
でも一橋派と南紀派は外憂雄藩諸侯VS幕閣譜代大名の主導権争いだと思うから
ちょと違うような
尾張、一橋、清水は水戸
その他が一橋系で徳川一門は乗っ取られただろう。
ついでに若松藩も水戸か。
79 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 21:28:52
子規が何と言おうと、一般的な知名度では
実朝と宗武じゃあ全然違うよな。
田安宗武の歌を一首挙げてみろって言われて、即座に挙げられる人が
日本に何人いるだろうか
80 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:57:30
実朝の唄だって、わからない椰子の方が多いだろ。
時により過ぐれば民の嘆きなり八大竜王雨やめたまへ
82 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:25:53
割れて砕けて裂けて・・・とか、何とか竜王雨やめたまへとか、
波の寄るみゆとかそんなのあったね? って位は知ってるだろ普通
83 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:27:50
つーか
実朝の名前を知らない日本人は2%くらい(推定)だが
宗武の名前を知ってる日本人はやはり2%くらい(推定)
84 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:35:54
さすがに実朝を知っている人は50%もいないよ。
日本史に全然興味ない人はもちろん知らないだろうし、
日本史が高校で必須科目でないから、10年後には
10%以下になるかも。
85 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:45:25
λ
λ !.! / 日本史を返せ・・・
>Y〃
(ヘ < 日本史を返せ・・・
ヽヾ、、
ヾ ヽ /_⌒ヽ⌒ヽ
ヾ ゙'-、, /` ゚` :.; "゚`ヽ
゙'し `/ ,_!.!、 ヽ
゙'-、( __ ⊂⊃ , , )
ヽ__(r `〜〜ュ_
`ヽ ノ \
Y /~ ト、
__ ノ ! ,、--'" ヽ
\_>> ___ノン /,'" ヽ--'" ヽ
-= \__,、-'" _゙',_ノ-'"ヽ'--'" -'" ヽ
゙'、,__,ニ、,二,、-'" ヽ'--'"゙'--'"ヽ
/ :::::::::::ゞ〜ヾ
!::::::::::::::::::〆⌒
⌒⌒⌒⌒゙'〜〜
実朝は三代将軍だし源氏の嫡流が絶えたことで有名。
宗武はオタしか知らない。
実朝は生まれてくる家を間違えた。
俺もだ。。。
91 :
日本@名無史さん:2009/01/10(土) 20:33:23
徳川宗武の六男が松山藩主 松平定國だからな。
ひいきもあるわさ。
日本史が必修じゃないなんて
自国の歴史教えないでどうするよ・・日本オワタ\(^o^)/
徳川家では,摂家や親王家の姫を正室を迎え,また正室を出しているけど。
何で養子を出さなかっただろう。
摂家や清華家の当主に養子を送り込むという政策はなぜ無かったんだろう。
もっといえば,公家と大名家で養子のやりとりが無かったのは,何故なんだろう?
大名家は,少しの縁があれば旗本からでも養子を迎えているのに・・・
武家だからだろ
95 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 00:44:07
>>93 >もっといえば,公家と大名家で養子のやりとりが無かったのは,何故なんだろう?
婚姻と一緒で、基本的には階層を超えたら駄目なんだろう
大名が養子を一族の旗本からもらうのも、よっぽどのコネとか理由が無いと駄目だったと思う
榊原家なんかは徳川四天王家系だったからとか、上杉の吉良の息子を養子っていうのも保科の
気遣いみたいだし
>>96 そもそも,階層が違えば通婚もなかったのではないでしょうか。
同一階層だから,公家と大名家は通婚していたのであり,階層が違うのであれば嫁のやりとりもなかったのではないか。
それに公家を大名家よりも上の階層とするのであれば,公家から大名家へ養子があってしかるべきはず。
公家には,大名家の姫を母とする者もいた。
女系でも縁を辿るあれば,旗本から養子を取るのも,公家から養子を取るのも大差はない。
98 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:18:12
ごく少数だが、大名が公家から養子を取った例はある。
谷田部藩細川家と人吉藩相良家など。
将軍家の庶子にすれば,外様大藩の藩主(池田,蜂須賀とか)になれるならともかく,越前系とか久松系松平の藩主になるなら,摂家とか清華の公家になった方がステータス的には上だよな。
財産だって,大名といっても借財だらけで,大藩じゃなきゃあ贅沢だってできないし。
公家なら参勤交代も軍役もないし,家業で免許の銭も入る。
もちろん,官位も高いし・・・・
100 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 16:25:42
佐竹北家は陪臣のくせして、公家から養子とってるね。
公家から武家に養子っていうのは格下の家に行くのだから受ける方も問題ないし、
行く本人だって金持ちになれるんだから、割と問題ない。
逆はないね。だいたい、狭い公家社会の中でやって行けんだろ。
貧乏になって、周りは官位だけは高くて威張ってるやつらがひしめいていて、
息苦しい。わざわざ養子に行くメリットないよ。
>>100 そうかなあ,徳川宗家だと,家格は摂家級か悪くても清華級でしょ。
その将軍家の庶子なら,実家の家格が低いなんてコンプレックスなんてないだろうし・・・
それに養子に行くなら持参金付きだろうし,貧乏にはならないだろう。
>>98 確か、広幡忠幸って一度尾張藩の養子にならなかったっけ?
103 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 22:30:22
>>99 越前系は藩によるな
福井藩ならいいけれど津山藩とかだったら涙目だな
家斉の子どもなんて、御三家に行けた奴から、津山藩までピンキリだったが
揉めたろうなあ
現代的な感覚で言うと、優秀な民族の一員になれるからと言って韓国に養子には
行かないってことだろ。あっちの方が貧乏だし。
バカなレス
>>103 家斉の息子は外様大名にまで養子に逝ってるよ
>>106 蜂須賀と池田か。池田は子も孫も早死にして家斉の血は断絶しちゃったけど、
蜂須賀は残ったね。まあ、醜聞がいろいろあるし、今の当主の蜂須賀正子さんで
断絶しそうだけど。
108 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 16:28:36
>>104 ネタとしてもつまらないし、このスレとしては明らかに不要だろ朝鮮ネタは
>>108 まあいいじゃないか。
本当に優秀な民族の一員になれるなら,養子になる者はいるだろうっていうこと。
それがいないということは・・・・・・・だろう。
110 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 00:17:33
>>101 将軍家の庶子なぞがぽっと公家社会に入ったりしたら、みんなにいじめられるでしょう?
たとえ摂家に入ったとしても、同格が4人いる。
清華家だったら格上が5人と、同格が8人くらいいる。
しかも京都人の、ぶぶ漬けの親玉みたいなお公家さんが。
しかもそこは、数百メートル四方の中でのみ完結する世界。
どう考えたって、国持ち大名の養子に行って広い国で殿様やってる方が、はるかに良いよ。
仮に伊達とか前田あたりの庶子が羽林家程度の公家の養子になっても、
あんた何しに来たの?って感じだよな
いびり抜かれそうだ
112 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 01:22:16
しかし実家が、公家よりはるかにお金持ち。
114 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 01:27:07
現に家茂が上洛したとき、いじめられたもんなあ。
あと木戸幸一も学習院時代を回想して、公家華族が一番こすっからいと言ってた。
新華族はいじめの対象だったろうしねぇ。
戦後、華族が丸ごと役立たず扱いされ、公家華族なんて軒並み零落したけど。
まあ、天皇の藩屏になんてならず、華族特権で帝大に入り込むだけの
存在だったし、役立たずだったのは確か。貴族院なんて盲腸もいいところだし。
このスレ不要じゃね?
117 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 12:23:09
華族の話なんか誰も聞いていない。うせろ
お前が失せろ
以下、松千代と仙千代に諱を考えてあげるスレになりました
松千代・・・家松
仙千代・・・家仙
121 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 23:32:47
保科正之は秀忠には、最後まで公式には実子と認知されなかった
みたいだけど、幕府は公式には正之をどう言う扱いにしていたんですか?
>>120 平岩親吉の養子になってるから家はつかねえよ
123 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2009/02/15(日) 00:24:56
>>121 「制外の家」でしょう。
結城家と似たようなもんじゃないの?
124 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 01:13:09
全然違うな
おまえは徳川のことは何もわかっとらん
傍からすまんが
違うんならどう違うのかきちんと説明しろよ
単に人を罵倒して帰って行くって、ただの荒らしだよ
126 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 01:20:09
少しは考えて欲しいが
解っている人は察していると思うぞ
「制外」という場合、「制」とは何か?
これがヒントだ
考えてみ?
127 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 01:25:31
もうひとつ、解り易い方のヒントも
「制外」という場合、「外」とはどういう関係を言うのか?
併せて考えてみ?
ほとんど正解に近いが
128 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 01:26:51
正之個人と、その後の会津家とでは、
扱い違うと思うよ。
129 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2009/02/15(日) 01:47:29
官位は保科松平>越前
石高は越前>保科松平
越前は制外の家との痔核もあり時には幕府をないがしろにする言動があったらしいが
保科松平は最期まで徳川の臣下として仕え散っていったw
痔じゃねぇ!梅毒だ!
オシャレつけ鼻なめんなよ!?
>130
たしかに越前は制外だわな・・。
津山系の復活、お家騒動、斉民の養子入りに宗家後見。
越前系も普通なら4回か5回は改易だろ。
制外だったのは秀康が在世中だけだ。
現将軍の兄が生きていれば粗略には扱えない。
134 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2009/02/15(日) 13:43:35
参考になりやした。
説明ありがとやんした。
これから他のスレにケンカしに行ってきます。それでは。
なんか
>>126-127みたいに勿体ぶった言い方する人いやだね。
リアルで友達になれそうにないな
それはキノコちゃんです。構ってほしければwiki行け
>>96>>97 亀レスすみませんが、御三家の正室は、初期は外様、中期以降は将軍家、三家、
そして五摂家でしたよ。かなり姻戚関係結んでます。
138 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 15:26:22
紀州家の徳川重倫なんて
お手打ちで何十人殺したんだろう。
法の裁きを受けるべき人物だった。
139 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 22:31:02
統合失調症の紀州重倫
重倫が世子の時の逸話として、真冬の登城日の話がありますね。
当然に末席に着かされた重倫が、尾水の殿様も父親もはばからず、
部屋の真ん中に出されていた大箱火鉢を自分の手元に引き寄せて
一人であたっていたとか。
で、たまりかねた尾水両侯がさりげなくたしなめても、屁理屈を言っ
て手元から火鉢を離さなかったとかいう話でした。
だから、断絶するわけだ。>紀州
息子(後の治宝)の生母を手討にした後、血刀を引っさげて治宝を抱きかかえて
逃げる女中を追い回したとかいう話もありますね。
143 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2009/02/25(水) 14:27:58
KOWA!(コワ!)
島津が「俺を大坂城に入れろ」って言ってきたときに
「じゃあ俺が鹿児島の留守見るわ」って主張した重倫はチョトカコイイ
まあ駆け引きとかじゃなくて思いつきなんだろうけどw
145 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 18:34:01
紀州治貞、尾張宗睦、水戸治保らは連盟で
「松平康福は老中首座でありながら田沼の言いなりになっていた。それがけしからぬ。康福を罷免してかわりを、奏者番の秋元永朝をあげられたい。」
と申請しているが、
一橋民部卿治済としては「ならば代わりに松平定信を」と推挙したいが、
なお念のため
「溜間詰格松平越中守定信(白河藩主)、帝鑑間席戸田采女正氏教(大垣藩主)、御奏者秋元摂津守永朝(山形藩主)」をあげられたい
147 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 16:00:20
歴史読本の2009年6月号は,徳川一族ですね。
このスレの発端となった甲府家,館林家の称号も出てますね。
甲府,館林は共に元服時に松平の称を賜ったけど,徳川と称した形跡は見当たらないとか。
でも,駿河の忠長は称徳川になってる・・・
保守
150 :
日本@名無史さん:2009/08/06(木) 00:10:30
御三卿は吉宗だけの構想じゃなくて、秀忠や家光も考えてただろう。
忠長、綱重は御三家に比肩し得る家格だし。
151 :
日本@名無史さん:2009/08/06(木) 01:11:03
たまにはぼくのこともおもいだしてください。
きよたけ。
152 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/08/08(土) 00:03:25
>>150 甲府の綱重と館林の綱吉の家は「御両典」と呼ばれてた。
153 :
日本@名無史さん:2009/08/08(土) 00:23:14
徳川の徳は四と心の間に一がはいる旧漢字。
戸籍もそうなんだって。
それは新字・旧字ではなく避諱して闕画しているだけです。
155 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 15:56:19
いまの徳川家がナル君の一字を遠慮してるわけないと思うけど。
156 :
日本@名無史さん:2009/08/13(木) 18:20:58
鷹司松平は親藩になるのか?
>>156 鷹司松平は紀州連枝扱いの家門だったような。
158 :
日本@名無史さん:2009/08/13(木) 21:10:17
なんでナルちゃんに考慮する必要あるんだよw
159 :
日本@名無史さん:2009/08/13(木) 21:26:25
>>157 家光御台所の弟なのに、紀州の連枝になってしまうんだ。
でも、連枝なら、紀州家相続の可能性もあったので、
紀州家が五摂家の傍系だったら、
家茂以上に公武合体しやすかったろうな。
>>159 家祖鷹司信平が,家光御台所の弟という立場だけでなく
出自が摂家鷹司という徳川宗家とも肩を並べる貴種
紀伊徳川頼宣の娘婿
で,紀州連枝的な御家門大名
官位も,尾・紀連枝相当の従四位下少将(後世は侍従に下がるが)
>>154 自分で自分の戸籍に避諱の字を使うの?避諱の字って家臣が主君に対して
使うんでしょ?
最近出版されている徳川家に関する本にも徳の字は戸籍も四と心の間に一
が入り年賀状もちゃんと徳の字を書いてくれる人が少ないと徳川家の人も
言っているとか書いてあったんですけどねぇ。
戦後政府の旧華族撲滅政策の一環の嫌がらせ <徳の字改変
>>121 秀忠は公的には認知して無いけど私的には認知してたのでは…
正式に親子の名乗りは無かった
秀忠死後に家光は異腹弟と知り公的に認め重用した
秀康と正之を比べるのは妥当とは言えない…と思う
164 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 01:12:16
秀康の梅毒は、やはり現在で言うトルコ女が原因ですか?
165 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 01:16:38
トルコ女ってなに?
166 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 09:24:43
湯女
湯女って泡姫のことでしょ
湯女のことをトルコ女って言うのですか? 何故なんですか?
168 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 22:22:50
頼むから、そんなこと真面目に聞くなよ・・・
169 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 01:24:49
遠い父祖からの伝承によれば、
かつて日本では売春宿のことをトルコ風呂、
売春婦のことをトルコ女と呼び習わしていたが、
当時の在日トルコ大使閣下から正式な抗議を受け、以後その呼称は禁止された、
って言われてるんじゃなかったっけ?
170 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 01:52:17
つーか「大使館」って名前のトルコが出来て激怒されたのよ
171 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 19:30:33
172 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 19:34:14
紀州家も実質断絶だもんな。
173 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 23:14:52
紀州家は戦後が痛かったな
この前、読んだ漫画で綱吉が紀州藩主の吉宗を「紀伊」と呼んでいたけど、実際に将軍は御三家の当主を呼び捨てにしてたの?
それとも敬称はつけてたのかな?
ドラマや小説だとまちまちなんだよね
誰か教えて下さい
>>174 御三家の権威の由来は神君家康の子の家系であることです。
いくら将軍でも呼び捨てにはしません。殿付けです。
大昔の大河「元禄太平記」で綱吉が光圀の事を「水府」と呼んでたな。
177 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 22:46:43
普通に尾張殿、紀州殿、水戸殿と呼んでたんじゃないか?
178 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 17:05:29
>>176 水戸殿だと当主綱条になるから、区別したんじゃないの?
水戸家から将軍は出たことがないんじゃなかった?
それを恨んで納豆食って将軍に接見したんだろう?
尾張からも出たことは無い。
鷹司松平って養子ばっかりだな
182 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 17:31:43
代々の血の濃さが一番なのは水戸でしょう
徳川家は、変なのがいっぱい生まれたんじゃないの?
だいたい将軍が若くして亡くなったりまともに役目を果たせなかったりしたのは、
近親婚を繰り返したことによる遺伝子の異常が原因ではないのか?
源氏というのがもともと少数民族出身の貴族だし、
毒を盛られたというのは被害妄想的な話だ。
184 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 21:54:36
↑
徳川家って、どこの徳川家を言ってるの?
それと徳川は源氏でないことは日本史をかじった人なからもはや既成事実だが、いきなり徳川に源氏を登場させる意味は?
185 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 22:22:01
>>183 徳川歴代将軍で実母が正室だったのは、家康、家光、慶喜だけだが?
その他の将軍の実母は徳川家と血のつながりがない側室だ。
その家康、家光、慶喜の実母も徳川家と血がつながっていない。
お前は、どれだけ無知だ。
186 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 11:28:08
水戸家の家紋と水戸黄門様印籠の家紋は葉っぱの枚数が違う。
187 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 13:07:28
>>160 徳川が鷹司と同等の貴種なんてちゃんちゃらおかしいよ
徳川は偽源氏(賀茂氏)で将軍十五代だしただけなんだから、
鎌倉・室町時代合わせて18代の将軍を出した足利氏の支流や
藤原北家である程度年代を積んで分家した支流ですらそっちの方が格上
なんでも江戸時代本位で考えないように
188 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 19:53:45
徳川家は太政大臣徳川家康の子孫にして明正天皇の外戚。
鷹司はともかく、足利の支流や公家の分家で、そこまでの家はどこがある?
189 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 21:33:23
外国奉行・一色山城守直温
交代寄合・山名因幡守義済
丸亀藩主・京極佐渡守朗徹
加賀藩家老・斯波
肥後藩主・細川
190 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 22:40:20
>>188 答えになってない間違ってるよ。
徳川家にも、宗家や尾州家、紀州家、水戸家、御三卿の三家、細かく言えば駿河大納言家や御両典家、などそれぞれ独立した「徳川家」があるだろうが!
スレタイにも答えの一部が書いてあるのに分からないのか?こんな初歩的なことも分からず何故このスレにいるの?
こんな厨房でもわかることに、「徳川家康が・・・」ハァ〜???
191 :
187 ◆632D73wx7yR7 :2009/12/28(月) 00:09:21
>>187だけど釣り針がでかすぎるな
そもそも家康を始祖とするならば、足利氏や公家には
それを超える人物は山ほどいるよ。
直系で数えても清和天皇、源義家、足利尊氏・・・。
>>191 貴種云々は伝統が作るものだよ。幕末の一時期を除けば、室町中期〜江戸時代
の将軍家は摂家より格上。
十五代にわたって日本の支配者を出した家が、実質的に将軍の家礼でしかなかっ
た摂家より格下ということはありえないね。
193 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 08:47:47
194 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 14:58:00
普通に関白になってる摂家
太政大臣止まりの徳川将軍
摂家どころか清華家レベルじゃね
クソワロス
195 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 15:38:16
家康の為政者として優秀な1つとして、公家と武家の官位官職を切り離したこと。
武家の官位官職は公家でなく幕府で決める。これは、公家の序列や慣行に武家は属さず、ある意味、清盛や頼朝や義満などもなし得なかった律令一元化からの独立とも言える。
公家は公家で、秀吉が武家に官位や官職を乱発した結果、本来各公卿の家格にて回るはずの極位極官に漏れるケースが多々出現した現状打破として、最大公約数的な受諾案件だったと推測する。
何故ならば、官位官職の公武分離を朝廷が反対表明した資料を私はお目にかかっていないからである。
幕末を除く徳川幕府の政治力・軍事力をもってすれば、官位官職など秀吉以上に徳川は思いのままになったはず。
しかしこれ放置し行き着く場所は、国体に対する本質的なジャッジにたどり着くはずである。
義満が似たような指向を示している。
権威や象徴や格式は、公に対して不備を補うために有効な政治ツールではある。
しかし、事実上盤石な政権支配を確立すれば官位官職の利用価値は、費用対効果としても世論操作としも意味がない。
むしろ世論なんかない方が為政者にとり有り難いだろう。
行政マン家康の立体的思考に基づく超連立方程式の解が、徳川政権下の官位官職行政だと考える。
徳川政権下の官位官職は、ある意味そのデノミネーション化と徳川政権の独自性発動と新たなプレゼンテーション。
公家と張り合うつもりなど根本的にないだろうし、そもそも公家やその格式に対して眼中にない政権が徳川がシフトした絶対政権ある。
>>194 関白と太政大臣というのは、同列に比較すべきものじゃないぞ。
比べるなら、摂関と将軍だよ。
室町時代でも、例えば関白が将軍の裾を取ったりするなど、
摂家は将軍家の家礼として振舞っているよ。
それに、家格が確立した後は、官位の高下は問題にならない。
それこそ平堂上の大中納言が摂家の少将に礼をとったりする
ような話だからね。
尾州藩浪士(びしゅうはんろうし)、尾張屋源内(おわりやげんない)の娘小菊の霊
を祀(まつ)った地蔵堂です。 浪士源内は二日町(現、東本町)に住み、
猟師として生活していました。貞享(じょうきょう)4年(1687)春のある日、
播州(ばんしゅう)明石(あかし)の 城主松平(まつだいら)若狭守(わかさのかみ)
直明(なおあき) の行列が三島宿にさしかかったとき、当時6歳の娘
小菊は、道の向こう側にいました。これを見た母親は粗相(そそう)
があってはいけないと思い、小菊にそちらにいるように声をかけました。
それを娘は自分を呼んだのだと思い、何気なく列を横切ったので、
前駆(ぜんく)(注)が小菊を取り押さえてしまいました。それを見た
家老が機転を利かせて「犬だ、捨て置け」と命じましたが間に合わず、
小菊は本陣に引かれて行きました。驚いた町民たちは問屋役人、町名主、
本陣などを総代とし殿様に命乞いをしましたが聞き入れてもらえませんでした。
そこで大名と同格の10万石の格式をもつ玉澤妙法華寺の第24代住職
日迅(にちじん)上人(しょうにん)が、下座について助命を乞いましたが、
それでも聞き入れられず、小菊は本陣庭先で お手討ちされることに
なりました。その折、幼い小菊は手を合わせ、 「なんでも殿様の言いなりに
なりますゆえ、命ばかりはお助けください」 と懸命に頼みましたが、
小菊の願いも空しく聞き届けられませんでした。 怒った父源内は、箱根街道
石割坂付近(接待茶屋下)に待ち伏せし、 殿様の籠(かご)に鉄砲を打ち込みましたが、
察知されていて、目的を果たすことができませんでした。源内は自害し
日迅上人は雲水(うんすい)僧(そう)として旅に出ました。
町の人々がこれを憐(あわ)れみ、小菊の霊を祀るための地蔵堂を建てました。
今では、この地蔵に願いをかけると 必ず叶えられると言われているそうです。
198 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 01:24:56
?
松平
200 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 17:03:23
201 :
日本@名無史さん:2010/05/18(火) 22:03:23
age
>>197 明石藩はクソだと言いたいのね。直明って兄の忠直と同様に残酷な野郎だったと。
203 :
日本@名無史さん:2010/06/20(日) 10:21:43
ヒストリア見たけど、徳川慶勝ってマジ糞だな(笑)
コイツ兄弟の会津や桑名を裏切って幕府を倒した要因を作った男だぞ!
幕末時代劇になんで御三家筆頭の尾張藩が出てこないと思ったらこういうからくりがあったのねww
こりゃドラマに出来ないわ、こんなの放送したら名古屋人ファビョり出すwwwwwwwww
204 :
日本@名無史さん:2010/06/20(日) 12:05:53
十数年前、三田村邦彦主演で2時間ドラマがテレ東系であったが>慶勝
ヒストリアの篠井さんの場面も、NHKのBSでやってた慶勝特番のドラマパートの流用だし。
>>203 慶勝は脇役の脇として出てくるよ。
名前しか出てこないこともあるが…
>>204 へぇ、知らなかった。wiki見たらテレビ愛知系で制作されたらしいね。地元では勤王で血塗らずに事を収めた藩主として一定の評価はあるんじゃない?
206 :
205:2010/06/20(日) 13:34:44
先週のヒストリア見逃したんだよなぁ
番組HP見たら月曜に再放送あるみたいだから録画予約しとくか
207 :
205:2010/06/20(日) 14:30:13
水曜日だったか。篠井さんが出るのは楽しみだなぁ♪
>>204 前の慶勝特番では黒鉄ヒロシがすごく評価してたな。
VTR部分はほとんど同じなのにこんなにも作り方が変わるとはおどろいた。
209 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 16:47:33
尾張は初代の影響で
尊皇意識が強いから
210 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 18:48:08
211 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 22:51:23
徳川米子
徳川為子
徳川英子
徳川元子
徳川幹子
徳川千枝子
212 :
ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2010/06/23(水) 23:20:42
勤皇で通しとけば平時は宗家に従うし、なんか
あったら朝廷の認めた勢力について共倒れを
防げる。多分豊臣の二の舞にならないように
と家康の入れ知恵だろう。
213 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 00:32:03
214 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 00:42:14
正しく言えば、尊王の塊、熱田を抱えていたのが大きい。
そんな熱田民は、尾張の藩主が、江戸幕府からの天下りポストと
なってることに憤っていて、自殺まで図った。
それがきっかけで、慶勝のお出まし・・・
215 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 00:43:35
織田信長が尊王一図とかねえだろ
216 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 00:46:28
>>214 熱田の人って勤皇だったん?なんか有松のほうでは勤皇運動が盛んだった
と聞いたことがある
217 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 00:49:07
天照大神の草薙の剣があるじゃないですか!!
>>209 つか、尊王意識なんて田舎の郷士、町人でも持ってた時代。
教養ある大藩の士ならなおさら。
だからこそ、錦の御旗も効力があるわけで。
219 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 00:55:01
>>217 なるへそ
>>218 本居宣長の国学の影響ってことか。教科書の知識がなんとなくつながった気がする
大河で龍馬が敵を庇って「みんな国のことを思うておるがじゃ〜」というけど、
あれは尊王思想が幕府方にも攘夷派にも、くまなく浸透していたことの表現かなと思う。
221 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 01:37:25
趣味の写真撮影に関しては慶勝GJだったな
写真の弟の定敬がなんかかわいくてわろたwww22歳年下ってことは14、5歳か?
明治になってからの集合写真ではすっかりおじさんになっていたがw
222 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 01:58:50
幕末のチョンマゲの写真じゃ、完全に少年だよな>定敬
>趣味の写真撮影
これですな
page13.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r67447479
224 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 18:49:47
225 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 19:48:54
尾張は五郎太、紀伊は長福丸と嫡男の幼名は決まっていたけど水戸は何でバラバラなの?
226 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 20:13:27
すみません鶴千代でしたね。
227 :
日本@名無史さん:2010/06/30(水) 08:25:48
確か、初代藩主の幼名だよね。
将軍本家は、竹千代でしたかね。
228 :
日本@名無史さん:2010/06/30(水) 08:31:47
義勝は支藩高須家出身だけど、血統的には水戸系ということが、
幕府側に付かなかった原因のひとつだと思う。
229 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 00:14:45
高須4兄弟は全員、水戸系だろ。
高須クリニック
231 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 13:25:52
慶勝だし。能活じゃないよ
水戸系の繁栄は異常
尾張系はほぼ全滅に近いのに
233 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 19:41:55
水戸も綱條の時代やばかったじゃん
高松系だと
234 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 21:19:40
確かに水戸系の繁栄は異常ですね!
紀伊系(一橋系)も家斉の子の代までは繁栄しましたが、孫の代で激減しました。
孫の代で将軍継嗣有資格者は、紀州慶福(14代家茂)ぐらいになりました。
尾張家は藩祖の義直系は、9代藩主宗睦の代で断絶しました。
その後分家高須家から慶勝が登場するまで、藩主の座を一橋系に乗っ取られる有様でした。
その高須家も義直系は断絶していて、水戸系でした。
水戸系は、宗家、尾張家、因州池田家、浜田藩松平家、土屋家、喜連川家、会津藩松平家、桑名藩松平家、島原藩松平家など、語り尽くせぬほど沢山の家に系譜を繋いでおります
斉昭が種馬
237 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 23:13:11
頼房大勝利!
いっぽう、宗家、清水家、田安家、尾張藩、紀伊藩、福井藩、徳島藩、福岡藩、津山藩、明石藩、浜田藩を乗っとり、一時はゴキブリ並の生命力を誇った紀州党は、死滅しました
239 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 12:32:16
水戸系は、江戸時代の徳川家では傍流扱いです。
『幕末の将軍』という書籍に、徳川家では最初の本家秀忠系が7代家継で途絶えた後は、
紀伊吉宗系が、貴種且つ徳川家本流として最大の尊敬の対象になったという。
幕末に14代将軍の座をめぐり、紀伊慶福(11代家斉の孫、家茂)と一橋慶喜(水戸系)が争ったが、
徳川家の本流思想の原理からいえば、勝負にならなかったのです。
血統もそうだが、人格からしても慶喜は将軍って感じの人じゃないもの。
いいとこの坊ちゃんだけども、将来を約束された・・・というほど有利な出生でもない。
241 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 19:39:09
幕末の時点で
秀忠系→断絶
秀康系→たくさん
義直系→竹腰、井上などに細々
頼宣系→たくさん
頼房系→たくさん
で男系がいなくなったのは秀忠系だけだ
242 :
ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2010/07/03(土) 20:52:32
忠長が死んでから水戸も徳川姓になったとか
読んだ。
>>241 いわれてみりゃそうだな。
てか秀忠以降、急に少子化してるけど何があったのかね?
やっぱりあれか、織田から嫁をもらうと良くないことが起きると。
近江浅井、柴田勝家、豊臣家とだいたい断絶してる。京極はいい感じだが。
244 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 22:28:43
そういえば忠長の正室は信雄の孫娘だったな。
もし忠長が将軍になっていれば、織田家が将軍の外戚になれていたわけだ。
忠長再評価して
246 :
日本@名無史さん:2010/07/09(金) 14:41:22
家康が信長の血筋が入るのを嫌ったとか
忠長は顔は織田家の系統だったと聞いたことある
慶喜は水戸徳川出身だけど
先見越して将軍になるために一橋に養子入りしたから
水戸徳川って感じでもないよな
247 :
日本@名無史さん:2010/07/13(火) 21:00:19
うちのだ、親戚のもある。
そこにあるかもしれない〜
251 :
日本@名無史さん:2010/07/14(水) 23:30:48
慶喜の生母は、家慶正室の妹の登美宮吉子女王。
御台所の実の甥だからこそ、将軍候補として通用したのでは。
252 :
日本@名無史さん:2010/07/15(木) 17:36:34
でも、徳川将軍家って女系にはほとんどこだわらないからなあ。
なんせ、家康が後家さんだったり身分の低い女が好きだったからねい。
2カ月先に生まれた五郎麿、のちの池田慶徳ではダメで、
七郎麿を幕府が指名してきたんだよ。
明らかにこの場合は生母にこだわっている。
女系って正室で繋がってればいいの? 実母で繋げていくの?
血が繋がっていなくても女系?
バカですか?
258 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 16:19:43
御三卿はいつのまにか3つ家が出来たので、あたかも対等なように言われているけど、
清水家の祖が9代家重の子だから、田安・一橋の1世代後。
実質『両卿』つまり御二卿と認知されていたようです。
清水徳川家は当主不在の時期が他の二家より長く存在するし。
259 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 22:51:00
それを言ったら水戸はどうなるんだよ
260 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 23:35:01
流れを切るようで悪いが、もし島津斉彬が長生きしていたらどうなっていたと思う?
なんか、ふと疑問に思ってしまった。
>>260 御三家と完全に無関係なのでスレ違い。ってことで終了。
262 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 23:59:58
誤爆に今更気づいた。申し訳ない。
263 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 00:27:14
>>258さん
確かに御三卿でも、清水家は他の二卿より出自は劣りますね!
事実、当主不在の空き屋形時代が長い。
当主が決まっても、もっと上位の藩主などへ転出していますね!
>>261さんが言われるように、御三家の水戸家の立場に似ています。
264 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 01:12:11
水戸藩は嫡男や当主は他家へ養子には出していないんじゃないか?
265 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 02:52:10
>263
劣るの?
8代将軍の孫で9代将軍の子で10代将軍の弟だよ?
血縁が近い方が重んじられるのが普通では?
266 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 11:14:22
>>265 生母の出自が浪人の娘だからじゃない?(生母の実父は浪人三浦五郎
左衛門義周)
ところで不思議なんだけど、浪人の娘にどうやってお手がつくのだろう?
逆に言えば浪人の娘がどうやって奥に上がるのか?
もしかしたらここのところに、何か重大な作為があるのかも知れないですね。
本当は違うのだけど、目一杯取り繕って浪人の娘ということにしたとか。
いずれにしても、三卿で清水徳川家ほど当主の出入りの多い家は無いですね。
腰かけ当主?
初代重好・・・家重次男→当主のまま死去
二代敦之助・・・家斉5男→夭逝(幼名のままだから)
三代斉順・・・家斉7男→紀伊徳川家当主に転出
四代斉明・・・家斉11男→在職のまま死去(19歳)
五代斉疆・・・家斉21男→紀伊徳川家当主に転出
六代昭武・・・水戸斉昭18男→水戸徳川家当主に転出
以下明治時代につき略
267 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 12:53:10
駿河は石高官位共に尾張と同格だし、両方で劣っていた甲府、舘林は将軍継承で優遇されたから後に出来た徳川分家が御三家よりも下とは考えられないけどな
甲府・館林と御三家の意味合いは違うのでは?
御三家は幕府の地方支社。
甲府・館林は将軍家の別宅みたいなもので、一つの家族が分かれて暮らしているイメージ。
御三卿も甲府・館林の性格に近いのではないでしょうか。だから当主が必ず存在する御三家と違い、
明け屋形になったり、甲府勤番なんていう制度ができたりする。
住むのに適切な人がいなければ無理しなくていいよという感じがします。
現職に近い血筋か遠いけど家格の高い大名家かって事かな
で結局は近い血筋で選ばれるのか
270 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:02:08
清水重好の生母の実父は浪人の三浦さんということになっているが、
実際には吉原の遊女屋の経営者だった。
>>270 なるほどね。遊女屋なら適当な女性を奥に上げられるから、その関係かもね。
遊女をバカにしてはいけない。江戸期の遊女は文芸にも精通していたという話。
特に『大夫』は相当な芸や知識を持っていたらしい。
時代が下るとそこまでのインテリ遊女がいなくなり、吉原から大夫が消えたようだけど。
272 :
日本@名無史さん:2010/07/28(水) 00:33:26
>>268 御三家は幕府の地方支社ではなく、幕府のオーナー一族、もしくは
皇室に例えるなら世襲宮家みたいなものだろう。
徳川幕府がそれ以前の幕府と決定的に違うのは、幕閣に将軍家身内を
入れなかったことだ。
幕府も基本的に御三家の藩政に介入しなかった。
>>272 御三家は幕末に雄藩として独自の動きをしてるけどな。
幕府が藩政に介入しないのは御三家に限らず、すべての諸侯に共通。それが幕藩体制。
継嗣問題や婚姻には介入するが、税を課したり、領内統治に口をだしたりすることはよほどのことがない限り無い。
そこは豊臣政権との違いだな。
あと、室町幕府の三管領とかは将軍家身内に含まれないから。あれは庶家。庶家はあくまで家来。
徳川の名乗りを永代まで許された御三家・御三卿は庶家とは若干違うわな。
>>273 足利分家筆頭の斯波も家臣なの?
それより格下の今川、吉良は家臣ではないと聞いたが。
275 :
日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:04:45
足利将軍家の「ご一家」は、石橋・吉良・渋川の3氏。
スレチだが斯波の家格低下と管領就任に興味がある。
ここなら管領にならなくても一門筆頭としてかなりの勢力を維持出来たと思うのだが。
石橋とか吉良なんか一門扱いでも勢力は雑魚だろ。
細川・斯波・畠山の3家の筆頭って、元々は斯波だったの?
確かに初期のころは斯波義将が頑張っていて、
(足利家の家政機関の長である)管領就任は家の恥みたいなこと言ってたようだけど。
278 :
日本@名無史さん:2010/07/29(木) 22:23:27
>>277 斯波は管領就任までは石橋・吉良・渋川を含めた足利一門の筆頭
279 :
日本@名無史さん:2010/07/29(木) 22:25:20
280 :
日本@名無史さん:2010/07/30(金) 00:19:33
信長の頃、斯波と吉良が互いに自分の方が格上だと主張して譲らかなった
って有名な話があるが、
斯波の中の人は管領就任後も、最後まで、自分が足利一門の筆頭だと思っていたはず。
足利の職制は(特に初期は)、徳川時代ほどきっちりしたものではなかったから
「松平定信なんて、将軍の孫でも所詮は臣下」とか、
「尾張家が大老就任とかありえねーだろ」とかそういう感覚で考えると、間違えると思う。
(と、無理やりスレタイに関連づけてみたw)
281 :
日本@名無史さん:2010/08/25(水) 09:33:07
清水家は初めからいらなかったんだな
実の親子相続がなく、将軍候補すら出していない
282 :
日本@名無史さん:2010/08/27(金) 11:42:18
ただ、慶喜は自分の後継者に考えていた昭武を清水家当主にしてから、
フランスに派遣した。
清水家は『出来ちゃった家』です。予定外。
将軍次男を処遇するために作った家で、実質1代限りと見られていたと言えます。
初代重好に子供がいない時点でその役目は終えています。
だから明屋敷の時期が他の2家に比して異常に長いのです。
284 :
日本@名無史さん:2010/08/27(金) 11:57:44
吉宗は紀州から迎えられたよそもの将軍だったけれども
自身以降は自分の血筋で徳川将軍家を継ぐ
徳川吉宗将軍家第一代になろうとした
すなわち江戸幕府初代将軍徳川家康が自身の直系が絶えた後
将軍を迎える家として自身の息子を御三家として作ったのと同様
自身の血統が絶えた後には自分の息子の子孫である御三卿から迎えよと
自分の子孫でなくただのライバルにすぎない
尾張や水戸の御三家をけん制した
家重はそんな父のやり方を踏襲しただけだろう
直系が絶えれば自分の次男の家から後継を出せと
うまくいかなかったが
踏襲というより、将軍次男を処遇する方法は著しく制限されますからね。
1 甲府・館林家を継がせる
2 新たに家(大名家)を興す
3 将軍のそばに住まわせる
そう考えたら3しか選択肢が無かっただけだと思う。
もし清水重好に子供がいた場合、家基亡き後の11代将軍はどこの家から出るの?
こういうとき、前将軍に近い血統が優先なのか、家の出来た順なのか?
>>284 田安も一橋も自家の世継ぎがいなくなるのに養子に出してしまったのはなぜだ?
実子相続がほとんどない。藩政もみないし、御三家とはまったく別物。
>>285 前将軍に血筋が近い方だろう。
慶喜と家茂が14代将軍を争ったとき、
幼少の家茂のほうが血筋が近いという理由で
将軍になったはず
>>286 御三卿は「徳川家の御家族」として独立した藩は持たなかった。
将軍家との距離の近さは立地や経済にまでおよび、
むしろ御三家以上に将軍家に近い存在であった。
ときに御三卿の主は御三家よりも将軍位に近かったのは
吉宗の意とするところだっただろう。
田安は治察が病弱なのに、弟の定信を白河藩に養子に出された。
これは一橋の陰謀という話。
それより前に一橋宗尹の息子が2人も越前藩に養子に出されたのは、
(1人目が死去したためもう1人出させられた)吉宗の一橋家に対する考え方
の表れではないだろうか。
つまり田安家が将軍のスペアであり、一橋は自身の血統を大名家に押し込むための待機ポストということ。
290 :
日本@名無史さん:2010/08/28(土) 10:40:59
吉宗以降の将軍継承権の順は
御三家卿の当主で吉宗の男系男子>>>>>>>尾張(水戸系)、水戸藩主じゃないの?
291 :
日本@名無史さん:2010/08/28(土) 12:12:05
紀伊は?
家斉の子がバカスカ養子に押し込まれるまでは、
吉宗の従兄弟宗直の子孫が代々続いてるが。
(家茂のあと紀伊藩主になった茂承も宗直の子孫)
>>286 水戸家出身の一橋慶喜、尾張家出身の一橋茂栄、
御三卿は御三家と異なり、当初と最後ではかなり性格が違うものになっている。
由緒正しき、甲府、館林の両家を復活させる動きは吉宗の時代に無かったのだろうか。
丁度宗武と宗尹の2人いることだし、甲府宗武、館林宗尹なんて面白そうだけど。
自分が抜けた紀伊藩主に宗武、粛清した宗春の後に尾張宗尹、
というのも面白い。石高が兄弟で逆になってしまうけど。
吉宗が将軍になった時点では宗尹は生まれていないから仕方ない。
紀伊に加増して尾張の上にする。
吉宗の尾張潰しの一環で出来た田安と一橋。尾張にさえ将軍の芽が無くなれば、
どんな形でも良かったってことですね。
296 :
日本@名無史さん:2010/08/29(日) 13:46:52
尾張を10万石加増して紀伊に移転の方が面白くないか?
尾張の石高はそのままで紀伊を移転
加増によって石高は尾張>紀伊のままだが名古屋城と実高の高い領地を奪われる尾張涙目
尾張は、米の出来高による石高以外に、木曽檜の伐採権が大きかったよね。
尾張は実高100万石とか言われるしね
28万石なのに張り合う水戸は大変
299 :
日本@名無史さん:2010/08/29(日) 22:27:17
明治初期の水戸の収納高は5万石紀伊が27万石尾張が27万石
これで御三家の体面を維持していたのは凄い
水戸藩、とんでもない重税だったものな…。幕末の血を血で洗うような
内ゲバもあって、茨城県での水戸藩の印象は非常に悪いと聞いたけど。
紀伊藩も水戸藩ほどではないけど、かなりの重税だったらしい。
物価が高く付き合いの多い江戸定府、大日本史の編纂
他家よりも浪費が構造的になっていた
水戸は、初代が紀州の同母弟だから、石高が低いのはしょうがない。あと、支藩の高松藩が12万石と、御三家の支藩(連枝)として異例の大藩だったという事情もある。
秀忠の同母弟、松平忠吉は尾張を任され、40万石を越えてましたが
断絶した例を出しても仕方が無いよ。
305 :
日本@名無史さん:2010/09/07(火) 01:11:28
徳川家は総石高だと兄弟順なんだよな。
二男秀康・越前系(福井+津山+松江+前橋…)→約90万石
九男義直・尾張系(尾張+高須)→約65万石
十男頼宣・紀州系(紀州+西条)→約58万石
十一男頼房・水戸系(水戸+高松+守山+府中…)→約50万石
(ちなみに六男忠輝の高田藩が75万石説を取れば、ますます兄弟順!)
306 :
日本@名無史さん:2010/09/07(火) 02:36:10
上総介忠輝は弟の遺封を継いだという欲求不満が濃厚に是有
水戸家が幕府から給されたの28万石
加増もないのに無理矢理に高直しをして表高35万石
貧乏、貧乏