1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:04:07
3 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:15:43
庶民も名字が必須になったのは明治8年(1875年)で、このとき15歳だった人は
昭和初期にはまだかなり存命だったはずだ。そしてその孫の世代には現在でも存命の人もいる。
江戸の農民が名字を普通に使っていたなら、そのように伝わっていたはずだ。
しかしそんなことはない。
4 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:40:38
【華麗なる一族になりたかった男】豊巨秀吉
1537年 農民時代・木下藤吉郎
1573年〜 羽柴秀吉
1582年〜 平秀吉・秀吉を養子にして下さいと頼み断られ(足利秀吉)名乗れかった幻の苗字。
1585年〜 藤原秀吉・御落胤秀吉 朝廷からクレームが付き
名乗ることを許されなかった。
1586年 関白になり朝廷からようやく 名を与えたられ 【豊巨秀吉】になれた。
農民上がりプライド無し豊巨秀吉の馬鹿な苗字変換でした。
5 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:47:24
木下だって農民時代に木下と名乗ってたかどうかなんてわからんよな。
あとででっちあげたのかもしれないし。
7 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:49:22
慶安の頃から墓に苗字がありますが何か?
8 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 00:13:30
>>7 じゃ、明治になって農民がのうのうと「藤原」なんて名字をつけたのを
どう思う?まさか彼らが江戸時代に「藤原」なんて使っていたはずはない。
しかも当時の農民なんて100人くらいの村で暮らしているのが大半なんだから、
生活上名字なんてなくても困るはずがない。
9 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 07:42:48
名字が本当に必要なものならいくら幕府でも禁止するはずがない。
現代人の価値観で見るから名字が必要と思ってしまうんだね。
10 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 07:45:04
具体的な資料として、明治初期の新聞に名字をつけることについての
話が載っているそうだ。もちろん農民が普通に名字があった
などという話はなく、どうやって名字をつけるかでごたごたした話だ
そうだ。
12 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 01:20:30
>>11 おいおい。天皇家に氏(姓)はないぞ。
結局自由史観と称する連中が名字がないのは差別だと誤解して
必死に江戸時代の農民は名字を普通に使っていたといいふらしているようだな。
14 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 04:26:18
その1:職業柄からきた苗字
その2:土地が由来の苗字
その3:神主や住職につけられた苗字
その4:歴史的由緒ある苗字
15 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 05:15:01
「明治新姓」
明治初期に創出された珍しい苗字を持つ人数は少ない
というのを拡大解釈して、
平凡な苗字も含め、新しく姓を決めた人が少ない
と思い込んでいる人もいる。
(参考)
ttp://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/fq&a.htm A37.江戸時代末に苗字を公称した人口は120万人で、総人口3300万人の3.6%である。
明治に苗字必称令が出て、ほとんどの人が新しい苗字を創り称えたという妄説があるが、それはウソである。
商人にしても、日常は屋号を公称していたが、先祖代々の苗字を伏せ通称の中に出自を忍ばせており、明治になり晴れて名乗ったのが実情である。 江戸時代に帰農していたものは先祖の苗字を復活させている。
先祖の苗字不明のものは、居住地名や出身地名を名乗ったりしたのである。
その影響から田舎では極端な場合、一村同姓などのケースもあり、現在でも屋号などで識別している。
珍姓の宝庫と言われる新湊市のように、事物の名の苗字が多い地域も中にはあるが、そのような例は稀である。
僧職者のように、元々苗字の無い人々は、仏典や仏具などより新姓を創出している。
多くは何処にもある平凡な苗字を名乗り、明治新姓により出現した稀少姓は数こそ多いが人口は稀少である。
16 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 11:04:19
>>15 だからさ、現在「藤原」なんて名字は希少でもなんでもないでしょう。
でも明治新姓なんだよ。ふつーの農民が江戸時代に「藤原」と名乗った
と思ってるの?
藤原氏から出た貴族でも、みな違う名字を名乗っているもんだよな。
>>16 神社で結婚式した方は北系の在日さんですよ、たいがいそんな方。
19 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 18:54:44
天皇家は大室
源頼義 が、源氏の「氏神」として、鎌倉八幡宮を創建したのである。「氏神」すなわち一族繁栄のための神だ。
源頼義は皇室の血を引いているものの、れっきっした武家である。
他の武士達もそれを見習い、自分の領地に建はじめる
即ち公家と武家
公武合体的になり神社として定着することになる。
21 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 20:01:01
実際には農民の多くは地名を名字にしているわけで。
22 :
15:2008/10/23(木) 22:05:46
>>16 だからさ、あなたの主張と反対のことは言ってないよ。
よく読んで。
平凡な苗字っていう書き方が悪かったかもしれない。
既に有名な苗字、既存の苗字という意味だったんだけど。
書き換えればこういうこと。
「(明治に創出された)珍姓が少ない」
というのを拡大解釈して
「 新たに(既存の苗字も含めた)姓を付けた人が少ない」
と思い込んでいる人もいるが、それは違うだろう。
23 :
15:2008/10/23(木) 22:16:00
>>22 領主の姓もかなり多かったそうだね。
江戸時代は、領主の姓=地名は少なそうだ。
24 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 22:57:15
>>23 江戸時代に私的に領主の姓を農民が名乗るはずがないから、
「江戸時代に大半の農民が私的に姓を名乗っていた」というのは
間違いか、かなり歪んだ見方だね。
25 :
15:2008/10/23(木) 23:37:18
23は、
>>21へのレスだった。
>>23 角川姓氏の『姓氏概説』を確認した。
中世と混同していたようだ。すまぬ。
26 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 23:42:59
伝聞だけど明治の新聞に名字を付ける際の状況が詳細に書かれている
そうだから、これを調べれば「ほとんどの農民が江戸時代に名字を
使っていたかどうか」がはっきりする。
無論使ってなかったと思うよ。
漏れの近くの村での事例(嘉永五年)
惣百姓47人(軒)のうち
片寄次郎右衛門
同 又右衛門
同 幸右衛門
同 庄兵衛
同 市之丞
同 作 十
〆六軒
(以下同様にして)
木村:13軒、
林、榊原:各1軒
山野辺:3軒、
大和田:2軒
八幡:6軒、
守山、新妻、大泉:各1軒
久野;3軒
菅波:3軒、
吉田:3軒(4名の名前有り)
「村惣〆拾三真ヶ」(まけ:親類の意)
郷宿を勤めた家の「日記」より
参考まで。
群・市・町・村
29 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 23:56:31
>>27 ここでの「惣百姓」は豪農の意味で言ってるの?
いったいその村は全部で何人の村?
農村の名主や豪農が名字使っていたことは誰も否定しないでしょう。
30 :
15:2008/10/24(金) 00:13:50
24は、
>>23へのレスだった。
同じ間違いを繰り返すオラって・・・
22に書いたことと矛盾するけど、
前述角川姓氏の愛知県『姓氏概略』にはこうあった。
近世の姓氏
●大名・公家と庶民の苗字
庶民の苗字はなかったように思われているが、必ずしもそうではない。
近世初期の検地帳などには苗字がついていることはないが、神社・寺院
への寄進物などには苗字を記していることが多い。(中略)
検地帳の記載例からみると、庶民には苗字が不用の物として扱ったので
あろう。それが後に、苗字を許すことが領主の恩恵になった。(中略)
苗字を許されるというのは公的な書類に苗字を記すことができるという
ことである。
●庶民と屋号
屋号は苗字にかわるもので、苗字がないか許されない場合には必要なも
のである。(中略)農村でも屋号がある場合もある。苗字で呼ばないか
ら、家を識別するために何らかの符号が必要になっていたので(後略)
31 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:44:52
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1217191532 「江戸時代、庶民も誰もが苗字を持っていた」という説は本当?
しかし、疑問が残るのですが、どうして今さらそんな新説が出てくるのでしょうか?
うちの大正生まれの祖父はもう死にましたが、生前そんな事は言ってませんでしたよ。
祖父の世代から見れば、明治初期はそれほど昔じゃないから、「日本人は
江戸時代からみんな苗字があった」という事実を上の世代から教えてもらって
いても不思議じゃないと思います。
自分の結論としては、一般庶民で名字帯刀が許されない家でも、苗字はあった。しかし、
正式に持っていたのは一部であり、残りは自分で勝手につけた非公式なもの(ペンネー
ムみたいなもの)であり、当然それすらない者はそれ以上に存在した、です。
苗字というより、出身地から出た場合に、○○村の者とか、△△庄とか地名を名乗
ったのを名字と勘違いした説かも。実際村で苗字は必要無い時代ですし、昔の庶民
が文字を読めなかったのも、信じない人がいるくらいだから。
32 :
27:2008/10/24(金) 00:49:27
他の記事では「小前一統」として出てきます。
もちろん代官への請書等には殆んど苗字は付いていません。
この内19軒は同年「極困窮之御百姓」に付き「夫食拝借」を願っています。
前記の”まけ”名を苗字として使っていたかは判りませんが、
自分の家がその”まけ”(まき:牧とも)の構成員である事の自覚は
あったのではないでしょうか?
○○村(に住んでいる)△兵衛(公称)が
●●(マケに属する)△兵衛(私称)であっても
おかしくはないのではと思います。
33 :
15:2008/10/24(金) 00:50:11
神社・寺院へ寄進
34 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:50:53
35 :
15:2008/10/24(金) 00:52:55
神社・寺院へ寄進したのは農民でも比較的裕福な家だったと思う。
36 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:55:06
・アイヌにはそもそも名字がない
・江戸時代農民が私的に名字を使うのが一般的だったと仮定すると
明治新姓の例が多すぎる
・明治初期に成人だった人は昭和初期まで生きていたので、
農民が私的に名字を使っていたならそれが日本人の常識になって
いないはずがない。
37 :
15:2008/10/24(金) 01:03:19
興味深いテーマだね。
こういうのもあった。
「江戸の識字率」
ttp://www.informe.co.jp/useful/culture/history/history10.html 『幕末期に来日した西欧人達が日本の識字率の高さに驚いたことは複数
の文献で伝えられている。幕末期(1854-61年頃)の江戸の識字率は男
子が79%、女子が21%で、武士は殆ど100%読め、農村の僻地でも20%
は読めたという。これは当時の世界の中では群を抜いていた。明治にな
り福沢諭吉は「通俗国権論」で幕末の日本の識字率は世界一であると誇
っている。
明治15年の文部省年報では(滋賀縣での)男子識字率は91%女子は50%、
全体では70%となっている。(2000年の日本の識字率は99.8%)』
38 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:25:21
高野山高室院文書の壇廻帳(在村の檀家リストみたいなもの)とかの
農民の姓名がバッチリ記載されてる記録なんかもあるし
苗字持ちの家が"結構な割合で"存在してたのは間違いないだろ?
門者とか下人クラスだと、これは身分の性質から考えて、ほぼ無姓だろうけど
一般百姓なら(下人上がり等除く)ほぼ苗字持ちじゃないのか。
40 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:39:32
愛媛県南部の漁村を基準にされてもwww
41 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:48:22
名前ってのは現在の常識が過去に遡及すると思い込みやすい。
例えば明治期には「梅」と「梅子」は同じ名前だと認識されて
いたことを証明するのはたやすいが、現代人は本気にしないだろ?
42 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:51:47
>>39 壇那場の寄進できるような豊かな人だけが載ってるんじゃないの?
43 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:55:25
庄屋名主クラスまで。
従属しているものが、彼らと同じ苗字を明治に名乗った。
>>43 まさかと思うが 庄屋とか馬鹿げた苗字にしてないよな。
在日の創氏改名に庄屋とかいそうだがwww
在日頭文字は必ず裕福そうな頭文字にするかならwww 金とか徳とか富とか庄とか
45 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 07:30:54
>>43 なるほど。それなら苗字があって当然ですね。
>>47 そうなんだ。
実は「一村悉く〜」の中でも、記述はさらにこれだけ、
〜中には頓狂な村役人などがあって、伊予の海岸の漁村などでは家々が魚の名を付けた。
其隣村では野菜の名を名乗にしたとかいう例がいくらもあった。〜
しかなくて、宇和島とか具体的な地域をどうやって特定したのかと思ってたけど、
浦和盛三郎の活躍した年代から見て、その評伝の作者と柳田とが参照した
別のソースがあるみたいですね。
江戸幕府はその公称を禁じたが、それまでは、家号を名乗ることを禁じた政権はなかった(そういう発想がない)。
庶民であっても元は侍やその家臣という家は多く、実際には家号がある。
しかし、庶民は家号を名乗るなという念押しの禁令が吉宗の頃に出て、公文書のみならず、公的な性格を持つ文書からもほとんど消えた。
(逆に言えばそれまで平気で名乗っていたということ)
江戸も後期の話だが、ある事件の公式記録には家号が記されていないが、その参加者の個人的な手記には登場人物の家号が記されている。
おそらく、これが隠し姓の一例なのだろう。
>>47 >大名の姓を片端からつけた村があったとのこと。
石井研堂の、その父親が徳川四天王の姓をつけた話かな?
51 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 17:19:59
持ってる人もいたけど、名乗れなかった。以上
持ってるけど名乗れなかった層って全体の何割くらい?
家の田舎の神官はうちと同じ苗字でOO(苗字)OO守OOと大層な名前で江戸時代過ごしたけど普通神官って源平藤橘が多いよね?
>52村役人における苗字の扱いが気になる
55 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 22:15:30
>>54 村役は持ってた。でないと公文書にサインが出来ないから仕事にならない
57 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 16:08:20
名前だけでもサインはできるやん。
58 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 19:11:19
江戸時代の『守貞漫稿』に庶民も皆苗字を持っているが公には名乗れないってかいてあるよ。
江戸時代の人が言ってるから此で解決じゃんw
>>57 名前だけだとどこの家の三郎かわからんだろ
家の名前と氏が入って初めて正式な名前だったんだよ
60 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 10:26:29
◯◯村名主 茂平印
みたいに村役人も公文書に苗字なんか記さないよ
名主の名字帯刀ってのはどのくらいの%なの?貧しい村だと名字帯刀さえ許されない庄屋がいるという表現を時々見るが。
又、封建制の常として普段許されていなくても代官等武士との面談時は紋付羽織袴に脇差ぐらいは差していくのだろうか?
封建制では異身分間の会話は無いという建前で側用人等中間(ちゅうかん)身分が取り次ぐ。
庄屋は身分周辺論の最たるものだろ?
62 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 12:12:02
>又、封建制の常として普段許されていなくても代官等武士との面談時は紋付羽織袴に脇差ぐらいは差していくのだろうか?
逆だな
普段帯刀していても代官に正式に対面するときは脇差も差せない
63 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 12:44:55
幕領の場合、公文書に苗字書いてる名主や庄屋はあまりいない
>>62江戸町名主は奉行所に上がるときは確かに刀を差して門を潜ってはいけないのですが上記にあるように
奉行所には取り次ぎ役が存在しております。
宿場などでは大名の到着時、本陣の当主、庄屋(兼帯の場合が多いが)が脇差を差して出迎える等の記録もある。
>>60 うちの村役は苗字から氏名前まで書いてあったよ
あと花押みたいな印も押してあった
押すじゃないな。書いてあった
名字(苗字)は、姓(本姓)と違って天皇から下賜される公的なものではなく
近代まで誰でも自由に名乗る事が出来た。
家人も自分の住む土地を名字として名乗ったり、ある者は恩賞として主人から名字を賜ったりもした。
江戸時代には幕府の政策で、平民の中で庄屋や名主など特に許された家の者だけが名字(苗字)を名乗ることを許されるようになった。
これをもって「江戸時代の庶民には名字が無かった」という具合に語られる事がある。
だが庶民といえども血縁共同体としての家があり、それを表す名もある。
また先祖が武家で後に平民になった場合に先祖伝来の名字が受け継がれる場合もあった。
ただそれを名字として公式な場で名乗る事や公文書に記す事はできなかった。
そうした私称の名字は寺の過去帳や農村の古文書などで確認することができる。
さらに江戸時代の寺院の寄進帳には、その村の全ての農民が名字を記入している例が大半であり
小作人までもが名字を持っていたという文献も数多く残っている。これは全国各地に見られることである。
また、庶民が名字を持っておらず「苗字必称義務令」(後述)の際に適当に名字を作ったというのであれば
地域によって存在する苗字に偏りが出ることも奇妙である。(事実任意に付けることの可能な名前は地域による偏りはみられない)。
これらの理由により、現在は「江戸時代の庶民には名字が無かった」という説は、研究家の間でほぼ完全に否定されている。
68 :
日本@名無史さん:2009/08/16(日) 20:07:07
そうやね
アフォか それなら明治新姓なんて極少ないはず。
本百姓あたりまでは隠し姓で水呑み以下が持ってなかったとか聞いたけどどうなんだろね
水呑みって海運業や養蚕業等相当なお金持ちのことも指したらしいし、元は本百姓の次男三男だそうだから
あっても不思議じゃない
小作あたりだと隠し姓すらないのかな
71 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 04:00:04
苗 字〔「戸籍制度」の基本知識〕
江戸時代には下層農民も「苗字」を有していたことが明確となっている。
江戸時代には知行所を持っていた旗本や藩士が金を取って「苗字」を庶民に与えていた事例が
多かったことから、幕府はこれを禁じる「お触書」を出している(享和元年〔1801年〕7月)
(末尾の奥宮敬之の書籍 163頁)。しかし、これは表向きのことで、庶民が「苗字」を持つことが
廃れることはなかった。東京都中野区江古田の氏神氷川神社の弘化3年〔1846年〕の
造営奉納取立帳の全村85軒の戸主の全員に「苗字」が記載されていた。これは何も江戸近郊の
ことではなく、長野県松本平の南安曇郡の33ヵ村の講中2345人のうちわずか16人を除いて
「苗字」を持っている(末尾の豊田武の書籍 140頁)。こういう例はゴマンとあったことが指摘され
ている。
江戸時代の農民は何も上流階級に限らず総ての者に「苗字」があったと考えられるのである。
江戸時代の農村において「支配者に名ばかりを載せ、苗字を書いてないのは下位者・使用人を
賤しめての省略記載で、苗字の無記すなわち無姓ということにはならない」(末尾の洞富雄(1)
−4頁〔同趣旨〕)。これを以って<例外>などという者がいるが(末尾の熊谷開作 138頁)、
そういう例はこれに止まっていないから誤りである。
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/koseki_myoji.htm
72 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 04:00:31
苗 字〔「戸籍制度」の基本知識〕
江戸時代には下層農民も「苗字」を有していたことが明確となっている。
江戸時代には知行所を持っていた旗本や藩士が金を取って「苗字」を庶民に与えていた事例が
多かったことから、幕府はこれを禁じる「お触書」を出している(享和元年〔1801年〕7月)
(末尾の奥宮敬之の書籍 163頁)。しかし、これは表向きのことで、庶民が「苗字」を持つことが
廃れることはなかった。東京都中野区江古田の氏神氷川神社の弘化3年〔1846年〕の
造営奉納取立帳の全村85軒の戸主の全員に「苗字」が記載されていた。これは何も江戸近郊の
ことではなく、長野県松本平の南安曇郡の33ヵ村の講中2345人のうちわずか16人を除いて
「苗字」を持っている(末尾の豊田武の書籍 140頁)。こういう例はゴマンとあったことが指摘され
ている。
江戸時代の農民は何も上流階級に限らず総ての者に「苗字」があったと考えられるのである。
江戸時代の農村において「支配者に名ばかりを載せ、苗字を書いてないのは下位者・使用人を
賤しめての省略記載で、苗字の無記すなわち無姓ということにはならない」(末尾の洞富雄(1)
−4頁〔同趣旨〕)。これを以って<例外>などという者がいるが(末尾の熊谷開作 138頁)、
そういう例はこれに止まっていないから誤りである。
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/koseki_myoji.htm
73 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 04:04:40
○明治3年(1870)平民に苗字の公称が許された。しかし近世においても一般庶民は苗字を
持っていた。庶民の苗字公称が禁止されていただけ。
近世において農民や町人は宗門人別帳により把握されていたが、苗字を免許された者以外は
名前しか記されていない。しかし私的な文書、寺社の棟札、石碑には苗字を使用している例がある。
かつては近世の庶民は苗字を持っていなかったという見解が通説化していた時期があったが、
通説を批判した1952年の洞富雄「江戸時代の一般庶民を持たなかっったか」『日本歴史』50号を
契機として、全国各地で苗字を持っていた事例が報告されるようになった。1577年から1610年
に日本に滞在しイエズス会と日本側との交渉にあたったロドリゲスも、名字は高貴な人だけでなく、
通常は大衆も持っており、持っていないのは漁師や身分の低い職人など最下層の人々であった、
と述べている『『日本語小辞典』下、岩波文庫1993、153頁)。これまでの研究によると近世中・
後期には大部分の農民が苗字を用いており、それが明治の戸籍に登録されるのが通例だった
(『長野』99号1981「苗字」特集号)。
農民の苗字の記載のある私的な文書の例を挙げると、常陸国行方郡永山村の安政4年(1857)
「正人別書上」では水呑(無高)2戸を含む百姓96戸に苗字が記載され、苗字がないのは1戸だけで
ある。庶民においても、苗字は家名として継承され、分家に本家と同じ苗字が与えられ、同族の
標識とされていた。
都市民については実証的研究はないが、大部分が苗字を持っていたのではないか。同苗=
同族内の各家の連帯、相互扶助で著名な例としては三井家が知られている。ただ日雇や棒手振商
などのその日暮らしの細民層は、苗字を持たないか、持っていてもそれを名乗ることは少なかったと
思われる。
http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-4309.html
74 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 05:00:35
苗字を正式に名乗ることが出来なかった
=不正に苗字を称していた
75 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 05:14:28
まあ屋号みたいなもんはあったんじゃ。
でもその事実をなんで伏せるのだろうね。
76 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 05:33:09
>>74 苗字を正式に名乗ることが出来なかった
=非公式の苗字があった
77 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 06:08:24
洞はうさんくさい学者
78 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 01:09:56
>>74 不正も何も、区役所があったわけじゃあるまいしw
79 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 09:26:36
だから、
『守貞漫稿』に「庶民もみんな苗字を持っているが、公式には名乗れない」
って書いてある。
江戸時代の人が言ってるから間違いない。解決。
80 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 09:34:05
>>75 どこかうしろめたい気持ちでもあったからでしょう。
81 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 15:33:57
>>78 >区役所があったわけじゃあるまいしw
それを良いことに庶民も勝手に苗字を称していたんですよねw
82 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 18:07:16
>>72-73 『エルネオス』 2009年9月号
■アメリカ流・日本流(101)
――後藤英彦
(米国在住ジャーナリスト)
弱者が泣いた姓名の歴史
http://www.elneos.co.jp/ 後藤氏が洞富雄氏の研究を引用している。
苗字がなくファーストネームだけだと、たとえば、田畑の所有権でも、名前だけでは誰のものか
区別がつかなくなるとか、そういう感じのことも後藤氏が書いている。
要するに、たぶん、朝鮮のような遅れた未開社会と違って、一定の法秩序あるいはそれに近い
社会制度が発達した社会では、相続その他の必要性からも、苗字が必要になってくるということ
ではないか?朝鮮のように、金・朴・李とかばかりだとその役割を果たしていない。
ちなみに、日本が朝鮮を併合したとき、朝鮮では土地の所有権が確立しておらず、
それを法制化したところ、今日では、土地調査事業で「日帝に土地を奪われた」というデマが
定着している。
区役所はないけど神社やお寺で管理してたみたい
どこどこの誰々はどんな身分でどんな職でどんな風体(欠損病理等)かとか
詳しく書いてある戸籍もあるし
84 :
日本@名無史さん:2009/10/03(土) 12:16:56
鎌倉時代から農民でも苗字持ってるやついたけどね
侍などに対して「自分の苗字を名乗ることが許されなかった」のと「持ってなかった」は違うんだよね
86 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 18:30:25
249 以前は家々がそれぞれのマキに属していた。マキは親族筋合を意味する言葉である。
右衛門マキ、兵衛マキ、助マキ、之丞マキなどの別があり、人の名はマキによって称するのが
習いであった。佐々木君の家は右衛門の方であった。姓はなくて、代々山口の善右衛門と称し、
マキには吉右衛門、作右衛門、孫右衛門、孫左衛門などという家があった。
250 人の名を呼ぶ場合には、必ず上に父親の名を加えて呼ぶ。例えば春助という人の子が
勘太である時は、息子の方を春助勘太と呼び、小次郎の息子の万蔵の世ならば、小次郎万蔵と呼ぶ。
同じようにして、善右衛門久米、吉右衛門鶴松、作右衛門角、犬松牛、孫之丞権三などがあり、
女の方も長九郎きく、九兵衛はるの、千九郎かつなどといった。…(後略)
(柳田国男 『遠野物語拾遺』)
ちなみに俺の先祖も岩手の百姓だけど寺の過去帳に苗字の記載はなかった。
武士などが帰農した農民なら、苗字はあるはずだな。
源氏や平家などの天皇の末裔の武士なども、敗北したら
田舎に帰農した。
江戸時代の武士は、徳川に付いたから武家の身分だったわけで
徳川に媚びなかった帰農した一族の方が、あるいは血統は良いかもしれん。
先祖がわからなくなってる一族も多いだろうけど
田舎の農民のほうがもしかすると、実は
良い武士の血統を受け継いでる可能性もある。
88 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 18:46:18
ウチは農家だが260年前の家系図や墓に名字入ってるぞ?まあ庄屋だったらしいが
なぜだ?
>>88庄屋だからでしょ。郷士、庄屋、本陣の当主は苗字帯刀が許されたといわれてる。
許されていないこともまあ、あるようだけど、何時でも許されてもいいように苗字と二本刺し、家紋入り羽織袴等は準備されてた家ということでしょ
自由と言ってもやはり江戸時代で苗字入り墓石は少ないといわれてるが・・・自分は苗字無しの墓は見たことがないけどね
あと、関西の方は墓自体珍しいというのも聞いたことはあるが真意は?
92 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 22:51:23
うちは苗字帯刀(江戸後期、東北)だったけど、
墓石は戒名(院居士)のみだった気がする。
地域差かな。
過去帖には江戸時代でも「妻、当村○○氏」とか記載があるから、
別段、庄屋じゃなくても、苗字があっておかしくないと思う。
日本は名字が多いのは、名字を持っていた者が少ない証拠だろ。
名字は基本的に増えず、結婚すれば女性は男性の名字を名乗るのだから
減る一方のはず。
94 :
日本@名無史さん:2009/10/10(土) 00:14:09
平安中〜末ころから名(みょう)が増えていったから名字が増えたんだよ
東北は名字が少なく近畿は名字が多い
95 :
日本@名無史さん:2009/10/10(土) 00:14:37
佐藤という武士の血を引く女性と名字の無い男性が結婚したら(婿入りではない)男性とその子供の名字はどうなるの?
97 :
日本@名無史さん:2009/10/10(土) 00:34:06
東北や南九州は御家人系の古い名字がいっぱいで数は少ない
近畿は名字の数がいっぱい
98 :
日本@名無史さん:2009/10/10(土) 01:10:32
>96
中世ならありえんかな?
99 :
日本@名無史さん:2009/10/10(土) 01:13:14
俺の義兄の実家は北関東でも有数の名主の出なんだが、
そのあたりの住民(農家)は親戚でなくともみな同じ名字。
明治初期に義兄の家の菩提寺の住職が、皆まとめて同じ姓をつけたのだそうだ。
でも、現代的な感覚からはむしろ、名主の義兄の名字よりも、
その旧土民共の名字の方が格好いいんだよな。
江戸時代はお墓に苗字は入れてないと思うよ
○○家代々の墓形式なのは最近のお墓
昔は個人墓だしね
102 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 13:49:24
神社に江戸期の農民の名前があるが偶にだけど苗字+官名+姓+名前ってのを時々見る
つまり鈴木越前正源由紀夫見たいな感じ。僭称なのか、たまに神官でもやるのか
103 :
日本@名無史さん:2009/10/13(火) 05:40:16
>>87 敗北して帰農するというより、田舎に引っ込んで庄屋化するって感じじゃね?
田舎では別格として扱われ続けるから、先祖がわからなくはならないはず。
うちの地域の庄屋さんちは戦前まで殿様って呼ばれてたんだけど
戦国時代以前は実際殿様だったということだった。
104 :
日本@名無史さん:2009/10/14(水) 20:17:23
105 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 07:55:17
>>93 「結婚すれば女性は男性の名字を名乗る」のは、明治期に
初めて法制化されたのであって、それまでは夫婦は別姓が基本。
>>105でも江戸期の墓には妻の苗字はないよね。だいだい旦那の隣に妻と書いてあるだけ
108 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 01:52:51
カード 夫婦別姓旧慣習説を否定する学説−大藤修
フェミニスト・夫婦別姓推進者の主張するところの「夫婦別姓旧慣習説」(例えば洞富雄
「明治民法施行以前における妻の姓」『日本歴史』137号1957、熊谷開作『歴史のなかの
家族』酒井書店1963等)が通説化されていた時期があったが90年代以降は否定されて
いるとみてよい。
近世においても明治維新後も銘文、文書として残っている各種資料を精査しても社会生活に
おいて、出嫁女の生家姓(または名字)冠称の自称、指称、呼称の事例はきわめて例外的な
事例しか見いだすことができないのである。
太政官指令「婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事」は社会生活の実態とまったく
乖離しており、事実上実効性がなかったと考えられる。それは夫婦の別氏を称することの
不便さが各府県の多くの伺文で取り上げられていることでも明らかである。役所が公文書に
生家姓を強いることも困難な実態にあり、事実上明治民法に先行して夫婦同氏が普及し慣行
となっていた。
◎妻の姓の問題
大藤氏は旧慣習説を批判して次のように述べる。
近世において妻がどちらの姓を称していたかを資料的に確認するのは難しいのが実情である。
第一、それについての法的規定は存在しない。そもそも近世においては、女性の役割は家の
内部に限定され、社会的役割を果たしていなかったので、女性が姓を冠して対外的に自己を
表示する必要はあまりなく、したがって法的に問題にすらならなかったのである。文書のうえでも
女性は「某室(女房)○○」「某女○○」「某母○○」というふうな、当主たる夫や父あるいは息子
との関係で表示されるのが通例である。
(これは学者らしい慎重な表現だが夫婦別姓は資料的に確認されてないので旧慣習説は否定
されると言いきってよいだろう)
http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-4309.html 夫婦別姓旧慣習説に根拠はない−− 感想 後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』その1
http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/1-e7eb.html 夫婦別姓旧慣習説に根拠はない−− 感想 後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』その2
http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-1747.html
某氏娘だろ
110 :
日本@名無史さん:2009/10/18(日) 14:46:21
各種文書でふつうに女性は生家の姓に由来する呼称で書かれてるじゃん。
>>108のコピペはよくもこんな真っ赤な嘘八百が書けたものだと呆れ返ってしまうよ。
111 :
日本@名無史さん:2009/10/18(日) 15:02:22
近世以前に苗字がなかったなんて言ってる奴がまだいたのね・・・。
もっていなかったのはごく一部だよ。田舎の墓行け。側面とかに○○村○○氏
とか普通に彫ってある。ない奴はごく一部だが由緒正しい代々の最下層民。
今思う普通の墓があるって時点で富農だからね。
富農の苗字と家紋を貰う
114 :
日本@名無史さん:2009/10/18(日) 15:56:49
小前百姓でも墓くらいあるよ
>>102 爺さんの家は神官だけどそんな感じ
平安時代の書物にも長ったらしい名前で出てきて吹いた
神官は農民とは違うけどね。僧侶神官は公家と同じで身分外身分だし
116 :
日本@名無史さん:2009/10/19(月) 23:56:53
江戸時代に自然石の墓は普通。(何も彫って無い)
うちは名主で明治には戸長だけど明治初期以前の墓は形の良い石で何も彫って無い。
明治後期に立派な墓建てたけど。
一番多い名子以下の階層は苗字が江戸で失伝してる。
名字帯刀・裃着用・長屋門許可は限定解除。
何も持って無いのが江戸の従属農民。当然に似非名字。
117 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 01:56:53
>>115 江戸時代の公家は寺社奉行や藩などに支配されなかったよ
118 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 17:40:23
>>116 名字と“似非名字”を区別しない立場の人が「庶民も名字を持っていた」と主張してるんだよな。
>>117 ソースは?
どっちにしても僧侶神官は身分外身分だけどね
>>116 うちのは彫ってあるよ。戒名と年号
横は見てないから苗字とかが彫ってるのかは知らない
他スレで上がってた江戸時代の墓石の写真も
アップする人は別でもすべてに彫ってあった
うちのは
>>116の言うような単なる石ころ。もちろん何も彫ってない。
石ころだと墓所に転がってる石と墓石の判断つかないんじゃないか
123 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 01:07:50
墓地なんだから墓石に成りそうな石が、そこらに転がってる訳無い。
土葬、火葬あるが土地無い所は古くから火葬。土葬したい奴は自分の田畑に墓。
本当に江戸の墓?明治新姓は臭いな。
124 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 02:24:57
鳥取市のリコーマイクロエレクトロニクスは「週休4日制」つまり「休みが多い!」
ことで週刊誌で騒がれた会社だ。
僕はリコーマイクロエレクトロニクスにアルバイトに行っていた。
サボっていたら「休みが多い!」と激怒されリコーのアルバイトをクビ同然で辞めた。
週刊誌が「休みが多い!」と話題にした会社から「休みが多い!」と激怒されたのである。
その後、鳥取三洋の構内にあるテスコという工場に勤め
一年半休まずに働いていた。
「休まずに働いているのはリコーに対する報復」という噂でテスコをクビになった。
世の中には馬鹿馬鹿しい噂を流し、信じる人もいるものだ。
リコーマイクロエレクトロニクスはこの馬鹿馬鹿しい人権侵害に弁護士までつけて揉み消し。
旧態然とした田舎での大手企業の人権侵害だから、地元の人は事情を知っていても事情を僕本人には教えてくれないのだ。
125 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 23:25:31
126 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 23:28:30
>>119 神官僧侶が身分外身分って何?どういうこと?
127 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 23:41:13
部落用語
>>123 昔は土葬が主流だよ
火葬はすごく珍しくて、流行り病とか特殊な時に特殊な人をする時だけ
人焼くのには大変な火力がいるからね
江戸みたいな土地が少なくて人口が世界一のとこですら土葬で
埋めようとちょっと掘ったら前のお骨が出てきたほど
墓地といっても今みたいに特別に区切ってなくて昔は山の一角とかにあった
だからでかめの自然石が転がってても墓石とは判断つかないんだよ
>>126 士農工商エタヒニンの身分に入らないって事
だから身分の外の身分
皇族・公家・僧侶・神官
ググれば出るだろそのぐらい
130 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 01:38:20
>>128 憶測だが墓石は自然石でも卒塔婆くらいは突き刺してあったのではあるまいか。
卒塔婆も年数立てば朽ちちゃうからな・・・
132 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 08:08:05
>>128 実家の墓は山の斜面の桑畑の一角にある
古い墓は自然石だが、卵型した、河原で拾ってきたような奴で、
山の石ではなかった。すぐに見分けがつく
133 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 08:47:38
卵型の墓石は出家・僧の墓石じゃね?
134 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 22:25:52
えっ、代々どこまで遡っても農民の家系と聞いているんだが
うちも山の中の谷が墓地だな
昔からある墓地はそんなかんじだよ
都会の墓地だとお寺の近くや敷地内だけど、田舎だとお寺とはだいぶ離れてたりする
136 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 22:54:47
136
137 :
日本@名無史さん:2009/11/05(木) 22:08:23
>>108 女性が姓を名乗らなかったのと夫婦同姓だったってのはまったくちがうだろうに
いまでも女性が紋付着るとき実家の紋をつけるのは別姓という意識のあらわれなんじゃないの?
実家の紋をつけるのは地方によるよ
東の方は嫁ぎ先の紋に全部変えるらしい
139 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 08:49:43
>>138 東って東北?
たしか関東では嫁が実家の紋という地域は多かったと思うが
自分の経験上栃木や千葉ではそういうのが見受けられたけど
紋を変えるのは東京の元武家とかじゃないのかね
商家は離婚した際に実家の家紋つきの箪笥や着物を全部引き上げて実家に帰るんで
実家の紋を使うらしい
とてもビジネスライク
141 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 19:22:07
>>93 名字は識別のためにあるのだから増えてもおかしくない。
同じ源氏でも、源が多くなれば識別できないから、別にその土地の名前が通称となって
足利、新田などの苗字となった。
そもそも墓は庶民には江戸中期まで許されてなかったはず。古い墓に名字があるのはあたりまえ。
いや、藩によるよ
外様とかは結構その辺り緩かったらしい
墓の大きさとかも庶民じゃ許されないサイズの作っちゃったりね
公的には1841年まで公的には庶民に墓は許されていなかった。
公的にはね
でも外様にまでそんなの行き届かなかったから外様に庶民の滅茶苦茶な墓が多いんだよ
幕府直轄地は厳しかったけどね
あれ?江戸時代の庶民・農民には、秀・加代・勇次・おりくというように侍と違って名字はなかった、という説は嘘だと聞いたぞ。公的に名乗るのを許されてなかっただけ(私的な場ではOK)、もしくは自分の名字を忘れてたしまった、というのが最近の研究の結果。
だから上記の四人も本当は名字を持っていたハズ。
そうだよ
神社に寄進した石とかに苗字から彫ってあるじゃん
>>146 どこの必殺仕事人だよ
148 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:35:52
>>145江戸初期でも天領の墓は名字彫ってあるけどね。当時墓がアルくらいだから豪農だろうけど
149 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 02:17:27
苗字がないと同じ名前の場合不便と思いがちだがドッコイ大丈夫
奥の山に住んでる熊さん
川の端に住んでる熊さん
森の中に住んでる熊さん
150 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 11:04:23
>>139 女紋は実家から持ってくるが祖母→母→娘と相伝するので実家の紋とは別だぞ
どこから来たのかわからなくなるが伝承はされている
151 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 13:44:28
高野山奥の院の参道には二、三十センチほどの五輪塔が大木の根元とかに山ほど並んでいる。
江戸期の貧しい百姓の墓はあんな感じだな。今でも御影石の先祖代々の墓碑が立っている枠内に
そんな古い小さな墓を並べていたりする例が散見されるけど、捨てるに忍びなくて並べたのだろう。
同族が多い江戸期の村では苗字はむしろ役に立たないから、屋号でお互いを呼び合っていた。
うちは酒蔵をやってたから酒屋だったらしい。
152 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 14:10:15
今でも宮中の歌会始で一般人の歌を披露する時は「○○の太郎」と呼ぶから、
住んでる地域の名称や屋号が名字代わりなのでは。
>>144 庶民が名字を公式になのったり墓石をもったりすることをゆるされなかった江戸時代はやはり暗黒時代だったのだろうか?
154 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 17:43:41
うちも代々農家(おそらく鎌倉までは)だが、親父は屋号があったらしいと言ってたよ。
寺の過去帳見れば江戸時代までは全国的に見れるはず
155 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 21:28:36
>>153 まあ、今から見れば過酷な時代だったでしょうね、
ただ、現代では「葬式仏教」と批判されるけれど、
寺請制により、原則的に村内の誰でもが仏式の回向によって
成仏出来る様になったと考えれば、
それ以前に比べれば幾分なりとも救いは有るのかと。
墓石は無くとも過去帖には生きた痕跡が残るのですから。
156 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 22:23:55
157 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 10:44:45
>>153 なぜ差別戒名の墓石が残っているのだろう
得た否認でも墓石も戒名もあったのでは?
農民が苗字持ってなかったことくらい、普通知っとるやろ。ゆとりか?
>>151 五輪塔は武家公家様式だ
第一江戸時代に墓持ってるなんてすごく裕福な層だよ
普通の農民なら江戸時代の墓なんて残ってない
そもそも高野山に墓を持つってのは昔はすごいステイタスで、地方のかなり裕福な層じゃないと無理だった
160 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 10:44:18
>>159 そんなことはない、地方ではどの家にも山の中に墓石があり戒名もついている
特別な庄屋や名主でなく自作農クラスでも
161 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 12:49:47
>そもそも高野山に墓を持つってのは昔はすごいステイタスで、地方のかなり裕福な層じゃないと無理だった
実際に行ってみるといい。大名などは墓域も確保して大きな五輪塔などを並べているが、大木の根元や
場合によっては木の洞なんかにも風雪によって劣化した古い小さな五輪塔が所狭しと並んでいるから。
162 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 13:01:51
>>160 自作農にも結構裕福なのはいたそうだ
土地持ち農家だからたくさん土地持ってりゃ裕福だろな
>>161 ググればわかるけど高野山に墓を持つのは昔のステータスだったんだよ
金がかかるから金のない子孫が音沙汰ないと山中に移動されて苔むしてく
これは高野山だけじゃなくどこの墓でも同じだけどな
>>158 戦後左翼の歴史家が農民にも名字があったと言い出して結構信じられれるんだよ
苗字があったのは本百姓とかだけど正式に名乗れなかったんだよな
農民に屋号があるのは苗字代わりみたいなもんだろね
168 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 17:48:20
>>164 現地に行かずに想像で書き込んでるだろ。
高野山の奥の院には今も空海が生きているとかいう愉快な言い伝えがあって、その空海のすぐそばの奥の院参道には、
空海のお膝元に墓を立てれば成仏できるという言い伝えにより、俗界のしがらみを離れたあらゆる人間が墓を並べた。
奥の院参道自体が山中だから、戦国期江戸期の諸大名の墓も山中で苔むしているし、庶民の墓は小さいから大名の
大きな墓の間の隙間などに小さな一石五輪塔などを置いていった。庶民は講によって金を集めて代表者が高野山に
上っていたから、講の参加者に託された五輪塔がどんどん置かれて増えていったんだよ。
今は諸企業の殉職者慰霊塔などもどんどんできていて、草むした諸大名の墓とは対照的に、奥の院から離れてはいるものの
日当たりのいいあたりに置かれている。
現地にいったことがあれば、自分がいかに見当はずれな主張をしているか分かるだろうにな。
169 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 10:35:13
江戸時代の農家の墓石にも苗字が刻んであるぞ
でも寺に金や米を寄進した石碑には○×村善右衛門とか商人なら大和屋利七・木綿屋正五郎とか書いてある
墓地は公共の目に触れないので規制されず、寺の境内は公的な場所なので規制を受けるのかな
>>168 先祖が代々高野山に分骨してるんだよ
現地も何度か子供の頃から行ってるし
うちは真言宗じゃないんで信心からの分骨とは違うと思う
昔の金持ちのステータスだったってのは聞いてる
明治初期の新聞に新姓のゴタゴタが出てるらしいね。貧農にも姓があったらそんなことは起こりえない。
172 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 21:11:51
>>170 無知な田舎者の親の家系自慢を説として日本史板で開陳するなよ。
173 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 21:15:33
ツッコミがちょっとずれたな。基本的な知識がないから一般化する段階で主張がおかしくなってるわけだ。
174 :
日本@名無史さん:2010/01/20(水) 23:31:51
>>171 混乱は有ったにせよ、新聞のネタになるぐらいの「椿事」だったということでは?
それはさておき、自分勉強不足で、地方文書での新姓関係の史料というのを
残念ながら拝見したことがありません。どなたか、ご紹介いただければ幸甚です。
ついでに、うちは分家でしたが、後代、藩に献金をして苗字持ちになりました。
一方、本家は近世の位牌や、過去帳にも苗字が記されていますが、
それでも、名寄帳等では苗字無しでの記載が続きました。
当時の新聞調べれば簡単に解決するんだろう。
176 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 10:51:00
文盲なら自分の姓を忘れても仕方ないだろう
公的には使えないし、使わなくても不自由なかったのだから
農民にも姓を持った者がいたことと姓を持たない農民がいたことは矛盾しないだろう
177 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 15:41:30
あ
江戸の日本人が識字率が高いのはまさに武家と商人だらけの江戸の場合で農村では7、8割は文盲。3代文盲が続けば家の由来なんて分からんだろう。
179 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 08:12:47
田舎のムラという閉鎖空間を舐めちゃいけない。一人ひとりは文盲でも、変化の少ない環境で集団が
各戸の歴史を共有しているわけだから、ムラの会合などでムラ人が集えば、それぞれの知識をつき合わせて
ごく当たり前のように数百年前からの歴史が判明するぞ。
再婚や私生児もいまとはくらべられんほど多かった。今と同じ感覚で判断できない。
181 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 09:04:26
遺伝学的な父親と、家の先代当主としての父親を無意識に混同させるのが今の感覚。
養子が当たり前で耕地という相続すべきものがあった当時はそんなことたいして気にも留めん。
小作人でも小作権は地主が自由に出来なかったから、小作人でも先祖代々の土地という認識があったからな。
まあ、今でも「あの家は小作だった」とか「あの家は非人だった」とか
集落内ではお互いおおよその経緯を知ってるからな
田舎じゃ血縁が多いし年寄りが数人集まれば
どの家の何代目がどこから来たとか
どの家から嫁に貰っただのという話題になる
昔は屋号で呼び合うのが一般的だからな
今でも屋号で呼び合う地域はたくさんあるが
江戸時代は屋号が名字の代わりだったとかならまあありそうだな。ドイツ人やイギリス人だって職業名がそのまま姓になってるし。
>>169兵衛、衛門が名前に付いてる時点で上層農民だからね
誰かそろそろ決着をつけてくれ。
明治になって、昔から伝えられていた苗字を復活させたって家が多い印象があるが、
実際のところはどうなんだろうな。
いちおう俺の家もそういうことになってる。
多分それは文盲でない富農だけだろう。
うちは大正時代あたりで分家しちゃってるんであれだが、
本家は確かにかなり裕福な感じだな。
ところで18世紀半ばあたりのご先祖の名前には衛門がついてるが、
これが当時の農民の当たり前な名前だと俺は思ってたんだが、
>>185が言うみたいに名前だけで上層農民とか分かるものなのか?
名前じゃわかんないよ。
抱えや譜代でも〜衛門なんて名前は普通にある。
>>172 無知はお前だろ
荒野の坊さんは親戚だよヴォケ
>>189 〜衛門ってのは役職名みたいなもんだから身分は普通の百姓ではないね
武士か村三役とかが名乗るやつだ
193 :
日本@名無史さん:2010/02/12(金) 15:58:45
>>173 直接坊さんに聞いてみなよ
さすがに恥ずかしいよそのレス
>>71-73 これ書いている解法者って人は、たしかにいろんな本を読んでよく勉強しているとは思うんだが
下記の@を根拠にAのような結論をつけるあたり、結論の付け方が強引かつ恣意的すぎる。
結論が先にあって、それに合った資料を探してきているというかんじで中立性に欠けている。
内容も、この人が記事書いているサイトのトップページにある「尊皇 敬神 崇祖」という方針から外れないものばかりだし。
@
>江戸時代の農村において「支配者に名ばかりを載せ、
>苗字を書いてないのは下位者・使用人を賤しめての省略記載で、
>苗字の無記すなわち無姓ということにはならない」(末尾の洞富雄の書籍 4頁)。
>東京都中野区江古田の氏神氷川神社の弘化3年〔1846年〕の
>造営奉納取立帳の全村85軒の戸主の全員に「苗字」が記載されていた。
>これは何も江戸近郊のことではなく、長野県松本平の南安曇郡の33ヵ村の講中2345人のうち
>わずか16人を除いて「苗字」を持っている(末尾の豊田武の書籍 140頁)。
>こういう例はゴマンとあったことが指摘されている。
A
>江戸時代の農民は何も上流階級にかぎらず総ての者に「苗字」があったと考えられるのである。
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/koseki_dosei.htm
195 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 12:10:55
ほほー
>>182 >〜衛門ってのは役職名みたいなもんだから身分は普通の百姓ではないね
>武士か村三役とかが名乗るやつだ
百姓、町民の〜衛門は本名だが武士は通名で本名は別に持ってる
197 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 22:43:45
中国でも昔は身分の低い者は名字を名乗れなかった
『金瓶梅』でも下男や女中は単に名前だけで呼ばれる
番頭になったり妾になると姓を名乗る(正妻に昇格した時ではない)
同姓不婚なので皆姓を持っているが身分が低いと名乗れない
>>196庄屋程度になれば下に付く名前はもってるよ。
199 :
日本@名無史さん:2010/05/19(水) 17:16:20
名字をなのれる身分を制限することは支配者にとってメリットがあったのだろうか。
201 :
日本@名無史さん:2010/06/20(日) 18:57:09
藩によっては足軽も苗字を苗字を名乗れなかった。
どっかの藩か忘れたが、苗字を許された足軽は苗字足軽と称し、区別された。
202 :
201:2010/06/20(日) 19:07:54
調べたが鳥取藩だった。苗字付足軽と無苗足軽に区別されていた。
功あったときに苗字が恩賞代わりに与えられたらしい。
それは、安上がりな