数年だけ存在した幻の名門大藩、府中藩、静岡藩について語るスレです。
2 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 13:06:04
70万石になったとき
幕臣 旗本はほとんど静岡に移ったの?
3 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 14:21:10
付いてきた家臣6500家、家族を合わせると30000人。
米沢藩よりはマシじゃない?
4 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 14:39:29
生産的活動に携わらない、消費するだけの連中が大挙して押し寄せてきたんだから、先住民は大迷惑だっただろうな。
5 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 18:56:07
70万石大杉るんじゃねぇ
八丈島辺りが妥当
6 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 19:11:49
静岡県清水市
田安徳川家
徳川家第16代当主 徳川家達 茶畑で生計したらしい。
7 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 19:13:43
徳川宗家の移転で房総半島に追い出された駿遠両国の譜代諸藩はいい迷惑だったな。
それとも零落した主家のためなら、それくらいの労はいとわなかったのだろうか?
しかし、こんな手間のかかる大移動を徳川宗家と東海地方の諸藩に強いるくらいなら、
房総半島の旧幕領・旗本領をそのまま徳川宗家に与えればよかったのに。
8 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 22:41:13
100万石は欲しかった
9 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 23:30:28
幕末維新当時の国別石高
駿河 25万石
遠江 37万石
三河 47万石
駿遠両国の合計が62万石で、静岡藩領の総石高70万石の差額が8万石。
この8万石分が三河国内の旧幕領から与えられたのだろう。
10 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 23:36:15
しかし、どうせなら中途半端なことをせず、三河一国も丸々やればよかったし、
ついでに伊豆一国(8万石)もくれてやればよかったのに。
そうすれば、駿遠三の総計109万石+伊豆8万石で117万石になったのに。
11 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 23:56:36
島津より低い禄高にしたかっただけだろう
12 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 01:23:44
納地に素直に従っておけば「たった200万石」減らされるだけで済んだ。
「お泊りさん」
14 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 01:53:59
徳川を実質改易出来たお陰で廃藩置県上手くいったんじゃないかな?
200万石の大大名+旗本領300万石あったら前田や島津はともかく廃藩置県出来なくて士族も残ったんじゃないの?
15 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 07:44:55
明治国家がお手本にしたドイツ帝国自体がプロイセン以下20いくつかの諸公国の連邦なので、
それでもよかったと思う。
>>7 先祖がまさにこの地域の藩士だったんだが、
藩士次男の新規召し抱えで禄が少ないから千葉へ行かずに町人になった人や、
千葉で体調を崩して亡くなった人、
小作に耕作させるための農地を買った直後に廃藩置県になったりとみんな苦労したみたい。
うちの先祖は半分が静岡に帰って残りは千葉に残るか東京へ行ったんだが、
旧領に帰った人は役人になれず民間人で貧民へ転落、千葉や東京で役人になれた人は子孫の多くが空襲であぼーん
旧領は徳川が入封してから強姦と窃盗が多発して治安が悪化したそうだしやるせなす(´・ω・`)
維新時は官軍方と戦わずに速やかに従い、駿府開城に尽力してるだけにこの仕置きは酷い
17 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 17:43:28
>>9 天領を合算したか?
あと、名目と実高ってのがありましてw
18 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 19:47:27
駿河 小島藩1万石
田中藩4万石
沼津藩5万石
遠江 相良藩1万石
掛川藩5万石
横須賀藩3万5千石
浜松藩6万石
三河 吉田藩7万石
田原藩1万2千石
西大平藩1万石
岡崎藩5万石
西尾藩6万石
挙母藩2万石
刈谷藩2万3千石
西端藩1万石
19 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 19:54:38
戊申で会津を見殺しにした弱虫徳川
20 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 19:55:36
家康以外ふぬけの徳川
>>20 鎖国に関しては同意。
でも内政については?
22 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 20:57:06
>>19 むしろ駿河徳川藩自ら、旗本八万騎を率いて会津藩や榎本脱走軍を討伐すればよかったのだ。
そうすれば朝敵の汚名を返上した上、新政府での発言力も獲得できたのに。
23 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 22:10:30
いつから徳川の故郷駿府になったんだ?
やっぱ東照大権現が駿府気に入ってたからか?
岡崎とか安城とか浜松じゃなくて静岡だし
24 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 22:44:46
>>15旗本にそんなにあり得ないですよ。旗本の大多数は領地は名目で幕府が蔵米を支給。それが約30〜40万万石。
25 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 22:46:27
26 :
日本@名無史さん:2008/12/11(木) 00:11:20
>>22 そんな余力や統率力があるなら鳥羽伏見で勝利してたことだろう
>旗本八万騎
って「八百八町」「八百八橋」などのたとえ同様に、
単なる聞こえの数合わせだと了承しているのだが
史板でそう書かれると、マジで書いているのか、冗談なのか
判断に迷う。
28 :
日本@名無史さん:2008/12/11(木) 00:50:22
「うそ八百」の八の字だろう
29 :
日本@名無史さん:2008/12/11(木) 01:40:36
府中藩−−静岡藩−−静岡県
朝敵藩は県名として残さずか
30 :
日本@名無史さん:2008/12/11(木) 01:49:49
府中っていうのは国府のあるところの意味
大分も東京も国府所在地は府中
駿府は駿河の府中のあるところ。
府中が不忠に繋がるという事で改名
>>22 忠義の士を率先して殺したら余計に見下される。
駿河移封の時点で積み。
32 :
日本@名無史さん:2008/12/11(木) 20:59:51
33 :
日本@名無史さん:2008/12/11(木) 21:18:16
>>32 水戸の昭武あたりに宗家名代を頼むか、後見人の松平確堂か田安慶頼に任せればいい。
実際の指揮は海軍の元締めの勝先生や沼津兵学校の教授陣がいる。
34 :
日本@名無史さん:2008/12/11(木) 22:25:07
徳川家は武蔵江戸城主で100万石になるべきだった。
武蔵一国で128万石。そこから大名領や朝臣となり本領安堵された旗本の領地を除けば、
100万石くらいはあったはず。
35 :
日本@名無史さん:2008/12/11(木) 22:47:15
100万も残んねーよ
36 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 00:05:49
豊臣だって摂津河内和泉の65万石
前天下人の家にはだいたいこれくらいくれてやるのが
新規体制の日本での礼儀か?
欧州や中国だったら九族皆殺しだろうから
日本人は優しいものだ
37 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 00:34:39
豊臣は削封された訳では無いだろう。
関ヶ原は無関係という事で諸大名蔵入地だけ没収され、直轄地は残った。
38 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 12:38:14
>>37 預け地が没収されたみたいだけど東軍大名に預けた土地も没収ってあり得ないよなw
福島や加藤も検地や蔵入地は嫌がってたからね。
それに東軍の豊臣系大名は加増の上転封になってるだろ。
旧領の蔵入地がどうなったかなんてあまり気にしなかったろうし、新領は
蔵入地が無いんでほっとしたぐらいだろうよ。
40 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 13:17:14
自力でとったのが大半蔵入地にされて
東軍についたのに転封で直轄地だけになった秋田とかは泣いただろうね
41 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 15:42:09
別なスレでやれと言いたいが、このスレタイで1000は無理だろう!
42 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 15:45:59
>>36 そうとは限らないよ。漢の劉氏は山陽公として魏からも晋からも尊重された。
山陽公は皇帝に対して臣下の禮をとらなくてもよく対等に振る舞うことをゆるされた。
さしずめ、徳川期の喜連川というところか。まあ胡に滅ぼされたけどね。
43 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 15:48:26
失敬
>臣下の禮をとらなくてもよく対等に振る舞うことをゆるされた
これは言い過ぎかも。諸侯王上だから、皇帝の子弟より席次は上だろうけど。
44 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/12/13(土) 11:59:13
神聖ローマ帝国のハプスブルグ家と
プロシアのホーエンツオレルン家
ドイツではどちらの家柄が正統なのだろうか?
45 :
日本@名無史さん:2008/12/13(土) 17:08:41
府中は不忠に通じるというので、明治新政府に憚って
市内の地名賤機山から賤ヶ丘、静岡と改名した。
静岡市内には賤機山や麻機山などの専業民集落の地名がいくつかある。
46 :
日本@名無史さん:2008/12/13(土) 17:17:45
駿府藩じゃだめなの?
47 :
日本@名無史さん:2008/12/13(土) 17:17:46
>>23 駿河はとても気候が温暖で暮らしやすい。
また沼津兵学校、旧制静岡高校という歴史的伝統をもつ静岡県は
教育県としても全国屈指のレベルを誇る。
遠江や三河よりどちらかと言えば条件的にはいいと思うよ。
48 :
日本@名無史さん:2008/12/13(土) 18:16:48
>>44 ホーエンツォレルン家は第一次大戦起こしたヴィルヘルム3世と
ナチスに入党したその息子のせいで嫌われてる。
その手の家系に近いのはアフガン王家(アメ公のせいで大統領制に)と
ブルガリア王家(アメリカで実業家になってた元皇太子が即位拒否)
だろうね。
49 :
日本@名無史さん:2008/12/13(土) 18:47:40
51 :
日本@名無史さん:2008/12/13(土) 23:46:02
>>51 ナポレオンまでは独伊に跨る神聖ローマ皇帝→ナポレオンのときに帝国自体を解消、
神聖ローマ帝国内の自分の領地オーストリアに篭もってオーストリア皇帝に
→ドイツのナショナリズム高揚の中でプロイセンとドイツ統一の
主導権を争ってビスマルクらによって結局敗北。
→第一次大戦であぼん
もっとも、元々ハプスブルク家は今のスイスの出自だけどね。
53 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 23:58:26
休憩は終わりだ
54 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 02:21:50
15代将軍が家康だったらな
55 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 03:27:07
スレ正常化しようぜ。
牧の原開拓はスレok?
56 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/12/15(月) 04:13:49
「日本平」と「牧の原」の区別がつかん。
>>23 やはり駿府育ちだからじゃまいか?
浜松は後から手に入れた土地だし(そもそも静岡藩領)、
晩年に三河へ帰らずに駿府へ行ったあたりからも伺い知れる。
新田庶流とした時点で三河が本貫地じゃなくなってるしね。
>>47 いつの時代の事を言ってるのか知らないが、静岡藩成立以前は田中藩校日知館が武道で名声を誇ったくらいで、
明治以降は人口や面積のわりに最低限の高等教育機関しか設けられなかった地域なわけだが。
静岡高校、浜松工専、師範、青年師範のたった四つで山梨県も同じく四つじゃなかったかな?
東京と愛知の中間だから仕方ないが。
あとやはり軍の学校で補填してたと見るべきなのだろうか。
条件というのも何を考慮してか知らないけど、遠州だって温暖だし、冬場の空っ風は駿府も十分きつい。
県内の平野の広さは浜松と志太に次ぐ三番目か四番目だし都市の発展には限界がある。
だがそれが(ry
スレ違いだな。
58 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 15:20:32
>>55 世が世なら殿様といわれた高級旗本も茶農家?
落ちぶれるって悲しいね・・・
59 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 18:22:11
幕末まで城代が置かれた駿府城も安政の震災で本丸御殿が半壊荒廃。家達は小規模な城代屋敷を居館とせざるえなかった。
>>55 開拓者の名簿見てると楽しくなるな。
梶原景〜とか土岐頼〜なんて名前を見ると色々と思う。
>>56 日本平は駿河、牧之原は遠州
61 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 20:51:57
家達用の大奥みたいな施設(小規模なミニ大奥)はあったの?
62 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 21:11:53
なかったから外で遊んでたんだよ
63 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 21:39:49
>>61 あるわきゃねーだろが。
家達の年齢考えろや。
64 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 21:49:50
静岡藩の知藩事屋敷には表と奥の区別はなかったのか?
年少の家達だからこそ、夜はむさい武士どもから離れて女の園で甘えたいのでは?
65 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 22:06:13
静岡藩の分限帳は閲覧できますか? 活字になっているものを希望。
>>65 明治初期静岡県士族名簿の筆書きコピーなら県立図書館にあったが…
67 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 11:11:39
家達在駿府は三年足らず。駿府城の残存櫓から市中を眺望するのが楽しみだったらしい。後はクラーク博士との交遊くらいしか主だった記録なし。
68 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 11:57:59
田安亀ノ助時代に筆下ろし済み
家達夫人は美人。
家正夫人は残念ながら不細工
70 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 20:18:59
おれが新政府責任者なら三河岡崎10万石ぐらいの処分をするけどな。
本来朝敵だったんだからそれでも寛大なほうだ。70万石はやりすぎ。
71 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/12/17(水) 01:00:44
分家の尾張家より下っておかしくないか?
別におかしくはないが
10万石じゃあ家臣がやってけないだろう
73 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 01:54:42
朝臣になるて手段があったんだから
ついていった奴は自己責任だべ
>>70 新政府に後ろめたいことがあったんだよ。
偽勅で朝敵にしただけ。慶喜の罪状ってなんだ?
毛利家は王政復古の大号令まで朝敵だったのに寸土も削られてない。
75 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 13:47:47
毛利家朝敵が一夜で覆る時代なんだから、慶喜も鳥羽伏見で武門の頭領たる気骨を見せ幕府軍を鼓舞すれば勝てたものを。
つまり、朝敵なんぞの汚名は直ぐに取り除けたのにな。
幕府の最大且つ最終的なレゾンデートルは、武力ですからね!
その保持と誇示の為に幕府は政をやってきたと言っても過言ではない。
天海上人が奇しくも予言したと言う。
「宗家の血筋が絶え、北に位置する水戸家の血が宗家に入った時、幕府は滅ぶ」と。
> 天海上人が奇しくも予言したと言う。
どこに書いてあるんだそんな与太
77 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 14:10:53
予想した通りに人は動くから面白い。
君は、人に人生を動かされる宿星を持つようだね。
天海上人のこと、史家として興味があるならば、自分で探してみるがよい。
10万を超える大軍を動員しながら
長州征伐に失敗した幕府の武力って・・・
楠正成の首を取れなかった鎌倉幕府みたいだな
> 予想した通りに人は動くから面白い。
相場通りの「実は釣りでした」宣言とか?
予想外にきもい釣り宣言だったがな
81 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 16:38:13
慶喜が実家の水戸学の影響もさる事ながら実母が有栖川宮内親王では錦旗は踏み倒す事ができなかった。家茂存命なら大坂籠城、援軍到着で逆転勝利もあり得ただろう。
82 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 17:48:31
明治維新が「南朝革命」だったとする説は嘘だね。
薩長がかかげた錦の御旗は北朝菊紋だし慶喜軍も錦の御旗かかげていたから
正確には「北朝体制内革命」で勝てば官軍というわけ。
信長が鉄砲で天下取ったように薩長軍5000と慶喜軍1万5000とたたかって
薩長軍がかてたのはアームストロング砲のおかげ。
佐幕攘夷派公武合体派親徳川派の睦仁をおいだして鳥羽伏見の戦い
に勝った倒幕開国派大室薩長明治天皇が京都御所に入って明治維新を
成功させる。
83 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 19:00:10
徳川家達と津田梅子が母親同士が姉妹の従兄弟って本当ですか?
二人の共通の祖父母は誰ですか?
84 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 11:04:22
俺は昔から、歴史の試験で分からぬ問題のanswerは、全て【徳川家康】と書くように心がけてる。
大体南朝だ北朝だ騒ぎ出したのは明治になってからだろが
86 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 19:39:49
慶喜が腰抜けだったので、幕府はもとより家臣も守ることができませんでした。
おわり
87 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 20:00:05
下手に武人であばれられたら馬鹿薩摩の思惑通り焦土と化して
あの薩摩人だけが個人的にすっきりするがその後日本は独立維持不可能だったから
旧幕府軍とは見捨てて正解
会津他数藩の犠牲で済むなら安いものだ
腰ぬけ教養人でよかったよ
88 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 20:56:37
>83
釣りかもしれんが・・・
徳川家達の母・・・側室の高井氏
津田梅子の母・・・津田初(父小島仙が津田初と結婚して津田家の養子に入った)
母親同士は姉妹ではなく両者がいとこであるはずもない。
89 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 07:52:22
高井氏が小島家からの養女とか、小島仙が高井家からの養女とか、
そんな可能性はないのか?
とくに大名家の側室とかは、しかるべき家の養女に入ってるケースが多い。
90 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 08:44:38
なんでそんな可能性求めてんの?
スイーツ大河に影響を受けたスレだから
92 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/12/19(金) 10:59:29
辞官納地の200万石返上ってどこを指すんだ?
大坂や長崎は入るだろうが
江戸も返上しろと言ってたのか?
93 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 20:57:35
>>89 そんな事実はなさそうだ。
それに、「小島仙」は津田梅子の父親で、男だよ。
津田梅子の母親は津田初。
養女とかなんとか書いてるけど。
94 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 15:57:21
家達と梅子がいとこっていう説は、俺もかなり前に読んだことがある。
歴史読本かなんかの特集記事の中だった気がする。
詳細は覚えてないな…。
95 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 21:01:16
近代史でやれば
96 :
日本文尊 ◆m0yPyqc5MQ :2008/12/21(日) 21:15:38
あーまたオナニーしちゃったぜー超気持ちいい!!今日四回目♪
97 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/12/22(月) 11:12:15
泣く方がマスかくより気持ちいい。
98 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 21:57:34
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88 これが明治初め頃の府藩県別人口上位行政区
総人口 府藩県名 華族+士族+卒族人口
1,086,164人 金沢藩 11人+28,683人+27,038人
918,143人 名古屋藩 13人+16,911人+34,604人
914,174人 広島藩 15人+9,536人+23,046人
896,817人 鹿児島藩 9人+244,700人+95,569人
876,840人 静岡藩 4人+66,867人+0人
730,531人 熊本藩 29人+98,901人+10,293人
674,440人 東京府 0人+20,552人+26,746人
565,368人 山口藩 7人+11,589人+10,362人
540,969人 和歌山藩 2人+21,321人+16,972人
516,545人 高知藩 8人+30,506人+18,908人
427,499人 大阪府 0人+0人+3,342人
名古屋藩の方が上だったりする。
99 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 22:27:54
東京府貫属士族だったりする
100 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 22:46:37
>>98の段階では東京府に籍を置いていた華族はゼロだったが、
廃藩置県後は2千人レベルに増える。
101 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 23:07:04
静岡藩の華族4人とは誰だろう?
家達、慶喜は確実として、あと二人は?
102 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 23:08:36
篤とホンジュラスか?
103 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 01:05:52
少なくとも慶喜の妻を加えて3人。
あとは一橋か田安のどちらかの本籍が一時的に静岡扱いになったんだと思う。
とーきょーだろ
106 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 12:50:04
家達
慶喜
美賀子
敬事(明治4年6月29日-明治5年5月22日)
107 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 13:12:16
慶喜は静岡70万石と無縁
>>98の華族の人数は,戸主だけの数?
華族は戸主だけでなく,その戸籍に入ってる者全ての身分のはず。
だから,
>>106が正解でしょう。
>>107 慶喜は授爵まで,徳川宗家の隠居扱いでしょ(立前上では)。
海舟も慶喜もまだ華族じゃないか。
110 :
日本@名無史さん:2008/12/24(水) 07:43:19
慶喜の初期の子供って、敬事、善事、琢磨って名前なんだけど、
なんで○千代とか○太郎とか○丸みたいな名前にしなかったの?
>>110 二字音読みや一字訓読みは当時の流行
格藩の人名録的な物を見ると江戸末期の頃はかなりの大流行だったことがわかる
112 :
日本@名無史さん:2008/12/24(水) 10:08:41
慶喜の幼名は七郎麿
113 :
日本@名無史さん:2008/12/30(火) 14:43:55
>敬事、善事、琢磨
当時の大名の子としては異色な命名だな。
114 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 20:53:17
家老はいたのか。
元若年寄平岡丹波守が静岡藩家老に就任。
平岡はじめ静岡藩の重臣は、幕府崩壊時に旗本から若年寄に任用された人が、
何人かそのまま就任している。
116 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 23:11:03
平岡の静岡藩での家録は何石?
>>115 せっかく1867年に立藩したのに領地を奉還して静岡行きとは旗本根性が抜けていなかったのかな?
118 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 00:00:52
むしろ関八州や東海に領地を持っていた譜代大名は、
平岡と同じように領地を奉還して静岡に行くべきだった。
大岡家や田沼家なんて、一徳川家臣にもどるべきだった。
119 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 00:02:30
御三家の家老が3万石前後の大名格だったことを考えると、譜代大名のまま家老になっても不自然ではないのだが。
120 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 00:41:19
世が世なら子爵。
平岡は生没年不詳、恵まれない晩年だったんだろうね・・・・
121 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 01:59:27
家老クラスで爵位を賜った者は、
自分から願い出て協力者も得て運動もしている例が多い。
そういう猟官運動のようなことをするか、しないか、だろう。
津山藩のご老公が家令じゃまかったかよ。
徳川宗家は。
124 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 11:23:28
さすがに大名だった人が本家とはいえ、よその家令にはならんだろ。
後見人だよ。
125 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 13:19:41
>>1 豊臣秀頼も家康により、『摂津・河内・和泉』で65万石に押し込めら
れた。
126 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 16:07:44
右大臣家ね
127 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 22:54:14
静岡の命名についてはあまりにも卑屈過ぎるというのが後代の評価。
ただおそらく徳川宗家が安泰であっただけでも良かったと考えたグループに
押し切られたのではないだろうか?
向村黄村か誰かが建策した案だそうだ。
128 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2009/02/20(金) 05:25:20
>>127 でも府中の名が残っているのって東京位じゃないか?
駿府藩とか駿河藩じゃ駄目だったのかな?
>>127 でも、後の静岡人に深く愛されているのも皮肉な話だよな>「静岡」という命名
清水市との揉めに揉めた合併話のときも、
結局「静岡市」という名称は維持されてしまった。
俺などは、「駿府市」か「駿河市」に変わるかと思ったんだけどね。
もはや、静岡市民の大多数は「賤しい岡」が語源だとは思っていないようだ。
市街地に住んでる人なら「シズハタヤマ」くらい知ってんじゃね?
由来も知ってるだろ。
132 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 15:29:44
シズハタ山から取ろう賤岡は賤しいって感じになるので静を取ろうって感じで自ら賤しいを選んだわけでは無いだろう
133 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2009/02/23(月) 00:36:39
おいたわしや・・・(泣)
134 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:48:18
16代家達、父親の田安慶頼に親子だけあって顔似てるね。
15代慶喜とは明治以降、仲が良かったの?悪かったの?
135 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 23:27:16
家達と慶喜の仲は良かった
家達を養育した篤姫は慶喜を憎悪して、家達にも慶喜嫌いを叩きこもうとしたが
>>130 俺は地元民だが愛されてるとは感じないな。
旧静岡では愛されていても、静岡県は市町村単位でのアイデンティティが強いぶん、
県内の他市町村では静岡市へのライバル意識が働くから微妙。
静岡市に決まったのも市議の投票で決まらなかったから県が決めただけのこと。
駿府市は絶対有り得ない。
旧静岡は生まれ育った静岡市に拘るし、旧清水からしたら駿府は旧静岡の旧称に過ぎないから。
駿河市も郷土史を多少知ってる者からしたら有り得ないし、現在の駿河区ですらかなりの反論が出た。
いほはら市を押す県大教授がいたけどいかんせん市民に全く浸透していなかったな…
ひらがなはあれだがら伊穂原市ならいいと思うんだが…
そういえば静清は昭和の大合併が特に激しかった地域で当時の多く人が故郷の自治体を喪失してるだけに
年配層は新市の名称に無関心な人がかなり多かった。
自身は故郷を清水市に吸収されてるのに、同じ土地で生まれ育った子供は清水市生まれ清水市育ちで合併反対みたいな。
終戦直後の朝鮮や台湾でもこんな感じの家庭があったんだろうなと思った。
137 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 15:43:05
>>136 言葉や習俗が違わない限り、アイデンティティを数世代にわたって守るのは難しいだろうね。
朝鮮はともかく台湾は、外省人・内省陣のアイデンティティがすぐに確立されたんじゃないの。
138 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:52:19
>>135 134です、ありがとうございます。
何気にスッキリしました。
でも篤姫って慶喜嫌いだったんですね。
隠居慶喜は当主家達になにかと遠慮して
口をはさまないように努めていたらしいね。
よく解釈すれば、なにごとにもかかわらないうに趣味に没頭した。
140 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:33:38
大坂の陣を考えれば、少なくとも一族郎党皆殺しでもおかしくなかったんだけどな。
141 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:54:45
>>141 だな。豊臣は空気を読まずに抵抗したから滅ぼされた
それだけ
143 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 16:19:00
宗家70万石駿河府中藩?は勝海舟とか西周、大久保一翁、渋沢栄一なんか居て人材的にも豊富ですよね。
明治以降もある意味、過去の栄光は保たれていたのかな?
>>142 抵抗せずに素直に大阪からどっかよそに移ったら豊臣家も残れたのかな?
石高大きいからいずれなんか理由つけて潰される気がするんだけど・・・
家斉の息子の養子先だろ・・。
最後は。
家斉の代まで残ってたらそれもありえそうw
147 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 17:45:37
>>143 後に明治政府は優秀な旧幕臣を官吏として採用したらしいが、大久保利通は旧幕臣を嫌っていた様だから力を十分に発揮出来た人は限られたんじゃない?
帰農したり商人になったり、旧幕臣は肩身の狭いおもいをしたのでは...
148 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 17:52:19
会津の減封と比べて70万っていかにも中途半端だよな。
どうせ家臣も養えないのだから家名を残すだけの1万石位の捨て扶持で良いだろう。
華族制度が出来た頃に名誉回復して家格復帰、公爵でも与えればよろし。
149 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 18:04:25
70万石もあれば島津家なみの大藩だから、それなりの格式だがな。
本当のこと言えば大奥だって小奥ていどにスリム化したら、駿府に移転できただろうに。
よくわからないけど当時の世間的には
元々の徳川(松平)領の基本値が駿遠三の70万石って認識なんじゃないの?
戦国時代に徳川家が自力でゲットした地域ってことで。
151 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 18:12:16
戦国時代に自力でゲットした国は三駿遠甲信の5カ国だが
152 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 18:21:34
自力で取っていないとは言わないが甲信は本能寺の火事場泥棒的にゲット。
153 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 18:23:45
半額セールどころではない大幅減封喰らった藩は徳川宗家と会津だけ?
伊達は丁度半額位、後は小幅な減俸だよね?
154 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 18:25:21
没収された領地は天領のみで旗本領300万石は、そのまま残ったんだよね。
兵学校は結構身分関係に五月蝿くて
貧乏な小作人だと試験に通らんぞ・・。
元が士族ならともかく。
念のためだけど、勘違いしてる人がいるから。
大奥の大は規模の大小じゃないからね。
表、中奥に対応する呼称です。中奥と大奥をひっくるめて奥。
表はパブリックな空間で、プライベート空間が奥。夫人がいるところが大奥。
小奥なんてないし、どんな規模でも夫人がいれば大奥。
大名も参勤交代制がさだまるまでは領国に大奥があった。
157 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 03:51:16
3千石以上の実際の統治権を持つ大旗本は維新時に中太夫として独立、これが大体100家。残りの中で新政府に仕えていたり、東京に残るのを希望する家以外が、家達に付いて行った。
158 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 04:06:37
廃藩置県前、和歌山藩の近代軍備は脅威だった。静岡藩は鹿児島藩にフランス式軍制を教える為士官を派遣している。
159 :
日本@名無史さん:2009/05/16(土) 18:34:30
>>135 でも家達は成人したころ慶喜と同席して慶喜が上席だったので、
「おや、私の席がない」と言い放って、慶喜をどかせたり、
「私は徳川を興した、あの人(慶喜)は徳川をつぶした人」
と公言し、みな、二人を同時に呼ばなくなったという。
篤姫が嫁(家正夫人)を薩摩から、と強引に命令して、顔が
不自由な系統になったり、慶喜家とは絶対縁組するなと遺言
したり、やり放題だったから、二人は仲好くできなかったのが真相。
160 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 02:13:04
>私の席がない」と言い放って、慶喜をどかせたり、
>「私は徳川を興した、あの人(慶喜)は徳川をつぶした人」
仮にも養父なんだが こういう態度はしたことがあるのかどうか疑問。
ただ、家達の場合、一門の取り巻きが彼の言動を束縛していたのじゃ確かだろう。
組閣の大命が下ったときに朝敵の汚名を着せられた事を根に持つ一族から反対されて結局辞退に追い込まれているしね
161 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 02:32:25
>>156 君も勘違いしているみたいだけど、「大奥」はあくまでも
「将軍」の夫人や側室が居る所の名称であって、他の大名は
「大奥」の名は使えなかった。
大名の夫人のいる所は「奥」であって「大奥」ではない。
162 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 03:26:40
>>161 本人じゃないけどお前何度もしつこいわ
中奥と大奥の差ぐらいこの住民なら解っているだろうしね
小億と大奥の差は単なる規模の差として便宜的に使っているだけだろう
163 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 06:46:23
164 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 09:47:41
>>149 文脈的には、かつての大奥ほどではないけど、
いってみればミニ大奥的なものは駿府城にも設置可能だったってことだな。
篤姫とか本寿院とか滝山とか上層部や老人が、下っ端をリストラした上で、
駿府に行ってもよかったのにな。
>>164 いや、1868年になってから、まだ大奥改革大反対なんて大合唱している
篤姫と和宮(和宮も!)を見ていると、
1860年代になってから、幕府の政治機能が、
むしろ率先して江戸から京大坂に移っていったように見える一つの原因が、
大奥問題(広い意味での後宮問題)のようにも思えるけどね。
もちろん第一の原因は、朝廷と雄藩が政治中枢機能を
江戸から京都に引きずり出したことなんだが、
ある時期から、徳川方も政治の中枢機能を江戸に死守しようとしなくなる。
その意味で、篤姫など大奥上層部には
「慶喜が大奥を見捨てた」という一種の恨みがあったんだろうとは思う。
166 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 12:36:02
>>160 慶喜は家達の養父ではない。亀之助(家達)が宗家を継いだ時、
慶喜は宗家を出て謹慎、天障院篤姫が実質養母で、和宮は京都に
帰ったりしているうちに若死。慶喜は徳川慶喜家をつくり、後に
受爵した。慶喜を上座からおろしたり、「興した人、滅ぼした人」は
聞き書きの資料などによくでてくる話です。
167 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 14:39:55
では、戸籍上(系図上)、徳川宗家の当主である家達の養父は誰なんだ?
歴史本なんかでの系図では、一応慶喜と養子関係を示す二重線で結んであるが。
168 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 15:29:51
>>161 江戸城の図面に西の丸大奥や二の丸大奥も出てるんだが
こんなスレまでにも曳馬市民は必死だなぁ。
「賤しい岡」が語源って何だよ?
元々「賤」の意味は古代においては職能技術を持った
集団とかの意味であって後世の「賤民」を表す意味とは違う。
170 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 22:35:58
>>168 だから「大奥」と言う名は将軍家だけが使えるんだろ。
江戸城は徳川将軍の居城だから西の丸や二の丸に大奥の名が
ついた施設があってもおかしくない。
>>170 名古屋城金沢城仙台城にも大奥はあったよ。
越前家を一門最大の石高にして
次席に宗家っていう案もあったらしい
>>174 そんなのガセねただよ
宗家って10万石格だけど実高ほとんどないだろ
しかも外様だし
宗家違いだな
そうけそうけ
179 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 19:00:17
静岡藩というのは、江戸時代の分類で分けると親藩?譜代?外様?
180 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 23:01:17
親藩っていうか家門じゃね?
外様だろ。
182 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 09:20:43
>>172 正室がいるところを「大奥」って呼んでたってことかな?
参勤交代制では正室は江戸にいるから、領国に大奥は置かれなくなった、と。
183 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 03:06:39
>>179 親藩やら譜代やらは徳川が決めた事だから静岡藩=徳川宗家視点で見れば分類されないし、
中央から見た場合は強いて言えば外様だろうがそもそも分類のしようが無いし全部外様か。
或いは勤王=譜代、佐幕=外様かな。
>>182 まさにその通りで、
大奥の主人は正室。夫はそこへ通ってる訳。ハーレムとは違う。あきまで正室の居住スペース。
誤解されてるが江戸時代は一夫一婦で、正室(継室も含む)以外は使用人。側室がいくらいても公式には妻じゃないから大奥たりえない。
生まれた子供にとっても母ではなく使用人なんだね
>>184 その割には江戸時代の正室って子供をあまり産ませて貰えなかったし夫から尊重されていなかった気がする。
186 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 18:09:58
187 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 16:02:44
正室はお飾り
>>185 それは根拠のない思い込み
も少し調べてごらん
189 :
日本@名無史さん:2009/08/13(木) 17:06:06
>>140 関が原での毛利は一族郎党皆殺しでも文句ないな?
190 :
日本@名無史さん:2009/08/16(日) 22:39:10
中尾彬と横内正の年齢は余り変わりません。
それよりも宗家の跡継ぎ問題なんだが
192 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/10/24(土) 15:13:19
193 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 16:06:28
で、静岡藩というのは、あえて分類すると親藩なの?譜代なの?
194 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/10/24(土) 17:07:51
>>193 立藩したその当時は皇室が主流なので外様になるだろう。
195 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 18:15:09
親藩だろ。
196 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 20:16:17
徳川家康は、豊臣秀頼を65万石にしたんだから
薩長も徳川宗家を65万石にして欲しかったぞ
197 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 16:41:15
むしろ、三河全部と伊豆も丸々与えて、100万石くらいにしてやるべきだった。
198 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 16:57:25
次官農地に応じていれば旗本知行地そのままで天領200万石残った?
199 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 17:02:37
勝先生は江戸開城後も、その後の交渉と状況しだいで江戸百万石を維持するつもりだったが、
上野の彰義隊があっさり蔵六先生に負けてしまったので、実現しなかった。
辞官納地は、どれだけよこせとか、いくら残すとか言った条件が無いから応じたら70万石も残らなかったかも知れない
半額の200万石残すとか言う説もあるけど、完璧なソースは無いんじゃないかな?
202 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 19:24:42
減封で、旗本・御家人は、どれくらい浪人になったんだろうか?
静岡まで連れて行った家来は、小者だけか?
明治政府の木っ端役人になるか武士を捨てて職業に就くか静岡に行くかのどれかじゃない?
204 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 19:38:06
高禄の旗本ほど、新政府に帰順して本領安堵なり新規の俸禄を給与されたりして、
朝臣になる傾向が強かった。
外様大名の分家の場合、本家の扶助を受けるケースもあった。
また、知行地に土着して隠棲するパターンも高禄の旗本には多かった。
家族を入れて8万人
206 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 20:57:04
>>204 高家、交代寄合のような、もともと徳川と縁の薄かった家は当然として、
三河以来の家柄の大身旗本でもさっさと帰順して朝臣になった者は多い。
本家の扶助を受けた者には、備前池田家の分家筋の池田筑後守長発がいる。
知行地に土着した者には、房総半島に土着した遠山の金さんの一家など。
地租快晴の金納地租1.5%は払えたの 売って払たの
208 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 22:12:21
金さんの子孫の場合、明治後期には東京に出戻ってる。
209 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 22:25:10
知行地に土着したところで、その土地は誰か別人の領地になる訳だから
農民並に年貢とか納めなきゃならんだろ
旧領主の特権で年貢不払いとか可能だったんか?
210 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 22:37:16
土着組でも小栗上野介は、もし処刑されずにそのままお咎めなしだったら、
どうするつもりだったんだろう?
土着当初は、領主としてふるまって、陣屋の建設工事をさせてたようだが。
211 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 22:45:14
新政府の役人だろ。
212 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 23:26:26
静岡の家老ってどれ位貰っていたの?
他の50万石以上の大名なら3万石前後だろうけど1万位?
いや、元は旗本で財政も悪いだろうから5000とかか?
213 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 02:45:35
>>212 世話役の勝が伯爵だから10万石前後じゃないの?
214 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 07:46:43
勝は旧諸侯じゃなくて勲功華族なんだから、その爵位に石高には関係ないだろ。
家老、中老の給料はわからなかったが、その下の「幹事役」(上記の「世話役」)
の次席とされた公議人の杉浦兵庫(最後の箱館奉行、江戸開城後は大目付)が
役金700両だったそうだから、それから類推できるだろう。
215 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 08:15:50
徳川家臣で1万石以上は大名扱いだから、静岡藩家臣の俸禄は最高でも1万石以下だろう
違うのか?
216 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 18:00:12
薩摩藩とか長州藩にも、万石以上の一門や門閥家老が何人もいるから、
静岡藩70万石の家老にも万石級がいたと思ったんだろう。
しかし、この時期は勝ち組の薩摩藩などでも一門・重臣の石高を大幅に削減して、
門閥の勢力を抑えるとともに、経費節減につとめていたくらいだから、
無禄移住の旧幕臣があふれている静岡藩で、そんな大禄を与えるわけがない。
>>98 なんだそのwiki
すげえ
wikiってのはそういったものを載せるべきなんだよな。
言葉尻ひとつの解釈文章で書きたい放題の文章wikiなんて学問性のカケラもない。
218 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 19:12:10
だいたい、石高の○万石というのは、ほぼその藩の人口を表してる
普通の人が一年に食べる米が約1石だから、時給自足だと仮定すれば
○万石の藩が養えるのは○万人
そうそう
そんな基本的なことを知らない人がいっぱいいるんだよね
220 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 00:36:17
っていうか筆頭家老って誰?
大久保翁 や勝海舟、渋沢栄一は家老じゃないだろ?
221 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 02:43:18
隠居慶喜は静岡に移住(追放)されたが、当主家達は静岡には行かなかったんだろうか
222 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 06:13:21
家老は一名だけ
前若年寄の平岡丹波守(元側衆)が就任
その下の中老が数名
やはり若年寄だった浅野美作守ら数名(いずれも旗本から慶喜政権で取り立て)が就任
大久保一翁は準中老、勝安房は幹事役でこの辺までが重臣クラス
渋沢栄一はそのまた下で商法会所を設立
223 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 15:08:17
224 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 23:50:04
徳川家康に天下を乗っ取られたあとの豊臣家みたいな構成だな
因果応報というやつかw
225 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 00:11:06
平岡は江戸開城まで1万石の大名だったのに領地を奉還して静岡に走っている・・・・
幕府見捨てたら子爵様なのにwiki見たら生没年不詳って、廃藩置県の後、零落したのか?
226 :
日本@名無史さん:2009/10/29(木) 01:54:57
薩長のゴミムシのせいで、ね。
227 :
日本@名無史さん:2009/11/05(木) 18:16:20
228 :
日本@名無史さん:2009/11/06(金) 06:14:14
>>223 1 金沢藩 120万石
2 鹿児島藩 72万8000石
3 仙台藩 62万石 → 戊辰戦争後に大幅縮小
4 名古屋藩 61万9500石
5 和歌山藩 55万5000石
6 熊本藩 54万石
7 福岡藩 47万3000石
8 広島藩 42万6000石
9 萩藩 37万石 → 山口藩
ほぼ実力どおりだろ
老舗だね
230 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 00:18:18
この領土があるのも山内容堂公のおかげ
彼がいなければ徳川慶喜が殺されて可能性すらあった。
会津厨は自らを犠牲に徳川を助けた彼を生涯崇拝しなければいけない
保科正俊
山内容堂って幕府の目こぼしで藩主になったんだろ…
土佐藩は外様の大藩で松平賜姓大名だから目こぼしがあって当然
江戸時代では珍しいことではない
南邸山内氏は徳川でいう御三卿で家格も低くはない
それに徳川慶喜に対しては主君というよりも親友としての接し方だよ
勤皇三藩で幕末を通して終始一貫慶喜を守ってやったのは容堂だけ
233 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2010/01/11(月) 15:20:16
>>228 福岡藩って52万石ぐらいじゃなかったか?
どっちにしろ順位一緒なんだけどさ。
234 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 16:30:23
筆頭家老
跡部遠江守良弼
235 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 04:29:29
家達と慶喜って仲悪かったの?
236 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 02:31:10
福岡は秋月の支藩を入れて52万石だよ
237 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 15:53:12
慶喜は元々非常事態の中継ぎで家達が正統継承者
しかも中継ぎが家を潰したのだから肩身が狭かったであろうことは容易に想像出来る
238 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 17:13:24
尾張から将軍が出なかった理由は?
>>238 吉宗が御三教を作って自分の血統からしか将軍を出さないように画策したから
八代決定時点で尾張は終わり
夜伽に励むの君主の務めなのれす
>>223 熊本よりむしろ広島の人口が多すぎる
広島は実高もそんなに高くないはずだし
242 :
日本@名無史さん:2010/02/05(金) 19:33:39
>>241 ttp://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/26989/1/i14_a4361.pdf 大隈重信文書による明治2年旧暦1月1日付の府藩県別人員表だとこんな感じ
108万0210人 金沢藩
92万1517人 名古屋藩
81万3886人 静岡藩
77万2354人 鹿児島藩
71万9990人 熊本藩
71万4022人 徳島藩
67万4447人 東京府
55万2671人 山口藩
52万8408人 和歌山藩
51万6866人 高知藩
51万4157人 広島藩
43万5267人 秋田藩
42万7395人 大坂府
42万5762人 佐賀藩
42万1690人 神奈川県
41万8711人 柏崎県
41万5706人 日光県
37万4496人 西京府
37万3065人 鳥取藩
36万6924人 福岡藩
36万4256人 水戸藩
35万8640人 岩鼻県
35万8337人 岡山藩
35万2900人 甲府県
33万1941人 山形県
一方、呉文聴の人員表は、明治3年頃の身分別人口がまとまっている。
華族 15人
士族 9536人
卒族 2万3046人
神職 2737人
僧尼 4959人
平民 85万0193人
穢多 2万2969人
非人 717人
死刑 2人
合計 91万4174人
仮に平民の人口が85万0193人ではなく、45万0193人の書き間違いだとしたら、
丁度合計が51万4174人となり、大隈重信文書の値である51万4157人に近くなる。
この時代の統計表は写し間違いも多く、正直どれが正しいのかよくわからない。
245 :
日本@名無史さん:2010/02/11(木) 03:09:25
>>243 この段階では、御三家は全部存続していたんだな。
ご三卿は
247 :
日本@名無史さん:2010/02/11(木) 12:40:56
清水は明治元年に昭武が実家の水戸藩を相続したので、当主は空席。
この時期、田安・一橋両卿は立藩を許されたが、当主不在の清水は立藩できず、
明治3年くらいに故水戸慶篤の息子が養子入りして相続した
ただし、この時期、田安・一橋両藩も廃藩されたため、立藩はできず。
248 :
日本@名無史さん:2010/02/12(金) 01:14:16
だが領地のない御三卿は、そもそも藩を形成していた時期があるのか?
249 :
日本@名無史さん:2010/02/12(金) 08:34:55
251 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 01:37:24
252 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 20:34:33
ろくに戦いもせず負けて延命をする。
どこまで薄ぎたないんだろうね。
七十万石に減知されても命が惜しかったんだ。
きたないね。
253 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 21:33:19
>>252 そんなことは日本中わかってる。
三河者ごときを崇敬してるのは江戸者だけだよ。
幕府洋式歩兵って佐賀や薩摩軍より人数も装備も上だったんじゃ?
でもほとんど戦闘せず、激戦は長岡とか会津だよな。
255 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 17:16:22
>>241 >>244 明治5年の安芸の人口は66万7717人、備後の人口は45万6461人。
広島藩はほぼ安芸一国と備後の半分を領有していたので、
単純に人口を配分して計算すると、
明治5年の旧広島藩領の推定人口は約90万人。
統計集誌の91万4174人の方が正しく、むしろ大隈重信文書の
51万4174人の方が間違っていると思われる。
256 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 17:30:27
ついでに中国地方は江戸時代後半も人口が増加し続けた地域で、武家人口等を除外した安芸国の領民人口は、
1721年の36万1431人から1846年の55万3708人へ増えている。これは1.53倍で、年平均0.34%に相当する。
1691年の広島藩の領民人口は47万0130人なので、179年分の人口増加率を考慮して1870年の領民人口を計算すると
470,130 x 1.00341836^179 ≒ 865,972
大体統計集誌による1870年頃の広島藩の平民人口に該当する。
>>252 関ヶ原での毛利と島津の見苦しさに比べればマシ
松平
259 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 00:15:30
がどうした
260 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 19:46:26
泰子夫人って美人だね
40過ぎても若々しいままでとても家達の4歳下には見えない
261 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 07:58:50
幕府の様式歩兵は金目当て傭兵です。士官の旗本以外徳川に忠誠を尽くす必要はありません。形勢不利となって歩兵は大脱走したわけです。
262 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2010/04/15(木) 23:28:52
263 :
日本@名無史さん:2010/04/29(木) 18:26:54
>>247 清水家って御三卿の中では一番影が薄くて不遇だよな。
初代重好だけ吉宗の息子じゃないし、重好が没したあとは一時廃絶してるし、
そのあとも家斉の息子が4人くらい立て続けに養子入りしてるし、
その養子当主も御三家とかよその家の後継ぎに転出したのが多いし。
独立した家というより、将軍の息子のこしかけみたいな家だよな。
きわめつけは斉疆が紀伊家に転出したあと、昭武まで20年も当主不在。
264 :
日本@名無史さん:2010/04/29(木) 18:32:11
最後に養子になった昭武もすぐパリ万博に行ったので実質は当主不在同然で、
帰国後はすぐに実家の水戸を継いだから、また当主は空席。
明治以降は御三家・御三卿で唯一、体面が維持できず爵位返上という不名誉。
つくづく不遇な家だ。
265 :
日本@名無史さん:2010/04/29(木) 20:33:47
武家第一の家格と言われる徳川宗家の石高が70万って実高ベースで行けば尾張よりも下でしょ?
700万石近く没収したのだからそのうちの100万石位残してやっても良かった様な気がする。
前王朝は九族皆殺しが常識だったのに、生きながらえたどころか70万石も貰えて
何が不満なんだ。
支那王朝はともかく日本で九族皆殺しって基本的に無かっただろ
268 :
日本@名無史さん:2010/04/30(金) 14:20:12
一族全滅した天下人の一族って伊勢平氏と鎌倉北条氏くらいじゃない?
豊臣は一族といっても二人だけだしね
しかも殆ど自殺だし
269 :
日本@名無史さん:2010/04/30(金) 14:50:38
、....,,_
、-‐'" __ ヽー- 、}ヽ
,/´/ / , _,. _/ ノ レi
_,// / /{ i ー' ノ
/ // / / .i l l! ー<
/ / //!/ ヽ ヾ l 〉ヾ,
!/! イ ‐::::::;;;;;;;八;;;;;;;::‐ヾ、 }
|」l ! 。ー-- ;; :; --−。 l /
f r| !| ゚ o ´ ノ ::、 ` o | l/
.l ヾハ o /( ,=、_,=、)ヽ, l/l! うわぁぁあああん!
\ _j /_,, -―-ー-、_ l l /
l l | トエエエエエエイ l ./´
`ト、 l Vェェェェェェェソ //┐
l \`ー‐---‐‐' / 」、 _ ,,.
「ヾ、_ヽ、___ノ_/ r―-- `ゝ
l イ /  ̄ ̄ ヽ
!_ _,.. i | / ヽ
/ !.| ,/
織田信成が織田信長の子孫って本当?【2代目】
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1271421161/
>264
徳川中将が日本初飛行で世に名を残した位かぁ・・。