952 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 01:32:40
頭ノ殿
953 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 07:40:36
>>942 究極の比較はやはり家格ですね。
彦根井伊家も御三家、加賀前田家を除くいずれの大名よりも家としての極官が高い家柄
ですがそれでも「正4位上中将」です。これに対して
尾張・紀伊徳川家の家としての極官は「従二位大納言」ですから家の家格としては
中将→参議→中納言→大納言なので比較になりません。
大老とはいえ一介の譜代大名である井伊直弼が、単独で徳川一門の水戸斉昭に対して処分
などはできません。
実質的な判断は直弼が行ったかもしれませんが、将軍家定による台命(将軍の命令)により
処分がくだされました。
あるが
954 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 11:09:43
あるが?w
955 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 11:16:21
自分の感覚で話してすまんが、
やっぱり将軍家の連枝のなかでも特別視された御三家と、所詮は一家臣にすぎない大老とでは
御三家の方が格上扱いされるのが普通の感覚な気がする。官位の話も含めて。
御三家にも「その方」って呼んだ、っていうのは根拠のある話?
それと、もし公式文書でそう呼んだとしても、それは将軍の代理としての公式の立場だけの話であって
日常のつきあいでは、ほぼ確実に御三家の方が格上だったはずだと思う。
って
>>949さんとほぼ同じ見解かな。すまんかった
それと、もし公式文書でそう呼んだとしても、それは将軍の代理としての公式の立場だけの話であって
日常のつきあいでは、ほぼ確実に御三家の方が格上だったはずだと思う。
公儀高級役職者が公式の場では,「その方」と呼びかけるのは,時代劇ではあったね。
上使として大名屋敷を訪れて,「これより役儀により言葉を改める。」とか言って,下座にいた公儀役人が上座に席を替えていた。
まあ,時代劇だからどこまで史実通りか分からないけど・・・・・
大老が側用取次と話をする場合でも、将軍のご機嫌伺いの口上の時だけは
平伏するというし、高家が伊勢と日光の代参の報告をするときは、将軍も手を
ついて聞く事になっていたとか。
特定の場合に、本来の格式とは別の扱いになることもあるようですね。
>>896 長宗我部は禄高の過少申告・・・ではなくて、軍役高が低かった。
九州戦役で軍監の偏頗な処置から嫡男を戦死させた詫びに
秀吉から軍役を大幅免除された。
一国加増を長宗我部が辞退したのに対して、代わりに軍役を免除したという
>>959 それはちょっと状況が違わないか??
最後までみちゃったじゃないか・・・ww
962 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 20:37:29
大老が「将軍の一の家来」でなく「将軍の名代」と解釈すれば、将軍御一門よりも
格上としておかしくないだろう。老中は家来で大老は名代。
>>961 家族間の対話で「その方」って使うのかな?
江戸家老が同席する公の席で使うのだから、公では大老は将軍の
代理なんだから「その方」って使うと想像できると思った。
>962
「将軍の名代」として振舞うときはそうでしょうが、大老が即「将軍の名代」というわけ
でもないでしょう。
問題は江戸城中では常に「将軍の名代」である大老が御三家よりも上だったのか、
あるいは、城中でも通常は御三家の方が上だったが、ある特殊な瞬間にのみ大老が上になったのか、だな。
きっと後者だろうね。
上使なら、御三家と言え、相手が木っ端役人相手でも将軍にタイするのと同じ様に平伏する。
968 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 08:00:56
>>965 江戸城中では大老は常に「将軍の名代」とのコメンとですが、ソース希望
969 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 09:40:50
実例を並べない限り、事実は判断のしようがないな。
>>968 アンカー先をもう一度読め
上使は,公儀の命を伝える使者だから,その言葉は台命と同じ。
将軍の命を拝命するのだから,上使に平伏するのは当たり前か。
まあそれでも,国持以上の大名への上使に木っ端役人がなることはないだろうが。
971 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 09:46:17
大身でもない旗本を木っ端役人とみなすかどうかの問題になるな。
>>965のどこがわかりにくいんだよ?w
って書こうと思ったんだが、
>>968みたいな人がいる以上、きっとやっぱりわかりにくいんだなww
973 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 23:05:54
御三家や大老の話はもうお腹いっぱい。
ま、ありえないだろうが、幕府の中間が加賀前田家に使いとして
きて、上意を伝える時、「そのほう」っていうんかね?
中間は教養がないだろうからなあ。
976 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 02:22:53
教養のある百姓が江戸に出て中間小者を振り出しに幕臣になる例は多い
977 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 02:23:54
それから大名家への使者は旗本だよ
978 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 02:24:58
多くは目付筋の旗本
神社参拝の代参の報告の時は、神の言葉を伝える事になるので、将軍でも
下座に座して手を付いて聞く必要があり、報告者は「そのほう」と呼んだ
と聞いた事がある。
そうか!そしたら公方様とこっくりさんやれば、直接命令形で
話すことも可能だ!
>979
神社でも、高家が日光と伊勢に代参したときのことらしいですね。
口上は決まっていたはずで、「その方」とは言わないと思うけど、
報告の時のある一部を聞くときは将軍も手をついたとか。
今手元に資料がないけど、「幕末の武家」の大沢氏の談だった
と思います。
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└━┷┴━━╂┘ └╋━┘ 馬鹿にしかできないコピペです
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984 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 19:16:25
改易になった場合、藩士の再就職率ってどれくらいだったんだろう?
半分ぐらいは他家に再就職できず、浪人になったのかなー
万石取りの家老が長屋で浪人とかはさすがにないと思うけど…
上杉家は身の程知らずの100%
986 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 22:28:07
「その方」論議が盛り上がっているようだけれど、これはもう「力関係」。
徳川家光が「余は生れながらの将軍」と言ったのは有名な話だけれど
これは将軍就任直後の年頭の大名総登城の場で言った言葉。
その際、「この場のお歴々の中には神君(家康)、台徳院殿(秀忠)から御辺、とか○○殿と呼ばれた者もいるだろうが
余は生れながらの将軍である。よって余は皆をその方、と呼び捨てる。左様心得よ」と言ったらしい。
場にはまだ伊達政宗等もいたらしい。しかし将軍は将軍、大名は大名だ、ということでしょうね。是非は別としても。
987 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 22:34:48
>>986 それ、柴田錬三郎かなんかの小説ネタだろw
家光が将軍になった時なら、まだ秀忠は生きてるぞw
988 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 00:19:42
>>984に関連するけど
赤穂浅野の大石は,結局,討ち入りしたけど。
山科に隠棲したままだったら,大石本人や子孫の身分はどうなったんだろう。
藩士じゃなく,人別帳にも載らなかったら,いわゆる無宿人ですよね。
武士のまま,それとも百姓?
990 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 01:09:51
本人は「元武士が隠遁している」になる。
職を変えたら「元某家中で、いまは士分を辞めて云々」に。
子孫は武家に士分として仕えれば武士、
そうじゃなければ、
「元は武士の家。いまは云々」ってだけ。
でも、元の国に土着するんじゃなければ、
流動性のある大都市じゃないと、新規には住みにくいだろうね。
出家するのも、「庶民に頭下げずに、でも生きていく」
ジョブチェンジの道だったかもね。
4が立つまで書き込み自粛で。
993 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:31:37
再就職がつらいのは今も昔も変わらんか
終身雇用じゃない分今のほうがつらいかな?
>990
レスありがとうございます。
この山科が誰の領地になるのか分かりませんが,このように他人の領地に勝手に移り住むことは何の制約も無かったのでしょうか。
仮に勝手に移り住み(家造作は買い受けたとしても),開墾しても租税の対象だと思うのですが。
>>995 京都とか山科とか高野山とかには、
なんとなくそういう不文律というか、空気があったんじゃないの?
隠棲ならまぁしょうがない、的な。
997 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 03:42:37
市橋応援age
子孫どこいった。電話帳で探そうぜ。
998 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 04:23:01
旧華族の名簿で捜せよ
999
1000ゲッツ!!11!
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。