952 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 20:51:19
>>951 30年くらい前の学者の多数意見ですね。直木さんのシリーズの影響でしょうか。
1、讖緯説については、基点としての601年には特に大事件は起きていないこと、
1260年を遡る必然性が低いことに問題があります。
むしろ、長寿伝承をそのまま信用して、最後に辛酉年で帳尻合せをした程度のことと
考えた方が良いのでは?
2、後世の諡号との類似性は、むしろ後世に真似をした可能性もあり、決定打になりません。
具体的な伝承があり、巨大な古墳もあることから、諡号だけで実在を疑うのは合理的では
ないですね。
953 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/13(火) 20:56:51
またここから始めるか
諱を調べました。
ホ04185 マコトナを ヰミナとたゝゑ アネにミツ われはヨツなり
… タマキネいわく ヰミナには タラにヨつぎに ナとノリと あわせヨツなり
アマツキミ ヒヨリトまでを つくすゆゑ ヒトにのります キネとヒコ ウシもノリなり
メはのらず
カンヤヰミミノミコをうむ イミナイホヒト=後のミシリツヒコ
綏靖、神沼河耳、神淳名川耳 カヌカワミミノ ミコうみて イミナヤスギネ
安寧、師木津日子玉手見、磯城津彦玉手看 イミナシギヒト タマデミコ
懿徳、大倭日子{金且}友、大日本彦耜友 ヨシヒトの ヲヲヤマトヒコスキトモ
ソフヲシエ カエシネミコをヨツギなる コトシソヤなり 懿徳12年 カエシネを太子とす、18歳
孝昭、御真津日子訶恵志泥、観松彦香植稲 ウチのうむミコ カヱシネの イミナミルヒト
孝安、大倭帯日子押人、日本足彦国押人 イムナヲシヒト ヤマトタリ ヒコクニノミコ
孝霊、大倭根子日子賦斗邇、大日本根子彦太瓊 イムナネコヒコ ヲヲヤマト フトニノミコ
孝元、大倭根子日子国玖琉、大日本根子彦国牽 ヤマトネコヒコクニクル イムナモトギネ
開化、若倭根子日子大毘毘、稚日本根子彦大日日 イミナフトヒヒ ワカヤマト ネコヒコノミコ
崇神、御真木入日子印惠、御間城入彦五十瓊植 ウチのうむミコミマキ イリヒコの イムナヰソニヱ
垂仁の兄 ミマキヒメ シギにうむミコ トヨキヒコ イムナシギヒト
垂仁、伊玖米伊理毘古伊佐知、活目入彦五十狭茅 イクメ イリヒコの イムナヰソサチ
景行の兄 ニシキ イリヒコの イムナヰソキネ その前に生まれたホンヅ(譽津別)の皇子は?
景行、大帯日子淤斯呂和気、大足彦忍代別 ヤマト オシロワケ イムナタリヒコ
成務、若帯日子 稚足彦 ワカタリヒコ 諱ウヂヒトは ヨツギミコなり
☆ イミナを四つに分けるのは、自分でして下さい。
>>952 まあな、たかが文献記録だからな。倍暦厨がうるさいので書いてみただけ。ただ、百舌鳥
古墳群・古市古墳群等の被葬者の比定はすべて違ってるよ。おそらく日本書記に書かれ
ているより数人多い大王(重臣じゃない)がいるね。
955 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/13(火) 21:40:17
百舌鳥古墳群・古市古墳群だけでなく 巻向も違っている。
「数人多い大王」は本当だろう。
もん太君と戦うために、コテハンにしてみました。あらためてよろしく。
957 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/13(火) 22:27:45
>>951 那珂博士と伴信友の盲象を君が盲信した説明書きだな。
>>952が
言いたいことを少し代弁してくれた。
彼らのマンモス−毛象だよ。そんなんで前660年になってるんで
はないね。w
ぼくはむしろ記紀の伝承はいい線行っていると思いますね。で、ぼくの大まかな予想は、
百舌鳥・・・大仙・陵山・土師ニサンザイ/仁徳・履中・反正
古市・・・津堂城山・仲津山・誉田御廟山・市野山・岡ミサンザイ・白髪山・ボケ山・高屋築山
/小碓・仲哀・応神・允恭・雄略・清寧・仁賢・安閑
大和・・・箸墓・西殿塚・行燈山・渋谷向山/百襲姫・崇神・播磨稲日・景行
磐余・佐紀・・・桜井茶臼山・メスリ山・佐紀陵山・宝来山・五社神・市庭
/大彦・武渟川別・日葉酢媛・垂仁・成務・神功
絶対的に巨大な古墳でも、同時期において相対的に規模が小さい古墳ならば、
それらは后妃・皇子クラスのものであろう。
また、歴史には何があるか分からないから、思ってもみなかった人物が被葬者であるケースもあろう。
墓碑・銘文なんかが出てきて、「えっ、何でこの皇子がこんな巨大古墳に眠ってるの?」
なんてシーンが将来無さそうで有りそう。
いやいやだから、もん太君と戦うために長い文章を書く練習をしてみたんだ。本当は日本書
紀に書かれている大王の人数じたい俺は信じてない。
例えば、継体陵は本来今城塚古墳で、太田茶臼山古墳はだれか別の大王のものだ。また
陵墓参考地となっている大王の陵もある。これは皇后陵や重臣の墓を慎重に除いて考えて
いる。書記の記述が怪しいのに年齢も何も・・・。
だいたい武烈天皇の実在や、あの記述を信じられるのかwww
960 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/13(火) 22:49:04
>>959 オマエのには津田病の初期症状群が発現しているようだな。盲象
の集団構想がオマエの脳内。
>>958 同意
伝承による天皇稜は、崇神を基点として考古学的には古いものから
新しいものに移り変わっていることは事実なんだよね。
比定が誤っているもののほとんどは、1キロ以内に正しい比定地が存在する。
今城塚と太田茶臼山も数百mの距離でしかない。
百舌鳥も順序を変えれば全体として整合する。
後世に適当に天皇稜を書いたならば、これほどの偶然はありえない。
962 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:03:40
>>959 武烈の紀の記載は、事実かどうかは別として、紀を書いた時点で
実際にあのような伝承があったのだろう。
紀は異説があれば一書としていちいち紹介していて、一つの結論を強要せず、
歴史を探求する史料としての性格も強い。
武烈のすぐ後の継体のところでは没年に関して、異説を紹介して、「後の時代の
者が決めよ」として結論を述べないという態度である。
戦後の記紀捏造説の学者とは歴史を探求する精神において天地の差がある。
ならば武烈に関しても悪行の伝承が実際にあった(民間講話的なものかもしれんが)
からこそ、あのような記載がされたと考えるのが自然である。
>>961 マキ向の比定は宮内庁の手白香皇女は別として比較的正しいと思っている。またいうよう
に、近くに正しい比定地があるというのもその通りだよ。少なくとも墓守の戸も何代か続い
ただろうし、伝承は百年以上は残ったろう。いい線行ってるというのは否定しないが、やはり
人数は合わないと思うが。
>>959 太田茶臼山古墳は允恭の岳父にして継体のご先祖、
稚野毛二派皇子の墓じゃないかと思ってます。
まさしく、「えっ、何でこの皇子が?」のパターン。
太田茶臼山は規格が市野山とソックリですからね。
>>962 武烈として数えられる実在の人物はいたかもしれんが、俺は皇統と血縁関係が薄い継体
の即位を正当化するために悪行記事が書かれたという通説を支持するが。あそこだけ文の
調子も違ってるし。
966 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/13(火) 23:18:28
>>965 そうなら雄略天皇を悪く必要もなかろう。清寧は繼體とは継承が
似てはいないだろう。つまりオマエの妄想だ。
正当化するとか言ってるが、そうなら神武から全部悪く書けば
いいではないのか。ww
>>961 >今城塚と太田茶臼山も数百mの距離でしかない。
卑弥呼が誰かは、まあ今はまだファンタジーの部類だろうから
極端な年代の違いがなければ、お互い色々言い合ってよし、としたい。
しかし今城塚と太田茶臼山の位置は、地図を見ればすぐ判明することで、
ファンタジーの入る余地はない。事実か虚偽か、の二者択一である。
「数百mの距離でしかない」、などと出鱈目を平気でレスする961は、
学問をやるに値しない人間だ。お引き取り願おう。
>>964 ええと市野山は允恭陵に比定だったか。どちらも規格はほぼ同じだな。時代は太田のが
ちょっと古いか。どちらも現大阪では10位に入る大きさで大王陵と思うが。まあ、大きさ
だけでは決められんのはそうだが、5世紀当時の規格から言っても。
969 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/13(火) 23:35:56
天下をオマエ(オホド王)にやると来てるのに先帝を悪くいうわけ
がない。ノーベル賞をオマエにやると来ているのに、もらう人間が
1回前の受賞者を大々的に悪く言うわけがあるまいが、さらに
ノーベル財団をノーベル賞をくれるからと言って悪口を言うわけが
あるまいがね。ww つまり勝手な妄想なわけだよ。
ZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・
970 :
ルミ:2009/01/13(火) 23:40:07
太国さんて働いてないのですか?
971 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:43:33
>>967 地図で確認した1.3キロ位離れているね。まあ誤差の範囲内。
こんなことで鬼の首を取ったかのような口の利き方は人間失格だな。
>>969 易姓革命(血統の断絶より徳の断絶を重視)の影響を受けているのだと思うが。あと、清寧
については、40才前後で死んで、皇后、皇子なしというのは変だと思わんか。西浦白髪山
が清寧陵だとして、5世紀にしては小さいし。
混乱してきた。古墳か紀記かどっちかにしてくれ。・・・だめだこれではもん太を倒せん。
973 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:46:01
武烈の性格は雄略からの隔世遺伝です。これが定説ですw
卑弥呼の墓は塚、墳ではないはず。
箸墓古墳の作られた年代が、
幾ら遡ろうとも、
イヤ、遡れば遡る程、畿内邪馬台国説から、遠くなる。
塚を重視したのは安本美典氏の説だけど。
卑弥呼がどこにいて、誰(誰と特定可能か)であるかという事は、
古代史に於いてそれほど重要な事ではないのでは。
976 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:59:19
邪馬台国女王卑弥呼の墓ついに発見か!?
宮崎県 西都原(さいとばる) 第2古墳群にある
柄鏡式前方後円墳の西都原95号墳
全長79m、円部径42m、方部幅25m
「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」
近くに徇葬者100人埋められる原っぱもある
円部直径42mなので1歩30cmとして、140歩
年代も問題ない。
977 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 00:13:40
978 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 00:26:33
>>977 熊襲はないだろ、熊襲は。
近くにはコノハナノサクヤビメ、ニニギノミコト、オオヤマツミ・・・
らしい・・古墳もあるんだぞ。
時代は違うから、多分どれかがトヨの墓なんだと思うが。
979 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 00:30:03
第一、景行天皇が熊襲征伐の拠点としたのが
この、日向の西都原らしいぞよ
時代が下って、卑弥呼の墓になったでおかしくないだろ?
980 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 01:39:49
卑弥呼・台与の偽物イケナイ。西都原は熊襲の古墳!
981 :
ローガン:2009/01/14(水) 10:35:20
>>976 > 円部直径42mなので1歩30cmとして、140歩
1歩って30cm? 聞いた事が無い
982 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 11:46:22
24cm?
60cmなら全長79mだから130歩デース
983 :
ローガン:2009/01/14(水) 14:02:33
>>982 周、春秋、戦国、前漢(BC10〜BC1c) 1.35m
新、後漢 (1〜3c) 1.3824m
魏 (3c) 1.4472m
東晋 (4〜5c) 1.464m
隋 (6〜7c)1.7706m
唐 (9〜10c) 1.5555m
宋、元 (10〜14c) 1.536m
明 (14〜17c) 1.555m
清 (17〜20c) 1.6m
現代中国 (20c) 1.666m
以上、旺文社漢和辞典「中国度量衡変遷表」から引用した「一歩」。 30cmとか、24cmとか、60cmは何に基づいて出てきた数字でしょう?
984 :
ローガン:2009/01/14(水) 14:08:57
>>975 > 卑弥呼の墓は塚、墳ではないはず。
塚と墳はどう違うのですか?
寝てしまってすみませむ。もん太君の出現がないので名無しにもどりますた。出現したらコテハンで戦いまふ。
>>952 これはのは俺の考えではなくて、倍暦厨が喜ぶようにとわざと初心者っぽいことを書いて
みた。ほら、957とか面白い反応だろ。あと30年前っていうけど、二倍年暦自体明治13年
にウイリアム・ブラムセンが提唱した明治以降最も古い学説の一つだよ。このスレも終わり
そうだが、俺の考えはおいおい・・・。
>>962 日本書紀は異説併記をした、当時としては画期的な歴史書だったことは知ってる。天皇名
をリストアップし、その地の豪族らに聞き取り調査をして良心的に比定したのだと思う。
しかしだからといって、正しい記事もあれば間違いや作為的な記事もあると考えて臨む
のが、資料に対する正しい態度ではないかな。
>>964 俺は太田茶臼山と市野山は同じ下図を元に造築されたと思う。とすれば当時の葬令から
も、どちらも大王ー大王、皇子ー皇子という同じ身分のものの墓ではないかと。
まあ、実際の被葬者は発掘しないと(あるいは発掘しても)わからないし、あれこれ比定し
て楽しむのは、お金のかからない趣味だよね。
>>966 しかしこの「おおのくに」とかいう相撲取りはつまんない品性だね。他人が考えた説を必死
に覚えて、ネットで初心者に受け売りして自分を偉そうに見せようってのは、よっぽど実生
活では・・・(以下自粛)。
まあ、二倍年暦は面白い考え方なので、ぜひ絶対間違いないという万人が納得する証拠
を見つけてくれ。どっかの大学の歴史学部が迎え入れてくれるぞ。
986 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 16:15:28
二倍暦なら、畿内説の高城修三も唱えてるぞ。
二倍暦を肯定する人はみんな電波度が増すのはなぜだろう。(笑)
987 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/14(水) 17:14:11
>>972 いまでも40歳で独身はけっこういるだろうが。長い皇統の間に
そういうことは有って然りだろう。
988 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/14(水) 17:31:21
>>985 下表が倍暦の文証の一つだよ。オマエこれをどう説明するんだ?
これは当時の1ヶ月が14日(2週間)でやっていた時期があったと
いうことなのだ。
【欠史八代の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】
1日 4 15日 0 29日 0
2日 2 16日 0 30日 0
3日 3 17日 0
4日 3 18日 0
5日 6 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 3 23日 0
10日 1 24日 0
11日 4 25日 0
12日 3 26日 0
13日 3 27日 0
14日 7 28日 0
なんで ↑ は15日以後の右半分は全部0なのか? 考えろ。さらに
八代の天皇の崩御は全部月上旬(1日〜10日)の日なのだ。
989 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/14(水) 17:57:27
書紀は日にちで書かれていない、
日にちはどうやって出したか?
990 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/14(水) 18:01:59
書紀に書かれた朔や日々の干支から割り出したとすると、朔や日々の干支を
ある程度は認めることになる、では書紀の朔や日々の干支の数え方は?
991 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/14(水) 19:12:22
孝安天皇治世102年間 37267日 太国暦では3倍なので3で割ると
34年間 12422.33日
12422日として34で割ると1年平均365.35日
月齢29.5306で割ると420.65ヶ月
太陽暦でも太陰暦でもない。
此れでよろしいですか?
992 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/14(水) 19:24:26
孝霊天皇治世76年間 27759日
此処も3倍暦なので....。
993 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 19:46:04
>>988 おまえの言う2倍暦があったなら、
「冬7月」とか「1月夏」という記述があるはずだが、
どこに書いてあるんだ?
ははは。
>>988 >>988 やれやれ、俺はこれについてまともに考えたことがないが。知ってる限り相手してやろう。
しかしこの表はなんかの新書で見たことがあるぞ。「おおのくに」の中では相手がこう来たら
こう返すのようなマニュアルがあるようだな。他スレにも書いていたし。あくまでも人の受け
売りとは、つまらないことだ。
俺は実は6世紀の「暦博士の来朝」以前は2倍暦のようなものがあった可能性はあると思
っている。しかしこれは、中国暦のような天文学的計算によって導き出されたものではなく
あくまで素朴な月の観察によるもの。それもほんの一握りの専門職が行っていたと思う。
つまり朔の日を1日として、月の動きで3日とか7日とか決めていた。だから上で書いたよう
に、新月〜満月の15日間を一ヶ月とする1年24ヶ月説もあながちトンデモとはいえない、
少なくとも、もん太君は「おおのくに」よりは自分の頭で考えている。
考古学的には、2003年、持統3年(689)3月と4月の暦を表裏に書き写した木簡が見つ
かり、「元嘉暦」であった。日本書記編集者は古記録にむりやり儀鳳暦をあてはめて考え
た(元嘉暦と違うから)ために記事に混乱が生じているのかもしれない。
ここで重要なことは、上記2倍暦風の記録は、朝廷の専門職か神官などが行っていたもの
で、けして庶民には広がっていなかったことだ。5世紀以前に2倍暦があったことを確実
に示す日本出土の考古学的資料はない。そしてこれが2倍暦が学会の通説にならない
最大の理由だ。
邪馬台国時代に2倍暦はなかった。というより暦の概念がなかったのは、倭人伝に
>その俗正歳四節を知らず、ただ春耕秋収をはかり年紀となす と、あるとおり。
これをもって2倍暦の証拠とするものもいるようだが、漢文の素養が足りない。
俺は上レスにも書いたように邪馬台国では自分の年齢も知らないものが多かったと考える。
そのような人は21世紀の現在でもいる。
もし弥生遺跡から、マヤ暦のような結びひも、あるいは刻み目をいれた粘土板等が発掘
され、そこに2倍暦があれば考えを改める。
もん太君のように基地外と思われかねないのでもうやめるが、「おおのくに」のように、ちま
ちま書紀の干支などを調べるのは人生のムダと思う。もっとダイナミックに生きるよう忠告
する。
996 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/14(水) 22:19:09
>>993 四季は舎人親王の後付けだよ。唐松山さんに聞いてみろ。
ホツマに全部月日の前に四季がついてるのかを?
紀の原書群には四季のついた書とついてない書があったんだよ。
それが紀には殆ど毎回月日の前に四季がある。後付けだからだよ。
オマエの豆脳はそれが最初からあると思って読んでたわけだ。だから
オマエは騙されたということさ。wwwwwwwwwwwwww
だが彼らはだます紀はなかったろうにねぇ?wwwwwwwwww
それの例えば紀の開化の条は春日宮だというに12月なんかに即位
している。それに大日日尊などと日たる太陽を2個も増やした夏の
ような御名であるのに12月の師走に即位していて季節が合わない。
つまりオマエが騙され続けてまだ懲りてないわけだ。Pu!wwwww
997 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/14(水) 22:26:20
>>994 ならば紀のどこに21月とか22月とか23月とかの記事があるのか?w
観察ならば当時の天皇の超長寿の仁徳前に日食の記事が少なくとも
数個あるはずだ。がしかしそれが全くない。紀の最初の月食記事は
皇極2年=643年
だ。仁徳よりずっと後代で初見である。だから後代では観測記事は
あろうが、仁徳前とかでは朔望は逆算の記事で、観測ではないね。
月食は特殊な朔に相当するもでだから、観測ならばこういう特殊な
天体記事を紀に載せるはずだ。つまりオマエの盲象。wwwww
998 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/14(水) 22:31:07
>>995 マヤ暦に結縄文字数字とかがあったのか? 初耳だな。www
インカの間違いだろう? 沖縄の八重島諸島にはインカのような
結縄文字が昨今まであったそうな話だが。 竹富島とかいう。
こんなレスをスレの終わりのほうにして申し訳ないが、お前の家にカレンダーは何冊ある?
もし2倍年暦が庶民の間で(つまり日本で)日常的に使われていたものなら、なぜまったく
発掘されない??
俺は和算の歴史から見ても、4〜5世紀の日本で、天文計算による独自の暦があったとは
思わない。これは善行女王が卑弥呼でないのと同じように自明なことだ。
また、暦博士来朝以前に中国暦を採用していたとしたら、それは当然2倍年暦ではない。
もっと他人の意見を受け入れ、広い視野でものを見れば2倍年暦がまともに取り上げられない
理由はわかるだろう。
もん太君の出現がなく残念。次スレに期待しよう。
1000 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/14(水) 22:36:04
古代マヤの暦法は色とりどりだ。イニシャルシリーズ、セカンダリー
シリーズとかある。長期暦ではバクトン、カトウン、トウン等の単位
による素晴らしい暦法からツォルキン暦、ハアブ暦の農耕暦と占い暦
があり、ほかにも月齢暦、短期暦、819日変則暦とか、実にさまざま
だ。しかし結縄というのは聞いたことがないぞ。w
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。