1 :
日本@名無史さん:
徳川将軍家は三代・十五代除いてかなり身分が低い人が多かった。
下級藩士でも良い方、八百屋の娘というのも
諸侯の中でも庶民出身側室の娘ってのは珍しくないが
徳川将軍家は突出している。
その出身の低さ故、幕臣や大奥とはかなり色々あったはず
それらについて語ろう。
生母一覧 三代以降
家光 お江与(言うまでも無し)
家綱 宝樹院(農民の娘)
綱吉 桂昌院(西陣織屋・八百屋の娘説あり)
家宣 長昌院(魚屋の娘)
家継 月光院(住職の娘、諸説あり)
吉宗 浄円院(百姓の娘)
家重 深徳院(紀伊藩家臣の娘)
家治 至心院(公家梅渓通条の娘)
家斉 お富の方(紀伊藩家臣の娘)
家慶 香琳院(小姓の娘)
家定 本寿院(旗本の娘)
家茂 実成院(紀州藩高家の娘)
慶喜 吉子女王(有栖川宮織仁親王の九女)
3 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 12:49:37
そもそも徳川家自体、 いや、徳川家前進の松平家自体が田舎のただの土豪程度だからなー。国人といわれてるが、実際は国人でも地頭でもない、ただの土豪。
だから、百姓根性が抜けなかったんだろうな。高家や寄合旗本の方がよほど血筋や血統はいいよ。
4 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 18:29:02
家継の時代幕府の最高権力は、猿楽師と出自もはっきりしない娘が握っていたのだから
そりゃ幕閣や天英院は怒るわな。
もっとも徳川よりはるかに歴史のある外様から見たら滑稽だっかも知れないが
5 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 21:36:54
側室候補となる女官は公家の姫と決まっていた皇室と異なり
大奥女中には百姓の娘でも町人の娘でもなることができたから
将軍生母に身分の低い娘がいることは当たり前といえば当たり前
それより側用人が猿楽師っていうほうがすごいな
将軍家宣の大のお気に入りで甲府から連れてきたらしいが
家宣は男色でもあったのだろうか
それがいつのまにか自分の側室と噂になろうとはな
メリットは
・外戚を心配しなくて済む
・比較的強い母体を確保できる
デメリット
・身分が低い為、諸大名に格好がつかない
・身分が低い為、図に乗って増長する事も
7 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 02:00:19
月光院や桂昌院の悪行は俗説に過ぎないよな。
身分が低くて出自も不確かな者へのやっかみか、
将軍家や幕政への不満の裏返しなんかね。
8 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 08:49:52
9 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 09:14:40
お江与、桂昌院、月光院、本寿院以外はあんまり目立った行動はしてないな。
大抵息子の将軍就任前に死去してる。
10 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 09:47:04
実は徳川将軍は麻生より庶民的だったのかもしれないな
家治には公家の血が入ってるんだな
12 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 12:09:42
梅渓家は、明治では子爵の家で天皇の女官で皇子を生んだ人も
いるよね。鍋島直大の最初の正室もここから出ていて
日本で始めて油絵を学んだ貴婦人とされている。
あと、巨人軍の正力オーナー夫人も梅渓のお姫様。
13 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 12:42:47
家慶と家定の生母の押田氏と跡部氏の家柄は悪くない。
家治のママンは婚期逃して家重正室の付き人として江戸に上がった(下った?)
のに何故か家重に見初められ世継ぎを産んだから実家もびっくりだったろうなw
>>13 押田氏は清和源氏の家柄だっけ。跡部氏は甲斐源氏庶流の跡部氏?
だったら両家とも徳川家より家柄いいんじゃないか。
16 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 20:24:57
>>14 その至心院も家治を産んだ後は、安祥院に寵愛を奪われたな
17 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 20:53:31
>>14 至心院は生年不詳じゃなかったっけ?
何歳で家治に召されたのかわからず、
婚期を逃したかどうかわからない。
大奥のしきたりに従えば若くない女性は将軍に
侍ることができなかったはずだし。
大名家はこの限りじゃなかったと思うけどね。
最後の将軍慶喜の母有栖川宮吉子女王は
当時としては遅い27歳初婚で徳川斉昭に嫁ぎ、
慶喜を産んだ時は35歳だったから。
18 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 01:11:25
御台所で生んだのは3代15代だけか
よく俗説で「朝廷の影響力拡大を恐れて御台所に子供は作らせない」
ってのは本当だろうか?
その割には天英院の影響力は強かったが
20 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 02:33:58
身分が低くてかつ影響力があったのは桂昌院、月光院、浄円院
だけじゃない?
22 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 10:16:04
家重生母、宗武生母、宗尹生母、家治生母と悉く短命。
吉宗は将軍になった経緯も胡散臭いものがあるし、
外戚を影響を排除する為に暗殺したんじゃないかとも思えてくる。
23 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 11:43:59
西国大名と東北の佐竹あたりはあまり身分の低すぎる側室は
避ける傾向があるね。伝統からくるプライドだろうか
24 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 12:42:57
香琳院って紀州と繋がりがあるのな。
その後に家斉側室になった真性院・宝池院もだし、その当時から紀州は大奥に女性を送り込んでたんかね
まぁ身分が高い出の側室だったら安全というわけじゃないけどね
前田家の息のかかっている側室が何度か前田家から将軍だそうとしているし
まぁこれは前田家が実質準親藩化していたってのもあるけど
26 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 14:01:56
前田から将軍を出そうとした側室ってのは専行院の事を言ってんの?他にいたっけ?
専行院は身分低いな
27 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 15:03:35
>>21 浄圓院って影響力があるの?
本寿院や慈徳院も権勢を振るったね。
28 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 16:40:10
男系重視だと、所詮借り腹だからね。
頼朝の兄弟や叔父なんて遊女の子ばかり
29 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 20:42:08
>>18 御台所を生母とする将軍は3代家光だけだよ
将軍慶喜の父斉昭は水戸藩主であって将軍ではない
当然母吉子女王も水戸藩主の室にすぎず御台所ではないから
天英院の嫡男が家継になっていたら
もっと朝廷べったりで、尊皇思想ができるのがおくれたかもしれないね
31 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 16:12:08
近世以降は、どこの家でも身分の高い女性が子供を産まなくなってる気がする
確か、家綱生母の宝樹院、お楽の方は死刑人の娘だったという記憶があるが、本当のところは?
死刑人の娘ってことは、部落(士農工商の下)身分だったってことだよね。個人的には全く何も思わないが、今でも何かと差別があるのに、当時はどんなだったのだろうか?
足利将軍家の生母達はどうなの?
大半が日野か近衛家から
少なくとも下級武士や庶民出身のはない>足利将軍家
参考までに
尊氏 上杉清子(上杉頼重の娘)
義詮 赤橋登子(北条久時の娘)
義満 紀良子(紀通清の娘)
義持 藤原慶子(安芸法眼の娘)
義量 日野栄子(日野資康の娘)
義教 藤原慶子(安芸法眼の娘)
義勝 日野重子(日野重光の娘)
義政 日野重子(日野重光の娘)
義尚 日野富子(日野重政の娘)
義稙 日野重政の娘
義澄 武者小路隆光の娘
義晴 日野永俊の娘
義輝 慶寿院(近衛尚通の娘)
義栄 大内義興の娘
義昭 慶寿院(近衛尚通の娘)
室町将軍家の場合は、側室でもそこそこの出自だしね。
義満などは人妻を召し上げたりもしてるし。
たしか、母親の身分が低いのは足利義維だったような。
家康も、側室の出自は結構有力な家や、良い血筋の女子が多い。
家光以降だよね、側室の出自が明らかに下がり始めるのは
37 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 23:14:33
家光君がホモなせいで・・・
38 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 23:30:57
将軍家と関係のない一般人が、将軍と知り合える環境にいるのは変だと思うんだが
39 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 00:19:03
家光以降というか家光からその孫までが下層の側室が多い。
吉宗生母の巨勢氏はお風呂番だった説があるが自称古代豪族の巨勢氏の末裔。
桂昌院は八百屋の娘だが、母親が二条家の家司に再嫁できたことを考えても
そうとう有力な商人の家柄だったのではないか?
それでも足利将軍家や他の有力大名に比べると低すぎる
「実は○○の武士でした」って説がある場合は
むしろ身分が低くて後付けしているっていう見方も
家光の側室で出身がはっきりしてるのってお万とお振だけ?
44 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 07:30:51
45 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 10:23:19
梅宮辰夫「日野富子?アイツは希代の悪女だよ」
46 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 10:24:16
鎌倉幕府忘れるなよ!
47 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 15:46:54
義時以降の得宗家当主の生母
北条義時 伊東入道の娘
北条泰時 阿波局(詳細不明)
北条時氏 矢部禅尼(三浦義村の娘)
北条経時 松下禅尼(安達景盛の娘)
北条時頼 松下禅尼(安達景盛の娘)
北条時宗 葛西殿(北条重時の娘)
北条貞時 安達義景の娘
北条高時 安達氏の娘
48 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 17:50:56
鎌倉は源じゃ!ボケ!!
49 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 18:30:09
>>44 お振の出自、実家は蒲生氏家臣の岡氏、
母方の祖父は元蒲生氏家臣の旗本・町野幸和、
同祖母は牧村利貞の娘・祖心尼
でははっきりしてるとはいえないのかな?
もっと遡ったらという話だろうか…
51 :
日本@名無史さん:2008/11/20(木) 10:54:39
>>32 宝樹院の妹も高家の品川高如に嫁いでるし
そこまで低い身分じゃないだろう
徳川家ってこんなにいろいろな血が入ってるのになんであんなに虚弱が多かったんだろうな
足利の方が問題ありそうなレベルの血の濃さなのにな
>>52 白粉に鉛が入っていて鉛中毒になったとか、ビタミン不足とか色々言われているけどしらねー。
でも子供の成人率は当時にしても異様に低いよなあ・・・・
庶民でも成人したら60位まで生きたらしいけど60突破した将軍って希だろ。
54 :
日本@名無史さん:2008/11/20(木) 15:21:09
皇子の死亡率はどれ位?
55 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 20:50:58
>>39 「徳川実記」によれば桂昌院の父は
二条家の家士・北小路太郎兵衛宗正、母は鍋田氏。
ただ桂昌院が従一位になったときに都に落書が立てられ
北大路は桂昌院の養父であり実父は八百屋だの畳屋だのいろんな説が流れたという
もっとも桂昌院の実父が名乗り出たわけでも特定された記述があるわけでもない
「徳川実記」には北大路を養父だとは書いておらず
一次史料で桂昌院の母が再婚だということ(桂昌院の父はほかにいる)を
裏付けるものは残っていない
56 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 21:20:45
桂昌院は、京都堀川の八百屋のお玉だよ!
だから御台所と仲が悪かったってのは
よく見かける話
58 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 21:53:24
将軍の側室にすぎない桂昌院が従一位になるのは異例の事態。
八百屋の娘だというのが本当なら桂昌院はさながら女太閤。
59 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 22:00:00
綱吉がいかに自分の母親の出自にコンプレックスを持っていたか
ということの裏返しでもあるわけだが。
綱吉は元々出自がいい摂家出身の自分の御台所鷹司信子なんかには
従一位を求めていないわけだから。
日本史上(古代除く)最も出世した人物
1.間部詮房 猿楽師から老中格、将軍補佐へ
2.桂昌院
3.秀吉
だろうね
61 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 22:24:56
外戚がしゃしゃるとマズイからと言うが
そんな例って徳川将軍の生母であった?
って思ったら島津とか前田がいるな・・
織田は珍しくしゃしゃりでなかったが
62 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 01:49:26
まぁ、力のある同業者は避けたい罠
63 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 17:42:15
他の大名とかだと平民出身の侍女に子供が出来た場合
自分の子供にせず、一門あたりの養子にするケースがあるね
セクスしていたかどうかすら定かではない、お飾りの御台所は摂家や皇族から、側室は平均旗本クラス。
落差ありすぎてワロス。
大河ドラマだとみんな美人だけど正室は家柄重視だから実際はとんでもブスの
可能性も高かったろうしなー
それに比べて側室は自分のお気に入りを選べるわけだから美人が多かったんだ
ろうな
ああ、ブス好きもいたかw
あと家柄重視でも当人は側室の娘ってことも多かっただろうから、
それを言えば必ずしもブスとは限らない。
ついでに大奥は、美人だからって言う理由で集められていたわけでもないから・・・
69 :
日本@名無史さん:2008/11/25(火) 21:32:13
>>65 でも写真が残っている御台所を見ると、
最後の将軍徳川慶喜の御台所だった一条美賀子は美人だし、
14代将軍徳川家茂の御台所だった和宮も割と顔立ちは綺麗。
特権階級が美女を得やすいとすれば究極の特権階級のDNAを受け継ぐ
公家や皇族の姫宮たちがそれほど醜かったとも言えないんじゃ?
そうそう、今一番有名な御台所であろう篤姫の写真、
この人は賢女だったかもしれないが、正直、美人とは言い難い。
でも篤姫は島津の出で将軍御台所の中では11代に続き異質だった上に
将軍家定にとっては3回目の妻だったからね。
70 :
日本@名無史さん:2008/11/25(火) 21:59:03
>>59 けど家綱も生母に従一位を贈ろうとはしてないし、
宝樹院と桂昌院の身分にそれほど差があるとは思えない。
71 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 21:38:46
>>70 家綱は常識的な将軍だったからだろ。
家光が30半ばになってからようやく儲けた長男で、
幼いころから厳しい教育も受けていたし。
子女に恵まれなかったが。
綱吉はまさか将軍になるとは思わなかった三男坊。
綱吉に決まるまでには紆余曲折もあったし、
そういうことを吹っ飛ばさせるのが
生母の従一位だったりするわけだろ。
桂昌院は京の生まれだし、父(あるいは養父)は二条家の家司、
当然、朝廷にかなりの崇拝はもっていただろうし。
>>69 美賀子はとても美人には思えない。
まあ個人の審美眼の問題だけど、
あの写真は美醜を判断しづらい状態だとも思う。
慶喜の側室・信と幸、そして
(実は男女関係ありとも言われる)慶喜家老女の一色須賀の
写真を見ると、自分的に一番綺麗なのは須賀。
73 :
日本@名無史さん:2008/11/28(金) 08:08:00
か
74 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 18:45:27
パンダが生母です。
75 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 14:36:48
将軍生母で生前従一位は桂昌院のみ
76 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 17:31:26
桂昌院・月光院あたりが権勢をふるって面倒なことも多かったから大奥の制度が整備され、本寿院の頃には
上臈年寄格とはいえ使用人扱いになった、でおK?
77 :
日本@名無史さん:2008/12/13(土) 16:55:16
>>76 将軍生母≠上臈御年寄格
世子生母が上臈御年寄格に任じられ、
世子が将軍になった後は将軍生母として御上並になる。
桂昌院も月光院も、他家から将軍となった者の母や側妾であり、奥女中ではない。
78 :
日本@名無史さん:2008/12/13(土) 23:36:15
>桂昌院も月光院も、他家から将軍となった者の母や側妾であり、奥女中ではない
桂昌院は家光の側室だよ?
79 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 00:27:53
>>78 宗家→館林→宗家 って事なのかな?
綱吉の館林時代は大奥にいたのか館林の江戸屋敷にいたのかは知らないが
大奥にいたとしたら上記の推論は間違いだよね?
80 :
77:2008/12/14(日) 08:14:19
桂昌院は大奥を出ている。
綱吉が将軍になった後に館林藩邸から三の丸に引き移った。
あと、訂正ね。
世子生母は御年寄格に任じられてる。
上臈御年寄格は将軍没後に家斉側室や家慶側室に与えられた待遇。
81 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 21:36:41
桂昌院を三の丸に住まわせたのは、大奥に居ると鷹司信子に頭を下げなきゃならなかったから?
(従一位を貰うまでは)
82 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 07:30:50
従一位を賜るまでは信子に頭を下げていたとでも?
桂昌院は御台所よりも奥内の地位が高かった唯一の将軍生母だけど。
そこらへんの順位付は徳川実紀に詳しい。
83 :
82:2008/12/26(金) 14:22:24
あ、ごめんなさい。大御台所の崇源院がいたね。
84 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 19:26:05
位階などなくとも将軍生母はないがしろにされないよ
将軍御台所に将軍生母は仕えなければならなかったとか
将軍生母の地位を軽く見すぎなんじゃない?
将軍ですら生母を母上と呼んで敬うというのに
嫁が将軍が敬う人をこきつかうなんて
85 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 03:01:57
こき使われることも蔑ろにされることもないが、将軍家内の順位付としては、
将軍・御台所≠大御所・大御台所、将軍継嗣・御簾中、将軍子女、将軍生母。
側室上がりだと、桂昌院以外は末席。
本来であれば御台所がそこまで気を遣う相手ではない。
それと大奥内での権勢・勢力の有無は別問題。
86 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 09:35:11
天璋院は本寿院にかなり気を遣ってたみたいだが。
87 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 11:13:08
男の子供は母親が大好きだからね、いつの時代も。
将軍が妻よりも母親を大事にし、
母親の意見を尊重するのはいつの時代もおなじ。
生母が将軍にたいして絶大な発言力を持つ以上、
幕閣が勝手に決めた大奥の序列などまったく意味をなさない。
将軍生母はどの将軍の代も相応の権力を有していたよ。
発言を控えたのは江戸城に最後まで住まなかった
吉宗生母くらいじゃないか。
本寿院に天昇員は叩きつけられていたはずだが・・・
89 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 18:28:36
将軍生母はともかく御台所でそれなりに力を発揮したのは天璋院と天英院かな。
90 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 21:58:23
>>85が簡潔かつ分かり易い説明をしてくれた。ありがとう。
>>87 大奥確立以降、桂昌院、月光院、本寿院、実成院を除くと、
四代、六代、九代、十代の生母は我が子が将軍になる前に没。
八代、十一代は隠居同然。
>>89 広大院もね。
91 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 22:08:27
宝樹院は四代家綱の将軍就任の翌年まで生きてる。
香琳院は十二代家慶の将軍就任前に死去。
92 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 22:55:59
偉大な御台所は天璋院ただ一人。
93 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 00:02:00
精神病院から生まれますた
94 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 04:24:32
どの将軍生母も権力をふるってたというのは、どうもTVドラマじみた空想っぽいような気がする
息子である将軍が綱吉みたいに親孝行(てかマザコン?)ででもないと実際は中々厳しかったんじゃないか?
軽んじられてたとは思わないけどね
実際、家定時代の大奥では本寿院自身より乳母だった歌橋の方が力持ってたんだよね、大河ドラマなんかと
違って
てか生前に位を賜った将軍生母って、桂昌院の従一位・月光院の従三位ぐらいなのか?
95 :
日本@名無史さん:2008/12/30(火) 17:46:48
TVドラマのようだといえば実際には大奥自体がたいして権力をもっていなかっただろう
江戸幕府は大奥制度を作り上げ、これまで武家女性が相当政治に口出ししていたのを改め
政治は「表」で男のみが行う、女は「大奥」に住み表への出入り一切禁止、としたのだから。
将軍生母、乳母はおろか、御台所ですら政治への口出しは原則厳禁だっただろう。
歌橋だってたいして権限は持ってないよ。
あくまでも「大奥の中で」どの女が主導権を握るかという争いはあっただろうがね。
96 :
日本@名無史さん:2008/12/30(火) 18:11:04
>>94 実成院みたいな外様だと奥女中の支持を得られず、立場弱かったでしょうね。
月光院なんかは奥女中とコネがあり、
幼君の生母という最も権力を握りやすい環境だったのは確か。
97 :
日本@名無史さん:2008/12/30(火) 18:14:33
生母の権力がそこまでなかったってのには同意。
ただ、大奥自体が権力を持っていなかったってのはどうかな。
表向に介在した事実はいくらでもあるし、幕臣や商人や寺社が利権を求めて奥女中に取り入るのもよくある事。
政治不介入はあくまで建前だし。
98 :
日本@名無史さん:2008/12/30(火) 18:32:33
>>97 商人が奥女中に取り入るのは、豪華絢爛な生活を維持するための注文品で
潤っていたからだろう。
政治に介入したいために取り入ったのではなく
大奥が商人たちの最上のお客様だったから。
武家に育った西郷隆盛は維新時に
明治天皇が京都から引き連れてきた女官たちを見て
天皇の伝奏をすべて女官がつかさどり
常に天皇や大臣たちの傍らにあって女官が政治に介入するのに肝をつぶし、
急いで宮中改革をして従来の女官をすべて罷免したほど。
江戸時代の武家では女が表に堂々と出入りし政治に意見する公家社会は
予想外の世界だったから。
99 :
日本@名無史さん:2008/12/30(火) 18:45:33
うん、大奥と宮中じゃ違うだろうし、西郷を出したのも大奥とは関連性がない。
武家の奥向と大奥もスケールが違いすぎるよね。
表へ影響持ってたのって江戸時代通してもほんの数人かな?
実成院は権力なかっただろうなあ
和宮をイビったのなんて、それこそ身分違いであり得なかっただろうし
101 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 19:47:19
本寿院が天璋院をいびってたのは事実?
102 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 19:44:13
>>100 民放テレビの「大奥」では天璋院役の管野美穂にいびり役をさせられないもんだから
天璋院と和宮の間に起こった問題の数々を実成院の野際陽子にやらせている。
実際の衝突は大御台天璋院と御台所和宮の間で起こっている。
もっとも、実成院が家茂の側室を選んでいたというのだけは事実らしい。
和宮に実子が誕生しようがしなかろうが、将軍家に側室はつきもので、
側室のいなかった将軍など8歳で死んだ家継ぐらいのもんだったから。
お楽の方の場合、家綱公と別れ別れにされたうえ、躾と称して御台所孝子から幼君家綱が虐待を受け、挙げ句御台所孝子が招いた怪僧が幼君家綱を蜜柑船で紀州に拉致したのである
104 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 19:59:09
秀忠も正式な側室はいなくないか?
一応長丸生母や保科正之生母はいるけど。
105 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 20:46:20
>>104 秀忠の時代は奥がまだ未整備だから側室=政治的な
戦国時代の価値観が残っていたのかもしれんね。
家光の頃からは側室=御手付き中臈。
保科正之生母は今じゃ側室とされてるが、実際は側室として扱われてない。
奥に局すら与えられてないし、正式な側室ではないね。あくまで御手付き。
106 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 20:58:48
戦国大名はほぼ一夫一妻を通した大名も多かったからね
戦国時代はまだ妻が一家の主婦として夫を支えることが重視された時代
武将が死ねばその後家が一家を取り仕切ったように妻の地位も高かった
家光以降の大奥成立により女は政治から締め出され
妻は一家を取り仕切ることがなくなった
結果、夜だけ将軍の相手をする側室が
大量に大奥から供給されることになったんだけど
107 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 02:10:17
>>106 >戦国大名はほぼ一夫一妻を通した大名も多かったからね
ええっ?
正室ひとりを守ったような大名も居るが、それはごく少数だろう。
109 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 09:09:21
>>108 正室の地位が高く、正室腹の子が跡をつぐ場合が多かったってことだろ
110 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 10:08:29
>>108 側室がいなかった主な著名人
山内一豊、直江兼続、柴田勝家など
正室が更年期となりセックスを拒絶するまで側室を置かなかった大名
毛利元就、前田利家
豊臣秀吉、徳川家康なども初期のころは側室を置いていない
初めて側室を持ったのは30過ぎ
この時代の大名は大奥のような側室あてがい機関を持たず(そんな金もなかったし)
妻がいれば側室を持つことを義務付けられてはいなかった
後継ぎがなければ養子をとればよかったし
新政府になってから、箱根で静養している和宮が危篤になったとき、
篤姫は何日もかけて、人力を乗り継いで会いに行ったらしいよ。
記録が残ってる。
いがみあった時もあったろうけど、徳川が実質滅びて(天下を失って)から、
色々思うことがあったんじゃないかな。よくわかってる、賢い人だと思う。
112 :
日本@名無史さん:2009/02/04(水) 21:16:24
>>102 実成院が側室選びを行っていたソースはありますか?
>>110 それくらいしか居ないじゃん・・・
>>111 そーんな、娯楽歴史番組でも紹介され
大河板でもとっくの去年に話題になったエピを、
何をいまさらw
114 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 23:49:19
>>109 むしろ側室の子が正室の子を差し置いて跡目を継ぐ事なんてほとんどない
115 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 00:41:54
吉宗までの将軍生母ってものすごく下層な出が多いけど
家重以降はそれなりの家柄が多いような気がする。
116 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:11:40
117 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 20:59:56
吉宗生母もその気になれば桂昌院のように大奥で権勢を振るえただろう
118 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 23:46:23
>>110 家康は最初の側室西郡局を20代の時には既に迎えてるし、二女督姫も生まれている。
西郡局も今川家家臣の子で、今川義元の妹の血を引いてるらしいので、正室築山殿との
格の違いもさほどじゃない。(築山殿の実家関口氏/瀬名氏は今川一門なので、同じ家
臣とはいえ格は上だろうけど。)
黒田官兵衛なんかは側室を生涯持たなかった。(キリシタンだったから?)
119 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 19:07:19
>>118 家康は15歳で正室築山殿を娶っている。
西郡局は、1562年、家康が西郡城を攻めた際、
城主鵜飼氏の娘を戦利品として連れ帰り側室としたもの。
西郡局はかなり長生きしたが子は督姫のみ。
確認できる限りは家康最初の側室だがあんまりぱっとしなかったみたいだ。
続く側室は30代後半になってから迎えた未亡人の西郷氏(秀忠らの母)。
築山殿存命中に家康の側室として知られるのはこの2名のみ。
築山殿がいなくなってからはやりたい放題だったが。
>>110 柴田勝家って側室はいなかったの?初耳だったので。
戦国は分からんが、室町時代は嫡子以外は寺に入れられたりして、後継ぎの層が薄いよね。
>>120 柴田勝家は若い頃に主筋織田氏の娘を正室にしている。
そのためかどうか、側室を置かなかったと聞いたことがある。
この正室は勝家より先に死に、その後、お市を後妻にしている。
お市は正室ではなく側室だったと騒いでる人を以前この板で見たが。
それはともかく、柴田勝家には子がなく甥を養子に迎えている。
(秀吉同様落胤説は多いみたいだが一次史料で実在が確実な子は全くいない)
側室が大勢いたのに子がなければ秀吉のように子胤なし説が出そうなものだが
勝家に関してはそれもないところを見るとそもそも側室の存在がなかったのかもしれない。
柴田勝家の家族関係も、そう考えていくとなかなか謎めいているな
創作である小説での設定だけど、
お市は子供の頃から勝家が好きで、ごく自然に勝家と男女関係をもち
(信長も公認し)勝家と夫婦同然に暮らしていた。
そしてその後に両人納得のうえで別れ、お市は改めて浅井氏に嫁いだ
・・・というような展開の小説があったな。
男性作家らしい生っぽい昼ドラ臭のある小説だった。
諸説異説を取り混ぜて解釈をし、新機軸を構想したのだろう。
124 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 22:13:14
んん
125 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 09:01:33
桂昌院に従一位は異常だと上にあったが
家光なんか、乳母に過ぎない春日局に従二位あたえたんだし
そっちのほうこそ異常すぎ、乳母に二位なら、将軍生母に従一位上げたとしても
非常識な徳川家の中では別に異常でも何でもないと思う
側室が従一位ってのは家康の側室で子供もなかった阿茶局っていう前例もあるし。
本寿院は大河ドラマでは傲慢な姑だったが
実際は自分の出自や地位をわきまえている大人しいひとだったと思う
皇女にすら姑というだけで威張りちらして朝幕間を悪くさせた嫁とは違う
天璋院は御台所の部屋を本来なら和宮に譲らないといけないのに
駄々こねて拒否。その時、自分の部屋を和宮に明け渡したのが本寿院だったし。
その後、皇室に天璋院はいい部屋でふんぞり返り、和宮は使用人の部屋に入れられているという噂が流れ
幕府は必死に弁解する羽目になった。
126 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 09:07:07
天璋院が大奥で権力もっていたってのも
将軍が死んだら、その将軍付きの女中は自動的に未亡人となった
御台所に使えるっていうシステムのおかげで
天璋院付きの女中が大奥では圧倒的に多くなり、当時の将軍家茂ですら及ばないくらいの数だった。
自分の言いなりになる侍女がいっぱいいたから威張りまくれただけで
史実的には将軍より身分上の和宮をいじめて、せっかくの公武合体に散々傷つけたり
自分の実家に腹立てて「朝的薩摩を討て」と朝廷に手紙だして
慶喜や海舟がせっかく成し遂げた無血開城駄目に仕掛けたアホ女だからな
なんで、こいつが偉人扱いされるのか不思議だ。ドラマのせいか?
127 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 20:18:42
>>126 >将軍が死んだら、その将軍付きの女中は自動的に未亡人となった
>御台所に使えるっていうシステム
疑問。「お付け替え」は、たいてい老女衆の合議とお広敷役人が決するものだと思うけど、
亡将軍付きでそのまま大奥に留まる事になった女中は、大方は新将軍付きが多かったと思われますが。
>天璋院付きの女中が大奥では圧倒的に多くなり、当時の将軍家茂ですら及ばないくらいの数だった。
出典を示して下さい。現将軍付きより大御台所付きの人数が多かったとは、自分には思えません。
質問なんですけど
将軍や御台所付きの上臈とか御年寄なんかは大奥の職制のなかの人間ですけど
その上臈や御年寄なんかについている女中はその上臈が個人的に雇っている人間なのか
職制のなかに入っている下っ端が上臈の身の回りの世話をする女中として任命されるのか
どっちなんでしょうか?
>>127 篤姫放映時にたくさん出版された大奥関連の書物で
篤姫付き女中170人くらいで家茂は100人くらいとあったよ
家定の女中の大半が、そのまま大御台付きになったとか
130 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 22:22:41
>>129 その程度の書物じゃ、すぐ鵜呑みにするのはどうかと。
その書物は、文の箇所ごとに根拠となる原史料名を挙げていましたか?
>>128 大奥内で働く者といっても、正式の奥女中と又者女中とに分かれる。
正式の奥女中は長局で寝起きして、長局から奥御殿へ毎日、日勤や宿直で勤務する。
長局内で奥女中の私生活に奉仕するのが、又者女中。
奥女中が私的に又者を雇っている訳だが、又者は富裕な農工商の娘の行儀見習いで、
無給の上、付け届けとかで親の負担は相当大きかったらしい。
奥女中が何人又者女中を使えるかは、職制によって定まっていて、上臈の8人から御火之番の1人まで。
それだけの人数分、主食たる米から炭油など必要な消費物は、奥女中給与に含まれて現物支給されていた。
又者女中は、奥御殿内には立ち入る事ができない。
奥御殿内で上臈や御年寄の身の回りの世話を、職務の本分とする奥女中はいない。
正式の奥女中の主人となれるのは、現将軍とその家族だけ。上臈でも正式の奥女中の檀那様にはなれない。
ただ職務上下役が上役の雑用をする事はある。千鳥の間で執務する御年寄の給仕は、御三之間がしていたとか。
だけど長局内の又者相手並みに主人面して、完全な私用で酷使する事まではできなかっただろう。
>>127>>130 輿入れの時は「身分低いから側室にしろ」と大奥にも言われ
将軍死んだら「実家に帰れ」といわれるほど
幕府から邪魔者&軽く扱われていた天璋院が大奥限定の舞台では権力持っていられたのは
自分の派閥の人間が大勢いたからだと凄く納得できると思うけど
逆に言えば将軍付き>大御台付きという資料はあるの?
明治になったら朝廷からもらっていた従三位の身分剥奪されたし
やっぱりかなり皇室にかなり嫌われていたんだろうね。
内親王を嫁だからと虐める姑なんか前代未聞だったし
まして、それが宮家でも五摂家の娘でもない
無位無官の家老の娘という超下賤上がりじゃあ
現代で言えばホームレスが首相を足蹴にするくらいの感覚だったろうな
>>132 篤姫を側室にしろといったという史料は何?
仮にも薩摩藩主島津斉彬が後見する養女を側室はないだろう。
かつて江戸城大奥に藩主の娘・養女である側室など存在した例がない。
実家に帰れと言われたという史料は?
将軍が死んで実家に帰った正室など、これもまた存在しない。
>>130 篤姫が地位をはく奪されたのは江戸幕府が潰れたからでしょう。
将軍徳川慶喜が辞官納地をしているのに先々代の御台所が
辞官しない理由がない。
和宮をいじめたから地位を取り上げられた、
和宮を大事にしてたら取り上げられなかったという問題ではない。
ちなみに篤姫は家老の娘ではない。
(あちこちに家老の娘だと書きこんでるけど、どんな素人?)
島津家分家の娘で薩摩藩主島津斉彬の従妹に当たる。
大奥関係の本などに述べられている内容が、
眉唾っぽい感じのものか、裏付けがありそうな感じのものか、
何となく直感できるようになるためには、
読書の量と共に書籍の質も大事だし、年数年季というものが必要だろうな。
NHK篤姫はおろか、平成の大奥ドラマあたりの頃からじゃ、まだまだ青いね。
136 :
日本@名無史さん:2009/09/24(木) 19:36:12
スレチですが教えて下さい
お志賀が将軍逝去後に行った御屋敷(桜御用邸でしたか)は
その後どうなったんでしょうか?
そこで暮らしていた歴代将軍お手つき女性の行方や生活の変化を知るにはどんな資料がありますか?
137 :
日本@名無史さん:2009/10/01(木) 19:09:10
>>134 広大院のときですら、正真正銘藩主の娘でありながらすら御台所にするには身分が低いから婚約破棄の話が出たのに
分家の娘ごときが将軍の正室になるほうが異常なんだけどなあ
当時、島津家と手を結んでいた水戸家ですら異常だと反対したくらい
実家に帰れといわれたのは、表立って言われたのではなく島津家が引き取りを申し出るという形でいったことじゃない?
幕府としては最上の身分の人間が嫁にくるのに、その姑の出自が低すぎるってのは色々問題でるだろうし嫌がられるのは無理ないと思う
(実際問題でまくったしな)
138 :
日本@名無史さん:2009/10/02(金) 14:21:03
>>137 だから、いつものことなんだけど、史料をあげてくれる?
想像上の話ばっかなんだよな。
139 :
日本@名無史さん:2009/10/02(金) 14:23:35
>>137 だから、いつものことだが、史料をあげてくれる?
水戸家が阻止しようとしてたとか、
島津が引取りを申し出たとか、想像話ばっかなんだよな。
140 :
日本@名無史さん:2009/10/02(金) 14:25:04
>>137 だから、いつものことだが、史料をあげてくれる?
水戸家が阻止しようとしてたとか、
島津が引取りを申し出たとか、想像話ばっかなんだよな。
大河ネタとかやめてね。
138から140、間違えて送信したとかじゃあないんだw
ちょっと大人げないな。
篤姫の駕籠と本寿院の駕籠。
素人目にはどちらも金襴で覆われていて豪奢なんだが、
本寿院は葵の紋の使用を許されてなかったのか、
生家の跡部家の紋があしらわれていた。あれだけの
駕籠を使っていたということは、それだけ将軍生母としての
地位は重くみられていたってことなんだろうけど、
細かいところ(葵の紋使用)では、差があったんだね。
144 :
日本@名無史さん:2009/11/18(水) 00:21:21
145 :
日本@名無史さん:2009/11/19(木) 17:32:43
大奥でやりまくりの将軍さまって自淫なんて経験あんのかなぁ?教えてエライ人!
146 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 20:30:15
>>54 皇子って、将軍家の息子は皇子じゃないよ。皇子は天皇家の息子のことだよ。
将軍生母の実家ってどれくらい出生や羽振りが良くなったのだろう?
桂昌院の本庄氏は大名になっていますが、これは別格なのですよね
生母の実家とか乳兄弟とか、前時代には将軍の側近寵臣グループなれたはずなのに、江戸期に振るわなくなったのは何故なのでしょう?
148 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 00:59:48
将軍生母の実家の子孫とかって、下手な華族よりも自慢できそうだけど、名乗り出てるのを聞いたことない。
絶えちゃったんだろうか?
遠縁でもいいから、残ってるって情報があったら知りたい。
149 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 07:37:34
江戸前期は増山とか本荘とか譜代大名に取り立てられてるけど、
後期以降は旗本どまりが普通。
将軍生母は後期以降は落ちても御三家家臣で旗本層クラスの出ですよね。
そこからの出世がなくなったというのは,生母と言っても、乳母制度で将軍と切り離されてしまったのでしょうか?
151 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 20:26:43
152 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 12:53:18
秀忠の同母弟忠吉は、関ヶ原の功績で清洲城主となる。母の菩提を弔うために建てたのが大雄山性高院。場所は何度か移転して、現在は名古屋市内にある。
とすると、秀忠は自分の母を祀らなかったのか。それとも母の墓は江戸にあり、名古屋のはただ霊を祀っただけなのだろうか。
名古屋大学のそばにあるはずなので行ってみたが、それらしきものが見当たらない。なんとマンションになっていた。住人入口とは別に寺の入口があり、建物の上階が寺になっているらしい。
153 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 13:50:20
>>140 和宮は結婚前に内親王宣下を受けてるからね。嫁が内親王なのに姑が従三位じゃ格好がつかないだろ。考えてみろ。
>>150 生母と言っても、乳母制度で将軍と切り離されてしまったのでしょうか
ここの部分の意味がわからない。江戸時代後期に乳母が活躍したか?
155 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 23:20:00
156 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 04:31:05
もしも家茂が長生きして、和宮との子供(男児)が出来ていたら
歴史は変わった?
もしもを幾つも繋げて、馬鹿じゃないのw
158 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 00:52:56
家定に息子がいれば…
どんな優秀な男の子孫でも世襲していると
馬鹿や早世、病弱が出ていつかは政権が滅びるということだよ
世襲でしかも政権に就き続けている王家が五百年ともったことはない
日本の天皇家は世界一古い王家だがとっくの昔に
政権を手放してるからな
なるほど
161 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 13:19:46
御台所の子として生まれたのが家光のみって偶然にしても凄いな
御台所は家柄重視で顔は二の次だからなあ・・・
容姿で選ばれた側室に目が行くのも当然だろう。
お前らだって黒田清子さんより蒼井そらさんのほうがいいだろ。
せっくるせっくる
165 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 22:15:28
しらん
>>166 お〜最後の写真は「曰く付き」のだな
ちなみにその後列真ん中の堂々とした?御仁はほんと「興味深い」
「薩摩の人?」とは勘ぐりませんが
全体の、しかも恩ある?先生の後列ど真ん中に位置するくらいの御仁て
しかも向かって直・→の侍てなんか「申し訳なさそうに」写っているしなぁ
168 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 01:17:53
age
元町屋娘おたま様正一位太正女大臣くらすの伝説…シエ戸ネ申言舌