日本書紀の年代を考える

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952太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 17:23:40
>>951
先述最後の式

 350−113=237

であるが、移項して

 350=237+113

これの右辺はそのまま 実年代 で

 237年 1/13 崇神天皇 即位

が得られる。崇神天皇即位は 237年=景初元年 だったのだ。Vサインだぜ。
953唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/08(木) 18:52:53
紀=書紀による編年(元年)
古事記、墓標(出雲干支)は伸長されることなく使われた。

西暦  天皇        治世  出雲干支
93年 孝昭天皇元年 26年 丙寅
93年 出雲歴のはじまり 丙寅
119年 孝安天皇元年 26年 紀
145年 孝安戊午年1月9日77 墓標 戊午
145年 孝霊天皇元年 19年 紀
163年 孝霊丙子年2月8日55 墓標 丙子
164年 孝元天皇元年 19年 紀
180年 孝元癸巳年9月3日46 墓標 癸巳
183年 開化天皇元年 5年 紀
188年 崇神天皇元年 28年 紀
190年 開化癸卯年4月9日40 墓標 癸卯
216年 垂仁天皇元年 23年 紀
225年 崇神戊寅年12月7日42 古事記、墓標 戊寅
239年 景行天皇元年 22年 紀
261年 成務天皇元年 4年 紀
265年 景行戊午年11月7日86 墓標 戊午
265年 仲哀天皇元年 9年 紀
274年 神功皇后元年 50年 紀
324年 応神天皇元年 43年 紀
361年 応神甲午年九月 古事記、墓標 甲午
367年 仁徳天皇元年 33年 紀
386年 仁徳己未年8月15日83 墓標 己未
394年 仁徳丁卯年八月 古事記  丁卯
399年 履中壬申年1月5日64 古事記、墓標  壬申
400年 履中天皇元年     6
954唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/08(木) 19:17:23
西暦  天皇        治世  出雲干支

404年 反正丁丑年七月崩 古事記 丁丑
405年 反正戊寅年7月5日59 墓標 戊寅
406年 反正天皇元年    6年 紀
412年 允恭天皇元年    42年 紀
420年 允恭癸巳年1月14日61 墓標 癸巳
451年 安康甲子 古事記    甲子
451年 清寧甲子年1月16日41 墓標 甲子
454年 安康天皇元年 3年 紀
455年 賢宗戊辰年9月25日 38 墓標 戊辰
456年 雄略己巳八月 古事記 己巳
457年 雄略天皇元年 23年 紀
465年 仁賢戊寅年8月8日52 戊寅
473年 武烈丙戌年12月8日18 丙戌
480年 清寧天皇 5年 紀
483年 安康丙申年8月9日41 墓標  丙申
485年 顕宗天皇元年 3年 紀
488年 仁賢天皇元年 11年 紀
499年 武烈天皇 8年 紀
506年 雄略己未年8月7日62 己未
507年 継体天皇 27年 紀
531年 継体辛亥年2月7日82 皇紀墓標 辛亥
534年 安閑天皇元年 紀
554年 継体丁未年四月 古事記  丁未
955太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 19:43:53
499年は顯宗天皇(乙祁)の時代だよ。梁書の永元元年(499年)の
記事でオマエのはデタラメだと分かる。武烈ではな〜い。ww
おまけに出雲暦なんぞ朝廷には関わりなさそうで、オマエ以外あまり
聞いたことがない産物だし、わけのわからぬいい加減なものらしい。
956唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/08(木) 19:52:19
>>919 >日数を重視して これを ↓ 否定、軽視してる
>つまり当時に1ヶ月はほぼ半月(14日間 の2週間位)だな。
数字は書紀の朔から割り出した数字なのに日々の干支を否定する。

>>923 >否定したと言った覚えはないぞ。こっちの言ってない勝手なことを糊塗するな。
日々の干支は、日にちの空白を否定する。なのに
>>911 >季節は後付けで何にでもなる。
書紀の太陰暦は、季節が書いて無くとも、季節を否定出来ない。
>>934 >神功初年の記事は数日も日食が続くわけもなく、日食だとの主張は 非科学的であり、
「数日も続く」は、太国さんの読み方。説明して貰いたいのはむしろ私の方です。
>>924 >金印の常根津日子の側面文字の名でさえ、こちらが合ってるのに
そうすると57年当時倭国では、漢字が使われていた、なのに暦は使われていない、と主張。
だから太国説は
>>946 >記紀を違背いた内容になるわけで、
>>924 >千葉の歴博グループのC鑑定でも、こちらは値が許容範囲内 なのに、
許容範囲とは?

モモソ媛の箸墓が250年頃の築造。
その箸墓に誰が祀られているか?と云う問題ね。
では崇神の墓はどれ?
957太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 20:05:37
大石凝真素美翁は天津金木を「天津神算木」として論を張ったが、
まことに金木の代替字としては適当であったと、このごろ感じている。

天津神算木(天津金木)は古神道の秘義であり、このスレ等で破蛇
のため断続的に書きこんできたが、これにより真暦が防衛できうる事
は実に喜ばしいことと想う。これこそ未来千年、末法万年の時代
となっても古代当時の真の年代がしっかりと天津神算木によって測ら
れ、盲象からの砦となりうるものだ。

>>953>>954
オマエ墓標は否定していたくせに、今度は肯定につかうとは如何に
いい加減でデタラメのメチャクチャ野郎だということが手にとるよう
に、ミエミエに分かる。pp
都合が悪いと墓標を否定し、必要になると肯定に使う。オマエは
日本史板古代史スレのブラック・リストに載せるべき人物だな。
958太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 20:22:23
>>956 オマエもっと行間を空けて書け。読みにくいったらありゃぁしない。

欠史八代の表をもう一度見てごらん。14日間しかないぜ。当時の1ヶ月が半月
だったことを物語っている。オマエはこれを否定してるから、金丹を飲んで
オマエの盲象解鎖をせねばならない。ww 当時空白日でも干支計算に入って
いたようだな。しかし天体は違うことになる。紀のは逆算だよ。測定ではない。

それで特殊朔の月食の記事が佛伝以前には全くなく新月の記事ばかりを記載して
いるわけだ。観測なら日食ももっと紀に載ってるはずだ。これだけでも神功初年
の記事が日食である可能性が非常に薄い。それに愛知県民氏もオマエの日食と
するのをおかしいと言っていたろう。数日間続くわけもなく、紀にその旨書かれ
てあるんだから、こちらのせいにしてゴマ化してもダメだぜ。ww

この前も船の築造の矛盾をこちらのせいにしている。いずれもこちらのせいに
するんじゃねぇ。

>季節を否定できない
その理由、説明が無〜い。こちらのせいと同様、いつものオマエの詭弁だ。ww
959太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 20:28:27
>>956
>漢字が使われていた、なのに暦は使われていない、と主張
全くもって意味不明。こっちにせいに鞍替えする〜オマエそろそろ脳内が
支離滅裂状態だな。ww

崇神の墓などと〜またまたモモソヒメから視点を鞍替えしている。ww
崇神の墓も重要だが、これから編年などこれだけでは出来っこない。名が崇神の
墓だからって、名にかこつけて鞍替えしてくらますんじゃぁねぇよ。
960唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/08(木) 21:12:37
>14日間しかないぜ。当時の1ヶ月が半月だったことを物語っている。

日々の干支は1月が29〜30日であると主張している。
朔とは新月の事であり、暦を知らない人々でも数えられる。

太国倍年は、この無知な人々も騙せない。
961唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/08(木) 21:40:44
大石凝真素美が山本家に十年間寄宿し、 懺悔法で精神病の治療にあたったとされている。

太国さんは、患者だったのね。
962太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 22:01:11
>>960
騙してるのオマエのほうだよ。ないじゃないか、あの表にはね。
一ヶ月が14日間(2週間)ですよということなんだよ。
干支なんか空白日でもつけていけば、一ヶ月が2週間だということに
矛盾はないね。オマエはこの2週間しかないことを今の今まで無視
して来たから、失敗したんだよ。

三輪は古代史編年ボクシングのチャンピオン・ベルトも同然だな。
大石凝翁が精神病でも、こちらが精神病とはならないね。そんなこと
を言うオマエは脳内を精神科へ行って診てもらったほうがいい。pp

これを見てみい。金丹の薬丸

 V=113.097335

ここの数字の・・・130・・・は、逆読み・・・790・・・は

 皇紀790年=西紀130年(みかけ) 景行天皇 崩御

で【即位年】ではない。これはオマエの負けを意味するのだ。ww
963唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/08(木) 22:51:45
>干支なんか空白日でもつけていけば、一ヶ月が2週間だということに矛盾はないね。
>否定したと言った覚えはないぞ。こっちの言ってない勝手なことを糊塗するな。

だから日々の干支を否定するんでしょ。
日々の干支は否定するが、朔(日々の干支で出来て居る)から割り出した数字は、肯定する。

これを2枚舌と云う。
金丹の薬丸 って、「赤玉」であり「身の上に心配ある身」である、依って
大石凝真素美が山本家に十年間寄宿し、 懺悔法で精神病の治療にあたったとされている。
ここの患者様が太国さん。

すべて合っているでしょ。



964太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 23:00:44
オマエは年の後半があまり無いからマシだとか言う。ww
なら八代の表の日数の月後半がないのは、マシではなくムシ(無視)
か〜?ppp wwwww

オマエは大石凝を詳しく知っているから、小笠原孝次も赤玉とかで
知ってるようだな。ww まぁそれはいいとして、オマエはホツマ
の飲み過ぎで、取り返しのつかない副作用にやられたのだよ。

オマエはもう景行を強行に固定したから、もう天津神算木の算木の
数結果から、その編年はデタラメとの結果が決まったのだ。それが
先述の景行崩御があって同即位がないことで、これが分かるのだ。w
965太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 23:09:42
だいたい美濃もん太氏も言ってたが、オマエの19年という暦本に解説
があるその計算を使っても、2000年ばかり前では年代だけ観て行って
たのと相違しても、せいぜい現今の年代感で数年の誤差だろうに〜
なぜそんな要領の悪い面倒な計算を強いる必要があるのか? 奴も
疑問だと言ってたが、そのとおりだろうが? 年代の和でやって行っ
たほうが計算がたやすく、誤差もオマエのやり方と数年くらい
だから、そんな面倒な細かいオマエの計算をしなくたって、日数計算
の和をとらなくたって、年の和の計算で間に合うはずだろというのが
美濃もん太氏の苦情なわけだよ。要するにメリットが殆どないのが、
オマエの要領のわるい計算方法固執なわけだな。

本当にオマエのやり方は得策ではないと思うんだぜ。www
966太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 23:30:07
オマエははぐらかしに専念しており、日食が数日続くことを平気で
強行しており、そのはぐらかしとしてこちらが数日続くことを説明
するように誘導して、オマエの非科学的日食数日継続論の不合理を
希釈隠匿するよう行動している。ww

日食が数日続く不合理をとぼけてカモフラージュして改めないの
なら、明日にでも精神科へ行ってオマエの脳内を診てもらえ。
オマエ、以前にラトレッジ精神病院へでも通ってたんか?ww
967太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/10(土) 10:55:53
唐松山は研究の当初から、というより当初以前から、景行世が絶対だとの盲象
の確信を抱いていたんだろう。確信と言うより強信と言ったほうがズバリだろう。

そして強信が狂信へと暴走することとなる。じゃぁなぜ初っ端よりももっと以前、
景行絶対を地球よりも重く強信していたのかと考えれば、これはホツマの読みすぎ
でその当人が自覚しない強力な副作用即ホツマ・カルトの大間違い教義の確信が
唐松山の脳内にまるでサナダ虫の体内寄生のようにあるいはエイリアンの同化の
如く根付いてしまったということなのだ。そしてそれがもう治癒出来ないホツマ
・エイリアン脳の誕生となったのである。

これがゴリ押し編年の後代から先代へのどうなるかからの紀年確定でなく、まず
先に絶対景行の年代固定ありきでそれから上下の年代を決めこんで行き、これを
強引にこうだと言い張るから、一見正規の論述に見せかけてるだけて、その実体
はカルトの隠れ布教そのものだということなのだ。
968太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/10(土) 11:29:17
そしてこうだと奴が言い張っても、それが間違いだからおやおやっw
ところどころに各々合わない個所が見え隠れするから、客観的にそこ
を閲覧、調べれば、な〜んだこれはおかしいぞと、カルトにやられて
ない通常の正規な判断が出来る脳ならば、その不合理な点を軽く
見破ることができ、妄想を吸収しないで棄却することが出来る。

ところがカルト・ホツマにいったん濃く染まってしまうとこういう
多々の不合理を平気で無視し突っ走り、ご本尊の景行絶対を最後まで
擁護しこれを改めようとはしない。だから平気で日食が数日間続く
わけもないのにこうだと言い張るのを毎回主張し続けるわけである。

このように超強固なカルト・ホツマに洗脳されてしまうと、その
副作用は正当な資料、根拠を多数出してそうではない真っ当な論説を
結果を掲げ示してみても、全部が全部うっちゃって当人の説を何らか
の言い訳を即興で繕って平然とおかしなカルト説を強行固持
するのだ。だから正当な証拠が出てもまだまだそういう(カルト・
ホツマからの)自説をぜったいに曲げないだろう。これを唐松山に
奴の自説がおかしいと微々でも気付かせるには、そういう考古学
の出自とか記紀等正規の古文書からのブツでは不可能に近く、天津
金木、天津菅曾からの丸薬金丹を飲ませるしかまず他に方法はない。

しかも即効性などこれでも他でもあるわけがなく、極めて遅効性で
あるが、毎回この丸薬にたよる他、唐松山の盲象脳を治療する手立て
は全くに近くないであろう。ww
969ユッキー:2009/10/10(土) 16:19:24
とりあえずです。太国先生も欲しいですね。

天皇‥サガミハラ先生‥│‥‥唐松山先生‥│‥‥ユッキー‥‥|‥‥墓標暦‥‥‥│‥太国先生
‥‥‥即位‥没年‥治世|即位‥没年‥治世|元年‥没年‥治世|没翌‥没年‥治世│元年
神武‥131・‥150‥‥21・│041・‥063‥‥23・│-59・‥-22‥‥38・│---・‥-45‥‥‥・│
綏靖‥150・‥158‥‥09・│063・‥076‥‥14・│-21・‥-05‥‥17・│-44・‥-09‥‥36・│
安寧‥158・‥168‥‥11・│077・‥088‥‥12・│-04・‥015‥‥19・│-08・‥030‥‥38・│
懿徳‥168・‥176‥‥09・│089・‥092‥‥04・│016・‥032‥‥17・│031・‥064‥‥34・│
考昭‥176・‥197‥‥22・│093・‥118‥‥26・│033・‥074‥‥42・│065・‥088‥‥24・│
考安‥197・‥222‥‥26・│119・‥144‥‥26・│075・‥125‥‥51・│089・‥118‥‥30・│
考霊‥223・‥241‥‥19・│145・‥163‥‥19・│126・‥163‥‥38・│119・‥136‥‥18・│177
考元‥242・‥256‥‥15・│164・‥182‥‥19・│164・‥192‥‥29・│137・‥153‥‥17・│
開化‥256・‥271‥‥15・│183・‥187‥‥05・│193・‥222‥‥30・│154・‥163‥‥10・│
崇神‥271・‥288‥‥18・│188・‥215‥‥28・│223・‥256‥‥34・│164・‥198‥‥35・│237
垂仁‥288・‥314‥‥27・│216・‥238‥‥21・│257・‥306‥‥50・│199・‥250‥‥52・│
景行‥315・‥344‥‥30・│239・‥260‥‥22・│307・‥336‥‥30・│251・‥298‥‥48・│
成務‥345・‥351‥‥07・│261・‥264‥‥04・│337・‥343‥‥07・│299・‥310‥‥12・│
仲哀‥352・‥355‥‥04・│265・‥273‥‥09・│344・‥348‥‥05・│311・‥319‥‥09・│
神功‥356・‥390‥‥35・|274・‥324‥‥51・|349・‥383‥‥35・│320・‥389‥‥70・│
応神‥391・‥411‥‥21・│324・‥367‥‥44・│384・‥404‥‥21・│390・‥394‥‥05・│376
仁徳‥412・‥432‥‥21・│367・‥400‥‥34・│406・‥439‥‥34・│395・‥419‥‥25・│391
970ユッキー:2009/10/10(土) 19:23:45
定点に成り得るか?

武寧王の没年
百済本紀に武寧王の没年は、癸卯(523)年5月とあり、武寧王墓誌銘にも同様である。
継体一七年にもその記述があるから、定点である、というのがある。再編年の結果、
仮に継体四年が癸卯(523)になったとしよう。そうすると、この記事を新継体四年癸卯(523)年に
引越しすればいいわけである。単純な差込み記事のように思えるので、どんな編年に
なろうとも、癸卯(523)のところへ差し込めばいいように思う。

ということは、書紀の継体十七年=西暦523年と決めつけることができない。
と思うのですが、いかがでしょうか。
971唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/10(土) 19:32:07
>確かに 応神 時代おこるはずだが..
>倭の軍事力が膨脹した時期..

364新羅 倭兵が大挙して侵入
『日本書紀』巻十一仁徳天皇五三年(乙丑三六五)◆五十三年。新羅不朝貢。
夏五月。遣上毛野君祖竹葉瀬。令問其闕貢。田道連精騎撃其左。新羅軍潰之。
『日本書紀』巻十一仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月◆冬十月。呉國。高麗國並朝貢。

1年の狂いは有るが、この時代です。これを正しいとして。

『日本書紀』巻九神功皇后摂政元年(辛巳二〇一)二月◆爰伐新羅之明年。
適是時也。晝暗如夜。已經多日。則日暉炳。日夜有別。
この日食は、273年。翌年を神功元年(274年)として計算すると
『日本書紀』巻九神功皇后摂政五十二年(壬申二五一)九月丙子《十》
(325年))五十二年秋九月丁卯朔丙子。久■等從千熊長彦詣之。則獻七枝刀一口。七子鏡一面。
泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■は
326年 5月辛卯朔、東晉明帝太寧4年5月16日丙午。

>単純な差込み記事のように思えるので、
この場合百済本記にも記事が有れば思考の範囲内と成るでしょうが
百済本記に無い記事は、倭国の記録。
972太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/10(土) 19:50:25
X線検査でノギヘンが出たんじゃぁ、「寧」にはならない。つまり
デタラメだ。また非科学的な日食が数日間も起こるわけもないから、
精神異常者とかムー誌的空想ロマンだとかカルト脳内等の人間以外
は、みなこれもデタラメだと分かる。ww
973太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/10(土) 21:45:10
>>970
まぁ決めつけは早計かも知れないです?

ただ1998年に古田先生が武寧王陵へ行き碑面の確認をしたところ、
干支は「癸卯」とあるところ、翌年の「甲辰」との改刻痕を見つけ
てますので、事は複雑なんです。ここは慎重にならざるを得ないの
で、今後研究が進展すれば別ですが、今のところ明快にこうだとの
結論は避けざるを得ません。

そこでここはいじくらず、保留として他を優先したほうがいいと思い
ます。貴方にしっかりとした見解があれば、それがしから貴方に聞く
こともあろうかと存じます。なおアマチュアですから、先生の語は
不要です。
974ユッキー:2009/10/11(日) 09:19:21
定点に成り得るか?

武寧王没年
寧東大將軍 百濟斯麻王 年六十二歳 癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩 
到乙巳年八月癸酉朔十二日甲申 安[广+昔]登冠大墓 立志如左

癸卯年(523) 五月 丙戌朔 七日 壬辰 (523/06/07)
甲辰年(524) 五月 庚戌朔 七日 丙辰 (524/06/25)

で、年干支を甲辰に変えれば、当然日干支も変わります。
仮に何らかの事情で、実体が甲辰年が正解と判明し、碑面だけ取敢えず修正した場合、
日本書紀も甲辰年のところへ差込めばいいだけと思うのですが。
はっきりしてなければ、新編年では癸卯年に挿入し、分注として、一本曰く甲辰・・・とすれば。

いずれにしても、定点としては弱いと思います。
975ユッキー:2009/10/11(日) 10:04:19
定点に成り得るか?

神功初年=日食=273/05/04
確かに273/05/04(癸巳年四月朔戊辰)に皆既日食がありました。中心線は
半島中央を西北西→東南東→能登半島→茨城県北部→太平洋へ抜けます。
皆既の下限線は越前海岸→千葉県北部を通ります。
和歌山では15:51→17:55で、最大食分は0.94(16:56)です。

しかし、近くでは277/02/20(丁酉年二月朔丙子)にも金環日食があります。
半島では南西→北東へ抜けます。和歌山では14:25→17:03で、最大食分0.69(15:49)です。

もっと離れれば、いくつか出てくると思います。
なぜ、273年でしょうか。

書紀の記述は、はたして日食でしょうか。皆既日食で夜のように暗くなるのは数分間です。
皆既帯から外れている和歌山では薄暗くはなりますが、真っ暗にはなりません。
常夜行之也というからには日食ではなく、一天俄に掻き曇り、、、こんな気象状態が
何日か続いた(あるいは断続的に)のではないでしょうか。単なる日食であれば、
天皇がいぶかって周囲に質問するでしょうか。

定点率を上げるには、もう少し納得したいです。
976太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 10:13:31
523年(癸卯)も524年(甲辰)も倍暦逆算では双方529年の同年ですから、碑文
の干支の改刻はそのへんの倍暦存在の事情を語っているのやもしれません?
今後の研究に依ることとなります。また嶋王は日本生まれですから、半島でも
倍暦の短期間の行使、跡形があってもおかしくはないと思います。

唐松山のはカルト・ホツマの布教論ですから、非科学的なことも平気で強行
する滅茶苦茶のあきれた男です。有害至極ですから信じてはいけません。
977唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/11(日) 19:44:41
>一天俄に掻き曇り、、、こんな気象状態が何日か続いた(あるいは断続的に)のではないでしょうか。

則「日暉炳」日のカゲがきらめく。黒い太陽。

>非科学的なことも平気で強行する
「3倍年」は非科学的です。
978太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 19:48:49
古代マヤでも1.4倍暦のツォルキン暦(1年=260日)を行使して
いたので倍暦は非科学的ではない。これはオマエの非科学的の語の
恣意的糊塗であり、オマエには何ら根拠が無い。
979太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 20:03:06
>>953 >>954
この暦年表もデタラメであり、梁書から乙祁(袁祁=顯宗天皇)が永元元年
(=499年)頃に位置するのに、顯宗没後の武烈即位年に当てているからもう
デタラメだと分かる。

それに仁徳3年(=393年)が先述のとおり先代旧事本紀大成経の應神四年が
干支の倍数の120年の移動が三国史記の120年移動同様確定するのに〜つまり
超新星爆発が393年の仁徳3年なのに、これに外れて仁徳3年を369年に当てて
おり、これからもデタラメだと軽く見破れる。

即ちこの表は何の具体的説明もなく造ったいい加減のマユツバ物であり、いい
加減なデタラメ編年なのである。
980唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/11(日) 21:40:45
>>979

日本書紀』巻五崇神天皇元年正月甲午。《十三》◆元年春正月壬午朔甲午皇太子即天皇位。

日本書紀は、↑の様にその月の朔とその日の干支で書かれている。←是を認めないから非科学的と云ったんですよ。
即位の日にちは13日に成る。←3倍すると365日で収まらない。←是を認めないから非科学的と云ったんですよ。

だから3倍年は、いい加減なデタラメ編年なのである。
981太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 22:03:58
そんなものはおかしくあるまいが。空白日にも干支をつけてたん
だよ。どうってことはない。日々の干支を否定なんかしておる
まいが。w

それで欠史八代なんか14日になっててそこが七つも統計表で出て
いて、いかに当時14日を重視してたかわかるだろう。こんなことは
前々にもう説明してるよ。

またそんなに朔があって、なんで特殊朔たる月食が一個も佛伝前に
ないのか? 当たり前だ、観測の干支でないからだ。それは逆算
だよ。そして古代、空白日も干支をつけて成っていたということ
だな。かように特殊朔たる月食が記載がないんだから、1個ポツンと
日食の記事があるのはこれこそ不自然だ。だからこれだけでも神功
初年とかのは日食でない可能性が高いし、それが数日間も起こり
っぱなしのわけが非科学的で起こるわけもなかろう。

当時1ヶ月が14日間(2週間)しかなかったのだよ。それでも空白日
にはそのまま干支をつけてたわけさ。このことは当時倍暦のほかに
通常暦も並行してやってたんだから、そういうやり方をしたん
だろう。空白日に干支があれば、通常暦同様干支が替わる。統計表
があの場合は14日までしかないんだから、もう間違いない。月後半
は干支があって空白、無の日だよ。
982太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 22:10:36
当然朔も後付けだな。だからこれは原書群を見られないから何とも
だが、春夏秋冬の季語も後付けだから、即朔が新月だったかどうか、
これは用心したほうがいい。まぁオマエは単純だからすぐ信じて
そのままが正解だと飛びつくだろうな?ww
983ユッキー:2009/10/11(日) 22:11:17
>則「日暉炳」日のカゲがきらめく。黒い太陽。

日の光が輝いて。何日か続いた薄暗くなるような曇り空が晴れ、ようやく
元通り昼夜がはっきりしてきた。

天の岩戸を日食というノリでいうなら、ここも日食といえるかも知れないが、
現実味の増してきたこの辺りでは、少し苦しいと思います。
984太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 22:16:31
紀には蟻の大群のように朔があるんだから、通常の原書総てが例の
春夏秋冬の語の多用と同様であり、どうやら後付けの可能性が高い。
朔のあまりない原書群があってもおかしくはないだろう。紀の編纂
当時朔の起きる日数値は精密計算で分かっていたんだろうが、
逆算でこの日だこの日だとつけて行ったんでないの?

事実はそのへんだよ。
985唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/11(日) 22:18:34
>空白日にも干支をつけてたんだよ。

↑これでは、季節が合わないと云うと。

>季節は、後付けでどうにでも成る。

以前季節を無視して崇神紀を読みましたが、春に五穀豊穣となり、季節を無視できませんでした。
その他の記事も季節を無視出来ませんでした。
「季節を無視」した読み方が解らない。
太国さんも季節を無視した編年を発表していない。
季節を無視した3倍年の崇神紀を発表出来ますか?出来ないでしょう。

それが3倍年の無い証拠です。
986太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 22:20:13
>>984 訂正

× 通常の原書総てが
○ 紀の神武以後の殆どの記事の
987太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 22:31:35
>>985
そういうことは一個一個ぼかさず具体的に言え。オマエはいつも
具体性に行かない前で打ち切るからな。こんな批判は抽象的で具体的
にはどうなのかがないんだから、説明しろというほうが無理強い
だろうが。

だいたい開化天皇がなんで11月即位なのに春日宮の名をつけるのか?
あと一ヵ月半で正月がくるだろうにね? 通常暦ではおかしいでは
ないか? これに対応するごとく、孝安天皇は1月即位で秋津島宮の
季節外れの宮名だ。これでさえも通常暦では不審でならない。

それのオマエは毎回突いているが、例の表の14日までしかない事由を
今の今までオマエの通常暦で合理的説明をしたことはない。だいたい
オマエはどうなってるんだろうという考えが無で、当初からまず景行
の年代を根拠もなく強固に決めて編年をやっただろう? 先に景行
ありきでは、カルト・ホツマ以外の何物でもない。つまり正規な論説
を仮面としたカルトの顔だ。
988太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 22:58:32
>>985は抽象的に不合理だと言ってるだけで、具体的にどこがどの
ように季節が合わないとかの説明がない。今の今まででさえ雨の多い
月に池を造らんとか8月とか暑いときには乞食はいないような主張を
してたくらいで、他に具体的に五穀がどうのこうのなんぞ、こちら
に問いしたことは一度もないぞ?

そんなことで3倍暦否定の証拠だとはちゃんちゃらおかしい。ppp

もう一度八代の天皇全員の没日を見てみろ。全部が全部月上旬に8人
とも死亡だ。こんなことは滅多に起こりえない。中旬とか下旬に
2〜3人は死んでてもおかしくはない。然るに全員月上旬死亡を
何と返答するんだい? これこそ季節がどうのよりずっと不審だろ
うが? これは当時一ヵ月が10日しかない時代があったということ
だよ。なるとこれは3倍暦を行っていたんだとなる。オマエの証拠と
やらもこれでガッチリ無能化される。つまりオマエの証拠とやらの
証明力が大きく減殺されたのだ。
989唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/11(日) 23:19:48
日本書紀の記事を太国3倍年で書き換えることは出来ない。

だから3倍年は、あり得ない。

それとも書き換えてみます?

>これは当時一ヵ月が10日しかない時代があったということだよ。
書紀を勝手に編纂すればの話ですよね?
朔=新月ですよ。
990太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 23:20:20
切羽詰りゃぁ夏だって飯を食えなくなる奴は古今東西いくらでも
いる。当時8月あたりは喰いっぱぐりは無いなどとのオマエの楽観論
での説得力は全くない。オマエがこれを主張したのは本夏だが、
喰うに困った奴がうんと愛知県の役場に集まったことはTVでも報道
していたから、この現証を見てもオマエのいい分はデタラメだ。

切羽つまれば、雨が多かろうが造るときは造る場合があるし、逆に
宙に浮き造らんときもあるはずだ。今日もTVでダム建設保留になって
いる所は十個二十個などうんとあると言ってたんだから、こんな工事
でのハプニングなどいくら起こりうるぜ。だからこれもオマエの
言い分は主観的であり、何ら客観性もないデタラメ推定だという
ことだ。ww
991ユッキー:2009/10/11(日) 23:21:44
定点に成り得るか?

神功元年=日食=273/05/04

神功元年の紀州行は 辛巳年 二月朔ではない(中旬〜下旬?)
273/05/04の日食は 癸巳年 四月朔 戊辰
277/02/20の日食は 丁酉年 二月朔 丙子

273年からの計算による七支刀が326年5月辛卯朔、東晉明帝太寧4年5月16日丙午。
太寧4年は1月まで、2月に咸和元年2月に改元。太寧4年5月はない。
七支刀の画像をみると、元号2文字目の左側(偏の部分)に長い縦棒が1本見える。
「寧」ではない。

従って定点というのはどうも。
992日本@名無史さん:2009/10/11(日) 23:30:59
神功皇后摂政元年の日食は、西暦201年となるが、この年和歌山県御坊市小竹において日食がありました。
993太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 23:35:23
勝手に書き換えてはいないぞ。日の干支の否定もオマエの糊塗では
ないか?w さっきも前にも言ったろうが。空白日も干支をつけて
たんだから日の干支の否定にはならない。だから天皇八代の死亡日
はそのまま考えてよい。天体は空白日は飛び越えるよ。だから朔と
いう天体現象は用心しなければならない。

どうして上旬に死亡日が集中したのか、その理由を言ってみい。
言ったことは今の今までイの一度だって明快具体的な答えをオマエ
から聞いたことがない。これは当時3倍年を行使してたのだ。

日でガタガタ言うなら月で行くか〜。神武もそうだろう。神武即位
から崩御までの記事をみても、1月〜4月までしかない。これは
八代の倍暦と異なった1年が当時は4ヶ月でやっていたからだ。
つまり3倍年で、6月とか11月なんては神武即位から没まで無いん
だよ、当時は1年が4ヶ月だったのさ。日以外、月でも3倍年が成立
てると言える。それが神武没以降は即通常暦に神沼河耳尊は不便の
ためだろうが、戻している。だから神武葬は1月〜4月の間でない
9月に行っている。元に戻したのだ。

君の3倍年否定の証拠とやらは、こういう文証で抹殺される。

zzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・
994唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/11(日) 23:40:32
>>651 より
180+185=365日であるから、180日乃至185日は1年が半年の意味

この数字で崇神3倍年は説明出来ない。

>全部が全部月上旬に8人とも死亡だ。こんなことは滅多に起こりえない。

滅多に起こりえないが否定出来ない。
ホツマでは死亡日の変更もありますよ。

995唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/11(日) 23:44:47
まあ 朔を否定しない太国さんなら、10日で月が満ち欠けをした。
これこそ非科学的思考の絶頂でしょ。
996太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 23:52:33
>>994
寝ようと思ったが、もうすぐ終わるから? 再びおきてやったぞ。

オマエのほうこそ寝言だろうが。ww
余の説では2倍暦があるんだから、おかしくはない。オマエ忘れ
たのか? 随分年を食ったな?ww

ホツマなんか作者は単独だろうが? 紀は多数の原書群からのバック
支持がある。アマテラスを男だとか言ってる盲象文献を紀と同様に
扱うオマエが要領がわるい。それに朝廷と一般では暦法が違うよう
だし、そんな暦法を直接朝廷の暦と同格に置くこと自体がオマエの
失敗だと言える。ただホツマが全部悪いという意味ではない。

それに金丹は

 V=113 .0973 350

350−113=237 → 350=237+113 237年1/13 崇神天皇 即位

はダメオシで、これでVサインだ。w オマエの負けだよ。泣け!
こんどこそ寝るぞ。zzzzzzzzzzzz・・・・・
997ユッキー:2009/10/12(月) 09:43:32
和歌山の日食
201/03/22=辛巳年閏一月の後の二月朔 丁卯

この日食は皆既日食で中心線はニューギニア→ハワイ日本の中間よりハワイ寄り→
カナダ西海岸を通ります。
和歌山では 07:13→08:33 で、最大食分 0.21(07:52) です。
和歌山を通るというより、日本列島どこからでも最大食分0.2前後の日食が見られます。
998唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/12(月) 10:11:44
>>997
現実に皆既日食又はそれに近い「食」を見なければ意味がない。
先日の「日食」時私は東京にいたので、曇り空が薄暗くなっただけ。
999太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/12(月) 10:47:55
8人どころじゃぁないぞ。崇神以降もほとんど死亡は月前半だ。神功は女で皇后
で天皇でないから死亡日が通常暦で、天皇の死亡日とは暦を替えてたんだろう。
仁徳以前が仁徳を除いて全部月前半だ。こんなに神武から死亡日がずっと月前半
が何らかの事情がなけりゃぁ起こるわけがない。八代が全員上旬死亡を軽く
起こりうるような口を叩くな。毎回毎回8回もサイの目が丁ばかり連続で起こ
るなんて、不可能事ではないが滅多やたらと起こるわけがないぞ。これを無視
すれば当時の暦の論は奈落行きだぜ。

仁徳から不思議と超長寿の天皇がなくなって来るんだから、やはりそれまでの
全員月前半死亡の天皇が続くというのは、2倍暦の行使があったとする傍証と
なる。自殺他殺以外死亡日は自然現象で決められないからな。
1000唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/12(月) 10:56:38
>これを無視すれば当時の暦の論は奈落行きだぜ。

太国さんは、ついに「暦」を掲示できなかった。
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