1 :
日本@名無史さん:
最初の幕府、鎌倉幕府を開き、
武家主導の社会700年の始まりの人
その源頼朝を語りましょう。
導尿カテーテル2げと
3 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 00:29:08
頼朝とは私の前世での旦那様だったお方よ。
神官の娘だったから北の方様も認めてはくれていたみたいだけど。
以前、前世を視てもらった時の結果でこう言われてたのを
思い出したから書いてみましたw
本当にそういう側室がいたのか定かじゃないけどね。
4 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 00:52:21
>>3 前世みてもうらうと、大抵の人が
頼朝とか信長とかクレオパトラとかの知り合いだったりする件はどう思う?
今生きている日本人で後世に名を残す人はごく数人にとどまるだろうように、
前世で有名人だったり有名人の妻だったりする確率は、ものすごく低いはずなんだが。
前世とか輪廻とか言ってる時点で科学的思考力が欠如してるから史学は向いてないな
前世が存在しない、ってことを科学的に証明することも不可能だとは思うけどね
7 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 02:34:53
源頼朝とは
かつて飲み友達だった。
良い奴だったよ。
>>6 悪魔が存在しない、ってことを科学的に証明することも不可能だね
だからその証明を求めるヤツをアホ馬鹿キチガイと言うんだよ。
11 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 00:02:57
>>4 私も頭から信じているわけじゃないですよ(・ω・;)
頼朝が神官の娘を側室にしたという記録もなければ
政子が認めていたというあたりで既に怪しい訳ですから(苦笑)
そういえばそういう話があったなあと…それだけのことです。
お騒がせしてすみませんでした。
12 :
藤原泰衡:2008/12/10(水) 00:07:14
平泉を滅ぼした罪は未来永劫消える事はなかろうて・・・
>>10 ん?別に誰も求めてなんかいませんが?
「前世があるのかどうかは、実際のところわからない」というのが
唯一正しい言い方であって、前世があると主張する奴もないと主張するやつも大抵は碌にものを考えたことのない人だ。
まあ、「悪魔の証明」とか言って得意になってる時点で
哲学にも科学哲学にも詳しくない人みたいだから、これ以上はやめておくわ。
14 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 06:39:26
兄弟仲良くしないと一族は滅びる?
15 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 08:39:52
伊勢平氏は仲良かったぞ
16 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 11:40:42
北条と手を組まない方がよかったかな。
17 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 11:55:01
関白と太政大臣と征夷大将軍では、どれが格上?
18 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 03:40:42
源頼朝のスレは伸びなくて人気ないな…
俺は結構好きなんだけどな
19 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 07:16:36
武士が政権を握ったという点では平清盛も同様だが、平氏は公家化してしまったので新鮮味が無い。
源頼朝は実質的に武家政治を始めたという点でパイオニアであった。
画期的な業績を残したといえましょう。
頼朝好きだよ。ちなみに義経と清盛も好きだ。
時代を動かした才と、人間くささの両方があるから。
北条はやり手一族なのは認めるが、成り上がりの権力欲しか
見られなくて好きにはなれん。ただ、義時のやり方を
見ると頼朝のそれをそのまま踏襲していて、
ある意味正当な後継者ではあるんだよな・・。
我が子に甘い頼朝は、坂東の覇者として
生き残る厳しさを教えていなかった。頼家の後見に
もっとやり手を付けておけば・・。
21 :
平家万歳:2009/01/07(水) 16:28:26
はっきり言って頼朝より清盛の方が優れていると思うな。
源頼朝は貴族から実権を奪い、武士の時代を築いた。確かに貴族主体から武士主体の時代に
変えた時点で相当凄い。でも国を富ませたわけではない。清盛と違い、朝廷から距離を置い
て、政治を行ったのも優れた点だろう。
対する平清盛は、日宋貿易を盛んに行い、国を富ませた。今の貿易立国・日本の原型を作っ
たと言えるだろう。経が島築造などの公共事業をおこなったり時代の矛盾に行き詰まりつつ
あった貴族政治に新生面を切り開いた優れた政治家でもあった。正し娘・徳子を天皇の妃と
して実権を握るなど貴族と同じ手法をし、貴族化してしまい地方武士達からの信頼を失った
のは減点か。
まあ、清盛は父親の代から引き継いだ莫大な経済基盤があった訳で、
無一文の逆賊の子からからはい上がった流人頼朝とは
単純には比べられないかと。
何も持たなかった頼朝は、同族争いに血道を上げる
坂東武者達に秩序を与えてまとめ上げた。一歩間違えれば
自分が殺されるあやうい立場で、源氏嫡流(実際はライバルが色々いたが)
という出自のみを武器に武士・朝廷と渡り合ってた訳で、
文化や貿易まで手を広げる余裕はなかっただろう。
平重衡とか都出身の教養ある優雅な人が来ると喜んで
優遇してるあたり、日頃些細なことで刃傷沙汰になったり
裁判中に暴れたりする脳みそ筋肉坂東武士達を相手にしてて
疲れてるのかなあとホロリとするw
23 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:29:55
源頼朝が政権担当した期間はせいぜい6年。
それに対して平清盛は随分長い間政権を担当していた。
そのあたりも考慮して評価しないと不公平だわな。
ワンマンながら人格者で有名な清盛とは人間の器が違うでしょう。
身内を誰一人信じられず、狭量でねちねち殺していったんだから。
戦の天才の弟のうまい使い方すら、結局思いつけなかった。
源氏が完全に滅ぶもとを作った人。
実質、自分の兵を持たなかった(持てなかった)のが情けない。
嫁の実家一族頼みで。だからたやすく北条にのっとられた。
息子二人なんて結局、密室なぶり殺しに近いからね。
入り婿状態で、妾も持てないから子孫繁栄も限られる。
死ぬとき、畠山重忠の手を握り、頼家を守れ、なんていったつうのが
実に情けない。政治力のある、狭量バカの代表でしょう。
25 :
平家万歳:2009/01/09(金) 21:57:06
源頼朝は誰よりも情を欲していたんではないだろうか?源氏の棟梁という立場から
私情を挟んで勝手に官位に着いた義経を許すわけにはいかなかったというのもある
だろう。範頼に関してはせい疑心が強かったとしか思えないが。だから息子の頼家
を義経や範頼の代わりに愛したのではないだろうか?
26 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/01/09(金) 23:05:37
このスレに書き込みしてる連中の頭ん中はマンガとか歴史読み物とかでいっぱいなんだなw
くだらねえw
27 :
日本@名無史さん:2009/01/10(土) 03:00:50
人が信じられないから実の子以外は排斥するんですよ。
まあ、父親の惨殺のされ方、一族壊滅を幼い頃に経験したら、
そうなるのもしかたないと思いますけどね。
そこを超えて多少度量を持たなきゃ、人の上に立つなら。
だから源氏は滅びたんですよ。
29 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 16:40:28
源氏にしても平氏にしても、実態は暴力団だからなあ。
30 :
平家万歳:2009/01/15(木) 18:47:07
また26みたいな変なのが出てきたな。中傷するしか能のない唯我独尊野郎が。
そーいえばこいつ、前もどっかのスレに居なかったっけ?
三国志で例えたら禰衡みたいな奴だな。弁才だけ。
31 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 20:28:55
>>21 清盛は武士が朝廷の中枢に躍り出るということをして
古来からの権限を握る法皇らにうとまれて失脚した
頼朝は東国に独自の政権を作り中央には不干渉を貫いて成功したのだろう
別段清盛の天皇外戚政策は失敗でも何でもない
頼朝も尊氏も娘を天皇の后にしようと目論んだし
(この2人はいずれも娘の早世により失敗)
徳川幕府はこれに成功して和子を後水尾天皇の中宮にしたが
別に天皇家の外戚になったからといって武家が離れていくわけではないから
>>31 清盛は若い頃、祇園社と抗争して贖銅三十斤というのはあったが、失脚したことは
一度もなかったはず。失脚しまくったのは、院政派の面々。
頼朝は長い間、雅子のヒモみたいなもんで、北条に取ってはただの無駄飯食いの
肩身の狭い状況が続いていたから、内実は、雅子や北条には生涯頭が上がらなかった。
側室を持つだけでも戦々恐々しているのは、この時代、特殊な事情がない限り
あり得ない。
34 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:33:45
雅子w
35 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:37:44
人名(固有名詞)は正確に書かんとイカンわなあ。
36 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:57:12
ドラマの影響で貶めすぎ!日本史の英雄だよ!
同時代の世界の英雄達にもひけを取らないね!
英国=リチャード獅子心王
仏国=フィリップ尊厳王
独逸=フリードリヒ赤髭皇帝
ビザンツ=マヌエル征服皇帝
エジプト=サラディン寛容王
蒙古=テムジン=蒼き狼
日本=源頼朝=鎌倉殿
凄い時代に生きていたな!
37 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:59:41
38 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 23:01:53
同時代に誰がいたかは関係無ぇよ。
頼朝は頼朝さ。
まあ、頼朝が有能だったことは間違いないけどな。
39 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/01/18(日) 18:26:36
>>33 北条中心史観だなそりゃ。
ならなんでチャクシの頼家の乳父母は比企氏になってるんだ?
確かに頼朝は政子を大切にしてたが、生前の頼朝が北条中心してたわけじゃない証左はいっぱいある。
御家人間のバランスをよく考えてるんだよ頼朝は。
もっとまともな学問的な書物に当たれやアホ
40 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 19:02:23
確かにな。
比企を亡ぼした頃には、北条はまださほど強大な権力を持っていたわけではない。
41 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 23:21:34
亀の前の時は反撃に出たが
その後コソコソするようになったのは、政子の発狂ぶりのせいなのか…?
みんな吾妻鏡は読んだの?
43 :
家康:2009/02/03(火) 01:53:10
バイブルだ
頼朝の死因って何?
45 :
日本@名無史さん:2009/02/04(水) 17:56:30
吾妻鏡も、箇所によっては筆者の虚構や思い込み
があったりするし、肝心な箇所が抜けてたり散逸
してたりするからなぁ…
特に、頼朝の死ぬ前後は。
…てか、そもそもの所から変だけどね。
清和源氏の人々の事跡の殆どが、確固とした裏付
けに乏しい…吾妻鏡や玉葉も決定的な記録ではないしなぁ…
今、その時歴史はで、義朝を取り上げてるけど、義朝主人公で、大河をやってもらいたい。
48 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 01:50:11
それすごく希望!
ただ今日の番組のように保元・平治の乱中心に展開すると、むしろ主役は後白河や祟徳の方になっちゃう恐れもw
(まあそれ以外にも父為義と疎遠になっていく過程とか、弟義賢との嫡子の座を巡る争いとかネタは結構あるけど)
やはりクライマックスは平治の乱に敗れた後、長田忠致に暗殺される所になるのか。
49 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 04:04:49
源頼朝とは武家の英雄です
50 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 00:20:13
風呂場で殺される最終回…やだなぁ
義朝から実朝までを描く大河ってのは?
情けない死に方だよね
子孫も絶えちゃって…
人物の器が小さい感じがする
義朝の子孫は絶えとらん
源氏ってどうして身内争いばかりなの?
馬鹿なの?
範頼や義経が生きてたところで源氏の結末は同じだったような気がス
全成も死んだし
尊氏と比べると、人間としての器が小さい。
どこが?
頭周りのことじゃね?
平家物語の頼朝身体描写ってむしろ褒めてるニュアンスなんだよね…
顔が大きい=豊頬ってこと?
伝頼朝画って、足利直義なんでしょ?
実際の頼朝って、どんな顔立ちだったのだろか?
ホストの頼朝みたいだったのかなw
顔大キニ背低キカリケリ 容貌優美ニシテ言語文明ナリ
神みたいな姿だったらしいよ
65 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 05:43:38
カリスマ性は有ったのか
名古屋の誓願時に碑あるよ。
67 :
誤解もあったんだろうな:2009/03/02(月) 21:35:43
汚いやつ By 奥州市水沢区民
68 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 20:31:54
頼朝はスターリンみたいな男。
69 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 23:25:24
70 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 23:40:07
なぜに征夷大将軍という官職にこだわったの?
72 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 00:16:24
奥州征伐のためだろ。
73 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 16:46:07
違う。
頼朝は「征夷大将軍」なんて官職を切望したわけではなかった。
「大将軍」みたいな、鎮守府将軍とかよりも上位の官職に
任じて欲しいんだけど、と要求したら、じゃあ征夷大将軍に
してあげよう、と朝廷の側が言ったのだな。
『明月記研究』に載った櫻井陽子さんの論文読め。
74 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 17:57:03
五月の連休に俺は神護寺に肖像画を見に行ったんだ。
普通の座敷に掛けてあるから目の前で見ることができた。
カッコよかったぜ。
75 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 18:30:09
いや、それは足利直義だろ、と突っ込みがはいると思うが、
ぼくは頼朝で良いような気がするんだがなあ。少なくとも
どっちが尊氏でどっちが直義か、簡単に決めらんないだろ。
等持院の木造は参考にならんのか?尊氏
あの木像と伝重盛の絵ってそっくりだもんね。
アレ見たら神護寺も足利兄弟だろと思う。
ただ頼朝の絵もあったはずなんだよね。どっかから出てくるとか
ありえないんだろうな・・。
黄瀬川の絵は?
現存する腰越状って後世に作られたものなの?
農民義経って何ですか?
81 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 00:40:19
挙兵以前の頼朝には「名字」って無いの?
「鎌倉殿」が名字みたいなものかな?
82 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 10:19:09
83 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 11:08:40
>82
じゃあ神護寺のタレ目でそっくりなのはと単なる偶然??
神護寺のタレ目肖像画が、平重盛とされていたのが不思議。
『天子摂関御影』の重盛とは似ても似つかない。
兄が弟を殺す行為
は黒歴史の始まりを意味する 武士の歴史は黒歴史
ユダヤ社会ではカインアベル
ローマではロムルスレムス
日本では頼朝義経
スケールの大きい気味の悪い出来事が始まる予兆
また時代に選ばれればこのような事態は繰り返すのだ
兄が弟を殺せばアレクサンダーやチンギスハーンのような
連中がまた威張り散らすだろう
黒歴史は再来するのだ
ロムルスがレムスを殺してアレクサンダーが出現したことと
頼朝が義経を殺してチンギスハーンが出現したことは偶然の一致だと
思えない
そこには必然的な黒い運命があるのだ
カードゲームみたいな展開
兄弟と言っても母親が違うし、明らかに義経の無知さ加減にやむなく
だったんじゃないの?
義経の無知というのは、平時忠の娘を妻にしたこと?確かに平氏残党との
つながりを疑われても仕方ないけど、京都の治安維持に携わるために
検非違使別当だった時忠のノウハウが欲しかったのかもしれない。
法皇から勝手に官職を貰っちゃったことです。
92 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 19:05:41
いずれににしても後々、邪魔になって消されたんじゃないかな
糊頼にも因縁つけて殺してるくらいだからな
自分の子孫のライバルになりそうな身内は全部殺すよ
94 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 03:00:41
足利 義兼なんかヤバイと思ったのかとっとと隠居しちゃったし
95 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 06:00:54
いやぁ、曽我兄弟にはビックリさせられたよ
96 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 07:30:06
97 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 07:31:56
のりより殺しは因縁ではないだろ?
北条時政や大庭景義らジジイ世代のクーデター
の中心にいたからじゃねえの?
>>91 自由任官問題が実際にあったかどうかは疑問。そもそも、義経が勝手に検非違使に
任官したため、頼朝が激怒して平氏追討使から外したと説明するのは、『吾妻鏡』
元暦元年(1184年)8月17日条だけで、同時代の記録には見られない。
他に義経が自由任官をしたと書いているのは、『源平盛衰記』。ところが、
他の『平家物語』諸本(延慶本・長門本・四部本)では、単に義経・範頼の
任官記事を一括記載するのみで自由任官・頼朝の激怒などという記述はない。
『源平盛衰記』の自由任官の記述は、著者による後補の可能性が高い。
元木泰雄氏は、翌文治元年(1185年)の院御厩司就任と、伊予守に任じられながら
検非違使に留任したのが関係悪化の原因ではないかと推測してますね。
99 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 12:20:47
吾妻鏡は、あてにならない箇所が多いのですか?
鎌倉時代後期の編纂ですし、『平家物語』と五十歩百歩といったところでは?
全面的に信頼するのはどうかと。
全面的に信頼できないと言っても、反証できなきゃ信頼するしかない
詳しそうな方がいるので伺いますが
頼朝の死因については落馬で本当にいいんですか?
>>102 落馬ということになっている。
そのほかにも説が無いことはないが、落馬説をしのぐ論拠があるものは無い。
落馬で決まりらしいですが、
落馬の原因は亡霊説、急病説とありますな。
俺が「落馬ということになっている」と書いたわけだが・・・・・
「〜ということになっている」というのは、「落馬で決まり」とはニュアンスが違うのだよ。
落馬だと断定しているわけじゃあないのさ。
歴史においては、どうしても分からない部分はあるのさ。
分からない部分は、無理に断定してしまうのではなく「わからない」としておくのが正しい態度だと俺は思う。
106 :
104:2009/03/20(金) 15:32:24
そうですね。
断定したみたいですみません。
吾妻鏡の記述がないことは、北条氏の関与を疑わせる記述がされていたってことだろう。
読む人が読めば感付くような記述が。
やっぱりお義父さんの仕業っすか
>>108 北条氏だけじゃなくて三浦和田といった功臣たちの総意じゃない?
再現ドラマ一瞬タッキーかと思った。
112 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 20:10:25
113 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 20:16:26
天皇と源氏に相対する、藤原家・北条家ってなんか似ていない?
一族を崩壊させた最低な棟梁にしか思えないね
失態はあっても裏切っていない身内(義経他)を皆殺し・・
元就も弟を殺してるけど謀反の清算だし、その反省が兄弟一族の結束という大方針に生かされてる
清盛、尊氏、元就、家康・・ >∞> 頼朝
115 :
日本@名無史さん:2009/04/30(木) 20:55:29
頼朝は、俺は、北条家の傀儡政権にさせられた気がしている。
寄生虫の様な人たちが、巣を造り寄生していく。
鎌倉幕府の奇跡は、朝廷を存続させた奇跡だと思う。武力で取った権利だけを認めさせて、朝廷は存続させた。
日本だけに残る、世界史では何処にも存在し得ない。
頼朝は、何を望んだのでしょうか?
私は、頼朝が一族を崩壊させたとは思えない。黒幕はいるわけで。
ただ、頼朝がした事は、日本天皇家の万世一系という世界で唯一の歴史を作ったと思う。
日本は、天皇家の為にあるとは誰しも思わない事でしょう。ただ、日本の歴史の中で、常に日本史の中には存在する天皇は、私は大きな敬意と畏敬を感じてやまない。
源頼朝は偉大な日本人の一人だと、心から思う。
修学旅行で鹿児島行った時バスガイドのお姉ちゃんが「島津忠久は頼朝の子」って言いきってたぞ。
清盛が南都焼き討ちを敢行したり、義仲が天台座主を殺害したことに比べれば
頼朝は、宗教勢力に弱腰な印象がぬぐえない。建久2年(1191年)に延暦寺が
起こした強訴では、佐々木定綱を守りきれなかった。
118 :
日本@名無史さん:2009/05/09(土) 07:41:27
頼朝が信仰を持っていたからかも。
だから宗教勢力を攻めるのは、躊躇してしまった。
あるいは、その気も無かったかもしれない。
夜這いにいったら不審者と間違われて斬殺
これが一番らしいかもw
東国武士団なんてヤクザのあつまりやん
>南都焼き討ち
>天台座主を殺害
これはやっちゃいけなかった事
悪僧は神仏の名を騙って何をしても許されるが、武士はひたすら耐え忍べと?
実際、内裏を守護していた安田義定の配下は、無抵抗にも関わらず延暦寺の衆徒に
殺害されていますね(『吾妻鏡』建久2年5月3日条)。
122 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 00:46:26
前から疑問だったんだけど
阿野全成は阿波局と結婚したってことは還俗したのかな?
出家の身では妻帯できないよね?
でも還俗したとは聞かないし
詳しい方教えて
別に・・・・
妻帯してる坊主なんかいくらでもおるやん。
大谷家なんか代表例だしさ。
清盛だって出家したけど、妻を離別なんかしてないしさ。
124 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 21:02:47
>>123 浄土真宗は特別でしょ
清盛が結婚したのは出家する前でしょ
浄土真宗以外の僧侶が結婚してもよくなったのは明治以降だよね
それ以前も妻帯する僧はいたらしいけどそれも非公式のものだよね
阿野全成は頼全、時元と子供までいるし
中世は僧侶は戒律をまもってたとおもうけど違うのかな
125 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 21:13:33
カリスマ・ホスト
社会のゴミ
>>124 何事にも本音と建前があるわけさ。
たとえば琵琶湖の西岸に坂本という地がある。
明智光秀の居城が在ったことでも知られるが、元々は比叡山の僧たち用の遊女街として栄えた所だよ。
建前上は女犯は大罪で、ばれれば破戒僧として追放される掟があったわけだが、その一方で半ば公然と女郎買いが行われていたのさ。
坂本の北隣には雄琴という街があって、そこは今でも全国有数の売春街だ。
現在の法律では売春は禁止されているのだが、現実には大いに栄えている。
128 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 10:51:19
おお、ナイス・レス!
129 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 20:46:59
>>127 その本音と建前の問題なんだよね
本音として女犯戒やぶる僧は昔からいただろうけど
建前上結婚できない僧が公認される子供を儲けることはできないはず
阿野全成の例は還俗したとしか考えられないんだけど
その様子もないってのがわからんな
>>129 だからさ、出家と言ったって形ばかりのものさ。
そんなのはいくらでも例がある。
よく知られたものとしては、白川院なんか典型的。
孫の鳥羽天皇の后にまで手を出して子(崇徳)を産ませたほど。
131 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 20:45:24
白河法皇は清盛の父ともいわれてるけど
建前上憚られたから子供とされてないでしょ
いくら形ばかりとはいえ
出家の身で公に認知される子供をもつことはまずない
だから、それは実態とは違うわけさ。
>>115 >頼朝は、何を望んだのでしょうか?
やっきになって娘達を入内させようとしたとこに集約されてるんじゃ。
表向きは地方武士の棟梁だけど、この人の資質は武士よりも公家だと思う。
むさ苦しい猛者達に囲まれながら心の底で京の雅さに焦がれてたというか、
今は田舎者になりさがったが、都育ちの自分は粗野なだけの武士とは違うぞ
みたいな、コンプレックスとプライドが常に混在してたと。
もしも娘の入内が成功してたら・・・
公家的ライフを大いに謳歌してたような気がするよ。
134 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 22:59:42
>>132 実態と違うなら 明治以前で 親鸞の門徒系列以外で
出家の身で公認された子を儲けた例が他にある?
135 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 23:42:12
136 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 00:02:49
>>135 中川宮は還俗した後の子供しか公認されていないよね?
それ以前もいただろうけど宮の子としては認められていないはず
137 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 02:10:05
北条親子にうまいこと利用されたにすぎない
言われるほどたいした人だとは思わない
139 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 22:42:04
140 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 02:40:28
武家の頭領
義経を生かす選択をすれば、子供たちを虐殺されずに済んだと思うな
142 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 01:38:51
政治家が結果として評価されるならば
日本史上有数の政治家だと思う(個人的見解だが)
理由
1.院政が行き詰まった後の社会的混乱を取り敢えず収拾した(治安の回復)
2.経済を担う開拓領主の利害を国政レベルに反映させた
彼個人の指向(多分貴族の末裔との意識)と別に考えた方がいいのでは?
143 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 03:10:02
最初の挙兵のころと違ってカリスマ性を身に付けたな
そうでなければ義経と対立した時に彼に味方したヤツがいただろう
144 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 07:29:13
頼朝は「鎌倉殿」と呼ばれたけど、彼の名字は「鎌倉」氏なのだろうか?
息子の実朝も「鎌倉右大臣」なんて呼ばれてるよね。
鎌倉頼朝?鎌倉実朝?
京都派と関東派のバランスを取っていたけど
次第に関東派に押し切られ、
義経を切り捨て、恩人だった梶原も切り捨てた、
ついに北条の都合のいい操り人形になりはてた
そして源家滅亡へ
>>144 名字はなかったのですが、もしあの家がもう少し続いて名字を使うようになっていたら
鎌倉氏だったかも。平清盛家も「福原氏」あたりに。
>>146 天皇に氏がないように、源氏将軍家が相当期間続いていれば、
苗字がないままだったかもしれないな。
ちょうど苗字というものが定着する時期というか、
頼朝とのかかわりを重視して、御家人たちの子孫が、
苗字の地を離れ、直接のかかわりを持たなくなっても、
頼朝時代の名乗りを続けるようになったから定着したんだろうな。
公家も武家に習って家名を固定するようになった、
これは摂関家が5つに別れたという事情もあるんだろうが。
だったら、その源たる将軍家は、苗字はなくてもいい。
鎌倉氏だと、鎌倉党の武士を想定するんじゃないかな?
>>147 いやいや、もしそういう流れになっていたなら、大掾氏や少弐氏のパターンもあるわけで。
149 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 17:51:32
将軍氏?
地名を苗字にする例は多い。
名前を苗字にした例も在る。
平時国の子孫が能登に残っているが時国(ときくに)が苗字になっている。
吉師→貴志、岸
152 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 13:00:37
鎌倉に修学旅行いったとき、源頼朝の墓?の前まで行ったんだ。
仲間はみんな平気で階段上っていったんだけど、俺はどうしても入れんかった。
何かは解らんが強く鋭い「拒絶」を感じた。断固とした感じよ。
怖くて上れんかった。
それから十年たって、まあ俺も、街中でヤカラと喧嘩したり半ばチンピラみたいにフラフラしてたわけ。
その頃、当時の同級生に再会したんだ。そいつはもう立派なチンピラでさ、墨入ってるし牢屋から出て来たとこ。
昔話で修学旅行の話になったとき、そいつが突然言うわけよ。
「鎌倉の頼朝の墓のこと覚えてるか」って。
「俺はあそこ、どうしても恐くて入れんかった。お前そんなことなかった?」
って俺に聞くんだ。
お前もか、と感じたが黙ってた。
あそこはな、中途半端に悪い人間は入れてもらえないんだな。多分。
153 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 13:11:05
俺は神戸に住んいたんだが、古戦場だったあたりはよく出るんだよ。家の裏庭で鎧武者を見た知り合いもいる。
でも震災の霊なんて見ないよ。
思うに、昔の名の知れた武者になるような人物の念ってのは、今の地震や空襲で虫けらのように死んだ一般市民の念なんかより、遥かに強いんだと思う。
何百年経っても、情念の強さと深さが桁違いなんだわ。
154 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 13:13:08
例えば御影公会堂なんか、そんなにヤバイ感じはしないんだ。
でも頼朝の墓は、あれはヤバかった。
155 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 15:01:51
しー!!構っちゃイケマセン。
真面目に聞いとけよ…
お前ら恐い物知らずだから
そんなこと言ってたら爆心地近くのアニメイトとか行けない。
虫ケラのように死んだけど、むごい死に方をした人大勢だからな。
天災は諦めがつくけど、人災は怨霊が残るんじゃないか?
怨霊なんてモノを本気で信じてるのかよ? ぷっ!
平安時代やその前後の人々が怨霊を信じない近代合理主義を持っていたと考えているのかよ?
人骨パラダイス鎌倉は十分心霊スポット
自分も小さい頃よく見えた
夜中起きたら知らない着物着た女の人立ってたり
>>161 現代での話をしてるのに、突然平安時代とか言い出す馬鹿はおまえ。
話が変な方向に行っているが、
怨念とか何とかは別にして、
武士というのは執念深いよな。
>>164 執念深い武士もおったやろうけど、潔い武士もおったげな。
潔く腹切ったから化けて出ないという事でもないのではなかろうか。
>>167 公家でも、菅原道真なんかは随分執念深かったようだぞ。
なにしろ死んでから雷になって復讐したって言われたくらいだもの。
番町皿屋敷のお菊さんとか、お岩さんなんかも執念深いぞ〜
169 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 23:52:09
>>142だが
後付け加えると
3.王朝時代から治外法権的になっていた奥州をともかくも中央権力の支配下においた
本当の中央権力が確定するのは承久の乱(?)以降だけど
170 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 02:14:18
武士に怨霊無し
怨霊なんて無いわな。
武士に限った話じゃねぇよお。
173 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 20:52:10
>>158 戦災で大勢が死んだような土地は、街全体が荒廃してゆくんだよ。
ヤクザ者がはびこったり水商売の街になったりな。
174 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 20:53:45
神戸は震災後、ラーメン屋が増えたが。
>>173 東京は戦争で焼け野原になったけど?
名古屋も、仙台も、大阪も・・・枚挙にいとまがないねえ。
だけど今栄えてるぜ。
176 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 03:03:58
逆に降伏間近まで大規模な空襲から免れていた大都市は広島、新潟、小倉、京都
すべて原子爆弾投下予定地
177 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 20:38:46
頼朝と全然関係ない話になってるな〜。
178 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:20:33
頼朝原子爆弾
179 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/06/24(水) 21:21:06
>>175 別に
>>173は間違ってはいない。
むしろ正しいよ。
敗戦時の混乱でかなり土地所有権利関係の混乱や新たな歓楽街の出現を来たしたしね。
変なホテル街風俗街は敗戦以後に形成されたのも少なくないよ。
180 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:42:46
それは具体的にどこ?
広島と長崎?東京?
181 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:08:14
182 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:16:21
183 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/06/24(水) 22:49:16
>>181 当たり前だろバカ
大都市で一概にいえるわけねーだろうが!
鶯谷。大久保なんかそうだ。
ていうかオマエ田舎者だろ
184 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:08:28
185 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:51:33
186 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:52:14
187 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 00:27:42
188 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 13:48:56
美の巨人で「洞窟の頼朝」
源氏の御曹司とは、どういう立場だったのか、わかりにくいですね。
鎌倉幕府も結局は坂東平氏である北条氏が執権となって支配されてしまったわけだし、
源氏は関東では影が薄いような気がします。
先週の「天地人」でも、源氏の血を引く小国家という言葉をさんざん使って
ましたが、室町幕府の関東領官だった上杉家より名門だと言いたいのでしょうか?
その小国家の由来は、コグリョ(高句麗)だと思われるし、源氏も渡来人では
ないでしょうか?源氏とは何か?謎が謎を呼びます。
190 :
笠間2−5−1:2009/07/26(日) 00:24:09
大船も、鎌倉の仲間入りしていいですか?
>>189 清和源氏とか嵯峨源氏とかの清和や嵯峨の意味わかる?
192 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 07:19:26
頼朝以前の鎌倉の領主は誰?
193 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 17:43:07
195 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 00:30:50
義家と大江国房
頼朝と大江広元
196 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 07:56:14
197 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 21:28:39
>>192 鎌倉氏(その後大庭など別の名乗り多し)
頼朝は領主というより彼自身が荘園領主、知行国主(権力が確立してからだが)
開発領主たる一般御家人とは立場が異なる
198 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 06:28:54
頼朝は北条一族に暗殺された?
199 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 07:34:24
なぜ頼朝は「鎌倉氏」を名乗らなかったのだろう?
「鎌倉殿」ということは、「鎌倉頼朝」と名乗ってもおかしくないのに。
200 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 17:15:45
源氏が武家の棟梁なんだから名乗る必要ないじゃん
201 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 19:10:55
いや木曽義仲は木曽だったぜ?
源氏と銘打ったのは後世だろう。
頼朝は鎌倉頼朝だったと思うよ。
本家筋の人間だったからそれを強調したかったんだろう。
なんせ頼朝鎌倉入りの段階では
源氏は事実上滅亡していたのだから。
202 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 19:15:00
鎌倉権五郎
鎌倉悪源太
203 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 19:51:14
鎌倉は恐いよ〜
心霊スポットてんこ盛りだよ。
横浜側から鎌倉行くと雰囲気がガラっと変わる。
それは悪い意味じゃなく、古都そのものだが。
鎌倉市内の駅降りると京阪間の私鉄駅と雰囲気が似てる。
ただし、山に少し入るとすぐ人里が遠くなる。・・・気がする。
空気が澄んで喧騒が嘘のように遠のき錯覚が湧く。
というようなところに観光スポットがあるので、本当に恐い。
住人がマジギレして『肝試し立入禁止』と立て板するくらい。
裏歴史になって後から発見されたものとかがある。
『腹切りやぐら』とか
http://nats12.cool.ne.jp/NATS/KANTO.1/HARAKIRI/HARAKIRI.html
前九年の役の源頼義,、後三年の役の源義家の武名が
関東の武士が源氏の嫡子頼朝を支持した拠り所なのだから、
源氏の名を捨てたらだれもついてこないじゃないか。
205 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 21:11:37
別に当時は苗字と名前が一対一になってたわけじゃねえんだから
源連合鎌倉一家頼朝組々長三郎 くらいでいんじゃね?
206 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 21:20:54
そんなものしらねんよ!
208 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 14:50:31
>>207 いや途中にも書いてあるけど
鎌倉悪源太義平とかあるだろ。
鎌倉頼朝でいいんだよ。徳川家康が源家康なのとおんなじだ
209 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 18:48:34
伊豆頼朝でもいいんじゃないか?
あーそれもう別にいたから。
初老の伊達めがねの男だったらしい。
後三年の役で勇名をはせた鎌倉権五郎景政という人物おり、
その子孫に頼朝の側近、梶原景勝という人物が既にいる。
頼朝は、同じ前九年の役で東国の覇者となった源頼義の子孫
を名乗るわけだから、鎌倉氏を名乗ることなどありえない。
どうしてそんなことがわからないのだろう?
だって鎌倉氏なんてモンはいないから。
大声で言ったモン勝ちだよ。
鎌倉氏はタダの鎌倉野郎くらいの意味だべ?
そのゲンゴロウはwikiだと平氏だろ。
氏なんて単なる党派の名前なんだから
自民党竹下派みたいなモンで。
平家でなければ人ではない時代だから全員平氏だっただけで。
213 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 17:03:25
214 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 00:37:07
北条氏は頼朝のことを「助殿」と呼んでいた。
だから「助頼朝(すけのよりとも)」が正しい。
「草燃える」でも「義経」でもやっていたから間違いない。
215 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 12:35:03
スケキヨ殿
217 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 14:34:29
鎌倉殿という言葉が使われだしたのは、頼朝が奥州藤原氏を討ち東国の支配体制が完成した
時期と重なる。頼朝が権大納言、右近衛大将に任ぜられ、頼朝と主従関係を結んだ西国の豪族
との関係が「鎌倉殿」と「御家人」だったのです。
219 :
日本@名無史さん:2009/10/19(月) 18:56:27
征夷大将軍になってなければ源頼朝じゃなく、伊豆頼朝としか呼ばれなかったのは間違いない!
木曽義仲が天下とってれば、源義仲になってたと思うよ
結局、義仲は田舎もの。都の朝廷にうまくあしらわれた。
そこへ行くと、頼朝は伊豆に流される前に都に住んでいただけに朝廷流の政治に精通していた。
頼朝が伊豆に流されたのも、このまま都に置いておくと朝廷にとって危険だと思われたからだろう。
しかし、その頼朝も、結局は平氏の流れをくむ北条氏に操られただけだと見ることもできる。
ところで、天皇の血を引きながら源氏は貴種と言われ、平氏より上だと見られていたのはなぜか?
それはいわゆるシャーマンの血をひく予知能力を持っていたのではないか?と言ったことを書いてい
る研究者は結構多いようです。
221 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 15:37:47
自分は一度だけ、7年後を予知したことがある。
222 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 21:59:10
落馬で死
223 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 22:56:40
224 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 23:29:40
225 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 23:32:52
>>6 科学の対象じゃないよ。科学内でも謎はたくさんある
くだらない迷信にかかずらう暇などないんだ
226 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 23:49:31
>>222落馬で死といえば、平将門もそうだったと伝えられている。
こういう話は眉唾もので、実は、何者かに馬を射られて落馬、
どさくさにまぎれて首を討たれた内部犯行説が臭い。
228 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 20:27:35
>>227 糖尿病だったらしいから
落馬での怪我が治らなかったのでは?
よく権力闘争による暗殺と疑われるけど
頼朝存命中は御家人への統制は強かったとおもわれるから
それはないような気がする
幕府を作ったのが素晴らしい
頼朝は腹の底が見えない。にこやかに笑っていても、裏で邪魔者を抹殺する
算段をしているような怖さを感じる。義仲は建前がなく本音だけという印象。
231 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 00:58:31
伝説、民話のたぐいとは思いますが、思い出せず悩んでます。
頼朝が伊豆にいるときのこと。
三島大社に通う際に茶店によっていたが、急に顔を出さなくなったので
店の婆が心配して三島大社まで団子だかもちだかを届け、
源氏の武士とは知らずに頑張って天下を取ってくれと励ました。
時は過ぎて茶店に立派な迎えがきて婆は将軍頼朝に引き合わされ、昔の礼に何でも望む物をいえといわれ、
もう年だから仏を拝んで余生を送りたいと答え、頼朝は寺を建てた。
この寺ってどの寺でしょうか?
232 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 21:46:47
よくもわるくも源氏の棟梁。
同族殺しの血統をキチンと受け継ぎ、次の世代で直系滅亡。
源氏は同族殺しの血塗られた血統、直系傍系問わず同族殺しの争いが異常に多い。
233 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 07:42:00
平清盛の武家政権を略奪し、身内を殺し、馬鹿嫁に操られたデブ
234 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 11:26:20
清盛は強運の持ち主
生きていたとしても巨大な餌でしかない
晩節を汚されずに済んだ
235 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 11:32:06
頼朝が土佐に、希義が伊豆に流されていてもたいした違いは無かったのかな?
頼朝自身の人格にいみはないということで。
236 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 16:53:39
>>229 頼朝に幕府を作ったという意識はないだろう
237 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 18:26:53
>>235 無いんじゃね。
史実の希義、あの環境下ではあれ以上どうしようもないだろう。
238 :
231:2009/12/31(木) 20:33:19
>>231の寺、自分で思い出しました。
成願寺の餅売姥だ。
ということで今日東名をバイクで走って見に行ったけど寒かった。
しかし、この伝説は物語としては魅力的だけど、本当なんでしょうかね。
239 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 23:39:38
頼朝は北条家や御家人衆に
用無しになってので殺されたよね。
表向きには落馬で死んだ事に成っているけど。
240 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 23:41:44
しかも、出家した二日後に死ぬってwwwww
それだけかつがれてたってことだよな
幕府は坂東の武将の連合が作ったんだからな
>>235 伊豆の北条氏に出会わなければ、関東の武士団の後押しがなければ、
頼朝が蜂起することは不可能だった。
また、頼朝ほどの知性と人徳がなければ、関東武士団をまとめあげることはできなかった。
せいぜい、紀貫之のように、日記くらいしか残せなかったろう。
この時期の武士って日記なんか書いてたっけ?
九条兼実、中山忠親、平信範、吉田経房。
貴族しか思い浮かばない。
とりあえずあの有名な肖像画は尊氏の弟ということか?
新説・珍説にすぐ食いつくとマスコミ脳になるよ
246 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 15:41:53
よりともって何もしてなかったんでしょ
北条の傀儡政権
QEDって小説でやってたよ
知性や人徳では坂東武士の腹は膨れないし、そんなもんが頼朝にあったら
20年も無駄にプー太郎せず、とっくに事を起こしてただろうに。
坂東武士の強情さ、血の気の多さはDNAなんだろうね。
坂東はその昔半島系移民の溜まり場で、蝦夷は北に追いやられ
だから京の公家さん曰く、異域の蛮族、同じ人でなし。
1でも10と主張する我の激しさ、そのくせ風が吹けばクルリと回る変り身
の早さ、武士の「武」に信も義もへったくれもないし、まして、京育ちの
お坊ちゃまにやすやす手綱を取らせるほど連中は甘くない。
旧家人らにことごとくコケにされた源家の嫡流が、ドン詰りの末、平氏の
端くれにすがった。その時点で、結末はすでに見えていたようなもの。
248 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 13:11:57
>>247 司馬遼太郎に影響されたの?
彼は朝鮮大好きの小説家にすぎないんだから本気にしないほうがいいよ。
>>247 朝鮮系渡来人の本場は畿内だよ
古代史、人類学の常識ですよ?
250 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 14:21:10
251 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 14:26:29
縄文人?w
バカだなwwwww
渡来人の巣窟が畿内
253 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 15:35:13
>>252 朝鮮人の巣窟が関東だろw
近畿は縄文の発祥地であり日本の発祥地
嵯峨天皇は、歴代天皇の中で最強の性豪で、40人の妾と50人の子供がいて、
最初の頃は皇子として大事にされたけれど、その後は跡取りのいない貴族や地方豪族
の養子に出したり、寺や神社に出したりしたけれど、そのうち引き取り手さえいなくなって、
仕方なく天皇の子供でありながら源氏を賜姓して臣下に下し、共同生活をさせていた。
それが源氏の始まりだそうです。
嵯峨天皇以外にも同じ血を引く性豪天皇が大勢いて、12代景行天皇の81人は別格としても
桓武35、嵯峨50、文徳33、光孝45、醍醐39、淳和13、仁明24、清和19、宇多22、村上19とみな子だくさんです。
明治天皇は15人ちなみに 11代将軍の徳川家斎は54人 明治の元勲松方正義は24〜25人
皇太子浩宮も学習院時代やオックスフォード時代に子種を残しているのではないでしょうか?
それが雅子さまの御病気の原因かもしれませんね。
畿内古墳人は
渡来系古墳人の中でも渡来形質が特に際立っている集団である
畿内古墳人は
韓国・朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属し
縄文人から最も離れている
関東・東北南部古墳人は
渡来系古墳人の中で縄文人グループに最も近い
『日本人のきた道』 (池田次郎・京都大学名誉教授 自然人類学)
時代遅れの研究もちだしてw
遺伝子だと関東などの東日本が
朝鮮と違いことが証明されてますけど
>>256 何が時代遅れなのか説明よろしく
例も出せないだろ
自然人類学/岡崎健治(2009.2)
歯冠計測値28項目に基づく主成分分析に見られる性差の集団間差異
に見られる縄文人からの距離
縄文人→近世アイヌ(北海道)→近現代関東人→近現代近畿人
258 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 16:46:49
それで、頼朝との関係は?
頼朝も縄文人の子孫だと言いたいわけ?
253の間違いを指摘しただけ
260 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 17:22:49
>>260 まさかそれを出してくるとは驚き
事実と反する粗略な図を見せられてもね
☆B44-DR13の分布
朝鮮半島 7.0% ←
東海地方 10.7%
近畿地方 6.6% ←
関東地方 5.7% ←
★B54-DR4の分布
朝鮮半島 4.4% ←
東海地方 7.8%
関東地方 7.5% ←
近畿地方 6.6% ←
☆B44-DR13→北陸〜秋田にかけて多く、近畿・東海地方で頻度が高い。
『モンゴロイドへの道』(朝日選書)
7世紀後半以降、日本各地の半島人を東国の未開の地 武 蔵 にまとめる必要がおきた。
〓 666 年 「 百済人男女 2千余人 東国強制移住 」
〓 716 年 「 高麗郡の設置 関東の高麗人 1779人を武蔵国に強制的に移す 」
〓 760 年 「 新羅人131人を武蔵の地へ強制的に移す 」
1600年 1700年 1800年 1920年 1960年
15 万人 85 万人 130 万人 400 万人* 1000万人*
畿内の帰化人をやっかい払いするために
東国へ移住させた
>>262 とりあえず渡来人流入の最盛期を把握しようね
264 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 17:52:19
大王の中の大王、天皇がその支配民と同じ遺伝子を持った代表者なのか?
それとも異民族の征服者なのか?
その辺を明らかにしないければ、遺伝子統計学的な手法で出された民族集団と
皇統という血族関係を同一に扱うことはできない。
>>262 日本成立後の渡来人(not弥生)の一部が関東に移されたということなのかな。
ただ、関東は縄文時代からの人間も多く、近畿は縄文時代の人口が少ないので
弥生の割合が高い感じ?
その日本成立後の渡来人(not弥生)は、ほとんど関東に移されたのかな。
それとも近畿にも留まった?
鶴岡の大銀杏が倒れたそうだ
269 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 16:49:25
近畿は中国人だらけということだね。
★源頼朝
政治◎ 奸悪 卑怯 家康がかわいく見えるほどタチが悪い
軍事△ ほとんど戦功はなし 陰湿な暗殺指令を連発
★源義経
政治× 白痴のレベル
軍事◎ 信長と並ぶ世界史上の不世出の天才
★木曽義仲(源義仲)
政治× 白痴のレベル
軍事○ 源氏の中では義経の次に優秀
★新宮行家(源行家)
政治◎ 根回しで源氏を平家討伐に立ち上がらせた策士 卑怯で恩知らずで節操がなく自滅
軍事× 戦うと必ず負けるw
★源範頼
政治× 白痴のレベル
軍事× 白痴のレベル
★北条政子 頼朝の妻 女で実質的に将軍になった唯一の人物 頼朝を強チンした元祖肉食系女
政治◎ 奸悪 卑怯 冷血 頼朝が善人に見えるほどタチが悪い まさに鬼女
軍事−
271 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 02:30:16
源氏なんていうのは天皇の子せがれの子孫なんだから、
他人を策略で貶めること以外に脳のない連中。
関東平氏による武家政権樹立に担ぎ出されただけだ。
273 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2010/04/24(土) 21:42:21
>>270 政治力を義経と義仲を同等にしちゃダメだろw
義経はそれなり“政治”うまくやってる。
京ではそれなりに評判よくてうまく動いていたのも研究者には論じられてるよ。
ただその“政治”と頼朝の“政治”が軋轢を生むんだよね。
源氏長者は一人でないと・・・
275 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2010/04/24(土) 23:19:27
源氏長者も知らないとは・・あきれた
277 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:28:05
厳密に言うと、東北や九州が縄文人な。 んで近畿や関東は弥生人だけど、奈良時代に帰化人が流入し、弥生人を混乱させた。
弥生人は日本特有の大和民族であり、関東は京から見れば田舎者の大和民族にすぎない。
278 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:37:04
源氏や平氏などは関東の田舎の縄文人や弥生人を武装させ、武士に仕立てあげた。彼ら下級貴族や下級官人は勢力を強めるために、田舎者を武装化させ、農地を獲得していった。
279 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2010/04/24(土) 23:42:33
>>276 きゃははははバカまるだし〜。
中世の鬼と呼ばれた(嘘)わたしが知らいでか!知ってるに決まってるだろw
「なんじゃこりゃ」の意味がまるでオマエには分からんらしいなw
教えてやる。頼朝は源氏長者じゃねーんだよ。
つーか源氏長者が何たるかも知らねえオマエの無知さには笑いが止まらねー
きゃははははo(^▽^)o
280 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:46:37
戦がある時は武士は侍や兵士として参加し、平時の時は武芸、書道、茶道などを嗜んだ。
徳川家などは、それらの流れを組む三河武士の子孫という事だ。
281 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:56:16
>>279 源氏長者を知ってるだけでそれほど嬉しがる人って・・・
282 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:03:20
283 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2010/04/25(日) 00:15:29
>>281w
>>276はオマエだろw
頼朝が源氏長者だと思いこんでた無知に笑ったのさw
ああバカまるだしだなw
284 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:48:53
>>283 源氏長者を知ってるだけで得意がっている武陽隠士って・・・w
恥ずかし〜〜い。読んでる人間が赤面してしまう。
頼むからもうちょっとレベル高い話をして得意がっておくれでないの。
285 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2010/04/25(日) 00:54:40
>>284 ああやっぱりw
頼朝が源氏長者だと思いこんでたんだなw
みっともねーw
みなさ〜ん、レスを順繰りに読んでください!
源氏長者に頼朝がなってると思いこんでるレスがありますよ〜(わたしがバカにしましたんで恨まれてるんですw)
286 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:59:39
鎌倉時代の酒の話をしておくれよ
287 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 10:29:44
ああベッドぐしゃぐしゃ。
髪の毛ぐしゃぐしゃ。
くちゃくちゃイチャイチャ
眠いよー
(武陽♀42)
288 :
↑:2010/04/25(日) 13:18:04
誰か付き合っておあげ
289 :
日本@名無史さん:2010/04/26(月) 01:13:04
ブヨーって2年前土下座したんだろ(爆)ぎゃははははー
スレが伸びているなと思ったら
バカコテが三戦厨にマジレスしているのかorz
スレのレスを無駄に伸ばすことにかけてはこの板随一だな>バカコテ
291 :
日本@名無史さん:2010/04/27(火) 22:38:29
●
█◥◣
▂▉ █▀▉●
292 :
taka:2010/04/29(木) 20:36:23
武家源氏で氏の長者になった最初の人は 足利義満 です(´・ω・`) くわしくはウィキで調べてね☆
293 :
日本@名無史さん:2010/04/29(木) 22:03:23
そもそも河内源氏は源氏の庶流と見られていたのがいつの間にか
嫡流になったのは演歌が流行った時代があるのと同じ。
294 :
無双立花宗茂:2010/08/18(水) 20:14:06
義家の目的は西国憲法に従って領主になる事頼朝は半独立運動で自治権獲得した
東下してきた平家をアッサリ破った時、それを追わず
東国武士団「今は常陸・佐竹氏を討つべし」に自説を殺して従う
頼朝は冷や飯20年で得たバランサ-的な持ち主だと思う
結果、欧サッカ-と同じ関東武士団は団結・組織力が付いていて、頼朝自身鎌倉から出ていない
幕府を開くと
冷や飯20年の頼朝は、関東御分国以外の地に朝廷・荘園領主の意向に関係無く、守護・土頭の任命権・更迭権を持ち、頼朝の家来達は恩賞を貰う為に精一杯働く
平家の顔中央向きと違い、下の組織作りも作りあげてる
そのピラミット形の組織図では、義経・範頼は消されるは必然だったはず
295 :
名無し募集中。。。:2010/08/18(水) 20:29:47
舞踊って人
中学生に対してムキになる大学生みたいでみっともないからやめた方がいいぞ
そいつは大学生ですら無いけどね(苦笑
布陣の指揮は侍所の別当や所司の土肥実平(和田義盛と交代)・梶原景時を当て、彼等の独走阻止、軍中の不満を抑え役に異母弟の義経・範頼を当てバランスを取る
しかし、義経は才がありすぎ独走してしまった
勝てば冠軍か?長い目で組織力か?は永遠のテ-マ
まあ言える事は、頼朝の実の兄弟は弟と妹だけで義経は異母兄弟
平家攻め前に頼朝は後白河に「恩賞は頼朝がまとめて請求します」としている点
1本にまとまった組織を崩した政治センスの無い義経は、生命線「東国の組織」を分裂させたい西国の餌(単独恩賞)にひかかり、西国の期待通りの道にハマり最悪の道を進む
まあ所詮、異母兄弟だよ
そんなことわざわざ書かんでも、みんな知ってる。
政治センス皆無と言うけど、義経の目指すものと、頼朝が目指すものが
違っただけじゃないの?
「馬引き事件」は義経の傲慢さをたしなめる為というけど、そうは思えない。
奥州に鎌倉討伐の院宣が下るという情報をキャッチしたからでしょ。
義経は頼朝の「御曹司」だったともいうし、もしそれが本当なら、
あの事件は養子縁組解除ということになる。
義経にとってはまさに青天の霹靂、そして、頼家という本当の跡継ぎを
授かった時の頼朝の尋常じゃない喜びようも納得出来る。
300 :
無双立花宗茂:2010/08/20(金) 12:25:31
義仲の脅威を感じ、義仲の長男・義高(11)に頼朝の長女・大姫(5)を嫁がせが、頼朝は追討の院政で義仲と義高を殺そうと企む
流石に政子は義高を京から逃がすが、頼朝は追手を向け武蔵国入間河原で斬殺1184.4
夫婦どころか兄の様に慕った大姫は食も水も通らなくなる
心痛んだ頼朝は義高を斬った家来を斬るが姫は鬱になる
回復にはと後鳥羽天皇の後宮の話がまとまりかけた東寺再建供養から倉帰宅後、病が重なり1197没20才
だから1186.4の「静よ静よ」も許したんだな
>>300 違う。
義高がいたのは京じゃなくて鎌倉。
302 :
日本@名無史さん:2010/08/20(金) 20:32:01
追討の院政(笑)
303 :
日本@名無史さん:2010/08/20(金) 21:54:58
304 :
& ◆N5WZIgX7OuOt :2010/08/20(金) 21:59:34
알머댦ㅈㄷ랴ㅓㅈㅍ댯겊ㅈ두 ㅑ김ㅈ뒥ㅈ뒤ㅣ굼남켜ㅏㅍㄷ
305 :
& ◆Pq8bWvPuxexl :2010/08/20(金) 22:04:52
얄리얄리얄라셩얄라리얄라
306 :
日本@名無史さん:2010/08/20(金) 22:09:28
307 :
月孔雀:2010/08/21(土) 20:25:25
頼朝 政治力100
義経 統率力100 智謀99
この二人が組めば、天下取れるわ
(光栄のゲームより)
義経の統率力は過大評価。
直属の家来以外は、頼朝の代官としての威光による。
その証拠に梶原などは公然と異議を唱えている。
更に言えば壇ノ浦以降は、源氏軍の各部隊はバラバラ。
義経に従わず京へ入らないで鎌倉へ直帰した部隊もいたほど。
梶原まで心服させなければ統率力100はやれない。
309 :
月孔雀:2010/08/23(月) 03:53:34
307の統率力は、合戦時のもの。
308の能力は、政治力ですね。
310 :
日本@名無史さん:2010/08/23(月) 10:01:27
政治力か魅力ですな
>>309 「統率力」と言えば、戦時も平時も含むのだが?
312 :
月孔雀:2010/08/24(火) 09:18:56
光栄のゲーム上の設定です。
313 :
日本@名無史さん:2010/08/24(火) 14:20:38
>>308 梶原まで心服させられたら頼朝の立場がやばい
どちらにしても粛清の対象だな
頼朝の立場なんてあってないようなものじゃん
315 :
日本@名無史さん:2010/09/04(土) 19:10:11
義経は軍事力だろ
しかし当時の戦の常識を無視した無茶苦茶を結構やり
戦いに勝てはしたもののかなり評判が悪かったらしい
最後まで義経と運命を共にした者も少なかった
義経は無茶をやってでも平家を滅ぼすには良い武将だったが
平和な時代には必要のない人物だった
>>315 同感。
当時の合戦の作法を無視したやりかたをした。
当時の感覚としては奇襲などもってのほかですな。
まず双方名乗りを上げ、言葉戦いをし、その後鏑矢を放って開戦するのが作法。
舟戦でも、こぎ手には攻撃を加えないのが作法。
ところが壇ノ浦の合戦では平家方の機動性を抑えるために真っ先に漕ぎ手を射落とさせた。
平家方の武将が「あな汚し!」と叫んだと記録されてる。
捕虜にした安徳天皇の生母を強姦して頼朝から叱責されてもいる。
勝つためにはどんな汚い手でも使う人物ですな。
しかも上皇からの甘いわなに易々と嵌ってしまう思慮分別の無さ。
長生きできたとしても、晩節を汚さずには終らなかったでしょうな。